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【導かれし娘。】第2部

〜プロローグ〜

朝比奈町から、東に40キロ離れた場所に位置するサキヤマ海岸。

老父、村山富市はいつものようにその沿岸の小道を犬のペスを連れて
散歩していた。
沿岸部という事もあり、その近辺の朝はたいてい薄い霧が漂っている。
その日の朝もそうであった。

村山は足もとに注意しながら、ペスの散歩をさせていた。村山の歩調に
合わせてほんの少し先を歩いていたペスが、脇の茂みに向かって威嚇の
ポーズをとった。

どうせ、猫でもいるんじゃろう――村山は、ペスの名前を呼び手綱を少し
強めに引いた。
いつもなら、この合図でペスはなんでもなかったかのように散歩に戻る。
しかし、この日は違った。どんなに名前を呼ぼうとも、どんなに強く手綱を
引こうとも、牙を剥き出しにしてその場を動こうとしなかった。

はて?
何がいるのだろうと、村山が茂みの中に顔を伸ばした瞬間、ブンッという
鈍い音ともに何かが茂みを突き破り、そして村山の首を跳ねた。
ペスはずっと茂みに向かって牙を剥き出しにしつづけた――。


Chapter−1<サキヤマ町>

(ぜんぜん、わかんない……)
(ルート2って、2だったっけ……?)
(ぜんぜん、わかんない……)
(ヤバイ)(ヤバイ)(平方根……)
ひとみは今、数学の問題を必死に解いていた。テスト開始からすでに
20分が経過しているが、ほとんど白紙の状態であった。

あの事件以来、特にこれといった非日常的な事件は起こらなかった。
だからといって、テスト勉強をするというような事もなく、暇にかまけて
ダラダラした生活を過ごしていた。

ダラダラと過ごしていたが、以前のようにその退屈な日常に不満を抱
く事はなかった。矢口の残した「梨華ちゃんもリストに入った」という言
葉がずっと残っていたからである。

いずれ、明日香または別の人物が自分達の前に立ちはだかるのを、
ひとみは覚悟していた。それはいつになるのか、なんの能力も持たな
いひとみにはわからない。
ただ、何があっても梨華を守ろうという強い覚悟だけはあった。

今ダラダラしているのは、次の戦いに備えての束の間の休息なのだと、
ひとみは自分自身にもっともな理由をつけて、毎日を過ごしていた。
もちろん、中間テストの事などすっかり忘れていた。

その結果が、全30問中回答記入率わずか7問という数学のテストになっ
て現われた。

ひとみは、がっくりと肩を落として午後の町をぶらつく。

行き先は決まっていた。駅前にある梨華の勤めるフラワーショップ。
ほぼ毎日のように、顔を出していた。

だが、今日はその足取りも重い。
テストの出来のダメージはかなり大きい。いくら数学が苦手で、テスト勉
強を忘れていたとはいえ、7問しか答えられなかったのはショックだった。
しかも、それが正解しているのかも分からない。

(本当のバカだって、梨華ちゃんに分かっちゃうよ……)
(はぁ……)
できることなら、適当な理由をつけてさっさと家に帰ろうと思ったが、相手
の心を読める梨華の前では無駄な行為だった。

ひとみはできるだけ、テストのことは考えないようにしてフラワーショップ
「アップフロント」のドアを開けた。

「いらっしゃいませ」
と、声をかけてきた梨華は、ちょうど接客中だった。
何かを話しかけようとした梨華だったが、

(いいよ。仕事してて)
と、ひとみが心の中で言葉を発したので、梨華はそのまま接客を続けた。

ひとみは、梨華の邪魔をしないように客を装って花を眺めた。

ここに通いだして、ひとみは今まで知らなかった花の事をたくさん覚えた。
正直、はじめの頃はあまり興味がなかったが、一生懸命花の良さをアピー
ルする梨華の熱弁に説き伏せられ、最近ではほんの少しガーデニングに
も興味を持ち始めてきた。

観葉植物を眺めている最中、ひとみの携帯電話が鳴った。
友人の少ないひとみにとって、携帯電話はただの緊急用の連絡道具で
あり、普段その着信音が鳴ることは滅多にない。

ひとみは、カバンから取りだしディスプレイを見た。
どうせ、家からだろうと思っていたひとみだったが、メモリダイヤルに登録
されていない、謎の電話番号がディスプレイに浮かんでいた。

(は? 誰?)
と、思いつつも電話にでる。
「もしもし」
聞こえてきたのは、ひとみも忘れかけていたあの人物からだった。
『あ、もしもし。ひとみちゃん? 私、石黒』
以前、麻美の事件の時に知り合った女性週刊誌のライターである。

「え? 石黒さん?」
『やだな、もう忘れたの? ちょっと、ショック』
「あ、いえ。覚えてますよ。でもなんで、電話番号」
『ハハぁ。企業秘密』
「……そうですか」
『あ、ウソ。家に電話したらね、弟くんが教えてくれて』
「……あの、バカ」
ひとみは、小さな声で呟いた。

『あのさ、急で悪いんだけど、今日空いてるかな?』
「え? 今日――、ですか?」
ひとみは、ちらりと店の奥の梨華を見た。ちょうど花を買った客につり銭を
渡しているところだった。
呼びかけようかと思ったが、忙しそうなのでやめる事にした。

『ねぇ、ひとみちゃん?』
「あ……、はい……。いいですよ」
『じゃあ、6時にこの前の喫茶店で。じゃあ』
「あ、ちょっと」
と、ひとみの返事も聞かずに電話はきられた。

「戻るの、メンドーなのに」
と、ブツブツ言いながら、ひとみは携帯をカバンの中にしまった。

「誰かと待ち合わせ?」
急に後ろから声がした。振りかえると、梨華がひとみの顔を覗きこむよう
にして立っていた。
いつの間にか客の姿もなく、店の中はひとみと梨華の2人っきりの空間
となっていた。

「あ、うん。ほら、前に麻美のお墓で会った」
「石黒……さん?」
「うん。なんか空いてるかって」
「ふーん」
梨華はそう言って、花の世話をはじめた。

(?)
(あれ?)
(梨華ちゃん)
ひとみは心の中で呼びかけた。

梨華は観葉植物の葉を丁寧にタオルで拭きながら、振りかえらずに
「なに」と答えた。

(怒った?)

梨華が振り向く。
「なんで?」
「え……、だって、なんか」
「別に、怒ってないよ。ただ……」
「ただ?」
「……」
梨華はうつむいたと思ったら、急にひとみに背を向け、また葉を拭きは
じめた。

「黙ってたら、わかんないよ……」
「ただ……、今日ね」
「うん」
「お給料の日だから、その……、一緒にご飯でもどうかなぁって」

梨華はそう言うと、振りかえってニッコリと笑った。
「でも、しょうがない。言ってなかったもんね」
「あ、じゃあ今から断る」
「あ、いい。そんな。石黒さん、大事な話があるかもしれないじゃない」
「ないよ、そんなの」
と、ひとみはバッグの中の携帯電話を探す。
「また今度でいいから。そうだ。明日、行こう。明日、私休みだから、学
校まで迎えにいく。ね、そうしよう」
「……うん。……わかった。そうする」
ひとみは、バッグの中からゆっくりと手をだした。

「明日もテストだよね? 何時頃、行ったらいいかな」
梨華が何気に口に出した”テスト”というフレーズが、ひとみの忘れてい
た記憶を呼び戻した。

(あ!)
と、思ってももう遅かった。数学のテストの点数が頭の中をグルグル回り、
それを梨華に読み取られてしまった。
ひとみは、がっくりと肩を落として赤面した。

ひとみはかなり、苛立っていた。
梨華との食事がつぶされただけでなく、呼び出した本人が待ち合わせ
時刻を20分過ぎても現われなかったからだ。

電話しようかとも思ったが、もう少しもう少しと先延ばしにしている間に、
さらに20分が経過した。

「もう、いいや」
と、ひとみは電話する気も失せ、そのまま黙って帰る事にした。
立ちあがって何気なく窓の外を見たとき、店のあるビルへと駆け込んで
くる石黒の姿が見えた。

「はぁ……」
ひとみは、軽いため息を吐くとまた椅子に腰を落とした。

「ごめん。待った?」
しばらくすると石黒の声が聞こえた。が、ひとみはチラリと目で挨拶した
だけで何も答えなかった。

「あ……、ごめん。ちょっと、急な取材が入って……」
「話ってなんですか?」
「うわ……、すごい怒ってる」
「怒ってませんよ」
ひとみは、窓の外へと視線を向けた。
「事件の続報、聞きたくない?」
「別に聞きたくないです」
「ホントに?」
「……話って、それですか?」
「最近、事件のこと調べてないそうね。諦めた?」
「もう済んだ事ですから」
「済んだ? 済んだってどう言うこと? まだ謎は解けてないわよ」

(まただ……)
ひとみはまた石黒の誘導尋問にひっかかったのを知った。
(なんなの、この人は)
石黒は、バッグの中から手帳を取りしテーブルから身を乗りだしてきた。
「ね、何が済んだか聞かせて」
「あの、もうちょっと下がってください。顔が前へ……」
「あ、ごめん。つい興奮して」
「済んだって言ったのは、私の中で納得したって事です」
「何を?」
「何を……って、麻美の事ですよ」
「どんな風に?」

「そんなこと調べてどうするんですか? そっとしといてくださいよ。もう、
いいじゃないですか」
ひとみは、強い口調で言った。
石黒は手帳に視線を落としたまま、ひとみに喋らせようと黙っている。
その様子を敏感に感じとったひとみは、もう何も言うまいと心に誓った。

「――人口1200人のサキヤマ町で、同じような事件が先週3件起こっ
た。――動機なき自殺よ」
石黒は手帳から顔を上げずに、ひとみにそう言った。
「……」
ひとみの背筋に、冷たいものが走る。
「それだけじゃないの。凶器を特定できない殺人事件が8件。もちろん、
犯人は不明」
「……だから」
ひとみは、ごくりと冷たくなったレモネードを飲んだ。

「今月上旬、中澤裕子と矢口真里に会ってたでしょう」
石黒は、まるで”言い訳できないわよ”とでも言いたげな視線を向けた。
「……」
「理由は聞かない。でも、その後に2人がどこに行ったか気にならない?」
「……」
しばらくひとみの目を見つめていた石黒は、おもむろにバッグの中から
地図を取りだした。
製本をコピーしたものでいつも持ち歩いているのだろう、かなりボロボロ
になっていた。

「この印を見て」
地図にはいくつかの、赤い丸がついていた。
「朝比奈町から、東へ伸びてますね」
「この赤いマル、なんだと思う?」
「……さぁ」
「動機なき自殺が起きた場所。たぶん、中澤裕子と矢口真里の逃走経路」
「……!」
石黒は、ひとみの動揺を見逃さなかった。

翌日の午後、ひとみと梨華は学園前で待ち合わせをしてそのままバスに
乗って市の外れにある博物館に向かった。

夕食までに少し時間があったので、それまで何をして時間をつぶそうかと
ひとみが考えるていると、梨華が突然博物館に行きたいと言ったのだ。

高山植物の写真展が開かれているらしく、今日がその最終日らしい。
ちょうど植物にも興味をもち始めてきたし、何より梨華がとても行きたがっ
ている様子なので、ひとみは快く「いいよ」と答えた。

館内はとても静かだった。
”高山植物の写真”というマニアックなジャンルのためなのか、それとも平
日の昼間なのかわからなかったが、ひとみが数えたところ館内には3人し
かいなかった。ひとみ、梨華、そして受付の女性。
つまり、客は2人しかいなかったのである。

「ねぇ、梨華ちゃん」
写真を見つめていた梨華が、「ん?」と振りかえる。
「あんまり静か過ぎるっていうのも、ちょっと緊張しない?」
梨華は、少し困ったような笑みを浮かべてまた写真に視線を戻した。

(そうだ……)
(梨華ちゃんには、この声も聞こえてるんだった……)
(たぶん)
(あの人の声も、聞こえてるんだろうな……)
ひとみは、退屈そうに机の下でマネキュアを塗っている受け付け嬢を見
つめた。

ひとみは、梨華の鑑賞の邪魔をしないように何も考えないようにした。
読まれてはいけない、昨日の石黒の件は意識の下の方に押し込んでいる
ので、さすがの梨華も触手を伸ばさなければ探ることはできない。

梨華は、聞こえてくる受付嬢の卑猥な妄想を無視して、高山植物の世界
に見入っていた。

高山植物の写真を気に入った梨華は、館内に備え付けてあった無料パン
フレットを何枚か持ちかえった。

ファミリーレストランで食事をしている最中も、いつもの梨華らしくない少し
興奮気味の口調で高山植物を実際に見てみたいと語った。

ひとみはその様子を見ながら、ずっとニヤけていた。
(梨華ちゃんって、花の事になるとすごいよく喋る)
(あ、でも)
(最初の頃は、すごい早口だった)
(アタシの話、全然聞いてなかったもんな)
ひとみは、駅の階段でパスケースを渡した頃を思い出し、思わずプッと声
を上げて笑ってしまった。

