ハッとして、目が覚めた。
高鳴る鼓動。そして、額に浮かぶじっとりとした汗。
吉澤ひとみは、真っ暗な自分の部屋を見渡した。
――いつもとかわりのない部屋。
自分の部屋だと認識すると、ホッと胸を撫で下ろした。
(夢……、だよね……)
そのあまりにもリアルな光景に、ひとみは思わず
身震いした。
夢の中――。ひとみは、5歳だった。
子供たちの遊び場である公園で、1人で砂遊びを
しているはずだった。
「吉ちゃん」
不意に誰かに呼ばれた。隣を見るといつの間にか、
幼なじみの後藤真希が座って一緒に砂の城を作っ
ている。
栗色の長い髪を風になびかせて、ほんのちょっと
した笑みを浮かべて熱心に砂の城を作っている。
ひとみは、幼い真希のその姿をぼんやりと見つめて
いた。
もうすでに、意識の片隅でこの光景が夢である事も
なんとなくわかっていた。そして、この後に起こる
事も――。
完成間近の砂の城に投げ込まれる、水の入った風船。
風船が弾けるのと同時に、その衝撃からなのか水の
力によるものなのかわからないが、砂の城は一瞬に
してもろくも崩れ落ちる。
「……壊れちゃった」
真希が、泣きべそを浮かべてポツリと呟く。
「いいよ。また作ろう」
ひとみは、真希の服についた砂を払いながら言った。
そこへ聞こえてくる、少年の声。
「クソ真希」
ひとみは、顔を上げる。近所でも評判の悪ガキ、健
太とその仲間が手にした水風船を弄びながら、連れ
立ってこちらに向かって歩いてきている。
健太はなぜか、真希を目の敵にしている。幼稚園でも
そうだった。
上靴を隠したり、道具箱に昆虫を入れたりして、真希を
苛めていた。
きっと、好意の裏返しなのだろうが5歳の幼い少女、
そして同じ年だった健太自身にもそれは分からない。
5歳の少女にしては比較的体格のよかったひとみは、
真希を後ろに隠した。
幼稚園でも自分がいるときは、いつもそうして健太
から真希を守ってやっていた。
「向こう行ってよ」
ひとみは、真希の前に立ち両手を広げながら言った。
健太はその時になって初めてひとみの存在に気づいた
のか、ほんの少しの一瞬だけ怪訝な表情を浮かべた。
が、すぐにいつもの調子で憎まれ口を叩く。
「うるせえ。凶暴女」
健太の言葉に反応して、仲間が凶暴女と笑いながら
囃したてる。
そのあだ名にムカッときたひとみは、おもわず健太に
にじり寄った。また、ほんの一瞬、健太はひとみの迫
力に圧倒されてひるんだ。
これまでにも数度、健太の悪戯にキレたひとみは
健太と取っ組み合いのケンカをしたことがある。
この年頃の子供に男も女も力の差はないのは当然の
事であり、ましてや気も強く体格もよかったひとみは
評判の悪ガキともいい勝負だった。
それ故に、女なのに立ち向かってき、なおかつケンカ
の強いひとみを健太は少々恐れていたのだ。
――ひとみは、ズンズンと健太に向かって歩いて行っ
た。
「凶暴女が来たぞ。攻撃開始」
健太の号令と共に、仲間達がひとみに向かって一斉
に水風船を投げつけてくる。
そのほとんどはひとみの身体を逸れたが、健太の放った
1つの大きな水風船がモロに顔面に直撃して弾けた。
「ひとみちゃん!」
真希が大声をあげた。
ひとみは、その場に立ちすくんでいる。
健太たちも、「しまった」というような表情を浮か
べている。まさか、顔に当るとは思っていなかった
のだろう。
ひとみはただ黙って顔を押さえて、たたずんでいる。
痛みがあって泣きたくもなった。が、ひとみは涙を
堪えた。
健太の前で涙を見せるのは嫌だったし、なによりも
真希の前で泣くのが嫌だった。
(でも……ものすごく痛い)
(泣きたくない)
(うー、涙が出そう)
涙腺が緩みかけたその瞬間、
「ワァーッ!!!!!」
と静まり返った公園内に健太たちの絶叫がこだました。
ひとみが驚いて顔を上げると、健太たちが頭を抱えて
地面をのた打ち回っている。
のた打ち回る……。それよりも、ほぼ痙攣に近い状態
だった。
本能的に危機を察知したひとみは、真希の身を心配して
振りかえる。
そこでひとみが見た光景。その光景が10年たった
今でも忘れられずに、こうして夢にまで現われたの
だろう。
真希の栗色の髪の毛が、まるで空に吸い込まれるように
わらわらと逆立っている。
そして、眼だ。何も見ていないようで、それでいて強
烈な意思のある眼。
殺意という言葉を知らなかったひとみも、真希が健太
たちを殺そうとしているのが容易に判断できた。
のた打ち回る健太たち。
様相が一変した真希。
もうすでに、その時のひとみは現在のひとみに戻って
いたのかもしれない。
そして、真希が発しているものが殺意だとハッキリと
認識して、ムリヤリに夢の中から覚醒させたのかもし
れない。
現実の過去とリンクしているのなら、その光景を見る
のには耐えられなかったのだろう。
ハッと目を覚ましたとき、ここが現実なのか夢なのか
それとも10年前なのか判断できないほど動揺していた。
「おはよう」の挨拶もなく、ひとみはダイニングへと
入った。
もうすでに父親は朝食をとっていた。
弟2人は、まだ起きてきていないらしいが、ひとみに
とってはどうでもいいことだったので気にする事も
なかった。
テーブルにつくとすぐに、シリアルとゆで卵付きの
サラダが出された。
母親は何も言わずに、弟たちの朝食の準備に戻った。
(ロボットみたい……)
ひとみは、母親の背中を見つめて心の中で毒づいて
みた。きっと、昨日の夜も夫婦の間で何かがあった
のだろう。
ひとみが朝食を食べている間、両親が口を開く事も
目を合わす事もなかった。
ひとみは朝食を終えると、いつものようにシャワーを
浴びに浴室に向かった。
朝は余裕を持って行動したいタイプのひとみは、どん
なに寝不足でも通学の2時間前には目を覚ますように
している。
熱いシャワーを浴びながら、ひとみは昨夜見た夢の
事を思い出した。
が、冷静に考えるとただの夢であり、確信のない過
去の出来事なので、あれほど動揺すべきではなかっ
たとなぜか自分にムッとした。
人は過去の出来事を、歪曲して記憶してしまう事がある
という。
ひとみは、ほんの数年前にそんな事を話しているTVを
見たことがある。
きっと、その類なのだろう、
(あんな事、あるわけないじゃん)
と一笑にふして、ひとみは浴室を後にした。
肝心の”あんな事”については、考えなかった。
電車の発車ベルと共に、また退屈な日常が始まりを
告げる。
通勤・通学でごった返す息苦しい電車内。
どれだけの人が、日常を楽しんでいるのか。
皆、ただただ疲れた顔をしてぼんやりと自分の世界に
ひたっている。
そんな光景を見ると、ひとみは吐き気を覚えるほど
憂鬱な気分になる。
目の前でぼんやりと車内広告を見上げている中年の
サラリーマン。
(あんな人とは、結婚したくない……)
(あんな風になるような人と、出会いたくもない)
(お母さんのように、平凡な主婦になんかなりたく
ない)
(高校卒業したら、東京に出よう)
(それで、もうそれを最後にしてこんな電車に乗る
生活とはおさらばしよう)
(退屈な毎日なんて、嫌いだ……)
ひとみは、スッと視線を落としてもう何も考えない
ように携帯のメールを打つことにした。
数十分後、ひとみは駅のホームに降り立った。
市の中心街だけあり、利用者は多い。
皆、急かされるようにそれぞれの目的地へと向かう。
ひとみも、その中の1人だった。
メールを打ちながらのんびりと歩いている、どこに
でもいる女子中学生に見えるかもしれないが、足は
自ずと改札口へと向かっている。
(送信完了……っと)
携帯を通学カバンにしまい、かわりに定期を取り
だす。あと数メートルも歩けば、駅の改札口である。
ひとみは、定期券を手にして改札口に向かって歩く。
(……ん?)
駅の改札を抜けたひとみは、1人の少女を見つけた。
一方向に向かっていく人の流れの中、黒髪を頭の
上で2つに結んだ少女がこちらを見ている。
人々の後頭部しか見えない光景の中では、すこし
浮いた存在の少女だ。
(誰か、待ってんのかな)
ひとみは後ろを振りかえったが、少女の待ち人ら
しきような人はいない。
もう1度前を向くと、今度ははっきりと少女と目が
合った。
目が合った少女は、一瞬ハッとした表情を浮かべたが
すぐに素知らぬ振りをして空中に視線を漂わせる。
(なんだ……? 変な子)
あからさまにコメディタッチな振るまいが、ひとみの
興味を釘づけにした。
が、今は朝のラッシュである。構う時間などないし、
ましてや声をかけるつもりも毛頭ない。
その少女の傍らを通り過ぎる時、小さな呟きが聞こ
えた気がした。
(ののれす……?)
(ののれすってなんだ?)
と、気になって振りかえると、また少女と目があった。
(私?)
(え? なんで?)
(後輩?)(え? でも、制服着てないし)
(小学生?)(学校は?)
(誰?)(知らない)(思い出せ)
様々な言葉が去来し、ひとみは必死でその少女の事を
思い出そうとしたが、けっきょく見ず知らずの少女で
あることを認識した。
(もう、いいや)
どうでもいい人物と位置付け、ひとみはホームの階段
へと向かった。
――あいかわらず、その少女はひとみを見つめ続けて
いた。天使のような笑顔を浮かべて。
少女の存在も忘れ、階段を上がるひとみ。
不意に前を歩く人物の身体が「きゃっ」というアニメの
ヒロインのような声と共に沈み、そして視界から消えた。
ひとみは、とっさに身をひるがえした。
ボーっと歩いていたら、階段で転んだその女性につまずき、
自分も転んでしまうところだった。
(危なかったぁ〜)
転んだ女性は、女性と呼ぶのにはまだ早すぎるあどけな
さの残る少女だった。
転んだ時に打ちつけたのか、右足をさすっている。
(痛そう……。あーあ、バッグの中身まで出てるよ)
(助けようか)
(どうしよう)
ひとみは、何気に辺りに視線を向けた。誰もが少女の
存在に気づきながらも、足を止めて助け起こそうとする
人物もいなければ、ひとみのように立ち止まって対処に
戸惑っている人物もいなかった。
(みんな、冷たいなぁ)
少女は「すみません」と小声で謝りながら、バッグから
とびちった物を拾い集めた。
それを見て、ひとみの身体は自然と動いた。
「あ、すみません」
ひとみに向かって投げかけられた言葉。
ひとみは、階段下まで転がった物を拾い集めていたため
反応が少し遅れた。
ひとみは、少女と目が合った。
(かわいい)
(声と合ってる)
(同い年かな)
階段の上で四つん這いになった少女は、ひとみに向かっ
て頭を下げた。
(かわいい)
(プッ、あの格好)
(周りに人いるのに)
ひとみは、バッグの中身を拾いながらも横目でチラチラと
少女を見ていた。
すると、少女は急に立ち上がり顔を真っ赤にして、今度は
しゃがんでバッグの中身を拾い集めた。
(プッ、やっと気づいた)
(おっちょこちょいだ)
退屈な朝の日常に訪れたちょっとした変化を、ひとみは
楽しんでいた。
――柱の影から、2人を見ているもう1人の少女。
そう。ひとみが階段で転んだ少女より前に出会った、
あの小柄な少女。
やはり、クスクスと笑っていた。
(おっちょこちょいは、私だよ)
休み時間の教室で、ひとみはピンク色のパス
ケースを手にし「はぁ〜」とため息をついた。
朝のちょっとした混乱時に、ひとみは少女のものであろうピン
ク色のパスケースを間違って自分のカバンの中に放り込んでし
まっていた。
それに気づいたのは、登校して数時間が経過してからだった。
(まだ買ったばかりだ)
(返すって言ってもなぁ……)
(名前も知らないし)
(明日もあの時間の電車に乗るのかなぁ……)
「……とみ。ねぇ、ひとみってばっ!」
友人の木村麻美の呼びかけで、ひとみは我にかえった。
「へ?」
「へ、じゃないよ。さっきから、呼んでんのに」
「あ、ごめん。ちょっと考え事」
「お昼、どうする? ここで食べる? それともホール?」
「うーん。じゃあ、ホールに行こうか」
ひとみは、麻美と連れ立って2階にある共同ホールに向かっ
た。
ひとみの通う中学(朝比奈学園)は私立の、いわゆるお嬢
様学校というやつだ。
小・中・高と一貫教育で、校舎も同じ建物を共有している。
むろん、それぞれのエリアは分かれているが、共同ホール
だけはその名前からしてわかるように小・中・高のどの生
徒も自由に使えるようになっている。
だが、あまり利用者はない。
違う学年の生徒と顔を合わしたくないのか、誰もが自由に
使える点がその不人気の理由のようである。
いつも昼休みに、5〜6人の生徒が散り散りの場所で昼食
をとっているだけだった。
わずらわしいのが嫌いなひとみにとって、その場所はちょ
っとしたオアシス的な場所であった。
ひとみと麻美は他愛もない話をしながら昼食をとっていた。
アイドルの話なんかをしていた麻美が急に声を潜める。
「ねぇ、あれ」
「?」
麻美が、目で合図を送る。ひとみは、その視線の先を追う。
高等部の矢口真里が、ホールの入り口辺りでキョロキョロ
と中を見まわしていた。
手には、くまのプーさんの弁当箱を持っている。
「もうそろそろ来るよ」
麻美が、ニヤッと笑ってしばらくすると高等部の教員であ
る中澤裕子がやって来た。
手にはコンビニの袋をぶら下げている。
どちらも、この学園には似つかわしくない金髪だが、不思
議と嫌悪感を与えるような金髪ではない。まるで、それが
当たり前の髪の色であるような自然な印象を周りに与えて
いる。
2人は何か二言三言ことばを交わすと、生徒達とは少し離
れたテーブルについた。
「ねぇ、やっぱさ、あの2人って怪しいよね」
麻美が声を低くして、小さく呟いた。
「レズの噂?」
「ちょっと、声が大きい」
「あ、こっち見てる」
「ちょっと、ジッと見ちゃダメだよ」
いつまでも、振りかえって中澤と矢口を見ているひとみを
麻美は強引に前を向かせた。
ニヤニヤしながら、ひとみは言った。
「女子校だからって、そんなのあるわけないよ」
「でもさ、あの2人っていっつも一緒にいるよ」
「ウチらだって、いつも一緒にいるけど?」
「ア、アタシたちは、友達でしょ」
声を荒げたので、周りの生徒たちの視線が一斉に2人に
集まった。
麻美はその視線を感じ、顔を赤らめながらうつむいた。
「そんなもんだよ。それに、別にいいんじゃない? レ
ズだろうがなんだろうが。私には関係ないし」
ひとみは、その手の話には本当に興味がなかった。
同性をかわいいと思う事はある。
現に今朝ホームの階段で転んだ少女に対しても、そのよ
うな感情を抱いた。し、目の前にいる麻美に対しても
「かわいい」と思うことがある。
だがそれは、ぬいぐるみや子犬を見て「かわいい」と思
う程度であり、そこから恋愛感情に発展する事など想像
すらしていない。
中澤と矢口の件に関しても、特に他の生徒達のように深
く勘ぐるような事はしなかった。
(あ、そうだ。思い出した)
「ね、麻美。今日さ、掃除当番変わってくんない?」
突然の言葉に、うつむき加減で牛乳を飲んでいた麻美は
びっくりして牛乳を吹きだした。
自分は冷めた人間であり、孤独を愛する人間だと自分自
身で分析しているひとみだが、実はそうではなく困って
いる人を見ると放っておけないおせっかいな人物の部類
に入るのもちゃんと認識していた。
(ほらね……)
放課後の掃除当番を麻美に代わってもらって、ひとみは
駅のホームの階段でピンク色のパスケースの持ち主を待っ
ている。
名前も知らず、何時の電車に乗るのかも知らない。
ひょっとしたら、もうすでに帰っているかもしれない。
それでも、ひとみは待つ事にした。
数万・数十万・数百万の偶然から出会った少女に、もう
1度出会える保証はどこにもない。
それは、ひとみにも十分わかっていたが、定期を無くし
てオロオロしているあの少女の姿を想像すると、どうし
ても待たずにはいられなかった。
不意に、「後藤真希」という単語が脳裏をかすめた。
(そう言えば、真希ちゃんに似てるかも)
そこで思考は一旦停止した。
ひとみは真希の事を思い出そうとしている思考に、わざ
とストップをかけたのだ。必死で、別の事を思い浮かべる。
(!もういい)
(!似てない)(!似てない)
(!誰?)
