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【導かれし娘。】第3部

Chapter−1<ゴトウマキ>

ひとみが朝比奈町に戻って、1ヵ月が経過した。
傷のほとんどは完治しつい数日前に退院もできたが、リハビリのため
の通院は必要だった。

今日もひとみは学校の授業を終え、朝比奈町にある大学病院で歩行
訓練のリハビリを受けていた。
頬に残った大きな傷も、右腕と左足の自由が効かないのも、ひとみに
とってそれほど苦にはならなかった。

ただ、梨華がいないことが悲しかった。
あの日”海響館”以来、ひとみは梨華の姿を見ていない。
サキヤマ町の病院で、ひとみが意識を失っている間、梨華は側に付き
添ってくれていたとは両親から聞いて知っていたが、意識が目覚めて
から梨華の姿を見ることは1度もなかった。

梨華の心情を、ひとみは容易に察することができた。
きっと、自分のこの傷のせいで顔を合わせづらい事はわかっていた。
だからこそ、ひとみはリハビリに励んでいる。

「あ、ここにいたんだ」
声に気づいて振りかえると、長い栗色だった髪をばっさりと切った石
黒彩が、リハビリ室で休憩しているひとみへと歩いてきていた。
ひとみは、軽く笑顔を浮かべて会釈した。
「家に電話したら、病院だって聞いたから」
と、石黒はひとみの横に座った。
「飲む?」
石黒の手には、彼女の好きなイチゴブリックがあった。
ひとみは、それをやんわりと断ると聞きたいことを訊ねた。

「梨華ちゃんと安倍さん……、見つかりましたか?」
そう。梨華が現われなくなったのと同時に、なつみの姿も見えなくなっ
ていた。
しかし、なつみはもともと北海道からサキヤマ町に叔母の見舞いに
来ただけである。ひとみはてっきり、北海道に帰ったものだと思っ
ていた。だが、石黒の話によると北海道には戻っていないらしい。

「探してはいるんだけどね」
と、石黒は残念そうにつぶやいた。石黒はもうマスコミ業界から身を
引き、今は花嫁修業も兼ねて都内の料理教室に通っているらしい。
だが、やはりなつみのことが気になり、彼女の行方を必死に探してたり
もしている。週に1度、ひとみの見舞いも兼ね、失踪した二人の情報を
交換しに、こうして朝比奈町にやって来ている。

「……そうですか」
ひとみは、落胆の色を隠しきれなかった。もしかしたらという、恐ろしい
不安が頭をよぎったが、ひとみはそれを必死で否定した。

リハビリが必要なほどの怪我を負ったひとみが、梨華を探せる範囲とい
うのもたかが知れていた。
今のところ、梨華の勤めていた花屋「アップフロント」と、その女主人に教
えてもらったアパートの住所だっけだった。

朝比奈町から少し離れた場所に、梨華が1人暮しをしているアパートが
ある。実家の住所は、花屋の主人にも分からないらしい。
ひとみは、あまり期待せずにその場所へと向かった。

どこにでもあるモルタル造りのアパート。その2階に、梨華の部屋はあっ
た。そこに梨華はいない事はわかっていた。わかってはいたが、やはり
確かめずにはいられなかった。

松葉杖を使いながら重い足を持ち上げ、階段を上ることは困難だった
が、それでもひょっとしたらという淡い期待を抱き数十分かけて、15段の
階段を上った。

ひとみの予想通り、そこに梨華の姿はなかった。
何度呼び鈴を押しても、中に誰かがいる気配はない。

(梨華ちゃん!)
(梨華ちゃん、どこ!)
(いるんなら、返事して!)
ひとみは心の中で、叫んだ。――だが、梨華からの返事はない。
もしも、以前のように身体の自由が効くのならば、ひとみは迷わずベラン
ダからでも梨華の部屋に侵入しただろう。

そして、失踪の手がかりになるようなものを探しただろう。それでもしも、
ただ単に何かの都合で帰ってくるのが遅くなった梨華に見つかり、変な
目で見られても、それはそれでよかった。
無事に帰ってきてくれさえすれば、ひとみはどう見られても構わなかった。

――だが、身体は以前のような軽やかさを失ってしまっていた。

ひとみは、ただひたすら待ちつづける日々を送るしかなかった。

夜。
朝比奈町から遠く離れた他県の町。その安ホテルの一室に、梨華はな
つみといた。

梨華が買ってきたコンビニの弁当を、なつみは狂ったように貪っていた。
(安倍さん……)
梨華は、悲しそうに目を伏せる。

あの日、なつみは子供たちを守るために、すべての力を炎に変えて、子
供たちを狙う2人の少女に放った。
それまで、限りない攻防を繰り広げただ時間を消費してたに過ぎなかっ
た戦いも、なつみのその攻撃により呆気なく勝負がついた。

だが、人を殺した罪の重さにより、なつみの精神は壊れた。
梨華がどんなに言葉をかけても、どんなに現実を見させようとしても、な
つみは何も受け入れなかった。

深い心の傷を負ったなつみを見捨てることもできず、かといって異能の
力を持った集団に命を狙われている自分達が助けを求められるような
場所はどこにもない。

レーダーの網をひろげほんの少しでも危険な思考をもっている人物に、
ビクビクと怯える生活を続けていた。
救いが1つあるとすれば、この町のこの安ホテルに身を潜めてから、ま
だ1度も能力者の意識を捉えずにいることだけであった。

(でも……)
梨華は、明日香の最後の言葉が気になっていた。

【ここに会社のヤツラが来る。そいつらには、
絶対に敵わない。あの2人が厄介なんだよ。】

そう。確かに明日香は【2人】そう言った。
だが、梨華が感じたのは【1人の意識】だけだった。

(2人……)
(あの強い意識で気付かなかっただけなのかな……)
梨華は、本能的に感じる不安を除くことができなかった。

「梨華ちゃん」
なつみが、優しく語りかけてくる。
「は、はい!?」
なつみは、ニコニコと微笑みながら梨華が手を付けずにいるコンビニ弁
当を見ていた。
梨華に心が読める能力がなかったとしても、もう何週間も同じようなこ
とが繰り返されているので、なつみの欲する物は何も聞かないでもわ
かっていた。

「あ、どうぞ」
梨華は自分の弁当を、なつみにそっと手渡した。ここ数週間で、ふっく
らとして愛くるしかったなつみにも、そろそろ太り過ぎのシグナルが点
滅していた。
心配ではあったが、梨華にはどうすることもできなかった。

「梨華ちゃん……」
電気を消して真っ暗になったホテルの部屋。他に寝るスペースもない
ので、梨華となつみはシングルベッドを2人で使っていた。

そして、あの日以来、なつみは毎晩眠る頃になると、まるで子供のよ
うに梨華に甘えてきた。

なつみはソッと梨華に抱きついてきた。
そこから流れ込んでくるなつみの意識。
なつみは、母のぬくもりを一心に受けようとする子供そのものだった。

はじめは驚いた梨華ではあったが、自分がそうすることでなつみの心
がほんの少しでも癒されるのであればと、毎晩黙ってなつみの身体を
優しく抱きしめていた。

安心したなつみの意識が流れ込み、やがて眠りにつく頃まで、梨華は
なつみを抱きしめる。

(……このままじゃ、いけない)
(でも、どうすればいいの……?)
(ひとみちゃん……)
(会いたいよ、ひとみちゃん)
(ひとみちゃん……)
なつみを抱きながらも、梨華は毎晩のようにひとみのことを考えては、
心細くなって泣いた。

もう生活資金も残り少なくなっている。
これまではなんとか、梨華の貯金を切り崩しながら生活してきたが、
もうそれも底をつきはじめた今、新たな仕事先を見つけなければ、ホ
テルを追い出されてしまう。

梨華は、力を使ってなつみを眠らせ、見ず知らずの町を歩き回った。

【アルバイト募集】と書かれたチラシが店先に貼ってあると、アポもと
らずに駆けこみで申し込んでみた。だが、未成年で住所もない梨華を
雇ってくれるような場所はどこにもなかった。

途方にくれていると、梨華の意識に誰かの意識が流れ込んできた。

(あーあ、誰かアルバイト入ってくれんかなぁ)

意識は、かなり切実なものであった。
だがその切実な願いは、梨華にとっては好都合なものである。
梨華は咄嗟に、辺りを見まわした。
いくら意識を感じても、それがどこの誰から流れ込んでいるのかは
わからない。

梨華は運が良かったのかもしれない。人通りの多い道は、様々な
意識が流れ込んでくるため極力、そのような道を避けて歩いた。
そして今、午後の人通りの途絶えた飲食店街を歩いていたのである。

梨華の目的の人物は、数メートル先の十字路を横切っていた。
淡いブラウンの髪をした、すらっとした若い女性。
その女性は相変わらず愚痴のような意識を流し続けていた。

「あ! あの!」
梨華は思わず、数メートル離れた場所から声をかけた。
はじめ女性は自分が声をかけられたとは思わなかったので、そ
のまま梨華の声を無視して歩き続けた。
だが、もう1度梨華の声を聴くと周りに自分しかいないのを認識
し、ゆっくりと声のした方向を見た。

「あ、あの……」
思わず駆けよった梨華だったが、その後は何を話していいかわ
からなかった。まさか、心を読みましたとは言えない。

女性は丸いサングラスを少しずらして、梨華をマジマジと眺めて
いる。
(なんや、この子……?)
(ちょっと、頭おかしいんか?)
(うわ、やばいでぇ)

怪しまれ始めたのを感じとった梨華は、もう何がなんだかわから
なくなって、「私を雇って下さいッ」といきなり頭を下げた。

「は?」
(やっぱ、おかしい)
(雇って?)
(……店のチラシでも見たんか?)

梨華はその意識をすばやく読みとり、女性にそれ以上考える時
間を与えないように口を開いた。
「あの、お店のチラシ見て」

「あ、そう」
(なんや、やっぱりそうか……)
(けど……)
(見た目は合格やけど……若すぎるんちゃうか)

「あの、石川梨華15才。神奈川県生まれ」
梨華は思わず、自己紹介をしてしまった。
女性は、「はぁ?」と口を開けっ放しにした。
梨華の表情に、またやってしまったという色が浮かんだ。

雇ってもらえないだろうと1度は落胆した梨華だったが、女性が
とても彼女のことを気に入ったらしく、詳しく話を聞きたいとの事で、
女性の店である居酒屋へと連れていかれた。

「そうかぁ。まぁ、詳しい事はもうええわ。そのかわり、ここで居る
間、自分、18才で通しや。バレたら、ややこしいからな。それで
ええか?」
「はい、頑張ります」
梨華は、「ありがとうございます」と深々と頭をさげた。

能力で心を読み、相手の納得する答えを出す。それは梨華が、誰
に教わるでもなく覚えた、能力を隠すための処世術であった。
それが功をそうし、完全には納得していないものの梨華は女性の
店で働けることになった。

問題は、なつみと住居のことであったが、それも同時に解決するこ
とができた。

女性の納得する答えを導き出した結果――、なつみは梨華の姉
で、2人は親の借金で住む家がなくなったという悲劇の姉妹になっ
た。トラブルが起きてからでは遅いので、梨華は正直になつみが
精神的に不安定になっていることも忘れずに付け加えた。

女性は、「アンタも、大変やなぁ……」と少し涙ぐみながら、梨華の
ためにジュースを取りにいった。
そして、しばらく世間話をして正式に採用となったのである。

(ごめんなさい、平家さん……)
梨華は、これから雇い主になる若い女店主――平家みちよに対し
て本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

――石黒のもとには、梨華とひとみについてのいくつかの情報が
転がり込んできていた。
数人の知り合いに頼んでいたものが、次々と集まってきたのであ
る。

石黒はその資料を読み、2人の居場所のおおよその見当はつけ
ていた。
しかし、彼女はこれをひとみに知らせるべきかどうか迷っていた。
ひとみに知らせれば、すぐに喜んで駆けつけるだろう。石黒も、2
人には会いたい。

(でも……)
正直なところ、もうあまりかかわりたくないという気持ちもある。
”オカルト”を否定していたのに、ほんの1日でその考えをまったく
逆にしてしまうような事件に遭遇してしまったのだ。

ケガもした。幸いにも石黒は軽傷で済んだが、ひとみは命に関わ
るほどの怪我をし後遺症まで残ってしまった。
石黒は、もうこれ以上ひとみを不幸な目に合わせたくなかった。

そして何よりも不気味なのが、梨華やなつみを執拗以上に付け
狙った相手の存在である。
その正体はまったくの謎であった。
あれだけの目撃者もあり、なおかつ破壊された建物などの物的
証拠も残っている。しかし、警察もマスコミも動かなかった。

ひとみたちと知り合うきっかけともなった、朝比奈学園の事件も
そうだった。
取材の途中で、突然ストップがかかった。それに納得できなかっ
た彼女は、出版社をクビになった――。

どれもこれも、直接の目撃者以外、世間の多くの人は何も知ら
ない。情報を操作できるほどの大きな力の存在は、石黒のジャー
ナリストとしての魂を震え上げさせた。

「これ以上、関わるのは危険……」
石黒は、調査報告資料の束をまとめるとそれをクローゼットにし
まった。そして、服を着替えて料理教室に行く準備をする。
そうするのが正しいのかどうかわからなかったが、今はもう今日
習う料理のことだけを考えたかった――。

酔った客たちの意識をガードしつつ、働くという事はかなりハードなこと
だった。これまでのように、”花”をキーワードに流れてくる”祝い”や”プ
レゼント”や”美”などいう比較的プラスの穏やかな思考を流していた客
たちを相手にしているようにはいかなかった。

そこには様々な感情があった。
比較的”悪意”が流れ込んでくる事はなかったが、”愚痴”や”酔っ払い”
の思考がガードの向こう側でざわめいているのは、あまり気分のいいも
のではなかった。

しかし、梨華は常に笑顔を絶やさないように一生懸命働いていた。
そうしなければ、もうどこにも行くところはなかったし、常連客たちと注文
をとっている間に交わす短い会話は楽しかった。

働きはじめてから10日、梨華は早くもこの店の看板娘になっていた。
平家はその姿をカウンターの中から、温かい眼で見守っていた。

午前1時。平家は、表の暖簾を外す。
「はぁ〜、今日も終わったなぁ」
と、誰に言うでもなく、客足も途絶えた繁華街の片隅にある店先でそうつ
ぶやいた。
「あの、平家さん」
「ん?」
「ビールの在庫が少ないですけど、どうしましょうか?」
と、梨華が業者への注文表を片手に訊ねてきた。

正直、梨華の現状に同情して住み込みのアルバイトとして雇ったものの、
やって行けるのかどうか心配だった。
世間のことを何も知らないお嬢様のような風貌と、そのアニメのような声
がより一層そのような心配をかきたてた。

だが今は、雇って正解だったと確信している。いや、雇うことができてあり
がたいとさえ思っていた。

その仕事ぶりは優秀そのものだった。こちらが考えていることをすべて、
こなしてくれる。今も、これからビールの発注をどうしようかと何気に考え
ていたところである。
(ホンマ、ええ子やわ)
平家は、ビールの発注をFAXしに店の中へ戻る梨華の後ろ姿を見つめな
がら、しみじみと考えたりしていた。

――その平家の意識は、梨華に伝わっていた。
(ごめんなさい。全部、わかってるんです)
と、心の中で謝りながら、FAXの送信ボタンを押した。

数日後の夜の事である――。
ひとみの住むマンションの一角には、小さな公園があった。
小さな遊具が備え付けられており、小さな噴水もあった。
噴水の水面に映っていた月が、風もないのにゆらゆらと揺れた。

「うわぁ、懐かしい」
1人の少女が、その長い栗色の髪の毛を躍らせながら遊具へと
駆けていく。
もう1人のベリーショートヘアーの少女は、遊具で遊ぶ少女をベン
チに腰掛けて眺めていた。

その5分後。
ひとみの家に1本の電話が入った。母親は風呂に入っており、弟
2人はゲームに夢中になっているのか、電話のベルが鳴っていて
も部屋から出てこようとしなかった。
父親はまだ仕事から戻ってきていない。

「もうッ、ケガしてるの忘れてんのか」
と、ひとみは聞こえないのはわかっていたがブツブツと弟たちに向かっ
て文句を言いながら、リビングにある電話をとった。

「はい、もしもし。吉澤です」
ひとみの苛立ちは、声になっても現われた。

『あ、もしもし、よっすぃ〜。アタシだけどさ』

”よっすぃ〜”その呼び名からして、矢口からの電話かとも思ったが、
矢口より若干声が低かった。
だが、一応は矢口からの電話かもと疑ってみた。

「矢口さん……ですか?」

『ハハ、矢口さんですかって。やっぱ知ってるよ』
と、電話の向こうにいる相手は別の相手に話しかけているようだった。

「誰か、わかんないんですけど」
その失礼な態度に、ひとみの苛立ちはまた少しUPしたようだ。
だが、相手が名乗った瞬間、その苛立ちは跡形もなく消え失せ、恐
怖だけが甦った。

