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シアター

第2部

あの人を殺した事、後悔はしていません。15年もの間、家族として私を育
ててくれたという事実を考えると、混乱して息が苦しくなりますが、やはり
あの人はそれだけの事を私にしたのだと思います。
その瞬間の事はあんまり覚えていないんです。あの日は私、家にいて、ずっ
と受験の勉強をしていました。志望していた女子校は随分人気の高いところ
でしたし、先生がたは楽観なさってるようでしたけど、だからと言って手を
抜くということでもありませんから。

昼食をとってすぐ、でしたから、多分2時頃だったと思います。父から電話
がありました。電話を取ったのは私ではなく、昔から来て頂いているお手伝
いの女性です。鈴木さんという方で、生きていれば多分母と同じくらいの年
齢だったと思います。世話好きで、少しだけお節介なところもありましたけ
ど、人のよいほがらかな方で、私は好きでした。

食後に少し休憩を取った私は、部屋に戻って再び机に向かいました。午前中
にやり残していた英語の長文を終えたところで、電話の鳴る音が聞こえたの
ですが、いつも鈴木さんが応対してくれていたので、構わず問題集を進めた
んです。

しばらくすると部屋のドアをノックして鈴木さんがやってきました。いつも
どおりの、人なつこい笑顔を浮かべて。
「梨華さん、お父様は今日、お早めに帰られるそうですよ。」
ついでに運んできた冷たい飲み物を机の横に置きながら鈴木さんは言いました。
これもまた普段の通り、どこか弾んでいるような口調でした。

お父様が帰ってくる--------。私はお腹の中に大きな鉄の塊を呑みこんだような
気分になりました。あの人は、父はいつもおかしかったわけではありません。
普段の日は帰りが遅く、同じ家で暮らしていても週の大半は顔を合わさない事
のほうが多かったんです。ただ、月に一度か二度、早い時間に帰宅する日があ
りました。そしてそういう日には必ず‥。以前、どうしても嫌で一度理由をつ
けて外泊してみたこともありましたが、そうすると父の機嫌は悪くなって行為
は次の日一日中に及びました。学校はむりやり休まされました。

「そう‥。」
ぼんやりしている私を不審げに見る鈴木さんの視線に気付いて私は慌てて返事
をしました。
「どうかしました?顔色が少し悪いみたいですけど‥。」
「いいえ、大丈夫です。最近ずっと勉強してたから。そう見えるだけですよ。」
「そうですか、気を付けて下さいね。じゃ、お父様が帰ってらっしゃるのです
から。いつものように早く上がりますね。お父様もおっしゃってたけど、やっ
ぱり親子水入らずの方がいいものね。」
鈴木さんの口調には、飽くまで邪気と言うものがありません。彼女は何も知ら
ないのです。
「‥ええ。」
私は曖昧に笑ってそう答えました。

手早く夕食の支度を済ませた鈴木さんが帰って行ってから、父の帰宅までには
まだ少し時間がありました。なんだか急に疲れた私が勉強をやめてベッドに腰
掛けると、ふと、彼女の事が頭に浮かびました。

あの夏の日、私が家を飛び出して以来、彼女とは口を聞いていません。今はもう
冬休みで、庭の木々は寒そうにすっかり葉を落としています。この4ヶ月間、
彼女は学校で顔を合わす度に何度か話しかけて来たけれど、私はそれを拒否
し続けました。携帯を新しいのに変えて、家の電話も鈴木さんに協力してもら
って‥。

初めて会った時、入学式に遅刻して、雨の中体育館の入り口でひとり佇んでい
たひとみちゃん。当時はまだ私より背も低くて、少し頼りなげだったけれど。
あの時の事を思い出すと自然に顔が微笑んでしまいます。なんだかかわいい。
今となってはあんなに頼れるひとみちゃんなのに、まだ子供だったんだなあって。

中澤先生のはからいで再び彼女と顔を合わせて以来、私達はすぐに親しくなり
ました。彼女は太陽みたいな人。明るくて、素朴で。そして、強い。年下でも、
もともと頭も良かった彼女に私が心を許すようになるまで、それ程時間はかか
りませんでした。

