鞘師リポート(悪)
- 1 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:31
- 調査1.道重さゆみ
わたしの名前は鞘師里保。
今後この記録をもって、任務の経過報告とする。
- 2 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:32
- * * *
鞘師里保は悪の潜入工作員である。
ある重要な任務を受け、第9期メンバーとしてモーニング娘。への潜入に成功した。
モーニング娘。内部にその正体を知るものは、まだない。
* * *
- 3 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:33
- まずはじめに、後にこの記録を振り返った際、
その活動の妥当性を検証する上での効率性に配慮し、目的を明記しておく。
わたしに与えられた任務は、
組織の情報統括システムによって出現が予言された、『メシア』の存在を突き止めること。
その『メシア』なるものが、一体どのようなもので、何をなすものなのか、
未だ詳細は分かっておらず、現在も解析班による作業が継続中である。
『メシア』の正体について、実地にて可能な限り情報収集に努めることも、わたしの任務に含まれている。
ただわかっているのは、近い未来、
アイドル・モーニング娘。(以下、モー娘。とする)の中にそれはあらわれ、
組織にとって、大いなる脅威となるということだ。
- 4 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:33
- メシア【Messiah】
《ヘブライ語で、聖油を注がれた者の意。「メシヤ」とも》
旧約聖書では、超人間的な英知と能力をもってイスラエルを治める王をいい、
新約聖書では、イエス=キリストをさす。救世主。メサイア。
きゅうせい‐しゅ〔キウセイ‐〕【救世主】
1 キリスト教で、イエス=キリストのこと。救い主。
2 人類を救う人。救い主。メシア。
3 不振の団体・組織などを救う働きをする人。「弱小チームの―」
(デジタル大辞泉より)
救世主 きゅうせいしゅ(一般)
1.救い主。イエス・キリストのこと。
2.仏教では、釈迦の入滅後56億7千万年後、出現し、人民を救済する弥勒菩薩のこと。
3.不振の団体、組織などを再生する人。
■関連キーワード
筋肉少女帯 / 菩提樹 / スジャータ / 祇園精舎
(はてなキーワードより)
- 5 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:34
- 「56億……」
ケータイ画面に向かってつぶやいた声が、思っていた以上に響いた。
他のメンバーが一人もいない控え室は普段からは考えられないほど静かで、
変に意識したわたしはケータイをテーブルの上にそっと置くと、
ほこりの一つも動かさないほどに小さく息を吐いた。
皆は今、屋内の別の場所で個別に物販撮影をしている。
そんな合間にもわたしはこうやって、こまめに情報収集を行っているのだ。
人類を、救う人。
そんな者ならば、我々悪にとってまさしく壮大な敵ではある。
けれどそれはあくまで歴史のある宗教の中から派生したいわば伝説、あるいは空想的な概念であり、
この現代社会において漠然とそのままの者が現れるとはとても考えにくい。
ましてそれが果たして、日本のいちアイドルであるモー娘。の中に現れるようなものだろうか。
- 6 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:36
- モー娘。には現在、わたしを除いて八人のメンバーが在籍している。
調査手段については様々な方法を検討中だが、とりあえずはモー娘。とメシアの関連性、
それを探りながら調査の足がかりとしていくしかない。
と、その時。
背後から突如として皮膚を突き刺すような――殺気。ドアの方向だ。
しかし反射的に振り返るも、殺気の主はすでにそこになく、
高度な訓練を受けたわたしの視線をやすやすとかいくぐり、瞬く間に間合いを詰めていた。
懐に入られるっ――。
「りほりほー!」
- 7 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:37
- 一か八か、とっさに突き出した左手が、がっちりとそれの白い喉笛を捕えていた。
いわゆる、のど輪の状態だ。
「く、くるしい……りほ……り」
いっそこのまま息の根を止めてしまおうかとも思ったが、
任務遂行のためにまだモー娘。を卒業するわけにはいかない。
ここは努めて平常心を取り戻し、彼女が白目をむく一歩手前で左手を離した。
「道重さん、びっくりさせないでください」
「さゆみお姉ちゃんって呼んで」
「無理です」
「りほりほー!」
懲りずにまた抱きつこうとしてきたので、左手を同じように鉤爪状に構えて牽制する。
それを見て動きを止めた彼女の目にいくらかの葛藤がうかがえたが、
永遠とも思えた数秒の後、あきらめたようにがっくりと肩を落とした。
「冗談なのに……」
「かなり本気でしたよね」
- 8 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:38
- この人について、ある程度の情報は持っている。
モー娘。メンバーのプロフィールについては、あらかじめ一通り調査しておいたのだ。
名前は道重さゆみ。モー娘。第6期メンバーで、わたしの故郷である広島の隣の山口県出身。
現在は現役モー娘。のみならず、モー娘。の所属する団体ハロープロジェクト、
ひいてはそのOGも含めたグループ全体の中でも、最も売れているメンバーの一人らしい。
売れている、とは具体的にどれくらいのことを言うのか、正確にはグループで何番目くらいに売れているのか、
さらに詳細な情報を得ようと調査を進めてみたが、
情報提供者であるインターネットの親切な掲示板の人たちが急に喧嘩をはじめてしまったので、
それ以上のことは聞き出せなくなってしまった。
ただでも、売れている人ならば見聞も広く、色々と探り出すには適した人物かもしれない。
- 9 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:38
- 別の情報筋によると、彼女は毒の舌の持ち主でもあるらしい。
一部では、かつて虫使いだったという噂もあった。
これは救世主というより、我々悪の組織の怪人に近い人物だろうか。
自分大好きで常に自分が一番というところは、悪の哲学にも通じるものがある。
頭の中で彼女の情報を整理しながら呼吸を整えた。
まだ心臓が高鳴っている。
一瞬たりとも彼女を視界から外すことは許されない。
それほど恐るべき隠密接敵だった。
一体どれだけの修羅場をくぐり抜けてきたら、これほどのスキルが身につくのか、
彼女の過去を想像するだに戦慄せざるをえない。
- 10 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:39
- 「何してたのー?」
その問いに落ち着きかけていた心臓がまた大きく跳ねる。
「いえなにも、とくに」
「あれ? ……ん〜?」
何かを感づかれてしまったか。
天然なのか計算なのか、
人が触れて欲しくないところを無駄にピンポイントで突くことを得意とする彼女は目をギラリと輝かせ、
こちらの警戒も気にならないかのように、というか、
ついさっきわたしに拒否された事実も無かったかのように、ぬるりと身を寄せてくる。
ただ者ではない。
「本当ぉにぃ〜?」
「はい」
「今ちょっと間があった。りほりほ可愛い」
「そんなことないです。どっちもそんなことないです」
つつ、と指先が体に触れてくる。
「んん〜?」
ぴくりと体が反応してしまうのを極力抑え、あくまで平静を保つ。
「なにもないですよ」
「フフフ……」
- 11 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:40
- 恐るべき対人折衝能力。
こちらにやましいものが何も無いことを証明せざるを得ない状況を作った上で、
彼女はそこにつけ込み、わたしの武装の有無を確認しようとしているのだ。
以前、唐突にわたしを膝の上に乗せる提案をしてきたこともある。
筋肉量、携帯武器、爆発物等の所持……。
体重を量られることによって探り取られてしまう情報は計り知れない。
その時は他のメンバーに紛れてお茶を濁すことで事なきを得たが、
今、完全に、この場が彼女のコントロール下に置かれようとしている。
「や〜ん、りほりほの二の腕柔らかーい。赤ちゃんみた〜ぃ」
- 12 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:43
- 迫り来る絶望的な危機を察知したわたしは部屋中に視線を走らせ、この状況を脱するための手がかりを探す。
そこで目に入ったのが、テーブルの上に置きっぱなしのケータイだった。
開いたままのディスプレイには、
はてなキーワードのページに「救世主」の文字が表示されたままあるはず。
――しまった、中を見られてしまう。というとっさの感情の動きに平行して、
わたしの訓練された冷静な思考はそこに光の道筋を見い出した。
「みっしげさん、みっしげさん!」
「その呼び方もカワイイ! 録音したい! 着信音にしたい!!」
彼女の腕を振り払うように立ち上がり、目の前にケータイを構える。
「これって、何かわかります?」
諜報活動とは、手持ちのカードを伏せながら相手のカードの中身を探るゲームに似ている。
しかし彼女達はわたしの目的も、メシアの存在すらまだ知らないはず。
つまりこちら側に伏せているカードがあることも、自らに伏せておくべきカードがあることも知らない。
ならば、こちらから選別した情報を能動的に与えることで、
必要な情報を一方的に得ることも可能なのではないだろうか。
- 13 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:44
- 攻めの調査である。逆転の発想だ。
大事なのは相手に先手を取られないこと、そしてわたしの正体、目的を絶対に知られないこと。
それさえ気をつけていれば、リスクは最小限に抑えられる。
話もそらせる。
けれど、画面を見た彼女の表情は、明らかに曇った。
「これって? き……、え?」
話題が突然すぎて、疑いを持たれてしまったか。
「筋肉少女帯?」
「それは関連キーワードです。もっと上のほう」
「あ、こっちのほうね。救世主? へー。
それでこの筋肉少女帯っていうのはどういう意味? なんかエロいワードのような気がする」
「そんなことないと思います。なんでもそういうふうに考えるのはよくないと思います」
- 14 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:44
- 「――救世主ねえ」
目の前にあるわたしのケータイを奪おうと、
蝶を追う無垢な少女のように口半開きで両腕を宙にさまよわせながら、道重はつまらなそうに言った。
当然わたしは奪わせる気もなく彼女の腕をひょーいひょーいとかわしつつ、
変に疑いを持たれぬよう、慎重に言葉を選びながら続けた。
「ちょっとそういう言葉に最近興味があって。
同級生の友達にも多いんですよ。なんか面白いじゃないですか、予言とか、都市伝説とか」
「りほりほ、オカルト好きなの? オカルト少女?
廃墟と化した洋館の地下深くで真夜中に一人サバトを開催する可愛いゴシックロリータなの?」
「そうです」
「もしかしてさゆみの相手するの面倒臭くなってる?」
- 15 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:45
- 「じゃあ、たとえばモーニング娘。が人類を救うとか、いや、いえ。
たとえば、モーニング娘。と救世主って言ったら、道重さんはどんなこと思い浮かべます?」
「あー、あーそういうこと?」
彼女の声色が急に変わった。まるで今、すべてのことに納得がいったかのように。
無理矢理すぎるかと迷った問い掛けを、少しも疑うことなく受け入れたのも意外だった。
「だったら、とりあえずみんなに聞いてみたら? たぶんみんな何か心当たりあると思う」
「みんな? それってどういう意味ですか?」
まさか、モー娘。は既にメシアの存在を感知していたのだろうか、
だとしたら今後の調査方法が大幅に変更を余儀なくされる。
「あーん、でもやっぱりさゆみだけのりほりほでいてほしい! みんなのところに行かないで!」
「それの意味もわからないです。元から道重さんのものじゃないですし」
- 16 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:46
- もう彼女から聞き出すのはあきらめて、
言われたとおり他のメンバーにも尋ねてみようとその場を離れようとすると、
後ろからフッと息を漏らす音が聞こえた。
「答えなんて、最初から出ているのにね」
「こたえ?」
その言葉に驚いて振り返ると、
横を向いたまま視線を合わさない道重の口元に、人を少し馬鹿にしたような笑いが浮かんでいた。
モー娘。に潜入してから日は浅いが、たまに見ることのある表情。
黒々としたものを底に秘めた仄暗い、彼女の裏の顔。
「道重さん? こたえって……」
「それは」
再び近づき、顔を覗き込んだわたしに、捕食者の目がギラリと光った。――あ、またか。
「さゆみの救世主はりほりほだよー!」
この行動はある程度予測していたので、身を翻して、迫りくる魔の手を軽々とかわすことができた。
獲物を見失った哀れな捕食者はへなへなと床に倒れこむ。
時折ありえない鋭い動きと執念に近いものを見せるが、
基本、この人は身体能力は低いので、隙さえ与えなければ、避けるのはたやすい。
「いいかげん落ち着いてください」
「はい」
- 17 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:47
- 「さゆー。マネージャーさんが呼んでるよー」
その時、控え室の外から声がした。
リーダーの高橋愛の声だ。
「はぁ〜い」
道重は床にへたれたままカワイイ声で返事する。
「さて、冗談はこれくらいにして」
「かなり本気に見えました」
「りほりほと離れるのは寂しいけど、行ってくる!」
道重は弱そうなファイティングポーズをとると、
立ち上がって、大きな鏡を見て前髪とまつ毛を整えて、ドアの向こうに消えていった。
「りほりほ救世主とか気にするんだ〜。可愛いね〜」
という遠ざかる声を残して。
どういう意味なのだろう。
ふと思った。
結局あの人からは何も聞き出せなかった気がする。
もしかしてわたしは、手持ちのカードをまんまとめくらされてしまっただけなんじゃないだろうか。
「まさかね」
一人つぶやいた声が、再び静けさを取り戻した控え室に、やけに響いた。
- 18 名前:調査1. 投稿日:2011/09/29(木) 00:48
- 道重さゆみ調査結果。
・自分が好き。
・小さい子が好きらしい。
・女のひとも好きかもしれない。
・口がうまいので騙されそうになる。
色々な意味で危険なので、距離を置く方法を検討する必要がある。
つづく。
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/29(木) 02:18
- こんな日の夜中にワロタw
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/30(金) 09:10
- 期待大
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/30(金) 11:40
- なんか面白くなりそうな予感
- 22 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:14
- 調査2.田中れいな
道重さゆみの言ったことが気になっていた。
たぶん、みんなに心当たりがある?
そこにどのような含意があるのか、彼女が一体何をわかってそんな発言をしたのか。
しかし彼女に対してそれ以上の回答を求めるのは、更に高いリスクを伴う予感がする。
やはりメンバー一人一人に直接聞き取りをしていくのが最善なのだろうか。
あまり大っぴらに行動して、変な疑いを持たれたくないのだが。
けれど他に手がかりもない中で、この情報を無視することはできない。
それに道重に対して、救世主というものに興味がある態度を表明してしまった以上、
変にコソコソと嗅ぎまわる姿を見られて、それを隠していると受け取られてしまうのは矛盾が生じる。
素直に、そっち方面に興味があるんですよなちょっとメルヘン少女風を装って雑談に交えて質問したほうが、
自然に調査を進められるのかもしれない。
必要とあらば普段着の路線変更も検討してみよう。
- 23 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:14
- 次の調査対象には、もう見当をつけている。
仮にメシアというものがモー娘。の中に現れる人間を指すならば、
その人物――田中れいなは、モー娘。内において、その位置に限りなく近い存在と考えられる。
なぜならば、わたしの潜入時期とほぼ同時に発表された卒業を待つリーダーの高橋愛なき後、
ボーカルは間違いなくこの人を中心に回るだろうと言われているからだ。
次代を担うエースを救世主と見るのは、一義には論理の通ずる解釈である。
ただ彼女は、なかなか気難しい性格との噂で、自然に話しかけるタイミングが難しい。
じっくりと機嫌の良さそうな機会を待つ必要がある。
それと、今度は相手に主導権を握られないよう、もう少し強気で押していこう。
おそらく今後、道重さゆみより危険なものと対峙することも、そうないだろうが。
- 24 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:15
- 機会は都内某所にあるダンススタジオでやってきた。
「れーな、この場所ぅ!」
お昼休憩の時間になり、運ばれてきたお弁当を受け取った田中れいなが、
「ぅ」の声を裏返らせながら、稽古場の片隅にすすーっと滑り込んだ。
今日は学校やソロ仕事などの予定がないメンバーが、
午後のレコーディングまでの間、自主練習という形でダンス指導者のレッスンに参加していた。
「テンション高いねれいな」
「へっへー」
同じくお弁当を受け取った道重が声をかけると、胡坐をかいた田中がなぜか得意げな顔をする。
機嫌が良さそうだ。
「れいなって場所こだわるよね〜」
「まーねー」
楽しそうにお弁当の蓋を開けながら答える。
「縄張りみたいな? ネコだから?」
「ちーがーうー」
「ヤンキーだから?」
「ちがう!」
口調の割に、顔には笑みが絶えない。
本人もこのやり取りが嫌ではないようだった。
- 25 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:16
- 二人が一緒にいる間は、遠巻きの観察を決め込む。
道重も分別あるいい大人なので、四六時中襲いかかってくるわけではないが、
聞き取りの邪魔になりそうな要素はなるべく避けておきたい。
それに今日は、自分のコンディションにいくらか不安を抱えている事情もあった。
工作員養成所でダンスの高度な訓練も受けているわたしにとって、
午前中のレッスンは厳しいものではなかったが、
昨夜の情報収集作業に時間をかけてしまったせいで、あまり睡眠時間がとれていないのだ。
しかし今ここを看過するわけにはいかない。
調査対象に接近する、またとないチャンスなのだ。
「でもれいな、自分の荷物が動かされてるだけで、すっごいキレたりすることあるよね。
あれたまにビックリする」
「人聞き悪いこと言わんでー」
おかずの味見が一通り終わると、今度は片手でケータイをいじりはじめる。いそがしい。
「れーなはねー、ここって決めた場所が邪魔されよぉのがヤなだけー」
「それやっぱり縄張りじゃない?」
「そぉかなー?」
- 26 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:16
- 道重とは同期で仲は悪くないが、一緒に行動することも多くないことは調査済みだった。
案の定、しばらくすると道重はその場を離れ、
ダンスの指導者と全体の振り付けについて確認をしているサブリーダーの新垣のほうに去っていった。
今だ。
からあげ弁当を片手に、邪魔と思われないよう田中の顔色を伺いながら、じわじわ距離を縮めていく。
するとこちらが何かするより前に、目の合った向こうから声をかけてきた。
「あそうだ! りほちゃーん、ブログ用に写メ撮ってい〜い?」
「いいですよ」
笑顔は得意なほうではなかったが、養成所で一応の訓練を受けている。
わたしは片足だけそっと伸ばして、ゆっくりと彼女の近くに踏み入れた。
「? どうかした?」
「いえ」
機嫌は損ねていないようだ。
- 27 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:16
- 「あれ? りほちゃん雰囲気ちょっと変わった? なんかジャージの裾とかフリフリしとぉっちゃけど」
「元からこんな感じです。わたしメルヘンとか興味あるんで」
「メルヘン?」
「それより田中さんのTシャツもあいわらずカッコいいですね」
「そぉ?」
うれしそうににやける。
割とわかりやすい人である。
今日の彼女のレッスン着は、下が紫と黒の柄のジャージで、上がドクロのTシャツ。
この人は普段の服装から何かとそういう系統のものが多く、
他にもヒョウだったり、金だったり、銀だったり。
周りからヤンキーと言われる由縁だ。
- 28 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:17
- 二人になれたところで、さっそく本題に入った。
「田中さん、わたしもちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「いいよ〜、ブログのコメント増やすコツとか?」
「いえブログはやってないので」
と、その時だった。
背後からの強い悪寒に全身が総毛立つ。――いつの間に?
睡眠不足のせいもあって一瞬気づくのに遅れてしまったとはいえ、こうも簡単に後ろを取られてしまうとは。
ただ者ではない。
その間にもそれは、ふう、と生暖かい空気を耳の後ろに吹きかけきた。
「ひゃっ」
耳を押さえ、逃げるように前に倒れこみつつ振り向くと、口元に妖しい笑みをたたえるその姿があった。
「りほ、フフフ……」
「さゆ、目! 目がヤバい!」
「道重さん! 大人の分別を持ってください!」
「さゆみお姉様とお呼びなさい」
「前とちょっと変わってます」
「より興奮する関係を築けるかなと思って」
「普通でいいです」
- 29 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:17
- * * *
鞘師里保は悪の組織から送り込まれた潜入工作員である。
ある重要な任務を負い、第9期メンバーとしてモーニング娘。に合格した。
セクハラに耐える訓練は受けていない。
* * *
- 30 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:18
- 「ひどぉ〜い」
二人から離れた床にぺたんと座る道重の前に、割り箸の袋を四つほど、線になるように並べた。
「あれ何?」
田中が指で箸袋をさす。
「境界線です。そこからこっちに入ったら、もう口をきかないことにしました」
「きょーかいせん! りほりほがきょーかいせんって! カワイイ!
