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【導かれし娘。】最終部

Chapter−@ <襲撃>

夜も遅く――。
皆の不安は、極限にまでのぼりつめようとしている。

市井・保田・加護の3人が、町へ買い物に出かけたまま8時間が経過した。
往復4時間の道のりではあるが、もう帰っていてもおかしくない時間である。

とりわけ後藤が、落ちつきをなくしている。
中澤と梨華の2人がかりで、後藤の能力を押さえてはいるが、もうそれも限
界に達しようとしていた。

中澤の”無効化”の能力でさえ、感情と共に放たれる後藤の力は押さえき
れない。不安が彼女を苛立たせる。そして何よりも、たとえその場にいなかっ
たにせよ、市井が自分を側におかなかった事に強いショックを受けていた。

梨華は触手を伸ばして、後藤の力の発動に関係している前頭葉全体を覆う
ように触手の網を広げていたがそれさえも破かれそうになっていた。
後藤の意識はすべて、市井に向けられている。後藤が市井の名を心の中で
叫ぶたびに、梨華の触手の網は破かれる。

これ以上は、もうどうにもならないと中澤と目配せをした時、息を切らせた矢
口が旅館へと続く山道をかけ上がってきた。

「帰ってきたよ!!」
山の中腹ぐらいまで様子を見に行っていた矢口が、大声で叫ぶ。
後藤は、中澤の手を振りほどくと一目散に山を駆け下りていった。

走って息のきれた矢口。
能力を使って、息のきれた中澤と梨華。
3人はしばらくそこを動く事ができなかった。

――山道を上がってくる車のヘッドライトを見たとき、ひとみはホッとした。
何事もなく、無事に帰ってくる事ができたんだと思った。
隣にいた矢口も、そう思ったからこそ喜んで報告に戻ったのだろう。

矢口が走り去って数分後。車のヘッドライトは、喜びのあまり飛び出した
ひとみと希美の前で停止した。

だが、いくら待っても誰も下りてこない。
不審に思ったひとみが、希美をその場から離れさせ、運転席のドアを開けた。
中にいたのは、血まみれになって気を失っている加護だけだった。

「か、加護ッ!!」
ひとみの叫びに驚いた希美が、あわてて駆け出してくる。
希美は、中にいる加護の姿を見て軽い目眩を覚えた。
「つ、辻、しっかりして」
ひとみはフラフラと崩れ落ちる希美を、かろうじて支える事ができた。

「よ……、吉澤……」
消え入りそうな声が、後ろの席から聞こえてきた。
「はっ、はい!」
ひとみは、希美を抱えたまま後部座席を覗いた。そこには加護よりも、出血
のおびただしい市井が座席の下に倒れ込んでいた。
頭部を何か鈍器のようなもので殴られたのだろう、肉が膨れ上がりそこに
は裂傷痕があった。顔面は乾いて黒ずんだ血で覆われていた。

その形相を見たひとみは、さすがに気を失いそうになった。
しかし、そういうわけにもいかずとりあえず気を失った希美を後部座席に押し
やり、加護を助手席に移動させると、運転席のドアを閉めた。

「ハハ……、吉澤……、やっぱ……判断力あるよ……」
後ろの座席から、か細い声が聞こえる。
「市井さん、喋らないで下さい。は、早く自分の傷治して」
「……そうか、加護が……、ここまで……。先に……、加護を……」
「加護は大丈夫です。気を失ってるだけですから、早く市井さん自分のを」
ひとみがヘッドライトをハイビームに切り替えた瞬間、こちらに向かって駆け
下りてくる後藤の姿が映った。

「ごっちん!! すぐに戻ってくるから、ここで待ってて!!」
と、窓から大声を張り上げると、そのまま止まらずにアクセルを踏みこむ力
を強めた。後藤が何かを叫んでいたようだが、聞く余裕はひとみにはなかっ
た。なぜならば、市井と加護の身体の事を心配したのも確かなのだが、こ
の2人を見たときの後藤の感情の爆発が心配だった。

できるだけ、後藤に考える時間を与える前にその場を離れたかったのであ
る。
「ハハ……、正解だよ……、吉澤……」
耳元近くで聞こえた市井の声に、ひとみは横を向いた。後部座席から身を
乗りだした市井が、加護に能力を使っていた。
加護の打撲による傷は、見る見るうちに消えてなくなった。

市井は自分の傷を治し始めたのと同時に、気を失った。見るとまだ全部の
傷を癒しきっていない。頭部の傷だけは消えていた。
ひとみは残された傷が致命傷にはならないと判断して、そのままスピード
を緩めずに旅館へと車を走らせた。

旅館に到着した時のひとみは、呆然自失の状態だった。
駆けつけた中澤が、運転席のドアを開けるとひとみは目を見開いたまま、
ガチガチと歯を震わせてハンドルを離そうとしなかった。

「な、なに、何があったん」
中澤もさすがに、その様子からして尋常ではない事が起きたと判断し顔を
青ざめた。
歯をガチガチと震わせながら、ひとみは中澤の方を向く。
中澤の後ろにいる梨華と矢口も、そんなひとみを見るのは初めてだった。

「か、加護がここまで、う、運転してきて、い、市井さんが、し、死にそう
になってて」
中澤は、助手席にいる加護を見た。たしかに、服は汚れているがどこにも
それらしい傷はない。
だが、後部座席にいる血だらけの市井の姿を見たとき思わず短い悲鳴を上
げた。
「い、市井さんが、け、怪我を治して、そ、それで」
中澤は後部座席のドアを開けると、市井を背負って旅館の中へと移動させ
た。矢口と梨華に何やら大声で指示を出していたようだが、ひとみの耳に
は入っていなかった。

――矢口が加護を、梨華が希美を、肩をかして引きずるように旅館へと戻
る姿を見たとき、ひとみはやっとハンドルから手を離す事ができた。
何気にフッとみたルームミラー、ハッチバックのガラスが割られているのに
気が付いた。

「保田さん……。そうだ、保田さんは!」
ひとみは後部座席を確かめた、しかし、どこにも保田の姿はない。天上に
頭をぶつけながらも、ひとみは泳ぐようにさらに後ろの後部座席へと向かっ
た。しかし、そこにも保田の姿はなかった。
「保田さん? 保田さん!」
車内のどこにも保田の姿はなかった。ただ、砕けたガラスと大きな石が辺
りに散乱しているだけであった――。

先に意識を取り戻したのは、加護であった。
よほど、恐ろしい目にあったのだろう意識を取り戻すと同時に叫び声を上げ
ながら力を放った。

天上が瓦もろとも吹き飛び、屋根の上にあった雪がなだれ込んできた。
パニックになった加護は、さらに力を放とうとしたが一瞬早く梨華が触手を
伸ばしたためにその力は封じられた。

「加護ッ! 大丈夫や! 加護ッ! しっかりして!」
中澤は加護の小さな身体を強く抱きしめ、そう叫んだ。
金切り声を上げながらもがいていた加護だったが、ここが自分たちの場所
だという事を認識すると次第に落ちつきを取り戻していった。

「あいちゃん……」
希美が、目に涙を溜めて加護の名を呼ぶ。
加護はそんな希美をしばらく、見つめていた。そして、やっと本当に帰って
これたのを認識したのだろう。次は声を上げて、泣きじゃくった。
「大丈夫や、大丈夫やで。もう、怖ないからな。大丈夫やで」
中澤は、まるで母親のように加護の頭をなで続けた。

希美は、騒ぎに驚いて部屋を出てきた飯田に駆けよった。
――何かを言いたげに、飯田を見上げる希美。飯田は悲しそうな表情を浮
かべるとゆっくりと首を横に振った。

(大きすぎる。この前のようにはいかない)

梨華のもとに、飯田の心の声が聞こえてきた。飯田の心の声は希美には
聞こえていないのだが、希美は悲しい顔をしたままうつむいた。
――梨華には、その言葉の意味がわからなかった。だが、今はそれよりも
3人の身に何があったのかただそれだけが気になっていた。

「中澤さん! 保田さんがいません!」
ひとみが駆け込んでくると同時に、また屋根の上から雪がパラパラと舞い
落ちてきた。

「圭坊が……?」
保田の名前を聞いて、加護が身を強張らせた。
「加護……、何があったか、ゆっくりでエエから話してくれる? いい?」
嗚咽しながらも加護は、中澤へと顔を向ける。
「全部やないでエエから、な」
「や、保田さん……」
「うん」
「ウチと市井さん……、車に乗せてくれた……。ケガした」
その場にいた全員が、加護の話に耳を傾けている。

「圭坊が車に乗せてくれたんやなぁ。なんで、ケガしてたん?」
「買い物……。物してたら……、警察……。警察みたいな人が来て」
「警備員さんやな」
「そ……、そしたら……、店の中に、人がいっぱい入ってきて。ウチら、
なんにもしてないのに」
加護はまた声を上げて泣き出した。

(魔女狩り……。中世のヨーロッパ。時空を超えて、その意識が流れ始
めた)

梨華は飯田の心の声を聞いて思わず、声を上げた。
「私たちは、魔女なんかじゃありません!」
皆が、驚いた顔で梨華を見た。

「梨華ちゃん……」
ひとみの声もまるで聞こえていないかのように、梨華は泣きながら飯
田を見据えていた。
「魔女狩りだなんて……。私たちだって、好きでこんな力持ってるんじゃ
ないのに……。なんで……、普通に暮らしたいだけなのに……」
と、梨華はその場に泣き崩れた。ひとみはその肩を抱え起こすと、廊下
へと梨華を連れ出していった。

「裕ちゃん……」
矢口が心配そうに、中澤に顔を向けた。
「悪いけど、紗耶香起こしてくれる? ゆっくりもしてられんようになった
わ……」
「う、うん……」
と、矢口は続きとなっている隣の部屋へと入っていった。

ひとみは、梨華を囲炉裏のある部屋へと連れ出した。
うつむいたまま肩を震わせている梨華をその場に置くと、ひとみは黙っ
て外へと出て行った。

いつの間にか、雪が舞っている。雪が降り始めたのではなく、粉雪が
風に舞っているようだった。
粉雪の舞うその向こうに、息をきらせた後藤が立っている。

「なんで、なんで、いちーちゃんに会わせてくれないの……」
後藤のすぐ脇にある石門が、まるで紙くずのように砕け落ちた。
ひとみは身じろぎすることなく、後藤と対峙している。
「とにかく、市井さんは大丈夫だから落ちついて」

「だったらなんで、車、あんなになってんの」
表の車に顔を向けた後藤が再びひとみへと向き直った時、後藤の顔は
泣きそうな顔になっていた。
「真希ちゃん、落ちついて。話を聞いて」
ひとみのその真剣な口調に、後藤も自分の心を落ちつかせようと必死だっ
た。”真希ちゃん”そう呼ばれた事で、一瞬、10年前の事を思いだした。

怒りにわれを忘れて、封じていた力が放たれた。そして、そのことが原因
でひとみは10年もの間苦しんでいた――。その事実が脳裏をかすめ、少
しではあるが全身を巡る血流が静まったような気がした。

「いちーちゃんは、ホントに無事なんだね」
「ケガはしてるけど、大した事ない。だから、絶対にパニックにならないで。
辻も飯田さんもいるから」
「わかった……」
後藤の表情が、スッと冷めた表情に変わった。
それを見たひとみは、なんとかこの場の危機を回避することができたと
確信した。

力で封じていては、真希の力を完全に封じる事はできない。ひとみの咄
嗟の判断が、二次被害を未然に防ぐ事ができた。
市井に対する真希の盲目的な感情は、誰にも止める事はできないと、
ひとみはこの数ヶ月で理解していた。

何度か矢口に頬を軽く叩かれて、市井はやっと意識を取りもどした。
「矢口……」
市井は、辺りを軽く見回して自分の置かれている状況を素早く理解した
ようであった。

「加護も、大丈夫だからね」
「……あ、うん」
置きあがろうとした市井は、身体に走る激痛に顔を歪める。
「ハハ。先に、自分の身体治しなよ」
矢口は精一杯の笑顔を向けた。
市井は、「そうだね」と苦笑を浮かべつつ自分の身体に手を触れた。

「紗耶香……」
声が聞こえて市井が隣の部屋に顔を向ける。そこには、加護を抱いて
こちらを心配そうに見ている中澤がいた。

「ハハ。なんだよ、裕ちゃん。加護の母親みたいだね」
そして、市井は辺りを見まわした。
「圭ちゃんは……?」
矢口が目を伏せたのを見て、市井はハッとして立ちあがった。
「圭ちゃん!」

「紗耶香! 落ちつき!」
中澤の一喝で、市井はソワソワと辺りを見まわす動作を止めた。
「町で何があったんや……。まず、それからや」
後藤の姿が、中澤の後ろに現われた。ちらりと市井を見ると、一瞬、
目に表情が戻ったがまたすぐに虚ろな目を加護に向けた。

「買い物してる途中だった……」

その視線に気づいたのは、加護が最初だった。
「あの人、何でこっち見てるんですかねぇ?」

市井は商品を手に持ったまま、加護の視線を追った。見ると、通路の
先に3人の警備員がいる。警備員たちは手に紙をもち、何かを確認し
ているようだった。

(間違いないな……)
(まさか、こんなところに……)
(すぐに、知らせなければ……)

市井に3人の意識が流れ込んできた。1人の警備員が走りさり、2人
はそのまま通路の先に残った。

「加護……」
「はい?」
と、きょとんと見上げる加護。市井の額には、うっすらと汗が滲んでい
た。

「圭ちゃん……、どこ行った?」
「保田さんなら、向こうでお米見てくるって」
「そっか、よし、じゃあそっち行こう」
「???」
市井は商品を戻すと、加護の手を引いて警備員のいる方向とは反対
側へと歩いていった。

歩きながらも市井は垂直に交わっている通路を、横目で見つめていた。
自分たちの歩く方向に、警備員たちも反対側の通路ではあるが同じ
方向に進んでいる。

「あ、保田さーん」
と、保田の姿を見つけた加護が、名前を呼んだ。
――迂闊だった。市井は、そう後悔した。
加護が保田の名前を呼んだことで、警備員たちは確信したようだった。

(保田……)
(保田圭……)
(リストにあった)
(ミュータント、間違いない)

加護の声に気づいた保田は、顔を上げた。そして、振りかえる前に
異様な光景を目にした。
商品の陳列した棚を通り越して、ショッピングセンターの出入り口が
見えた。そこには、数十人の手に何か棒きれのようなものを持った
中年男性たちがいた。
市井にも、その男たちの意識は流れ込んできた。

(討伐隊が到着するまで、なんとしてでもわし等が)
(息子を殺された)(鬼だ)
(殺せ)(討伐隊)(まだ、子供じゃないか)
(変化する前に殺してやる)(殺せ)

「帰るよ」
「あ、うん……」
保田はうつむき加減に、市井へと駆けよった。そして3人は、手を繋いだ
まま何も持たずに店にあるもう一つの出入り口へと向かった。
興奮した群衆の1人が「逃げるぞ!」と叫ぶのと同時に、市井と保田は
きょとんと後ろを振りかえる加護の手を引っ張り駆けだした。

加護は通路を走ってくる異様な形相をした中年男性らに、とっさ的に力を
放とうとした。しかし、その力は市井によって完全に封じられていた。

「市井さん、離してっ」
「ダメだ。いいから、早く走れ」

しかし、店を出たその場所で足を止めざるをえなかった。
出たその場所には、今到着したばかりなのだろう。肩で息をしている男性
数十人が出入り口を取り囲むようにして立っていた。

「テレビで見たぞ。お前ら、ミュータントだな」
「マルヤマ町、役場の者だ。おとなしくするんだぞ」
手に武器を持った男たちの声は震えていた。男たちの恐怖は、市井にも
届いていた。

「やばいよ、紗耶香……」
保田は辺りを見まわした。取り囲む役所関係の人物のほかに、野次馬的
に集まった人々で完全に取り囲まれてしまった。
駐車場までは、まだ200メートルほどあった。
「加護……、あの看板狙えるか?」
市井の視線の先数メートルほどに、テナントの看板があった。ちょうど、包
囲網の途切れた上部に、それは位置していた。

「はい。大丈夫です」
加護は市井を見上げて、コクンとうなずいた。
「圭ちゃんも……、あの看板が落ちたら、一気に車まで突っ走るよ。いいか、
加護。何があっても、力は使っちゃダメだぞ。ウチらはもう人殺しじゃないん
だからな」
「……はい。わかりました」

「何をゴチャゴチャ、言ってるんだ。この鬼畜め」
誰かの投げた石が、市井の肩に当った。

「市井さんっ」「紗耶香っ」
「大丈夫。行くぞ、加護」
市井が加護の手を離した瞬間、群衆の後ろで看板が爆発音を立てて落下
した。

群集は悲鳴を上げながら、方々へと散った。
その隙間を、市井・保田・加護は走った。走ってくる3人を見て、群衆の輪
は、モーゼによって切り開かれたかのような1本の道を作った。

車まであと数十メートルの所で、加護が突然倒れた。誰かの投げた石が、
顔面に直撃したらしい。
「圭ちゃんはッ、車に戻ってッ!」
市井はそう叫びながら、加護の元へと戻った。抱え起こした加護の顔を見
て、市井は思わず顔をしかめた。見ると、加護の近くに大人のこぶし大ほ
どの石が転がっている。
この石が顔面に直撃したのだ。加護の鼻は完全に折れ、頬骨が陥没して
いた。

「痛いッ! 痛いよーッ!」
金切り声を上げて泣き叫ぶ加護。市井はすぐさま、自分の能力でその傷を
治した。もう傷はなくなった。痛みもなくなったはずである。しかし、パニック
になった加護は叫び声を止めようとしなかった。
「加護ッ! いつまで泣いてんだ! 行くぞ!」
と、市井が加護の手をとり振りかえった瞬間、市井の額に鍬の先端が当っ
た。鈍い音がして市井は額から血を吹き出し、受身をとることなくその場に
卒倒した。

「市井さんッ! 何すんねん! このアホ!!!!」
鍬を振りかざした老人は、加護の力によって切り刻まれた。
それにより、群集の恐怖は一気に煽られ一斉に投石が始まった。
加護にも何発も命中した。痛みで力のコントロールができず、加護の放つ
力は近くの車をスクラップにしただけだった。

クラクションを鳴らしながら、保田の運転する車が加護らの前で止まる。
「加護、早く乗れ!」
中で保田が叫んでいる。
「市井さんがッ! 市井さんがッ!」
運転席から身を乗りだした保田は、地面に倒れたままピクリとも動かない
市井を見てあわてて車から出てきた。
群集の投げる石が、流星群のように3人に降りかかる。

加護が自分たちの周りに、風の膜のようなものを張りなんとか防戦してい
るが、先にダメージを受けているためすべてを防ぐほどの威力が発揮され
ない。
悔し涙でもう何がなにかわからなくなった加護の身体が、不意にひょいっ
と浮かび、次の瞬間には助手席へと投げ込まれていた。

「しっかりしろッ、バカ」
と、助手席のドアを閉めながら保田が叫んだ。肩には、顔面を鮮血で彩ら
れた市井を担いでいる。
保田はそのまま後部座席を開けると、市井を座らせる余裕がなくそのまま
ま市井を座席の下に押し込んだ。

「保田さんッ、後ろ!!」
加護の声に、身構えながら振りかえった保田。その肩にゴルフのドライバー
が食い込んだ。
鎖骨のあたりから、奇妙な鈍い音が聞こえた。
「お前らのせいでな、ウチの息子は死んだんだ!」
続けざまに二発目の衝撃が、内臓を直撃した。
意識が遠ざかりながら、保田はゴルフのドライバーを振り下ろしている中
年男性が涙を流しているのを見た。

しかし、同情をしている暇はなかった。保田は残っていた力で、後部座席
のドアを閉めると、大声で怒鳴った。
「加護ッ、戻って後藤を呼んできて!! 助けてくれるの待ってるから!! 
早く!!」
加護は、”後藤を呼んできて!!”と叫んだところまでは保田の姿を確認して
いた。しかし、その後の事はよく覚えていない。運転席に座ると、ギアをド
ライブにいれてアクセルを強く踏んだ。
左目が大きく張れて、左の視野がひどく狭かったが加護は必死で車を走
らせた。そして、数時間後――。

中澤は、畳の床を激しく叩きつけた。
皆の顔は、複雑な表情を浮かべている。怒り、恐怖、失望、憤り――。

「ハハ……、いちーちゃんのミスだよ……」
後藤が力なく笑った。
「加護に全員殺させてたら、圭ちゃん捕まらなくてもよかったのに……」
市井は、後藤の目をジッと見つめている。後藤はフラフラと市井へと歩み
寄った。その場にいる全員に、緊張感が走る。

「なんで、アタシ、その場にいなかったんだろう……。なんで……、連れて
行ってくれなかったの……。どこに行くのも一緒にって言ったじゃん。何で
よ!」
後藤は市井にしがみついて、声を上げて泣いた。
市井はただ黙って、後藤の身体を強く抱きしめた。
強大な力は、身体を密接させていることによってすべて市井に吸収されて
いる。周りの目から見れば、後藤はただ泣きじゃくっている少女に過ぎない。

「裕ちゃんさ……。アタシ、やっぱりここにはいられないよ」
市井は後藤の頭を優しくなでながら、微笑んで中澤に語りかけた。
「つんく……。あいつを倒さなきゃいけない。もとはと言えば、あいつに騙さ
れたアタシがいけないんだ。大きな物を望みすぎた」
「紗耶香。落ちつき」
中澤が立ちあがった。
「本当にみんなの幸せのためなら、ぼくの身体はひゃっぺん焼いても構わ
ない――。あの詩、いいよね」
宙を見つめて、市井は微笑んだ。

「もっと早くに、そうするべきだったんだ。何を迷ってたんだろう。フフ。たぶ
ん、ここにいるみんなに甘えてたんだろうな。失って怖くなって、残った大
事な宝物また失いたくなくて、もっともな理由を考えてここに留まろうとした」

