午後11時56分。白い封筒に数枚の便せんをしまい終えた少女は、目の前
にある置き時計を止めると、おもむろに椅子を立った。各部屋に常備された
携帯用の光源をクロゼットから取り出し、もう二度と動くことのない時計
をちらりと見下ろす。そのまま今書き終えたばかりの手紙を机の上から手に
とって、早足に部屋を出た。部屋の明かりはそのまま点けておくことにした。
青みがかった照明灯にぼうっと浮かび上がる廊下を、少女はひとり
ぐんぐん進んだ。階段を通りすぎた突き当たりの部屋まで来て足を止め、
手にしていた手紙をドア下の隙間へそっと差し入れる。
完全に手紙が部屋の中へ入ってしまうと、今度は来た道を引き返し階段を
降りてホールへと出た。
誰もいない石のホールは、よく磨かれていて靴音がよく響く。
やけに大きく聞こえる自分の足音を確かめるようにホールを横切っていたが、
途中、階段正面にかけられた旧式の振り子時計が突然重たい音を響かせ始めて、
少し怖くなった少女はとうとう走り出した。
夜の森の覆い被さるような闇の中、手に持ったわずかな光源だけを
頼りに息が切れるのもかまわず走りつづける。湖の上に聳える崖の上に
立った頃には、彼女の額にわずかな汗が浮いていた。弾んだ呼吸を
整えようとランプを置いてその場に佇む。しばらくして少女はだいぶ
落ち着くと、青い月を大きく仰いでそのまま遠くへジャンプした。
斜めに射しこむ早朝の光の為すべてが白く輝くキッチンで、ひとり
圭織は信じられない程に大きい業務用のフライパンと格闘していた。
「いくらカオリに力があるってゆったって‥、こりゃちょっと重い
でしょ、さすがに‥、っと。」
ぶつぶつ文句を言いながらも3つの目玉焼きは型が良く、我ながらかなり
満足の行く出来である。
「あら。カンペキ。」
嬉しそうに言った圭織は紐を引いて勝手口に取り付けられた古い鐘を
ゴンゴン鳴らし、手早く料理を皿に移すと食堂へと運んだ。
圭織が最後にミルク用のグラス出そうとしていたところへ、合図の鐘の音
を聞いて裕子とさやかが入ってきた。圭織の手からグラスを受け取った
裕子が言う。
「おう、かおりん。今日は上手くいったんかい。」
「カオリだってそうそういっつも失敗ばっかじゃないのよ。」
この間の当番の時に作ったオムレツで裏返すのに失敗して、卵料理なし
の朝食を二人に提供したばかりの圭織は得意満面に返したところで
ナプキンを出していなかった事を思い出し、急いでキッチンへ戻った。
胡椒をとろうとして圭織がふと目を上げると、フォークを使ってレタスを
細かくちぎるさやかが目に入った。しばらく見つめていたが、一向に
口に運ぶ気配がない。
「ねえ。おいしくないわけ?」
カチンときた圭織が挑むように言うとさやかは慌てて一口食べて見せた。
「おいしいよ。」
あきらかに無理をして作ったとわかる笑顔で、さやかが答える。
見ると、目玉焼きには手がつけられていなかった。
「さやかが卵の黄身嫌いなの、カオリだって知ってるけどさー。
でも、カオリ、ゆいいつ上手くできるのって目玉焼きだけなんだもん。
しようがないじゃん。」
それを聞いたさやかが卵に手を出そうとするのを、更にイライラした圭織が
ますますキツい口調で遮った。
「無理矢理食べるなんて、いちばんイヤミよね。」
困ってどうしたらいいかわからなくなったさやかをかばって、見兼ねた裕子が
圭織をなだめる。
「今日さやかちょっと、体調わるいねん。」
しかし圭織は返事をしない。黙々と自分の分を口に入れていく。
「ふぅー。」
ため息をついた裕子が隣を見ると、さやかが不安そうに見つめていた。
そんなさやかを見て裕子はふっと頬をゆるめる。
「ほれ。卵こっちよこし。裕ちゃんがたべたるわ。」
陽に照らされて学校をとりまく森がさんさんと輝く午後、湖を少し
過ぎたところにある墓地で、さやかはひとり目の前にある白く小さな墓碑を
見下ろしていた。さやかは黙って何ごとかを考えるようにしていたが、
しばらく経つと一歩後ろに引き、表情の無い顔でポケットから
白い封筒を取り出した。
「関係ないから。」
冷たい視線のまま吐きすてるように言って手紙を破ると、小さな
紙片がひらひらと雪のように舞って、先程さやかが供えた白い
花束の上に積もるように落ちた。
学校に戻ろうと踵を返したところで、さやかは自分を見つめるひとつの
視線に振り返った。墓地の外から一人の少女が自分を見ている。
あれは-----------------。
「‥‥!」
驚いたさやかは一瞬動けなかったが、すぐに自分を取り戻して
フェンスを廻ると、走って彼女に近付いた。
「真希‥?生きてたの‥?」
しばらくさやかの勢いに押されて瞠目していたその少女は、ひと呼吸
置くと怪訝な顔で言う。
「は?マキ?それ、誰?私はなつみ。てゆーか、人に名前聞く前に、
自分が名乗らないっていうのはどうなの?」
不快感を露にしたなつみが聞き返す。
「ごめん。似てるの。すごく。こないだ自殺したコに‥。」
そこまで言うと、ハッとしたようにさやかは口をつぐんだ。
自殺、と聞いてなつみは驚いた顔をする。
「なに、そのマキって言う子?自殺、したの?」
「‥‥。」
はっきり語ろうとしないさやかになつみは、特に興味もなさげに聞いた。
「あなた、学校の生徒でしょ?寮はこっちでいいのよね?」
あまりにも真希に似ているなつみに呆然としているさやかは首を縦に振る
のがやっとだった。
さほど重そうでもないトランクを抱えたなつみはすたすたと歩き出したが、
さやかから10メートル程離れたところでもう一度振り返った。
「さやか。帰ってきたよ。」
確かにそう言った気がした。驚いたさやかがすでに再び歩き出している
なつみを呼び止める。
「今、なんて言ったの?」
振り返ったなつみが眉をしかめる。
「は?べつに何も言ってないけど。」
「なんであたしの名前知ってるの?」
「だって今さやかって言ってたじゃない。」
釈然としないさやかを置いて、なつみはさっさと行ってしまった。