あの日、ひとみちゃんが私に、好きだと言ってくれた日、同性の彼女からの
告白はそれほど不快でもありませんでした。むしろ嬉しかったんです。今考え
ると、私はあの時すでにひとみちゃんと同じ気持ちだったのかもしれません。
でもそれ以上に、彼女に全てを知られていたという事のほうがショックでした。
数年続いていた私と父の忌まわしい関係、そしてそれに巻き込んでしまった
中澤先生との事実‥。
私は自分が他の女の子のように誰かを好きになったりしてはいけないのだと思っ
ていました。皆が持つ、そういう権利を私だけは持っていない。私は汚れてい
るから、そう思っていたんです。何度も言うようですが、ひとみちゃんは太陽
のような人です。健全な彼女を、これ以上私に関わらせたくなかった。ひとみ
ちゃんまで巻き込んでしまうのが、本当に怖かったんです。だから私は彼女を
避けるようになりました。

なにげなく見上げた窓の向こうには、冬の午後の太陽が優しく輝いているのが
見えました。少し傾いたその陽光は弱く、けれど確実に全てを包み込みます。
まるで柔らかいパウダーのような日射しの下では何もかもが例外なくトーン
を落とし、その漂白された風景はとても切なく私の胸に迫りました。冬の冷たい
大気のせいで、随分遠くの景色までもはっきりと見渡すことができたんです。
そしてその時、私は自覚してしまった。考えないように考えないように、気づく
事を無意識のうちにためらって、胸の奥深くに追いやっていた自分自信の本当の
気持ち。

いつの間にか私の両目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていました。ひりひり
と焼け付くような喉と胸の痛みに気が付いて息を吐き出すと、温かく湿った嗚咽
と共に彼女の名前を発音する自分の声が、震える空気を伝って私の耳へと届き
ました。

あまりにもいっぱい涙が出てくるので、景色はもう見えなくなっていましたが、
窓のガラスを透過して部屋に入り込んで来る光が、さらに優しく私の頬を照ら
し続けている事がはっきりと感じられました。ひとみちゃんが好き。この時もし、
私がこの気持ちに気づくことがなかったら、私はあの人を殺していなかったのか
も知れません。

重い玄関を開ける暗い音が遠くで響いて、あの人が帰ってきたのがわかりました。
靴を脱いで‥。きっと私を探しているのでしょう、ずいぶん古くなっていた廊下
をぎしぎしと音を立てて徘徊する足音が、階上の私の部屋まで聞こえました。居間
と応接室を覗いた後にあの人は階段を上がって、今から数分と経たないうちに今度
は私の部屋へとやってくる‥。それはいつものパターンでした。あの人の立てる
いかにも陰鬱な足音をじっとして聞いていると、恐怖と緊張で私はいつも押し潰さ
れそうになるんです。それが分かっていたので、私はベッドから身を起こして、だ
いぶ収まっていた涙を指先で軽く拭いました。やがてドアのノブが無機質な音を立て、
部屋の扉がゆっくりと開きました。
ドアの開閉なんてありふれた、ひどく日常的な光景のはず
なんです。けれどあの人の手によって開く時に限って、やけにゆっ
くりとまるでスローモーションのように私には映るのでした。

「梨華‥。」
ノブを掴んだまま、身体に絡み付くような声で呼ぶあの人の声。完全
には開き切っていないドアの陰に隠れて、その横顔はあまりよく見え
ませんでした。
「寝室に‥、来なさい‥。」

「はい‥。」
私の返事を確認した後、ひと呼吸置くようにしてから、何も言わずあの
人は去って行きました。重い気持ちで立ち上がった時に深く吐き出した
私の息が、切れ切れに震えているのが自分でもわかりました。無駄な事
とは解っていましたが、それでも私は部屋を出る前に乱れた衣服を少し
整えました。

あの人の寝室、正しく言えば以前はあの人と母のものだった家の主寝室
に入って、しばらく経ったところから私の記憶は途切れています。どう
しても、思い出す事ができないんです。

「脱ぎなさい‥。」
あの人の言葉に刃向かう事に、私はとっくに疲れていました。そんな事
するだけ無駄なんだっていう事は、とっくに解っていたんです。何も考
えない、何も感じない。黙って従う事がもっとも大事なことなのだと、
それまでの経験を通して私は知っていました。

何も言わず背を向けて、ひとつひとつボタンを外す私の肩のあたりに、や
がて生暖かい父の吐息を感じました。込み上げる嫌悪感を呑み込もうと反
射的に目を閉じると、首筋に熱い唇が押し当てられた‥。襲いかかる生理
的な拒絶に耐え切れず私の全身は粟立って腕にはひどい鳥肌が立ちました
が、あの人は気づいていたのかどうか。少なくとも私には一向に気にする
様子もないように思えました。

