薄暗い部屋で加護亜依の視線はずっとテレビのスクリーンへ向けられている。
奇妙な部屋だった。大きなサッシ窓のある部屋の西側を除いた三方の壁の壁紙
には、空や山脈や河川といった雄大でパノラマ的な光景が全面にプリントされ
ている。
部屋は広く、加護亜依の点したテレビ音声以外には閑散としていて、音といえ
ば他にはビル自体の空調設備が低く静かに唸っているくらい。部屋の中央より
もやや壁によったかたちで大きなグランドピアノがあって、今は蓋が閉じられ
ている。
「あのピアノは‥誰が?」
照明の点されない部屋で、テレビの光源のために逆光となった加護亜依の背中
に私が声をかけると、加護亜依は首を振って
「誰も弾きません。」
と、無関心な声で答えた。
依然としてテレビに夢中で、私のほうは振り向かない。
加護亜依は一本のビデオテープを繰り返し流していた。昨日今日のワイドショ
ーのほか最近の真希ちゃんのテレビ出演部分、細かなところまで全部。彼女の
曲も数曲含んだ内容でそのテープは構成されている。それらはテレビ放送から
録画されたものらしいが、CMなどは全てカットされていた。
全長一時間弱のビデオを加護亜依が何度も巻き戻してはずっと流し続けてい
たおかげで、私はあの気に入らない男の言葉をも正確に覚えることができた。
後藤真希本人に関する欺瞞をここで徹底的に検証して帰りたいと思っていま
す。今のところはまだグレーだが、そもそも彼女には黒い噂もピンクの噂も、
それこそ掃いて捨てる程あるんだ。シロであろうとクロであろうとこの際はっ
きりさせた方が彼女のためにも良いと思いますよ。
数時間ほど前、男達に追い詰められて窮地に陥っていた私たちの目の前に加護
亜依は舞い降りた。
「ここでお財布おとしちゃったんですぅ〜。」
とかなんとか、そんな嬌声を上げながら背後に本物(少なくとも私はそうだと
信じた)の制服警官を引き連れてバタバタと階段を下ってきた。
その時まさにE8という文字の前で緊迫していた梨華と私と男達は、その直前
に聞こえた「おまわりさん、おまわりさん」と言う声に一瞬動揺して、まるで
弾かれでもしたような勢いで、揃って右上方にある踊り場を見上げたのだった。
上階へ続く踊り場の角からまず最初に現れたのが、まともな神経ではとても履
いていられないような黄色いミニスカート――ピンクのカツラと共にそれが
ステージ衣装だったのだと、後に私たちは知ることになる――に身を包んだ加
護亜依。
都合の良い救いなどまやかしだったのだと自分に言い聞かせた矢先の出来事
だったから、ぴらぴらした黄色い布地が目に入っても、何が起こっているのか
瞬時にはわからなかった。人が来たというのに私は、男達に向けて構えた拳銃
を隠すことすら忘れていた。本当に吃驚していたのだ。私の服の肩のあたりを
後ろからぎゅっと掴んでいた梨華はもちろん、正面の男達でさえも、重たい空
気を切り裂き現れたアニメのヒロインのようないでたちの加護亜依に、私同様、
目を奪われていた。
私たちから見て上の、加護亜依が立つ踊り場と、私達がいるフロア、その2点
間をつなぐ階段に派手な靴で一歩踏み出す前に、加護は一瞬だけ、本当に一瞬
の間だけ動きを止めた。感情の読み取りづらい、ついさっき聞こえた伸びやか
な嬌声とはまったく裏腹でずいぶん日常的な目をして、4,5メートル上方か
ら私達を一度見たのだ。やがて、
「この辺やったとおもうんですよぅ〜。」
と、また素っ頓狂な声で叫びながらすぐに段差を下りだしたが、けれどもその
ごく普通の視線が、今度は私のみを向いていた。
その後すぐ、もたついた足音を響かせ茶色い革靴と紺色の制服が踊り場の手す
り越しに複数現れたのだけれど、彼ら制服警官たちの姿が完全に露出する前に、
私は拳銃をカバンにほうりこんでいた。それまで放心しきっていた私だったけ
れども、加護亜依に見つめられたことによって我にかえる事ができたのだ。
私たちを追い回していた男達はいつの間にか姿を消していた。本当のことをい
うと私達はその時、奇妙な格好をした加護が期待をした救いの舟であると、ま
だはっきりわかっているわけではなかった。目の前を大げさな身振りでちょこ
まか動き回る少女と、律儀にもそのあとをいちいちついてまわる人のよさそう
な警官2人を只、梨華とともに見守るばかりのありさまだった。
「ん〜?」とか「お〜い。」とか、さながらそのいでたちにぴったりとはまっ
たメルヘンチックな口調でガランとした踊り場をまるで蝶でも追うようにふ
らふらと歩き回った加護亜依だったけれど、やがてしばらくするとふいに立ち
止まって
「あれ〜?」
と、舌足らずな声をだす。スカートの中に手を入れ、ポケットでもついている
のか、ちらちらと見え隠れするアンダーショーツの尻のあたりをそれから探る。
「あー。ありましたよぅー。こんなところにいぃ〜。」
ややはにかむようにしてピンク色の小銭入れを取り出してみせた加護亜依に、
2人の警察官は口をあんぐりと開けた。
それでもにこにこしながら
「よかったなあ。」
などとばからしい言葉を加護亜依にかけて、警官達2人はにこにこしながら去
っていった。それをへらへら笑いながら見送った加護亜依は残された私たちを
チラリと一度だけ見てから
「5ひゃくおくせんまんおくえんになります。」
と、ひどくでたらめな事を言った。
加護亜依に連れられデパートを脱出した私たちはすぐに車に乗せられた。私と
梨華と加護亜依を乗せたワンボックスカーは夕暮れの首都をぐるぐる走り、や
がて新開発地区にそびえる真新しいマンションの前で停まった。
長旅を終えた川が湾にそそぐ河口付近だ。その沿岸の埋め立て地に立てられた
高層マンションの最上階、もしくはその付近のフロアを多く占めると思われる
広いこの奇妙な部屋には、ソファや椅子はおろかクッション座布団等といった
応接設備めいたものが何ひとつ置かれてない。固くて毛足の短かいカーペット
のようなものが、床一面に敷き詰められている。
それにしても。グランドピアノの蓋に刻まれた白く小さな紋章が私の目を捕ら
えて離さないのだった。
私がさまざまなことを考えていると、依然として画面に見入る加護亜依の背中
に、梨華が立ち上がって声をかけた。
「ここは‥、あなたは、G教とは‥、」
梨華も気付いていたらしい。画面に夢中で反応を返さない加護亜依に近づいて
ゆく途中で、ピアノの紋章に指を這わせた。
「このロゴ‥、シンボルよね‥。教団の‥。」
不恰好な白いハンマーを逆さにしたような、あまりに有名なマーク。
「真希ちゃん、かわいいね。」
やがてピアノを通過した梨華は、そう白々しい口調で言って加護亜依の脇に並
んで座った。頷いた加護亜依と梨華の、画面の光に照らし出された2つの青白
いシルエットに向かって、私もゆっくり腰を上げた。
「加護亜依ちゃん‥。何て呼べばいいのかな、そう名乗っていたけど‥。」
近づく私に加護亜依は答えない。ビデオテープの青白い光源に私の瞳孔が反応
し、ゆっくりと縮んでゆくさまをひどくはっきりと自覚した。
「1。広すぎる部屋、ヘンな壁紙!個人が所有しているとは考えにくい。それ
か加護さんは、相当なお金持ちのなのか。2。そこにあるピアノ。とても立派。
しかもG教のシンボル入り。こんなモノ‥、関係者以外持ってる?3。真希ち
ゃんのビデオ。繰り返し見ている。よっぽどのファンなのか、それとも。」
演説めいた口調で私がそう切り出すと加護亜依は突然立ち上がり、画面を目で
追ったまま左右に身体を動かし始めた。真希ちゃんが出演したこのあいだの歌
番組に、ビデオの画面が切り替わったのだ。視線のみ画面に固定したままで、
無心に加護亜依は振り付けを追いかける。黄色いスカートを履いたまま、リモ
コンを手に握ったまま。
「ちょっと加護さん!」
無軌道な加護亜依に私は焦れていた。私の中にある一種複雑な期待感を、知っ
てか知らずか絶妙に加護亜依は煽る。結論を急いだ私の声は自然と大きいもの
になった。それは誰も責めまい。床に座った梨華はひとり、加護亜依と私のや
りとりを見つめ、ひそやかに息を呑んでいる。
「ここ!教団本部!?あなた信者!?」
ちょっとの間続いた根比べのようなものに、私は先に耐え切れなくなった。マ
イクに見立てたリモコンを依然揺らし続ける加護亜依に私が不様にも足を踏
み出し、そう言い募った時だ。パチリという何かが爆ぜる音と共に、辺りが急
に明るくなった。
心臓が飛び出そうだった。と、言うのは決して大げさじゃない。突然襲った夥
しい外的変化に私の体は取り残され、明るくなった部屋で私は数秒の盲目状態
に陥った。晧晧と明るい光線はまるで水でも浴びせかけられたような感覚。痛
む目。梨華も、そして加護亜依でさえもきっとそう。
保守的な神経が覚える生理的な不快。けれど私は胸を弾ませていた。それまで
の不安や焦燥、更には努めて抑圧していた期待までをも全て帰結させる声を、
白みながらも再び現れはじめる色彩の中で私は聞いたからだ。
「その、どちらでもないよ。」
甘味があるのに、どうしてか落ち着いて聞こえる声。根底に冷たく、暗い川が
流れているような‥。
なかなか正常に機能しない視覚で、私は必死に目を凝らした。やがてぼやけて
現れた輪郭に、天と地が逆になる程の驚愕を覚える。
(真希ちゃん‥、まさか‥!!)
声など当然発することもできずに、ひたすら入り口に目を凝らす。白い靄が去
ると共に、驚愕が確信へ変わった。
(会えるなんて‥思ってなかった‥。)
後藤真希。まさしくそう。これは夢?
むしろ全てが夢‥?
薄暗かった部屋から、まるで真昼のように照らし出された部屋で、私達
二人は動けなかった。四方を囲む壁紙の風景画は白日にさらされたせい
でメルヘンな色合いをより強めた。
後藤真希の登場はもともとそういった習性のある私ばかりか、フロアに
座った梨華でさえをも、その唇を薄く、呆けたように開かせる力を持っ
ている。
「暗いところでテレビ見ちゃダメだよ。いつもそう言ってるのに。」
反動をつけた後藤真希は、引き戸式の目立たぬドアから、凭れていた身
体を離した。加護亜依は加護亜依でそういった真希ちゃんの小言めいた
モノには慣れているらしくて、私と梨華の気付かぬ間にビデオの再生を
中止していた。
「目、本当に悪くなっても知らないよ。」
などとさらに呟きながら真希ちゃんは近付き、やがてピアノを回って、
やや梨華から距離を置いた場所に、手を静かについて腰を下ろした。
「この子、役に立ったでしょう? 加護亜依。」
私は立ち尽くしたまま、頷く事で精一杯。
普段、私の方が梨華より、いくらか活動的ではあるのだった。けれども、
いざという時の覚悟や決断を、常に梨華は私よりも早く決めた。私はそ
の事柄について多少の引け目を梨華に感じ、時々内省したりもするもの
だけれど、この時もやはり、梨華の方が早かった。梨華は、懸命に動揺
を振り切って、その生真面目な瞳を数度瞬いた。
「電話‥。保田さんのくれた番号は‥、あなたの‥?」
「うん‥。ふふ。そうだね。」
勇敢な梨華の、高くて、多少うわずった声に、真希ちゃんはやさしく微
笑んでみせて、それから少し照れたみたいにおどけて頭を揺すった。
カリスマはテレビで見るよりずっと親切で、テレビの中と同じように、
やはりどこかはかなげだ。そういう印象を受けた。
その後、加護亜依がどこからか果物を運んできて、私達はそれを食べた。
4分割された高そうなメロンをそろそろ食べ終える頃には、私の動悸息切
れもだいぶおさまってはいた。けれども、大好きな真希ちゃんを前にどう
しても保守的になってしまって、最初、私はあまり喋れなかった。
「『シャイだね。』って思ったよ。」
仲良くなった後、真希ちゃんはそう言った。梨華はそんな私をよく理解し
てくれているから、いつもよりたくさん、私のぶんまで真希ちゃんに話し
掛けた。
正面では加護亜依が不真面目に、そしてさも楽しそうにメロンをほじくり
かえしている。加護亜依の皿の縁には、水っぽい果肉が律儀に整頓されて
ゆく。それを見つめながらも私の耳は、耳だけは梨華と真希ちゃんの会話
へと細心の注意を持って傾けられていた。
「あの携帯はあまり、人には教えてないから、鳴った時は『誰だろう?』
って思ったけど。」
「じゃあ、電話で、ひとみちゃんと話したのも‥、」
「わたし。」
「え‥。ちょっとひとみちゃん、気付きなさいよ!」
「だって‥。切羽詰まってたし‥。普通‥、真希ちゃんの番号だなんて‥、
思う? ましてやあの保田さんに貰った番号だよ。」
(どぎまぎしながら話す私が不器用な声で『真希ちゃん』と口にした時、
真希ちゃんは一度柔和に笑い、その後、『あの、保田さん』というとこ
ろで、今度は声を立てて笑った。)
「アノ保田さん?あはは!圭ちゃんは今、何してるの?」
「南米に‥、行っていると思います‥。」
保田さんとの別れを思い出し、私は真剣に答えた。梨華も感慨深気に頷い
た。
「南米!?マジ!?」
真希ちゃんは、とてもおもしろそうに笑う。
私達が知る保田さんの全てを梨華が的確に時間をかけて話し、驚いたり笑っ
たりする真希ちゃんに向かって、小咄的な合いの手を私がときどき挟んだ。
真希ちゃんは終始笑みを浮かべ、私達の話す保田さんの奔放な振舞いに笑
い涙を時折拭ったりした。それら真希ちゃんの好意的な態度にはもしかし
たら社交辞令的な意味合いもあったのかもしれないのだけれど、私は嬉し
かった。私達の話に後藤真希が共感してくれた。少なくともそんな素振り
を見せてくれた。
大尊敬な真希ちゃんの思いがけずに庶民的な様子は、私達をすっかり饒舌
にさせた(後藤真希は意外にも聞き上手だった!)。すっかり警戒心を解
いた私はこれまでの旅路の全て-----桜の下に埋まった死体や今日人を撃っ
た事、それについて私が全く罪悪感を抱いていない事、等-----を話して
みたくなったけれども、やはりやめた。私のヒーローは私に無関心でなく
てはいけない、絶対。だから保田さんに関連する部分だけ、できるかぎり
おもしろおかしく話した。
「姉妹だってわかった時はー。本当にびっくりしたよねー?お互い。」
「うん。私、辛い覚悟しちゃったよ。『ひとみちゃんと別れても、強く
生きていきます。』って。でも、お金は私が貰うけどね。えへ。」
「エ!うーん‥。ひっでえなー。コ〜イツゥ〜。」
「いや〜ん。」
「あは。やめなよ。人前でみっともないよ。けど、姉妹なのに、付き合っ
てるんだね〜。なんつうか、すんげえなー。」
「圭ちゃんも、大変なコトしたね。圭ちゃん自身も、ビビったろうね。ま
さか姉妹だったとはさー。思ってなかったと思うよー。」
「ええ。そう言ってたわ。」
梨華はもう敬語を使ってなかった。もちろん私も。
ふとした拍子に眺めると、正面の加護はもうメロンに飽きて、今度は巨峰
ぶどうの皮をひとつひとつ丁寧に剥き始めている。
「真希ちゃんと保田さんて、どういう知り合いなの?」
その黒ずんだ光の玉がまたしても順序よく並べられてゆく加護亜依の皿に
痛快ささえ感じながら、私は尋ねた。
「うーん‥。」
と唸った真希ちゃんは目を細くして笑い、ほんの少し考えた後、ゆっくり
と答える。
「昔の、仲間。一緒に修行したんだ。圭ちゃんには、ほんとうに、力があった。」
「チカラ!?」
この時、梨華の高い声と私の低い声がちょうど良く重なって、絶妙なハーモ
ニーを成した。
「修行ってなんの!?」
今度はためらいのない私が(梨華よりも素早く)聞くと、後藤真希は更に笑う。
その頭上にはもしかしたら、天使の輪でも光っているのだろうと思った。
「教祖の!!圭ちゃんて昔、G教にいたんだよ!?知ってた〜〜!?」
「もっとも、その頃はまだ、G教っていう名前じゃなかったんだけどね。
ウチら。」
と、言う後藤真希に、私と梨華は顔を見合わせた。加護亜依も昔の、自分
