望みの花
1 名前:庭師 投稿日:2006/09/18(月) 15:40

「リボンの騎士」の舞台から思い浮かんだ掌編をいくつか。
After よりも Before がおおくなりそうです。
2 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:41
 魔女は鳥の眼で、シルバーランドの王城を見下ろした。
 兵舎や城で働く者たちの住居、貴族の邸、そして二重の城壁に包まれ守られた本宮からは、
音と光が洪水のようにあふれ出している。
 なんとも、人間はたくましい。
 先の王が剣に仕込まれた毒にたおれ、継いで即位するはずだった王子は嘘を暴かれ地位を追われた。
 故王の甥が王冠を得て、2度めの夜。

 大広間ではワルツが奏でられ、着飾った老若男女が群れている。
 まだ幼い顔をした少年王の頭は、ひとまわり大きい王冠の重みのせいか、
それとも襲いくる眠気のせいか、ゆらりゆらりと揺れていた。
 傍らにはこれまた眠たげに、口許がゆるくなっている乳兄弟。
 父親の姿は見えない。
3 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:41
 本宮のもっとも奥深く、王族が住まう一画へと、黒い鳥は夜空を滑る。
 背の低い潅木、こんもりとした生け垣、つるばらのアーチのなかへ飛び込んだ。
 青と紫、丈の長い花が咲き群れる花壇の前、夜風に身を任せている男の上をひとめぐり。
 ふっ、と鳥は黒衣の女の姿をとった。
 両肩をぱくりと開けた、スカートを膨らませないスマートなシルエットのロングドレス。
 左から斜めに前身頃をはしる赤い飾り紐。
 黒いヴェールや長手袋が、喪を思わせる。

 対するは、薄墨に紫を溶かしたような衣をまとう、闇に溶け込む細身の男。
 魔女の突如の来訪にも、神経質そうに眉を持ち上げただけで、動揺した様子はほとんどない。
「これはこれは、魔女どの」
 大臣は帽子をとり、胸の前にあてて軽く一礼をした。
 雷鳴を轟かせてはじめて目の前現れたときにくらべれば、鳥に化けようがなんだろうが。
 なにしろ相手は魔女なのだ。
4 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:42
「広間はとてもにぎやか」
 なのに、お前はこんなところでなにをしているのか。
 短い言葉に込められた問いに勘付いて、けれど大臣はあえて応えることばをずらした。
「容姿自慢の若者や宵っ張りの貴婦人方は、とかく踊りやお喋りが好きなものだ。
 陽気な音楽、下世話な噂話は、容易に不安をおおい隠してくれるからな。
 皆ああして踊り続けているうちに、偽りの王子のことも忘れる」
 冷ややかな、悪意さえ見え隠れする口ぶり、表情で、大臣は広間に集う貴族たちを断じる。
「おまえはどうなのだ、ジュラルミン公? 忘れたいこと、隠したいことは?」
 懐かしい呼び掛けに反応して、男は、魔女の顔を凝視した。
 ベールのかげから覗くブルーの瞳が、意地悪く細められている。
「魔女どの」
 からかわれている。
5 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:43
「私にはもう、そう呼ばれる資格がない」
「ほんの10年前、おまえはそう名乗っていたではないか。
 わたしにしてみれば今このときも、10年前もそう変わらぬ。
 それとも、大臣閣下と呼ばれるのがお好み?」
「魔女どののお気に召すままに」
 早々に降参した大臣に、ご満悦といった様子で笑ったその顔は、あどけなかった。
 ……きれいな砂糖菓子を喜ぶ少女のようだ。
 思って、大臣は内心苦笑した。
 相手は魔女だ。
(むこうから見れば、私こそ小僧ではないか)
 その笑みから視線を外し、片膝を折って、大臣は夜風にそよいでいた花を一輪手折る。
6 名前:亡き王女に捧ぐ花園 投稿日:2006/09/18(月) 15:43
 一般に、伯爵以上の爵位名は、その領地名に由来している。
 ゆえに、ジュラルミン公とは、ジュラルミン領を所有する公爵その人をさす。

 花咲き乱れるその土地、ジュラルミン公爵領は、春公国と呼ばれていた。
 父祖が代々守り続けてきたもの、彼が守らなくてはならなかったものだった。
 無骨で見栄えこそはしないものの、居心地のよい城。
 アルミ山脈から雪解け水が注ぐ豊かな川。
 湖。平原。りんごの樹がならぶ丘。
 そして、----私の、姫君。
7 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:44
「魔女どの、私の望みをきいてはくれないか」
「おまえの願いはもう叶えた」
 素っ気なく、魔女は答える。
 たしかに、魔女にあたえられた薬のおかげで、息子は王冠を手にした。
 そして、彼女は、王母に。
 願いは叶えられた。だが、だからこそ。
「花を」
 大臣が差し出した、自分の瞳と同じ色をした花に、魔女はすこし面喰らった。
 その昔、両の腕にあふれんばかりの花を抱え、この城の一室に運んでいたのを知っている。
 春公子。
 魔女にとっては遠くない日々に、そう呼ばれていた、この男。
「この花園を届けて欲しいのだ。私の妻に」
 いまはもう、彼のこの手では、彼女に花を届けることはできなかった。
 死んだ女は、神よりもまぶしく、尊く、遠い。
8 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:45
 ひざまずいたまま、花を差し出す、筋張った男の手。
 つい、と裾をさばいて歩み寄り、魔女は黒い長手袋に包まれた指先をのばした。
 男の左のこめかみに、指を添える。
「代償は?」
「私の魂など、いらないのだろう?」
 問い返した男のこめかみから、頬へと指はなめらかに動く。
 痩せて、白い頬。
「そなたの欲しいものは、きっと私では用意できんからな」
「なぜそう思う」
「私にできるなら、あの夜要求したはずだ。違うのか」
「いいや」
 この男から得られるものは、なにもない。
 まして魂など。
 魂など、欲しくない。
9 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:45
 しびれを切らしたか、大臣は頬に寄せられた魔女の手をはずして、立ち上がった。
「私の妻は、ただ一輪さえ手折ること、あの髪に飾ることを許されなかった。
 この、王家の庭で」
「情に訴えるつもり?」
 魔女は嘲る。
 王城の奥深く、古い時代の王がその娘のためにつくらせた花園。
 花園に咲く花は、シルバーランドでもっとも貴い女性たち、王妃や王女のためにあった。
「王の娘だ。まぎれもない、姫なのに認められなかった」
「王と愛人のあいだに生まれた娘」
「だがいまは、王の母だ!」
 だから花を摘んでも彼女を咎めるものはいないと、彼は言う。
 つまらない話だ。
 魔女は嗤う。
 語調を荒くしたことを恥じるように、そっぽを向いた男の顎をつまんで、引き寄せる。
「望みは聞いた。ただ、それだけ。魔女は死者と取り引きしない」
「……そうか」
 深い吐息が、魔女の指先をかすめた。
 大臣は、うつくしい夢から醒めたような顔をしていた。
 つよい光を放っていた瞳の色が、やわらかく落ちついた。
10 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:46
「だが、私の手にあるよりは、そなたを飾るほうがよいだろう」
 魔女の手をとる。
 冷ややかな黒絹に包まれた細い指に、花をつまませた。
「余計な話をしてすまなかった」
「いいの? おまえの妻の花園なのだろう?」
「かまわん」
 後ろ髪を撫で付けて、背の高い帽子をかぶる。
 もう彼は、魔女を見ない。 
「せっかくきれいに咲いた花を、ただ1人のものにしておくのはもったいない。
 あの人ならそう言うし、私もそう思う」
11 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:46
 顔に寄せると、花の香は清々しく、わずかに甘い。
 花を贈られるなど、いったいいつぶりのことか。
 わざとらしく、魔女どの、と彼女を呼ぶこの男は、魔女を魔女とも思っていない。
「----貰っておこう」
「そうか、うん」
 帽子のつばをつまんで、角度を微調整する男は、久し振りの贈りものに戸惑っているようだった。
 この男も。
 花を贈るなど、いつぶりのことだろう?
 魔女はこみあげる笑いをこらえた。
「広間に戻るのか?」
「息子も、ナイロンもそろそろ寝室へ行く時分だ。
 代わりが私のような男やもめではなんだが、その場の飾りにはなるだろう」
 こころを、音楽で、酒でごまかして。
12 名前:亡き王女に捧ぐ花園にて 投稿日:2006/09/18(月) 15:48
 春公子と呼ばれたその頃、花を贈るしか、笑ってくれる方法を知らなかった。
 彼女の華奢な両腕をいっぱいにしても、なお余る花束を見て驚き、床にまでこぼれる花に呆れ。
 そして、頬をほのかに紅色に染めて笑う。
 花束で、赤くなった顔を隠そうとする仕草がいとおしかった。
 花のかげから、ありがとうと囁く声に鼓動が跳ねた。
 私の、私の姫君。

