ホーム/シアター/
第1部 / 第2部 / 第3部その1 / 第3部その2 / 第3部その3 / 第4部その1 / 第4部その2

シアター

第3部

第3節

安倍さんの死体が埠頭に上がった。一晩泣いた私達は翌朝一番の電車に
乗り、現場周辺の空気が排ガスその他で汚されてしまう前、つまりまだ
蒼く透明なうちに赴き、海面に向かって花を投げた。
死者に送る白い花。白い安倍さんのワンピース。
波間を頼りなく漂う花束を黒い服に身を包んだ私達が、2人で、とても
長い間見つめた。

半月程経った夜、バーに一人女性客が現われた。普段と同じく、ひそひそ
と交わされる会話が、他人には漏れない程度混み合っている。未だ早い時間。
カウンターの一番はしにひっそりと座る彼女が、私の興味を特別ひいたのは、
ストイックな、その服装ゆえだった。

「ご注文は?」
「そうね、ドライ・ジン。ロックで。」
黒いスーツにネクタイ、下はちなみに膝の丈のスカート。髪をしっかりと
分け、痛そうな程に撫で付けた彼女の注文もまた、その容貌と同程度には
変わっていると思った。ジンをそのままで飲む女性に、出会った事がそれ
までなかったから。
「おかしいかしら?」
「いえ。」
だいたいマティーニとかギムレットとか、そういう事を思っていたら、大き
くて強い目が、ギロリと私を見た。
「そう。」
ローファーを履いた足元には、軽そうなジュラルミン・アタッシュ。
彼女はすぐに視線を戻し、言葉をそれ以上続けなかった。

彼女のペースは早かった。あっと言う間にもう3杯目。相当強いのか、姿勢
ひとつ崩れていない。私が4杯目を運び、空のグラスを下げた時、とても
唐突に彼女は言った。
「ねえ、クルマ買わない?買いなさいよ。」
「は?」
本当に突然だったので、思わず私はひるんだ。やはり酔っているんだろうか?
戸惑う私。その隙にふたたびジンをあおり、今度は大きな声で言った。
「いいから買えばいいじゃない!買いなさいよ私から!」
途中からは大粒の涙が、その勝ち気そうな瞳の淵に、ひとつ盛り上がって
いたのだが、それがボロリとこぼれた瞬間、「わーん」と彼女は一言叫び、
そのままカウンターの上に泣き崩れてしまったのだ。

腹の底から声を張り上げ、激しく慟哭する彼女。激情に身を焦がして、やっぱり
酔っていたみたいだ。当然私はうろたえたのだった。

周囲に助けを求めたけれども、ひたすら人々は遠巻きに見守るばかり。注目して
はいるのだけれども、誰も近寄ろうとしない。うろたえる私をよそに、彼女の
エキセントリシティが増す。
「話ぐらい、聞きなさいよっ!」
ひときわ大きく叫びつつ、泣き止む気配が一向になかった。息をのむ店内。
ああ今、ヒーローはいない。

「あ。じゃあ、お話だけでも‥、聞かせてもらおうかな‥。なーんて‥。」
「本当?」
私が口を開くと、周囲の緊張が弛むのがわかった。中には頷いたりしている
人も、ちらほらいるみたいだった。嘘のように涙がひき、顔を上げた彼女の
拳が、私の服の袖をきつくきつく掴んでいた。

「あ、でもー‥。今、ちょっと手が離せないんでー‥。また、次回にでも‥。」
「次っていつよ!」
私の言葉にかぶるせるようにして、彼女は言い放った。
「あ、それは、その、お店がヒマな日とか‥。」
「今日何時に終わんの!」
「いや、もう、朝‥。明け方。」
「待ってるわよ!じゃあ!話聞いてよね!」

そういうやりとりが少しの間続いて、結局私は押し切られたのだった。

午前3時。
客が退いた。薬なのか酒なのか酔って立ち上がれなくなった2〜3名を除い
て。彼らがそれぞれ、思い思いのソファにゴロンと仰け反り、各自、白目を
向いたり、時々、何かを呟いてはクスクスと笑ったりしている。そんな中で私は
黙々とテーブルを拭き、床を軽く掃いた。金を数える梨華の仕事は、しばらく終わ
りそうもない。絞っていた光源が通常に戻り、白々しくもこうこうと照らされ
た店内に、煙草のケムリが白い幕を創っていた。

私を待つ間、彼女は片肘をついて、ずっと同じ場所に座っていた。随分長く
そうしている様子だったので、とても忍耐強い人だなあと私は思ったものだ。

しぶしぶ側へ行くと、彼女はニコリともせず、視線だけを軽く合わせた。
「思ったより早かったじゃない。」
そうですか?とかなんとか私も適当に答えてとりあえず横にすわると、彼女は
改めて私を見て、そこで始めて笑った。
「じゃ、さっそく。説明に入らせてもらいますね。私は保田圭。よろしく。」
そしてブリーフケースを開けた。ガタッと得意げに音を立てたジュラルミンだっ
たが、照明を反射してギラリと鈍い煌めきを放った。

未だ明けきらず薄暗い部屋で、私は遠いスコールのような、シャワーの音
だけを聞いていた。どんなに疲れていても寝る前に梨華は必ずシャワーを
浴びる。曰く、
「染み付いた匂いがイヤ。」
なのだそうだ。
大きく息を吐いた私は高い天井を見つめて、保田圭さんの事を考えた。
クルマ‥、あったらそれは楽しいんだろうけれど。

「私達、免許持ってないんです。」
アニメ声。私に遅れること20分。仕事を終えた梨華がカウンターにやってきて、
私の横の席に座った。保田さんに押される私に、とうとう味方がついた。
「そうそう。それに実は、クルマ乗れる年じゃないし‥。内緒にして下さいよ?」
助力を得た私も意気揚々と言ったものの、保田さんは更に聞く耳を持たない。
「だーかーらー、とりあえず話だけっつってるでしょ!だいたいねー、買うだけ
だったら誰でも買えんの!‥‥こちらのステーションワゴンなんていかがですカ?」
だめだこりゃ。梨華の方を見たが彼女も半ば諦め気味。とりあえず、気が済むまで
話をさせましょう。そんな空気だった。

かつぜつ良く話し続けた保田さんだったが、依然煮え切らない私達の態度に、次第
に業を煮やし始め、だんだん話が逸れて行くのだった。もともと私達に買う気は
ないのだし、話だってかなり強引に聞かされているのだけれども、彼女はキレ気味
のようだ。
「だいたいアンタ達!付き合ってんの?カップルなんでしょ?
いーわよ別にそんなのどうだって!女同士だからってねー、私が気にするワケないジャン!
‥たーだー、カップルなんだったらー。例えば、2シーターぐらい?乗ってなくって
どーすんのYo!ってハナシ!!!」

やってらんない!!保田さんは最後にそう付け足して、プイっと横を向いてしまった。
そんなふうに言われても私達は困った。

‥とは言え、新車ばかりのカタログがまた魅力的なのも確かだ。保田さんの理論は
ともかく。さいわい、カネならある。‥けれども、免許がない。
私達は首を振った。
「ごめんなさい。やっぱりムリです。」

あーあ。
そう言って再び振り返った保田さんの、先程までの凄まじい勢いはその表情から消え、
妙に達観したような、言い換えれば醒めた視線に戻っていた。
「ま、そうよね。アナタ達未成年ですものね。そりゃお金ないわよ。だいたいこんな
高いモン、私だって売ってるけど買えないわよ!」

「あーあー、もー仕事変わろっかなー。やーだーなー。」
手足をブラブラさせる保田さん。私が言った言葉は、すごく不用心だった気がする。
話が上手い具合に進んだから良かったようなものの、これからは控えるべきだ。
今回は保田さんが相手で良かったが、以後言わないように気をつけたい。
「お金なら、まあ、あるんですけど‥。」
「ナニ?」
保田さんの目は光った。
「お金があるんだったら、買えるじゃないよアンタ達!」
「でもやっぱり免許‥。教習所だって行けないし。」
「ばーかーねー!ナニいってんの?免許くらい、このアタシがなんとかするわよ!
ああこりゃ初めて売れるわ。危ない橋だって渡れる気がする!」
しごく興奮ぎみの保田さん。私達は信用しなかった。そんな事普通できないし、
普通しないでしょう?
「ま、見てなさい。」
保田さんはケースを閉じ、念入りに確認する。
「書類関係をクリアすれば、買ってくれるのね!?サァ、買うんでしょッ!?」
「ええ‥まあ。」
絶対むり。
「OK。じゃあごきげんよう!近いウチにまた来るから!」
帰り支度に余念のない保田さんの隙をうかがい、私と梨華は顔を見合った。
「できるわけないじゃん。」
「ねー。」

あれから結局、あまり眠れなかったせいで、頭が少しボーッとしている。
背を向けたまま悶々と妄想をめぐらす私の横へ、乾かし終えた髪に数回
櫛を入れ、かるくバサバサと揺らした梨華は、小さな息をひとつついてから
静かに入って来た(もっともこれらは物音から私が推しただけなので、正確
には少し違うかもしれない)。普段から割合寝付きの良い梨華は、びくびく
している私をよそに、やがて健やかな寝息を立て始めた。

部屋にはベッドがひとつしかないから私達2人は毎晩、布団を共にする
格好になっているわけだが、このベッドというのが、オーナーの不要品を
譲り受けたもので、キングサイズで寝心地が良い。とても大きくて、例えば
私達が両隅ぎりぎりに横たわるとすると、3メートル弱の距離が空く。これが
極端な例としても、ともかく広いベッドの上で、私達はそれほど接近すること
もないのだった。寝返りをうった時、偶然梨華の寝顔に遭遇することが、ごく
たまにあるくらいか。

開店間もなく、まだ空いている時間に矢口さんはやってきて、友人を私達に
紹介した。飯田さんというきれいな髪の長い女性で、なんでも2人は幼馴染み
だそうだ。
矢口さんがここへ、本当に親しい人を連れてくることはあまりないから、少し
意外な気がしたが、普段周囲を盛り上げつつも、いつもどこかで気を張ってい
る矢口さんが、背伸びをやめ、むやみに愛想をふりまいていないところが、
やけに印象に残った。歴史というか時間というか、2人の間にはそういうもの
がたくさんある。お互い、信頼関係が余程の強いのだろう。そういうかんじだ。

「矢口さん、こんにちは。」
「おう、よっすぃー。こんにちは。」
暇だった私が矢口さんに声をかけると、矢口さんは少し笑って、飯田さんの
肩を叩いた。
「この人、幼馴染みなの。飯田さん。」
「どうもー。飯田圭織でーす。精神科に入院してまーす。」
「あ、どうもこんにちは。吉澤ひとみです。矢口さんにはいつもお世話になって
るんです。」
「別にどこも悪くなんてないじゃん。」
眉根を上げた矢口さんが吐き捨てるように言うと、飯田さんは身をガバッと乗り出し、
食い下がるように矢口さんに迫った。
「わーるいんだって!狂ってんの、カオリは!」
「別におかしくないよ。普通普通。」
「そーかなあ。」
矢口さんが言い募ると、飯田さんはうかない顔をして不満げに、そしてしきりに
首を捻っていた。一見、大人っぽくて、モデルみたいにスレンダーな飯田さんは、
案外フランクな人のようだ。多少笑顔をつくって、矢口さんごしに私へ、きれいな
首をコキンと折った。入院うんぬんは、現にここへ来ているのだし、飯田さん特有
の(それは時に凡人に理解されにくい)いわゆるひとつのジョークだと思った。

そこへ梨華もやってきて、4人しばらく談笑していたのだが、突然飯田さんが、私達
を指差した。ハッブル展望台について、彼女が熱い思いをひとしきりぶちまけた直後
のことだ。
「ところで2人はつき合ってんだべ?」
ドリンクを口に含み、今まさに飲み込まんとしていた私は、その唐突さにむせかけた
が、それよりも、飯田さんのダイレクトな物言いに、妙に感動した。梨華は目を丸く
している。
「は、はい。まあ‥。」
「やっぱねー。カオリすぐわかったよ。だってなんか、エロいもん。」
梨華はしばらく固まっていたのだが、やがてニッコリと笑うと白い歯をちらつかせて
控えめに、飯田さんに聞き返した。
「エロい‥、ですか?」
「うん。エロい、エロい。つーか甘い。甘い夜ってかんじだよ。」
例によって矢口さんは知らんぷりを決めこんでいて、プライベートな話題にはあまり
関わろうとしない。聞いた当人の梨華は飯田さんの見透かすような視線に、耳まで赤
くなってしまっている。私はそれとない笑顔をつくり、なんとか体裁を保った。けれど。
内心穏やかではない。
甘い夜?何もないのに?手を出せずにいるのに?‥ふふ、おかしい。他人にはそう
映っているんだ?

