つらつら
1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:04
前スレ
ttp://m-seek.on.arena.ne.jp/cgi-bin/test/read.cgi/tr/1082555130/
の61〜

諸事情により更新できなくなったのでこちらで続きを書かせていただきます。

書き始めてからそうとう時間が経っているのでおかしいところなどありますがご了承ください。

2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:05


知ってしまったらあとは一直線に転がるだけだった。
恋愛のいろはとかABCとかをあたしが知らなくても、自分の中の自分が知っている。
本能とは違って過去の行為のおさらい。
愛しいものを大切に愛でることを、愛しい日々を大切に過ごすことを思い出す。
会う頻度は増えて会う時間は長くなった。会話の内容は薄く、濃い時間を過ごした。
主に紺野の家にあたしが転がり込んで、買っていった材料でご飯をごちそうした。
そんなあたしの毎日をみてミキは苦笑いのふりして温かく笑っていた。
安心したんだろう、酒の量も煙草の量も減った気がする。柔らかく笑うようになった気がする。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:07

こんな温かい日々がだらだらと長く続いたらいいと思っていた。
曲がりくねった道をやっと上手に歩けるようになって、
壁の向こう側にしかないと思い込んでいたものに手が届くようになった気になっていた。
あたし自身は勿論、あたしの中のあたしもそう思っていた。
基本的にはあたしともう一人のあたしは同じことを考えている。
今日会ったらどうしようか、明日は何を作ろうか、給料で何を買おうか。
違うのは、あたしは未来を知らなくて、もう一人は知っているということ。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:07
同じような時をもう一人は過ごしている。こんな風に過ごしてどうなったかの結末を知っている。
だけどそれについてもう一人が思い返してくれないからあたしは知ることができない。
当然だけどあたしと同じことを同じタイミングで思うからシンクロするような感覚も最近はなく、
あたしと、中に存在しているもう一人は一つになろうとしているような気がした。
未来について言及しないということが、今の状態がずっと続くことを意味しているのだと思っていた。
そんなはずがないと疑う心も浮かれて麻痺してしまっていた。
「何か」あることはずっと前から気づいていたのに。
少しずつ「何か」が変わっていっていることも気が付いていたのに。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:08



見たくなかった、から。
部屋にこびりついていく匂いも知らないふりをしていた。


6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:09



***********



7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:10




例えば。

紺野はベランダの向こうを見ていた。あたしは例え話が苦手だった。
普通の話より遠まわしだし、どこまでが嘘でどこからが本当か、はたまた逆か読めない。
特に紺野の場合不動を思わせる黒い瞳と白い肌はヒントもろくに与えてはくれない。

壁の向こうの人間がこっちにきたら人を殺さずにいると思いますか。

あたしは首を横に振った。

そうですね。私もそう思います。自分を守るために人を殺すでしょう。
ここが昼間も危険だと思い込んだら昼でも脅えて、恐怖から誤るでしょうね。

はあ、と溜息をついた。透明なため息に見えた。

後藤さんは向こう側では殺人がないと思いますか。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:11

今度は縦に振った。そういう区別だからそういうものだと思っていた。
紺野の顔がこちらを向いてやっと体と顔の向きが一致した。
すっ、と一本背中に芯が通っている。
細い首がまぶしく見えた。

そんなことはないんです。遺伝子が見つからなくても殺人を犯したらこちらに送られてきます。
じゃあその前に見つけることはできないのか、というと、よほど念入りに一人一人調べなければ不可能です。
遺伝子なんて一つの目安にしかなりません。それだって今は否定されかけている。

紺野の本棚にはいつでもむずかしそうな本が並んでいる。
社会学、心理学、法律、憲法、生物学、等々、タイトルを見てもかろうじて内容が想像できるかできないかくらい。
一番多い本はおそらく数十年前の大量殺人についての本だ。前に一度ちらりと覗いて止めた。
これらの知識があの聡明な頭に詰められているのだろう。
ニュースもろくに仕入れようとしないあたしの頭は真っ白だから、ただただ紺野の話を受け入れた。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:12

普通の人間だって人を殺すんです。自分を守るために、大切な人を守るために、
金のために、自分から何かを奪ったものに復讐するために、すべてを壊すために。

語調が僅かに強まっていくのがわかった。少しだけ与えられる点達は依然結びつかない。
何かを隠そうとしながら伝えようとする矛盾に悩むことはあってもあたしは紺野のことが好きだった。
いつかあたしにしてくれたように、メッセージを受け取って解読して包み込むことを決意していた。

要は可能性の問題なんです。こっちの方が可能性が高いだけ。あとは何も変わらない。
向こうもこっちも、「人間」と「偽死神と呼ばれる人間」も、許されているかいないかだけなんです。
人によってはそれもどうでもいいことなのかもしれません。
全て一人の人間が始まりだったくらいなんですから。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:12

そう思いませんか、とばかりにあたしに笑顔を向けた。
伝えたいのはこの世の理不尽か、それとも。
点がうまく結びつかない。
実際には結びつかないのではなくて、結びつけることを怖がっていた、のかも、しれない。
こびりついた部屋の匂いがかすかに最近気になっている。
高橋と最近会っていないこともかすかに気になっている。
あたしはそれでも尋ねない。
全てを無意識に押し込めてなかったことにしてしまおうと、無意識に行っていた。

紺野の黒い瞳を愛していたかった。白い頬もそう。
いつかの過去からすべてつながっている。それは確かなことだったのかもしれない。
もう一人のあたしはあたしの中で薄れながらも難しい顔をしていた。

11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:13


**********

12 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:13


たまには私が、と言って紺野があたしのために料理を作っている。
遠慮するあたしをうまく言いくるめて、あたしをソファに縛り付けた。
今することは足をぶらつかせて紺野を観察することくらいしかない。
細い後姿、でも華奢ではない。必要なものが必要な分だけついている。
きっと知識も必要な分自分で補給、というのは変だけど、しているんだろう。
いつの間にかリビングにも一つ小さな本棚が増えた。きっちりと収納されている。
全く興味がなかった本にも最近少しずつ興味がわいていた。
つまりは、言いたいことは、あの事件を調べたら手がかりが得られるかもしれない。
この世界の理不尽を語るため以外の資料は他にそれくらいしかない。
逆に言うと、その本だけが異端なのだ。
あの日あたしに薦めた理由もきっとその中に入っている。
なんとなく気がつき始めたあたしは、気がついたからこそ紺野の前でその本を読めなかった。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:13

「あ、お醤油がない」

火を止めて空のボトルをテーブルに置いた。

「買ってくるよ」

人の家にきてお客さまでいるのはなんだか心地よくなくて反射的に立ち上がった。

「今日は私が全部やりたいんです、だから座っていてください」

「でも」

「じゃあ今度また御馳走してください」

あんまりやわらかく笑うから反対できない。

「とびっきりのをね」

あたしは紺野の好物も好きな味付けも好きな盛り付け方も知っている。
一つ一つの料理について細やかに感想を言ってたくさん食べてくれる彼女に料理を作るのは楽しかった。

「はい」
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:14

紺野はあたしの返事に喜んで、さっさと着替えて出かけた。
近場なら20分足らずで帰ってくるだろう。
一人残されたあたしは退屈だった。何もしないこともできるけどできれば避けたい。
この部屋ですることといったら、せいぜい本を読むかテレビをつけてみるか。
どちらを選ぶかなんて決まっている。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:15

本棚の前にしゃがみこんであの事件について書いてある本を適当に選んで流し読んでいく。
事件の起きた期間、犯行の手口、凶器は何だとか、死者は何名、重軽傷何名、数字がみたいわけじゃない。
どれだけ大きい事件だったかなんて事件後に受けた人々の影響と、今でもみんな知っているということを考えればわかる。
あたしが知りたいのはそうじゃなくて犯人の人柄とか、性格とか、動機だとか犯人自身の情報だ。
戦争も起きていない平和な日々に何が起きたのだろう。
どうして、人間のくせにそんなに人を殺したのだろう。
あたしに知ってほしいのはそこじゃないのか、心の中の紺野に尋ねるけれど当然答えてはくれない。
開いて3冊目、その本はやけに読み古された感があった。何度も開いたのか開きやすいページがいくつかあった。
最初の開きやすい見開きをざっと眺める。
この本はあたりだ、と感じた。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:15
犯人は19歳の少女、当時は未成年、警察が逮捕を断念して射殺した。
射殺した警官、名は高橋、は少女の友人だった。
少女は手記を持っていたがこのとき高橋が隠蔽したため犯行の動機や手続き、余罪に関しては長年調査できなかったらしい。
―警官が友人、という事実を初めて知った。警官の名前も。
どんな思いで高橋は犯人を撃ったのだろう。その手記には何が書いてあったのだろう。その手記を読んで高橋は何を思った。
事件に人間味が帯びていく。何十年という時間を経て興味も色も褪せた、はずの事件はあたしの心臓を捕まえる。
急かされてあたしはページをめくっていく。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:15

「少女は幼いころに両親を事故で亡くした、身寄りがないまま児童施設で義務教育終了までを過ごした、
交友関係は極めて狭かった、最も親しい人物は少女とは違う施設で育った身寄りのない女性、
両親を殺人事件で亡くしていた、少女より2歳ほど年上で、この女性と少女は恋愛関係にあったと考えられている。」

見えてくる犯人の人間性。交友関係。

「なおこの女性は当時の不治の病にかかり入院していたが、末期に自殺か他殺かわからない事件で死亡した。少女は頻繁に見舞に訪れていた。この事件の前後から少女は失踪していた。」
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:16

―お願いがあるんだ

どこからか声が聞こえた気がする。
不治の病、見舞、入院、なんとなくこの事件にナイフが使われた気がした。
どくり、どくり、心臓が大きくなっていく。

「後に見つかった少女の手記から、この女性に関することと、この事件の犯人が少女であることがわかった。」
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:17

手が震えて止まらない。
少女はどうして愛した人を殺したか、紺野にはわかるのか、なんて、どうして聞けるだろう。
この事実を知っていて紺野はあたしと接していた。
運命とはこのことなのか。そうだとしたらやはり少女は、パズルにはまるのは一人しかいない。
そしてパズルがはまっていく未来もこんな、なのかな。
まさか、と信じない自分がいる中で、どうしようもなく信じている自分がいる。
遠まわしに何かを伝えたがっている紺野と、強まっていく匂い。
どれだけ洗ってもとれない、むしろ染み込んでいくことは他でもないあたしがよく知っている。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:17

飛ばし読んで本は終盤にさしかかった。一段と折目が強くついている見開き。
他の開きやすくなったページとまた一つ違うのは、右側のページに濡れた跡が乾いたような、歪んだ円形があった。
そうしてそのページの内容もあたしが気になっているけど知りたくないものだった。

「犯人の本名について」
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:18

少女の犯行は手が込んでいたものらしい。
失踪の1年後に事件が起こったが、その1年間を下準備に費やしていたと考えられている。
ネットを駆使し、爆弾の材料を、大量のナイフを、多種の銃を購入し、
そして犯行の日に大なり小なり事件が起きるように犯罪傾向のある人とも交流していた。
ネットの利用も個人を特定されないように細工していたらしい。
もともと狭い交友関係だったせいで存在を知っている人も少ない。
本名や性格や生い立ちを知っていたのは、生存者の中で、高橋しかいなかった。
高橋も少女について語るようになったのは死ぬ直前で、そのころは世界の分断で揉めていたことであまり世間には知られなかったらしい。
こうしてひっそりとこんな本にだけ残された記録。
ページの末まで書いていなかったがこのページを捲ってしまえばわかってしまう。
どうしようか、どうしよう、どうしたらいい、紺野。

22 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:18





玄関の方から音がしてあたしは読みかけの本を閉じる。

「ただいま帰りました」

寒そうに頬を赤くしていたからあたしは紺野を迎えてその頬を挟んだ。

「おかえり」

あたしの手はきっとあまり温かくないだろうけど紺野よりはましだろう。
紺野はあたしの手を握り暖を取った。

「あったかい」
「冷たい」

23 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:18

置かれたビニール袋には醤油以外にも物が入っていた。
かぼちゃ、コーン、バター、生クリーム、などなど。
あたしはすぐに優しい味のかぼちゃのスープを連想した。おそらくあたっている。
ふにふにと頬を触ると心の棘が取れていく。
本当か嘘かなんてまだわからないけれど、こうしているのはとても幸せだった。
冷たいはずの紺野の温かさがやけに胸にしみて泣きたくなった。
隠すために抱きよせる。

あたしが知っていることは、紺野は食いしん坊、ちょっとドジ、でもとびきり温かい心を持っていて、
表すように温かい瞳をしていて、優しい、賢い、素直、誠実、従順、柔順、ときどき頑固、
あたしが知っている誰より美しい心を持っている、と思う。
これらがとても嘘とは思えない。あたしにとっては揺らがない真実だ。

どんな未来が訪れても、どんな紺野であろうと、受け止めたい。
終末は確実に近づいていた。
24 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:19

今日はここまで。

25 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 14:21
>>前スレ163
ようやっと全部書き終えられたので更新できます。
待ってくださって、読んでくださってありがとうございます。
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 17:17
待ってました!
相変わらずドキドキします
27 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:37

本日も更新。
28 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:38


時々あたしは紺野の家に泊まっていた。
やわらかなベッドでやわらかな紺野を抱えて、時には手をつないで眠るのが一番心安らいだ。
長く付き合うほど、関係が深くなっていくほどに紺野はその手を静かに解いて外出するようになっていた。
最初はトイレかと思って声をかけた。かけなかった2度目は紺野はすぐに帰ってこなかった。
夜が更けて出かけて、夜が明ける前に帰ってくる。
せっけんの匂いが強くなって帰ってきたけどその奥にはあの匂いが隠れている。
だんだん頻繁になる。だんだん早く出かけるようになる。だんだん遅く帰るようになった。
あたしは一人残されたベッドを抜け出し本を読んだ。
以前読み飛ばした本も、読まなかった本もできるだけたくさん。
少女が愛した女性の両親殺害事件についても知った。女性は押し入れに隠れていたらしい。
まるであたしの事件をそのまま記事にしたようだった。
紺野が博識になっていくのと同様にあたしもいろいろなことを知っていった。

そうして、いろんな糸が全てほどけたと思っていた日、本棚にうまく隠された本を見つけた。
29 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:38

全てがつづられている。客観的でなく主観的な世界。
どれだけ愛していたのか、どれだけ愛されていたのか、世界の崩壊を望んだこと、彼女の世界の崩壊。
失って失って失い続けた中で手に入れたものをまた、自分の手で失くさなければならなかった痛み。
気が狂い、それでもかろうじて保っていた正気との間で生じた葛藤で苦しみ、
愛した人を殺したことでも苦しんで、苦しみしか綴られていなかった。
涙が止まらなくなっていた。涙線が壊れている。
大量殺人の犯人、紺野あさ美の手記の終わりには、自分が殺めた人々への懺悔と神への恨み、
そして、
30 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:39

―愛しています、後藤さん

と一言、書いてあった。

31 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:39


あたしは、無我夢中で、全てを蹴散らして、蹴飛ばして、紺野のもとに走った。


32 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:39


**********

33 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:40



悲しいくらい覚えている血のにおいを辿った。吐き気もわく暇がない。
夜にはこんな営みがいくらでも行われているはずなのにあたしを邪魔するものはなかった。
周囲に漂う血の匂いと、全力で走ったせいで喉から血の匂いがして混ざる。
気管が細い音を立てても止まれない。固いコンクリートを蹴って、目はどんな人影も見逃さなかった。
直感が道を教えてくれる。不安には思わなかった。正しいと信じた。
神がいるなら、あたしたちを運命のいたずらに落としいれてちゃんとあたしを紺野の元まで届けてくれる。

34 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:40


やけに丸くてでかい月を背景に、紺野は立っていた。
初対面の人は全く正反対。こんな未来が待っていたことをあの時想像できただろうか。
足もとに数人転がっている。血で濡れて赤茶色い。街灯が数本立って紺野と亡骸を照らす。
ここは、そう、あの日の公園だ。

「後藤さん」

紺野はゆるりと振り返った。顔に返り血はなく、だからこそ余計際立つ赤。
あのくりくりとした黒い瞳は真っ赤になっていた。
あたしのように混ざり毛のある赤ではなくて、血よりも赤く、美しいとすら思えた。
手に握った凶器はどろどろと染まっている。
その様が恐ろしいほど似合っていた。生まれつきの殺人狂を思わせる。
この世界に一人君臨している。
35 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:41

「紺野」

あたしが口を開いたのを口切に、見えないほどの速さで紺野はあたしの首を物凄い力で捕らえた。
思い切り背中を打った痛みが響いている。ということはまだあたしは生きている。
見上げた紺野は煌煌と光る瞳であたしを見つめていた。
そんなに目が赤いのにどうしてかすぐに殺そうとしなかった。

「来てしまったんですね」

「うん」

「残念です」

「そっか」

淡々と言葉を漏らす。それがおかしくはなくていたって普通。
お茶を飲みながら会話しているみたいだった。

36 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:41

「全部知ってしまったんですね」

弱く息が漏れた。優しい色が漂ってきてなんだかあたしは悲しくなってきた。
縦に首を振ったら紺野も悲しい顔をした。

「あたしは、殺すために生まれたんです。人間であっても、偽死神であっても、どっちにしても殺さなきゃ生きていけない。こうして今も、後藤さんも殺すんです。」

呪われた運命。前世も今も狂った道の上。

「出会った時のことを覚えていますか。ここであなた私の友人を殺した。」

あそこで転がった人々と同じように、あたしは紺野の友人を殺した。
そうして紺野を殺そうとした。今は、あべこべになったように逆さまだ。

37 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:42

「あの日私はあの人を殺そうとしていたんです。友人を、殺そうとしていたんです。」

紺野はナイフを握る手の力を増した。

「私は親しくなった人から殺してしまいたくなる。偽死神だってそんなこと避けるのに、もう私は人間ですらない。生まれつきの殺人狂なんです。そう望まれて生まれてきたんです。」

そういう運命なんです。

きらり、とあの日と同じように涙を溢した。あたしのほほにおちた。
赤かった目は黒く輝く。綺麗に、悲しく、苦しく。

「そして今は後藤さんを殺したくて仕方ない。」

38 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:42

観念した子供みたいに紺野は額をあたしの額につけた。
さらさらと髪が流れる音が耳を撫でた。
涙が頬を伝っていくからそれを指でぬぐった。
すると余計涙が溢れてしまった。
そのことがあたしには悲しい。
こうして紺野に殺されることよりもずっと、この涙を拭いてあげられないことが悲しい。
泣き虫だからこれからも泣くことがあるだろうに、あたしは拭いてあげられない。
水浸しになった手を紺野は掴んで口元に寄せた。
赤い唇が手の甲に触れる。お別れのキス。