熱を帯びぬるぬると湿ったあの人の手が私の顎を掴み、不自然な姿勢の
まま後方にねじ上げるまで、私は私自身でした。まだ自分を抑制する事
が出来ていました。人形のように感情を殺して、時間が過ぎるのをただ
耐えてさえいれば済むことなんです。目をつぶって、じっと我慢して
いればすぐに終わる。それまでもそうして来ましたし、その日もそうする
つもりでした。
しかし。
あの時はそれができませんでした。無理に振り向いたその体勢が苦しくて、
思わず目を開いてしまったんです。私の視線のすぐ前には黄色く濁った父の
瞳が。その両眼は行為の最中において決して閉じられる事はなく、狂人的な
冷静さで全てを観察していたのでした。

「いやっ!」
思わず声を出してしまって、無我夢中で父を振り払いました。私の存在は
この人に冒されるためにあるんじゃない。私の唇はこの人とキスする為に
あるんじゃない。一度そう思ってしまうと、わき上がる気持ちを止める事
はできませんでした。私には好きな人がいるのに、世界中の全ては狂って
いる。その全てが憎くて仕方ない。なにもかも消えて欲しい。そんな感じ
でした。そこから先は覚えていません。混乱し暴走する思考の中、ふと部屋
の隅に彼女を見たような気がしたんですけど、それは幻覚のようでした。

しばらくの間(それが果たしてどのくらいの時間だったのか、はっきりと
はわかりません)、私はその場に座り込んでいたようです。肌寒さを覚えて
辺りを見回すと、大きなベッドの向こうにうつ伏せて倒れているあの人の右
足が見えました。次に目を落とした私の腕は裸で、手のひらは血にまみれて
いました。柱に凭れて座った、投げ出した私の足の側には、金属製の重たい
時計が。ベッドボードに置かれていたはずの、そのいかめしい飾り時計もまた、
私の手同様にべっとりと血に染まっていました。

何を いまさら。

ひとみちゃんには何度か謝まった事があります。私は彼女の人生を大きく狂わ
せてしまったんです。私とさえ関わり合わなければ彼女には普通の、いいえ、
優秀な彼女のことですから、きっと人並み以上の人生がその未来には待って
いたはずでした。私が、あの時助けを求めてしまったから‥。しかし彼女は
その度にからかうような笑顔を作って答えました。気に病む私を安心させよう
と、わざと冗談めかして本当にサラリと答えるんです。

私はなぜひとみちゃんに電話をしたんだろう、自分でもわかりません。あのひと
の呼吸が止まった後、自制を無くした私は、ガタガタと震える指でひとみちゃん
の番号へと電話を掛けたらしいのです。記憶は実際定かではないのですが、彼女
への送信を伝える履歴が部屋の隅に転がった父の携帯に残っていたので、きっと
事実なのでしょう。
それにしても‥、なぜ。
確かにあの時、私の心の中にはひとみちゃんが既に大きな存在となって確実に息
づいていました。大切な大切な存在でした。
でも。
だからこそ避けていたのに。巻き込んでしまう事を何よりも恐れていたはずなのに。
こういう場合には中澤先生の方が相応しかったはずでした(そういう考え方をする
私は卑怯です)。

中澤先生とは、新入生の私がテニス部へ見学に行った時に初めて会いました。4月
中旬にしてはなかなか日射しの強い午後でした。私の学校のテニスコートの周囲
には、防風用の背の高い木が数本植えてあったのですが、その葉陰をついて尚も
差し込む幾筋かの光が、きっと眩しかったのだと思います。中澤先生は両手をポケッ
トに入れたまま、不機嫌な様子で顔をしかめていました。

入部当初、新入生たちはその無愛想さを多少敬遠していました。それでも時間が経つ
に連れ、外見とは裏腹に悪意のない人だという事を知って、みんな親しみを感じるよ
うになっていったんです。当の本人はと言えば、私達の好意をわかっているのかいな
いのか、誰をひいきするでもなく、ごく公平に教師として一定の距離を保ちつつ生徒
に接しているようでした。

気紛れでマイペースなように見えて、実は皆に優しい中澤先生。分け隔てないその
公平さ、あるいは一種の無関心で生徒を差別することなどなかった中澤先生。その
中澤先生の興味を特別私が惹くようになったのは、一体いつからだったのでしょう。
もう覚えてはいません。気が付くと、先生は私に頻繁に声を掛けてくるようになって
いました。