ああーん近づきたい。でもりほりほのきょーかいせんがカワイくて壊せな〜い!」
「なんなんあんたら、めっちゃウケるー」
ツボに入ったらしく、田中は腹を抱えて転げまわった。
機嫌は良さそうだ。
- 31 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:19
- 事前調査によると、彼女は道重さゆみと同じ第6期メンバーで、本名は田中麗奈。
同じ福岡県出身の女優と同姓同名であるため、芸名として名前をひらがなにしたと思われる。
ちなみにモー娘。がコンサートやテレビでの歌披露前にする掛け声「いきまっしょい」は、
その女優のほうの田中麗奈の主演デビュー映画「がんばっていきまっしょい」が起源らしい。
他には、インターネットのYouTubeから得た情報によると、彼女はかつて泥棒を生業としていたらしい。
これは限りなく悪っぽいプロフィールだ。
しかも実は猫と人間のハイブリッドなのだという。
完全に怪人側の人間である。
第一話は不本意ながら合法だったが、残りの第十二話までは徹夜で探して目を通した。
もし彼女がメシアであるならば、再び悪の道に連れ戻せば、
メシアの出現(覚醒するのか?)を未然に防げるのかもしれない。
- 32 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:19
- 少し目を離すと、道重がつつーっとさりげなく箸袋をこちらに近づけてくる。
「だめです」
「駄目っちゃよーさゆ」
「りほりほ、その女は危険よ、近づくとひっかかれるよ! 逃げて!」
「なーに言うとっちゃろ」
「ひっかくんですか?」
「ひっかかんよ!」
境界線を破れない道重は最終的にはあきらめて、シクシクとうつむいて立ち去っていった。
「田中さんはああいうの気にならないんですか」
「あー、さゆのこと? いつものことっちゃけん、もう気にならんと。アロエヨーグルト食べる?」
事前情報に比べると、彼女は意外と優しいところが多いように思う。
人見知りで、新メンバーに話しかけることも少ないとのことだったが、情報が古かったのだろうか。
「それも盗んできたものなんですか?」
田中が口に含んでいたアロエヨーグルトを吹き出した。
「れーなはそんなことせんよ。中学生じゃあるまいし」
「中学生の頃はしてたんですか」
「ノーコメント!」
びしっと手のひらを目の前に出された。
- 33 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:20
- そうか、この人がかつて怪盗であったことは、世間には秘密なのだった。
そして普段はコンビニの看板娘として働いていて、そして彼女を追いかける刑事さんは、
そのコンビニ店員のふりをしているれいなちゃんに恋心を抱いているのだった。
「鞘師、鞘師?」
「あ、はい」
「なんか遠くのほう見てたっちゃけど、なんか聞きたいことあるんじゃなかった?」
「そうでした」
「何でも聞ーてよ。アイドルっぽいポーズのこととか」
「アイドルっぽいポーズのことはいいです」
気を取り直して本題に入る。
「見ての通りわたしはメルヘンなことにちょっと興味があるんですけど、
田中さんは救世主ってどう思います?」
「メルヘン?」
「メルヘンはいいので、救世主って聞いたことありますか」
「きゅうせいしゅ」
「はい」
「きゅーせーしゅ?」
- 34 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:21
- 「あ、えっと、メシアとも言うみたいです」
「あー、……あ!」
ピンときた顔をした。とても興奮しているようだ。
「めしやね、めしや!」
「飯屋じゃないですよ」
「そ、それくらいわかっとぉよ!」
感情がそのまま顔に出る人のようだ。
「だから、えーと」
宙を見上げながらくるくると指をさまよわせた後、手を叩く。
「あれだ!」
そしてこちらを指差す。
「すき家!?」
「クイズじゃなかったと思います」
- 35 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:21
- 結局、要領を得ないまま昼食の時間は過ぎ、
学校に行っていた9期の数名も合流して、録音スタジオへ移動することとなった。
レコーディングの待ち時間はいつも独特の空気が漂う。
録音ブースに呼ばれるのは一人ずつで、9期以外の先輩メンバーはさすがに落ち着いたものだが、
新人たちはまだ緊張を隠せない。
何しろ自分がどこのパートを与えられるかは、基本、録音が終了してからでないとわからないのだ。
試験のようなものである。
田中れいなは見たところダンスはそれほどでもなく、少なくとも戦闘力は低そうだったが、
ボーカルになると途端に存在感を増す、というか俄然やる気を出す。
今は譜面を片手に、遅れ気味の鈴木と生田にアドバイスしている声が、横から聞こえてくる。
「れいなもずいぶん丸くなったよねー」
新垣が独り言のようにつぶやいた。
「昔は私達も自分のことで一杯一杯だったなぁ」
やはり、他のメンバーも昔の田中のほうが尖っていたことをわかっているのだ。
昔のほうがギラギラして熱くて悪かったのだ。
一体何が彼女の牙を抜いてしまったのか。
- 36 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:23
- 「だから香音ちゃん、そういうところは先輩見て、どんどん盗んでいかんと」
「盗むんですか!」
「う、うん、そうっちゃけど。鞘師なんでうれしそうなん?」
彼女の窃盗への想いだけではない。心に何か触れるものがあった。
何かそこに、彼女の野生を呼び覚ます重大なヒントがあるような気がした。
「でも、れーなのポジションは簡単には奪わせんけんね〜、にひひ」
「うまいこと言ったねーれいな」
ポジション争い――それだ。
次期エースという安寧の座が、彼女から牙を奪ってしまったのではないか。
ずっと彼女の機嫌ばかりを気にしていたが、
むしろこの緊張感漂うレコーディングのような場でこそ、野生の血はたぎるのではないだろうか。
ここは戦場、縄張り争いの場だ。
昔の、あの熱かった怪盗の日々を今ここでなら、取り戻させられるかもしれない。
興奮気味のわたしは、手近にあった紙を丸め、彼女の足元に転がしてみた。
「?」
反応しない。いや、方向性は間違っていないはずだ。
- 37 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:26
- わたしは早足でさっきのお弁当を食べていた稽古場へ向かった。
「ちょっと誰ー? 譜面くしゃくしゃにしちゃったのー」
新垣の声は聞こえない振りをした。
高度なサバイバル技術を身につけているわたしは、
身の回りのものだけで大抵の代替品を作ることができる。
例えば水のない砂漠で飲み水を得る道具。丸腰でジャングルに入り、食料を捕らえ、捌くための武器。
そして今のわたしに必要なものは――まだ残っていた。
稽古場の隅の机に積まれたお弁当の残りから、未使用の割り箸を手に取る。
袋の中から箸を抜き出し、箸袋を縦に細長く刻み、その先に挟み込む。
フサフサが足りないので、箸袋をさらに二枚使用する。
そう、即席のネコじゃらしだ。
すばやく録音スタジオに舞い戻ったわたしは、順番を待っていた田中れいなの目の前でそれを振ってみせた。
「……なに? お祓い?」
「きゃー! オカルト少女?」
田中れいなの目を見ながら振り続ける。
「りほりほの目すっごいキラキラしてる。カワイイ」
「なんか、変な期待されとぉ気がする……」
駄目だった。
- 38 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:27
- 「鞘師、大丈夫? アロエヨーグルト食べる?」
「大丈夫です」
今の田中れいなの優しさが逆につらかった。
やがて、呼ばれた田中が録音ブースの中へ消えていく。
一方のわたしはもうレコーディングどころではなく、敗北感にさいなまれていた。
彼女の野生を取り戻させるのは、もう不可能なことなのか。
落ち込むと同時に、急速に眠気が襲ってくる。
睡眠不足にも関わらず、興奮し続けたツケがここで回ってきたのだ。
少し眠りたい。
そばの数人掛けの椅子で横になろうと腰をおろし、
置いてあった邪魔なバッグを端に寄せようとした、その瞬間――殺気。
そういえば、いたのかもしれないけれど、あの人の存在をちょっと忘れていた。
今襲いかかられてしまうと危険だから、面倒だけど、また追い払わなければならない。
と、道重の姿を探すが、いない。
- 39 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:28
- どういうことかと思い、最初に殺気を感じた方向を確認する。
「ええー」
思わず声が出た。
録音ブースの透明の壁をはさんで、もの凄い形相で田中れいながこちらを睨んでいたのだ。
めっちゃ睨んでる。
「鞘師! それだめ、危ない!」
あわてた新垣が飛んでくる。
「言わなかったっけ? れいな、勝手に私物動かされるとすんごいキレるから!」
はっ、と息を吸い、自分が手をかけようとしていたものを見る。
ヒョウ柄のバッグに、じゃらじゃらの金銀がこれでもかというくらい巻きついている。
どう見てもこれは。
- 40 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:29
- その全身凶器のようなバッグから恐る恐る手を遠ざけ、ゆっくりと録音ブースのほうを見返すと、
内側の彼女はヘッドホンをつけたままにっこり微笑んでいた。
けれど同時にわたしも、愛想だけではなく本当に、心から笑みがこぼれていた。
あの人の中で、悪の灯火はまだ消えていなかったのだ。
「あの子ちょっと変わっとぉね」
録音ブースの中で、田中れいながマイクに向かってつぶやいた。
- 41 名前:調査2. 投稿日:2011/10/05(水) 23:30
- 田中れいな調査結果。
・ちょっとアホかもしれない。
・今は更生してしまったらしい。
・時々こわい(道重さゆみとは別の意味で)
今後も継続的に監視し、折を見て野性を目覚めさせる試みを続けようと思う。
つづく。
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/06(木) 00:33
- これはw 先が楽しみ!
- 43 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/06(木) 02:18
- 「今」の娘のデフォルメだね
楽しいです
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/10(月) 04:43
- 続き楽しみです。が
作者さん、新垣の「れいな」呼びはわざと?
細かいところすみません
- 45 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/12(水) 23:42
- 皆さま感想ありがとうございます。
呼び方の件ですが、ガキさんは田中っちと呼ぶということに関してであるならば、
もちろん頭の片隅にはあったのですが、舞台裏という状況もあり、
キャラクター性が出すぎる呼び方を控えたいという意識もあり、ああいう感じになりました。
ただ、インターネットによるとガキさんは下の名前呼び捨てをあえて避けているという話もあるようなので、
もし訂正する機会があったら訂正するかもしれません。しないかもしれません。
ストーリー展開上の都合によるものではありません。
- 46 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:44
- 調査3.鈴木香音
地元ではそれなりに名は知られているというホテルのロビー。
三階層を貫く吹き抜けの底に点在する丸いガラステーブルが、
雨後の水たまりのように、天井のシャンデリアを反射している。
テーブルを囲むベージュのソファーに浅く腰をかけた大人たちが、
書類を片手に真剣な表情で話し合っている。
「――なので、破損した照明の取り付け具に関しては、明日の朝一で、地元の業者に入ってもらいます」
「わかった。他は?」
黒スーツの男が促すと、若い男が手を上げる。
「夕方の、ここのバスルームの断水についてですけど、
どうも元のほうの給水系統に不具合があるらしくて、部屋を替えることになりました。
高橋と光井は、それぞれ部屋番号が510と511から、525と526になります」
「わかりました」
「了解」
「525……と526……」
皆が手元の書類にペンを走らせる。
- 47 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:44
- 「こんなもんかな、まだ何かある?」
「あの、9期の子達なんですが」
メガネの女が切り出した。
「今回のように地方での外泊は、四人ともまだ慣れていないことなので、
肉体的にも、精神的にも不安定になることがあるかもしれません。
一応、こちらでもまめにケアしていますが、もし何か気になることがあったら、
誰でもいいので近くのマネージャーに声をかけてください」
「わかった」
「はい」
「了解」
話が終わり、彼らがエレベーターホールへ戻っていくのを横目で見届けると、
広げていた英字新聞をテーブルに置き、
深めに被っていたパーカーのフードから髪の毛を解放して、マスクとサングラスを外す。
地方コンサートの夜。公演を終えて、メンバー全員での食事会が済んだ後、
スタッフがここでミーティングするというのを聞きつけて、
密かに隣のテーブルでずっと張り付いていたのだ。
- 48 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:45
- 特に成果と言えるようなものはなかったが、
彼らの話を聞いているうちに、9期が不安になるというのは確かにあるのかもしれないと思った。
元気そうに見えても彼女たちはまだ中学生の子供だ。
幼いうちは親が地方までつきっきりのこともあるのだが、スケジュールの都合や、
メンバー、スタッフと仕事を通じての一体感を共有したり、各々のプロ意識を高めてもらうために、
親にはあえて別に宿を取ったり、ついて来ないでいただくことも多い。
そんな環境で、コンサートの興奮があるうちはまだいいが、
夜になって気持ちも落ち着いた頃、ふと、寂しさに襲われることもあるだろう。
- 49 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:46
- 「あーいたいた!」
大きな声に振り返ると、いつも変わらぬ首の据わらない浅黒い笑顔が、子犬のように駆け寄ってくる。
同期の鈴木香音だ。
「りほちゃーん、宿題もう終わったー?」
「まだー」
「じゃあ部屋で一緒にやろ」
「いーよー」
まだまだ子供で、何かと面倒が多い彼女だが、一緒にいることによるメリットもある。
たとえば笑顔の彼女が隣にいると、わたしも自然に笑顔を導入することができる。
ロビーからの去り際、ずっといぶかしげにこちらの様子を窺っていたフロントの従業員と目が合ったので、
そのままの勢いでわたしは会心の微笑みを向けた。
- 50 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:46
- * * *
鞘師里保は悪の潜入工作員である。
ある重要な任務の下、第9期メンバーとしてモーニング娘。への潜入に成功した。
調査活動を行いつつ、日常は割と普通の中学生芸能人をしている。
* * *
- 51 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:46
- わたしはこの地方ツアーを期に、ある計画に着手していた。
内部の協力者作りである。
内部協力者の育成は諜報活動の基礎だ。
通常は、対象団体の内部情報を外部から得るために、
既存の団体所属者を内通者として取り込んでいく場合が多いのだが、
わたしのような潜入工作員にとっても、行動を共にできる内部の協力者が得られれば、
情報収集の手引きやアリバイ工作など、調査効率は飛躍的に向上する。
ただその際、相手にこちらの正体をある程度明かすことが前提になるので、
もしそこで協力を得られなければ、敵に正体がばらされてしまう危険も伴う諸刃の剣だ。
そのリスクを負ってでも、わたしが協力者を作ることに決めたのは、
このままだと任務に支障をきたすほどの、活動上の障害が明らかになってきたからだ。
率直に言うならば道重さゆみである。
つい先ほども、食後の勢いで部屋になだれ込もうかという流れに持っていこうとするところを、
先輩メンバーに押し付けて危うく逃れて来たところだ。
- 52 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:47
- 「あーまた光井さんに怒られるぅ〜」
鈴木がツインベッドの窓寄りのほうの上でのたうち回っている。
すぐ宿題に飽きて、いつの間にか雑談になっているのはいつものことだ。
先輩たちは基本個室だが、9期は二人一組で部屋に泊まるのが普通になっていて、
大抵は歳が同じ鈴木と同じ部屋になる。
「あたしなんかぜんぜんでさー。あー、明日起きたらいきなりダンス上手くなってたりしないかなあ」
散々愚痴をこぼしている割に、顔はいつも半分くらい笑っている。これが素の顔なのかもしれないが。
わたしはいつも特に言うこともないので、ただ微笑みながら黙って聞いている。
「出た、そのクールな顔」
「素の顔だよ」
またベッドの上を転がる。
「りほちゃんはスクール出身だから余裕だもんねー、あー」
わたしが通っていたということになっているアクターズスクール広島は、
正式には「悪ターズスクール広島」という。
その名の通り悪の養成機関である。
ちなみに講師に「ターズ」の意味を尋ねると軽くキレられる。
- 53 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:49
- 「広島アクターズスクールかあー。アクターズスクールに愛知校もあったのかなあ」
「広島アクターズスクールじゃなくて悪ターズスクール広島だよ。それとアクターズスクールって言うと、
安室奈美恵さんやSPEEDさんを輩出した沖縄アクターズスクールの関連学校と思われがちだけど、
アクターズスクールっていう名前自体は、芸能界を目指す子供達がダンスや歌、
演技などを身につけるために通う学校一般を指す呼称で、いわゆる芸能スクールとかと同じ意味なんだよ」
「へー」
「だからアクターズ何々とか、何々アクターズスクールとかは、
基本的には○○芸能学校って言うのと同じで、それぞれ全然関係ない資本を母体とした別のスクールなんだよ」
「へー」
「あと広島の場合、アクは悪の悪だから。これは秘密なんだけど」
「アク?」
「悪」
「アク?」
「うん悪」
「じゃあターズは?」
「え?」
「ターズっていうのは?」
「なんでもいいじゃん」
「なんでちょっとキレてるの」
- 54 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:50
- と突然、うなるような低い地響きと共に、カーペットの敷かれた床が細かく揺れはじめた。
「地震だ」
鈴木が天井を見上げて、「雨だ」とでも言うようにぽつりと呟く。
最近、多すぎてみんな慣れてしまったのだ。
大きくはないので、しばらくすれば収まるだろう。
それでも一応、倒れそうなものがないか注意して、頭の中で脱出経路をシミュレートし、
いざという時に持ち出すためのバッグの位置を目で確認する。
「わっ」
「鈴木?」
ちょっと目を離した隙に鈴木の姿が消えている。
「……鈴木?」
しばらくして、ツインベッドの谷間から茶色い熊のぬいぐるみがひょっこりと顔を出した。
谷間を覗き込むと、沈み込んだ鈴木が、ぬいぐるみを持ったままの手をベッドにかけて、
なんとか起き上がろうとしている。
「たすけて」
「ぬいぐるみ離しなよ」
ぬいぐるみを追って、落ちてしまったらしい。
- 55 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:51
- 「こんなに離れてるところでも、余震ってあるんだね」
鈴木がベッドの横にあったリモコンをテレビに向けてスイッチを入れた。
ニュース番組の背景を写して鈴木の顔が薄青く色づく。
「こっちはプレートが違うから、厳密には余震じゃなくて誘発地震って言うんだよ」
「りほちゃんってさ、たまに変なこと知ってるよね」
「変?」
「急に熱く語ったりしてなんか面白いよ」
「そうかな」
鈴木がベッドの上でぬいぐるみのほこりを一つ一つ丁寧に取りはじめる。
「あとさどうでもいいんだけど、なんで二人きりになるとあたしのこと鈴木って呼ぶの?
普段と同じで香音って呼んでよ」
「……」
「無視だよ〜」
なぜか楽しそうな顔で後ろに倒れ込み、そして起き上がりこぼしのように戻ってくる。
「あ、まだスパイごっこしてるんだ?」
こっちを見る表情に、ちょっと上から目線の雰囲気がにじみ出ていた。
「まありほちゃんがやるなら付き合ってもいいけどさ」
ぬいぐるみ離さなかったくせに。
- 56 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:51
- 「そのメシアってさあ、りほちゃんのことじゃないの?」
「それはない。もしメシアを調査に来ているわたしがメシアだったら、
わたしがモーニング娘。にいることが予言の前提になってしまうけれど、
予言がなければわたしはモーニング娘。を目指していないのだから、
もしわたしがモーニング娘。を目指していなかったらメシアが現れないというパラドックスに陥ってしまう」
「よくわかんないけど、そっかあ」
今度は考えているふうに真面目っぽい顔で後ろに倒れ込み、そしてまた戻ってくる。
「じゃーあたしだよあたし」
「え?」
「あたし、救世主。だって神様見えるもん」
「はあ?」
「ホントだって、今もほら、りほちゃんの後ろにいる」
いきなり鈴木がわたしの後ろを指差した。
「えっ!?」
焦って振り返ると、鈴木が大声で笑い出した。
- 57 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:52
- 「この……」
手近にあった枕を、笑い転げている鈴木目がけて投げると見事に顔面にヒットする。
今度はわたしが大笑いしてやった。
「やったな!」
鈴木が投げ返してきた枕を両手で受け止めると、そのまま枕を楯にしてベッドに乗り込んでいく。
「来るかースパイめ〜」
「それ外では言わないでよ」
「うおー!」
枕を鈴木に押しつけ、どうしてやろうかと拳を握り締めていると、
どん、と、先ほど鈴木が指したほうの壁から物音がした。
「……なに?」
「わかんない」
しばらく静かに様子を窺ってみるが、しんとしたまま何の音もしない。
「となりの部屋、みずきちゃんとえりちゃんだっけ?」
「みずきちゃんとえりちゃんは確かこっちだよ」
鈴木が反対側の壁を指す。
「じゃあ光井さんだ」
「やばい、明日怒られるかも」
「静かにしよう」
- 58 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:53
- しばらくして、部屋のドアがノックされた。
二人で恐る恐る出てみると、光井愛佳とマネージャーだった。
ただ、うるさくしたのを怒りに来たのではなく、地震のことで一応心配して、見に来てくれたようだった。
- 59 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:54
- 「光井さん怒ってなかったね」
「うん」
なんとなく落ち着いてしまったので、することもなくなり、
二人でテレビのニュースをそのまま眺めている。
この辺りでも、最近の地震で小さな被害がいくらかあったらしい。
今日のコンサート会場でも、公演前に照明の取り付け器具が破損しているのが見つかり、
安全のために一部が取り外されたのだった。
そういえば、ロビーでそのことについてスタッフ達が話し合っていた。
ふと、さっき尋ねてきたマネージャーのメガネ女の顔を思い出す。
「鈴木」
「なんだよ鞘師」
「こっち、部屋何号室だったっけ」
壁を指差す。
「えっと、ここが512号室だから、511?」
「じゃあ隣、空いてるはずだ」
スタッフの話によると、光井は確か526号室に移ったはず。だから隣に光井はいない。
- 60 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:55
- 「ええ、じゃあさっきのって」
鈴木が目を見開いたまま固まる。
「でも地震で給水装置が故障したって言ってたから、それの修理か何かでしょ」
「うそうそ、こんな時間に?」
「もしくは地震で何かが倒れただけか、または給水量の変化による水道管内の反響の変化しただけか、
あるいは湿度の変化による構造材のわずかな変形によるずれから生じる軋み、いわゆる家鳴りか、
もしくは地震の低周波によるビルの共振現象か、ネズミか、もしくは突発的な局地的ビル風か、もしくは――」
「もしくはすぎるよ〜」
「とにかく神とか幽霊とかお化けとか妖怪とかお化けとかそういうのは論理的にありえないから」
「自分も予言とか言ってるくせに」
「だからそれは例えば化学の分野で未発見の元素の存在を予言するとか、
物理の学説から、その延長に観測されるであろう未知の現象や観測値を予言するとか、
そういう意味での、膨大なデータと実績ある理論に基づいた合理的な未来予測であって」
「あーもーなんかわかんない〜」
「その割にちょっと楽しそう」
「素の顔だよ」
- 61 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:56
- とにかくその後、物音が再びすることはなかったので、鈴木を落ち着かせることができた。
夜中の肝試しなどしているところを見つかったら、今度こそ誰に何を言われるかわからない。
「りほちゃ〜ん」
「なに?」
机で宿題を再開したわたしに、ベッドの上の鈴木が退屈そうに話しかけてくる。
「お風呂一緒に入ろうよ〜」
一人で入るのが怖くなったらしい。けれどわたしにそのつもりはない。
「断る」
「え〜。あのことなら謝ったじゃ〜ん」
「あのこと?」
「あたしの学校の女子もみんなりほちゃんと同じくらいだって〜」
力を入れすぎてノートに穴が開いた。
「あたしなんかよりもっと大きい子だっているし〜、りほちゃんが気にすることじゃないよ〜」
「こ、と、わ、る」
- 62 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:57
- 「りほちゃんのガンコもの〜」
またベッドの上でごろごろ転がりはじめた。けれど無視。
「自分だって寂しいくせに〜」
しばらくして、物音がしなくなったのでベッドのほうを覗いてみる。
「寝てるし」
ごろごろした挙句、いつの間にかドア寄りのわたしのほうのベッドの上で、
すがすがしいほど気の緩んだ顔で寝息をたてている。
胸にはやっぱりぬいぐるみを大事そうに抱えている。
落ち着いたところで疲れがやってきたのだろう。
だって今日は一日コンサートがあったのだ。長距離の移動もあり、
スタッフも言っていたように、肉体的にも、精神的にもかなりの疲労があるはず。
椅子から立ち上がり、
起こさないようにそっと鈴木の体を転がして、上手くふとんの中に納めてあげる。
ふとんの上に置きっぱなしだったリモコンに手を伸ばして、つけっぱなしのテレビのスイッチを切ると、
まるで静寂のスイッチが入ったようにしんとした。さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
あまりの静けさに、なんとなく体がぶるっと震えた。
- 63 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:58
- 机に戻ろうとして、ふと壁が目に入る。
さっき、鈴木が神がいると言ったあたり。
どん、と隣の物音がしたあたり。
「いないいない」
なんとなくあえて声に出してみると、声がそのまま吸い込まれていく感覚をおぼえる。
「鈴木」
ベッドの上の鈴木に小さく声をかけてみる。
変わらず気持ち良さそうに寝息をたてている。
「ちょっと、鈴木くん?」
起きない。起こさないような声で言ってるのだから半分は当たり前だけれど。
- 64 名前:調査3. 投稿日:2011/10/12(水) 23:59
- わたしもそろそろ寝ることにした。まだ明日の公演もあるし。
そうしよう。寝不足では明日の調査活動にも支障が出るし。
散らかった机の周りの片付けも明日の朝にしよう。
ドア寄りのベッドを鈴木に取られてしまったので、
窓側のベッドに入って横になる。
あまり眠くならない。
そうだ、電気を消すのを忘れてた。電気を消さなきゃ。
ベッドから這い出して、ドア近くの照明の絞りをちょっとだけ傾ける。
ちょっとだけ部屋が暗くなる。うん。これくらいなら大丈夫。
そしてわたしはドア寄りのベッドの中にそっと入り、眠りについた。
- 65 名前:調査3. 投稿日:2011/10/13(木) 00:00
- 鈴木香音調査結果。
・ぬいぐるみ程度には役に立つ。
隣の部屋の物音は、
酔っ払って帰ってきてそのまま寝てしまった道重さゆみだったということが、翌朝発覚した。
どうやって部屋に侵入したのかは不明。
つづく。
- 66 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/13(木) 08:44
- りほかのは平穏だねぇw
- 67 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/14(金) 13:43
- 今一気に読んだ
何だろう淡々とした爆笑とでも言えばいいのかとにかくおもしろい
続き楽しみ
- 68 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/15(土) 10:17
- 作者さん乙です!