『真希だよ。後藤真希』

(……)
(……)
(……)
――ひとみの手から、受話器が滑り落ちた。
(なんで……)
(なんで……)
(なんで……)

『おーい、よっすぃ〜、聞こえてる〜』
ぶら下がった受話器から、真希の声が漏れていた――。

夜の公園。

「後藤」
と、真希を呼ぶ声が響く。
すべり台に座ってボーっとしていた真希が、「ん?」という感じで顔を
向けた。

「なに? いちーちゃん」

市井紗耶香は座っていたベンチから、ゆっくりと立ちあがった。
真希は、市井の視線を追った。
公園の出入り口に、影が佇んでいる――。

「ハハ。遅かったね」
目を細めていた真希は、その影が誰であるのかを確認した。

その影は、一向に出入り口から動こうとしなかった。正確には、動き
たくても動けなかったのである。

ひとみには、ほんの少しの思いあがりがあった。福田明日香や松浦
亜弥にも、逃げないで立ち向かった。
だからこうして、以前だったらその名前を聞いただけで気を失いそうに
なった”後藤真希”に、会いに来たのである。

なにより、誘いを無視して公園に向かわなかったら家族に何をされる
かわからないという危惧感も、ひとみをこうして公園に向かわせた理
由の1つでもあった。

だが……、真希を目の前にすると足がすくんでしまい一歩も動かなかっ
た。

ひとみにはまだ、真希の姿ははっきりとは見えていない。だが、真希で
あろう人物から発せられる異様な雰囲気だけで、足がすくんでしまった
のだ。松葉杖を支える手も、すでに力を失いかけていた。

「ったく、何やってんのさ。せっかく、会いに来てあげたのに」
と、真希がゆっくりとひとみに向かって歩いてくる。
「でもこの公園も変わってないねぇ。あの時と同じだーね」
真希は、腕を後ろに回して呑気に辺りを眺めながら歩いてくる。

ひとみは見た。
公園脇の街灯に照らされた真希の姿を――。
成長を遂げた後藤真希の姿を――。そこから発せられる雰囲気とは裏
腹に、なぜだか少し懐かしい感じがしていた。

(砂遊びをしてた、真希ちゃんだ……)
ひとみは、そんな風に思った。

数メートル先で、真希が立ち止まった。
向こうからも、ひとみの姿が見えているらしい。
それまで何か公園の様子について喋っていた真希だったが、ひとみの
姿を一瞥するとその余裕の表情が少し切なげな表情に変わった。

(ほら、やっぱりあの頃と同じだ……)
ひとみの目には、10年前の真希の姿が写っていた。

市井紗耶香は、公園の出入り口で佇んでいる二人の姿を、ただ黙って
見つめていた。

梨華はすべての仕事が終わると、エプロンを外しながら2階にある部屋
へと戻った。
ゆっくりとドアを開けると、なつみがス〜ス〜と寝息をたてて眠っていた。

梨華はなつみを起こさないように、こっそりと平家が用意してくれたパジャ
マに着替えた。

(はぁ……、シャワー浴びたいな)
この部屋はもともと、ちょっとした休憩をとるような場所を目的に作られて
おり、トイレもなければ風呂も台所もなかった。
住み込みとして雇用してもらったが、もともと住み込みできる造りで建て
られていないので仕方がないと言えば仕方がないが、焼き鳥の煙や脂
やタバコや酒の匂いが染付いたまま眠るのは、15才の少女にすると辛
いものがあった。

(寝れるところがあるだけ、いいよね……)
(ご飯も食べれるし……)
梨華は、自分を納得させている間に、いつの間にかぐっすりと眠っていた。
肉体的なこともそうなのだが、精神的にも疲れはもはやピークに達しよう
としていた。

梨華が深い眠りに入ってしばらくした頃、なつみの目が突然ぱちりと開いた。
暗闇の中でそのつぶらな瞳をキョロキョロと動かし、物音を立てずに部屋の
ドアを開けて階下へとおりていった。

なつみは真っ暗な店の中でも、電気をつける事はなかった。
ほんの少し、力を使って小さな炎を浮かびあがらせると、その明かりを便
りに店の業務用冷蔵庫を開けた。

そこには店で使う冷凍用の食材が、いくつかしまわれている。
なつみはそれをおもむろに取りだすと、強めの炎を浮かびあがらせ食材を
解凍すると手当たり次第に貪った。
暗闇の中に浮かぶいくつかの小さな炎、その薄暗闇の中で一心不乱に
食料を貪るなつみの姿は、どこの誰が見ても異様な光景だった。

――翌日の昼過ぎ、梨華はまだ眠っているなつみに声をかけた。
「安倍さん、起きて下さい。もう、お昼ですよ」
「う〜ん、もうちょっと」
と、なつみは寝返りをうった。

このままで良いはずはないのだが、これ以上しつこく起こそうとすると
なつみは炎を浮かびあがらせて梨華に抵抗してくる。
抵抗と言っても、そこに攻撃をくわえるつもりはない。
ただ、驚かせてその様子を盗み見て笑うだけであった。

「もう、いい加減にして下さい。怒りますよ」
なつみはしぶしぶといった感じで、目を閉じたまま大きく伸びをする。
「う〜ん、抱っこ……」
と、なつみは両手を大きく広げる。
梨華は小さなため息を吐くと、なつみの要求に答え布団から立たせた。
腕力のない梨華にとって、体重のあるなつみを起こさせるのは容易な
ことではなかった。

なつみの幼児退行現象は、ここに来て急激に進んだ。
梨華と2人でいる時間は、梨華にベッタリと引っ付いて離れないので
ある。
それはきっと、1人になることの不安によるものなのかも知れない。

近くにある銭湯で風呂に入っている間も、食材の買出しに行っている
間も、料理の仕込みをしている間も、ずっと側にいて離れようとはしない。

店の中だけなら、まだよかった。
平家には最初に事情を説明してある。平家が2人を微笑ましく見てい
る意識を感じて、梨華はホッと安心していた。だが、他の場所では色々
な関係を想像されて、恥ずかしくて顔を上げることさえできなかった。

なつみを抱え起こした梨華が次にすることは、なつみのパジャマを脱
がせて着替えさせることであった。
なつみは、自分でボタンをかけることもできなくなっていた。

梨華が黙々とその作業を進めていると、部屋のドアが静かにノックさ
れた。
訪問者は、2階に訪れることは滅多にない店主の平家であった。

開店前のひっそりとした店内。なつみは、カウンター席で平家が用意
した料理を食べていた。昼夜逆転した生活では、それは朝食にあたる。

梨華と平家は、テーブルに向かい合って座っていた。
しばらく無言の時が流れている。

「どんな事情があったか、聞いたりせえへん。」
ヒールをコップに注ぎながら、平家がおもむろに話しを切りだした。
梨華には平家の考えている事は、すべてわかっていた。だが、それを
口に出すこともできない。黙って、うつむいたまま平家の話を聞いていた。

「けどな、このままやったらアカンと思うねん……」
と、なつみの背中を見つめた。

「梨華ちゃんたちが2階に越してきてから、気付いてはおったんや。なん
ぼ、冷蔵庫のもん勝手に使ってもエエって言うても、減り方がまともやな
かったから……」

梨華は、なつみの行動にまったく気づいていなかった。疲れていたとは
言え、不覚だったと後悔した。
平家の意識を読みとると、平家は昨日の夜、店の外からなつみの姿を
目撃したらしい。ただし、炎は”ろうそくの炎”と勘違いしているようであっ
た。どちらにせよ、深夜のなつみの行動は奇異な行動ではある――。

「それでな……」
「……」
「その……な、知り合いにな、病院の先生してる人がいるんやけどな」
「……はい」
「いや別に、どうこうやないんやで。ただな、どっちも心配なんや。このま
まやったら、アカンような気がしてな」

平家の心配をよそに、なつみは用意されていた梨華の分の食事に手を
つけ始めた。それを見た平家は、悲しそうな表情を浮かべて2人に同情した。
梨華は、ここにいられる時間が長くないのを感じていた。

平家が心配してくれるのはとてもありがたかったが、命を狙われている
なつみを1人病院に残す事は到底考えられなかった。

「あの……」
梨華は、重い口を開こうとした時だった。

「失礼します」
「失礼しまーす」

と、2人の声が聞こえてきた。梨華は、その声にどことなく聞き覚えが
あった。

「あ、ごめんなぁ。営業時間まだやねん」
と、平家が顔を上げる。梨華は、声の記憶の糸をたどっていた。と、同
時に疑問も浮かんできた。

(なんで、入ってくるの気づかなかったんだろう……)
(疲れてるのかな)
(平家さん? どうしたんですか、ボーっとして)
梨華は、平家の視線を追って後ろを振りかえった。そして、時間が止ま
るような錯覚に陥った。

「あ、やっぱりこれ効き目あるみたいですね」
ヘッドギアをつけた小柄な少女が、隣にいる女性に向かって言った。
「安倍なつみさんと、石川梨華さんですね」
なつみが、食事を隠すようにして2人に背を向けた。
「保田さん、あの人やっぱり変。なんであんなんに、やられたんやろ」
「加護」
保田と呼ばれた女性が制すると、加護亜依はシュンとおとなしくなった。

梨華の脳裏に、朝比奈学園で聞いたアナウンスの声が甦った。
と、同時に新たなる刺客が目の前に現れたことを悟った。

「梨華ちゃん、知り合いか?」
平家の声がとても遠くに聞こえる、梨華であった――。

「会社としてはもう1度、2人の処遇について検討してみました」

近くの公園に、4人は来ていた。平家の店に迷惑がかかるのを恐れた
梨華は、平家に心配させないように保田と加護は失踪した父の知りあ
いだという事にして、この場所にやって来た。

「その結果――」
保田が、手にしていたアタッシュケースから書類を取りだした。
「安倍なつみさんには、あるセクションの中枢部に所属してもらうことに
なり、石川梨華さんは、われわれと同じセクションに所属してもらうことが
決定しました。これがその正式採用通知です」
と、保田が梨華に書類を渡した。

「……正式採用って、どういうこと」
梨華の不安はかなりのものであった。これまで、自分の能力を疎ましく
思っていたが、いざ実際に心を読み取れない二人を目の前にすると不安
で不安で仕方がなかった。
ましてや、相手は自分達の命を狙っていた者の仲間である。

「ホンマは、こんなチャンスないんやでー」
と、加護がおどけたように言った。
「――安倍さんの能力は、わが社にとってやはり有益だと判断しました。
そして、石川さんの能力は、私たちの所属するセクションに一人欠員が
出まして」
「欠員って……」
「明日香……。福田明日香です」

”福田明日香”という名前を聞いて、なつみの顔色が変わった。

「安倍さんの力って、すごいんですよねぇ。まだ見たことないけど」
と、加護がなつみに笑いかけた。
なつみは、咄嗟に梨華の後ろに身を隠して震えた。

「……ただ、これでは戦力になりませんので、しばらく我が社の所有する
病院で治療に専念してもらいます」
「治療……」
「ええ。このようになってしまうケースは、稀にありますから。専門の病院
を設けているんです」

「保田さん、もう帰りましょう。こんなん着けてるん、恥ずかしい」
「……まぁね。じゃあ、安倍さん石川さん、行きましょうか」
と、2人は並んで公園の外へと向かって歩きはじめた。

梨華は、逃げられない事がわかっていた。いくら特殊なヘッドギアで梨華
の能力が使い物にならなくなっていても、2人のその自信は態度となって
現れていた。

「あ、そうだ」
と、しばらく歩いたところで保田が振りかえった。
「わかっているとは思いますが、あなたたちに断る権利はありませんよ。
吉澤ひとみさんをご存知ですよね」

その名前を聞いて、梨華の胸は不安に引き裂かれそうになった。

「ひとみちゃん……、ひとみちゃんに何かしたんですか!」
「別に何もしてません。ただ――、石川さんもあの現場で感じたと思うけど」

梨華は忘れてはいなかった。あの強い意識の波動――。

「吉澤さんは、あの2人の監視下に置かれているから」

梨華はほんの少しだけ、ホッとすることができた。監視下に置かれている
と言う事はまだ何もされてはいないはずで、自分となつみの行動のいかん
によれば、何事もなく解放されるはずであった。

「1つだけ、条件が……」
「無事に帰してやれって言いたいんでしょ」
やはり、すべてはお見通しだったようである。

「あなたの返事次第だけど、まぁ断る事はしないから、無事でしょうね」
「保田さーん、早く帰りましょー」
と、遠く離れた加護が呼ぶ。
保田は、「はぁ」と軽くため息を吐くと、そちらに向かって歩いて行った。

残された梨華は、なつみを振りかえった。
なつみはただ、怯えた子供のような目で梨華を見上げているだけだった。
「……行きましょうか」
梨華がなつみに手を差しだすと、一瞬だけ躊躇したがすぐに笑顔を向けて
握り返してきた。

不本意で不安でもあったが、どこか肩の荷が下りた感じがした梨華であった。
わずか2週間ばかりの『居酒屋 平家』の看板娘は、この町から姿を消した。


Chapter−2<サヨナラ>

「これから、どこに向かうんですか……」
梨華は後部座席から、弱々しい声を発した。
運転している保田は、バックミラーで梨華の顔を一瞬だけ覗くとすぐに
前方へと視線を戻した。

「梨華ちゃん……」
不安からなのだろう、なつみは車に乗り込んでからずっと梨華にしがみ
ついたままだった。
「大丈夫ですよ」
なつみの髪の毛を優しく撫でながら、梨華自身も平静を取り戻そうとし
ていた。だが、車内には重苦しい雰囲気が漂ったまま、どこかへ向かっ
てもう2時間以上も走っている。

車窓の向こうの景色は、夕暮れに染まっていた。

それからさらに、1時間以上が経過した頃、車はとある敷地内へと入っ
ていった。地理に――、東京に疎い梨華だったが、その場所は何度も
TVで見たことがある。

――車が入ったその場所は、国会議事堂だった。

車は議事堂裏へと周り、地下へのスロープを下りていった。どのくらい
走ったのだろうか、地上の喧騒はまったく聞こえない地下駐車場で保
田の運転する車は止まった。

「さ、降りて」
保田が運転席に座ったまま、梨華たちをうながす。
「加護! アンタ、いつまで寝てんの! ついたわよ」
と、助手席に座るやいなやここまでずっと眠りっぱなしだった加護を揺り
起こす。

梨華は怯えるなつみの手をとると、保田と加護を残して車の外へと降り
立った。地下――。らしくない、地下であった。まるで快晴の空の下に
いるような、上を見ることもできないくらいの明るさである。

そして、広すぎる空間に違和感を感じる梨華であった。

(……こんな、地下ってあるの?)
車が列をなして数十台停車している。駐車場出入り口からは、数百メー
トル離れた位置である。
そして、車のその向こうにはさらに、数百メートル何もない空間が続いて
いる。
広大な敷地の割に、停車している数が少ない――。

なんの目的で建てられているのか分からないが、駐車場がムダに広い
地下であった。

「お待たせ。さ、行くわよ」
後ろからやってきた保田は、まだ眠そうに目をこすっている加護の手を
引きながら、目の前の建物へと入っていった。

いくつ廊下の角を曲がっただろうか、いくつの扉を開いただろうか、何回
エレベーターの昇降を繰り返しただろうか、保田と加護が立ち止まった
その部屋の前で梨華はもうすでに方向も位置もわからなくなっていた。

ひとみを監視下に置かれている以上、下手な動きをするつもりはまったく
なかったが、それでも出入り口からの位置関係ぐらいは認識しておきたかっ
た。隣にいるなつみは、ここに来るまでに相当の体力を使っているようだった。

――その扉は何か特別な細工を施しているのだろう、保田が扉を開けた
瞬間に、以前感じたことのある強烈な意識の波動がドッと押し寄せてきた。

梨華は思わず短い叫び声を上げると、反射的に身をちぢめた。だが、その
後に届いた懐かしい意識の流れ――。

梨華は、すぐに分かった。その意識の流れを感じると、先ほどまで畏怖で
あった波動はそれほど苦にもならなかった。

梨華は、思わず部屋の中へと足を踏み入れた。だが、急にその懐かしい
意識の流れはピタリと止まった。

部屋の中は、がらんとしたものだった。凝った装飾品も何もない。ただ単に、
応接セットのようなものが部屋の中央に置かれていただけだった。
そのソファに、2人の少女が向かい合って座っている。
何か小声で話しているようだったが、少し離れているため梨華には聞き取
れない。

どちらかが、強烈な意識の波動を発している。きっと、攻撃的な能力を持っ
たタイプの人間なのだろうが、2人の少女を見ている分には、梨華にはど
ちらがそうなのかわからなかった。

「あ、圭ちゃん、加護、お帰り」
栗色の長い髪をたなびかせ、1人の少女が振りかえった。
「おッス」
保田は、特に意識することなくヘッドギアを外した。
「メッチャ、恥ずかしかったぁ」
と、加護が甘えたように笑い、ごく自然にヘッドギアを取り外す。

