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シアター

第4部

第1節

最寄りのコンビニに於いてつい最近発売されるようになったこの
ヨーグルトは、とある牧場より直送とラベルにあり、初め、ピンク
の小花柄といった愛らしいパッケージに思わず手を伸ばした梨華は
一口食べ、思いのほかまろやかなその口当たりにすっかり夢中に
なってしまった。

今朝方、バイトが終わった後にコンビニまで彼女がわざわざ買いに
行ったくだんのヨーグルトといくつかの調理パンを数時間後、昼過ぎに
目覚めた私達は食べ、バイトまでの空いた時間をソファでだらだらと
過ごすうちに私はまたもや眠くなった。
夢見が悪いから、あまり深く眠れないせいだ。
つけ放したTVの音が、ああまるで、子守唄のよう。‥。

居眠りから目覚めると梨華が覗き込んでいた。
「確かに気になるケドね。でも、そこまで夢に見る程?」
と、いうことはまた、私はうなされていた。ほんの少し微睡んだ、
こんな短い時間のあいだに。

数十分前、共に座っていた梨華の肩に凭れ掛かるようにして、うとうと
眠りに落ちた私だけれども、目を開けた今、いつの間にか頭部を、彼女
の膝の上に預け、両足を伸ばし横たわっている。
あ。膝枕されてる‥、やさしい‥。
嬉しさの為に少しだけ甘えたくもなったが、それをダイレクトに悟られ
るのは妙に恥ずかしい事とその時思い、私は敢えて眉を顰めた。

「自分でもわからない。どうしてこうまで、うなされるのか。でも可動式
のホクロと、‥あの痣ッ!もう気になって気になって‥。」
とみこ、しっかり!私は心の中で自分を叱咤し、頭を左右に振った。更に
気合いを入れるように、ピチャピチャと顔を両手で叩いた。

膝の上でおおいに暴れる私を梨華は目を丸くして、声を上げて笑うのだった。
「私達だって姉妹なんだから、別にいいじゃない。今さら身内が何人増えようと。
関係ないんじゃなかったの?」
「うーむ‥。」
私は口籠った。納得して良いものか。

と、その時。時報とともに切り替わったTV画面に、一人の少女が映し
出された。複数から同時に向けられるマイクと夥しいシャッターの罵声。
まるで乱国の兵のように一斉に押し寄せる記者達の中を、ほんの数名の
スタッフに守られ、彼女は無言で進んで行く。たった今降りた灰色
のヴァンから十数メートル歩いた彼女の、最後の数歩は駆け出すように、
白く、目深に被った帽子は建物の奥へと消えて行った。

梨華の膝に頭をのせたまま、私はその映像をいまいましい思いで見つめて
いた。普段なら特に、ワイドショー等には興味のない私だけれど。

‥なぜならそれが真希ちゃんだからだ。彼女は今、叩かれている。

直後、しらじらしい程明るい曲が番組のタイトルとともに流れ、挨拶
を終えた司会者が端から順に出演者を、ひとりひとり紹介してゆく。
一番隅に座った自称芸能評論家は、他の2人のゲストと比べて倍に近い
時間を取り、熱く、不愉快な程かつぜつ良く喋った。

「彼女の場合アイドルであり、且つG教(※作者注。『ジーきょう』と
読んで下さい。)というカルトの教祖といった肩書きも同時に持つわけ
ですが、今回の教団本部、売春斡旋疑惑が仮に真実だとすると、彼女も
当然絡んでいる、そう考えて間違いないと思います。メディアを通した
圧倒的な人気、主として中高生に強い影響力を持つ彼女自身が広告塔に
なるため、少女売春の対象となる素材、つまり彼女に憧れた未成年女子
信者ですが、その多数獲得が可能になるんです。

僕はそういうのは許せないッ!生理的に吐き気がするんだ。

まあ、今回の事は政財界も巻き込んだ大騒動になりかねないのですが、
それよりも僕は今日、後藤真希本人に関する欺瞞をここで徹底的に検証
して帰りたいと思っています。今のところはまだグレーだが、そもそも
彼女には黒い噂もピンクの噂も、それこそ掃いて捨てる程あるんだ。
シロであろうとクロであろうと、この際はっきりさせた方が彼女のため
にも良いと思いますよ。未成年ですし。そういう意味では今回の騒動も
彼女にとっては決してマイナス面ばかりではないということですかね。」

ハァ?つうか長い。
小ぎれいな身なりをしていても話すうちに興奮し、やがて、歯茎を剥き
出してしまうのは、近頃テレビで良く見かける、この男の耐え難い癖だ。
セーターなんか肩からかけて、むしろお前の鼻の下のその溝の深さの方が、
よっぽどの大問題なんだよ。

真希ちゃんはなあ‥、真希ちゃんはなあ‥っ!!!
拳を握りしめる私。

「ほんとコイツら『死ね』ってカンジ。」
諸々の、真希ちゃんのあまりの言われ様に体温が上がってしまったのか、鼻の
通りがやけに良い。途中、梨華の膝から身を起こして、怒りに震えていた私だが、
結局、真希ちゃん関連の部分は全て最後まで見てしまった。下唇を無意識のうち
せり出していた私に、梨華が遠慮がちな声を出す。
「売春疑惑‥。どうなんだろうね、ほんとうのトコロ‥。随分いろいろ言われ
てるケド‥。」
「さあね!けど私は真希ちゃんを信じるよッ。」

『黒い噂』に『ピンクの噂』。週刊誌なんてもっと酷い。返答する声が、
どうしたって不機嫌になってしまうのは、とりあえず誰にも責めて欲しくない。

すると梨華は、両手を上げ、大袈裟に驚いて見せるのだった。
「まあ?逆ギレかしら?怖いこと〜。」
その独特の、息を果たして吸っているのか吐いているのか、実際よくわから
ない発声法に、私は一気に怒気をそがれ、傍らの電話に腕を伸ばした。

「保田は今日、出社しておりませんが。」
対応に出た女性は、明るいが事務的な声で答えた。
保田さんからの連絡はあれ以来ないし、彼女からの電話は常に非通知だった
から、彼女のプライベートな連絡先を私達は結局知らない。
かといって、あの痣のことを気にかけているのもいい加減うんざりだったので
書類の入った、社名の印刷された封筒を頼りに、記載された番号へこちらから
電話をかけてみたのだ。

私達は運がよく、取次ぎの女性はそこそこ話好きな方なのだろう。書類偽造等、
負い目もあった為私が適当な偽名を使い顧客である旨を伝えると、彼女は
少しも疑う様子を見せず、保田さんが昨日から無断で欠勤していること、直属の
上司が連絡を取ろうとしているが彼女が捕まらない事、等を声をひそめつつも
明らかに楽しんでいるとわかる口調で話した。

バレたのだ----、私は一瞬にしてそう直感したが、ともかく書類上の私達に
関する記述は全くの出鱈目だったし、保田さんが捕まって口を割っていない
以上、私達のプロフィールが保田さんの勤める会社をはじめ、その他もろもろ
の関連機関に伝わってしまう事は不可能であることも次の一瞬で理解すること
が出来たので、とりあえず様子を見ることにした。

梨華のくるぶしに、小さくまだ新しい傷をひとつ発見したのは、電話を
切った私が彼女の腿に再び体を預けようとした矢先だった。
既に横たえてしまった体勢のまま、梨華の膝越しに私はその下方についた
すり傷を指さす。そういえば、オキシドールを切らしていたっけ。そんな
事が即座に連想された。

「これ、何?」
そう聞いた私の声に、尋問めいた色合いなど、これっぽっちも含まれていな
かったはずだ。が、梨華はなかなか答えなかった。
「うん‥、今朝、ちょっと‥。」
梨華の返事を待つ間私は傷に触らぬよう、そっとその周辺へと、静かに指
を這わせていた。
微妙に、うわずっている声。
真希ちゃんへのTV報道に対し憤慨する私、或いは保田さんと連絡が取れ
ずに落胆する私。その両方を、先程までいつも通りの軽い笑顔をたたえ、
穏やかな空気で見守っていた梨華。そんな彼女が見せた、突然変わった
不自然な様子。

「今朝?ヨーグルトを買いに行った時?」
梨華のひざ元からゆっくりと頬を離し、そのまま起き上がって私はソファ
を降りた。彼女の正面へ回り込み、床に座って梨華を見上げる。
「うん‥。ちょっと‥。走ったら転んじゃった。ハハ、私ドジだから‥。」
「暗かったし、やっぱり一緒に行けばよかった。そう言ったのに。」
「別に、コンビニくらい‥。」
隠し事がないとは言わせない。何故‥、走った?

私はおもむろに手を伸ばし、梨華の足首をささげ持った。
「今度から、絶対一緒に行くから。」
紅く、滲んだ傷はまだ、乾き切っていない。見つめているうちに、自然
と唇が吸い寄せられた。

梨華の命、そう言って良いと思われる誰よりも細く、そして綺麗に伸びた
足。私が実際こう思っていると知ったら、彼女は果たして怒るだろうか?
こんな小さな傷ひとつ、許す事ができない。

あの日がバイトに出た最後の日だったから、店内の雰囲気とか、客層とか、
細々としたところまで、本当に良く覚えている。
スピーカーから漏れる重いギターの音。そこそこ入っていた客の、拡散した
喋り声。それらは混じり合い、膨らんだ波のような層を構成する。更にその
上部には煙草の煙が薄い雲となって、天井付近に澱んでいるのだった。
普段真面目なバーテンは随分機嫌が良かったのか、アルコールを注ぐ合間に
自分もグラスをあおっていた。照れて、シェイカーを嫌う彼が、おどけて作った
綺麗なカクテル。くわえ煙草で出されたグラスをテーブルへと運ぶ途中、私は
それを耳にしたのだ。

客の年齢層がいつもより若干高めだったから、はりきった様子の2人の服装
は余計に目立って映った。大人びたミュール。さんご色の爪。あどけさが
残る口元は多分、高校生‥?
トレイを持って横を通り過ぎる瞬間、なにげに私がチェキを入れた瞬間だ。

結婚するんだってね、ヤグチ。
聞いた聞いた。

囁き交わされる感心の薄そうな声が、私の耳へと届いた。

マジ?
びっくりしてバランスを崩しそうになったけれど、私はなんとか持ちこた
えた。運動神経の良い私だけあって、酒はこぼれずに済んだ。早く梨華に
言わなくっちゃ。足早に歩く。

「ウソ?」
カクテルを出した帰り、直行したキャッシャーデスクで、梨華は目を丸くした。
サンダルを履いた足を、梨華はきっちりと組んでいたから、くるぶしにある
べき傷は、ちょうど私から見えなかった。
「わかんないけど。そう話してた。」
肩ごしに私は、高校生とおぼしき先程の2人を、視線のみで梨華に示す。
なにげない風を装い、その先へ瞳を巡らす梨華。
「あ、」
梨華が小さな声を上げた。
「あの2人、知ってる‥。何回か、矢口さんと一緒に来てた‥。」
「そうなの?じゃあ本当に結婚するのかな、矢口さん‥。」
梨華の視線は動かない。彼女へ向けていた視線を私も例の2人組へと、
そうと気付かれないように注意深く戻した。

「いや、本当だけど?」
休憩時間。ちょうど席を立った2人を、私は入り口付近で呼び止めた。従業
員は2名同時に休憩を取ることができないから、梨華は相変わらずキャッシャー
カウンターから離れる事ができないけれど、店を出ようとする2人に気付いて
私が走り寄る瞬間、一度だけ梨華とも目が合った。

「父親の取り引き先の息子だってさ。」
「向こうがすごい気に入ってるんだって。けっこう年上の人らしいよ?」
2人のうち髪の明るい方がそう言うと、もう一方の唇を過剰につやつやさせた
方もすかざず相槌をうった。
「そうなんですか、知らなかった‥。でも随分急なんですね‥。」
腕を組む私。
「急だから大変なんだよ。稽古ごとやら何やら、かなり大変みたいだし。」
「そう言えば。最近、矢口さん来てないけれど‥。」
「軟禁もいいとこらしい。ウチらだって全然会ってないよ。てゆうか遊んで
ないんじゃん?」
「あの矢口さんがですか?」
「そ。可哀想だよねー?」
「ねー。」
矢口さんの飲み仲間。この頃から私は違和感を覚え始めた。
2人はしきりに頷き合うが、声がいたって軽薄なのだ。

「そうだ。」
突然。グロスの方が愉快そうに、軽快に私を指差した。
「つうか、あんた。ヤグチと仲いいじゃん。私、知ってるよ?よく一緒に
座ってんの見た。」
ちょっと前、一緒に海に行ったばかりだ。この人たちって、飯田さんとか
ののたんとか、知ってるのかな。
「ええ、まあ。」
「でッしょー?ならさー、助けてやりゃいいじゃーん。てか名案じゃない?」
ギャハギャハと笑いながら言われたので、少し腹が立った。なんだ、コイツら?
からかっているの?