しばらくの間、軽い沈黙が続いたのだが、梨華が、それを振払うように口を開いた。
「あの、この間、クルマのセールスの人がやって来て‥。」
まるで、飯田さんの追求をかわすように。急に話題なんて変えて、しらじらしいよ。
茶番と思いながらも、私の視線を意識してか、いまだ頬を赤らめる彼女が懸命に話し
始めたので、私もところどころ補ってやった。
車を買うかも知れないこと。免許証を含む書類すべてをそのセールスウーマンが偽造
すると豪語して去ったこと。例え車を買っても教習所へは行けないから、独学で技術
を学ばなければならないこと、等。矢口さんと飯田さんは私達の話を、思いのほか
真剣に聞いていた。

「危ない橋でも渡って見せる、って、その人。とても息巻いていたんです。」
最後に梨華が付け加えると、飯田さんはケタケタと笑い出した。
「てゆーかさー。できないって、そんな事ー。ムリムリ。」
「まあ、そうだとは思うんですけど‥。けど、なんかその人、不思議っていうか、
つかみどころのない人だったんで、もしかしたら‥?って思っちゃうんですよね。」
梨華に同意し、うーん、と私が首をかしげたところへ、飯田さんはさらに続ける。
「あるワケないじゃん。なあヤグチ?キミら、アレだね。騙されたんだよ。ただの
話好きな人だったんじゃん?」
尚も愉快そうに笑う飯田さんの横で、矢口さんはしばらく黙っていたのだが、やがて
(いっちょまえに)組んでいた腕をほどくと、ドリンクを一口飲み、冷静に口を
開いた。
「それ、いつの話?」
「昨日です。昨日っていうより、今朝方。」
答えた私の目を、じっと見つめる。
「じゃ、今日はまだ来てないのね。ま、昨日の今日じゃ、まだ判断しようがないか。
ホントかウソか。実際そのウーマン、奔走してる最中かも知れないもんね。」
「そうですね。まだ、なんとも言えないですよね‥。うーん。本当なのかなあ。」
言葉をつなぎながら、私は梨華と目を合わせはしなかったけれど、自分の肩ごし
にも、横に座った彼女が私の言葉を見守っていることが、はっきりと感じられた。

全員、それから思い思いのことを黙って考えていたのだけれど、しばらく経って
客がだんだん入り始めたので、私達は席を立とうとした。私が梨華を促している
と、急に飯田さんが顔を上げた。何か思いついたのか、瞳を輝かせている。
「じゃ、カオリが教えてやろっか、運転。免許持ってるんだよカオリ。実は運転
上手いし。」
驚いて返事に窮する私達を無視し、俄然張り切る飯田さん。動転した様子の矢口さんが、
飯田さんの腕を押さえた。
「ちょっと待って。カオリ病気じゃん。ダメだよ。」
飯田さんはびっくりしたように矢口さんを見つめ、少しキレ気味に言う。
「なんだよオマエ?さっき普通って言ったばっかじゃん。」
矢口さんは少しばかりひるんだが、やがて意を決し、言い放った。
「病気だよ!」
「ムカツク!違うよ!!」

どうやら飯田さんは本気で入院患者らしかった。考えてみれば案外重い話なのだ
けれど、2人のやりとりは愉快だ。精神病棟の飯田さん。私は話してみて、おか
しいとは感じなかった。そこがポイント。もし、万が一クルマが届いたならば、
飯田さんに運転を習おう。そう思った。医師がどう診断しても、飯田さんは普通
だ。私は私の目しか信じやしない。

「じゃあ、教えて下さい。」
矢口さんはそれまでの言葉と裏腹で、案外楽観視しているのか、仕方ないと言わん
ばかりの苦笑を見せていた。梨華も頷く。
「もし、車が無事手に入ったら、のハナシですけど‥。」
飯田さんは頼もしく、顎をこころもち上げて見せた。大きな瞳は得意げに細められ、
私達を見下ろしている。
「もちろんそうよ。連絡はヤグチを通して。ホラ、なんせカオリ携帯使えないから。
ダメじゃん?病院て。」
な、いいよな真里。そう言って肩を叩く飯田さんに、矢口さんもしぶしぶ頷いた。

仕事を終えた私達は部屋に入って、ソファに腰を下ろした。

飯田さんを気づかってか、矢口さんたち2人は、早い時間に引き揚げていった。
明け方、仕事は滞りなく終わり、店を出た私達は、まだ暗い階段を部屋へと
黙って昇った。いつにない緊張が走っていた。近頃の私にはそれも珍しくない事
なのだが、今日は梨華も言葉を発しなかった。飯田さんの言葉のせいだ。

いつもならさっさとシャワーを浴びている梨華が、私の横に座っている。相変わらず
黙ったままだ。張り詰めた空気に耐えきれずに、私は口を開いた。
「くクルマ、本当に買えるのかな。保田さんはまた、現れるんだろうか。」
「うん。」
俯いている梨華が、小さな声で頷く。しばらくの間、焦りにまかせてぺらぺらと
まくしたてていた私だったが、初めのうちはそれに反応してくれていた梨華も、
いつの間にか黙ってしまった。
「な、何か飲む?」
いたたまれなくなった私がそう言って立ち上がると、
「いらない‥。」
かすかに呟いた梨華が私を見つめた。しばらくの沈黙。動けない私。

「エロい、って、言われたね。今日‥。」
梨華の言葉に動悸が速まる。私はまだ‥怖かった‥。
「そうだねハハ。何もないのに‥。おかしいよね、ホント。」
梨華を傷つけないように、なるべくサラリと言ったつもりだった。
が、それは逆効果だった。
「シャワー浴びてくる。」
涙の滲む目で詰るように言った梨華は立ち上がり、私の横をすり抜けようとしたが、
すれ違う瞬間、私は梨華の手首をとっさに掴んでいた
「!」
梨華が驚いて振り向く。。
私は私で反射的に掴んだものの、それに続く言葉が出ない。
どうしたものか思案にくれていると、梨華が消えそうな声で呟いた。
「ひとみちゃんは私のこと、好き‥?」
もちろん。そう言おうとしたけれども、梨華と目が合ったら、声が出なかった。
視線を逸らした私を見て、梨華は少し笑う。
「不安‥。」
笑っている梨華は泣いていた。涙なんて出ていないけれど、明らかに泣いていたのだ。

私は梨華を抱き寄せた。心臓がばくはつしそうだ。
「聞こえる‥?し、しんぞうの音?はれつしそう。好きすぎて、手が出せない。
こわい‥。」

しばらくそのままでいた。心音が次第に遅くなるのがわかった。きつく抱き締めていた
腕から少しだけ力を抜くと、梨華が、静かに言った。
「私が2人の人と寝ているから‥?」
「‥うん。」
「私に笑われそうと思う‥?」
「‥うん。」

私の返事にしばらく黙っていた梨華は、やがて柔らかな声で言った。
「いくじなし、だね‥。」
梨華を抱き締めたままで私は、離すこともできずにいた。普段はまったく優等生な梨華。
耳もとをくすぐったのは、甘い甘い囁き。
「キス、してよ‥。」
「うん‥。」
顔を上げた瞬間、ぶつかった視線がどこまでも深く、吸い込まれてしまうと思った。

結局まだ、コドモだったという事だ私は。じっと覗き込む瞳に、さながら魂のひとつ
も吸い取られる勢いで梨華と唇を重ねた私は、暖かで、とろけるような感触と、その
全身を駆け抜けた甘いシビレに、へなへなと腰砕け、その場に座り込んでしまったの
だった。
なにこれ‥、強烈‥。
あの時は暴走していた。とはいえよく平気でできたもんだ。などと、ショートした
回路でかすかに思っていた。改めていたしてみると、キスってすっごい‥、等。
壁に凭れて放心著しい私の視界に、梨華の優しく微笑んだ笑顔が、ゆっくりと入って
来た。私の正面に立っていた彼女もまた、その場にしゃがみ込んだのだ。

自失し、しばらく言葉など発せない私。目を、そしておそらく口も、ポカンと開いてい
たことだろう。まるでアホの子みたいに。焦点の定まらないままで、私はゆっくりと瞳
を巡らせる。目と目が合った瞬間、少しだけ梨華はクスッ。と、声を出して笑った。
「安心、した。」
彼女はそう言ったのだけれど、実際その時の私には、いまひとつ伝わっていなかった。
馬耳東風かつ猫に小判。その時の状況を今の私はこう判断するのだけれど、どうですか。

注がれる梨華の慈愛に満ちた視線に反応し、私はともかく一度だけ頷き、頬の筋肉に
力を込めた、つまり笑ったのだが、妙な私の笑顔に梨華は相好を更に崩して、
「やだ、しっかりしてよ。」
なんて言う。天井のライト、その黄色い色を反射し、光をふんだんに湛えた彼女の
瞳に、私は、大地に太陽を浴びて咲く、大輪のひまわりを見た。きらきらと痛い位
光って、それは思わず目を細めてしまう程、全くの陽なるもの。殺人を犯した彼女
の裡に、これ程の正を見る私。私達はどうなるんだろう。

遊離して行く思考をどこまでも追って行くうち、そっと梨華が耳許へ囁いた。
「焦っているなら、やめて。ゆっくりでいいよ。」
そして一瞬口籠る。接近した距離を感じ、私の頬は熱い。
「私べつに‥、ヤ、ヤリマンッテワケジャ‥、ナイもん‥。」
消え入るように言った梨華は直後、私の頬に素早くキスし、そのまま立ち上がって
バスルームへと消えてしまった。
梨華が唇をあてた部分に空気が触れ、ひんやりと冷たい。それはそのまま私の熱さえ冷
ましてゆく様だ。

ゆっくりでいいんだ。私は手をあて、自分の勇み足を理解した。
自分は中澤と、ましてやあの父親とも違う。
ゆっくり行く方向で。

同時に、はっきりと認識した。
梨華が彼等から受けていたもの、それと同じ物を与えてやる力量が、今の私にはまだ
ない。不幸にも歪んだ形をとってしまったが父親の梨華に対する溺愛は疑う余地がなく、
そして、中澤の献身的な愛は、梨華に替えがたいやすらぎを与えた。

その2人を、いつか私は超えるだろう。

なぜなら。
梨華に咲くひまわりを最期まで守るのは、私。
他でもないこの私であるから。

以後、気負いのなくなった私の変化に伴い、私達の間には平穏な空気が流れるよう
になった。一時に比べ、とても自然な時を過ごす梨華と私。気が向けばキスなど
交わすし、手を繋いだりなんかもする。随分と甘酸っぱいようだが、急ぐことを
やめた私に今、それ以上進む気はなかった。

しばらくたったある午後、保田さんは再び現れた。梨華と私が、バーへ観葉植物を運
んだ日だ。

前日、近所のゴミ置き場に捨てられていたその樹を、偶然通りかかった私達は見つけた。
味気ないいくつかのゴミ袋の中にあって、ますます枝葉は観賞用であるその本来の性質
に特化し、不自然なまでに目をひいたのだった。白いプラスチックの鉢を覗いてみると、
中の土はまだ養分を辛うじて含んでいるようで、いくらか黒く湿っている。樹本体も
水分の不足から多少しなびてはいるものの、決して生命を終えているというわけでは
ない。むしろ健康と言って良かった。
普段から店内の空気の悪さにへきえきしていた私達は、ほんの気休めにしかならなくても、
少しでも改善試みようと、それを拾って来たのだった。

「こんなカンジでいいよね。」
「うん。」
だいぶ傾いた太陽の、窓から差し込む西日が数本、店内に光の筋を伸ばしていた。
いろいろと悩んだ末、結局カウンターの脇に鉢を置いた私達が、しばらくその姿を眺め、
悦に入っていた最中だった。

「ごきげんよう!!来たわよ!」

日光のせいで普段より更に埃っぽく、白くかすむ店内に、こんなふうに形容するの
はとても失礼けれどまるで、カラスを絞め殺したような、無駄に陽気な声が響いた。

突然の再会はさらに半信半疑でもあったので、入り口を誇らし気に塞ぐ保田さんに
私と梨華は目を見張った。が、それに臆する様子など微塵も見せず、保田さんは
ガタガタと板張りの床を進んでくる。
「御げんこ!」
見守るばかりの私達の前で、保田さんはずいぶん機嫌が良いのか、片手を上げて
そう言った。この間とは対照的で、今回の保田さんは髪をツンツンに立てている。
装いもどことなくアナーキー。なんとなくだけれど、片手に提げたジュラルミン
ケースを除けば、グレイあたりにこういう人がいそうだと、私は思った。

「ああ、保田さん。こんにちは。‥今日は何の用?」
素早く観察を終えた私は口を開き、やっとの思いでそれだけ言った。梨華もなかば
私の影に隠れるようにしているものの、なんとか笑顔を作って、その一挙手一投足
に着目している。
「何の用ってあんたねー‥。」
保田さんが苦笑する。と、その瞬間、俊敏な保田さんの視線が、私の右の拳を捕えた。
私は右手の中に、黄緑色の養分ポットを握りしめていた。
「ン?なにソレ?なに持ってンの?」
「あ、これ、薬。植物用の。さっき、花屋で買って来たんです。」
握った手を私は、保田さんの前で広げて見せた。梨華が付け足して樹の鉢を指差す。
「アレ。捨ててあったのを、拾って来たんです。ひとみちゃんと2人で。ココの空気が、少
しは良くなるかな、って。」
「なるほどねー。で、なんて木?」
「ポトス。とても、育っているケド。」
澱みない梨華の受け答えに、保田さんは少し驚いていた。頷きながら腕を組み、
しげしげと梨華を見つめている。
「なんっつーか‥、詳しいのね。」
梨華は躊躇うことなく言った。
「母の影響です。母が、好きだったんです。でもひとみちゃんの方が、もっと詳しいん
ですよ。ひとみちゃんのお父さん、植物学の教授なんです。」

過去の事を口にする梨華に私は少し驚き、彼女の瞳の色を探った。随分注意ぶかく伺った
つもりだけれど、そこには一遍の翳りもない。忘れたとまでは行かなくても、こんなふう
に笑って話せるようになるところまで、梨華は来ていた。それが少し嬉しかったので、私も
調子にのって、知識をひけらかしてやった。
「ポトス、って。あまり日光に当てなくてもちゃんと育つんです。寒さにも強いし。
だから、こんなバーの中でも平気かなって思って。」
「フーン。あたし植物なんて、ペンペン草ぐらいしか知らないけどな。昔よくむしった
わ!かたっぱしから根こそぎ!あれって音が鳴るのよね!」
こう。ぺんぺんさ。右手を揺らす保田さん。梨華が、生真面目に言った。
「根こそぎって‥。いちおう生き物なんですよ?」
「は?サムいこと言ってんじゃないわよ!あたしはねー、やりたいようにやるの!
弱肉強食!!」