(!ゴトウマキなんて知らない)
(!ナニモシラナイ)
(!定期券)(!困ってる)
(!定期券)(!カワイイ声)
(!おっちょこちょい)
(定期券)(定期券)(渡さなきゃ)
(きっと困ってる)(定期券)
その時、階段から駆け下りてくる少女に気づいた。
(あっ! 朝の)
少女は、息を切らせてひとみの前に立った。
(以外と小さい)
(それに、細い……)
「あ、あの」
その少女は、荒い息を整えながらなんとか声を出した。
(やっぱり、かわいい声)
少女が困ったような表情を浮かべて、ひとみを見上げて
いる。
「あ、あの……」
ひとみは、ハッと我にかえった。
「あ、はい」
「定期。拾ってくれたんですよね?」
「え? あ、はい」
ひとみは、カバンの中からピンク色のパスケースを取り
だす。
「これ……、ですよね?」
「あー、そうです。それです。良かったぁ」
きしゃな指を胸元で組み、満面の笑みを浮かべる少女。
ひとみは、少女の胸元についているネームプレートに
気づく。
(石川……、梨華……さん)
(エプロン姿)
(近くで、働いてるのかなぁ?)
「あのう……」
「あ、はい」
梨華はひとみの手元を見ている。ひとみは、何が言い
たいのか敏感に感じとった。
「あ、ごめんなさい。どうぞ」
そう。ひとみは、梨華の姿に見とれて肝心のパスケー
スを渡すのを忘れていたのであった。
(やっぱり、おっちょこちょいは私だ……)
急に顔が赤くなるひとみであった。
「あの失礼ですけど、お名前は……?」
「へ?」
(やっぱ、かわいい声だなぁ)
(エプロンも似合ってるし)
(あ、そうだ……)
(吉澤ひとみ)
と、言いかけた時、それを遮るように梨華が口を開いた。
「あ、私、石川梨華って言います。あ、名前、ここに」
と、胸元のネームプレートを指さす。
「駅前の『アップフロント』っていうお花屋さんで働い
てるんです。今、ちょうど休憩時間で、それで駅に落し
物がなかったか訊ねに来て、それでちょうどあなたが
見えたから、朝の顔覚えてて。ひょっとしたらって、そ
れで」
梨華は、なぜか緊張しながら一気にまくし立てるように
説明した。
頭の中に浮かんだ言葉を整理するのを忘れたのか、その
言葉はただの単語の羅列に近かった。
「あ、もうこんな時間。急がないと」
「え?」
「10分しか休みないから」
そう言った時には、きょとんとしているひとみを尻目に、
梨華はもうすでに階段を上っていた。
(私……、まだ自己紹介してないんだけど……)
(花屋さんか……)
(プッ。お花屋さんだって)
(カワイイ)
(なんか、似合ってる)
笑みが自然にこぼれそうになり、ひとみはあわてて口元
をぎゅっと引きしめた。
朝のラッシュほどではないにしろ、周りには人がいる。
普通の顔をして、階段を下りようとした。
「あの」
と、呼びとめる声。もちろん、ひとみにはその
声が誰で誰を呼びとめているのかすぐに分かった。
振りかえり階段を見上げると、梨華が夕日の光をバック
にして立っていた。
「ありがとう。今度、お店に来て。好きなお花、プレゼ
ントするから。約束だよ」
と、言い残すと手を大きく2、3度振って、走り去った。
またしても、ひとみが何か言葉を発する前に梨華は去った。
残されたひとみは、行き交う人々の冷たい視線を浴びて
赤面した。
夕暮れの教室。
麻美はやっと、掃除を終えた。「ふぅ」とため息を吐き、
さっき整頓しおわったばかりの机に腰かける。
いつの間にか、校庭でのグラブ活動の掛け声も消えている。
静寂が校舎を――麻美のいる教室を包み込んでいた。
その静寂を寂しいと感じるのか、怖いと感じるのか、切な
いと感じるのかは人それぞれである。
麻美は、不意に切ない恋心が沸きあがってきた。
昼間、何気に同性との恋の話をした。
それはけっして、中澤と矢口の関係を非難したり軽蔑した
りしたかったのではない、何気にひとみの考えている同性
同士の恋愛感について探りをいれてみたのだ。
その結果、ひとみにはまったくその気がないのを知ってし
まった。
同時に、麻美のはかなくせつない恋も終わりを告げた。
「告白しないでよかった……。気まずくなるのは、嫌だも
んね」
誰もいない教室、ひとみの机の前でつぶやく。
あれはいつの頃だったのだろう。
ある1つの事件がきっかけで、ひとみとの距離が急激に近
づき、それまで友人として抱いていた尊敬にも似た憧れが、
恋に変わったきっかけともなった事件。
その頃、ひとみも麻美もまだバレー部に所属していた。
ひとみは選手。麻美は身体的・技能的能力に限界を感じて
選手からマネージャーに転向したばかりなので、去年の7
月頃だろうか。
いつものように、放課後の部活動に励んでいた。
当時の3年生最後の試合が近かったので、部員たちは熱心
に練習していた。
いくら、お嬢様学校の弱小チームとはいえ、3年生最後の
試合ぐらいは勝利でその花道を飾りたいと部員達は考えて
いた。
マネージャーの麻美も、練習に付き合っていた。
コートの外からトスを上げて、片方のコートにいる人物が
アタックをし、もう片方のコートにいる人物がアタックを
受ける――。ただそれだけの単調な作業。
背の低い麻美は必然的にコートの外からトスを上げる誰に
でもできる役を任された。
それでも、直接的に選手たちと関われるので嬉しく思って
いた。
練習は順調に進んでいた。
が、隣のコートで練習をしているひとみに見惚れていた麻
美は、トスの上げる方向を少し間違えた。
「あっ!」と気づいた時には遅く、3年生でありチームの
キャプテンであった戸田鈴音はその失敗したトスを打ち損ね、
手首の靭帯を痛めてしまった。
練習が終わり、麻美は部室でひとみを除いた数人の同学年の
生徒に責められた。
「どうすんのよ! あんたのせいで、戸田キャプテン試合に
出れなくなったじゃない」
「……」
麻美は、嗚咽を上げることしかできなかった。
それもそうである。
自分が放ったトスのせいで、ひとみに見惚れて集中しなかっ
たせいで、キャプテンである戸田が大事な最後の試合に出
られなくなったのだ。
詫びる言葉よりも、涙しか出てこない。
どれぐらいの間、責められ続けていたのだろうか。
「いい加減にしなよ」
低い声と共に、部室のドアが開かれた。
部員たちは、一斉にドアを見つめた。
1人での居残り練習を終えたひとみが、額にうっすらと汗を
滲ませながら入ってきた。
場に何となく緊張が走り、皆だまって吉澤の姿を目で追って
いた。
誰に言うでもなく、自分のロッカーの前でひとみは額の汗を
拭いながら呟いた。
「木村さんを責めて、戸田先輩のケガが治るわけじゃない」
反発の声はすぐに上がった。
「ひとみ! アンタだって知ってるでしょ! キャプテンや
他の先輩達がどんなに次の試合に賭けてたか」
「知ってるよ」
「だったら、なんでそんな何でもない風に言えるの」
「だって、言っても仕方ないじゃない」
ひとみは、ロッカーを閉めると部員たちに向き直った。
部員たちは、ひとみのその冷たい言葉に絶句した。
「ホラ、木村さんもいつまでも泣かない」
ひとみは、麻美の頭を軽く撫でながら言った。
見上げる麻美の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「じゃあ、どうすればいいのよ!」
沈黙に耐えかねた1人の女子生徒が声を荒げた。
「――勝てばいいんでしょ? キャプテンの代わりに、
アタシが出る」
いともあっさりと言いのけるひとみに、他の部員たちは
ざわめいた。
「ハイ。もうこれでこの話はお終い。木村さん、行こう」
ひとみは麻美の手を引いて部室を後にした。
数週間後。ひとみは宣言通り試合に勝ち進み、3年生の
最後の試合に「大会優勝」という最高の思い出をプレゼ
ントした。
戸田も試合には出れなかったが、涙を流して喜んでいた。
むろん、他の3年生も――。
だが、2年の部員たちは吉澤に敵意を剥き出しにした。
敵意の内訳としては、嫉妬がその大半を占めていた。
その後、部内での幼稚で陰湿ないじめ行為に飽き飽き
した吉澤は、黙って部を去った。
その後を追うように、麻美も部活を辞めた。
吉澤を追い出す原因を作った張本人として、なにより
自分をかばってくれた親友を見捨ててまでバレー部に
所属し続ける意味は何も見出せなかった。
そして、2人の関係は現在に至っている。
夕暮れの教室。ひとみの机の前で、麻美はほんの
1年前を思い出して、申し訳ない気持ちで胸が
一杯になった。
「ごめんね、ひとみちゃん。アタシのせいで、好きな
バレー続けられなくなったんだよね……」
麻美は、静かに涙を流した。
それを忘れて、ひとみに恋愛感情を抱いて浮ついていた
自分がとてつもなく罪深い人間に思えてきて、しようが
なかった。
「アタシなんて、死んだほうがマシだよね。ごめんね。」
静かに流れていた涙は、やがて堰を切ったように流れ始めた。
「ひとみちゃん、アタシをかばってくれたのに! アタシ、
毎日ひとみちゃんに抱かれるところ想像してたのごめんね!
ごめんね! ひとみちゃん! あたしのせいで! ごめんね!」
――午後6時12分。
ひとみの携帯に、麻美からのメールが届いた。
【ありがとう
ひとみちゃん
ずっと忘れないでね】
突然の麻美の死から、はや1週間が経過した。
死亡解剖を終えた麻美の遺体は荼毘にふされ、そして火葬場で
灰となって小さな遺骨箱に収められた。
ひとみは、その一連の流れの間、涙を流す事はなかった。
悲しみの涙を素直に流すことができなかった。
泣くことで、すべてが癒されるわけではない。
その思いが、悲しみの涙を堰き止めているのかもしれない。
なによりも、麻美の死を完全に受け入れる事ができないのが、
その最大の理由だった。
真新しい墓に遺骨が収められ、参列者達が帰った後も、ひとみ
はしばらくその場にたたずんでいた。
麻美の死に、警察も当初は事件に巻き込まれた可能性もあると
視野に入れて動いていた。
なぜなら、麻美が死亡した当日を境に、教員の中澤裕子と高等
部2年の矢口真里がそろって失踪したからである。
生徒の死と教師と生徒の失踪。このようなミステリアスな事件
をマスコミが放っておくわけはない。
今も学園の周りや木村家の周辺をワイドショーや週刊誌などが
面白おかしく書き上げるためにネタを探して嗅ぎまわっている。
結局、二人の失踪の理由は分からないが、麻美が飛び降りるの
を目撃した用務員の証言や、ひとみの元に届いた遺書めいたメー
ルが麻美の死を自殺とする決め手となった。
だが、自殺と断定はされたものの、その動機は依然として謎の
ままであった。
家族にも分からなかった。
いつもと変わりがなく、もちろん多少の悩みもあっただろうが
それは生きて生活している人間にとっては極々当たり前のもの
で、死ぬほど辛い何かがあったとは考えられないと両親たちは
警察に証言していた。
もちろん、ひとみにも思い当たるふしはなかった。
この1週間、何度も何度も麻美と過ごした日々を思い出したが、
どんなに記憶の糸を手繰りよせとも、自殺の原因に結びつくよ
うなものは何一つとして見つからなかった。
では、いったいなぜ麻美は死んでしまったのか?
