一台のワゴン車が、定員ギリギリの8人の娘たちを乗せてあてもなく
深夜の高速道路を北へと向けて走っていた。
「それにしても、逃亡者はなんで北に向かうんやろなぁ」
ワゴン車を運転している中澤が、ルームミラーを覗きこみながら言った。
「ちょっと、裕ちゃん。ちゃんと前見て運転してよ。危ないじゃん」
助手席の矢口が、ハラハラして声をかける。
「ええって。事故っても、紗耶香がおるもん。なー」
先ほどから上機嫌の中澤とは裏腹に、ジッと冷めた目で外を見つづける
市井が後部座席にいる。ホテルから逃亡後、中澤の傷を治してからほと
んど言葉を発していない。
一応、話は聞いているみたいだったが何を考えているのかは、その場に
いる全員が誰一人としてわからなかった。
保田も後藤も、何かを訊ねたそうにしているが、タイミングを掴めない
でいるらしい。
一方、ワゴン車の最後部座席の3人。加護は、力を使って疲れているのか、
もう30分ほど前に眠ってしまっている。
ひとみと梨華は眠っている加護を間に、やはり気まずそうな雰囲気を発し
ていた。
「り、梨華ちゃん……」
どうせ、考えていることはすべて梨華に筒抜けになっているはず。ひとみ
は思いきって声をかけてみた。
先ほどからずっとうつむき加減だった梨華が、ビクンと身体を小さく振る
わせた。
「別に……、怒ってないから……」
「……」
「アタシのためを思って、そうしてくれたのはわかってるし……」
「……グスッ」
ひとみは、あわてて梨華の方を見た。梨華が、うつむいて泣いている。
「り、梨華ちゃん」
ひとみはその姿を見て、狼狽した。前の席の保田が、なんとなく後ろに
注意を向けているのがわかりさらに狼狽した。
「なんやー、よっさん。泣かしてんのかー?」
運転席の中澤が、さも楽しげに声をかけてきた。それにより、他のメンバー
がひとみたちに注目した。
「ち、違いますよ」
ひとみが呟くようにそう言うと、後藤が身を乗りだすようにして梨華の顔を
覗きこむ。ひとみは、反射的に身をひいた。それを見た後藤は、一瞬、寂
しげな表情を浮かべたが、またいつものように何を考えているのかわから
ないような顔をして前へと向き直ってしまった。
車内に重苦しく流れる空気を一掃しようと考えたのか、中澤がカーラジオ
をつけた。
――ひとみらがホテルを脱出した数分後、つんくはデスクの下にある隠
し部屋から出てきた。その額には大粒の汗が浮かび、心なしか顔色も
悪くなっているようである。
だが、すぐにデスクの上にある受話器を手にとり、24階にあるスタッフルー
ムへと電話をした。
「――ああ、オレや。どやった? ――そうか、ああ、わかった」
受話器を戻すと、つんくは隣の部屋に転がっている屍に目をやった。
ほぼ原形をとどめていないそれらの肉片は後藤が――。
四肢がすべて吹き飛び壊れたマネキン人形のような屍体は加護が――。
程度こそ違えどその場にいたのは、すべて能力者たちである。しかし、
後藤たちに何の傷を与えることもできずに、一瞬にしてこのような無残な
姿と変わり果てた。
「あいつら、ホンマに化け物やで……」
つんくは、それらの屍体から目を背けて扉のあった方向へと歩き始めた。
そして、そこにあるはずべきの壁がなくなり、自分と同じ目線の高さに夜
の闇が広がっていることに、背筋がゾッと冷たくなった。
「後藤か……」
吹きすさぶ風に目を細めながら、つんくはエレベーターへと向かって歩い
て行った。
山の麓にあるドライブインに、ワゴン車は止まっていた。
もうすでに3時間以上も続けて運転していた中澤が、腰が痛いとの事で
休憩を申し出たのである。
眠っている加護を残して、全員は車の外へと降り立った。
山の麓のせいか夜風は思った以上に冷たく、中澤はしきりに両腕をさすっ
ていた。
「メッチャ、寒いわ。どないなってんこれ。――矢口ィ、あっためて」
と、隣を歩いていた矢口に抱きついた。
「やめろよ、アホ〜」
「ええやないの」
「ちょっと、よっすぃ助けて」
助けを求められたひとみは、軽く笑顔を向けるとそのまま梨華と一緒に
歩いて行った。
ひとみは、ほんの少し先を歩く梨華を見つめていた。何度も心の中で呼
びかけてはいるが、一向に振り向く気配はなかった。
一方、市井・後藤・保田らは車内の重苦しい雰囲気を引きずったまま、
車の側に佇んでいた。
「つんくを生かしておいたのは、まずかったね」
保田が誰にいうでもなく、ボソッとつぶやいた。
「ウチラのこと、消しに来るかな?」
後藤が夜空を見上げながら、どうでもいいような風につぶやいた。
「もともと、そのつもりだったからね」
「ふーん。でもいいや。来たら、アタシが相手するよ」
「ご……」
真希は、もう興味が無くなったと言わんばかりに、軽い足取りで近く
にある自動販売機へと駆けていった。
保田は軽いため息を吐いた。後藤の自信が何よりも頼もしかったが、
その自信がいつか”隙”にならないかと心配もしていた。
中澤・市井らと少し離れた道路側の生垣近くまで来て、梨華はようや
く足を止めた。
おのずと、後をついて歩いていたひとみの足も止まる。しかし、互いに
話す言葉が見つからないらしく、しばらく無言の間が流れた。
「あのさ、梨華ちゃん」
ひとみは、もじもじとした少年のように頭を掻きながら佇んでいる。
「……」
その声に反応して、梨華が伏せていた顔をほんの少し上げた。
上目づかいの梨華は、同性のひとみすらもドキッとさせるほどキュー
トだった。
(かわいい……)
その考えが梨華に届いたのか、梨華はハッとすると慌てて背中を向
けた。
「いいよ、そのままで」
(振り向かなくていいから、そのまま聞いてくれる?)
ひとみの心の問いかけに、背中を向けた梨華がこくりとうなずいた。
「梨華ちゃんに出逢うまでのアタシってさ、自分でも嫌になるぐらい
冷めた性格だったんだ。ホントは、みんなと仲良くしたかった。でも、
なんかそのやり方がわかんないって言うか……。見た目もほら、こ
んなじゃん。だから、誰も気軽に声なんかかけてきてくれないし……」
「……?」
梨華が、振り向く。
「自分でもわけわかんないんだけど……。梨華ちゃんの持ってるそ
の能力って、アタシの考えてる事って言葉にしなくてもわかる訳じゃ
ん。だから、見た目とか態度とかで強がってても、ぜんぜんムダで。
――あー……、アタシ、何言ってんだろ」
と、ひとみはボリボリと頭をかきむしった。
それを見た梨華が、クスッと笑った。
「笑った」
「……?」
「だって、久しぶりに会ったんだよ。笑顔で飛び込んできてくれると
思うじゃん。それなのに、梨華ちゃんさ。ずっと泣いたまま、動こう
としないんだもん。なんか、こっちが恥ずかしくなったよ。あんな、
ヤバイ場所でこーやって手なんか広げて」
梨華はホテルでの出来事を思い出して、またクスッと笑った。
「――たぶん、いつも心のどこかで本当の吉澤ひとみを出したいっ
て、願ってたのかもしれない。でも、その方法を知らなくて、いつも
他人が自分をわかってくれないって僻んでたり、自分が輪の中に
入れないのを妬んだりしてた」
寂しそうな笑顔を浮かべて喋るひとみに、梨華はマンションの前
で感じ取たひとみの孤独感を思い出していた。
「きっと、梨華ちゃんから近寄って来てくれなかったら……っていう
か、梨華ちゃんはアタシが友達を亡くして寂しそうにしてたの分かっ
て、同情してくれたんだよね」
「違う。同情じゃない。私も一緒だったから、寂しかったから……」
「そっか……」
梨華が、目を伏せたままうなずいた。
「――じゃあ、マジで気にしないでよ」
「……?」
「あんな自分には、戻りたくないんだ。ずっと、吉澤ひとみのままで
いさせてよ」
「……」
「でさ、梨華ちゃんも。石川梨華でいて。わがままでいいから、梨
華ちゃんが望む限りこれから先何があっても、吉澤ひとみは梨華
ちゃんと一緒にいる。吉澤ひとみは、これからもずっと石川梨華と
一緒にいたいって望んでるから」
「ひとみちゃん……」
梨華の目に涙が浮かび始めたのを見ると、ひとみはクスッと笑っ
て梨華へと歩みよった。
「また、友達でいてね」
ひとみは梨華の身体をそっと抱き寄せると、その腕の中で優しく
包み込んだ。ひとみの腕に抱かれた梨華は、ひとみの胸に顔を
埋めて子供のように泣きじゃくった。
張り詰めていた何かが、フッと切れたような感じだった――。
「イェ〜イ!! ポッポー〜!!」
前日にしっかりと十分に睡眠をとった加護は、大はしゃぎで窓外
を流れる景色に向かって叫んでいた。
ドライブインでほんの1時間ほど休憩をとっただけで昨日からずっ
と、車を運転している中澤は加護のその異様なテンションに怒り
も忘れてただただ疲れ果てるだけだった。
「もぅ、加護、うるさい」
助手席で眠っていた矢口が、眠そうに片目を開けて後ろの席を
覗いた。
加護本人は窓を開けて顔を出しているので、聞こえていないらし
い。しきりに、「スゴイ」「わぁ〜」と意味なき奇声を発しつづけてい
た。わざわざ大声を出して怒鳴るほどの気力もなかったので、矢
口はそのまま耳をふさいで眠る事にした。
(矢口さんはいいよ……)
(アタシなんて、すぐ真横……)
ひとみも、仮眠をとっている最中だった。しかし、加護に揺り起こさ
れて、ムリヤリ席を替わらされた挙句に、さきほどからの奇声を真
横で聞いているので眠る事もできずに悶々としていた。
それでも、昨日会ったばかりなので注意する事もできず、目を閉じ
て我慢をしていた。
「あいぼん、もういいでしょ。寒いから、窓閉めて」
ひとみは目を閉じたまま、梨華の声を聞いていた。ひょっとしたら、
加護を迷惑に思っている自分の意識を読みとって注意しているの
かもしれないとひとみは考えたが、車内には中澤が<Zetima>
の追跡を警戒して能力を無効にする小さな結界のようなものを張
り巡らせているのを思い出した。
「なぁ、梨華ちゃんも叫んでみぃ。メッチャ、おもろいで」
「ねぇ、もういいから閉めて」
(あ……、あれは梨華ちゃんが怒ってる時の声だ)
ひとみは、心の中で苦笑した。加護に見つからぬよう、寝返りをう
つフリをしてチラリと梨華の様子をうかがった。梨華は目を閉じたま
ま、加護に注意をしていた。
「梨華ちゃん、ナゾナゾしよう」
「もう、いいから」
梨華がひとみのほうに、寝返りをうってきた。2人の顔は、互いの
息遣いが感じられるほど接近した。
(ちょっと……、梨華ちゃん近すぎ)
ひとみは、もう1度寝返りをうとうとしたがそう何度も寝返りをして
いると加護に怪しまれて、眠る時間もなくなると思い、そのままの
距離で耐える事にした。
――いつの間にか、ひとみはぐっすりと眠っていたらしい。気がつくと、
車内には眠っている中澤と2人っきりになっていた。
(あれ……?)