「私は、もう限界みたいです、ごめんなさい、いつも幸せにできなくて。」

39 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:43

十分あたしは幸せだった。この数カ月でたくさんのことを知った。
母の願いを、ミキの想いを、ヒトミの事実を、大切の意味を、愛することを。
知らずに生きていくよりも知ってよかった。
たとえ紺野と出会ったことが呪われた運命であっても、たくさんの意味があった。
だから言うのだ。

「出会えてよかったよ、紺野。」

紺野は泣きながら目をつぶって、歯をくいしばって、ナイフを振り上げた。

―愛してるよ、紺野

あたしは微笑んで目を閉じた。

「さようなら」




40 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:43


**********


41 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:44

今日の更新はここまでです。
42 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:45
>>26
楽しんでいただけているようでうれしいです。
次回でラストとなりますので最後まで見届けていってやってください。


ってなわけで次回がラストです。

43 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/02(日) 13:57
切ないっすね
44 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 22:58

本日の更新

45 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 22:59



今日は雪が降り出しそうな寒さだ。
あたしは温かい店内に先に入りココアを飲んでいた。
高橋はまだ来ない。待ち合わせの時間まであと2分。この席は前に紺野と高橋とご飯を食べた場所だ。
今日は紺野はいない。
窓の外に目をやると、寒そうに高橋が歩いてきた。

「こんにちは。」
「ん。」

こっち、と手を挙げる。
脱いだ高橋の上着からひんやり冬の匂いがした。

「傷治りましたか。」
「この通り。」

46 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 22:59

頬に貼っていた絆創膏を取ってみせる。かすかにかさぶたは残るもののほとんど治っていた。
いっそのこと痕が残るくらいの怪我でもよかった、とは高橋の前では言えない。
今回のことで一番つらいのは高橋だと思ったから。
ずっと、あたしなんかよりずっと長く付き添ってきたのだろう。
47 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 22:59

迷わないで放たれた銃弾は見事に紺野の腕と頭と静かな夜を貫いた。
銃声に驚いて目を開くと血を流した紺野が倒れこんで、力を失った腕はそのまま降りて
ナイフがあたしの目の下、頬の上を軽くかすめた。
いつもより重たい紺野を抱き起きあがって弾が来た方向を見た。
物陰からざり、と足音を立てて高橋がこっちに歩いてきた。表情は見えない。
熱が失われていく。顔面にかかった血が垂れる。

「大丈夫ですか。」

不思議と高橋を恨む気が起きなかった。
それどころか何もかもが終わってほっとしてしまった。
紺野の苦しみは終わった。もう大丈夫だよ、と二度と動かない紺野を強く抱きしめた。

48 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:00



「後藤さんと頻繁に会うようになってあさ美はよく笑うようになって、前より人を殺すようになりました。自分が壊れていくのが自分でわかってたみたいです。」

温かい紅茶が良い香りを湯気で運んでいる。

「あさ美は後藤さんのことを本当に好きだったんです。だから、あたしに、もし後藤さんを殺しそうだったらその前に自分を殺してくれ、って。」

砂糖を注ぎスプーンでかき混ぜる。
この細い指先が引き金をひいた。

「一生に一度の頼みごとでした。」

迷わずに。見事に。
覚悟は完璧だった。
49 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:00

「そっか」

深い絆だったんだと、知っていたけど再確認する。

「あんなふうだったけど、あさ美は、小さい頃すごく優しい子だったんです。こんな世界にもったいないくらい。だけどいろんなことに気づいて、苦しんで、本に書いていたことに従ってしまった。そんなこと信じなくてもよかったのに。完全に同じってわけじゃないから信じなきゃよかったのに。」

高橋は悔しそうだった。

「バカだなぁ」

止められなかった自分を、あたしを、愚かな紺野を。
結局は違う未来にたどり着いた。あたしが生きて紺野が死んだ。
こんな変化じゃなくてもよかったはずだ。
あたしが後藤で、高橋が高橋で、紺野が紺野でも3人生きる道はあったのに。
自分を殺すことで運命を曲げたかったのかもしれないけれど、今はどう思っていたのか尋ねることはできない。
50 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:01


しばらく沈黙が続いた。

51 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:01

「そういえば、あさ美が後藤さんに渡してほしいって」

今日の本題はこれだった。
がさがさとカバンの中から袋が出てきてあたしに手渡された。
固くて四角い感触。

「これ何?」
「なんでしょうね。あたしは見てないんで。」

言いながら立ちあがって紅茶の分の代金をテーブルに置いた。

「そろそろ行きます。」
「うん。」

高橋はきりりとした姿勢で店を出て行き、来た道を帰って行った。
あたしはその背中が小さくなるのを待ってから袋の中を見た。
中にはビデオ。タイトルは「人間と偽死神の差〜殺人遺伝子研究の最先端」となっていた。
どうやら紺野が薦めてくれたけど見れなかったテレビの録画テープだろう。
以前見れなかったと言ったら録画したから貸すと言ってそのままだった。
何もこんな時になって貸してくれなくてもいいのに。もう返す宛がない。
どこまでも律儀な紺野を少しだけ笑った。
ああ、でも、貸して、って言ったのにくれるあたりがちょっと律儀じゃない。
52 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:02

今でも、いつまでも紺野のことを想うだろう。
何年経って、何十年経って、前の紺野が起こした事件から今の紺野が死んだ歳月を過ごしても想い続ける。
その前に死ぬかもしれないけど。
大切なものをまた一つ失ったのにあたしは強くなった。
慣れたわけじゃない。今回のは今までと違っていただけ。
想い出にできるものを一つももらったりあげたりしたわけでもないのに確かに手に何か残っている気がする。
握った手なのか、触れた頬か、撫でた髪か、拭った涙か。
どれでもないような、全部のような不思議な感覚。

53 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:03


一部始終を話すとミキは困った顔で笑った。
なんだか、なんなんだか。
あたしに何を言うわけでもなくそう呟いて満足してしまったようだった。
そしてあたしの頭を撫でた。ぐしゃぐしゃ髪の毛を乱れさせる。
きっと何も言えなかったのだと思う。
でもあたしが大丈夫なことは伝わっている、と思う。
54 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:04
不安げな目では見ていなかったから、実際あたしは大丈夫だった。真っ直ぐ立っている。
ミキからすると不思議だろう。あたしも不思議だ。
出会いから終末まで不思議なことばかりだ。
そう考えたら紺野はあたしにとって特別だった。何もかも特別で大事だった。
あたしの一番を一番占めている、愛しい存在。

55 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:04

あたしと高橋は大きな穴を公園に掘った。追悼の意味をこめて無言でひたすらに。
埋める場所が他に考えつかなくて、かといって他の人のように転がしてカラスに醜く食いつくされるのは嫌だった。
そして、紺野の元にまた来られるようにしておきたかった。
忘れないために、想うための目印を立てておきたかった。
死体を綺麗にして穴に収める。土をかぶせる前に心の中で別れを告げた。
そして花を添えた。

踵を返して公園の出口に向かって歩いた。
耳が冷たくて痛い。鼻も冷たい。
1歩、2歩、だんだん遠ざかって、もうすぐ出るというところで、
声が聞こえた気がした。

紺野の声で、ありがとう、って言った気がした。
56 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:04

振り返って何かが変わってるわけもなく、でも確かにそこにいる紺野に笑った。
無性に胸が熱くなって、痛くなって、涙線もじわじわ熱くなって、涙が出た。
愛してるぞ、って大声で叫びたくなった。
届け、届け、必ず届く。
公園の出口、立ち止まってもう一度振り返る。

「愛してるぞー」

墓代わりのその場に向かってそう言って、あたしは紺野の記憶を思い出す。
照れた顔で私もです、なんて可愛いこと言った。
へへ、と笑って前を向く。

ぼろぼろ泣きながらあたしは寒空の中を歩いて行った。

57 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:05


終わり

58 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:08
>>43
切ないですか。ハッピーエンドではないですね。
読んでくださってありがとうございました。

59 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/03(月) 23:10
これでこの話は終わりです。
このあとは短編とか番外編とか載せていけたらいいなと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。

60 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/04(火) 01:36
最後に、後藤さんの人間らしさが泣けました
61 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/25(火) 04:14
>>60
最後まで読んでくださってありがとうございました。
後藤さんの人間らしさは本編の中でのテーマだったので
そう言ってくださるととてもうれしいです。

62 名前:真夜中の運転 投稿日:2007/12/25(火) 04:15

深夜、人気のない暗い道を車で走る。
自分の車のエンジン音とラジオだけ、車内も車外も世界には二人だけのような気分になる。
後ろに乗った絵里、亀井絵里は仕事に疲れたのだろう、
うつらうつらと何度も頭を窓にぶつけていた。
この子が売れなければうちの会社は潰れる。
あどけない寝顔はまだまだ子供だ。後ろに座っていて見えないけれど想像がつく。
もう何度も見てきた。

「横になっていいよ。」

絵里は目をこすってぐずるように唸った。

「うう、でも藤本さんが運転してるのに、寝れません。」
「あたしのは仕事だからいいの。それより、明日も仕事早いんだから、ちゃんと寝ろ。寝るのも仕事。」
63 名前:真夜中の運転 投稿日:2007/12/25(火) 04:16


多忙になればなるほどこうした時間に細々寝られるようにしなければいけない。
それはあたしが現役だったころに散々教え込まれたし、身をもってその大事さを痛感した。

絵里にはあたしがアイドルだったことをあたしの口から言ったことがない。
他の誰かから聞いたかもしれないけれど、なんとなくあたしから言うのは良くないような気がした。
10くらい歳が離れた子に語るには恥ずかしい過去だったし、
そういった話から、あたしが現役だったころはなんて、説教や比較をするのはあたしが嫌だった。

絵里はまだうとうとと窓に寄りかかっている。

「寝ろっての。」

少し怒気を含んで言うとしぶしぶ従ったようで、のそのそと音がした。

64 名前:真夜中の運転 投稿日:2007/12/25(火) 04:16


「藤本さんはぁ」

眠たいのか、ただでさえ間延びした声がさらにのびていた。

「何。」
「優しいですよねぇ。」

言葉の終りに聞こえる息の雰囲気でどれだけ疲れているか伝わる。
頼りない新人のマネージャーはなかなか決まらなかった。
マネージャーが決定するまで何人かが交代で受け継いで、あたしの前の担当だった奴は他人事のように、
良い子なんだけどねえ、と吐き捨てた。
良い子で不器用。
その不器用さは不器用が視聴者に伝わらないほど不器用だった。
こうして接していないと気がつかない。
不器用も伝われなければ器用に劣る。
芸能界には向いてないとはあたしも思うけれど、あたしは駆け回って仕事をもぎ取り、絵里はその仕事から何

かを学ぼうと必死だった。

「何言ってんの。仕事だから。」

65 名前:真夜中の運転 投稿日:2007/12/25(火) 04:17


仕事だからあたしは絵里の体調をできるだけコントロールしたいと思う。
良い状態で、良い仕事にしてほしい。
水着写真集を出すにはスタイルが良くない。
グラビアアイドルのような仕事は体格的にも性格的にも全く向いていない。
そして、そんな刹那的なことをして消えていくのは、あまりにも悲しいから嫌だった。
だからバラエティとかドラマとか、長くここにいられるようにしなければいけない。
事務所は反対に安易にグラビアの仕事をさせたがっていた。
そんなの3年続けばいい方だ。3年続いた後、また新人をグラビアアイドルにして安易に儲けようとする。
醜い考え方。人の人生を何だと思ってるのだろう。
そんな未来は嫌だ。こうして頑張っている絵里にそんな花火のような人生を歩ませてはいけない。
あたしは、結構本気で絵里に尽くしていて、
言わないけど絵里のマネージャーを降りるときはこの仕事自体を辞めるつもりだった。

66 名前:真夜中の運転 投稿日:2007/12/25(火) 04:17



「仕事だから」

絵里は呟く。


67 名前:真夜中の運転 投稿日:2007/12/25(火) 04:18


「仕事だから、冷たくされることの方が多かったですよ。お前とは仕事だから一緒にいるんだ、って。
 仕事以外の話、聞いてくれなかったし、してくれなかったし、
 するときは自分の愚痴だし、くだらない説教だった。
 藤本さんみたいに寝てろ、って言ってくれる人も、
 今日のトークどこがだめか真剣に考えてくれる人もいませんでした。」

えへへ、という声が聞こえた。

「仕事だから、の後につながるのは全く逆なんです。」

68 名前:真夜中の運転 投稿日:2007/12/25(火) 04:19

ああ、と、声には出さなかった。簡単に想像できた。
仕事のできない新人に優しく接する人は少ない。よく知っている。

「藤本さんは優しい。そういうところ、すごく好きですよ。」

のんびりした声に、放られた言葉に、悔しいことに目の奥がじんと熱くなった。
狙いすまされたかのようにちょうどよく信号があって、ちょうどよく赤になった。
ゆっくりとブレーキをかけて振り向くと絵里はもう寝ていた。
幼い顔で眠っていた。
その顔を見てあたしは笑うしかない。
誰も見てないけれど左の頬だけ釣り上げた。

69 名前:真夜中の運転 投稿日:2007/12/25(火) 04:19


あたしはハンドルに額をつけ、ため息をつく。
ぼた、と2滴零れた。
涙の跡がまた悔しくて踏み伸ばした。

開けた視界で顔をあげると信号は青になっていたから少し湿った靴底であたしはアクセルを踏んだ。




70 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/25(火) 04:20
藤亀ヲタなんだよ!!!
ということで藤亀でした。
71 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/25(火) 14:57
もっさんもカメもがんがれ
今に負けんな
って言いたくなりました。
72 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/25(火) 15:56
なにこの素晴らしさ
藤亀ヲタはいいヲタだと思います!!!
73 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/29(土) 23:26
>>71
本当に頑張ってほしいものです。
人間性が好きなだけに、余計そう思います。

>>72
ありがとうございます。
全国の藤亀ヲタが喜んでますww
74 名前:車迷走中 投稿日:2007/12/29(土) 23:28
きらきらしたネオン。
通り過ぎる間、後部座席で窓の外を眺めているさゆ、道重さゆみの白い肌をカラフルに染めた。
あたしは普段みたいに華やかに笑わずに、黙って無表情な顔をミラー越しに確認した。
最初は、あたしが見てるのに気づくとテレビ用とはまた少し違うよそいきの顔で笑ったものだが、最近は見てることに気づいても外を見ている。
けして気まずいわけではない。普通だ。

「眠くないの。」

同じラジオの収録、だいたい同じ時間に同じ通りを通る。
1mmも変わらないでさゆは窓の外を眺めていた。
眺めていただけで、なにも目で追っていなかった。

75 名前:車迷走中 投稿日:2007/12/29(土) 23:29

「あんまり、です。」

ちらりとミラー越しに目を合わせた。
さゆは笑わないと大人に見える。というか笑った時が幼く見えるだけかもしれない。
考えも年相応かそれ以上。周囲が気づかないうちに精神的に成長していた。
成長したといっても、もちろん幼く感じられることはテレビやラジオでわかるが。

「そ。」

顔に似合わず毒舌キャラ、というのはラジオで通じないが、代わりに可愛い声に毒舌。
それが結構ラジオでは評判がいい。
ラジオを始めた当初よりずっと喋るのがうまくなった。
今はソロラジオだが、最近はよくゲストを呼ぶようになった。

「藤本さんは」


76 名前:車迷走中 投稿日:2007/12/29(土) 23:29


さゆは車の中で好んで話さなかった。
こうやって話しかけてくるのは少し珍しくもあった。

「んー?」
「アイドルだったんですよね。」

あたしからはさゆに言ったことがないけれど誰かが言ったんだろう。
言ってはいけないことというわけじゃないから気にしていなかった。
あたしが気にしてなくても、さゆは気にしそうだと思った。

「そうだよ。」

そうだよ、の問いがA型ですよね、でも、好物は焼き肉ですよね、でも当てはまりそうなトーンで答えた。


77 名前:車迷走中 投稿日:2007/12/29(土) 23:30
「どんなアイドルでした?」
「どんな、って。」

漠然としていて答えにくい。
そして、それ以上にさゆの意図が見えなかった。

「絶対グラビアじゃないじゃないですか。だって、」
「胸ないって言ったら殴るぞ。」

握った拳を見せたら本気ですいませんと返ってきた。
冗談だったのに。

「歌はもちろん、バラエティも出たし、なんだろ。」

ラジオもやらせてもらえた。写真集も出した。
バランスよく何でもやっていたように思える。
逆に言うととりわけ何かが秀でていたわけではない。

あたしが考え込むより、さゆの方が考え込んでいるようだった。

「どうして?」

一文字にむ、と結んだ口は可愛い桜色。
赤ちゃんみたいなすべすべの白い肌。
目の下にしわとくまが年中できているあたしは、若いな、と思った。



78 名前:車迷走中 投稿日:2007/12/29(土) 23:31


「げーのーかい、ってとっかえひっかえじゃないですか。
 いらなかったらぽいって。」

あたしはその声で、この世界に入りたてのさゆを思い出した。
嘘のつき方も、キャラの作り方も、声を作ることすら知らない。
真っ白な心と肌。
つぶらな瞳は真実を、ほんものを見定めていた。
穢れを知っても偽りの世界で生きても、ゴミ溜めみたいな場所に住んでも、
歪むどころか穢れるどころか澄んでいく。

「さゆもいつかそんな風になるのかな、って。そうなる前に消えるのかなって、最近考えるんです。」

横長のミラーに映る二つの目がくるりとあたしを見ていた。


79 名前:車迷走中 投稿日:2007/12/29(土) 23:31


散々もてはやされたりスキャンダルを撮られたり、あたしら芸能人なんて、とくにアイドルなんて世間のおもちゃかせいぜい話題のタネにしかならない。
現実に生きているのに、現実外に生きているように錯覚されている。
切り離された世界であたしたちは必死に生きていた。
けれどアイドルの寿命は短い。さゆが言うように、ぽい、と捨てられるその前にあたしはアイドルを辞めた。

その時、あたしが嫌った現実の世界で、1つ好きになれたことがあった。

あたしはコンビニの駐車場に車を止めた。
そして振り返り、さゆと目を合わせた。

「さゆ、あたしは捨てられる前に芸能界を辞めた。」

さゆは黙って頷いた。


80 名前:車迷走中 投稿日:2007/12/29(土) 23:32

「さゆと同じように考えてて、あたしはそんな惨めな思いしたくなくて、
 もういい歳だったしアイドルを辞めたの。
 あのときのことまだ忘れてない。最後のコンサート。」

