「ああ見えて、相当な曲者。近付かないほうがいいよ。」
カウンターの隅にひとりぼっちで座る彼女を一瞥した矢口さんは冷たく、
そして無関心に言った。ゆっくりと穏やかだけれど、どこか本能を刺激
するような、ループされた音楽が薄暗い室内を満たす。決して満員にな
ることのないこの店では様々な種類の煙が吐き出されて、甘美な芳香を放
つまでに充満しきったその粒子は、既に空間を構成する大気となって私達
を優しく包む。集まった客は全て、いかにも優雅に退屈をもてあました。
矢口さんはいわゆる、「持つ」側の人間だ。私達と年齢もたいして違わず
驚くほど小顔な彼女は、その歳にして多くの物を所有していた。新興では
あるが不況においても勢いの衰えない数少ない企業を経営する家に生まれ、
持てる者の余裕に由来する人なつこくてこだわらない性格が、若くして驚
異的な人脈をその周囲に集めた。出自が良いという点で梨華も決して劣って
はいないのだけれど、梨華にはない矢口さんの屈託のなさ、あるいはその
気紛れさは、あらゆる面で完璧に飽和した日々の生活からくるものだった。
主都の玄関口となる巨大な駅に到着した私達は、金銭に余裕があるのでし
ばらくはホテルに暮らしていた。それ程高級でもないかわりに清潔でさっ
ぱりとしたホテルでは、個人情報の偽造など容易いことだった(そうは言
っても私はやっぱりビクついていた。しかし他でもない梨華がこういう事
には慣れていたのだ)。
翌朝買った新聞に私達の事件が小さく報道された。その規模、または記事
からすると桜の根元に埋まった死体は発見されていないらしい。警察はま
だ殺人事件とは断定せず、『事件に巻き込まれた可能性』というくだりが
文章の最後に添えられていた。もっともそれが時間の問題だと言うことは
だれよりも私達がいちばん理解していたのだけれど。
ホテル側から怪しまれないよう、しばしば外出はしていたが、それでも
だいぶ籠り気味だった生活に私達はとうとう倦み、思い立って遊びに出掛
けた。環状に運行する路線で繁華街に出た私達は、買い物をしたいと言う
梨華の提案で筒型に設計されたショッピングモールに入った。すでに地域
のランドマークと化したその建物には、いまや絶滅と思われたいでたちの
女子がどこからともなく集まり、そのひしめきあう具合はまさにカナリア
の群舞と言えた。
「痛ッ!」
あっけにとられしばらく呆然としていた私は、突然真横であがった梨華の
悲鳴に、ようやく自我を取り戻した。梨華は身体を傾けながらしきりに顔
を顰めていて、とっさに落とした視線の先には飛び抜けて立派な厚底が
威風堂々と聳えていた。
「あ、ごめんね!」
本人にそのつもりがなくても、常に笑いを含んだような、ハイトーンなその
口調。巨人・矢口真里との出会いはそんなものだった。
矢口さんの後輩の、その先輩だかが経営するこの店で私達は働くようにな
った。同情すべき家出少女2人と私達を見たのか(いや決して間違ってい
るわけでもないか)、矢口さんは私達が店の2階に住めるよう先輩だか後輩
だかに頼んでくれた。
それから2ヶ月程が経ち、環境に慣れた私達の興味は次第に常連客へと移って
行った。
享楽的。まるで阿片窟のような、溶け出した自我が世界と混ざり合う事を
至上とする集団の中で、その存在は異彩を放った。
「なんか、ヤバイ関係のパトロンとかいるらしいよ。」
人指し指で頬に傷をつくって見せる、見慣れたジェスチャーをして矢口さん
は付け加えた。脇に座る梨華は驚いて眉を寄せた。
きりりと結んだ口元と、生真面目に顎を引いた姿は、厭世的な瞳と相まって
意志の存在を強調する。端正な少女人形のような、多分に純潔の面影を残す
彼女の可憐な容貌をそれがいっそう際立たせていた。
「でも、あの人。すごいかわいい‥。」
「見た目はね。」
梨華はため息をついたが矢口さんは相変わらず興味が無さそう。
「あの人、名前なんて言うんですか。」
最小限に絞ったネオン管の曖昧な光源に浮かび上がる横顔を私はぼんやり
と眺めた。
「安倍なつみ。」
飲みかけのドリンクから氷をひとつ口にいれ、矢口さんはつまらなそうに
答えた。
ここではおおむね、一日は午過ぎに始まった。太陽が軌道を昇りつめてしば
らく経った頃、私と梨華は目を醒ます。表の通りから聞こえて来るのは、活気
に満ちた昼間の音。健全な喧騒は夜毎開かれる密やかな饗宴をまるで嘘のよう
に覆い隠した。
部屋の南側、くわしく言えば南東の方角には大きな窓があった。その窓から
は少し先の高架道路が、ビルの谷間を縫って見える。昼間、道路は慢性的に
渋滞し、夥しい数の車両が列をなしのろのろと徐行した。まき散らされる
排ガスと騒音は付近の住民の間で一時期問題視されたようだけれど、建設から
十数年経った今、人々は諦め関心を失ったようだ。
午後8時に開く店は真夜中過ぎにたいして大きくもないピークを迎え、翌朝4
時頃客が引き上げ切ったところで営業を終える。几帳面な梨華をキャッシャー
に指名したオーナーは、背が高く体力のある私をフロアにまわした。仕事を始
めてまだ日も浅い頃、それ程忙しくないとは言え、現金とそしてカードも扱う
梨華は何かと覚える事も多く面倒そうだったけれど、もともと優等生な彼女は
聡明で物覚えが良い。一月も経った頃には全てをそつなくこなすようになり、
時々知ったような顔で売り上げをどうこう言っては、聞いている私を愉快な
気分にさせた。
この店にダンスフロアはない。壁で仕切られた一画にビリヤード台があったけ
れど、その白くて硬い光ですらここでは人を集めない。フロアに間隔を開けて
置かれたソファやら椅子やらにそれぞれ腰を下ろし、人々はつかの間の夜の夢
を過ごすのだった。
音楽と、囁き合う人の声。境界をなくしたそれらはいつしか暗い胎動に変わり、
人々は好んでそれを受け入れる。甘い闇に憑かれ自我を融合させた人々。テー
ブルの間を足取りも軽やかに私はアルコールを運び、梨華はもくもくと金を数
える。安倍なつみに関する良い噂はほとんど聞かなかった。
店を開けて間もない時間、梨華はレジで現金を数えていた。昨晩のラスト時と
金額が合わないようだ。
矢口さん今日は来るのかな。
そんな事を考えながら客の少ないフロアで退屈していると、奥のソファに陣取
ったギャル風の2人連れから、メソメソとすすり泣く声が聞こえた。
「で、アンタは結局どうしたいの?振ったんでしょ?」
「‥。振ったよ?あたしだってプライドあるもん‥。」
どうやらコイバナだ。硬そうな灰色の髪に銀のメッシュを入れた方がしきりに
鼻をすすっている。恋人と別れたばかりらしい。その友人なのか、脇には痛ん
だ茶髪と黄緑色のセーターが特徴的な女性が座り、しきりに連れを慰めていた。
「ほんと、許せないよね。次々と人のオトコにちょっかいかけてさ。
今までウチらの仲間何人やられてると思ってんの?」
憤まんやる方ない、そんな素振りで吐き捨てた聞き役が目の前のドリンクを
ぐいと掴んで一気にあおった。
「ひとみちゃん。」
ニヤニヤしながら聞き耳を立てていると、梨華がレジカウンターから呼んだ。
「どうしたの?なんかニヤニヤしてる‥。」
駆け寄ると梨華は怪訝そうに眉をしかめた。
「奥にいる2人、なんか恋人とうまくいってないみたいで。
おもしろいからちょっと立ち聞きしてた。」
すると梨華は小さくため息をつき、上目遣いに私をにらんだ。
「もう。やめなよ。下品。」
相変わらず几帳面だ。そう思ってさらに頬をゆるませていると、帳簿を閉じた
梨華は小さな封筒を手渡した。
「これ、昨日の分のチップ。
ひとみちゃんの分、ちょっと少なかったみたい。ごめんね。」