ひとみは、眠気まなこをこすりながら辺りを見まわした。車は、湖畔の
近くに停車していて、もうすでに夕方になっており、水面にはその夕日
がまぶしいほどに反射している。
ひとみは眠っている中澤を起こさないよう、静かに車を下りた。
辺りを見渡してみたが、梨華たちの姿はどこにもなかった。
(まさか、また梨華ちゃん……)
(ううん。ずっと側にいるって言った)
(戻るはずがない)
(でも……)
不安にかられたひとみは、なおも辺りを見渡した。数メートル先に、閉
鎖されているのだろう。朽ち果てたコテージ風の建物があった。
その中に自分の方を指さしている加護の姿を見つけることができ、ひ
とみはホッと胸を撫で下ろした。
「よっすぃ、こっちやでー」
窓を開けた加護が、大声でひとみを呼び寄せる。
(よっすぃって……)
(まぁ、いいけど……)
ひとみは、コテージらしき建物へと向かって歩き始めた。
そこはやはり、コテージだった。コテージの中はその朽ち果てた外観
とは違い、わりと綺麗な状態のまま保存されていた。
どのような経緯で閉鎖され放置されているのかわからないが、ほとん
ど明日からでも営業再開できるような雰囲気であった。
ひとみが、吹き抜けのロビーを見上げていると2階から矢口が顔を覗か
せた。
「お、よっすぃ〜。よく眠れた?」
「あ、はい」
「裕ちゃんは?」
「あ、まだ寝てました……。あの」
「ん?」
「梨華ちゃんは……」
ひとみが訊ねると、矢口は意味ありげにクスクスと笑った。
「よっすぃは、ホント梨華ちゃんっ子だね」
ひとみは、「矢口さんだって」という言葉を飲み込みこんだ。
「梨華ちゃ〜ん。ダ〜リンが呼んでるよ」
矢口が、2階の奥へと向かって梨華を呼んだ。
「ちょっと、矢口さん」
慌てるひとみの顔は、ほんの少し赤くなっていた。しばらくして、奥から
白いシーツを抱えた梨華が廊下にやってきた。
吹き抜けのロビーの上と下で、矢口のからかいに顔を真っ赤にしてうつ
むく二人であった――。
夕食はここに来る途中で買い揃えた、コンビニの弁当だった。
まる1日、食事らしい食事もしていなかったので、その量は女性8人にし
ても多すぎるほどの量である。
もっともその大半を食べたのは、若い加護であり後藤であり吉澤だった。
梨華はもともと食が細いので、普通の1食分程度の量で食事を終えた。
市井は、ほとんど食事には手をつけなかった。
食事も終わり何もすることがなくなった8人は、それぞれの場所でまどろ
んでいた。誰も口にはしなかったが、ここがしばらく生活の場になる事は
理解していた。
窓際で月を照らす湖面を見つめていたひとみは、これからの生活の事を
ぼんやりと考えていた。家族のことが心配ではあったが、連絡をすれば
よけいに双方に危険度が増す。それだけは、どうしても避けたかった。
そんな事をぼんやりと考えているひとみの耳に、中澤の声が届いた。
「明日香が!」
「ちょ、裕ちゃん」
中澤の声に、全員が注目した。
市井と後藤は、出入り口近くのテーブルから。保田は読んでいる雑誌か
ら顔を上げた。ロビー中央の階段に座っていた梨華と加護も――中澤と
矢口のいる中央テーブルに注目した。
「明日香がゼティマにおったって、どういうことやねん」
ビールの酔いも程よく回っているはずだったが、中澤の口調はハッキリと
している。
「違うよ。らしい人を見たって言ったんだよ」
「当たり前や。明日香は、死んでんねんで。そうやろ、石川」
梨華は大きくうなずこうとしたが、ハッとして市井へと視線を向けた。
「まさか……、市井さん……」
”あの現場”に市井と後藤が、向かってきていたのを思い出した。
「なんや、紗耶……」
中澤も言葉をなくした。中澤は梨華から事情を聞いていた。しかし、去る
間際に”死に逝く明日香の意識を感じ取りたくないのでガードを張ってそ
の場を立ち去った”とも聞いていた。
いくら紗耶香の力でも”死んだ者”は生き返らせない。しかし、瀕死の状
態ならば、”死”のほんの1秒前ならば――。
「紗耶香……、アンタ、まさか……」
市井は何も答えずに、窓外へと視線を向けた。かわりに口を開いたのは、
後藤だった。
「いちーちゃんは、あんな福ちゃんでも……、仲間を死なせたくなかったん
だよ」
「じゃあ、吉澤の記憶を取りもどさせたんも……」
ひとみの脳裏に、ぼやけていたショッピングモールでの少女の横顔が鮮
明になった。
(やっぱり……、そうだったんだ……)
「今のゼティマには、石川以外、意識下に深く入り込める人間はいない。
ましてや消した記憶を戻す人間なんて。いるとすれば、明日香だけ」
市井の言葉に、全員の背筋に冷たいものが走った。
「何のために……。明日香はよっさんの記憶取り戻させたんや……。何
のために、ウチラのこと助けるように仕向けたんや……」
明日香の真意は、誰にもわからなかった。ただ、ずっと黙ってうつむいて
いた梨華だけには、なぜか不思議と以前のような恐怖感はなかった。
意識の最下層にあるものを知り、そして最後の言葉を聞いた梨華には、
明日香が以前のような邪悪な存在とは思えなかった。
だが、あれから数ヶ月間、そして今も息をひそめるようにして誰にもその
存在を知らしめることなく、ひそかに動いている事だけは不気味ではあっ
た。
「ねぇ、梨華ちゃん……」
隣のベッドに寝ているひとみが、小さな声で梨華に話かけた。8人はそれ
ぞれ2人1組で個室を与えられているので、そこまで小さな声で話をする
必要はなかったが、それでもひとみはなぜか小声を発しつづけた。
「アタシさ、前ほど真希ちゃん……、ごっちんのことが怖くなくなった」
梨華は、ひとみの方に身体を向けた。
「ごっちんが、公園で力を使ったのは覚えてる。そこで、子供たちが死ん
じゃったのも覚えてる。でも、ハッキリとはわからない」
「……」
ひとみの意識の最下層に封印していた光景は、凄まじい惨劇だったのを
梨華は覚えている。そして、それを1度リセットしたのも自分である。それ
を直したというのであれば、あの惨劇はひとみの中に完全に甦るはずで
あった。
それが中途半端に戻っていると言う事は、明日香があらためてひとみの
記憶に手を加えたはずである。梨華は、確信した。明日香が、以前とは
違っている事を――。
「やっぱり……、感謝しなきゃいけないのかな、アイツに……」
友達の麻美を気まぐれで殺されたひとみは、複雑な心境であった。
「でもさ……、アイツが生きてるんなら、安倍さんも罪の意識を感じる事な
いんじゃないかな……」
ひとみが何気なく口にした言葉を聞いて、梨華はハッとした。
「安倍さん……。安倍さんまだ捕まったまんまだよ」
「ゼティマとか言う建物の中?」
「違う。なんか、病院みたいなところだって」
「病院? あぁ――なんか、アイツが残していった紙に書いてあった」
「中澤さんに相談してくる」
と、言い残すと梨華はあわてて部屋を出ていった。
「ちょ、ちょっと……」
残されたひとみは、急に不安になった。梨華となつみ、2人がしばらく一
緒に暮らしていた事も明日香の残した資料に書かれてあったが、その
当時のことは明日香にも分からないのであろう。あまり詳しいことは書
かれていなかった。
もしも、そこにひとみが思っている以上になつみと梨華に強い絆があった
としたならば――、ひとみの胸に意味の分からない不安が渦巻いた。
――数分後。中澤の召集が、深夜の湖畔に響きわたった。
うっそうと生い茂った木々の中に、その要塞はあった。
要塞――、<Zetima>の所有する能力者専門の精神医療施設は、
高い外壁に覆われて外からは一見するとその建物がなんなのかが
わからないようになっていた。
広大な敷地内の中央に位置する中央病棟。その脇に位置するのが、
まるで塔のように上に細長く伸びた特別病棟。
どの病棟にも、窓らしい窓はなかった。
中央病棟のロビーに、1人の少女がいた。かわいい熊がプリントされ
たパジャマを着て、ソファに座って食い入るようにテレビを見ていた。
ブラウン管の中には少女と同じぐらいの年齢だろうか、アイドルグルー
プがクイズに挑戦していた。
「辻希美、自由時間は終わりだ」
ロビーの向こうからヘッドギアをつけた監視員が声をかけると、希美
は逆らう様子も見せずにすぐにテレビの電源を消した。
10センチ四方の小さな窓1つしかない部屋に戻った希美は、監視
カメラの真下にちょこんと座り込み、消灯時間が来るのを待っていた。
が、突然何かを思い出したかのように、希美は急に立ちあがると机
からアルミ製の筆箱をとり、素早くまた監視カメラの下へと座った。
そして、筆箱を握りしめると隣の部屋とを隔てている分厚い特別製
のコンクリート壁を3度リズムよく叩いた。
しばらくすると、隣の部屋からも同じように壁を3度叩く音が微か
ではあるが聞こえてきた。
希美は、心の中でつぶやくと天使のような微笑を浮かべた。
翌日。たった10分しかない午前の自由時間を何をして過ごそうか
と考えていた希美は、久しぶりに中庭に出ることに決めた。
普段は、そのような場所に1人で出るのはあまり好きではなかった
が、久しぶりに太陽の光を浴びてみたいというささやかな衝動にか
られて、監視員にその旨を伝えた。
中庭に出る際には装着を義務付けられているベッドギアを受け取
ると、希美はスキップしそうな勢いで廊下を走った。
もうここに1年も入院している希美は、これまで騒ぎを起こした事が
ないので医療スタッフや監視員たちもそれほど警戒はしていない。
その証拠に、他の者が中庭への外出を申し出ると、監視員たちが
数人その人物に付き添うが希美には誰もついていない。
(太陽だぁー。気持ちいい)
希美は降りそそぐ太陽を全身に浴びるように、両手を広げて辺りを
駆けめぐった。
周りには何人かの患者と監視員がいたが、模範患者である希美の
行動を咎める監視員はいなかった。
気がつくと、希美は他の人たちと少し離れた場所にまで来ていた。
特別病棟が見える場所――。希美が近づきたくない場所に、知らず
知らずの内に来てしまっていた。
(怖い……。帰ろう……)
希美は特別そこで何か怖い目にあった事はない。ただ、そこから発
せられる雰囲気が好きではなかった。
特別病棟に大きな窓はないが、それぞれの部屋に申し訳ない程度
の小窓が備え付けられていた。
そして、ときおりそこから誰かが下を覗いている事がある。虚無感の
漂う目。憎悪の目。退廃の目。悲哀の目。そんな目で見られるのが、
希美はあまり好きではなかった。
特別病棟を振り仰がないように、希美はうつむき加減でその場を立
ち去ろうとした。
「辻 希美さん」
不意に誰かに呼びとめられて、希美は立ち止まった。うつむいた視
線に、後ろから伸びてくる影が映りこむ。希美は、身を強張らせた。
近づいてくる足音が、希美のすぐ後ろで止まった。
「辻 希美さん、でしょ?」
希美は、うつむいたまま「はい」とだけ答えた。
「今日からあなたの担当になった、柴田あゆみです。よろしくね」
影がお辞儀をしたのを見て、希美はゆっくりと後ろを振りかえった。
声のトーンからして大人の女性を想像していた希美だったが、以外に
も自分とあまり歳が変わらないような人物が立っていたので驚いた。
「辻さんは、何年生? 4年生ぐらいかな?」
柴田が手にしていた希美のプロフィール用紙をめくりながら訊ねた。
「13才……です」
希美は初対面の相手からは大抵、歳相応には見られなかったが、
小学4年生に見られた事はなかったのでちょっとムッとしていた。
「え? あ、ホントだ。1987年、13才」
柴田がプロフィール用紙と、目の前にいる希美を見比べて笑った。
希美は、柴田のことを失礼な人物だと思っていたが1日の大半を
一緒に過ごす内にその印象は綺麗さっぱりなくなっていた。
監視する側とされる側なので、必要以上に親しくなる事はなかったが、
それでもこれまでの監視員たちからは想像もできないほど自然に接
することができた。
ときおり、意味もなく中庭へと連れ出されたりしたが、希美は特に気
にしていなかった。それよりも、むしろ喜んでいた。こっそりと柴田の
目を盗んで、希美の姉変わりの人物がいる場所へ行け、窓越しでは
あるが、ほんの少し話す時間ができたからである。
【午後8時49分】
この日も、希美はロビーでテレビを食い入るように見つめていた。さき
ほどまで、ロビーの外にいたはずの柴田の姿がなくなっていることに
気づいたが、希美の場合は四六時中監視員が付き添っていることも
なかったので余り気にもとめていなかった。
しばらくすると、数年ぶりに建物の中に警報ベルが鳴り響いた。
マニュアル通り、建物の中のすべての電気が消され、あちこちでシャ
ッターの下りる音が聞こえてきた。
希美は何が起こったのか分からずに、耳をふさいでその場に塞ぎ込
んで震えていた。
その間にも、警報ベルは狂ったように鳴り響いている。ガラス張りの
ロビーの向こう側を監視員たちが、特別病棟のある方向へ走り去っ
ていく。
何かトラブルが起きたのは、希美にもわかった。だが、そこで何が起
こっているのかは知る由もなく、ただただ怯えて震え続けていた。
1人怯える希美がいるロビーに、長身の女性が駆け込んできた。
希美にはそのシルエットだけで、誰であるかがすぐに分かった。
「飯田さん!」
希美は先ほどまでの震えも忘れて、飯田圭織の元へと走った。
飯田の胸に飛び込んだ希美が顔を上げる。
「逃げるんれすか?」
飯田は、力強くうなずくと希美の手を引いて廊下へと飛びだした。
時間は遡り――、病院内に警報ベルが鳴り響く30分前。
【午後8時19分】
中澤・加護・ひとみ・梨華が、市井に教えられた<Zetima>の所有す
る病院の近くに辿りついたのはもうすでに午後8時を過ぎていた。
明日香の狙いが、安部なつみにあると分かってすぐにコテージを出発
したのだが、病院からは遠く離れていてしまったために予想以上に時
間がかかってしまった。
おまけに侵入者を拒むかのように入り組んだ山道が、ロスタイムに大
きく関係していた。
「ホテルのあれからまる2日や。ひょっとしたら、もう手遅れかも知れ
んな」
中澤がハンドルを握りながら、ポツリとつぶやいた。
「病院内には、能力を押さえる装置があるって市井さんが言ってまし
たから。さすがに、手は出せないでいると思います」
梨華が助手席で、地図から顔を上げて力強く呟いた。
「誰かさんみたいに、外からド派手なコトするかも知れんで。なぁ」
と、ルームミラー越しにひとみを見る。
「もう、やめてくださいよ」
「けど、もしも明日香がまだ到着してなかったら、よっさんの真似させ
てもらうで。――加護、そん時は頼むな」
「うっし」
と、加護は力強くガッツポーズをしてみせた。
【午後8時38分】
暗い塔の中は、延々と螺旋階段が続いていた。侵入者を防ぐ用途で
もあり、脱走者を防ぐ用途でもある。
その各ポイントに、通行者をチェックするためにヘッドギアをつけた監
視員がいる。たとえ職員であろうとも、通行の際には念入りなチェック
を義務付けられていた。
医薬品の入った大きなダンボールを抱えながら、柴田はその螺旋階