「だって、しょうがないじゃない」
と、梨華はしょぼんとした表情でひとみを見つめた。
「あの頃は、知られるのが嫌だったから」
「すごい早口だったよ、あの時の梨華ちゃん」
「だって、そうしないとひとみちゃん色んな事考えるでしょ?」
「どういうこと?」
「その……、いろいろ……」
「いろいろって?」
なぜか赤面している梨華を、ひとみはきょとんとした顔で覗きこんだ。

「その……、かわいいとか……、なんとか、考えてたし……」
梨華のその言葉に、今度はひとみの顔が赤くなった。
「ち、違うよ、あれはただホントにかわいいって思っただけで、べつにそん
なイヤらしい意味じゃないよ」
「そんなの、出会ったばかりなのにわからなかったから」
「そ、そうだけどさ。普通、そんな女の子どうしなのに考えないでしょ」
「たまにいるから、そんな風に考えてる人……。だから、ひとみちゃんも、
そうなのかなって……、ちょっと怖かったの」
「ち、違うってば」
ひとみは、わけもなくテーブルの上に置いてあった写真展のパンフレット
を手にとった。

「わかってる。すぐに違うと思ったから、あの後お店に招待したでしょ」
と、梨華は笑って答えた。――が、すぐにその笑顔は消えた。
パンフレットの裏面に目を通したひとみの心の声が、聞こえてきたからだっ
た。

(カメラマン)(和田薫)(サキヤマ町出身)
(サキヤマ)
(石黒さん)
(二人のいる場所)
(動機なき自殺)
(……!)
顔をあげたひとみが見たものは、何かを訊ねたそうにしている梨華だった。

「ね、ひとみちゃん。サキヤマ町って……?」

”サキヤマ町”という単語だけなら、何とか誤魔化すことができたのかも知
れない。
蝶の一種とでも、ひょっとしたら誤魔化せたかもしれない。

だが、ひとみは”サキヤマ町”と同時に、”石黒”、”動機なき自殺”という言
い逃れのできないものを、梨華のもとへと流してしまった。

「ね、ひとみちゃん」
訊ねる梨華の口調にも、真剣さが混ざる。
ひとみは、観念して重い口を開いた。昨夜の石黒との会話を、すべて梨華
に話して聞かせた。

「じゃあ、石黒さんは1人で行っちゃったの?」
「中澤先生と矢口先輩が犯人だと思ってるからね。スクープの立証をとるっ
て」
「危ない。何で止めなかったの」
「だって、相手は超能力者ですなんて言える? 信じてもらえる?」
「それは……」
「否定すれば今度はこっちが怪しまれる。そうすれば、あの人のことだから、
アタシの周りを嗅ぎまわって――、アタシの事はいいけど梨華ちゃんのこと
がバレるといけないと思ったから、止めることなんてできなかった」
ひとみは、テーブルに肘をつき頭を抱えた。

「ひとみちゃん……」
「だから、関わるの嫌だったんだ。なんか、嫌な予感がしてた」
「……」
「もうこの話は、やめよう」
「……うん。料理、冷めちゃうね」
その後、2人は重苦しい雰囲気の中、もくもくと食事をした。

駅までの道を歩きながらも、2人の会話はあまり弾まなかった。
それぞれが、石黒のことを考えていた。もっとも、ひとみの考えなど梨華に
は筒抜けなので、別々とは言いきれないが――。

人ごみを避けて歩いていた公園の真ん中で、梨華が急に立ち止まった。
ひとみも、ニ、三歩して立ち止まる。
遠くの喧騒を聞きながら、ひとみは何となく梨華が何を口にするのかわかっ
ていた。

「やっぱり、見捨てることできない」

ひとみの思った通りだった。
「言うと思った」
「……これ以上、犠牲者を……、悲しむ人を増やしたくない」
梨華の強い決意に、ひとみは反対する事ができなかった。
――ひとみの休息は、終わりを告げようとしていた。


Chapter−2<未知との遭遇>

ブロロロロロロロ〜・・・・・・・・・、ブスン・・・・・・・。
そんな情けない音を最後に、石黒彩の運転する車は山の中腹で止まっ
てしまった。

「ちょっと、やめてよ、こんなとこで」
必死に何度もセルを回すが、2度とエンジンがかかる事はなかった。

「最悪……」
石黒は運転席の中から辺りを見まわしたが、広がるのは闇ばかりで、
人工の明かりはどこにもない。
仕方なく石黒は電話で誰かを呼ぼうとしたが、電波が届かないため
使い物にならなかった。

「ちょっと、もう最悪」
石黒はふて腐れて、シートを倒した。
外に出て、エンジンルームを覗いてみようかとも思ったが、車のエンジ
ン構造などわかりっこないのですぐに却下した。
携帯電話も使えない。民家もここに来る数十分前に見た限り。車も通
りそうにない。

「寝よう」
考えついた結果がこれであった。石黒は高部座席に脱ぎ捨ててあった
薄手のジャケットをかけて眠った。
人を恐怖へと誘う闇。恐怖の感情をかきたてる闇。
しかし、彼女にとって闇はなんらその意味を持たなかった。闇に意識が
あれば拍子抜けした事だろう……。

ほんの数分歩けば、そこに建物がある。だが石黒がそれを知るのは、
翌日になってからのことである――。
闇はそちらで活躍しているようだった。

石黒の車が停止したその数キロ先に、森林組合の事務所があった。
事務所と言っても普段そこに人の姿はない。
伐採のある数日間の間に、麓に戻るのが億劫な作業員だけが泊まった
りする臨時宿泊施設のようなものである。

普段使われることのないその建物に、2日前からある少女が住みつい
ていた。
住みついていた――と、言うよりも山を越える途中にちょっとした崖から
転落し、足をくじいてしまい仕方なくそこに留まってるのである。

少女としては、一刻も早く山を降りたいのだが、足が痛くて動くことがで
きない。

幸いその建物の中には、救急箱もあり、寝具はもちろん、ちょっとした保
存食もあったので悪いとは思いつつもそこをしばらく寝床にし、足の回復
を待っているのだ。

少女は、辺りに神経を尖らせながら足のシップを取りかえていた。
木の葉が風でこすれる度に、少女はビクンと身体を奮わせた。

今日もまた、彼女はゆっくりと眠ることはできない。
自分自身でも、そう思っていた――。

「学校やご両親には、何て言ってきたの?」
車窓の流れる景色眺めているひとみに、むかいに座っている梨華が声
をかけた。

「ん?」
ひとみの目には、あきらかに梨華が遠足気分で、はしゃいでいるように
うつった。
「私ね、旅行に行くのなんて小学校の修学旅行以来なの。中学の時は、
風邪こじらせちゃって行けなかったの。だからね、なんかすっごいワクワ
クして。昨日なんて、ほとんど眠れなかった。あ、見てすごい」
外に広がる広大な田園風景。

(梨華ちゃんって、大物かも……)
(アタシ)
(胃が痛い……)
これからのことを考えると、胃がキリキリと痛むひとみであった。

「ひとみちゃん……」
ひとみが顔を向けると、梨華はうつむいていた。
嫌な予感がしたひとみは、静かに辺りを見まわした。田舎の単線電車。
車内にはあまり人はない。何が彼女を黙らせたのか、その原因は分か
らないが、何者かがいるのはあきらかだった。

「隣の車両の人……」
きっと通路側の梨華からは見えているのだろう。梨華はその人物に悟
られないよう、窓外を見ながら喋った。

ひとみは何気に梨華と場所をかわり、自然な動作で隣の車両を見た。
男がいた。
髪を短く刈り上げ、少しえらの張った線の細いスーツ姿の若い男がこ
ちらを凝視していた。
ひとみは男と目が合い慌ててそらしたが、男はずっと凝視し続けた。

「ケダモノ……」
梨華は、顔をしかめて呟いた。
「え?」
「何人もの女性に……、乱暴してる……」
「乱暴って……、レイ……」
ひとみはわざと語尾を消した。梨華がそれにうなずく。
「今も、頭の中で……、私たちの……」
ひとみは身震いして、男の視界に入らない場所に移動した。

「なんなの……、キモイ」
「サキヤマ町。そこで3日前にも」
「最悪。同じ場所じゃん。キモイ。キモイ」
「警察に訴えられそうだから、相手の女性を脅しに」
「……最低」
「――私たちのことも、狙ってる……」
梨華が、広げていた意識の網をといたようだった。

と、同時に連結部のドアがプシューッという音と共に開いた。
先ほどの男が、何気なくひとみたちの通路を挟んだとなりの席に座っ
た。

駅に降りたった2人は、その足ですぐに駅前で客待ちをしていたタクシー
に乗り込んだ。
そのまま歩いて移動していると、男に尾行されると危惧した梨華の提
案だった。

梨華の提案は功をそうし、男の尾行を振り切ることができた。
梨華は、男がタクシーを使わないことを読み取っていたのかもしれない。

タクシーの車内から、遠く小さくなる男の姿を見たときひとみはホッと胸
を撫でおろした。
「なんか、もう疲れたね」
ひとみの正直な気持ちだった。梨華は、「うん」とだけ小さく答えると、流
れゆく窓外の景色に目を移した。

海に面した人口12000人ほどの小さな漁師町サキヤマ町。
目立ったビルもなく、古い軒並みと山と海に囲まれた小さな町だった。
都会の風景を見なれたひとみと梨華にとっては、新鮮な感じがした。

それから10分後、宿泊の予約をしていた海沿いの民宿に2人はいた。
このすぐ近くで、3日前に老人の謎の他殺体が発見されたらしい。
つまり、この近くに中澤と矢口、そして石黒、そして”動機なき自殺”を
引き起こした福田明日香と、”凶器不明の殺人”を引き起こした仲間が
潜伏している可能性が最も高かった。

「さてと、まずどうしよっか」
ひとみはボストンバッグを部屋に置くと、畳の上にあぐらをかいて座っ
た。
梨華は、窓辺に立ち海を見つめながら中澤たちの意識を探っていた。
ひとみは黙って、その様子を眺めていた。

「この近くにはいないみたい」
「そう……。じゃあ、ちょっとその辺歩いてみる?」
「うん」

――2人は近くの港へと足を向けた。
梨華は意識の網を広げながら歩いたが、それらしい意識をキャッチす
ることはできないでいた。
梨華の中に、嫌な疑問が浮かんできた。
「ね、ひとみちゃん」
「ん? わっ、ちょっと梨華ちゃん見てあれ」
ひとみの指さす方向に、港前のすし屋があった。店先に客寄せのため
の大きな水槽が設置されており、その中に巨大な”クロアナゴ”がその
巨体をゆっくりと動かしながら泳いでいた。

「うわぁ……、何あれ」
と、梨華は顔をしかめながらひとみの後ろに隠れた。
「かっけー」
ひとみは目をランランに輝かせ、水槽に向かってかけていった。
「ちょっと、ひとみちゃん」
梨華は、嫌な疑問を言いそびれてしまった。

「わぁ、かっけー」
ひとみは、しばらく水槽の前から離れなかった。

石黒が目を覚ましたのは、もう昼もいい加減に過ぎた頃だった。
日々の睡眠不足は十分に補うことができたが、相変わらず車は壊れた
ままだった。

「ちっ、しょーがねぇな」
と、取材に必要な物を車のトランクから引っ張りだすと、ひっそりとした山
道を登っていった。

木漏れ日の下をのんびり歩いていると、山道のわきに突如として開けた
敷地が現われ、その向こうに立派とは言えないがそれなりに近代的なコ
ンクリートの建物が目に入った。
田舎の公民館を思わせるようなつくりである――。

「ラッキー。以外と早く見つかった」
石黒は、カメラバッグを抱えなおすと意気揚々と建物へと向かって歩いた。

建物の正面玄関は、どんなにノックしても開く事はなかった。
しかし、石黒は無人であるとは思っていない。なぜなら、玄関に到着する
までに、2階の窓に少女の後ろ姿を目撃したからである。

「あの〜、すみません。――あの〜」
開いていた横の通用口から、ひっそりと薄暗い建物の中に向かって声を
かけた。――が、やはり返事はない。
「あの〜、入りますよ。ちょっと、電話借りますね」
返事がないのだから仕方がないと、石黒は中へとは言っていった。

そこが森林組合の事務所だと知ったのは、事務所のドアを開けて壁にか
かったボードを見てから知った石黒だった。
「なんだ、誰もいないのか……」
けっきょく、さっき見た少女は見間違いだったとして、石黒は事務所にある
古い黒電話に手をかけた。

ジーコジーコとダイヤルが戻る音が、どこか哀愁を漂わせる。
あと、少しで目的の場所にダイヤルできるところで、突然2階からガタンと
いう何かを倒す音が聞こえた。

「え!? なに!?」
さすがの石黒もこの音には驚いて、思わず電話をきってしまった。
2階を見上げたが、それきりなんの音もしない。

(やっぱり2階に誰かいる)
そう確信した石黒は、ジャーナリスト魂とでもいうのだろうか、謎を謎のま
まにはできないらしく、気がつけば2階への階段を登っていた。

「あの〜、すみません。誰かいるんなら、出てきてもらえませんか?」
相手に出る気がないのは、これまでの対応で十分理解している石黒では
あったが、いちおう声をかけてみた。
が、やはりなんの返事もない。

