昼休み、となりのクラスのなつみと2人きりで過ごすことは、さや
かにとってもはや日常だった。その日もいつものように昼食を持
ち、午前中の授業から解放され思い思いざわめく生徒達で混雑する
廊下を屋上へと急ぐ。
「あー。遅くなっちゃったよ。まったく。」
4時間目が体育の今日は、一度校庭から教室まで昼食をとりに戻ら
ねばならない。少しでも多くなつみと時間をすごしたいさやかに
とって、はたはた迷惑な時間組みであるのだ。校舎の端のあたりに
くると、そろそろ他の生徒もいなくなる。これ幸いと一段飛びで階
段を駆け上がる。
屋上入り口の錆びて思い、鉄のドア。力を入れて開くと5月独特の
きらきらした風景が、木々の香りをはらんだ空気と共にさやかを包
んだ。
「なーっち。待った?」
いつもの場所になつみをみつけたさやかは、うれしそうに彼女のも
とに走りよった。
様子がどうやらいつもと違う事に気がついたのは、なつみがさやか
の問いかけに応えずもくもくとサンドウイッチを食べていたから
だ。普段の彼女なら必ず振り向いて、そして少し照れたように微笑
む。そのなつみの顔をさやかはとても気に入っていて、見る度ごと
に自分の彼女への気持ちを確認させられるのだ。
「なに?どうしたの?なんかあった?」
さやかは不審に思いたずねる。
「‥‥。」
なつみは相変わらずなにも応えない。手に持っていたサンドウイッ
チを食べ終り、残りのメロンを口に入れている。
「どうしたのー?なんか怒ってる?あたし、なんかした?」
とりあえず自分も昼食をとらねばと、包みを開けながらさやかはふたたびたずねた。
缶のアイスティーでカラカラになった喉をうるおし、おにぎりを一口ほおばる。
今日はおかか、か。そんなことを考えながらもなつみの態度は気になって仕方がない。
「なに?なんなの?言ってくれなきゃわかんないじゃーん。」
「‥‥。」
「ゆってみ?ゆってみそ?」
捨て身の寒い言葉になつみの顔が少し反応した。思わず吹き出しそ
うになったが、なんとか堪えたようだ。すぐに元の無愛想な顔にも
どったなつみだったが、さやかがそんな反応を見過ごすはずはな
い。ここぞとばかり、すかさずなつみにたたみかけた。
「なに?な〜に?教えてよ〜う。ね、なっちゃん?どうしたのん?
なっちゃんたら☆」
するとさやかの必死の問いかけに意を決したのか、なつみは自分の
膝を睨みながらポツリポツリと話し出した。
「さっき‥、さ。校庭だった‥でしょ。見えちゃったの。ずいぶ
ん、仲よさそう‥ね。」
「は?なんの事?そりゃ、体育でグランドにいたけど‥。」
そんな事をいきなり言われても、さやかに自覚はない。
「あの子、後藤さん‥だっけ?かわいい子だよね。」
なつみのきつい言い方に、さやかは焦って先ほどの一時間を思い出
そうとした。
しかし。
キーンコーンカーンコーン------------- そんなさやかの思考を遮
るように、予鈴がなった。気がつくとなつみは、かわいらしい小さ
なかばんにランチボックスを片付け終えていて、呆然とするさやか
を残し、一人さっさと重いドアの中へ消えていった。
「あ、あれかー‥。」
直後さやかはおもいあたるフシを見つけたが、時すでに遅し。ほと
んど手をつけられなかったランチをしまい、とりあえず自分の教室
へと急いだ。
その日の午下がり、そろそろ素肌にきつくなった午後の日ざしを優
しくシェイドする白いカーテンは、入り込む微かな風に波立ち、春
の光の中まばゆいばかりの外の景色を時おり垣間見せる。普段なら
間違いなく夢とうつつの間を行ったり来たりしてしまう状況のな
か、さやかは窓際最前列の席で先程突然おこった小さな事件-------
--もちろん本人にとってはかなり真剣な事態だが----------につい
てずっと考えていた。
後藤真希。彼女は2年生になって初めて同じクラスになった。2週
間前の今年最初の席換えで、さやかの真後ろの席をくじで引いた生徒。
はじめの数日は彼女のいわゆる派手な容姿に気後れし、話しかける
のをためらった。が、一週間もすると、大人びた外見とは裏腹な真希の
天然ぶりも手伝ってすっかり打ち解け、今では休み時間や教室
の移動などクラス内での行動を共にするようになった。しかしさやか
はもちろん、真希にとってもそれ以上の気持ちはお互いない。
要するに単なる気の合う友達だったし、そもそも2人だけで仲良く
しているわけではない。もう一人、去年から引き続き同じクラスに
なったさやかの親友、保田圭も含めた3人で一緒にいるのだ。
当然なつみもそれは知っている。
そんなふうにぐるぐると思考を巡っていると、5限終了の鐘がなった。
「さやか。」
5限の文法の教師が出ていくとすぐに、圭がやってきた。
「あんたさー。さっきの時間めちゃめちゃ悩んでなかった?」
斜め後方に位置する圭の席から、どうやら小羊さやかは丸見えだったようだ。
「え〜、なに?そうなの?」
後ろから真希が覗きこむ。
「あー。見えてた?ちょっと‥ね。」
「てゆーか、どうせなっちの事でしょ。」
なかなか打ち明けようとしないさやかに、何でもお見通しだと言い
たげな表情の圭。
「う〜ん、まあね。そりゃあね。」
なつみとの関係をとっくに打ち明けてある2人を前に、さやかは
あっさり認めた。
「うそ。なにかあったの?」
真希は相変わらず呑気だ。
「じつはさあ‥。」
さやかは昼休みの出来ごとを2人に話し始めた。
「ありゃー。なっちゃん。そりゃかんぺきに誤解だわ‥。」
「でしょー?あの時は後藤がさー、バカだからー。転んでひざから
血だしてさー。」
「へ?あたしのせい?でもあのときはありがとね。えへへ。」
4限の体育はテニスだった。決して運動神経は悪い方ではないという
秘かな自負からか、真希が相手の打った方向違いな球を無理に打ち
返そうとした。しかしそれでも限度があるというもので、バランス
を崩した真希が派手に転倒したのだ。
「でさー、チャイム鳴って教室帰ろうとした時ー、あたしが後藤に
肩かしてたじゃん。それ見てなっち、誤解したんだと思うんだ。きっと。
圭ちゃんは後片付けしてたから一緒じゃなかったしさ。」
「うん。体育委員だからね、あたし。でも、あの時のさやかと後藤
はそういう風に見えたかもね。2人とも、後藤のドジのこと笑ってて、
なんだかんだ楽しそうだったし。」
「だってウケるんだもん、後藤。あそこまで追っ掛けないっしょ、ふつう。」
さやかの軽口を解っているのかいないのか、あいかわらずふにゃふにゃ
と真希が言う。
「でもさ〜。あたしヤだな〜。そういう風に思われちゃったのか〜。
ぜんぜん。そんなこと小指の先程も思ってないのに〜。市井ちゃん
とだなんて、そんな、超きもちわる〜い。」
「てか、後藤マジむかつく。」
真希の言葉に息巻くさやかを押さえつつ、普段から割と大人びている
圭がさやかに言った。
「まあ、でも、さ。あたしとさやかとなっちは去年クラスが一緒で
けっこうお互い解り合ってるからいいけど。後藤はなっちゃんと
