ぎしぎし車体を軋ませて、ゆっくりと山を上る登山鉄道を降りた時、夏で長いはずの
日射しは既にまわりを囲む、より高い山々の向こうに隠れていた。2人が新宿を
出たのは午前のまだ早いうち。しかしついでに行きたいとなつみが言ったので
かなり遠回りにはなるが、途中鎌倉にも寄ってきた。見回すと降り立った
駅の周辺は観光地から遠いため人通りが少なく、バスは一向に来る気配を
見せない。さやかが時刻表を確かめると、次の発車まで一時間以上も間があった。
「ねー、なっち。もうタクろうよ。あたし疲れた。」
「うーん。そうする?」
タクシー乗り場には観光客の到着ラッシュをとうに終えた運転手が数人、
いかにも暇そうにタバコをふかしていた。デジタルな時計表示は6時48分。
少し渋めの顔をしたなつみの同意を得ると、さっそくさやかは彼等のところに走った。
「おう、おじょうちゃん。こんな時間じゃバスはなかなか来ねえだろ。
どこまで行くの?」
「えっと‥、」
さやかが目的地を告げると、一人の運転手があおあおと濃い髭の剃り後
を撫でながら、人の良さそうな声で言った。
「うーん。ちょっとそこは遠いなあ。5千円くらいかかっちゃうぜ。」
相変わらず髭をゾリゾリしながら運転手は上を向いて何事か考えているようだったが、
すぐにさやかに向き直るとニヤリと笑った。
「まあ、いいか。3千500円にまけてやるよ。お嬢ちゃんかわいいからなあ。」
それを聞いて、それまで不安気な様子だったさやかが、俄然目を輝かせる。
「ほんと?いいの?ありがとう。もう一人いるの。今呼んでくる。」
そう言うとさやかはなつみの元へ急いで戻り、運転手は車に乗り込んでエンジン
をかけた。
何度もカーブを繰り返しつつすっかり夜の色が濃くなった山道を進む車内で
さやかが運転手に訪ねる。
「ねえおじさん。箱根って何がおいしいの?」
「あー、ソバだね。」
慣れた調子でハンドルを切る運転手はミラー越しに笑いながら、どこか
誇らし気に答えた。
「ふうん。ソバなんだー。知らなかったね。」
ねー。覗き込むとなつみも真剣な面持ちで頷く。
「どっかおいしいお店とかってあるの?」
「どこで食べてもおいしいよ。でも、おじさんがよく行くのは、アレだな。
芦ノ湖のフェリーをおりた所にあるやつ。」
「芦ノ湖の、向こう側?」
興味深そうにしていたなつみが、少し体を前に乗り出した。
「そう。お嬢ちゃん達も行きな。安くてうまいぜ。」
店の名前を聞きだして、あれこれ楽しそうに言葉を交わすさやかとなつみに
運転手が顔を緩ませた。
「なに?2人は高校生?かわいいねえ。学校のお友達かなんか?」
「ええ。まあ。」
タクシーに乗り込んでからずっと、2人は手をつないだままだ。
膝に置いた荷物の影になって運転手からそれは見えない。一瞬自分の目を見た
さやかが、急に丁寧な言葉遣いで答えているのがおかしくて、なつみは思わず
吹き出しかけた。
なあに?という表情で片眉を上げたさやかが、かばんの下でつないだ手にぎゅっと
力を込めてくる。なつみは耐え切れない笑いを隠そうと先程から窓に顔を向けて
いたが、そしらぬふりのままで自分も負けじと握り返した。
「ほら。ついたよ。ここだろ?」
最後に随分急な坂を上って着いたところは、こぎれいな洋風のホテルだった。
「おじさん、ありがとね。」
笑顔で礼を言うと、開いた窓越しに片手を振ってみせた運転手は旅館の車寄せ
を出ていった。
ホテルの玄関をくぐりながらなつみが口を開く。
「きれいなとこだねー。みんなに感謝しなくちゃ。」
「うん。」
「ほんと。さやかのぶんも出してもらってねー。」
「う〜ん。ほんと。みんな、アリガトウ☆」
品良く調度されたロビーをフロントへと向かう途中、大袈裟な表情でさやかが
感謝をあらわす。
「そのぶんもなっちだけにつかってくれたら、なっちもっと良かったのに。」