段を上がった。5回目のチェックが終わり、ようやく入院患者らのいる
フロアに辿り着いた頃には額といわず背中にも大量の汗をかいていた。
フロアはひっそりと静まり返っていた。
ここにいる数人の患者たちは皆、何らかの心の傷を負い自我をコント
ロールできなくなった者たちが収容されている。
そのほとんどは、”洗脳”という処置で強制的に<Zetima>へと送り
返される。
安倍なつみ――。彼女もまた、ここに収容されていた。だが、彼女の
精神は完全には崩壊されていないらしく、あまたのESP能力者たち
が彼女の意識をのっとろうと試みたがすべて失敗に終わった。
自我がある限り、力の弱いESP能力者が能力者をコントロールするの
は難しい。ましてや安倍のような強い力を持った能力者に対しては、ほ
ぼ不可能であった。
”洗脳”ができない能力者は、いずれそこで完全に発狂をするのを待つ
か、それともいずれ自我を完全に取り戻し<Zetima>の脅威になり得
るものであると判断されれば――消されてしまう。
柴田は乱れた呼吸を治すと、ゆっくりと目的の病室へと歩いて行った。
【午後8時40分】
中澤の運転するワゴン車は、やっと目的地に到着した。正規の地図
には掲載されておらず、市井が思い出しながら書いた手書きの地図
だけが頼りだったが、なんとか無事に辿り着くことができた。
「薄気味悪い場所やな……」
車から下りた中澤が、辺りを見渡す。
梨華は意識の触手を伸ばして、明日香の意識がないかを探った。し
かし、病院内にはそれらしい意識はなかった。もっとも、病院内のそ
のほとんどが例の装置のある部屋なので、完全に明日香の意識が
ないとは言いきれなかった。
「安倍さんのいる場所も、わかりません……」
梨華の声が、少し曇っていた。
「大丈夫。絶対、見つかるって」
ネガティブ思考に陥りがちな梨華を元気づけようと、ひとみはその肩
を軽くポンと叩いた。
すると、それに驚いた梨華が小さな悲鳴を上げた。さらにそれに驚い
た加護が大きな悲鳴をあげ、さらにそれに驚いた森に住む鳥たちが
狂ったように鳴いた。
その場は、ちょっとしたパニック状態になった。
【午後8時41分】
なつみは夢の中にいた。
そこは現実にあるようなコンクリートで囲まれた殺風景な部屋では
なく、北海道の自分の部屋の中だった。
何をしていたわけでもない。ただ、その部屋の中でぼんやりと座って
いた。なつみの視線の先には、焼きただれた焼死体が転がっている。
なつみはそれに怯えることもなく、焦点の定まらない眼で焼死体を眺
めていた。
しばらくすると、誰かが部屋をノックした。
「誰……? ママ?」
なつみは、視線をかえずに抑揚のない声をだした。
「梨華ちゃんかい?」
なつみはようやく、視線をドアへと向けた。だが、ドアは一向に開こう
としないし、ドアの向こうにいるはずの人物も入ってこようとはしなかっ
た。
「ママは、なんでなっちのこと見捨てたの?」
『見捨ててないわよ』
「サキヤマの叔母さんに預けたべさ。なっち、ずっとママのこと待って
たのに」
『なつみが、いけないのよ』
「なして」
『だってあなた、幼稚園を丸焼きにしたんですもの』
「……そんなことしない」
『それに、ママは悪くないわ。森さんが、連れてったのよ』
「迎えに来てくれたら、よっかったべ!!」
『やめて!! ごめんなさい、なつみ。ママが悪かったわ!! だから、怒ら
ないで』
「……ママは、いっつも謝ってたね。家族みんな、なっちのこと腫れ物
を触るみたいに……。ホントはずっと、サキヤマの叔母さんの所で暮ら
してたかったよ」
なつみは、視線を焼死体に戻した。
「梨華ちゃんも、なっちを捨てた」
『そんなことしてませんよ』
「ずっと一緒にいてくれるって言ったのに」
『一緒にいますよ』
「もう、なっちは騙されない」
『悲しいなぁ、そんなこと言われると』
「……梨華ちゃんは、いっつもウソばっか。ホントは、なっちといて疲
れてたんでしょ」
『フフ。ばれました? だって、安倍さん人殺しじゃないですか』
「!!」
目の前に転がっている焼けただれた焼死体が、むっくりと起き上がっ
た。驚愕したなつみは、そのまま後ずさりする。
焼死体は、なつみを指さして笑った。
『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』
【午後8時44分】
扉と塀の向こう側に何があるのか、外側にいるひとみたちにはまっ
たくわからなかった。市井の書いた地図には、建物の見取り図は
書かれていない。
「とりあえず、中に入ってみますか?」
ひとみは、隣にいる中澤に向かって話しかけた。
「カメラがあるなぁ。あそことあそこに」
「――この壁はいくらなんでも、乗り越えられませんね……」
「一気に突破するか……」
中澤が、チラリと横にいる加護に視線を向けた。加護は、小さな
声で「うっし」と、ガッツポーズをした。
それを制したのは、先ほどから目を閉じて意識を集中させていた
梨華である。
「待って下さい」
「なんや、石川。他にエエ方法でも浮かんだんか?」
「向こう……。あの建物から、ほんの少し流れてきます」
「安倍のか?」
梨華は、小さくうなずいた。
中澤が、軽く舌打ちをして特別病棟のある方向を見上げた。
「よし。もうこうなったら、強行突破や。加護、ここにでっかい穴頼
むで。一気に突っ走って救出や」
「うっし」
「よっさんは、危ないからここで待っとり」
「なんでですかっ。アタシも行きます」
「どんなんが中に潜んでんのか、わからんのやで。危ないから、
ここで待っとりって」
「嫌です。行きます」
「……わかった。しゃーないわ。ほな、よっさんは石川のボディ
ガードや」
「はいっ」
と、ひとみは笑顔で返事をした。
【午後8時46分】
なつみの焦点が、ぼんやりと部屋の天井に戻った。
「夢……」
しばらくそうして天井を見つめていると、ドアの方に人の気配が
していることに気がついた。なつみの身体は拘束着によって動
かない。なので、すばやく視線だけをドアへと向けた。
「誰だべ……」
誰かが、ドアの前に立っていた。しかし、薄暗く闇夜に慣れてい
ない、なつみの目にはただの影でしかなかった。
「あなたを助けにきました」
シルエットは低い小さな声で、つぶやくように言った。
「助ける……?」
「そうです」
「ここから、助けてくれるの?」
「もう何も悩む必要は、ありません」
「……」
「もうすぐ、自由になれます」
「……誰だべ」
遠くで爆発音のようなものが聞こえたが、なつみはそのシルエッ
トから目を離さなかった。
【午後8時47分】
加護は病院の中庭を走りぬけながらも、ほんの少しショックを受けて
いた。
自分の予想ではもう少し大きな穴を塀にあけるつもりだったのだが、
人が1人やっと通りぬけるぐらいの小さな穴しか空けることができな
かったのだ。
(後藤さんやったら、もっと大きい穴開けれたのになぁ……)
「そんなことないよ、あいぼん」
梨華が後ろを振りかえって、ニッコリと微笑みかけた。
「加護! 来たで!」
加護が中澤の声に気づきそちらに視線を向けると、中央病棟から屈
強な男たちが手に銃器のようなものを構えて飛び出してきていた。
「殺したらアカンで」
「加護、地面を狙って」
加護はひとみの指示通り、駆けてくる男たちの手前数メートルの地
面を吹き飛ばす。爆風により、男たちの体が宙に舞った。
「スゴイ、あいぼん。ぴったりじゃない」
梨華の励ましは、それまで落ち込んでいた加護を元気づけた。
「コントロールは誰にも負けへんねん」
梨華は、加護が何を言われれば喜ぶのかを熟知していた。人が飛ば
される様を見て決して楽しいわけではなかったが、このような状況な
のだから仕方がないと沸きあがる罪悪感を押さえていた。
「加護、次はあの建物や。でっかいの、頼むで」
「アイアイサー」
調子を取りもどした加護が、特別病棟に向けて力を放つ。――が、
壁はビクともせず、その外側の壁を削ったぐらいにしかならなかった。
「あいぼん、そのまま」
梨華の言葉は聞こえていたが、加護は返事をすることなく力を放ち
続けた。
【午後8時48分】
なつみの拘束着が、シルエットの手によって脱がされた。なつみは
身体の自由が戻るとすぐさま壁際へと逃げ、近くにあったベッドシー
ツを頭から被って震えた。
「な、なんでここにいるべ……」
シルエットは、立ち尽くしていた。小さな窓からさし込む月明かりが、シ
ルエットの口元を照らす。
数度の衝撃音の後、能力を制御する装置が機能しなくなったのを、シル
エットは敏感に感じとった。
月明かりに照らされたその口元が、ゆっくりと歪む――。
【午後8時50分】
飯田と希美のほかにも、何人かの脱走者が中庭を駆けぬけて行った。
遅れてはいけないと焦った希美だが、普段走りなれてないせいもあり気
持ちだけが先行し、足の方が追いつかない。
――飯田に引きずられるようにして、その場に転んだ。
飯田がハッとして振りかえる。転んだ希美も心配だったが、中央病棟か
ら次々と出てくる監視員が銃器を構えて発砲しようとしている。
「飯田さん、にげてください」
飯田は大きく頭をふると、転んで泣きそうになっている希美を抱え上げた。
それほど自分に腕力があるとは思っていなかった飯田だが、いざとなると
希美を抱えあげることができるのだと知って自分自身で驚いていた。
だが、さすがに希美を抱えたまま走るのは無理らしく、その場に呆然と立
ち尽くしてしまった。
飯田の目には、銃口から立ちあがった煙が見えていた。
だが、いくら待っても弾が自分を貫かない。
――風。
希美は、自分の後ろに風のようなものが舞っている感じがした。飯田に担
がれたまま、ゆっくりと後ろを振りかえった。
”風”のようなものに捕らえられた数発の弾丸が、その中でピタリと止まっ
ている。
飯田も希美も、その光景に状況も忘れて見入っていた。
「ぐっどたいみんぐ」
少女の間延びした楽しげな声が聞こえたのと同時に、弾は粉々に弾け飛
び、監視員たちも地面ごと吹き飛ばされた。
【午後8時50分】
加護は、数メートル先にいる長身の女性と担がれている少女が何となく
気になって足を止めた。フッと長身の女性の視線を追うと、その先で銃を
構えた男たちが発砲したのを知った。
咄嗟に力を放った。
弾は粉々になり、男たちは吹き飛んだ。
タイミング、コントロール、威力ともども素晴らしい仕上がりだったので、誰
かに誉めてもらおうと辺りを見まわしたが、もうすでに中澤やひとみや梨華
は破壊された特別病棟の方に向かって走っていた。
「なんや……。タイミング悪いなぁ」
と、つまらなさそうに呟いた。
何が起こったのかわからないといった感じで、長身の女性と少女が加護
に注目していたが特に何も期待していなかった。
その向こうにある感情は、すべて未知なる力への恐怖だけであるのは、
幼いながらも加護は熟知している。
フッと目を伏せて走り出そうとした加護の背に、舌足らずな少女の声が届
いた。
「助けてくれて、ありがとー」
加護が「え?」という感じで振りかえるのとほぼ同時に、特別病棟の最上
階が炎を巻き上げながら吹き飛んだ。
その炎はまるで、天に向かって上昇する龍のようである――。
【午後8時51分】
降り注ぐ瓦礫から逃げるようにして、中澤らはまた中庭へと戻った。
「なんやねん! なんで、火、吹くねんな!」
「中澤さん、危ないからもうちょっと下がって下さい!」
興奮して特別病棟を見上げる中澤を、ひとみはムリヤリ中庭の端へと引
きずった。
「梨華ちゃん、どうなってんの!?」
ひとみが振りかえると、梨華はもうすでに意識の網を広げているようだっ
た。そこへ、今までどこに行っていたのか――加護が駆け寄ってきた。
「加護、今までどこ行ってたの」
「ハァハァ、あのな」
「なに?」
加護が、数メートル離れた先を指さす。その先に2人の――飯田と希美が、
こちらを覗うようにして立っていた。
「逃げたほうがエエって」
「は? だって、安倍さんはすぐそこにいんだよ」
意識の網を広げていた梨華が、閉じていた目を急に開いて言った。
「違う。安倍さんじゃない!!」
その場にいる全員が、梨華に注目した。梨華は震える指で唇を押さえる。
「石川、どういうことや」
「別人になりすましてた……。別人になりすまして、私たちが来るのを待っ
てた……」
「明日香か……?」
梨華は、ずっと先の特別病棟を凝視していた。炎の明かりが、着実に下へ
と下りてきている。
「加護、逃げたほうがエエってどういうことや」
「あの人たちが……」
中澤は、飯田と希美に気づいた。2人は身を寄せ合うようにして、特別病棟
の炎に怯えていた。
「安倍さん……。安倍さんはもう意識を操られてます」
梨華のその言葉に、中澤は早急に決断をせがまれた。パニックになって思
考も正常ではなかったが、本能が逃げるように訴えている。
――逃げる。その行為が自分にはいつまで付きまとうのか、フッとそんな皮
肉が脳裏をかすめて中澤は微苦笑してしまった。
【午後8時53分】
福田明日香は、胸元にある”柴田”と書かれたピンバッヂを引き千切った。
数分前まで捉えていた梨華の意識は、突然そのレーダーの範囲から消えた。
範囲外に出たのではなく、きっと中澤の能力で自分の能力が無効化された
のだろうと――明日香は考えていた。
轟々と燃え盛る炎の輪の中から、明日香は先ほど引き千切ったピンバッヂを
投げ捨てた。何の音もなく、ピンバッヂは消滅した。
その様子を見た明日香は、炎の中で微笑を浮かべた。
窓の外に目を向けると、湖のほとりにいる後藤と保田が戯れていた。
姉妹――のような2人が戯れている。その光景も、街では至極当然の光
景であるが、このような閉ざされた場所でしか戯れることのできない自
分たちのような能力者が市井にはとても辛く感じた。
『人の手に溢れるほどの、多くのものを望んじゃいけないよ』
光子が言ったいつかの言葉が、市井の耳にリフレインした。
『人には限界というものがある。だけど人はその限界を超えるほど、欲
望も持ち合わせている。欲望は悪い事じゃない。でもね、自分の手から
溢れるほどの欲望は、あまり褒め称えられるものじゃないよ』
その時話を聞いていた市井は、正直なところ光子の言葉の意味を理解
できていなかった。
その時隣にいた中澤は、きっと理解できていたのだろう。だからこそ、
つんくが全権を握った<Zetima>から離れていった――。そして、
その言葉の意味を理解できなかった自分は取り返しのつかない計画に荷
担してしまったことを悔いた。
「アタシは……、ただ……、あの頃のように暮らしたかっただけ……」
市井は自分の両手を見つめた。
「ねぇ、圭ちゃん」
「ん?」
「いちーちゃん……、どうしちゃったのかな……」
先ほどまで湖畔の桟橋に繋がれていたボートに飛び乗りはしゃいでいた
後藤が急にしんみりとした口調になったので、保田はそれまで浮かべて
いた笑顔を消さぜるを得なかった。
「なんか、ずっと1人で悩んでる……」
保田は後藤と同じように、コテージへと視線を向けた。2階の自分たちの