 私の、喜び。
 私の、哀しみ。
 私の望みの、そのすべて。
13 名前:庭師 投稿日:2006/09/18(月) 15:52

原作の「ジュラルミン大公」の場合、ジュラルミンがファーストネームだと思われますが、
ここではパンフレット記載の duke duralumin を「ジュラルミン公爵」と読んで解釈しました。

次回からは便宜上、個人名のない大臣や国王にファーストネームをつけて進める予定です。
よろしくおつき合いください。

14 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2006/09/19(火) 07:30
すごく面白いです
楽しみにしています
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/19(火) 12:42
こういうのまってました
設定がきちんと作りこまれてていい感じ
期待してます
16 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/09/19(火) 14:07
新作おめでとうございます。
いきなり引き込まれますね。次回も楽しみにしています。
17 名前:修羅か花か(前編) 投稿日:2006/09/24(日) 12:54
 失態だった。
 警備隊の百人隊長は、もつれる足で階段をのぼり切る。
 扉は開け放たれたまま、人がせわしなく出入りする宮内府大臣の執務室に、転がるように駆け込んだ。
 喉からふりしぼった声は、情けないほど震え、かすれていた。 

 逃げた。
 フランツ王子が、逃げた。

 どよめく人々を、左手をあげる小さな仕草だけで静まらせ、大臣は問う。
「いつ?」
 大臣が投げかけた視線の一閃に、肉を切り裂かれるような思いがした。
「どうやって?」
 冷えた汗が背筋をすべる。
 灯火ひとつ見えない、人の力が及ばない闇に包み込まれているような圧迫感があった。
 執務室の長椅子に寝そべって、時間を、長い手足を持て余している大臣とは、まるで別の男に見えた。
18 名前:修羅か花か(前編) 投稿日:2006/09/24(日) 12:55
 いまでこそ、生まれついての文官であるような顔をしているが、宮内府の大臣は武勇の人である。
 12の歳に騎士誓願をたてたのち、数多の戦場で武功をあげ、国の内外に勇名を馳せた。
 彼と、彼の乳兄弟アクリル卿が率いた騎士団は、王直属の近衛騎士団に劣らぬ精強さを誇った。
 ゴールドランドの兵士は、黒地に輝ける猫を描いた騎士団旗を、いまでも悪夢にみてはうなされるという。

 なにしろ、当時は戦、戦の毎日だった。
 土地や水源をめぐる小競り合いは日常茶飯事、国境線はいつも弾けんばかりに熱を帯びていた。
 ゴールドランドの王子がシルバーランドを訪問するなど、夢にも考えられなかった。
 春公子が瑪瑙で飾られた長剣をひっさげ、王太子の騎士としてあらわれたのは、そのような時だ。
 シルバーランド史上もっとも物騒で、血生臭い数年間だっただけに、武勇伝には事欠かない。
19 名前:修羅か花か(前編) 投稿日:2006/09/24(日) 12:55
 やさしげな顔立ちの騎士は、自分よりひとまわり、ふたまわりも大きな戦士をものともしない。
 王太子より賜った瑪瑙の剣を握れば、鋼鉄の鎧もバターを扱うようにたやすく切り裂く。
 乳兄弟とともに三千の騎兵の先頭を駆け、敵陣を突き破って道を開く。
 それは語るそばから妖精や魔法が飛び出してきそうな、どこまでも華やかな英雄譚。

 執務室で昼間から健やかな寝息をたてる大臣から、国随一の騎士の姿を探すのはむつかしい。
 勇士の面影を期待すると、長椅子からはみでた無防備な寝姿や、とぼけた話しぶりに落胆させられる。
 いわく付きの結婚のこともあって、広大なジュラルミン公領を失ったのち、宮廷人たちは、
王族の世話と城内の管理を管掌する宮内府の長に甘んじる彼のことを侮るむきがあった。
 顔だけが取り柄の昼行灯。
 口さがない宮中の人々は、宮内府大臣をそう評していた。
 だがいま、国王の急死という事態にあたり、溺れまいとする宮廷人たちが必死に取りすがったのは、
ほかでもない、自分たちが昼行灯と呼んで嘲った彼の背、彼の腕だった。
20 名前:修羅か花か(前編) 投稿日:2006/09/24(日) 12:56
 大臣は、持ち場を離れ、結果的にフランツ王子の逃亡を助けた見張りの兵に罰をあたえた。
 1週間の謹慎と、給金の一部の没収。
 思っていたよりはるかに軽い懲罰は、罰というよりも赦しだった。
 知らせを持って駆け付けた、百人隊長の顔には、喜びではなく驚きが浮かんでいる。
 命の覚悟をしておけ、とでも、当の部下に言いおいてきたのだろう。

 大臣閣下は寛大に過ぎる。
 居並ぶ貴族は口々に不満を言い立てた。
「陛下を殺した下手人を逃すなど、なんたる不忠」
「これは王家に対する大罪ですぞ」
「不注意ではなく、ゴールドランドと内通し、故意に逃がした可能性も考えられます」
「まあ待て。まずは逃げたフランツを捕らえねば」
「そうだ。フランツと一緒に処刑するがよろしかろう」
「左様。フランツと並べて吊してやるのが相応というものよ」
「閣下。ご再考めされよ」
「ご再考を」
21 名前:修羅か花か(前編) 投稿日:2006/09/24(日) 12:57
 大臣の斜め後ろに控えるナイロンは眉尻を下げて、あるじの横顔をうかがった。
 その痩身に詰め寄る貴族たちにひき比べて、少年のあるじはいかにも若かった。
 ようやく30代の半ばにさしかかろうという歳なのだ。
 まわりを見れば、大臣より経験豊富な、宮廷を長年牛耳ってきた諸候が並んでいる。
 こんなに大勢の人たちを相手にして、堂々と、対等以上に渡り合う大臣を見るのは、奇妙な感じがした。
 甘いと思って口いっぱいに頬張ったケーキが塩辛かった、そんな感じ。
(どうしよう)
22 名前:修羅か花か(前編) 投稿日:2006/09/24(日) 12:59
 見知らぬ場所、ことばも通じない異郷に放り出されたような心地がする。
 大臣に、こっちを向いて欲しかった。
 いつもとおんなじように、口の片端を持ち上げる、からかいの色濃い笑顔で。
 線を越えたあっちじゃなくて、ナイロンと一緒に、こっち側にいるんだと伝えて欲しい。
 もう16歳にもなるのに、これじゃあ迷子になった子どもみたいだ。
 父アクリルは、自分と同じ歳のころには騎士として、大臣とともに立派に戦っていたというのに。
 寂しさか、情けなさか。
 毒を仕込んだ罪の意識か。
 にじんだ涙が転げ落ちそうになって、ナイロンは唇を噛み、俯いた。
23 名前:修羅か花か(前編) 投稿日:2006/09/24(日) 12:59
「成程。卿らの御意見は承った。
 この私も、義兄たるサードニクス陛下を殺され、平和への願いを踏みにじられた。
 怒りは卿らと同じくするところだ。フランツを許すことはできない」
 大臣は自分を取り囲む顔を端から見渡した。
「なれど、フランツを処刑して、その後如何する?」
 問いかけは形だけだ。
 淡い色の視線を各人の目のなかに投げかけ、用意してあった答えを提示する。
「フランツを殺せば、ゴールドランドはそれ幸いとシルバーランドに攻め込むだろう。
 王子を殺された国の兵士が、どれほどの勢いで突き進むか御存知か。
 開戦の大義名分、高い士気。なかなか得られぬ貴重なものだ。
 わざわざそんな贈り物をして、ゴールドランドを喜ばせることはなかろう」
24 名前:修羅か花か(前編) 投稿日:2006/09/24(日) 13:00
 最初、不満こそやわらかく受け止めたものの、大臣は反論を許さなかった。
 水のように、語る声が染みた。
「我らは、国王暗殺の疑いのあるフランツを丁重にお返しするのだ。
 一日の禁足を侮辱というのは、フランツの逆恨みというものよ。
 それを口実にシルバーランドに攻め込もうというならば、諸国も黙って見過ごしはしまい。
 非はゴールドランドにある」
 震える手を握り、声をおさえて説く大臣は、国のため、私的な憤りを必死に封じているように見えた。
 そうだ、サードニクス王は彼にとって主君であるばかりではなく、親しい義兄だった。
 まだ互いが王太子であり、公子であったころからの友であった。
 その彼が耐えようとしているのだ。
 ほんとうにフランツを殺しても飽き足りないのは彼だろうに、耐えようとしている。 
 歪めた口許や、皺の寄せられた眉根に、人々は大臣の苦悩を見たように思った。
 ならば、我らも耐えようと、こころが動いた。
 動かされた。
25 名前:修羅か花か(前編) 投稿日:2006/09/24(日) 13:01
「百人長。フランツ殿下が無事に国境の川を渡り終えるまで、かげからお見送りして差し上げろ。
 川に落ちて、血がのぼった頭を冷やすぐらいならいいが、溺れ死なれては厄介だ」
「はっ!」
「外相。ゴールドランドに使者を」
「いかように?」
「予定されていた滞在を半ばで切り上げて、葬儀にも戴冠式にも参列せず、
 フランツ殿下はなぜお国に慌てて帰られたのか、と」
 逃げ帰ったのは、後ろ暗いことがあるのではないか。
 一枚薄皮の下に置いた本意を、ゴールドランドはたやすく読むだろう。
 読んで、怒るか。それとも警戒するか。
「なるべく早く。フランツが若い怒りを忘れぬうちに噛み付いてやれ」
 ああ、やはり。
 百人長は、矢継ぎ早に指示を飛ばす大臣の姿を眺めて嘆息する。
 武術に長け、実戦で無駄なく鍛えられた人の動作だった。
 やはり有事にあってはじめて、その才をいかんなく発揮する人なのだ。
 宮内府大臣として無為に過ごした10年が、溜息するほど惜しまれた。
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26 名前:庭師 投稿日:2006/09/24(日) 13:07