2人はヘッドギアを外した。しかし、梨華には何も感じとれない。触手を伸ば
すことすらできなくなっていた。まるで、力がなくなったような錯覚に陥った。

「この部屋にはさ、力を押さえる効果があんの」
と、後藤の向かいに腰かけているベリーショートヘアーの少女が、梨華の
目を捉えながら言った。
「ま、後藤みたいなバカ力は押さえきれないけどね」
後藤と呼ばれた少女は、「ひどいな、いちーちゃん」と楽しそうに笑った。

(後藤……)
(あぁ……)
(ひとみちゃんの”ゴトウマキ”は、この人なんだ……)
この部屋に入った瞬間、能力を封じられた梨華ではあったが、その桁違い
の波動を持つ少女が、ひとみの中に封じられていた”ゴトウマキ”であるの
は間違いないと感じていた。

「そんなところじゃなんだからさ、2人ともこっち来たら」
保田が、部屋の入り口で佇んでいる梨華となつみに声をかけた。

なつみはすでに怯えきっていて、動こうとしない。
「安倍さん、大丈夫ですから」
「梨華ちゃん、あの子、怖い……」
と、泣きそうになりながら、恐るおそる真希を指さした。

「後藤さん、怖〜い」
加護がおどけるように言った。
「そっかな? そう?」
ぼんやりとした口調で、後藤はなつみを見つめていた。その目には、生気
のようなものは感じられない。なつみを見る目は、まるでそこにある”物”を
見るような目であった。

その目で見られたなつみは、震えながら梨華の後ろに身を隠した。
もしも、ひとみを人質にとられていなかったら、梨華はこの場を逃げていた
かもしれない。真希の発する雰囲気は、得体の知れない恐怖であった。

「ん? 誰ですか? この人」
市井と後藤のもとに向かった加護が、ソファを見下ろしている。
梨華の位置からは、高い背もたれが邪魔をしてそこに誰がいるのか見え
ない。
「スゴイ、傷ですねー……」
と、加護が顔をしかめながら言った。

「石川さん……だっけ?」
市井が、梨華を見つめながら口を開く。
「はい……」
「誤解してるかもしれないけど、ウチらは別に殺人集団じゃない」
「……」
「だから、こういうことは極力避けたい。――こっち来て」
市井が梨華に、こちらに来るようにと目配せをする。

梨華は、なつみの手をとり恐るおそるそちらへと近づいた。

「……!!」
後藤の横で眠っている少女を見たとき、梨華は声を上げることができな
かった。

そこにいたのは、まだ完全には傷の癒えていないひとみだった。

「ただ、そこはやっぱり他の人達とは違う力を持ってるからね。目的のた
めにその力を使っても仕方ない。その辺は、個人個人の判断に任してあ
んの」

「亜弥ちゃんも、教育係が悪かったせいで死んでもうたんや」
「加護、アンタは黙ってなさい」
「けど」
保田がギロッとひと睨みすると、加護はつまらなそうにその場を離れていっ
た。

「もう、いいでしょう……。私、逃げたりしませんから、ひとみちゃんを帰し
てください」
梨華は、ひとみから顔を背けながら呟いた。

「そう言うわけにもいかないの。あなたの初仕事が残ってるんだから」
市井は、ソファに背を預けながら冷たく言い放った。

「どういう……、こと……、ですか?」
「この子の記憶を、すべて無くして。それが、石川の初仕事」
「……!」
ひとみの記憶を抹消する――。それは確かに、意識を操ることができる
梨華にしかできないことであった。

「いちーちゃん……、別にそこまでしなくても」
後藤が市井の顔色をうかがうようにして、話しかけた。
しかし、市井は梨華から目をそらすことなく言葉を続けた。

「記憶を消せば、もうこんなケガをする必要もないんだ……。普通に生き
ることができる」

市井のその言葉に、梨華の心は衝撃にも似た感じを受けた。

”普通に生きられる者”と”そうでない者”、梨華とひとみの間にはその
一線があったことを、梨華は今さらのように思いだした。

はじめて出会ったあの日、梨華はその一線を覚えていた。これまでに
何度も信じられることができそうな人と出会う事はできた。だが、その
いずれも梨華に何か得体の知れない力を感じ、恐れ忌み嫌い離れて
いった。

そのたびに梨華は深く傷つき、もう誰も信じないようにしようと誰にも
必要とされないように静かに目立たないように生きようと決意したの
である。

だが、その孤独感は絶えられるものではなかった。

あの日、出会ったことは運命だったのかもしれない。梨華はいつも、
そう考えていた。梨華の力に対してひとみは、恐れたり忌み嫌ったり
する事はしなかった。これまで梨華が出会ってきた人たちのように、
心を読まれるのを恐れて離れて行ったりしなかった。

むしろ、梨華の力に対して理解しようと歩み寄ってきていた。そして、
無粋な態度で接してしまった時には、何度詫びてくれた事だろう。
梨華にとっても、それは初めての事だった。1人で静かに暮らす事さ
えできればそれでいい――。一生、1人なんだ――と、孤独の悲し
みに涙をする日もあった。

そんな孤独を忘れさせてくれたのは、ひとみと出会う事によって共に
過ごす時間があったからなのかもしれない。

共有した時間は、梨華にとって宝物だった。たとえ、そこに悲しみや
恐怖が存在していても、ひとみと過ごした時間は宝物だった。

しかし、市井の言葉を聞いた今、それは自分よがりな勝手な妄想
なのかもしれないと思いはじめた梨華であった。

「後藤。それで、いいね?」
と、市井が後藤に声をかけた。
向かいに座っている後藤は、何も答えずにぼんやりとひとみを見つ
めた。その目には、多少の侘しさのようなものが浮かんでいる。

「後藤」
「……いいよ。もとはと言えば、後藤が吉ちゃ……よっすぃの前で
あんな事しなきゃよかったんだもん」
「石川も、この子が本当に大切だったら、そうしてやりな」

「……でも、記憶を消す事なんてやったことが」
できるのかもしれない。何となくではあるが、理論的な事はわかっ
ている。だが、そのような事を1度もしていないので、梨華は成功
するかどうか不安だった。

「アタシが教えるよ。その前に、この子の傷……、治してあげなきゃ
ね」
市井は、ゆっくりと立ち上がるとひとみのもとへと歩いた。

梨華には市井が何をするのかわからず、息を飲みながらその行
方を見つめていた。力は使えない。だがもしも、ひとみに危険を
及ぼすような行動に出れば、身をていして庇うつもりだった。

「……」
市井の行動を見た梨華は、息をするのも忘れてしまった。
つい先ほどまで、ひとみの頬に残っていた大きなムカデのような
裂傷痕が、市井が軽く撫でただけでスッと消えた。
まるで、そんな傷など最初からなかったかのように――。

「ヒーリング。紗耶香の力は、どんな傷もああやって治してしまう」
保田が、梨華の横で市井の姿を見つめながら呟いた。

梨華の目に映る市井の姿は、どこか神々しい印象すら与えた。
「神」と「悪魔」がもしもこの世に存在するならば、その2つの能
力に大差は無い。あるのは、価値観の違いだけ――。
だとすると、この集団、そして市井はどちらの部類に入るのか、
市井の力を目の当たりにして、ただぼんやりとそんな事を考え
る梨華であった――。
「いちーちゃんの方が、バカ力じゃん」
と、笑う真希の声が、その思いをより一層引き立てた。

ひとみの記憶は、リセットされた。
正確には、ひとみの中にある異能の力を持った人間と関わりあっ
た記憶を”リセット”+”書き換え”たのである。

梨華がひとみの意識の最下層に潜り込んだ時、ひとみが隠しつづ
けたものを初めて垣間見た。

そこには、恐怖が渦巻いていた。
それをトラウマと呼ぶ学者もいるが、きっとひとみのそれは学者に
治療することはできなかったであろう。

弾け飛ぶ少年の眼球。その眼液が、5歳のひとみの口元に飛び
散り、その味が”塩辛く微かに血の味がする”とまで記憶していた。

もう1人の少年は、全身が弾け飛んだ。肉片が飛び散り、ひとみの
身体にボトボトと降り注いだ。呆然と口を開けてその光景を見てい
た5歳のひとみの口に、その肉片が鼻の脇を伝って滑り込んだ。

最後の少年は、圧死した。何か目に見えない重いものが落ち、
その小さな身体は奇妙な鈍い音を立てながら潰れた。
逃げようとしたひとみは、その少年からこぼれ出た血に足を取られ
て、血の海の中に倒れ込んだ。

パニックになってもがいたところ、少し離れた砂場の中で5歳の真
希が冷たい微笑を浮かべているのが見えた。
隣に転がった眼球の無い少年の遺体が、鈍い音と共にひとみの
横で弾け飛んだ。ひとみの記憶は、そこで終わっていた。

――梨華は、ひとみが記憶していた10年前の出来事を、時には
ひとみの目を通して、時には俯瞰で、その出来事を共有した。

ひとみの記憶。
それがわかっていなかったら、梨華の精神は崩壊していたかも知
れない。それほど、リアルな記憶だった。

そんな少女が受けた異様な体験にもとずく恐怖を、先例がなけれ
ば何もできない学者たちに、何をすることができるだろうか――。

梨華はその恐怖に耐え忍んできたひとみの10年間を思うと、最
後にほんの少しだけひとみの役に立てるような気がした。
――市井に教えられたとおり、梨華はその記憶をリセットした。

そして、ひとみの意識の層を上昇しながら、今回の一連の事件に
関連する記憶をすべてリセットし矛盾が出ないように書き換えた。

触手を戻し、現実の世界に戻ってきた梨華は、その場にいる全員
の視線から逃れるように背を向けて声を上げて涙した。

吉澤ひとみ――。彼女の中から、石川梨華という存在は消えた。
自分の中にだけ残っているひとみとの思い出が、ただただ切なく
苦しかった。

梨華は、異能の力を持った集団が所属する”ゼティマ・コーポ
レーション”の正式なスタッフとして登録されたが――。

それからの数日間は、梨華は何も覚えていない。
ただ淡々と、与えられた仕事をこなしていた。

ひとみの両親や、学校関係者や、石黒彩らから、事件の記憶を
リセットした。
梨華の教育係に任命された保田は、その仕事ぶりを見て「優秀」
だと言っていたが、梨華には何も聞こえていなかった。
単純に、機械のように作業を進めていただけである。

何日目かの午後、なつみは施設に収容された。抵抗はしたもの
の、炎を使うことは無かった。泣いて暴れて梨華の名前を叫んだが、
梨華にはどうする事もできなかった。
なつみのことを考えると、このまま放置しておくわけにもいかず、そ
の記憶をリセットすることは会社側が許さなかった。

「きっと、良くなって帰ってくるよ」
不安そうに見送る梨華の肩に、保田がソッと手をかけた。
不意に保田の意識が、梨華に流れ込んでいた。
(後藤と共に)
(要)
(理想)(近い)
(必要)

打算的な意識だった。
だが、梨華はその意識に嫌悪を抱くことはなかった。前もって、後
藤から聞いていたからかもしれない。

「いちーちゃんはね、ウチらのユートピアを作ろうとしてんだよ」
そのユートピアで何をするのか、梨華にはわからなかった。
ただ、市井や真希や保田や加護らが所属するチームは、明日香と
いう不協和音がいなくなったせいで着実にそして確実に自分たちの
”理想郷”づくりに近づいて行っている感じはしていた。

しかし、そこがどんな”ユートピア”であれ、その場所にひとみはいな
い――。
市井を中心にして作り上げようとしているユートピアにとって、なつみ
の力は必要だろうが梨華にはひとみが必要だった。ひとみさえいて
くれれば、そこがどんな場所であろうともユートピアのように思える
梨華であった――。

だが、そのひとみの記憶の中に梨華の記憶はない。
そう考えると、また少し泣きそうになった――。


Chapter−3 <あれから……>

青いスポーツカーが、赤信号で停止した。
黒いフィルムで中は見えないが、乗り込んでいるのは中澤と矢口
である。

街の景色が懐かしくなり、嫌がる中澤にムリヤリ頼み込んで朝比
奈町に帰ってきていたのだ。

街の景色というよりも、矢口はひとみと梨華に会いたがっていた。
あの”海響館”で別れてからというものの、1度もその2人と関わる
未来を見ていなかったからである。

関わる事がないに越した事はない。関わる事=ひとみたちに命の
危険性があること。――を、矢口は十分理解していた。

”海響館”でひとみと別れた後、逃亡先のホテルでひとみが意識
不明の重体に陥った事をニュースを見て知った。
だが、それは1度見ていたニュースである。

”海響館”のあの事件の数時間前、矢口はうすくてぼんやりとでは
あるが、そのニュース画面を未来視していた。
もちろん、その前にひとみと接触しているのも見ていた。

確定した未来の前にどうすることもできないのに、責任を感じる必
要はないと、中澤に何度も言われた矢口ではあったが、やはりそ
の罪悪感はぬぐえない。

「よっすぃ、大丈夫かな……」
矢口は信号で停車していた車内で、窓外を見ながらぼんやりとひ
とみのことを考えていた。

「大丈夫やろ。以外と、ピンピンしてるかも知れんで」
ハンドルを握っている中澤も久しぶりに訪れて少し興奮しているの
か、カーステレオから流れる音楽に合わせ指で小さくリズムを取っ
ていた。

車内に一瞬の沈黙が流れ、「ん?」と矢口の顔を覗きこんだ中澤。
――すぐに、何が起こったのかを悟った。

矢口の目はもう窓の外を見ていない。閉じられたまぶたの向こうで、
普通の人々には見えることのない”確定された未来”を見ていたの
であった――。

「ちゃんと、取りやー」

矢口がその声に気づき振りかえった時には、すでに中澤は缶ジュー
スを投げる用意をしていた。

「ちょ、ちょっと」
かろうじて受け取ることができた矢口だったが、その様子を見て笑っ
ている中澤に対してムカついた。
「何するのさー。危ないだろー」

「ええやないの。取れたんやから」
と、笑いながらベンチに腰かけた。
「ちょっと、開けて」
どうやら、手にしていた缶コーヒーが長い爪のせいで開けられないら
しい。

「自分で開けろよ」
矢口は、口を尖らせて中澤から顔を背けた。さっきのは、いくらなんで
も危ない。ちょっとぐらい謝って欲しかった矢口だったが、その様子を
見てニヤリと笑った中澤に、「もう、矢口カワイイ〜」と抱きつかれて
ウヤムヤに終わってしまった。

どのくらい、じゃれられて(?)いたであろうか、中澤からのセクハラ親
父まがいのキスを何度も頬に受けた後、ようやく話は本題へと向かった。

「もうすぐしたら、ここによっすぃが通るから。信じらんないんなら、裕ちゃ
ん声かけてみなよ」
と、矢口は息も絶えだえに公園の入り口を指さしながら言った。

「ええよ。そうなってるんやろ」
まるでどうでもいいような感じで、それよりも矢口との楽しい時間に満
足したような表情を浮かべて、けっきょく矢口に開けてもらった缶コー
ヒーを飲んだ。

――数分後。
学校帰りのひとみが、前を通りかかった。
そのまま通りすぎるような雰囲気だったので、中澤は声をかけようと立
ちあがった。

しかし、それより一瞬早く、ひとみが足を止めて公園内を見つめ続けた。

「なぁ、何であんなに見てんの。矢口の見た未来の吉澤って、記憶ない
んやろ」
中澤が、ひとみを見ながら矢口に話かけた。

「アタシたちのはある。けど、学校で何度か見かけた人たち程度にしか
思ってない……」
「なんや、ようわからんわ」
「あ、裕ちゃん。よっすぃ、行っちゃうよ」
「わかってる。見てるんやから」

「吉澤、ちょっと」
と、中澤はベンチから立ちあがりながら声をかけた。

ひとみが戸惑っているのは、中澤にも容易に見てわかった。
その遠くにある立ち姿――。つい数ヶ月前を思い出した。
朝比奈学園でも学年こそ違えど、ひとみの存在はひときわ目立っていた。
スラッとした長身でどことなく少年っぽさのある彼女は、ひとみ自身は気づ
いていないのかもしれないが、学年を問わず恋愛の対象として見られてい
る節があった。

その人気の秘密は容姿だけではなく、彼女の発するアウトロー的な雰囲
気もまた魅力だったのだろう。
学園の共同ロビーで、矢口がひとみの姿を見かけるたびに「カッコイイ」と
言っていたのを中澤は思い出していた。

(けど、よっさんはホンマ男前やで)
中澤は、歩きながら自然と笑みがこぼれた。梨華と行動を共にしていたひ
とみは、まるでそうするために生まれてきたかのように、梨華の前に立って
果敢に異能の力を持った相手から梨華を守ろうとしていた。