石黒は、”仮眠室”とかかれたドアをゆっくりと開けた。音の発生源は構造
上、事務所の真上にあるこの部屋としか考えられない。
それと石黒が外から少女の後ろ姿を見たのも、この部屋である。

がらんとした部屋に、無造作に毛布と保存食の袋が散らばっている。
部屋の中には誰もいないが、確かにさっきまで誰かがいた雰囲気がする。
石黒は、部屋に備えられている押入れに視線を向けた。

さすがに、恐怖感が芽生えてきた。
不法な侵入者であるには違いないが、なんども声はかけた。が、相手は
なんの返事もしない。考えられるのは、相手もここの関係者ではないから
返事が出来ないという事である。
"オカルト"の類は根本から否定しているので、そこから芽生える恐怖は一
切なかった。

「あのね、開けるよ? いい?」
きっと、外から目撃した人物が男性ならば、石黒はもうその場を逃げ出し
ていただろう。いや、2階にも上らなかったはずだ。

だが、石黒は少女を目撃した。それも、小柄な少女。
そんな少女がどうしてこんな場所にいるのかが、彼女の魂に火を点けた
のかもしれない。

「開けるからね。せーの」
と、石黒は思いきってドアを開けた。――しかし、中には布団が詰まって
いるだけで少女の姿は見当たらない。

「?」
石黒は、きょとんとした顔でしばらく押入れの前で立っていた。確かに、
音はこの部屋からした。少女の姿を目撃したのもこの部屋。しかし、誰も
いない――。

――数秒後、石黒は目ざとく見つけた。押入れの天井の羽目板が、僅
かながらにずれていることを……。

「その話、もうちょっと詳しく教えてくれない?」
石黒は、手帳を取りだして目の前の少女に向かっていった。
「金髪の女性2人って言ったわよね」

少女は、周りに目を配らせながらうなずいた。
押入れの天井裏に潜んでいた少女は、発見された直後はひどく興奮状
態だったが、見つけられた相手が女性でしかもサキヤマとは関係ない人
物だと知って、今ではその興奮も少しではあるが落ちつきを取り戻してい
た。

「あなた、名前は?」
少女は、石黒をチラリと一瞥しそれからまたその子猫のような瞳を外へと
向けた。
「あ、私、石黒彩。東京でライターをやってんの。ついこの前までは、雑誌
社の専属だったんだけど、命令無視でクビになっちゃった。ま、早い話が
今はプータローってとこかな」
と、石黒は笑った。

その笑いに、少女の緊張はさらに解けたのか、
「安倍……、安倍なつみ」
と、自分の名前を口にした。

「安倍さん――。安倍なつみさんね」
石黒は、なつみに見つからないよう素早く手帳に名前を書き込んだ。

「で、さっきの金髪女性のことなんだけど。知り合い?」
「――知り合いじゃないべさ。だって、なっちはその日来たばかりなんだよ」
と、声を荒げていった。
「あ、ごめん。わかったから落ちついて」
「……」
なつみは、また窓の外へと視線を戻した。

「なつみちゃ――なっちは北海道出身?」
なつみは返事をする変わりに、こくりとうなずいた。
「ウソ。私も」
「え?」
と、なつみは石黒の方を振りかえった。

「私、札幌だけど。なっちは?」
「なっちは、室蘭の方」
「あ、行ったことあるよ。すごい、偶然だね。こんなところで道民同士会える
なんて、思ってもなかったべさ」
と、石黒はおどけて言ってみせた。
「うん」
なつみは、目をキラキラと輝かせて石黒を見上げている。よほど嬉しかった
のだろう。さっきまでの緊張感は、もうなくなっていた。

「北海道から親戚の叔母さんに会いに来たんだ。腰を悪くして入院して
てね、なっちにとってはお母さん変わりのような人だから、心配でお見舞
いに来たの」
「うん」

「でね、着いて駅からタクシーに乗ろうとしたら、金髪の女の人2人に声か
けられて、なっちてっきりお金でも取られるんじゃないかと思って震えてた
の」
「1人は小柄。1人は関西弁じゃなかった?」
「なんで、知ってるべさ」
「あ、うん。ちょっとね。――で?」

「でね、その関西弁の人が”朝比奈町に住む吉澤ひとみって子と石川梨華っ
ていう子を呼んできて”ってなっちに言ったんだ」

メモを取っていた、石黒の手が止まった。
(ひとみちゃん……?)

「そんなのいきなり言われてもね、なっちには全然関係ないっしょ? でも、
小柄な人が”会おうと思わなくても、絶対に会えるから”って。もう意味がわ
かんなくて、なっち怖くなって逃げたんだ」

(会おうと思わなくても会える……)

「でね、それからどれぐらいだろう……。病院から出てきたら」

(やっぱり、ひとみちゃん何か知ってる……)

「病院の前で、また2人が立っててね。もう、ホントなっちスゴイ怖くなって、
ダーって走ったの。したら、今度は別の女の子が現われてさ。”迎えに来た
よ”なんて言うの。ぜんぜん、知らないなっちより年下の子だよ」

(迎えに来た……?)

「したら、突然、金髪の小っちゃいのがね。”逃げろー!”って叫んだの。
したら、なっちの横を風みたいなのがビュンッて飛んで行ってね。その2人
の横の木を切り倒したの」

(この子……、狂ってる……?)

「なんかもう、なっちパニックになって思いっきり走って、気が付いたら、山の
中に逃げ込んでて――」

また、興奮してきたのかなつみは石黒が冷蔵庫から勝手に持ち出してきた
ウーロン茶をがぶ飲みした。
石黒は、いつの間にかメモをとるのを忘れてなつみの話に聞き入っていた。

朝比奈町から続く謎の事件。
その真相は、石黒の常識の範囲を大きく超えていた。もっとも、石黒がそれ
に気づくのはもっとずっと先のことである――。


Chapter3−<再会>

2人がどのような理由でこの小さな町にやって来たのかは分からない。
だが男にとってそんな事は、どうでもよかった。

駅前のロータリーでタクシーに乗り込む二人を見たとき、一瞬逃げられ
たと思ったが、小さな田舎町で泊まるところなどはしれているまた後で
旅館を探し出せばいいやと考えなおした。2人が手にしていたカバンは、
旅行カバン以外の何物でもなかったからである――。

男はその足で、すぐ側にある飲み屋街の裏路地へと入っていった。
この先にあるスナックの2階で、男は3日前に1人の若い女性をレイプ
した。

営業先の地で、女をレイプするのが男のもう1つの仕事であった。もち
ろん、報酬は女の身体である。本職の教材販売の営業が上手くいか
なかった時ほど、副業の方を確実にこなすことにしていた。

その日もそうであった。教材の方はちっとも売れずに、ムシャクシャし
たまま、たまたま通りかかった女の後を尾行して、そしてレイプした。

素性などはまったくもってどうでもよく、ただ好みの顔が歪み、陵辱さ
れる姿を男は楽しむだけだった。
たいていの女は、行為の後ぐったりとしているかその後に続く恐怖を
想像して震えているだけだった。

だが、スナックの女は、スボンのチャックを上げ玄関を出ていこうとし
た男の背に向かってこう言い放った。

「訴えてやる!」

男は、お笑いタレントのフレーズを思いだし笑いそうになったが、その
まま特に振りかえりもせず部屋を後にした。

それから数日間、男は元の町で静かに暮らしていた。だが、急にあ
の女の職業を思いだし不安になった。
そして、自分に向かって言い放ったあの怒気を帯びた声を思い出し
て、怒りが込み上げてきた。

男は有給をとり、もう1度女の元へと向かった。その途中の電車で
出会った少女2人。男にとっての思わぬところから転がり込んできた
大きな商談だった。

けっきょく、スナックの女はもう1度男が訪れたことに恐怖し、泣きな
がら「訴えたりしませんから、殺さないで」と哀願した。
男は、ニヤリと笑って女をもう1度レイプした。自分に不安材料を与え
た相手に対し、男は容赦なく責めつづけた。
女はもうきっと子供を生めない身体になったであろうが、男にとっては
どうでもいいことであった。

男はまた3日前のように玄関を出ると、日も暮れかけた夕暮れの空を
見上げ、少女二人が宿泊している旅館を探すことにした。

『お客様のおかけになった電話番号は、現在電源を――』
ひとみは、携帯の向こうから聞こえてくるアナウンスをもう何度も聞いて
いた。
昨夜から石黒の携帯にかけているが、ずっと繋がらない。ひとみの不安
は増すばかりであった。

――梨華は夕食を終えて、内風呂に入っている。
ひとみは携帯を枕もとに置くと、布団の上に大の字になって寝転がった。

(石黒さん……、大丈夫かな……)
(先生、矢口さん)
(もうすでに……)
ひとみは、慌てて何も考えないようにした。そこへ、風呂上りの梨華がタ
オルで髪を拭きながらやって来た。

「お風呂、空いたよ」
「あ、うん」
と、ひとみは身体を起こした。バッグの中から下着を取りだす。

「ホントに、ここにいるのかなぁ」
梨華の呟きが聞こえてきた。
「――なんで?」
「誰の意識も、感じないの」
「だってまだ、来たばかりだよ。小さいって言っても、一応は町なんだから。
そんなすぐ見つかるわけないよ」
「そうだけど……」
と、言った梨華の表情がハッとなった。

「梨華ちゃん?」
梨華は目を閉じ、力に集中している。ひとみは、とっさに身構えた。
近くに武器になるものがないか探したが、残念ながら何もそれらしい物は
見つからなかった。

「ね、梨華ちゃん、どうしたの?」
「来たの……」
梨華は目を閉じたまま、ひとみの声に答える。
「来たって誰が?」
「昼間の男の人」
「……アイツが?」
ひとみは昼間電車内で出会った薄気味の悪いレイプ犯の目を思いだし、
軽い吐き気を覚えた。

「うっ」
梨華は、先ほど食べた夕食を吐き出しそうになった。
「梨華ちゃん!」
慌てて駆けより、背中をさするひとみ。
梨華の目には涙が滲んでいた。

「何であんなひどいことができるの……」
梨華は泣きそうになりながら、ひとみに訴えかけた。
「人間じゃないよ……」
「何があったの!」

梨華はひとみに、男の心の中のことをすべて話した。電車内ではひと
みの受けるショックを考慮して黙っていたが、そこで男は何を考え、そ
して今何をしてき、これから何をするつもりなのかを洗いざらい喋った。

ひとみに恐怖の感情は消えた。
ただひたすら、卑劣で異常な男にたいする嫌悪感と殺意だけが芽生
えてきた。

「ね、ひとみちゃん、逃げよう。今まだロビーだから間に合う。ね、逃げ
よう」
「ダメ。逃げても追ってくる。それに」
(そんなの野放しにしてたら、ダメだ)
(戦って、梨華ちゃん)
ひとみは、福田明日香と対決した梨華を思い出していた。

梨華は、戸惑った表情を浮かべた。

(そんなヤツ、このままにしてたら)

「でも、相手は普通の人だよ。そんな事したら、あの人と同じになる」
梨華が泣きそうになって叫ぶ。

――ひとみは、自分の愚かさを呪った。

(そうだ……)
(梨華ちゃんは……)
(普通の人に、そんなこと……)
(何でアタシ……)
脳に集中していた血流が、スッと覚めていくのをひとみは感じていた。

「ひとみちゃん、逃げよう。ね。お願いだから、私、怖い」
「――うん」
ひとみは、素早く荷物をバッグに詰めはじめた。梨華も浴衣姿のまま、
逃げる準備をはじめている。
「ダメ。すぐそこまで来てる」
「いいから、早く荷物まとめて!」
ひとみは、その足で窓の外を見下ろした。いくら2階とはいえ、地面ま
では3メートルほどの高さがある。

地面にクッションになるようなものは何もない。靴は1階のロビーの靴
箱にあるので、素足で剥き出しのコンクリートに着地しなければならな
い。その衝撃は、いくら数学の苦手なひとみにも経験で計算できた。

(どうしよう!)
(どうしよう!)
(どうしよう!)
ひとみは身を翻すと、すばやく隣の部屋から布団を抱えてきた。
そしてそれを、窓の外に落とした。

「梨華ちゃん、先に私が下りる」
そう言うと、ひとみは窓からぶら下がった。ぶら下がった自分の身長の
分だけ、地面までの距離を縮め衝撃を少なくしようとした。
本能的に割り出した計算。それが功をそうし、ひとみはなんの怪我も
なく、地面に降り立つことができた。

「さ、梨華ちゃん」
ひとみは小さな声で、窓際の梨華を見上げる。
「できない〜……」
梨華は口をへの字にして、今にも泣きそうになっている。
「大丈夫。さぁ」
大きく両手を広げるひとみ。

コンコン。部屋の入り口の引き戸をノックする音が聞こえた。
男の意識が、梨華の頭に響く。
(出る)
(殴る)(2人)
(2人とも)
(布団)(窒息)
(まず、笑顔)(安心させ)
男の計画が、梨華の背筋を凍らせた。