「ああ、だから合わなかったんだ、金額。てゆうかりかっちが持ってて
良かったのに。どうせ一緒に住んでるんだしさ。」
「うん‥。まあね。でもそこはキチンとしようと思って。」
レジスターの椅子はそれほど低くもないが、それでも立っている私の視線のほう
が梨華よりも少し高い。目を伏せ、テーブルに肘をついた梨華を見下ろす格好
の私だったが、生え際の整った彼女の額はいかにも生真面目だ。それがやけに
可愛らしく見えて、私はまた笑った。
11時を過ぎた頃から店は次第に混みだし、私も梨華もそれぞれ仕事に没頭し
ていた。その日、矢口さんは普段より早く顔を出し、先に集まっていた常連客
と中央のソファへ座った。彼等は決して学校などの友人ではなく、この店また
は街で矢口さんが知り合った男女だ。あくまでもそれだけの付き合いで、プラ
イベートの知り合いを矢口さんがここへ連れてくることはなかった。
オーダーされたドリンクを矢口さん達のテーブルに運ぶと、その中の一人が
しこたま酔っているらしく、テーブルの上にグラスを倒した。見れば全員顔を
赤くし、相当できあがっているようだ。それはテーブルに置かれたグラスの数
からも容易に想像できたが、その中でひとり矢口さんはお酒に随分強いのか、
それともコントロールしているのか、ともかく非常に冷静で、ビールを被った
男のコのじっとりと濡れたジーンズをハンカチで拭ってやっていた。
「大丈夫ですか?」
甲斐甲斐しい素振りで介抱を続ける矢口さんに私が声をかけると、矢口さんは
顔を上げ、剽軽に片目をつぶって見せた。
「ごめ〜ん、よっすぃー。悪いけど、雑巾持ってきてあげてくれる?
ちょっとハンカチじゃ足りないみたい。」
「はい。」
一目見て高価とわかる濃紺のハンカチがアルコールを吸ってべっとりと濡れていた。
「悪いねー。」
「いえ。」
そう言って踵を返した私が他に要るものはあるだろうか、そう思ってもう一度
テーブルを振り返ると今しがた人なつこくおどけてみせた矢口さんの表情から
笑みが消えていた。
トイレへと続く通路に、用具入れのロッカーはひっそりと置かれていた。隔離
された通路は白いライトの下、ある種独立して浮かび上がり、フロアでは極め
て有機的に広がる音楽も、ここではやけに遠く、乾いて聞こえる。従業員も客
も熱に浮かされた自我をこの通路では一瞬取り戻すのだった。
一息つくのも束の間、バケツと雑巾を手にフロアへと引き返す私の横を一人の
客が通り抜けた。ギャル。派手な服装と裏腹に表情は悲痛で顔は俯いている。
ああ、さっきの人だ。
先程店がまだ混み出す前、男の話をしていた2人連れの、その彼氏と別れた方。
すぐに思い出して興味を覚えたが私は振り返らなかった。早く持って行かなけ
ればいけないのだから。雑巾を。
「あー、よっすぃ−。」
急いで戻った私は矢口さんのテーブルへ早足で近付いた。矢口さんの表情には
いつもと同じ明るい笑顔が、再び浮かんでいた。
「お待たせしました。」
「サンキュー。」
先程見た矢口さんの表情に少しだけ違和感のようなものを感じたが、それを
考えている暇はその時無かった。矢口さんが自ら雑巾を持って床を拭こうと
したのだ。常連とは言え、流石に客にやらせるわけにはいかない。それは私
の仕事だ。
「あ、私がやりますから‥。」
遠慮する矢口さんからなかば強引に私は雑巾を受け取り、テーブルの下に跪
いた。矢口さんの厚底はいつみても立派だ。
その場を片付け終えた私は、もう一度通路に戻った。使用した物をロッカー
に戻す為だ。しばらく下を向いてかがみ込んでいたからか、頭がクラクラし、
少し汗もかいたようだ。私は一息いれようと体を壁に凭せかけた。フロアより
も1、2度低く感じられる通路の空気は、ひんやりとして心地よい。
誰もいない通路で壁に凭れたまま、私はぼんやりと天井を見つめていたが、
しばらくすると奥のトイレから「がたん」と物音が響いた。
「なに?」
いかにも不審だ。
そろそろ一日の疲労がたまりつつある体を、弾みをつけるようにして壁から
離した。
人の気配がしたのは女子トイレの方。少し様子を伺ってから、えい。とドア
を開けると、果たしてそこにいたのは安倍さんだった。
「あ、来てたんだ‥。気付かなかった。」
そう思った直後他に2人、女のコの姿も目に入った。見覚えのある2人は一瞬
固まっていたけれど、私が視線を向けると気まずそうに顔を見合わせた。
安倍さんは鏡を背に追い詰められるような格好で立ち、その正面に例の、さっき
コイバナをしていた2人連れ。先程振られた方の彼女とは通路ですれ違ったが、
あの時もう一人は安倍さんを呼びつけに行ってたんだろう。そして2対1で
(だいぶ一方的な)ケンカ。おおかたそんなところか。安倍さんは醒めた顔をし
て、ずっと口をつぐんでいる。
私が一歩、足を踏み出すと、2人のうち慰め役の方が動揺した声を出した。
「‥従業員が何の用?」
「あ。ちょっと手を洗いに。」
実際私の手は、先程矢口さんのテーブルを掃除したので、ベトついて気持ちが
悪かった。答えながらちらりと安倍さんに目をやると、彼女は下を向いたまま
微かに笑いを堪えていた。
あからさまに訝しさを表情に出す素直な2人組。それらを無視し、私はつか
つかと水道へ歩いた。蛇口をひねって水を出した私は、ソープを押し出して
ゆっくりと手を洗う。そうしているうちに2人は諦めたのか、慰め役の方が
キイキイと耳障りな声で言った。
「つうかテメー、今度やったらマジ許さねえからな!」
強烈な捨てゼリフを残して2人が去って行くと、安倍さんは我慢できなくな
ったのか、とうとう声を出して笑った。その声は多分にヒステリックだった。
時間をたっぷりかけて手を洗った私がフロアに戻ると、梨華と矢口さんがカウ
ンターに座っていた。店内を見渡したけれど、あの2人連れの姿はない。どう
やら帰ったようだ。
「あ、ひとみちゃん。どこ行ってたの?」
隣の席についた私に梨華がドリンクを手渡す。薄緑色の液体はよく冷えて、
グラスの外周に透明な水滴をつけている。メロン味を期待した私だが、予想に
反しそれはキウイだった。
「うん。ちょっとトイレ。手洗ってきた。矢口さん、お友達はいいんですか?」
私は矢口さんがいたテーブルを振り返った。私とも多少顔見知りだけれど、あまり
言葉を交わしたことのない男女数人のグループは、もはや意識を朦朧とさせ、中には
だらしなく開けた口から涎を垂らす者までいる。酒以外のモノもヤった。明らかに
そんなかんじだ。
「ああ。だってアイツらつまんないんだもん。バカでウザいし。」
さっき一緒にいる時、あれほどまめまめしく皆の世話を焼いていた矢口さんは
手のひらを返したように冷たい口調。
「またまた。そんな事言って。」
「どーだっていいよべつに。」
冗談と思った私が笑って返すと、カウンターに誰かが忘れて行ったライターを、
矢口さんは拾い上げて弄んだ。
「ねえ、今トイレ行ってたんならさあ‥。」
カチ。
突然、思いついたような顔をして矢口さんはライターをつけ、蒼く小さな火を
私の顔の前にかざした。
「アイツ、囲まれてたでしょ?」
私は眩しさに思わず目を細めた。ついさっきまで退屈に無表情だった彼女の瞳は今、
炎のむこうで愉快そうに煌めいている。
「え‥?」
目を見開いた私がしばらく言葉につまっていると、とりすました声の梨華が聞いた。
「アイツって?」
ふふ。
「ア・ベ・さん。」
弾むような口調でそう言った矢口さんは、ライターをフッと吹き消した。
夜明けを待たず客はその日早めに引ききり、フロアの隅では帰りを意識し始めた
他の従業員がそわそわしだした。