何が彼女をそうさせるのか中澤にはわからなかったが、きっと自分と同じよ
うな単純な動機なのだろうと考えたら、中澤は自然と笑みがこぼれてきた。

「おっす、よっさん。元気かぁ?」

中澤は、ひとみの前に来ると親しみを込めて挨拶をした。だが、さきほどまで
浮かべていた自然な笑みは、不自然な笑みへとかえざるを得なかった。

「あ、ごめん。この呼び方、嫌やったな。ごめんごめん」

かろうじて、そうは言ったものの次に何を話していいか言葉に詰まってしまっ
た。あまりにも、中澤の中にあった以前のひとみの姿と、今、目の前にいる
ひとみの姿が変わっていたからである。
――いや、姿形は変わっていなかった。発せられる雰囲気が、その表情が、
まるで生きる屍のようだったのである。

ひとみのきょとんとした表情を見て、中澤は矢口の言っていたことを
理解した。
(記憶喪失って……、ホンマやったんやなぁ。けど、なんで……)
まだ過去を見ていない矢口からは、その原因を聞いていない。
――さて、この後の気まずい空気をどうしようかと考える中澤であった。

その頃、矢口はこの場所で起きた過去を見ていた。
数日前から数ヶ月前、数年前、10年前と、ひとみが現れる公園の風
景を、まるでコマ落としのフィルムを見るように過去へと遡った。

「ゆ、裕ちゃん!!」

矢口の悲鳴にも似た叫び声を聞き、中澤は慌てて振りかえった。
ベンチに座っていたはずの矢口が、その下でガタガタと身体を震わせ
ている。

「矢口!!」
中澤は考えるまもなく、矢口の元へと走った。近くに敵がいたのかも
しれない。中澤は矢口を抱えながら、辺りを見渡した。
ひとみ以外の姿はどこにもなかったが、目に見える範囲にいるとは限
らない。中澤は、すばやく”無”の能力を発動した。

「ち、違う……」
矢口の声が微かに聞こえ、中澤は”無”から”有”に戻った。
「違うって、何があったん」
今だに震えが収まらない矢口が、ひとみを見つめる。
「よっさんか!? よっさんが関係してんのか!?」
公園の出入り口にいるひとみは、ただ呆然として2人を眺めている。

「よっすぃ……。記憶喪失じゃない」
「――は?」
「アイツラに、たぶん、アイツラに記憶を消された」
「……アイツラって、福田か」
「違う。違うけど、2人組が……」
「2人組って、誰やねんな」
「わかんない。わかんないけど、そこから帰ってきたよっすぃは、もう前の
よっすぃじゃない。前のよっすぃなら、ここに立ってることもできない」
「どういうことや」

矢口は、とつとつとではあるが見たままのことを話した。この公園で過去
にどんな惨劇があり、それ以来、ひとみがこの公園の前を通る時どんな
様子だったのか、そして連れ去られて以降この公園の前を通りすぎる時
いかに以前と変わったかを、すべて見たままを中澤に聞かせた。

「記憶を消すって……」
「福田明日香じゃできない」
「そやな……、明日香のはただ破壊あるのみや」
「変なんだよ、裕ちゃん……」
「は?」
「たまに、梨華ちゃんがそこを通るんだ……」
矢口が、震える手で公園に面した通りを指さす。

「寂しそうに1人でそこを通るんだ……。なんでかわかんないけど、帰る
時には泣いてた……。時々、この公園を見てたりもした」
「……2人、一緒の所は?」
「1度だけ。でもそれは前のよっすぃと一緒だった頃。1人のは、つい最
近だよ」
中澤の頭に、嫌な考えがよぎった。矢口は過去の惨劇がよほど恐ろし
かったのか、しばらく中澤の腕の中で震えていた。
気がつくと、公園の出入り口にひとみの姿はなかった。

梨華が<Zetima>にスカウトされたことは、ほぼ間違いないだろうと
いう結論に中澤と矢口は至った。

中澤と矢口は、梨華については何も知らない。ひとみと一緒にいた。
ただ、それだけの情報しかなかった。

だが、結論に至ることができた。
矢口が、梨華と出会う未来を見たのである。しかし、そこには他の人
物もいた。詳しいことは何も分からなかったが、何か書類のようなもの
を持っており、梨華の差しだすそれを渋々受けとる中澤の姿が見えた
のである。

――そして今、その矢口が見た未来に2人は立っていた。
梨華の手がかりを求めてやってきた朝比奈駅の前に、ピンク色のワン
ピースを着た梨華ともう1人の小柄な少女がまるで待っていたかのよ
うに2人を出迎えた。

「梨華ちゃん……」
矢口は思わず、口を開いた。目の前に立っている梨華の表情が、つい
2ヶ月ほど前に見た梨華とはあまりにも違っていたからである。
それは、中澤も同じように感じていた。

きっと、2人の戸惑いは梨華には読み取られていただろう。しかし、梨
華はそれに答えることなく、ただ目の下の隈を隠すようにうつむいた。

「梨華ちゃん、どうしたん?」
やわらかい関西弁で梨華の顔を覗きこむ少女が誰なのか、2人には
分からなかったが放つ雰囲気が他の人とは違っていたので、すぐに
能力者である事がわかった。

「ううん……。なんでもないよ、あいぼん」
と、梨華は消え入りそうな声で呟いた。
「ふーん」
加護は少々つまらなそうに返事をした。

「梨華ちゃん……、よっすぃの記憶……」
心の中で矢口は、問いかけてみた。
(ひょっとして……、よっすぃの……、ひとみちゃんの記憶消した?)
しばらくして、目の前の梨華がうつむいたまま首を縦に振った。
その様子を見ていた中澤が、通りすぎる人々の視線もかえりみずに
大きな声を出した。

「なんで、そんな事するんや」

ボーっと違うところを見ていた加護が、その声に驚いて中澤を見つめ
た。懐かしい関西弁に、ほんの少しワクワクしている。

「自分、それがどんな事なんか分かってんのか。記憶消すって……。
殺したのも同じ事なんやで……」

中澤の言葉に、梨華が顔を上げる。しばらく、中澤の顔をじっと見据え
たまま視線をそらそうとしなかった。

「なぁ、石川……」

梨華の目に、うっすらと涙が滲んだ。

「それで、いいんです。何もかも忘れて生きるのが、ひとみちゃんのた
めなんです」
「ホンマに、言うてんのか?」
「……」
「なぁ」
「中澤さんは見てないから、そんな事言えるんですよ。死にそうになっ
たひとみちゃんの姿見たことないからっ」

中澤が梨華の頬を打つ音が、駅前の雑踏の中に消えた。
周りにいる通行人が、興味がないような顔をして4人を横目で見なが
ら通りすぎていく。

「梨華ちゃんに、何すんねん!」
加護が、梨華を庇うようにして中澤との間に入った。
「いいの、あいぼん」
「ええことない。梨華ちゃん、泣いてんやんか」
中澤を見上げる加護の目に、異様な力が入った。
「やめて!!」
「けど」
「いいから、向こう行ってて」
それでも、加護は梨華の前を動こうとしなかった。いつでも力を放て
る状態にしている。

「ホンマに納得したんやったら、なんで泣く必要があんねんな」
中澤は見上げる加護を無視して、梨華の目を見据えていた。ただ、
その口調には先ほどのような荒々しさはなく、どこか侘しさを帯びて
いた。

「なぁ、石川」
「……」
「1つだけ言っとくな……。ウチの記憶消すんやったら、殺して」
石川は、その声を聞いてハッと顔を上げた。
そう言い放った中澤は、微笑みながら涙を流していた。
加護がその様子を、怪訝そうに見上げている。

「吉澤の抜け殻みたいになった目、見たか?」
「……」
「矢口は、あんなになったウチを見たいか?」
と、後ろにたたずむ矢口を、振りかえった。矢口は、暗い表情で首
を振る。
「そやろ……。一緒に戦ってきたんやもんなぁ」
「……」
「怖い思いはいっぱいしたけど、楽しい思いもいっぱいしてきた。矢
口の泣いた顔や、怒った顔や、笑った顔は、大切な思い出や」
梨華の頭の中に、ひとみとの思い出が走馬灯のように駆け巡った。
「そんなん忘れて生きるぐらいなら、殺してくれていいよ」

「梨華ちゃんかて、好きでやったんとちゃうわ」
加護はこぶしをぎゅっと握り締めて、中澤へと歩み寄った。
「あいぼん、やめて」
石川の制止も聞かず、加護は中澤の目の前に立つ。その目には、
うっすらと涙のようなものも滲んでいるようだった。

「……そやな。好きでやったんと違う……。わかってる。わかってる
けどな、石川の顔見てたら切なすぎんねん」
中澤は人目を気にすることなく、顔をクシャクシャにして泣いた。
「裕ちゃん……」
後ろから駆け寄ってきた矢口が、その肩を優しく包みこむ。
加護が振り上げたこぶしをどうしていいか迷っているような複雑な
顔をして、梨華を振りかえる。

「矢口さん……。私たちと一緒に来てもらえませんか?」
梨華は涙をぬぐうと、その涙を振り払うように本題を切りだした。

「梨華ちゃん……」
「未来を見える力が、必要なんです」
「……梨華ちゃんは、もう戻れないの?」
「……」
「よっすぃのために、戻らないの?」
また梨華はまた涙をこみ上げそうになったが、必死になって堪えた。
そして、小さく「はい」と呟いた。

それを見た中澤と矢口は、長い逃亡生活にピリオドを打つ事にした。
確定された未来――。だが、こうならずにもっと楽にピリオドを打ちた
かったと思う矢口であった。誰も傷つかない、そんな未来を迎えたかっ
た――。

市井の前に、とても懐かしい顔が現われた。もう、5年近く会っていない
だろうか、写真で見るよりも実際の彼女は5年前より明らかにその肌の
張りを失っていた。市井は、思わず笑ってしまった。

「どしたの?」
隣にいる後藤が、不思議そうに市井の顔を覗きこむ。

梨華と一緒に入ってきたその女性は、憮然とした表情で立っている。隣に
いる小さな金髪の少女は、怯えているのかそれとも好奇心からなのか、
入ってきてずっと市井の個人オフィスをキョロキョロと見まわしていた。

「久しぶりだね、裕ちゃん」
市井のその言葉に、その場にいる全員が中澤に注目した。
誰の頭の上に、疑問符が浮かんでいるような状態だった。

「久しぶりって……、どういうこと裕ちゃんっ」
まさかという思いが、矢口の脳裏をかすめた。一緒にいた中澤が、まさか
自分たちを追っていたやつらの仲間であるという事は考えたこともなかっ
たので、その動揺はかなり大きなものだった。
「え……、矢口を裏切ってたの……?」
その問いかけに、中澤は背を向けたまま答えた。
「矢口には……、そう見えたか?」
「見えないよ。だから教えてよ。ちゃんと教えて。ねぇ、裕ちゃん」
矢口は中澤の身体を強引に自分に向きなおさせた。

「いちーちゃん、どういことなのさ」
後藤にも訳がわからなかった。市井は、2人の様子をただぼんやりと眺め
ていた。
「仲間ってこと?」

梨華にも、市井と中澤の関係がわからなかった。混乱している矢口と後
藤の意識だけが、流れてきている。この部屋には、能力を押さえるような
装置は何もないので、触手を伸ばそうと思えば伸ばせる。

しかし、触手を伸ばしても意味のない事は分かっていた。後藤の口から聞
いた市井の能力は、ヒーリングの他に能力を無効化する”能力”がある。
これまでにも、試みたことがあるが触手は市井の意識下に届くことなく、市
井に届く前に消滅しているようだった。

不思議なことに、そのような感じを以前にも抱いたことがあった。
ひとみと一緒に中澤らと行動した時、矢口の意識は流れてきたが、中澤の
意識はまったく流れてこなかった。そのことを、梨華はぼんやりと思い出し
ていた。

「ゼティマの前身は、ただの保護施設のようなものだった」
混乱する矢口に向かって、市井が口を開いた。矢口だけではなく、中澤以
外の者たちに向かって喋っているようでもあった。
中澤は、うつむいたまま応接セットのソファに腰を埋めた。

「自分の力を知らずに事件を起こした者。その力を恐れられ迫害を受けてい
る者。または第3者に利用されている者。――社会では誰も救ってくれない。
このままでは、能力者の人格が歪み、力のない者との間に亀裂ができるこ
とを危惧した1人の能力者がいた。森光子――。後藤もゼティマの社員なら
聞いたことあるでしょ?」

「あ、うん……。”絶対的なる者”って、呼ばれてた人だよね」

「そう。ありとあらゆる力を持っていた」

「でも、死んじゃったんでしょ?」

「いくら絶対的な力を持ってても、年には勝てないよ」
と、市井はその場の雰囲気を和ませるかのように、苦笑を浮かべた。

「その森のおばあちゃんが、長野の山奥にこのゼティマの前身を作った。
それが、今から20年前。裕ちゃんは、創立と共にその施設に入所した。
そうだよね?」
市井が問いかけると、中澤はタバコの煙を吐きながら「ああ」とうなずいた。

「アタシは、10年前――。楽しかったね、あの頃は。みんなが、笑って
たよ。のびのびしてて、時間はゆっくり流れてて本当に楽しかった。力が
あることなんか、まったく気にする必要がなかった。後藤なんか、絶対気
に入ってたはずだよ」
「もう……、ないんでしょ? そんな場所」
「おばあちゃんが、その力で押さえててくれたからね」
「じゃあ、ダメじゃん」

梨華は以前に、不意に流れてきた意識を読みとり、後藤がその力を自分
自身で恐れている事をしった。
それは、梨華にとって意外な事だった。しかし、その意識を読み取ったこと
で、ほんの少しだけこの場所に居心地の良さを感じることも出来た。

「森のおばあちゃんが死んで、その施設はほんのちょっとした混乱が
起きた。社会に対する恐れもあったし、互いの力に対する恐れもあった。
子供が多かったからね、意識しようとしまいと感情の起伏と共に出ちゃう」

市井の言葉に、後藤の表情がくもった。

「その混乱を収めたのが、今のゼティマの会長”つんく”さんよ」

「アンタ、まだあんな男の言葉信じてんのか?」

「社会を恐れることのない、力を持った者たちだけのユートピアを作ろうっ
て」

「紗耶香、いい加減に目ぇ覚まし……。森のおばあちゃんが望んでたん
は、こんなん違うかったやろ」

「目的のためなら、多少の犠牲も仕方ないんじゃない」

「なんで、そんなに変わってもうたんや……。圭坊ッ、おるんやろっ。出て
き」

中澤が奥の部屋へと通じるドアへ視線をやった。しばらくするとドアが開き、
保田がうつむき加減で入ってきた。
また、その部屋に重苦しい雰囲気が漂った。

「アンタ、紗耶香がこんなになるまでなんで黙ってたんや。年上のアンタが、
しっかりせなあかんやろ」

「逃げ出した裕ちゃんには言われたくないよ。そうだよね、圭ちゃん」

2人の間にはさまれるようになった保田は、何も答えることが出来ずにただ
うつむいていた。

「森のおばあちゃんは、何人救えた? 本当に理想の場所を作るためら、
つんくさんの言ったように組織化するのが一番なんだよ」

ドンッという音に、皆が一斉に中澤に注目した。

「けっきょく……、平行線なんか……」
テーブルに両手を叩きつけたままの格好、誰の目も見ず悔しそうに呟いた。


Chapter−C<これから>

国会議事堂の地下にあるその建物に、高級車がぞくぞくと集い始めた。
――駐車場に降り立つその顔ぶれは、日本の政界に君臨する各省庁
のトップたちである。

会議室のモニターに映し出される映像を見て、防衛庁の大臣は顔色を
無くした。
「こんなことが、本当に行われるのかね」
防衛庁の大臣が語りかけた人物は、モニター画面の脇に座っていた。
ちょうど影になっているその場所が、会議が行われる際の男の定位置
だった。
「研究は、すでに最終段階に入ってるみたいですね」
関西弁のイントネーションで喋るモニター脇の男は、資料をパラパラと
めくって、スタッフに指示を出した。

モニター画面に映し出されるアメリカの研究所。
数人の医師による、開頭手術。
少年の頭部に刺された電極。
手をかざす少年の前で破壊される日本製の高級車。
少女の前で止まる銃弾。
隠し撮りのような写真が、次々とモニターに映し出される。

「AMUSA。まぁ、早い話が人工的に、超能力者を作り上げる計画です」
各省庁のトップは、スタッフたちに配られた資料に真剣に目を通してい
た。

「似たような研究が各国で行われているのは、その資料に書いてある
通りです。欧米、フランス、とりわけロシアと中国が、力を入れてます。
核やミサイルといった人類そのものを破滅させる兵器の時代は、終わっ
たと言う事ですね」
男は資料をテーブルの上に置くと、大臣たちを右から左にへと眺めて
いった。
政権交代でその顔ぶれは大きく変わったが、<Zetima>の会長つん
くには関係のないことだった。

「日本はまだ研究段階に入ったばかりじゃ……」
文部大臣が、資料に目を通しながら呟いた。
「非人道的。つまらんモラルで、森のばあさんが抑えてましたからね。
しょうがないです」
「日本も、このまま手をこまねいているわけにもいきませんぞ」
「ええ」「そうですね」と、官僚たちが口々に賛同する姿を見て、つんくは
ほくそ笑んだ。
(ブタどもの脳みそは、単純やで……)
思わず笑いがこみ上げ、両手で口を抑えて誤魔化した。