部屋の窓辺で、市井は先ほどからずっと佇んでいる。
「昔は、あんな風じゃなかった……」
保田が湖畔へと視線を向けながら、寂しそうに呟いた。
「あんな風って? いちーちゃんの昔のこと、教えて。圭ちゃん、知ってる
んでしょ。ねぇ、教えてよ。なんでもいいから、いちーちゃんのこと教えて」
後藤が興奮して立ちあがると、船が大きく揺らいだ。
「こら、暴れるんじゃないよ。沈んじゃうだろ」
と、保田は微苦笑を浮かべながら後藤をなだめた。
「紗耶香と初めて出会ったのは、今からもう10年ぐらい前かな。ちょうど、
同じ頃に施設に入所して」
保田は湖畔を見つめ、辺りが静寂になったのを感じると口を開いた。
あまり騒いだ状態で話す話でもなかったからである。
「森さんの作った、ゼティマだよね」
後藤にもその真意が伝わっているらしく、おとなしくコテージ見つめたま
ま静かなトーンで語り返してきた。
「長野のすっごい山の奥にあって、つれていかれた時すっごい怖かった
のを覚えてる」
後藤は、黙って話を聞いている。
「みんな力を持ってた。そして、やっぱりみんな同じように心に傷を負っ
ていた。私はこの透視のお陰でマスコミにいい様におもちゃにされて、
ひどい人間不信になってたし」
「いちーちゃんは?」
「紗耶香はその力のせいで、新興宗教に拉致されて利用されていたら
しい。でも、詳しい事は聞かなかった。みんな、誰もが同じように傷つい
てたからね。それまで何があったのか聞かないのが、そこでの唯一の
暗黙のルール」
「……そっか」
「たぶん、よほど怖い目に遭ったんだろうね。夜になると、毎晩のように
泣き叫んでた」
「……」
「同室だった私は、何をどうしていいのかわからずにただオロオロしてた
だけだったなぁ。紗耶香の夜泣きを沈めるのが、当時みんなのお姉さん
がわりだった裕ちゃん」
と、保田は微苦笑を浮かべながら、遠くを見つめている。
「10年前ってことは……。今のいちーちゃんと同い年か」
視線の先から市井は姿を消したが、後藤はいつまでもコテージを見つめ
続けた。
「森のおばあちゃんの力で、その場所一帯は能力が一切使えない場所
でね。最初は脅えてた私もだんだんと慣れてきて、他の子たちとも遊べ
るようになった。ほら、自分が力を持ってるって事も忘れちゃうし、今
まで同年代の子たちと遊ぶこともなかったし、自分も普通の人間だって
思えるようになったの。たぶん、みんなそうだったんじゃないかな」
「……」
「でも、紗耶香だけは違ってた。もともと、力が強かったからね。森のお
ばあちゃんの力で押さえられてても、ほんの少し使えてたのかも。だから、
また自分だけがここから連れ去られるんじゃないかって、いつもビクビク
してていつもすぐに泣いてた」
「……」
「そしたら、裕ちゃんがすぐに飛んできてね。誰が紗耶香のこと泣かした
んやーって」
保田が昔を懐かしみ、笑った。
「おせっかいそうだもんね、裕ちゃんって」
後藤は、すねたように視線をコテージから背けた。
その様子を肌で感じた保田は、やはり湖畔を見つめ続けたまま苦笑を
浮かべた。
「紗耶香はホント、裕ちゃんにベッタリだったよ。裕ちゃんもそんな紗耶
香を心配して、積極的に紗耶香をみんなの輪の中にいれようとした。まぁ、
ちょっと強引だったけどね」
と、保田は笑った。
「そのお陰で、紗耶香もじょじょにみんなと打ち解けれるようになって。
紗耶香の笑顔も、多くなった。もっとも、泣き虫だったのは元もとの性格
もあったみたい。男の子にからかわれると、すぐに泣いてたから。でも、
前のようにビクビクするような事はなかった」
「ふーん……」
「ふーんって何よ。後藤が聞きたいっていったんでしょ?」
保田には後藤がすねる原因はわかっていた。昔話の中に出てくる中澤
と市井の関係が、気になって仕方がないのである。
後藤は、紗耶香にパートナー以上の関係を抱いている。それが恋なのか
憧れなのか、それとも他の何かなのかはわからないが、昔話に出てくる
2人の関係に嫉妬して、そして現在の2人の関係に不安を抱いているの
である。それぐらいは、”精神感応”の能力のない保田にも十分過ぎるぐ
らい伝わってきていた。
それがわかっているからこそ、目の前にいる後藤がかわいくて仕方が
なかった。思い悩む後輩をあたたかく見守る保田は、笑みが自然とこぼ
れていた。
――夕食の時間を過ぎても、中澤からの連絡がなかった。
(裕ちゃん、大丈夫かな……)
今のところ、中澤と一緒にいる自分という未来は見えていない矢口は、
不安でたまらなかった。もちろん、同行しているひとみ・梨華・加護の心
配も忘れていない。
最近、矢口は自分の能力が衰えてきているのを実感していた。未来を
見える力は以前よりUPしているのだろうが、そのかわりに見える映像
がひどく不鮮明になっている。
そして、何よりも矢口が不安に思えるのは、その”頻度”である。
以前ならば、自分たちの未来に身の危険が差しかかろうとしていたら、
それをあらかじめ察知して未来を見えることができた。
確定した未来には何ら影響力は与えないのだが、それでもそうすること
によってあらかじめ予防を張れる事はできたのである。
それが不鮮明な映像やその頻度が落ちたりで、できなくなってきていた。
(未来が見えなくなるって……)
自分の目を通した未来しか見えない矢口が、未来を見ることができなく
なるのは――恐ろしいことではあるが、矢口はこの能力を身につけた
頃にもうすでにその覚悟はしていた。
だが中澤や他のメンバーと知り合えた今、できることなら”老衰死”とい
う自然死ができるほどまで未来を見続けていたかった。
「やぐっつぁんてさ」
ぼんやりとソファで考え事をしていた矢口は、クッションを胸に抱えたま
ま声のしたほうに顔を向ける。
後藤が窓の外を見ながら、ブラブラとこちらに歩いてきていた。
「やぐっつぁんてさ」
矢口のはす向かいのテーブルに腰かけた後藤は、相変わらず窓の外
を見たままもう1度声をかけてきた。
「ん?」
矢口は、市井・保田・後藤が苦手であった。<Zetima>という企業で
梨華のようにある程度の時間を共にすることもなかったし、中澤のよう
に過去に知りあいだったわけでもなく、ほとんど彼女たちの素性という
ものを知らない。
発せられる雰囲気も、修羅場を潜り抜けてきた者特有のオーラを放っ
ている。加護のような、無邪気さはない。それが、矢口が苦手とする
点でもあった。
「裕ちゃんと、どういう関係?」
「は……?」
矢口には後藤の質問の意図がまったくわからなかった。これまで、会
話らしい会話はあまりした事がない。それがいきなり、中澤との関係を
切り出してきたのである。矢口は少し面食らった――。
「その……、友達とか、恋人とか」
「恋人!?」
矢口の声が裏返った。
「恋人なの?」
それまで外を見ていた後藤が、急に矢口を振りかえった。
「ち、違うよ。なんで、矢口と裕ちゃんが。女同士だよ」
「そっ……」
「なんだろう? 裕ちゃんとは、その……」
矢口はあらためて自分と中澤との関係を、考えてみた。色々な言葉が
浮かんだが、どれも当てはまりそうにない。
「友達でもあるし……、姉妹みたいでもあるし……、仲間でもあるし」
「で、けっきょく何?」
「何って言われても、そんなのいきなり答えられないよ。じゃあ聞くけど
さ、ごっつぁんと紗耶香との関係はどーなのさ」
「アタシといちーちゃん?」
「なんか、いっつも一緒にいるじゃん」
「アタシといちーちゃんは……」
今度は、後藤が考える番がきた。後藤もまた、それまであまり深く考え
たことはない。ただ、いつも側にいたい相手ではあったが、その敬称を
見つける事はできなかった。
「ほら。ごっつぁんも一緒じゃん」
「……」
「大切な人であるのは間違いないけど、どんな関係って聞かれるとすぐ
には答えられないよ」
「大切な人?」
「そう。矢口にとっては、とても大切な人」
「ふーん」
「ふーんって、意味がわかんないよ。けっきょく、何が言いたいのさ。あ、
ちょっと待ってよ。ちょっと」
後藤は矢口の質問にはまったく答えずに、フラフラといつものようにぼん
やりと歩いて行ってしまった。
「なんなんだよ、もう」
クッションを抱えたまま矢口は、頬を膨らませた――。
市井がホテルを脱出してからずっと考えていたこと、それは”復讐”であっ
た。光子やそれらの意見に賛同していた者を裏切ったつんくへの復讐、
それ以外になかった。
だが、昼間に光子の言葉を思い出したことにより、何かが変わろうとして
いる――。でも、死んで行った仲間のことを考えると、やはりつんくへの
復讐を考えてしまうのだった。
どれだけ多くのものが傷つき、そして死んでいったか――。
市井のセクションからも、数人の死亡者が出た。
他のセクションに移った前<Zetima>からの古参メンバーも、そのほと
んどが”ユートピア”のために命をなくした。
その者たちのことを考えると、このまま自分だけが生き残り、そして自分
たちを利用したつんくが生き続ける事はどうしても許しがたい行為だった。
失った命が戻らないことは、市井にもわかっている。
だが、沸きあがってくる”復讐”という名の欲望を押さえきれずにいた。
――ドアをノックして、後藤が入ってくる。
市井は、窓に映る後藤を見つめているだけで振りかえろうとはしなかった。
後藤は手にしていたコンビニの弁当を、テーブルの上に置いた。
「食べないと、身体、こわすよ……」
「ありがと」
「ねぇ、いちーちゃん」
「ん?」
窓ガラスを通じて、市井と後藤の目が合う。
「いちーちゃんは、後藤の大切な人だから」
と、後藤はうつむき加減でポツリとつぶやいた
「……?」
「だから、そのー、後藤を置いてかないでね。後藤は、いつも……」
後藤の声の調子が変わったので、市井は振りかえった。
後藤は泣いていた。声を上げることもなく、市井の姿を見つめてポロポロ
と涙だけをこぼしていた。
市井にとっても、あまり感情を表に出さない後藤のそんな姿を見るのは
初めてだった。
「後藤……」
「ハハ。あ、なんだ? なんで、泣いてんだろー」
「……」
「いちーちゃんのせいだからね」
と、後藤が鼻をすすりながら、イーッという顔をして見せた。
「なんで、アタシのせいなんだよ」
市井は笑顔でそれに応えると、後藤を気遣い背を向けてベッドへと腰か
けた。
「だって、いちーちゃん、最近変じゃん」
「色々と考えたい事だってあるよ」
「なに考えてんの?」
「いろいろだよ」
市井はフッと笑って、ベッドの上に寝転んだ。
「後藤には言えないこと?」
寝転んでいる市井は、視線だけを「ん?」という感じで後藤に向けてみた。
後藤は、涙をぬぐっていた。
「裕ちゃんになら、言えるんだ……」
「ハハ。なんだよ、それ」
「だって、いちーちゃんは、裕ちゃんが好きなんでしょ」
「は? 後藤、何言ってんの?」
「……裕ちゃんを助けなかったら、ウチらあのまま残れてたんだよ」
「……」
「ずっと一緒だったのに……。裕ちゃんなんか」
「後藤。もう、止めな――」
市井は、ゆっくりと上半身を起こした。
「だってさ、裕ちゃんが来てから」
「後藤」
市井の小さいが強い口調に、後藤の止まっていた涙がまた溢れそうに
なってきた。
「何があったのか知らないけど、裕ちゃんの悪口に付き合う気分じゃな
いんだ」
「……すぐ、そうやって庇う」
「裕ちゃんがいてもいなくても、つんくはウチらが邪魔だったの。話、ちゃ
んと聞いてた?」
「もう、いいよっ。バカッ」
後藤の感情の起伏により、力が無意識に放たれた。壁にかけかけてあ
る絵が弾け飛び、壁に小さな穴をあけた。
「ちょっと、後藤っ」
市井の制止も聞かずに、後藤はそのまま部屋を走り去っていった。
「なんだよ、ったく……」
軽いため息を吐きながら、吹き飛んだ絵画を拾いに行く。だが、やはり
というか絵画は額縁ごと粉々になっていた。
壁にも小さな穴が空き、隣のひとみらの部屋が見えるようになってしまっ
た。
「あの、バカ……」
そう呟いた市井だが、顔は微かに笑っていた。感情の起伏により、無
意識に放たれる自分の力を恐れていつも感情を押さえていた後藤が、
理由は何であれ久しぶりに怒ったのが市井にはなぜか嬉しかった。
だが、次の瞬間にはやはり後藤の住む世界はここではないのを知り、
複雑な気分にもなった。
『自分を恐れない場所こそが、真の楽園だよ』
市井の耳に、また光子の言葉がリフレインした――。
コテージを飛び出した後藤だったが、どこにも行くあてがなかった。
周りには民家どころか街灯もなく、ただ月や星の明かりだけが広がる夜
の世界である。
「つまんないよ、こんなの」
後藤は昼間の桟橋に腰かけて、湖面に浮かぶ月を眺めていた。
魚でも跳ねたのであろう小さな水飛沫が跳ねあがり、月が揺らめいた。
わけもなく叫ぶような感じで、後藤は湖面に力を放つ。
竜巻のような水飛沫が巻きあがり、月はその姿を消した。
巻きあがった水飛沫は、数十秒かけて湖へと豪雨のように降り注ぐ。
その声はもう随分前から名前を呼んでいたのだろうが、水面に叩きつけ
られる水音があまりにも大きかったため、それが静まるまで後藤は気づ
かなかった。
振りかえると、そこに矢口が立っていた。
「……なに? なんか、用?」
と、後藤の声は冷たい。
「別に、用ってほどじゃないんだけど。涙流しながら、目の前走って行か
れたら、気になるじゃん?」
1階のロビーに矢口がソファに座っていたのを、後藤は思い出した。
「……あぁ、まだいたんだ」
「いたよ。だって、みんなのこと心配だもん」
矢口は後藤から少し離れた場所に、しゃがみ込んだ。
「用がないんなら、向こう行って。なんか、今、ムカついてっから。ムカつ
いてたら、勝手に力が出るから向こう行ってて」
「こっわ〜」
と、矢口は湖面を見ながらニコニコと笑った。
「? 意味がわかんないの?」
「わかるよ」
「だったら――」
「南の島なんかいいね」
矢口の唐突な言葉に、後藤は呆気にとられた。
「小さな無人島みたいなとこにさ、みんなで一緒に家を建てて、みん
なで一緒に笑って暮らせればいいね」
「――別に、南の島じゃなくてもいいじゃん」
「楽園といえば、南の島っぽくない」
「楽園……」
後藤はその言葉を聞くと、目を伏せるようにして矢口から視線をそら
した。
「やっぐっつぁんなら、どこででも暮らせるじゃん」
「……ん?」
「やぐっつぁんや、他のみんなは、狙われることさえなかったら、どこに
だって住むことができる。でも、アタシは違うよ……」
「……」
「自分では抑えきれない」
「うん……。知ってるよ。矢口も、見たから。公園の」
「アタシの力は、壊すことにしか使えない。今までもずっと。んでもって……、
これからも」
矢口は、梨華の言葉を思い出した。まだ<Zetima>内の一室に軟禁
状態だった頃、矢口は正直に後藤が苦手であることを梨華に告げた。
自分と同じように追跡者だった後藤たちを梨華も好ましく思っていない
だろうと考えていたが、梨華は矢口の気持ちを聞かされると目を伏せて、
まるで庇うようにこう言った。
