後藤から体を離すと仰向けになり、マルボロに火をつけ、深く吸いこむ。
「真希、次の選挙、出るぞ」
「えっ?」
快楽の余韻に浸る間も与えられず、驚いた顔の後藤を無視するかのように、
市井の抑揚の無い声が響いた。
「アイドルはもう終りだ。明日、私は20歳になる。1ヶ月後に内閣解散の情報
も既に入っている。勿論、根回しもな。トップ当選は確実だ。」
なんていう人なんだろう。この5年間で芸能界はおろか、マスコミにまで
触手を伸ばしていたのは、こんな目的があったのだ。後藤は今更ながら、市井の
底知れない権力への追求と実行力に驚くと同時に、一抹の淋しさを感じていた。
私は紗耶香様といつも一緒に居るのに、彼女のことを何も知らないのかも
知れない・・・。傍に居ながら、物凄く遠くに感じる時がある。
「そんな顔をするな。見ていろ、3年以内に大臣になってやるから」
「あん・・・。また・・」
首筋に受けるキスに、理性のスイッチをオフにされた後藤は、そのまま悦楽
の行為に没頭して行った。
スロットルを全開にしてレッドゾーンまで叩きこむ。V6エンジンの獰猛で
官能的な咆哮が、真夜中の湾岸線に轟く。アルファロメオのステアリングを
握る時、全てのストレスから開放されるような錯覚に陥る。だが、多忙な市井
には楽しむ時間など、ほんのひとときに過ぎない。案の定、携帯の着信が無粋
な音で割りこんできた。助手席の後藤が手に取る。
「おはようございます。御世話になっております」
後藤の応対には、かつての幼稚さは微塵も無かった。
「紗耶香様、つんく社長からです」
選挙には莫大な金が必要になる。既に芸能界とマスコミの一部を牛耳ってきた
市井ではあったが、今や世界屈指のレコード会社社長のつんくの財力は心強い
味方である。
「ええ、よろしく頼みますよ。お互いこれからも、持ちつ持たれつってことで・・」
市井の野望は、まだまだ始まったばかりなのだ。
当選は市井の思惑通りだった。根回しの見事さは勿論だが、10代のうちから
政治や経済の勉強も怠らなかったことは正解だった。特にアイドル時代、
TVの生番組で田原総一郎、舛添要一といった並み居る論客を次々と論破
してみせたことは、世間の識者層をおおいに唸らせた。立候補の時点で、
既に彼女は単なる芸能界のスーパースターでは無くなっていたのである。
「トップ当選、おめでとうございます」
「先生、例の件、よろしくお願いしますよ」
華やかなパーティーの中、主役である市井は話しかけてくる政財界の大物
のランク付けも怠らない。どいつが使えるのかを見極めるのは、今回の重要な
ポイントなのだ。
真希のやつ、上手くやってるかな・・・・。鳩山の許へ裏工作に行かせた
後藤に思いを向けたとき、市井の視界の隅に小柄な女の姿が入ってきた。
彼女が化粧室に向かうのを見とめると、迷わず後を追う市井。間違いない!
幸い、こっちの通路には人影がない。
「真里!」
見覚えのある顔が振りかえった。
「ちぇっ。あんたに見つかる前に消えようって思ってたのに」
「ばあか。お前みたいにちっちゃいの、見間違うわけ無いだろ」
脹れっ面をする矢口の顎に手をやり、顔を近づける。
「やだよ!あたしはもう・・・」
市井の手を振り払おうとする矢口。
「うふふふ・・。どっかの御曹司と結婚したとは聴いてたけどね。ねえ、
また昔みたいに協力してよ。旦那は旦那、あたしはあたし。
それでいいじゃん。 ネ。」
・・・この人から逃れるための結婚だったのに・・・。
廊下の壁に押しつけられ、市井の指が蠢きだすと、もう抵抗できなくなっていた。
「・・いや・・真希に悪い・・んっ・・」
3年たっても体は忘れていなかった。市井の指と唇を忘れられる女など
居る訳がないのだ。
・・・お帰りなさい。小さなしもべ。
自ら舌を絡めてくる矢口の反応を確認しながら、早くも次の策略を巡らす
美しい悪魔の姿があった。
「永田町のジジイどもめ・・・」
またしても法案を潰され、市井の怒りと焦燥は限界に達していた。
議員になって1年。当初の計画とは裏腹に、未だろくな役職を得られない
現状は、市井のプライドを大きく傷つけていた。勢力bフ拡大が、これだけ