「紗耶香。今はそんなん言ってる場合やないで、みんなで圭坊助けに行
こうやないの」

「みんなはここに残って……。アタシと……。後藤も一緒に来てくれる?」
と、泣きじゃくっている後藤の顔を覗きこんだ。
「へへ。当たり前じゃんかぁ……」
顔を上げた後藤は、涙を流しながらも笑った。
「そっ。ありがとな」
と、クシャクシャと笑顔で後藤の頭をなでた。

(導かれてるのは、2人だけじゃない。ここにいるみんなが導かれてる)
市井の意識に、その声が流れ込んできた瞬間。
ひとみと梨華が、部屋に駆け込んできた。

「すぐに逃げる用意してください!」
「私たちを捕まえに、大勢の人がこっちに向かってます!」


Chapter−A <導かれし娘。>

「こんなの、デタラメよ!」
石黒は、目を通していた新聞を床に叩きつけた。
ビジネスホテルのロビーに集まっていた足止めを余儀なくされて
いる宿泊客たちが、そう叫んだ石黒に注目した。

男性ばかりの好奇な視線。もしも、石黒が独身女性だったならば、
好奇な視線はやがて飢えた狼のような生々しいものに変わってい
た事だろう。
皆、もうこの場所に10日以上も閉じ込められている。
男たちのリビドーは限界にまで達しようとしていた。

しかし、石黒は身篭もであったがために狼たちの餌食にはならず
にすんだ。さすがに男たちも、人間としての理性が残されている。
ただ、都市部ではそのような理性はもはや残されていなかった。
都市部では、ミュータントの襲撃よりもそのような暴徒と化した
人間の方が、数々の犯罪を重ね多数の死傷者を生み出している。

各地で行なわれる”処刑裁判”。それも、その内の1つである。
能力保持者だけではなく、一般の者も少しでも疑わしいものは、
市民の手により捕獲され、正式な裁判手続きをとられることな
く市民の手により処刑されている。

国もそのような非人道的な行動には、何らかの制裁を加える必
要があるのだが、自国・他国の防衛により、各地で行なわれて
いるそのような行為にまで手が届かない。
実質的に、日本は無法地帯となっていた。

――石黒は、新聞をかなぐり捨てるとすぐにその足でロビーの
隅にある公衆電話へと向かった。中継基地が破壊されたのであ
ろう、携帯電話はもはや使い物にならなくなっていた。

数度目のコールで、石黒の勤める新聞社に電話が繋がった。
「今日の一面記事書いた、担当者を出してっ」
石黒は開口一番、そう言い放った。

「あ、編集長ですか。――あ、はい、無事です。あの、それよ
りもですね、朝刊の一面記事あれなんですか。全部デタラメじゃ
ないですか。――あそこに名前のでてる子を、私、知ってるんで
す。石川梨華って子は、そんなテロ事件なんか引き起こす子じゃ
ありません。中澤裕子も、矢口真里もそうです」

その話をぼんやりと聞いていたサラリーマンが、石黒の投げ捨て
た新聞を拾い上げた。
新聞記事の一面には、『最重要 能力保持者 一連の事件の鍵を
握る少女たち』という見出しがあった。

「彼女たちは、逆に被害者なんです! ――裏づけをとってるん
ですか?――はぁ? 送られてきた資料をそのまま掲載しただけ?
なんですか、それ! 二流の週刊誌じゃないんですよ、こんな時
だからこそちゃんとした事実を――あ、ちょっと、編集長」
石黒は、叩きつけるように受話器を戻した。

――新聞で梨華の顔写真を見た石黒は、どうしてそれまで彼女た
ちのことを思い出さなかったのか不思議に思っていた。
石川梨華・安倍なつみ・中澤裕子・矢口真里・福田明日香・松浦
亜弥、石黒はこれらの自分が関わった能力者のことをすべて忘れ
ていたばかりか、何事もなかったかのように職場復帰しているこ
とに奇妙な違和感を覚えていた。

しかし、戸惑っている時間もない。梨華たちが、このような破滅
的な世界情勢に追いやったとマスコミ全社が取り上げているのだ。
早急に、彼女たちの身の潔白を証明する必要があった。
石黒は、すぐにエレベーターに飛び乗った。

――エレベーターの扉が閉まりランプが上昇するのを確認すると、
さきほど石黒の捨てた新聞を読んでいたサラリーマンが立ちあがっ
て公衆電話へと向かった。

「あのぅ、ここに書いてあることなんですけど、情報提供者には
金一封が出るって本当ですかねぇ? 直接的な情報じゃないんで
すけど――」

討伐隊の山狩りを逃れたひとみたちは、山の反対側へと下り、隣
県を周って市井らが襲撃されたというショッピングセンターまで
やってきた。

そこに辿り着くまでに、何度か自衛隊の検問・警察の検問を受け
たが、どれも梨華のマインドコントロールにより大きな騒動もな
く無事に通過することができた。
山狩りや検問等で、時間は大きくロスタイムを強いられた。

到着した時、そこにはいつもと変わらないであろう日常の光景が
あった。
まるで昨日の出来事などなかったかのように、”善良な市民”が
そこに集っていた。

「……矢口、頼むで」
ここに来るまでに乗り換えた真新しいワゴン車の運転席から、中
澤は周りを見渡しながら助手席の矢口に口を開いた。

矢口は駐車場に向かって両手をかざすと、目を閉じて”過去視”
を始めた。矢口は自分自身で力の衰えを感じていたので、正直な
ところまともな過去視ができるかの自信はなかった。
それでも、捕らわれた保田を救うため皆の願いを一身に感じなが
ら、過去視を試みた。

フィルムのコマ落としのように時間を遡る。そして、市井と加護
の証言通りの場面でそのフィルムを止めた。

走り去る加護の運転するワゴン車。地面に倒れ込んだ保田に、な
おもゴルフのドライバーを振り下ろす中年男性。しばらくして、
その周りに人だかりができる。取り押さえられる中年男性。人だ
かりの間から見える、血だらけの保田。ぐったりとはしているが、
死んではいない。数人の男たちが抱えて、ライトバンに保田を乗
せる。走り去るライトバン。そのライトバンの脇には、『マルヤ
マ町役場 環境保安部』とネームがあった。

――矢口の話を聞いた皆は、保田が生きている事を知ってほんの
少しではあるが胸を撫で下ろす事ができた。
中澤は素早くハンドルをきると、役場へと向かって車を走らせた。

もうどのくらい車を走らせたであろうか、主要幹線道路はすべて
封鎖されているため、石黒は地元の人間しか通らないような道を
地図を片手に進路を東京方面へと向けて車を走らせていた。

――死んだはずの福田明日香が、自分の近くにいる。
いや、自分の近くではなく第一現場の付近にいた。
石黒はその事も思い出した。何かが何かが確実に動いている。
それは、梨華たちを中心にして動いているのではなく、もっと別
の人物の手によって動かされている。石黒は、その事を早く編集
長――いや、世間に知らせたかった。

「世界を救えるのは、あの子たちしかいないのよ」

石黒に根拠はない。ただ、梨華たちと触れた自分の心が、直感的
にそう叫んでいるのである。
――石黒の直感は、あながち外れではなかった。
狭い一本道を塞ぐようにして、突然、石黒の車の前に一台のトレー
ラーが止まった。

マルヤマ町役場の前には、すでに何人かの男たちが並んでいた。
市井・後藤・加護たちは、その男たちと面識があった。
そう。――つんくの所有する<Zetima>のスタッフ。
しかし、その男たちの力は微々たるものである。その男たちがなぜ、
そこにいるのか市井らにはわからなかった。

中澤は、役場から少し離れた場所に車を止めた。
互いにその存在には気づいているはずだったが、男たちは何もしか
けてこない。不気味な静寂。

梨華に届いてくるのは、戦いのゴングを待ちわびている後藤と加護
の興奮した意識。緊張しているひとみと矢口と希美の意識。すでに
無効化の力を発動しているのだろう中澤からは何も届かない。飯田
は――、特に何も考えていないようだった。

聞こえてくるメンバーの心の声。静寂。不気味に佇んでいるだけの
<Zetima>スタッフ。梨華は、ハッとして車内の窓越しに横
の茂みに眼をやった。数体の『ミュータント』が飛び出してきた。

「中澤さん!」
梨華の声と共に、異変に気づいた中澤が車を急発進させた。
『ミュータント』の直撃を避けたものの、『ミュータント』は執拗
に車を追いかけてくる。

運転席のすぐ後ろの市井が、身を乗りだしてサイドブレーキをひい
た。
急停止するワゴン車。
市井と後藤が、ドアを開けて外に飛びだす。送れた加護が、一緒に
座っていた梨華を押しのけて外に出ようとしたが、ひとみがそれを
制した。

「よっすぃ! どいて!」
「加護はウチらと、保田さんを助けに行くんだ」
ひとみは、加護を強い目で見据えた。まるで打ち合わせでもしてた
かのように、その声を合図に中澤は車を走らせる。

役場前にいた男たちが、力を放ってきたがワゴン車には届かない。
いや、届いてはいるのだが中澤の”無効化”により、力がかき消さ
れている。
男たちの顔に、動揺の色が浮かんだ。すかさず梨華が触手を伸ばし
て、素早くその運動機能を停止させた。
車は男たちの脇を通りぬけ、役場の敷地内へと入っていく。

――今度の『ミュータント』は鋭い爪と、鋭い牙を持っていた。
通行人たちは皆、悲鳴を上げて逃げだした。

「なに、あれ? できそこないの狼男だね」
と、後藤は向かってくる4体の『ミュータント』を見てニヤニヤと
していた。

「油断するなよ」
市井の触手がもしも目に見えるのならば、その触手はメデューサの
頭から伸びる無数のへビのようであろう。市井は自分でもそんな気
がしていた。
能力保持者がもしも政府の発表したように『ミュータント』になる
のならば、自分は間違いなくメデューサのようになるんだろう――
市井は、なぜかそんな気がした。

メデューサに睨まれた一体の『ミュータント』は、その身体がまる
で石になったかのように動きを停止させた。
そこへ、間髪をいれずに後藤が力を放つ。この前のように、街中を
気にして、力の威力を躊躇する事はなかった――。
後藤の力を直撃した『ミュータント』は、どす黒い血を当りに撒き
散らしながら地面の中へと埋まった。

残り三体の『ミュータント』は臆することなく、市井らの元へ飛び
込んでくる。
後藤の放った力は、『ミュータント』に避けられ逸れた力は数百メー
トル離れたビルを破壊した。

「ハハ。よけられた」
ニヤニヤ笑いながら、後藤は『ミュータント』の鋭い爪を直前で交
わした。
「油断すんなって、言ってんだろ」
市井も、後藤のその余裕の態度を見て思わず笑みになった。後藤は、
この状況をあきらかに楽しんでいる。後藤の中にある負の感情であ
る”破壊衝動”が目覚めたのである。

市井は、後藤に向かう『ミュータント』三体の内、ニ体の動きを封
じた。もう一体は市井の触手の範囲を超えていた。

「後藤、そいつ頼む」
「あいよー」
と、後藤は『ミュータント』と向き合ったまま、じりじりとその距
離を離れ自分の間合いを取ろうとしていた。
『ミュータント』はその口元から、大量の涎をボトボトと地面に滴
らせながら、自分の間合いを確かめているかのようだった。

一瞬早く、『ミュータント』の攻撃が早かった。間合いを取られた
後藤は、腕を引き裂かれた。
「後藤ッ!!」
市井の叫びは、後藤の放った力によってかき消された。巻きあがる
粉塵。後藤の姿が見えない。駆け寄った市井は、その粉塵の中でう
ずくまる後藤を抱え起こした。

「ハハ……。ちょっと、調子にのりすぎた」
と、後藤は市井の腕の中で、間の抜けた笑い声を上げた。
「ホント、ちよっとは痛い目みろ。バカ」
「ハハ……。でも、楽しいねぇ。昔を思い出すねぇ」
市井は優しい笑顔を浮かべながら、後藤の傷をなでた。粉塵の晴れ
た向こう側に、大勢の野次馬の姿が目に入った――。

動かなくなったままの2体の『ミュータント』は、大好物のエサを
前にして”待て”を命令された犬のように、鼻息だけを荒くして大
量の涎を垂れ流しにしていた。

穴の開いた地面の中で、もがき苦しむ『ミュータント』を軽く息の
根を止めると、後藤は野次馬たちの見守る中、ニ体の『ミュータン
ト』に向き直った。

「ここにはおらんって、どういうことやねん!! オッサン!!」
中澤は、逃げ惑う職員の一人を捕まえてその襟首を締めあげた。
「ほ、本当です。本当に、こ、ここにはいないんですよ」
中澤がチラリと、梨華へと視線を向けた。梨華は、微かにうなず
いた。

「じゃあ、どこへ連れてったんや!!」
「と、東京からミュ、ミュータント討伐隊の、ほ、本部の人が来
て……」
「東京か! 東京に連れてったんやな!!」
「ひぃ。こ、殺さないで下さいッ」
男はいい年をしながらも、その場に失禁した。

中澤は、男を突き放すと後ろに立ち尽くしているひとみたちに向
き直った。
「ゼティマや……。ゼティマが圭坊を……」
中澤の目は、誰も見ていなかった。ただただ怒りに震え、心の中
に絶望的な思いが広がった。

「中澤さん……。東京に戻るんですか?」
ひとみが口を開くと、中澤はハッとわれに帰って、立ち尽くす一
同へと視線を向けた。
「1人で戻るなんて、言わないで下さいよ」
ひとみもやはり怖いのだろう、少し顔が強張っているが必死で笑
顔を浮かべていた。
「よっさん……」
「時間がありません。すぐに行きましょう」

「石川……」
中澤に呼ばれた梨華は、それまで外に向けていた意識をこの場に
戻した。
「は、はい……」
中澤は、優しい微笑を浮かべるとひとみと梨華を抱きよせた。
「あんたらがおって、ホンマに心強かった」
「何、言ってるんですか中澤さん」
ひとみは中澤に抱かれながら、驚いたような声を出す。

「矢口、これからどうする?」
中澤の優しい問いかけに、矢口も微笑を返した。
「5年も一緒だったんだよ。今さら、なに言ってんのさ」
「そうか。ありがとな。――圭織」
中澤に呼ばれた飯田は、「?」と顔を向けた。
「加護と辻の事、頼むな」

「嫌や! ウチも一緒に行く!」
事情を察した加護が、涙の滲む目で中澤を見上げる。
「辻と一緒におるときのアンタは、ホンマにかわいいで。これか
らも、そうしとき」
「そんなん、嫌や」
「加護、わがまま言うんじゃないよ」
矢口が、加護の頭を軽くポンと叩いた。加護は鼻をヒクヒクとさ
せて、必死に涙を堪えている。

「矢口の見た未来に、みんなはいないんだ」
一同は、黙って矢口を見つめた。
「でもね、その後に続く未来にみんなはいる。そこはね、もう新
しい世界なんだ。だから、大丈夫。ここで別れてもきっと会える
から」
「そやで。確定した未来にウチラはおるんや。これが最後の別れ
やない。きっと、また会える」
ひとみと梨華から離れた中澤は、矢口へと歩みよる。
そして、加護・希美・飯田の3人に微笑みかけた。

「それまでの辛抱や。圭織、あんたホンマ交信ばっかりしてない
で、3人のこと頼んだで」
めずらしく飯田は焦点のあった目で、中澤の瞳を見つめていた。
「辻も、お菓子ばっかり食べんとちゃんと勉強しときや」
希美は涙でキラキラと光った瞳で、中澤を見上げてうなずいた。
「よっしゃ、ほな、みんなとはいったんここでお別れや」
中澤は、最後に全員の顔を見渡した。
「みんなのこと――大好きやで」

駆けよりたい衝動を、みんなじっと堪えていた。中澤の決意が皆
の足を止めていた。
どのくらい涙を流しながら、その場に佇んでいただろうか。遠く
離れていく2人の背中を見送った時、やっと加護と希美は声を上
げて泣くことができた。飯田が二人の肩を、ソッと抱き寄せた。

ひとみも、うつむいたままの梨華の肩を自分へと抱き寄せた。
「もう、市井さんとごっちんもいないんだね」
ひとみの静かな問いかけに、梨華が小さくうなずいた。

梨華は知っている。
矢口が”その後に続く未来”など、見ていないことを。矢口が流
した優しいウソを、梨華は感じとっていた。
ひとみにも、それは薄々とわかっている。きっと、その場にいる
全員がわかっている事だろう。だが、誰も口にはしなかった。
中澤と矢口の決意を、無駄にはしたくなかったからである――。

数分後――。
ひとみは討伐隊が到着する前に、駐車場にあった赤いスポーツカー
にみんなを乗せてその場を立ち去った。

石黒の前に止まった一台のトレーラー。何度クラクションを鳴ら
しても、一向に動く気配はなかった。
あきらめてバックしようと、ルームミラーで後ろを確認する。
長い一本道が続いているだけで、かなりの距離をバックしなけれ
ば車の方向転回をすることができない。

「ったく、急いでるのに……」
石黒は、苛立ちながらもギアをバックに入れた。
トレーラーの荷台の扉が、モーター音を響かせながらゆっくりと
開いた。中から黒ずくめの男が、3人下りてくる。
バックをしようとしていた石黒だが、何が起こるのか気になりブ
レーキをかけた。

男たちは荷台から、細長い大きなBOXを運び出している。後ろ
の荷台は冷凍庫なのだろう。しきりに、白い冷気が漏れていた。
3人の男たちは、3つのBOXを地面に置くとすぐさまトレーラー
の助手席側へと乗り込んだ。
そして、重低音を響かせて、車幅いっぱいの道をトレーラーは走
り去っていった。

「……」
車内からそのBOXを眺めていた石黒は、不意に嫌な予感がして
きた。
そのBOXの中に何かが眠っており、もうすぐ”それ”が出てき
そうな気がした。
――石黒の予感は当った。

白い冷気を噴出しながら、BOXの上部がゆっくりと開く。
バックしようと後ろを振りかえった時、後ろには数台の後続車が
詰まっていた。
石黒は、恐怖に脅えてクラクションを鳴らし続けた。だが、後続
車からは前のBOXが見えないのだろう。反対に石黒は、後続車
からのクラクションを浴びた。

前を向き直った時、石黒はそこで始めて生の『ミュータント』を
見た。
冬眠から覚めた熊のような、『ミュータント』。
高速道路・駅前の惨劇を取材した時に重傷者から得た目撃情報と、
今、石黒の前にいる『ミュータント』はとても酷似していた。

”死”、これまでにも何度か危険な目にはあってきた。だが、今
ほど確実に自分の”死”を実感したことはない。
石黒は、どうして自分はこの場にいるのだろうと考えた。
結婚して普通に専業主婦をやるつもりではなかったのか、ささや
かだが楽しい毎日を送ろうと努力する事ではなかったのか、真実
を伝えられないマスコミに失望したのではなかったのだろうか――。

夫のことが頭をよぎった。
わがままにつき合わせて、何度も困らせた――。
だが、誰よりも自分のことを理解してくれていた――。
良き夫であり、良き父親になってくれる。自分はいつも心のどこ
かで、巡り会えたことに感謝していたのではないだろうか。

”後悔”
お腹にいる子供を、夫に見せる事ができない。
危険な目にあっているはずの、梨華やなつみを救う事ができない。
ただ、それだけが『ミュータント』を前にあきらめかけた”生”
への執着を貪欲に駆きたた。

(生きる)
(私には、まだやり残したことがある)
(母になること)(妻になること)
(そして、友人を助けること)

石黒の目に力が戻ったその時、後部座席で「クスッ」という笑
い声が聞こえてきた。
石黒は、ハッとして後ろを振りかえった。しかし、そこには誰
もいない。

突然、大音響が響いた。石黒は声を出して、また前へと向き直っ
た。
完全に目覚めた『ミュータント』三体が、BOXを壊している。
安眠を妨げられたことに対してなのか、それともそのBOXに
よって強制的に眠らされたことに苛立っているのか、シルバー
のBOXは粉々に破壊されている。

ようやく事態に気づいた後続車がパニックになって、車をバッ
クさせている。

石黒の頭は、”逃げる”ように命令していた。しかし、『ミュー
タント』の鋭い目に見据えられている身体が思うように反応し
ない。
目の前にいる獲物に気づいた『ミュータント』は、まるでわざ
とそうしているかのようにゆっくりと石黒の車へとにじり寄っ
てきている。

――火柱は、『ミュータント』三体の真下から突然吹きあがった。
真紅の炎に包まれた『ミュータント』は、一瞬にして炭化した。

「????」
今、さっきまで目の前にいた三体の『ミュータント』は消えた。
石黒の頭の中は、混乱した。何が起こったのか、まったくわか
らない。

天然ガスに何かが引火したのか――。
そうも考えはしたが、地面は田舎の道とはいえアスファルトを
敷いてある。仮に吹き出していたとしても、あの強靭な『ミュー
タント』を一瞬にして炭化させるほどのガスが噴出していると
は思えない。

不発弾の爆発。
有り得るはずがないと、石黒はすぐに否定した。爆発ならば、
『ミュータント』とわずか数メートルしか離れていなかった石
黒も無事には済んでいないだろうし、何よりも衝撃も爆発音も
なかった。
ただ、ゴォォォォという炎の音は一瞬聞こえはしたが――。

炎……。
石黒の脳裏に、サキヤマ町の病院でのなつみの姿が描かれた。
「なっち……。なっちなの!」
石黒は、思わず車から飛びだした。
必死に辺りを見まわしたが、辺りには田園風景しか広がってい
ない。
遥か後方でパニックになって逃げ出した車が、事故を起こして
黒煙を巻き上げているだけであった。
「なっち! なっち!! いるんなら、出てきてよ!! なっち!!」
石黒の声は、虚しく田園に広がるだけであった。


Chapter−B <ぬくもり>

中澤と矢口が、国会議事堂近くに到着した時、辺りはもう夕闇に
包まれていた。
かつての大都市は今はもう見る影もない、巨大ゴーストタウンと
成り果てている。
幹線道路にはいくつかの検問所があったが、『ミュータント』の
襲撃なのかそれとも暴徒と化した市民による襲撃なのか分からな
いが、そのほとんどは機能しておらず、簡単に突破する事ができた。