ひそかにそう思ったけれど、私は笑顔。
「てゆうか、なんで私なんですか? 無理に決まってるじゃないですか。ハハ。」
「だよねー。可哀想だけどー。しょうがないよねー。」
「お嬢のくせにあんだけ遊びたおしてたんだし。ま、年貢の納め時って
コトじゃん。なんつってちょっと早いけど。アハハ。」
嫉妬?こういうヤカラはどこにでもいる。矢口さんの前じゃこんなクチ聞けない
くせにさ。

しばらく立ち話をした後、挨拶をした私が扉を開けてやると、2人は笑いながら
出て行った。
「また来て下さいね。」
現在は互いの恋バナに夢中。私の声なんて耳になどとっくに入っていない様子。
なんて。今の私にはそんなこと、とっくに重要ではなくなっているけれど。

数時間後。
バイトから帰った私は、ベッドに仰向けに横になった。昨日のほぼ同じ
時間帯、梨華が足に傷を作った理由を、あれから私は特に聞き出しては
いないけれど。ともかく彼女は今日、コンビニに行きたいとは言わなかっ
たし、あれ程毎日のように食べていたヨーグルトも明日は我慢するらし
かった。

梅雨も末期となった今、雨は決して止まない。長いこと水を吸い続けた
この建物も、そろそろその昇華の限界を迎えているのか、雨漏りこそまだ
していないが、天井の片隅にはいつしか輪郭のぼやけた染みが、いくつか
ぽつぽつと浮かぶようになった。

梨華がシャワーを浴びる間、私は眠るでもなく、曖昧に黒ずんだ染みの
数を懸命に数えたりする。

スニーカーを履いていたから矢口さんはあの日、いつにも増して幼かった。
梨華を襲った後、家を飛び出した私が雨に濡れて訪れた夜。

周囲が寝静まった時間。青白い電柱の灯りに降り続く雨が切り取られ、飽和
した水分のせいで、全てが静かに発光していた。立派な、大きな門の前で傘
を差した矢口さんはひとり。ひっそりと私を待っていたが。

まるで、いるわけない遠い存在に、それでも思いなんかをひそかに寄せて
でもいるよう。ぼんやりと斜め上空を見つめる矢口さんの、時折白い息を
吐きだしたりする横顔の、なんと美しく、そして、なんと孤独だったこと。
濃い色の上着の、フードまですっぽりと被った私は一瞬の間、本当に一瞬の
間だけ声をかけるのをためらって、彼女をじっと見つめた。

声をかけた途端、矢口さんは普段の様子に戻った。予想通り。一度、意地悪
そうにわざと睨んで見せて、直後、ニッとゆるんだ口元。良く動く奔放な瞳
のまま。
「早く入って。」
常に大人ぶろうとする。

不自然に明るい玄関で濡れた靴を脱ぐ私に、厚い大きなタオルを矢口さんは
投げてよこした。
広い家。廊下の奥の方は、暗くてよく見えない。それでもやっぱり、声は
響いてしまう?私の育った家はこんなに大きくなかったから、知る由はない
のだけれど、果たして梨華ならどうか?
そう考えて私は苦笑した。
だって。つうか姉妹じゃん。

そんな私を見て、矢口さんはそっと、唇に指を当てた。
「静かに。お風呂沸いてるから入って。着替え、新しいのあったから、
出しといてあげたよ。仕方ないから。」
言われるまま私は矢口家風呂へ向かった。浴槽に浸かったら、体の末端部分
がここちよくじんじんと痺れて、自分の体が随分冷えきっていたのだという
ことに、そこで初めて気がついた。

数カ月前、初めて会った矢口さん。それ以来随分良くしてもらった私が
彼女に対して思うこといくつか。

頼りがいがあって、優しい。人当たりは良いけれど、決まってどこか
クール。現在の矢口さんは周囲に対し、常にドライな態度を崩さないけれど、
本来の彼女は、自分のことと同じくらい、他人のことが好き。
ほんの数年前までの彼女が、やりたい放題の豪快なガキ大将だったこと
からも容易に想像がつく。
人は幼い頃の欲求を、大人になるにつれ上手に隠す事ができるように
なるけれど、それらを全く消してしまうことは、不可能に近い。

他人を好くにしても、嫌うにしても、対象に費やすエネルギーはほぼ同量
であるし、外部に向け、あらゆる感情を常に発散しつづける程、以前の
矢口さんがバイタリティーに溢れていたということは、その外部に対する
矢口さんの興味、要するに周囲の人間へ向けた矢口さんの好意が、旺盛
だったという理由に他ならない。
わがままひとつ言うにしたって、相手に対する、ある種の信頼じみた感情
(たとえそれが一方的であるにせよ)が、矢口さんの中にはしっかりと
存在している必要があるからだ。

飯田さんいわく「わがままさがなくなった」という現在の矢口さんは、
つまり周囲に無関心になった。もしくはそう装うようになった。
情熱を失くした最大の理由は、おそらく絶望。
無防備な好意は今の世の中、災厄を自分に呼び込んでしまう。
ましてや豊かな家庭に矢口さんは生まれた。近寄って来る人間といちいち
本気で相対するうち、彼女はいつしか学んでしまった。
わがままを通して生きて行く方が、この時代よっぽど難しいこと。
いちはやく大人になった方が、全てにおいて有利であること。

そうしてガキ大将のいじめっこは消え、クレバーなリーダーができあがった。
威圧感を与えない生まれ持った身長の低さと、昔とった杵柄の、人なつこい
黒い瞳。あらゆる人脈を吸収する際、それらはおおむね好ましくはたらいた。

あわれな家出少女2人に、矢口さんが何を見たのか、私は今でも知ら
ない。出会った日、矢口さんは気前よく住居と仕事を用意してくれた。
彼女の手際の良さ、そしてあまりの旨い話ぶりに私と梨華は訝しんだが、
結局、矢口さんについて来て悪い思いはしなかった。
感謝の気持ちでいっぱい、とか。そういったようなかんじだ。

しかし、かならずつきあたる疑問。
私達のどこを、矢口さんは気に入ったのか。
影?逃亡者にありがちな?もしくは殺人者の血におい?
まさか。
私達にそんなもの、ありはしなかった(と、思う)。

一般的な矢口さんの遊び友達には、恵まれたバックグラウンドを持つ、
いわゆる選ばれた子女が多い。そして矢口さんには彼ら或いは彼女ら
に決して見せない表情があり、私の知る限り梨華と私、もしくは飯田
さんとののたんあたりが、それを見る事ができる。例えば海に行った日。
銃のアリ・ナシを震えながら問う姿とか。或いは安倍さんの話題で見せた、
無邪気な悪意の表情とか。
一段深いところにある、矢口さんのひそかな感情。私達にしか見せないのは、
安堵しているから?

私達には未来がないから?

そこまで考えて少し笑った。さすがにこれは失礼か。
矢口さんはそんな人じゃない。‥と、いうよりもむしろ、どっちだっていい。
実際の彼女が私達に向けるもの、例えそれが同情だろうと、憐憫だろうと、
私にはあまり関係ないのだった。
世の中は主観で成り立っている。
彼女が私達を愛していると私は考えているし、私も彼女が大好きなのだから。
それ以外の世界へ私が足を踏み出すことなど、まったくもって不可能に違い
ない。

風呂を出た私は矢口さんの部屋へ向かった。以前、何度か訪れたことが
あって家のつくりはだいたい頭に入っていたから、長い廊下にも、東西
2つある階段にも、私は迷う事がない。夜中だし、もちろん足音には気を
つけたけれども、なんなくたどり着く事ができた。

部屋のドアをノックして開けると、ベッドに腰掛けた矢口さんはTVの
深夜放送を見ていた。バラエティ番組。乾いて聞こえる笑い声が、ます
ます深夜の気分を煽り、私はふと、自分が世間から切り離されたように
感じた。

「あ。真希ちゃんだ。」
まだ、叩かれる以前の真希ちゃんが画面に一瞬映ったので、素早く目の
端に捕えた私は、思わずそう呟いてしまった。
「え。ファンなわけ?」
矢口さんに聞かれ、うろたえる私。
「いや‥、エ? ああ‥、まあ‥。」
つきまとう恥ずかしさはなんだろう。もしや。真希ちゃんがあまりに
イケイケだから?
‥うう。

私はごまかしまぎれに、濡れた髪をごしごしと拭いた。ヲタだとばれ
たくない。大きなバスタオルは動揺を隠すのに都合がよかった。

幸運なことに、矢口さんはそれ以上突っ込んでこない。手に持った
麦茶を飲みながら、少しだけ楽しそうに私を眺める。
「よかった。あんまりピチピチじゃないね。」
「ああ、着替え‥。快適です。」
矢口さんの視線は、私が身に付けているTシャツと短パンに
そそがれていた。私の趣味とは違って、女の子らしい色で可愛い。
「よっすぃー、デカイからさ。お父さんのヤツとか出してきて
あげようかな。とか思ったんだけど。けどあの人たちもう寝てるし。
たんす、寝室にあるんだよ。」
「ああ。でもほんと平気ですよ?ホラ。」
腕をぶんぶん振って見せた私。矢口さんも満足そう。

「それ。ヤグチが持ってる中で一番大きいヤツだもん。つうか
おまえデカすぎ。」
「‥つうかおまえが小さすぎ。ふふ。」
苦々しい思いが満ちたあの部屋から抜け出し、ここ最近で初めて息を
したような気分になった。
真夜中の明るい部屋。起きているのは2人だけだと錯覚した。

誰かに聞いて欲しかったのは、私が弱っていたせいも多分にある。しかし
それだけではなく、矢口さんはそんな告白をした私をもきっと許し、今ま
で通り受け入れてくれるというかんじの勝手な期待を抱かせるような、
そういうオーラがあった。