裕子は外の日射しを避けて自室で一人本を読んでいた。解りやすい文章で
書かれたその本は読みやすく、内容も裕子にとって興味あるものだったが、
しばらく読み続けていたのでなにか冷たい物が飲みたくなった。それを
求めてキッチンへと階段を降りていると、ひとりの見知らぬ少女が階段を
上がってくる。荷物を抱えている為、まだこちらには気づいていない。
不審に思った裕子がしばらく様子を眺めていると、気配に気づいたのか
少女は顔を上げた。裕子の顔からさっと血の気がひく。
息をのんだまま見つめる裕子になつみは臆する事もなく近付いて話かける。
「転校生なんだけど。」
「名前は?」
裕子は動揺をさとられぬよう聞いた。
「なつみ。安倍なつみ。」
「あなた、真希とは‥。」
「ふう。また、真希、か。」
なつみは肩を竦めてため息をついた。
「さっきもお墓のところでさやかっていう子に会って言われた。
ここに入る前、もうひとり髪が長い子が花を摘んでたけど、その子
はなっちの顔見たら逃げちゃった。」
「ああ。さやかとカオリやわ。カオリだけ二年生なんよ。」
そこまで言って、裕子は自分のことを少し話した。
「いちおう監督生やねん、ここの。新学期に転入生が一人入るとは
聞いていたけどな。まさか休み中に来るとは思えへんかったわ。」
だめ?と不安そうな顔で聞くなつみに笑顔を見せ、さらに続ける。
「ま、なんとかなるやろ。夏休みやし開いてる部屋どこでも使ってええよ。」
そう言うと裕子は、なつみが部屋を選びやすいようにトランクを持ってやった。
さんざん迷ったあげくなつみは棟の東側に位置する日当たりのよい一人部屋を
選んだ。ずいぶん気に入ったらしく、すでにベッドに腰を下ろしてしまっている
なつみに、トランクを部屋の隅において微笑んだ裕子が問う。
「そんなに気に入ったん、この部屋。」
「うん。なんか。他の部屋より、住んでる人のにおいがしないってゆうか。」
そう答えるなつみに裕子は窓に寄ってあふれるばかりの緑を眺めた。
「ここに住んどった子なあ、こないだ亡くなったんよ。ちょうど
一ヶ月くらい前かな。」
なつみは驚いて眉をひそめた。
「それって‥。例の自殺した真希っていう子?」
「さやかがそうゆうたん?」
呟くように答える裕子は相変わらず窓の外に向かったままで、なつみから
その表情は見えなかった。
「事故や。事故。」
一週間もしないうちに元来明るいなつみは、裕子や圭織とどんどん
打ち解けていった。殊に圭織とはよく気が合うようだ。
「早めに宿題やっとかんと、後からきっついで。」
という裕子の忠告もよそに昼食後にはきまって二人ででかけてしまった。
「ちょっと聞いてよー。今日なっちったらさー。」
夕食時、昼間の出来ごとを楽しそうに報告する二人。どうやら今日は湖でボート
を漕いだようだ。
「あれはー、絶対カオリが悪いんだってば。カオリの左手が強すぎるんだよ。
右利きなのに、絶対ヘン。」
はしゃぐ二人に笑って相槌を打ちながら、隣のさやかを裕子はチラリと
見た。やはり沈んだ顔をしている。真希が死んでからというもの沈みこむ
ことが多くなったさやかだったが、その真希とうりふたつのなつみの存在が
どうやらそれに拍車をかけている。
ある夜、昼間うたた寝をしたせいでなかなか寝つけなかった裕子は、帰省
した友人宛てに手紙を書いていた。
愛は燃えるから消えるのですか。教えて下さい。 by なかざわ
書き終えて「よし。」と頷くと、満足げに顔をあげる。
同室のさやかはすやすやと寝息を立てていた。
椅子に腰掛けたまま紅茶の入ったカップを手に、裕子はしばらくさやかの
寝顔を眺めていた。と、突然夢を見ているのか、さやかが自分の
首をおさえて唸りだした。
「マキ‥、やめてよ‥。手‥離して‥。」
いつまでたっても激しくうなされ続けているさやかに不安になった
裕子は、椅子を立ってさやかを揺り起こした。
「さやか!夢や、夢!しっかりし!」
さやかは一度険しく眉をしかめると、目を開けて辺りを見回した。額には
激しく汗をかいている。
「夢を、見ていた‥。」
自分に言いきかせているともとれる口調で呟く。
「今、何時‥?」
「3時。」
いつまでたっても真希を忘れることのないさやかに苛立ちながら、それでも
裕子は落ち着いた声で答えた。
「3時か‥。うちのおばあちゃんが言ってた。一番人が死ぬ時間なんだってさ。」
「悪趣味やで、自分。ほんま。」
裕子がため息をつくと、突然さやかの目がドアに釘付けになった。大きく
目を見開いたままのさやかが声をあげる。
「部屋の外に、誰かいる!立ってる!」
「そんなわけないやろ。こんな時間やで。」
「いるってば!絶対だれかいるよ!」
ひどく怯えるさやかに軽く舌打ちをして、裕子はドアへ向かった。
「誰もおらへんやん。」
そら見たことかと呟いた裕子がドアを閉めて室内を振り返ると、
あろうことかさやかはベッドに倒れていた。意識を失ったさやかは
先程同様ひどくうなされている。
「なんやねん、自分。」
うろたえた裕子が再び起こそうとした時だった。
「マキ‥、」
と呻いたさやかは息を吸い込むと、そのまま呼吸をしなくなった。
「ちょー。さやか!さやか!」
裕子が叫んでも反応はない。
めくるめく事態のなかにありながら、裕子の判断はしかし冷静だった。
仮死状態にあるさやかが横たわったベッドにつかつかと歩み寄ると、
身をかがめてさやかの顎をもちあげ鼻を押さえる。そのまま口づけると
力を込めて息を吹き込んだ。
どのくらい続けただろうか。裕子の適切な人工呼吸によってなんとか
息を吹き返したさやかは、今は落ち着いてぐっすり眠っている。一気に緊張
が解けて床に腰を下ろした裕子は、向かいの自分のベッドに凭れて天井を
仰いでいた。
「いいかげん忘れたらええやんか。」
ぽつりとつぶやいた。
あの時、ドアの外に確かに立っていた人物がいた。しかしさやかの
危惧した通りの真希ではなく、夜中に目を醒ました圭織だった。いつまで
たっても再び眠りがおとずれないことに対して急に不安になった圭織は、