 * * *

 サードニクス(sardonyx):紅縞瑪瑙。8月の誕生石。
 アクリル繊維(acrylic fiber):アクリロニトリルを主成分とする合成繊維。羊毛に似る。
 ナイロン(nylon):強度の高い合成繊維。絹糸に似る。

 * * *
27 名前:?? 投稿日:2006/09/24(日) 13:17

レスありがとうございます。

>>14
 週末もの書きなのでのったり、のったりとしたペースになりそうですが、
 楽しみにして頂ければ嬉しい限りです。
 
>>15
 いろいろ設定を盛り込めるのは、もとの世界の度量が広いからでしょう。
 好きかってに、リボンの世界で遊ぶつもりです。
 
>>16 
 当方は8月に引き込まれて、まだまだ帰ってこられません。    
 舞台に引き寄せられたあのときの気分を、すこしでも文面から感じていただいたら幸いです。
28 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:15
 沈黙に焦れて、口を開いたのは大臣だった。
 客人を残らず帰し、扉を閉ざした執務室である。
 ナイロンときたらお気に入りの椅子の上、両膝を抱えて犬の置き物のように微動だにしない。
 執務机にむかって羽根ペンを走らせる大臣のそばで、じっと主人の一挙一動を見つめている。
 たちが悪い。
「ナイロン。お前はもう邸にさがって休め」
「だって、眠れませんよぅ」
「それでも」
 口答えをする気かと、書面から顔をあげて少年を一睨みしてやろうとして、
その唇に歯をたてた痕があり、ひとすじの血がにじんでいるのを見た。
 大臣の眉間に皺が寄る。
 うかつだった、喉の奥で一声うなった。
 インク壷にペンを投げ込んで、机の端を手で押すように勢いよく立ち上がる。
29 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:16
 それは王には関わりない、殺意だった。
 王は不幸にして死んだ。
 真正面からその罪に向き合えばよいのか、望まぬ死であったと素知らぬ顔をするか。
 わからない。
 おぼろげな罪に竦みあがるナイロンの手首をとらえて、ぐいと引いた。
 むずかる子どもをあやす手付きで、まだ細く、頼りない背中を撫でる。
「なれど、私の意思だ」
 たとえその矢印の先が王に向けられていなかったとしても、行き場を違えた殺意の主は、自分だ。
 いずこに属するかもわからぬ罪を悔いるのも、畏れるのも、
この自分を恨んで恨んで、恨み抜いて、それでも飽き足りぬときにすればいい。
 思いを込めて、震える肩を抱いた。
「この私が強いた。お前に否やはなかったのだ」
30 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:16
 大臣の肩口に額を押し付けて、ナイロンは泣き笑う。
 この人はいつだって、頼り甲斐があるんだかないんだか、よくわからない。
 神ではない、人の身である。罪を赦すとも、代わりに負うとも言えない。
 だから、ただ、恨めと言う。
 胸を塞ぐ重石ひとつなら、預かってやれると言う。
 あなたのせいだと罵り、責めれば、非難を甘んじて受け止めるだろう。
 ナイロンが毒を仕込んだのも、フランツ王子の手からその剣がとんだのも。
 王の左の頬を、死をもたらす刃が掠めていったのも。
 ぜんぶぜんぶ、あなたのせいだと泣いて責めたら、その通りだと頷くだろう。
 頷いて、駄々をこねる子どもの頭を撫でて、抱き締めてくれる。
 そうしているうち、どうしてこの人を責めていたのか忘れてしまうに違いない。
 これでは、親に構ってもらいたくて拗ねてみせたり、いたずらするのと変わらない。
31 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:17
 実際、あるじ以上の人である。
 父アクリルは、ナイロンがまだ母の胎にいた時に戦死した。
 大臣は父をひとりで、遠方の戦地へ行かせたことを今も悔いているのだ、と聞いた。
 乳兄弟への罪滅ぼしなのか、友情のあらわれなのか、少年たちがまだ小さな頃、
大臣は自分の息子もナイロンも一緒くたにして扱っていた。
 どちらが先に馬にのせてもらうかで、子どもふたりが争ったこともある。
 一度や二度、きっとそれ以上に叩いたり引っ掻いたりをしたはずだが、
自分の子どもが傷付けられても、大臣は笑って子どもの喧嘩を見守っていた。
 鬼の形相をしていたのはナイロンの祖父のほうだ。
 身分を考えれば、到底許されないことである。
 ナイロンに雷を落とすと同時に、大臣にも意見したらしいが、小言を気に留める人ではなかった。
 何が悪い、と開き直って、ナイロンを肩にのせてはあちこち歩き回っていた。
32 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:17
 14の歳にナイロンが騎士誓願をたて、准男爵位に叙任されてからは、彼らは主従となった。
 幼い頃には見えなかった、見ようともしなかった線がある。
 ナイロンは飛び越えてはいけないし、大臣は手を差し伸べてはいけないのだ。
 世が乱れるもととなると、亡き祖父もつねづね言っていた。
 子ども時代はとうに終わったのだ。
 けれど、この人の、肩の上から眺めた景色が記憶にある。
 子どもにする手付きで撫でられれば、確かに、嬉しい。
 気恥ずかしいし、照れくさい。
 ぬくもりが、ひたひたと胸のうちをいっぱいにする。
 水面にさざ波たてる、穏やかならぬものの存在を感じたけれど、それには気付かないふりをした。
33 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:18
 大臣は赤みを帯びた目をしたナイロンの頭を整えて、帽子を被らせてやる。
「……厨房の誰かに頼んで、カルヴァドスを少し紅茶にたらしてもらえ。
 毛布にくるまって飲めば、身体がぬくくなってよく眠れる」
 もっとも、厨房の実権を握る、世話焼きで気前のよいマダム・セルヴェは、
りんご酒を入れたかぐわしい紅茶だけを持たせて、少年を部屋に帰すことなど絶対にしない。
 かぼちゃのプディング。砂糖漬けプラムのケーキ。
 レモンクリームをぜいたくにのせたパイに、りんごのコンフォートを添えて。
 いついかなるときも、ボリュームたっぷりのティータイムの用意を欠かさない。
 大臣が食べ盛り伸び盛りの少年たちのために、邸の厨房に命じていることである。
 ナイロンの頬の強張りがほぐれ、口許が緩んできたのを見て、釘をさす。
「私の息子を一緒に連れ帰るのを忘れるなよ」
「はぁい」
「口はちゃんと閉じろ」 
「はいっ」
「よし」
 一直線に駆け出す背中は、
(まだまだ、子どもだな)
 短い吐息で笑って、大臣は口の片端を持ち上げた。
34 名前:修羅か花か 投稿日:2006/10/01(日) 17:18
 ナイロンは噴水のかげで、両足を投げ出して座り込んでいる少年の姿をとらえた。
「またこんなところでぼうっとしてぇ。風邪ひきますよ」
 夜も更けて、風は肌を刺すようだった。
「ね、帰りましょう」
 帰って、おやつ食べましょう、言ってナイロンが手を引けば、少年は珍しくあらがった。
「フランツ殿下が逃げたって」
「ど、どこからそんな話聞いたんです」
「だって、みんな騒いでた」
 王城で育った少年である。
 ただ遊び回っているように見えて、その目はよくものを見、その耳はよくものを聞く。
「気付かないわけないでしょ。……ぼくはばかじゃない」
「知ってますよぉ。ほら、カレーライスはせんえん、でしょ?」
 あれ、アイスクリームはいくらだったっけ。
 呟いて、真面目に悩みはじめるナイロンに、ちいさく笑い声をあげて、けれど心は晴れなかった。
35 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:19
(ぼくはばかじゃない。父上だって。ばかじゃない) 
 確かにフランツが兵を挙げれば、非難はゴールドランドに集中するだろう。
 貪欲に領土拡大を目指すゴールドランドに恐怖をつのらせ、
諸国は連携して、ゴールドランドを封じ込めにかかるに違いなかった。
 けれど、シルバーランドを助けてともに戦ってくれるか、と言えば話は別だ。
 シルバーランドは餌だった。
 食らい付き、骨まで貪り、ゴールドランドが満腹になったところで諸国はことを起こすだろう。
 父は、わかっているはずだ。この国は見捨てられる。
 わかっているはずだ。
 なにしろフランツの鼻先に、シルバーランドをぶら下げたのは父その人なのだ。
(わからない)
 なにが欲しいのか、どこへ行こうとしているのか。
 訊ねようとすれば、東に向いて立ち尽くす背中に弾かれる。
 東の空の果てに、突き刺さるように注がれる父の眼差しが恐ろしかった。
 飢餓に苦しむ瞳は、城壁を越えてはるか遠くをただ必死に見つめている。
 父が愛したもの、今でもあんなに愛しているもののことを、彼は何一つ知らないのだ。
36 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:20
 王の遺体は浄められ、柩のなかにあった。
 柩は明日、近衛騎士団に寄り添われて、城内の礼拝堂から王家の霊廟へと移される。
 人が去った深夜の礼拝堂は、針が落ちた音も響くだろう、そう思わせる静けさである。