りほかのかわいー!!
悪のはずなのにかのんちゃんに優しくてお化け的なものにビビるりほちゃんかわいすぎるw
設定が斬新で発想がすごいなと思います!面白いです!
更新頑張ってください
- 69 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:37
- 調査4.光井愛佳
「りほちゃんどれにするー?」
「エビフライかな……」
一点の曇りもないガラスの向こうにある、それをじっと見つめる。
適度な油を内包しつつこんがりキツネ色に揚がったパン粉の一粒一粒が見事に表現され、
それでいて表面に余分なてかりは一切無い。
熱が加わることで湾曲してしまうのを防ぐため浅く包丁が入れられたエビの、
曲がるとも曲がらぬとも煮え切らない曲線を絶妙に再現したフォルムは洗練の域に達し、
ピンクのグラデーションが輝きを放つ半透明の尻尾は、まるで繊細なガラス工芸品のようだ。
職人の飽くなき向上心の賜物か、活気づく業界の技術革新によるものなのか、
近年の食品サンプルの品質向上には目を見張るものがある。
常日頃からフェイク技術を多用する我々工作員にとっても学ぶことは多い。
「一度工場行ってみたい」
「そんなに近づいたら鼻の脂つけちゃうよ、りほちゃん」
あるテレビ局の社員食堂。
番組の収録が終わり、ちょうどお昼前だったので、
メンバーみんなで寄っていこうということになった。
- 70 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:37
- 「テレビ局の人たちって、ザギンでシースー食べるだけじゃないんだよね」
「また変なこと言ってる」
「えりねー、えりはねー、カレーにしよっかなー、聖にニンジンとタマネギとジャガイモあげるね」
「野菜もちゃんと食べなよ、好き嫌いは体に良くないんだよ」
「れーなは何にしよっかなっ」
後ろから田中れいなの声が混じってきた途端、
その場にいた9期全員が背筋を伸ばし、左右に分かれて道を開いた。
「え、何? どーゆーこと?」
「どうぞ」
どこかのお出迎えのように、四人は揃って手をショーウィンドウに向ける。
「ど、どうも」
田中は首を傾げながら、四人の花道を通ってメニューの並ぶガラスの前に立った。
9期がこうなったのには理由があった。
- 71 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:38
- 「うわーどれも美味しそうっちゃねー、どれにしよっかなー」
「ですよねですよねー」
生田がすかさず続く。
それをきっかけに9期のテンションはまた元に戻り、再びショーウィンドウに群がる。
「こういうのって、なんかワクワクしちゃいますよね」
と譜久村。
「そっかぁ、みんなまだ若いから、こういうとこあんま来んけんねー」
「メニューが全部美味しそうで、めちゃくちゃ迷っちゃうんですよ〜」
と鈴木。
「あるある」
「田中さんはこういうガラスケースの中のお宝を見たら、血が騒ぎますよね」
「お宝? あ、うん、ワクワクとかするっちゃね」
「予告状書きますか」
「なんで?」
- 72 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:38
- 「あ」
鈴木が声を出した後、しまったという顔で口を押さえた。
反射的にみんなが鈴木の視線の先を追う。
田中もそれに気がついた。
「おー愛佳ー、まだ中すいとぉみたいよ」
「そりゃ良かったですー」
それは、通路の奥からゆっくりと現れた。
その姿に、どこからともなくBGMでも流れてきそうな錯覚に陥る。
アルミ製の二本の松葉杖が、ギュッ、ギュッ、と床を踏み鳴らし近づいてくる。
その間、9期は全員、直立したまま全く動かなくなっていた。
- 73 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:38
- * * *
鞘師里保は悪の潜入工作員である。
ある重要な任務の下、第9期メンバーとしてモーニング娘。への潜入に成功した。
悪ターズスクール広島では、上下関係の厳しさをそこそこ叩き込まれた。
* * *
- 74 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:39
- 光井愛佳。2006年12月に決定したモーニング娘。Happy8期オーディション唯一の合格者。
わたしたち9期の一期先輩ということになる。
好きな動物はトラ(ホワイトタイガー)、ライオン。
飼ってみたい動物はライオン。
生まれ変わりたい動物はライオン。
好きな言葉はライオンキングの「ハクナマタタ(気楽に行こう)」
かなりの肉食である。
一見穏やかそうな外見にそぐわず、ヤンキー志向を思わせる趣味嗜好は多く、
田中れいなと気が合い、よく行動を共にしているというのも、
そういうところがあるからなのかもしれない。
先日、コンサートツアーのさなかに左足関節の違和感を訴え、
診察を受けた結果、左距骨疲労骨折と診断された。
歩行も困難であったため、激しい運動を伴う仕事はしばらく休みをとることになった。
- 75 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:39
- 「なんでそんなにいい加減なん?」
9期四人は料理の乗ったトレーの前でうつむき、目の前の人の怒りを浴び続けている。
「オムライス冷めちゃう」
隣の譜久村が、前に聞こえないくらいの小声でつぶやく。
お昼休みに入り、にぎわいはじめる食堂。
楽しいお食事タイムのはずが、なぜかお馴染みダメ出しタイムになっていた。
四人がけの白いテーブルが二つ連結されており、
厨房寄り、窓側から外の通路側へ向かって鈴木、わたし、譜久村、生田の順で横に並び、
向かいの窓側に田中、隣に光井が座っている。つまりわたしの正面が光井だ。
その二つのテーブルは、幸運にもつい先ほど食事を終えて譲ってくれた、前のおじさん団体のものだった。
食券形式にあまり慣れていなかった9期は、食券を購入することだけで興奮してしまって、
九人分の席取りを自信満々に引き受けて先に食堂に来たにも関わらず、
それをすっかり忘れてしまっていたのだ。
- 76 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:40
- そしていつの間にかお昼休みの時間に突入してしまって、食堂はごった返し、
座る場所のないわたしたちは、
料理の乗ったトレーを持ったまましばらくウロウロするはめになった。
「先輩を立ちっぱなしにさせとくなんて考えられへん」
鈴木が窓の外の誰もいない方向に助けを求めてはじめている。
譜久村は下を向いたまま黙っているが、そろそろ心は全然関係ない世界に逃避しはじめている。
生田はニコニコとにかく笑っている。緊張が極限に達したら何をするかわからない。
「愛佳もうええっちゃよ〜、別に」
田中が笑顔でその場を納めようとするが、光井の表情は変わらない。
「あかんですよ! こういうとこはきっちりせんとかな、田中さんは黙っててください」
「すいません」
- 77 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:41
- 以前にも同じように、テレビ局の食堂で光井に叱られた事がある。
その時は、9期たちがはしゃぐあまりメニューの最前列を占領し続けて、
後からやって来た田中たちが、なかなかメニューを見ることができなかったのだ。
みんながメニューの前で先輩に対してやたら緊張するようになったのは、それからだ。
「おー、おったおった。お待たせー」
高橋が、手を振りながら近づいてくる。
それを見た9期が全員反射的に起立した。
パイプ椅子の脚が床で擦れて一斉にブブブと音を奏でる。
「……何があったの?」
「わかんない」
田中は困ったような、でもちょっと楽しいような表情で答えた。
- 78 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:41
- 「結構混んでるねー」
事情を聞いた後、空気に耐え切れなくなった高橋が口を開いた。
「まあ、あたしたち普段はケータリングか弁当がほとんどだし、
たまにこういうところ来たら、みんなはしゃいじゃうよね」
「だからって最低限のけじめは必要やと思います」
「ですよね。すいません」
テーブルは再び静まりかえる。
「犯人は、この中にいるー!」
生田が突然立ち上がって叫んだ。
「え? なに?」
「なんかこういうシーンってよくないですか? こういう雰囲気の時」
生田を見上げる光井の無表情が怖い。
「なんかもうこの雰囲気つらい」
消え入りそうな譜久村。
「帰りたい」
泣きそうな鈴木。
- 79 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:42
- 「み、みんな、お茶いる? あたし食券換えるついでに持ってくるよ」
高橋が席から離れようとする。
「それなら私が行きますよ」
光井がヨタヨタと立ち上がろうとする。
「愛佳はいいから、いいから座ってて」
「先輩にお茶持って来させるなんてできません」
「わ、私たちが行きます!」
譜久村が隣のわたしを引っ張りながら立ち上がった。
「お茶を取りに行きたいんです! 行かせてください!」
「あたしも!」
鈴木も立ち上がる。
生田はニコニコしたまま座っている。
もしかしたら既に気を失っているのかもしれない。
「そ、そっか、頼むよ。あたしはこれ、これもらってくるから」
高橋は食券を識別できないくらい早く振った。
- 80 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:45
- 普段なら気が効いてよく動く光井が、怪我をしているために、
気は効くのに自ら動くことができなくて何かとても面倒臭いことになっている。
「息が止まるかと思ったよ、もう……」
湯のみが重ねられたケースの前で、鈴木がだらしなく両腕を脱力させる。
「でも言ってることは間違いじゃないよ」
「りほちゃんは優等生なんだから」
それでもわたしは、光井愛佳に対していくらかの尊敬の念を抱いていた。
- 81 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:46
- 彼女が自己紹介で自分のことを中間管理職と言うようになったのは、
たぶん、わたしたちが入った頃からだ。
特に彼女のすごさを強く印象付けられたのは、
メンバーでお好み焼き屋さんに行った時のことだった。
焼き上がったホカホカのお好み焼きにまず何をかけるべきか迷っていたわたしがふと目を上げると、
さっきまで目の前にあったはずのソースが田中の前に移動していた。
「あの」
取ってもらおうと声をかけようとしたその瞬間だった。
おしゃべりに夢中になっていた田中が、そのままの体勢で自然に、
まるで最初からソースがそこに置いてあったかのようにごく自然にハケを取り、
自分のお好み焼きに塗りはじめたのだ。
- 82 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:48
- 戦慄した。
田中の視野、ソースに手を伸ばすタイミング。
恐らく手の長さも計算に入っている。
余裕を持って届く範囲でありながら、それでいて押し付けがましくない絶妙な距離感。
その夜、最後のお好み焼きがみんなの胃に消えるまで、
「ソース取って」という言葉が先輩メンバーの口から発せられることは一度も無く、
ソースは密かに位置を変え続けた。
それらすべてが、光井一人の暗躍によるものだったのだ。
恐らく彼女のしていたことに気づいたのはわたし以外いない。
その采配の妙はステージ上でのポジショニングにも通じているに違いない。
もしも敵にこれだけの参謀がいたならば、近い将来、非常に手ごわい相手となる。
だからこそ、早いうちに芽を摘んでおかなければならない。
今日はその日、挑戦の日になりうる。
「りほちゃん、そんなにトレー握りしめないで。お茶こぼさないでよ?」
- 83 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:49
- 席に着き、お茶が全員に行き渡ったのを見届けてから、ソースの位置を再確認する。
田中のお惣菜のコロッケは既にソースがかかっている。
説教を受けているうちにいつの間にかやられていた。
ならば次の狙いは高橋。
高橋が食券を交換して席に戻ってきた時、ソースをさりげない場所に置くのは私だ。
窓際の田中と鈴木の中間にあったソースを、
光井の目線が切れた時を見計らって、若干こちらに引き寄せておく。
しかし早めに高橋の位置――わたしの右斜め前、光井の左隣。に置いてしまっては、
今度は田中がコロッケの味が物足りなかった時に取り戻すことができなくなる。
田中がコロッケを一口味見するまでは、この位置をキープしておくのがセーフティだ。
タイミングが勝負になる。
「りほちゃんソース貸して」
「ちょっと黙ってて」
「そんなに握ったらソース潰れる。中身出ちゃう」
高橋は右利きだったはず。
着席した瞬間に、右手のやや外側前方に置かれているのがベスト。
- 84 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:50
- 働くおじさんたちの群れからトレーを持って抜け出した高橋の姿を捉えた瞬間、
同じ視野で田中がコロッケを口に運ぶのが目に入った。
――天は悪に味方している。
わたしは迷いなく左手首の鋭いスナップでソースの滑走を開始させた。
テーブルの摩擦係数は既に把握している。
ライン上にお冷の汗の跡もない。
完璧なライン、完璧な力加減。
それは間違いなく、高橋が着席するジャストのタイミングで、
高橋の右のやや外側前方で運動エネルギーを0にする、はずだった。
「え」
しかし、華麗なるソースの滑走の前に忽然と立ちはだかるものが、無情にもそれをシャットアウトした。
慣性の法則を守るソースの中身だけが虚しく揺れる。
光井の手だった。
自らの手柄のため、直接妨害するとは卑怯なり光井愛佳。そこまで堕ちたか。
- 85 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:52
- けれど。
ほぼ同じタイミングでテーブルの上に置かれた高橋のトレーに、わたしは愕然とした。
――焼き魚定食。
ソースをかけるべきお惣菜が一つも乗っていないのだ。
そして高橋は何の違和感も無くちょうど手の届く範囲にあったお醤油を取り、鼻歌まじりにかける。
「やっぱカルシウム取らないとね」
「そうですよ〜、疲労骨折しちゃう〜」
光井の右親指第一関節にはわずかながらの渇いた醤油の欠片。
甘いわ。
彼女の嘲笑が聞こえてくる気がした。
自虐まで交える余裕のトーク。
下のミスをリカバーしつつ、上を確実にフォローする。
中間管理職おそるべし。
- 86 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:54
- 「そういやガキさんとさゆ、もうすぐ来ると思うけど、席空くのかな」
焼き魚をもしゃもしゃとしながら高橋が周りを見た。
「あ、そしたら私が」
光井がまたヨタヨタと立ち上がろうとする。
メンバーは九人。混雑する食堂の中で、席はまだ一つ足りないままだった。
「いいです、いいです、二人が来たらわたし達が立ちますから」
9期全員が光井に向かって手を激しく振る。
たぶん生田は雰囲気で合わせているだけ。
それでも光井は立ち上がるのをやめようとしない。
「光井さん」
「ちゃうちゃう、ちょっと追加オーダーしたくなっただけだから、行ってくる」
光井が優しく微笑む。
そして席が一つ空く。
そうなのだ。
彼女はそういう人なのだ。
- 87 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:57
- つい先日のコンサート中。光井の骨折が判明した後のことだ。
公演の終盤で脚に限界が来てしまった道重が、曲中に倒れこみ、
立ち上がることもできず、お客さんたちの前で、その場に伏せてしまったことがあった。
その時、フォーメーションを乱すことができない他のメンバー、
どうしたらいいかわからない新メンバーたちに代わって、
車椅子から立ち上がり、足の痛みも構わず最初に駆け寄ったのが光井だった。
下に厳しいだけではない。
いざという時、チーム全体の勝利のために、自らを犠牲にすることもできる。
- 88 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:58
- 彼女は、選ばれし者達が集う中で、特別な存在ではなかった。
しかし彼女が丁寧にはぐくんできたグループへの想い、気配り、メンバーの把握。
その全てが彼女のこれまでの時間が決して無駄ではなかったことを物語っている。
そしてそれはきっと、彼女の特別なものだ。
逆に彼女が怪我をしていることによる気配りの損失、
そして彼女自身の抱えるもどかしさは、いかほどのものだろう。
いまだ下々の人徳を得るまでは至っていないようだが、
しかしいずれきっと、さらに立派な中間管理職になるに違いない。
- 89 名前:調査4. 投稿日:2011/10/21(金) 23:59
- 立ち上がった光井が、片手をテーブルに置き、片足で跳びながら向かい側の9期の後ろに回り込む。
9期が一斉に道を開けようと椅子を引く。
光井の松葉杖は、9期の並びの一番窓側、つまり鈴木の横に立てかけてあった。
普通なら光井が座っている側に立てかけそうなものだが、そこには田中が座っている。
窓際を好む田中にその場所を譲り、自分の私物の置き場にすることを避けたのだ。
この辺の気づかいもややこしいが美しい。
9期は相変わらず緊張で体を固くしたまま、
背中にガチャガチャと松葉杖の鳴る音だけを聞く。
その時だった。
「ゴメンゴメン待ったー?」
「お待たせ〜、お腹すいちゃった〜」
新垣と道重が手を振って近づいてきた。
- 90 名前:調査4. 投稿日:2011/10/22(土) 00:00
- と同時にパイプ椅子の脚が床で擦れて一斉にブブブと音を奏でる。
9期三人が新垣と道重の姿に反射的に起立したのだ。
一人だけ立ち上がらなかったのはわたしだ。
なぜならば、自分の後ろに何があるのか把握していたから。
奏でる音の中に若干違うゴムの音が混じっていたことから、
三人が重大な過失に気がつくのに時間はかからなかった。
慌ててまた同時に振り向く。
そしてカラン、カラン、という音。
「あ」
「あ」
「あ」
わたしの両サイドの椅子に静止摩擦力を根こそぎ奪われた二本の松葉杖はお隣の席にご迷惑をかけ、
支えを失った光井は、わたしの真後ろで、両の足で床を踏みしめ、仁王立ちしていた。
「愛佳が立っとぉ」
田中がキャベツの千切りをほおばったままの口をぽかーんと開けた。
- 91 名前:調査4. 投稿日:2011/10/22(土) 00:01
- 「いた、いたたたたたたたたたったったっ!」
光井が道重を助けに来た時くらいの勢いで跳び上がる。
「お医者さま、お医者さま」
と譜久村。
「救急車、救急車呼ばなきゃ」
と鈴木。
「それは大げさ! 愛佳保健室! 医者室? 医者室!」
と田中。
誰かが小声で「グッジョブ」とささやいたのは聞こえなかったことにした。
「……何があったの?」
「わかんない」
新垣の問いに、高橋が困ったような、でもちょっと楽しいような表情で答えた。
- 92 名前:調査4. 投稿日:2011/10/22(土) 00:02
- 光井愛佳調査結果。
・基本的にこわい。
・ちょっと面倒臭い。
・でもいいところもある。
・骨が弱点。
中間管理職(ちゅうかんかんりしょく)とは、
管理職の中でも、自身より更に上位の管理職の指揮下に配属されている管理職の事を言う。
(Wikipediaより)
光井が現在治療中の「距骨」という骨は、
脛から足首までを形成している「脛骨」と、踵を形成する「踵骨」との間に挟まれた部位で、
着地などの衝撃を受けると、その二つの骨、つまり上と下の両方から圧迫されることにより激しく痛み、
治りは非常に遅いのだそうだ。
ちなみに、カルシウムが不足すると怒りっぽくなるというのは俗説で、科学的根拠は無いとのこと。
つづく。
- 93 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/22(土) 10:37
- 更新楽しみにしてました!