中澤は1人で<Zetima>の廊下を歩いていた。今のところ、中澤の立
場は微妙であった。かつては、<Zetima>に籍を置いていた身ではあっ
たが、”矢口真里”をスカウトしに行ったままその姿をくらませた身でもある。

企業――つんくとしては、あまりオモシロイはずも無い。
処遇が決定しないまま、もうすでに1週間も施設内に幽閉されていた。

(矢口……、どこ行ったんやろな……)
廊下を歩きながら、中澤はぼんやりと考えていた。殺されるようなことも無
ければ、その能力からして危険な現場に向かわされるようなこともないので、
心配はしていなかったが今までは常に行動を共にしていたので半身がとても
寂しく感じられた。

市井の個人オフィスのドアを開けると、市井と後藤が腕相撲をしていた。
「お、裕ちゃん。ちょっと待ってて」

(なんやねん、何してんねんええ年して……)

「かぁー。やっぱ、後藤強すぎ」
勝負は呆気なくついた。
「へへ」
と、後藤は照れたように笑うだけであった。

その様子を眺めていて、中澤は無性に矢口に会いたくなった。
(くそー。矢口にチューしたい)

「裕ちゃん、相変わらずだね」
市井が、中澤のその叫び(?)を聞いて笑った。

中澤は油断していた。中澤の能力は、発揮することで相手の能力を
”無効化”できることである。”常に”無効化できる市井とは、雲泥の
差がある。

そして、市井には”絶対的な者”に近い能力がもう1つ備わっていた。
それは、梨華と同じ”精神感応”であった。ただし、レベルは若干落ち
るようであった。

「そういや、紗耶香のファーストキスは、ウチがもらったんやったな」
中澤は一瞬動揺はしたが、すぐにそう切り替えした。

「ムリヤリね」
と、市井は余裕の表情を浮かべて笑っていたが、その横にいる後藤
はあからさまに嫌な顔をしてみせた。

「なんや、ごっちんは紗耶香のこと好きなんか?」
後藤が、ハぁとした表情で振りかえる。
「裕ちゃん、からかうの止めなよ。後藤がキレたら、厄介なんだよ。
後藤も止めな。どうせ、裕ちゃんには通じないんだから」
「いちーちゃんは、すぐそーやって裕ちゃんのこと庇うんだね」
後藤は、すねて2人に背を向けた。
中澤と市井は、その行動を見て顔を見合わせ小さく笑った。

方向は違えど、かつては共に長い時間を過ごした2人である。わだか
まりは、いつの間にか溶けていた。ただ、やはりどちらも方向について
は歩み寄る事はできなかった。

午後も遅く、市井は会長室に呼び出された。

「中澤の処分については、そこに書いてある通りや」
デスクの前に佇む市井に、つんくは1枚の用紙を差しだした。市井は
それを手にとると、最後の一文に目を通す。

【契約不成立により、処分とする】

「……」
市井は、用紙から視線を上げることができずにつんくの話を聞いた。
「おれもな、会議で反対したんやけどな、もうあの頃みたいな小さい
施設やないねん。上に立つもんだけの意見なんて、まかり通らんのや」
「もう一回、もう一回だけ会議開いてもらえませんか」
「査問会議は、2度までや。知らんわけやないやろ」
「……」
「おれかて辛い。元メンバーとはいえ中澤は創立時からおったし、おれ
らからしたら旧知の仲や……。けどな、今のアイツの考えは危険なん
や。せっかく皆の意見が一つにまとまろうとしている時に。このまんま
やと、森さんが死んだ後のような混乱が起きる。お前もそれは感じてる
やろ?」
「……ええ」

つんくは、会長らしい重厚な椅子に背を預ける。
「――政府からの補助金が年間1500億出されることになった」
「……じゃあ、いよいよ」
「ああ。お前らが頑張ってくれたお陰で、政府も容認してくれたわ。
何人かの犠牲者が出てしもうたことは……、ホンマに残念なことや
けどな」
「……みんな、この日のために頑張ったんです」
市井の目は冷めていたが、その手は興奮して少し震えていた。

「これで、森さんの――、いや、ここにおるみんなの夢が叶うんや。
能力なんか関係あらへん。みんなが笑って暮らせる場所ができるん
や。あと一歩の所で……俺の辛さも分かってくれ……」

市井の”精神感応”が使用されていれば、この後の未来は少し違って
いたものになっていただろう――。しかし、ここは能力をなにも持たない
つんくが、その心を読まれたり、暗殺されたりを恐れて作った、能力者
の力を抑える装置が何十にも張り巡らされた部屋である。
”精神感応”の能力が弱い市井にとって、それは不可能なことだった。

もっと単純に、会長室から去る際にドアへと向かうその最中に後ろを振り
向いていただけでも違っていたかもしれない。
市井の背を見送りながら、目を細めて笑うつんくを見れたことだろう――。

ステレオのスピーカーから流れ出る、癒し系のBGM。
そのBGMが、矢口の精神力を散漫にする。簡単にいうと、音楽が
邪魔で精神を集中することができないのである。

「あのさ、梨華ちゃん」
部屋の隅でぼんやりと雑誌に目を通している梨華に、矢口は声に
出した後、心の中で念じた。
(悪いけど、その音、消してくんない?)
決して、怒っていたわけではない。普通に、そう頼んだだけであっ
たが、梨華は慌てて立ちあがるとすぐにステレオの電源を消しに
いった。
そして、ポツリと「すみません……」と言った。

「はぁ……。別に怒ったわけじゃないんだけど」
「すみません……」
「いや、だから……」
「あ、あの、私、食事の用意してきます」
と、言い残すと、梨華はそそくさと部屋を後にした。

この施設に連れて来られてからずっと、矢口は施設内にある部屋
に軟禁されていた。
見える未来から、企業に関係のありそうなものを報告するためである。

だが企業側も、これまで逃亡を繰り返していた矢口を信用していない
らしく、情報の隠蔽が無いように”精神感応”の力を持った梨華を監視
役として常駐させているのである。

「梨華ちゃんって、いい子なんだけど……。ちょっと、暗いんだよね」
と、矢口は小さく笑いながら呟いた。
本当は、側にいてくれるのが中澤であったらよかったのだが、そうそう
不満ばかりも言っていられなかった。

期日までにある程度の未来を報告しなければ、矢口の待遇はさらに
悪くなるようなことを、スタッフの意識を感じとった梨華が教えてくれて
いた。
だが、矢口の”能力”は”矢口の目を通した未来”しか見えないので
ある。ここ数日は、梨華とこの部屋にいる未来しか見えていない。

「こんなんで、何を報告すればいいんだよ〜……」
矢口が、ぐったりとふて腐れて机に突っ伏した時、不意にある映像が
浮かびあがってきた。ただし、それはひどく不鮮明なものであった。
――駆けつける自分。粉々に破壊された……瓦礫。粉塵。そこにい
る人物。背を向けている。男……? 両手を広げている。

(誰かわかんない……)
と、矢口が目を細めて確認しようとした時、不鮮明な未来視はまるで
電源の切られたテレビのようにパッと消えた。

「矢口さん、変ですっ」
後ろに聞こえた梨華の声に、矢口は「そうなんだよ〜」と言いつつ振り
かえった。
しかし、どうやら矢口の心を読みとって「変」と言った訳ではないらしかった。

「ごっちんが……。中澤さんを狙ってる」
梨華は手に何ものっていないトレイを持ったまま、開け放たれたドアか
ら廊下に顔を出していた。

外の空気は、中澤にとっては久しぶりの空気だった。
なんとなく廃棄ガスくさいものではあったが、久しぶりの地上の空気とい
うだけで、意味もなく何度も深呼吸してみたりした。

夜空にはスモッグや街灯の乱反射で星こそ見えなかったが、昼夜の区
別が時計でだけしか感じられないよりは随分とマシだった。

「長野の星は、綺麗やったよなぁ」
中澤は、夜空を見上げながら後ろに佇んでいる市井に声をかけた。
市井は何も答えずに、ただ佇んでいる。
中澤も返事を求めていなかったので、そのまま話を続けた。

「ウチと紗耶香は、持ってる力も境遇も同じやったから、妹のように思って
たわ。空を見上げながらな、流れ星に何回もお願いしたんやで。紗耶香が
幸せになれますようにって――」

「もうすぐ、幸せになれるよ……」
その言葉とは裏腹に、悲しい表情を浮かべる市井。

「……そうか」

「……」

2人はしばらく、ただ黙って夜空を見上げていた。2人の胸の中に、長野で
過ごした日々が甦ってきていた。

「できることなら、あの頃に戻りたいなぁ……」
振りかえった中澤はまるですべてを悟っているかのように、悲しい表情を浮
かべている市井に話しかけた。

「裕ちゃん……」

「わかってる。ウチの処分が決定したんやろ」

「……一緒にやりなおそう」

中澤は、ゆっくりと首を振った。

「なんで。同じことじゃん。森のおばあちゃんとつんくさんの考えは同じなん
だよ。アタシと裕ちゃんの考えだって」

「違う。ぜんぜん、違うわ」

木陰の闇から、後藤がゆっくりと姿を現した。冷たい何も見ていない目で、中
澤へと距離を近づけていく。

「ウチの知ってる紗耶香は、泣き虫紗耶香や。今のような、そんな冷たい目
なんかしてない」

「裕ちゃんは知らないから、そんなこと言えるんだよ」

「一緒に逃げようって言うたやんか。圭坊と一緒に、あの頃のみんなと暮ら
そうって」

「他の子たちを置いて、できるわけないじゃん」
市井は、険しい表情で中澤を見据えた。

「……そやな。そういうところは、ウチよりしっかりしてたもんな」
と、姉のような優しい微笑を浮かべた。

「もう、あの頃には戻れない」
市井と中澤の前に、後藤がやってきた。
「もう1度聞くよ。一緒に、これからを生きよう」
中澤は、ゆっくりと首を横に振った。
「そう……。頑固なところは、昔と変わらないね」
市井ははじめて、微笑を浮かべた。

――国会議事堂脇の敷地に、大きな地鳴りのようなものが鳴り響いた。
木々で休んでいた鳥たちが、一斉に夜空へと舞った。

市井と中澤がいた場所に、大きな砂埃が舞っている。
今までどこに潜んでいたのか、黒い服を着た数人の男女が市井らの元
へと集まってきていた。
砂埃はしばらくたち込めたまま、一向に晴れようとしなかった。

梨華と矢口が、その場に駆けつける頃になってようやく砂埃が消え、中に
佇んでいる市井と後藤の姿が見えた。

「そんな……」
矢口は、えぐりとられた地面の周りに集まる市井らの背を見つめていた。
その周りには、矢口の見た瓦礫のようなものもある。確信はできなかったが、
矢口の未来視に出てきた映像に似ていた。

「中澤さん……」
梨華の言葉に、矢口の足は止まった。そして、何もかもすべてが終わったよ
うな虚ろな表情で、あの部屋にいる自分の姿を未来視した。

数日後の夜――。

市井と後藤は、つんくの所有するホテルにやって来ていた。
どういう用件かは分からなかったが、通された部屋はあいかわらずあの
能力を無効化する特殊構造の部屋だった。

市井は、あまりこのような部屋に通されるのは好きではなかった。能力
を持たないつんくが恐れているのは分かるが、こちらはなにも危害を加え
るつもりはない。まるで、信用されていないように思えて仕方がなかった。

1度、そのような旨の話をつんくに直接したことがあった。しかし、つんくは
”自分らに対してとちゃうで、他の国の要人に付き添ってくるSPに対して
やで。最近、ESPを連れてくんのが多いからなぁ。しゃあないわ”と説明し
た。

国家の特別重要防衛機関を担当しているので、それは仕方のないことで
あったが、やはりこの部屋の構造が好きになれない市井であった。
しかも、ここはその中でも特別らしく、3メートルの厚みのある分厚いジュ
ラルミン製の扉に、侵入者がすぐに行動を起こしても対応できるように、
入り口からつんくのデスクまではゆうに100メートルほどはあった。

(加護でも、この距離は短すぎる……。後藤にはせめて10キロはない
とね……)

そんな事をぼんやりと考えていると、スタッフが数人がかりで分厚い扉を
開け、つんくが手に書類の束を抱えたまま軽い挨拶をしながら入ってきた。
「悪いなぁ、遅れて」
と、自分のデスクへと向かい書類の束に目を通し始めた。

「ね、いちーちゃん」
と、後藤が小さな声で話かける。
「ん?」
「なんの話かな? ボーナスでもくれるのかな?」
「……んなこと、あるわけないだろ」
「もらったらさ。今度の休み、一緒に買い物行こう。後藤さ、新しいサンダ
ルほしいんだ」
「やだよ。めんどくさい」
「えー、いいじゃん」
と、2人がブツブツと話していると、つんくが顔を上げてニヤリと笑った。

「なんや、後藤。デートの相談か?」
「違いますよ。ただ、買い物の約束してるだけですよ」
「そーいうのを、デート言うんやないか」
と、笑っておどけてみせた。

「あの、つんくさん」
市井が、話しを切りだした。
「ん?」
「あの……、お話って……」
「ん……、まぁ、ちょっと待ってくれ。これ片付けるわ」
つんくは、申し訳なさそうな表情を浮かべて書類の束を整理しだした。

数分後、つんくは市井らとテーブルを挟んだ向かいのソファに座った。
やっと、今回の用件が聞けると思い、市井はホッと軽いため息をついた。
この部屋に通されてから、もうすでに1時間以上が経過していた。

「単刀直入に言うけどな、悪いけど後藤」

どうせ自分には関係のない話しだろうと気を抜いていた後藤は、名前を
呼ばれて焦った。

「は? アタシ」
「そうや。悪いけどな、来週から北海道の稚内に行ってくれんか?」
「はー? なんでですかー。北海道って、寒いじゃないですかー」
と、驚いてはいるもののその驚きは、市井の驚きとは別物のようだった。

「いや、まぁ寒いけどな」
つんくもそれに気づいて苦笑する。

「で、稚内ってどこです? 聞いたことないんですけど」
「宗谷岬の……っても、知らんわな。まぁ、北海道の上の方や」

「あの、なんで急に」
あまりの驚きに、今まで言葉を失っていた市井がようやく口を開いた。

「ロシアの不審船が急に増えてきてな。ちょっと、緊迫した状態やねん。
外務省も自衛隊も外交上の問題もあって、なかなか手が出せれんでな」
「ヤですよー、そんなの。それに、後藤1人だけですか? だったら、もっ
とヤですよ」
「市井は、北朝鮮経由でロシアに向かってもらう。ちょっと、北朝鮮でも
不穏な動きがあるみたいやからな、それを探ってきてくれ」
「ちょっと待ってくださいよ。そんなの、いちーちゃん1人じゃ危ないじゃな
いですか。後藤も一緒に行きます」
と、後藤が市井を庇うようにして、つんくに言い放った。

「後藤は保田と一緒に。市井には、加護と石川をつける。」
「加護と代えてください」
「計画も最終段階に入ったんや。今までみたいに、のんびりできん」
そう面倒くさそうに呟くと、つんくは自分のデスクへと向かった。デスクの
引き出しに、葉巻を取りに行ったようである――。

「いちーちゃん」
不安そうな表情で、市井の袖を引っ張る後藤。
市井の悪い予感が当っているのであれば、断わればこのまま無事に帰
れる保証はなかった。かといって、つんくの陰謀にわざわざ引っかかり他
の仲間たちを危険な目に合わせるのも嫌だった。

重苦しい沈黙を破るように、デスクの電話が鳴った――。

つんくがデスクの電話をきってから数分後に、保田、加護、梨華が
その部屋へとやってきた。

保田と梨華は、先客の市井と後藤の姿を見て驚いていた。どうやら、
知らされていなかったらしい。加護はというと、その部屋の空気などを
かえりみずに「ごとーさ〜ん」と無邪気に教育係の元へと駆け寄って
いった。

つんくからの任務を聞いた保田らは、一様に戸惑いの表情を浮かべた。
確かに、これまでも様々な任務はこなしてきていたが、外国を相手にし
た任務は初めてであった。
国家間の争そいに首を突っ込むという事が、どんなに危険な任務なのか、
おこなったことがなくてもなんとなく理解できた。

「これは……」
市井が呟くと、デスクで葉巻をくゆらせ返事を待っていたつんくが顔を向
けた。
「これは、普通の会社で言うところの”左遷”ですか?」
市井の言葉に、つんくが意味ありげに笑ってみせた。

加護が、隣の保田に小さく”左遷”の意味を訊ねる。
「用がなくなって、捨てられるってこと」
保田がつんくに聞こえるように言った。

つんくは声を上げて笑った。
「自分ら、ホンマおもろいこと言うな」
「ふざけないで下さいッ」
保田の激昂に、後藤と加護が準備をした。

「ここでは、力は使えんでぇ」
と、デスクの引き出しから、リボルバー式の拳銃を取りだした。「お前らの
力より、こっちの方が威力はあるんや」と、ニヤニヤ笑いながら肘をついた
まま銃口を向けた。

