Only you ― その笑顔のために
- 1 名前:雪月花 投稿日:2011/09/04(日) 10:03
- はじめまして、雪月花と申します。
飼育では初小説になります。
亀井さん、田中さんが主軸です。
あとは高橋さん、新垣さん、道重さんらが登場します。
駄文・遅筆・無駄に長いかもしれませんが、お付き合いいただけたら幸いです。
- 2 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:06
- 絵里はその日も、学校の屋上からグラウンドを眺めていた。
3階建ての校舎はさほど高くはないが、こうして下を見ていると、自分が少し優位に立った気分になる。
神のような優越感に浸りたいなんて、性格の屈折も良いところだなと自嘲する。
少しずれたメガネを直し、グラウンドに目を凝らす。陸上部やテニス部が暑苦しそうに走っていた。
絵里は、運動部、特に陸上とサッカーに力を入れている私立朝陽女子高等学校に通っている。
毎年スポーツ推薦で何人かが入学し、彼女らは全国大会まで駆け上がるのを引き換えに、授業料を免除されている。
そういう訳で、部活動生はみな、必死になって活動にいそしんでいる。
その姿は、確かに暑苦しいのだが、絵里には羨ましく見えた。
- 3 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:07
- 絵里は生まれつき心臓が悪く、激しい運動をすることができない。
体育の授業はすべて見学し、プールにも入ったことがなく、体育祭は常に面白くない行事であった。
全力で100メートルも走ることが許されない彼女にとって、部活動への参加などはもってのほかである。
体を自由に動かし、汗をかける部活動生を見ていると、『嫉妬』の感情しか出てこない。
それなのに絵里は、放課後になると頻繁に屋上に来ては、部活動生の姿を見ていた。
別に何をする訳でもなく、ただ同級生たちが走っている姿を見ているだけである。
そしてその度に、自分の病気を恨み、不平等を嘆いていた。
この行為こそが自分の抱える病気ではないのかと苦笑したところで、後ろの扉が開く音がした。
「カメー、今日も人間観察かい?」
振り向くとそこには、クラスメートの里沙が立っていた。
その手には絵里の鞄が携えられている。
「うへへー、そうなんです」
絵里は里沙に向かって笑顔で返した。
- 4 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:08
- 里沙とは入学当初から仲が良かった。きっかけは、里沙の方から話しかけてきてくれたはずであるが、いまとなってはふたりとも、もう忘れている。
きっかけなんて大した意味はない。いま、ふたりの仲が良ければ、それでなんの問題もない。
里沙は素直な人間だった。
感情を素直にぶつけてくる人間であり、それが絵里にとっては新鮮だった。
最近、絵里の体調が悪くなることが多く、欠席や早退を繰り返すことが増えていたが、里沙は当然のように授業ノートを貸してくれる。
そこには『同情』という感情はないように見える。
いままで、特に中学校の時に絵里に接してくる人間は、どこか『可哀想』という気持ちを抱いていた。
満足に走ることもできない絵里は『可哀想』なんだという風に見ていた。
絵里は、そんなクラスメートたちに対して怒りを覚えることはなかった。
『可哀想』という感情そのものを否定することはできないし、それが普通の対応なんだということも分かっていたからである。
それは一種の諦めだったのかもしれない。
だからこそ、同情を少しも持っていない里沙が新鮮だった。
里沙の絵里への感情とは、ただ『友だちだから』という単純で明快なものだった。
実にシンプルで分かりやすい感情を何の迷いもなくぶつけてきた。
そうであるから、絵里も里沙に自然に応えることができたのだ。
絵里は里沙に対して、感謝してもしきれないと思っている。その気持ちは嘘ではない。
何処か鈍く灰色だった世界を、里沙という光が照らしだしたのは間違いなかったからだ。
だが、だからといってなにひとつ問題なく万事うまくいっている訳ではなかった。
- 5 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:10
- 「ガキさん生徒会はいーんですか?」
里沙のことを絵里は『ガキさん』と呼ぶ。別にガキっぽいからとかそういうものではない。
確かに里沙は15歳にしては少し子供っぽいところもあるが、あだ名の理由は別のものだ。
里沙の名字が『新垣』で、その『ガキ』を取っただけという、これも単純なものだ。
里沙が絵里のことを『カメ』と呼ぶのも、絵里の名字が『亀井』であるからという非常にシンプルなものだ。
物事を深く考えない。良くも悪くもそれが、このふたりの特徴であった。
「ん?あー…たまには会長に任せて良いのだ。それに今は少し休憩を入れたところだし」
絵里は知っている、里沙は嘘をつくとき、一瞬だけ自分の眉毛を触るということを。
そして今も、里沙の人差し指は眉を触っていた。
恐らく、『休憩』という部分が嘘だろう。
本当は仕事が大量に残っているのに、わざわざ時間を作ってくれたんだ。
絵里を探してくれるために。
「でも会長さん困っちゃうよ。ガキさんいないと、泣いちゃうかもよー」
「うーん、それは困るのだ」
絵里は里沙の嘘に気付かない振りをする。その方が良い。
ここで問いただしては、本当に里沙が困ってしまう。せっかく絵里の為にしてくれたのに、里沙を困らせたくない。
そもそも論で言えば、2時限目から体調不良で保健室へ行き、
放課後になっても教室に戻らず、屋上から部活動生を見ている絵里の方に問題がある。
里沙はそれを心配して、探しにきてくれたのだ。わざわざ下手な嘘までついて、絵里の鞄を持って。
絵里は笑いながら里沙に近づき、その手から鞄を受け取って言った。
「何分かは知らないけど、休憩終わっちゃうよ?絵里もこれから帰るから、ね」
今度は絵里が嘘をつく番であった。里沙が絵里の為に嘘をつくなら、絵里も里沙の為に嘘をつく。
休憩なんて最初からない。それを知っているにも関わらず、絵里は休憩の時間を気にした。
嘘に嘘を重ねる、それが絵里のやり方であった。
「ん、分かったのだ」
里沙は少し視線を落とし、頷いた。
この瞬間が、絵里は嫌いだった。里沙が嫌いという訳じゃない。
里沙にこんな顔をさせる自分が嫌いだった。せっかく絵里の為にしてくれているのに、こんなやり方でしか返せない自分が嫌いだった。
しかし、その感情を前面に押し出し、絵里自身まで暗くなってしまっては自体は泥沼である。
絵里は笑顔で里沙に話しかけた。
- 6 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:11
- 「ガキさん、明日、絵里に勉強教えて」
「明日ぁ?別にいーけど、どうしたの?」
急に話が変わり、訝しげに里沙は絵里を見た。
「だってもうすぐ期末考査じゃん。絵里はアホだからガキさんに教えてもらわないとわかんないんだよー」
もっともらしい理由だ。嘘は言っていない。
あと1週間後には期末考査が始まり、部活動も一部を除いて停止期間に入る。
恐らくその一部とは、陸上部とサッカー部だ。このふたつの部顧問は試験なんて平気で無視する。
全国大会の懸かった試合の直前は特に、授業さえも犠牲にすることがある。
部活動が全国大会へ出場し、行く行くその生徒が有名大学に推薦入学すれば、うちの高校の名前は知れ渡り、入学希望者も増える。
うまくいけば、取材されることもあり、その謝礼金が転がり込むこともあるのだ。
校長や生徒指導部長は、自校の栄誉とメンツと自分の欲望のために、部顧問の暴走を無視している。
浅はかな考えだ。
全国大会に出場したところで、有名大学に入れるわけではない。
仮に入れるとしても、それはさらに一握りの生徒だけであり、出場者全員ではない。大半の生徒は通常の受験勉強をするしかないのである。
そんなことに薄々気づきながらも、教師らは見て見ぬふりをする。犠牲になるのは、いつだって生徒だった。
- 7 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:12
- 部活動生の嘆きが聞こえてくるようだが、絵里自身も高みの見物を決め込んでいる訳にはいかなかった。
体調を崩し、欠席が増えて授業についていけていない絵里にとって、今回の期末考査はひとつの試練だった。
前回の中間考査も散々な結果に終わった。
苦手な英語はともかく、得意の現国でケアレスミスを犯してしまったため、見るも無残な答案と順位が返却された。
そして先日、自宅に担任の安倍先生がやってきて、親と話しているのを聞いてしまった。
安倍先生は絵里にとっては不穏な事項を伝えにやってきたのである。
その伝達事項が確定事項であるかないかに関わらず、期末ではなんとしても挽回しなくてはならない。
「そうは言っても、私だってそんなに頭良くないよ」
「またまたぁ〜。ガキさんの地理のセンスはむしろ正解ですって」
里沙はその時、わざとらしく「カッチーン」と声を上げた。
絵里の言う地理のセンスとは、里沙が中学時代に書いたテストの答案のことだろう。
里沙は中学時代、さほど頭は良くなかった。勉強もしていなかったので、テストの結果は散々であったが、その答案内容があまりにも面白かったので、逆に先生に褒められるというエピソードがあった。
それが地理のテストで、各国の首都を答える問題である。
中国の首都をチャンポンチャン、フランスがジュマペール、韓国はハニホヘトと里沙は堂々と答案に書いていた。
「いやぁ、あのセンスには負けますねっ、脱帽します」
「カメ、あんまり言うと勉強教えないからね」
そういうと里沙はさっさと屋上の扉に手をかけていこうとしてしまう。
絵里は慌てて里沙の背中に抱きついた。
「もー、冗談だってば。許して。ねっ」
里沙は大きく溜息を吐きながらも、ハイハイと答えた。階段を降り、生徒会室へと足を運ぼうとし、絵里にこう言った。
「じゃあ、明日の放課後教えてあげるから、今日の内にわかんないことまとめといてね」
「りょーかいしました!カメちゃんやってきますっ」
「もー、調子良いんだから」
里沙が笑い、絵里もつられて笑った。さっきの作り笑顔とは違う笑顔な気がした。
だけど、本当に笑っている気はしなかった。
絵里は里沙に手を振り階段を降りて靴箱へと向かった。
- 8 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:13
- 里沙は絵里を見届けると、急いで生徒会室へ戻った。
仕事を生徒会長に丸投げして出てきたのであるから、その尻拭いはある程度は覚悟しなきゃなと思った。
頭の中で仕事をまとめながらも、里沙は思った。
―カメは何処に笑顔を置き去りにしたんだろう
入学当初に比べて、絵里はよく笑うようになった。
しかし、その笑顔は偽物のような気がしていた。確証はないけれども。
だが、いつまでも絵里のことを考えている訳にはいかない。
いまやるべきことは、この扉の向こうにいる生徒会長に謝り、仕事を終わらせることである。
里沙はもう一度覚悟を決め、生徒会室の扉を開けた。
- 9 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:17
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- 10 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:18
- いま、里沙は絵里の自宅の前にいる。その手には今日の授業中に配布されたプリントとノートを持っていた。
絵里は昨日の放課後に里沙と交わした約束を破った。というより破らざるを得なかった。
絵里は朝から登校し、授業を受けていた。しかし、昼休みが終わる頃には居なくなっていた。
担任の安倍は里沙に対し、絵里は体調不良で早退したと伝えた。
里沙は生徒会の仕事が残っていたため、絵里と一緒にお昼を食べることができなかった。
だから、絵里の早退には気づかなかったが、朝の様子から考えても、そんなに体調が悪そうには思えなかった。
しかし、余計な詮索はせず、あとで家に見舞いに行けば良いとだけ思っていた。
生徒会活動のなかった里沙はまっすぐに絵里の家へと向かった。
里沙は「ふぅ」と息を吐き、亀井家のインターホンを押した。
玄関からは、絵里の母親が出てきた。里沙の顔を認めると、すぐ笑顔になり、中に通してくれた。
絵里の家に行くのが初めてではないため、絵里の母親も里沙も慣れているのだ。
しかし、見舞い以外で絵里の家に来たことは、里沙には、ない。
絵里の部屋は相変わらずだった。
白と水色を基調にした落ち着いた部屋ではあるが、片付けが苦手な住人のせいで若干、汚い。
当の住人は、「なにが何処にあるか分かるからいーの」と言い張っているが、絶対に分かっていないと里沙は思う。
「あ、ガキさーん」
笑顔で手を振る絵里がそこにいた。
ベッドに体を起こしてはいるが、少しだけ顔色は良くない。ちゃんとご飯は食べているのだろうか。
「ごめんね、こんな恰好で」
「いーよもう、いつものことじゃん」
パジャマに薄手のカーディガンを羽織っている絵里に対して里沙はそう返し、思わずハッとする。
『いつものこと』というセリフ、棘はなかっただろうか、絵里は気にしていないだろうか。
悪気があった訳ではない、傷つけるような意図など全くなかったのだが、口をついた言葉に自分でドキリとした。
言われた絵里は何も気にしていないように、そうだよねーと笑っていた。
里沙は胸を撫で下ろし、話題を変えた。
「これ、今日の授業のやつね」
手にしていたプリントとノートを手渡すと、絵里はいつものように笑い、ありがとーと答えた。
「まあまあ、座りなよガキさん」
「なーんで若干の上から目線なのかな」
「だって絵里、この部屋の主人なんですよ、しゅ・じ・ん」
「おもてなしする側だったらもう少し優しく言えないのー?」
- 11 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:20
- 里沙は言いながら、ベッドの端に座る。絵里との距離が一気に近づき、改めて彼女を見た。
髪が乱れているのはともかくとしても、やはり顔色が良くない。
メガネの奥、目の下にはクマもできており、ちゃんと休めていない様子が分かる。少しだけ、肌も荒れていた。
そんな絵里を見て、里沙は居た堪れなくなる。なんて声をかけて良いのか、分からなくなる。
『絵里とは自然体でいたい』と里沙は常々思っていた。
しかし、本当に自然体でいられているだろうかとも常々思っていた。
どう接して良いのか分からなくなるというのは、なんて言って良いのか分からなくなるというのは、自然体とはいえない気がした。
悩むことそれ自体が悪いとは思わないが、何か胸に突っかかるものがあるのは事実だった。
どうしたらカメの気持ちを理解できるだろう。
どうしたらカメと同じ立場でいられるだろう。
悩んで悩んで、たいていは答えの出ないまま時間だけが過ぎる。
しかし今回は悩んでいる暇はない。目の前に絵里がいるからだ。さて、何を話せば良い?
「ねー、ガキさん」
「うぉい?」
自分から話しかけることばかり考えていた里沙は、急に話しかけられて素っ頓狂な声を上げた。
それがよほどおかしかったのか、絵里は声をあげて笑った。「うぉいってなんだよ、うぉいって」と、里沙をからかいながら。
そんな里沙は、笑うなーと言いながら絵里に質問を促した。何を聞こうとしているのか見当がつかなかった。
絵里はひとしきり笑ったところで、呼吸を整えるように大きく息を吐いた。
そして里沙から視線を外し、外の景色を眺めながら唐突に言った。
「絵里ね、2年生になれないかもしれないの」
- 12 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:21
- それはまさに青天の霹靂だった。
今日の授業中に習った言葉がこんなところで役立つとは思わなかった。
『霹靂』って漢字は書けないけど読める。
あまりにも唐突過ぎて、頭が混乱し、別の話題に帰結させようとしている自分がいた。そして絵里の言葉があまりにも軽かったから聞き間違えかとも考えた。
里沙は絵里の顔を見つめる。絵里は相変わらず外を見たままである。
視線は合わない、合わせないようにしているのかもしれない。しかし分かることはひとつある。
―カメはいま『笑って』いる
その表情は先ほどから変わっていない。
外の景色を見たまま、笑っている。自ら発した言葉を否定する様子は、ない。
何か言わなきゃと里沙は思うが言葉が出てこない。
言葉がのどに詰まって声にならない。文字データがいくつか出てきても、それが音声データになることがない。
―なんで?何か言わなきゃ。カメに。ことば。出ない。なんで。
そんな里沙にお構いなしに、絵里は視線はそのままにして再び口を開く。
「この間、安倍先生がうちに来たの。それでお母さんと話してるの聞いちゃったんだよね」
絵里の言うことはこうだ。
先日、担任の安倍は亀井家を訪れた。
名目上は、絵里の見舞いということではあったが、本来の目的は別にあった。
それは、電話や手紙ではなく、絵里の両親と話をすることであった。
絵里の体調のことは入学当初から問題に上がっていた。
入学試験の成績、中学時の内申書を見ても、絵里の勉学、素行についてはなにも問題はなく、むしろ褒められるべきものであった。
しかし、絵里の抱える病気のことだけがネックになっていた。
絵里自身、病気と長く付き合っているため、自分に何ができて何ができないかは分かっている。だから部活動もしないし、体育も見学する。
それは当然の選択であり、絵里自身も納得していた。
それでも学校側としては、責任を取りたくないというのが本音であり、『配慮はするが特別扱いはしない』という条件を提示した上での入学であった。
当然、最初の職員会議での議題は新入生である絵里への対応問題だった。
安倍もその会議に出席したが、結果は散々なものだった。
誰もかれも、責任を被りたくないという声を隠しての発言をしていた。
自分の授業中に倒れられるのが嫌だというのは見え見えであり、なぜ入学を許可したのか疑問を持つ教師もいた。
成績、素行、なんの問題もない彼女をそこまで否定する教師陣にこそ、安倍は疑問を持った。
- 13 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:22
- しかし、安倍は公務員であり、組織の一員であった。その教師陣に食ってかかるような権力はない。彼女にだって守らなくてはならないものがあった。
だからその場では、担任として全力でサポートすると発言するのが精いっぱいだった。
それ以降、絵里は確かに、欠席や早退、授業欠課を繰り返したものの、教師陣を困らせるようなことはなにひとつしなかった。
絵里自身の努力、そして安倍のサポートもあり、風向きは悪くなかった。
だが、ここにきて事態は変わりつつあった。それが絵里の中間考査の結果である。
体育の成績は、実技に参加できない分、いくら座学で補講をしたところで、評価は5段階で3以上になることはなかった。
それに加え、元々苦手であった英語の試験結果、そして絵里の生命線とも言える現国でのケアレスミス、さまざまな事情が重なり、絵里の高校入学後最初の試験は散々なものとなった。
これが普通の生徒であれば、『入学して気が抜けてるんじゃないか?』という注意のひとつで済む。そう、『普通』の生徒であれば、だ。
だが教師陣にとって絵里は普通ではなく、異質の生徒であった。
絵里の入学を支えた学業成績の下落は、絵里自身の評価を下げる以外の何物でもなかった。
では、期末考査で挽回すれば良いだろうと言われれば、話はそこまで単純ではなかった。
今回の最大の問題は試験の点数ではなく『出席日数』であった。
絵里の高校の規定では、出席日数が全体の2/3以下になると留年が決まる。
それは単純に計算すると、年間60日の欠席である。そして、3回の遅刻で1回の欠席扱いにもなる。
絵里の場合、遅刻と早退、授業欠課を繰り返しているため、単純に学校を休んだ日以外でも『欠席』がカウントされていた。
そしていま、7月頭の段階で、絵里は年間60日という上限の1/3を使いきっていたのだ。
これから毎日、休まずに高校に通い続ける自信も体力も、ない。恐らく今後も、何度か欠席や遅刻をするだろう。
そうなると、いよいよ『留年』という2文字を強く意識せざるを得なくなる。
もちろんそうならないように最大限のフォローはすると安倍は言った。
しかし繰り返すが、彼女は公務員であり、組織の一員であった。
ピラミッドの頂点に立つのは校長であり、絵里を疎ましく思っているのは、他の誰でもない生徒指導部長であった。
「だから、絵里、もしかしたら1年生繰り返しちゃうかも」
「あ、そしたらガキさんが先輩になるんだね。なんか不思議」
- 14 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:23
- そこまで言いきっても視線を里沙には合わない。相変わらず外を見て笑っている。
里沙は今の話を整理した。天然でアホである絵里にしては筋が通っている。むしろ通り過ぎて怖いくらいだ。
笑って話してはいるものの、あまりにも話にリアリティが強すぎる。これは絵里の話を信じざるを得ない。
だが、信じたところでどうすれば良い?
カメが留年する?一緒に2年生になれない?
そう言われてなんて返せば良いのか、里沙にはわからなかった。
そして分からないことがもうひとつ。
―どうしてカメは、笑っているの?
その疑問を口に出そうとした時、ようやく絵里は視線を合わせた。
里沙はその瞬間、心臓が締め付けられた。
笑ってなど、いなかった。
顔は確かに笑っている。片八重歯をのぞかせ、いつものようにニコニコしている。
だが、それは見せかけの表情にすぎなかった。
いまの絵里は、『笑顔』がそこに貼りついているだけで、表情などなかった。
無表情と言いきって良いかは分からない、しかし、大切な感情が抜けている気がした。
「ガキさん、どーして絵里が先生たちの思惑知ってると思う?」
困惑の里沙から視線を再び外して絵里は言った。そして里沙の回答を待たずに続ける。
「安倍先生は授業日数と留年の可能性しか話さなかったのに、なんでその裏の事情を知ってると思います?」
笑っている。やはり絵里は笑っている。だが、笑ってなどいない。
何処に笑顔を置き去りにしたのだろう。何が彼女をそうさせたのだろう。
なにが?そんなもの、分かり切っているはずだった。
分かり切っているはずなのに、里沙は何も分かっていなかったのかもしれない。
「絵里はね、アホだけどバカじゃないんですよ。まーアホには変わりないんですけどね」
『アホアホ』と連発したことがおかしいのか、絵里は自分のセリフに笑った。片八重歯がはっきりと見えている。
- 15 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:25
- 絵里ね、アホだから聞きに行くんですよ、授業で、分かんなかったところ。
やっぱ中間の成績ヤバかったですからねっ。これは期末で挽回しなきゃと思うわけよ。
絵里頭は良いからね。やれば出来る子ですから。
ん?アホなのに頭良いって変ですか?いーのいーの、気にしない。
あ、それでね、いっつも聞きに行くんですよ、職員室に。ガキさんが生徒会やってる時に。
絵里の放課後は人間観察ばっかりじゃないんですよ。絵里だってやる時はやるんです。
そしたらね、聞こえるの、先生たちの声。職員室の前まで行くと、聞こえるの。
『…は大丈夫なのか』『中間は散々だった』『反対したんだ』って。
絵里も最初は何のことか分からなかった。誰かの成績が悪いことを心配してるんだって思ってた。
でも、それにしては様子が変だったの。だって毎回聞きに行くたびに聞こえるんですよ。
それに、絵里が職員室に入った途端にお話が終わるの。それで、質問すると妙に優しく答えてくれるんです。
そんなに絵里のこと心配してくれてるのかなって思ったんですけど、なーんか違和感があったんですよね。
うへへ、違和感だって。なんか絵里カッコいいこと言っちゃってますよね。
うん、それでね、今日も昼休みに職員室に行ったの。ガキさんに放課後教えてもらうから、なにが分からないかハッキリさせたかったし。
ガキさん、なにが分かんないかが分かんないとか言ったら怒るじゃないですかー。だから聞きに行ったんですよ。絵里偉いでしょ?
それで職員室入ろうとしたら聞こえてきたんです、先生の話声。
いつもなら入っちゃうんですけど、今日は何か聞いてみようって思ったんですよね、その内容。大人の話が気になるお年頃っってやつ?
話してるのは男の先生だったんです。たぶんあれって、サトウ先生だと思うんですよね、ほら、いっつも校門前に立ってる先生。
絵里あの先生苦手なんですよねー。なんか生徒に厳しいじゃないですか。いや、厳しいのは当たり前なんですけど、
安倍先生みたいに、こう、愛情がないっていうか。生徒に対して、生徒の為を思って怒るとかそういう感じじゃないんですよ。
なんか、自分が怒りたいから怒るみたいな。
そういうの絵里ダメなんですよ。熱血先生!みたいなのは嫌いじゃないんですけどー、なんか違うんですよね、あのサトウ先生。
とにかくその先生が話してたんです。
でね、ガキさん、なんて言ったと思います?
- 16 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:29
- 『やっぱりカメイを入れたのは失敗だったみたいですね』って言ったんですよ。
絵里最初は何のことか分からなくて。だから余計に知りたくなった黙って聞いてたんですよ。
『結局はこうなったじゃないですか。まだ7月なのにもう留年が危ない。この前の中間だってあの有様ですよ。
うちは保育所じゃないんですから。ダメな奴はリタイアさせるしかないですよ』
『生徒をダメな奴呼ばわりするなんて、先生はそれでも教師ですか?!』
『……確かに言いすぎました。ただ、出席が危ないのは事実ですよ?成績だって良くない。これはもう、時間の問題じゃないんですか?』
『だから、そこは職員全体でフォローを』
『本人に意志がなければ意味がないって言ってるんですよ』
『カメちゃんにその意思がないとでも?』
『この間、僕の授業で小テストをしました。カメイエリの点数、ご存知ですか?』
『だからそれは』
『授業についていけなくても、解答をしようとする意識が感じられれば良いですよ。しかし彼女はほぼ白紙の状態で提出しました。
それでも彼女に、ちゃんと理解しようとする意思があるとでも?』
そのテストってガキさん覚えてます?3日前、絵里が3時限目で早退する直前の小テストですよ。
あの時は朝から体調良くなくて頭もボーっとしてたんです。正直、小テストがあった事すら忘れてました。うへへ、ダメじゃんね。
そんな状態だったから、そりゃボロクソに言われますよね。まー、これは言い訳でしかないんで。反論はできないですよね。
とまあ、そんな話を聞いたわけですよ。職員室の前で。
絵里ももう16ですからね。まー、まだ15ですけど。
いままで聞いた話と現状を組み合わせれば、おのずと答えは見えてきますよ。
絵里、サトウ先生が嫌いだからこういう話をしてるんじゃないですよ。ホントにあったことを話してるだけです。
そしたら急に頭痛くなって、そのまま保健室ですよね。もー保健室大好き。さいこー。
しばらく休んだら治るかなって思ってたんですけど、よくよく考えたら次の授業は英語だったし、もうムリだって思って直帰したってわけです。
カッコいいですよね、直帰したって。なんか、できる女って感じしません?しない?あ、残業する人の方ができる女かな?
- 17 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:30
- 絵里の長い告白が終わった瞬間、里沙は絵里を抱きしめていた。
絵里が此処で嘘をつく必要はない。
絵里の聞いた話が間違いだと否定することはできない。それは里沙が生徒会という部署に所属しているせいもあった。
生徒会とはまさに『中間管理職』であると里沙はつくづく思う。
教師陣と生徒らとの橋渡しの役目を果たしている。それゆえ、一番お互いの意見を聞くことができるが、時には聞きたくない話も聞こえてくる。
そのひとつを教えてくれたのが、生徒会長である高橋愛だった。
福井から引っ越してきた彼女は、その独特の言葉遣いと愛嬌のある笑顔で人気も高い。
そんな愛は2年生という先輩でありながら、里沙ら1年生とも対等に接してくれた。
そういう気遣いが、生徒会長という器なのだろうなと里沙は納得した。
ある時愛は、里沙に仕事以外の話をもちかけてきた。
「里沙ちゃんのクラスにカメイさんって子、おる?」
里沙はドキリとした。いるもなにも、自分のかけがえのない友人の名前だった。
さほど目立たないあの子のことをなぜ生徒会長は知っているのだろうと気にかかった。
里沙は間髪おかずにいますと答えると、愛は少し話しにくそうにしながらも、ひとつの『噂』としてある話をした。
生徒指導部のサトウ先生っておるやろ?
あの先生、どうもカメイさんって子が気に食わんみたい。ウマが合わんっての?よく分からんけど。
ただ、カメイさんが入学する時も凄く揉めたみたいやし、その時に反対したのもサトウ先生らしいやざ。
まー、だからなにって話ではあるんやけどな。なーんか嫌な感じなんよね、あの先生。
だからちょっとだけ、気にしてみて。なんかあったら報告してほしい。
そしていま、絵里の話を聞いて愕然とした。
絵里は間違いなく、生徒指導部のサトウ先生を敵に回している。
そして、さらに最悪な事に、サトウ先生を味方にしている先生も多い。『生徒指導部長』という権力は、学校という組織の中では予想以上に、大きい。
そうなると絵里は、安倍を除く高校の教師陣をほぼ敵に回していることになる。
- 18 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:31
- どうして?
カメが一体何をしたっていうの。
ただ体が弱いだけ。ただ体育実技ができないだけ。たまたま中間考査の結果が悪かっただけ。
まだ1年生で入学したばかりなのに。一体なんで、ここまで追い込まれなきゃならないのだ?
里沙は溢れる涙を止めることができない。泣きたいのは絵里のはずなのに、我慢ができない。
絵里の小さな背中に腕を回し、抱きしめながら泣くことしかできない。
―カメ、ごめんね、カメ。気づいてあげられなくて。
「ガキさん、泣かないで」
泣かせるために話したんじゃないの。
そう言って、絵里は里沙の背中をゆっくりさする。里沙はそれでも顔を上げることができない。
分かっている。顔を上げたらいけない。いま、絵里は『笑っている』はずだった。
その笑顔を見たら、もう里沙は立ち直れないような気がした。
絵里を助けることができない気がした。
その笑顔の向こうに絶望が見える気がした。
「絵里ね、分かんないの」
聞きたくないセリフが聞こえる。そして、次のセリフも容易に想像がつく。
「絵里ね、この前から泣けないの」
そしてその予想が当たる。
里沙は意を決し、ゆっくりと絵里から体を話し、彼女を見た。
見てはいけないという意識が最後まで頭の片隅にあったが、それでも目をそらすことができなかった。
彼女を、真の彼女を、現実を見るしかない。もう、逃げることはできないのだから。
「絵里ね、分かんないの。アホだから、かなぁ」
―カメは、笑っていた
里沙は見た。絵里がニコニコと笑っているのを。一筋の涙も流さず、表情を崩すことなく笑っているのを。
絵里のお気に入りの片八重歯を見せながら、笑っていた。
怖いくらいに美しく、痛いくらいに優しく、笑っていた。
―ああ、カメ…
なにかがおかしくなっていた。
こんなこと、誰も望んでいなかったのに。
里沙と絵里の中で、なにかが変わり始めていた。
- 19 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:31
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- 20 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:33
- 「ガキさーん、かえろー」
一昨日から期末考査がはじまり、明日は最終日であった。
今日の科目は絵里の得意な現国と古文、そして苦手な英語であった。
里沙は隣から聞こえた声に応え、カバンを持って立ち上がった。
「どうだった、手応えは?」
「んー…微妙。でも、ちゃんと全部書いたよ」
相変わらずニコニコしながら絵里は答えた。
その表情から察するに、ある程度の手応えは感じているようだ。
実際、試験中に絵里の様子を斜め後ろから見ていたところ、スムーズにペンが走っていた。
いくら絵里が勉強ができるからとはいえ、満点が取れるとまでは思えない。しかし、本来の絵里の持つ力は発揮できたようだ。
それが確認できただけで、里沙は安心できた。
当の里沙本人はというと、可もなく不可もなくという状態であったが、いまは素直に喜べた。
あの告白の日から、絵里は1日も休まず毎日学校に来ている。
それが普通の高校生のあるべき姿なんだろうとは思うが、あの日のことを考えると胸が痛くなる。
里沙は絵里の告白を聞き、何も話すことができなかった。
いまの絵里には、なにを言っても白々しく、嘘っぽく聞こえるような気がしたからだ。
そんな里沙を察したのか、絵里は表情を変えずに優しく言い放った。
「だいじょーぶ。絵里、挽回するから。ガキさんも勉強教えてね」
その言葉通り、絵里はその日からいままで以上に勉学に励んだ。
期末考査前で部活動が停止期間に入ったせいもあり、屋上からグラウンドを眺めてもつまらないというのも理由のひとつかもしれない。
もちろん、絵里が勉学に励んだのは、そんな単純な理由じゃないと里沙には分かっていた。
だが、教師陣のあんな思惑を知って平静を保っていられるわけがない。
絵里の中で“なにか”が壊れてしまっていると里沙は思った。絵里が休まずに毎日登校しているのがその証拠な気がした。
普通なら、休む。
たとえ期末考査前だとしても、教師陣のあんな思惑を知ってしまったら、普通なら休む。
少なくとも里沙ならそうしていただろう。
だが、絵里の中にある感情のスイッチが壊れてしまったことにより、「普通」という言葉では説明がつかなくなる。
そして、彼女の心が壊れてしまったというより、スイッチが入りっぱなしになってしまったという言い方の方が正しいかもしれない。
常に彼女は、『楽しい』という感情が全開になり、その分、『哀しい』という感情が抜け落ちてしまっているように里沙には見えた。
- 21 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:34
- 教師陣としては、休まず登校することは喜ばしい結果かもしれないが、里沙にとってそれは、ひとつの“恐怖”であった。
里沙はいま、絵里のことが怖くて仕方がない。いつものように笑っている絵里が怖いのだ。
感情を失った、まるでロボットのようにニコニコする絵里に対し、里沙は恐怖を感じていた。
責任の一端は自分にあるとも里沙は思っていた。
生徒会という立場にいて、会長である愛からひとつの『噂』を聞いた時点で、なにかの対策を考えるべきであった。
もちろん、ただの生徒が教師に向かって立てつくことは不可能である。
だが、そうでなくても絵里の不安を軽減することはできたはずだった。
絵里をここまで追い込んだのは、間違いなく自分のせいだと思っていた。
そう考えれば考えるほど、試験勉強は頭に入らず、結果、今日のような答案が作成されるのである。
完全に自業自得なのだ、と里沙は自嘲した。
そして同時に思った。
絵里を“怖い”と思う自分は、なんて最低であるのかと。
「ね、ガキさん」
急に話しかけられ、里沙は現実に戻された。
気のない返事をすると、絵里はひとつの提案をした。
「今日さ、絵里の家で一緒に勉強しない?」
いつかの『青天の霹靂』を思い出す。
前回のような大きなカミングアウトでもなかったが、自分の心を見透かされたような気がして里沙は驚いたのだ。
絵里の自宅に行くことは、絵里の見舞い以外なかった。
絵里ともっと仲良くなりたい、自然体でいたいと日々思っていた里沙にとっては、見舞い以外で、たとえば普通の友達のように遊びに行くことがしたかった。
だから、この絵里からの誘いは願ってもないチャンスであったはずだ。
しかし、よりによってこのタイミングか、とも感じていた。
里沙は絵里の言葉を受け取ってから一瞬で頭の中で何かを計算し、ひとつの答えを選択する。
確かに絵里の自宅に見舞い以外で行ってみたい。そう、『普通の友達』がするように。
- 22 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:35
- 「んー、嬉しいけど、今日はやめとく。お母さんとちょっと約束もしてるし」
だけど、タイミングがいまではない。
いま、絵里の家に行くと、自分までもダメになってしまう気がした。このままずるずると、堕落してしまう気がした。
―カメを傷つけたのは、間違いなく私。
そう思っているからこそ、絵里の優しさに甘える訳にはいかない。
里沙の性格上、絵里と一緒にいることで、無意味に絵里に謝ってしまうから。絵里がそんなことを望んでいないと知りながらも、必ず。
だから、里沙は絵里の誘いを断った。前髪をいじりつつ、眉を指でかきながら返事をした。
絵里は相変わらず笑顔を崩さぬまま、「そうかー、お母さんに負けたかー、フラれたー」と、どこまで冗談か分からない愚痴を返してきた。
絵里と別れた後、これで良いのだろうか、と里沙は自問した。
自分が無力な事は痛いくらいに分かっている。しかし無力は無力なりに、何かできることはないのだろうか。
里沙は必死で考えるが、どうしても結論に至ることができない。
考えようとすればするほど、里沙の頭の中には、あの絵里の笑顔が張り付いて離れない。
絵里の笑顔が好きだった。
何も考えていないようで、実は誰よりも考えている絵里が好きだった。
常に周囲を見渡し、自分がやるべきことをやっていく絵里が好きだった。
自宅前まできて、里沙は唐突に理解した。
―あたし、カメのこと、こんなに好きだったんだ
それが友情を超えた恋愛感情であったとしても、いわゆる世間に認められないような想いだったとしても、いまは関係なかった。
それほどに好きな絵里のことを、里沙はいま、怖いと感じている。
あんなに大好きだった絵里の笑顔を、恐怖に感じている。
笑顔の奥にある、深い絶望、絵里の真の表情。
憎悪、嫉妬、諦念といった感情が見え隠れするから、目を覆い、そらしたくなる。気づかないフリをしてしまう。
だから、怖い。
里沙はほぼ無意識に玄関のドアを開け、ただいまと発した。
―私はいったい、どうすればいい? ねぇ、カメ、どうしたらいいかな?
答えの出そうにもない命題が、里沙の頭から離れなかった。
- 23 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:35
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- 24 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:41
- “うだるような暑さ”という表現がある。
里沙は窓を見つめながら、期末考査の現国の問題を思い出した。
【“うだる”という語句を用いて、短文を作りなさい。】
現国は得意でも苦手でもない里沙であったが、全く意味が分からなかった。
なに、うだるって? うだ、うだ、うぇぇぇ?
なによこれ、知らないし。どーしよ…んー…
現国といえば亀井絵里だ。普段はぽけっとしている絵里だが、特に現国の成績は異常なくらいに良い。
言葉の意味や漢字を知らないような雰囲気とは全く裏腹な点数を叩きだす。
絵里の現国の成績を支えているのは、“文章の読み解き”、つまり読解力にあった。
ちなみにそれは、『語句の意味が分かれば』という条件が付く。
科学論文などは絵里の興味のない分野の上にやたら難解な語句が出てくるために、著者がなにを言いたいかなど分からないようだ。
しかし、それを除いたとしても、絵里の読解力は目を見張るものがある。
里沙はいつだったか、安倍先生が言ったことを思い出す。
―カメちゃんは英語の成績が良ければいーんだけどね。したら新入生宣誓を読めたのに
『新入生宣誓』とは入学式の日に、新入生を代表し、高校生活の抱負を述べることである。
毎年、入学試験で主席、つまり成績がトップの新入生が宣誓を担当することになっている。
それに絵里が選ばれかけていたらしい。英語の成績が良ければ。
入学試験の点数の詳細は非公表だが、今年の宣誓者と絵里との点数差はほんの数点だったようだ。
里沙はその話を聞きながら、このぽけぽけぷぅが新入生代表ねぇ…と半ば疑いのまなざしをしたものだ。
しかし、絵里と過ごした数カ月で、その疑いは晴れることとなる。
確かに絵里はその実力を持っていた。
体調を崩し、高校を休みがちな絵里は、授業についていけないながらも、勉強への姿勢は本物だった。
彼女は不器用ながらも、なにが分からないかを理解しようとする。
人より遅いかもしれないが、いったん飲み込んでしまえば大抵の応用問題を解くことができた。
中間考査ではその実力を発揮できなかったが、絵里自身の持つ学業への姿勢は、里沙を感嘆させるものだった。
特に、言葉の端々に表れるふとした単語や表現は、里沙をドキリとさせた。
新聞なんか読まない、マンガとテレビ欄は別、なんてよく笑いながら絵里は話す。確かにボキャブラリーは豊かと言えたものじゃない気がする。
しかし、彼女の一言には、“なにか”があった。
- 25 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:42
- 中間考査が終わった後、絵里と里沙はふたりで神社へ行った。なんの神様が祀ってあるかもわからない、小さな地域の神社。
絵里も里沙も、神や仏を信じるようなタイプではなかったが、神社や寺に来るとなんとなく落ち着くと話したことがあった。
そういう理由もあり、学校からの帰り道、どうせ暇だから少し入ってみようということになったのだ。
ふたりで境内へ行き、5円玉をひとつ投げてお願い事をする。
5円玉なのに大きな願いを言うのは失礼かなと思いながらも、健康第一と成績が上がるようにと里沙は祈った。
拝み終わった後、里沙は絵里になにをお願いしたのか、定番の質問をした。
すると絵里は、「言ったら叶わない気がするからヤダー」と笑ってごまかした。
「なんだよー、ケチー。カメのくせにぃ」と半ば無茶苦茶な言いがかりをつけ、ふたりは神社を1周することにした。
境内の裏へ行くと、大きな樹が立っていた。
御神木、というのだろうか。樹齢500年や1000年と言われても不思議じゃないくらい大きな樹であった。
ふたりはその大きさに圧倒された。たいていどこの神社に行っても御神木はあるものだが、何度見ても壮観であった。
里沙は大きな樹や大きな川など、自然が好きであった。
自然に触れるたびに自分の小ささを知る。在り来たりだが、そうすることで悩みを解消することができるのだ。
そしてそのたびに、少しでも大きくなりたいと思う。たとえば、隣にいる体の弱い友人のために、なにかできないかと考える。
絵里は、ガキさん、すごいね、大きいね、と呟いた。絵里も自分と似たようなことを考えているのかもしれないなと思いながら里沙はうなずく。
「あのね、ガキさん」
「なによ」
「絵里ね、“私がこれからの人生で何があっても負けないように”ってお願いしたの」
里沙は一瞬、なんのことか分からなかったがすぐに合点がいく。さっきのお願いの話だ。
「ほら、絵里は体弱いじゃん。だからたくさん休んだり、ツラいことが多かったりしたの。中学校の時も……いろいろあったし」
- 26 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:43
- ポツリポツリと、絵里が話し出した。
絵里の中学生の時の噂は少し聞いたことがある。体が弱く、なんどか欠席をすることが多かった絵里であるが、成績は良かった。
出席していないのに成績が良いのはおかしい、カンニングでもしているのではないかと何度か陰口を叩かれたこともあったようだ。
絵里に中学生の時の話を聞く勇気は、里沙にはない。たぶん、里沙が思っている以上に、つらかったのだろうから。
その証拠に、絵里はこの時も、中学生の思い出を話さず、『いろいろ』でごまかした。
「たぶんこれからも、ツラいことはあると思うの。学校休んじゃうだろうし、体育はできないし…
だけどね、ツラいことがあっても、生きていこって。ちゃんと前向きに、うん」
この御神木も、そうやって生きてきたんだろうから。
どんなに強い風が吹いても、どんなに冷たい雨が降っても、倒れることなく立ち続けてきたんだから。
だから絵里も負けないよーに。
「うへへ、カッコいいでしょ?」
それだけ言うと、絵里はスキップしながら進んで行った。
里沙はその時に確信した。亀井絵里という人間は掴めないと。
そして、彼女は自分が思っている以上に凄い人間なんだと。
絵里は生きている。前向きに生きようとしている。
体が弱いというハンディキャップを抱えながらも、逃げずに人生を歩いてきている。
中学時代の経験がそうさせるのかもしれないが、彼女は強くありたいと願っていた。
健康になりたい、走りたい、そういった単純な願いを彼女は持っていない。
自分を受け入れた上での、願い。そしてそれは、単なる願いでなく、絵里の決意だ。
里沙は頭をかきながら絵里の後を追った。
―敵わないよ、カメには。
いつもは小さな背中が、その時は大きく見えた。
- 27 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:46
- そんな絵里だから、期末考査の現国の成績は良かったはずだ。
帰り道の会話でも悪いような印象はなかった。
「カメぇ、『うだる』ってなによー?」
「え、ガキさんそんな事も知らないんですかー??」
「うっさいなぁ、早く教えなさいよー」
「そーだなぁ…絵里のことを30秒間褒めちぎってくれたら教えてあげますよっ」
いつものパターンだ。いつもの絵里がそこにいた。
笑いながら、冗談を言う絵里。ニコニコして、ぽけぽけぷぅだ。
結局その時は、「絶対言わないからねー」と軽く受け流して『うだる』の意味を聞きそびれたのだ。
そして今日、読みかけの小説を開くと、「うだるような暑さにうんざりした」という文章を見つけた。
里沙は苦笑して、小説を閉じた。
今日はまさに「うだるような暑さ」であった。
夏休みに入って2日目の今日、セミがやかましく鳴き、太陽は激しく自己主張をしている。
こういう日はなにをするのも億劫であった。
夏休みの課題が出ていないわけではない。生徒会の集まりが明後日にあるため、それまでに書類をまとめておかなくてはならない。
やるべきことは明確にあっても、どうしても行動に移すことができなかった。
それもこれも、この暑さのせいだと里沙は言い訳をつけて、昼間からベッドでゴロゴロしていた。
するとその時、電話が鳴った。
間が悪いとはこのことだ。
両親は仕事に行っていて、家には里沙ただ一人。その上いまは、なにもする気が起きない。
電話など出たくないというのが里沙の本音であったが、ベッドからノロノロ起き上がり、リビングへと向かった。
「はい、新垣ですが」
「あ、里沙ちゃん?安倍ですけど」
里沙は思わず耳を疑った。電話口から聞こえてきたのは、担任の安倍であった。
急に何の用だろうと思いもしたが、なんとなく、用件の内容も見当がついた。
「いま、時間大丈夫かい?できたら少し会って話したいんだけども」
里沙は時計を見て、大丈夫ですと返した。
安倍と会うとなると学校になるから制服に着替えなきゃと思っていた。
- 28 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:47
- 里沙はいま、教室で安倍を待っている。
安倍から電話があったのは1時間ほど前のこと。
どうしても会って話したい事があるからと言われ、里沙は素直に承諾し、制服に着替えた。
なんとなく、予想がつかない訳ではなかった。
恐らくは、亀井絵里のことだろう。
絵里は期末考査が終わったあと、学校を休んでいた。
最初はさほど心配はしていなかったが、結局、絵里はそのまま学校を休み続け、夏休みが昨日から始まった。
こうなってくると、いよいよ絵里の言っていた「留年」が、じりじりと現実味を帯びてくる。
今月に入って絵里は10日ほど休んでいる。
「60日という上限の1/3」を使いきっていると話した絵里にとって、今回の欠席はさらなる痛手になるはずだ。
60日の1/3は20日、そこに10日が加算されると、30日。
数学が苦手な里沙でも、それくらいは分かる。そして、そうなると絵里は上限の1/2を使いきっていることも、分かる。
だからといって、これからどうしたら良いのだろう。
体の弱い絵里に学校に来いというのはあまりに酷な話である。
それ以前の問題として、里沙は絵里を避けていた。
それが絵里にとってどれほどの哀しみであるかも理解しているつもりだ。
―カメは頭良いから、気づいてるんだろうな
自分が少しずつ絵里を避けていることを。
絵里ほどの人間が、里沙の変化に気付かないわけがない。
里沙の奥底にあった、絵里のことが“好き”という感情。
その感情があるから、自分はこのままで良いという気持ちがどこかにあった。
好きという感情を盾にして、絵里を避けている。
絵里自身が心を開くのを待とうとしていた。
絵里の力で、また本物の笑顔を取り戻してくれるように、自分は何もしなくて良い。
自分は絵里のことを好きなのだから、大丈夫。このままで良いんだ、というという訳のわからない自信。
そんな都合の良い話がまかり通る訳がない。
初めから分かっていた。そんなバカな話はあるわけないことくらい。
絵里への感情は本物であるし、絵里のことを心配しているのも事実。
しかし、絵里に対して怖いという感情を持っているのも事実であった。
『好きな相手なら何でも受け入れる』というのは理想論な気がした。
最初は誰でも恐れるものだ、自分の知らない、自分と違う何かに対して。
問題は、そこからどう進むかであった。
感情の一部が壊れてしまった絵里をこれからどう受け止めていくか、であった。
確かに、里沙は一度、拒絶した。しかし、自分がしたかったのはそういうことじゃない。
―カメの笑顔が見たいだけ。本当の笑顔を知りたいだけ。
絵里の笑顔のために何ができるのか。それを考える必要があった。
もし、安倍に会うことで何かが分かるのなら、会うしかない。
たとえば、安倍に叱責されるようなことがあっても。
聞きたくないような話をされても、それを受け止めることが里沙の責任だと感じていた。
- 29 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:49
- 絵里の長い告白を聞いたあの日から胸につっかえていたもの。
“好き”という感情を盾にして、絵里を避け、自分を守っていた事実。
夏休みに入るまで、考えることを放棄し、自分の都合良い世界に閉じこもっていたこと。
そして、それが何の役にも立たないこと。
絵里が好きなら、絵里を守りたいなら、前に進むしかない。
たとえばそれが、ツラい道のりになったとしても。
里沙は安倍を待つ間、ひとりの教室で静かに考えていた。
これは、いま初めて考え始めたことではなく、絵里が学校を休み始めてからずっとずっと考えていたことであった。
だから里沙は、此処へ来た。前へ進むために。
里沙はいったん席を立ち、窓からグラウンドを眺めた。
夏の太陽の日差しに耐えながら、サッカー部や陸上部が暑苦しそうに走っている。
―カメはいつも、外を見てるんだよね
なにを考えながら見ていたのだろう。何処へ行きたいと考えていたのだろう。
そんな事を考えていると、教室の戸が開かれた。向くとそこには、いつもの笑顔をした安倍がいた。
「ごめんね里沙ちゃん、呼び出したのに遅くなっちゃって」
「いや、大丈夫ですよ」
安倍の手には大きめの封筒と出席簿が握られている。
里沙はそのまま席に着こうとすると、安倍に止められた。
「えーっと…ちょっとあまり聞かれたくないから、別の場所で良いかい?」
里沙はいよいよ、これは絵里の話だと確信した。里沙は笑顔で「ハイ」と答え、荷物をまとめた。
安倍は時計を確認しながら、歩き始めた。里沙はそのあとについていくが、この方向は何処に通じているか見当がついた。
果たしてその場所は、里沙の予想通りであった。
安倍は緑の札の付いた鍵を使い、生徒会室の扉を開けた。
室内は相変わらず汚かった。書類が散乱し、机上にはファイルやペンが雑に置いてある。
―片付けなさいってあれほど言ったのに…
里沙はそう思いながらも、「ごめんて里沙ちゃーん」と笑う生徒会長の顔が浮かんだ。
あの人はどうも片付けが苦手なようだ。そういうところは少し、絵里に似ている気がした。
「いやー、相変わらずだね、この部屋も」
安倍は苦笑しながら手近にあった椅子に座った。
「いやー、ホントすみません」と同じように苦笑しながら、里沙もそれに倣った。
里沙が着席したのを確認し、安倍は話を切り出した。
- 30 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:50
- 「えーと、薄々感づいてると思うけど、カメちゃんのことなんだ」
安倍は単刀直入に話す。
「んー、里沙ちゃんは、カメちゃんのこと、何処まで聞いてる?」
「何処まで、というのは、留年のことですか?それとも先生たちのことですか?」
臆せずに里沙は返した。この人の前で飾っても仕方がない。
なにより里沙は、安倍を信頼していた。
そんな里沙の反応に、安倍はいささか驚いていた。「あー、そこまで聞いてるかぁ」と短い髪をぐしゃぐしゃとかいた。
「うん、じゃあもう、隠さずに話すから聞いてほしいんだけど」
安倍は一呼吸おいて、出席簿を開いた。そして亀井絵里の欄にペンを置く。
「これがカメちゃんの出席。見て分かるように週に2回、多いときで3回休んでる。
もう聞いてると思うけど、うちの規定で、年間60日欠席するといくら成績が良くても留年が決まるんだ」
里沙は改めて、絵里の出席状況を見た。確かに、亀井絵里の欄には『欠』の字が多く、もしくは授業を休んだ印が入っている。
「でも、この間の欠席は、正確には忌引きなんだべ。カメちゃんのおばあちゃんが亡くなったから、休んだの。
まあ、10日間の内の3日だけなんだけどね。それでも欠席扱いにならない分、良いべさ」
里沙はその時、正直にホッとした。絵里の亡くなった祖母に感謝するというのはおかしな話だが、そのおかげで、恐らく既定の1/2にはまだ達していないはずだ。
それでもかなりギリギリのラインであることは変わらないはずだが。
「里沙ちゃん、いま、カメちゃんが入院してるのは聞いてる?」
ホッとしたのも束の間、里沙は驚愕の目を安倍に向けた。
いま、なんて言った?カメが、入院?
いつかの絵里の告白を思い出す、急に留年かもと告げられたあの日も、里沙はこんなに口の中が渇いていた。
その反応を見て、安倍は「カメちゃん、そこは黙ってるんだー」と少し哀しそうに眼を伏せた。
「カメちゃん、期末が終わった直後に倒れちゃってね、たぶん、緊張の糸が切れたんだと思う。
2日間は様子を見て自宅療養したんだけど、ちょっと回復しないから、夏休み前だったし、思いきって入院したんだ。
いまは検査結果待ちだけど、異常がなくても、しばらくは病院で過ごすことになるかもしれないって、カメちゃんのお母さんが言ってた」
安倍の告白は、里沙を驚嘆させるには充分であった。
留年よりも入院の二文字の方がインパクトが強かった。
絵里の体が弱いことは分かっている。入退院を繰り返していたことだって知っている。
しかし、いざこのように言われると、急に怖くなってしまった。
絵里の笑顔に対する恐怖とはまた別の恐怖。絵里が、絵里が死んでしまうのではないかという死への畏れであった。
絵里と過ごしていると忘れそうになる、絵里は、本当は病気なんかじゃなく、普通の高校生と同じじゃないかと。
だが、絵里は大きなハンディを抱えている。それをいま、あえて突き付けられた気がした。
そんな里沙の様子を見て、安倍は慌てて否定した。
- 31 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:51
- 「誤解しないでほしいけど、カメちゃんが重病とか、そういうことじゃないから。
1学期も終わったし、ゆっくり休みましょうっていう意味での入院だからね」
里沙は安倍の目を見つめた。その目は、嘘はついていない。
安倍は優しい表情のまま、里沙を見つめ返し、手にしていた封筒を渡した。
「これ、カメちゃんの成績表と試験の結果だべ。カメちゃんは頑張ったよ。学年で数えても、上から30人に入ってる」
里沙はハッとした。絵里はこの期末考査に懸けていた。
中間でこけた分、今回で挽回しないといよいよ留年が決まるからと、あの時そう言った。
そして、見事に挽回したのだ。それは素直に嬉しかった。
でも、なんでこれを自分に?と里沙は思った。
「それ、カメちゃんに持っていってほしいんだ、里沙ちゃんに」
「私が、ですか?」
「いやー、なっちも忙しくてねえ、これからデートとかだし」
目を細めて笑う安倍に対し、嘘だなと直感した。
誰よりも生徒のことを考える安倍が、こんな大事な仕事よりデートを優先させるわけがない。
安倍は気づいていたのだ、里沙と絵里の、いまの微妙な関係について。
それが少なからず絵里の体調に関係するなら、直接会って話せということなのだろう。
安倍なりの気遣いだ、とてもとても下手くそな。
「分かりました。じゃあ今日行ってきます」
「そ。助かるべさー」
安倍は相変わらず笑っている。この人は笑顔の似合う人だ。
少しだけ茶のかかった短い髪、整った顔立ち、キラキラした瞳。デートというのはあながち嘘でもないかもしれない。
そんな笑顔を曇らせたくはないと思ったが、里沙はひとつ質問をした。
「安倍先生。この際だから聞きますけど」
「ストップ」
安倍は急に里沙を遮って立ち上がった。
そのまま生徒会室の戸を開けて外を確認した。廊下には誰もいないし、誰かいた気配もない。
安倍はそれを確認すると戸を閉め、念のために鍵をかけた。
「ごめんね。一応、ね」
里沙は理解した。安倍は里沙の言いたい事を知っている。
そして、この動作で、安倍の味方が極端に少ないことも理解した。
「……どうして、あの人はカメを嫌っているんですか」
本名を出すことを避けたのは意図的なものであった。
いまここで、もし『サトウ』という名前を出し、万が一誰かに聞かれたら、安倍の立場がこれ以上ないほどに悪くなる。
そもそも、出席簿というものは本来生徒にほいほいと気軽に見せて良いものではない。
成績表を渡すなんて、個人情報の観点からしても、もっての外である。
それを安倍は堂々としている。里沙と絵里のために、である。
その気持ちを無駄にはしたくない。これ以上、波風を立ててはいけない。
安倍はうーんと声を出しながら頭をかく。「なんでかねー」と言いながら、持っていたペンを走らせた。
- 32 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:52
- そこには『教頭』を書かれている。
里沙がえっと聞き返す前に、安倍は答えた。
「波風を立てたくないっていうのが本音か、もしくは、キャリアの問題か」
キャリア…?
里沙はサトウのことを考えた。もう長くこの高校で英語を教えているらしく、それこそ10年ほどである。
サトウがもうすぐ40歳になることを思い出したところで、安倍が新しい文字を書き始めた。
『最年少は37歳』
そこまでいって、まさかと思う。
まさか、サトウ先生は。
「ま、推測に過ぎないべ」
安倍はいままで書いた単語を塗り潰し、二度三度と紙を破り捨てた。
それを見ながら思わず里沙は大声をあげそうになった。
そんな理由で?
しかし、ない話ではない。
そもそもうちの高校は、名声のために生徒を犠牲にする節がある。
全国大会前の強化練習が良い例だ。それが、授業料を無償にした生徒の果たす義務だと言えばそこまでだが、スポーツ推薦制以外の一般生徒は違う。
サッカーなどの団体競技においては、レギュラー11人のうち、何人が推薦学生だろうか。
里沙はやりきれなくなる。それがこの学校の実態なのかと唇を噛んだ。
「それが私立高校のやり方かもしれないべ。ま、うちの高校だけかもしれないけどね。
とにかくこの妙なシステムが変わらない限り、カメちゃんの厳しい状況は変わらないべ」
妙なシステムとは、教師にとって邪魔で無駄なものは排除してしまう理論だろうか。
学校という場所は、教育施設ではなく、教師陣の権力闘争の場だと生徒会長の愛が言っていたことがある。
学校は恐ろしいくらいのピラミッド型組織であると。
そこで生き残るには、強者に従うしかないのかもしれない。
―最近じゃ、教師同士のイジメも流行ってるみたいやざ
そう、愛は苦笑した。
その話には信憑性が持てる。この組織で孤立したら生き残れる気はしない。
安倍はいま、生徒指導部長に、組織に歯向かう反乱分子のように見られているが、果たして大丈夫なのかと不安になった。
「せめて来年あたり、誰か良い人が来てくれるといいんだけどね」
そう安倍が笑う姿を見て、里沙はハッとした。
安倍は先ほどから、笑顔以外の表情を見せていない。
―まさか先生も、……?
里沙の疑念は、確証には至らない。
しかし、いままでの話を総括したところで、出てくる回答はいくつかに絞られている。
どうしてこうも、納得のいかない方向に話が進むのだろうか。
どうして私の周りの人が苦しまなくてはいけないのだろうか。
里沙は泣き出しそうな自分を奮い立たせた。
泣くな、しっかりしろと言い聞かせ、スカートの上で拳を握りしめた。
「まあ、そういう訳だから、里沙ちゃん、任せて良いかな?」
そう言うと安倍は里沙に1枚の紙を手渡した。そこには絵里が入院しているであろう病院の名前と電話番号、そして地図が描かれていた。
里沙は涙を堪えながら頷くのが精いっぱいだった。
- 33 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:53
- ---
- 34 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:54
- 里沙は病院の正面玄関を入り、絵里の病室番号を聞いたところでしまったと思った。
見舞いの品をなにひとつ持っていなかった。
―バカバカ!手ぶらで病院来るってないでしょー!
絵里のことで頭がいっぱいでしたと正直に告白しようか、いや、それはあまりにも間抜けすぎる。
財布の中身を確認するが、とても見舞いの品を買えるような金額は入っていなかった。
―今日出かけるって知ってたらもっと入れてきたよ…
里沙は肩を落としたが、今さら引き返すわけにもいかず、看護師に言われた部屋へ向かうことにした。
新棟の702号室らしいが、さてエレベーターはどこだろう。
藤本総合病院は、この町でも有名な大病院だ。
有名になった理由のひとつに、初代の院長が女性であったということが挙げられる。
医者の世界というのも特殊なもので、大学病院は特に権力抗争の激しい場所だというのを里沙はドラマの影響で知っていた。
女性が院長になるなんて、相当な努力と腕があってのことだろうと理解する。
そんな有名な大病院にいる絵里は、よほどの重病なのかと頭が痛くなる。安倍は、重病ではないと言ったが、この病院を見ていると、どうしても構えてしまう。
ようやくエレベーターを見つけた里沙は、ギュッと封筒を握り締めた。
新棟702号室前は、誰もいなかった。
どうもここは個室ばかりの病棟らしいが、個室という状況がさらに里沙を不安にさせる。
普通は4人一組の部屋じゃないのかと、考え始めてしまう。
そういうのを考え始めるとキリがないが、もう此処まで来たら行くしかない。
会って聞くしか分かりあうことはできないのだから。いや、聞く勇気があるかもわからないが。
―とにかく会おう、カメ、話そう。
里沙は心の中で何度もつぶやき、思い切って戸を開けた。
- 35 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:55
-
「ガキさん、普通はノックするもんですよ」
そう、なぜノックをしなかったかと今でも悔やむ。
絵里に会って話すことだけを考えていたせいか、肝心のノックを忘れていた。
だからか、絵里はいきなり現れた里沙に対して、もの凄く驚いた顔をした。
扉が開かれると同時に、絵里は外していたメガネをかけ、里沙の顔を認めた。
お見舞いに来たと言ったらようやく落ち着いてくれたものの、当初は凄く身構えてしまっていた。
見舞いの品は忘れる、ノックはしない、一体なにをやっているんだろう、私、と里沙は落ち込んだ。
そんな里沙を見ながら、絵里は言った。
「うへへー、ガキさん来てくれて嬉しいですよー」
その表情は、笑っていた。だが、怖いとは思わなかった。
里沙はいま、凄く、落ち着いている。
「そうかー、もっと喜べカメぇー」
「うぉ、ガキさん調子乗ってますねー」
里沙がすべきことは、絵里としっかり話すことだ。
絵里のことを勝手に無視して勝手に自滅した自分がなにを言うかという感じもするが、この際関係ない。
―私がこれからの人生で何があっても負けないように
いつか、絵里がそう言ったように、里沙も心に決めていた。
なにがあっても、負けないようにと。
「体調は、どう?」
「あは、黙っててごめんね」
急に謝られたが、脈絡がない訳ではない。
入院を黙っていたことを責められたとでも思ったのだろうか、里沙は首を振り、「いーよ」と返した。
「前から先生たちと約束してたの。1ヶ月は入院するって。体を休めるにはそれくらいが丁度いーって。
だから夏休みが一番いーって思ってさ、予定より早く入院しちゃったけどね。でも、2学期からはまた学校行くよ」
胸が締め付けられる。恐らく絵里の言うことは本当だろう。
だが、予定より早く入院した理由は、少なからず自分にある気がした。
あの時、絵里を避けずにいたら何か変わっていたのかもしれない。
いまさら悔やんでも仕方ない、此処で立ち止まってはいけない。
里沙は黙って、手にした封筒を絵里に渡した。
「この前のテストと成績表が入ってるよ」
絵里の表情が、一瞬曇った。
「あ、中身は見てないから。安倍先生から頼まれたってだけだから」
里沙はそう言うと、半ば強引に封筒を持たせる。
絵里がこういう反応をすることは分かっていた。
なぜ里沙が絵里の成績表を持っているのかという混乱、そして、自分の留年がかかっている試験の結果が目の前にあるという不安。
両方の気持ちが入り混じり、とっさにリアクションができなかったことは明白だ。
だから、こういう場合はとにかく相手に書類を渡してしまうのが得策だと里沙は考えた。
手順はどうあれ、結果を本人に見て貰わないことには始まらない。
「あー、あたし、なんか飲み物買ってくるから。カメはそれ見ててね」
多少強引であっても、ちぐはぐであっても、不自然であっても、とにかく渡して見てもらうことを第一に考えた。
自分がその場にいたのでは見づらいだろうと配慮し、里沙は恐ろしく不自然な言い方をして病室を出た。
- 36 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:57
- 絵里はというと、ひとり病室に残され、半ば呆気にとられていた。
里沙の優しさはなんとなくわかる。だからこそ、この封筒の中にある結果を見ることは怖かった。
寝る間も惜しんで勉強し、挑んだ期末考査。
これの結果によっては、絵里の留年は決定する。
平均点を優に超えなければ、教師陣の心象も良くはならないだろう。
絵里はこの結果を見ることが怖かった。しかし、もう結果は出ているし、今更慌てても仕方がない。
意を決して、絵里は封筒に手をかけた。
「カメはオレンジジュースで良いかな」
里沙は自販機の前に立ち、なけなしの金でオレンジジュースのボタンを押した。
微妙な空気のまま出てきてしまったが、いまはこうするしかなかった。
もっと良い言い回しがあったのになと悔やみながらも、自分にそのスキルはないと苦笑した。
「あれ、その制服って、朝陽高校?」
そう思っていた時、里沙は声をかけられた。
振り返ると、茶色かかった髪の白衣を着た女性がそこにいた。
目つきは、少し怖い。だけど威圧感はそこまで感じない、不思議な女性だった。
「そうですけど…えーっと」
「あ、私ここで働いてんの。バイトみたいな感じ。で、朝陽高校のOG」
聞いてもいないのに、彼女は自分のことを話しだした。なんとなく、嫌な印象は受けなかった。
優しいとは思えないが、それでも怖いとは、言いきれない。
「誰かのお見舞い?」
「はい、同じクラスの亀井絵里の様子を見に来たんです」
するとその女性は、あー、と声を出して頷いた。「そうかカメちゃんのお見舞いか」とも発した。
その様子からすると、どうやらこの女性は絵里のことを知っているようだった。
なにか聞きたいと思ったが、彼女も忙しいらしく、時計を見て、「じゃあまたね」と行ってしまった。
呆気にとられつつも、自分用のジュースを買おうと自販機に向かうと、再び声がした。
「今度サッカー部のOG戦あるから、またねー」
里沙は声の方向を見ると、彼女はニコニコしながら手を振り、廊下の角を曲がっていった。
一体なんだったのだろう、あの女性は…。
悪い印象は受けなかったが、いろいろと謎の残る人だ。
白衣を着てたけど、お医者さんかな?
だけどお医者さんにしては若いすぎるし、バイトって言ってたけど…?
―ていうか、サッカー部のOG戦ってなに?
うーんと里沙は悩み頭をかいたが、なんだか答えも出そうにない問題ばかりだったので、思考を止めた。
OG戦については、明日生徒会の集まりがあるのだから、そこで生徒会長に聞けば良い。
とりあえずジュースを買って絵里のところへ戻ろうと、2本目のボタンを押した。
何も考えなかったためか、同じオレンジジュースを選んでしまったが、まあ良いやと里沙は笑った。
- 37 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:57
- 「カメぇー、入るよー」
今度はノックを忘れずにして、里沙は絵里の病室に入った。
ベッドの上には何枚かの答案が置いてあったが、絵里はそれを見てはおらず、病室の窓から外を眺めていた。
里沙は不思議に思いながらも、机にジュースを置き、絵里に近づいた。
カメ?と話しかけ、絵里がこちらを振り返ると、里沙は驚いた。
笑っている絵里のメガネの奥、その瞳は涙で溢れていた。
「カメ…どうしたの?」
「ガキさん…ガキさん……」
涙は零れない。しかし、その瞳は確かに涙で溢れかえっている。
それでもなお、絵里は笑っていた。
「絵里、24位ですよ!上から数えて24ってすごくない?」
笑う絵里の瞳の奥、輝きを失っていたそこに、一筋の光がさしたように見えた。
どうして泣いてるの?なんて聞かないし、聞けない。
里沙は小さくうなずきながら、絵里をそっと抱きしめた。
いまは涙が流れなくても、その瞳を輝かせたものは確かにあった。
きっとまた、彼女は大きな声で泣く気がする。
生きていることを証明する、赤ん坊のように。生まれたままの、純粋で無垢な瞳のまま。
「…良かったね、カメ」
「うん!絵里、また2学期から頑張る!」
何も変わらない、なんてことはない。
だけど、変わらないものもある気がした。
この日、里沙の流した涙の意味を、絵里が知ることはない。
それでも里沙にとっては、この日は忘れられない日になった。
絵里は感情がなくなったわけではない。
喜怒哀楽の『喜』の感情のスイッチが少し入りやすくなり、その他が少しだけ入りにくくなっただけ。
彼女は決して、忘れている訳じゃない。
感情を押さえつけることで、自分を守っているだけなのだと、里沙はようやく気付いた。
そうすることでしか、自分を守る方法を絵里は知らなかったのなら、今度は自分が守ってあげたい。
絵里を傷つけるものから、絵里のことを。
自分ができる範囲で。
―カメのことを、守ってあげたい。
夕陽が傾き、オレンジ色に輝きだした病室で、里沙はそう、思った。
- 38 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:58
- ---
- 39 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:59
- 「ガキさぁん、おーじーせんってなに?」
少しだけズレたメガネを直しながら、絵里はそう言った。
里沙はそれを見ながら、どうしてこうも彼女の口から出る単語はイチイチがアホっぽいのだろうと思う。
OG戦と言いたいのだろうけど、舌足らずだからか、ちゃんと発音できていないように聞こえる。
その前に人の書類を勝手に漁るなと里沙は突っ込みたくなったが、病室で暇を持てあましているであろう絵里だから、そこはあえて何も言わなかった。
「うちの高校の3大行事のひとつになりつつあるって、愛ちゃんは言ってたけどねー」
里沙はそう言いながら、先週行われた生徒会での会議を思い出していた。
- 40 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 10:59
- 「ちゅーわけで、今日の議題はこれやざ」
生徒会長である愛は、ひょいと資料を里沙に渡してきた。
分厚いその資料の表紙には、『サッカー部OG戦及び推薦入試に関する運営』と書かれていた。
夏休み明けの最初の学校行事と言えば、文化祭か体育祭だと里沙は考えていた。
だから当然、いま話し合うべきはその事だろうと思っていたが、どうも当てが外れたようだ。
しかも『OG戦と推薦入試』とは一体どういうことであろう。
数々の疑問が頭をよぎるが、とりあえず書類を見つつ、会長の愛の言葉に耳を傾けることにした。
愛が言うには、こうだ。
私立朝陽高校サッカー部は、今年で創立9年目とまだ歴史は浅いが、創立以来、毎年全国大会に出場している強豪。
毎年秋になると、高校総体を前に、過去にサッカー部に在籍していたメンバーが、OG戦と銘打って現役のメンバーと試合をすることになっているようだ。
そして、その次の日に、スポーツ推薦入試が公開で行われることになっている。
サッカー部にとって、そして朝陽高校にとって大きなイベントとなるこのOG戦と公開入試は、一種のお祭りであった。
去年から生徒会に在籍している愛には分かるのだが、特にOG戦に至っては、他校からも学生が観戦しにくるほどのにぎわいのようだ。
「なんかカッコいい先輩がたくさんいるんやと」
そういって愛は苦笑して説明を進める。
女子校特有の空気だろうか。校内に恋愛対象がいないためか、同性であっても少しでもカッコよければ恋愛感情に似たものを抱いてしまう。
それが、疑似恋愛なのか、それとも本気なのか。思春期特有の同性愛感情と片付けるかは人それぞれである。
里沙にとっては、そんなことはどうでも良かった。
正直、自分が絵里に持っている感情も、思春期に一度は誰もが経験するようなものかもしれないとも感じていた。
しかし、同性愛であれ、異性愛であれ、はたまた一過性の勘違いであれ、いまの感情に嘘や偽りはない。
いま、胸の中にあるこの感情こそが真実であればそれで良かった。
それを表に出すか出さないかは別問題であるし、ここで議論する必要はなかった。
里沙は「ふーん」と言いながら資料を読み進めた。
とにかくお祭り騒ぎになるこの行事を、なんとか混乱を招かず、怪我人を出さないように統制することが生徒会の役割であるようだ。
「え、去年とか怪我人出たんですか?」
「うーん…まあ、混乱が起きたよね」
愛はあっけらかんと答えたが、その反応に里沙は眉をひそめた。
「まあ、カッコいい先輩がおると、みんなキャーキャー言っちゃうやん?しょうがないんだってぇ」
いや、しょうがなくないと思いますけどね、先輩…
そう思いながらも口には出さない里沙。
さて、去年までの反省を活かし、どう今年につなげるかが生徒会の仕事ではあるのだが……どうしたものか。
- 41 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 11:01
- 「ふーん、推薦にゅーしですか…」
また、微妙に舌足らずな口調の絵里。入試という堅苦しい言葉さえ、彼女が言うと、『New si』という新しい単語に聞こえるから不思議だ。
里沙はそんな彼女から書類をひょいと取り返した。
「要するに、生徒会は、学校のために、混乱をおこさないための警備とゆーか、雑用なんですね」
時々、絵里は的を射たことを言うから恐ろしい。今回のことに関しても、なにひとつ間違っていない。
間違っていないだけに、反論もできないし、する気にもならない。
里沙はひと言、「そーゆーこと」と発して書類に目を通す。
当のOG戦と推薦入試までは1ヶ月もなかった。
2学期が始まってすぐに、このふたつの行事がある。そして間髪いれず、10月に文化祭と体育祭が行われる。
生徒会にとってはまさに地獄の2ヶ月になることは間違いない。
体育祭の運営は毎年そこまで苦労しないらしいが、問題は文化祭だ。
文化祭の最大の目玉である、夕方以降に行われるフォークダンス。
生徒会の予算をつぎ込んで夜空に大輪の花火を打ち上げ、それをバックにグラウンドでフォークダンスをするという、なんとも不可思議なイベントだ。
しかし、このイベントは毎年好評を博している。
どうも、このフォークダンスで踊ったカップルは結ばれるとかいう噂がまことしやかに流れているからだ。
―カップルって言っても、みんな女の子じゃないですか?
―里沙ちゃん、突っ込まないことも、大人なんやざ?
いや、生徒会長にだけは言われたくないですよと言いかけて口を閉ざした。
疑似恋愛とか本気とかはどうでもいい。
彼女たちは、退屈しているのだ、この現実に。
勉強と部活以外に何もないこの高校生活に、嫌気がさし、退屈しているのだ。
だから、その退屈しのぎに、現実を消費しているだけなのだ、なにかしらの口実をつけて。
子供じみた理論を使い、それが時に大人の理論を破たんさせていることを知りながらも、そのカードを切り続ける。
考えることをせず、ただ感じたままに、“いま”の退屈を壊そうとしているのだ。
―現代の女子高生らしいやん?
愛に言われた言葉を反芻したが、それが最も的を射ている気がした。
- 42 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 11:03
- 「ガキさんはぁ、誰かと踊るんですか?」
おや、意外と普通の質問が来たぞと思いながら里沙は少し考えた。
文化祭における生徒会の仕事も、OG戦や推薦入試と大して違いはない。その日がなにも問題なく終えることができればそれでいい。
そのためには、校内の警備や企画運営のサポートをすることになる。
しかし、最大のイベントのフォークダンスの時にやることと言えばなんだろう。
―整理券でも配る?
自分で考えながら苦笑した。
モテモテ生徒会長はすでに数人の生徒から踊ってくれませんかとアプローチを受けていた。
優しい生徒会長のことだ、下手をすれば一人ひとり踊ってあげるとか言いかねない。
でもそうなると整理券が必要になるかもなあと里沙は思うが、現実的に難しいのでやめた。
「その時に仕事がなければ、ね」
里沙は半ば適当に返事をした。
別に踊る相手がいる訳ではない。里沙も何人かに誘われたがいまのところは軽くお断りをしていた。
踊りたくない訳ではないが、やすやすと受け入れることもできなかった。
なにより里沙には、誘いたい相手がいた。
目の前の彼女、亀井絵里にどうアプローチするかを先ほどから考えていた。
しかし、全くと言って良いほど名案が浮かばない。
冗談めかして誘うのが吉か、真剣な顔で誘うのが吉か、はたまた当日勢いで行ってしまうのがベストか…
どれをとっても良い気がしたし、悪い気もした。
―こういうところ、不器用なのだ…
自分の弱い部分が見え隠れして里沙は嫌になる。
先ほどから書類をめくりながらも、内容はほとんど入ってこない。
むしろ絵里に邪魔されてお喋りをしている方が楽しい。
「じゃあ、暇だったら、絵里と踊ります?」
は?!と里沙は声を上げかけて飲み込んだ。
急に天からお告げが降りてきたような気がしたが、それは全くの気のせいであった。
言葉を発したのは、目の前の彼女、亀井絵里。
彼女はベッドからひょいと降り、スリッパをはいた。そしてメガネをはずし、里沙の前に膝をつく。
呆気にとられ、しかし混乱している里沙をよそに絵里は右手を差し出しながら言葉をつなぐ。
- 43 名前:Only you 投稿日:2011/09/04(日) 11:03
- 「わたしと、踊っていただけますか?」
そのとき里沙には、どこの国の王子よりも、絵里がカッコよく見えた。
なにをしているのだ!と突っ込むこともできず、ただ彼女に魅了された。
徐々にはっきりする頭の中で、自分はダンスに誘われていることにようやく気付いた。
舞踏会でシンデレラに膝をついた王子が、いま、目の前にいる。
高鳴る鼓動を感じながら、頬が赤くなるのを自覚しながら、里沙はそれでもほとんど無意識のうちに右手を伸ばし、絵里の右手に重ねた。
絵里はそれを確認すると、ゆっくり立ち上がり、里沙の右手を握り返し、自分の方へと引っ張った。
急にバランスを崩された里沙は絵里へ引き寄せられ、その胸に飛び込む形になった。
勢いがついたせいか、持っていた書類がふわっと周りに舞った。
「ありがとうございます、お姫様」
里沙はそのまま抱きしめられた。
絵里のいつもより低いその声は、生徒会の書類と共にはらはらと里沙の心に落ちていった。
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ったー!」
里沙は慌てて体を引き離すと、絵里はいつものようにニコニコ笑っていた。
「いやー、ガキさんかわいーねぇ。照れちゃってぇ」
「なっ」
―か、からかわれた?
なにか言おうとするがなにも言えなくなった。
自分がからかわれていたのだと感じ、里沙は紅潮した顔を手で覆いながら落ちた書類を拾い始める。
「ぜっ、たい、カメとは踊らないんだから!」
「うぇぇ、なんで?いま、いいって言ったじゃん!」
「そんなこと言ってない!」
嘘ではない。ひと言も「良い」とは言ってない。
ただ手に手を重ねただけだ。
それが肯定のサインであることは誰が見ても分かることではあるが、里沙は口にはしない。
からかわれたことも恥ずかしいが、そんな絵里にときめいた自分がもっと恥ずかしかった。
―……溺れてる。
絵里の笑顔に。絵里の声に。絵里の瞳に。
里沙は恋をしていた。
絵里はまだ文句を言っているが、一緒に書類を拾ってやる。
「ガキさん暇なんでしょー、踊ってよー、ねー」と甘ったるい声で言うが、もうやすやすうんとは頷いてやらないと里沙は誓った。
溺れた代償は、重い。
今後自分の心臓は持つのか、と里沙は不安になった。
そしてそれが嬉しい不安であることも、里沙は気づいていた。
- 44 名前:雪月花 投稿日:2011/09/04(日) 11:05
- とりあえず今回は此処までです。
亀井さん、田中さん主軸と言いながら、田中さんが出てきてなくてごめんなさい…
こんな感じで物語は進みます。
暖かく見守ってください。
- 45 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/04(日) 21:18
- やべー
せつねー
- 46 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/05(月) 06:37
- 懐かしい香りだ
- 47 名前:雪月花 投稿日:2011/09/05(月) 21:45
- いまさらですが、本作は学園物青春小説です。
ひたすら若い彼女たちを見守って下さい。
>>45 名無飼育さんサマ
訪問ありがとうございます。
切ない内容になってますでしょうか…?
今後も精進したいと思います。
>>46 名無飼育さんサマ
訪問ありがとうございます。
懐かしいですか…内容が高校生の青春ですからそう感じられるのかもしれませんね。
あまり上手くはありませんが、今後も頑張りたいと思います。
それでは更新します。
- 48 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:46
- 8月も後半に入り、夏休みも残すところ2週間程度になった。
それでも暑さは和らぐことなく、今日も真っ赤な太陽が輝き続ける。
里沙がこの病院に通い始めてもうすぐ1ヶ月が経とうとしていた。
さすがに毎日は通うことができないものの、週に2、3回、生徒会活動のない日は絵里と会うことにしていた。
この暑い中、病院まで自転車をこぐことは容易なものではなかったが、それでも里沙は、絵里に会えると思うと続けることができた。
―“これを恋の力というのなら、その効力を失った時はどうなってしまうのだろう。”
どこかの小説のフレーズを抜き出して、里沙は思った。
―いや、マンガだったかな?それともドラマ?
正確には思い出せないが、里沙はこの文章が好きだった。
いままでにない力が自分にみなぎっている気がした。
この勢いで、舞台にも立てるような、コンサートでもできるような、そんな気がした。
しかし、そんな実力も度胸も機会もないことは、里沙にも分かっていた。
―あ、機会ならあるか。
その機会があることを里沙は思い出した。
それは昨日のことであるが、その時のことを思い返すだけで、里沙は顔が紅潮する。
恐らくこれは、暑さのせいだけではない。
- 49 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:47
- 昨日、生徒会で集まり、文化祭について話し合おうとしていた時のことだった。
暑さのあまり、汗がぽたりと資料に落ちかけたとき、急に生徒会室の戸が開かれた。
そこに立っていたのは愛のクラスメート3人だった。
「ちょっと良いかな、愛ちゃん」と挨拶もそこそこに3人は愛を呼んだ。
生徒会の仕事が急に中断されることに決して納得したわけではなかったが、誰もがこの暑さで参っていたところだ。
3人の突然の訪問に文句を言うものは誰もいなかった。
愛が席を立ち、3人と二言三言会話を交わすと、愛はいつものように笑った。
里沙は生徒会室の奥からその表情を盗み見たが、これは『面白い』というより『困っている』ように感じた。
絵里の件があってからか、人の表情の変化に気づくことが多くなってきた。
というよりも、愛と過ごす時間が増えてきたからか、愛の変化に気付きやすいのかもしれない。
微かな表情の動きから、愛が何を考えているかを読み解けるようになっていた。
生徒会という組織で運営する中で、このような「気づき」は非常に有用だと里沙は思っていた。
さて、当の本人である愛はと言えば、やはり笑って3人と話している。
3人はなにかを頼んでいるような感じだ。
―これは押し切られるなぁ…
この4ヶ月間、この生徒会に在籍した里沙には分かる。
実行力があり、人望も厚く、なにより優しい生徒会長の愛は、頼まれたら大抵は断れない。
たとえそれが、自分の首を絞める結果になろうと、彼女は「NO」とは言わない。
自分を犠牲にして他人を助ける精神は、里沙にはあまり納得できなかった。
確かに、愛の“優しさ”で生徒会の運営に支障が出るようなことは一度もなかった。
だが、自分を苦しめてまで他人のために走る愛が、里沙にはわからなかった。
誰かのために、ということを否定している訳ではないが、そんな感情を持つ里沙自身が、なんだか嫌になる。
―私はそんなに、優しくなれない
里沙がそう思っていると、愛はこちらを一度振り返った。
一瞬、目が合ったかと思ったが、気のせいだったのか、愛は再び3人と向き合う。
すると今度は3人がこちらを見てくる。
む、なんなのだと思うが、ここで不快な目をするのは大人げないと思い、とりあえず会釈をしてみた。
しかし、3人は会釈をした里沙を無視し、愛と会話を再開する。
―な、なんなのだー!
イライラした。
この暑さのせいか、里沙はいつもより短気になっている気がする。
こんなことで簡単に怒ってしまうあたりが全く大人げないと思っていると、愛がこちらに戻ってきていた。
扉の方を見ると、先ほどまでいた3人はというと、とっくにいなくなっていた。
愛が席に座ると同時に、会議は再開された。
彼女は何事もなかったかのように、資料に目を通しながら、文化祭についての各クラスの出し物を読みあげていった。
- 50 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:48
- 話し合いが終わり、愛の一言で生徒会は散会になった。
役員はみな、この暑さから早く解放されたいと手早く荷物をまとめ、お疲れさまと言ってさっさと廊下へと出ていった。
里沙もそれに倣おうとしたが、先ほどの話が気になって、同じく荷物をまとめる愛に話しかけた。
「あの、さっきの3人はなんて?」
「ん?あー…なんか文化祭でやる演劇部の演目に出てくれんかって頼まれたんよ」
里沙は愛の言葉に眉をひそめた。
演劇部は毎年、クラス演目が全て終わった後になにかの演目を披露し、文化祭の演目のトリを務めている。
演目が終了すると、生徒はみな、浮足立ってグラウンドへと向かう。それはフォークダンスの合図だ。
演劇部からフォークダンスへというのが、朝陽高校文化祭のフィナーレの流れであった。
「いやー、なんか今年は人数足りんらしくての。あーしに助っ人頼みにきたんよ」
そういうのは白羽の矢っていうんじゃないの?と里沙は言いかけて、飲み込んだ。
人数が足りないからといって、文化祭当日に忙しい生徒会長を借りだすことはないだろう。
その人手不足ということだが、里沙のクラスにも演劇部は4人所属しているし、知っているだけで演劇部は20人以上在籍している。
多忙を知り、コンクール上位常連校というプライドもあり、人員がいない訳でもない中、わざわざ外部である生徒会長の愛にオファーしてくるのはなぜだろう。
愛は演劇経験でもあるのだろうかと考えた。
「ちなみに、なにをやるの?」
若干の呆れを感じ、思わず先輩に対してため口になってしまうが、里沙は気づいていない。
「なんか、シンデレラをやるんやとー。その王子役にどうかって」
里沙はますます混乱した。
童話のシンデレラをそのままなぞるだけでは高校演劇とは言えないだろうから、アレンジなり脚色なりを加えるのは分かる。
しかし、王子役と言えば、ほぼ主役級だ。それを部外者にやらせるのだろうか、普通。
「愛ちゃんって……演劇とかやってたの?」
「去年の文化祭で1回だけなー」
それは初耳だった。里沙は自分が入学する以前の愛のことを知らない。
愛が1年生の時から生徒会に在籍していたのか、2年生で会長に抜擢されたのか、どんなクラスメートに囲まれていたのか、なぜ部活に入らなかったのか。
文化祭で、なにを演じたのかも。
―私、なにも知らないんだね、そういえば。
しかし、その事実があればなんとなく納得できる。
去年どういった経緯で愛が演劇に出演したかは分からないが、その演技は高評価だったのだろう。
そして今年は“会長”という職に就き、生徒からの人気もあって、箔が付く。
演劇部として、愛は欲しい人材だったに違いない。
- 51 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:51
- 「で、受けるの?」
「まー、里沙ちゃんさえ良ければ」
「は?私?なんで?」
先ほどの表情から察するに、断り切れなかった愛は、OKサインを出したのだろうと里沙は考えていた。
しかし、愛の返答は里沙の予想の斜め上を行くものであり、里沙は絵里くらいにしか見せないような崩れた顔で愛に返した。
その崩れた表情がよほどおかしかったのか、愛は声を上げて笑い、そのまま続けた。
「いや、だから里沙ちゃんが良いって言えば」
「だからなんで私なのよー。関係ないでしょー」
どんどん、“素”になっている里沙がいた。
いままで、ひとつ上の先輩であった愛に対して持っていた尊敬という感情からつくられた壁が、取り払われていく。
「あ、聞こえてなかったんや」
「なにが」
「3人に推薦したって話」
「なにを」
この端的な会話から、里沙はもの凄く嫌な予感がした。こういう予感はたいてい当たる。
―いや、外れる!ここは外れる!
「だから、里沙ちゃんが演劇に出れば良いって話」
―あ、当たってしまったのだー!!
里沙は頭を抱えた。
どうしてこうもイヤな予感はすぐにあたってしまうのだろう。
- 52 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:52
- 里沙は頭を抱えた。
どうしてこうもイヤな予感はすぐにあたってしまうのだろう。
「なんで私なのよ!」
「いや、里沙ちゃんがシンデレラやったらえーなーと思って」
「だれがシンデレラなのよ!」
「だから里沙ちゃんやって。なんど言わすの?」
―なんど言わすの? じゃないのだ!なんでどうしてそういう話になるのだ!
そこであの時に感じた、愛と3人の視線の意味が分かった。
あの時に愛は紹介したのだろう、じゃあシンデレラに里沙はどうだろうかと。
そして3人は里沙を見た。演劇経験があるかもわからない、そして実力も未知数な里沙を推薦されても困惑するのは当然だ。
そりゃ里沙の会釈を無視して愛に推薦理由を尋ねたくなるはずだ。
「なんで勝手に……てかやんないから、私!」
「えぇぇ、やんないの?里沙ちゃんのシンデレラ可愛いと思うよ」
可愛い可愛くないの問題ではない。里沙は演劇の経験なんてないし、そんな人前に出るような度胸もない。
そもそも、王子のオファーが愛に来たのに、全く関係ない里沙を主役のシンデレラに推薦するような愛の考えも分からない。
「なんで出んの?」
「なんでって、当たり前でしょーが」
「あたりまえ?」
そうでしょーが、と言おうとして愛を見ると、里沙は一瞬ドキッとした。
- 53 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:52
-
「あーしは里沙ちゃんと一緒に出たいと思っただけやざ」
その言葉は、なんとも自然に愛の口から出てきた。
その声が、里沙の耳に届き、脳へと伝わり、全身へ行きわたる。心地よい響きだった。
同時に、顔が熱くなるのを感じる。
そして直後、だ。
「…一緒に出てくれんか、お姫様」
愛は里沙の前で膝をつき、少し頭を垂れながら、右手を差し出した。
それはあの日、絵里の病室で見た、絵里の格好と全く同じものであった。
愛の瞳に、吸い込まれそうになる。
あの日の絵里の瞳にも、そんな魔力があった。その魔力に負け、里沙は意図せずして絵里の手を取っていた。
今回はさすがに同じ轍は踏まない、踏みたくない。
そう思っているのに、その瞳から目を逸らすことができない。
愛は変わらず、里沙を見つめている。
その瞳に、迷いや偽りはない。綺麗に透き通った純粋な瞳だ。
里沙はそのとき初めて、愛の顔をこんなにも見つめた。
最初に会ったときから、綺麗な顔立ちだとは思っていたが、これほどまでとは思わなかった。
大きな瞳、きりっとした眉、すっとした鼻、控えめな唇、なんとも綺麗に整った顔である。
絵里とは少し違った顔立ちだが、此処にも確かに王子がいた。
里沙は恥ずかしさのあまり目を逸らそうとするが、愛の視線がそれを赦さない。
その視線が、熱い。
自分の情を、いま此処に込めている。
これが、演劇部を虜にした、愛の才能なのだろうか。
―演技でも、良い
里沙は躊躇いながらも、愛の手に自らのを重ねた。
- 54 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:54
-
「なー、ホントに出らんのかー?」
学校からの帰り道、愛はしつこいくらいに里沙に聞いてきた。
そのたびに、「だから」と前置きし、里沙は答える。
「演劇部がオッケーしてくんなきゃ意味ないでしょ」
「にしても、手取ってくれたやんか」
「あの状況で取らない方が少数派でしょ」
我ながら苦しい言い訳だと思う。こんな逃げ口上を2回も使うとは思ってもみなかった。
「演技上手いと思うがなー、里沙ちゃん」
「買い被りすぎだよ」
苦笑しながら、里沙は思う。
愛の目には里沙はどんなふうに映っているのだろう。どう解釈したら、演技の才能があると思うのだろう。
「私、愛ちゃんみたいにできないから」
すると愛は少し間をおいて、答えた。
「あーしみたいに、とかって関係ないざ。里沙ちゃんは上手いと思っただけ」
「だからそれが」
「里沙ちゃんはさ」
里沙の次の言葉を遮り、愛はつづけた。
「自分を過小評価しすぎなんやざ。そんな謙虚にならんでもええのに」
さらに紡ぐ。
「自分を追い込みすぎて、可能性すら見えなくなってしまってへん?」
里沙はその言葉の真意を測れなかった。どういう意味か、理解が及ばない。
だが、真意を聞こうとする前に愛から新たな言葉が放たれた。
「絵里のことも、そんなしょい込みすぎんで、もっとあーしらを頼ってほしい」
- 55 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:55
- その言葉に、里沙はカッとなった。
いままでの柔らかい空気を壊してしまいそうだったが、そんなことは考えられなかった。
里沙は思わず、叫んだ。
「愛ちゃんになにが分かるのよ!」
愛の言葉は、何も間違ってはいない。
素直に受け取り、ありがとうと返せれば良かったのに、何故か急にカッとなった。
絵里のことを自分一人で背負っている気分になっていた訳ではない。
だが、何処かにこう思う自分がいた。
―“絵里が頼れるのは、自分しかいない”
だから、それがなくなると、里沙の存在意義がなくなってしまう気がした。
絵里を好きでいること、絵里の病室へ行き話すこと、一緒に夏休みの課題をやること、文化祭などの未来の話をすること、
それらをすることで、絵里と里沙は繋がることができる。
病室という真っ白い小さな部屋にただ一人でいて、小さな窓から切り取られた空を眺める絵里。
そんな絵里と会話を共有することで、新しい空間を構築することが里沙の役目だと、何処かで考えていた。
―カメになにかすることで、私自身の意味を見出していた…
いつもどこかで、そう思う里沙がいた。
違うと否定したい。ただ好きだから傍にいたいだけと言い聞かせようとしても、それは自己満足で結局は自分のためなんだという声がする。
心の中に常に在った、里沙の独占欲。
それが形になって現れた結果がこれである気がした。
―だから私は、優しくないんだよ
分かっていた、本当は。
薄々ではあるが、自分の中にある小さいがどす黒く醜いこの感情に。
偽善者という言葉が似合う。
もうイヤなのに。
ただ絵里を好きでいて、一緒にいて笑っていたいだけなのに、こんなにグチャグチャな感情が出てきてしまうことが。
一体自分は何がしたいというのだろう。
絵里の声が、絵里の瞳が、絵里の笑顔が好きだった。
だからそれを守りたいだけなのに。
それなのにどうして、こんなにも黒い感情が顔を出すのだろう。
里沙は気づけば泣いていた。
愛の優しいアドバイスを受け、それに勝手に怒って勝手に泣きだして、最低すぎると思った。
だが、もう止まらない。
自分の中で精一杯やってきたつもりだった。
猛暑日が続く中、生徒会のない日に自転車をこいで病院まで行き、絵里と夏の課題をし、分からないところは教え合い、空いた時間で少し話をし。
里沙なりに絵里とうまくやってきたつもりだった。
それなのに、何処かにある黒い感情が里沙を捉えて離さない。
それは黒い双頭の蛇のように絡み付き、常に毒牙をちらつかせ、いつでも喉を噛み切る準備をしている。
この黒い想いが気のせいだというならば、誰か教えてほしい。
どうしてこんなにも、胸が痛むのか。
- 56 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:57
- 「そーゆーところが、しょい込みすぎなんやって」
泣きだした里沙を、愛はそっと抱きしめた。
「里沙ちゃんは優しすぎるから。考えなくてもえーことを考えるから」
里沙はその言葉に泣きながら首を振る。
「あたしはっ、愛ちゃんみたいに、優しくなんかっ…」
「お願いやから、追い込みすぎんで。あんたのことが心配なんや」
それは、懇願のようにも聞こえた。
生徒会長ではなく、高橋愛の願い。後輩ではなく、此処にいるひとりの『友人』として。
自身の言葉が足らず、里沙を泣かせる羽目になったことを愛は後悔した。
しかし、それ以上に、もうこんな里沙を見たくないと思った。
里沙は笑顔が似合う人と愛は思っていた。
初めて里沙が生徒会室に入って来たときからずっとそう感じていた。
一番素直な表情、それが里沙の場合は笑顔だった。
偽らない、飾らない。等身大の新垣里沙。高校に入学したての純粋な15歳。
それが里沙の笑顔にあらわれていた。
里沙の笑顔が見たい。
ただそれだけが、愛の行動理由だった。
奇しくもそれは、絵里に対する里沙の行動理由と同じだった。
そして、里沙を心配する絵里の気持ちは、愛のそれとも一致していた。
どうか知ってほしい。
ひとりじゃないということを。
どうか知ってほしい。
―里沙ちゃんは、こんなに愛されていることを。
声にして叫びたい。あなたは優しすぎるのだと。
だが、それは恐らく届かない。
だから、言葉にならないくらいなら抱きしめてやる。
不安になるくらいなら、その黒い感情を消してやる。
考えなくても良いその黒いものを、放り出させてやる。
―その笑顔を守るために。
- 57 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:58
- ---
- 58 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 21:59
- あんなに泣いたのはいつ以来だろうか、と自転車をこぎながら里沙は考えた。
相変わらず太陽はギラギラと輝き、里沙の体から水分を奪っていく。
昨日、愛に抱きしめられながら泣いた。
その理由を愛は聞こうとはしなかったが、なんとなく、分かっている気がする。
里沙の絵里への気持ち、そして里沙の悩み。
そういったもの全てを、愛は受け止める。知らないうちに、愛は里沙を支えている。
里沙もその優しさに気づいていない訳ではない。
しかし、どう甘えて良いのか分からない。迷惑ではないかといつも考えてしまう。
そんなことを本人に言おうものなら、「気ぃ遣いすぎやざ」と福井なまりの笑顔で答えそうな気がした。
素直に甘えられない理由はもうひとつある。
それは、絵里に対する気持ちであった。
絵里のことが好きだというこの感情を抱いたまま、愛に甘えて良いのだろうか。
愛が好きであるとかそういうことはない。少なくともいまはない。
だが、愛が膝を地に着き、右手を差し出してきた時、里沙は自らの手を重ねた。
―なんだか、矛盾してる気がする
絵里への想いが加速する中、愛という存在が里沙の中で日に日に大きくなっていた。
最初はただの先輩であり、頼れる生徒会長で、同じ仕事仲間。
それだけのはずだったのに、特に夏休みに入ってからというもの、生徒会で会う機会が増えてからは愛のことを意識するようになっていた。
愛自身、里沙のことを気に入り、可愛がってくれている。
この感情を、好きと呼ぶなら、一体どうすれば良いのだろう。
別に誰とも付き合ってないのだから、浮気だのなんだのと言われることはまずない。
しかし、真面目な性格である里沙にとってみては、このハッキリしない関係には納得できなかった。
―軽い、ってわけじゃない…といいな。
愛に抱きしめられ、顔を紅潮させた翌日に、絵里の病院へ自転車を走らせている。
この行動が、矛盾だというならば、どうすれば良いのだろう。
分からないのか、分かりたくないのか。分からないふりなのか。
里沙は病院の専用駐輪場に頭から滑りこみ、ブレーキをかけた。
『考えなくても良いことまで考えてしまう』ことがあると愛は言った。『無意識に追い込んでしまう』とも言った。
しかし、里沙にその自覚はない。
それが良くも悪くも、彼女の『真面目な』性格であった。
里沙は自転車に鍵をかけ、汗を拭いながら、正面玄関へと歩いた。
とにかくいまは絵里の見舞いに来ているのだから絵里のことを考えようと思った。
いつにもまして空は青い。今日も暑くなりそうだった。
- 59 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:01
- 「わっかんねー」
その独特の甘ったるい声が室内に響いた。
里沙は眉をひそめながら声の主を見ると、綺麗に机の上にへばりついている。
これは完全にやる気をなくした証拠である。
「どこが分かんないのよ?」
「絵里、オレンジジュースが飲みたいです」
聞いちゃいねえと里沙は思うが、時計を見て絵里の反応がもっともだと気づく。
里沙が病室に来て、ともに課題を始めてからもうすぐ2時間が経とうしていた。
集中力のないことに定評のある絵里にとって、2時間とはなかなか驚異的な数字である。
里沙もちょうどキリの良いところまで課題が進んでいたため、シャーペンを置いてグッと伸びをした。
「じゃあ休憩しよっか」
そう里沙が言うと、絵里は顔をキラキラと輝かせた。
先ほどまでの沈んだ表情はどこへやら、犬だったら尻尾がちぎれんばかりに振っているような状況だ。
絵里は顔をくしゃくしゃにして、「やったー」と喜ぶ。
そんな絵里が、無性に愛しいと里沙は思った。
なにも考えずに抱きしめたくなるが、必死に理性を働かせて我慢しようとする。
理性だけではどうしようもない気がしたので、里沙はとりあえず話題を振ることにした。
「そういえば、愛ちゃんが文化祭の劇に出るかもしれないって」
いま頭に思い浮かんだ最新の話題が文化祭の演劇であった。
里沙はなにも考えず、その話を振ると、絵里は当然のようにそれに食いついた。
「演劇ですかー。会長の愛ちゃんはなにをするんですか?」
里沙は昨日の話をしようとして、一度口を閉じた。
思い出すだけで紅潮する出来事。それが里沙の心を占めていた。
絵里に話したい内容は、文化祭の演劇のことであって、生徒会室での愛とのやり取りではないはずなのに。
気持ちを落ち着かせようと無意味に課題のプリントをまとめる。
「んー、なんかシンデレラの王子様役だって」
「おぉー、カッコいーじゃないですか!え、ちなみにガキさんは出ないの?」
いま、里沙に絵里の顔を見ることはできない。
自分で言った『王子』という言葉に誰よりも敏感に反応したのは里沙だ。
里沙にとっての王子は、愛だけではなく、目の前にいる絵里もそうであったから。
昨日、生徒会室で演劇の姫役に誘った王子と、文化祭の目玉であるダンスのパートナーに誘った王子。
天秤にかけているつもりなどないが、意識せずにはいられなかった。
赤く染まった顔を見られる訳にもいかず、里沙はうつむいたまま席を立ち、窓側へ移動する。
- 60 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:01
- 「たぶん、出ないと思う」
「たぶんってことは出るかもってこと?」
後ろからの声に里沙は昨日の愛とのやり取りを話した。
もちろん、膝をついて誘われた話は、していない。
絵里はそれを聞くと、うーんと唸り声を上げ、わざとらしく腕を組み考え始めた。
いったい何を考えているのだろう。
「いやー、ガキさんのシンデレラかー。見たいような見たくないような…」
演技に自信がある訳でもないが、見たくないと言われては少し心外であった。
ムッとして言い返そうと絵里を振り返ると、彼女は意外な事を言いだした。
「だってガキさんって、どっちかって言うと王子様っぽいじゃん」
「私が?王子様?」
「うん。だって、絵里にとってガキさんは、いつでも王子様だよ」
そのとき、里沙は聞き間違いではないだろうかと思った。
しかし、絵里の顔を見る限り、どうもそうではないようだ。
絵里はいつもの笑顔のまま、言葉を紡いだ。
「絵里は体も弱いし、頭も良くないのに、夏休みの宿題も終わりそうだよ。
中学校まではつまらなかったのに、いまは学校が楽しいって思えるし、2学期からも行きたいって思ってる。
OG戦だって推薦入試だって文化祭だって、楽しみで仕方ないんだよ?」
絵里はまっすぐ、里沙を見つめている。
その瞳に嘘や偽りはない。昨日の生徒会長と、変わらない純粋な瞳であった。
「絵里がこうやって笑えるのは、ガキさんのおかげだよ」
目を細め、片八重歯を見せて、絵里は笑う。
優しいその表情が、里沙の心の中にあった黒い感情を溶かして消していく。
それは魔法のようであった。
たった一言。たった一言だけで、里沙の喉をその毒牙で噛み切ろうとしていた黒い双頭の蛇が、消えていく。
「ガキさんは、高い塔の小さな部屋に囚われたお姫様を楽しませてくれる王子様ですよ」
感情が、決壊しそうになる。
眩しいくらいの笑顔と偽りも曇りもない瞳。
絵里に見つめられたら、里沙は、自分の感情に抑えが利かなくなりそうだった。
里沙は慌てて顔をそむけ、病室の扉の方へ足早に向かった。
- 61 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:02
- 「…自分がお姫様って発想がカメらしいのだ。ジュース買ってくるよ」
「うへへぇ、100%をお願いしまぁーす」
絵里の甘ったるい声を背中に受け、里沙は廊下に出た。
そのまま自動販売機のある方向へ歩いていくが、まだ心臓は高鳴っていて鎮まることを知らない。
なんという破壊力だろう。
次になにか言われたらこの心臓は本当にもたないのではないか。
絵里は恐ろしく天然だ。人の考えていることの斜め上をいく回答を持っている。
ただ、天然な割に空気を読むことができる。
それこそ愛の言う『考えなくても良いことを考えてしまう』タイプの人間であった。
だからこそ、里沙は絵里に惹かれていった。絵里の持つ独特の空気感が好きだった。
だが、結果的に天然ゆえに、先ほどのようなことを平気で口にする。
今時の女子高生が、恥ずかしげもなく、『王子』などと言うだろうか?
いくらその直前に、演劇の話で王子と姫という単語が出てきたとしても、である。
先日の、膝をついてのダンスへの誘いについてもそうだ。
ノリが良いとはいえ、一緒にダンスをするためだけに片膝をついて頭を垂れて右手を差し出すだろうか?