起きだして二人の部屋を覗いてみたのだ。ドアの下から漏れる明かりに一瞬
心を弾ませた圭織だったが、同時に漏れてくる話し声に自分が入れる
雰囲気ではないと知った。
「ちぇ。カオリはいつもひとりぼっち。」
つまらなそうに呟いた。
「そうだ。なっちのとこ行〜こうっと‥。」
圭織がなつみの部屋を訪ねると、さいわいなつみも起きていた。
「ん、カオリ。どした?」
「うん。目が覚めちゃって。裕ちゃんとさやかのところにも行ったんだけど、
カオリはいつも仲間はずれだから‥。」
「そんなことないよ。」
笑って優しく迎え入れるなつみに、圭織は安心して明るい部屋へと入る。
「なっちも眠れないの?」
すっかりなつみの生活がなじんだ、以前は真希のものだった部屋を見回して
圭織が聞く。どうやらレコードを聞いていたらしく、清潔なベッドの上
にはプレーヤーにつないだヘッドフォンが伸びていた。
「うーん。ちょっと、ね。そうだ。圭織も音楽聞く?」
頷く圭織を見て、なつみはヘッドフォンのプラグを抜いた。
すでになつみのベッドに寝そべっていた圭織が流れだした曲に
驚いて顔をあげる。
「ねえ!この曲、マキが好きだった曲だよ!」
そうなの?となつみは微笑んで自分も圭織の脇に腰を下ろした。
「ねーカオリ。この学校の事もっと教えて。」
そう言うとなつみは圭織にならんで、うつ伏せて枕に肘をついた。
カオリはぽつりぽつりと話しだした。自分がこの学校にいる理由。中庭の
噴水の工事。講堂にいるという妖精。そして今は静まり返っている学校が普段
はどれほど騒がしいか。
「マキは--------」
しばらくして圭織は亡くなった少女の事に触れた。
「さやかの事が好きだったの。さやかはマキに冷淡で‥。でも、それで自殺
したのかどうかはわからない。事故かもしれないし‥。」
それで?なつみは圭織に体を寄せると、やわらかく続きを促した。
「死体はまだあがってないみたい。お墓はあるけど。カオリ、マキの
ことは好きだったよ。カオリにやさしかったし‥。ううん、皆にやさし
かったよ、マキは。」
そこまで話して圭織は涙の滲む目を擦った。それは眠いのかからなのか、
それとも悲しいからなのか、圭織自身にもはっきりとはわからなかった。
「さやかは、みんなに好かれる。さやか自身は決して誰も好きになんか
ならないのに‥。たぶん、裕ちゃんもさやかが好きなんだと思う。
どーしてだろ?みーんな。さやか、さやか‥。さやかばっかり。」
そんな、さやかを、自分は‥。と言いかけたまま圭織は眠ってしまった。
なつみは横で寝息をたてる圭織にブランケットを掛けなおした。
ある日の午後。珍しくなつみは考えたい事があると自室に戻って
しまったので、時間を持て余した圭織はさやかと裕子の部屋を久しぶりに
訪れていた。最初の方こそあたりさわりのない会話を交わしていたが、
話題は自然とその場にいないなつみのこととなる。
「ねー、昨日さ、なっちが作ったごはん、めちゃめちゃおいしかったね。」
昨夜、夕食の係だったなつみがビーフシチューを作った。休みに入って
専用のコックも帰省したため、久しぶりの本格的な味に感動した圭織が
感動を思い出す。
「そういえばさ、マキも料理得意だったよね。」
無邪気に言う圭織に、裕子はさやかを気にしながら頷いた。もともと表情を
あまり表にすることはないため今も案の定平静を装っているが、真希と聞いて
さやかがひそかに苛立っていることは明確に見て取れた。それを知ってか
知らずか、圭織はさらに続ける。
「あの二人ってほんとに似てるよねー。性格はけっこう違うところが
多いけどさ。」
「せやな。なっちと違ってマキは引っ込み思案だったね。」
裕子はさやかを気遣ってなつみと真希の違いを強調した。さやかは相変わらず
無言だ。窓の景色を眺め出した為、もはやその表情を裕子が読み取ることは
できなかった。
「でもさー。見た目なんておんなじじゃん。ほんとになんにも関係ないの
かなー。こないだなんてさ、マキが好きだった曲なっちも聞いてたんだよ?」
場の雰囲気に耐えかねた裕子が話題を反らそうとしたその時。
きらびやかな古典の楽曲が大音量で棟内に響いた。
「あ!これもそう!こないだ聞いた曲じゃないけど、これもマキが好きだったヤツ!」
突然の出来ごとに目を見張るさやかと裕子をよそに、興奮の面持ちで圭織は続ける。
「やっぱマキだ。マキが帰って来たんだ!」
目を見開いていたさやかは裕子が自我を取り戻すよりも僅かに早く椅子から立ち上がると、
青ざめた顔のままドアを開けて部屋を飛び出した。
バンッ。ドアを開けてさやかはつかつかと部屋の奥まで進むと、突然の侵入者に
驚くなつみに声をかける間も与えずにレコードプレーヤーの電源を引き抜いた。
針を落としたままで回転を止められたレコードが、ぎゅるると伸びた音を立てる。
「ちょっと!何すんの!?」
あまりの事に呆然としていたなつみだったがしばらくして我に返ると、コンセントプラグ
を持ったままその場に立ち尽くすさやかに向かって行った。
憤って自分の肩を掴むなつみを、彼女より背も高く力の強いさやかは、凍った瞳のまま
軽く振払い、正面に向き合って思いきり突き飛ばした。しりもちをついた格好で
床に手をついたなつみを、尚も無表情に見下ろす。激情したなつみが顔を
あげてさやかを睨み返したところで、慌てて後を追ってきた裕子と圭織が入ってきた。
「なにやってんねん‥!さやか!」
裕子は責める視線をさやかに向けた。圭織は何も言えず黙っている。と、二人が
やって来て安心したのか、なつみの目からぽろぽろ大粒の涙が溢れ出した。突然
のさやかの行動に、絞り出すように訴える。
「なっちが何したの‥?」
しゃくりあげるなつみの声に我に返ったさやかは、しばらく下を向いていたが、
ついにいたたまれなくなって、ごめん。と吐きすてるように言うとそのまま
部屋を出て行った。
その出来事からしばらく、さやかとなつみは口を聞かなかった。そのこと
を気遣って裕子はもちろん圭織までもが妙に明るく振るまい、それがかえって