の知らないG教の話に興味をひかれたのか、黒目の多い輝く瞳でこちらを見
ていた。
「保田さん‥。なんつうか、すんげえなー!」
梨華も真希ちゃんも、おまけに保田さんを知らないはずの加護亜依までもが
大爆笑していたが、やがて調子にのった加護が自分の皿のフルーツ、細かく
刻んだメロンと綺麗に剥いた巨峰数粒を部屋の隅にあるゴミ箱に捨てた。
「お前フザケンなよ!!」
と、上機嫌に叫んだ真希ちゃんの一言で、夜も遅いし、お開きになった。真希
ちゃんの腕に存在する点々とした注射痕に私も梨華も気付いていた。けれど、
見ない振りをした。
鉄筋コンクリートでできた巨大かつ高層なる建築物の中に、なかばむりやり和
の空間をしつらえようとする時、有機と無機が混ざり合って部屋は特有の化学
臭をもつ。
「ここに居ていいよ?」
と、ひとなつこく後藤真希が言って、直後加護亜依により通されたのは、同じ
建物の階下にある、そういったこぎれいな和室だった。広くはないが狭くもな
い。きれいな畳と新しい床の間。私達が入った時、既にやわらかそうな布団が
2組、きちんと揃って敷かれていた。
翌朝、慣れない布団の清潔な違和感に薄く目を開くと、梨華はまだ隣の布団で
健やかな寝息を立てていた。午前特有の硬い日ざしが窓の障子を通過して、青
い透明なシートになって、私達を静粛に包んでいる。
(ここは‥、)
くだんの人工的な匂いのせいか。正体のわからない昂揚を覚えて、私はとりあ
えず身を起こした。
(そうだ、G教だ‥。ああ、G教なのかな、ココ。それとも、真希ちゃん個人の
家かしら。)
衝動的に立ち上がって、理由もないまま障子をあけると、腐った湾と埋め立て
地が、眼下に清々しく広がった。
「う‥、ん。」
と、背後で小さく呻いたのは、物憂げに眉をひそめた梨華。差し込む太陽を嫌が
って、たった今ひそかに寝返りをうった。いまさらこんなの随分見慣れていたけ
れどいかんせん環境が新鮮だったので、私は普段よりもときめいてしまった。
これから何が起こるんだろうか。
真希ちゃんと仲良くなれるかな。
しばらくして梨華も起きたが、勝手の知らない場所で私達は、とりあえず何をし
て良いかわからなかった。障子を閉めた私は再び布団の上へと移動し、昨夜用意
されてあった木綿のパジャマを着たまま、梨華と2人何をするでもなく、手持ち
無沙汰にしていた。
すると、突然ドアがノックされて、こちら側のふすまが開いた。
「朝食の用意ができています。それともシャワーを、お使いになりますか。」
突如として出現した中年のふくよかな女性は白い上下を着ていた。その生地の
ガサガサとした具合が、なんとなく医者の術衣を連想させた。
ああここは、真希ちゃんと加護以外にも人がすんでいるんだな‥。と、私が妙
に納得していると、梨華が遠慮がちに口を開く。
「あの‥。」
敷き居の向こうに座ったまま女性は静かに頷いた。
「お風呂は、昨日いただいたので、今は、けっこうです‥。でもちょっと、身だ
しなみを整えたいので、できればドライヤーなんかを‥、お借り出来ないでしょ
うか‥。」
「では先に、洗面所のほうへご案内します。」
中年の女性はいかにも善良らしく、前歯を見せず微笑んだ。
ここにいる間ほぼ毎朝私達はこうして食事を告げられたが、当番制でもあるのだ
ろうか、呼びに来る女性は毎回違った。彼女たちは皆一様に親切で、落ち着き払っ
ていて、言葉少なだった。例えばトイレがどこにあるとか、豪華な風呂や洗面所は、
備品も含めて自由に使って良いとか、必要なことは懇切丁寧に教えてくれたけれど
も、何か特別な基準でもあるのか、意外と些細な質問がそれとなく受け流されたり
した。
新都心の凡庸な高級マンションと見えるこの建物は、本部ではないがやはり教団の
所有で、主には教祖の居住区と、その他に信仰者用の集会スペースがあるという。
ここにいる人々は皆出家信者で、側仕えというわけで随分高位の者たち。加護亜依
は正確には信者ではなく、主にその集客性を、要するに次期資金源として素質を買
われた一人らしい。従って教団内部での地位は低いが、どう取り入ったのか(とは
あくまでもその女性の言葉)真希ちゃん本人が大変加護を気に入っているため、特別
近くに接する事を周囲から許されている。
私達の質問にじつに淡々と答えた女性は、私達が食事を取る間に、どこかへ消え
てしまった。そして誰もいなくなった静まり返った食堂で、おいしく食事をいた
だいたが、食後、どこへ食器をさげてよいのかわからなかったので、テーブルの
上をそのままにして出ていったら、約30分後には、それらがきれいに片付いて
いた。トイレに行こうと再び食堂の前を通り過ぎ、そのピカピカに磨きあげられ
たテーブルを私は見たわけだが、なんだか、とても恐縮した。食べた食器は自分
で、といった習慣がしばらくの2人暮しでは当然だったからだ。
けれども、そもそも真希ちゃんと加護以外の信者と遭遇すること自体、朝の通例を
除けば私達には稀で、建物内は常に、ちょっと神経質なくらい綺麗に掃除されてい
て、確実に、それも大人数の気配があるのに、どの部屋あるいはどの通路も、私と
梨華が存在するかぎり、全くがらんとしていた。
これら顔のない群集といい、私達が毎朝早く起きようが遅く起きようがまるで監視
でもしているように絶妙のタイミングでふすまを開ける日替わりの女性信者達とい
い、メディアでの報道のされ方や教祖自身のパブリックイメージに反して、随分規
律だった組織のようだと私は思ったけれども、同時にこれまでの人生で全く馴染み
のなかったカルトという特殊な集団を、改めて意識せずにはいられなかった。
そして他でもない後藤真希こそがこの集団の教祖だということも。
あるいはある程度どこからか監視されていたのかも知れないが、私と梨華はほぼ
自由に施設内を動くことができた。もちろん特別に施錠された部屋もあるから、
完全にフリーというわけではないけれども。しかし私達はそれら教団の秘密のよう
なものに全く関心がなかったし、且つ敢えて距離を置いた。大量の少年少女を末端
の信者として有し、そして真希ちゃんを最高位に据えた集団だとしても、やはり好
んで踏み入れたくはなかった。
真希ちゃんと加護は朝から不在だった。私達は朝食後、あてがわれた和室でしばら
く過ごしたが、やがて昼間の和室がもつ独特の閉息感に耐えきれなくなり、携帯を
持って階段を上った。昨晩感じた通り、最上階はパノラマ壁紙の部屋でほとんどの
面積が閉められていた。
広大な部屋に2人きりは確かに心細かったけれど、思えばこの二日間、私達は開放
に飢えていた。サッシに寄って日射しを浴びると、少し生き返った気がした。
平行四辺形に切り取られた日光が、広さにしておよそたたみ3畳半くらい。2人し
て寝そべってなお高い空を見つめると、輝きのなかで私は全てを忘れそうになった。
私達は何も言わずしばらくそうしていた。やがて梨華は起き上がって光の帯から外れ
た。
「ダメ、焼けちゃう。」
そう言って立ち上がった梨華は、日陰でまた大の字になった。
この部屋はここちいい‥。人の気配がしない‥。
目を瞑っていると、頭上の方角から梨華の声が聞こえた。
「ひとみちゃん。」
「んー?」
「矢口さんに-----、電話、しようよ。」
まだ梨華も寝そべっている。おそらく仰向け。
「うん-----。」
かすかに鼻にかかった、声の調子でわかる。
「お昼だねー、ちょうど。そう思っていたトコ!」
私は意気込んで立ち上がって、よろめきながら梨華に近付いた。
学校は、お昼休みだ。
でるかなー。
さあ。
最近ぜんぜん連絡とれなかったもんね。
私はそう囁きながら、ポケットから携帯をとりだした。
瞬間!
ブルルっと携帯が振動し、着信音が流れ出した。
「誰!?」
「矢口さん‥ッ!!」
計ったようなタイミングに、私は驚いて息を呑んだ。梨華と見つめ合
いながら電話を耳にあてる。
「もしもし‥?」
-----げんきー?やぐちだけど。
矢口さんの声の向こうには、がやがやした喧噪が聞こえた。懐かしい、この感じ。
学校。
「や、矢口さんは元気なんですか‥?」
-----まあ、元気だよ。
矢口さんは明るく答えた。
「矢口さん、ケッコン‥-----、」
「今、どこにいるの?」
お互いの関心はお互いの安否。要するに。らしくない矢口さんの珍しく頑なな口調
で、私の質問がかき消されてしまった。
矢口さんは人気者で、もともと多忙な人物だ。婚約したという現在は聞くところに
よると習い事が増えてなおさら。このところ音信不通だったが、昨晩私達が家に帰
らなかったことを、おそらくどこからか聞いたんだろう。
忙しいはずなのに昨日の今日でさっそく電話してきた矢口さんの愛というか、一定
以上の感情を普段ならつとめて隠そうとする、そんな矢口さんが向けてくれる私達
への好意を、改めて私は噛みしめずにはいられなかった。
こみあげる感謝と親愛の気持ちを私は特にそうする必要もないのに、照れ隠しの苦
笑に変えて通話口の奥へと送った。
私の折り畳んだ膝に無意識に手をついた梨華は、矢口さんと私のそんなやりとりを
真剣なおももちで見守っている。
「もう知ってるんですか。矢口さん早いなー。」
「ちょっとした用があって、昨日マスターに電話したんだよ。それで聞いた、帰っ
てないらしい、って。正確にはバーテンが騒いでたみたいなんだけどね。『部屋の
明かりがついてない!!』ってさ。」
ああ、心配してるんだろうなー‥、と少し胸が痛んだ。昨日、私達は仕事が休みだっ
たけれども、もともと私達は夜遊びをあまりしない。仕事のない夜はたいがい部屋で
過ごしていることを、おせっかいなバーテンは知っていた。
「とにかく‥、無事なの!?」
世話になったあの店を思い出して私がしばらく黙り込んでいると、矢口さんの口調
に心配している様子が強くあらわれた。
「‥はい。」
「どこにいるの?‥外?」
「いえ‥。快適な‥、室内です。今は、‥安全です。」
場所は、しばらくはまだ言わない方が良いと判断した。
「矢口さん、」
私は深呼吸をして、問われる前に話を始めた。
「昨日、警察って名乗る人に、ウチら、いろいろ絡まれて‥。家を出てすぐくらい
から、ずっと後を‥、尾けられてたみたいです‥。手帳とか見せられて、なんか本物
っぽかったし、きっとホンモノの刑事なんだと、私は、思ったんですけど。」
「う‥ん。」
理由を聞いた矢口さんもやっぱり戸惑ったみたいだった。言葉としては冷静なものが
返って来たのだけれど、発声の仕方が矢口さんとしてはぎこちなかった。
「でも、逮捕っていう雰囲気じゃなくて、なんていうか、狩られる‥っていうか、
追い詰めて、楽しんでる、みたいな‥。ヘンなチンピラっぽい若い仲間連れてたし、
とにかく気味が悪いんです。」
「それで‥?」
「それから‥。私達のこと‥、随分知ってるみたいでした‥。」
能面のようだった男の顔を思い出した私は、話ながらいつのまにか汗をかいていた。
いったん言葉を切って額を拭うと、眉間に皺をよせた梨華の顔が目の前にはあった。
私の膝の上にある華奢な梨華の手は先程から固く握りしめられていたが、私と目が
合った瞬間に梨華はハッとして、思い出したようにその力をゆるめた。
私はいちど息を吸った。
「ねえ、矢口さん‥。」
「何?」
「私ヒトを、撃っちゃいましたよ‥。昨日‥。」
矢口さんは何も言わない。
「でも不思議と、後悔してないんです‥。」
「‥そう。」
ほんのしばらく黙ったあと、矢口さんはそれだけ答えた。
私からも梨華からも、それに電話の向こうの矢口さんからも、不思議な程何も言葉が
出なかった。みんなそれぞれに考え込んで、次に何を言うべきなのか、探していた。
それ程長くもないけれども、かと言って決して短くなかった沈黙を、最初に破って
くれたのは、やっぱり頼りになる矢口さんだ。それでもその声は暗くて、そしてそれ
なのに良く透き通っていた。
「わかった‥。じゃあ、あのバーにはしばらく戻れないんだね‥。」
(おそらく永遠に‥、という事をお互い知っていたけれど、口に出さなかった。)
「はい‥。」
「うん‥。ヤグチからそう伝えておくよ。心配しないで。しっかりやる。」
「忙しいのに、ありがとうございます。私達が近付くと、皆に多分迷惑がかかります。」
「そうだね‥。」
それから矢口さんは、テキパキと物事を決めていった。声が低く多少重苦しいほかは、
矢口さんの口調に目立った澱みはなかった。
「とりあえず車は、ヤグチの家にこのまま置いといてあげる。」
「部屋の荷物は、処分してもらえるようにオーナーに頼んでおくよ。‥いい?」
「お金は、ヤグチの家に持って来るようにしとく。ハハ。一枚くらいはくすねちゃ
うかもね。嘘。安心して。他に、持って来て欲しい貴重品があれば‥。」
「一度、折りを見て会おう。その時、預かってたモノ、もろもろを渡すよ。それで
いいかな。」
矢口さんのこれら献身的とも言える提案を聞いている間、私は少なからず戸惑って
いた。矢口さんはなぜ、こんなに優しいのだろうか。これほどまでに良くしてもら
える何かを、過去私達は矢口さんにしたのだろうか? わからなかった。
「矢口さん‥、なんで‥、」
「なんでって?」
「こんなにいろいろしてもらって‥、ウチら、正直、恩返しできるかどうか‥。
不安です。」
受話口から漏れ聞こえる言葉を、梨華も、多少なりとも拾っている。
チラリと窺うと、梨華は瞳を伏せている。
「そんなコト、今は考えてる場合じゃないよ。だって、ヤグチがそうしなかったら、
よっすぃーたち、すごく困るでしょう?」
「‥ハイ。」
正論。
「ヤグチがこういう事するの、イチバン合理的じゃん。誰も困らない。みんな助かる。
そうじゃない?」
「それは、そうですけど‥。でも、矢口さんは‥?忙しいんじゃないんですか?」
「まあね、忙しいよ?」
「そもそも、結婚するって本当ですか?」
すると、矢口さんはけたたましく笑った。随分久しぶりに聞いた、矢口さんの大きな
笑い声だった。私はびっくりして、何がそんなに可笑しいのかさっぱり見当もつかな
いまま、携帯を少し、耳から離した。
「やっぱ知ってるんだ!? ちょっと、‥モシモシ!?」
「‥ハイ。」
矢口さんの声から笑いは消えない。
「ちょっと待って。順を追って話させて、イイ?‥ああおかしい。」
「何がですか。笑いごとじゃないじゃないですか。」
「そうだね、わらいごとじゃないね。」
笑いながら矢口さんは咳き込み、それを押さえ込むように静かに息をついた。
「結婚するのは、本当。」
それから、妙に落ち着いた声が聞こえた。
直接本人から聞くと、やっぱりちょっとくるモノがあった。
その正体が何なのかは、自分でも、説明できないのだけれど。
「今、花嫁修行やらなにやらで、ものすごく、忙しい。勉強も‥、頑張って点取ら
なきゃいけないし。正直遊んでるヒマないけど、そもそもこれは遊びじゃないじゃん。
よっすぃーたち今、矢口が必要でしょ?ならやるよ。それくらいの時間、取れるよ。」
「でも‥。」
「そのかわり、会っていろいろ渡せるのは、ちょっと先になっちゃうかも知れない。
いつ会ったりできるかは、まだはっきりとは解らない。予定が開いたら、こっちから
連絡するよ。よっすぃー達にも、リスクはある。ヤグチが言ってるのって、その程度
の事だよ?どう、納得した?」
私はそれでも躊躇っていた。それを軽く笑い飛ばした矢口さんはその後、再び神妙な
口調に戻る。
「バーにはやっぱり‥、直接連絡するのはやめたほうがいいかもね‥。大丈夫。あの
人たちは優しいよ‥、詮索なんかしない。時々人が消えたりとか‥。そういうことも
あるって、ちゃんと知ってるもん。」
直後、受話器の奥から鐘の音が響き、会話中ずっと矢口さんを包んでいた背後の喧噪が、
ひときわ激しくなった。
「あ、予鈴。」
そう言った矢口さんに私は慌ててお礼を言って、切る前に、もう一度だけ聞いた。
どうして、そんなに?