―カメは天然のタラシなのだ。
おやおや、何処で『タラシ』などという言葉を覚えたのだろう。
しかし、“天然のタラシ”という言葉は、いまの絵里を形容するにぴったりであると、里沙は思った。
- 62 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:03
- 自販機の前で、いつものように100%オレンジジュースのボタンを押す。
そろそろ溜まりに溜まったジュース代を絵里に請求しようかと、半ば冗談に考えた。
―この前は王子で、今日は囚われのお姫様、か。
絵里の持つふたつの顔、両面性は里沙の心臓を高鳴らせる以外の何物でもなかった。
あれで運動神経が抜群であれば、間違いなく生徒会長の愛に次ぐ人気を誇っただろうと思う。
“愛に次ぐ”と、里沙はほぼ無意識に愛のことを考えていた。
いくらなんでもそれは考え過ぎだと打ち消そうとしても、一度まとわりついた思考はなかなか離れてはくれない。
昨日見た愛の笑顔と、抱きしめられたときの苦しそうな表情が交互に浮かぶ。
- 63 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:04
- 結局、似ているのだ、ふたりは。
亀井絵里と高橋愛は、似ている。
『もしも』や『たられば』を言っても仕方ないが、絵里がもし体の何処にも異常がなく、自由に走ることができたなら、
普通の女子高生のような生活が送れていたならば、彼女は間違いなく生徒会長の愛に次ぐ人気を誇ったはずだ。
たった4ヶ月ではあるが、絵里を一番近くで見てきた里沙には分かる。
絵里の持つ空気は、人を惹きつけて離さない。
ずば抜けて頭が良いわけでも、運動ができるわけでもない。
それでも、『亀井絵里』という人物は、周りの人間を惹きつける力を持っている。
クラスメートは絵里の事情を知っているが、彼女らは絵里を避けたりするようなことはしなかったし、変に構うようなこともしなかった。
絵里を普通の友人として見ていたのだ。
夏休み中、絵里が入院している間、この病院に見舞いに来たクラスメートも少なくない。
実際里沙も、先日、この病院内でクラスメートの3人に会ったばかりであった。彼女たちなりにできることはないかと考えているようだった。
それは“偽善”という言葉はあまりに不釣り合いであった。
里沙もクラスメートも、そして担任である安倍も、ただ絵里が心配で、一緒に2年生になりたいという気持ちがあるだけであった。
週に1、2回は休み、体育は必ず欠席する絵里は、悪い意味で目立ってしまう。
しかし、そんな中でも絵里が登校した時は、クラスメートは変わらず絵里に接している。
彼女らは、絵里がクラスで浮かないように自然な空気を作って絵里を迎えていた。
その空気が優しくて、里沙は好きだった。
これがうちのクラスでなかったら別の結果になっていたかもしれないと里沙は思う。
優しい空気に包まれている絵里は、多少の不具合がありながらも学校生活を送ることができている。
そして絵里は、絵里の“素”の表情を出すことができる。
それが周囲の人を惹きつけ、結果的に優しい空気を作り出すという循環になっていた。
それは、生徒会長の愛と似ていた。
福井出身の彼女は、その独特の訛りから注目を浴び、ともすればクラスで浮きかねない存在であった。
しかし、当の本人はそんなことは気にせず、自分を飾らないままに高校生活を送っていた。
その“素”の表情は優しく、名前の通り、愛に満ちていた。
それに加え、スポーツもでき、学業成績も良かったため、クラスメートからの人望も厚く、あれよあれよという間に生徒会長まで昇っていった。
- 64 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:05
- 絵里の空気と愛の空気。
微妙に違うようで重なるふたりの空気は、里沙を癒し、そして悩ませている。
似ているからこそ、惹かれるのか。
―これじゃ、ただのフラフラしてるだけの人なのだ。
黒い双頭の蛇が消えても、別の蛇は消えていない。恋を唆す、真っ赤な蛇だ。
それでも
「好き」
ひと言だけつぶやいて、里沙は無意識にボタンを押した。
出てきたのは、水。
「まさかの水かよ」
ひとりでそうツッコミを入れながら、2本のペットボトルを持って、里沙は絵里の病室へと戻る。
大丈夫、もう心臓は高鳴っていない。
だが、もう一度なにか言われたら、今度こそ心臓はもたないなと、里沙は思った。
- 65 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:06
- ---
- 66 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:06
- 里沙は今日も、絵里の見舞いに病院へ来ていた。
いつもと違うのは、横に愛がいることである。
「すっごいところに入院してるんやな、絵里って」
病院の外観を見て、愛はしみじみそう言った。
里沙もこの病院に何度も通っているが、未だにこの大きさに慣れない。病院特有の無機質な白さも、なんとなく苦手であった。
里沙は不安を押しとどめ、正面玄関の方へと歩いて行った。
「てかホントに行くの?」
「此処まで来て帰るわけないやろ。はよ案内しぃ」
里沙は頭をかきながらどうしてこういうことになったのかを思い出す。
そうだ、事の始まりは今日の生徒会が終わり、愛が1枚の紙を里沙に見せたところから始まった。
- 67 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:07
- 「ほい、里沙ちゃん」
予想以上に仕事が早めに片付いた。まだ12時にもなっていないというのに、である。
この時間なら、絵里のところに行けるなと里沙は思い、帰り支度をしていると、1枚の白い紙が渡された。
それはどうも生徒会の資料ではないようだ。
生徒会長に対しての予感はなんとなく嫌なものしか当たらないが、今回もその予感は当たりそうな気がする。
里沙は黙ってその紙を手に取り、最初の一行を声に出してみた。
「……シンデレラtheミュージカル、オーディション開催決定……?」
「さあ、申し込もう!さあ、でよう!」
両手を広げ、嬉々として語る愛を白けた目で里沙は見つめた。
その紙には、『演劇部主催の演目、“シンデレラtheミュージカル”のキャスト選考会』と書かれていた。
いつから文化祭の劇がこんなにも大きく取り沙汰されるようになったのだろうと里沙は思う。
「里沙ちゃんが出れば合格間違いながし」
紙の向こうからニコニコした声が聞こえる。
生徒会長はいつでも、自分の気持ちを素直にぶつけてくる人だ。
それでいて、笑顔が可愛い、と思う。
「だから出ないって言ってるでしょーが」
「なんでやー」
「なんでって…」
愛はどうしても里沙を舞台に立たせたいらしく、毎日のように誘ってくる。
いつも丁重に断るのだが、愛は理由を問いただしてくる。
―じゃあなんで愛ちゃんは私を出させたいのよ?
―あーしが里沙ちゃんと出たいから
それは理由になっているのだろうかと思うが、あえて突っ込むことはしない。
しかし、逆に里沙が「出たくないものは出たくない」と言うと、「それは理由になってない」と返される。
ムチャクチャだ、本当に。
- 68 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:08
- 「里沙ちゃんが出ないんやったら、あーしも出らん」
「ご自由にどうぞ。私は困らないから」
このやり取りももう何回目だろう。
いつになったら諦めてくれるだろうかと里沙は考えるが、愛は自分を曲げない人だ。諦めてくれる気配も、ない。
「里沙ちゃんは見たくないんか、あーしの王子役」
見たくないと言えば嘘になる。
興味は、ある。
コンクール上位常連組の演劇部を虜にしたという愛の演技。
それが自分のせいで見られなくなるのは非常に惜しい気がした。
愛のことだ、里沙が出ないと言ったら演劇部が何と言っても出ない気がした。そういうところは頑固だ。
それに、愛の演技を見たいのは里沙だけじゃない。
里沙は頭をかき、絵里も見たがっていることを思い出した。
「カメは見たがってるんだよなあ…」
「カメ?あー、絵里のことか」
愛は絵里と直接会ったことも話したこともない。
ただ、里沙の話の流れでどういう人物かは想像がついている。その人物像が実際とかけ離れている気はしないでもない。
というのも、里沙の話す絵里は、『テキトー』な『ぽけぽけぷぅ』であるということだけだからである。
そのふたつのワード以外、彼女のことは分からない。
いや、正確に言えば、もう少しあるはずなのだが、このふたつのインパクトが強すぎて薄れてしまっている。
「入院してるんやっけ?」
「まあ、2学期からはまた学校来るけどね」
ふーんと愛は考える。
あ、なんかこの空気はまずい。
まずい、うん、なんかヤバい。ああ、こういう嫌な予感は当たるのに…
いや、今度こそ外れる!大丈夫、もう当たらない!
今日はカメのところにお見舞いに行くのが目標。それ以外はなにもない!
「里沙ちゃん、今日はこれから見舞い?」
言い当てられてしまった以上、嘘はつけない。
里沙が曖昧に頷くと愛はニコッと笑い、こう言った。
「よっしゃ、あーしも行くやざ!」
あ、あ、当たってしまったのだー!
もう何回目なのだ、この嫌な予感!!
「絵里んところ行って、里沙ちゃんを説得してもらうがし」
「……無茶苦茶だよ、その発想」
「無茶でもなんでもえーが。ほれ、早く行こ」
見ると愛は既にカバンを持って外に出ようとしている。
マイペースというか強引というか…里沙は「はぁ」と盛大にため息をつき、書類をまとめて愛に続いた。
- 69 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:09
- そして13時過ぎ、ふたりは病院の新棟702号室の前にいた。
里沙自身は何度も通った場所であるが、愛を連れてくるのは初めてである。
友人に友人を紹介するのはなんとなく苦手だ。最初の会話が思いつかない。
この人が生徒会長の高橋愛。
ほら、いつも話してるじゃん、訛りの強い人。
なんかね、カメの話をしたら一緒についてきちゃって…
ダメだ、会話が続かない気がすると里沙は頭を抱える。
愛はそんな悩みを持つ里沙などお構いなしに病室をノックする。
―え、うそ?!
「失礼しまーす」
―まだ心の準備もできてないのにー!
里沙の心配などを一切無視して愛は中へと入って行き、里沙もあとから続いた。
病室の絵里はというと、ベッドの上でなにか本を読みながらこちらをポカンと見ていた。
「えーっと…ガキさん?」
「あ、おぅ、カメ」
しどろもどろになる里沙をここでも無視し、愛はずかずか中に入って行く。
「亀井絵里ちゃん?なんやー、可愛いがし!」
―はぁ?!
里沙は声をあげそうになるもグッとこらえる。
いくら個室といえど、ここは病院、静かにすることが大前提である。
「生徒会長の高橋愛です、よろしくねー」
ニコニコといつものように笑って自己紹介する愛に対し、絵里も笑顔で返した。
「あ、愛ちゃんね。ガキさんから話は聞いてます」
「お、どんな話?」
「仕事のできる素敵な先輩だって。後輩からもモテモテでなんか羨ましいって」
「あは、そんなー、照れるがし」
「うへへ、初めましてです、亀井絵里です、よろしくです」
「うん、よろしくね、絵里」
―置いてきぼり感が半端ないのだ…
里沙の心配をよそに、愛も絵里も会話が弾んでいた。
とても初対面とは思えないくらいに話が進んでいる。
やはりお互いの似たような空気がそうさせるのであろうかと里沙は考えながら近づいた。
このふたりの持つ雰囲気の中なら、話に入れなくても聞いているだけでシアワセだと、里沙は感じていた。
- 70 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:10
- 「“シンデレラtheミュージカル”のキャスト選考会…ですか」
愛は絵里にも先ほどの紙を見せていた。
「愛ちゃんもこの選考会、出るの?」
「うーん、里沙ちゃんが出ないんだったら辞めようかと思ってるけど」
「えー、絵里、愛ちゃんの演技見たいよー」
『将を射んとすれば馬を射よ』という言葉があるが、まさにこの状況はその通りだった。
里沙という将を射ようとした愛は、まず身近な人間である絵里に照準を絞っている。
『愛の演技を絵里が見たがっている』という発言は不用意なものであったと里沙は反省した。
「絵里は里沙ちゃんの演技見たくないんか?」
「いや、絵里もガキさんの見たいんですけどねぇ…本人がねぇ…」
そう言うと絵里は意味深な笑顔を里沙に向けてきた。
当の里沙はその視線に耐えきれず、さっと目をそらし、窓の外を眺める。
今日は負けない。
ふたりも王子様がいて流されそうな気配があるけど、今日こそは負けない。
里沙は心の中で何度もそう呟いていた。
「愛ちゃんはぁ、王子役で出るんですか?」
「まあ、演劇部の方からはそう頼まれたんやけど…」
ふむぅと、またわざとらしく絵里は腕を組んで考え始めた。
里沙はその様子をちらりと盗み見たが、ここでまたしても、嫌な予感がした。
たいてい、人がこうやって腕組をして考え込む場合、良い案が浮かぶ訳がない。
だが、絵里と愛に関してはその法則を簡単に無視して、「素晴らしい」名案を出してくる。
「素晴らしい」のは、あくまでも本人らにとってだけであり、里沙にとってははた迷惑なものでしかないのだが。
今回も、その「素晴らしい」名案が浮かびそうな気がする。
すなわちそれは、里沙にとっては嫌な予感以外の何物でもない。
―いや、もうさすがにないよ。今回はさすがに外れる。もう3回目だよ?そうやすやすと嫌な予感が当たってたら身がもたないのだ。
里沙は空いた椅子に置いていたカバンの中からペットボトルのお茶を取り出し口に含んだ。
この暑さのせいですっかり中身は温くなっていた。
- 71 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:12
- 「絵里ね、ガキさんの王子役が見たいんです!」
絵里は愛に対してそう宣言した。
愛はきょとんとしたが、絵里が里沙がいかに王子に向いているかを熱弁し、納得したようだ。
そんな話を聞き、里沙は内心ホッとした。
その話なら以前に絵里から直接聞いた。姫役より王子役の方が似合っているということならそれはそれで嬉しい。
どうも今回は嫌な予感は当たらないようだと胸を撫で下ろした。
「愛ちゃんは、シンデレラ役はいやですか?」
「いや、そういうことはないよ」
「じゃあ、愛ちゃんがシンデレラでガキさんが王子でいーじゃないですか!」
胸を撫で下ろした途端に急に不安が襲ってきた。
いつの間にか話がどんどん飛躍している気がする。
いや、そうは言っても、里沙がオーディションを受けなければいいだけの話だ。いくら彼女たちの中で話が盛り上がろうと、関係ない。
「んじゃ里沙ちゃん、王子役でオーディション受けてな」
ペットボトルのキャップをしめ、里沙は愛を振り返る。
「だーかーらー…」
話が勝手に進んでいるが私は受けませんと里沙はもう一度言った。
それでも、愛は食い下がり、急にひとつの爆弾を投下してきた。
「絵里だって見たいよなー、里沙ちゃんの王子役」
―な?!
愛は絵里の肩を抱いてそう言うと、絵里もニコニコしながら頷いた。
「絵里、ガキさんの王子役見たーい」
両手を握り締めて訴えかけるその表情は反則なのだと言いかけるが、再び里沙は堪えた。
いや、だから見たいといっても絶対やらないからと言おうとするが、言葉にならない。
この笑顔、やはり反則だ。
「ほら、絵里も見たがっとるで。ガキさんの王子役」
あのふたりは空気が似ていると思った時点でなぜ、気付かなかったのか。
思考回路も似ているということに。
里沙にオーディションを受けさせようと、このふたりはいつの間にか協定を結んでいる。
愛は里沙と舞台に立ちたい、絵里は里沙と愛の演技が見たい。
ふたりの思いが綺麗に一致した結果、こういう行動が生まれる。
「だから私は」
「ええんかの、お姫様の願いを叶えてやらんで」
反論しかけて言葉に詰まる。
まさか先日のお姫様云々の話までしたのだろうか絵里は。いや、仮に話をしてないにしても…
絵里が少しうつむき加減でこう言った。メガネの奥の瞳が潤んでいる。
「ガキさん…出て、くれないの?」
新垣里沙、15歳。
中学卒業したてで恋なんてしたこともありません。
しかし、いま、真夏の恋に落ち、溺れかけています。
「……オーディション、受けるだけだからね」
里沙は白旗を振った。その笑顔と瞳には敵わない。
絵里と愛はイェーイと言いながらハイタッチを交わす。
絵里の先ほどの表情が演技だということくらい分かっていた。
そうは言えど、叶えないわけにはいかない。
一度でも、「王子様」と言ってくれたお姫様のために、その願いを叶えないわけにはいかないから。
里沙は未だにはしゃぐ絵里と愛を見ながら、あのふたりこそ本物の役者であり、自分なんかはオーディションで落とされるのではないかと苦笑した。
- 72 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:14
- ---
- 73 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:14
- 「『なにかが起きているんだけれど、それがなにか分からない』」
里沙は低いその声で、愛の両手を握り、語りかけた。
愛はゆっくりと立ち上がり、里沙の瞳をまっすぐ見つめる。
「『こんな不思議な気持ちは初めてです。あなたはこんな気持ちに…?』」
「『私も不思議な…夢を見るような…』」
「『僕も同じです』」
「カット!新垣さん、そこはもう少しためて。もっと感情をグッとこめて、言ってください」
監督にカットがかけられ、里沙はハッと我に返った。
ハイと返事をして、手に持った台本に『感情』と書き込んだ。
- 74 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:15
- 里沙が絵里と愛に嵌められて3日後、オーディションが開催された。
愛が王子役でなくシンデレラ役に応募したことに演劇部員はショックを受けたようだったが、それでも応募してくれたことにまず感謝をしていた。
代わりに王子役に応募した自分の立場はどうなるのだろうと、内心びくびくしていた。
このオーディションは、一般生徒の公募はもちろん、演劇部内での審査も兼ねていた。
コンクールで上位に食い込むような部では、上下関係は絶対であるが、同時に実力至上主義でもあった。
普通の部活の普通の演劇なら、上級生から希望をとって配役を決めるのだろうが、朝陽高校演劇部はそうではなかった。
大々的にオーディションを行うのは今年からだが、去年までも下級生、上級生問わず厳正な審査で配役を決めていたようだった。
どこの演劇部でもそうであろうが、一番人気はやはり主役だ。
今回の場合、愛が応募したシンデレラと里沙の応募した王子であった。里沙の周りは演劇部の上級生が大勢いる。
―こんなメンツで、勝てるわけないって
里沙の演劇経験はといえば、小学生時代の猿蟹合戦が思い出せる。
なぜか蟹役をやらされ、早々に死んでしまった記憶がある。
中学時代はバスケットボール部に所属し、演劇などは無縁の生活を送っていた。
そんな中、高校に入って急に受けることになった演劇部のオーディション。
このオーディションは確かに自分の意志ではない部分が多い。
むしろ8割方は嵌められて受けたようなものだ。良い役者は里沙ではなく、愛と絵里だ。
しかし、里沙は受かりたくないとは思わなかった。
いくら真意でないオーディションとはいえ、お座なりにすることはできなかった。
- 75 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:15
- 3日前、オーディションを受けると宣言し、病室から愛と退散しようとした時だ。
「ガキさん」
そう言って絵里は里沙を呼び、その耳元で呟いた。
「絵里、ホントに、ガキさんの王子役、見たいんだよ…?」
里沙は一気に顔が赤くなったが、悟られないようにサッサと病室の扉へと向かった。
「とにかく精いっぱい頑張るのだ」
「おー里沙ちゃん、その意気がし!じゃあまた来るの、絵里」
「うん、またねー」
外へ出ても、里沙の顔は真っ赤に染まったまま、戻る気配はなかった。
横にいる愛は、ニヤニヤしながら里沙を見ている。
「ベタ惚れやね、里沙ちゃんは」
「……違うよ」
里沙の答えが多少不満だったが、愛は微笑みながらエレベーターに乗り込む。
「羨ましいがし、絵里が」と言ったような気がしたが、あえてそこに深く突っ込もうとはしなかった。
- 76 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:16
- 必ずオーディションに合格するという約束は、していない。
だが、それを言い訳になんかできない。
外を見ることのできない高い塔に囚われた姫の願い、それを叶えてあげたい。
実力があるかないかは分からない。周囲の人の方が実績もあることくらい分かっている。
ただ絵里のために受かりたい。
彼女の前だけでも、王子様でありたい。
里沙は大きく深呼吸すると、良い意味で吹っ切れた。
―周りは気にしない、自分だけ。
里沙は心の中で何度もそう呟いた。
- 77 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:17
- そして、さらに2日後、オーディションの結果が発表された。
里沙と愛のふたりは揃って合格し、見事、王子役とシンデレラ役に選ばれた。
合格の決め手は、演技力だけでなく、その歌唱力と表現力にあったと演劇部部長は説明した。
特に里沙は、演劇初心者であるせいか、演技力には難ありという評価であったが、それすら気にさせないほどの歌唱力があった。
愛のシンデレラ役は、ほぼ満場一致で決まったようだ。
主役のふたりを演劇部員以外が務めることに多少のやっかみはありそうであったが、この最終決定は覆ることはなかった。
その後、すぐに台本が手渡され、生徒会のない日、または仕事が終わった後に演劇部と練習をすることが決まった。
その台本は、非常に分厚かった。
通常の演劇と違い、ミュージカルの要素を取り入れたせいか、中身も重く、覚えることも多い。
愛の去年の演劇経験も全く役に立たない。ふたりは救命具なしに、大きな海原へ放り込まれていたといっても過言ではない。
しかし、弱音を吐くことを嫌い、人一倍努力するのが、生徒会執行部の面々の特徴であった。
愛と里沙は記憶力も良く、飲み込みも早いため、セリフ覚えには苦労しなかった。
肝心の演劇力であるが、里沙には天性の演劇の才があった。
オーディションでは緊張していたせいもあり、やや難ありという評価が下ったが、何度か稽古を重ねるごとに、それは杞憂だったと示された。
小さな体を大きく見せる術、自分の内にある感情を表に出す力、そして観衆を魅了するものを、里沙は持っていた。
それは、去年の愛にも引けを取らないものであった。
少しずつではあるが、演劇部の見方も、風向きは悪くなくなっていた。
―信頼してもらうには、自分で示すしかないんだよ。
夏休みの課題をする中で、絵里はそんなことを言った。
自分の中間考査の結果が散々なものに終わり、教師陣の風向きが悪くなったとき、絵里ができることと言えば、望まれた結果を出すことであった。
それ以外に、成す術はなく、失った信頼は勝ち取れないと絵里は考えた。
だからこそ、期末考査に向けて必死に準備をした。そして結果的に、絵里は学年上位30位に入り、留年は免れた。
いま、里沙はその言葉を胸に刻み、演劇部の稽古に挑んでいる。
―自分で、示す。
里沙は台本の最初のページにまず、『自分で示す』と書き込んだ。
絵里が言ったあの言葉を実行するしかない。それでしか里沙は応えることができないのだから。
「じゃあ、手前からもう一度行きます!」
監督の言葉に里沙はもう一度台本を確認し、目を閉じる。
集中しよう。彼女のために。
できることをしよう、彼女のために。
いまを必死に走り抜こう。
- 78 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:19
-
「おつかめさーん」
稽古が終わり、演劇部員が片付けを始める中、座りこんでいる里沙に近づいて、愛はそう言った。
『おつかれ』ではなく『おつかめ』とはどういうことだろうと疑問に思ったが、いまはそんな愛の些細なギャグも心地よい。
それほどに、里沙は心身ともに疲労していた。
「やっぱ里沙ちゃん上手いなあ。部長さんが褒めてたがし」
「そんなことないよ。もっと練習しないとお客さんにも演劇部員さんにも申し訳ないよ」
そう言って、里沙は手元の台本を見る。
何度も閉じたり開いたりしたせいか、台本はくたびれていた。まだ練習が始まって4日しか経っていないのに、である。
「あと2ヶ月しかないんやなぁ…」
里沙は時計を見た。
今日は21日で、肝心の文化祭は10月21日。ちょうど2か月後に、この舞台の幕は上がる。
確かにセリフは覚えたといえど、演技力や歌唱力、表現力はさらに磨いていかないといけない。
この状態で、果たしてあと2ヶ月で舞台に上がれるのだろうかと里沙は不安になった。
「……里沙ちゃん」
愛は里沙の目の前に来て、そして額と額を合わせた。
里沙は突然のことに声も出せなくなったが、愛は気にせずに続けた。
「…追い込んだら、あかんよ?」
「え?」
「あーしも、絵里も、里沙ちゃんが笑ってくれんと、意味がないんやよ?」
里沙は再び「え?」と声を上げた。
愛はニコッとほほ笑み、呟いた。
「自己犠牲やなくて、みーんな笑顔になれるように、な」
そして里沙は気づいた。
この舞台は、絵里のために立とうと思っていた。
しかし、絵里の笑顔のために、自分そのものを犠牲にしてはいけない。
里沙自身が笑顔にならないと、絵里は笑ってくれない。
里沙は「うん」と頷き、ゆっくりと立ち上がった。
- 79 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:20
- 「愛ちゃんも、ね」
「あーしは全くもって平気やざ」
「じゃあそろそろ、生徒会の仕事もしてくれますかー?」
「あー…そこはほら、優秀な後輩がいるから」
さっきみんなが笑顔になれるように、自分を追い込むなと良い発言をしたのは誰だっけと突っ込もうとしたが里沙はやめた。
里沙は知っていた。
愛は見えないところで仕事をしている。
そもそも生徒会執行部は裏方で目立たない仕事が多い中、愛は率先してさらに見えない仕事をしている。
評価されやすい、誰にでも見えるような仕事は後輩や同期に任せ、自分は裏方の仕事に徹していた。
それが執行部内部からも信頼され、全校生徒に愛される所以でもあった。
「そういえば、最近は絵里のところに行かんのか?」
愛にそう聞かれ、里沙は目を閉じて答える。
「ちょっと忙しくて…生徒会のない日は演劇部に出なきゃだし…」
そう言うと愛は「ふむぅ」と腕組をした。
また良からぬことを考えているのではないだろうか、この人はと思う。
今回ばかりはそれが当たる訳にはいかないので、里沙は先手を打った。
「生徒会を休むとか、そう言う考えはありませんから」
「え、なんでわかったん?」
「…やっぱりそうだったんですね」
里沙は呆れながら答える。
やっぱり、愛は優しすぎる。
もうすぐ2学期が始まるというこの時期、それはつまり、OG戦と推薦入試が間近に迫っているということでもあった。
サッカー部のOG戦は来月の10日。今日を含めて、残り19日である。
当日の細かい流れや人員の配置、緊急時の対応マニュアル、閉鎖区域の設置、入場制限など、やることは山のようにある。
そんな中、個人的な理由で生徒会を休み、絵里の見舞いに行けというその精神。一番に害を被るのは生徒会長である愛だ。
自らも劇の主役、シンデレラ役に抜擢され、多忙な日々を送っているというのに、これ以上の負担を背負わせるわけにはいかない。
「愛ちゃんは、優しすぎるんだよ」
「うぇ?」
なんとも間抜けな声を愛は出した。
本当にこの人が、ほんの10分前まで、「帰らなくちゃ!」と愛を引き裂かれる切ない声を出していたのだろうか?と里沙は思う。
しかし、それがこの人の素敵なところだとも思った。
里沙は愛の右手を握り、自分の声を伝えた。
いまは演技はいらない。自分のもつ言葉で伝えよう。
「あんまり無理しないでほしいんだよ」
突然のことに呆気にとられている愛を無視して、里沙は続けた。
「愛ちゃんは、私にとって大切な人だから、ね」
我ながらなんという陳腐なセリフを言っているのだろうと里沙は思う。
しかし、この言葉に嘘はない。
いつもいつも、知らない間に支えられてきた。高橋愛という存在に。
いまもそう、愛は里沙を支えようとごくごく自然に絵里の見舞い話を出してきた。
だから、少しでも良いから返したい。
いつも支えてもらっているお礼を、愛に返したい。
この気持ちをどうしたら伝えられるだろうか。愛になんて言えば伝わるだろうか。
この、私をいつも笑顔にしてくれる大切な人に。
- 80 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:21
- 握りしめられた右手が熱かった。同時に心臓が高鳴っているのも分かる。
演技中もずっと心臓は激しく唸り声を上げていた。それが演技から来るものか、自分の本心かは分からなかった。
愛はこの心音が里沙に聞かれないかと不安で仕方なかった。
現在、里沙に右手を握りしめられ、「大切な人」とまで言われている。
さてこの状況はどういうことだろうと愛は考えた。
さほど良くない頭を必死に回転させて答えを導き出そうとした。
A.同じ生徒会の後輩として心配している
B.結局は私(里沙ちゃん)が尻拭いしているからテキトーなことを言うのはやめてほしい
C.新手の告白
その時、愛の灰色の脳細胞はこれ以上ないほどフル回転していた。
結果的に導かれた3つの選択肢であるが、どれも正解であり、どれも不正解である気がした。
もし仮にCが正解であったら個人的には嬉しくてたまらないのだが、その場合、抱きしめるのが正解なのか、キスするのが正解なのかでまた悩み始めた。
稽古が終わり、演劇部員は誰もいないこの状況でキスするのはまあ良いかもしれないが、教室というシチュエーションはダメかもしれないと愛は思う。
もっと良いムードの場所を選ぶべきだろうか、ファーストキスは?!
しかし、そもそもこれが新手の告白と決まったわけではなく、もし不正解の場合、ただのキス魔というレッテルが貼られてしまう危険性はあった。
生徒会長と言う立場上、それだけは避けなくてはならない。
というか自分は何を考えているのだろう、こんなにも心臓が高鳴る中で。
愛は必死に理性を取り戻し、右手を強く握り返し、里沙に対してたった一言、「ありがとう」と返した。
すると里沙は、いままでに愛が見たこともないような美しい微笑みを返してきた。
里沙は握っていた右手を放し、こう言った。
「愛ちゃんが、生徒会長で良かった」
そう言うと、里沙はカバンを持ち、教室の扉の方へ向かう。
「ちょっと職員室によるから、先に靴箱行っててー」といつもの調子で答え、里沙は愛の前から消えた。
独り残された愛は呆気に取られたが、同時に笑いがこみあげてきた。
どうせ誰も居ないのだからと、愛は髪をかきあげながら笑った。
「ハハッ…反則やってば、里沙ちゃん」
少しだけ涙が滲んだその瞳を拭い、愛は呟いた。
- 81 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:22
- いつからこんなに好きになったのだろうと愛は思う。
福井から都会のこの女子校に引っ越してきて、この訛りで少しクラスで浮きかけた入学当初。
自分が此処で生き残るには、道化を演じるしかないと、あえて福井訛りを強調し、少し抜けたキャラを演じてきた。
そして時たま真面目な事を言って、これが“素”の高橋愛です。というようにしていれば、少なくとも孤立することはない。
自分のルックスに自信があったわけではないが、この中性的な顔立ちが女の子に人気が出ることを愛は知っていた。
振る舞えば良い。この世界はすべて大きな劇場で、人間はすべて、役者でしかないのだから。
何処かで読んだ小説の一部のように、愛は、自分を演じた。
その内、どこからが自分でどこからが演技なのか分からなくなるほど。
それこそが、自分がこの学校で生き残るための手段だと、愛は信じていたから。
そしていつの間にか愛は生徒会長にまでのし上がった。
表に立つことは嫌いじゃなかったが、まさかこんな立場まで来るとは思っていなかった。
だが、此処まで来て今更断るわけにはいかないと、がむしゃらに仕事をした。
そんなある日、愛は里沙に出逢った。
新入生であった彼女は、生徒会室にひとりでやって来た。
此処でなにがしたいのかと聞くと、ただ漠然と運営がしたいから来てみたと言った。
そして、入学式の生徒会長演説に惹かれたのだと言った。
実際、入学式の演説が好きだと言って生徒会室を訪れた生徒は少なくない。
ただ、その誰もが、ただミーハーに見に来る、いわば冷やかしだけの存在であった。
そんな中、里沙は違った。
まっすぐに生徒会長の愛を見つめ、先輩のようになりたいのだと言った。
正直に、欲しいと思った。
こんな存在が、自分には必要だと思った。
演じることしか知らなかった、周りの評価ばかりを気にして自分を偽って来た愛にとって、
自分を正面から見つめ、物事を客観的に評価し、そしてなにがあっても立ち向かって行き、逃げ出さないような彼女が。
ただ愛は、里沙のことを知りたくなった。
里沙が生徒会に入り、仕事をしていく中で、彼女のことを少しずつ知っていった。
曲がったことが嫌いで、自分すら曲げない人。
優しくて、強がりで、少しだけ折れそうな存在。
自分を追い込んでしまいがちで、周りが見えなくなってしまうタイプ。
いつも自分が支えられてばかりだから、自分が支えたいと思っているような存在。
なにより、彼女は、自分に素直だった。
愛にはないものを、全て持っている気がした。
そんな里沙を好きになったのは、偶然ではなく必然と言えた。
羨ましくて、眩しすぎる。
自分にないものを持って、こんなにも愛されている里沙が。
- 82 名前:Only you 投稿日:2011/09/05(月) 22:23
- “亀井絵里”という存在に、愛は嫉妬した。
里沙を夢中にさせる人物、それが亀井絵里であった。
里沙はクラスメートの話を良くするが、その中で一番会話に出てくる頻度が高いのが絵里だ。
彼女は嬉しそうに、「そういえばカメがね」と話を始めた。
その度に、愛の心はちくちくと痛んだ。
里沙を夢中にさせる亀井絵里とはどういう人なのだろうと興味を持った。
「テキトー」で「ぽけぽけぷぅ」な存在は、そんなにも里沙にとって魅力的なのだろうか。
だから愛は、里沙と一緒に絵里の見舞いに行くことを提案した。
そして愛は愕然した。
絵里のすべてに。
演じてばかりいた自分には到底太刀打ちできないようなものが、絵里には在った。
里沙が夢中になるのも無理はないと、愛は心で白旗を上げた。
だから、思った。
絵里には到底勝てないだろうけど、自分自身を磨こうと。
もっと、生徒会長らしくあろうと。
せめて里沙が尊敬してくれるような、もっと振り向いてくれるような存在になろうと。
だから、今回の『シンデレラtheミュージカル』のオーディションを受けたのだ。
里沙が稽古の休憩中に呟いていたあの言葉。
―信頼してもらうには、自分で示すしかない。
愛はその言葉を借りた。
そして胸に刻んで、今回の舞台に挑もうと思った。
こんなに好きになった、新垣里沙のために。
里沙が絵里のために今回の舞台に立とうとしているのは知っていた。
だったら自分は里沙のために立とうと愛は思った。
なにもしないより、なにかした方が良い。せめてこの想いを伝えるために。
愛は「ふう」と息を吐き、カバンを持って靴箱へ向かった。
それぞれの想いが交錯する中、夏は徐々に、終わりを迎えようとしていた。
- 83 名前:雪月花 投稿日:2011/09/05(月) 22:27
- とりあえず此処までです。
主軸のひとりがまだ出てきてませんが…ごめんなさい。
方言はかなりテキトーです。
そこらへんも含め暖かく見守ってください。
- 84 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:31
- 「ガキさーん、今日も稽古ですかー?」
放課後になった途端、絵里はそう聞いてきた。
相変わらず甘ったるい声だなと里沙は思う。
このルックスにこの声、加えて体が弱いという点を踏まえても、此処が共学ならモテモテだろうなと里沙は思った。
「とりあえずは生徒会が優先かなー。もうあと10日もないしねー」
「あ、おーじーせんですかぁ」
「それと推薦入試ね」
2学期が始まり、絵里は再び学校へ来るようになった。
里沙の予想通り、クラスメートは今までと変わらず絵里に接している。
夏休みに出ていた課題も、里沙のフォローと絵里自身の努力があり、無事に提出出来た。これで教師陣の評価も下がることはない。絵里にとっては上々の滑り出しと言えた。
「やーっぱ忙しいんですね」
絵里にとって、学校は苦痛の場ではなかった。
教室に行けば里沙がいる。友人も少なくない。担任の安倍もフォローしてくれる。
相変わらず体育の欠席は続いたが、授業にもついていけるし、休み時間のお喋りも、放課後に眺めるグラウンドも、なにもかもが楽しく感じた。
登校できる嬉しさを、絵里は全身で感じていると言って良かった。
サッカー部OG戦と推薦入試が近づき、里沙と時間を過ごすことができないことは寂しかったが、これ以上の贅沢は言えない。
里沙の生徒会活動が終わるまで、放課後の時間を潰すことも、絵里にとっては嫌なことではない。
「じゃ、今日も此処で待ってます」
「良いの?」
「うん、暇潰ししてる」
絵里は片八重歯を見せて笑った。
里沙もその笑顔に応え、「じゃああとで」と手を挙げて教室を出て行った。
クラスメートが次々に教室からいなくなっていく。放課後に教室に居残る生徒はほぼおらず、いつも絵里はひとりでいた。
―今日の宿題やっちゃえばいーんだもんね
なんだかんだで、絵里は勉強をすることは嫌いじゃない。
勉強が嫌いだと思ったことは何度もあるが、それはひとえに、分からないから嫌いなのだ。
授業中、教師がなにを言っているのか理解できない、だからつまらなくて嫌いになってしまう。
それならば、なんの話をしているか理解できる程度になるしかない。
中学生のときから、学習する習慣はできていたため、高校に入学しても絵里は苦労しなかった。
確かに、何度も欠席し、留年がかかっていた期末考査前はいままで以上に緊張し、相応の勉強量を自分に課した。
それでも絵里はそれを乗り切り、此処にいる。
それは自分だけの力ではない。
幼いときから支えてくれる両親はもちろん、いまは里沙という親友がいる。
そして同じクラスの友人も、里沙の先輩である愛も、担任の安倍も、絵里に優しく接してくれている。
大勢の人に支えられて此処にいることができる。
だから、その想いに応えたかった。
此処で頑張っているというのを、自らが示すしかできないのだから。
―まず現国からにしようかな…
絵里は数ある宿題の中から現国を選んだ。
最初に得意教科を持ってきて、スタートダッシュをつけようという作戦だ。
絵里は出されたプリントにザッと目を通し、電子辞書を机に置いて、課題に取り組み始めた。
- 85 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:32
- そして、始めて10分もしないうちに、絵里はプリントを終えた。
幸先の良いスタートに、絵里は確かな手応えを感じていた。
気分が乗ったまま次の課題に取りかかろうと、今度は数学のプリントを出した。
あまり得意ではない記号やアルファベットがプリント中に散乱し、解く気もなくなってしまいそうだが、ここで負けてはいけない。
絵里はよしと気合を入れ、1問目に取りかかることにした。
それは、絵里が5問目を解き始めた時だった。
そこそこにうるさい声を廊下に響かせて、何処かのクラスの女子たちが絵里の教室の前を通り過ぎて行った。
彼女たちは部活もせず、特に勉強もすることなく、放課後の時間を潰しているようだった。
放課後の使い方は人それぞれであり、それに文句を言う権利はない。特にいまは試験前でもないし、別段静かにする必要もない。
それでも、絵里の耳にははっきりと言葉が届いた。
「あははっ、くらーい」
絵里は一瞬、なんのことか分からなかった。
呆気に取られ、顔を上げることもできなかった。
その言葉が、自分自身に向けられていることも、気づかなかった。
絵里はなにも聞いていない振りをしながら顔を上げず、ゆっくりと視線だけ、彼女たちにもっていく。
すると、廊下の彼女たちは、絵里自身を指さし、なにやらクスクスと笑っていた。
絵里はいま、自分が笑われていることに気付いた。
- 86 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:32
- その時、絵里の中に過去の記憶がよぎった。
中学生のときの記憶が蘇り、絵里の心を支配する。
絵里は必死に記憶を消そうと、大きく息を吸った。
―違う。此処は中学校じゃない。此処はあの倉庫じゃない。
絵里は自分に言い聞かせ、呼吸を整えようとする。
しかし、廊下の彼女たちの声が、それを許さない。
「なにあれ、友だちいないの?」
「やだぁ、くらい」
「つかなにしてんの?」
「あのメガネ、ダサくない?」
息が徐々に上がっていくのを感じた。
手に持ったシャーペンが震えていることに気づくも、どうして良いか分からない。
彼女たちがいる目の前で取り乱すわけにはいかない。
お願い。お願いだからもう行って。
これ以上、なにもしないで。
廊下の彼女たちは、絵里をからかうのに飽きたのか、なにかまた笑い声を上げながら、歩いて行った。
絵里はそれを視線だけで追い、彼女たちが完全に消えたのを確認してから大きく息を吐いた。
呼吸の乱れが収まらない。
それどころかどんどん息が短くなっていっている。
絵里は反射的に左手で胸を抑えた。
心臓が高鳴っている。里沙の前で起きる動悸とは全くの別物だった。
この高鳴りには、喜びや嬉しさはない。ただ切迫した絶望が伝わってきた。
―発作…なの?
絵里はなんとか呼吸を整えようとするが戻らない。
心臓の音も人に聞こえるのではないかと言うほど大きくなっていた。
絵里は胸を抑えたまま机に伏した。
- 87 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:33
- 聞こえる、あの時の声。
見える、あの時の顔。
思い出す、あの時の感覚。
体育館の裏手にある、いまは使われていない倉庫。
人通りも少なく、薄暗くて、誰にも気づかれない。
絵里の前にいる、3、4人の生徒。
背が高く、顔が見えない。
なにか、言われる。
肩を小突かれる。それだけでよろめく。
足元が覚束ない。震えている。
だれ?
なに?
ぎゅっと握りしめる胸元。
制服のブラウスがしわになりそうだったが、そんなこと気にしていられない。
- 88 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:34
- なにか、言われる。
髪を掴まれる。押される。よろめく。
息が上がる。
心臓が高鳴る。
声が聞こえる。
誰かが見える。
なに?
- 89 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:34
- 思い出す、あの時の記憶。
心臓が高鳴る。
絵里は息を短くはきだし、そのまま椅子から床に倒れ込んだ。
床の冷たい感触が頬に伝わる。
―『あんた目障りだから』
―『好きにして良いよ』
心臓が、大きく唸り声を上げた。
- 90 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:35
-
―ガキ…さん……
意識が遠のいていく中、絵里は里沙の名を呼んだ。
- 91 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:36
- ---
- 92 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:36
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絵里が目を覚ましたとき、視界には真っ白な天井があった。
此処は何処だろうと考えたが、思い当たるのは病院しかない。
しかし、医薬品の匂いはするものの、いつもより強くない気がした。
それに、自分の寝ているベッドの感覚も、病院のそれとは違うような気がした。
絵里はボーっとする頭のまま、ゆっくりと顔だけ動かし、此処が病院でなく、学校の保健室であることに気付いた。
ふぅと息を吐き、ただひとこと、「生きてる」と呟いた。
その時、カーテンが開かれた。
メガネをかけていないせいか視界はぼんやりとしていたが、その姿形から察するに、それは担任の安倍であった。
「あ、カメちゃん起きたべ?体調はどう?」
絵里はまだ頭の中が整理されきっていない。
あの時、教室で勉強をしていた。
それから…そうだ、何処かの生徒に笑われ、急に過去がフラッシュバックした。
そして急激に心臓が痛み出し、呼吸が乱れて床に倒れ込んだ。
「わたし、倒れたんですか?」
「あ、あんまり覚えてない?」
絵里が頷くのを確認して、安倍は事の次第を話した。
教室に忘れ物をした安倍は、放課後のあの時間に教室へ向かうと、床に絵里が倒れていた。
すぐに発作だと分かり、救急車を呼ぼうとした時、絵里がその安倍の手を掴んだ。
―『病院は…イヤ』
絵里は何度もそう呟いた。
―『薬はあるから…あそこには……戻りたくないっ…』
痛む心臓を掴みながら、途切れ途切れにそう伝える絵里を見て、安倍は躊躇いながらも携帯電話をポケットにしまった。
そして絵里のいう薬を飲ませ、ある程度落ち着いたところで保健室へと連れてきた。
こういう時、患者さんの意見を優先すべきか、かなーり悩んだけどね。
薬が効いて落ち着いてくれてよかったよー。
安倍は髪をかきながらそう言った。
絵里は自分がそんなことを言っていたなんて気付かなかった。
それほどに病院に戻りたくないという気持ちが強かったようだ。
それと同時に、思い出す。
追いかけてきた、あの忌まわしき過去のことを。
置き去りにしたはずの記憶が、たったの一言で襲ってくる。
いままで思い出すことなんて、なかったのに。
「すいません、迷惑かけちゃって」
「んー、気にしなくて良いべ。それより、もう少しゆっくりしてなよ。今日はなっちが送るから」
突然の申し出に、絵里は首を振った。
大丈夫、もう心配ないから、歩いて帰ると言った。
今日は確かにひとりで居たくない。
できれば、里沙や愛と一緒に帰りたかった。
あのふたりの笑顔が見たい。
絵里はそう思い、安倍の優しさを丁寧に断った。
安倍も、これ以上無理強いするのは良くないと判断し、何度目かの交渉で引き下がった。
「とにかく、今日はゆっくりするんだよ」と伝えて、彼女は保健室から立ち去った。
- 93 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:37
- 残された絵里はひとりベッドに横になり、天井を見上げた。
置いてきたはずの過去。
追いかけてくる過去。
進むべき未来。
それすらを邪魔するのなら、闘う必要がある。
もう逃げることは許さないということなのだろうか。
過去に正面から向き合えということなのだろうか。
絵里は両腕をクロスさせ顔を覆った。
思い出すのも忌まわしいあの日の出来事。
フラッシュバックは心臓を鷲掴みにし、絵里の生命を一気に脅かした。
誰かに話したかった。
しかし、誰かに話すことは、痛みの共有であり、それはひとえに自分が楽になりたいだけなのかもしれない。
まずは自分が過去と直接ちゃんと向き合うべきなのかもしれない。
そうはいっても、あの日のことを思い出すのは、絵里にとって苦痛以外の何物でもなかった。
いま断片的に思いだしただけでも吐き気がする。
怖かった。
いま、このままで生きていけるのだろうかと不安になった。
せっかく前を向こうとしているのに、過去がそれの邪魔をする。
絵里は意識が途切れる前に、里沙の名を呼んだ。
絵里にとって、ただひとりの王子様。
王子なら救ってくれるだろうか。姫を苦しめる、この忌まわしき過去の呪縛から。解き放ってくれるだろうか。
絵里はぼんやりとそんなことを考えながら、不意に襲ってきた睡魔に身を委ねた。
里沙と愛が生徒会活動を終え、絵里を迎えに来たのは、それから1時間ほど経ってからのことだった。
- 94 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:38
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- 95 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:40
- 時間はあっという間に過ぎていく。待ってくれという言葉なんて無視して、無情にも。
里沙は透明のクリアファイルとボールペンを片手に校内をぐるりと回っていた。
3階の窓からはグラウンドで行われているサッカー部のOG戦の様子がよく見えた。
大勢の女子生徒がグラウンドの白線ギリギリに並び、自分たちの先輩や同期を応援している。その黄色い声がまあうるさい。
そんなにカッコいい先輩がいるのだろうかと目を凝らすと、いた。
肩より少し短めの髪。色は明るめだが、茶髪だろうか。長身で足も速い。
背番号は10番。里沙はファイルの中の書類に目を通した。名前は『吉澤ひとみ』。
コート上で最も声を張り上げて走っていると言っても良い。
その中性的で整ったな顔立ちは、里沙でさえ思わずドキッとしてしまうほどだった。
―あーの人は人気っぽいなあ…
その予想通り、生徒たちは口々に「よしざわさーん!」と声を上げている。
次に里沙の目を引いたのが、背番号6番である。
こちらも明るめの茶髪を肩まで伸ばしているひとである。線が細めで軽快に走っているが、里沙はその姿に見覚えがあった。
―あの人ってどっかで見たような…
OGの名簿を上から見ていくと、背番号6の横には『藤本美貴』と書かれていた。
そこでようやく、いつか絵里の病院で出会った不思議な女性だと合致した。
そうか、あのときに言っていた「サッカー部のOG戦あるからまたね」とはこのことだったのかとようやく合点がいった。
そこで里沙は、絵里の病院の名前をもう一度思い出した。そうあの病院の名前は『藤本総合病院』である。
確かに『藤本』という名前は珍しくないし、たまたま一緒だったということも十分に考えられる。
だが、もしかすれば、美貴はあの病院の院長の娘かもしれないとも考えていた。
見た目は少し派手であり、どちらかというと女子高生とお喋りしたり買い物したりするのが好きそうな彼女が、
コート上でボールを追い、白衣を着て、患者と向き合っている姿が、里沙にはイマイチ、ピンとこなかった。
そのとき、ズボンに入れていたケータイの着信音が鳴った。里沙は窓から離れ、ケータイを取る。
「おー、里沙ちゃん。そっちはどう?異常ない?」
「いまのところ大丈夫です」
「ん、あと10分くらいでこっち来てほしい。正門前です」
「了解です」
ケータイを切り、時計を見た。もうじき昼になる。これから人の出入りも激しくなってくる。
朝陽高校の在校生以外は、正門で一度チェックを受けることになっていた。
そろそろ生徒会の人員を増やしておかねば、ピークは乗り切れないという判断だろう。
里沙は校内の警備を早めに済ませようと思った。
- 96 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:41
-
「明日の流れを確認するよー」
生徒会長の愛の呼びかけで、執行部全員の気が引き締まった。
当日の流れが書かれたマニュアルに目を通しながら、里沙は随時メモを取っていく。
いよいよサッカー部OG戦が始まる。
基本的な仕事は現役のサッカー部員がするので、生徒会は本当に裏方で働くことになる。
サッカーの試合に関することというより、観戦中の生徒の流れや警備が主になりそうだった。
あとは、いわゆる『閉鎖区域』をつくることである。
明日と明後日はサッカー部にとっても、朝陽高校にとっても大事な日である。
特に明後日は公開の推薦入試であるため、職員室には個人情報が置かれている。
サッカー部と生徒会以外に、その情報の漏えいを防ぐため、職員室・サッカー部部室、及び生徒会室はこの2日間、出入りを禁止している。
また、観戦中に混乱があった時に即座に対処しきれないということで、屋上も封鎖することにしていた。
そして、閉鎖区域に黄色く輝く『KEEP OUT』と書かれたテープを今日中に貼りに行くのが、里沙と愛の仕事であった。
「ついでにこれが、その個人情報なー」
愛から『サッカー部部員名簿』と書かれていた書類を受け取る。
1枚めくると、そこには現役のサッカー部員の名前が並んでいた。横にはポジションと学年、背番号が書かれている。
3枚目以降がOGであり、最後のページには推薦入試を受ける生徒の名前と出身校が書いてあった。
推薦受験生の出身校は基本的に都内が多かった。里沙が確認した限り、地方からの受験生はわずかに4人。
それでも関東近郊が3人であり、ただ1人、九州出身の子がいるようだ。
―へぇ、福岡からわざわざ受験に来るんだ…
そのとき愛が、「ついでにもうひとつなー」と付け加えた。
「明日は動きやすい格好がいーんやけど、できるだけ白シャツに黒のパンツをはいてくださいなー」
その連絡事項に里沙は「え?」と聞き返したくなったが、「じゃあとりあえず行動を開始してください」と愛が指示を出し、聞きそびれた。
とにかくいまは仕事をするしかないと、里沙は書類を大切にカバンに仕舞い、机上に置かれた黄色いテープとハサミを手に持った。
まずは生徒会室の封鎖から始めようと考えた。
- 97 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:42
-
昨日の出来事が頭をよぎった。
今日は職員たちも何人かで手分けして警備に当たっているため、校内に人は少ない。
こういう機会には窃盗事件が多発することを、里沙はその経験上から知っていた。
確かに正門前では愛たち生徒会が入場者をチェックしている。不審人物は入ってこれない。しかし、あくまでも在校生以外を対象にしているだけだ。
在校生が窃盗をしないとは限らない。むしろ、内部に精通している人間の方が犯罪を起こすことは少なくない。
仲間内を疑うのはツラいが、実際、校内での窃盗事件は後を絶たない。用心に越したことはないのである。
里沙は3階のチェックを終え、正門へ向かおうとした。
しかし、一度階段を降りたところで立ち止まり、くるりと反転して屋上へと走った。
屋上の扉の前には、昨日里沙が貼った『KEEP OUT』のテープがある。
だが、そのテープの向こうの扉は少しだけ開いていた。閉鎖区域である以上、誰も入ってはいけないはずなのに。
―こんなことするのは、あの子だけだよね
里沙はそのテープをひょいと超え、扉に手をかけた。
向こう側には、予想通り、亀井絵里がいた。
里沙は絵里にゆっくりと近づいた。絵里も里沙に気付いたようで、いつもの笑顔のまま手を振ってきた。
わざとらしく里沙はため息をついた。
「立ち入り禁止なんだけどね、カメ」
「いやぁ、ここ見えやすいじゃないですかー。特等席ですよ、ホントに」
里沙は再びため息をつき、ポケットに入れておいたケータイを見せる。
「異常ありって愛ちゃんに報告するから、早く出て行って」
「またまたぁー。ガキさんそんなことできないでしょ」
図星だ。
そんな権限は生徒会の里沙にはあっても、絵里の友人である里沙にはない。
手玉に取られているのだろうが、別段、気にはしない。
本気で此処から追い出そうというつもりはない。
「とりあえず、私もう行くから。ほかの生徒会の子に見つからないでよ?」
「了解ですぅ。ガキさんがんばってー」
「なんかムカつくねーホントに」
- 98 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:43
- 里沙は笑いながら絵里の背を向けた。するとそのとき、里沙の背中に軽い衝撃があった。
温かくて柔らかい、衝撃。
「うへへ、ガキさんその格好、似合ってますね」
絵里のいう格好とは、昨日愛に指示された白シャツに黒のパンツのことだ。
里沙は結局、なぜこの格好なのか聞くタイミングを逃し、今日にいたる。
しかしこの服装ではまるで、どこかの男子生徒である。
最初はこの服装に訝しげであった里沙だが、いまは全く気にならない。
それどころか逆に感謝していた。そうでなければ、里沙はいま、絵里に抱きしめられていないからだ。
背中から感じる絵里の温もりが、徐々に里沙の熱を上げて行き、それと比例するように心臓も高鳴っていく。
もう少し、この感触を味わっていたかったが、それを許さなかったのが、ケータイだ。
なにか喧しく鳴っているこの機械、今日は何度も助けられた通信アイテムだが、この時ほどこいつを憎んだことはない。
里沙は「離すのだー」と絵里を荒々しく振り払い会話を始めた。
「ちょっと早いけど、来てほしいがー。なん……ま…」
「すいません、もう一度お願いします」
里沙の問いかけに、向こうは答えなかった。声から判断するに愛だったのだろうが、通信が途絶えた。
おそらく、予想より早めのピークを迎えているのだろう。とにかく、正門前まで走った方が良さそうだ。
「……行っちゃうの?」
絵里は少し寂しそうな顔をして里沙を見つめる。
自分が男だったら、いや男でなくとも放っておかない存在だなと里沙は思った。
簡単に、自分を操ってしまう絵里。手の平で転がされていたとしても、絵里の手中ならそれでも良い気がした。
「また来るから、待っててね」
そう言うと、絵里の顔はパッと明るくなり、大きく頷いた。
里沙はそれを確認すると、また『KEEP OUT』のテープを越えて、階段を駆け下りていった。
相変わらず心臓がうるさいくらいに高鳴っていた。
里沙は自分の顔がにやけていないかと心配になった。せめて愛に会うまでにはまともな顔に戻そうと心の中で呟いた。
- 99 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:43
-
「ムカつくんですけどー!」
夕陽の差しこんできた生徒会室に大きな声が響いた。
居残って明日の推薦入試の動きを確認していた里沙と愛に向かって、絵里はそう叫んだ。
突然の訪問者に対しても、ふたりは動じなかった。愛に至っては、「いらっしゃい絵里〜」と歓迎モードである。
「なに、どうしたのカメ」
里沙は書類から目を離さずに絵里に聞く。
それが不満だったのか、絵里は里沙の手元から書類を取り上げ、「聞いて下さいよガキさーん!」と声を張った。
ああ喧しい。明日の流れを確認したいのに、仕事にならない。
興奮する絵里に対し、愛はゆっくりと椅子に座らせ話を促した。何処となく、愛は楽しそうであった。
「今日のOG戦、見てたんやろ?楽しくなかったんかい?」
「楽しかったんですけどぉ…ちょっと聞いてくれますか?」
「おう、聞くでー」と愛はニコニコしながら席に座った。
これはいよいよ仕事にならないなと里沙は判断した。諦めて、素直に話を聞くことにしようと絵里に向き直った。
「絵里、屋上にいたんですけど」
「いやいや、あそこ閉鎖区域なんやけど?」
「それは良いんです、この際」
「ふーん、閉鎖区域の屋上にねぇ…」と愛はチラリと里沙を見た。慌てて視線をそらす、里沙。
見つめてくる愛の顔は怒っていない。それどころかニヤニヤしている。なんだか、からかわれている気がした。
そんなふたりをよそに、絵里は今日の出来事を話し始めた。
- 100 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:44
-
閉鎖区域を示す『KEEP OUT』のテープを絵里は躊躇なく越え、屋上につながる扉に手をかけた。
そこを開けると、いつものように青く広い空が広がっていた。周囲には誰もいない。
―立ち入り禁止だからかな。みんな真面目だねー
絵里はそのままフェンスまで歩き、グラウンドを眺めた。放課後に眺める風景とは一味違う今日。
屋上に誰もいないことはいつもと一緒だが、グラウンドで走っている生徒はいつもとは全く違う。
オレンジのユニフォームを着ているのがOGで、ブルーのユニフォームを着ているのが現役サッカー部だ。
ゴールを守るのが朝陽高校の守護神、『紺野あさ美』であった。ブルーのユニフォームで背番号は12番。
あさ美は里沙の中学校の先輩であり、愛と同じクラスであるようで、3人で仲良く話している姿を絵里は何度か見かけていた。
絵里も何度か話したことはあるが、気さくで優しいという印象をあさ美には持っていた。
安倍先生から聞いたのだが、愛たちの入学式のときに新入生宣誓を読んだのが、あさ美であった。それはつまり、入学試験の主席であるということである。
現在もその実力は健在であり、常に学年で上位にはいるほど成績優秀であるようだ。
そして、サッカー部でGKを任されるあさ美だが、その力も並みのものではない。
1年生の時からレギュラーであり、今年の夏におこなわれた地区大会では、無失点記録を更新し、チームを優勝に導いている。
『朝陽高校の守護神』という名は伊達ではないようだ。
その守護神にボールを蹴り込んだのがオレンジの6番、藤本美貴である。
美貴は絵里の入院している病院で知り合い、何度も話している顔見知りである。その美貴によく会いに来るのが、10番の吉澤と9番の『石川梨華』であった。
最初にひとみと梨華を見たとき、絵里はなんてお似合いのカップルだろうと思った。
しかし、それから見ているうちに、カップルというより漫才コンビのようにも思えてきたのだ。
このふたりの掛け合いはなんなのだろう。熟練のコンビのように感じた。
それを冷静に突っ込み、からかう美貴の笑顔が、絵里には印象的であった。
歓声が大きくなった。
オレンジとブルーが接触し、主審の笛が鳴る。どうやらファールを取られたらしく、その場からボールを蹴る、フリーキックだ。
絵里はサッカーに詳しい訳ではないが、なんとなく用語として理解していた。
しかし歓声がうるさい。
日常に退屈している生徒にとっては、この非日常の光景は楽しくて仕方ないのだろうが、どうしてこうもうるさいのだろう。
あれでは応援というより、ただのミーハーなファンである。
試合に集中したい絵里にとって、この黄色い歓声は鬱陶しくて仕方なかった。
- 101 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:45
- そう考えていると、絵里の後ろの扉が開かれた。
立ち入り禁止ではあるが、さすがにこの特等席に誰か来たのだろうかと思ったら、そこには里沙がいた。
里沙は絵里にゆっくりと近づいてきたので、絵里はにこやかに手を振った。
「立ち入り禁止なんだけどね、カメ」
「いやぁ、ここ見えやすいじゃないですかー。特等席ですよ、ホントに」
里沙は再びため息をつき、ポケットの中のケータイを見せる。
「異常ありって愛ちゃんに報告するから、早く出て行って」
「またまたぁー。ガキさんそんなことできないでしょ」
ちょっとだけ、意地悪に言ってみた。
里沙が本気で此処から追い出そうという気がないことくらい、絵里には分かっていた。
それが里沙を困らせるだけだと知っているが、里沙はその願いを聞いてくれる。
絵里は、良心が痛みながらも、里沙に意地悪をする。わがままなことくらい、分かっている。
「とりあえず、私もう行くから。ほかの生徒会の子に見つからないでよ?」
「了解ですぅ。ガキさんがんばってー」
「なんかムカつくねーホントに」
- 102 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:46
- 里沙は笑いながら絵里の背を向けた。
申し訳ないと思うが、言葉にできない。いつもわがまま言ってごめんねと、言えない。
伝えたいのに言葉にならないもどかしさが絵里を締め付け、絵里は咄嗟に里沙に身を預けた。
里沙の小さな背中は、温かかった。
「うへへ、ガキさんその格好、似合ってますね」
絵里は急に抱きついたことに多少後悔した。後先を考えずに取った行動のため、なにを言うかも決めていない。
とりあえず今日の不思議な格好について話を振ってみた。
なぜ里沙が制服でなくこのような格好なのかは知る由もない。里沙本人に聞いてみたものの、「私も分からない」と首をかしげられた。
絵里は里沙のいまの服装が気に入っていた。
動きやすさを重視したためか、特にオシャレなシャツという訳でもなく、普通の白いワイシャツに黒いチノパンである。
だが、暑さがまだまだ残るこの時期に、爽やかにそれを着こなして、シャツをなびかせながら走る里沙が、絵里にはカッコよく見えた。
―ガキさんが男の人だったら、モテモテなんだろうな
絵里はそう考えながら、里沙の腰に回した腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
もう少し、このままで居ても良いかなと思っていたが、急に着信音が鳴り響いた。
それが、里沙のケータイだと気づくと、里沙は「離すのだー」と絵里を荒々しく振り払った。
「ちょっと早いけど、来てほしいがー。なん……ま…」
「すいません、もう一度お願いします」
里沙の問いかけに、向こうは答えなかった。声から判断するに生徒会長の愛だったのだろうが、通信が途絶えた。
なにか問題でもあったのだろうかと絵里は少し不安になった。
そして、もう里沙と離れてしまうことが、寂しかった。
「……行っちゃうの?」
また、困らせることを、絵里は聞いてしまったと思った。
どうしてこうも、里沙を困らせることしかできないのだろう。
里沙にはやることがあるのに、どうして躊躇わせることしかできないのだろうと絵里は自己嫌悪した。
「また来るから、待っててね」
里沙はそう言ってニコッと笑った。
その笑顔を見て、絵里も明るくなり、大きく頷いた。
里沙はそれを確認すると、また『KEEP OUT』のテープを越えて、階段を駆け下りていった。
- 103 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:47
- ああ、まただね。
また、ガキさんに助けられちゃったね。
絵里は扉に背を向け、フェンスに体を寄せた。
いつも困らせて、いつも悩ませて、でもその度に、ガキさんは笑ってくれる。
笑って、絵里を助けてくれる。
それが申し訳なくもあるし、嬉しくもある。
―ガキさんに、失礼じゃないかな……
悪く言えば、利用しているように思えた。
里沙の行為を勝手に踏みにじり、都合よく使っているようにも思えた。
里沙に言えば「そんなことないよ」と笑いそうだが、絵里の心の中にぽつんと浮かぶ黒い点は、なかなか消えてくれそうにもなかった。
そうこう考えていると、再び扉が開く音がした。また里沙が来たのかなと思い振り返ったが、全くの別人がそこにいた。
それは、朝陽高校とは全く違う制服を着ている女の子であった。少し距離が遠いせいか、少女は小さく見えた。
その少女は黙って絵里の横に並び、グラウンドを眺めた。その距離は1メートルほどである。
この距離で絵里は確信した。
―この子、意外とちっちゃいなあ…
その時、ひときわ大きな歓声が上がり、絵里は視線をグラウンドへ戻した。
ゴール前でふたりの選手が交錯していた。よく見ると、それはあさ美と梨華であった。
あさ美はしっかりボールを抱えたまま、梨華に対し、大丈夫か聞いているようであったが、梨華もすぐに立ち上がり、あさ美の背中を叩いた。
- 104 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:47
- 「さすがっちゃね…朝陽高は」
その声を聞いて、絵里は少女に視線をやった。
少女は、そう、楽しそうに見えた。新しいものを見つけた子どものように、ワクワクしているように感じた。
長いまつ毛、大きな瞳、黒い髪を肩より少しだけ長く伸ばし、一部を束ねている。
絵里は思わず、少女に見とれてしまった。
その時、少女がこちらを向き、目が合った。
「なん?」
そらす間もなく、絵里は聞かれた。
なんだか怒っているように聞こえる。
―び、ビビっちゃいけない!俄然、強め?だよ!
「う、ううん、なんでもない」
ビビってはいけないと言いつつ、ロクになにも言えないまま、絵里は視線を外した。
そのまま会話が止まってしまう。
絵里の心臓がゆっくりと高鳴ってきた。まさかこんな時に発作ではないだろうかと心配したが、どうも違うようであった。
「ねえ、此処って立ち入り禁止やないと?」
―な、ないと?夜?いや、昼ですよ。つか話しかけられたの絵里?
いろいろと考えてあたふたするが、それを抑え、ゆっくり少女に向き直った。
少女は扉を指さして、「ここ、ちがうと?」と聞いてきた。
屋上が立ち入り禁止ではないのかと聞かれたことにようやく気がついた。
「…でも、あなたもじゃん」
絵里は咄嗟にそう返した。
立ち入り禁止であることを咎められるのなら巻き添えにしようと思っていた。
「あ、それもそうやね」
そう言うと、少女は目を細めて笑った。少女のその笑顔に、絵里は再びドキッとした。
顔をくしゃっとさせて笑う姿が、あまりにも愛らしくみえた。
里沙へ感じるものとは違うものがこの少女にはあるような気がした。
たったひとつの笑顔、それだけで絵里を夢中にさせるものがあった。
- 105 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:49
- 「…他校生?」
会話が途切れるのが惜しくて、絵里は聞いた。
すると少女は少し驚いたような顔をするが、すぐに応えた。
「まー、そんな感じ」
そこで再び会話が終わった。
あまり自分のことを話したがらないのか、それとも試合に集中したいのか、絵里には判別しようがなかった。
もし後者の場合、これ以上に話しかけて迷惑になったら申し訳ないと思ったので、絵里も再びグラウンドを見つめた。
だが、試合の様子などまるで入ってこない。隣にいる少女の方が気になって仕方なかった。
OGチームのフリーキックを、あさ美は再び止めた。
蹴ったひとみは腰に手をあて、「マジかよー、こんこん!」と叫んでいた。
もう何度目の光景だろう、あさ美のスーパーセーブが続き、OGチームは未だに点を入れることができていないようだ。
「これは大変やね…」
そう少女が呟くのと前半終了のホイッスルが鳴るのはほぼ同時であった。
少女は少し悩ましそうに髪をかきながら立ち去ろうとした。
此処で、終わってしまうのが惜しかった。
絵里はなにかを言いたかったが言葉にならなかった。このもどかしさ、どうすれば良いのだろう。
そんな絵里の様子を察したのか、少女は立ち止まり、絵里に向き直った。
「なん?」
先ほどと同じ言葉を投げかけてきた。
しかし、さっきよりもずっと柔らかい印象を絵里は受けた。
「えっと…あの…」
絵里はこの時ほど、自分の舌足らずを憎んだことはない。
なにが言いたいのかまとまっていない上にこの滑舌の悪さ、なにかが伝わる訳がない。
- 106 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:50
- 絵里があたふたしていると、いつの間にか少女は絵里の間合いに入ってきた。
少女に下から見上げられる体制になり、絵里の心臓は再び大きく唸り声を上げた。
顔が赤くなるのを感じるが、どうしてなのか分からない。
そもそもなぜこんなに至近距離でこの少女を見つめているのか分からない。
距離はわずかに30センチもない気がした。
少女はニコッと笑い、絵里のメガネに手をかけ、さっと外した。
「な?!」
急に視界がぼやける。
極度に視力の悪い絵里にとって、メガネは必須アイテムであった。これがないと、ちょっとの先のものでも見えない。
転ばぬ先の杖ではないが、メガネなしの生活などあり得ない。
それをなぜ、初対面の少女に取られてしまったのか。
「やっぱりそうやね」
少女はそのメガネを絵里の手に渡してきた。
絵里はわけが分からず、そのメガネを再びかけた。その時に見た少女の顔は、先ほどの試合中に見たものとは違っていた。
ちょっと意地悪そうな、なにかを企んでいるような、少しだけ悪い笑顔だった。
「メガネ似合ってなかとよ」
―は?!
「外した方がいーと」
少女はそう言って、屋上の扉へと小走りに向かった。
「じゃ、会えたらまた」
最後にもう一度、少女は笑い、颯爽と屋上から立ち去った。
ひとり残された絵里は呆気に取られていたが、時間が経つにつれて段々、ふつふつと感情が湧いてきた。
―な、なん、なんなのよー!!
絵里は急に腹が立ってきた。
見ず知らずの初対面の子に、なぜメガネが似合う似合わないの話をされなければならないのだろう。
というか、勝手にメガネを取っておいて、やっぱり似合わないとはどういう了見なのだろう。
なんだか一本取られたような悔しい気持ちが湧きあがり、誰かに話したかったが、いまはOG戦の真っ最中。
里沙も愛も生徒会の仕事で忙しく話せるような状況ではない。
絵里は屋上から出ていき、自分の教室へと戻った。
- 107 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:50
- 確かに悔しい。
でも。
でも、不思議な感情が湧きあがっているのも確かだった。
言い表せないこの感情。
名前があるとすれば、なんだろう。
その感情の名前を言えないことも、絵里が腹が立つ理由のひとつだった。
あの少女のことを思い出すと、確かに少し腹が立つ。
だけど、嫌いじゃない。
絵里は不思議な少女にあった。
絵里の中に不思議な感情が生まれた。
この気持ちを、なんと呼ぼう?
- 108 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:53
-
絵里はいまだに興奮が冷めやらないようだった。
里沙も愛も、絵里の拙い説明を真剣に聞き、確かにそれは不思議な少女だと感じた。
「他校生やったんは間違いないんやな?」
愛がそう確認すると、絵里は大きく頷いた。
他校生であるならば、今日の正門で一通り身分証を確認して名簿に記載してあるが、その数は膨大である。
しかも手がかりが『他校生』で『身長が低い』こと、そして『どこかの方言』があること以外にはない。
「で、絵里はどうしたいんや?」
「え?」
「その子にもう1回会って、文句でも言いたいんかいな」
どうしたいかと聞かれたら、絵里は回答に詰まる。
会いたいのだろうか。
だが、会ったところでなにを話したら良いのだろう。
「絵里も薄々、メガネが似合ってないことは気づいてたんですけどね」
それを聞いて、里沙は思わず「はぁ?」と声を上げた。
「似合ってないって自覚してんのにメガネしてんの?てかコンタクトにしなよ」
「だってー、コンタクト怖そうじゃないですかぁ」
「なにが」
「目に、目に、目に入れるんですよ!異物挿入ですよ!」
「なーにが挿入よ。コンタクトしてる人なんていっぱいいるから」
「ガキさんはしてないじゃないですか」
そのふたりのやり取りがおかしかったのか、愛は笑い出した。
実にくだらない会話で、生産性のカケラもない気がした。
だけど、それが良い。
このくだらない掛け合いがいまの愛には心地良かった。
「ま、もしかしたら明日会えるかも知れんのやし、落ち着きなって」
愛から言われて絵里は気づいた。
そう、もう会えないと決まったわけではない。
今日のサッカー部のOG戦を見に来たということは、明日の推薦入試も来る可能性は無きにしも非ずである。
確かに明日は今日ほどは盛り上がらず、観戦者も少ないとは言えるが、それでも可能性はゼロではない。
―会いたい…のかな?
絵里はボンヤリと考えた。
絵里の心に不思議な風を吹かせたあの少女。
自分自身、メガネが似合ってないことくらい気づいていたが、コンタクトにする勇気はない。
だから、『似合ってない』と言われたことは不可抗力であり、傷ついてなどいない。
『似合ってない』と言われるよりも『似合っている』と言われた方が嬉しいに決まっているのだが。
―絵里、どうしちゃったんだろ…
それでも、絵里の心を話さないあの少女。
何処だかわからない方言を使い、急に懐に入ってきたあの笑顔。
それを思い出すたびに、胸が締め付けられるような気がした。
絵里は思考に行き詰まり、勢いよく立ちあがった。
里沙も愛も突然の絵里の行動に驚いたが、直後に絵里が「トイレ!」と叫んで廊下に出て行ったので、顔を見合わせて苦笑した。
- 109 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:54
- 「あーしからしたら、あの子の方が不思議やけどね」
その言葉に、里沙は頷かざるを得なくなった。
15歳の女の子が恥じらいもなく「トイレ!」と叫ぶのはいかがなものだろうか。
見た目は可憐な女の子なのに、どうしてかくも彼女のいちいちの行動はそれに反しているのだろう。
「思わぬライバル登場、って感じかいな?」
思考が途切れ、愛の言葉に耳を傾けざるを得なくなった。
里沙はそれに応えようとはせず、放置していた書類に目をやった。
「はよせんと、とられてまうで?」
書類に目を通しているが、ちっとも頭には入ってこなかった。
それもこれも、みんな愛のせいだ、という気はないが、要因のひとつとは言える。
里沙は書類から顔を上げ、愛に向き合った。
「なんのこと?」
「絵里のことー」
「……別に、関係ないから」
里沙はあくまでも、しらを切った。
絵里に対する里沙の気持ちなど、愛にはとうにバレていることなど知っていた。
だが、ここでそのことをわざわざ公言し、恋愛相談を持ちかけるつもりはなかった。
「絵里が誰かのもとに行ってしまうの、イヤやないんか?」
絵里に気持ちを伝えるつもりは、里沙にはなかった。
ただ同性であるというだけで、『好き』というたったの二文字を伝えることがいかに困難になるか、里沙は知っている。
女子校という特殊空間において、この『好き』という感情は容易に使われるが、
それがひとたび外に出た途端、脆くも崩れ去り、逆風に晒されることを里沙は知っている。
世間は異端なものを排除し、除去することを好み、普通こそ素晴らしいと、その『常識』を押し付けてくる。
「私はカメのこと、そういう風に見てないから」
「あのね里沙ちゃん」
「カメに好きな人ができるのは、自由でしょ。止める権利もない」
「ムリしてない?」
そう言われて、里沙は言葉に詰まる。
- 110 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:55
- 「絵里のことを聞いてるんやないよ。里沙ちゃん自身のことを聞いてるの」
愛はまっすぐに里沙を見つめてくる。
今日の愛は、里沙と同じ、白シャツに黒のパンツという格好だ。
里沙と違うのは、里沙が第1ボタンを開けているのに対し、愛は第2ボタンまで開けているという点である。
そしてその首には銀のネックレスが光っている。小さく光る白い石が、里沙の心に侵入してくるようだった。
「里沙ちゃんはそれでええんかって聞いてるの」
ただの言い訳だということくらい分かっていた。
本当に好きなのであれば、世間の常識とか理とか法則とか、そういうものを飛び越える覚悟を持てばいい。
世間の押しつける『常識』を無視して、絵里に気持ちをぶつければ良い。
それができないのは、里沙自身の弱さだとも分かっていた。
嫌われるのが、怖い。
告白して、受け入れられず、フラれるくらいならまだ良い。だが、それから避けられたらどうしよう。
里沙のことを気持ち悪いと思い、話してくれなくなったらどうしよう。
一度、絵里が壊れかけたとき、距離を取ったのは里沙だった。
嫌われること、離れていってしまう怖さを、絵里は知っている。
そんな恐怖に絵里を陥らせたのは、里沙だった。
それなのに、いまは、嫌われるのが怖い。
身勝手で、わがままな自分。そんな自分が、嫌い。
「……愛ちゃんには、関係ないでしょ」
こうやって、心配してくれる友人に冷たく接する自分が嫌い。
せっかく手の差し伸べてくれるのに、その手を取れない自分が嫌い。
愛は「あー」と言いながら立ち上がる。
里沙は思わず身を固くした。呆れられたのか、怒られるかもしれないと思った。
しかしそうではなかった。
愛はそのまま里沙に近づき、後ろから抱き締めてきた。
- 111 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:55
- 「だからムリせんでやって。里沙ちゃんが心配なんやざ」
いつかと同じだった。
絵里のことをひとりで考え込み、自分で自分を追い込んでいたあの日。
それがあまりにも痛々しくて、あまりにも愛しくて、愛は里沙を抱きしめた。
里沙の笑顔が見たい。
愛の行動理由はあの時と変わっていない。
愛はあの日、自分自信に誓った。
里沙から笑顔を奪う全てから、里沙を守りたかった。
抱きしめる以外に方法を知らなかった。
それしか愛にできることはなかった。
抱きしめた里沙の髪から良い匂いがした。1日中走り回っても変わらない香りが、愛の心を締め付けた。
里沙は回された腕をギュッと掴み、そしてゆっくりと解いた。
「カメが、帰ってくるから」
そう言って、里沙は立ち上がり、愛から離れた。そのままゆっくりと廊下に出て行った。
いままで手元にあった温もりがするりと抜け落ち、そこには空虚な空間が残った。
愛は頭をかきながら椅子に座った。
―言葉にせんとかんのは、あーしや
愛はそう思いながら、いままで里沙が見ていた書類に目を通した。
明日も忙しくなることは確実であった。
- 112 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:55
- ---
- 113 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:56
- 絵里は教室にいて、ひとり課題に取り組んでいた。
推薦入試が始まるのが、午後の1時。
いまからたっぷり2時間以上あるためか、まだ人が少なく、校内は静かであった。
絵里は課題をする手を休め、昨日のことを思い出していた。
- 114 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:56
- 昨日、トイレから帰ってくると里沙がいなかった。
そして少しだけ、生徒会室の空気が重いことに気づいた。
「お、絵里おかえり〜」
「絵里だけに、おか『えり』って感じですよねぇ」
絵里はこの空気を軽くしようと、自分でもなにを言っているか分からないことを言い出す。
ギャグのセンスが人とズレているということを里沙から何度も言われてきたが、絵里には自覚はない。
だが、今回のはさすがに、いろいろとおかしいことに気づいていた。
そんな絵里の頓珍漢なセリフだが、愛は笑ってくれた。
その笑顔が、絵里には逆に怖かった。これはなかなか重症ではないかと思う。
まさかあの短時間で愛と里沙が喧嘩をしたとは思えないが、それに近いことをやらかしているのではないだろうか。
そうは言っても、それを聞く勇気も、根拠も絵里にはなかった。
結局、里沙はその数分後に生徒会室に戻ってきて、何事もなかったかのように愛と話していた。
確かに話していたのだ。
普段通りに、特別、なにも起きていなかったように。
絵里には、このふたりの微妙な空気がツラかった。
- 115 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:58
- 絵里は息を吐いた。
ああいう状況になった時に助け船を出せるような人になりたいと思った。
―そーゆーのはガキさんも愛ちゃんも上手いのになあ…
自分がすぐに手を差し伸べられるくらいになりたかった。
あのふたりにはいつも助けてもらってばかりだから、特に、である。
絵里はシャーペンを持ちなおし、課題のプリントに目を置いた。
すると、教室の扉が開かれ、そこには愛が立っていた。
「お、休みの日に勉強かー。感心やな」
愛は絵里に近づき「懐かしいなあ、この計算」と呟きながらプリントを眺めた。
「推薦入試までの時間潰しですよ。愛ちゃんは生徒会?」
「そ。一応、校内の警備を、な」
愛はそう言うと立ち上がり、出ていこうとした。
絵里は、その手を思わず取った。いま、このまま行かせてはいけない気がした、なんとなく。
「なに?」
絵里の悪い癖であるが、行動する時になにも考えていないということがしばしばある。
考えなしに行動を起こして、結果的に頭が真っ白ノープランであるから、ひどい方向に話が進むときがある。
今回もそのパターンで、手を取ったは良いもののなにも考えていない。
昨日のことを聞きたいのだが、なんて言って聞いたら良いものか。
絵里は困ったように笑い、頭をかいた。
「うへへ、なんでしょー」
絵里のその顔に、愛も困ったように笑う。
―単純やな、絵里は。
愛はゆっくり席に座り、絵里に向き直った。
「聞きたいこと、あるんやないの?」
愛のセリフに、絵里は素直に頷いた。隠していても、もうバレている。
絵里は昨日のことを愛に聞いた。とりあえず、喧嘩でもしたのかと当たり障りのないように聞いてみた。
愛は「そんなことないよ」と笑って首を振った。
「言葉の行き違いっていうか…言葉足らずっていうか…うーん、難しいけど」
愛の言葉に嘘はないようだった。
どんな事情があったのかは話さなかったが、その内にどうにかするよと愛は笑った。
絵里はその言葉を信じ、思いついた別の質問をした。
思いついたといっても、昨日からずっと気になっていたことである。
- 116 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 22:59
- 「なんで、昨日も今日もシャツと黒のパンツなの?」
ああ、これ?とシャツの胸元をいじりながら、愛は笑った。
第2ボタンまで開けた白のワイシャツ、その胸元には銀のネックレスが光っていた。
「目立つから」
「へ?」
「ここ女子校やろ?校内をこんな男子みたいな服装で歩けば目立つやん。遠くからでも生徒会の人間だって分かるようにしたってだけやざ」
なるほどと絵里が頷いたのを確認し、愛は立ちあがった。
「そろそろ戻らんと、うるさい後輩が怒りそうやし」と言って笑うと、愛のケータイが喧しく鳴った。
グッドタイミングと思っていると、予想通りの声が響いた。
「愛ちゃーん、いまどこですかー?」
「はいはーい、もう戻りますよー」
「もう、早く来てね。みんな揃ってますから」
絵里はそのふたりのやり取りを見て、フフッと笑った。
どっちが先輩なのか、わかんなくなりそうと思った。
そんな絵里を見て、愛はちょいちょいと手招きをし、ケータイを指さした。
絵里は愛がなにを言わんとすか察し、確認の意を込めて、自分に指をさす。そして愛が笑って頷くのを見て少し喉を鳴らした。
「まー、もうちょいで行くから」
「お願いしますよ、愛ちゃん」
「りょーかいしましたぁ、ガキさぁん!」
教室中に響くような声で絵里は叫び、思わず愛は身をのけぞらせた。
それは向こう側の里沙も同じようで、なぜいま此処で絵里の声が聞こえたのか分からないようだった。
「ちゅーわけなんで、行くがし」
「ちょ…え、なにいまの。え、愛ちゃん、なんなの?」
「うへへぇー、ガキさんビックリしたぁ?愛ちゃんお返ししますねぇー」
「カメ!あんたまたふざけて…愛ちゃん、ちょっと遊んでないで早くもど…」
そこで愛はケータイをゆっくり折り畳み、ポケットへと戻した。
「里沙ちゃんは優秀な後輩やざ」
「どっちが先輩だかわかんないよ」
絵里と愛はそうしてふたりで笑いあった。
愛が教室を出ていく直前、振り返ってこう言った。
「屋上行くのはいーけど、見つからんようにしてや」
絵里は愛に手を振り、りょーかいですっと笑って返した。
それを確認して、愛は走って生徒会室へ向かって行った。その様子があまりにも昨日の里沙と似ていて、絵里は微笑ましくなった。
- 117 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:00
-
―そっくりだなあ、あのふたり。
心配していたふたりだが、そこまでの必要は無用のようだった。
あのふたりは、絵里が考えているよりもずっと大人であった。
仕事とプライベートを割り切り、自分の手助けなしに、前へ進んで関係を構築している。
―いーなぁ…そういうの。
絵里は手にしていたシャーペンを置き、グッと伸びをした。
自分自身に、そのような友人はいるだろうかと考える。
確かに里沙は良い友人だった。
だが、腹を割ってすべてが曝け出せるかと聞かれると、絵里は躊躇する。
里沙に対して拭いきれない遠慮。
少しだけ頭に残る、里沙への申し訳なさ。
いつも自分を支えてくれる里沙に、自分はなにを返せるだろうかと常々考えていた。
中間考査の結果が散々なものに終わり、自分が壊れかけたとき、里沙は近くにいて話を聞いてくれた。
その直後は少しだけ距離を感じていたけど、それでも里沙は優しく傍にいてくれた。
暑さの厳しい夏休み、生徒会や演劇の稽古もあるというのに、その合間を縫ってわざわざ病院まで来てくれていた里沙。
OG戦や推薦入試の話を嬉しそうに話し、絵里にまた、学校へ行きたいと思わせてくれた。
里沙がいないと、いまの絵里はいない。
そんなに里沙にたくさんもらってばかりなのに、絵里はなにひとつ返せていない気がした。
一方的に受け取ってばかりで、なにかあげたいのに。
想いに応えるには、自分で示すしかないとあの日誓った。
自分がこんなにも元気で頑張れているよと、示すことでしか返せない。
だけど
それ以上に、絵里は里沙になにかあげたかった。
こんなにも絵里を笑わせてくれる里沙に、笑顔をあげたかった。
貰うばかりじゃなく、与えたい。
優しい雨を降らせてくれる、あの人に。
―難しいなぁ…
絵里は頭をかきながら、席に座りなおした。
せめて推薦入試が始まるまでは、此処で課題を終わらせておこうと思った。
もし、里沙が明日忘れてきても、見せてあげられるように。
- 118 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:01
-
ホイッスルが鳴り響き、試合が始まった。
グラウンドのサッカーコート上には青いユニフォームを来た朝陽高校の選手と、ジャージの上に黄色の背番号をつけた受験生がいる。
受験生は全部で12人。それぞれ、01〜12までの数字を背負い、コート上を走っていた。
見る限り、青の現役選手11人に対し、黄色の12人が勝負を挑んでいるようだった。
朝陽高校スポーツ推薦入試は、基本的に実技を重視していた。半日間かけて、受験生の基礎体力や運動神経、そしてサッカーの技術を判断していく。
ギャラリーは昨日よりは少ないが、それでもたくさんいると言ってよい。
さすがに昨日ほどの黄色い歓声は聞かれないが、あの子が可愛いなど選り好みをしている姿は見えた。
絵里はうんざりしながらも、屋上から試合を見ていた。
試合は一方的になるかと思ったが、そうでもなかった。
意外にも黄色い選手たちは軽快にパスを回し、ゴールへと走っている。
試合が始まってまだ時間は経っていないが、この滑り出しに現役選手たちはどう思っているのだろう。
この12人の中の誰かが後輩になるかもしれないが、誰かは別の高校で敵になるかもしれない。
そんな相手に対し、この時点で負けるようなことがあれば朝陽高校の名に傷がつくかも知れない。
大勢の観衆に見られて試合をするプレッシャーは、受験生よりも現役選手の方が感じているのかもしれないなと絵里は思った。
開始15分後、試合が動いた。
黄色のユニフォーム、背番号03の選手がひとりで左から駆け上がり、ペナルティエリア内にボールを蹴り上げた。
それに合わせて、青いユニフォームの守備陣からひとり、受験生が抜け出した。
タイミング、パスの位置、受け方を取っても、すべてが完ぺきだった。
だが、その完璧な連携も、青の12番、紺野あさ美の堅い守備に阻まれた。ゴールはネットを揺らすことなく、大きく外へとそれた。
あさ美は大声で選手たちに指示を出している。
その声は、普段の優しく高い声ではなく、強く低く響いた。
いま、ボールを蹴り込んだのは誰だろうと絵里は思ったが、追えなかった。
なかなか良いシュートだったなと自分でも上から目線だなと自覚しながら絵里は試合を見つめた。
考えてみれば、受験生はほとんど今日が初対面のはずだ。
初対面の選手とチームを組み、現役の高校生らと試合をするというのは、並大抵のことではない。
今日の午前中にウォーミングアップをして試合に挑んでいるという話を里沙から聞いたが、それにしても凄く良い連携だった。
たったいまのひとつのプレーを見ただけで、今年の受験生のポテンシャルが高いことがうかがえた。
素人の絵里でさえそう思うのだから、経験者の部顧問や選手らはもっと感じているはずだ。
それは、選手らの士気を高める以外の何物でもなかったはずだ。
- 119 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:02
- 試合はどんどん動いていった。
直後、青いユニフォームは何度も黄色のユニフォームのゴールを脅かした。
シュートまではいかなくとも、ペナルティエリア内まで駆け上がられることは何度もあった。
その度に黄色い歓声が飛び、それに混ざってOGらの檄が飛んだ。
―すごい、今日の試合…
昨日の試合を見たときも絵里はそう思ったが、今日のはその比ではない。
OGと現役生との試合も確かに『試合』で真剣にやっているのだが、今日はまさに『サバイバル』であった。
黄色のユニフォームの受験生だって、12人はいまでこそ同じチームの味方であるが、よくよく突き詰めればライバルであった。
12人全員が合格できるわけではない。
これも里沙から聞いたのだが、推薦入試の合格枠というのは狭き門であり、合格者は若干名であるというのが基本のようだ。
朝陽高校が毎年何人に合格を出しているかは知る由もないが、一昨年は2人、昨年にいたっては1人であったようだ。
今年も例年並みだとすれば、12人で協力していこうという団結力を生みだすのは難しいのではないだろうか。
不憫だとは思う。
それが彼女らの選んだ道とは言え、納得できないかもしれない。
もちろん、単純なシュート数だけで判断するようなボンクラは試験官にはいないと思う。
そうは言えど、不合格した選手らは納得できるのだろうか。
同じチームで戦い、同じ時間だけコート上に立って試合をしたのに、ここまで差が出るのかと。
それが受験であり、勝負の世界であると言いきってしまえばそこまでなのだが、絵里はなんとなく、納得できないものがあった。
- 120 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:03
- 再び、試合が動いた。
現役選手のボールをパスカットした受験生が右からひとり駆け上がって行った。
脚は決して速いとはいえない。先ほどの03番の選手の方がむしろ速いように絵里は感じた。
だが、その選手はボールを全く取られずにどんどん上がっていく。
彼女のボール捌きは絶妙だった。ボールが足に吸いつき、まったく相手に取られない。
そのまま現役選手を翻弄し、一気にゴール前まで来た。
そこで大きく左に蹴り出す。そこで待っていたのは黄色の05番で、頭で合わせにいったが、それはあさ美の正面であり、阻まれた。
駆け上がった選手は「ドンマイ、次!」と笑って励まし、自分の陣へと戻って行った。
その選手は、先ほど03番のアシストをもらい、ゴールへ蹴り込んだ選手だった。
今度こそわかった、背番号は07番。肩まで伸びた髪で、背は他の選手よりも小さめだった。
絵里は何処かで見たような気もしたが、それが何処だか思い出せなかった。
- 121 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:04
- 前半は一進一退の攻防であり、絵里は全く目が離せなかった。
どちらの守備も堅く、なかなか点が取れない状況だった。
此処でものを言うのが、経験と体力だった。その点においては、現役の方が有利と言えた。
なんども大きな試合で経験を積み、長い試合を闘い抜いてきた現役はさすがに落ち着いていた。
前半終了まで残り5分もなかったが、この5分が大きな分水嶺であった。
脚が止まり始めた受験生の守備を崩し始める現役生。受験生も体力を消耗し始めたため、パスワークにミスが多くなってきた。
絵里はいつの間にか、受験生の方を応援していた。誰一人として知り合いなどいないのに、12人の受験生を応援していた。
必死に先輩たちにくらいついて走るその姿が、絵里の心を掴んだ。
特に先ほどから人一倍声を張り上げて走り続ける、背番号07番を絵里は追っていた。
なんども言うが、脚が速いとはいえない。時間が経つにつれてそのスピードも確かに落ちていた。
それでも彼女のボール捌きは健在であり、現役生に対してのプレスのかけ方もうまい。
その姿は、走れない絵里を嫉妬させ、そしてただカッコいいと思わせた。
前半終了間際、ペナルティエリア内で現役生が倒れた。どうも受験生と交錯したようだが、ここで主審がホイッスルを鳴らした。
それは終了の合図ではなく、ファールの証。
ペナルティキックだった。
確かにまだ前半であるが、もしこのPKが決まれば、後半に向けての受験生の士気は下がってしまう。
せめて同点のままハーフタイムに入れば、後半での巻き返しを考えられるが、前半の終了間際のゴールは相当な精神的痛手になる。
このゴールは何としても避けたい。
此処はゴールキーパーに頼るしかなかったが、無常にも、ボールはネットを揺らし、同時にホイッスルが鳴った。
この試合は、現役生が1点をリードして折り返した。
コートから離れていく姿は、現役生と受験生では対照的であった。
現役生は、間際にPKを決めたことは大きく、点を取った選手を全員でほめ、笑っていた。
一方の受験生であるが、ゴールを決められたキーパーは肩を落とし、その足取りも重い。
他の選手らもなにも言えず、黙ってグラウンドを後にしていた。
そんな中、ひとりの選手がキーパーに駆け寄り、「気にすんな!」と声をかけた。それがあの07番であった。
彼女はニカッと笑い、キーパーの背を叩く。キーパーの子もその笑顔に救われて少しだけ笑った。
07番の子は笑顔のままコートを去り、「後半もあるっちゃよ!」と叫んだ。
―すごいなあ、あの子。
純粋に、この試合を楽しんでいる気がした。
勝ち負け、合否に関わらず、強い選手と戦えることに喜んでいるように見えた。
彼女は単純に、純粋にサッカーが好きなようだった。
だからさっきからコート上でも楽しんでプレーしていた。それは他の受験生らとは少し違うように見えた。
後半の開始は15分後。
絵里も少し休憩しようと、屋上を後にした。
- 122 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:05
- 後半が始まり、20分が経過したとき、絵里の頭に雨粒が落ちてきた。
見上げると、いつの間にか、天には黒い雲が居座っていた。
絵里がカバンを開け、折り畳み傘を差すと、一気に雨足は強くなった。
グラウンドの近くで観戦していた人々も慌てて傘を差し始める。
傘を忘れて居る観衆は、急いで屋根のある場所まで避難していったため、グラウンドは一気に人が減った。
それでももちろん、試合は止まらなかった。
- 123 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:06
- 雨が足に絡み付く。泥水がかかり、少女たちの顔も汚れていた。
それでも、だれも立ち止まることなくボールを追い続けている。
後半戦が始まり、もう40分が経とうとしていた。主審は先ほどから小刻みに時計を確認していた。
このままでは現役生たちのチームが勝ってしまう。
それを察したのか、現役生たちは守備を固めてこの1点を守り抜こうとしていた。
受験生たちは、それをなんとか突き崩してやろうと右から左からパスを回して攻め込むが、どうしても切り込めない。
それでも、だれも諦めない。
「前を向くと!いまの良いパスやった!」
あの少女の声が聞こえた。屋上にいても、なにを話しているかが聞きとれる。
絵里は居てもたってもいられなくなり、傘を閉じ、カバンを片手に屋上を飛び出した。
あの受験生たちの中に知り合いなどいない。応援する義理もない。
最初はただの暇つぶしだった。なにもない土曜休日の、ちょっとしたイベント。
運動ができない絵里にとっての、少しの気分転換。
それだけだったのに、いま、絵里は必死になって受験生たちを応援していた。
現役生に恨みがあるわけでもない。
ただ、ただ純粋に、応援したかった。
グラウンドを所狭しと走り回り、泥で汚れながらもボールに食らいついていく彼女たちを。
絵里はグラウンドへ飛び出した。
迷惑と邪魔を承知で観衆をかきわけて前へ行きたかったが、そんな力はない。
絵里がどうしようかと迷っていると、誰かが呼ぶ声がした。
そこにはテントの中から絵里を呼ぶ里沙と愛だった。
「屋上におるんやなかったん?」
愛の笑顔が仏に見えた。
そう言ったら怒られるだろうから絵里は言わないが、飼い主を見つけた犬のようにテントへ走った。
生徒会用のテントだろうが、この際、文句は言わさない。
「すいません、あざぁ〜っす」
「カメは調子良いんだから」
里沙はそう言うと、試合の方に目を戻した。
クリアファイルを持つその手が強く握りしめられている。
絵里もグラウンドに目をやった。残り時間はもう2分もない。
- 124 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:07
- 絵里がいつも追っていた少女、背番号07の子は何処だろう。
目をこらさなくても、少女はいた。
現役生からボールを奪い取り、一気に駆け上がって行った。
歓声が上がった。
里沙も「よし!」と声を上げる。
「いけ!走れぇ!」という愛の声も聞こえた。
絵里も思わず、声を出した。
「がんばれー!」
07番の少女はゴールに対して左から攻め込み、一度背を向けて、中央に蹴りあげた。
そこには08番の少女が待っていて、頭で合わせた。
ボールはあさ美に弾かれ、転々とした。
それに向かってその場の選手たちが一気に駆け寄った。
その時、07番の選手と、現役生が交錯した。瞬間、ホイッスルが鳴った。
試合終了の合図ではなかった。
主審が選手たちに駆け寄り、現役生になにかを言っている。
受験生たちはワッと盛り上がり、現役生たちは主審に詰め寄った。
「PKだ!」
観衆の誰かが叫んだ。
現役生たちは両手を広げてなにか言っているが、主審は腰に手をやり、首を振って応じない。
その間に、受験生たちはボールをペナルティエリアにセットし、集まった。
「さて、誰に蹴らすかね…」
愛は口元に手をやった。
そうだ、時間的にも考えてこのPKで試合が決まる。
このシュートを決めようが外そうが、その瞬間にホイッスルは鳴る。
そして、このシュートの結果如何が、合否に大きく関わっていることも分かる。
そんな重責を、たったひとりに背負わせるのは、大抵のことではない。
- 125 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:07
- だが、そのとき、絵里は見た。
受験生たちは、みな、笑っていた。笑顔のまま、話していた。
その話し合いの結果、チームの命運はたったひとりの少女に託された。
それが、あの07番の少女であった。
少女は動揺していたようだが、チームの目を見て、静かに覚悟した。
ボールへ歩みより、なんどかセットしなおす。ベストな状態で蹴れるようにセッティングする。
キーパーのあさ美も、重責は同じであった。
受験生たちの合否に大きく関わっているのは、あさ美も同じだった。
一度両手を大きく叩き、ジャンプした。
絶対に止める気迫が伝わってくる。同情で点をやる気はないようだ。
受験生たちが、祈っていた。
現役生たちも、祈っていた。
観衆が静かに見守っている。誰も言葉を発しない。
里沙と愛は、固唾をのんでグラウンドを見つめる。
絵里はただ、静かに両手を合わせていた。
祈る神も、いないのだから。
少女は目を瞑って天を仰いだ。
泥で汚れたその顔を、雨が洗い流していく。
そして正面を向き、髪を両手で大きくかきあげた。「っしゃ!」と気合を入れて、助走を取った。
主審はボールの位置、キッカーである少女、そしてあさ美の準備が整っていることを再度確認し、ホイッスルを鳴らした。
- 126 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:08
- キッカーの少女はゆっくりと走りだした。
雨が足にまとわりつく。少女はボールを右足で蹴りだした。
ボールはあさ美に対して左へと飛んだ。
右へ飛ぼうとしていたあさ美は一瞬遅れて、体重を左に寄せた。
ボールの軌道は確実に枠内を捉えている。あさ美は必死に食らいつく。
雨が、結果的に試合を左右した。
この時、あさ美の一瞬の判断の遅れは失点につながるはずだった。
だが、雨と泥によってボールが微妙に回転し、失速した。
そのせいで、あさ美の判断でも、ボールに間に合う形になった。
ボールはあさ美の左手一本で弾かれた。
そのボールに向かって全員が走った。取った黄色の09番は落ち着いてゴールへと蹴り込んだが、堅い守備に阻まれ、再びボールは転々とする。
そこへ、先ほどのキッカーの07番が走り込み、頭で合わせた。
タイミングは完ぺきだった。
だが、今回は軌道が甘かった。
わずかにボールは枠内を捉えず、外へと弾かれていった。
その瞬間に、ホイッスルが鳴った。
ファールなどではなかった。
受験生たちの敗北が決定した。
- 127 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:09
-
「いやぁ、今日の試合は凄かったな」
書類を整理しながら、愛は言った。
里沙と絵里も、うんうんと頷きながら作業を進める。
「カメもすっごい見入ってたね」
「なんかぁ、すっごいカッコよくて、良いなあって思っちゃいました」
里沙の見よう見まねで書類を整える、絵里。
その整理であっているのだろうかと愛は若干不安になったが、そこはなにも言わなかった。
そうこう考えていると、愛の指に痛みが走った。
「痛っ」
「え、なに、どうしたの?」
指先を見ると、綺麗に切れていた。
書類で切ってしまったのだろうか、血が溢れだす。
「愛ちゃん、血!ティッシュ!」
里沙は慌てながらも、持っていたティッシュを渡した。
愛はそれを受け取りながら、「大丈夫がし里沙ちゃん」と言った。
だが、やはり血は止まらない。意外にも傷が深かったようだ。
「絵里、絆創膏もらってきますね」
生徒会室と保健室は、階は違えどさほど遠くはない。
今日は土曜休日ではあるものの、推薦入試のために開放されている。
保健教諭がいないのは問題であるが、それでも絆創膏くらいは貰えるだろう。
愛の遠慮を無視して、絵里は保健室へと向かった。
- 128 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:10
- 「失礼しまーす」
絵里が中に入ると先客がいた。
頭をタオルで拭きながら、椅子に座っている。
服装からすると、受験生だろうか。
絵里に気がついたのか、向こうも振り返った。それは絵里の知っている顔だった。
「あー、昨日の!」
「……ああ、屋上の」
そう、昨日絵里が屋上で会った、あの不思議な少女だった。
「怪我、したの?」
絵里が聞くと、少女はごしごしと目をこすって、笑って答えた。
少し目が赤い。泣いていたのだろうか。
「そ。最後の方でこけたから、此処で治療してたと」
そう言って膝を見せる少女。
確かにそこには痛々しい傷ができていた。
泣いていた理由は、この傷のせいではないことくらい、絵里には分かっていた
だが、なんて言って良いのかが分からない。絵里は努めて自然に戸棚から絆創膏を取りだす。
「試合、見てたと?」
なにも言わないでいると、今度は向こうから話しかけられた。
昨日から通じて、始めて声をかけられた。
絵里は背中を向けたまま、「うん」と答えた。
「……負けたの、見てたっちゃね」
少女はタオルを首にかけ直した。
少しだけ寂しそうに笑うその顔が、絵里にはとても美しく見えた。
雨と泥で汚れているのに、怖いくらいに綺麗だった。
絵里は思わず、見とれた。
「勝ちたかったと。最後は……外したから」
「え?」
「最後のPK、見てたっちゃろ?」
そうか、と気づく。
最後のPKを蹴ったのは、この少女だったのだ。
絵里が試合中にずっと追っていた背番号07は、彼女だった。
「カッコ良かったよ…」
「ニシシ、ありがとうっちゃ」
少女は笑った。
強がりの笑顔が、彼女の優しさを垣間見せた。
「みんなのためにも、勝ちたかったっちゃけどね…」
- 129 名前:Only you 投稿日:2011/09/06(火) 23:11
- 彼女は最後まで、チームを思っていた。
受験という試合の中でも、彼女は同じチームのライバルを思った。
その優しさを、絵里はこの試合を見て知っていた。そうでなければ、あんなに笑顔でコート上を走り、チームメイトに声をかけられない。
最後のPKを蹴るあの瞬間、受験生たちは間違いなくひとつのチームになっていた。
それを促したのは、この少女だと、絵里は感じていた。
「ま、サッカーは何処でもできるっちゃ」
先ほどまでの暗いトーンでなく、明るく答えた。
「れなも頑張らんといかんと」
「れな……?」
あ、と言って、少女は笑った。
「名前、『田中れいな』って言うと」
「田中……れいな」
絵里は少女の名前を初めて知った。
れいなは、「もう会わんかもしれんけどね」と言って笑ったが、絵里は首を振った。
「だいじょーぶだよ」
「気休めなら良いとよ?れなたち、覚悟はしたっちゃけん」
絵里は再び首を振った。
「れーなは、絶対、自分の思い通りに未来を創っちゃうタイプだから。だいじょーぶだよ」
れいなはポカンとした。
出会って間もない彼女に急に『大丈夫』と言われたこともさることながら、呼び捨てにされたことも驚いた。
発音としては『れいな』というより『れーな』という表記の方が正しい気がした。
「あ、私、もう行かなきゃだから。じゃ、またね」
絵里はそう言って保健室を後にした。
れいなは引き留めようとしたがそんな暇もなかった。
ひとり残されたれいなは呆気に取られていた。
ガシガシと頭をかきながら回転いすに座り、回った。白い天井がくるくると変わっていく。
―未来を思い通りに……か。
不思議な少女だった。
昨日、あの屋上で会ったときから少し興味はあった。
立ち入り禁止の場所にひとり立ち、ぼんやりとグラウンドを見つめる彼女は、なにを思っていたのだろう。
そんなことを考えていたら、なんだか話したくなった。
だからメガネを取ってからかった。
好きな女の子にいたずらする小学生みたいに。
くだらないことをして、自分の不思議な感情を抑え込んだ。
「名前、聞くの忘れたと」
れいなは椅子から立ち上がって苦笑した。
もし、合格して此処に入学することになったら、先ほどの少女に真っ先に聞こうと思った。
サッカー以外の楽しみが、れいなに増えた気がした。
- 130 名前:雪月花 投稿日:2011/09/06(火) 23:26
- 今回は此処までになります。
ようやく主軸がふたり揃いました。
道重さんはまだ出てないけど…ごめんなさい。
作者はサッカー部でも医者でもないので、サッカーの描写や病気に関してはテキトーです。
そこはやんわり見逃していただけると幸いです。
では今後ともよろしくお願いします。
- 131 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/08(木) 11:22
- ちょっと期待してる
- 132 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/09(金) 00:35
- いやかなり
- 133 名前:雪月花 投稿日:2011/09/11(日) 03:50
- こんな時間帯に失礼します、雪月花です。
>>131 名無飼育さんサマ
ちょっとの期待ありがとうございます。
コメントをいただけると励みになります。
その小さな期待に応えられるように精進します。
>>132 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
おお、かなりですか!そう言われると作者は嬉しくて小躍りしますw
ノノ*^ー^)< いーから早く書きなさい
はい、がんばります。。。
では更新します。
- 134 名前:雪月花 投稿日:2011/09/11(日) 03:51
- ―この世はすべて劇場だ。 生きている人間はすべて役者だ。だれもが演技をしている。
里沙はなにかの本でそんなセリフを聞いたことがある。
そのセリフを読んだ時、すべての人間はいわば『仮面』をつけて演技していると思っていた。
本音と建前を区別しての演技。そういう意味だと、里沙は思った。
このとき里沙が考えていた“演技”とは、どちらかというと、マイナスな意味合いを含んでいた。
“素”である本音をかくし、建前の“演技”をすることで、人間関係は円滑に進む。そう考えていた。
だが、演劇の稽古をして1ヶ月。
どうもあのセリフの意味は、そういうマイナス的な意味ではない気がしてきた。
- 135 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 03:52
- 「『そろそろ帰らないと、お母さんが心配しますから』」
「『少しくらい遅れても、許してくれますよ』」
時が止まった気がした。
少女はゆっくりと王子を見つめる。
「『…少しくらい遅れても、許してくれますよ』」
「『いいえ殿下。私は、本当に帰らないと…』」
あの晩のことを思い出す。
ふたりが見つめ合い、夢のように踊ったあの一夜。
時計の針が12時を差す直前、名前も知らない少女は、するりと王子の前から消えた。
「『どうしてもですか…?』」
「『…失礼します』」
- 136 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 03:53
- 「オッケーです!いったん止めまーす!」
監督のセリフにふたりは顔を上げた。
文化祭まで残り40日と迫っていた。演劇も終盤の稽古を繰り返し行い、精度を高めている。
丁度1ヶ月前になったら、今度は歌唱力の精度を高め、衣装合わせをし、本番の舞台さながらで行っていくと説明があった。
里沙は汗を拭い、分厚い台本を見た。この2ヶ月、ずっと苦楽を共にし、なんども書き込みをした台本はくたびれているという状態を通り越して、ぼろぼろだ。
台本を開きながら里沙と愛が打ち合わせをしていると、演劇部の部室の扉が叩かれた。
部員の1年生が対応すると、そこには生徒会執行部の後輩が立っている。どうも用事は愛にあるらしいと察し、愛が席を立った。
ひとり残された里沙は窓の外を見た。
9月の暑さは苦手だった。いわゆる残暑というものが、里沙は嫌いだ。
カラッとした8月の暑さと違い、ジリジリと太陽が照りつけ、歩く人々の体力を奪っていく。
熱中症にかからないように注意しなきゃと里沙は思った。
ちらりと時計を見る。
下校時刻まで残り30分であった。
絵里はいまごろ何をしているだろうと考えていると、隣に愛が座って来た。
その手には生徒会の書類が持たれている。これはおそらく文化祭用の書類だろう。
「今年のクラスの出し物の一覧やって」
里沙はそれを受け取り、1枚ずつめくっていく。
各クラス嗜好を凝らした出し物や企画をするようだ。そういえばうちのクラスはなにをするのだろうと追っていたら、喫茶店と書かれていた。
まあ文化祭の定番と言えば定番だが、もう少しなにかなかったのだろうかと里沙は思った。
「あーぁ、休む暇ないなぁ」
そう言って愛は里沙の肩によりかかって来た。里沙もそれは拒否せず、黙って肩を貸す。
この人が苦労しているのは誰よりも知っていた。
普段は表に出さないが、後輩のミスや教師への対応も、愛が最終的にはチェックし、仕事を円滑に進めている。
努力するのが当然、がんばるのが当たり前。それが朝陽高校生徒会長、高橋愛だった。
- 137 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 03:54
- 「ま、自分で選んだことやけどな」
愛のそのセリフに、里沙は胸が締め付けられた。
よく「追い込みすぎなんやざ」と言われるが、この人の方がよっぽど追い込んでいる。
自分で退路を断ち、甘やかすことはしない。
この人が、「大変だ」とか「眠い」とか「疲れた」とか言っている時はまだ大丈夫な方なのだ。
それは自分を鼓舞するために使っている上辺の言葉。
本当にツラい時、愛はなにも言わない。
気づきにくい。
愛が本当にツラい時に、里沙は気づいてあげたかった。
手を差し伸べてあげたかった。
ひとりの友人として、いつも支えてくれる愛に対して。
だから里沙は、黙って肩を貸し、その頭をなでた。
これくらいでしか、いまは返せないから。
「ふふ、ありがとー」
その手の感触が心地良いのか、愛はしばらく撫でられっぱなしになっていた。
里沙の手から、里沙の優しさを感じた。
「じゃあ、次のシーン行きます!準備してください」
監督の声が響き、部員たちが配置に着いた。
里沙も愛もその言葉を聞いた途端に立ちあがり、準備をする。
先ほどまでの優しい顔ではなく、舞台に立つような凛々しいものになった。
だが愛は、その離れてしまった手が、なんとなく寂しくて、少しだけ視線は、その手を追っていた。
- 138 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 03:55
- 「おつかめで〜す」
「カメ〜」
そう言いながら教室に入って来た里沙と愛を見て、絵里はふにゃりと顔を崩した。
「稽古おつかめでーす」
机に広げていた課題のプリントをカバンに仕舞い、ふたりを迎えた。
絵里は飼い主を見つけた犬のように笑顔だ。
「まあまあ座って下さいよ愛ちゃん」
半ば強引に愛を席に座らせる絵里。
「あれ、帰るんやないの?」と不思議そうな顔をする愛に対し、絵里と里沙はにこにこしながら顔を見合せた。
そして声をそろえて「せーの!」と唄い出した。
「ハッピバースデートゥーユー!」
いきなり手拍子が始まり、ふたりは騒ぎだす。
はたから見れば、こんな放課後の教室で急に『ハッピバースデー』を唄うふたりは極めて異端ともいえた。
だが、ふたりは全く気にせずに歌い続け、絵里に至ってはなぜか踊り始めた。
呆気にとられる愛だが、今日が14日であり、自分の誕生日であることを思い出した。
仕事が忙しくてすっかり忘れていたが、今日は自分の17回目の誕生日だった。
「愛ちゃん、誕生日おめでと〜!!」
絵里はどこから取りだしたのかクラッカーを鳴らす。
里沙も嬉しそうに手を叩き、「じゃじゃ〜ん」と小さな紙袋を渡してきた。
驚きと戸惑いの方が大きくて、愛は良いリアクションが取れなかった。
どうして里沙と絵里が自分の誕生日を知っていたのか。
まさか自分で自分の誕生日を忘れるとは思っていなかった。
挙句、プレゼントをもらえるなんて夢にも思っていなかった。
愛は「ありがとう!」と受け取り、中を確認した。
そこには、黄色い石のついたブレスレットが入っていた。
小さなメッセージカードには、『誕生日おめでとう!カメ&里沙』と書いてあり、亀の絵も入っていた。
「すごい!きれーや!ありがとう!」
嬉しかった。ただ純粋に、このプレゼントが嬉しかった。
ひとつ年上だということも忘れてはしゃぎ、満面の笑みでそのブレスレットを腕に付けた。
「気に行ってもらえてよかったよぉ〜」
「ごめんね、あまり選ぶ時間なくてさ」
里沙は手を合わせて愛に謝罪するが、愛はもう充分だった。
さして大それたサプライズでもなく、高いプレゼントでもない。
だが、今日の誕生日は、ただただ嬉しかった。
なにをされたわけでもなく、単におめでとうと祝ってもらえること。
当たり前のようで当たり前じゃないこの出来事が、愛は嬉しかった。
―また明日からも頑張れそう
愛は素直に、ふたりに感謝した。腕に光るブレスレットが綺麗だった。
- 139 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 03:56
- ---
- 140 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 03:57
- 2学期の中間考査も一段落し、朝陽高校は文化祭へ向けてまっしぐらであった。
各クラスが企画や出し物の準備を始め、生徒会はそのフォローに走っていた。
それだけではなく、当日のフィナーレを飾るフォークダンスの準備も始めていた。
その直前まで、生徒会長と執行部員のひとりは演劇部の舞台に立っている。
演劇部の幕が降りてからダンスが始まるまでは確かにある程度の時間は確保されているが、それでもふたりにとってはギリギリだった。
「だからここで衣装脱いで行った方が良いと思うのよ」
「いや、そもそも論として、花火を上げる時間をずらした方が確実やん」
生徒会室に行けば当日の打ち合わせをし、演劇部の部室に行けば、稽古をする日々が続いた。
なんどもなんども、納得のいくまでやり続けることで、確かに精度はあがっていった。
しかし、それは同時に、ふたりの体力と精神力を削っていった。
同時に複数のことを完璧にできる人間はいない。それは里沙や愛も同様だった。
文化祭当日の運営をする生徒会執行部と、文化祭劇のトリを飾る演劇部の『シンデレラtheミュージカル』の主役。
どちらも同じくらいに大切であり、優先順位はつけられなかった。
特に愛は、『生徒会長』という立場がある。なにか問題があった時に真っ先にやり玉に挙がるのが彼女だ。
たとえそれが後輩の尻拭いであったり、八つ当たりであったりしたとしても彼女は文句を言えない。
それが愛の選んだ道だった。
生徒会長になったときに、既に愛の心は決まっていた。
この高校に入り、生徒会長まで成り上がったのも、なにかの意味がある。
そうであるなら、その意味を示したかった。大きく言うなれば、生きている証を刻みたかった。
ただの高校生活でなにが生きている証だとバカにされるかも知れない。
しかし、それが愛の考えであり、愛の思う『青春』であった。
今回の『シンデレラtheミュージカル』の主演を演じることに不満を持っているのは、演劇部のみではなかった。
一部の教師陣は、愛のシンデレラ役を快く思っていない。
それは、部外者が演劇部に携わることを否定しているのではなく、『高橋愛』という存在に不満を持っていた。
- 141 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 03:59
- 愛はいわば、朝陽高校を変えた人間であった。
愛の入学する前の朝陽高校は、都内でも有数の進学校であり、校則も厳しく、『自由な校風』は全くなかった。
朝から夕方まで学校側が生徒を縛りつけ、管理することを基本とし、部活動への参加も強制的であった。
試験の結果のみで評価を決め、成績が優秀でない生徒は容赦なく留年・補習が決まった。
それが本人の努力不足というものなら納得もできようが、一時期は、教師の裁量次第で勝手に補習ということも少なくなかった。
それを免れるために勉強をして成績を上げれば、結果的には良くなるという教師陣の無茶苦茶な理想論に生徒たちは振り回された。
試験の結果、そして教師へのごますり、それが朝陽高校で生き残る術であった。
確かにいまではそのような慣習は少なくなってきているが、この高校が設立された当初は、それは珍しいことではなかった。
また、朝陽高校の運営に利をもたらすサッカー部と陸上部は優遇され、授業への参加や試験の結果が芳しくなくとも大目にみられることもあった。
それらの部活に在籍していると言うだけで、彼女たちに不利なことはなにもかもがもみ消された。
『上下関係』という名のもとに、合法的な『いじめ』が繰り返され、先輩が気に入った生徒しか部活に参加できないという事実もあった。
それだけならまだしも、その合法的な『いじめ』により、ある生徒が自殺未遂をするという事件も起きた。
だが、そのときも教師陣はそれを放置し、結果的にその生徒を『自主退学』という形で追いやり、事件を終わらせた。
その事件の被害者ともなった生徒が、愛の同級生である、あさ美の姉であった。
愛が高校1年生の5月にその話を聞き、愛は激しく憤慨した。
この悪しき風習を何処かで止めなければならないと、愛は下級生ながらに決意した。
- 142 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:00
- そんな中、生徒会執行部参加への話を聞いた。
愛のルックスやカリスマ性、人望を見た同級生が、勝手に愛を生徒会へ入れようと動いていたが、愛はその話に乗った。
学校自体を変えるには、まず一番上に立ち、人望を集め、従わせるのが手っ取り早かった。
愛は1年生の7月に飛び入りで生徒会に参加し、ほぼ教師陣の傀儡であった生徒会執行部の立て直しを図った。
最初は誰も、そんな夢物語についていこうとはしなかった。しかも、愛は入ったばかりの1年生である。そんな彼女の意見など、誰も聞こうとはしない。
だが、愛は立ち止まることはしなかった。
愛をまず受け入れてくれたのが、他ならぬ紺野あさ美であったのだ。
あさ美は一般入試で朝陽高校に入った生徒だが、サッカーをやるために、わざわざ北海道から単身上京してきた。
そんなあさ美だから、地方出身の愛の気持ちは汲み取ることができた。
友だちができにくい入学当初に、最初に声をかけ、なんの衒いもなく手を差し伸べたのが、あさ美だった。
そんな彼女の姉が、朝陽高校の悪しき風習により苦しみ、被害を受けている。その事実を、愛は受け止められなかった。
変えるしかない。
地道にでも、自分がやるしかない。
愛は、信頼を勝ち取るために走った。
『生徒の意見を聞く』というだれもが言いがちなことをまずは言い、それを真っ先に実行に移す。
目安箱などという面倒なことはせず、直接、愛がクラスメートから始め、全校生徒に聞いて回った。
それくらいのネットワークなら愛にはある。
友人たちを使い、下級生から上級生まで、なにが不満か、なにを変えるべきかを聞いて回り、それを書類にまとめ、生徒会へと提出した。
それを基に『生徒の声』ということで大々的に発表し、打開策を打ち出した。打開策を出せば、生徒会が機能していることは誰の目に見ても明らかだ。
ついで、その打開策を急遽実行した。
もたもたせずにやれば良い。大きな行事は2学期のOG戦と推薦入試、そして文化祭と体育祭だ。それが終われば、生徒会のやるべき仕事はそうそうない。
その間にこの『生徒の声』に耳を傾け、改善すべき点を改善し、動き始めれば良い。
- 143 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:01
- 愛の迅速な対応に、他の生徒会執行部も動き始めた。
それが徐々に伝播し、全校生徒が少しずつではあるが、一体感を持ってうねりを上げた。
伝統を否定するわけではない。しかし、閉じたままの風習や慣習が、時に思わぬ負の結果を招くことがあると愛は訴えた。
その具体例を持った意見は誠実で分かりやすかった。
愛は朝陽高校の部活動、特に陸上部に切り込み、その風習の撤廃を求めた。
もちろん、生徒会が求めるだけでは効果はないが、全校生徒となれば話は違ってくる。
“数の利”は生徒会側にあった。
愛はさらに交渉術にも長けていた。
そんな『いじめ』などは存在しないと陸上部が突っぱねたときだ。
相手は3年生で、陸上の短距離選手であり、その実力で大学入学を勝ち取っていた。
いま此処で変に騒がれては、自分の将来を棒に振ることになる。
なんとしてもここは、そのような事実がなかったということにしたかった。
そんな状況を察し、愛は静かにこう言った。
「いま私たちが言っているのは、今後そういった類の話が出たとき、真っ先に陸上部の株が下がるということです。
過去にそのような出来事があったかどうか、それはあえて問題ではないです。お分かりですか。『過去の話ではなく、いまと未来の話』をしているのですよ」
愛の言葉の裏を、陸上部の部長は汲み取った。
―過去のことは蒸し返さない。だから今後このような出来事を起こすな
そのようなメッセージを部長は汲み取り、静かに頷いた。
これ以降、陸上部や他の部活動から、いじめが起きているという話は聞いていない。
- 144 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:02
- ここまでなら教師陣の受けも悪くはなかった。
だが、愛が次に「授業時間の問題」を議題に挙げたことにより、風向きが悪くなった。
確かに有数の進学校であれば、授業時間を十分に確保するのは大切であろう。
だが、この高校はそれを逸脱していた。『授業』という名のもとに生徒を管理しすぎているきらいがあった。
愛はそれを撤回すべく、『生徒の声』と打開策をそのまま教師陣に突き付けた。
これが基となり、生徒会執行部、及び全校生徒各クラスからの代表、そして教師陣を交えての緊急会議が開かれ、
文部科学省の規定する授業時間以上のものを課さないということで意見が一致した。
その代わり、生徒たちの偏差値が大幅に下回った場合は、いままでどおりの授業時間を貸すという条件も付け加えられた。
この話し合いは結果的に朝陽高校を大きく変えることになった。
確かに一時的に朝陽高校の全体の偏差値は前回の試験よりも下がったが、次とその次、そしてそれ以降は順調に右肩上がりの状態である。
いまはそこまで上がってはいないが、前回をキープしている状態であることには違いない。
高橋愛は、生徒会執行部とともに、朝陽高校の慣習を大きく変えた。
縛り付ける環境より、ある程度の緩さがある校風の方が、人はポテンシャルを開花させることを愛は示した。
実際に、朝陽高校の校風は明るくなり、生徒たちは少なくとも以前に比べれば伸び伸びと活動することができた。
だがそれは、結果的に一部の陸上部員や教師陣を敵に回すことになった。
陸上部にしても教師にしても、この変革によってなにか問題が起きたわけではない。
彼らが敵に回った最大の理由は、所詮、そこに在ったプライドである。
代々受け継がれてきた自分たちのやり方がすべて正しいと思い込んでいた彼らにとって、
急にやって来た新参者があれこれと引っかき回し、新しい価値観を打ち立てたことは腹立たしかった。
だから彼らは、生徒会執行部に対し、不満を抱き、いまも、それは変わっていない。
- 145 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:04
- 特に一部の教師陣はそれが顕著であった。
朝陽高校を1年にして変えた『高橋愛』は、そのまま生徒会長へとなり上がった。
そして今年はさらに、生徒たちの声を聞き、制服の撤廃運動へ取り組んでいる。
この『制服撤廃運動』は愛自身もまだ懐疑的であった。愛は、朝陽高校の制服は嫌いではないし、制服というユニフォームが生徒たちの団結力を高めることも知っていた。
だが、一部でこれを撤廃したいという声が上がっているのも知っていた。
その理由は、オブラートに包んではいるものの、突き詰めれば単に『デザインがダサいから』というものであった。
確かに朝陽高校の制服は、私立高校にしては、デザインは良くないと言える。だがそれだけの理由で撤廃するのはいかがなものかと愛は考えていた。
この問題は未だに保留にしているが、文化祭以降、そして愛が最上級生になる来年までには何らかのアクションを起こさないといけない課題であった。
教師陣はこの動きをいち早く察知していた。
これ以上引っかき回されてたまるかと、生徒会執行部に徐々に圧力をかけ始めていた。
教師陣からの傀儡がなくなったとはいえ、所詮は生徒と教師という立場がある。教師たちが『黒』と言えば、どんなに生徒会が『白』だと言っても、結果は『黒』になる。
- 146 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:06
- “権力”というものが愛は嫌いだった。
ある程度の上下関係や規律は、組織運営のためには必要だが、その形式でピラミッド型にこだわる必要はない。
立場上、ピラミッド型にしたとしても、健全な運営のためには、下の者が上の者に意見を言える環境が必要だと考えていた。
そういった意味では、いまの朝陽高校にある権力構図は嫌いだった。見えないところで働くその力すらも、愛は変えたかった。
だから愛が生徒会長になり、入学式の挨拶として、彼女はこう言った。
「自分がものを言える空間、信じるものを信じられる場所、そういったものを作っていきたい。そのためには、みなさん新入生の力が必要です。」
それに賛同したのが、里沙であり、他の執行部員であった。
この発言が一部の教師陣の間で反発を買っていることは百も承知だった。
それを知った上で、愛は生徒会活動を行い、『シンデレラtheミュージカル』のキャストオーディションに挑んだ。
―自分で、示すんやろ?