寮内の雰囲気をギクシャクさせている。そんな中気分転換にさやかは散歩に
でかけたが、何も考えずにふらふら歩いているといつしか例の崖の上に出ていた。
いや応なしに真希のことを思い出していると、いつの間にやってきたのか裕子
が現れ、何も言わずにさやかの横にならんだ。
「まさか。あんたまで飛び降りるんとちゃうやろね?」
黙って首を振るさやかに、裕子は柔らかい笑顔で聞く。
「なに、かんがえてたん?」
さやかはしばらく向かいの山々を眺めていたが、やがてぽつぽつと話しだした。
「去年、学内の音楽コンクールでバイオリン弾いたんだけど」
「ああ。さやか賞とってたね。」
当然裕子が知らないはずもない。緊張のため少し顔を紅潮させながらも、精一杯
すました格好で弓を操るさやかは随分微笑ましかった。
「あのあと、あたしなんか嬉しくて。ここに来てまた一人で弾いてたの。」
「そしたら?」
「そうしたらマキがやって来て、あたしに花束をくれた。白い花。蘭だったのかな
あれ。でもその時はなんか、一人で楽しんでたから。だから、もらった花束を、ね。
湖に投げちゃった‥。マキの目の前で。」
辛いはずの内容を、さやかは無表情に一点を見つめながら淡々と語る。それが逆に
彼女のダメージを強調しているようで、とても切なく見えた。
「な、さやか。忘れなあかんで?」
ため息をついて裕子が言った。
日暮れ近くなって草むらの虫がそろそろ鳴き出した頃、辞書を置き忘れたことを
思い出したさやかは自習室まで取りに戻った。寮のある棟から少し離れた建物
にあるそこは、午前中の勉強に割り当てられた時間以外に行くことは少ない。
がらりとドアを開けて一歩中に入ると、思いがけずなつみの姿があった。さやか
はもちろん、なつみもとまどった様子で、目を丸くしてお互い一瞬見つめ合った。
すぐに気を取り直したさやかが辞書の載った机へと歩き出すと、思い切ったような
口調のなつみが話しかけてきた。
「なんでいつもそんな暗い顔してるの?」
「べつに。」
声を掛けられるとは思っていなかったさやかが内心の戸惑いを隠してことさら
ぶっきらぼうに答える。さらになつみは続けた。
「マキは‥、さやかが殺したの?」
唐突ななつみの問いにさやかは思わずカッとなる。
「ちがうよ‥!勝手に飛び降りたんだよ!」
「なんで?マキはさやかの事が好きだったんでしょう?勝手にとか言って
ちょっとひどすぎない!?」
歯に衣着せぬなつみの物言いに、ついにさやかは感情を爆発させた。
「ひどいよ?だからなに?だってあたしは全然そんなこと望んでないんだもん。
それなのに一方的に気持ちを押し付けられたって。あたしだって困るよ。
結局人の心に土足で踏み込んでんのと同じじゃん!」
激しいさやかの慟哭に気押されたかのように口をつぐんでいたなつみでは
あったが、少しすると顔を上げて言った。
「土足じゃないよ。きっと、裸足。ハダカで、だよ。」
そういうなつみの表情にはどこか俗世離れしたような、まるで聖母のような微笑み
が浮かんでいた。あまりの自分の言い種に気の強いなつみはきっと強烈な反論を
返して来る。そう思って身構えていたさやかは、思い掛けないなつみの表情に、
我を忘れてしばらく見とれてしまった。
「‥なっちわかる。みんなが似てるって言うから。なんかちょっと他人事に
思えなくなってきちゃった。」
なつみはそう言って、はにかんだように笑った。さやかの中で何かが溶けた。
数日後。明るい図書室の窓辺に置いてある、ほどよくクッションのきいたひとりがけ
のソファに座って、さやかは写真集を眺めていた。膝の上に置いた大きく立派に製本
されたその写真集には、さやかが見たこともないようなエキゾチックな花や草があふれている。
ページいっぱいに大きく印刷されたピンク色の花を見終えたところで、なんとはなしに
顔をあげた。外の景色に目を遣ると、今日も外で遊ぶなつみと圭織が見える。
どうやらバドミントンをしている様子で、手にはそれぞれ華奢なラケットを持っていた。
「じゃ、こんどはなっちのサーブ。いくよ〜。」
笑いながらどこか真剣な面持ちで構えている圭織。ポーンと上がったシャトルを
ふらふらと追い掛けたが、瞬間に目をつぶってしまったために空振りした。
自分の失敗に大笑いしながらシャトルを拾った圭織が再びサーブをあげたが、今度は
なつみが空振りする。
「うちらヘタじゃん。」
身を捩って笑う二人につられて、さやかもひそかに吹き出した。
なにあれ。
そんな二人の様子がおかしくてしばらく眺めていたところへ、向かいに座って
小説を読んでいた裕子も気づいて口を開く。
「なんやあの二人。めっちゃ下手やん。」
「うん‥。あははっ。」
ようやく圭織が返した羽をなんとか打ち返したなつみだったが、フレームにあたって
しまったために、シャトルはへろへろと地面に落ちたのだ。
つい声を出して笑ったさやかを見て、裕子は一瞬複雑な顔をしたが、
すぐに笑顔を作りなおした。
しばらく笑って様子を伺っていたが、さやかは急に昨夜の雨で外に
出しておいたスニーカーがひどく汚れてしまった事を思い出した。
「あ。靴洗わなきゃだった。」
そう言い残してさやかが図書室から去ってしまうと、裕子は無表情に立ち上がって、
開いていた窓をピシャリと閉じた。
夕食後、当番の裕子はカチャカチャと食器を洗っていた。同じく当番である圭織が
食堂から残りの皿を持って現われ、隣で自分ももう一つのスポンジに洗剤をたらす。
「ねえ、裕ちゃん。なんか最近のさやか、明るくなってない?」
ここ最近食欲が落ちていたさやかが、近頃は出される料理を全て食べるようになった。
口数も以前に比べずいぶん増え、あまつさえ今日はなつみが残したハムを皿から奪い、
いたずらっぽく笑って口に入れたのだ。圭織に言われるまでもなく、裕子にとっても
さやかの変化は明確に見て取れた。何かあったのかねー?首を捻りながらも圭織は
懸命に皿を洗う。
「そうやな‥。」
裕子は呟くように相槌を打った。
「おうい。」
そろそろ食器も洗い終り、テーブルに出された調味料の類いをそれぞれ棚や冷蔵庫に