つまり、良くしてくれるのか。
自分でも、よくわからない-----。
それが矢口さんの答えだった。
矢口さんとの電話を切ってから、ひとみちゃんは考え込むような顔つきでしば
らく黙っていました。腕を組んで、そう。視線をちょっと落として。
私には、わかる。ひとみちゃんがそうして、何を考えているのか。矢口さんに
対して、ありがとうって思う気持ちと、すみませんって思う気持ちが、心の中
で行ったり来たりしてるのよね。私もそう。結婚の噂が本当だったっていうの
も、やっぱりショックだよ‥矢口さん、有能だもの‥。
この頃になると私はもう、ひとみちゃんの考え方とか、感情の起伏とか、そう
いったモノをだいたい読み取れるようになっていました。私だってすごく分か
りやすい方だから、きっと、ひとみちゃんも同じ。信頼、そういう意識が、私
たちの中に確実に根ざして来ていました。いろいろな事を乗り越えて私達は、
これからもきっと上手くやって行けるのでしょう。
後藤真希ちゃんと出会ったのが、良い事なのか、悪い事なのか、この時の私達
にはまだ、はっきりと解らなかった。(でもやっぱり、アイドルってかわいい
なー、と思いました。)昨日、真希ちゃんが現れて、それからいろいろ話して
いる間に、ひとみちゃんの目は、なんだかポーっとしてた。ひとみちゃんは見
栄っ張りだし、表情をあまり変えない方だから、真希ちゃんにも加護ちゃんに
も、その幸福は多分バレてないと思うけど、私にはわかるよ。すごく嬉しいん
でしょ?
でも私はなぜか、それで良いと思いました。真希ちゃんに見つめられて、照れ
て、でもとても楽しそうな瞳の輝きに正直、嫉妬しないかと言えば、それは嘘
になります。でも私はお姉さんだし(ある意味本当に)、それにひとみちゃん
がどれだけ私の事を大切に思ってくれているのか、ちゃんと知っていたから、
だから平気。許せる。
ひとみちゃんには私、いっぱい苦労をかけたから、これはきっと頑張ってる
ひとみちゃんへの、神様がくれたご褒美なのだと思います。
でも私にも、ちゃんと優しくしてね。
真希ちゃんがいいコで良かったね。
携帯を床に置いたひとみちゃんは、黙り込んでいろいろ考えているみたいでした。
しばらくして私は離れて、置いてあった雑誌をパラパラめくりました。加護ちゃ
んが多分、ゆうべこの広い部屋に忘れていったのだと思います。雑誌はテレビの
脇に、ポツリと放置されたように置いてありました。
アイドル雑誌だったから、やっぱり真希ちゃんは載っていた。それどころか、大
きな特集を組まれていました。ティーン向けだから扱いは、ワイドショーなどと
やはり違います。カリスマとしてもてはやされ、陰口の類いはまるで見あたりま
せん。
大きな見開きのページには、真希ちゃんが珍しく、シンプルなシャツを着せられ
て映っていました。テレビなどで良く見慣れた普段のカッコいい真希ちゃんもい
いけれど、こういう清楚な雰囲気も本当はよく似合うんだな‥。と、感心してい
た時、ふと、思い出しました。真希ちゃんを叩いている雑誌のうちの、特に有名
なものの一つと、このアイドル雑誌の出版社が、確か同じだったこと。大きな会
社だったし2つともとても有名な雑誌だから、私にもわかりました。父と家に住
んでいた頃、この2つが並んだ新聞の広告を目にした事が何度もあるんです。
「キャッ。」
私はびっくりして、声を上げてしまいました。立ち上がったひとみちゃんが、歩
いて来て、突然うしろから覆いかぶさってきたからでした。
「もう、何かヒトコト言ってよ。びっくりするじゃない。」
ひとみちゃんは無言でため息をつきます。私の横の髪の毛が、サラサラと少し揺
れました。
「ひとみちゃんさー、」
肩に絡んだ長い腕に、私は自分の手を重ねて。
「考えたって、今の私達にはできる事がないんだわ。なりゆきに任せるしか‥。
好意は素直に受け取っておこうよ?ていうか。それしかなくない‥?」
「‥そうなんだよね。」
ひとみちゃんも解ってはいるようです。
「でも、そうやって何でも真剣に考えちゃうトコも、結構好き。ホラ、テレビでも
見よう?」
側にあったリモコンに手をのばすと、私の肩口からひとみちゃんが顔を上げました。
ウィンと軽く唸ってテレビの電源が入り、すぐににぎやかな音声が辺りを満たし始
めます。かわりに、それまで絶えず聞こえていた部屋の空調の回転音が、全くどこ
かへ消えてしまい、やがてそれすら忘れた頃に、真希ちゃんのCMが流れました。
2人して、しばらくテレビを眺めていました。昼間だし、あまり面白そうなのは
やっていなかったけれど、他に特にやる事もなかったんです。この建物をでるのも
やっぱり危険だし‥。でもバーにいた時も、私達は昼のあいだよくこんなふうに過
ごしていたわ‥、環境変わっても、あんまり生活変わらないね、って、ちょっとおも
しろくなって、横のひとみちゃんを見てみると、ひとみちゃんはそれに気付いた。
「なに?」
って不思議そうに。ふふ。
「なんでもない。」
って、もっとニコニコ。
すると、
「梨華ちゃんてさー、どんどん変わっていくよね。前からおかしいと思っていたけ
ど、最近ますますヘン。」
って、ひとみちゃんが笑ったから、私はまた嬉しくなった。
いろいろ難しく考えるのを、私はもうやめました。
ただひとみちゃんと一緒に行くだけ。
ひとみちゃんは考えるのを多分やめられないだろうから、私達はそう、きっとそういう
役割分担なんでしょう。笑っている私を見て、ひとみちゃんはきっと救われ、私の事を
もっと好きになると思います。そうでしょう、ひとみちゃん。
(笑っているワタシが好きなんでしょう。ひとみちゃん。エ、そう言ってみなさいよ。)
って、言ってみたかったけど、やっぱりやめておきました。
真希ちゃんが何時の間にか、部屋の入り口に立っていて、それは昨夜の登場の仕方
にとてもよく似ていました。違う所といえば、昨日はもう暗かったこと。今はまだ
明るい。
この部屋の特徴的な壁紙は昼間、部屋全体をさらに眩しく明るく見せ、それでも入り
口の扉は北の方角についているから、彼女がいま立つ付近は少しうす暗いのだけれど。
「ただいま。」
って笑う真希ちゃんが壁の山脈や虹と妙にマッチしていて、私は一瞬、これはポスター
か何かだろうかと、一瞬目を疑った程です。
「おかえり、‥!」
そうひとみちゃんは言ったけど、私と同じで、さっきまでテレビとか雑誌の中にいた
真希ちゃんに、やっぱりちょっと落ち着かないみたい。
やっぱり、すごく不思議なカンジ。昨夜の出来事は嘘ではなく、ここがG教なのもまた
嘘じゃない。真希ちゃんを見ていると、現実と非現実が私達の場合、いったいどこから
逆転してしまったのか‥、と、そういう不思議な感情が巡ったりしました。
私達の様子を特に気にするわけでもなく、
「腹減った〜ン。」
などと言いながら、真希ちゃんはずんずん近付いて来ます。私達の横に来て、ぺたり
と腰を下ろします。まるで蝶の鱗粉のように、自分がオーラをまき散らしていること、
それに彼女自身、一体気づいているのでしょうか?