結局、いつもこの結論にたどりつく。
この悪循環を断ち切るものはただ1つ。考えるより、行動する
事しかない。ひとみは麻美の墓の前で決心した。
何があっても、友の死の真実を解明すると――。
(先生と矢口先輩が、きっと何かを知っているはず)
警察は失踪した2人と麻美の死、その関与を完全に否定したが、
ひとみはそれ払拭する事ができなかった。
――まず、そこから動きだす事にした。
職員室でひとみがどんなに訊ねても、緘口令でも敷かれている
のか、教員達は誰も中澤と矢口の失踪に関して口を開こうとし
なかった。
ひとみは何度訪れても、けんもほろろに職員室を追い出される。
ならば、矢口の同級生にでもと高等部の校舎に向かった。
しかし、やはりここでも同じような状況。誰も矢口の失踪に関
して口を割らなかった。
生徒たちに、ここまで見事な緘口令が行き届いていると言う事
は、進路問題を盾に教師たちに言い含められているのかもしれ
ない。
自分の保身のために、1人の人間の死の深層が闇に葬られそう
になっている――。
ひとみは、唇を噛みしめた。
それでも、ひとみはあきらめる事ができず、自分で高等部の生
徒名簿を入手し、矢口の住所を割りだした。
「ここか……」
放課後、ひとみは生徒名簿に書かれている住所をたよりに、まっ
たく見ず知らずの土地にやって来ていた。
途中、何度か人に道を尋ね、「矢口」家に到着したのはもうか
なり日も暮れかけた頃である。
一見すると、なんでもない普通の住宅である。
お嬢様学校に通うにしては少し小さいように思えたが、それは
家庭の事情であり今のひとみにはまったく関係のないことだった。
インターフォンを押すと、中から年老いた女性が出てきた。
「あの、こんばんは」
年老いた女性は、そのにごった目をひとみに向けると何やら口
をもごもごと動かした。
(なに……?)
(矢口先輩のお婆ちゃん?)
(お母さん……じゃないよね)
老婆は相変わらず、口をもごもごと動かし何かを喋っている。
門扉越しに立っているひとみには、よく聞きとれない。
「あの、矢口真里さんの事でちょっとお話が」
ひとみは、苛立ちながら大きな声で喋った。
老婆の耳にもそれが届いたらしく、無表情だったその顔にあき
らかな動揺が浮かんだ。
(おかしい)
ひとみは直感的に、そう思った。
まるで逃げるかのように、家の中へと戻っていく老婆を、ひと
みはあわてて追った。
(ぜったい、何か知ってる)
門扉を空けるのに少し戸惑いモタモタしている内に、老婆は玄
関のドアを閉めて家の中に入ってしまった。
それでもひとみは、ドアを激しくノックする。
「あの、ほんの少しでいいんです。矢口先輩の事、ほんの少し
でいいから教えて下さい。お願いします。友達が、友達が死ん
だんです。本当の事、知りたいんです。お願いします」
ひとみは、近所の目を気にする事なく叫んでいた。
だが、ドアは開けられる事がなかった。
(なんで……?)
(なんで、みんな隠そうとすんの?)
(おかしいよ)
ひとみは、答えの見つからない疑問をいつまでも繰り返しなが
ら駅の階段を下りていた。
友達の死に対して何もできずにいる自分のふがいなさが、たま
らなく腹立たしかった。
もう数段で階段を下りきるとき、後ろから声をかけられた。
あの再会以来、1度も顔を合わす事はなかったが、その声が誰
のものなのかは容易に判断できた。
独特のアニメのヒロインのような声――。
(石川さん……。だったかな……)
そんな事をぼんやりと考えながら、ひとみはゆっくりと振りか
えった。
まるで1週間前のように、梨華が階段を駆け下りてきている。
(危ないなぁ……)
(転ばないように、気をつけてよ)
「久しぶりだね」
梨華はそういって、少しだけ笑顔を見せた。
ひとみは軽く会釈をすることで、返事を返した。
正直なところ、何も話す言葉が思い浮かばなかった。
石川もそれ以上は何も言葉を発さなかった。
2人は無言で、改札までの短い道を歩いた。
別路線のため、ここで別れなければならない。
しかし、ひとみはなんとなく後ろ髪をひかれる想いだった。
まだ3回しか会ったことがないし、会話らしい会話もした事の
ない梨華だったが、できることならもう少し側にいてほしかった。
(でも、迷惑だよね……)
なんとなく別れを惜しんでいるひとみに、
「……あんまり自分を追い詰めちゃダメだよ」
と、梨華が焦点の定まらないひとみの目を見つめながら言った。
その言葉に反応して、瞳のピントが合ってくる。
心配そうに自分の顔をのぞき込んでいる梨華の顔が、ハッキリと
ひとみの目にうつった。
(なんで、こんなに心配してくれるんだろう……?)
(なんで、そんなに悲しい顔してくれるんだろう……?)
(たった3回しか会っていないのに、懐かしい気がするのはなん
でなんだろう……?)
ひとみの頭に、さまざまな思いがゆっくりと浮かんでは消えていっ
た。
梨華は、それ以上は何も言わずに下りのホームへと流れる人の群
れの中に消えていった――。
麻美の死と教師と生徒の失踪を、面白おかしく関連付けて騒ぎ立
てていたマスコミ各社が、ある日一斉に姿を消した。
新たなる話題性が見つかり、そちらに流れていった事も考えられ
るが、それにしても各社一斉に口裏を合わしてたかのように姿を
消すのはなんとも異様な事態のように思えた。
登校するひとみは、せいせいするのと同時に事件の風化を予感さ
せどこか不安でもあった。
あいかわらず学園では、麻美の自殺の話題はタブーとなっている。
きっと、どこかで密かには話題にはしているのだろうが、人目に
つく場所で話題にするものは1人もいなかった。
麻美と最後に食事した共同ホール。
ひとみは、あの事件からずっと昼食をこの場所でとるようにしていた。
なんとなく、麻美がここにいるような気がしていたからだ。
でも、実際にその場所に麻美がいる事はない。
もうすでに、この世にはいないのだ。
そんなこと、ひとみも十分わかってはいたが、自然と足が向かって
しまう。
静かなホールで一人で食事をしていると、ひとみはあらためて麻美
の存在の大きさに気づかされる。
親友というカテゴリーを持っていなかったひとみは、どこか冷めた
態度で麻美と接していたことをひどく後悔した。
麻美とは2度と会えないと思うと、ほんの一瞬考えただけで胸が張
り裂けそうだった。
(ごめんね、麻美。アタシ、なんにもわかってなかったのかもしれ
ない。何も気づいてあげられなくて、本当にごめん……)
こんな時、涙が流れれば少しは楽になれるのかもしれないが、ひと
みはその術をもう忘れてしまっているようだった。
ひとみはそんな自分が、たまらなく嫌な人間のように感じた。
ひとみがふらりと店を訪れた時、まるで梨華は待ち合わせでもして
いたかのように、「いらっしゃい」と微笑んで迎え入れてくれた。
「ひとみちゃんが来てくれて、お花も喜んでるよ」
(また……、お花って言った)
「お花はね、良い人と悪い人を見分けられるんだよ」
(家でお花なんて言ったら、絶対に頭が変になったと思われるよ)
「ひとみちゃんは、どんなお花が好きなの? 誕生日は?」
梨華はしゃがんで花の整理はじめた。それでもひとみと話そうとして
いるので、自然とひとみを見上げる格好になっている。
「4月……」
「4月かぁ……、じゃあ誕生花は――」
と、梨華はしゃがんだその姿勢のままで、ぴょこんぴょこんと横に移
動した。
「あ、あの、石川さん」
「ん? なあに?」
(年齢なんて聞いて、変に思われないかな)
(でも、変じゃないよね)
(年、聞くだけだもんね)
ひとみは、自問自答をせつなの間に繰り返した。
思いきって口を開けようとした瞬間、梨華が急に立ち上がったので何
となくそのタイミングを失ってしまった。
シドロモドロになっているひとみを緊張していると思ったのか、梨華
が優しく声をかけてきた。
「ねぇ、ひとみちゃんって朝比奈学園の生徒さん?」
「え? あ、はい」
(何でわかったんだろう)
「その制服、私もちょっと憧れてたんだぁ」
(あ、そうか。制服か……)
「ワッペンがちょっと違うから、中等部かな?」
「はい。3年です。あ、あの、失礼ですけど石川さんは何歳ですか?」
(わぁ。これじゃ、お見合いだよ)
(なんで、もっと普通に聞けないんだよ。バカ)
梨華は少しだけ微笑むと、「15才だけど、ちょっと事情があって高
校には通ってないの」と言った。
マズイ事を聞いてしまったなと一瞬思ったが、それよりも自分と同じ
年ということに驚いてしまった。
「ひとみちゃんが4月生まれっていう事は、学年が違うだけで年は同
じだね。私、1月の早生まれだから」
と、梨華はまた微笑んだ。
パスケースを拾ってくれたお礼という事で、ひとみは誕生花である
”カスミソウ”を数十本もらった。
ひとみにこの花を手渡す時、梨華は「ありがとう」の後にまだ何か伝
えたかったみたいだが、ちょうど客が来てしまったためにその対応を
しに店先に移動してしまった。
これまでひとみは自分の誕生花を知らなかった。
知らなかったが、この花の名前は知っていた。
麻美が好きな花だった。
『カスミソウの花言葉はね、『清心』。清い心』
『カスミソウ。大好き』
と、微笑んでいた麻美の顔を思いだした。
(……今から、麻美のお墓に行こうかな)
ひとみがぼんやりと考えている間、客の対応をしていた梨華が店先で
クスッと笑った。
ひとみと梨華は、同じバスに乗っていた。
早番で就業時刻が早く終わるが、家に帰っても何もする事がないので、
ひとみにつき合わせてほしいと梨華からお願いしてきたのである。
バスに乗っている間、ひとみは何度も行き先を変えようかと考えた。
いくら親しみを抱いている人とはいえ、まだ名前と年齢ぐらいしか知
らない人物である。
その人物に、友人の墓参りにつき合わせるのはいくらなんでもどうか
と考えていた。
が、梨華は麻美の事を知っていた。直接は知らないが、地元の新聞で
事件のあらましを知ったらしくて、自分と同年代の少女が自ら死を選
んでしまった事にひどく心を痛めているような事を言った。
そして、こう付け加えた。
「もしも、ひとみちゃんがその子と友人なら、ぜひ1度お墓参りをさ
せてほしい」と。
そこまで言われてしまったら、もう行き先を変える必要はなかった。
ひとみは麻美の遺骨が納められている霊園前の、停留所のブザーを押
した。
平日のしかも夕方近くと言うこともあり、霊園はひっそりと静まり返っ
ていた。
ひとみは霊園管理事務所で線香を買い、梨華と連れ立って麻美の墓へと
向かった。
その間、ひとみは麻美の事をポツリポツリと梨華に話した。梨華は何も
言わずに、ただただうなずくばかりだった。
麻美の墓に、麻美の好きだった”カスミソウ”を添える。
管理事務所で買った線香と、ついでに購入した100円ライターで線香
に火をつけた。
そして、手を合わせて黙祷した。
(麻美の好きな花、私の誕生花だったんだよ)
(ごめんね、私そういうのに疎くて)
(これから毎年、誕生日にはこの花を買うよ)
(そして、麻美の事を思い出すんだろうね)
(麻美の事は忘れない)
(この花が、地球上にある限り……)
(ううん。アタシが生きている限り)
(絶対に忘れない……)
長い黙祷が終わり目を開けたとき、ひとみは隣を見て驚いた。
まだ黙祷を続けている梨華が、涙を流していたからだ。
「石川さん……」
梨華は、ゆっくりと目を開けた。
そして、麻美の墓を見つめながら「もっと早くに知り会えてたら……」と
呟いた。
その言葉の意味を、ひとみは理解できなかった。
(ひょっとしたら、石川さん……)
(本当は麻美のこと……)
(いや、でもそんなこと今まで1度も)
(もっと早くって、1度会った事があるの?)
(でも、バスの中では新聞で知ったって言った)
(ひょっとして、自殺の原因……)
(知るはずがない)
(……でも、もしかしたら)
「石川さん」
と、ひとみが声をかけるのと同時に、梨華はハッと立ち上がり
辺りを見まわした。
「……石川さん?」
「ひとみちゃん、すぐに帰ろう」
「え?」
「いいから」
今まで1度も見た事がない梨華の険しい表情。
ひとみは思わず、「う、うん……」と返事をしてしまった。
ひとみが帰り支度を素早くしている間、梨華は怯えた草食動物の
ように辺りをキョロキョロと見回していた。
(いったい、どうしちゃったんだろう……?)
梨華の様子を横目でチラチラ見ていたひとみの耳に、「もうダメ」
という梨華のか細い落胆の声が聞こえた。
「あの、朝比奈学園の生徒さんですか?」
他人の墓の間を縫うようにして、1人の女性が近づいてきた。
「わたし、週間明朝のライターをしている石黒と言います」
石黒と名乗った女性は、ひとみの前にまるで立ちはだかるように
佇んだ。
「ひょっとして、吉澤ひとみさん?」
石黒は、ひとみの顔をマジマジと見つめながら言った。
「そうですけど……」
ひとみは横目で梨華の様子をうかがった。
梨華は、ひとみから少し離れた場所で小さく震えているようだった。
「友達、大丈夫?」
「え?」
「なんか、様子が変みたいだけど」
「……石川さん?」
梨華は身を固くして、ムリヤリに笑顔を浮かべて言った。
「うん。大丈夫」
ひとみは心配になった。その様子はどう見ても大丈夫ではない。
――スッと梨華の側による。
「大丈夫?」と、梨華の肩に手をかけようとした瞬間、
「触らないで」
と、梨華は怯えながら身をかわした。
(ウソ……)
(友達になれたと思ってたのに……)
(アタシ、嫌われてる……)
(そんな……)
(ウソ……)
(嫌われてる……)
「違うの! ひとみちゃん、嫌ってなんかない」
そう言って梨華はまた、ハッとした。自分の発した言葉に、自分自
身で驚いたようである。
その時、不意にひとみの脳裏にある疑問がよぎった。
(……嫌ってない?)