毎回本当に着想がおもしろくて感心します
でも今回のは途中ちょっとホロリときたw
愛佳に幸あれ
- 94 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:36
- 調査5.譜久村聖
ドアの隙間から漏れる明かりが、床にオレンジの帯を引いている。
時折それをさえぎる影が、中にいる彼女のリアルな姿を想像させて、変な気分にさせられる。
とめどなく流れ続けるシャワーの音。踊るような鼻歌。
ベッドに横たわるわたし。
何でこんなことになってしまったのだろう。
ドアが閉めきられていないのは、開放された彼女の大胆さの表れか、それとも、
ベッドから部屋の出口に向かう間に位置するそこを、横切る者がないか監視するためなのか。
ただ言えるのは、今、わたしはここから逃げられない。
- 95 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:36
- およそ十八時間前――日本時間PM 9:00
わたしたちはハワイ目指して太平洋上空を飛行する旅客機の中にいた。
右側の通路を挟んで斜め前の席に座っている高橋愛のコップの残量に目を配りながら、
手元のジンジャーエールをいつでも差し出せるように手を添える。
高橋が選んだスカイタイムゆずもリミテッドな味わいだが、
ジンジャーエールの大人なシュワシュワ感も是非おすすめしておきたい。
「りほちゃん、ジュースぬくまっちゃうよ」
「ちょっと黙ってて」
鈴木香音はわたしの左隣でポークソテーを頬張っている。
モー娘。メンバーとマネージャーで席の半数近くを占められた前方のキャビンは、
既に大半の人間が眠りについていて、喋り声はほとんど聞こえてこない。
騒音の中の静謐とでも言おうか。
耳に入ってくる音の八割くらいは飛行機自体の騒音で、
静かだけどうるさい。うるさいけど静か。
- 96 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:36
- 日本からハワイまで、約七時間かかる。日本とハワイの時差は十九時間なので、
例えば午後八時に日本を出発すると、七時間後、同日午前八時のハワイに到着する。
つまり、日本を飛び立ってすぐ眠りにつけば、睡眠時間はいくらか短いものの、
夜に寝て朝に起きるというサイクルを維持できるので、時差ボケが少なくて済むのだ。
高橋がなかなか眠りにつけないでいることに気がついたわたしは、
さりげなく気を回す機会をずっとうかがっていたのだが、
またしても高橋の後ろの席にいた光井に先を越され、脚のマッサージをはじめられてしまった。
最初は遠慮していた高橋も、今はヘッドホンを外し、楽しそうに光井と会話を弾ませている。
きっと「愛佳マッサージうまいねえー」とか言っているのだ。
「アイドル以外のことは本当に器用な人なんだよね」
後ろの譜久村が、きっと本人に悪気はないのだけれど地味に失礼なことを呟く。
「わたしだって肩揉み得意だし」
「りほちゃんはなんで対抗するの」
鈴木が三袋目のピーナッツを開ける。
- 97 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:37
- ちなみに田中はこの便に乗っていない。
表向きはパスポートを紛失したということになっていたが、
恐らく過去の窃盗歴で、出国にストップがかけられたに違いない。
いつの間にか後ろの席から姿を消した譜久村が、別の席で跳ねていた。
隣には道重がいる。多分、二人で動画でも見て、
「フクちゃんフクちゃん、今のここ、可愛くない? 可愛くない?」
「あー! カワイイ〜!」
とか言っているのだ。
下手に目を合わせないほうが安全なので、あまり見ないようにする。
鈴木がクラムチャウダーを幸せそうに口に運ぶ。
「食べすぎじゃない? まだおかわりしてるの?」
「だって美味しいんだよ意外と。もう機内食バンザイ」
「着くまでに体型変わっちゃうよ、撮影あるのに」
「う〜、でも止まらないんだよ〜、水着と機内食は別腹別腹」
「使い方おかしいし、たぶん同腹」
- 98 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:37
- * * *
鞘師里保は悪の潜入工作員である。
ある重要な任務の下、第9期メンバーとしてモーニング娘。への潜入に成功した。
仕事で着る小さい水着には、まだ抵抗がある。
* * *
- 99 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:37
- 「たすけて」
出発前の倍くらいにお腹をふくれ上がらせた鈴木が、シートの上でうめいている。
「だから言ったのに」
「そういえば」
何か思いついたように、鈴木が顔だけこちらに向ける。
「りほちゃんの言ってる救世主ってさあ」
その言葉にとっさに鈴木の口をおさえる。
「べふっ」
手に何かがついた気がするけど我慢。
「ふぁふぇふぃぼ、ほふぅ」
鈴木が目で何か訴えている。
「なに?」
「ぶぁふふぇぶぉふぁふぁふぃふ」
「だからなに?」
鈴木がわたしの手を払う。
「まず手をどけてって言ったの」
「そっか」
- 100 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:38
- 警戒した鈴木はわたしの手首を握ったまま離そうとしない。
「だから、その、救ニャウニャって、何かを助ける人なんでしょ? だったら、
その前に何かがダメになってないとダメなわけじゃない。何を助けてくれるんだろうね」
海岸に打ち上げられたトドみたいになっている割に、意外と鋭いことを言う。
「その目、ブタ野郎のくせに何言ってるんだって思ってるでしょ」
「そこまでは思ってなかった」
救世主とは何かを救うもの。
単純な話だけれど、救世主が現れるということは、その時、何かが危機に陥っているということだ。
「汚れきった大人の世界とか?」
「汚れきってるの?」
「知らない」
- 101 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:38
- 気がつくと高橋と光井も、もう眠りについていた。
窓はブラインドが下げられていて、外の景色を見ることはできない。
わたしたちを乗せた、空飛ぶ容れ物。
危機の意味がわかれば、『メシア』の正体に近づくことができるかもしれない。
「飛行機ならば、推力が足りないなら、新しいエンジン。爆弾が仕掛けられていたら、それを処理できる者」
考えを確かめるように小さく声に出していると、
ちょうど鈴木の食事を下げに来ていたCAにびっくりした目で見られた。
「大丈夫です。捕まえてますから」
鈴木がわたしの手首を握ったまま、よくわからないフォローをした。
- 102 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:39
- 「そろそろ寝よ」
「うん」
しかしシートを倒して毛布を掛けてはみたものの、なかなか姿勢が落ち着かない。
何度か寝返りを打ちながら、腰に違和感があるからだということに気がつく。
「どうしたの?」
「なんか、腰がちょっと」
「太ももじゃなくて?」
春頃から、右の太ももに少しずつ痛みを感じはじめていた。
ゴールデンウィークからのコンサート続きで体を休める間もなく、
それはいつか、日常的な痛みとなっていた。
「マッサージしてあげよっか」
鈴木がなぜか楽しそうな顔で両手の指を曲げ伸ばしさせる。
「いらない」
「遠慮するなよう」
「でも、本当に大丈夫」
どうせそのお腹じゃ起き上がれないだろうし、などと思いながら腰に手を当てる。
これから何かが起こるのか。それとも、既に起きているのか。
「もっとモーニング娘。のことも知らないとな」
そんなことを考えながら、寝たり覚めたりを繰り返した。
この時、聞き耳を立てていた者がすぐ近くにいたことに、気がつかないまま。
- 103 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:39
- ハワイ時間AM 9:00。
明るい日差しに背伸びをする。
ホノルル空港に着いてすぐ、みんなで朝食をとり、
少しの休憩を挟んで、海岸での生写真撮影に入った。
たとえば今のモー娘。が危機にあるとすれば、それを補うものに、一つは心当たりがある。
それが今、撮影の順番を終えたところだ。
目の前のそれをおもむろに掴む。
「あン!」
これだ。とても中学生とは思えないこの色気。
「里保ちゃん! いきなりなに!?」
胸を押さえて顔を赤らめた譜久村聖が、困惑した表情を向ける。
こんなちょっとした表情さえ、独り身に見えないのだからふざけている。
南の島らしく開放的な、ゆるいTシャツの胸元から覗く真っ白な二つのふくらみ。
「これ、作りものじゃないよね」
「当たり前でしょ!」
もう一回揉んでみる。
「あン!」
- 104 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:39
- 「みずきちゃんおもしろーい」
面白がって鈴木も真似る。
「あっ、ちょっと香音ちゃんまで、やめて! やん、なに、ちょっと!」
反応に喜んでどんどんエスカレートしていく鈴木から譜久村が逃げ出す。
この、子供さえ狂わせる魔性の色香。
これこそ今のモー娘。に足りないものではないのだろうか。
「いや……ダメ……」
聞こえてくる譜久村の声が段々と公序良俗に反しそうになってきたので、
そろそろ止めたほうがいいかなと二人の方を見ると、鈴木はとっくに触るのをやめていて、
代わりに譜久村の背後に密着しているもう一つの人影を見つめていた。
「道重さん」
「愛のりほりほハンターと呼んで」
「その前にみずきちゃんからその手を離してあげてください」
「は……ん……もぅ、私……」
「はっ! いつの間に!?」
「それ絶対こっちのセリフですよね」
- 105 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:40
- 「飛行機の中で仲良くなれたからもう少し先へ行けるかなと思って、
みんなを見てたらつい我慢できなくて」
「我慢しきってください」
「でも違うの、違うのりほりほこれだけは聞いて!
りほりほの胸がぺったんこでもさゆみは全然気にしないから! むしろそれがいい」
「どうでもいいです」
とか言いながらさっそく触れてこようとする道重の手を一つ一つ弾き返す。
この人も南の島でずいぶん開放されてしまっている気がする。
仕方がない。
「ゆけ鈴木!」
道重に指を向けると、鈴木がカマキリのモノマネで突撃していく。
「シャー!!」
「や〜ん、香音ちゃんも可愛い〜」
内部協力者育成の成果は着実に出ている。
「変顔とかやめて香音ちゃん」
芝生の上にへたれ込んでしまった譜久村が、
じゃれあう道重と鈴木を、博打に明け暮れる亭主に置き去りにされた女房のような目で見つめている。
「アイドルがそんなことしないで……」
- 106 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:40
- PM 2:00
机の上で目を覚ました。
真っ白な壁を数分間見つめて、ここがホテルの部屋だったことを思い出す。
午後からは自由時間になり、買い物などに行くメンバーは既に外出していた。
明日からファンクラブのイベントもあるので、
わたしたちはスタッフの忠告に従って旅の疲れを取ることを優先させたのだが、
ここで寝てしまうと時差ボケになってしまうので、荷物の整理や書き物で時間を潰していたのに、
結局寝てしまったようだ。
飛行機できちんと睡眠をとれなかったことが響いている。
午前中の撮影で体型のことを指摘された鈴木は、チェックインしてすぐエクササイズに励んでいた、
ままの姿で床に転がって寝ている。
しばらくして、部屋のドアがノックされた。
一瞬道重の顔が頭をよぎるが、恐る恐る開けてみると、譜久村の顔でほっとする。
「みずきちゃん、どうしたの?」
「あ、起きてた。何してるのかなと思って、良かったら部屋に遊びに来ない?」
「いくいくー」
奥から鈴木の声がする。
- 107 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:40
- PM 2:30
今回は少し離れた譜久村と生田の部屋は、でもやっぱり、わたしたちの部屋と大して変わらない。
「えりぽんは何してるの?」
「なんか広い所で振り付けの練習してくるって」
「意外と真面目なところあるんだ」
「ね」
「何する? ゲーム?」
「里保ちゃんたち、救世主の話してたでしょ?」
譜久村の唐突な問いに驚いて鈴木を睨むが、本人は必死に首を横に振って否定している。
飛行機での会話を聞かれてしまったのか。
「私もそのことを里保ちゃんたちに話したかったの」
「ちょっと待って、みずきちゃん救世主のこと知ってるの?」
「当たり前だよ!」
- 108 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:41
- 「まさかみずきちゃんが救世主とか?」
横から口を挟んできた鈴木に譜久村が大げさに両手を振る。
「私なんてとんでもない! モーニング娘。さんに入れていただけただけでもすごいことなのに!」
「さん?」
「私なんて先輩たちについていくのが精一杯で、でもがんばっていつかモーニング娘。の一員として、
少しでも恥ずかしくないくらいになれるようにがんばるのが今の目標です。ハイ」
「インタビューなの?」
「みずきちゃんには、そんなにすごいことなんだ」
「何言ってるの里保ちゃん!」
思い切り顔を寄せられた。
「すごくすごいことなんだよ!?」
「なんかいつものみずきちゃんと違う……」
- 109 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:41
- 「あの、それで、みずきちゃんは救世主のこと知ってるって言ってたけど」
「当たり前だよ! 二人だって知ってるでしょ!?」
「いや、実はそんなには……」
気がつくとわたしと鈴木は、迫る譜久村に対して二人、身を寄せ合うようにしてベッドの端に座っている。
「救世主と言えば、最初はなんと言っても第3期メンバーの後藤真希さん!」
「最初?」
「あー、それ知ってる。ゴマキさんって呼ばれてた人だよね」
「ゴマキ言わないで!」
「伝説だよ! モーニング娘。のレジェンドなんだよ!?」
「なんで英語で言い直したの」
「あ、でも、モーニング娘。の結成をつんくさんに決断させたって意味では、
安倍さんや福田さんも、さかのぼれば一番最初の救世主ってことにも――」
- 110 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:41
- PM 3:30
「――ということで、近年では7期メンバーの久住小春さんや、道重さんのバラエティでの活躍とか、
やっぱり歴代で言うと、ソロ活動で目立つ人が、モーニング娘。や、
最近ではハロプロ全体も含めた救世主って、周りから呼ばれることが多いんだよね。
他にも私のいたエッグのオーディションなんかでは、
松浦亜弥さんに続く救世主求む! って記事で宣伝されたこともあるんだよ。
これだけ救世主と呼ばれる人がいるってことは、それだけハロプロの長い歴史が――」
「なんかちょっとりほちゃんぽい……」
「わたしってこんな?」
「そこっ!」
譜久村の鋭い声に二人とも反射的に背筋を伸ばす。
「ちゃんと聞いてる!?」
「長いよみずきちゃん……」
「そうだよ! 長いんだよ? ハロプロの歴史舐めないでよ! あなたたちが生まれた頃からあるんだからね」
「みずきちゃんだって同じくらいじゃん」
「でもさあ。そんなに救世主がいるってことは、今までずっとハロプロが落ち――」
とっさに鈴木の口をおさえる。
「べふっ」
「鈴木、たぶん今はそれ言わないほうがいい」
- 111 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:42
- PM 5:00
「そこで、じゃーん! 普通はハワイということでアロハロを選択しがちなところですが、
ここはあえて嗣永さんの『ももち図鑑』!」
「なんでハワイにまで写真集持ってきてるの」
「だってホテルにDVDの再生機あるかわからなかったから」
「そういうことを聞いたんじゃないんだけど」
「でもご安心を! これも全編ハワイロケなんだよー。ほら見てメイド服の嗣永さん! カワイイー!
ホラ! 香音ちゃんもこれなんか撮影の参考になるよ、ホントかわいい〜、どうしよう〜」
譜久村が写真集を抱きしめるのを見て、二人で顔をこわばらせる。
「大丈夫。見るだけ用は家にあるから」
「そんな用途別知らないし」
- 112 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:43
- PM 6:00
窓の外がオレンジ色に変わりはじめている。
「眠い……」
鈴木の上半身がフラフラしはじめる。
「今寝ちゃうと夜中に目が覚めるよ」
「あ、そういえば、めざましなら沢山準備してきたんだけど、二人とも使う?」
譜久村のバッグの中から大量のめざまし時計が現れる。
「色々出てくるんだね、そのバッグ」
「里保ちゃんもいる? これ、すごい起きられるよ。爆発するんだよ、ドッカーンって。絶対起きられるから」
時限爆弾状の時計を渡される。
「絶対……」
「うん、絶対。死にそうになるくらい。もうちゃんと朝にセットしてあるから」
「あ、ありがとう」
「これで一晩中お話できるね」
「え?」「え?」
「でね、どこまで話したっけ。……あ、そう! エリックかめりん!
かめりんはハロプロ物産付属高校の一年生でね、いつもセーラー服を着てるんだけど、
この亀井さんがホンッットにカワイくて――」
- 113 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:43
- 「誰かたすけて」
鈴木が情けない顔でそう言った時、部屋のドアがノックされた。
「みずきちゃん! ほら誰か! 誰か来たよ!」
救世主が現れたとばかりにわたしがドアに向かって立ち上がると、鈴木も後に続く。
「ででで出ないと!」
この場さえ逃れられるならば、と、あまり迷いもせずドアを開けた。すると、
「りほりほー!」
反射的に避けたことで、道重がそのまま横の白い壁に全身でぶつかる。
「う、りほりほ……」
「道重さんお酒臭いですよ」
「お姉ちゃんのお土産選んでたら、つい飲みすぎちゃって」
「あの無職の。どんなシチュエーションだったらつい飲みすぎるのかは聞きませんけど」
「そうニートの。りほりほも飲む?」
「わたしはサイダー派なので」
- 114 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:44
- 「いいじゃないの〜、ん? 先輩にすすめられても飲めないって? あん?」
道重がもうほとんど空に近いパイナップルワインの瓶を突き出してくる。
「ゆけ鈴木!」
「フオー!!」
鈴木もよほど逃走意欲が高まっていたのか、蝶のモノマネのまま部屋の外まで駆け抜けていく。
「いやー! 香音ちゃん可愛い!」
道重も鈴木を追いかけてまんまと外に誘い出されていく。
「これでよし、と」
「里保ちゃん、道重さんは?」
振り返ると、奥で譜久村が待ちわびた顔をしている。
「うん、なんか外で、かのんちゃんが遊んでもらってるみたい」
「そう。じゃあ、二人だけになっちゃったね」
と同時に、背後でドアがガチャリと音をたてて閉まった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「あれ?」
- 115 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:44
- そして現在――PM 6:30
「大丈夫、やさしくするから」
「でも」
「はじめては誰でもそうだよ」
「あっ」
「痛かった?」
「急、すぎて」
「ごめんね。……これでどう?」
「……まだ、ちょっと」
何でだろう。何でこんなことになってしまっているのか、よくわからない。
- 116 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:45
- 二人きりになってしまった後、すぐにわたしも部屋に戻ると言って、
時限爆弾状のめざまし時計をとりあえず取ってここを出ようとしたら、
慌てすぎたのがいけなかったのか、腰が痛くて立ち上がれなくなって。
「飛行機の時間長かったからかな」
「マッサージしてあげるよ。私だって結構上手いんだから」
「え、いいよ」
「ダメだよ! 里保ちゃんはモーニング娘。さんの大事な新メンバーなんだから! 宝物だよ!」
「みずきちゃんもでしょ」
「じゃあシャワー浴びてくるね」
「どうしてそうなるの」
「え? だって汗かいちゃったし、里保ちゃんも汗臭いのイヤでしょ」
確かにすごく熱くハロプロのことを語ってはいたけど。
当然のことのように、何かすごいことを言っているような気もする。
「いや、イヤっていう問題じゃない気がするけど、でもイヤじゃないって言うのもなんかおかしいけど」
「里保ちゃんも一緒に入る? 背中流してあげよっか」
「いい、後で入るります」
「るり?」
- 117 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:45
- 「ふぅ、喉渇いちゃった」
戻ってきた彼女は、上気した白い肌がほんのり赤く染まっていて、目は心なしか潤んでいて。
「里保ちゃんも入ればよかったのに。気持ちよかったよ」
バスタオル一枚の下には何か着てるんだろうけど、何か着ていると勝手に思いたいだけなんだけど、
濡れた黒い髪にタオルを当てると、腋やらうなじやらがちらりちらりとこちらに見え隠れして。
本当に何年生まれなのか、後でパスポートを確認したい。
「じゃあ、してあげるね」
ベッドの上でうつぶせにさせられたわたしのふくらはぎの辺りに、彼女が乗ってくる。
シャワーを浴びて体温が上がっているのか、触れる譜久村の体が熱い。そしてやわらかい。
どこの部分が当たっているんだろう。
- 118 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:46
- 「――大丈夫、力抜いて」
「んっ」
「痛い?」
「……ううん、がまんできる、けど」
彼女は、さっきまでとはまた違う種類のおかしい雰囲気で。
夜が女を変えるのか、南の島の開放感か、
午前中の撮影の時に触りすぎたのが、彼女の中の何かを目覚めさせてしまったのか。
「お尻のほうも張ってるね」
「ちょ、ちょっと、みずきちゃん、もうそろそろ」
「ダメだよ。5期メンバーの小川麻琴さんだって、腰を壊してしばらく活動できなかったんだから」
「そうなんだ」
「アイドルっていうのは特別なんだよ。女の子がキラキラしてて、
それだけで世界中を幸せにできるんだよ? それって本当にすごいことなんだよ」
「う、うん」
「だから、大事にしなきゃダメだよ」
「……うん」
「太陽とシスコムーンの信田さんだって、腰の爆弾にはずっと苦しめられたんだから」
「誰?」
- 119 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:47
- 「でもりほちゃん、やっぱり子供。腰もまだくびれてないし、ふふ、カワイイお尻……。
でもこれがもう少ししたら、きっともっと素敵な女の子の体に、あ……ダメ、何かもう爆発しちゃいそう」
「な、な、なにが?」
背後の譜久村の息づかいが急に近くに聞こえてくる。非常に荒い。
「わわ!」
突然彼女が覆いかぶさってきた。
大変なボリューム感。とてもいい匂い。意外と気分も悪くない。なんて場合じゃない。
「ちょっと! みずきちゃん!?」
でも、そんなに力を入れたつもりじゃないのに、
覆いかぶさる彼女をどけようとしたら、簡単に横に転がった。
「寝てる……」
- 120 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:49
- 「もしかして、これ飲んだ」
シャワールームの近くに、道重の忘れていったパイナップルワインの瓶が転がっていた。
道重が持っていた時は、あと一口くらいしか残っていなかったはずだけど。
「やっぱり、なんだかんだ言っても、まだ中学生なんだ」
ベッドに横たわったままの譜久村のほうを見ると、
体を包んでいたバスタオルがはだけて、背中が露出してしまっている。
なぜか唾を飲んでしまうわたし。
「本当に中学生なのかな」
と、今度はノックなしに急に、部屋のオートロックのドアが開いた。
「聖ー! みんなとごはん食べ行こー!」
譜久村と同部屋の生田衣梨奈だった。
「あ、里保ー、いたんだ? ほらほら見て見てー! 有頂天LOVE完璧マスターしたぁ」
今、この瞬間に、ここで起きていたことを他の誰とも、何も考えたくないので、
わたしはいくつかの荷物を手に、足早に部屋を出て行く。逃げるように。
「なにー? どうしたの? あれ? 聖ー?」
- 121 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:50
- PM 7:00
部屋に戻っても、なかなか動悸がおさまらない。
結局何だったんだろう。
少しして、鈴木も部屋に戻ってきた。足元はおぼつかず、なぜか表情が暗い。
「世界なんて滅んじゃえばいい……」
「どうしたの?」
「大人なんてみんな汚れているんだ」
「何を知ってしまったの」
「聞かないで……」
鈴木は脱力したようにベッドに倒れ込むと、でもすぐに安らかな寝息をたてはじめた。
一体道重に何をされたんだろう。
あまり深く追求するのはよして、わたしもベッドに転がる。
「あ、楽になってる」
腰の違和感がなくなっていた。
おかげでわたしはそのまま夕食の時間も忘れるくらい、深い眠りに落ちていった。
そして案の定、翌朝は二人揃って寝坊した。
- 122 名前:調査5. 投稿日:2011/11/04(金) 23:51
- 譜久村聖調査結果。
・ハロプロ信者。
・天然?
・あったかい。柔らかい。いい匂い。
・やっぱり色々と怖い気がする。
ちなみに譜久村から借りた時限爆弾状のめざまし時計は、
日本時間の午前七時、つまりこちらのお昼の十二時に、
清掃に入っていたホテルの従業員を死ぬほどビックリさせた。
何だかよくわからないうちに助かることもある。
つづく。
- 123 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/04(金) 23:53
- 更新に立ち会ってしまった
すごく面白いです
フクちゃんくわしすぎwだがそれがいい
- 124 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/09(水) 12:26
- ネタというか話の掘り下げ加減が絶妙だわw
- 125 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/15(火) 02:13
- 生田の扱いがお見事すぎますw
他のメンバーもみんな生き生きしすぎで楽しいw
- 126 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/15(火) 12:51
- マジで面白いです
- 127 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:16
- 調査6.高橋愛
朝にハワイを出発して、行きより長く、半日くらい飛行機の中にいたのに、
到着した日本はまだお昼を過ぎたくらいだった。
キャリーケースを受け取り、ゴロゴロと集団で空港のロビーを移動している途中、
鈴木が話しかけてきた。
「そういや腰、どう?」
「んー」
片手を右のお尻と腰のあたりにあてる。
長時間の飛行もあって、あまり良い感触はない。
試しに軽く体をひねってみると、
離れて歩いていた譜久村と目が合ってしまい、思わず顔を伏せる。
向こうも同じように、恥ずかしそうに顔を伏せるのが視界の端に映った。
「どうしたの? 二人とも」
「別に、なにもないよ」
実際のところ何もなかったはずなのだけれど、あの夜以来、
譜久村もあまり記憶が残っていないのか、残っているからなのか、時々変な感じになってしまう。
- 128 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:17
- と、鈴木の肩越しに、こちらの様子をうかがっているような道重を見つける。
「うん?」
わたしの視線に気づいて鈴木が振り返ると、
道重が珍しく、鈴木と目が合った途端恥ずかしそうに顔を伏せた。同じように鈴木も顔を伏せる。
「なにがあったの? 二人とも」
「べ、別に、なにも見てないよ」
「なにか見せられたんだ」
ついでに生田も、時折わたしと譜久村を交互に見ては、もじもじしている。意味がわからない。
あの夜、半裸の譜久村をベッドに置き去りにしてきたことを少し後悔する。
「ちょっとなにー? あんたたちケンカでもしてんのー?」
後ろから新垣の声。
「ケンカなら早く仲直りしてよねー。そういうの全体に影響しちゃうんだからあ」
新垣のほうに目を向けると、数人のスタッフを挟んで後ろに、高橋の姿があった。
高橋はこちらのやり取りは全く耳に入っていない様子で、大きなガラス窓の外を、ずっと眺めていた。
- 129 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:17
- 帰宅して数時間。
Tシャツとハーフパンツに着替え、髪を後ろでひとまとめにした上から、深めに帽子を被る。
家にいるとどうしても眠くなってしまうので、軽く外を散歩してくることにした。
いつまでも時差ボケを引きずっているわけにはいかない。
夏休みなので学校は無いけれど、明日にはレコーディング、
明後日からは早くもハロープロジェクトのコンサートツアーが再開される。
工作員に休息は無いが、アイドルも結構忙しい。
「いってきまーす」
外は日が沈んだばかりで、薄く明かるさを残している。
ビルに囲まれた小さな空は、たぶん曇っている。
見上げながら、空港での高橋をふと思い出した。
彼女はたぶん、飛行機を見ていた。
空へと飛び去っていく、わたしたちを乗せていた容れ物。
- 130 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:17
- 高橋愛。
モー娘。在籍十年一ヶ月は同期の新垣と共に歴代最長。
リーダー歴四年四ヶ月は単独で最長。
現在のモー娘。において、絶対的なエースとされる存在。
調査対象として、彼女の優先度は低い。
なぜなら彼女は、もうすぐいなくなってしまうからだ。
卒業が決まってから最後のことが増えていく、と語る彼女は、
その日が近づくにつれ、どんどん輝きを増していくように見える。
覚悟を決めた者特有のものなのか。
そこと定めたゴールまで、内に残るすべてを惜しむことなく、最後まで燃焼し尽くそうとしているかのような。
刹那的な美しささえ感じることがある。
- 131 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:18
- 特技はクラシックバレエ。まぶたを引っくり返すこと。
他には、やたらと噛む。と調査資料にある。
かなり原始的だが、有効な攻撃手段ではある。
歯は骨の一種と思われがちだが、歯冠部を構成するエナメル質という物質は骨よりも硬く、
モース硬度にして6〜7。これはガラスやオパールより上で、ヒスイや水晶などと同等の数値である。
こと人体においてエナメル質より硬い物質は存在せず、
言い変えるならば、歯は人間が己の肉体のみによって持ちうる、最強の凶器なのだ。
モー娘。の王者たる高橋愛に、ふさわしい攻撃方法であるとも言える。
- 132 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:18
- ただ、わたしは高橋が実際に噛むところを一度も目にしたことがない。
モー娘。に加入して半年以上経過し、
他のメンバーが高橋に対して「噛んだ」と指摘している場面には数限りなく遭遇していたが、
それを聞いた瞬間に高橋の姿を捉えても、既に噛みついた気配はどこにも残っていないのだ。
噛むということは、同時に急所である顔面を敵に晒すことでもあるのだから、
動きが早いに越したことはない。が、そのスピードは常人離れしていると言わざるを得ない。
卒業前に一度でも、見られるものなら見ておきたい。
- 133 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:19
- 目の前に首都高速道路の白い壁が現れる。
色々と考えていたら、ずいぶん歩いてきてしまった。
日の光は完全に去り、空を覆う雲が近くの施設の照明か何かをぼんやりと映し返している。
首都高の高架の下に沿って流れる川を渡ってもう少し行くと、見慣れた事務所のビルがある。
遠目には、事務所の明かりはまだたくさん点いていて、
中の人と顔を合わせるのも面倒なので、大きな道を横断してから、事務所のほうへは向かわず、
帽子を深くかぶり直して、横道に入った。
普段なら、日が暮れてしまうと人通りも無くなる路地だが、
夏休みということもあって、小学生くらいの子供たちの姿もある。
「鳥男だ、あれ鳥男だよ」
「やべーって、近寄らないほうがいいって」
「逃げろ! 食われるぞ!」
――鳥男?