きらきらした残像を目で追いかけていたひとみちゃんはやがて、不器用に言いました。
「あ、ええと。早いんだね、なんか。もっと遅くなるのかと思ってた。」
「今日は本部に行ってきただけ。あとはオフよん。」
「加護ちゃんは?」
と、私がたずねると
「あのコは今日ずっと仕事。でも、そんなに遅くなんないんじゃないかなー。それより
そうめん食べる?」
と、逆に聞き返されちゃいました。
最上階の広大な部屋のとなりは、意外なことに、まるで新築のマンションのようなスペ
ースが設けてありました。壁紙の部屋を出て、ピカピカの木の廊下を歩くと、ベージュ
に塗られた鉄の扉が。真希ちゃんについて中に入ると、また別な素材の廊下が伸びて、
奥には、洋風と和風を足して割ったような居間。そしてきれいなキッチン。
「へえー‥。」
と驚いて、私達が感心していたら、
「へへ。いいでしょ。」
と、真希ちゃんは楽しそうに笑いました。
「頼んで作ってもらったんだ。自分で料理つくって、よくココで食べるよ。私。ま、メン
ドクサイ時は下の人に作ってもらうけど。でもたいがいココに運んでもらうなー。あいぼん
がいる時は一緒に食べるし、いない時はひとりで食べる。落ち着くのよ〜。」
置いてあるインテリアの類い、その全てがとても高価であると私はすぐに気付きまし
た。真希ちゃんの為に用意されたスペース。ある程度は予想できたはずなのに、それは
あまりにも豪華で、嫌味なく上品で。
何気なく壁にかけられた絵も、空間を仕切る柱も、出された座布団と湯呑み、全てがそう、
完璧で本物。その完全な、主張し過ぎない調和。
けれど、これら最高峰の調和の中において、最も高級で、最も完成された存在は、真希
ちゃん自身でした。腕に注射痕がいくつもある事に、私だって気付いてた筈なのに、私は
そう直感しました。
真希ちゃんこそが、王女。
王女がそうめんを茹でてるんだわ。
ここでの生活はまるで止まるくらいゆっくりと流れ、それはどこか温かな水中を
緩慢に漂っているようでした。
保田さんのおかげなのでしょうか。私達はここでとても良い扱いを受けています。
使わせてもらっている和室は最上層から一段下りた階にあって、この層はきっと
賓客用なのだと思いました。真希ちゃんの最上階に比べたら、それは控えめで、
やっぱり常識的だけれど、ここだってずいぶんな品格なんです。
ちょっとしたホテルみたいです。
はじめの数日が平和に、やや怠惰に過ぎて行って、ひとつ意外だったことは、真希
ちゃんが結構、時間をもてあましていた事。真希ちゃんくらい有名で-----って言
うよりなにかと渦中のヒトです、-----寝る間もないくらいに忙しいんじゃないか
なって私は思っていたんですけど‥。真希ちゃんはなぜか、家にいることがほとん
どでした。
ひとみちゃんと真希ちゃんは、同い年なんです。私達にとって現在の状態で、接す
る人間の絶対数は決して多くありません。だからそれも手伝って、真希ちゃんたち
とは必然的に打ち解けることができました。
お当番の信者の方を除くと、真希ちゃんとひとみちゃんと私。多くないどころか、
本当に少ない。加護ちゃんはその頃お仕事がいろいろ忙しかったみたいで、昼間
はいないことがよくありました。でもちゃんと仲良くなれた。とてもいいコで、
かわいいし、すごく頼りになる。
ある朝、食事を済ませた私達がいつものように上層へ上がると、真希ちゃんはも
う起きていました。壁紙の部屋の真ん中で、寝転んで本を読んでるんです。
「おはよう。」
って、ひとみちゃんが声をかけると、うつ伏せのまま顔だけ上げて、
「おはよう。」
真希ちゃんはやわらかく笑いました。
「何読んでるの?」
私が覗き込むと、真希ちゃんはぼーっとしたカオで手もとの表紙を確認して。
「んー‥、『智恵子抄』‥。」
TVなどから受ける印象とは違って、とても予想外だったけれど、実際の真希ちゃん
は普段から、本をよく読む子でした。
それこそ一日中ずっと、というわけでもないけれど、一日のうち決まって数時間、
かならず読書をしています。感心した私はいつだったか、一度聞いてみた事
がありました。
「ほんとうによく読んでるよね。」
真希ちゃんはその時も本を、片手に持っていて。
「ま、でもコレはマンガだよ。」
「何?」
「スケバン刑事。」
「真希ちゃんが本好きだなんて、私、意外だったな。」
「うん、最近ね。なんかちょっと、世の中をいろいろ知りたいなー、なんて。」
真希ちゃんは、あまり積極的に自分のコトを話さないから、ちゃんとハナシをした
のって、あの時がたぶん最初でした。
真希ちゃんは、もう
「派手に遊びに行ったりするのは、さんざんやり尽くしたからイイ。」
のだそうです。自信に満ちた横顔は、とても大人びて見えます。
「そうよね、まさにそんな感じ。」
私はヘンに納得してしまった。だって今みたいな真希ちゃんの雰囲気って、ちょっとや
そっとじゃ出せそうにないもの。
ちなみに、
豪華で快適な居間ではなくて、決まっていつも壁紙の部屋で、固い床の上で本を読むの
は、広い部屋でぽつりと、ストイックな感じが気に入っているから。
なんだそうです。
これを言う時の真希ちゃんはでも、ちょっと照れて笑っていました。
その日の午前中、真希ちゃんは少し離れたところで高村の詩集を読んでいました。
私達も同じ部屋にいてTVを点けていましたが、真希ちゃんに遠慮をして、音量は
当然控え目です。
「平気だから気にしないで。」
って、そう言われたから、まあいいかなってつけたんですけど‥。真希ちゃんは
本当にテレビの音とか気にしなさそうだったけれど、やっぱりちょっとでも邪魔は
したくないし。
ケーブルのミュージックチャンネルに合わせて、ミュージックビデオをぼんやり
と眺めていました。すると、
「も〜、疲れたッ!!」
本に没頭していたはずの真希ちゃんが、バタリと床を響かせました。振り返ってみると
もう本は閉じていて、仰向けになって、手足を投げ出しています。
やがて床を転がり始めて、真希ちゃんはそのままゴロリゴロリと、私達の側までやっ
て来ました。
ていうか距離、けっこうあるのに‥。
流石カリスマなだけある‥。って、ちょっと思いました。
天真爛漫なところはでも、TVでのイメージとほとんど同じ。て言うより、もっと
奔放?そのぶんとやかく人にも言わない、真希ちゃんのそんな優しさを既に私達
は愛しはじめています。
「もー限界。とりあえずカナふって欲しい。漢字に。」
「でもさ、ずっと読んでたじゃん。すごいね。」
「私も。詩、ニガテ‥。いっぱいは読めないな。おもしろかった?」
こういう時の真希ちゃんて、本当に素直でかわいいんです。
グイグイと首を捻って。
「わっかんない。とりあえず『アタタラ山』ってドコ?ってなぐらいの感想。高尚
過ぎた。アタシには。」
「あたし的には真希ちゃんが『高尚』っていう言葉知ってるコト自体が、ちょっと
したオドロキかなー。」
もちろん大好きなんだけれど、真希ちゃんとは思った以上に波長が合うようで、
ひとみちゃんは時々、真希ちゃんをからかったりするようになりました。
「よっすぃーはさ、心底バカって思ってるでしょ、あたしの事?」
「そんなことないよ。学校行ってないからって、あんまり気にしないほうがいいよ。」
真希ちゃんは笑いながら掴み掛かって、ひとみちゃんもニコニコ応戦。
あまり仲良くなりすぎて次のステップに発展されても、私としては困るんです
けど、でもこうやって時々じゃれ合う2人は、子犬みたいでちょっとカワイイ。
私と2人でいる時の、しっかりしててカッコイイひとみちゃんもすごく好きなん
だけど、こういう姿を見るのも、やっぱり嬉しいものです。
ファンだという事をひとまず置いておいても、ひとみちゃんにとって真希ちゃんは、
久しぶりの同い年のコだったし、2人の様子を見ていると、本当に楽しいんだろうなー
と思います。真希ちゃんも、多分。触れあう人間の絶対数なんて、私達よりもむしろ、
真希ちゃんの方が少ないような気もするし‥。
プレッシャーをかけないように、ひとみちゃんは黙っているけど、もともと真希ちゃん
のファンなんです。もちろん一概には言えないけれど、お互いこのまま良い理解者に
なってゆくのは、2人にとって幸福な事かも知れません。
お昼を食べた私達は、真希ちゃんの居間で午後を過ごしていました。隣の壁紙の、
開放的な部屋の雰囲気とは対照的。この居間の四方に窓はありません。なのにきら
きらとキッチンが輝いているのは、その上に明かり窓があるため。
近頃の私達は本当にTV番組に詳しくなっていて、日中では3人とも、午前の番組の
方が好きでした。午後のものよりも全体的に、雰囲気が気楽なのです。
「トランプでもしようか。」
「いきなり?3人で?」
再放送のドラマなども特にチェックすべきものがなかったので、そう真希ちゃんが
提案しました。聞き返したひとみちゃんは少し訝しげで、真希ちゃんはへらへらと
時計を見上げます。
「ん〜?加護が多分そのうち帰って来るよ。今日はちょっと早いみたい。4時頃。」
「そう。じゃ、やりながら待ってるか‥。」
ここに逃げ込むまでの随分長い間、ひとみちゃんは真希ちゃんのファンだったから。
だからそんなひとみちゃんがその本を目にとめたのは、やはり必然だったのだと思
います。
むせかえるように白く咲き誇る大きな百合の花束の隣の、文具棚の引き出しをしをひとみ
ちゃんがひとつひとつ開いては閉じて行きます。真希ちゃんの示す通りに、トランプケースを探して。
「ここ?」
「あー、その上だ。そこの上の引き出し。」
場所的にひとみちゃんは一番近いところに座っていたから、自分から立ち上がってくれ
たんです。
「あった。」
取り出した黄緑色のケースをかざして。笑って見せるひとみちゃんどこか得意げ。
そのまま戻って来ようとして、足を一歩踏み出しかけた直後。
「ねー‥、これは何?」
何かを見つけてしゃがみこんだんです。
脇にある花瓶台の下に、ひとみちゃんは顔を近付けてなにやら探っていました。作り
付けの棚に、台の下はなっていて、そこには数冊の大きな本があまり堅苦しくなく並
べてあります。
「コレ、ちょっと。見もていい?」
その中から一冊、重そうな本をひとみちゃんは取り出し、軽々と持ち上げて、私達を
振り向きます。愉快そうに瞳を2、3度、瞬いてみせたりして。
「もー、いいよそういうの出して来なくって〜。」
真希ちゃんは、ちょっとした悲鳴を上げます。おおげさに顔をゆがめている。
本の濃いピンク色の表紙には、布地に教団のロゴが大きく型押しされていて、一見それ
は卒業アルバムを彷佛とさせました。
ひとみちゃんの目の輝きに真希ちゃんも抵抗を諦めたみたいで、
「G教の歴史と、まあ教典みたいなのを、一冊にまとめた本。それは。」
などと、苦笑しながら付け足しました。
ひとみちゃんはいそいそとテーブルまで戻って来て、私の横、つまり真希ちゃんの正面
の位置にやけにぴったりと私にくっついて座り、そして、喜色満面のおももちで表紙を
まずめくりました。
「写真とか載ってるワケ?」
目次を開いたところで、ひとみちゃんは尋ねます。
(アンタ一体何者なの!?)
って、ちょっとツッコミたいような口調でした。
「うん、ちょっとだけ。」
真希ちゃんは肩をすくめて。
「水着とか?」
「ないよ。」
外見がアルバムっぽいせいもあって、中身もさぞ写真が豊富なのだろうと、私もひとみ
ちゃんも期待をしていたのでした。けれど実際はそうでもなく、細かな文字の文章が
ほとんど。写真は挿し絵程度に時折入っているだけ。
それでも巻頭の数ページには真希ちゃんのポートレートをはじめ、カラーでけっこう
載っていたので、私達はそれなりに楽しむ事が出来たんです。
真希ちゃんは初め嫌そうに顔をしかめていたけど、もともとあまり物事にこだわらない
タイプなのでしょう。困ったような呆れたような。そんな特有の笑顔を作って、私達と
ページとを、交互に見比べたりしています。
「この写真すっごい若っけー!ぽっちゃりしててかわいいったら!!」
まだ黒い髪の真希ちゃんを見つけて、ひときわ高い声をひとみちゃんは出しました。
すると、真希ちゃんは机に、ガバッと顔を伏せてしまった。照れちゃって。ほうり出さ
れた、豊かでつやつやとした髪が、柔らかく光をたたえていました。
「なによりそれを見られたくなかったんだ‥。まあね‥、どうもありがとう‥。」
真希ちゃんはモゴモゴ呟き、そのとてもシャイな仕種に私もちょっと吹き出してしまった。
「ねえ、どうして表紙の色、こんなに派手なの?教典なのに‥、いいの?」
少し気の毒になってそう話をそらすと、
「あたしの襲名記念だから‥。好きな色にさせてもらった‥。」
両腕の陰から真希ちゃんは上目づかいで、そして耳が少し、赤いの。
そんな真希ちゃんを尻目にひとりページをめくったり、また前後したりして、ずいぶん
気ままだったひとみちゃんはやがて、
「おッ!!」
って叫んで、視線を固定させました。新たな標的を発見したみたいで、隅に載っている
中くらいの写真を指差し、恐る恐る口を開きます。
「コレって‥、保田さんでしょ‥?もしかして。」
真希ちゃんは顔を上げて、指の先を覗き込んだ。
「ん、そうそう。」
さっきまでの動揺はどこかに消えてしまったみたい。確かめるように2、3度、懐かし
そうに頷いています。
「そっか、本当にG教だったんだね‥、保田さん。」
「そ。努力家でさ‥。偉かったんだよ。チカラあったし。」
感心する私達に、真希ちゃんは言いました。目を細めて、とても穏やかな表情。うって
かわって急に大人っぽくなった真希ちゃんの笑顔を見たら、私はなんとなく、父と母と
3人で暮らしていた日々の事を思い出したりしました。
保田さんの、チカラ。それはつまり、過去や未来に行ける‥、といった、ああいった
能力のことでしょうか。私はもう一度、写真に目を落としました。そこに映っている
のは、溌溂とした笑顔。3人の少女。一人は保田さん、もう一人は真希ちゃん。
ひとみちゃんは飾り気無く、率直に聞きました。
「ねえ、どうしてフラフープなんか回してんの?こんな山奥で‥。」
真希ちゃんをまっすぐに見つめる。
確かに私にもそれは、少し奇妙な風景に映りました。あいかわらず輝く保田さんの表情。
は、ともかく。真希ちゃんの笑顔が、あまりにも無垢‥。
写真‥。
背景には枯れた雑木林。水色の空とフラフープ。
白い、山荘。
真希ちゃんは少し、考えてから言いました。
「そこは教団の別荘。秘密だから山の中にあんの。フラフープはまあ、ちょっとした
修行みたいなモン‥。って言ってた。」
やわらかな笑顔を真希ちゃんはまったく崩していません。
「この、もうひとりのヒトは‥?」
更に続いたひとみちゃんの質問に真希ちゃんは特別、表情を変えなかったけれど。
笑ったままで結局、何も答えてくれませんでした。
その時。
「ジョニーにハートブレイクッッ!!」
「ばかじゃないの!?オマエ〜!?」
「おぉ‥!!お帰り〜。」
けたたましい音を響かせ、帰って来たのは加護ちゃんです。この、居間まで続く2重
の廊下を全力で駆け抜けてきたみたいで、加護ちゃんは前髪がパラリと上へめくれて
しまっています。息を切らしながら加護ちゃんが叫んだ言葉の、その意味を私達は
まだ理解していないかったけれど。一生懸命な顔色とか眉毛の上がり方などが微妙に
可愛いらしくて、私もつい、くすくすとつられて笑ってしまったんです。加護ちゃん
の言動にまっ先に、すごい勢いで反応を返した真希ちゃんは、それからひとりだけ、
一番笑っていました。
私達4人はその後、トランプをして過ごしました(トランプケースはしばらく
の間すっかり放り出されていたので、『どこだっけ?』と探すのにまたひと苦労
しました)。七並べ、ババ抜き、そのあたりの気軽なゲームをずいぶんやったなか
で、意外に、‥って言っていいのか、加護ちゃんが、素晴らしい強さを発揮してい
たんです。
彼女の勝つ確率がだいたい半分を越えた頃、
「タイム。」
って、一度中断して真希ちゃんは立ち上がり、そのまま柱の電話器へとおもむろに
歩き出しました。ゲームに熱中してそれまでのはしゃいでいた姿と違って、すんなり
受話器を掴んだ真希ちゃんの様子がことのほか冷静だったので、加護ちゃんは慣れて
いるのかそうでもなかったけれどひとみちゃんと私はなんだか注目してしまった。
「あ、どうも。」
受話器を耳にあていくつかのボタンをプッシュした後、真希ちゃんはすぐに話し出し
ます。
「今夜、夕ごはん要りません。ハイ、皆。お菓子を結構食べちゃったので、あんまり
おなか空いてないです。」
確かに机の上にはトランプと、そして開けられたいくつものお菓子の袋が散乱した
状態でした。そう、だいぶ食べてしまった。私達はとっくに、お腹がいっぱいでした。
(気をつけないと太っちゃう。最近運動してないし。)
そう思う側から、私はまたひとつ、スナックをつまみ上げます。
(だって、おいしいんだモン。)
解っているけど、なかなか。目が食べたいの!