朝陽が昇る直前、仕事を終えた私達は階上の部屋へと戻ったが、私の頭の中から
安倍さんの笑う姿が消えない。けたたましく響いた高い声は、あかるすぎてどこ
か悲痛。
「人のものを取るのが趣味なんじゃないの?」
矢口さんは言っていた。
確かに安倍さんは人目をひく。白くて透き通るような肌。真直ぐで柔らかそうな
髪。一見かわいらしい少女のようなその顔は、じつは相当整っている。よく男の
人に声をかけられているのも知っているし、常連客の間で賭けの対象として話題
に上がっているのも度々聞いた。つまり落とせるか、どうか。気まぐれな彼女の
行動は、男を含む数人から恨みを随分かってもいるようだけれど、つきまとう
黒い噂(パトロンがあっち関係の人だとかどうとか)のせいで、実際に手を出す
者はいないようだ。
「ヤクザの愛人ねえ‥。」
ソファに足を投げ出した私がつい口に出して呟いたので、ベッドで雑誌をめくって
いた梨華は顔を上げて私を見つめた。
「安倍さんのコト、考えてたの?」
「うん‥。」
「安倍さんねえ‥。確かに、私から見ても、あの人は憧れちゃうな。すっごく
可愛いっていうか、可憐。」
「うん。ちっちゃくて、なんか守ってあげたい。ってかんじ。またあのアンニュイ
な雰囲気がさ、周りを惹き付けるんだよねー。ま、いろいろ噂はあるけど‥。
綺麗なバラにはトゲがある、ってかんじだよね、あの人、ほんと。」
マイペースに語ってしまった私がふと気付いて視線を戻すと、梨華は静かに微笑ん
で私を見ていた。笑ったままで何も言わない。
「あれ‥、りかっち‥?ナニ。怒った‥?」
言い過ぎか?不自然に長い沈黙にいたたまれなくなった私がたまりかねて口を開く
と、梨華はクスリと小さく笑った。
「なんで?なんで私が怒るの?」
「いえ‥。べつに‥。アレ?」
私はしどろもどろだ。怒ってないなら別にいいんだけど。そんな私を見つめる梨華は
あいかわらずの優しい微笑み。なんだかスリル満点なかんじ。息をのんで固まった
私の額を、冷たい汗がゆっくりと流れたその瞬間‥!
「それより。ヤクザの愛人なんて。そんな言い方やめない?安倍さんに悪いわ。」
「あ‥。うん。」
それだけ言うと梨華はまた雑誌に目を戻した。怒ってないなら、べつにいいのだけ
れど。嫌な汗をかいた。まさか殺されやしないだろうな‥。私はちょこっとだけ
そんな事を思った。
それからしばらく経った日。私は相変わらず仕事に励んでいた。
生活は今や完全に夜型になっている。この間陽光の中を外出し
たのはいったい何時だったか?
今日、矢口さんは店に来ない。なんでも、テスト期間中なのだそう
だ。この間連した時矢口さんは相当焦っている様子で、本人曰く
「今回ちゃんとやっとかないといい加減ダブる。」
らしい。
今日、店は随分早い時間から繁盛していた。最初のうち店は人の出
入りがいつもよりずっと激しく、私も梨華もかなり大変だったのだ
けれど、集まった客の群れは次第に2組へと別れて行った。すなわち
一部の者は去り、一部の者は残る。しかし真夜中を過ぎて見ればなん
のことはなく、客の数は普段のこの時間、つまり普段のピークの時間
とたいして変わることもなかった。むしろ気持ち少ないくらいだ。
けれども、客の流入出が止まったとはいえ私の仕事はウェイトレス
だから、そう暇になるわけでもない。キャッシャーの梨華の場合、
人の出入りが落ち着き、それが停滞しだすと仕事も安定を取り戻す
のだけれど、私は相変わらずテーブル間を歩きっぱなしだ。
ヨッパライに呼ばれるがまま、私はフロアを歩くがまま。
そんな感じに。
いちばん奥のテーブルまで注文を運ぶ途中、仕切られたビリヤード
の一画からチラリと白いものがのぞいた。ん?誰かいるんだろうか?
ビリヤードで遊ぶ客は今ではほとんどいなかったので、少しだけ興味
というか疑問が沸いた。けれど、傾斜しないように手のひら全体で
バランスをとったトレイの上には飲み物がいくつか載っている。
グラスを客に出し終えた私はカウンターまでの帰り際、今度は少しゆっく
りと歩き、ビリヤード場を確かめてみた。さっきは一瞬だったし角度的に
壁が邪魔したからよく見えなかったけれども、あの時私の目を捕らえた、
白くてひらひらした物は薄いワンピースの裾だった。薄くてヒラヒラした、
安倍さんの白いワンピース。
「ああ。安倍さんか。」
今日、店に来ていることは知っていたけれど、私はなんだか忙しかった
ので、彼女の姿が見えないことにはいかんせん気が付かなかったのだ。
それにしても安倍さんは。今日もお盛んです。
私は思わず足を止めて、息をのみしばらく見入ってしまった。
あれは誰だったっけ?安倍さんは一人じゃない。壁に凭れ、煙草をくゆ
らせつつ安倍さんの肩を抱く男。尊大な自信に満ちているのは、確かに
見覚えのある顔。
誰かの彼氏だ。
この間の二人連れ、それとはまた別の、以前よく顔を出していた違う
ギャルの恋人。
フロアを満たす音楽が、その一画ではトーンを一段落とす。真上から台
を照らす蛍光灯の永遠に繰り返される無限の、高速の点滅がやけに寒々
しく空間を切り取る中、白いワンピースの安倍さんはまるで蒼白く発光
さえしているようだった。
肩に置かれた手は次第に位置をずらし、やがて安倍さんの腰をぐっと
引き寄せる。安倍さんは男にゆっくりと寄り添い、目を伏せて秘密め
いた微笑みを浮かべていたが、生々しい大人の性を感じさせる男の口が
彼女の耳もとに何事か囁くと、安倍さんはくすと声を立てて微かに笑った。
なんだか、すごくエロい。
それまで清楚なイメージだった白い色のワンピースが、こんなにも
官能的に見えるなんて。
そう思った瞬間、時間を忘れ立ち尽くす私の姿を、なにげなくこちらを
向いた安倍さんの視線が捕えた。
「あ‥。」
あまりの気まずさに目を見開く私。男は気付かない。男の腕の中で安倍
さんも一瞬固まったのだけれど、すぐにその表情から驚愕の色は消えた。
彼女はそのまま私をじっと見つめていたが、やがて意味深な笑顔を浮かべ
ると何事もなかったように目を反らした。
「名前、なんていうの?」
そう話しかけて来たのは、安倍さん。現場を目撃してから少し経った頃、
ようやく休憩をもらった私が人気のない通路で休んでいると、突然姿を
現した安倍なつみが、そう声をかけて来たのだ。
「え‥?」
私は戸惑った。
「さっき、私のこと見てたじゃない。‥あ、その前はトイレで助けて
もらったわ。」
「ああ‥。あれは別に。手を洗いたかったので。あの、お連れの方は、
いいんですか‥?」
「ねえ。名前を聞いてるの。」
先程見とれてしまった気恥ずかしさと、盗み見た事への罪悪感が、私の緊張
をさらに煽っていた。けれど安倍さんはあくまでもマイペース。安倍さんは
今決して笑顔というわけでもないけれど、それでも例えば8割方の人間なら
魅せられ足を踏み入れてしまう、そんな感じの誘発的な表情をしていた。
それは果たして意図されたものか。それとも本人は全く無意識なのか。私には
判断できない。
「よ、吉澤です。」
「ねえ、好きな人いる?」
「いますよ。」
「あの、キャッシャーの子。付き合ってるんでしょう?」
「知ってるんですか。」
「かわいいから。あのコ。清楚で真面目そう‥。」
そう言って横へ来た安倍さんは私と同じく壁に背中を預け、意味ありげに沈黙
した。
「ねえ、月が笑うところ‥、見たことある?」
ふと、思いついたように口を開いた安倍さん。どこか、夢でも見ているような
口調。
わらう‥。月‥。
頭だけこちらに向けてじっと見つめる目がひどく真剣だったので、私は少なから
ずどきどきした。
どういう意味?