ふふ。
どちらも正しい。そう思いながら、私は微笑ましく見つめていた。

本当は2人の意見をもっと詳しく聞いていたかったのだけれど、それに見合う十分な
時間がなかった。
逸れていた話題を私は、本題へ戻した。
「‥それはまあ、ともかく。で、車の件、どうなったんですか?上手く行きそう?」
梨華とにらみ合う格好になっていた保田さんが、ニヤリと笑う。
「全部揃ったから。」
「ほんとう?」
驚いてすぐには言葉が出なかった私の横で、つい今まで顔をしかめていた梨華が、
代わって感嘆の声をあげた。まさか。できるなんて思ってなかった。
「ほんとよ。あー、さんざんっぱら走り回ったわ、この一週間!私の暗躍ぶり、
あんたたちに見せてあげたいくらいジャン!」
保田さんは肩に手を置き、息をついて首をまわした。
おかげで私痩せたわ!そう言いながら。
しかし私はいまだに警戒を解いていない。訝し気に見つめる私をよそに、保田さんは
アタッシュを開けた。
「ほら。これ、車庫証明。で、こっちがウチの契約書。見なさい。」
私と梨華は頭を寄せあい、ペラペラした薄い紙を覗き込んだ。各欄きちんと記入されて
いて、全ては準備を終えているようだった。もちろん、知らない名義ではあったけれど。
他人の名前が記載されたそれら数枚の書類に、私達はしばらく、息をひそめ目を通した。

「これが、私達のものなの‥?」
「すごい‥。区役所の判もしっかり押してあるよ。一体、どうやって‥。」
しばらくしたのち、ため息まじりの梨華の言葉につられ、私も口を開いた。
保田さんは上を仰ぎ、得意げに眉を寄せる。
「それは、大変だったわよ。ハジメはね。正直このヤスダさんも、どうしていいか
わかんなかった。けどある日、一冊の本に出会ったのよ‥。」
色を濃くした西日の黄金の光を燦々と受け、遠い目をした保田さんの顔面は激しく
輝いていた。

その本は、マニュアル本でね。一時流行ったんだけど、知ってるかしら。自殺とか、
失踪とか、いろいろあるのよ。私はさ、当てもないまま彷徨ってる途中、ブラっと立ち
寄った古本屋でね、なつかしいその本見つけたのよ。
あ、『失踪』の方ね。

そりゃ、そんなモノ即信じる程、ヤスダさん、コドモじゃないわよ?

‥けどさ。もしや?って思って。

本に書いてあるとおりにさーあ?区役所行ってみたのよ!アラやだ!
けどまあ。まさか〜。とかなんとか思いながらよ?
そんな事、できっこないジャーン!とか。思いながら。

そしたらさッ。アンタッ!貰えるじゃないッ!他人の戸籍!
嘘でしょッ?って思ったけど、ついでに、その戸籍で他の書類も申請してみたら、
通っちゃうのよッ、コレが!
びっくり!!

いや〜。ヤスダさんびびった。
成功しといて、こんなこと言うのもアレだけど、さッ!
世の中って、なんていうか。
こんなもんなのね〜。

「あ、言っとくケド、車。外にもう停まってっから。」
熱を込め、アツく語った保田さんの話にあてられ、しばし私達は考え込んでいた。
うーん。世の中って、そんなモンなんだろうか。
つい今し方まで、語る自分に酔ってさえいたふうの保田さんはしかし、唐突にそう
言った。本当にケロリとして。
「えっ!?」
突然の事に焦る私達。
カシャッ。
光るストロボ。
いつの間にカメラを手にしていた保田さんが、その瞬間の顔を写真に納めた!
「激写!!」
ファインダーを覗いたままの保田さんが、おかしな口調で言う。
「ひゅ〜いい写真とれたぜえ〜。もらったぜ〜?」
驚愕は既に去っていたのだが、それでも、なんとも言えないままの私に、早々に
背を向ける保田さん。今度は梨華にレンズを向けた。
「はい、リカちゃんストップ。笑って〜。そう、いいよ〜。」
多少ぎこちないものの梨華は、いつも通りの笑みを浮かべてカメラの中に治まった。
その写真は、免許証に使うんだそうだ。どうでもいいけど。

「ねえ。」
しばらくして、大切なカメラをケースへしまった保田さんは、何かを考え込むような
顔つきで、私のもとへと近付いた。
「写真撮って気がついたんだけど‥。」
そう言って、私の左腕を掴む。保田さんはそれから、少し離れていた梨華の事も呼んで、
手で招いた。

「コレ、さあ。」
保田さんは両手には、それぞれ、梨華と私の手首が握られている。そこには、同じかたち
の痣があった。手のひらから三分の一くらい、肘へと向かったところ。場所も、ほぼ
同じ。もちろん私達はそれに、とうに気付いていたけれど。

まじまじと見つめる保田さんに私は言った。
「そう、ウチら、同じところにアザがあるんですよ。場所も。おもしろいでしょう?」
すると保田さんは、おもむろに腕をまくる。差し出された手首に、私達は息をのんだ。
「私も、あるのよ‥。」
微妙に形状は違ったけれど、確かに保田さんの左手首にも、同じような痣があった。
場所も近い。どういう事‥?唾液を飲み込む私。梨華も真剣な瞳で、3本の腕を
見比べていた。
「似てる‥。」
「なんていうか、オドロキね‥。」
掠れ気味に漏らした梨華の言葉に、保田さんも頷いた。

保田さんが帰った直後、私は矢口さんへ電話を入れた。保田さんの言った通り
で、店の前には注文した4駆がすでに停まっている。暮れなずむ路地の新車は
周囲のくすんだ景色さえも俄に輝かせ、ピカピカに磨かれた車体が先程の痣の
件を、私の頭の隅へと追いやっていた。

「へえ。本当に買ったんだ。」
「ハイ。お金はまだ払ってないんですけど。」
経緯を聞いた矢口さんは驚いていた。しきりに感心する矢口さんに、私は用件
を伝える。
「ひとつ、相談があるんです‥。」
「なに?」
「車、停めておける場所‥、どこかいいトコ知りませんか?」
もちろん私は確信している。矢口さんに頼めば、必ずどこかが見つかるはず。私達
は矢口さんにいつも頼ってばかりいるから、それでも極力遠慮がちに切り出した
つもりだけれど、返って来た矢口さんの口調は随分とあっさりしたものだった。
「あー、じゃあウチに置けば?」
「え。平気なんですか?」
「いいよ別に。」

受話器をあてたまま、傍らの梨華を私は見た。目配せで駐車場確保の旨を伝えると、
梨華は楽し気に2、3度頷き、白い歯を見せてニッと笑う。
「ヤグチ、今日、用があってそっち行けないんだけど。誰か適当に頼んでクルマ
取りに行ってもらうから。うん大丈夫、ちゃんとした人行かせるよ。連絡入ったら
カギ渡して。」
そんな私達を他所に電話越しの矢口さんはテキパキと話を進めていた。剛胆で気紛れ
なリーダー、そういうイメージを他人にまず抱かせる矢口さんだが、実際は加えて
たいした実務家でもあるのだった。

「わかりました。ありがとうございます。」
「あ、それと。カオリにも連絡しとくよ。けどアイツ本当に教えれんのかよ。って
カンジだけど。あはは。」

しばらくたった休日。約束した時間の通りに、梨華と私は矢口家を訪れた。私達が
運転を教わる最初の日だった。矢口さんは飯田さんを迎えに行っていて、まだ病院
から帰っていない。
矢口さんの家が立派だという事は周囲から聞いて知ってはいたのだが、留守の間に
通された居間の高級な調度に、梨華はともかく私は、とりあえず姿勢を正した。

すぐに彼女たちは現れた。まず最初に部屋に入って来たのは飯田さん。矢口さんは
その後ろで、控えめに笑っていた。勢いよくドアを開けた飯田さんだけれども、
矢口家の廊下を、当の矢口さんよりも先頭に立って、ずかずか歩いて来たんだろうか。
頼もしい姿を思い浮かべたら、思わず笑みがこぼれてしまった。

「ひさびさ。」
目が合った瞬間、飯田さんはなぜか少しだけ頬をピンク色に染めたのだが、やがて
不器用に片手を上げて、ぶっきらぼうにそう言った。久しぶりに会ったので、いく
らか照れてもいるんだろうか?飯田さんの動作が、よりぎこちないように思えた。

驚いたことに、飯田さんのスカートの裾には、ひとりの少女が隠れていた。飯田さん
が私達の視線に気付き、少女を前に押し出す。
「このコは辻。」
人見知りするたちなのか。
「こんにちは、辻さん。」
梨華と私が笑顔を向けると少女は顔を真っ赤にして、飯田さんの腰のあたりに再び隠れて
しまった。少女----辻さんはどうやら言葉を話せない様子だ。後から聞いたところによると、
なんでも飯田さんとは病院でベッドを並べる仲らしい。心因性の失語症を患っていて、詳し
い原因などは飯田さんも含め、他の入院仲間の誰も知らないそうだ。

それからしばらくの期間、私達は飯田さんの教習を受けた。

精神の病気。医師にそう烙印を押された飯田さんだった。彼女の運転は思っていたより
ずっと上手く、そして何より楽しそう。週に一度ほどのペースで通算5、6回教えてもら
ったわけだけれども、大声で歌いながら飯田さんはハンドルを握る。そんな彼女を見る度、
私は昔読んだ伝記の、ジャンヌ=ダルクを思い出した。天真爛漫な笑顔でスピードを上げ
続ける飯田さん。自由へと馬を駆った中世の魔女もきっと、こんな姿だったに違いない。

車の運転に関して、私はいわゆるセンスがあるみたいだった。一日目の練習で、私は
おおむねのコツを掴むことができた。アクセルに載せた足に初めて力を込めた時は、
もちろん恐々としていたのだけれど、私はそれにもすぐに慣れた。

一方の梨華は随分苦戦していた。テニス部の部長を勤めたりして、運動神経などは特に
悪くもないはずなのに、エンストと急発進を無限に繰り返す彼女の運転に、最初はつき
合っていた矢口さんと辻さんだったけれど、30分も経った頃、とうとう体調不良を訴え、
2人は車外に出てしまった。

本当の事を言えば、私も気分が悪くなりかけていたのだが、ハンドルを握って悪戦苦闘す?
梨華の真剣な姿がとてもおもしろくて、結局最後まで乗って見ていた。

「ねえ。今度、どこかに連れていって。」
一ヶ月程経って、公道も遜色なく走れるようになった私にそう言ったのは、その頃既に運転
を諦めていた梨華だ。
「いいよ。免許が来たらね。どこ行きたい?」
「うーん‥、遠いところ。ドライブがしたい。」
車を届けたついでに免許用の写真を激写し、同じ痣を見せつけて帰って行った保田さんから、
以後連絡はない。相変わらずの音信不通ぶりだが、神出鬼没な彼女なのでぼちぼちやって来る
だろう。だいたい支払いがまだ済んでいないのだし、遠からず現れるに決まっている。

「じゃあ、飯田さん達も連れて、みんなで行こうか?」
「うん‥。本当は、ひとみちゃんと2人がいいけど‥。うん。でも、そうしよう?ふふ。
ホントに、お世話になったもんね。」
私の言葉に、少し残念そうな表情を見せた彼女。すぐにおどけて肩をすくめた仕種にかなり
ときめいて、私は彼女の頬にキスした。

数日後、ついに保田さんから連絡が入った。
「ごきげんよう。ヤスダです。」
非通知の携帯を訝しみつつ出てみると、それは果たして保田さんだった。
「あ、こんにちは‥。」

「来週の中頃に免許証をお届けに伺いますのでその時に支払いの方もどうぞよろしくね。」
低いトーン。そして早口。しかし不思議だった。携帯の番号、保田さんには教えてなかったはず
だけれど‥。書類も偽造だし。
「はい‥、わかりました。‥あのう、保田さん?」
「なんでしょうか。」
「その‥、このケータイの番号、どうして知ってるんでしょうか‥?」
「そんなコト今は問題じゃないわッ!!」
「ひッ。」
私が聞くと、なぜか保田さんの口調が一転した。私は驚いた。
「では。来週お目にかかります。ごきげんよう。」
ドキドキしている私にかまわず電話を切った保田さん。その口調はまた、元の低いトーンに
戻っているのだった。

海。
失語症の少女が発したその短い言葉を、おそらく私は忘れない。

保田さんに会うまでに、飯田さん矢口さんののちゃんに会う機会があったので、以前
梨華と2人で話していたことを彼女達に伝えたのだ。
「飯田さんが決めて下さい。遠くても平気ですよ。」
私達の誘いに瞳を輝かせた飯田さんは、白く長い腕を組んで真剣に考え始めた。

「んー、カオリはねー。自然のキレイなトコに行きたいんだけどー。うーん‥、
どこがいっかね。」
目をぱちぱちさせつつ長い間決めかねる飯田さん。矢口さんが口を挟んだ。
「ホラ。カオリ。どこでも行けるんだって。いちばん行きたいトコって何処?」
「えー。それはー。一面、超咲いてる花畑だけどー。でもカオリ、どこにあるのか知ら
ないよ。‥そうだ辻!辻が決めな!ねえヨシザワ。辻が行きたい所に連れてってあげて!」
まるで小さい子供みたいに、すっかり顔を上気させた飯田さんは、顔中を笑顔でいっぱいに
して少し興奮気味に叫んだ。

ドライブ、そう聞いたののたんが、いつになく喜んでいる事はすぐに解った。飯田さんの
腕をずっと掴んでいる手が、相当リキんでいるのが、見てはっきりとわかる。その頃に
なってだいぶ私達にも慣れてきた彼女は、出会った当初に比べ、随分と笑顔を見せてくれる
ようにもなってはいたけれど、それ以上に今日はずっとにこにこと笑っているのだ。