二人が戻しているところへ、さやかとなつみが揃って顔を出した。見るとさやかは
少し大き目の紙袋を抱えている。
「ねえ。花火やろうよ。なんか、なっちがここに来る時に持ってきてたんだって。」
「きゃ。花火〜?カオリちょ〜う久しぶり。やろうやろう。」
圭織の目がキラキラ輝く。キッチンの入り口に並んで立つさやかとなつみを見て
裕子が笑いながら言った。
「ええよ。けどさやか、なっちの部屋に行ってたん?」
「そうだよ。えへへ。」
「なーんだよ。じゃカオリたちが気を遣うひつよう、もうないのね〜。」
なつみが来て以来ぴりぴりしていた空気を少しでも和らげようと自分なりに努力
していたらしい圭織が不満げに、しかし嬉しそうに言う。
「てかアンタ、気つかってたんかい。」
「え?つかってたよ〜。もう必死。」
からかわれて大袈裟にふくれて見せる圭織に3人は大いに笑った。
湖畔のボート寄せのところに場所を決めた4人はしばし、思い思いの花火
を手にとり輝く火花が飛び散る様を楽しんでいた。さまざまの華やかな
色に照らし出されたお互いの顔は、煙のせいかどことなく現実感を喪失して
見える。実際よりも遠くに感じる3人の姿を見ながら、圭織はひそかに考えた。
‥みんなと過ごすのは、今年が最後。裕ちゃんもさやかもなっちも、来年の
夏休みにはもういないんだ。3年生だしね。卒業しちゃう。もちろん新入生は
入ってくるけどさ。夏休み寮に残る子なんて、そうそういないんだろうね。
来年カオリはひとりなのかな‥。
相変わらず他の3人は煙にかすんで遠くに見える。
「淋しいですなあ。」
そう呟いて圭織はひときわ大きい打ち上げ花火の筒を手に取った。が、こんなに
大きな花火にかつて自分で点火したことはない。迷いながらもとりあえず裏面の
説明書きに目を通していると、それに気がついたさやかが近寄って話しかけた。
「なに、カオリ。それやりたいの?」
「うん‥。けど。火つけるのいまいちこわくて。」
「かしてみ。」
答えながらも目を離さずに説明を読み続ける圭織の手から、突然さやかが
花火を奪う。驚いたカオリが顔をあげると、ポケットからライターを取り出した
さやかが得意そうに微笑んでいた。
「やってあげるよ。」
カチ。いとも簡単に導火線に点火したさやかが、少し離れたところで見守って
いた圭織の脇へと急いで戻って来る。自分にならってしゃがみこむさやかに圭織は
言った。
「なんかさやか、やさしくなったね。」
「そう?」
「今までのさやかだったら、多分放っといたと思う。カオリが困ってても。」
真剣に顔を覗き込んでくる圭織にさやかは苦笑した。
「えー。あたしってそういう人だったの?カオリにとって。」
やっぱり変わったよ、なっちが来てから------。圭織がそう言おうとしたところで花火
の筒が激しい音を立てた。
「あ。上がった。」
そういって上を見上げたさやかと同じく圭織も顔を上げる。数秒後、随分
高いところまで発射された火薬の球は、パンと弾けて上空に美しい模様を描いた。
「これって、何連発?」
次の噴射を待つ間にさやかが訪ねる。
「ろくれんぱつ。」
答えて辺りを見ると、なつみと裕子も向こうから筒を見つめていた。
次の朝、朝食の鐘の音にさやかが食堂へと降りていくと、テーブルには3人分の用意
しかなかった。既に席に着いていた圭織に理由を訪ねると、どうやらなつみの家族に
不幸があったらしい。家に戻ったようだった。
「お母さん、亡くなったらしいで。」
当番の裕子が神妙な面持ちで料理を運んできた。
「昨日連絡があって、うちのとこまで言いにきたんよ。とりあえず帰るって。
さやかは寝とったから、起こさんかったけどな。」
「ねえ、なっちのお父さんて、何してる人?」
成りゆき上食卓はなつみの家族の話題になり、圭織がミルクをのみながら聞いた。
「や。なんでもな、お父さんもずいぶん前に亡くなってるらしいんやんか。」
「兄弟は?」
監督生であるためなつみの家族に対する書類を読んでいた裕子に、圭織はさらに
聞いた。
「ひとりっこやて。ほんま、かわいそうや。」
うーん。と圭織が俯くと、急にさやかが立ち上がった。
「あたし、行ってくる。いくらなっちが明るい子だからって、ひとりはちょっと
辛すぎるよ。裕ちゃん、住所知ってるよね。教えて。」
「あー。ええよ。けど、とりあえず朝食食べてからにし。」
「ほんとに行くん?もしかしたら迷惑かもしれへんで?」
しぶる裕子から強引になつみの実家を聞き出して、準備もそこそこに
さやかが寮を出てから、かなり時間が経っていた。
「もうそろそろ着く頃やろか。」
随分傾いた陽をみながら、誰にともなく裕子は呟く。読みかけていた
本は内容がまったく頭に入らず、とうに諦めていた。
「あたし、また負けるんかなー。」
誰にも動かせなかったさやかの気持ちは今、はっきりとなつみに傾いている。
自嘲ぎみに笑って、膝の上に置かれたままの本を閉じた。
なんできづかへんねん。さやか。なっちはマキやで。
汽車にのったさやかがなつみの実家に辿り着いたのは、すでに日が暮れ
あたりが暗くなり出した頃だった。掛けられた表札と手に持ったメモを
確かめて、ドアをとんとん叩く。しばらく待つと想像していたよりも
いくらか平気そうな顔をしたなつみが、それでも目を赤くして現われた。
「さやか‥。どうしたの?」
「うん。なんかなっち一人ぼっちだって聞いたから‥。いろいろ辛いかと思って‥。」
ありがとう‥。そう呟いてなつみはさやかを中へ通した。
通された部屋はずいぶんガランとしていた。側面の棚にはさまざまな種類の油絵の具が
ならび、部屋の中央には大きいイーゼルがひとつ。ひとめで画家のアトリエとわかる。
「なっちのお母さん、アーティストだったの?」
「うん‥。まあね。なっちの絵もあるんだよ。見る?」
さやかが頷くと、なつみは自室へ案内した。
「すごい‥。いっぱいある。」
学院に来る前に使っていたであろうなつみの寝室には、ルノワール風に描かれた
なつみの肖像が数枚、それぞれ品の良い額に納められ飾ってあった。