「え‥。ないです。なんですか、ソレ。」
訪ねると安倍さんはほんの一瞬だけ視線を落として、また私を見上げた。こうし
て近くで見ると、安倍さんは本当に可愛かった。
気がつくと通路の入り口に梨華が立っていた。
「なんか。安倍さんとひとみちゃんが通路の方に行くの、見えたから。
今、ヒマだし。」
梨華は、以前よく見かけた隙のない完璧な微笑をたたえて言った。コンク
リートの壁に響いて、その高い声は少し膨張した。安倍さんもまた口角を
上げ、目を細めにっこりとした無表情を顔に張り付けている。
梨華がやってくるまでの間、私と安倍さんには特に何も起こらなかったか
ら、(確かに安倍さんのかわいさに驚きはしたけれど、それはそれ。それ
以上の感情がお互いになかったことに私は確信を持つ)私にやましいとこ
ろはなかったのだけれど、笑いあう二人に流れる空気はとても緊迫してい
た。その場を牽制する言葉を考えたけれど、口で私は梨華にかなわないと
知っていたし、そもそも言葉をはさめるような雰囲気でもなかったので、
とりあえずなりゆきを見守ることに決めた
「安倍さん、ひとみちゃんには手を出さないでくださいね。」
口火を切ったのは、相変わらずにこやかに笑っている梨華。彼女がこうい
う内容をストレートに口にするのは、すごく珍しい。一体どうしたってい
うんだろう。その一方で安倍さんは一呼吸置いたが、それでも微笑みを崩
さない。安倍さんは毒を含んだ口調で答えた。
「手を出すとか、出さないとか。そもそもそんな感情、私達の間にないけど?」
「油断していると危ないから、早めに釘を刺しておこうと思って。」
「コワイね。そんなんじゃ『ひとみちゃん』も息が詰まっちゃうんじゃない?
その間になっちが獲っちゃったりするかもね。」
「自分の事、『なっち』って呼ぶんですね。かわいい。」
業の深い女の人。その2人の対峙。初め私はそう思ってドキドキしていたけれ
ど、いつしか私は気付いていた。梨華の口調は明らかに‥。その証拠に梨
華は私を一度も見ない。ほんとうに。いつまで経っても優等生。お節介な
んだから。2人から見えないように下を向いて、私は少し笑った。
「すご腕ですね。狙ったエモノは逃さないんでしょう?」
「まあね。余裕だもの、オトコなんて。あなただってその気になれば
イケるんじゃない?もっともその気になれば、ね。」
「いいんです、私。大切な人いるし。それに、周りに余計な敵、作りたく
ないですから。」
極端に挑発的な梨華との冷ややかな舌戦。それがしばらく続いた後、少々
分が悪くなった安倍さんはなかば諦めたように言って視線を反らした。
「もういい。どっちでも。あなたのひとみちゃんには手を出さないから
安心して。」
「私に言い負かされて逃げ出すんですね。」
「ばっかみたい。ちょっとからかっただけじゃない。」
安倍さんはそれ以上梨華の言葉にはのらなかった。
梨華の横をゆっくりと通り抜け、安倍さんはフロアへと歩いてゆく。その
あくまで可憐な後ろ姿を梨華が突然呼び止めた。
「安倍さん!」
「なあに。」
面倒そうに振り返った安倍さんだったが、終始冷静に微笑んで一貫して煽り
に徹していた梨華の、急に変わった真剣な様子に少し驚いたようだった。
安倍さんの顔からも梨華の顔からも、笑いは消えている。
「自分を安売りするような事‥。必ず後悔する日が来ますよ?わかっている
んでしょう?」
多分、こういう事を梨華は初めから安倍さんに言うつもりだった。普段から
生真面目な梨華が積極的に口論をしかけた。普通に言っても安倍さんは聞く
耳を持たないから。どう見ても自虐的な今の安倍さんに梨華は自分の過去を
見てしまったのかもしれない。
ほんの少しの間、今度は本当の緊張が私達を覆った。耳よりもずっと下の方
にある腕時計が刻む音を、私は聞いたような気がした。
「あなたに何の関係があるのよ。」
突き放すような視線でやがて安倍さんはそう言ったけれど、その口調には戸惑い
が溢れ、几帳面で清潔なある意味災厄めいたものをもはや隠し通せてはいない。
再び歩き出した安倍さんがフロアの奥へと消えるまで、私は動くことができず
にいた。
梨華との一件があった後も、安倍さんはペースを崩す事なく
それまで通り頻繁に店に現れた。あの時は確かに動揺してい
た風の安倍さんだったが、しかしそれ以降何かが変わったか
と言えばそんなこともなく、相変わらず淫らな噂の渦中に
常にその身を置いているのだった。
私にはあいさつ程度の微笑みをくれるようになった安倍さんだ
けれども、梨華の前では男の人と、これみよがしに少しわざと
らしい素振りで通り過ぎる。梨華は梨華でそんな安倍さんを
徹底的に無視し、あれ以来安倍さんの話題を一切口に出さなかった。
その日梨華は起きた時からコンコンと少し咳をしていて、なんだか
体調が悪そうだった。多分風邪をひいたんだろう。今朝、仕事が終
わってから私達はコンビニへ行った。このところぐずついていた天気
がその途中とうとう崩れ、帰り道雨に降られた。コンビニはすぐ近く
だったしそれ程濡れたわけでもないけれど、私達は最近休みなく店に
出ていたから疲れが溜まっているんだろうか?