「ののちゃん、どこがいい?」
ののたんの顔を覗きこみ、梨華が笑いかけた。ついさっきまで目をきらきらさせていた
ののたんは今、急に白羽の矢が当たり息を飲み込んでしまっている。皆の視線を知った
彼女は耳までも朱く染め、耐えきれず俯いてしまった。

「ホラ、辻!言ってみな。」とは飯田さん。
「どこでもいいよ。」と私。
「ののちゃん。」と梨華。
矢口さんは微笑んだまま、特に何も言わなかった。

「え、なに?もう一回!」
顔を上げたののたん。口を動かした直後に梨華が目と口を開ける。どうやら見逃して
しまったようだ。矢口さんの視線も同様、いまだののたんの口から離れてはいない。
飯田さんはすでに視線を逸らし、足下の雑草を見つめていた。頑な口を一文字に結んで、
目が少し赤い。

私にも聞こえた。聞いた事がないはずの、ののの声。
海。
彼女は今、そう言ったんだ。

数日後。午過ぎに鳴った電話で私達は目が覚めた。
「今から行くから。店にいてくんない?」
保田さんだった。仕事を終えベッドに入った時、外はすでに白み始めていたから、
6、7時間は眠ったろうか。シャワーを浴びた私は急いで身支度を済ませ、梨華と
一緒に店に降りた。札束の入ったバッグもまたクローゼットから取り出して、忘れ
ずに持っていった。

今から行く、保田さんはそう言ったが、しかしなかなか現れなかった。通常の出勤
時刻にはまだ随分間があり、私達2人を除いて店内には誰もいない。穏やかに晴れ
た昼下がり、柔らかい日ざしが静かに差し込むフロアは、私と梨華の靴音のせいで
多少の埃が舞い立った。

「うーん。やっぱり目が醒めちゃってるみたい。寝れない」
横になっていた身体を勢いをつけて起こすと、向かいの梨華も目を開けていた。
保田さんが来るまでの間、それぞれ一つずつソファを占領し、私達は再び眠ろう
としたのだ。けれど無理矢理起こした頭は思ったよりも冴えていて、期待した
眠気は一向に訪れる気配がない。しばらく目を閉じてみたのだけれども、すぐに
飽きた。

「私も。」
そう呟いた梨華も半身を起こす。私達は顔を見合わせ、ため息をついた。
「遅いよね、保田さん。起こしといてさあ。」
「ほんと。私お腹すいちゃった。何か作ろうかな。ひとみちゃんも食べる?」
「うん。キッチン何か残ってるかな。」

厨房の冷蔵庫を開けると、ピーマンとハムがあった。それらを炒めてパンに
挟めば、きっと美味しい。あいにく卵は切れていたが、それはそれでよしと
した。
「べつに簡単だし、私が作るから。ひとみちゃんは座ってていいよ。」
手伝おうと思ったけれど梨華がそう言うので、私は素直に従って再びフロア
に戻った。

ふと目に入ったポトスの鉢。暇だし水でもやろうか。観葉植物を置いたことで
店の空気は果たして良くなったのかどうか、私に実感はなかったけれど、こう
した陽光の元で葉の緑を見るのは、目に確実に心地よい。
通路の物置きからじょうろを持って来て、3分の1程水を満たした。鉢植えの
前にかがんで根元にぱらぱら播いていると、幼い頃の記憶がなつかしく胸に
蘇った。

あれは父がまだ、助教授だった頃。他の家と比べると割合帰宅の早かった彼が、
普段よりも遅くなって帰った。

夏の夕暮れ。夕飯の準備はとっくに整っている。空腹のせいで私は、無邪気に
苛立っていた。連絡を入れずに遅くなった父の帰りを、母と2人で待っている。
不機嫌に口を尖らせ、TVアニメを見る私。片手に麦茶のグラス。

風鈴が鳴った。
「もう食べちゃおうか」
時計を見た母が私の頭に手をのせた。と、瞬間、玄関を開ける音が聞こえる。父だ。
私は立ち上がって駆け出した。

「遅いよパパー」
「ゴメンな、ひとみ。ただいまっと」
足元に抱きついて、そのまままとわりつく私を、父は優しく抱き上げた。
「悪い、連絡も入れずに」
エプロンで手を拭きつつスリッパを鳴らしながら現れた母は、それでも安堵した表情
で、2言3言軽い文句を言った。

片手で私を抱いたまま、父は廊下を歩く。もう一方の手には鞄ともう一つ、白い
ビニールの袋を共に提げていた。
「ねえ、それなにー?」
父の腕に抱かれ、すっかり機嫌を直した私が指をさした先。一旦目線を落とした父は、
私に再び笑顔を向けた。袋の中。根元を紙で覆った苗木。
「これはお土産だよ。一緒に育てよう」

白いプランターに父が植えかえた小さな木に、次の日から私は夢中になった。おもちゃ
の小さなじょうろで水をあげるのが、毎日とても嬉しくて、朝と晩の2回、それがしば
らくの日課になった。気に入っているあまり私は、隙を伺って時間外にも水やろうとす
るのだけれど、そうするとなぜか、父か母かに必ず見つかる。
「あげ過ぎてもダメなんだよ」
そう諭されて、歯がゆい思いをしていたっけ‥。
ふふふ。懐かしい。

「何ひとりで笑ってんのよ、気味悪いわね!」
突然かかった声に振り向くと、保田さんが立っていた。鉢の前にしゃがみ込んだ
私の背中を見下ろし、歯を見せて笑っている。悔しいが私は驚いて、そのまま尻
もちをついてしまった。

この女いつの間に‥!知らない間に背後を取られていたことに私は憤りを覚えたが、
おののきのあまり言葉がでない。
「や、や、保田さんこそ何ですか!気味悪いのはそっちですよ!」
震える声でそれだけ言うのが精一杯だった。下から仰ぐ格好になった保田さんの
表情は、言い知れぬ迫力に満ち溢れている。
「フん!」
しばらく私の瞳をじっと見つめたあと、おもむろに保田さんはそう言った。なんとも
不敵な表情を浮かべ、そのままプイと踵を返した。

ソファに腰掛けた保田さんは無言でアタッシュを開く。私も落ち着きを取り戻した。
立ち上がって正面に座る。
「石川は?」
保田さんが聞いた。
「キッチンでサンドイッチを作ってます。急いで店に来たから、私たち何も食べて
ないんです。」
「ふーん」
うってかわってサッパリとした口調。少し、怒りがこみあげた。
「だいたい遅いですよ!『今から行く』って言ったくせに!」
「ああ。ごめんごめん。なんていうかこう、ちょっとした抗争に巻き込まれてね。」
語調を荒くした私をなだめるように、保田さんは片手をかざした。表情があくまでも
得意げだ。
「ハァ?抗争?」
「そう、犬がさあ。」

つまるところこの先の埋め立て地で、2匹の野良犬が1匹の雌をめぐってケンカをして
いたらしい。偶然通りかかった保田さんは放っておくことができず、そこへ仲裁に入った
という。見れば保田さんのスーツの裾にはかすかに土がついていた。
「犬の‥、ですか‥?」
「そうよッ?大変だったわよッ」
真剣な様子でため息をつく保田さん。武勇伝に逞しくも鼻を広げる。
「その2匹があんまり聞かないからさッ、もう、私、噛んでやったッ!」
ソファに座る自身の外腿を、顔を顰めた保田さんは激しく叩いた。
「そしたら!そいつら仲間なんて呼びやがって!そっから小一時間、野犬の大群と!もう、
ガチの睨み合いよッ!」

そんな保田さんをよそに、私は話題を変えた。
「支払いは、キャッシュでいいんですよね。」
「そうよ。その方があんたたちもなにかと楽でショ。」
保田さんは何度か首をまわしたのち、がさがさとアタッシュを探った。封筒をひとつ取り
出して、テーブルの上にひらりと置く。
「はい、コレ。こっちも全部渡したわよ。」
なかば放り出すように置かれた茶封筒には、2人分の免許証が入っていた。
「あ、どうも。いろいろと本当にありがとうございました」
割と本心からそう言った私は、あらかじめ示されていた金額を揃え、保田さんへ
押し出した。確認する保田さん。私は免許証に目を通した。
「ちょっ‥!コレ!ヤバくないですか写真!」
「あー、それ。ほんとにブサイクよね」
大声を出した私に、保田さんも顔を上げる。札を鞄にしまう途中だった。

驚いたひょうしに撮られた、例の私の写真。それは予想以上にイケてなかった。
ポカンと開いた口、微妙に膨らんだ小鼻。目など半目だ。
「てゆうか、いいんですかこんな写真?免許ってちゃんと写ってなきゃいけないんじゃ
ないの?」
動揺する私。保田さんは余裕だ。
「平気よそのくらい!むしろイケイケよ!」
「ほんとうですか?」
取りあえず頷いたけれど、運転する際には細心の注意を払わないといけない、私は激しく
そう思った。

「保田さん。来てたんですね。気がつかなかった」
調理を終え、梨華がやってきた。手に持ったトレイにミルクとサンドイッチを載せている。
振り返った保田さんはニッコリと微笑んだ。
「元気、石川?なによソレ、おいしそうじゃん」
「あ。よかったら食べます?けっこう多めに作ったんです」
梨華がトレイを置いた。保田さん用に私はもう一つのグラスを取りに、カウンターへと
席を立った。

「できれば私、コーヒーがいいんだけど。」
保田さんがそう言うので、カウンターで湯を沸かした。ソファに座った保田さんは、出来
あがった免許証を、梨華にも見せている様子だ。楽しげに、いくらか高くなった梨華の声が、
私にも聞こえた。
「アハ。私、やっぱり黒いですよねー。美白しようー。」
「待ちなさいよ!アンタなんてぜんぜんイケてんじゃん!吉澤の写真見てからでも遅くな
いわよ!ホラ」
その言葉に反応し、私は敏感に顔を上げる。同時に、深く反省した。免許証をすぐにしまっ
ておくべきだった。
「どうよコレ?ヤバくない?」
「ヤバい‥。強れつ‥。」
そう言って、ケタケタと笑う2人。いれたてのコーヒーをこぼさないように、精一杯の注意
をしながら、私は早足でソファへ戻る。

「うるさいなあ。見ないで」
ふてくされてみせると、2人はますます笑った。案の定のスマイル、梨華の免許証、彼女が
自分だけ可愛く写っていたことは、私が言うまでもない。

「はー。食べたわ。ごちそうさま。」
ひとしきり笑ったのちに先に食事を終えた保田さんは、コーヒーを飲んで息をついた。
私達は本当にお腹が空いていたから、保田さんよりも多く食べ、その分時間も長くかか
った。
「なんだかアンタたちよく食べるわね。微笑ましいわよ!」
しばらくの間、ニッと笑いながら私達を眺めていた保田さんだったが、やがて大きく息
を吸い込み、両手を上げて身体を伸ばす。
「あー、売れた売れた!」
ミルクに手を伸ばしながら私は保田さんを見た。ほおばったパンのせいで、口は開く
ことができない。
「初めて売れたの。言ったわよね?あー。気分イーいなー。」

頷いたりしている私の横で、梨華が微笑んだ。
「保田さんにはいろいろして頂いて‥。本当に、ありがとうございました。」
「何言ってるのよ!アンタ達のおかげよ!さしずめ、今日は記念日ってトコねッ!
ありがとう!感謝しているわよッ!」
保田さんの言葉に、左右に首を揃って振った私達。そんな様子を見た保田さんは目をカっ
と見開いて笑った。その後、ひと呼吸置いたのち、妙に真摯な瞳になる。
「いいモノ‥、見せてあげようか。アンタ達いいコだから。」
その頃になってようやく食べ終えた私は聞いた。
「え?いいモノって?‥なんですか?」
食後、肺から持ち上がる空気をなんとか抑えつつ保田さんに注目する。
「それは、おたのしみ。でも、なかなかスゴいわよコレ。2人には特別にやってあげる!」
「なに?」
不思議そうに呟いた梨華。私達は思わず互いに顔を見合った。

構わずに立ち上がった保田さんはテーブルを回って、私達の正面に立った。そんな彼女
をただ見守るばかりの私達。背中をかがめた保田さんは意味ありげな顔をして、私達を
覗き込んだ。突然の挙動。とまどう私と梨華。

保田さんは言った。
「深く腰掛けて。‥そう、楽に。」
やけに静かな口調によって私達は逆に気圧され、言葉をついのみ込んで、保田さん
に従った。そんな様子を確認した保田さんは、続いて、私達の手をとる。右に梨華
の手、左には私の手をそれぞれ握った。事態がつかめないうちに急変した、その厳か
ですらある空気に、私達は息を詰めた。

「コレを見て。」
顔の下に右の手を持っていくと、保田さんは人さし指を立て、アゴのホクロを指
差した。梨華の手は、握られたままだ。
「え‥、ホクロ‥?」
「そうよ。」
吐息にも似た私の言葉に答え、上げていた右手を保田さんは戻す。
一体ナニ‥?からかってるんだろうか。
「集中して。良く見なさい。」
私の動揺を見透かしたように保田さんが言った。静謐さを増す口調。抗いがたい雰
囲気をひしひしと感じ、言われた通りにホクロを見つめる。動悸が速まって行くの
がはっきりとわかった。突然、保田さんが叫ぶ。
「深呼吸して!逝くわよ!」
「あっ!」
梨華が小さく息をのんだ。

ホクロが‥!動いた‥、今!?