梨華の殺人を除いた全て、家出、金、銃、それから、当時大問題となって
いた、私と梨華との異母姉妹説まで、私はもろもろを、矢口さんに打ち明
けてしまった。もちろん、私が梨華を襲ったことも。
殺人のことは敢えて話さなかったが、なぜなら、いくら矢口さんとは言っ
てもさすがに重すぎる話だろう、個人的にそう判断したからだ。

銃入手のいきさつについて目を丸くした矢口さんは、殺された安倍なつみ
について
「そういうアツイ部分もあったんだね、あの人。」
と、ごく簡単なコメントを述べた。
続く保田さん関連の、梨華と私の血の繋がりにおいては、あっけにとられ、
言葉など出ない様子。しばらく息を呑んだまま、まじまじと私を見つめていた。

私は疲れていたはずだったが、矢口さんの親身な聞きっぷりがとても心地よく、
えんえんと話し続けてしまった。絶望にくれた私の論調は、混乱も甚だしい
ものだったけれど、矢口さんはそれらめちゃくちゃな言葉のひとつひとつを、
時にはなだめ、時にはすかしなどして、真剣に耳を傾けてくれた。

そして。
レイプ騒動のくだり。その他を話したのに、最大の罪を話さないわけには
いかない。ここで隠せば私は永遠に卑怯ものとなるのだった。人前で泣く
のは恥ずかしいし、なるべく冷静に話すつもりだったけれども、身体の震え
は止まらなかった。矢口さんは牧師のように、ただ目を伏せていた。

「嫌がる彼女を、押し倒したんですよ私。最低‥ですよハハ。灰皿は‥
振り降ろされなかったんです‥。」
語尾の方に、奇しくも涙が混ざる。泣きたくなんかないのに。
「どうしよう‥、私。りかっちに捨てられたら、生きて行けないのに‥。」
「そう‥。ならなんで襲ったりしたの?」
「だって‥。もう怖くて。姉妹だったりしたら、彼女は結局‥。他の人の
ところへ行っちゃうと思って‥。」
ああ‥!
わたし用。ベッド脇に敷かれた一組の寝具。ブランケットで顔を隠し、
私は両手で涙を拭った。

「かわいそうなよっすぃー。」
慈愛に満ちた声で矢口さんは言った。
「けど、梨華ちゃんも同じだね。それは。」
それはもう。本当にわかっていた。頷く私。けれど、不意に襲った嗚咽の
せいで、それはぎこちないものになった。

すでに外聞などなく、ひたすら私はしゃくりあげた。矢口さんは相当大人。

姉妹なんて関係なくても、別れるトコロは別れるし、続いてくトコは続い
て行くよ。アベックってやつは。

問答にも似たやりとりは、明け方まで続いた。空は明るさをいくらか取り
戻したが、天気は相変わらずの様子。私達はそれぞれの場所に横たわり、
雨が紡ぐ、単調な音だけを聞いた。すなわち矢口さんはベッド、私はふとん。
消耗著しい身体に睡眠は逆に訪れない。泣いたから、興奮しているのだ。
天井をずっと見つめた。

「矢口さん。」
そう声をかけたのは、疲れた彼女の呼吸が一定のリズムを刻み始めた頃。
彼女が眠ってしまった後に、一人になるのが嫌だったため。律儀に答えを
返す彼女は、決して不機嫌などではなかった。いつだって優しいんだ。
「何?」

私は努めておどけた声を出した。号泣してしまった照れもある。
「一緒に寝てもいいですか?」
それほど本気ではない。矢口さんにも解っているはず。

しかし。答えはしばらくなかった。予想外。考え込んでいるのか。それとも
眠っている?
「矢口さん。」
「だめ。」
ほぼ同時だった。返事を待ち切れなかった私が再び口を開いた時だ。焦れた
様子の私の声に矢口さんがかぶせて言った。それにつけても私はひどい鼻声
なのだった。
「なんで?」
「早く寝なよ。」
「いいじゃないですか。」
「もうなんなの?どうしたいの?」
「わから、ないけど。」
「早く寝なってば。まだ声が震えてるよ?ヘンな声。」
そもそも返事をしてもらってる事が嬉しい、眠れない私。
「さっきまで泣いてたくせに。」

なかなか引き下がらなかったから、矢口さんはとうとう言った。

「つーか。ヤグチの事一番好きな人とじゃないと、ヤグチはそういうのしないん
だけど?それに--------。」
「ハイハイ知ってますよ。眠れなかったからちょっと聞いてみただけですよ。」
珍しく真剣になった矢口さんが愉快だった。すっごい遊んでるフリして意外と
真面目なのを私は知っている。
フフフフ。
笑う私に矢口さんは呆れ顔。その後、少しからかう口調。
「じゃあ、明日。梨華ちゃんに電話しなよ?自分でかけてよね。」
「いいですよ?できますとも。」
「言ったね?」
「余裕です。」

矢口さんが、結婚する‥。

長く回想している間に梨華はシャワーを浴び終えて、寝仕度を整えたよう
だった。私は目を閉じていたから、私が眠っているものとてっきり思った
んだろう。物音を気にする様子で静かにベッドに近付き、上がけをそっと
めくった。
「りかっち。」
「きゃ‥っ!」
端から驚かすつもりで、突然私は声をかけたから、案の定彼女は小さく、
かわいい悲鳴を上げた。てゆうか大・成・功。
「起きてたんだ。本当にびっくりしちゃった。」
「まあね。」

ベッドに入った梨華に私は腕を伸ばし、そのまま、半ば抱きつくようにしな
がら、もぞもぞと距離を詰めていった。
梨華は軽かったし、私もなかなか動いたから、2人の間に空いた距離など
あっという間に縮まった。

「明日さー‥。てゆうか今日起きたら。行ってみようと思うんだよね。」
私は少しも笑わずに言った。
「矢口さんの家?」
「うん‥。仕事、明日ないし。携帯にさっき電話してみたけど‥、やっぱり
でなかった。一応メール、入れたけどさ。」
「なんて?」
「まあ、それはいいとして。」

超直前の梨華の顔は、(雨だけど)朝の、青い光にさらされて綺麗。
私と梨華の額は、あとほんの数ミリ動くと、ぴったりと重なってしまいそう。
そんな至近距離で私達は、お互いの瞳を生真面目に覗き合う。
「会えるかは解らないけど。でも会って確かめたい。」
「結婚のこと?」
「うん‥。」

「本当に矢口さん結婚しちゃうのかしら。」
そろそろ眠くなった私は、不安そうに囁いた梨華を、一度改めて抱き寄せた。
瞬間、ふと開けた視界に、天井の染みが映る。黒くぼやけた輪郭は先程よりも
大きくなっていた。薄れる意識の中で私は考える。あんな感じの形、どこかで
見た事ある‥。

ああ。ガン細胞に似ているんだ。

目の前には大量のゆで卵が積まれている。殻を剥くのは私の仕事だ。私は
そもそも茹でた卵が大好物だから、殻を剥くのも得意なわけだ。
まず、白い小山をざっと見渡し、その中からひとつ、そこそこ大きくすべ
すべとしたものを選び取る。迷いはない。

カツカツ。

私は机の角を使い、表面に適当な割れ目を入れた。出来たひびに沿って殻を
ペリペリと剥いてゆく。慣れたものだ。今まで何個剥いたと思ってるんだ。
少しも経たないうちにつやつやした白味が、陶器がかった白い肌を露にした。
芸術的とも言える。

「これは安倍さんの分。」

そう呟いた私は脇の皿の上に、剥いたばかりの卵を加えた。皿の上には既に
剥き終えたゆで卵が、実は相当数積み上がっているのだけれど、私は気にも
とめない。次に剥くべき卵へとさっさと腕を伸ばす。
殻を剥くのは得意だったし、それが私の役目だ。
そうこうする間に、はやくも次の卵を剥き終えてしまった。

「これは矢口さんにあげよう。」

さて。
次はおでこで割ってみようか。
調子にのった私は手中のゆで卵をひとり眺め、秘密裏にほくそ笑んだ。殻を
剥く自分の職人並みの手際の良さに、得意な気持ちがこみあげるのだ。

ゴッ。
「痛ッ。」

ペリペリペリ。

あれ?これは誰にあげるんだっけ?
私はふと考えた。予想以上の衝撃に、目には涙が滲む。
安倍さんと矢口さんの分は、もう剥いてしまった。梨華の両親までも含めて、
知り合いの分は全て剥き終えている。

私自信は食べない。梨華も食べない。飯田さんも、多分食べないことだろう。
あとは誰に剥いてあげるんだった‥?

「あれ?」
私は首を捻る。

「ま、いいや。」
ペリペリ。
作業を再会した。いずれ新しい誰かが必ず食べるのだから、剥いておいて損はない。

カツカツ。

‥カツーン。

ん?カツーン‥?
音が違う‥?

目よりも先に、耳の方が起きたらしい。軽い衝突音のようなものが、私を
うつつへ連れ戻した。
数秒遅れて目を開ける。見なれた天井がゆっくりと広がり、ガン細胞に似た
染みも、隅の方には健在だった。私はまず隣に眠る梨華を眺め、とりあえず
ここが現実なのだと、ぼんやりしながら確認する。
「卵‥、剥く‥、のは夢‥か。しかし‥。」
少し混乱の残る脳には、理解を越えた夢なのだった。我ながら見てしまった
がじつに意味不明だ。私はそんなふうに思いつつ、慣性にならって身を起こした。

すると、また衝突音。
カツン。

私は音源を求め、視線を巡らせた。夢の中の、卵の外殻にひびを入れる音‥?

と、似ているが同じではない。
『あれ?卵は?』
なんて、目が覚めてきた私は、もう混同しやしない。
「なんだ‥?」
注意深く聞き耳を立てる。正体はすぐにわかった。
窓に小石が当たっているのだ。

誰?うちの窓に、石なんてぶつけて。危ないじゃないか!