 石の柩に触れて、大臣はその冷ややかさに息をのんだ。
 シルバーランドの北寄りに位置する王都には、感謝祭の後を追うように冬がおとずれる。
 感謝祭は長く厳しい冬を前にして、迎える心の準備をする祭りでもあった。
 なのに、この石の寝台では死者も寒かろう。
 王都の春は遠い。
37 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:20
「『ぼくのくにでは、もうチェリーブロッサムが咲いているんですよ、サードニクス様』……」
 春公国では一足先に、春を告げる渡り鳥が舞い、枝の先に揺れる可憐な花がやさしく香る。
 つたなく語ることばに王太子は笑顔になって、まだ幼い公子を見る。
『私の城に、なによりもはやく春を運ぶのはお前だな、ちいさな弟』 
 かつて、サードニクスは、8つ年下の公子のことを弟と呼んだ。
 潔癖な王太子はまだ、父王が母ではない女性とのあいだに娘をもうけたのを知らずにいた。
『雪が溶けるとあの山脈を越えて都にやってくるお前は、春になれば巣をつくるツバメに似ている』
38 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:21
 死者は凍えた胸の上で、逆手に剣の柄を握りしめている。
 赤と白の縞模様が鮮やかな瑪瑙の玉を埋め込んだ、広刃の両手剣。
 シルバーランドの王太子は、立太子の際、その名が示す玉石で飾られた剣を贈られる。
 それは古く、コーラル2世王の御代から続くしきたりである。
 王太子の剣には必ず対をなす剣があり、王太子はもっとも信頼する者にそれを託す。
 剣を持つ者こそ、将来の王の盾、王の腕。
 王の補佐役として国を支え、国王直属の近衛兵団を動かすこともできる第一の臣である。

 だがサードニクスの胸に置かれた剣には、もう対となるべきものがない。
 柩に触れる、この手が、折った。
 託された瑪瑙の剣を、王その人が見る前で石柱に叩き付けた。
 それから一度たりとも、大臣は剣を帯びたことがない。
39 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:21
 死化粧がほどこされた顔から目を背ける。
 こんなにも、王は老いていたか?
「王は死んだ」
 指先が髪のなかに埋められる。
 掻きむしる指に、帽子が足元へと転げ落ちた。
「だがサファイアは生き残った----」

 蝶が花の蜜に惹き寄せられるように、魔女は人の願いに寄り添う。
 終わりのない闇夜に、それは火花のように瞬いて魔女を誘う。
 儚い生き物が発する、目も眩む光。
 悪魔に魂を売っても、と死者の傍らで囁く望み。
 魔女は遠い昔、東の果て、四方を海で囲まれた異国で出逢った、懐かしい男を重ねる。
40 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:22
 東洋人の男はその白い額から血を滴らせ、焔に片腕を焼きながら、迸る憎悪にすがって立つ。
 生きたいと叫ぶその口で、願いさえ叶えてくれるのなら命も惜しくはないと言う。

 まだいとけない魔女が、邪気のない顔をして笑う。
 男の首筋に顔を近付け、すん、と鼻を鳴らして確かめる。
 やっぱり、おまえだ。
 この酩酊感をともなう甘い匂いの正体は、おまえ。

 ひとは面白い。
 ひとの願いは、とても甘い。
 だから、おまえの魂を。
 ひとはすぐに死ぬ。
 だから、おまえの魂を。
 わたしは、おまえの魂が欲しい……
41 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:22

 だから、


 その願い、叶えよう

42 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:24
 契約はなされた。
 魔女は男に、復讐のための新しい人生を提供する。
 かわりに、男が新たな人生に「満足した」と口にしたその瞬間、魂は魔女のものとなる。
 契約に従って十年余、魔女は男とともに過ごした。

 男の城館を焼いたのは、男の愛娘の婚家でもあり、ともに守護代として主家を支えた家だった。
 わずか三月前に嫁いだ娘は、その舅、その夫に毒を盛られた。
 主君である守護大名を追い落とし、一国を奪うのに、男は排除すべき存在だったのである。
 ときは、将軍家の跡目争いから端を発した乱世である。
 下克上は世のならいだった。
『それが流行りだと彼奴が言うのなら、俺が真似ても文句は言えまい』
 男は、魔女の秘薬で若返った顔に、冬眠あけの、腹を空かせた獣に似た獰猛な笑みを浮かべる。
 眉間に刻まれた傷痕に、とんだ火の粉でできた黒子。
 表情もあいまって、その印象は一変していた。
『奴が俺の民にしたように、あるじにしたように、妻や子にしたようにして、俺が奴を滅ぼしてやろう』
43 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:24
 出がけに、なぜか機嫌を損ねてしまった魔女に困って、男は頭を掻く。
『俺の魔女どのはやさしくて弱る。
 そんな顔をされたら悪さができんではないか』
 ----よっちゃんは悪いことがしたいんだ
『ああ、したい。してやるさ。
 そのために繋いでもらった命だからな』
 ----悪いことしたら、満足すんの
『それはやり終えてみないことにはわからんなぁ。
 だから魔女どの、そんな顔をしてくれるな。
 ……ああ、ほんとうに俺の魔女はやさしい』