すれ違いに少年たちが交わした言葉の、シンプルに怪人を想起させるその甘美な響きに、
わたしの心は掴まれた。
- 134 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:19
- 辺りを見回し、暗い空に目を凝らしたが、周囲のビルや電柱の上に鳥男とおぼしき姿はない。
既にどこかへ消えてしまった少年たちのやって来た方向を辿り、
ちょうど事務所の裏手にある公園まで来た時、園内の樹上にそれはいた。
公園でひらけた空を背景に、
街灯に照らし出される純白の羽毛に覆われた、人の頭三個分ほどの大きな三角形。
その下には紛うかたなく人型のシルエット。
後ろ姿を見れば、まさしくそれは白い鶏冠を戴く夜の鳥怪人。
けれど、気取られぬよう密やかに横に回りこみ確認した、白い鶏冠の内側に覗く金髪と横顔は、
まったく意味はわからないけれど、高橋愛のそれだった。
- 135 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:20
- 明らかにおかしい格好なのだけれど、やたらと凛々しい立ち姿。木の上で。
右手は空に、左手は枝に。
それはまるで、道一本隔てた都会の喧騒とはまったく別の世界に存在する、一枚の絵画。
空は曇ったままなのに、遠くを見つめる視線の先には煌々とした満月が確かに見える。気がする。
そして彼女はそれに祈りを捧げる乙女……いや、
あれは男だ。気高く、雄々しく、でも、どこか寂しげな、孤独な王。
しばらく見とれていると、高橋の目元に、光るものが見えた。
――涙?
わたしは何かいけないものを見てしまった気がして、我に返り、その場を去ろうとする。しかし、
「鞘師?」
頭上からの声に足が止まった。
恐る恐る高橋のほうに向き直ると、悠然と、舞台の上からこちらを見下ろしてくる王。
「鞘師」
「はい」
「助けて」
「……はい?」
「助けてー」
空からこちらに右手を伸ばす高橋。
よく見ると、左手は筋を浮き上がらせるほど必死に枝を掴んでいた。
- 136 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:20
- * * *
鞘師里保は悪の潜入工作員である。
ある重要な任務の下、第9期メンバーとしてモーニング娘。への潜入に成功した。
特技はけん玉と習字と肩揉みと潜入調査だが、レスキュー技術も一通り習得している。
* * *
- 137 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:23
- 「まだ止まりませんか?」
公園の中央に据えられた、複数のすべり台を連結した子供用遊具の上に、二人並んで体育座りをしている。
羽毛に覆われた大きな帽子。
下には白のTシャツにグレーのスウェットパンツ。それになぜかハイヒールブーツ。
「ありがど、鞘師が救世主に見えだよ」
高橋に貸したハンドタオルが、瞬く間に涙でぐちゃぐちゃになっていく。
あ、鼻かんだ。
「泣くくらい怖かったなら、登らなければいいじゃないですか」
「泣いたのは怖かったっていうか、なんか、色んなこと考えてたら自分が情けなくなっちゃってさあ」
「それも何となくわかりますけど」
先ほどの凛々しさが気のせいだったかのように、というか気のせいだったんだけれど、弱々しい。
「子供たちに噂されてましたよ。鳥男がいるって」
「今時の子たちはモーニング娘。のリーダーとか知らないしね……」
そしてネガティブ。
- 138 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:24
- 「じゃあ、わたしはそろそろ――」
「いがないで〜、ひどりにじないで〜」
べとべとの手でぐたぐたにすがられる。
「後輩に、こんな姿って言うのもなんですけど、こんな姿見られるの嫌じゃないんですか」
「ぼう見ぜぢゃっだがら全部見ぜる」
「別に見たくはないですけど」
「ハワイ、楽しかったねえ」
遠い目。
公園の隣のビルの向こう側に、ライトアップされた東京タワーの先っぽのほうだけが見えている。
事務所と東京タワーは、すごく近い。
初めて事務所を訪れた時、ちょっと感動した覚えがある。
「みんなで楽しく騒いだ後ってさあ。一人になると、なんか急に寂しくなっちゃったりするじゃない」
「高橋さんこれから本当に一人になっちゃいますしね」
「ぞれ言わだいでよ」
「でも、卒業したからってみんなと縁が切れるわけじゃないじゃないですか。
同期の新垣さんだってまだいるんですし」
「ガキさんかあ」
鼻をすすりながら、また遠い目。
「空港でケンカしちゃったからさあ」
「え、どうしたんですか」
- 139 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:24
- 「ハワイで深夜にガキさんの部屋行って愚痴聞いてもらってたんだけど、ガキさんのベッドで寝ちゃって」
「それくらいは、まあ、あるんじゃないですか?」
「ガキさんは外にいたんだけどね」
「新垣さん閉め出しちゃったってことですか」
「オートロックだからね」
「鍵は?」
「あたしが持ってたよ。出かけたら戻れないからって言って」
「新垣さんの部屋に?」
「そう」
「けっこう酷くないですか。それ」
「そこまではよくあることなんだけど」
「よくあることですか?」
「空港で何となく思い出してまた謝ろうとしたら、もう気にしてないとか言うから、何か頭きちゃってさ」
「よく意味がわからないです」
沈黙。
「もう一回ちゃんと、話し合ってみたほうがいいんじゃないですか?」
やっぱりまた沈黙。
- 140 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:25
- 高橋の頭が動くたび、帽子の羽毛がいちいち目の前をちらつく。
「そういえば、どうして木なんて登ってたんです」
「あれくらいなら、ステージの階段と同じくらいの目線かなってさ。
これ着けてどのくらい動けるか確かめておきたくて」
確かにこのすべり台は幼児用と言ってもいいくらいで、あまり高さはないけれど。
「木の上じゃ動き確かめられないですよね」
「だよね。動くどころじゃなかった」
「それは見てました」
それでふとわかった。
これはきっと『Mr.Moonlight』の衣装だ。
秋の、高橋が卒業するコンサートツアーのオープニングで歌う予定の曲。
だから木の上の高橋は男だったのだ。
- 141 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:25
- 「やっぱり、この曲はきっちりキメたいから」
高橋ら5期メンバーが『Mr.Moonlight』で少女役としてデビューしたのは、もう十年も前のことだ。
それを彼女は最後の日に、メインボーカルとして歌う。
「この十年、色々あったけど。みんなに支えられてなんとかここまでやってこれた。特に――」
高橋が微笑む。
「鞘師も同期は大切にしなよ」
「今言われても説得力ないです」
「そだね……」
また、うなだれさせてしまった。
子供用すべり台の上で、並んで膝を抱えて東京タワーを見上げる二人。
十年間の、最後の半年だけ重なった二人。
「なんかさあ、謝りたくても、大事なところでうまく言葉が出てこないんだよね」
「そういえば高橋さん、ステージでも、よくとちりますね」
「そうなんだよ。とちる。それでまた自分にイライラする」
- 142 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:26
- 今の高橋を見ていて、少しわかった気がする。
「高橋さんは、歯なんですね」
「は?」
物質の硬さを示すモース硬度は、傷のつきにくさということに関しての指標であり、
それは物質の壊れにくさの一面でしかない。
例えばモース硬度10を示すダイヤモンドでも、ハンマーで叩かれれば割と簡単に壊れてしまう。
同じように、人体で最も硬いとされるエナメル質も、硬さとは裏腹に、意外と脆いのだ。
「この歯? あたしが歯ってどういうこと?」
「エナメル質はその下を、硬度は低いけれど弾力性のある象牙質に支持されることで、
硬さと柔軟さの両方を保っているんです。日本刀の構造と似ていますよね。
高橋さんに必要なのも、きっとその柔軟な面なんです」
「日本刀の構造も知ってるんだ」
「モーニング娘。を抜けてから大変なことになる前に、早く仲直りしたほうがいいと思います」
「確かに抜けたら大変だね。あたし歯に喩えられたの初めてだよ」
- 143 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:26
- 高橋は、舞台やドラマなどでの台詞は普通に喋ることができる。
それは恐らく、稽古を積むことで言葉が身体感覚と同質化されているからだ。
意識しなければしないほど、振り付けと同じように言葉が自然に出る。
対してMCなどで上手く喋ることができないのは、
緊張の中で身を堅くしながら、身体感覚と同化できていない言葉を、
その場で言語的な脳を使って紡ぎ出さなければならないからだ。
ということは、体を適度にリラックスさせ、言葉を自然に身体感覚に乗せて、つまり、
「踊りながら謝ればいいんじゃないですか?」
「踊りながら!?」
「そうです。それならきっと自然に謝れるはずです」
「まず踊りながら謝るのが不自然な気がするけど」
「高橋さんがミュージカル的なものを否定するんですか」
「そうことじゃないけど……そうか、何となくやれそうな気がしてきた」
「イメージが浮かんできましたか」
- 144 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:27
- 「でもそれでうまくいかなかったら、どうしよう」
「その時は、もういっそ噛んじゃえばいいと思います」
「は? 噛むの?」
「相手があまりに不寛容だったら、時には力づくで屈服させることも必要です。
それがたとえ新垣さんであっても」
「力づくっていうか、まあ確かにあたしが噛むと、それだけでみんな喜んじゃうけどさあ」
「喜ぶんですか?」
「うん。でもそれって不本意っていうか、ちょっと反則じゃない?」
「リアルファイトに反則なんて無いんですよ!」
「リアルなに?」
「やるかやられるかじゃないですか。使える武器はこの際なんでも活用していくべきです」
「ポジティブだなあ」
「言われてみれば、鞘師もけっこう噛むよね」
「わたしがですか? わたしはそんなにしませんよ」
「嘘だあ。前にも私に似てよく噛むとか言ってたじゃん」
「まあ、最終的には噛むこともありますけど」
「ほら」
「じゃあ、いざって時は、噛めばガキさんもウケてくれるかな」
「受ける? 屈強な相手なら、避けるより受けて立つ的なことはあるかもしれませんけど」
- 145 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:27
- そんな時だった。
「なにー? 愛ちゃんそのあたまー」
まるで測ったかのようなタイミングで、聞き覚えのある声。
二人同時に振り返ると、公園の外に新垣の姿があった。
「おおっと」
新垣が暗い足元を確認しながら、すべり台に寄ってくる。
「大丈夫だよ誰にも言わないで来たから。っておぉ! 鞘師!」
大袈裟にのけぞる。
「いるならいるって言ってよ〜。びっくりしたよ〜」
「いきなりいるって言うのも、おかしくないですか」
「まあそっか」
- 146 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:28
- 「なんか今頃愛ちゃん泣いてるんじゃないかと思ってさあ。電話したんだけど出ないんだもん」
「あー手ぶらだよ。アイフォン置いてきちゃった」
「だと思った」
恐るべきプロファイリング能力。
まさに新垣はタイミングを測っていたのだ。
人はここまで他人の行動が読めるものなのか。
「もしかして新垣さんは、高橋さんが衣装の帽子を被って試しに公園の木に登ってみて、
小学生に鳥男に勘違いされて、降りられなくなって途方にくれて一人で泣いてることまでわかってたんですか?」
「そんなことまで思ってなかったけど、愛ちゃん一体何してたの」
「今言ったままのことです」
「まあよくわかんないけど」
そして新垣は全開の笑顔のまま、片手にぶら下げていた近くのコンビニの袋を上げた。
「花火やろ」
- 147 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:29
- 「なんでこんな地味なの買ってくるかね。もう夏も終わりみたいじゃんか」
すべり台を降りて、公園の奥、あまり人目に付かないところで、三人で線香花火を持って囲む。
「うるさいなー。だってここ本当は花火禁止でしょ。じゃない?」
新垣がわたしのほうを見る。
「注意書き見てないですけど、たぶん」
「だからコッソリやらないとー」
「悪い大人だねー。鞘師は見習わないでよ」
「大丈夫です。わたし悪事は得意なほうですから」
「言うねえ」
「帽子気をつけてよ愛ちゃん。それ燃えやすそうなんだから」
そうしてしばらく、他愛の無いことをしゃべりながら、三人で線香花火の残像を見つめた。
- 148 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:29
- 「そういえばこの三人、春ツアー思い出すよね」
新垣がぽつりと呟いた。何のことを言っているのか、すぐにわかった。
そういえばあれも、月夜の曲だった。
「よし、じゃあ踊るか!」
高橋が突然立ち上がった。
「はあ? なんで?」
新垣が面倒臭そうにそれを見上げる。
「踊ろう! 月夜の晩だよエビバディ!」
「曇ってるけど」
「でも東京タワーが出てるよ! ほらガキさん踊ろうぜぃ! レッツデァ〜ンス!」
「なにー? もう」
高橋に引っ張られて新垣が立ち上がる。
「見てるもいいけど騒ごよ! あ、でも鞘師はダメ。足痛めてるんだから、無理しない」
- 149 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:29
- いい歳してはしゃぐ大人に釘を刺されて、ちょっとふてくされてベンチに座って、
変な踊りをはじめた二人を眺める。そしてふと思い出す。
「あの二人、ケンカしてたんじゃなかったっけ」
二人の背後には上半分だけの東京タワー。
高橋にとっては、故郷と同じくらいの年月を過ごしたこの場所。
「老いも若きもヤなこと忘れて!」
「そんな歌詞ないよ」
「いいから〜!」
「テンション無駄に高いよね〜」
「いいじゃん!」
「新垣さんは象牙質なんですね」
「なに? 鞘師何か言った? 愛ちゃんがうるさくて聞こえないよ」
「新垣さんはー、高橋さんの象牙質なんですねー」
「象? なんで? あたし象に喩えられたの初めてだよ」
「象ではないでーす」
- 150 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:30
- 『Moonlight night』。
初めてその曲を聴いた時、とにかく月夜だから踊り狂おうみたいな中身の無い能天気な歌詞で、
特に心に残るものはなかった。
けれど、わたしにとって初めての春のコンサートツアーで、
ここにいる高橋と、新垣と、三人でそれを歌い、踊った時、歌詞の意味が少しだけ理解できた気がした。
月夜の晩は、特別なのだ。
薄暗い舞台の上で激しいフラッシュを浴び、客席に無数の光が踊る狂乱。スポットライト。
高橋と新垣に挟まれてわたしはステップを踏み、雄叫びを上げる。
心躍り、さらなる高揚感を求めて体は激しくうねる。
わたしはあの時、確かに何らかの魔力に心惹かれていた。
樹上の高橋の姿。
日常とは別にある異空間。ステージ。
ずきりと鈍く痛む右の太ももを、ぐっと押さえてベンチにうつむき、体を震わせた。
この奥底から湧き上がる衝動を抑えられない。体が躍動を求めている。
わたしは――。
- 151 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:31
- 「ガキさん、あたしさあ」
踊りながら話し出す高橋の声が耳に入ってくる。
「なぁーにぃー?」
「ちょっとさあー」
「だからなによー。言いたいことあるなら踊るのやめたら?」
「それじゃ意味無い」
「なんで?」
「だからさあー。あたしー、ガキさんにーさあー」
「なんかおかしいよ愛ちゃん」
「だかーらー、もっと、ちゃんーと、あまらや」
「あ、噛んだ」
「!?」
突然の言葉に、抑え込まれていたわたしの衝動が反射的に一気に解放される。
それは0コンマ数秒遅れて反応した理性の抑制も間に合うことなく、
腰部に激痛を走らせた。
- 152 名前:調査6. 投稿日:2011/11/24(木) 23:32
- 高橋愛調査結果。
・スタイリッシュじゃない時もある。
・泣き虫の時もある。
・エナメル質。
・別に柔軟性はいらないのかもしれない。
翌日、わたしの右坐骨神経痛による長期休養が発表された。
結局、未だに高橋が噛むところは見られていない。
つづく。
- 153 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/25(金) 11:07
- 続き待ってた!待ってた甲斐があった!
笑いあり涙ありの素敵な回でした
なんて言っていいか分かんないけどとにかく大好き!だいずぎー
- 154 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/25(金) 14:54
- 今気が付いたんだけどこの題名って
サヤシリホとサヤシリポ(−ト)って掛けてるんですか?
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/25(金) 22:26
- 更新お疲れ様です
今回はちょっとほろりと来ちゃいました…
- 156 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/06(火) 09:04
- そろそろかな?
- 157 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:26
- 調査7.生田衣梨奈
『モーニング娘。鞘師里保の、RIHO-DELI』
オープニングの軽快なメロディを背景に、番組のタイトルコールが流れる。
夕暮れのひと時にアーバンな曲とトークを提供する危険な香り漂う大人のラジオ。
山梨方面の一流ラジオ局で一部マニアの熱狂的な支持を受けているわたしの番組だ。
モー娘。に加入してまだ間もない頃、前任者の番組枠を引き継ぐ形で新しいパーソナリティとなった。
聞くところによると、前任者も実はスパイであったというのだから、由緒ある工作員枠といえる。
前任者はさらに半分エスパーという特殊な経歴も持つらしく、
いつか一緒に仕事をする機会があったら、じっくり探りを入れてみたい。
番組枠と一緒に引き継いだペットのDELI君のセクハラには前任者も手を焼いたようだが、
わたしの年齢がまだ低いこともあり、
トークに長じる彼とは番組のパートナーとしてそれなりにうまくやっている。
- 158 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:26
- 手のひらでグラスを遊ばせると立ち昇る、無数の小さな泡に、リスナーの数を重ねる。
今のわたしも、この中の一つでしかない。
『パーソナリティの、モーニング娘。鞘師里保の代打で、生田衣梨奈がやって来ましたー!』
右坐骨神経痛による約一ヶ月の休養。
その間、9期の三人がわたしの代役として、パーソナリティを務めていた。
一人椅子に座るわたしの耳にイヤホンから流れるラジオ音源。
この回の放送を聴くのは、これで二度目だ。
先日、やっとドクターの許可が下りて、
復帰最初の仕事として今日、このラジオの収録に臨むことになり、
事務所の一室を借りて先週までの放送内容を確認しているのだ。
- 159 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:26
- しかし何度聞いても酷い内容だった。
『セッカク、コウ、9期めんばーニ来テ貰ッテルワケデスカラ、里保チャンノネ、
9期めんばーシカ知ラナイ顔、情報ナンカガアッタラ教エテ欲シイナッテ思ッテルンダケド』
『あの、鞘師里保ちゃんはですね、ホテルで一緒になった時に、起きないんですよ!』
「なんで言うかな……」
この生田だけではない。他の二人も、部屋が汚いだとか、油断すると膝が開くだとか、
わたしのプライベートな情報を堂々と公共の電波に乗せ、
番組はさながら三週にわたるわたしの暴露大会。
工作員の個人情報だだ漏れである。鞘師里保の洗練されたクールなイメージ台無しである。
『今回はー、里保がいなかったんで、里保と一緒に、このRIHO-DELIに参加できたらなって思うんで、
里保絶対呼んでね!』
なぜか最後は脅迫気味の言い方で番組が締めくくられる。
とりあえずしばらくは絶対呼ぶまいと心に誓う。
- 160 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:27
- ラジオの収録スタジオに向かうまで、まだ時間がある。
音の消えたイヤホンを外して椅子から立ち上がると、自然とストレッチがはじまる。
最近、体調の回復と共に、身体が落ち着かなくなっている。
「早く全力で踊りたいでしょ」
声に振り向くと、ドアの隙間から鈴木がニヤニヤと顔を覗かせている。
「別に」
そっけなく答えて、またストレッチに戻る。
わたしの本分はあくまで潜入調査であって、アイドルである前に一工作員であることを忘れてはいない。
ましてアクシデントだったとは言え、短絡的な衝動に身を任せて体を壊してしまうなど、もってのほかだ。
深く反省している。
「もしかして、ラジオのこと怒ってる?」
「いーえありがたかったですよ」
「久しぶりに事務所来てるって聞いたから、お菓子持ってきてあげたのに」
「どうせ自分で食べるくせに」
- 161 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:27
- 休養の間、メールやお見舞いを一番くれたのはやっぱり同期で、
特に鈴木は、学校のプリントを持ってきてくれるクラスメイトみたいにまめに訪ねてきては、
みんなの仕事の様子など内部情報を逐一報告して、自ら持ち込んだ差し入れをわたしより多く食べて帰った。
譜久村からは大量のハロプロDVDを渡されて。
純粋な善意なのか、休みの間にもっと勉強しろという無言の圧力なのかは不明だったが、
下手なことするとまた精神的にも肉体的にも追い込まれそうな気がしたので、全部見た。
今日、返すために事務所に持ってきている。
それで、そこまではまあ、想定の範囲内ではあったのだけれど、問題は残りの一人の差し入れだった。
それもバッグの中に持ってきている。
鼻メガネ(ヒゲ付)と、タンバリン等の、主にパーティグッズのようなもの。
何度確認してみても、鼻メガネ(ヒゲ付)と、タンバリン等の、主にパーティグッズのようなもの。
- 162 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:28
- 「これ、どういうことなんだと思う?」
事情を話すと、鈴木も首をひねる。
「療養中だから、ぱーっと元気づけたかった、とか?」
「でもそれなら普通、やる側が用意してくるものじゃない? 差し入れるものじゃないよ」
「言われてみれば、そっか」
鈴木が鼻メガネを手に取る。
「でもまあ、えりぽんだから」
「まあ、えりぽんか」
「かけてみれば?」
「……なんで?」
「りほちゃん意外と似合うかもよ」
「そんなわけないじゃん」
「気晴らしになるかも」
「なるわけないでしょ」
「でも今日のラッキーアイテムかもしれないよ」
「もしかしてかけさせようとしてる?」
「違う違う。違うよ」
- 163 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:28
- しばらくして、鈴木が他の仕事があると言って出て行った後、
やっぱりちょっと気になって鼻メガネをかけてみる。
樹脂製の立派なヒゲが両サイドに勢いよく跳ねている。たぶん高級めのグレードだ。
「里保いるっ?」
突然、大きな声と共に部屋のドアが開いた。
反射的に顔を向けると、わたしと目が合ったその人物は、少しも遠慮することなく吹き出す。
こんなものをかけていれば普通は妥当な反応だろうけど、この場合はなんかムカつく。
「えりなちゃんがくれたんでしょ」
「あ、うん。でもちょうどよかった! 里保来て!」
その生田が、アメリカ人のカモーンみたいな感じに顎と手で呼ぶ。
「ちょうどよかったって? わたしこれからラジオの収録なんだけど」
「いいから、早く! 事務所の中では話せないから!」
「なに?」
素直に立ち上がろうとしないわたしを見て、大袈裟にしょうがないなあという表情で近づいてくる。
「里保、いい? 落ち着いて、落ち着いて聞いて」
「わたしのほうは一切慌ててないよ」
「私ね、実は」
真顔をぐっと近づけてくる。
「スパイなんだ」
- 164 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:28
- * * *
鞘師里保は悪の潜入工作員である。
ある重要な任務の下、第9期メンバーとしてモーニング娘。への潜入に成功した。
いつ、いかなる状況にも冷静に対応できるよう、常にあらゆる事態を想定するよう訓練されてきた。
* * *
- 165 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:29
- 「ヘイ! タクシー!」
「本当に口に出して言う人あんまりいないよね」
生田はわたしの手を引いて事務所を飛び出ると、大きく手を上げてタクシーを止め、
乗り込みながら前方を指さした。
「あの車を追ってください!」
「どれですかね?」
ルームミラー越しにこちらを見る運転手の男と目が合うと、一瞬、運転手が変な顔をする。
――?