目まぐるしくいろんな人が現れては消える世界であたしも現実が見えなかった。
消えていく人は誰にも気にされずに消えるものだと思っていた。

「ステージの下にいるファンの人たちは辞めるな、って言ってくれた。」

この世界で生きることは捨てられないということだけれど、この世界が捨てたからといって現実の人々がみんなあたしたちを捨てるわけじゃないことを知った。

あたしはさゆの頭を撫でた。柔らかい髪の毛は手に優しかった。

「さゆのために動いてくれてるスタッフさんも、あたしも、さゆのファンも、
 そんなに簡単に見捨てたりしない。だから安心してその人たちのために全力で仕事にぶつかりな。
 全力でぶつかって成長して、中身つけろ。」


81 名前:車迷走中 投稿日:2007/12/29(土) 23:32

いろんなことをできなきゃいけないことは知っている。
今できなくてもできるようになればいい。

さゆは震えた声ではい、と言った。
あたしは笑って頭をぐりぐりと撫でた。

「髪がぁ。」

情けない声で訴えるから、うっさいと言ってやったらさゆは力が抜けたように笑った。





82 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/29(土) 23:34
さゆばーじょんです。藤道も結構好きです。

83 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/05(土) 13:34
前スレからの続き物良かったです
紺野さんの方の心情を知ってから読み返すとまた別の味わいがありますね

そして藤亀も藤道もイイ!です
リアルでも2人とも藤本さん大好きですよね
ツンデレでちゃんと2人のことを考えてるふじもっさんカッコイイ
84 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/08(金) 11:23
>>83
ありがとうございます。
前スレからの話の方、そんな風に読んでいただけると嬉しいです。
紺野さんはちょっと(?)可哀想な役だったので、そうして読み込んでいただけたら紺野さんも喜びます。

藤本さん大好きっ子はきっとほかにも隠れているだろうので、その辺書けたらなと。
藤本さん普段はツンツンしてますがいざとなると絶対優しいと思うの。さゆなの。
メンバー同士が思い合ってるって思うと心が温かくなります。
85 名前:早朝の車中 投稿日:2008/02/08(金) 11:25
早朝。

「遅い。」
「すいません。」

小春、久住小春はあたしが言った迎えの時間に起きた。
思い切り睨んだのにへらりと笑ってかわす。
こんなやりとりはいつもで、効果がないことも知っている。
この大物感が、仕事ではよく発揮されることも知っている。

とりあえず車に乗り込んで、万が一、いや十が一のために買っておいた朝食を後ろの座席に放った。

「藤本さん、これ小春好きです。」
「あーはいはい。」

よく存じてますから、と答えるのは面倒で黙って発車した。
小春の好き嫌いはもう把握している。好きそうなのも想像がつく。
そうなると当然後ろでのんきにパンにかぶりついてる様も見なくてもわかる。
86 名前:早朝の車中 投稿日:2008/02/08(金) 11:25

朝の子供向けの番組にほとんどレギュラーで出ている。
毎朝早起きしなければならないのに対して、
夜のバラエティ番組の撮影は、未成年だから考慮されてはいるけど結構遅くまでかかる。
朝起きろ、と言いつつも疲れがたまっているだろうことはわかる。
しかしどんな朝でも小春は元気だった。
しっかり寝て、しっかり食べて、しっかり働いて、それで楽しそうに笑うから
言ってやらないけど時々救われたりする。

「全部食べた?」
「食べました。」

現場に到着してやや駆け足でスタジオに向かうと、途中で一度共演したお偉いさんに会った。
小春は怖気づくことなくいつもの明るい笑顔で明るい声で挨拶し、オーバーに頭を下げた。
こういうときの小春は強い。一癖二癖ありそうなお偉い人は毒気を抜かれたみたいに笑った。
こうして好かれていくんだというのがよくわかる。
じゃあ頑張って、なんて言葉も頂いて嬉しそうな小春の頭を撫でたらもっと嬉しそうに笑って抱きついてきた。

「急いでるんだっつーの」

無理やり引き剥がしてスタジオへ急いだ。
87 名前:早朝の車中 投稿日:2008/02/08(金) 11:26
予定の時間にはぎりぎり間に合って、小春は髪を整えて、メイクをしてもらった。
衣装も細長い手足によく似合っている。
準備はばっちりだった。
あたし達はカメラに映らないカメラ側の端の方に立っていた。

そろそろ本番でーす、とよく通る男の人の声が響いた。

「じゃあいっておいで。」

ぽん、と背中を押してやる。

「いってきまーす。」

特別きらきらした笑顔で振り向いて、てててと駆けていった。

「ったく。」

あたしは細い後姿に悪態をつく。
手がかかる分可愛い。

出演者の中で一番輝いたご褒美にちょっとぐらい褒めてやろうと思った。

88 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/08(金) 11:26

初藤久でした。

89 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/18(月) 17:23
ミキティの視線が優しくてあったかくて
読んでいて何か安心します
90 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/18(火) 15:33
>>89
ありがとうございます。
藤本さんは普段はツンツンしてるけど本当は優しいと思います。

91 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/18(火) 15:34
ちょっと長めの話に突入します。完結できるようにがんばりたいところ。
それではスタート。
92 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/18(火) 15:35


彼女はどちらかと言えば猫だろう。でも魚だった。
海から出ればすぐに死んでしまう、弱い人魚だった。

93 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:36

今日もれいなは海に来ていた。
友達が少ない、いないと言っても過言ではないれいなは毎日海にくるのが日課となっていた。
夏が来ない限り海辺の町でも来る人は少ない。れいなの友達の数と同じくらいだ。
港であればまだ人がいるだろうけれど、ここはなんでもない砂浜。
嫌でも独りぼっちになってしまう。
本当は一人きりになろうとしなくても自然となってしまうことをれいなはわかりきっている。
それが周囲と合わせない性格というだけでないことも
祖母と二人になってしまったときから知っていた。
自分ではどうしようもできないこととわかっていても本当は寂しかった。
波の音を聞きながら勝手に流れ出てくる涙は止められなかった。

おそらくは引き寄せられたのかもしれない。運命なのかもしれない。
それとも今日でなくても出会ったのかもしれない。
とにかく、出会いは必然で、今日だった。
94 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:37

春と夏の間で少し暖かくなってきた海にれいなは入ろうと思っていた。
着替えもタオルも準備万端。
太陽が海を透かして青に緑の混ざった海はとても綺麗だった。
押し寄せてくる波に向かってれいなは駆け出した。
足に絡み付いて引き寄せていく波、寄せられるれいな。
待ちに待った海に入られる季節が嬉しくて顔がほころんでいた。
きっと、れいなは、この町で一番海が好きだろう。
誰も救えない、救わない、触れない、触れようともしない、確実にそれがれいなを傷つけていく。
田舎特有の疎外。
この町にいる限りついてしまう傷は時間でも癒されない。
ぼろぼろと壊れてしまいそうな心は海じゃないと治せなかった。
95 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:38

まだ水は暖かくなったとはいえまだ冷たく、頭がつんと冴えていく。
体は驚いたが徐々に慣れていって気持ちよく楽しかった。
頭から足の指の先まで感じる水の抵抗が嬉しい。
水の高さが自分の低い身長を余裕で超えるくらい深いところまで潜って体中で波の動きを感じる。
なだらかに波の中をすり抜けて、揺られるままに揺れて、水の中に漂って空を仰ぎ、
堅く閉じた瞼の裏にある景色を想像するのが好きだった。
半透明の青や緑の上から光が射して、隙間なく数えきれないほどガラス玉を敷きつめたように透明で。
ゆらゆら揺れる水面はきらきら目を開けないくらい眩しいんだろう。
想像は現実のなによりも美しい。
テレビで見たような海の世界を一層芸術的に頭の中で想像していた。

こうして漂って、沈んでいくのも、体が水に抱かれているのもれいなは好きだった。
暖かくてもそうでなくても、海の存在があるから決して一人じゃないと思えるからだった。
海と混ざるために夏を待つ。一人きりで。
一人じゃなくなるように一人きりで。

96 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:39

なだらかに揺れていた波がれいなの足をつかみ安定していた体を急に振り回した。
瞼の裏の景色は一転して消え去り、鼻や口から大量にしょっぱい水が入り込んで
口に溜めていた空気が逃げ出してしまった。
動揺しているせいで体はばらばらに動いて余計疲れてしまう。
れいなはこんな状態の中ではっきりと海の声を聞いた。

こんな子のために

その声に意識がいったときにはもう声は聞こえなかった。
れいなも精一杯で声を追うことはできなかった。
さっきまでしっかりあった水の抵抗が嘘のように上に漕ぐ手は空をきる。
足も上手く水をとらえられない。
動けば動くほど沈んでいく、底なし沼やクモの巣のような。
97 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:40

獲物として捕らえられ、勝手に愛していた海に食われる。息は泡となって空へ飛ぶ。
これは裏切りなのかそうでないのか、考える間もない。
かたくなに閉じたままの目では自分がどうなっているかもわからない。
一層冷たい水がつま先に、いや体中に触れたような気がしていた。
体の熱が全て食われていくような気になった。
絶望的な気分になって、それとともに体の力が抜けてもがく力もなくなった。
死を意識したときとても悲しい気持ちだった。

一人が嫌なだけだったのに。

死を自覚した人が死に際に残す言葉。
結局は何を言っても寂しいものになるのだけれど、海に裏切られたと思い込んだせいで余計。

98 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:40


れいなはずっと先でこの出来事が全ての始まりだったと振り返るだろう。
激しい後悔を従えて。

99 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:40


**********

100 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:41


意識が無くなる刹那、つまり最後の言葉を残したつもりになった瞬間。
温かみのある細い腕に抱えられた、と思うとものすごい勢いで水の中を掻っ切って
何を考える前に元いた陸地に戻った。
激しく海水でむせ返り、飲み込んだ水を吐き出し、しばらくは咳が止まらなかった。
座ることも咳が苦しく、したくなくて砂の上に横向きに寝転がる。
腹筋が痛くて腹を丸め込むくらい咳は続いた。
かろうじて拭って見えた視界には自分の持ってきたタオルや着替え一式が置いてあった。
大きなタオルを掴み、顔を乱暴に拭いた。
ようやくはっきりと見えるようになってから起き上がり助けてくれた人のほうを見た。
「ありがとう」
塩水でしわがれた声が出た。ひりつく喉は声も拒んでじんじん痛む。
101 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:41

目を彼女に向けてかられいなはとても驚いた。
無理はないだろう、いくら海に入るからって、いくら人がいないからって。
助けてくれた彼女は全身、裸だった。
慌てて目をそらすも目に入ってしまった少し黒い肌や、細い腹、そのほか色々。
できるだけ彼女を見ないように目をすぼめながら急いでタオルを立っている彼女に投げる。
彼女は投げられたタオルを体の前にかけてれいなと同じように座り込んだ。
「こんにちわ」
猫のような、という形容が何より似合うだろう。
目をそらしも、すぼめもしないで見た彼女。
タオルを投げたら投げ返されたのはとてつもなく可愛らしい笑顔とわけのわからない挨拶。
いや、挨拶の意味はわかるけれど、今使う意味がわからない。
半ば放心状態でれいなはこんにちわ、と返した。
「あ、あの、服なかと・・?」
声は変わらずしわがれたままで、喉はひりつくまま。
疑うような、でも鋭くない目つきでれいなは彼女を見た。
すると彼女は一瞬不思議そうな顔をしてそれからすぐに何かわかった顔をした。
「あ、ああ、うん、持ってない」
102 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:41

ワンテンポ遅れている彼女の反応。
このまま命の恩人を裸で放っておくのは躊躇う。
自分は濡れているけれど一応隠すところは隠せているし、家も近いし誰もいない。
彼女は、どこに住んでいるかもわからないし、仮に近いとしても
この状態で帰るのは普通の精神じゃ耐えられないし、帰す側としてもよい気分ではない。
助けてくれた彼女を塩っ気の強いままにするのもまたれいなは嫌だった。
礼の意味も含めてれいなは彼女を家に連れて帰ることにした。

103 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:42


*********

104 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:43


できるだけ静かに古臭い玄関の戸を開ける。
どんなに気をつけても古ぼけた木と木が上手く滑らずにがたがたと音を立ててしまう。
しかし叱られるのは後回しにしたくなるのが人間。
れいなの唯一の家族、祖母に見つからないように足音を立てずに家に入る。
ところが音を立てないようにするのは意味がなかった。
玄関から一歩入ったところで敢え無く祖母に見つかる。
「なにしてたんだい」
「海行って泳いでた」
祖母の視線がれいなかられいなの服を着た彼女に移る。
自分から視線が後方にずれたのを見てれいなはとても困っていた。
嘘はつけない、けれど怒られたくはない。
結局どちらを選ぶかというと怒られるほうなのだが。
怒られるのは覚悟がいる。れいなは何か聞かれたときどう答えるか、切り出すタイミング、
祖母がどんな反応をし、どのように怒るのか、まで頭の中で予想していた。
「その子は」
105 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:43

心の中で迷った結果、やはり嘘はつかないことにした。
悪いことははっきりと話し出せないのが人間というものだ。
れいなはどもりながら説明した。
「えっと、海で、溺れたの、助けてくれた人」
「亀井絵里といいます」
たどたどしいれいなの声に続いてはきはきとした彼女の声。
祖母は元々あるしわをより深くし、顔をしかめた。
「足の届かないところまで行くなと言ってただろう」
怒鳴り気味の強い口調で祖母はれいなを叱った。
うつむき加減だったれいなの頭に祖母の骨ばった拳骨が落ちる。
いっ、と短く悲鳴を上げたが祖母の拳骨はもう一度落ちてこなかったことに安心した。
どうやら雷はこれですむらしい。
106 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:43

見知らぬ人にこんな姿を見せたくせに祖母は家族に向けないような笑顔で
すいませんね、お礼にあがっていってください、と言った。
痛い頭をさすって後ろをれいなが見ると彼女は祖母の笑顔に似た意味合いの笑顔を祖母へ向けた。
「おじゃまします」
祖母はれいなと絵里の濡れた髪を見てれいなにお風呂沸かしてはいりなさい、と促した。
うなずいてれいなは絵里を家に入れる。
絵里は一つ祖母に小さく礼をしてれいなについていった。

107 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:44

恩人を先に風呂に入れる。
見た目同じくらいの年といっても、いや、だからこそ一緒に入るのは恥ずかしかった。
風呂場の出入り口付近にある洗濯機の上に絵里の分と自分の分の着替えを置いて、
濡れた服を洗濯機に放り込んでほぼ下着姿に大きいタオルを羽織って自分の番を待っていた。
絵里が入っている時間は意外に長く、着替えにも時間がかかっているようだった。
風呂場からの戸が開いてごめんね、と笑った顔はとても可愛らしい。
待っている時間が長くて少し冷えた体のことなどれいなは忘れてその顔に見入っていた。
れいなの横を通り過ぎて居間にいってしまってもすぐに立ち上がらなかった。
久々に見る年の近い子の笑顔。
それが妙に可愛らしくてれいなは照れくさくなってしまった。
ちょっと薄く赤くなった頬で風呂に鼻まで浸かってみる。
潮の匂いのする髪が水面に広がり頬に張り付く。
108 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:44

水圧で軽く潰された肺が苦しくて鼻から息を吐くと大きめの泡が音を立てて水面から飛び出た。
すると今度は酸素が足りなくなって苦しくなり鼻と口を水から出して息を吸った。
鼻から入ってくる空気はさっきみたいに強い潮のにおいはしない。
理由もなくため息をつくと腹がへこんで腹が減っていることを気づかせた。
そういえば、もう遅い時間だ。
風呂からあがればきっと祖母がおいしい夕食を作って待っているだろう。
そう考えた途端ご飯が恋しくなって温かく体を包んでいる浴槽から出て
急いで髪やら体やらをくまなく洗って風呂からあがった。

109 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:45

風呂あがりの温かい体のまま居間に行くと低い食卓の上にいつもより豪勢な食事の準備が整っていた。
いつもれいなの座っている位置の隣にはちょこんと絵里が座っていた。
あれ、とれいなが思うと祖母は
「今日泊まるところがないんだってねえ」
と心を読んだように言った。
そうかと納得して絵里の隣に座る。
いただきます、はい、とれいなと祖母の一通りの流れの後、絵里もいただきますと小さく言った。
それに対しても祖母ははい、と言った。れいなにとっては嬉しい違和感。
ひとりっこで友達もいない、年の近い親戚もいない。
それなら仕方のないことだろう。
110 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:45

しかし近い年の人と話すことがめっきり少ないせいで何を話せばいいかわからない。
話したいのに話せない微妙なもどかしさにれいなは苦しんでいた。
そんなれいなを知ってか知らずか祖母は絵里に気軽に質問していた。
いくつか質問が進むうちに少しずつわかる彼女のことにれいなは興味を持って、
食べかけのご飯を口に黙って運びながら聞いていた。
色々な質問に対して笑顔で答えるのに、ある種の質問は笑顔でごまかした。
ある種とは、絵里の身元がわかるような質問。
どこから来たのかやそういう質問に一切答えなかった。祖母も深入りしなかった。
今日だけ我が家にやってきた客人。ただそれだけ。
口に残ったご飯を味噌汁で流し込み、出来上がった見えない壁をただ眺めていた。
触れないし、近づかない。
どんな出会い方をしても、こうして家に来てくれても、結局は。
それは当たり前のことなのに、れいなは何かを期待していた。
れいなは浮かれていた自分を卑下するようにその壁を冷たい目で見ていた。
祖母と絵里で進む会話はそれからどうでもよく思えた。
111 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:46
食後自分の部屋に戻ろうとすると絵里がついてきた。
それは野良猫が足元に寄ってくる様によく似ていて、彼女自身も猫に似ていて。
部屋でごろごろと寝転がってだらけると同じように絵里も寝転がってれいなになつく。
とても今日あったばかりとは思えないくらい。
照れて赤くなった顔を見せないようにと絵里に背中を向けると絵里は背中にひっついてくる。
れいなは絵里の事を猫みたいと思っているが、端から見ればどちらもじゃれあう猫。
あまり会話の弾むわけではないゆるい空気は、会ったばかりの気まずさではなくて
古くから仲のいい二人の関係の不思議な空気に近かった。
寝転がったままだらけた体勢でだらけた口調で話す。
さっきまでれいなの感じていた壁が嘘のようだった。
112 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:46