瞬間、波にさらわれる感覚と共に、周囲の景色が暗闇へ変わった。

気がつくと私は、薄明るい無の中にいた。黄を帯びた灰色。なまぬるい空気だけが
XにもYにも、永遠に、ひたすら伸びてゆく空間。否、空間という表現すら正しいの
かどうか、それさえも解らない。
俄に不安が襲った。一生懸命に目を凝らしたが2人の姿はおろか、他のいかなる物体
が、何も像も結ばない。
「ここ‥、なに‥?」
そもそも目を開けているのか、それ自体定かではなかった。怖い。
「りかっち!保田さーん!」
夢中で叫んだ。それが声となって果たして発せられているのか。そういう判断なども
同様につかなかった。

(うっさいわね。いるわよ!!)
私の予想に反し、案外近いところから保田さんの声が聞こえた。耳の裏側、声よりは
むしろ、意志というべきなのか。
「キャッ、保田さあん!」
(うるさいっつってんの!響くのよアンタの声。叫んじゃって小心ね!)
やっぱり意志が、直接届くみたいだ。気がつけば私の体も消えている。が、かすかな
感覚は残っていた。外界とのボーダーは、とても曖昧だったけれど。

「あれ?りかっちは?」
保田さんの声が聞こえて急に安堵した私は、さっさと平静を取り戻し、梨華の所在を尋
ねた。
(さあ。そこら辺にいるわよ)
保田さんはこともなげに答える。するといつもの声が聞こえ、手を繋ぐイメージが私の
中枢を駆け巡った。
「ひとみちゃん。ここ‥。」
「あ、コレ、りかっちの手‥?」
「うん‥、たぶん。」
突然上がる保田さんの嬌声。
(ええ!アンタ達、こんなトコで手なんて繋げんの!?だって何も見えないでしょ!?)
「でも、手を伸ばしたら、ソコにありました‥。」
ぽつりと答える梨華。
(スゴイわよ!よっぽど深い繋がりがあるのね!)
そんなやりとりを聞いて、得意になる気持ちを私は抑えきれない。
やっぱり私たちって素敵ね。
愛しあっているのだから、当然と考えた。

「で?ここ、なんなんですか?」
(知らない!!)
梨華と手を繋いで、気が大きくなった私。あろうことか保田さんは、きっぱり言い放った。
このアマ‥!そう思ったけれど、やはり落ち着かなければいけない。それでも語気には隠し
難い険が、強く現れてしまった。
「知らないって!困りますよ!こんなトコに連れて来てッ!」
(あー、知らないってゆうかー。ここがなんなのか、ワタシにもわかんないのよ。けど何回
も来たことあるよ?)
「どういう事ですか?」
憤慨する私に変わり、今度は梨華が尋ねる。
(なんかー、私。過去に行けんの!人も連れて来れるし!だからアンタ達にも見せて
やろうと思っただけよ!文句ある!!)
ハァ?過去?およそ信じられない話だった。からかうにも程があると思った。
「有り得ませんよそんな事ッ!早く元に戻して下さい!どんなトリック使ってんだッ!」
(信じる信じないはアンタ達の自由だわ。)
飄々然な態度をあくまでも崩さない保田さん。とうとう、私の怒髪は天をついた。
「このやろうッ!」

激昂する私と、梨華の繋いだ手。ギュッと、瞬間、力が込められた。すっと息を吸って、
梨華が呟いた言葉。
「保田さん‥。」
(何?)
「私‥、お母さんに会いたい。」
「!」
梨華は真剣だった。握られた手からそう感じた。
(いいわよ。)
「ほんとう?本当に会えるの‥!」
(実際に、会う事はできない。ただ見るだけ。)
梨華はゆっくりと、そして深く頷いた。
「‥それでもいい。」
(オーケー。で、吉澤。アンタはどうすんの?)
梨華の気持ちを考え、私の胸が張り裂けそうになった事は事実だ。けれど今さら。
素直にうんと言えない。梨華には気の毒だと思うけれど、私はそんな話、やっぱり
認めない。超常現象とか、非科学的な話は大嫌いだ。
「でもたぶん嘘だよ。」
精一杯冷たく言った私。寂し気に笑う梨華。
「それでも‥、いいよ。」
そんな物を信じてまで、母親に会いたいと梨華は願う。なんだか痛々しくて、梨華の
見えない姿から、私はそれでも必死に目を背けた。

ゆるゆると空気が動いた気がした。
あるいは実際気のせいなのかも知れない。

やがて虚無以外の、何もなかった空間に、自然と目の焦点が合わされていった。先程
から梨華は言葉を発さなくなった。靄状のものが幽かに出始めた一角。瞬きもせずに
見つめ梨華は、淡い期待を抱いて記憶を懸命に辿っているのか。
「なんだか胸がざわざわするよ‥。」
そのまま梨華が、遠くへ行ってしまいそうだ。私は不安のあまり話し掛けたけれど、
返事のない指先から、興奮した彼女の心理状態だけが、振動となって伝わるばかり
だった。

意味をなしていなかった靄が、やがてなんらかを形成し始め、それらが合わさって
物体を象ってゆく。見る間に現れた広い庭。見覚えがあるけれど、矢口さんの家と
は明らかに違う。私は舌打ちした。石川家だ。

いつの間にか私達は古風に手入れのされた、庭の中へと入り込んでいた。私の記憶
よりもやや古びていない屋敷。特別大きな柘榴の陰に、私達は身を寄せていた。気
がつけば私達の体はもう透明でなくなっていたが、なぜか保田さんだけは相変わら
ず見えない。すると、軒先に佇む若い女性が見えた。少し距離はあったが、梨華の
母であると私にはすぐ解った。似ていた。

「ママ‥」
夢見るような口調だった。ふらふらと歩き出そうとする。
(出て行っちゃだめ。)
厳しい口調で保田さんが言った。母親の足元には、幼児がしゃがみこんでいて、地面
に小石で、絵を描いている。赤い服を着た梨華。
(あれはアナタよ。気付かれたらいけないの。)
聞こえていないのか、梨華はそれでも近寄ろうとした。私は必死に彼女を抑え付けた。
「嫌‥。離して‥。」
うつろに呟く梨華。恐ろしい程の力。懸命に抱き止める私の手の甲に、温かな水滴が
ぽたぽたと落ちる。たまらず叫んだ。
「もうやめて下さい‥!」

相変わらず姿の見えない保田さんに、私がそう願った時だ。
「その子が、梨華なのか‥?」
若い男性の張りのある声。ふいに強い違和感を感じ、私は顔をあげた。木の陰が邪魔して、
男の顔は見えない。
サンダルを履いた梨華の母親は、男に声をかけられ、文字通り凍り付いていた。様子から
して男は、私達が埋めた父親ではない。前進をやめた梨華は背筋を強張らせ、黙ってただ
見つめていた。先程から私の心臓は、激しい動悸を繰り返している。

「一度だけ、俺にも‥抱かせては貰えないだろうか‥。」
やはり‥!聞き覚えのある声!
「お願い、さや造(仮名)さん‥。帰って下さい!」
「俺の子でもあるんだ‥!なつみ(同上)ッ‥!」
泣き濡れて首を振る梨華の母親へ、男が大きく一歩踏み出た。顔が見えた。

神様。

「パパ‥。」
口に出さなければ良かったと思う。私だけの胸に秘めていれば、何も起こらなかった
かも知れないのだ。
けれど。
ことのほか大きな声で私は呟いてしまった。

吉澤さや造。彼を知っている。
不用意な私の言葉で、驚愕に見開かれた梨華の瞳。
ぶつかった視線を最後に、あたりは再び闇に戻った。

時間旅行、サイコキネシス、地底の王国。我ら科学の子、そんなものに
今さら惑わされやしない。月の裏側に潜む敵艦隊の群れなんて、今さら
どこを探したっているはずないんだ。
そういう世界から私は少なくとも、とっくにさよならしたはずだった。

一方的に連れて行かれた、およそ信じ難い空間。目にした光景。信じる
信じないは自由。そう保田さんは言った。出来ることならば頭ごなしに
否定して、笑い飛ばしてしまいたかったけれど。普段の私であれば、
必ずそうするはずだけれど。

では、いつかの母の動揺ぶりは?手首にある同じ痣は?草花を愛した梨華
の母親は?植物学者の私の父は?

偶然か、それとも、必然か。
思い返してみれば、あまりにも辻褄が合うのだった。

気がつけば私は、再びソファに座っていた。ひどく動揺した保田さんは
私が目を開けたとたん、気まずそうに視線を逸らしたのだが、私は何も
言わず、横に座る梨華を見た。手を繋いだままの梨華は、未だ戻って来
ない。
あまりにも静かで、本当に息なんてしてるんだろうか?そんな私の不安
がぎりぎりまで高まったところで、梨華はようやく目を覚ました。瞳を
開けた彼女は、私と目が合った瞬間、繋いでいた手を反射的に離した。

「な、なんか、凄いモノ見ちゃったけど‥。その‥、あんまり‥、
き、気にしない方がいいわよ‥。」

張り詰めた空気に耐えられなくなった保田さんは、
「鬱だ氏のう‥」
そういう呟きをひとつ残して済まなそうに帰っていったのだが、私の中
では、保田さんを責める気持ちなど、とっくに萎えてしまっていた。彼女
に責任を押し付けたところで、事態はもはや、好転など決してしないのだから。

やがて2人きりになった私達は、しばらくの間、言葉を探し続けていた。けれ
ど、良い台詞は見つからないまま、梨華は私に背を向けてしまった。彼女のピン
と伸ばした繊細な背中に、私は手を触れようとしたのだけれども、華奢な肩の
張り詰めた脆さに、伸ばしかけた手が行き場を失った。

「まさか信じてるなんて事ないよね。」
仕事を終え部屋に戻るなり、私は梨華に言った。ひどく動揺する内心を彼女に
悟られないために、わざと傲慢な声を出した。
梨華は仕事中、ずっと私を避けていた。他の従業員の手前、私とも一応は言葉を
交わす。それなりに笑顔もつくってはいる。けれど、決定的に違う。決して視線
を合わせないのだ。
「あんなの、嘘に決まってるよ。」
用心深い私はもう一度、念を押すように繰り返した。そうであって欲しい。それ
は同時に、ともすればくじけてしまいそうな、自分への鼓舞でもあった。

沈痛なおももちで梨華はソファに腰掛け、口を開こうとしない。苛立った
私はつかつかと歩み寄り、彼女へと詰め寄ったが、横に私が座った瞬間、
まるで梨華は怯えてでもいるかのように、立ち上がって、窓辺へ逃げてし
まった。

何も言わずに避けるだけ。そんな梨華に腹立たしさを覚えた。私はただ、
賛同の言葉が欲しいだけ。本当でも嘘でも今さら関係ないわ、とか、そん
なふうな言葉が欲しいだけなのに。

「まやかしだよ!なんで逃げんのッ!?」
激昂した私は立ち上がって、梨華の後を追った。
「嘘に決まってる!証拠なんてないじゃん!あんなもの信じてるの?どうか
してるよ!」
支離滅裂なのはわかっていた。けれど、止まらなかった。部屋の隅に梨華を
追い詰め、早口でまくし立てた。依然梨華は視線を反らし続ける。苛立ちが
焦燥に変わり、不安のあまり私は彼女の肩をつかんだ。
「ねえ‥っ!!りかっち!!」
少し目眩がした。頭に血が昇ったからだ。力まかせに梨華を、ガクガクと
揺さぶった。望む返答が得られない。涙が出そうだ。
「いいかげん見なよ!私の目!!」

なかば祈るようにして心から叫んだ私を、彼女はようやく視界に入れてくれた。

苦悩の混じった自虐的な笑みを、薄く浮かべる梨華。永遠にも感じられたほんの
一瞬を私は呼吸さえ忘れて待った。

「私‥、もう。何がなんだか‥。少し、時間をちょうだい。」
絶望的。すがりつく私に、まるで同情でもするような、梨華の弱い瞳。少なく
とも私にはそう見えた。曖昧に頭を振ったのち、一言ずつ梨華は呟く。
「もしかしたら、ひとみちゃんは‥、たったひとりの、妹かも知れないんだもん‥。
どうしたらいいのか‥、わかんないよ。‥私ね、一人っ子じゃない?‥兄弟って
ずっと、憧れていたの。」
息が苦しくなった。姉妹だとしたら、私達の関係は、これからどうなる‥?
今までみたいに梨華は、私を見てくれるんだろうか?それとも恋人では、なく
なってしまうの?