呟いたなつみをさやかがふざけて睨むと、なつみは笑いながらあらぬ方向をむいて見せた。
「ナカザワで、予約してあるんですけど。」
カウンターに寄って、フロントにさやかが話し掛ける。
「はい。承っております。」
カウンターの中には揃いのベストを着けたフロント職員が男女各ひとりずつ勤務
していて、静かな笑みをたたえた彼等はそのどちらも感じが良い。
「では、お部屋のほうにご案内いたします。」
キーを持った男性職員が2人の荷物を持って歩き出した。
職員の後に続いて部屋に向かう途中、さやかはやけに緊張していた。
なんでだろう。なっちとはいつも一緒にいるのに。旅行おそるべし。
そう思ってなつみの顔をちらりと伺うと、なつみは普段と特に変わらぬように見えた。
あたしだけかな。そう思って視線を戻すと、にこやかな顔の係員が足を止めて
振り返った。
「こちら、723号室になります。」
ドアを開けた係員は手早い調子で部屋の明かりをつけ、適当な場所に2人の荷物
を置く。
2人きりの空間。しかもいつもとは違う場所。部屋に入ったことでそれを鮮明に
実感したさやかは更に胸を高鳴らせた。
「それでは。お食事の方は食堂に準備が整っておりますので。できましたら
お早めにお願い致します。」
そう言って入り口近くの小さなテーブルにキーを置くと係員は出ていった。
パタン。ドアが閉まる。
部屋はなかなか広い。クイーンサイズのベッドが2つ。窓際には藤の椅子が2つと
それに組んだテーブルがひとつ。それ程明るくない照明の中、ぼんやりと照らし出される
部屋を、先程から続く気恥ずかしさを隠すようにさやかはうろうろと歩き回った。
用はないがなんとなく開けてみたバスルームから視線を部屋に戻すと、なつみは
ベッドに腰を下ろしていた。なぜか熱心にホテルの案内に目を通すなつみはわずかに
顔を伏せていて、その長いまつげが影をつくる様子はとても美しい。さやかが思わず
見とれていると、気づいたなつみが顔をあげた。
「さやか。」
ぼんやりとした明かりのなか、微笑んだなつみが自分の名を呼ぶ。部屋に入ってから
なぜか理由もなく遠くにかんじていた彼女に自分が近付くことを許されたような、そんな
気持ちにさやかはなった。
嬉しい気持ちとは裏腹に、どこか拗ねたような調子でなつみへと歩き出すさやか。
ベッドに座るなつみの前にやってきても尚、視線を合わせられず下を向いていた。
「どうしたの?」
いつもとは違う様子に、座ったままなつみはさやかの手を取り、笑いながら顔を覗きこむ。
「うん‥。ちょっと‥。」
口籠るさやかの両手をなつみは軽く揺さぶった。
「なーに?」
思わず上げた視線がなつみの目と合わさって、あわてたさやかはすぐに視線を逸らし、
顔を横に向ける。数秒おいて、とうとう観念したようにさやかが口を開いた。
「だってさー。なっち今日すっごいかわいーんだもん!なんかどきどきする!」
怒ったようになぜか早口でまくしたてたさやかは、それだけ言うと照れ隠しに口
を尖らせた。そんな様子がなつみにはとても可愛く思える。
「ちょっとー。こっち向きなよー。」
なつみが再びさやかの手を揺らすと、さやかはやっと顔を戻した。照れたような
その顔には、それでも満面の笑みが広がっている。
「えへへ。」
そう言ってさやかはなつみに抱きつき、押し倒した。キスをした後なつみがゆっくり
目をあけると、ばつの悪いように笑うさやかの顔があった。
「だってさ。ほんとかわいいよ、今日。だいすき。」
「なっちはいつもと同じだよ?いつもかわいいもん。」
腕の中のなつみがわざとふざけて言っているのは、さやかにもわかっていた。しかし今は
なぜだか何も言う気にならなかった。ただ微笑んで、そうだね。と応えた。
いつもと違うさやかの受け答えに、調子がくるったなつみは声をあげる。
「ちょっとー、なあにー?つっこんでよー!」
「やーだよー。はずかしがれ。なっちばーか。」