「はい。すみません。要らないですから。」
最後に一言謝って、真希ちゃんは電話を切りました。
「毎回そうやって、電話を入れてるの?」
なにくわぬ顔で戻ってきて、再び座りなおす真希ちゃんに私は聞きました。
「うん。」
「なんだ。もっと勝手にやってるのかと思ってた、教祖だし。」
ひとみちゃんも同調します。
「だって、悪いじゃん。もし作っちゃってたらさ。私、料理するの好きだけど下の人に
つくって貰う時も、まああるし。なんかさ、そゆとこ。キチンとしないと嫌なのワタシ。」
「へー‥。」
なんていうかすごく‥、道徳的でした。返す言葉も発見できず私はひとみちゃんと目
を見合わせます。テーブルの中央にトランプのカードは、ざっくばらんにまとめられて
いて‥。スナックのお菓子の汚れが、ちょっとついちゃったかな‥。なんて。
「あのー‥、なんかごめんね? トランプ。ちょっと、油ぎっちゃった‥、よね?」
ひとみちゃんもちょうど同じ事を思っていたようで、ぎくしゃくした口調でなんとなく
謝ります。
「ああ、」
真希ちゃんは言いました。
「別にいいよ。また買えばいいじゃん。ねえ?」
悪意のみじんも感じられない、明るい笑顔を浮かべて。
加護ちゃんは私達のそういったやりとりに全く興味がないようで、ひとりテレビのリモ
コンなどをキョロキョロと探し始めています。
たとえば雲の上の存在なのだと、私は改めて思いました。私達よりもきっと、一段高い
ところにいる。実際、雲の上などといった世界が本当に存在するとしたら、それはこの
建物の、今いる最上層かも知れません。
白い羽衣を持った、華やかな死者の世界‥。そういう快楽的な、少し陳腐な想像が頭の
中に浮んできてしまって、私は慌てて、速やかに打ち消しました。
突然。
『ワッハッハ』
って、聞き慣れた音声であたりが包まれ、退屈した加護ちゃんが、TVをつけたようでし
た。
その後に沸き上がった空気、あれは果たして、事件と呼べるものなのか。
次の日になると2人は、まるで何ごともなかったように仲良くしていましたし、私も敢えて
追求をしなかったので、今回の事がその後の私達にどういった作用を実際にもたらしたの
か、私は結局、知る事ができませんでした。
テレビを点けた加護ちゃんはもともと、前回選択されたまま設定が残っていたチャンネル
を、しばらく眺めていました。
その時放送されていたのは、他愛のない、でも割りと人気のあるバラエティ番組のひとつ
です。
なんとはなしに見入ってしまった番組でしたが、その意図にのせられ、私も真希ちゃんも
ひとみちゃんも、小さく吹き出したりしていたんです。
やがて5分程たった頃、次の展開を期待させて、番組はコマーシャルを挟みました。
すると加護ちゃんは当たり前に、(って言うよりまるで何かに憑かれたみたいに)、他の
面白い番組をパチパチと探し始めています。手の中あるリモコンはずっと、握りっぱなしで
いたようでした。
私達が4人でいる時、チャンネルの主導権はたいがい加護ちゃんに集中していて、それが
日常の流れでした。特に見たいモノでもなければ、誰も何も言わない‥、って、言うより、
気難しい末っ子さんの可愛いワガママとして、むしろ好意をもって、迎えられていたんです。
ひとみちゃんも真希ちゃんも、その時の番組にはこれといった未練がないようでした。
2人はすでに顔を見合わせ、ちょっとした談笑を始めています。
時間帯の関係かコマーシャルの局が多く、加護ちゃんのチャンネル選びには、しばらく時間
がかかっていました。
だから私も、真希ちゃんとひとみちゃんの会話の輪に、とりあえず入ろうとしていたんです。
『許さない方がいい、』
冷静ですが、断定的で、鋭い口調が耳に入って、私は画面を向き直りました。
『やはりあの集団は解散、少なくとも教祖を改心させるべきだ。心ある媒体がこれだけ
糾弾をしている状況だと言うのにですよ、彼女は未だ、露出を続けている訳です。なんら
反省もなく。まず憂慮すべきは、安易な人気取りで彼女を持ち上げるメディアが、いまだ
多く存在すると言うことです。また彼女ものうのうと顔を出すんだ‥、未来が不安ですよ。』
出た。
と、私は率直に思いました。
ひとみちゃんの表現を借りるところの、いわゆる、『鼻の下の溝』の、人。彼は最近本当
にこまめに、いろいろな番組へ出演していたから、こんな、真希ちゃんのいる状況で彼の
論調を聞くような日が、いつかきっと来るんだろうな、と、少しは私なりにも気構えていた
たりもしたんです。
芸能評論家(自称です)は、真希ちゃんへの呪詛ともとれる発言を、ひたすら続けていて
いました。
固まった-----私が個人的に、そう感じた、空気。けれどやっぱり、それを破って
ゆける力を、無邪気で純粋な強さのような物を、私は持っていませんでした。一度ひとみ
ちゃんが、私のことを『強い』って言ってくれた事があって、その時は嬉しくて『そうかな』
なんて気軽に笑っていたけど‥。
でもやっぱり、弱い。
加護ちゃん早くチャンネル変えてよ、って、私はひたすら願っていました。けれど、彼女は
いっこうに、まわすそぶりを見せません。
ひとみちゃんに負けないくらい、加護ちゃんは真希ちゃんを真剣に愛していて、そして、
すごく憧れているんだろうなっていうのは、普段の様子から私にも解っていた事です。
画面に見入る加護ちゃんの感情は、私が座っていた位置から、わずかな角度の横顔でしか
窺うことができませんでした。何かを推して計るにはその条件が足りな過ぎたし、実際
いつもの加護ちゃんの様子と、そう変わらないようにも見えました。
「真希ちゃんがさあ、」
おもむろに、呟くようにそう言ったのは、ひとみちゃんでした。
意外に冷静な声が、救世主だと確かに感じられて、私は期待をこめた視線をひとみちゃん
へと向けました。
いつも偉いひとみちゃんの第一声のおかげで、なんとなく場の雰囲気がフッとゆるんだ気が
したんです。
けれど。
違いました。振り向いた私はひとみちゃんの表情を見て、そのカンが間違いだった事に、
すぐ気が付きました。冷静さを必要以上に、全面へ、押し出そうとしている感じ‥。
だいたいにおいてひとみちゃんはとても穏やかでしたが、ごくたまに、こういうカオをする
時がありました。
「今けっこう暇そうに家にいたりしてるのって、例えば、こういう叩きとかに、関係あるって
感じなワケ? ちょっとさあ、聞きたいんだけど。」
「ん〜。まあそれもある、ちょっとは。 なんてネ!」
細心の注意を払って、気をつかって、重くならない言いまわしを選んでいながら、ワザと
つっけんどんで、冷たい言い方をして見せるのは。
矢口さんを意識して、ちょっとみならっているような。
真剣で、その言葉の裏に悲壮なくらいの覚悟を、じつは秘めてひとみちゃんが投げかけたのは、
彼女なりの渾身な問いかけだったのですが、真希ちゃんは全く気が付かないのか、ニコニコと
笑って答えました。
いつものように、もしかしたらそれ以上に明るくあっさりした物言いだったので、真希ちゃん
の真意がこのときいったいどこにあるのか、私には判断がつきませんでした。
2人の間にある決定的な温度の違いをひとみちゃんは軽く受け流せるほど割り切った考え方
をしていません。もっとウェットで、ナイーブでした。
矢口さんを見習っていても、彼女のような洗練されたスマートさをじっさい手に入れるまで、
まだ少し時間とか、経験などがひつようなのです。ひとみちゃん本人もそれをよく解っている
はずだったけれど、もしかしたらここへ来て、一人で気に病んでいたのかもしれません。
ひとみちゃんはしばらく反応を返さず、真希ちゃんをぼんやりと見つめていました。
そしてやがて我にかえって、画面を見つめ直します。まるで覚醒した暗い目を、悪魔から
いったん反らすみたいにして。
私の目から見ても、あの時の絢爛な居間での光景は少し、異常な感じがしました。
前方に座る加護ちゃんは、微動だにせず、食い入るように画面を見つめています。
きつく腕を組んだひとみちゃんは、高く立てた膝でそれを覆い隠すように縮こまって座って、
神経質な、鬱屈した表情をしている。
テレビの中の男は、声が既に張り裂けんばかりでした。
私の後方の位置からは真希ちゃんの笑い声が、「アハアハ」と、絶えまなく聞こえている
のです。
とにかく我々はG教、なかでも後藤真希の存在が平然と罷り通る世の中を、なんとか
改善しなければいけない。腐っているんだ!存在が、根本的に!
あからさまな悪意で執拗に罵倒され、その存在を、全て否定されているも同然な言葉
なのに、真希ちゃんがそれを聞いてこんなに笑っているのは、経歴から来る余裕や自信の
果たしてあらわれなのでしょうか?
私はなんだかすごくタブーな気がして、真希ちゃんを見れませんでした。
『皆さんが一体どういう見解をお持ちになってるか知らんが、売春、薬物、詐欺!
彼女は必ず、尻尾を出しますよ!いつか、近いうちに必ず!実際もう、ちょっとずつ
見せて来ているんじゃないんですか!?僕はそう思いますね!』
着席した机を叩いて、男は口上を終えました。
いつの間にか番組が終わりに近付いているのか、ディスカッションに参加していた
数人の出演者たちの中から、年長者の俳優が意見を求められて、もっともらしく、
そして公平なコメントをしています。
私が時計を見上げると、2本の針は確かにそういった時刻を示していて、
『後藤真希さんッ、見て居ますかッ?私は君の反論が是非とも聞きたいッ!』
と、司会者の、誠実そうに溜めた言葉を最後に、番組は締められエンドロールが
流れました。
画面にまたコマーシャルが流れ始めたころになって、ひとみちゃんは今度は、吐き
捨てるように言いました。
「反論すればいいじゃん。」
口調には険があり、不快さを、もう隠そうとしていません。真希ちゃんの笑い声は
すでにその時止んでいましたが、でも彼女の顔には笑いのなごりのようなモノが
まだ充分に残っていました。
少しきょとんとして。
「‥なんで?」
「マゾですか?あんなに言われて平気なの?おかしい。真希ちゃんが何も言わないから
アイツら調子にのるんでしょう!?」
「よっすぃー。」
ひとみちゃんはその激しい憤りのせいで、顔の色を反対に失くしています。
対する真希ちゃんは苦笑していて、やさしい声音でひとまず、なだめようとしました。
「相手にするだけ、無駄なんだよ? てかヨッスィ〜知ってんでショ?わかってて
ブリッ子してんなよ? きゅ〜ん?」
途中から剽軽な、いつもの調子に真希ちゃんが戻ると、ひとみちゃんは、また黙った。
けれどこの噛み合わせてもらえない状態に、ひとみちゃんがずいぶん苛立っているのは、
一目瞭然だったんです。
真希ちゃんだってそんなひとみちゃんの心理を、本当は解っているはずなのに。て、言うか、
わかっていなかったらちょっとおかしいと思います。
背後で起こっている事態に、一体気付いているのかどうか、加護ちゃんは一度もこちら
を振り返らず、次の番組を見始めています。
居間にある、大きいけれど一枚板のテーブルに、私達4人は、着いていました。
ニコニコとあくまで罪のない顔で真希ちゃんが笑っていて、その正面のひとみちゃんは
激昂で唇を震わせている。
加護ちゃんはそれを完全無視。そういう密室だったんです。
私はでも、その雰囲気を無理に立て直そうと思いませんでした。
ひとみちゃんの言うことは全然間違っていないと思うし、かといって真希ちゃんの
----- 挙動はともかく、言葉は現実の正当性に、みちあふれているんです。
この衝突の行き着く先、それを最後まで見続ける事が、ここで私に与えられた最大の役目
だと思いました。2人は妥協することなくもっと仲を深めて欲しい、と、思ったのは、
ひとみちゃんを思う親心なのでしょうか。
万が一決裂したとしても、それはそれで私達のさだめで、仕方がないなと思っていました。
「あのねー、ヤなんだよね。あんだけボロクソ言われて、それをヘラヘラ笑って見てる
アンタが。具合悪くなる。そのうち皆信じちゃうよ?いろいろ叩かれて書かれてる事。」
「だっていいもんそんなの。なに言ってんの?有名税だってば。ん、有名って、自分で
言っちゃッた。ワハハ。」
ひとみちゃんが体制を立て直してもう一度議論を再開しても、真希ちゃんは決して土俵
に上がらず、受け流しているばかりでした。真希ちゃんにとってひとみちゃんは、やっぱり
本気を出す相手では、ないのかも知れませんでした。
少なくともこの時点では、ひとみちゃんが一方的に、振り回されていました。
それでも、食い下がること30分。
そして。
「私、知ってるんだよ。」
とうとうかなわないと思ったのか、ひとみちゃんが弱々しく呟くと、真希ちゃんはとても
楽しそうに、ひときわ大きく笑いました。
「も〜〜〜、なにを?ワタシの何をよっすぃ〜が知ってるの? ありえね〜〜!」
ひとみちゃんは首を振って。
「違う‥、そういう訳じゃ、ないけど‥、」
「じゃあナニ?」
真希ちゃんは目を細めて、笑顔のままで尋ねました。
「ここに来る前、バーで、働いていたんだけど‥。」
ひとみちゃんの言葉と同時に私も頷いたりしました。
ひとみちゃんがこれから言う事、私にはもう、だいたいわかっていた。
(言っても、どうにもならないと思うけど、それでも言いたいなら、言えばいいと思うよ。)
そう考えていました。
「うん、知ってるよ‥。」
いつのまにか真希ちゃんは、どこか労うような、優しげな表情になっています。まるで聞く
姿勢を積極的に示すように。
「そこにはさあ‥、」
「うん。」
「マリファナ吸ってる人が、たくさんいたんだ‥。」
「‥それで?」
やさしくて、あたたかな声。真希ちゃんは続きを、待ち望んでいました。
「それにもっと、ツヨいのをやっているヒトもいたよ‥。だから知ってるんだ‥。ああいう
のを長く使い続けて‥、そのヒトたちが最期に、どうなってしまうのか‥。」
ちょうど一瞬だけ舞い降りた、真希ちゃんは幸福を自覚したみたいに。
ひとみちゃんが言葉を区切ると、微かに、でも本当に、やわらかく笑ったのです。
けれど。
「で、なんの関係があるんだろ、ソレ。ワタシと?」
それはすぐに消えてしまった。ひとみちゃんはあの顔を、きちんと見れたのでしょうか?
言いにくそうに目を伏せていたから、やっぱり無理だったのかな‥。
ひとみちゃんは、続けました。
「だから、週刊誌とかに、書かれているコト‥、あの評論家が言っているコト‥。」
「クスリ‥、やめなよ。」
「ぶ〜〜〜〜ッッ!なんだそりゃ〜〜〜〜!!??」
すると、真希ちゃんはおおげさにおどけて、ひっくり返ってみせたんです。
「なにソレ?なに言ってんの?ヤメテヨね〜〜〜。」
でもひとみちゃんは、ちっとも笑わない。
「腕を見ればわかるよ‥。もう、そういうのも、やめよう。真面目に、答えて欲しいよ。」
真希ちゃんは本当におかしくてたまらないみたいで、目の涙を拭っています。
「あーもう。コレの事でしょ?もしかして?」
そうして真希ちゃんは軽々とソデを捲りあげ、私達へと突き出しました。至近距離で見た
痛々しい腕に、私は思わず、息を殺した‥。
「あたし、こないだ病気してさー。だから点滴なんだってコレ。病院で、辛かったよ。
注射なんてキライだもん。小っちゃいトキからず〜っと!ほんとカンベンしてよね〜。」
って、また笑いはじめたけど、ひとみちゃんはやっぱり、かたくなに黙ってしまって
いるのです。
2人がこれ以上続けるコトに、もう私は、意義を見出せませんでした。あの腕は確かに
疑わしいし、真希ちゃんを思うひとみちゃんの気持ちもわかる。でも現場を見たわけでは
ないから、もしかしたら本当は、真希ちゃんの言う通りかもわかりません。アヤしいケド。
でも、コトの真偽はともかく、真希ちゃんのような立場の人に私達が本当に意見をすること
などできないのかも知れないし、そもそもひとみちゃんの頭に、こんなに血が上ってしまっ
ては、望んだようなよい成果など、得られるはずないと思いました。
(そろそろ仲裁なんかに、入ってみた方がいいのかしら‥?)
上手くおさめる自信なんて、毛頭なかった。けれど。
それでも私なりになんとかやってみようと、思い立った時でした。
真希ちゃんの素直そうな笑顔が、いつもと変わっていた訳ではありません。
口調だってやわらかだったし、どちらかと言えばのんびりしていた‥。
なのにそのときの一連の動作は、支配者たる誇らしげな威厳と風格を、何重にも
纏わせていたのです。
オイオイよっすぃ〜。信じるべきはアタシ?それともアイツら?どっちなんだよ、ん?