ほとんど話した事ないからね。後藤、中身はこんなだけど、一見
目立つから仕方ないか。ほーんと。こんなに天然だって知ったら皆びっくりするよ。」
「ね〜、市井ちゃん。なんかなっちってかわいいね。今度ちゃんと紹介してよ〜。」
「やだよ。バカがうつったらやだもん。」
「ちょっと、聞いた?圭ちゃん〜?ひどくない〜?」
真希の天真爛漫さに顔を寄せ合って笑うさやかと圭。いつまでも笑い
が止まらない2人を残し、トイレへと席を立った真希が去り際につぶやいた。
「でもさ〜、なっちって、市井ちゃんのこと教室の窓から見てたんだね〜。
いや〜、市井ちゃ〜ん。すっごい愛されてるってかんじ〜。いいね〜。」
特に考えたふうでもない真希の一言に、残された2人は思わず笑いを呑み込んだ。
「ねえさやか‥。後藤ってさ、超たまにスルドイ事言うよね‥。思わない?」
「うん、思う‥。なにげに大物だよね、あいつ‥。」
放課後。帰りのホームルームが終ると、さやかはすぐに一階下のなつみの教室へと急いだ。
「どうか、なっちがまだ教室にいますように。」
そう祈りながら全速力で階段を駈け降りた。
当然、というか、幸いなつみのクラスはまだホームルームを終えて
いなかった。さやかだけに限ったことではなく、ひたむきかつ真摯な
少女の願いはたいてい叶うものだ。
壁に凭れながら6限終了後の短い空き時間に圭が言った言葉を思い出す。
「なっちだって、そんな。さやかのこと好きでもなんでもなかったら
そんな事で怒るわけないんだし、当然だけど。なんてゆーか腹を立てる
理由の些細さと、相手の事を好きな気持ちってきっと比例すんだよ、多分ね。」
圭の成熟した思考について、真希の意外な直感力について、そして
なによりなつみへの第一声をどうするかについていろいろと考えて
いると、どうやらホームルームが終ったらしい。生徒達がそれぞれ
自分が退屈な放課後をいかに有意義にすごすかを誇り合いながら
出てくる。なかにはさやかの知っている顔いくつかあったが、それら
の少女達も笑顔で手を振ると階段へと消えていった。
なつみはなかなかやってこない。自ら教室を覗き込みなつみを探す
事をためらっていると、なつみと仲のよい矢口真里が、メールを
チェックしているのか携帯電話を操作しながら現れた。
「矢口。なっちいる?」
「おっ。さやか。聞いたよ〜、なっちから。いるよ。どうする?呼ぶ?」
「いやちょっと待って。どう、怒ってる?」
「そーとー怒ってる、あれは。なっちもねー。そんなに怒んなくても
いいのにねー。」
「うーん。まあね。でもホラ、うちら愛し合ってるから。仕方ないよ。」
「あっそ。勝手に。ってかんじ。」
あてられて少しふて腐れながらも、笑いながら真里が教室の中を見る。
「あ、なっち来るよ。後ろのドアから出るみたい。じゃ、矢口は
これで。邪魔しちゃ悪いしー。じゃね。がんばれよ。」
そういうと真里は不器用なウインクをひとつ残して駈けていった。
動悸を抑えようと軽く深呼吸をしてから顔を上げると、ちょうど教室
から出てきたなつみと目があった。なつみは一瞬戸惑った顔をして
いたが、すぐに口をきつく結ぶとさやかの脇をすり抜けるようにして
階段へと早足で向かってしまった。
さやかは事態があまりにも唐突な為にしばらく動けなかったが、
すぐに気をとりなおすとなつみを追い掛けた。
「ちょっと待ってよ、なっち。あれは、後藤は、誤解だってば。」
何も応えず、相変わらずの早足で階段を降りるなつみを、さやかは
必死に説得する。少しでも自分の話を聞いてもらえるよう懸命に
話し掛けるが、なつみは聞く耳を持たずにどんどん階段を降りていく。
「だから、なっち-----」
とあらたに呼び掛けたその瞬間、勢いのあまり足を滑らせたのか
なつみはバランスを失った。
あやうく転倒しそうになったなつみの体を寸前で支えると、さやか
がため息と共に言った。
「ふぅ。危機一髪‥。まじ危ないっつーの。」
なつみは突然の恐怖からすぐには立ち直れず、さやかの腕にしばらく
すがっていた。
少ししてなつみが落ち着きを取り戻したのか、気持ちのやり場
に困り下を向くと、それを確認したさやかはなつみの肩に手をまわすと
静かに、しかし力強く言った。
「あれは、誤解。話を聞いて。」
「‥‥‥。」
なつみはまだ俯いたままだった。
「とりあえず、ここじゃなんだから。落ち着いて話ししよう。」
さやかはなつみの手を取ると、転倒しかけたなつみに気を使って
ゆっくりと残りの階段を降りる。放校になってからしばらく経ち、
校舎内に残っている生徒はもはや少なくなっているとはいえ、やはり
日直当番の者あるいは屋内で活動するいくつかのクラブの部員などが
まだ時おり通り掛かる。対して、相変わらず口を開かないなつみでは
あったが、先程危機を救われたことが功を奏したのか、さやかに手を
引かれて素直に歩き出した。
校舎脇にあるガラス張りの温室は、卒業後名を成したある高名な同窓生から
寄贈されたもので、中心にある、清らかな水を常にたたえる人工の泉を
取り囲むようにして、さまざまな種類の珍しい植物がそれぞれ色とりどり
の花を咲かせていた。昼休みなどはランチを楽しむ生徒でにぎわうが、
校門と逆の方向にあるため、放課後はほとんど人影がない。
何も言わずなつみの手を引いてその温室に入ると、さやかは小振りの白い花
がたくさん咲いている横の、重そうな石のベンチになつみを座らせた。
自分もなつみの隣に腰をおろすと、さやかはしばらく思考を整理
するように黙り込んでいたが、数分後なつみのほうを向くと静か
に話し出した。
「あのさ、なっちが見たのって、あたしが後藤の肩を組んで笑いながら
歩いてた、とかいうやつでしょ?」
なつみは下を向いたまま頷く。
「あれはね、後藤が授業中に怪我をして、ひとりじゃ歩けなかったから
あたしが肩をかしてあげてたの。だから、なっちが考えてるような
事じゃ、ぜんぜんないんだよ?」
すると、今まで下を向いて黙っていたなつみは顔をあげてさやかを睨んだ。
その目にはうっすらと涙をにじませている。
「でも、ずいぶん楽しそうだったけど?2人っきりでさ‥。」
「だからね、圭ちゃんは体育委員で、あの時は授業のあとかたづけ
してたの。ボールしまったり。だから、後藤と2人だけだったんだよ。
後藤とあたしはそんなんじゃないってば。だいたいあたし、
気持ち悪いとか言われたんだよ、後藤に?」
「でも‥!」
さやかを見つめるなつみの目はさらに潤み、大粒の涙がひとつ、頬を伝い
制服にポトリと落ちる。
「でも、なに?」
「さやかはあんなに楽しそうな顔、なっちにはあんまり見せてくれないじゃん!」
訴えながら感情を抑え切れなくなったのか、とうとうなつみの瞳からは
ポロポロと涙が溢れだした。さやかに泣き顔を見せまいと横を向き、ブレザー
の裾をぎゅっと握りしめている。そんななつみが愛しくてたまらず、
さやかは思わず震えるなつみの華奢な肩を抱きしめた。
「あのね、なっち。」
なつみは相変わらずむこうを向いたまま肩を震わせている。