ひどーい。言いながらも笑うなつみの首筋に、さやかは唇をよせる。
思わず行為に熱中しそうになったさやかが、服の中に手を入れてきたところで、
なつみはそれを懸命に遮った。
「ん‥。ダメ‥だよ。さやか。食事、に‥、行かなくちゃ。」
「そうだった‥。」
ため息をついて行為を中断したものの、さやかは尚も名残り惜しそうになつみ
を抱きしめている。
「続きは、またあとで。」
笑って言うなつみに軽くキスをすると、さやかはその目を見つめた。
「言っとく。寝かさないよ。悪いけど。」
「やだー。なっちはねるもん。」
さやかは体を離すと、軽く受け流すなつみを大事そうに抱き起こした。
翌日。
「ん‥。」
カーテンから漏れる朝日の中、鳥のさえずりで目を覚ましたなつみは、脇で
すやすやと眠るさやかを残し一人ベッドを起き出した。備え付けの冷蔵庫から
水のボトルを取り出し、のどの渇きを癒すべく良く冷えた軟水を一口ふくむ。
コク、とのどを鳴らしてふとベッドのさやかに目をやってみたが、俯せて顔を
こちらにむけたまま健やかな寝息をくり返すさやかは、依然目を開ける様子が
なかった。
「ふふふ、すっごい寝癖。ボッサボサ。」
あまりに無邪気なさやかの寝顔に少し微笑んだなつみは、まだ多少ぼんやり
する自分の意識をしっかり覚醒させようとバスルームに入った。
「今日はどこに行こうかな‥。」
熱めの湯を全身に浴びながら、なつみは考えを巡らせる。
「とりあえず、お昼は例のソバ屋でしょ?だから、湖渡らなきゃだから、あの
フェリー乗って‥。あ、気をつけなきゃ。フェリー乗ってる時。さやかの事
だから絶対やってくる。ほんと気をつけよう。やだもん、人が見てる前で
タイタニックのまねとか‥。こわいよう。あ!そう言えばフェリー降りた所に
美術館あるってパンフレットに書いてあったね。ジュエリー展やってるみたい
だし。よし、キマリ。そこ行こう。ちょっと楽しみだわ。そうとなったら早く
さやか起こそうっと。」
思いついて急に楽しくなったなつみは、急いでバスルームを出るとさやかの
眠るベッドへ近付いた。先程同様、さやかは依然規則正しい寝息をくり返している。
「さやか。起きて。」
聞き慣れたなつみの声に目を開けたさやかは、しばらくの間目をしばたかせて
いたが、やがて意識がはっきりしだしたのか大きく伸びをしてから深い息を
吐き出した。
「ん‥。なっち。早いね‥。もう、起きたの?」
さやかはいかにも眠そうに顔を手でしきりに擦っている。その子供のような
仕種に表情を緩ませたなつみは、ベッドに腰をおろすと寝癖で立ち上がった
さやかの前髪の中に優しく指を埋めた。
「うん。はやくごはん食べて出かけようよ。」
「うーん‥。まだ眠いよう。もうちょっと‥。」
そう言って横を向いてしまったさやかに、なつみが覆いかぶさる。
「だーめ。一日は短いの!ね?早く起きよう?」
せかすなつみから逃れるべくしばらく布団の中に隠れていたさやかだったが、
やがて観念したように顔をだすとなつみの身体に腕をまわした。
「わーかったよ。じゃあ、キスして。キスしてくれたら起きる。」
「もう‥。」
不満な口調と裏腹に微笑んだなつみがくちづけると、満足げな表情でさやかは
なつみを抱きしめる腕に力を入れた。
「なに?なんかなっちいい匂いするよ。かわいいね。」
「だってさやかが寝てる間になっちシャワー浴びちゃったもん。さやかも早く
支度しようよー。一回きりの青春でしょ。オーイエー?」
一向に起きる様子を見せないさやかがもう一度キスをしようとしたが、なつみ
が笑顔で遮った。
「おう。いえ〜。」
少し拗ねたように言ったさやかは大袈裟にため息をついて立ち上がり、
しぶしぶとバスルームへ向かう。それを嬉しそうに見送ったなつみは、自分も
立ち上がって備え付けのクローゼットから白いワンピースを出した。