愛は自分に何度も言い聞かせ、その度に立ち上がった。
これが自分の高校生活、自分の生き方だった。たとえ間違いだらけでも、このやり方を愛は選んだ。
生きるのが下手と言われようとも、不器用であったとしても、愛はこの道を選んだ。
支えてくれる友人がいるから、必死に歩こうと誓った。
―こんな高校生活も、楽しいんやない?
世間的に間違っていると言われても、自己満足であっても、いつか振り返った時に、確かな証になる気がした。
だからいまは、このツラい現実を受け止めよう。
愛はそう思い、演劇部の稽古と生徒会活動に挑んでいた。
文化祭開催まで残り1ヶ月弱。
秋が深まり始め、紅葉が美しい季節だった。
- 147 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:07
- ---
- 148 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:08
- 月日はあっという間に過ぎていく。
つい先日、サッカー部のOG戦と推薦入試を観戦したばかりだと言うのに、明日はもう文化祭当日であった。
絵里はいま、教室内の装飾を行っていた。
絵里と里沙のクラスの出し物は、何の変哲もない、喫茶店である。
メニューも特に趣向を凝らしたものはなく、ごくごく普通の一般的な喫茶店をやることにあっていた。
接客のホール係と調理のキッチン係、受付係など役割は分担しているが、絵里は何処にも属さなかった。
クラスメートは、絵里に可愛い格好をさせてホールを任せたかったらしいが、絵里はそれを丁寧に断った。
初めての文化祭で、自由に見て回りたいという気持ちもあったし、なにより、確実に参加できるかが分からなかったからだ。
あの日、学校で初めて発作を起こし、絵里は倒れた。
逆行してきた過去に呑まれ、絵里は意識を失い、安倍にも迷惑をかけた。あのようなことがないとも限らない。
絵里はクラスメートの優しい申し出を断り、前日準備のみに参加することにした。
壁にメニュー表を張りながら、絵里は、いまごろ生徒会のふたりはなにをしているだろうと考えた。
明日の文化祭の準備ということで、今日は午後から授業は休みになっている。
ある程度の時間が確保されているとはいえ、文化祭全般の運営を担う生徒会と演劇の両方をしなくてはならないふたりにとって、時間はいくらあっても足りないはずだ。
教室の前にかけてある時計を見ると、午後の2時を差していた。
里沙は軽めの昼食をとると、早々に生徒会室へと向かった。
いま、生徒会をしているか稽古をしているか定かではないが、この学校でいま、最も忙しい生徒はあのふたりに違いないと絵里は思った。
- 149 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:08
- 「ねえねえ絵里」
「ん〜?」
「里沙ちゃんって、劇やるんでしょ?」
下書き段階のメニュー表がまだ数枚残っているので、それに色をつけていく作業を絵里はしていた。
横を見ると、絵里と仲の良いクラスメートが、文化祭のプログラムを見ながら話しかけてきた。
「おい仕事しろよぉ」と笑いながら突っ込みたくなるが、やめておく。
「うん、シンデレラの王子役だってー」
「すごいね里沙ちゃん。なんでもできて…」
「ガキさんはがんばり屋だからねー」
その子は本当に感心しているようだった。
確かに、生徒会もやってシンデレラの王子役も演じると言うのは並大抵のことではない。
自分にそんなポテンシャルはないなと絵里は思う。
それと同時に、『ポテンシャル』って使い方あってるっけ?とも思った。
- 150 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:10
- 「なんかモテモテみたいね」
その言葉に、絵里は作業の手を止めた。
いま、なんとおっしゃいましたか?と聞き返したくなった。
「ほら、あの子たちも」
そう言って、彼女は教室の出入り口を指した。そこには何人かの生徒がいて、なにやら話している。
見たことあるような気もするが、別のクラスであることは間違いない。
「里沙ちゃんお目当てに来てるっぽいよ」
絵里はメガネをかけ直し、彼女たちを凝視する。そこには見るからにミーハーな女の子たちがいた。
いつぞやのOG戦でキャーと黄色い歓声を上げていたような人だと絵里は勝手に判断した。
「でも、愛ちゃんの方が人気なんじゃない?」
「愛ちゃん?あぁ、生徒会長ね。そりゃ高橋先輩は人気だけど…」
彼女はそこまで言って声を落とし、絵里にそっと耳打ちする。
嫌な言い方をするかもしれないけど、と前置きをした。
「届かない高根の花より、手近な場所で。ってことかもね」
なるほどと絵里は思う。
確かに、愛はどちらかというと王子様気質があり、高根の花で近寄りがたいイメージもある。
絵里たち1年生からすれば、愛はひとつ上の先輩であるからなおさらだ。
だが里沙は同級生であり、少し話せば打ち解けられる。なんとなく優しくてカッコいい頼れるお姉さんイメージなのだろうか。
―実際は口うるさい昭和生まれなんだけどねぇ
絵里は肩をすくめて笑った。そして同時に思った。
―ガキさんだって、王子様なんだけどね
- 151 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:11
- 「新垣さんっていないんですか?」
「え、もう生徒会行っちゃいましたか?」
扉付近にはまだうるさい生徒たちがいる。対応しているクラスメートも一苦労だ。
あまりにも長引くと準備に差し支えそうであった。そもそも彼女たちはクラスの準備はしなくて良いのだろうか?
「ガキさん、意外とモテるんだなあ…」
その様子を見ながら、絵里はため息をついた。なんだか少しだけ、頭の中がモヤモヤしている気がした。
「絵里は、里沙ちゃんとどうなの?」
「どうなの?ってどうなの?」
突然の質問に、絵里は純粋に聞き返した。
どう?とはなんだろう。里沙は絵里の良き友人だ。親友とも言って良い。
「里沙ちゃんと一番仲良いのは絵里じゃん。なんか、ああいうのって妬かないの?」
「妬くって…別にガキさんと付き合ってるわけでもないし…モテる分にはいーんじゃない?」
絵里は努めて冷静にそう言った。
「それより、こっち手伝ってよ」
手元にあるメニュー表の色付け作業を彼女にも手伝わせることにした。
絵里の美的センスはあまり良い方ではない。失敗すると後が面倒だった。
彼女は「ハイハイ」と言いながら、青いペンを持って色塗りを始めた。
絵里の中に渦巻いた小さなモヤは、消えては現れ、また消えては現れることを繰り返していた。
- 152 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:11
- ---
- 153 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:12
- 『文化祭』という独特の空気が絵里は好きだった。中学生のころは、こんなに楽しめたことがなかったから、余計に今日は楽しかった。
絵里は先ほどまで、自分のクラスで軽く受付などを手伝っているが、特に明確な役職には就いていないため自由に行動できた。
確実に見に行きたい演劇部の『シンデレラtheミュージカル』まではまだまだ時間がある。絵里はぐるりと、校内を一回りしてこようと思っていた。
朝陽高校は有数の進学校であるためか、このようなイベントがあると生徒はかなり燃える。
質が高いものを作り上げようという空気は、上級生になればなるほど強いようだ。
3年生になると、ただの喫茶店でも各クラスの趣向が凝らされ、メニューの質もずいぶん高いものができていた。
自分のクラスのレベルとは大違いだなと思いながら、絵里はそれらを見ていた。
絵里の歩く廊下の少し先に人だかりができていた。なにやら「可愛い」という声が聞こえる。
絵里は人の集まりというのがそれほど得意ではなかったが、進行方向にあるために避けて通るわけにもいかない。
ちょっと速度を落としながらも、そちらに近づいていく。
「可愛い〜!え、どこの高校?」
「何年生なの?」
「ひとりでいるの?」
矢継ぎ早に質問が飛んでいることを聞き、だれかが注目されていると絵里は判断した。
今日は他校生も入ってきているようだが、そんなに可愛かったのだろうか。
- 154 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:13
- 「あの…人を探しとぉ…」
「ねえねえ、今日はひとりなの?」
絵里は一瞬、足を止める。
その人物の質問を遮って自分の質問をぶつけている女子生徒に腹が立ったわけではない。
遮られたその声が、何処かで聞いたようなことがあったからだ。
「いや、だから、まあ、ひとりやっちゃけど…」
「可愛い〜!」
「それって何処の言葉?」
この独特の方言。この声。
まさかと思い、絵里はその人だかりに目を向けた。
周りの生徒よりも頭ひとつ分小さい彼女は、頭をかきながら困惑している状態だった。
あの髪型、あの制服、そしてあの方言、そこにいた中心人物は、忘れもしない、あの日に見た田中れいなだった。
「れーなっ」
思わず声を上げたことに、自分でも驚いていた。
まさかこんな声が出るなんて思ってもみなかった。
その声に気づいたのか、れいなだけでなく、周りの視線を集めてしまった。
「あ、なんかヤバい」と思ったが、その視線なんて関係なく、れいなは嬉しそうに絵里のもとへと走って来た。
それはまるで、飼い主を見つけた犬のようだった。
「良かった、探してたと!」
「ふぇ?」
「いいから行くと。ほら」
れいなは絵里の手を取り、人だかりをかき分けて走りだした。
絵里は前のめりになりながらも、れいなについていく。
後ろのほうでなにか大きな声が聞こえた気がしたが、絵里はすぐに気にならなくなった。
- 155 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:15
- 廊下を抜け、渡り廊下の方へ出る。風が通り抜け、気持ちが良かった。
「いやー、助かったと」
れいなは大袈裟に額を拭って笑った。前髪が風に吹かれて心地よさそうだった。
ふたりの手は、未だに繋がれたままである。
絵里は高鳴り始めた鼓動がれいなに聞こえないか心配だった。
どうしてれいなが此処にいるのか、なぜ手が繋がれているのか、疑問は尽きなかった。
とりあえず、ひとつひとつ解決していくしかない。
「れーな、なんで此処にいるの?」
「あ、そうやと!れな報告せんとね」
そう言うと、れいなは持っていたカバンをあさり、なにやら書類を取りだした。
そこでようやく手が離された。先ほどまで暖かかった手が、急に寂しくなった。
「これこれ!」
そう言って書類を突き付けられた。位置が近すぎる。しかし、その近さでもはっきり分かった。
「受験番号0007、田中れいな。私立朝陽女子高等学校スポーツ推薦入試に合格したことを証明する……うそ?!」
絵里はその手から書類を乱暴に奪い取って確認する。
間違いなくそれは合格証明書であり、名前の欄は紛れもなく、れいなのものであった。
「すごいじゃん!やったじゃん!おめでとう!」
「ニシシ。ありがとー」
顔をくしゃくしゃにして喜ぶその顔は、紛れもなく中学3年生そのものだった。
笑った時に見せるその八重歯が可愛く見える。絵里とおそろいだね、かたっぽだけ、と言おうとして、やめる。
「しかも聞いて。あの時のメンバーみんな受かったと!」
「え、そうなの?」
「そうやと。この書類が届いた日にサッカー部の部顧問の先生から連絡あって知ったっちゃけど」
「またみんなでサッカー出来るなんて嬉しすぎるっちゃ」とはしゃぐれいな。
本当にその姿はまだまだ子どもで、さっきから「可愛い」と騒いでいた女の子たちの気持ちが今になってよく分かった。
- 156 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:16
- 「それで、今日は遊びに来たの?」
「それもあるっちゃけど、明日、サッカーの日本代表の試合があるから観に来たと」
そう言えば、と絵里は思い出す。明日はサッカー日本代表の試合があるはずだった。
昨日、帰り道でたまたま会ったあさ美が、友だちと一緒に観に行くとか言っていた気がする。
そこまでサッカーが好きで興味がある絵里ではないが、テレビで中継されていたら、やっぱり日本を応援したくなる。
たぶん明日も、親と一緒に観るのだろうなと思った。
「とりあえず、れーな分からんけん、案内してほしいっちゃ」
案内といえど、絵里も1年生であり、生徒会をやっているわけでもないから詳しくはない。
しかし、此処で他校生の、しかも後輩を置き去りにするにはあまりにも酷だった。
それに、絵里もなんとなく、離れたくなかった。
「じゃ、うちのクラスの喫茶店でも行きますか?」
「やったー!奢ってくれると?」
「え、なんで?」
「れなの合格祝いに」
そう言うと今度はいたずらっ子のように笑った。先ほどの笑顔よりちょっと悪そうな感じである。
『合格祝い』と言われては絵里も拒否することはできない。大して中身の入ってない財布だが、コーヒー代くらいは出せるだろう。
―あ、もしかしてお客さん連れてきたからタダになるかな?
そんな甘い考えを持ちながら、絵里はれいなをクラスへと案内した。
- 157 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:16
- 「お客さん連れてきたよー」
そう言って、クラスメートの前にれいなを紹介した途端にれいなの周りには再び人だかりができた。
「可愛い〜!」
「え、絵里の知り合い?」
「まあ、そんなとこ。とりあえずふたりで席良いかな?」
ふたりはそのまま、接客係に席に通された。
そんな大したテーブルでもないが、一応、さまにはなっているような気がする。
「さっきから可愛いって言われてばっかりやっちゃ…」
「なに、褒められてんの嬉しくないの?」
「そうじゃないけん…バリ恥ずかしか」
れいなは自分のセリフも恥ずかしかったのか、そこに置いてあったメニュー表で顔をかくした。
その仕草に、絵里の心臓は再び高鳴った。
なんだか最近、どうかしている気がした。
「れーなはなににする?」
「ん、じゃあアイスココア」
「オッケー。あ、お願いしまーす」
絵里はクラスメートを呼び、アイスココアとオレンジジュースを注文した。
席から離れる前に『お代は半額ね』と耳打ちされたが、半額ならまあ良いか、と絵里は思った。
- 158 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:18
- 「オレンジジュースとか、子どもやね」
「なによぉ。自分のが子どものくせに」
「歳とか関係ないとー」
「いやいや大アリだから。てかあなたねぇ、私の方が先輩なんだからもっとちゃんと」
そう言いかけると、扉の方で黄色い歓声が上がり、急に騒がしくなった。
なんだかパターン化している気がすると思いながら、ふたりは声の方を見た。
そこには、白いワイシャツに黒のパンツという、2か月前にも見たことのある格好のふたりがいた。
「ごめんね、手伝えなくて」
「ううん、こっちは大丈夫だから」
「なんか問題とか起きてない?」
どうやら里沙と愛は見回りに来たらしい。
校内警備と、出し物をしているクラスで問題が起きてないかの確認がどうたらと、言っていた気がする。
なにか問題はないかとクラスメートに聞き、真面目に仕事をしている里沙。
「高橋先輩、カッコいいです」
「あひゃ、ありがとー」
「先輩うちのクラスで休んでいきませんか?」
「高橋先輩ならタダにしときますよ」
「いやー、それは悪いがし。一応、仕事中やしね」
仕事中と言いつつ、基本的に後輩と喋っているのは生徒会長の愛。
実に対称的であって良いコンビだ、相変わらず、と思う。
あのふたりは、傍から見ると『仕事をする里沙とサボる愛』という構図になっているが、実際は違う。
愛が見えないところで仕事をしていることを、絵里も里沙も知っている。
普段が大変だから、こういうところくらいでは休ませてあげたいという里沙の想いも、絵里は知っていた。
「おー、絵里ぃ〜」
そうこう考えていると、生徒会長が手を振ってこっちに近づいてきた。
里沙は聞きこみが終わったのか、外へ出ようとしたが、愛が真逆に歩き出したので慌てて追いかけてきた。
「お仕事お疲れ様です」
敬礼する絵里を見て、れいなも合わせて敬礼してみた。
それがおかしかったのか、愛は笑った。
「あれ、確かこの前…」
「あ、推薦受験の田中さんだっけ?」
れいなは慌てて立ちあがり、ふたりに深く頭を下げた。
「田中れいなです。来年からお世話になります、よろしくお願いします」
―お、意外にも礼儀正しいじゃーん
「あはは、初めまして。生徒会長の高橋愛です」
「生徒会執行部の新垣里沙です」
挨拶が済んだ時、注文のアイスココアとオレンジジュースが届いた。
それを見た生徒会のふたりは、「じゃあ後で」と言って立ち去った。
相変わらず黄色い声援が飛んでいる。
- 159 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:19
- 「ふあ〜、緊張した」
ふたりが行ってしまったのを確認し、れいなはアイスココアに手を付けた。
「やっぱ先輩って緊張するっちゃ」
「だから私も先輩なんですけどー」
オレンジジュースを一口飲んだ。
スーパーで買った普通のオレンジジュースだろうが、果汁100%じゃないことが絵里は気に食わなかった。
「あのさ…」
「うん?」
さすがに出されたものを残すのは失礼だろうと思うが、どうも飲む気がしない。
これなられいなと同じものを頼めば良かったと、絵里は後悔した。
「名前、なんてゆーと?」
思わず口に含んだジュースを吹き出しそうになった。
え、いまさらですか?と聞き返したくなったが、そう言えばまだちゃんと話していなかったのだ。
絵里はティッシュで口の周りを拭き、ひとつ咳払いをした。
「えーっとぉ」
「なんでためると?」
「いや、改めて聞かれると照れるなあって思って」
なんだか自分で言うのも恥ずかしくなり、絵里は財布の中から学生証を取りだした。
学生証には、入学当初、つまり半年前に撮った写真が載ってあるが、そんなに恥ずかしくはない。
れいなはそれを見て、呟いた。
「亀井、絵里」
なんだか、体が痒くなった。
フルネームで呼ばれるなど、出席を取るときくらいである。
同性に、しかも後輩から呼ばれるなんて想像もしていなかったし、なんだか照れくさかった。
れいなから呼ばれると、なぜか、余計に、である。
「亀井絵里」
「うん」
「亀井絵里ね」
「もー、なんども言わないでっ」
絵里はれいなの手から学生証を奪い取る。
顔が赤くなっている気がするが、なぜだろうか。
「絵里」
急に名を呼ばれ、ドキッとする。
前を向くと、綺麗な瞳をした、れいながいる。
「えーりっ」
「な、なに?」
目を背けたくなる。耳まで赤くないか不安になる。
それなのになぜだろう、背けたいはずなのに、背けられない。
- 160 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:19
- 「メガネ外さんちゃね」
ニシシと笑いココアに手を伸ばすれいな。
絵里もそれにつられて自分のジュースを飲む。そんなに美味しくないはずなのに。
「メガネ外したらいーと思うっちゃけど」
「……余計なお世話です」
そう言えばこの間もそんなことを言われた気がする。そんなにメガネが嫌いなのだろうか。
絵里が冷たく言って下を向くと、れいなが弱ったような顔をした。
「ごめん、怒ったと?」
不安げに覗き込んできたその顔を、絵里は素直に可愛いと思った。
やっぱり、中学生だ、まだまだ。
「この前もそんなこと言われたしなー。傷つくぅ」
「あ、ご、ごめんっちゃ」
れいなは慌てて手を振った。
なにか言わなきゃと考えてオロオロするれいなは、やっぱり可愛かった。
「じゃ、奢ってくれる?」
「…後輩にたかると?」
「絵里傷ついたー」
「……奢らせて下さい」
れいなが折れると絵里は笑った。
嘘だよ、冗談。と心の中で呟いて、残っていたジュースを飲み干す。
相変わらずそんなに美味しくない。だけど、どこか甘酸っぱかった。
「なんか、見たいとこある?」
「ふえ?」
急に聞かれて少しだけ間の抜けた顔をしたれいな。
まったく何処まで子どもなんだかと苦笑しながらも、席を立った。
「案内、するよ」
絵里がそういうと、れいなも嬉しそうに立ち上がった。
先ほどまでの暗かった表情が嘘のようである。
今日はやっぱり、いつも以上に楽しめそう。絵里はなんとなく、そんな気がした。
- 161 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:21
- 「…里沙ちゃんはええの?」
生徒会室に着くなり、愛はそう言った。
なんの話と聞き返す前に、言葉が繋がれる。
「さっきの、田中れいな」
里沙は先ほど会った『田中れいな』の顔を思い出す。
推薦入試受験生、福岡出身で背番号07。入試の際に最後のPKを蹴った人物だ。
愛の声に応えず、里沙は黙って書類を机に広げる。
改めて、何処のクラスでも問題がなかったことを確認し、今日のマニュアル表を確認する。
これから2時間後に再び校内警備とクラス点検のシフトが入っているがそれまでは時間があった。
「……見てるだけで、ええんか?」
その声に、一瞬、書類をめくる手が止まった。
動揺しているのが自分でも分かる。なにか言いたかったが、なにも言えなくなる。
震えた、気がした。
自分の中にあるなにかが、その声に。
先ほど教室で見た光景。
傍から見れば、他校生と一緒に喋っている絵里という構図ではあるが、里沙にはそう感じられなかった。
一瞬だけ分かった、あの空気。
絵里の持つ柔らかい空気が、他校生、田中れいなにぴったり合っていた。
ふたりが初対面であるのかどうかなど問題ではなかった。
甘く優しい空気が、あの場所には流れていた。その場所に、自分が居てはいけないと思った。
- 162 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:22
- 「……羨ましいよ、あの子が」
悔しいくらいに、美しかった。あの場所が、あの空気が。
この感情を嫉妬と呼ぶのなら、里沙はそれを始めて知った。
いままでこんなにも、絵里の隣にいる人物を羨ましく思ったことはなかった。
そしてそれが、愛に黙っていた里沙の気持ちの答えでもあった。
「なんで、言わんのや」
「…困らせたく、ないから」
分かっている。絵里の『好き』と自分の『好き』が、少しだけ違うことを。
そして、その『好き』が重なることもないことを。
絵里は優しいから、きっと拒むことはできない。
拒みはしないが、受け止めることもできない気がした。
この気持ちが知られてしまうのは構わないが、いまの絵里との関係を壊したくなかった。
ただ里沙は、絵里の隣にいたかった。それが叶わなくなるのなら、この気持ちは蓋をしたままで良い。
- 163 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:23
- 「ツラく、ないんか?」
愛の言葉は、優しい。
自分が言ってほしい言葉をくれる。心配されているのも、分かる。
だけど、甘えちゃいけない気がした。この優しさに付け込んではいけないと里沙は思った。
これ以上、この人に負担をかけたくなかった。
「大丈夫だよ」
これ以上この場にいたら泣いてしまいそうだった。
里沙は書類をまとめ、外に出ていこうとした。
その瞬間、愛は咄嗟に手を伸ばし、里沙の手首を掴んだ。
そのままぐいと引っ張り、抱き寄せた。
里沙は愛の胸の中におさまり、ふたりの距離はゼロになった。
―見ているのがツラいのは、あーしのほうや
里沙の気持ちがまっすぐ絵里に向かっているのは分かっていた。
愛が里沙を想うのと同じくらいの強さで、里沙は絵里のことを想っていた。
だから発破をかけた。
里沙の想いをぶつけてくれと。
だがそれは、結局は自分自身のためだったのかもしれない。
里沙を見ているのがツラくて、里沙の気持ちを知った上でのこの想いを止める術を知らなくて。
こういう展開になることを望んでいたのかもしれないとうんざりする。
何処まで自分は汚いのだろう。
絵里が他の人と仲良くしている姿を見せつけて、無理やり発破をかけて、追い込んで、最終的に自分の腕の中で抱きしめている。
―最低にも、程があるよな
そうは思っても、その腕を解くことはしなかった。
たとえ自分が最低でも、矛盾した気持ちを抱えていたとしても、里沙への想いは本物だった。
里沙をシアワセにしてあげたい、彼女の笑顔が見たい。変わらない行動指針が確かにそこにあった。
- 164 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:23
- 愛が口を開こうとした時、腕の中にいる里沙が泣いていることに気づいた。
肩が震え、時々ではあるが嗚咽が聞こえる。
愛はその姿を見て、いままで以上に、里沙を強く抱きしめた。
彼女の華奢な体が折れてしまわないかとドキドキした。それくらい、里沙の体は小さかった。
生徒会執行部として誰よりも遅くまで残って仕事をし、何事もなかったかのように演劇の稽古をこなし、夏休みは時間を見つけては絵里の見舞いに行っていた。
いつもいつも思っていた、一体どこにそんな力があるのだろうかと。
里沙がしっかりしていることはみんなが知っている。だから、図らずとも里沙に仕事を任せてしまう。
そして里沙は文句も言わずにそれをこなしていく。それが当り前であるかのように。
仕事ができる後輩を持てて、生徒会長としては嬉しい限りだった。
しかし、それはあくまでも『生徒会長』という立場上のことであり、『高橋愛』という個人としては違った。
誰よりも努力している彼女を支えたかった。無理をさせたくなかった。
お願いだから、本当に笑っていてほしかった。何処かで肩の力を抜いてほしかった。
願いは山のようにあった。叶えてあげたいものばかりだった。
いまできることは、里沙の隣にいることだけ。
この気持ちを伝えてしまっては負担になるから、黙って見守るだけ。
できれば、もっと頼ってほしいから、里沙の信頼を勝ち取れるくらいの大きな存在になりたい。
- 165 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:25
- 「里沙ちゃん…」
愛がそっと呟くと、里沙はゆっくりと顔を上げた。
少しだけ涙で濡れた瞳に、吸い込まれそうになる。
黒のパンツに白のワイシャツといういかにも男子生徒のような服装なのに、いまの里沙は、誰よりも美しいと愛は思った。
その唇に口付けたい欲望が、愛の中に生まれた。
だが、此処でその誘惑に負けてはいくらなんでも最低すぎると必死に自重する。
こういう時、なんて言ったらいいのだろう。
大したボキャブラリーもなく、恋愛経験も豊富ではない愛にとって、最大の難問であった。
泣いている女の子を前にして気の利いたことのひとつも言えない自分はどうなのだろうと思うが、いまさら悔やんでも仕方なかった。
「ごめんな、泣かせてばっかで」
結局出てきたのは、謝罪の言葉。
そんなことしか言えないのが嫌でたまらなかったが、もうどうしようもない。
愛が心の中で悶々としていると、里沙は一瞬だけ顔を落とし、涙を拭いた。
「愛ちゃんは優しすぎるんだよ、いっつも」
里沙はするりと腕から抜け出し、愛の前に立った。
「ありがとね」
もう濡れていない瞳で、愛を見つめる里沙。
その笑顔は先ほどまでとは打って変わってキラキラ輝いていて、愛は思わずドキッとした。
心から笑っているとはいえないものの、作り笑顔でないことは確かだった。
里沙の笑顔は、やっぱり可愛かったのだ。高鳴る鼓動がうるさすぎて仕方ない。
ああ、こんなにも好きなのかと、改めて思い知らされた。
- 166 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:26
-
「里沙ちゃん」
「うん?」
「シンデレラを見つけてや」
愛の言葉に、里沙はきょとんとした。
「え、舞台の話?」
愛はニカッと笑って続けた。
「王子様が見つけてくれんの、待ってるがし」
あなたの王子になりたかった。
そんな度量はまだないことくらい分かっている。
だから、そんな大役にはなれないけど。
シンデレラという役は貰えた。
たった一度のチャンスから、王子様に見つけてもらえたお姫様。
きっとシンデレラは、結婚した後も、王子様にふさわしい相手になる。
王子様の話を聞いてあげられるくらいの信頼はある。
だから、見つけてほしい。
自分が必ず、あなたの信頼できる相手になるから。
我ながらくさいセリフだと愛は思った。
妙なところで演劇部の癖がついてしまったなと苦笑した。
里沙はというと、そんな愛の姿を見ながら、優しく微笑んだ。
「見つけてあげるよ、必ず」
そう言って、胸に手をあて、一礼をした。
何処まで分かって言っているのか、いや分かってないのだろうなと思いながら、それでも愛は嬉しかった。
いまはまだ、重ならなくても、いつか必ず重ねたい想いがあった。
もしそれが叶わなかったとしても、とにかく里沙にシアワセになってほしかった。
「嬉しいわ、王子様」
冗談交じりに言ったセリフを、愛は何度も心で繰り返した。
- 167 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:29
- 案内すると豪語したものの、何処へ行くか、まったく考えていなかった。
とりあえず生徒会執行部の作成したパンフレットを眺めてみる。
今年のクラス企画は、喫茶店やお化け屋敷などといった定番のものが多い。
あとは文化系の部活動の企画だが、サッカー大好きっ子のれいなが喜ぶだろうか。
絵里はパンフレットを眺めながら考え込んでしまった。
「そんな悩まんでもいーとよ?」
優しく微笑むれいなを見て、あなたのせいで悩んでいますとは言えない。
悩まなくて良いと言っているのだから、ここはテキトーに入っても問題ない。うん、そう解釈することにしよう。
「じゃ、絵里が気になってるところ、行っても良い?」
「いいっちゃよー」
その返事に絵里も笑った。
絵里とれいなはふたりで足並みをそろえて、渡り廊下へと出ていく。
その途中、れいなは「そういえば」と声を出した。
「絵里は部活やっとらんと?」
未だに慣れないれいなの方言。
いったいどこの訛りなのか、絵里の小さな脳みそでは理解できていない。
「うん、あんまり興味なくて」
嘘、だった。
興味がないわけじゃない。やってみたいのもはたくさんあった。
陸上部で短距離も走ってみたいし、水泳部で泳いだりもしてみたい。
テニス部で日焼けしても良いからラケットを振りたいし、れいなのやっているサッカーもしてみたい。
それができないのは、ひとえに自分の抱える『不具合』のせいだった。だが、ここでそれを話すのはあまりにも野暮だろうと思い、やめた。
- 168 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:29
- 「中学ン時もやっとらんかったと?」
そう聞かれて、絵里の心臓が急に高鳴った。
大丈夫、発作ではない。そして先ほどまでれいなに感じていた鼓動の高鳴りでもない。
「少しだけ、やってたよ」
「少しだけ?辞めたと?」
心臓が締め付けられる気がした。
大丈夫、此処は中学じゃない。
「ちょっと…いろいろあって」
ひとつ息を吐く。
向き合わなきゃいけないのに、まだ怖い。
あの時の記憶がどうしても浮かんで、消えない。
「とりあえず、ここー」
一度話をそらそうと、努めて明るく絵里は言った。
急に足を止めた絵里に、れいなも慌てて止まる。
絵里の示す先には『茶道部部室』と書かれたプレート。
そこは文化祭の喧騒から少し離れた場所に在るような気がした。
「れーなって、こういうの、嫌い?」
「ん…分からんちゃ。うちの学校、茶道部ないし」
そういうれいなの目は、若干泳いでいる。嘘がつくのがどうも下手のようだ。
いまの言葉が嘘かどうかは定かではないが、興味があるかと聞かれたら彼女は即座に首を振りそうだ。
絵里は半ば強引にその腕を引っ張って中に連れていった。
- 169 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:32
- れいなは、部室に入ってわずか3分足らずで後悔した。
茶道部ということで、当然室内は正座が基本だが、たった3分でその足が痺れた。
せっかく絵里が誘ってくれたのだからと思うのだが、どうも痺れに耐え切れる自信がない。
横に座っているいる絵里はと言えば、少し先の一点を見つめ、静かに正座をしている。
この人に痺れという感覚はないのだろうかとれいなは思った。
茶道部の部員は全員、浴衣を着ていた。
和服を着ると女性は何割増しで美人になるとれいなは聞いたことがあるが、あれは本当のようだ。
大人っぽい白や青、可愛らしいピンクや水色、オレンジなどたくさんの色があり目移りしてしまう。
静かにお茶を立てる部員は、可愛らしくてカッコよかった。
そうして部員に見とれているうちに、れいなの前にお茶が出される。
―猫舌やのに、飲めるかいな…
そもそも作法も知らないのに大丈夫かとハラハラし、れいなはチラリと横を見た。
- 170 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:33
- 思わず、ドキッとした。
その所作が、美しかった。
まっすぐに伸びた絵里の指が、茶道部の立てた茶碗に触れる。
そして、茶碗を左手の平に乗せ、右手で時計まわりに二回ほど回した。
ゆっくりと口元へ持って行き、そのまま茶碗に口付けた。
柔らかそうな絵里の唇が茶碗に触れたその様子は、『口付けた』という表現が合っている気がした。
抹茶を飲みきり、飲み口を拭く。
そして先ほどとは逆に、反時計回りに二回まわした。
最後にゆっくりと茶碗を見て、再度、時計まわりに二回まわした。
茶道部の部員がなにも言わずとも、絵里はその動作を行った。
あまりにも自然で、あまりにも美しいその姿に、れいなの鼓動は高まった。
猫舌のことも、足の痺れも、忘れていた。
「れーな、ちゃんと飲める?」
れいなが話しかけられていることに気づいたのは、その直後だった。
- 171 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:35
-
「絵里はさ、茶道部やったん?」
突き抜けるような青空の下で、れいなは聞いた。
今日の天気は晴れ、気温も20度前後と穏やかな1日だった。
『秋晴れ』というのはこの日のようなことを言うのだろうなとれいなは思った。
「あれ、意外?」
ふたりは茶道室を出た後、特に行くあてもなく、校舎内を一回りした。
そして、適当に入った教室でたこ焼きを1パック買い、そのまま屋上へと出た。
そこは意外にも誰もおらず、絵里とれいなの貸し切り状態であった。
「んー…似合ってるかも」
たこ焼きをひとつ頬張りながら、れいなは返した。
少し時間が経っているからか、そこまで熱くはない。猫舌のれいなにとっては好都合だった。
「それ本気で思ってるぅ?」
絵里もたこ焼きを頬張った。
そんな姿はまるで子どもで、先ほど茶道室で見た絵里とは別人のようだった。
「本気で思っとらん」なんて言おうものなら絵里が烈火のごとく怒りそうだったので、止めることにした。
そういえば、とれいなは思う。
茶道室に行くまでに話した絵里の部活の話。
―『少しだけ、やってたよ』
―『ちょっと…いろいろあって』
歯切れ悪く言ったそのセリフが引っかかった。
先ほどのお茶室でのあの作法を見る限り、茶道部にいたことは間違いない。そして、先ほどの話を聞く限り、絵里がなんらかの理由で退部したことも間違いない。
だが、茶道部を辞めるにあたって、そこまで歯切れが悪くなる理由があるのだろうか。
高校の文化祭で茶道室に入ってお茶をもらうくらいであるのだから、絵里は茶道が嫌いというわけではないようだ。
茶道自体が嫌いでもないのに退部し、それを話すことを拒む理由とはなんだろうか。
- 172 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:36
- ―なんを考えよっと、れな。
そこまで考えて、れいなは頭を振った。
1ヶ月前に初めて会って、今日で2回目の女の子。自分よりひとつだけ年上のこの人に、自分はなにを考えているのだろう。
たまたま会っただけの人なのに、なにを本気に…
―“本気”に?
「れーな、れーなっ」
絵里の声を聞き、れいなは現実に戻された。
絵里が顔を膨らませてこちらを見ている。その様子を見ると、どうも長い間、思考の世界に入っていたようだ。
長考というのは、れいなの悪い癖だった。
「聞いてるの?」
「あ、ごめん、聞いてなかったと」
正直にそう言うと、絵里は肩を落とした。そのわざとらしさは、嫌ではなかった。
- 173 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:37
- 「れーな、演劇には興味ある?」
演劇?と思っていると、絵里は生徒会作成のパンフレットを渡してきた。
その真ん中のページには、何処かで見たことのあるふたりが映っている。
「あれ、これって…」
「さっき会ったガキさんと愛ちゃん、覚えてる?」
そう、先ほど絵里のクラスの喫茶店で会った、里沙と愛のふたりであった。
―演劇部主催『シンデレラtheミュージカル』その舞台裏に迫る!
大きく書かれた見出しの下には、主演のふたりの写真とプロフィールが載っている。
シンデレラ役『高橋愛』生徒会執行部会長。
王子役『新垣里沙』生徒会執行部。
いったいどこのインタビュー雑誌ですかと聞きたくなるほどの気合いの入り具合だった。
「あのふたりが出るっちゃね」
「そー。絵里はこれ見たいんだけど、れーなはどうする?」
正直、興味があるかと聞かれたら微妙なラインであった。
確かに茶道よりは幾分か楽しみではあるが、ミュージカルは見たことはないし、なにせ題材がシンデレラである。
期待できる気がしなかった。
「あ、つまらなそうって思ったでしょ?」
心を読まれた気がしてギクッとなる。
此処で嘘を重ねるのが吉か、それとも正直に告白するか迷ったが、その迷いの内に絵里は答える。
「愛ちゃんとガキさんを甘く見ない方がい〜よ〜。あのふたりの演技力はガチだから」
絵里のなにかを企んでそうな言い方に、れいなは眉をひそめる。
たかが文化祭の劇に、演技力のガチもなにもあるのだろうか。
そもそもこのインタビューによると、ふたりに演劇経験はないようだし、とても絵里のいう『ガチ』には程遠い気がした。
だが、そう言われて見たくなってくるのが人間の性である。
れいなは正直に、興味はなかったっちゃけど、見てみたいっちゃと答えた。
すると絵里は満足そうに笑った。
なんだか嵌められた気もするけど、悪くはないなとれいなは思った。
- 174 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:39
- 体育館の舞台裏は慌ただしかった。
演劇部の部員らが上手と下手を行ったり来たりしている。
裁縫係は衣装の最終チェックをし、照明係と音響係は台本を見ながら打ち合わせをしていた。
里沙はというと、衣装を着て、控室の鏡と睨めっこをしている。
王子用のメイクは、普段自分がする化粧とは少し違う。目元をはっきりさせ、眉毛は凛々しく、それでいて派手すぎない。
メイク係の部員のこだわりのおかげで、里沙はすっかり、架空の国の王子になっていた。
大きく、ひとつ、深呼吸。
目を閉じると、周りの音が遮断された。喧騒がなくなり、里沙だけの世界になる。
聞こえるのは、自分の心音だけ。思いのほかに高鳴っている。こういうのを、緊張と呼ぶらしい。
ひとつ息を吐いて目を開ける。気づくと横には、シンデレラ役の愛が座っていた。
母を早くに亡くし、父の再婚相手に疎ましく思われ、義理の姉妹にいじめられる役柄、衣装はいたって地味。ところどころに汚れが付き、綻びもできている。
だが、そんな衣装を着ていても、彼女にはどこか気品があった。
たとえ彼女が立派なドレスを着ていなかったとしても、王子はやはり恋をしたのだろうと里沙は思った。
それが、シンデレラの魅力なのか、それとも演じる高橋愛の魅力なのか、里沙には分からなかった。
- 175 名前:Only you 投稿日:2011/09/11(日) 04:40
- 「まもなく本番です!準備してください!」
控室が一気にざわめいた。いよいよ幕が上がるようだ。
「里沙ちゃん」
愛はその声と同時に立ちあがり、里沙もそれに続く。
今回、王子役に選ばれた里沙は、高めのブーツをはき、いくつか身長を稼いでいた。
本来ならば愛の方が身長は高いのだが、今は里沙が愛を見下ろす形になっている。
なんだか不思議な感覚だった。
「ほい」
そう言って、愛は右手を差しだしてきた。
里沙がなんのことか分からず戸惑っていると、愛は「おまじないみたいなもん」と呟く。
とりあえずその右手に自分のを重ねると、さらに上から愛の左手が重なった。
「がんばっていきま〜っしょい」
愛は小さくそう言って、ニコッと笑った。ふたりだけの小さな円陣だった。
これが愛なりの気合の入れ方なのだろうかと呆気にとられた。
だが決して、悪い気はしなかった。不思議とその掛け声で、里沙にも気合が入った。
舞台袖にうつり、幕が上がるのをふたりは待った。
もう此処まで来たら、やるしかない。いままでの2ヶ月間の練習の成果を発揮する場だった。
体育館にアナウンスが入り、ざわついていた客席が静まり返る。
静寂の中で自分の心臓はやっぱりうるさく感じた。
里沙は何度も「だいじょうぶ」と呟いた。
「ま、気負いせずがんばろーや」
そう言って手を握り笑うシンデレラが、王子にとって最高の薬であった。
劇場独特のベルが鳴り、幕が上がった。大きな拍手が聞こえる。
愛は里沙の手を放し、舞台へと歩いて行った。
- 176 名前:雪月花 投稿日:2011/09/11(日) 04:43
- ひとまず此処までになります。
今回はやたら長文が多いかも。。。
自分で書きながら、若いって良いなあと思います。
私の高校時代も、こんなに青くて若かったなあとしみじみですww
話はまだまだ続きます。暖かく見守ってください。
- 177 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/12(月) 01:25
- 一気に読んでしまった…
かなり引き込まれてる自分がいます
今夜の夢に出るかもw
- 178 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/12(月) 15:09
- 単純なれなえりだけじゃなく、愛ちゃんやガキさんの話も丁寧に書いてて良いね。
後は、まだ出てないさゆに期待w
- 179 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/14(水) 02:13
- れなえり好きとしては非常にこのあとの展開が気になります
ドキドキしながら読んでます
楽しいです
- 180 名前:雪月花 投稿日:2011/09/15(木) 04:50
- またこんな遅い時間帯です、雪月花です。
>>177 名無飼育さんサマ
夢に出てきたら、かなり厄介になりそうな気もしますがww
もし夢にも出てきたら、もっと楽に生きろってアドバイスしてやって下さいw
またコメントなど残して下さると嬉しいです!
>>178 名無飼育さんサマ
最初はれいなと絵里だけに焦点絞って書いていたんですが、
ふたりの周りの世界もちゃんと書きたいなと思って愛ちゃんやガキさんにも来てもらいました。
そして登場人物だけやたら多くなって大変なことになってますが…ww
从*・ 。.・)< さゆの出番はまだなの?
……ごめんよ、もうちょっと後なの…
>>179 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
実は自分でも、このふたりがどうなるか楽しみながら書いていますw
ふたりの成長は今後も見守っていきたいところです。
では更新します。
- 181 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 04:52
- れいなは期待などしていなかった。
誘ってくれた絵里には申し訳ないが、正直、つまらないと思っていた。
パンフレットに特集を組まれていた生徒会のふたりの演技力は知らないが、所詮は生徒会執行部。
演劇部でもなく、まして演劇経験のほとんどないふたりが主役という時点で結果は目に見えていた。
そして題材は『シンデレラ』である。
いじめられっこのシンデレラが、魔法使いの力で舞踏会に行き、王子様と結婚して幸せになるという童話。
この単純でかつ他力本願なストーリーがれいなは苦手だった。
サッカーは団体競技であり、自分の力だけでは勝つことはできない。自分だけでなく、チームメイトの力が必要なことをれいなは知っている。
だが、シンデレラにいたっては、自分の力を全く発揮していない気がした。他人の力をあてにして幸せになるというその発想が、れいなは嫌いだった。
ミュージカルというものをれいなは見たことはないが、シンデレラとミュージカルが融合しても上手くいく気がしなかった。
とにかく、れいなはこの舞台に期待していなかった。
舞台中に退席することがマナー違反であることは知っていたので、最悪の場合は寝ようと考えていた。
だが、舞台の幕が上がり、演技が始まった途端、それまでの考えが一気に覆された。
童話、『シンデレラ』を基調としたストーリー展開。
その中に、シンデレラと魔法使いの関係、いじわるな義理の姉妹とのコミカルな演技、そして王子の孤独、王子の両親である国王と王妃の苦悩や生き様が描かれている。
特に圧巻なのが、主役のふたり、生徒会執行部の愛と里沙である。演劇経験がないという話が嘘のような演技であった。
ひとつひとつのセリフ回し、何気ない動作を取っても、本職の演劇部に負けていない。
そして、パンフレットにも少し載っていたが、彼女たちがオーディションで合格した最大の要因はその『歌唱力』であった。
中学のときに合唱部に入っていた愛と、天性の才を持つ里沙。ふたりの歌は喧嘩することなく、しっかりと混ざり合い、溶けていく。
ふたりの織り成す世界観に、れいなは完全に引き込まれていた。
先ほどまで期待のカケラもなかったのに、いまでは次はどう展開するのかワクワクしながら観ている。
このときのれいなは、隣に絵里がいることも忘れて演技に集中していた。
- 182 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 04:54
- 絵里はというと、そんなれいなの様子に気づいているのかご満悦のようだ。
だから言ったじゃーんという上から目線の言葉をかけてやろうかとも思ったが、さすがにやめておいた。
それにしても凄いと絵里は改めて思った。
一度だけ、ふたりの稽古の様子を覗きに行ったことがあった。
ふたりの演技力、歌唱力の高さは凄いと感じたが、いまはそれ以上のものを絵里は感じていた。
常に成長し、上へと走っていく姿が、絵里の瞳に映っていた。
とりわけ絵里は、里沙の演じる王子役に共感していた。
留学から自国に帰ってくるだけでいろいろと騒がれ、あれよあれよという間に決まった、お妃探しのパーティー。
自分の結婚相手すらも自らの意思で選べないかもしれないという諦め。
王子という立場は、国益を優先する以上、彼にとっては籠の中の鳥と同じものなのかもしれない。
それがどこかしら、絵里と重なった。
- 183 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 04:55
- 生まれながらにして背負った宿命。
自らの意思でなく、絵里は不具合を抱え、病院と学校を行ったり来たりしている。
多少の不都合はありながらも、学校で授業を受け、友だちとくだらない話をし、たったいま、文化祭に参加している。
それは、傍から見れば青春を謳歌している女子高生にすぎない。
だが、いまはそうであったとしても、今後どうなるかは保証できない。
この体が何処までもってくれるかなど、分からない。
分かっているのは、絵里の心臓は、生きたいと脈打っているということだけ。
ただ、どちらにしても、絵里は常に管理された、籠の中の鳥だった。
- 184 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 04:55
- 物語の中で王子であるクリスは、必死に自分の運命に抗おうとしていた。
両親である国王や王妃への想いに応えようとしつつも、自分の人生を掴み取ろうとしていた。
戸惑いながらも、お妃探しのパーティーに参加し、出席者たちと踊るクリス。
だが、彼女たちが見ているのはクリスそのものではなく、その後ろに在る“国”や“地位”、そして“財産”であった。
だれひとりとして、クリスの内面を見ようとはしなかった。
こんなパーティーに参加している時点で、そんなものを求める方が滑稽だということも王子は分かっていた。
此処に自分の求めている人は来ない、だからこんな子ども騙しのふざけたパーティーには出たくなかった。
そう思いながらも、クリスは参加者と踊り、適当な会話をこなした。
華やかな舞踏会の中で、彼はひとり暗かった。
抗いたいのに、どうしてもあと一歩が踏み出せない。
このまま終わっていいはずないのにどうすれば良いのかと悩み、このパーティーの主役でありながら、いったん退席しようかと思ったその時だった。
舞踏会のホールに続く階段のその上に、その人はいた。
白いドレスに身を包み、気品ある佇まいで見るものすべてを魅了するその圧倒的な存在感。
クリスは参加者たちをかき分け、人目も憚らずその人、すなわちシンデレラに近づいた。
ふたりはしばしの間、黙って見つめ合い、クリスはシンデレラに手を差し伸べた。
なにも言わなかった。
この瞬間に言葉はいらなかった。
シンデレラはクリスの手を取り、ふたりでゆっくりと階段を降りて行った。
ふたりはホールの中央へ移動し、改めて踊り始めた。
- 185 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 04:56
- 「バリすごか…」
暗闇の中、ぼそりとれいなが呟いた。
その瞳はキラキラと輝き、あのふたりのつくる世界にのめり込んでいた。
絵里は、そんな子どものような表情を見せるれいなに苦笑しながらも、舞台を見つめた。
王子は自らの手で、人生を切り拓こうとしている。
たとえこの先、12時の鐘の音とともにシンデレラと引き裂かれようとも。
国中を上げてシンデレラを探すも、一時は見つからず途方に暮れようとも。
それでもクリスは、信じていた。
自らの気持ちを、そしてこの時に感じた想いを。
私にそんな力があるだろうかと絵里は思った。
籠の中の鳥は、籠の中で羽ばたいても意味はない。
籠のケージが開くチャンスがあれば、それを逃さずに外に出るしかない。
そしてそこで、思いっきり翼を広げて飛び立つしかない。
その勇気が、自分にはあるだろうか。
たとえば、絵里の隣に座るれいな。
いまはこんな幼い表情で舞台を見つめてはいるが、彼女は自分の夢を求めて此処までやって来た。
では、自分にそんな度胸はある?
絵里はメガネをいったん外し、瞳を抑えた。
このまま長考に入るとキリがない。一度思考を止めよう。
絵里は再びメガネをかけ直し、舞台に集中した。
その時、12時の鐘が鳴り、シンデレラは走りだした。
クリスは必死に止めようとするが、その腕の中から温もりはするりと抜け落ちた。
そこに残ったのは、ただひとつの、ガラスの靴のみであった。
- 186 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 04:57
-
「『待って!』」
クリスは思わず叫んだ。動きを止めた少女の背中に、クリスは言葉を投げかけた。
「『名前だけでも、教えてください』」
「『つまらない名前ですの。気に入らないと思います』」
いまここで、彼女を返してはいけない。直観的に、クリスはそう思った。
そのとき、クリスの頭の中で、バラバラだったピースがひとつになろうとしている。
それぞれのカケラが、なにかひとつの形を成そうとしていた。
「『誰かあなたに、この靴を試しましたか?』」
少女はクリスの持つガラスの靴を見て、一瞬何か言いかけるがすぐに首を振る。
その様子を見たクリスは、すぐに跪いた。
「『ではどうぞ、試してみてください』」
少女はゆっくりと、そのガラスの靴に足を乗せる。
真の持ち主を見つけた靴は、何の躊躇いもなくするりと少女の足を受け入れた。
「『やっと…やっと見つけた!』」
クリスはシンデレラをその腕に抱きしめた。
華奢なその体を壊さぬよう、それでも、ようやく見つけた温もりを手放さぬように強く、抱きしめた。
- 187 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 04:59
- 幕が下りた瞬間、客席は大きく沸いた。
スタンディングオーベーションとまではいかなかったが、拍手が鳴りやまなかった。
絵里とれいなも夢中になって手を叩いた。いまはこうすることしか知らない。そうすることでしか、この劇への賛辞を送ることができない。
鳴りやまない拍手の中、舞台の幕がもう一度あがり、今回の『シンデレラtheミュージカル』に出演した役者たちが勢ぞろいした。
そこにはもちろん、主役の愛と里沙がいる。そのふたりの姿が確認された途端、客席はよりいっそう沸いた。
出演者たちは深々と一礼をすると、そのまま舞台袖へと消えていった。
それを待っていたかのように、まだ薄暗い中、生徒たちは走って行った。
「え…なん?」
その様子にれいなは呆気に取られた。
絵里は、彼女たちの行動がなんとなく読めたが、自分も同じ行動を取ろうとは思わなかった。
「愛ちゃんとガキさんに会いに行くんじゃない?」
その言葉を聞き、れいなは納得したようだ。
そういえば誰もが小さな花束や紙袋を持っている。何人かはカメラも持参しているようだし、控室にでも行って撮影するつもりだろうか。
「だけん、あのふたりって生徒会やろ?この後になんか仕事とかあるっちゃないと?」
お、鋭いですねぇ田中さん。
そうなんですよ、あのふたりはこれから文化祭のフィナーレを飾る重大なお仕事があるんですよ。
裏方の仕事だからって手は抜きませんよぉ。
だから、衣装をさっさと脱いで、そのまま花火を上げる準備に行かなきゃいけないのに…あの様子じゃ捕まりそうですよね。
愛ちゃんは優しいからイチイチそういう子たちの相手をしてあげそうだし、
なんだかんだでガキさんも無下に扱わないで説得しそうだから、フィナーレに間に合うかは不安ですよ絵里。
「…だいじょーぶだよ、たぶん」
しかし、あのふたりは仕事に支障が出るのを嫌う。
自分に任されたことにはとことんこだわり、常に高みを目指す人物だ。
そんな人たちが、文化祭の最後を飾る仕事に遅れるわけがない。
そうは言うものの、あの人数のファンを相手にするのは大変だろうなと絵里は推測する。
- 188 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:00
- 「れーなは、フィナーレどうする?」
会場の外に出ると、日はすっかり暮れていた。秋のこの時間帯は特に涼しい。
絵里に聞かれたれいなは、うーんと腕を組んで考えだした。
フォークダンスはどちらでも良いが、少しだけ季節外れの花火は見てみたい。
だが、昼間の状況から察するに、また人に誘われたりするのは必然と言える。それは正直なところ、面倒であった。
「絵里はどうすると?」
逆にれいなから話を振られて、絵里はふと思った。
当初の予定、というか、いつか交わした約束では、絵里は里沙とダンスを踊ることになっていた。
しかし、いまの状況で踊ることなどできるのだろうか。
今回の舞台を見たことで、里沙のファンは明らかに増えただろうし、そのファンが里沙をダンスに誘わないわけがない。
第一、あの約束もほぼ遊び程度の感覚だったし、里沙が本気で捉えているかは微妙なところであった。
「……とりあえず花火見よー」
絵里はれいなの手を取って歩き出した。
いまは考えても仕方ないことだ。
里沙があの日の約束をどう捉えているかは分からない。
だが、もし覚えていて、そして本気で思ってくれていたら、自分はそれに応える。
里沙がいつ来ても良いように、里沙の見える場所にいよう。
絵里はグラウンドが一望できる正面玄関に向かった。その近くにある小さな階段に絵里はれいなとふたりで座った。
幸い、劇も終わったばかりで、みんな愛や里沙に夢中になり、だれもここにはいない。
「…ここって花火とか見えやすいと?」
れいながもっともな質問をぶつけてきたので、絵里は堂々と答えた。
「わかんない」
「はぁ?」
「だぁーいじょーぶ。絵里ちゃんの勘は当たりますから」
れいなはわざとらしく大きな溜息を吐く。
急に手を握られて訳も分からぬ間に連れて来られた割に、さほど怒っている様子ではない。
- 189 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:01
- しかし、そんなれいなに対し、絵里は申し訳なくなった。
この場所を選んだのは、単に此処なら里沙が見つけやすいだろうからという理由であった。
花火が見えやすいかどうかなどは考えていない。
自分かられいなを誘っておきながら、里沙が来たら、れいなを置いてホイホイと踊りに行くのだろうか。
そう考えると、絵里は憂鬱になる。
振り回すどころか、ただの自分勝手な人間でしかない気がした。
- 190 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:01
- いつも、こうなる。
後先考えずに行動して、その行動がひと段落した途端に後悔する。
後悔するくらいなら動かない方がマシなのに。
そうは思えど、絵里にはこれ以外、どうすることもできなかった。
絵里はいつも、己の頭と心の中にいる蝙蝠と闘っていた。
幼いころに絵本で見た、常に良い顔をして機嫌を取ろうとする卑怯な蝙蝠。
それが絵里の中に巣食っていた。
自分に良くしてくれる人間に対してだけ愛想を振りまいて優しくする卑怯者。
その場しのぎの態度を取り続け、真の友を失くした蝙蝠の姿が自分と重なった。
そして最終的に蝙蝠は、誰からも信頼されなくなり、ひとり暗い洞窟の中で羽を潜めて暮らしていた。
絵里はそう思いながらも、その蝙蝠を飼いならし続けている気がした。
嫌われたくないから。独りになりたくないから。
どこかに思い出される、あの中学生のときの記憶。
夕暮れの空。
人気のない体育館裏の倉庫。
数名に取り囲まれ、逃げ場は、ない。
もう、独りになりたくない。
差し伸ばされた手はなにがなんでも奪る。
そんな空しい気持ちが、絵里の心の中にあった。
それが嫌でたまらないのに、止めることができない。
そう思うとまた憂鬱で、自然とため息も多くなる気がした。
- 191 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:03
- 「絵里ぃ」
横から声がした。少しだけ甘えたような、切ないようなそんな声。
急に現実に引き戻されて、絵里はそちらを向く。右隣には、自分より少し小さめな女の子が座っている。
「絵里はいっつもそうやと?」
れいなの言わんとすことが掴めず、絵里は首をかしげる。
そんな様子を見て、れいなの瞳が少しだけ暗くなった。
「なんでいっつも、寂しそうに笑うと?」
そう言われた瞬間、絵里の心臓が高鳴った。
発作ではない、あの不思議な感覚がよみがえる。
―寂しそうに笑う? 絵里が?
れいなの言葉の意味を測りかねていた。
この発言の真意を探そうとするが何処にあるのだろう。
絵里はれいなの瞳をまっすぐに見つめるが、彼女はただ、まっすぐに見つめ返しただけだった。その輝きは変わっていない。
明るくて、それなのに何処か少しだけ暗い、不思議な瞳だった。
「絵里は、笑ってるよ?」
そう返した絵里に、れいなは首を振る。今日最初に会った時のような子どもっぽさはない。
いま、目の前にいる彼女は、自分よりも数段大人に見える。
もともと大人びた顔立ちのせいなのか、それともその仕草のせいなのか。
- 192 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:03
- 「寂しいっちゃろ?」
再び心臓が高鳴った。
れいなに全て見透かされている気がした。この貼りついた笑顔の奥にある、絵里の表情に。
あの日、自分が不必要とされている現実を里沙に告白した。
その告白は、里沙に事実を教えるというものだけではなく、自分自身に、再び言い聞かせていた。
『亀井絵里』という存在は、この学校に必要ないということを。
いじめられている人間は二度傷つくという。
一度目はいじめられていると自分で知るとき。
そして二度目は、その事実を誰かに話すときである。
誰かに話すということは、痛みを共有するという点では楽になれると捉えられがちだが、実際はそう簡単なものではない。
誰かに自分の痛みを話すことで、自分が痛みを感じているということを再認識させられる。
自分がいじめられているのだという事実を、もう一度自分で噛みしめることになるのである。
絵里の場合、里沙に告白をしたことによって、絵里自身が必要ないという事実を、再び突き付けられることになった。
あの長い告白は、絵里を楽にするどころか、絵里をさらに縛り付けるものになった。
なにに縛り付けるかは分からない。だが、絵里は自由にはならず、その息苦しさは変わらなかった。
結果的に、あの日から絵里の中の感情のスイッチが少し壊れた。
喜びや楽しみという感情のスイッチが入りっぱなしになり、哀しいというスイッチの入りが少し鈍った。
それどころか、何処にスイッチがあるか分からなくなった。
おかげで、顔は常に笑っているという状況が続いた。本物の笑顔を置き去りにして。
その変化に里沙は気づき、一瞬ではあるが、絵里を拒絶した。
絵里はそれを哀しいとは思わなかった。いや、哀しいと思うことができなかった。
自分の中にある感情のスイッチが、何処にあるか分からなかったから。
哀しい感情のスイッチを見失い、本当の笑顔を失い、建前の仮面をつけている絵里。
それを、れいなが見透かしている気がした。
絵里は一息おいて、れいなに問いかけた。
- 193 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:04
- 「…どーゆーこと?」
―『カメはテキトーなんだから』
絵里は、笑いながら里沙にこのようなことをよく言われる。
里沙の言葉を借りるなら、Pが3つでPPP、正式には『ぽけぽけぷぅ』だ。
この『ぽけぽけぷぅ』とはどういう意味かは全く分からない。
恐らく、天然でアホでテキトーということが言いたいのだろうが、その正確な定義はない。
いま、絵里の発した、「どーゆーこと?」という一見すれば普通な言葉も、聞く人からすれば相当『アホっぽく』聞こえるはずだ。
東京生まれのくせに微妙なイントネーション、少しだけ舌っ足らずな話し方、そして独特の甘い声。
本人が意図せずとも、絵里の発言は妙に間抜けに聞こえる。
この『アホっぽい』とか『間抜け』というのは、別段、絵里を卑下したり否定する意味ではない。
絵里をよく知る里沙の言葉を借りるなら、『そこがカメの長所だから』である。
絵里自身がこの言葉を肯定的に捉えているかは別として、里沙はよく、絵里を『アホ』だの『PPP』だのと言う。
絵里本人としては、自分が天然でアホでテキトーと思ったことはない。
そうは言えど、里沙に散々『天然』だの『アホ』だの『ポケッとしてる』と言われれば少なからず意識はする。
いま話しているれいなは自分のひとつ年下である。
そんな年下に、自分のアホさ加減がバレていないかと一瞬だけ冷や冷やした。
- 194 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:05
- そんな思惑とは別に、れいなは真剣な表情を絵里に見せる。
「…笑っとらん」
「は?」
前髪に見え隠れするれいなの大きな瞳は、夕陽が眩しいのか、少しだけ閉じられかけていた。
その目つきは、お世辞にも良いとは言えない。
だが、そんなれいなの表情は、綺麗だった。
最初に逢ったときとは全く違う。絵里はいま、自分が何の話をしているかも忘れて言える気がした。
れーなはとても綺麗だ、と。
- 195 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:06
- 「なんか…」
「…なんか?」
「なんっつーか……」
そこまで言って、れいなは下を向いた。
なにが言いたいのか、分からない。
肝心なことを言わずに口を閉ざすなど、どこのマンガの主人公だろうか。それともただのヘタレだろうか。
さすがに『ヘタレ』とは言わず、絵里はれいなの次の言葉を待った。
彼女はなにか返してくれる気がした。いま、絵里が気づかなくてはいけない大切なことを。
絵里が向き合うべき現実を、此処にいる少女が教えてくれるような気がした。
だが、れいなはなにも言わず、ただ黙って下を向いたままだった。
その手は震え、自分の制服のスカートを握っているだけであった。
それでも絵里はなにも言わない。
いま、此処でこの空気を壊してはいけない気がした。
黙って待つことも大切な気がした。
- 196 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:06
- 分かっている。
自分が微妙に壊れかけていることを。
感情のスイッチの『ON』と『OFF』が狂っていることを。
それを絵里は認めている。
だが、認めてはいるものの、そこからどう進んで良いかが分からない。
果たして、この感情の治し方などあるのだろうか。
たとえば、なにかのドラマを見て思いっきり泣くことができたら、この感情は元に戻るのだろうか。
そんなことは、たぶん、ない。
泣くことが可能かどうかは別として、この感情を治すには、自分が向き合う必要があると絵里は思っていた。
絵里がいまのいままで避けてきた過去と現在。
自分に都合の良い言い訳をつけて見えなくしてきた事実に向き合わなければ、越えられないと考えていた。
向き合う勇気が欲しかった。いまの絵里には、その踏み出す一歩がなかった。
思い出せば発作を起こし、過去と対峙しては吐き気を催すようなことになると分かっていた。
だけど、向き合う必要があると絵里は思っていた。
逃げることなど許されない。
自分の生きてきたこの人生で、避けて通っていい道など、なにひとつないのだから。
その道の灯りを、れいなが照らしてくれる気がした。
たったの、たったの二度だ。
そのわずか二回の出逢いで、絵里はれいなに確信していた。
この人は、自分にとってなんらかの道を教えてくれると。
彼女のことなど、なにひとつ分かっていないのに。
- 197 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:07
- れいなは顔を上げ、絵里と向き合った。
ゆっくりとなにかを発しようとしたその時だった。
自分の左手側の方から黄色い歓声が走って来た。
また邪魔されたとその方向をふたりが見ると、生徒会の愛と里沙がいた。
走ってくるその後ろには何人かの生徒がいる。まるでアイドルの追っかけのようだった。
「お、絵里とれいな、またの!」
「またね〜」
愛と里沙は走りながらこちらに一度だけ手を振り、そのまま止まらずに行った。
後ろからは相変わらず生徒が追いかけてくる。マラソンじゃあるまいしと絵里は苦笑した。
どうやらこれから、花火を打ち上げる準備をするようだ。時間的に見ても、当初の予定に間に合うかどうかはギリギリだった。
「人気やねー、ふたりとも…」
半ば呆気に取られながら、れいなは言った。
「いやぁ、昼間のれーなの人気も凄かったけどね」
「あんまり嬉しくないと。あーいうの見ると入学するの怖いっちゃん」
れいなの言葉に絵里が返し、そしてまたれいなが返した。
それから会話が少しだけ続いたが、結局、絵里が最も聞きたかった言葉は聞かれなかった。
れいなもその話題に関しては口を閉ざし、頑なに語ろうとはしなかった。
これ以上、絵里も追及できないと判断したのか、この件に関して、新たになにか聞こうとはしなかった。
- 198 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:08
- 絵里はじっとれいなを見た。
少し伸びた前髪、その奥に在る輝いた瞳、控えめな鼻、潤いのある唇。
単純に絵里は、綺麗だと思った。
「れーなの目って大きいよね」
「そうかいな。れなにはよー分からんと」
そう言いながらも、顔は少しだけ紅くなっている。どうやら照れているようだ。
こんな言葉はかけ慣れていないのだろうかと絵里は思う。
「いっつも、怖いって言われよったから」
「そーなの?」
れいなは生まれつき、目つきが悪い。
普通にしているつもりでも睨んでいるように見えるらしい。
そのせいで、因縁をつけられ、喧嘩沙汰に発展したことも少なくない。
殴り合いにまではならないようにしているが、中学の段階でこの状況じゃ、これから先も思いやられる。
れいなはそんな因縁にうんざりしていたが、こればっかりはどうしようもない。
所詮、仕方ないで済ませるしかないのだ。いままでも、これから先も。この目のせいで。と諦めている。
- 199 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:09
- 「絵里は、れーなの目、好きだよ」
そんなときだった。急に声が降ってきた。
れいなの予想していなかった声が、急に掛けられた。
「れーなの大きい目、好きだよ」
隣を向くと、なんの迷いもなく笑顔を向ける絵里がいた。
その瞳は何処までも澄んでいる。いまのその言葉に、嘘など一欠片もなかった。
いまのいままで、この目を何度恨んだことだろう。
この目さえなければ、因縁をつけられたり、髪を引っ張られたり、果ては怪我をさせられたりすることもなかった。
すべては、目つきの悪さのせいだった。
だが、いま、目の前にいる女の子は、その目を好きだと言ってくれた。聞き間違いじゃない限り。
信じられない。
だけど
信じたい。
なにか、れいなが喉の奥から絞りだそうとしたそのとき、ひとつの大きな花が夜空に咲いた。
後から遅れて、静寂を切り裂く音が追って来た。
「おぉ!」
絵里とれいなはほぼ同時に声を発し、その花を見た。
季節外れの花火が打ちあがり、生徒会がアナウンスを始め、音楽が鳴り始めた。
先ほど発しようとした言葉は、音を得ることなく、夜の闇に混ざって解けた。
れいなはそのまま発する機会を逃し、黙って絵里の横で花火を見つめた。
大輪の花は、怖いくらいに美しかった。
光と音が、れいなと絵里の視覚と聴覚を同時に刺激する。
なにがあったわけでもなく、ただ、この時間が心地良いとれいなは感じた。
文化祭のフィナーレが始まった。
- 200 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:09
- ---
- 201 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:14
- 絵里が目を開けると、隣にはれいながいなかった。
「おはよーカメちゃん」
代わりにそこにいたのは、担任の安倍であった。
絵里は混乱し、思わず前髪を抑えた。こういう時でも髪をセットし直すのは女子高生の癖だろうか。
そのとき、肩からどこかで見たことのあるパーカーがずり落ちてきた。
「え…なんで……え?」
「あれ、もしかしてカメちゃん…覚えてないの?」
絵里は怪訝な顔をして安倍を見る。いったいなにがあったのか、絵里は全く覚えていない。
そんな様子を見て、安倍は苦笑しながら話し始めた。
- 202 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:16
- 「おー、でかい!」
次々に夜空に咲く花を見て、れいなは子どものようにはしゃいだ。
この時ばかりは絵里も年上ということを忘れて、目を輝かせて「た〜まや〜」と叫んだ。
花火というものは不思議な魅力がある。一瞬の光と音が夜に咲く。その花は刹那で枯れてしまうのに、目が離せない。
ただそれは、美しい。
その花火を上に見ながら、生徒たちはダンスをしていた。
グラウンドの中央にはキャンプファイヤーが焚かれ、その周りで踊る姿は、さながら“青春”であった。
「絵里はダンス行かんと?」
ふとれいなから聞かれるが、絵里は曖昧に笑って誤魔化した。
絵里の待ち人は、確かにまだ来ていない。
だが、待ち人がいることを、れいなに言うことは躊躇われた。別に隠しているつもりもないが、ここでは言えなかった。
「絵里とか、モテそうやっちゃのに」
「は?!」
急に言いだしたれいなに、絵里は思わず聞き返した。
またなにを言い出したんだこの年下の女の子は。
「いや、さっきの生徒会の人もカッコいいとは思ったっちゃけど」
「うん」
「絵里も普通に可愛いやん」
まっすぐに見つめられてそう言われた。
顔の筋肉が緩みそうになり、頬が赤く染まりそうになる。
可愛いと言われたことがないわけではない。なのに、いま、れいなに言われることが恥ずかしい。
「そりゃ絵里は可愛いですよぉー」
「うん、だからモテそうやん」
笑いでかわそうとしたのに、アッサリと追撃してくるれいな。
その瞳は、まったく疑うことを知らない純粋な光を宿している。
心臓の音が、相変わらずうるさい。
「いやぁ…絵里は自慢じゃないけどモテませんよ」
「そうやと?」
「そうやと」
れいなの方言を真似して怒られるだろうかと思ったが、なにも言われなかった。
彼女の興味は、方言のことでなく、なぜ絵里がモテないのかという理由の方にあったようだ。
繰り返し、「勿体なかー」とか、「可愛いっちゃのになあ」とか呟いている。
―なんでそんな普通に可愛いとか言えますかね、田中さん!
れいなの様子を見て、絵里はますます顔が赤くなる。
褒められ慣れていないということもあるが、いまれいなに言われることが堪らなく恥ずかしい。
高鳴る鼓動が、絵里の頬を染めていく。いま、まわりが薄暗くて助かったと絵里は心底思った。
- 203 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:17
- 「ま、モテんちゃったらそれでもいっちゃけど」
「なんで?」
「だって今日、絵里と一緒に居られたから」
ニシシといたずらっぽく笑い、れいなは絵里の肩に頭を預けてきた。
絵里はそのおかげで耳まで赤く染まり、その心臓は依然として早鐘を打っていた。
八重歯の可愛い年下の女の子に、絵里は振り回されていた。
本人はなんの意図もないのだろうが、絵里の思考回路は充分にショートした。
だが、ショートした頭でもハッキリ分かったことがひとつあった。
いま、絵里は楽しんでいた。
この状況を、この会話を、れいなと過ごす時間を。
心の底から、楽しいと思えた。
いつものように、つくられた笑顔はいらなかった。
絵里は目を細めて、れいなの頭に自分の頬を乗せた。
人より少しだけ小さいれいなとの間にできた身長差が、いまはとても心地よかった。
花火が打ちあがり続ける。
夜空に月と星が輝き、その横に大輪の花が咲いていた。
- 204 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:18
- 「絵里……?」
れいなが声をかけたが、返事はなかった。
まさかと思い、絵里の頭を手で支えながらゆっくりと顔を上げると、案の定、絵里は目を閉じている。
「えーりー?」
もう一度声をかけるが反応はない。どうやら眠ってしまったようだ。
外で寝るとか、ホントにこの人れなのセンパイかいね?と苦笑した。
とりあえず、絵里の頭を自分の肩に乗せて安定を図る。少しだけ寒そうな絵里に、自分の羽織っていたパーカーをかけてやった。
そろそろれいなも帰らなくてはいけない時間なのだが、このまま絵里を置いていくわけにはいかない。
絵里の知り合いであろう先ほどの生徒会のふたりが来てくれれば良いのだが、その雰囲気は残念ながら、ない。
あのふたりは、このフィナーレが終わるまで戻って来れない気がした。
生徒会執行部が集まっているテントが此処から見える。そしてその周りには、人だかりができている。
あれは間違いなく、さっきの追っかけの生徒たちだ。
私とダンスをしましょう、いや私と、という風に誘っているに違いないとれいなは思った。
―生徒会も大変っちゃね…
「あれ、カメちゃん寝ちゃったのかい?」
そう思っていると、目の前にひとりの女性が立っていた。
髪の短い、笑顔がよく似合う女性だ。少しだけ、関東とは違う訛りが入っている気がした。
「うちの高校じゃないよね?他校生?」
「あ…まあ…来年から此処に入学するんで」
「あーなるほどね。じゃあ来年からよろしくね」
そう言ってその女性はれいなと視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
女性は安倍なつみと名乗り、そこで寝ている絵里のクラス担任であると話した。
れいなも慌てて正式に自己紹介をした。
「じゃあ、そろそろ帰らないといけないんかい?」
「あ、そうなんです…だけど、このまま置いて帰るのは…」
そう言ってれいなは絵里を見た。
なんともシアワセそうな顔をして寝ている。どんな夢を見ているのだろうか。
- 205 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:20
- 「んじゃなっちがいるからいいべ」
「え?」
「カメちゃん起きるまでいるからいいべ。田中ちゃんは安心して帰っていいよ」
それは願ってもない話であったが、そこまで任せて良いのかとれいなは思った。
それと同時に、なんとなく、最後まで此処にいたかった。
自分で帰らなくてはいけないと言いだしたものの、れいなはまだ、絵里と話していたかった。
恐らく、次に会うのはれいなが入学した後、早くてもいまから5ヶ月後になる。
なんだか、それは勿体ない気がした。もう少し、もう少しだけ絵里と話していたい。なぜかは分からないが、れいなはそう思った。
だが、時間的な余裕はもうない。
そろそろホテルに戻らなくては、明日の行動に支障が出てしまう。
「じゃあ、すみませんけど、よろしくお願いします」
れいなが決断し、頭を下げると、安倍は相変わらず笑って親指を立てた。
本当に、笑顔が似合う人だと思った。
れいなは絵里の肩からするりと抜けて安倍と交代した。
絵里に貸したパーカーをどうしようかれいなは悩んだ。取り返すべきか、そのまま絵里にかけておいてやるべきか。
防寒具のないれいなは一瞬だけ身震いをした。
秋の夜を甘くてみてはいけない。肌寒いというよりも、寒いという表現の方がしっくりくる。
安倍はいままでれいなのいた場所に座る。これでさっきまでと立場が逆転した。
「絵里が起きたら、今度クリーニングに出して返せって言っといてください」
れいなはそう言うと、目を細めて困ったように笑った。たぶん、そのまま貸しておいてやる方が優しさだとれいなは思った。
安倍は一瞬呆気に取られたが、そのれいなの表情を見て納得したように頷いた。
「ごめんね。なっち貸せるようなものもってなくて」
「あ、全然気にしないでください!元を正せば、こいつのせいですから」
怒っているように聞こえるが、その表情は全くそうではない。むしろ、なにか嬉しそうにも見えた。
「じゃ、れな行きます」
「ん。また来年会おうね」
安倍に一礼して、そして一瞬だけ絵里を見て、れいなは走りだした。
このまま駅まで走った方が温かくなりそうだと判断したからだ。
だが、本当はあの場からすぐに立ち去りたかったのだ。あのまま絵里を見ていたら、そのままずっと居座ってしまいそうだったから。
れいなは正門の外に出て、今朝来た道を戻っていく。
後ろの方ではまだ花火の音が聞こえてきた。足に自信はないが、体力には自信がある。駅まで10分もかからずに着ける気がした。
- 206 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:22
- 「というわけでなっちがいるのですよ」
安倍の話を聞いている間、絵里は必死に状況を整理していた。
どうもいつの間にか絵里は寝てしまったらしい。
しかもれいなは、途中で寝てしまった絵里のために防寒具であるパーカーを脱いで帰らざるを得なかった。
―…マジ?
安倍の話を信じないわけではない。
だが、そんなアホみたいな話があるわけないと絵里は言い聞かせた。
まさかれいなにそんな迷惑をかけるわけがないと。
そんな絵里の祈りとは裏腹に、自分の右手にはしっかりとパーカーが握られていた。
その色は白で、今日、れいなが制服の上に羽織っていたものと全く同じものであった。
―ありえねぇ…
絵里はがっくりと肩を落とした。
れいなを案内すると豪語し、振り回した挙句に自分が寝てしまうという失態。しかも薄着にさせて帰らせるというオマケつきである。
連絡先を聞いていなかったことも、絵里の不運のひとつだった。メアド交換もなにもしていないため、謝ろうにも謝れない。
―亀井絵里、一生の不覚、かも。
絵里の様子を見て、安倍はその肩を叩く。
落ち込むなと言いたいのか、ただ楽しんでいるのかは分からない。
「いやぁ、青春だねえ」
「…なにがですか?」
「なぁんでもないよ」
安倍は嬉しそうに言って立ち上がった。
いったいなにが青春なのか、まったく理解ができなかった。
- 207 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:22
- 「今年も文化祭、終わっちゃったねえ」
その言葉に絵里はハッとした。
そう言えばもう花火も聞こえていないし、ぞろぞろと生徒たちが帰り支度を始めている。
文化祭のフィナーレが始まって絵里はずっとれいなと一緒にいた。
そして、それが終わったいまは安倍と一緒にいる。
待ち人は、最後まで来なかった。
「いやぁ、里沙ちゃんがモテモテになってびっくりだよぉ」
そう話す安倍の視線の先を追うと、帰り支度の生徒とは全く異質の人だかりができていた。
その中心にいるのが、生徒会長の愛と、里沙だ。
「カメちゃんも見た?あの劇」
「あ、はい。カッコよかったです」
「だよねー。なんかなっちもビックリしちゃったよ」
嬉しそうに話す安倍とは対照的に、絵里の心は暗かった。
里沙が忙しいのは分かっている。
しかも今回は劇でクリス王子を演じたことで、ファンが増えてしまったというオマケつきだ。
里沙は約束を忘れていたわけじゃない。
約束を破らざるを得ない状況にあっただけだ。
絵里は何度もそう言い聞かせた。
しかし、そうは言っても、あの人だかりを恨めしそうに見つめないわけにはいかなかった。
自分もあの子たちのように素直に行けば、結果が変わっていたのだろうかとぼんやり考えた。
真面目な里沙のことだ。
生徒会の仕事を放棄してまでフィナーレに参加するとは思えない。
だが、もし仕事が一瞬でも暇になって、絵里があのファンの子たちのようにダンスに誘ったら?
『もしも』という事態を絵里は考えたが、すぐに打ち消した。
いまさら考えても、どうしようもないことなのだから。
「んじゃそろそろ教室戻るべ。帰りのHRするよ」
安倍にそう話しかけられて、絵里は頷いた。
先ほどまでの楽しい空気は、一瞬にしてなくなってしまった。
絵里は頭をかきながら、安倍とともに教室に戻ることにした。
その足取りは少しだけ、重かった。
- 208 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:24
- ---
- 209 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:24
- 文化祭が終わり、朝陽高校はようやく、普段の生活を取り戻しつつあった。
文化祭の直後に体育祭も行われたが、絵里はその前後に高校を休んでいた。
2学期に入り、いまのいままで、毎日登校していたので、今回の欠席は久しぶりであった。
だが、どうせ体育祭には不参加なのだから、ついでに休んでも良いだろうという考えが浮かんだことは、絵里は否定しない。
体育祭の話は里沙から聞いていた。
相変わらず生徒会長が大人気で、来年はあの人は応援団長にでもなるんじゃないかと話していた。
その話が実にリアリティのある内容であるだけに、絵里は苦笑するしかなかった。
あの日以来、絵里と里沙の仲は特に変わっていない。
文化祭のフィナーレに一緒に過ごせなかったことを、絵里は追及しなかった。
- 210 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:25
- れいなと別れた後、絵里は安倍とともにクラスに戻った。
帰りのHRが終わった後も、里沙は現れなかった。どうやら生徒会執行部はそのまま片付けや事後処理に追われていたようだった。
クラスメートが帰った教室にはたったひとつだけ、里沙の鞄が残っていた。これが此処にあるということは、彼女は確実に戻ってくるということだ。
絵里は、迷った。
生徒会が入念に準備をして迎えた文化祭。クラスで出し物をし、れいなと校内を回り、演劇を見てフィナーレを迎えた。
今日1日、絵里はとても楽しかった。その感謝を伝えたいという気持ちはあった。
だが何処かに、子どものような感情もあった。
約束とまでは言えないものの、一時は一緒にダンスをしようと話をしたのに、里沙は現れなかった。
それが里沙の責任ではなく、不可抗力であったことも分かっていた。
だが、そうは言っても、割り切れず、やっぱり一緒にいたかったという気持ちがあった。
そしてなにより、ファンの子たちに囲まれている里沙を見るのが、絵里は嫌だった。
里沙がモテることになんの問題もない。しかし、里沙が同級生や下級生に囲まれている姿を見るのは、なんとなく不満だった。
この気持ちに名前があるとすれば、『嫉妬』というものが当てはまる。
里沙がファンに囲まれるのは不快なのは、キャーキャー言うことで里沙をこれ以上困らせてほしくないからか、自分が置いて行かれた気になるからか、里沙を自分だけが独占したいからなのか。
- 211 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:26
-
―なんか絵里、バカみたい。
これまで半年、ずっと一緒に過ごしてきた友人。
絵里が入院したときには見舞いに来てくれ、授業が遅れたときには勉強も教えてくれた。
このクラスで最も信頼している大切な大切な友人、それが里沙だった。
里沙にだって悩みはある。
生徒会長の愛が仕事をサボるという可愛いものから、自分の進路の話といった重い内容まで、少しずつ話をするようになった。
その悩みを聞き、ともに考え、最善の答えを絵里は出そうとしていた。
自他共に認めるほど、絵里と里沙は『親友』という言葉が似合う。
その親友が好かれることは、絵里にとっても誇らしいことだった。
だが、それを素直に認められない自分もいた。最近になって里沙を知った「にわかファン」とでもいうのだろうか、その存在が気に入らなかった。
絵里はうんざりした。
里沙がファン囲まれることで問題が起き、相談でもされたならまだしも、勝手に絵里が考えて不満に思っているだけの話だ。
完全なる絵里のひとり相撲。
そして、里沙への独占欲。
いろいろなことが頭を駆け巡り、絵里はうんざりして、教室を出た。
- 212 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:27
- さらに、頭の中がぐちゃぐちゃして嫌になるもうひとつの理由は、れいなであった。
OG戦で出会い、推薦入試で会話をし、文化祭を過ごした年下の女の子。
来年入学してくる、自分の後輩。恐らく、サッカー部に入部するであろう彼女。
ただ、それだけだ。
朝陽高校の新入生は毎年200人を超える。
同じ学年でさえ、名前を覚えきれない人数なのに、まして後輩となればもう顔すら分からない。
さらに、絵里は帰宅部でれいなはサッカー部。れいなが入学してきたところで、絵里との接点などないだろう。
そう、田中れいなは、亀井絵里にとって、ただの後輩になる存在だ。
ただ、それだけのはず。そのはずなのに。
絵里の頭の中は、れいなでいっぱいだった。
自分より幾分か小さい背丈。
それなのに元気いっぱいにグラウンドを駆け回り、ボールを蹴りだす姿。
誰よりも大きな声を出して仲間を励まし、試合を盛り上げている姿。
ちょっとだけキツめなその瞳。さらさらに流れる髪。笑った時に見える八重歯。
自然と差し出されたパーカー。
なにかを伝えようとしたその唇。
すべてが絵里を夢中にさせ、心を捉えて離さない。
たった3回。その3回で、絵里はれいなに捉えられた。
ただの後輩のはずなのに、なんの接点もないはずなのに、たまたま会っただけの存在だったのに、
ロクな会話もせず、ただ1日文化祭に付き合っただけなのに、こんなにもれいなでいっぱいになっていた。
- 213 名前:Only you 投稿日:2011/09/15(木) 05:28
-
―絵里、どうしたんだろ…
絵里がそう思うのも無理はない。
生きてきてこれまで、こんな感情を絵里は知らない。
こんなにも誰かに夢中になって、誰かの笑顔が見たいと思ったことはない。里沙に対する想いとは違う何かが此処に在った。
里沙は大切な友人で親友。
だが、れいなには違う感情が芽生え始めてきた。
その感情の名前に、絵里はまだ気がついていなかった。
絵里は無意識に、その感情を知らないようにしようとしていた。
その名前を呼んだら、絵里は確実に溺れていたのだから。
溺れぬよう、必死に流れに抗い、近場の枝にしがみついた。
枝が折れるのは時間の問題で、流れの速さも徐々に増してくる。
それでも絵里は、この名前を呼べない。
絵里がまっすぐこの感情と向き合うのは、れいなが入学した後のことであった。
しかし、仮に『大人の階段』というものがあるのなら、絵里は間違いなく、それを上り始めていた。
知らない感情に耳を傾け、見ようとしなかったもののフタを開けようと試みたこのとき、絵里はひとつだけ、その段を上った。
12月の頭。絵里の住む地域に白い天使が舞い降りてくる時期のことだった。
- 214 名前:雪月花 投稿日:2011/09/15(木) 05:35
- キリが良いので此処で止めます。
これで半分か、1/3程度でしょうか。
ふたりの物語が漸く始まった段階ですので、まだ続きそうです…w
早めに更新できるようがんばります。
- 215 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/16(金) 09:42
- すぐに何かが変わったり答えが出ない、ちょっとずつちょっとずつな感じがすごくリアリティがあると思います
いいなーこういうの
登場人物のドキドキと共に私もドキドキしてますw
楽しみです
- 216 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/16(金) 22:08
- あーもう、きーにーなーるーーーww
ドキドキw
- 217 名前:名無飼育 投稿日:2011/09/18(日) 01:46
- 更新キテた!