「梨華ちゃん、早く!」
梨華はひとみを信じて、目をつぶって飛び降りた。
ひとみの胸に飛び込んだ衝撃。ひとみは梨華を抱えたまま、後ろの
布団に倒れ込んだ。

しばらく、ひとみは痛みで起きあがれなかった。
「ひとみちゃん、大丈夫!」
あいかわらず、泣きそうな顔で梨華が覗きこむ。
「……ハハ。まさか、飛び込んでくるとは思わなかった」
「え?」
「いや、同じようにしてそんで下で受け止めようとしてたから」
梨華は、ハッとした。
「ごめん……。私……」
「いいって。梨華ちゃん軽いから。それより、怪我は?」
梨華は、泣いてひとみの胸に飛び込んだ。なぜそうしたのか自分で
も分からない。ただ、ひとみの胸に飛び込みたかった。
「ちょ、ちょっと梨華ちゃん」
戸惑うひとみだったが、泣き続ける梨華を抱えおこす。
「泣くのはあとでいいから、早く逃げよう」
ぐずる梨華の手をとって、ひとみは夜の海岸線沿いを走った。
2人とも裸足だったが、コンクリートの地面は心地よくさえあった。

男が引き戸の鍵を壊して中に入ってみると、そこはもぬけの殻だった。
男は開け放たれたままの窓を見つめた。
ねっとりとした海からの風が、部屋の中に充満していた。
窓際に立ち、遠く走り去って行く二つの影を見て男はにやりと笑った。

翌朝。ひとみは、いつもと同じ時間に目が覚めた。
旅館から逃げ出したあと、2人は人目につかない場所にある神社の
お堂の中で一晩を明かした。

怖いと言っていた梨華も、まだひとみに寄り添うようにして眠っている。
ひとみは、顔だけを梨華に向けた。
夢でも見ているのだろうか、まぶたの動きに連動して長いまつげがピ
クピクと動いている。

それを見て、ひとみはクスッと笑った。一瞬、梨華の身体がビクンとなっ
たが、規則的な呼吸は続いていた。

ひとみは、天井に視線を向けた。そして、昨夜自分が言った言葉を思い
出していた。

《戦って、梨華ちゃん》

(当たり前に思ってた。力があれば、それを使う。相手は異常な変質者。
でも梨華ちゃんは、あの福田明日香にも勝ったんだから、余裕で勝てる
と思ってた)

(でも、そうじゃなかったんだよね……。梨華ちゃんは、本当は力なん
て使いたくないんだ。あの時は、アイツも同じ力をもってたから……。
同じ力を持ってて、それを使ったらどういうことになるのかわかってる
のに、それで人の命を奪うアイツが許せなかったんだ。)

(力なんて、本当は使いたくないんだよね……)
ひとみは視線を戻し、梨華の寝顔を見つめた。

(みんなの色んな嫌なところ見てるはずなのに……)
(なんで、こんなに優しいんだろう……)
(私に力があったら……)
(もっと楽に、梨華ちゃんを守ってあげられるのに)

ひとみは、優しく梨華の頬を撫でた。

(ごめんね、いろいろ迷惑かけて)

ひとみが心の中でそう呟いたあと、梨華の目がゆっくりと開いた。

「あ、ごめん……、起こしちゃった?」
「……ううん」
「……聞こえた?」
梨華は、目を伏せて返事をした。
「そっか」
「私、迷惑なんて1度も思ったことないよ」
ひとみの手を握り、微笑みかける梨華。
「逆に私のほうが、いっつも迷惑かけてる」
「そんなことないよ。いっつも助けてもらってるのはアタシだし」
ひとみは、慌てて上半身を起こす。

きょとんと見上げる梨華。そして、クスッと笑う。
「昨日の、ひとみちゃんカッコよかったよ。王子様みたいだった」
と、梨華は昨日のひとみを真似て、両手を大きく広げる。
「どうせ、男みたいですっ」
と、ひとみは顔を赤くしながら反論した。
「じゃあ、お姫様。どうか、ボクのところへ」
梨華がふざけてひとみをその細い腕に包み込んだ。
「ちょっと、やめてよ」

2人の笑い声は、しばらくお堂の中に響いていた――。

未来の見える矢口真里。その能力は、微々たるものである。
自分の能力なら、一瞬で操ることができる――と、福田明日香には絶
対の自信があった。

しかし、厄介なのはいつもその矢口真里に付き添っている中澤裕子の
存在だった。

どういうわけか、中澤が瞑想を始めると側にいる矢口真里の意識下に
潜りこむことができないでいた。

(あいつさえ、いなければ……)
これまでの数度の遭遇で、明日香は2人に何も手が出せないでいた。
それが彼女にとって、屈辱以外のなにものでもない。

つい1年ほど前まで、自分はこの世の中で絶対的な存在だと明日香は
信じ込んでいた。
しかし、その自信は様々な能力者に出会うことで脆くも崩れそうになっ
ていた。

明日香が所属している企業のスカウトマンは、全員が何かしらの能力を
持っている。個人個人の力は絶対的なものではないが、スカウトマン達
は互いにない能力を補うパートナーと行動する事で”絶対的”に近い存在
になっている。

そんな事を知らない明日香は、1年前にスカウトマンに声をかけられた時、
無謀にも戦いをしかけそして無残に負けた。

その後、自分もスカウトマンとなったが、パートナーを持たずに一人で行
動をした。様々な障壁に立ち向かい、自分の能力を極めるためである。
そして、いつか企業を社会を崩壊させようと目論んでいた――。

だが、それにも限界を感じはじめていた。
そのきっかけを与えたのが、”矢口真里と中澤裕子”である。
知ってか知らずか、この2人も互いにない能力を補っている。

未来の見える矢口がいることにより、あらかじめ予防線を張れる中澤裕子。
2人は共にいることで、危険のない確定された未来を進んでいる。
そんな2人の前では、明日香がいくら戦いを挑んでもまったく相手になら
ない。

(仕方ない……)
どうせ、崩れかけたプライドだと、明日香は企業にパートナーを紹介してく
れるように申し込んだ。
ただし、もうパートナーを組んでいる相手からのレンタルはいらないと付け
加えた。新人で、自分の支配下における人物が欲しかった。

「で、今までどこ行ってたわけ?」
明日香は隣で、アイスクリームを食べているパートナーに訊ねた。

企業が派遣した明日香のパートナー、松浦亜弥はニコッと笑って「ちょっ
とお買い物です」と答えた。

明日香の苛立ちは、道路の反対側を歩く主婦に向けられた。
主婦は突然身を固くしたかと思うと、通りすぎる若い女性を殴りつけた。
主婦の意識下にあった”若さへの嫉妬”を明日香は、意識の上にあげた
のである――。

3回目のリダイヤル後、やっと石黒への電話が繋がった。
ひとみは思わず梨華に、「繋がった!」と声をかけた。

しばらくして、石黒本人の声が聞こえてひとみはホッと安心した。

「あ、もしもし、石黒さ――」
『ひとみちゃん!?』
石黒の声が、驚きを表している。
「はい、そうですけど……」
(何で、こんなにびっくりするの?)

となりで梨華が心配そうにしている。

『今、どこ!!』
「え? どこって……」
『朝比奈? それともサキヤマ?』
「……サキヤマです」
『よかった……。サキヤマだって』
石黒は、側にいる誰かに話しかけているようだった。

「あの、それより石黒さん」
『近くにある目印教えて』
「は?」
『すぐに迎えに行くから、早く!』
(迎えに来るって……。どうする梨華ちゃん?)

梨華は、少し困ったような表情をすると一方向を指さした。
その先には、”海響館”というこの町には似つかわしくない大きな近代的
な水族館があった。

時間は少し遡る――。
ひとみからの電話がかかってくる約20分前、石黒となつみはサキヤマ
町へと向けて車を走らせていた。

なつみと初めて出会った日、山を挟んだ隣町の修理業者に電話をして
修理のために車を預けた。その車が、帰ってきたのが約1時間前。

車に乗り、40分かけてサキヤマ町までやって来ていた。

なつみが矢口と中澤に初めて出会った駅前を車で軽く流してみたが、
それらしい人物はどこにもいなかった。
次に、なつみの叔母が入院しているという病院に向かった。

たしかに、なつみの証言通り、木が1本だけ不自然な形で切断されて
いた。
石黒となつみは、車を下りてその木のもとへと向かった。

「なんだべ? これ」
なつみは木の切り口を見て、声を上げた。
石黒もその不自然な切り口に気づいた。
チェーンソウや斧で切った木は、その切り口の端に多少なりともギザギ
ザな痕を残す。
だが、その木の切り口にはそのような後もなく、まるで大理石のように
ツルツルとしていた。

「……」
石黒は、謎の殺人事件を思い出した。遺体はすべて鋭利な刃物のよう
なもので切断されていると警察はメディアに対して発表していたが、石
黒が裏から仕入れた情報では遺体の切断に用いた凶器は薄さ0.3ミ
リで長さは2メートル程度となっていた。

(0.3ミリで2メートル……)
(刀?)
(そんな刀なんて、あんの……?)
(もし仮にあったとしても……、この木をきれるほどの強度はありえない)

石黒の頭の中に、”オカルト現象”というフレーズがよぎった。
だが石黒は、それを必死で否定した。

「仮にもマスメディアに関わってるの。そんな物で簡単に片付けるわけ
にはいかない」
と、小さく呟いた。
「ん? なんか、言った?」
「ううん。行こう」

彩となつみは、車に戻ろうとした。
声が聞こえたのは、その時だった。

「もう、待ちましたよ」

なつみは、その声に聞き覚えがあった。

町の活性振興を祈って建設された”海響館”――。
だが、その願いも虚しく水族館一つにわざわざ旅行者が訪れるわけも
なく、中は閑散としたものだった。

しかし、ひとみと梨華には好都合だった。静かで、何よりも梨華に余計
な意識が流れないのをひとみは喜んでいた。

2人は石黒たちが到着する間、ひっそりと静まり返った青の空間を満
喫することにした。

「あ、見て見て。ひとみちゃんの好きな、ヘビみたいなのいるよ」
梨華が子供のようにはしゃぎ声を上げる。
「別に、好きってほどの――。うわ、でっけー!!」
「ね、あっち行こう。あっち」
2人は自然と腕を組みながら、広い館内をあちこち見て回った。

どのくらいそうしてたのだろう。梨華は、油断していた。
すぐ近くに来ている石黒と誰かもう1人の意識を感じた時、そのすぐ後
ろからやってくるあの強烈な意識を読みとり、自分達のいる町と目的が
なんであったのかを思い出した。

「梨華ちゃん、あれ見て」
ひとみが指さす方向に、きらびやかな熱帯魚が群れをなして泳いでいた。
しかし、梨華の目には何も写っていなかった。
数分後に訪れるであろう、戦いに備えて身を固くする梨華であった――。


Chapter−4<覚醒>

ひとみが駆け込んでくる石黒と1人の少女に気づいたのは、梨華の異変
に気づいた数分後のことだった。

梨華を隠すように水族館の奥へと導いていると、不意に横の通路から石
黒となつみがヨロヨロと駆け込んできた。

「ひとみちゃん……!」
石黒の身体は、赤い鮮血で彩られていた。
「どうしたんですか!」
ひとみは、梨華をつれて石黒に駆けよった。
石黒を支えている少女も、同じように全身キズだらけだった。

ひとみはすばやく状況を把握した。
身を固くしている梨華。キズだらけの石黒と少女。これで何も起こらないと
思うほど、ひとみは単純ではなかった。

「なっち……、この2人があなたが会うべき人」
ひとみと梨華は顔を見合わせる。

(知ってる?)
ひとみの心の問いかけに、梨華は小さく首を振った。

「吉澤ひとみちゃんと……、石川梨華さん……だよね? 前に霊園で」
梨華はもう石黒を見ることはなかったが、「ハイ」と一言だけ返事をした。
「この子は、安倍なつみちゃん……。中澤と矢口が、あなたたちに会うっ
て予言……。うっ……」
石黒は、その場に崩れ落ちた。

「石黒さん!」
「彩っぺ!」
石黒は、気を失った。腹部からの出血がひどく、ここまで気力で持ちこ
たえていたらしい。このままでは、命に関わる危険性すらあった。

「ひとみちゃん、石黒さんを連れてそっちの通路から逃げて!」
梨華が、一方向を凝視しながら、別方向を指さす。
「でも、梨華ちゃん」
「大丈夫だから、早く!」

「わかった。すぐ戻ってくるから」
ひとみは石黒を抱え起こすと、梨華が指した通路をすすんだ。

「安倍さんも、早く行ってください」
「な、なんで、梨華ちゃんは逃げないのさ。一緒に」
「早く! もうそこまで来てる!」
「アイツ等は、普通の人間じゃないんだよ。逃げよう」
梨華が落胆の表情を浮かべると、丸くカーブを描いた水槽の
向こうに2つの影が現われた。