朝食を軽く済ませた2人は、足早にホテルを出た。途中キーを預けに寄った
フロントには、昨日とは違う職員が同じく2人いたが、よほど行き届いた
ホテルなのか、そのどちらもまたかんじが良かった。
長い坂道をバス停まで下る途中、随分張り切っているのかなつみはさやかの
3、4メートル先を弾むような足取りで歩いてゆく。それを見ながらついて
ゆく格好になっていたさやかが突然口を開いた。
「うーん。やっぱさー、」
「ん?」
振り返ったなつみの手には、白く可憐な花が一輪握られている。道中大きな
別荘の石垣の隙間に群生していたもので、その中から一つさやかが失敬して
やったのだ。
「やっぱいいわ、そのワンピース。超高原てかんじ。すごいかわいい。」
その言葉に、はにかんだような笑みをこぼしたなつみは、答える代わりに
花を持っていない方の手のひらをさやかに向かって差し出した。
「急ごう?」
「うん。」
朝靄のためぼんやりと霞み、むせかえるほどに強い森林の薫りのなか、2人は
やんわりと手をつないで歩いた。
湖の向こう側の美術館。催しを見終えた2人が外に出ると、太陽はそろそろ
真上にきていた。朝食を急いで軽く済ませたため程よく空腹になっていた2人
は、昨日タクシー運転手から聞いた例のソバ屋を目指す。日射しの遮られた
館内から急に外に出たため、まだそれに順応しきれていない両目がかすかに
痛んだ。それにしても----------、なつみと歩くさやかは白く舗装された道に
くっきりと映し出される2人の影を見つめながら先程見た指輪のことを考えた。
あの指輪、きれいだったな。
ジュエリー展に入ってからのなつみはずっと目を輝かせていた。特に、清らか
にきらめく大粒の石を冠し、控えめで品の良いプラチナの装飾がまわりを
縁取った指輪にはことさら心を奪われたようだった。それは今回の展示の
目玉のひとつででもあるのか、大きな部屋の中央の随分目立つ場所に
飾られていた。
「この指輪、すごい。キレイ‥。」
そう言って息をのむなつみにさやかも額を近付けると、数学的な型にカット
されたその石は何層にも光を屈折させ虹と同じ色に輝く。それがとても興味
深くて、何度も角度を変えてさやかはその指輪を見つめた。
なっちの指にあったら、もっと綺麗なのかね。
「あ!あそこじゃない?」
考え込むさやかの腕をなつみが引っ張る。我に帰ったさやかが顔をあげると
確かに聞いたものと同じ名前を掲げたそば屋の看板が目に入った。
「あ、そうだね。」
「やーん。ほんとにあったねー。」
両手を胸の前に組んだなつみがきゅーっと目をつぶる。
「なっち、何食べる?」
「なっち天ざるー!取りー!」
はしゃぎ気味に言うなつみにさやかの気分も高まった。
「えー。あたしも天ざる食べたい。なっち違うのにしなよ。」
「やだよー。てゆうかいいじゃん。おんなじの頼もうよ。」
「いいよ。じゃあ。」
訳も無く不機嫌な素振りで答えてみせた。
昼時であったため少し並んで席を待った2人は、結局違うものをそれぞれ
頼んだ。たった今、先に運ばれてきた炭酸入りのソーダにストローを差し
込んだなつみが言う。
「いいの?さやかは鴨南蛮で?」
「いいよ。だって鴨好きだもん。」
答えたさやかは淡いみどり色をしたソーダを一口飲んだ。ひさびさに飲みたく
なって注文した炭酸はとても冷たく、そしてどこか懐かしい味がした。
「ほんと好きだよねー、お肉。この暑いのに南蛮てどう?ってかんじだけど。」
「いいんだよ。クーラー効いてるし。そんな事言う人にはあげないもん。」
「うそ。ごめん、ちょうだーい。」
わざと口を尖らせるさやかになつみが笑う。
「いいよ。そのかわりエビちょうだい?」
「えー、イヤに決まってるでしょ?あんたエビだよ?わかってる?」
語気を強めながらもなつみはとても楽しそうだ。冗談にきまってんじゃん。
笑いながらそう言って、さやかはまた炭酸を飲んだ。