「裏切ったのねッ」
保田が、声を荒げる。

「裏切った……? 裏切ったんは、どっちやッ!! 市井、オレは確かに中澤
の処分を頼んだな。それが、どういうことやねん、これは」
つんくが、リモコンのスイッチを入れると本棚であったはずの場所が横に
開き、隣の部屋が現われた。そして、そこには猿ぐつわをされた血だらけ
の中澤が転がっていた。

「お前は力で周りにおる見張りの意識を探ったつもりやけどな、お前のテレ
パシーは微々たるもんや。その範囲の外にも、何人か張らせとったんや。
煙でまくって……、そのまんまやの」
と、小さく笑った。
「……」
市井は、苦々しい表情を浮かべた。

保田らが駆け寄ろうとすると、隣の部屋から数人の男女が立ちはだかる
ように現われた。
セクションこそ違えど、皆、能力者であり<Zetima>のスタッフで
あった。
あらかじめ計画されていたのであろう。その手には、銃器が握られている。

「お前らもな、オレからすると十分危険思想の持ち主やったわけや。あの
森のばあさんみたいにな」
睨む市井の視線を無視して、つんくは葉巻をくゆらせた。
「最初から……、こうするつもりだったんですね」
「そうや。政府からの巨額の補助金は、会社のために使わせてもらう。けど、
そのためには政府に気に入られるアクションを見せんとな。お前らの力を見
せて、諸外国にはもっと強いヤツラがおるって煽るんや。時間かかったけど、
お前らの力はええ宣伝になったで」
「みんな……、みんな、夢のために戦って命を落としたんですよ!」
「知らんわ、そんなん」
ニヤけながら、つんくは吐き捨てるように言った。

「けどな、おれも鬼やないで。せやから、お前らにチャンスをやる。ここで犬
死するか、最後に一仕事するか。答えは2つに1つや」

力の使えない加護は、悔し涙を流していた。さっきから何度も何度も、力を
放っていたのだが、木の葉を落とす力すらも放出されなかった。

保田も同じだった。自分の”クレアヴォヤンス(透視)”が使えていたならば、
つんくの引き出しに隠されていた銃も発見できただろう、隠し部屋に潜ん
でいる武器を持った者たちの存在にいち早く気づき、この部屋から非難さ
せる事だってできたであろう――後悔していた。

だが、梨華だけは信じていた。数時間前の<Zetima>施設内で、それ
までここ数日生気のなかった矢口が突然目を輝かせて梨華に言った言
葉を――。
『大丈夫。この前見たのは、これだったんだ』
『どういことですか?』
『いい? 絶対に助かるから。誰かは分からないけど、突破口を開いてく
れるから。すぐにみんなと一緒に逃げて。そうすれば助かるから』

梨華には、突破口を開いてくれる人物に心当たりはなかったが、その時
がくれば、すぐに中澤を連れて逃げれるようにイメージしていた。

「まぁ、犬死するよりは、お国のためにってのがエエと思うんやけどなぁ」
と、つんくが笑った。

真希の限界もここまでだった。その目に、異常な力がこもった。力を出し
きることはできないかもしれないが、数人を道連れすることはできる。
そこまで真希の力は、強大だった。

「ごっちん、ダメ!」
梨華の言葉も、真希には遠い場所のように聞こえていた。
「市井さんが!」
さっきまで遠くに聞こえていた声だったが、”市井”という言葉を聞いて
後藤はハッと我にかえった。
見ると、つんくらの銃口が一斉に市井へと向けられている。

「お前の弱点は、これや」
つんくは、黄色いサングラスの向こうの冷めた目で後藤を見据えた。

後藤は何か言い返そうと思ったが、何も言い返せなかった。銃口を向け
られている当の市井本人は、いたって凛とした表情を浮かべている。
こんな時ではあるが、後藤はその市井の整った横顔に見惚れていた。
そして、市井の顔を見つめ続けたまま死ぬのも悪くはないと思っていた。

「どうせ裕ちゃんも、殺すつもりなんでしょ……」
市井の低い声が、束の間の沈黙を破いた。つんくはそれに対して何も、
答えなかった。もしも、この時、心が読めていたならばつんくの動揺を
捕らえていたことであろう――。
「だったら、最後はウチらの側にいさせてよ。もう、それ以上は何も望ま
ないから」
「……そうか。答えは、NOか……」
動揺を悟られないように、つんくは勤めて平静を装って声を出した。
そして、スタッフらに目配せをした。

ぐったりとした中澤を抱えながらも、銃口を向けたままのスタッフ2人が、
中澤の両脇を抱えて部屋の中へと入ってきた。
ドサリ、とまるでゴミを置くように中澤をその場に置くと、また隣の部屋
へと戻っていった。いくら、能力を抑えている部屋だとしても、ヤケになっ
た真希が何をするのか分からないといった畏怖があった。
真希の力は、たとえ別セクションであろうとも知らないものはいない。

ただ、もう真希は力を放つつもりはなかった。どうせ死ぬのなら、このま
ま市井の横で静かに眠りたかっただけである。

「さてと……。じゃあな、今までようやってくれた」
と、つんくが撃鉄を起こした瞬間、ホテルの一室が衝撃音と共に揺れた。
「な、なんや……」
つんくは、真希の力を疑ったが、当の真希自身も驚いている様子だった。
続け様に2回目の衝撃が、部屋を揺らした。スタッフの1人が外に確認に
行こうと、あわてて駆けだした。
「アホっ!! ドア開けたら、終わりやぞっ」
つんくのその言葉を聞き、男はハッと我にかえり思わず身震いした。
不用意にドアを開ければ、この部屋の効力は失われてしまう。それは、
この場にいる全員の死を意味している。

(矢口さんの言ってた、突破口って……。これのこと? きゃっ)
梨華の真上から、壁の一部が落ちてきた。
3回目の衝撃と共に、ドアが吹き飛んだ。
(これだ!)
梨華は砂煙が舞う中を、中澤の元へと走った。
「みんな、すぐに逃げてください!」

梨華の声がまるで合図だったかのように、後藤が力を放った。
力を受けた数人のスタッフの頭が、一瞬にして弾け飛んだ。
「後藤、行くよ!」
「うん!」
市井と後藤は、手を取りあって砂煙の舞う部屋を突っ走った。
その後藤の顔のすぐ側で、弾丸が数発弾けとんだ。
後藤は一瞬、もう自分は死んでしまったと思ったが、砂煙の向こうで聞こ
えてきた声に安心してそのまま走った。
「後藤さん、気ぃつけてなー」
教育係、ほんの少しは役にたっていたようである。

「ごっちんッ! 前方左45度!」
保田の声がどこかから、後藤の耳に届いた。何かが見えているらしい。
その何かは確実に敵だ。後藤は迷うことなく、保田の指示する方向に力
を放った。
厚さ3メートルのジュラルミン製の壁が、爆音と共に遥か遠くに吹き飛んだ。
そこにいたのが誰で何人だったのか、もう分からない。ただ、25階の窓
から吹きすさぶ風が砂埃を狂ったように立ち上げるだけだった。

梨華は、その意識を感じて思わず立ち止まってしまった。これほど緊迫し
た状況のはずなのに、足がまったくといっていいほど動かない。
砂埃の向こうに見える影――。
その人物がここにいるはずはなかった――。
その人物の意識を感じる事は2度とないはずであった――。
梨華の顔が途端に、子供のような泣き顔に変わる。

「迎えに来たよ。お姫様」

懐かしい声――。
梨華がもっとも近くで聞きたかった声――。
でも、なんで――。

砂埃がはれた向こうに、笑みを浮かべた吉澤ひとみが両手を広げて待っ
ていた。


Another Chapter−@

「おはよう」の挨拶もなく、ひとみはダイニングへと入った。
もうすでに父親は朝食をとっていた。
弟2人は、まだ起きてきていないらしいが、ひとみにとっては
どうでもいいことだったので気にする事もなかった。

テーブルにつくとすぐに、シリアルとゆで卵付きのサラダが出
された。
母親は何も言わずに、弟たちの朝食の準備に戻った。
(ロボットみたい……)
ひとみは、母親の背中を見つめて心の中で毒づいてみた。きっ
と、昨日の夜も夫婦の間で何かがあったのだろう。
ひとみが朝食を食べている間、両親が口を開く事も目を合わす
事もなかった。

ひとみは朝食を終えると、いつものようにシャワーを浴びに浴
室に向かった。
ムシャクシャとした意味の分からない苛立ちを振り払うかのよ
うに、ひとみは全身に熱いシャワーを浴びた。

電車の発車ベルと共に、また退屈な日常が始まりを告げる。
通勤・通学でごった返す息苦しい電車内。
どれだけの人が、日常を楽しんでいるのか。
皆、ただただ疲れた顔をしてぼんやりと自分の世界にひたって
いる。

そんな光景を見ると、ひとみは吐き気を覚えるほど憂鬱な気分
になる。目の前でぼんやりと車内広告を見上げている中年のサ
ラリーマン。

(あんな人とは、結婚したくない……)
(あんな風になるような人と、出会いたくもない)
(お母さんのように、平凡な主婦になんかなりたくない)
(高校卒業したら、東京に出よう)
(それで、もうそれを最後にしてこんな電車に乗る生活とはお
さらばしよう)
(退屈な毎日なんて、嫌いだ……)
ひとみは、スッと視線を落としてもう何も考えないように携帯
のメールを打つことにした。

――が、その手がフッと止まった。

(そうだ……)
(麻美は……)
(もう、いないんだ)
登校途中から麻美へのメールは、ひとみの中で日課になっていたの
で、つい無意識的に動いていしまったのだった。
ひとみは携帯電話をしまうと、もう何も考えないようにしてうつむいて
時を過ごした。

学園でもそのほとんどの時間を、ひとみは1人で過ごしている。
もともと、社交的な性格ではない。そのルーツはぽっかりと穴が空い
てしまっているが、そのような性格なのだから仕方がないと、無理に
とけ込んで行こうとはしなかった。

それに、麻美のような一緒にいて心が落ちつく相手ももう現われない
ような気もしていた。

退屈な日常。
ひとみの心は、荒む一方だった。

放課後、街をブラブラと歩いていた。受験生でそんな時間がないよう
に思えるが、ひとみの学園はエスカレート式なのでよほどの事がな
い限り高校へ進学する事ができる。

風邪をこじらせて長期入院する前に受けた中間テストの数学が点数
18点で戻ってきていても、勉強しようなどという気はさらさらなかった。

ブラブラ歩いていると、不意に花の香りがひとみの鼻腔を刺激した。
数メートル先に、「アップフロント」という花屋があった。

(へー、こんなところに花屋なんてあったんだ)
(カスミソウ、置いてるかな)
(……カスミソウ?)
(どんなだったっけ?)
(あ? なんだ? カスミソウって)
と、ぼんやりと頭の中で考えている間に、ひとみは花屋の前を通りす
ぎた。通りすぎるとき、女店主がなにか言っていたようだが、ひとみは
面識がないので立ち止まるような事はなかった。

女店主は、不思議に思っていた。
(変ねぇ……)
(大ケガしてた子じゃないかしら……?)
店先に出向いて確かめようとも思ったが、あの大怪我がこんな短期間
で治るはずがなくきっと人違いなのだろうと納得する事にした。

夕方近くになりこのまま街をぶらぶらし、鬱陶しいナンパ男たちに声を
かけられるのも嫌だったので、ひとみは家に帰ることにした。

マンション近くの公園を通りすぎるとき、何かが引っかかって思わず足
を止めた。
何かがおかしいのだが、それが何かひとみにはわからない――。

(でも、変……)
ひとみは、誰もいない公園を見つめつづけた。
子供の頃、ここで遊んだ記憶はあった。だが、それがいつどこで誰と――、
それが思い出せない。しかし、人の記憶の中にはそのようなことは多々
ある。その点に関しては、ひとみはあまり深く考えなかった。

それよりもっと別の、違和感が”その公園”にはある。

風が舞い、公園の木々が葉を揺らす。
誰もいない、ひっそりとした児童公園。

(児童公園……)
(子供……)
(公園……)
(夕方……)

ひとみの違和感は、不意に解けた。その公園には、いつも利用者が
いなかった。

(なんで、誰も遊んでないの?)
(まだ、明るいのに……)

ひとみはその道を、通学・下校で毎日のように通っていた記憶がある。
その記憶の中の自分は、その道を見ないように顔を伏せながら早足
で通りすぎていた。
どうして、そのような行為に及んでいたかはわからない。

(は?)
(なんで?)
ひとみの記憶は、すっぽりと抜け落ちていた。だが、あまり深くは考え
なかった。人がいようがいまいが、自分には特に関係がない。ただ、
やっぱり――児童公園に子供たちの姿がないのは、奇妙な光景だった。

部屋の片隅に転がったままになっている、黄色いリストバンド。
もうかなり前からそのままになっているので、ほこりでその黄色い色は
かすんでしまっている。

いつも、片付けなければいけないと思うひとみではあったが、もうそれ
を2度と使うこともないので”いいや”ともう1年ほど放置してあるので
あった。
捨てることも考えてはみたが、なぜかそれだけはしたくなかった。
かといって、大事にしまうようなものでもない――。

ひとみは、そのリストバンドをたまに目にすると、とてもブルーな気持ち
になる。忘れかけていた夢が甦り、かといって捨てきれない夢を見てい
るようでやり切れなくなるのであった。

「青春時代か……」
ひとみ自身、決して今の状況に満足しているわけではなかった。ただ、
たった1人では何かをやろうという気持ちも起きず、そしてその打ち込
める何かを見つける事もできず、焦りと苛立ちの中で悶々とした生活を
しているのだった。

その日の夜も、ベッドに寝転びもう10分近くも自分の存在価値を見出
せるような何かを探していた。
ただ、それに集中する事はできなかった。隣から聞こえてくる弟たちの
声が、ひとみの苛立ちに火をつける。

「うるさいんだよ!」
ひとみは、隣の部屋との間にある壁を蹴った。しばらく、おとなしかった
がまた、同じような騒ぎ声が聞こえてきた。
ひとみの気分は最悪だった。

夜風を浴び、頭を冷やそうとベランダに出てみた。
まだ時間も早いので、耳を澄ませば遠くの喧騒が届いてくる。

(バレー辞めた麻美は、すぐドッグトレーナーの夢見つけた)
(いつか、北海道のような場所で暮らしてみたいって……)
(麻美、動物と自然が好きだった……)
(バレーより、そっちの方が似合ってるよ)
(でも、アタシは……)
ひとみは、そこまで考えるとまたネガティブ思考へと陥り、結局、また
自分の置かれている状況に焦りを感じて自分を卑下してしまうのだっ
た。――悪循環。ひとみ自身もそれに気づいていたが、どうすることも
できなかった。暗い表情のまま、ひとみは部屋へと戻っていった。

ひとみは気づかなかったが、階下の少し離れた場所から上を見上げて
いる少女がいた。
その少女もまた、ひとみが部屋に入ったのを見届けると、同じような暗
い表情を浮かべて夜道を歩いて行った。


Another Chapter−A

翌日の午後、ひとみは児童公園の前で足を止めた。
いつものように通りすぎようとした時、中に誰かがいるのが視界の
隅に入った。
珍しい光景だったので思わず足を止めて目を凝らしてみると、そこに
いたのは数ヶ月前に同じ日に学園を去った中澤と矢口だった。

(なんで、こんなとこいんだろ?)

ひとみには、2人が去った詳しい理由は分からない。ただ、不意に麻
美が事故死する当日に言った言葉を思いだした。

『ねぇ、やっぱさ、あの2人って怪しいよね』

(たしか、麻美がそんなこと言ってた……)
(興味ないって言ったけど)
(なんで、学校辞めてんのに2人でいんの?)
(怪しい……)
(麻美の言ってた通りだ……)
ひとみは、そこまで考えるとさっきから自分のことをずっと見て
いる中澤にほんの少し恐怖した。

(やばい、アタシ狙われてんじゃん)
気味が悪くなったひとみは、素早くその場を去ろうとした。
だが、もうすでに時遅く、向こうは名前など知らないだろうとたかをくくっ
ていたが、名前つきで呼び止められてしまった。

立ち止まらざるをえなかった。なんの用があるのかは分からないが、
ゆっくりと振りかえったひとみの目に写る、笑顔を浮かべてくる中澤の
姿は”不気味”なお姐さんだった。

「おっす、よっさん。元気かぁ?」

(は? よっさん?)