絵里の気持ちを中心にれいなやガキさん、愛ちゃんの気持ちが気になる・・・
切なくて泣きそうだ…
- 218 名前:雪月花 投稿日:2011/09/19(月) 19:37
- 執筆中のBGMはもちろん娘。です。雪月花です(何)
>>215 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
好きになる過程を丁寧に描けたらなと思っていますが、ちゃんと伝わっているでしょうか?
まだ未熟ですが、作者もドキドキしながらしっかり書いていきたいですw
>>216 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
気になって下さって嬉しいですww
俄然やる気が湧いてきました!!w
>>217 名無飼育サマ
更新してましたw
登場人物それぞれの気持ちを掘り下げて書いていますが、いかんせん時間がほしいですねw
切ない部分が多いかもしれませんが、どうぞついてきてください。
それでは更新します。
- 219 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:40
- 目覚まし時計がけたたましく鳴り響いた。れいなは必死に手を伸ばしてそいつを止める。まだ眠いと訴える脳みそを無視して、大きく伸びをした。
ぼんやりとした頭で時計を見て、ゆっくりとベッドから降りる。青いカーテンを開けると、世界がまぶしく輝いた。
この青色はれいながホームセンターで一目惚れした色だった。生まれてこのかた、一目惚れなど信じなかったれいなが初めてした恋。
そんなことを、買い物についてきた両親に言おうものなら苦笑されるのは目に見えていたので、れいなは黙っていた。
だが、その一目惚れはまさに的中で、このカーテンをれいなは非常に気にいっている。心を落ち着かせる作用が青にはある、というのがれいなの持論だった。
両親からは、女の子らしく白やピンクにしろだの、せめて緑色にしろだのそこそこの批判をされた。
確かに青色は鎮静作用があるとともに、少しだけ気分を落とさせる色でもある。そこは認めるが、せっかくの恋をモノにしたかったれいなは、そんな両親の意見はシャットダウンし、このカーテンを買った。
「今日も晴れたっちゃねー」
れいなはひとりごとを呟き、さっとジャージに着替えて帽子をかぶり、靴を履いた。
耳にイヤホンをつけ、外に出る。太陽の光が相変わらず眩しかった。
今日は日曜日で部活も珍しく休みであるが、れいなは毎日自主練として、朝はロードワークをしている。
自分の好きなアーティストの音楽を聴きながら朝陽に照らされた街を駆け抜けるのはとても気持ちいい。
走りながられいなはふと、入学した当初のことを思い出していた。
- 220 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:42
- 朝陽高校に入学して、早1ヶ月が経とうとしていた。
この1ヶ月の間、いろいろなことがあった。
れいなは朝陽高校の指定した、あるアパートの一室を借り、独り暮らしをしている。
朝陽高校には寮というものが存在しないが、その代わりに、いくつかの学校指定アパートがあり、そこは朝陽高校の生徒のみが入居できるものだった。
いわばこのアパートそのものが、寮という形になっている。
しかし、基本的には独り暮らしのため、食事や洗濯、掃除は自分たちで行うことになっていた。
15年間生きてきて初めての独り暮らしに、れいなは戸惑った。
そもそも、地元である福岡から上京してきたこと自体に不安や迷いもあった。
圧倒的な人の多さ、慣れない言語、忙しなく行き交う車、福岡の何倍もの早さで過ぎていくように感じる時間。
―東京って凄いっちゃね…
3月に上京してきてもう2ヶ月だが、この人の量や時間の速さにはまだ慣れない。
そしてれいなが次に心配したのが、クラスメートのことであった。
人見知りも激しく、目つきも決して良くないれいなは、クラスで浮いてしまわないかと不安になった。
特に入学式当日、最初に教室に入る瞬間が最も緊張した。
確かに一緒に合格したサッカー部員が何人かいるものの、その部員だけで一緒にいるわけにはいかない。
そもそも誰が同じクラスかなど、当日に発表されるわけであって、確証はない。下手すれば、サッカー部員はれいなだけという可能性もあった。
とにかく、友だちをどう作るかをれいなは悩んでいた。
- 221 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:43
- れいなにとってはこの方言がネックだった。
語尾に「ちゃ」がつく博多弁は、可愛いと言われることも多いが、同時に、キツく聞こえる場合がある。
特に怒ってないのに怒っているようにも聞こえてしまうことがある。
それに加えてこの目つきの悪さである。
ただでさえ睨んでいるように見えると言われるのに、博多弁とセットになったら、勝手に喧嘩を売っているように感じられてもおかしくない。れいなにそんな気はないが、向こうにそのような印象を与えてしまってはどうしようもない。
現に中学時代、れいなは自分で意図せずに、何人かと喧嘩になってしまったことがあった。
そのようなことは高校に入っては避けたかった。
とりあえずれいなは制服に身を包み、鏡を見た。
少しだけ袖が余っている気がするが、徐々に慣れるだろう。
鏡に映った自分の姿を見て、れいなは半年前のことを思い出していた。
OG戦で出会い、推薦入試で会話し、文化祭を過ごした年上の女の子、亀井絵里のことだ。
絵里もまた、この制服を着て朝陽高校に通っている。
フワフワして、れいなよりずっと目つきが良くて、可愛くて、だけど何処か、何処か寂しそうに笑う女の子だった。
結局、文化祭のフィナーレを迎える時、絵里は外で寝てしまい、さよならも言えずに別れてしまった。
あの日に貸したパーカーは未返却だが、果たして絵里はそんなことを覚えているだろうか。
「やばっ…」
ふと時計を見るともう時間が迫っていた。れいなは慌てて靴をはき、玄関を飛び出した。
桜が綺麗に咲き誇る4月、空は文句のないくらい、青一色に染まっていた。
- 222 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:44
- 中庭には人だかりができていた。
その人だかりの先には、クラス分けの書かれた大きな掲示板があった。あの表に従い、新入生は自分たちの教室へと行くことになっていた。
れいなも自分のクラスを確認しようとその人だかりへと向かった。しかし、なんといっても人が多くて看板までたどり着けない。
視力が良いから後ろから見えればいいのだが、れいなはいかんせん、背が低い。この背の低さの前では、視力の良さなど何の役にも立たない。
れいながどうしようか迷っていると、前にいた女の子が急に後ろを振り返った。
「わっ」
「きゃっ」
そしてものの見事にふたりはぶつかった。
転びこそしなかったものの、れいなは数歩、後ろに下がる形になった。
「あっ…ごめんなさいっ!」
髪の長い女の子だった。
彼女はれいなにぶつかってしまったことを素直に謝った。
「あ、大丈夫と。れなこそ、気づかんくて…ごめん」
今回のことは彼女だけに非があるのではないと、れいなも頭を下げた。
すると彼女は一瞬なにか考えるような顔をした。
れいなはそんな彼女を不思議そうに見つめた。黒い瞳が印象的だった。
「…違ってたらごめんだけど、九州の子?」
彼女が発した『九州』という言葉に、れいなは強く反応した。
「なんでわかったと?れな福岡やっちゃ」
「やっぱりー!さゆみ小さい頃に山口いたの!」
山口県と言えば、れいなの出身地、福岡県のすぐ隣だ。同じ九州地方ではないものの、食文化や方言は、かなり近いところがある。
れいなは、上京して初めて会話した同級生がこんなに地元に近い存在であることを幸運に感じた。
「私、道重さゆみっていうの、よろしくね」
「田中れいなっちゃ。よろしく」
れいなはその場で、すっかり彼女と仲良くなった。
- 223 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:45
- 「れいなは何組なの?」
「あー、まだ見てないと。人が多くて…」
地元が近しい存在にすっかり忘れていたが、本来はクラスを確認することが先決だった。
れいなはこの人の多さにクラスが何組かまだわからないことをさゆみに説明した。
決して身長が低くて見えないことを言わなかったのは、妙なプライドがあったからだ
「そっか、れいなは小っちゃいから見えないのね。わかるわかる」
そのプライドをいとも簡単に壊していく、さゆみ。
れいなが「はぁ?!」という顔を向けたら、さゆみは「怖ーい」とわざとらしく怯えた。
なんなんだ、この子は…
「じゃあ、優しい優しいさゆみが見てあげるの」
れいなの思考を無視して、さゆみは看板に目を向けた。
よく分からない女の子だとれいなは思った。
「あ、れいなは2組だって。さゆと一緒」
「え」
「だーかーら、れいなは2組なの。1年2組。ほら、行こ」
さゆみに強引に手を引かれ、れいなは中庭から靴箱へと歩き出した。
自分のクラスが分かったのはありがたいが、よりによってこの子と一緒ということにれいなは驚いた。
たまたま中庭であった子が、たまたま出身地が近くて、たまたま同じクラスになる。
偶然とは怖いものだ。
れいなは、『道重さゆみ』という存在を不快になど思わなかった。
傍からすれば、急に身長の話を持ち出して小バカにされたという印象を得るかもしれない。
そのあとの「怖ーい」という言い方も、いわゆる「ぶりっ子」であり、合わないと感じる人も多いだろう。
だが不思議と、れいなはさゆみに対して好印象を抱いていた。出身地が近いというだけではないなにかが、さゆみにはあった。
このたった一瞬でなにを考えているのだろうとれいな自身も思ったが、いまはそんなことどうでも良かった。
ただれいなは、この道重さゆみが同じクラスであったことを嬉しく感じた。
なんだか幸先良いスタートを切れそうだと、靴を脱ぎながらぼんやり考えた。
- 224 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:46
- 入学式で衝撃の出会いをした後、れいなはさゆみと仲良くなった。
さゆみは独自の世界を持っていた。
いつも大きな鏡をもって、朝からずっとそれを見ては、「今日も可愛いぞ」と呟いている。
これをネタでやっているのであれば、周りからは寒いだのと失笑を買いそうだが、彼女はそれを地でやっている。
ヘタをすれば周囲に引かれ孤立しそうだが、さゆみはそうではなかった。
さゆみを孤立させない理由のひとつは、彼女の性格に在った。
さゆみは心底、自分を可愛いと思っている、いわばナルシストだ。おまけに入学式にれいなに言ったように、多少毒舌な一面もある。
だが、それだけが彼女の性格を作っているわけではない。
むしろさゆみの性格の大半は、気の回し方、すなわち優しさに在った。
れいながサッカー部に入部し、疲れきっているときに、さゆみはなにも言わずに傍にいる。
普通なら、あれこれと問いただし、なにか悩みでもあるのかと聞きだそうとするのが女子高生だが、さゆみはそうではない。
ただ黙って横にいて、鏡を見つめながら、「今日もさゆみは可愛いの」と呟く。
れいなが疲れて机に伏していても、なにかに悩んで昼食を少ししか摂らなくても、さゆみの態度は変わらない。
その絶妙な距離感、さゆみの優しさに、れいなは感謝した。
むしろ、自分が悩んでいるときにあれこれと聞いてほしいという人にはさゆみの優しさは伝わらないだろう。
れいなだからこそ感じられるさゆみの想いがそこにはある。
- 225 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:48
- サッカー部の1年生だけの練習試合の日のことだった。
朝陽高校サッカー部に入部した1年生は全部で30人を超えた。その中には、あの推薦入試で合格した12人の姿があった。
その日は、例年以上に気温が高く、文句のつけようのないくらいに晴れていた。
サッカー部の1年生は、4つのグループに分かれて練習試合を行った。れいなはあの日と同じようにボールを回し、隙さえあればゴールへと蹴り込んだ。
ちょっとした『事件』が起きたのは、後半開始20分のことだった。
れいなのチームの背番号13の選手が、相手選手と交錯し、グラウンドに倒れた。だが主審のホイッスルは鳴らず、試合は続行された。
れいなのチームメイトの何人かは、その倒れた選手に駆け寄ったが、れいなはそれを横目で見るだけで、すぐさまボールを追った。
普通なら、ホイッスルが鳴らない時点でファールではないのだから試合は続行されるのだが、今回は少し状況が違った。
倒れた選手は左足首を抑え、立ち上がれない状態であった。
異変に気づいた主審は何度か笛を鳴らし、試合を止めた。そこでれいなもようやく、その倒れた選手のもとへと向かった。
主審は背番号13の選手と何か言葉を交わした。どうやらこのまま試合続行は不可能だと判断し、担架が準備されることになった。
それでもれいなは、その選手に駆け寄り話しかけることはしなかった。
この一連の出来事が、サッカー部の先輩たちの間で問題になった。
なぜあの時、チームメイトに声をかけなかったのか。
同じチームのメンバーが倒れているのに、それを無視するのはどういうことか、心配じゃないのかとれいなは試合後に詰め寄られた。
その時れいなは、冷静にこう答えた。
- 226 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:49
- 「心配でしたけど、全員で駆け寄って、大丈夫?って聞く方がプレッシャーに感じると思ったから、やめました」
その言葉は、賛否両論というより、先輩たちの間では批判の対象にあった。
サッカーは団体競技である以上、誰かが欠けたら成立しない。そうで考える先輩たちは、れいなのその考えを否定した。
だが、この考え方が間違っているとれいなは思わなかった。
先輩たちにも説明したが、倒れた選手が心配じゃなかったわけじゃない。
試合中に交錯することで一生の怪我を背負う場合もある。サッカーという競技は、思った以上に危険と隣り合わせなのである。
だから、彼女のこともある程度は心配した。
だけど、いま此処で駆け寄ることが正しいとは考えなかった。
そういう時に、「大丈夫?」と聞く方が焦ってしまうことをれいなはその経験上で知っていた。
あの時、ホイッスルが鳴らないことは試合の続行を意味していた。
チームメイトが1人倒れたということは、れいなたちは10人、キーパーをのぞくと9人で試合を運ぶことになる。相手チームとのメンバーの差、たった1人の差というのは想像以上に大きい。
だから、倒れた選手には申し訳ないが、すぐに試合再開のモードに切り替える必要があった。
ホイッスルが鳴り、試合が中断されていたなら、れいなも背番号13の選手に駆け寄っただろう。
だが、あの時の状況はそれを許さなかった。
試合が再開されている以上、れいなたちに求められるのは失点を防ぐことであった。
それに、最も慌てているのは倒れた本人であることだということも、れいなは知っていた。
交錯したにもかかわらず、試合が止まらなかった場合、選手はすぐに立ち上がってプレーを再開することが求められる。
そんなときに、チームメイトからやたらと心配されては、なかなか焦って再開できないと場合も多い。
だかられいなは、あえてノータッチでいた。あえてなにも言わずに、静観していた。
慌てて駆け寄って「大丈夫?」と聞くよりも、あえてノータッチでいることの方が正しいとれいなは考えた。
この考え方は、先輩たちには概ね不評だった。
とにかくチームプレイが大事だ、いまのままでは1年生の団結力を乱すとれいなはこっぴどく注意された。
その注意が、れいなには納得できなかった。
同級生である1年生がれいなの考えに賛同してくれたから特に、であった。
自分自身の考えがすべて正しいとは思わない。だが、すべて間違っているとも思わなかった。
先輩から注意されることも分からない理屈ではない。だが、頭ごなしに否定されるのは納得いかなかった。
れいなは悶々としたまま、その日の試合を終えた。
- 227 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:50
- この悩みをれいなは誰にも言わずに胸の内に抱えたままだった。
そんなれいなを見てさゆみは、相変わらずなにも言わずに前の席に座り、一緒にお弁当を食べた。
休み時間は特に意味もなく傍にいて、鏡を見ながら「うさちゃんピース」とやらをやっていた。
「うさちゃんピース」とはなんだろう。
さゆみが頭の上にピースサインを作って微笑んでいるのは分かるが、別段面白くもない。
だがさゆみは、それを二回繰り返して満足したのか、「やっぱりさゆみは可愛いの」と惚れ惚れしていた。
- 228 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:51
- 悪く、ない。とれいなは思った。
なにも考えずにただ自分の好き勝手なことを言うように聞こえるが、本当はそうではない。
れいながなにかに悩み、なにかを抱えていることを知った上で、さゆみはなにも変わらずに接しようとしていた。
それは、れいながあの日の練習試合で言わんとしたことと同じだった。
「なにかあったの?」と聞くよりも、あえてノータッチでいることの方が安心する。
その理論を、さゆみは知っていた。
だかられいなは安心できた。
なにも言わなくても、自分の気持ちが落ち着いていくのが分かった。
さゆみの持つ空気が、れいなは好きだった。
口ではさんざん、バカだの抜けてるだのチビだの言うが、最後にはちゃんとフォローする。
なにも考えずに発言するように見えて、それは緻密な計算のもとに在るものであることをれいなは知っていた。
そんなさゆみは、周りから誤解されやすい性格だということも知っていた。
れいなのようにさゆみをよく知っている人間からすれば大したことではないが、
さゆみを全く知らない人間からすれば、道重さゆみは、ただのナルシストで毒舌の性格の悪い女子高生に見えるだろう。
本当は、彼女はそういう子ではない。
だれよりも周りが見えていて、自分がどう振る舞えば良いかが分かっている。
彼女の毒舌やナルシストは、あくまでも道重さゆみを位置づけるキャラクターのひとつであって、『道重さゆみ』を語るすべてではない。
なんとも不思議なことだが、れいなにはそれが分かっていた。
れいなは、単純に嬉しくて、笑った。
さゆみもつられて、笑った。
此処にいることが楽しかった。不安や迷いが多かった日々だが、いまは楽しい。
さゆみやクラスメート、サッカー部員といると楽しい。悩みもあるが、純粋に楽しかった。
ある授業のあるセリフがあるまでは。
- 229 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:51
- ---
- 230 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:52
- 授業終了の合図とともに、れいなはグッと伸びをした。午前中も残り1時間だけになったが、昼休みまではまだまだ遠い。れいなは大きな欠伸をした。
「れいなはホントに猫みたいなの」
左斜め前に座るさゆみが言った。
その手には相変わらず大きな鏡が持たれている。授業が終わって10秒も経っていないのだが、いつの間に手にしたのだろうとれいなは疑問に思った。
「れなの前世はたぶん猫やけんねー」
「たぶん気まぐれで勝手なバカ猫なの。いまとそんなに変わらないの」
それはちょっとばかり言いすぎじゃないかと思うが、反論はできない。
いまでも十分に気まぐれで勝手なバカだということは認識している。
れいなはそっぽを向いて、次の授業を確認すると、黙って立ち上がった。
「さゆ。れな、行くと」
さゆみは鏡を置いてれいなと目を合わせた。なにかを言わんとす大きな目が、れいなを捉える。
れいなはその黒い輝きがつらくて、慌ててそらした。大袈裟に深いため息をついて、さゆみは左手を上げた。
「行ってらっしゃいなの」
さゆみの諦めにも似た表情が、少しだけ胸につっかえた。
「……ごめん」
「謝るくらいならしなければいいの」
そう言ってさゆみはまた、鏡に目を戻した。
その表情が、ツラい。
予鈴が鳴ったのを確認し、れいなはもう一度ごめんと呟き、教室を去って行った。
- 231 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:53
- 行き先はいつも決まっている。この学校で空に一番近い場所、屋上だった。
れいなは屋上の扉のすぐ横に在る梯子を登る。貯水タンクの影になる場所ががれいなのお気に入り。そこにごろりと横になる。
今日も抜けるような青空が広がり、空気は澄んでいた。5月も終わるその美空はあまりにも美しく、寂しい。
自分の大好きな、青。
それなのに寂しいのは、なにかが足りないからなのだろうか。
足りないなにかとはなんなのか、れいなには分からない。
足りないのは自分の中に在るものなのか、外に在るものなのか、それすらも判別できない。
考えるのが億劫になって目を閉じようとすると、屋上の扉が開く音がした。
だれかがサボりに来たのだろうかと考えていると、見知った声が聞こえてきた。
「田中っちぃ、発見」
れいなが声の方を見ると、そこにはすっかり顔馴染みになった生徒会副会長の新垣里沙がいた。
「ガキさんもサボり?」
「ばか。あなたを連れ戻しに来たんでしょーが」
里沙はれいなの横に腰を下ろす。その手には教科書が握られているが、まさか此処で自習でもする気だろうかとれいなは思った。
その構図が、あの日の高橋愛と同じだということをれいなは思い出した。
- 232 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:54
- れいなが『あること』をきっかけに授業をサボりだしたとき、最初にれいなを見つけたのは、生徒会長の高橋愛だった。
今日と同じように、この貯水タンクの影で横になっていると、そのすぐ2分後に愛は屋上の扉を開けてやって来た。
「お、入学早々サボりとは関心やないなぁ、田中れいなさん」
突然現れた生徒会長に、れいなはビクッと体を起こした。
愛と会うのは、あの文化祭以来のことだった。
「名前、覚えとったとですね」
「こう見えても記憶力は良いんよ、あーし」
そう言うと、愛はれいなの横に腰を下ろした。その手には音楽の教科書が握られている。
れいなの視線に気づいたのか、愛は問われてもいないのに答えた。
「移動中に渡り廊下見たられいなが見えたからね。もう予鈴も鳴ったんに、上に向かうのはおかしいなと思ったんよ」
なるほど、それなら手にした教科書の説明はつく。
だが、自分の授業を遅刻してまで追ってくる理由にはならない気がした。
「なんで、れなを追って来たとですか?」
「うーん…なんでやろうね」
そう答える愛を見ると、彼女はいたずらっ子のように笑っていた。
なにかを言わんとするその瞳の輝きが美しい。れいなは図らずもドキッとしたが、悟られないように目をそらした。
「とりあえず、あーし行くわ」
これでも受験生やから、あんまりサボりは良くないんよ?と笑った。
れいなは余計に、愛が追ってきた理由が分からなくなったが、その答えに「はぁ」と曖昧に頷くしかなかった。
「あんまサボんなよー、せっかく推薦で入ったんやからー」
愛はそう言い残し、梯子からひょいと降りて行き、屋上を後にした。
その場にはもうれいなしかいなかった。たった数分の出来事だったが、れいなには不思議でしょうがなかった。
ほぼ一方的に喋って消えていった生徒会長に、「風と共に去りぬ」という表現はこういう時に使うのだろうかと思った。
- 233 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:54
- 結局この日、愛がなぜれいなを追って屋上まで来たのかは分からなかった。
しかし、分かったことがひとつあった。
れいなが屋上にサボりに来ると、必ずと言って良いほど、愛、もしくは生徒会副会長の新垣里沙もやって来るということだ。
今日も例外ではなく、れいなの隣には里沙がいる。
「ガキさんは授業行かんで大丈夫と?」
「人の心配するくらいなら自分の心配をしなさい」
「…ガキさんも飽きんちゃねー、れなに付き合って」
皮肉をこめて言ったつもりだったが、里沙にはそれが通用しなかったのか、教科書を眺めながらアッサリ返された。
持っているのは化学のようだ。よりによってその教科書かよと思う。しかも目も合わさずに言うことに、余計にムッとした。
愛も里沙も、いつもこうだった。
れいながサボる理由を軽く聞き出そうとし、れいながそれを拒むにもかかわらず此処に居続ける。時には自分の授業を休んでまで、である。
その考えが、れいなには分からなかった。
たった一度会ったことのある後輩のために、自分の授業を休んでまで説得に来るだろうか、普通。
まさか生徒会だから、とか、自分の内申のためだろうかと考えたが、それにしてはやり方がまどろっこしい気がする。
- 234 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:55
- なんだか無性にイライラした。
そんな子どもみたいな感情が湧きあがっていること自体に、腹が立つ。いつになったら自分は大人になるのだろうと思うが、この感情が抑えられない。
れいなは勢いをつけて上半身を起こした。里沙はそんなれいなに見向きもしない。
「…ガキさん」
「なに?授業行く気になった?」
れいなは里沙の手から教科書を奪い取る。
「なんでれながあんな授業受けないかんと」
静かに、低い声でれいなは言った。
いつもと違う空気を感じ、里沙は一瞬だけ構えるが、すぐにその緊張を解く。
「あんな授業って、ヤマモト先生の化学?」
里沙の口からその言葉が発せられると思っていなかったのか、れいなは里沙に顔を向ける。
里沙はまっすぐにこちらを見つめている。前髪が風に揺れ、不謹慎かもしれないが、それが美しかった。
「ねえ、田中っち」
里沙はれいなから目をそらし、空を見上げる。
青空は今日も綺麗だった。この青は、何色にも負けないというように主張している。
「ひとつ、話をしようか」
「話?」
「そ。少しだけ前のお話だよ」
- 235 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:57
- 里沙はなにかを思い出すように遠くを見ながら、話し始めた。
ある高校にひとりの女の子が入学してきました。
彼女は、見た目は普通の女の子ですが、生まれつき体が弱かったのです。
その女の子は他の生徒と同じように勉強し、学校へ通っていました。
体育の授業だけは休んでしまいますが、それ以外の授業は出席します。
だけど5月以降、どうしても体が弱いため、体育以外の授業も休みがちになってしまいました。
それでも女の子は頑張って登校しました。遅れた授業の分は、先生や友達に聞いたり、ノートを借りたりして取り返そうとしていました。
しかし、それでもテストの結果は芳しくなく、先生たちの間でも、その女の子のことは話題に上りました。
確かにその女の子は頭も良く、素行も良いのですが、体の弱さはネックでした。
自分たちの高校で面倒を見切れるのかという意見さえも出始めていました。
さらに、女の子には、留年という危機も迫っていました。
その高校の規定では、出席日数が全体の2/3以下になると留年が決まります。女の子は7月の段階で、欠席が全体の1/2に達しようとしていました。
成績の振るわなさに欠席日数の増加。
女の子自身、このままではいけないと思いながらも、体がなかなか言うことを聞いてくれません。
そんな彼女を、さらに追い詰める出来事が起きました。
- 236 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:58
- ある先生が、その女の子を追い出そうとしました。
正確には、追い出そうとしていることに女の子が気づきました。
『うちは保育所じゃないんですから。ダメな奴はリタイアさせるしかないですよ』
そのセリフが、女の子に突き刺さりました。
彼女の世界に光が失われ、いつの間にか女の子は、少しずつ壊れてしまいました。
本当の笑顔を、何処かに置き去りにしてしまいました。
- 237 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:58
- 里沙はその話をする間、一度もれいなと目を合わせなかった。
それとは対照的に、れいなはじっと里沙の瞳を見つめている。
何処か他人事のように話す里沙は、それでもだれよりも寂しそうな顔をしていた。
「それで…女の子はどうしたと?」
れいなの質問に里沙は即座には答えず、少し時間を置いた。
目を閉じて、風を感じる。あの日の記憶をゆっくりと蘇らせる。
里沙の脳裏には、いつも彼女の笑顔があった。
その笑顔を、彼女の優しい笑顔を、救えない自分が此処にいると知っていた。
里沙はその時初めて、れいなと向き合った。
れいなの目は、先ほどのような殺伐とした暗いものではない。なにかを見つけようと、光りを探してもがく、焔の目になっていた。
―ああ、これが…
里沙はなにかに納得したように頷き、話を続けた。
- 238 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 19:59
- 女の子は何処かに本当の笑顔を置き去りにしました。
その代わり、偽りの笑顔を手に入れました。
いつでもどこでも、だらしない顔で笑うようになりました。
それは、いままでのものとは明らかに違い、友だちは哀しくなってしまいました。
それでも女の子は、学校に通い続けました。
その先生を見返すためか、自分のためか、意地になって、なにかにとりつかれたように勉強しました。
そして、1学期最後の期末考査では、学年で上位30番に入るほどの好成績を残しました。
それを知ったとき、女の子も、そして女の子の友達も一緒になって喜びました。
笑っている彼女の瞳は涙で溢れていました。
その涙は零れ落ちることはありませんでした。それでも確かに、その瞳は涙で溢れかえっていました。
それでもなお、女の子は笑っていました。
いまのいままで輝きを失っていたそこに、一筋の光が射したように見えました。
- 239 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:00
- その時、友だちは気づきました。
彼女は感情がなくなったわけではないのです。
『喜』の感情のスイッチが少し入りやすくなり、その他が少しだけ入りにくくなっただけなのです。
彼女は決して、忘れているわけじゃありません。
感情を押さえつけることで、自分を守っているだけなのだと、女の子の友だちはようやく気づきました。
そうすることでしか、自分を守る方法を知らなかったのなら、今度は自分が守ってあげたいと思いました。
その女の子を傷つけるものから自分ができる範囲で。
そう、思ったのです、あの日。
でも、それは叶いませんでした。
- 240 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:01
- その日以来、女の子はまた元気になりました。1学期以上にがんばって授業に出るようになりました。
授業だけではなく、行事も楽しみにしていた女の子は、サッカー部のOG戦や推薦入試にも顔を出しました。
そして、文化祭がやってきました。
その高校の文化祭では、最後にフィナーレとしてフォークダンスをすることになっていました。
このイベントは毎年好評を博しています。
このフォークダンスで踊ったカップルはずっと結ばれるという噂まで流れていました。
女の子はそのフォークダンスが楽しみでした。
結ばれるという噂が本当かどうかはさておき、そうやって踊ること自体が楽しみでした。
女の子は、友だちを誘い、一緒に踊ろうと約束しました。
その友だちも、「良いよ」とそのときは返事をしました。
しかし、その友だちは生徒会と演劇部を掛け持ちし、当日はとても忙しかったのです。
それでもがんばって、女の子との約束を果たそうとしました。
演技が終わった直後に衣装を脱いで、フォークダンスの運営に取りかかりました。
それでも圧倒的に時間は足りず、結局、女の子との約束を破ってしまいました。
- 241 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:01
- 友だちは後悔しました。
せっかく自分を誘ってくれた女の子との約束を果たせなかったと。
自分のことを「王子様」だとまで言ってくれた女の子に申し訳なくなりました。
結局自分は、生徒会という仕事を盾にして、大切な友人を裏切ったのだと。
でも、女の子はそんな友だちを責めませんでした。
文化祭の次の日、女の子は友だちに駆け寄って来てこう言いました。
「昨日はお疲れさまでした!楽しかったよ!」
女の子は笑っていました。
待ちぼうけを食らわされたのに、笑ってお礼を言いました。
友だちは、女の子のその笑顔を直視することができませんでした。
それから、女の子と友だちの仲は大きくは変化しませんでした。
でも、明らかになにかが変わったような気がしました。
あの文化祭の日、一緒に過ごさなかった1日でなにかが変わったように感じていました。
友だちはそれを女の子に聞くことはできませんでした。
怖かったのです。
いままで築き上げてきたものが一瞬で壊されるような、そんな気がしたのです。
そんな想いをもつこと自体、おかしいということに気づきながらも、友だちは聞けずにいました。
ふたりの間の微妙な距離感、少しだけできた溝は、痛々しく黒く輝きました。
そしてふたりは、2年生になりました。
- 242 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:02
- 女の子と友だちは2年生になりました。
友だちは、その子が留年せずに進級できたことを嬉しく思いました。
しかし、そう思ったのも束の間、ふたりはクラスが離れ離れになってしまいました。
それだけならまだしも、その女の子の担任は、あの女の子を追い出そうとしている人になってしまいました。
―『うちは保育所じゃないんですから。ダメな奴はリタイアさせるしかないですよ』
あのときに聞いた言葉が、女の子の頭の中を駆け巡ります。
よりによってその先生に当たってしまったことを、女の子はひどく哀しみました。
だけど、そうは言っても、もう決まってしまったものは仕方ありません。
女の子は努めて普通に学校へ来て授業を受けました。
しかし、その先生のやり方は露骨でした。
女の子が授業を1度休むとすぐに放課後に女の子を呼びだしました。
サボっているわけではなく、体調不良という不可抗力にも関わらず強く叱りつけていたのです。
辛辣な言葉をたくさん並べられましたが、それでも女の子は必死に耐えました。
これが自分の選んだ道だと言い聞かせ、学校に通い続けました。
- 243 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:03
- でも、女の子にはそれ以上にツラいことがありました。
クラスに馴染めないということです。
女の子が1年生の時は、クラス全体で彼女をフォローしようという流れがありました。
その女の子が休んだらノートを貸し、分からないところは教え合っていました。
文化祭や体育祭の準備に参加できないことがあっても、だれひとり怒らず、彼女ができるようなことをさせていました。
クラスメートはなるべく、女の子が来やすいような環境を作っていたのです。
誰かが言いだしたわけでもなく、自然にそんな空気が出来上がっていたので、女の子も笑顔でいることが多かったのです。
しかし、2年生のクラスは違いました。
良くも悪くも個人主義であり、団体でなにかをしようという動きは少なかったのです。
1学期が始まってまだ2ヶ月も経っていないからかもしれませんが、少なくとも、女の子はいまのクラスには馴染めていません。
学校を休みがちというのもひとつの理由ですが、なによりクラスメートが、その女の子を避けていました。
『弱者には触れてはいけない』というような不思議な価値観があるのかもしれません。
もちろん、1年生のときのクラスメートも何人かいますが、彼女たちのフォローにも限界があります。
女の子の孤立は急速に深まり、それで余計に学校に行きづらいという負の連鎖が起き始めていました。
女の子は再び、留年という危機にさらされていました。
しかもそれは、1年生の頃よりもさらに色濃く表れています。あの時と状況が違うのも、色濃くなっている原因のひとつです。
それでも必死に、彼女は前に進もうとしています。
がんばってがんばって、それでもがんばって、学校に通っています。
- 244 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:04
- 里沙の告白が終わり、里沙はれいなと向き合った。
「……だかられなに授業受けろってこと?」
れいなは強い瞳を里沙に向けた。
何処の誰かは知らないが、その女の子は授業を受けたくても受けられない。
その気持ちを察せば、受けられるだけの体がある自分は、授業に出るべきだということも分かっていた。
だが、それを素直に受け止めることは、どうしてもできなかった。
「ヤマモト先生になにを言われたの?」
れいなの質問には答えず、里沙は聞いた。相変わらずれいなと目を合わせようとはしない。
れいなは質問を無視されたことに少々苛立ち、押し黙った。
里沙はれいなの隣に腰を下ろし、「此処は風が通るね」と呟いた。
「その女の子の担任、サトウ先生なんだよ」
れいなは思わず「え?」と聞き返し、里沙を向いた。
そこでようやく里沙と目があった。
いつも笑って挨拶をし、愛の隣にいてサポートをしている里沙。
しかし、いまれいなの目の前にいるのは普段の里沙ではなかった。
里沙の目は、哀しみと、そして怒りを宿している。
相反するふたつの感情を持ち、それをそのまま表出する姿は、普段の生徒会副会長からは想像がつかなかった。
- 245 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:04
- 「田中っちの気持ちが分かるって言えば嘘になる。でも、分からないわけじゃないから」
強い一陣の風が、ふたりの間を吹き抜けた。
揺れる前髪の奥にある瞳は嘘を語らない。
そこでようやくれいなは、里沙がその女の子の友達であることに気がついた。
生徒会執行部、演劇部との掛け持ち、文化祭での約束など、里沙を示す要素はたくさんあった。
そしてそれはすなわち、先ほどから話している女の子が、あの日に出逢った絵里であることを示していた。
れいなは、里沙に絵里の病気について聞こうかと考えた。
しかし、それを聞く前に、自分の話をしようと決意した。
「……絵里と似たようなもんちゃよ」
里沙の瞳は嘘を語っていない。とすれば、先ほどの話は里沙と絵里のことであり、絵里はいま、自分と似た状況に在るということだ。
それを里沙は知って、この話をしてきたのだとれいなは自覚する。
そうであるなら、里沙の質問には答えるべきだとれいなは思った。
「れなも、ヤマモト先生に言われたと」
れいなはあの日のことを思い出していた。
- 246 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:06
- れいなはお世辞にも、勉強ができる生徒ではなかった。
そんなれいなが朝陽高校という私立の名門校に入学できたのは、サッカー推薦というそれだけであった。
だが、だからといって勉強をしないで良いという理由にはならないし、れいなもそうは思っていなかった。
自分が将来、サッカー1本で食べていける実力がなければ、素直に普通の大学に入学するとれいなは考えていた。
その時、ある程度の学力がなければ進学は厳しいし、これ以上、親に迷惑をかけたくないと思っていた。
それであるかられいなは、できるだけ勉強もがんばっていこうと決意して入学した。
「れいな、これはさすがにひどいの…」
そうは言っても、一朝一夕でできる勉強があれば苦労はしない。
入学直後に行われた現国と数学の小テストの結果は散々であり、さゆみも苦笑していた。
「さゆ…ちょっと此処を教えてほしいと」
「さゆみ、アイスが食べたいのー」
れいなは財布の中身と相談しながら頷いた。
- 247 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:06
- 勉強の相談相手として、さゆみは的確であった。
さゆみの成績は全体の中の上であり、れいなのそれとは比べ物にならない。
それに加え、さゆみは教え方が上手かった。
「どうして分からないんだ」というような押し付けるようなことはせず、一度基本に立ち返り、ゆっくりと応用問題を解いていく。
もし基本がわからなかったら、そこはイチから教え直し、再び問題に立ち返る。
れいなの理解する能力はお世辞にも早いとは言えなかったが、それでもさゆみは先を急がなかった。
いまのれいなに必要なのはスピードではなく確実性だと分かっていた。
さゆみは根気強く、れいなの理解を待った。
「れいなみたいなバカは教えがいがあるの」
「バカバカ言うんやなかと」
「言われたくなかったらこれ解いて」
そう言われて差しだされた問題は、先ほどつまずいた応用だった。
れいなは閉口したが、なんとか解こうとシャーペンを動かし始めた。
さゆみの将来の夢はまだ決まっていないらしいが、教師にでもなれば良いとれいなは思っていた。
そう思うくらい、さゆみの教え方にはクラスメートにも定評があった。
そんなさゆみに分からないところを教えてもらえるくらいなら、アイスの1本くらい惜しくはない。
さゆみの教え方と、れいな自身の努力の甲斐もあり、少しずつではあるが、れいなの理解も早くなっていった。
傍から見れば微々たる成長ではあるものの、それでも確実にれいなの成績は上がる兆しを見せていた。
その証拠に、授業中に行われる小テストの点数は日に日に上がり、分からない問題も減っていった。
順調だった。
順調だったはずなのに、ある日の授業でそれは呆気なく壊れた。
- 248 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:07
- それは化学の授業中だった。先日行った小テストの答案が返却されている時だ。
名前を呼ばれた順に教卓まで答案を取りに行く。れいなも例外なく呼ばれ、席を立った。
「田中ぁ、その髪の色はなんだ?」
そう言われて、れいなは前髪を触った。
れいなの髪色が明るいのは生まれつきという面もある。
全く染めていないかと言われれば嘘になるが、それでもほとんど色は入れていない。それでもこの明るさになるのは仕方なかった。
「聞いてるのか、田中」
しかし、周りの生徒を見ても自分と同じくらいの明るさは何人もいた。
そもそもこの高校に染めてはいけないという校則は存在しない。
ヤマモトは今年度から生徒指導部長になった。彼の教育方針は分かっている。
この人には何度か校門前でも注意されたことがある。しかし、それをなにもいま言う必要があるのかとれいなは思った。
「地毛ですもん、仕方ないです」
言い返した瞬間、空気が変わった。
いままで、生徒指導部長であるヤマモトに反抗した生徒は滅多にいなかった。
それは、ヤマモトのもつ権力性や一人歩きする噂話のせいでもあった。
生徒指導部長は、昨年まではサトウという教諭であったが今年度からはヤマモトが担当することになった。
学校という職場において、生徒指導部長の権力は思いのほかに大きい。
ヤマモト先生に睨まれたら面倒なことになるというのは1年生の間でも有名な話であり、だれも反抗しようとはしなかった。
そんな中、れいなは全く臆することなく言い返した。
しかもよりによって、ヤマモトの機嫌の悪い日に。
- 249 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:08
- 「田中、反抗的じゃないか」
「別にそういう気はないとですけど…」
さゆみは心配そうな顔でれいなとヤマモトを交互に見る。
ヤマモトの権力の話は聞いているが、そんなのを知って退くような性格じゃないれいなだということも知っている。
なにかこの場を打開できる案はないかと考えたが、咄嗟には出てこなかった。
「最近勉強ができるようになったから調子に乗っているのか」
「だからそういう気は」
「どうせカンニングでもしてるんだろ」
その言葉に、れいなはカチンときた。
れいなの纏っている空気が変わり、さゆみはいよいよハラハラした。
「…人が必死で勉強したのに、そういう言い方するとですか、先生は」
「入学時の成績は目も当てられないものだったからな。サッカーができるというだけで試験を免除されて、良い身分じゃないか」
れいなは教科書を床に叩きつけた。
部活が忙しく、放課後に勉強する暇はない。だから、休みの日に挽回しようとさゆみに手伝ってもらい、必死で勉強した。
授業の合間の休み時間も眠い目をこすって前の時間に行った小テストの復習をした。
それでようやく最近になって成績が上がりそうなのに、なぜそこまで言われなくてはならないのかと思った。
「れなはカンニングなんかしとらんと!」
「どうだかね」
ヤマモトの目は、笑っていた。なにが楽しいのか分からない。
自分自身はともかく、れいなに付き合って教えてくれたさゆみにまで失礼じゃないかと思った。
れいなは怒りに震え、そのまま踵を返した。
「れいな!」
さゆみの止める声を振り払い、れいなは教室を後にした。
- 250 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:09
- ---
- 251 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:09
- 「それで化学の授業だけサボってるわけね」
れいなの告白を聞き、里沙は言った。
「分かってると、このままじゃいかんってことも。でも、あんなこと言われて腹が立って……」
れいなは膝を抱えて俯いた。
里沙とひとつしか違わないのに、いまのれいなは、まるで悪いことをした子どものように見えた。
「さっきの女の子がね」
「え?」
「さっきの女の子、学校に来るのはツラいけど、楽しみがあるんだって」
里沙はれいなの肩を抱き、続けた。
「その子ね、放課後に屋上からグラウンドを見るのが好きだったの。運動はできないけど、運動するのを見るのが大好きだから。
それでね、最近はサッカー部を見るのが好きなんだって」
「サッカー部を?」
「そう。サッカー部に入部してきた女の子でね、一生懸命グラウンドを走ってる子がいるんだって」
- 252 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:09
- ---
- 253 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:10
- 「今日も人間観察ですかー」
屋上の扉を開け、開口一番に里沙が言った。
絵里は振り返り、いつものように「うへへ」と笑いながら返した。
「ほら見てガキさん!あの子だよ」
絵里の指さす先には、白と黒のボールを追いかけてグラウンドを必死に走る生徒がいた。
体操服の上に青いユニフォームを着ている女の子の背番号は07。あの推薦入試の日と同じ番号だった。
「好きだねえ、田中っち見てるの」
「だって凄くない?あの走りとかさー、ボールの蹴り方とか、すっごいカッコいいじゃん」
そう話す絵里の顔はキラキラと輝いていた。
どこか自嘲的にグラウンドを見ていた1年生の時とは違う、本当に楽しんでいる様子だ。
「れーなね、絵里より身長低いし、脚もそんなに速くないのにサッカー部で一番輝いてると思うの」
「どうしてそう思うの?」
「だってほら」
「1年集合しろー!」
「はいっ!」
「ほら、一番声が大きいのもれいなじゃん」
「…分かんないなぁ、それは」
「もう、ガキさんは素人ですから」
「なんかムカつくねー、その言い方」
そう言われても全く気にせず、相変わらず片八重歯を覗かせながらニコニコと笑う絵里。
「れーな、カッコいいもん」
- 254 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:11
- その視線はいつも、れいなを見ていた。
こんなに絵里を夢中にさせる田中れいなとはどういう存在なのか、里沙は興味を持った。
悪いとは思いながらも、生徒会副会長という権力を使い、れいなを少しだけ調べた。そして、推薦入試でのれいなの活躍、入学後の成績の件と最近の授業欠課数のことを知った。
そんな中、愛がれいなを授業に戻すように里沙に頼んできた。
愛がなぜ、れいなが授業をサボっているのかを知ったのかは知らないが、良い機会だからと里沙も協力することにした。
そして里沙は何度かれいなと会ううちに、絵里を夢中にさせるなにかに気づき始めていた。
それに確信をもったのは、まさに今日、れいなの瞳を見たときだ。
冷めたように世界を見て、なにかを諦め、殺伐としたものしか宿していなかったその瞳が、絵里の話をすると急に燃えた。
光りを探してもがき苦しみ、それでも前に進もうとする焔の瞳は、里沙の心に焼き付いた。
それこそが、絵里を捉えたひとつのファクターであるのかもしれないと里沙は思った。
- 255 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:11
- 「サッカー部は遅くまで部活してるから最後までは見れないけど、いっつも屋上から田中っち追いかけてるんだよ」
れいなは黙った。あの女の子が、自分を見ていることなど知らなかった。
「田中っちが授業を受けるかは自分で決めればいいと思う。でもね」
里沙はゆっくりと立ち上がった。
「輝いていてほしいんだ、カメのために」
- 256 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:12
- 「守る」というのは、口で言うほど容易くない。
約束も、アッサリと果たせなくなってしまうこともある。
たったひとつの小さな綻びが、いつの間にか大きな深い溝になることだってある。
少しずつズレ始めた里沙と絵里の仲は、修復不可能なものではない。喧嘩をしたわけでも、まして仲違いになったわけでもない。
だが、里沙の絵里への気持ちと、絵里の里沙への気持ちは大きく違い始め、絵里がれいなに気持ちが向いていることも知っていた。
守ることを諦めたわけじゃない。
その形がいままでとは少し変わるだけ。
あの日に誓った気持ちに嘘や偽りはない。
ただ絵里に、笑っていてほしいだけだったから。
その時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
帰ろうとする里沙の手をれいなは取った。
なにかを言おうとするが、口にできない。
口下手で語彙不足の自分を呪うがどうしようもなかった。
泣きそうになるのを堪えているが、もう限界だった。れいなの瞳から涙が溢れた。
そんなれいなを見て、里沙はゆっくりと抱きしめた。
「ごめんね、いろいろ話して混乱させて」
れいなは首を振り、里沙の肩に顔を埋める。
なぜこんなにも泣いているのか、自分でも説明できなかった。
だが、溢れる涙は止まることを知らない。れいなは子どものように泣きじゃくった。
里沙も無理に泣きやませようとはせず、ただれいなの背中をさすっていた。
どうか、どうか、シアワセにと祈りながら。
- 257 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:13
- ---
- 258 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:13
- 「さゆ!」
教室に戻ってきたれいなは息を切らしてさゆみに詰め寄った。
そんなことは露知らず、さゆみは相変わらず鏡を見つめうっとりしている。
「……あのっ」
「告白ならお断りなの」
「ばっ、違うと!」
相変わらず、だ。
この絶妙なテンポでのやり取りが好きだ。
さゆみのことも、嫌いじゃない。寧ろ好きだ。告白は、絶対にしないけれども。
「れなに、勉強教えてほしいと」
「いーけど、教科は?」
「……化学」
その言葉を聞いて、さゆみは初めて鏡から目を外した。
れいなを見ると、彼女の瞳はいままでと少しだけ違っていた。どこか覚悟を決めたような、そんな瞳だった。
「…さゆみ、パフェが食べたいの」
「奢っちゃるけん、頼むとよ!」
さゆみはニコッと笑い、ノートを取りだした。
いまのサボっている間になにがあったのかは知らないが、このれいなの変化は喜ばしいことだった。
すんなりと授業に戻れるわけはないだろうが、いまは黙って勉強を教えようとさゆみは思った。
- 259 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:13
-
―輝いていてほしいんだ、カメのために。
里沙の言葉が頭を巡った。
輝くことが、化学を勉強することとは直接結びつかないかもしれない。
だが、いまのれいなにできることは、少なくともそれしかない。
此処で燻っていても、どうしようもないのだ。
文化祭の日、れいなを見つけ、助けてくれた絵里。
そして、この目を好きだと言ってくれた。
―れーなの目、好きだよ
応えたかった。
いつも遠くでれいなを見て、応援してくれる絵里のために。
絵里自身が闘っているというのなら、れいなが此処で止まっているわけにはいかない。
―闘おう、一緒に。
れいなは大きく息を吸ってさゆみの貸してくれたノートに目を通す。
いきなりわけのわからない記号が並んでいる。なにが書いてあるのか理解できそうになかった。
そんなれいなを察したのか、さゆみはわざとらしくため息をついてシャーペンを握った。
「れいなは今週の日曜日に特訓なの」
「お、おう、部活も休みやし、任せちょけい!」
さゆみは視線の泳いだれいなを見て、これはお昼でも奢ってもらわないと割に合わないかもしれないと苦笑した。
- 260 名前:Only you 投稿日:2011/09/19(月) 20:15
-
朝が来るのが最近は怖い。
絵里はゆっくりとベッドから起きてカーテンを開ける。
シトシトと降る雨のせいで、空は暗い。6月という梅雨のせいかもしれないが、この雨にはほとほと参っている。
こんな日は余計に気持ちが下がってしまう。うんざりしながらも洗面台に顔を洗いに行った。
台所からは包丁のリズムとテレビの音がする。時折、父と母がなにかを話しているのが聞こえる。いつも通りの朝の音だ。
絵里は6月に入ってからというもの、朝早く起きて登校し、放課後は下校時刻ギリギリまで学校に残るようにしていた。
両親には、部活をしていないから学校で勉強するという風に言ってあった。
そんな絵里を見て、両親は素直に嬉しがっていた。留年の危機にある以上、学校へ行ってくれるのは悪いことではない。
だが、本当の理由はそうではない。
いや、そういった意味もあるが、それだけではないと言った方が正しい。
絵里は傘を閉じて靴箱へ向かった。
この緊張感は、中学時代と何も変わっていなかった。あの頃と全く違うはずなのに、あの頃と同じ感覚。
絵里はギュッと胸元を握り締め、自分の靴箱を見る。
それは、あった。
一枚の紙切れがポツンと、絵里の上履きの上に置いてあった。
ああ、今日もあったかと絵里は静かに覚悟し、その紙切れを読まずにポケットにしまい込んだ。
そのまま靴を脱ぎ、軽くあたりを見回してから何事もなかったかのようにトイレへと歩いた。
- 261 名前:雪月花 投稿日:2011/09/19(月) 20:20
- とりあえず以上になります。
もしかしたら今夜はもう1回更新するかもです。
- 262 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/20(火) 01:03
- やばいー
wktkwktk
- 263 名前:雪月花 投稿日:2011/09/20(火) 07:58
- もう1回とか言いながら日を跨ぎました、雪月花です。
>>262 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
期待してもらえてるようで嬉しいです、精進します。
宣言よりかなり遅くなりましたが更新します。
- 264 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:00
- 6月の雨は苦手だった。長期的に降る雨はサッカー部の練習の妨げになる。
特にいまの期間は中間考査前ということもあり、部活動は全面中止となっている。
ボールに触れないだけでなく、全員で集まって筋力トレーニングもできないとなると、れいなのストレスは溜まりっぱなしになってしまう。
個人的になんとかストレスを発散させようとするも、そんな都合よく出てくるストレスマネジメントもない。
結局れいなは、放課後の暇を持て余している帰宅部さゆみに勉強を教わり、一緒に帰り、彼女になにかを奢るという日々を送っていた。
あの日以来、れいなは真面目に授業に出るようになった。
最初こそ、化学のヤマモト先生に嫌みを言われたものの、れいなは黙ってそれに耐えた。
またいつかのように怒るんじゃないかとさゆみはハラハラしたが、れいなは全く動じなかった。
ヤマモトも必要以上に言うことはせず、そのまま授業は再開された。
授業を休んでいた分、れいなの化学の成績はひどいものであったが、さゆみの努力のおかげもあり、どうにか人並み程度には理解できるようになっていった。
もうすぐ行われる中間考査の結果次第では、ヤマモト先生の中でのれいなの評価も上がりそうだとさゆみは確信していた。
「だから今回は化学に力を入れるの!」
「そうは言っても、分からんちゃもん…」
誰もいない教室で、目の前に座って指導するさゆみを見て、れいなはうんざりした。
何処の家庭教師だお前はとツッコミたくなるほど、さゆみはスパルタ教育だった。
それはひとえにれいなのためを思ってやってくれていることなのだろうが、さすがにキツかった。
「とりあえず…休憩するっちゃ」
そう言って立ち上がるれいなの手を取るさゆみ。
「逃げないのー」
「逃げはせんと。ホントに休憩するだけっちゃ」
「そうやってすぐ言い訳してー」
れいなはなんとか腕を振りほどこうとするがなかなかうまくいかない。
そのうちさゆみも立ち上がって、ふたりは同時に廊下に出る形になった。
「分かった、さゆも休憩すればいいと!」
「もう。サボりたいだけでしょー」
そういうさゆみも疲れているのか、本気でれいなを止める気配はなく、その声は明るい。
れいなが「ニシシ」と笑って窓の外を見たときだった。
- 265 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:00
- 視線の先に、彼女が、いた。
見間違えるはずがない。
少し離れた渡り廊下をひとり歩くその姿は、間違いなく、半年前の文化祭で出逢った彼女だった。
「絵里…」
呟いたれいなを不思議そうに見つめるさゆみ。その視線を追って、そこにいる女の子の姿を認めた。
れいなはさゆみの腕を振り払い、廊下を駆け出した。
「ちょっと、れいな?」
さゆみも慌ててれいなを追いかけた。
- 266 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:01
- 「コラー、廊下は走っちゃダメだべさ!」
「ごめんちゃ安倍先生!ちょっと急用やと!」
渡り廊下へ出る直前、れいなは国語の教科担任である安倍に注意されたが、いまは振り返っている暇はない。
「こら、シゲちゃんも走らない!」
「ごめんなさーい。れいなのせいなんですー!」
後ろからさゆみの声が聞こえてくるが、そんなのに構っている場合ではなかった。
- 267 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:02
- 半年前にたまたま出逢っただけの存在。
そのはずなのに、こんなに必死になって自分が走っている意味はなんだろう。
パーカーを返してほしいだけなら、絵里の仲の良い生徒会の里沙や愛に言えばいいだけの話。
そもそも今年の4月から同じ学校にいるのだから、逢おうと思えばいくらでも逢えたはずだ。
昼休みでも放課後でも、少しの時間を見つけて逢いに行くことくらいできたはずだ。
しかしれいなは、それをしなかった。
少しだけ、ムキになっていたのかもしれない。
―れーなの大きい目、好きだよ
たった2回しか会っていないのに、急に「好き」と言われたあの日。
その言葉を鵜呑みにしてドキドキして、ひとりで照れていた自分がなんとなく、バカみたいに思えた。
絵里自身は気まぐれやお世辞でそのセリフを言ったに違いないのに、一瞬でも本気で捉えて有頂天になった自分が間抜けに思えた。
そんなバカで間抜けな自分が、わざわざ里沙や愛を仲介して絵里に会いに行くのはもっとバカバカしかった。
それこそ、自分が本気になっているようだった。
- 268 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:02
-
―“本気”に…?
れいなはそこまで考えて思考を転換させた。
文化祭の日も思ったが、“本気”になるとはなんだろう。
本気で、本気で好きになるということだろうか。
―れなが、絵里を?
校舎の外に出たれいなは一度立ち止まって首を振った。
そんなことはあり得ない。
好きになるなんて、そんなことは断じて絶対にないと思った。
だって
だって、れなは女の子で、絵里も女の子で。
そういう感情は間違っているというか、認められないというか。
そもそも好きという感情以前に絵里ともまだ知り合って間もないのに、友だちとしてもまだまだ仲良くなっていないのに。
―あー、もう、なにを考えとるとれなは!
頭をガシガシとかきむしる。
いったいなんという思考をしているのだろう自分は。
たまたま会っただけの先輩なのに、そういう思考を巡らせること自体が不毛なはず。
そのはずなのに、一度考え始めたことはなかなか頭から離れない。
そもそも、これはたったいま考え始めたことでもない。
半年前に逢った時から考えていたことだった。
- 269 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:03
- 推薦入試の試合で、最後のPKを外したあの日に交わした保健室での会話。
―れーなは、絶対、自分の思い通りに未来を創っちゃうタイプだから。だいじょーぶだよ。
なんの疑いもなく、そしてなんの根拠もなく発した言葉。
なにが「絶対」なのか、なにが「大丈夫」なのか全く分からない。
なにをもってしてこの発言があったのかも、いまのれいなには理解することはできない。
だが、その言葉を聞いて、なにかが変わった。
ただPKを外したことが悔しくて、勝てなかったことが不甲斐なくて、ひとり寂しく地面ばかり見ていたのに、あの言葉を聞いて、急に視界が開けた気がした。
別に、将来の方向性が見えたとか、別の高校を受験する決意をしたとかそういうことではない。
ただ単純に、自分を覆っていた見えない闇から解放された気がした。
ひとつの道しるべを、彼女はくれた。
それかられいなは、絵里のことをよく考えるようになった。
たった一瞬の出逢いだったのに、気づけば中学卒業まで、絵里のことを忘れた日はなかった。
この感情の名前を、れいなは知らない。
いまはまだ、彼女自身も知らない間にフタをする。見ないように、だれにも見つからないようにキツくフタをして奥底にしまい込んだ。
- 270 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:03
- 「いきなり走って止まらないのー!」
背中に衝撃を受け、れいなは3歩ほど前に出た。
ぶつかってきたさゆみは「イタタ」とおでこをさすっている。
車じゃないんだからちゃんと止まってくれよと思うが、いまは突っ込んでいる場合ではない。
れいなは先ほどまで絵里がいた渡り廊下を速足で歩くが、彼女の姿は見つけられない。
何処に行ったのだろうと考えるが、彼女が行きそうな場所など知らない。れいなは頭をかいた。こんなにもどかしいことは初めてだった。
「れいなっ!」
思考は急に中断させられた。
さゆみに腕を引っ張られ、れいなは強引に渡り廊下の先にあるドアの陰に押し込まれた。
「な、な、なんしよーと!」
「静かに」
さゆみのただならぬ気配に押され、れいなは押し黙った。
さゆみも黙ってドアの隙間から少しだけ顔を出してなにか様子を見ている。
誰かいるのだろうかと自分も覗こうとすると、呆気なくさゆみの右腕に頭を押さえつけられた。
「……もう大丈夫なの」
さゆみはようやくれいなを解放した。
れいなはわけが分からないと言わんばかりにさゆみに突っかかった。
- 271 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:04
- 「いま、あそこにスズキ先輩たちのグループがいたの」
「スズキ先輩…?」
それはどこにでもいる生徒たちだった。
朝陽高校は進学校であるが、それはあくまでも一部成績上位者たちによるものである。
全員が全員、有名な大学に進学するわけはなく、特に夢や目標もなく、名もなき私大や専門学校に進学する生徒も少なくない。
それだけならまだしも、進学する気もなく、就職の予定もない生徒も少なからずいる。
中学までは成績上位者でも、進学校に入ってしまえば簡単に落ちこぼれになる生徒も少なくない。
そんな生徒たちが、なにくそと奮起して勉強し、切磋琢磨して成績を上げればいいのだが、現実はそうはいかない。
落ちこぼれになってしまった生徒は、大抵そのままズルズルと落ちるか、ドロップアウトするかの二択になる。
要するに、何処の場所にも、彼女たちは存在するのだ。
彼女たちは朝陽高校では有名な不良グループだ。
2年生のスズキという女子を中心にグループはつくられ、そこそこの悪いことをしているらしい。
れいなはそういう話には興味がないからあくまでもさゆみから聞いた「らしい」という噂話でしか知らない。
「れいなはもう少し注意した方が良いの。ただでさえ目立つんだから」
さゆみに何度かれいなはそう言われた。
サッカー部でいきなりレギュラー候補に選ばれたからか、髪の色が明るいからか、それともヤマモト先生に反抗して授業をサボったからか。
とにかくいろいろな意味で、れいなは目立っていた。
その話は上級生の耳にも入っているようで、休み時間になると時々様子を見に来る生徒もいる。
- 272 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:05
- 確かに、あの先輩たちに目をつけられて喧嘩はしたくないなとれいなは思った。
せっかく手に入れた憧れの場所。因縁をつけられることは慣れているが、そんなくだらないことで此処を失いたくはなかった。
「とにかく、教室戻らない?さっき言ってた子もいないみたいだし…」
さゆみの提案は最もだった。
一度絵里を見失ってしまった以上、此処に留まる意味もないし、まごまごしているうちにスズキ先輩たちに見つけられるのもごめんだ。
なにより、もうすぐ中間考査であり、勉強をする必要もある。
正直、逢いたいという気持ちは大きかった。
しかし、一瞬でもその姿を見れたことでれいなは少しだけ安心した。
―また逢える…よな
れいなはさゆみの提案に頷き、元来た道を歩き出した。
雨が少しだけ、強くなった。
- 273 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:05
- ---
- 274 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:06
- 「今年もこんな時期になったのー」
愛の言葉に思わず振り向くと、彼女の視線は職員室近くの廊下に貼られた1枚のポスターに向けられていた。
そこには『文化祭演劇部主催ミュージカル オーディション開催』と書かれていた。
そう言えば去年、自分は愛と絵里に乗せられてこのオーディションを受けてまさかの主役に抜擢されたなと思いだしていた。
「今年も愛ちゃんは出るの?」
「どうやろねー。今年はこっちの問題があるがし」
そう言って愛は、手に持っている青いクリアファイルを軽く持ち上げた。
その中には、去年から問題になっている制服撤廃に関する嘆願書が入っている。
「制服撤廃って言うても、具体案はないし、ただダサいってだけやからなあ…あーしはいまの制服気に入ってるんやけどな」
生徒会長の愛が最後に成すべき仕事は、この制服撤廃に関してであった。
愛は基本的に、この運動には反対であった。
それは、単純にこの運動の理由が「ただダサいから」というとても筋が通っていないものであることと、「制服」というひとつの伝統と調和をわざわざ乱したくないからというものであった。
その為に愛は、この運動に賛成する生徒たちに明確な理由をもって生徒会が反対しているという方針を告げる必要があった。
彼女らが勝手に運動を起こすこと自体には反対しないが、生徒会としては一切手を貸さないということを明言する必要があった。
ただ、それをどう伝えるかが問題であった。
生徒会は生徒の意見を聞くのが仕事だろうと、なにを言っても文句で返されそうな気がした。
どうにか波風を立てずに終わることができないかと考えたが、それはなかなか苦労する話であった。
「ま、今年も頼まれたし、受けるだけ受けるとは思うよ」
そうは言っても、演劇自体は好きであるので、愛はやはりオーディションは受けるようだ。
今年の演目はまだ漠然としていてハッキリとは分かっていないが、どんな役にせよ、愛はそれになりきって舞台に立ちたかった。
- 275 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:06
- 副会長になった里沙はと言えば、正直悩んでいた。
去年主役に抜擢され、あの大舞台での経験は、里沙にとって大きな糧になったし、有意義な時間を過ごすことができた。
だが、今年は副会長という立場もあり、去年以上に自由が制約される。
文化祭のフィナーレを後輩がサポートしてくれるとは言え、結局は自分たちの仕事量に変わりはない。
どうやっても忙しいのは目に見えている。
そして思い起こすは、去年のフィナーレで果たせなかった約束であった。
自分が忙しかったために、絵里とダンスをするという約束を反故にしてしまった里沙。
それを絵里は気にしないとは言っているものの、あの日の出来事は、お互いの心に残り、それ以来、微妙な関係が続いている。
喧嘩をしたわけではない分、どうやってこの関係を修復するかを里沙は悩んでいた。
いっそのこと激しい喧嘩をしたのであれば、どちらかが折れて謝れば済む話なのだが今回に関してはそうはいかない。
互いが互いに気を遣って遠慮しあい、結果的に微妙な関係を構築している以上、修復に要する時間は増える気がしていた。
そんな状況であるがゆえに、もう一度、その原因となったオーディションをすんなり受けようという気にはなれなかった。
- 276 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:07
- 里沙はポスターから視線を外し、生徒会室へと歩き出した。その道すがら、愛にこう言われた。
「そういえばれいなのことやけど、ありがとうな」
「ううん。授業に戻ったのは、田中っちの意志だから」
「れいなには、なんて言ったんや?」
「内緒ですよ、会長さん」
おどけて言うその顔に、愛は苦笑するしかなかった。
なるほど、そこは企業秘密というわけかと納得した。
こういうところはずいぶん、大人になったのだなと妙に上から目線で愛は思った。
もう里沙は充分に、生徒会副会長としての器ができていた。
いまはまだ内緒であるが、愛はその内、自分の後継者、すなわち生徒会長に里沙を推薦しようかと考えていた。
これほど仕事を完ぺきにこなし、後輩の面倒見が良い生徒はいない。
ハッキリ言って、いまの会長である愛以上に仕事はできるはずだ。
後悔からの人望も厚く、自分よりも教師陣からの信頼もある里沙なら、安心して会長を任せられると考えていた。
それをいつのタイミングで里沙に話すかも、愛の悩みのひとつであった。
- 277 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:08
- 最近、里沙はなにをするにしても集中できないということが多かった。
その理由をひとつ提示しろと言われたら、里沙は真っ先に絵里のことを挙げるだろう。
このところ、絵里の様子がおかしかった。
いままでは遅刻ギリギリに登校するはずだったのに、ここ1ヶ月はずいぶん早起きになった。
そしてそれに応じるように放課後も下校時刻ギリギリまで学校に居残るようになっていた。
それだけなら勉強するための良い変化だとも言えるが、理由を聞いても彼女は曖昧に誤魔化すだけだった。
次に、目に見えて塞ぎ込む日々が続いていた。
絵里は常に笑っているから、「大丈夫だよ」と言うから、本当にツラい時に気づきにくい存在だった。
そんな絵里が、分かりやすいほどに塞ぎ込んでいる。これはなにかあったと疑わない方が異常だった。
そして、里沙が最も気になっているのは、絵里の放課後のことだった。
帰宅部である絵里の放課後の使い方は1年生のときから変わっていない。
その日に出された宿題をやり、休憩がてらに屋上へ行ってグラウンドを眺める。最近のお目当てはサッカー部の田中れいなである。
雨が降った日には、自分の教室から眺めるか、もしくは校舎の最上階に位置するこの生徒会室までやってきて窓の外を見るかである。
里沙は生徒会の仕事があるため、絵里に付き合うことはできないが、仕事の休憩時間に屋上に行くと、必ず絵里はグラウンドを眺めていた。
教室に行けば、窓の外を見ているか、勉強をしているかのどちらかであった。
- 278 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:09
- しかし、ここ1ヶ月の彼女は少し違った。
いままでは放課後になれば必ず絵里は何処かにいたのに、いまは何処にもいないのである。
晴れた日は屋上、雨の日は教室という法則がことごとく通用しないのである。
クラスが違うため、絵里と里沙が会話する機会は、いままでより激減した。
その数少ない会話時間が、放課後であった。
しかし、その放課後になっても、ふたりが会う回数は減っていた。
たまたま会えた日に「昨日は何処に行っていたの?」と聞いても、絵里はその時々で、「図書館」や「散歩」というように回答が違う。
それをそのまま鵜呑みにすることは、里沙にはどうしてもできなかった。
「本当にそうなの?」といつも聞き返すが、その度に絵里は困ったように笑った。
- 279 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:09
- 最近の絵里は、なにかおかしい。
なにか、なにかを抱えていることは間違いなかった。
だが、それを聞きだす勇気がなかった。
守ってあげたいとあれほど思ったのに、どうしてもあと一歩が踏み出せなかった。
怖かったのかもしれない。
薄々見えつつあるその真実に、自分が真正面から向き合うこと自体が怖かったのかもしれない。
だが、今回ばかりは逃げてはいけない気がした。
いま、この機会を逃したら、絵里と向き合うことは永久に叶わなくなる気がした。
果てしなく、壮大な話に聞こえるかもしれないが、里沙は本気でそう思っていた。
もうこれ以上、偽ることはできない。
分かっている。最初から。ずっと。
本気で守りたいのなら、なにもかもかなぐり捨てる覚悟がいると。
『自分を守っている』ちっぽけな見栄やささやかなプライド、そして、生徒会副会長としての仕事。それらを一瞬だけでも捨てる覚悟。
絵里が闘うのなら、自分も闘う必要がある。
里沙は静かに目を閉じ、立ち止まった。
―もう、いましかない。
「愛ちゃん、ちょっと、相談あるけど、良いかな?」
- 280 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:10
- 愛は言葉を向けられて「うん?」と返した。
「ちょっと今日、生徒会サボっても良い?」
愛は急なその言葉になんと返答するか一瞬だけ躊躇した。
今日は朝陽高校の全部活動の予算編成のための話し合いを行う予定であった。
この話し合いは、基本的には全員参加が原則であり、そうでもしないと終わらない作業であった。
すでに生徒会室には、同じ執行部の生徒が全員そろって、会長と副会長の到着を待っているはずだった。
そんな日に、責任感が強く、いままで一度たりとも仕事を休んだことがない里沙が、初めて休みたいと言ってきたのだ。
そこにはなんらかの理由が存在するに決まっていると愛は直感した。里沙は自分だけの都合で簡単に仕事をサボろうと言いだす人間じゃない。
「…行きぃ」
「え?」
「はよ行かんね。こっちはどうにかするわ」
里沙の手から予算案の書類を奪い取り、愛はそう告げた。
すでに彼女の頭の中では、里沙がいないことをどう生徒たちに告げるか、そしてそのままどう話し合いに繋げるかがシュミレーションされている。
その顔はまさに、朝陽高校を背負って立つ『生徒会執行部会長』そのものだった。
里沙はその言葉になにも言えなくなり、ただ一礼して走りだすのが精一杯だった。
会長の優しさに甘える形になるが、いまは迷っている暇はない。
- 281 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:10
- ずっと気にかかっていることがあった。
ここ1ヶ月の絵里の登校する時間の早さ。そしてそれに比例する下校時刻の遅さ。
絵里が笑顔を向ける日数の少なさ。明らかに塞ぎ込みがちな日々の多さ。
いつも日課にしていた「人間観察」をしなくなった理由。そして何処に行ったか分からなくなる放課後。
―なにもないわけ、ない。
里沙は迷わず、絵里の教室へと走った。
勘違いならそれでも良い。
なにもないって言い張るならそれでも良い。
だけどいまは、絵里の傍に居たかった。
ねえ、カメ。
笑って、会いたいよ。
里沙はそう思いながら、走る速度を一気に上げた。
- 282 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:12
-
れいなはいつものようにグラウンドの外周を走っていた。
レギュラー候補とは言え、所詮は新入部員。まだまだボールに触らせてもらえる機会は少なく、いまは先輩たちの練習風景を見たり、片付けをしたりすることが日課だった。
この日も普段と同じように、新入部員同士で声を出しながら外周を走っていた。
6月末は雨の降らない日でも湿気が多い。その湿気と汗のせいで、れいなの前髪は額に貼りつき、鬱陶しいことこの上なかった。
れいなは走りながら、ふと里沙に言われたことを思い出していた。
―いっつも屋上から田中っち追いかけてるんだよ。
絵里はいつも、自分を見ているらしい。
どうして自分なのか、なんの意図があってかは知らないが見ているようだ。
それはれいなにとって単純に恥ずかしく、そして嬉しかった。
里沙から聞く絵里の様子から察するに、絵里はれいなのことを嫌いではないようだ。
それだけが単純に嬉しかった。
- 283 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:13
- 今日も見ているのだろうかとれいなは思い、ちらりと屋上を見上げた。
れいなは裸眼で視力は良い方である。とはいえ、ずいぶん離れた屋上でだれがこちらを見ているのかまでは判別がつかない。
しかも残念なことに、今日は屋上には誰もいないようだった。
―今日はおらんとかいね…
少し悔しそうに下唇を噛んだときだった。
屋上のフェンスに人影が見えた。
じっと目を凝らすと、その人影がひとつ、ふたつと見える。気づけばその影は4つ以上になっていた。
れいなは走るスピードは変えず、その人影に意識を向ける。
人影がいくつあるかははっきりとは分からないが、ひとつだけ確信を持てることがあった。
それは、その影がひとつだけ、こちらに背を向けているということ。
そしてそれは。
それは。
―絵里……?
肩まで伸びたサラサラの髪、少しだけ見える横顔。そこには細いメガネがかけられている。
まさかと思うが確信は持てない。
その上に、彼女たちがなにをやっているのかも見えない。
れいなは目を凝らして屋上を見上げるが、やがて彼女たちは何処かに消えた。
少しだけ、背を向けていた彼女がいささか乱暴に消えた気がした。
それは、故意に倒されたようにも、見えた。
- 284 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:13
- れいなの心臓が高鳴った。
無駄に鼓動が早くなる。
その音が耳から脳から全身へとめぐる。
うるさい。
うるさすぎて嫌になる。
なんだか、イヤな予感がした。
無性に、なんの根拠もなく、れいなはイヤな予感がした。
- 285 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:14
- れいなは視線を前に戻し、周りを確認する。
そして右脚で地面を蹴る瞬間、左脚で右脚の脛を思いっ切り蹴り飛ばし、派手に転んだ。
「いったー!」
声を出していた新入生たちが急に立ち止まった。
「れいな、大丈夫?!」
「転んだの、平気?」
れいなはゆっくりと立ち上がる。その膝は少し擦りむいて血が流れていた。
「あー、大丈夫と。だけんちょっと保健室行ってくるけん、先輩たちにそう言っとって」
れいなが笑いながら少しだけツラそうにそう言うと、部員たちは口々に、「分かった」「気をつけて」と呟いた。
その心配そうな顔に申し訳なくなるが、いまはそれを気にしている場合ではない。
れいなは擦りむいた右膝を庇うように靴箱へと走った。そして靴を脱ぎ、部員たちの姿が見えなくなるのを確認すると同時に一気に加速した。
―この姿を見られたら、また先輩たちに怒られるっちゃね。
そんなことをぼんやり考えながら、れいなは屋上へとつながる階段を上った。
- 286 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:14
- 「だからさ、お金貸してって言ってるじゃん」
先ほどからこの言葉を何度投げかけられただろう。
目の前には、いつだったか「くらーい」という言葉をぶつけてきた女たちが勢ぞろいしている。
あの日はあなたたちのおかげで発作を起こして大変だったんですよとは決して言えない。
さらに言うなれば、いまも発作が起きそうな気がしてならない。
早くこの時間が過ぎ去ってくれと祈るしか方法はないが、どうもそう簡単に過ぎ去ってはくれないようだ。
「ねえ聞いてるの、亀井さん」
そう言うや否や、絵里は肩を強く押され、屋上のフェンスに叩きつけられた。
背中越しに金網の冷たさと痛みを感じる。
絵里を取り囲む生徒の中心人物は、哀しいかな、絵里のクラスメートであった。
クラスメートと言うほど仲良くはない。むしろ仲は最悪な方だ。
下の名前までは知らないが、簡単な名字であるのでそれが『スズキ』ということだけは覚えていた。
「つーかさ、ムカつくんだよね、あんた」
おいおい、話が変わっていないかと突っ込みたくなった。
先ほどまでは金を貸せと言っておきながら今度は絵里の性格の問題ですか。
そうは言っても、絵里のこの性格はなかなか変えられませんよと言いたくなるが、やめる。
絵里が自嘲気味に笑うとそれが気に食わなかったのか、彼女たちはいっそう強く絵里をフェンスに押し付けた。
「なに、余裕のつもり?」
「そんなこと…ないよ」
怖くないと言えば嘘になる。
だが、「怖い」という表情ができない。どうすれば怖がっているように見えるのか、思い出せない。
なんだかもう疲れてしまっていた。やっぱり自分は壊れてしまっているようだ。
- 287 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:16
- その時、乾いた音が響いた。
絵里の左頬にジンと痛みが走る。どうやら叩かれたようだと理解するまで、少しだけ時間がかかった。
なんだろう、この表情が癇に障ったのだろうかと考える。
「ムカつくのよあんた。いっつも笑ってヘラヘラして、バカにしてるの?」
続けて2回、頬を叩かれる。
それから休む間もなく髪を引っ張られ、地面に膝を着く形になった。さすがに痛いと感じる。かけていたメガネが地面に落ちる。
肩を脚で蹴られ、絵里は彼女たちを見上げる体制になった。そのままふたりから同時に蹴られる。腹に足が入ったとき、絵里は「ぐっ」と声を漏らし、体を丸めた。
その姿がおかしかったのか、彼女たちはケタケタ笑った。
その笑い方の方が下品でムカつくと絵里は思うが、言葉にすることができない。それどころか肺に空気を入れることもままならない。
まさかいまの蹴りで内臓が傷ついたのだろうかと心配するが、そこまでの強さではないはずだと無理やり納得する。
だが、そんな冷静な思考もできなくなるほど、次々に痛みが体を駆け巡る。
絵里の肩に、腹に、脚に、腰に、背中に、頭に。脳の奥深くに、彼女たちの言葉も突き刺さっていく。
「あんたウザいのよ」
「もーマジ、消えてくんない?」
中学校の時と何も変わってないな、と絵里は思った。
殴られるのは日常茶飯事だったが、ここまで蹴られるのは初めてだった。
純粋に、怖いくらいに純粋に、絵里は「痛い」と思った。
それと同時に、いまこの場で発作が起きれば良いと思った。
このまま此処で、彼女たちに蹴られながら死んでも良いと思った。
これだけ外傷ができていれば、絵里が持病を抱えていたとはいえ、ただの心臓発作で片付けることはしないだろう
自分の死因が心臓発作でありながらも、彼女たちにこの死の責任の一端を負わせることはできる。
―それも、悪くないな。
絵里は自嘲気味に、笑った。そして同時に思った。
ああ、絵里はホントに壊れているのだと。
- 288 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:16
- ダメだよガキさん。
絵里はやっぱり笑うことしかできない。
ガキさんが必死に絵里を助けてくれようとしてたのに、絵里は応えられないよ。
その時、心臓が高鳴った。
絵里は強く目を閉じ、両手で心臓を抑える。
発作、かもしれなかった。
この感覚、待ちわびていたはずなのに、急に怖くなった。
なぜだろう、このまま死んでも良いと思ったはずなのに、急にその訪れが怖くなった。
- 289 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:17
-
―なんでいっつも、寂しそうに笑うと?
―寂しいっちゃろ?
そう言ってくれたのは、誰だっただろうか。
泣きそうな顔を絵里に向けて優しくそう呟いてくれたのは、誰だっただろうか。
絵里よりずいぶん小さくて、目を細くしていたずらっ子のように笑って、それでいて何処かの方言が強い女の子。
そう、目つきが悪くて誤解されやすそうで、だけどその大きな瞳がとても綺麗な女の子。
- 290 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:18
-
―絵里っ!
…れーな。
ああ、れーなだよね。
ねえ、れーな。
あの時れーなは、絵里になんて言いたかったの?
笑っていないってどうして分かったの?
どうして絵里が壊れてるって気付いたの?
聞きたいこと、話したいこと、いっぱいあるよ、れーな。
- 291 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:18
-
絵里、絵里ね、れーな。
れーなのことがね。
- 292 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:19
- その時、屋上の扉が開く音がした。
絵里を蹴っていた生徒たちは、面倒くさそうに振り返った。
「なに、あんた」
「あんたって、1年の田中?」
―たなか……?
痛む心臓、そして体中が悲鳴を上げている。
絵里はそれでもゆっくりと瞼を開き、その姿を確認しようとする。
メガネのないぼんやりとした視界。世界はすべてぼやけていて、なにがなんだか分からない。
だけどひとつだけ、はっきりと見える。
「絵里になんしよーとか!」
こっちに向かって走ってくる女の子。その子は、青い色のユニフォームを着ていた。
未だに分からない何処かの地方の言葉。絵里より小さな女の子。
小さいくせに度胸があって肝が据わってて、そして何物にも退かない姿勢で構えてて。
目つきの悪さで誤解されやすくて、だけどホントは可愛い女の子。
- 293 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:20
-
―れぇ…な?
れいなは勢いそのままに絵里を蹴っていた生徒に体当たりをした。
咄嗟のことに受身が取れず、その生徒は思いっきり吹き飛ばされた。
彼女らは慌ててれいなを取り押さえようとするが、れいなは全く捕まらない。
「ひとりの女の子を寄ってたかって…おまえら人間のクズっちゃ!」
れいなは次々に生徒たちに体当たりをしていく。
さすがに彼女らも反撃する。数の利は相手方にあったが、それでもれいなは退かない。
れいなはサッカーで鍛えたその足技を繰り出し、彼女らを蹴り飛ばす。
そのとき、別の女の子の声がした。
「せんせー!ケンカです!早くこっちこっち!」
それを聞いたスズキらは慌てて走りだした。
ともかくこの場は逃げるのが最善だと判断し、我先にと扉へ走る。
「田中…このままで済むと思うなよ」
いまどきだれも言わない小悪党のような捨てゼリフを残し、スズキは屋上から姿を消した。
「絵里、大丈夫と?!絵里!」
絵里は肩を大きくゆすられる。その度に痛みが全身を駆け巡る。
なにか声に出そうとするがどうしても言葉にならない。空気だけが喉を鳴らし、それは風笛のようだった。
心臓の高鳴りも未だにおさまらず、いよいよ絵里は身近にある「死」を認識した。
「ヤバいっちゃ……さゆ!一緒に絵里を運ぶと!」
―れぇな…れーな…
絵里はそのれいなの言葉を最後に、意識が途切れた。
だが最後の最後まで、絵里の体は温もりに包まれていると感じることができた。
- 294 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:20
- ---
- 295 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:20
- 目を開けると、そこには白い天井があった。
この独特の薬品の匂いから察するに、此処は病院のようだ。
―絵里……生きてる。
真っ先に絵里はそう思った。
腹を蹴られた痛みよりも、何度目かの心臓発作を起こしたことよりも、だれが運んでくれたのかということよりも、それらをすべて超越して、絵里は『生』を実感した。
死にたかったのか。
死にたくなかったのか。
生きたかったのか。
生きたくなかったのか。
絵里には、分からなかった。
- 296 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:21
- ゆっくりと上半身を起こしてぼんやりとしていると、カーテンが開けられた。
「あ、起きたんだね、カメちゃん」
そこには朝陽高校サッカー部のOGでもある藤本美貴がいた。
彼女が白衣を着ているということは、此処は藤本総合病院のようだ。
「発作起こして運ばれてくるって連絡あってね。まさか体の傷というオマケもついてるとは思わなかったけど」
そう言って美貴は点滴の袋を取りかえる。
どうやら自分は、スズキたちに殴られた後、やはり発作を起こし、此処に運ばれたらしい。
「とりあえず先生呼んでくるから。このまま居てね」
美貴はいつものように淡々と話して病室を出ていった。
このやり取りはいまに始まったことではない。美貴とはずいぶん長い付き合いになる。
だが、その付き合いの中でも、こんなにも淡々と、冷静な美貴は見たことがない。
彼女はどこか冷めているが、こういうときはなにかしらのフォローはするし、心配させまいと笑顔を見せることが多かった。
しかし今日は、彼女はそんなことは一切せずに、ただ職務をこなしていた。
―もしかして…怒ってる?
そう絵里が考えたとき、再び病室の扉が開かれた。
- 297 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:21
- そこには、朝陽高校生徒会副会長である新垣里沙がいた。
「カメっ!」
「ガキさ…」
そう言いかけて、絵里は抱きしめられた。
「カメ…カメ…カメっ!」
里沙は、泣いていた。
「心配したぁ。カメぇ…もう、ごめんねっ……ばかぁ」
里沙の言葉にはまるで一貫性がない。
心配されて、謝られて、そして怒られている。
こんな混乱は、しっかり者の里沙には珍しいことだった。
「っ…ごめんね…ガキさん」
いまの絵里には、そう言うのが精一杯だった。
絵里は里沙の背中に両腕を回し、優しくさすった。
嗚咽を漏らし、肩を激しく震わせる里沙はまるで子どものようで、いつもの副会長からは想像もつかない。
この言葉と里沙の涙を見て、ようやく絵里は、自分がいかに里沙を心配させ追い込んでいたかを知った。
それと同時に、自分がいかに里沙に愛されているかを知った。
絵里と里沙はしばらくの間、そうやって抱きしめあっていた。
- 298 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:22
- 「カメちゃん、入るよ」
そう言って病室の扉がノックされた。
絵里と里沙はようやくそこで距離を置き、絵里は「ハイ」と答えた。
そして扉の向こうから、美貴と、そして白衣を着た若い男性が現れた。
「久しぶりですね、絵里ちゃん」
突然名前を呼ばれて、絵里はドキッとした。
いままでの担当医ではない男性だが、何処かで会ったことがあるのだろうかと必死に記憶を手繰り寄せる。
自慢ではないが、絵里は記憶力には自信がない。現国の成績は良くとも暗記系は苦手だった。
昨日の夕食すらも思い出せない絵里は、目の前の男性を思い出すことができなかった。
そんな絵里を察してか、男性は困ったように笑った。
「まあ良いよ。とにかく診察しよう」
男性医師がそう言って近づくと、里沙は「またあとで」と呟いて席を立ち、廊下へと出た。
彼は里沙に会釈をし、いままで彼女が座っていた椅子に腰かけ、聴診器を耳にあてた。
「最後に会ったのは小学生の時だから…3年振りとかかな」
そこまで言われて絵里はようやく思い出した。
絵里が小学校を卒業するまで絵里の担当医であったワタナベであった。
医学部時代から天才と謳われ、若くして単身ドイツへと渡り、先進医療を学んだ男だった。
彼の心臓手術の腕前は日本の若きエースとして何度かメディアに取り上げられ、世界でも高い評価を受けていた。
「お久しぶりです!元気にしてましたか?」
「思い出してもらえて嬉しいよ。まあとにかくいまは、診察ね」
ワタナベはニコッと笑い、聴診器を絵里の胸に当てた。
- 299 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:23
- 「しかし、3年見ない間に、絵里ちゃんも変わったね」
カルテになにかを書き込みながら、ワタナベはそう言った。
「そう?絵里はあの頃となにも変わってないよ」
「いやいや、ずいぶん綺麗になって驚いたよ。前は妹みたいだったのに、いまじゃ立派な女性だよ」
そう言われて、絵里は思わず顔を赤くする。
久しぶりに会った男性に褒められて、嬉しくない女性はいない。絵里も例外ではなく、思わず顔を下に向けた。
「とりあえず、僕は親御さんと話をしてくるよ。絵里ちゃんはゆっくり休んでください」
「あ、はい。ありがとうございました」
ワタナベはそう言うと、絵里に笑顔を向け、病室を後にした。美貴もそれに続く。
それとほぼ入れ替わりに、里沙と、そして見知らぬ女の子が入ってきた。
絵里はきょとんとした顔のままだ。
「はじめまして。私は道重さゆみ。さゆって呼んでくれていいの」
彼女の声は、どこかで聞き覚えがあった。しかしそれがどこだか思い出せない。
相変わらず記憶力はないなと苦笑した。
「早速だけど、いろいろと話したいこと聞きたいことがあるの」
- 300 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:23
- 道重さゆみは里沙とともに病室の椅子に腰かけ、今日起こった出来事を話し始めた。
まず、サッカー部である田中れいなが、亀井絵里がスズキらのグループに殴られている現場を偶然にも発見し、スズキらに体当たりをした。
あのままでは殴り合いの喧嘩になると判断したさゆみは、機転を利かし、咄嗟に先生たちがいるかのような嘘をつき、スズキらを追い払った。
そして、絵里の異変に気付き、れいなとさゆみは保健室に絵里を運ぼうとした。
その途中で、ただならぬ顔で校舎を走っていた里沙と会い、絵里の様子から発作を疑い、即座に安倍に報告し、絵里は病院へ運ばれる形になった。
一応、付き添いという形でさゆみと里沙は此処にいるが、れいなはどうしても部活に戻る必要があり、こちらには合流できない。
安倍は絵里の両親にも連絡をし、いまは両親とともに別室で説明を受けている。
そろそろ担任であるサトウもこちらに合流するとのことだった。
その説明を聞き、絵里は黙って頷いた。
やはり、あの時の声と姿は、半年前に出逢ったれいなだった。
だからどうしたという話だが、ただそれだけで絵里は嬉しくなった。
「でも、どうして田中っちはカメに気づいたの?」
「うーん、それは分からないです。れいなが階段を駆け上がってる姿を見て、これは只事じゃないって思ってさゆみはついていっただけですから」
その説明を聞き、里沙は「そっか」と呟いた。その表情は少しだけ暗い気がした。
「さゆみの知っている話はこれだけなの。あとは絵里の話なの」
なんの迷いもなく絵里と呼ばれていることに気づいた。だがそれは決して悪い気はしない。
それより気にかかるのは、絵里の話という部分だ。
「いつから、ああいうことになってたの?」
さゆみの視線を、絵里はまっすぐ受け止めた。
この視線は、さゆみだけのものではないと気づいた。
隣にいる里沙、此処まで運んでくれた安倍、そして、絵里を助けてくれたれいなの視線だった。
- 301 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:24
- 他人と自分の痛みを共有することで、自分が痛みを感じているということを再認識させられる。
あの日、里沙に自分が不必要とされている事実を告白した結果、絵里の中の感情のスイッチが少し壊れた。
そこから歯車はどんどん狂い始め、いまに至る。
いま、この場でだれかに『いじられているかもしれない』事実を話すことは、絵里にとっては最大の苦悩だった。
もしいま、此処で里沙とさゆみに話せば、また壊れてしまうかもしれない。
これ以上は避けたいのに、もう戻れないかもしれない。それが怖かった。
だが、これを乗り越えるしか道はなかった。
過去と向き合い、いまを生きると決めたのだから。
絵里は静かに覚悟し、ひとつ息を吐いて話し始めた。
- 302 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:25
- 2年生に進級し、里沙と離れ離れになり、担任がサトウになったこともあり、クラスになじめなかった。
体調も1年生のころに比べて悪化し、休む日も少しずつ増え始めたことが余計に絵里を孤立させた。
それでも絵里は学校に来ていたが、その内ある異変が起こり始めた。
初めは、些細なことだった。
物がなくなった。絵里の筆箱、教科書、ノート、靴。
次に、これ見よがしにそれらの物がゴミ箱に捨ててあった。
机にゴミが置かれるようになり、徐々に落書きが増えるようになった。
少しだけ、少しだけ。
あまり派手にやると、教師たちに見つかってしまうから、絵里が教師に言いつけないレベルのもの。
もし仮に言いつけたとしても、絵里の気のせいだ、考えすぎだと突っぱねられる程度のもの。
絵里はなにも言わず、淡々と毎日を過ごしていた。
その内、物を隠すことに飽きたのか、そういうことはなくなった。
ゴミも減ったし、一過性のものだったのかと絵里が安心した時だった。
絵里の靴箱に、1枚の紙が入っていた。
それは、呼び出しの合図。
絵里は朝や放課後問わずに屋上や体育館裏、昇降口などに呼び出された。
そこで金銭を要求され、拒否すると殴られることが多くなった。
もちろん、呼び出しに応じない場合も、同様だった。
- 303 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:25
- 絵里にとって、最も恐れていたのがこの紙きれだった。
この紙きれを見るたびに吐き気を催し、その度に絵里はトイレに駆け込んだ。
だから絵里は、この紙きれを見ないように、なるべく見ないようにするために、朝は早く登校し、放課後ギリギリまで校舎に残るようになった。
そうすれば、靴箱に入っている紙切れを見ることは少なくなる。
朝イチで登校したにもかかわらず、紙切れが入っているのを見たときは、彼女たちはいつこれを入れるのだろうと苦笑したものだった。
まさか24時間学校に居る訳でもあるまいし、そんな労力があるのならもっと別のことにそれを注げば良いのにと絵里は思った。
そんな日々が続き、絵里は日に日にやつれていった。
だが、そんなことは誰にも言えなかった。
言ってしまえば、この弱い自分を認めてしまう気がして。
言ってしまえば、言われた方を困らせてしまう気がして。
そこまで言うと、絵里の呼吸が短く、速くなった。肩で息をするように大きく上下する。
絵里は自身の呼吸の変化に気づき、ゆっくりゆっくり息を吐く。
これは中学校の時と何も変わっていなかった。
あの頃も、こうやって誰にも言わずにいた。
なにをされても、なんと言われても。ひとりで溜め込んでいた。
特に、あの日のことは、だれにも言えない。
両親はもちろん、里沙にも、さゆみにも、たぶん、れいなにも。
- 304 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:26
- 「ずっと、ひとりで耐えてたの?」
その言葉に、絵里は頷く。
「こわっ…かったの…」
ずっとずっと、怖くて言えなかった。
自分が壊れてしまうことが、こんなに弱い自分をさらけ出すことが、弱い自分が嫌われてしまうことが。
壊れてしまったら、だれが助けてくれる?
こんなに弱くて脆い自分を、だれが好きでいてくれる?
「ひとりぼっちで…自分が嫌いっ…ずっと…でもっ…」
怖くて怖くて震えて、でも助けてほしくて。
ぐちゃぐちゃになっていく自分がもっとイヤになって。
頭の中が混乱してどうしようもなくなっていく。
絵里は自分を守るようにぎゅっと両腕で自分を抱きしめる。
- 305 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:27
- そんな絵里を見て、里沙とさゆみがなにかを言いかけたとき、病室の扉が開かれた。
3人はぎょっとしてそちらを向くと、彼女がいた。
だれかがなにかを発する前に、彼女はこちらに歩み寄る。
そしてそのまま上半身を起こした絵里を抱きしめた。
一同は呆気にとられた。
時間が止まった気がした。
「あったかいやろ?」
病室に入ってきた少女、れいなはそう言って「ニシシ」と笑った。
彼女独特の笑い方だ。この笑い方、なにかを企んでいるような笑顔が絵里は好きだった。
「絵里は、ひとりじゃないと」
顔が紅潮するのが分かる。どんどん心拍数が上がっていく。
だが発作とは違うこの心音。なんだかそれは、とても心地よかった。
「れなも、ガキさんも、さゆもいると」
その言葉の後ろで、高橋愛がゆっくりと病室へ入ってきた。
「愛ちゃんも、安倍先生も、美貴ねぇも、みんながいると。」
廊下には、教科担任の安倍、そして美貴がいる。
- 306 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:28
-
「れなは…」
一度切って、れいなは続けた。
「れなは絵里ンこと、好いとーよ」
一陣の風が吹いた気がした。
室内に居るにもかかわらず、絵里とれいなの間を優しい風が通り抜けたようだった。
絵里の前髪は風になびかれ、揺れた。
どんどん、あたたかくなる。そして熱くなる。胸の奥の方が、ジリジリと熱を帯びてくる。
ジワジワとしたものが駆け上がり、瞳へと溜まった。
そしてそれは、たったの瞬きひとつで溢れ出た。
絵里は、泣いた。
あの日以来、流すことのできなかった涙が溢れ出た。そしてそれは留まることを知らない。
絵里はれいなの制服の裾を握り締め、ひたすらに泣いた。
「れーな…れぇなぁっ」
れいなの名を呼び、まるで怖い夢を見て母親に泣きじゃくる子どものように、泣いた。
- 307 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:28
- ---
- 308 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:30
- 「良い、友人ですね」
ワタナベは廊下にいる美貴にそっと呟き、美貴もその言葉に素直に頷いた。
「良い子たちですよ、本当に」
朝陽高校サッカー部OGであるがゆえ、いま病室に居る彼女たちのことは大体知っている。
後輩のれいなとは、あのOG戦で知り合い、これまでも何度か指導している。
生徒会執行部の愛と里沙にも、この病院で何度か会っている。
さゆみだけは新顔で知らなかったが、いままでの会話を聞く限り、絵里の良い友人になりうる人物であることはハッキリした。
とにかくみんな、絵里のためになにかできないか考えている。
絵里のその笑顔のために。
「…だからこそ、時間がないんだよ」
ワタナベは手にしたカルテをもって呟き、美貴も暗い顔をした。
先ほど、絵里の両親と安倍、サトウ、そして美貴を交えての絵里の症状の説明が行われた。
1週間前に帰国したばかりのワタナベは、すぐに絵里のカルテを見て、絵里の主治医に戻ることになった。
夏休みに入ったらすぐに定期健診をして絵里の症状をチェックしようとしていたが、今日はからずともそれは叶った。
そしてワタナベは、思った以上に絵里の症状が進行していることに愕然とした。
発作を起こす回数が増え、絵里の欠席日数も増えている現状を知ったワタナベは、半年から1年の休学を提案するしかなかった。
それほどの長期間の休養を取らない限り、絵里の症状は悪くなる一方であった。
いまの状況で無理に学校に通ったり休んだりすることは帰って良くないと考えていた。
いっそのこと、長期的に休み、気持ち新たに新学期を迎える方が体のためにもなる。
だが、それは絵里の意志が第一に優先されるものであり、あくまでこれは提案の域を出ない。
そういった旨を説明したところ、サトウはそれに快く賛同した。
絵里の両親も半ば納得したが、安倍は複雑な表情を見せた。そしてそれは、美貴も同じだった。
正解なんてあるようでなかった。これは絵里に話して絵里が決めることだ。
もし休学することになれば、それは留年と同じように、2年生を繰り返すことになる。
そうなった場合、絵里の心理的な負担は少なからず存在する。
それをだれがカバーするのかと考えたとき、部活もやっていない絵里には厳しいのではないかと美貴は懸念した。
だが、いま病室を見て、それは杞憂だと知った。
後輩のれいなとさゆみ、同学年の里沙、先輩の愛、そしてOGである自分、教科担任の安倍。
立場は違えど、みんなが絵里をサポートしようとしている。
それがなによりの答えだった。
最後に決めるのは絵里だ。美貴たちがとやかく言う必要はないと思った。
- 309 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:31
- 美貴が気にかかっているのはそれではなく、ワタナベが安倍とサトウを追い出し、両親に発した言葉だった。
「ハッキリ言って、絵里さんの症状は思わしくありません」
先ほどよりも険しい表情で、ワタナベは言った。
その顔は絵里には決して見せない、ひとりの心臓外科医のものであった。
「僕は海外での手術を提案します」
美貴は耳を疑った。
海外での、手術?
確かに日本でワタナベ医師が執刀する心臓手術は数多くあり、その多くは成功している。だが、海外での手術の成功率はさらに高かった。
それは技術だけの問題ではなく、手術に必要なチームの編成、そして手術道具の整備やドナー提供などにあった。
現在、日本の心臓手術の最高峰を誇るのは、国立T大学病院の『チームモーニング』と言われていた。
この名の由来は、チームを構成する医師全員の名前に『朝』が入っていること。
そして、手術後に出てくる姿があまりに荘厳であり、朝陽が昇ったように光り輝いてみえるからだと言われていた。
かつてワタナベも、このチームの手術を目にしたことがあるが、その技術は間違いなく日本一であった。
だが、『チームモーニング』の欠点はその多忙さにあった。
チームモーニングに手術をしてもらおうという患者は日本全国から集まり、予約は何ヶ月待ちという状況である。
その点、海外に行くというのは利点も多かった。
ドイツで権威あるチームを組んだことのあるワタナベは最高のスタッフを用意できる。
そこには手術道具も整備されていて、成功率はチームモーニングのそれにも劣らない。
さらに、ドナー提供の確率は日本よりぐんと上がる。
ドナーなしの手術もできなくはないが、少なくとも、その手術が出来るのは、日本ではチームモーニングだけだ。
いまの状況を考慮すると、海外での手術を行うべきであるというのが藤本総合病院の方針であった。
- 310 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:32
- 「しかし…その費用は…」
「確かにかかります。手術代はもちろん、施設利用費、入院費、そして旅費代など含めると、トータルでこのくらいはかかるかと」
そう言ってワタナベはホワイトボードに金額を書いた。
それは普通の人間が持っていてはとても使いきれないような莫大な金額だった。
絵里の両親がなにをして働いているかは知らないが、とても普通の会社員の給料や貯金で賄えるものではない。
「ですが、亀井さん。僕はこれを全額出しても良いと考えています」
その言葉に、絵里の両親を始め、美貴も怪訝な顔をした。
どういう意味か、その裏にある真意を分からないわけじゃない。
「亀井さん、もし今回の手術が成功したときには、絵里さんと交際させてくれませんか?」
そう言ってワタナベは深々と頭を下げた。
これは間違いなく現実で、美貴の目の前で繰り広げられているのはドラマではなかった。
そしてこれは、たぶん、デートの誘いとかそんな軽いものではなく、間違いなく、プロポーズだった。
しかも、絵里にとっても、絵里の両親にとっても悪い話ではない内容だ。
絵里の両親は困惑したが、しばらく考えさせてほしいとだけ呟いた。
ワタナベも結論を急ぐようなことはせず、その話はそれで終わった。
- 311 名前:Only you 投稿日:2011/09/20(火) 08:33
-
―つか……マジ?
美貴は廊下でマジマジとこの男の顔を見た。
見たところは20代後半から30代前半である。絵里との年齢差は実に10以上あるが、それは犯罪じゃないのかと口にしたくなった。
「僕はロリコンじゃないですよ」
怪訝そうな顔でそう言われ、美貴は「ヤバッ」と目をそらした。
どうも自然に口に出していたようだった。
「絵里ちゃんだから、絵里だから選んだんです。歳なんて関係ないですよ」
「へー、そうですか」
努めて自然に帰したつもりだが、どうも棘があったように自分でも感じていた。
この男の恋愛感覚などには興味がない。
だが、この男のその想いが、いま病室に居るメンバーにどう影響していくのかは気になった。
特に、絵里のことを最も大切に想っているれいなだった。
ワタナベがどう思っているかは知らないが、美貴には分かっていた。
―絵里ンこと、好いとーよ
あのセリフの意味は、表面上のものではないということを。
そして、絵里もまた、それに似たような感情をその胸の奥で育てていることを。
そんな中で現れたワタナベというひとりのドクター。
波乱がないわけがなかった。
―乗り越えるのは自分の力だぞ、れいな。
病室をちらりと見て、そう念を送り、美貴は廊下を歩きだした。
美貴にできることはただ、彼女たちが迷った時の道しるべになることだと考えていた。
とやかく口を出す筋合いはない。
そうは言いながらも、気になってしょうがなかった。あのふたりのことが。
あんなにもシアワセになってほしいふたりなどいるのかと、美貴はボンヤリ思った。
- 312 名前:雪月花 投稿日:2011/09/20(火) 08:37
- 此処までになります。
ストックが徐々に少なくなってきたのでペースが落ちるかもしれません。
執筆の方のペースが上がれば良いのですが……
とにかくがんばります。
絵里とれいなたちの物語を、温かく見守ってください。
- 313 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/20(火) 16:05
-
おぉーこういう展開ですか。
2人とそして周りの人がどう動いていくのか…
無理をせずゆっくりとじっくりと、作者さんのペースでがんばってください。
- 314 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/21(水) 15:56
- 正直、似たような設定のれなえりは多いけど、それでも読んじゃうなあ…
引き込まれるのは作者さんの力量だと思う。
ガンバレ!
- 315 名前:雪月花 投稿日:2011/09/22(木) 00:17
- こんばんは、雪月花です。
>>313 名無飼育さんサマ
温かいコメントありがとうございます!
敢えてこういう展開にしてみました。フィクションですし、書きたいものを書いてみようかなとww
あまり暴走しすぎないように気をつけます。
ペースは上がったり落ちたりなので、気長に待っていただけると嬉しいです。
>>314 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
学園物で亀井さん病弱スタイルは確かに結構多いと思います。
あえて名前は出しませんが、自分もそれらの作品が大好きですので、引っ張られているのは確かですね…
類似点があれば、それは完全に作者に力量不足ですが、飼育1発目なので大目に見ていただけると助かります。
パクリだと思われる部分があればご指摘ください。
応援ありがとうございます、がんばります!