「あたしが、後藤とか圭ちゃんにたいして見せる表情、てゆうか態度と、
なっちにみせる態度が同じなわけないよ。だって、あたしなっち
といる時、緊張?じゃないけど、ちょっとドキドキしてるもん。
好きすぎて。」
さやかの腕のなかで、なんとか暴走する自分の感情を抑えようと
していたなつみだったが、さやかのそんな言葉を聞いて、ますます
胸がつまり、もはやあとからあとからあふれだす涙を止めることは
できなかった。
「そりゃ、なっちの知らないあたしをあの2人には時々見せてるかも
知れないけど‥、でも、あの2人が想像もできないようなあたしを
なっちにはたくさん見せてるんだよ?」
どれくらいこうしていただろうか。ふと気がつくと、午後の日ざし
のなかさんさんときらめいていたはずの風景は、すっかり薄暗くなり、
温室内に一定の間隔をおいて立っているガス灯を模した照明が、
暗さのせいで色を濃くした植物をところどころ鮮やかに浮かび上がら
せていた。
腕のなかで自分に体をあずけているなつみがどうやら落ち着いてきた
らしいことを息づかいから確認し、回していた腕を解くと手をとって
こちらを向かせた。
「だから、あたしにとってなっちは、べつ。特別。どう?落ち着いた?」
「うん。ごめんね。へんにヤキモチ焼いて‥。」
なつみはすこし恥ずかしそうに微笑み、頷く。
そのはにかんだなつみの顔を、さやかはとてもかわいいと思った。
こんな笑顔を見せてくれるなら、今回みたいな事件も悪くはないかな、
と思った。
「ねえ、なっち。キスしていーい?」
いたずらっこのような上目遣いで突然聞いてくるさやか。
さやかはいつも、突拍子のないことを急に言っては、よくなつみを
困らせるのだ。案の定なつみはストレートな言葉にすこしとまどったが、
すぐにさやかの目を見つめ返して、おかえしとばかり自分も言った。
「いいよ。てゆーか、して。」
普段とはちがうなつみの反応にさやかは意表をつかれたが、そんな
かわいらしいなつみの反抗をさやかはとても嬉しく思い、
いたずらっぽく微笑むなつみに顔を近付けた。
すっかり暗くなった道を、手をつなぎながら駅へと歩く。
「さやかって、やさしいよね。皆にもそうなんでしょ。」
「えー、ちがうよー。あたしがなっちに言ってる言葉とか聞いたら、
後藤も圭ちゃんもびっくりするよ。」
「そうなの?ふふふ。‥あ、ねえ、こんど真希ちゃん紹介して?」
「えー。やだよ。なっちがバカになったらやだもん。」
そういいつつも、今度ちゃんと会わせてみようかな。と真剣に思う
さやかでありましたとさ。
−おわり−
みなさまへ。
今週の土曜日、なっちの18才を記念してバーベキューをやるよ。
食べ物はあたしが揃えるから、みんなは飲み物を持ってきてくれ。
4時頃さやか家にきてね。
あ、言っとくけど夕方の4時ね。
朝に来られても、まだ寝てるよ☆
さやか
夏休み。バトン部の練習を終え、仲間とすこし遊んでから帰宅した
圭宛てに、一枚のFAXが届いていた。冷蔵庫から取り出した麦茶を
グラスに注ぎながら、それを読む。
「わかるっつーの。」
つぶやいて圭はよく冷えた麦茶を一口飲んだ。
「あー、後藤?圭だけど。」
「あ、圭ちゃん?市井ちゃんからFAX来たね。」
夕食後、ひとしきり見たいテレビ番組を見てから自分の部屋に戻ると、
圭は真希に電話をかけた。
「うん。なっちの誕生日ね。でさー、プレゼントの事で、あたし
ちょっと考えたんだけどー、」
圭は先程テレビを見ながらふと思い付いた考えを真希に相談した。
「おー、圭ちゃん、ナイスアイデア。絶対うれしいよ、それ。」
「でしょ?まあ、来る人数にも寄るけどさ。でもさやかの事だから
いっぱい人呼んでるでしょ。ひとり2000円くらいだせば、余裕で
なんとかなるんじゃん?」
「なるなる。ヘタに個人でなんかあげるより、そっちのほうが絶対
いいって。」
「じゃ、あたしさやかに電話して、誰が来るのか聞いてみる。」
「あ、圭ちゃん、このこと市井ちゃんにも内緒にしておくんでしょ?」
「当然ね。じゃ、おやすみ。」
そういって圭は電話を切ると、携帯の液晶画面にさやかの番号を表示させた。
「もしもし、さやか?圭。FAXよんだよ。」
「あー、圭ちゃん?ほんと来ないでね、朝4時とかに。」
「うん、行くよ。‥てゆうかさむいね、あれ。」
「あ、やっぱりそう?てか何?それを言うための電話なの、これ?」
「ははは。さすがに違うけど。あのさー、パーティーって、誰が来るの?」
「ふーん。けっこう来るね。」
「うん。でも、なんで?嫌いな人でもいるの?」
「ううん、ちがうけど。いや、もし大勢来るんなら手伝って
あげようかなー、とか思ってさ。」
「わ。さすが圭ちゃん!ありがと〜〜う。じゃ、ちょっと早め
に来てもらっていい?」
「じゃ、お昼過ぎくらいに行くよ。後藤もつれて。」
「うん、ありがとう。めっちゃ助かる。」
コードレスフォンの電源を切り、圭はいましがた聞き出した名前のリスト
をもういちど見直した。自分と真希を入れて、16人。
秘密のプレゼントについて、さやかは何も気がつかなかったようだ。
招待客の名前を聞き出す理由を尋ねられた時は少し焦ったが、どうやら
うまくごまかす事ができた。なりゆき上、早く行って手伝う羽目に
なったが、もとよりそれはこころづもりしていた事だ。真希もそれは
快諾してくれるだろう。それより、計画を進めなければ。
圭はまず、リスト中ただひとりの社会人である裕子に相談することにした。
「ねー、なっちー。カルビ味って何入れるんだっけー?」
当日。自宅キッチンで昨日のうちに買い込まれた大量の食材を前に
さやかはひとり奮闘していた。
都心をすこし離れたマンションの12階にある市井家は、
リビング、キッチンの他に部屋が3つ、さらにフロアの隅に位置するため
屋根のない随分大きなテラスがついている。その、人工芝が敷かれた
コンクリートの庭が、今日の会場だ。
この広いマンションに、さやかは主にひとりで生活している。
おもに、と言うのは、多忙な両親がほとんど家を開けているからだ。
ピアニストの母親と、指揮者の父親。さやかが高校生になってから
本格的な活動を再開した彼等は、1年の半分以上を海外ですごす。
昨年まで一緒に暮らしていた姉は、大学のピアノ科を卒業すると共に
現在は両親について世界中を廻っていた。
なつみは昨日の夜からさやかの家に泊まっていた。年上の裕子に頼み
車を出してもらって買い出しを済ませたあと、お願いついでになつみも
ピックアップしてもらったのだ。
「何も今から一緒にいなくてもええんちゃうの。どうせ明日会うねんから。」
ぶつぶつ言いながらも笑ってなつみの家へと向かってくれた裕子。
用事があるからと昨夜は早めに帰っていった。
先ほどからリビングのソファに座って、なつみはひとり張り切る
さやかを所在なく眺めていた。
「もー、さやかー。そんなんだったらなっちも手伝うってばー。」
「いいの、今日は。それより、ホラ、カルビを付け込むタレって何入れるの?