(嫌ってないって……、どういう事?)
(確かにショックだったけど、顔には出してない)
(アタシは、感情を表に出すの苦手)
(だから、出る筈がない)
(それなのになんで……?)
(ナンデ……?)
梨華は、うつむいて震えていた。
その様子をハタから見ていた石黒の目にも、ハッキリとわかるほどの
震えだった。
(え……?)
(なんで、ひとみちゃんって呼ばれてんだろう)
(そう言えば、アタシ名前言ったっけ?)
(言った?) (言ってない?)
(言ってない?) (言った?)
「ゴメン、私もうそろそろ帰らなきゃ」
梨華はそう言うと、くるりと背を向けてヨロヨロと駆けだした。
その後ろ姿を見て、ひとみは確信した。
(言ってない!)
(アタシ、石川さんに名前教えてない!)
「待って! 石川さん!」
ひとみは、石黒の存在などすっかり忘れて梨華の後を追った。
「なんだ?」
片方の眉を吊り上げた石黒は、夕暮れの霊園にぽつんと放置されて
しまった。
夕暮れのバス停で、やっと梨華を捕まえる事ができた。
捕まえると言っても身体に振れたわけではない。
言葉を発したわけでもない。
ただ、心の中でこう願っただけだ。
(触らないから、立ち止まって。お願い)
梨華はまるで観念したように、その場にゆっくりと立ち止まった。
ひとみは、息をきらせて梨華の前に立つ。
「石川さん……」
荒い息を吐きながら、ひとみは梨華の名前を口にした。
梨華は、その場にしゃがみ込んで息を整えていた。
「あのね、石川さ」
「それ以上、言わないで」
梨華は、うつむいたまま弱々しい声でつぶやいた。
(石川さん、心が読めるのね)
そう心の中で問いかけた。
梨華は、無言でゆっくりとうなずいた。
(真希ちゃんと一緒だ……)
「え?」
と、梨華は顔を上げた。
「あ、ううん。なんでもない……」
今度はひとみが慌てる番がきた。しかし、ひとみは常日頃から真希の
事を考えないようにしているので、簡単に心にシャッターを下ろすこ
とができた。
それには、梨華も驚いたようである。
「ひとみちゃん……、コントロールできるの?」
「え?」
「その……」
梨華は、言い難そうにうつむいてしまった。
(急にこの声が聞こえなくなった?)
梨華は、ハッと顔を上げた。
「アタシね……、昔……」
(超能力……、見たの……、たぶん……)
ひとみは、そうしてまた心のシャッターを閉じた。
「そう」
と、ひとこと言ったきり、梨華は口をつぐんだ。
「だから、小さい頃、その手の話の本って、いっぱい読んだ。石川さん
のは」
(精神感応”テレパシー”って言うんだよね)
梨華が、かすかにうなずく。
それきり、会話はパッタリと止まってしまった。
しばらく無言のまま、二人はバスを待っていた。
無言……。傍目には無言であるが、ひとみの頭の中では色んな思いが
交錯していた。きっと、この心の声は梨華には丸聞こえなのだろうが、
さすがに真希以外の事で心のシャッターを降ろす術は心得ていない。
(しょうがないや……)
と、諦めにも似た気持ちで、自分の心の中の疑問や戸惑いを梨華に
吐露した。
それが結果的に梨華がひとみに心を許すきっかけになった事を、この時
のひとみは考えもしなかった。ひとみがそれを知るのはもっとずっと先の
事である――。
霊園に行った翌日、学園の共同ホールで、ひとみはいつものように1人で
昼食をとっていた。
退屈な日常にウンザリとしていたひとみだが、ここ何日の間にその退屈だっ
た頃の日常がとてつもなく懐かしい思いがしていた。
朝、起きて。家庭の空気に悪態をつき、電車の中で現在を悲観する。
そして、学園で麻美とのとりとめのない会話で心を癒す。
そんな日常が、とてつもなく懐かしかった。
(そう……)
(麻美は、アタシに色んなものをくれていた)
(なのに私は……)
(何もできなかった……)
(今も、何もできない……)
結局のところ、麻美の死の真相は何もわからないままだった。
その片鱗でも掴みたかったが、それすらも人々が口をつぐんでいるせいで
できない。
八方塞であった。
そこへ、一筋の光明がふりそそぐ。
共同ホール。この場にふさわしくない意外な人物が現われた。
学園の公舎内にある共同ホールに現われたのは、霊園で会った週刊誌の
女性記者”石黒 彩”だった。
「おっ、いたいた。こんちは」
と、さも当たり前のように、ひとみの横に腰かける。
ひとみは、きょとんとしている。
「私のこと、覚えてる? ま、覚えてるよね。昨日、会ったばかりだもんね」
「え……、ええ」
「でさ、昨日聞きそびれたんだけど」
「あの、ここ学校ですよ」
「ん? そうだけど」
「そうだけどじゃないですよ。何で勝手に入ってきてるんですか!?」
「何でって、開いてたから」
ひとみは、絶句した。
(この人、常識ないの!?)
周りにいる数人の生徒たちも、この奇妙な侵入者に注目している。
その視線に気づいた石黒は、ひとみにニコッと微笑みかけると、周りにいる
生徒たちに聞こえるように、わざと大きな声を出した。
「ひとみ。お姉ちゃんの言うことは、ちゃんと聞きなさいよ」
ひとみは、軽い目眩を覚えた。
(なんなの、この人……)
石黒は、そんなひとみの心境を知ってか知らずか園内の自動販売機で購
入したイチゴブリックをおいしそうに飲んだ。
「でさ、この学園で起きた2つの事件の事について聞きたいんだけど」
石黒とひとみは、場所を近くの喫茶店に移していた。
もちろん、ひとみの提案である。
普通の――、事件直後にひとみが見た人の心情もかえりみずマイクを無
造作につきつけてくるジャーナリストたちの類なら、間違いなくひとみは追
い返していただろう。
しかし、ひとみは石黒を追い返さなかった。
お世辞にも礼儀作法を知っている人間とは思わないが、それを補う天性の
人を惹きつける何かがあった。
そしてなにより、石黒と話しがしたいと思った最大の理由は”何も情報を
持たない自分より何かを知っているはず”だと睨んだからである。
「ねぇ、聞いてる?」
「あ、はい」
「2つの事件なんだけど」
「あの。」
ひとみは、強い口調で言った。
「さっきから、事件事件っていってますけど。麻美はその……自殺で、
先生と矢口先輩とは関係ないって警察も言ってましたけど」
ひとみは、かまをかけてみた。
すると、石黒は低い声でこう言った。
「警察の発表がすべて正しいなんて、何で言える?」
しばらく、無言の間があった。店内に流れるクラッシック音楽が、やたらと
耳障りに感じられるほどに。
――先に口を開いたのは、ひとみだった。
「やっぱり、自殺じゃないんですか?」
「……やっぱりって事は、吉澤さんも信じてなかったのね」
(しまった)
ひとみは、瞬時に判断した。かまをかけたつもりが、反対にかけられてい
たのである。
石黒は小さく微笑んだ。
「……信じられるわけないじゃないですか。麻美は自殺なんてする子じゃ……」
と、言いかけてひとみは口をつぐんだ。
(そう言いきれるほど、アタシは麻美の事わかってたんだろうか)
(本当は、何か理由が……)
そう考えると、ひとみははっきりと”ない”とは言いきれなかった。
「麻美ちゃんは、自殺なんかじゃない」
石黒は、戸惑うひとみの目を見てはっきりと言った。
「え……?」
「結果的には自殺かもしれない。用務員のおじさんが見たように、最後は
自分で学園の屋上から飛び降りた」
「じゃあ……やっぱり」
石黒は、戸惑うひとみをあやすようにゆっくりと首を左右に振った。
「あなたの携帯にメールが届いたのが、午後6時12分よね」
ひとみは、なぜそこまで知っているのか驚いた。
警察しか知らない情報である。
(この人、ホントはすごい……?)
「でもね、そのわずか5分前に、廊下を通りかかった友達と喋ってるのよ」
「……でも、それが何で自殺じゃないって」
「その時、”ビデオの録画予約してないから、早く帰らなきゃ”って言ってた
らしいの」
「……」
「普通、自殺する人がテレビ番組なんて気にする?」
石黒は、バッグの中から手帳を取り出した。
「おかしいのがここよ。それからたった5分後にあなたにメールを送って
いる。たった5分の間に、死にたくなるかしら?」
石黒は続けて言った。
「5分。しかも、正確には5分じゃないわよ。友達と喋っている時間を引い
てないから」
石黒は、手帳のページをめくった。
「その女子生徒は、廊下越しで木村さんが掃除をしていたから邪魔しちゃ
悪いと思って、2分ぐらいで帰ったと言ってる」
「じゃあ、3分……」
「ううん。それも違う。警察の現場検証によると教室の机は綺麗に並べ終
わっていた。女子生徒がお喋りを終えて、帰り際に見たとき、木村さんは
窓際の一列を並べ始めたところだったって」
「……」
「それを1分としましょう」
「2分……」
「そう。あなたに遺書のメールを送るまでたった2分。たった2分で自殺す
る事にした。メールを打つ時間を計算するともっと短いかも」
「……」
「そんなことって、ありえるのかしら?」
「……」
「今まで自殺に関する色々な取材をしたけれど、親しい人はそれなりに
SOSは感じてるみたいだったけどなぁ。今回みたいに、取材した人が
全員知らないって言うのは初めて」
2人とも、なんとなくそこで会話を終えた。
石黒も、仕入れた情報から真相を見出せないでいるようだ。
そして、ひとみもまたさらに謎だけが増え真相から遠のいてしまった。
「中澤裕子と矢口真里……。私は、この二人が何かを握っていると思
うの……」
石黒が、窓外の景色を見つめながらポツリと呟いた。
中澤裕子――。
矢口真里――。
二人の名前が、ひとみの頭の中でこだました。
駅の改札口の前で、梨華が待っていた。
ひとみの心の中の声を感じ取っていたのか、ひとみが梨華に気づいた
時、梨華はもう既に随分前から気づいている様子だった。
「……わからなくなったんだね」
梨華は、うつむき加減にそう呟いた。
(そうか……)
(こうなるのがわかってたから、石黒さんと)
(そうか……)
梨華は、こっくりとうなずいた。
(……石川さんの力)
(なら、何かわかるかも)
(でも……)
(でも……)
「石川さん……。あのね」
ひとみは思いきって、梨華に訊ねる事にした。
が、すべてを話す前に梨華がニッコリと微笑んだ
「うん。わかってる」
「……そうだよね」
と、ひとみも微笑んだ。
「私の力、使ってもいいよ」
「ありがとう、石川さん」
「石川さんって呼ばれるの、なんか照れる。年は同じなのに」
と、梨華は恥ずかしそうに笑った。
「だって、学年は1つ上だから」
「梨華でいいよ」
「……じゃあ、梨華ちゃんって呼ぶ事にする」
「うん。行こう、ひとみちゃん」
そう言って、駅の階段へと向かう梨華の後ろ姿を見つめていると、
ひとみはなぜか赤面してしまった。
(誰かの事を、ちゃん付けで呼ぶのっていつ以来だろう……)
(そう……)
(きっと、あれ以来だ……)
ひとみは、それ以上は何も考えずに梨華の後を追って歩きだした。
ひとみは、3日ぶりに矢口家を訪れた。
夜だというのに、どの部屋にも灯りはついていない。
「誰もいないのかな? 寝るにしては早いし」
ひとみは小さな声で呟き、隣にいる梨華を見つめた。
梨華は、黙ったまま家の中を見つめている。
感応能力で、家の中に誰かの意識がないか探っているようだ。
ひとみは、それを敏感に感じとり、梨華の中に余計な意識が入
らないよう何も考えないように努力した。
しばらくして、梨華がそっっと口を開いた。
「家の中には、誰もいないみたい……」
「お婆ちゃんが、いるはずなんだけど」
「うん。でも、探したけどそれらしい意識は感じなかった」
「……」
(3日前まではいたのに……)
(出かけた?)