「具合悪いんだったら今日は休めば?」
顔色のすぐれない梨華に私はそう勧めたが
「べつにこれくらいなら平気。」
梨華は元気ぶって笑って見せる。
それでも風邪はひき始めが肝心だ。私が薬を渡すと梨華は苦そうに、
けれど素直に飲み下した。
仕事中梨華は多少ぼんやりしていて、やっぱり少し咳をしていた。
矢口さんは辛くも留年は免れたらしいが、今度はどうやら補習が
忙しいらしい。やっぱり今日も来ていなかった。
そもそも矢口さんの学校はエスカレーター式だけれども、そこそこ
名が知れているだけに、内部は足切りやらなにやら実は相当厳しい
みたいだ。
矢口さんの両親は娘の好き勝手を黙認する代わりに、その学校の
卒業を条件として出しているようで、やめるにやめられない矢口
さんは試験の度に毎回切羽詰まるって聞いた。
安倍さんは9時を回った頃に来て、しばらく一人でいたのだけれ
ど、2杯目のドリンクを運んで行く頃には、男の人が隣に早速
座っていた。なんだかすごく高級なまるでどこかの娼婦みたいだ。
安倍さんは今日も背筋を伸ばし、自信と余裕に満ちた笑顔で男の話
を聞き流している。
私がテーブルにドリンクを置くと安倍さんは赤いチェリーだけを優雅
に、あたかも水鳥のような動作で抜き取り、
「アーん。」
私の口を開けさせて、ポトリと落としてニコリと笑った。
特有の薬臭い甘さが私の口の中にじわっと広がる。安倍さんの空いた方
の手をしきりに撫で回していた男は一瞬だけムッとした表情をしたが、
すぐに作り笑いに切り替えると、寛大さを誇張した滑稽な笑顔を私達
の方へ向けた。
「おいしい?」
そう聞いてはいるけれど、安倍さんはもはや私を見ていない。私の肩ごし
に、レジカウンターの梨華を伺っているのだ。黒いバラのようにとびきり
意地悪で最高に華やかな安倍さんの微笑み。
念のため振り返って確認すると、案の定梨華は私達を見ていた。醒めた
表情で店の対角にいる私達を、梨華はただ見ている。楽しそうな安倍さん
の瞳は更に挑発の色合いを強めたが、梨華は冷たく一蹴し、無表情の
まま視線を反らした。風邪で喉が渇くのか、梨華はそのままグラスを
とってコクコクと水を飲んでいる。
「体調は?大丈夫?」
安倍さんのテーブルを離れてフロアを横断した私は梨華に近付き声を
かけた。
「うん。」
意地張りな梨華は何事もなかったような表情を作り、ゆっくりと私を
見上げる。今しがた安倍さんの悪ふざけには一切触れようとしない。
こういうところが微笑ましい。梨華は全く几帳面だ。だから敢えて私は
弁解をしなかった。
「もしさー、アレだったら。明日は休んだら?なんか辛そうだよ。」
「うーん。そうしよう‥、かな?」
首を傾げ、そう答える側から梨華は小さく咳きこんだ。心持ち顔が少し
赤いようだ。
「どれ?」
梨華の額に手を当てるとちょっとだけ熱い‥、ような気がする。
「あー、ちょっとあるかもねー。熱。」
「うーん。そうかな?」
「吉澤!」
そうこうしていると、バーテンダーが大きな声をだして私を呼んだ。
今日は1人休んでいるので、フロアの担当は私ともう一人しかいない。
いつもどおり3人いれば、この店はたいして忙しくもないのだけれど、
やっぱり一人とは言え抜けた穴は大きい。できあがった飲み物がカウンター
にいくつか並んでいた。バーテンは普段親切で面倒見の良い男だった
けれど、そのせいで今日は気が立っているようだ。
「ホラ、ひとみちゃん。早く行って。私なら大丈夫だから。」
「‥うん。」
梨華に上目遣いで促されて、私は渋々返事をした。
深夜を過ぎ、店が一番盛り上がりを見せる時間に、その事件は起こった。
慌ただしくフロアを飛び回る私の元に、例の気のいいバーテンが早足で
近寄って来たのだ。
「おい、お前ら、ちょっと隠れとけ。」
バーテンは普段カウンターから出る事がほとんどない。抑えてはいるが
緊張した声と、こわばった表情からただならぬ気配を感じた。
「なんですか?どうしたの?」
「警察だよ、ケーサツ。今入り口にいる。お前ら未成年だろ。早く行け。」
その言葉を聞いた途端、私の目の前が一瞬暗くなった。警察‥!動悸が
激しくなり冷たい汗がどっと吹き出す。警察。私達を、捕まえに‥!?
「おいっ!」
肩を揺すられて我に帰った。慌ててレジを振り返ったが梨華はいない。
「あいつなら先に行かせたよ。トイレにいるから、早く!個室でカギでも
閉めとけ!」
梨華が殺した父親を私が埋めてから、およそ4ケ月‥。
私達の失踪についてメディアは、一度小さく報じただけで、それ程大きく
取り上げなかった。それ以降も新聞とかニュースとか、随分気を配っては
いたが、それらしい報道は何もなかったはずだ。しかし警察はおおむね
情報を隠すものという事も常識として知っている。すると、とうとう死体
が見つかったのか?
トイレのドアを開けると、顔面を蒼白にした梨華がひとりきりで待っていた。
暦の上では春ということになるが、朝と夜は未だずいぶん冷え込む。タイル
張りのトイレももちろん例外ではなかった。あまり長いこと居たくはないけ
れど、店の通用口も抑えられているようだ。
「ひとみちゃん‥!」
追い込まれた瞳の梨華は、声がはっきりと震えていた。極度の緊張と、気温
の低さ。かわいそうに。風邪をひいているのに‥!そう思ったらなんだか
無性に腹が立ったが、どうすることもできない。舌打ちしたい気持ちを抑え
て私はカーディガンを脱ぎ、梨華の肩からかけてやった。
「大丈夫、きっと。普通の取り締まりだよ。クスリやってる人多いし、ココ。」
ともすれば崩れそうになる自分自身に叱咤して、たとえ根拠のない事を言っ
ても梨華を安心させたかった。いつになく取り乱した梨華は聞く耳を持と
うとしない。
「イヤ、今はイヤ!捕まりたくないの、私!」
「だから大丈夫だって。私がついてるってば!」
大騒ぎした割に、結末はなんともあっけなかった。30分も過ぎた頃、
もうひとりのウェイトレスがやって来て、警察が去ったことを告げたのだ。
私が言ったでたらめは予想に反して現実となり、常連の2人が薬物所持
の現行犯で逮捕されたそうだ。その2人は普段から見境なくあれこれと
手を出していたから、当然と言えば当然だけれど、聞いたところによると
誰か密告した人物がいるらしかった。
とりあえず危機を脱したと思った私は息を吐き出してほっと胸を撫で
下ろした。けれども梨華はまだ何ごとか考え込んでいる。それが少し
気になったけれど、ともかく梨華を連れて私はトイレを出た。寒すぎ
るのだ、ここは。私に手をひかれ通路をフロアへ歩く途中、もともと
体調が悪かった梨華はとうとう倒れてしまった。ポツリと小さな声で
その一言を呟いて。
その日、朝陽が顔を出した頃、私はようやく仕事を上がって、
鉄だかアルミだかで出来た階段を一足飛びにカンカン上がって
梨華の眠る部屋へと戻った。薄暗い店内に慣れた視線は昇りかけ
の太陽の、ごく柔らかな光線にも敏感に反応する。建物の外に