長く停滞するのは初めてのことだ。
永田町は確かに妖怪の巣窟だ。生意気な小娘に対する妖怪達の畏怖と警戒心
は、徹底した市井潰しとなって表れた。このままでは3年で大臣の夢はおろか、
現状維持すらおぼつかない。急がねば・・・。
「遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!!!!!」
議員会館の一室で、叫びながらウロウロする市井に、秘書の一人である中澤が
なだめにかかる。
「まあ落ちついて座りいな。焦らんでもええやんか」
「うるせえんだよ!あたしに指図するな!!!」
気を遣ったつもりの中澤の言い方が、却って癇に障ったようだ。
・・・どうしてそんなに急ぐの?まるで運命に駆り立てられるかのような
市井の姿は、後藤には生き急いでいるように思え、堪らない気持ちになる。
「ごめんなさい、紗耶香様。私が至らないから、私が力不足だから・・・
ごめんなさい・・・ご、ごめん・・な・・・」
「わかった!判ったから泣くんじゃないよ。この子は・・。あんた達のせい
じゃないよ」
ふう・・。やっぱり、この子には勝てへんなあ。紗耶香様の機嫌を直せるんは・・・。
中澤は軽い嫉妬を覚えながら、二人の様子を優しげに見守っていた。
「後藤、中澤、行くよ。場所を変えて練りなおしだ!」
私は負けない。「約束」を果たすまで。
銃声がしたわけではない。市井の持つ、研ぎ澄まされた感覚のなせる技だった。
咄嗟に中澤を突き飛ばすと、自分も身を伏せる。頬をかすめた銃弾が、特注の
アルファロメオのボディに食い込んだ。
クソジジイが・・・。いよいよ力技で来たか。異変に気付いたSP達が、辺りの
捜索を始めるが、ネズミは既に姿をくらましたらしい。
「やってくれるやんか」
中澤がドスの効いた声で暗闇を睨む。
「目には目を。力には力・・・。ふっ・・権力を手っ取り早く掴むのは、やっぱり
これしかないようね・・・・。」
「紗耶香様・・・?」
「あんた達、私について来る覚悟はできてる?」
「決まってるやん。そんなん。」
「紗耶香様の行くところ、地獄の果てまでお供します!」
「いいの?本当に地獄かもよ?うふふふ・・・」
笑いながら議員バッジをおもむろに外すと、暗闇に向かって投げ捨てる。
未練は無い。これが私らしいやり方かも知れない。
「さようなら。民主主義という名の老人達。未来は私が導いてあげる」
【番外編】
―――後藤はいつも独りで泣いていた。
あれ以来、紗耶香様は「あの人」の名前を口にしていない。寝言にも出していない。
だけど、やっぱり私は「あの人」の代わりなんだろうか?「あの人」のことを訊きたい。
市井が遠くを見つめる眼差しをする度、後藤はいつも同じ考えに囚われる。
しかし、何か決定的なことを言われそうで、怖くなる。
心の葛藤に耐え切れなくなる時、いつも独りで泣いていた。元々泣き虫な後藤だったが、
他の理由ならともかく、この事に限っては、決して市井の前で涙を見せなかった。
自分の部屋で。ロケバスの片隅で。TV局のトイレの中で。
いつも後藤は独りで泣いていた。
モーニング娘。時代、そんな後藤を慰めてくれたのが保田だった。まるで後藤の心が
解るかのように、何も言わず、そっと髪を撫でてくれた。
保田はいつも優しかった。後藤が苦しい時、辛い時、気がつけば傍らに居てくれた。
市井の持つ冷たさと激しさ。保田の持つ温かさと慈しみ。私は両方に惹かれていたのかも知れない。
圭ちゃん、どうしてるのかなあ・・・。
市井に殴られ、罵倒され、メンバーやスタッフの見ている前で鎖に繋がれ、陵辱され
ていた保田。 圭ちゃん・・・。圭ちゃんも紗耶香様を愛していたの?
無口な保田は何も語らないまま、後藤達の前から去って行った。
もう一度、圭ちゃんに会える日が来るのかなあ。なんだか、そんな気がする。
「真希!準備しな!予定通り、3時間後に出発だよ」
「はい。紗耶香様!!」
でも、私は一生この方について行く。例え「あの人」の代わりであっても、私を必要と
してくれるなら。私が紗耶香様を支えなければ・・・。
泣いてる暇などない。紗耶香様の向かうのは戦場なのだから。