(夜に外出するように見えなかった……)
と、ひとみが考えていると梨華が横から口を挟んだ。
「旅行かな?」
真剣な表情で、もっともな意見を言ったと思い込んでいる梨華。
ひとみは、思わず笑ってしまった。
「あのねぇ、梨華ちゃん」
梨華は、きょとんとしている。
(孫が行方不明になってるんだよ)
(それなのに、家を空けて旅行行く)
と、心の中で念じてあげた。
それを読みとった梨華は、思わず顔を赤らめた。
「そっか。そうだよね……」
と、恥ずかしそうに苦笑した。
ひとみは辺りを見まわし、誰もいないのを確認すると素早く門
扉を開けて、中へと入った。
「ちょっと、ひとみちゃん」
と、慌てる梨華。
「大丈夫。見つかったら、謝ればいいよ」
目的のためなら大胆な開き直りは必要、と、勝手な理論を石
黒から学んだひとみであった。
梨華は1人にされても心細いので、ひとみの後を追って中へと
入った。
ひとみは、庭のほうに周り部屋の中の様子をうかがった。
そこは、どうやらリビングのようであった。人の気配はまったく
ない。
感応能力を持った梨華が、家の者はいないと言っていたのは
確かなようだった。
ひょっとしたらと思って手をかけてみたリビングの窓は、呆気な
いほど簡単にスッと開いた。
鍵はかかっていなかった。
ひとみは、庭の隅でオドオドしている梨華を呼び寄せた。
(大丈夫。来て)
梨華は辺りをキョロキョロしながら、ひとみの元へとやってくる。
「大丈夫だって。梨華ちゃん、誰もいないって言ったじゃん」
「う、うん。そうだけど」
「怖いの?」
「……」
梨華は、目を伏せコクンと小さくうなずいた。
ひとみは、フッと微笑んで土足のままリビングへと入った。
「ひとみちゃん」
「?」と、振りかえるひとみ。
「靴は脱がなきゃ」
「あ――、そうだ」
以外なところで冷静な梨華に、ひとみは笑わずにはいられなかった。
(そうだ)
(え? でも、なんで)
ひとみは、その部屋にある押入れを開けてみた。2段に別れた
押入れ。下段には、綺麗に整理されたダンボールが積まれて
いる。上段には、衣類の入った古い小さなタンスのような物が
置かれている。
「きゃあ」
と、梨華が小さな悲鳴を上げてひとみの後ろに隠れた。
ひとみもその声に驚いた。
「なに、梨華ちゃん。ビックリさせないでよ」
「そ、そこ……」
梨華は目を閉じたまま、押入れの上段のタンスの上を指さした。
ひとみは、ゆっくりとその指の先を目で追う。
「わぁ!」
青白い顔をした老父と幼女が、2人を見下ろしていた。
ひとみは思わず、その場にへたり込んでしまった。
「ひ、ひとみちゃん、写真だよ」
「へ?」
ひとみは、目を凝らしてもう1度その場所を見つめた。確かに、
写真であった。
白黒の――、老父と幼女の遺影だった。
「なんだ……、もうっ」
と、ひとみはなぜか腹が立った。
梨華はクスクスと笑っていたが、ひとみのいらだちを感じとっ
たのか、すぐにうつむいてしまった。
「あ、ちがう。その、びっくりして腰抜かした自分に腹がたって」
笑ったのを反省しているのかと思ったひとみだったが、よく見
ると梨華はうつむいて小さく笑っていた。
「もうっ」
と、ひとことだけ呟いて、ひとみは遺影をマジマジと眺めた。
以外にも、老父の方の遺影が真新しく、幼女の遺影の方が
古い。
(……誰だろう?)
ひとみは勇気を振り絞って、その幼女の遺影を手にとった。
「ちょっと……、ひとみちゃん」
ひとみは梨華の忠告を無視して、遺影を見つめた。それは、
かなり古い遺影だった
フッと遺影を裏返すと、そこには毛筆で書かれた走り書きが
あった。
【娘
矢口真里 享年8才】
ひとみの思考が、混乱したのは間違いなかった。
(きょうねん……)
(死んだ?)
(誰?)
(矢口真里、7才)
(矢口先輩)
(7才)
(高校2年生)
(30年前)
(共同ロビー)
(死んでる?)
(失踪)
(生きてる)
「ひとみちゃん、ねぇ、ひとみちゃん」
ひとみがハッとして、後を振りかえると梨華が頭を抱えて
ふさぎ込んでいた。
「梨華ちゃん!」
「ゴメン……、もう大丈夫だから」
「どうしたの、急に」
「う、うん……。ちょっと、敏感に感じ取れるようにしてたか
ら……」
(ひょっとして、さっきのアタシの意識が……)
(知らなかった)
(こんなになるなんて……)
梨華は、笑みを浮かべると首を振った。
「ごめん……、梨華ちゃん」
「ううん。もう、大丈夫。ちょっと、ほら、勝手に家の中に入っ
てるじゃない。だから、誰かが私たちに気づいたら、すぐに
逃げれるように意識の”網”を広げすぎてて、こっちに集中し
てなくて」
と、梨華はいつかのように早口になった。
「……ごめんね」
「大丈夫だよ」
と、梨華は笑って言った。
「それより……」
梨華は、ひとみの手もとの遺影を見つめた。
2階の部屋は、もう何年も使っていないのか、ほこりが充満
しており、両手で口と鼻を覆わなければならないほどだった。
とりあえず、ひとみは梨華を部屋の前に残し、1人で入って
いった。
その部屋は、雨戸も閉められていて真っ暗だった。
雨戸が閉まっているので明かりをつけても外には漏れない。
ひとみは手探りで電気のスイッチを探した。
数度の瞬きの後、きれかけの蛍光灯がうすぼんやりと申し
訳ない程度に点いた。
(ちょうどいい。これなら、外にも漏れない)
ひとみは、あらためて辺りを見まわした。
どうやら、ここは子供部屋のようだった。
まるで時を止められているかのような、古いタイプのインテ
リア。
ひとみは、学習机の棚に並べられている教科書を手にとっ
て、その裏を見た。
たしかに、”矢口真里”と幼い字で名前が書かれている。
(じゃあ……)
(あの、矢口さんは……)
ひとみは、教科書を棚に戻した。そして、ほこりが薄く積もっ
ている机の上を、そっと指でなぞった。
(きっと、あのお婆さんは、娘のことを思い出すのが嫌でこ
の部屋には来なかったんだろうな……)
事実を知ることは果たして、良いことなのか悪いことなのか、
ひとみは分からなくなってきた。
そんなひとみの動揺を梨華は感じとっているのだろう。矢口
家の門扉を出るまで、何も話しかけてこなかった。
その梨華が、突然ガタガタと震え出したのは、ひとみがちょ
うど門扉を閉めおわった時である。
「梨華ちゃん……!」
梨華は震えながらも、辺りを見まわしている。恐怖の元凶を
探しているようであった。
「に、逃げよう」
梨華は、ヨロヨロと駆けだした。
ひとみは、同じような光景を思い出した。
霊園で――。石黒が近づいてくるのを、察知した時――。
しかし、あの時とは様子が違うことをひとみは分かっていた。
この恐れは、どうみても尋常ではない。
梨華にとって、自分にとって、命に関わる何かとてつもなく
恐ろしい存在が近くにいるのであろう。
(大丈夫)
(絶対、私が守る)
(触るよ)
(いいね?)
梨華は、震えながらも確かにうなずいた。
(大丈夫。絶対、守るから)
と、強く念じてひとみは梨華の手を握って、夜の住宅街を
走った。
朝。
ひとみはいつもの時間に、自然と目を覚ました。
いつものように大きな伸びをして、サッとベッドから下りた。
――の、はずだった。が、そこにベッドの段差はなく、フローリングの床
だったために、いきおい体育座りをするような格好になってしまった。
(へ?)
(なんで?)
(そうだ!)
ひとみは、ハッとして自分のベッドを見た。
梨華が、眠っている。
(そうだ。あの後、梨華ちゃんバスの中で気ィ失って)
(家が分からないから、おぶって帰って)
(腕と首が痛い)
(寝顔)
(かわいい)
(……)
(気づかなかったけど……)
(梨華ちゃんって……)
(結構……)
ひとみは、それ以上は考えまいと頭をブルブルと振った。
梨華は力を使って疲れているのか、いつまでも起きる気配はなかった。
ひとみは、静かに部屋を出た。
そこはまた、いつもの光景だった。
父親が新聞を読みながら食事をし、母親がもくもくと弟たちの食事の準
備をしている――見なれた光景。
つい最近まではそれがとても嫌だったが、なぜか今朝はその光景を見て
ホッとした。
ひとみは、気分が良くなりつい「おはよう」と呟いた。
一瞬、新聞からチラリと顔を上げた父親と目が合ったが、父親はすぐに
新聞に視線を戻した。
どうやら、料理をしている母親には聞こえなかったらしい。振りかえり
もしなかった。
しばらくボーっとテーブルについていると、母親が料理を運んでくる気
配がした。
ひとみは、視界に入ってくるであろういつもの朝食を、いつものように
待っていた。
すると、視界に入ってきたのはスクランブルエッグにトーストとサラダ
とオレンジジュースという、喫茶店のモーニングセットのような料理2
人分だった。
(あ、そうだ)
(昨日の夜、梨華ちゃん泊めるって言ったんだ)
ひとみは、昨夜のことを思い出した。
友達を泊めると言った時、母親がほんの一瞬、嬉しそうな顔をしたのが
ひとみは印象的だった。
「部屋に持って行っていいから、食べなさい」
と、だけ言い残すと、母親はまたキッチンに戻っていった。これから、
弟たちの食事の準備をするのだろう。
(ウチの家族って恥ずかしがり屋かも)
ひとみは、苦笑しながら二人分の食事がのったトレイを持ってダイニン
グを後にした。
梨華はまだ眠っていた。
朝食をテーブルの上に置いた後、ひとみは梨華を起こそうかどうか迷っ
ていた。
疲れているのならこのまま眠らせておきたい、しかし、同じ年齢とはい
え梨華はもう社会人である、仕事だってある。
(やっぱ、起こさないとマズイよね)
「よし」と小さく気合いを入れて、ひとみはベッドの脇に移動した。
――梨華は、スヤスヤと気持ちよく眠っている。
(あ〜、よく寝てる)
(どうしよう)
(……長いまつげ)
(かわいいなぁ……)
(お姫様みたい)
(キスで起きるのかな?)
等と考えていると、梨華が急にパッと目を覚ました。
いきなりだったので、ひとみは体勢を立て直すことができず、ベッドの
縁に頬杖をついて眺めている格好のまま梨華と目が合ってしまった。
お互い、顔を真っ赤にしてそのままうつむいてしまった。
「あ、あの……、梨華ちゃん」
「……ん?」
「あ……、おはよう……」
「おはよう……」
「あ、あのね……、さっきのキスっていうのは……、そのアタシじゃなく
て、王子様がしたらって事だよ」
「……うん」
「あ、アタシが……ってのは、考えてなかったでしょ」
「……うん」
「眠り姫から連想しただけで……」
「……」
数分間。2人はベッドの上と縁で、うつむいていた。
ドレッシングのかかったサラダは、そろそろしなびれようとしていた。
朝食を終え、先に梨華にシャワーを浴びさせた。
ひとみがシャワーを浴びている間、梨華は部屋で髪を乾かしながら、T
Vのニュース番組を見ていた。
ニュースの終わりにやる「占い」を見るのが、梨華にとっての日課だっ
た。いくら能力を持っていたとしても、その辺はやはり普通の15才の
少女だった。
しばらくして、シャワーを終えたひとみが戻ってきた。
髪の毛はバスルームで乾かしてきたのか、もう既に渇きかけている。
「私も、髪切ろうかな」
「ん?」
「ブローに時間かかって」
「もったいないよ。梨華ちゃんは、その髪型が似合ってる」
「そうかなぁ……?」
(お姫様みたい)
と、ひとみが考えるのと同時に、梨華が不自然な動作でTVに視線を変
えた。
(まただ……)
ひとみは、軽いため息を吐きつつ、もう何も考えないようにして、登校
の準備をはじめた。
ニュース番組が、1つの事件を告げた。
『昨夜未明、××町の路上で近くに住む矢口真澄さん64才が、走って
きたライトバンに轢かれ即死しました』
ひとみと梨華の目が合った――。
ニュースは続く。
『目撃者の証言によると、矢口さんが路上に飛び込み自殺を図った模様
ですが、自宅には何者かが侵入した形跡があり事件・事故の両方の可能
性があると見て捜査を進める方針です――。以上、朝のヘッドラインニュー
スでした』
ひとみは、もう平和な日常が戻らない予感がしていた。
「今までに感じたことのない恐怖だった。――何て言えばいいんだろう。
心のない殺人者。――人の命をもてあそび楽しんでる」
「じゃあ、矢口さんの……お母さんはそいつに?」
梨華は、恐怖を必死に堪えようとしたままうなずいた。
「あのとき、私は家の周り300メートルぐらいに、意識の網を広げて
た。色んな声が聞こえてきた。でも、どれも私達には関係のないことば
かりだから聞き流してた」
「……」
「でも、そこへいきなり”真里の元へいけて、良かったね”って聞こえ
て来たの」
梨華は、敷地の外へ目を向けた。ここは、ひとみの家に近い場所にある
ショッピングモールの敷地内である。朝の時間帯のため、人はいない。
学校へ行くと家を出たのはいいが、とてもそんな気にはなれずに、なん
となく人のいない場所に来てしまったのである。
「意識の網を広げて、その方向にさらに意識を向けないと、あの人の考
えている事はハッキリと感じとれない」
と、梨華は一方向を指さした。
300メートルほど向こうに、歩道を歩いている中年の男性がいた。
「でもあの時聞こえた声は、意識の網の1番外なのに、まるで隣にいる
かのように聞こえてきた」
梨華はまた小さく震えだした。
「梨華ちゃん……」
ひとみは、そっと梨華を抱きよせた。
(大丈夫だよ……)
「あんな人がいるなんて、怖い……。本当に怖い」
「大丈夫。私が守ってあげる」
ひとみは梨華の頭を、優しくなでた。
「麻美ちゃんを殺したのは、きっとその人よ」
梨華の言葉に、ひとみの動きが止まった。
「まさか……」
「……」
「え? だって、そいつは、矢口さんの知り合いなんじゃ……。麻美は
そんな、人に恨みを買われるような子じゃない」
梨華は、ひとみの手を離れスッと立ち上がった。
「――恨みをもつなら、まだ人間らしい」
と、梨華は遠い目をしていった。
(……どういう事?)