「いちばん多いのは、やっぱりお父さんの絵なんだけど。なっちのもいっぱい
描いてくれたんだよ。」
そう言って少し悲しそうに笑うなつみ。さやかはなつみの母に対する愛をみとめて
胸が苦しくなった。身内の死をまだ知らないさやかにとって、このような際に
果たしてどのような言葉をかけるべきかなのかわからない。ただ、涙だけが
流れた。
「なんでさやかが泣くの?」
そう訊ねるなつみの目からも涙がこぼれていた。
「わからない。」
そう答えたさやかはなつみに近付いて震える華奢な手をぎゅっと握りしめた。
しばらくして、ベッドに腰を下ろしたさやかになつみが紅茶をいれて運んできた。
「無表情なさやかが泣くなんて、ね。」
そう言ってカップを手渡すなつみに、さやかは恥ずかしくなって下を向いた。
「だって、なんか。なっちが可哀相になったんだもん。なんなんだろ。こないだ
カオリにも言われたよ。変わったって。そんなに冷血っぽかった?あたし。」
冷血、と言う言葉に苦笑しながらなつみが答える。
「冷血、っていうか。殻に閉じこもってるかんじがしたよ。まだ会ったばっかりだから、
前のことはなっち知らないけど。忘れてないもん。いきなりなっちの部屋に入って来て、
レコード止めた時の事。」
狂気じみたあの日の行動に言及されたさやかが赤くなって下を向くと、なつみは頬をゆるめて
さやかの顔を覗き込んだ。
「うそ。もう気にしてないよ。最近さやか本当にやさしくなったし。」
なつみを慰めに来たはずが、いつの間にか自分の方が慰められている。そのことに
気づいたさやかが慌てて言った。
「ごめん。これじゃ、逆だね。何しに来たんだろ、あたし。」
「いいの。そのほうが気がまぎれるってゆうか。だからもっと話して。」
そういって自分の肩にあたまを乗せるなつみにさやかは少し緊張したが、少しでも
なつみの気持ちが紛れるのなら、とぽつりぽつりと話し出した。
なっちの事、悪いけど初めはほんとうに嫌だった。マキにそっくりなんだもん。どうしたって
やっぱり思い出さずにはいられないし。マキの気持ち、はっきり言ってあたしにはちょっと重かった。
マキは、大人しかったけど、けっこうみんなから人気があったんだよ。実際いいこだったし。
そんなマキが、どうしてあたしなんかを好きになったのか不思議。わからない。なんであたし
なんだろう。って思った。だいたいあたし自身でも、自分の事あんまり好きじゃなかったのに。
それなのにマキの視線はまっすぐで純粋で。それがなんだか辛くって、マキにあんなに冷たく
しちゃったんだと思う。マキのことが嫌いだったんじゃない。純粋なマキに似合わない
自分が嫌いだったんだよ。今思えば。
随分話した。そう思って覗くと、いつの間にかなつみはすやすや寝息を立てていた。
どのくらい時が経ったのだろうか。窓の外にはきらきら星が輝いているのが見えた。
「聞いちゃいねえ。」
さやかはフッと笑うとなつみをベッドに寝かしつけた後、自分もブランケットを一枚拝借し、
アトリエへと戻ってソファに横になった。
聞いていなかったにしろ、なつみが眠りに落ちたことは良いことだ。眠っている間は、
悲しいことを考えずに済むだろう。自分も眠ればマキを思い出さずに済むかな。てゆうか
最近けっこう平気になってきたみたい。
そうこう考えているうちにいつの間にか自分も眠りに落ちていた。
翌日の正午近く、二人が揃って寮に戻ると木漏れ日の下に腰を下ろして
小説を読む裕子がいた。昨夜はあまり眠れなかったのか、多少目を赤く
腫らしている。ただいま。二人が声をかけると裕子は顔をあげ、少し疲れた
ように笑った。
「おかえり。そろそろ帰ってくると思って、ここでこうして待っとったんよ。
なっち、大丈夫?」
「うん。だいぶ平気。さやかが来てくれて本当に助かったよ。」
なつみの言葉に照れた顔をして笑うさやか。とうとう二人は自分達だけの
世界を持ってしまった。それを認めた裕子の笑顔は普段に比べほんの
少しだけ歪んでいたのだが、それは本当に微々たるものであったため二人が
気づく事はなかった。
笑顔のままの裕子が急に立ち上がる。
「こんなところで話もなんやから。中入ろ?」
そう言うとなつみの荷物を持ち、おどけた素振りでさやかに言う。
「さやかは自分で持ち。」
そうして裕子は2人に先立ち寮の中へと入っていった。
「話があるんよ。ちょっとそこまで付き合えへん?」
そう言った裕子がなつみを散歩に連れ出したのは、二人が帰ってきてしばらく
経った頃のことだ。すぐに快諾したなつみは裕子に連れ立って随分と
歩いていたが、「話がある」と言ったはずの彼女は、一向にそれらしい事を
話し始める様子がない。不思議に思ってあれこれ訊ねたが、当の裕子はいつも
どおりに微笑むばかりで何も答えなかった。
そうして森の中をめちゃくちゃに歩きまわっていると、いつしか二人はあの
崖の上に出ていた。
「ふう。随分歩いたなあ。」
明るい日射しの中振り返った裕子の笑顔はまるで、いつか見た白い天使のよう
であった。湖の向こうをふちどるように見える周囲の山々は、晩夏にあってその緑
をいっそう色濃くし、薄めの雲を2、3浮かべる空は今日も飽くまで青い。
やけにすっきりした裕子の笑顔になつみもあいまいな笑顔をつくると、遠くの
上空をとんびが横切るのが見えた。
「なあ、なっち。死んで欲しいんやんか。」
相変わらずの笑顔のままで裕子が言う。なつみはその言葉の意味をすぐには
飲み込めなかった。
「え‥?」
「いなくなって欲しいんよ。世界から。あんたマキやろ?いいかげん
うっとうしいねん。そこから飛び降り。」
「何‥言ってるの、裕ちゃん?なっちはなっちだよ‥?」
ようやく裕子の言葉を理解したなつみは、それでも笑顔を無理矢理つくって
裕子の言葉をキツイ冗談として受け流そうとした。しかし裕子の表情に先程
までの笑顔はない。
「いいや。あんたはマキや。あたしは騙されへんで。マキのおかんも
死んどるんよ。そのもともと誰もいない家に、こないだだって帰ったんやろ?