表面上はなんとか体裁を保っていましたけど、あの頃の私の内面は、募る父への
不信感によって暗く沈みこんでいました。当時はまだ、父が体の関係を強要する
ようになる前だったのですが、それでも、露骨に性的な態度を示す間隔が以前よ
りも随分短くなってきていたので、常にそういう緊張に苛まれていたんです。

けれど、その事を相談できる相手は誰もいませんでした。周りの友人たちは物質的
に恵まれた私の境遇を単純に羨ましがり、純粋な瞳で私に笑いかけるのです。父親
は私以外の人の前で常に鷹揚な人間で通っていました。家で2人きりになることが
多かったお手伝いの鈴木さんは、これっぽっちの疑問も抱いていないのです。

私にしても、そんな尋常ではない事を他人に打ち明けるという発想自体がそもそも
浮かびませんでした。父親と2人の生活の中で、感情を抑え体面を整えることが
すっかり身に付いてしまっていた私です。内心の動揺を隠して、とりあえずそれまで
と変わらぬ態度を心掛けていました。

その私の嘘に誰よりも早く気が付いて、助け舟を出してくれたのが中澤先生です。
けれども私は、急激に近付いてきた彼女に初めのうちは警戒を解くことができま
せんでした。なにしろ必死に、一人きりでずっと隠し通してきた私の心の奥底だっ
たんです。悩みがあるのか、そう言って差しのべられる優しい手を、こわばる笑顔
でただひたすらに拒み続けました。キケン、キケン。心の中にいるもう一人の私が
そう警報を鳴らしていました。
しばらくの間、私達の間でそういうやりとりが繰り返されましたが、中澤先生は決
して諦めようとはしませんでした。
「何かあるんだったら言いや。力になったるで。」
笑顔を作ってはいてもそっけない私の態度に関わらず、いつでも笑ってそう言いま
した。

そして、あの日。父親によって、初めて体を開かされた日。

気の済んだ父が眠りについたことでやっと解放された私は、なかば放心して家を
出ました。汚らわしい家に汚らわしいあの人と2人きりでいる事が耐えられなか
ったんです。あの時は秋も随分深くなっていたのに、何も考えず家を飛び出した
私は上着を忘れていたんです。あてもなく歩き続けるうちに、やがて私は寒さに
身を震わせました。それほど遅い時間でもないのに街を行く人はまばらで、近く
の自動販売機だけが青白い光を放って、ブーンと低く唸っていました。

中澤先生の家へは、行こうと初めから決めていたわけじゃなくて、もくもくと足を
動かしている内に偶然近くまで行ってしまっていたんです。駅近くの商店街の裏側
にある大きくてこぎれいなマンションは、確かに見覚えがありました。以前に一度、
部のみんなと遊びに行ったことがあったんです。おぼろげな記憶をたどって頭上を
仰ぐと、先生の部屋らしき窓にはオレンジ色の明かりが点っていました。

それ以来私は、中澤先生に縋るようになっていったんです。先生のこと、好きだ
ったのかどうか自信はありません。私は一度ひとみちゃんに、中澤先生を恩人と
説明したことがありました。そう、恩人‥。中澤先生との行為は私を醜悪な現実
から連れ去り、遠い世界の彼方まで私を逃がしてくれました。めくるめく快感に
さらわれて、私の頭の中はいつだって真っ白になったんです。事に及ぶ最中、先生
はまず何よりも私を快楽で埋めつくそうと、それだけを一番に考えているようで
した。

中澤先生と私のこんな関係はやはり非難されるべきものですか。背徳、禁断。誰
もがそういう言葉で形容しますか。けれど当時の私には、あの何もかもを忘れさ
せてくれる、理性も品性もすっかり吹き飛ばしてくれる中澤先生との瞬間が、自分
を解放できる貴重な唯一の場所だったんです。望むがままにそれを与えてくれた
中澤先生には、本当に感謝しています。追い込むような愛撫によって私は一旦リ
セットされ、胸がやけるような現実を暮らすことができたんです。

バタン。

寝室のドアが勢い良く開き、その激しい音はあやふやな私の知覚でさえも感知す
ることができました。うつろな視線を彷徨わせた先には頬を赤く染めた彼女、息
で肩を弾ませたひとみちゃんが立っていました。ああ、今でも覚えています。
颯爽とした登場は、いつか母と見た舞台のよう。死んだ屋敷に吹き込んだ、暖か
で強い夏の風みたいだったんです。