二人がじゃれてくすぐりあって遊んでいるとさっき夕食を食べていた隣の居間から祖母の声が聞こえた。
いつもより少しだけ早い、寝なさいと言う声。
二人は相変わらずじゃれあいながら歯を磨いたり寝る準備をして布団に入った。
電気を消してからも仲良く話し、れいなはとても嬉しかった。
しばらくはしゃいで話をして疲れてしまったのかれいなは早く眠りに着いた。
それをしっかりと見届けてから絵里は静かにれいなを起こさないように起き上がって深呼吸をし、
隣のまだ祖母のいる居間をにらみつけた。
113 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:46


**********

114 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:47


れいなの寝息が響く部屋のふすまが静かに丁寧に開いた。
「わざわざ待っていてくれたんですね」
「そんなわけじゃないよ」
絵里は決意し切れていない寂しげな顔で、座って茶を飲んでいるれいなの祖母にあたる老婆を目に映していた。
老婆はそんな絵里の心を見透かし、絵里が事情を話し始めるのを待っていた。
端から見れば絵里が悪い事をしてそれを白状するように見える。実際はそうでないのだが。
開いたふすまは閉められていき、部屋へ入る光は同じように閉ざされていく。
滑るふすまの音が途中小さくなり最後かたんと小さく鳴って途切れた。
老婆の見えない誘導にしたがって絵里は小さな食卓の前に、極力音を立てないように座った。
老婆は相変わらず黙ったまま、一度置いた茶飲みをまたとり茶を飲む。
絵里からはその表情が見えず不安になる。
小さな電気の灯で俯き気味の顔に影ができている。
意を決して、詰まりかける声を無理矢理に押し出した。
「私は海からきました」
115 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:47

そこで初めて老婆は顔を上げた。しわだらけの細い目を少し大きく開いていた。
「あんた、もしや」
この土地に長くいるものなら聞いたことのある、伝説のような、誰も信じないような説話。
老婆の言いかけた言葉を絵里は遮った。
その質問はどうしてもこたえられないものだとわかっていたから。
「その質問には答えられません」
それが答えになっていることは言うまでもない。
肯定はしないが、間接的には。
老婆も深く尋ねずに、そうか、と呟いてその質問は終わった。
「お願いがあるんです」
ひどく緊張した声だった。聞いている側まで身構えて強張ってしまうくらいの。
それは絵里がこの頼みに自分のほぼ全てをかけているからだ。
この願いが叶わなければわざわざここまで来た意味がない。ここにきた原因を解決できない。
今までの暮らしも、仲間も捨ててきた意味がないのだ。
「なんだい」
外は真夜中、鳥の声も虫の声も聞こえず。
「一年でいいんです、この家に置いていただけませんか」
絵里の手はとても冷たく汗をかいていた。更にきっちりと握りしめられていた。
「どうして」
116 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:49

問う老婆の声は決して冷たいものではなかった。
しかし絵里には更に緊張をもたらすように聞こえた。
「理由は、まだ言えません、でも必ずいつか教えます、だから、どうか」
一生懸命な絵里の言葉を聞きながら祖母は俯いて考えていた。
自然と流れる沈黙が怖い。
手にはもっと汗をかいて、体はわずかに震えそうになる。
先ほど老婆のすすっていた茶飲みから出る湯気は薄くなっていた。
暖色系の蛍光灯がちらりと揺れた。
「うん、いいよ、れいなと仲良くしてやってくれ」
「もちろんです、本当にありがとうございます」
ほっとした声は弾んだ嬉しそうな声だった。
顔はこれ以上ないくらいほころんで。
117 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:49

それをみた老婆も安心していた。そして絵里につられて笑った。
「さあ、今日はもう疲れたでしょう、早く寝なさい」
祖母は優しく笑ってもといた部屋に戻るよう促した。
はい、と満面の笑みを浮かべ細くふすまを開け体を中にすべらせて
静かにふすまを閉めながら同じくらい静かにおやすみなさい、と後ろ手に戸を閉めきった。
「憎めない子だ」
そういって笑う祖母もやはり嬉しそうだった。
閉めたふすまの裏で絵里は小さく拳を握って喜んだ。

118 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:51


れいなが祖母の声で目覚めて居間に行くと絵里はもう朝食を前に昨日座っていたところに座っていた。
心なしか絵里の顔は楽しそうでそれをれいなは不思議な顔をして見ながら隣に座った。
自分の食べる量のご飯を茶碗に盛り、それから絵里の前にある茶碗をとってご飯を盛る。
れいなの茶碗には少なめのご飯、絵里の茶碗にはそれより少し多いご飯が盛られてある。
朝があまり強くないれいなは朝食はたくさん食べられない。
量も聞かれずに盛られた絵里の分のご飯については絵里は何も言わなかった。
どうやら丁度いいらしい。
一応は何か言われるのを待っていたれいなは絵里が言わないのをみて祖母の分のご飯を盛りつける。
祖母は台所のほうから麦茶とコップを持ってきて自らの席に座った。
それとほぼ同時にれいなの口から小さくいただきますという声が聞こえ、
続いて絵里からも聞こえる。
会話の少ない食卓の上を今日の予定やら何やらが飛び交う。
そんな中の一言にれいなはとても驚いた。
119 名前:9.春―夏 投稿日:2008/03/18(火) 15:52

「今日から絵里ちゃんが一緒に暮らすことになったから」
淡白な祖母の声の割にれいなにとっての大きな出来事。
驚いて横を向くと絵里は無言でにっこりと笑った。

なんでそうなるんだか

なんて心の中で思ったものの実はとても嬉しかった。
開けた窓から入ってくる風に揺られた日めくりカレンダーが
季節の変わり目とれいなの変化の始まりを表していた。

120 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/18(火) 15:54

本日の更新は以上です。
しかし文が古いなorz
121 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:37


初夏、といっても暑いものは暑い。動かずに家にいても薄っすらと体全体に汗をかいてしまう。
それだったら家にいるよりはもっと涼めるところにいたほうがいいだろう。
太陽のせいで髪が熱くならないようにタオルを被って、
熱い白く反射したやわらかな砂の上をれいなは絵里と歩いていた。
季節の変わり目から一つの季節に移る間にれいなと絵里はとても仲良くなっていた。
出会った場所に向かうときも楽しそうに話をしながら歩く。
れいなの方が少し小さいかられいなは絵里の顔を見上げながら。
靴は砂が入って汚れるからと二人とも履いているのはサンダルで、
足にかかる砂はやっぱり靴を履いてくるべきだったと思わせるように熱かった。
いつもの場所付近に来るとれいなは被っていたタオルと着替えやらが入った袋を豪快に投げ捨てて
サンダルを脱ぎ捨てて全速力で海に走っていった。
122 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:37

舞い上がる砂に紛れる後姿を見て絵里は静かに笑って、タオルを置いてれいなの背中を追いかけた。
躊躇うことなく腹にまで海に浸かって絵里のほうへ振り向いて子供のような無邪気な笑顔を浮かべる。
待っていた右手に左手を重ね合わせて、握る。
せーのの声で息を大きく吸って目を固くつぶって、
浮かぼうとする髪の毛を無理矢理に引きずって一緒に海に潜り込んだ。
陽で火照っていた肌が突然に冷やされる。
閉じた瞼の裏にまだ海の浅い部分にいるせいで太陽が当たって黄色いような白いような視界。
つないだ手の感覚だけが体温と自分の居場所を教えてくれる。
れいなが海に漂おうとしたときだった。
急に絵里が手を強く握り慌てた様子で海面に顔を出そうとれいなを引きずりあげた。
疑問を浮かべる前に顔が海面から出てしまった。
「っぷは」
123 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:38

深いところまでは行ききれず辛うじて爪先で砂の上に立った。
髪から流れてくる塩水を一気に拭って絵里を睨む。
さっきよりも強い黄色が目を射し、思わず以上に顔をしかめた。
絵里はというと、両手で目を押さえている。
「どうしたの」
怒りをぶつけようと思ったが今はそんな状態じゃないらしい。
押さえた指の隙間に強くつぶった瞼が見えた。
「目痛い」
相当痛そうな声で痛みを訴えた。大方、海水が目に入ったのだろう。
「水、目に入ったの?一回戻ろう」
爪先立ちから歩いて段々に水の高さが下がっていく。
時折背中から波が来て前に進むのを手伝ってくれた。
熱を奪われた足の裏はさっきより砂が熱いと文句を言いながら跳ねる。
急いでサンダルを踏んでそばに投げ捨てたタオルの砂をほろいれいなは絵里の顔を拭いてやった。
よほど痛かったのか眉間にしわを寄せて泣き出しそうな顔をしている。
れいなはこれ以上どうもできずタオルを絵里の頭にかけて、ビニールの袋から二つ水中眼鏡を取り出した。
124 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:38


いつもは使わない。持ってくるにはくるが大抵は使わない。
海の中で目を開けてしまえば、せっかく海の中にいても結局一人きり。
青い世界は余計にそれを強調させて悲しくて少し泣いてしまったことがある。
それ以来はめったに使わない。
また絵里の目に水が入ると面倒だし、困るし、と心の中でぶつくさと文句を言いながら
片方の眼鏡をタオルで顔を覆ってようやく目を開きかけている絵里に差し出した。
絵里がそれを受け取るとれいなはもう一つの眼鏡をかけはじめた。
それに習って絵里も眼鏡をかける。何とも言えない間抜けな二人。
「これでもう目にはいらないから、いこ」
れいなは手を差し出して、絵里はその手を握って、また海に向かって走り、
波を蹴散らして飛び込む。今度見える太陽の光は青白い、海とレンズの色。
太陽の光を水面の波が揺らして青く光るカーテンが出来ている。
惹きつけられて見入っているとつないでいた左手が離されてその光の中に絵里が入っていく。
緩やかに水を漕ぐ、その足の動きはなめらかでぎこちなさはどこにも見当たらない。
本当に綺麗でまさに海の動物のような。
125 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:39

振り返った絵里の顔に緑がかった青の光が射している。
あまりはっきりは見えないけれどどうやら笑っているらしい。
さっきまでつないでいた手でれいなに手招きをした。
誘われて光の中に踊りこむ。
思わず目を細めてしまうような海の陽射しが水の中でも確かに熱を教えてくれる。
そろそろ呼吸が苦しくなってきた二人は急上昇して水面から顔を出した。
さっきよりも全然強い光が目を突き刺す。
足だけ動かして浮かびながら水中眼鏡を外して顔を大雑把に拭う。
泣きそうな顔はどこへやら、嬉しそうな顔で絵里は笑ってれいなと同じ動作をした。
濡れた髪がきらきら光る、水が伝う頬も同じように。
海が楽しいものだとは知らなかった。寂しさをごまかすだけの場所だと思っていた。
126 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:39

れいなは無性に大声で笑い出したくなった。
けれどそれはなんだか恥ずかしく、妙に悔しいような気がしたから
そんなことはせずに水中眼鏡をさっさとかけてまた青の世界に融けこんだ。
緩んだ頬のれいなを絵里は追う。漕ぐ足の爪先を追って、追い越して、追われて。
時々顔を出して空気を溜めて、また海に沈む。
その繰り返しが楽しくて楽しくてれいなは仕方がない。
このままこうして遊んでいれば地球の果てにまででもいけそうな気がした。
逆に絵里は、時間が経つにつれて強くなる拭いきれない違和感にわずかに顔を歪めていた。
そのことにれいなはこの時すぐには気づかない。
127 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:39


*********

128 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:39

しばらく遊んで疲れて海から出て浜に倒れこむ。
真上にあった陽はいくらか傾いていたがそれでもまだ大分暑い。
それも海の中から出てくればなおさら。
けれどれいなは満足そうな顔をしていて嫌な顔をしなかった。
おそらくは楽しかった余韻にひたってそんなことはどうでもよかったからだろう。
濡れたTシャツと半ズボンに砂をべっとりつけたままれいなは絵里のほうを見た。
てっきり笑っているのだと思った。あんなに楽しそうに遊んでいたのだから。
ところが予想に反して絵里は泣きだしそうに顔を歪めていた。
「どうしたの」
思いがけない表情はれいなを取り乱させるのには十分だった。
理由を聞く質問には一切答えず今にも崩れそうな表情で黙っていた。
「絵里」
「なんでもない」
129 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:40

もう一度声をかけると仕方ないという感じでちっともれいなを見ずに冷たく言った。
素っ気ない態度に腹を立てた。
たかが言い方一つでここまで腹を立てることもないのに。
この態度に怒ってしまうほどれいなは子供で、
この状況で表面に出して怒らないほど二人の中は離れていない。
「じゃあ知らん」
厳つい声を出してれいなもそっぽを向いた。
起き上がって座ってはみたものの会話は一歩も進まない。
そして服についた砂は少しも取れはしない。
長い沈黙は二人を縛っていた。
130 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:40


先に動いたのはれいなだった。
体に冷えを感じて大きなくしゃみをした、それから気まずくて立ち上がり
帰る、と一言言って着替えとタオルを手荒く拾いあげて足取り荒く絵里に背を向け去ってしまった。
陽はもう黄色の割合のほうが少なくなってきている。
それでも絵里は動こうとしなかった。いや、起き上がろうとしなかった。
抱えた膝に顔をうずめてれいなの後姿が小さくなったのを確認してから小さな水滴を頬に流すことを許した。
「わかってた、つもりだったんだけどな」
もう後戻りは出来ないこと、覚悟はしていたはずなのにいざ現実となると怖い、そして後悔もする。
海に漂うことは出来ても、もう二度と混ざることは出来ない。
選んだのは自分なのに。
131 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:40

頬を伝う涙は案外冷たく自分の服から垂れる海水のしみの横に落ちて砂に溶けた。
海から出て体を拭かないままにしていたせいで肌が冷たく冷えている。
陽はれいながここから去ってからまたわずかに傾いていた。
赤みが増した太陽は絵里の気持ちを更に落ち込ませる。
絵里にはもう、帰る場所がれいなの元しかない。それしかこの世界で生きる方法がない。
それでいいと思ってここにきた、なのに、自分は何をしているんだろう。
せっかく繋がった細い細い糸を自ら断ち切ってしまう自分の行為。
いまかられいなの家に行ったからといって必ずしも家の中に入れるとは限らない。
その可能性はとても低い、けれどゼロではない。
もし、もしも。嫌な考えが絵里の頭をぐるぐる回る。
せっかくつないだ糸を、手を、一時の感情で切ってしまう。なんて愚かなのだろう。
れいなのためにきたのに、更なる後悔はまたしょっぱい海水のような涙を流させた。
一人うずくまって、光を遮った世界に入り込む。
不安や後悔が胸いっぱいに広がると思わず声が漏れた。
132 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:41

「れいなぁ」
それは弱々しい呟きだった。
だから絵里は誰にも聞こえずに海にかき消されてしまうと思った。
するといきなり頭に軽く叩かれた。
驚いて顔を上げると涙で歪んだ視界にれいなが立っていた。
れいなは無愛想に、むしろ少し怒ったような顔で絵里の前に手を差し出した。
「帰ろ」
その言葉で絵里の不安は溶けた、溶けた不安は代わりに涙となって片方の目から零れ落ちた。
れいなは不満を言いたげな顔で絵里の涙をふき取った。
「うん」
冷たい手で温かい手を握る。
散らばった荷物を拾い集めて絵里はれいなと一緒に砂浜を通って一緒に家に帰っていった。
サンダルと足の隙間に入り込む砂の熱はとうに冷めていてぬるく、
つないだ手は温度が混ざって両方砂と同じような温度になっていた。
れいなは泣いていた理由を聞かない。
なぜなら自分も聞かれたくないことがあるからだ。

133 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:41


**********

134 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:41

「あっつ」
秋が来れば寒い雨でも、夏ではただ蒸し暑さを増させるに過ぎない。
それでもなんとか冷たい床にだらりと溶けるようにれいなは寝転がっていた。
強い風ががたがたと窓を壊れるのではないかと思うほど叩き、
音だけでもわかる大粒の雨は地面を潰した。
うざったいとは思いつつ壁の隔たりで意識は別世界にあった。
原因は苛立つような暑さでも、耳障りな外の音でもなかった。
数日後に控えている小さな町の祭りに対する怒りだった。
135 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:42

二人で海に初めて行った日からもう大分経ち、海に行くというよりは
通うといったほうが正しいかもしれなくなったある日、
いつもは静かで音の少ないこの町がなんだか少し騒がしい。
れいなの頭より、絵里の頭より高い防波堤のコンクリートのせいで向こうは見えないようになっている。
そしてその向こう側からは小さい子供たちのはしゃぎまわる甲高い笑い声が聞こえる。
絵里は気にして向こうを見るが、れいなは異常なほどに意識してそっちを見ない。
れいなは子供たちの笑い声とは相反して相当苛立っているらしい。
絵里が振り返って見たれいなの小さな背中は表情を見なくても判るくらいに腹を立てていた。
「れいな?」
おどおどと声をかけるもつっけんどんな返事が返ってくるばかりだった。
いつもは握っている手が触れられない、遠い。
れいなは一度も絵里のほうを見ようとせずに、うなるような低い声で今日は帰ろ、と言った。
まだここに着いたばかり、天気はちっとも悪くない、いつもの通り暑い。
136 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:42

直接陽の当たる半袖からだらりと垂れ下がった腕は乾いた熱を持ち、
タオルのかかった首、背中は汗で湿った熱を保っている。
海に入らないで帰ってしまう理由なんて幼い子供たちの声以外には見つからなかった。
つなげない、つなぎたい細く小さな左手はぎゅうと堅く握られている。
絵里はこの手をなんとかしたくて仕方がなかった。
どうしたら拳を開いてくれるだろう、握ったら、包んだら、
もしかしたら手だけではなくて体ごと抱きしめたらいいのかもしれない。
頑ななその手を見るのはここに暮らす日数よりも多かった。
それをどうにかしたいけれどどうにも出来ないもどかしい日も同じだけあった。
額から垂れる汗が目にしみて、陽射しが一層眩しくて目が痛かった。
れいなはいつも差し出してくれる手を今日は出さなかった。
怒った背中は何も言わずに家のほうへ進み絵里から少し離れた。
絵里はその背中を悲しげな表情で追いかけた。
137 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:42