では更新いきます。
- 316 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:19
-
―れなはいったい、なにを言いよーと?!
れいなはボフッとベッドにダイブした。
数時間前の出来事を思い出すと顔が真っ赤になる。
「ぬあああ!」
ベッドの上でゴロゴロと悶絶するれいな。
傍から見れば、不審人物であることこの上ない。
今日は確かにいろいろなことがあった。
しかしその中でも、あの病室での一件は、れいなにとってあり得ない出来事であった。
- 317 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:20
- ことの始まりは部活中に見かけた光景であった。
屋上を見ると、そこに人影が見え、れいなはなんの根拠もなくそこへ走った。
階段を駆け上がっている最中、れいなには部活をサボっているという罪悪感はカケラもなかった。
ただ単純に、イヤな予感がした。
あのまま部活を続けているわけにはいかないと、何処かで警鐘が鳴った。
れいなが屋上の扉を開けると、信じられない光景が目の前に広がっていた。
ひとりの女の子が、複数人に蹴られていた。彼女たちは全く容赦なく、笑いながら女の子に暴行している。
そして、成す術なく地面に横たわり、暴行を受け苦しそうにしているのは、紛れもなく、あの日に逢った亀井絵里だった。
「絵里になんしよーとか!」
気づいた時には駆け出していた。
れいなは迷わず、絵里を蹴っていた連中に体当たりをする。不意をつかれた連中は、呆気なく吹き飛ばされる。
もう、先輩かもしれないとか、部活をサボっているとか、停学になっちゃうかもとか関係なかった。
れいながサッカー部で鍛えた脚でスズキ先輩を蹴り飛ばしたところで、さゆみの声がした。
「せんせー!ケンカです!早くこっちこっち」
それを聞いたスズキたちは、蜘蛛の子を散らしたように屋上から去っていった。
れいなは彼女らを追うことはせず、すぐに絵里に駆け寄った。
「絵里、大丈夫と?!絵里!」
絵里は息も絶え絶えになにか言おうとしていたが、れいなはその言葉を拾えなかった。
ただ暴行を受けただけにしてはこの呼吸は異常だった。
れいなはただならぬ何かを感じ、急いでさゆみと共に絵里の肩を担いだ。
階段を降り、保健室へ向かう最中に、生徒会副会長の里沙と会った。
里沙は絵里の様子に発作を疑い、すぐに安倍へと連絡した。
- 318 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:20
- そこからの動きは早かった。
安倍が保険医の先生と二言三言会話をし、保健室での緊急処置が行われ、すぐに病院へ搬送される準備が始まった。
絵里が介抱されていく様子を、れいなは黙って見ているしかなかった。
そこでれいなはようやく、絵里は本当に病気なのだということを実感した。
「れいな、部活は大丈夫なの?」
さゆみの言葉にれいなは現実に戻された。
あれから10分も経っていないが、あまり戻るのが遅くなるとまた先輩たちから文句を言われてしまう。
だが、このまま戻って良いものかとれいなは悩んだ。
一瞬、れいなは里沙を見た。
すると里沙もこちらを見ていたようで、なにも言わずに頷いた。
里沙が言わんとしたことをれいなは把握し、さゆみに「あとで連絡して」と伝えて、保健室からグラウンドへと戻った。
- 319 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:21
- 部活をしている時も、れいなは絵里のことが頭から離れなかった。
こんなにサッカーに集中できないことは初めてだった。
絵里は大丈夫だろうかとか、彼女の病名はなんなのかとか、無事だろうかとか。
れいなは無意識のうちに絵里を想った。
その気持ちは部活中ずっと続き、グラウンドを整備し、後片付けを終え、部室で制服に着替えている時までもついて回った。
いつからこんなに、自分は絵里に夢中になったのだろうとれいなはボンヤリと思った。
れいなが部室を出て、さゆみから連絡はないかと携帯電話を見ようとした時だった。
目の前には生徒会長の愛がいた。
「絵里の病院、行く?」
れいなはなにも言わず、その言葉に頷き、愛の後についていった。
- 320 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:22
- 病院の『白』は苦手だった。
夕闇に映えるその色は、良くも悪くも無機質で、常に隣にある生と死を感じさせる。
れいなは黙って愛の後に続き、エレベーターに乗り込み、新棟702号室の前に立つ。
愛がその病室の扉に手をかけようとすると、中から誰かの話し声がした。
愛が開けるのを躊躇し、ふたりはその声に耳を傾ける。
それは、絵里の告白。
絵里が2年生に進級してからいままでに起きた出来事。
些細なことから始まり、徐々に精神を蝕んでいった絵里の日々。
我慢して淡々と過ごしていたものの、呆気なく崩れ去った日常。
1枚の紙切れによる呼び出し。言われのない悪口、金銭の要求。拒否した後の暴行。
れいなはそれを聞きながら、右の拳を握り締める。
そんなに長いはずじゃない爪が手の平に食い込み、血が滲みそうになる。
―だれのせいっちゃ、こんなこと…
いったい絵里がなにをした。
絵里がだれかの悪口を言ったか。
絵里がだれかを殴ったりしたか。
絵里がだれかに迷惑をかけたか。
どうして、どうして。
―どうして絵里っちゃよ…
- 321 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:22
- 体が弱く、休みがちな絵里。
それでも毎日、彼女は登校していた。
ただひとつの楽しみである、放課後のために。
―れーな、カッコいいもん
自分の姿を見るために、ずっと登校してきた絵里。
何度殴られようとも、彼女はそれに耐えてきた。
ずっとひとりで、だれにも相談せずに。
あの日もそうだったのではないかとれいなは思う。
いつだったか、絵里の姿を見つけ、追いかけたが見失った。直後にスズキらと鉢合わせしそうになり、さゆみと共に隠れた。
偶然かもしれない。
だが、偶然ではないかもしれない。
気づくべきだった。
逢って話すべきだった。
つまらない意地などはらず、パーカーのことでもなんでも言い訳をつけて逢って話を聞くべきだった。
れいなは下唇を噛む。
絵里をひとりにした責任は、自分にもあると感じていた。
- 322 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:23
- 「こわっ…かったの…」
絵里の声が、聞こえる。
「ひとりぼっちで…自分が嫌いっ…ずっと…でもっ…」
―そんなこと……そんなことない!
れいなは泣きそうになりながらも、その扉を開けた。
そして、絵里の方へと歩み寄り、上半身を起こしていた彼女を抱きしめた。
心臓が高鳴っていた。
うるさいくらいに鳴っていた。
なにも考えていなかった。
だけど、なにか伝えたかった。
頭の中はぐちゃぐちゃで、それでいて真っ白で。
気の利いた言葉も思いつかなくて。自分の温もりを伝える以外に何もなくて。
泣きそうになるのを堪えて。
より強く、絵里を抱きしめた。
ひとりぼっちなんて言うな。
自分が嫌いなんて言うな。
肩を震わせる絵里が、たまらなく愛しかった。
「れなは…」
もう、止まらない。
「いつから」なんて、分からない。
そんな質問は所詮、無意味だ。
いま、だから。
れいなはいま此処で生きている。
いつからなんて関係ない。
とにかくいま、あなたに伝えたい。
感情が、想いが、胸から溢れ出す。
どうか、どうか、届いて。
「れなは絵里ンこと、好いとーよ」
- 323 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:24
- 「はにゃぁぁぁ!」
赤面し、悶絶し、勢い余ってれいなはベッドから落ちた。
腰を強く打ってしまったが、痛みなんて気にしている場合ではない。
顔を両手でおさえながら、再びれいなはベッドへ上がる。
―アホっつーか、バカやないと?
あの場面での告白は、ない。
ないというか、あり得ないというか、どう考えても無謀というか。もう少し良い方法があったのではないだろうか。
確かに勢いとか空気とかで言ってしまう場合もあるだろうが、さすがにあの場面では、ない。とれいなは落ち込む。
―青春ドラマの見過ぎやね…
れいなは枕を取って胸に抱く。
いま、考えるべきことは、次に絵里に逢った時の対処法である。
あれから、なにを話してどう帰って来たのかの記憶は曖昧だが、気持ち悪いと思われてしまっては元も子もない。
とりあえず次に会った時に、変な対応を取らないことが第一だ。
妙な態度を取ってしまうと、余計に気持ち悪がられる。
とにかく、あれは友だちとしての好きだ、『love』ではなく、いわゆる『like』だったと伝えることが大事。
うん、それが良い。
ない頭をフル回転させて、れいなはそう言い聞かせた。
枕を置き、ベッドから降りる。姿見にうつした自分は、ひどく動揺しているのが分かる。顔は真っ赤で髪の毛もボサボサだ。
今日は特にすることがないとはいえ、いつもの癖で髪を整えた。
- 324 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:25
- ―れな、本気で好きになってしまったっちゃね……
髪を整え、れいなは息を吐いた。
学校の成績がさほど良くないれいなでも分かることがあった。
この気持ちが、世間的にどれほど承認されないことか。
―こんな気持ち、間違っとーたい
いつだったか、女の子同士の恋愛、つまり『同性愛』は女子高生にありがちだとテレビで聞いた気がした。
その多くは、思春期特有の『憧れ』から来るものであり、しばらくすればなくなるとも言っていた。
れいなの絵里への感情が『憧れ』かどうかなど定かではない。
しかも、いまの気持ちがしばらくすれば薄れてあとかたもなく失くなってしまうのかなど分からない。
少なからず、この気持ちを誰かに言ってしまうのは怖かった。
さゆみにならともかく、サッカー部の部員や両親、クラスメートには話せない。
なぜ、この感情を世間が否定し、承認しないのか、れいなには分からなかった。
結婚できないからか、子どもができないからか。
子どもを産んで子孫を残すことが人間の根源であるならば、れいなは人間じゃないのかとボンヤリ考えた。
だが、そんなことはどうだって良かった。
いま、絵里のことを好きだと想うこの気持ちがれいなの真実だった。
たとえ間違っていたとしても、いま此処に在る気持ちは嘘じゃない。
だれにも言えなかったとしても、ゆっくりこの想いを育てていけば良いとれいなは思った。
そして、絵里が気持ち悪いと思っていなければ良いなと思った。
- 325 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:25
- ---
- 326 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:27
- 「今日はごめんね、生徒会」
「あー、ええよ。早退したって言ったら納得してくれたし」
すっかり暗くなった帰り道で、里沙はそう切り出した。
愛はニコッと笑い、それに答えた。
今日の生徒会を私情で休んだ里沙は、どこかホッとした。
いつも愛には助けてもらうばかりだと思う。その優しさが、嬉しくて、申し訳ない。
愛は不意に立ち止まった里沙を振り返る。
「…見つけられなかったんだ」
「え?」
「カメのこと、見つけてあげられなかったんだ」
里沙は天を仰いだ。
都会のこの空に星は見えず、ただそこには暗闇が広がっているだけだった。
今日は月も出ていないため、吸い込まれそうな黒がそこにあった。
「田中っちはすぐ見つけちゃうんだもんなぁ…」
愛はそこで、先ほどの病室での話を思い出した。
最初に絵里のいじめの現場に辿り着いたのは、里沙ではなくれいなだった。
さゆみの話からは、どうしてれいなが絵里に気づいたのかは分からない。
だが、れいなはなにも迷わず、部活を放り出し、屋上へと走った。
推薦入試で合格し、サッカー部へ入ったれいなには、一般受験生以上の期待と、そしてそれに応える義務があった。
そんなれいなが部活を抜けて屋上へ来ることにはそれなりの意味がある。
もちろん、それが見つかった場合、れいなへの風当たりが強くなることも分かっていた。
それは、副会長である里沙が生徒会を抜けたこと以上のものかもしれない。
「あの場面で告白もしちゃってさ。カッコよすぎるよ、ホントに」
里沙は泣きそうになるのを、堪えた。
「カメの涙も久しぶりに見れたしさ」
だが、天を仰いでいるにもかかわらず、その瞳からは涙が零れ落ちた。
「もう、田中っちには敵わないなー、って」
愛は黙ってそれを見ていたが、我慢できなかった。
里沙に近寄り、その小さな体を抱きしめた。
- 327 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:28
- いま、里沙はなにを思っているのだろう。
だれを想っているのだろう。
この1年間、ずっと絵里のことを見てきた。
彼女の視線の先には、ずっと亀井絵里がいた。
愛はずっと、絵里になりたかった。その瞳に映る彼女になりたかった。
振り向かせたくて、気づいてほしくて、気づけば愛は里沙を追っていた。
こんなときに、この場を利用するのは卑怯だと思った。
だけど、もう限界だった。
この場で言わなければ、一生この気持ちは燻ったままな気がした。
―あーしはそんなに、良い人やない
「里沙ちゃんが好き」
言葉が宙に浮き、暗闇に吸い込まれていった。
里沙は驚いたように目を開く。
「でもっ…愛ちゃん……」
れいなの告白に触発されたのかもしれない。
だけど、いま里沙に伝えたかった。
「里沙ちゃんが絵里を好きなのは知ってる。でもあーしは、里沙ちゃんが好きやざ」
困らせてしまうことくらい分かっていた。失恋した彼女に取り入ろうとしている卑怯な手段であるとも分かっていた。
だけど、もう止められない。一度走り出したこの気持ちを、止めることなんてできない。
「もう、無理せんでええんや」
里沙はその言葉を聞いて、泣いた。
ずっと支えられていたのは知っていた。だけど、その気持ちを受け止めることが怖かった。
愛を利用し、絵里への気持ちを走らせることが正しいとは思っていなかった。
しかし、それでも里沙は、絵里へ恋をしていた。その気持ちをどうしても止めることはできず、愛の気持ちを知りながら応えずにいた。
- 328 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:29
- だが、いまハッキリ気持ちを伝えられ、これを無視することはできなかった。
ずっと里沙を見ていてくれた愛。
夏休みの稽古の時も、OG戦の日も、文化祭の日も、いつも傍に居てくれた人。
こんなに近くで、ずっと“愛”をくれた人。
そしていまも、それは変わっていない。絶えることなく、優しさを降らせてくれる人。
それが里沙にとっての高橋愛だった。
だからこそ、この気持ちに甘えてはいけないと思った。
いま、絵里への気持ちを諦めきれていないままで、愛に甘えてはいけないと思った。
だから里沙はこう言った。
「愛ちゃんの気持ちは嬉しいけど、いまは応えられない……」
愛はその腕の力を抜くことなく、頷く。
「それでもえーよ。あーしは里沙ちゃんがずっと好きやから」
1年半の片想いやし、そう簡単には終わらんよと、愛は笑った。
それを見て里沙は思った。
ああ、この人は、こんなにも優しいのだと。
- 329 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:30
- 「じゃあ…」
「うん?」
「いつかその日まで、待っててくれますか?」
愛だけに聞こえるようなか細い声で、里沙はそう囁いた。
いつかあなたを好きになるその日まで。
ああ、なんて勝手な言い分だろう。
どこまで私はあなたを振り回せば気が済むのだろう。
でも、私にはこれしか返せない。
こんな身勝手でごめんなさい。こんなひどい人間でごめんなさい。
その言葉を受け取った愛は、これも小さな声で「喜んで」と囁き返した。
優しさが胸に響いた。
それをいまは受けるだけしか出来ない里沙は、また涙を流した。
- 330 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:31
- ---
- 331 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:32
- 「暇だなあ…」
絵里はメガネを外し、ベッドから窓を眺めた。
此処から見る風景はいつも同じだ。四角く切り取られた青空か、オレンジの夕陽か、暗い夜か。時々雨が降ったりするけれど、基本的にはいつも変わらない風景。
白い空間と四角い空。それが絵里の世界だった。いまも昔も変わらないこの世界が、絵里は嫌いだった。
ほんの1週間前までは、世界も少しは明るかった。
朝陽高校に通い、クラスメートと勉強し、放課後には屋上から部活を眺める。
スズキたちに邪魔はされていたけれど、それでもまだ、こっちよりマシだったのではと絵里は思う。
この世界に閉じ込められるようになったきっかけは、先日再会した、ワタナベ先生による助言だった。
―思い切って半年休学しましょう
それは絵里にとって、覚悟していた言葉だった。
自分の体のことであるのだから、自分がいちばん分かっていた。
このまま学校に通い続ければ、そう遠くない未来、絵里の体は壊れてしまうことを。
先に壊れるのは精神かもしれなかったが、どちらにしても、いまの状態での登校は無理だった。
絵里はその提案に素直に頷き、休学を決意した。
結果的に、絵里は来年、もう一度2年生を繰り返すことに決まった。
それは、体のことを考えれば最善の策だったと言える。
いま休まないと、最悪の状態は避けられないというのが外科医師たちの判断だった。
それには絵里自身も納得しているし、仕方ないこととは分かっている。
だが、頭で分かっても心がついていかなかった。
休学することで、スズキたちのいじめから解放されたとしても、喜ばしいことだけではない。
里沙と学年が離れることは絵里にとって哀しみ以外の何物でもなかった。
去年のようにOG戦や推薦入試を見ることも、文化祭に参加することもできない。里沙と果たせなかった約束は、今年もお預けになってしまう。
楽しみであった放課後の「人間観察」も当分はできない。それはつまり、れいなと会えないということを意味していた。
- 332 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:33
- そこまで考えて、絵里はドキッとした。
1週間前のあの日、れいなに病室で抱きしめられたことを思い出す。
―れなは絵里ンこと、好いとーよ
あれは、告白だったのだろうか。
赤くなった顔を誤魔化すように絵里はブンブンと大きく首を振った。胸の上まで伸びた髪が揺れる。
勘違いだ、と言い聞かせる。
あれは、単純にれいなが絵里を励ますために言った言葉であって、本心ではない。
本心だったとしても、普通に友だちとしての「好き」であって、「like」の意味だ。断じてもって「love」ではない。
―なに期待しちゃってんの、絵里……
だが、一度走り始めた心臓は、止まることを知らず、高鳴りを上げる。
里沙にも同じように抱きしめられた。それにもかかわらず、あの時はなにも感じなかった。
れいなに抱きしめられたときだけ、絵里の心臓は高鳴り、胸が締め付けられ、体が熱くなった。
そして、1年近くも流せなかった涙を、あの瞬間に流すことができた。
いまはまだ、素直に感情のスイッチは入ってくれないが、少なくともあの瞬間は、確実に絵里は元に戻っていた。
れいなに抱きしめられ、好きだと言われた、あのときだけ。
- 333 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:34
- 絵里はキュッと胸元を握り締める。
締め付けられるような痛みがある。発作ではない。いつか感じたような、そう、れいなの笑顔を見た時にも感じた、あの心地よい痛み。
れいなの言葉が、胸に響き、こだまする。
温かい言葉に、胸が苦しい。
いつかも感じたこの感情。
あの時はこの名前を呼ぶことができなかったけれど、絵里はぼんやり感じていた。
この感情を、人は恋と呼ぶのだろうかと。
だとするならば、絵里は間違いなく、れいなに恋をしていた。
同性とか異性とか、先輩とか後輩とか、そんなことを一切関係なく、絵里はれいなに惹かれていた。
あの笑顔が、あの声が、あの大きい瞳が、絵里を捉えて離さない。
好きなんだ。
ただ、単純に。
常識とか道徳とか、そういったものを簡単に飛び越えてしまうくらい。
この気持ちを背徳と言うならそれでも良い。
だって、そんなことを考える余裕もないくらい、好きなのだから。
- 334 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:34
- 絵里はベッドに横になり、目を閉じた。
れいなが絵里をどう想っているかなど知る由もない。
あの「好き」という言葉を信じるなら、どうやら嫌われてはいないようだ。
だが、自分のこの感情を知られてしまったらと考えると怖くなる。
彼女は普通の女の子だから。
普通に学校に通って、普通に恋をして、普通にだれかと付き合うはず。
だから、絵里の気持ちなんて知らなくていい。
絵里の気持ちを知ったら、絶対に離れていく。
そう思った。
思ったはずなのに、絵里はどうしても考えてしまう。
あの日の言葉を思い返し、れいなを想った。
―れーなに…逢いたい……
どうしてだろう。困らせてしまうのに。
この「好き」の感情がれいなを汚してしまう。そのはずなのに、逢いたくて仕方ない。
―れーな、なにしてるかな?
そう思った時、病室の扉がノックされる。
ワタナベによる回診だろうかと思い、絵里は気の抜けた声で返事をした。
するとそこには、1週間前に会った道重さゆみがいた。思わぬ来訪者に、絵里は一瞬、身構えた。
- 335 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:35
- ---
- 336 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:35
- 7月も中旬になり、明後日から期末考査が始まるという日、さゆみは唐突にこう切り出した。
「れいなはいつデートに誘うの?」
突然のさゆみの質問にれいなは口に含んでいた焼きそばパンを吹き出しそうになる。
女子高生にもなってそんな失態はできないと、慌てて手でおさえた。
「れいな…汚いの」
「なっ。だ、だれのせいやと思って!」
右手の焼きそばパンをティッシュに持ち替え、口の周りを拭く。
「だから、いつデートに誘うの?」
「だから、だれをよ?」
一度呼吸が落ち着いたところで、パンを牛乳で流し込む。結果論ではあるが、これが失敗だった。
「絵里に決まってるでしょ」
―ゴフッ
手で押さえたが、意味がなかった。
指の間から白い液体が数滴垂れている。
ここまで見事に噴き出すのは初めてだった。まるでマンガの世界だ。そんな主人公にはなりたくなかったが、結果的にれいなは、そんな間抜けな主人公を演じている。
「れいなぁ、ちょっとエロいの」
余計なことを言うな、だれのせいだと思ってると反論したくなるが、もう黙っている以外になかった。
れいなは右手と机に飛んだ牛乳を丁寧に拭き取る。
しばらく牛乳は買えそうにないなと苦笑し、さゆみに向き直る。
「なんでれなが絵里とデートせんといかんと?」
「だって告白したじゃない」
「あれはっ」
あれというのは、間違いなく、2週間前のことを指していた。
勢いに任せて絵里を抱きしめて言ったあの一言。
だが、あれは告白じゃなくて、ただの慰めというか、なんというか…
「あれは告白じゃないと!」
「じゃあれいなは絵里が好きじゃないの?」
「いや、好きやけん、その……」
言葉に詰まる。
さゆみの漆黒の瞳に見つめられると言葉を失う。
力が、ある。
なにも言わせないような、そのくせにすべてを語らせるような力をさゆみは持っている。
「ほら、likeっちゃよ!友だちとして好いとーと!」
先日から考えていた言い訳を出すも、さゆみは「フーン」と言っただけで納得はしていない。
それどころか、なぜかニヤニヤしながらこちらを見ていた。
なにを考えているのだろうか、このウサギは。というか、なぜ急に絵里の話が出てきたのだろう。
- 337 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:36
- 「さゆみね、絵里のこと好きになっちゃったの」
自分のピンクの弁当箱から玉子焼きを取り、口に運ぶ。一連の流れはとてもスムーズで、まったくツッコミ所などなかった。
「れいなが好きじゃないなら、さゆみが告白しても良いよね?」
それだけに、いまの言葉も、れいなが聞き間違えたのかと思うくらいだった。
「今日も良い天気だねー」というような軽い世間話のようなトーンで、彼女は言った。
れいながなにか言おうとするが、まったく言葉が出てこない。なにか言わなきゃと思えば思うほど、その吐息は空気に紛れて消えていく。
クラスメートたちは、何人かグループを作って昼食をとっている。
みんな、思い思いに喋り、だれもれいなとさゆみの話など聞いていない。あちこちで歓声が上がり、笑い声が混じり、教室中が騒がしい。
その中で、れいなはさゆみの声しか聞こえない。
初めて絵里に会ったときから、可愛い子だなって思ってたの。ほら。病院に連れて行った日だよ。単純にね、可愛い子だなーって思ってた。
この前ね、お見舞いに行ったの。1週間くらい前かな。絵里なにしてるかなってちょっと気になって、病院に行ってみたの。
最初はお互いに緊張してたんだけど、話していくうちにどんどん打ち解けてね。
絵里も「さゆ」って呼んでくれたし、さゆみも「絵里」って呼び合う感じになったの。
それで、話してるうちに、やっぱり絵里は可愛いなって思ったの。
さゆみはもちろん可愛いんだけどね、それでも絵里はすごいの。超かわいいの。さゆみの次くらいにね。
それにあの子、すごく頭が良いの。話してて分かる。
自分のこと、ちゃんと分かってる。それでいて飾らないし、人間らしいの。
一目惚れってあーゆーことを言うのかな。
れいなが絵里のこと好きなら諦めようと思ってたの。
だけど、れいなは、違うんでしょ?だったら、さゆみが絵里に告白するの。
- 338 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:37
- タコさんウィンナーを飲み込んで、さゆみは「ごちそうさま」と呟く。
鼻歌交じりにピンクの弁当箱を片づけていく様子を、れいなは黙って見ている。
「れいなはそれで良い?」
思考が追いつかない。
1週間前に見舞いに行った?
一目惚れ? 告白?
だれが?だれに?
さまざまな疑問符が浮かぶが、なにを聞けば良いのか分からない。
混乱とは、こういう状況を呼ぶのだろうか。
「さゆみの話はこれだけなの。ちょっと散歩してくるね」
そう言うとさゆみは席を立ち、教室を後にする。れいなはただ一人そこに取り残された。
右手の焼きそばパンがしなびている。そんなに時間が経ったのだろうか。
落ち着けと言い聞かせるように、れいなはパンをかじった。
- 339 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:38
- 話を総合すると、さゆみが一目惚れをしたらしい。
お相手は、亀井絵里だ。
どうも告白をしたいらしい。
焼きそばパンを食べきり、牛乳で流し込む。
味なんて全くしない。固形物が胃に入っていく感覚しかなかった。
―告白…すれば良いっちゃ、勝手に。
だれがだれを好きになろうと関係ない。
それがたとえ、さゆみと絵里であろうと、れいなには無関係なはずだった。
それなのに。
それなのに、胸が痛い。
チクチク痛んでは、絵里の顔が頭をよぎる。
絵里の笑った顔、ちょっと不貞腐れた顔、寝ている時の顔、泣いた顔。
れいなの頭の中に絵里の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消える。
―れーなの目、好きだよ
れいなは牛乳パックを握りつぶし、立ち上がった。そのままゴミ箱へ放り投げ、廊下を走りだした。
- 340 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:38
- 最近は走ってばかりだとれいなは思う。サッカー部なのだから、走るのは当たり前なのだろうけど。
2週間前、絵里を見かけたときにすぐに駆けだした。
絵里らしき人が屋上にいたというだけで部活を放り出して走っていた。なにかわけの分からない危機感というか第6感が働いて、れいなは走った。
そして今日も、さゆみを追いかけて走っている。
それはただ、絵里の声が聞こえた気がしたから。
―重症っちゃね、マジ…
それでも確かに、れいなは聞いた。
ちょっと舌足らずで、甘ったるい、絵里の声を。
- 341 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:39
- れいなは階段を駆け上がり、屋上の扉を開けた。夏の風が前髪をさらっていき、心地良い。
真正面に、こちらに背を向けたさゆみがいた。フェンス越しにグラウンドを見ているようだった。
れいなの気配に気づいたのか、顔だけ振り返る。いつもの笑顔がそこにはあった。
れいなは息を整え、さゆみの横に並び、ひとつ質問をぶつけた。
「さゆは、怖くないと?」
「なにが?」
「…女の子同士っちゃよ?」
認められない。
どう足掻いたって、この想いは間違っていると社会から烙印を押される。
世間の目が、常識が、怖い。
「へたれーな」
さゆみはぼそりと呟き、れいなの目をまっすぐ見て、こう言った。
「れいなの気持ちって、その程度なんだね」
思いもしなかった言葉を投げつけられ、れいなは険しい表情でさゆみを睨む。
だがさゆみは全く怯まず、声のトーンを変えずれいなに対する。
「中途半端な気持ちならやめといた方が良いの。守る覚悟もなくて、好きの気持ちも貫けないなら、絵里の相手は無理なの」
ギュッと拳を握る。手の平に爪が食い込んで、痛い。
あの時と同じ。絵里の告白を病室の扉の向こうで聞いていた、あのもどかしい気持ち。
違うと言いたいのに言葉にならない。なんて、なんて言えばいい?
絵里への想いは、そんな軽いものだった?
絵里へのこの気持ちは中途半端?
違う。
ただ、絵里の笑顔に惹かれただけ。
絵里の笑う姿が見たいだけ。
絵里が泣くと哀しい。絵里が笑うと嬉しい。絵里ともっと一緒に居たい。
いろんな場所に行って、いろんな景色を見て、ふたりでずっと歩きたい。
そのはずなのに、言葉にならない。
- 342 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:40
- 「ねえ、れいな。れいなは世間と付き合う気なの?」
優しい声がした。
れいなが顔を上げると、いつものさゆみの笑顔がそこにある。
「先生にタンカ切って授業サボるような度胸のあるれいなが、いまさら常識って枠にはまりたがるの?」
自分より身長の高いさゆみ。いつもいつも、れいなは彼女を見上げていた。
それなのに今日はいつも以上に、彼女が大きく見える。
「理屈じゃないと思うの、たぶん」
そう言って、さゆみはまた、ひとりごとのように呟き始める。
そういう「好き」とかって感情は、物差しじゃ測れないの。
世間とか常識とか「普通」っていう面倒な制約はそれを押しつぶそうとするけど、それはムリだと思う。
そうやって物差しで測れたら、ひとは「恋に落ちる」なんて言葉を簡単に言わないの。
さゆみの言葉を、れいなは黙って聞いている。
先ほどとは違い素直に受容できる。
荒波が立っていた心が、ゆっくりと静まっていくのが分かる。
「あれこれ考えたって無駄なの。そういうものを飛び越える力が『恋』なんだから」
風が、啼いた。
夏の匂いをつれて、ふたりの前髪を揺らし、屋上を吹き抜けていく。
- 343 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:40
- れいなの心に芽生えた小さな感情。
絵里に出逢ったときから少しずつ大きくなり始めていったそれは、名づけるとしたなら間違いなく『恋』だった。
気づいていた、最初から。
最初とはいつかなんてもう覚えていないけど。
この感情が恋であることくらい、わかっていた。
好きだから。
怖いくらいに、れいなは絵里が好きだった。
絵里の笑顔が見たい。
絵里に触れていたい。
絵里のそばにいたい。
そういう欲求すべてが、怖かった。
世間とかそういうものよりも、怖かった。
自分の中にあるこの感情が、絵里そのものを飲み込んでしまいそうで。
こんな感情を知ったら、絵里はきっとれいなを嫌いになってしまう。
それが嫌で、ツラくて、怖くて。
いまのいままでフタをしていた感情。
それなのに、さゆみはいとも簡単にそのフタを開ける。自然に彼女は、れいなの感情を解放させる。
ポンと頭を撫でられた。それがさゆみの右手だと気づくのに少し時間がかかった。
「会いに行ってあげて。きっと絵里も待ってるの」
やっぱり、今日のさゆみは一段と大きく見える。れいなはそう思ったが、それを口には出さなかった。
その代わりにれいなは何度か頷いた。
- 344 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:41
- ---
- 345 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:42
- 期末考査の前々日。サッカー部も部活が停止期間に入り、多くの生徒が早めに帰宅して試験勉強に取り組む中、れいなはひとり、病院にいた。
エレベーターに乗り込み、迷わず7の階数ボタンを押す。その手には此処へ来る途中で買った小さな花を持っている。
れいなはさゆみに言われるがまま、絵里に逢いに来ていた。
今日の昼休み、急に聞かされたさゆみの告白。
それが嘘であり、れいなに発破をかけるためだけだったことはもう分かっている。
当初、その嘘にれいなは動揺した。
なんでもないはずだったのに、気づいたら駆け出し、此処まで来ている。
『恋の病』という診断名があるなら治療してほしいくらいだとれいなは思った。
此処まで来ている以上、認める以外にない。
この感情は恋であり、れいなは絵里のことが好きで仕方がない。
ただ逢いたくて、逢いたいがために試験の前々日だというのに病院まで来たのだ。
れいなが、絵里になにを話そうかと考えているとき、エレベーターが開いた。
出ようとした瞬間、目の前には白衣を着た男性が立っていた。
れいなはさっと目を合わせて一礼し、702号室へと歩いた。
白衣の男性が、その背中を追っていたことを、れいなは知る由もなかった。
- 346 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:43
- お、久しぶりっちゃねー。
体調はどう?
いやー、最近暑いっちゃねー。
部活は休みやとよ。いま、試験期間でね。
いろいろと考えるが話にとりとめがない。
こういう時に面白い話のひとつやふたつでもできれば良いのだが、残念ながらそんなスキルはない。
れいなはため息をつき、702号室の扉に手をかけた。
頭の中は話すことでいっぱいになり、ノックをすることを忘れていた。
「絵里ー、入るっちゃよー」
「え。え、え?!」
あまりに予想外の声が聞こえたため、れいなはぎょっとした。
そして視線を絵里に向けた途端、余計にれいなは動揺した。
絵里が、ベッドに体を起こし、着替えていた。
上半身はなにも身に着けておらず、彼女は思わぬ来訪者に慌ててその胸元をシーツで隠そうとしている。
「なっ、いやっ、ちょ!」
顔が一気に赤くなる。れいなは自分で思うほど間抜けな声を出していた。
「バカっ、出てって!れーなの変態!」
れいなの体に雑誌や本が次々に当たる。
絵里は自分の身の回りにあるものを手当たり次第に投げてきた。
「へ、変態って言うな!これは誤解…」
「出てってー!」
その瞬間、れいなの額に雑誌の角が直撃した。
亀井絵里の渾身のストレートは、ずっと寝ていたとは思えないほどの威力であった。
れいなは勢い余って後ろによろめき、そのまま廊下へと弾きだされる形になった。
- 347 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:45
- 思いのほか、額が痛かった。赤くなっていることは間違いないが、下手をしたら腫れている気がする。
自分が悪いのは分かっているが、なにも物を投げることはないだろうと涙目になりながられいなは思った。
「お、ヤンキー見っけ」
そんな声がして見上げると、そこにはサッカー部OGである美貴がいた。
「ヤンキーじゃなか」と反論しようとしたが、自分が足を開いて座っていることに気づき、これじゃ仕方ないなと納得した。
「なんで涙目なの?」
「…絵里に雑誌ぶつけられたとです」
「なに、喧嘩でもしたの?」
これは、と弁解しようとしたところでれいなの記憶がよみがえる。
絵里の体を、れいなは初めて見た。
運動をしていないであろうその肌は真っ白で、まさに「純真」であった。
全体の体のラインは丸く、柔らかそうだった。
着替えるために久々にメガネをかけていない顔を見たが、やっぱりその方が似合っている気がした。
シーツで隠される直前の胸元を思い出しそうになったところで、れいなの顔は一気に紅潮する。
「…泣いたりニヤニヤしたり忙しいねー」
そう言われて自分がニヤけていたことに気づく。れいなは慌てて頭をかき、立ちあがった。
「青春まっただ中って感じだねー。若いって良いねえ」
そう言うと美貴はれいなの頭をポンと叩き、廊下を歩いて行った。
美貴の手も、やっぱりさゆみと同じように大きかった。今日はなんだか頭に縁があるとれいなは思った。
なにが青春なのかは分からないが、れいなは再び病室の前に立つ。
先ほどの絵里の姿がリプレイされるが頭を振って消そうとする。
そして想った。
やっぱり絵里は可愛い。
バカみたいに単純だが、純粋にれいなはそう想った。
れいなは今度はちゃんと扉をノックし、室内の絵里に声をかけた。
- 348 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:46
- 7月の中旬は、初夏というよりも夏真っ盛りである。
最近はエコや節電の影響で、クーラーの設定温度が高めである。それは絵里の病室も例外ではなく、室内の温度は異様に高かった。
窓は開けているものの、今日は風がなく、ほとんど意味はなさない。
絵里はほんの5分前まで眠っていたが、この暑さに起きてしまった。
汗をかいたシャツを着ているのは健康的ではないなと、絵里は着替えることにした。
回診まではもう少し時間があるし、この時間帯ならだれも来ないだろうと、絵里はカーテンを閉めず服を脱ぎ始めた。
―やっぱ全部脱ぐと涼しーなー
だれもいないことを良いことに、絵里は上半身を裸にし、ゆっくりとタオルで体を拭いていく。
汗をかいた体は、纏うものがなくなり、直接外の空気を感じて一瞬ひやりとした。
絵里は体を拭きながら、自分の心臓に手をあてる。
お世辞にも大きいとは言えない胸が、そこにあった。
―ちょっとちっちゃいかな、絵里…
運動を全くしていない絵里であるが、彼女は全く太っていない。食事もバランス良くとっているため、不健康というわけでもない。
自分は脂肪がつきにくい体質なのかもしれないと絵里は思う。
だが、それに比例して、胸もそんなに大きくなかった。
中学生の時はまだ気にしていなかったが、高校に入学し、クラスメートらと比較するとやはり小さいかもしれない。
それでいて困ることは全くないのだが、それでも絵里は少しだけ気にした。
- 349 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:47
- ふうとため息を吐き、新しいシャツに手を伸ばした時だった。
ノックもなしに、病室の扉が開かれる。
「絵里ー、入るっちゃよー」
聞き慣れた声がした。
この声の持ち主は、絵里が待ちわびていたれいなのものだった。
―れーな?!
「え。え、え?!」
その声を出した時にはもう遅かった。
メガネをかけていないぼんやりとした視界の先、扉の向こうには、れいながいた。
逢いたかった。
確かに、絵里はれいなに逢いたかった。
逢いたかったのに、よりによってこんな無防備な格好。しかも無防備にもほどがある格好をしていた。
- 350 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:47
- 絵里は困惑した。咄嗟にシーツを胸元まで引き上げた。
「なっ、いやっ、ちょ!」
れいながうろたえているのはその声から分かる。
彼女に悪気があったわけでもないことも分かる。
だが絵里は、耐えられなかった。
「バカっ、出てって!れーなの変態!」
絵里は自分の身の回りにあるものを手当たり次第に投げた。
こんなことをしたいわけじゃないのに。
こんなことを言いたいわけじゃないのに。
だが、自分が最も逢いたかった人に、こんな無防備すぎる格好を見られたことが恥ずかしかった。
「へ、変態って言うな!これは誤解…」
「出てってー!」
絵里が、アッと思った時には手遅れだった。
れいなの額に雑誌の角が直撃した。れいなはフラフラとよろめき、そのまま額を抑え、病室から弾きだされた。
- 351 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:48
- ―なんでみんなノックしないんだよー!
絵里はそう思いながらシーツをかぶった。
れいなだってわざとやったわけじゃない。
元を正せば、個室とはいえカーテンも閉めずに堂々と着替え始めた絵里にも問題はある。
だが、それよりも恥ずかしさの方が上回った。
れいなに裸を見られそうになったこと。しかも自信のない胸までもさらけ出したことが絵里はショックだった。
絵里が自己嫌悪に陥りそうになったとき、再び病室の扉がノックされた。
- 352 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:49
- 「失礼しまーす」
恐る恐るれいなが室内に入ると、絵里はベッドに横になっていた。
窓側を向いて寝ているために顔は見えないが、怒っているような気配は感じ取れる。
「あのー…お見舞いに来たっちゃけど…」
そう言って、室内に散らかった雑誌を拾い、小さな花束を机に置く。しっかり握りしめていたせいか、花は少しだけくたびれている。
チラリとベッドに目を向けるも、絵里はまだ、こちらを振り返らない。
れいなは心の中で冷や汗をかきながらも、それを悟られないように椅子に腰かける。
5秒、待った。
変化はない。
もう10秒待った。
変化はない。
さらに15秒待ってみる。
やはり変化はない。
30秒のノーリアクションに耐え切れなくなり、れいなは椅子を立ち、ベッドの反対側へと移動する。
否応なしに目が合ってしまう場所にれいなが立つと、絵里は慌てて寝返りを打つ。
その反応に少々イラッとしたれいなは、再び反対側へと移動する。
再度目が合った絵里は寝返りを打ち、今度はシーツを頭までかぶってガードする。
れいなは、「あー」と呟き、靴を脱いだ。
- 353 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:50
- 絵里はベッドに重さがかかったのを感じた。
「え?」と思った瞬間、シーツをはがされる。視界に入ったのは、天井ではなく、れいなの顔だった。
れいなは絵里の体を跨ぐようにしてベッドに乗っていた。
絵里は紅潮した顔を隠そうとシーツに手を伸ばすが、その手をれいなに塞がれる。
「ちょっ、れーな!」
「…こーでもせんと、絵里、れなのこと見てくれんやん」
「それにしてもちょっと強引じゃないですかー!」と叫ぼうとしたときだった。
あのときの記憶がよみがえり、心臓が高鳴る。
締め付けられるような痛みが走った。
発作ではない。だが、いつもの心地良い痛みでもない。
思いだしたくもない、忌まわしき記憶。
頭が混乱する。
吐き気がする。
呼吸が乱れる。
そんな中でもこんなに間近で見るれいなの顔は、あまりにも美しかった。
相変わらず少しだけキツそうな目をしているが、その目が絵里は好きだった。
だが、絵里は咄嗟にれいなと視線を外す。れいなを困らせたくない一心で、必死に誤魔化そうとする。
- 354 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:51
- れいなは絵里の中で起こっている変化に気づいていないのか、絵里の手を解放し、顔の横に両手をついて絵里に話しかけた。
「……悪かったと」
れいなが目をそらしながらも、なにかを伝えようとしてきた。
絵里は必死で息を整えながらその言葉を聞く。
「ノックせんで入って…その……着替え見て悪かったと」
その謝罪に絵里はポカンとした。
顔を少しだけ赤らめて、そして申し訳なさそうに絵里の様子をうかがうれいな。
そうだ、この謝罪。いつかの文化祭で、絵里が冗談で「傷ついた」と言った後にしたれいなの表情と同じだった。
見た目は大人っぽいくせに、こういうところだけ年下の、そう歳相応の15歳の女の子だ。
ああ、なんでこんなに好きなんだろうと絵里は思う。
あのときの記憶。
絵里の心をかき乱し、消えることのない、傷。
いつもいつも、絵里の心に深く残り取れなかったもの。
いまも絵里はそれに襲われた。
だが、れいなの笑顔を見ていると、それが和らいでいく。
絵里はふっと笑い、解放された右手でれいなの額を撫でる。
「絵里も…ごめんね、雑誌投げちゃって」
「ん、痛かったけど大丈夫っちゃ」
そう言ってれいなは「ニシシ」と笑い八重歯が覗く。
いつの間にか、呼吸の乱れは収まり、締め付けられた胸の痛みも取れていた。
れいなは顔の横についた右手を絵里の頭に持っていきそのまま撫でた。
れいなの細い指が絵里の髪を漉き、絵里は目を細めて笑う。
絵里は、れいなの額から右の耳の方へ手を滑らせ、頬を包むようになぞる。
「お見舞い、ありがと」
「お安いご用っちゃ」
そう言って、ふたりは優しく笑った。先ほどまでとは違い、甘い空気が室内に流れる。
- 355 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:51
- 「そういえば今日って…」
そう絵里が言いかけた時だった。病室の扉がノックされる。
絵里が時計を見ると、回診の時間だった。
れいなは慌てて絵里のベッドから飛び降りる。少しだけ名残惜しいと思ったが、いまはそれを口には出せなかった。
れいなが靴を履いたのを確認し、絵里は「ハイ」と答えた。
「絵里ちゃん、診察の時間…っと。お見舞いですか」
そこには白衣の男性がいた。
この顔は何処かで見たことがあるとれいなは思い、記憶を辿り、2週間前に病室で会った医師だと気づいた。
実は先ほどエレベーターですれ違ったのも彼だったのだが、それには気づいていない。
「れーな、まだ時間ある?」
「ん。今日は大丈夫っちゃよ」
れいながそう言うと絵里は微笑み、「ちょっと診察あるから、外で待ってて」と言った。
その言葉にれいなは嬉しくなり、笑って頷いた。
れいなはワタナベに一礼し、病室をあとにした。
- 356 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:52
- 「…この前の女の子だね」
「はい。後輩…というか友だちなんです」
ワタナベは聴診器を外し、カルテになにか書きこむ。
「仲が良いんだね」
そう言うと、絵里は柔らかく笑い、頷いた。
その瞬間、ワタナベはハッとした。
いまのはなんの気なしに言った言葉だった。しかし、絵里にとってそれは深い意味をもっていた。
そうでない限り、こんなにも柔らかくは笑えない。しかもそれは、いままでワタナベが見たこともないような笑顔だった。
何処か諦めたような、それでも美しい笑顔をもつ少女、それがワタナベの知る絵里だった。
しかし、いま此処に居る少女はそうではない。
ひとりの友人へ向ける優しい笑顔をもった16歳の女の子だった。
唐突に、ワタナベの心に火がついた。
「とりあえず異常はないから、経過観察でいきましょう」
「ありがとうございます」
ワタナベはそう言って立ち上がり、病室の外へ出た。
そこには、先ほどまで絵里と話していたであろう少女がいる。まだあどけなさの残る高校生だ。
「…あとで話があります。お時間、よろしいですか」
れいなは急に話しかけられたことに多少なりとも驚いた。
だが、ワタナベのその目の真剣さになにも言えなくなり、静かに頷いた。
それを確認するとワタナベはポケットからメモを取り出し、なにかを書いてれいなに渡した。
「それが僕の携帯の番号です。あとでかけてきてください」
それだけ言って、ワタナベは歩き出した。
れいなは呆気に取られ、そのメモ用紙と後ろ姿を交互に見た。
ワタナベの心についた火が、「嫉妬の炎」であることを、れいなはまだ、知らない。
- 357 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:56
- 「明後日が期末考査ぁ?」
絵里の言葉にれいなは耳を塞ぐ。思いのほか、彼女は大きい声が出る。
「ダメだよれーな。帰って勉強しないと」
平日のいまの時間帯といえば放課後で、れいなは普通なら部活に勤しんでいる頃だ。
そんななか、どうして病院に来れたのかを絵里は聞き、れいなは正直に答えた。
部活をサボっているわけではないとはいえ、れいなは絵里に叱られている。
れいなは一瞬、目をそらす。
「だけん、れなは…」
そして絵里の左手を両手で握り、今度は目を合わせてはっきり言い切った。
「絵里に逢いたかったと」
絵里は一瞬だけ目を大きくし、そして顔をそむけた。
「だ…でも、勉強は大事でしょ」
握られた左手が熱かった。
だが、絵里はその手を離すことはせず、ほんの少しだけ握り返した。
「勉強より」
れいなは迷わず、その手を自分の頬へと持っていく。
「絵里の方が大事やもん。仕方ないと」
絵里の左手がれいなの唇に当たりそうになる。
れいなが話すたびに、その左手はれいなの吐息を感じている。
絵里の顔が一気に紅潮する。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなるのが分かる。
まるでキスでもされているような感覚に陥った。
キスの経験なんてないのに、絵里は正直にそう感じる。
絵里はどう反応して良いか分からない。
その手を引いてしまうのはあまりにも惜しい気がするが、この体勢のまま会話するのも怖かった。
このままでは、絵里の左手はれいなに口付けされそうな気がしたから。
- 358 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:56
- 絵里は迷った挙句、緊張した左手の指を伸ばし、れいなの頬を撫でた。
サッカー部に所属し、炎天下の中グラウンドを走り回っているにも関わらず、れいなの肌は真っ白だった。それでいてその頬は柔らかく、なにより温かい。
「…嬉しいけど、成績落ちたら、絵里は怒りますよ?」
そう告げると、れいなは少し困った顔をした。
絵里に自分の成績のことは話していない。
一時期、ヤマモトに心ないことを言われ化学の授業だけサボっていたことも、それを挽回するために必死で勉強をしていることも、
さゆみに個人的に教えてもらっているものの、辛うじて平均点を行ったり来たりしていることも。
「れーなはなんの教科が一番苦手?」
「…数学かなぁ…あ、英語と化学も得意やないけん…」
「それ、ほとんど全部じゃん」
絵里がわざとらしくため息をつくので、れいなは慌てて「音楽は得意っちゃ!」と答えた。
その答えにも不満だったのか、絵里のため息はさらに大きくなり、左手はれいなの頬を離れ、自らの眉をなぞった。
「前回は何番だったの?」
なんだか詰問状態に陥ってしまったようだとれいなは推測する。
此処で嘘をついても仕方がないと覚悟を決め、れいなは素直に「128」と答えた。
「何人中?」
「……207」
絵里のこの日一番のため息が聞こえた気がした。
そうは言っても、部活で忙しく、帰ったら宿題もそこそこにすぐに寝てしまうれいなにとって勉強する暇はない。
授業中も結構な割合で仮眠をとっているので、先生の話など聞いていない。
だからこそ、さゆみには大変お世話になっている。
- 359 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:57
- 「じゃーさ、絵里と賭けしない?」
目の前に居る彼女からは似つかわしくない単語が発せられ、れいなは驚いた。
だからとりあえず聞き返してみることにした。
「賭け?」
「そ。れーなが勝ったら、絵里はれーなの言うこと、ひとつだけ聞いてあげるから」
れいなは思わず息をのんだ。
「言うことを聞く」というそのセリフは、いまのれいなにとってあまりにも重かった。
そしてなにより、それを言った絵里は、あまりにも大人びた美しい表情をしていた。
たったのひとつだ。
たったのひとつの年齢の違いで、こんなにも大人になれるのだろうか。
凛として、そしてどこか妖艶なその笑顔が、れいなの心を支配する。少しだけ「悪そうな」大人の笑顔だ。
「その代わり、れーなが負けたら、絵里の言うこと聞いてくれる?」
こういうのを、小悪魔とでも呼ぶのだろうか。
目の前に居る少女は、16歳の高校1年生だ。れいなとひとつしか変わらない、女の子。
その彼女に、れいなは翻弄される。
溺れているのが、分かる。
先の見えないこの恋に。
深い瞳をもつ、この女の子に。
- 360 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:59
- 「……なにを賭けると?」
「れーなの成績。103より上なられーなの勝ち。104より下なら負け」
それは、全体の半分の成績だ。れいなにとっては、前回の成績が128であるのだから、単純に考えて30人抜く計算になる。
れいなの成績は現在のところ右肩上がり。授業中の小テストでも、そこそこの点数を取り始めている。
英語や数学が足を引っ張るものの、得意の歴史でなんとかカバーをしている。
さゆみにも、「今回の期末では100番以内に入ると思う」とまで言われている。
決してこの勝負は、れいなにとって悪い賭けではなかった。
「……70番より上でれなの勝ちにする」
その言葉に、今度は絵里が驚く番であった。まさか自らハードルを上げるとは思ってもみなかった。
「なんで70なの?」
「…絵里の病室の番号が702やから、なんとなく」
それにしても、無謀ではないかと絵里は思う。
前回より60も順位を上げるのは、なかなか至難の業である。しかも、中間考査から1ヶ月しか経っていないにもかかわらず、である。
「絵里は別にいーけど…れーなはだいじょうぶ?」
「心配せんでいーと。そんなことより、言うこと、聞いてくれるっちゃろ?」
そうしてれいなは、いつものように「ニシシ」と笑った。
それは、あどけなさの残る15歳の女の子。
だが、いつものれいなよりも、ほんの少しだけ大人っぽくも見えた。
覚悟を決めたような、ちょっとだけ自信のあるような、そんな不思議な顔をする。
「じゃ、楽しみにしてるから」
絵里も、少しだけ覚悟をして笑った。
絵里の方が圧倒的に有利のはずなのに、まったく勝てる気がしなかった。
そう思わせるほどの力が、れいなの笑顔にはあった。
きっと、自分がゴールキーパーで彼女がPKのキッカーなら、アッサリと点を決められるのだろうなと絵里は思った。
- 361 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 00:59
- ---
- 362 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 01:00
- れいなはいま、10階の食堂に居る。入口が見えるテーブルに座り、時計を確認した。
もう少し絵里と話していたい気持ちを抑え、病室からケータイを使える中庭に出てからワタナベに電話をした。
3コール目で彼は電話を取り、食堂に居るように指示をした。
れいなとしては、この呼び出しの意味が分からなかった。なにを話されるのかも分からないし、そもそも早めに帰って勉強がしたい。
絵里に70より上と宣言したのが10分前だ。
正直、そんな順位が取れるとは思っていない。いくら成績が右肩上がりで、さゆみに個人レッスンを受けているとはいえ、相変わらず数学は苦手だし、英語も自信がない。
だが、それくらいのスリルがほしかった。
―絵里はれーなの言うこと、ひとつだけ聞いてあげるから。
小悪魔のような表情で、絵里は言った。
あれは間違いなく、絵里の持つ『大人』の顔。
いま思い出しても胸がときめく。つばを飲み込む音が聞こえた。
ハードルは高い方が良い。
超えられない壁なんてない。
自分に負荷をかけてモノにした方が喜びも大きい。
なにより、その方が、燃える。
絵里に逢った瞬間に、れいなは決めていた。
絶対に彼女をデートに誘おうと。
もう『like』とか『love』とかはどうでも良い。
厳密に言えばどうでも良くはないのだが、そんなことはスッカリ忘れていた。
―あれこれ考えたって無駄なの。そういうものを飛び越える力が『恋』なんだから。
さゆみはこのことを言いたかったのだろうか。
あれほど常識とか世間とかのことを考えていたのに、絵里に逢った途端に忘れていた。
ただ純粋に、絵里が好きだと想った。
絵里が笑うと嬉しくて。絵里が泣くと哀しくて。
絵里に触れられると涙が出そうになる。哀しいわけじゃないのに、胸が苦しくなる。
頬を撫でられたその手が離れたとき、れいなはとても寂しかった。
もっと触れたい。
その手に。
その頬に。
その唇に。
愛しくて、愛しくてたまらない。
―こういうの、『恋』って言うっちゃろか?
- 363 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 01:01
- れいながぼんやりと考えていると、食堂に誰か入ってくるのが見えた。
白衣を着た男性がワタナベだと気づくと、れいなは立ち上がった。
「遅くなって悪かったね」
「いえ…」
「紹介が遅れたね。僕は絵里ちゃんの担当医であるワタナベと言います。よろしく」
れいなは少しだけ眉を顰めたが、ワタナベの自己紹介を受け、とりあえず自分も名乗り返した。
ワタナベは席に座り、メニューをれいなに差し出す。
「なにか飲む?」
「いや…遠慮しときます」
「子どもが遠慮なんてするものじゃないよ」
れいなは再び眉を顰める。
さっきは『絵里ちゃん』という呼び名が気に食わなかった。そして今度は子ども扱いされたことに腹が立った。
だが、それを表に出すことは子どもだと認めているようなものなので、「じゃあココアで」と我慢した。
それを確認すると、ワタナベはニコッと笑い、店員に注文した。
食堂にはれいなとワタナベしかいない。この時間帯は人が少ないようだ。
「呼び出して申し訳ないけど、この後も会議があるから、手短に話すよ」
「申し訳ないなんてちっとも思ってないやろ」と言いたくなるが、ここも我慢する。
なんだかこの人とはウマが合わない気がした。
だが、そうは言ってもこの人は、絵里の担当医なのだ。
美貴から聞いた話によると、心臓外科の若きエースらしく、その腕も確かだ。
絵里の正式な病名は聞いていないが、どうも心臓が悪いことくらいはれいなでも分かる。
手術が必要なら、おそらく主治医は目の前に居るワタナベになるはずだ。
あまり波風は立てたくないし、絵里が治るのならなんでも良いとれいなは思った。
- 364 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 01:02
- 頼んでいた珈琲とココアが運ばれてくる。注文して1分も経っていないのは客がいないからだろう。
インスタントをそのまま出しているのかもしれないが、この際それはどうでも良い。
しかし、アイスココアと言わなかったのはれいなの失敗だった。この暑い日にホットは飲みたくない。
そのうえ、れいなは猫舌であるので冷めるまで待つ必要がある。
ワタナベは自ら注文した珈琲をブラックのまま一口飲むと、口を開いた。
「絵里ちゃんの病気のことは何処まで知ってるの?」
れいなはココアから視線をワタナベに移した。しかし残念ながら、彼はこちらと目を合わせていない。
「…心臓が悪いのは、知ってます」
「それだけ?」
れいなは素直に頷いた。
確かにれいなは絵里のことはなにも知らない。特に彼女の抱える病気のことは、なにひとつ聞いていない。
ワタナベはため息をつき、テーブルに置いてあるファイルをめくった。
今日はなんどかため息をつかれるが、その中で最も失望されていると感じるものだった。
「彼女の病名は……いや、きみに言っても分からないか。確かに心臓が悪いのは事実だ。
運動、特に激しい運動は絶対に禁物だ。発作を起こしてしまうからね。
最近の彼女は、一応安定はしているものの、僕としては万一に備えて10メートルも走らせたくない」
- 365 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 01:03
- 『発作』という言葉がれいなに響いた。
心臓発作なんて、テレビドラマかマンガの世界だけだと思っていた。
それが現実で、ましてやれいなの近しい人物にそれが当てはまるなど想像もつかなかった。
絵里の心臓が悪いことは知っている。だが、それを此処まで淡々と、そして主治医に言われると、余計に現実が迫ってくる気がした。
「2週間前、彼女が此処に運ばれたけど、あれが発作だ。きみはそれを見てた?」
2週間前というと、あのイジメを発見した時だ。
確かに、ただスズキらに暴行を受けたにしては、絵里の息はひどく荒かった。
過呼吸かとも思ったがそれにしては苦しみ方が尋常ではなかった。
れいなはそのときなにもできず、ただ安倍や保険医に介抱されていく絵里を見ているしかなかった。
―あれが、発作…
れいなが回答しないうちに、ワタナベは話を続ける。
「僕は絵里ちゃんを2年間診てきた。そして海外に渡って技術をつけ、こっちに戻ってきた。
3年ぶりに会った彼女の容体は、僕が思っていた以上に悪化している。正直、僕も想定外だったよ」
淡々と話し、珈琲を飲むワタナベ。
いったいなにが言いたいのか、れいなはその真意を測りかねていた。
ようやくココアがぬるくなってきたところで、そのカップに手を伸ばした。
「あんまりムリはさせないでくれるかな」
カップに口をつける前にその言葉が聞こえ、れいなは手を止めた。
前を見ると、今度はしっかりとワタナベはこちらを捉えている。かなり強い目で、逃がさないというような気迫すら感じられる。
「見舞いに来てくれるのは一向に構わない。絵里も喜んでると思うしね。
だけど、外に連れ出そうとか、そういうことはあまりしないでくれるかな」
いつの間にか、「絵里ちゃん」から「絵里」に呼び名が変わっていることもれいなは気づかなかった。
ワタナベは珈琲を口に運び、続ける。
- 366 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 01:05
- 「いまの絵里に必要なことは、とにかく休むことなんだ。
きみがもうすぐ夏休みなのは知ってるけど、どこかに連れ出そうとか、そういう考えをもっているなら遠慮してくれるか」
カップをもつ手が震えた。
先ほど絵里と交わした『賭け』。あれに勝てば、れいなは絵里をデートに誘うつもりだった。
だが、ワタナベはそれをするなと言っているのだろうか。
「絵里がきみを慕っているのは分かる。だからこそ、彼女はムリをしそうな気がするんだ。きみと一緒に居ることで」
その言葉を聞き、れいなはカッとした。
カップを荒々しく机に置く。口をつけていないココアが少しだけ零れる。いままで我慢してきたがもう限界だった。
「それは、れなに絵里と逢うなってことですか?」
「そこまでは言っていないよ」
何杯目かの珈琲を飲むワタナベ。彼はもう既に半分ほどは飲みほしている気がする。
「きみは絵里を知らなさすぎる。彼女の病名も、容体も、今後のことも」
机上の手が震える。この感情は、哀しみでなく、怒りだ。
「いまの絵里に必要なのは、きみじゃない。ドクターである僕だ」
そう言うとワタナベは時計を確認し、珈琲を飲みほした。
「すまない、もう時間だ。僕は行くよ」
伝票を持って立ち上がったワタナベを見て、れいなも慌てて立ち上がる。
- 367 名前:Only you 投稿日:2011/09/22(木) 01:05
- 「れなはっ……れなはそれでも」
「きみになにができる?」
れいなの言葉を遮りファイルをまとめながらワタナベは言う。
その目はれいなとは絡まないが、ひどく失望しているように見えた。
とにかくそこには、『期待』なんてプラスの感情はない。
「きみは無力だよ。発作が起きたとき、きみは絵里になにをしてやれる?
傍に居て、手を握ってやることしかできないきみよりも、絵里にはいま、僕が必要なんだ」
ワタナベの言葉が、胸に突き刺さった。
無力。
それはれいなをどん底に突き落とすのに十分なものであった。
なにも知らないのは事実だ。絵里の病名も、容体も。発作のこともよく分からない。
そして、それを助けることができないのも事実だ。
だが、それを一纏めに『無力』と片付けられるのは心外だった。
本当に、本当に無力なのかとれいなは問いかけた。
だが、それに対して期待した答えも返ってこなかった。
「…見舞いに来てくれるのは、ホントに構わないから。ムリだけはさせないでくれ」
そう言うと、ワタナベは白衣を靡かせて食堂の入口へと歩いて行った。
れいなはただ黙ってその背中を見つめることしかできない。
ワタナベが会計を済ませ食堂を後にするのを確認すると、れいなは力が抜けたように椅子に座りこんだ。
―れなは、無力?
―れなは、必要ない?
ほんの15分前まであった試験へのやる気も、絵里の笑顔を見てシアワセだった気持ちも何処かへ消え去っていた。
机上のココアはすっかり冷めてしまい、表面に膜ができていた。
れいなはそのココアを、黙って口にした。
砂糖が少なめなのか、それはひどく、苦かった。
- 368 名前:雪月花 投稿日:2011/09/22(木) 01:09
- ひとまず此処までになります。
愛ちゃんの卒業までには完結させたいと思っていたのですが、難しそうです…
どんなに遅くとも年内中には完結させますが、まだまだ物語は続きます。
それでは失礼します。
- 369 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/22(木) 14:43
- 嫌いじゃないよ、こういう雰囲気。
最初は長々と苦手だったけど、だいぶハマったw
- 370 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/22(木) 19:54
- ひきこまれます
- 371 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/22(木) 23:37
- れなえりキター!
すごく長い文ですが、すぐ一気に読んでしまいました。
これからのれなえり、そしてあいがきの話がどうなるか楽しみです。
作家さんのベースで頑張って下さい!応援しますよ。
- 372 名前:栗 投稿日:2011/09/23(金) 23:40
- 素晴らしいです(≧▽≦)
病室でのれなえりのやりとりに思わず顔がニヤけてましたw
あー!続きが楽しみでしょうがないww
れなえり二人の幸せを願ってます。
- 373 名前:雪月花 投稿日:2011/09/24(土) 02:57
- もっと上手く書きたいけど書けないなあと思う雪月花です。
こればっかりは数をこなしていくしかないんですけどね。
>>369 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
確かにやたら長いですね、この話…w
しかもまだまだ続きそうな予感なので、飽きずに見ていただけると嬉しいです。
>>370 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
引き込まれていただけて嬉しいです!励みになります!
>>371 名無飼育さんサマ
作者は今年の4月に娘。にハマったうえに、絵里が卒業してもうすぐ1年になります。
それなのに、れなえり書いて大丈夫かなと思ったのですが、れなえり好きの方も多いようなので安心しましたw
愛ちゃんとガキさんの話ももっと掘り下げて書きたいのですが…がんばります。
応援ありがとうございます!
>>372 栗サマ
わお!まさか栗さまからコメントをいただけるとは!
栗さまの小説も読んでいましたよー。かなり甘くてニヤニヤしてうへへぇとなって、自分の顔が死ぬほどキモかったですw
れいなと絵里がシアワセになるか、またはズルズル落ちてしまうのかは、彼女たち自身に懸かってます。
ですが、栗さまにシアワセを願ってもらえて、彼女たちも喜んでいると思います。
では、今回の分、いきます。
- 374 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 02:59
- 夏休みに入り、れいなは毎日のように部活に励んでいた。
サッカー部は基本的に休みがなく、終日練習をしている。時々、半日のみの練習日もあるのだが、その場合でも、れいなは自主練として学校に来ていた。
今日はその半日練習の日であり、午前中で部活は終わっていた。
れいなは部室で着替え、同級生と別れた後、荷物を持って教室へと歩く。
夏休みといえど、真面目な生徒は学校で勉強をしていた。そんな生徒たちのために、学校側はクーラーを設置している。
そうは言うものの、これも生徒会の要望と働きによって2年前にようやく設置されたのだとさゆみから聞かされていた。
本当にさゆみは何処からそういった情報を得ているのだろうと不思議に思う。
とにかくれいなは、そんなクーラーが効いて涼しいであろう教室へと向かった。昼食をとるには、此処が一番である。
教室に入ると、そこには既に先客がいた。
「お、おつかれいなー!」
「おつかれいなー。今日も勉強かいね、さゆ」
机上に青いノートと教科書を広げているさゆみがいた。部活に入っていない彼女はよく学校に来ては夏休みの宿題をしている。
「部活バカのれいなと違って、さゆみは真面目だからね」
「だれがバカやって?」
「こわーい」
れいながさゆみの前の席に座ったのを確認して、さゆみは机上を片づけ、弁当を取りだす。
いつものピンク色の小さな弁当箱は彼女によく似合っているとれいなは思った。
「いただきまーす」
れいなも朝コンビニで買ったパンとスポーツドリンクを取りだした。いつもこのメニューなのだが、そろそろ飽きが来る。
たまには自分で作ろうかとも思うが、結局それは、叶わないままである。
- 375 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:00
- 「そう言えば、絵里がれいなに会いたがってたよ」
ペットボトルのキャップを開ける手が一瞬止まる。
れいなは怪訝そうな顔をさゆみに向けたが、彼女は視線を絡ませることなく、続ける。
「この前お見舞いに行ったら、最近れいなが来てくれないからつまんないって。なんか試験の賭けがどうとか言ってたけど…」
れいなは、「あー」と呟き、キャップを開けた。保冷剤で冷やしていたにも関わらず、スポーツドリンクはぬるかった。
あの日に交わした、れいなと絵里の『賭け』。期末考査の結果が70より上なられいなの勝ち、71より下なら負け。
もし勝ったら『絵里はれいなの言うことをひとつ聞く』というもの。
果たしてれいなの成績は、96番であった。
前回の結果よりも大幅に上がっているし、さゆみも「教えた甲斐があったの」と満足するものだった。
れいなとしても嬉しくないわけではないが、賭けには負けている。
賭けの約束をした直後のワタナベの言葉を気にしなかったと言えば嘘になる。
結局あの後、自宅に帰ってからもロクに勉強はできず、中途半端な気持ちで期末考査に挑むことになった。
それを言い訳にするつもりはないが、少なからず、れいなの心にそれは残った。
―きみは無力だよ。
―きみよりも、絵里にはいま、僕が必要なんだ。
見舞いに来るのは良いとは言われたものの、どんな顔をして会えば良い?
賭けにも負けて、無力とも言われ、いったいどうやって会えば良い?
- 376 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:00
- 「もしもーし。田中さーん?」
さゆみに目の前で手を振られて、れいなは現実に戻ってきた。
少しの間、思考のはざまに落ちていたようだ。どうも長考の癖は直らない。れいなは「なんでもないと」とパンを齧るがその言葉は薄っぺらすぎた。
「れいな、今日は部活終わったんでしょ?」
「ん。まー、とりあえず終わったけん…」
「じゃ、さゆみと一緒に絵里のお見舞い行こ」
「え?」と聞き返す前にさゆみが続ける。
「さゆみが連れてくるって絵里と約束しちゃったし。部活ないからってどうせ宿題もしないし、暇なんでしょ?」
半ば強引に話が進められているが、絵里に会いたくないわけはない。話したいことだってたくさんある。
だが、会って良いのか、悩んだ。
れいなは絵里のことを何も知らない。病名も、発作も、容体も。
なにも知らない無力な自分が、絵里の傍に居て良いのか、分からなくなった。
- 377 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:01
- 「なにも知らないなら、知っていくしかないの」
そのとき、目の前の少女から発せられた言葉があまりにもれいなの心情を読んだものであったのでれいなは驚いた。
「れいな、ミチって分かる?」
今度は全く違う方向の言葉を投げられる。れいなはきょとんとした顔のままだ。
「ミチって言うと、道と未知、ふたつあるの」
さゆみは弁当箱から手を離し、先ほどまで使っていたであろうノートに『道』と『未知』を書いた。
れいなは軽く頷き、そのノートを見つめる。
「道はそのまま、私たちが歩いていく道だよね。だけど、その道は見えない未来、未知なの。どっちもミチなの」
音だけで聴いていると混乱しそうになるが、ノートに書かれた文字を追っていると分かる。
『道』と『未知』。同じ発音で違う言葉。だけど、どちらも、同じミチだ。
「私たちは未知の道を歩いていくの。そして分からないことは知っていくの。勉強したりしてね」
そこまで言うと、さゆみは再び弁当箱に手を伸ばす。彼女はいつも玉子焼きを美味しそうに頬張る。れいなもそれを欲しくなる。
「って、この前だれかが言ってたの」
「…だれかって、だれよ?」
「忘れちゃったのー。重要なのは内容でしょ?」
次に頬張ったのはタコさんウィンナーだ。これもいつも弁当箱に入っているメニューだ。
彼女の弁当箱の中身は毎日似通っているが、いつ見ても美味しそうだし、さゆみ自身も美味しく食べている。
それが無性に羨ましい。
「だかられいなも勉強するの。知らないことを、知っていくしかないの」
そう言って、彼女は笑った。それを見てれいなも釣られて笑う。
- 378 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:02
- そうだ。
知っていくしかないんだ。
此処であれこれ燻っても仕方がない。
病名も、発作も、容体も。
絵里の病気ことを、れいなはまだなにもしらない。
彼女の好きなもの。
好きな色。好きな言葉。好きな食べ物。好きな花。好きな音楽。好きな季節。
絵里自身のことも、れいなはなにもしらない。
知っていこう。
ひとつずつ、絵里と話して。絵里と同じ時間を共有する中で知っていこう。
そうすることでしか、道は拓けないのだから。
未知なる道に飛び込むしか、ないのだから。
「…見舞いの品は、なにが良いっちゃろね?」
れいなが微笑みながら聞いてきたので、さゆみはいつものように笑って答えた。
「果物とか良いと思うの」
- 379 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:02
- どうしてさゆみは、れいなの悩みに気づけるのだろう。
どうしていつも、こうやって支えてくれるのだろう。
病院への道を歩きながら、れいなはボンヤリ考えた。
なにも言わないでも分かってくれる存在。それが道重さゆみだった。
同い年のクラスメート。ただそれだけなのに、見透かされることが多すぎる。
「さゆみはエスパーなの」
突拍子もない言葉がさゆみから飛び出した。れいなは「は?」と聞き返す。
「エスパーさゆみんは、れいなのことなんかお見通しなの」
「……そうやと?」
いまなら、彼女の言うことは何でも信じられる気がした。
「だってれいな、顔にすぐ出るんだもん」
「へ?」
「悩みが顔に書いてあるの。絵里の力になりたいけど、このままで良いのかって」
れいなは両手で顔を触る。自分でもベタなやり方だとは思うが、そうせずにはいられなかった。
「ま、単純れいなのことなんてすぐに分かるんだから」
バカにされている気がしないでもなかった。
だが、それを否定できるだけの力は、れいなには、ない。悔しさを噛みしめながら、れいなは病院の敷地に足を踏み入れた。
そのとき、ケータイのバイブが鳴った。れいなは一瞬、自分のカバンを漁ろうとしたが、その前にさゆみがポケットから取り出した。
「あ、ごめん、お母さんからなの。れいな、先に行ってて」
さゆみはそう言ってケータイの通話ボタンを押し、耳に当てた。
病院内では、一定の場所以外でのケータイの通話は禁止になっているので、この場で話すさゆみの判断は正解だと言える。
れいなは右手を挙げて返答し、一足先に絵里の病室に向かうことにした。
- 380 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:04
- 702号室へと続く廊下は、異様に静かだった。
7階には個室しかなく、現在入院しているのは、絵里と、707号室の患者さんのみだと美貴から聞かされている。
ふたりしか入院していないのなら、必然的に見舞いに来る人も少ない。そうであるからか、この階はいつも静寂が保たれている。
この静けさが、れいなは少し苦手だった。
病院が生と死が隣り合わせにあるのは当たり前なのだが、7階の持つ静寂はそこに在る『死』を、身を持って感じさせようとしている気がした。
れいなはイヤな考えを振り払い、702号室の前に立つ。
ひと息吐いて、扉をノックしようとしたときだった。先に扉が開かれた。部屋から出てきたのは、主治医のワタナベだった。
れいなは彼と目が合い、一瞬なにかを言いかける。向こうもれいなを認めたとき、なにか発しようとした。
しかし、お互いに言葉が続くことはなかった。
ワタナベは後ろ手に扉を閉め、れいなの前を過ぎ去ろうとした。
- 381 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:06
-
直感があった。
単純に、このまま行かせるのが癪だったのかもしれない。
全てにおいて、負けている気がした。
- 382 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:06
- 白衣を靡かせて廊下を歩くワタナベの後ろ姿にれいなは叫んだ。
「れなはっ、無力やないと!」
その言葉を受け、ワタナベの足が止まった。
「そりゃ、れなは絵里のこと、まだなんも知らんけど…でも、だからこそ、知っていきたい。もっと、絵里のこと知りたいと!」
ワタナベはゆっくりと振り返り、れいなと視線を絡ませる。
その瞳は強く、奥には炎が宿っているようにも見えた。
「……ムリだけはさせないでくれ」
そう言い残し、再びワタナベは歩き出した。れいなはそれ以上の言葉をかけようとはせず、黙ってその背中を見つめた。
ワタナベが本気で絵里を助けようとしていることは分かる。
それだけ絵里のことを大切に思っていることも、分かる。
だが、れいなは引き下がるわけにはいかなかった。
この想いを、止めることはもうできない気がしたから。
れいなはひとつ息を吐き、改めて病室をノックした。
- 383 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:07
- 「れーなだぁ」
絵里はベッドに上半身を起こし雑誌を読んでいたが、れいなが病室に入るのを見ると、嬉しそうに笑った。
「れーな、れーなっ」
手にしていた雑誌を脇のテーブルに置き、れいなへ向けて両腕を伸ばす。
「はは、れーなは猫かいな?」
れいなは見舞いの品であるリンゴをテーブルに置いた。
そして傍に置いてあった椅子に座り、絵里の頭を撫でる。
絵里はそれだけで気持ちよさそうに目を細め笑う。その仕草を見て、どちらかと言えば、絵里の方が猫みたいだと、れいなは思った。
「れーなが来てくれないから、もう絵里ちゃん寂しくて寂しくて」
そんなひと言にれいなはドキッとしてしまう。
ただの『友だち』に会えないだけで寂しいという意味なのに、とれいなは左手を握り締め、鼓動を落ち着かせようとする。
「で、試験はどうだったのかなー」
さあいきなり本題だとれいなは撫でていた手を離す。ひとつ咳払いをし、正直に「96、れなの負け」と告げた。すると絵里は意外な反応を見せた。
「凄いじゃん、前回よりかなり上がってるじゃん!れーな頑張ったんだね」
そう言って今度は絵里がれいなの頭を撫でた。れいなは素直に驚き、そして嬉しかった。
賭けに負けたことをからかわれるか、残念だったと言われるかと思っていたのに、褒められたのだ。
自分のことでもないのに、絵里はこんなに喜んでくれている。そしてれいなを褒めてくれている。それが素直に嬉しい。
絵里に撫でられる感触が心地良くて、れいなは「ニシシ」と照れくさそうに笑って俯いた。
ほんの少しだけ、目頭が熱くなった気がしたが、れいなは誤魔化した。
「でも、負けは負けっちゃ。絵里の言うこと、聞いてやる」
絵里はその言葉を聞き、撫でていた手を離した。
もう少しだけその感触に浸っていたかったが、れいなはその手を取ることはしなかった。
絵里は口元に手を置き、なにかを考えるような素振りをする。
- 384 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:08
- 「…なんでも、良いの?」
小声で絵里はそう聞いてきた。
なんだか自信がないような、申し訳ないような表情をしているから、れいなは努めて明るく返す。
「れなにできることなら、なんでも」
左手を胸に当てて言うその姿に、絵里は一瞬ときめいた。
その姿がまるで、そう、姫を助け出そうとしている王子のようにも見えたのだ。絵里は赤くなりかける顔を隠すように下を向いた。
聞いてほしいお願い事なんて、最初から決まっていた。
それをれいなに言い出すことを躊躇していた。
嫌われないだろうかと思うが、此処で止めるわけにはいかない。
れいなに勉強してほしくて言いだした『賭け』ではあるが、そこには絵里の願望も含まれていた。
絵里の言うことを聞いてもらうという、自分にしか利益のない身勝手さ。
自分が招いた結果なのに、此処に来て躊躇するのはれいなにも失礼だった。
絵里は肩で息をし、呟いた。
「じゃあ…」
「うん」
「絵里と、デートしてくれる?」
- 385 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:08
- れいなは思わず「へ?」と返した。
自分でも思うくらいに間抜けな声。いったいどこから出てきたんだ今の声はというくらいだ。
「……あ、あの、デートって、その、お出かけしたいなって思って。ほら、夏休みだしさ」
絵里が急に弁解してきたのでれいなも慌てた。
「あ、あー、なるほどね。うん、れなは全然、大丈夫やけん、部活がない日にでも」
れいなの笑顔に絵里はホッとした。
―良かったぁ…誤魔化せた……
『デート』などという言葉を出したことによって、れいなは引いてしまったのかもしれない。
慌てて『お出かけ』という風に訂正したら、れいなも了承してくれた。
焦っちゃいけない。ゆっくりいこう、うん。
絵里は自分にそう言い聞かせる。
―いまはまだ、れーなに気づかれたくない。
そうしないと、れいなが困ってしまうと絵里は思った。
この感情が伝わってしまうと、優しいれいなを泣かせてしまうのではないかと危惧した。
だから、この気持ちにはフタをして接していこうと決めていた。
だけど、逢いたくて、触れたい。
絵里はそれでも、れいなと遊ぶ約束ができたことを喜んでいた。
『賭け』なんて回りくどいことをしないとこんな約束もできない自分をヘタレと言いたくなるが、この際気にしない。
- 386 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:09
- 「れーなは、いつが空いてる?」
「えー…あー…ちょっと待って」
れいなはカバンの中を漁り手帳を探した。その手は心なしか震えている。
―デ、デートって言ったっちゃよね?
その言葉がれいなの心を躍らせた。自分が言いたかったことを絵里に言われたことに驚き、喜んだ。
それがたとえ、ただの『お出かけ』だったとしても構わなかった。
絵里が少なからずれいなに興味を持っていることは間違いないし、悪く思っていないことも分かった。
絵里と出かけられることが単純に嬉しかった。
絵里と同じ時間を共有できることが嬉しい。
部活なんて放り出して絵里と一緒に居たいがそうもいかない。
あまりがっついてしまうと、せっかくの機会を棒に振ってしまうかもしれない。
―この想いはまだ、れなン中で留めとけばいーと
れいなは手帳を開き、予定を調べ始めた。
- 387 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:10
- ―鈍感過ぎるの、あのふたり…
さゆみは病室の扉の隙間から一部始終を見て頭を抱えた。
だれがどう見てもラブラブな初々しいバカップルでしかないのに、あのふたりはお互いに片想いだと勘違いしている。
―せっかく空気読んだのに…
確かに先ほどさゆみのケータイに母親から着信はあった。
それは単純に、今日の晩御飯はなにが良いかという他愛もない用事であり、1分もしないうちに電話は切れた。
さゆみはすぐにれいなに追いついたが、れいながワタナベ医師に叫んだところで物影に隠れた。
―あんなに大きな声で叫べるくせに、大事なところは『へたれいな』なの。
さゆみからすれば、病院の廊下、しかも好きな人の病室の前で恋敵に宣戦布告ができて、デートの誘いに渋っているれいなの意味が分からなかった。
年上で、しかも絵里の主治医である男にあれほど大声で叫べるくせに、なぜもっと単純なことができないのだろう。
絵里にしても似たようなことは言えた。
『デート』という単語を聞いた時のれいなの反応を悪い風に勘違いしていた。
れいなは、『デート』という言葉を言われドキッとしたのに、気持ち悪いと感じたという風に捉えている。
慌てて訂正したら、今度はれいなの勘違いが始まってしまっていることにもさゆみはうんざりした。
「あり得ないの、あのひとたち」
- 388 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:10
- 「のぞき見するシゲちゃんの方があり得ないよ」
急に上から声が降ってきてさゆみはビクッとする。
見上げるとそこには笑顔の美貴がいた。さゆみはゆっくりと病室の扉を閉め、立ち上がる。
「で、なにがあり得ないの?」
「……あの鈍感バカップルが、ですよ」
美貴は一瞬なんのことかと考えたが、さゆみの視線の動きで状況を把握した。
「れいなはへたれだし、カメちゃんもアホだからねー」
そう言った後、「まあ、それがふたりの良いところなんだけどね」と美貴は付け足す。
その言葉にさゆみは、実はこの人も絵里とれいなのこういう会話を普段から聞いているのではないかと推測した。
「じゃ、美貴は行くから。シゲちゃんが助け舟出してあげたらー」
美貴はそうして、白衣を翻し、廊下を歩いて行った。
確かに、このままだと進展もなさそうな気がしたので、さゆみは病室へと入ることにした。
扉を開けた瞬間、まるでピンクのオーラが見えたような気がしたが、さゆみはそれを見ない振りをした。
どうしてここまであからさまなのに、お互いに気持ちに気づかないのだろうと、さゆみは心底、不思議に思った。
- 389 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:11
- ---
- 390 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:12
- れいなは駅のロータリーで絵里を待っていた。
今日は午前中で部活が終わり、午後からは自主練という形になっていた。いつもなら残って自主練をするのだが、今日だけはれいなはそれをしなかった。
なぜならば、今日は1週間前に約束した『デート』の日であるからだ。
絵里が入院してもう2ヶ月になる。
あの日から発作も起こらず、体調は安定している。そのためか、絵里は『一時帰宅』をすることができた。
絵里に許された一時帰宅の期間は、たったの3日間。
それでも絵里にとっては久しぶりに家に帰れるということで子どものようにはしゃいだ。
その内の1日を、絵里はれいなとのデートに使った。
れいなは当初、せっかく家に帰れるのだからゆっくりすれば良いと提案した。しかし、絵里はそれでも、この日に外に出たいと言い張った。
―いまの絵里に必要なことは、とにかく休むことなんだ。
―どこかに連れ出そうとか、そういう考えをもっているなら遠慮してくれるか。
ワタナベから言われた言葉が一瞬、頭を駆け巡った。だが、れいなもそれ以上はなにも言わず、今日出かけることを了承した。
ワタナベに対して、反抗したかっただけかもしれない。
しかしそれ以上に、れいなは絵里と出掛けたかった。それがたとえ、医者の意見を無視しているとしても。
- 391 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:13
- それにしても暑いとれいなは思う。
滅多に汗をかかないれいなでさえも、この炎天下の中ではさすがに額に汗がにじむ。
部活を終え、いったん家に帰りシャワーを浴びた。
せっかく汗を流してきたのにそれはもう無意味のようだった。お気に入りのサングラスをいったん外し、目元の汗を拭った。
れいなは音楽を聴きながら、絵里が来るのを待つ。
絵里はどういう格好をするのだろうかとれいなは思った。れいなは私服姿の絵里を見たことはない。
最初に会った時は朝陽高校の制服を着ていたし、2回目以降もそうだった。あとは病院内の服ということで、基本的にはパジャマか入院着であった。
それ以外は…と考えていると、れいなはあの日、絵里の着替え姿を見たときのことを思い出した。
事故であるとはいえ、上半身になにも身につけていない絵里を見た。
顔を赤らめてシーツでその胸元を覆い隠そうとしたことを思い出すと、自然と顔がにやけてしまう。
―れな、変態やなかと?!
顔が緩んでしまうことがれいなは嫌だった。
好きな人の裸体を見てニヤけてしまうなど、ただの変態のような気がした。
しかし、一度見た光景はなかなか頭から離れてくれない。れいなは必死に忘れようと、頭をブンブンと強く振り、聴いてきた曲のボリュームを上げた。
幸せになりたい
あなたを守ってあげたい
平凡な私にだって出来るはず
流れているこの曲がれいなは好きだった。
確かに自分は無力かもしれない。
医者でもなければ頭が良いわけでもない。ワタナベのように絵里を救える技術なんてない。
それでもれいなは、絵里を守りたかった。絵里を傷つけるものすべてから、絵里を守りたかった。
たとえ平凡でダサい自分であっても。その想いだけは貫きたかった。
だから、ボリュームを上げた瞬間にこの曲の歌詞が流れてきたことはなにか意味があると、感じていた。
それは確かに、なんとなくではあるものの、だ。
そういう純粋な守りたいという気持ちを大切にしたかった。だから余計に、妙な下心で汚したくなかった。
れいなはサングラスをかけ直し、ニヤけた顔を見られないようにした。
- 392 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:14
- ケータイを取り出し、時間を確認する。待ち合わせの時間を10分過ぎているが、まだ絵里は現れない。
最初に会ったときからのんびり屋なのだろうとは思っていたが、その推測は当たっていたようだ。
自分から誘っておいて遅刻するなど、普通のカップルだったらケンカの対象になってもおかしくないだろう。
ましてこの炎天下の中で女の子を待たせるなど、言語道断なのかもしれない。
だが、れいなは全く意に介さなかった。
そもそも付き合っていないし、絵里の性格上、なんとなくそうなる気はしていたし。
なにより、そんなことをされても良いと思うほど、れいなは絵里に惚れていた。
次の曲が流れ始めたとき、れいなの視線の先にひとりの女の子が入った。
それは紛れもなく、れいなが待ち焦がれた少女だった。
「れーなっ」
少し駆け足になって走ってくる絵里がいた。
白いワンピースの丈は少し短めで、そこらは白くて綺麗な足がのぞいている。
それに茶色のベストを羽織り、胸元には花のコサージュをつけている。
れいなは一瞬、絵里の姿に見とれていたが、慌てて耳からイヤホンを外し、絵里に応えるように右手を挙げた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いや…れなもさっき遅刻して着いたとこやけん」
本当はこの暑さの中、15分近く待っていたが、れいなは嘘をついた。
れいなの額についた汗を見れば、それが嘘だということくらい絵里には分かっていた。
だが、その優しさが嬉しくて、絵里はあえてなにも言わなかった。
「じゃ、行こっか」
れいなの言葉を合図に、ふたりは歩き出した。
ワタナベから言われた忠告など、れいなはスッカリ忘れてしまっていた。
- 393 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:15
- ふたりは駅前にあるアウトレットに入った。
店内はクーラーが効いていて涼しく、汗が引いていくのが分かる。絵里とれいなは並んで歩き、他愛もない話をしながら物色する。
「絵里の今日の格好、似合っとーよ」
れいなはサングラスをカバンに仕舞いながら絵里にそう言った。
絵里は一瞬キョトンとしたが、すぐに嬉しそうな顔を見せて笑った。
「うへへぇー、絵里ちゃん今日気合入れてきましたからっ」
そうして絵里はくるりと一回転した。
白いワンピースがふわりと揺れる。たったそれだけのことなのに、れいなは顔が赤くなる。
―可愛すぎる!もうこれはヤバすぎるっちゃ!
だからこそ、れいなは思った。
「やっぱメガネ外した方が良いっちゃよ」
そう言うと絵里は顔を膨らませる。
「ホントにれーなは、絵里のメガネ嫌いなんだね」
「やっ、嫌いとゆーか…その…えーっと…」
絵里の反論にれいなは言葉を探す。
別に嫌いなわけではない。絵里がするものならなんでも似合っているし、メガネ姿の絵里も好きだ。
- 394 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:15
- 「れーなだってサングラスしてるじゃん」
「サングラスとメガネは別物やろ」
だが、やっぱり、絵里はメガネをしない方が可愛いと思うのだ。
「コンタクトはイヤやと?」
「別にイヤってわけじゃないけど……」
そう言って絵里はある店に入っていく。れいなも慌ててその後ろからついていく。
絵里の入った店はアクセサリーショップだった。絵里はゆっくりとした足取りで店内を歩いていたが、あるところで足が止まった。
「れーなは、コンタクトの方が良い?」
絵里が手に取ったのはネックレスだった。
若者向けのショップであるためか、値段もさほど高くはない。
「まあ……どちらかと言えば」
れいなも絵里に倣って手に取る。
品ぞろえが豊富で、目移りしてしまいそうだ。その中でもひときわ目を引いたのが、小さなオレンジの石がついたネックレスだった。
「欲を言えば、髪もちょっと切ってほしいと」
「え、そうなの?」
そのオレンジの石のついたネックレスを手にとって、鏡で合わせてみた。
そしてれいなは確信を持った。このネックレスは、自分でなく、絵里に似合うものだと。
「長い髪も好きやけん、ちょっと長すぎやない?」
「あー…確かに全然、美容院行けてないから……」
絵里は手にしていたアクセサリーを置き、髪に指を通す。
胸元より下まで伸びた黒い髪は、れいなも嫌いじゃない。
しかし、この暑い夏に、絵里の黒く長い髪は不釣り合いな気がした。
特に、今日絵里の着ている白いワンピースには、もっと短い髪の方が似合う。
「てか染めればいーやん」
むしろ茶髪に染めた方がよっぽど似合うと思って口にした。
しかし、絵里はその問いに大きく首を振り、髪が揺れた。
- 395 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:16
- 「いやいや、それはムリだよぉ」
「なんでムリやと?」
「だ、だって……」
絵里が髪を切らず、そしてかつ染めない理由は、ただ時間がなくて美容院に行かないからではない。
中学校のときに起こった事件がひとつネックになっている。
学校を休みがちで、それなのに勉強ができる絵里が疎ましい生徒はたくさんいた。
ただ単に、絵里の存在自体がムカついたのか、先生に言いつけないと思ったのか、中学生時代の絵里は格好のいじめの標的だった。
暴力を振るわれたり、金銭の要求はいつものことであったが、絵里はある日、呼び出されたその場で髪を切られた。
長いハサミが絵里の長くて黒い髪を切り裂いていく。
そして、最後の締めと言わんばかりに、絵里は頭からペンキをかけられ、その黒い髪は真っ赤に染まった。
絵里をいじめていた生徒が高笑いをしながらその場を去った後、絵里は拳を握り締め、肩を震わせて泣いた。
それ以来、絵里は極端に美容院を避けていた。
美容院に行くということは、必然的にハサミを見ることになる。そしてカラーリングをすれば、髪にカラー剤を塗ることになる。
それがどうしても怖くて、絵里はできなかった。
だが、絵里はその話はだれにもしていない。
だかられいなもその事実を知らない。
- 396 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:18
- 「絵里には似合わないよー」
追及されるのが怖くておどけてそう言うと、れいなはネックレスを置き、絵里に向き直る。
絵里の長い髪に指を通すと、絵里はぴくっと反応した。
れいなは気にせずに続けた。
「絵里は可愛いけん、なんでも似合うとよ」
その言葉にまた絵里はドキッとする。
たったひとつの言葉が、絵里の中にある恐怖心を消していく。
まるでそれは、不思議な魔法だ。れいなだけがかけられる、絵里専用の魔法。
れいなの細い指が絵里の髪を撫でていき、そっと離れた。その感覚が、名残惜しい。
「…じゃあ、コンタクトか、髪切るか、染めるならどれがいい?」
「えー、全部」
「…田中さん、欲張りですよ」
絵里は呆れてブレスレットのコーナーへと移動する。
だが、その欲張りなれいなの気持ちも分からなくもない。
可愛いと言われたことは素直に嬉しかったし、この心臓の高鳴りも嘘ではない。絵里は少しだけ、髪を切ってみようかと考え始めていた。
- 397 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:19
- れいなはその隙に、先ほどまで手にしていたネックレスをレジへと持って行く。
初めてのプレゼントを10秒足らずで決めてしまうのは冒険のような気もしたが、絵里にはこれが似合うと直感した。
喜んでくれれば良いなと思いながら、れいなは会計をした。
「れーな、なに買ったの?」
店員からネックレスの入った包みを受け取ったところで絵里が後ろから話しかけてきた。
れいなは見られてなかっただろうかと心配したが、少し意地悪そうに答えた。
「内緒っちゃよ」
「えー、ズルいぃ」
絵里が顔を膨らませるのを見て、れいなは言った。
「ほら、絵里、行くっちゃよ」
れいなは八重歯を出し、目を細めて笑う。
そんな姿が単純に可愛くて、絵里も嬉しそうに笑った。
「うんっ」
- 398 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:19
- ただこの瞬間が、愛しかった。
他愛ない会話、何気ない風景。少しだけいつもと違う日常。
お互いの体温を感じながら、お互いの優しさを体いっぱいで触れる。
ふたりで歩けば、そんな些細なことすべてが愛しくてシアワセに感じられる。
たとえ先が見えない未知だとしても、あなたとならこの路を歩いていけそうな気がする。
ああ、こういうのが『恋』なんだろうな。
れいなと絵里は互いにそう思いながら、再び歩き始めた。
- 399 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:20
- 「歩いたねー」
れいなと絵里はベンチに座って天井を仰いだ。
宛てもなくブラブラと歩いたが、結局ふたりはなにも買わず、いまはベンチで休憩をしている。
買ったものと言えば、喉を潤すオレンジジュースくらいだった。
「なんかごめんね。付き合ってもらったのに、なにも買わないで」
「そんなことないっちゃ。れなは楽しかよ」
そう言ってれいなは「ニシシ」と笑う。
「さて、これからどうするかいね…」
れいなはケータイを取りだし時間を確認した。もうすぐ夕方になるが、特にこれからの予定は立てていない。
もう少し絵里と話していたいが、これ以上絵里を歩かせてしまうのは申し訳なかった。
このまま絵里を送って行った方が今日は無難だろうかと考えていたときだった。
「れーなは、まだ時間ある?」
絵里が少しだけ寂しそうにそう呟いた。
ケータイをカバンに仕舞い、絵里を見ると、彼女は下かられいなを覗きこんでいた。
れいなは自慢ではないが身長が低い。いつもいつも、人を見上げることが多かったので、このように下からみられることは少なかった。
だかられいなは、上目遣いの破壊力というものを知らなかった。
流れた前髪の向こう、汗ばんでいるからか、絵里の瞳は潤んでいる。薄い唇は少しだけ開かれ、なにかを言いたそうな形をしている。
れいなはただそれだけで真っ赤になり、思わず目をそらした。
「あ、や、まー、全然時間あるとよ!」
赤面を誤魔化すためにした不自然な返答に、絵里は困った顔をする。
「れーな…ムリしてない?」
「へ?」
「だって、付き合ってもらったのに歩かせてばっかりで、結局絵里は、なにも買わなかったし
れーなはせっかくのお休みなのに…なんか無駄な時間使わせたんじゃないかなって…」
潤んだ瞳がいよいよ暗くなる。どうやられいなの返答を誤解しているようだ。れいなは慌てて弁解する。
- 400 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:21
- 「ち、違うっちゃよ!れなはホントに楽しいし、時間もあるとよ」
だが、その弁解を聞けば聞くほど、絵里の顔は曇っていく。
「でも……」
非常に由々しき事態だとれいなは思う。
この誤解は早めに解いておかないと後々引きずってしまいそうだった。
せっかくの楽しいデートだったのに、女の子を泣かせてしまうなど最低すぎる。
実際、れいなはこの日のデートを凄く楽しんでいた。
絵里の貴重な私服姿を見られたし、絵里と話す中でいろいろなことを知ることができた。
その中で、なんどもれいなは絵里から目をそらした。
それはひとえに、絵里が可愛すぎて目を合わせられなくなってしまうか、赤く染まった顔を絵里に見られたくないかのどちらかでしかなかった。
だが、それを絵里は、「れいなに嫌われた」か「れいなはつまらない」という風に勘違いしている。
このまま重い空気の中で今日のデートを終わってしまうのは嫌だった。
誤魔化すことならいくらでもできる。だが、ちゃんと口にしなければ伝わらないこともある。
れいなは意を決し、自らを奮い立たせる。
ちゃんと言おう。ちゃんと伝えよう、自分自身の言葉で。
- 401 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:21
- 「絵里、れなはホントに楽しかったとよ」
れいなは泣きそうな顔でうつむいてしまった絵里に話しかける。
絵里はその言葉をまだ信じられないのか、その顔を上げようとしない。
れいなは躊躇いながらも、その肩に手を伸ばし、そっと抱き寄せる。
一瞬だけ、絵里はぴくっと反応するが、れいなが優しく力を込めると、素直に従った。
「れな、中学ンときも部活一筋やったし、目つき悪いけん友だちも少なかったと。だから、こうやって遊びに来れて嬉しかったと」
れいなが話す、彼女の中学生時代。
絵里はそれを一度も聞いたことがなかった。
それは、あの文化祭の日、先輩たちに囲まれて「可愛い」だのと言われていた姿からは想像もつかなかった話だ。
「でも、不器用やけん、それを絵里に上手く伝えられんくて…ごめんちゃ」
そう言うとれいなはカバンの中に仕舞っていた包みを取りだす。
絵里はキョトンとするが、それは先ほど、れいながあのアクセサリーショップで買ったものだった。
「ホントは、今日の最後に渡したかったっちゃけど…」
「え…絵里に?」
そっと包みを渡されて目を丸くする絵里。まさか自分のために買ってくれたとは思っていなかった。
「今日のデートの思い出に」
いたずらっ子のように笑うれいなからそれを受け取り、ゆっくりと封を開ける。
中に入っていたのは、店内に入った時に一瞬だけ絵里も見た、小さなオレンジ色の石があしらわれたネックレスだった。
―綺麗……
単純に、絵里はそう思った。
自分から誘ったデートであったのに、こんな素敵なプレゼントをもらえるとは思いもしなかった。
「なんか、絵里ってオレンジのイメージやし、似合うかなって思って」
- 402 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:22
- その言葉に、絵里は目を開いた。
絵里は以前になにかの本で誕生石というものがあることを知った。
絵里の誕生月である12月宝石は、ラピスラズリとターコイズで両方とも青い石である。
そして、彼女の誕生日23日の宝石は、オレンジ・ジェイドという、綺麗なオレンジ色の石だと知っていた。
絵里は誕生石の存在を知ってから、オレンジや青色が好きになった。
れいなは絵里の誕生日は知らないため、当然、誕生石の存在も知らないだろう。
だが、そうであったとしてもイメージカラーとして、自分の大好きなオレンジを選んでくれたことが絵里には嬉しかった。
「…嬉しい…ありがとう」
絵里は目を細めて笑った。
優しいその表情に、れいなはようやくホッとして微笑んだ。
れいなは「つけちゃる」と言って絵里の手からそっとネックレスを取った。
絵里もそれに従い、れいなの方へ背中を向けた。首につける際に邪魔にならないよう、髪を両手で束ね、後頭部へと持ち上げた。
急に現れた絵里のうなじに、れいなはドキッとする。
真っ白いそこに口付けしたくなる。その白い肌を赤く染めたくなる欲望を抑え、れいなは首に手を回し、ネックレスをつけた。
絵里はそれを確認すると、髪を下ろし、れいなに向き直った。
「れーな…似合う?」
今日の白いワンピースに、そのオレンジのネックレスはとてもよく映えた。
綺麗な鎖骨しかなかった首元は、そのオレンジのおかげで寂しくなくなった。
「バリ似合っとーよ、絵里」
まっすぐに瞳を見つめられ、絵里は照れくさそうに言った。
「ありがとう、れーな。大事にするね」
- 403 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:23
- 胸が熱くなるのが分かる。
れいなの優しさで心がどんどん満たされていく。
これ以上のシアワセがあるのだろうかと、絵里は思った。
「絵里は、まだ時間あると?」
「え、うん……」
絵里の返事を確認し、れいなは笑って立ち上がった。
「あと1ヶ所だけ、連れていきたい場所があると」
そして絵里に右手を差し出した。
「デートの続きっちゃよ」
- 404 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:24
- 風が吹き抜けた気がした。
いままで、絵里は自分が不幸だと思っていた。
満足に運動もできず、周囲の理解も得られず、いじめは繰り返された。
何度も何度も泣き、わがままを言っては何度も何度も親を困らせ、こんな絵里はいらない子なんだと思っていた。
だから無意識に神様を恨んだ。
こんな運命しか与えてくれなかった神様を、絵里は何度も恨んだ。
しかし、絵里は今日、初めて神様に感謝をした。
あのOG戦の日、屋上でたまたまれいなに会っていなかったら、次の日の推薦入試でれいなを追いかけていなければ、
文化祭の日に、ひとりで歩いていたれいなを見つけなければ、いじめに遭った日、屋上にれいなが助けに来てくれなければ、
絵里はこんなにシアワセな想いをすることはなかったのだから。
この運命をくれた神様に、絵里は初めて感謝した。
「うんっ」
泣きそうになるのを堪えて、絵里はその右手を取った。
こんなにひどい運命であっても、れいなはすぐに変えてくれる。
いつか、絵里がれいなに言った言葉。
―れーなは、絶対、自分の思い通りに未来を創っちゃうタイプだから。
あれは確かに、咄嗟に思いついた言葉でしかなかった。
だが、絵里はそれを今日、身を持って実感した。
れいなは確かに、自分の思い通りに未来を創っている。絵里の運命を、未来を、創り始めている。
―ありがとう…れーな。
絵里は繋いだ左手に力を込めた。少し汗ばんだその手が少しだけ強く握り返された。
- 405 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:26
- れいなと絵里が並んで歩き、着いた場所は公園だった。
「ここ、れなン家のすぐ近くやけん、お気に入りやと」
公園の敷地内には大きな噴水と何本かの木しか生えていない。申し訳なさそうにベンチが2つほどある、実にシンプルなものだった。
夕陽に照らされ、光を反射した水が幻想的で綺麗だった。
「噴水だー」
絵里はれいなの手から離れ、噴水へと駆け出した。
汗に滲んだ右手が寂しがっているようにも見えたが、れいなは気にせず、絵里の背中を追う。
絵里はなにやら叫びながら、噴水の周りをくるくる回る。
あれが本当に16歳なのだろうかとれいなは不思議に思った。
すると絵里はベンチにカバンを置き、急にしゃがみ込んだ。
れいなは、まさか発作だろうかと慌てて駆け寄ったが、どうもそうではなかった。
絵里は自分のサンダルの金具を外している。
「絵里…なんしよーと?」
「なにって、見れば分かるでしょ?」
そうする間に、絵里はサンダルを脱ぎ、裸足になった。
「おい、まさか」と思った矢先、絵里は噴水に向かって歩き出す。
- 406 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:26
- 「噴水は入るためにあるんですよ?」
「は?なんそれ」
絵里はれいなの言葉を聞き流し、噴水に足をつけた。
「うぉー、冷たっ」
いくら今日が真夏で気温が高いといえど、真水に足をつければそりゃ寒くなるはずだ。
れいなは、なんの迷いもなく水に足をつけた絵里をポカンと見つめた。
当の本人はというと、「冷たい」と言いながらも足で水を蹴りあげては遊んでいる。
その姿が妙に可愛くて、れいなは苦笑しながらも、自分の靴に手をかけた。
「冷たかー」
絵里が振り向くと、れいなも足を入れていた。
それを見て、絵里は勝ち誇ったように笑う。
「なーんだ、れーなも入りたかったんじゃん」
「うるさいっちゃん」
れいなの反論が気に食わなかったのか、絵里は右足で水を蹴りあげる。
危うくそれがれいなのスカートにかかりそうになり、慌ててよけた。
「そんな子どもっぽいことせんと」
そう言って、今度はれいなが絵里に向かって水を蹴った。
絵里は笑ってひょいと避ける。
「れーなの方が子どもっぽいじゃん」
「れなは年下やからいーと」
「理由になってませんよ、田中さん」
「じゃあ少しは大人っぽい態度をしてください、亀井さん」
ふざけ合いながら、ふたりは笑う。
噴水と木とベンチしかない、なにもない公園。高校生が来ても、普通はなんの楽しみもないはずなのに、いまのふたりにとっては凄く充実していた。
しばらくふたりは水を掛け合っていたが、夕陽が沈み始め、れいながくしゃみを出したのを合図に、ゆっくりと足を抜いた。
- 407 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:27
- ふたりがベンチに座り、足を拭いていたそのときだった。
「痛っ」
絵里が急に声をあげ、れいなは振り向いた。よく見ると、絵里の左足の裏から血が流れている。
「なんか、踏んじゃったのかも」
れいなは靴をはき、絵里の前へ回り込んで足首を掴んだ。
絵里は突然の行動にギョッとしたが、いまは黙ってれいなに従うことにした。
「ちょっと切れとーね」
れいなは水道場へ走り、自分のハンカチを濡らす。すぐに戻ってきて、絵里の怪我をした部分をそっと拭う。
絵里が一瞬顔を歪めるが、れいなは気にせず、ハンカチを包帯のように巻き付けた。
「化膿するといかんけん、れなン家で消毒するっちゃ」
「え、いいよ、そんな。悪いよ」
「小さな怪我でも油断したらいかんとよ。ひどくなったら取り返しつかんけん」
れいなはそう言って、ふたり分の荷物を肩に背負う。そしてそのまま、絵里の肩と膝の裏に腕を滑り込ませた。
「え?」と思ったときにはもう遅かった。
絵里はあっという間にれいなに抱きかかえられている。いわゆる『お姫様だっこ』の状態だ。
「ちょ、れーな、いーよ!歩けるし…」
「いかんと。できるだけ歩かんのがいい。れなン家すぐそこやけん、大丈夫とよ」
「いや、でも、絵里重いし……」
絵里が必死に暴れて降りようとするが、れいなの手がそれを許さない。
「はは。絵里は軽いとよ?ちゃんとご飯食べちょる?」
そう言って笑い、れいなは歩き出した。
絵里は抵抗を諦め、黙ってれいなに抱きかかえられたままでいた。
- 408 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:28
- こんな至近距離でれいなを見るのは二度目だった。だが、何度見ても、絵里は慣れない。
それどころか、見れば見るほど、れいなの顔立ちの綺麗さにやられ、目をそらしたくなる。
絵里は恥ずかしさに顔を覆いたくなるが、自由の利かないれいなの腕の中ではどうすることもできず、ただ黙って時が過ぎるのを待つしかなかった。
そうこうしている間にも、れいなはヒョイヒョイと階段を上がり、自宅の扉の前まで来た。
道順などは恥ずかしさのあまり覚えていないが、いまの公園とれいなの自宅は相当近いようだ。
「絵里、一瞬だけ片脚で立ってくれん?」
れいなに促され、絵里はそっと右脚だけで立ち上がる。
れいなはその隙にカバンから鍵を取りだして、扉を開ける。
そして再び絵里は抱きかかえられ、れいなの部屋へと入って行った。
れいなは器用に靴を脱ぎ、絵里をベッドへと降ろした。
カバンもついでに降ろし、絵里の手からサンダルを奪い、玄関へと持っていく。
そして箪笥の上にある救急箱を持って、再び絵里の足もとに跪く形になった。
その一連の流れがあまりにもスムーズで、絵里はなにもできずにいた。
「ちょっとだけ沁みるけん、我慢して」
れいなは絵里の足に巻いていたハンカチを外し、消毒液とガーゼをあてる。
瞬間、刺すような痛みが絵里の足に走り、絵里は思わず声を上げた。
れいなはそれを見て申し訳なさそうな顔をするが、そのまま消毒を続ける。
その顔を見て、絵里も我慢しようと決意し、唇を閉じて痛みに耐えた。
- 409 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:29
- 消毒を終え、れいなは新しいガーゼと包帯を取りだす。慣れた手つきでガーゼを当て、包帯を巻いていく。
部活一筋であるからなのか、テーピングや怪我の手当てには慣れているのかもしれない。
「はい、終わり」
慣れた手つきでれいなの手当ては終わった。
絵里が改めて左足を見ると、そこには少しだけ包帯が巻かれてはいるものの、痛みはもうなかった。
「傷は浅かったけん、すぐ治ると思うっちゃ。一応、ガーゼの予備を渡しとくけん、明日必要なら使って」
そういってれいなは絵里にガーゼ2枚と包帯を渡す。絵里はありがとうと素直に受け取った。
「あんまり子どもっぽいことせんと」
「むぅ。ごめんなさい」
絵里が素直に謝ったのが意外だったのか、れいなは困った顔をした。
そして所在なさげに部屋を歩き、「なんか飲み物持ってくると」と台所へと向かった。
- 410 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:30
- 絵里はその間、キョロキョロと部屋を見回した。
壁にはサッカーのカレンダー、窓には部活のユニフォームと、実に高校生らしい部屋だった。
机の上は散らかってはいるものの、教科書やノートが開かれている。一応、ちゃんと勉強もしているようだ。
箪笥の上には、救急箱とサッカーの本が置いてある。その隣にあるのは家族写真のようだった。
そしてさらにその隣に、びっしりとMDやCDが並んでいる。絵里はそれに興味を持ち、左足を引きずりながら近寄った。
1枚のCDを取るも、それは絵里が全く知らないアーティストであった。
何枚かタイトルを見るが、れいなは幅広く音楽を聴くようだ。邦楽はもちろん、洋楽、アニメ映画のサウンドトラックに、ヒーリング音楽もある。
「なんか興味あると?」
いつの間にか、ふたつのグラスを持ってに戻ってきたれいなから話しかけられ、絵里は振り向く。
グラスの中身は普通の麦茶のようだ。氷が何個も入っていて、実に涼しげである。
「絵里、病室に居る間は暇でさー。あんまり音楽知らないけど、オススメある?」
絵里にそう言われ、れいなはグラスをテーブルに置いた。CDを何枚か手に取るが、どうしようか悩んでいるようだ。
「CDプレーヤーはあると?」
「…持ってない」
「ウォークマンみたいなのは?」
「……ない」
絵里は音楽を知らない。
クラスメートの間で流行っている曲も絵里は知らないものが多い。興味がないわけではなく、接する機会がなかったという方が大きい。
絵里が申し訳なさそうに言うと、れいなは箪笥を開け、MDウォークマンを取りだした。
「れな、これもう使わんけん、絵里にあげると」
「え、いーの?」
「お古でごめんちゃ」
れいながそう言うので、絵里も素直に受け取った。そうしてさらに絵里に3枚のMDを渡した。
「オススメとか分からんけん、テキトーに貸す」
「ううん、ありがと」
- 411 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:31
- 絵里がそうやって笑ったとき、ケータイのバイブが鳴った。
れいなはさっとカバンを漁るが、どうも今回も自分ではないようだ。そうなれば必然的に、このバイブは絵里を呼び出していることになる。
絵里は自分のケータイを取りだし、ディスプレイを見た。そして彼女は、少しだけ寂しそうな顔をした。
それがデートの終わりの合図であることを、れいなはなんとなく察した。
「ごめんれーな。お母さんからなの」
「出ていーとよ。れな黙っとくけん」
れいなはおどけてそう言って、ベッドに座った。
絵里も申し訳なさそうな顔をしてその隣に腰掛ける。
「もしもし、お母さん?」
れいなは電話の向こうに居るであろう絵里の母親を想像した。
一時帰宅が許されたとはいえ、早めに帰ってきてほしいのが親の本音だ。それはなにも間違ったことではないというのも分かっている。
だが、今日のこの日が終わってしまうことが、れいなには寂しかった。
絵里はそれから2分ほど話し、電話を切った。それと同時にれいなは立ち上がる。
「送ってくけん、準備するっちゃ」
絵里もその提案に素直に頷き、カバンにケータイとMDをしまいこみ、ゆっくりと玄関に歩いた。
飲まれることのなかった麦茶の氷がカランと音を立てた。
- 412 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:32
- 「絵里、ちゃんと掴まった?」
「うん、たぶん…」
その言葉を合図に、れいなは右足で地面を蹴り上げた。最初こそフラフラしたものの、自転車はすぐにまっすぐに走りだした。
「もー、ふたり乗りは違法ですよ?」
「その割に嬉しそうに乗ってきたやん」
れいなにそう指摘されるが、それは嘘ではない。
最初に自転車の後ろに乗れと言いだしたのはれいなだった。
それが違法であることを絵里は知っている。だが、絵里は拒否せずに素直に荷台に乗った。
絵里自身、やってみたかったのだ。“ふたり乗り”というものを。
「あ、そこ左に曲がって」
後ろから出される指示にれいなは素直に従う。
背中に感じる絵里の体温が心地良い。お腹に回った腕は華奢で、少しでも力を加えたら折れてしまいそうだった。
先ほど絵里を抱きかかえたときも感じたことだが、本当に絵里はちゃんとご飯を食べているのだろうか。
「れーなぁ」
甘い声で名前を呼ばれ、れいなはぞくぞくする。
気持ち悪いという意味ではない。癖になるような、心地良さだ。
「今日は楽しかったですよ、ありがとう」
「れなも、バリ楽しかったとよ」
れいなは熱くなった顔を誤魔化すようにペダルを踏み込む力を強くする。
絵里はそれに気づいていないのか、感じる風に気持ちよさそうに目を細めた。
- 413 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:33
- 「また……」
「ん?」
「また、デートしてくれる?」
背中越しに聞こえるその声が、れいなの心臓を圧迫した。
今日は何度も絵里に恋をした。
最初に会ったとき、絵里が笑ったとき、上目遣いをされたとき、噴水で遊んだとき。
その度にれいなは絵里に恋に落ちていた。
恋はいずれ愛に変わるかもしれない。
だが、れいなは何度でも、絵里に恋するのだろうと思う。絵里が笑うたびに、恋に落ちてしまうのだろうと思う。
それが愛しくて嬉しくて、れいなは応えた。
「何度でもしちゃるよ」
その言葉を聞いて絵里は嬉しくなり、れいなのお腹に回した腕に力を込めた。
絵里自身をこんなに優しく包み込んでくれる人。つまらない日常を変えてくれる人。絵里にシアワセをくれる人。それがれいなだった。
―この感謝を、なんて言って伝えたらいーのかな。
絵里に、「ありがとう」以上の言葉は見つけられなかった。
だから絵里は、その腕に力を込めた。
どうか、どうか届いてほしいと祈りながら。
絵里の家に着くまでのたった10分の間、ふたりはシアワセを感じながら自転車を走らせた。
- 414 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:33
- ---
- 415 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:34
- 絵里はお風呂から上がり、自室のベッドに座りこんだ。
濡れた髪をタオルで乾かしていると、ケータイが光った。だれだろうと思って手に取り画面を見ると、自然と顔が緩んだ。
――――――
今日は楽しかったとー。
しばらくは部活で顔だせんけど、また見舞い行っちゃる。
それまで待っとって。
――――――
絵文字も顔文字もないシンプルな文章。
それなのに、送信者がれいなということだけで絵里は嬉しくなった。
箪笥の上には、今日れいなにもらった大切なネックレスがある。
そのネックレスとこのメールを見るだけで、絵里は今日のデートを思い出せる気がした。
絵里は迷わずにれいなのメールを保存し、返信を打ち始めた。
そのときだった。絵里の部屋の扉がノックされ、母親が入ってきた。
「絵里、ちょっといい?」
母が来るのは別段珍しいことではない。だが、その表情が少しだけ暗かったため、絵里は不思議に思った。
「話があるの。下まで来てくれる?」
そう言うと、母親はリビングへと降りて行った。
なんだろうと思うが、予想がつかないわけでもない。
一時帰宅が許されたとはいえ、3月まで入院生活を続けていくことは変わりがない。
しかし、親としては、このまま全快させておきたいというのが本音だろう。
手術という選択肢も早いうちにしておくべきだと考えているはずだ。
絵里も手術をすること自体は反対ではない。
体を動かしたいし、なによりれいなとサッカーがしたい。
れいなに下手くそといわれるかもしれないけど、彼女と一緒に走ってみたい。
その為に、手術は絶対必要だった。
もしかして、ドナーが見つかり、日程が決まりそうなのかもしれない。
もしくは、ドナーなしの手術を受けさせるつもりなのかもしれない。
どちらにしても、重い話になりそうだと、絵里はケータイを閉じてリビングへと歩いた。
編集されかけのメールだけが、そこに残っていた。
- 416 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:36
- リビングには母親以外に父親もいた。
これはいよいよ話が重くなるなと感じたが、絵里は黙って椅子に座った。
「絵里…好きな人はいるのか?」
唐突に切りだしたのは父親だった。
手術とは全く関係ないことを聞かれ、絵里は「はぁ?」と返す。その反応を見てか、母親が背中を軽く叩いた。
「じゃあ、付き合ってる人は…」
「お父さん」
今度は少し強めに叩く。一向に話が進まなそうな気配がしたため、絵里が切りだすことにした。
「話って、なに?」
そう言われ、両親は背筋を伸ばす。
こういう話をするとき、実は子どもの方が『大人』になっているのだということを絵里は直感的に知っている。
いつだったか、絵里の月経が始まったとき、なぜ血が出るのかと絵里は聞いたことがある。
そのとき、絵里の両親はほとほと困った様子を見せたが、それを見て絵里の方がなんとなく察したことはある。
そういえば、性教育の話をされたときも、両親の方が戸惑っていた記憶がある。
ちゃんと包み隠さず話そうとする両親のことを尊敬はするが、だったら回りくどくなくストレートに伝えてほしいとは思う。
「あのな絵里。ワタナベ先生のことはどう思ってる?」
父親は再び絵里の異性関係について聞こうとしてきた。その態度にさすがの絵里もうんざりし、普段はしないのだが言い返した。
「いい加減にしてよ。絵里は先生のことどうも思ってないし、恋人もいません」
このときの絵里は、「好きな人はいません」とは言えなかった。
嘘をつくことは苦手だし、いずれバレるような気がしていた。だが、それを話すべきはいまではないと思っていたので、あえて触れなかった。
問題は、異性関係のことばかり聞いてきて本題に移らない両親の方だ。
いったい何が言いたいのだろう、この人たちは。
- 417 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:36
- 「好きじゃ、ないのか?」
「だーかーら。好きとか嫌いとか考えたことないです」
これ以上話が発展しないようなら絵里は自室に戻ろうとしていた。
こんな与太話を聞くためにれいなに返信もしなかったのがいまさら悔やまれる。
「……ドイツで手術の話が出ているんだ」
その言葉を聞き、絵里は「え?」と聞き返す。
初めて実のある話が出てきたが、それにしては非常に重いものだった。
ある程度覚悟をしていたとはいえ、である。
「手術料や飛行機代、滞在費を含めても相当な金はかかる。だが、チャンスだとは思わないか?」
「それは…そうだけど」
そんな費用が何処にあると絵里は言いたくなった。
絵里の父親は普通の会社員であるし、母親は専業主婦だ。一応、パートはしているがそれでもふたりの収入ではとてもそんな費用は賄えない。
「それを、ワタナベ先生が負担してくれると言ってるんだ」
思ってもみない事実だった。そんな話を絵里は聞いたことがなかった。
ワタナベは、絵里が小学生のころからお世話になっている主治医だが、どうしてそこまでしてくれるのだろう。
「あのな、絵里。落ち着いて聞いてほしいんだ。
ワタナベ先生はお金を出してくれると言っている。でもな……絵里と付き合いたいと言ってるんだ」
父親から発せられた言葉に、絵里は目を見開いた。
どういうこと?