「幻覚‥、また‥。」

私はその光景を俄に信じる事ができませんでした。あまりにも鮮烈すぎて‥。あ
の人を殺す直前に見た、例のまぼろしの続きだと思いました。見えるはずのない
ものをまた見ている。そんな私はもう壊れちゃったのかな‥。はっきりしない
意識の中でそんな事を考えていました。もしかしたら声にも出してしまっていた
かも知れません。

彼女は戸口に立ったまま、怯えたような、それでいて意志に満ちたような、そん
な表情でこっちを見ていました。それは本当はものすごく短い時間だったのかも
知れないのだけれど‥。私には壊れたビデオテープの、永遠に変わらない停止画
像のように思えました。規則正しく上下する息せき切った肩以外、手も足も全く
止まったままだったんです。普段と変わらず強く輝く瞳でさえ、瞬くことはなく
固まったままでした。ふふ‥。私は少し笑いました。どうせ幻覚なんだから、
少しくらい夢を見たっていいよね‥。

「ひとみちゃん、こっちに来て‥。」

心の中でそう願った瞬間、架空であるはずの彼女が意志を持って動き出しました。
硬い表情と力強い足取りが、幻想にしてはやけに現実味を帯びています。その姿
は生命の力であふれ、ますます混乱する私にどんどん近付いて、ついにその手を
私に伸ばしました。

ひとみちゃんはその時、何度か私の名前を呼んでいたそうですが、錯綜するイベ
ントを飲みこむことさえままならなかった私に、彼女の声は届きませんでした。
虚構と現実の判断が全く達成出来ていなかったんです。両肩にかけられたひとみ
ちゃんの手にガクガクと身体を揺さぶられるまま、目の前にある、けれど決して
像を結ばないひとみちゃんの顔を、ただぼんやりと眺めていました。

その時。いぜんぼやける私の視界がいっそう激しく滲み、次の瞬間、温かく柔ら
かい感触で私の唇がふちどられました。
「あ‥。」
私に触れているのは、確かにひとみちゃんの唇。ただ重ねるだけの、子供のよう
なキス。それはとても不器用だったけれど、そのぶんだけ真直ぐでした。

これは、私が待ちわびたもの‥。
ずっと。ずっと‥。

柔らかで激しいその衝撃によって、ばらばらに分散した私の思考が、まるで立ち上
がるクララのようにゆっくりとひとつにまとまったのを覚えています。かみ合った
意識のなかで最初に私が見たものは、ものすごく近いところにあるひとみちゃんの
顔でした。

目が覚めたのは夜中でした。
ひとみちゃんに会って急激に安堵した私は、あのあとすぐ彼女に倒れこみ、その
まま眠りこんだたらしいのです。身体を包む暖かい感触に少しだけ首を動かすと、
自室のベッドに寝かされていて、足元の床の上には座ったままのひとみちゃんが
ベッドに凭れがっくりと頭をたれていました。かすかな音で寝息をたてていまし
たが、少し前まで起きていたのか、電気がこうこうと点り、部屋の隅にあるTVは
控えめな音量で付け放されていました。

夢を見ていた。

鮮やかな緑の芝生の上で、みんな楽しく食事をする夢。華麗に装飾された鉄製の
白いテーブルと、それに組んだ硬いけれど座り心地の悪くない椅子。私の家族も
梨華の両親も、きらきらと輝く太陽のもと、おだやかに微笑んで白い皿から料理
を食べた。

「なんか。眠い‥。」
唇を離してしばらくの間、私の胸に凭れこむようにしていた梨華は、そう言って
瞳を閉じてしまった。父親を殺害した後、意識の混乱著しかった彼女だから、こ
のまま二度と目覚めなかったら‥、そう思って一瞬動揺したけれど、彼女の呼吸
は安らかで、私は信じることにした。とりあえず梨華をかついで、彼女の部屋の
ベッドへ運ぶ。大丈夫。梨華はかならず目を醒ます。