『ごっちんも、自分の力が怖いんです……』
その時はただ、梨華に裏切られたような気がして否定したような覚え
のある矢口だが、こうして実際に後藤の声を聞くと梨華の言っている
ことが正しいことだと思えた。
「ねぇ、ごっつぁんはさ」
矢口の問いかけに、後藤がやっと振り向いた。
「ごっつぁんの力ってさ、壊すためにあるんじゃないと思うよ」
「壊すためだよ」
「違うよ。守るためだよ」
「まもる……ため?」
「そ。大切な人を守るためにあるんだよ。矢口のなんかさ、ほんと笑っちゃ
うぐらい役に立たないんだから」
と、矢口はキャハハと笑ってみせた。
「大切な人を……、守るため……」
後藤は矢口の言葉を、何度も復唱した。復唱するたびに市井の顔が浮か
び、そして自然とさっきまでのイライラした気持ちが薄れていった。
後藤にとって、市井はとても大切な人であるのは間違いない。
その能力の前では、後藤はただの少女でいられる。
それが、後藤には何よりも嬉しかった。
「後藤の大切な人は、いちーちゃん」
後藤の声に、矢口は顔を向けた。ふにゃあ〜とした笑顔で、桟橋から垂れ
た足をバタバタさせて水面を揺らしている。
それを見た矢口は、ほんの少し引いた。だが、すぐに微笑が浮かんできた。
なぜだかはわからないが、加護よりも無邪気な少女のように思えて仕方が
なかった。
――不意に矢口の脳裏に未来の映像が映し出された。
その未来が何を意味していたのか、映像が不鮮明で断続的だったのでわ
からない。ただ、中澤の運転する車内にいた人物は、皆、笑顔を浮かべて
いた。
自分の見た未来、自分の存在する未来に、見知らぬ2人もいたが矢口は
あまり気にならなかった。ただそこに全員がいて、皆が笑顔であるという
事実さえわかればホッと胸を撫で下ろす事ができた。
中澤たちが戻ってきたのは、コテージを出発してまる1日ほどしてから
だった。
車のエンジンの音を聞きつけ出迎えたメンバーは、皆、ワゴンから降り
てきた見知らぬ2人の少女にどう接していいのかこまねいていた。
そしてまた、コテージに残っていたメンバーと初体面をした2人も緊張
して戸惑っていた。
その様子を敏感に感じとった中澤が口を開こうとしたとき、希美と手を
繋いで、まるで自分も初対面のようにメンバーと向かい合っていた加護
が声を出した。
「辻希美ちゃん、ウチと同じ12才です」
それを聞いた希美が、困ったように顔を上げた。そして、小さな声で加
護の耳元で何かを囁いた。
「あ、13才になったそうです。で、辻希美さんの隣にいるのが、飯田
圭織さんです。18才です」
それを聞いた希美がまた困ったように顔を上げ、また小さな声で呟いた。
「あ、もうすぐ19才になるそうです。自己紹介は、以上です」
希美と飯田が、戸惑ったまま軽く頭を下げて挨拶をした。
きょとんとしていた市井・後藤・保田・矢口も、つられて頭を下げた。
「ほな、ののちゃん、遊びに行こう。あんなぁ、あっちにボートあんね
ん」
と、加護は希美の手を引いて、湖畔のボート乗り場へと向かって駆け出
していった。
「こら、加護」
中澤の制止も聞かずに、加護はイタズラっ子のような笑顔を浮かべて走
り去ってしまった。
「ほんま、帰ったら勉強せぇって言うてあったのに」
「ねぇ、裕ちゃん」
「おー、矢口ぃ。会いたかったよー」
と、スイッチの入った中澤は、皆の前であるのをまったく気にする事な
く矢口に抱きついた。
「ちょっと、なんでよー」
市井は軽くため息を吐くと、苦笑を浮かべているひとみと梨華に向かっ
て言った。
「で、安倍さんは?」
「あ、はい。あの……」
梨華が困ったようにひとみを見上げると、ひとみが梨華に代わって昨夜
の病院での出来事を話した。
ひとみの話を聞き終えた市井と保田が、真剣な表情で顔を見合わせた。
そして、小さな声で何かを囁きあっている。
2人は小さな声で今後の対策を練っているようだった。一方、2人の側
にいた後藤は、福田の事などはまるで考えていなかった。
ただ、目の前でじゃれあっている中澤と矢口を見つめていた。
「ねぇ、梨華ちゃん……」
「ん?」
「なんか、緊張感なくなったね」
と、ひとみが中澤と矢口らを見ながら微苦笑を浮かべた。
飯田はその大きな目を見開いて、中澤の矢口に対する熱烈な抱擁を見つ
めていた――。
「え? なに、これ?」
自分たちの部屋の異変に気づいたのは、ひとみだった。
帰りに買った日用品の入ったコンビニの袋を置いて、窓を開けようと歩
いた時にフッと自分と同じ目線の高さの壁に穴が空いていることに気が
ついたのである。
飯田に部屋を案内して戻ってきた梨華が、ひとみの後ろに立って少し背
伸びをしてその穴を覗き込んだ。
「すごいね。何があったんだろ」
と、だけ言い残してすぐに荷物を置きにいった。
「市井さんでも、完全には封じられないんだ……」
「なんか、どんどん力が強くなってるんだって」
「そっか……」
ひとみは、とりあえず横にあった絵画のレプリカでその穴を塞いだ。
別に見られて困るような事は何もなかったが、やはりその穴から後藤の
顔が見えるのはあまりいい気分ではなかった。
「ごっちんは……」
ひとみはその声を聞き、額縁の位置を直しながら振りむいた。化粧品な
どの日常品をコンビニの袋から出している梨華は、何かを言いたそうで
あった。
「ごっちんが、なに?」
「ううん。いい」
「――あ、さっきの」
「……うん」
「――梨華ちゃんの言いたい事わかる。でも、もうちょっと時間がほし
いんだ。完全に恐怖心がなくなったってわけじゃないから」
「うん。そうだね――。ごめんね、私の方こそ」
しばらく、無言の間が流れた。
額縁をかけ直したひとみは、「よし」とつぶやくとおもむろにベッドの
上へとうつぶせに倒れ込んだ。
「ふぅー。なんか、やっと落ちついたって感じ」
「ずっと、移動ばっかりだったからね」
「ねぇ、アタシたちさ、これからどうなるんだろう?」
ひとみの不意の問いかけに、梨華は返事に困った。
「それは……」
「だってさ、ゼティマってところも直接は手を出してこれないでしょ?」
「なんで?」
「だって、ゼティマってとこの最強メンバーが揃ってんだし。福田明日
香は、もともとゼティマに協力的じゃなかったみたいだし」
「あ……、うん」
「だったら、このまま何にもなく暮らす事ってできないかな」
「……そうなるといいね」
と、梨華は笑みを浮かべた。
「なれるよ。きっと」
ひとみはうつむいたまま手を伸ばし、梨華の手を握った。
(なろうね。絶対)
ひとみの手から流れ込む優しい意識に、梨華は心が温かくなった。
水辺に浮かんだボートの上に、加護と希美がいる。
2人はしゃいで、ボートを漕いでいた。片方のオールを加護が、もう片方
のオールを辻が――。そうして慣れていない2人が漕いでいるものだから、
舟は一向に進むことなく同じところをグルグル回っていた。
だが、2人にとってはそれが楽しくて仕方なく、さっきから声を上げて笑っ
ていた。
「ハハぁ。疲れたなー?」
「疲れたぁ」
「ウチな、ボート漕ぐの初めてやねん」
「辻も、はじめて」
「楽しいなぁ」
「うん」
「またやろか」
「やろー」
――2人は、また同じ行為に没頭して、やはり同じように声を上げて笑っ
た。ボートは延々、同じところをぐるぐる回っていた。
保田はその様子をロビーの窓から眺めて、苦笑していた。
「加護とピッタリの子で、良かったじゃない」
保田のすぐ後ろで、中澤がラジオにコンビニで買ってきた電池を入れて
いた。
「ええことあるかいな。ホンマ、うるさいのが一人増えたって感じや」
と、言った中澤だが、とてもうれしそうな表情を浮かべている。
「あの子にも力があるんだよね?」
中澤の横に座っていた矢口の言葉に、先ほどからまた黙り込んでいた
市井がピクリと反応した。
「たぶんな」
「たぶん?」
「あの病院におったんやからな、何の力も持ってないって事はないわ」
「……梨華ちゃんに、調べてもらわなかったの?」
「それどころやなかったんや」
と、中澤は帰って来る車内での出来事を思い出して笑った。
コテージに戻ってくるまでの8時間近く、梨華はずっと安倍を助けられ
なかった事、福田の意識を感じ取れなかった事で暗く沈み込んでいたら
しい。その一部始終を、中澤は矢口らに聞かした。
「あの子らしいよ」
と、保田は窓の外を見ながら苦笑した。
「梨華ちゃんって、ほんとネガティブだよね」
矢口も、苦笑した。
「後ろで加護と辻は騒いでるし、その後ろはメソメソした石川にオロオ
ロしてる吉澤やろ。なんか、もうメチャクチャやったで」
「じゃあ、あの飯田さんの力もわかんないんだ」
「圭織か? 圭織はアレや。紗耶香も圭坊も知ってるやろ」
「え?」
と、いう感じで市井と保田が中澤に注目した。
「森のばあちゃんが、普通に暮らせるってゼティマに連れてくるのを
見送ったヤツや」
市井と保田は、互いに分からないといった表情で顔を見合わせた。
「宇宙と交信できるヤツや」
中澤のその言葉に、「あー」と保田が声を上げた。
「知ってる。あの子だよ、紗耶香」
「――あぁ、チャネリングの」
「そうや。ウチも帰る途中で思い出したんや」
「ちゃねりんぐ?」
矢口の言葉と同じような疑問符を浮かべている人物が、もう1人いる。
それは、階段に座ってボーっとしていた後藤である。中澤が、市井に
問いかけた時、ハッと我に帰って話を聞いていた。
「まぁ、宇宙意思とかなんとか、そういう目に見えん大きいもんと交
信できる力やねん。圭織のは、その中でもちょっと特殊でな」
「特殊って?」
「あれ、なんていうんやったっけ?」
と、中澤が市井に訊ねた。
「――アカシックレコードだったかな」
「そう。それ。そのアカシックレコードっていう……。ん?」
市井は少し苦笑すると、身を乗り出して話を聞いている矢口に向かっ
て話しだした。
「宇宙のどこかには過去も現在も未来も関係なく、すべての出来事が
記録されている場所があるらしい。それをアカシックレコードってい
うの」
「???」
「圭織は、そのアカシックレコードを読みとることができる」
「それ、読みとるとどうなんの?」
「ありとあらゆるものの過去・現在・未来のすべてがわかる」
「すごいじゃん、矢口のよりすごいよ」
興奮する矢口をよそに、市井はニヒルな苦笑を浮かべて首を振った。
「実用性は、0に等しい」
「なんで? なんでも見れるんでしょ?」
「アカシックレコードには、宇宙すべての出来事が記録されてる。その
中で、自分に関係したものを見つけるのは不可能だって」
「……宇宙、すべて?」
「うん――。まぁ、仮に地球上の自分に関係するものを見つけられても、
さらにそこから今いる自分に関係するものを見つけるのも難しい」
「???」
「パラレルワールド。確定した未来の話の時に、教えたやろ」
混乱する矢口に助け舟を出すかのように、中澤が口を開いた。
「あ、うん。この世界は1つじゃなくて、平行して色んな世界があるっ
て……。でもそれって、理論上でしかないんじゃ」
「理論を実現できんのが、科学の弱点やって教えたやろ」
「あ、そうだったね先生」
「よしっ。居残り授業しよ。マンツーマンでみっちり教えてあげる」
「もう、いいよ。セクハラで訴えるよ」
「その無数にあるパラレルワールド。そこから今の自分の世界を見つ
けるのは、あの森のおばあちゃんでも無理だった」
「”絶対的な力”を持ってた人でも? ちょっと、いい加減にしてよ」
と、抱きついてくる中澤を、矢口は必死で引き離そうとしている。
「ちょっと裕ちゃん、いい加減にしたら? いちーちゃんが話してる途
中じゃん」
と、後藤が立ちあがった。
「あーあ、怒られた。矢口のせいやで」
「なんでよ」
「かわいいから」
その場にいた中澤以外の全員が、軽いため息を吐いた。
ただ、保田の姿がいつの間にか消えていた――。しかし、誰も彼女がい
なくなった事に気づいてはいなかった。
ひとみは加護と辻に夕食の手伝いをしてもらおうと、2階の端にある非常
口から外へと下りたった。
ロビーから外へ抜けてもよかったのだが、部屋からは非常口の方が近く、
そしてなにやらロビーでは難しい話をしていたようなので非常口を使う事
にしたのである。
非常口を下りると物置のような場所があり、その向こうは白い柵で覆われ
ている。そして、その向こうは昼までも薄暗い竹林があった。
白い柵の向こう側と、こちら側――。ほんの少しの距離で、これだけも雰
囲気が違う――。
ひとみは、自分たちは今どちら側にいるのだろうかと考えてしまった。
不安はあったが寂しくはなかった。自分の存在価値も見つける事ができず、
誰とも分かり合えない人生を送るよりも、ずっと充実していたからである。
だが、やはり不安もあった。それは、能力を持っていない自分だけがいつ
か取り残されていくのではないかという不安だった。
今も決して、梨華以外の人物に溶けこんでいるとは言いがたい。それは、
自分でもわかっている。彼女たちの目指すユートピアに、自分の居場所は
あるのだろうかと不安で仕方がなかった。
(はぁ〜、いいや。難しいのは、また後にしよ)
ひとみは不安を打ち消すように、コテージの表へと周り込もうとした。そ
の視界の隅に、竹林へと入っていく保田の姿を捉えて足を止めた。
(保田さん……、何やってんだろこんなとこで)
保田は後ろを振り向くことなく、どんどんと竹林の奥へと入って行ってし
まった。なんとなく、その様子が気になったひとみは、しばらく時間をお
いて保田の去っていった方向へと足を進めた。
――竹林の奥は、手入れもされていないので竹が伸び放題になっている。
群生過密の竹が陽光を遮り、昼間だというのにかなり暗かった。
(こんなところで、ゼティマのヤツラに襲われたらどうしよう)
(やだなぁ……)
(保田さん、どこ行ったんだろ)
竹林に生えた雑草を振り払いながら歩いていくと、小さな声が聞こえてきた。
やっと保田を見つける事ができ、危険なので帰ろうと誘うつもりだったが、
保田のその声を聞いた時、ひとみは咄嗟に近くにあった岩陰に身を隠した。
『ええ。今もコテージにいます。記念病院の件も――、はい。中澤・加護・
石川の3人です』
話のトーンからして、家族や友人と話をしている風には思えなかった。電話。
しかも、相手は<Zetima>の関係者だろうとひとみは推測した。
『飯田佳織、辻希美の両名は、こちらにいます。――ええ。――わかりまし
た。随時報告しま――。あ、いえ、なんでもありません。――はい』
ひとみは保田の会話が途中で途切れた時、一瞬、自分が隠れているのがバレ
たかと思った。だが、そうでもなかったらしい。保田は、電話をきったよう
である。
(報告って……)
(保田さんが……)
ひとみは、保田が裏切っている事にショックを受けた。直接話したことはな
いが、梨華からいろいろと話は聞いている。市井の右腕であり、優秀な能力
者であり、目標のために誰よりも影で努力している事も――。
そんな保田が、裏切っていたとは――。自分のショックというよりも、梨華
が受けるであろうショックのことを考えると胸が痛んだ。
(……!)