蒸し暑い中二人は部屋に寝転がっていた。
絵里が目をつぶっているれいなの顔を横目でと
それには気づかないらしく相変わらず機嫌の悪そうな顔をしていた。
額に汗の玉を乗せて、微動だにしない。時折動かなくても汗はかいて大きな玉となって
こめかみから耳の横を伝って髪に吸い込まれるように消えた。
外は眩しく、その光で部屋も明るかった。れいなの白い肌がより一層白く見えた。
これ以上ないほどに開いた窓からは生ぬるい風が緩やかに流れ込んで頬や体を撫でた。
端にかかっていた白いカーテンが大きくなびいた。
どちらも動かないと外の音だけがやけに耳につく。
いつもとは違って外が騒がしいような気がしたのは会話がないせいか、それとも外がうるさいせいか。
今まで海ですごしていた時間はこんなにも長かった。
138 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:43

時間はなかなか経たずに、しかし確実に流れて陽は落ちていった。
陽が地平線に近くなるにつれてれいなたちがわざわざ逃げたはずの子供たちの声が大きくなって窓から入ってくる。
更には騒がしいこの国古来からの太鼓や笛の音ががやがやと子供の声に混ざって。
黙って寝転がっていたれいなは険しい顔を余計にしかめて荒々しく窓を閉め、音を遮った。
それでもまだ小さく音は聞こえてくる。苛立ちは止まらなかった。
絵里は何があるのか興味があったが今のれいなにはそれを聞ける状態じゃない。
ただ黙ってそのれいなの険しい表情を見ているしか出来なかった。
139 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:43


不自然な空気の中で食事は始まった。
特別話すわけではない、けれどあきらかにおかしい。
れいなは相変わらず不機嫌でどこか泣き出しそうな顔をしているように見えた。
祖母はそんなれいなを気にかけているようだった。
絵里の知らないれいなの不機嫌な理由は確実に存在していた、
そしてそれは唯一の家族に気を使わせるほど大きいものだった。
箸が食器にあたる高い音が静かに不似合いに響いていた。
気まずい雰囲気が嫌で絵里は祖母に質問をした。その質問は絵里が結局他人なのだと決定づけた。
考えれば気づけることだった、けれどどうしてもこの空気が嫌で咄嗟に口から出てしまった。
れいなが怒っている理由なんてわからない、でも何が原因なのかわかっていたのに。
「今日何かあるの」
外からはれいなが怒っているのと同じように変わらず笛の音や子供の声やらがやかましく聞こえてくる。
140 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:43

「今日は祭りがあるんだよ」
祖母はしわがれた声で、さりげなく横目でれいなを見た。
れいなはうつむいてご飯を食べるのに夢中なふりをしている。
「祭り?」
絵里には聞いたことのない言葉だった。
勝手に気まずい雰囲気を興味に奪われて忘れてしまった。
「そう、屋台とかもあるんだけど」
知らないことは知りたい、それは誰であっても同じ。
絵里は祖母の目線がせわしなくれいなのほうに向いたり戻ったりしていることに
祭りへの興味がわいて気がつかなかった。
そしてその興味を言葉に出した瞬間に、今まで黙っていたれいなが激しく怒った。
「行ってみたいなあ」
言い終わるのとほぼ同時に鋭い呼吸とともに怒鳴った。
「だめっ」
祖母ですら見たことのないような険しく怖い表情で、荒々しく茶碗を食卓の上に叩きつけるように置いた。
その手はわずかに、わずかに震えていて、怒った瞳の中にうっすらと涙が浮かんでいた。
絵里は大きな声に驚き体を一瞬体を震わせた。
141 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:44

ようやっとその声で自分が何をしていたのかを知り、間もなく強く後悔をした。
れいな、と祖母が叱るわけでも宥めるわけでもなく名前を呼ぶとれいなはあっけなく表情を崩し
今にも泣き出してしまいそうに顔を歪めて逃げるように自分の部屋にもぐりこんだ。
茶碗には三口分ほどのご飯が残り、均等に食べられているおかずが残り、
無造作に捨てられた箸が食卓の上に双方明後日のほうに向いていた。
絵里が怒鳴られたままの姿勢で固まっていると、祖母は小さく溜息をついて薄く眉間にしわを寄せて
空席となってしまったれいなの空間と置かれたままのご飯をまるで遠くにあるかのようにじっと見ていた。
142 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:44

なんとなく食事を続ける気にならなかった。
絵里が静かに沈黙を保つよう箸を置こうとすると祖母は響かないような小さな声ですまないね、と言った。
困ったような笑顔はどうも寂しそうにも見えた。悲しそうにも見えた。
「事情を話しておいたほうがよかったのかね」
答えのわからない独り言を呟くともう一度溜息をついた。
祖母は膝に手をついてよっこいしょという掛け声と一緒に曲がった腰を上げ食器を下げ始めた。
絵里は考え事をしながらそれを手伝う。
選択肢は二つしかない。
このままれいなに何も言わないでいるか、部屋に行って謝るか。
絵里は当然後者を選んだ。

143 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:44

ふすまを開けると壁に少し寄って、その壁のほうを向いてふすまを開けたことにも反応しようとしないれいなが小さい体を更に小さくして寝転がっていた。
海に行って子供たちの声を聞いていたときの背中から怒りの感情だけ消えていた。
うっすらと漂っていた寂しさがそのせいで余計に強調されていた。
「れいな」
ごめんなさい、と続けるつもりだったのをれいなは振り返らないで遮った。
そして言うはずの科白は奪われてしまった。
「ごめん」
一つ区切って比較的小さな声で、なさい、とばつが悪そうに。叱られた幼い子供のように。
絵里からすればれいなが謝る理由がわからない。
逆にれいなからすれば絵里が謝ろうとしているなんて思わないし、仮にされてもやっぱり理由がわからない。
どちらも自分が悪いと思っている。つまりはどっちも悪く、どっちも悪くない。
144 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:44

本当は誰も悪くないんだ、
れいなは部屋に逃げ込んだあと何度も何度も心の中で呟いた。
悪いのはいつまでも過去を引きずっている自分。
嫌な記憶を思い出すような事を言われたからってあんなになる必要はなかったのに。
つう、と涙が横に流れていった。
もうこのことで泣くのは何度目なのだろう。いい加減に同じ事を繰り返すのは止めにしよう。
たとえどんな過去だって絵里になら話せるような気がしていた。

「絵里もばあちゃんも何も悪くない。
 悪いのはれいなやけん」
145 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:45


**********

146 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:45


それはれいながこの町に暮らし始めて一年目のことだった。
今まで住んでいた場所とはまったく違う暮らしに戸惑い精神的にれいなは疲れていた。
それだけではない。まだ親から離れるには早すぎる年で親と離れなければならなくなり、落ち込んでいた。
元気のないれいなを心配して祖母はれいなを祭りに誘った。
田舎町には珍しいほどに活気づいて、屋台に囲まれた道は声が聞こえなくなるほどがやがやと騒がしかった。
遠くで小さな笛の音が聞こえる。太鼓の音が聞こえる。様々な人とすれ違う。大人、子供、男、女。人、人、人。
目に入るのは古ぼけているが明るい提灯や数えきれない色の光。
日の暮れかかった時間帯には調和がとれすぎている。
久しぶりにれいなは心から楽しそうに笑って、はしゃいでいた。
暗い思いを弾き飛ばすようにとても明るく、本当に子供の笑顔を見せていた。
祖母の手をいっぱいに引いてあっちにもそっちにも行こうと祖母を困らせていた。
馴染めなかった町のなかに、地元の人のように溶け込めていた、とれいなは思っていた。
このまま何も起きずに馴染めるのならどんなによかったことだろう。
147 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:45

ふとした弾みでつないでいた手が離れてしまった。
それでも祖母はついてきてくれるものだと思いずんずんと後ろも見ずに進んでいった。
右も左も人とすれ違う。頭の位置も肩の位置も違う。
少しの隙間を縫って歩くのは大変だったがなかなか楽しい。
わき目も降らずに前に進んでいった。
気がつけば祖母とははぐれてしまい、さっきより人の少ないところに出てしまった。
そこでやっと祖母がいないことに気づき慌てふためいた。
また同じ道を戻っていくには人が多すぎる。探し出すのは困難だろう。
困って立ちすくんでいると後ろからひそひそと声がする。
振り返るとれいなの母親と同じくらいの年の女の人が何人か集ってれいなを見ていた。
148 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:45

あの子誰、田中のおばあちゃんの孫よ、ああお母さん逃げちゃったって、そうそう

ここまででさえ人を傷つけるには十分なのに、
聞こえた言葉はそれだけではなかった。

捨てられたんでしょ

聞かせるつもりはない言葉だったろう、それが余計に傷ついていた心に深く刺さって、抜けなくなるほど。
女達の目は恐ろしかった。軽蔑と差別の冷たい目だった。
掠めるように目を見ただけで心が読み取れるほど。
何かが壊れて座り込みそうになった。堪えてふらふらと近くの木に近づいてその目から逃げた。
彼女達はそれからどこかに行った。それでもれいなは動こうとしなかった、いや、動けなかった。
焦点の合わない目でただ土を見ていた。背中にずっしりと木を感じた。
言葉がぐるぐる回って胸に針を刺していくようだった。

捨てられた
149 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:46


知っていたことだった、けれどそう思わないようにしていた。
そうじゃなきゃ均衡を保っていられない。
お母さんは帰ってくるんだ、信じ込んだら本当に帰ってくる気がした。
「こんなところにいたのかい」
祖母が事情も知らないで近づいてくる。
真っ白な頭が元に戻ると堰を切ったように涙が溢れた。
「どうしたの」
祖母はとても困った顔をしてもっとれいなに近づいた。
れいなは小さな手で力いっぱい祖母の服を握って泣くしかできなかった。
祖母もそんなれいなを抱きしめるしか出来なかった。
「なんであんな目で見られなきゃならんの、なんであんなこと言われなきゃならんの」
なんで、なんで、
150 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:46


それから二度とれいなは家族以外の人と話さなくなり、祭りにも行かなくなった。
そうして今日も行かないつもりだった。
「そっか」
れいなが話し終えると絵里はそう呟いた。
本当は理由はそれだけじゃないことをれいなは言わなかった。
ただ絵里からの言葉を黙って待っていた。
「話してくれてありがとう」
頑なな手を少しでも開いてくれてありがとう。
寝転がって絵里のほうを見ているれいなの目からまた一滴つうと流れていった。
「どういたしまして」
絵里が手を握ってくれる。
あのとき、本当はこんな手が欲しかったのかもしれない。
151 名前:8.夏 投稿日:2008/03/30(日) 00:46


それ以上は何も言わなかった。
絵里が祭りに行って、自分と同じような目で見られてしまうだろうという予測が当たって欲しくないからだとは言わなかった。
自分と一緒に行っても同じだろうから行かないで欲しかったのだとも言わなかった。

そろそろ真夏も過ぎる頃になっていた。海にいけるのも今年は後何回だろう。

152 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/30(日) 00:47

本日の更新は以上です。
153 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:07

肌が焦げるような太陽の日差しも秋が近づくにつれ弱まり肌を焼くような熱い風も大分涼しくなってきた。
もうすぐ秋がくる。そうしたらもう今年中は海に入れなくなるだろう。
おそらくは明日で最後。海に対して別れの挨拶というのも変だがれいなは同じような事をしようと思っていた。
それはここにきてから毎年恒例のこととなっていた。
明日絵里と一緒に長く会えない海にさよならしよう。
そして来年また会う事を約束しよう。もちろん絵里と一緒に。
れいなの見る未来には絵里が間違いなく存在していた。
いつまで経っても同じように、一緒に笑って過ごすということは一つの願いであり、当然とも言えた。
154 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:08

前はあんなに熱かったのに、熱を持たない砂は二人にそう思わせた。
踏めば容易に崩れ足を取られる、慣れたものでそんなのももう普通の地面を歩くように歩けた。
来年も来れるとは言ってもやっぱり寂しいもので以前の熱を失った砂になんとなく恋しさを感じたりもする。
しゃがみ込んで手を砂の中にうずめると体温よりも少し低い温度が手から伝わった。
去年もその前の年も同じ位の温度だったことを思い出す。
れいなは勢いよく立ち上がって海に突っ走っていった。
絵里はそれを見て力の入っていない笑いを浮かべゆっくりと海に向かった。
155 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:08

恐る恐る足をつけるとずいぶんと冷たくなってしまった海が体を震わせさせた。
れいなはもう腰のあたりまで元気に浸かっている。
「つめたーい」
足首までで絵里が断念しようとすると、前を向いていたれいなが振り返って戻ってきた。
近づいてくるれいなを見て絵里は小さいな、と思った。
あの日体を丸めて縮こまっていたのを見て初めてそう気がついて、そのことを意識してからは頻繁に思うようになった。
「はいらんと?」
初めて会ったときと比べると声の性質が変わったように思える。
警戒したような、緊張したような声はしなくなり、今では少し甘えたような声を出すことすらある。
その変化が絵里にはたまらなく嬉しい。
「うーん、冷たいからなあ」
本当は入るつもりではあったがわざと考えている風に見せた。
じゃれるのは楽しい、だからもっとじゃれられるように演技する。
「今日が最後なんだから入ろ?」
156 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:08

小さな手が絵里の手をとる。その手は少し冷たく絵里は今日は冷たいものばかりだな、と思った。
猫みたいな笑顔を絵里は浮かべ、細い指と手のひらを握った。
「れいながどうしてもって言うなら仕方ないなあ」
自分よりずっと幼い子をからかうように言うと、れいなは意地っ張りだから、じゃあいいよ、と不機嫌そうな顔になった。
ここのところ絵里にはれいなが可愛くてたまらない。こういう態度をとる事を予想して何を言うか考える。
れいなが手を離して絵里を置いていこうとするのを握って戻す。
「冗談だよ」
握ったらその手をぶんぶん音がするほど大きく振って歩く。
れいなは一度びっくりしたけれど自分もその速さに合わせて手を振る。
だんだんと足が海に食われていくような感じがした。水だけの特別な感触。
二人ともが海に腰まで浸かる。腕をふっているとその手も海に食べられてしまった。
それでも前へ前へ進み、ある程度の深さまでくるとれいなは海に飛び込んだ。水中眼鏡をかけて。
157 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:09


ざぶん
158 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:09

握っていた手は今度こそ離れて手のひらまでも水に食われる。
冷たさは絵里の心に一瞬の寂しさを生み出した。絵里はれいなに続いて海に飛び込んだ。
159 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:10

れいなは絵里とであった日に誓った事を守ってあまり深くにはいかない。
だから絵里はれいなに追いつくことができる。
まだ空ではっきり燃えている太陽は海の中で白い光に変わり二人の肌を照らす。
れいなの肌は透き通ってしまうのではないかと思わせるほど白い。
いつのまにか二人は水中追いかけっこを始めて、海の光のトンネルを泳ぎだした。
時折顔を出してはまたすぐに潜る。体の大きさからかれいなのほうがその間隔は少し短い。
息継ぎに時間がかかっていたせいでれいなは割と早く捕まった。
それから立場は逆転。絵里は慌てて逃げていく。れいなは不敵に笑って追いかける。
ときどき砂浜に上がって走って逃げたりするとまた海に飛び込んでは逃げて。
れいなはあまり運動が得意なほうではないから絵里はある程度加減してわざとと悟らせないように捕まる。
嬉しそうに小さな手が自分の背中を触るのを見るのも絵里にとっては嬉しいことだった。
160 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:10

絵里は再びれいなを捕まえにかかる。細い腕や脚を懸命に動かしてれいなは逃げていく。
その背中を見ると俄然やる気が出てきて絵里は大きく息を吸うと音を立てて海に潜りれいなの後ろからついていった。
息が切れて苦しくなっても捕まえるまでは追いかけ続けたい。
れいなは海面近くを泳いでいく。半袖がゆらゆらと揺れる。透けてしまいそうな細い足が水を蹴る。
絵里も同じように水を蹴り、水をかく。それは絵里のほうが滑らかだった。
何度目かのれいなの息継ぎで絵里はれいなを後ろから抱きしめて捕まえた。
体温が水に溶けてわからなくなって、存在しなくなったように思われた。
確かに触れ合っている、なのにそれを感じたのは陸上とは違う。どこか寂しい。
海に食われた感触、失うことは寂しいことである。
絵里はわずかに抱きしめている腕に力をいれた。
触ってわかる細い腕、細い肩、細い腹、小さな背中。
161 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:10

これを守りたくて絵里はここに来た。れいなが見せる純粋な笑顔が見たくてここに来た。
今しっかり守れているかはわからないけれど少しは助けられているかもしれない。
れいなが自分の嫌な過去を話してくれたからそう思うことができる。
それに少なくとも前までの寂しげな表情は見せなくなった、よく笑うようになった。
絵里はそのことが嬉しくてにへと笑った。
162 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:11


拭いても濡れている髪は放っておいて、誰もいない事を知っていても一応岩場の影で着替えて、
さっきまで泳いでいたところの砂浜に二人でしゃがみこんでいた。
水面は夕日とはいえないが大分落ちた陽でほんのり赤くなっている。
「今日でしばらく海とはお別れたいね」
ここ数日の海の温度をみて今日で今年はもう見切りをつけなければならないと思っていた。
はっきりと決めておかないといつまでも来たくなってしまうから、そして以前風邪をひいて祖母に叱られた。
海と別れるのはれいなにとっては毎年辛いことだった、けれど今年はそうでもないかもしれない。
辛い理由は精神的に依存できるものがなくなることだ。
しかし今年は一人ではない、絵里がいる。依存はしなくても頼れる人がそばにいる。
絵里とじゃれるのは海で泳ぐよりずっと楽しい。だから、もう、寂しくなんかない。
二人は足が濡れない程度に水面に近づいて、押し寄せる波に触れた。
やはり冷たい、手のひらを砂が溶けて流れていくのがわかる。
ひんやりとした海風が頬を撫でる。
163 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:11

落とした視線には細かな砂が波が来るたびに歪んだガラス越しに見える。
波が引くと表面の今まで見ていたのは波とともにひいていく。
永遠に続くような無駄な繰り返しを沈黙の中じっと見入っている。
黙っていたって波の音は絶えず聞こえるのだから。
が、その沈黙を破ってれいなが唐突に絵里に話しかけた。
その言葉はれいなにとっては当然であり、果てしない願望でもあった。
「来年もまた来よう」
来年も、再来年も、その次の年も、できるならずっと。来年、の一言にそれだけ本当は詰まっている。
絵里はその言葉に大きく動揺し、心を痛めた。
きっと一緒に海に入れることはないだろう事を知っていたから。
動揺を隠して笑顔でごまかした。うん、と一言返すのが精一杯だった。
いずれ言わなければいけない真実と、そのときの事を考えると胸が苦しくなる。
できることなら、できることならこの約束が果たせればいいのに。