梨華をベッドに寝かせて喉の渇きを覚えたので、階下にある台所から勝手に水と
氷をもらった。裕福な家らしく、冷蔵庫にはさまざまな飲み物が並んでいて、選
択の幅がとても広かったのだけれど、なんとなく味のする物は嫌だった(冬では
あっても暖かい飲み物で私の喉は潤わない)。カラカラ音をたてるグラスを手に
再び梨華の部屋へと戻ったけれど、何も考えたくなかったし-----やっぱりそれは
不可能だったが----、とりあえずTVの電源を入れた。梨華を起こしてしまわないよ
う、音量は最小限に留める。これから梨華におこるだろう吐き気のしそうな出来
ごとのうち、当時の私が思いつくあらゆる事が想像され、胸が張り裂けそうに
感じた。

番組をぼんやりと眺めているうちに、私もいつしか眠ってしまっていたらしい。
凭れていたベッドから微かに伝わる振動に気が付いて慌てて頭を持ち上げると、
目を醒まし半身を起こした梨華と、まるで当然のように目が合った。

夢の中で梨華は私の隣に座り、向かって左が私の両親。右手には知らない筈の梨華
の母親と、さっき死んじゃった父親。彼に対して悪い印象しか持っていなかった筈
なのに、他同様、やけにやさしく笑っていたっけ。死んだら人は、皆善人になるん
だろうか。

正面の席で中澤先生が、白い笑顔で私を見ていた。その眼差しは慈愛に満ち、なに
か語りかけているようだったけれど、それは決して私に届くことはない。すると突然
彼女の隣のマキちゃんが私の皿からハムを一枚、手を伸ばしてさらって行った。

「りかっち‥。良かった。目、醒めて。」
ああ。さっき見ていた番組に、マキちゃんが出ていたんだっけ。
「ひとみちゃん、私‥。」
「うん‥。」
起き上がった梨華は静かな口調で私に訪ねた。どうやら全て自覚しているらしい。
それは果たして彼女にとって良いことなのか。私はただ頷くことしかできなかった。
「お父さんは、まだあの部屋‥?」
「‥うん。」
「そう‥。ひとみちゃんが、ここまで運んでくれたの?‥ありがとう。」
「‥ううん。」

梨華はひどく冷静だった。罪を認め、全てを精算するつもりだ。人生と、ひきかえに。
「迷惑かけて、ごめんね。もう、大丈夫だから‥。」
一言一言しっかりと、微笑みすら浮かべて梨華は話す。うつむいた横顔を見ていたら
鼻の奥がつーんとした。

そもそもさ、これは一体りかっちの罪?
捕まったらさ、彼女はそれからどうなるの?

「明日、自首する。」
「りかっち‥、」
「明日、自首するから。だから。今夜だけは‥、一緒に、」
「りかっち!!」
言葉を遮って大きな声を出した私に、梨華は驚いて顔を上げた。
「一緒に、逃げよう?」

え‥?
不思議そうな顔をして、梨華は私を見つめた。意味をつかみかねているのかいくらか
首を傾けている。目から涙が溢れてくるのを、私は止めることができなかった。
「一緒に、逃げようよ。」

沈黙が2人の間を流れてしばらく経った頃、肩を震わせたはずみに切れ切れの息が
私の口から漏れた。自然と落とした視線を戻すと、梨華は怒ったような怖い顔をし
ている。それすら、かなしい。
「何‥、言ってるの?」
全てをその華奢な身体に引き受け、たった一人針山で笑い続けてきたのだ。彼女は。
「自分が言ってる事、解ってるわけ‥?」
そしてこれからも。その覚悟を痛いほど感じて、私は途方に暮れた。
ねえ、私じゃだめ?私と一緒じゃ嫌?
しゃくり上げながら立ち上がった私は、そのまま梨華に近付いて思わず彼女を抱き
しめていた。なかば、縋り付くように。顔を埋めた肩口からは、ほのかな梨華の清潔
な匂いがした。
「やめてよ‥、どうかしてる。」
「本気だよ。夜が終わったら、死体、埋めよう?」
いつまで逃げ切れるかわからない。ただ、彼女と今離れたくなかった。

夜が明けるのを待って、私達は死体を運び出した。梨華の家は広大で敷地も広い。
早朝であることも手伝って、他人の目を気にする必要はそれ程なかったのだけれど、
万一のための用心と、それから死者である父親への畏怖の感情から死体には厚手の
布を被せた。じかに触るのはやっぱり気味が悪かった。

成人男性の体重は重く、私達2人では持ち上げることができない。仕方がないので私
が右肩、梨華が左肩を持ってずるずるとひきずることにした。ずいぶん長いことひき
ずっって、腰と腕がだんだん痺れてきた頃、私達は裏庭に桜の木をみつけた。ふんだ
んに養分を含んだ根元の土は黒ぐろと湿り、柔らかくいかにも掘りやすそうだ。