 やさしいのは、いつまでたっても仏頂面の理由を勘違いしたままのこいつで、
 莫迦なのも、不機嫌にとがらせた唇に触れるか触れまいか悩んだあげく、
頭を撫でていくだけのこいつだと思った。
(満足したら、死んじゃうんだよ、ばか)
 男は魔女とともに十年余を生きて、死んだ。
 血が流れ出る腹の裂け目を見せながら、紅く濡れた手で遠慮がちに魔女の涙をぬぐい、
俺の魔女はやさしいと、言って微笑む男はほんとうに莫迦だと思った。
44 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:25
 そしてまた、はざまで眠る魔女を人の願いが揺さぶる。
 稲光に貫ぬかれた礼拝堂で、まばゆさに目を細めたのは、けして大臣ばかりではない。
 その望みは火花。
 瞼の裏、しっかと焼き付けられる閃光。
 ブルーの目が、三日月のように笑う。

「代償は私の魂か?」
 あいも変わらず、別の女の面影で、胸の内を満たしている男。
 なのに、惜しげもなくその魂を手放そうとする男。
 人間というのはつくづく愚かしい。
「お前の魂など誰が欲しがるか」
 甘い匂いが思考を蝕もうとするのを抑えて、魔女は哄笑する。
 あのときと同じようにはならないの、人間。
 わたしはもう、愛されている女の魂のありかを知っている。
 わたしは愛される女になる。
45 名前:修羅か花か(後編) 投稿日:2006/10/01(日) 17:26
 訝しげに眉根を寄せて、魔女を見上げている大臣の頬に触れた。
 脈打つ血が透けてみえるような、白い頬だった。
 吐息のぬくもりさえ感じられる距離で、眼差しが交わされる。
 違う色をした瞳。けれど同じ、強固な意志にきらめく瞳。
 魔女は男の眼の底を覗いて、問う。

 腹の奥底で醸成されてきた悪意に、今その身を投じようとしている男は、
 蜜の香りで蝶を絡め取るように、その望みで魔女を呼び寄せるこの男は、

 修羅か、花か?
46 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/01(日) 17:28

  * * * * * * *

     修羅か花か

           -了-

  * * * * * * *
47 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2006/10/01(日) 21:22
面白かったです。
すごくきれいな文章で、映画を見てるみたいでした。
ありがとうございました
48 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/02(月) 14:49
面白いです。続き期待してます。
49 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:38
 離宮と呼べば響きこそ耳に心地よいが、実のところ、彼女に用意されたのは廃屋も同然の建物であった。
 見事な年輪が刻まれた一本木の支柱や、形、大きさの揃った石が整然と積まれているのを見ると、
建てられた当初はさぞ立派な造りだったのだろう。
 けれど住人不在が長く続いたいまとなっては、柱には蟻が巣食い、石壁は苔むす有様である。

 三年前、はじめて離宮に足を踏み入れたときには、窓枠にガラスもはまっていなかった。
 ひどい雨漏りで天井、床に大きな染みができていて、埃だけでなく朽ちた枝葉がうずたかく積み上がっていた。
 うかつに歩けばクモの巣に頭から突っ込み、虫を踏んだ。
 彼女を案内してきた初老の女官でさえ、靴裏でつぶれた毛虫の感触に奇声をあげて飛び上がったぐらいだ。
(こんなところに、三年もいるんだもの)
 いまでは眉ひとつ動かさずに、闖入してきた虫をつまんで窓の外に放りだすことができる。
 進歩である。
50 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:39
 離宮は、広大なシルバーランド王城の一画、高みにある本宮から北東に下った、搦手門をのぞむ斜面に建つ。
 その昔、トパーズ友愛王が、末の王子のために造らせたものだと聞いた。
 王子は極度の人嫌いであったか、生来の虚弱体質であったか、または精神を病んでいたのだとの話もある。
 ともかく、王は、本宮に置いておくことができない王子を、城壁のなか、本宮から離れた木々の陰に押し込めた。
 宮廷に群れる人の目に触れず、けれども王の手がたやすく届く位置に。
 檻のようだ、由来を耳にしたとき、思ったことである。
 そしていまでも、そう思っている。
 鉄の柵もなく、武具に身を固めた牢番こそ立たないが、彼女は兄王の、そして王太后のてのひらの上の虜囚なのだ。
51 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:39
 寒い。
 身を震わせて、肩に羽織ったストールを胸元でかき合わせる。
 まだ10月の半ばだというのに、毛織りの敷物の下、石を敷き詰めた床からは冬の冷気が這いあがってくる。
 カウチから立ち上がり、暖炉の脇に積んだ薪を火に足した。
 近いうちに灰をかき出して、暖炉の手入れをしなくてはならない。
 深い溜息が炎を揺らめかせる。
 手間を惜しみ、労働を厭うわけではない。
 若い娘ひとりの手で灰を集め、煤をはらい、薪を割って居間まで運ぶのはむずかしい。
 本宮から通いで来ている下働きや、侍女の助けを借りねばできないだろうが、彼らはよい顔をしないだろう。
 面倒なことを言い付けて、と眉をひそめるに違いない。
 彼女にすこしでも好意的な者たちは、とうに遠ざけられている。
 ふっくらとした頬が愛らしいコンスタンスは、王太后の指示で城勤めを辞めさせられてしまった。
 公爵家の手を借りようか、とも考えた。
 けれど、駄目だ。もう、駄目だ。
52 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:40
 ルビー王太后の不興を買うまいと、ほとんどの貴族が見て見ぬふりをする、妾腹の王女。
 父王亡き後はまさしく忌むべき者となった彼女への助力を拒まない物好きは、ジュラルミン公爵家ぐらいのものだ。
 王国の四端にそれぞれが古くからの領地を持ち、四季をなぞらえて呼ばれる四公爵家のひとつである。
 四公ともに治領が国境に接し、国の盾としてシルバーランドを支え守ってきた有力貴族である。
 国王といえど、四季公爵家をおろそかには扱うことはできないのだ。
 ジュラルミン公爵家が彼女に贈るささやかな、けれど心強い援助の数々を、王太后がいかに不満に思っていようと、
公爵家に処罰をちらつかせて脅しをかけ、援助を断つことなどできはしない。
 嫌みを言うのが精一杯だ。
53 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:40
 彼女は15のその歳までを、王城ではなくジュラルミン公領で過ごした。
 湖畔にたたずむ、代々の公爵が狩猟へ赴く際に訪れた城館が、母と彼女の住まいだった。
 冬になると、国境を騒がす蛮族の討伐を口実にして、兵団を引き連れた父王が春公領に滞在することがあった。
 母はそれをほんとうに心待ちにしていた。
 木々が芽吹き、つぼみが膨らむのを娘が喜べば、母の瞳が曇った。
 春になってアルミ山脈の雪が溶ければ、峠をこえて父王はルビー王妃のいる王城へ帰ってしまう。

 身分の高い男が妾を持つのは珍しいことではない。
 一国の王ともなれば、妾を持ち、後宮を構えるのが当たり前であり、それを咎める女に王妃などつとまらない。
 けれど父王ラズライトの場合は違った。
54 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:41
 ラズライトは王の息子としてではなく、王の甥、王弟の息子として生まれた。
 男児のなかった伯父の娘、ルビー王女を娶って王冠を継いだが、この年上の王妃にだいぶ悩まされたようである。
 国王の娘として生まれ、数多の崇拝者の讃辞を身に浴びて育った王妃である。
 実の従弟であり、夫ともなった男のことを侮るところがあった。
 政治、人事に口を出し、思いのままにならなければへそを曲げる。
 夫が他の女性に目を向ければ、『誰のおかげで王になれたのか』と責めたてる。
 その嫉妬は凄まじいもので、代々の国王が愛妾たちを住まわせていた数々の離宮は、
ラズライト王の代にしてお役御免となってしまった。
55 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:42
 18年前、ラズライトは当時のジュラルミン公爵、今は亡き先代にひとりの女を預けた。
 腹の膨れた女であった。
 女は、王都郊外にある公爵家の別邸にうつされ、そこで臨月を迎え、女児を産んだ。
 赤子が馬車での旅に耐えられるまでに育つと、母子はすぐさまジュラルミン公爵領へと引き取られた。