本のとおりにやってるんだけどあんまりおいしくないんだよねー。」
「本見てやってるんだったら平気だってば。はやく肉付け込んだほうが
いいよ。さやかの好きな、おにく。」
あぶなっかしいさやかの手付きをみかねたなつみが、カウンターを
まわってキッチンに入って来た。
「ねー、さやか?ほんとうになっち何もしなくていいの?」
「いいの、いいの。主役は座っているもんだゼ、べいびー。」
「もう、またそんなこと言って‥。」
片目をつぶり、気取ったポーズを作って言うさやかに、なつみは微笑んだ。
結局、忙しいさやかはあまり構ってくれなかった。
「だってなっち、ヒマなんだよ。」
呟きながらしぶしぶソファに戻ったなつみがパラパラと雑誌をめくっていると、
来客を伝えるインターフォンがなる。
「あ、圭ちゃんたち来たよ。ホラなっち、出番。下のドア開けてあげて。
数分後、玄関のドアが騒がしくなった。なつみが圭と真希を出迎えている。
「なっち、おめでと〜〜〜。」
「ありがと〜〜。」
はしゃぎながら外履きを脱ぎ、玄関からこちらへ向かってくる様子が、
キッチンにいるさやかにもはっきり伝わった。
「おっす、さやか。」
「圭ちゃん、後藤、おっす。いらっしゃい。」
2人の後に続いてリビングに戻ってきたなつみは、おおきな花束を
抱えている。
「見て、これ。すごくない?」
「2人にもらったの?」
「うん。すっごいいいにおい。さっそく花瓶に入れちゃお。
さやか、花瓶どこ?」
さやかが花瓶の場所を教えると、なつみは楽しそうにリビングを出ていった。
「圭ちゃん、後藤。ありがとね、花。すごいきれい。」
「うん。てゆうか、あんたにじゃないから。」
圭は持参した飲み物をさやかに渡すと、笑ってソファに座った。
しばらくの間ソファにすわり、なつみと談笑しつつ渇いたのどを
潤していた圭と真希は、顔を見合わせるとどちらともなく立ち上がった。
「さってと。そろそろ手伝いますか。」
少し残念そうな顔をするなつみに微笑むと、2人はさやかのいるキッチンへ
と入った。
「さやかー。何すればいーい?」
「うーん、圭ちゃんはとりあえず、野菜切って。肉はあたしがやるから、
肉好きのこのあたしが。」
「オッケー。」
「市井ちゃん、あたしは?」
「そうさな。後藤はとりあえず、なっち連れて映画でも行ってこい。」
「え。映画?」
「ああ、そうだ。近くに映画館あるし、これから部屋のセッティングも
しないといけないからな。ホラ、これ持ってけ。」
と、言うとさやかは丸めた5千円札を真希の手に握らせた。
「う、うん。わかった。」
「終ったら必ず電話しろよ。あ、あと、あんまり飲み食いするんじゃねえぞ。
そのあとバーベキューなんだから。わかったな。」
「‥はい。」
とまどうなつみを真希が連れ出してから約3時間。まだまだ日射しの強い
テラスには、備え付けのパラソルがついた白い大きなテーブルと、
それに組んだ椅子が6つ。バーベキューセットをその脇に置いて、まわり
には家中から集めてきた椅子を配置した。
「ふいー。こんなもんか?」
テラスをざっと見渡すと、さやかは額の汗をぬぐった。
これだけあれば、不自由しないだろう。全員がすわる事は無理だとしても、
どうせ立食パーティーのようなかたちになるのだろうし、要は疲れた時
に座れればいいのだ。部屋の中に入ってもらってもいいし、人工芝なので
直接腰を下ろしても、服はそれほど汚れないはずだ。
圭はオープンキッチンで、えんえんと大量の野菜を準備していた。
ひとしきり切り終えたところで一息つこうと顔をあげると、午後の
強い日射しの中、テラスで汗だくになって動くさやかが見える。
いつになく真剣な顔のさやか。普段は割と調子の良いところも
ある彼女が、あんな表情を見せる事は少ない。
「愛ですなあ。」
呟いて缶のカルピスを冷蔵庫から一本取り出した。栓を開けて
ゴクリと飲んでから、圭は数時間後になつみが手にするだろうプレゼント
の事を考えた。自分が貰うわけでもないのに、その事を考えると
圭もなんだか嬉しかった。
ピンポーン-------
もうひとがんばり。圭が切り終えた野菜を皿に盛り付けていると、
インターフォンが鳴った。
「さやかー。誰か来たよ−。」
圭はあわててまだテラスにいるさやかを呼ぶ。
「あー。そこにモニターあるから、ドア開けてあげてー。*9で
開くからー。」
さやかはバーベキューセットに炭を入れている。軍手をせずにやって
いるため、手がよごれて受話器をとれないようだ。カウンター脇の
来客用モニターを窓の外から指差して圭に指示する。
「オッケー。」
モニターの電源を入れると、マンションの玄関前に立つ圭織と真里
の姿が映った。
「もしもーし。あたし圭。いらっしゃーい。」
「あー、圭ちゃん。カオリ。カオリ。早く開けて。暑いよ〜。」
受話器越しに、機械を通した圭織の声はかすれて届く。
「はいはい。ちょっと待ってね。*9っと。」
しばらく経つと、玄関の呼び鈴がなった。
相変わらず手の離せないさやかに代わって、これまた圭がロックを外す。
「いえーい、圭ちゃん。早いね〜。もう来てたの?」
決して狭くはない玄関をふさぐようにして入ってきた圭織が、ビールを
手渡しながら圭に言った。
「うん。さやか一人じゃ大変だと思ってさ。早めにきて手伝ってた。
あ、矢口も。いらっしゃい。」
「いよう、圭ちゃん。えらいねー。はい、矢口からはコレ。」
「お。ワインクーラー。いいね。飲みやすいし。」
「てゆーか、はい。圭ちゃんに渡していいんだよね?」
大きなサンダルを脱ぎおえると、真里が財布から千円札を2枚出して言った。
「うん。一応、裕ちゃんが今のところ立て替えといてくれてるんだけど。
とりあえずじゃあ、あたしが預かっとく。」
圭織からもお金を受け取った圭は2人をリビングに招き入れ、
ソファに座るよう促した。
白い皮のソファに2人が腰を下ろすと、さやかが窓を開けて入ってきた。
クーラーが効いてほどよく冷えた室内に、外の熱気がむっと入り込む。
それを最小限に抑えようと手早くサッシを閉めてさやかが言った。
「ういーす。お2人さん。暑いなかご苦労様。何か冷たいものでも
いかが。」
「カオリ、水でいい。」
「矢口、麦茶!ある?」
「あるよん。圭ちゃん、おねがい。」
さやかは自分の手のひらを見せて圭に言った。
「はいはい。グラス、どこ?」
「そこ。」
さやかはカウンターの上に位置する棚を顎でさして言った。
「ねー、なっちは?」」
出された麦茶を飲んで真里がたずねた。
キョロキョロあたりを見回していた圭織も、そうそう、と言いながら
立ったままのさやかを見る。
「後藤と一緒に映画見に行ってる。その間に準備しようと思って。」
「あたしもそっちの役目が良かったよ。ただで映画見れてさ。」
さんざんさやかにこき使われたといわんばかりの圭が口をはさむ。
さやかは笑って、感謝してます、と言った。
「なんだ。準備大変なんなら、カオリも手伝ったのに。」
「うん。でも大体終ってるんだ。さやかの方はどう?」
「ばっちりスよ。」
「こっちもそう。あとは盛り付けるだけ。」
「じゃ、カオリ達がやるよ。圭ちゃん、ちょっと休んでな。」
圭織の言葉に、真里もうんうん、と頷く。
「じゃあさ、あたしちょっとシャワー浴びてきていい?なんか、
汗だくになっちゃって。」
申し訳なさそうに聞くさやかに、圭が言う。
「そうだよ、さやか。ちょっとシャワー浴びてきな。真っ黒だよ
あんた。」
「いいなー。ゴン黒。うらやますぃー☆」
真里の冗談に笑って返した後、さやかは自分がシャワーを浴びている
間の事を、3人に細かく指図した。
「じゃ、圭ちゃん、誰か来たらよろしくね。*9。あと、携帯。