「その声の持ち主は、思い出してた。”朝比奈学園の生徒は、罪悪感
で……死に追いやった””それに比べて、さっきのは幸せものだ”って」
「……朝比奈学園の生徒」
「両方とも、自殺している。そう見せかけられてる」
梨華が振りかえって、そう言った。さっきまでの怯えた表情は消えてい
た。
そして、言い放った。
「相手は、力を持ってる」
(……力)
(超能力……)
(後藤真希……)
(そうに違いない)
(後藤真希が帰ってきた)
(!怖い) 水風船が割れる。
(!怖い) 西瓜が割れる。
(!怖い) ダイナマイトでの爆発現場。
(!真希ちゃんが)
ひとみは子供のように身をかがめて、ブルブルと震えだした。
梨華の頭の中に、ひとみの強烈な恐怖が飛び込んできた。
早く、早く、ガードしなきゃ。
梨華は、意識を傍受している脳の一部の器官に、ひとみの意識がそれ
以上流れ込まないよう、ガードの網を張り巡らせた。
しかし、ひとみの恐怖はその網を引き裂いた。
梨華は、ひとまずその場所を急いで離れる事にした。
やっとのことでひとみの意識をガードすることができた。
振りかえると、100メートルほど離れた場所にいるひとみの姿が確認
できる。
ひとみはまだその場所で震えていた。
「ひとみちゃんが抱えているものっていったい……」
梨華は、自分もダメージを受けていたが、それよりもひとみの恐怖のも
とである「ゴトウマキ」の存在を知りたかった。
しかし、ひとみ自身が「ゴトウマキ」に関するあらゆる情報を封印して
いるので、力を使って探ることはできない。
――もとより、勝手に流れ出てくる意識を傍受してしまうのは仕方がな
いとして、”能力”を使ってひとみの心の中を探るような事をするつもりは
ない。
それが、他の人とは違った能力を持って生まれた者のマナーなのだと
梨華は心得ていた。
(めん……、華ちゃん……)
消え入りそうなひとみの心の声が、ガードをしている梨華の頭の中に響
いてきた。
梨華は素早くガードを解き、ひとみのいる方向を振りかえった。
すぐ側まで、ひとみはやって来ていた。
ガードをしていたため、ひとみの意識に気が付かなかった。
「ごめんね、梨華ちゃん……」
ひとみの少年のような顔が、本当に申し訳なさそうにくもっていた。
(また、梨華ちゃんを傷つけた……)
梨華の心に、ひとみの寂しげな声が響いた。
けっきょく、2人はどこに行くでもなく、そのままショッピングモール
で時間をつぶした。
ひとみとしては、もう1度”矢口家”に向かいたいのだが、梨華にまた
精神的なダメージを与えるといけないので、今度一人で向かう事に
した。
それに、さっき自分が与えてしまったダメージもあるので、梨華を付き
あわせることはしたくなかった。
((……に……て))
((……えて……ら、……に……て))
梨華が、ショップの前でフッと足を止めた。
「? 梨華ちゃん?」
ひとみも、立ち止まる。梨華は目を閉じて、まるで耳を澄ませるように
している。
(聞こえてるんだ……)
近くにひとみと梨華に関係する、何者かがいる。
ただ、それは身の危険を感じさせる人物ではないと言うことを、ひとみ
はこれまでの梨華の様子を見て学習していた。
(震えてない……)
(大丈夫)
(でも、油断できない……)
ひとみは、ギュッとこぶしを握り自然な動作で辺りを見まわした。
(主婦)(買い物)
(店員)(接客)
(子供)(走りってる)
(男)(は……)(女)(とカップル)
(主婦)(子供)(親子連れ)
辺りを見まわしたが、それらしい人物は見つからなかった。
目を閉じていた梨華が、一呼吸して口を開いた。
「誰かが、呼んでる」
ひとみはなおも、辺りを警戒した。
「ううん。近くじゃない」
「どこ……?」
梨華はゆっくりと振りかえって、駐車場のある方向を指さした。
「あっち……」
(呼んでるって事は、向こうは私たちを知ってる)
(しかも、梨華ちゃんがテレパシーを使えるって)
(それって……)
梨華は、ゆっくりとうなずいた。
ショッピングモールの駐車場に2人は、やって来ていた。
しかし、あれ以来、なんのテレパシーも送ってこないので、梨華にも
送り主の存在がわからないでいる。
2人はもう数分も、駐車場内をウロウロとしていた。
大型ショッピングモールと言うこともあり、駐車場の広さはかなりの
ものであり、ひっきりなしに人や車が入れかわっている。
相手がなんの連絡もしてこない以上、探すのはもはやお手上げの
状態だった。
「ひとみちゃん……」
梨華が前を歩くひとみの袖をつまんだ。
「ん?」
ひとみは、辺りを見まわすのに夢中で振りかえらない。
「ひょっとしたら、イタズラかも」
「――へ?」
ひとみは、振りかえった。
「あのね、たまにあるの。特に人の多いところ」
「あるって何が?」
「電車の中とか教室とか、退屈な時とかに前を向いている人に
向かって”振り向け””振り向け”って思った事ない?」
「ないよ、そんなの」
「ひとみちゃんはそうかもしれないけど、そう意味もなく念じてる人が
いるの。ひょっとしたら、それをキャッチしたのかもしれない」
「なんだ〜……、だれだよ、もう……、人騒がせな」
ひとみは緊張が解けて、その場に座り込んだ。
「ごめんね、余計な事して」
梨華もその場にしゃがみ、うつむいているひとみの顔をのぞき込んだ。
((何やってんの? 目の前の車、見てみ))
梨華は、ハッとして立ちあがった。今度はハッキリと聞こえた。
急に立ちあがった梨華に驚いて、ひとみは顔を上げた。
梨華は、一点を見つめている。
「梨華ちゃん……?」
「いたよ」
「え?」
梨華の視線の先に、エンジンをかけたまま停車している青いスポーツ
カーがあった。
ひとみは、警戒しながらその青いスポーツカーに近づいた。梨華だけは
すぐに逃げさせられるよう、ひとみは梨華を自分の真後ろにつけさせて
いる。
真正面から近づき、中の人物を確かめようかと思ったが、いきなり急発
進されても困るので少し周って運転席側のドアに近づく。
運転席のウィンドウには、濃いフィルムが張られているため中の人物は
特定できない。
そのウィンドウが、ゆっくりと下がった。
「……あっ!」
ひとみは青いスポーツカーの人物を見て、思わず声を上げた。
運転席に座っていたのは、ひとみが捜し求めていた人物――、失踪した
朝比奈学園の教員、中澤裕子だった。
「ヤッホ〜!」
助手席から運転席の方に身を乗りだし、お茶目に顔を覗かせているのは
――そう。同じく失踪した高等部2年の矢口真里であった。
「こら、危ないやろ」
「いいじゃん、ちょっとぐらい」
「邪魔や。引っ込んどき」
「なんだよ。チェッ」
と、矢口は助手席のシートへと戻った。
「ねぇ、ひとみちゃん……」
梨華が恐る恐る、ひとみの袖を引っぱる。
(中澤先生と、矢口先輩……)
梨華は、ハッとして2人の顔をひとみの右肩越しに見た。
ひとみは、二人を見たまま微動だにしなかった。
(なんで、今頃……)
(なんで、アタシたちに……)
(なんで、梨華ちゃんの力を……)
(なんで……)
(なんで、麻美は……)
ひとみの疑問は、留まる事を知らなかった。
それを敏感に感じとった梨華は、今度は素早くガードの網を張った。
――ひとみと梨華は、走る青いスポーツカーの後部座席に乗っていた。
駐車場で中澤から乗車を勧められたとき、ひとみはハッキリ言って乗る
つもりはなかった。
いくら顔をしっているとはいえ、ただそれだけで2ドアの車に乗り込む
勇気はなかった。し、そんなことに、梨華を付きあわせる気もなかった。
ひとみが断ろうとした時、梨華が耳打ちした。
「断るんなら、帰るって言ってる……」
ひとみは、しぶしぶ乗車することにした。
梨華を帰らせるつもりだったが、梨華は大きく首を振るとひとみより先
に後部座席へと乗り込んだ。
――中澤が、バックミラーを覗きながら二人の様子をうかがう。
「自分ら、メッチャ静かやなぁ。酔うたんか?」
「何言ってんだよ、裕ちゃん。緊張してんだよ。ね?」
と、矢口が助手席から顔を覗かせる。
(なんだ、この二人……?)
ニコニコしている小柄な矢口は、幼い頃に見たアニメの”ミニモくん”
を連想させた。
となりの梨華が、プッと笑った。
「? 何、梨華ちゃん? どうしたの?」
矢口が、きょとんとした顔で訊ねてきた。
「あ、いえ。何でもありません……」
笑いを堪えながら、答える梨華。
(”はーい、ぼくミニモくん。良い子のみんな、げんきかな〜ぁ?”)
ひとみは、心の中で”ミニモくん”の物真似をした。
うつむいて笑いながら、梨華は肘でひとみをつついた。
「あ〜、ひょっとしてオイラの事、バカにしてんだろう」
と、矢口は怒ったような口調で言ったが、目は笑っていた。
梨華は、「いえ、違います」と慌てて言い訳をしたが、笑いが
漏れているのでなんの説得力も持たない。
その光景を不思議そうに見ているひとみ。
「ねぇ、梨華ちゃん」
「ん?」
ひとみは、声に出さないで念じる事もできたが、あえて前の二人に
聞こえるように声を出した。
「なんで、矢口さんは梨華ちゃんのこと知ってるの?」
「――その……」
「いいよ、梨華ちゃん。自分で説明するから」
「ヤめとき。人に知られたら、それだけ危険度が増すんやで」
中澤が運転しながら言った。
「大丈夫。よっすぃ〜は、信用できるから」
(は? よっすぃ〜?)
(アタシのこと?)
(なんだよ、よっすぃ〜って……)
ひとみは、梨華を見た。
梨華は、笑顔を浮かべてうなずいた。
「あ、また。2人の世界に浸ってる」
と、矢口が口を尖らせた。
「あの……、矢口さんも心が読めるんですか?」
ひとみは、訊ねた。心が読めるのなら、いちいち会話に入ってきて
ほしくなかったからだ。
「ん? 違うよ」
と、矢口は答えた。
「……じゃあ、何で梨華ちゃんの名前や私の事」
「へへ。矢口ね、ほんのちょっと未来を見たり、過去を見たりする事が
できるんだ」
ひとみは知っていた。その能力が何と呼ばれるかを、そして密かに麻美
の事件の真相を知りたく、自分にその能力が欲しいと思っていた。
「サイコメトリー……」
「そう。よく知ってんね」
「……えぇ、まぁ」
と、ひとみはそれ以上考えないように、窓外の流れる景色を眺めた。
((怒った?))
((矢口、なんか悪いこと言ったかな……))
「あ、違います。ひとみちゃんは、その」
と、ほんの一瞬の静寂が車内に漂った後、梨華がおもむろに口を開いた。
「矢口、気ィつけや。心読まれたで」
中澤のその言葉を聞いて、梨華はハッとし、そして「すみません……」
と消え入るような声を出してうつむいた。
「ちょっと裕ちゃん。そんな言い方しないでよ。矢口は別になんとも思っ
てないんだから」
「余計なトラブルの元や」
ひとみは、その言葉にムカッとした。
「なんですか、そのトラブルの元って」
「言葉の通りやけど」
中澤は運転しながら、余裕の態度で答える。
「アタシたちだって、好きでここにいるんじゃありません。先生たちが
呼び寄せたんじゃないですか」
「呼び寄せた?」
「そうですよ」
「う〜ん、それはちょっと違うなぁ」
と、中澤はニヤニヤと笑った。
その態度が余計に、ひとみの神経を逆撫でした。
「違わないじゃないですかッ」
「ちょ、ちょっと、裕ちゃん。いい加減にしなよ」
「落ちついて、ひとみちゃん」
梨華と矢口は、それぞれのパートナーをなだめた。
正確に書くと”矢口は、中澤を叱った”である。
ひとみは、気付かないほど興奮していたのか、額の汗に気づいて自
分でも驚いた。
梨華が、バッグからハンカチを取りだして、そっとその汗を拭う。
「あのね、よっすぃ。これは、その、なんていうか、呼び寄せたとかじゃ
なくて……」
矢口は、どう説明していいのか困っているようだった。
「あらかじめ、そうなるようになってたんや」
そんな様子を敏感に感じとった中澤が、口を開いた。
「……。どういうことですか?」
「簡単に説明するとやな、矢口は未来を見る能力があるけど、ただホン
マに"見るだけ"なんや」
「未来がわかったら、変える事ができるじゃないですか」
「まぁな。そう思うんが普通やな」
「このやりとりもね、矢口は1回見てるの」
(なんか……、難しい話になってきそう)
(梨華ちゃん、わかる?)
梨華は、しばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「つまり、確定した未来は確定した現在から続いてるって事ですよね」
(……もっと簡単に説明してよ)
ひとみは、泣きそうになった。数学的・科学的な話は、まったくの苦手
なのであった。
高校に入れば、物理も苦手教科に加わるだろう。
「考えてもしょうがない。そんなんできるんなら、とっくの昔にやってるわ」
「それじゃ、説明になんないよ」
「ウチラかてホンマのところはわかってないんや。全然わからん吉澤は
ただ混乱するだけやろ」
「だけどさ」
(……アタシって、すごいバカかも)
(梨華ちゃんは、わかってるのに)
(あ〜ぁ……もう……)
(ちょっと、勉強しよう……)
ひとみは、「はぁ〜……」とため息をついてうなだれた。
車内には何となく、気まずい雰囲気が流れた。
(どうせ、これも決まってるんでしょ)
(変えられないんなら、どうでもいいや)
(……ね、梨華ちゃん)
「そんなことないよ。また、今度ゆっくり教えるから。ね」
と、中澤と矢口に聞こえないように小さく呟いた。
ひとみがすっかりいじけていると、車は急にハンドルを切り、建物の敷
地へと入っていった。
よく見ると、そこは朝比奈学園であった。
青いスポーツカーは、教員専用の駐車場で乱暴に止まった。
車内には、さっきとはまた別の重苦しい緊張した空気が流れた。急に
車内の温度が、上昇したようであった。
梨華が、ひとみの袖口をギュッとつまんだ。
「麻美ちゃんの自殺の真相……わかるよ」
ひとみは、この車内の重苦しい緊張の意味が分かったような気がした。
ただ、自殺の真相がわかるだけでは、車内の人物にこれだけの緊張
感が走る事はない。
(きっと……、麻美を自殺に追い込んだヤツが来るんだ……)
ひとみの額に、またうっすらと汗が滲み始めた。
謎の失踪をした二人が、堂々と学園内を歩いてるのを眺めていたら、さっき
車内で話していた「未来は変わらない」という理論も何となく理解できるひと
みであった。
(この2人は、絶対に誰とも出会わない事を知ってるんだ……)
(先生や生徒たちに会わない未来を、矢口さんは見たんだ……)
ひとみは自分の考えが正しいのかどうか、確認をとるように梨華を見た。
梨華は、「うん」と小さくうなずいた。
(ねぇ、梨華ちゃん)
(麻美を自殺に追い込んだヤツとは、いつ会える?)