「ふう。食べたね。」
エビの天ぷらは結局2本盛られていた。そのうちの一本と、他にもなつみが
食べ切れなかったなすとししとうをたいらげたさやかが、ふくれたお腹を
さすって言う。
「そりゃね。これだけ食べればね。」
満足げにため息をつくさやかを、微笑ましく思いながらなつみが言った。
「まあね。」
ニヤリと笑ってさやかは答えた。
しばらくたって伝票に目を落とすさやかが決めかねる様子で口を開く。
「ねえ、なっち。これからどうする?どっか行きたい所とかあるの?」
「うーん。特に。あ、お土産とか見よっか。なっちのやついくら?」
「1400円。あー、そっか。みんなに買わないとだよね。」
「うん‥。」
この旅行をプレゼントしてくれたみんな。その事を考えるとなつみはとても
幸福な気分になる。良い友に恵まれた。感慨に浸っていると、それを察した
さやかが穏やかな笑顔でなつみを見つめていた。
人でにぎわう高原の観光地を突然の激しい雨が襲ったのは、
あらかた土産を買い終えた2人が商店街をそのままフラフラ
歩いていた時のことだ。照りつける午後の日射しをゆっくり
と遮った灰色の大きな雲はやがてぽつりぽつりと雨粒を落とし、
間もなくそれはバケツをひっくり返したようなどしゃ降り
へと変わった。
「ぎゃー。」
あまりの雨足に叫んださやかは土産の入った大きめの紙袋を
なつみの手から素早く奪い取って、そのままもう片方の手でなつみ
の手を掴むと大慌てで走り出した。
「夕立ちだよ。まいったね。」
雨をよけて逃げ込んだ適当な軒先で、息を切らせたさやかは
肩を弾ませて言った。
「お土産、濡れてないといいけど‥。」
少し濡れた髪を整えたなつみは不安そうに紙袋を覗く。
「平気だよ、少しくらい。それよりはやく雨やまないかね。」
辺りの景色を霞ませる程、激しく降る雨の勢いは依然衰えず、
頭上ではアーケードの屋根が大きな雨粒を跳ね返してぼとぼと
と大きな音を立てていた。
ため息をついたさやかがふと後ろをふりかえると、ぴかぴかに
磨かれたショーウィンドーの中にこぎれいな椅子とクッション
が陳列されている。その奥にわずかに見える店内には、なにやら
よさげな雑貨がいろいろと置かれているのが目に入った。わけもわからずに
逃げ込んだこの軒先は、どうやらギャル向けのこじゃれた雑貨屋のもの
だったようだ。
「んー?なんかここ、いいかんじ。見ようよ。」
さやかが声をかけると、空を見上げていたなつみも振り返った。
「あ、ほんとだ。ふーん。こんなお店があるとはねー。」
「よいしょ。」
地面の濡れていない場所を見つけて置いた紙袋をさやかが再び持ちあげ、
2人はその店のドアを開けた。
中に入ってみると店内は思いのほか広く、充分なスペースをとって
それぞれ並べられた商品は観光地にあって尚、なかなかのセンスの良さを
見せている。意表をつかれた2人がなにげなくカウンターに目をやると、
鼻にピアスを開けた店員がニコリと微笑んだ。
しばらくしてさやかはクリアパッケージに入ったきれいなきみどり色の
ビーチサンダルを手にとった。800円。8月もそろそろ後半にさしかかり
今さらビーサンを買うのもどうか。と、少し迷ったが、フレンドリーな値段に
負けて結局買うことにした。顔を上げてなつみを探すと、なつみは店内の
奥の方にいて、プラスチックで編まれた色とりどりのカゴをひとつひとつ
手に取っては熱心に選んでいる。おおかた店内を見終えてしまって時間を
もてあましたさやかは、偶然目に入った壁側のガラスケースへと寄った。
「ユビワ。ね‥。」
それほど大きくないガラスケースの中には、かわいらしいアクセサリーの類が
それでも多数収まっていて、なかでも一番数多く揃えられた指輪に目を止めた
さやかはひとりそう呟いてしばらくそれらを眺めていた。
「さーやか。」
そうしているうちになつみがやっと気がすんだのか、オレンジ色のカゴを手に