「やっぱり、そうだった」
「福田さん、知ってるんですか?」
「ちょっとね」

2人の声が聞こえ、そしてゆっくりとその声の正体が姿を現した。

「久しぶり。石川さん」
明日香は、ニコッと微笑んだ。
隣にいる亜弥は、不思議そうな顔をしてぺこっと頭を下げた。

「やっぱり、アナタだったのね」
「何が?」
「とぼけないで、この町で起きてる事件よ」

明日香はフッと笑っただけで、何も答えなかった。
それはそのまま肯定を意味する表現のようでもあった。

なつみは、梨華の後ろに隠れてオロオロとしている。
なつみの恐怖が伝染し、梨華の意識が散漫になる。
「安倍さん……。失礼ですけど、触れないでもらえますか?」
「え?」
「すみません。お願いします」
なつみは、梨華からほんの少し離れた。が、体は相変わらず、梨華を盾
にしたままだった。

「安倍さん、いい加減にして下さいよ。でないと、ホントに怒りますよ」
亜弥は、腕を組んでプッと頬を膨らませた。

「な、なして!? なっちは、なんも関係ないっしょ」
亜弥にジロッと睨まれたなつみは、短い悲鳴を上げて梨華の後ろに隠
れた。

「安倍さんを、どうする気!」
梨華は、明日香に向かって言った。
「私は、別に興味ない。この子に聞いて」

梨華は、亜弥に触手を伸ばした。しかし、亜弥の意識は明日香の触手
によりガードされている。

明日香は笑った。
「そんな、簡単なミスするわけない。ちゃんと言葉で言ったら?」

「……安倍さんをどうする気」
亜弥は答えていいかどうかの、指示を仰いでいる様子だった。
明日香が、「いいよ」と梨華の目を見据えたまま言う。

「簡単に説明すると、連れて返っちゃうってことです」

なつみが、その言葉を聞いてガタガタと震えた。
「なんで、なっちが狙われなきゃなんないの。なんも悪いこと、してないっ
しょ……。もう、やだぁ」

「私の仕事は、矢口のスカウトだから」
明日香は、梨華から瞳をそらすと水槽へと歩みよった。
「その矢口さんに、何度も逃げられてますけどね」
亜弥は、イタズラっ子のように笑った。
「……早く終わらせて、次の仕事に向かうわよ」
「は〜い」

「り、梨華ちゃん……」
助けを求められた梨華だが、正直勝てる見込みはなかった。意識の下に
入り込めない以上、どうすることもできない。

「に、逃げてください」
そう、口にした瞬間、梨華の頬にうっすらと一筋の傷が走った。
「……!」
ハッとして亜弥を見ると、亜弥は口元を押さえて笑っていた。

「亜弥っ」
「ごめんなさい。だって、逃げようとしたから」
「……石川さんも、傷つきたくないなら大人しくその人を渡して」

「アナタたち、いったいなんなの!? なんで、こんな事ばかりしてるのよ!!
こんな事していったいなんの得があるの!!」
梨華の声が、静かな館内に響きわたる。その瞬間、また左腕に激痛が
走る。

「いいから早く渡して下さい。こっちだって忙しいんです」
苛立ちを隠せない亜弥が、そう言い放つ。

「わかったよっ。わかったからもう、誰も傷つけないで。そっちに行くから」
「ダメですよ、安倍さん」
「だって、こんなことしてたら梨華ちゃんが」
「私は大丈夫ですから、早く逃げてください」
「大丈夫じゃないよ。血が出てるじゃない」
なつみは目に涙を浮かべて、持っていたハンカチで梨華の左腕の傷口
を縛ろうとした。

梨華は自分の腕を縛るなつみを、ジッと見つめていた。
あの2人はいったいなぜ、なつみを連れ去ろうとしているのかを必死に
考えた。ひょっとしたら、なつみ自信も能力者なのかもしれないと、意識
の触手を伸ばしてみたがなつみはそれらしい事を考えている様子はな
かった。
(じゃあ、なんで……)

気を失った石黒を”海響館”の外に連れ出したひとみは、近くにいた人に
救急車の手配を頼むとその足でまた館内へ戻ろうとした。

出てくる時には気づかなかったが、”従業員専用口”と書かれたドアの目
線の高さに、1枚の張り紙がしてあった。

【よっすい〜〜〜〜〜へ。
 何も考えずに、向かいの道路まで来て】

と、その張り紙には書かれていた。

(よっすぃ〜って……)
ひとみはそこで、張り紙に書かれているように思考を停止した。
正確には停止ではない、他のどうでもいいことを考えたのである。
ひとみは、ドアノブをはなすと”海響館”の正面へと駆け出した。

”海響館”から数百メートル離れた所に、見覚えのある青いスポーツカー
がエンジンをかけたまま止まっていた。
ひとみが駆け寄ると、助手席のドアが開いて矢口が飛び出してきた。

「よっすぃ〜〜〜、久しぶり〜〜〜」
矢口はその小さな体を精一杯伸ばして、ひとみの肩に抱きついてきた。
「な!? ちょ、矢口さん、やめて下さい!!」
「会いたかったよ〜〜」
と、ピョンピョン跳ねながらキスをしようとした。
「ちょ、ちょっと!!」
必死で顔をそらして抵抗するひとみ。

「もう〜、矢口。そんなんしてる時間ないで」
と、運転席から中澤が下りてくる。
「だって、チューしたいんだもん」
「そんなん、あとで裕ちゃんがなんぼでもしたる」
「いらないよ、そんなん」

(なんなんだ、この2人……)
(こんなときに……)
「何か知ってるんだったら、早く教えて下さい! 梨華ちゃんが、梨華ちゃ
んが危ないんです」
ひとみは、矢口を引き離しながらそう言ってのけた。

「チェっ。冷たいなぁ。でもま、そこがいいんだよね」
「久しぶりやな、元気か?」
「挨拶なんていいですから、早く。何か知ってるんでしょ。教えて下さい」
「そんなに焦らんでもエエやないの」
「焦りたくもなりますよ!! あの中に福田明日香ともう1人いるんですよ」

「わかってるって。アンタこそ、この前のこと忘れたんか?」
「未来は変わらないんでしょ」
「そや。これもその1つや」
「……でも」
「いいか、よっさん」
「よっさんなんて呼ばないで下さい。オッサンみたいじゃないですか!」
キャハハハハと、矢口が笑った。

「アンタはもう1回、あの中に戻ることになる」
「じゃあ、早く行きましょうよ」
「ウチラは行かへん」
「何でですか。矢口さんがいない場所じゃないと、未来は見えないんで
しょう」

それを聞いた矢口が、胸を張るようにして言った。
「3時間後から3日ぐらい先まで見えるようになったんだ。スゴイでしょ」

ひとみには何がスゴイのかよくわからない、それよりも早く知りたかった。
「難しい話はいいですから、助かる方法を教えて下さい!!」
無視された矢口は、チェっと呟くとすねた子供のように地面を蹴った。
「命に関わるかも知れんけど、それでもいいか?」
中澤は真剣な目をして、ひとみに問いかけた。
「あのね……。5日先まで見えるようになったんだけど、その替わり見え
ない部分が多くなっちゃって……。この後の事がよく見えないの」
と、矢口が顔を伏せて言った。

遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
さえぎるものが何もない田舎の道路では、救急車のサイレンの音は騒
音にも近いほどだった。

ひとみがうなずくと、中澤はひとみに耳打ちをした。
――そして、ひとみは”海響館”へと向かって走りだした。

梨華の触手は、なつみの意識下にもぐりこんだ。
明日香が目の前にいるのに、それはひどく危険な行為だったが、それで
も梨華はこの危機的状況を回避しようと潜りこんだ。

最下層近くに下りても、それらしい兆候は何もない。
だが、なつみには何かしらの能力があるはずだと睨んだ梨華は、なつみ
の精神を破壊する恐れもあったが思いきって、なつみの意識の最下層へ
と触手を伸ばした。

(なに、これ……)
最下層の梨華が見たもの、それは大きな心臓の塊のようなものであった。
ドクン、ドクン、と不気味な低い音をたてて動いていた。

(何でこんなのがあるの……)
それは梨華の始めて見る光景だった。意識の最下層は、これまで数回し
か見た事はない。だが、その数回に共通して見た映像はどれも大抵、暗
黒の闇のような似通った映像であった。

(まるで、心臓……)
梨華は恐ろしくなり、触手を引っこめた。その心臓が何を意味するものなの
かは分からない。だが、意味の分からないものを無理に引き上げるのは危
険だった。
間違えると、なつみの精神を破壊してしまう恐れがあったからだ。

「どう? 何か見つかった?」
梨華が触手を戻しハッと我に帰ったとき、明日香が笑いながら訊ねてきた。
やはり梨華の意識がそれたのを、読み取っていたらしい。

梨華は何も答えなかった。
左腕をハンカチで縛り終えたなつみは、梨華に向かってニッコリと微笑みか
けた。
「痛い思いさせて、ごめんね」
「安倍さん……」
「彩っぺにも、謝っといて……。じゃあ」
と、安倍は小さく手を振ると、2人のもとへと歩きだした。

梨華は、思わず泣きそうになった。何もできない無力な自分がとてもくやし
かった。

「ちょっと、待って!!」
声が、静寂の館内に響く。
その場にいる全員が、声の主に注目した。

肩で息をしているひとみが、少し離れた場所に立っている。
「安倍さん、戻って……」
なつみは、ひとみと明日香らの間で「でも……」と戸惑った。
「大丈夫です」

「そこから、一歩でも動いたら首を跳ねますよ」
亜弥が強い口調で、なつみに言った。

「ひとみちゃん、危ないから逃げて!」
涙を流しながら、梨華が叫ぶ。

ひとみは、梨華のキズの心配をしたが、視線を亜弥に向けるとズンズンと
そちらに向かって歩き始めた。
不安を覚えた明日香はすばやくひとみに意識の触手を伸ばしたが、梨華
の触手にガードされた。
「そんな簡単なミス、しないわ」
梨華の声に、明日香は苦々しい表情を浮かべた。

「目的はなんなのか分からないけど、安倍さんの首を跳ねたら、あなたも
生きてられないよ。松浦亜弥ちゃん」
ひとみの言葉に、亜弥はハッとして明日香を振りかえった。
「スカウトする相手を、許可なく殺害してはならない。マニュアル読まなかっ
たの?」
ひとみは、亜弥の怯えた目を見ながら距離を縮めていく。

その自身たっぷりなひとみの表情を見て、明日香は確信した。
自分の広げている意識の網の外で、ひとみが矢口らと会っていたことを――。

「福田さん、この人、なんなんですか?」
明日香はそれには答えず、近付いてくるひとみに向かって言った。
「あなた、矢口に会ったのね」
「さぁ? 読みとればいいじゃないですか」
クッ……と明日香は、奥歯を噛み締める。

ひとみは、まず梨華の手をとった。
「ひとみちゃん!!」
梨華の声を無視して、ひとみはなつみのもとへと歩く。
「マニュアルを破ったら、あなたの上にいる人が世界中どこに逃げても必
ず追ってくるわよ。攻撃タイプは、危険を察知できないから寝クビをとられ
ることが多いんだってね。あなたにピッタリじゃない」
ひとみは、笑いながら言いのけた。

「ふ、福田さん……」
明日香は、意識の網をひろげ矢口たちの意識を捉えようと必
死だった。1キロ先に、矢口の意識を捉えたが車で移動しているのだろう、
すぐにレーダーの範囲からは外れてしまった。
「な、なんとか、言ってくださいよ、福田さん」
「うるさい」
「私、まだ入ったばかりなんですよ。そんなの知りませんよ」

ひとみは、なつみの手をとると梨華といっしょに、自分の後ろへと追いやっ
た。

(ここまでの作戦成功……)
ひとみの心の声を聞いた梨華は、思わず「え?」と顔を上げた。
梨華の声は聞こえたはずだが、ひとみは後ろを振り向くことなく、明日香ら
と対峙していた。

(梨華ちゃん、死んじゃったらごめんね……)

「死ぬって、どういこと!?」
「だってさ、この後、なんにも考えてないんだもん」
(矢口さんの見た未来は、アタシが意識不明になったニュースなんだって)

「安倍さんも、早く逃げて。そうしないと、せっかく石黒さんが引き合わせて
くれたのに、ムダになっちゃう」
「ひ、1人で逃げられるわけないべさっ。死ぬなんて、そんな悲しいこといっ
ちゃダメ」
「そうよ! そんなの嫌! ここは私が何とかするから、2人だけで逃げて」
梨華が泣き叫びながら、ひとみの前へ出ようとする。
ひとみはそれを、強引に後ろへと追いやった。

「ひとみちゃんこそ、早く梨華ちゃんを連れて逃げな。アイツ等、なっちが目
的なんだから」
明日香らのもとへと向かおうとするなつみを、ひとみは制すると、また後ろ
へと強引に追いやった。

ビュンという音ともに、ひとみの右腕が切れた。
「安倍さんだけ連れて帰れば問題ないんでしょう? だったら、アナタたちは
殺してあげる」
亜弥の目には、怒りが満ちていた。
「た・だ・し、すぐには殺さない。ムカツクから切り刻んじゃう」
ビュンという音が、いくつも飛んでき、その度にひとみの体の一部が裂傷する。