そう憤慨した私だが、立ち上がった体は意志に反してよろけた。寝癖の
激しい頭のまま、ヨロヨロと窓辺に寄る。

果たして窓の下には、もっか行方不明中の保田さんがいたのだが、どういう
わけか黒いサングラスをかけている。石をぶつけていたのは、すなわち訪問
の合図だったらしい。それにしても随分アナログな方法で私達を呼び出した
ものだが、そんなことより、ずっと探していた彼女が自ら現れてくれた事に
びっくりして、一気に覚醒した。

「保田さん‥!」
私は半ば叫びながら、急いで窓を開けた。逃がすわけにはいかない。今日
こそ話してもらわなければ。全てを。
眼下の保田さんは、次の小石を振りかぶっていたが、窓辺の私を確認すると、
その腕を下ろした。保田さんの瞳は濃い色のサングラスに隠れていたけれども、
それでも、私を見上げる彼女の微笑みが激しく輝いているのがわかった。

約3分後、梨華を起こし急いで階段を降りた私達に、保田さんは開口一番
言った。
「その通りよッ!!」
「?」
保田さんは笑顔。
何が?
目は覚めているけれど頭がボサボサな私と、まだ眠たげに目をこすっている
梨華。保田さんの言う意味が汲み取れず、思わず眉を顰める私達に、保田さ
んはもう一度繰り返した(厳密には私が途中で阻んだ)。

「その通り----」
「何がですか。」

保田さんの今日の格好は、どう見たって普通じゃない。頭には白く、つばの
広い帽子を被り、全身にはこれまた揃いの白いスーツを着込んでいる。ズボ
ンではなくスカート。サングラスをかけ、重そうなスーツケースを傍らに置
いた姿は、明らかに怪しかった。どこの大女優?と、いったようなかんじだ。

「バレたのよ。アンタもそう思っていたでしょう?」
訝しがる私達を前に、保田さんはひとつ咳払いをした。
サングラスのせいで、彼女の正確な感情は伺えない。
「あ。偽造が、会社に‥。ですか?」
「そうよ。」
やはり、油断のならない女だと思った。保田さんが会社を休んでいると
聞いて確かに私はそう感じたが、それを見事に言い当てられるとは。
唇を噛みしめた。

保田さんは更に付け足すように、一言ずつ区切りながら話した。
「会社に‥、私の犯罪がバレた。‥そう。だから私、飛ぶわ。」
「え‥ッ?じゃ、海外へ‥?」
「そうよ。ちょっとブラブラしてくるつもり。中南米あたりでね‥。」

「そうですかぁ‥。へえ‥。」
口髭を生やした半裸の男たちが保田さんを取り囲み、しきりにもてはやし
ている姿が、私の頭の中でただちに広がっていた。

熱いラテンの国々へと縦横に想像を巡らせる私。その真横で、梨華は掠れて
いるが割と冷静な声を出した。いくらか目を細めているところを見ると、まだ
しっかり開かないのだろう。昼前に起きるというのは、今の私達にとって随分
珍しい事なのだ。
「じゃあ、車は‥?私達、もう乗らない方がいいんですか‥?」
そう、私が聞きたかったのはそれだ。
「ええ、そうとも言う。‥でもまあ、大丈夫だと思うわ。アンタ達の身元
は、まだバレてない。私も脱出するから、きっと誰も知り得ないわ。さし
あたっての問題は、ナンバープレートだけど‥。なんなら、そうね。いい
板金工を紹介するわ。私そこで、バイトしてたんだ、昔。」

保田さんの紹介をむげにするつもりはなかったけれど、梨華と話し合った
結果、それは矢口さんに頼もうと決めた。保田さんのいでたちからして
彼女はこの後、すぐに飛び立ってしまうに違いない。すると私達は彼女の
元・バイト先へ直接出向いて行かなければならないわけだが、さすがに
それはためらわれる。
ムシの良い話だが、危険をおかしたくない。

矢口さんは花嫁修行に勤しむ日々との噂だから、場合によっては時間が
かかってしまうだろうけれども、例え多少待ったとしても彼女のルート
に頼った方が、より安全だと感じた。
矢口さんならばそういった方面へのツテも必ずあるに決まっているし、
何よりも、私達とプロとの間に、第三者をかならず挟んでくれるという
信頼感情が私の中にはあったからだ。

保田さんの様子からして、彼女のフライトまでには、まだ多少の時間が
あるように思えた。立ち話もなんだと思った私は、
「良かったら中へ入りませんか?」
と、聞いたが、
「スーツケースを持ち上げるのが面倒だから。」
と、保田さんが断った。

さて。本題はこれからと言っていい。もう一つ、聞かねばならぬ事が私達
にはある。とんでもない過去を見せつけられた、そもそものきっかけ。例
の痣。これだけ震撼させられた私と梨華の2人から、理由を訊ねる権利を
奪うまっとうな理由など、この世に一体存在するだろうか?

もっとも、仮に保田さんが私達の姉だとすると、父・さや造(仮名)には
他所にもう一人、子供がいた事になる。そうなると私の中の父親像は見事
に一転し、優しかった父はその実とんでもない男だったということが、ダメ
押し的に判明するしくみだ。
「保田さん。」
「何?」
けれども、全てを受け入れる心構えはできている。

(愛していたよ、父さん。
朗らかに笑う父の顔を思い出していた。)

「同じところにある痣‥、それはつまり、保田さんが私達の姉‥、そういう
ことでいいんですか?」

サングラスをかけたままの保田さんは、曇った空をしばらく見上げていた。
何事かに思いを馳せているようだった。
今さら姉妹が何人増えようと構わない-----過去に梨華はそう豪語したが、
さすがに関心を隠せない様子だ。既に眠気などとは完全に決別した瞳で、
眉を寄せ、保田さんをじっと見守っているのだった。

黙り込んでいた保田さんが、口を再び開き出すまで、それほど大量の時間を
費やしたというわけではない。が、それでも、私達が立つ道の、歩道の反対側
なんかを、ニャーと鳴いた野良猫が用心深く歩いて行ったり、付近に住む
お年寄りが、それぞれ散歩がてらなのか、数名ヨロヨロと行ったり来たりした。

「どこから、話したらいいのかしら‥。」
保田さんがサングラスを取り、ゆっくりと語りだしたのは、
------都心には逆に老人が多く住むのだ
と、私が改めて実感し直している最中だった。

あたい、こう見えてもサ。
昔は結構な不良(ワル)でさ。

先公なんか、決してわかっちゃくれねーし、気の合うダチも、あの糞みてーな
ハイスクールじゃ、どこ探したって見当たらなかった。

「つまり結果から言うとね、私の痣‥、あれはヤキの痕なの‥。」

思い掛けない言葉に、私は耳を疑った。

自称、「ナイフみたいに尖ってた」保田さんは高校生だった頃、
当時としてはバリバリに最先端なコギャルとして他の生徒を圧倒
していた。が、いわゆる、生徒会だか風紀委員だか、ともかく
上級生を含む、多少ギャルも入っているが保田さん程イケてない
女生徒達の反感を多いに買い、何かにつけ意地悪をされたそうだ。

それでも保田さんは「他人は他人、自分は自分」と、当時から割と
分けて考えるタイプだったから、教科書をビリビリに破かれても、
画鋲を上履きに仕込まれても、相手の仕打ちがどんなに馬鹿馬鹿
しくとも、黙って無視していた。

しかし、そういう保田さんのノーブルな態度もまた、イケてない面々
のコンプレックスをよけいに刺激したようで、どんなに挑発しても決
してのって来ない保田さんに業を煮やしたそのグループは、ある日、
校内の人気のない場所へ保田さんを呼び出したらしい。保田さんの
入学から、一年と経っていないある放課後の事だそうだ。

ソイツらがいい加減ウザイからー、あたいもまあ、体育館裏、行って
やったわよ。まあ、イザとなったらあんな人たち。ワンパンで逝か
す自信あったし。

初めのうちは、さあ。まあ、生意気だァなんだァ、向こうがぐだぐだ
言ってんの、聞いてやってたのよ。
「ザコどもが、アラ。吠えるコト。」ってね。

ちょうど、チェックしてた再放送あったし、
「早く終わらないかしら。」とか、つま先見ながら思ってたの。
そうしたら、その中のボスみたいなナオンがさ、
「つーか、くせーんだよ、オマエの髪!」
って、いきなり、私の頭を掴んだ。

いいえ、臭くなんかない。
朝シャンなんて、もち、してたわ。あの頃。

今の私なら、「ほっときなさいよ。」なんて、軽く受け流す器用な
マネなんかも、覚えちゃってるけど。
当時はホラ、若かったからサ、あたいも。
カッとなっちゃって。
「クサくなんかないわよッ!その手を放しなさいッ!」って。
おもいっきり、振り払ったってワケ。

私の形相に、奴等、一瞬ビビってたけど、そのうち、
「んだとテメー。」とか、
ゲス野郎みたいなコトバを吐きながら、下っ端の、いかにもトロそう
な女が、牛みたいに掴み掛かって来たわ。

早く帰りたい、ってのもあった。
あの日は再放送見た後、パー券とステッカー捌かなきゃいけなかったし。
でも、一番の理由はね‥。
ナメられたら終わり‥、ってトコかなぁ。

殴りかかられる瞬間さ。ちょうどそのバカ女、タバコふかしてたん
だけど。その、火のついたタバコ奪って、ア然としてるタコども全員
の前で、押し付けてやった。フフ。自分の腕にね。

熱かったし痛かったけど、効果はあった。奴等、あっけに取られて、
私のこと、口開けて見てたわ。

その時にさ。
「腐ったミカンじゃねーゴルァ!!!」
って、覚え立てのセリフを、ついでに言ってみたら、アイツら、完全に
ビビッちゃって。
「覚えてろ、ブス!」とか、低能丸出しな捨てゼリフ吐いて、クモの子
みたいに散ってったわ。

次の日私は、そんなこともすっかり忘れて、いつも通り学校に行った。
昨日捌ききれなかったパー券のことで、頭がいっぱいだったの。

喋る友達なんて、もちろんいないから、誰に話し掛けることもなく、
いつも通り席に着いたわ。
そこら辺までは、いつもと変わらない朝だった。でもひとつだけ、
普段と違う所があったの。
教室中の皆が、クスクス、私を見ながら笑ってた。

そんなこと、いちいち気にするヤスダさん、て思ってもらっちゃ困るの。
よくわかんないけど勝手にしなさい、って、ずっと無視していたんだもの。

そのうち、クラスの中でも大人しくて羊みたいに目立たなかった子が、
こっそり寄って来て、私に耳打ちしてくれた。
「ヤリマンとか尿道とか、わけわかんない噂が学校中に広まってます。」
って。その親切な、人の良さそうなメガネちゃんを、なんだかムシャクシャ
して、私は殴ってやったけどね。

噂の数々はやがて、先公たちの耳にも入って。私はこってり絞られた。
私がそうだって、アイツら、勝手に決めつけんのよ。

表向きはホワイトカラーの学校に、私は嫌気がさしていた。
「あたいの居場所はここじゃない。」
って、飛び出して、夜中にバイクで走り出したわ。
ま、今風に言えば、さっさと退学してやった、ってコトなんだけど。

行く先もわからぬまま、辿り着いた十五の夜。
腕に着いたヤキの痕が、かさぶたになって、たまらなく痒かったわ。
私は、耐えられなくて、掻きむしった。かさぶたも、つい剥がした。
それを繰り返しているうち、痕は、とうとう消えなくなった‥、ってわけ。

言ってみればメモ青、ってかんじかな‥。
ゴメンなさい、こんなオチで‥。

「その後よ。ジョニーと出会うことになるのは------」
「ちょっと保田さん‥!」
遠くを見つめて話す保田さんを、多分に険を含む声で梨華がそう
遮った事は、私にとって少し意外だった。痣の真相はともかく、
保田さんの青春列伝の方により深く、単純な私が感銘を受けていた
時のことだ。梨華の肩は震えていた。

「それが、今度の件の真相だって言うんですか? ‥私、納得出来
ません!そんな事が発端で、私達の間にどれだけの亀裂が走ったか‥!
もう少しで‥、もう少しで私達‥、ダメになってしまうところだったッ!」

「だーかーら、ゴメンねっつってんでしょーが!!私だってビックリ
したわよ!『こんなトコロにも、ピュアーなキッズがいた!意外ねッ!共に
語り合いましょうッ!』ぐらいにフツーに喜んでたんだから!だいたいねー、
あんた達の痣にそんな理由があったなんて、思いもよらなかったわ!根性
ヤキじゃなかったなんてッ!こっちこそギョウテンよッ!!」