ここ置いとくね。たぶん後藤からかかってくると思うから。誰か出といて。」
3人がそれぞれ了解するのを見ると、さやかはバスルーム
へと向かっていった。
濡れた髪をごしごしふきながらさやかがリビングに戻ってくると、
招待したメンバーはあらかた揃っていた。思い思いのドリンク
を手にし、あちこちで話に花を咲かせている。
「毎日暑いねー。」
「招待ありがとう。」
「夏休み、どう?」
など、現れたさやかを見つけると口々に尋ねてきた。
知らない内ににぎやかになっていた部屋に、多少動揺していた
さやかは、ソファから圭に声をかけられて我に帰った。
「いまさっき後藤から電話があったよ。もうすぐ着くってさ。
あと10分くらいじゃん?」
「お姫様、もうすぐとうちゃく〜。さあ、これからが勝負だいちいさやか!」
誰かがふざけて叫ぶ声に苦笑しながら窓の外に目をやると、テラスの準備
はすっかり整っている。
ビールの缶を手に、壁に寄り掛かる真里と圭織を部屋の隅の方にみつけ、
目でサンキューと合図を送る。と、小さく大きい2人は笑いながら首を
横にふった。
さやかは肩にかけていたバスタオルを自室の机にかけると、すぐに
テラスへと戻った。バーベキューの火加減を見る為だ。セットの蓋を開くと
炭はほどよく熱され、まわりのタールをすっかり落としている。
準備ばんたん。まだ家族が家にいた頃、父親がバーベキューを
取り仕切るのをいつも横で見ていたさやかは思った。
一歩進む度にまわりからかかる声を愛想よくあしらいながら、さやかは
皿に盛り付けられた材料を外のテーブルに準備するため、キッチンと
テラスを何度も往復していた。すると、一体今日何度めになるのか
わからないインターフォンが鳴った。
真希となつみだ、皆が少し緊張する。皆の視線の中、さやかはモニター
に映る2人を確認すると無言でふりかえって、全員テラスに出るようにと
合図する。
「はい。」
ひと呼吸おいて受話器をとったさやかは、すぐにロックを解除した。
受話器を置いてすぐ、さやかはテラスに走り、準備してあったクラッカー
を全員にいきわたらせた。
テラスで待機していた招待客はカーテンが開かれるとともに
ハッピーバースデイトゥーユー、と歌いだす。最後の旋律が終るか終らないか
のうちに、クラッカーをパン、パン、と派手に鳴らし、口々に祝いの言葉
をさけんだ。ひとしきり続いた破裂音の洪水が静まると、なつみはさやか
の腕を抱きしめ、おどけて眉をしかめて見せた。
そこへ、先程さやかから渡されたクラッカーを、最後にひとつ
真希が鳴らすと、一瞬なつみは驚いた顔をしたが、脇で得意げに口を
歪めるさやかと目が合うと、さも楽しそうにアハハと笑った。
「えっと。今日はみんな、なっちの誕生日に来てくれて、ありがとう。
こんなにいっぱいの人にお祝いしてもらって、なっちは本当にしあわせ
です。準備をしてくれた圭ちゃん、真希、ありがとう。」
「ちょっとー。うちらも手伝ったんだけどー?」
わざと不満げに言う真里と圭織にも、笑顔でありがとうと言った。
「それから、さやか。ほんとにありがとね。さやかの誕生日、なっち
倍にして返すからね。」
みんながなつみの言葉に聞き入るなかひとり材料を焼いていた
さやかは、振り向いて親指と人指し指とでオーケーのサインを作ると
大きな声で言った。
「みなさーん、そろそろ焼けてますよー。お肉が食べたいおともだち〜。」
その声を合図に、全員が皿とフォークを持って立ち上がった。
太陽がいちばん遠くのビルの向こうに消えて、そろそろまわりの建物
に明かりが灯り始めた頃になっても、集まったメンバーの食欲は
依然衰えない。酔いがまわってはしゃぎだす者もちらほら出てくる
中で、さやかはバーベキューセットの周りにあつまる仲間のために
せっせと肉を焼いていた。時おり気を遣った圭が手伝いを申し出たが、
今日のホスト、さやかは笑って断わった。
とりあえず今まで焼いていた分を皆に行き渡らせ、次回の分の
肉と野菜を網の上にならべながら、ふう。と息をひとつを吐いた
さやかは、すぐ脇に置いておいた自分のビールへと手をのばした。
「裕ちゃんの分、とっておかなくっちゃ。早くしないとなくなっちゃうよ。」
そんなことを考えつつビールをひとくち飲んだところへ、それまで
様々の場所で咲いている話の輪をひとつひとつまわっていたなつみ
がやってきた。
「さやか。お疲れさま。ちゃんと食べてる?」
なつみはいちごのダイキリを片手に微笑み、さやかの横にならぶように
して屈んだ。
「うん。焼きながら食べれるから平気。おいしいもんはあたしが
一番さきに食べてるモン。それよりなっち、楽しい?」
普段は目立ちたがるさやかが、今日は自分の為に影の仕事に徹している。
自分に対するさやかの愛を改めて確認したなつみの胸は、まるで見えない
手に掴まれたようにつんとした。
「さいこう。」
と言ってなつみは素早くさやかの頬に口付けると、自分を呼ぶ声の
方に走っていった。
「酔ってるのかな。」
唇の感触が残る頬に手をやりながら、さやかは珍しく人目を憚らない
なつみの行動に少しぼうっとしていたが、ハッと我に帰って
ぷるぷると頭を振った。気がつくと網の上のとうもろこしが少し
焦げている。あわてて裏返すと、リビングで数人と共に寛いでいた
圭が声をかけた。
「裕ちゃん来たよー。下のドア、開けておいたから。」
「あー、サンキュー。ついでに玄関も開けてあげて。今あたし
手が離せないから。」
「オッケー。」
圭はサッシを閉めるとすぐに、玄関に裕子が到着したのか、廊下の方へと
向かっていった。
「おっさん。いいもん入ってますか。」
程なくして、皿を持った裕子がさやかの側に現れた。
持っていた皿を手渡すと、さやかのすぐ側の椅子に腰を下ろす。
「裕ちゃん、遅かったね。もう少しでなくなっちゃうとこだったよ。」
「あー、仕事やってん。ほんま土曜日やのに、きっついわー。
あー、ビールうま。」
焼けているもの中から、さやかが適当に見繕った物を皿に乗せて
持っていくと、上目遣いで裕子が言った。
「ほんま、あんた。後ろから見たらおっさんやで?花の女子高生とは
思われへんわ。」
「いいの。今日は。あ、昨日はありがとね。」
「ええねんて。いつでも言い。」
年は離れているが、気さくな裕子のキャラクターは誰からも慕われる。
仕事や自分のプライベートの付き合いで忙しいはずなのに、さやか達
の誘いにも、大抵顔を出してくれた。
「おーい。裕ちゃーん。」
そんな裕子をいつまでも一人占めしていられないのは当然で、すぐに
他のグループからお呼びがかかってしまった。
「あ、呼ばれてもうたわ。ほいだらな。自分もいい加減にして、
少しは休み。」
はいはい、今行きますよー。と言いながら、裕子は声のほうへ
歩いていった。
ふうーっ。さやかは立ち上がって体をのばすと、腰をとんとんたたいて
空を見上げた。すっかり夜の帳は降りている。向こうには60階建て
のビルが煌めいていた。その奥は新宿。昼間の熱気のせいで
空にスモッグがかかりすこしぼやけていたが、それら人工の景色は
十分美しかった。
今日4本目のビールを空けながら大方片付いた食料を見て、簡単に
後始末をする。空いた食器をかたそうと部屋へ入ると、圭が気付いて
手伝ってくれた。
その場にいるみんなの顔が赤い。みんなそれぞれ楽しんだようだ。
よかった。簡単に洗い物をしながらふとテラスを見遣ると、ほろ酔いに
なった裕子に抱きつかれて、困りながらも笑っているなつみがいた。
そんな2人を微笑ましく眺めていると、圭が尋ねてきた。
「ねえ。思ったんだけどさー。ああいうのはいいわけ?」
「え?なっちと裕ちゃん?うーん、そりゃ時々はまてまてまてー!