「議事堂も、今はただの瓦礫の山だね……」
車内の助手席で、矢口がそうポツリとつぶやいた。
「警備も手薄や……。ひょっとしたら、もうここには誰もおらへ
んのかもしれんな」
「行くの、止める?」
「いや。圭坊が待ってるかも知れんからな」
だが、中澤にはその突破方法が思いつかない。いくら手薄な警備
体制とはいえ、国会議事堂前は装甲車によって封鎖されている。
数人ではあるが銃を持った兵士も警備をしている。

相手が能力者であるのなら簡単に突破できるが、そうでない者と
向かい合う時、中澤と矢口には戦う武器がない。
どちらも、PKタイプではなかった。し、市井や梨華のように人
を操る力もなかった。
だからといって、こうしてただ指をくわえて待っているわけにも
いかない。捕らわれた保田を、一刻も早く救助しなければならな
いのである。

「クソ……」
中澤は、ハンドルを握ったまま小さく舌打ちをした。
「どないしたらエエねん……」
矢口は、何も声をかける事ができない。今までにも何度となく、
危険な目にはあってきた。だが、事前に”確定された未来”を見
ることができた。
”確定された未来は、変える事ができない”。だが、事前に知る
事によって対応を練る事ができた。

福田明日香が学校にまでやってきた時、遭遇する未来・逃げる未
来を事前に見ることで、パニックにならずに冷静に逃げることが
できた。

ひとみがホテルから中澤らを救出した時も、事前にその現場を見
ていたために、半信半疑だったひとみを連れて無事に中澤らを救
出することができた。

これまでにも何度も、そのような事は経験している。
だが――、ここ最近は”未来”を見る能力はめっきり少なくなっ
ている。
しかし、それはひょっとしたらこれから先は”無事な未来”や
”明るい未来”がない証拠なのかもしれないと矢口は思っている。

自分の力はただ未来を見るだけでなく、自分にとって都合の良い
未来だけを見る力だったのかもしれない――。
それがなくなったと言う事は――。矢口は、中澤の隣でただ黙っ
て座っている事しかできなかった。

「そや!」
突然の中澤の声に、矢口はその小さな肩をビクンと震わせた。
「な、なんだよ〜、急に」
「つんくはな、アイツ、力持ってないねん。せやから、もし何か
あった時すぐに逃げられるように非難用の脱出口作ってたわ。そ
やったそやった」
「? でも、そんなのどこにあるかわかんないじゃん。みんなが
知ってたら、意味ない事でしょ?」
首をかしげて、中澤を見上げる矢口。
「この周りに出口がないか、探ってみてくれる?」
「?」
「つんくがどっか、変なところから出入りしてないか。矢口が見
るんやないのー」
と、中澤が抱きついてきた。

「ちょ、ちょっと裕ちゃん。こんな時に、何やってんだよ〜」
抱きつかれ、そしてキスの嵐を受けると思ってそう叫んだ矢口だっ
たが、中澤は矢口の身体を抱きしめたままだった。
「裕ちゃん……」
矢口の肩に乗せられている、中澤の顔。どのような表情をしてい
るのか、矢口には見えない。だが、中澤が泣いていることだけは
わかった。

「5年間、楽しかった……」
「ハハ。何言ってんだよ、これからもずっと一緒だろ」
「矢口はあの頃から、なんも変わってない」
「メッチャ、変わってるじゃん。髪の色なんかさ、金だよ。金」
「ハハ。そんなん言ってんのとちゃうわ。アホやなぁ」
「アホっていうなよ」
矢口は、中澤に抱きしめられたままキャハハと笑った。
クスッと笑った中澤は、矢口の髪を優しく撫でた。

「アタシもさ、裕ちゃんと過ごした毎日は宝物だよ」
「ありがとう……」
「……裕ちゃんは、ホント涙もろいね」
「歳のせいや」
矢口は笑顔を浮かべたまま、目を閉じた。そして、”過去視”の能
力を発動させた。もう未来を見る事はできないかもしれない。
しかし、過去を見る能力だけでも残っていることが嬉しかった。
この2つの能力で、中澤と出会うことができた。もしも、自分に
能力がなければ出会う事はなかっただろう。
もしもの世界、どこかに出会う事のない2人が存在するはずである。

能力のおかげで、普通の平凡な人生を送る事はできなかった。
しかし、決して不幸ではなかった。むしろ、幸福すぎるほどの時
間を共有した。
出会うまでは疎ましく思っていた能力、未来を見える力はなくなっ
てしまったが、今は”過去視”だけでも残っているのが嬉しかった。
残っている力でもう少し時間が共有できるのが、矢口にはとても幸
福であった。

ひとみは車を走らせていた。
――どこへ?
――向かう場所は東京に決まっていた。

飯田の心の声は、梨華が代弁した。
「この大きな流れを止めるのには――、力が必要……。私たちは
宇宙の意思によって導かれている――。混沌と――、無限に広が
り続けた世界。終息の流れは世界を連鎖し、やがて宇宙全体を覆
い尽くす――」

運転席のひとみは、何も言わずに黙ってハンドルを握り続けてい
た。意味はわかるようなわからないような感じではあったが、ど
ちらにせよ、”全員の力”が必要なのである。それだけがわかる
と、ひとみには後のことはどうでもいいことであった。

飯田の代弁を終えた梨華が、助手席から後部座席の飯田に話かけ
る。
「ののの力で、この流れを変える事ってできませんか……? 例
えば、5年前に戻って中澤さんや市井さんに未来の出来事を伝え
るとかして」

(可能だけど、この世界には影響がない)

「……可能でも、影響がないってどういうことですか?」

(そこから、分岐するだけ)

「分岐……。新しい平行世界が生まれるってことですか?」

飯田は、大きくてクリクリとした目を見開いてこっくりとうなず
いた。
ひとみはその話を運転しながら聞いていた。
”平行世界”と”確定された未来”、この2つのキーワードは密
接に関係している事を、以前、中澤に教えてもらった事がある。

自分のいる世界をAとして、1本の線に例えられた。
矢口はこのAの線の先(未来)や後ろ(過去)が見えるらしい。

Aの世界を変えようと思うならば、過去に戻りBの世界を作らな
ければならない。それはただ”見る”だけの矢口にはできない。
希美の持つ”時間移動”だけが、可能らしい。
過去に戻り、大きな分岐点を作る。だが、Aという世界は消滅し
ない。
Bという平行世界を作るが、もともとの線であるAは続いている。

もちろん、Aから分岐したBの世界も新たにCという世界を作っ
てもBは続いていくのである。そして、そこから分岐する無数の
世界も――。
もちろん、A自体もどこかからか分岐した線なのである。
分岐しても、自分のいる未来は変わらない。
分岐はするがそれは自分の世界とは関係なく、自分たちのいる”確
定された未来”は変わらないという事であった。

そこには、飯田の言う”宇宙意思”が大きく関係しているような
のだが、それは中澤にもわからなかった。

”確定された未来”を変更できるのは、別世界に移動できる希美
だけである。希美の能力は”時間移動”ではなく、”平行世界移動”
であった。彼女だけが別の世界で過ごす事ができるのである。

「じゃあ、せめてののだけでも……」
梨華がひとみの意識を読み取ったのであろう、今度はひとみに向
かって話かけてきた。
「……?」
「ののだけ、この世界から」
「――それは、辻が決める事だと思うよ。そうでしょう? 飯田
さん」
ひとみはバックミラー越しに、後部座席の飯田に語りかけた。
飯田は、静かにうなずいた。互いの肩にもたれかかるようにして
眠っている加護と希美。
この先、どんな未来が待ちうけているのかは分からない。ただ、
ひとみは皆と明るい未来に進む事だけを願っていた。

東京に戻る途中に通過する町。
その1つに、朝比奈町がある。ひとみは朝比奈町に入ったのは、
道路標識や周りの風景でわかっていた。
しかし、何も言わずに通りすぎようとした。もちろん、何も考え
ないようにしてである。
一刻を争う時に、個人的な理由だけで到着を遅らせてはいけない
と考えていた。

「ひとみちゃん」
「――ん?」
「家族に会わなくてもいいの?」
ほんの一瞬、家族の顔が頭をよぎったのであろう。真横にいる梨
華は、それを敏感に感じ取っていたようである。

「また会えるからいいよ。どうせ、心配してないだろうし」
と、ひとみは前を向いたまま苦笑した。
「あの時……、海外に留学って事にしたよね」
「あ、うん」
「留学生ってどの国でも、国外退去になってるよ……」
ひとみは、ハッとした。両親がひとみを迎えにきた時、ひとみは
両親の記憶を書き換えてくれるように梨華に頼んだ。その時、不
在の理由として”海外留学”ということにしたのであった。
しかし、世界の情勢は『ミュータント』の出現により大きく変化
した。

「……」
「家に帰った方が」
「梨華ちゃん」
「うん。わかってる。でも、せめて顔だけでも……」
「……」
「家族がいるのって、ひとみちゃんだけ……。心配してくれる人
を、安心させる義務があると思う」
「……」
ひとみの心は揺れた。意識の下へと追いやっていた家族との思い
出が、溢れ出してくる。七五三・弟の誕生・幼稚園のお遊戯会・
母親との遠足・家族4人でのキャンプ・下の弟の誕生・両親の笑
顔・弟たちの笑顔……。どういうわけか、良い思い出しか溢れて
こない。

「ウチら、待ってるで」
不意に後部座席から声がしてきた。ひとみがルームミラーを覗く
と、いつの間に起きたのだろうか、加護と希美がニコニコと笑っ
ていた。
――ひとみは、目を伏せると小さく「ありがとう」と呟いた。

朝比奈町の中心部は、ほぼ壊滅状態だった。
通学に利用していた駅ビルは砲弾でも浴びたのだろうか、ところ
どころに大きな風穴を開けていた。
梨華の勤めていた花屋「アップフロント」は、被害こそなかった
もののもう随分と長い間、営業されていないようであった。
2人の思い出の場所がなくなって、ひとみと梨華の気分はなんと
なく落ち込んだ。

ひとみの住む地域は、『ミュータント』の襲撃も暴徒の襲撃もな
く、昔と変わらない光景であった。
ただ、出歩いている人が極端に少なかった。この地域を離れていっ
たのか、それとも家の中で息を殺しながら生活しているのか、ひ
とみにはわからなかったが町並みだけは昔と変わっていないので
ホッとする事ができた。

マンションの前にたどり着いた時、ひとみは最初1人で家族に会
おうとしていた。顔を見せて無事である事だけを報告すると、す
ぐに車に戻って来るつもりでいたのである。
しかし、車を下りてロビーへと駆け込もうとした時、加護に呼び
とめられた。

振りかえると、顔を伏せた梨華がドアの外に立っていた。
加護が後部座席の窓から、顔を覗かせている。
「あんなー。梨華ちゃん、よっすぃと離れるん嫌なんやってー」
と、クスクスと笑った。
「あ、あいぼんっ」
顔を赤くした梨華が、加護へと詰めよった。

ひとみの位置からは、加護の顔とその前に立つ梨華の後ろ姿しか
見えなかった。さっきまで笑っていた加護が、笑顔を消して小さ
な声で梨華に何か二言三言声をかけているようだったが、少し離
れた場所にいるひとみには聞こえなかった。
時間がもったいないと思ったひとみは、その場所から声を出した。

「梨華ちゃん、行こうっ」
振りかえった梨華は、さきほどよりもさらに顔をうつむかせてひ
とみへと駆けてきた。
「?」
涙目で見上げる梨華。めずらしくひとみの手を強く握りしめ、戸
惑うひとみをエレベーターホールへと引っ張っていった。
「り、梨華ちゃん……」
引っ張られながらも後ろを振り返ると、加護と希美が笑顔で手を
振っていた。

ドアを開けるとそこには憔悴した母親が待っており、その後ろに
は対照的にふっくらとした弟たちが久しぶりに会う姉に少し戸惑っ
ているのか不自然ながらも笑みを浮かべて立っていた。
父親は、ちょうど自治会の会議に参加しているらしく不在だった。

母親からは”今までなんで連絡しなかったのか?”・”今までどうし
て帰ってこなかったのか”などの質問が矢継ぎ早に飛んできたが、
ひとみは適当に”あぁ”や”うん”と返事をして返していた。
家族が無事であることがわかれば、もうあまりこの場にいる必要は
ない。――と、ひとみは自分に言い聞かせていた。

本当は久しぶりに会う両親に強く抱きしめてもらいたかったし、久
しぶりに会う弟たちを強く抱きしめたかった。
しかし、家族よりも大切なものを見つけてしまった今、自分の弱さ
に甘える事はしたくなかった。

「お母さん」
ひとみは、なおも質問してくる母親の言葉を遮る。
「……」
母親の目は、もう何もかもお見通しのような目をしていた。黙って、
娘の目を見据えていた。
「――わがままな娘で、ごめんね……」
ひとみが言えたのは、その言葉だけだった。頭の中ではもっといろ
いろな言葉を考えていた。しかし、けっきょくこれ以外の言葉は出
てこなかった。

母は目を閉じて、娘を抱きよせた。
「……」
ひとみも黙って、母に抱かれた。そのぬくもりは、梨華とはまた違っ
たぬくもりだった。”母親”その偉大な存在が、ひとみをほんのしば
らくの間、もうずっと昔の幼い少女に戻した。
――どのくらい、そうされていたのだろう。母親からスッと身体を
離されたとき、ひとみはまたもとのひとみに戻った。

「遠くに行くのね……」
母親は、遠い目をして微笑んだ。
「……うん」
「でもね、必ず……帰ってきなさい。ひとみの家は、ここなんだから」
「……うん」
「その時は、ちゃんと連絡するのよ」
「……うん」
ひとみはもう、ちゃんと声を出すことができなくなっていた。視界は
涙で滲んでいる。
「ひとみの好きな料理作って、待ってるからね。じゃあ、行ってらっ
しゃい」

母親は泣き崩れそうなひとみの肩に手をかけると、その身体をくる
りと玄関の方へと向き直らせた。
「お母さんね、とっても心配だけど。とっても嬉しい……」
「……」
「輝いてるひとみの顔見てたら、とてもじゃないけど引き止めること
できない」
「……」
「お父さんには、ちゃんと伝えておく。ひとみは無事だった。そして、
成長してたって。だから……」
母親は嗚咽を必死で堪えているようだった。

「だから、ちゃんと戻ってきてその姿をお父さんに見せるのよ」
ひとみは唇を噛みしめながら、ポタポタと涙を流した。
「さ、行ってらっしゃい」
と、母親がひとみの背中をポンッと押した。
ひとみは振りかえりたい衝動を堪えて、そのまま玄関へと向かった。
今さらではあるが、もっと母親と話しておくんだったと後悔した。
しかし、その後悔はこの大きな流れを止めることができた時に晴ら
そうと、ひとみは自分を奮い立たせて玄関のドアを開けた。

マンションの廊下に出ると、梨華が立っていた。
「ひとみちゃんは……、ここに残って」
ひとみは何も言わずに、つかつかと梨華へと歩み寄った。
そして、梨華の身体を強く乱暴に抱きしめた。
「ひ、ひとみちゃん……」
確かめるようにひとみは梨華の、その髪を、その頬を、その唇を、
その腰を、激しくまさぐった。
「家族より大切なの。梨華ちゃんのことが。何をするにも、梨華ちゃ
んの顔が先に思い浮かぶ」
「わ、私も……、でも」
「もう、終わらせよう。誰のためでもない。私たちのために、こん
な世の中終わらせよう」
梨華の心に、ひとみの心が届く。今までのどの思いよりも熱くそし
て力強い意識――。梨華は自分自身で、決心や身体が溶けていくよ
うな感じがしていた。

検問所の前に車を止めると、加護は躊躇することなく力を放った。
後藤ほどの威力はないにせよ、道路を封鎖していた数台の装甲車
を瞬時にスクラップにした。

警備にあたっていた警察官や自衛隊員は、異能力者の力を見るの
が初めてだったのか、それともこれまで遭遇してきた異能力者の
力に触れ『ミュータント』ほどの力はないとタカをくくっていた
のか、加護の力を目の当たりにすると悲鳴を上げながら逃げ去っ
ていった。

「ののはこれからどうする?」
加護は軽く手を払いながら、止めてある車の助手席側に回り込ん
だ。
希美が助手席側の窓から、顔をだす。
「ん?」
「ウチなぁ、このまますぐにゼティマに行きたいねん。駅まで送
ることできへんけど、それでもいい?」
「ん?」
「よっすぃも梨華ちゃんもそうやけど、ののも飯田さんももとも
とゼティマには関係あらへんやん」
「関係あるよ」
希美が、あわてて車からおりてきた。

「捕まって、病院に閉じ込められた」
「逃げようと思ったら、ののはすぐ逃げれたやんか」
「……逃げてもどこにも行くとこないもん」
希美が、悲しそうに目を伏せた。
加護は、もう少しで”あっ”と小さな声を出しそうになった。

「飯田さんも、病院に閉じ込められてたよ。辻も飯田さんも、ぜ
てぃまと関係あるよ。あいちゃん、そんなに辻のこと嫌い?」
「き、嫌いやないよ。めっちゃ、好きやで」
「じゃあ、いっしょに行こう」
「うーん」
「ね、行こー。で、終わったらまたいっしょに遊ぼー」
「そやなー。保田さん助けて、はよ帰ろうー」
「おー」
加護と希美は、無邪気に笑ってそれぞれの席へと戻った。

飯田は後部座席でずっと目を閉じながら、アカシックレコードを
眺めていた。
やがて自分は宇宙の意識と1つになる。たとえ、仮に加護とここ
で別れたとしても希美は必ず、自分の制止も聞かずに加護の後を
追うだろう。
そして、自分もまた希美の後を追うのはわかっている。ほんの少
し分岐するが小さな分岐はまたもとの確定された未来に戻る。
そして、自分は宇宙の意識の1つとなる。――飯田は、その時が
来るまでに、希美のために、とある世界を探していた。


Chapter−C <集結>

各国への諜報活動が行なわれているのは、市井らの証言により中
澤も知っていた。しかし、こうして実際にその関係資料に目を通
して見ると、それは諜報活動というよりもこの日のためにつんく
が用意した世界制服のシナリオの一遍にしかすぎないような気が
していた。

ゼティマの会長室に残っていた資料は、表向きな資料ではないは
ずである。表向きな諜報活動も行なっていたのであろう。そして、
その報告書は、主要機関にちゃんと提出されているのであろう。
しかし、今、中澤が目を通しているのはそれとは違う、つんく自
らが計画して能力者に活動させた報告資料である。

市井が日本国内の能力者のスカウトという任務を任されていたの
も、うなずける話だった。
この資料に書かれているような活動を市井が知っていたとするな
らば、もっと早くにつんくの野望を食いとめたはずである。
その計画は、あきらかに市井らの”ユートピア”計画とは異なって
いた。

「みんな、こんなために死んでいったんちゃうで……」
中澤はやりきれなくなり、資料をデスクの上に置いた。
「……?」
側で辺りを警戒していた矢口が、中澤の小さな声に気づいて振り
かえった。
やりきれない思いでいっぱいな中澤だったが、そうもしていられ
ない。

雑居ビルの一室から地下通路を通って、国会議事堂の地下にある
<Zetima>にやってきたのだが、機能の中枢をもうすでに
他に移しているらしく、つんくの姿はもうここにはなかった。
中枢を他に移しているという事は、保田もまたここには運ばれて
いないことになる。

しかし、そこがどこなのか中澤は知らない。もう1度、資料に目
を通してみた。頻繁にコンタクトを繰り返している各学会の権威
たち。それらが何を意味しているのか――中澤は必死で考えた。

「それってさ、寺田なんとか研究所ってのに関係あるんじゃない?」
いつの間にか横から資料を覗きこんでいた矢口が、いとも簡単に
答えを導きだした。
「なんか、このシュタイナーとかって名前の人、ラジオで聞いた
ことある。ドイツのスゴイ偉い生物学者でしょ」
「寺田……。そうや、つんくの苗字は寺田やった」
「?」

中澤が矢口の手を引いて、隠し通路へと戻ろうとした瞬間、地下
全体を包み込むような衝撃音が鳴り響いた。
衝撃で一台のモニターのスイッチが入った。モニターには、駐車
場の光景が映っていた。

無駄に広いと思われていた<Zetima>の駐車場は、後藤の
ために用意されていた。
敵が襲撃してきた時、後藤がその力を存分に使えるように市井が
わざわざ作りなおさせたのである。

まさか、その駐車場を襲撃する立場として利用するなど、その時
の市井は考えもしなかったであろう。

「誰も出てこないね」
後藤が辺りをぼーっと見渡しながら、つまらなさそうに呟いた。
「とりあえず、中に入ってみよう。広すぎて、圭ちゃんの意識届
かない」
と、傍らにいた市井が先に歩きだした。
後藤も、ぼんやりとではあるが辺りを見まわしながら市井の後を
追った。

市井の触手のレーダーの網に、何人かの意識を捕らえることがで
きた。
しかし、その誰もがもうすでに戦意を喪失している。監視モニター
で市井と後藤の姿をとらえたのか、それとも自らの能力で2人の
存在に気づいたのかはわからないが、市井のもとに流れ込んでく
るスタッフの意識は”恐怖”であった。

だが、肝心の保田の意識はどこからも流れてこない。能力を封じ
る特殊装置の施されている部屋に閉じ込められているのだろうか
と、各部屋を1つずつ覗いていったが、そのどれらの部屋にも保
田の姿はなかった。

「あれ? 裕ちゃん、やぐっつぁん。何やってんの、こんなとこ
で」
とある部屋の中を見て周っていた市井は、見張りとして部屋の前
に立たせていた後藤の声を聞いて振りかえった。
ドアの前に、息をきらせた中澤と軽く息をきらせた矢口が立って
いた。