「でも納得いきませんッ!!」
「ハイハイ!全ての原因は私です!って言えばアンタの気も収まるのかしらッ?」

私は何も言わなかった。2人のやりとりを黙って聞いていた。
今回の事件で、梨華は私に比べてかなり冷静に振る舞っていたと言える。
その梨華が事後、保田さんに対しこれだけ言い募るほど、実は動揺して
いた事は、意外だったけれど、やはり嬉しいのだった。

結局、保田さんに悪気はなかったという事で、決着がついた。今回の事件
は乗り越えるのに多少苦労したけれど、そのおかげでより深い絆を私達は
得る事ができた、というような感じの私の言葉に、梨華も納得した。
「わかってくれればいいのよ‥。でも本当にゴメンね。私も、軽はずみ
だったわ‥。」
「いいえ、私こそ‥。久しぶりに母に会えて‥、実はちょっとだけ嬉し
かったんです‥。」
梨華は少し涙ぐんだ。腕を組んだ私は、ただ頷いた。
「さて。湿っぽいハナシは嫌いよ。もう行かなくっちゃ。」
保田さんは鼻をかんだ。

「最後に、言っておく。」
外していたサングラスを再びかけ直してから、呟いた保田さんの言葉は、
とてもあたたかい物に聞こえた。
「私は‥、アナタたちを未来に連れて行くことも出来る‥。でもそうしな
かった。‥理由はわかるわね?」
「ハイ。」
「何が見えたって、結局いいことないのよ。」
私達は頷いた。保田さんの瞳は、隠れていて見えない。

その後、私達3人は大通りへ出た。肩にもうひとつ荷物を提げた保田さん
の為に、スーツケースは私と梨華が押してやった。
「ヘイ、タクシー!」
そう言ってさっそうと手を挙げた保田さんに、一台の空車が間もなく停
まった。

「あ。」
スーツケースを後部トランクに押し込み、まさに今乗り込まんとする際、
思い出したように保田さんが叫んだ。
「忘れてた。そもそもコレを渡そうと思っていたんだわ。」
差し出されたのは、白く小さな紙切れだったが、2つ折りを開いてみると
どこかの電話番号が、ボールペンで記されていた。
記された電話番号は、その数字の並びから、すぐに携帯電話とわかった。

私は言葉を発さず、保田さんを黙って見上げた。
「いつか‥。もし本当にピンチが来たなら‥、それを使いなさい。
きっと助けてくれる。」
そう、微笑みながら言って保田さんは車内に乗り込み、直後、バタンと
固い音を立てて、タクシーのドアは閉まった。

「アディーダース!!!」
保田さんのそんな嬌声とともに、車は発進した。
それを言うならアディオスだろう。と、私は思ったけれど、なんとなく
感慨深いものもあって、無心に手を振り続けた。
同じく梨華も、私の横で大きく手を振っていたが、やはり無表情だった。
今後、出会いと別れを一体何回私達は繰り返すのか、そんな事を考えていた。

保田さんの残した番号。それが、その日のうちにすぐ必要になると、私達
はまだ知らなかった。

連絡のとれない矢口さんの家へ、とりあえず行ってみようという
事にその日はなっていた。

私がシャワーを浴び、出かける準備をおおむね整える間、梨華は
キッチンでサラダを作っていた。
「あり合わせで作ったから、こんなカンジだけど‥。」
と、ほんの少し遠慮がちに出されたサラダは例えばベーコン、
ツナ等といった動物性タンパク質がなく、本当に野菜のみだっ
たけれど、トマトやコーンの色合いはむしろ普段よりも美しく
見えた。

保田さんを見送った淋しさからなのか、私達は2人とも言葉少な
だった。私は食欲が旺盛なので、サラダの他にシリアルも少し食
べた。惰性で点けていたテレビはやがてワイドショーに変わった。
随分牛乳にふやけたシリアルを、ボウルの底から私が懸命に掬っ
ている最中のことだ。

「ワタシはあのコと仕事した事もありますケド、収録中以外では
挨拶もきちんとするし、ああ見えてとてもいいコだと思いましたよ。
それは教祖と言う立場上‥、時々度を越した言動も有りますケド。
今回の事件に対する関わりはともかく、彼女はその辺はわきまえて
いるコなんです。
仮に‥、仮にG教に関する噂が事実だとしても、ワタシは彼女自信は
潔癖だと信じていますワ。実際にはそんなこと‥、とてもできるよう
なコじゃない。一連の報道で彼女のファンはたいへん胸を痛めている
と思いますが、かくいうワタシもそうですケド‥、今、本当に、本当
に辛いのは、真希さん本人なんです。」

「実際の彼女が思いのほかマトモだなんて、そんなコト今は問題じゃ
ないんだ‥!いいですか?一般の青少年、後藤真希を試聴する主な層
である子供達には、そんなモノは伝わらないんですよ!普段彼女が言っ
ている言葉の数々を思い出してみるといい。皆殺しとかミラクルだと
か‥。言葉遣いや態度だって良いとは言えない!そういう彼女を使った
番組が視聴層へ与える影響を各局はもっと考えるべきだ!このまま若い
信者が増え続けたら、この国はいずれ売春天国になってしまうかも知れ
ない‥!悪の芽は早く摘むに越したコトは無い!」

‥馬鹿馬鹿しい。
「もう出よう?」
じっと画面を睨んでいた私が、突然そう言って電源を切ったから、梨華
は少し驚いていた。
「え、見ないの?」
「別に。」
頷きながら私は男の鼻の下の溝を思い出していた。この芸能評論家は昨日
の番組で、真希ちゃんの真実を追求するといいながら、結局は妄想の域を
出ない猥雑なスキャンダルを、だんご虫のようにひたすらこねくりまわし
て終わった。
一方の擁護派は中年の、以前はそこそこの人気を誇ったという女優。真希
ちゃんの過去の共演者の一人。今回の放送を見る限り彼女は真希ちゃんに
同情的であるようだ。しかし。
「なんで?やっと真希ちゃんのコト応援してくれる人が出て来てたじゃない。」
「いいの。この人だって鼻溝男とたいして変わらないんだよ、きっと。」
芸能界は鬼の住む場所と聞いた。

その時は特に気にしてもいなかったけれど。
家を出て駅に着いた時、男は確かに私たちの背後にいた。

午後4時をまわった時間。
急行が停まらない私達の最寄り駅は、朝のラッシュ時を除くとあまり混
み合ったりすることがない。しきりに汗を拭きながら携帯で話すサラリ
ーマン、肉色のストッキングを履いたおばさん、私達を含め上り線を待
つ人々は静かに、そして測ったような等間隔を置いてプラットフォーム
に立っていた。

やがて、アナウンスを伴って構内に滑り込んだ銀色の車両に私達は乗り
込んだ。駅同様、車内はあまり混雑していない。ドアを入ったすぐのと
ころに苦もなく空席を見つけて、私は梨華と並んで座った。

カタコトと音を立て、まるで終点など無いように淡々と電車は進んでゆ
く。車内は冷房が効いていて、外の不快な蒸し暑さはほぼ完璧にシャッ
トアウトされていると言ってよかった。梨華はお行儀よく座り、移りゆ
く車窓にじっと目を向けている。その横で私は車体の天井を見上げた。
この快適な空気がいったいどこから運ばれてくるのか、送風口の位置を
確認したい気持ちになったからだ。

送風口はなかった。
-------ただれた日常・後藤真希(15)の交友関係!!
正確に言えば、そう誇らしげに印刷された車内広告の陰にかくれて、私
の座る位置からは見ることができなかった。おそらくはその裏側から、
快適な風は付近一体に運び込まれている。その証拠に、びっしりと文字
がつまった芸能週刊誌の派手派手しい広告が、車体の揺れとは別な一定
の間隔でひらひらと揺れている。
中央のひときわ大きな見出しの横には「関係者30人の証言!」とかな
んとか、過激なピンク色の文字が添えられていた。苦々しい気持ちでし
ばらく見つめるうちに、私は顔を上げた本来の目的を忘れてしまった。

正面に座る男と目が合ったのは、憤懣やる方ない私が例の広告からプイ
ッと視線を逸らした時だ。
「ねえ、りかっち------」
本当は、真希ちゃんは-------、といったような感じで始まる、メディア
ですら解ききれない論争を、梨華に持ちかけようとした矢先。正面に座
る男(この男が私たちと同じ駅にいて、私たちに続き同じドアから車両
に乗り込んだ事を、私は覚えていた)が薄笑いを浮かべて私達を見てい
た。

私はすぐに視線を落としたし、目が合っていたのは多分、1秒と経たな
い間だったろう。けれど男はその短い一瞬の間に、たとえようの無い不
吉な印象を、私の胸へと刻み込んだ。

黒目が異様に大きいのか。
皮膚の裂け目、すなわちまぶたの奥に伽藍の空洞でもあるかのような、
真っ黒い三日月型の瞳。のっぺりと伸びた鼻と、不気味に歪む薄い唇。
その笑顔、というよりも白い開襟シャツを着た男の体全体から発する、
得たいの知れない陰鬱な空気に、私は冷水でも浴びたような心地に陥っ
た。

「なに?」
声をかけたまま固まってしまった私に梨華が続きを促した瞬間、電車は
次の停車駅に到着し、すぐに開いたドアから大量の女子高生が雪崩れ込
んできた。空いていた車内は同じ制服で瞬く間に埋め尽くされ、同時に
持ち込まれた喧騒もしくは熱気のようなものが、ある意味非現実的でも
あった車内の空気を一気に覚醒させた。

「‥なあに?」
梨華はもう一度繰り返した。私の、落としたままの視線の前には今、
革靴と白ソックスの足があたかも品評会のように、ズラリと並んでいる。
奇妙な男と私達の間にそういった遮断壁が出来たことで、私はひとまず
持ち直し、ようやく顔を上げることができた。
「う、うん。‥ううん、なんでもない。」
「何よ?どうしたの?」
‥今、変な人がいた。

明らかにぎこちない私の挙動に梨華は眉をひそめた。梨華に言ってしま
っても良かったのだけれど、怖くてなんとなく言い出せなかった。自分
自身とても動揺していたので、咀嚼して吐き出すのにもう少し時間が必
要だった。
「うーん‥。ほら、矢口さんいるといいよね。」
「え‥?うん。それを言おうとしたの?」

------アイツ、ヒトのムネめっちゃジロジロ見てくんの、マジ最悪。エロ教師。
------明日マラソンやだな。生理とか言って休もうかな。
------期末の範囲写した?
気がついて見ると、車内はそんな会話で溢れていた。
目の前に立つ2人連れ。つり革につかまって話しながら、時々携帯を覗
いたりしている。そのうちの片方がほんの一瞬だけ、本当に一瞬だけ梨
華と私をチラリと見下ろし、そしてすぐに視線を戻して、直後、連れと
の会話に再び戻っていった。
制服を着た同い年くらいの少女たちに四方を囲まれ、梨華は少し、居心
地が悪そう。例えばあの時、何も起こらずにいたら。血の繋がりはないにしても、梨華の父がもし、ごく一般的な父親であったなら、私達の未
来は一体どんなふうだっただろうか?