ひとみは、不意に思い出した。保田の”優秀な能力”が、”透視”だったこ
とを――。
岩場の影はなんの意味もないことを悟った時、ひとみの後頭部に鋭い痛みが
走った。気を失う間際、ひとみは遥か遠くに少女の姿を見たような気がした
が、すぐに意識が遠のきその場に倒れ込んだ――。
「あいちゃん」
「んー?」
希美の呼びかけに、桟橋に船をロープでくくりつけていた加護が振りか
える。
「梨華ちゃん」
と、希美が指さす方向に加護は顔を向けた。
こちらへやってくる梨華が見えた。だが、少し様子がおかしい。不安な表情
を浮かべて辺りを見まわしている。
正直なところ、加護はあまり気にしていない。不安そうな表情を浮かべてい
るのはいつもの事であり、それがそのまま大事に結びついているとは限らな
い事を知っていたからである。
「なんか、あったのかなぁ?」
「梨華ちゃんは、いっつもああやねん」
「なんか、言ってるよ」
気にはしなかったものの、加護はロープを結びながら届いてくる梨華の声を
聞いていた。
「あいぼん、ののちゃん、ひとみちゃん見なかった?」
加護は、「知らーん。見てへーん」と作業しながら答えた。
「梨華ちゃん、泣きそうな顔してる」
「え?」
「ほら」
見ると、梨華は泣きそうな顔をしてオロオロと辺りを見まわしていた。さす
がに、加護も何かあったのだろうと推測せざるを得なかった。
――加護と希美が駆けつけた時、梨華の目にはもう涙が潤んでいた。
「どうしたん、梨華ちゃん」
「ねぇ、ホントに見なかった?」
「見てないよ。なー?」
希美が、こくりとうなずいた。
「何があったん?」
「ひとみちゃんの意識を、まったく感じないの」
「……買い物でも行ったんと違う?」
「あいぼんとののを呼びに――それに、こんな時に1人でどっか行ったりし
ないよ」
と、梨華は辺りを見まわしている。
「こっちの方には、来てへん」
「じゃあ、どこ行ったのよ〜……」
「敵かなぁ」
加護の言葉に、希美がビクッとして辺りを見まわした。加護もいつでも力を
放てられるように身構えた。
「あいぼん、市井さんたちを呼んできて。私、もうちょっとこの辺を探して
みるから」
「わかった」
と、加護と希美は、コテージへと向けて駆けていった。
コテージから、矢口の姿が消えていた。中澤がトイレに行ってロビーに戻っ
てくるとそこには市井と後藤の姿しかなく、矢口は部屋に戻った後であった。
中澤も自分たちの部屋に戻った。ロビーに残って市井と話をしている後藤か
ら、2人の時間を邪魔してほしくないという雰囲気が発せられていたからだ。
「後藤も、あからさまやなぁ」
と、中澤は苦笑しつつ部屋のドアを開けたが、そこにも矢口の姿はなかった。
特に気にすることもない。四六時中顔を合わせてはいるが、いつも側にいる
わけではない。どこかの空き部屋で、もしくはひとみと梨華の部屋で過ごし
ているのだろうと考えていた。
10分が過ぎ、30分が過ぎ――1人で退屈だった中澤は、もう1度ロビー
に戻る事にした。夕飯の時間も近くなったので、皆が顔をそろえている頃だ
ろう、そしてそこに矢口もいるのだろうと考えていた。
だが、そこにいたのは息をきらせた加護と希美。そして、神妙な表情をした
市井と、窓辺に立って外の様子をうかがっている後藤と、ロビーの隅で中澤
に気づいて階段の方を見ている保田の姿だけであった。
「裕ちゃん、吉澤見なかった?」
中澤に気づいた市井は、階段を振りかえった。全員の視線が、中澤に寄せら
れる。
「よっさん? 見てないけど。それより、矢口知らん?」
加護と希美が、目を見合わせた。
「なんか、あったんか?」
と、中澤が問いかけた時に、ロビーのドアが開いて梨華が駆け込んできた。
「やっぱり、どこにもいません」
――その後、梨華から事情を聞いた中澤は、とっさに矢口の身を心配した。
「矢口も、おらんようになった」
その言葉に、全員に緊張感が走った。
「ぜてぃまから、敵がきたんかなぁ?」
「なんで、よっさんと矢口を。よっさんなんか、関係ないやんか」
「人質かも」
市井は、自分たちの行為を思い出した。
「……よし、手分けして探そう。紗耶香と石川は、意識の網を限界まで広げ
てちょっとでも変な意識が流れてきたらすぐに報告。加護は石川と、後藤は
紗耶香と一緒や」
「アタシは……?」
保田が、椅子から立ちあがって呟いた。
「圭坊は、ウチと一緒や。ここから、圭坊の見える範囲内すべて透視して調
べてもらう」
「探しに行かないの?」
と、後藤が声をかける。
「辻と圭織2人っきりにしてたら、危ないやろ」
「そっか」
「よし、じゃあ頼むで」
梨華たちがロビーを出ようとした時、希美が口を開いた。
「あ、あのっ」
「なんや」
「ちょっと待っててもらえますかぁ?」
その舌足らずな口調は、この緊迫した空気には不釣合いであった。自然と、
中澤の声も荒くなる。
「なんやねん、忙しいねん」
「ちょっとだけ、待っててください」
と、希美は全員をロビーに残して中央にある階段を駆け上がっていった。
「なんやねん……、あの子は」
一瞬、呆然と見送った中澤だが、すぐに梨華たちに指示を出そうともう1
度ロビーへと向き直った。
「わぁ!!」
中澤は思わず、悲鳴を上げて腰を抜かしそうになった。全員の視線が、悲
鳴を上げた中澤に注がれている。
「う、うしろ……」
中澤が、ロビーにいるメンバーの後ろを指さした。全員が、「?」と後を
振りかえる。
梨華の甲高い悲鳴が聞こえ、加護が腰を抜かし、後藤と市井の口が開き、
保田の目が見開いた――。
ついさっき、2階に駆けあがった希美がドロドロの格好をしてロビーに立っ
ていたのである。
「のの……」
加護は、腰を抜かしながらもなんとか誰よりも早く口を開く事ができた。
他の者たちは、まだ混乱している様子である。
「転んじゃったぁ」
と、希美はテヘテヘと笑い、白い八重歯を覗かせた。
「あんた……、いつの間に……」
中澤が震える声で、ロビーにいる希美と階段を交互に見つめた。誰もが階
段を駆けあがっていった希美の後ろ姿を確認している。
しかし、誰も階段を下りてきた希美の姿は見ていない。それは不可能な事
だった。見送り、そして中澤がロビーに視線を戻したほんの2秒ほどの間
に、希美はもうすでにその場所にいたのである。
希美は中澤の声が聞こえなかったのかそれには答えることなくもロビーの
隅にいる保田の方を向いた。
混乱していた保田だが、その何もかもを見透かしているような希美の視線
を受け止める事ができずに目をそらした。
「保田さん……、しょうじきにぜんぶはなしてください」
全員、希美の言葉の意味が分からずにただ呆然と2人を見ていた。
「辻は、ぜんぶ見たんです。――ん?」
と、首をかしげたのと同時に、市井と梨華の表情がハッとなった。
「辻……、あんたの力って……」
「時間移動……」
市井と梨華の言葉に、他の3人が驚いた。
「なんか、頭の中がうごいてる」
保田は軽いため息を吐くと、テーブルの椅子に座り込んだ。
保田の脳の中にも、触手が伸びているのを感じ取っていたからである。
その感触が市井のものであり、もうすべてを読まれている事を悟った。
「圭ちゃん……」
市井の寂しげな口調に、保田は軽く微笑を浮かべた。
「吉澤と矢口は、無事よ。ちゃんと安全な場所に閉じ込めてるから。ま、
吉澤にはちょっと痛い目にあってもらったけど。紗耶香、後で頼むね」
「なんで……」
中澤も後藤も加護も、何を言っているのか詳しい事はわからなかったが、
あえて口を挟むことはしなかった。その2人の空気から、おおよその見当
がついていたのである。
梨華は、ひとみたちを救出しにロビーを飛び出していった。
「だって、紗耶香、このまま逃げきれると思う? いつか、みんな殺され
ちゃうよ。つんくが黙ってこのままにしておくわけないじゃない。だったら、
もう1度ゼティマに戻れるように頼んでみたの。ゼティマにとっても、ウチ
らの力は絶対に必要なはずなんだよ」
「また利用されろって言うの!」
「違う」
「圭ちゃんは、今も利用されてるんだよ! なんで、それに気づかないの!」
「わかってるよ! けど、アタシはみんなを救いたい! このまま、こんな
ところで黙って殺されるのなんか絶対に嫌! 利用されててもいいから、み
んなと一緒に居たいんだよ」
保田の目に、大粒の涙がうかんだ。しかし、保田はそれをこぼさぬように、
ジッと耐えている様子だった。
「もう、ええやないか紗耶香」
と、中澤がやって来て2人の間に立った。
「どうすんのよ! アタシたちの動き、向こうにバレてんだよ」
「圭坊も、悪気があってしたんと違う。なぁ、圭坊」
中澤のその声を聞いたとたん、保田が唇を震わせて目を伏せる。
「圭坊、ごめんな。ウチがおらんかった時、あんた全部1人でしょい込むクセ
ついてもうたんやな。ウチがもっとしっかりしてたら、こんな事にはならへん
かったのに。ごめんな」
優しい微笑を浮かべた中澤。保田はもう涙を堪える事ができなかった。テーブ
ルに顔を突っ伏すと声を上げて泣いた。
「圭ちゃん、大丈夫だよ。もう心配しなくていい。後藤がアイツら潰してやる
から」
後藤の目にも、うっすらと涙が滲んでいた。今まで涙など見せた事のない保田
であり、いつも大きな態度で自分と接してくれていた、そんな保田が背負い込
んでいたものに気づかなかった自分にも腹が立ったし、このような行動をさせ
た<Zetima>には強い殺意を抱いた。
「ごとーさん行くんやったら、ウチも連れてってなー」
と、加護が後藤の腕を引っぱった。無邪気な笑顔を浮かべていたが、加護にも
保田の涙はショックだった。
「アンタら、アホかッ!」
中澤の怒声が、ロビーに響き渡った。佇んでいた希美は、その声だけでもう泣
きそうになっている。
「なんでよっ! アイツらさえいなかったら、みんなこんな思いしなくてもい
いじゃん!」
「アンタらがそんなんやから、圭坊はこんなに悩んでんねん。それが、わから
んのか!」
「……」
「ごっちんの力が強いのは、わかる。けどな、ごっちんも人間や。死なんなん
て保証どこにもない。加護も、あんたまだ12才やそんな若こうして、なんで
戦ったりせなあかんねん。そんなんで、死んで誰が喜ぶ? そんなんが嫌やか
ら、圭坊はあの会社に利用されててもええからみんなと一緒にいたいって思う
ててんで」
「どっちにしても、戦わなあかんやんか」
加護が、泣きながら声を震わせた。希美がそっと駆けより、戸惑いながらその
手を握った。
「能力者にやったら、あんたらは負けへん。こっちの手の平が見えてるゼティ
マに立ち向かっていくよりマシや。圭坊は、そう思ったんやろ?」
訊ねられた保田は何も答えなかったが、伏せていた頭を小さく縦に動かした。
「紗耶香もそんなところあるからな、どうせ同じような事考えてたんやろ?