「裕ちゃん……」
「あかん。圭坊、ここにはおらん。他のところや」
「なんで……」
「紗耶香、ここまで車で来たんか?」
「あ、うん」
「よっしゃ、じゃあ、それで移動しよう。――矢口、行くで」
と、ドアの前から走り去ったので、中澤と矢口の姿は見えなくなっ
た。残された後藤は、きょとんとした顔をしていつまでも廊下の
一方向を眺めている。

市井は、小さく笑った。
「けっきょく、こうなんのか。もう、いいや」
市井の声を聞いて、後藤が振りかえる。
「後藤。ワクワクしてきたね」
久しぶりに見た市井の笑顔。後藤はしばらく見惚れていた。

まだ加護が市井のセクションに加入する前。市井はよくこうして
笑っていたのを、後藤は思いだした。

4年前の初めて出会ったあの日も、市井は笑っていた。力が使え
なくて、わんわんと泣いていた後藤を市井は笑って頭を撫でた。
『もう、自分の力を怖がる必要はないんだぞ』
そう言って、笑っていた。

最初の2年間は、市井は後藤の教育係と称して力の使い方を教え
てくれた。能力についての勉強も、学校で習うような勉強も、後
藤はあまり好きではなかった。しかし、市井の能力を知り、市井
が側にいる限りもう誰にも危害を加える事がないとわかったら、
毎日24時間でも勉強をしていたい気分になった。

やがて一緒にいたいと願う気持ちは、それだけではなくなった。
もう何も教えられるものがないと市井が言った時、このまま離れ
離れになると勘違いした後藤は感情が高ぶってしまい市井の側で
泣いた。
そして、これまで市井の前ではどんなに感情を表に出しても放た
れることのなかった力が、市井の頬を切り裂いた。

『後藤の力、成長してるな。スゴイよ』
市井は、頬の血を拭い楽しそうに笑った。
笑う市井とは正反対に、後藤はもう市井の前で素直に感情を出さ
ないようにした。優しさに甘えていれば、いつかとんでもない取
り返しのつかないことをしてしまう――後藤は自分の力を心の底
から恐れた。

やがて、後藤は新たに加入してきた加護の教育係を任されること
になる。
その頃からだろうか、市井もまたあまり笑顔を見せなくなった。

「後藤。なに、ぼーっとしてんの。行くよ」
市井が目の前を通り過ぎた時、後藤はハッとわれにかえった。
あの頃は大きく見えたその背中。今はもう自分よりも小さい。
しかし、やはり後藤の目から見る市井と存在は大きくて、とても
大切な人だった。

「ちょっと待ってよー、いちーちゃん」
後藤はふにゃあとした笑顔を浮かべると、市井のもとへと駆けて
いった。
後ろからその腰に抱きついた。
「コラ、後藤」
「へへ」
二人のふざけあう声が、誰もいないひっそりとした廊下に響き渡っ
た。

<Zetima>の地下駐車場に、四人が出てきた。
目の前の光景を見て、市井は口元を歪めた。
「やっぱ、おとなしく帰してもらえないか」
後藤が、スッと市井の前へと歩みでた。
「今度もまた、狼くんかな?」
中澤は、矢口を自分の後ろへと追いやった。
「紗耶香はアタックに専念し。向こうのアタックからはウチが守る」
「だって。じゃあ、後藤、アンタも思いっきりやりな」
「いいよ」

大型トレーラーが地下駐車場の出入り口を塞ぐようにして止まった。

「なんだ……?」
後藤が目を丸くして、その光景に見入った。
「やったじゃん。後藤、アレ待ってたんだろ?」
「そうだけどさー……、ちょっと多すぎ……」

市井と後藤が初めて遭遇したタイプの『ミュータント』が8体、ト
レーラーの後部から出てきた。

「まとめてこっち向かってきてくれると、こっちも動き止めやすい
んだけどなぁ……」
「見てよ。アイツら、バラバラになってこっち来ようとしてる」
「右の4体はなんとか止めれると思う。残り4体、大丈夫?」
「いいよ」

「ごっちん。ウチから、あんまり離れたらあかんで。アイツら、ト
ラックの中からアタックしてるからな」
中澤の視線を追う後藤。
後藤の視線がトレーラーの運転席を捉えたと同時に、運転席は轟音
をあげて大破した。
「ご、ごっちん!!」
矢口が悲鳴にも似た声をあげる。

「やぐっつぁんさ、前に言ったよね。アタシの力は、大切な人を守
るためにあるって」
後藤は矢口に背を向けたまま言った。
「う、うん……」
「それでいいんだ……。正義はいらない」
「ごっちん……」

「行くよ! 後藤!」
市井の声と同時に、2人は左右へと飛び出していった。
右前方から向かってくる4体の『ミュータント』は、市井へと攻撃
目標を定めたようである。
市井は、すばやく触手を伸ばし『ミュータント』の動きを封じた。

一方、後藤の方は苦戦していた。
後藤の放った力では大したダメージも与えられずにいる、ほんの数
秒そのすばやい動きを止めるだけで、すぐに左右から次々と8本の
鋭い爪をもった腕が襲いかかってくる。
それをよけながら、力を放つだけで精一杯であった。

市井は、その状況を見てさすがに少し危険な感じがしていた。
いくら後藤でも力を放ち続ければ疲れて、その集中力も衰えてしま
う。集中力が衰えるという事は、動体視力も落ちて、いずれあの攻
撃をまともに食らうことになるだろう。
頭部を直撃でもされれば一たまりもない。

市井は、後藤の元へと走った。
後藤との距離はおよそ200メートル。市井が触手を伸ばせる距離
は、およせ100メートルほど。
後藤が相手をしている『ミュータント』の動きを封じると、市井を
攻撃目標としていた『ミュータント』の動きが元に戻る。

市井の力では、8体の動きを同時に止めることはできない。
「後藤! 頼む」
後藤は市井の後ろから、襲いかかろうとしている『ミュータント』
に力を放った。いくぶんか、これまでよりも強い力が放出されたが、
それでもその肉体を吹き飛ばすことはできなかった。

「いちーちゃん!!」
『ミュータント』の攻撃をよけきれなかった市井の背中が、その鋭
い爪により大きく引き裂かれた。

「「紗耶香ッ!!」」
倒れた市井を見て、駐車場へと駆け出そうとした中澤と矢口。
しかし、そこに駆けつ市井を救出する時間はなかった。
市井の背中を裂いた『ミュータント』が、次の一振りを振り下ろそ
うとしている。

後藤も攻撃を受けた。
苦痛により市井の触手が少し弱まったのだろう、それまで止まって
いた後藤の前にいた『ミュータント』が突然動きだした。
なんとか直撃は免れたものの、とっさに横に飛んでしまったため、
体勢を立て直す時間が必要だった。
それでも後藤は、倒れたまま市井を守るために力を放った。だが、
その力はミュータンとに当ることなくはるか向こうにある駐車場の
壁を破壊しただけにすぎない。
市井に力が当るのを恐れて、大きくそれたのである。

後藤がパニックになりかけたその時、市井の後ろで爪を振り上げて
いる『ミュータント』の両目が弾けた。
後藤に襲いかかろうとしている『ミュータント』の両目も弾けた。
後藤にも、そして痛みで顔を歪めている市井にも何が起こったのか
わからなかった。

ただ、市井はすばやく自分の背の傷を治すと、後藤に襲いかかろう
としている他の三体の動きを封じた。
そして、すばやく自分も後藤の元へと駆けよった。

後藤は見ていた。
市井を追いかけてくる『ミュータント』の両目が次々と潰されてい
くのを――。そして、聞いた。その声を――。

「後藤さーん。ウチ、コントロールいいでしょー」

いつの間にやってきたのだろうか、加護が赤いスポーツカーの前で
大きく手を振っていた。

「加護……」
後藤は思わず涙が出そうになった。お世辞にも、加護に市井から受
けた教育を施したつもりはない。加護のことよりも、自分が市井と
いる時間を優先させたいがために、それほど真剣にプライベートの
時間を割いて教育をした覚えもなかったし、それほど親しく接した
覚えもない。

それなのに、加護はどこへ行くのにも3人の後を楽しそうについて
まわった。まるで、親とはぐれた子犬のように。
いつしか後藤も自分と同じ力、自分とよく似た境遇の加護のことを
妹のように思えるようにはなったが、それでも自分が受けた優しさ
の半分も与えられなかった。

「後藤さーん」
と、加護がニコニコと笑いながら駆けてきていた。
その姿を見て、後藤は自分にも市井のような気持ちを持つことがで
きているのを感じた。
また1つ、市井に近づけたような気がして嬉しかった。

「加護ちん、危ないからそこで見てなー」
後藤はのんびりとした声を出すと、ゆっくりと立ちあがった。
両目を潰され、動きをなくした4体の『ミュータント』に力を放つ。
随分と昔に、市井から受けた基本的な力の使い方。自分には合わな
いと、自分の力なら一発で大丈夫だと驕り高ぶり使わなかった方法。

ドーンッドーンッとその連続する衝撃音だけで、見ているメンバー
たちの身体は揺れた。
吹き飛んだ『ミュータント』は、壁に埋まった。しかし、後藤は力
を緩めなかった。後藤が力を放つたびに、壁はまるでスポンジのよ
うに『ミュータント』を吸収していく。
後藤が力を止めた。
メンバーは、その様子を見守った。もしも、穴の開いた壁の中から
『ミュータント』が何事もなかったかのように飛び出して来ようも
のなら、もう自分たちに勝ち目はない。誰もがそう思っていた。

――静寂。
長い間の静寂中、聞こえてくるのは市井の触手によって再び動きを
封じられた4体の荒い鼻息だけであった。

「最初から、そうしろよな」
市井が苦笑しながら、ゆっくりと4体の『ミュータント』から離れ
た。
へへと笑う後藤は、市井が離れるのを見届けるとおもむろに残りの
『ミュータント』に向かって力を放った。

女が瓦礫の向こうに連れ去られるのを、運転中の石黒は偶然に視界
の隅でとらえた。
東京のアパートも目前だったので、一瞬、気づかなかった事にして
そのまま走りすぎようかと思った。

有事により理性のタガが吹き飛び、これまで抑圧されていた負の欲
望が溢れだす。
無法地帯となった大都市東京では、よくある光景のはずであった。

ここまで移動してくる間に、石黒の感覚もまた麻痺を起こしかけて
いた。無残に転がる無数の死体。生気をなくした人々が、群れをな
してさ迷う姿。強盗・レイプ・殺人・放火、これらのニュースを騒
がしていた事件はもはや、大都市では日常茶飯事となっている。

見知らぬ女性がレイプされることよりも、すぐにアパートに戻って
夫の所在を確認することのほうが先決だと石黒は思ったが――、そ
の足はブレーキを踏んでいた。

後部座席の方から軽いため息のようなものが聞こえたが、石黒はも
う気にすることもなかった。
車を下りると、近くに転がっていた角材を強く握りしめ足音を立て
ないように、女が連れ去られた方向へと歩いて行った。

しばらく歩いた後、後ろで車のドアが閉まる音が聞こえ、石黒は驚
いて振りかえったが、そこには誰もいなかった。

男は自分自身を世紀末に現われた、大魔王サタンだと思い込んでい
た。ノストラダムスの大予言が外れたのは、大魔王サタンである自
分が新世紀を向かえるためにアンゴルモアの大王を消し去ったのだ
と本気で信じ込んでいた。

ある意味で自分は人類を救った救世主なのだが、やはりサタンであ
るが故に世界を混乱に陥れたことをほんの少し心の片隅で詫びてい
た。

今まで繰り返してきた数々のサイドビジネスが、とある住宅団地の
営業を失敗させてしまったせいで、警察に追われる身となってしまっ
たのである。

こっちだって被害者だ。
男は世間にそう叫びたい気持ちもあった。若妻を殴り、おとなしく
させ、いざ行為に及ぼうとしたら旦那が帰ってきたのである。そし
て、何度も殴られた。顔面は大きく膨れ上がり、前歯の数本も折ら
れた。
かろうじて逃げ出すことには成功したが、翌日から指名手配の身に
なってしまった。

大ケガをさせられたのである。それなのに、警察はなぜ旦那を捕ら
えない。――男は理不尽な思いでいっぱいだった。こんな理不尽な
世界など滅んでしまえばいいと思った翌日、世間は大混乱となった。

日本国内だけでなく、世界中が『ミュータント』と呼ばれる生物の
せいで大混乱に陥った。超能力を持った者が、『ミュータント』に
変化すると政府の発表があったとき、男の脳裏に一瞬サキヤマ町で
出会った少女の顔がよぎったが、すぐにその顔を消し去った。

男は『ミュータント』は自分が召還した地獄の使者であると思い込
んだ。
なぜならば、世界の混乱を願ったのは自分でありそのようになった
のは自分が大魔王サタンであるからだと信じ込んだ。

なので、自分に危機は関係ない。このような混乱を巻き起こしてい
るのは自分自身なのだから、自分の身に危険があるはずもないとい
つものように街を歩く女性を物色していたのである。
しかし、このような時勢に大都市を歩く女性の姿はなく、獲物を求
めて地方へと向かおうと駅に向かった時、偶然にも自分を窮地に追
い込んだ若妻によく似た女性を発見したのであった。
やっぱり、自分は大魔王サタンである。――男は、そう思った。

石黒が瓦礫の影からそっと顔をのぞかせた。男に組み伏せられて、
その下で暴れている女。誰がどう見ても、恋人同士の同意によるも
のではない。

「ちょっと、何やってんのよ!」
石黒は、瓦礫の影から飛びだした。男は女を組み伏せたまま、顔だ
けを石黒へと向ける。
「……」
石黒は一瞬、その顔どこかで見たことがあると思い、それがどこだっ
たのか必死で記憶の糸をたどったが思い出せることはなかった。

男の視線は石黒の顔から、ゆっくりとその大きくなった腹へと移動
した。
そして、ニヤ〜と歯のない口元を歪ませた。
石黒の背筋に悪寒が走った。
男は組み伏せていた女から身体を離し、ゆっくりと立ちあがった。

「……こ、こないでよ」
石黒は、握り締めた角材を前へとかざしながらも後ずさった。男の
後ろで、女が立ちあがって近くの石をつかんだかと思うと、その石
で男の頭部を殴打した。
男の膝は崩れ落ちたかのように見えたが、すぐに体勢を整えると片
手で後頭部を押さえたまま薄気味の悪い笑顔を浮かべた。

女はもう1度手を振り上げたが、振りかえった男の笑顔を見て体が
凍りついたような錯覚に陥った。

「自分の血が流れないのは、大魔王サタンになった証拠である」
男の意味不明な言葉に、石黒も女も男が狂っている事を理解した。
男は薄気味の悪い笑顔を浮かべながら、石黒の元へと歩み寄ってき
た。
「さぁ、その胎児をよこしなさい。新しい時代の生贄に捧げなさい。
そうすることによって新世紀がはじまるのです。――新……、新世
紀……」
男の動きが止まる。男は一瞬、白目を向いた。そして、頭をかきむ
しり始めた。

「まただ。まただ! 心を読むな! 止めてくれ! 止めて! 止
めてよ! おばさん、止めて! いじめないで! 嫌だ! ぼく、
そんな事するの嫌だ! おばさん、止めて!! 痛いよぅぅぅぅぅぅ
ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」

突然、両手を後にして叫びだしたかと思うと、白目をむいて口元か
ら泡を吹きだし卒倒した男。
石黒も女も、ただ呆気にとられて見ている事しかできなかった。

『やっと、捕まえた。寺田……、研究所……か』

石黒の耳元で、声が聞こえた。ハッとわれに帰った石黒は、辺りを
見渡した。
「だ、誰……」
恐怖に怯えて、辺りを見渡す石黒にその光景を見ていた女が口を開
いた。
「誰って……、すぐそこにおるやん」
女の指さす方向を見る石黒。しかし、石黒の目には何も映らなかっ
た。
「ど、どこ?」
石黒は、怯えながら女の元へと駆け寄った。

「あ、向こう行ってもうた……」
女が視線は瓦礫の向こうにある、通りの方向へと向けられた。
「だ、誰がいたの……?」
「誰って、見えへんかったの?」
「だ、だから、誰よ」
「あんたがここに来た時から、ずっと横におったで。これぐらいの
背した女の子」
女がその背丈を、手で示した。

「……」
石黒に心当たりはなかった。だが、ほんの少しではあるが脳の中が
軽くなったような気がしていた。
「あ、あんなぁ自分。ちょっと、TV局寄ってもらえへんかな?
『ミュータント』対策本部でもええねん」
「……は?」
「ウチの従業員が、石川梨華って子と安倍なつみって子が『ミュー
タント』予備軍と間違えられてんねん。捕まってたら、どえらい事
やねん」
女はさっきまで自分が危険な目にあっていたという事も忘れて、必
死な形相をして石黒へと詰めよった。

2人の名前を聞いた時――、石黒はまた渦中の真ん中に身を投じよ
うとしている事を悟った。

石黒はまず先に、自宅のアパートへと立ち寄った。まずは、どうし
ても10日前に連絡の途絶えた夫の生死を確かめておきたかった。
アパートはやはりというべきだろう。ほぼ瓦礫の山と化していた。
『ミュータント』による襲撃なのか、暴徒と化した市民によってな
のか、それとも軍隊によってなのかわからないが、炭化した瓦礫が
積まれているだけであった。

「真ちゃん……」
石黒は道路にヘタヘタと座り込んだ。連絡は取れなくなったものの、
必ず生きていると石黒は信じていた。生きて、そして少し怒った顔を
して、そしていつものように笑顔に戻って自分を出迎えてくれるもの
だと信じていた。
しかし、現実を目の前にしてその生存を絶望視した途端、身体から力
が抜けてしまった。

「ちょちょっと、石黒さん」
男から暴行を受けていた女――平家みちよは、突然、腰を抜かした石
黒の姿を見てあわてて車から下りてきた。
「どうしたん、急に……」
石黒は静かに頭を振った。そして、もう何かが吹っ切れたような表情
を浮かべると平家の手を借りてゆっくりと立ちあがった。

「もう、これ以上は後悔したくない……」
「……?」
「早く……、早く助けないと……」
石黒は自分の腹を抱えると、ヨロヨロと車へと駆けていった。

平家はその後ろ姿を見送りながら、やはり自分は間違っていなかった
のだと確信した。店を、町を後にするとき、常連の1人は東京へ向か
うことを反対した。しかし、どうしても梨華をなつみを救いたくて、
その反対を押しきって電車へと飛び乗った。

危険な目にはあったが、こうして自分と同じように命をかけてまで梨
華やなつみを救おうとしている人物と出会えたことで、自分は間違っ
ていない、梨華やなつみはメディアが伝えるような人物ではないとハッ
キリと確信する事ができた。


Chapter−D <導かれし先>

特殊バリケードに行く手を阻まれ、”寺田生物工学総合研究所”
はもう目の前だというのに、中澤らはかなりの時間足止めを食ら
わされていた。

”特殊バリケード”その構造がどういう構造なのか、中澤らには
わからなかったが、後藤・加護の放つ力がほとんど無効化されて
いる。
特殊バリケードの向こうには戦車が控えてあり、砲弾による攻撃
は後藤と加護の力で防げるものの、攻撃を返す事ができない。

「なんやねん、これ」
建物の影に身を隠した中澤が、苛立たしそうに吐きすてた。
「まただよ」
通りに出ている後藤が、こちらへと向かってくる砲弾に力を放っ
た。
先ほどから隠れる場所、隠れる場所へと撃ちこまれる砲弾にさす
がの後藤も苛立ちを覚えていた。

「圭ちゃん……」
市井も爪を噛みながら、そわそわと落ちつきをなくしている。
唯一落ちついているのは、さきほどからずっと宙に視線を泳がせ
ている飯田ぐらいのものであった。
希美はその手をぎゅっと強く握り締めて、通りで防戦している加
護を見守っている。

中澤は矢口の肩を抱きしめ、通りで防戦している2人を見守りな
がら作戦を練っていた。
力が使えない以上、自分たちはただの女性の一団でしかない。
それが特殊軍隊とどう戦えばいいのか――。

考えを張り巡らせていると、突然、となりの矢口の身体が大きく
のけぞった。
「矢口ッ!」
中澤の声に、市井・希美も矢口を見る。
矢口の目は、どこも見ていなかった。まるで飯田のように――。
「ど、とないしたんや、矢口ッ! 矢口ッ!」
未来視・過去視をしているとき、たびたびこのようなトランス状
態に陥る事はあったが、それもほんの数秒の出来事である。

しかし、1分経過してもその意識は戻ってこなかった。
「さ、紗耶香」
「うん……」
市井は、触手を伸ばして矢口の意識下に入った。だが、どこにも
自我がない。まるで、その心がどこかに行ってしまったかのよう
だった。

この意識の構成を、市井は知っていた。
市井は素早く触手を戻すと、すぐにその手を矢口の心臓にかざし
た。もう片方の手で、頭を触った。しかし、矢口の意識が戻る事
はなかった。

「な、なに……、紗耶香、矢口に何があったん……」
中澤が震える声を出した。
「森のおばあちゃんも、こうだった……」
「ウソや……。ウソやそんなん……。矢口ぃ、矢口ぃ」
中澤はぐったりとした矢口の身体を、力いっぱい揺さぶった。し
かし、ただその身体が大きく揺られるだけであった。

(戻ってくる。今は、さ迷っているだけ。圭織が導いてあげる)

飯田の心の声が聞こえ、市井はあわてて振りかえった。だが、飯
田はいつものように視線を宙に漂わせている。
市井は以前、飯田と希美の能力を探ろうとして触手を意識下に伸
ばした事がある。そこでわかった事といえば、飯田の意識は混沌
(カオス)そのものであるという事だけであった。

人々の意識は、ある程度の秩序があり構成をされている。
層をなしているのが普通なのではあったが、飯田の場合は市井も
見たことのない構成をされていた。
しかも、飯田の意識は市井の触手さえもその特殊な構成に取り込
もうとした。もう少しで、市井は元に戻れなくなるところであった。