つけられた階段を私は顔を顰めながら昇ったけれど、それでも
全体に薄蒼く他の時間帯よりも湿気をやや多めに含んだ空気が
ピリピリ冷たく清々しかった。吐き出す息は未だ白い。どこか
遠くの方で鳥の鳴く声が聞こえたが、その姿はとうとう発見で
きなかった。
安倍さんの行動は意外だった。
警察の登場でもともと体調の悪かった梨華は心身の均衡を崩して倒れて
しまった。暖房がイマイチ届かずにしんしんと冷え込む通路から、梨華
の腕を肩にかけ、なかば引きずるようにしてフロアへと戻った私は、
早退させてもらうべくオーナーへ掛け合ったのだけれど、普段親切な彼
は果たして渋面を浮かべたのだった。警察が帰って店はいつもどおり
の賑わいに戻っている。そのうえ今日は従業員が足りない。
「そうですよね‥。」
息を吐いた私は梨華を振り返った。
気を失った直後に一度意識を取り戻したけれども、彼女は今、フロア
の隅の比較的静かなソファに体を預け、青い顔で再び眼を閉じてしま
っている。それにしても店内は空気が良いとは言えず、切れ目のない喧
騒にしたって病人には良くないに決まっていた。
「そしたらとりあえず、りかっちを部屋に寝かせて、またすぐに戻って来ます。」
「ああ。そうしてくれないか。悪いな。」
右手を顔の前にかざしてオーナーがそう言うと、シェイカーを振りつつも
チラチラとこちらを伺っていたバーテンが心配そうに声をかけた。
「お前、大丈夫か?手伝おうか?」
「ううん、平気。注文けっこう詰まってるじゃないですか。」
それはとても嬉しかったのだけれど、私は断わって笑った。彼の前にもまた
空のグラスがいくつも並んでいて、酒が注がれるのを今や遅しと待ちわびて
いるのだ。
相変わらず心配顔のバーテンが不安そうに見守る中、店を出た私は梨華を
おぶって階段をゆっくり上がった。梨華は軽かったし、こう見えて私も
かなりの力持ちだからそんなにツラくもなかったけれど。けれどやっぱり
息は切れるのだった。
ハァハァと背負った梨華の速くて浅い呼吸を耳元に感じながら、私の呼吸
の間隔もだんだん短くなっていって、それは一体どっちの物なのかそろそろ
区別がつかなくなってきた頃、一歩一歩踏みしめるように昇っていた私の
足元をサッと一つの影が覆った。
不思議に思ってなんとなく顔を上げた私の視線の先、ちょうど2、3
メートル上のおどり場のところ。そこに安倍さんが立っていた。
「もっと早く来ると思ってた。こんなに待つんだったら、上着持ってくれば
よかった。」
少しも笑わずにそう言い切る安倍さんは、階段の上で月と街灯に照らされ、
シアン色に染まった姿は、幽かに揺れるそのスカートも、そして安倍さん
自身も、限りなく透明に近い希薄な水影のようだった。
「安倍さん‥、どうして?」
部屋で私はまず、梨華をベッドに寝かせた。私について部屋に入ってきた
安倍さんは、その間窓から外を眺めていたが、私が問い掛けるとなんでも
ない様子で平然と振り返った。表情に相変わらず笑顔はない。安倍さんは
素早く2、3度瞬きをした後、真直ぐに私の眼を見て話し出した。
「さっき、なっちもトイレの近くで隠れてたんだけど。警察が帰ってフロア
に戻る時、石川梨華さんが通路で倒れるのが見えたから。その後にあなた
がオーナーの人と話し合ってるのも見てたよ。お店忙しいんでしょ?」
「え?ああ、まあ‥。」
私は水のボトルを冷蔵庫から取り出してグラスに注いだ。目が覚めた時、
梨華はきっと喉が渇いているだろう。
「そろそろ戻らなくちゃ。安倍さんも‥。」
私はベッドまで歩いて、脇のテーブルに水の入ったグラスを置いた。その
様子をじっと見ていた安倍さんは私の言葉を無視するようにして立ち上がり、
ゆっくり部屋を見渡した。
「タオルは?」
「え?」
「タオルどこ?よっすぃーがいない間、なっちが看ててあげるよ。このコ。」
ビックリした。けれども安倍さんが梨華に対して興味っていうか、親近感みた
いな物を抱いている事は彼女の言動から知っている。誰に対しても素っ気無い
安倍さんは、梨華には必要以上に絡んでいた。そして梨華も。不器用な安倍さ
んの裏腹な態度には、彼女もきっと気付いている。意地っ張りな2人はお互い、
決して口には出さないけれど。
「それは‥、助かりますけど‥。いいんですか?」
「いいよ、ヒマだし。」
「連れの男の人は?」
「ああ。いいんじゃない?別に。だいたいあの人誰か、なっち知らないし。
ねえ、タオルは?こっち?」
そう言った安倍さんは、スタスタと洗面所へ歩いていってしまった。苦笑する
私を尻目に。
数時間後、仕事を終えた私が再び部屋へ戻ると、安倍さんはベッドから少し
離れたソファにじっと座っていた。
「すみませんでした遅くなって。りかっちは?」
「うん、寝てるよ。汗かいてたからさっき着替えさせた。」
安倍さんはなぜか私の目を見ない。
「ほんとにいろいろありがとうございました。あ、コーヒー飲みますか?
今、いれます。」
安倍さんの様子に少し不思議な感じがしたけれど私は特に気にとめず、自分の
カバンを肩から下ろし、そして店に置いたままだった梨華のバッグをキッチン
テーブルに置いた。
「うん、ありがとう‥。」
お湯はすぐに沸いた。安倍さんに背を向けた私がコポコポと注いでいると、
その間黙っていた安倍さんが唐突に口を開いた。
「ねえ‥。クローゼットにあったリュックさ、彼女の服とった時に上から
落としちゃって。中味、見えちゃったんだけど‥。あのお金って‥。」
突然そう言われた私はハッとして、ビクッと震えた手元が狂った。カップに
入りそこねたお湯が指先に少しだけ跳ねる。動く事のできない私に、安倍さん
は更に続けた。
「警察が来た時、トイレの中であのコ確か、『つかまりたくない。』とかなんとか
って言ってたよね?ごめん‥。聞こえちゃった‥。あの時はよくわからなかった
けど。アナタ達、一体‥?」
部屋の中を重い沈黙が流れた。
「ま、言いたくないなら聞かないよ。」
私は安倍さんを振り返った。梨華はぐっすりと眠っている。
「彼女を‥、守りたいんです。理由は言えないけれど‥。」
「そう‥。」
このコって、お嬢サマだよね?見ててわかる。気が強くって‥。潔癖で、なっち
とは全然違うよ。あ、頑固なところは似てるわ。
ねえ。なっちの顔ってさ、可愛いでしょ。
それに軽くてバカだから、男とかどんどん寄ってくるの。ふふ。当然女のコ
からは嫌われるよ。まあ別にそんなのは気にしてないけどね。悪いけど敵じゃ
ないし。でもこのコさー、正面から挑んで来たんだよ。このなっち様に。
すっごい久しぶり、ってかんじ。
ぬるくなったコーヒーを飲みながら、安倍さんは言った。偽悪的な物言いと裏腹に
とても柔らかく微笑みながら。新鮮‥。本当の彼女はこんな風に笑うんだ。
ふと、私は思った。こういう笑顔をもっと人に見せればいい。そうすれば安倍さんは
楽になれるんじゃないだろうか?