「後ろにいる……、梨華ちゃんも……、リストに入ってんだから、気をつけな
よ……」
ひとみは、痛みを必死に堪えながら亜弥に向かって言った。

「もう、止めて!!」
梨華は、触手に持てる力をすべて注ぎ込み、明日香と亜弥の意識下にアタッ
クをかけた。
その力は、明日香の想像を超えるものだった。2人分のガードを張るだけで
精一杯となる。

しかし、それも長くは続かないだろう。ガードが崩れ落ちる音が、明日香の
頭に響いていた。
「亜弥、引き上げるわよ」
「嫌です。逃げるんなら、福田さんだけ逃げてください」
怒りの感情で暴走を始めた亜弥の力が、四方に飛び散る。
真新しい水槽があちこちで、亀裂を走らせる。

ひとみの身体にも、さらに無数の裂傷が走る。ひとみもさすがに堪えきれず
に、意識が遠のきはじめた。

「「ひとみちゃん!!」」
梨華となつみが、同時に声を出した。ひとみはゆっくりと、2人の腕の中へと
倒れ込む。

「早く……、早く、逃げて……。あんなヤツラの、仲間になんかなっちゃ
ダメ……。早く……」
ひとみはそう言い残すと、2人の腕の中で気を失った。
「ひとみちゃん!! しっかりして、ひとみちゃん!!」
梨華は狂ったように泣き叫んだ。
気を失ったひとみの身体には、尚も容赦なく亜弥の力が向かっている。
「もう、止めて!! ひとみちゃんが死んじゃう!!」
梨華の叫びなどまるで興味がないかのように、亜弥は笑いながら力を放ち
続けた。その横で、明日香が膝をついている。
ガードで相当の能力を使ってしまったらしい。

「いい加減にしなさいよ」
低い声が、梨華のすぐ向かいで聞こえてきた。

膝をついていた明日香が、苦悶の表情のまま顔を上げる。
尚も力を放ち続けている亜弥の目の前で、ボッという音と共に小さな炎が浮
かんだ。

「な、なに、これ!?」
炎の赤い光が、亜弥の驚愕の表情を照らす。
亜弥と明日香を取り囲むように、次々と小さな炎が浮かぶ。
「ふ、福田さん!! な、何なんですか、これ!! こんなの亜弥、聞いて
ません!!」
「だから、言ったじゃない……。早く終わらせろって。アンタは、遊び
すぎたのよ!」

明日香が企業から手渡された資料には、こう書かれてあった。


‖安倍なつみ 1981年8月10日生       
‖ 
‖・・・・・室蘭市・・・・・・・・25−9・・・・・・・
‖・ 
‖・・・・・”TYPE−PK”・・・・・・パイロキネシス・・・・・
‖・・・・・・・35人死亡。・
‖・・・・・・・・・・・・・15年前、・・・・・氏により封印。
‖・
‖その能力は、・・・・・・・危険・・・・・当社でも
‖制御不可能。自我により制御できるまで、当
‖社は関与しないものとする。
‖・
‖・・・・・・・・・・
‖・
‖・氏の予言した
‖満15年経過後、回収を命ず。
‖尚、回収の際はESP保持者を同行し、その
‖・
‖・
‖・
‖・
‖・・・・・・・・・・・・・
‖・
‖             ・・・・・  Zetima.co
‖_

万が一、覚醒した場合に備えて、明日香にこの任務を平行させたのであろ
うが、覚醒したなつみの意識下は梨華の触手のガードにより、明日香には
コントロールすることができなかった。

水槽の中の水が、沸騰をはじめる。
数十に膨れ上がった炎の間を縫うようにして、明日香は呆然としている亜
弥の手を引いて逃走した――。


Chapter−5<懺悔>

カスミソウが一面に咲き乱れる平野の中で、麻美が犬と戯れていた。
ひとみは、その光景を離れた場所からぼんやりと眺めている。

(そういえば麻美、ドッグトレーナーになりたいっていってたなぁ……)
(あれが、そうなのかな……?)
(でも、よかったよ)
(夢がかなって)
とてもはつらつとした笑顔の麻美を見ているうちに、ひとみもいつの
間にか笑みを浮かべている。

ディスクを投げた麻美が、ひとみに気づいた様子である。ディスクを
追いかける犬に指示を与えるのも忘れ、ひとみを見つめている。

ひとみは、大きく手を振った。一瞬の間の後、麻美も大きく手を振り
返す。言葉は何もなかった。あったとしても、遠く離れているため聞
こえるはずもない――。

ひとみは、大きく足を一歩踏みだした。
ブニュッとした嫌な感触が、ひとみの足を伝わる。

(なんだろう?)
と、足元を見たひとみは絶句した。
小さな子供の遺体が三体、ひとみの足もとにあった。

(お前なんか、苛めるんじゃなかった)
眼球の飛び出した少年が、ひとみを見上げながら言った。
(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)
(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)
三体の少年の遺体は、何度も何度もそう叫ぶ。

ひとみは、口元を押さえたきり視線を外すことができなかった。
ただただその声を受け止め、打ち震えている。

前頭部の吹き飛んだ少年が、ひとみの腕をつかむ。
ひとみの右腕に鋭い痛みが走るのと同時に、ひとみの右腕は血だら
けになった。
吐しゃ物を吐きつづける少年がひとみの足を撫でると、ひとみの下半
身は肉が裂け、筋肉繊維が剥き出しになった。
三体の遺体は突然弾け飛び、細切れとなった肉片がひとみの全身に
飛び散った。

悲鳴を上げて、ひとみは狂ったように頭を振りつづけた。

ひとみの悲鳴は、総合病院の中を駆けめぐった。
ナースが当直の医師を連れてひとみの病室を訪れた時、病室の前に
はすでに人だかりができていた。

その時の様子を医師は、翌日病院に訪れた梨華となつみに証言した。
「あのまま放置していたら、きっと発狂していたでしょうね。よほど、水
族館での事故が恐ろしかったのでしょう……。容体がもう少し回復した
ら、平行してカウンセリングを行いましょう」
そう言い残すと医師は、診察のためにロビーを去っていった。

残った梨華となつみは、しばらくの間、無言だった。
あの日の事件は、”事故”として片付けられた。水槽として使われてい
るガラスが水圧に耐えきれず破壊し、その飛び散った破片により女性
客2人が裂傷してしまった。これが、警察が現場検証で出した答えで
ある。

実際は大きく違うのだが、梨華となつみは何も言えなかった。むしろ、
そのように皆の常識の範囲内で収められホッとしている部分もあった。

「ひとみちゃんの両親、もうすぐかな?」
なつみが訊ねても、梨華は何も答えなかった。
ひとみが病院に運ばれてから、梨華はほとんど何も口にしていない。
眠ることもせず、ただただひたすらひとみの身を案じていた。

「そんな、梨華ちゃんが落ち込むことないよ。悪いのは、なっちなんだ
から。なっちがもっと早く、自分の力に気づいてたらああはならなかっ
た。悪いのはなっち。そうっしょ?」
梨華は何も答えずに、小さく頭を振るとゆっくりと席を立った。
フラフラと廊下を歩く梨華の後ろ姿を見送っていると、先ほど立ち去っ
た医師がまた戻ってきた。

「そうだ。あのね、あの場所にもう1人お友達がいたのかな?」
その声が聞こえた梨華は、数メートル先で背を向けたまま立ち止まっ
た。

「昨日、”真希ちゃん”って何度も名前を呼んでいたんだけど……」
なつみにその名前は聞き覚えなかった。
だが、2人に背を向けていた梨華の表情は曇った――。

鎮静剤により眠ったままのひとみを、梨華はずっと見つめ続けた。
頬に大きなガーゼがあてがわれているのは、梨華と同じだったが
ひとみの傷は予想以上に深く跡が残ることになった。

右腕の裂傷は24針縫った。傷は神経にまで達していたため完治
しても障害が残るであろうと医師に宣告されていた。
全身の傷はすべてで57箇所。そのほとんどが、何らかの後遺症
を残すものであった。

しばらくすると、ひとみの両親が駆けつけてきた。
母親が全身をほとんど包帯で覆われた娘の姿を見て、声を荒げて
泣き崩れた。
居たたまれなくなった梨華は、逃げるようにして病室を後にした。

「梨華ちゃん」
いったいどのくらい屋上に佇んでいたのか、梨華が我に帰ると辺り
はもう日も暮れかけていた。
声の主は、なつみだった。

「ひとみちゃんの意識、戻ったよ」
「……」
「行ってあげな」
梨華は黙って、首を振った。
「もしも、梨華ちゃんが同じ立場だったら、ひとみちゃんのそんな顔
見て嬉しいかい?」
「……」
梨華は、ゆっくりと振りかえった。
「せっかく守ったのに、そんな顔されてたら辛いっしょ?」
「安倍さん……」
「お父さんとお母さん、身の回りのもの買い揃えに行ったから。帰っ
てくるまで側にいてあげな」
梨華は、ゆっくりとうなずくと安倍を残して屋上を去っていった。

その頃、石黒は病室で考え事をしていた。
出血の割にはその傷のほとんどは浅く、大事には至らなかったが、
それでも数カ所は深い傷もあり抜糸までの数週間の入院が必要と
診断された。

ベッドの上で手帳を開いてからもう何分も経過していたが、ペンを
持つ手は一向に動かなかった。

オカルト否定派の石黒だったが、もはや信じる信じないの範囲では
物事を考えられなくなっていた。
それは在る――。答えはもうすでに出ている石黒だったが、この事
件をどう説明しどう人々を納得されるのか考えぬいていた。

だが、それを証明するには梨華やなつみの事を書かなければなら
ない。自身もかつてはマスメディアの中心にいた身である。
発表した後、マスコミがどのように彼女達を扱うのかも目に見えて
いる。

データをまとめ、記事を書き上げ、それを発表すれば石黒はまた
マスメディアの中心に返り咲くことができるだろう。
しかし、そのためには梨華となつみを犠牲にせねばならない。

石黒の葛藤は続いていた――。

頭を冷やそうとフッと窓の外に目をやった時、敷地内を歩いてくる
男の姿が目に入った。
短く刈り上げた髪、少しえらの張った顔、キチッとしたスーツ姿。
見舞いに来たサラリーマンだろう程度にしか思わなかった石黒は、
また手帳に視線を戻してどうしようかと考え事をしていた。

ひとみの病室に向かう梨華は、男の意識をキャッチした。

(病院)(怪しまれない)
(見舞い)(逃がした)(今度は)
(意識不明)(もう1人)
(病室で犯す)

「なんで、こんなところまで……」
独特の歪んだ意識は、梨華にとっても忘れられない意識だった。
ひっそりと静まり返った夕暮れの病院内に、男の意識は進入して
きている。
ひとみの危機を知った梨華は、迷惑なども考えず廊下を走った。

エレベーターのドアが開いた時、男は目を疑った。
探し求めていた獲物が、息をきらせて立っていたからである。

梨華は、荒い息を吐きながらも男から目をそらさなかった。
エレベーターのドアが開いたとき、男は一瞬驚いた意識を発した
が、すぐに平静になり見舞い客を装うとしていた。

(ロビーで)(しばらくして)
(戻ったところを)
(処女?)(違う?)
(どっちでもいい)
(泣き叫ぶ)(うるさい)(口を押さえ)
(怪我人の方も)

男は梨華と目を合わさないようにしてエレベーターから出ると、談
話室でもあるロビーの方向へと足を向けた。

「待って」
梨華の声に反応して、男は立ち止まった。自分が呼ばれたのか、
確認している意識を梨華は読み取った。
「そう。あなたです」

(誘った)(俺を誘った)
(逆ナン?)(俺はカッコイイ)
男は、さわやかな笑顔を浮かべて振りかえった。
「呼んだ?」
(できる)(おもしろくない)
(騙して)(恐怖を)
(歪む顔)(声)(悲鳴を聞きたい)

「なんで、ここを知ってるんですか」
男の目を見据えながら、冷静に言葉を発する梨華。

「え? どういう意味かな?」
男の笑顔。目が笑わなくなっている。
(ニュースで知った)
(病院を確かめた)
(それよりなんで、俺のこと……)
(電車のときから、俺のこと見てた?)