「えーっと……あれ!」
生田は目の前で左折してきた車を指したが、それはすぐに道の左側に寄って停車する。
「あー、じゃなくて、やっぱりあっちにしてください!」
「いいんですか? その車は」
「いいです! 今の、あの真っ直ぐ行った黒い車のほう追ってください!」
運転手は首をかしげながらも、タクシーを発車させる。
- 166 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:29
- 「あの、えりなちゃん、スパイって」
運転手とのやり取りの後、やけに満足げな顔をしている生田に尋ねる。
「あ、そうそう……えーと、そうそう。
衣梨奈は、ある重要な任務があって、正体を隠してモーニング娘。に潜入してるんだ」
真剣な顔になる。
「正体明かしちゃってるじゃん」
「今は緊急事態だから! 里保には内部協力者として、衣梨奈を手伝ってほしいんだよ」
「はあ」
「でね、最近、ここだけの話なんだけど、ある調査中に変な噂をよく聞くようになって」
「噂?」
「そう。この辺りにね、最近」
また顔を近づけて声を潜める。
「鳥男が出るらしいの」
- 167 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:29
- 「えと、その調査ってもしかして、近所の小学生――」
「その鳥男っていうのがね、真っ白い鶏冠で、こーんな、身長が人の二倍くらいもあって!」
「えぇ?」
「週に一回くらい、そこの東京タワーの上から、道を歩いてる人たちに狙いを決めて、バーっと飛んできて!」
迫力を出そうとしているのか、後ろの座席で目を大きくして隣のわたしに迫ってくる。
「なんかね、大っきい爪で、がっ、と! 頭を掴んで、さらって行っちゃうんだって! 人だよ!?」
「鳥男が?」
「鳥男が!」
どうやら夏休みの間に、子供たちの中で話が大きくなってしまっているらしい。
鳥男の正体を言ってしまうと、さらにややこしくなりそうなので、とりあえず言わないでおく。
「あ、運転手さん、そこ、次の信号右に曲がってください」
生田が運転席のほうを見て指をさす。
「え? もう前の車は追わなくていいんですね?」
「あれ? まだ追ってたんですか?」
- 168 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:30
- 「それで、その鳥男がえりなちゃんのスパイ活動とどう関係あるの」
「わかんないかな〜」
生田が深く息を吐く。何かイラっとする。
「怪人と言ったら、衣梨奈しかないっしょ?」
「全然わかんない」
そういえば特撮ヒーロー大好きなんだっけ。
「あ、スパイって言っても衣梨奈はモーニング娘。のために活動してる正義のスパイなんだけどね」
「気のせいならゴメンだけど、ちょっとまとまらなくなってきた?」
「鳥男はなぜ事務所の周りに現れるのか」
モー娘。のリーダーだから。
「どこからやってきたのか」
福井県出身。
「その謎を追っていくうちに、ついに! 私はある所から有力な情報を手に入れたわけよ」
「はあ」
ちょっと聞くのがむなしくなってきていたところだった。
「ねえちょっと聞いてる? これは本当なんだよ」
「これは?」
「なんと衣梨奈、モーニング娘。の中に、敵のスパイを見つけちゃったんだよねー」
「えっ?」
- 169 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:30
- 「衣梨奈もねぇ、本当はずうっとおかしいと思ってたんだ」
じわりと、背中に汗が浮かぶのを感じた。
心なしか息も苦しくなってきた。
と思ってよく考えると、事務所から鼻メガネをかけたままだった。運転手に不審がられるわけだ。
だけど外そうとすると、
「取ったらダメ!」
よくわからないが、怒られた。
「でも、見つけたのはいいんだけど、一つ問題があって」
じっとわたしを見る。
「……何?」
「その子は、悪の組織に洗脳されてしまっていて、モーニング娘。のことを敵だと思い込まされているの」
「……洗脳されてるとは、限らないんじゃないかな」
「どうして?」
「だって、モーニング娘。のほうが悪い組織ってこともあるよ」
「えー、それはないよ」
「わかんないよ?」
「何ぃ?」
「あのー、このまま道まっすぐでいいんですかね」
「まっすぐで!」
- 170 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:31
- 「まあいいよ。それで? どうやって辿り着いたのかは知らないけど、
そこまでわかってて、わたしをどこへ連れて行くつもりなの?」
「だから言ってるじゃない。その子の所だよ」
「え?」
「ん?」
二人で見つめあう。
「その子って?」
「だから言ってるでしょ、敵のスパイだよ」
「え?」
「ん?」
「あのー、さっきもここ通りましたけど」
運転手が困ったように、ルームミラー越しにこちらを見る。
すると生田は鋭い目つきでキョロキョロと外を見回し、数秒間固まる。
「代々木駅に行ってください」
「乗った時に言いなよ」
- 171 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:31
- そうしてタクシーが着いたのは、
代々木駅にも近い、今日行く予定だったラジオの収録スタジオだった。
「結局いつものスタジオじゃん。
でもよく場所知ってたね。って、そういえばえりなちゃんも、この前収録で来たんだっけ?」
チケットを渡してタクシーを降りかけていた生田が、ムッとした表情をする。
「自分だけがスタジオの場所知ってると思わないでよね!」
「そこキレるとこ?」
「それ外さないでよ!」
わたしの顔の鼻メガネを指さして、生田がいきなり走り出す。
「ちょっと、えりなちゃん?」
しかし止める間もなく、建物の中に消えてしまう。
「これ必要なんだ」
そして入れ替わりに、建物の影からレスラーみたいな覆面をした小柄な女がすうと現れた。
「どうぞ、こちらへ」
「す……かのんちゃんだよね?」
- 172 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:31
- 状況というか、狙いがまったくわからないまま、謎の覆面レスラーに通されたのは、
また結局、いつものラジオを収録しているブースだった。
「あのさ、す、かのんちゃんは仕事じゃなかったの?」
しかし謎の覆面レスラーは無視してブースのドアを開け、こちらを振り返る。
「絶対……プ」
「今、笑った?」
「それ外さないでください」
鼻メガネを指す。
「これ必要なんだ」
何か腑に落ちないままブースの中に入ると、
今度はそこに、椅子に紐で縛りつけられて口をハンカチで覆われた譜久村がいる。
「……は?」
譜久村は、唖然とするわたしを潤んだ目で見る。と同時に吹き出しそうになって、我慢する。
この反応はもう慣れた。
そして。その隣には、戦隊ヒーローのなんとかピンクのお面を被った人物。
「ヤー里保チャン久シ振リ。元気ダッタ?」
変な声で語りかけてくるなんとかピンクは、少し息を切らしていた。
- 173 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:32
- 「ドウシタンダイ? 里保チャン」
と、なんとかピンク。
「一応聞いておくけど、どなたですか?」
「久シ振リデ忘レチャッタノカイ? 番組ノペットELI、ジャナカッタDELIダヨ!」
「えりぽんだよね」
「何言ッテルンダヨ里保チャーン、違ウヨー」
「ちなみにデリ君は自分でそういう声出してるわけじゃないから。機械が変えてくれるから」
「えー? そうなの?」
なんとかピンクがお面を頭の上にずらして、こっちを見る。
「やっぱりえりぽんじゃん」
「もうこの声出すの苦しくって、あの人すごいなーって、喋りながら思ってたぁ」
「あの人言わない」
- 174 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:32
- 「で、これはなんなの?」
椅子に縛りつけられた譜久村のほうを見る。
これっていうか、この状況すべてがわからない。
「あーそう、えー」
生田が一旦、唾を飲み込む。
「そう里保! この子が敵のスパイだったのよ!」
「その話まだ続いてたんだ」
「んー! んー!」
椅子に縛りつけられたまま体をくねらす譜久村。意外と本人もノリノリな気がしないでもない。
というか相変わらずの人妻のような、縛られた姿が無駄になまめかしい。
「この子は悪の組織に洗脳されて、アイドルDDな上に非ハロ激単推しになってしまったの!」
「ごめん、何て?」
「んー!」
譜久村は必死に首を振っている。言葉の意味はわからないがそこは認めたくないらしい。
「ハロプロ以外のアイドルに浮気してるってこと! この裏切りものー!」
「それえりぽんじゃん」
「えーそんなことないよー、衣梨奈は生まれた時からモーニング娘。に憧れててー、
他のアイドルなんか興味ないし、はじめて買ったCDはミニモニ。ジャンケンぴょんですー」
表情が無い。
「洗脳進んでるなあ」
- 175 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:33
- 「とにかくいいから! 今日はこの子にモーニング娘。の楽しさをわからせてあげるの! 私達のラジオで!」
「要するに、えりぽんもラジオやりたかったってこと?」
「おおっと」
いきなり、テーブルの上から転がって落ちそうになるバトンを生田が手で押さえる。
そう、あのくるくる回すバトン。
実はその存在にさっきから気がついていた。全然さりげなくなく置いてあったそれに。
「あ、これが何だか気になるっちゃ?」
「ううん、気にならない」
彼女はわたしの休んでいる間に、新しいおはガールになったのだ。
「テレビとラジオだとスタジオもけっこう違うっちゃねー。衣梨奈、テレビなら結構慣れてるんだけどなあ」
といきなりバトンを回しはじめる。
「あのさ、なんで急に嘘っぽい福岡キャラはじめたの」
「なにー、そんなことないっちゃけんよー」
「それ。その博多弁嘘くさい」
- 176 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:34
- ガラスの壁を隔てて向こう側、ブースの外にはいつの間にか、
苦笑しているラジオのディレクターと、今日わたしに付き添ってくるはずだったマネージャーが現れていた。
一応承諾はしているってことなんだろうか。
そしてその隣には、腕を組んだ謎の覆面レスラーこと鈴木。
「いいよ、もう、何となくわかったよ。じゃあ、わたしも今日はえりぽんがDELI君のていでやるから」
「あー、ていね」
途端に生田の顔がほころぶ。
「ていでね」
なんだか残念な気分になってきた。
なんとかピンクと、囚われの人妻と、謎の覆面レスラーと、ガラスに薄っすら映る鼻メガネ。
「何かさあ、全体に設定が雑だよ」
復帰一番目の仕事がこれ。打ち合わせも無しに。
生田がぐっと親指を立てる。
「よし、がんばろう! 私たちのELI-DELI!」
「RIHOのほう変えちゃったんだ」
- 177 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:34
- 『モーニング娘。鞘師里保の、RIHO-DELI』
オープニングの曲が終わり、ディレクターの指示を受けた鈴木から、開始のキューが送られる。
「はい、それでね、どう? 里保」
「……なに?」
「どう? 最近は」
「いきなり!?」
これだ。いつも勢いだけあって、実は何も考えてない。
「振りが雑すぎ、フォローできないよ」
「まぁた、そうやってわたしはバラエティ慣れしてますぅみたいなー」
「はあ?」
譜久村が、私のためにケンカをするのはやめてみたいな目で見ている。
「じゃあメールいこ、メール」
「あ、メールね」
- 178 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:34
- 「じゃあ読みますよ〜、このメール〜」
「もったいぶらなくていいから」
「ラジオネーム、謎のうさちゃん仮面さんから。里保ちゃんDELI君、こんにちさゆりほー、
はい、こんにちさゆりほー」
「あれ?」
「さて、夏のハローのコンサートのファン投票アンケートで、
『お姉ちゃん大好き!』と言って欲しい人ランキング一位おめでとうございまーす」
「そんなランキングあったっけ?」
「ランキング入りした人は、そのセリフをお客さんの前で披露しなければならなかったのですが、
里保ちゃんは残念ながらお休みで不参加だったので、そこでぜひ、RIHO-DELI復帰記念に、
この『お姉ちゃん大好き!』のセリフを、りほりほなりのイメージで、感情を込めてカワイク言ってください!
だって。面白いなー道重さん」
「今、道重さん言っちゃったね」
「ん?」
「道重さんて言っちゃったよね」
- 179 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:35
- 「必然性もないのにこんなこと言えないよ、どうせセリフも道重さんが考えたんでしょ?」
「りーほ」
生田が諭すような口調で、数秒間見つめて沈黙する。
「ラジオだから。何かしゃべらないと放送事故だから」
「こういうのはね」
いちいち間を空ける喋り方にイラっとする。
「おいしいって言うんだよ」
「何その自慢げな顔」
「あと言っておくと、そうやって自慢げにバトン回してもリスナーさんたちには見えないから」
「まぁた、ラジオ通ぶっちゃってー」
「ぶってないし、そのノリついて行きにくい」
『りほちゃんって、えりぽん相手だと何かキツいよね』
ヘッドホンから鈴木の声が聞こえてくる。
譜久村は何もない空間を見つめてニヤニヤしはじめている。
- 180 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:36
- 「じゃ、曲行こうか」
「こっちに親指立てても聞いてる人は見えないから」
ふう、と一息入れて、気持ちを入れ替える。
「それでは、ここで一曲おきゅき――」
「カァーット!」
生田がいきなり割って入ってくる。
「はあ? 勝手にカットとかしないでよ。そういうのはディレクターさんがやることだよ」
「いいの、今日は私が実質ディレクターだから」
外を見ても、ディレクターは首を捻りながら苦笑するばかり。
「今、里保噛んだよね」
「? 噛んでないよ?」
「噛んだでしょ?」
「噛んでないって」
「なんで嘘つくの?」
「嘘じゃないよ。なんなら本当に噛もうか?」
「あー、開き直ったー!」
肩をすくめるブースの外の覆面レスラー。
横からフフ、と囚われの人妻の気味悪い笑い声。
ラジオが進まない。
- 181 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:36
- 仕切りなおし。
「それでは、お、き、き、ください。9月14日発売のモーニング娘。のニューシングル、
この地球の平和を本気で願ってるんだよ」
「カァーット!」
「はああ?」
「だめだめ。この地球の平和を本気で願ってるんだよ! だよ」
「この地球の平和を本気で願ってるんだよ! でしょ?」
「違う、この地球の平和を本気で願ってるんだよっ!」
「この地球の平和を本気で願ってるんだよっ!」
「もっと、この地球の平和を本気で願ってっ!!」
「この地球の平和を本気で願ってるんだよっ!」
『なんか逆ギレっぽくなってきた』
「だめだー! そんなことでこの地球が平和になるかー!」
「そっちこそ、こんなことで地球が平和になると思ってるの!?」
「ん?」
「そんな能天気で甘い考えだから正義は笑われるんだよ。正義のスパイとか言って!」
「あの、ん?」
「本気じゃないなら、そんな簡単に平和なんて願わないでよ! 無責任なんだよ!」
- 182 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:37
- 「大体なんだよ正義って、今日だってせっかくわたしの復帰初仕事なのに、わたしのラジオぐだぐだにして、
いない間にみんなして暴露するし、わたしのクールなイメージ台無しだよ。
変な鼻メガネとかタンバリンとかよくわからないもの送りつけてくるし、部屋だって、えりぽんのほうが汚いし」
ブースの中がしんとする。
止まらなくなっていた。
わたしは、吐き出してしまいたかったのかもしれない。
一ヶ月間の休養で、わたしの中に確実に溜まっていた、何かを。
しかし生田もそれで黙っている女ではなかった。
「だったら衣梨奈も言わせてもらうけどね」
びしっと指をさされる。
「里保は暗い!」
「え」
「里保は暗い!」
「なんで二回言った」
- 183 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:38
- 「さっきから聞いてればわたしのわたしのって。自分のことばっかり! 暗い顔して!
里保だけが里保だと思わないでよね!」
「え?」
「復帰って何? 里保の復帰を喜んでるのは里保だけ!? 違うでしょ!
聖だって! スタッフさんだって! ラジオの向こうのみんなだって! 衣梨奈だって!」
『あたし忘れないで』
「みんな復帰待ってたんでしょ? だったら! おめでたいのは里保じゃなくって!
里保の復帰を待ってたみんなに、里保がおめでとうって言ってあげなきゃいけないの!」
いつの間にか生田は、自分でぐしゃぐしゃに涙を流しはじめていた。
「里保がおめでとうじゃなくて! 里保がおめでとうなの! それがアイドルでしょ! この鼻メガネ!」
「私だってこの地球の平和くらい本気で願ってるんだよっ!」
そしてよくわからない捨て台詞を残して、ブースからなんとかピンクが飛び出していく。
「ちょっと! 今収録、中……」
- 184 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:39
- 「えりぽんなりの、はげましなんだよ」
しんとしたブースの中で、いつの間にかハンカチを外していた囚われの人妻が口を開いた。
「あのね。里保ちゃんが休んでいる時、ファンの中で、
ハワイでの里保ちゃんの態度が悪いって言われたみたいで」
確かにハワイでは腰痛があって、色々なこともあって、
思うようにファンと接することはできていなかったかもしれない。
「えりぽんも最初はネットの意見とか見て面白がってたんだけど」
「面白がってたんだ」
「途中からやっぱり、同期が好き放題言われてるのが段々と嫌になってきたみたいで」
「面白がってたのに」
「私が里保を明るくしてやるんだって言い出しちゃって」
- 185 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:39
- 「急におはガールに決まったのもね、もちろん喜んではいたんだけど、
本当はえりぽん、それ以上に不安でしょうがなくって。
でも私たち9期も、いつかテレビとかで、どんどんアピールしていかないといけないでしょ?