「安倍さん、『笑う月』って何ですか?」
「ああ。言ったね。そう言えばあなたに。」
安倍さんは恥ずかしそうに笑った。
「あのね、なっちね。昔、ちっちゃい頃、今よりもっともっと可愛かったの。
もっともっと幸せでさ。誰からもちやほやされてね。皆の事が大好きだったし、
皆からもすごく大事にされてた。
近所に、偏屈で有名なお婆さんが住んでたんだけど。そのお婆ちゃんもね、
なっちにはすごい優しいの。なっちにだけ。へへ。いっつもおやつとかくれて。
でも、そのお婆ちゃん、周りの人には好かれてなかったから。みんなは、うちの
家族とかも『一緒に遊んじゃだめだよ。』ってよく言ってたんだけど。でもなっちは
お婆ちゃんが大好きだったから、いつも内緒で遊びに行ってたの。
あれはお婆ちゃんと最後に遊んだ日。秋が深くなって、木枯らしで落ち葉が
カサカサ舞ってた日。近くの山で柿をとったの。2人で。帰るのが少し遅く
なってね。だからお婆ちゃんが手をつないで、なっちを家の近くまで送って
くれたの。夕方で冬が近かったから、もう随分暗くて。暗いけどきれいな星空に、
明るい満月が浮かんでた。
一緒にとった柿が嬉しくてね。柿を詰めた紙袋の中を何度も覗きながら、なっちは
歩いてたの。そしたらお婆ちゃんが言った。
『なっちゃんは気をつけなけりゃいけないよ。かわいい子はお月様に妬まれて
しまうんだ。月はいつだって明るい物にやきもちをやくからね。いつだって
お日様の陰にかくれているだろ?だから皆に愛される子も嫌いなんだ。
ホラ、ちょうどこんな満月の晩さ。真ん丸で、笑っているように見えるじゃないか。
月はね、嫉妬をすると笑うんだよ。そうしないと、その子にバレてしまうからね。
そうして騙しておいて、子供をさらって行くんだよ。皆の元から。遠い、闇の世界へ。
笑う月を見た子は皆、連れて行かれてしまうのさ。』
いつも、なっちには優しいお婆ちゃんだったけど、あの時はなんだか、知らない人
みたいに見えた。まるで、月。そのものみたいに。
あの日、月はやけに大きくて。色も、いつもよりぜんぜん濃いかんじで、なんだか
本当に気味悪く笑っているように見えたの。
『怖いかい?』
そう言ったお婆ちゃんは、もう普段のお婆ちゃんに戻っていたけど。でもやっぱり
怖くて。つないでた手を振り離して、そこから家まで走って帰った。家までは、まだ
少しあったんだけど。一人で。暗い畦道の途中に、お婆ちゃんを残して。
その日あった事は誰にも言わなかったけど、それからなっちは二度とお婆ちゃんと
遊ばなかった。一緒にとった柿も食べなかった。あの時走りながら、なっちは何度か
振り返ったんだけど。振り返る度にどんどん小さくなるお婆ちゃんは、なっちをずっと
見てた。寒くて透き通るくらい澄んだ景色のなか、ずっと、ずっと‥。」
随分と長い話を、安倍さんは、ただ静かに語った。かすかに微笑みながら話す
様子は、まるで熱にでもうかされているようで、フワフワした口調がなんだか
本当に目の前から消えてしまいそうだった。呼吸とか瞬きとか、それら微細な
動きさえも私には許されていないように思え、安倍さんがいなくなってしまわ
ないよう、息を詰めて見つめていた。
「ま、今となっては迷信だって事くらい、ちゃんとわかってるけどね。
多分そのお婆さんも、もう生きていないと思うし。」
私の様子に気付いた安倍さんは一瞬気恥ずかしをうな顔をしてから、すぐに笑って
強がって見せた。私の視線を避けるようにして、すでに冷たくなっていたコーヒーへと
手を伸ばす。カップに口づけた彼女の。言葉の最後の方ははっきり聞き取れなかった。
「アンタ達2人なら、もしかして見た事あるのかなー、なんて思っただけ。
‥なっち以外にも、‥そういう人いるかな、なんてさ‥。」
「え?」
「なんでもないよ。あらー、このコーヒー冷たい。ねえ、新しいの
いれてよ。温かいヤツ。」
「え‥。あ、はい。」
安倍さんを支配するもの。それは、孤独‥?
「よっすぃー、いいコだから。今度いいモノをあげるよ。」
私がいれなおした新しいコーヒーを半分も飲まないうちに、安倍さんは帰って行った。
なんか照れ臭いし、何話していいかわからないから。と、梨華が目を覚す前に。
「駅まで送って行きますよ。」
立ち上がる後ろ姿に私は声をかけたが、安倍さんは断わった。
「その間に梨華ちゃんが起きたら、彼女一人でかわいそうじゃない。側にいてあげて。」
明るい日射しの中、とっくに動き出していた街は、騒がしいラッシュのピークをすでに
越えていた。ずいぶん落ち着いた道をのんびりと駅に向かう人々の、そのゆるやかな波に、
安倍さんがまるで溶け込むように消えて行くのを、私は部屋の窓から見ていた。
梨華が倒れて以来、連日店に出ていた私達の体を気遣って、オーナーは
仕事を減らしてくれた。矢口さんの口添えもあったのだろうか、週3で
休めるようになった。それはそれで相当嬉しい事だけれども、部屋に
ただで住まわせてもらっているし、未成年の私達を使いといった危ない橋を
渡らせている負い目もあったので、本当にそれでいいのかどうかもう一度
確認したが、いいよ、全然。彼はそう言って笑った。
「それに未成年のお前らが店に出る回数を減らした方が、実際危険は減る
んだなこれが。」
とも。もっともだった。薬物が横行し逮捕者を出す店を余裕ヅラして仕切り
まわす、この男はいったいいくつなのか。よくわからないけれど邪気のない
目は案外若いようにも思える。
矢口さん。朗らかで面倒見がいいけれど、あの年齢でこういう人脈を持つ
あいつも一体どんな人物か。
弱冠15才。学校に行かなくなってしまった私には世の中わからないこと
だらけだ。けれど彼女がただのギャルじゃないことだけは解る。
そう言う私達にしたって殺人犯とその幇助者だ。
休みがもらえるようになってしばらく経った日の午後、そんなことを考えて
いた。仕事のない日だったからぼんやりしていたら、いつの間にか時が流れ、
点け放しのTVでは料理番組が始まった。郁恵と井森は今日、ハンバーグを作る
らしい。バンバン言ってる歌をバックに素敵なタイトルが現われた。世の中
平和ってかんじだ。
「手作りのハンバーグなんて、ひさびさに食べたい‥。」
郁恵のはじける笑みを見ていたら、自然とそういう気分になった。自分でも
気付かず漏らしてしまった私の呟きを、梨華は聞き逃さないのだった。
「そうだね。最近そういうの食べてないよね。」
ゆっくり相槌を打ってから、思い出して私を見る。
「でもひとみちゃん、お肉ダメじゃないの?」
「あ、ひき肉は平気なの。言わなかった?」
そうだっけ?そう答える梨華はあまり興味がなさそう。画面では今日もまた、
井森がヘマをやっていた。8割方蓄膿確実な声で『エヘヘ』と井森が笑う。
一方、鼻の通りの良さそうな梨華は風鈴みたいな声で言った。
「山瀬まみは料理上手いのに。」
TVを切った私達は近所のスーパーへ出かけ、ひき肉と玉ねぎ、それから卵と
サラダを買った。
「卵3つも要らないよ?1つでいいんだよ?」
キッチンで手を洗った梨華に玉ねぎを渡して、私はそれから必要な材料をテーブル
に揃えた。とりあえずまだ使わないものを冷蔵庫にしまっていると、梨華が不審な
視線を向ける。
「いいの。他の2つは今茹でとくの。で、明日の朝食べるの。」
「あ、そっか。」
初期、毎日ゆで卵を食べる私を不思議がって、何かと梨華は好奇の目で見てきた