164 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:11


**********

165 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:11

その次の日、れいなは風邪をひいた。
前日に海に行って泳いでいたことは祖母も知っていたので祖母は呆れた顔でバカだねえ、といった。
れいなは一人で部屋で寝込んでいた。熱はそこそこ高く頬と目が赤くなっている。
小さな体に合った早い呼吸は更に速くなり熱を持っている。額には氷と水を入れた袋をおしぼりの上に乗せていた。
絵里は祖母に風邪がうつる事を防ぐためにあまり部屋に入らないよう言われていた、
が、れいなが風邪をひくのははじめて見るから心配でたまらない。
どことなくそわそわしながら何度もれいなが寝ている部屋のほうを見ながら一日を過ごす。
その様子を見ていると祖母が絵里が何を思っているか大方予想をつけて妥協した。
本当は部屋に入らないでほしいけれど一目でも見せないと、
今度は絵里が病気になるのではないかと思えるくらい絵里は落ち着けなかった。
コップに氷を入れて冷たくしたスポーツ飲料を理由に祖母は絵里を部屋に入れることを許可した。
166 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:11

静かにふすまを開けると頬が赤いれいなが少し苦しそうに眠っていた。
その姿を見て絵里は悲しくなりながら足音を立てないように部屋に入る。
半透明の薄い薄い白の中で透明な四角が壁にぶつかることなくゆらゆら揺れている。
とにかく静かに開けたふすまを空いている片手で閉め、れいなの枕元に座る。
小さな声でれいなの名を呼ぶとうっすらと目を開いた。目も赤い。
「え・・り・・・」
寝起きのかすれた声が今度は絵里の名を呼ぶ。どこか寂しそうに感じられた。
絵里ははい、とストローをコップに差してれいなの口元へ持っていった。
れいなは寝たままでは飲みづらいからゆっくりと体を起こす。絵里は背中に手を当ててそれを手伝った。
薄手のシャツの背中はれいなの汗で湿って、体温で熱くなっていた。
背中に触れていると浅い速い呼吸がよくわかる。誰が見たって辛そうだった。
167 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:12
ふらふらと朦朧とした状態でれいなは唯一体に入れられる飲み物を口に含んで喉を小さく動かした。
鼻からすう、すうと懸命に呼吸する。絵里はそんなれいなの髪を梳いた。
全部飲み終えると体を起こしているのも辛いようで倒れこむように布団に入る。
おかわりは、と絵里が聞くと薄目のまま首を横にわずかに振った。今にも目を閉じてしまいそうだった。
その姿はとても儚く見えて絵里は少し胸を痛めた。わずかに眉尻を下げたがれいなは気づかなかった。
絵里がコップを置きにいこうと立ち上がるとズボンのすそを弱い力でれいなが掴んだ。
「どしたの」
もう一度座りなおして顔を近づけて訊くとれいなはとても寂しそうな顔で、蚊の鳴くような声で囁くように言った。
「行かんといて」
だから絵里は立ち上がることをやめてコップを床に置いた。
すそから離れた手は絵里の手を探しだして掴む。とても熱い。
ひゅうひゅう空気の通る音がする喉からは再び声が出る。
「どこも、行かんどって、絵里」
168 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:12

かすかな声が絶対的に絵里を動けなくする、それかられいなは本当に目を閉じた。
赤い頬に白い瞼。熱を持ちすぎている小さな体。しっかりと握られた手。
薄く開かれた目が赤かったのは風邪のせいだけじゃないらしく閉じた目からは一筋涙が流れていった。
消え消えに「お母さん」と聞こえたのは決して絵里の空耳ではない。
そうして絵里は涙の理由も絵里の手をれいなが探して掴んだわけもあっさりとわかってしまった。
一度だって言ったことはないけれど本当は会いたいのだろう。
口にさえ出さないのは置いていかれた傷か、その後の嫌な思い出のせいか、それとも。
強い願いは流れ星の前でない限りは口に出してしまうと叶わなくなってしまうから。
眠ってしまって力がまったく抜けたれいなの手を絵里はきゅう、と握った。
169 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:12
どうしたらこの苦しみから逃がすことができるだろうか。まだまだ絵里はれいなを救えていない。
笑っているだけじゃ足りない、前はそれが目的だったのに今は苦しみを心の底から引き裂いてしまいたかった。
また、それ以外の正体不明の感情ができてしまっていることも感じていた。
今までここにくるまで知らなかった胸を痛めつける激しい熱を持った感情。
以前まで持っていたものにここまでになることはなかった。
穏やかな熱はあったものの、もう種類が違うとはっきりわかるほど。
人間は色々な感情を複雑に共存させていると聞いたことがある。
愛情も憎しみも、全て一緒に持つことができる。それは醜くもあり美しくもあるだとも聞いた。
れいなはさっきよりは穏やかな顔で眠っている。
170 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:13
絵里はそれを見ると優しい気持ちになれたけれどそれ以上に苦しく、顔をゆがめた。
じわりと胸の置くが焦げる、焼ける。
れいな、と起こさないように呟く。その響きは大切で大切で大切で、時々どうにかなってしまいそうになる。
胸の火が指先まで熱を通して、その指でれいなに触れたらどうなるのだろう。
軽くくらくらしそうな思考のままきめ細かなれいなの頬に触れる。
離したくなくなる程滑らかで、そしてまだ熱い。
171 名前:7.夏―秋 投稿日:2008/06/22(日) 11:13
絵里はじっとれいなの顔を見つめていた。眉、瞼、鼻、頬、薄い赤の唇。色のバランス。見とれてしまう。
もう触れるだけじゃ足りない。行動の意味もわからないのに体が動くとおりに絵里は無意識に動いた。
れいなの顔に自分の顔を近づけていく。起こさないように密やかに。
そしてその薄い色の唇に唇をこっそりと触れさせる。やっぱり熱い。まるで自分の指先のように。
静寂は普段の絵里を殺していた。れいなの熱が絵里の頭に移ってしまった様だった。
数秒たってすうと顔を離すとれいなは小さくん、と唸った、が起きたわけではなかった。
絵里は今触れたばかりの感触を反芻しながられいなのことを黙ってみていた。

172 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/24(火) 00:18
や、私なんかが言うのは失礼な話ですが、
美しく、やるせない。次回の更新、たのしみにしております。
173 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/03(木) 15:02
>>172
ありがとうございます。全く失礼なんかじゃないです。
174 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:02

大分涼しいけれど寒いまではいかない過ごしやすいある日。
それは突然だった。
175 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:03

絵里がトイレからでるとろうかの端の玄関の戸を叩く音がした。
すっかり家族となっている絵里が間延びした返事をしながら叩かれた戸を開く。
いつもなられいなが出るがれいなは今部屋にいる。見よう見まねで応対する。
そこには感じたことのある雰囲気を持った、お姉さんと呼ぶには少し歳をとった、
かといっておばさんというには若い女の人が立っていた。
化粧は自然に薄くしている程度、色白な肌に少々派手めな唇の色が目に残る。
時々この家に訪れる来訪者はかなり歳をとったお婆さんしか見たことがなかったから絵里は驚いて少し呆けてしまった。
その女性も絵里が出てきたことに一瞬驚いたが、すぐに気を取り直して控えめな声で言った。
「こんにちは」
顔は誰かに似ていて、その声もよく聞く声に似ていて、更にアクセントまでもやや似ている。
つられて同じ言葉を返すと女性は愛想のいい笑顔を向けて、おばあちゃんいる?とあまり大きくない声で言った。
今祖母は出かけている、と絵里が言おうとすると、後ろかられいながだらだらと歩いてきた。
176 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:03
「なんしとー」
だなんてのんきな言葉を吐いたすぐ後にれいなは女性を見て驚いた顔のまま固まってしまった。
事情がわからないで絵里が玄関のほうを見てもさっきの女の人が立っているだけ。
ただ表情が変化していた、静かな水面が波を打つように。
「れいな」
その声を再び聞いて絵里はぴんときた。唐突な二つの疑問は一気に解けた。おそらくは正解だろう答え。
れいなの顔をもう一度見てみたら無言の回答が書いてある。
怒っている、確実に腹を立てている、けれどそれ以外の何かがひょっこり顔を出しそうで
それを無理矢理押さえつけて獣のようにれいなは彼女を威嚇する。
合図があれば噛み付いてやると強く睨む。触れられる事を強く拒む。
絵里はその緊迫した空気の中で考えていた。
177 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:03
れいなはきっと近づいても噛み付かないだろう、噛み付いても本気ではない。
だってほら、そういう間柄だから。
「ばあちゃん呼んでくる」
床を蹴飛ばして彼女の横を靴を蹴散らしながら一足だけ履いて出て行った。
鋭い声と刺々しい態度で怒りを抑えきれないと撒き散らして小さな背中は玄関を出てすぐ曲がった。
女性はそれを受けて悲しげに俯いていた。絵里は黙ってそれを見ていた。


178 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:03


れいなは夕飯まで帰ってこなかったが、日が暮れるとふてくされた顔で仕方無く帰ってきた。
女性は料理が並んだ食卓についていた。どうやら混ざるつもりらしい。
俯き気味の表情には影があった。少し緊張しているのか硬くなっているようでもある。
れいなは相変わらず不機嫌そうに座ると一言も発しようとはしなかったし
話しかけるなとでもいう様なオーラを出していた。圧迫感に絵里も女性も何もいえない。
非日常的な空気。最後に祖母がつき、それぞれいただきますと言って食事が始まった。
179 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:04

女性はれいながいない間家で祖母と話をしていたらしく、
そこから話を展開させようと一生懸命れいなにふるのだがれいなはあまり応じようとしない。
うんかううんか、ひたすら素っ気ない返事をし続け、顔を上げずに食事に集中しているふりをしていた。
わかりやすい演技を誰も指摘しない。できる空気でもない。
話しているのにそれ以外の静けさが妙に気になる。絵里はちらちらとれいなを見ていた。
途中女性は自分の話に切り替え今は以前れいなが暮らしていた所よりいいところに住んでいるのだという話をした。
「母さんの仕事だいぶ安定したからこっちに来なさい」
母さん、というのが当然今ここにいる女性の事を指していることは間違えようもできない。
絵里は動作を止めかかったがそれ以上に、れいなの演技が止まった。
上げようとしなかった顔が上がる。驚いて目を丸くしている。
そしてゆっくりと歯を食いしばり、眉間にしわを寄せて、数秒。
箸を食卓にたたきつけた。木と木が弾き合う鋭い音に絵里は怖がって片目を閉じた。
「今更。絶対行かん」
180 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:04
茶碗にも御椀にも皿にも半分も食べていない料理が残っていた。
けれどれいなは勢いよく立ち上がって走り去るくらいの速さで自分の部屋に戻った。
その背中に彼女はれいな、と呼ぶも振り返らなかった。
背中が消えた襖、声は追いかけずむなしく響いた。
母親は絶望した表情になり食卓は静まり返った。祖母も溜息をついた。
181 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:04

それから箸の音だけが響く食事を終え各自が食器を下げる。
「部屋行くね」
絵里が告げると祖母は安堵の色を含みながら頷いた。
母親は食卓にへたり込むようにすわり絵里のほうを一度だけ疲れた視線で見た。
泣き出しそうな目が玄関で見たときよりも年を感じさせた。
視線を外してひじをつき、ふうと溜息をつく。後姿が小さかった。
絵里は足音を立てずに居間を出て、襖を数センチ残して閉めた。
そして部屋に行かずわざとそこで待っていた。居間に残った二人の話を聞くために。
母親の声が隙間から少し暗い廊下に光とともに漏れる。
「やっと一緒に暮らせるのに」
さっきより長い溜息、と、小さく鼻をすする音。
絵里は、予想以上に早い別れを襖に体重をかけないよう気を配りながら想像していた。
れいなは本当に母親を嫌っているわけじゃない、祖母より誰よりわかっている。
もしもれいなが母親についていったなら自分は置いてけぼりだ。
泣き出したくなるがこれかられいなの部屋に行くと思うとできなかった。
182 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:04

待ちくたびれてしまって閉じた戸を開けるのはけして絵里だけじゃない。
閉じさせた人間もまた開けさせる力を持っている。
開けて、彼女を迎えて、それで笑顔になってくれるのなら、絵里は十分なのだ。
もとよりそのつもりだ。少し寂しくてもれいなが悲しい顔さえしなきゃ満足である。
覚悟、はできてしまう。
「最低でも明日、出なきゃならないの」
「仕事かい」
「うん」
「やっていけるのかい」
「やっていくしかないでしょ、れいなのためにも」
絵里はその場から離れれいなの部屋に向かった。

183 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:04


「明日行っちゃうんだって」
「うん」
れいなは壁によりかかって座っていた。
うつむく姿が小さく、母親によく似ている。
空白の数年間、れいなと同じように彼女も苦しんできたのだろう。
絵里はぺたりぺたりとれいなに近づいて小さな頭を撫でる。
れいなが泣いてるのをわかっている。
泣かれるのは苦しいことだけれど慰めることじゃないからどうしようもない。
泣かないで、なんて軽い事を口にはできない。
絵里は体育座りで正面に座った。
「いいの?」
その言葉にれいなはちらりと顔を上げて絵里を見た。
「わからん」
全ての体の部位が小さい。顔を覆う手も小さい。
なのに絵里を大きく動揺させる。
「わからん!どうしたらいいかなんか、わからん。なんで今更。」
184 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:05

顔が隠れて、苦しい声でそう吐き出した。
「なんでもっと前に連れてってくれなかった」
開いたドアが閉じていくようだった。絵里は泣きだしそうだった。
決してつられてではなく自分の確かな感情で。
れいなが苦しむだけで苦しい。れいなが傷ついても苦しい。悲しんでも、寂しがっても、胸が引きちぎられるようだ。
辛い顔だけは見たくない。れいなは絵里の全てだった。
手を握ろうとしたが握れなくて、それでも包み込みたくて、その小さな体を抱きしめた。
「絵里は、れいなが笑っていてくれれば、どっちを選んでもいいと思うんだ」
手のひらの中で閉じた目が開かれた。覆う手の力は弱まった。
寂しさの塊が温かく包まれ溶け出していく。
「お母さんに腹が立ってどうしても嫌いで、一緒にいて笑えないと思うならここにいてもいいんだよ。
 お母さんと一緒に行きたいなら行ったほうがいいんだよ。
 れいな、正直な気持ちはどっち?憎んでる?」
185 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:05
気持ちをぐちゃぐちゃにした混乱も取り除かれる。
れいなにはたまらなく優しい声に聞こえて、違う涙が落ちる。
「憎んでない。できれば、一緒に行きたい」
「そっか」
答えを否定しない受け止める声だった。受け止めて抱きしめている。
れいなはだから安心する。怖がりながらも出した答えが少なくとも絵里の中の間違いでないから。
れいなは絵里の全てであるから、れいなごと受け止められる。
186 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:05


体を離すと赤い目から涙が伝っていた。れいなの胸はきゅうと締め付けられる。
「絵里、泣いとう?」
「だって、れいなが、苦しそうだったから。」
れいなが絵里の涙を拭き、絵里はれいなの涙を拭く。
どちらも相手を心配そうな顔で覗き込む。
「もう大丈夫だよ」
れいなが笑ってみせると安心して絵里もふわりと笑う。
強烈なやわらかさに思わず心をゆだねてしまいたくなるし、ゆだねてもいいとおもった。
絶対的で揺らがない。れいなが絵里を信じないはずがない。
初めて大丈夫だといわれた気がした。
「ならよかった」
うへへ、と笑いながられいなにぎゅうと抱きつく。
愛しい体温がそこにある幸せを知った。
187 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:06

その夜れいなと母親は顔をあわせなかった。
絵里と二人で日常的な空気で床につきおやすみと言い合って静かに目を閉じた。
しばらくして絵里の寝息が聞こえた頃れいなは目を開け絵里の横顔を見る。
穏やかに胸が上下し熟睡しているようだった。
その顔を見ると落ち着いて高揚していた気持ちが段々やわらかくなっていく。
明日の朝、自分の心を正直に母に言うつもりだった。
深呼吸すると以前母親と暮らしていたときのことや今ここでの生活のこと、
絵里とはじめて会った日のことを思い出す。そしてそれから起きた出来事に笑った。
心の底から本当にいい日々だったと感じる。
188 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:06

声に出しては言わないが絵里に深い感謝をした。
じわりと目頭が熱くなり涙が目の横を流れていった。
ひとつ長い息を吐いて目を閉じた。頭の中で浮かぶ思い出がれいなに夢を見させる。
絵里と海の中で楽しく泳ぐ夢だった。無邪気に笑っていることに気づいていた。
この家にきてから失っていった笑顔だったこともわかっていた。
充実していた。何より自分に優しかった。かけがえのないものだった。
心はもう決まっている。それに向かって明日歩き出す。

189 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:06


**********

190 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:06


緊張のせいかれいなはいつもより早く目が覚めた。
隣の絵里は寝相が悪く布団が元の位置にはなかった。
れいなのほうに体も顔も向いている。それがなんだか微笑ましい。
れいなは起きて立ち上がり、絵里を起こさないようにしながら布団をしまった。
部屋を出る前に絵里の寝顔をじっと見つめる。
幸いなことによだれも垂れていないし半目でもなく、
あひる口気味でとても可愛らしい普通の寝顔だった。
普通で、あまりに普通でれいなは安心する。高ぶっている気分に気づかされる。
髪を撫でたくなるも起こすのは嫌で寝顔を見ているだけにした。
れいなは一つ静かに笑って部屋を出て祖母が居るだろう外の小さな畑へと向かった。

191 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:06


「ばあちゃん」
「あれ、おはよう。今日はずいぶん早いねえ」
平常の祖母となんら変わる様子はなく昨日のことも今日起こることもなかったかのようだ。
そんなことはなく今日の決戦というべき出来事は必ず来るのだろうけど、
錯覚を起こしそうなくらい普段どおりの朝。
変わってほしかった日々は変わらないでほしい日々となったことをれいなは知っている。
「早く起きたけん」
「なら手伝え」
「うん」
祖母と並んでしゃがんで雑草を抜いたり、食べごろの野菜をとったり黙々とこなす。
祖母のほうが手早く、とても歳が感じられなかった。
腰が曲がってきているのは手がそんなに早くなるほどにこの作業をこなしているから。
れいなたちに食べさせるためだ。いつも手伝ってはいるけれど祖母ほどはやっていない。
れいなは祖母に感謝する。
「ばあちゃんいつもありがとう、迷惑かけてごめん」
祖母は顔を上げなかった。
192 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:06