目の前につきつけられた、私達が過去、手放してしまった生活。優等生
でそれに執着し、ひたすら耐えてきた梨華はその分、後悔とまではいか
なくても、多少戸惑ったりもするのだろう。膝に手を置いて俯きがちに
なった彼女の耳元に私は口を近づけ、ひそひそと言ってやった。

「けっこう慣れたよね、こういうのにも。」
(とっくに置いて来たモノ。)
「遠い過去だね。」
「うん‥。ふふふ。」
私が少しおどけて言ったので、梨華も顔を上げて頷いた。私の言葉。嬉
しそうな彼女の笑顔。遮断壁の向こう側に座っているはずの男、そして
決して明るいと思えない私達の未来さえも、梨華が一緒ならば、私は忘
れてしまえる。

やぐの家に行くには一度、巨大な駅で乗り換えなければならない。私達
の最寄り駅とは比べものにならないほど、そのホームは混みあっている。
もともと混雑しているところへ休むことなく新たな車両が到着し、街に
終結する若者をダイヤ通りに吐き出して、また去って行く。その繰り返
し。特に、私達が降りた時にはプラットフォームを共有する反対側の線
路にも電車がちょうど停まっていたので、私達の車両をほぼ満杯に満た
していた女子高生の制服は、向かいの電車から下りた一派と交じりあい、
組んずほぐれつ、私などはもう前の人のかかとを踏まないように注意し
て歩くのが本当に大変だった。

すごいね。こんなに人がいるとなんか酔いそう-------。周囲と歩調を合
わせ俯きながら歩く私達が何気なくそんな会話を交わしていた時だ。私
の、梨華のいる側とは反対側の手首を、誰かが突然掴んだ。

もちろん私は驚き、振り返ると例の車内で正面に座っていた男が、いつ
の間にか横に並んでいた。
依然、私の手首を握る男の手は、混雑し蒸し暑さの増しているはずのホ
ームにいながら、なぜかひどく乾燥していた。そのくせ異常に体温が高
い。熱を汗として発散しない男の手のざらついた感触に、私は鳥肌が立
った(もっとも、男の手が汗でぬるぬるしていたとしても、それはそれ
で戦慄だ)。
先程車内で目が合った時の得体の知れない恐怖が、腕を掴まれた今、最
高潮に達した。
-----やだ、キモい!!
こみ上げる嫌悪感に、私が顔を歪めた時だ。男は妙に機械じみた声で言
った。
「吉澤ひとみちゃんだろう。ちょっと一緒に来てもらうよ。」

けたたましいベルの音とともに、また新しい車両が到着し、ホームの雑
踏は更に密度を濃くした。様々な雑音が複雑に混ざり合い、既に音は
音としての機能を果たしていない。
「くく‥。リカちゃん。ヨーグルトはもう買いに行かないの?」
いびつな笑いを含んだ囁き声が、耳のすぐ真後ろで聞こえた。私の手を
掴んでいる開襟シャツの男ではない。声がもっと若い。
「りかっち!」
ハッとして振り返ると、梨華の姿はそこになかった。それよりほんの、
3,40センチほど後ろ、制服姿の女子高生を2,3人ほど、私から隔
てた場所。顔面を蒼白にし、緊迫に瞳を見開いた梨華が、金髪の男に腕
を引きずられていた。

私達のこんな危機に、無関心な周囲は誰一人気付かない。あるいはこん
な事、たいして珍しくもないのか。
「ひ‥みちゃん‥!」
雑音の間を縫い、切れ切れに聞こえた梨華の逼迫した叫び声に、私は我
に返った。連れ戻さなきゃ。

大衆は関心を寄せずに流動する。その波に逆らい、梨華のもとへ私は駆け
出そうとした。が、踵を返した瞬間に男は、私の手首を掴む手に更に強い
力をこめた。
「ちょっと!離して下さい!!」
「無駄だよ。」
「何が?‥何が目的?大声出しますよッ?」
がっちりと手首を押さえられたまま、私は繰り返し体を捩り、何度となく
梨華を振り返った。しかしそうして確認するたび、梨華は金髪の男に肩を
掴まれて、じりじりと距離を開けてゆく。

パニック。梨華と離されるのが、嫌で嫌で仕方なかった。
りかっち‥っ!
焦り、じたばたする私。すると男は余裕綽々に、歯のすき間からくぐもっ
た笑いを漏らす。
「騒ぎになって困るのは、キミたちの方だ。違うかい?」

何‥、
その言葉に私は、暴れていた身体を硬直させ、まじまじと男を振り返った。

息を呑んだまま私は、私の腕を掴んで陰湿に笑う男と、たっぷり5秒間程
見詰め合った。
私と男を、ぞろぞろと押し流そうとする背後の人々のうねり。離れてゆく
梨華と金髪。目の前で男が笑う。苦しい呼吸。

誰‥?何を知っている‥?

「警察だよ‥。」
一瞬で硬直した私をまさに嘲るように男は一瞥し、直後、空いている方の
手で億劫そうに自身のIDを示した。すなわちシャツのポケットから覗い
たものは、見慣れた黒い手帳。
「嘘ッ!」
私はそう、とっさに叫んだけれども、致命的な動揺を隠すことはできない。
自然の摂理でも復唱するようにそれをやすやすと見透かした男は、虫みた
いな声を出して更にこう付け加える。
「信じても信じなくても、それは構わない。重要なのは今、我々が圧倒的
優位に‥。立っているということさ‥。」
ニヤニヤする細い目‥。

「うるさいッ!離せ、バカ!」
そんな場合じゃないんだよ。もう一度振り返った梨華は、もうずいぶん向
こう。距離にしておよそ、12、3メートルくらい。背があまり高くない
彼女は、間に挟んだ人々の動きに既に呑みこまれ、ほとんど姿を確認する
ことができなくなった。金髪の男、その背が高く頭ひとつ出ていることが、
唯一の希望。
私はイナズマのように叫び、賭博性の高い攻撃にでた。
目つぶし。
私自身の体と人ごみによって男から死角になる位置から、私は掴まれてい
る方ではない手、つまり左の手のひらを固く握りしめ、不意に、男の眼前
へ突き出した。
右利きの私が繰り出したのは左手による攻撃だったから、つき立てた2本
の指は的である眼球をまんまと外れ、男の鼻梁と眉根のあたりに、それで
も相当な手ごたえをもって突き刺さった。女子供である私たち2人に対し
て、成人男性2人をして臨んでいることが、相手に余分な余裕を与えてい
たことも確かだ。私は私で突き指しそうだったけれど、油断が過剰だった
男へ、期待したよりも大きな眩惑を私は与えることができた。

「おお‥、」
突然襲った痛みか或いは混乱の、そのどちらかに耐えようとしているのか、
呻いた男は一方の手で顔を押さえた。ひるんだ男の一瞬の隙をついて、私
は踵を返し、無我夢中で進みだす。目つぶしをくらわした瞬間、渾身の力
を込めて揺すったから、私の腕は、乾燥した男の手の平から完全に自由に
なっていた。

「りかっち!」
人の波を押しのけ、進みながら私は声を出した。けれど、梨華の見えない姿
同様、返事もまた返ってはこない。梨華を連れているはずの金髪の男。その、
人々の間をぬっては時折見える横顔。耳に、派手なピアスをぶら下げる男の
背中を、私は目標にして進んだ。

うごめく駅利用者の流れに私は逆向きに進んでいたから、何度も何度も、そ
の単体とぶつかった。わき目も振らずにひたすら人ごみをかき分け、金髪男
を目指す私。ぶつかった人々はもちろんその周囲までもが、迷惑げな表情を
私にむけたけれども、私は足を止めなかった。
途中、動向が気になっていた開襟シャツを一度振り返ってみると、あの男は
まだ顔を押さえていた。そのままで首を左右に振り、見失った私を探してい
る。開襟シャツと金髪、2人の男のあいだの、私はちょうど中間といった位
置まできている。梨華まであと半分、逃げ切ってみせる。喧騒と人いきれで
膨張したプラットフォームで、私はひとり、密かにそう決意した。

その時、また新しい車両が到着し、その際の騒音と、意味などはとっくに持
たなくなったアナウンスによって、ホームの煩雑度は更に増した。私が進む
付近の開いた車両のドアからは、第三勢力とも言える新たな女子高生の群れ
が相変わらず大量に下車してきた。その制服の群れがまたひとつの塊となり
本流に加わる直前に、私は肩から下げていたカバンをすばやく胸の前へ引き
寄せた。男達2人には、大きな誤算があった。

おそらくは多少の抵抗などもしているだろう梨華を押さえ、同じ状況下で進
む金髪の男は、私よりも随分不利だ。私と梨華たちの距離は思ったよりもス
ムーズに縮まっていった。
きっと、私よりも後方に位置する開襟シャツの男の、顔を押さえて一人たた
ずむ姿、あるいはもしかすると既に私を追いかけて人ごみをかき分ける姿等
を見つけて、金髪も異変に気付いたのか。階段方向へ進みながら、男は何度
もふりかえった。
けれども、私と金髪男の面識は私の知る限りではほとんどなかったし、周囲
をうごめく女子生徒の群れが私の姿を上手い具合に隠していたから、結局男
は接触するまで、私を発見できなかった。

つい先程、女子高生の集団をまとめて吐き出した車両は、しばらくの間ホー
ムに留まっていたが、私と金髪男との距離がぐんと近づき、ついにはその間
に2〜3人を挟むまでとなった時、軽やかなメロディが流れて、その列車の
発車を告げた。
梨華を奪い返すタイミングを息を詰めて私は見計らっていたが、すでに彼ら
との間に、女生徒の壁は一列しかなかった。梨華は男に歩かされながら、そ
れでも懸命に抵抗などをしている。その彼女が身体を捩った瞬間に、私達2
人の視線が出会った。

--------ひとみちゃん!!
私を見て、驚きと喜びが入り混ざったような顔をした梨華は目を見張り、そ
う声を出しそうになったけれども、間もなく訪れるはずの絶好のチャンスを
私は逃したくなかった。
--------シッ!
人差し指を口に当てて大慌てで遮った私の、思わず目までもつぶってしまっ
た必死な表情を後に梨華は、
「あまりに一所懸命すぎて、ちょっと面白かったよ。」
と、そんなふうに評した。
それを言うならその直前の、男に抵抗して脇腹にエルボーをかまそうとする
梨華自身の、尖った口だって相当ウケたけど?
と、私だって言ってやった。

男たち2人の最大の誤算は、この日の私が、銃をもっていたということだ。

出発する列車のドアが閉まり始めた瞬間、胸に抱えたバッグから私はピスト
ルを抜き取った。梨華の腕に手を伸ばし、そして思い切り強く引くと、男も
その反動を感じ取った。腿の裏側に銃口を押し当てられているとも知らず、
男は面識の浅い私に瞬間、怪訝な表情を浮かべたけれど、すぐに私と認め不
遜な笑みを滲ませたところへ、私は構わず引き金をひいた。

衝撃に驚いた男はとっさに太ももに手をやった。続いて訪れる予期せぬ激痛
に、何が起こったのか、まだわかってはいない様子。直後、梨華と男の間に
すばやく体を入れた私は、梨華の手を取るすれ違いざま、もう一度男を振り
返った。そしてもう一発。
顔を歪め、腿を押さえる男の肩口に、私は銃口を押し当てる。
「そんなモン持ってるなんて‥俺ぁ聞いてねえぞ‥。」