って思う時もあるけどさ。でもあんまり気にならない。なっち楽しそうだし。」
「じゃ、裕ちゃん以外の人だったら?」
「ダメ。決まってんじゃん。考えただけでも殺したいね。」
「そういう人、いるわけ?」
「いや、いないけど。裕ちゃんは、まあオトナだし。うちらの関係知ってて
やってるんだから。べつにいいっすよ。ヤっすけどね。」
「どっちよ。」
「いや、いいよ。わかってるもん。裕ちゃん本気じゃないって。」
「はい、みなさ〜ん。ちょっと集まって〜。」
窓を少し開けた真里が、小さな体で大きく言った。
水を止め手を拭くと、さやかと圭はほとんど片付いたキッチンを出て、
テラスへと急いだ。
テラスにはみんなが集まっていた。何ごとかと不思議に思い圭の顔を
みると、なにやら彼女もにやにや笑っている。見つけたなつみの顔は、
自分と同じようにわけのわからぬ様子をしていた。そこにいる全員の顔
からするに、何も知らないのはどうやら自分となつみだけのようだ。
「は〜い。プレゼントタイム〜。いえ〜い。」
おもむろに立ち上がった圭織が、中心に進みなつみを手招きする。
依然不思議そうにしているなつみが自分の元にくると、圭織は満足げに
後ろ手に持っていた封筒を胸の前にかざした。
「はい。みんなから。」
そう言って手渡された封筒を開いたなつみは
「うっそ‥!」
と言って中身を確認し、興味ぶかげなさやかの目を、自分の目も
丸くしながら見つめる。
「なに?なんなの?」
いぶかって尋ねるさやかに、喜色満面の圭織が言った。
気が着けば、集まったメンバー全員が圭織と同じような顔をしてさやかの
動向を伺っている。
「じゃ〜ん。えっとぉ〜、箱根の旅・2泊3日、2名様ご宿泊け〜ん。」
一瞬事態が飲み込めないさやかに、まわりがヤジをとばす。
「よ。しあわせもの!」
「愛しあってる、2人!!」
「ヒュー、ヒューだよ☆アツイ、アツイ☆」
ようやく状況を把握したさやかが顔をぐにゃぐにゃにして悲鳴をあげた。
「まじっすか〜〜!!!」
圭を見てほんと?と確認するさやかに、圭は笑いながら3度頷く。
それを見て矢口が言う。
「圭ちゃんが考えたんだよ!」
再び、圭をみたさやかとなつみに、圭は少し照れたように言った。
「いや。思い付いたのはあたしだけど、ほとんど裕ちゃんが
やってくれたんだよ。予約とか、いろいろ。足りない分、出してくれたし。」
「ステキっ!」
さやかは圭に抱きついた。
なつみは裕子に抱きついている。
「ん〜。」
なつみにキスする振りをしてから裕子が皆の方を見て言った。
「はいはい、みんな。もう夜も遅いしお開きやで。電車なくなるまでに
帰り。今日は大勢やしお酒も入ってるから、裕ちゃん送ったったれ
へんで。」
その言葉でパーティーは開き、みんなそれぞれかえり支度を始めた。
裕子がまた言う。
「寄り道せんと帰んねんで。なんかあったら全部成人しとー
裕ちゃんの責任になるからな。」
口々に返事をして、みんなはぞろぞろと帰って行った。
真希も圭織も真里も、それぞれ同じ方面の仲間と一緒に帰って
行ったが、ただひとり裕子と家が近い圭だけは、酔いの抜けるのを待って
裕子の車で送ってもらう事になった。
皆が帰って、やけに広々と寂しく感じるリビングで、残された
4人はすっかり話し込んでいた。ずっと肉を焼いていた為にすっかり匂い
が体についてしまったさやかは先程、今日2度目のシャワーを浴びて
髪を乾かすと、疲れた。と言ってソファの隣にすわるなつみの膝に
頭を乗せてしまった。
「おいおい。お二人さんよう。」
裕子がつっこむと、なつみは、ん?というふうに膝の上のさやかの
顔を覗き込んだが、当のさやかはえへへへ。と笑ってみせるばかりで
決して動こうとはしない。
「まあ、ええか。さやかは今日がんばったしな。」
裕子は仕方がないと言いたげな顔でぼやいた。
しばらくするとよほど疲れていたのか、さやかは寝息を立て始めた。
「あ、さやか寝ちゃったみたい。」
ほんとだ。初めに圭が気付き、他の2人もさやかの顔を覗く。
「やだ。さやか、一度寝ちゃうとなかなか起きないんだもん。」
「ま、寝かせといてやり。今日はなっちの為にそうとうがんばったんやで。」
「そうそう。今日のさやか、働きっぱなしの立ちっぱなしなんだよね。」
そんな圭と裕子の言葉に、本当は体裁を整える為に言っただけのなつみは、
照れながらも素直に頷いた。
「なっちゃん、今日は楽しかった?」
なんとなく3人の会話が途切れた時に圭が聞いた。
なんの気なしにさやかの髪に指を埋め、もてあそんでいたなつみ
が圭を見て応える。
「すごく、楽しかったよ。プレゼントも、ほんと。ありがとう。」
「いや、あたしはほんと。なんにもしてないよ。さやかと裕ちゃん
とみんなにお礼言って。」
自分が誉められる事に対してとても繊細な圭が、照れ隠しに烏龍茶
の入ったグラスを手にとりながら言う。
「そんなことないでー。圭ちゃん、野菜とかほとんど一人で切って
たんやろう。真里がゆっとったで。ま、あたしかてけっこう
がんばってんけどなー。」
おどけて言う裕子と謙遜する圭に、なつみは改めてありがとう
と言った。
「ま、あんたに対するさやかの気持ち見てたらなー。助けてあげた
なんねんね、いかんせん。」
わざと拗ねたような口調で横を向きながら言う裕子に、圭があいづち
を打った。
「そうそう。さやか、ほんっとに愛してるよ、なっちゃんの事。
さやかってさー、あんまり、なんていうの執着しない、てゆうか
見せないじゃん?他人に。そういうの。」
うん、うん、と頷く2人に圭は続けた。
「でもさー、いっつもなっちゃんの事になると、超真剣。もうほんと。
みてらんない程、ってゆうか。今日も外あっついのに、1人でがんばって
椅子とかならべてたしさー。」
「そうなんだ‥。」
なつみはいかにも驚いたような声を出したが、本当は知っていた。
さやかがどれだけ自分を好きで、また、どれだけ自分に対して一生懸命に
なっているか。もちろん滑稽なのはお互い様で、自分が実はどれだけ
さやかに執着しているか、圭も裕子も、そして当のさやかでさえも
知らない。なつみはふと、この2人にはその事を告白してしまおうか
という衝動にかられたが、少し考えてやはりやめた。自分の内側にしまって
おいた方が、こういう事はいいのだ。なんとなくそう思った。
さやかが起きるから、となつみの見送りを遠慮した裕子と
圭が帰ってから、なつみは自分の膝の上で規則正しい
寝息をたてるさやかの顔をじっと眺めていた。眠るさやかの
顔は減らず口を叩かず無表情なだけに、より端正に見える。
ふと、悪戯心が持ち上がり頬を軽く抓ると、大きく息をついて
さやかが目を醒ました。
「ん‥。なっち。まだ寝ないの‥?」
手のひらで顔をこすりながら、寝惚けた口調でさやかが言う。
「さやかがそこで寝てるから、動けなかったんだよ?」
くすくす笑いながらなつみは応えた。
「あれ‥、裕ちゃんと圭ちゃんは‥?」
「アナタがぐっすり眠ってる間に、とっくに帰りました。」
「ふぅん‥。ん‥。じゃあ、なんでなっちはまだ起きてるの‥?」
なつみは、すぐにも再び眠りに落ちていきそうなさやかに
堪え切れず吹き出した。
「だから、あんたがそこで寝てるからだってば。」
そのままさやかの顔を抱きしめると、アハハと笑った。
−おわり−
とても静かだった。
絶え間ない蝉の声に遠方で続く建設工事の音が混じって
とうとう一定の旋律となったそれは、ぴったりと閉じた窓のわずかな
隙間を確実について入り込む。室内ではクーラーが低いエンジン音
を立て続け、つけ放しの大きなテレビからは高校野球を中継する乾いた
音が響いていた。
静かだ------------。ひとつひとつの音が互いに溶け合い、もはや