やめとき。そんなんせんでもええやないの。誰にも見つからん静かな場所で
暮らそう」
中澤は微苦笑のようなものを浮かべて、市井に視線を向けた。
市井は何も答えずに、視線を窓の外に向けた。
表のデッキを歩いてくる、ひとみたちの姿が見えた。
「お、矢口ら帰って来たみたいやな」
ロビーのドアが開いて、ひとみ・梨華・矢口が入ってきた。だがもうすでに、
状況を知っているのか、何かを話すでもなくしんみりとした表情を浮かべて
ドア口に佇んでいる。
市井は前髪をかきあげながら、ひとみへと歩いた。
梨華が小さく「お願いします」と呟くと、後頭部を押さえたひとみも市井に
頭を下げた。市井は、軽い微笑を浮かべてひとみの後頭部を軽くなでる。
「よっさん、大丈夫か?」
「あ、はい」
と、ひとみは笑顔を向けた。
「吉澤、ごめんね」
と、テーブルに突っ伏した保田が呟いた。
「あ、もういいんです。保田さん、あそこでも謝ってくれたじゃないですか」
「どこに、おったの?」
「ここから五百メートルほど離れた、小屋みたいな所です」
梨華が窓外を指差したが、外はもう暗くなっていてなにも見えなかった。
「あの、アタシ、ホントに大丈夫ですから。保田さん、パニックになってた
みたいで、後で事情聞いて、その、矢口さんのことはアタシが原因なんです。
意識を隠しても、アタシを探しに矢口さんが過去を見るって言っちゃったか
ら」
「あ、でも、矢口はちゃんと圭ちゃんから事情聞いて納得して自分で向かっ
たんだよ。だから、圭ちゃんもよっすぃも関係ない。矢口は、自分で行った
の」
それを聞いた中澤は、「あんたら……」と笑うとすぐに顔を伏せて肩を震わ
せた。
「泣くなよー、裕子、泣くなー」
と、矢口はいつものように明るく笑った。
希美は、気配に気づいて顔を上げた。吹き抜けのロビーの2階廊下に、飯田
が微笑を浮かべて立っていた。飯田の唇が小さく動き、希美が白い八重歯を
のぞかせて大きくうなずく。
それぞれの思いは複雑だったが、根底にあるものは1つだけである。
それは、その場にいる全員が理解していた。
ほんの数日しか生活しなかったこのコテージ。もうすぐにでも立ち去らなけ
ればならない――。涙を見られたくない中澤が号令を出すと、他の者たちは
自分の荷物をまとめにそれぞれの部屋へと戻っていった。
もう誰にも重いものを背負わせたくない――。
中澤がリーダーとなるのを決めたのは、この時が初めてだった。
そして、誰もが中澤をリーダーだと認めたのもこの時からであった。
『番組の途中ですが、臨時ニュースを申し上げます』
走るワゴン車の車内。FMラジオから流れていた歌が途切れ、ニュース
速報が車内に流れた。
それぞれの時間を過ごしていたメンバーたちも、なんとなく臨時ニュー
スに耳を傾けた。
『先ほど午前10時過ぎ、Y県××町にある高鳥原子力発電所で爆発事
故が発生した模様です。詳しい状況はまだなにもわかっておりません。
繰り返します――』
「Y県って、あのコテージのすぐ近くじゃん。ヤバかったよね」
と、助手席の矢口が、カーラジオのボリュームを上げる。
「放射能漏れとか、あんのかな」
「どうやろ。爆発事故って言うてたからな」
車内にまた、音楽が流れ始めた。
加護と希美はまるでそれが合図だったかのように、また一番後ろで騒ぎ
始めた。
運転席と助手席の後の席に、市井・飯田・保田、その後ろの席にひとみ・
梨華・後藤――そして、さらに後ろのわずかなスペースに加護と希美が
いた。
10人は、進路を南へと向けた。特にこれといった目的の場所はない。
ただ、このまま北へ北へと逃亡を繰り返していたら、やがていつか<Ze
tima>の追跡の範囲を狭めてしまう危険性があったからであった。
もうすでにあのコテージを出発してから、5日ほどが経過していた。
国際空港に、一機のチャーター機が着陸した。
何人かの空港関係者が、チャーター機を格納庫に素早く移動させている。
格納庫の中で、つんくは待っていた。待ちわびたおもちゃが届くのを楽し
みにしている子供のような表情を浮かべて、チャーター機から運び出され
る長さ数メートルのBOXを見ていた。
今すぐにでもその中身を見てみたかったが、どうやらそういうわけにもいか
ないらしく、つんくは渋々そのBOXの所有者であるドイツ人男性の元へと
歩いて行った。
「はじめまして。遠いところ、わざわざお越しいただき感謝しております」
と、つんくは通訳の人物を通して青白い顔をしたドイツ人男性に挨拶をした。
二言三言、社交辞令の挨拶を交わし、つんくたちは外に待たせてあった黒
色のリムジンに乗り込んだ。
つんくの待ち望んでいたBOXは、厳重な警戒態勢のもと大型トレーラー
にて目的の場所に運ばれる。
――ひとみの祖父母が、存命中に日本旅館を営んでいた。
山の奥深い場所にあり、避暑地として静養地として”通”の旅行客たちに
利用されていたらしい。
ひとみはまったく知らなかったが、明日香によって再生された記憶に不備
な点がないかをひとみの依頼により探っていた梨華が、偶然に最下層近く
でその事実を発見した。
梨華がその事を告げると、皆の気分は浮きたちだった。偶然にも、その日
本旅館のある県は、ワゴン車を走らせている県の隣接している県であった
ので中澤は進路をひとみの祖父母の営んでいた日本旅館に向ける事にし
た。
「のの、温泉一緒に入ろうなー」
「うん」
「なー」
「なー」
コテージを出発してからの7日あまりの流浪生活にやっとピリオドが打て
ると思えば、自然と皆の気分も晴れ晴れとしたものに代わっていった。
とりわけ、座席もないトランクスペースに追いやられていた加護と希美は、
かなり嬉しそうにはしゃいでいた。
それから約6時間後、日もすっかり暮れた頃に、目的の日本旅館に到着し
た。10年前に祖父母が相次いで他界してから、旅館を閉鎖しているものの
壊すことなくそのままにしていると――ひとみは、記憶していた。きっと、両
親から幼い頃に聞かされていたのだろう。
そして、その記憶に想像をプラスさせて素晴らしいたたずまいの日本旅館を
記憶の奥底にしまっていた。それを梨華は読み取り、その美しいたたずまい
の日本旅館を皆に伝えた。皆も、梨華の言った美しい日本旅館をイメージし
て、旅の疲れを癒そうと晴々とした気分で目的地に到着した。
だが、車のヘッドライトに照らされたその建物は、長年雨風にさらされて庭の
雑草も生え放題となっている幽霊屋敷そのものだった。
ひとみと梨華は、皆の失望した視線を浴びて苦笑いを浮かべるしかなかった。
翌日、メンバーたちはその幽霊屋敷へと足を踏み入れた。玄関を開けると、
そこはもうすぐに土間になっており、八畳敷きの部屋の中央に囲炉裏がある。
土間の右側を周り込むようにして廊下が続き、その奥にいくつかの客室らし
き部屋がある。
皆の想像をはるかに超えた、小さな小さな”日本旅館”であった。おまけに、
部屋の至るところに風で飛ばされてきたのであろう、様々な雑草類が群生し
ていた。
「旅館って言うよりも、日本昔話みたいな感じやなぁ」
と、中澤が土間の出入り口付近でポツリと呟いた。
「よっすぃ、温泉は?」
加護が、楽しみにしているものは見渡す限りありそうもなかった。
「あ……、どうだろう……」
ひとみが返事に困っていると、外から希美の声が聞こえてきた。
『あいぼーん、温泉あったー』
「やったー」
と、加護は飛びあがると、すぐに土間を飛び出していった。
残されたひとみ・梨華・中澤も、信じられないといった感じですぐ後を追った。
母屋とは別に、湯屋が庭の隅にあった。
湯屋の中はさらに荒れ果てたものとなっていたが、確かにそこには温泉が
湧きあがっている。加護と希美が、大騒ぎしていた。
飯田はその浴場の外にある露天風呂の脇に佇んでいた。珍しく、その目
は露天風呂に焦点が合わされている。
その光景を見た中澤は、思わずため息を漏らした。
「なんや、結構スゴイやないの……」
ひとみと梨華は、やっとホッとできたような感じで2人で顔を見合わせた。
『ちょっと、裕ちゃん。こっち来てみなよー』
湯屋とは反対側の母屋の裏手から、矢口の歓喜の声が聞こえてきた。
「次は、なんやねんな」
と、中澤が嬉しそうにはしゃいで駆けていった。
ひとみらが駆けつけた時、もうすでに矢口は厚底のスニーカーとルーズソッ
クスを脱ぎ捨ててその渓流で戯れていた。
透き通るような渓流が、広い庭園を横切っていた。
「よっさん……、これある意味あんたの想像超えてんで」
と、中澤がその素晴らしい中庭の光景に驚いていた。たしかに、雑草は伸
び放題となっているが、庭園の出来としてはちょっとした観光名所よりも素
晴らしい光景であった。
緑と庭石と渓流、その見事なバランスは芸術そのものであった。
「矢口ぃ」
中澤は、渓流で戯れる矢口の元へと嬉しそうに走っていった。
「ひとみちゃんちって、すごいね……」
その光景に見惚れていた梨華。
「来た事ないから、知らなかった……。ホント、すごい」
と、ひとみはまるで人事のようにつぶやいて、その光景に見惚れていた。
上流の方から、市井・後藤・保田が歩いてきた。
「ここを残しておきたい気持ちもわかったよ。すごいわ、ここ」
保田が、ニヤニヤしながらひとみに向かって言った。
「あ、はい……」
さきほどまで風景に見惚れていたひとみだったが、戻ってくる後藤を見かけ
ると急に現実に戻らされたような気分になった。咄嗟に目をそらしてしまい、
後藤もそれに気づいたようであった。
「上の方見てきな。綺麗な滝があるから」
梨華が、「わぁ、凄い」と指を組んで微笑んだ。
「なんかわかんないけど、山菜みたいなのもいっぱいあった」
「ひとみちゃん、行ってみよ」
「え? あ、うん」
と、ひとみは後藤の視線を気にしつつ、梨華に手を引かれて上流へと去っ
て行ってしまった。
後藤は少し寂しげに、その背中を見送った。市井は、後藤の心の声を読み
取っていたが、あえて何も知らない振りをした。そして、そのまま渓流で矢
口と一緒に戯れている中澤に声をかけた。
「あのさ、裕ちゃん」
声に気づいて、中澤が振りかえる。
「なんやー?」
「しばらく、ここで暮らす事にしない?」
「はー? 暮らすって、中はあんなんやでー。そらちょっと、無理やろー」
「ウチらで住めるようにすんだよ」
「――ハハ。そうやなー。そら、ええわー。ちょ、矢口ぃ冷たいなぁ」
と、中澤と矢口がまた水の掛けあいを開始した。
市井は微苦笑を浮かべると、後藤と保田に向きなおった。
「じゃあ、とりあえず必要な道具買い揃えようか? 悪いんだけど、圭ちゃ
ん。ちょっと買い出し頼めるかな」
「うん、いいよ」
「後藤、あんたも一緒に」
「いちーちゃんは?」
「あたしは残って、部屋の掃除してる」
「えー、一緒に行こうよ」
「吉澤と石川も、一緒に行ってもらう」
「……よっすぃ」
「じゃあ、圭ちゃん頼むね」
と、市井はひとみと梨華を呼びに、上流へと歩いていった。
「ちょっと、いちーちゃん……」
市井は振りかえることなく、庭石の向こうへと歩いて見えなくなった。
「ごっちんも吉澤も、これがいい機会だと思うよ」
と、保田はポンッと後藤の肩を叩くと旅館の表へと歩いて行った。
残された後藤は、ただうつむき加減で唇を尖らせ佇んでいた。
山奥の旅館から、麓の一番大きな町まで車で約2時間ほどかけて
移動した。
その車中でも、ホームセンターで旅館の修繕に必要な物を買い揃え
ている間も、ひとみと後藤の間には特に会話らしい会話はなかった。
「石川、ちょっと」
保田は、ひとみと一緒に日用雑貨を眺めている梨華を呼びよせた。
「なんですか?」
「あのさ、後藤と吉澤を2人っきりにしたいんだけど、何かいい方法な
いかな?」
「ごっちんと?」
「声が大きい。気づかれたらどうすんの」
と、保田は少し離れた場所にいるひとみを見やった。
「すみません……」
「――吉澤がこのまま帰るんなら、ごっちんとの関係もこのままでい
いと思う。もう2度と会うことはないと思うから」
「……」
「でも、吉澤は石川が残る限り、石川の側を離れないと思うの」
「私も……、離れたくありません……」
「うん。だからさ、やっぱりこれからのことを考えると」
「……でも、ひとみちゃんは」
「お互い、憎しみ合ってんじゃない。ただ、どう接していいかわかんな
いだけ。ここはさ、ちょっと強制的にでも話し合いとかした方がいいと
思うんだ」
「……」
梨華の中にもずっと、その問題は気がかりだった。幼い頃の後藤は、
決して力を使いたくて使ったわけではない――、そして、今も自分の
力をどこか恐れている部分がある。
ひとみも梨華の話や、記憶の書き換えにより、以前ほどの恐怖は持
ち合わせていない。