けれど、今となっては慣れたもので、彼女は普通に納得した。
梨華が炒めた玉ねぎを肉と一緒にボウルに入れ、そして卵とパン粉も合わせて
私が素手で練りに練った。
「良くコネた方が、より美味しくなるのです。」
フライパンを準備した後、サラダを冷蔵庫から取り出した梨華が、まるで家庭科
の先生みたいに言ったからだ。背筋を伸ばし私を見つめる彼女の両目は、さっき
刻んだ玉ねぎの名残りで、まだ少し赤い。
ゆっくりと力を入れると、ひき肉が手のひらからこぼれる。特有のにゅるにゅるした
感触が指の間を通る度、微妙にざらついた感覚が喉の辺りに込み上げたが、それが
不快なのかどうか、自分でもよく解らない。柔らかくテラテラと光った肉が、自分の
手から次々と押し出されるのを見つめていたら、頭が少しクラクラした。
水道の蛇口をひねり、梨華は使い終えた調理器具を洗い出した。しばらくカチャカチャ
と音を立てていたが、思い出したように呟く。
「最近、安倍さん来ないね。」
「ほんと。どうしたんだろう?」
私はネタを丸め、ハンバーグの型に整えていたが、相槌を打って手を休めた。流しに
向かう梨華は私に背中を向けたままだ。手は動かしているけれども、他の何かを考え
ている背中に向かって、私は構わず言葉を続けた。
「でも矢口さんは来てるよね。進級できたみたいで良かった。そう言えば、こないだ
珍しく知らない人と一緒だったよ。学校の友達かね?」
「あの、背の高い人?」
「うん。」
「きれいだけど、なんか不思議な感じのする人?」
「そう。」
おおかた洗い終えた梨華は水を止め、手を拭いた。そのまま私の横へ来て所在なさげ
に胡椒の小瓶など弄んでいたが、やがてため息を吐くと、テーブルに手をついて凭れ
かかった。
「まだお礼言ってない‥、安倍さんに。借りがあるみたいで、なんかイヤ。」
居心地が悪そうに視線を落としながら、唇を結ぶ梨華。頑なな幼い少女の仕種が
まだ抜けない。苦笑する私。
「本当に素直じゃないよね。気になって仕方がないくせに。ふふふ。」
「べつに‥。そんな事はないけど‥。」
「ねえ、『笑う月』っていう話を、この間人から聞いたんだけど‥。」
私はふと思いついた。梨華はどう感じるのか。
『笑う月を見た子供は連れて行かれてしまう。』
安倍さんの名は出さず老婆の語った所だけ、私は梨華に話してみた。
こころもち眉間をひそめながら、梨華は黙って聞いていた。
「信じる?」
思った以上に神妙な様子が興味深かった。話し終えた私が思わずニヤけながら
聞くと、梨華は少し考えて答えた。
「信じない。今は。単なる迷信だよね。でも子供の時に聞いてたら、信じてたかも‥。
確かに月って、見てると、へんな興奮を喚起するもの。怖いような、懐かしい
ような。‥そんな感情。」
ピンポーン。
ジュージューと小気味良い音を立てつつ梨華は肉を焼き、私が食器を並べていると、
突然ドアのチャイムが鳴った。手が離せない梨華をキッチンに残し、玄関のドアを
開けると、そこに立っていたのは眼鏡をかけて帽子を目深にかぶった安倍さんだった。
「安倍さん‥!」
「よっス。久しぶり!」
突然の訪問に驚きながら聞くと、色のついた眼鏡の奥で安倍さんは満面の笑みを
浮かべた。
「ほんとお久しぶりです。どうしたんですか?」
「お店行ったら休みって言われてさ。で、部屋の電気ついてるのが外から見えた
から、なっち来ちゃった。」
気のせいか少し痩せたように見えるが、今日の安倍さんはとても機嫌が良さそうだ。
「今、ハンバーグ作ってるんですよ。良かったら食べて行きませんか?」
「うん、すごいいい匂いする。けど、あんまり時間ないから‥。」
安倍さんが玄関先で肩をすくめた。安倍さんと梨華は今日こそ仲良しになるだろう。
3人で食事ができたら、きっと楽しいはず。そんなふうに期待していたから、少し
残念だった。
「コレ。」
そんな気持ちを知ってか知らずか、安倍さんは桜色の紙袋を、とても得意げに差し
出した。目の前の小さな紙袋には、同色の持ち紐が通してあった。
「なんですか、コレ?」
「この間、約束したでしょ?『いいものをあげる』って。ハイ。」
半ば押し付けるように手渡された少女趣味の紙袋は、見た目の可愛らしさに比べて、
予想以上の重みがあったけれど。ただ、目の前の安倍さんが本当に嬉しそうに笑って
いたので、私は目を反らす事が出来ず、つられて曖昧な笑顔を作った。
「こんにちは。」
一段落ついたのか、そこへ梨華がやって来た。
「こんにちは。」
安倍さんの笑顔はほんの少しだけ悪戯っぽくなった。けれどそこに挑発の色がない。
はにかんでいるけれど、嬉しそうな顔。例えばシャイな少年なら、こんな風に笑う
だろうか。
「この間は本当にありがとうございました。なんだかお世話をかけてしまって‥。」
「どうしたの?やけに素直じゃない。別に、単にヒマだっただけよ。」
顔を上げた梨華も少しだけ目を細めて、眩しそうに笑っている。
「相変わらずへらず口ですね。」
「そういうアンタだって、相変わらず一言多いわ。」
ふふ。
幸せそうに笑う2人を見ていたら、私は嬉しくなった。2人はやっぱり似ているし、
初めから2人もそれをわかっていた。安倍さんには久しぶり、そして梨華には
おそらく初めての、対等な理解者になり合うはずだった。
少なくとも私はそう思ったのだけれど。
ふと目を落とすと、手に提げた紙袋の中味が見えた。
黄色っぽい包装‥。油紙‥?
これって‥。
「じゃ、行くね。今日は本当に、ちょっと急いでいるの。」
ハッとした私が顔を上げると、安倍さんは手をドアにかけていた。
「安倍さん、コレ‥!」
踵を返しかける彼女の腕を慌てて掴むと、振り返った安倍さんはその反動を利用して
逆に私を引き寄せた。劇的に詰まった私と安倍さんとの距離を、梨華は何も言えず
目を丸くして見ている。そんな梨華に向かって安倍さんはいつもの、不敵で自信に
満ちた笑顔をつくった。華やかな、華やかな微笑。至近距離で見る迫力にただ圧倒
されていた私の耳元へ、安倍さんがそっと囁いた。
しっかり、守ってあげて。
静かな声だっだけれど、はっきりと聞こえた。
様々な断片がその一瞬、頭の中を駆け巡った。
今が、すごく幸せなの‥。
捕まりたくない、そう繰り返した梨華が、倒れる直前に残した言葉。
笑う月を見た子供は‥
浮遊しているような、まるで消えてしまいそうだった安倍さん。
そして‥。
こっち系のパトロンとかいるらしいよ。
頬に傷をなぞりながら、矢口さんが言った噂‥!
トン‥。
動揺し、動けない私を軽く押して、安倍さんはドアを開けた。事態が呑み込めない
梨華は、その場にずっと固まったまま。ドアが閉じられた後、すぐ我に帰った私は、
夢中でドアの外に出た。安倍さんを、追って。
「こんなことして‥、安倍さんは大丈夫なんですか!」
安倍さんはすでに廊下を抜けて階段を下っていた。
「平気だよ。ちょっとくすねてきただけだもの。」
安倍さんがどんどん遠くなって行く。
階段の上から、私は夢中で安倍さんを呼んだ。
夜の街に溶けるようにして消えて行った安倍さんは、最後ににっこりと微笑んだ。
世界中の誰も、冒せないような笑顔で。
安倍さんが置いていったピンク色の紙袋。
油紙に包んだ改造済みのピストルが、その中には入っていた。
「元気で。」
そう言って手を振った彼女の姿を、私は忘れない。
安倍なつみと会う事は、その後一度もなかった。