「あなたの事なんて、見たくもない!」
梨華は、キッパリと言い放った。

男から、笑顔が消えた。
(ナンダ、コイツ……)
(生意気)(かわいい顔して)
(ソレヨリ)
(ドウシテ)
(オレの考えが……)

「あなたの考えている事は、全部わかります」

(オカシイ)

「おかしい」

(ナンダ、コイツ)

「なんだ、こいつ」

(心を読んだ……)

「そう――。だから、さっき言いました」

男の思考がパニックを起こしたのを知った梨華は、それ以上
男の思考が入らないよう自分にガードの網を張った。
青ざめる男の顔を無視して、梨華は言葉を続けた。
「今すぐ、ここから去って下さい。でないと、私、何をするか分
かりません」
「な、何言ってるんだよ。お、おれは」

梨華は、男の意識下に触手を伸ばした。
その感触を感じ、男は腰を抜かした。梨華はすぐに触手を引っ
込めた。それ以上、男の意識に触れるのが嫌だったし、何か
のきっかけで精神を破壊してしまう恐れがあったからだ。
さすがの梨華も、それだけは避けたかった。

「帰ってください」

男は悲鳴を上げながら、廊下を這うようにして逃げていった。
梨華はうつむいたまま、その声を聞いていた。
こんな力の使い方はしたくなかったが、ひとみを守るために
仕方なく使った。しかし、自己嫌悪に陥ったのも確かだった。

――梨華はけっきょく、ひとみの病室を訪れる事はなかった。

ホテルの一室で、明日香は企業からのFAXを待っていた。

亜弥は2日前のあの事件以来、ずっと眠ったままである。睡眠欲の
せいではなく、明日香の力によって眠らされている。

恐怖で一時は大人しかった亜弥だが、次第に怒りが込み上げてき
同時に亜弥自身にもコントロールできないほどの大きな力がこみ上
げてきた。その力に危険を感じた明日香が、亜弥の力が放たれる
よりも一瞬早く触手を伸ばして眠らせたのである。

「ったく……」
亜弥の寝顔を見つめながら、明日香はそこに自分の姿を重ね、ほん
の少しだけ笑った。
一瞬、2つ年の離れたやんちゃな妹を持った姉のような気分になったっ
が、すぐにその考えを否定した。

「1人のほうが気楽でいい」
明日香はそう呟くと、近くのソファに身を沈めた。
実際、明日香には1人の妹がいた。だが、両親は物心ついた時に
はもうすでにいなかった。この世でたった2人きりの姉妹だったが、
ある冬の晩、風邪をこじらせて呆気なく死んでしまった。
明日香が8歳のときだった――。能力はすでに覚醒しており、その
ことがきっかけで、すべてに対して心を閉ざした。

プルルルルル〜、プルルルルル〜と部屋の電話が、静かな部屋
に鳴り響く。
すぐにベルは消え、FAXを受信している音が聞こえてきた。
明日香はゆっくりとソファから離れると、受信口から出てくるFAX
用紙に目を通した。

一見するとただの商談のように思える文章で、その最後の一文が
”契約不成立により受注キャンセル、リストからの削除”とある。
なんら、不信感を抱くことのない内容。

だが、明日香にはちゃんとそこに何が書いてあるのかわかってい
た。”リストからの削除”つまりは企業がなつみをスカウトできない
と判断し、脅威となる可能性のあるなつみを抹殺する事にしたので
ある。

「さてと」
明日香はつぶやくと、触手を伸ばして亜弥を長い眠りから目覚め
させた。

翌日の午後、ひとみの両親は朝比奈町にある大学病院へ、ひと
みを転院させることにした。

なつみと石黒は、病院の裏口でひとみの乗った救急車を見送った。
だが、そこに梨華の姿はなかった。

「……梨華ちゃん、どこ行ったんだろう」
なつみが走り去る救急車を見送りながら、独り言のように呟いた。
入院途中でずっと病室に閉じこもっていた石黒には、知る由もなかった。
「その内……、戻ってくるよ」
「彩っぺは、この後どうするんだべさ?」
「へ? アタシ?」
「なっちは、この腕の傷が治ったら北海道に戻ろうと思う」
「そっか……、寂しくなるね」
「彩っぺは、東京?」
「……」

石黒はここ何日かの入院中に、マスコミの世界から身を引くことを決心
していた。だが、東京を離れ地元に戻るつもりもなかった。東京には、
彼氏もいる。プロポーズもされた。だが今までは仕事があったので返
事を延ばしてきた。
しかし、ここ何日かの入院で何かが吹っ切れた。

「結婚でもしようかな」
「えー!? 彩っぺ、彼氏いたの?」
「一応ね」
「そうなんだ。へー」
「なっちは?」
「いない、いない。北海道にいい男はいないべさ」
「はは。そんな事ないっしょ」
「だべなぁー」

2人は顔を見合わせて笑った。ほんの数日間しか、共に過ごす事は
なかったが、互いの心は姉妹感のようなもので繋がっていた。
それは、ひとみや梨華に対しても同じだった――。

一方、梨華はひとみが移送されている救急車を、病院の屋上から
眺めていた。

またあの男が戻ってくるかもしれないと、用心して意識の網を広げ、
なおかつ何かあればすぐ行動できる範囲の病院内に梨華は身を
潜めていたのである。

昨日から、自分のことを探し求めるひとみの意識を梨華は感じてい
たが、ひとみの病室に向かうことはなかった。自分のせいで、自分
のふがいない能力のせいで、一生消えることのない傷を負ったひと
みの前にどんな顔をして現われたらいいのかわからなかった。

なつみにも顔を合わせづらかった。誰が何の目的でその力を封じ込
めていたのか知らないが、2人を危険な目に合わせたばかりにその
能力を覚醒してしまった。きっともう、なつみは普通の生活を取り戻
せない――そう思うと、顔を合わす勇気がない。

石黒に対してもそうだった。ひとみと会うあの日、自分もいっしょに同
行していたら、何かが変わっていたのかもしれない。そう思うと、誰の
前にも姿を現すことができずに、病院内にひっそりと身を潜ませていた。

梨華は、見えなくなった救急車の方向をいつまでも眺めていた。
帰り際にひとみが残した心の声――。
(梨華ちゃん、会いたい!!)
その声ももう感じ取れないほど、2人の距離は離れてしまっていた。

「ひとみちゃん。ひとみちゃん」
梨華は何度もひとみの名前を呼びながら、その場に膝をついて涙を
流した。
だが、その涙も数秒後に感じとる2つの意識により、止めざるを得な
かった。

なつみが、気づいた時すでに亜弥はこちらに向かって力を放っていた。
隣にいた石黒を突き飛ばすと、石黒の延長線上にあった自動販売機が
真ん中からずり落ちた。

「彩っぺ、逃げて!」

突然つき飛ばされ、何が起こったのか分からないほどパニックになった
石黒だったがその後に何度も聞こえてくる空気を裂く鈍い音につい数日
前の記憶が甦り、何が起こっているのかを理解した。

石黒は気丈にもなつみを先に逃がそうと、振りかえった。
だが、そこにいたのは数日前に、石黒に手を引かれながら逃げていた少
女とは思えないほど精悍な顔つきをしたなつみがいた。

亜弥の放つ力を防いでいるのは、なつみから放出されている炎の玉だっ
た。石黒がなつみの力を見たのは、これが初めてだった。
「なっち……」

「彩っぺ、早く」
なつみは亜弥と対峙したまま、そう言いのけた。

「う、うん……」
我にかえった石黒は、すばやく脇にある階段を駆け上がった。もうなつみ
を逃がす事はできない、自分は足手まといになるだけだと思うと、ほんの
少し寂しいようなそれでいて嬉しいような不思議な感情が沸き上がってき
た。
「なっち!! 負けるなよ!!」
石黒は思わずそう叫んでいた。
「わかってるべさー!!」
と、下の方からいつもの明るいなつみの声が聞こえて来た時、石黒は思
わず笑みをこぼした。

「あんたたちね! ここは病院だよ! もうちょっとTPOを考えるべさ!!」
なつみは、一気に炎を放出させた。
病院の裏口から、巨大な炎が吹き出してきた。

明日香と亜弥は、その炎をはさむようにして左右に飛び散る。
「さすが、削除されるだけありますね〜。でももったいない、あれだけの
力があるんならすぐ上のレベルに行けたのに」
亜弥が、つまらなそうに口を開いた。

明日香の視線は、屋上にいる梨華に向けられている。
ここに矢口はいない。矢口と接触した形跡もない。今度こそ、勝てる。
明日香はそう確信していた。
2人の意識下では、無言のバトルが繰り広げられていた。
「亜弥、屋上を狙って!!」
「え? 屋上?」
「早く!!」
「わかりましたよ」と、亜弥は屋上にいる梨華に向かって力を放出した。

亜弥の顔が上を向いたとき、梨華はとっさにフェンスから大きく退いた。
明日香にガードされている亜弥の意識を読みとる事はできなかったが、
梨華の本能がそうさせていた。

それは、正解だった。梨華がフェンスから離れた瞬間、音もなくフェン
スが切断された。
だが、呑気に構えているわけにもいかなかった。見えなくなった梨華を
仕留めようと、いくつもの見えない刃が飛んできていたからだ。

梨華はすばやく、屋上を後にした。刃の威力は数日前の比ではない。
あきらかに、殺意が込められている。梨華は身震いしながらも、なつみ
のもとへ向かって一気に階段を駆けおりた。
むろん、その間も明日香の触手とバトルを繰り返していた。

なつみは、その場を動けないでいた。
一歩でも動くと、どこから刃が飛んでくるかわからない。自分の周りに
炎の壁を出現させ防戦する一方だった。

周りの壁が炎によって燃えださないのが、なつみにとって唯一の救い
であった。そして、脳の中にある独特の違和感も近くにいる梨華の存
在を感じとれて心強かった。

だが、現状は一向に改善されない。それどころか、怒りに任せて炎を
放出させたため、2人の姿を見失ってしまった。

「なっちは、まだまだだべ……」
いきなり横からものすごい力が、ぶつかってきた。亜弥が外から力を
放出したのだろう、コンクリート片が炎の壁に衝撃を与えた。

一瞬、炎の壁が揺らいだがその高い温度により、コンクリート片は跡
形もなく消え失せた。

「安倍さん!」
そこへ、息をきらせた梨華がやってきた。
「おぉ、梨華ちゃん!」
なつみは思わず涙が出そうになった。自分と同じ異能の力を持ち、し
かもそれは自分にはない能力を補う力である。これほど心強い相手は
いなかった
なつみは梨華が通れるだけの隙間を作り、炎の中に迎え入れた。

「今までどこにいたんだべ! みんな、心配してたんだよ!」
「すみません。あの、後で話しますから、今は」
「あ、そうだった」
「とりあえず、ここから出ましょう。このまんまじゃ、病院が持ちません」
「わかったよ」
「右側にいますから、そちらの火を強くしててください」
「ガスコンロじゃないんだから」
と、笑いながらもなつみは右側の炎を強くした。

通用口を出ると、2人はそのまま裏手にある駐車場に移動した。
何人かいた通行人は移動する炎の壁を見ると、悲鳴を上げて逃げた。

「笑っちゃうよ。こんなの」
「来ますよ」
「どっち」
「後ろ」
数台の車が炎の壁に激突した。だが、やはり車は一瞬で炭化した。

「勝てるんですか、私たち」
亜弥が、不安そうな表情をして明日香に訊ねた。
「あの壁がある限り、こっちに勝ち目はない」
「じゃあ、どうすれば」
明日香は辺りを見まわすと、近くにある幼稚園に目をつけた。
「あそこにある、銀杏の木を切り倒して」
「はぁ?」
「いいから、早く」
「は、はい」

ズドーンという音と共に、銀杏の木が倒れた。園児の悲鳴が上がる。

「あ、アイツら、なんてこと!」
「まさか」
梨華は触手を伸ばし、明日香の意識を探った。まるで待っていたか
のように、明日香のガードのすぐ下にある意識の表面に届いた。

(いらっしゃい)
(何てことするの! 狙ってるのは私たちでしょ!)
(10秒以内にその壁を取払ってくれないと、どうなるか……、わかるよね?)
(卑怯よ……!)
(10)
(何で、こんな事ばかりしてるの!)
(9)
(理由を聞かせてよ!)
(8)
(……もうッ)

梨華は、触手を引っ込めて安倍に向かって言った。
「安倍さん、すぐにこの壁をどけてください!」
「そんな事したら、死んじゃうべさ!」
「幼稚園の子供を狙ってるんです!」
「え!?」
「早く!」
一瞬迷ったが、なつみはニヤニヤと笑っている明日香を見て仕方なく
炎を消した。

「すごい福田さん。何やったんですか?」
「ちょっとした、脅迫よ」
亜弥は、はは〜んと視線を幼稚園へ向けた。怯えた園児や保育士た
ちが教室の中で見を奮わせている。もうすでに、こちらの異変に気づ
いている様子だった。
「バカじゃないですか。ねぇ」
と、亜弥は口元を押さえてプププと笑った。

「なっちたち、殺されるんだべか?」
なつみが小さな声でつぶやいた。
「……だと思います」
「なんか、梨華ちゃん余裕だね。怖くないの?」
「安倍さんこそ」
「なっちは、いつもこんなだ。広い、大地の子だから」
「安倍さんって、面白い」
なんとなく、二人はクスクスと笑った。
ボンッとなつみの炎が、亜弥の刃を相殺した。笑いながらも、梨華とな
つみの意識は2人からは逸らされていなかった。

「まだ、力使ってるじゃないですか」
「……安倍さん、もう使わないでもらえますか?」
明日香の問いかけに、対峙しているなつみが答える。

「んなこと言ったって、出るもんは仕方ないよ」

「あんな事、言ってますよ」
「最後にもう1度聞きます。安倍さん、私たちの仲間になりませんか?」
「ダメですよ。リスト削除されてるんですよ。そんな事したら、私たちが」
明日香の心にはもう、単純な思いしかなかった。強力ななつみの力、
それが欲しい。ただ、それだけだった。
明日香の”精神感応”となつみの”念動発火”があれば、絶対的な者
に近づけるはずである。
――明日香はただ、力が欲しかった。
妹を見捨てたこの社会を滅ぼす、強い強い力が欲しかった。