空が白むまでの間、梨華の部屋で私達はたいした言葉を交わさず過ごした。梨華が意識
を取り戻し、それからすぐ私が浅い眠りから醒めたのがだいたい夜中の2時頃。私は
ベッドの、梨華の脇に座り、ずっと彼女の手を握っていた。梨華は私の肩に凭れてし
ばらく起きていたのだけれど、相当疲れているのか、また少し眠ってしまった。

それからしばらく、私は両親のことを考えていた。私がいなくなったら、彼等は大騒
ぎするだろう。穏やかで物知りな父と明るくたくましい母親。叱られたりするのは
しょっちゅうだったし、時に大げんかもしたけれど、結局いつだって一番の理解者で、
無条件に守ってくれた。その私は家族を捨てる。梨華には誰もいないのだ。
「友達の家に泊まるから。」
先程、正確に言えば昨日、電話を入れた時のぶつぶつと小言を言う母の声が思い出さ
れた。
「まったく、あんたは奔放なんだから。今日はお鍋だったのよ。人数分用意しちゃった
じゃない、もう。」
ごめんねお母さん。さようなら。

一時間程で全作業はあっけなく終了し、掘り返した土を元通りにならして仕上げに足
で踏み固めながら、私は頭上の木を見上げた。冬の朝の寒さは本来厳しいはずだけれ
ど、私も梨華も体を動かしていたから、それはほとんど気にならない。うっすらと汗
ばんだ体から吐き出される息だけが白かった。

これでこの桜の木も、根元の死体の血を吸って、さらに美しい花をつけるだろう。
薄い霜をまとった幹をぼんやりと眺めていたら、梨華が無言で横に来て、私の手を
つないだ。

昼過ぎまでかけて、私達は出発の準備をした。梨華は何も言わなかったが、ため
らっている様子が明らかに見て取れたので、殺害現場の寝室は私が一人で始末し
た。私はまず床に転がった金メッキの飾り時計を丁寧に布で拭い、元のベッド
ボードへ置き直した。父親が倒れていた辺りには血液が多量付着していた。いく
ら拭いても染みがきえなかったので、私は大きなベッドを一人で動かし、なんと
か不自然に見えないよう注意を払って隠した。その間梨華は鈴木さんに電話を入
れ、今日は休んでもらったようだ。

屋敷の庭には、死体をひきずって出来た跡が、まるでどこまでも続く線路のよう
に伸びていた。それをホウキで消し終わって私が居間へ戻ると、ソファには背筋
を伸ばした梨華が小さめのボストンバッグを前にやけに姿勢良く座っていた。
「終わったよ。ソレ、着替え?」
バッグについて訪ねる私に梨華は首を振り、無言でファスナーを開けた。
「ぉおー‥。」
思わず私はため息をついた。中味はなんとぎっしりと詰め込まれた一万円札の束
だったのだ。かつて、これほどの大金をナマで見たことはない。一体いくらある
のか、私には見当もつかなかった。

「うちのお父さんね。裏のお金を、しばらく家に置いておく習慣があったの。
もらってすぐ口座に振り込むと、何かと嗅ぎ回られるからって‥。これは、
この間の高速道路建設で、落札した業者から貰ったお金。全部で6千万。何
かと便宜を計ったらしいの‥。」
目を伏せながら、何事か恥じらうように梨華は話した。
「私は、お金のありかを知っていた。一度父が、酔って私を抱いた時に、私
に話したの。『今日は儲った。』って‥。お父さんはもともとボンボンで、
お金に不自由したことがないから、それほど執着はなかったのかも‥。だって、
いくら身内だからって、私に話してしまうんだもの‥。」

たんたんとした梨華の言葉だけれど、私は複雑な気分だ。お金はともかく、父
親との関係が、私の心に波を立てる。
「そう。」
なんでもないような顔をして私は答えたが、内心複雑だった。嫉妬じみた感情
にまかせて、このまま梨華を奪ってやりたい、そういう衝動にかられたが、私
にはできなかった。この年にして梨華は性を知っているのだ。それも、普通以
上に。そんな彼女に釣り合う自信がなかった。なにげない自分のひとことがこ
んなにも他人を動揺させるなんて、一体梨華は気づいているのだろうか。私は
ジェントルだ。や、単に臆病なだけか。