ゆっくりと身を乗り出して真希ちゃんが掴んだのは、目の前に座ったひとみちゃんの胸ぐら。
引き寄せる腕はむき出しでちからづよく。
「とりあえずマキちゃんて、呼ぶのやめるトコから始めな。」
ぶつかるくらいに顔を近付けた真希ちゃんはさらにそう言ってから、ゆっくりと手を離し
ました。ひとみちゃんは迫力にのまれ、瞬きを忘れているようでした。それでも肯定も否定
もせずに、ただ緊張していました。
「は〜いよっすぃ、じゃ、仲直りしよ? ね?ここにチューして。チュッて。」
突然、真希ちゃんがそう言ったから、更に私は呆気にとられて。
かわいくって、甘えた声。
一瞬、出遅れてしまったから、止めるのがぎりぎり間に合わなかったんです。
「それはダメ!」
って思った時、ひとみちゃんの唇は、もう真希ちゃんのバラ色の頬へ‥。
悲しいね‥。
ちょっとひとみちゃん!何つられてんのよ!
って、私がムッツリしていると、真希ちゃんは今度はなんと、私のほっぺにキスをしました。
「これでだいたいOKじゃない? 梨華ちゃんも、ありがとうね。」
ほとんど口を挟まずに、じっと2人を見守っていた私への、それは真希ちゃんの気持ちなので
しょうか。
クチビルのカンショクはやわらかかったけれど、それどころじゃない気が、もの凄くする。
これで決着して良いのか。
わかりませんでした。
一連のできごとは真希ちゃんのペースで進んでいたし、最期にはひとみちゃんもやり込め
られたカンジだけど、どうかな‥。正確には‥。
そういう事を考えていた時、加護ちゃんがいまさら振り返りました。本当に興味がなさ
そうでしたが、眉間に皺を寄せていました。
「ジョニーがウンコなんが悪いんやで。」
加護ちゃんが顔をしかめている時、それが必ずしも不機嫌を指しているとは限りません。
そんなトリックスターは、またひとつ謎めいた言葉を残し、立ち上がって、部屋を出て
いってしまった。
「じょにーちゃんはウンコじゃないよ〜!何度言ったらわかるのよ? ちょっと加護!!
訂正してゆけ!」
と、言った真希ちゃんの叫び声が、ウサギみたいな加護ちゃんの後ろ姿を廊下のほうまで
追い掛けましたが、でもやっぱり無駄でした。
矢口さんからの連絡が再び入ったのは、前回の電話からだいたい半月が過ぎた頃
だった。
「もしもし?」
と言った声はいつも通り高かったが、少し掠れていた。忙しくて疲れているの
かと思ってそう尋ねたけれど
「風邪気味だったんだよ、でもそんなに重症じゃない。」
と言って彼女は笑った。
「とりあえず、時間があいたから、預かってたモノ、渡そうと思う。急で申し
訳ないんだけど、明日は、どうかな。出て来れる?」
上手くいけば明日、私達は荷物を受け取る事になるわけなのだけれど、中でも
もっとも場所を取る車については、前もってあらかじめ、真希ちゃんに聞いて
おいた。
「ねえごっちん。車を、さ。保田さんから買った車‥、ココに持って来たと
して、置き場所とか‥、ある?」
「お、とうとう来るんだねー。いいよ。地下に駐車場があるからそこに置け
ばいいよ。広いよ〜?5台でも10台でも。」
ごっちんというのは、あの翌日に決まった呼び名だ。ごっちん‥、ゴッティソ‥。
真希ちゃんにとって、『真希ちゃん』、そう期待を込めて呼ばれるのは、あまり嬉
しいことじゃなかったみたいだ。それはつまり親近感の問題らしかった。
「真希〜、‥。ヘイ、真希〜‥。んーなんか違う。じゃあ、いっその事『ごとう』
でどう? ‥おい、ごとう!! ‥ごとうこら!!」
いろいろ考えては口に出して、私は模索した。真希ちゃんはその姿をずっと見守っ
ていてくれたけれど、私は決定打を、いつまでたっても出せずにいる。
「うーん‥。でも、」
梨華も首を捻る。
「なかなか難しいよね。今まで『真希ちゃん』で、長い間慣れてたんだモン。」
でも、もともと梨華は、私に任せるつもりだった感じ。自分の案はあまり出さずに、
私の事を笑って見てる。
「真希‥、ごとう‥。いや、真希‥。はたまた、ごとう‥。」
そう繰り返して呟いていた時だ。加護亜依が口を挟んで来たのは。
「じゃあ、もう、中間をとって『ごっちん』でいいですよ。はっきりいって聞い
てらんないです。ボケりゃいいと思ってクソが。」
加護亜依の言葉が珍しく難解ではなかった。ダイレクトなぶん余計に説得力を
もって届き、罵倒されたことすら忘れた。
とりあえず
「ごっちん‥。」
そう呟いてみる。すると真希ちゃんは笑った。
「うんうん。そのほうがちょっとしたトモダチって感じ。雰囲気出てる。
イイ、イイ。」
胸のすく広い部屋の、パノラマの中央で真希ちゃんはその日『ごっちん』になり、
加護亜依もその後『あいぼん』になった。
梨華は、そして人知れず呟く。
「でも。いったい何と何の中間だっていうのかしら‥。 ウフッ。」
そんなおハナシ。
危険なのは知っていた。矢口さんと外で会うこと。物品の受け取り場所。もしくは
そこまでの道のり。
今、外に出て、あの開襟シャツの男が追って来ないとなぜ言える?
ここは安全。あの男の手はおそらく届かない。なにもかもは真希ちゃんのおかげ。
真希ちゃんの懐にいれば、全ては安らかに。
「はい。なんとか大丈夫だと思います。明日、会いましょうよ、外で。」
なのに私は承諾した。
1. 矢口さんならきっと、本人が直接来なくても誰か人を通して、車とお金を
ここまで運べる。
2. でも直接会いたい。矢口さんの顔を見て話したい。
3. ココまで来てもらうのは、忙しいのに悪い。それにG教にいるって、矢口さんに
はまだ言っていない。だいたい言って良いものなのかも、よくわかってない。
そういう心理が強くはたらいたのだった。一度息をしないと、私は、ダメになっ
てしまう。
「出来ればなるべく、人目の欺ける場所がいいです‥。お願いします。」
また我が儘。私がその時出した声は、やっぱり情けなかっただろうか。
「あー、それは勿論。」
いかにも聡明そうな相づちを、矢口さんはうってくれた。
「じゃあ、明日。ヤグチの学校が終わってから。あ、でも。ちょっと用事が
あるかも知れないんだ。だから‥、7時‥頃かな、カンペキなのは。じゃあ
7時に『きぼうヶ丘』で。そ。駅に着いたら一度連絡ちょうだい。
くれぐれも気をつけろよ。わかんないけど。」
「ハイ。じゃあ明日、7時に。」
そう言って電話を切ったあと、私は理由もないのに、辺りをそっと見回した。
誰もいない。梨華ですら。あたりまえだけど。
なんとなく一人になりたかったから、私はわざわざ和室の階の、誰もいない
洗面室で話していたのだ。
(明日はタクシーで行こう。それも何台も乗りかえて。ココの裏口まで、呼んで
もらえば-----、てゆうか自分で呼べばいいか。できる事は自分で。)
ここの車を使わせてもらうのも、なにかと都合が悪い。
タクシー代はどうしても真希ちゃんに借りることになるし、別にこのハナシを
梨華はおろか、真希ちゃん、加護、あと教団の人たちにだって特に内緒にする
必要はないのだけれど、私は電話中なぜか背筋をまるめ、手で通話口を覆
って話した。そしてそんな自分の姿が豪華な洗面カガミに映ったりしたので、
我ながら少し可笑しかった。
梨華は連れて行く。2人で行くのはもしかしたら目につきやすくて、より危険
なのかもしれないけれど、でも万が一、ひとりで行ったうえに何かが起こって、
離ればなれになってしまう方がもっと嫌だからだ。
これは脱出じゃない。大好きだからこそ、ほんのちょっとの間、出てくるだけ
なんだよ。
オオゲサか。ゴッチン。
翌日。
「時間だわ。ごっちん、そろそろウチら行く。」
「ぬぁ〜、気をつけなよ〜?」
真希ちゃんは3万円貸してくれた。札入れではなく、折りたたみ式のきれいな
おサイフからナマで直接くれたので、それらはピン札ではなく、普通に皺が寄
っていた。
「え、いいよこんなに。」
「うん。使わない。」
梨華も頷く。
「だってさあ、なんかあったらヤじゃん‥。」
そう言って真希ちゃんは顔を顰めた。
「そんなのぜんぜん足りないぐらいだよ、‥50万くらい渡そうか〜?だって
どうすんのよ、帰って来れなくて‥。路頭に迷ったりしたら〜?」
「へいき、へいき。だってワタシがついてるモン! ね、ひとみちゃん。」
「そうとも言うね!」
身震いをしてみせたゴッチンに梨華はハシャいで言った。私の手を取って。
まるで、遠足へ出かけるみたいに。
「不安だよ〜〜〜。」
(ずいぶん前に、あったな。こんなコト。センセー元気かな。)
そう、漠然と思っていた。もっとも今回は、ちゃんと帰ってくるケド。
すると、真希ちゃんは急に笑顔に戻った。
「けど今回は、なんか平気な気がする。カリスマの勘でわかる。」
気楽そうな、のほほんとした。
真希ちゃんがその時どんな気持ちでじっさい言ったのか、私にはまだわから
なかった。けれど確信した。
「でしょ?やっぱり?」
真希ちゃんがそういう顔で言うなら、余裕ってカンジだった。
軽い変装をほどこした私達はG教の北側、地下駐車場の出口脇にタクシーを呼び
つけた。梨華が被っている帽子と私がかけているセルロイドのおしゃれ眼鏡は
出がけに真希ちゃんが貸してくれたもので、それぞれ私達によく似合った。
私達は今日、外に出る為の用心として服装にも気を使っていた。いつもと違った
雰囲気を出すために梨華はスカートをやめて、ストレートのGパンと固いスニー
カーで足元を隠している。逆に私はオバサンみたいな長さのスカートを履いた。
長くない髪をムリヤリ2つに縛って、横でわけた前髪をピンできつく留めたら、
ほんの少しの事だけど、これでずいぶん違った。
「別人。」
「ね。」
今朝、着替えた時に私達は呟き合って納得したのだ。
結局、タクシーは3回乗りかえた。どの車もそれほど渋滞でつまずく事はなく、
目的地への道のりをするするとうまく進んだ。野良犬でもいそうな場末の安い
路地やネオンの大通り、それから古い住宅地のうっそうとした木立の中をタク
シーはわけへだてなく進み、私と梨華は座席の中央に寄り添って座ったりある
いはそれぞれ窓のほうへ、分かれて座ったりした。
大きな交差点で止まった時に窓から外を覗くと、歩道をゆく大勢の人々の中に
真希ちゃんの姿がてんてんと混ざっているような気がした。それも何人も。ただ
その存在のひとつひとつが希薄で、どれを目で追い掛けても決してつかまらない。
真希ちゃんに借りた眼鏡の奥で、私は目を閉じた。ひそやかな昂揚にしばらく身
をまかせていた。車は動きだしたが、私達はあまり話さなかった。
『ゴメン、ほんのちょっとだけ遅れる、5分か10分。悪い、ほんともうしわけ
ないケド、先行ってて。大丈夫。安全。ヤグチを信じて。』
「そろそろじゃない?」
「うん。」
希望ヶ丘の駅にほど近くなった頃、梨華がそう言ったので、私は携帯を取り出
した。駅についたら電話をする、そういう取り決めだ。
タクシーの中から電話を入れると矢口さんはすぐに出た。けれど、遅れるみた
いだ。
「えー、マジっすか?」
携帯を握った私の返答に梨華も不安そう。
「矢口さん、なんて‥?」
(ちょっと待って、)
そう身を寄せて来るのを、手と目で私は制した。
「ハイ、あ?駅から走れ‥?でもそれじゃ、余計に目立つんじゃ‥?」
「アハハ、なら歩いてきな。駅からは近いよ。店自体は安全、よく知ってるところ。
働いてる知り合いに頼んでおいたよ。入ったら、ヤグチの名前言って。」
矢口さんと話しているあいだにタクシーは駅に着き、ロータリーに入った。
受話器を耳にあてたままで私は車を降り、お金は梨華が払った。
指定された店の入り口、赤い鉄の扉に手をかけた時、私達2人はハァハァと息を
切らしていたし、そのうえ笑っていた。
電話で矢口さんに言われるままに、私達は道のりを早足で歩いていたのだった。
「あー、そのコンビニを左に曲がって、真直ぐ行ったところ。3〜40メートル。
じゃあ、あとで。」
電話で店の近くまで誘導して、そう言って矢口さんは切ったのだけれど、周囲は
その時点で、すでに人通りがほとんどなかった(駅から3分くらいの距離だった
のに!)。
なんだか心細く感じながらコンビニの角を入ると、道は更に細く、ひっそりとして
いる。もともと競歩選手のように私達は歩いていたのだけれど、怖さに負け、つい
に走り出してしまった。それはまるで100メートル走のように。
そんな行動は本来恐怖心から出たものだったけれど、2人して猛烈に加速していく
うちに、本末が転倒した。
夜の街、と言うか、外じたいに出るのがずいぶんと久しぶりで、やっぱり興奮して
いたせいもある。暗い夜の道を全力で一直線に走ると、その疾走感からか、途中
からなにもかもが全て可笑しく思えた。
スリルとストレス。或いはトレイン・トレイン。
前をゆく梨華はスニーカーだからすごく早い。でも、笑ってる。
ショシ〜〜〜だか、ひょひ〜〜〜〜だか、あんまり覚えてないけど、私達はそんな
怪しげな嬌声すら上げ、暗い夜道を爆走した。
10秒もたたないうちにそして見つけたのは、言われた名前の小さな看板。
(edenというその名前が、矢口さんは好きなのだそうだ。)
「はぁ、はぁ。ひとみちゃん、ココだよ‥。」
「うん‥。だね‥。アハ、アハハ、‥。」
肩で息をしながら私達は止まった。走ったから苦しいのか、それとも笑った
から苦しいのか。知らない。感情の糸が、完全に絡まっていた。
力を入れて扉を開けたとたんに、とても懐かしい空気に私達は触れた。白く霞んだ
室内の、そのところどころに浮き上がる暗いネオン管の色彩。
「IDを。」
「あ‥、矢口さんと、待ち合わせを‥、」
ドアマンは頷き、私達は通された。
音楽と喧噪が解け合って、意志を持って押しつぶそうとするみたいな、やけに濃厚
な洪水や、そして、昼間は一体どこに隠れているのか、明るくて暗い、顔のない
群集の、ひと、人、ヒト-----。もっともバーなんて、どこも似かよっているのか
も知れなかった。このエデンという名の店は、あのバーに似ている。
「ゴメンほんっと、悪い!!大丈夫だった!?」
それから予告通り、きっかり10分遅刻して、矢口さんは現れた。良かった、無事に
会えた。とりあえずホッとする。
(でも制服だ‥。いいのかな‥。いいのか。)
お化粧はいつものようにすごく決まっていて、抱き締めたいほど可愛い。
「はい。平気でした。でも結局、走っちゃいました。ね、りかっち。ウケたよね。」
「うん、なぜか。矢口さん、お久しぶりです。」
「なんだよソレ。」
矢口さんは、笑うのを隠すように短く言って、ガタリと椅子をひく。
「げんき?」
なんだかキレイになって。少し痩せた?