 よほど妻が恐ろしかったのだろう。
 城内に置いておくことのできない、己の愛人と子どもを腹心の手にゆだね、隠させたのである。
 王都とジュラルミン公爵領のあいだにはアルミ山脈が横たわり、さしものルビー王妃の目も届かない。
56 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:42
 人柄か、あるいは王命であったからか。
 亡き先代は、厄介な荷物であるはずの母子を親しい友のように迎えた。
 湖畔の城館には、公爵家に代々つかえる信頼がおける召使い、侍女を置いた。
 食物庫のなかにまで気を配り、小さな頼みごとも真摯に受け止め、必要なものがあればすぐに揃えさせた。
 母子ふたりの静かな館に、公爵夫人と公子をともなって訪れ、ともすれば塞ぎ込みがちな母の話し相手をする。
 公子は、妾腹の王女と歳が近かった。
 はじめは小さな手で公爵のコートの裾をつかんで、父親のうしろに隠れていたが、
『湖の館のお方様』が怖いひとではないとわかると、乳兄弟と一緒に城館に遊びにくるようになった。

 3年前に、彼女が王城のなかの離宮へとうつってからも、公爵家は惜しまず援助の手をさしのべる。
 半年ほど前に代替わりして、いまは彼女の幼馴染みがジュラルミン公爵位を継ぎ、春公と呼ばれているが、
王太后の猛禽に似た目が不機嫌に光ろうとも、まったく意に介さずに彼女の離宮を訪ねてくる。
 幼馴染みである彼女が望めば、先代がしたように若き公爵はその手をのべる。
57 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:42
 サードニクス王が示す友情に甘えているのではない。
 ただ、王太后のふるまいが気に食わない。
 蛇みたいだ、というのは王太后を評する彼の弁である。
 蛇が大の苦手である彼にしてみれば、その蛇になぞらえるのは最上級の嫌悪を示す表現なのだろう。
 そしてまた、王太后の目を畏れて縮こまる彼女にも苛立つ。
 胸を張れ、前を向け。
 言い聞かせるように、姫君、と呼び掛ける。
 その声を、彼女だけではなく王太后にも届かせたいのかもしれない。
 ここにいるのは、まぎれもなく王の娘なのだと。
 彼はやさしげな、砂糖菓子みたいに甘い顔立ちをしているくせ、変なところで頑固だから。
58 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:43
 けれど、もう駄目なのだ。
 父王もいまやなく、先代公爵も病の床に没した。
 これ以上は、彼のためにならない。
 いくら彼が兄王サードニクスから瑪瑙の剣を賜った『王の腕』だとしても、
いや、『王の腕』だからこそ、勝手気ままなふるまいは許されない。
 『王の腕』は、その称号の通り王の意に従って動くもの、誰よりも王に忠実な臣でなければならない。
 ましてや彼は四季を名乗る公爵のひとりなのだ。
 広大な土地の領主となった彼の肩には、一族、家臣、多くの領民の暮らしが、命が預けられている。
 たかが娘ひとり、だが彼女は王宮の火種だ。
 彼の手にはもう、守るべきものが他にたくさんある。
 そこに彼女をのせる場所はなかった。
59 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:43
 それに彼には、冬公こと、アマルガム公爵の妹だか従兄弟だかの娘との縁談がすすめられている。
 アマルガム公爵領は凍りの海に面したシルバーランドの北端である。
 王都は国土のやや北寄りに位置するため、他の三公爵の治領にくらべてやや王城に近い。
 距離のみでなく、その血の上でも同様で、現冬公はルビー王太后の伯父にあたる。
 前王の時代から、宰相として内政に、そして外交に手腕を発揮してきた人物だ。
 縁組みがなされれば、アマルガム公は若き春公爵にとって、申し分のない後ろ盾となるだろう。

 つい先日、戦地から凱旋する彼を中門まで覗きに行ったとき、花嫁となる令嬢を見かけた。
 肌が羨ましいほどに白く、深い襟ぐりから見える胸は豊かで、おっとりと笑んで彼に寄り添っていた。
 似合いの、人形のような夫婦になるだろうとアマルガム公が笑う。
 人形に例えるにはちょっと色気が過剰すぎる気がしたが、きっと男の人はああいう娘を好きになる。
60 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:44
 彼は喜びだった。そして痛みだった。
 おしまいにしなくてはと、言い聞かせてきた。 
 喪われた王の願いでもって、彼を繋いでおくことはできない。
 果たすべき責務はもうないのだ。
 言わなくてはならない。
 もうここにきては駄目だと、もう花はいらないのだと。
 頼りがいがあるのかないのか、やさしいのか意地悪なのかわからない幼馴染みに。
 教会に飾られた絵画のなか、聖母を祝福する天使のような顔をした、若き公爵に。
 先の王が命じた、その任を解く。
 だからもう、わたしのことを忘れてしまって。
 王の娘としての務めだと思った。
61 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:44
 夜を裂いて響く風の唸りのむこうに、丈の長い草むら、乾いた落ち葉を踏み分ける蹄の音を聴いた。
 冷ややかな闇のなかから浮かび上がったのは、青みを帯びた黒毛の馬。
 色とりどりの花を抱えた長い腕、照れくさそうに斜めに曲げた口許に、意地悪を言うときでもやわらかな声。
 それは、闇を押し退ける鮮やかさで。

 ストールが肩から滑り落ちるのも構わずに床を蹴り、居間を出、玄関ホールを駆け抜けて、扉の閂を引いた。
 赤く錆びついた閂を外しても、扉は若い娘の細腕に、まったく動く気配がない。
 厚みのある木板に、鉄を打ちつけた頑丈な扉である。
 その重さだけでも手に余るのに、密集した木々のあいだをすり抜け、斜面を吹き降りる強風が外から扉を押さえつける。
 左肩を押しあて、体重を預けるようにして、ようやく戸板が動いた。
 わずかな隙間から、するりと伸びてきた革手袋の指が分厚い板を掴み、こじ開けるようにして隙間を広げた。
 黒衣をまとったしなやかな、若木のような身体が、闇から抜け出る。
62 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:45
「公爵様」
 目深にかぶったフードを背に追いやって、現れた整って甘い顔立ちは、確かにジュラルミン公のものだった。
 戸口に立つ公爵に歩み寄り、まずは暖炉の前の椅子を勧めようとして、ためらった。
 旅装である。
 立ち襟の、丈の短い胴着の上に、左胸に騎士団章を刺繍した長衣を重ねて、腰に革帯を巻いておさえている。
 ゆとりをもたせたズボンも、膝まである牛革のブーツも装飾がない実用本位のものだ。
 毛皮を縫いつけてあるフード付きの外套に、剣帯にさげられた瑪瑙の剣。
 手には床にこぼれんばかりの花束ではなく、布包みが抱えられている。