「子供がそんなこというんでない、迷惑なわけないだろうが」
手が進む速さに変化はなかった。れいなも真似て手を進める。
常にあった負い目が少し和らいだような気がしていた。
遠くへ自分を捨てていった母親の代わりに仕方なく育てているだと思っていた、
けれどそうじゃないのだ、今確かなものを初めて強く感じた。
初めて、ということが申し訳なかった。
しばらくまた黙って作業が進んでいき、陽が登ってきた。
れいなのお腹は健康的に鳴って、祖母が笑って御飯にしようかと立ち上がった。
腰の曲がった後姿が格好よく見えた。
193 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:07


採った野菜を手に家に入るとすでに朝食のにおいがしていた。
祖母のものと変わらないのは親子だからなのか、運んでいたのは母と絵里だった。
昨日の場所に各自座る。嫌でも昨日の気まずい空気が感じられる。
断ち切るように母がおはようといい、れいなも返した。
その声に緊張はあるもののとげはない。れいな以外は内心ほっとしていた。
いただきますと朝食が始まる。味もいつもとあまり変わらない。
というより味のことを気にできるものがこの場にいなかった。
調理者の目は少し腫れていて、下にはくまができていた。
絵里は、本当はあまり眠れていなかった。
昨日のれいなの言葉、今日訪れる可能性の高い別れ、その寂しさに胸が痛くなって
しっかりとれいなの選ぶ道を祝福してやれていない自分に嫌気が差した。
人間が抱える矛盾で頭が痛くなった。
194 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:07

上手く眠れず実はれいなより早く起きていたが動く気にはなれなくて寝たふりをしていた。
黙々と箸が進んでいく。誰も残さないができればもう食べたくなかった。
考えがいっぱいで腹が満ちる。
「母さん」
れいながとうとう口を開いた。箸を動かすのはやめている。
「何?」
れいなの顔は真剣だった。母親の顔も緊張していた。
絵里はできれば何も聞かずに逃げ出したかった、が、それはれいなを裏切ることだからできなかった。
耐えて座っている絵里に関係なくれいなの口から出たのは思いもよらない言葉だった。
「絵里は一緒に行けん?」
突然のことに絵里は目を丸くした。
「それはできない。」
即答ではなくほんの少し間があった、けれども結果は同じだった。
急にもう一人連れて行き、その生活を面倒見るというのはかなり苦しいものになるだろう。
経済的にも精神的にもその余裕はなかった。
195 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:07


れいなは、とうとう心を決めた。絵里の寝顔を見ながら夜の間考えていたことだ。
「やっぱり、行かん。絵里と一緒に行けないなら行きたく、ない。」
れいなの意思だった。誰かに影響されたわけじゃない、悩んだ末に選んだ道。
母親よりも絵里のほうに天秤が傾いた。
「なに、それ。」
箸が母親の手から食卓から転がり落ちた。落とした手のほうはというと震えていた。
勢いよく立ち上がり、我を忘れたように母親は怒鳴った。
「あたし一生懸命やってきたのに何、誰のためにがんばったと思ってんの、
 あんたのためじゃない。あんたと一緒に、」
れいなにつかみかかろうとした。れいなの顔は怯えていた。
耳に痛いほど響くその言葉や剥き出しの感情に立ち向かおうとするのは不可能だった。
しかしその時。
196 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:07

「馬鹿者っ。」
黙っていた祖母は珍しく怒鳴りつけた。
それは母親のとは違い理性的で、母親以上に重く静かな怖さを持っていた。
睨みつける目は年のせいか威厳があった。
「自分の願望を子供に押しつけるんじゃない。
 だいたいれいなのためだというなら何であんなくだらないことした。
 無責任なことしてるかられいなはあたしにもわがまま言えないように育ったんじゃないのか。
 あんたがれいなをこんなにしてしまったんだろうが。
 れいながどんな思いしたかあんたわかってるのかい。」
きっと消してしまいたかっただろう弱みや責任を、自分の母親に言い当てられて
掴みかかろうとした手は力なく行き場をなくした。
目には悲しさが浮かぶ。怒ることでごまかしたかったものは曝け出されて、どうしようもなくなっていた。
「母さんと行きたいけど、れいなはそれ以上に絵里と一緒にいたい。」
弱った母親にれいなは申し訳なさそうに本心を語った。
「わがまま言ってごめんなさい。」
197 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:08

言い終わるころにれいなの目から涙が落ちて、一滴落ちたのをきっかけにぼろぼろと零れた。
もしかしたら初めて見せる幼い表情だったかもしれない。
母親の前でれいなは一番子供らしかった。
その姿を見て母親は初めて母親になった。
「れいなはあたしを嫌なわけではないの?」
れいなは首を縦に振った。その反動で涙が床に落ちた。
涙のきれいさを絵里はじっと見ていた。透明で純粋で純潔。想いの塊。
「なら、いい。ごめん。」
母親はれいなを抱きしめた。優しい時間が流れた。

198 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:08


「じゃあ元気でね。」
それだけ言って母親は帰っていった。今度は連絡先と住所を残して。
手を振り合う二人の間にわだかまりはもうない。
「本当にいいの?」
そう言い出したのは絵里で、不安そうだった。
「なんそれ」
答えるのはれいなで、不満そうだった。自分の結論に後悔はしていないしこれからもしないだろう。
「れながいいって言ってるからいいの。」
少しすねた口調で言ってみたら、予想外にも絵里が泣き出してしまって慌てる。
「な、な、なに。れいななんかした?」
「行っちゃうと思ってたんだもん。」
悲し涙ではないようでほっとした、というよりむしろ嬉しいが、泣かれていると落ち着かない。
泣き止ませようにもどう泣き止ませたらいいかわからなかった。
最初は困っていたものの、どうにもできず不思議なことに腹が立ってくる。
199 名前:6.秋 投稿日:2008/07/03(木) 15:08

「泣き止めっ。」
ちょっと怒ってみたら絵里は何がおかしいのか笑い始めて泣き止んだ。
うへへと笑うのはいつものことで、れいなはそれに普通を感じた。
これまでの日々と同じように過ごしていける、そう実感した。
秋の少し冷たいさわやかな風が頬を撫でていく。

なんとなく幸せが満ち足りたような気がしてれいなは笑った。
絵里もうれしそうに笑っていた。
ずっとこのままならいいという思いが二人の心に生まれていた。


200 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/04(金) 01:00
更新きたー
以前から作者さんのファンです。
なんというか、更新の度に心が震える感覚です。
次の更新も楽しみにしてます!
201 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/08(火) 01:47
好きです。
202 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/16(水) 22:57
>>200
ありがとうございます。いつもより早めに更新しますね。

>>201
痺れるような一言レスありがとうございます。


ブログでも書いたのですが、正式にこちらにお知らせします。
次の次の更新でこのスレの更新は終わりです。
放棄予告です。読んでくださっている方本当にすみません。
こんな放棄の仕方は我ながら情けないです。
ご了承ください。

とりあえず本日の更新です。
203 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:57
お互いに妙な違和感を持っていた。
内容は異なり気づき始めたのも違う時期であったが大きくなればなるほど気になって胸に引っかかった。
「れーなー。」
「んー?」
一緒に軽い買い物に行って帰ってくる途中、れいなの背中に絵里が抱きつく。
絵里が温かくてれいなは背中が寒かったことを知る。
もう冬の匂いが広がっている。後一歩踏み出すだけで冬が来てしまうようなそんな季節。
「重っ。」
「うえー?」
背中に背負った熱は温かいけれどその分重たい。
その重みをれいなは本当はそこまで嫌じゃないけれど素直じゃないから言ってやらない。
そのことをわかっているから絵里は離れようとしない。
のろのろと歩く後姿は誰かに見られるわけでもないからいいが滑稽だ。
上機嫌な絵里を背中に感じながられいなは浮かび上がる違和感を探る。
204 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:58

すべての始まりは、よくよく思い巡らせてみると母親が来た日だったかもしれない。
あの日から絵里はれいなに抱きつくようになって、
その行為は嫌じゃないがそうしだしたことについては不安というか疑問が浮かぶ。
そしてまた、コンマ一秒より短い時間に見せる表情。これについては勘違いかもしれないが。
点が結びついて出る答えがそこまで経験がないものの一つしかなくてれいなはだんだん不安になる。
求められているものと答えられるものが違うとしたら、その先は―――。
もしかしてしまう答えに手のひらと頭の血の気が引きそうになる。
けれど平常を振舞うためにそんな考えを切り離してしまうのだ。
何も見ていないと自分に言い聞かせて、ごまかすのが得策であるような気がした。
手に入れた大切なものを手放すことは怖い。
手放されるのはもっと怖い。簡単には消えない恐怖が自分の奥にあるのを知っている。
疑う自分も恐れる自分も純粋な顔で笑う絵里の前ではとても醜く見えた。
205 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:58

吐き出す二人のはかすかに白く、風に乗って混ざって消えた。
寒空は夏の空より薄い青。背中に絵里を背負いながらもれいなは寂しさを感じた。
206 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:58


部屋に戻ってれいなはマンガを読んでその隣で絵里がごろごろ転がりながらじゃれる。
これが普通なのだが、マンガを読むれいなを両足で挟むように座りれいなに抱きつくのが最近の絵里の流行らしい。
背中に顔をこすりつけられて冷静なふりをするのは大変だった。
考え事で頭がいっぱいなせいでページをめくるも内容は頭に入ってこない。
ぐるぐるぐるぐる普段の5倍くらいの速さで頭が回る。
しかし回しても答えは出ない。なぜならこれは絵里に聞かなければ何もわからないから。
聞きたくて、けれど聞けなくて、思考は自分にとって悪い方へ行く。
れいなにとって悪い状態、それは絵里が自分に恋愛感情を持って接している場合だ。
恋愛感情だったならその熱はいつか消えてしまうかもしれない。
れいなにとってはいつか、が怖かった。自分の許から去る未来を想像したくない。
そして、もしこれまでの絵里の行動が恋愛感情があってのものだったら、なんだか裏切られた気分になる。
今れいなは恋愛感情でないとしても絵里のことを好きだ。
207 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:58
そう思うのはこれまでそばにいて、辛い時も一緒にいて、辛い話も聞いてもらったというのが大きい。
これらの行動が絵里を好きにさせるためだったなら、
そこまで考えてれいなはため息をついた。
考えるのをやめたい、と思うと手に持った本がうざったく感じて置くしかなかった。
まだ半分も読んでいないのに。
「読まないのー?」
「うん、やめた」
背中にいる絵里に体重を預けながらずりずりと足の間に頭を落としていく。
次第に背中は絵里ではなく床にこすれるようになって、視界はだんだん上にいって、
仰向けになったれいなの世界の半分を絵里が覆った。
絵里が覗きこむと蛍光灯が遮られ、れいなから見た絵里の顔は全体に影に埋められていた。
「絵里は、」
れいなのこと、どう好きなの。
208 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:59

そうやってこのまま聞いてしまえばよかった。
しかしれいなは我にかえって言葉を止める。
恐怖と、こうやって思う自分が醜く思えて、急ブレーキがかかる。
「んー?」
疑問符を頭に浮かべて絵里はれいなの目を見つめた。
絵里はいつでも楽しそうだった。れいなは何も言えなくなる。
「なぁんでもない。」
体ごと横に向けて目を閉じる。そうしたらやわらかな力で髪を撫でる手を感じた。
れいなの胸はいろいろな感情で押しつぶされそうだった。

209 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:59


**********

210 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:59


その日の絵里はなんだか落ち着かなかった。
何が自分をこんなにそわそわさせるのかわからない。ここ最近持っていた違和感が今日は昨日一昨日より強い。
それとやけに感覚が敏感だった。
皮膚感覚ではなく、他人の心が手にとるように伝わる。
目に見えている風景はいつもと変わらない、耳から入る声や音の調子もいつもと変わらない。
表情や声のトーン、言葉から伝わり切れない機微までぴりぴりと感じ取れて、自身でも困惑していた。
ここにきてまだ半年経つか経たないか。何か変わるにはまだ早い、はずだ。
絵里は不安になった。1年の約束。これは自分がここにくるためにかわした契約だ。
長くも短くもなるはずがない。
今はまだ早すぎる。
211 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:59

昼を過ぎて3時ころ、部屋でうだうだしていたれいなが急に本屋に行くと立ち上がった。
もこもこと暖かそうな格好に素早く着替えてしまって、スタートが遅れた絵里は慌てて着替える。
「絵里もいくー。」
わたわたしている絵里をからかうようにれいなは数を数えはじめた。
れいながにやにや笑うと絵里はにらみながらも手を動かす。
着替え終わりそうになるとわざと早く数を数え終わらせて駈け出した。
絵里はもう、と膨れたままその細い背中を追いかけた。
212 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:59

日が少し傾いている。
玄関からしばらく追いかけっこは続いた。
絵里が捕まえようと手を伸ばしたとたんれいなは速度を上げる。
届くはずが掴み損ねて絵里は速度を落とし、れいなも速度を落とす。
絵里がそれを見て力いっぱい走るとれいなも全速力で逃げた。
しかしもともと絵里の方が足が速い。上着をやっと掴んで引き寄せて、抱きしめる。
空気は寒いけれど体は温かかった。
絵里は楽しくて笑いたかった。
それができなかったのは、れいなの違和感に今日は気づいてしまったから。
「れいな、抱きつかれるの、嫌なの?」
れいなの体がぴくりと反応する。
「そういうわけじゃ、なか。けど、」
絵里は腕をほどいて、れいなは振り返る。困惑した顔がたくさんのことを物語っていた。
「けど?」
213 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 22:59

目を見てくれない。絵里の肌にとげが刺さるように感情が突き刺さる。
言うか言わないか迷っている。言わなくても伝わっている。
そして絵里は、おそらくれいなが問うことの答えを持っていない。
自分でもわからない。
れいなは一度歯を食いしばってから口を開いた。
「絵里はぁ、れいなのこと好いとう。ね、それは、どんな『好き』なん?」
愛情、友情、恋愛感情、種類は一つではない。人と人との関係を名づける言葉も種類があるように。
れいなも絵里もまだ幼い部分がある。
それは人との関わり。
れいなは人を怖いものだと思っている。
絵里が解いてくれたものの、そうやって育ってきたからこの関係がこの先どうなるかわからない。
明日ケンカして壊れるかもしれない。ずっと先まで続くかもしれない。
ただでさえ不安なことが多い、それに加えて、絵里と自分の感覚が違っていたら、
足もとが全部崩れて行きそうになる。
愛情や友情が長続きしそうだということはなんとなく感じている。
じゃあ、恋愛感情はどうだろう。
214 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:00

少女漫画のような世界では恋愛感情が成立して幸せそうに話が終わる。
その先は描かれていない。それに、恋人同士が別れたあと仲良くしている姿はあまり描かれていない。
もっと言うなら主人公は好きになった相手に好かれようと努力する。
もし嫌な予感が当たって、絵里が自分に好かれようとして振る舞っていたなら、
仮にそういう関係になって、それでも終わりがきて、その時に自分はそういうような愛情は注がれないかもしれない。
他人事でなく自分のことだから、余計怖かった。
この考え方がエゴでしかないと知っていても不安が勝る。
「ごめん、わかんない。」
絵里も人同士の関係はよくわからない。
ここにくる前の世界は特殊だった。要素と要素が集まって、自分もその一部だった。
こんなふうに人間同士が関わることは全く未知だった。
人のことは勿論、自分のこともわかっていない。
自分がれいなに対して持っている感情を名づけることもできない。
215 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:00

絵里はうつむいた。うつむいても目を閉じても耳をふさいでも、れいなの感情は容赦なく襲う。
当然れいなはそのことを知らない。
「好きの種類もよくわかんない。」
ぽろ、と考えを漏らす。
恋愛感情じゃないことを望まれても恋愛感情の意味を理解していない。
「れいなもあまりわからんけど、今までみたいなのが、たぶん友情。
 で、キスしたいとか、抱きしめたいとか、独占したいとかいうのが多分恋愛感情、かな。」
そういえば、れいなの読んでる漫画でそういうのがあった、と絵里は思い返す。
自分の今までのことも、れいなに対しての気持ちも。
唇を噛みしめた。れいなの目は見れなかった。
216 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:00

れいなは絵里の反応を見て絶望的な気持ちになる。
まさか本当になるなんて。それだけは、という願いはもろく崩れ去った。
これから未来のことも、今まで絵里に寄りかかってきたことも、全て嘘のように思えた。
目の前の絵里が憎くてしかたない。ぎゅうと拳を握る。
「こんなことなら。」
母親の所に行けばよかった。強く思う。
しかし一瞬我にかえってその言葉を飲んだ。
こんなことを、一緒にいてくれた人に向かって言う言葉ではない。
はっと気がついて絵里の顔を見ると絵里は傷ついたような顔で、
今静寂でなければ聞こえなかったような声を出す。
「お母さんの所に行けばよかった?」
薄く透けてしまいそうだった。悲しそうに笑った。
言わなくても今日は伝わってしまう。今日でなくても伝わったかもしれないけれど。
絵里の耳には色々聞こえていた。波の音はここでは聞こえないはずなのに届いていた。
217 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:00

れいなは、違う、と大きな声で否定したかったけれど、何も違わないのだった。
その通りのことを思ったのだ。自分が一番知っている。
自分の醜さを、あさましさを呪った。
ここにいることが耐えきれなくなってれいなは走って逃げた。

残された絵里の頬に冷たい風が吹いて伸びてきた髪を掬った。
れいながどこに行くかはなんとなくわかっている。
追いかけるより先に行かなければいけない場所がある。

「海が呼んでるなあ。」

218 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:00


**********

219 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:01


「意外に気づくんだね。」
絵里が寒い海岸に着くとそこには一人の女性が立っていた。
以前と変わらない。少し目つきの悪い彼女は本当は優しいことを絵里は知っている。
おそらくは、自分を心配して呼び戻しに来たことも知っている。
「なんとなく。」
それは嬉しいことだ。それにしても。
「こんなときを狙うなんてずるいですよ。」
亀井は、ずるい、という言葉を初めて理解して使った。
向き合った彼女は困った顔をした。
こっちの世界に来てから色々なことがわかるようになった。
前の世界では長が言うことがすべてだったのに対して今は自分が身をもって気づく。
いつか長が「私たちは向こう側の世界の一つの要素をわけてもらっているんだ」と言っていたのを思い出す。
その通りだった。絵里はあのとき一つのことしか持っていなかったし、一つのことしかわからなかった。
今はわかる。長だけが色々なことを知っていることも。
220 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:01
「でも藤本さんのせいじゃないんですよね。こうやってここに来るのも長がいなきゃできないし、このタイミングを狙うのも長しかできない。」
全部長が仕組んだことだ。藤本、という女性はより困った顔になった。
暮れかけた陽がオレンジ色に二人を照らす。
藤本の影が綺麗だと、絵里は思った。
「あたしが来たかったんだ。亀井、まだ半年、だからまだ戻れるんだって。
 力はまだ完全に失われてないから今なら戻れる。」
堰を切ったように話しだす。絵里はじいっと話を聞いていた。
今日ここに来たのもおそらくは完全には力が消えていないからだ。
いつまでこの力が残っているだろう。この力でできることはなんだろう。
亀井は頭の片隅でそう考えていた。
「今までの記憶も全部消せば、許される。呪いも解ける。」
半年経った今、残るのは半年。
半年前、絵里とれいなはここで出会った。半年後、ここに来られるだろうか。
221 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:01