「やだよ!そんなの‥ッ!!」
脇にあったベッドに私は梨華を力ずくで抱きすくめ、そのまま押し倒した。
「ちょ‥っ、やめ‥て!」
「ねえ、エッチしよう今ならあたし出来る。しようよ」
一方的に言って、梨華の服を無理矢理たくし上げた。梨華は激しく抵抗した。
「イ‥ヤッ‥!時間が欲しい‥て、言ってるでしょ‥!‥ッ離して!」
梨華は渾身の力を込めて私を押し退けようとしたが、その突っ張った腕を、更に
私が、強いちからで押さえ付けた。
「やめて、‥よッ!」
荒くなった呼吸と共に吐き出された梨華の言葉に、もう私は答えなかった。

もがく体に全体重をかけてのしかかって、無我夢中に唇を奪った私は、彼女が息を
吸い込むその一瞬の隙をついて、口腔に侵入した。そのまま蹂躙をし続けている
うち、いつしか梨華は抵抗をやめた。

やがて唇を離すと、梨華の咽が鳴った。梨華の頬に涙が伝っていることは、キスの
最中目を閉じていた私にもわかっていたのだが、無視した。彼女が泣いていたとこ
ろで、別にどうでも良いとさえ思った。
おとなしくなった梨華の服を本格的に脱がそうと、顔を上げた私の視界に、それを
遥かに凌ぐ衝撃映像が待ち受けていた。

凍り付いた私は即座に醒め、自分の愚かさに胸が悪くなった。見開かれてはいる
けれど、何も映さない梨華の瞳。
「ゴメン‥。」
私は呟いた。果たして許されるべきか。梨華は無機質な声で言った。

あの男と、どこが違うっていうのよ‥。

ベッドの脇には小さなテーブルがあるのだけれど。小振りのナイトランプの他に、大き
なガラスの灰皿がひとつ。指輪とか、ピアスとか、こまごましたものを入れる為に使っ
ていた。

ベッド下にだらりと垂らされた細い腕の先に、その決して軽くなどない鈍器がしっかり
と握られていた。
それは、私に向かって振り下ろされはしなかったけれど。
梨華はそれでも、許してくれていたのだけれど。

ほどこしようのないばか者。
殺されていた方が、よっぽど救われたろうに。

憔悴した私はよろめきながら立ち上がった。フラフラと、おぼつかない足で
後退ると、梨華の手から灰皿が落ち、ゴトリと床が硬い音を立てた。

無造作に転がったガラスの灰皿。周囲には、ばらまかれたアクセサリの類が、
薄暗い部屋で鈍く光っていた。梨華は仰向けに横たわったまま、うつろに瞳を
見開き、時折ぶつぶつと何事かを呟いている。こめかみに伝う涙など拭おう
ともしない。

私はただ跪き、床に散らばったピアスやらを、両手で、すくうようにして集めた。
アゴが床を擦るくらい上体を落とし、まるで這いつくばりでもするように無心に
手を動かした。
一度手に入れた、少なくともそう思っていた梨華の気持ちを、焦燥に駆られた私は
自ら手放してしまった。涙なんてもう出なかった。
圧倒的な喪失感。
そこから来る放心だけが、私を支配していた。

部屋の一つしかないベッドではなく、私はソファに横たわり、クローゼットから
取り出した一枚の毛布を、妙に冷えた体にかけた。ソファは2人掛けだったけれど、
女子にしては身長のある私が、自由に手足を伸ばせる程大きいわけでもなかった。
背中を丸めた姿勢はかなり窮屈だったけれど、それでも良いと思った。あんな事を
しでかして尚、梨華の脇で眠れる程、私は強いわけではないから。

梨華と離れて休むことで、物理的な距離を置いた。が、そうしたところで安眠など、
簡単には訪れない。
体はひどく疲弊しているのに、なんだか、ぐちゃぐちゃに絡まった神経が眠ること
を許さなかった。体の向きを何度も変えた結果、快適な体勢などは無いことだけが
解った。途方に暮れた私がごわごわした毛布を頭の上まで持ち上げた時、太陽は既に
随分高くなっていた。

梨華は以前の彼女に戻った。
単に私が忘れていただけだ。
梨華にとっては単純な、規定通りのパターン。

ピピピピ/ピピピピ

神経に障る目覚ましの不快なアラームの音で、浅く不確かな微睡みから再び呼び
戻された時、梨華が寝ていたはずのベッドに、彼女の姿はなかった。ほとんど眠れ
なかったせいでズキズキと頭が痛む。朦朧とする意識の中で、瞳を巡せてみると、
ベッドのシーツの角が綺麗に揃えられていた。
更に耳を澄ましてみても彼女の気配はなかったのだが、私はべつだん驚かなかった。
先に仕事に行ったのだろう。そう思ったからだ。

私が目を覚ます前に、梨華のいれたコーヒーが、キッチンのコーヒーメーカーに
温かいままで残っていた。梨華との対面が多少なりとも延期された事によって、私は
安堵し、目を開けた瞬間から続いていた動悸が少しだけマシになった。

私は冷蔵庫から、茹でておいた卵とそしてバナナを2本取り出して、コーヒーと共に
食した。食欲がなく、胃も、相当ムカついていたけれども黙々と、我慢して詰め込んだ。
ましてや寝ていないし。食べなければ力がでないのだ人間は。
梨華は、何か食べただろうか?

予想に反し梨華は普通だった。と、いうよりもむしろ、それが梨華の普通。
そう言い換えるべきか。

「おはよう。」
思った通り彼女は先にバーへ来ていた。張り詰めた、ある種ドラマチックな対面を想像
して、緊張していた私を裏切り、梨華はいつも通りの、どこか淋しげな、けれど眩しい
微笑みを、これまた、いつものように浮かべていた。まるで昨日の事など、全部忘れて
しまったように。
「‥あ、‥うん。先に来てた、んだね今日は‥。」
戸惑った私の答えは、ひどく曖昧で、おかしなものになってしまった。

「ひとみちゃん。2番のテーブル、ドリンクおかわりだって。」

仕事中梨華は本当に、普段どおりに振る舞った。何も知らない他人、例えばくだんの
バーテンダーなどからすると、むしろ、普段よりも明るく映っているんだろう。
「石川。なんか、機嫌がいいねぇ。かわいいよ今日すごく。」
その証拠に彼は、ニコニコと微笑んでレジスターに座る彼女に、そう声を掛け
ていた。
「えー。そう見えますかー?」
一見無邪気に顎を上げて、軽く、可愛らしく返す梨華。あしらっている。

最初こそその真意を計りかねた私だけれど、それ程時間もかける事なく、やがて理解する
ことができた。清潔感があって、誰からも好かれる特有の笑顔。やや憂いを含んで、それ
が逆に、見る者を惹き付けずにいない瞳。

私にはわかった。何も映していないのだ。
あの頃と同じ。完全に。そう言って良かった。全てを呑み込むような、包み隠すような、
優等生の微笑み。よく知っている。

レイプまがいの行為を梨華に押し付けようとした私。そんな私をもっとあからさまに、
言ってみれば単純に、梨華は拒絶するものと思っていたのだった。嫌悪されて蔑まれて
視界にすら入れない-----、そういうかんじの青い覚悟を私はしていた。
けれど、そうじゃなかった。考えてみれば単純なことなのに、最近の私は忘れていた。

あの頃の梨華は中澤に縋る事で、辛うじて微笑んでいられた。
では縋る者のない、今の微笑みは?

「あ、今持ってく‥。」
すれ違いざま、同じ調子で声をかける梨華に、忙しいフリをした私は視線を上げずに頷いた。
動揺し、梨華を正視することができない。
ある意味懐かしいよ‥。
足取りも軽く遠ざかる彼女の背中を感じながら自虐的に呟いてみる事だけが、私の私に出来る
唯一のポーズだった。

家に2人でいる間、梨華は口を開くことがなく、ただ黙って微笑んでいた。多少青ざめ
た表情で静かに目を伏せ、うつむきがちではある。けれど、沈痛な表情を決して見せない。
ひたすら楚々と。ただ控え目に。
彼女がそうして私を避ける以上、私は無言で従うしかない。
うなだれ、頭を垂れて過ごした。

あの日以来、眠れぬ日々が続いていた。ソファに横になったところで一睡もできず、その
まま仕事に出てゆく事もしばしばあった。一応ポリシーだったから、何かしら食べるよう
には心掛けていたけれど、食欲はどんどん低下し、何を食べても美味しく感じない。

数日たったある日。仕事中。私は体力の限界を感じていた。眠れないから食べられず、
食べられないから眠れない。そうした悪循環の中で目のまわりがひどく黒ずみ、立っている
事さえ辛いのだった。
「お前の顔、土みたいな色してるぞ?平気かよ?」
「ええ、なんとか‥。」
明らかに様子がおかしい私。自覚はある。心配した従業員に何度か声をかけられる度、笑顔
を作ってそう繰り返した。もっともきちんと笑えているのか、自分でも解らなかったけれど。
「どうだっていいよ‥。」
人知れず呟いて壁にもたれ掛かる。

(つかれた‥。ヤバいかも私‥。)
小さく息を吐いた。ふと上げた視線の先にキャッシャー。梨華。すると、今日髪を染め直
したばかりというウェイトレスが、やや軽薄な足取りで梨華の元へ近付いた。片手に摘んだ
一万円札をひらひらさせて。大方客に両替えでも頼まれたんだろう。

快く受け取る梨華は満面の笑み。テキパキと紙幣を揃えコインと共に銀皿に載せる。つられて
微笑むウェイトレス。人を惹き付けてやまない梨華のあの笑みが、とってつけた仮面と知ったら
皆驚くだろうか?

早速踵を返し、客の元へとウェイトレスは急ぐ。立ち上がった梨華が、その後ろ姿をニコニコと
見送る。いつもの事だ。
そう思い、壁から背中を離した瞬間。
「‥!」
ゆっくりとその場に、梨華が崩折れてしまった。

私よりも早く、梨華の方が参ってしまった。不眠は等しく彼女の上にも訪れていたというのか。
私は気づいてやれなかった。ああ‥、そう言えば食べているところをほとんど見なかった‥。

「お前達はさあ、一体どうしたっていうんだよ‥?」
揃って呼ばれたオーナーの部屋。彼は当惑した声を出した。吸いかけのまま放置された煙草が
灰皿の中で、今、燃え尽きようとしている。
「石川は倒れちまうわ‥、吉澤は死人みてえな顔してやがるわ‥よぉ。」
「すみません‥。」
私は力無く謝った。梨華は横で黙っていた。

気丈にも笑っていた梨華が、フラフラとしゃがみ込むのを目にした瞬間、疲れた体も忘れて私は
反射的に走り寄った。誰よりも早く。声を出す事が億劫で、私が黙って抱え起こすと、覗き込む
無言の視線から、梨華はすぐに瞳を逸らす。
「ちょっとした貧血‥。大丈夫だから‥。」
細い二の腕を掴んで私は彼女を支えていたが、梨華はそう言ってやわらかく逃れた。

「とにかく、」
オーナーは言った。
「今日はもう上がっていいから。ゆっくり休んで、2人とも、体調をなんとかしろ。」
口調は厳しかったけれど、いたわりが感じられた。
気を抜いたら泣いてしまう。優しくされたら特に。
「はい‥。ありがとうございます‥。」
力無く立ち上がった。梨華はもう笑っていなかった。

部屋に戻った。ベッドに浅く腰掛けて、梨華は窓を見上げている。ずっと続いている雨。

自分の感情に精一杯になって、梨華を気づかう余裕がなかった。可哀想な自分を憐れむことに
無我夢中の私は、それ以外のものが見えなかった。完璧な笑顔に騙されていたのは私。梨華の
仮面、唯一その存在に気づいていたこの私‥!

クローゼットからヤッケを取り出した。フードを被って、ポケットに携帯をしまう。例の
バッグから2枚程、一万円札を抜き取った。

「出かけるの‥?」
「うん‥。」
やっと梨華が私に、私だけに向けて口を開いた。まるで随分長い間、声を聞いていなかった
みたい。そう漠然と感じた。
「私がここにいたら、りかっちは‥、眠れないでしょう?‥だからどっか行く。」
「‥雨だよ?」
「大丈夫。少しお金、持って行くね。」
「そう‥。」

梨華が辛そうな顔に見えたが、私の希望的な観測かもしれない。
「でもすごく、疲れているんでしょう?」
「私がどれだけ強いか、りかっちはまだ知らないんだよ。心配しないで。最悪、ホテルに
でも泊まる。」
財布をおおげさに叩いて見せる私。不安げに見上げる梨華の瞳。そんな目で見ないで。

切なさに一瞬逸らしてしまった視線を、私は再び梨華にもどした。
「明後日、海に行く日だよ?飯田さんたちと。りかっちも行くでしょう?迎えに来るよ。」
私の問いに答える代わりに、梨華はただ笑った。私もそれ以上突き詰めようとは思わなかった。

「気をつけて‥。ね。」
「うん‥。」
玄関に向けて向き直った私。梨華の声に振り返らず答えた。

深夜と言うには少し早い時間。残り少ない気力を容赦なく奪ってゆく霧のような雨を避け、
とっくに閉まった商店街の、とある店の軒先きで、私は携帯を取り出した。

向かいの自販機が硬くて青白い照明を放つ。それが逆光になって、手元の液晶が見えづら
かった。大気中に充満した6月特有の湿気のせい。吐き出す息が白い。

「どうしたー?」
2回半、呼び出し音を聞いた後、例の明るすぎる声が受話器を通して響いた。つかまった-------。
少しだけ脳に障る声が、ひどくなつかしく感じた。
「矢口さんこんばんは。」
「ナニよ?」
いつでも笑いを含んでいる口調。また飲んでいるのかな。ひどくまわりが騒がしいけれど。

私は軽く咳払いした。
「イヤ、何してんのかなーって思って。」
はぁ?イキナリ何?そんな感じの間を置いた矢口さんだった。
「飲んでるけど?今日も。」
「そう。楽しいですか?」
泊めてもらうのはやっぱり無理だろうか‥。
「ああ?悪いけど聞こえない!もう一回言って?」
なかば怒鳴るように言った矢口さんの向こうで、酒特有の嬌声が上がった。派手な悲鳴にも似た。
「あー‥。やっぱいいです。楽しんで。」
「何?ちょッ‥待っ‥。」
最後まで聞かなかった。気落ちする心のまま、私は通話を切った。

心なしか雨が強くなった気がした。多少気温も下がったようすだ。
「寒いなあ。」
私はひとりごちた。参っているせいか、ひどい逆境にいるように錯角する。まるで全てに見放な
されたような。
「まあ、矢口さんは人気者だしね。急につかまるわけないか‥。」
足元の空き缶を蹴飛ばしてみたって、何かが変わるわけない。

‥いけない。自分を憐れむのはやめようと決めたのだった。全く私は放っておくとすぐそっちに
向かおうとする。
馬鹿じゃないの?自分?
そう罵倒してみると少しだけ元気が湧いた。けれど、いい加減体力が限界だ。眠い。
(とりあえずホテル探そう‥。)
雨のそぼ降る街を、私は駅方向に歩いた。