さやかが追ってくる事をあらかじめ予想してな。」
「な‥、ち、ちがうよ。なっちは、」
裕子は崖を背にしたなつみに言いながら少しずつ近付く。恐怖を感じたなつみ
が懸命に訴えようとしたが、裕子はそれを遮った。
「なっち。いや、マキか?あんたは死んだ。そして生き返った。今度こそ
さやかの心をつかむために、今度は明るい『なつみ』になってな。
完敗やで、ほんま。見事にさやかの心を奪ったもんやね。」
反論しかけるなつみを抑え、裕子はさらに続ける。
「マキにはほんまムカついたわ。もう必死やで。大人しいくせにあの女、
いっつもさやかの視界に入るように行動するんよ。少しでもさやかに見つめて
もらえるようにな。そんなマキがやっと死んでくれてせいせいしとったところに
あんたが来た。ほんとならさやかはあのまま、うちだけにすがるようになる
はずやったのに‥。ほんまウザいねん、消えろ。」
一歩一歩ゆっくりとなつみににじり寄る裕子。見ると崖の淵は自分の足元のすぐ
後ろだった。そんな中なつみは必死に抵抗する。
「裕ちゃん‥、おかしいよ。そんなこと言うなんて。」
「おかしい‥? そうかもな。」
裕子の顔には嘲笑が浮かんでいる。果たしてそれは自分に向けられたもの
なのか、それとも裕子自身に向けられたものなのか、なつみにははっきりと
わからなかった。
「‥狂ってる!裕ちゃんはさやかを好きだって言ってるけど、ほんとはただ
自分の物にしたいだけじゃない!すがるとかすがらないとか‥!裕ちゃんは
さやかをオリに閉じ込めたいだけなのよ!」
なつみの言葉に裕子が笑って答えた。
「‥そうや?悪いか?」
また一歩、裕子はなつみに近付いた。
「2人とも‥、何やってんの!!」
と、突然しげみの小径をかき分け、さやかが現われた。
「下でカオリと遊んでいたら、2人が見えたから‥。危ないよ!なんなの?」
ここまで駆けてきたのか、さやかは息を切らしている。激しく息をつきながら
裕子に不審な目を向けた。崖の上に立つ3人の間に緊張した空気が流れた。
しばらくして裕子が観念した様子でため息をつく。
「今あんたが現れるとはな‥。ふ、なっちに聞き。あたしには運の神様も
味方してくれんねんね。」
裕子はそう言い残すと目を合わせないようにさやかの脇をすりぬけ、
森の中へと消えていった。
「どうしたの‥、一体?」
さやかは呆然と立ち尽くすなつみの体を支え、とりあえず地面に腰掛けさせてやっ
てから聞いた。しばらく下を向いていたなつみだったが、突然顔を上げてさやかの
目をじっと見つめる。
「ねえ。さやかはなっちの事‥、好き?」
「え‥?」
突然の問いにさやかはどきどきして思わず視線を泳がせた。どうしていいか
わからず、あらぬ方向を向いた首になつみが白い腕を伸ばす。
「ねえ‥。」
返事を待たずになつみはさやかの胸元に顔を埋めた。自分の腕の中にすっぽり
おさまったなつみの体は、なぜだかひどく体温が高く、その髪からはなにやら
熟し切った花びらのようなやけに甘い香りがする。いいにおい。そんな状況の
なか、さやかは素直にコクンと頷いた。
そのまま時が流れたが、しばらくしてもはや思考を飛ばしていたさやかに腕の
中のなつみが顔をあげずに囁いた。
「さやか、なっちはね‥、マキだよ。」
「‥‥。」
突然のなつみの告白に驚かなかったわけではない。しかし、さやかは何も
答えなかった。顔を伏せたままで話すなつみの言葉を遠くの山々を見つめ
ながら、ただ聞いていた。
「なっちがまだマキだった頃、さやかはすごく冷たかった。誰も愛してなんか
やらない。そんな態度で私に接してたね。だから、飛び降りて、死んだの。
私のこと、一生忘れさせないように。でも、やっぱり悔しくて‥。だから戻って
来た。今度は絶対振り向かせようと思って。」
「ねえ、知ってる?」
ゆっくりと顔をあげたなつみの目は胸の中にずっと伏せられていたせいか幾分
熱を帯び、しっとりと潤んでとても美しかった。
「少女の時間はいちばん素敵なんだよ‥。ねえ、一緒に死のうよ。それで
また生まれ変わろう?今のままでさ‥。そしたらまた死んで‥、また
生まれ変わるの。そうやってずーっと、2人で一緒にいるの。永遠に、
少女のままで‥。」
なつみは口を動かしているものの、その声はまるで遠く空の上から響いている
ように聞こえ、熱っぽい視線とともにまるでなにかに包み込まれているようだ。
と、さやかは遠くなった意識の彼方でかすかに考えた。なつみだろうとマキ
だろうといい。自分はただこの少女を愛している。
このまま2人、永遠にいられるのなら‥。
さやかはうつろだがかすかに意志を秘めた瞳でなつみを見つめた。
「いいよ‥。一緒に‥、死ぬよ。」
なつみは再びさやかの胸に顔を戻していて、さやかからは表情が伺えない。体温を
感じながらさやかはその体をやさしく抱きしめ、まるで全てを誓うかのように
しなやかでやわらかいなつみの髪にキスを落とした。
「ちゃんと口に、して。」
顔をあげてそう言うなつみの表情は嬉しそうではあるものの、どことなく憂い
を帯び、かすかに涙のにじむ目許は比べるものが見当たらない程に美しい。顎を
あげて目を閉じたなつみに、さやかはまるで何かに吸い込まれるかのように顔を
近付けた。
マキ、なつみ、さやか。そしてあの崖-----------。混乱した思考にまかせ森の中を
歩き回っていた裕子はひどい胸騒ぎに襲われて、やみくもに動かしていた足を
止めた。
「まさか‥!」
頭から離れなくなった激しい不安感にすぐさま体の向きを転換し、断崖への道
を駆けた。途中、そこかしこから伸びる枝が手足を擦り小さな傷をいくつか
つけたが、それらにかまっているヒマはなかった。裕子は自分の不吉な想像を
打ち消すべく、先程の気まずさも忘れて無我夢中に走り続けた。
崖の上へと引き返した裕子の目に映ったものは、互いに手を取り合い
淵に望むさやかとなつみの後ろ姿であった。
「‥‥!」
立ち尽くし息をのむ裕子の気配に感づいた2人がゆっくりと振り返る。
なつみは挑むような微笑を浮かべていた。
「裕ちゃん。正解。なっちはマキだよ。望み通り死んであげる。でも
一人じゃイヤ。さやかも連れていくよ。」
「待っ‥!」
言うが早いかなつみはさやかの腕を引き、裕子の言葉を待たずに湖へと飛び降りて
しまった。
なんて事---------!