ほんの気休めでしかない観葉植物の厚く不健康な黄緑いろの葉が、それでも
ちょっとした目隠しのように周囲の視線から私達の肩を少しだけ隠していた。
奥の方まで伸びている通路にほど近いこの席へ、ドアマンではなく彼に耳打ち
をされた店員によって私と梨華は通されたのだが、矢口さんは案内をつけずに、
フロアをひとりで横切って来たみたいだった。
「えーとさ、」
矢口さんは話し出す。
飯田さんたちと海に行った日、あれを最後に矢口さんとは会っていなかったから、
およそ3ヶ月弱。電話で話していたせいもあるのだろうけれども、そのブランク
を感じさせない矢口さんの口調だ。表面的には。
「とりあえず、その格好はどうしちゃったの? しばらく会わないウチに2人とも
趣味変わった?よっすぃはヤケに女の子っぽいし、梨華ちゃんはすんごいボーイ
ッシュだし。マジ最初わかんなかったんだけど?」
と、笑った。それが照れ隠しなのだと、私も梨華もちゃんとわかっているけれど。
「席はいちおう入り口で聞いたけどヤグチ背低いしー。近付かないとわかんないしー。」
すると、梨華が、
「少し変装しようかなって‥。似合います?」
パーカーのフードを立てつつ、キャップを被ったまま、服装に合わせて低い声を
出そうとした。けれど甘いシャーベットのような感じは、やっぱりどうしても
残ってしまった。
「うん、‥まあ似合う。そう、新鮮だけどね。」
「ひとみちゃんも、ホラ。なんか、カワイイでしょう?見てこのヒザ小僧!そして
この前髪!」
「うん、キャワイイ〜よっすぃ〜。なんかオトメって感じ。ホれちゃいそう!」
そう言って矢口さんは私にキッスを投げた。そして私も。
「OH, マ〜リ〜。よせよせ真里〜。じゃ今夜(きょんや)待ってます。このコには
ナイショで。」
なんつって。いつもの事だ。
「キッツー。」
と、矢口さんが言った。
「大変だな、ワタシは。‥ほんっと、どこ行っても。」
と、梨華も言った。
そんなのはほんとに、いつもの流れだからべつに。
「矢口さん、飲み物は?」
「2人とも何飲んでんの?」
「私も梨華っちもウーロン茶です。」
「真面目だねー。矢口もそれでいいや。」
「私達、お酒はまだちょっと‥。ね。それにひとみちゃんは今日、運転して帰らなきゃ
だもんね。あ、免許持って来た?」
「持って来たよ。すみませんウーロン茶もうひとつ下さい。てゆうか矢口さん今日制服
じゃないですか。」
3人とも、テンションが高かった。というかここでは音楽と人の話し声で会話が紛れ
てしまうので、普段よりも大きな声で話さないと伝わらない。それでも30分もする
と耳が慣れるのか、それともお互いのむやみな緊張がほどよくトッパラワレテくるのか、
次第にトーンを落として、私達は真面目な話へ入っていった。
「今日は遅れちゃって本当にごめん。絶対間に合うと思っていたんだけど、ちょっと、
思った以上に時間かかっちゃってさ。」
「いえ、大丈夫ですよ。なんだかんだ言って、スパイみたいで楽しかったんです。」
「本当に、矢口さんには何から何まで‥。ひとみちゃんといつも言ってるんです。
悪い、悪いって。ね。」
「スイマセン‥。」
「いいよ。」
矢口さんには一体何回謝っているんだろう?でもこんな非生産的な私の態度もつっぱ
ねる事なく、いつだって聞いてくれて、根気よく笑ってくれる。矢口さんは受動的な
優しさにあふれている。
「今日は、学校から直接来たんですか?それとも、何かお稽古ごとですか?」
半分ほど減ったウーロン茶をまた一口飲み、顔を上げて矢口さんに私が尋ねた。
矢口さんはいつもの少し悪ぶった笑顔で、わざと目を輝かせて答えた。
「お稽古って? 花嫁修行のこと?」
「まあ、平たく言えばそうです。」
「いやー、いろいろ聞いてんだねー。どうせなんかガラの悪い連中がいろいろ言い
ふらしてんでしょ。どうでもいいけど。 今日は、違う。警察に行って来た。」
「警察!?」
梨華の声と私の声が重なった。その後少し、私はむせた。
「け、警察‥、ですか。」
と、梨華。
「ちょっと2人とも。そう警戒すんなって。クラスの子が、昨日万引きで捕まっ
たの。お嬢だけど常習者でさ。いろいろ余罪が出て来ちゃって、改めて調書とる
から今日も来いって言われたんだって。なんか知らないけど、『一緒に来て、
お願い。』なんてヤグチに泣きながら言うからさあ。付き合ってあげた。」
「そこの親は‥?」
「知らない。忙しいんじゃないの?」
「お腹空いちゃった。なんか食べない?」
そう言って矢口さんはメニューに手を伸ばした。その、なかなか泣き止まない
友達をなんとかなだめて矢口さんはいったん家に戻り、そして、着替える間も
なく車と荷物を持って、ここまで来たそうだ。
‥と、いうことは。
「矢口さん、ここまでひとりで来たんですか?」
この店まで矢口さんは、運転を誰かに頼んだのだと私は思っていた。または
あらかじめヒトに頼んで、車(と荷物)だけ先にこの辺りまで運んでもらって
いたとか。今までの矢口さんのやり方からして、てっきり。
「そうだよ。フフ。」
矢口さんの目に俄な輝きが宿った。
「言ってなかったよねそういえば。ヤグチも取ったの。免許。」
「嘘、スゴーイ!!」
ぱちぱちと梨華が手を叩く。
「ホントですか!?早くな〜い!?」
「うん。まあね。なんていうか、花嫁修行の一貫? あ〜んなんか照れるケド。」
運転、なんかワタシ、置いてかれちゃったカンジだなー。
そう呟いた梨華はそれでも自分の事のように微笑んでいる。
「花嫁修行って、他にはどんなコトしてるんですか?」
続けてそれも楽しそうに聞いて、そっちにも興味があるみたいだ。はしゃいで瞳を
輝かせた梨華をあからさまに焦らすように、矢口さんは息をゆっくり吸って答えた。
「聞きたい?」
「聞きたい聞きたーい!」
「お茶、お料理、お花、免許。それから作法。‥それと、避妊。育児、授乳。四十八手。
‥ プッ、その顔!!」
矢口さんの冗談に梨華は顔を赤らめていた。ということはつまり知っている
ということだ。破廉恥。
うまくやりこめられたかたちの梨華にそ知らぬ振りをして(けれど本当はすごく
得意げに意識して)、矢口さんはメニューを眺めていた。ここに来るまで私は
気持ちが張り詰めていたから、食欲などはどこか頭の隅の方へと押しやられて
いたのだけれども、無事、矢口さんに会って緊張もだいぶほどけて来た頃から、
じつは空腹を感じ出していた。矢口さんと同じで、梨華も私も、夕食をまだとっ
ていない。けれど、それでも何かを頼もうと自発的にしなかったのは、先程羅列
された数々の習い事に加え、勉強でもそれなりに成績を取らなければいけない、
忙しい矢口さんの身を案じての事だ。
「矢口さん。これから、時間あるんですか?」
だから気を使って、メニューに目を落とす飄々とした矢口さんに訪ねると、
「うーん、そんなにはナイ。でも食事ぐらいしようよ?」
と、肩をすくめ、なんだかくすぐったそうな笑顔と返事が、矢口さんからかえっ
て来たのだ。
チキンとサラダと揚げたじゃがいもを私達はそれから頼んだ。空気の良くない
店内は更に客数が増えている。料理を運んで来たウェイターがあの頃の私に
よく似ている。と、粗い喧噪を聞き分けながら私は思っていた。暗いフロアを
颯爽と横切り、乱暴でもなく、そして丁寧でもない、良くなれた手付きで目の
前に皿を置いてゆく。
「カッコいいですか?」
と、聞いたのは梨華。大味で量が多いアメリカン料理を真剣にそしてもぐもぐと、
私達がおおかた、食べ終えようとする頃だった。私達は食べるのに集中して
いたし、それでなくても梨華はあの後、発言を控えている感さえあったのだけれど。
「え、なんのハナシ?」
「 ン? だ・か・ら。矢口さんの婚約者。」
先程の失敗(?)にもめげず、再び反旗を翻した梨華は、テーブルに両肘をついた。
そしてそのまま、ニコニコと矢口さんを見つめている。無邪気なのか、計算なのか。
私にはわからなかったけれど、そんな梨華の姿はとても好ましいと思った。
「どんな人なんですか〜?気になる〜。ね、ひとみちゃん。」
「ウン。」
(梨華と私は‥、結婚なんて出来ないんだろうなー。どう考えても。)
そんな事を考えつつ。
(というか、人並みのシアワセなんて、ウチらにはもったいないっすよ。)
「べつにいい!ってゆうかけっこう幸せ!」
脈絡も気にせず、思わず口に出してしまう。
私達のそんなやりとりを、すました笑顔で矢口さんは見ていた。且つそのすました
笑顔の矢口さんを、ひそかに私が見守っていた。
(どんな人と、結婚するのかな‥。)
今では私の一番の興味も、そこへ移っている。何故、結婚をするのか、と、いう
ことについてはきっと私にはわからない、矢口家の由緒正しき事情のような
ものがおそらくあるのだろうと、すでに納得している。
本当のことをいうと私は、こんな質問を矢口さんはいつもの声で笑い飛ばすだ
ろうと考えていた。こういった一歩踏み込んだ質問に、矢口さんはこれまで、
答えた事がなかったから。
けれども違った。矢口さんはきちんと答えた。
「かっこいいよ?頭いいのに、けっこうワイルドでね? あと、すごい優しい。」
(特有の視線は混乱を促す。意地悪で可愛くて、スマートで瀟洒な。)
店を出る直前、店内の雰囲気にすっかり慣れた梨華は、一度手洗いへ立った。
店は一応IDをチェックしているし、なにより矢口さんが安全と何度も太鼓判を
押した。いくら安全とはいえ通路の奥までひとりで行かせるのはやっぱり少し
心配だったけれども、矢口さんと2人きりになったこの機会を利用して、私は
矢口さんに、ひとつ頼みごとをした。
「あの、クスリが欲しいんです‥、使ってみたいんです‥、一度。」
「ハァ?」
あの時矢口さんの顔には、一瞬だったけれど、明らかな蔑みの表情が浮かんだ。
考えてみれば矢口さんにあんなふうに見られたのは最初で最後だった。間違いなく。
「ちょっと待って、なんで?」
それでも一応は理解してくれようとして、笑顔を作って、諭すように。
「はっきり言って、くだらないよ?カッコわるいし。」
「お願いです。こんな事はこれっきりです。」
「あれ、矢口さんは?」
なにくわぬ顔をして無事戻って来た梨華は席に矢口さんがいないことに気がつき
不思議そうに尋ねた。
「ん、トイレ行った。会わなかった?」
私はシラを切る。そのついでに、隣に手を伸ばして、梨華の椅子を引いてあげる。
「うん‥。会わなかった、けど。」
すぐに矢口さんは帰って来て、また席についた。表情はいつもと同じだったし何も
知らない梨華は気がつかなかったと思うけれど、そんな無表情の仮面の下で矢口さん
が苛立っている事が私にはわかった。
「おまたせ。」
梨華に向けて笑顔をつくりながら、矢口さんはテーブルの下で小さなプラスチック
バッグを私によこす。
梨華には、黙っているつもり。
「ひとつ、聞いてもいい?よっすぃ達今、一体どこで暮らしてるの?」
店を出て車を停めてあるという近くの立体駐車場へ私達は向かっていた。暗い通りを
先導し、先に立って歩いていた矢口さんが視線を前に向けたまま聞いた。
うーん‥、ひとみちゃん‥?