私が人を撃ったというのに、その時梨華は嬉しそうな顔をした。
消音装置を備える2発の銃声は、ホームを出る車両のけたたましい音によっ
て完璧にかき消された。

「痛ェ‥。」
金髪男の弱々しい声が耳に届いたけれど、梨華の手をつないだ私は速度を
ゆるめず進んだ。二発目を発砲した際、驚きに目を見張る男の肩越しに、
依然立ち止まったままの開襟シャツと視線がかち合ったからだ。私を見つ
けた瞬間、男は嬉しそうに一度目を輝かせた。直後、即座に無表情へ戻っ
て、人ごみを掻き分け私達の方角へ進み始める。
追ってくる-------!私はそう直感した。

私と梨華が、ホームから地下へ抜ける階段にたどり着いた時、後方でキャ
ーという悲鳴が上がった。被弾し血を流す金髪の男に、そろそろ周囲が気
付きだしたのだろう。急いではいたけれど、確認の意味も含め私は人ごみ
を一度振り返った。すると、案の定金髪がいると思われる付近に、ぽっか
りと穴ができていた。
開襟シャツの男はもっとも、仲間であるはずの金髪にもはや興味を失って
でもいる様子だ。その穴を既に通り越えている。私達が振り向くと、すぐ
に姿を認識できる位置までその距離を詰めている。
「急ごう。」

踵を返した私達は何とか転倒などもせず、人々がひしめき合う階段を下った。

先程の例から、極端な人ごみも危険なのだと判断した。私達は改札を抜け
た後、街に出ることはせず、そのまま、適度に人目のある駅ビル内部へと
逃げ込んだ。なんとか男をまこうとして、巨大デパートの上から下までそ
れこそ縦横に売り場を動き回ったけれども、何度振り返ってみても、開襟
シャツの男は小走りの私達より少し離れたところを執拗に、犬みたいに
ついて来る。
そして、いつしか追っ手には、更にもう一人新たな男が合流していた。さ
っき撃った金髪同様、これもまた随分若い男。リストバンドを嵌めた腕の、
肩には派手な刺青を入れている。

(若い2人はともかく‥、)
エスカレーターを梨華の後ろから駆け上がりながら、新たな男の出現につ
いて私は考えた。
(開襟シャツの方は、もしかしたら本当に警察‥。それか‥。そっち関係
のプロ‥。)

警察にしても民間にしても、そういった組織は2人組での行動を常に崩さ
ないらしい。そういう内容のテレビ放送を見たことがあった。ひとり年の
離れた、中年の開襟シャツの男が、彼らのおそらくリーダーだと思われた。
その開襟シャツを中心に据えた彼らの動き方もまた、くだんの放送の内容
にまったく良く似ていた。

30分以上もフロアを変え、休まずに移動し続けて、次第に私達は疲労を
感じるようになった。それでなくても冷静に状況を考える、少しまとまっ
た時間が欲しい。
どちらともなくそう切り出した私達は小走りのまま、息を切らしつつ意見
を出し合ったが、結果、階下の婦人服売り場までひとまず移動することに
決めた。
背後の男達は駅ビルに入ってから、小走る私達の後ろを、ただひたすら
ついて来るだけ。人目など多少気にしたりしているのか、先程のプラット
フォームの時のようには気安く襲ったりしてこない。が、それでも、人気
の無い階段や密室になってしまうエレベーターを、私達は当然避けた。

「試着、いいですか?」
現れるなり手近な服をそれぞれ2,3着、それもロクに選ぶ様子もなく手
にとって私達は詰め寄ったから、売り場の、若くこぎれいな店員は目をシ
ロクロとさせた。背後の男達は相変わらずさりげない距離を保ってはいる
けれど、私達のそんな動向からも、目を片時も離さない。

店員について試着用個室へと通される間、私は彼らの方を振り返り、しば
らくじっと見つめてみた。
中年の、つまり開襟シャツの男は私の視線をがっちりと受け止め、ニヤニ
ヤ口を歪めていている。その脇、リストバンドの男は早くも飽き始めてい
るのか、目を時折、辺りの商品へと伸ばしている。

人数分2つの試着室を店員は用意したけれども、私達はその一方を断った。
2人して一つの個室に入ったのだから、店員が、ますますおかしな顔をし
たというのは、しごくまっとうな反応と言える。内部には壁の一面全体を
使って、巨大な鏡が据付けられていた。思っていたよりそこは広かったけ
れども、鏡が照明を大量に反射するので、へんに明るく感じた。

梨華は靴を脱ぎ内部にしゃがみこんだ。私は特に理由もなく、ドアの内鍵
をなるべく静かにおろした。
「警察だ、って‥、言ってたよアイツが‥。」
脇に腰を下ろしながら、梨華にまずそう伝えた。壁に背中を寄せながら
彼女の反応を待ってみたが、ただ無言に頷かれただけ。梨華がずっと壁を
見ているから、私ひとりが喋っていた。

「でもおかしいよね。リーダーっぽい男はともかく‥。若い2人はどう考
えても違う。だってさ‥、金髪とかタトゥーとか、そんな警察いるわけな
いじゃん。‥ねえ?」
私の舌はいつもより数段滑らかに動いていた。次から次へと言葉が浮かんだ。
そのくせ頭の中で私は
(鏡に映った私達がなんだか4人もいるみたい。)
とかなんとか、ひどくちぐはぐな事を、思ったりもしている。
「この間りかっちがケガしたから‥。それになんか‥、様子もおかしかっ
たし、だから今日、ピストル持って来てたんだ。‥でも持って来て良かっ
たよね?‥ね。なかったら大変だったよね。」

要するに興奮していた。
しばらくペラペラと話し続けていた私だったが、梨華が壁から目を離
して私の方へ顔を向け出した頃から、だんだんと苦しくなっていった。

膝を抱えて壁に寄りかかる。私達2人はいつの間にか、同じ体勢で座るよ
うになっていた。膝の上に組んだ私のひじの辺りに、ためらいがちな視線
を梨華が固定した頃ともなると、既にだいぶしどろもどろだった私は、沈
黙のほかに取る道がなくなった。

個室内にも冷房は効いているはずだったけれど、温度が少し高いように感
じた。重苦しい時間のみが静かに流れる時間が流れ、そっと盗み見た梨華
の唇が、かすかに薄く開かれていた。なにか言いたげ。タイミングをじっ
と、懸命に測っている様子。
やがて梨華は、息を吸い込んだ。反射的に私は一度、まばたきをする。
それから先手を打ってしまって梨華が切り出す前に、自ら核心に触れた。
すなわち、人を撃ってしまったこと。
ため息交じりの言葉に梨華は、今度は静かな返事をかえした。

「やっちゃったよ私‥、とうとう‥。」
「うん‥。」
「撃ったとき‥。あんまり、実感がなかったんだ。」
「そう‥。」

「ひとみちゃん‥。」
「なに?」
そう切り出したのは梨華。声にはなんらかの、追い詰められた調子が
随分混ざっている。自然と顔を向ける私。
「ごめんね、私。いつもなんか‥。弱くて‥。」
「いいよべつに‥。」

すると梨華は、ゆっくりと頷くような動作を繰り返しながら、まるで自
分自身に言い聞かせるみたいに、穏やかな口調で話し始めた。
「私が、もし‥。もっと力とかあったらさ、あんな男なんかに、簡単
に‥連れてかれたりしないのにね‥。そうしたらひとみちゃんも、ヒト撃
ったりしなくて、済んだかのも知れない。」
「どうかね‥。でももう仕方ないよ。やっちゃったんだもん‥。」

傍らにあるカバンには、中に拳銃が入っている。取り出して一度、その存
在を確かめたい衝動にかられたけれど、その一方でなんとなく怖く、私は
結局、カバンの肩ひもを少し引き寄せただけでやめた。

「金髪の男がりかっちをひっぱって行く時、なんか、言ってたけど‥。あの
コンビニの帰り‥、やつらに、何かされたの?」
「後をついてきたの‥。金髪の人、ひとりだけだったけど‥。いろいろ、
話しかけたりしてきて‥。私の名前も知ってて‥。怖くなって走ったら、
つまづいて、転んだ。
『大丈夫?』なんて、‥ニヤニヤ笑いながら手を差し出してきたけど、気
持ち悪いし振り払って、夢中で家まで走ったの。男は家の階段の手前まで
追いかけてきて‥。私は階段を急いで上ったけど、なんか、それ以上、
ついてくる気配がなかったから、途中で下を見て確認した‥。そしたら近
くの電柱の脇を、金髪は、のんびり歩いてた。口笛吹きながら。」

「そうだったんだ、あの時‥。」
相槌を打ちながら私は、店に来たことのある顔をできるかぎり思い出して
みた。けれども彼ら3人は、見覚えのない顔だった。

開襟シャツの男は今日、最寄りの駅についた時から私たちのそばにいた。
梨華の話と考え合わせると、彼らは私たちの住所を確実に掴んでいる。名
前も知られているし。

開襟シャツの、リーダーっぽい男はともかく、若い男2人はやっぱり警察
なんかじゃない。
そう私は思った。見た目は明らかに街のチンピラふぜいだし、金髪の方は
朝方梨華に近づいたりして、行動の仕方も明らかにおかしい。
そうなると、そんな2人とつるむ開襟シャツの男も警察とは考えにくい。
すると、誰?

はっきりした見当は、まったくつかなかったけれど、とにもかくにも、非
合法的なニオイが、ぷんぷんと漂っていた。

「あ。てゆうかさあ。」
しばらく考えているうちに、私はふと思い出した。言いたい事があったの
だった。
「なんで言わないの!?そんなことがあったならもっと早く?」
「だって怖かったんだもの‥。」
申し訳なさそうに、梨華は肩をすぼめる。
「名前とか知られてたし、言わなきゃな、って思ってたけど。なんか。
言ったら、悪いことが‥、本当に起こりそうな気がして‥。」
さっき電車の中で感じた開襟シャツ男への恐怖を、私は思い出していた。
なんとなく、わかるような気がする。
「そう‥。でも今度からは、ちゃんと言ってよね。私もなるべく、全部
りかっちに言うようにするから‥。」

「さて。どうしたもんかね‥。これから。」
私が考え込んでいると、梨華が状況を、ゆっくりと整理していった。ぽつ
ぽつと紡ぐ梨華の言葉に、私はいちいち頷いたりした。
「家に帰るのは‥、危険だよね。場所とか‥、だって知られているんだも
ん‥。」
「うん。」

「ホームには‥、カメラがあったね‥。私たちが撃ったこと‥、映っちゃ
ってるのかなあ‥。バレちゃうのかしら‥。」
「うーん‥。」
そう、返事をしつつ私は、なにげなく囁かれた梨華の言葉に少し驚き、ま
じまじと梨華を振り返った。
彼女は、優等生だったはず。

「え?何‥?」
ふと感じた違和感に私はしばらく目を見張っていたから、梨華は不思議そ
うに聞き返した。そんな彼女はまだ、自分の言葉のおかしさに、少しも
気付いてはいない。

「なんかさあ、りかっち変わった?」
「え?」
私の言葉に、動揺した素振りを見せる。
「なんか、『バレるとかバレないの問題じゃないモン』とか、そういうノリ
じゃなかった?昔?」
「え、うーん‥。まあ、どっちかって言ったら‥。」
「てゆうか、絶対そうだったよ。真面目で、お嬢様だったじゃない。」

からかうみたいな私の口調に、梨華は少し照れたように笑った。
「そうだね。私、変わったかもね。」
白い歯をこぼし、まっすぐ私を見つめて、直後、ハッとしたように真顔に
なる。
「え、ちょっと待って。ダメ‥?」
「ううん。いい。なんかかっこいいってカンジ。」
出会ったばかりの頃は、虫も殺さないお人形さんだって、私は思っていた
んだよ。