(どこかで待ってるの?)
梨華は、「わからない」とだけ答えた。
梨華にもわからない事が、自分にわかるわけがないと、ひとみはもうそれ
以上深くは考えずに、なるようになればいいやと、なかば諦めにも似た気
持ちで、二人の後をついて歩いた。
2人が足を止めたのは、共同ホールの前だった。
中澤と矢口が、振りかえる。
「おーい、早くこっちだよ」
と、矢口が手招きをする。
中澤は、なんとなく辺りをキョロキョロと見まわしていた。
放課後の静かなホール。
どこかから、生徒たちの談笑が小さく聞こえていた――。
「あの家の矢口さんには、本当に悪い事をしたと思ってる。ただ、同性同
名っていうだけで、利用させてもらってただけなのに……」
「ここに入学する時にな、ウチがちょっと書類をいじらせてもらったんや」
「じゃあ、やっぱり矢口さんはあの家とは関係ないんですね」
「うん。1度も行った事ない。あ、今日が初めて。よっすぃたちに会う2時
間ぐらい前かな」
「行ったんですか?」
「中には入らなかったよ。警察もいたし。ただ、昨日の夜、よっすぃたちが
そこで何をしていたのかは見ちゃったけど……」
「あんたらも、大胆な事するなぁ。不法侵入やで。見つかったら、捕まんで」
中澤は、タバコを吸いながら呟いた。
その向かいに座っている梨華は、タバコの煙の匂いに顔をしかめて何気に
アピールしていたが、中澤は気づくことなく2本目を吸った。
梨華の隣にひとみが座り、その正面に矢口が座っている。
さきほどから、何をするでもなく話をしている。
まるで、その時が来るのを待っているかのように時間を無駄に過ごしていた。
「ただ、やっぱりさ、面識がないとは言え矢口のせいで巻き込まれたのは
事実だから……、せめて家の外からでも手ぐらいは合わせたくて……」
「そしたら、こうなってもうたわけや」
「……巻き込まれたって、どういうことですか?」
「焦らんでも、もうすぐわかる」
「矢口さ、さっき車の中で未来が見えるって言ったじゃん。でも、あれって
ちょっと違うの」
「違う?」
「うん。ちょっとした限界があってね、未来はせいぜい2〜3時間ぐらい
先しか見えないの。過去は、そうだなぁ〜試したことないけど、たぶん
どこまででも見えると思う」
「ずいぶんと、差があるんですね」
「しかも、未来は自分の未来に関わる事しか見れないの。過去は違う
けどね」
(また……、難しい話かな……)
ひとみは、ちょっとゾッとした。
となりの梨華が、クスッと笑う。
(あ、ひどい)
無言の会話を悟られると、また梨華が責められそうな気がしたので、
ひとみはなんでもなかったかのように質問を返した。
はす向かいの中澤は、二人の無言の会話に気づいているようだったが、
何も突っ込んでは来なかった。
「アタシと梨華ちゃんの未来は、見えないんですか?」
「今は見えるよ。だって、矢口も一緒にいるから」
「……あ、なるほど」
「だからさ、あたしの能力なんて、ホントたかが知れてんの」
と、矢口は笑った。
中澤が2本目のタバコを、空き缶の中にポトリと落とした。
ジュッという煙草の火が消える短い音が合図だったかのように、中澤と
それまで笑っていた矢口が急に真剣な表情をしてゆっくりと腰をあげた。
「さて、そろそろ行こか」
梨華が、身を固くして立ちあがった。逃げられない運命をいちはやく理
解した彼女ならではの行動だった。
ひとみも梨華を見習い、すべてを受け止める事にした。
まだ外はかなり明るかったが、中等部の校舎には、もう生徒の姿は
ないように感じられた。
部活動が休みのせいか、生徒たちは早々と放課後を満喫しに下校
したのかもしれない。
4人は廊下から誰もいないがらんとした、ひとみの教室を眺めていた。
ひょっとしたら、麻美の事件がきっかけで生徒たちは居残らなくなっ
たのかもしれない。
ひとみは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「矢口……」
「……うん」
2人とも、今までに見せたことのない神妙な表情を浮かべた。
「はじまるよ……」
梨華が、ひとみに向かってソッと呟いた。
「矢口さんは、ある人物との関係を確かめるために、今から過去を
覗く。ひとみちゃんには辛いだろうけど、それには麻美ちゃんの事
も関係してるから……」
これから受けるであろうひとみの傷を心配した梨華は、今にも泣き
そうな表情になっている。
「大丈夫。準備はできてるから……。でも、気をつけてて……」
梨華は、黙ってうなずいた。
逃げれるものならとっくに逃げていた。もう、真相はどうでもよかっ
た。ただ、この大きな流れの外に出たかった。退屈でもいいから、
以前のような平凡な毎日に戻りたかった。
でも、もう後戻りできないことをひとみは理解していた。
矢口が目を閉じ、大きく深呼吸をし、そして、ゆっくりと両手を教
室にかざした。
しばらくして、矢口の身体がビクンと大きく振動した。
すばやく、さも当たり前のように、中澤が小さな矢口の体を支える。
閉じられた瞳だが、まぶたの向こうでそれが動いている。
ひとみも梨華も、固唾を飲んで見守った。
矢口は今、あの日の出来事を見ている――。
どれくらいの時間がたっただろうか、不意に矢口の身体がガクンと
力をなくした。
中澤がいなければ、そのまま廊下に倒れこんでいただろう。
矢口は中澤の腕の中で、目に涙をためていた。
そして、ゆっくりとひとみに視線を向けた。
「ごめんね、よっすぃ……。ウチラのせいで、麻美ちゃん……」
矢口は、また中澤に視線を戻した。
「アイツ、やっぱりここに来た。でね、ウチラが逃げたのをわかっ
たら、腹いせにここに残ってた麻美ちゃんを……。なんの関係も
ない麻美ちゃん……よっすいの友達……矢口のせいで、関係
ない人が2人も死んじゃったよ」
矢口は両手で顔を覆って、泣いた。
中澤は、何も言わずにソッと矢口を抱きしめた。
(やっぱり)
(やっぱり……)
(やっぱり、麻美は自殺じゃなかった)
ひとみは、そう確信すると今まで堪えていた悲しみが堰をきっ
たように溢れた。
それでもひとみは、涙を流すことができなかった。
麻美の死をやっと受け入れることができた。
自殺ではなく、他殺であった事もハッキリした。
もうこれで、ひとみが涙を堪える理由はなくなったはずであった。
でも、流れなかった。
(麻美……)
(こんなアタシを呪っていいよ)
(だって、友達のために涙も流せないんだもん)
(最低だよ……)
(ホント、ごめん……)
(麻美……)
(ごめんね……)
「ひとみちゃん……」
ひとみは、泣き顔の梨華に優しく微笑みかけた。
「麻美ちゃん、そんな風に思ってないよ」
「もう、いいんだ……。アタシは、こんなヤツだから」
「何がイイのよ」
「……」
「ひとみちゃんの悲しみ、私にちゃんと流れてきてる。防いでても、
ちゃんと届いてる。――世の中にはね、悲しくもないのに涙を流
せる人が大勢いるのッ。楽しくもないのに、笑ってる人が大勢い
るのッ。好きでもないのに、愛してるって口にする人がいるのッ。
そんな人たちに比べたら、ひとみちゃんの心はすっごくすっごく
綺麗んだからッ。麻美ちゃんだって、それがわかってたから友達
だったんじゃない。そんな自分を、そんな友達がいた事をもっと
誇りに思って! もう、いいなんてそんな悲しいこと言わないでよ……」
梨華はその場にしゃがみ込んで、声を上げて泣いた。
「石川の言う通りやで……」
呆然と立ちすくんでいるひとみの肩に、中澤が優しく手をかけた。
「ほら、涙拭いたげ」
と、中澤は自分のハンカチをひとみに渡した。
ひとみは何も言わずに中澤に軽く頭を下げ、梨華の元へと歩み寄った。
(ごめん……)
(泣かないで……)
(もう、いいなんて言わないから)
(ね、だから)
心の中で語りかけながら、ひとみは梨華の涙を優しくぬぐった。
中澤が、矢口を支えながら教室のドアを開けた。
ひとみはそれを横目で見ながらも、涙を止めようと必死になっている
梨華の側を離れなかった。
「ひとみちゃん、向こう行ってて」
「え?」
「私、戦わなきゃ……」
「え……?」
梨華は教室の中にいる矢口を見た。矢口が、ゆっくりとうなずく。
「戦うってどういうこと?」
「わからない。でも、そうなるの」
「意味がわかんないよ。ねぇ。なんで梨華ちゃんが」
「いいから」
梨華の視線がひとみの後方に向けられる。
振りかえるひとみ。
教室の入り口で、中澤が待っている。
「ねぇ、ちゃんと説明してよ。ねぇ、梨華ちゃん」
梨華は何もいわずに、ふさぎこんだ姿勢のまま顔を上げなかった。
「ねぇ。ねぇ」
と、ひとみがその華奢な肩に手をかけ揺らす。
「いい加減にしとき。さっきも言ったやろ。これは決まってる事や」
見かねた中澤が、ひとみを連れに来た。
「……だったら、私がここから動かないのも決まって」
ひとみの腹に、鈍い衝撃が走る。
「梨……華……ちゃ……」
ひとみは中澤の腕の中で、気を失った。
「すまんな。これも決まってたんや」
中澤は気を失ったひとみを半ば引きずるようにして、教室の中へと入っ
ていった。
それを見届けた梨華が、ゆっくりと立ちあがる。
数メートル先の階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
少しの間を空けて、梨華はその方向に向き直って言った。
「私――、あなたのこと許せない」
足音がピタリと止まった。
「出てきたら。福田……明日香さん」
壁の向こうで、クスッという笑い声が漏れてきた――。
「なんだ、バレてたの」
セミショートの少女が廊下に姿をあらわした。
明日香の流れてくる思考を感じとった梨華は、それだけで気を失い
そうになった。
その愛くるしい姿からは想像もできないくらいに淀んでいる邪悪な精神。
梨華が初めて出会った良心のない悪魔だった。
明日香は、そのアーモンドのような瞳で梨華を捕らえた。
その瞬間、梨華の思考の中をヌメヌメとした触手のようなものが入り込
んでくる。
梨華はそれを必死でガードした。
矢口が共同ホールで何気に会話している最中に送ってくれたテレパス。
あらかじめ明日香の能力を教えてくれていなかったら、呆気なくその能力
に敗れていただろう。
「ふーん。入り込めないってことは、同じタイプか」
小さく笑いながら呟く明日香に、梨華は心底から嫌悪を感じた。
「あなたと一緒にしないで」
明日香はもう興味がないといった素振りで、梨華から視線をそらし教室
の中に視線をうつした。
「あ、いた」
ニッコリと笑ったその笑顔は、教室の中の矢口を震えあがらせた。
「あ、どもっ」
と、明日香はおどけた挨拶を中澤に向けた。中澤は明日香を見ていなかっ
た。目を閉じて、すでに”無”の境地にいた。
明日香は『ふぅ』とため息を吐いて、また梨華に向き直った。
「これだから、未来の見えるヤツは厄介なのよね」
「厄介なのはあなたよ」
「へぇ、かわいい顔してオモシロイこと言うね」
「人の命をなんだと思ってるのッ」
「別に」
「罪の意識がないの」
「だって、人を殺したことなんかないもの」
「……! よく、そんな事が言えるわね」
「ちょっと待ってよ」
と、明日香は笑いながら続ける。
「私はただ、ほんのちょっと下の方に隠してある意識を上げてるだけ」
「……それがどんなに危険な事か、わかるはずでしょ」
「さぁ。この前のお婆さんは、嬉しそうにしてたけど。娘との楽しかった
思い出が上がってたもの。私としては、懺悔しながら死んでいくのを
見るのが面白いんだけどね」
「……最低!」
梨華は、明日香に意識の触手を伸ばした。入り込める隙間がないか、弱
点がないか梨華自身がこれまでに出した事のないスピードで、明日香の
意識を探った。
「無駄なのに」
「……」
明日香の皮肉めいた笑いが聞こえないほど、梨華は集中している。
「さてと、なんにもできないみたいだから、また置き土産でもして帰ろかな」
と、明日香が欠伸をしながら言った。
その瞬間、意識を探っていた梨華は、明日香の触手がひとみに向かって
伸びたのを知った。
(あっ!)
梨華が、触手を引っ込めた時にはもう明日香の触手はひとみの意識を
捉えていた。
気を失い倒れていたひとみが、目をパチリと開ける。
((梨華ちゃん、助けて!))