だからさ、だったら衣梨奈がみんなより一足先に、勉強してくるんだって前向きになってさ」
「今日だって本当は、今週の日曜日には、おはガールでのはじめてのイベントに立たないといけなくて、
バトンの練習をしないといけないんだけど」
「もうすぐじゃん」
ラジオにバトンを持ち込んでいたのも、本当は不安で手放せなかったんだ。
「でも、自分がバラエティの基本を里保ちゃんに教えてあげるんだって張り切ってたんだ」
「それはどうかな」
- 186 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:40
- 生田の出て行ったほうを見ると、ガラスに映る、鼻メガネ。
これをかけてから出会った人々の顔、と言ってもほとんど9期だったけど、
みんな、わたしを見た瞬間に笑顔になっていた。
わたしがみんなに、復帰したよ、おめでとう、ってお祝いしてた。
いつもどこかボケてて、わかりにくくて、面倒くさいのに。
ダンスも歌も常識も、絶対こっちが上のはずなのに。
なのにいつも彼女に負けたくないと思っている自分がいる。
そんな気持ちを、認めたくなかった。
ヘッドホンを外して椅子から立ち上がる。
生田はまだ近くにいるはず。
そしてブースのドアに向かおうとした時、それが勢いよく開いた。
「イェーイ!」
となんとかピンク。
「実は〜? スパイというのは嘘でしたぁー!」
- 187 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:40
- 「……や、そだろうね」
「どっきり大成功ー! イェーイ!」
一緒に入ってきた鈴木とハイタッチする。
満面の笑みの生田が持っているのは、「大成功」といい加減に書かれた普通のスケッチブック。
「どう? すごかったでしょサプライズ」
「えー……と、どこからどこまでのことなのかな」
「あー、どれが本当でどれが仕掛けかわからなくなっちゃった? やったねー」
嬉しそうに顔をくしゃくしゃにする。
「むしろサプライズしか無かったよ」
「えりぽんなりの、はげましなんだよ」
横で譜久村がこそっと呟いた。
「オリジナリティありすぎだよ」
- 188 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:41
- 「でもスパイがいるって聞いたのは本当なんだけどなあ」
「ハイハイ」
そして生田がマイクの前にまた座って、いきなり喋りはじめる。
「まーそんなわけで、緊張して黙っちゃったり、噛んじゃったり、いろいろダメなところもありましたけど」
「まだラジオ続いてたんだ?」
「里保にはこれからも、がんばっていってもらいたいと思います」
「今のわたしのことだったの!?」
「それではELI-DELI」
「ねえ、わざと言ってるでしょ」
「せーの、また来週ー! バイバーイ!」
当然ながら収録は後日、あらためて本物のDELI君と行われ、
復帰最初の仕事から、とんだ二度手間となってしまった。
ただでも、これからはもう少し明るくやろうかな、とは思った。
- 189 名前:調査7. 投稿日:2011/12/21(水) 23:41
- 生田衣梨奈調査結果。
・振りが雑。
・あまり考えたくない。
そしてわたしは、あのヒリヒリと肌が灼けつくような、アイドルの最前線に戻る。
つづく。
- 190 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/21(水) 23:44
- リアルタイムキタコレ。
とりあえず一言、最高です。
- 191 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/25(日) 13:04
- この面白さったら
- 192 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/25(日) 19:44
- クオリティ高いなあ
心地よいパターンがあってかつ飽きさせないのがすごい
- 193 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/11(土) 21:31
- 期待して待ってます
- 194 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/04/25(水) 00:03
- わくわく。
- 195 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:09
- 調査8.新垣里沙
鏡のように磨かれた大理石の柱に背中を預けると、ひんやりとした感触が服の上から伝わってくる。
乱れた呼吸を整えながら、目標を確認するために顔を半分だけ影から覗かせてみるものの、
至る所に口を開ける階段の上方から絶えず流れ込んでくる無彩色の人波が、煙る瀑布のごとく視界を遮る。
「くっ」
苦しまぎれに天を仰げば、いたる所に設置された監視カメラ。
視線を横に振れば、壁際で直立している無表情の警官たちと目が合いそうになる。
もはや躊躇している時間はない。
意を決して、わたしは柱の影から飛び出した。
でもやっぱり行き交う人の数は膨大で。
「うわわわわわわ」
目指す方向はみんなバラバラで。
「おっ、おおおおおおおお」
ラッシュアワーに突入した東京の駅というのは、無茶苦茶だ。
- 196 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:09
- 「お祭り??」
まだ改札口も出ていないはずなのに、そこら中に飲食店やファッションブランドのお店が光っていて。
「ラーメン、あ、バナナだって! ……ばなな?」
目に入る看板をいちいち読み上げる鈴木の声を後ろ頭に聞きつつ、
わたしより倍近い高さの人壁を必死でかき分けて、前方に視界を求める。
――いた。
「あれじゃない? 新垣さん」
少し遅れて鈴木も同じものを見つける。
キヨスクでお釣りを受け取り、この雑踏の中を清流の魚のようにすいすいと前へ進んでいく、
わたしたちとそう変わらない小さな後ろ姿。
「くっ、都会の女め」
- 197 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:10
- * * *
鞘師里保は悪の潜入工作員である。
ある重要な任務の下、第9期メンバーとしてモーニング娘。への潜入に成功した。
広島の小学校では、都会に慣れている派だった。
* * *
- 198 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:10
- またすぐにも視界から消え去りそうな姿を捕捉しながら、追跡を再開する。
「あんなに急いで。よっぽど気持ちが抑えられないんだ」
ふと漏れたひとり言に、鈴木が不満げに言い返してくる。
「そんなんじゃないから」
話は数時間前にさかのぼる。
わたしが現場に復帰してすぐ、秋ツアーと平行して9期初参加舞台の稽古が始まり、
仕事も学校も無かった夏休みとはうって変わって、休みのない毎日が続いていた。
そんな中、今日は明日の通し稽古に備えて各自復習してくるということで早めに切り上げられ、
久しぶりに時間のできたわたしは、帰り支度をしていた鈴木を誘って、同じ建物内にある倉庫を訪れた。
鍵の開いた木製のドアを横に引くと、狭い倉庫の中は少し蒸していて、
小窓から差し込んだ午後の光が、中央にぽつんと置かれた机と椅子をスポットライトみたいに照らしていた。
- 199 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:10
- □ □ □
「りほちゃん? りほちゃん? これはどういう」
椅子に座った鈴木は、テレビで自己紹介の順番を待つ時みたいに、落ち着かない様子でいる。
椅子と組になっていた机は、今はわたしのお尻の下にあった。
「この前のえりぽんのことだけど」
「もしかしてえりぽんのスパイ設定のこと? あたし何も言ってないってば」
鈴木が上目使いに訴える。
「ふうん」
鈴木の目の前で両足をぶらぶらさせながら、尋問道具を手に取る。
「そのマジックハンドは一体どこから」
答える代わりにそれをじわりと近づけると、鈴木が恐怖に顔をひきつらせる。
「ひいっ」
「動かない」
わたしの繊細な指先の動きに呼応したプラスティックの爪が、
こわばる鈴木の脇腹に触れるか触れないかの位置で、無情に開閉を繰り返す。
「ほ、本当だって、サプライズには協力したけど、他は何も言ってないって。
設定も全部えりぽんがすごい張り切って考えてきたんだよ変に細かくテキトーに」
「それはそんな感じしたけど」
しばしの沈黙の後、トリガーから指を外すと、鈴木は大きく息を吐いた。
- 200 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:11
- 「どっかで自分で言っちゃったんじゃないの? りほちゃん意外と抜けたところあるし」
「何か言った?」
再びマジックハンドを向けると、鈴木は口を一文字に閉じて小刻みに首を振る。
生田がモー娘。の中にスパイを見つけたと言った時、
努めて平静を装ってはいたが、心の中では白目をむいて卒倒してしまいそうだったのだ。
たとえ協力者を抑圧することになろうとも、あらためて情報の管理は徹底しなおす所存だ。
「……グレーだな」
「ひどい言いがかりだ」
不服そうな鈴木の視線を受け流しながら、レッスン着のお尻のポケットに手を回す。と、
「あれ?」
「どうしたの?」
鈴木が見上げてくる。
「無い」
「お尻が?」
「あほ」
「アホ!?」
- 201 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:11
- 「メモ帳が無い!」
すぐさま机から飛び降り、床にしゃがみこんだ。
「メモ帳?」
「無い……無い!」
うかつだった。どこかで落としてしまったんだろうか。
「ほら意外と抜けてる」
「ぼーっと座ってないで一緒に探してよ」
「じゃあロープほどいてよ、まず」
「どうしよう……」
「そんなに大事なの?」
それ自体はどのメンバーも持ち歩いているような、
スケジュールやアドバイスなどをメモしておくありふれた手のひらサイズのノートだが、
わたしの場合、調査中に得た細かな情報もたまに書き留めている。
「じゃあ稽古場戻ってみようよ。誰かが拾って届けてくれてるかもしれないよ」
「世の中そんなに甘くないんだよ」
「どんな世の中を見てきたの」
それにむしろ、人目に触れる前に自らの手で見つけておきたい。
幸いにもそれほど重要な機密は書き込んでいないが、それでもあれにも相応の情報価値が――
「まさか、何者かに盗まれた?」
「なんで!?」
「もしや田中さんが」
「なんで!?」
- 202 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:12
- 「だいたいさー、スパイなんてえりぽんでも思いつく設定なんだから、
少しくらい設定被ったり誰かに知られたりしたって、そんなムキになることでも」
「はあ? 設定じゃないし。ていうか、だからそういう事を軽々しく声に――」
仕方なさそうに一緒に探しはじめた鈴木の呑気な口走りを、小声で咎めようとした時だった。
「ズッキ?」
倉庫の外から突然、声が聞こえた。
新垣の声だった。
「ズッキ」は、わたしたち9期が加入した時に決められた鈴木の公式ニックネームで、
新垣にはまだ、十回に一回くらい、思い出したようにその名で呼ばれることがある。
ネットの知恵袋で質問したところによると、憧れるまま若くしてモー娘。入りし、
それへの信心胸一杯で純粋培養されてきた彼女は厳格なモー娘。原理主義者で、
事務所の決定事項などに関しても保守的になりがちなのだという。
生田のような輩に厳しいのもなるほどだ。
- 203 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:12
- 「ははいっ」
慌ててドアを横に滑らせると、目の前に立っていた新垣と目が合う。
「うぉっ、……ヤッシー! ヤッシーもいるならいるって言ってよ。びっくりしたよ」
リアクションが無駄に大きい。
「いきなりいるって言うのもおかしくないですか」
「それもそうか」
「で何してんの? こんなところで」
「えと、鈴木をじんも――」
「鈴木の人毛?」
「いや、えーと」
答えに窮して倉庫内に視線をさまよわせると、鈴木を座らせていた椅子が目に入る。
「自己紹介! そう、ここに座って二人で自己紹介の練習をしてたんです。ね? かのんちゃん、ね、ね?」
「あ、はいそうです。自己紹介の練習してましたですよあたしたち」
「へえ、自主練かあ〜、感心感心」
倉庫に半身を入れて中を見渡した新垣は、置かれた椅子を見てうなずいた。
「あの、新垣さん、それで、まだ何か?」
「そーそー。これ、誰のだか知らない?」
- 204 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:12
- 差し出された新垣の手には、見覚えのあるメモ帳があった。
「わあああ」
慌ててそれを奪い取る。
「え、何?」
「中見ました?」
「ごちゃごちゃして何書いてあるのかよくわからなかったけど、鞘師のだった?」
「何も?」
「何も? うん何も見てない。ごめんまずかった? 誰のか分からなかったからさ」
「いえ大丈夫です。何でもないです。ありがとうございます。わたしのです。探していたんです」
心の中でほっと胸をなでおろす。
これからは、もっと情報の管理を徹底しなければ。
新たな覚悟を胸にメモ帳を抱きしめるわたしを、新垣はきょとんとした顔で眺める。
「ヤッシーって、そんなリアクション派手なキャラだったっけ」
そして、まだ物足りなさそうに倉庫の中を覗きこみ、続けて口を開いた。
「そういえばさあ」
「なんです?」
安堵したわたしは、あらためて落ち着いた余裕の笑みを作る。
後はこの場さえ切り抜ければ、なんとかなる。
「スパイって、なんのこと?」
「にぇっ?」
思わず変な声が出た。
□ □ □
- 205 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:13
- 「りほちゃん、りほちゃん?」
「にぇっ?」
鈴木の声と共に、駅の喧騒が耳に戻ってくる。
「どうしたの? 今、歩きながら白目むきそうになってたけど」
「すこし、過去を振り返っていた」
「まだそんな歳じゃないでしょ?」
人の流れが激しく交錯する狂乱のコンコースからいくつかの分岐を経て、次第に周囲の店も減ってくる。
「新垣さん、どこへ行くんだろう」
「わからないよ」
それでもまだ混雑をかいくぐって新垣を追うのは必死の作業で、
案内板をいちいち見上げて行く先を確認する余裕など無かった。
やがて行き当たったエスカレーターも、新垣は止まらずに空いた側をさっさと歩いて下っていくのだ。
「ほんとせっかちだな」
- 206 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:13
- 地の底を目指すかのように延々と下り続けたそのエスカレーターにもやっと終点が訪れ、
行列の先から次々と人が解き放たれていく。
「んぐううう」
その混沌をまたかき分けて。
視界の開けた先に現れた想像もしていなかった光景に、わたしは思わず声を上げた。
「歩く歩道だ!」
「動く歩道じゃない?」
数秒の沈黙。
「でもみんな歩いてるし」
ほとんどの人は動く歩道の上を歩いているから間違いではない。
鈴木とは目を合わせない。
- 207 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:13
- それにしても、あの長いエスカレーターの先に、まだこんなものが待ち受けているとは。
「東京め」
動く歩道に乗り、時折、ベルトから乗り出して前方を覗いてみるものの、
人が詰まっていて、その先に新垣がいるのかよくわからない。
「そうだ」
思い出して、バッグから携帯端末を取り出し、電源を入れる。
画面に、今わたしたちが歩いている地下通路の地図が現れる。
そこに新垣の現在位置が、きちんと表示されている。
「なにそれ! どーやったの!?」
横から覗き込んだ鈴木が声を上げて、キョロキョロと周囲の景色と見比べる。
「こんなところで大声出さないでよ。田舎者みたいで恥ずかしい」
「りほちゃんだって動く歩道に驚いたくせに」
「うるさいな」
- 208 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:14
- 「新垣さんのスマートフォンから位置情報をサーバー経由で取得してるだけだから、
技術的には難しいことじゃないよ。新垣さんいつも楽屋に置いてるから、ソフト仕込むくらいなら簡単だし」
「りほちゃんそれもしかして、犯罪じゃ」
「うん犯罪」
「なぜ得意そうな顔を」
「でもそれなら、そんなにがんばって追いかけなくても良かったんじゃないの」
「地下だからGPSを利用した位置情報はどうしても不安定になるんだよ。
スリープしててもこれだけは動かすようにして、wi-fiの情報も併用して精度上げてるけど、さ
すがに同じ電車乗り過ごすわけにはいかないでしょ。だからこれはあくまで目安」
鈴木が呆けた顔でこちらを見ている。
「何?」
「りほちゃん、本物の探偵みたい」
「工作員だし」
「あそっか」
「キャラじゃないし」
「なにふくれてるの?」
「ふくれてないよ」
- 209 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:14
- □ □ □
狭い倉庫の中央にぽつんと置かれたままの椅子は、来た頃に比べてずいぶん影を伸ばしていた。
「ス……パイ、ですか?」
心の中で白目をむいていたわたしは、「ス」の発音まで裏返る。
「スッパイ? うんスパイだよね。
何かそこ歩いてたら、中からスパイがどうこうって聞こえたからさ」
鈴木の声が外に漏れていたのだ。
後ろを振り返って睨むと、鈴木が目をそらす。
「うーん、スパイかあ」
新垣が腕を組んで難しい顔をする。高まる鼓動がおさまらない。
「難しいキャラだねえ」
「キャラ?」
「ん? ここで練習してたんでしょ? 自己紹介の。設定がどうとか言ってたけど」
「設定! あそう、そうです! わたし自己紹介にスパイキャラなんてわたしどうかなーなんて思っちゃって、
あはは、二人で設定を考えてたんですよ。ねー、かのんちゃん、ねー」
後ろを振り返って睨むと、鈴木が目をそらす。
- 210 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:15
- 「新しいことは新しいけどねえ、スパイキャラ」
「そうですよね? 誰でも思いつくものじゃないですよね?」
「意外とそこ気にしてたんだ、りほちゃん」
「んー、でも、あんま鞘師っぽくは、ないかも」
「どうしてですか?」
「だって鞘師、真面目キャラだし。どちらかって言うと優等生キャラのほうじゃない?」
「そんなにキャラでは無いですけど」
「そういやりほちゃん、自分で悪悪って言うわりに、そんなに悪いことしないよね」
鈴木が横から入ってくる。
「えー!」
「そうだねえ。もっとはっちゃけてもいいよねえ、ヤッシーは」
「かなり悪いことしてますよ!」
「たとえば?」
「たとえば!?」
「えー、じゃあちょっとやってみてよ」
「何をですか」
「練習してたんでしょ? ちょっとやってみてよ自己紹介」
□ □ □
- 211 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:15
- 「まだ降りるんだ」
エスカレーターを降りるたびに、照明も暗くなり、色彩が無くなっていく。
前の電車を降りてから、どれくらい歩いただろう。
改札口が現れそうな気配もない。
これが次の電車のホームまでの道のりなのだとして、
果たしてこれって同じ駅の乗り換えと言えるんだろうか。
あれから二つくらいの動く歩道を経て、
四つ目くらいのエスカレーターを降りて、やっとホームに辿り着いた時、
生暖かい風と共に、電車が滑り込んできた。
- 212 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:15
- □ □ □
長く伸びた椅子の影は、もう倉庫の壁際の棚に差しかかりはじめていた。
わたしはなぜか、その椅子に座っている。
椅子と組になっていた机は、とても楽しそうに足をぶらぶらさせている鈴木のお尻の下。
鈴木の隣に、腕を組んで机に寄り掛かる新垣。
「はい……鞘師、里保です」
「もっと元気よく言いなさいよー。手もシャキっと上げてー。
そんなんじゃブラウン管の向こうの皆さんには伝わらないよ?」
「ブラウン管ってなんですか?」
「液晶の向こうの皆さんには伝わらないよ?」
「ブラウン管って液晶のことなんですか?」
「それはもういいから。はい言って」
「……ハイ! 9期メンバーの鞘師里保です! ……スパイ、やって、ます」
- 213 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:16
- 「他には? どういうことやってるとか、何のためにスパイしてるとか、そういう設定あるでしょ」
「設定ではないんですけど」
「なに? ここで設定考えてたんじゃないの?」
「考えてました」
「はい言って」
「……メンバーの調査とか、メシアを」
「めしや?」
「あ、ご飯屋さんでもすき家でもないです」
「そうなんだ」
「りほちゃんはモーニング娘。に現れる救世主を探してるって設定なんです」
「設定じゃないし」
「設定じゃないの?」
「設定です」
「そうかあ、救世主キャラねえ」
途端に新垣が目を輝かせる。
「そうだな救世主キャラと言えばねー、まず思い浮かぶのはやっぱり第3期メンバーの後藤さんだなー。
あー、でも他に――」
「あ、そのくだりは、みずきちゃんから聞きました」
「そ、そうなんだ」
- 214 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:16
- 「で、もっとスパイっぽいエピソードとかないの?」
「ありますけど、自己紹介で言えるようなものじゃないです」
「どんなことしてるのよ」
「じゃあ、スパイっぽくいつもサングラスしてみるとか」
「昔ハロプロにいましたよね、そんな人」
「よく知ってるね」
「みずきちゃんに渡されたDVDで見ました」
「ポーズとかないの? スパイのポーズ」
「ないです」
「その辺ちょっとキャラ作り弱いんじゃないの? ビームとか出してみる? 一緒に何か考えようか」
「大丈夫です。ビームは出さないです」
□ □ □
- 215 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:16
- 新垣を追って慌てて乗り込んだ電車は、
真っ暗なトンネルの中を千葉のほうへ向かって進みはじめた。
それは新垣の実家でも、暇つぶしに買い物に行くような方向にも思えない。
これだけ乗り換えのホームが離れていると、さすがに利用客も多くはないのか、
電車の中はすし詰めと言うほどではなくて、座席は空いていないが、窮屈でもない。
乗客の隙間から時折、新垣の横顔が見える。
「新垣さんって、いつも笑ってるイメージあるよね」
「そうだね」
でも今は、どこを見るでもなく、ボーっとしている。
- 216 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:17
- 「そういえば、新垣さんにも小さい頃があったって知ってた?」
新垣の姿を視界から外さないようにする。
「そりゃそうでしょ。なにそれ」
「あの新垣さんがだよ」
「なんか失礼だな」
「デビューした頃のDVDとか、本当にお子ちゃまでさ」
「結構ちゃんと見たんだ、みずきちゃんのDVD」
「なんか、笑顔がぎこちなかったんだよね」
「へえ」
「おでこ全開で。眉毛がすごく太くってさ」
「そこはいいでしょ」
- 217 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:17
- 「でも本当、どうしたんだろうね新垣さん」
鈴木の言うように、電車に乗るまであれだけせっかちだったのが嘘のように、
今は電池が切れたみたいだ。
「そういえばりほちゃん、バッテリー大丈夫?」
「予備の充電器なら持ってきてるよ」
「新垣さんのほうは?」
「え?」
「だって、新垣さんのスマホからずっと情報送信させてるんでしょ? 結構電気使うんじゃない。
新垣さんそんなつもり無かっただろうし。もう夕方だよ」
食べ物の検索くらいしかスマートフォンに興味なさそうな割に、意外と鋭いところに気がつく。
「その目、待ち受け画面のためにお料理アプリ入れてるような奴が何言ってるんだって思ってるでしょ」
「そこまでは知らなかった」
- 218 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:17
- 確かに、今の状況で新垣のスマートフォンのバッテリーを充電するのは不可能に近い。
しかしバッテリーを切れさせてしまえば、常に見失うリスクが付いて回る。
「ちょっとここで待ってて」
そう言うとわたしは乗客の中を新垣のほうへ向かい、戻ってくる。
「どうしたの?」
「盗聴器仕掛けてきた」
「えー!」
慌てて鈴木の口を押さえる。
「どうやって?」
声を潜めて詰め寄る鈴木に、盗聴器を仕掛けるために使った道具を見せる。
「そのマジックハンドは一体どこから」
- 219 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:18
- 「でも新垣さんすごく目がいいんだよ? いつも二階席のお客さんの顔までわかるって」
「わたしだって目めちゃくちゃいいよ」
「なんでそこ張り合うの」
「新垣さん今ぼーっとしてるし、近づきすぎないようにこれで遠隔操作すればバレないよ」
「すごいなマジックハンド」
「電車が揺れた時とか、乗客の注意が他に向いた瞬間に人ごみにまぎれて、さっとやるの。
スリなんかがよくやるテクニック」
「スリのことも詳しいんだ」
「今だってこの車両にもいたし、別に珍しいものじゃないよ」
「えっ」
鈴木がバッグを抱えてキョロキョロ見回す。
「悪意なんてそこら中に平気で転がってるんだよ」
「りほちゃん……」
鈴木が呆けた顔で見つめる。
「本物の泥棒みたい」
「工作員だし」
- 220 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:18
- 「でも盗聴って、犯罪でしょ?」
「犯罪だよ」
「だからなんで得意そうな顔するの」
「新垣さんが心配なんでしょ?」
この言葉で鈴木は黙る。
イヤホンを片方ずつ、二人で分けて盗聴器の音声を聞く。
こうして内部協力者に共犯者意識を少しずつ植え付け、
気がついた時には、もう引き返せないところまで自らの手が薄汚れてしまっていることを知るのだ。
「ウヒヒヒヒ」
「悪い顔してるなあ」
そしてイヤホンから聞こえてきた新垣の呟きに、会話が止まる。
『はぁ……会いたい』
- 221 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:18
- □ □ □
「新垣さん?」
新垣を見ると、倉庫の窓の外を見てボーっとしている。
「今のスパイビームのポーズ見てました?」
「あ、ごめんちょっとぼーっとしてた。ごめん次はちゃんと見る」
「まあ見てないほうがいいんですけど」
そしてまたボーっとする。
「新垣さん、ちょっと疲れてます?」
聞けば最近、映画の撮影もはじまったらしい。
「休みもらえないんですか」
「んー、まあ欲しいって言えば欲しいけど。なんか勿体無くて結局出かけちゃうんだよね。
そのほうが逆に元気になるっていうか」
「じゃあ悩みごととか」
「悩みごと? んんー」
- 222 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:19
- 「にいがきさ〜ん」
その時、倉庫の外で叫ぶ声が近づいてきた。生田の声だ。
「にいがきさ〜ん、にいがきさ〜ん」
新垣が倉庫のドアを開ける。
「あーうるさい!」
「にいがきさ〜ん!」