直接、触手を伸ばして知る事が理解するのには一番手っ取り早い
方法なのだが、そのような特殊な意識下のためそうする事は難しい。

「さ迷ってるって……、どこに」
市井は、声に出した。それで梨華と飯田のように会話を試みよう
と思ったのだが、飯田の意識はその場所にはないらしく何も返事
はこなかった。

異変が訪れたのは、すぐその後のことであった。
矢口の身体を抱きしめていた中澤の身体が、「ちょっと痛い〜」
と押し返されたのである。

「や、矢口ぃ〜……、戻ってきたんやな。戻ってきたんやな」
と、中澤はもう1度強く矢口の身体を抱きしめた。
「ちょっと、マジで痛いって。裕ちゃん」

「矢口、あんた……」
市井の言葉に矢口は、ハッと反応した。
「伸ばさないで!」
「は……?」
「矢口の意識、探っちゃだめ。絶対にやめてね」
いつになく、矢口は真剣な顔をしていた。
「別に探らないけど、どこ行ってたの」
矢口は、ニヤニヤと笑った。
「宇宙」

「はぁ? 宇宙ってあの宇宙?」
抱きついていた中澤が、身体を離す。
「そっ。あの宇宙で、圭織と同じもの見てた。あかしなんとかっ
てヤツ」
「アカシックレコード……」
市井は、ポツリと呟いた。

「すごいよ。すっごい興奮した。あのね、アカシックレコードっ
てレコードじゃないんだよ」
「知ってるわ。記憶されてる場所やって教えたやろ」
「ハハ。矢口、レコードみたいなの想像してた。でも、違うんだ。
あのね、電気屋さんにさテレビがバーっと並んでるでしょ、アレ
がね空間全部にあるっていうか、なんていうのかなー。とにかく
さすごい数の映像が見えるんだ」
「なんや、まさかそれ見てて戻って来んかったんか?」

「ハハ。実はさ、そうなんだよねー。全部が全部、そうじゃん。
だから、どっち向いて戻ったらいいのかわかんなくなっちゃって」
「圭織は……、圭織が助けてくれたんでしょ?」
市井の目は真剣だった。もしも、矢口の言っていることが本当だっ
たとすると、5年前の光子は死んでいなかったことになる。

「あ、そうだ。案内してくれてありがとね」
矢口は今だ、視線を宙に漂わせている飯田に向かって片手を挙げた。
「案内……。そうか……」
市井が呟く。
「そうかって、なんやねんな」

「圭織は辻のナビゲーターなんだ」
「は?」
「そうだろ、辻。圭織が、どこに向かってどこに帰ってくるのか
教えてくれるんだろう?」
圭織の側にいた希美が、少し伏し目がちにしてコクリとうなずい
た。

「矢口、あんたマジで危なかったわ。圭織がおらんかったら、戻っ
て来れんところやったで。そのまま死んでしまうところやったん
やで」
と、中澤の目にまた涙が溢れだしてきた。
「年上の裕ちゃんが一番泣き虫でどうすんのさ」
矢口は笑いながら、その涙をぬぐってやった。

「だとすると……。辻、今から過去に戻ってくれない? で、み
んなに伝えて。これから起きる出来事を」
希美が、きょとんと顔を上げた。中澤と矢口も、市井を見る。
「5年前……、森のおはあちゃんは死んでなかった。アカシック
レコードを見ようとして、意識が迷子になっちゃったんだよ」
「まさか……。心臓も脈も停止してたんやで。老衰やったって。
紗耶香もどうする事もできんかったやないか」

「意識だけじゃなく魂ごともっていかれた。さっきの矢口だって、
そうだったでしょ」
「じゃあ、うちら……、戻ってくる可能性のあったばあちゃんの
身体……」
「いや。もう戻ってくる事はない。森のばあちゃんは、”絶対的な
者”って呼ばれてたけど、圭織や辻のような能力はなかった」
「……過去に戻ってどうするつもりなん?」
「――ユートピアを作るんだよ」

後藤にもその声が聞こえた。そして、その隣にいた加護にも。
2人は放たれる砲弾を撃破するために、一瞬でも戦車から目を離す
ことはできなかったが、市井のその声を聞くと市井がどんな表情を
しているのか用意に想像することができた。

「過去に戻っても、この世界は変わらんのやで」
市井は、すがすがしい笑顔を浮かべてうなずいた。
「こっちの世界は、ウチらがウチらの手で作り上げればいい。でも、
もう1つの世界は、森のおばあちゃんが作ってくれるよ。あの頃の
みんなとね」
「……みんなと」
「そう。そして出会う。矢口とも後藤とも加護とも圭織も。石川と
吉澤は、辻がみんなに教えてあげればいい。そうすればきっと、み
んな出会える」
もう1つの世界。そこはどんなに素晴らしい事だろう。誰もの胸に、
温かいものが込み上げてきた。

「辻、圭織のナビで5年前に戻ってくれるね」
市井はしゃがんで、希美と同じ視線になった。
「飯田さんは、身体を持っていく事できないれす……」
「向こうにも、圭織はいるよ。5年前だから、そうだなぁ。まだ、
北海道にいるんじゃないかな。おばあちゃんが知ってるから、連れ
てってもらいな」
「そんなの、辻が知ってる飯田さんじゃないれす。辻が知ってるあ
いぼんやみんなじゃないもん」
「……うん。そうだよな。――でもな、辻はみんなを助けなきゃい
けない。アタシたちだけじゃなくて、この世界のみんなを。辻の力
は、それができる。そういう意味のある力なんだ」
「……」

辻の目に涙が滲んできた。必死に堪えているが、やがては溢れてし
まうだろう。過去に戻ることはできる。しかし、今まではそこに自
分の居場所を見つけることができないので、力を使わずにいた。
しかし、市井の言うようにいつか出会う別世界ならば――。争いの
ない楽園のような場所ならば――。希美の心は揺れた。

「戻ってきたいなら、戻ってきな。ウチらはいつでも待ってる」
市井は微笑みながら、希美の頭を撫でた。ツインテールのその髪
が揺れた。

「帰ってきたら、思いっきりチューしたるからな。頼んだで」
中澤と矢口は、希美に笑顔を向けた。

「……辻は、ぜったいに……戻ってきます」
希美は声をしゃくりあげさせた。
「頼むな」
「はい……」
希美はこくんとうなずくと、通りへと顔を向けた。

「あいちゃーん、ぜったい帰ってくるからねー」
希美の声は通りまで聞こえてきた。
加護は、泣いていた。泣いてすぐに声を出す事はできなかった。
「加護、行っていいよ。アタシがやってるから」
後藤の声に、加護はゆっくりと首を振った。そして、ビルに向かう
砲弾に力を放った。放ちながら、建物の陰にいる希美に大きく手を
振った。顔は見なかった。見ると涙で向かってくる砲弾が見えなく
なるからであった。

辻希美は、過去へと旅立った。
誰もが希美との別れを悟っていた――。なぜならば、飯田がこのよ
うな世界に希美を連れ戻すようなことはしないからである。
自分たちが飯田のような力を持っていたら、きっとそうするだろう
と誰もが思っていた。

希美が過去へと旅立って以降、現状は以前として何も変わらなかっ
た。後藤と加護にも、次第に疲れが見えはじめている。

「このままやったら、マズイで……。1回、撤退するか?」
中澤が建物の影から、研究所を覗く。
「もうまる2日……。圭ちゃんの怪我が心配だよ」
市井の声は、放たれる戦車からの砲弾によって打ち消された。

「いちーちゃん、また向こうからも来たよー」
通りから、後藤が大きな声をあげた。
「けど、なんか変ですー」
続いて加護が、少し声を上ずらせた。
「ちょっと、いちーちゃん、来てよ。スゴイ」

中澤らのもとに、ゴゴゴゴゴ……と地響きが聞こえてきた。3人は
顔を見合わせて、表の通りへと駆けだしていった。もちろん、壁に
持たれて座り込んでいた飯田を無理矢理に起きあがらせてである。

通りへと飛び出した中澤らが見たもの、それは自衛隊の戦車団であっ
た。
通りを埋めつくした数十台の戦車や装甲車が、寺田生物工学総合研
究所へと一斉砲弾をしている。

特殊バリケードは、能力者に対してその効力が発揮されるが、通常
の攻撃の前には何の効力も発揮せず、いとも簡単にその砲弾の前に
敗れさった。その後ろに控えていた戦車も、まさか味方の攻撃を受
けるなどとは思ってもいなかったのだろう。反撃を返す間もなく、
そのほとんどが攻撃を受けて大破した。

「なんや……。つんくの裏工作がバレたんか?」
中澤はとなりにいる矢口に声をかけたつもりだったが、矢口は通り
を呆然と見つめたまま何も答えなかった。
しばらくして――、隣にいた市井が、急に声をあげて笑いだした。

「なに、いきなり」
と、中澤はサッと身を引いた。
「吉澤って、ほんとマジで最高だよ」
と、市井は笑いつづけた。
後藤も加護もわけが分からず、きょとんとした顔をしていた。

「はぁ?」
中澤は目を凝らして、その戦車団を眺めた。先頭に黒塗りの高級
車が、止まっている。戦車団を誘導してきたのは、この車であっ
た。スモークの貼られていない車内は、中澤の位置からでも誰が
乗っているのか確認できた。

政治家なのだろうか、恰幅のいい初老に近い男性が後部座席に座っ
ており、前にはやはり同じく初老の運転手。助手席には、秘書ら
しい少しやせ細った男が座っている。

「よっさんなんか、おれへんやん」
と、振り返ろうとした時、戦車団の後ろから一台のハーレーダビッ
ドソンが颯爽と――ではなく、ヨタヨタと道路へと出てきた。

「わっ、ちょっと梨華ちゃん、揺らさないでよ」
「揺らしてないよー」
ひとみはなんとか両足を踏んばって、持ちこたえた。
「ふぅ」とため息を漏らすと、右手をかざして前方にある研究所
を眺めた。

「ひとみちゃん、あれ」
タンデムシートの梨華が、一方向を指さした。見ると、中央分離
帯の向こう、こちらに向かって駆けてくるメンバーの姿が見えた。

ひとみと梨華は、バイクを降りると皆と一緒に抱き合って再会を
喜んだ。
中澤は涙で顔をグシャグシャにし、市井は苦笑のようなものを浮
かべて、後藤と加護はただひたすらの笑顔で、そして矢口はひと
みに抱きつき、あの飯田も久しぶりに微かな笑顔を浮かべていた。

しばらくして、ひとみと梨華は希美が過去へと戻った事を知った。
そして、飯田が過去へと旅立った希美に戻ってくるポイントを教
えなかった事も飯田の心の声によって全員が知った。
だが、もう誰も涙を流さなかった。たとえ、世界が違っていても、
もう2度と会うことがなくとも、希美が幸せに暮らせるのなら誰
も悲しむことはなかった――。

「あ、そうだ。加護、あんたねぇ……」
ひとみは加護と会うことがあったら一番最初に文句を言おうと決
めていた。マンションでひとみと梨華を置き去りにする計画をた
てたのは、加護であったからである。だが、その文句を引っ込め
ることにした。今はそんな雰囲気ではなかった。

「それよりよっさん、これどうしたん」
中澤が視線を、すぐ側に止まっている戦車団に向けた。
「ゼティマに向かう途中で、梨華ちゃんが防衛庁のエライ人の意
識を捉えたんです。ちょうど、つんくのところへと向かう途中だっ
たらしくて。ね」
と、ひとみは梨華にうなずきかけた。
「拠点をそっちに移したことも、研究所の前に戦車を配置させて
警備してることもわかったから……」
と、梨華は困ったような顔をして、ひとみを見上げた。
「じゃあ、いっそのことその人を操って一気に。あ、梨華ちゃんが
考えたんじゃないんですよ。アタシが無理にお願いして。もうさっ
さとこんなの終わらせたかったから」

「はぁー。よっさん、ほんま男前やわ。すごい。感心した。ウチら、
そんなん全然考えつかんかったわ。なー」
中澤は、市井らに笑いかけた。
「どうせ、あの建物もそんな装置ばっかりやろうな。――よっしゃ、
せっかくやから、これこのまんま使わせてもらおう」
「ダメです」
「?」
「つんくらがいるのは地下の核シェルターみたいなところだから戦
車の攻撃じゃとても……」
ひとみは、とても残念そうにつぶやいた。

「よっすぃ、それは……?」
後藤が、ひとみが肩にかけているバッグを指さした。
「あ、これは、その……」
と、ひとみが口篭もると、市井がたしなめるように口を開いた。
「大丈夫。そんなの使う前に、終わらせてやるから」
「?」
後藤も加護も中澤も矢口も、市井の言っている意味が分からない。
ただ、ひとみと梨華だけがバツの悪そうな顔をして佇んでいた。

日も暮れて、辺りが闇に覆われはじめてきた。
いよいよ、これが最後の戦いになる。皆の胸の中にはそんな思い
が渦巻いていた。

中澤・矢口・市井・後藤・加護・飯田・ひとみ・梨華の8人は、
覚悟を決めて不気味にひっそりと静まり返っている研究所の敷地
内へと入っていった。

遊歩道の両側に、針葉樹の木が立ち並んでいる。クリスマスも近
いこの時期、街の至るところにはイルミネーションで彩られてい
るはずなのだが、20世紀最後のクリスマスは殺伐としていた。
キリストの生誕を祝う余裕など世間にはなかった。

「よっさん、あんたずっとノーヘルできたん?」
歩きながら中澤がひとみの頭を指さした。
「あ、ヘルメット1つしかなかったから」
「よっすぃ、その頭めっちゃカッコイイよ」
矢口が、さも楽しげに笑う。

「?」
「オールバック」
と、中澤が笑うので、ひとみは自分の髪を撫でてみた。
たしかに、風を受けて髪の毛が後ろに流れてはいるが、それほど
オカシイ髪型なのかは手元に鏡がないのでわからなかった。
わからなかったが、梨華が少し顔を赤らめながらぽつりと「かっ
こいいよ」と言ってくれたのでまんざらでもなかった。

頬を赤らめ、うつむき加減に歩いていた梨華が、突然、ハッとし
て顔を上げた。
「保田さん! 保田さんの意識です。保田さん、生きてます。私
たちに気づいてます」
梨華の歓喜にも似た声を聞いて、皆の心は浮き立ちだった。
”精神感応”の能力が弱い市井には、まだ保田の意識は届いてこな
かったが、周囲300メートル以内のどこかにいるのは間違いな
いと市井は辺りを見渡した。

「あの建物――、あそこの3階です。私たちのこと、見てます。
市井さんとごっちんの名前呼んでます」
梨華が研究所の建物を指さして、はしゃいでいた。
「行こう。いちーちゃん」
後藤は市井の手を引いて、建物へと向かって駆け出していった。
他のメンバーも2人の後へと続いた。

メンバーの襲撃を知っているのか、建物の内部には人の気配がな
かった。
逃げ出したのか、もともと配置されていないのかわからなかった
が、余計な力を使わずに済むので、一同はホッとしつつかつ迅速
に保田のいる3階へと向かって駆けていった。

(紗耶香……。来ちゃダメ……)
市井の”精神感応”が、保田の意識を捕らえた。もうすでにその声
を聞いているのだろう、つい先ほどまで笑顔を浮かべていた梨華
の顔は曇っていた。

それでも市井は、階段を駆けあがった。
駆けあがりながらも、辺りに触手のレーダーの網を広げるのは忘
れなかった。
保田は敵の襲来を教えているのかもしれないと、市井は思ってい
たからである。<Zetima>で活動を共にしている頃は、そ
うしてサポートしてくれていた。

(来ないで……、紗耶香……)
しかし、保田の心の声のニュアンスからしてどうやらそうではな
いらしい。
まるで、自分とは会ってほしくない。自分の元へは来てほしくな
い。そんな感じだった――。

市井はフッと足を止めた。
続くメンバーも何事かと、足を止める。

(私はもう、みんなとは一緒に帰れない……)
(来ないで紗耶香。来ないでごっちん)
(私はもう、みんなとは一緒に帰れない……)

保田の心の声に、市井は叫んだ。
「何言ってんの圭ちゃん。一緒に帰るんだよ。帰ってみんなと一
緒に暮らすんだよ」
「紗耶香。なんやの、急に」
「圭ちゃん、一緒に帰れないなんて言うんだよ」
「紗耶香……」
市井の目に涙が滲んでいるのを知り、中澤は言葉を失った。そし
て、遠い記憶に思いを馳せた。”泣き虫、紗耶香”そう呼ばれてい
た頃を、中澤は思い出していた。

「梨華ちゃん……」
ひとみは戸惑いの表情を浮かべていた。市井の涙というのにも戸
惑いを覚えているのだが、何よりもあの冷静な市井を何がそこま
で動揺させているのかがひとみの不安を駆りたてた。
「わからない……。でも、すぐそこにいる……」
ひとみは梨華が向けた視線を追った。
近くにいた後藤や加護や矢口も、同じような表情で梨華の視線を
追う。

広いフロアのはずなのに、ドアはそこしかない。
1枚の何の変哲もない室内ドア。
中澤はゆっくりと、そのドアへと足を進めた。

(開けないで、裕ちゃん……)

「何でだよ! 圭ちゃん! 聞こえてるんなら答えてよ!」
市井の叫ぶ声を聞いて、中澤はドアの前で振りかえっている。

(開けないで、裕ちゃん……)
(来ないで……)
(開けないで、裕ちゃん……)

「開けていいんか……。紗耶香……」
ドアの前で躊躇している中澤に、紗耶香は肩を怒らしながら駆け
よった。
「圭坊は、なんて言うてんねんな」
「知らないよッ。答えてくんないんだから」
紗耶香はツカツカと歩み、おもむろにドアノブに手をかけた。
中澤はドアが開けはなれたため、壁の方へと追いやられる形になっ
た。

中を見て、たたずむ市井。
息を呑んで、見守るメンバー。
壁に追いやられた拍子に、肩を軽く打ちつけたのだろう中澤は肩
をさすっている。

(あーあ……、開けちゃダメって言ったのに……)

市井の身体が、小刻みに震え始める。
「ああ……。ああ……」
まるで呼吸のしかたを忘れてしまったかのように市井は胸を押さ
え、低くかすれた呻き声をあげた。
異変に気づいたメンバーが駆けよる。
そして……、全員が部屋の中を見て呆然とした。

広く白い部屋。
薄く青白い液体の入った円筒が、いくつも並ぶ。
実験で使用したのであろう、何かの組織が漂っている。
部屋の中央にある大きな円筒。
その中に浮かぶ脳と2つの眼球が、ドアの方を向いていた。

(だから、来ないでって言ったのに……)

リモートコントロールされているのか、それとも外で動くものが
あれば反応するようにプログラムされているのか、円筒が鈍いモー
ター音をたてて庭の方向へと動いた。

(こうして、侵入者を知らせてるの……。ううん。知らせるつも
りはないんだけどね、勝手に見たものを流しちゃうの……)

脳から細いコードのようなものが円筒の上部に繋がり、円筒の後
ろから太いいくつものコードが壁の中へと伸びている。

(辻は、もういないんだね……。見てたよ、ここから……)

腰を抜かした加護の動きに反応して、円筒が、2つの眼球がまた
メンバーへと向き直った。

(ハハ。加護、パンツ丸見えだぞ)

「圭坊なんか……」
中澤は、やっと言葉を思い出せた。そして、やっとそれが――。
「圭坊……。圭坊……。あぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
中澤は部屋に飛び込むと、円筒の前で泣き崩れた。
「圭ちゃん……」
後藤の目にも涙が溢れ出してきた。となりの市井が、その身体を
強く抱きしめる。
「いちーちゃん……、圭ちゃんが……、圭ちゃんが……」
市井は何も言わずに、力強く後藤を抱きしめつづけた。涙が溢れ
出してはいたが、そんな姿を保田には見られたくない。後藤の肩
に顔を埋めて、声を押し殺していた。

(みんなの声は、耳がないから聞こえないんだ……。でも、紗耶
香と石川には、アタシの声、聞こえてるんだろ?)