「あたしが望んだ結末は、こんなんちゃうで!」
一瞬目を見張った裕子だったが、すぐさま自分を奮い立たせるようにそう叫ぶと、
先ほどから未だ治まっていない呼吸のまま全力でボート置き場へと向かった。
一面にうす青い湖の水中で、さやかは何もわからないままただ必死にもがいた。
ごぼごぼと音を立てた水が口といわず鼻といわず大量に自分の肺へと流れ込んで
来る。夢中で目を開くと、自分の体に絡み付くなつみの白い肘が目に入った。
酸素が足りないために、こめかみがガンガンと音を立てているようだ。
もうどうでも良かった。ただこの苦しみから一刻も早く抜け出したかった。
(苦しい‥!誰か‥。)
最後にひと振り腕をおおきく動かすと、さやかの意識はそこで途切れた。
ジリジリと鳴くセミの声が煩くて目を醒ますと、さやかはひどく明るい部屋の
ベッドに寝かされていた。ぼんやりする意識のままで辺りを見回すと、どうやら
寮の自室のようで、脇には椅子に腰掛けて心配そうに覗きこむ圭織がいた。
「裕ちゃん、さやかが気がついた!」
裕子は何ごとかを祈るような格好で机に肘をつきその上に自分の額をのせていたが、
圭織の声にはっと振り向き2人の方に向かって来た。
「さやか‥!」
裕子は喉をつまらせながらさやかの手を握る。自分は‥、死ななかったのか。
なっちは‥?そこまで考えたところでさやかは再び眠りの闇に落ちた。
日暮れ近くの風が少し冷たくなって、そろそろ秋を思い出させる頃、さやかと裕子
と圭織は湖畔の砂利にこしかけ、沈み行く太陽がひときわ赤く大地を照らす
壮大な夕焼けを眺めていた。激しかった蝉の鳴き声は以前の勢いを失い、かわりに
目立つようになったひぐらしの声が夏の終りを告げている。それぞれ思う事があり
だまりこんでいた3人だったが、ひとり離れて座り山間の大きく赤い夕日をじっと
眺めていたさやかが誰にともなく語り出した。
「昔、まだ学校に入る前に、こんな夕焼けを見たことがある。すごく綺麗で、
すごく感動したんだけど、その感動を伝えたくても、話せる人が誰もいなかったの。
それが悲しくて、あたし、その場で一人で泣いちゃったよ。なんだかすごく、自分が
ひとりってかんじがしてさ‥。」
2人が崖から飛び降りたあの日。急いでボート置き場へと走った裕子はもとから
その場にいた圭織に指示を出し、無我夢中でボートを出した。崖下でまだ波状の紋を
浮かばせている湖面を見回し、2人の姿が水面のどこにも見つけられないことを
見て取ると、不安そうに目を潤ます圭織を残してひとり湖水に飛び込んだのだ。
水中で痛む目をそれでもしっかり見開いてしばらく探していると、ぼんやりとした
水影の向こうに、漂うさやかの姿が見えた。急いでそこまで泳ぎ寄り、さやかを
抱えるとひとまず水上に顔を出して圭織に合図しボートを寄せさせた。意識を失って
いたさやかを圭織にまかせ、すぐになつみを探しに戻ったが、どれだけ泳ぎ
まわっても、とうとうなつみの姿を見つけることは出来なかった。
「さやかしか‥、助けることができなかってん‥。ほんまや。
なっち、許して‥。」
そういって嗚咽を漏らす裕子の肩を、圭織が沈痛な面持ちでぎゅっと抱きしめた。
その日3人は、炎のように辺りを朱く染め上げる夕陽をいつまでもいつまでも
見つめた。
夏休みも終わりに近いある日、圭織はひとり寮の前庭で花を摘んでいた。
あの事件が起こってからというもの、さやかはともかく裕子までが沈みこむこと
が多くなったので、暗くなりがちな食卓を少しでも華やかに飾り付けようと思った。
黄色、白、たくさんの花を摘んだ。これでもう少しピンクの花が入ればすごく
きれいだ。そう思った圭織がピンク色の花を探して腰を伸ばすと、向こうから
大きなトランクを抱えた少女が微笑みながらやってくる。おかっぱで愛らしい
顔つきの少女は確かに見覚えがあり、ある面影をはっきり認めた圭織は
嬉しそうに笑って、もはや逃げ出すこともなかった。
「あなたは、なっち?それともマキ?」
少女は清純そうにきれいに整った白い歯を見せ、鮮やかに微笑むと、花束を抱えて
少しはにかむように自分を見つめる圭織に言う。
「どっちでもないの。でも、2人とも良く知っているわ。」
少女の荷物を持ち、圭織が寮へと案内する。階段のところで、小説を読んでいた
はずの裕子に会った。
「おう、おかえり。待っとったで。」
喉が渇いたのか、キッチンへと向かう途中だったらしい。そう言って笑う裕子の
笑顔は、本当に穏やかで嬉しそうなものだった。
−おわり−