先生が、絵里と?なんで?
- 418 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:37
- 分からないことだらけの絵里に、父親は落ち着いて話し始めた。
絵里の入院が決まった日、ワタナベからドイツ行きの話を持ちかけられたこと。
その費用を、個人的に全額負担しても良いということ。
そして、絵里と正式に付き合いたいと言ったこと。
それを聞かされ、両親は悩んだ。
いちばんに優先されるべきは、絵里の気持ちである。
絵里自身が納得することならば、両親も諸手を挙げてドイツへ送り出すだろう。
だが、絵里自身が納得していないのならば、この話は断るべきだ。
そうは言っても、親心がある。
絵里には生きてほしい。人並みに生活できるようになってほしいし、シアワセになってほしい。
ドイツに行かずとも国内での手術も不可能ではない。だが、ドイツ手術の方が確実に絵里は助かるということも両親は知っていた。
「絵里がワタナベ先生のことをどうも想っていないのは分かった。だが、父さんも母さんも、絵里には生きてほしいと思っているんだ。」
それを聞いて絵里は立ち上がり、階段を駆け上がった。
リビングからは、絵里の名を呼ぶ母親の声が聞こえた気がしたが、絵里はもう振り返らなかった。
- 419 名前:Only you 投稿日:2011/09/24(土) 03:39
- 絵里は自室の扉を荒々しく開ける。
ワタナベ先生が……絵里と?
だって。そんな。
絵里はフラフラしながらもベッドに倒れ込んだ。
ワタナベが悪い人ではないことはよく知っている。絵里のためを思って全額負担の話を持ち出したことも知っている。
だが、急に言われてはまるで見当もつかない話だ。
ワタナベは絵里よりもずっと年上だ。その人の発する『付き合い』とは、ほぼ『結婚』を意味している。
絵里だって結婚したくないわけはない。シアワセな家庭は築きたいし、子どもを産みたいという気持ちはある。
だが、その隣に居るべき人は、ワタナベではなかった。絵里は、彼との将来は描けない。
それでも絵里は、リビングにいた両親の顔が浮かんだ。
生きてほしいという願い。絵里にシアワセになってほしいという願い。
両親はひたすらに、絵里の将来を心配していた。ただ絵里に生きてほしいと思っていた。
その気持ちを、裏切りたくはなかった。
絵里は涙が溢れそうになるのを堪えて箪笥の上にあるネックレスを見た。
照明に照らされてオレンジの石が優しく光っていた。
―れーな……
絵里は無意識にれいなの名を呼んだ。
編集途中のメールがあったが、それを送信するだけの力は絵里には残っていなかった。
いつの間にか絵里の瞼は重くなり、そのまま彼女は眠りに着いた。
- 420 名前:雪月花 投稿日:2011/09/24(土) 03:44
- 今日は此処までになります。
誤字脱字が多いですが、脳内変換をお願いします…m(_ _)m
スレサイズも気になってきましたが…これ収まるかな?w
では次回更新まで失礼します。
- 421 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/24(土) 22:22
- 絵里がどんな決定をするかすごく気になりますね。
どうか絵里とれいなが幸せになれるように〜
- 422 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/24(土) 23:04
- これは飼育の歴史に残る名作になりそうな予感
- 423 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/27(火) 15:01
- 前回はれいなの気持ち。
そして今回は絵里の気持ちが揺れてるなあ…
ドキドキする。。。
- 424 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/30(金) 17:59
- やばい。
一気に見てしまいました。
久しぶりにドカンときました!!
続き楽しみにしています!
- 425 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/09/30(金) 22:04
- 今一番更新が楽しみなスレ
- 426 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/06(木) 19:42
- 次の話がどうなるかドキドキします。
- 427 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/06(木) 23:05
- 続きまだかなo(^▽^)o
れーなカッコ良いよぉ!
何回も読み直しちゃいました\(^o^)
- 428 名前:雪月花 投稿日:2011/10/08(土) 03:02
- 愛ちゃんの卒業コンサートに参戦してきました雪月花です。
泣いて笑ってまた泣いて、最後には笑顔で武道館を後にしました。
愛ちゃん、卒業おめでとう!!
>>421 名無飼育さんサマ
まだ16歳の女の子に、こういう決断は難しいかもしれないです。
がんばって道を選ぼうとする彼女たちを見守って下さい。
コメントありがとうございます!
>>422 名無飼育さんサマ
いや、たぶん予感で終わりますww
そんな大それたことを言っていただき、本当に嬉しいです、ありがとうございます!
ご期待に応えられるよう、精進してまいります。
>>423 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
たぶん、一番ドキドキしているのは作者本人ですw
揺れ動く気持ちがきちんと描けていれば良いなと思っていますが…どうでしょうか?
>>424 名無飼育さんサマ
一気に読んでいただきありがとうございます!
そのドカン!に応えられるような続きを描けたら良いのですが…そこは作者が努力します。
これからも宜しくお願いいたします。
>>425 名無飼育さんサマ
温かいコメントありがとうございます。
そう言っていただけると調子に乗って執筆スピードが上がりますw
マイペース更新ですが、今後も気長に見てやってください。
>>426 名無飼育さんサマ
自分でも書きながらドキドキしていますw
絵里とれいな、そして周りの人たちがどういった行動をとるか、これからも見守っていて下さい。
コメントありがとうございます!
>>427 名無飼育さんサマ
れいなはカッコ良く、絵里は可愛く、という基本原則で書いていますw
こういう設定は他にも多いと思いますので、いつか次を書くときは別の設定も使いたいですw
なんども読み直していただいて本当に嬉しいです。
お待たせいたしました、本日分、更新いたします。
- 429 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:05
- 9月に入り2学期が始まった。
生徒会はすぐ目前に迫ったサッカー部のOG戦と推薦入試に向けての準備に取り組んでいる。
今年はれいなが推薦入試で現役生代表として試合に出るらしいので、絵里もできれば見に行きたいと考えていた。
だが、最近の絵里は体調を崩すことが多く、この状態で一時外出が認められるかは微妙なところであった。
「へー、ダンス部主催のねー…」
絵里はそう言って里沙から渡された資料を見ている。
「愛ちゃん、今回はこっちに出るみたいなんだよねー」
里沙はそうして大袈裟に首を振った。
10月に控えた文化祭のトリは今年も演劇部主催のミュージカルだった。しかし、今回は愛も里沙もミュージカルには出演しない。
そんな中、今年はその直前にダンス部主催のカラオケ大会を行うことも決まっていた。事前に予選会を行い、それを勝ち抜いた上位5チームによる大会らしい。
カラオケ大会といってもダンス部が主催のため、パフォーマンスも重視されるということで、『ダンスカラオケ大会』という方が正しいかもしれない。
キャッチコピーは『唄って踊れる朝陽高生求ム!』というものだ。
なにを目的としてダンス部がこれを企画したのかは分からないが、里沙の話によると、愛も出てくれないかと誘われているようだ。
本当にあの生徒会長はなんでも出来すぎるなと絵里は思っていると、ある文章に目がとまった。
- 430 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:06
- 「中等部からの挑戦を待つ…?」
絵里の言葉に、里沙はひょいと資料を覗きこむ。確かにそこには、大きな赤文字で『中等部からの挑戦を待つ!来たれよ、若きエース!』と書かれていた。里沙は「ああ」と声を出しながら説明する。
「今年から、朝陽高校に中等部ができたでしょ?あの生徒たちも参加しないかってことじゃない?」
「え、うちって中等部できたんですっけ?」
絵里の返答に里沙は眉を顰め、大声で返した。此処が病室だということを、彼女は忘れているようだった。
「始業式で説明あったでしょーが!去年から新しい校舎建ててたし、中学生も入るから規範ある行動しなさいって校長先生が言ってたでしょ?」
「えー、絵里そんなの聞いてないぃ」
「あんたが聞いてなくても、もう中等部はできてるの!」
里沙はそう言うと、絵里の手元にあった資料を奪い取る。派手なツッコミを入れられた絵里としては不満のようで、顔を膨らませながら「だってそんなの知らないし…」と小声で発していた。
それを見ながら里沙は大袈裟にため息をつき、話題を変えた。
「カメは、最近どう?」
その質問に絵里はきょとんとした。
近況報告ならいましたばかりなのだが、いったいなにを聞こうとしているのだろう。
「絵里はいつもどーりですよ」
「そうじゃなくて…田中っちと」
- 431 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:07
- 里沙の口かられいなの名前が出て、絵里は急に切なくなった。
8月の後半に、絵里はれいなと初めてデートをした。シアワセに満たされていた1日は、ある一言で唐突に暗くなった。
その日以降、絵里はれいなに連絡を取っていない。
「まあ…普通に」
「普通ってなによー、普通って」
明るく話しかける里沙の優しさがツラかった。
自分のことには鈍感なくせに他人のことには鋭い里沙のことだ。もう、絵里の気持ちにも気づいているのだろうなと絵里はなんとなく思った。
「れーな、元気にしてます?」
「元気が有り余ってるねー、あの子は。この前も下校時刻ギリギリまで残って練習してたよ」
その様子はなんとなく想像がつく。10月のOG戦、推薦入試に向けて張り切ってボールを追っていそうだ。
彼女の場合、そんな試合がなくとも真面目に部活には取り組んでいそうだが。
絵里はそんなれいなを想い、ふっと微笑した。
「じゃ、とりあえずまた来るから」
そう言って里沙は立ち上がり荷物をまとめた。もう帰ってしまうことが絵里は残念で仕方なかったが、困らせてはいけないと思い、黙った。
「うん、またね、ガキさん」
笑顔で手を振る絵里が、里沙には何処か遠く感じられた。
- 432 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:07
- 病室を出てエレベーターへ向かう廊下を歩き、里沙はぼんやり考えた。
いつだったか、彼女が発したセリフがよみがえる。
―わたしと、踊っていただけますか?
―ガキさんは、高い塔の小さな部屋に囚われたお姫様を楽しませてくれる王子様ですよ
あの時、絵里の心の中には間違いなく里沙がいた。
自惚れでなければ、絵里は里沙に恋をしていたのかもしれない。
だが、いまの絵里の中には、もう里沙はいない。
―じゃなきゃ、あんな優しい笑顔、できないよねえ…
里沙はエレベーターのボタンを押した。機械音が響き、光の扉が開く。
いま、絵里の心にはれいながいる。それはもう、ずっと前から分かっていたことだった。
たった一瞬で、絵里の心を捉えて離さなかったれいな。それは里沙には真似できない芸当なのかもしれない。
―ホント、敵わないなあ、田中っちには。
1の回数ボタンを押し、扉が閉まる。箱はゆったりとしたスピードで下がっていく。
もうそろそろ、新しい恋に向かうべきなのかもしれない。
それが自分の為でもあるし、絵里の為でもある気がした。これ以上、あの子の重荷になってはいけない。彼女と自分のいまの距離感は嫌いじゃない。
むしろ自分は、既に恋をしているのかもしれないと里沙は思う。いつも隣で変わらぬ笑顔で優しさを降らせてくれるあの人に。
- 433 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:09
- 里沙は絵里に黙っていることがひとつだけあった。
先ほど、ダンス部主催のカラオケ大会に愛が出場する話はした。しかし、本当は愛だけでなく、里沙も出場することが決まっている。
『昨年のシンデレラコンビが今度はダンスで魅了する!』というようなキャッチコピーが出回り、一部の朝陽高校の生徒、特にダンス部は盛り上がっていた。
そんな様子を見ながら、まだ予選会も通過していないのにとふたりは苦笑した。
そして、里沙はそれを絵里には話さなかった。
その理由はいろいろあるのだけれど、一番は、悔しかったのかもしれない。
いままで絵里のことを一番近くで見てきて、絵里のことをなんでも知っていた里沙。それなのに、急に現れたれいなに絵里は心を奪われ、里沙に対して「秘密」が生まれた。
たぶんそれは、絵里は無意識的な「秘密」であり、里沙もそれは分かっている。
里沙だって、告白をしたわけではないし、絵里の気持ちを応援するくらいの大人の態度をとることが当然だということも分かっている。
それでも頭の片隅に、一抹の寂しさは生まれた。
その寂しさは徐々に悔しさに変わり、子どものような感情を生み、絵里に対して里沙は秘密を作った。
なんとも浅ましく、バカバカしい考えかもしれない。だが、彼女は自覚していた。
1年越しの片想いが失恋に終わったのに、大人でいられるような自分ではないということを。
里沙は大きく息を吐いて空を見上げた。何処までも綺麗な「青」が広がっていた。
愛はまだ生徒会室に居るだろうか。もしかしたらカラオケ大会に向けて準備をしているのかもしれないなと考えながら自転車をこぐスピードを上げた。
- 434 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:09
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- 435 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:10
- 「異常なし。経過観察ですね」
そうして聴診器を外し、ワタナベはカルテに書きこむ。その動作はいつもと何ら変わりがない。
しばしの沈黙が続き、絵里は思いきって聞いてみることにした。このままモヤモヤしていても、どうしようもないのだから。
「ワタナベ先生…」
「はい」
「先生は、絵里のこと、好きなんですか」
ワタナベはカルテを書く手を止めて絵里を見つめた。驚いたような、だけど何処か分かっていたような、そんな不思議な顔を見せる。
「ご両親から、お話でも?」
絵里はその言葉に頷く。それを見て、ワタナベは息を吐き、傍にあった椅子に座った。
距離がぐっと近づき、絵里はドキッとする。れいなに感じたようなものとは少しだけ違った拍動を感じた。
ワタナベはカルテを再び書き始めるが、なにかを思ったように筆を止め、机に置いた。
- 436 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:10
- 「好きですよ」
それは、純粋な告白。
嘘や偽りのない、ストレートで分かりやすい言葉だった。
「最初は妹みたいな存在でした。だけど、ずっと見ているうちに、本気になっている自分がいた」
そう言うとワタナベは絵里の左手を握る。絵里は一瞬体を引こうとしたが、結局そのまま手は委ねた。
彼は、絵里の手を両手で包み込み、真剣な眼差しを送った。その視線が熱く、絵里は避けられない。
「きみを手に入れるために、ドイツ行きを利用していないと言えば嘘になる。
でも、絵里が助かるためには、手術は絶対に必要なんだ。僕は絵里をシアワセにする自信がある。だから、僕と来てほしい」
それは紛れもなくプロポーズだった。絵里はいま、目の前に男性に結婚を前提とした交際を申し込まれている。
確かに絵里を救う技術をワタナベは持っている。経済力も、これからの生活の安定もある。
性格も、たぶん悪くはないだろうし、一般的にモテる男性だといっても良いだろう。
だが、絵里は素直に頷くことはできない。
「でも…絵里は……」
「いま結論を出せとは言わないよ。だけど、ドイツ行きのことは考えていてほしい」
そしてワタナベは手を離して立ち上がり、カルテを手にした。
「絵里の将来のためにも」
そう言ってワタナベは白衣を翻し、病室を後にした。
- 437 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:11
- ただひとり残された絵里はただ呆然とするしかなかった。
あの日に両親から聞かされたワタナベの心。自分の将来を彼と共に生きるかどうか、絵里は選択を迫られていた。
生きられる命。生きるべき未来。その可能性。
頭の中は混乱し、絵里は思わず両手で髪を掻き毟った。
そしてそのまま重力に任せるように背中をベッドへ押し付けた。ボスっと音がし、枕が凹んだ。
右手を額に乗せる。白くて四角い天井が絵里を抑え込もうとそこにある。
―父さんも母さんも、絵里には生きてほしいと思っているんだ
―僕は絵里をシアワセにする自信がある。だから、僕と来てほしい
「……どうしろって言うの…」
目頭が熱くなっているのが分かる。涙腺が脆くなったのか、涙が溢れそうになる。
それは喜ばしいことだが、こんなことで泣きたくはなかった。
絵里はゴシゴシと目をこすり、涙を拭いた。
右を向くと綺麗な青空が広がっている。
小さな窓から切り取られた青であるが、それでも充分に綺麗だと絵里は思った。
れいなは今日も部活だろうかとふと思う。
9月といえど残暑は厳しい。太陽は容赦なく照りつけ、今日も熱中症の患者が運ばれたとワタナベは話していた。
あの白い肌の彼女は、そんなことお構いなしにボールを蹴っているのだろうかと思う。
- 438 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:13
- そして、れいなから借りたMDの存在を思い出した。
せっかく自分から言い出したのに、いろいろあって絵里は聴くことを忘れていた。
絵里は体を起こし、小さな棚に入れっぱなしにしていたMDウォークマンを手にした。一時帰宅を終え、病院に戻る際、このMDをカバンに入れたのは自分でも正解だと思った。
絵里は綺麗な水色のMDを手に取る。タイトルは書いていないが、それもまたれいならしいなと笑った。
ウォークマンにセットすると、音楽が流れ始めた。
ゆったりとしたピアノが流れ始めると、直後に強い音のイントロ。
なにかに煽られるような曲調のまま、歌詞が流れ始めた。
生きるのが下手 笑うのが下手 上手に甘えたりもできない
恋愛も下手 付き合いも下手 すごく大切にしたいのに
絵里はその歌詞に惹き付けられた。
なにか。なにかは分からないけれども、心に響く。
- 439 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:13
- 絵里は無意識のうちに指でリズムを取っていた。
小さい頃にピアノは習っていたものの、音楽の成績はいたって普通、楽譜が読める程度である。
音楽が好きか嫌いかと問われれば、どちらかと言えば好きと答える程度だった。
だが、そんな絵里はこの曲に惹かれていた。まっすぐで、何処までも透き通るような声。力強い歌詞が、絵里を捉えた。
この新しい星の下、翼広げて 自由に羽ばたかなきゃ生きてく意味ない
曲が終わってしばらくしても、絵里はただ呆然とするだけだった。
『衝撃が走った』という表現が似合う。
絵里はそのまま2曲目を流さず、もう一度いまの曲を聴くことにした。
曲名もアーティストも分からないのに、ただただ絵里はもう一度聴きたかった。
再びピアノが流れ始めた。
- 440 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:13
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- 441 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:14
- 「じゃあ夕方にはできますので、また取りに来て下さい」
眼科の受付の女性にそう言われ、絵里は頭を下げて外に出た。
今日も良い天気だ。青空が何処までも広がり、雲は数える程度しかない。
絵里は時計を見ると、もう昼の12時になろうとしていた。予約していた時間までもう少しあるが、絵里は次の目的地に向かうことにした。
黒を基調とした建物がそこにはあった。
絵里は緊張しながらも、その扉を開けると、綺麗な女性たちが「いらっしゃいませ」と頭を下げてきた。
入院して以来、長らく此処には来ていなかったなと考えながらも「予約した亀井です」と告げた。
すると時間を開けず、奥の方から背の高い女性が現れた。
髪を胸まで伸ばし、目が大きい綺麗な人だった。
彼女に案内され、絵里は席へと座った。
「今日は、どうなさいますか?」
絵里が自分の希望を伝えると女性は驚いたような顔をした。
「勿体なくないですか?せっかくこんなに長いのに…」
「いえ。いーんです。ちょっと気分転換がしたいから」
そうして絵里が微笑むと、女性も理解したように何冊か雑誌を開く。雑誌のモデルはだれもが可愛くこちらに微笑みかけていた。
女性は「こんな感じですかね?」と何人か指定すると、絵里は「はい」と答えた。
絵里は無意識のうちに、首に着けていたあのネックレスをそっと指でなぞった。
- 442 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:15
- 「外出許可…ですか」
「はい。半日だけでも良いんですけど」
2日前、絵里が診察を終えたワタナベにそう言うと、彼はふむと唸った。
暫し悩んだ後、カルテとカレンダーを見ながら「じゃあ土曜日なら1日良いですよ」と笑った。
それを聞き、絵里は「ありがとうございます」と頭を下げながら、早速予約を入れなければと考えていた。
「何処か行きたい場所でも?」
「うへへ、内緒です」
いたずらっ子のように笑う絵里を見てワタナベは大袈裟に肩をすくめた。
- 443 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:15
- 変わりたいと思った。
あと半年で学校に復帰するが、それに対する不安は計り知れない。
休学と留年は根本的には違うが、1年ダブっていることには変わりはない。
それによるクラスメートたちの視線がどういう風になるかも、想像がつかないわけではない。
れいなやさゆみ、里沙がフォローはしてくれると言ったものの、クラスが違ってしまえば結局はひとりで闘うことになる。
スズキらのいじめ問題も、結局は解決していない。
サトウや安倍たちが厳重に注意したとは言ったものの、それがどれだけ無力かは絵里にも分かる。
告げ口をしたと言ってまたいじめが再燃しないとも限らない。
目下の悩みである体調の問題ももちろんある。
最近は発作が起きていないものの、いつこの平穏な日々が崩れてしまうかは分からない。
ワタナベへの返事についても考える必要があった。
ワタナベに告白されてから、絵里は無意識のうちに彼を追うようにもなっていた。
ある日、寝るのに飽きて、病室から抜け出し、病院内を意味もなく歩いていたときだった。
小児病棟に絵里が行きつくと、そこで子どもをあやしているワタナベに会った。
手術を目前に控えている子どもが、その恐怖におびえ泣いているようだった。
彼はそんな子どもを責めることも叱ることもせず、頭をゆっくり撫で「お前は強い」と言った。
「たとえ怖くても、それで泣いたとしても、逃げなかったお前は強いよ」
そう言って髪をぐしゃぐしゃにすると、ワタナベは子どもを肩車し、病室へと戻って行った。
その様子を見て絵里は、間違いなくあの人は良い医者であり、良い父親になるなと確信した。
- 444 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:16
- れいなのこともずっと気にかかっている。
あのデート以来、絵里はれいなとロクに会話もしていない。
絵里は基本的に病室、れいなは学校で授業と部活に勤しんでいるから仕方ないが、絵里はメールをすることを躊躇っていた。
改めて「こんにちは」などと言うのは違う気がしたし、かと言って「最近どう?」と近況を聞いてれいなの邪魔にならないだろうかと考える。
結局そうこう悩んでいるうちに、絵里はメールするタイミングを逃し、かれこれ1ヶ月、れいなと話していない。
だが、会えない日々が長くなるにつれ、絵里のれいなに対する気持ちも大きくなっていた。
れいなは独り暮らしのようだが、ちゃんとご飯は食べているのだろうかとか、サッカーで怪我はしてないだろうかとか、ちゃんと授業を聞いているかとか。
「そんなに気になるならメールすれば良いのに」
一度、2学期になってすぐに見舞いに来たさゆみにそう言われたことがある。
あの発作があってから絵里はすっかりさゆみと仲良くなっていた。さゆみも部活をしていないからか、暇を見ては見舞いに来てくれている。
朝陽高校の友人のなかでは彼女が一番、この病院に来ている確率が高い。
「でも、それでれーなの邪魔になったらヤだもん…」
「別にれいなはメール1通くらいで邪魔だとは思わないだろうけど」
さゆみはそう言いながら大袈裟にため息をついた。
「ヘタレが此処にもいたの…」
さゆみがそんなことをぼそっと呟いたことを、絵里は知らない。
絵里は結局、さゆみかられいなの近況を聞くしか方法がなかった。
さゆみも多少うんざりしながらも、絵里にれいなの話をして聞かせた。それを知るたびに絵里は嬉しそうに笑った。
れいなが元気ならそれで良い。見舞いに来てくれたらもっと嬉しいのだが、部活が優先されるべきなのは絵里にも分かっている。
だけど、それでも逢いたかった。
逢いたい気持ちが大きくなる。他愛もない話をして、れいなの話を聞いて、また一緒に笑いたかった。
この気持ちが間違っているとしても、止めることはできない。
- 445 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:16
- 学校のこと、体調のこと、ワタナベのこと、れいなのこと。
考えるべきことはたくさんあったが、もう此処で立ち止まっているわけにはいかない。
時間は止まらずに進み続け、いつかは決断を下さなければいけない日も来る。
だったらもう、前を向くしかない。
あの狭い病室で、独りでうじうじ悩むより、広い空の下に出て、気分転換をして、歩いていくしかない。
変わりたいと思った。
ただただ純粋に、絵里はそう思った。
だから今日、絵里は此処へ来た。
中身を変えるために、せめて外見からでも変えてみよう。
その単純思考は、たぶん人に話したらバカにされるだろうけど、絵里はそれでも良かった。
たぶん、そうやって変わりたくなったのは、れいなから借りたMDに入っていたあの曲を聴いてからだった。
この新しい星の下、翼広げて 自由に羽ばたかなきゃ生きていく意味ない
名前も知らない曲に絵里は惹かれ、なんども繰り返し聴いた。
この曲の主人公に自分をあてはめたわけではない。
だが、自然と絵里は思った。せっかく生きているのだから、その翼を広げてみようと。
燻って悩んで引きこもっていたところで、なんの解決策にもならない。
どうせなら、羽ばたいてみよう。足掻いてみよう。がんばってもがいてみよう。それがもしかしたら、若者の特権かもしれないし、生きていく意味なのかもしれない。
- 446 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:17
- そしてもうひとつ。絵里が変わりたいと思った曲がある。
それは別のMDに入っており、その中の5曲目であった。
シャワーして鏡を見つめる メイクってとても楽しい
少しくらい派手が良いみたい その方が背筋が伸びる
激しいドラムから始まった曲は、そのイントロそのままに強気な女性の歌詞だった。
それなのに何処か柔らかい印象も与える、不思議な曲だった。
恋が始まりそう 女の感ね いつでも準備OK!
その瞬間、れいなの笑った顔が浮かんだ。
あのちょっと子どもっぽくて、八重歯を見せながら笑う顔が絵里の頭をよぎり、思わず赤面したことは、たぶんだれにも言えない。
絵里は鏡の中の自分を見つめる。あと3時間もすれば、この自分はいなくなる。
此処まで伸ばした髪。中学生のときの記憶が甦り、切ることも染めることもしたくなかった。
だけど、やっぱり前に進みたい。そう思って此処へ来た。
―れーな、気に入ってくれるかな?
そう思いながら、絵里は切られていく髪を見つめた。
ハサミを軽快に操っていく美容師は、こんなに切るのは久しぶりだと戸惑いながら笑った。
絵里は一瞬だけ、そのハサミに恐怖心を覚えたが、れいなのことを考えると、すっかりそんな怖さはなくなっていた。
- 447 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:18
- ---
- 448 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:18
- 「あー、カメちゃん遅いよーって……あれ?」
絵里が病院へ戻ると最初に会ったのは美貴だった。
この人ともよく会うが、バイトと言うよりももはや正看護師ではないかと絵里は時々思う。
「どうしたんですか?」
「いや、どうしたもこうしたも…カメちゃんずいぶん印象変わったね」
美貴は絵里のその変貌に驚いていた。
上から下までジロジロと眺めると、絵里は困ったように体をくねらせた。それは彼女が照れたときの動作だと美貴は知っている。そして思い出したように告げた。
「そうそう、さっきまでお客さん来てたんだよ」
「ふえ?」
「面会時間もう終わるから、ついいま帰ったんだけど会わなかった?」
「いえ…たぶん…」
「そっかぁ。すれ違っちゃったかな。れいな、いままでいたんだけど」
その名前を聞いた途端、絵里は迷わず来た道を戻った。
「ちょ、カメちゃん!あんまり走らないでー」
美貴の声が後ろで聞こえた気がしたが、絵里は構わず走りだした。
- 449 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:19
- れいなが来てくれた。
今日外出することはれいなには言っていない。
見舞いに来てくれたのだろうか。部活がいつ終わったのかは分からないが、ずっと待ちぼうけをさせていたのだろうか。それはあまりにも申し訳なさすぎる。
せっかく会いに来てくれたのに。
―れーなっ!
絵里は彼女の名前を心で呼び、走った。
会える確証もなかったのに、走った。
案の定、すぐに息が切れた。発作は起きていないものの、もう息が続かない。
たったの200メートルも走っていないはずなのに、こんなに息が上がるなんてあり得ない。やはり定期的に運動しなきゃダメなんだなと絵里は苦笑し天を仰いだ。
「絵里……?」
そのとき声が聞こえた。
絵里がまさかと思ってゆっくり顔を上げると、そこには自転車を押している部活着のれいながいた。
「れーな…」
「絵里、なんしよーと、こんなとこで…つか、髪…あれ、メガネは?」
ああ、紛れもない、れいなだ。
絵里より小さい身長。ちょっと強めの瞳。流れるような髪。その独特の方言。
逢いたくて、話したくて。ずっとずっと待ち焦がれていたれいなだ。
「れーなっ!」
「わわっ」
絵里がれいなに勢いよく抱きつくと、派手な音を立てて自転車が倒れた。
「ちょ…絵里、汗臭いけん、離れんしゃい」
「れーな…れーなぁ…」
れいなの制止も聞かず、絵里は強くれいなを抱きしめた。
絵里の心臓は高鳴っていた。それが走ったからなのか、れいなに逢えたからなのかは分からない。
だがそれは間違いなく、心地良い、胸の痛みに繋がっていた。
- 450 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:19
- れいなは困惑しながらも絵里の背中にゆっくりと腕を回し、抱きしめた。
絵里の髪のこと、メガネのこと、今日のこと、聞きたいことは山のようにあった。
なぜ抱きしめられているのかも分からない。だが、それ自体は、悪くはない。
絵里の匂いがした。この甘い香りにれいなはやられ、クラクラする。
そっと髪に指を通した。美容院のカラー剤の香りがする。絵里の香りと混ざってしまうことが不満だった。
「…髪、ずいぶん切ったっちゃね」
絵里はその長かった髪を思いきって短く切っていた。
いま、彼女の髪の長さは肩より少しだけ短いくらい。胸のあたりまであったことを考えると、30センチ近くは切ったのではないだろうか。
「うへへ、れーなが切ってほしそうだったから、バッサリ切っちゃいましたぁ」
絵里はようやく顔を上げ、れいなと目を合わせる。
少しだけ潤んだ瞳がれいなを捉える。れいなは一気に顔が紅潮するが必死にバレないように背けた。
「髪も茶髪に染めちゃって」
その短い髪は黒から茶色へと変わっていた。
光に当たるとその明るさはより際立って見える。その茶色と短めの髪は、絵里によく似合っていた。
「うん、なんか、気分転換になるかなって」
そうやって「うへへぇ」と笑う彼女。ヤバい、もの凄く可愛い。どうしようとれいなは戸惑う。
とりあえず自分のペースを取り戻そうと、れいなはゆっくりと絵里を引き離そうとする。だが、絵里がそれを許さない。
「絵里…どしたと…?」
「…久しぶりなんだもん…離れたく、ない」
その瞬間、れいなは噴き出しそうになった。
田中れいな、15歳。来月で16歳になります。
恋なんてこの歳になるまでしたことなかったとに、いま、完全に恋に落ちてしまっています。
いや、最初からずーっと恋に落ちていたっちゃけど……自分のペース、取り戻せそうにありません。
―バリ、可愛かぁ…
此処が道のど真ん中であるとか、自転車が倒れっぱなしであるとか、面会時間終わりそうなのに絵里は此処に居て大丈夫なのかとか、
言いたいことはやっぱり山のようにあったが、れいなはもうどうでも良くなっていた。
れいなは引き離そうとした手を腰に回し、絵里を抱きしめた。
ふたりはしばらく、そうしていた。
- 451 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:21
- 「へー、コンタクト入れたっちゃ」
「そうなの。もー、絵里、怖くて怖くて…異物挿入だよ!なんか目に入ってくるんだよ、怖くない?」
自転車をゆっくり押しながら、れいなと絵里は病院へと戻っていく。
その道すがら、絵里は今日初めてコンタクトを作り、目に入れたことを報告した。
コンタクトを入れる作業がいかに怖かったかを絵里は熱弁するが、れいなは裸眼であるため、いまひとつピンとこなかった。
「で、髪も切って染めて…」
「うん。似合って…る?」
絵里が自信なさそうな顔をしたので、れいなは笑顔で「バリ似合っとぉ」と頷いた。
それを見て絵里は目を細めて「うへへぇ」と笑う。だらしないくらいのその表情が、れいなは好きだった。
再三、コンタクトにしろだの髪を切れだの言ってきたれいなだが、まさかそのまま実行するとは思ってもみなかった。
そして実行した結果、こんなにも似合っていて、れいなのいわゆるドストライク状態になるとは考えもしなかった。
『可愛すぎて目も当てられない状態』なんてあるのだろうかと思っていたが、いま、まさにれいなが陥ってる状況はそれであった。
ああ、もう、シアワセです、神様ありがとうなど、普段は祈りもしないくせに、れいなは神様に感謝していた。
そうこうしていると、ふたりは病院の敷地内へと戻ってきた。れいなは入口へは向かわず、すぐ近くにある駐輪場へ自転車を突っ込ませた。
- 452 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:22
- 「ごめんね、せっかく来てもらったのに…」
「ん、大丈夫っちゃよ。事前に連絡もせんかったれなも悪いし」
「ううん。絵里こそ、ずっとメール返せなくて……」
少しだけ暗そうな顔を絵里がするので、れいなは自転車に鍵をかけると、ポンと頭を撫でてやった。
「せっかくいろいろして可愛くなったのに、そんな顔したら勿体ないっちゃよ?」
西日に照らされてそう言うれいなの顔は、いつもより少しだけ紅い気がした。
絵里は「うん」と頷いて、れいなの隣を歩き、病室へと向かった。
「れーな。もうすぐ、OG戦と推薦入試、だよね?」
れいなはエレベーターのボタンを押しながら、頷いた。できるだけゆっくり来てほしかったのだが、その願いに反して、箱はあっさりと1階へと到着した。
ため息をつきたくなるのを堪え、れいなは絵里を中へ入るよう促した。
「まあ、来てくれたら嬉しいけん、無理せんで良いっちゃよ」
絵里の考えていることを見越し、階数ボタンを押してれいなは言った。
絵里も、「行くよ」とはハッキリ言うことができず、少しだけ寂しそうに「うん」と頷いた。
その表情にれいなは慌てて別の話題を持ちだした。
「絵里、誕生日いつ?」
「ふえ?」
「たんじょーび。もしかして、もう終わった?」
「………12月の23日だけど」
れいながなにかを思い出すような顔をしていると、エレベーターは7階へと着いた。
「天皇誕生日で、クリスマスの前日…」
「そ。クリスマスと一緒に祝われちゃう寂しい誕生日ですよ?」
扉が開き、廊下が現れる。れいなは努めて歩調を遅くすると、絵里もそれに気づいたのかそれに合わせた。
れいながなにかを思案しているようだが、絵里はその真意が分からない。
絵里は「なにを考えてるの?」と聞きだそうとするが、その真剣な表情にそれは躊躇われた。
ゆっくりとした歩調にもかかわらず、ふたりは702号室の前へとたどり着いた。絵里が病室の扉に手をかけると、そこにれいなの手が重なった。
絵里がドキッとして振り向くと、れいなの真剣な眼差しとぶつかった。
少しだけ強めで、大きな瞳。その瞳に絵里は心を奪われる。
- 453 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:22
- 「あのさ、絵里」
「…うん」
「その日、れなとデートしてくれん?」
絵里がきょとんとした顔でいると、れいなは続けた。
「新人戦が秋にあるけん、しばらくは、顔出せん日が続くと思うっちゃけど、その日だけは、12月23日だけは、大丈夫やけん」
緊張しているのか、れいなの呼吸が短くなる。それでもれいなはゆっくりと言葉を紡いだ。
「絵里の都合さえ良ければ、れなとデートしてくれん?」
何処までもまっすぐな瞳がそこにはあった。
絵里は驚いたものの、すぐに微笑んで「はい」と頷いた。目を細めて片八重歯を覗かせて。
その表情にれいなもようやく緊張が解れたか「ニシシ」と笑った。
「じゃあ、またメールするけん」
「うん、またね、れーな」
れいなの手が絵里から離れた。そして何度か絵里の頭を撫で、れいなは絵里に背を向けた。
絵里はれいながエレベーターに乗るまでずっと、病室に入ることなく、彼女の姿を見ていた。
絵里よりもずっと小さくて、ひとつだけ年下の彼女。大きい瞳を持って、独特の方言を使う彼女。
そんなれいなに、絵里は翻弄される。れいなに逢えると嬉しくて、れいなが笑うとドキドキして、れいなともっと一緒に居たくなる。
いつか、この想いを伝えられる日が来るだろうか。
そしてそのときには、れいなはあの八重歯を見せて笑ってくれるだろうか。
それとも困ったような顔をするだろうか。
絵里を泣かせないように、少しだけ困ったように寂しそうに笑って、今日みたいに頭を撫でるのだろうか。
できることなら、れいなが嬉しそうに笑ってくれたら良い。
だけど、その可能性はないかもしれないと絵里は苦笑し、病室へと入った。
- 454 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:23
- それでも絵里はシアワセだった。
髪に関してもメガネに関しても、れいなが言いだしたのだから似合わないということはないだろうとは思っていた。
しかし、それにしてもあんなにも喜んで「似合ってる」と言われては、絵里も舞い上がってしまう。
―バリ、似合っとぉよ
その言葉を反芻すると、絵里はまた顔が赤くなる。
此処まで来ると、自分は赤面症なのではないかと疑いたくなる。
それがれいなになにかされた時だけなのだから、赤面症ではないのだが、それくらい、絵里はすぐに赤くなった。
―恋、してるんだなぁ…絵里…
そうしてカバンを置いたところで、れいなの誕生日を聞くのを忘れていたことに気づき、肩を落とした。
しかしその10秒後に、メールで聞けば良いやと思い返し、また絵里は顔が綻んだ。
- 455 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:24
- れいなが正面玄関を出ようとしたところで、ワタナベに出会った。
この病院に勤める医者である以上は仕方ないのだが、こういう偶然はあまりあってほしくないなと思いながら会釈をする。彼もれいなに気付き、会釈を返した。
ふたりがすれ違ったとき、ワタナベは声を発した。
「僕は絵里をドイツに連れて行こうと思っています」
急に発せられた言葉に、れいなはドキッとしながらも振り向く。ワタナベは冷静で、そのくせになにか炎を携えた眼をこちらに向けていた。
「手術にかかる費用、旅費や滞在費を含めて僕が負担します。彼女を連れて行って、必ず成功させる。彼女をシアワセにできる自信が僕にはある」
真っ直ぐで強い言葉がれいなを射抜く。ワタナベが絵里に好意を抱いているのは知っている。そうである以上、「シアワセにできる」という言葉がなにを意味するか、分からないわけではない。
だが、たとえ相手が優秀な医者であったとしても、れいなは負けるわけにはいかなかった。此処で退いてしまっては、あの日ワタナベに啖呵を切った意味がない。
「絵里は、納得したとですか?」
- 456 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:24
- 「……まだ、首を縦には振っていないよ」
その言葉にれいなは幾分かホッとした。さすがに絵里がなんの相談もなしにOKをするわけはないと思っていたが、それでも安心した。
しかし、これで脅威が去ったわけではない。それはワタナベの目を見れば分かる。彼は諦めてなどいない。
「ドイツの方がドナー提供の確率も、手術の成功率も上がる。それは変わらないよ」
「……れなにどうしろって言うとですか?」
「…きみなら分かるでしょう?」
彼の目は真っ直ぐだ。それはなにも間違っていない。医者として、そしてひとりの男として、彼の主張は至極当然であり、非難されるべき点はなにもない。
だがれいなは、退かない。絶対に退かない。そう、あの日に決めたのだから。
「…決めるのは、絵里ですから」
そうして一礼すると、れいなはワタナベに背を向けて歩き出した。その背中に、「ムリはさせないでくれよ」と声をかけられたが、れいなは振り返らなかった。
それが小さな反抗であり、れいなにできる精一杯だったとしても、れいなはかまわなかった。
夕日が傾く。空が茜色に染まり夜を連れてくる。れいなは自転車を押して病院の敷地内を後にした。先ほどまでのシアワセな気持ちは何処かに置き去りにされ、頭の中はワタナベの言葉により支配されていた。
- 457 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:25
- ---
- 458 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:25
- れいなはそれから、ひたすら部活に打ち込む日々が続いた。
10月に行われたOG戦と推薦入試では、れいなも試合に出たものの、自分で納得できるようなプレーはできなかった。
これなら去年の推薦入試での試合の方がよっぽど良かったのではないかと肩を落としたくなった。
確かに、夏休み期間、自主練をなんどかせずに絵里の病院に行ったことはあるが、それだけでプレーの質が落ちるとは思えない。
だが、サッカーよりも絵里を優先させようとしていたことは事実であった。
秋の新人戦、引いては、絵里と約束した12月23日までは良い機会だと思い、れいなは部活に集中することにした。
もちろん、絵里とメールでの連絡は取り合うものの、極力、絵里の見舞いに行くことは避けていた。
そんなれいなの地道な努力の成果もあり、朝陽高校サッカー部は、秋の新人戦で準優勝を勝ち取った。
今年は監督の見立て通り、推薦入試組が活躍し、順当にベスト8まで勝ち上がった。
あとは実力拮抗であり、運が味方した場面も多々あった。れいなたちは必死にボールに食らいつき、所狭しと走り回った。
結果的に準優勝であったが、最後の試合、PKを外したのはれいなであった。それはあの推薦入試の日と同じ、雨の降る試合であった。
結果までそれと同じでは、なんら成長がないのかもしれないとれいなは苦笑した。
チームメートや監督に励まされたが、それでも心になにかを引っかけたまま、れいなはグラウンドを後にした。
- 459 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:26
- 文化祭当日、れいなはあくびをしながら屋上に立っていた。今日の天気は秋晴れ。気温も高く、穏やかな1日だった。
1年前の今日も、こうしてこの場所にいたなとぼんやり思い出していた。ただ違うのは、今日隣にいるのは、絵里ではなくさゆみだということだ。
「これから行きたい場所ある?」
食べかけの焼きそばをこちらによこしながらさゆみは聞いてきた。さゆみと焼きそばという組み合わせはあまり似合っていない気がする。
れいなは箸で麺を鷲掴みにし、そのまま一気に口に放り込む。ソースが効いていて、なかなか美味しいと思った。
「とりあえず、ダンス部のやつは見たいかな」
「あー、愛ちゃんとガキさんが出るやつ?」
そうしてさゆみはパンフレットを開いた。
真ん中あたりのページを見ると、それは大きな見出しがついていた。
―あのシンデレラコンビも参戦!ダンス部主催の大会は実力拮抗?!
ダンス部主催のカラオケ大会に出場する5組の写真とプロフィール、そして意気込みがが書かれている。
相変わらずだが、いったいどこのインタビュー雑誌ですかと聞きたくなるほどの気合いの入り具合にれいなは脱帽する。
さゆみはというと、その見出しにあった『シンデレラコンビ』とはなんだろうと、真面目に記事を読んでいる。
れいなは、去年の文化祭で見た、あのふたりの演技が忘れられなかった。
- 460 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:26
- れいなは当初、期待など全くしていなかった。
演劇部でもなく、まして演劇経験のほとんどないふたりを主役に抜擢するなど酔狂も良いところだと思った。
だが、舞台の幕が上がり、演技が始まった途端、その考えは一気に覆された。愛と里沙は圧巻の演技と歌唱力に、れいなは完全に引き込まれていた。
そんなふたりが、今度は違った舞台でどんなパフォーマンスを見せてくれるのかと思うだけで、れいなはワクワクした。
「れいなは、出ないんだね」
「へ?」
「れいな歌上手いし、ダンスもできるでしょ?」
いつの間にか人の手から焼きそばを奪い、さゆみは聞いてきた。
もうパンフレットは読み終わったのだろうかとれいなはポカンとしながら質問の意図を汲み取った。
確かにれいなの音楽の成績はかなり優秀だし、ダンスもできる。
部活に入ったことは一度もないのに、なぜかリズムを取れる所は、それこそ才能なのかもしれない。
それが、本職のダンス部員に比べれば足元にも及ばないことは分かっているが、それでも一般的に見て出来る方の部類には入ると思う。
「まあ……興味ないし」
れいながそう言うと、さゆみは心底つまらなそうな顔をしながら焼きそばをよこす。
それを素直に受け取り、箸をつけた。もう麺はほとんど残っていなかった。具材も豚肉はとっくになくなっていたし、人参も全滅だった。
「来年は出れば良いのに。絵里も期待すると思うよ?」
口に運ぼうとしたれいなは一瞬その動きを止める。しかし、すぐに何事もなかったかのように麺をかきこむ。
僅かの間の出来事だったにもかかわらず、さゆみはその変化に気づいたのか、いつものようにニヤニヤしながられいなを見る。
れいなもさゆみの意図に気づいてはいるが、敢えて知らん顔をしながら箸を進めた。結局、焼きそばをすべて平らげてしまった。
- 461 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:27
- 「…パフォーマンス重視やろ?れなひとりじゃ、どうしようもないっちゃ」
「じゃあ、さゆみが出てあげよーか?」
冗談交じりに言うさゆみを見ながら、寝言は寝てからにしてくれと呟きそうになった。
それを言おうものなら、彼女は烈火の如く怒りそうだったので、れいなは当然やめておくことにした。
さゆみの音楽の成績は残念ながら良くない。本人も自覚しているが、彼女は音程を取るのがあまり得意ではない。オブラートに包まない言い方をするならば、いわゆる音痴だ。
そうは言うものの、れいなはさゆみの歌が嫌いではなかった。
決して上手くはないし、音程を外すこともしばしばあるのに、彼女の歌声はなぜか好きだった。
彼女の持つ柔らかくて独特の声が好きなのかもしれないなとれいなは思う。
だが、そうであったとしても、この先さゆみと共に、この大会に出ることはないだろうなと、れいなは思った。
- 462 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:27
- 里沙はひとり、ステージ裏でステップを確認していた。
ダンス未経験の里沙にとって、愛の選曲はまだやりやすい方だと思った。それでも初心者ゆえに苦労するのは仕方のないことだが。
里沙と愛の出番は5組中の4番目。トリのひとつ手前は中途半端に緊張する。ステージでは1組目のパフォーマンスがはじまっていた。
このグループが終わったらステージ袖に移動しなければなと里沙は思った。
「お、最終確認?」
そこへ愛がやってきた。この人は相変わらずマイペースだ。緊張というものを知らないのだろうかと思いながら「まあね」と返した。
あの『シンデレラtheミュージカル』のときも、そうだった。「気負いせずがんばろーや」と笑って手を握り、里沙の緊張を解した。
里沙は大きく、ひとつ、深呼吸をする。
目を閉じると、周りの音が遮断すると、自分の心音が聞こえた。ああ、今日も思いのほかに高鳴っているなと自覚した。
「新垣さん、高橋さん、そろそろ移動お願いします」
ダンス部の1年生らしき生徒がふたりに声をかけた。どうやら1組目のパフォーマンスが終わったらしい。
そういえば盛大な拍手と歓声が聞こえている。これはいかんせんハードルが高そうだなと里沙は思う。
「里沙ちゃん」
里沙がステージ袖へと歩こうとしたとき、愛に呼び止められる。
「うん?」と振り返ると、愛は右手を差しだしてきた。ああ、そういえばあの日も、こんなことをしたなと里沙は思った。
彼女の右手に自分のを重ねると、その上から愛の左手が重なる。
不思議な感覚だった。先ほどまでの緊張が解けていくのが分かる。だれにも真似することのできない魅力がそこにはあった。
「がんばっていきま〜っしょい」
愛の掛け声に里沙も便乗した。タイミングを逃したのか「しょい」だけになってしまったが、その方が逆に掛け声らしくて良いかもしれない。
愛はニコッと笑い、里沙の頭をポンポンと叩く。この気合入れは、やっぱり嫌いじゃなかった。
里沙は彼女の笑顔とともにステージ袖に移動した。2組目のパフォーマンスが始まっていた。
- 463 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:28
- ステージを中央から見れる場所にれいなとさゆみは陣取っていた。
客席は大勢の生徒で埋め尽くされているなか、このような絶好のポジションが取れたことは実にラッキーだった。
れいなはステージをじっと見つめる。1組目2組目と順々にパフォーマンスが行われていく。
正直に歌も上手いと思ったし、ダンスの実力も高いと思った。確かに実力は拮抗していると言っても良いだろう。
3組目の激しいダンスが終わると、客席からは大きな拍手と歓声が上がった。ふたりもそれに倣って拍手を送る。
いまの組は、朝陽女子高等学校の付属である中等部の生徒だけで構成されていた。
パンフレットによると、この大会に参加できるダンス部は、各チーム1名までになっている。中等部の生徒はハンデとして、2名以上のダンス部の参加が可能だった。
確かに、いくらハンデがあるといっても、中等部と高等部での差は歴然と言える。部活に所属していないダンス経験者を揃えたとしても、であった。
だが、それでも中等部の生徒たちはのびのびと踊っていた。半年前までランドセルをしょっていたとは思えないような堂々としたダンスは、観客たちを魅了した。
上手さだけではなく、観客を自分たちの世界に惹き込む力を彼女たちは持っている。
それは、去年れいなが文化祭で『シンデレラtheミュージカル』を見たときに感じた、愛と里沙の持つ潜在能力に近いような気がした。
「中学生ってかわいいの」
横に座るさゆみがボソッとそう呟いたような気がしたが、れいなはあえてなにも言わなかった。なんだかツッコミを入れたら返り討ちにあいそうな気配がした。
「次だね、愛ちゃんたち」
先ほどの発言とは打って変わって真面目なさゆみの言葉にれいなは頷く。先ほどの言葉は聞き間違いじゃないかと思ってしまうほどの力がそこにはあった。
- 464 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:29
- これまでの3組はいずれも激しいダンスと歌で勝負してきている。
カラオケ大会といえど、ダンス部が主催であるためか、“ダンス”に力を入れているのは十分に分かった。
確かパンフレットによれば、里沙はダンス初心者であったはずだ。シンデレラtheミュージカルのときと条件はほぼ同じだ。そこでどのような舞台をつくるのか、れいなは興味があった。
そう考えているうちにステージが暗転する。一気に静寂が広がった。れいなは息を顰める。
イントロが流れ始め照明が光る。静かなメロディが流れ始め、ステージ上のふたりが見える。
それはいままでの3組とは全く異なっていた。
ダンスをするにはあまりにも相応しくない格好。春物のワンピースに短めの丈のジャケット、それに傘を持っていた。
観客たちもその雰囲気に気づいたのか一瞬のどよめきはあったものの、黙って彼女たちを見つめた。
最初に唄いはじめたのは愛の方だった。その歌声は去年のミュージカルと似ているようで少し違う。伸びやかな声が何処までも透き通り、真っ直ぐに聴く人の心に沁み込む。
そんな愛とは対極にいるのが、相方の里沙であった。彼女は独特の声質であるが、その心地良い低い声は、愛の高音と綺麗に混ざり合い、ひとつの曲を奏でている。
唄い方も声質も違うふたりが、ひとつづつパートを歌い継いでいく。何処までも純粋で、透明で、美しい。
- 465 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:29
- いまにも泣きそうな切ない表情。ふいに傘を差し、遠くを見つめる視線。
愛と里沙の想いは、間違いなく、この曲の主人公と重なっている。
戻りたいあの日に 戻らせてほしい
いま、ふたりの唄っている曲が失恋ソングだというのは分かる。
あのころの自分に、シアワセだったころの時間に戻りたいと願う女の子が主人公だ。
里沙と愛が恋をしているのか、そうだとすれば相手は誰なのか。もしかすれば失恋をしたのか。そんなことをれいなが知る由もない。
だが、いまのふたりは、完全にこの曲の女の子になり切っていた。
それは、去年のミュージカルと全く同じだった。
演劇経験がほとんどないにもかかわらず、大衆の心を掴んで離さなかったあのふたり。
ふたりがつくる世界。天賦の才と弛まぬ努力によって形成された表現力と歌唱力が、あのステージで発揮されている。それは間違いなく、ひとつの芸術だった。
曲が終わったあと、一瞬の静寂が客席に流れた。
それは、拍手する価値がないと判断したのではない。拍手することすらを観客が忘れていたのだ。
はじめに手を叩いたのはさゆみだった。それにつられるように、客席が一体となって称賛を送った。
れいなも半ば呆然としながら、ふたりに拍手を送った。やはりあのふたりの力は凄いと改めて実感する。
いまの朝陽高校の生徒で、これほど高いレベルのステージパフォーマンスができる生徒が居るのだろうかと、拍手を送りながられいなは思った。
- 466 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:29
- ---
- 467 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:30
- 愛と里沙はグラウンドに設置されている生徒会執行部用のテントにいた。
今年は演劇部のミュージカルに出演しないため、フィナーレの準備をゆっくりとすることができた。
「いやー、惜しかったの」
愛はそう言いながら手元にある表彰状を見た。
それはダンス部が作成したものであり、そこには「審査員特別賞」と書いてあった。
ふたりのパフォーマンスは確かに高かった。
しかし、激しいダンスと歌の融合が評価のポイントであったらしく、今回の大会においては評価がされなかった。
それでも、ふたりの歌った曲と表現力は圧巻であり、シンデレラコンビは健在であると、審査員から急遽特別賞を受賞した。
「まあ、特別賞もらえたんだし、良かったかの」
そうして愛はニカッと笑う。まるで子どものような表情が、里沙は好きだった。
里沙も微笑みながら書類を整理する。もうあと30分もすれば花火を打ち上げる。準備はもう万端だった。
- 468 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:31
- 「里沙ちゃんは、今年はどうするとや?」
愛から唐突に質問され、里沙は書類を整理した手を止めて「なにを?」と聞き返す。しかし、直後にこのあとの予定のことだろうかと気づいた。
今年は特にフォークダンスをする相手もいなかった。確かに何人かには誘われてはいるものの、受けて良いものか悩み、結局すべて断っている。
「愛ちゃんは、だれかと踊らないの?」
逆に質問された愛は、「うーん」と唸った。
里沙が見ている限り、既に愛は何人かの生徒に「踊って下さい」と申しこまれていた。この人の人気は相変わらずだなと思っていた。
そう考えていると、愛は立ち上がり、里沙に近寄った。里沙がきょとんとしていると、彼女はそこに跪いた。
「…踊ってくれませんか?」
そうして愛は、自分の右手を差し出してきた。
その光景は、1年前の夏を思い起こさせた。
―わたしと、踊っていただけますか?
ベッドからひょいと降り、里沙の前に膝をついて右手を差し出した絵里。
―…一緒に出てくれんか、お姫様
生徒会室で跪き、少し頭を垂れながら、右手を差し出した愛。
ふたりの全く異なる王子に、里沙は翻弄された。
彼女たちの持つその瞳に、吸い込まれそうになった。迷いや偽りが見えない、綺麗に透き通った純粋な瞳。
真っ直ぐで衒いのない言葉が、里沙の耳に届き、脳へと伝わり、全身へ行きわたる。心地よい響きだった。
高鳴る鼓動を感じながら、頬が赤くなるのを自覚しながら、里沙はその手を重ねたのだ。
- 469 名前:Only you 投稿日:2011/10/08(土) 03:31
- 今日もまた、あの日と同じように誘われている。
たぶんそれは、高橋愛の真の姿。ずっとずっと里沙を見守っている、ただひとりの生徒会長であった。
―恋はするものではない。落ちるものである。
そんな安っぽいドラマのセリフが里沙の頭をよぎった。だが、里沙はそれを自覚している。
きっと恋はするものではない。乗り換えたり、方向を変えたりするものでもない。急発進で急ブレーキで、意図することなく落ちるものなのだ。
里沙は、今度は無意識ではなく、意識的に愛の手を取った。しっかりと自分の意志で、愛の手を握った。
愛はそれを予想していなかったのか、一瞬驚いたような表情をこちらに向けた。だから里沙は、自分にできる精一杯の優しい笑顔を返したのだ。
「私でよろしければ」
そう返した里沙の言葉が震えていたので、愛は柔らかく微笑み、立ちあがってその腕を引いた。
里沙の体が愛の胸に飛び込んでくる。相変わらず小さくて細い体は、少しでも強く抱きしめると折れてしまいそうだった。
だから愛は、傷つけぬよう壊さぬように、里沙をそっと抱きしめた。
「じゃあ、ステップの練習、する?」
耳元でそう囁かれ、くすぐったい思いを里沙はした。
だが、目を細めて笑い「フォークダンスにステップとかあるの?」と聞き返した。
文化祭のフィナーレは、もうすぐ始まりそうだった。
- 470 名前:雪月花 投稿日:2011/10/08(土) 03:34
- 今日は此処までになります。
まだまだ物語は山あり谷ありになりそうですが、今後とも温かく見守ってください。
では、次回まで失礼します。
- 471 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/08(土) 19:37
- 久しぶりの更新キター!
すごく待ってたので一気に読んでしまいました。
やはりこの小説大好きだよ!*^^*
次の更新までゆっくり読み直すから作家さんのペースで最後まで頑張ってほしいです。
- 472 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/08(土) 23:29
- キタキタキター\(//∇//)\
待ってましたよぉ!
れいな、頑張れ!
絵里を幸せにできるのはれいなだけだ!!
もうこの世界にどっぷりハマっています。笑
- 473 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/11(火) 20:42
- 何よりもれいなと絵里が幸せになって
ハッピーエンディングに終わるように望みます。
次の更新まで待ってま〜す!
- 474 名前:雪月花 投稿日:2011/10/13(木) 02:22
- モーニング娘。のアルバムを買いました、雪月花です。
ジャケットはみんな可愛いし、曲もかなり好きなので気に入ってます!曲を聴きすぎて作業が止まり気味ですがw
>>471 名無飼育さんサマ
前回のは、いままでのペースからすると久々の更新になっちゃいました…
待っていただきありがとうございます!
はわわ、大好きとか言っていただけるとやる気が出ます!がんばります!
>>472 名無飼育さんサマ
応援ありがとうございます!
きっとその声はれいなや絵里に届いているはずです、たぶんw
ハマっていただき嬉しいです、今後も精進します。
>>473 名無飼育さんサマ
物語の大筋は決めてあるんですけど、正直、自分でも予想しない方向に行ってる気がします…
どういう結末を迎えるかは、れいなと絵里、そして周りの人たちのがんばり次第ですね。
これからも見守っていて下さい。
それでは更新します。
- 475 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:24
- れいなはあくびを噛み殺しながら黒板をにらみつける。意味の分からない英単語がズラリと並んでいるが、ノートを取る気にはなれない。代わりに、昨夜調べたことが書きだされていた。
昨晩遅く、れいなはパソコンの前に座り、画面を見つめていた。
カーソルの横には、学校の図書館から借りてきた書籍と1枚のカードが置いてある。
このカードは、いつだったか、部活帰りに寄ったコンビニのレジ前にリーフレットとともに置いてあったものである。
全体が緑色であり、カードの中央にはハートが描かれ、その中に天使のような絵がある。上には大きく、『臓器提供意思表示カード』と書いてあった。
れいなはそれをしばらく見つめた後、制服の胸ポケットにしまった。
それから思い立ったように、れいなは入学して初めて図書館へと行き、医学書や家庭の医学というような本を数冊借りてきた。
- 476 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:25
- 絵里の正式な病名は聞かされていない。しかし、ワタナベの言葉を聞き、自分で本を読み、インターネットで検索していく中で、なんとなく分かったことがあった。
それは、彼女を苦しめる発作をなくすには、手術をするしかないということだった。
ワタナベの言うように、国内より海外でのドナー提供の確率はグンと上がる。手術の成功確率についてはよく分からないが、医学の発展しているドイツならそれも納得できる。
れいなは息を吐き、そのページを閉じる。しばらく天井を見上げたあと、思い立ったように新たに検索をかけた。
『ドナー 手術 血液型』、『心臓移植 血液型』、『心臓移植 脳死』
いろいろと試してみては、目ぼしいページを見つけ、ノートに書き込む。
インターネット上での情報であるため、100%の保証はないが、なんとなくわかったことがあった。
その中でれいなが重要だと思う項目は以下の2点だった。
脳死状態であれば、心臓移植は可能であることと、血液型が違っていても、ドナーと患者のABO血液型を合わせれば移植は可能だということだ。
つまり、AB型は全ての血液型、A型はA又はO、B型はB又はO、O型はOのみから心臓の提供を受けることができる。
れいなと絵里の場合、れいなはO型で絵里はAB型であるから問題はない。あとは、いかにして脳死状態をつくるかということだった。
- 477 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:26
- れいなはそのまま『脳死 自殺』と打ち込みかけてハッとした。
「なん考えよっと、れな……」
れいなは慌てて開いていたページをすべて消し、即座にパソコンをシャットダウンした。そのままフラフラとベッドに歩み寄り、倒れ込んだ。
―自殺とか…ないやろ
天井を見つめながら、れいなは苦笑した。
焦っているのが分かる。ワタナベにドイツ行きの話を聞いてからというもの、れいなは無性に焦っていた。
絵里がなんの相談もなくドイツ行きを決めるわけはない。それくらいの自信はあったが、それでもれいなは焦燥感に駆られた。
ドイツに行かなかったとしても、発作をなくし、絵里が普通の生活を送るには、手術をするしかない。ドナーなしでの手術も不可能ではないが、提供があればそちらを受けるべきだった。
国内での提供確率は低い。腎移植などと違い、特に心臓はそうであった。そうであるならば、いっそ。という考えが一瞬でも頭をよぎる。
あのふにゃふにゃで、可愛い笑顔を、失いたくはなかった。
れいなが目を閉じてため息をつくのと、授業終了のチャイムが鳴るのはほぼ同時だった。結局、黒板に書かれた英単語はひとつも写せなかった。
- 478 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:27
- れいなはコーヒー牛乳を飲みながらふと黒板を見る。日付は11月の末になっている。あの文化祭からもう1ヶ月も経っているのかと気づいた。
今年はさゆみと共に行動した文化祭。自分が気になっていたダンス部主催のカラオケ大会においては、愛と里沙のふたりが出場し、審査員特別賞を受賞した。
その後、特に見るものを決めていなかったふたりは、そのまま演劇部主催のミュージカルを見たあと、フィナーレを迎えた。
お互いにダンスする相手はいないんだねと苦笑しながら、花火を見たのも良い思い出だった。
「で、れいなと絵里はどこまでいったの?」
れいなが思い出に浸っていたとき、急にさゆみの声がした。れいなはコーヒー牛乳を噴き出しそうになる。
そう言えば以前もこうしてさゆみに言われて牛乳を噴き出したことがあった。
「な、なん言おーとや」
「だから、れいなと絵里はどこまでいったのかなーって思って」
さゆみは相変わらずマイペースに話を進めた。
その箸は玉子焼きを捉え、そのまま口に放り込まれた。
- 479 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:28
- 「どこまでとか、どーゆー意味っちゃよ」
「だーかーらぁ…じゃあキスした?」
「き、き、キスぅ?!」
そう叫んでから慌てて口を閉ざしたが、時すでに遅し。
教室内が静まり返り、クラスメートの視線はれいなに集中している。
「れいな人気者なのー」
「ばっ。だれのせいやと思って」
「自己責任」
れいなは恥ずかしさを抑えるように焼きそばパンを食べる。
クラスメートは真相を知りたそうな顔をして聞き耳を立てるが、れいなが左手でハエを払うような動作を見せると諦めて会話が再開される。
再び教室内は五月蠅くなった。
「で、キスしたの?」
「だれが、だれと?」
「どこまで鈍感なの。れいなと絵里が、に決まってるでしょ」
再び噴き出しそうになるが、れいなはそれを必死にこらえた。
一息ついてパンを口に詰め込み、コーヒー牛乳で一気に流し込んだ。喉から胃へと急に物が通った感覚がするが気にしてなどいられない。
とにかくいまは、この勘違いウサギの誤解を解いておく必要があった。
- 480 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:28
- 「なんでれなと絵里がキスすると?」
「え?だって、れいなと絵里、付き合ってるんでしょ?」
「なん言おーとや。付き合ってなんかないし、告白もしとらん」
「はぁぁ?!」
今度はさゆみが視線を浴びる番だった。
クラスメートたちは、今度はなんだと言わんばかりにニヤニヤしながらさゆみを見つめる。
二度もこういうことがあったのだから、なにか楽しい話でもしているのではないかと勘繰るが、さゆみは「エヘヘ」と笑って手を振り、丁寧に誤魔化す。
「シゲちゃん人気者ー」
「シゲって言わないで。それで、付き合ってないって、マジなの?」
荒々しくニンジンを箸で挟み口へと運んだ。
さすがウサギ、ニンジンが好物なんだなとアホなことを考えるが、それを悟られないようにれいなは頷いた。
「え、告白もまだなの?」
購買で買ったクリームパンの封を開け、れいなはそれに齧りつきながら再び頷く。
女の子らしく千切って食べる選択肢もあったのだが、いまのれいなは、それをしようとは思わなかった。
「…なんで?」
「え、なんでって?」
「……好きなんでしょ、絵里のこと」
- 481 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:29
- クリームパンを齧ったものの、肝心のクリームにはまだ行きつかない。パンの部分が厚すぎるとれいなは思う。
購買で買ったものだから所詮その程度のクオリティであることは覚悟しているのだが、いかんせん厚すぎないだろうか。
甘いものがほしかった。いますぐに、頭が糖分を欲していた。
絵里のことを考えた。
絵里の笑顔、絵里の声、絵里の髪、絵里の瞳、絵里の一挙一動がれいなを夢中にさせる。
「好いとーよ。だれよりも」
その答えにさゆみは幾分か驚いた。
れいなの性格上、絵里のことを好きだということはだれにも話しそうになかったからである。
しかし、素直に好きだと認めたにしても、告白していない理由にはならない。さゆみがそれを聞こうとする前にれいなが口を開く。
「絵里はれなンこと、友だちとしか見とらんよ」
それはあり得ないと思うのと言い返したくなるが、此処はグッと堪えた。
鈍感鈍感と思っていたが、まさか此処までとはさゆみでさえも予想だにしていなかった。
傍から見れば初々しいバカップル以外の何物でもないのだが、まだこの人は片想いだと勘違いしているのだろうか。
そう考えると、もう見ていて楽しいを通り越して、逆に鬱陶しい。
- 482 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:30
- 「それに、絵里の負担にはなりたくないっちゃ」
それを聞いてさゆみは一瞬言葉をなくす。
しかし、箸を置き、れいなをまっすぐに見つめて言葉を紡いだ。
「負担って、なに?」
「ん?」
「絵里の傍に居て、一緒に笑うことは負担なの?」
さゆみのまっすぐな視線を浴び、れいなは一瞬目を見開く。
だが、彼女の言いたいことを察し、れいなは苦笑しながら首を振った。
「さゆにも、話しておかんといかんとは思っとったちゃけど…絵里にドイツでの手術の話が来てるらしいと」
その言葉に、さゆみはいよいよ言葉を失った。
れいなの言葉に嘘や偽りはない。ただそこにある真実を淡々と話している。
「絵里からやなく、ワタナベ先生…絵里の主治医から聞いた話やっちゃけどな」
そう言ってれいなはいたずらっ子のように笑い、さゆみに告げた。
絵里の見舞いに病院に行った日、ワタナベにたまたま出会ったこと。
ワタナベがドイツでの手術の話を絵里とその両親に持ちかけられたこと。
それにかかる費用をすべて、個人的にワタナベが全額負担しても良いということ。そして、手術が成功した際には、絵里と正式に付き合いたいと言ったこと。
「そんな…そんなのっ」
「れなは卑怯やと思わんよ」
- 483 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:31
- さゆみの声を遮り、れいなは強い声で言った。
クリームパンをもう一齧りするとようやくクリームにぶつかった。ああ、ようやく甘いものが手に入った。
「それはひとつの手段ってだけっちゃよ。ワタナベ先生は、絵里と結婚させんとドイツには連れて行かんって言ってるわけやないし。
手術とかの費用をワタナベ先生に全額負担してもらって、手術が成功しても、絵里が交際を断れば良いだけの話っちゃよ」
「だけど、そんなの」
「そう。絵里はそんなことは望まん。全額負担してもらえるなら、手術が失敗しようとも、絵里はワタナベ先生と付き合うって言うっちゃろうね」
そういう頑固なところは、東京の下町生まれだからだろうかとれいなは思った。
絵里は時々、そういう頑固な一面を見せる。絵里自身はそうじゃないと否定するかもしれないが、れいなにはなんとなくわかる。
譲れないもの、譲りたくないもの。それを絵里は持っている。
そして、彼女は義理や人情に厚い。それもまた、下町生まれの性なのだろうか。
- 484 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:31
- 「カメは優しすぎるんだよ、良くも悪くも」
いつだったか、ガキさんこと、里沙から聞いたことがある。
絵里は、自分が人にどれほどの優しさを与えているかを知らない。自分が人に与えてもらったことばかり覚えていて、そのせいで時折苦しんでしまう。
「普通は逆なんだけどね。それがカメの良いところなのかもしれないけど」
そう話す里沙は、何処か寂しそうだった。
「ガキさんには支えてもらってばかりだからって、いっつも言うんだよね…」
そんなのは嘘だ。
私の方がたくさん、カメから愛をもらっている。カメがいることで、私は何度も救われた。
私はあんまり、自分のこと、弱さや辛さを人には話さなかった。そうすることが生徒会の役目だと思ってたから。
でも、そんな私のことを、カメはいつも見ていてくれて、気づいてくれて助けてくれた。
傍に居て、笑ってくれていた。
「愛ちゃんと、似てるんだよなあ、そういうところ」
里沙はいつの間にか、絵里と愛を重ねているようだった。
それはれいなにもなんとなく分かった。
なにも考えていないようで誰よりも深く物事を考えている。それは生徒会長の愛と絵里の共通部分でもあった。
しかも情に厚くて涙脆くて、優しくて、傷つきやすい、普通の女の子だった。
- 485 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:32
- だから、とれいなは思う。
「絵里は人情に厚いけん、絶対に付き合うって言う」
「だったら…」
「れなに止める権利はない。決めるのは、絵里っちゃよ」
悉く、さゆみはれいなに言葉を遮られる。まるでれいなは、さゆみの言葉を聞かないようにしている。
それが少し腹立たしかったが、れいなの意見は最もだった。
生きる権利は絵里にある。選ぶ権利も、絵里にある。周囲はそれにとやかく口を挟むことはできない。
「…まだ、さゆみの質問に答えてないの」
「ん?」
「負担っていうのは、どういうことなの」
クリームパンをすべて押し込んでれいなはさゆに目配せをした。
なんだか話が重くなりそうなうえに、先ほどと明らかに空気が変わったふたりの会話はクラスメートの視線を三度集めそうだった。
さゆみは残っていたおにぎりを無理やり口に詰めると弁当箱を片付け始める。
れいなはそれを見て、コーヒー牛乳のパックを握りつぶし、ゴミ箱へ放り投げた。
- 486 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:33
- 屋上はありがたいことにだれもいなかった。
此処に上がって来る生徒は、自分を含めて、絵里とさゆみ、里沙、そして愛の5人しか知らない。
朝陽高校の生徒は屋上へ行くという風習がないのだろうかとれいなはぼんやり考えた。確かにこんな寒い日には屋上なんかで風には当たらないだろうなと納得はできる。
「で、答えは?」
さゆみの怒気を含んだ声にれいなはぎょっとした。
振り返るとその声の持ち主は声色そのままに怒っている。漫画なら、彼女の周りに黒か赤のオーラが塗られていることだろう。
漫画でない現実の世界にも関わらず、れいなにはその怒りのオーラが見える。
その怒りの本質をれいなは理解できていないが、爆弾を踏まないようにれいなは答えた。
「れなが告白して、絵里に新しい悩みを作らすことはないやろ」
「は?」
「いや、優しい絵里のことやけん、れなを傷つけんように振る方法を考えるっちゃろ。しかも、フッた後もれなに気を使いそうやん…それはイヤやけん」
「ちょ、ちょっとまって…」
- 487 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:33
- さゆみは怒りのオーラを消し、れいなに詰め寄る。
「フラれること前提なの?」
「まあ…少なくともOKはされんと思うけど…」
ああ、そう言えばそうだったとさゆみは思い出す。この人は鈍感じゃなくて、超鈍感だったと。
さっきこの人、「友だちとしか見ていない」とかなんとか言っていたっけ。
さゆみは、「傍から見たらとっくにバレバレのバカップルですよ」とこの時はさすがに声を大にして言いたくなった。
「絵里もれいなを好きと言う可能性はないの?」
「そんなのないっちゃよー。絵里はもっとカッコいい人とか好きになると思うと」
さゆみはもうバカバカしくなってきた。
最初は、このふたりの鈍感さが新鮮でしばらく泳がせておくのも面白いと思っていた。だからいまのいままで互いの気持ちは黙っていた。
だが、まさか此処までふたりとも手遅れなほど鈍感だとは思わなかった。
こんなにも気持ちに鈍いと、逆に付き合ってからが不安になりそうだったが、もうそんなことはどうでも良い。
- 488 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:34
- 先日、絵里の見舞いに行ったとき、絵里は嬉しそうにれいなの話をして聞かせた。
久しぶりにれいなに会えて嬉しかっただの、誕生日にデートに誘ってもらえただの、髪を褒めてもらえただの、抱き付いちゃったなど、それはそれは甘い話を聞いた。
だからてっきりふたりはもう付き合っているのだと思い込んでいたのだが…まさかこんな状態だとは夢にも思わなかった。
―鈍感なのはふたりだけなの…
さゆみはれいなの肩を掴み、そのままフェンスに押しつけた。
突然のことにれいなは驚いた顔を見せたが、さゆみは構わず続けた。
「れいな、次、絵里に会うのいつ?」
「え…とりあえずは来月の絵里の誕生日やけん…」
「じゃあその日、れいなは絵里に告白しなさい」
そのさゆみの提案にれいなは眉を顰めた。
いままでのれいなの話を聞いていなかったのだろうかと思い、れいなが口を開こうとすると、今度はさゆみがそれを遮る。
「するの。分かった?」
それは有無を言わせない命令。
さゆみの黒い瞳はまっすぐにれいなを捉えて離さない。相変わらず、彼女の瞳には力がある。
もしかしたら、彼女自身の言葉以上に、その瞳は力を持っているのかもしれない。
その瞳に見つめられれば、れいなは素直に頷く以外の術を持っていない。
- 489 名前:Only you 投稿日:2011/10/13(木) 02:34
- れいなが戸惑いながらも頷いたのを見て、さゆみは漸くれいなの肩を解放した。
暫く押さえつけられていたせいか、制服の背中はフェンスの跡がついた。
だが、それをさゆみに抗議するほど、れいなはバカではない。いまの彼女は、なぜか尋常ではないほど怒っている。
「よし。じゃ、プレゼント買って、しっかりエスコートして、告白するように。それからキスもすること」
「はぁ?なんを言おーとかさゆは…そんなのできんに決まって」
「す・る・よ・ね?」
再びさゆみの周囲に怒りのオーラが見える。
ああ、もう、今日は厄日かもしれない。なぜ此処まで親友に怒られなくてはならないのだろう。
しかもフラれることを前提にした告白など…罰ゲーム以外の何物でもないではないかとれいなは思う。
れいなは降参して、「はい」と手を挙げた。
するとさゆみは今日一番の笑顔を見せ、「がんばれーな!」と他人事のように言った。
とりあえず誕生日プレゼントを考えなきゃなとれいなはぼんやり考えながら、午後の授業開始のチャイムを聞いた。
- 490 名前:雪月花 投稿日:2011/10/13(木) 02:42
- 今回はいつもより格段と量が少ないですがごめんなさい。
ストックが切れそうなので、今後、更新頻度が遅くなる、もしくは量が少なくなることが予想されますが、ご容赦願います。
必ずれいなと絵里の物語は完成させますので、ゆっくりお付き合いいただけたら幸いです。
それでは次回まで失礼します。
- 491 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/14(金) 06:24
- さすがさゆだね(笑)
きっとこれからのれなえり二人にとってさゆは良い助力者になると思います。
れいなももっと絵里のため頑張ってほしい!
最後まで二人も、そして作家さんのことも応援します!
- 492 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/14(金) 22:45
- 良い流れですねー\(//∇//)\
またも鈍感すぎるれいなにキュンとさせられました。
さゆも良い味出してますね。
続きが楽しみ!
作者様、更新頑張ってください!
- 493 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/16(日) 21:36
- GJ!さゆみ!
超鈍感なれいなですが、そんなこともれいなの魅力の一つじゃないかと思います。(笑)
頑張れ〜れいな! ^_^
- 494 名前:雪月花 投稿日:2011/10/20(木) 00:47
- 速攻DVDを見て、再び感動した雪月花です。
どこが良いって説明しづらいですが、これからのモーニング娘。も楽しみだと思える内容でした。
>>491 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
さゆは暴走もするけど、客観的に物事が見れる良い子だと思いますw
応援ありがとうございます!最後まで突っ走ります(まだまだラストは遠いですがw)
>>492 名無飼育さんサマ
良い流れでしょうか?w
れいなは他の人のことは敏感そうですが、どうも自分のことは鈍感そうww あくまでも個人的な見解ですが。
今後も精一杯がんばります!
>>493 名無飼育さんサマ
さゆの株が急上昇してますねw
実際さゆは良い子だと思います、誤解されやすいけども。
鈍感れいなもがんばってほしいです、ホントにw
では本日分、更新します。
- 495 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:48
- 自殺の方法は多種多様ある。
流会水素自殺は楽に死ねる方法として一時期に流行ったが、最近ではそれは間違いだというのがネット上の見解である。
できるだけ身体を傷つけずに脳を止め、自発呼吸できない状態に持っていく方法。探せばある程度は出てくるのだが、果たしてこれを実行できるのだろうか。
れいなは走らせたペンを握りしめ、床に叩きつけた。
最近はこの繰り返しだ。
自殺の方法をインターネットで探してはノートに書き込み、医学書を読み漁っては「正しい」と思える情報を探している。
これは一種のガス抜きだった。絵里のことを考え、絵里の生きていく未来を守ろうとして、それが行き詰ったときの思考を転換させるガス抜き。
本気で死ぬつもりかと考えるが、少なくとも即座に「NO」とは言えない。それがれいなの迷いであり、本心でもあった。
明日は待ちに待った絵里とのデートだというのになとれいなは苦笑しながら、パソコンの電源を落とした。
- 496 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:49
- ---
- 497 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:49
- それは恐ろしいくらいに寒い日だった。
朝陽高校は前日に2学期の終業式を迎え、冬休みが始まったところだった。
れいなは部活を終え、家に帰ると大急ぎでシャワーを浴び、昨日のうちに選んでおいた服を着た。
ニット帽に白のショートコートを羽織り、ミニスカートとタイツを穿く。
何処からどう見ても今時の女子高生であり、ほんの1時間前までサッカーボールを追いかけていたなど想像がつかないだろう。
れいなは前髪をもう一度セットし直し、玄関へと駆け出す。
ムートンブーツをはいて外に出ると、空は厚い雲が主役だった。曇天のそれは、いつ降り出してもおかしくないような気配。
れいなはカバンの中に折りたたみ傘を入れ、鍵をかけて待ち合わせの場所へと走った。
- 498 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:49
- 絵里は駅のロータリーでれいなを待った。
太陽も出ていないこの冬の日の気温は例年以上に低く、絵里はコートに入れたホッカイロで手を温める。
待ち合わせ時間になったが、れいなはまだ現れない。20分ほど前、絵里のケータイに、部活が長引いたため多少遅れるとれいなからメールがあった。
前回のデートのときは絵里が待たせてしまったため、今度は時間を守ろう絵里は決めていた。
だから、れいなのメールにも素直に頷き、この寒空の中、れいなを待った。
それにしても寒い。
吐く息の白さが寒さを物語るとはよく言うが、まさにその通りであった。
絵里は気を紛らそうとカバンの中を覗く。そこには、1ヶ月遅れの、れいなへの誕生日プレゼントが入っている。
11月11日という分かりやすい誕生日であるのだが、その日までに絵里は外出できず、れいなに会う機会もなく、今日まで延びてしまったのだ。
れいなに買ったのは、小さな水色の石のついたピアスであった。
誕生石であるトパーズをあしらったものにしようかとも考えたが、なんとなく、れいなには水色が似合うと思い、こちらを買った。
絵里はそれをちらりと見て、れいなの顔を想像した。
喜んでくれるだろうか、笑ってくれるだろうかと考えるだけで、絵里はシアワセな気持ちになった。
こんな寒さなど、スッカリ忘れられそうな、そんな気がしていたときだった。
- 499 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:50
- 「あれー、亀井さんじゃない?」
人の気配を感じ顔を上げたが、その声の主は、待ち望んだれいなではなかった。
目の前にいるのは、4人の女の子達。いずれも髪は茶髪か金髪で化粧も少し濃いめだ。
だれだろうと記憶を探る必要はなかった。それは絵里の記憶に深く刻み込まれた傷そのものだった。
「やっぱり亀井さんじゃん、なに、髪染めたんだー」
彼女たちはどこか嘲るように笑いながら絵里に近づいてきた。
絵里は途端に委縮する。
なぜ、どうしてこの人たちが此処にいるのか考えたが、もうそんなのどうだっていい。絵里はギュッとポケットの中で拳を握り締める。
「なんかオシャレしちゃってさー。それ、高校デビューのつもり?」
ひとりがそう言うと、彼女達は一斉に笑った。
「やだー」「ちょーウケる」「ないわー、それ」
口をついてでは出る、絵里を小馬鹿にしたような、見下したような笑い方。
それは絵里の心を抉り、蝕み、足を震わせる。地に立った感覚が徐々に失われていく。足元が崩れ落ちそうな感覚に襲われる。
珍しく、心臓ではなく胃が痛くなる。キリキリ痛むそれは、胃液の過剰分泌の証拠かもしれない。
- 500 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:51
- 絵里は息を整えながら必死に耐える。あのころの絵里じゃないと言い聞かせた。
彼女らに言い返すほどの力はない。だけど、此処で立ち止まりたくなかった。
絵里はれいなにもらったネックレスの石をギュッと握り、ゆっくりと言葉を吐いた。
「…待ってるの」
「は?」
「友だちを待ってるの。邪魔、しないで」
彼女たちよりかは小さい声。それでも確かに聞こえる強い声だった。
だが、そんな絵里の力を、彼女たちは簡単に打ち破っていく。
「友だち!あんたに?」
ゲラゲラと声を挙げ、両手を叩く仕草は実に子供っぽくて醜悪だと思う。
だが、それを口にすることは叶わない。叶ったところでそれが彼女たちの神経を逆なでする事も絵里は知っている。
「なにその罰ゲーム!ウケるー!」
ひとりのセリフが絵里に突き刺さった。
絵里の見舞いに来てくれる、絵里に優しさをくれるれいな。
それは、罰ゲーム?
そんなことはない。れいなはそんな子じゃない。あなたたちみたいな子じゃない。
そう言いたいが言葉にならない。
- 501 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:51
- 絵里は心のどこかで、れいなが来ることを期待していた。いつか、スズキらに殴られたときも、れいなは颯爽と表れて助けてくれた。
あの日のように、今日もまた助けてくれるのではないかと思っていた。
だがそれは、絵里の一方的な依存ではないだろうか。いつも頼ってばかりで、なにも返せない自分。
優しさを降らせてくれるれいなに対し、絵里はなにをしてやれる?