梨華は両手で口を抑えて泣いていたが、力強く何度もうなずいた。
そして、市井は後藤の肩に顔を埋めたまま「あぁ。あぁ」と何度
も声に出してうなずいた。

(だったら、みんなに泣くなって言って……。アタシは泣くこと
もできない。涙はこの中に紛れてしまうからね)
保田の心の声は、苦笑していた。
その苦笑が、市井や梨華には痛々しかった。脳と2つの眼球だけ
となってしまった保田なのに、苦笑している保田の顔が思い浮か
んで仕方がなかった。

「わかったよ……。みんな、圭ちゃんが泣くなって……」
だが、市井のその声はどうしようもないほど震えていた。
後藤はその声を耳元で聞いて、必死で感情を押し殺した。そして、
市井の身体を強く抱きしめかえした。

ひとみは腰を抜かしている加護を抱え起こした。
加護も嗚咽しながら、必死で涙を堪えようとしている。
矢口と飯田は、その目に涙を溜めて目を伏せていた。

(裕ちゃん、1人年上で大変だろうけどみんなのこと頼むね)

「中澤さん」
梨華が泣きながら、中澤に声をかけた。
「中澤さんのこと、話してます」
「なんて? 圭坊なんて言ってんの?」

「みんなのこと、頼むって」
市井が震える声で、叫んだ。

(飲みすぎて、身体壊さないようにね)

「飲みすぎて、身体壊すなって」
中澤は、声にならない声で何度も何度もうなずきかけた。

(ごっちん)

「ごっちん、呼んでる」
梨華の声に、後藤は顔を上げた。

(紗耶香にもごっちんは必要なんだよ。これからもずっと側にい
てあげて)

「市井さんにも、ごっちんが必要。これからも……、これからも
ずっと側にいてあげてって」
後藤は、梨華に向けていた視線を保田へと向けた。
「ありがとう、圭ちゃん……」

(ありがとう……か。ハハ。後藤の口から、そんな言葉が聞ける
なんて。見直したよ)

「ありがとうって、保田さんに伝わったよ。見なおしたって」
梨華の声を聞きながら、後藤はへへェと笑った。

(加護、ちゃんと聞けよ)

「あいぼん」
加護は嗚咽をあげながら、保田へと向き直った。

(加護の力は、本当に頼もしかったよ)

「あいぼんの力、頼りになったって」
加護がまた口をへの字にして、泣きそうになった。だが、彼女は
それを必死に堪えようとしている。

(いっぱい注意もしたけど、加護の無邪気な笑顔本当に好きだっ
たよ)

「あいぼんの笑顔、大好きだったって……。あいぼん、泣いちゃ
ダメ」
そういう梨華も、声を震わしている。
加護は深呼吸をすると、口元を緩ませた。不自然な笑顔ではあっ
たが、それが今の精一杯の笑顔であった。

(矢口はとにかく明るかったね。私にもその明るさをわけてほし
いよ。矢口が側にいた裕ちゃんが羨ましい)

「矢口さんの明るさ、わけてほしいって。矢口さんが側にいた中
澤さんのことが羨ましいって」
矢口はその言葉を聞くと、笑顔を見せた。

(圭織はいっつも交信ばっかだったよね。でもさ、辻や加護に見
せる笑顔は好きだったよ。優しいお姉さんみたいで。――ねぇ、
笑って)

「飯田さんが笑ってるところ、見たいって。ののやあいぼんに見
せる笑顔好きだったって」
飯田は涙をぬぐうと、ぎこちないながらも笑顔を向けた。

(ハハ。怖いなぁ。――吉澤と石川。二人を巻き込んだことは、
本当に悪いと思ってる)

「そんな事ありません」
保田に向かって泣き叫ぶ梨華を見て、ひとみは今自分たちのこと
を言っているんだと理解した。

(ただ、反対に、二人に出会えたことにすごい感謝してる。二人
のほのぼのしてる空気は、確実にアタシたちの何かを変えたよ。
力がないのを気にしてる吉澤に言ってやって。吉澤の力は、温か
い勇気だって。その温かい勇気が私たちを変えたって。力があっ
てもなくても、大切な人を守るアンタのその温かい勇気は誇れる
ものだって)

「はい。――ひとみちゃん」
梨華は涙をぬぐいながら、ひとみに向きなおった。
「ひとみちゃんの力はね、”温かい勇気”だって。大切な人を守る
その勇気は、とても誇れるものだって」
「保田さん……」
自分が気にしていたことを、保田は感じていてくれた。しかし、
今までそんな素振りを見せた事は1度もなかった。きっと、その
ままでいいんだと暗に教えてくれていたのだろう。
ひとみは、深々と頭をさげた。

(紗耶香)
顔を伏せていた市井にも、さっきから保田の声は聞こえていた。
しかし、途中から声も出せないぐらいに泣きじゃくっていたので、
保田の声を皆に聞かせることができなかった。

(やっぱ、性格って直らないもんなんだね。そうやって裕ちゃん
に泣きついてたのが、つい昨日のように感じるよ)
「……」
(自分1人で全部考え込まないでさ、たまにはそうやって他のメ
ンバーを頼りなよ。みんな、紗耶香が心開いてくれるの待ってん
だから)
「もう、やめて圭ちゃん……」
(あぁ、たぶん私も泣いてんだろうなぁ……。なんか、頭の中が
ゴチャゴチャになってきちゃった……)
「圭ちゃん……。圭ちゃん……」
(ねぇ、紗耶香。最後に私のお願い聞いてもらえるかな……)
「……なに?」
(……痛いんだ。頭と目がピリピリして痛いの)

「……」
むき出しになった脳と眼球が、液体の中を漂っている。脳に刺さっ
た電極のようなもの――。
(だから、お願い……。最後に、みんなの顔が見れてよかったよ)
市井には保田が何を言いたいのか、すべてわかっていた。もう10
年以上の付き合いである。家族だった。姉であった。

「市井さん!」
後藤から離れて保田の元へと歩きだした市井の前に、梨華が立ち
ふさがった。
「どけ、石川」
「嫌です。どきません」
「……みんな、すぐにこの部屋から出て」
市井の低い声に、全員が声をなくした。市井のしようとしている
ことが、わかったのである。

「いちーちゃん」
「市井さん、このまま帰りましょう」
後藤と加護が、必死で市井にすがりつく。

「痛いんだってさ……。アタシにはもう治せないよ。こうするし
か、圭ちゃんの痛み和らげることできない……。早く楽にさせて
あげたいんだ。変われるなら、変わってあげたいよっ」

唇を噛みしめていた中澤が、後藤と加護の肩をガッと掴んでドア
へと歩いていく。後藤も加護も呆然として、抵抗する力をなくし
てしまっていた。
ひとみも、泣きじゃくる梨華を連れて部屋を後にした。

「……」
誰もいなくなった部屋。市井と保田は、向かい合っている。
コポコポと円筒の中に、気泡が昇る音だけが市井の耳に届いてい
た。

「……」
市井の動きに合わせて、円筒がその向きを変える。保田は見てい
るはずである。壁に立てかけてあったモップを拾い上げる市井の
姿を。
しかし、何も心の声は発さなかった。
お互いにもう言葉はなくとも、伝わりあっていた――。

青白い円筒のガラスに、涙を流しながらモップを振り上げる市井
の姿が映った――。
間際に聞いた保田の心の声。

(ありがとう――紗)


Chapter−E <導かれし先U>

中澤たちは、完全に後藤と加護の姿を見失った。
あの部屋の外へと連れ出した後、2人は階段を駆け下りていった。

――地下。
きっとそこに向かったはずだろうと、中澤らは市井を残したまま
にして、すぐに後藤と加護の後を追った。

地下への入り口は、エレベーターのほかにスロープ状になった通
路があった。エレベーターの方は主電源が切られているのであろ
う、まったく動く事はなかった。

中澤たちは、すぐさまスロープ状の通路を駆け下りていった。
今まで捕らえていた2人の意識が、スッと梨華のレーダー網から
消えた。それはすなわち、2人が力を制御した部屋に入った事を
意味している。

「やっぱり、地下にもあの装置があります」
梨華は走りながら、中澤に叫んだ。
中澤は小さく舌打ちをしただけで、真っ白な地下を走りつづけた。
入り組んだ通路は、<Zetima>の建物を連想させたが、そ
れよりもさらに、複雑に入りくんだ建築構造をしていた。

地下の安全性によほど自信があるのか警備する者もおらず、辺り
には不気味な静寂が漂っている――。

遠くで爆発音が聞こえた。
一瞬、梨華は後藤の意識を捕えたが距離が離れすぎているのであ
ろう、今度はレーダー網の範囲外に出てしまった。

暴走した後藤の力は、あちこちに破壊の爪あとを残していた。
だが、わざわざそれらに驚く時間はなかった。今はただ、早く後
藤らを見つけて合流しなければならない。何が潜んでいるか分か
らない、伏魔殿なのである。

中澤の進む先に、頑丈な扉があった。行き止まり――そう思って
引き返そうとした時、扉が開き中から血まみれの白衣を着た男た
ちが飛び出してきた。
どうやら日本人ではなさそうだった。口々にアジア系の言葉を悲
鳴にも似た声で発しながら、そこにいた中澤らなど見えないかの
ように廊下を走り去っていった。

「あいぼんっ、この中にあいぼんがいますっ。あっ、ダメ」
梨華は、加護の意識をとらえた。しかし、すぐに見失ってしまっ
た。
中澤らは、そのフロアへと飛び込んでいった。
そして、またおぞましい光景を目にすることになる。ガラスの通
路の下は、まるで工場のようであった。ベルトコンベアが回り、
その上をクリアケースに収められた人体の一部が規則的に流れて
いる。
人体加工工場――。まさに、そんな感じであった。

だが、もっとひどいのはその至るところが血の海と変わっている
ところである。
壁、機械、そして数メートル上にある廊下のガラスにまで、大量
の血液が飛び散っている。中で何が起こったのかは、容易に想像
できた。
暴走したもう1人の能力者、加護が行なったのであろう。
後藤なら、このフロアすべてを破壊しているはずである。

「や、矢口さんッ」
ひとみの声に、その場にいた全員が振りかえった。気を失いそう
な矢口を、側にいたひとみが倒れる寸前に支えたのである。
「矢口っ」
中澤があわてて駆けてきた。

「大丈夫か。しっかりしぃ。宇宙なんか行ったらアカンで」
「ハハ……。違うよ。ちょっとアレ見て、気分が……」
「そうか……。よし、ほなちょっと休もうか?」
「何、言ってんだよー。ごっつぁんと加護の力、抑えられるの裕
ちゃんだけだろ。矢口、ここで待ってるから早く行って」
「なに言うてんねん、こんなとこに矢口1人おいてけるわけない
やろ」
「もう、いい加減にしてッ」
矢口は、抱きついてこようとした中澤の体を突き放した。

「今は、そんな甘いこと言ってる場合じゃないでしょ! すぐに
助けなきゃ、2人の命が危ないんだよ。ここは大丈夫だから、も
う誰も来ないよこんな場所。だから、ほら早く行って!」
「矢口……」
「もう嫌だ、あんな悲しい思いすんの……」
と、矢口は目を伏せた。

「……よっしゃ、すぐに戻ってくるから。ここで待ってるんやで」
矢口は目を伏せたまま、ニ、三度うなずいた。
それを見届けて、中澤はひとみらを連れて走っていった。
その姿を見送った矢口は、ヘナヘナとその場に座り込んだ。

科学者だろうか、物理学者なのだろうか、それとも生物学者なの
だろうか――青白い顔に少し黄ばんだ白衣を着た男たち3人は、
その震える手で小さなボードのようなものを自分たちの体の前に
押し出していた。

「こ、このガードの前では、お、お前たちの力なんて、か、関係
ないんだぞ」
白衣を着た一人の青年が、震える声を出しながらそう言った。
だが、3人の男たちの前に冷たい目をして立っている後藤の耳に
は何も入ってこなかった。

「だ、だから、は、はやく、ここから」
言いおわらない内に、男の身長は3センチ程度となった。
贓物や返り血を浴びたほかの2人は、狂ったように泣き叫んだ。
だが、決して差しだしたボードを引っ込めようとはしなかった。

「つんくは、どこにいんの?」
後藤の冷たい声は、男二人の耳には届かなかった。
そしてまた、1人の男が横向きに吹き飛び、壁の中へと埋まって
辺りを血や汚物で汚した。
残された1人は、もう声をあげることもできなくなっている。

「つんくは、どこかって聞いてんの。頭いいクセして、こんな簡
単な質問にも答えらんないの?」
男はボードを投げ捨て、叫んだ。
「き、君たちも人間だろう! な、なんでこんな、ひ、ひどい事
を平気でできるんだ!」
「……どうでもいいや。ねぇ、つんくはどこかって聞いてんの」
「ち、地下3階だ。な、なんで、ボクたちが殺されなきゃいけな
いんだ! ボ、ボクたちはただ雇われてるだけなんだぞ!」
男は突然、返り血の浴びた白衣や服を脱ぎだした。

「ここで働いてる……。それだけで、十分だよ」
後藤は男がスボンを脱ぎ出す前に、力を放った。男の体は、ズボ
ンを脱ごうとした格好のまま残った。頭部はもう跡形もなく、消
えていた。

「保田さーん、この部屋の中、誰かいます?」
加護はドアの前でニコニコと笑いながら、誰もいない空間に話し
かけていた。
「保田さんと仕事してたら、メッチャ楽ですねー。だって、相手
の動きまるわかりなんやもん。どこに隠れたって、すぐに見つけ
られるし」
空間はただ広がっているだけだった。

――加護の笑顔は消えた。
続く長い廊下。加護はそこに一人ぽつんと立っている。放たれた
力が、分厚い扉を切り刻む。

真っ暗な部屋。
加護は、目を細めた。自動でライトがつく部屋だったのだろう、
パチパチっと数度の瞬きの後、その部屋のライトが点灯した。

2メートル程の高さのあるのクリアカプセルの中に、男女関係な
く数十人の人々が全裸のまま眠らされている
「なに、これ……?」
加護は首をかしげながら、部屋を奥へと進んだ。

通路の両脇に、全部で48個のカプセルが並んでいる。
皆、完全に眠らされているようであった。加護はそのカプセルを
軽く叩いてみた。薄いガラスのように見えたそれは、なかなかの
厚みをもっている――そんな鈍い音が帰ってきた。

加護は辺りを見渡した。
だが、この人々を眠りから覚めさせるような装置はどこにもない。
もし仮にあったとしても、加護には自分が使いこなせるかどうか
分からなかった。一応、<Zetima>で保田からあらゆる機
械に精通するような知識を覚えさせられたが、教育係の後藤と同
じようにあまり真剣に取り組まなかったので今でも覚えている自
信はない。

加護は、カプセルから伸びたコードを追った。コードは隣の部屋
へと伸びているようであった。
加護も先ほどから隣の部屋は気になっていた。黄色と黒で縁どり
された「WARNING」と書かれたドア。

「入って大丈夫ですか? 保田さん」
加護はドアを見つめたまま、ポツリとつぶやいた。

「くそッ」
中澤は銀色の扉を、力まかせに蹴りあげた。
さっきから何度も暗証番号を押しているのだが、そうそう開くは
ずもない。

「中澤さん、下がっててください」
ひとみは袋から、ショットガンを取りだした。
「よっ、よっさん、あんた、なに持ってんねん」
驚く中澤を尻目に、ひとみは弾を装填する。
「前に――、前に武器を渡してくれた人が、船の中にたくさん隠
してたのを見てて――。ここに来るまでに、寄ってきたんです。
必要だと思ったから。危ないから、離れててください」
ひとみはドアから少し離れると、照準をあわせてトリガーを引い
た。
ドアキーは粉々に砕け、重い扉がゆっくりと開いた。

「行きましょう」
と、ひとみは中澤に声をかけると、梨華の手を引いてどんどんと
先に歩いていった。
「……はぁ。惚れるね」
その言葉に、飯田が軽く苦笑した。

――シグナルが点滅して、中澤たちの行く手に分厚いゲートが現
われた。直感的な危険を感じ、中澤は横にいたひとみの腕を掴ん
で走った。ひとみと手を繋いでいた梨華も、自然と引っぱられる。

「圭織ッ!」
気づいて振りかえった時、通路に取り残された飯田の姿が閉じら
れたゲートにより見えなくなった。
「圭織ッ! 圭織ッ!」
中澤は必死でその分厚いゲートを開けようとしたが、ビクリとも
動かなかった。

ひとみは、持っていたバッグの中をさぐった。
「これ、使えるかな……」
ひとみは手榴弾を手にとった。使い方はわからなかったが、とり
あえず持っていて損はないだろうと数個手当たり次第にバッグの
中につめ込んでいた。
「よっさん、そんなんなんで剥き出しで持ってんねんな」
中澤が眉をしかめながら、ゲートから退いた。

手榴弾を続けざまに放ったが、その分厚いゲートはびくともしな
かった。こちらからの問いかけに、飯田も何の反応も示さない。
だが、梨華にはこの分厚い扉の向こうから、飯田の声が聞こえて
きている。

(みんなとは、たぶんここでお別れ)

「そんな、何言ってるんですか飯田さん!」
中澤とひとみが、ゲートの前で振りかえった。梨華は、両手に握
りこぶしをつくって届くはずのないゲートの向こうに叫んでいた。

(圭織はもうすぐ宇宙の大きな意識とひとつになる。そして、破
滅の連鎖をストップさせる。圭織はそのために生まれ、そのため
にみんなと出会ったのかもしれない)

「言ってる意味がわからないです。宇宙と1つになるって、破滅
の連鎖ってなんですか! そんなの知りません! みんなで一緒
に帰りましょう! 飯田さん!」

(あぁ、辻……。戻ってこようとしてるんだね……。ちょっと、
大きくなったみたいだね……。辻……。大きな流れと1つになっ
た圭織を許してね。圭織はあなたを助けてあげたいんだよ。許し
てね、辻……)

「飯田さん! 飯田さん!」
梨華はゲートに駆け寄ると、そのか細い腕を何度もゲートに激し
く叩きつけた。

――中澤とひとみは悟った。飯田がこの世界から消えてしまった
事を。
きっとこのゲートの向こうには、飯田はいるのであろう。
しかし、もうそれは飯田ではないはずである。意識――魂の抜け
た、ただの抜け殻にしか過ぎない。
――ひとみは、梨華をゲートから離すとその赤くなった手を頬に
当てた。
「行こう……。もう、止まる事できない」
泣いてまるで子供のように首をふる梨華を見て、ひとみは自分の
無力さを呪った。中澤もまた、出口の見えない闇の未来に2人を
道連れにした事を心の中で詫びた。

自分の使命とは、いったいなんなんだろう――。
石黒はそんな事を考えながら、新聞社の編集長と向き合っていた。
”能力者=世界を混乱に陥れた”とする証拠は山のように揃って
いる。

ホテルの爆破。自衛隊・アメリカ軍基地の襲撃。原子力発電所の
爆発事故。
そのどれもに、梨華たちや他の能力者たちの姿が映っている。T
Vでも放送された。ただでさえ、”能力者=ミュータント”とい
う図式が世間の人々の間には浸透している。
これらを目の当たりにした世間の人々は、完全に”能力者=悪”
と決めつけていることであろう。

それを覆す証拠を、石黒は何も持っていなかった。ただ、自分の
直感を、梨華となつみを信じるだけである。
それは、石黒の隣にいる平家もそうであった。

「仮に、君たちの知りあいがそうでなくとも、現にこうして他の
異能力保持者は事件を起こしている。新聞社としては、君たちの
知り合いに対して訂正はできる。訂正はできるが、世間がどう受
けとめるか……」
「せやから、この子たちは関係ないって一面に大きくですね」
「異能力保持者には変わりはないよ――」

また、同じ結論に戻ってしまった。
石黒は、軽いため息を吐いた。先ほどから何度も、同じことを繰
り返している。編集長の言うように、もっと確実で影響力のある
証拠を掴まなければ、世間は、いや世界は動かない。

そして、先ほどから石黒の頭の片隅に引っかかっている疑問――。
そもそも、なぜ、ロシアはこのような生物兵器を日本に送り込ん
できたのか――。
なぜ、日本の異能力保持者がテロ活動をしていたのか。
別々に考えていいものなのか、それとも他に何かがあるのか――、
石黒はずっとそのことも考えていた。

「だいたいね、このなんとか研究所っていうのが怪しいやないで
すか。世界のお偉いさんがいるんかどうか知りませんよ。なんで、
超能力者が変な怪物に変身するんですか。マンガやないんですよ」

「変身って……、君が思い浮かべているようなものじゃない。細
胞的な変異だよ。能力者は我々ヒトゲノムとは違う遺伝子配列を
しているらしい。故に我々にはない力を持っている。それが成長
と共に、身体的な変化を遂げさせるらしいんだ。だから、君たち
の知り合いはまだ人間の体を保っているだけにすぎないかもしれ
ないぞ」

「……」

「妖怪・悪魔・怪物、われわれが空想上の生物だと嘲り笑ってい
た生物たちは、かつて存在していたのかもしれない。その眠れる
遺伝子が世紀末の世に」

「いい加減にして下さい編集長」
石黒は、おもむろに席を立った。
「平家さんの言ってることが正しい。編集長、私たちの仕事は真
実を伝えることです。与えられた情報だけをそのまま信じるわけ
にはいかないんです。自分の足で取材して、少しでも腑に落ちな
いところがあれば徹底的に調べなければなりません。ジャーナリ
ストって、そうじゃありませんか?」
編集長は、バツの悪そうな表情を浮かべて窓の外に目をやった。

「商業ベースに、そんな余裕はないよ」
「世の中がこれだけ混乱してるのに、商業ベースとか言ってる場
合じゃないでしょう」
「……しかしね」
「原点回帰する時代がきたんです。ペンは剣よりも強し。今が、
その時なんじゃないでしょうか」
「……」
「取材チームを編成して下さい。時間がないんです」
石黒は、その力強い目を決して編集長からそらそうとはしなかっ
た。

――数時間後、各マスコミから取材チームが各地へと飛び出して
いった。石黒や編集長の呼びかけに、多くのマスコミが賛同した。
打算的なマスコミもあることだろうが、今はそれよりも人海戦術
を駆使してできるだけ多くの情報を集めなければならない。

石黒もまた自ら情報収集へと、赴いた。
行き先は――、『ミュータント』の情報発信源である”寺田生物
工学総合研究所”であった。

「梨華ちゃんとなつみちゃん、無事なんやろか」
助手席の平家が、ジッと前を見つめながらつぶやいた。
運転をしている石黒は、あたりまえのようにそこに座っている平
家に苦笑してしまった。
「ん? なに?」
「あ、いや。なんでもない。きっと、2人は無事よ」
ほんの数時間前に知り合ったのに、まるで昔からのパートナーの
ような気がする石黒であった。

地下3階のフロアに、『ミュータント』数体が姿を現した。
今まで遭遇したどのタイプとも違い、後藤の力でもまったく太刀
打ちできなかった。

「なんだ……、これ……」
後藤は肩で荒い息をしながら、後ずさりをはじめていた。

廊下を歩いてくる『ミュータント』。
その緑色の体は透き通っており、中の臓器が丸見えになっていた。
後藤の放つ力は、その『ミュータント』の身体に攻撃を加えるこ
とはできる。だが、その弾け飛んだ身体はしばらくするとまるで
各肉片が意思を持っているかのように集合し、そしてまた元の姿
へと戻ってしまうのだった。

力を放ちつづけたが、まったくダメージを与えられない。それば
かりか、中央フロアに通じるありとあらゆる廊下から『ミュータ
ント』が集まりはじめている。

出入り口を塞がれた後藤は、自然とフロアの中心に追いやられる。
あと少しで、つんくのいるフロアにたどり着けるのに――。
後藤は、唇を噛みしめた。
再生までの短い時間にフロアを突破するには、疲れている後藤の
足では出来そうにもなかった。

「いちーちゃん……、ごめん……。もう、ダメかもしんない」
後藤が目を閉じて一筋の涙を流した時、フロアに轟音が響き渡っ
た。驚いた後藤が目を開けて見たものは――。

業火により、溶けて蒸発する『ミュータント』の姿だった。
フロアにいた100体近いすべての『ミュータント』が、後藤が
あれほど苦戦した『ミュータント』が、一瞬にして蒸発した。