「私が金髪を撃った時‥、りかっち、嬉しそうな顔したでしょう。」
「うん。‥でもね私。変わったって言っても、ひとみちゃんを巻き込んで
しまったことに‥、やっぱり罪を感じずにはいられないの、今でも‥。
でもあの時は。ひとみちゃんがあいつを撃って、私を助けてくれたときは。
本当にちょっと嬉しかった‥。まだ一緒にいられるんだなって‥。
ごめんね。私のせいでひとみちゃん、人撃っちゃったりしたのに‥。喜ん
だりして、ほんとうに勝手だよね‥。私といると、ひとみちゃんもどんど
ん変わっちゃうね‥。」

「だから、もうそれはいいよ。後悔してないもん、私。そんなにあやまら
ないでよ。」
後悔とか動揺とか、そういった気持ちがまったくないわけではなかった。
けれども私は、本当は、より決定的な罪を犯したことに、むしろ満足して
いた。

殺人という重責を背負う梨華と、逃亡を幇助する私。今回私が人を撃って、
その十字架がまた一歩、梨華に近づいたのだと私は考えていた。彼女と
同等、もしくはより近い罪を私も犯したことで、梨華の重荷を半分背負っ
たような、そんな気分になっていた。

もっともこんなこと梨華が悲しむだろうから、絶対に言えないけれども。
私の罪がいつかもっと大きくなって、梨華の殺人など覆い隠せるようにな
ると良い。

きっと試着室の外には男達がまだいる。なんとか無事に家、もしくは矢口
さんの家にたどり着けたとしても、私たちが発砲したことはそのうちバレ
る。男達とそして警察にも、近いうち追われることになるんだろう。そも
そも今まで無事だったこと自体が、かなり奇跡に近いのだと思う。

私はズボンの尻ポケットを探って、保田さんの残した、少し皺のよった紙
を取り出した。
------本当にピンチの時に使いなさい。
保田さんの言葉を思い出す。
「まさに今ってカンジだよね‥。」
2つ折りを開くと、梨華もゆっくり頷いた。

――この番号、誰から聞いたの?
記された番号の持ち主は、繋がるなり、そう唐突にたずねた。
「や、保田さん‥。保田圭から聞きました‥。」
静かだけれども、なにかしら威厳のようなものを感じさせる口調に、私は
やや緊張気味。

――それで?
保田さんと聞いた相手は少し黙り込んだのち、やがて再び尋ねる。話し方
は随分落ち着いているけれども、声質自体から、相手は案外若いと感じた。
「あの、ピンチなんですけど‥。助けてくれませんか。」
――フフ。じゃあ場所は?
短く笑った声はやはり若い。

――わかった。今あなた達は、4Fの試着室にいる。その外で、男が待っ
ているのね。この電話を切って10分たったら、そこから出て売り場から
走って。左に向かった先に、本館の東階段がある。そこを8階まで駆け上
がるの。いちばん重要なのは、きっかり15分後に7Fを通過すること。
それができなかったら、計画は上手くいかないと思う。

まるで建物を完全に把握しているよう。電話の向こうで、彼女はすらすら
と、澱みなく話していた。

――だいたい、こんなかんじ。経路は頭に入った?繰り返して欲しい?
「いいえ‥。大丈夫です。」
たいして複雑なわけでもない。左に走って15分後に、7階。そう声に出
して復唱した。脇の梨華も、2,3度頷いたりしている。

あまりに単純だ。私は少し疑った。ハナシがうまく進みすぎる。物事はこ
んなにスムーズではないはず。
――もっともあなた達が、私を信じれば、のハナシ。
そう思っていた矢先の言葉だったから、相手がそう言った時もあまり驚か
なかった。
――私を信じる?そうしたら助けてあげるよ。

「信じる、‥って言っといた方が、良かったんじゃないかしら。嘘でも‥。」
梨華は息を弾ませながら、いくらか不安そうな声を出した。
電話を切った私たちは数分後、タイミングを見て試着室を出、与えられた指
示の通りに東階段へ向かって走り出していた。男達ももちろん、私達が再び
姿を現したからほんの一瞬だけ意外そうな表情もして見せたけれども、私達
の後ろを私達に合わせ、先程よりもずっとペースを上げてついて来る。
「うーん‥、」
足音もはばからずに売り場を駆けてゆく私たちを、周囲の客は怪訝な目で睨
んだ。私は何度も背後を振り返りつつ、次第にあがり始めた呼吸を押さえつ
けるようにして答えた。
「でも、さあ。あんなふうに、聞かれてさ。」
梨華と背後に気を取られ、多少の前方不注意。
「あ、すみません‥!『ハイ信じます、』って言えちゃう程、幸せな道、進
んできたわけでもないじゃん‥、ウチら。」
セール中のワゴン前、靴下を眺める中年の女性に、私はいきおいぶつかりそ
うになったが、直前でよけた。

あの時。
「わかりません。」
信じるのか、という問いに、私はそう咄嗟に答えていた。
『信じない』と突っぱねるには、状況はあまりに差し迫っていたし、逆に、
『信じる』というこたえをすんなりと口にできる程私は純真でも、或いは大
人でもなかったからだ。
「信じるも‥、何も。私たちには、他に、方法なんて思い浮かばないんです。」
それでも少し後悔した私が弱い口調で付け加えると、電話の向こうの彼女は
――ふーんそう。じゃあお楽しみに。
と、一度、軽く笑って切った。

すぐに私たちは指定の階段へ突入した。そこは思っていた以上に人影が乏し
く、駅や他の入り口から考えてちょうど使いづらい位置にあるのか、それと
もエレベーターやエスカレーターでしか人々はフロア間を移動しないのか、
わからないけれどともかく売り場とは壁で隔たれ、およそ半閉鎖的な空間は
こころなしか照明なども暗い。方角と階数を示す黄色いペイントが側面の壁
にやたらと大きく記されているほかは、トイレなどもなくてまるで通用かと
思うほどに淋しく、そしてひっそりとしていた。

男達との差は時間にして十数秒。婦人服売り場を有する4階から私たちは階
段に飛び込んだわけだけれども、そんな私たちがそろそろ5階へさしかかろ
うとする頃、私たちより更にけたたましい靴音を響かせ、男達2人も侵入し
てきた。隔絶された場所ですでに人目など気にする様子もなく、彼らはつい
に本腰を入れ凄まじい勢いで追って来る。今度こそ確実に私とそして梨華を
捕らえようとしていた。その頃になって私にはもう背後を振り返る余裕など
なくなっていたが、後方から響いてくる彼らの靴音と激しく息をつく音から、
それらは容易く判断された。

息をつく暇もなく私達は合計100段近く疾走した。階段はまるで永遠に続
く螺旋とも思われた。更なる加速を試みたけれども、次第に意識が朦朧とし
始め、筋肉の上下動が鈍ってゆく。自分でもそれはわかったけれど、背後の
男達との距離が徐々に縮まりつつあった。気を抜く暇などなかった。

破裂しそうな心臓を片手で押さえ、必死で私は梨華を促し続けた。先程のプ
ラットフォームでは一瞬の隙をついて梨華と引き離されてしまったから、デ
パートに入ってからというもの私は、私に比べて力の弱い彼女の常に後ろか
ら行動をとるようにしていた。その、2,3歩先をゆく背中もまた同様に苦
しそう。肩が激しく上下している。
「もう少しだから‥」
そう励ましたつもりだけれども、苦しい喘ぎに紛れて、声には多分なってい
なかった。

いくつめかの踊り場で方向を変えた時、私の顎は無意識のうちにに上がって
いたのだが、その拍子にE7と記された壁が前上方に目に入った。E7。腕
の時計を咄嗟に確認した。例の電話を切ってからちょうど15分だった事を
覚えている。

それから約一分後、E8と記された踊り場で、私たちは壁の隅に追い詰めら
れていた。
「おとなしく一緒にくれば、手荒な真似はしないさ‥。さあ、観念した方が
いい‥。」
男はにやつきながら、顔中に滴る汗を右腕で一度拭った。途中から登場した
リストバンドの男も潜在的な狩猟本能というものに火がついたのか、ほりの
の深い両眼に異常な煌きを宿している。

東階段を4階から8階まで駆け上る、
15分後に7階を通過することが重要――。
私たちは時間通りに7階を走り抜けた。電話での指示を、ほぼ完璧に私たち
は実行した。けれど何も起こらなかった。

期待した救いは差し伸べられる気配もなく、8階まで到達した私達は一瞬躊
躇して足を止めた。すると消耗した筋力や気力は、一度弛めてしまうと再び
起動させるのが容易くない。そうしてそのすきをついて、男達に追いつかれ
てしまった。

「そうすればキミも、あんなチンピラに発砲せずにすんだものを‥。」
梨華は強い力を込めて、私の手をずっと握っていた。巨大にペイントされた
背後のE8という文字に擦れ、固くざらついた感触を手の甲に感じた
(信じるって答えていたら、助かっていたんだろうか‥。)
背中のカバンを片手で手繰り寄せながら、私はそんな事を考えていた。

「おっと、そいつはムダさ‥。」
そう言って男は、傍らの若い相棒の腕を唐突に引いた。ゆるゆると私が銃を
取り出したからだ。
「な‥、何するんスか‥。」
突然肩を押さえられた男は動揺した声を出したが、中年の男は意にも介さな
い。銃を構えるためゆっくりと持ち上がる自分自身の腕を、私はまるで映画
でも見るように見ていた。

「もっとも‥、キミのような美しいコに撃ち殺されるというのも、実は甘美
でいいかも知れない。」
「じ、冗談やめてくださいよ‥。」
背後から仲間の首に腕をまわした男は、笑みを崩さぬまま、じりじりと迫っ
てくる。盾にされた男がひきつった笑顔で言う姿が、とても滑稽だった。

梨華と繋いでいた手を離して、私は拳銃をゆっくり両手で握った。少し体を
前に出して、梨華を背後に隠すようにした。
「フフフフ‥。」
男はやっぱり、どこかおかしいのかも知れない。顔をいびつに歪めて笑って
いる様子は相変わらず。仲間の体を盾にとった男は、拳銃を突きつけられて
いるというのにひるむ様子など微塵も見せない。
(この2人を殺せばよいのだ。)
額に汗の浮いた若いリストバンドの男の喉元に、私の銃口は正確に向かって
いた。このまま指に力を込めるだけ。後ろの中年男だって、べつに、その後
やってやればよい。例えばその真っ暗闇な目でも撃ち抜いてやったら、また
少し、私たちは逃げ延びる事ができる。

「おまわりさんおまわりさあん。こっちでえーす。」

(焦って撃つのは嫌だ。万一外したら、大変だし‥それにちょっと、格好悪
くはないだろうか‥。)
両肩に背後から添えられた梨華の手のひらはかすかに震えていて、その感触
を感じながら、そういったどちらかといえばくだらない事柄が私の脳裡をよ
ぎった。

それは、落ち着いてコトを遂行するため、私が一度目をつぶった瞬間だった。
馬鹿馬鹿しいくらい能天気な声がコンクリートの階段に響いた。
「ここなんですぅー。お財布おとしちゃったんですぅ〜。」
男達との間で張り詰めていた空気が一瞬で覆った。声の主は後に加護亜依と
名乗った。