そういった感じで梨華が私を覗きこんでくる。居場所を言うか言わないか、判断を私に
まかせるつもりだ。
「G教です。」
ことのほかあっさりと私が言ったので、梨華は少し驚いていた。矢口さんの表情は
影になって見えない。
「そっか。じゃあ、安全なんだね‥。警察も、入って来れない‥。」
「ハイ。」
「でも気をつけて。いろんな噂を聞く‥。テレビとかだけじゃなく、実際に、元信者
のコとか‥。うつろな目で、そのへん彷徨してるよ‥。」
「わかって、ます。」
駐車場は無人だった。暗い裏通りにそのうす緑色のライトが寒々しく際だっていた。
無音の音を辿っていると遠くでクラクションが鳴った。ぼやけている空には星がいく
つか。三回建ての駐車場の天井のない最上部に、見慣れた赤い四駆はポツリと停まっ
ている。
そこから私達は飛び出し、明るい方、つまり駅を目指しアクセルを踏んだ。駅で矢口
さんを降ろす為に。
本当は、
「家まで送って行きますよ?」
と、何度も誘ったのだけれど
「いいって。無事に帰らなきゃいけないんだから、遠回りなんかすんなよ。ホントなら
ヤグチが送ってってあげたいぐらい。」
と、矢口さんは頑に断る。
「本当にいいんですか?ウチら平気ですよ?」
「いい。タクシーで帰る。」
矢口さんを家まで送っていってあげたかった。私の運転で。
梨華、矢口さん、ごっちん、そして自分。生きて行くうえで優先順位をつけなければ
ならないのは仕方のないことだけれど、それはほんとうに辛く悲しい事だ。
「じゃ、せめて駅まででも‥。」
あくまでも笑って拒む矢口さんを私は無理矢理座席にのせた。ナンバーも、しっかり
変えられている車。けれど間違いなく私の車。
結論からいえばその外出は滞りなく終わり、私達は真希ちゃんの元へ無事帰り
着いたのだけれど、特筆すべきことがあるとすれば帰り道、検問をやっていた
ことだ。
「梨華ちゃん、やべぇ!」
と、思った時には既に遅く、私達の2台先ではもう審問が始まっている。
「や、ちょっ、なにこれ?」
「怖え〜‥!」
今から逃げても逆効果。必ず捕まってしまう。
「どうしよう!?」
と、2人して青い顔でジタバタしているうちに、若いカンジの女性警官が2人、
コツコツとこちらに近寄って来る。その髪の長い方の合図に従い、私はドキドキ
しながら窓を開けた。
「シートベルト、良し。お手数ですが、免許証を拝見。」
「ハイ‥、」
低いのに、どこか明く響く声に好感を覚えながらも私はぎこちない手付きで免許
をさし出す。
緊張しながら待っていると、女はいきなり笑い出した。
「ギャハハハハハ。なにこれマジ!?ちょっと来て〜〜〜!!」
そう言って、車の後ろに回っていたもうひとりの仲間を呼ぶ。
ハッとして私は顔を上げた。そう言えば‥、その写真‥。
『ヨユーよッ、むしろイケイケよッ!!』
あの時保田さんが言った通り、その普通じゃない写真は効力を発揮した。
「やべ〜、コレ。超ウケル。良くこんなん通ったねー、免許とる時。」
「ほんとー。マジブス。考えた方がいいよ〜?」
などと、その2人は口々に言いながら、結局そのまま通してくれた。
やけにほっそりとしている足。2人とも制帽で、顔がよく見えないけれど。
「行ってよし。」
私はミラーに充分気を配りながらしっかり右にウィンカーを出し、2、3度点滅
させてから、慎重に発進した。
付近に停まっていた一台の白バイ(白いスカーフをまいたそれも、どうやら女性
だったみたいだ)と、数台のミニパト、検問を構成するそれら組織の姿が完全に見
えなくなってから梨華はようやく口を開いた。
「焦ったー。本当。」
「ね。マジで。あいつらがバカで良かった‥。」
私も息を吐く。とても大きく。
「けどさー、見た?」
「何?」
「あの警官、鼻にピアス開けてたよ?いいのかね?」
「本当?でも、そう。そういわれればあの人たち、スカートやけに短くなかった?」
「うん‥。本当にいるんだね‥、ああいうの、いいのかな。公務員なのに‥。おっと。」
赤信号。車にあわせて、なぜか黙り込む私達。
やがてすぐに、青に変わった。
「まあいいよ。なんともなかったじゃん‥。」
「そうよ、ね。」
前略、おふくろ様(と、お父さんと弟達2人。)
元気ですか。きっと、急にいなくなった私の事、とても心配しているでしょう。
けれど心配しないで下さい。私は姉と2人(----アッと、お母さんに対して
こういう言い方していいのかな、)、元気にやっています。これからもできる
限り梨華を助け、2人して行けるところまで頑張るつもりです。
そんなことより、あの土手を覚えていますか?そうだよ、家の近くの。家族
みんなでよく行きましたな。
私がまだ小さい頃、川はまだ結構キレイで、夏は水に入って遊んだ。秋は枯れた
芝生の土手をダンボールとか、時にはプラスチックのそりで滑ったりして。
春はセリやヨモギをつんで、草餅や炊き込みご飯にして食べたね。あの冬の、
街中を騒がせた枯れ草の大火事、じつはあれが、たき火をしようとした私と
弟達の仕業だと知ったら、お母さんは怒りますか。
川に囲まれた平和な街から、私は、そして梨華も、ずいぶん遠くまで来てしまった。
もう2度と戻ることはないでしょう。
でもなにげに明日にでも捕まってしまって、もしかしたら案外すんなりと、
そこでまた暮らす日が近いうち来るのかも知れません。
わからない、わたしには。梨華を守って信念に従い、ただひたすらゆくだけです。
あの川、あの風。はっきりと覚えているんだ。幅の広い土手に架かった、大きな
鉄橋も。頭上を駆け抜けてゆく電車の轟音も。西の空に見える山脈、夕焼け。
そしてこっちがわで煌めく、小さな市街の明かりも。
お父さん、お母さん。
あの記憶を私が失うことは一生ありません。
幸福に、丈夫に育ててくれてありがとう。
そしてごめんなさい。
私は今日、薬物に手を出します。
地下の駐車場に車を停め、そのまま最上階に上がって、私達は真希ちゃんと再び
対面した。時間はだいたい、10:30頃。
真希ちゃんはさながら、広い体育館の真ん中にひとりでぽつりと座っているカンジ
に、壁紙の部屋の前部にあるテレビの正面に座っていて、更にその反対側の隅では、
まだ起きている加護がうつ伏せになって雑誌を読んでいた。
「ただいま。」
「お〜、お帰り〜!!」
外出していたのはほんの2、3時間だけなのに、部屋に入る時私はなぜだか
人見知りをしてしまって、顔が少し赤くなっているのが自分でもわかった。
「よくぞご無事で〜。」
真希ちゃんは満面の笑みを浮かべ、どこか遠い国の親善大使のような口ぶりと身ぶり
で私達を迎える。その笑顔が明るく眩しいので、私はやっぱり一瞬うろたえたけれど、
「おっ、あいぼん。コドモは寝ないとだめだぞ?」
なんて、向こうの加護に一言かけ、余裕を演出しながら真希ちゃんに近付いた。
正面に見えるサッシの奥には夜の暗い闇が広がり、川の向こうの高層ビルでは
避雷針が赤く点滅している。
真希ちゃんの目が赤く、まるで泣き腫らした後だということに私が気が付いた
のは、梨華とともにテレビの前へ、真希ちゃんと並んで腰をかけた時だ。
「で、どうだったのよ?ちゃんと会えた?」
人なつこく覗き込んでくる真希ちゃんに、梨華と私はいろいろ答えていた。
と、真希ちゃんの頬が、いつにも増して赤い。良く見ればうっすらと涙の痕が
残っている。
「あれ、ごっちん、もしや泣いてる?」
「うーん‥、ちょっとね。あは、わかる?」
(もしかして、私達が帰って来ないと思って、心配して泣いてたのかな‥。なんて。)
ありえないと私は知っていたけれど、いくらか自嘲の意を込めて、敢えてそう
思ってみた。
「どうしたの?」
いつもの生真面目な様子で聞いた梨華に真希ちゃんは、
「ちょっと〜。恥ずかしいからあんま見ないでよ〜。」
と、あくまでも明るく笑った。小脇のティッシュ箱に手をのばしてそのまま
チーンとやり、それを丸めて屑篭に投げたけれども、距離があり過ぎて届か
なかった。
「さてはごっちん、淋しかったんでしょう〜?ウチらがいない間〜?」
と、私は冗談めかして。
(‥わかってるけど。そんなワケ、ないって事。)
べつに何かが変わるだなんて思っているわけじゃなかった。こんなちっぽけな
私が、こんなに小さな罪悪に身を染めたところで、到底真希ちゃんを理解し、
並列な位置へ自分を導くことなど、そんなのできるはずはない。しっかりと
解っていた。
ましてや救うコトなど。
或いはそれは口実で単に私は逃げているだけなのかも知れなかった。真希ちゃん
にたいしても、それに、なにげに矢口さんにたいしてだって感じるコトや言いた
いコトが数え切れない程あるのに、肝心な事を言えない。と、言うより、何が
肝心な事なのか、気持ちの整理がおそろしくつかない。
2人から発せられる相当危険な信号だけは、ビリビリと敏感にキャッチできるのに。
理由もなく溢れて来るこの妄信じみた不安や焦燥を私が言葉にさえ変える事が
できないのは一体何故だろう?
『彼等の為に何かをした、』
そんな免罪符が、ただ欲しいだけなのかも知れない。
梨華のように、2人を連れて逃げるわけにはいかない。
真希ちゃんと私の、一種のディスコミュニケーションは、思えば出会った時から
明確に存在していた。『私のヒーローは私に無関心でなければいけない』なんて、
あの頃は単純に考えていたけど、実際には真希ちゃんの無関心の対象はべつに私
のみではなく、そこから来るやさしさや素直さが、世の中の万物を照らしている、
そんな感じだった。
『淋しかったんでしょう〜?ウチらがいない間〜?』
と、いう、冗談めかした私の質問に真希ちゃんは笑ったり首を傾げたり、更には
ふざけて「きゅ〜ん」などと言ったりして、特に何も答えなかった。別に私の方
もそれほど情熱的に聞いたわけでもないから、それなりに自分で何かを言って、
その場を流そうとしたのだけれども、すると、あいぼんが遠くから、あからさま
に舌を鳴らした。
「後藤さんは、映画観て泣きまくってただけです。情報料、500まんおく円。」
ごっちんの代わりに答えてくれた。
(苛立っている声と突き刺さるような口調は、加護亜依特有の複雑な気づかいなの
だと私が勝手に思うようになったのはこの頃だ。)
真希ちゃんが観ていた映画は、ちなみに、『グーニーズ』だった、そうだ。
あの話----洞窟の先に、片目の海賊の宝が眠っている話。
ハッピーエンドだし。泣くような内容かよ!?
と、私は真希ちゃんに言及したけれど、梨華は
「なんだかごっちんらしい。」
と言って笑って、そして真希ちゃんも。
「でしょでしょ!?」
って。その笑顔はさっきまで泣いていたとは思えない程、健やかに、明るく。
「いや、でも結構心配してたんだよ?加護はあんなふうに言うけどさあ。」
「わかってるって。ありがとうね。」
ちょっと疲れちゃったんだ、今日は。
私達はそう言って、早めに和室に戻った。借りていた眼鏡と帽子とお金を返して。
「べつにいいよ〜、お金なんて。」
と、苦笑する真希ちゃんに微笑みながら、
りかっちは、いいよ?まだ話してても?
と、私が言うと、梨華は真希ちゃんと私を見比べながら少し悩んだあげく、
結局、私と一緒に和室へ降りた。
矢口さんから渡された、ジップロック式の小さなビニール袋の中には、白くて、
正方形の形をした小さな紙片が、一枚入っていた。大きさ的には、一辺が約1cm弱、
およそ、7mm程度だと思う。画用紙みたいな厚さの紙に、成分を染み込ませた薬。
なんていうんだっけ、コレ。見た事は‥、あるんだけど‥。
壁紙の部屋を出る際、『おやすみ』と言った私達に、手を振った真希ちゃんの
笑顔を思い出しながら、手のひらの小さな紙片を私はしばらくながめていた。
梨華は洗面所に向かい、そのままお風呂にも入って来るみたい。
その隙をついて、飲む。
(私、1年くらい前なんて、バレーボール部のエースだったんだよなあ。生徒会
にも‥立候補するとかしないとか‥。そんな感じの生徒だったんだっけ。)
そんな事を考えながら。
飲み方は、以前バーで見た事があるので、苦労はしなかった。小さな紙切れを
4つにさらに細かく折って、そのまま口の中に放り込むんだ。
やっぱり怖いから、お風呂はやめておいた。浴槽につかることで体内のクスリが
急激な変化を起こしたら嫌だし、それに万が一、入浴中に倒れちゃったりしたら、
皆に迷惑をかけて、目も当てられないからだ。
心境としてはなにかと複雑なのだけれど、意外と冷静だった私は、静かに布団に
横たわった。
(けっこう時間がかかるんだな‥。もっといきなり、くるもんだと思ってたけど‥。)
クスリが効いてくるまでの間、目を閉じ動かずにいると、やがて梨華が帰って来た。
けれど、私がずっと目を瞑ったままだったので、梨華も隣の布団に入って、何も
言わずに眠ってしまった。
いろいろ近くで接するうちに、真希ちゃんの強さはすなわち痛覚の無さだと、私は
考えるようになった。何度もはがしたかさぶたは、最期には痛みを感じなくなる。
たとえばそういう感じじゃないかと、私は思っていた。
高速で回転する惑星みたいにはずみのつきすぎた自転を、真希ちゃん自身、どうにも
できないのかも知れない。と言うか、そういう事自体、真希ちゃんは気付かないん
だろう。だからこそ、カリスマなんじゃないだろうか。
しばらくしてそれはやって来た。
ずっと見上げていた天井が、まず、波を打ち出した。
ズンドコズンドコと、なんかウーハーのきつい音楽みたいに、多分、私の
鼓動に共鳴して揺れている天井の板の張り合わせの部分を、私はまるで
波乗りでもしながらあみだくじをたどるように、面白く眺めていた。
いくら眺めてもそれは飽きなかったので、波打つ天井を私はずーっと、
微笑さえ浮かべながら見張っていた(実際どれくらいの時間だったのか、
あまりはっきりと覚えていない)。
やがて胎動は部屋全体へと広がり、柱からフスマから、となりに寝ている
梨華の布団までも、よせてはかえし、よせてはかえしと、伸縮を始める。
とても自由で楽しい気分のはずなのに、私は無意識に口を閉じていて、奥歯を
何度も、きつく食いしばっていた。顎の痛みに気付いては、それを、つまりは
歯を食いしばるのを何度もやめようとするのだけれど、数分経つとすぐに忘れて、
また顎の痛みに気づく。
その繰り返し。
例えばどうだろう?真希ちゃんがカリスマ・スーパーアイドルでなく、普通の
一学生として、私の学校にいたら?矢口さんも真面目な先輩として、同じバレー
ボール部にいたら?
矢口さんはちっちゃいから、マネージャーかな。面倒見もいいし、よく働くだ
ろう。黒い部分もあるけれど、そこがかえって頼りになったりするかな。
ごっちんとは2人して、全国目指しちゃったりして。なんでもできそう
だから、2人はチームの美少女エース!?
でも悪いけど、人気NO.1の座は、そこでは渡せませんぞ!
‥その世界では、何も起きないんだ。梨華の父親も存在しない。だから殺人は
起こらない。銃と金とも無縁な生活。平凡に‥、平和に‥。
その時だった。
「ひとみちゃん、泣いてるの‥?」
暗闇の中から、梨華の声がした。もうずいぶん夜更けだったし、寝てるから、
何も気づかれていないはずだった。
「え‥、何!?あたし、泣いてる‥!?」
「うん、さっきから‥。」
手をやると、梨華の言う通り頬には涙が伝っていた。
「アレ‥?なんでだろ!?やだな‥。」
私は動揺していた。何から弁明すべきなのか、かいもく見当がつかなかった。
自分で気づいていなかったくらいだから、私の泣き声はきっとたいしたものじゃ
なかったと思う。となると梨華はずっと起きていたのか。
「あ、起きてるの?」
「もしかして起こしちゃっ、た?」
などと、なんとかとりつくろうと二言三言弁解をしながら、私は梨華に背を向けて
慌てて目のあたりをこすった。けれども、咽をつく嗚咽は自分でも意外な程に
しつこく、思う通りの呼吸が、なかなか戻って来ない。
電気をつけず暗いままでいるのが、せめてもの救いだ。
涙としばらく格闘していた。梨華が掠れ気味にそう言うまでは。
「矢口さんから、聞いてるの‥。『クスリ、渡した』って。」
なんだ‥。そうだったんだ‥。
「飲んだの‥?」
梨華の声に、責めている調子はなかった。それどころか静かで暖かだったので、
私の心と、肉体と、私を構成する全てのものが脱力し弛緩してゆくのを感じた。
「こっち、おいで。」
私が黙っていると、梨華は自分の布団を開けて隙間をつくってくれた。私は
逆らう事が出来ず、梨華の言う通りにした。梨華は布団に入った私を、そのまま
やさしく抱きしめてくれた。
「気分は、どう‥?」
「どうって、ちょっとエッチな気分だよ。」
「真剣に聞いてるのに。‥もう、これっきりにしてよね。」
「わかってるよ‥。」
梨華の腕の中で、私はその後、泣いた。結構本格的に、大きな声をあげて。
初めっから、解ってた事だ。
真希ちゃんに、なれるワケがない。