『後藤。あんたの力は、向こうにバレてんだよ』

後藤はその懐かしい声に驚き、振りかえった。フロアに通じる廊
下の1つに福田明日香が立っていた。
そして、その隣には虚ろな目をした白髪の少女が立っていた。

「ふ、ふくちゃん……」
後藤にとって、福田の存在は恐怖だった。<Zetima>に、
いや、すべての能力者に対し異常な敵対心を持っているのである。
市井がずっと側にいたので、直接的に何かがあったわけではない。

だが、後藤は本能的に知っていた。市井が側にいなければ、明日
香に勝つ事ができないのを。
明日香の触手によって、後藤の力を封じ込めることは無理だろう。
しかし、明日香が恐ろしいのは”封じる”のを目的とせず、”壊
す”ことを目的にその触手を伸ばしてくる事であった。

「なに、後藤。久しぶりに会ったのに、そんな怖い顔しないでよ」
明日香のその笑顔も、後藤はあまり好きではなかった。
「紹介する。私の新しいパートナー。安倍なつみさん」
後藤はその名前を聞いたとき、思わず梨華の顔を思い浮かべた。
明日香の隣にいる少女が、梨華から聞いていたなつみの印象とは
あまりにも程遠かったからである。

「ここまでの道のりは、ほんと遠かった」
と、明日香は微笑を浮かべた。
「意識を消して逃げられたら、さすがに見つけにくいからね」
「ずっと、ウチらのこと狙ってたの……」
「さぁ」

明日香のその余裕めいた笑いに、後藤は思わず力を放った。
しかし、その力は炎の壁により相殺されてしまった。

「やめときな。勝ち目はないよ」
「勝ち目はなくても、戦わなきゃいけない」
「――紗耶香のためにね」

後藤は連続的に力を放った。炎の壁に大穴を開ける事ができたが、
すぐにその後ろに出現した新たなる壁により後藤の力は相殺され
る。だが、後藤は力を緩めなかった。その衝撃音だけで、フロア
の天上がパラパラと崩れ始める。

炎の帯がフロアの床を後藤めがけて、一直線に突き進んできた。
ハッとした後藤はとっさに、横に飛びのいた。それにより、放つ
力が止まってしまった。
”殺される”そう意識した瞬間、明日香の笑い声が聞こえてきた。

「殺すつもりなら、もっと簡単に殺してる」
「だったら、さっさと殺しなよ! ふくちゃん、いったい何がや
りたいのさ」
「――いい質問だね」
「ふくちゃんは、いっつもそうだよ。みんなの邪魔ばっかりして、
ふくちゃんが協力してくれてたら、こんな事にならずに済んだの
に、圭ちゃんだって死なずに済んだのに!!!!」

後藤の放つ力を封じるように、炎がフロア全体を覆った。
鈍い音が響き渡り炎のあちこちに穴が開き、そこを貫通した後藤
の力がフロアの壁を抉りとった。

「この建物、崩すつもり?」
と、明日香が苦笑する。
「他のみんなも巻き添えにするなら、してもいいけどね」
その言葉を聞いて、後藤はヘナヘナとその場に座り込んだ。
また、怒りに任せて力を放ってしまった。もしも、明日香がなつ
みの炎でその力を弱めていなかったら――、後藤の戦意は完全に
消失した。

ぼんやりと焦点の合わない目で、後藤は自分の死が来るのをまっ
ていた――。

『アタシのかわいい後藤に、何してくれてんだよ』

ぼんやりと眺めていた後藤の目に、明日香の不適な笑みが映っ
た。怒っているような笑っているようなその声。後藤は、市井の
声が以外と高いことを考えながら、ぼんやりと明日香を眺めてい
た。

「久しぶり、紗耶香」
後藤は、そう言いながら笑顔を向けた明日香の視線の先を追った。
フロアに通じる別の通路から、市井が出てきた。

「いちーちゃん!」
市井の姿を確認してわれに帰った後藤は、その場に座り込んだま
ま泣きそうな声で叫んだ。
「圭ちゃんの言いつけ守らなかったバツだぞ」
と、市井は笑いながら、後藤の頭を撫でた。
「だって」
「わかったから、もう泣くな」
市井は、胸に顔を埋めた後藤を抱いたまま、明日香へと顔を向け
た。

「戻ってきたのは知ってたよ」
「ほんのちょっと見ない間に、ずいぶん、丸くなったんじゃない?」
「――明日香もね」
「そうかな?」
と、明日香は笑顔を浮かべた。

「戦う気もないのに、後藤のこと苛めるのやめてくんない?」
と、紗耶香が苦笑を浮かべた。
「助けてやったのに、こんなことするから」
「後藤。立てるか?」
後藤はコクンとうなずき、市井に手を引かれて立ちあがった。

明日香が不意に、深いため息をついた。
「ホント、しつこいなぁ」
「なにが?」
市井が、訊ねる。
「吉澤みたいなのがもう1人、あ、2人に増えたんだ。あんなの
が、2人いるんだよ」
「は?」
「こんなところまで来るとは、思わなかったな――」
と、明日香はなつみを引き連れて廊下の奥へと消えて見えなくなっ
た。

『私は別にアンタたちの仲間じゃないから。後藤。次に会ったと
き、あんたの質問に答えてあげるよ』
廊下の向こうから明日香の声が、聞こえてきた――。


Chapter−F <導かれし先V>

矢口は、自分の使命を果たすために小さな体を振るわせながら、
1人で誰もいない静かな通路を歩いていた。

このまま通路を歩いていけば、やがて飯田が倒れている現場に
たどりつく事を矢口はあらかじめ知っている。

戦車からの砲弾を受けていたあの建物の陰で、矢口は未来視を
試みた。今まで試みて未来が見えることはなかったが、この現
状をなんとか打破したいがために、今までにないほど強く念じ
たのである。

すると、矢口の意識は宇宙へと不意に投げ出されてしまった。
まぶしいトンネルのような場所を抜けると、そこはアカシック
レコードと呼ばれている場所であった。
はじめて見る場所なのでそこがアカシックレコードなのかはわ
からなかったが、ありとあらゆる映像が無秩序かつある一定の
秩序を持って広がっているのでここがそうなんだろうと感じて
いた。

しばらく、そこにある映像を眺めていた。どれも自分たちには
何の関係もなさそうであったが、あらゆる星での出来事が珍し
くて見入っていた。

どのくらいそこでそうしていたのだろうか、急に誰かに引き戻
されるような感じがしてまたあのトンネルへと戻った。通過し
ている最中に、不意に矢口の目に自分の未来が飛び込んできた。

それは、自分の”死”までの映像である。
だが、矢口は取り乱す事はなかった。なんとなくではあるが、
自分の能力が――、未来を見る能力が劣った理由を、もうずっ
と前に理解していたからである。

ただ、一人ぼっちで死んでいくのが寂しかった。
できることなら、中澤にそしてメンバー達に看取られながら死
んでいきたかった。

――しかし、今はその考えも少し違っている。
保田の姿を目の当たりにした時、強烈な悲しみで心が裂けそう
になった。あのような思いは、誰にもさせたくはない。矢口は
今、そんな風に思っている。

廊下の角を曲がり、目の前に倒れている飯田を見つけた時、矢
口はやっぱり自分の見た未来は変えられない事を知った。

中澤は、ひとみと梨華を後ろにして、その切り刻まれた部屋の
中を覗きこんだ。
薄明かりの部屋の中、通路の両側にカプセルのようなものがい
くつも並んでいたが、その中には何も入っていない。

中澤は誰の気配もないのを感じると、少々、拍子抜けした顔を
浮かべて後ろを振りかえった。

ひとみと梨華も、緊張していた。梨華がいくら意識の網を広げ
ていても、『ミュータント』の意識を感じる事はできないので
ある。
廊下の角を曲がるのも、部屋の中を覗くのも非常に緊張する瞬
間であった。

その緊迫した空気の中、部屋の確認をし終わって後ろを振りか
えった中澤が突然、叫び声をあげたものだから、ひとみも梨華
も同じように叫び声をあげてしまった。

叫びながらも、ひとみはとっさに銃を構えて後ろを振りかえっ
た。
そこに『ミュータント』でもいると思ったのである。
しかし、ひとみの見たものは『ミュータント』ではなく、銃に
驚いて腰を抜かした希美の姿だった。

「つ、辻……」
誰もが、言葉を失った。帰ってくるはずのない、希美がそこに
いたのである。
「ただいまれす」
希美は、腰を抜かしながらも白い八重歯をのぞかせた。

「あ、あんた、なんで……」
「飯田さんが、教えてくれました」
「圭織が……」
「はい」
ほんの少しだけ成長した感のある希美だったが、あの舌っ足ら
ずな喋り方だけは何も変わっていなかった。

中澤とひとみと梨華は、黙って顔を見合わせた。宇宙意思の一
部になった飯田がどうして――、そんな疑問から顔を見合わせ
たのである。

「辻は悲しくないれすよ……。いいらさんは、この星を守るっ
て言ってました。らから、悲しくありません……。最後にいっ
ぱい、お話したから」
辻のその愛くるしい目に、涙が滲む。しかし、気丈にもその涙
を堪えている。

「そうやな……。圭織は圭織で戦ってるんやな……。それより、
辻はなんでここに戻ってきたん? あっちの方がよかったやろ
うに」
中澤は、希美を立ち上がらせると、母のような笑みを浮かべて
その臀部の汚れを払った。

「中澤さんも、市井さんも、保田さんも、みんないました。森
おばあちゃんにも辻は優しくしてもらいました」
「そうか……。圭坊もおばあちゃんもおったか……」
「辻は、森のおばあちゃんや中澤さんたちにこれから起きるこ
とを全部話しました。そして、森のおばあちゃんはつんくの意
識下にあるなんか悪い考えを見つけたみたいで、そのすべての
記憶を消したんれす」

「……意識下にあったんや」
「中澤さんがリーダーになって、これからは力を持った人を集
めるそうれす」
「そうれすって、あんたその先、知らんの?」
「?」と、希美が首をかしげた。

「いや、もしかしたらまた別の未来が始まってるかも知れんや
ないの」
「大丈夫れす。ここに戻ってくる前に、飯田さんがこの世界で
星の”れんさ”が止まるって言ってました」
「あかん……。また、圭織や……。わけわからんねん、あの子
の言ってること」
「辻はわかりますよ」
「は?」

「増えすぎた世界は、端から消えていっているのれす。消えて
いく世界にもいろいろな原因があります。自然淘汰、環境破壊、
戦争。でも、そのほとんどが独裁者による戦争が引きがねれす。
人間の負の感情が、世界に影響を与えて、星そのものの命を削
るのれす。星の命は、花や木や鳥や動物や人間の意識れす。そ
れがなくなったら、星は死にます。星が死ねば、星の意識がエ
ネルギーの宇宙も死んでしまうのれす」
「連鎖って、そう言う意味やったんか。圭織はそれを止めよう
と……。けど、どうやって……」
「独裁者を倒すのれす。独裁者から生まれる意識は、人々に負
の感情を伝染させる。それがそのまま分岐した先の世界にも影
響する。だから、独裁者を倒しなさい――って、飯田さんが言っ
てました」
「独裁者って、つんくのことやな」
「たぶん。――飯田さんは、ただ独裁者と言ってました」
「どっちにしろ……。戦わなあかんのやな」
中澤は微笑を浮かべて希美の頭を撫でると、廊下を歩いて行っ
た。

「行こう、のの。みんなから、離れちゃダメだよ」
と、梨華は軽く希美の頭を撫でると、その小さな手をとり歩こ
うとした。
「あのね、梨華ちゃん」
のぞみが、梨華を見上げながら軽く手まねきした。どうやら、
耳を貸してほしいらしい。梨華は、それを察して膝を曲げて希
美の口元に耳を近づけた。

後藤と市井は、3階で足止めを余儀なくされていた。
地下4階につんくはいるはずなのだが、そこに通じる道がどこ
にも見つからないのである。

「隠し通路みたいなのがあるのかな?」
後藤が辺りを眺めながら、市井に語りかけた。
他のフロアとは違った構造。きっと市井たちの進入を計算にい
れて、作られているのだろう。
中央のフロアに追い込んで、あの『ミュータント』でまとめて
消し去る予定だったはずである。
――市井には、そう考えられた。

どの通路も奥は行き止まりであり、通路の両脇にはあの『ミュー
タント』を格納していたと思われる殺風景な部屋しかなかった。

だとすると、ここは単に市井たちをおびき出すためだけに作ら
れたフロアであり、地下4階に通じる通路は別に用意されてい
ないのかもしれない。
――市井は後藤を連れて、もう1度地下2階に戻る事にした。

希美を連れて歩いていた梨華の足が急に止まった。
「梨華ちゃん?」
希美の声に、前を歩く中澤とひとみが振りかえる。

身を強張らせた梨華が目を閉じて、意識を研ぎ澄ます。
ひとみは、そっと辺りを見まわした。しかし、入り組んだ地下の
そのフロアは廊下の角があちらこちらに点在し、もしも敵ならば
どこから現われるのか見当もつかない。

「福田さん……。福田明日香が来てます……」
梨華はポツリとそうつぶやくと、ゆっくりと閉じていた目を開い
た。
「明日香が……。どこや……」
「ここから、300メートルほど……。もう、感じません……」
梨華の指さす方向は、先ほど自分たちが歩いてきた道でもあった。
どうやら、上のフロアに通じる通路へと向かっているらしい。

「なんで、今頃……」
中澤はいつまでも、梨華が指さした方向を見つめている。
その思いは、ひとみも梨華も同じだった。
「安倍さん……。安倍さんも一緒でした……」
「向こうは、こっちに気づいてた?」
ひとみの問いかけに、梨華はゆっくりと首を振った。
「ややこしい事になってきたで……。けど、今は明日香よりつん
くや。早う後藤と加護に合流せな。行くで」
中澤は希美の手を引いて、廊下を突き進んでいった。

研究所の敷地の中で、石黒と平家は『ミュータント』に取り囲ま
れていた。

「やっぱり、ここ相当怪しいわね……」
石黒はジリジリと後ずさりしながらも、『ミュータント』から目
を離そうとしなかった。
「こんなに集中して出てくるんが、おかしいもんなぁ……」
平家もまた、同じである。

牙を剥き出しにしたその『ミュータント』は、闇夜の向こうから
次々と集まってきていた。

「彩ちゃんは、早よ逃げ。ここはウチが囮になるから」
「なに言ってんの」
「お腹に赤ちゃん、おんねんで。こんなとこで死んだりなんかし
たら、あかん。絶対にアカン」
「……まだ死ぬわけにはいかない。私にはまだやりのこしたこと
あるから」

『――。へー、そんなことのために、わざわざ来たんだ。ご苦労
様です』

石黒らに向かってにじり寄っていた『ミュータント』が、その声
に反応して振りかえった。

闇夜の向こうにボッ、ボッと音を立てて小さな炎の玉が浮かぶ。
揺らめく炎。
照らしだす人物の顔に、石黒も平家も見覚えがあった。

「あ、あなた……」
死んだはずの福田明日香が、そこにいた。石黒の脳裏に、あのサ
キヤマ町での出来事が強烈に思いだされた。

「あの子や、彩ちゃんの側におったん。あの子やで」
と、平家が呆然としている石黒の肩を揺らす。平家が男に教われ
ていた時、その少女はたしかに石黒彩のすぐ側にいた。
しかし、どういうわけか石黒は少女なんかいないと突っぱねるの
である。平家は、襲われたショックで自分の頭がおかしくなって
いたのではと何気に気にしていた。

「死んだはずじゃ……」
石黒のその言葉に、平家は背筋に冷たいものが走った。”幽霊”
それが平家はこの世でなによりも恐ろしかったのである。

「こっちもそのはずだったんだけどね。また、戻ってきちゃいま
した」
と、明日香はおどけて笑った。炎により顔の陰影は濃くなっている。
その笑顔は、不気味な笑顔だった。
「ひょっとして……、ずっと私の側に……」
「あの子たちの意識探している途中に、たまたま見つけてね。いつ
か合流するだろうと思って」
「……」
「見られると面倒だから、私たちのこと認識できないようにしてた
の」
「私たち?」

――ボッとまた炎が上がる。
照らし出される白髪の少女を見て、石黒と平家は思わず叫んでし
まった。
「な、なっち!」
「なつみちゃん」
駆け寄りたい衝動でいっぱいだったが、明日香らの間には多数の
『ミュータント』で埋め尽くされている。
「そう。私たち」
「なっちに何をしたの! なんでそん……な……に……」
石黒と平家の記憶の中にある、あの愛くるしい顔をしていたなつ
みはもうそこにはいなかった。

原因はなんなのか分からない。度重なる疲労によるものなのか、
それとも他の何かなのか、まだ出産予定日にまでは1ヵ月以上
あるはずである。決定的な証拠まで後一歩というところで石黒は
強烈な陣痛に襲われた。

脂汗が浮かび、立っていることもできなくなり、その場に膝をつ
いてしまった。
「あ、彩ちゃん!」
あわてて平家がその身体を支える。見ると、破水したのだろう。
羊水によって地面が濡れていた。
「あぁ、どうしよう。こんなときに」
うろたえる平家は、周りに何もないのを知っていたが思わず辺り
を見渡してしまった。

「車で連れてったら。すぐそこに付属病院があるから」
「なっちを……、返して……」
石黒は痛みでふるえながらも、手を差し伸べた。
明日香はニッコリと微笑むと、こう言った。
「答えは、国会議事堂の地下にある」

突然、吹き上げる炎。その炎に包まれる『ミュータント』の姿を
見ながら、石黒は痛みにより気を失った。
ただ、意識を失う寸前になつみが笑ったかのように見えたが、そ
れは揺らめく炎の陰影による錯覚であったのかもしれない――。

加護はその『ミュータント』の両目をまず潰した。
そして、視力を失い突進してくる『ミュータント』を冷静に交わ
すと、静かに距離をとって静かに力を放った。

首の薄皮が一枚剥がれただけにしかすぎなかったが、加護は冷静
に同じ威力で同じ場所に力を放った。また、数ミリその首もとを
切り裂いた。

5回……、10回……、20回……、30回……、『ミュータン
ト』の頭部は薄皮一枚で首と繋がっていた。
もうすでに、『ミュータント』は絶命していた。辺りに鮮血を撒
き散し、床に倒れている。しかし、加護は力を緩めなかった。
32回目でその頭部と首が完全に切り離されたのを確認すると、
加護は部屋を出ていこうと振りかえった。

ドアの前に、青ざめた顔をした矢口が立っている。
加護は完全に狂っているのかもしれない……。矢口はそう思って
いた。顔に飛び散った鮮血をぬぐう事もなければ、そこは研究室
なのだろう辺りに散乱した死体に眉1つ動かすことなく、佇んで
いる。たまたまドアの前を通りかかった時、矢口はまた新たなる
敵がそこにいるのだと思った。だが、それは加護であった。

加護は冷たい目でぼんやりと、こちらを見つめている。
あの無邪気な笑顔を浮かべていた加護が……。矢口は思わず、泣
きそうになってしまった。

「あ、矢口さぁん」
対面してもう数10秒が経過した頃、やっと加護が矢口を認識し
た。
それまで浮かべていた冷たい表情から、いつもの愛くるしい笑顔
を浮かべる。
「……あんた、こんなところで何やってんの」
矢口の見た未来に、加護はいなかった。このあと、加護はどこに
行ってしまうのか不安で仕方がなかった。

「矢口さんこそ、どうしたんですかぁ?」
「あたしは……」
「加護はですね、保田さんの身体を探してるんです」
「圭ちゃんの……?」
「はい。そうなんです」
「……加護、圭ちゃんはもう」
加護はまた冷たい表情を浮かべ、矢口から顔を背けた。

死を認識するにはまだ幼い。ましてや、それがあのような別れ方
ならば、なおさらである。加護は狂ったのではなく、認めたくな
いだけなんだと――矢口はそう感じた。
このまま1人にしておくわけには行かないので、矢口は加護の手
を引いて研究室を後にした。

「ごっちんと市井さん、こっちに向かってきてます」
梨華が急に振りかえって、そう言った。
皆の顔に、安堵の色が浮かんだ。

「紗耶香も一緒か……、良かった」
中澤は、フロアの奥に通じる扉をひとみと一緒に、バールを使っ
てこじ開けていた。
「じゃあ、これごっちんにやってもらおうか?」
「そうですね」
ひとみは、額の汗をぬぐいながら扉から離れた。

「ひとみちゃん」
「ん?」
床に座り込んで一息ついていたひとみに、梨華が話しかけてくる。
「もうすぐ、終わるよ」
「なんで?」
「このむこうから、私たちの意識を探っている人がいるの」
「敵なの?」
ひとみが、パッと立ちあがろうとした。

「違う……。人なんだけど……」
ひとみは梨華のその口調や表情から、この扉の向こうににいるの
は、あの保田の状態のようになった”人物”なんだと理解した。
「教えてくれるの……。この下のフロアにいるって……」
「あいつ、ホント人間じゃないよ……。なんで、こんなこと」
ひとみは、怒りで震えた。

「私たちのような力を持っている人間と接したことによって、未
知なる力に対する恐怖が芽生えたんだと思う。たとえそれを利用
して、自分の欲を満たそうとしてもその恐怖心は消えない」
「……」
「だから必死になって、私たちより強い力を手に入れようとして
るのかも……」
「記憶を消された向こうの世界のつんくは、どうなったんだろう……」

「きっと、普通に暮らしてると思う。力を持った人たちと出会わ
なかったんだから、利用することもないし恐れることもない」

「――梨華ちゃんは、その優しさずっと持っててね」
「?」
きょとんとしている梨華に、ひとみは微笑んだ。無意識なのだろう、
梨華はつんくに慈悲の心を持ち合わせている。いや、結局すべての
人間に対してそうなのだろう。どんなに悪行を行なったものに対し
ても最後はきっと許してしまうのだ。
――ひとみは、そんな梨華が好きだった。