柔らかな周波となって満ちる部屋でさやかは思った。少し前まで
確かに経過を追っていたはずの野球の試合は、すでに状況を把握
できずに久しい。そもそもこれはさっきまで見ていたものと同じ
ゲームなのか。
ふいに不安になって頭上に目を遣ると、先程食べたそうめんのつゆが残る
丸いガラスの器が、これまたガラス製の背が低いリビングテーブルの上で
裏返しに目に入り、その向こうにはソファで膝を組んだなつみが雑誌を
めくっているのが見えた。
「甲子園、今どっちが勝ってんの?」
興味のない野球の中継をなつみが気にしているはずもない、とは
わかっていたが、いつの間にまどろんでいた気恥ずかしさをかき消す
為の、声をかける何か適当な口実が欲しかった。
夏休みに入ってからというもの、なつみは特別な用事がある日以外
ほとんど毎日さやかの家で過ごしている。なつみの親が心配しないようにと
随分気を遣っていたが、やはり家族のいない家でひとり過ごすことが
多いさやかにとって、それはまるで新しい家族が増えたように思えて
嬉しかった。そのことを知っているなつみの両親も、毎日とまでは
いかなくとも大分多い娘の外泊をさやかの家に限っては大目にみてくれていた。
「え、わかんないよ。見てないもん。出てるでしょ?画面に。スコアが。」
あたり前の事をあたり前に返される。
うん、と言ってテーブルの下をくぐり、座るなつみの足元に移動した。
上体を起こしてソファに体を凭せかけると、頭をスライドさせて
なつみの腿の側面に自分の鼻を押し付ける。ピンク色のスカートの、
薄く柔らかい生地が肌に心地いい。すーっと深く吸い込んだ息を
ため息と共に吐き出して、そのまま額を擦り付けた。
「ちょっと。何やってんの。」
呟くように言うとなつみは、雑誌から目を離すふうでもなく、さやかの頭を
軽く払った。
「たいくつ〜。なんだけど。」
さやかの言葉にようやく読んでいたページを諦めたなつみは、雑誌を
膝に置いてさやかを見下ろす。
「そんなにヒマなら、食器洗ったら?さやかが言ったんでしょ、
自分が後片付けするって。」
そういうとなつみはさやかの髪に指を入れ、無造作にかき回した。
既に目は先程の雑誌に注がれている。さやかはしばらくされるまま
にしていたが、わかってるようと言った後、勢いをつけて体を持ち上げ、
なつみの腕の中へ入り込むように自分もソファの隣に座ると、頭を
そのままなつみの肩にのせた。
「なに?今日はずいぶん甘えん坊だねー。」
微笑んで問うなつみの言葉には何も答えず、逆に自分もなつみが
開いていたページに目を遣ると、さやかは聞いた。
「なに読んでるの。」
なつみは、行動とは裏腹に横柄なさやかの態度がおかしくて思わず
微笑んだが、すぐに自分も雑誌に目を落として答える。
「うーん。箱根行くとき、どういう服を着てこうかなー。と思って。」
箱根、と聞いて気を良くしたさやかは、少し考えて見せたが
すぐ思い付いたように目を輝かせて言った。
「ワンピースにしなよ。あの白いやつ。」
「あの、ノースリーブの?」
「そう。あたしあれ超すき!かわいいじゃん!!」
「あれねー。うーん‥。てゆうかほんとは薄い水色なの。」
ほんの少し上品なかんじに惹かれたそのワンピースは夏の初めに
買ったもので、ほんとうはなつみもすごく気に入っているのだが、
うって代わって極端にはしゃぎだしたさやかの前にすこし意地悪
を言ってみたくなった。
「えー。でもあれー、汚れちゃったらやだしー。」
なつみも同意するものと信じて疑わなかったさやかは、からかわれていると
知らず真剣に反論する。が、大して深刻でも無いような理由をあれこれと
つけてははぐらかそうとするなつみに焦れ、とうとうさやかは
「アレ超かわいいのに!!」
と言って口をとがらせてしまった。
そんなさやかにたまらず吹き出したなつみがさやかの目を満足気に
覗き込みながら笑って言う。
「冗談。もともと着てくつもり。」
「じょうだん‥?」
まだ事態が呑み込めないさやかが目をぱちくりさせる。
「だってさやかかわいいんだもん。真剣になっちゃってさ。」
いたずらっぽく言われてようやくからかわれていた事に気づいた。
「もーーーーう!!!」
さやかは破顔してなつみに抱きつくと、その勢いにまかせて押し倒し
そのままなつみにくちづけた。
いったん顔を離したさやかが、腕の中で笑うなつみを睨んで言う。
「だましたね〜〜〜!?」
不機嫌そうに眉をしかめた顔はしかし、どこか楽しそうだ。
しばらくさやかのされるがままになっていたなつみは、笑いながら
くちびるを塞がれていた為に息を弾ませている。
そのなつみが笑いすぎた目に涙をいっぱい溜めて言った。
「だってさやか。すっごい真剣になってるんだもん。」
「うるしぇいな。」
拗ねた口調で言ったさやかが、なつみの耳にくちづける。
「超おっかしー。」
さんざん笑われてなお、今もまだ自分の下で笑うなつみ。
つられてさやかも爆笑して、今度は鎖骨にくちづけた。
お互いの笑いがおさまってからもしばらく、さやかは抱きついた
格好のまま、なつみの胸に頭を預けていた。おそらくは自分の鼓動
が聞こえているであろうさやかに、なつみが話し掛ける。
「ねえさやか。髪のびたね。」
先程自分がかき回したあと、乱れたままだったさやかの髪を
なつみはそっと整えてやった。
「うん。‥てゆーか、超おもしろい。今なっちの声すごかったよ。」
胸に耳を当てている為、声帯の反動が直接伝わるのだろう。興味を持った
さやかはなつみを促す。
「ね、あー。って言って。ちょっと言って。」
「あーーー。ねえ、髪のびてるってば。美容院いった方がいいよ。」
「ちょう、おもしれー。」
前髪などあちこち触るなつみに、さやかは突然思いついた。
「じゃあさ、なっちが切ってよ。」
思いがけない一言になつみは当然戸惑った。が、一度他人の髪の毛を
切ってみたい、とはなつみもふつうに思っていた。
「だってなっち、しろうとだよ?失敗するかも‥。いいの?」
「いいよ。ちょっとくらい。別に気にしない。ワックスつければ
わかんないって。でもやばいと思ったらそこでやめてね。
美容院いくから。」
簡単に言ってのけるさやかにはやる心を抑え、なつみはもう一度
確認する。
「ほんとに?ほんっとうにいいの?じゃ、やるよ?」
「いいってば。でもわざと失敗するのとかはやめてね。」
ちょっとがんばってみる。というなつみの言葉に、さやかは
ワクワクして、いてもたってもいられなくなった。
「じゃ、やろう!今すぐやろう!!」
「その前に。」
なつみは言った。
「お皿、洗っちゃって。約束でしょ?」
胸の前で手を組んで言うなつみに、さやかはしぶしぶ返事をする。
「じゃ、さやかが洗ってる間に、なっちは準備しといてあげるからね。」
ね?となつみは楽しそうに言ってさやかにハサミの場所をたずねた。
さやかは水道を止めて、ふやけて少し白くなった手を拭いた。
リビングにはすでに新聞紙が数枚敷かれ、その中央にはぽつんと
キッチン用の椅子がひとつ置かれている。ガラスのテーブルの
上に大きなステンレスのハサミを置いたあと、先程からどこかへ姿を
消していたなつみを探しに部屋をひとつひとつ開けて歩くと、
なつみはさやかの部屋の鏡の前で立っていた。
「ちょっと〜。人のもん勝手に着ないでよねー。」
鏡のなかのなつみに目を合わせ、さやかはわざと口をとがらせて
言った。クローゼットに入っていたはずのT−シャツと短パン姿で
上目遣いのなつみがにっこりと笑う。
「だって今日の服、毛がついたら落とすの大変そうだしー。
いいじゃん。てゆーかほんとは全然気にしてないくせに☆」
いわゆるひとつのポーズだった言葉をあっさり見破って笑ってから
また鏡に向き直るなつみにさやかは呟いた。
「よくわかるね。」