矢口の声をキャッチしたが、梨華はそれに答える余裕はなかった。
完全にパニックになっていた。
「ハハ。この子は、罪の意識があがったみたい」
と、明日香はさも楽しげに笑った。
(麻美を殺したのはアタシ)(自分がいいカッコしたかった)(あの日、
麻美を帰してれば)(死なずにすんだ)(自分が死ねた)(楽しくない)
(みんな、汚い)(もう夢はない)(逃げたい)(死にたい)(何もない)
(麻美)(麻美)(友達)(もういない)(意味がない)(生きてる意味ない)
ひとみが意識下の奥底に秘めていた麻美への感情を、一気に爆発
させた。
アタックに夢中でガードをし忘れた梨華の意識に、ひとみのマイナスの
感情が放流したダムのように押しかけてきた。
「ひ、ひとみちゃん……」
教室の中のひとみが、フラフラと立ちあがる。その目には何も映って
おらず、ただぼんやりと空中を漂っている。
(バレー)(好きだった)(麻美)(かばった)(後悔)(後悔)(後悔)
(もう何もない)(バレー選手)(死んだ方がマシ)(退屈)(天国)
(麻美)(楽しい世界)(いっそ)
「もう、止めてーッ!」
梨華は耳をふさいで叫んだ。
明日香は、ニヤニヤと笑いながら教室のひとみを見つめている。
ひとみはまるであの日の麻美のように、突然教室を飛びだした。
梨華の頭の中に、矢口の声が響いた。
((教室を離れたら、未来が見えなくなる))
しかし、今はもうそんなことはどうでもよかった。梨華はただ、本
能の赴くままひとみの後を追った。
二人の背中を見送った明日香は、教室の中の矢口をチラリと一瞥
すると、二人が消えていった方向に向かってゆっくりと歩いて行った。
バレー部で鍛えていたひとみの足は予想以上に早く、すぐに後を
追ったにもかかわらず梨華とはもう校舎2階分の差がついていた。
梨華は最悪の結末を想像して、身震いした。
『助かる』
共同ホールで、テレパスを送って来た矢口の言葉を思い出したが、
今はその矢口も近くにはいない。矢口の見ている未来の外へとやっ
てきてしまったのだ。
梨華は足をもつれさせながらも、必死で階段を登った。
屋上の踊り場についた時、梨華はホッと胸を撫で下ろした。
事故の再発を懸念したであろう学園側が、屋上への出入りを簡単に
できないよう、念入りにバリードのようなもの組んでいた。
それでもひとみは、そのバリケードを崩そうとしている。
きっともうあと数分もすれば、そのバリケードは意味をなさないだ
ろう。
「ひとみちゃん! やめて!」
梨華はひとみを後ろから、羽交い締めにした。しかし、ひとみは
その動きを止めようとはしない。”死”をプログラムされたロボッ
トのような動きで、ひとみは淡々と素早くバリケードを解いていた。
梨華は、今までよほどの身の危険を感じない限り他人の意識下
に潜り込みコントロールしたことはない。
幼少の頃、変質者に襲われそうになった時が初めてだった。
それも結局のところ、うまくはできずに相手の精神を破壊して
しまった。そのことにより、梨華自身も深い傷を負った。自分の
力に対して恐怖を覚えたのだ。それから、しばらくの間、意識の
触手を伸ばすことはなかった。
2度目は、ほんのちょっとした好奇心だった。中学3年の時、
同級生の男の子に告白された。悪い気はしなかった。むしろ、
嬉しかった。しかし、それと同時に相手の本心を知りたいという、
我慢できない衝動が沸きあがり、授業中にその男の子の意識
下に潜り込んだ。
陵辱される自分の姿がそこにあった。
それ以来、梨華は男が苦手になった。
そして、3度目がついさっきである。悪意の中に触手を伸ばした。
が、そこに隙はなくただ探索していただけに過ぎない。
もし潜り込めたとしても、上手くコントロールできたかどうかの
自信はなかった。
そして、今からが4度目である。梨華は、ひとみに向かって触
手を伸ばした。梨華の触手が、ひとみの意識の表面で止まる。
涌き出てくるマイナスの感情により先に進めないのと、梨華自
身の躊躇のせいもあり先に進めない。
梨華は恐れていた。もしも、失敗してひとみの精神を破壊して
しまったら……。そう考えていた。
その時だった。
(麻美)(飛び降りた)(殺した)(あとを)(天国)(一緒に)
(辛い)(苦しい)(生きてるの)(辛い)(変わりに)(死ねば)
(戻れない)(麻美)(早く)(死)(死)(死)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(死)(死)(死)(”助けて”)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(”梨華ちゃん、助けて”)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)
死を誘うマイナスの感情の中から、ひとみの叫びが聞こえて
きたのは。触手を潜り込ませていなかったら、感じ取れなかっ
たであろう弱いその叫び――。
「ひとみちゃん!」
梨華はもう迷わなかった。涌き出てくるマイナスの感情に
押し流されながらも、力の限りひとみの意識の奥へ奥へと
触手を伸ばした。
流れ出てくる意識の源。
そこに梨華の触手は到着した。触手を伝って、梨華は自分の
意識を流す。
いくつもの階層に別れた意識下。今、ひとみが流しているマ
イナスの感情はかなり下の方から沸きあがっている。
梨華は、ひとみの姿を探した。マイナスの感情を湧き出させ
ているひとみ自身が、どこかにいるはずだった。
梨華は階層の縁に、佇んでいるひとみを見つけた。
(ひとみちゃん!)
梨華の呼びかけに、ひとみがハッと振りかえる。
(梨華ちゃん……)
(帰ろう。一緒に帰ろう)
その声に、ひとみはゆっくりと首をふり梨華に背を向けた。
(なんで?)
(麻美は身代わりで死んだ。私のせい……)
(違う。そうじゃないよ)
(あの日、アタシが掃除当番変わってなんて言わなかったら、
麻美は死ななかった)
(パスケースを私に届けたこと、後悔してるの)
(……わからない)
(私は、ひとみちゃんに出会えたことすごい嬉しい)
(……)
(ひとみちゃんの考えなら、悪いのは全部私よ。あの日、
階段で転ばなかったらひとみちゃんはこんなに苦しまな
くてよかった)
(違う、梨華ちゃんは悪くない)
(だってそうじゃない。あの日、私が転んだから)
(違う)
ひとみは梨華の元へと駆けよった。
(梨華ちゃんは悪くない)
(じゃあ、誰が悪いの)
(悪いのは……)
(パスケースを落とした私? それとも拾ったひとみちゃん?
それとも教室に残っていた麻美ちゃん?)
(ううん……。誰も悪くない)
弱々しかったひとみの目に、生気が戻る。ひとみの目は、梨
華の後方にそそがれる。
(許さない……)
怒気を含んだひとみの声は、梨華の後方にいる明日香に向
けられていた。
梨華は明日香の存在に気づいて、振りかえった。
(へー、あなたって結構ふくざつな人生送ってきてんのね)
と、明日香は階層を見渡しながら言った。
(なんで、ここに……)
梨華は驚愕の表情を浮かべる。
(とどめをさそうと思ったのに、あなたすごいね。元に戻しちゃ
うんだもん)
ひとみは、梨華を自分の後ろに隠す。
(ここは、アタシの意識の中。もう、操る事なんてできない)
明日香が、フッと笑う。
(何でそんなのがわかるの? あの辺のを上にあげるだけで、
つぶす事だってできるじゃない)
と、階層の下を指さす。
(ムリよ。ひとみちゃんの意識は、ここにあるんだから。あなた
だってわかってるでしょ。できるんなら、わざわざ姿を見せなく
てもいいのに)
今まで余裕を浮かべていた明日香の表情が、見る見るうちに
雲ってゆく。
(失敗したの、初めて。すごい、ムカツク)
(何がムカツクよ! 麻美を返して!)
明日香は、叫ぶひとみを無視して梨華を睨んでいる。
(でも、失敗に終わらせない)
梨華は、身震いした。
(先に、あんたから消してやる)
そう言い残すと、明日香の姿はひとみの意識下から消えた。
(梨華ちゃん、戻って!)
ひとみが叫ぶのと同時に、梨華の姿も消えた。
屋上のバリケードを解いていたひとみの動きが止まる。
ハッとして振りかえると、後ろで梨華と明日香が対峙していた。
お互い何も言葉を発しないまま、意識の攻防を繰り返している。
ひとみが明日香につかみかかろうとした時、ひとみの動きは
明日香の触手により運動機能を停止させられた。
額に汗が浮かび、苦悶の表情を浮かべる梨華。
余裕の笑みを取り戻す明日香。
このままでは勝敗が目に見えているが、動けないひとみには
どうする事もできなかった。
(後藤真希のような力があったら……)
ひとみがそう思った瞬間、明日香が梨華から目をそらし、ひと
みを見た。その表情からは、先ほどの笑みは消えていた。
「なんで、真希のこと……」
と、声に出すと「ウッ!」と頭を押さえてその場にふさぎこんだ。
同時にひとみの動きも自由になる。
「梨華ちゃん」
梨華は呼吸を乱しながらも、ひとみの声に反応してうなずいた。
ひとみは梨華が明日香の意識に入り込んだのを確信した。
その時、学園のチャイムが鳴り響き、マイクを通した声が学園
中に響き渡った。
『お客様のお呼出を申し上げます。東京都江戸川区から
お越しの』
『コラッ。イタズラしないの』
『へへ〜』
ひとみと梨華は、目を見合わせた。
『福田さ〜ん、聞こえますかー? あんなぁ』
「やばいよ、梨華ちゃん。仲間がいる」
勝利を確信したひとみだったがあっという間に、立場が逆転して
恐怖を感じた。アナウンス室には、二人いる。しかも、明日香が
「クソッ」と小さく呟いたのを聞いてしまったからには、同等もしく
はそれ以上の力を持った人物がアナウンス室にいる事は間違
いないと悟るひとみであった。
『すたんどぷれぇは、ダメらしいですよ〜』
『明日香。すぐに撤収よ。これは命令だから。いいわね』
『3階私服売り場で。あっ……』
『何よ、私服売り場って』
『へへ、間違えましたぁ』
ぷつんと、マイクの切れる音と共に学園に静寂が戻る。
同時に、梨華の身体がよろめいた。ひとみは、慌ててその体を
支える。
「梨華ちゃん!」
梨華は、ひとみの腕の中で気を失っていた。能力を使いすぎた
せいで、少し地黒だった顔面は蒼白となっている。
額を押さえて、ヨロヨロと立ちあがる明日香。
明日香の能力の前ではなんの意味も持たない事であるのは
わかっていたが、ひとみは目を閉じてとっさに梨華に覆い被さっ
た。
しかし、明日香は何も言葉を発せず何も力を使わず、ヨロヨロと
階段を下りていった。
どのくらいそうしてたのだろうか。ひとみが目を開けたときには、
明日香の姿は完全に消えていた。
後を追う気にはならなかった。それよりも、自分の腕の中で気を
失っている梨華のことが心配でならなかった。
しばらくすると、中澤と矢口が階段を駆け上がってきた。
「梨華ちゃん!」
矢口が慌てて梨華のもとへ駆け寄る。
「矢口さん、これも見えてたんですか?」
ひとみが冷たい口調で、問いかける。
「……」
「このあと、アタシたちはどうなるんですか?」
「……」
矢口は何も答えられなかった。
代わりに答えたのは、中澤だった。
「アタシらは、もうここを去らなあかん。たぶん、もうすぐ人が
来るんやろう。矢口があんたらと一緒にいる未来を見たのは、
ここまでや。その先は……別行動らしい。まぁ、3時間以上
未来はわからんけどな」
ひとみは、矢口に視線を移した。矢口は申し訳なさせそうに、
梨華の額の汗をぬぐっている。
「矢口は、助けに行こうとしてたんやで。けど、ウチが止めた
んや。ウチラが行っても、石川の意識が散乱して足手まとい
になるだけやからな」
「……ごめんね。狙われてるのは矢口なのに、よっすいたち
を巻き込んじゃったりして」
「……」
「アイツらは、企業に雇われたスカウトマンみたいなもんや。
能力を持った人間を集めて、何やらしようと企んでんねん」
「梨華ちゃんを殺さなかったのは……、梨華ちゃんもアイツらの
リストに入ったのかもしれない」
矢口は、梨華の頬をなでながら悲しそうに呟いた。
「こんな力は多かれ少なかれ、力を持ってない人間との間に
溝を作る。せやから、ホンマはそういう能力を持った人間ばか
りが集まってるところにおるのがいいんかもしれん。バレんよ
うにしようとか、傷つけたりせんようにって、恐れたりする事が
ないからな」
「……」
「けど、アイツ等に矢口は渡せん。能力があろうとなかろうと、
命は命や。それをいとも簡単に……」
「裕ちゃん、もうそろそろ」
矢口が梨華のもとから、そっと離れた。
「ごめんね、よっすぃ。もう時間だから……」
ひとみは、静かにうなずいた。ここからは、自分達の未来が
流れるのだ。
「梨華ちゃんが起きたら、矢口が謝ってたって伝えて。それと……」
ひとみは矢口の言葉を遮るように、名前を呼んだ。
「矢口さん」
「ん?」
「また――、会えますよね」
「うん」
「じゃあ、さよならは言いません。中澤先生も」
中澤は、微笑を浮かべてうなずいた。
ひとみが梨華の頭を優しく撫でている間に、2人は静かに踊り場を
後にした。
数分後に見回りに来た用務員は、階段の踊り場で倒れている2人
の少女を見て、慌てて救急車を呼びに走った。
いつの間にか、ひとみは梨華を抱きしめたまま眠っていた。よほど、
疲れてしまったのであろう――。
ひとみは、久しぶりに心地よい夢を見ていた。
梨華と麻美と3人で、お気に入りのショップで買い物をしている――。
正確には、2人の買い物に付き合わされて少々疲れるが、それで
いてとても心地よい――。
そんな夢を見ていた。
〜エピローグ〜
数日後の午後。
ひとみは、麻美の眠る霊園に1人で来ていた。
墓前に麻美の好きな”カスミソウ”を添え、もう何時間もその前に
すわっている。
ただ、麻美の色んな表情を思い出しながら何時間も過ごしていた。
気づいたら、ひとみの頬に涙が流れていた。
懺悔や後悔からではなく、ただただ単純に麻美の笑顔がもう2度と
見られないのだと思ったら、いつの間にか自然と涙は流れていた。
――ひとみが墓の前から去った後、カスミソウが風に揺れた。
まるで、ひとみのもう1つの誕生花”わすれな草”、その花言葉の
ように。
まるで、生きていた頃の麻美が、”バイバイ”と手を振るように。
花はひとみが見えなくなるまでいつまでも揺れ続けていた。
〜第一部・終了〜