さやかの元へと寄ってくる。
「なーに?指輪なんて見て。あ!もしかして買ってくれるとか!?」
「死ね。」
なつみの軽口にさやかが笑いながら答えた。
「な〜んてね。ほんとに買ってあげるよ。どれがいい?」
冗談のつもりが、さやかの予想外な返事になつみは目を丸くして言う。
「え?いいよべつにそんな。なに?どうしたの?」
「うーん、なんとなく。なんかさ、あげたくなった。」
平気な顔でそう言うさやかに、なつみは尚も繰り返した。
「なーんなの?いいって。そんな。悪いよ。」
依然として遠慮するなつみに、さやかはわざと意地の悪い表情をつくって見せる。
「なに、嬉しくないの?」
「や。いや。嬉しいけど。でもぅ‥。」
それに動揺したなつみが、慌てて首を振る。その素振りに満足したさやかは
にっこり笑った。
「ならさっさと選べコノヤロウ。」
ほんとにー?さやかはそう言いながらガラスケースに目を落とすなつみを喜色満面の
面持ちで眺めていた。とまどいながらもやがて本気で品定めを始めたなつみは、赤い唇を
心持ち上向かせている。そのいかにも真剣な横顔は、なにやらとても可愛らしかった。
「じゃあ、コレ。」
そう言ってなつみが指差したのは、銀製のシンプルな指輪だ。回りにはそれと
組んだ他のアクセサリーがいくつか揃えられ、ひっそりとケースに収まっている。
シンプルでありながら柔らかな照明に照らされ楚々とした輝きを放つその指輪はきっと、
幸福ななつみの笑顔にとても似合うだろう。そう思った。
「あ、それ。あたしもいいと思った。」
そう言ったさやかの目を一瞬意味ありげに、かつ楽しげみつめたなつみは、再びケースに
目を落とす。
「でね。これとお揃いのこのアンクレット、さやかに買ってあげる。なっちが。」
「は?」
意表をついたその言葉に今度はさやかが目を丸くすると、すでになつみは店員の座る
カウンターへと体の向きを変えていた。
なつみに声をかけられた店員が、カウンターの下からカギを取り出してこちらに
向かってくる。鼻にピアスを開けている彼女はその人なつこい笑顔のせいか、随分
気さくな印象を与えた。程なくしてケースを開けた店員が、そのままの笑顔で
なつみに聞いた。
「どれ?」
「これと、これ。」
目を輝かせたなつみが嬉しそうに指をさす。
「あー。かわいいよねー、これ。」
そう言って取り出した指輪を、店員はなつみの手のひらにのせる。さっそくはめてみる
なつみの様子に笑いつつも、続いてアンクレットを取り出した彼女はさやかに向かって
微笑んだ。
「こっちは、アナタ用?」
いったい何が起きているのか。全く理解できず、呆然と目の前の2人を見つめていた
さやかは、店員に声をかけられてようやく我をとり戻す。それでも依然として驚きは消えず、
とまどった目でなつみを見た。
「いいのに、そんな、べつに。」
「ううん。なっちがあげたいの。お揃いでつけよう?」
すごいかわいー。そう呟きながらなつみは手をさやかの目の前にかざして見せる。
そんなやりとりを見守っていた店員が、交互に2人を見比べた。
「なになに?なにやらあやしいねー。さては付き合ってるでしょ?」
にやりと笑って片眉を上げた店員に、なつみが冗談めかした表情でこたえた。
「そ。デキてるの。うらやましい?」
微笑ましいなつみの口調に破顔した店員はさやかの背中を軽く叩いた。
「ホラ。くれるって言ってんだからもらっとけって。しょうがないから
ほんのちょこっとなんだけど、勇気振り絞ってオマケとかしてあげるし。」
そうウインクして見せる店員に目をかがやかせたなつみが声をあげた。
「え!オマケ?」
そのまま向き直って、嬉しそうにさやかの目をみつめる。
「ね、そうしようよ。それとも他のやつがいい?」
きらきらした目で自分を覗き込むなつみに、さやかもついに顔をほころばせた。