ベッドの上にはこれまたなつみが引っ張り出した、しかも既に
試着した後とわかるさやかの部屋着が他にも数着おかれてあり、
壁にはピンクのスカートと黒いキャミソールがしっかりハンガーに
掛かって吊るされている。それらに対しさやかは少し大袈裟めに
閉口した素振りをみせた後、ふたたびなつみに目を戻した。
「いいけどなんでそんなずっと鏡見てるわけ?べつにいいじゃん。
そんなの。なんだって。」
チラチラと数回角度を変えては熱心に目の前の姿見を覗き込むなつみに
さやかはデスクの椅子を引いて、よいしょ。と腰掛けた。
「うーん、なんていうの?やっぱり。好きな人の前では?いつでも
キレイでいたい?ミタイナ?」
軽く言うなつみに、さやかも負けじと返す。
「べっつに。T−シャツと短パンじゃん。てゆうか『ミタイナ』‥。
どうかと思うよ。」
「やっぱり?」
と、言ってぎゅっと目を閉じて見せたなつみは、
でも、そうなの。とさやかに聞こえないよう、今度は声を出さずに
言った。
どうやら納得したらしいなつみの様子を見てさやかが立ち上がると
なつみは、こっち。とさやかの手をとった。リビングとは反対方向に
進むなつみに、手をひかれるさやかが問う。
「だって。先に頭濡らさないとでしょ?」
ああ、と納得するさやかに、なつみは続けた。
「超大サービス。なっちがシャンプーしてあげる。」
「熱い?」
蛇口を捻ったなつみがさやかの頭にシャワーあてながら聞く。
「大丈夫。気持ちいい。」
服を着たままでさやかは浴槽のへりに首をのせて目を閉じていた。
「さやか、Tーシャツすこし濡れちゃうかもしれないけど‥、ってゆってたら
さっそく少しかかっちゃったよ。ごめんね。」
「うん。いいよ。夏だし。」
直接陽は当たらないとはいえ、夏の午後のバスルームはそれでも
程よく明るい。既に屋外で何度か照り返した後、さらにすりガラスを
透過することで、窓の外でぎんぎらぎんの日射しがさりげないものに
変わっていた。そのやわらかな光をふんだんに吸収した水色のタイルが、
ひっそりと淡い光を放つこの空間において現在シャカシャカとさやかの
髪をなつみが洗う音以外に何も聞こえない。
やさしく揺らされる振動に、少しぼうっとする頭でさやかは考えた。
じっさい今この瞬間にも世界には他者が存在し、ましてや息をし活動
していることなどすべては嘘に違いない。その証拠に先程までひどく
うるさかったセミの声はどうだ?聞こえないではないか。このところ
ずっと続いているビル工事の音にしたってそうだ。間違いない。今世界
にはなつみと自分だけか。
そうと確信したさやかは、同時にこの時間が永遠には続かないという
ことも知っていた。世界から隔絶されたこの薄青いバスルームを出れば、
すべては元に戻るのだろう。
あ。無人島に行けば平気かな。
そうだよなっち、無人島行こう。行こうよ。
そこまで考えてそっと目を開けると、目の前になつみの喉元があった。
普段は飽くまで白いそれが、少し上気しているのか今はかすかにピンク
がかって見える。そこに透けて見える青い血管が例えようもないくらい
に美しくて、しばらくさやかは見とれていたが、なつみがこちらを向く
気配を一瞬はやく察知すると、あわてて再び目を閉じた。
「はい。じゃあこっち向いて。頭の後ろ流すよ。」
程なくしてなつみが言う。どうやらあれこれ考えている間に随分時間が
経ったようだ。とうとう終わりが近いこの世界にさやかは試しにひとつ
ため息をついてみたが、やはり何も起こらない。
「首がいたい。」
と、さすって素直に体の向きを変えた。
トリートメントまできちんと終えてバスルームを出ると、2人の服には
だいぶ水がかかっていた。洗濯機の上にある備え付けの白い棚から、
さやかは黄色いバスタオルをなつみに一枚とりだしてやって、自分も
今朝つかった後すぐ側に掛けておいた青いタオルで体を拭いた。
「ちょっと待って。着替え持って来る。」
そう言ってさやかはバスルームを後にした。
先程なつみが引っ張り出した物の中からさやかが適当に選んだ服に
それぞれ着替えて二人はリビングに戻った。濡れたあとに冷房の
効いた部屋はなつみが寒いと言うので、クーラーを切ったさやかが
ほんの少しためらってサッシを開けると、室外の熱気と騒音が一気に
室内を満たした。ついに自分達との関わりを完全に取り戻してしまった
外界をさやかが眺めているところへ、なつみもやってきて体を暖めた。
「うるさいね。」
依然続くセミの声と工事の騒音、さらに窓を開けたことによってますます
多様になった音に、日射しの中へ腕を差し出して、なんの気なしに
なつみが言う。
「‥そうだね。」
さやかはもういちどあたりを眺めなおして返事をした。
しばらくしてソファに座り、新しく注いだ麦茶を飲むさやかに、
なつみも戻ってきて隣に腰をおろした。
「あ。また自分だけ飲んでー。なんでなっちにはいれてくれないのー?」
といってなつみは不満そうに頬を膨らます。
「だって寒いって言ってたからいいのかと思って〜。じゃ、今持って来て
あげるから。」
さやかがキッチンへと立ち上がると、
「やっぱいい。これ一緒に飲むから。」
と言ってなつみはさやかのグラスを手にとると、カランと氷を鳴らせて
一口飲んだ。
ふう。となつみが息をついてさやかを見る。
「ねー、さやかー。なっちちょっと疲れちゃった。髪切るの、
また今度にしよ?ダメ?」
「いいよ。シャンプーしてもらったし。ぜんぜんいい。なんだかんだ言って
あたしもけっこう疲れちゃった。」
そう言って準備された新聞と椅子を元に戻そうとするさやかを
なつみが止める。
「いいじゃん。そのままで。明日切ろうよ。てゆうか切りたいの。」
その言葉に動作を中断してソファに戻ると、満面の笑みを作ったさやかは
またなつみをクッションの上に押さえ込んだ。
「じゃ、今日も泊まってきなよ。」
そんなさやかになつみもわらう。
「えー。ママに怒られちゃう。」
ママ!?さやかが言いかけた瞬間、重厚なバロック音楽がTVから
盛大に鳴り響いた。どうやら野球中継が予定の時間より早く終了し、
残りの時間をうめる為のプログラムが始まったらしい。画面上の映像は
今のところ森と湖だけだが、それらは異国情緒にあふれ、一見した
だけで国外の風景とわかる。間もなくとあるヨーロッパの古城近辺
だという事がわかった。なにげなくそのまま見入っていたうちに、
ため息まじりのなつみが口を開いた。
「きれーい‥。こういう所、すごい行ってみたい。」
自分の腕の中で目を輝かせ、しきりに瞬きをしながらあれこれと
夢を話すなつみはとても可愛らしい。先程世界から完全になつみを
切り離して自分だけの存在にしたいとさやかは願ったが、ほかでもない
その世界が今なつみにこういう顔をさせている。
どうでもいいや。そう思った。
「聞いてるの!?」
さっきからあいまいな相づちしか打たないさやかの態度に気づいた
なつみが少し大きめの声で言ってさやかの腕を揺らした。
「え、うん。聞いてるよ。」
下から自分の目を覗き込むなつみに、さやかは慌てて頷いた。
「じゃあ、さやかはどこに行きたい?」
むじんとう。めずらしくしく臥せ目がちにそう答えるさやかに
なつみは少し首を捻ったが、すぐに元の表情に戻ると愉快そうに
言った。
「無人島ですか。でも、さやかってターザンとかそういうの
似合いそうね。あ〜アあ〜。とか言いそう。」
笑いながら声色をまねるなつみにさやかの頬もゆるむ。
ジェーン。ターザンの恋人の名前。本当はそう思ったがなんだか
照れくさくて言いだせなかった。
「じゃあなっちは、チーター。チーターってかんじ。」
「チーターって、あのサル?絶対ジェーンて来ると思ってたのに。」
サイテ−。と言ってケタケタ笑うなつみは楽しそうである。
−おわり−