捨てる神あれば拾う神あり。この場合、双方とも矢口さんなのだけれど。
重い足を、さながら引きずるようにしてとぼとぼと歩いていると、携帯が着信した。矢口さんから
コールバック。少し、期待が膨らむ。
「もしもし。」
「よっすぃー?つうか急に切んなYo!で、ナニ?」
先程に比べて、矢口さんの背後はとても静かになっていたのだが、私がその旨伝えると、
「や。ちょっと移動した。気になったから。」
あくまでも軽く矢口さんは言った。優しい‥。

「てゆうか今日、仕事なんじゃないの?」
「はい、まあ‥。」
「てゆうか梨華ちゃんは?」
「いや、ちょっと‥。」
「ナニ?ワケアリ?」
「‥そんな感じです。」

ふうん。
矢口さんはしばらく神妙に考えていたが、受話器越しに頷いて再び明るい声を出した。
「よっすぃー今どこにいるの?これから来る?えーっとねぇ場所はー‥」
居場所を説明する矢口さん。私は困った。疲れてなければ行きたい。パッと騒ぐのもいい
だろうこんな時は。けれども。
「あの‥、眠りたいんですよ私。矢口さんの家に泊めてもらえませんか‥?」
わがままなのは承知していたけれど、思いきって言ってみた。
しばらく考えた矢口さんは、これみよがしにため息をつき、わざとらしく舌打ちまでした。

最終の電車にはギリギリ間に合った。20分程乗って、着いた先の駅。近くのファミレスで
一時間あまり、時間を潰した。コーヒーを飲んで暖まった体に、ひどい眠気が襲った。

やがて、携帯が鳴った。矢口さん。
「今帰って来た。もう来ていいよ。玄関の前で待ってる。」
私のわがままにムカついているくせに、相変わらず優しさが口の端に滲み出してしまっている。

やっと眠れるよ‥。のろのろと立ち上がった私はレジで精算をすませ、矢口家までの道のり
を約5分ほど歩いた。

都心を外れた閑静な住宅街に矢口さんの家はあるのだが、立派な屋敷ばかりが、夜のしじま
にひっそりと息づくその一角において、一際目立つ和風のいかめしい門の前に、厚底を脱いだ
矢口さんがスニーカーでぽつんと佇んでいた。
「コンバンワー。」
電柱のライトに切り取られ、浮かび上がる雨粒。どこか取り澄ましたような表情で、ぼんやり
と見上げる矢口さんの横顔。私は声をかけた。夜中だからもちろん声は落として。

「てゆーかホントムカつくよ、オマエー‥」
つれない表情のまま振り返った矢口さんは、私を見て眉をひそめた。
「てゆうか傘は?」
無理もない。雨の中私は、ヤッケだけで歩いて来たのだから。目深に被ったフードの先から
滑り落ちた雨の雫が、目の前を2、3粒かすめた。前髪が、けっこう濡れちゃったな‥。

「へへ‥。持って来なかった‥。」
ポケットに入れた両手を出すことなく、私は笑って答えた。矢口さんはスニーカーだから、
いつもよりも視線が低い。
「馬鹿じゃないの?こんな雨の中‥。途中で買えばいいじゃん‥!お金持ってるくせに!」
「ふふ‥。」
「ふふ、じゃないよまったく‥。早く入んな!」
差している傘を頸でささえ、矢口さんは門を開ける。ぼうっと立っている私を振り返り、急かす
ように手招きする。
「ほんと。すみませんね。」
「ほんとだよ。今日けっこうイイカンジの男子とかいたんだから。」
なにさまだよオマエ、ぶつぶつ言いながらも帰って来てくれた矢口さんの好意が心に沁みた。
「ありがとうございます。」
「も、いーイから!早く入って!」

矢口さんは小さい。

ねえ、梨華。ママはね、結婚前。すごく、好きだった人がいたの。
高校が一緒でね。若かったから、私達は。出会ってすぐに恋に落ちたわ。

すごく格好いいの。会話もいかしてたから、彼は人気があった。
少し、キザで。ドジなの。でもそういうトコロも、魅力的なのよ?
女の子にも随分モテてたみたい。
ママと付き合うようになってからも、彼は手紙とか、よく貰ったりしていたわ。
疑ったママが、嫉妬して、怒っちゃって、困らせた事がたくさんあった。

でも、その度にね。彼は。不安で、泣いているママを、しっかり抱きしめてくれるの。
俺達は結婚するんだ、心配するな。って。

真顔で彼は言うんだけど、ママ、吹き出しちゃった。
だって。その頃はまだ高校生なのよ?
アツイ人なの。
ふふ。怒ってるのも忘れちゃうくらい。

毎日一緒にいたわ。
誕生日には必ずパーティーを開いてくれて。
旅行にも行ったの。
あの時買ってもらった指輪は、まだ持っているわ。

「今、よっすぃーから連絡があって。」
ひとみちゃんが出て行って、一時間ほどたったあと、矢口さんから電話が
ありました。私が受話器を取るなりそう言った矢口さんは、今、家に帰る
途中なのだそうです。
雨の中、傘も持たずひとみちゃんは一人で出て行ったから。寝ていなくて
フラフラなのは私と同じなのに‥。消息さえわからないままじゃ、眠れる
わけがないもの。心配していたところでした。

とりあえず今日は家に泊めるから。
そう言った矢口さんに、私は心からお礼を言いました。
「安心しました。矢口さん、教えてくれてありがとう‥。ひとみちゃんを
よろしくお願いします。とても疲れているんです。」
「大丈夫。梨華ちゃんも今日は眠って。何があったか知らないけど、あなたも
よっすぃーも、すごい声してる。」
私の声が、普段よりずっと掠れているからかしら‥。矢口さんは相変わらず
無愛想に言ったのですが、返ってそれが優しさを強調していました。
そう言えば、ひとみちゃんもほとんど声が出ていなかったわ‥。
心配しないで。
出がけに残した彼女の、明らかに力のこもらない口調を思い浮かべていました。

告白してしまいます。
私は彼、-----ひとみちゃんのお父さんであるという事が保田さんのおかげで最近解り
ました----、その存在を知っていました。随分小さかった頃、生きていた母がよく話
をしてくれましたし、綺麗な口紅を目当てにこっそりと開けた母の鏡台から、私は
彼らしき写真を数枚発見した事がありましたから。

古く小さな宝箱でした。若い頃の母の思い出。ほんの少しだけ色褪せた写真が、
おもちゃの銀の指輪と一緒に大切にしまわれていました。

少しだけ口を尖らせて、斜に構えたような視線。学生服。どの写真でも、必ず母の
脇に寄り添うその男性こそが、例の『彼』であると、私にはすぐ解りました。
『彼』について話す母と、写真の母の表情が、まるで恥じらっているみたい。全く
同じでした。圧倒的な幸福に、じっと耐えているような。ある種のかなしみさえも
換気させる微笑。

誰にも言ってはダメ。ママと梨華の秘密よ?
『彼』の事を話した後、決まって母は言ったんです。

香水と化粧品の大人びた匂い。
むせそうになりながらも私は、あまりに可憐な母と、強い目をした隣の少年に
いつまでも魅入っていました。
自分もいつの日か、こういうふうになるのか。
そう考えて、少し興奮しました。

それ程までに愛し合っていた吉澤さや造と、母・なつみが何故別れ、どのような
いきさつから、それまで私が父と思っていたあの人と結婚するに至ったのか、今と
なっては解らないし、調べることも出来ません。
ただ、私の記憶に残っているのは、父が(実際は疑問なのですが便宜上こう呼びます)
あたかも崇拝でもするように、母を愛していたという事。

父と母は、仲の良い夫婦でした。いつも微笑んでいる母と、頼もしくて威厳のある父。
私は常に羨望の目で見られていましたし、私自身、それを自慢に思っていました。
実際母が生きていた頃、彼は良い父親だったのです。忙しかったけれど、家族に対する
サービスのようなものに、彼は力を惜しみませんでした。

まだ父が、秘書だった頃。ついていた代議士の選挙を目前に控えた夏。

定例だから。
ひとことそう言った父は私達を海水浴に連れて行ってくれました。父の多忙さを
知っていて、遠慮した母と私の言葉など、一向に聞き入れず。
ギリギリまで父の仕事が入っていたので、私達が伊豆に着いた頃には、辺りは
すっかり暗くなってしまいました。着替えもせずにそのまま運転して来た父のワイシャツ。
背中と腕に皺がきつく寄っていた事を、今でもはっきり覚えています。

ルームサービスで夕食を済ませて、誰もいない夜の海岸。
私達は3人で、すいか割りをしました。
入り江の向こう側に時々上がる花火の煙が、こちらの浜まで微かに匂って来ていました。
堤防の内側にはみやげもの屋が、びっしりと、並んでいました。
極彩色のネオンが淡く届いて、夢のような色に、砂浜が染まっていました。

『彼』の事を母が、最後に私に語った時。私が小学校に上がったばかりの頃だったと
記憶しています。

「ほんとうは、もっと大きな秘密があるの。それは、あなたには辛い事かも知れない
けれど‥。でもママ、後悔はしていないの。あなたが大きくなったら、きっと話すわ。」

結局。その「もっと大きな秘密」を母の口から直接聞く日は、とうとう来ませんでした。
例えばそれが、私の出生にまつわる事と仮定します。
すると父が、少し不憫に思えました。

お前の母さんは俺を許してくれなかった、父は私にそう言いました。
だからと言って彼が私にした事を許すつもりなど毛頭ないんですけど。
それはともかく。
私が父の子ではないと父が知っていたとしても、あるいは逆に知らなかったとしても。
父が可哀想であることに、結果は、変わらないのです。

こういう言い方を自らするのは、とても、気が引けるんです。けれど、
過去の経験を通して私は、無理矢理体を求められること、つまりそのよう
な際に自分の感情をコントロールする術を、多少なりとも身につけている
つもりでした。人と体を合わせること、それまでの私にとっては、あまり
たいした事ではありませんでしたから。

それがどうしてか。ひとみちゃんとだけは嫌だった。ああいうかたちで、
関係を持ってしまう事‥。ひとみちゃんとだけは。
姉妹であるという事実(私はそれを真実であると考え始めています)が
あの時、ひとみちゃんを拒んだ私の行動に全く影響を及さなかったとい
えば、嘘になります。一人っ子の私は実際、兄弟というものに憧れてい
ましたから。
けれど、近親相姦に(ああなんてイヤな響き!)少なくとも私は免疫の
ようなものがありました。結局は殺してしまったのだけれど、私はあの
男との行為には、何度も耐えていられたんです。血の繋がりを信じている
という点において、ひとみちゃんとあの男、彼等の間に差は無いんです。

どうして。
あの男に無理矢理奪われるのは、ギリギリだけど、耐えていられた。
ひとみちゃんの時は、ほんの少しの時間も我慢することができなかった。

その違いは。

翌日、昼過ぎに目を覚ました私は、ひとみちゃんの姿を無意識に探して
いました。昨日出ていってしまったから、隣に寝ているはずなんてない
のに‥。そもそもあれ以来、私達は別々に眠っていたんだわ‥。今さら
のように思い出して、少し涙が流れました。
奥手なひとみちゃんだったから、私達は今まで、一緒に眠っても肌を合
わせることなどなかった‥。それこそあの事件以来、彼女はソファに寝
て、そして会話もろくにしていなかったけれど、ひとみちゃんが同じ部
屋にいる事が、どれだけ私を安心させていたか、ひとみちゃんには、
わかっていないんです。

「ハイ‥。」
けたたましく鳴った電話の受話器を、私は静かに取り上げました。バイ
トに行く身支度を沈んだ気持ちで整えている最中のことです。
「梨華ちゃん?調子は?」
落ち着いて、澄んだ口調。矢口さんでした。

「まあまあ、です‥。」
もしかすると、電話の主はひとみちゃんかも知れない、そう期待してい
たので、落胆が口調に現れてしまったのだと思います。
「その割には、元気のない声してるけどね。」
「そう‥、ですか?」
案の定矢口さんには、それが伝わってしまったようで、彼女には失礼な
ことをしてしまいました。

「あのね、よっすぃーが。今日はバイト休むって。」
矢口さんは言いにくそうに切り出します。
「梨華ちゃんに電話して欲しいって、頼まれちゃって‥。自分でしろっ
て言ったんだけど‥。いやー。」
私を気づかうように、揶揄を絡めつつ矢口さんはひとみちゃんを非難し
ます。けれど、私はそれに特には答えませんでした。
「ひとみちゃんは、今どこに‥?」
「あ、家にいるよ。ベッドで、布団かぶってる‥。」
「そう‥。矢口さんは、私達のコト‥。」
「うん、聞いた‥。まさか、姉妹だったなんて‥。なんて言ったらいい
のか‥。」

私達の間に立って、骨を折っていただいている矢口さん。私は丁寧にお
礼を言って電話を切り、そのままバイトへ向かいました。

私まで休んでしまったら、きっと、いけない‥。

私から逃げるようにしてバイトを休んだひとみちゃん‥。彼女の事を考
えて、辛くて、涙がまた滲みましたが、私は懸命に堪えました。バーへ
続く鉄の階段が、私のサンダルのヒールの足元をカンカンと追うように、
乾いた音をずっと、立て続けていました。

次の朝。海へ行く日。
なのに雨が、しとしとと降り続いていました。重たい雲をどんよりと冠
した近頃の空と同じよう。私の心もまた、暗く曇っているのです。

昨夜のバイト中、私の休憩時間を、まるで見計らったように携帯が鳴り
ました。矢口さんでした。
「明日、海、お昼頃迎えに行くから。ごめんね、梨華ちゃん、バイトの
後、あまり、眠れないけど‥。」
2人がこんな状況のまま、海なんかに出かけて行くのは、あまりにも
しらじらしく思えたのですが、楽しみにしてくれていた飯田さん、特に
ののちゃんの笑顔を思い出すと、断る事など出来ませんでした。もちろ
ん私だって、こんな事さえなければ、とても楽しみにしていたんです。