なにもしてやれず、部活の忙しいれいなを無意識に縛って、遊んでいる。
そんなの、罰ゲームと一緒だ。
絵里は顔を下げる。
なにも言えなくなる。
負けたくないという決意。自分の力で切り拓こうという意志。
それらはかくも容易く打ち破られ、絵里のプライドは切り裂かれ地に落ちた。
そんな絵里の変化に気づいたのか、彼女らはニヤニヤ笑いながら、絵里に話しかける。
「久しぶりだしさ、遊ぼうよ」
「そうそう、あたしらが遊んであげるよ。中学のときみたいに」
胃痛が激しくなる。それと同時にせり上がってくるなにかがあった。
絵里は嘔吐しそうになるのを堪えて首を振った。それがいまの絵里にできる精一杯の意思表示。
その様子に彼女たちはまた笑い、絵里の腕を掴んだ。
絵里はもうダメだと思い、抵抗できなくなる。そのまま連れて行かれそうになる。
- 502 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:52
- 「なんしよーと?」
そのとき、声が、聞こえた。
聞き間違いでなければ、それこそが絵里の待ち望んだ想い人だ。
絵里は涙が溢れそうになるのを堪え顔を上げた。
絵里の視線の先、そして絵里を囲んでいた彼女たちの視線の先には、れいながいた。ニット帽に白いコート。ミニスカートにムートンブーツと、今時の女子高生だ。
相当急いでやってきたのか、彼女は肩を揺らし、息を吐くたびにあたりが白く染まっては消えていく。
「絵里の、知り合い?」
今時の女子高生だ。それは間違いない。
だが、その声は普通の女子高生のそれではない。静かな怒りと微かな哀しみが込められている。
「そうだよ、亀井さんの友だち。中学生のときのね」
腕を掴んでいた彼女がれいなにそう言った。
れいなはそれを一瞬見て、そのまま絵里に視線を移した。
絵里はれいなと目線を合わせようとはしない。顔を背け、なにかを言わんとしている。
れいなは深く息を吐いた。いままでで最も白い息が辺りに広がった。今日は本当に雪でも降りそうな天気だ。
「……絵里に触るな」
れいなはそう言うと、女の腕を絵里から引き剥がした。
それは言い方もやり方もかなり乱暴だった。女が咄嗟になにか言おうとしたが、それは躊躇われた。
れいなは鋭い目で彼女を睨みつけている。れいなの纏った怒りの感情は彼女らを飲み込み、黙らせる。
彼女らもなにか只ならぬ気配を察したのか、それぞれ目配せをし、黙って絵里から離れ、そのまま立ち去った。
れいなは絵里の右手を強く握りしめながら、彼女たちの背中を追う。
彼女たちがれいなの視界から完全に消え去るのを見届けるのと、握り締めた手に重さがかかるのはほぼ同時だった。
視線を移すと、絵里がしゃがみ込んでいた。
「絵里、だいじょうぶと?」
れいながそう言って慌ててしゃがみ込むと、絵里は肩を震わせながら、必死に声を絞り出した。
その声をれいなは拾う事はできないが、その口の動きから、辛うじて「だいじょうぶ」というのは分かった。
だが、もちろんその言葉を信じるわけにはいかず、れいなはその肩を抱き、ゆっくりと歩き出した。
- 503 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:53
- 注文の品はすぐに届いた。
喫茶店の4人がけの席でありながら、れいなは絵里の隣に座り、注文したホットココアを冷ます。
絵里はいったん水を飲み、それからカップに注がれた紅茶に手を伸ばす。カップに口付けて一口飲むと絵里は深く息を吐いた。
「……ごめんなさい」
れいながココアを飲むのと同時に、絵里はか細い声で呟いた。
「また……助けてもらっちゃって」
「別にいいっちゃよ。なんかあいつら、ムカついたし」
そうしてれいなは「ニシシ」と笑う。
いつもそうだ。この人は自分に迷惑をかけないように笑う。
今日だって、あの日だって、一触即発の空気だった。前回はさゆみが止めてくれたが、今回は一歩間違えば殴りかかっていたかもしれない。
それくらい、怒っていた。他ならぬ、絵里のために。
- 504 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:54
- ―なにその、罰ゲーム
彼女らから言われた言葉が頭を駆け巡った。
今日もまた、絵里はれいなに助けられた。それは変わらない事実だ。いくられいなが大丈夫と言っても、変わらない。
こんなことが再びないとは限らない。絵里が学校に復帰して、またスズキらに絡まれないという保証はない。
そのとき、れいなが来てくれるという確証もない。だが、来ないと断言できるほどの強さも、なかった。
そして、激情に任せてれいなが殴りかからないとも限らない。
むしろ今度こそ、殴るだろう。確実に。その自慢の足で蹴りかかるかもしれない。
この人は、そういう人だ。
巻き込みたくない。
これ以上、絵里の人生にれいなを付き合わせてはいけないと思った。
「れーな…」
「ん?」
「……ちょっと、行きたい場所があるんだけど、良いかな?」
れいなは絵里の言わんとすことはわからなかったが、その気配は感じた。
なにかを伝えなくてはならないという重苦しい空気を纏い、絵里はそれを崩さない。
れいなもあえて口を出すことはせず、ひとつ頷いた。
それを見て絵里は悲しそうに微笑んで紅茶を飲み、そのまま伝票を持って立ち上がった。
なにも言わせないようなその背中が哀しく、れいなはココアを飲み、その背中を追って歩いた。
それがまるで、あの日、病院の10階でワタナベに感じたような怒りと哀しみに類似していて、れいなは頭をかいた。
- 505 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:55
- ---
- 506 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:55
- そこへたどり着くまで、電車を何本か乗り継いだ。見慣れた風景が徐々に変わっていく。
人の波に流されるようにふたりは駅のホームを歩いた。
電車に乗っている間、絵里は一言も話さなかった。その視線は床を見つめたまま動かない。哀しみを携えたそれが、れいなには痛かった。
黙って手を握ろうかとも考えたが、れいなはあえて沈黙を守り、ただ隣に居た。
名も知らぬ駅が車掌により伝えられると絵里はゆっくり動いた。どうやら此処が目的地のようだ。
絵里の背中を黙って追いかけ、改札を通る。駅を出ると、そこには重苦しい黒雲が居座っていた。
ふたりが沈黙のまま歩き続けると、それは唐突に現れた。
れいなたちのいた街から電車に乗ること約2時間。恐らく県を越えているだろうこの場所にそれはあった。
「絵里の通ってた中学だよ」
絵里はそう言うと、そのまま敷地内に足を踏み入れた。れいなもそれに従う。
ひっそりとした校内を、絵里はひたすら歩く。何処へ連れて行かれるのか、此処へ来た目的はなにかれいなには分からないが、それはまだ聞けない。
グラウンドを横切り、校舎を横目に、ふたりはどんどん人気のない方へ向かった。
そして、体育館の裏手にやってきた。目の前に「用具倉庫」と書いてある建物があるが、そのプレートはほぼ外れかけていて、これが機能していないことが分かる。
絵里はその倉庫の扉に手をかけ、ぐっと開く。微かな光が倉庫内に差し込むのを確認し、中へと入っていった。
- 507 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:56
- れいなも後に続いて入ると、そこはれいなの予想より広く、そして乱雑としていた。
校庭にラインを引く際に使用するラインカー、そして石灰。大量のグローブにバッド、使い古されたサッカーボール。ボロボロになったマットもある。
倉庫内には小さな子窓がひとつだけあり、ガラスが割れている。蛍光灯には蜘蛛の巣がはってある。
絵里は倉庫の真ん中に立ち、初めてれいなを振り返った。
その表情にれいなは言葉を失った。
それは、あの文化祭の日に見た、絵里の笑顔だった。
感情を失い、光を失い、全く笑っていない絵里の笑顔だった。
れいはなにかを言おうとするが、言葉にならない。
それに先だって絵里は言った。
「いつも、此処だったの」
「え?」
「絵里がいじめられるの、いつも此処だった」
予想していなかったわけではない。
だけどそれは、れいなの心を抉るのには十分すぎる言葉だった。
れいなは顔を下げ、拳を握り締める。絵里はそれを見て困ったように笑い、話し始めた。
- 508 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:57
- 絵里ね、全然変わってないの。中学も高校も、いじめられてばっかり。
中学のときは此処で、何人くらいに殴られたかなあ…髪も切られちゃったし。ホントにイヤだった。
だから部活も辞めちゃった。茶道部の人、だれも助けてくれないんだもん。みんな、見て見ぬ振りだよ。
でも、それは仕方ないと思うんだ。絵里でも、たぶんそうするだろうし。怖いし、自分が一番、大事だもん。
「絵里…弱いから。いまもずっと」
寂しそうに笑う顔が、不謹慎かもしれないが美しいと思う。
だが、確かに美しいその表情は、れいなをときめかせない。ただただ、哀しくさせるだけだった。
「絵里ね、此処で……」
そこでいったん絵里は言葉を途切れさせた。肩を大きく揺すり、呼吸をする。
れいなはそれ以上促すことはしない。次の言葉を待つべきか、それとももう辞めさせるべきか悩んだ。
だが、此処に連れてきて話を始めたのが彼女の意志なら、れいなはそれを見守る必要があった。
どんな結果であっても、れいなは絵里を受け入れる覚悟を持っていた。だから、此処で逃げるわけにはいかない。
れいなは絵里の瞳を捉える。そこには怒りはない。あるのはただ、哀しみだけだった。
- 509 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:57
-
「此処で、男の人に犯されそうになったの」
絶望の音を、れいなは初めて聞いた。
それは、先ほどまでの決心も覚悟も容易く壊し、れいなをどん底に突き落とすだけの力を持っている。
だが、れいなは決して目をそらさなかった。背けたくなるのを必死に耐え、涙を流すことを堪え、拳を握り締めて絵里を見つめた。
絵里もそらすことはせず、れいなを見つめ返す。嘘を語らないその瞳が、痛い。
過去を語るのは、ツラい。だけど、向き合うと決めたから。
絵里はふうと息を吐き、言葉を紡いだ。
- 510 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:58
- ---
- 511 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:59
- 西日が倉庫内に射し込んできた。
絵里はまた、同級生らに呼び出され、倉庫内にひとり立っていた。
もう殴られるのも髪を切られるのも御免だったが、逆らうことができない。スカートの裾を握り締めていると、倉庫内に人が入ってきた。
それは見慣れた光景だったのだが、いつもと違うのは、そこに男が混じっているということだ。
見たこともない男だが、着崩してはいるものの、制服を着ていたため、同じ中学の生徒だとは分かった。
絵里がその男に気を取られていると、女がどんと肩を突いた。
「なに見てんのよ、厭らしい奴」
そして再び小突かれた。理不尽な言葉だが、それに対抗する術はない。
絵里の足元が覚束ない。いつも以上に恐怖を感じ震えていた。
「なあ、マジで良いの?」
その男が後ろに居る女に話しかけた。
女はいつものように笑いながら応える。
「好きにして良いよ」
その言葉に男は大袈裟に声を上げた。その奇声は、恐怖以外の何物でもなかった。
絵里が立ち竦んでいると、男は絵里の髪を掴み、そのまま引っ張った。
その痛みに思わず声を上げるが、男は気にすることなく、絵里を自分へと引き寄せた。
「へー、メッチャ可愛いんだけどなー」
「……目障りだから、そいつ」
女の言葉に男は肩をすくめ、そのまま絵里の腹を殴った。
急にやってきた衝撃に絵里は膝をつく。女から殴られるそれとは格段に違う痛みが走った。
男はようやく絵里の髪を解放し、脚で絵里の肩を蹴った。
絵里は背中を地面につけるように倒れ込んだ。男から殴られた腹の痛みに耐えきれず、子供のように体を丸めた。
- 512 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:59
- 男は間髪入れず絵里の体に覆い被さった。
絵里は血の気が引いた。この後どうなるかなど、火を見るより明らかだった。
腹の痛みを堪え、絵里は体を起こして抵抗を試みた。
「いやっ!」
「黙ってろって。気持ち良くすっからさー」
しかし、男の力に敵うはずもなく、あっさり両腕を奪われ、頭の上で左手1本で組まれる。
腕の自由を奪われ、絵里は脚を動かそうとするが、そこには既に男の体があり、動くことができない。
男はその隙に絵里の制服のボタンを荒々しく外した。
絵里は泣きそうになりながらも腕を解こうと暴れる。
相手は左手1本であるのに、その拘束は全く解かれることはなかった。
その抵抗が癇に障ったのか、男は「うるせえなあ」と絵里の頬を殴った。口内に血の味が広がる。
絵里はそれでも、抵抗を諦めない。男はうんざりしながらもボタンをすべて開けた。
キャミソールに手をかけ、一気にまくりあげる。絵里の体から血の気が引いた。
「白はいいねー。可愛くてさ」
そう言うと男は、ブラジャーの上から絵里の胸を鷲掴みにした。
「やっ!やだっ!」
絵里の抵抗も空しく、男は胸を揉み続ける。
そうする間にも男は興奮し、自分の欲望はさらに大きくなっていた。
男はそのまま、絵里の唇を貪った。もちろん、胸への刺激もやめない。
初めて襲いかかる恐怖、そして単純な息苦しさが絵里を締め付ける。
男は口内を割って入ろうとするが、絵里は必死に耐える。酸素を求めて口を開いた瞬間を男は待つように、歯列を舐める。
胸を揉む手が強弱をつけ始めた。絵里は泣きながら、それでも口を開くのを我慢した。
- 513 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 00:59
- たったひとつだけ残ったもの。
なんど殴られても、なんど蹴られても、なんど金銭を要求されても絵里に残ったもの。
絵里のプライド。亀井絵里として生きる覚悟。それだけが絵里を支え続けていた。
決して屈しない。こんな連中になんか屈しない。言い返すこともできず、殴り返すこともできずとも、そこに在るのは、ちっぽけなプライド。
地に落ち、なんど踏みにじられても、絵里はそれに縋った。それしか、拠り所がなかったのだから。
絵里が男の舌を耐えていると、衝撃が胸に走った。
それは男の手から与えられたものではなく、もっと奥の方、内部から来るものだった。
絵里の心臓が高鳴り、締め付けられるような痛みが走った。
それが発作だと気づくのに2秒といらなかった。
絵里が腕に力を込めると、一瞬、男の力が緩み、そのまま腕が解放された。
最後の力を振り絞り、両腕で男を突き飛ばした。虚をつかれた男は無様に尻もちをついた。
「なにしやがんだ、てめえ!」
男がそう叫び絵里に手を上げようとしたとき、男は異変に気づいた。
絵里はいつも以上に荒く息をし、胸元を抑え体を丸くしている。
それは、いままでキスをされ、胸を揉まれていたからの防衛本能とは違った。もっと根源的な、生命を脅かすなにかからの防衛だった。
男は女に「やばくね?」と言うと、女も状況を察知したのか、ゆっくりと後ずさりをし、倉庫を飛び出した。それを見て男も「お、おい!」と叫び、慌てて走って逃げだした。
その様子を涙で滲んだ瞳で確認すると、絵里は助かったと呟いた。
発作はおさまることなく続き、心臓はいつも以上に締め付けられた。
いままで、この発作に何度も苦しめられ続けてきたが、この日初めて、絵里はこの発作に感謝をした。
小さな窓から西日の射しこむ倉庫内で、絵里はただひとり、孤独に発作と闘い、ひたすら心臓が収まるのを待ち続けた。
- 514 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 01:00
- ---
- 515 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 01:00
- 絵里の独白が終わり、先に目をそらしたのは絵里だった。
彼女は窓を見つめながら呟いた。
「なんにも変わってないんだー。中学もいじめられて…引っ越して高校入ったのに、高校でもいじめられてダサいよね。
さっきもれーなに助けられちゃったし……もう、ひとりじゃなにもできない、弱くてずるくてダメなやつなんだあ…」
閉ざされていた記憶のフタ。
過去を思い返すことを拒否していたのは、そこにある記憶に囚われ、発作さえも起こしてしまうから。
自分を縛りつけていた過去という鎖は、絵里の心臓に巻き付き、その生命を脅かした。
れいなは顔を伏せ、涙を流した。大粒の涙が溢れ出て止まらない。
いつだったか、絵里の病室で絵里の独白を聞いたときも、こんな想いをした。
だれのせいだと嘆き、なぜ彼女だけがこんな目に遭わなきゃいけないんだと思った。絵里をいじめた奴らが憎かった。自分の無力さが悔しかった。
れいなは拳を握り締め、一歩前に踏み出した。
「だからね、絵里もう、れーなとは…」
- 516 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 01:01
- なにかを言いかけた絵里の左腕を引き寄せ、そのまま抱きしめた。
なにも話すなと言わんばかりに強く抱きしめ、絵里の頭を撫でた。
不意に溢れ出た優しさに絵里は甘えたくなるが、それを必死で振り払おうと距離を置こうとした。
だが、れいなの強い力がそれをさせようとはしない。
「れーな、離して…お願い……」
「離したくなか」
直感がした。
この手を離してしまえば、もう、絵里はれいなの元へは戻らないことを。
れいなはそれが怖くて、絵里を抱きしめた。絵里を離したくは、なかった。
「絵里、れーなに依存して、助けてもらってばっかで、れーなの負担になるのっ。イヤなの、そんなのっ!」
ひとりでは立ち上がれず、すぐに過去に囚われて動けなくなってしまう。
いつも発作が起き、最終的にはれいなに助けられてしまう。れいなの優しさに甘え、れいなを困らせてしまう。
そんな自分がイヤだった。れいなの笑顔が見たいのに、絵里と一緒にいるせいでれいなの笑顔を奪っている気がした。
―なにその、罰ゲーム
そうだ。れいなが絵里と一緒に居ることはただの罰ゲームだ。
そんなことしなくて良い。だから離してほしい。お願いだから、離してほしい。
それなのにれいなは、絵里をその腕から解放しようとはしなかった。
- 517 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 01:02
- 「だれが負担やって言ったとや。れなはそんなこと思っとらん」
「でもっ…だって…」
いつの間にか、絵里も泣いていた。言葉が詰まり、上手く出てこない。
必死に伝えようとするが、涙がそれの邪魔をする。
「れなは、絵里と一緒に居たいって、もっと笑いたいって思うからそうしよーと。それが依存やなんて思ったことはいちどもない」
言葉が震える。
なにを言っても、いまの絵里は信じてくれないかもしれない。
それほど、彼女の過去の傷は深く、簡単には救うことなんてできない。
そもそも“救う”なんておこがましい。れいなにそんな力はない。
此処に在るのは、ただ絵里を好きだと想うその気持ちだけだ。それなら、それを精一杯伝えよう。
「れなは、絵里ンこと、好いとぉと」
奇を衒わずに、真っ直ぐに、いまはまだ、信じてもらえなくても良いから。
「バリ好いとーよ、絵里」
信じてくれるまで傍に居てやる。
なんどでも、教えてやる。自分がどれだけ本気で、絵里のことを想っているのか。
この気持ちに偽りがなく、ただ真っ直ぐに、あなたへと向かっていることを。
- 518 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 01:02
- 「っ…れーなぁ……」
甘い声で呼ばれる。その声に震える。
絵里は引き剥がそうとした抵抗をやめ、れいなのコートの裾を握る。まだ腕は背中に回ってくれない。
「ダメ…絵里、れーなに、甘えて…」
「甘えることと頼ることは違うっちゃよ」
泣きながら伝える絵里の言葉を遮り、れいなは言った。
「絵里は独りで頑張っとったけん、人に頼るのが慣れてないだけっちゃ。それはただ逃げるだけの甘えとは違う」
絵里の涙がれいなの髪に落ちる。雫はするりと流れ、地面へと落ちた。
「頼って良い。れなが頼られて絵里が笑顔になるっちゃったら、れなも笑顔になるっちゃ」
伝えることは難しい。必死に頭で組み立てても、口から出る言葉はそんな綺麗なものではない。
自分の素直な気持ちが滑り出るが、それしか方法がない。どうか、どうか届いてほしい。
そう祈りながら、れいなは言葉を紡いだ。こんな口下手であるけれども、せめて想いだけは、届けたかった。
「大好きっちゃよ、絵里」
そう言いきると、れいなは腕に力を込めた。
ああ、なんて勝手な言い分だろう。それでもこれしか知らないから、許してほしかった。
あなたを笑わせる方法も、泣きやませる方法も知らないけれど、こんな風にしか伝えることしか知らないけれど。
- 519 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 01:03
- そのとき、れいなは背中に温もりを感じた。
裾を握っていた絵里の腕がゆっくりと上がり、そのまま背中に回っていた。
「れーなはっ…それでいーの?」
涙で震えながら、絵里は言葉をつないだ。
「絵里の近くに居て、楽しい?」
その言葉を聞き、れいなは柔らかく微笑み、その耳元で囁いた。
「れなの隣で、れなと一緒に笑ってて欲しい。それが、れなのシアワセやけん」
―“一緒に”
その言葉は絵里の感情を決壊させた。何処までも真っ直ぐな、れいなの愛。
一方通行ではないその感情が、絵里に引っ掛かっていたものを溶かしていく。
苦しみだけの過去。未来を潰そうとする鎖。
それなのにれいなは、一緒に居たいと言ってくれる。そのたったひと言が、絵里を解放させる。
- 520 名前:Only you 投稿日:2011/10/20(木) 01:04
- 「れぇなぁ……れーなぁ…!」
生きたいと思った。
精一杯生きて、精一杯笑っていたいと思った。
なんども諦めかけた。光もなく、未来もない人生だと思っていた。
いじめられて、過去に囚われて、そうやってずっと惨めにいるだけだと思っていた。
それなのに、いま、精一杯生きたくなった。
真っ直ぐな愛をくれる、れいなのために。
一緒に生きていきたかった。この場所から、始めたくなった。
ふたりは泣きながらその場に立ち尽くしていた。
涙とともに過去の闇が少しずつ零れていく。
外にはうっすら、雪が降り始めていた。
- 521 名前:雪月花 投稿日:2011/10/20(木) 01:10
- 今回は此処までになります。
甘々デートを予想された方はホントにごめんなさい…こんな展開で。
今後もどうなるかは分かりませんが、懲りずに見守ってやってください。
- 522 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/20(木) 13:23
- 絵里の独白、そしてれいなの告白で結局泣いてしまいました。
こんな展開って反則ですよ。Y.Y
でもやっと二人の想いがお互いに伝えられて良かったと思います。
作者様!この話が終わるまで応援するので頑張って下さい!
- 523 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/21(金) 19:03
- この話が好きすぎて読み返してばかりしています。
完全にはまってしましたよ!
どうか二人がシアワセになれるように… Y.Y
- 524 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/21(金) 23:47
- れいな頑張った!!
偉いぞ!
是非ともハッピーエンドでお願いします!!笑
あぁー毎日このスレを覗くのが日課になっています。
- 525 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/25(火) 19:28
- 最近読み始めました。
毎日少しずつ読み進めていますが、つい引き込まれて追いついてしまいました。
続編をお待ちしてます。
- 526 名前:雪月花 投稿日:2011/10/26(水) 01:16
- 年内中に終わらせると宣言しましたが、一向に終わりが見えない雪月花です。
絶対に放棄はしないですが、いつになったらラストシーンが書けるかなあ…
そしてこの勢いだと次スレに行きそうな予感…計算が合わないなあ。
522 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
甘いデート展開じゃなくて申し訳ないです…
今後もシリアスあり甘々あり?な感じになりますが、応援よろしくお願いいたします。
523 名無飼育さんサマ
この作品にハマっていただいて光栄です。
ふたりがシアワセになれるかどうか、ふたりの足跡を見守っていて下さい。
またコメントよろしくお願いいたします!
524 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
今回は絵里もれいなもがんばってくれました。ふたりとも強くなったなあとしみじみ。
ハッピーエンドになるか否か、私にもまだ分かりません。彼女たちの物語を温かく見守って下さい。
525 名無飼育さんサマ
訪問ありがとうございます。
暖かいコメントをいただき、本当に感謝しております。
最近はストックが少ないため、更新頻度が落ちていますが、がんばっていきます!
では続きです。
- 527 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:18
- 「ふぇっくしょん!」
れいなは盛大なくしゃみをした。絵里はそんなれいなを見て困ったように笑った。
「女子高生らしくないくしゃみだねー」
「うるさか」
ふたりが倉庫の外に出たとき、空からは白い雪が舞い降りてきた。どうりで寒いわけだと納得する。これならくしゃみをしても仕方ないとれいなは勝手に自己肯定した。
れいなは自然に絵里の左手を握る。絵里も抵抗なく、指をからめてきた。
ふたり並んで歩き、校門を出た。駅に向かって歩きながら話し始める。
「なんか久しぶりかも。誕生日に雪なんて」
「そうやと?“ホワイトクリスマス”って言葉もあるし、こっちじゃ普通なんかと思っとった」
「れーなのイメージって若干ズレてるよね」
「そんなことないっちゃよ!ただ、福岡よりは降るイメージやけん」
そこで絵里は初めて、れいなが福岡出身であることを知った。
OG戦で会って以来、もう1年も経とうとしているのに絵里はれいなの出身地を知らなかった。
そのことをれいなに話すと、れいなは眉間にしわを寄せた。
「メッチャ今さらやん!知っとると思っとった」
「博多弁って気づかなかった…」
「まー、れなのは正確な博多弁やないけんね」
そう言ってふたりは改札を通り抜ける。
一瞬だけ離れた手は、駅のホームへ向かう途中にまた繋がれる。
「博多弁じゃなかったら、なんなの?」
「んー、れいな弁」
「へんなのー」
- 528 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:19
- そうやって絵里は笑った。そう、ちゃんと笑ったのだ。
それを見てれいなは純粋に嬉しくなり、此処が駅のホームという公共の場であることも忘れて抱きしめたくなった。
天皇誕生日といえど、もうすぐ世間じゃクリスマス。ここぞとばかりにカップルがいちゃつくのだから、れいなたちも便乗したくなる。
そのときに電車がホームに入ってくることを車掌が伝えた。電光掲示板を見ると、もうすぐ帰宅ラッシュの時間だ。
「もう、こんな時間なんだね」
絵里がポツリと呟いた。
デートの終わりはいつでも寂しいものだ。いつでもと言っても、2回しかしたことはないのだが。
れいなはなんと言って良いか分からなくなり、空いていた左手でこめかみをかいた。
それとほぼ同時にホームに電車が滑り込み、ふたりは乗り込んだ。電車内には人がまばらにいる。ふたりは並んで端の席に座った。
れいなはふと、絵里の胸元にあるネックレスに気づいた。
それは、最初のデートで絵里にプレゼントしたものであった。
「つけてくれよっちゃね、それ」
れいなの言葉を聞き、絵里は視線を追った。
絵里は柔らかく微笑み、右手でオレンジの石を触った。やはりその胸元にそのネックレスは似合うとれいなは思う。
「気に入ってるの。ありがとね、れーな」
- 529 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:20
- そう言うと絵里は「あ」と思い出したように右手だけでカバンの中を探った。
器用なものだなとボーっとしながら見ていると、そこには小さなケースが持たれていた。
手が離れ、寂しいと思ったのも束の間、れいなと向き合い、両手でそのケースを渡してきた。
「1ヶ月遅れだけど、誕生日おめでとー」
「れなに?」
れいなは最初、きょとんとしていたが、「1ヶ月」という言葉でようやく自分の誕生日があったということを思い出した。
上京して迎える初めての誕生日は、同じ部活生やさゆみ、そして両親から祝ってもらった。
そういえば絵里には祝ってもらっていなかったなと思いだし、素直にそれを「ありがとう」と受け取った。
「開けて、いーと?」
絵里が頷くのを見て、れいなはそのケースを開けた。
中に入っていたのは水色の石がついた小さなピアスだった。
「綺麗…」
「ホントに?」
れいなは目を細めて微笑むと、ピアスを手に取り、自分の耳に持っていく。
今日、れいなは時間がなかったため、たまたまピアスをつけてこなかった。それは、絵里からもらったこれを付けるためだったのかもしれないと勝手に解釈を変えた。
「似合っとー?」
れいなが両方つけたのを見て絵里は顔をくしゃっと崩した。
「似合っとー」
イントネーションが微妙に違ったが、絵里はれいなの言葉をまねた。
「エセ博多弁かいな」
「違うよ、れーな弁だよ」
- 530 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:22
- そうして絵里が笑うから、れいなはなにも言えなくなり、大袈裟に肩をすくめた。
顔が赤くなりそうなのを誤魔化すように、れいなは鏡を取り出し、ピアスをつけた自分を見る。思いのほか似合っているので嬉しくなった。
鏡をしまい、今度はれいながカバンを漁った。
「じゃ、れなもお返し」
そう言ってれいなはカバンからラッピングされた袋を取り出すと、絵里は目を丸くしてそれを受け取った。
「17歳、おめでとう」
絵里は片八重歯を見せて笑い、それを開封した。
中に入っていたのはドーム型の目覚まし時計だった。底の方にはピンクの桜の花びらが落ちていて、ひっくり返すと、桜が舞い散るように見える。
「絵里、冬生まれやん?なんか、春っぽいのあげたいなと思って…アクセとかのが良かった?」
れいなが心配そうに顔を覗きこむと絵里は首をゆっくり振った。
「ありがとう…嬉しい。こういうの貰ったことなかったから」
「そうかいな」
「そうやとー」
そうして絵里はドームをひっくり返し、早速桜を降らせた。
ゆっくりと舞い落ちる桜の花びらはいまのこの季節には不似合いだったが、それはとても優しいピンクだった。
絵里の優しい視線が愛しくて、れいなの顔も自然に綻んでいく。
- 531 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:23
- 「れーな…」
「なん?」
甘い声の後に、こてっと、肩になにかが当たった。
れいなはふとそちらを向くと、絵里が頭を預けてきていた。それはあの文化祭のフィナーレと同じような光景だった。
「絵里、すっごいシアワセだよ…」
今日1日、いろいろなことがあった。
れいなに過去を告白することであんなに荒れていた心だったのに、いまはこんなにも穏やかな気持ちでいられる。
一瞬は本気で絶望し、れいなと離れようとも思った。
だが、いまはそんなこと考えられない。れいなの隣で生きていきたかった。
絵里が素直な気持ちをぶつけると、れいなは困ったように笑った。
絵里がきょとんとすると、れいなと視線が絡み合った。れいなの頬は真っ赤に染まっている。
「れなも、バリ、シアワセ」
泣きそうになるほど、震えるほど、好きだと思った。
この瞬間が、隣で優しく笑う彼女が、こんなにも好きで、恋しくて、愛しくて堪らない。
時間が止まれば良い。そうれいなは思った。
この空間でずっと一緒に居たかった。
だが、無情にもアナウンスはふたりの乗り換え案内を伝えてきた。
絵里はゆっくりと時計をしまうと、またれいなと指を絡めた。
「…止まれば良いのに」
「え?」
「この時間がずっと続けば良いのにな…」
絵里がそう言うと、電車は駅に滑り込んだ。
ドアが開くと同時に絵里は足早に駅のホームへ降り立った。斜め後ろから見た絵里の顔は真っ赤に染まっていた。
その表情にれいなは納得し、また困ったように笑った。
もしかして、一生分のシアワセを此処で使い切るのではないかと心配した。
- 532 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:24
- ふたりが街へ戻ってきたとき、雪は止んでいたものの、あたりはすっかり真っ暗だった。
絵里の両親は大丈夫だろうかとれいなが聞くと、絵里は曖昧に返した。それが、デートの終わりを示していたので、れいなは絵里を送っていくことにした。
今度はあの日と違って歩いて送るので、少しは一緒にいられる時間が長い。たった数十分の差ではあるものの、その数十分がいまのふたりには大切だった。
「なあ、絵里」
「なに?」
街中はカップルで溢れ返っていたものの、1本路地に入ってしまうと、そこは裏道であり、人気も少なかった。
喧騒から逃れ、ふたりで話すには都合の良い場所だった。
「れな、まだ答え聞いてないっちゃけど」
「ふぇ?」
「ふぇ?やなくて、答え」
絵里が「なんの?」とでも言いたげな顔をするので繋いだ手を強くし、耳元で呟いた。
「さっきの告白の返事」
そう言うと絵里は「えー?」と少々大きめの声で言った。
目線を外し、困ったような顔をする絵里をれいなは追いかける。
「もう答え言ったようなもんじゃん」と呟くと、れいなは不満げに首を振る。
- 533 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:25
- 「言わなきゃ…ダメ?」
「いかんな」
そのれいなの返答が気に食わなかったのか、絵里は顔を膨らませ「むぅ」と言う。
そのいちいちの仕草が可愛くて堪らないのだが、れいなは必死に顔を崩さないようにした。
「どーしても?」
「どうしても」
れいなの素早い返事に絵里は観念したのか、いったん立ち止まり、真正面から向き合った。
はぁと深呼吸する。白の吐息が闇に紛れた。
絵里はれいなの両手を包み込む。れいながきょとんとした隙に一気に引き寄せた。
バランスを崩したれいなは「うぉ」っと言うと、そのまま絵里に倒れ込む形になり、それを絵里は受け取って抱きしめた。
- 534 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:26
- 「絵里はれーなが好き。大好きです」
たった一言だけそう伝えると、絵里はれいなの肩に額を押し付けた。
相当恥ずかしいのか足をばたばた云わせ、体をくねらせた。
伝えられたれいなはといえば、顔を真っ赤にし、絵里を強く抱きしめた。ヤバい、バリ、シアワセ。どうしたらいーと?と頭の中は春真っ盛りであった。
やっぱり、今日で一生分のシアワセを使い切ってしまいそうだと不安になったれいなは、どうせ使い切るのならと、絵里の耳元で囁いた。
- 535 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:26
- 「キスして、いーと?」
絵里は一瞬肩を震わせ顔を上げた。
戸惑いは見てとれるが、れいなはあえて答えを待った。
絵里が躊躇うのも分からなくはない。
先ほどの告白。絵里の過去に在った出来事。好きでもない男に絵里は無理やりキスされている。
だかられいなも無理強いはしたくなかった。自分の欲求は強くあるが、決して強要はしない。
心臓が高鳴っている。
うるさいくらいに鳴っている。
絵里は少しだけ迷った後、体を離し、そっと目を閉じた。
「…信じてる」
だれに呟いたものかは定かではないが、確かに彼女はそう言った。
- 536 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:27
- れいなは高鳴る鼓動を抑えるように息を吐く。
瞳を閉じて、ほんの少しだけ背伸びをした。触れるか触れないか、それだけのキス。ただ、間違いなくお互いの唇は触れあった。
れいなは目を潤ませて右手で唇を抑えた。
絵里がそっと目を開くと、彼女は「うへへぇ」と笑った。全く持ってしまりのない、だらしない笑い方だった。
「へたれーな」
「にゃっ?!」
そうして絵里はもう一度笑って先を歩き出した。
「ヘタレ」と称されたれいなは、真っ赤に染まった顔を抑えながらも、その後をついていく。
なにがヘタレなのかは分からないれいなは、その絵里の態度に少しだけムカついた。
すねるように顔を膨らませポケットに手を突っ込んで歩いていると、横に居る絵里がニヤニヤしながらこちらを見てくる。
- 537 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:27
- 「れーなっ」
「なんよ?」
「もー。れーなぁ」
「だから、な…」
顔を見合わせた瞬間に、れいなは唇を奪われた。
言いかけた言葉が絵里の唇に吸い込まれて消えていく。
時間にして、わずか2秒ほど。それでも先ほどよりもっと長いキスだった。
「うへへぇー。奪っちゃった」
そうして今日一番の笑顔を見せて絵里はれいなの手を取って歩き出す。
ああ、もう、この天然タラシめ…
何処までも可愛いことしてくれやがって、この野郎とれいなは真っ赤になりながら、空いた左手で頭をかいた。
「1秒にも満たないのなんてキスとは言わないんですよ?」
その絵里の言葉にれいなは納得する。
だから先ほど、へたれと言ったのか、こいつは。
「……ムカつくっちゃ」
「もー、怒らないの」
絵里のその言い方が、少しだけ、ほんの少しだけ年上に見えた。
普段は年上に見えないような行動をとるところも、ふとした瞬間に年上になるところも、全てが絵里そのもので、それがたまらなく好きなんだなとれいなは改めて実感した。
ふたりは再び手を繋いで歩き出した。こんなファーストキスも悪くないなとれいなは思った。
- 538 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:29
- ふたりが亀井家の前についたときは20時を過ぎていた。
本当はもっと話していたかった。もっと一緒に居たかったが、そうもいかない。
れいなは独り暮らしだが、絵里は実家暮らし。それに、まだお互いに高校生で自由ではない。
分かっているのに時間が欲しかった。一緒に居るだけの時間が欲しかった。一分一秒が惜しかった。
なんて若い考えだろうとれいなは自分でも思うが、それでも願わずには居られなかった。
「じゃあ、またね」
その言葉は聞きたくないが聞かなくてはいけないものだった。
れいなは「うん」と笑顔で頷く。だが、ふたりの手はなかなか離れない。
離さなくてはいけないと分かっていても、離すことができない。
「また、デートするっちゃ」
れいなの言葉に絵里は嬉しそうに頷く。
いつかは分からないその約束。れいなの部活、絵里の入院生活を考えると、それが果たされるのはずいぶん先のことになりそうだった。
それでも、絵里は単純に嬉しかった。
- 539 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:29
- 「またね、れーな」
「おう」
そうして絵里はれいなと絡めていた指をほどく。
れいなの手にあった温もりがするりと抜け、絵里がゆっくりと離れていく。
絵里が背を向けて玄関へと歩き出そうとしたとき、れいなは咄嗟にその腕をとり、ギュッと抱きしめた。
驚いて目を丸くする絵里の耳元でそっと囁いた。
「…ありがとう」
なにに対しての感謝なのか、すべてに対しての感謝なのか、絵里にはわからなかった。
それは発したれいな自身も分かっていなかった。
だが、絵里はゆっくりと首を振り「絵里も…ありがとう」と返した。
寒い寒い冬の日でも、ふたりでいれば温かい。
そんなことを思う日が来るなんて、想像もしていなかった。
れいなと絵里は、お互いの溢れ出る感情を確かめるうに強く抱きしめあった。
この地区では10年振りに天皇誕生日に雪の降った、寒い日のことであった。
- 540 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:32
- ---
- 541 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:34
- 「ふぇっくしょん!」
相変わらず女子校生らしいくしゃみの仕方をれいなは知らない。盛大なくしゃみはいかにも運動部らしい。
「なに、風邪なの?」
「いや…花粉症」
その返事にさゆみはれいなの目を見ると確かに真っ赤になっている。
目つきがお世辞にも良いとは言えないうえに、マスクをしたその姿は、まさにヤンキーそのものである。
そんなことを言おうものなら、れいなに怒られることは確実なので、黙っていることにした。
「もー面倒やけん、サボっていい?」
「生徒会のみーんなに怒られちゃうよ?」
れいなはうんざりしたように肩をすくめた。
冬を越えた3月の中旬、朝陽女子高等学校は卒業式を迎えていた。
今日ばかりは全部活動が中止になり、全校生徒が卒業式へ参加することになる。
れいなもさゆみも例外なく参加するのだが、体育館という閉鎖空間でつまらない校長や教頭の挨拶を聞いているのは苦痛すぎる。
そのうえ、花粉症ともなれば、ある意味で地獄だった。
れいなは本気で式を欠席しようと思っていたが、今年の卒業生の中には生徒会長の高橋愛がいる。
彼女の答辞は聞いておきたいし、彼女の晴れ姿は見たい。
れいなが授業をサボっていたとき、黙って傍に居たのは高橋愛だった。最終的に副会長の新垣里沙に促されて授業に復帰したが、きっかけを作ったのは間違いなく愛だった。
それからも事あるごとに彼女には助けられているので、参加しないわけにはいかない。
れいなはポケットティッシュで鼻をかみ、ゴミ箱へ放り投げた。
ちょうどそのとき、クラス担任がやってきて廊下に並ぶように指示を出した。
さゆみが立ち上がったのを見て、れいなも渋々席を立った。式中に泣いていると勘違いされるのだけは御免だなと頭を振った。
- 542 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:34
- 卒業式が終わり、自分の教室に戻ってくると、何人かの生徒が泣いていた。おそらく部活動の先輩の卒業が寂しいのだろう。
それは里沙も例外ではなかった。今日で生徒会長の愛が卒業する。いつかはだれしもが通る道ではあるけれど、それでも簡単には納得できない。
ひとつ息を吐き、席に着いたところで担任のサトウが入ってきた。クラスメートもそれに気づき、それぞれ着席した。
サトウは、明日以降の学校の流れを話したあと、先輩たちが卒業し、今度は自分たちが受験生になるのだから気を引き締めるようにと言ってHRを終えた。
挨拶を終えると、またクラスは騒がしくなった。
ほとんどの生徒は荷物をまとめ帰宅したが、何人かは3年生の教室や部室へと走った。最後の挨拶でもするのかもしれない。
里沙は一瞬どうしようか悩んだが、カバンを持ち、廊下へと出た。
- 543 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:35
- 3年生の階は騒がしかった。
どこの教室前の廊下でも下級生や保護者が入り混じり、写真撮影を行っている。
里沙は人の間を縫って愛のいる教室へ向かうと、そこはひと際混雑していた。やはり此処でも『生徒会長』は健在かと里沙はなかば苦笑しながら踵を返した。
向かった先は靴箱ではなく、生徒会室だった。
室内は相変わらず乱雑だった。机上に書類やファイルが散乱し、ホワイトボードには来年度以降の部活動の予算編成の原案が書きっぱなしになっている。
その横には小さく、「来年は部署どうしますかー?」と落書きのようなものがあった。
―片付けなさいってあれほど言ったのに…
里沙はカバンを机上に置き、書類を整理し始めた。
OG戦や入学式、体育祭の書類などさまざまなものが置いてある。
おそらく、来年度以降の生徒会の動きを確認するために引っ張り出したものだろう。
―来年度以降…か。
生徒会長の愛は卒業する。
次期会長の候補には、副会長である里沙の名前も挙がっていた。
だが、里沙は自分にその器はないと会長になる気はなかった。できれば副会長のポジションでいるか、一線を退こうかと考えていた。
来年は受験生になり、本格的に大学入学への勉強をしなくてはいけない。
生徒会との両立もできなくはないが、里沙にはその自信はなかった。
なにより、愛がいなくなってしまっては、そのモチベーションも上がるかどうか分からなかった。
- 544 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:36
- 里沙は棚にファイルを次々に仕舞っていくと、ひとつの書類を見つけた。それは、愛が生徒会として最後に行った仕事だった。
制服撤廃に関して生徒会は一切関与しないという宣誓書類。
悩みに悩んだ結果、愛はオブラートに包まず直接伝えるという方法を取った。
なにを言っても、納得してもらえないのなら、もう此処はハッキリと断るという方式は、いままで「NO」と言わなかった生徒会長には珍しいやり方だった。
―まー、卒業するし、もう良いかなって
そう言って舌を出して笑う愛は、ずいぶん強かになったなと里沙は思った。
里沙があらかたの書類を棚に仕舞うと、机上はだいぶ綺麗になった。
残ったのはひとつの黄色いファイルだった。なんだろうと開いてみると、それは文化祭関係の資料だった。
最初のページは第1回のものであり、捲っていくにつれて時間が経っていく。
真ん中あたりのページに第31回と書かれた書類が入っていた。それは里沙が1年生のときの文化祭であった。
―懐かしいなあ、これ。
関係書類がそこにはビッシリ入っている。
各クラスの模擬店、メニューや会計報告、各部活動の企画・展示、そして演劇部主催のミュージカル宣伝チラシ。
よくあの時は「シンデレラtheミュージカル」の主演など務めたなと里沙は苦笑した。
そして最後に2枚の写真が出てきた。それは、ミュージカル終演後に楽屋で撮影したものと、生徒会室で執行部と撮ったものだった。
里沙の隣には、愛がいた。屈託ない笑顔のまま、彼女はそこに居る。
いつも、彼女は笑っていた。彼女は本当に笑顔の似合う人だと改めて気づく。
彼女の持つカリスマ性、愛嬌のある話し方、独特の考え方、少しだけ抜けている部分、それらすべてが愛しく感じられた。
里沙はそっと写真を戻し、ファイルを棚へと入れた。
息を吐いて、椅子に腰かける。
もう、此処に愛が来ることはない。愛と此処で仕事をすることもなくなる。
それが寂しくて、だけど仕方ないことで。そう考えると心が痛くて、切なくなる。
- 545 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:37
- 少しだけ、思い出していた。
今年の文化祭のフィナーレ。愛とふたりで踊ったフォークダンスだ。
大勢の生徒が、愛を見つめながら歓声を上げる中、慣れないステップを踏みながら、愛は里沙に話しかけた。
「里沙ちゃんは、あの日に戻りたいって思ったこと、ある?」
里沙は愛の足を踏まないように注意しながらその質問の意図を考えた。彼女の言う「あの日に戻りたい」とは、間違いなく、自分たちが2時間前に踊ったダンスのことだった。
「里沙ちゃん、顔上げて、胸張って。下見らんで」
愛にそう囁かれ、里沙は顔を上げる。当然のことながら目の前には愛がいる。フォークダンスというものを里沙は久しぶりに経験したが、こんなに距離が近かったかと思う。
里沙は顔が赤くなるのを堪えながら、質問に答えた。
「あるよ、何度も。たくさん、後悔した」
里沙は考えていた。
自分が高校に入学して最初に好きになった人。自分が助けてあげなきゃと思った人。
絵里に対して、もしあのとき、ああしていれば、あのときこうしていれば、もっと絵里は楽に生きられたのではないかと思うことがあった。
「でも、過去には戻れないから。生きていくのは“いま”で、これからだから」
里沙はそう言って真っ直ぐに愛を見つめ返した。その表情も言葉も非常に晴れやかだった。
負け惜しみでも嘘でもない。絵里とれいなのシアワセを祈り、未来を見据えたその言葉は、彼女の本音であり、心の底から出た真実だった。
愛は、そんな里沙の瞳が、ただ美しいなと思った。
「…なんか、変わったの、里沙ちゃん」
優しく微笑む愛を見て、里沙は笑う。どこまでも、自分は彼女に助けられっぱなしだなと自覚する。
「愛ちゃんのおかげだよ」
「なして?」
「さあ?」
そうしておどけて笑うと、愛もつられて笑った。
花火がドンドンと夜空に打ち上がる。少し肌寒い秋の日、薄暗い空を切り裂くように開いた光と音の花。
里沙はこの日一番の笑顔を見せながら、愛とともに踊っていた。
- 546 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:38
- ―愛ちゃん……
記憶の波の中で、涙が一粒落ちた。
一生会えなくなるわけではない。愛は大学へ進学し、独り暮らしを始めるが、此処から2時間弱の場所になると言っていた。
会えない距離ではないし、行こうと思えばいつでも行ける。
それでも、胸が苦しかった。
里沙は机に伏し、目を閉じた。制服の袖に涙が零れたがハンカチで拭うのも億劫でそのままにしておいた。
- 547 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:38
- 甘い香りがした。優しい感触が頭にある。
里沙がゆっくりと目を開けると、そこには彼女がいた。
最近髪を短く切り、まるで少年のようにきらきらした、名前の通り愛くるしい顔でそこに立っていた。
「お、おはよー、里沙ちゃん」
「え、な、なんで?」
里沙は慌てて立ち上がり、髪の毛を整えた。
「あひゃ。里沙ちゃんおでこ真っ赤やざ」
「うそ、マジ、どこ?え、なになに、なに?」
里沙がなかばパニックになりながらオロオロしていると、愛は嬉しそうに笑った。
なぜ彼女が此処に居るのだろうと里沙は思う。
「教室おらんけど靴はあったから、此処やとは思ってたけど、まさか寝てるとはなー」
「私…どれくらい寝てた?」
「んー、あーしが来たときからやと、1時間くらい?」
「い、1時間?!」
里沙は慌てて時計を見た。文字盤の針は確かに此処に来てから1時間以上進んでいる。
まさか学校でそんなに寝てしまうとは思ってもみなかった。だが、それよりも言いたいことがある。
「なーんで起こしてくれないのよ?!」
「えー、だって里沙ちゃんの寝顔可愛かったんやもん。しょーがない」
そう言って愛は「へーんな寝癖」とニコニコ笑い、妙な方向へ曲がっている前髪を触った。
それはいつもの愛だった。いつも里沙の隣で笑ってくれていた愛だった。
顔が赤くなりそうになるのをバレないように、里沙は目線を背けた。
- 548 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:39
- 「愛ちゃんは、此処に用があったの?」
「いや、里沙ちゃんを捜しに来ただけやざ。まー、最後やし、見とこうかなとも思ったけど」
「最後」という言葉が里沙に突き刺さる。
いまさら、卒業という事実が頭をよぎり、里沙は思わず顔を伏せた。
そんな里沙の変化に気づいたのか、愛は心配そうな目で里沙を見つめる。
「里沙ちゃん、さっき、泣いてた……?」
愛の言葉に里沙はドキッとする。視線をぶつけると、愛は困ったように笑っていた。
先ほどまでの笑顔とは全く違う彼女の表情が余計寂しくなる。
すべてお見通しなのなら、わざわざ隠す必要もないなと、里沙は素直に頷いた。
愛は一瞬目を伏せて、そして里沙に手を伸ばし、頭を撫でた。
「だいじょーぶ。だいじょーぶやざ」
その優しさが嬉しくて、切ない。
頭で納得しても、心がついていかない。分かっているのに、分かっているはずなのに。
里沙のその心情に気づいたのか、愛は撫でるのをやめ、体ごと引き寄せた。どんと軽い衝撃がして、里沙を抱きしめる。
里沙も抵抗することなく、その腕の中におさまり、自分の腕を背中にまわした。
「高校は卒業するけど、会う機会も減るかもしれんけど、全然会えないわけやないからの」
温かい、と里沙は思った。
愛の優しさが、愛の言葉が、里沙の心に沁み込んでいく。
切なくて、胸が苦しくて、だけどそれでも、嬉しくある。里沙はまた素直に頷いた。
- 549 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:40
- 「それに…」
「うん?」
「里沙ちゃんはあーしの大学受けてくれるんやろ?」
その言葉を聞き、「はぁ?!」と言って里沙は顔を上げた。
当の本人である愛はいつものようにニコニコしている。そこには少しだけ意地悪な要素も含まれている。
「な、なんで私が愛ちゃんの大学受けなきゃ…」
「だって里沙ちゃん、あーしのこと好きやん」
「え、ばっ、だ、す…うぇぇぇ?」
百面相のように顔をコロコロと変える里沙が面白くて、愛はまた笑う。
からかわれているのは分かっていたが、里沙は観念したようにため息をついて答えた。
- 550 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:40
- 「……そうですけど」
その言葉に驚いたのは愛だった。
一瞬の間があり、「え?」と言葉がついて出た。もしかするとその「え」には濁点が付いていたかもしれない。
「…ホントに?」
愛が確認するように言うと、里沙はまた頷く。
「愛ちゃんが…好き」
自分でも今日は素直になっていると気づいている。それは「卒業」という事実があるからかもしれないが、それでも里沙は感謝していた。
なんだかんだ言っても、素直や正直はいちばんだと思う。変に意地を張ったりしない方が、たぶん、楽しい。
「…マジで?」
愛は信じられないというような表情を見せる。いままで散々、里沙が好きだと伝えてきた。里沙の絵里の気持ちをしっていながらも、彼女はそうしてきた。
叶わない、一方通行の恋でも良かった。ただ、里沙を支えていたかった。それが自己満足だとしても、良かった。
それが建前であることも知っていた。
本当はずっと、この腕に抱きしめてキスをしたかった。里沙を自分だけのものにして独占したかった。そんな醜い独占欲を押し隠して今日此処まで来た。
それなのにいま、卒業するその日に、愛は里沙に好きだと言われた。
夢ならどうか、醒めないでほしかった。
- 551 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:41
- 「うわー…そっかぁ…あひゃぁ」
「ちょっ、愛ちゃん?」
愛は嬉しくて堪らないと言ったように里沙を強く抱きしめた。
さすがに腕の力が強すぎたのか、里沙が少しだけ抵抗したので、愛は渋々腕の力を弱める。
それでもふたりの距離は相変わらず近い。
「嬉しいがし…マジで」
ちらりと見えた愛の顔は、いままで見たこともないくらい真っ赤に染まっていて、それがなんだか無性に嬉しかった。
自分でも驚くほど素直にストレートに言えた、この気持ち。
愛の気持ちには気づいていた。
ずっとずっと、支えてくれていたのに、自分は亀井絵里が好きなのだからと、この人の気持ちを見ない振りしていた。
はぐらかして、黙り続けて、ずっと傷つけていたのに、それでも愛は里沙を好きだと言ってくれた。
クラスメートや後輩から、何人もの告白を受けてきたのに、好きな人がいるからとずっと断ってきた愛。
何処までも真っ直ぐで純粋な愛情。それはすべて、里沙だけに向けられていたものだった。
- 552 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:42
- 気づけば里沙は、そんな愛が好きだと想っていた。
きっかけはいままでにもたくさんあった。
シンデレラtheミュージカル。体育祭での活躍。新入生への入学式演説。ダンス部主催のカラオケ大会でのパフォーマンス。卒業式での凛とした答辞。生徒会長として、だれよりも朝陽高校のことを考えていく姿。
だが、結局は、一番近くにいて、隣で笑うその姿が愛しいと想った。
里沙にとって大切な人。隣で一緒に笑っていてほしい人。
今度はこの人を支えたい。優しさと愛をくれたあなたに、少しだけでも返したい。そう想った。
「ずっと一緒やざ」
「え?」
「卒業しても、里沙ちゃんの傍に居る。約束する」
真っ直ぐな瞳で愛はそう告げた。
ああ、この瞳だ。
朝陽高校を支えてきた生徒会長。生徒からの信頼が厚い所以。その純粋で強い瞳と信念が、そこにあるからだ。
そして里沙は、その瞳が大好きだった。
里沙は照れたように顔を隠し、ただひと言、「はい」とだけ告げた。
「里沙ちゃん…」
「うん?」
「…好きやざ」
- 553 名前:Only you 投稿日:2011/10/26(水) 01:43
- 真っ直ぐな告白と真っ直ぐな心。
先ほどまでの不安や哀しみがゆっくりと失くなっていく。
すべてが消えるわけじゃない。たぶん、愛が引っ越しをするときもまた泣いてしまうだろうし、哀しくなってしまう。
だけど、此処にある温もりは消えない。
愛がくれる『愛』は、心にずっと残っている。
「私も、大好き…」
だから、だいじょうぶ。
根拠のない薄い自信かもしれないが、正直にそう思えた。
里沙が顔を上げると、愛は優しく微笑み、ゆっくりと顔を近づけてくる。
なにをされるのか、分からないわけじゃない。それを拒む理由も、ない。
里沙がそっと目を閉じると、その唇に柔らかいものが触れた。
温もりと優しさと愛。
それらがすべて詰まったキスは、たった一瞬でも永遠のように感じられた。
- 554 名前:雪月花 投稿日:2011/10/26(水) 01:47
- 今日は此処までです。
ちょっと展開が早い気もしますが、それはひとえに作者の力量不足です。
へこたれそうな毎日ですが、精進してがんばります。
絵里とれいな。そしてふたりを取り巻く人々。彼女たちの物語を今後もよろしくお願いいたします。
では次回まで失礼します。
- 555 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/26(水) 21:40
- 今回はとっても甘くてニヤニヤしながら読みました。
れなえりと愛ガキのシアワセな姿で本当によかった〜と思ったよ。
ラストまで無理せずに作家さんのペースでゆっくり更新して下さい!
応援します!
- 556 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/26(水) 22:40
- 甘ぁーい\(//∇//)\
ヤバぁ、、、夢に出てきそうです。
絵里もれいなも、愛ちゃんもガキさんも、みんな幸せそうで何よりです。
読んでる側も、この幸せな時間がいつまでも続けばと思ってしまいました。笑
作者様のペースで素敵な話を仕上げてください。
もちろん次スレいってもついて行きます!!
- 557 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/10/29(土) 18:47
- やはり甘いのが良いですね。
私もハッピーな気分になりました。^__^
次の更新まで楽しく待てます!
- 558 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/03(木) 12:51
- 皆さんおっしゃってますが、甘いねぇww
ようやく気持ちが通じてよかったです。
作家さん頑張ってください!!
- 559 名前:雪月花 投稿日:2011/11/11(金) 21:24
- 「時間とお金がほしい」が口癖の雪月花です。
モベキマスのCDもほしいなぁw
>>555 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
前回が重い内容だったので、今回は甘めにしてみましたw
応援していただきありがとうございます!最後まで頑張ります!
>>556 名無飼育さんサマ
甘いのはあんまり書けないのですが、今回は少し成分多めにしましたw
いつまでこのシアワセの時間が続くかは分かりませんが見守っていて下さい。
次のスレに行くかどうかも微妙ですが、宜しくお願いします
>>557 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
皆さん甘いのがお好きなんですねw 今後も書けるように努力してまいります。
ストックが少ないので更新頻度は遅めですが宜しくお願いします。
>>558 名無飼育さんサマ
ずいぶん遠回りをしたふたりですが、ようやくちゃんと言えてこちらもホッとしてます。
まだまだラストまでは長い道のりかもしれませんが、どうぞ見守っていて下さい。
コメントありがとうございました!
今回は本編とは無関係になりますので、読み飛ばしていただいてもかまいません。
どうしても更新したかった作者のわがままですので。
- 560 名前:そんなシアワセ 投稿日:2011/11/11(金) 21:25
- れいなは両手にたくさんの荷物を抱えてアパートの階段を上った。
秋の夜風が身にしみる。れいなは身震いをしながらカバンの中にしまっておいた鍵を取り出した。
世間がポッキーの日なんて勝手に言っている今日、11月11日はれいなの誕生日であった。
モーニング娘。のメンバーやスタッフの方に祝ってもらい、たくさんのプレゼントももらってれいなは上機嫌だった。
先ほどケータイを見たところ、実家に住む両親からもお祝いのメールをもらい、今度帰省した時にプレゼントを渡すねと書かれていた。
大切な両親からなにをもらえるのか楽しみだなとれいなは思っていたが、今年も気がかりなことがひとつあった。
0時ジャストにメンバーからは誕生日メールをもらったのだが、彼女からは今年ももらわなかった。
無精者の彼女のことだから、どうせ今年も忘れているんだろうなと苦笑したが、日を跨ぐ寸前のこの時間になってもまだメールは来ない。
これは確実に忘れているのだろうなとれいなは思う。期待はしていないのだが、それでももらえないのはやはり寂しい。
- 561 名前:そんなシアワセ 投稿日:2011/11/11(金) 21:26
- れいなが玄関のかぎを開け、室内へと入ったその瞬間に、れいなはなにか、違和感を覚えた。なにかが違う。今朝、この部屋を出た時となにかが変わっている。
それを動物的勘というのか本能と呼ぶのかはれいなには分らない。
だが、それがなんにせよ、この違和感の正体を突き止めない限り安心はできない。まさかストーカーや強盗ではあるまいなとれいなは思う。
その正体に気付いたのは、ふと玄関に置いてあった靴を見たときだった。
明らかにれいなの私物ではない靴が乱雑に置いてある。しかもこの脱ぎ方には見覚えがあった。
まさかと思いれいなは自分の部屋へと歩いていくと、そこは照明がついていた。
ドアを開けると、果たしてベッドの上に彼女は居た。れいなは荷物を床に置き、ベッドへと近づく。
ちょこんと丸くなって、その名前のようにカメのような格好で眠る絵里がいた。
「なんしよーとや、絵里…」
れいなは半ば呆れ顔でベッドの上の彼女、亀井絵里を見つめた。絵里はといえば、相変わらず安らかな顔で眠っている。
「…もしもーし。かめいさーん?」
れいなは絵里の肩を揺すってその名を呼ぶが、彼女は一向に起きようとしない。それどころか、体を丸めて深い眠りの世界により入り込もうとしている。
なぜ彼女が此処に居るのか、なぜ人のベッドで寝ているのか、分からないことだらけだったが、れいなは無下に絵里を起こしたくはなかった。
はあとため息をつき、絵里の寝顔を見つめる。
- 562 名前:そんなシアワセ 投稿日:2011/11/11(金) 21:26
- 絵里と逢うのはいつ以来だろうとぼんやり考えた。
9月30日に行われた高橋愛の卒業コンサートに絵里は来ていた。
その後の10月頭の舞台も観劇に来てくれて、写真を撮り、ブログにも載せた。
それから考えると、1ヶ月振りということになるだろうか。
絵里がまだモーニング娘。にいた頃は、毎日のように楽屋や稽古場で顔を突き合わせていた。
それが最近では、1ヶ月振りや3ヶ月振りの再会というのが当たり前になっている。
自分の肌を直したい、体質改善をしたい、体の声に耳を傾けた絵里は去年の12月に卒業した。
いま、彼女の肌は少しずつではあるが確実に良くなりつつある。
これなら一緒にまた歌えるかもしれない。あの舞台で輝けるかもしれないとれいなは思う。
だけど、それでまた肌が悪くなったら?という不安も常に付きまとっていた。
年に何回もコンサートをし、汗をかき、仕事のストレスを感じ、良くなりかけた体を酷使することは絵里にとってシアワセ?
ホントは、いまでもずっと、一緒の舞台に立ちたかった。
あの師走の平日に横浜アリーナのど真ん中で、1万人以上を前に唄った「大きい瞳」を、もう一度やりたかった。
だけどそれは、たぶん現実問題、難しいことだとういこともれいなは分かっていた。
絵里が必死に悩んで決めた将来を、れいなは邪魔したくなかった。
また彼女自身が同じ舞台に立ちたいと相談してきたら一緒に考えれば良い。
いま、れいなが自分の欲求で動くことじゃないと、れいなは絵里のシアワセを考えてそう思った。
- 563 名前:そんなシアワセ 投稿日:2011/11/11(金) 21:27
- れいなは絵里の髪に指を通した。「ん」と甘い声を上げ、彼女がぎゅうと体を丸める姿を見て、正直に可愛いと思った。
絵里が卒業してそろそろ1年になる。
それから、9期メンバーが加入し、リーダーの愛が卒業、里沙が7代目に就任し、10期メンバーが合流した。
しばらく変化のなかったモーニング娘。が、絵里とジュンジュン、そしてリンリンの卒業発表を機に、再び大きく動き始めた。
れいなをはじめとするメンバーを取り巻く環境はめまぐるしく変わった。それはもちろん、良い変化ではあるのだけれど。
変わらないものなんてない。
人も、時代も、環境も、すべては流れていくものだって頭では分かっているのだけれど。
- 564 名前:そんなシアワセ 投稿日:2011/11/11(金) 21:28
- それでも。
それでも。
―変わらンことやって、あるっちゃろ?
れいなは絵里の頭を撫でながらふと思った。
- 565 名前:そんなシアワセ 投稿日:2011/11/11(金) 21:28
- 彼女の持つ柔らかい空気、甘い声、少し舌っ足らずな話し方、優しい笑顔はなにも変わっていない。
あのテキトーさも、れいなにだけは時々強気なところも、メンバーのことを温かく見てくれているところも。
絵里はあの頃より少しだけ髪を伸ばし、れいなの好きな黒色に染めていた。
外見が少しだけ変化しようとも、環境が変わってしまおうとも、絶対に変わらないものだってある。
れいなはなんとなくではあるが、そう信じていた。
そう、信じたかった。
心なんてものは、不確かで、見えなくて、壊れやすいものだから。
だからこそ、信じていたかった。
れいなと絵里は、きっと大丈夫なのだと。
- 566 名前:そんなシアワセ 投稿日:2011/11/11(金) 21:28
- 「ん…」
頭を撫でるのをやめると、絵里がその口から甘い声を漏らした。
ずいぶんとシアワセそうな寝顔ではあるのが、いったいどんな夢を見ているのだろう。
れいなは苦笑しながらも明日に備えてシャワーを浴びようと膝を伸ばした。
「れー…なぁ……」
そのとき、絵里の甘い声が聞こえた。
れいなが思わず振り返ると、絵里は相変わらずその体勢のまま寝ている。
まさか寝言だろうか。それとも計算だろうか。本当は起きているんじゃないかと思うが、どうしてもれいなは、そこから動くことが出来なくなった。
「…アホ絵里」
れいなは自分の甘さに苦笑しながらも、再びベッドの脇に座り、絵里に改めて布団をかけてやった。
明日も仕事があるので、早めにシャワーを浴びて寝たかったのだが、もうしばらく、彼女の寝顔を見ていても良いかと思った。
「可愛かよ…」
れいながぼそりとそう呟くと、絵里は嬉しそうに顔を綻ばせた。
やはり彼女は起きているのかもしれない。もしくは相当シアワセな夢を見ているかのどちらかだ。
だが、もうそれはどちらでも良かった。
- 567 名前:そんなシアワセ 投稿日:2011/11/11(金) 21:29
- 去年は忘れられていて0時17分にもらった誕生日メール。ずいぶんと遅れてもらった誕生日プレゼント。
今年もれいなは絵里に期待していない。それでもやっぱり、シアワセな誕生日だって言えるのは、れいなが相当、絵里にハマっている証拠だと思う。
好きな人と同じ空間で誕生日を過ごす。
それ以上のシアワセなんてきっと落ちていない気がするから。
「ありがとう」も「好いとぉよ」も、きっと照れて言えやしないから、れいなは精一杯の勇気を振り絞って、眠る絵里の頬にキスを落とした。
「…たんじょぉび、おめでと、れーな」
ああ、やっぱり絵里は起きていたっちゃな。
Happy Birthday REINA!
- 568 名前:そんなシアワセ 投稿日:2011/11/11(金) 21:30
-
从*´ ヮ`) <で、なんで寝てたと?
ノノ;^ー^) <れーなビックリさせようと待ってたらつい…
- 569 名前:雪月花 投稿日:2011/11/11(金) 21:31
- 田中れいなさん、22歳おめでとうございます!!
本編とは直接関係ありませんが、どうしても書きたかったので投下しました。
本人はバスツアー中だと思いますが、なんとなくこういう話もありだと思いますw
次回からは通常更新になります。早めに更新できるよう頑張ります!
- 570 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/11(金) 23:18
- アリです、大アリです!w
田中さんおめでとうございます
甘いれなえりいいですね
なんだか幸せな気持ちをお裾分けして貰った気分です
- 571 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/11(金) 23:57
- はあー\(//∇//)\
良いですよー良いですねー!
甘いれなえりならなんでも来いって感じです。
素敵な文をありがとうございます。
次回更新も楽しみにしています!
- 572 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/13(日) 08:00
- れなえりならなんでも良いですが、
特に甘いれなえりが一番好きですよ!(笑)
こんな素敵な短編を書いてくれてありがとうございます!
次の本編更新も待ってるよ。
- 573 名前:雪月花 投稿日:2011/11/16(水) 15:59
- 三十路になったら焼き鳥食べに行こうという誕生日メールがいかにも絵里らしいなと思いました、雪月花ですw
普通に飲みに行けば良いのにw
>>570 名無飼育さんサマ
大アリと言っていただけて嬉しいです。
卒業しても変わらない“絆”みたいなものがある気がしたので書いてみました。
少しでも優しい気持ちになっていただけたら嬉しいです。
>>571 名無飼育さんサマ
いつもコメントありがとうございます!
甘々は本当に書いたことが少ないのでいまでも試行錯誤中ですw
本編でもシリアスと甘めとを使い分けていきたいと思います
>>572 名無飼育さんサマ
甘いのお好きな方が多いですね…
本編は少し暗い内容ですが、時々甘い成分も入れていきたいと思います
更新期待して下さってありがとうございます。
では本日分の更新です。
- 574 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:01
- 朝陽高校には春独特の空気が流れていた。
中庭には大勢の生徒が集まり、自分のクラスを確認している。
れいなも例外なく、その生徒たちの中に居るのだが、相変わらず身長が低いためなかなか掲示板を見ることができない。
この人垣をかき分けて前へ進むのも億劫だったので、どうしようか思案していると後ろから話しかけられた。
「まーた、ちっちゃくて見えないのかな、子猫ちゃんは」
れいなにこんなことを言うのは部活生にもいない。れいなは相手がだれか察しをつけて振り返った。
「そうですね、とっても困っているんですよ、ウサギちゃん」
果たして相手はさゆみだった。
さゆみはいつものようになにかを企んだような笑顔でそこにいた。
なんだか今日はいつも以上にその笑顔が綺麗だと思ったが、絶対口には出さないことにしている。
「じゃあ、さゆみが見てあげましょー」
そうさゆみは言うと、れいなより数歩前に出て背伸びをした。
そして「あ」とか「おお」とか「あららぁ」と声を上げてなんどか確認している。
- 575 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:01
- こういうときに、身長が高かったら良かったのにと思う。せめてあと3センチ、いや2センチあればと思う。
だれがどのクラスに入っているか、れいなには分からない。自分の部活動の友人たちのクラスさえも後にならなければ知ることができない。
さらに、さゆみが嘘の情報を教えたとしても、れいなはそれを確かめる術を持っていない。教室に入って自分の机がないことに気づいて恥をかいて戻ってくるのが精一杯だ。
さゆみがそういうことをしない友人でないことがせめてもの救いだった。
「れいなに朗報ですっ。またさゆみと同じ3組なのでーす」
「最悪っちゃん…」
れいなはそう言うと掲示板に背を向けて靴箱へと歩いていく。
さゆみはその後ろからなにかを言いながら追いかけてきた。
「先生はだれやった?」
「あ、安倍先生だよ。安倍先生は優しいし、さゆみの次の次くらいに可愛いから嬉しいの」
安倍先生というと、国語の教師で、絵里の元担任かとれいなは思い出す。
あの人も長いことこの地区に住んでいるだろうに、まだ時々地元の訛りが出ている。
それ自体には好感が持てるのだが、直さないのだろうかと時に思う。
れいなも福岡から出てきて2年目になるが、この方言は直さなくて良いのか時々不安になる事がある。
この方言がバカにされることはないが、後々に支障はないのかと思う。
支障がなければこの言葉は使っていきたいと思うが、もし問題なら直そうかとも考えていた。
ちょっと機会があれば安倍先生に話してみようとれいなは思った。
- 576 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:03
- 「れいなも3組なんだ」
「おー、一緒やっちゃね」
「あー、さゆ!」
「あ、また一緒だね」
2年3組には、1年生のときのクラスメートにサッカー部の生徒も何人かいる。れいなは何人かと話しながら自分の席を探した。
黒板に貼られていた出席番号と座席表を照らし合わせた結果、れいなの席は真ん中の列の前から3番目。
特に当たりでもなくハズレでもない席かと、れいなはカバンを置いた。
―どっちかと言えば、さゆの席とか当たりやん
そうしてさゆみの席を見ると、窓側の後ろから数えて2番目。
50音順である以上、名字が「道重」である彼女は必然的にそのような場所になる。
そう言えば1年生の最初の席でも、さゆみは窓際に居て後ろの方の席だったことを思い出した。
- 577 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:03
- もうすぐホームルームの時間になるが、それでも席に着いている生徒は少なく、だれもが話に花を咲かせている。
れいなはざっと教室を見渡すと、生徒は全部で20人以上いることが確認できる。
ひとクラス当たり30人前後であるから、ほとんどの生徒が入っているようだ。
そりゃこの時間帯に入っていなければ遅刻になるのだから当たり前かとれいなは納得する。
再び時計を見ると、針はほとんど進んでいないが、予鈴が鳴った。
生徒たちはようやく少しずつ席に着き始める。それでもまだ空席が目立つ。
カバンも置いていない席はあと数席程度あり、れいなの斜め前の席もその空席のひとつだった。
―新学期早々遅刻とか、あいつみたいやな
れいなは無意識に彼女のことを思い出し、あくびを殺しながらぐっと伸びをすると、教室の扉が開かれた。
担任の安倍だろうかと目を向けると、そうではなかった。そこにいたのは、制服を着た絵里だった。
れいなはその伸びをしたまま後ろに倒れそうになったので、慌てて体重を前に戻した。
「れーなっ」
絵里はいつものようにニコニコしながらこちらに手を振った。
れいなも一応手を振り返すが、その口はポカンと開いたままで傍から見たらあまりにも間抜けだった。
「だから朗報だって言ったの」
すぐ横にはいつからいたのかさゆみが立っていた。
れいなはさゆみになにか言おうとするが言葉にならない。
嵌められたような気もするが、なんだかもう、どうでも良いと思っている自分もいた。
絵里がれいなの斜め前の席に座るのと教室に安倍が入ってきたのはほぼ同時だった。
れいなは口元に手をやり、なにかを考えるような素振りをした。
それは、単にニヤけた顔を隠そうとしているのだと、クラスでさゆみだけが気づいていた。
春の風が優しく吹き、桜が舞う4月のことだった。
- 578 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:04
- ---
- 579 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:05
- 部活を終えたれいなは蛇口を勢い良くひねり、顔を洗った。
今年も朝陽高校サッカー部には新入生が大勢入部した。れいなも2年生になり、後輩たちの面倒を見る必要がある。
先輩としての重圧や責任は当然のようにつきまとい、それに見合う努力をする必要があるため、れいなたちは気合が入っていた。
「はい、田中さん」
蛇口を止めると、右からタオルを差し出された。サッカー部のマネージャである光井愛佳であった。
今年入学した1年生であるが、よく気の利く子であり、れいなたち部員らは大変お世話になっていた。
れいなは「ありがとう」とそのタオルを受け取り、顔を拭いた。
「いえいえ、これが仕事ですから」
愛佳はいつものようにニコッと笑い、れいなに返す。透き通った笑顔は単純に可愛いなと思った。
れいなはなんの気なしに彼女に質問した。
「愛佳って部活やっとった?」
「部活ですか?中学の時はダンスしてましたよ」
愛佳は使い終わったタオルを受け取り、蛇口で洗い始める。マネージャーの仕事は選手たちよりもある意味で大変かもしれない。
サッカー部のためによく働く彼女とダンス部のイメージはどうも結びつかなかった。人は見かけによらないものだなと思いながら「そっか」と返した。
- 580 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:05
- 「ああ、そういえば田中さん」
そう言うと彼女は自分のタオルでいったん手を拭き、小さなカバンから封筒を取り出した。
「渡してくださいって頼まれましたんで」
「…またか」
れいなは苦笑しながら2通の封筒を受け取る。差出人はいずれも見知らぬ生徒の名前だったため、余計にれいなは困惑した。
最近、何通かこのような手紙をもらうことが多い。しかし、クラスも学年も違う生徒からもらって、どうすれば良いのかが分からなかった。
そう思ったとき、れいなはある視線を感じた。そちらへ目を向けると、2階の教室からさゆみが笑顔で手を振っていた。
―あの、腹黒ウサギ…
れいなは苦笑しながら腕をあげて彼女に応えた。どうせ帰りになにか言われるんだろうなと覚悟しながら、れいなは愛佳に「じゃ、帰るわ」と声をかけた。
背中から「お疲れ様でした!」という明るい声を受け、れいなは部室へと向かった。
- 581 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:06
- 着替えを終え、自転車を押して校門まで行くと、果たしてそこにはさゆみがいた。
「おつかれいなぁ」
笑顔で手を振るさゆみが妙に怖い。怖いというか、腹黒く見える。
れいなはふうとため息をついた。
「なんの用ね?」
「まーたお手紙もらってたね」
れいなは隠す必要もないなと思い頷いた。
「……田中さん、サッカー頑張ってください。応援してます。っていういつもの内容っちゃよ」
そうしてれいなは盛大にため息をつき校門から歩きだした。さゆみも苦笑しながらそれについて行く。
「相変わらずモテモテだね、れいなは」
「なんよ、モテモテて」
「そのうちファンクラブとかできそうだよねー。もうできてるかもしれないけど」
さゆみはそう言って夕暮れの空を見上げた。オレンジに染まる空が、今日は妙に綺麗だった。
オレンジ色といえば、れいなはまず絵里を思い出す。
- 582 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:06
- 2年生に進級し、同じクラスになってから絵里とれいなはよく一緒に帰っていた。
れいなの部活が遅くなることが多いため、先に帰って大丈夫だと告げても、絵里は首を振って教室で待っていた。それが単純に嬉しくて、楽しくて、れいなは放課後の些細な時間が待ち遠しかった。
今日は親戚が家に来ているから早く帰らなくてはいけないと言って、放課後すぐに絵里は教室を後にした。
先に帰っても大丈夫と言っておきながら、いざ帰られると寂しいと思うのは、よっぽど絵里にハマっている証拠かと思う。
だが、それ以上に、れいなはその背中に叫びたくなってしまった。
―――行くな
そう言って腕を伸ばしたかった。華奢な肩を掴んで振り向かせてキスがしたかった。
学校という公共の場でそんなことはできないから我慢したのだが、なぜ、そのような感情が顔を出したのか、れいなはいまでも不思議だった。
- 583 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:07
- 「ねぇ、れいな」
「ん?」
「ちゃんと、言わなきゃダメだよ?」
さゆみの真っ直ぐな言葉にれいなは思わず立ち止まる。彼女の顔を見つめると、夕焼けで赤く染まった真剣な瞳に捉えられた。
普段の彼女からは想像もつかないような真剣な表情にれいなは動けなくなる。しかし、その言葉の真意が見つけられずれいなは黙っていた。
「思ってること言わないと、伝わらないときだってあるんだよ?」
その言葉は重く、妙に尖っていたためか、れいなは心を貫かれる。
「その子たちみたいに言えとは言わないけどね」
そうして手紙を指さして笑ってから、さゆみは坂を走って下っていく。れいなはポツンと取り残されたが慌てて自転車に乗って彼女の背中を追いかけた。
さゆみはやっぱり分かっていたのかもしれないとれいなは思う。最近、れいなは少しだけ悩んでいた。
此処に確かに在る、漠然とした不安。
それは、手に入れたが故の、不安。
一番近くに在るから、傍に居るから、怖い。
するりとこの腕から逃れてしまいそうな、フワフワとして掴みどころがないから、怖い。
- 584 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:07
- そうか、とれいなは思う。
だから今日の放課後、あの背中に腕を伸ばしたかったのだ。
行くなと言って、振り向かせたかった。
その腕を取って、一緒に帰りたかった。
くだらないほどに、若い考えかもしれないけど。それがなんとなくの答えかもしれない。
「早く素直になりなさい、ヘタレ猫ぉ!」
足が遅いくせにさゆみは振り返りながらそう叫ぶ。息が切れながらも叫んだその言葉は、強いものではあったが何処か心地良くて優しい。
優しい言葉をかけられたことが単純に嬉しくて、れいなも思わず叫び返した。
「ヘタレとはなんや、腹黒ウサギぃ!」
ブレーキをかけながらさゆみに近づいてれいなは笑った。
結局、さゆみには敵わないんだろうなと思う。自分が思っている以上に、さゆみは頭が良くて、絵里とれいなのことをちゃんと見ている。
自分がしまい込んでいる感情を、さゆみはアッサリと見抜いて青空のもとに引きずり出してくる。そのやり方が正しいかどうかは分からないけれども。
だけど、それでもやはり、れいなはさゆみに助けられている。出会ったときから変わらない優しさがさゆみにはある。
彼女にちゃんと、ありがとうと伝えることができるのはいつになるだろうか。
いつもいつも、心の中では感謝しているのに、面と向かうと言えなくなってしまう。好きとか嫌いとか、そういう問題でもないのに。
シャイだからという言い訳も、そろそろ無理があるような気がする。
思っていることはちゃんと口に出そう。そうしなければ伝わらないのだから。
れいなはいつか、さゆみにもちゃんと伝えようと決意して空を見上げた。夕陽が沈み、世界は夜を連れて来ていた。
- 585 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:08
- ---
- 586 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:09
- れいなは猛スピードで自転車をこいでいた。
二度寝、三度寝が当たり前のれいなは、携帯電話のアラームに加えて目覚まし時計もセットしている。
しかし今朝は目覚まし時計の電池が切れていたために鳴らず、結果的にれいなは寝坊し、いま、必死に自転車をこいでいる。
―最悪っちゃん…
息が切れながらもれいなは駐輪場に頭から滑りこみ、鍵をかけ、遅刻常習の生徒たちに混ざって走り出した。
靴箱へ入ったときに予鈴を聞いた。本鈴の2分前に鳴るこの音を此処で聞いたということは、ギリギリ間に合うだろうとれいなは予測していた。
だが、それは呆気なく裏切られることになる。れいなの靴箱に入っていた、1通の手紙によって。
「またかぁ…」
れいなは手紙を取り、ポケットにしまい込んだ。だが、なぜかれいなはいま読んでしまおうと思った。自分が遅刻しそうになっているにもかかわらず、である。
なぜそうしたのかは、れいなにも分からない。れいなはポケットから手紙を取り出し、内容に目を通した。そして「えっ」と声を出す。
―――『放課後、屋上へ来て下さい』
差出人のないその手紙には、ただ一文が書かれていた。
いままでの内容とは明らかに異なっているその文章にれいなはドキッとした。
「呼び出し…にしては丁寧すぎっちゃよなあ…」
この文章がなにを意味しているのか、先輩達からの呼び出しではなく、告白であると思いつかないれいなは、もはや致命的であった。
れいなは頭を掻きながらその文章を何度も読み返していると、本鈴が聞こえてきた。遅刻が決定したことにようやく気付いたれいなは再び走り始めた。
- 587 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:09
- れいなはその日、ほとんど気分が落ち着かなかった。
教師の目を盗んでは授業中に、朝手に入れた手紙を見ていた。
―――『放課後、屋上へ来て下さい』
たった一文しか書かれていないシンプルな内容であるにもかかわらず、れいなはそこから目が離せなくなった。
なにを言われるか検討もつかないれいなは、困惑しながらも放課後、屋上へ行くことを決意していた。
昨日のさゆみの話を鑑みれば、絵里にこのような手紙を貰ったことを報告すべきだろうとは分かっていたが、れいなはそれをしなかった。
単純に余計な心配をかけたくなかった。
それに、まだ、心のどこかで素直になれない自分がいた。ちゃんと絵里に気持ちを話すことができない弱気な自分が顔を出し、大丈夫なんて口にはできなかった。
そうこうしているうちに、絵里は今日も親戚がいるからと先に帰ってしまった。
言えないままでいることが、結局、さゆみの言うところの「へたれいな」なのだろうとれいな自身は納得した。
- 588 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:10
- れいなは息を吐いて、空を見上げた。春の空は青く輝き、柔らかい風が吹き抜けて気持ち良い。
ふとグラウンドを見ると、サッカー部の新入生たちがボールを準備している。自分もあの場所に早く参加しなきゃなと思うが、れいなにはそれがまだできない。
そういえば、とれいなは思う。
絵里もこうして、グラウンドを眺めていたのだろうか。
いつだったか、絵里はれいなのことを屋上から眺めていると里沙に聞いたことがあった。
どういう気持ちで、れいなの背中を追っていたのだろうと疑問に思う。
自由に走り回ることが出来ない自分を恨めしく想っていたのか、れいなに嫉妬していたのか、それとも別の感情か。
サッカーしている姿が好きだからと里沙からは聞いたが、果たして本当にそうなのかと思う。
れいなは絵里の口からその理由を聞いたことがないし、実際に、絵里がこの場所かられいなを見ている姿を見たことはない。
そこまで考えてれいなは頭を振った。
悪い癖だ、何処までも。
自分の気持ちを素直に口に出せないことを、絵里に転嫁しようとしている。
話の論点をすり替えて、自分を正当化しようとしているこの小さい器が嫌いだった。
れいなは「あー」と呟き天を仰ぐ。綺麗な青空が広がっているのに、何処か心は晴れやかにならなかった。
絵里の笑顔が浮かんでは消える。ちゃんと明日は、好きだって伝えようとれいなが思っていると、屋上の扉が開かれた。
- 589 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:10
- そちらを振り向くと、見たことのない女の子が立っていた。しかも2人いる。
れいなの顔を認めると、1人は恥ずかしそうな顔をして俯くが、後方の子が「ほら」と背中を押す。
なんだなんだ、なにが始まるのだと思っていると、彼女は一歩一歩、れいなに近づいてきた。
「…あ、あのっ」
上ずった声が彼女から響く。友人と思しきもう1人は心配そうに彼女を見つめながらも階段を降りて行った。
おいおい、この子を置いて行く気かよ、薄情だな。というか、なんの用だと数々の疑問は浮かぶが、れいなは目の前にいる女の子に集中した。
「て、手紙、読んで下さいましたか?」
その言葉を聞いて、彼女がこの手紙の差出人だと確信した。普通は自分の名前を書くのが礼儀だぞと思ったが、それを指摘するのも億劫だったのでれいなは黙って頷く。
れいなと目を合わせた女の子は、その顔を真っ赤に染めていた。れいなはできるだけ優しく彼女に聞く。
「れなに、なにか用?」
ただでさえ目つきが悪く、言葉遣いも良くないれいなは初対面の人に誤解されやすい。
だが、此処で怒っているなどと勘違いされようものなら話はこじれてれいなはいつまで経っても部活に行けない。
早いところ用件を済ませたいれいなは、他意はなく、彼女に優しく質問すると、彼女は決意したように一気に言葉を繋いだ。
- 590 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:11
- 「せ、先輩のこと、入学してからずっと見てました!好きなんです、付き合っていただけませんか」
その言葉に、れいなは思わず「え?」と言葉を発した。もしかすると、その「え」には濁点が付いていたかもしれない。
混乱する頭の中で必死に情報を整理しようとするが、れいなの頭はその容量をオーバーしてしまったのか、うまく働かない。
それでもれいなはなんとか頭脳をフル回転させる。彼女はなんと言ったか、最初から整理しようと言葉を拾っていく。
先輩?って言ったっちゃよね?つーことは、この子はれなの後輩?って1年生?入学したばっかやん。
それでずっと見てましたって、まだ2ヶ月っちゃろ?
で、す、す、好きって言った? だれが?だれを? え、この子が、れなを?なんで?
つきあ……はいぃぃ?
「あ、あの、ダメでしょうか」
おどおどした様子は感じられるが、それでも彼女はハッキリと意志を伝えてきた。
その瞳は真剣だったし、嘘やドッキリの様子はない。そもそもドッキリって、自分を嵌めてだれが得するんだと思う。
れいなは瞳を逸らさずに彼女を見つめ返す。首の後ろをかきながら必死に頭を整理させるが、どうしても良い答えにはたどり着けなかった。
だが、此処でひとつの回答をしない限り、彼女が引き下がらないことくらいれいなにも分かっていた。
- 591 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:12
- 一度目を閉じて呼吸を落ちつける。
そのとき、頭の中に、彼女の笑顔がよぎった。
あのだらしなくて、だけど世界中の誰よりも綺麗だと思う彼女の笑顔が、れいなを支配した。
「…れな、好きな人おると」
れいなは覚悟を決めたように言葉を紡ぐ。
「ごめん。ムリ」
たぶん、それは最も残酷な言葉だとは分かっている。だけど、此処で妙な同情を見せては彼女を傷つけてしまうと分かっていた。
だかられいなは、彼女に敢えてこの言葉を選んで突き付けた。嘘や偽りのない、本音を、れいなはぶつけた。
するとその子は、「そう、ですか…」といまにも泣きそうな顔をして俯いた。
きっと、抱きしめたりその肩を抱いたりすることも、優しさのひとつなのかもしれないけど、れいなはそれをしない。
心は決して動かない。
れいなには、その気持ちが真っ直ぐに向いている大切な人がいるのだから。
彼女は俯いた後、れいなに背中を向けて走り出した。追いかけることも呼びとめることもできず、れいなはただ、その背中を見つめていた。
扉の向こうに彼女が消えたのを見届けて、れいなは天を仰いだ。
- 592 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:12
- 予想だにしなかった告白は、れいなの心をかき乱した。まさにそれは、青天の霹靂。書けないけど読める、この言葉。確か1年生の時に授業で習った、はず。
まさか告白を受けるとはついぞ思ってもみなかった。れいなは目を閉じて風を感じた。
さゆみからは普段から、鈍感だのへたれだのと悪態をつかれるがサッカー部のOGであり、藤本総合病院の院長の娘である美貴にも似たようなことを言われていた。
―れいなは鈍いからねー
あれはいつだったか、たぶん絵里の見舞いで病院に行ったときのことだ。
なにかの話題から、美貴からひとつの忠告を受けたことがあった。
―鈍いのも悪くはないけどさ、それは人を傷つけることもあるかもね
そうだ、それはまだ絵里と付き合うずっと前のことだ。
いまにして思えば、さっさと絵里に告白しろと焚きつけられていたのだ。
だけど、れいなにはそれができなかった。それに、美貴の言う意味もよく分からなかった。
鈍感さが人を傷つけることなどあるのだろうかと考えたが、結局答えを出すことはできなかった。
- 593 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:13
- だが、いまなら分かる。
この鈍感さは、人を傷つける。
今日だって、彼女の気持ちを踏みにじった。
あの手紙を見た時点で、告白されるかもしれないと頭の片隅にでも思っていれば、それに対する心構えができたはずだった。
そしてそれが、今日だけの話ではないことも、なんとなく想像はできる。
自分の気持ちにフタをして、大切な人の想いに鈍感であることは、決して良いことではない。
絵里の心の声をちゃんと聞かないことには、それは結果的に絵里を傷つける。
それは自分自身にも言えることで、恥ずかしいとか億劫とか、そういうことをしていると必ずしっぺ返しを食らう。
―アホやん、れな、マジ…
れいなは頭をかきながら座りこんだ。スカートをはいていなければ、確実に脚を開いて座っていただろう。
そんなことをしようものなら、それこそ絵里に「ヤンキーだー」なんて言われるのだろうから最近ではやらないようにしているのだが。
れいなはもう一度、空を見上げた。相変わらず青い空はれいなの上に浮かび、ただ黙ってこちらを見つめている。
こればかりは決意だけではどうしようもないことくらい分かっている。だが、決意しなければなにも始まらない。
―ちゃんと、気づこう…
ひとつずつ、ちゃんと敏感になっていこうと思う。
自分の気持ちにも素直になって、絵里の声にも耳を傾けて、できればさゆみにも、ちゃんと礼を言おう。
れいなはゆっくりと立ち上がり、屋上の扉へと歩き出した。部顧問が来る前に合流しないとまたなにか言われるなと慌てて階段を駆け降りた。
- 594 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:14
- ---
- 595 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:15
- 「ゴールデンウィークは予定ないの?」
4月も終わりの頃、いつものようにピンクの弁当箱を片手にさゆみはそう質問した。
絵里とれいなは互いに顔を見合わせ、どちらに質問しているのかを考えたが、とりあえずれいなが先に応えた。
「れなはまあ、部活やけど…」
れいなは玉子サンドを食べながらそう答えた。
すると、心底つまらなそうな顔をさゆみは見せ、次の質問をしてきた。
「デートしないの?」
そうさゆみが言った途端、ふたりは同時に噴き出しかけた。
絵里は慌ててハンカチを取り出して咳払いをし、息を整える。
「で、デートって…」
れいなはチラリと絵里を見ると、彼女もこちらを見ていたらしく、顔を赤くして目を背けた。
れいなも気恥かしくなり、ティッシュで口元を拭き、さゆみに言い返す。
- 596 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:15
- 「そーゆーさゆは、デートとかせんと?」
「するよ。藤本さんと」
その言葉に再びふたりは驚愕した。
思わず声をあげそうになるが必死に堪える。
「え、さゆ、藤本さんと付き合ってたの?」
「うん、言ってなかった?」
「聞いてないっちゃ!」
目を白黒させるふたりをよそに、さゆみのケータイ電話が鳴った。
画面を開くと、さゆみは今日一番の笑顔を見せる。
「藤本さんからなのぉ」
そう言ってさゆみは箸を置き、電話の相手と話し始めた。声のトーンや話し方、その笑顔を見る限り、これは相当ラブラブのようだ。
れいなは信じられないというように肩を落とす。
「そう言えば、よくふたりで話してるの見たかも…」
「絵里の病院で?」
そう聞くと、絵里は苦笑しながら頷いた。
なるほど、絵里の見舞いに行くうちに美貴と知り合い、いつの間にか付き合っていたというわけかとれいなは納得した。
絵里との仲を冷やかすさゆみを黙らせてやろうと話を振ったのに、返り討ちにあったれいなは、深くため息をついた。
- 597 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:16
- すると、絵里が箸を置き、れいなに話しかけた。
「れーな、サッカー部って休みないの?」
「んー…まあ、1日くらいはあると思うけん、なんで?」
れいなは手にしていたジャムパンの封を切った。焼きそばパンを食べたかったのにと思うが、売り切れでは仕方がない。
ジャムパンなんて何年振りだろうと考えながら、そのまま齧った。
「あの…絵里のお父さんたちがね、親戚の結婚式に行くの。北海道まで。それで、あの、ゴールデンウィークはずっと家に居ないから…だから…」
絵里の話を頷きながら聞く。
イチゴジャムの甘ったるい味が口内に広がる。
購買のクリームパンはパンの部分が厚く、なかなかクリームに辿り着かずイライラしたが、今回はすぐにジャムに行きついた。
生徒の『声』があって改良したのだろうかと考える。
「絵里の家、遊びに来ない?」
うんうんと頷きかけ、「ふえ?」と向き直った。たぶん、そう、間抜けな顔で。
「れーな、ジャムついてる」と絵里はティッシュでれいなの口元を拭う。
れいなはまた間抜けな声で「ああ」と言うが、段々と思考が戻ってくる。
「えーっと…絵里の家?」
「うん。ホントは遊びに行きたいんだけど、親は家にいなさいって言うし…独りじゃ寂しいし…」
ジャムパンをもう一口齧りながら冷静に考えた。
絵里の両親は家に居ない。絵里は外に出られない。絵里は独り。れいなが絵里の家に誘われている。絵里と…ふたりっきり。
―それは…つまり…
- 598 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:17
- 「お泊りなの?」
れいなはジャムパンを盛大に噴き出した。口元を手で押さえたが手遅れであった。
慌ててティッシュで机を拭く。いつのまに電話を終えたのだろう、このウサギはと恨みたくなった。
「れーな…部活で忙しいし、迷惑かな?」
ティッシュをまとめゴミ箱に投げ捨てると、絵里が暗そうな顔で聞いてきた。
まずい、これはまた勘違いしているとれいなは慌てて否定した。
「いや、全然、大丈夫やけん。行くっちゃよ!」
それでもなお、心配そうな顔をする絵里に対し、今後はさゆみが話しかける。
「このネコちゃんはヘタレさんだから素直になれないの。きっといまもドキドキしてるだけなの」
この、ばかウサギと睨みつけたくなるが、さゆみには全く効果がなかった。
絵里はその言葉でようやく笑顔になり、「じゃあ休みの日があったら教えてね」と言って弁当を食べ始めた。
れいなも頷き、残りのジャムパンを口に詰め込んだ。
さゆみの言っていることは間違いではない。ドキドキして素直になれなくて妙な反応をしただけだ。
もっと素直に自分のことを言えたら良い。照れずにちゃんと、自分の言葉で。
そうすれば、きっと、彼女にこんな顔をさせることもないだろうにと思った。
甘い甘いイチゴジャムを食べているはずなのに、れいなの口内には、妙に苦々しい味が広がった気がした。
- 599 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:18
- ---
- 600 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:18
- 部活が休みになった日は、ゴールデンウィークの最終日だった。
その日までサッカー部は朝から夕方までみっちりと活動していた。
春から夏に季節が移り替わる5月。初夏の匂いを感じるその日は、風が爽やかに吹き抜けていた。
れいなは部活を終え、制服に着替えると自転車に飛び乗った。
一緒に帰ろうと誘ってきた部活仲間に「用事がある」とだけ伝え、自転車を走らせた。
- 601 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:18
- 「れな、明日は夕方過ぎにしかそっち行けんけど、大丈夫?」
昨日の夕方、れいなは絵里に電話をかけ、今日の予定を伝えた。
絵里は、突然の電話に驚いた様子だったが、徐々に笑顔になっていくのが伝わった。
「うん、絵里ね、すっごい美味しいご飯作って待ってるから」
「あんまムリせんでいーとよ?」
少しだけ心配そうに言うと、絵里は「絵里ちゃんを信じなさーい」と妙に高いテンションで返してきた。
「れーな、なにか食べたいもの、ある?」
そう絵里に聞かれ、れいなはしばし考えた。
食べたいもの。正直、絵里の作ってくれたものならなんでも良いのだが、それを言うのは気恥かしかった。
それに、彼女の料理の腕前はどんなものなのかもわからないし、あまり凝ったものをリクエストするのはどうかと悩んだ。
「れーな?」
電話口から、彼女の心配そうな声がした。
ああ、また長考というダメなクセが出てしまったなとれいなは反省し、いま食べたいものを伝えた。
「…オムライス」
「ふえ?」
「オムライス、絵里、作れる?」
「うん、大丈夫。絵里ちゃんがんばって作るから、れーなも部活がんばってね!」
絵里の明るい声に、れいなは大きく頷き、「任せろ」と答えた。
そのあとも少しだけ会話をし、れいなは電話を切った。
- 602 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:19
- れいなはベッドに体を投げ出し、息を吐いた。
どうして彼女に心配ばかりかけてしまうのだろう。
一緒にいたくて、大切にしたくて、触れたくて、抱きしめたくて、キスしたくて。
絵里のことがこんなに好きで、こんなに好きだから、臆病になる。
伝えなくてはいけないことがある。
もっと素直に。もっとシンプルに。
絵里の病室で彼女の告白を聞いたとき、絵里の中学校で、彼女の過去を聞いたとき、そのときの方が、よっぽど自分はシンプルに気持ちを伝えられた。
なにも考えずに自分の気持ちを真っ直ぐに伝えられたのに、いまはそれができない。
「あー、もう!」
れいなは頭をかき、ベッドから飛び起きた。
いつものカバンの中に、洗面用具や歯ブラシセット、そして替えのシャツをやや乱暴に詰め込んだ。
- 603 名前:Only you 投稿日:2011/11/16(水) 16:20
- 『好き』と伝えることはこんなに困難だっただろうか。
れいなの部活が忙しいため、せっかく同じクラスになれたのに、絵里とれいなはなかなか時間が取れなかった。
土日はたいてい部活が終日行われ、絵里はあまり遅くまで学校まで残れず、帰宅時間も合わなかった。
だから、今回、絵里の家に行くことができて素直に嬉しかった。
そうであるからこそ、ちゃんと伝えようとれいなは思った。
漠然とした不安はたぶん、お互いに思っている。
それを払拭したかった。
恥ずかしがらず、自分の言葉で伝えないと分からないこともある。
大切だから、触れてみないと分からないこともある。
れいなはカバンを閉め、「よし」と呟いた。
明日はちゃんと、伝えよう。そう、れいなはひとり、決意した。
- 604 名前:雪月花 投稿日:2011/11/16(水) 16:27
- 今日の更新は以上になります。
主軸のふたりはぽけぽけと鈍感ですが、甘くならないのは作者の力量の問題ですw
もうすぐ物語は終盤に突入します。
どういうラストになるかは分かりませんが、最後まで温かい応援を宜しくお願いします。
- 605 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/16(水) 23:38
- あーまたまた続きが楽しみになる感じでおわってるー!笑
ここのれーなは本当に超鈍感さんですね。
そこが良いんですが(^∇^)
終盤かー。
早く全て読んで結末を知りたい反面、
永遠にこのもどかしいドキドキを味わっていたい気持ちもあります。
次の更新も楽しみにしていますので、
作者様、頑張ってくださいませ!
- 606 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/18(金) 19:06
- いえいえ、二人は十分甘いですから自信を持ってもいいですよ。
一方ヤキモチしちゃう絵里を見たかったのは自分だけかな?(笑)
次のお泊りデート編(?)も楽しみながら待ってま〜す。
どうかハッピーエンドに慣れるように…
- 607 名前:雪月花 投稿日:2011/11/22(火) 19:38
- 最近寒くなってきて風邪をひきそうです、雪月花です。
みなさんも体調管理には気をつけてください。
>>605 名無飼育さんサマ
れいなさんは自分がモテることにもう少し気づいた方が良いですねw
私もこの作品が終わってしまうのは寂しいですが、まだ先は長いですのでご安心を。
コメントありがとうございました!
>>606 名無飼育さんサマ
甘いですか?そう言っていただけると嬉しいです!
確かに今回は絵里の心情はほぼなく、れいなの視点が多かったですね…精進します
どんな結末になるか、見守っていて下さい
では本日分、更新します。
- 608 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:39
- 絵里の家に着いたとき、外はもうすっかり日が暮れて夜が始まっていた。
れいなは駐車場の隅に自転車を停め、玄関の前に立った。
なんだか良い匂いがするなとぼんやり思いながら、チャイムを鳴らすと、中から音がし、扉が開いた。
「いらっしゃい、れーな」
「あ、おう…」
れいなは思わず、その姿に見とれた。
絵里の私服を見るのは、あの12月のデート以来だが、今回はそれにエプロンというオプションが付いている。
れいなは素直に「可愛い…」と呟いた。絵里はその声が聞こえたのか、体をくねらせながら、「ありがとう」と返した。
「上がって、れーな」
絵里の声に素直に従い、れいなは絵里の家へと上がった。
- 609 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:40
- 「先にお風呂に入る?汗かいてるもんね」
れいながなにか言う前に、れいなのお腹が空腹を訴えた。
絵里は顔をくしゃっとして笑うと、「先にご飯にしよっか」と伝えた。
れいなは苦笑しながらもそれに従う他なかった。
―バリ情けなか…あり得んっちゃ
テーブルにつくと、絵里がキッチンから皿を運んできた。
そこには見事なオムライスが載っていた。しかも半熟風に作ったらしく、お世辞を抜きにしても、見栄えは見事だ。
「これ、絵里が作ったと?」
「そーなんですよ。もう絵里ちゃんがんばりましたっ」
そして絵里はエプロンを外し、れいなの向かいに座った。
ちらりと見えたその細い指には1ヶ所、絆創膏が貼られていた。料理中に切ったのだろうかと心配になる。
「食べて食べてー」
絵里はそんなれいなに気づいていないのか、自作のオムライスを勧めてきた。
れいなも空腹には勝てず、「いただきます」と呟いてから、スプーンで玉子の部分を突き崩す。かなりフワフワしていることが分かる。そのまま口の中に入れた。
- 610 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:40
- 「これ、バリうまいっちゃ!」
れいなはお世辞抜きにそう言った。
「ホント?良かったぁ〜」
絵里はホッとしたように自分もオムライスを食べ始めた。
「フワフワしとーし、チキンライスも味付け完璧やし…バリうまかっ!」
れいなは夢中になってオムライスを食べた。
子どものようなその姿に絵里も笑いながら口に運んだ。
自分としてもなかなかがんばったと思える出来になっていたことが、絵里は満足だった。
- 611 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:41
- ---
- 612 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:41
- 「いやー、絵里は料理の天才っちゃ」
「オーバーだよ、それ」
絵里はふたりの皿を流し台に運びながらそう言った。
照れている様子は、彼女の顔を見ればすぐに分かった。
「あ、洗い物くらい、れながするけん」
「いーよ、れーなはお風呂入っちゃって?」
「でも、絵里にやってもらってばっかやけん…」
「今日はれーな1日がんばったんだし、気にしないの」
そして半ば強引に浴室へと案内され、バスタオルを渡される。
絵里は笑顔で扉を閉めキッチンへと戻っていった。
- 613 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:42
- れいなは息をひとつはき、制服を脱いだ。
浴室へ入り、シャワーを全開にしたところで、昨夜、さゆみからもらったメールを思い出した。
―――
へたれいなへ。
ヘタレ脱却を目標にするのは良いけど、
オオカミさんになると絵里は引いちゃうかもだから注意してね☆
―――
どんなアドバイスだよと思うが、案外、的を射てる内容かもしれない。
さゆみの性格を考え、その裏を読めば、『焦るな』ということだろう。
確かに昨日まで、気持ちを正直に伝えようとやたら躍起になっていた部分はあった。
初めてのお泊りということで緊張も手伝い、なにか妙な行動を起こしてしまいかねない危険もあった。
さらに、絵里の行動のイチイチが可愛すぎる。それを目の前にしては、理性さんが必死に食い止めてくれない限りオオカミさんが顔を出す気がしないでもない。
無理やり手を出してしまえば元も子もないことは分かっている。特に絵里は、中学生のときのトラウマがある。無理強いして得することは、ない。
とにかく、いまは冷静になって焦らないことが大切だ。
うん、だいじょうぶ。
れいなはそう言い聞かせ、シャワーを止めた。
自分の持ってきたシャンプーに手を伸ばし、泡を立てながら、何分くらいで上がるのが常識なのだろうと、れいなはボンヤリ思った。
- 614 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:42
- 「お湯いただきましたー」
タオルで頭を拭きながらキッチンへ行くと、絵里はすっかり片付けまで終えていた。
だらしない顔で笑っているその姿はやっぱり可愛い。しかも相変わらず白のエプロンは似合っている。
彼女は良い奥さんになるんだろうなとれいなはふと思った。
「れーな、髪、乾かすよね?」
絵里はそう言うと、エプロンを脱いで、小走りに隣の部屋へと向かう。
れいなも黙ってそれに従うと、絵里は部屋でドライヤー片手にニコニコしている。
訝しげに見ていると、絵里は言った。
「絵里が、れーなの髪、乾かしてあげる」
「いや…大丈夫やけん、そんなんひとりでもできる」
急に何を言い出すのだろうと思うが、絵里はれいなの手を取った。
「いーの。今日はれーながんばったから、ご褒美」
ご褒美が髪を乾かすとはどういうことだろうとも思うが、れいなはもう突っ込まなかった。
れいなが大人しく床に座ると、絵里はその真後ろに膝立ちになり、髪をタオルで拭き始めた。
柔らかいタオルと絵里の細い指の感触が心地良かった。絵里に優しく触れられるだけで、れいなはぞくぞくする。
目を閉じてその感触に浸っていると、ドライヤーのスイッチが入り、あたたかい風が髪を撫でた。
「れーなの髪、綺麗だね」
「そんなことなかよ」
感触が心地良くて、つい普通の返事しかできなかった。
そうこうしてる間にも、れいなの髪は乾いていく。
サッカーに邪魔にならないよう、れいなはその髪の量を減らしている。そのおかげか、ものの5分もしないうちに髪が乾いていく。
- 615 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:43
- 絵里は最後の仕上げのように、再びタオルで乾ききる前のれいなの髪を撫でる。
タオルから絵里の匂いがする。絵里に抱きしめられているような感覚がそこにはあった。
絵里の指がれいなの髪を通っていくその度に、れいなの胸は締め付けられた。
哀しいわけでもないのに、涙が出そうになった。
この温もりが、絵里の優しさそのものだというのなら、それに直接、触れたくなった。
「れーな…?」
れいなは無意識のうちに絵里の手を取っていた。
振り返り、彼女を見上げると、絵里は不思議そうな顔をしていた。
―絵里…
れいなは心の中で、愛しい彼女のその名を呼んだ。
それがなぜだったのか、その理由はもう、思い出せないのだけれど。
れいなは絵里の右手をぐっと引き寄せた。タオルが落ち、絵里は短い悲鳴を上げて倒れ込んできた。れいなは絵里を抱きとめる。
その短い髪に指を通し、彼女の温もりを確かめるように抱きしめ、囁いた。
「…好いとーよ、絵里」
「れーな……」
「バリ好いとーよ」
- 616 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:44
- 胸に溢れたこの気持ち。
絵里と出逢ってからずっと存在し、言葉にすることを躊躇われたこの感情。
でも、本当は、ずっとずっと呼びたかった。
あの日、絵里の中学校でその告白を聞いたあとも、なんどでも呟きたくなるこの気持ち。
溢れ出す感情が抑えられない。
泣きたくもないのにその瞳から涙が零れ落ちた。
「好いとーと…絵里……」
絵里は困惑したような表情を見せたが、徐々になにかを察したように、黙ってれいなの髪を撫でた。
よしよしと、まるで子どもをあやす母親のように。
「絵里もれーなが好き。大好きですよ」
「絵里…絵里っ……!」
「もー、どーして泣くの?お腹痛い?オムライス、やっぱ失敗しちゃったかな?」
泣きやませようとおどけたように話す絵里。しかし、そう言う彼女も、何処かその声は震えていた。
- 617 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:45
- それを素直に口に出せない不甲斐なさ。
漠然とした不安。
それでも降り続けた変わらぬ優しさに、れいなはただ泣くことしかできなかった。
「絵里…」
「うん?」
もう何度目だろうと思うが、言わずにはいられない。
この感情の抑え方が分からなくなってしまった。こんなこと、いままでになかったのに。
「愛しとーよ」
「…絵里も、愛しとー」
- 618 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:46
- 言葉が宙に舞った瞬間、絵里のその唇を、自らので塞いだ。
最初は合わせるだけだったのに、なんどもなんども、角度を変えて啄ばむようにキスを降らせた。
柔らかい絵里の唇に、れいなは夢中になった。
「んっ…れー…な」
大切にしたいと思った。
抱きしめたいと思った。
キスをしたいと思った。
だかられいなはキスをした。
「絵里…絵里っ」
甘い声が聞こえる。たぶんそれは、れいなの好きなチョコよりも、先日食べたジャムパンよりも、もっと甘い。
「れーなっ…ん…」
酸素を求めて口が開いた瞬間、れいなは絵里の中に舌を侵入させた。
絵里は一瞬、ビクッと反応した。だが、れいなはいま、絵里を待ってやるだけの余裕はなかった。
大切で、傷つけたくなくて、さゆみのメールを見てあれほど焦るのは禁物だと分かっているはずなのに。
分かっているはずなのに、止められない。
れいなは逃げる絵里の舌を絡め取った。
「んっ…ふっ…」
- 619 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:46
- 少しずつ息が荒くなっていくのが分かる。
れいなにとっては3度目のキス。互いの舌が絡み合い、こんなにも深いものになるとは思ってもみなかった。
キスやその先の知識は、雑誌や女の子向けの漫画くらいでしか知らなかった。
れいなはそれを読んだとき、『なぜ舌を入れるのか』という疑問を持った。キスで舌を入れるその行為自体、少しだけ気持ち悪い気がした。
だが、いまのれいなになら分かる気がした。
「ぁ…っ…れーなぁ…」
感じたいのだ、すべてを。
あなたのすべてを、自分の中で感じたい。それがしたくて、夢中で舌を絡めた。
長い長いキスが終わり、れいなは絵里を解放した。
絵里は腰が砕けたように床に座り込んだ。正座を崩したような、女の子にしかできない座り方だった。それを見ただけでれいなはまたぞくぞくした。
「ごめん…」
言いようのない罪悪感がれいなを支配した。
あれほど大切にしたいと思っていたはずなのに、たったひとつの出来事で余裕がなくなった。
絵里のことをなにも考えずキスをして、挙句の果てに舌まで入れて…れいなは前髪をガシガシをかいた。
- 620 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:47
- 「…なんで謝るの?」
絵里の口から出てきたのは、れいなを罵倒する言葉でも否定する言葉でもなかった。
純粋な疑問をぶつけられ、なんて言って良いか分からなくなる。言葉に詰まっていると、絵里は真っ直ぐにれいなを見つめて応えた。
「絵里も、キス、したかったんだよ?」
「でっ…でも、れな、嫌がる絵里に無理やり…」
「嫌じゃなかった」
絵里はそう言い切った。正座を崩した体制であるせいか、絵里はれいなを見上げている。上目遣いのまま、彼女は続けた。
「れーなは、絵里のこと好きだからしてくれたんでしょ?絵里、凄く嬉しかったよ」
そう言って彼女は「うへへ」と笑った。あのだらしない顔をこちらに向け、目を細めて笑った。
「そりゃちょっとはびっくりしたけど」と付け加え、潤んだ瞳を拭ったものの、その言葉に嘘はない。
れいながポカンとしているその隙に、絵里はれいなの首に腕を回してきた。
「ねぇ、もう1回、キスして?」
―ちょっとだけ、優しく…
そう、彼女に囁かれ、れいなはほぼ無意識に唇に触れた。
先ほどのように貪るようなキスではなく、甘く優しい口付け。頭がクラクラするようなキスに、れいなは溺れそうになった。
- 621 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:48
- 頭より先に、心が反応する。
あなたの、甘いその声に、大きなその瞳に、あなたのすべてに。
歯が立たなくなる。
理性も常識も、あなたの前に立てば、そんなものはなにもかも使えなくなってしまう。
だから、無意識に心が反応してしまう。
―そんな子どもみたいな言い訳でも、絵里、絵里は許してくれるっちゃろーか?