だが、2人の間には”怖い目に遭わせた”者と”怖い目に遭った”者
の複雑な心理があるため、一向にその距離は縮まる事がない。
やはり保田の言う通りに、これからのことを考えるとこのままではい
けないような気がした梨華であった。
――ひとみは梨華に言われた通り、隣にあるスーパーマーケットの
前で待っていた。
(遅いなぁ、何やってんだろ)
と、辺りを見まわした時、少し離れた場所でやはり同じように辺りを
見まわしている真希がいた。
”ヤバイ”と思ったときには既に遅く、2人の視線は互いの存在を捉
えていた。
――そのまま、長い時間が経過した。
先に口を開いたのは、ひとみだった。
「あ……、保田さん?」
真希は少しうつむき加減で、「あ……、うん」と答える。
それで会話は終了したかのように思えたが、以外にも真希が続けて
言葉を発した。
「吉ちゃ――、よっすぃは?」
「ん……?」
「梨華ちゃん、待ってんの?」
「あ、うん。なんか、先に行って待っててくれって」
「ハハ。一緒だ」
笑っているのだが、その笑いは会話の間のようなもので特に何かが
楽しいわけではない。――ひとみは、これまで共に行動しながら、真
希のクセを見抜いていた。
真希が本当の笑顔を見せるのは、市井といる時だけであるのも知っ
ていた。
(市井さんといる時は、”真希ちゃん”だ……)
(10年前と同じ……)
(真希ちゃん……)
(真希ちゃん……)
ひとみは、後藤をジッと見つめたまま10年前の姿と重ねていた。
さっきまで何も見ていなかったような真希だったが、ついにその視線
に耐えきれなくなったのか少し顔を赤くして顔を背けた。
「後藤の顔に……、なんかついてんの……?」
後藤の言葉に、ひとみはハッとわれに戻った。
「あ、ううん。別に。それより、2人とも遅い。何やってんだろうね」
ひとみは苦笑すると、辺りを大袈裟なほど見渡した。
その姿を横目でチラリと見た真希が、クスッと笑う。
「真希ちゃん――」
ひとみはその笑顔を見て、思わずそう口走ってしまった。さっきの笑
顔は、10年前に自分に向けられていたものだったからである。
後藤が驚いたような表情で、ひとみの方を向いた。後藤にとっては、
とても懐かしい呼ばれ方だった。
「そう呼んでるの……、吉ちゃんだけだよ」
「真希ちゃんも、ずっと覚えてたんだね。その呼び方」
2人は互いに見つめあい、そして静かに笑った。
「先……、買い物してようか?」
「……だね」
と、ひとみと真希は、互いにどこかぎこちなさを残しながらも微かな
照れ笑いのようなものを浮かべてスーパーマーケットへと入っていっ
た。
飯田の能力がなんであるのか、そして希美との関係を誰も詳しくは
知らなかった――。
市井と梨華には、相手の考えていることを読みとる”精神感応”の能
力があり詳しく探ろうと思えばできない事はない。
だが、市井も梨華もあまりそういう事はしたくはなかった。人には誰し
も触れられたくない部分があり、ましてや共に暮らす仲間としてはそ
のようなものを知らないでいる方が潤滑な人間関係を営む事ができ
る。
もしも、自分で話したくなった場合は、そのような力を使わずとも普通
に聞くこともできるので、極力、緊急な時以外は仲間うちでは意識下
を読むような事はしないようにしていた。
しかし……。
市井は気になっていた。希美の能力は、”時間移動”であるということ
は、7日ほど前にわかった。
だが、それ以来、特に何も能力は使っていない。
市井はコテージで自らの口で、今自分たちがおかれている状況を飯
田と希美に説明した。さらにはその前に、中澤の口からも説明されて
いるはずである。
普通、そのような状況に置かれている場合、矢口のように未来を事
前に知っておきたいという不安に駆られたりはしないのだろうか――、
と、市井は思うのだが、今、目の前で加護と戯れながら旅館の掃除を
している希美はそんな事はまるで考えていない様子である。
「市井さん、どうしたんですか?」
加護の問いかけに、市井はフッとわれにかえった。考え事をしている
間、ずっと2人の方に視線を向けていたらしい。
加護と希美が、きょとんとした顔をしている。
「いや、別に。それより、ここ頼むね。隣の部屋掃除してっから」
――と、市井は加護と希美を残して廊下へと出ていった。
市井が廊下に出ると、土間に飯田がいた。たしか、土間に群生して
いる雑草の掃除を頼んであったのだが、上がりかまちに座り込んで
宙をぼんやりと見つめている。
そのような状態の飯田は、”交信中”らしい。チャネラーとしてはもっ
ともな状態なのだが、希美にいわせるとそれは特に関係ないらしく、
癖のようなものだと市井は教えられていた。
「圭織。――圭織」
と、何度も名前を読んでみたが、飯田の意識はもう遠い彼方に行っ
ているらしく、戻ってくる事はなかった。
市井は軽いため息を吐いて、廊下を奥へと歩いて行った。
旅館の掃除は、いつまでたっても終わりそうな気配はなかった――。
中澤と矢口は、遠巻きに2人の様子を眺めていた。
ひとみと後藤が、まるで昔からの親友のように談笑しながら露天風呂
の掃除をしている。
麓の町に行く前までは、いつもの様子と変わりがなかった。
それが帰ってきた途端に――。
「何があったんやろ……」
「わかんない」
中澤と矢口も、2人の関係を知っている。決して修繕されるようなもの
ではないだろうと、中澤も矢口も思っていた。
万が一、互いが歩み寄るような事があってもそこにはほどほどの距離
があり、今こうして目の前の2人のようにはならないだろうと思っていた。
「あ、中澤さん、矢口さん」
2人に気づいたひとみが、笑顔で手を振った。
思わず笑顔で手を振り返した2人ではあったが、かなり引きつった笑み
を浮かべていた。
「もうすぐしたら、ここ使えるようになるからねー」
後藤がいつになく、はしゃいでいる。
「夕飯までには終わらせますから」
「ちょっと、よっすぃ。泡ついてるよ」
「え? あ、ホントだ」
他愛もないことで笑う2人を眺めながら、中澤と矢口は2人を呼びに来た
目的も忘れて母屋へと引き返した。
「まぁ、もともと知り合いだったし、同い年だからね」
と、台所で料理の下ごしらえをしている保田は、驚いて訊ねる中澤とは
正反対に、さもなんでもないように言った。
「今まで一緒にいて、吉澤にも後藤の気持ちわかってたみたいだし」
土間の囲炉裏で火を起こしている市井。
その横に、もう数時間前から同じ格好で宙を見つめている飯田がいる。
「まぁ、仲良うなったんならそれでええけど。それより、みんなは?」
中澤は辺りを見回したが、どこにも他のメンバーの姿はなかった。
「加護と辻は、遊び疲れて寝てる」
保田が苦笑して、廊下の奥の方を顎で示した。
「梨華ちゃんは?」
「川に米研ぎに行くって」
「ネガティブになってんじゃないのー?」
矢口の予想は、それなりに当っているらしく保田が困ったように小さく苦
笑した。
夕暮れ――。山の奥深い場所なので、空は夕暮れの色を醸し出して
いるが地上の方は早くも夜の色を濃くしている。
梨華は、米粒を”釜”からこぼさないように注意して米を研いでいた。
注意していたつもりだったが、研ぎ汁を川に流す時、手の隙間から大
量の米が漏れてしまった。
「……やっちゃった」
梨華は軽いため息を吐くと、米を研ぐ手を止めた。
注意力が散漫になっているのは、自分でもわかっていた。そして、その
原因が何かもわかっている。
「別にいいじゃない……。ひとみちゃんとごっちんが仲良くしてても」
梨華は小さな小さな声を出して、そうすることによって自分自身を納得さ
せようとした。
ひとみたちに知らせておいた待ち合わせ時間よりわざと数十分遅れて、
保田と梨華がスーパーマーケットに到着した時、もう既に2人は仲良く
並んで一緒に買い物をしていた。
その様子を見て保田はホッとしていたようだったが、梨華は嬉しいと思う
反面どこか寂しさのようなものを感じた。
帰りの車中では、2人はあまり喋ることはなかったが、来る途中の車内
の空気に比べればまるで別物であった。
流れ込んでくるひとみや後藤の意識が、戸惑いからハッキリと喜びに変
わっていたのである。
「……」
もしも、このままさらにひとみと後藤が深い関係になるようなことがあれ
ば、自分はいったいどのようにすればいいのか梨華には分からなかった。
今までのように、いつも側にいることもできなければいつも側にいてもら
うこともできない。
いつかのように、またひとみの中で自分ことが消えてしまうのではない
か、消えないまでもその占める割合のようなものが少なくなると考えた
ら、無性に泣きたくなってしまった。
わけのわからないモヤモヤとした気持ちを振り払うかのように、梨華は
米を研ぐ作業に没頭した。
「梨華ちゃーん」
もう日は暮れかけていて、辺りには青白い闇が広がろうとしている。
梨華がその声に気づいたとき、咄嗟に自分が長い間この場所で考え
事をしていたのにも気づいた。
梨華はその声に気づいていたが、なかなか振りかえることができなかっ
た。いつもの声で呼ばれてはいたが、どこか切なかった。振りかえって、
もしも冷たい態度などをとってしまったら――そう考えると、怖くて振りか
えることができない。
「梨華ちゃん」
足音が、梨華のすぐ後ろで止まった。
それでも、梨華は気づかない振りをして米を研ぐ作業をしている。もう少
し、もう少しだけ心を落ちつかせる時間がほしかった。
「なんだ。まだやってたの」
と、笑うひとみの声と一緒に、ひとみの心の中の声も梨華には届いた。
(心配した……)
(なかなか帰ってこないから)
(良かった……)
「ごめん、お米いっぱいこぼしちゃって……」
梨華はやっとの事で、いつもの声を出すことができた。でもやはり、そ
のトーンの違いをひとみは敏感に聞き分けたようで、すぐに心の中で
呼びかけた。
(なんか、あったの?)
「別に、なにもないよ」
と、梨華はひとみに背を向けたまま笑みをこぼした。
「でも……」
「もうすぐ戻るから、ひとみちゃん先に戻ってて」
「一緒に帰ろうよ。もう暗いしさ」
「大丈夫よ。すぐそこだもん」
「――梨華ちゃん、ホントどうしたの? 何か、変だよ。こっち向いてよ」
「……ごっちんが待ってる。ご飯もお風呂も一緒に約束してるんでしょ。
早く戻った方がいいよ」
「梨華ちゃん……」
ひとみの小さな呟きが聞こえた梨華は、きっともうひとみは呆れて帰っ
ていくものだと思っていた。ひとみの心の声はもう聞こえないようにし
ていたので、しばらくの間、ひとみが何を考えていたのかは分からない。
ひとみが隣にやって来た時、正直なところ梨華はホッと胸を撫で下ろし
た。なぜならば、ひとみが笑顔を浮かべていたからだった。
「梨華ちゃん、ひっとして妬きもちやいてんの?」
「な、なんでよ」
「なんか、今の言い方そんな感じだった」
「ち、違います。なんで、妬きもちなんか」
「なんだ――、違うのか」
「……?」
つまらなそうな顔をして夜空を見上げるひとみの顔を、梨華は見つめた。
「梨華ちゃんがもしも、ごっちんと仲良くするなって言ったら、アタシそうす
るよ」
「へ?」
「だって、梨華ちゃんに嫌われたくないもん」
「……」
「まぁ、梨華ちゃんもごっちんのこと好きだから、そんなこと言わないだろ
うけど」
「う、うん……」
「ごっちんも、きっと市井さんがそう言えばそうすると思う」
「……かな」
「なんかさ、違うんだ。アタシの中で梨華ちゃんの存在って」
「?」
「――特別なんだ」
梨華はその言葉を聞いて、顔を赤くした。なぜか分からないが、ひとみ
のそう言った横顔を見つめていたら、急に心臓の鼓動が高鳴った。
梨華はその状態に戸惑いを覚えた。自分の意識の最下層を自分自身
で見ることができたならば、きっとその感情はもう随分前からあったのだ
ろう。
だが、気づかない振りをしてずっと心の奥底にしまっていた。それが、
不意に今のひとみの言葉で上昇してきた。
それを、”恋愛感情”と呼ぶ事は、梨華にもわかっていた。そして、今ま
で悩んでいたものが”嫉妬”からくる”不安”なのだと言う事に気づいた。
「梨華ちゃん、どしたの?」
と、ひとみが顔を上気させてぼんやりとしている梨華の顔を覗き込んだ。
”楽園”ここが市井らの目指すユートピアなのかどうかは分からない。
きっと、違うものなのだろう。しかし、もうそんな事はどうでもよく。梨華に
とっては、ひとみのいるこの瞬間こそが”楽園”のように思えていた。
このまま時間が止まればいい――。
ひとみの顔を見つめたまま――。
梨華のささやかな願いは、中澤の怒声で打ち消された。
『石川、あんた何してんねん。カレーやで、ご飯がないってどういうこ
とやー』