「じゃ、それでいい。てゆうか、それがいい。なっちが選んだやつ。」
少し頬を赤らめたさやかがそれでも嬉しそうに言うと、なつみと店員は顔を見合わせて
微笑んだ。
知り合いに、似てるの--------、そう言って笑った店員は結局20%も
割り引きしてくれた。笑顔の2人がようやく店を出る頃、あれ程
激しかった雨はすっかり上がっていて、何事もなかったように再び輝く
太陽の下,あたかもフィルターを一枚はがしたように全てははっきりと、
辺りの風景は鮮明さを増して映った。
陽はまだ高かった。生気を取り戻した木々の葉があまりにもきらきらと
瞬くので、それに誘われるようにして2人の足は自然と緑豊かな小径
へと向いた。表通りからたいして離れてもいないそこは、それでも随分
静かで、時折思い出したように吹く風がなつみの白いワンピースを
ひらひらとはためかせた。
「のど渇かない?」
歩き出してから半時も経った頃だろうか。さやかはなつみの声で
足を止めた。考えれば昼からずっと立ち通しだ。
「そうだね。ちょっと疲れたしね。どっか入る?」
なつみの顔ごしに周囲を見渡したものの、静かな裏通りにそれらしき
店は見当たらない。
「何もないねー。この辺。戻ろっか?」
そう言ったさやかが表通りへ向き直ると、なつみがその服の裾を引っ張った。
「ねえ。」
「ん?」
「なんかあそこに公園みたいなのがあるよ。」
振り返ったさやかがなつみの指差す方角に目をやると、いくつかの建物の
向こうになにやら広場の入り口ようなものが見えた。
「ほんとだ。」
目を凝らすと、古びた鉄製の柵で囲まれたその場所は、いかにも柔らか
そうな芝生があおあおと植えられていて、見るからに居心地が良さそうだ。
「あそこにしない?」
「いいよ。」
さやかがにーっと口角を上げて笑うと、なつみは更に手前の自動販売機を
指差す。
「ホラ。あそこに飲み物もあるね。」
「うん。」
楽しげななつみの表情に、さやかの目はますます細くなる。うきうき
した足取りで2人は進んだ。
プシュ。
ジャスミン茶の缶を開け、その3分の1ほどを一息に飲んださやかが
大きく息をつく。
「ふう。ウマイ。」
手の甲で口元を拭うその男前な仕種を見て、なつみが笑みをこぼした。
「さやか、超おやじっぽいよ。もしくは仕事後の裕ちゃん。」
公園は、入ってみると奥の方にそれほど大きくない清流が流れていて、
両岸には上の山から運ばれた大小の岩がごろごろと転がっていた。それら石の
堆積の中からひときわ大きく、平らで座り心地が良さそうな岩に腰を下ろした
2人は、目の前を流れる透明な水を眺めながら渇いた喉を潤した。
「はじめてだね、お揃い。」
サワガニをとる地元の少年達が数人、向こう岸で派手に歓声をあげる。
その様子をぼんやりと眺めていたさやかに穏やかな口調のなつみが話し
かけた。
「うん。うれしいね。」
返事をしたさやかが目を向けると、手につけた新しい指輪をなつみは宙に
かざしていた。
「でも、なんで?うれしかったけど‥。急に買ってくれるって言ったから
びっくりしちゃた。」
「うん。でも結局、なっちもあたしに買ってくれたからさ‥。なんつーか、
おあいこだね。」
「さやかがくれるって言ったから、それならなっちも。って思ったんだよ。
でもほんとにどうして?あんなに突然?」
「うーん、なんかさ。約束みたいなものが欲しかった、ってゆうか。」
「約束?」
そう声に出して、なつみはさやかを見た。ぽつりぽつりと選ぶようにして
言葉を紡ぐさやかは、なんだかとても大事な事を話しているように見えた。
「うん、やくそく。なんかね、その指輪みたらなっちさ、あたしの事
思い出すでしょ。いつでも。どこでも。」
静かでゆっくりとしたさやかの口調は自分には見えない遠くの何かを
じっと見つめているようで、急に不安になったなつみはさやかの腕を
ぎゅっと掴んだ。
「え?どっか行っちゃうの?」