妹のことが頭をよぎった時、明日香のガードに隙ができた。
一瞬の隙をついて、梨華の触手は明日香の意識下に入り込むことに
成功した。ガードの触手を振り払い、梨華の触手は猛スピードで最下
層へと突き進んだ。

――あるはずかないと思った”良心”がそこにあった。
梨華は自分の意識を触手を使って流し込んだ。
(なんでこんなところに……)
明日香の良心は、泉を表していた。陽光の降りそそぐ、穏やかな風が
舞う泉こそが、明日香の”良心”であった。

梨華は目を凝らして辺りを見まわした。泉の縁で、幼い少女が1人座っ
ていた。しかし、それは意識の付属の一部のようなものであり、それそ
のものが明日香自身ではなかった。

((妹よ。6才で死んだわ))

梨華の意識に、明日香の声が響いてきた。意識下ではどういうわけだ
か、本人の意識が現われた時点で進入した者は操作できないようになっ
ている。明日香も梨華も、ひとみの意識下に潜り込んだ時にそれを知っ
た。

梨華はもう戦うつもりはなかった。戦えないというセオリーもあったが、
それ以前に明日香の中にも良心があるのを知ったからである。

(話あえば、きっとわかりあえる)
梨華は、明日香の意識に語りかけた。どこにいるのかは、わからない。
最下層という事もあり、本人もまったく訪れたくない場所なのであろう。
近くの層にいる事はわかっていたが、梨華は探すつもりはなかった。

((わかりあって、どうするのか私は知らない))
(そんな事ない。だって、こんなに綺麗な心があるのに)
((私には見えない))
(見ようとしないからよ)
((……妹が死んだとき、私にはもう力があった))
(私も、幼い頃から力を持ってた)
((施設の職員たちは、私たちのような親のいない子供達を見て哀れ
んだ。可哀相。可哀相))
(悪いことじゃない……)
((いつも私たちは下に見られていた。でも、妹と一緒にいれるのなら
それでも良かった))
(……)
梨華は、明日香の泉が小さく振動し始めたのを知った。

((引き離されるのが嫌で、バレるのを恐れた。))
(……)
((黙っている事にした。そうすると、余計なことを口にしなくて良かっ
たから))
(そうね……。私も昔は、どっちがどっちの声なのか分からなくて、よ
く変な目で見られた)
((喋らなくなった私を心配した園長が、私にいろいろと話しかけてき
た。声も心の声も、本当に私を心配していた))
(……うん)
((ある冬の日に、妹が高熱を出して倒れた。私はすぐに、宿直だった
職員に知らせに行った))

暗い廊下を走る幼い明日香の映像が、すぐ上の層に浮かんだ。
くすんで色の落ちたアニメがプリントされたトレーナーの上下だけでは、
よほど寒いのであろう、幼い明日香の口元からは白い息が出ていた。

だがその映像も、意識下の明日香が喋るのと同時に消えた。

((職員はビールを飲んでた。でも私が必死に叫ぶと、嫌々ながら部
屋にやってきた。妹の額に手を当てると、大丈夫だって一言だけいっ
て、宿直室に戻っていった。熱を測ることもなく、たった1度額に手を
当てただけで、すぐに戻っていった。その時、男が何を考えてたかわ
かる?))
(……)
((明日も早いから、さっさと”ヌいて”寝ようだって))

明日香は、そこで自虐的に笑った。
男たちの様々な欲望の映像が、浮かんでは消えた。
梨華は、目を背けた。

((あなただって、こんなのいっぱい見てきたでしょう。笑っちゃうよね。
――けっきょく、その高熱が原因で妹は意識不明になって、2日後の
夜に死んだわ))
(……)
((憎んだ。心の底から憎んだ。でも、今のような事はしなかった。憎
かったけど、それよりも妹の側を離れたくなかった。私は死んで冷た
くなった妹に、妹が習い始めたばかりの漢字をずっと教えていた))
(もう、やめて……)
梨華の目には涙が浮かんでいた。もう、これ以上は耐えられなかった。

((話し合えばわかるんでしょう? 聞いてよ。下にいる私は、ほんの少
しだけお喋りなんだから))
明日香の、静かな笑い声が響いた。
(……)
((自分の手を冷たくなった妹の手に添えてね、妹の名前を何個も何個
もメモ用紙に書いた。生きていた頃はそうするとね、妹の喜んでいる声
が私の中に流れ込んできて、とても幸せな気持ちになれた。大人たちの
汚い欲望が流れ込んできても、妹の声を聞けばすべてが綺麗になった。
でも、冷たくなった妹からは何の声も流れてこない。私の心がどんどん
冷たくなるのが、自分でもわかった))

梨華は、涙を止めることができなかった。淡々と話すその明日香の声が、
よけいに悲しかった。

((妹の遺体は、そのままお寺の小さな納骨堂に収められた。墓なんて
買ってもらえなかったからね。――で、どのくらいだろう、妹のいない生
活に慣れない私を心配して、また園長が声をかけてくれた。その心は、
前みたいに私のことを本当に心配してくれてた。でね、私は妹が熱を出
した夜の事を話したの))

梨華にはもう、すべてが分かっていた。15才の少女が知るはずもない
ほど、様々な人間の感情を力のせいで見てきたのである。境遇こそ違
えど、明日香の受けたものは痛いぐらいにわかっていた。

((そしたら、園長の中の声は一変したわ))
明日香は、笑いながら話しを続けた。

((職員の管理ミスがばれて、建設計画のあった2つ目の施設の計画が
中止になることを恐れた。とにかく、このことが外部に漏れないように必
死で思いを巡らせてた。フフ。でもね、私は”あぁ、やっぱりこの人もそう
なんだ”ってぐらいにしか思わなかった。ま、信じてた分だけ裏切られた
ショックは大きかったけどね。でも……、そんなの妹が死んだのに比べ
ると))
明日香はそこまで言い終ると、どこかで小さく深呼吸をしているようだっ
た。

梨華は、この後のことを考えた。明日香の意識下から戻っても、そこで
はほんの数秒間ほどの時間しか流れていないだろう。そして、ここであっ
たことを説明している時間も、あの亜弥がいる限りないのもわかっていた。

((許せなくなった一言、私のすべてを閉ざさせた言葉が、園長の中か
ら流れてきた))

【どうせ、親のない子。誰もこの子の言う事なんて、信用しない。死んで
よかった。中途半端に生きられてたら、大変なことだった】

よほど憎かったのだろう、よほど辛かったのだろう、よほど悲しかったの
だろう、明日香の意識下の中全体に園長のその心の声が響いた。
梨華は思わず触手を、明日香の意識下から引いた。

現実の世界に戻ってきた梨華の目には、数メートル先で対峙している
明日香と亜弥の姿があった。

「梨華ちゃん、どしたの? 汗、びっしょりじゃない」
なつみが梨華に目をやった瞬間、亜弥の刃が放たれた。
「っ!」
と、なつみが驚き様に放った炎は、その威力が弱かったせいか、亜弥
の刃を完全に相殺することができずに、なつみの肩の肉を割いた。
苦痛の表情を浮かべて、なつみの膝が崩れる。

「安倍さん!」
支える梨華に向かって、なつみは「大丈夫」と痛々しい笑顔を浮かべた。
梨華の見た明日香は、これまでに何度も見た明日香と同じだった。
けっきょく、この関係は平行線をたどるしかないのかとあきらめかけた時、
変化が訪れた。

「わー、女ライダーだ。女ライダーだ」
と、数人の園児が対峙する4人の間に割って入ってきた。
園児たちは、4人のことを特撮ヒーローと勘違いしていた。
そして、もっと近くで見ようと保育士の静止も振りきり、こちらに駆け出し
てきたのだった。

「あ、危ない!! 早く、向こうに!!」
「逃げて、早く!!」
と、叫ぶ梨華となつみを見た園児は、彼女たちを正義の味方とでも判断
したのか、なお一層喜んで駆けてきた。

「福田さん、私いいこと思いつきました。まずは、あっちの石川を殺りましょ
う。私があっちを倒すから、福田さんはすぐに安倍さんをコントロールして下
さい。そうすればいいんですよ。ね。私って、頭いいでしょ」
「そんなのが簡単にできたら、ここまで苦労してないでしょう」
と、明日香は冷たく言い放った。

明日香にとって、最大の失敗がここにあった。
今までパートナーを組まなかった明日香は、パートナーの思考をガードし
てやるだけで、なおかつそれを読みながらパートナーが的確に動けるよ
うに指示すると言う事に慣れていない。
慣れていないというよりも、考えつきもしていなかった。

その戦い方を知っていれば、事前に亜弥の行動を制御することができた
であろう。しかし、明日香が気づいたときにはすでに遅かった。

亜弥の意識を感じたその一瞬が、明日香を本能的に行動させた。
その行動は、明日香と亜弥の死を意味していた。

まるで、すべてがスローモーションのようであった。園児などお構いなく、
無数の刃を放つ亜弥。
最大限の炎を、園児越しに放つなつみ。
炎に包まれるそのほんの一瞬前に、亜弥が明日香を驚愕の表情で見つ
めた。何か言いたそうではあったが、次の瞬間、亜弥は短い叫び声と共
に一瞬の間で炭化した。

少し離れていた明日香は、炎の直撃を免れ一瞬で炭化する事はなかっ
たが、その身体は炎に包まれている。

我にかえったなつみはすぐに炎を消したが、焼けただれた明日香はそ
の場にゆっくりと倒れ込んだ。

梨華となつみは、はしゃぐ園児を尻目に明日香のもとへと駆けた。

だが、明日香のその姿を見たとき、その命がもう長くないのを知り、呆
然とした。
焼けて皮膚の溶けた明日香が、2人を見て微笑んだ。――かのように
見えた。実際には、明日香の顔の筋肉繊維はほとんど炭化している。
目もとの筋肉も口元の筋肉も、その機能を果たす事はない。

(あんたのせいで、柄でもない事しちゃった……)
明日香の声が、梨華に届いた。
「何があったの!! ねぇ、教えてよ!!」
梨華は、叫んだ。ほんの数十秒前に、分かり合えるかもしれないと思
えた相手が、このような姿になり冷静になる事などできなかった。

(亜弥が子供たちを殺して、あんたたちの動揺を誘おうとした。その
隙をついてあんたたちを狙うことにしたんだ……。いい作戦よ)

「何が作戦よ!! なんで、戦わなくちゃいけないのよ!!」

(でも、もっと早くに教えてくれなきゃ……。急だったから、止めちゃっ
た……。私ね、自慢じゃないけど、子供に手を出したことはないわ。
アレだって、ただの脅しのつもりだったのに、ホント亜弥はバカよ)

「ねぇ!! しっかりして!!」

(はぁ……。子供はいいよ。善と悪があっても、なんかハッキリしてる
し。流れてきても、微笑ましいっていうかねぇ)

「しっかりして!!」

(はぁあ……。妹の敵とったときに、やめとけばよかった。フフ。あな
たにも見せてあげたかった。みんながどんな死に方したか。フフ。気
分爽快だったよ)

「憎かったんでしょ!! 私にも分かるよ!! だから、目を開けて!! 友達
になろう!! ねぇ、福田さん!!」

(ハハ。何かもう疲れた。亜弥に謝りにいくよ)

「福田さん!! 目を開けて!!」

(ねぇ……、1つ聞いていい?)

「何!! なによ!!」

(私でも、天国に行けるかな?)

「……何、バカなこと言ってるのよ!!」

(天国には、妹が待ってるの……)

「……」

(また、漢字教えてあげたいんだ……)

「行けるよ……。最後に1つ良い事したんだもん。神様は、許して
くれるよ」

(そっか……。じゃあ、不安だから最後にもう1つ……。すぐにここ
を……逃げて。もうすぐしたら、ここに会社のヤツラが……来る。そ
いつらには、絶対敵わない……。あの2人は厄介なんだよ。フフ……。
だから……、早く逃げて)

「嫌よ!!」

(2つ良い事させてよ……。妹に会いたいんだ)

梨華は泣きながら立ちあがった。確かに、何か得体の知れない
力をもった1人の意識が確実にこちらに近づいてきている。
意識そのものは普通の意識だったが、その波動は桁違いであっ
た。――自分の身の安全のためには逃げたほうが得策だった。

だが、それよりも明日香のためにこの場所を離れたかった。最後
の最後で友達になれた福田明日香。その友人の願いを、梨華は
どうしても叶えてやりたかった。

梨華は、呆然と立ち尽くしたままのなつみの手をとり、後ろを振り
かえることなく、その場を走り去った。
悲しすぎる最後の声を聞きたくなかった梨華は、意識にガードの
網を張りつづけていた――。

涙で滲む梨華の目にサキヤマ町の風景は見えていない。ただ、
サキヤマ町に漂う潮の香りがとてもしょっぱかった――。

 〜第二部・終了〜