「あ、ごめん。この呼び方、嫌やったな。ごめんごめん」

笑っている中澤を、ひとみはきょとんとした表情で見つめていた。
(何? 話すの初めてなのに……。こんなに馴れ馴れしかったっけ)
中澤の表情がほんの少し困惑したようになったが、ひとみはそれ
よりもさらに困惑していた。
ただ、それが顔に出る前に、矢口の悲鳴に驚いたのであった。

「ゆ、裕ちゃん!!」

矢口の悲鳴にも似た叫び声を聞き、中澤は慌てて振りかえった。
ひとみはつい数秒前に困惑した中澤の肩越しに、ベンチに座って
いる矢口の異変に気づいていた。

目を閉じて何かを夢想するような、ほんの少し危ない姿にひとみは
薄気味の悪さのようなものを感じていたのであった。
それが突然、気を失うようにしてゆっくりと地面に転げ落ちた。何が
起こったのか、ひとみにはまったくわからなかった。

矢口の元へと駆けつけた中澤が、まるで何かから矢口を守るように
してその腕の中へと引き寄せる。
その姿を見たひとみは、ほんの少しだけ胸が高鳴った。随分、小さ
い頃に見た映画のワンシーンのようだったからである。
ひとみは、その様子をただ呆然と公園の出入り口で眺めていた。

2人がひとみを見ながら何かを喋っていたが、すぐに互いに見つめ
合うようにして喋る姿を見ると、ひとみはやっぱり薄気味の悪いも
のを感じ、逃げるようにしてその場を去った。

それから数日の間、ひとみは不思議な錯覚にとらわれていた。
脳の中に何かが入り込んできているような、そんな感じがする時
が多々あったのだ――。

それは、日時や場所を選ばなかった。
ある日は、深夜の自分の部屋で。
ある日は、学園で授業中。
ある日は、電車の中で――。

その不思議な感覚は、まるでひとみの中の何かを探っているよう
だった。
数日前に、中澤と矢口にあってからその現象は起こり始めた。

(やっぱ、あの2人、変だよ……)
街をぶらつきながらそんな事を考えている今も、その奇妙な感覚
は脳の中にある。
ひとみは思わず、ここが大勢の人が行き交う交差点の真ん中であ
るのも忘れて頭を大きく振ってみた。

(アタシの頭……)
(オカシクなったのかな……)
ひとみの不安は、いよいよピークに達しようとしていた。

『もうすでに、おかしくなってんだよ』

通りすぎる人々の中から、その声ははっきりとひとみの耳に入った。
ハッとして振りかえったが、どこの誰が発したのか見当もつかない。
ただ、ひとみに分かっていたのはその声を発したのが、自分と同じ
くらいの少女の声だったという事だけであった――。

ひとみはしばらくその場に佇んでいた。
不思議とその少女の声を聞いたのと同時に、ひとみの頭の中に蠢
いていた奇妙な違和感はかき消されていた。

(……この感触)
(前にもどこかで……)
(……どこだったんだろう)
(……)
ひとみは記憶の糸を手繰り寄せてみたが、それを思い出す事はまっ
たくできなかった。つい1ヵ月前の記憶が、つい昨日までそれを覚え
ていた記憶が少女の声により消え失せたような感じだった。

(1ヵ月前って……、何してたんだっけ……)

脳の中に違和感を感じると、ひとみの中にある記憶が1つずつ消え
ていっていることに、ようやくひとみ自身が気づいたのはそれからさ
らに数日が経過してからである。
ひとみは、わけのわからない恐怖に怯えていた。

(なんで……)
(なんで、なんにもわかんないんだよ……)
(1ヵ月……)
(2ヶ月前もわかんない……)
(なんで……)

その恐怖を打ち消すように、最近は普段まったく話しをしなくなった
両親や弟たちに自分の身に起こった事を訊ねてみた。
両親や弟たちはそんなひとみの姿に驚いたが、自分たちの知り得
る限りでのここ数ヶ月間のひとみの様子を話た。

「違う!! そんなんじゃない!! アタシ、そんなの知らない!!」
両親や弟たちの話すひとみの様子は、ひとみ自身にはまったく身に
覚えがなく誰かもう1人の別人の話をされているようで、ひとみの恐
怖はさらに強まった。
パニックになったひとみは、部屋を飛びだした。両親の戸惑う目、弟
たちの怯えた目からも逃げだしたく、家から飛びだしていった。

(違う!!)
(麻美は、交通事故なんかじゃない!!)
(アタシは、風邪なんかひいて入院してない!!)
(違う!!)

どのくらい走ったのだろうか、気がつくと閉店したショッピングモール
の前まで来ていた。
通りすぎようとした時、おぼろげではあるがそこに誰かといた自分を
思い出した。
しかし、それが誰かは分からない。だが、ひとみは”誰かといた”事
だけはハッキリとわかっている。

(誰と……)
(麻美……?)
(違う……)
(他の誰か……)

”誰かといた”記憶のあるベンチへと向かうひとみ。閉店してしばらく
時間も経っているので誰もいないと思っていたが、そのベンチに誰か
が座っている。
一瞬、身の危険も感じたが、白いワンピースにスニーカーといういで
だちの少女だったので、そのままベンチへと向かって歩いた。

(何、やってんだろ? こんな時間に……)
ひとみは、散歩をしている人物を装ってベンチの前を通りすぎようとし
た。いくらなんでも、こんな時間にわざわざその少女の隣に座るのは
不自然だったからである。

通りすぎ様にチラリと見たその少女は、ただ一点を、表の通りを見つ
めていた――。
少女の前を通りすぎたひとみの背から、少女の声が聞こえてきた。

「失った記憶を、取り戻させてあげようか?」

ひとみは思わず足を止めて、少女に振りかえった。
少女はまだ、表の通りを見つめ続けている。

(記憶……)
(なんのこと……)
(アタシに言ったの……?)

「そう。あなたに言ったの。吉澤ひとみさん」
少女はそう言うと、表の通りを見つめたままニヤリと笑った。

(なんで……!)
(なんで、返事を)
(なんで、あたしの名前知ってんの)

ひとみは本能的に後ず去った。わからないが、ひとみの中にある何か
の記憶が、自分をその少女から遠ざけようとしている。しかし、ひとみ
自身にはその行動の意味が分からない。ただ、身体が勝手に緊張し
そしてゆっくりと後退しているのだった。

「ただの記憶喪失なら、病院でも治せるけどね」
「ど……、どういうこと……」
怯えるひとみを尻目に、少女はクスッと笑いゆっくりと立ちあがった。
ひとみは、その少女の横顔から目をそらす事ができなかった。
ヘビに睨まれ”ていないのに”カエルのような状態だった。

「色々と調べさせてもらった。けど、まだ完璧じゃない」
「な、何言ってんの? わけわかんないんだけど」
「すぐに、分かるようになるよ」
「はぁ? ……!!」
次の瞬間、ひとみの脳の中にあの奇妙な感触が蠢いた。どのくら
いの時間が経ったのか、ほんの一瞬のようでもあり、数分間のよ
うでもあり、数時間のような――ひとみは、意識を取り戻してもし
ばらく虚ろな表情をして、その場に立ち尽くしていた。

「どうですか、ご気分は」
ハッと我にかえったひとみの耳に、おどけた少女の声が聞こえた。
ベンチの前にいた少女を――、ひとみは思い出した。
福田明日香――、親友の麻美を気まぐれで殺した相手。
だが――、その姿はもう、ベンチの前にはなかった。

(違う……。福田明日香じゃない……)

そう。明日香がそこにいるはずはなかった。ひとみは、石黒から
明日香がなつみの炎により焼死したと聞かされていたのも、思い
出していた。

(じゃあ……、今のは……)

辺りを懸命に見渡してみたが、少女の姿はもうどこにもない。
ただ、少女の立っていたところに、数枚の用紙がポツンと置かれ
ていた。


Another Chapter B

ひとみは、国会議事堂の前に立っていた。
委員会が開かれているらしく、中に入ることができずに柵越しに
中を覗っていた。

昨夜、ショッピングモールに残されていた用紙にあった一文、

『国会議事堂の地下に、<Zetima>がある』

ひとみは少女の残したメッセージを信じて、翌日、学校に行くフリを
してその足で東京へと向かったのであった。

そこに、梨華がいる事は確実だった。なぜなら、少女の残した用紙
は能力を持った者を強引にスカウトしようとしていた<Zetima>に
関する資料であり、なおかつそこに書かれているのはまるでひとみ
のために用意されていたかのように梨華の詳細が書かれてあった
のである。

梨華がひとみの記憶を消したこと――。
その後、関係人物にも同じ処置を加えたこと――。
矢口と中澤の捕獲に成功したこと――。

ありとあらゆることが、詳細な日記のように書き込まれていた。
少女がどんな意図があってこのようなものを残したのか、そして、な
ぜ自分の作られた記憶を修正したのか、ひとみにはその真意はわ
からなかったが、どうしても梨華の口からすべてが聞きたくてこの場
所に立っていた。

「なんで、こんな日に限って入れないんだよ〜」
ひとみは、肩を落としてその場を立ち去ろうとした。
(……は? 待てよ)
ひとみは足を止めて、もう1度中の様子を覗った。
(……見つからなきゃ、いいんだよね)
「よし」
と、辺りに誰もいないのを確認すると、鉄柵の縁に片足をかけた。
だが、さすがにそんなに簡単には進入できない。遠くで警笛が
聞こえ、あわててその場を逃げだした。

「ハァ……、くそ……、石黒さんみたいに、広い情報網があれば
な……。石黒さん……?」
(そういや、石黒さんから連絡ない)
(そうだ)
ひとみは逃げ隠れた路地裏の隅から、石黒の携帯へと電話をする
事にした。
しかし、何度かけても留守番電話センターに転送されるだけだった。

頭の中で蠢く奇妙な感覚……。
石黒は、それにもう何日も悩まされていた。それと同時に、自分の
記憶があやふやになっている事に戸惑いも覚えていた。

数日前にクローゼットの中から、2人の少女の名前が書いてある数
枚の用紙を見つけた。その時は、昔の取材記録だろうと思ってあま
り気にも止めなかったが、頭の中の奇妙な感覚が始まった翌日辺り
から、それが気になって仕方がなくなった。

「石川梨華……。安倍なつみ……」
2人の少女の名前、石黒にまったく記憶は無かったが、なぜか心の
どこかでその2人に対して、いやもう1人の少女、その少女に対して
の罪悪感がある。
だが、その罪悪感に結びつく記憶が石黒には無かった。

「これを……、誰かに……、渡さずに隠した……。誰に……?」
石黒は、もう何分もクローゼットから取り出した用紙を見つめ続けて
いた。

「彩ちゃ……。彩ちゃん」
不意に誰かの声が耳に入り、彩はハッと我にかえった。顔を上げる
と、目の前にアンパンマンのような婚約者――山田真矢の顔があっ
た。

「どしたの、さっきから呼んでんのに」
「あ、うん。ちょっと、考え事」
「お腹の子のこと? だったら、心配いらないよ。何があっても、俺、
2人の事ちゃんと大事にするから。浮気もしないし、子育てもするし、
家の事だって」
「ハハ。専業主夫にでもなつるつもり?」
「……彩ちゃんさえよかったら、それでもいいよ」
「え?」
「彩ちゃん、ホントは仕事に戻りたいんだろ? 何があって急に辞め
たのかわからないけど、最近またなんか戻りたそうにしてるからさ」

梨華の手によってかき消された記憶――。
それにより、石黒が仕事を辞めた本当の理由もなくなっていた。
そこには上司とのトラブルにより、退職したという”作られた記憶”が
あった。

少女は、石黒の意識下に伸ばしていた触手を戻した。
――ひとみのように、すぐにその場で記憶を取り戻させる事はしなかっ
た。ただ、ほんの少し手を加えた。空白のままにしておき、自分自身
で記憶を取り戻せるようにしたのである。
少女自身にも、石黒が記憶を取り戻すかどうかは分からない。ただ、
そのまま平凡な生き方を望めば、そう送れるようにだけしておいた。

物心もつかない幼い姉妹を捨てて、自分の夢を追いかけた”母”。
母になる石黒に、少女は見た事もない母親の姿を照らし合わせて、
ほんの少し悪意が芽生えた。
石黒が自分自身で運命を選べるように――、少女は石黒の意識を
操作して、その場を静かに立ち去った。

白いワンピースの少女がアパートの前から立ち去って数分後、石黒
の携帯が鳴った。
しかし、誹謗・中傷・脅迫まがいの電話が多かったジャーナリスト時
代の習性で、身に覚えのない人物から電話をとることはなかった。
――ひとみのメモリは、もう随分前に消されていた。

ひとみは、石黒への連絡をあきらめた。いくら石黒とはいえ、国家に
通じているとは思えなかったし、少女の残した資料によると石黒も
またその記憶を作りかえられて平穏な日々を送っているらしい。
だとすると、もう危険な目にあわせたくない。
ひとみは、寂しさにも似たような気持ちで連絡をあきらめた――。

日が暮れて、もう1度議事堂の前を歩いてみたが、先ほどの進入未
遂により警戒が一段と厳しくなっていた。

(すぐ側に、梨華ちゃんがいるのに……)
(梨華ちゃん……)
(……梨華ちゃん)
(梨華ちゃん!!)
心の中で何度も梨華の名を呼んだが、いつまで待っても梨華が現わ
れるようなことはなかった。
仕方なく、ひとみは国会議事堂前を後にした――。

「ヨシザワ ヒトミ サン デスカ?」
自分の名前を呼ばれて車道を見ると、ジープに乗った黒人がガムを
噛みながらニヤニヤと笑っていた。

(なんだ、この外人……)
(なんで、アタシの名前知ってんだよ)
ひとみは、梨華に会えないもどかしさで内心イライラしていた。まった
くの無視を決め込んで、そのまま歩いてやろうとした時、黒人の口か
ら意外な名前が飛び出してきた。

「アル ジンブツ カラ ニモツ ヲ アズカッテマス。イシカワ サン ニ 
カンケイ スル コト デス」

(梨華ちゃん……)
ひとみが足を止めると、そのジープも停車した。路上駐車スペースも
ない道路、たちまち後ろに渋滞の列ができた。
鳴り響くクラクションの中、黒人は後ろの車に向かって中指を立てる
と、ひとみには笑顔を向けてこう言った。

「オノリ クダサイ レンシュウ アルノミデス」
「は?」

意味が分からずきょとんとしていたひとみだが、クラクションの嵐の中、
ずっと立っているわけにもいかず、ほぼ反射的に車に乗り込んだ。
大渋滞を引き起こしたジープは、そんな事とはまるで関係のないよう
に悠然としたスピードで走り出していった――。

それからわずか13分後、市井と後藤を乗せた車が国会議事堂の門
から出て行った。その車は渋滞にもあわず、スムーズに川崎方面へと
車を走らせることができた。

夜の港には、まだ人の姿がチラホラと見えた。公園もあり、夜景も見
える。そこは、申し分のないデートコースだった。

だが、ジープはそのデートコースには向かわず、貨物船すらも停泊し
ていない港の外れへと向かって行った。

「ココカラ スコシ アルキマス」
ジープを下りた黒人が助手席のドアを開けようとしたが、ひとみはドア
ロックをした。帆のないジープにそれはまったくの無駄な行為であった
が、とっさにそうしてしまったのである。

「へ、変なことしたら、し、舌噛み切って死ぬからね!」
ひとみは今さらになって、1人で来たことを後悔した。こんな人気のない
ところで、屈強な黒人男性に襲われればひとたまりもない。

「シタ?」
「そうよ! 噛みきって死ぬからね」
「――Oh〜……、No〜……」
と、黒人は自分の股間を押さえてドアから後ずさりした。
「ち、違うよ!! 舌。ベロを噛むって言ったの!!」
ひとみは、顔を赤くしながら自分の舌を指さした。

自分の勘違いに気付いた黒人は、オーバーなアクションで声を上げて
しばらく笑っていた。

それを見て、ひとみの不審も少しは和らいだ。黒人もまた、ひとみに何
か――いや、依頼した人物に何か恐れのようなものを抱いていると確
信したからである。自分の身に何かあれば、黒人の命も危険にさらさ
れるのであろう――。それでも、警戒心だけは解かないようにしていた。
依頼者の真意は、今だに謎なのである。

しばらく、無言のまま2人は港の奥へと向かって細い道を歩いた。
小さいものから大きいものまで漁船のようなものがいくつか停泊してい
たが、そのほとんどはもう何年も使われていないらしく朽ち果てかけて
いた。

黒人はその中の1艘に、軽く飛び乗って甲板の羽目板をはずした。
そこはもともと、漁で獲った魚を入れておく場所である。そこから、大き
な袋を取りだして、ひとみに来るように手招きをした。
ひとみは、おっかなびっくり甲板へと飛び移った。

「コレヲ アナタニ ワタスヨウニ タノマレマシタ」
黒人が袋から取りだしたもの、それはロケットのようなものだったが、
ひとみにはよくわからなかった。
「何? これ……」
「ロケットランチャー デス」
「は? ロケット?」
「イマカラ ツカイカタ ヲ セツメイ シマス」
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんで、アタシが使い方覚えなきゃなんない
の」
「――エーット デスネ リカ ヲ タスケタイナラ オボエロ」
「梨華ちゃん……?」
「ト イッテマシタ」
ひょっとしたら、未来視のできる矢口が頼んだのかもしれない――。
そう考えると、すべてが納得できるような気がした。梨華の危険を未
来視して、何らかの事情で自分はその場に向かえないが、その場に
駆けつけることのできるひとみに救出を託す――。
あの”海響館”での出来事のように――。