「えりぽん最近やけに新垣さんに懐いてるよね」
「どうしちゃったんだろうね」
「なに? 何か用?」
「あーなんか、田中さんが探してますよー。ちょっと話したいことがあるってー」
- 223 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:19
- 「じゃあ、自己紹介もいいけど、ちゃんと舞台の練習もしなさいよ。
今日もぐだぐだだったけど、明日大丈夫?」
新垣が生田にまとわりつかれながら倉庫を出る。
「最近ちょっとあんたたち、たるんでるよー?」
鈴木が反射的に自分のお腹を見る。
「今日が早めに解散になった意味考えて、ちゃんと家で練習してくるよーに。じゃ、おつかれー」
- 224 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:20
- 「新垣さん、なんか疲れてたね」
去って行く背中を見送りながら鈴木が言った。
「男だな」
「ええ!?」
新垣は聞かれていないと思っただろうが、高度に訓練されたわたしの耳は、
去り際に溜息と共に漏れた小さな呟きを聞き逃さなかった。
新垣は「会いたい」と確かに言ってた。
「聞き間違いじゃないの? 新垣さんがそんなわけないでしょ」
「これだから中学生のお子ちゃまは」
お子ちゃまを鼻で笑う。
「二十歳も過ぎた昭和生まれの熟れた女が、毎日を男なしで我慢できると思ってるの?」
「昭和生まれ関係あるの?」
終わりなき仕事漬けの日常にふと疲れを感じたアイドルが求める癒しとスリル、それが男。
「これまでの歴代メンバーも、多くがそうして卒業していったんだよ」
「なんかモーニング娘。に詳しくなったよね、りほちゃん」
- 225 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:21
- さっきまでの自己紹介とはうって変わって、にわかにわたしの気持ちは高揚していた。
生田がいたせいで、新垣にスパイのことを口止めする機会こそ逸してしまったが、
これは願ってもないチャンスだ。
新垣のスキャンダルの証拠を掴めば、こちらの正体がばらされそうになった時の取引材料に使える。
場合によっては、『メシア』について有用な情報を引き出すこともできるかもしれない。
「イヒヒヒヒ」
「りほちゃん、何か悪いこと考えてる?」
「うん」
「あたしは新垣さんを信じるよ」
「信じるって何さ」
「なんでもだよ」
「じゃあ、この後ちょっと付き合って」
「えー。倉庫じゃないなら、いいけど」
そうしてわたしたちは新垣の後を追って、電車に乗った。
□ □ □
- 226 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:21
- 「そのうち舞台とかでさ、一緒になった役者さんたちと定期的に飲み会行ったりするんだよ。
バラエティ番組で男の人と抱き合うこともあるかもしれないし。今のうちに耐性つけておかないと」
「何の話よ」
鈴木が不服そうに口を尖らせる。
「家族の人と会いたいのかもしれないでしょ」
「新垣さん実家だし、わざわざ会いたいって変でしょ」
「じゃあ高橋さんとかさあ」
「いつも仕事で会ってるのに? この前も食事行ったって言ってたし、
そこまでいつも会いたいと思わないでしょ」
「そりゃあ、プライベートもいつもメンバー同士でベタベタしてたら気持ち悪いけどさ」
「……そうかな?」
「え?」
「そんなに気持ち悪いかな?」
「あたしなんか変なこと言った?」
- 227 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:22
- 動力音が加速を知らせると、間もなく電車は坂を上りはじめ、
しばらくして、前の車両から順に車内が白い光に包まれていく。
地上へ出たのだ。
くぐもっていた音が外に開放され、窓の外の景色が、ゆったりと流れはじめる。
そのまま電車はぐんぐんと登って、地上からも離れていく。
あれだけ潜ったのに、なんだか損をした気分だ。
ベニヤ板みたいに真っ平らな土地に、高層マンションが街路樹のように等間隔で並んでいて、
足元には、きっちり定規で線を引いたような、川というか、貯水池というか、
運河って言っただろうか、こういうの。
新しい土地なのか、何もないところにいきなり変わった形の建物がぽんと置いてあったりする。
「あー、そういえばスカイツリー見に行きたいなー」
「どこからでも見えるじゃん、あれ」
「近くで見たいんだよ」
「田舎者」
方角的には、北東にあるスカイツリーから少しずつ離れるように南東へ向かっている。
遠目には高速道路、その先には大きな橋。
西の空はもう色が変わりはじめていた。
- 228 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:23
- 「海だ!」
電車が大きな川を渡る橋にさしかかると、視界が開けて、海が見えた。
「海くらい愛知にもハワイにもあったでしょ」
「そうだけどさー、やっぱり海が見えると、わあってならない?」
「わたしも嫌いじゃあないけど」
東京の海は、潮の香りがしない。
「普段高いビルばっかりに囲まれてるしさあ、
たまにこうやって海が見えると、癒されるんだよねえ」
鈴木が半分にやけながら、ふっと息を吐く。
「あたしも都会に染まりすぎてしまったのかしら」
「へえ」
「ちょっと、そこはツッコんでよ」
- 229 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:23
- 橋の終わりに大きな観覧車が見えてきて、都会の女こと鈴木がまたはしゃいでいるうちに、
また次の橋が見えてくる。
地図の上では、この川を渡ればもう千葉県だ。
「どこへ行くんだろう」
「え、まだわかってなかったの?」
鈴木が本気でびっくりした顔をしている。
「なに?」
問い返すと、鈴木の背後の窓の外に、外国の宮殿みたいな建物が流れてくる。
その奥に見えたお城には、さすがにわたしも見覚えがあった。
慌てて手元の携帯端末の地図を確認する。
「Dズニーランドって、東京じゃなかったの!?」
「出ましたお約束」
- 230 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:24
- 駅の改札を出た頃には、電車のやって来た方向に真っ赤な太陽が落ちようとしていた。
「Sンデレラ城だー」
正面のお城の姿を見て、鈴木が楽しそうに顔をほころばせる。
「りほちゃんは、見てて懐かしい気持ちにはならない?」
「ならないね」
「じゃあ生まれ変わりキャラは無理だね」
「うん」
夏休みの余韻をまだ残しているのか、
平日だというのに、改札口前の広場は子供から大人から男女から賑わっていて、
この人たちは普段は何をしている人たちなのだろうなんてことを思う。
人の流れに乗って、異国風の広い歩道を歩く。
楽しそうな音楽がどこからともなく聞こえ、甘くいい匂いがそこはかとなく漂っている。
明らかに他の駅とは違う空気がある。
先を行く新垣の後ろ姿は、スキップみたいに小躍りしていた。
「一人でも、あんなに飛び跳ねるんだね」
電車から見えた宮殿の、クリーム色の壁と青い屋根をふち取ったイルミネーションが、点灯しはじめていた。
「もう夜になるのに、よっぽど来たかったんだろうね」
「男に会いに?」
「まだ言うのか」
- 231 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:24
- 「サイダー売ってなかったよ」
鈴木が戻ってきた頃には、日は完全に落ちていた。
でも街灯や、見えるものがみんなイルミネーションで光っていて、そんなには暗くない。
「それ、似合ってるよ」
わたしの頭の上に乗っているネズミの耳を見て鈴木が笑った。
近くで飲み物を買ってくると言って、ついでにお土産屋さんを覗いた鈴木が、お揃いで買ってきたのだ。
「どれくらい?」
「なにが?」
「どれくらい似合ってる?」
「まあ鼻メガネよりは、かなり」
「チュロスは?」
「調べたんだ」
「ネズミの形したチュロス」
「それあんまり美味しそうに聞こえないね」
「チュロス食べたい」
「中に入らないと買えないよ」
無言で口をとがらせる。
「面倒くさいなあ」
- 232 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:24
- ぷくっとふくれているわたしとは対照的に、
鈴木はこのメインエントランス前のベンチに来てからずっと、溢れんばかりの笑顔でいた。
「いいじゃん、男の人と待ち合わせじゃなかったんだから。そこ喜ぶところでしょ?」
『うーわわわわ、あっはー』
イヤホンからは、新垣が一人ではしゃぐ声がひたすら聞こえてくる。
『Mッキー! うんそう、今日は一人なのー。会いたかったあ!』
「一人だって」
鈴木が嬉しそうに追い討ちをかける。
「もうわかったよ」
新垣は駅からあのまま、誰とも待ち合わせずに、一人でDズニーランドの中へ入っていったのだ。
- 233 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:25
- 「一人でDズニー行くなんて、楽しいもんなの」
「そういう人もいるみたいよ。特に女の人とか。
年間パスポートだったらいつでも自由に出入りできるし、濃いファンの人や、
地元の奥様とか、ベビーカー押しながら近所の公園感覚で遊びに来る人も結構いるんだって」
「ふうん」
「新垣さんはパスポート持ってないって言ってたから、夜だけのチケットで入ったのかな」
鈴木を見る。
「何でそんなに詳しいの?」
「だって、あたし何回か来たことあるもん」
「誰と?」
「誰と? そりゃ家族とか、友達とか」
「ふうん」
「なに?」
「べつに」
『Dナルドぉ! 会いたかったよお!』
「あれ、中に人が入ってるでしょ」
「そういうんじゃないの」
- 234 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:25
- 暗くて顔はもうよく見えないから、近くを通った人しかわからないけど、
オレンジのトラや、アヒルや、青いコアラみたいなものや、
いろんな被り物の仮装行列が目の前を通り過ぎて、駐車場に歩いていく。
「何でみんな笑ってるんだろ」
「前に新垣さんが言ってた。
ここから出てくる人たちは、入る前よりちょっとだけ、優しくなってるんだって」
「なんらかの洗脳施設か」
「働いてる人たちも、お客さんも、ここの雰囲気が大好きで、
だからみんな自然とその雰囲気を大事にするようになって、人にも優しくなるんじゃないかって」
「ここよりすごいジェットコースターなんて他にもっとあるじゃろ」
「だからそういうんじゃないんだって。パレードとか、ショーとか、ただの通路とか柵とか、
そういうのぜーんっぶが、夢と魔法の王国なんだって」
「重症だな」
「ひねくれ者だな」
「ただの同調現象でしょ」
「魔法の国だからだよ」
「魔法なんてあるわけないじゃん」
- 235 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:26
- 「りほちゃん。入らないならもうそろそろ帰ろ。明日も稽古あるんだから、家で練習しないとさ」
サイダーの代わりのジュースは、もう飲み干していた。
「駅のほうに行ったら、チュロスもあるかもしれないよ」
その時だった。
頭上が突然明るくなり、大量の光の粒が真っ黒の空に広がった。
少し遅れて、体全身に響く大きな音。
「花火だ」
帰り途中だった人々も、立ち止まって夜空を見上げる。
「うわあ」
口を開けたままの鈴木の横で、一緒にそれを見上げた。
- 236 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:26
- 「……あれ?」
「どうしたの?」
鈴木がわたしの様子に気づいた。
わたしは拾ったDズニーランドの冊子を開いて園内の地図を確認しながら、
耳に手を被せてイヤホンの音に集中していた。
『わあー! おおぅー!』
イヤホンからは新垣の声。
「やっぱり」
携帯端末に表示された新垣のスマートフォンの位置と、イヤホンから聞こえる花火の音が矛盾している。
わたしたちが聞いている花火の音と、新垣が聞いている花火の音に時差があるのは問題ない。
けれど光と盗聴器に入る音の時差で考えれば、新垣はかなり花火に近い場所で見ているはずなのに、
地図上のスマートフォンの位置は、
花火が上がっているお城の後方の辺りから、どんどん遠ざかって行っているのだ。
- 237 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:27
- ――盗聴がばれた?
でも聞こえてくる声の主は変わらず新垣に聞こえる。
急に移動しているようにも、乗り物に乗っている気配もない。
ならばスマートフォンだけどこかに置き忘れたか、落としたか。
しかしずっと携帯端末で監視していて、それが動きを完全に止めた様子はほとんどなかった。
落としたのならば、しばらくはその場に留まっているはず。
あるいはすぐに誰かに拾われたか、園内の従業員が預かっているのか。
「新垣さんに電話かけてみて」
鈴木に電話をかけさせる。
「出ないよ?」
情報が送信され続けているのだからバッテリーは残っている。
もし誰かが拾ったのなら、持ち主の可能性も考えて、とりあえず出るのではないか。とすれば。
「盗まれた」
- 238 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:27
- 花火に見とれている客の隙をついて盗む。
電車の中でわたしがしたのと同じ、スリの常套手段だ。
花火が終わり、しばらくして、新垣もスマートフォンが無いことに気がついた。
『無い……無い!』
聞いていられないほど焦りが、声から伝わってきた。
『どうしよう……』
それから新垣は園内の遺失物センターへおもむき、
紛失届けなど一通りの手続きをして、わたしたちのいるメインエントランスの前に姿を現した。
その間、それまで浮かれた声ばかり聞こえていたイヤホンからは、力ない言葉ばかりが漏れ聞こえていた。
- 239 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:28
- 姿を隠しながら、新垣の様子をうかがう。
ゲートを出て、とぼとぼと近くの花壇に腰をおろした新垣は、
また電池が切れたように、何をするでもなく、ボーっとしている。
なぜか新垣は、契約会社に連絡してスマートフォンの使用を停止することはしなかった。
やり方を知らないはずはない。そのままにしておくのは芸能人としてリスクが高すぎることだ。
「どうして」
ボーっと見つめる新垣の視線の先は、自分が出てきたメインエントランス。
ゲートの向こうの電飾で縁取られた洋風の建物が、照明の光できんいろに輝いていて、
その周りは、多くの笑顔の人々で賑わっている。
ここから出てくる人たちは、入る前よりちょっとだけ、優しくなってる。
鈴木の言葉を、ふと思い出した。
「行こう」
「待った」
勇んで新垣のところへ行こうとする鈴木の肩を、とっさに掴んだ。
「出てきた」
携帯端末に表示された新垣のスマートフォンが、同じエントランスに近づいていた。
- 240 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:28
- それはごく普通に見える、人の良さそうな大人のカップルだった。
その姿で直感する。プロだ。相手は偶然でも、遊びでもない。
たまたま他の用事があって持ち歩いていただけで、これからどこかに届ける、なんてことは期待できない。
「あの人たち?」
「鈴木、ちょっと待って」
しかし鈴木は構わず彼らのところへ向かう。
そして何の駆け引きもなく、進路の前に立ちはだかった。
「ちょっといいですか?」
「え? なに?」
カップルが自然に、ごく自然に止まる。
けれどそこで、鈴木も止まった。先のことは何も考えていなかったらしい。
「何か?」
男が静かに、しかし揺るぎない内圧を持って鈴木に迫る。
「あの、にい……、え、えっとだから」
- 241 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:29
- しかしそのやり取りを離れたところで眺めていて、確信した。
鈴木に止められてから、男の左手がさりげなく、上着のポケットの上を押さえるように移動している。
間違いない。そこに持っている。
「何? ……あれ? 君どこかで見たような……?」
男が鈴木に顔を近づけた瞬間、鈴木と男の間に割って入った。
「すいません。知り合いと勘違いしてました!」
「りほちゃん?」
「この子、田舎者なんで、すいません!」
頭を下げる。
「え? ちょっと、この人たちと違うの?」
「いいから。行くよ」
- 242 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:29
- 「ねえちょっと、あの人たちなんでしょ?」
戸惑う鈴木の肘を掴んで、ぐいぐいと引っ張っていく。
「何も考えてないなら突っ込まないでよ。えりぽんじゃないんだから」
「それは言いすぎだよ」
「どっちが?」
「でも、取り返さないと」
「いいから、はい」
彼らと大分離れたことを確認して、手の中のスマートフォンを鈴木に見せる。
「あれ? ……それ、新垣さんの」
「いい隙作ってくれたよ。他にも何個か余計に取れちゃったけど」
そしてスマートフォンを取り戻すのに使った道具も見せる。
「すごいなマジックハンド」
- 243 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:29
- 「新垣さんに渡しに行こう」
「だめ」
勇んで戻ろうとする鈴木をまた止める。
「なんで?」
わたしの手の上の、スマートフォンを見つめる。
「これは今、わたしの悪意で、ここにあるだけだから」
「……どゆこと?」
鈴木が首を傾げる。
- 244 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:31
- 「ここで待ってて」
そう告げて駅のほうへ向かい、しばらくして鈴木のところに戻る。
「駅に置いてきた」
「どうして! なんでそんなことするの?」
困惑する鈴木には答えずに続ける。
「これから新垣さんのスマートフォンに、わたしが言うとおりに電話をかけて」
「え?」
これはきっと、賭けなのだろう。
わたしは自分の手を見る。
スマートフォンは、駅のホームに置いてきた。
東京方面からやって来る電車ではなく、ここから、東京へ帰っていく側のホーム。
普通の乗客なら、少し気になっても、わざわざ見たりしないような場所に。
鈴木が電話をかければ、新垣のスマートフォンは鳴り続ける。
残りわずかなバッテリーが尽きるまで。
バッテリーが尽きればもう、場所はわたしにしかわからない。
「でも、もしここに、本当にそんなものがあるなら」
きんいろの、エントランスを見た。その奥には、ライトアップされたお城がある。
- 245 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:31
- 新垣は、自分があまり素性を明かすべきではない身であることも忘れて、
何度も、何度もていねいにお辞儀をしていた。
自分のスマートフォンを、わざわざ歩いて届けてくれた若いカップルに。
「意味ないよねこんなの。ほとんど運任せだし。
もし変な人に拾われてたら、わたしたちの連絡先だって入ってたんだよ」
「じゃあなんで、あんなことしたのよ」
鈴木の問いには答えなかった。問いへの答えが、わたしの中にもなかった。
ただ、この手であれを渡すのは、いけないような気だけがしていた。
「声かけていく?」
手を見ていたわたしの顔を、鈴木が覗き込む。
「いいよ。この後、まだ誰かと会うのかもしれないし」
「それはもういいんだ?」
「新垣さんが一人じゃなくたって、別にいいし」
- 246 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:32
- 新垣は嬉しそうに何度も、自分のスマートフォンを見返していた。
「入った頃の新垣さんって、ダンスも下手なんだよね」
「かなり見てるよね、みずきちゃんのDVD」
「入った時は歌もダンスも、未経験だったみたいでさ」
いつも先を行く先輩と、先を行く同期がいて。だからいつも、誰かの背中ばかり見ていた。
「でもきっと、なにか信じられるものが自分の中にあったから、ここまでやってきたんだ」
測れる能力において、突出したものは何も無かった。
でも今は、多くのことにおいて現モー娘。でトップレベルの力を持ったユーティリティプレイヤー。
それが彼女が、何者であるかを示しているように思える。
「あたしは、ちょっとわかるなあ」
「なにが?」
「新垣さんの気持ち」
「どうして?」
鈴木の顔を見ると、鈴木がわたしをじっと見ている。
「何?」
「言わない」
「どうして!?」
「どうしてもだよ」
- 247 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:32
- ゲートを出てくる人たちと、同じ速度で歩きはじめた。
エントランスから駅へ向かう人々の歩調は、
東京の駅の中ですれ違った人々とは対照的に、緩やかで、穏やかで、
その場を離れていくのを惜しむようにゆったりと、時間が流れていた。
中には、ベビーカーを押す主婦も混じっている。
「充電かあ」
「なに?」
「ううん」
「疲れた」
「ここまで来るの長かったもんね」
「うん。長かった」
わたしたちとそう変わらない、小さな背中を追いかけて。
- 248 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:32
- 「わたしたちは今日、ここには来なかった。いいね」
一応、鈴木に念を押す。
「うん。約束」
「本当に?」
「またそういう目で〜。まだスパイ設定のこと疑ってるの?」
「設定じゃないし」
「あたしがりほちゃんとの約束破るわけないじゃん」
「え? そ、そう」
予想していなかった鈴木の言葉に、急に耳が熱くなってくる。
「あれ、りほちゃん熱でもある? 今日ちょっと涼しかったかな?」
無造作に手をおでこに当てようとする。
「ちょ、ちょちょちょ、やめてよ」
慌てて鈴木から二メートルくらい離れる。
「……変なの」
- 249 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:33
- 駅に近づくと、改札口がまた人で溢れかえっている。
これだけの人が一斉に帰路へつくのだから、仕方は無いけれど。
「ぐうう」
行きの狂乱を思い出す。
すると、鈴木がすっとわたしの手を握って。わたしの手を握って。
清流の魚とまではいかないけど、池の鯉くらいにはすいすいと、雑踏の中を進んでいく。
「人ごみ、もう慣れてたんだ」
「気がつかなかった?」
得意そうな鈴木の顔。
「都会の女は成長するんだよ」
「まさか男が」
「ちがうから」
- 250 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:33
- 次の日。
舞台の通し稽古を悪い意味で早く切り上げさせたわたしたち9期は、
新垣と田中の二人に呼び集められた。
「あんたたちたるんどぉっ!」
鈴木と譜久村が反射的に自分のお腹を見る。
「鈴木! 昨日家帰ってからちゃんと練習したの?」
「それは、あの、昨日は、りほちゃんが……」
何か言いそうになる鈴木を睨む。
「……家で一人でお菓子作ってました」
「またお菓子か! 食いしん坊キャラか!」
「こら寝るな譜久村!」
「寝てないです!」
「生田! 生写真チラ見しながらニヤニヤするな!」
田中の機嫌はすこぶる悪いようだ。
「道重さんも光井さんもいない中で、田中さんも不安なんですね」
「不安なのはあんたたちだよっ!」
- 251 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:34
- 荒ぶる田中の怒りが一通り過ぎ去ったところで、
離れた場所でニコニコと楽しそうにそれを見ていた新垣に近寄る。
「笑顔戻りましたね。新垣さん」
「どこから目線よ?」
「あの、昨日のスパイキャラのことですけど、まだ誰にも言わないでおいてもらえますか」
「あー、そうだねえ。発想は面白いけど、まだあれは設定詰めないとねえ」
「でもヤッシーはほんと真面目だよねー。キャラ作りのためにネタ帳まで作って」
「ネタ帳ではないです」
「あれネタ帳じゃないの?」
「いえネタ帳です」
- 252 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:34
- 「そういえば結局、新垣さんは何を悩んでたんですか?」
「なやみぃ?」
新垣が、すっきり整えられた眉毛を歪ませる。
「あたしの悩みが一つや二つのわけないでしょーが!」
「なんで私のほう見るんですか!?」
生田が叫ぶ。
そしてわたしにも詰め寄る。
「で、鞘師は? あんたは昨日どうしてたの。ちゃんと練習してきた?」
「あ、昨日は」
少し考えて、答えた。
「悪いことばかりしてました」
- 253 名前:調査8. 投稿日:2012/05/15(火) 23:35
- 新垣里沙調査結果。
・キャラは大事。
・充電が必要な体。
・魔法の力で動くようだ。
・悩みごとは一つや二つではないらしい。
つづく。
- 254 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/16(水) 00:38
- 待っててよかった!待ったかいもありました
つづきも待ちます
- 255 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/16(水) 09:49
- すごくよかった
なんだろうなんか泣きそうになった
作者さんありがとう
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/16(水) 15:43
- TィガーとかSティッチとかきて楽しかった
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/16(水) 17:57
- この作品ほのぼのしてて、大好きです。
次の更新楽しみにしてます。
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/17(木) 00:29
- この作品に出てくる先輩はなんだか儚い…
ボーッとしたりぺこぺこしたり歩いてるガキさん想像したら、なんだか泣きそうになった。
作者さんすごい…
- 259 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/18(金) 00:55
- 無性に歩道歩きたい
- 260 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/18(金) 23:40
- 会話の掛け合いがとても面白い。明らかなボケとツッコミではなく性格と話の流れから生まれる自然なやりとりによって実際に本人たちが喋っている風景が思い浮かんで思わずニヤリとしてしまう。かなりツボ。毎回声を出して笑ってしまう。
構成が毎度よく考えられていて、読了後に伏線やキーワードを意識して読み返す楽しみもある。
現実のモーニング娘。とリアルタイムでリンクしているところも「ならでは」で良いが、書き手からすると続き物であるので展開を考えづらく、頭を悩ませそうだと思った。
この話が好きなのは内容はもちろんのこと読み終わったときにあたたかい気持ちになれるからだ。笑いっぱなしの回もほんのり心に沁みる回も。今回もワルな鞘師の心情描写にじーんときた。
一番印象深かったのは鞘師の用いた尋問道具のチョイスが最高なこと。
更新お疲れ様です。いつも楽しませてくれてありがとうございます。
- 261 名前:名無飼育さん 投稿日:2013/04/18(木) 05:01
- 作者さん・・・
『つづく』んやろ・・・待っとるで・・・
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