「闇のお金だし、秘書の人たちもそれほど騒がないと思うの‥。だいたい
隠し場所自体、父を除いたら私しか知らないんだし‥。」
「そう。じゃあ、それを持って行こう。そしたら着替えとか、べつに要らない
よね。身軽でいいかも。」
「だよね。」
梨華はなにか吹っ切れたようだ。ここまで来たのだ。行くしかない。

昨日から何も食べていなかった私達は急に空腹を覚えた。冷蔵庫には鈴木さん
が用意した昨夜の夕食が手付かずで残っていたので、2人してそれをたいらげ
た。私も梨華も笑える程すごい食欲で、鍋いっぱいにあったビーフシチューが
8割方なくなった程だ。
その時付けていたTVにも人気絶頂かつ出ずっぱりのマキちゃんは出ていて、
『人類みなごろし〜。』
なんてカッコイイことを言っていた。

満腹になった私達はしばらく居間で休み、札束をバッグからリュックサックに
詰め替えて(このほうが持ち運びに便利だ)まるで旅行にでも出かけるように
家をでた。人目に付かないよう夜を待つことも考えたが、遅い時間に子供2人
でウロウロしているほうがよっぽど目立つ。そんな結論に達して、まっぴるま
から出発したのだ。それにしても梨華には笑った。家を出てすぐ、近所のおば
さんに出くわしたのだけれど、普通にそれも例の優等生ちっくな笑顔で、
「こんにちはー。」
なんて言っているのだもの。怖いものだ。習慣とは。

3時を少しまわった頃、私たちは駅に着き、主都行きの列車を待っていた。この
小さな私の町から、大都会へと向かう列車は日に数えるほどしかない。次の発車
までには、まだかなりの時間があった。
「ねえ、りかっち‥。電話、かけたほうがいいと思う。中澤先生に‥。」
すると梨華は視線を外した。
「うん‥。かけなきゃ。って、思ってた‥。」
左肩に提げた女の子らしいバッグから、梨華は携帯電話を取り出し、ゆっくりと
した動作で中澤のメモリーを呼び出した。

「もしもし、先生?石川です。」
つながったようだ。特徴ある中澤の独特な声が、ごく部分的ではあるけれど私の
耳にも届いた。晴れた冬の午後、駅のホームに人はまばらだ。宣伝用の白いセス
ナが微かなエンジン音を立て、遥か上空を飛び回っていた。

うん‥。うん‥、先生、ありがとね。
え?別にイキナリじゃないよ?ただなんとなく言いたくなっただけ。
ふふ‥。先生は今、何してるの?
え、そうじ?
ああ、大掃除‥。うん、今年ももうすぐ終わるね。
え‥?うん‥、私、片付けるのけっこう得意だよ。
今度行ってあげる。片付けてあげるね。ふふ‥。
‥あ、今ね、ひとみちゃんと一緒なの。
うん、よっすぃー。そう。ちょっと代わるね。

「もしもし。」
おー、よっすぃー。元気?部活がんばっとる?
「はい。」
なーんやオマエー、いつの間にリカちゃんと仲直りしたんよ〜?やめてやー。
ゆうちゃんのおらんところでそんなんしたらあかん。
断わり入れえやー、マジでよう。
「はは。おかげさまで。」
なんなん、あんたら、今どこにおるん?
「今?今は駅。」
どっかでかけんの?アラ、楽しそうやね。
「まあね。」
おー、ええなー。楽しんで来ぃやー。
「はい。」
ほな、また来年ね。
「はい、また新学期に。じゃ、りかっちに代わります。」

またね、先生。
少しだけ話をして最期にそう言った梨華は電話を切り、手の中の携帯をそっと私
に差し出した。細い手が震えていたのは決して私の幻覚じゃない。
「これ‥。」
「うん‥。」
頷いた私はコートのポケットを探り、2つの携帯を取り出した。ひとつは自分の。
もう一つは、梨華の家の寝室から私が拾っておいた彼女の父の携帯電話。梨華の
ものと合わせ、計3つの携帯が私の手のなかにはあった。しばらくじっと見つめ
た後、私達はホームを歩き、設置されたごみ箱へとそれらを捨てた。プラスチッ
クの箱の底からくぐもった音が地味にひびき、うつむいた梨華は黙ったままで私
も顔を上げられなかった。

さようなら中澤先生。もう会わない。

第2部 終わり