絵里は笑った。
「私は呪いだなんて思っていないし、記憶、消したくない。
 たとえ今日仲直りできなくても、ずっと仲直りできなくても、れいなが私のことを嫌ってしまっても、忘れたくない。
 忘れて戻るくらいなら、私は消える。」
藤本は戸惑う。
どうしてそんな強い目をできるのだろう。どうしてこの状況でそんなこと言えるのだろう。
藤本は二人のやり取りを見ていた。れいなの暴言を聞いていた。
「わかんない。」
ぎりぎりと強く拳を握る。苛立ったように、許せないというように、藤本は俯いた。
自分よりも他人を選ぶ理由がわからない。
そう言いたげで、けれど、そうして苛立つのはわからないからではなかった。
藤本はそのことに気付かず、絵里はわかっていた。
「わかんない、なんで、なんで?」
同じ世界からきたのに理解できない。
藤本は絵里を睨んだ。
222 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:02

絵里はわかっていた。この世界に来たか来なかったか、それは大きな違いだ。
おそらく藤本がこの違いを理解する時が来るだろうことも、なんとなく予想できた。
「私は、れいなのことが一番大切なんです。今は、まだ、そばにいたい。」
単純に、絵里はれいなのことが好きだった。
大丈夫だよ、とここにいないれいなに伝えたかった。どこにも行かない。
そう言って手を握りたい。
見捨てることなんて絶対にない。ずっと前から、半年以上前から思っていた。
悲しい顔をさせないと波の音を聞きながら自分の命を賭けて誓った。
絵里の表情を見て、藤本は諦めた。
「無理やりには連れてくるな、って言われてるんだ。だからいい。亀がここにいたいって言うんなら仕方ない。」
藤本の顔にできる影が形をかえた。
綺麗な造形は美しく純粋な感情を伝えた。
「じゃあね。」
223 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:02

にっ、と笑って藤本は手を振った。太陽の加減で手の動きがゆらゆら、いつもと違うように見える。
くるりと背を向けて海岸を歩いていく。その背中に絵里は声をかける。
「藤本さん。」
ん、と藤本が振り返る。茶色の髪がさらさら揺れる。
足元の砂よりずっと柔かそうだった。
「ありがとうございます。来てくれて、ありがとう。」
「うん。」
太陽と反対に振り向いたから絵里には藤本の顔は見えなかった。
歩く足跡が点々と残っていき、増えるたびに遠ざかる。
絵里はその後ろ姿を見てもう一度決心を固めた。
波が寄せては帰っていく。
ずっと向こう側から、今はここにいる。ここに立っている。
224 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:02


**********

225 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:02

なんとなく行く先は感じ取れた。絵里は迷わずそこに足を向ける。
自分とは一緒に来なかったけれどずっと前から見ているから知っている。
一人で泣くために選ぶ場所はそこだ。
れいなはやはり海を選んでいた。海岸をだいぶ歩いたところにある大きな岩の影。
小さなれいなが隠れるには丁度よい。
絵里はここにくるまでれいなの泣き顔しか見ていなかった。
あまりに泣くものだから笑ってほしいと願った。今願いはかなっているだろうか。
れいなと過ごすうちにたくさんの変化に気がつく。自分も、れいなも、変わっていく。
れいなに対する想いも変わる。より重みのある想いに進化する。
226 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:02

柔らかい砂を歩いて歩いて辿り着く。覗き込むと予想通りにれいなが座りこんでいた。
白い肌を赤く染めて、目を赤く腫らして、指はこれ以上涙をぬぐえないほどに濡れていた。
ほとんど落ちた夕日は赤いれいなの顔をより赤く染めた。
亀井は悲しくなる。泣かないでほしいと願っている。今も昔も変わらず。
れいなの目線に合わせるようにしゃがみ込むと目をこすっていた手の手首をつかむ。
涙で濡れてきらきら光るけれど美しくは思えなくてそっと両手でしまいこんだ。
「ねえ、れいな。」
ひっ、と小さくしゃくる。驚きじゃなく、びくついているわけでもなく、泣きすぎたからだ。
湿った目がくりくりと開きながら絵里を見つめる。指先と同じように輝いていた。
オレンジの光。れいながこの色を忘れない限りこの言葉を、想いを覚えていてくれたらと願う。
「れいながどうなっても絵里はそばにいるよ。
 絵里とれいながどう変わっていっても、関係が変わっても、どんな好きになっても、
 れいなのそばにいる。れいなを大切に思い続ける。」
227 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:03

絵里は祈るようにれいなの手を自らの額に付けた。
祈り、願い、伝える意思がなくても伝わるほどに強い。
れいなは自分がどれほど愚かなことで悩んでいたのだろうと思うと胸が痛くなってまた涙が出た。
「えりっ、えり、ごめん、本当にごめん。」
恐怖や不安は人の心を曇らせる。人の目を歪ませてしまう。
母親の離婚について祖母がそう言っていたのをふと思い出した。
「れな、ひどいこと言った。自分のわがままで、えりを傷つけるようなこと、言った。」
恐怖に心が囚われ絵里のことを正面から見れずにいた。
母親が来たとき、絵里が何を言ったか、それがどれだけ真剣なものかを忘れて。
絵里は泣きじゃくるれいなに微笑んだ。そして怒ってないよ、と言った。
「怒ってないし、確かに悲しかったけど、れいなのことわかってるから、大丈夫。それよりごめん。心配させちゃった。」
砂の上に膝をつくと砂が形を変える。波の音が聞こえる。
絵里の中の騒がしさが消えていく。
「れいなが嫌なら抱きつかないし嫌なことしないよ。」
おそらく藤本が帰っていくのだろう。
228 名前:5.秋―冬 投稿日:2008/07/16(水) 23:03
共鳴するような力は消え、肌に突き刺さる感情の針は遠ざかる。
絵里は以前のようにれいなの表情や仕草かられいなを読む。
「嫌じゃない。もうだいじょぶ。」
涙と鼻水でぐしょぐしょだが拭くものがない。
困った、と絵里は頭を悩ませて、仕方がないから服の袖でれいなの顔を拭いた。
柔らかい肌が擦るたびに形を変えて、目元を拭くと腫れた目はさらに潰れて伸びた。
その顔がみっともなくて可愛くて絵里は笑った。
「笑うなあ。」
れいなが怒って絵里をぽかぽか叩く。や、だって面白い顔だったんだもん、と言うと手の動きが速くなる。
本当は怒ってるというより照れている。情けない姿ばかり見せて頼ってばかりだ。
それでも、それでも絵里は自分のそばにいると言った。
だから信じよう。
れいなは絵里に心を預けることを穏やかな心で決めた。
229 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/16(水) 23:04


本日の更新はここまで。
次回分のストックはまだ書きあがっていないので次回更新まで時間が空きます。
いろいろとすいません。
230 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:21

その日は朝から寒く、いつもより布団の中から抜け出すのが辛い日だった。
れいなは祖母が起こしにきたが少し渋った。
布団から出した手にはつんとした空気の感触があって体温を奪っていった。
隣で寝ている絵里は器用に丸まっている。猫みたいだった。
「早く起きな。」
「はーい。」
目はもう覚めてしまっていたからあとは気合の問題。
一気に布団から抜け出して、伸びをしたいところだけれど今日はやめておいた。
れいなはまだすやすや寝ている絵里をゆすった。
「朝やけん、起きて。」
んー、と絵里は目を開こうとする、が開かないで諦めようとしたかられいなはもう一度起きるように言った。
「ねーむーいー。」
「わかっとう、けど起きて。朝ご飯食べよ。」
「うん。」
しぶしぶ絵里は体を起こした。寝癖がひどい。
「寒い。」
231 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:21

家の中にいるのに息が白くなりそうだ。絵里はゆっくりした動作で立ちあがって両手をさすった。
二人で居間に行き三人で朝食をとる。
テレビをつけると今日はこの冬一番の寒さだと気象予報士が告げた。
「今日寒いもんねえ。」
れいなが誰にいうわけでもなく呟くと祖母が外に行ってごらんと言った。
食べたものを片してから着替えてれいなと絵里は玄関の戸を開けた。
そこから見えた景色に、れいなは思わず声が詰まった。
「う。」
「わあ。」
232 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:22

真白。単純な白が一面広がっていた。
ちらちらとまだ雪は降っていて、積った雪に足跡はなく、完全にできたばかりの白い世界は二人の心を躍らせた。
昨日まで見えていた地面は雪に覆われて、周辺の家の屋根にも雪が高く積っていた。
絵里が掌を天に向けると小さな白がふわりと手に寄り、触れると溶けてなくなった。
こんなに雪が降ることはこの地域では珍しく、れいなははしゃいで雪の中を駆けた。
雪の重みは想像より軽く、れいなに蹴られてしゃらしゃら飛んだ。
その感覚すらもう嬉しくてたまらないのか途中で止まったかと思うと絵里の方へ振り向いて、一番の笑顔を見せた。
絵里はれいなの姿に心が温かくなって笑った。
れいなの足跡はれいなに向かっている一つの道のようなもので絵里はそれを走って辿る。
先にいるれいなが待っているのが絵里には嬉しかった。
雪に滑りスピードが加減できないままれいなを抱きしめると二人ともバランスを崩して転びそうになる。
「うわっ、たったった。」
233 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:22

なんとか体を元の位置に戻そうとするも雪に足が取られ、足元は滑りうまくいかない。
結局はそのまま倒れこんだ。ぼす、と鈍い音が立つ。
れいなは天を仰ぎ、絵里は雪に埋もれた。
絵里がえへへ、と笑うとれいなもふふふ、と笑った。
二人でへらへら笑って二人で空を見上げた。
曇天の灰色の空から白い粒が降りてくる。背景の雲に混ざって時々姿を消す。
どこから見えてどこから見えなくなるのかわからない。
延々と降ってくるのを下からまっすぐ見上げると不思議な光景に見える。
自分が空に昇っていくようにも思える。
しばらく二人はぼうっとしたまま雪の中にいた。
背中は不思議と冷たくなかった。
音のない世界に二人、隔離されたようだった。
絵里はれいなの手をそっと握った。
234 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:22


「おもしろいね。」
積もる雪に混ざるような静かな声で絵里が漏らす。
「そだね。」
単純な動きをじっと見ていると思考まで白くなる。
何も考えられなくなり、それは苦ではなくてむしろしばらくこのままでいいかなと思えた。
なんとなく背中が冷たく、顔は空気にあてられ冷えて、繋いだ手だけが少し暖かかった。
息が白い。空は灰色。
色味がない世界はとりわけつまらないわけでもなくて、れいなは新しい発見だと感動した。
隣からも白い息が規則的に立ち上る。
それが嬉しかった。
一人ではなくなって結構な月日が経つのに今でも二人でよかったと思うことがある。
そして、その相手が絵里でよかったと、恥ずかしくて言えないけれど心の底から思った。
繋いだ手が気恥ずかしくなって軽く笑うと、絵里が何、何?と興味津々に訪ねてきた。
「なーんでもなーい。」
絵里はがばりと起き、れいなの顔を覗き込む。
「嘘だぁ、なんかあるでしょ。教えて。」
れいなの肩をゆする。
「なあんもないって。」
235 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:22

笑ったまま答えそうにないれいなに一掬い雪を掴んで投げる。
れいなの白い顔に純粋な白がかかる。
ホワイトチョコに粉砂糖をかけたような配色はあまり合っていない。
「つめたっ」
れいなが起き上がって顔の粉を払う。
体温で溶けて大部分は水になっていた。
にへらと笑っている絵里を睨みつけておかえしに一掴み、顔めがけて投げた。
今度は絵里の顔が白くなって、口の隙間からつめたあ、と声が漏れた。
ぎゅうと閉じられた瞼がれいなの目には可愛らしく映る。
むうと唇が突き出されて薄く目が開いた。
怒った素振りを見せても本気ではないのがすぐにわかる。目は本気ではない。
絵里はもう一度れいなに雪を振りかけた。そのあとすぐに、逃げた。
「もー。」
236 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:23

呆れ混じりの声を出してれいなは立ち上がる。
これは、そういう流れだろう、とほんのり笑った。
それから拳大に雪玉を作って絵里に投げる。左の腰に見事命中。
負けじとばかりに絵里も雪玉を投げて、れいなも投げて、自分の足もとの雪がなくなったら他から集めて、
豪快なフォームに豪快な笑顔で二人は全力で楽しんだ。
頬は上気して赤く染まる。じわりと汗をかいた。
体力が尽きてきて雪玉が飛ばなくなると絵里は雪玉をつかんだままれいなのもとに走り、
れいなは危険を察知して、しかし保険のためにひとつ雪玉を掴んで逃げる。
足跡は曲線を描き直線を描き、時折折り返して、時折並んで、二人の経路を記す。
ようやっと絵里がれいなに確実にぶつけられる距離になり、絵里はれいなに雪玉をぶつけた。
れいなが雪玉を持っているのは知っているから追うときより速く走って逃げる。
攻守交替で、同じように追いかける。
237 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:23

足元が滑り同時に転びそうになったり、ブレーキをかけられなかったり、足元の雪は普通に走るより体力を削った。
さっき追いかけたせいでほとんど絵里には体力が残っておらずあっさりと捕まった。
捕まえたれいなは絵里の首から背中に雪を入れた。
「つっめっ。」
それ以上は言葉にならず絵里が悶える。
れいなはにやにや笑い、絵里も笑った。
238 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:23


「あっつ。」
あれだけ動いたのだから二人の体はよく温まっていた。
もう動く体力はなく、汗がこのままひけたら風邪をひくからと帰ることにした。
絵里はれいなに後ろから抱きついて歩く。
その姿は蟻が荷物を背負って歩いているのとよく似ていた。
れいなの頭に鼻を寄せる。
「汗のにおいがする。」
「かぐなよ。」
「んー。」
嫌なにおいじゃない、というかむしろ嗅いでいたいと思い、絵里はあいまいな答えを返したまま匂いを嗅ぐ。
帰ってすぐにじゃんけんをして勝ったれいなから風呂に入った。
風呂から上がると絵里は無防備に寝ており、当然次の日風邪をひいた。
239 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:23

**********
240 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:23

大した風邪ではないと祖母も絵里も言った。
れいなもそんなにひどくはないとはわかっていて、ばーかと言うと絵里は膨れた。
布団の中に横になっている絵里の頬は赤い。目もどことなくとろんとしている。
大したことはないと言っても風邪は風邪で絵里はだるそうだ。
額に手を当てると確かに熱いし、手を握ってもいつもより体温が高い。
れいなはこうやって布団に入っている絵里のそばから何となく離れられなかった。
「風邪、うつっちゃうよ。」
絵里が弱弱しく呟いて、重たそうに瞼を動かしながら視線をれいなに向ける。
うん、とれいなは小さく頷く。早く部屋を出ていって寝かせるのがいいのだろう。
頭で理解していても体を動かそうという気持ちにならなかった。
自分でもどうしてかわからなくて頭をひねる。
241 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:24

色々考えるほど考えられるようなことでもなく、もやがかかったように答えは遠い。
こういうときの答えは驚くほど簡単だったりするのだけど、そのときはどうやっても答えが出せない。
唸りだしそうなれいなに絵里は小さく笑った。
「そんなに絵里のそばにいたいんだぁ。」
にやにやしている絵里にれいなは違うと強く言うけれど、照れなくてもいいだなんて絵里は笑ったままだった。
こうなった絵里に何を言っても効かない。諦めてため息をついた。
242 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:24

ふすまの向こうから祖母がれいなを呼ぶ声がした。
部屋から出ると祖母が近寄ってきて飲み物と氷枕の替えを差し出した。
れいなが受け取ると、あまり長居するんじゃないよと付け足した。
うん、と素直に答えて踵を返した。
部屋に戻ると絵里はたったあれだけの間ですやすやと眠っていた。
風邪は風邪だ。疲れていただろうにれいながいるから眠ろうとしなかった。
やはり早く出ていくべきだったなと軽い自己嫌悪をしながら動かない瞼を見つめていた。
243 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:24

完全に割り切れたわけではない。
嫌な気持ちにはならないけれど、どこか違和感がある。
ああ言ったくせにそう感じているのだから申し訳なくて、でも感情というものはどうしようもない。
一緒に、いたい。
そう思うことは確かなのに、どうしてそれだけじゃうまくいかないのだろう。
小さくため息をつく。
すやすやと顔が赤いまま絵里は眠っている。
赤い頬に、赤い唇。
とても愛らしい形にほんの少し心が癒されるようで、れいなは弱弱しく笑った。
絵里は、いつだってそんな感じだ。
ドジをしてもふにゃふにゃおかしなことを言ってもふざけたわがままを言っても、
どこか柔らかくて温かくて憎めない。
244 名前:4.冬 投稿日:2008/08/27(水) 17:24

どんな夢を見ているのか絵里は口をむにゃと動かしながら笑った。
「うへへ。お魚さんですよお?」
全く見当もつかない寝言にれいなは静かに笑いお腹を抱えた。
笑っていると悩んでいる自分が小さく思えた。
絵里がいいと言っているのなら、いいんじゃないのか。
多少自分がわがままを言ったって絵里は笑うだろう。
ふにゃふにゃ笑うだろう。
れいなの何だってそうやって軽く受け止めてしまうのだ。
この停滞がいつまで続くかは見当もつかない。
しかしいつかは変わる。
その変化の方向もわからなくても、きっと大丈夫。
れいなの未来に絵里は居座るようになった。
何年後だってそこにこの笑顔があると、れいなは安心して笑った。
245 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/08/27(水) 17:28
今日の更新はここまでです。
246 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/08/28(木) 01:12
や、こちらのスレ大好きです。
次回の更新楽しみです。
247 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/18(金) 16:40
実はずーっと待っています
248 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/03/15(木) 10:59
ひそかにずーっと待ってます
249 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/03/15(木) 17:44
感想書くときはメール欄に sage と入れてね
というわけで落とします

ログ一覧へ


Converted by dat2html.pl v0.2