 頭ひとつ以上高いところにある公爵の顔を見上げれば、淡い光彩に引き込まれそうになる。
 いつも、ホールの天井を落ち着きなくさまよう視線が、今日はしっかと彼女をとらえている。
 いかにも重たそうな、厚い布地の外套を受け取ろうとした彼女の手は、所在なく自身の胸元に帰った。
63 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:46
 開きかけた唇はそのままに、声を出せずにいる彼女に、公爵が眉根をすこし寄せた。
「悪いが、いまはあなたに贈るものがない」
 差し出して、けれど戻った彼女の手の動きを催促と見たのだろうか。 
 恥じ入り、俯く。
 ほんとうは、ここで花はもういらないと、きっぱり言うはずだったのだ。
 もうジュラルミン公爵になったのだから、それにアマルガム公爵に縁ある娘を娶るのだから、
こんな無茶はしていけないと、意地っ張りな幼馴染みに言い聞かせるつもりだった。
 どうして、いつも計画通りにものごとが進まないのだろう。
64 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:46
 床にぴったり糊付けされて剥がれない視線をすくい取るように、公爵は身を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。
 彼女の上腕に軽く右の手を添え、顔を傾けたその拍子に、高い襟から白い喉元がのぞく。
「今宵は、花を盗みにきたゆえ」
 だから、姫君。
 すぐれた将はよい声を持つと言うが、公爵の声は、矢のように真直ぐのび、突き刺さる性質のものではない。
 朝方、木立を包み込む霧のようにふわりと天から地に溶けて、聴くものの全身を搦めとって、響く。
 四肢に巻き付いたのは、眠りを誘い思考を鈍らせる毛布か、重く頑丈な鉄鎖か。
 指の一本も、思うようにならない。
65 名前:冬は闇路に忍んで(前編) 投稿日:2006/10/15(日) 23:46
 もうなにを言うべきだったのか、どうしてこんなに心の臓がやかましいのかわからない。
 ただこの公爵が、この幼馴染みがとんでもなくずるい、というそのことだけはわかる。
 ずるい。
 フードの下で乱れたダークブラウンの髪が、血の気が透けて見えるような頬が、懇願する大きな瞳がずるい。
「……ヨーゼフ様」
 吐息にひそめた彼の名を、耳聡くとらえて目が細まる。
 久しく、彼女から聞かれることのなかった響きだった。
 私の姫君。
 上唇をしめらせた舌を隠して、彼女の腕へ置いた公爵の手に、指先に、力が込められた。
「あなたを拐してしまっても、いいだろうか」
 -------
 ----
 --
66 名前:庭師 投稿日:2006/10/15(日) 23:47

 * * *

 ルビー(ruby):紅玉。7月の誕生石。
 ラズライト(lazulite):天藍石。青から淡い緑色をしており、不透明または半透明。
 ジュラルミン(duralumin):合金。アルミニウムを主とし、銅、マグネシウム等を含む。ウィルム(独)が発明。
 アマルガム(amalgam):合金。水銀を主とする。

 ヨーゼフ(Josepf):男子名。聖母マリアの夫ヨセフのドイツ語音。
 コンスタンス(Constance):女子名。

 * * *
67 名前:庭師 投稿日:2006/10/15(日) 23:54

舞台に触れた方々、大臣の「亡き妻」にいったいどなたをイメージしたのでしょうか。
興味深いところです。

>>47
 映画のように、大臣やナイロン、魔女が動き、話すさまを想像していただけたなら、
 それはとても嬉しいことです。
 今回は少女小説風味となりましたが、お口にあいましたら幸いです。
 
>>48
 おそくなりましたが、面白いのひとことに励まされました。
 ありがとうございます。
68 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/16(月) 21:31
細やかな表現で情景が浮かびます
最近の飼育では珍しくなった上質の小説に感動しております
これからもよろしくお願いします
69 名前:名無し大臣 投稿日:2006/10/19(木) 12:29
更新ありがとうございます。
庭師さんが描くアナザストーリーはすごくきれいで、世界観を大事にしているなあと
思います。
この後の更新も期待していますね!

>>67
>舞台に触れた方々、大臣の「亡き妻」にいったいどなたをイメージしたのでしょうか。
>興味深いところです。

ハロプロメンで選ぶとなると難しいですね。
どのメンバーにやってもらってもおもしろいなあと思うし。
きっとすごくきれいで、かわいらしい女性だったんだなあということは
推測できましたが。
「リボンの騎士」を見たときに「来年あたり続編で大臣と妻について
やってくれないかなあ」なんて思いましたが、さすがに難しいかな(笑)

長文レス、失礼しました。
70 名前:名無し大臣 投稿日:2006/10/19(木) 12:30
sageを入れ忘れました。
すいませんでした
71 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:39


 “ ----我は銀の息吹に生まれ、王と王国の敵を火に還す。”

72 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:39
 みぞれから転じて二晩続いた雨が熄んだ、肌寒い早春の日だった。
 サードニクスは襟元に白貂の毛皮を縫い付けた外套を羽織り、第二の城門を背にして立っていた。
 色とりどりに着膨れた人々が、市街地から王城に向かってゆるやかにのぼる大通りの左右に群れている。
 冬のあいだ、王国の東部に近衛中隊とともに留まっていた王を出迎えるためであった。

 王都にようやく届いた陽射しは細くか弱く、吐く息が白く濁る。
 サードニクスは焦れていた。
 大通りは濡れて暗灰色に沈み、石畳を駆け上がる風が足元から外套の内側に滑り込む。
 城門まで下っての出迎えを拒んで、汗がにじむほどにきつく暖炉を焚いた自身の応接間で取り巻きに囲まれ、
ホットワインの杯を傾けている母----ルビー王妃を思えばなお苛立ちがつのる。
 国王の帰還のその日に、妃が姿を見せないとは!
73 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:40
 ラズライト王は親征を好む。
 あの妃を持たれてはそれも当然、王城にあっては気の休まるときがありますまいと、貴族たちは囁き、笑う。
 国王は玉座に腰掛け、そして王妃は国王を尻に敷く。
 シルバーランドの宮廷で使い古された冗談である。

 国王夫妻が不仲である、これはさして珍しいことではない。
 跡継ぎとなる子をなすのが、国の頂点にある男女のもっとも重要なつとめだ。
 そのつとめさえ果たしてくれたならば、後は別々の寝台で、それぞれの愛人と休んでもなんら問題はない。
 言うまでもなく、王妃が愛人の種を宿した場合、その不義の子はすみやかに堕胎する必要がある。
 王家の血を清いままに保ち、後々の混乱を防ぐためである。
74 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:40
 各国の王家にありふれる、疎遠な夫婦であってくれればよかった。
 病の療養を口実に城を離れ、郊外の屋敷で賭けごとや芝居に熱中する、ありふれた妃であってくれたなら。
 だがルビー王妃は夫たる国王をさしおいて、国のあるじの顔で王城にいるのだ。
 王妃の客間には、ご機嫌うかがいの貴族が蟻のごとく列をなして訪れ、貢げものを山と積んでいく。
 大粒の玉石や東方からもたらされた貴重な布地、香料とともに、王妃は貴族たちの望みを吸い上げる。
 王が無益な戦にうつつを抜かし、国政から顔をそむけている間にも、王妃の気まぐれに国が動いた。

 自らの眉間に余分な力がかかっているのに気付いて、サードニクスは口許に手をやった。
 顔の下半分を覆うようにした両のてのひらに息を吐きかけ、擦りあわせて温める。
 険しい表情は寒さのせいだと、そう思わせておきたかった。
 父王を迎える王子が仏頂面をしていては外聞が悪い。
 けれどサードニクスの端正な細面は徐々に黒い石畳へと向いて、唇がかたく引き締まる。
75 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:41
 国は竜である。
 気性荒く、強大な力をその身に秘め、今まさにひとの血肉を食いちぎらんと牙を剥く竜だ。
 一国の統治は、竜の逞しい四肢を、尾を縛りあげて封じ込めるのに似る。
 それほどの覚悟を、力量を要するのだ。