「ううん、どこにも行かないよ。けど、」
「けど?」
尚も生真面目な表情でなつみはさやかを覗き込む。そんななつみの様子は
さやかは胸を穏やかに満たした。
「けど、なんか。そういう証拠みたいなやつを、なっちに持ってて
欲しかったんだよ。」
「うん‥。たいせつに、する。」
そう言ったなつみは下を向いてしまって、華奢な肩に遮られたその表情は
さやかから見えない。俯いたせいで顔を覆った柔らかな髪を小振りな耳に
かけたあと、表情を隠したままのなつみは囁くように呟いた。
「さやかもアンクレット大事にしてよね。なっちがあげたんだから。
なっちのモノっていうしるしなんだよ。、」
「うん。決まってんじゃん。嬉しかったんだよ。ほんとに、すごく。
ありがとう。」
そう言ってさやかが微笑むと、岩の下からなにかの拍子で水滴が
跳ね上がり、その足飾りのついた右足をかすかに濡らした。
とりかこむ全てのものは、ともすれば閉息感すら伴うようにして
さやかを包んでいた。絶えることのないせせらぎ、頭上で鳴く鳥の声、
そして隣に座るなつみ。全てが完全で、全てが独立していた。
時折軽く前髪を揺らして去る風に、その圧倒的幸福のなか心地よい
疲労を感じたさやかは、自分の背負っていたかばんを枕にして
石の上にあおむけで寝転がった。
見上げた空は随分高く、輝く太陽は目を閉じても尚その存在を感じる
ことができた。
いつの間にか眠っていた。肌寒さを覚えて目を醒ますと、さやかの体には
なつみのカーディガンが掛けられていた。脇を見てもなつみの姿はなく、
太陽はいつしか西に傾いて周囲の景色は随分朱みを帯びている。ハッと
したさやかが起き上がると、なつみは水際で流れに足を浸していた。
「なーっち。」
安心して胸を撫でおろしたさやかが、その後ろ姿に声をかける。
「あ、さやか。起きたの?」
今まで眠っていたせいなのか、振り返るなつみの表情がひどくまぶしい
ものに思えて、思わずさやかは目をこすった。
「うん。どれくらい寝てた?」
「うーん、一時間弱かな。」
「ふーん。起こせばいいのに。ヒマだったでしょ。」
そう言ったさやかが脇に腰を下ろすと、なつみは楽しげに微笑む。
「うん。でも、さやか良く寝てたからさ。べつにいっかとか思って。」
「目開けたらいないから、びっくりしたよ。」
そう言ってふと目をやると、騒がしかった少年達はすでに帰ってしまった
ようで、その中の誰かが置き忘れでもしたのか空っぽの虫カゴが川を隔てた
岩のかげにぽつんとひとつ置かれていた。
「寒くないの?」
川からあげた足をハンカチで拭くなつみにさやかが言った。しばらく水に
浸けられていたなつみの足首は、いつもに増して白い。桜貝のようなその
小さな爪がふいにひどく儚く思えて、無意識にさやかは手を伸ばしていた。
「寒いよ?あっためてよ?」
さやかの指先が触れると、冗談めいた口調のなつみが上目遣いで微笑んだ。
帰りのフェリーは、それ程待たずに乗ることができた。すっかり薄暗くなって
藍色めいた景色の中、遠くの岸辺に見える観光街の明かりはそれほど華やかな
ものでもなかったが、水面にうつる影と共に可憐に揺らめくその姿は、見つめる
者の内に郷愁にも似た何かを誘った。なつみの横で船の手すりにもたれ、それを
眺めていたさやかの胸も、等しくその同じ思いで溢れた。
沸き上がる不思議な感情にとうとう苛立ったさやかが目を反らすと、つないだ
なつみの手の指輪と足飾りのついた自分の足が、俯いた視線の先に目に入った。
揃いのそれらはまったく揃っていて、輝き具合もまるでぴかぴかと揃っている。
それを見ていたら先程までのおかしな感情は消えた。
----勢いついでに例の映画の真似でもしとくか。一応。----
そう思ったさやかはなつみの背後にまわろうとして、やめた。
なつみが許すはずもない。そんなことはわかっているのだった。