(でもさ……)
少女の残した資料によると、矢口は施設内に軟禁状態になっており、
監視員がいない限り外も自由に歩けないはずであった。
梨華の危機に駆けつけられないのはわかるが、黒人に依頼する時
間があれば、直接梨華に危険を教えた方がいいのではないか。
ひとみは、そんな事をぼんやりと考えていた。


Another Chapter C

矢口は、その広い部屋の中にぽつんとまるで人形のように座っていた。
昨日もそうしていたし、その前の日もそうしていた。きっと、その前の日
もそうしていただろう。

だが、もう今は違っていた。わけの分からない興奮が全身を駆けめぐり、
こうしておとなしくその時が来るのを待っていないと、はしゃいで暴れま
くり疲れてしまっては何もならないと考えたからであった。

数日前に見た未来視。後藤の殺意。市井らと出て行った中澤。未来
視とよく似た状況。消えた中澤。これらが重なり矢口自身が出した答え
は、最悪の結末であった。
ここ数日、矢口は自身が作った暗黒の世界へと身を委ねていた。

だが、――梨華にも伝えたが、それはついさっき見た続きの未来視に
より、矢口は暗い孤独の世界から帰ってくることができたのである。
ホテルから脱出する自分。その横には、中澤もいた。

         ×         ×         ×

<Zetima>施設内の一台の監視カメラに映っている映像は、異様な
光景だった。
長い廊下に、スタッフが数人倒れ込み頭を抑えて悶え苦しんでいる。
警備員は、そのモニター画面を見て緊急警報のシグナルを発令した。

能力者たちが、その緊急シグナルを聞きつけて廊下に終結した。

居並ぶメンバー数人の顔を見て、侵入者である白いワンピースの少
女は口元を歪めた。

「な、なんで、お前が……。ぐっ」
声を出した男が、頭を抑えてその場に倒れた。
側にいた数人のPKが能力を発動しようとしたが、皆、少女の触手に
より、その能力を封じ込まれている。
ESP部隊のガードも少女の力には遠く及ばず、ことごとく触手の進
入を許して破れた。

少女は悠然と、その長い廊下を歩いて行った――。

梨華はもうホテルについたのか、それともまだホテルへ向かう途中な
のか、もうすぐすれば自分もどんな形かは分からないがそこに合流で
きる。そう考えていると、矢口の顔は自然とほころんでいた。

そんな時に突然、ベルのようなものが廊下に鳴り響き、矢口の心臓は
止まりそうになった。
すぐ前の廊下で、何人かの男女の悲鳴が聞こえた。

「な、なに〜……。なんなの〜……」

矢口はドアを開けて廊下を見ようと駆け寄ったが、外側から鍵がかけ
られていて開かない。

「ちょっと〜……」

しばらく、ドアノブを回していると不意にドアが開き、顔面蒼白となった
男が倒れ込んできた。
――矢口の悲鳴が、辺りにこだました。
そんな矢口の前を、耳を指で押さえた少女が通りすぎた。顔はその腕
でよく見えなかったが、その少女はかすかに笑っているようだった。

我にかえった矢口が、廊下に出てみると至る所で<Zetima>のスタッ
フが倒れていた。
とっさに、矢口はあの少女が歩いて行った方向を振りかえる。
白いワンピースにスニーカーを履いた少女は、ちょうど廊下を曲がると
ころだった。

「うそ……」
矢口は、その少女の横顔を見て鳥肌が立った。脱出のチャンスなのだ
ろうが、一瞬、それはチャンスではないような悪い気もしていた。

夜の海に向けて放ったロケットは、ひとみの想像していたような音とは
違うもっと乾いた音を出して飛んで行き、10メートルほど離れた無人の
船を木っ端微塵に破壊した。

黒人は、親指を立てて笑いころげた。3回の練習で、ひとみはもうすっか
り使い方を覚えてしまった。

そして、また黒人の運転するジープに乗って、来た道を戻っていった。

ジープの停まった場所は、ある高級ホテルの前だった。ひとみには、そ
こがどこなのかまったく見当もつかない。

「ここ、どこ……?」
運転席の黒人は、ひとみの質問には答えずガムを噛みながら、ホテル
を見上げていた。
「あの……」
「25カイ アノ フロア デス」
と、ホテルの上の方を指さした。
「は?」
ひとみも見上げたが、黒人がロケットランチャーの入った袋をおもむろ
に渡してきたので数える暇がなかった。

「え? ちょっと」
ひとみは、黒人に抱きかかえられるようにして車を下ろされた。
運転席に戻った黒人は、車道の脇できょとんとしているひとみに親指
を立て、「シゴト ココマデ Good Lack!」と言うとジー
プを走らせた。

「ちょ、ちょっと……、え〜!?」
ひとみは、大きな袋を抱えたまま呆然とその場に立ち尽くした。

振りかえると、巨大なホテルが見える。その25階に何が行われてい
るのか分からないが、梨華の身に何か危険が及んでいる。
まだハッキリと信じられたわけではないが、とりあえずひとみはホテル
へと向かって重い大きなロケットランチャー入りの袋を抱えて走った。

<Zetima>の能力者が潜んでいるのを警戒して、ひとみは別の事を
考えながらフロントの前を通りすぎようとした。

「あの、失礼ですがお客様」
と、ホテルマンらしき人物が声をかけてきた。

(やっぱり……。どう見ても怪しいよ)
ひとみは、顔を伏せたままどう言い訳しようかと考えていた。咄嗟に出
てきたのが、その昔、家族でキャンプに行った思い出だった。ロケット
ランチャーの入った袋を見たとき、一瞬、テントでも入っているのかとひ
とみは港で思ったのである――。

「あの、お父さんに頼まれまして」
もうどうにでもなれといった感じで、ひとみはとりあえずその言い訳で
この場を切りぬけようとした。
「あの、うちのお父さん高山植物のカメラマンをしてまして。それで、普
段は山でテントなんか張って暮らしてるんです。でも、そのテントが古く
なって、それでその替わりを届けに来たんです」

自分でも何を言っているのか、わからなかった。テントとホテルがどう
関係あるのか、もっと別の言い訳を考えれば良かったと後悔するひと
みであった。
――だが、ホテルマンは不審な顔をする事なく、笑顔を浮かべた。

「ひょっとして、和田薫さんのお嬢様ですか」

「は……?」
(和田薫……)
(なんか、聞いた事ある……)

「高山植物の写真家の、違いますか?」

(そうだ! 梨華ちゃんと行った写真展の!)
「はいっ、そうです。薫の娘のひとみです」

咄嗟に出した言い訳、咄嗟に出した”高山植物カメラマン”、ひとみの
記憶が戻っていなければ、ひとみはここを通過できる事はなかっただ
ろう。――もっとも、記憶がなければここを訪れる事もなかった。

ホテルの客室は、23階までであった。エレベーターは、そこまでしか
進まない。どこか他に、25階にまで直通するエレベーターを探したが、
どこにも見当たらなかった。

それらしい柱はあったが、ドアもなく、上に通じる階段すらなかった。

「今度は……、もうッ」
ひとみは、この場でロケットを撃ちたい衝動に駆られた。梨華の身に
何かが起こっているのだとしたら、一刻も早く25階に到着したいが、
足止めを食わされてかなり苛ついていた。

柱に耳を当てると、そこはやっぱり中にエレベーターが通っているら
しく、エレベーターが上昇していった振動をかすかに聞く事ができた。
ひとみは小さく舌打ちをして、もう1度、1階に戻って直通のエレベー
ターを探す事にした。

エレベーターが1階につき、ドアが開くとそこに見覚えのある顔があっ
た。
「よっすぃ……」
息を切らせている矢口が、驚いた顔をしてひとみを見ていた。が、きょ
とんとしたひとみの顔を見ると戸惑いのような表情を浮かべた。
「そっか……、覚えてないんだよね」
と、小さく呟くと、ひとみの脇をすりぬけてエレベーターへとのり込ん
できた。

「矢口さん……、なんでここにいるんですか?」
「あ……、そっか、名前と顔は知ってるんだった」
「え?」
「あ、ううん。ちょっとね」
「1人で出歩けるんなら、なんで梨華ちゃんに教えてあげなかったん
ですかっ」
「……?」
今度は、矢口がきょとんとした顔でひとみを見上げた。

「へ? よっすぃ〜、今、梨華ちゃんって言った」
「言いましたよ。梨華ちゃんが危ないんでしょ」
「梨華ちゃんって――、言った」
「ちょ、ちょっと」
「梨華ちゃんって言った。よっすぃだ。よっすぃ〜だ」
「あ、矢口さん、やめてください。危ないんですって」
矢口は泣きながらそして笑顔で、ひとみに抱きついて離れようとしな
かった。

興奮する矢口をロビーの隅へと連れだして、ひとみは手短にこれま
での事を説明した。矢口の顔が一瞬、小さく「やっぱり……」と呟い
たが、聞き流した。それよりも早く梨華を救出したかったのである。

「早くしないと、梨華ちゃんが危ないんです」
ひとみはそう言っている時間ももどかしいといった感じで、辺りを落ち
つきなく見渡す。
(どこ……)
(どこだよ……、エレベーター)

「よっすぃは、肝心な事忘れてるね」
「なんですか?」
と、語尾を荒げて、辺りを見まわすひとみ。
「前にも言ったでしょ。未来は変わらないって」
落ちつきなく辺りを見まわしていたひとみの頭が、フッと止まった。
「矢口は見てる。みんなが無事に逃げれるところ」
「……ホントですか?」
「よっすぃ、よ〜く思い出して。エレベーターの柱は、フロアのどの辺
にあった?」
「どの辺って……」
ひとみは、柱のあった位置を1階で探した。ゆっくりと目で追ったその
先は、フロントの奥の方であった。

「あんなとこ……、どうやって通れって言うんですか」
ひとみは泣きそうな顔で、矢口に詰め寄った。
「強行突破、やるべしだよ」
と、ガッツポーズをして見せた。
「やるべしって、そんな、捕まったらだいなしじゃないですか」
「だって、捕まらないもん」
「あ……、でも、強行突破してない未来かも」
「じゃあ、よっすぃは何かいい方法でもあんの?」
矢口が腕を組み口を尖らせて、ひとみを見上げる。

(やっぱり、”ミニモくん”に似てる……)
(違う。今は、そんな場合じゃない)
顔を背けたひとみの目に飛び込んできたのが、”水槽”だった。
(水槽……)
(そう言えば、あの時……)

「行きましょう! 矢口さん!」
ひとみは、矢口の手をとるとそのままロビーを駆けて外へと出て行った。

”従業員専用通用口”と書かれたドアを開けて、ひとみは割合、堂々と
中へと入っていった。
なぜならば、就業時間中はスタッフは所定の位置に出向いているため、
遭遇する確率が少ないのを以前の”海響館”で知っていたからである。
あの日も、結局、行きも帰りも従業員と出会う事はなかったので、今回
も大丈夫だろうと考えた。

ひとみの予想通り、廊下はひっそりと静まり返っていて、あの25階に
直通するエレベーターに乗り込むまで、誰一人として出会わなかった。

上昇するエレベーターの中で、矢口がひとみが持っている大きな袋に
気づいた。

「ねぇ、よっすぃ。さっきから気になってたんだけどさ、それ、なに?」
「あ、そうだ。これ、どこで使えばいいですか?」
「……どこって?」
「……え? 矢口さんが頼んだんじゃないんですか?」

お互い、顔を見合わせてしばらく無言の時を過ごした。

「ちょっと、待って下さいよ……。梨華ちゃんが危ないんですよね」
「たぶん」
「たぶんってなんですか〜……。誰もいなかったら、どうするんです。こん
なの持ってたら、捕まっちゃいますよ」
「中で何が起こってるのか、矢口は見てない。でも、そこから逃げ出した
裕ちゃんから事情を聞いて知ってるんだ」
「……市井って言う人と後藤真希が、逃がしたんじゃないんですか?」
ひとみが読んだ資料によると、そうなっていた。

「2人が?」
「ええ。後藤真希の力を使って、監視人たちの目をくらました……って」
「そう……。じゃあ、逃げたところで捕まっちゃったんだ……」
「だったら、やっぱり危ないじゃないですか。会長を裏切ったことが、バレ
てるってことですよ」
「だから、言ってんじゃん」
「もうっ」
ひとみは、エレベーターの表示パネルをまだかまだかと見上げた。

エレベーターのドアが開くと、いきなり数人の男が待ち構えていた。
面食らったひとみと矢口は、思考も停止してしまうほど驚いた。
ひとみの作戦が成功したのではなく、彼らは侵入者がここまで来るのを
待っていたのである。

「矢口さん……」
「ヤバイよね……」

1人の男が、ひとみらの元へと歩み寄ってきた。
「こんなところに、なんの用だ」
どうやら矢口の事は知っているらしく、ひとみの方を警戒しているらしい。
ことさら、ひとみが抱える大きな袋に注意を払っているようだった。

「つんくさんに……、呼ばれて……」
矢口は、小さな声で呟くように言った。
「――ちょっと、待ってろ」
と、男が去っていくのを見ると、矢口は確信した。

「よっすぃ……、コイツら、力持ってない」
「え……?」
「わざわざ聞きに行かなくても、意識読み取ればいいじゃん。しないって
事は――」
矢口はそう言い残すと、エレベーターを出ていった。どうやら、男たちの注
意を自分に引きつけようとしているらしい。

ひとみは、袋のチャックを開けながら矢口や男らとは反対方向に何気なく
歩いて行った。チラリと横目で矢口を覗うと、矢口は何やら男たちと話し合っ
ていた。”<Zetima>の未来”云々と言う話がひとみの耳に届いてき
たが、それは矢口が場を繋ぐための適当な言い訳だという事はわかっていた。

男たちから見えないように素早く背中を向け、ひとみはロケットの装填をした。
(……いいのかな)
ひとみの中に罪悪感が芽生えたが、このフロアのどこかにいる梨華や中澤
のことを考えると、そう奇麗事ばかりは言っていられないという結論に落ちつ
いた。

「おい、そこ。何してるんだ」
背後から男の声が聞こえ、ひとみはランチャーを構えたまま振りかえった。
こちらに向かってきていた男が、呆然として立ち止まった。
その向こうに控えている男たちも呆気にとられている。

「矢口さん」
ひとみは、男たちと同じように呆気にとられている矢口に声をかけた。
「あ……、ハハ、よっすぃ」
我にかえった矢口は、笑みを浮かべるとひとみへと向かって駆け出して
きた。
男たちをけん制しながら、ひとみは矢口を自分の元へと引きよせた。
「そのまま、下がっててください」
「よっすぃ、カッチョイイ」
「危ないから、早く」
「あ、はい」
と、矢口はひとみから少し離れた柱の影に身をかくした。

男たちの後ろ数メートルほどに頑丈な扉があるのを、ひとみは目ざとく見
つけていた。そして、その向こうに梨華たちが捕らえられているのだろう
と推測した。

「危ないから、どいてよ! 知らないよ、当っても!」
ひとみはそのまま腰を落として、ロケットを放った。ヒューンという乾いた音
を立て、10メートル程の廊下を一直線に飛んでいった。
爆発の衝撃で、扉の近くにいた男たちが吹き飛んだ。

「よっすぃ!!」
興奮した矢口の声が後ろから聞こえてきたが、ひとみはもう次のロケットを
冷静にかつ素早く装填していた。
2発目は扉から大きく逸れて、右横の壁を直撃した。壁の一部が崩れ落ち、
辺りには砂煙が舞った。

ひとみは素早く装填を終えると、続けざまに3発目を放った。
1発目の衝撃により、崩れかけていた扉が吹き飛んだ。

「矢口さん!! そこで待っててください!!」
ひとみはロケットを投げ捨てると、そう叫びながら扉へと向かって走っていっ
た。ほとんど何も考えていなかった。ただ、その向こうに梨華がいると思うと、
身体は勝手に砂煙の舞う扉へと駆けて行っていた。

ひとみが走った数秒後、いきなり扉から数メートル離れた壁が吹き飛んだ。
一瞬、矢口がロケットを放ったのかと思ったが、壁は内部から吹き飛びそ
のまま廊下向こうの外壁すらも吹き飛ばしフロアに風穴を開けた。
ロケットの威力など比ではない。

それでも、ひとみは足を止めなかった。ただひたすら走り、砂煙をかき分け
て扉へと向かった。
こちらへと向かって駆けてくる複数の足音が聞こえた――。
そして、砂煙の向こうにひとみが待ち望んだシルエットが映えた。
(良かった、梨華ちゃん……)
(生きてた)
(梨華ちゃん!)

砂煙の向こうのシルエットも、ひとみに気づいたらしく足を止めた。
ひとみの顔に、自然と笑みが浮かんだ。

「迎えにきたよ、お姫様」

咄嗟に出た言葉。ひとみは意識していなかった。ただ、いつかの夜を思い
出していた。

砂埃がはれた向こうに、顔をクシャクシャにして泣いている石川梨華が立
ちつくしていた――。