それにしても、こんな連絡の電話まで矢口さんにかけさせるなんて、
ひとみちゃんは‥。弱虫だわ‥。

そう思って、少しだけイライラしていたから、お昼を少し回ってひとみ
ちゃんが私を迎えに現れたとき、その場に矢口さんがいるにも関わらず、
私は気持ちを表情に出してしまいました。
ひとみちゃんと出会ってから、私はどんどんおかしくなって来ている様
です。以前はもっと辛い事でも、誰に気付かれることなく、隠し通して
いられた。それなのに、今は。

動揺した表情。そんな私の前に立ち、ひとみちゃんは弱々しく、目を伏
せて笑いました。
「こんにちは‥。」
横を向いた彼女が投げやりに呟いた挨拶。ぎこちなくかざされた右の手
の平に、なんだか乗り越え難い壁を感じて、私は答える事ができません
でした。

「早く行かないと、あの2人が暴れ出すから」
私達の空気を敏感に感じとった矢口さんは、まるで、救いの手を差し出
すように明るく、可愛らしい声を出しました。
「梨華ちゃんは、準備いい?」
私は軽く頷きました。

その後私達は、病院で飯田さんとののちゃんを拾って、まっすぐ海へと
向かいました。気を遣った矢口さんは、戸惑う私を助手席へ乗せてくれ
ましたが、私の心は晴れる事がありません。こんな気持ちでひとみちゃ
んの助手席に座ったって、嬉しいはずがないもの。後部座席の方が気楽
だったわ。気付かれないようひとみちゃんを伺ってみると、ひとみちゃ
んは無表情に、ただ前方を見つめていました。

最悪の雰囲気、ともすれば皆が黙り込んでしまいそうな車内を、飯田さ
んはなんとか和ませようと、いろいろ話題を提供してくれました。盛り
上がるよう気を遣って、あれこれ話し掛ける飯田さんに、ハンドルを握
るひとみちゃんは、とてもにこやかに笑って、普段通りに答えていまし
た。さっきまでの、私と矢口さんと3人でいた時までの様子が、まるで
嘘のよう。

その笑顔が、本当にいつもの彼女のものとほとんど変わらなかったので、
なんだか私は悔しくなって、負けじと笑うようにしました。なによ、私
の方が気持ちを隠すの上手いんだから。あなたがそういう態度をとるな
ら、私だって負けないわ。そういう気持ちでした。

雨の海岸は、少し肌寒くて。私は上着をもう一枚持って来なかったこと
を後悔しました。仲良さそうに手を繋いで、波打ち際へと走って行って
しまった飯田さんとののちゃん。少し離れた場所をブラブラと歩く矢口
さん。
「寒い‥。」
彼女たちの後ろ姿を目で追いながら無意識に両腕をさすった私の横を、
ひとみちゃんがあっさりと、追い抜いて行きました。すれ違いざま、無
言で、自分の上着を私に渡して。突然の事だったから、私はお礼も言え
なかった。

見る間にひとみちゃんは矢口さんに追い付き、並んで歩きながら談笑を
始めました。
「関係ないよ!」
そう言ったくせに、あんな風に私を襲ったりして、姉妹うんぬんを気に
していたのは、いつだってひとみちゃんの方。勝手に出て行って、傷付
いたふりをして、こんなふうに優しくされたって、どうしていいかわか
らないよ。

随分長い間、遊んで、疲れて、そろそろ帰ると思っていたから、ひとみ
ちゃんがピストルを出した時、私は本当に驚いたんです。
撃ちたいだなんて、この人、何を考えているの?
安倍さんに貰った改造銃。ひとみちゃんが今日持って来ている事を、私
は知りませんでした。私を迎えに部屋まで来た時に、クローゼットから
取り出したのでしょうか。

矢口さんは知っていたみたいでした。けれど、さすがの矢口さんもピス
トルを発射する事に、何か、抵抗のような物を感じているようでした。
そう、銃なんて、ライセンスのない私達は、所持、ただそれだけで既に
犯罪なんです。ましてや人を殺傷するためだけに、基本的には存在する
凶器。矢口さんの手は、震えていました。

結局、飯田さんの一言で撃つ事が決まって、私達は車外へ出ました。雨
はその時上がっていたけれど、暗くなっていたし、風がでて、気温が下
がっていました。カオリ部長の指揮の元、矢口さんとひとみちゃんが
セッティングを始め、その間私とののちゃんは飯田さんの横に立たされ
ていました。

しばらく経って、私達が充分離れている事を確認したひとみちゃんが、
岩の上に、きれいに並んだ空き缶から、少し離れた場所に立ち、一度
私達を振り返ってから、静かに銃を構えました。両腕を突き出して、
右の頬をこころもち、その肩に押し付けるように、顎を引き狙いを
定めるひとみちゃんは、少しだけ素敵でした。
このまま、連れ去ってくれたら‥。

迷い無く引き金を引いた彼女の弾丸で、アルミの缶がひとつだけ吹き
飛び、飯田さんが悲鳴を上げ、矢口さんが息を呑む間、要領を得たひ
とみちゃんは、もう一度撃って、その弾も、命中させました。ずっと
私の腕を握っていたののちゃんの手には固い力が込められていて、
まるで喘いでいるみたいに、息で肩を弾ませていました。

飯田さんが撃ち終わって、ののちゃんが撃ち終わって、そうしたら
「石川も撃ってみたら?」
って、飯田さんに言われました。人ひとり、殺しちゃってる私が言う
のも、なんだかおかしな話ですけど、私はやっぱり怖くって、
「いいです。」
って、断ったんです。
「滅多にない機会だから」
とか、
「やっておいた方がいいよ」
とか、飯田さんや矢口さんに勧められている私を、ひとみちゃんが向
こうから見ていました。

撃ち終わってまだぼんやりとしている、ののちゃんの薄い肩。そこに、
休めるようにひとみちゃんは手を置いて、相変わらずためらっている
私の様子をしばらく見つめていました。飯田さん矢口さんの間で、私は
彼女の視線にも気がついていたけれど、なんとなく気が引けて目は合わせ
ませんでした。

「なかなか。気分がいいから」
「やっておいた方がいいと思うけど?」
2人のそういう言葉に、私が口籠っていた時です。

怖いの?

挑むみたいな声が、耳に届きました。

私がハッとして、視線を上げた先。腰に手をあてたひとみちゃんが、首を
少し傾けて、なんだか色の薄い瞳で、私を見下ろしているのでした。

冷淡な表情。尊大な態度。
どういった理由から、彼女がそうして見せたのか、後日私は尋ねましたが、
ひとみちゃん自身にも、はっきりとはわからないそうです。
「なんとなく。」
そう言って普通に笑っていました。

もちろん私は頭に血が昇ってしまいました。
もともと。負けず嫌いなんです。

怖い?ですって?アンタねー。
散々逃げ回っといて、その顔は、ナニ!?
どうしてそんな態度とれるの!?

私の頬が、みるみる紅潮したので、飯田さん達は言葉を失くしていました。

込み上げる気持ちに、わなわなと私は震えていたから、自分のワンピース
のピンク色の裾が、視線の片隅であたかも同調するように、かすかに揺れて
いるのがはっきりとわかりました。

「じゃあ、撃つ。」
一度、目を閉じてから答えた私。
「一応、肩、抑えてるから。」
故意に事務的に発せられた言葉。

砂の上をずんずんと、ひとみちゃんに向かって歩き出した時から、恐怖
なんてもうなくなっていました。なのに、涙が出そうなのは、なぜなん
だろう?
拳銃なんて構えてる、異常な事態だから?
それとも、肩から伝わる、ひとみちゃんの手の温度?

よくはわからなかったけれど、とにかくがんじがらめのストレスから、
私は早く逃げたいと思っていました。
小さく見える空き缶がいくつか、正面には並んでいるんです。
ホラ。私が躊躇しているから、滲むみたいに、ダブって見える。
まるで笑っているみたいに。
少し腹が立った私は、それらを引き裂こうと思って、引き金を引きました。

進むしかもう‥、ないよねウチら。
瞬間、耳許で囁かれた言葉を、私は忘れないと思います。

銃を撃った衝撃、それ自体はそんなに大したものではありませんでした。
それなのに私は、足から力が抜けてしまって、砂の上にへなへなと座り
こんでしまった‥。ワンピースに砂がついてしまうけれど、その時は
気になりませんでした。

強くなった風が、雲を散らしたからでしょうか。砂浜にはいつの間にか
明るい月が出ていました。呼吸が整ったところで見上げたひとみちゃん
の顔は、影になってよく見えなかった。ただ、差し出された手に、私は
つかまりました。

立ち上がった私のワンピースの裾を叩いて、砂を、ひとみちゃんが
払ってくれました。飯田さん達が向こうから見ていたけれど、私はもう
気にしていません。
「そんな事とっくに知ってた。好き。」
そう言った私に、ひとみちゃんは白い歯を覗かせました。風が逆向きに
吹いていたから、皆にはきっと、聞こえていないよね。

「今度マジ、手料理でもごちそうすっから。」
病院の玄関の手前で2人を下ろした時に、飯田さんはにこにこと笑いなが
ら言いました。道すがら矢口さんは先に、家に降していました。帰り道、
食事に寄った国道沿いのファミレスは、あまりおいしくなかったんです。
口なおしのつもりなのか、ののちゃんはさっきからずっと、飴をなめ続けて
いました。

「本当ですか?うれしい!」
ひとみちゃんは言います。心からの素朴な、柔らかな笑顔に戻って。
「また、連絡してよ。つうかカオリからも電話するし。」
「もちろん。また遊んでくださいね。ののたんも。」

上目遣いのののちゃんが口の中で飴を噛み、小気味のよい音がカリカリと
漏れました。
「ちょっと、遅くなっちゃったから。怒られちゃうかもね。」
そう言った飯田さんはののちゃんの手を取って、ガラスの入り口へと歩き出し
ました。
「ありがとう、今日は楽しかった。」
2人して、何度も振り返りながら。
私達は非常灯の、緑色の明かりに浮かぶ2人の姿が、やがて見えなくなっ
てしまうまで、いつまでも見送っていました。

2人きりになって、家に向かう車中、私達はあまり話をしませんでした。
タイヤが回転する音と、ウインカーの、時々カチカチ言う音。無機的なくせに
心が落ち着くそれらのリズムに、私は耳を澄ませていました。

部屋に帰った私達は、ソファにしばらく座っていました。とりたてて何か、
するわけでもありません。何か話をするわけでもありません。さっきいれた
コーヒーが、どんどん冷たくなってゆく。ひとみちゃんはずっと、黙っています。
そのくせ私の手を、握ったまま離さないから、すごくドキドキしていました。

ひとみちゃんの手にだんだん力が入ってきたから、
「いよいよ、かな。」
って、私は思ったけど。
不思議なくらい、心臓が音を立てて、ひとみちゃんに届いてしまいそう。とても
恥ずかしかった事を今でも覚えています。

重圧に耐えかねた私がソファから立ち上がりかけた瞬間(理由はコーヒーを
いれなおすとでも言おうと思っていました)、ずっと下を向いたまま微動だに
しなかったひとみちゃんが、急に私へ向き直りました。
「りかっち‥、」
そう言って私の肩を掴むんです。
(来る‥!)
「な、なに?ひとみちゃん」
彼女の視線がまっすぐだったから、返事をする私の声も、思わず上ずって
しまったんです。

そうしたら、いきなり。
「私のこと、とみこって呼んでいいよ?」
「え?」
ワケがわからなくて、私は固まってしまいました。
「なんつって。」
冗談なのか真剣なのか、よくわからない顔をしたひとみちゃん。
どうしていいかわからないチャーミー‥。

すると、ひとみちゃんは、突然両手に力を込め、つよく私を抱き締めました。
「今さらだよね‥。」
「うん‥。」
私は、すごく驚いていたけれど、ひとみちゃんが何を言っているのか、すぐに
わかった。
「姉妹だって何だって、今さら関係ないわ。ここまで‥。来ちゃったんだもん‥。」

私がそう言うとひとみちゃんはとても嬉しそうな顔をして、目と耳と口に、順番に
キスをしました。

ひとみちゃんはそれ程、キスが上手いってワケじゃないけど。私はとても敏感に
なってしまって。
「あ‥。」
唇が、首筋を通った瞬間、私は声を出してしまいました。
なんだか、小指の先が、ピリピリと、甘く痺れる感じ‥。
これが‥、愛?
「ちょっ‥と、待‥って‥。」
だって今日、海で遊んで来たんです。シャワーを浴びなければ、いや‥。

しぶしぶ、私から体を離したひとみちゃんは、
「一緒に入ろうか?」
なんて、余裕ぶって言ったけど。
「‥そうする?」
って、私がわざと言ってみたら、急に照れちゃって。
「ウソ。ま、まだムリ。」
赤くなった顔を、凄い速さで振ったりするんです。
おかしい。気が弱くて‥、ふふ。

おかげさまで、無事、私達は結ばれました。
「いつまで、一緒にいることが出来るのかしら‥。」
なぜか私の腕に頭を預け、ぐっすりと眠るひとみちゃん。規則正しい寝息を
首筋のあたりに感じながら、そんな事を考えていました。
見上げた窓の向こうには、綺麗に月が見えています。

するとひとみちゃんが、苦しそうに息をつきました。
ウンウンと、首を捩るひとみちゃん。
私の胸に顔を埋めて眠っているのに‥、うなされてる‥。
複雑な気持ちで見守っていると、やがて歯ぎしりをしながら
「だ‥、や‥す‥。」
そう、何度か繰り返すんです。
「保田さん‥?何‥?」
私はそう思ったけれど、そろそろ眠かったんです。
ひとみちゃんの髪を撫でているうちに、いつの間にか眠ってしまいました。

以下、続く