「梨華ちゃん」
「ん?」
ひとみは、その頬に唐突に口づけをした。顔を赤くして、目を丸く
する梨華。ひとみはイタズラっぽく笑いながら、その表情を眺めて
いた。

「もう、ひとみちゃん」
と、梨華がひとみを突き飛ばそうとした時、市井と後藤が駆け込ん
できた。
――最後の戦いは、すぐそこに迫っていた。


Chapter−G <導かれし先にあるもの>

地下4階に下り立った時、中澤・市井・後藤・ひとみ・梨華・希
美の6人はまるで地上にいるような錯覚に陥った。

広がる緑の森。
どこかから、風のようなものも舞っている。
明るい陽射し――のような光が天から降り注いでいる。
中澤たちにはどことなく長野の<Zetima>を思い出させ、
ひとみたちには日本旅館を連想させた。

その光景に見惚れていた6人だが、不意に聞こえてきたその声に
より現実に戻される。

『つんくタウンへようこそ』
スピーカーでも隠されているのだろう、その声は四方から流れて
きた。
『って、まだなんもできてないんやけどな』
と、その声は笑った。

「アンタがやりたいんは、こんな事やったんか!」
中澤が、叫ぶ。

『まぁ、こんなところで立ち話もあれや。部屋で待ってるわ。誰
もおらへんから、ゆっくり話しようやないか』
声は消えた。
また、その森に静寂が戻った。

「部屋ってどこやねん……」
見渡す限り緑の森である、建物らしきものはどこにも見当たらな
い。
「裕ちゃん、ちょっとどいてなよ。危ないよ」
後藤が、中澤の前へと歩み出てきた。中澤が、後藤から離れた瞬
間、森の木々が吹き飛んだ。
辺りは、ただの平野となった。
そして、数キロ先にまるで箱のような小さな建物が見えた。

「あれだ……」
希美のひとみと組んでいた腕に、ギュッと力が入った。
「辻……」
不安そうな表情でずっと一点を見つめる希美の頭を、ひとみは軽
く撫でた。
「大丈夫。もうすぐ終わるよ」
「あいちゃんと、矢口さん……」
「ああ。早く終わらせて、一緒に帰ろう」
「……うん」

何もない平野は、どこかもの悲しげであった――。
そこを歩いていく6人にも、その思いは去来していた。

おかしい……。
矢口は電子制御室の前で、加護の手を引いたままぼんやりと佇ん
でいる。
アカシックレコードから戻る途中で見た自分の未来は、ここへは
1人でたどり着くはずだった。
しかし、今はとなりに加護がいる。加護と一緒にいる未来など見
ていない。確定された未来がどうして――。

加護はぼんやりと佇む矢口をよそに、その扉を切り刻んだ。
「矢口さん、開きましたよ」
と、無邪気に微笑んだ。
矢口はただ、ぼんやりとするだけであった。もしも、あの時見た
のが別世界の未来だったとすると……。
ほんの少し離れただけの未来だとすると……。
自分たちの未来は――。

「矢口さん?」
「あ、うん。――行こう……」
薄暗闇の部屋の中を、矢口は加護の手を引いて入っていった。
この先の未来、電子制御装置を近くにあった鉄の棒で破壊する。
そうすることにより、この建物にあるはずの能力を封じ込める装
置が作動しなくなるはずである。
その後、矢口はその部屋に入ってきた発狂した研究員の手によっ
て、撲殺される運命であった。

だが、加護が側にいる現在、本当にそのような運命をたどるの
か――。
そもそも、この部屋に来るまでに加護はいない未来を見ていたの
である。そして、矢口が壊すはずだった電子制御装置を加護が力
を放って呆気なく壊してしまった。

「矢口さぁん、これでいいんですよね」
「あ、うん……」
「じゃあ、もうみんなのところ行きましょう」
と、呆然としている矢口は、加護に手を引かれて電子制御室を後
にした。

それまで太陽のような光を放ちつづけていた天上のライトが、不
意にブーンという鈍い音を立てて消えた。
一瞬、辺りは暗闇に覆われたもののすぐに予備電源に切り替わっ
たのであろう、すぐにそのフロアに明かりが戻った。

しかし、先ほどよりもあきらかに薄暗い光を放っている。

「なんやねんな……、急に……」
中澤は、天上を見上げながらつぶやいた。
対照的に市井と後藤は、立ち止まることなく建物へと進んでいっ
た。

――数分後。
6人は呆気ないほど、その建物へと足を踏み入れることができた。
そして、呆気ないほどつんくのいる部屋へと足を踏み入れること
ができた。

「誰やねん、電気ストップさせたんは……」
つんくはデスクの鉄製の椅子に座っていた。出入り口には、背を
向けているので、その表情を読みとることはできないが苦笑して
いるようだった。

市井と梨華は、触手をつんくの意識下に伸ばしたが、頭を覆って
いるヘッドギアによってその行く手を阻まれた。
しかし、こうして体面に近い状態の今、特に意識下を探る必要も
なかった。もう、これですべてが終わるのである――。

「けっきょく、このヘッドギアだけか。役に立つのは」
「あんたの与太話はどうでもええねん。あんたは絶対に殺すから
な。圭坊のためにも、圭織のためにも、死んでいったほかの人の
ためにも、アンタだけは絶対に許されへんねん……」
「保田には、悪いことした……。けど、謝れへんで」
「そんなとこで、ブツブツ言わんとこっち向けや!」
「あいかわらず、やなぁ……」

苦笑するつんくの声を聞いたとき、後藤のイラつきはピークに達
し思わず力を放ちそうになった。しかし、寸前で市井によって止
められた。
「いちーちゃん……」
「待って。なんか、変だ……」
「そんなの、関係ないじゃん」
「いいから、待て」
「……」
後藤は、軽くため息を吐くとそっぽを向いた。

「お前らは、俺が世界征服でも目論んでると思うてんねやろ」
「その通りやないか。こうするために、今まで動いてたんやろ。
ちゃんと証拠かて残ってんねん!」
「なんや、バレてんのか」

部屋のライトが瞬き、また少し暗くなった。
ひとみは、横にいた梨華と希美を自分の側へと引き寄せた。

「けどな、そんな大層なもんちゃうで。俺はただ、この世界をも
う一回作りなおしたかっただけや。――周り、見渡してみ。この
世の中は腐ってるやろ。一部の人間だけが甘い汁ばっかり吸い上
げて、弱い人間はいっつも誰か他人や社会に虐げられて生活する
しかない。お前らかてそうやで。確かに他人にはない力をもっと
る。しかも、強大な力や。けど、そのせいでつまはじきにされて
きたやろ」

中澤らは、ただ黙ってその話を聞いていた。特につんくの話が聞
きたいわけではないが、ここまで来た以上、その真意を知ってお
く必要があると思っていた。

「俺かてそうや。自慢やないけど、頭だけはええ。けどそのお陰
で、嫉妬や妬みぎょうさん受けてな……。この世の中に失望した……。
そんな時に、お前らに出会ったんや。無能どもがのさばるこの世
の中で、なんで優秀な人間が虐げられなあかんのやって……。ば
あさんが死んだとき、俺は誓ったんや。いつか、こいつらと共に
この世の中を叩き潰してやるってな」

「何が共にやねん。結局、アンタは自分のエゴのために、みんな
を利用しただけやろ。何が世の中腐ってるや。腐ってんのはアン
タの方や!」

「考え方の違いや。特にばあさんに育てられたお前ら――。あの
ばあさんの考えは、聞こえはいいけどホンマはちゃうねんで。自
分らだけの理想郷なんか作ったら、他で苦しんでる能力のないヤ
ツらはどうすんねや。自分らさえよかったら、それで満足なんか?」

「ああ。それで満足だよ。この世界を壊す気なんてない。ただ、
誰も自分の持っている力で悲しんだりしない場所がほしかっただ
け。ウチらは――、ただ普通に暮らしたかっただけさ」
市井は、強い目をつんくの背に向けている。

「……せやから、邪魔やったんや」

「けっきょく、あなたは自分が一番優秀な社会を作りたかった」
梨華が、ぽつりとつぶやいた。

「……独裁者はそういうもんやねんな。けどな、教えといたるわ。
独裁者は必ず最期には滅びるねん。けど、俺はそれ知ってたから
な、わざわざ自分が表に出る事はなかった。この日本もホンマは
守るために動いてたんやで。被害国のように見せてたやろ」

「あんたのせいで、何人死んだと思ってんの」
ひとみの叫びに、つんくは微苦笑を返した。

「もし俺が、張本人やとバレたら日本は全滅やで……。なんぼな
んでも、あんな『ミュータント』使っても世界は相手にできへん
わ。夢のためなら多少の犠牲も止むおえん……」

「そこが、違ったんだ……。もっと早く気づいてたら、こんな事
にはならなかった。圭ちゃんも死なずにすんだ……」
市井はつんくの背に視線を向けたまま、目に涙をためた。

「アイツラは、ホンマに狂ってるわ……。何もかも実験に使われ
た……。俺の計画がメチャクチャや……。もっとも、こんな身体
では計画もクソもないけどな……」

つんくの椅子がゆっくりと動きだした。
回転して中澤らに向き直ったつんくは、老人そのものであった。
老人――と、呼ぶよりも壊死した皮膚に覆われた人物が正しい
のかもしれない。
もはや、人の形をかろうじて留めているだけにすぎなかった。

「アイツラは、俺の資金力を目当てに近づいてきた……。結局、
俺も利用されるだけされたら、この通りや……。細胞分裂を早
める薬打ってさっさと高飛びされてもうたわ……」

「自業……、自得や……」
そう言いながらも、中澤はつんくから顔を背けた。

「ドイツチームはほんまにくわせもんや。まさか、アイツの脳を
保存してたとはな……。1回、この目で見ときたかったわ……。
あのマヌケな独裁者みたいにはならんとこう思うたのに……」

「独裁者……」
中澤は、その独裁者の顔を思い浮かべてみた。1人、独裁者とし
て思い浮かぶ人物がいたが、もうすでに半世紀前に息絶えている。

「独裁者……。飯田さんの言ってた通りれす……」
希美は、中澤の背に隠れながらつぶやいた。

「誰やねん……、その独裁者って」

「ヒトラー……。アドルフ・ヒトラー。聞いたことあるやろ」

”アドルフ・ヒトラー”歴史上の人物がどうして……。
皆の頭に、同じような疑問が浮かんだ。

「アドルフ・ヒトラー……。あの世界を破滅にまで追いやろうと
した悪魔が世紀末に甦りおった。今度はアイツも、表には出てこ
ん……。陰からゆっくりと世界を征服するつもりやったんや……。
俺と一緒や……。けど、俺と一緒の誤算もしたわ……」

「誤算……?」

「ああ……。お前らの存在や……。いずれ、立ちはだかるのは目
に見えてたからな……、ホンマはもっと早うケリをつけたかった。
けどお前らは……、なかなか姿を現そうとせん……。市井や後藤
は血の気が多いからな、すぐにやってくると思うてた」

「行くつもりだったよ。けど、裕ちゃんに止められたんだ」
後藤がポツリと、別の方向を見ながらつぶやいた。

「その内に……、こっちも色々ゴタゴタしててな……、この研究
所の施設を作ったり……、『ミュータント』の実験もあったりし
てな……。お前らのことを後手に回してたわ……。けど、それも
運命やったんかも知れんな……」
むせび笑いをしたつんくは、その場に大量の血を吐いた。

「……」
希美は、思わず顔を背けた。

「お前らが存在することによって、どうなるのかまったく予測で
きんようになってもうた……。俺の知ってるところ、お前らの力
は最強や……。ただ、国相手にどこまで粘れるかわからん……。
けどな……アイツが世界を手中に収めたら……世界は破滅や。俺
はまだ、ほんの少し人類を愛してた……。血やのうて、その可能
性をな……」
つんくはせき込んだ。顔面の腐敗した肉が、その衝撃で剥がれ落
ち、そして大量の血を吐きつづけ絶命した。

皆、その場に凍りついたように立ち尽くした。
これですべてが終わるはずだったのに、まるでつんくの今の言葉
はこれからがはじまりのような――そんな最期の言葉だった。

『ウチらは、まだ導かれてる途中なんだ』
その声に、全員が振りかえる。
建物の分厚い扉の前に、矢口と加護が佇んでいた。加護が希美の
姿を見て少し驚いていたようだったが、すぐに2人は互いの存在
を確かめ合うようににっこりと笑顔を交わした。

「破滅の連鎖を止めるため、ウチらは宇宙に導かれてる。ウチら
が休めるのは、本当の平和を手に入れてからだよ」

「その先に……、何があんねん……」

その先に何があるのか、誰にもわからない。
しかし、確定的なのは自分たちが破滅の連鎖を止めることができ
るという事である。
宇宙の大きな意思が、その大きな意思の1つとなった飯田が、きっ
と自分たちにとって、いや全人類にとって良い方向へと導いてく
れるはずである。

「――本当の楽園か……。圭ちゃんや他の子のためにも、私は行
くよ」
市井は微苦笑を浮かべると、きびすを返した。
「あ、ちょっと待ってよ。いちーちゃん」
と、後藤があわててその後を追いかける。

「のの……」
加護が目に涙を溜めて、希美の手を握った。希美はすべて理解し
ているかのような、天使のような笑みを浮かべてその手を握り返
した。
「一人ぼっちで少し 退屈な夜〜」
「?」
「私だけが寂しいの? Ah Uh」
「なに? その歌」
と、おどけて振りつきで歌う希美の姿を見て、加護にもいつもの
笑顔が戻った。
「いっぱい覚えてきたから、練習しよー」
と、希美がテヘテヘ笑いながら加護の手を引いて出ていった。

「ホンマ、あの子らは……」
「辻も加護も、いい大人になるよ……」
「矢口は、いつまでも小っちゃいまんまでいてや」
「ん?」
「いつまでも、こうやって抱きつくねん。矢口ぃ」
抱擁しようとした中澤の腕はスッと空振りした。
「矢口はもう大人なんだからね、そんなことしませんよーだ」
と、矢口は舌をべーっと出して、キャハハハハと笑いながら去っ
ていった。
「かわいい。矢口ぃ、待ってー」

残されたひとみと梨華は、苦笑を浮かべていた。
「けっきょく、いつもこんなだね」
「ん?」
と、梨華がひとみを見上げる。
(緊張感なくない?)
「あ、うん」
梨華はまた微笑んで、みんなの去った方向に視線を戻した。

「ドイツか……、遠いね……」
「……」
「梨華ちゃん……」
「?」
「その先に何があっても――、ずっと側にいてね」
「――うん。ずっと一緒にいようね」
ひとみは軽く微笑むと、梨華の肩を抱いて歩きだした。届いてく
るひとみの意識――、それは梨華にとって甘い吐息のようなもの
だった。

――明日香は、上のフロアから意識の網を広げていた。
そこへ流れてくる中澤らの意識。
目的を果たすためには、どうやらもう少し彼女たちと行動を共に
しなければならないようだった。

1週間後――。
各メディアが集めた情報が集約され、全世界に向けて放たれた。

『突然変異体襲撃事件 日本が中心的関与』

石黒は病院のベッドで、自社の新聞を読んでいた。
この記事により、日本の立場は危うくなってしまった。しかし、
この計画の中心的な人物がもうすでに死亡していることや、政
府関係者らからも直接的にこの計画に荷担したものが出なかっ
たため、連合軍から攻撃を受けるようなこともなかった。

日本はすぐさま国際連合軍に、多額の援助金と世界各地に今も
残っている『ミュータント』討伐の兵を出した。

未知なる者に対しての恐怖心も、世間の人々から薄れていった。
異能力者が突然変異を起こしてあの生物に変化するわけではな
いことが、今回の一連の取材により明らかになった。
むしろ、異能力保持者は人体実験に使われた被害者だったこと
が判明した。

平家の呼びかけにより、数日後に異能力者と交流のある人物が
全国から集まりTV出演することが決まっている。それにより、
さらに世間の偏見はなくなるだろう。
もう、異能力者が言われなき迫害を受ける必要もないのである。

「みんな……、どこに行ったんだろう……」
石黒は新聞を閉じると、その瞳を窓の外へと向けた。
スモッグに覆われていた東京の空も、今は綺麗に晴れ渡ってい
る。
東京は、ほぼ壊滅した。皮肉なことに、そうして東京は青い空
を取り戻したのである。

ドアがノックされ、夫の真矢がまだ生まれて1週間しか経って
いない娘の玲夢を抱いてやってきた。
「玲夢ちゃ〜ん、おっぱいの時間だよ〜」
夫の真矢は、生きていた。
勤務中にアパートを何者かに放火され、ずっと会社で寝泊りし
ていたらしい。彩が病院に運び込まれたあの日、新聞社から連
絡を受けすぐにやってきた。

「おっぱいとか、大きな声で言わないでよ」
「いいじゃん。産婦人科病棟なんだから」
と、真矢は椅子に座って娘をあやし始めた。

――あの日、最重要能力保持者として全国に指名手配された
11人は保田圭と飯田圭織の2名が死体となってあの研究所か
ら発見された。
しかし、残りの9名は依然として行方不明のままである。
そして、吉澤ひとみも同じく行方不明となっていた。

能力保持者と非能力保持者であるこの2人が、まだ一緒に行動
を共にしているとは石黒は考えなかった。
梨華はひとみの前から姿を消した。そして、ひとみもあれほど
の大怪我を負っていたのである。
TV出演を頼もうと久しぶりに、実家へ連絡すると両親から失
踪を告げられた。
まさかと思った石黒だったが、思い返せばやはりどこかあの2
人は永遠に行動を共にするような雰囲気があったのを思いだし、
今はただもう2人が幸せに暮らしているのを祈るしかなかった。

『ドイツで内紛勃発か』

石黒は、新聞すべてに目を通したわけではなかった。新聞の
世界情勢欄に小さく載ったその共同通信発の記事。
石黒はその記事を見落とし、娘の玲夢に母乳を与えていた。

――石黒が、10人の死亡を確認するのはそれから3日後の
事である。
――そして、12人の軌跡を石黒がたどり、彼女たちの生涯
を出版化するのは1年後のことである。

石黒の出版した伝記は世界的なベストセラーとなり、その売
上金はすべて一連の事件で失われた多くの犠牲者のために使
われることになる。

動乱の裏に潜んでいた悪の欲望と、幼い少女たちを含む12
人の孤独な戦いは世界に何かを問いかけた。

日本そして異国の地でその命を散らせた12人の異能力保持
者により、世界は大きく変わる。後に、その12人が戦った
日は、『新世紀革命』として歴史に名を残す――。

「ねぇ、ひとみちゃん……」
「……ん?」
「ののね、私たちがはじめて出会ったあの駅のホームにいたん
だって……」
「……へぇ」
「ひとみちゃんと、目が合ったって言ってたよ。あ、声もかけ
たって」
「……ハハ。覚えてない……」
「ののは、戻ってくるまでにいっぱい、いろんな世界を見てき
たんだって……。なんかね、私たちってアイドルとしてデビュー
してる世界もあったって……。ほら、あいぼんとののがこっち
に来てからずっと歌ってた……、あれがそうなんだって」
「……へぇ。……ゴフッ」
「大丈夫? ひとみちゃん」

「大丈夫……。アイドルかぁ、なんか想像つかないね……」
「モーニング娘。って言うんだって」
「ハハ……。変な名前……」
「みんないて、とても楽しそうだったって……」
「梨華ちゃん……」
「ん? なに?」
「今度生まれ変わっても、また出会おうね……」
「うん」
「平和になってるかなぁ……」

「なってるよ……。みんな、頑張ったもん……」
「今度は素直に、愛してるって言えるといいな……」
「愛してるよ、ひとみちゃん……」
(アタシも……)
「眠っちゃだめだよ……。お話しよう。そうだ、もうすぐ私の
誕生日……。16才だ……。ひとみちゃんより、ちょっとだけ
お姉さんになるね……」
「……」
「……ひとみちゃん?」
「……」
「……」
「……」
「ヤダ……。ヤダよぅ……」
「……」

「ひとみちゃん、起きて……」
「……」
「ねぇ……、1人にしないで……」
「……」
「私のワガママ……、聞いてくれるんでしょ……?」
「……」
「眠っちゃダメだってば、ひとみちゃん……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「もう……、疲れたね。おやすみ……。私も、疲れちゃった……」

梨華は血だらけの身体を引きずりながら、ひとみの持っていたサ
ブマシンガンを手にすると、目の前にあった核発射装置に向かっ
て撃ち放った。粉々になったのを確認すると、梨華はその場にゆっ
くりと倒れた。

視線だけをひとみへと向けた。
壁にもたれるようにして、眠っているひとみ。ひとみの身体を貫
通した無数の弾が、壁に穴を開けている。
梨華は涙をぬぐうと、将校や自分たちの血で濡れたその床を、最
後の力を振り絞ってひとみへと向かって這い進んだ。

(………………)
(…………)

(……)
(…………)

(……)
(……………………)
(……………………)

(…………)
(……)

「なんだ……、みんな……、待っててくれたんですね……」

(…………)

「うん……。わかった……」

ひとみのもとへ戻った梨華は、ひとみの膝の上で眠るようにその
生涯を閉じた。2人のその顔は、とても安らかだったそうである――。

吉澤ひとみ=ミュンヘルン核ミサイル発射基地内で死亡。
 石川梨華=同所で死亡。

 中澤裕子=迎賓館内ヒトラー総統室で死亡。
 矢口真里=同所で死亡。

市井紗耶香=迎賓館前で焼死。
 後藤真希=ハイレブラル空軍基地にて自殺。

 加護亜依=シュタイナー記念研究所で死亡。
  辻希美=ルート177で死亡。

福田明日香=バルト海沖で水死。
安倍なつみ=同所で水死。

  保田圭=寺田生物工学総合研究所で死亡。(日本)
 飯田圭織=同所で死亡。

ドイツ軍=壊滅。連合国軍の監視下のもと新国家として再建中。

             
              
              【導かれし娘。】 終