 神から、竜を従える力を与えられているではないか。
 星の数ほどの命を、この国をゆだねられた王ではないか、王妃ではないか、あなたがたは。
 恥ずかしくはないのか。誇りはないのか。
 歳若い王子のこころは、父を、母を、容れることができずに波立つ。
 所詮は王弟の息子、生まれながらの王ではないからか。
 王の子として生まれたとはいえ、結局は女であるからか。
 こころに幾度も問いながら、ことばを突き付けられぬことにサードニクスは戸惑い憤り、より両親を疎んじる。
76 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:41
 毎年恒例となっているラズライト王の東部親征にも、王子は疑問を投げかける。
 シルバーランドの北東、不毛の岩肌をさらす山々に住まう野蛮の民は、
冷たさを増した風に木の葉が舞う頃になるとそのすみかを出、国境をこえて王国を騒がす。
 冬のための蓄えを奪われ、家畜をさらわれ、果てには家屋敷を焼かれて民の暮らしは脅かされた。
 見過ごしにはできないと、秋が深まる前にラズライト王はアルミ山脈をこえて、冬のあいだ東部に留まる。
 だが東の国境からアルミ山脈の中腹まで、一国にも値する広大な土地を治める現ジュラルミン公爵は、
戦上手で国内外に知られる人物であるし、公爵領にはよく鍛練された精強な兵団がある。
 連携もとらず、小波のように単発的に寄せる山岳民の襲撃ならば、公爵の持つ兵だけで十分に対処ができるのだ。
 実際、国王は親征に近衛中隊しかつれていない。
 そんな小勢は道中の護衛にしかならないだろう。
(すべて口実だ)
 民の不遇でさえ、城から、妻から逃れるための言い訳につかう王なのだ。
77 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:42
 その王が、父が今日、帰ってくる。
 ラッパ隊が高らかに王の帰還を告げ、バグパイプがそれに続いた。 
 濡れて鉛色に沈んだ空を裂いて、王旗が進む。
 旗に描かれているのは交差するふたふりの剣、銀の角をはやした牡鹿の盾。
 王の馬はその旗のもと、ゆるやかに登る道を城に向かう。
 左右からかけられる声に応えるラズライト王の後ろ、王の乗馬にも負けぬ毛並みの黒馬があった。
 サードニクスの興味をひいたのは、見事な体躯をした黒馬には不釣り合いに見える、騎手のちいさな身体だった。
 ただ小柄というのではない、手綱を握るその手、あぶみにかかったその足の幼さは、
(子どもではないか)
 その年頃は十にも足りないだろう。
78 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:42
 一足先に馬をおりた王に声をかけられ、黒馬の騎手は鞍の上から跳ぶようにして石畳へと降り立った。
 油脂をなじませ、防水加工をほどこした外套のフードを肩に落とす。
 雲間から漏れ出る陽光のひとしずくがその頭上にはじけて、天使の輪が浮かびあがった。
 物珍しげな、けれどしつこくはない眼差しでさらりと周囲を見回して、少年はラズライトに従って歩き出す。
 王宮の庭園に置かれたキューピッドの彫像を思わせる、愛らしく、整った顔立ちをしていた。
 朝から馬を走らせていたためか、その頬は紅潮して、あどけない唇から漏れる呼気がやや目立つ。
 吐き出される息で唇に近い中空が白く染まり、それでようやく、彫像ではなく生身の少年なのだと実感できる。
79 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:43
 王のために集まった人々は慎みという美徳を欠いて、不躾な視線をちいさな身体に注いだ。
 光の円環に飾られたダークブラウンの頭から、牛革をなめした柔らかなブーツに守られた足元まで。
 よくよく見れば、膝丈のブーツは雨と泥のためにその色を変えている。
 外套や胴衣だってそうだ。
 布地も仕立ても上等の品だが、幼い身体に蓄積された疲労と同じように、しつこい汚れは隠せない。
 だが少年はくたびれた旅装を恥じることなく、色鮮やかに着飾った老若男女のあいだをまっすぐに歩む。
 サードニクスはまばたきを忘れた。
 幼い。確かに幼いが、無垢な瞳をしているが、だが、笑んだ口許に幼さに似合わない強張りがあった。
 ゆるやかな曲線をつくる唇がわずか、ほんのわずか、揺れた。
(もしかしたら)
 淡い期待が泡沫のようにたちのぼり、甘く弾けた。
80 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:43
 見知らぬ場所に踏み込んだ不安からだと。
 大勢の前を、見せ物のように歩かされている緊張からだと、やさしい深みに吸い寄せられる己の心をとどめた。
 けれど、その口許には、幼さに似合わない覚悟があった。
(もしかしたなら)
 それはサードニクスが抱えるのと同じものかもしれない。
 この少年なら、わかるかもしれない。

 ちいさな身体を包んだ外套のその左胸、誇らしげに、重たげにある紋章が示している。
 生まれながらにして、民と土地を預かり、守ることを定められた身である、と。 
 交差する剣と矛、周囲を飾る銀のすずらん。
 紋章に銀糸を用いるのが許されているのは、王族のほか、四季を名乗る四つの公爵家だけだ。
 紋章官に訊ねるまでもなく、その出自は明白だった。
81 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:44
 サードニクスが神の手からシルバーランドをゆだねられたように、幼い少年はジュラルミン領を背負う。
 王から王へ、公爵から公爵へ。
 はるかな過去より明日へと繋がる鎖、竜の巨体を絡め取る鎖、その鎖を構成するひとつの環である。
 ちっぽけで、非力で、けれど曲がることも緩むことも許されない。
 恐ろしい。苦しい。ふとすれば悪夢が喉につまる。
 けれど幼い瞳は、間近にひそむ竜の気配に脅かされ、震えながらも、立ち向かうことを決めていた。
 おなじだ。
 きっと、この少年は、同じものをその眼差しでとらえている。
 きっと、サードニクスが夢に描いた理想を同じようにうつくしいと感じ、喜びを重ねてくれる。
 声を奪われるような怒りを、哀しみを、わかってくれる。 
 ただ、ふたりだ。この地上に、ただふたりだけが立つ。
 神がその剣をふるって、王都にたれこめた分厚い雲を分かつ。
 隠れるところなく、全身に降り注いだ光に、目眩がした。
82 名前:冬は闇路に忍んで(幕前) 投稿日:2006/11/30(木) 23:45
「ジュラルミン公爵が嗣子、ヨーゼフと申します」
 名乗る声は、こどもの高い声に特有のとげがなく、ぬくい水が触れるように耳に馴染んだ。
 しきたり通りに口上を述べようとするのを塞き止めて、サードニクスは膝を濡れて冷たい石畳についた。
 腰を落として目の高さを合わせ、公子の手をとる。
 王族としては、異例の行動だった。
「よくぞいらした、春の公子」
 ようやく遇えた。
 私の剣。私の盾。
「この城は喜びをもって、そなたを迎える」
 公子は指の細さには似合わない、固いてのひらをしている。
 剣と手綱に馴れ親しむ手だった。
 宮廷に群れる貴族の子弟には、探すことのむつかしい手だ。
 この手は、この眼差しは、なによりも心強い助けとなるだろう。
「……待ちかねていたよ、私の『腕』」

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83 名前:庭師 投稿日:2006/11/30(木) 23:57

なぜ前後編をぶったぎってまた遡るのか?
自分でもまったくわからないのですが、
ともかく前編より11年ばかり昔の話であるのは確かです。

>>68
 こちらこそよろしくお願いします。
 のろまで申し訳ないんですが、忘れかけた頃にでも覗き見てください。

>>69 名無し大臣様
 泣く泣く3人までは「亡き妻」候補をしぼりました。が、そこからがどうもいけません。
 秋の夜長に悩みに悩んだのですが、DVDの登場によってまたも揺るぎそうです。
 続編を演るとしたら一幕ごとにとっかえひっかえしたい、というのが正直なきもちです。
84 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/11/14(水) 03:19
更新待ってます。
また作者さんの世界観にはまりたいです!!
85 名前:冬は闇路に忍んで(中編-予告) 投稿日:2008/01/06(日) 18:07
語れ。歌え。
物語を紡げ。


いま人は、髪白く、腰曲がる、その時間を許されない。
おさなきものは病に奪われ、若き者は戦に奪われる。
あたたかな火の前で語り継いだ、おとぎ話は絶えていく。
妖精が隠したちいさな贈りもの、影落ちる森の茂みに潜む不思議。
かつて語り、かつて聞いた。
語るものの口許を綻ばせ、聞くものの瞳を輝かせた、古くからの物語が、戦火のなかで死んでいくから。
だから、

だからいま、人には、語るものが必要なのだ。
ぶつかり合う鋼の響き、血の匂いをのせた風の前でなお、失われない物語が。
祈りにかえ、願いにかえて、語るものが必要なのだ。

「だから、怖い。だから俺は怖いんです、ヨーゼフ様」
86 名前:庭師 投稿日:2008/01/06(日) 18:10

長らく更新停止していて申し訳ないのですが、
まだもうちょっと頑張ってみたいと思います。
すみませんが、もうしばらく…整理せず、残しておいてくだされば、幸いです。
87 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/14(月) 16:52
うおー嬉しい!ずっと待ってます

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