唇を離すと、柔らかい笑顔がそこにあった。もう、その瞳は潤んでいない。
れいなは絵里を引き寄せ、もう一度抱きしめた。一瞬で、絵里の甘い香りに包まれる。
「れーな…」
「ん?」
「愛しとーよ」
絵里は微笑みながら、そう言った。
エセ博多弁、いや、『れーな弁』は、とても響きが心地良くて、悪くない。
「れなも愛しとーよ」
たぶん、言葉だけじゃ足りないから。
なんど呟いても足りなくて、足りないから不安になって。だからお互いにそれを埋めるように抱きしめあった。
離れたくなくて、もっと近づきたくて。独占欲が強いと言われても良い。あなたをもっと感じていたかった。
「絵里、お風呂入ってくるから、れーな待っててね」
「おう」
そうしてふたりはゆっくりと立ち上がった。
「テレビでも見てる?それとも、絵里の部屋で待ってる?」
絵里が着替えを取りに行こうと階段を上がろうとしたとき、れいなに聞いた。れいなは一瞬考えたが、「絵里の部屋が良い」と答えた。
絵里はニコッと笑い、「じゃあ行こっ」とれいなに手を差し出した。
家の中を手を繋いで歩くなんてバカみたいだった。でも、そんなバカみたいな行為が、くすぐったくて嬉しくて堪らなかった。
- 622 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:50
- ---
- 623 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:50
- 絵里の部屋は綺麗に整理されていた。だが、それは「一見」という前置詞がつく。
よくよく見ると、単にものを端の方に寄せているだけで、本質的には片付いていない。
「絵里の部屋は綺麗ではない」と話には聞いていたが、まさか此処までとは思っていなかった。
だが、それをいまこの場で指摘する勇気は、れいなには、ない。
「じゃ、絵里行ってくるね」
「ん。ゆっくり入ってきんしゃい」
着替えを持ち、絵里は再び部屋から出ていった。
れいなはベッドには腰かけず、床に腰を下ろし、ベッドの柵に背をもたれた。
―此処、絵里の匂いでいっぱいっちゃ…
ぼんやりそんなことを考えていると、れいなはふと気になるを思い出した。
絵里とれいな以外、この家には誰もいない。そんな中で、ふたりは交互に風呂に入っている。
絵里の両親は今夜は絶対に帰ってこないため、今夜はふたりっきりで過ごすことになる。
―なに甘いこと考えちょっちゃ!
れいなは慌てて頭を振った。
先ほどまでのキスの雰囲気から、そういう流れにいってもおかしくはない。
だが、だからと言ってそれをすることが赦されるのかとれいなは思った。
この手で絵里を抱きたいと思う気持ちはある。
だが、自分にその資格はあるのだろうかと思う。
- 624 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:52
- 考えても仕方のないことだと思いつつも、頭の中をぐるぐると思考は駆け巡る。
れいなはうんざりして、「あー」と声を出しながら天を仰いだ。真っ白い天井が圧し掛かるように存在する。
部活の疲れ、思考の疲れ、そして絵里の匂いが心地良くて、れいなは瞼を閉じるとすぐに眠気が襲ってきた。
―ちょっとだけ…
絵里はたぶん30分くらいは帰ってこないだろうと予測し、れいなはウトウトと眠り始めた。
そういえば、と眠りに就く前にれいなはふと思った。
ずっと前に貸しっぱなしのあのパーカーはどうなっているのだろう?
この部屋の汚さを考慮しても、なくしたという選択肢も無きにしも非ずだなとれいなは思う。
まあそれでもいっかと思ってしまうのは、相当絵里に甘い証拠だなと苦笑しながら夢の世界に旅立った。
- 625 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:52
- 「れーな。れーなっ」
少しだけ揺すられ、れいなは目を覚ました。
目の前にはパジャマ姿の絵里がいる。彼女はメガネをかけていた。
「ごめんね、起こしたくなかったんだけど、風邪引いちゃうかもだし」
「…れな寝とったと?」
目をこすりながられいなは問うた。
絵里は柔らかく微笑みながら、「少しだけだよ」と答えた。
ぼんやりとしながら絵里を見ると、髪も充分乾いている。時計をちらりと見ると、先ほどから20分程度経っていた。
気を遣って早めに風呂からあがってくれたのだろうかと思う。
「絵里、布団とかあると?」
絵里はゆっくりとベッドに上がり、メガネを枕元に置いた。
「んー、ないよー」
れいなは思わず「は?」と言い返した。
そうなると、れいなの寝る場所は必然的にソファーか床に雑魚寝という形になる。まあ良いかと思い、れいなは床に腰を下ろした。
- 626 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:53
- 「れーなもこっちで寝よ?」
急に後ろから降ってきた声に、れいなは素っ頓狂な声をあげそうになる。
おいおい、ちょっと待て。それはつまり…。
ゆっくりと振り返ると、絵里は布団をめくりあげ、手招きをしている。
おいでおいでとされては行くしかないのが猫の宿命か。いや、自分は猫じゃないと言い聞かせたいが、どうも本能には逆らえない。
いや、だが今回はダメだ。いま行ってしまっては本当に理性さんが働かなくなってしまうと必死に自我を保とうとする。
本当に先ほどまで考えていたことが現実になってしまう。それで良いのかとれいなは自問自答した。
「れーな…一緒に寝よ」
甘い声でそう囁かれ、れいなはアッサリと撃沈した。
決意とか理性さんとか自我とか、そんなものはいつの間にやらお出かけした様子だった。
れいなは「失礼します」と小声で呟き、絵里のベッドに潜り込んだ。
絵里はニコッとして電気を落とした。カーテンから少しだけ明かりが漏れる。都会の夜は、明るい。
- 627 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:53
- 心臓が大きく高鳴った。絵里との距離が近すぎる。
先ほどまであれだけキスしたり抱きしめあったりして、お互いの距離は近かったはずなのに、未だにこの距離に慣れない。
暗闇に目が慣れてきて、段々とハッキリする視界。絵里の顔もよく見えてくる。
「れーなぁ」
暗闇に響く甘い声。舌足らずな彼女のその声は、甘く、そして切ない。れいなは努めて平静を装い、絵里に返した。
「れーなはどうして、絵里を好きになったの?」
「…急にどうしたと?」
この場で急にそんなことを聞かれるとは思っておらず、れいなが素直に返すと絵里はもぞもぞと動きこちらに近づいてきた。
その距離は、わずか30センチにも満たない。鼓動が速くなる。この音が聞こえていないか、いまさら不安になった。
「どうして絵里なのかなって…」
「え?」
「もっと可愛い子はたくさんいるし…絵里、運動もできないのに、どうしてかなって」
明るい声で話しているものの、少しだけその表情は暗かった。
自信がないのかもしれない。どうして自分なんかが好かれるのかと疑問に思ったのかもしれない。
それもこれも、元を辿ればれいな自身がちゃんと口に出さなかったせいだとれいなは思った。先ほど急に「好きだ」と言われ、余計に混乱しているのかもしれない。
れいなは息を吐き、静かに覚悟した。ちゃんと言おう、ちゃんと伝えよう。今日はその為に来たと言っても過言ではないのだから。
- 628 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:54
- 「絵里の好きなトコなんていっぱいありすぎるとよ…」
れいなは左手を出し、絵里の頭をそっと撫でた。
「可愛くて、優しくて、自分に素直で。でも、人に気ぃ遣いすぎて、考え過ぎて、自分を大切にできんくて…」
―必死にもがいて生きてるその姿が、れなにとってはキラキラ輝き放っとって
「笑ってる顔が好きで、柔らかくて甘い声が好きで、真っ直ぐで大きい瞳が好きで…」
―だから、一緒にいたくて、護ってあげたくて
「年上やのにそうは全然見えんくて、それなのに時々すごく年上のお姉さんみたいな感じに見えて…」
―絵里の一挙一動にハラハラして、だけどそれを一番傍で見ていたくて
「絵里がだれかと一緒に笑ってるの見ただけで、嫉妬してしまうっちゃん…」
―独占欲の塊で、縛り付けることなんかできないって分かってるのに
「だから…なんでとか、どうしてって言うか……」
- 629 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:55
- 言葉にできない。
伝えたい想いがこれだけ溢れているのに、どうしてもそれをあなたに伝えられない。
それがもどかしくて、歯痒くて。
だかられいなは、絵里を撫でていた左腕を肩に乗せ、こちらに引きよせた。そのまま強く、絵里の体を抱きしめる。
「…これくらい、好いとーと」
もう、言葉はいらないと思った。
どれだけ陳腐なセリフを並べたところで、自分の内に在る気持ちの1割も、伝えることはできなかった。
だったら、抱きしめてこの心臓の高鳴りを聞いて、この温もりを感じてほしい。それが最も簡単で、最も正確に、自分の気持ちが伝わるはずだから。
こうすることができるなら、言葉なんてとてもちっぽけで不必要なものにも、れいなは思えた。
- 630 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:55
- 「……反則だよぉ」
「へ?」
肩口で絵里の声が聞こえた。
れいなはそっと距離を置き、絵里の顔を見る。
「そんなことされたら…絵里……」
そうして絵里は泣き出してしまった。
「うぇ?!絵里。あ、すまんかったと。いや…えっと…」
れいなは慌てて絵里から離れて謝ろうとするが、絵里はれいなの腕を握り、離そうとしない。
絵里は泣きながらも首を振り、れいなになにか伝えようとする。だが、その言葉は小さくてれいなには届かない。
れいなは不安そうな瞳を向けながら、絵里に近づく。
絵里はぐいと腕を引き寄せた。「うお」と声が出たが、それは一瞬の出来事であり、あっという間に絵里の唇に吸い込まれた。
呆気にとられるれいなの前で絵里は言った。
「…れーなのこと、もっと好きになっちゃうじゃん…」
れいなは顔を真っ赤に染めた。潤んだ瞳と赤く染まった頬でキスされた上にそんなことを言われ、れいなは泣きそうになった。
哀しくない。それなのに涙が溢れそうになるのは先ほども経験した。
- 631 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:56
-
ああ、こういう感情を、“愛しい”というのだろうか。
- 632 名前:Only you 投稿日:2011/11/22(火) 19:56
- れいなは頭をかきながら、いつものように「ニシシ」と笑った。
「もっと好きになればいーと。れながその分、いっぱいいっぱい、愛しちゃるけん」
額をコツっと付け、れいなは囁くと、絵里は照れたように笑った。
なにかを言おうとして、そして躊躇ってやめたあと、絵里はれいなの額にキスを落とした。
「れーな…絵里のこと、離さないでね」
「離さんちゃ、なにがあっても、絶対に」
れいなが強く返すと、絵里は「約束だよ」と呟いた。
そしてふたりはまた抱きしめあった。
なんどもキスを重ね、愛を囁き、そして強く抱きしめあった。
まるでそれしか知らない子どものように、なんどもなんども、繰り返した。
- 633 名前:雪月花 投稿日:2011/11/22(火) 19:59
- 今日の更新は以上になります。
期待に応えられていなかったら申し訳ないです。
いまのふたりでは、これが精一杯だと思いますw
ストックの方はそろそろ最終話を書き始めていますが…此処に行きつくまでにはまだまだ時間がかかりそうです
気長に見守っていてください。では失礼します。
- 634 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/22(火) 21:31
- 甘いですねー
2人とも幸せの絶頂という感じで
- 635 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/24(木) 17:50
- 久しぶりに着ましたが、たくさんの更新で超嬉しかったんですよ!^O^
れなえり二人のシアワセの姿は良いですが、何か二人に大きい試練が来るかもしれない
という嫌な予感が…Y.Y
それでは次の更新までゆっくり待ってます。
どうかここの皆の念願(^^)が叶うように〜
- 636 名前:雪月花 投稿日:2011/11/25(金) 21:50
- モベキマスのイベントには行けずPC前で見ていました、雪月花です。
9期の成長が著しくて今後も楽しみですねw
>>634 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
きっとふたりも、ささやかな日常こそがいちばんシアワセなんだろうなって噛みしめていると思います
今後も温かく見守っていて下さいね
>>635 名無飼育さんサマ
お久しぶりです!
うーん、その予感は当たるのか外れるのか…確認は本編でw
ハッピーエンドかどうかも皆さんの目で確認して下さいね
では本日分いきます
- 637 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:51
- ワタナベはレントゲン写真を見て頭を抱えた。
隣には病院の院長である藤本もいる。
「どう思うかね…ワタナベくん」
「良いとは言えませんね。海外へ行くなら、体への負担も考えて、この夏がギリギリでしょう」
ワタナベの意見を聞き、藤本も頷いた。藤本はカルテを見ながら彼女の容体を確認する。
「藤本先生は、どうお考えですか?」
「概ね、きみと同意見だ。だが、夏を過ぎた場合、国内での手術、ドナーなしも視野に入れて検討すべきだね」
「しかし、確率としては」
「…私の経験上、半分、いや40%にも満たないかもしれない」
藤本の意見を聞き、ワタナベは肩を落とした。
国内での手術も不可能ではない。だが、その確率は海外でのそれに比べてはるかに低い。
「患者のご家族には話しているのかね?」
藤本に聞かれ、ワタナベは静かに頷く。
「…最終的には患者の意志が最優先だが…この決断は早い方が良い」
「分かっています」
ワタナベは一礼し、レントゲン写真とカルテをまとめる。その写真の端には、702と書かれていた。
- 638 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:51
- ---
- 639 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:52
- れいなは大あくびをひとつした。
安倍先生には悪いが、今日はどうも眠くて仕方がない。
ゴールデンウィークはあっという間に終わり、また平凡な高校生活が戻ってきた。
絵里とさゆみと同じクラスである限り、その毎日は少なからず『平凡』ではないのだが、いかんせん授業は退屈だった。
教科書であくびを隠すと、紙の匂いがした。この独特の香りはれいなは嫌いではない。
授業は退屈だが、その代わりに考えることはいくらでもある。
そのひとつが、昨日れいなにかかってきた電話のことだ。見慣れない番号に、れいなは一度は無視した。しかし、留守電から流れ始めた声を聴き、れいなは慌てて電話に出た。
相手は絵里の主治医でもあるワタナベだった。
彼は、どうしても話したいことがあるから、時間を作ってくれないかと言ってきた。
ワタナベと話すのは、実に半年振りになる。その間に、病院でも何度かすれ違ってはいるものの、あのドイツ行きの話をした1件以来、時間を作って話したことはない。
彼がわざわざ電話してきたということはなにかしらの意味がある。そしてそれは、たぶん、れいなにとっては良い知らせではないということも分かる。
だが、れいなは彼の申し出を素直に受け、明日の17時以降に病院へ行くことを約束し、電話を切った。
幸いにも、中間考査前になり、明日からは部活動が停止期間に入るため、れいなは病院へ向かうことができる。
本来なら、絵里と一緒に帰宅が出来る数少ない期間ではあるのだが、この申し出を蹴る事はできないとれいなは腹を括った。
- 640 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:52
- ワタナベの話したいこととはなんだろうとれいなは考えた。
良い話にならないことは間違いない。下手をすれば説教を喰らうかもしれないなとうんざりした。
れいなは、いつだったかパソコンで調べたことをメモしたノートを取り出して広げた。そこには、心臓移植のこと、血液型のこと、そして脳死の方法が書かれている。
緑色のドナーカードの裏面には、一応、自分の名前を書いているが、提供する身体については未記入だった。
れいなはそれを黙って見つめる。
果たしてこれを使う日は来るのだろうかとしばらく考えてノートを閉じたところで授業終了のチャイムが鳴った。
学級委員の号令に倣い席を立ち、れいなは頭を下げた。安倍の授業に全く集中できなかったことに心の中で謝りながら帰り支度をし、立ち上がった。
「れーな、もう帰るの?」
れいながカバンを持って教室を出ようとしたとき、絵里から話しかけられた。
本来なら帰りのHRがあるのだが、れいなはそれに出席せずに病院へ向かおうとしていた。
「あー…うん、ちょっと用事あるけん、安倍先生には謝っとって」
絵里がなにか言いたげな顔をしたが、れいなはそのまま廊下へと出た。
絵里にだけは、今日のことは黙っておきたかった。
彼女がワタナベを嫌いであればなにも問題はなかったが、そうではない。彼女はワタナベを慕っている。
もちろんそれは、ただの信頼であり、主治医と患者という関係以外の何物でもないことは分かっている。
万にひとつも“恋愛”に発展しないとは分かっているから、逆にれいなは話すことを躊躇った。
正直に言えば、れいなはワタナベを嫌っている。嫌っているというよりは、苦手意識を持っているという方が正しい。
いま口を開けば、れいなは間違いなく、ワタナベを批判してしまうだろう。だが、それを絵里は望まない。絵里を悲しませたくなかった。
だかられいなは黙って外へ出た。
この選択が、正しいという確証はなかった。
だが、間違っているということでもないと考えたため、れいなはなにも言わずにひとりで歩きだした。
外はどんよりと曇っていた。朝見てきた天気予報によると降水確率は40%。
れいなはお天気おねえさんの「折り畳み傘が必要でしょう」という助言を無視し、自転車に飛び乗った。
- 641 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:54
- れいなが藤本総合病院へ着いたとき、空には黒雲が居座っていた。それを見ているとなんだか気分まで落ち込みそうだったので、れいなは足早に正面玄関へ向かった。
玄関をくぐると、目の前にワタナベがいた。その隣には何人かの人がいる。よく見ると、彼らは家族のようだった。
その家族はワタナベに深々と頭を下げ、こちらへと歩いてきた。
れいなは一礼して道を開けると、彼らも一礼した。その顔は非常に晴れやかで、今日の天気とは対照的だった。
「お久しぶりです」
ワタナベはいつもの表情でれいなに話しかけた。れいなは声は出さず一礼する。
やはりどうしても、この人は苦手だ。
「どうぞ。案内しますよ」
そう言ってワタナベは歩き出した。れいなも黙って後に続く。
いつも乗っているエレベーターを通り過ぎ、その奥にあるエレベーターに乗り込んだ。彼は階数ボタンの8を押す。
「今日は部活は休み?」
扉が閉まると同時にワタナベが話しかけてきた。相変わらず、目を合わせようとはしなかった。
どう答えるか悩んだが、れいなは素直に「もうすぐ中間考査なので」と呟いた。
「なるほどね」と彼は答え、そこで会話が終了した。この沈黙がれいなは苦手だったが、それを切り裂くようにふたりを乗せた箱は8階へ着いた。
ワタナベはエレベーターを出て右へ歩き出し、すぐ近くにあった部屋へと入った。れいなもそれに続いて入る。
室内はさほど広くはなかった。机と椅子、そしてホワイトボードしかない殺風景な部屋だった。
- 642 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:54
- ワタナベは手近にあった椅子に腰かけ、れいなを座るよう促した。れいなが一礼して席に着くと、彼はさっそく切り出した。
「察しがついていると思うが、今日呼んだのは絵里の件なんだ」
その言葉にれいなは素直に頷いた。逆に言えば、彼がそれ以外でれいなを呼び出す理由はない。あったら聞きたいくらいだと思うが、黙ってれいなはワタナベを見る。
ワタナベは数枚のレントゲン写真を取り出し、机の前に在るガラスへ貼り付けた。そして立ち上がり、部屋の照明を落とす。
ガラスだけがボヤっと光りはじめ、レントゲン写真が浮かび上がる。
「この3枚を左から見てほしい」
れいなは言われるがまま、その写真を見つめる。医学の知識は皆無であるが、本を読んでいたおかげで、骨格と心臓、そして肺があることは分かった。
そしてそれが、絵里の写真であることも、分かった。
「分かりづらいかもしれないが…徐々に、此処、心臓の部分が大きくなっているんだ」
「え?」
れいなはワタナベの言葉に思わず聞き返した。慌てて彼の指さす場所を凝視する。
確かに分かりづらいが、若干、その白い部分が大きくなっているようにも見える。だが、確信までは持てなかった。
「左から、2年前、1年前、そして先週のものだよ」
「先週……?」
「知らなかったのかい?絵里は毎週末、うちの病院へ来て検査をしているんだ」
ワタナベの言葉に、れいなは息を呑んだ。そのような話は一切聞いたことがなかった。
そう言えば以前、日曜日が部活休みだったため、絵里をデートに誘ったことがあった。しかしそのとき、彼女は用事があるからと断った。
そのときはなにも考えなかったが、いま、ワタナベの話を聞く限り、それは病院で検査するためだったのだ。
絵里はそれを黙っていた。ずっと彼女はひとりで、此処に居たのだ。
れいなは唖然とすると同時に、自分は信頼されていないのではないかと寂しくなった。
- 643 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:55
- 「…正直に言うと、症状は悪化している」
考える暇を与えないように、ワタナベの低い声が室内に響く。それはれいなの背筋を凍らせた。思わず顔を下に向けてしまう。上げることが、できない。
彼はひとつため息をつき、照明をつけた。急に明るくなった視界にれいなは一瞬目を瞑る。
「ムリさせないでくれと…言ったはずだよ」
彼の声は何処までも冷たい。初めてれいなは、恐怖を感じた。ワタナベはレントゲンを封筒へしまう。
彼は椅子に深く腰掛け天を仰いだ。そして、なにかを決意したようにれいなに向き直る。
「きみと一緒に居ることで、絵里はよく笑うようになったよ」
そこでれいなは初めて顔を上げた。ワタナベはしっかりとれいなの目を捉えている。
それは、以前彼が向けたような落胆のような色はない。良くも悪くも、それは無色であった。
ワタナベは息を吐き、れいなへ言葉を向けた。
- 644 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:55
- 絵里は何処か諦めていたような子だった。自分の体の弱さを知った、聞きわけの良い子だった。彼女は“大人”だったよ。
だけど、きみに逢ってから、変わった。少しだけ、前へ進もうという感情が芽生えてきた。外に出たいというようになったのもここ1年のことだ。
生きる希望、前を向いて歩きだす勇気、それは医者としては嬉しかったよ、正直にね。
「だがね」
そうしてワタナベは言葉を紡ぐ。
「きみと逢って、外に出ることが増えてから、症状が悪化しているのも事実なんだ」
それは、れいなの胸を貫いた。怖いくらいに真っ直ぐな言葉が、れいなに突き刺さる。氷のような冷たい絶望が広がっていく。
れいなは膝の上で拳を握り締める。だが、反論しようとしてもできない。ワタナベの言うことが事実だということは、れいながよく分かっていたのだから。
ワタナベは一度目を閉じ、なにかを考える仕草を見せた。そして目を開き、そっと話し始めた。
「もう、やめてくれないか?」
「……え?」
「これ以上、絵里と一緒に居ないでくれないか」
窓の外が一瞬光り、そして直後に激しい音がした。何処かで雷が落ちたようだ。それを皮切りに、強い雨が窓を叩いた。ボタボタボタと、れいなの耳へと届く雨音がうるさかった。
- 645 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:56
- 「前にも言ったように、8月にドイツでの手術を検討している。親御さんは賛成しているし、絵里にも話はした」
「だから…それは…」
「これを逃すと、国内手術になる。その場合の成功率は、40%にまで下がるんだ」
努めて冷静に、ワタナベは言った。だが、その言葉は震え、口から滑り出ていくような印象を持った。
何処か焦っているような、それでも嘘を語らない瞳がれいなに映る。その瞳に映ったれいなは、ひどくツラそうだった。
その言葉を聞いたれいなは驚愕した。
ドイツ行きの話は知っていた。それを逃したら国内手術になることも知っていた。だが、成功確率が半分を切る40%にまで下がることは知らなかった。
「手術を…しない場合は?」
れいなはカラカラに乾いた口で聞いた。それがどれほど無意味な質問かなど、れいな自身も分かっている。だが、聞かずにはいられない。
此処まで来た以上、もう知らないで赦される問題はない。すべてを知らない限り、彼女は動けない。
- 646 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:57
- 「……19.89」
突然出てきた数字にれいなは戸惑う。
それがなんの意味を持つかは彼女は知らない。自分の誕生日の西暦がはからずとも同じだったが、恐らくそれは関係ないだろう。
「絵里と同じ患者の、手術をしない場合の、平均生存年数だよ」
ワタナベの言葉をれいなは噛み砕く。
ヘイキンセイゾンネンスウが19.89、つまり、それは、20歳に満たない。
「成人まで、もたないってことですか…?」
「…あくまでも、平均ではあるがね」
れいなの体が震え始めた。心臓が高鳴る。
- 647 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:57
- 生存年数が19.89
あくまでも平均ではあるものの、20を超えていないその数字。
成人に満たないその数字の持つ意味。
絵里が。
絵里が。
絵里が。
―絵里が、死ぬ?
- 648 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:58
- 胸が締め付けられる。
心臓の病気なんてもっていないのに、急に胸が痛み出す。
れいなは思わず制服のブラウスを握り締めた。
「酷なことを言っているのは分かる。だけど僕は、絵里を助けたいんだ」
そしてワタナベは立ち上がり、れいなに深々と頭を下げた。
その言葉に嘘はない。この人は単純に、絵里に生きてほしいと思っている。自分の中にある好きとか愛してるとかそういう感情を抜きにして、医者として動いている。
それが分かるから、その真実が目の前に在るから、れいなはなにも言えなくなる。
「絵里と別れてくれ」
外がまた光った。雷が鳴った。雨が窓を叩きつけた。ワタナベのセリフがれいなを貫いた。
彼の言葉の真意、ふたりが付き合っていることをなぜ知ったかなど、どうでも良い。
- 649 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:58
- 突き付けられた真実。
目前に迫っている、生命のタイムリミット。
絵里の“死”という、避けられない現実。
- 650 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:59
- 「絵里はまだ、ドイツでの手術には賛成していない。それは…たぶん」
「……れながいるから、ってことですか」
れいなは暗い表情のまま、ワタナベに返した。
彼もそれ以上はなにも言わず、ただ黙ってれいなを見ていた。
れいなは、なにも言えない。
なにも言うことができない。
握り締めた拳が震える。頭の中が真っ白になる。
瞳を閉じる。
そこに浮かんだのは、絵里の笑顔だった。
―絵里…絵里……絵里………!
れいなはブラウスを握り締めたまま、ワタナベに深く頭を下げた。
信じられない。だが信じられないからといって立ち止まることは赦されない。
考えている時間はもうない。刻一刻と時計の針は動く。れいなは、決断を迫られていた。
- 651 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 21:59
- ---
- 652 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:01
-
―れーな、れーなっ!
絵里の笑顔が好きだった。
―絵里はれーなが大好きです
少しだけ舌足らずな話し方が好きだった。
―れーなは絶対、だいじょーぶだよ
甘いその声が好きだった。
―うへへぇ、絵里も愛しとー
大きく輝く、その瞳が好きだった。
―ねぇ、キス、して?
絵里のすべてが好きだった。
- 653 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:01
- れいなのこれまでの16年間。
高校2年生になるまでの時間は、長い人生で見ればほんの一瞬の出来事。
青春の1ページなんて、大したものじゃないことくらい分かっている。
絵里に出逢い、絵里と話をし、絵里との時間を共有し、絵里に恋をした。
それが、“人生”という長い物語のなかではほんの少しの出来事でしかなかったとしても、れいなは絵里に恋をした。
絵里と別れることなんて、したくなかった。
―れーな…絵里のこと、離さないでね
―離さんちゃ、なにがあっても、絶対に
あの夜に交わした、些細な、だけど大きな、約束。
絵里と一緒に居たい。
一緒に笑って一緒に生きていきたかった。
だが、彼女の病気がそれを許さない。
ドイツでの手術。国内での手術。成功確率を鑑みれば、どうしたってドイツへ渡る方が賢い選択だといえる。
それを絵里が望まないのは、ひとえに、れいなの存在があるからだった。
- 654 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:02
- れいなは自転車をこぐ脚を止めた。
雨は容赦なく、れいなの体温を奪っていく。一刻も早く家に帰らなくてはならないのに、疲れているわけでもないのに、れいなは自転車をこぐことを諦めた。
自転車から降り、雨の中、傘もささずに歩き出す。それは傍から見れば不格好以外の何物でもなかったが、れいなはもう、自転車をこぐことはできなかった。
絵里の笑顔が浮かんでは消える。
れいなの頭の中で、彼女はいつも笑っていた。
その笑顔を、失いたくはなかった。
―絵里……
- 655 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:02
- そのとき、ドンと肩になにかぶつかった。
「いったー!」
「なによ、あんた」
その声には聞き覚えがあったが、顔を上げるのも億劫でれいなは無視していた。
「なんだ、田中じゃん」
自分の名前を呼ばれたことに気付き、れいなは初めて顔を上げる。
そこにはいつか見たスズキたちがいた。向こうはこちらを見て、なにやら笑っている。
「つかなに濡れてんの。超ダサー」
「ちょっとさ、付き合いなよ」
絵里にいじめを働いていた張本人たちと此処で鉢会うとは、なんだかまずい展開だなとなんとなくれいなは思う。しかし、もうなにもかもが億劫で、考えることも逃げることも放棄したれいなは黙ってスズキらに従った。
- 656 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:03
- 派手な音を立てて自転車が倒れた。間髪入れずに、自らも殴られた。
相手は3人。逃げようと思えば逃げられないこともなかった。だがれいなは、反抗しようとしなかった。
それが余計に腹立たしかったのか、スズキたちは容赦なく、れいなに暴力をふるった。
抵抗しないれいなはアッサリと膝から崩れ落ちた。体中に衝撃と痛みが走る。
痛い、痛い、痛い。
肩に、腰に、腹に痛みが走る。そして最後に痛んだのは、胸の奥深くだった。
痛いくせに逃げようとしなかった。この痛みを受けることが、自分の役目のような気がした。
「二度と調子乗んなよ」
「先生にチクッたら、また亀井に手ぇ出すからね」
それだけ言うと、ボロボロになったれいなを放置してスズキたちは去っていった。
れいなは体中に傷を負い、その場に横たわっていた。
痛みが全身を駆け巡る。何回か蹴られた際に肺が傷ついたのか、呼吸するだけで痛みが走った。
冷たい雨が頬に当たる。体温が奪われていく。
―また亀井に手ぇ出すからね
スズキの言葉が頭をよぎった。
今日の件を先生に告げ口する気は最初からなかったのだが、絵里のことを出された以上、黙っておくほかないなと苦笑した。
- 657 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:04
- 絵里のことを考えた。
目を瞑って、絵里を憶う。れいなの心に居る彼女は、泣いていた。
―れーなぁ…
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、彼女の声が聞こえた気がした。
―絵里……
容赦なく降り続ける雨が心を蝕んだ。それはれいなの体温を奪い、頬を打つ。
れいなは立ち上がることもせず、ただ路地裏でひとり横たわっていた。泣いているのか雨なのかも、れいなには分からなかった。
- 658 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:07
- ---
- 659 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:07
- 「はい…すいません、宜しくお願いします…」
れいなは電話を切ると、即座にベッドに倒れ込んだ。
ワタナベと話をし、雨に濡れて帰宅した後、れいなはシャワーを浴びて眠りに就いた。
ちゃんと体を拭いたつもりだったのだが、雨で体温を奪われたせいか、れいなは見事に風邪を引いた。
熱が上がり、体はフラフラで、とても学校へ行ける状況ではなかった。
れいなが8時過ぎに学校へ電話をかけると、運良く安倍が対応してくれた。
風邪を引いたので欠席すると伝えると、安倍はとにかくゆっくり休むようにとれいなを心配してくれた。
れいなは痛む頭をおさえながら、布団へと潜り込む。
昨日からなにも口にしていないが、不思議と空腹感はなかった。代わりに水分だけは欲していたが、冷蔵庫に水はあっただろうかと考える。
熱が下がったら買いに行こう、いまはとにかく眠ろうと思いながら、れいなは眠りに就いた。
- 660 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:08
- 次に目が覚めたときに枕元の時計を見ると、4時であった。どうやら半日眠っていたようだ。
相変わらず体がだるい。なにも食べていない上に風邪薬を飲んでいないので当然かとれいなは思う。
汗もかいていたので着替えようと、フラフラになりながられいなは起き上がった。
パジャマを脱ぎすてタオルで体を拭く。汗をかくことで熱が下がれば良いのだがとれいなは考えていた。
新しいシャツを着て、冷蔵庫へ歩くと、スポーツドリンクと水が4本ほど入っていた。棚に置いてあった市販の薬とともに水分を喉へと流し込み、れいなは再びベッドへと潜った。
ケータイがチカチカと光っていたが、それを確認するのも億劫で、れいなは目を閉じた。
- 661 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:09
- 「れーなっ、行こっ!」
絵里は笑いながらこちらに手を差し出した。れいなもなんの迷いもなく、その手を取る。
ふたりは手を握って歩いていくが、突然、絵里がしゃがみ込んだ。
「絵里…?」
絵里の肩に腕をまわす。
その呼吸は、早かった。肩で息をしているのは明らかだ。
絵里は胸元を抑えながら苦しそうに息をしている。
「絵里!絵里っ!」
それは間違いなく発作だった。
絵里は膝から崩れ落ち、その場に横たわった。息が荒く、涙を流し、苦しそうに悶えている。
れいなは急いで救急車を呼ぶが、それ以外にはどうすることもできなかった。
- 662 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:09
-
―平均生存年数は19.89です
ワタナベの声が頭に甦る。
れいなは絵里の手を握り、必死に励ますが、不意にその力が弱くなった。
「……絵里?」
絵里はもう、苦しそうな呼吸をしていなかった。
彼女の手は地に落ち、動かなかった。
「…絵里……絵里?」
恐る恐るその頬に手を伸ばす。
冷たくなった肌が、れいなに教えていた。
これが、“死”であることを。
―絵里!!!
- 663 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:09
- 声にならない叫びをあげて、れいなは目覚めた。体中に汗をぐっしょりかいていた。
1時を示している時計を見て、また半日眠っていたのかと息を吐いた。
―夢…か……
れいなは体を起こし、頭を抱えた。
絶望的な夢だったが、それは現実を予知したものだったのかもしれない。
れいなが選ぶ、来たるべき未来の予想図。
舌打ちしながらベッドから降りる。シャツを荒々しく脱ぎ捨て、タオルで体を拭いた。
本来ならばシャワーを浴びたいところだが、この体調でそれは自殺行為だと考え、自重した。
新しいシャツに着替え、水と風邪薬を飲むと、冷たい感触が喉を潤していく。相変わらず頭は割れるように痛かった。体調は一向に良くならない。
- 664 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:10
- れいなは枕元に投げ捨ててあったケータイを見ると、何通かメールが届いていた。相手は、同じクラスのサッカー部の子と、さゆみからだった。
サッカー部の子は、体調を早く治せよと軽口を叩きながらもれいなを心配していた。
さゆみは、れいなはバカじゃなかったんだねと、何処まで冗談か分からない内容のメールだった。
れいなはふっと微笑した。なにはともあれ、心配されていることは嬉しかった。
れいながケータイを閉じようとしたとき、もう1通受信した。
差出人は、絵里からだった。
―――
こんな時間にごめんね。
れーな、体調はだいじょうぶ?
明日、お見舞いに行くよ。なにか欲しいものある?
―――
ケータイを見つめながられいなは、悩んだ。
いま、彼女には逢いたくない。
逢いたくて話したくて仕方がないが、逢いたくないのだ。
逢ってしまえば、否が応でも昨日のワタナベの話が思い出される。加えて先ほど見た夢がれいなを苦しめる。
れいなの予想する絶望的な未来が迫っていた。
それを避けるには、絵里に伝えなくてはいけないことがたくさんあった。
遅かれ早かれ、ちゃんと話すべきだとは思っているが、少なくともそれはいまではない。
返信するのも億劫だったが、れいなはただ「風邪をうつしたくないから、ごめん」とだけ書いて送信した。
またあんな夢を見なければ良いなと思いながら布団に入ったが、それでも、また見そうな気配を感じ、れいなはうんざりしながら目を閉じた。
- 665 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:11
- ---
- 666 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:11
- 結局れいなは中間考査の最終日まで学校を休んだ。
その間に、なんどか絵里から見舞いに行こうかと提案があったが、ひどい風邪をうつすのは申し訳ないと、れいなは丁寧に断った。
中間考査の明けた木曜日に久しぶりに学校へ行くと、クラスメートたちはこぞってれいなに声をかけた。
れいなはその声に「大丈夫」と返し、席に着いた。
実際、熱も下がり咳も止まったものの、体調は万全ではない。
体を動かしてすっきりしたい気持ちもあったため、れいなは早く部活に出たかった。
「れいなでも風邪引くんだね。れいなはバカじゃなかったの」
目の前からそんな声がしてきた。相手は見ずとも誰かは分かっている。
れいなは苦笑しながら顔を上げた。さゆみは相変わらず大きな鏡を持っている。
「心配かけて悪かったと」
「別にさゆみは心配してないよ、絵里ほどはね」
さゆみの口から出た「絵里」という名前にれいなは胸が締め付けられる。
そういえば、絵里はまだ来ていないのだろうか。
「絵里なら今日から休みなの」
「へ?」
「日曜まで検査入院するって、メール着たでしょ?」
れいなはケータイを取り出し、メールを確認した。
すると確かに、絵里が入院する旨が書かれたメールがあった。一応既読にはなっていたが、朦朧とした頭で読んだためか、記憶がなかった。
検査入院とあるが、先日のワタナベの話を考えると、もしかしたら説得されているのかもしれない。
ドイツでの手術の話がれいなの頭をよぎった。
- 667 名前:Only you 投稿日:2011/11/25(金) 22:12
- ひと息ついてれいなは手帳を開いた。
土曜日は午前中だけで部活が終わることを確認し、再び閉じる。
「さゆは、絵里の見舞いに行かんと?」
「え?まあ、明日か明後日には行こうと思ってたけど…」
さゆみの不思議そうな顔を無視して、れいなは考えた。
大切な話をする前とした後、親友にはどちらに居てもらう方が無難だろうかと思っていると、担任の安倍が入ってきた。
れいなは思考を中断し、さゆみも自分の席へと戻っていった。
- 668 名前:雪月花 投稿日:2011/11/25(金) 22:13
- 本日は此処までになります
あまり語るとネタバレになりそうなので多くは言いませんが、どうぞ見守っていてください
今後、更新頻度を上げていく予定です
では失礼します
- 669 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/26(土) 11:03
- うわぁー!
ついに来ましたね( ;´Д`)
彼が登場するとソワソワして落ち着きません。
とにかく、2人が幸せになってくれれば、、、。
続き待ってます!
- 670 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/27(日) 17:55
- もぅ〜やだ〜こんな展開は…
れいなにすっかり感情移入してしまって、
これからどうしようってすごい心配な状態になりました。
二人の涙はもう見たくないですよ。YY
- 671 名前:雪月花 投稿日:2011/11/27(日) 20:41
- 本日ようやく最終話を書き終えました、雪月花です
年内中にアップできるかは分かりませんが、今後も宜しくお願いいたします
>>669 名無飼育さんサマ
はい遂に登場しましたw
彼は彼なりの正義で動いていますので嫌いにならずにいてくださいねw
ふたりが今後どうなっていくか、温かく見守っていて下さい!
>>670 名無飼育さんサマ
うーん、深くは語れませんが、此処はふたりにとって大きな山場ではあると思います
だれがどう動くか、どんな決定をするか、見守っていて下さい。
ホントにこれしか言えません…
本日分、更新します
- 672 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:43
- れいなは息を吐き、702号室の前に立つ。
昨晩のことを思い返しながら、ノックをした。絵里の甘い声が聞こえてきたのを確認し、扉を開けた。
「あ、れーなぁ」
絵里はいつものような笑顔をこちらに向けた。
れいなは「おう」と手を挙げて返し、すぐ傍にあった椅子に座った。
「風邪はもう大丈夫?」
「うん、心配かけて悪かったと」
れいなが絵里の頭を撫でると、絵里は「うへへ」と笑う。
この瞬間が、愛しく想う。単純に、恋しくて、愛しくて、もっと一緒に居たいと想ってしまう。
それが赦されないというのだから、れいなは神様というものを信じない。
「絵里は、大丈夫やと?」
れいなが聞くと、絵里は少しだけ目を伏せて頷いた。
「さゆにもさっき言われたけど、検査入院だから大丈夫。また月曜からは学校行くよ」
そう言って、ベッドに上半身を起こしている絵里。結局さゆみは今日見舞いに来たのだなと分かった。
絵里の顔色は確かに良くはない。少しだけ腕も細くなったように見える。
毎週末は検査のために病院へ来ているのだとワタナベは言った。それを黙っていたことを責めるつもりはない。
それがもし、絵里の優しさであり、れいなを心配させたくないがための「嘘」だとしたら、れいなは自分の無力さを呪うしかなかった。
- 673 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:44
- 不意に目頭が熱くなる。
どうしてこうなってしまったのか、考えても無意味なことくらい分かっている。だが考えずにはいられない。
何処をどう修正すれば、あの場所に戻れるのだろうか。あのシアワセだった瞬間に、どうしたら戻れる?
「れーな…どうしたの?」
絵里の優しい声が降ってくる。その声が甘くて、切ない。
自分で決めたことなのに、どうしても二の足を踏む。それがれいなの弱さだというのなら、弱いままでも良いと思った。
いまならまだ戻れる。この状況なら笑って済ませることができる。
そう思ってしまった自分を鼓舞するかのように、れいなは膝の上の拳を握り締め、立ち上がった。
窓側まで歩き、空を見上げる。四角く切り取られた空は、それでも何処までも青く広がっていた。
あの日ワタナベに突き付けられた事実も、こんな青空の下であったならば、もっと違った結論にもっていくことができたのだろうか。
- 674 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:46
- れいなが涙を拭き絵里に向き直ると、彼女は心配そうにこちらを見ていた。
その瞳が揺れている。そんな表情をもう、絵里にはさせたくなかった。彼女にはずっと、笑っていてほしい。
―れなと一緒におったら、いかん
れいなは決意していた。
絵里に初めて出逢ったときから、れいなの人生は輝いていた。別にそれまでの人生がツラくて死にたかったわけではない。
新しい生活、新しい場所、新しい空気。もし絵里に逢わなかったとしても、高校に入学してから、楽しいことはたくさんあったはずだ。
クラスメートに恵まれ、一緒にサッカーをやっていける仲間に恵まれ、支えてくれる先輩に出逢い、れいなの高校生活は申し分なかった。
だが、絵里のいない生活は考えられなかった。
あの推薦入試の日、最後のPKを外し、れいなはすべてを諦めていた。
たった一度の失敗ですべてを諦めるというのは、馬鹿げていると思われるかもしれない。
だが、サッカーをやるために朝陽高校を受験したれいなにとって、その失敗は絶望にも似ていた。
チームメイトに申し訳なく、此処まで来させてくれた両親に申し訳なく、そして自分自身に恥じる結果になってしまった。
- 675 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:46
- そんな時に絵里に逢った。
彼女と話すのは2回目であったが、そのときの絵里は、最初に逢った時よりもずっと大人に見えた。
―れーなは、絶対、自分の思い通りに未来を創っちゃうタイプだから、だいじょーぶだよ
絵里の発したそのたった一言で、れいなは前を向こうと決めた。
それが彼女の気まぐれであり、テキトーさゆえのものだとしても、絵里はれいなの世界を変えた。
文化祭で再会したとき、何処か寂しそうに笑う絵里を見て、れいなは寂しくなった。
こんな表情を、絵里にはしてほしくなかった。れいなの世界を変えた絵里には、本当に笑っていてほしかった。
だったら、絵里の世界をれいなが変えてやりたくなった。
どんな事情があるのかは分からない。
絵里の背負っていた宿命なんて全く知らないのだけれど、絵里を笑わせてやりたかった。
れいなの人生を輝かせてくれた絵里に、今度は自分が返したかった。
- 676 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:48
- がむしゃらに突っ走って、間違いだらけの選択をしながらも此処まで来た。
だが、結局それは報われなかった。
れいなのやり方は、絵里の生命を縮め、絵里に哀しみを与えてしまったのかもしれない。
傍に居るべきは、れいなではなく、やはりワタナベだという結論に、れいなは至った。
だから―――
れいなは息をひとつ吐き、椅子に座り直した。改めて絵里に向き合う。彼女の表情は、やはり暗く見える。
そんな表情をさせる自分が、憎くて恨めしくて、不甲斐なかった。
「…毎週末、此処に検査しに来よったっちゃろ?」
れいなの口から出た言葉に、絵里は目を見開いた。
絵里はれいなの瞳を真っ直ぐ見つめ返す。その瞳はあまりにも真剣で、とても嘘をつけるような色をしていなかった。
ひとつ息を吐き、観念したように絵里は頷いた。
- 677 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:49
- れいなはそんな彼女を見て「嘘は嫌いやけん」と前置きをして話した。
「ドイツでの手術の話が来てるっちゃろ?」
れいなの口から「ドイツ」という言葉が出た途端、絵里は顔を上げた。
だれから聞いたのだろうと思うが、その話を知っている人物は限られている。
「絵里、行きぃよ」
「え?」
「ドイツで手術、受けるっちゃよ」
れいなの発した冷たい言葉が絵里を貫いた。
絵里は困惑しながらも言葉を発する。
「待って、絵里は受けないよ。だって」
「ワタナベ先生のことがあるから、やろ?」
絵里の言葉を遮るようにれいなは言う。その目に光りは、ない。
「ワタナベ先生は良い人っちゃよ。絵里ンことも好いとーやろうし、病気も治してくれる。
向こうで手術して、絵里が元気になれるっちゃったら、絶対に行った方が良いっちゃよ」
- 678 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:49
- れいなの言葉は何処までも無機質だった。
絵里はれいなの使う『れいな弁』が好きだった。語尾に『ちゃ』や『と』がつき、独特のイントネーションのある言葉は、絵里に温かみをくれた。
だが、いまのれいなからは、そんな優しさや温もりが感じられなかった。イントネーションは全く同じはずなのに。
「でも…だって、絵里は」
「れなはそうした方が良いと思う。絵里が生きられるっちゃったら、その方が良かやろ?」
絵里の言葉をれいなは聞こうとしない。わざとその言葉に被せるように自分の意見を乗せてきた。
だが、絵里も負けじと言葉を繋ぐ。
「国内での手術だってできるから、絵里は受けるならそっちを」
「成功の確率が一気に下がるのに?」
れいなの言葉に絵里は息を呑む。この人は全部知っているんだと観念する以外になかった。
絵里はシーツの上で拳を握り締める。正論を並べ立てられようとも、絵里は首を縦に振りたくなかった。
「…絵里は行かないよ」
「我儘言うんじゃなか」
よりによってその正論を、どうしてあなたに言われなきゃいけないのだろう?
ねえ、どうしてそれを、れーなが言うの?
涙が溢れそうになるのを堪え、声を大きくして言った。
- 679 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:50
- 「絵里は、れーなと」
「別れよう、れなたち」
―え?
絵里の言葉はまたも遮られた。
だが、いまはそんなことはどうでも良かった。
いま、れいなは、なんと言った?
- 680 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:50
- 「別れても、絵里とは、友だちやけん。れな、絵里が戻ってくるの、待っとってやる。メールも、する」
途切れ途切れのれいなの言葉が遠く聞こえる。
“友だち”という言葉が、妙に痛く感じられた。
「ワタナベ先生と行きぃよ。それが絵里のためやけん」
れいなは淡々と言葉を伝える。その瞳は輝きもないが、揺れてもいない。
事務的に伝えられた言葉は、意志がなく、強さもないが、それでも真っ直ぐに絵里を貫いていた。
絵里は気づかぬうちに涙を流していた。大粒の涙が瞬きとともにボロボロと溢れていく。
- 681 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:51
- 「イヤ…そんなの、イヤ」
まるで聞きわけのない子どものように、絵里は首を振る。
半年前にバッサリと切った絵里の髪。いまでは少しだけ伸ばしているのか、肩にかかるほどの長さになっていた。
栗色のその髪が、揺れる。れいなはショートカットも好きだったが、いまの絵里の髪も好きだった。
「生きてほしいっちゃ、絵里には」
れいなの息は短くなっていた。それを絵里に悟られないように必死で呼吸を整える。
昨晩、なんどもシュミレーションしていたのに、予定通りに言葉は出てこない。
やはり愛ちゃんやガキさんのように良い演技はできないなとれいなは苦笑した。
「だから、別れよ」
冷たい言葉だ、何処までも。
この言葉がどれほどの威力を持って絵里を傷つけているかなど分かっている。
分かってはいるが、れいなは止めようとはしなかった。
自分で決めた道、これがれいなの選んだ道。
予想した未来へ行かないための、最善の道。
そう信じているから、あのシアワセだった過去に戻れなくても、れいなは未知を突き進んだ。
- 682 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:52
- 「れーな……なんで…」
絵里は、顔を両手で覆って泣いていた。
泣かせることしかできない自分が不甲斐なかった。
こんな顔をさせたくて、最初に「好いとー」って言ったわけじゃなかったのに。
ただ笑ってほしくて、絵里の本当の笑顔が見たくて傍に居るって想っていたのに。
「れーなはっ…絵里のこと、嫌い?」
大きなその瞳が涙で溢れかえっている。
ああ、そんなあなたも可愛いなんて、不謹慎ながらも思ってしまう。
絵里の家に泊まった日も、あなたと一緒に居ることでこの感情が溢れそうになったんだ。
―だから、絵里、れなは絵里にキスしたとよ
「嫌いやなか」
「だったらっ」
「でも、もう、好きではなか」
れいなの言葉を受け、絵里は目を見開いた。
傷ついている。冷たく尖った氷柱のような言葉が、絵里を射抜いている。れいなのついた“大きな嘘”は、絵里をどん底にまで突き落とした。
- 683 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:52
- 分かっている。全部全部、れなが悪い。
もう、傷つかなくて良い。もうすぐ終わる。終わらせてやるから。
「やっぱ友だちに戻るっちゃよ。その方が、お互いのためやけん」
絵里の涙は止まらない。
彼女は2年前のある1件から『哀』の感情のスイッチが入りにくくなった。それが嘘のように、いまは泣いている。
れいなは絵里から目をそらし、窓を見つめた。
よりによって今日は晴天で、雨の降りそうな気配もない。
そういえばお天気おねえさんも、「今日は快晴で降水確率は0%でしょう」なんて言っていた気がする。
皮肉なものだなと、れいなはそっと腰を上げ、絵里に背を向けた。その手を絵里は取る。
「れなの話は終わりやけん」
振り返らなくても、彼女が首を振っていることは分かっていた。
絵里も必死になにか言葉を探しているが、なにを言えば良いのか分からなかった。
声にならない声で、絵里は「行かないで」と呟いた。
それは音にならなかったはずなのに、れいなに声は届いていた。
れいなはゆっくりと振り返る。絵里はれいなを見上げている。
自分はいま、どんな表情で絵里を見ているのだろうと思う。ちゃんと、冷たい表情になっているだろうか?
- 684 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:53
- 「やっ…約束は?」
涙声を絞りながら、絵里は言った。
―れーな…絵里のこと、離さないでね
あの夜に交わしたふたりの小さな約束。
絵里を絶対に離さないとれいなは誓った。だが、あのときとは状況が変わった。
いま、絵里をドイツに行かせなければ、絵里を失ってしまうと思った。だかられいなは、その約束を破ろうとしていた。
他ならぬ、絵里のために―――
「ごめん…」
れいなの言葉を受け、絵里がなにか言おうと口を開いた瞬間だった。
絵里の甘い声を聞きたくなかった。これ以上、その声を聞くと、決心が鈍ってしまいそうだった。
れいなは体を乗り出し、絵里の唇を塞いだ。それは甘く優しいキスではなかった。無機質で、淡々とした、冷たいキス。
「やっ…!」
あっさりと舌を侵入させると、れいなは絵里の口内を蹂躙した。歯列をなぞり、絵里の片八重歯に触れた。
絵里は逃げるが、れいなはそれを追い、あっさりと捕まえた。そのまま深く絡め合わせる。
貪るような、獣のようなキスに、絵里はあの中学校の記憶が甦った。
相手がれいなだということは分かっているのに、初めて嫌悪感が生まれた。
絵里はれいなの肩を叩いて距離を取ろうとする。だが、れいなはそれを許さず、そのままキスを続ける。
「んっ!んーっ!」
苦しかった。
単純な息苦しさと、胸の痛み。
いつもなら、れいなと一緒に居るだけで心地良く胸が痛むのだが、今日は違った。
れいなが怖くて、初めて『嫌だ』と思った。
- 685 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:54
- 絵里はありったけの力を込めて、れいなの肩を押し返した。
ようやくふたりの唇が離れる。お互いの唇を透明の液が繋いでいるが、あっさりとそれは落ちた。
絵里は反射的に、れいなの頬を叩いた。信じられないくらいに綺麗な音が病室に響いた。
れいなはなんの興味もないような瞳を絵里に向けた。絵里は肩で息をしながられいなを見つめ返す。
あれほど恋焦がれて、好きだと思った人は、この人じゃないと絵里は思った。
れいなは首の後ろをかきながら立ち上がり、絵里に背を向けた。
絵里はもう、その手を取ろうとはしなかった。
れいなは病室の扉に手をかけたが、絵里はなにも言わず顔を伏せた。
「…学校で待っとるけん、元気になりぃよ」
扉を開けたれいなのその言葉は、とても柔らかかった。
絵里は反射的に顔を上げた。いままでぶつけられた痛みを伴う言葉を忘れさせるような温もりがそこには確かにあったのだ。
「れーなっ!」
最後にほんの一瞬だけ見えた、れいなの素顔に、ほぼ無意識のまま絵里は叫んだ。
れいなは振り返らず、扉を閉めた。絵里の言葉は扉に反射され、届くことなくそこに停滞した。
- 686 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:54
- 絵里は無機質に閉まった扉を見つめ、顔を歪め、再び泣いた。
れいなの口から伝えられた、別れ。
友だちに戻ろうというあの言葉、もう好きではないというあの言葉、獰猛で、まるで絵里のことを考えていなかったあのキスが、絵里の心を蝕んだ。
れいなの優しい笑顔。
れいなの柔らかい声。
れいなの必死に走る姿。
すべてがこの腕の中から抜け落ち、なにも失くなってしまった。
―れーなぁっ!!
絵里はありったけの声で叫びたかった。
だが、それは溢れる涙に押し流されて、たったのひと言も、音として外に出ることは叶わなかった。
- 687 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:55
- れいなは702号室を出ると、エレベーターへと向かわず、階段へと歩いた。
フラフラと歩きながら階段の壁に頭をぶつけた。ジンとした痛みがあったような気もするが、それはハッキリと認識されなかった。
れいなはそのままズルズルと崩れ落ちた。
絵里の言葉が頭を巡る。
絵里の涙が胸を締め付けた。
絵里に叩かれた頬がやたら痛かった。
自分で決めた道。自分で選んだ道。
絵里を生かすために、れいなが悩んで決めた道だった。
もうこれ以上、絵里を傷つけないための道だった。
そのためなら、いくらでもれいな自身が傷ついてやると誓った。
彼女になんと詰られようとも、どれほどの痛みを受けようとも構わなかった。
- 688 名前:Only you 投稿日:2011/11/27(日) 20:56
- 絵里に叩かれた左頬を押さえた。絵里の泣き顔が頭を過った。
絵里にこれ以上の哀しみが降らないでほしかった。
いま、散々れいな自身が傷つけて泣かせたのだから、もうこれ以上は赦してほしかった。
絵里は必ずドイツで手術を受けてくれる。そして心臓も治って帰って来てくれる。
それがたとえ、れいなの隣じゃなくても良い。
彼女の笑顔を永遠に失ってしまうくらいなら、ワタナベの隣で生きてくれる方が良い。
それが絵里のシアワセだとれいなは思った。
―絵里…絵里…絵里っ!!
れいなの瞳から大粒の涙が溢れ出した。
どれほど自分が絵里を傷つけたのか分かっている。
名前を呼ぶことも、赦されないのかもしれない。そんな資格なんてもうないかもしれない。
だが、れいなは刻むように心の中で彼女の名前を呼んだ。
もう二度と、こんなことはしないから。
次に彼女に逢うときには、笑顔で友だちとして接するから。いままで通りにするから。
だから、どうかいまだけは、いま、この瞬間だけは、名前を呼んで、泣かせてほしかった。
最低な自分だけど、それだけの時間をください。
神様は信じないけど、どうか、どうか、お願いしますと、れいなは泣いた。
空はふたりの気持ちに反し、何処までも高く、青く広がっていた。
- 689 名前:雪月花 投稿日:2011/11/27(日) 20:58
- 今日は此処までになります
もう多くは語りませんが、ふたりの道を見守っていてください。よろしくお願いします。
では次回まで失礼します。
- 690 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/27(日) 23:20
- うわぁぁぁーーー!
あーーー!
これは、やはりクライマックス突入ですか?!
どうなるの?どうなるの?
いつもここではれいなを応援してたけど、
今回ばかりは絵里が心配ですね。
ていうか2人とも。
どうかどうか、もう一度2人の笑顔が見れますように。
- 691 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/28(月) 02:04
- 辛いですね…
最後まで2人の道を見守りたいです
- 692 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/28(月) 23:06
- 今の日常生活の中で一番の楽しみがこの小説です。
続き、期待して待ってます。
- 693 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/11/29(火) 10:56
- こうきたかぁ…
それで良いのかふたりとも。と思うけど仕方ないのか……
とにかく次回まで待っています
- 694 名前:雪月花 投稿日:2011/11/30(水) 23:53
- 本気で風邪を引きそうな雪月花です。
気づけばもう12月なんですね…月日が経つのは早いものです。
>>690 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
クライマックス…どうでしょう?w ネタバレになりそうなので深くは言えません
ふたりの選ぶ道がどうなるか、今後も見守っていて下さい。応援ありがとうございます!
>>691 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
ここ数回の更新はツラいことが続いてますね…
絵里もれいなも苦労させますが、最後まで宜しくお願いいたします。
>>692 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
わぉ、そう言っていただけるととてもうれしいです!励みになります。
期待に応えられるかは分かりませんが、がんばって更新していきます。
>>693 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます。
彼女たちも16歳、17歳ながらに一生懸命考えていると思います、それが正解かは分からないけれども。
ここからどうなっていくか、変わらずに見守っていて下さい。
では今日の更新です。
- 695 名前:Only you 投稿日:2011/11/30(水) 23:54
- さゆみは不機嫌だった。その理由はいくつかある。
まず7月に入ってからのこの暑さであった。
教室に冷房は設置されているものの、昨今のエコや節電の影響で、温度は28℃設定である。
さゆみは、28℃であるならつけない方がマシだと思っていた。
これはさゆみの持論であるが、そもそも28℃であるなら、つけるだけ電気代の無駄である。よっぽどクーラーを切って窓を開けた方がエコであり、風が入ることで作業能率も上がると思う。
とにかく、この28℃設定のおかげで教室内は暑く、さゆみは教師の目を盗んでは下敷きで扇いでいた。
次の理由はもうすぐ行われる期末考査である。
さゆみの成績は2年生に入ってからも徐々に上がり、いまでは学年で上位30人に入るほどである。
それは喜ばしいことであるが、そのことで両親や教師たちからの期待も大きくなり、さらに上を目指すように言われていた。
そうは言えど、此処から上位を狙うのは至難の業である。
さゆみは大学進学のことも考え始めていたが、有名難関大学には興味がなかった。実際、自分がなにを学びたいのか、興味のある学部がなにかもまだ分からない段階である。
それなのに、上位成績を目指すように言われ、無意味にプレッシャーをかけられるのは堪らなかった。
早めに志望校なり興味のある学部なり将来の夢が決まれば良いのだろうが、いまのところそれは見つかっていない。
- 696 名前:Only you 投稿日:2011/11/30(水) 23:55
- そして最後にして最大の理由があった。
それは、れいなと絵里のことである。
絵里は6月末に検査入院をした。月曜日には学校に来ると言って結局彼女は水曜日まで休んだ。
そしてそれと入れ違いになるようにさゆみは風邪を引き、学校を休んだ。れいなから移されたのだろうかとも考えたが、さすがにそれを口に出すのはやめておいた。
風邪を治し学校へ来ると、友人らはこぞってさゆみの心配をした。欠席明けの登校はこのように負傷したヒーローやヒロイン気分になれるので、さゆみは嫌いではない。
さゆみが席に着いたときからその違和感はあった。
れいなも絵里もまだ学校へ来ていなかった。さゆみが特段に早いというわけではない。むしろ今日は少し遅めの登校だった。
普段ならあのふたりは既に教室に入り談笑しているはずだった。それなのにあのふたりが揃っていなかった。
結局ふたりは始業のチャイムが鳴る直前に教室へ入った。
休み時間になると、絵里がさゆみの元へやってきた。
「風邪、だいじょうぶ?」
「もう治ったから平気なの。絵里こそだいじょうぶ?」
「うん、絵里はぜんぜんだよー」
そう言って笑う絵里は、何処か不自然だった。
至って普通の笑顔、普通の会話のはずなのに、さゆみはなにか違和感を覚えた。
さゆみがチラッとれいなの席を見ると、彼女はサッカー部の女の子と話していた。
その姿は実に楽しそうだった。正確に言うと、楽しそうに、見えた。
さゆみはなにかしらの疑問を持ちながらも、予鈴が鳴るまで絵里と他愛ない会話をした。
- 697 名前:Only you 投稿日:2011/11/30(水) 23:56
- 次の休み時間になると、今度はれいながさゆみの元へ来た。
「休んでた分のノート、いる?」
「れいなに借りるとは屈辱なの」
そう言うとれいなはいつものように「ニシシ」と笑ってノートを差し出した。
これも不自然だと感じた。ノートを貸してくれることはありがたい。だが、なにかおかしかった。
さゆみは先ほどとは逆に、絵里の席を見る。
絵里はクラスメートと笑顔でなにかを話している。それも、普通の、笑顔だった。
さゆみは髪をくるくると弄りながら少しだけ思案したが、れいなと会話を続けた。
- 698 名前:Only you 投稿日:2011/11/30(水) 23:57
- 昼休みに3人で昼食を摂った。いつものように生産性のない無意味な会話が繰り広げられた。れいなも、絵里も、笑って会話をしていた。
だが、それはいつもと何処か違った。いつものような甘い空気や優しい空気がなかった。
確かに、絵里が退院するまでの月曜日から水曜日までの間もれいなの調子はおかしかった。
絵里の見舞いに行ったのにも関わらず、何処か不安定で寂しそうな顔をしていたのは覚えている。
そして今日のこのふたりの様子。
ケンカでもしたのだろうかと最初は思ったが、それにしてはあまりにも会話が成立しすぎている。
普通ならば、どちらかが避けるだろうに、このふたりはちゃんと話をしている。
そう、普通の、友だちのように。
さゆみは玉子焼きに伸ばした箸を止めてふと考えた。
まさかと思う。
だが、あり得ない、とも思う。
しかし、そうは言ってもこの状況は、とも考える。
「ごめん、れな約束あるけん、先に行く」
れいなはそう言うと牛乳パックを潰し、ゴミ箱へ放ってから教室を後にした。
さゆみは手を振り、再び箸を伸ばし、玉子焼きを口に含んだ。少し焦がしてしまったのか、苦味が口内に広がった。
絵里をチラリと見ると、笑って手を振ったものの、すぐに寂しそうに視線を落とし、自分の弁当に箸を伸ばした。
さゆみの中で生まれた疑問や違和感が、徐々に形を成して広がっていくのを感じた。
ひとつの“仮定”となったそれをさゆみは信じたくなかったが、その“仮定”はさゆみのなかでハッキリとした結論へと至りそうであった。
そして、その結論は、さゆみを最も不機嫌にさせるものであった。
- 699 名前:Only you 投稿日:2011/11/30(水) 23:57
- ---
- 700 名前:Only you 投稿日:2011/11/30(水) 23:58
- さゆみが学校を休み、再び登校したあの日から、ふたりの様子は明らかにおかしかった。
傍から見て気づかないとしても、一番傍にいたさゆみだったら気づくレベルであった。
たぶん、愛ちゃんやガキさんが居ても気づいただろうなと思うが、いまは自分しかいない。
さゆみはヤマモトが黒板に書く化学式をノートに写しながら考えた。
さて、どうするのが最も良い方法だろうか。
「此処は今度の期末に絶対出すからな、書いとけよ」
ヤマモトの言葉に教室はざわついた。ノートを取っていなかった生徒は慌ててシャーペンを動かし始めた。
さゆみはノートを取り終えてシャーペンをくるくると回す。
期末考査まで残り3日しかない。仕掛けるとしたら今日だなとさゆみはシャーペンを止めた。
- 701 名前:Only you 投稿日:2011/11/30(水) 23:59
- HRが終わると、れいなは荷物をまとめて早々と教室を後にした。
部活動が停止期間に入ってからというもの、れいなはすぐに家に帰ることが多くなった。
普段であるなら、絵里と一緒に帰るか、残って勉強するかのどちらかであるだろうにとさゆみは冷ややかな視線を送った。
そのまま絵里を見ると、絵里も同じようにれいなの背中を追っていた。これは重症かもしれないとさゆみは思う。
「絵里も、もう帰る?」
絵里は急に話しかけられて驚いたのか、肩を上げた。
「あ、ううん、勉強して帰る」
さゆみは予想通りの言葉が返ってきたことに満足し、絵里の前の席に座る。
「ねえ、絵里、さゆみと賭けしない?」
「…賭け?」
絵里は一瞬、身構えた。
それは1年前、絵里がれいなに言ったセリフとほぼ同じだったからだ。
この話は確かにさゆみにもしたことがあるが、なぜそれをいま言うのかが分からなかった。
「絵里、前回の中間は何位だったっけ?」
「…全体で32」
「さゆみは全体で34」
一度さゆみは言葉を切り、そして言った。
「今度の期末考査で、絵里がさゆみより上なら絵里の勝ち。さゆみのが上ならさゆみの勝ちってことでどう?」
- 702 名前:Only you 投稿日:2011/11/30(水) 23:59
- 絵里は怪訝そうな顔をした。
そういう顔をされることは想定内であった。恐らく、疑問を持っているはずだ。
なぜ急に賭けをしようと言いだしたのか、絵里は考えているはずだ。あまり深く考えられると面倒なので、先に賭けの終わった後のことも提示することにした。
「絵里が勝ったら、絵里の言うことなんでも聞くよ。でも、さゆみが勝ったら、さゆみの質問に答えてほしいの」
「……どうして急に、賭けしようなんて言いだしたの?」
絵里は机からノートと教科書を取り出して広げた。その科目は彼女の得意な現国だ。
「絵里に聞きたいことがあるから」
真っ直ぐな視線を絵里に向ける。絵里もそれをそらさずに受け止める。
絵里の瞳に映るさゆみは、少しだけ挑戦的な笑顔をしているようにも見えた。この表情を絵里はどんな思いで見ているのだろうか。
絵里は、「質問ならいま答えるよ」とは言わずに目をそらした。
それが聞かれることを分かっているような、何処か諦めのような色を持っていたので、さゆみは畳みかけた。
- 703 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:00
- 「絵里の得意な現国の点数で勝負しても良いよ」
その言葉に絵里は再び視線を戻してきた。
神経を逆なでするような挑戦的な物言いに反応した絵里の瞳は強かった。その奥に微かに焔が宿っているようにも見えた。
「さゆの得意な数学でも良いですよ?」
絵里はシャーペンを手にしさゆみに向けてきた。
良い宣戦布告だなとさゆみは思いながら、「じゃあ、全体の順位で勝負ね」と席を立ち、自分の机へと戻った。
さゆみはカバンから化学の教科書を取り出し、範囲を確認した。
チラッと絵里を見ると、現国の教科書を仕舞い、苦手である英語の教科書を取り出していた。
これは本気にさせてしまったなとさゆみは思った。そうでないと意味がないのだが、勝たないとそもそもの意味もない。
この不機嫌を払拭するには、絵里との賭けに勝つしかなかった。さゆみも覚悟を決め、意味のわからない化学式に向き合った。
- 704 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:00
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- 705 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:01
- 「田中ぁ!何度目だ!!」
れいなは部顧問にひどく叱咤された。それも仕方がない。普段は滅多にやらない基本的なパスミスをかれこれ3回はしてしまっている。
期末考査が終わり、再び部活が始まった。
普段であるなら、抑鬱状態から解放され、部活にも精が出るのだが最近のれいなはそうではなかった。
絵里と別れてからというもの、部活にも授業にも身が入らなかった。
一応、絵里とは普通の友だちのように接することが出来ている。
最初の方こそ、違和感があり、なかなか難しかったが、絵里も“大人”の対応を取ってくれたおかげで、変に拗れることはなかった。
幸いにもさゆみにもそれはバレていないらしく、れいなは一安心だった。
あとは、自分がさっさといつもの調子を取り戻せば良いだけの話だった。
だが、期末考査の結果は最悪だった。
中間考査を風邪で受けられなかった分、今回の期末は力を入れなくてはいけなかったが、れいなはそれをしなかった。
机に向かうものの、頭の中には常に絵里のことが浮かび、勉強どころではなかった。
こんなことを考えてしまうこと自体が間違っていると分かってはいるものの、どうしても思考が止まらなかった。
案の定、期末考査はひどい結果に終わった。1年前、絵里と賭けをしたときには大躍進の結果だったのに、一気に急降下だなとれいなは苦笑した。
- 706 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:01
- そしてそれは部活でも同じだった。単純なケアレスミスを連発し、部員に迷惑をかけた。部顧問も見かねて注意をするのだが、れいなのプレーは直らない。
結局その日も、最後までれいなのプレーは戻らず、部活を終えた。
「田中、ちょっと来い」
れいなが部室へ行こうとしたとき、部顧問に呼び止められた。れいなは説教を覚悟しながらも、返事をし、走った。
「お前、どうした。なんか悩みでもあるのか?」
部顧問の言葉は意外だった。このままレギュラーを剥奪されるかもしれないと覚悟していたが、どうやらその考えはないようだった。
それだけこの人や部員は自分を信頼し、期待してくれているのだと感じ、それが申し訳なくもなった。
「大丈夫です。最近ちょっと調子悪いだけですから」
「そうか。あまり無理はするなよ」
それだけ言うと部顧問は去っていった。れいなは一礼すると部室へと歩いた。
頭をかきながら歩いていると既に着替えを終えた部員らとすれ違った。
「おつかれいな、また明日!」
「じゃあね、れいな!」
彼女たちは普段通り笑顔で接してくれている。
いつもと違ったプレーのれいなを見れば、なにかあったことくらい分かっているだろうに、彼女たちはあえてなにも言わなかった。
部員同士の絆を改めて感じ、れいなは黙って右の拳を突き上げた。
これを返すには自分の本来のプレーで示すしかないと分かっていた。
その為にどうすれば良いかなんて分かっている。ひたすら練習するしかない。早く絵里のことも忘れて、元の友だちに戻るように。
- 707 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:02
- 頭を冷やそうと蛇口を勢い良くひねり、頭から水をかぶった。
普段ならこんなことはあまりしないのだが、今日はどうしてもしたかった。
「はい、田中さん」
蛇口を止めると、右からタオルを差し出された。サッカー部のマネージャである光井愛佳であった。
前にもこんな事があったなと思いながら、れいなはタオルを受け取り顔を拭いた。ちっとも気は晴れないが、これ以外にする術はなかった。
れいなはボンヤリと愛佳を見つめる。彼女はいつものようにニコッと笑っている。
愛佳の笑顔も偽りのない透き通ったきれいなものだ。れいなは急に、彼女にすべて吐露したくなったが、それを必死に堪えて話を変えた。
「愛佳ってさ、ダンス部やったっちゃろ?」
「はい、そうですよ」
使い終わったタオルを受け取り、蛇口で洗い始める。仕事をこなす手を休めないまま愛佳は答える。本当に彼女はよく気の付く良いマネージャーだと思う。
「高校はなんでせんかったと?」
「んー…まあ、いろいろありまして」
そうして笑って返した愛佳に、れいなはいつかの絵里を重ねた。
ある理由から、茶道部を辞めざるを得なくなった絵里。それを話すことを拒み、曖昧な言葉と笑顔でごまかしたあの文化祭の出来事が、唐突にれいなに蘇った。
もうここまで来ると重症だなと自覚するが、吹っ切れそうにはなかった。
れいなは「そっか」と呟き、部室へと歩き出した。後方から「お疲れ様でした!」と大きく声をかけられたが、れいなはそれに返すことはできなかった。
- 708 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:02
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- 709 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:02
- アパートの駐輪場に自転車を置き、自分の部屋へと歩く。
鍵を探そうとカバンに手を突っ込んだとき、ケータイが震えた。れいなはケータイを手に取ると、相手を確認せずに応答した。
「はい、もしもし」
「れいな。いまどこ?」
だれだろうと一瞬思い、画面を見ると、ディスプレイにはさゆみの名前があった。
れいなは驚いた。1年以上一緒に居たさゆみの声が分からなかったのは初めてだ。
それは、さゆみにしては声が低い気がしたからだ。いつもの高くて可愛い声じゃないことがれいなを惑わせた。
「いま、家やけん…」
「あ、そ。じゃあ、いまから行くから」
「は?ちょー待て、れなはまだ」
れいなが反論する前に電話は切られた。無機質な通話終了音がケータイから響いた。
―なんや、あいつ…
れいなは鍵を取り出し、アパートの扉を開いた。
さゆみの思いつきはいまに始まったことではないが、それにしても今日は急すぎる。
用事があるのなら電話で言えば良い話ではないのだろうか。もしくはメールとか。
そもそも明日、学校で会った時ではダメなのだろうか。
しかも想像ではあるが、さゆみはなぜか怒っているようだった。だが、さゆみに怒らせるようなことはしていない。
―ああ、もう!
れいなは怒りながらも制服を脱ぎ、ジャージに着替えた。
改めて片付けるほど汚い部屋ではないが、とりあえず荷物を端にまとめ、麦茶をコップに注いだ。
- 710 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:03
- ピンと一度鳴ったあと、ポーンという音が室内に響く。
先ほどの電話から10分も経っていないが、こんな時間帯に来るやつは彼女しかいない。
れいなは覗き穴から相手も確認せずに扉を開けた。普段からこんなことをすれば実家の両親が心配するだろうなとれいなは思った。
果たして相手はさゆみだったのだが、彼女は挨拶もそこそこに部屋へと上がった。
ずいぶんと強引だなと思うが、彼女の纏った空気は完全に冷たくて暗いものだったので、れいなはなにも言わなかった。
なぜ怒っているかなど想像もつかないが、れいなはとりあえず、さゆみを部屋へと通した。
「で、なんの用?」
れいなは用意しておいたコップをさゆみの前に置いて言った。
さゆみはグラスに手を伸ばしたが、飲もうとはしなかった。なにか言葉を探しているのか、まだ黙っている。
その表情は、やはり怒っていた。正直にそれが、怖いとも思った。
れいながコップに口付けて麦茶を飲むと、さゆみが声を出した。
「なんの用か、分かんない?」
その声は、低かった。恐らく、れいながさゆみと接してきて初めて聞く声。
普段の可愛らしい女の子の高い声はどこに行ったと思いながらも、れいなは返す。
「分からんな」
れいなは動揺を隠すように再び麦茶を飲む。喉が一瞬で潤うが、一瞬で乾きそうな気配もあった。
- 711 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:04
- 「絵里とのこと、聞いた」
れいなはさゆみと目を合わせた。彼女の黒い瞳が真っ直ぐにこちらを捉えていた。
別に絵里に口止めをしたわけでもなかったため、いずれはさゆみも知る事実だとは分かっていた。
想定内の出来事ではあったが、この口振りは想定外だった。れいなは視線を外さずに「そっか」と返した。
「なんで、別れたの?」
理由までは聞いていないのか、さゆみはれいなに問うた。
絵里にどのような質問をしたのかは分からないが、絵里が話さなかったのかもしれない。
れいなは隠す必要もないなと正直に答える。
「ドイツでの手術のためにはれなが邪魔やろ。絵里が生きられるっちゃったら、別れた方が良か」
「……国内での手術もあるのに?」
「それでも成功確率は下がる。それやったら、確実に生きられる方を選ぶやろ」
「絵里は行かないって言ったのに?」
さゆみは退くことなく、れいなに質問を続けた。
こんなに質問攻めをされることも想定外だった。
さゆみなら、分かってくれると思っていた。ただ絵里に生きてほしいという願い。絵里の笑顔を失いたくないという気持ち。
絵里のことを、友だちとはいえ絵里を好きだと思っているさゆみなら、れいなのこの決意を分かってくれると思っていた。
それなのに、彼女はれいなを責めているような質問をする。それがれいなは想定外であり、寂しくもあった。
- 712 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:04
- 「さゆは、絵里に生きてほしくないと?」
「質問してるのはこっち」
「…れなは絵里に生きてほしいだけっちゃ!たとえそれが自分の隣じゃなくても!」
れいなは思わず叫んだ。
どうして分かってもらえないのだという苛立ちと、さゆみの不機嫌の理由が分からないことが、れいなに声を出させた。
だが、それでもさゆみは変わらずにこちらを見ている。
いつだったか、彼女の瞳には強い力があると思った。なにも言わせないような、なにも語らせてくれないような、そのくせにすべてを語らせる力。
そしてそれはいまでも健在だと、思った。れいなは押し黙り、首の後ろをかいた。
「ひとつ聞かせて」
「…なん?」
「絵里のこと好きじゃないって言ったのは、ホント?」
「……言った」
そこで初めてさゆみの瞳が揺れた気がした。
さゆみは「そう」と呟き、立ち上がった。そしてれいなに近づいてくる。
なんだろうと思っていると、急に胸倉を掴まれる。
- 713 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:05
- 声を出す余裕もなかった。
気づいたときにはれいなは頭から床にダイブしていた。遅れて左頬に痛みが走る。
殴られたのだと気づいたのは、さゆみが右の拳をこちらに突き出しているのが見えたときであった。
「な、なんしよーとや!」
その問いには答えず、再びさゆみはれいなを殴った。
口内に鉄錆のような味が広がる。何処か切ったのだろうと自覚するが、だからどうしたという話だ。
さゆみはれいなに馬乗りになってくる。再度拳を振り上げてきたので、れいなは辛うじてその腕を取った。3回も殴られるのは御免だった。
「さゆ…なんすっとか」
れいなは頭に血が上っていた。
もう意味が分からない。
急に電話がかかってきて、家に押し掛けられた。質問攻めにされた挙句に、なぜ殴られなければならないのだ、しかも2回も。
- 714 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:05
- さゆみはれいなを押し返そうと腕に力を込めていたが、それが徐々に抜けていった。
れいなもそれを感じ、手首を離すと、さゆみの腕はだらしなく垂れた。そしてれいなの頬に温かいものを感じた。
「なんで…なんで…そんなこと言うのよぉ」
れいなは眉間にしわを寄せながらさゆみを見つめた。
部屋の蛍光灯によって逆光になり分かりづらかったが、ハッキリと泣いていることは分かった。
「凄く好きでしょうがないくせに、なんでそんな嘘つくのよぉ…」
怒られて殴られて、そして泣かれて。れいなは困惑しながらさゆみを見た。
痛む頬を抑えながらゆっくりと上半身を起こすと、さゆみが漸く体を退けた。
れいなは近くにあったティッシュをさゆみに差し出すと、彼女はなんの迷いもなくそれを受け取った。
「…言ったやろ。生きてほしいだけやって。絵里には、もっと生きて、笑ってほしいだけっちゃ」
さゆみはティッシュで鼻をかむ。それをぽいとゴミ箱へ放り投げると、再びれいなと向き直った。
「れいなは絵里のこと、なにも考えていない」
その強い言葉にれいなは反応した。
さゆみを見ると、彼女はもう泣いていなかった。だが、先ほどまでの黒く光りのない瞳も、そこにはなかった。
「自分の気持ちを無理やり押し付けただけ。そんなの身勝手にもほどがある」
- 715 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:06
- れいなは叫びそうになるのをぐっと堪えた。
生きてほしいと思うことが、笑っていてほしいと思うことがそんなに身勝手だと言うのか。
「絵里の気持ちはどうなるの?」
その言葉を聞き、れいなは押し黙った。
確かに、生きてほしいという願いも笑ってほしいという想いも自分のものだ。
だが、生きたくない、笑いたくないと思う人はいない。絵里だって同じ気持ちのはずだった。
ドイツで手術するのに、彼女を躊躇わせてるのは自分自身の存在だ。
友だちに戻る。そうすれば絵里だって素直に手術を受けてくれると思っていた。
「れいなの居ない場所で、絵里が笑うとでも思うの?」
「え?」
「絵里の本当の笑顔を引き出したの、だれだと思ってるの?」
さゆみは真っ直ぐにれいなを捉える。再びその黒い瞳は涙で溢れていた。相変わらず、れいなになにも言わせない力を持っている。
- 716 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:07
-
絵里の、本当の笑顔。
何処かに置き去りにしていた感情。それを引きだした。優しく笑うようになった。それは、だれのおかげ?
「れいなに恋したからじゃないの?」
さゆみの涙とその言葉に、れいなは目を見開いた。
- 717 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:07
-
絵里の、恋。
勘違いでも自惚れでもなく、絵里はれいなに恋をしていた。
れいなが絵里を愛しく想うのと同じくらい、絵里もれいなを好きだと想っていた。
―きみと一緒に居ることで、絵里はよく笑うようになったよ
ワタナベに言われた言葉が不意に頭をよぎった。
絵里の笑顔を、何処かに置き去りにしたその美しい表情を再び引き出したのは、他ならぬれいな自身?
困惑しながらも頭を整理しようとするれいなに、さゆみの声が降ってくる。
- 718 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:07
- 「…もっと自覚してよ、自分にしかできないことがあるんだって。
れいながれいなでいること、絵里を真っ直ぐに好きだって想う気持ち、それが絵里の力になるって、なんで分からないの?」
涙ながらに言うさゆみの言葉が突き刺さる。
ああ、もしかしたらあの日の絵里も、こんな風にして、れいなの言葉を受けていたのではないだろうか。
「…絵里がなんであんなにドイツに行きたくないって言ったのか、れいな知ってる?」
さゆみの言葉にれいなは首を振ろうとしたが力が入らない。真っ直ぐに射抜かれた言葉がれいなの力を奪っていた。動かないれいなをさゆみは見るが、構わず続けた。
「ワタナベ先生と付き合いたくないとかそんな理由じゃない。自分を好きだと言ってくれて、自分も好きだと想える人、れいなと一緒に居たいからだよ」
- 719 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:08
- ---
- 720 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:08
- れーなと一緒に生きていたいの。ハタチまでもたなくても、国内での確率が低くても、れーなと居たい。
一時の気持ちで人生を棒に振るって思われるかもしれないけど、絵里にとっては、この瞬間が全部だもん。
れーなの隣に居て。れーなと一緒に笑って。れーなと手を繋いで歩いて。れーなの温もりを感じて。
その瞬間がね、絵里にとって“生きてる”ってことなの。
れーなの居ない人生なんて、もう考えられない。重いって思われるかもしれないけど、れーなが居ない場所じゃ、生きたいって思えないの。
だからドイツでの手術も断ってたんだけど……好きじゃないって言われちゃったから、仕方ないよね。
- 721 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:09
- ---
- 722 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:09
- さゆみは高校生になってはじめて、これ以上ないというほど勉強をした。
いままでももちろん勉強はしていたのだが、今回ほど試験対策をして挑んだことはなかった。
期末考査の結果は、学年全体で13位と大躍進だった。
絵里も決して悪い成績ではなかった。苦手の英語も大幅に点数がアップし、得意の現国は満点近い点数を叩きだした。
だが、たった少しのケアレスミスが各教科であり、結果としては23位であった。
前回の試験よりも成績が伸びていること自体は不満ではなかったが、さゆみとの賭けに負け、絵里は正直にあの日のことを話した。
そしてさゆみは話の途中で憤慨した。
何処の悲劇のヒロインぶっているんだとれいなに文句を言いたくなった。
その気配を察した絵里は慌ててさゆみを宥めた。
「れーなは絵里のこと考えてくれたと思うの。だから怒らないで、ね?」
「でも、れいなはっ」
「好きじゃなくなっちゃったのは、仕方ないじゃん…だから、ね?」
絵里は必死にさゆみを宥めた。
その表情が優しくて、そして暗くて、さゆみは拳を握り締めた。
一応その場では怒らないと約束したが、とてもじゃないが、さゆみは我慢できなかった。そしてそのままれいなに電話し、いまに至る。
- 723 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:10
- 「好きじゃないって嘘までついて…絵里のこと考えて行動したつもりだろうけど、間違ってるよ、そんなの…」
さゆみは泣きながられいなの肩を叩いた。やはり拳は握られているからか、やたら痛い。
「れいなに恋して、いま此処で生きてるって実感して、絵里はそれがシアワセだって思ってるの…」
二度、三度と肩を殴られる。
痛い、痛い、痛い。
あの日と同じだ。
スズキらに雨の中で殴られた日も、こんな痛みを感じた。
体だけじゃなく、頭が、心が痛い。
絵里に叩かれた左頬がうずいた。絵里の笑顔を導くどころか、れいなは絵里の涙を見た。
瞳を閉じればいつだって、絵里のことが思い返される。それなのに、絵里はずっと泣いている。決して、笑っては、くれなかった。
「れいなしかいないんだから…絵里の笑顔、守れるの…」
さゆみはそこで漸く殴るのをやめ、涙を拭いた。
だが、れいなはずっと痛みを感じていた。さゆみに殴られた肩も、絵里に叩かれた左頬も、そして胸の奥も、ずっと痛んでいた。
- 724 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:10
- もっと殴ってほしかった。もっと詰ってほしかった。
ああ、もう。何処で間違ってしまったのだろう。最善の道だと信じていたのに、どうして違う道を選んでしまったのだろう。
絵里と別れることが彼女のためだと思っていた。だけどそれは違っていた。自分で手放したシアワセが、あんなにも輝いているなんて思わなかった。
どうして、どうして。
なんでいつもこうなんだよとれいなは呟きたくなった。
- 725 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:11
- 「8月1日…」
「え?」
「それが絵里がドイツに発つ日」
さゆみの言葉にれいなは壁にかけてあるカレンダーを見た。
明日は1学期の終業式であった。さゆみの言うその日まで、あと1週間もなかった。
「16時の飛行機だから、タイムリミットは14時」
れいなも福岡から飛行機で上京してきたから分かる。
搭乗手続き等を考えても、1時間前には手荷物検査等、すべてを終えていなければならない。しかも海外に行くなら、2時間の余裕が必要だとは思えた。
だが、急になぜそんなことを言い出すのだろうと疑問に思ったが、さゆみは続けた。
「それまでに、なんとかして」
「…なにを?」
素直な疑問を口にすると三度、さゆみの鉄拳が飛んできた。完全に油断していたれいなの左頬にクリーンヒットする。
ああ、もう、治療代を請求しても罰は当たらないだろうとれいなは思った。
「自分で考えて」
そう言うとさゆみは立ち上がり、カバンを持ってれいなの部屋を飛び出した。
独り取り残されたれいなはポカンとしてさゆみの出ていった扉を見つめた。
だが、二度とその扉が開くことはなかった。
- 726 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:11
- れいなは痛む頬を抑えながらゴロリと横になった。
手遅れだ。
もう、いまさらすぎる。
絵里のことを散々傷つけておいて、どの口で行くなと言える?
そうだ、身勝手だった。
自分の気持ばかり押し付けて、絵里のことをなにも考えていなかった。
絵里のことを考えて行動していたつもりだったが、それはすべて、自分の弱さを隠しただけだった。
そうだ、怖かったんだ。
絵里がこの手からするりと抜け落ちていってしまうことが。
ハタチを迎えずに絵里が死んでしまうかもしれないことが。
絵里がそのまま振り返らずに何処かへ行ってしまうことが。
成功率が40%にも満たない手術を受けて、絵里が助からないかもしれないことが。
怖かった、怖かった、怖かった!!
結局、その怖さを見ないようにするために、自分の弱さを感じないようにするために、良い言葉を使って絵里を言い含めただけだということに、れいなはようやく気付いた。
- 727 名前:Only you 投稿日:2011/12/01(木) 00:12
- 好きじゃないって、どうして言えた?
あんなにも自分の中にあった感情が溢れ出してしまうのに。どうしてそんな嘘をついた?
好きじゃないなんてあり得ない。
好きで好きで好きで堪らない。
この腕で抱きしめて、その髪に触れて、柔らかい唇にキスを落として、なんどでも好きだと言ってやりたいのに。
でも、遅すぎる。
もう、なにもかもが手遅れだった。
空回りだ、全部。
あの一大決心も、結局は無意味だった。
れいなは「ああ」と呟き四肢を投げ出した。
ベッドに行くのも億劫で、れいなはそのまま目を閉じた。涙がつうと目尻から伝った。泣く資格なんてとっくにないのになと、思った。
- 728 名前:雪月花 投稿日:2011/12/01(木) 00:12
- 今日は此処までです。
次回まで失礼します。
- 729 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/01(木) 11:23
- 痛いっすねー…
6期の絆っていいなぁと再確認しました
れいながどうするのか気になります
- 730 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/01(木) 17:49
- そっかぁえりりんはあの言葉を信じちゃったのかぁ…
これからのれいなが楽しみだな
- 731 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/01(木) 22:25
- こんなに飼育でのめり込んでしまう文は数年ぶりです。
さゆがカッコよすぎる!
そして、れいなの綺麗な顔が心配だ。
- 732 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/04(日) 20:34
- 3人が3人とも優しくて切ない…
れいながどうするのか、絵里がどうなるのか、見守りたいです
- 733 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/04(日) 22:07
- 楽しみすぎて待ちきれん
- 734 名前:雪月花 投稿日:2011/12/05(月) 00:13
- 年末はなにかと忙しいです、雪月花です。
絵里の卒業からもうすぐ1年ですか…本当に月日の流れは早いですね。
>>729 名無飼育さんサマ
6期最強伝説とよく言われますが、本当にその通りだなってしみじみ思います。
本作に登場する3人は現実の3人とは違いますが、想いとか絆は大切に書いていこうと思っています。
れいなを含め、だれががどう動くか、見守っていて下さい。
>>730 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
絵里にとってれいなは大切な人だし、自分の世界を変えてくれた人なので、良くも悪くも影響力が強いのかもです。
これからどうなっていくか、懲りずに見てやって下さい。
>>731 名無飼育さんサマ
そんなお言葉を頂けるととても嬉しいです!勿体ないお言葉ありがとうございます。
この物語において、さゆは可愛くてカッコいいキャラですw
れいなの顔については今回の更新でどうなったか明らかになると思いますw
>>732 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
優しいことは時に人を傷つけるのかもしれませんね。優しさと嘘は紙一重です。
どうぞ、物語の進行を見守っていて下さい。
>>733 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
そう言っていただけて本当に嬉しいです。励みになります!
期待に応えられるように今後も精進して参ります。
では今日の更新です。
- 735 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:15
- その日、さゆみの話を聞いた里沙は頭を抱えた。
「でも…それはなー…」
「お願い!ヘタレな後輩を助けると思って!」
さゆみは目の前で両の手を合わせた。里沙は「うーん」と唸りながら額に手をやる。
そんなふたりをチラリと見ながら、愛はハンドルを切る。多数の車がすれ違うなかで、彼女は答えた。
「まー、間違いだらけでも、あいつは真面目やからな」
「そうは言っても、さすがにねー…」
助手席の里沙は窓の外を見る。いま、まさに、空港からひとつの飛行機が飛び立った。
時刻は、もう13時になろうとしている。絵里の乗る飛行機は、あと3時間で日本を発つ予定だった。
「でも、確証はないんやろ?」
愛は踏んでいたアクセルからゆっくり脚を離し、減速した。
この夏に買ったばかりだという愛の車は、滑り込むようにして空港の駐車場へと入っていく。
- 736 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:15
- 「来てくれると、信じてます」
後部座席に乗っているさゆみはミラー越しに愛を見る。その瞳はなんの疑いも持っていなかった。その確証は何処から来るのかなど、聞くことすら愚問のように思わせた。
愛は慣れた手つきでハンドルを操作し、駐車した。ああ、強いな、その瞳は。そう思いながら愛はエンジンを切り、外に出た。空は快晴で、太陽がジリジリと照りつけていた。
「……里沙ちゃん」
車から降りた里沙に、愛は車の鍵を投げてよこした。里沙は嫌な顔をしながらも素直にそれを受け取った。
それが、ふたりの協力の合図であることにさゆみは感謝した。愛はそんなさゆみを見ながら苦笑交じりにこう言った。
「…あとは、あいつ次第やからな」
そうして、さゆみに背中を見せて、空港へと歩き出した。
さゆみと里沙もその後に続いていく。さゆみはケータイを開いた。新着メールはなかった。さゆみは電話しようかとも考えたが、迷った挙句、それを堪えた。
きっと、此処で催促しては意味がない。歩き出すには、彼女の決意が必要だった。だから敢えてさゆみは、なにも言わずにケータイを閉じた。
タイムリミットまで、あと1時間を切っていた。
- 737 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:16
- ---
- 738 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:16
- れいなは灼熱の太陽の下、ボールを追いかけた。
さゆみから殴られた左頬はまだヒリヒリと痛む。それより前に絵里に叩かれた場所は、もっと痛んでいるような気がした。
それらの痛みを受けとめることがれいなの義務だと思っていた。
結局れいなは、終業式には行かず、部屋で氷と「お友だち」になっていた。
自分で予想していた以上に左頬は腫れあがり、とてもではないが登校できる状態ではなかった。
- 739 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:17
- れいなはその日からずっと考えていた。
もう自分に、彼女のこと想う資格がないことも分かっているが、それでもれいなは考えた。
手遅れで、いまさらで、どうしようもないことかもしれないが、れいなは考えた。
絵里と一緒に居ること。絵里の隣で笑っていること。絵里と時間を共有すること。
短期間ではあるものの、それはれいなの人生の中で輝きを放ち、なにものにも負けないように主張していた。
色鮮やかに優しく光るその時間は、まさにシアワセそのものだった。
それを自ら手放し、絵里を傷つけたのは間違いなくれいな。
自分を優先し、絵里を考えようとしなかったのは、れいな。
間に合わない、もういまさらなことだと分かっている。
だが、さゆみは言った。
「16時の飛行機だから、タイムリミットは14時」
そして、彼女はこうも言った。
「自分で考えて」
だから考えるしかなかった。
どうすることが本当に最善なのか。
どうすることが、彼女の笑顔のためであるのか。
もう間違えることはできない。これ以上間違ってしまうと、本当に彼女の笑顔を失ってしまう。
だが、そうは言っても答えは簡単に出るはずもなく、れいなはズルズルと今日まで来てしまった。
今日、8月1日も、サッカー部は練習に励んでいた。
いまは午前11時45分。高校から空港までは、車でも約2時間はかかる。どれだけ飛ばしても、1時間半が限度だ。
さゆみの言うタイムリミットを考えても、12時半には此処を出ないと間に合わない。
その時間まで、あと1時間もなかった。
- 740 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:18
- れいなはパスをもらい、左から走り込んだ。
ひとり、ふたりとかわしていき、シュートを放つ。真っ直ぐな弾道ではあったが、無情にもゴールはポストに嫌われた。
れいなはチームメイトから「ドンマイ!」と声をもらい、再び自陣へと戻っていく。
時計の針は動き続ける。れいなはため息をつく。
逢う資格なんてない。彼女を想う資格なんてない。
自分勝手な言い訳を作って、傷つけて、泣かせて。
そんなこと分かり切っているのに、どうしようもないことをれいなは考え続けた。
走る脚を止めて天を仰ぐと、あの日と変わらない青空がそこには広がっていた。
ちらりと屋上を眺めた。いつだったか、れいなはその場所に立つ絵里を助けに行った。
確かに、彼女の姿を見かけはしたが、なにか嫌な予感に突き動かされ、ただ彼女の声が聞こえたと言うだけでれいなは走った。
そんなことは馬鹿げていると、だれかに一笑にふされてもおかしくない。
だが、れいなは走った。なんの確証も、根拠もなかったのに。
- 741 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:18
- 目を閉じて、胸一杯に空気を吸う。
風の音が聞こえる。灼熱の太陽が照りつけても、風はいつも真っ直ぐに吹いている。
それは荒みきった心を洗い、すべてを真っ白にしてくれる。
―れーなが好き。大好きですよ
初めてキスを交わしたあの日、絵里はそう言った。
顔を真っ赤に染めて、短めの栗色の髪を揺らして、大きな瞳を輝かせて、そう言った。
雪の中で交わしたキスは、何処までも暖かかった。
ああ、くそと想った。髪をガシガシとかきむしる。大声で叫びたいなか、れいなは走った。今度こそシュートを決めてやると、ボールを追いかけた。
- 742 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:18
- ---
- 743 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:19
- 「あ、さゆー」
さゆみを見つけた絵里はニコッと笑い手を振った。
その後ろに居る愛と里沙にも気づいたのか、絵里はさらに嬉しそうな声を出した。
「ふたりとも来てくれたんだー!」
絵里の頭を撫でながら、愛が言った。
「絵里がドイツで手術するって言うし、気になってな」
「カメは見送りしないと寂しがっちゃうかなと思ってね」
里沙も続けて言うと、絵里は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。ホントに嬉しい」
その表情は柔らかく、そして優しかった。4人はしばし、時間を忘れたように話し始めた。
空港という出会いと別れの場で、それはごくありふれた光景であった。
絵里はドイツでの手術のことを、安倍には話していたが、クラスメートには黙っていた。
あまり話を大きくしたくないのと、見送りをされるのがつらかったからだ。
今生の別れでもないということは分かっているが、それでも、泣いてしまう気がしたので、黙っていた。
安倍はというと、どうしても外せない会議が入ってしまい、見送りには来れないということだった。
それはそれで寂しいのだが、どちらにせよ良かったかもしれないと絵里は思った。
「お見送り、ありがとう」
絵里の後ろには、絵里の両親と、そしてワタナベが居た。
さゆみたちはぺこりと一礼し、挨拶をした。両親の荷物はほとんどないので、彼らは日本に残るのかもしれないとさゆみは思う。
「大丈夫ですよ、必ず成功させますから」
ワタナベがそう言うと、絵里の母親は特に深く頭を下げた。父親は一礼し、そして黙って絵里を見つめていた。だが、絵里はその視線には気づかない。
- 744 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:20
- さゆみはケータイを開いて時間を確認する。もうすぐ14時になろうとしていた。新着メールも不在着信も、なかった。
れいなを説教してから1週間も経つのに、れいなは結局この日のこの時間になってもまだ動かなかった。あのバカ猫と呟きたくなる気持ちをぐっと堪えてケータイを閉じる。
「日本に戻ってくるのは、いつぐらいになりそうなの?」
こうなれば話を引き延ばすしかない。さゆみは当たり障りのない質問を絵里にぶつけた。
「ホントはリハビリが必要なんだけど、日本でもできるみたいだから、秋には戻ってこれると思う」
「手術直後はドイツにいる必要があるけど、ある程度まで回復したらこっちでリハビリを続ければ良い。心配はないですよ」
絵里の回答に横からワタナベが補足した。実に分かりやすく心強い答えだったが、さゆみにとってそれはどうでも良かった。
さて、次の質問を考えなくてはいけないと思うが、ワタナベはそれを許そうとはしなかった。
「そろそろ行こうか、絵里ちゃん」
ワタナベは絵里の肩に手を置く。いよいよまずいと思うが、あまり無理に引きとめることはできない。
絵里の母親はワタナベの手を握り、「どうぞよろしくお願いします」と再び頭を下げた。
- 745 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:20
- 愛はさゆみにそっと耳打ちをした。
「連絡はないんか?」
さゆみは何度目かケータイを開いた。時刻は14時を8分も回ったところであった。
メールセンターに問い合わせるがまったく受信の気配はなかった。
あのへたれ、本当に来ないつもりかと今度は大声で叫びたくなったが、それを必死に堪えると、絵里がさゆみの手を取った。
「…いろいろありがとね、さゆ」
そのとき絵里は、笑っていた。
すべて分かっているのかもしれないその表情は、れいなの言うところの、偽りの笑顔にも見えた。
「ガキさんも、愛ちゃんも、わざわざ見送りに来てくれてありがとう」
「カメ…」
里沙はなにか言おうとするが、結局良い言葉は見つからなかった。
絵里がひとつ頷くと、愛は里沙の肩に優しく手を置く。
「気をつけてな、絵里」
愛の言葉に絵里は深く頷いた。
- 746 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:21
- 絵里はそっと、首元につけているネックレスに手をやった。
れいなとは別れてしまったというのに、このネックレスをつけているなんて女々しくてダメだと思う。
だが、やはりこれをつけていると、何処か力が湧いてくる気がした。
愛の力、なんていうと、また重い女と思われてしまうかもしれないが、なんとなく、そんな気がした。
「絵里ちゃん」
ワタナベの呼ぶ声がした。
もう、戻れないと絵里は思った。たとえこの場所に戻ってきても、そこに彼女はいない。
たとえ手術が成功しても、絵里はまた笑うことが出来るだろうかと考えた。せっかく絵里の笑顔が好きだと言ってもらえたのになと、絵里は泣きそうになるのを堪えた。
絵里は「はい」と返事をし、オレンジ色のスーツケースを手にする。
「行ってくるね」
そう呟き、絵里は3人に背を向けた。
母親は絵里の手を握り、大丈夫だと呟いていた。父親は黙って頷き、絵里はそれに笑顔で応えた。
ゆっくりと歩き出し、ワタナベの横へと並んだ。
「大丈夫ですよ、安心して」
ワタナベの低い声が響く。
絵里は素直に頷く。この人なら、自分を助けてくれる。きっと絵里は長生きすることができると思った。
絵里とワタナベは搭乗カウンターへと歩いていく。人の波が増えている。絵里は一度だけ立ち止まり、振り返った。
3人の友人と両親が心配そうにこちらを見ている。それに笑顔で手を振った。
- 747 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:22
- 最も来てほしかった人は、やはり現れなかった。だけど、それで良いのかもしれない。
別れてしまい、友だちに戻ると言ったあの子。その言葉通り、れいなと絵里は普通に接していた。
残念ながらさゆみにはバレてしまったのだけれど、それでもちゃんと学校生活を送っていた。
絵里の17年間の人生の中で、最良にシアワセだったと思える日々。
れいなと過ごし、れいなと同じ時間を共有できたことは、絵里の中での誇りであり、輝かしい人生の1ページだった。凄く素敵な時間だと、絵里は胸を張って言える。
もう、彼女とその時間を共有することはできない。彼女の隣で笑うことはできないけど、それでも、この1ページは忘れない。
いつか、時間が経って、この記憶も薄れて忘れてしまうものなら、それはそうとして受け止めるしかない。
しかし、あの別れる日まで感じていたこのトキメキは絶対に忘れない。絵里の心臓に刻まれたものは、絶対に絶対に、忘れない。
心の中にはずっと、あなたがくれた優しさがあるから。
―だから、だいじょうぶだよ、れーな。
此処にはいない、恐らく炎天下の中でボールを追い駆けて走り回っているであろうれいなに、絵里はそう呟いた。
絵里は再びワタナベとともに歩き出した。少しだけ指でネックレスについたオレンジの石を触り、そして離した。
ドイツはどんなところだろう。よくビールが美味しいと聞くが、未成年の絵里には魅力的には思えなかった。
あとはソーセージやチーズが有名らしいので、そっちの方が絵里は楽しみだった。
観光をしに行くんじゃないんだけどなと思いながら、搭乗手続きの列に並ぼうとした。
- 748 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:23
-
―絵里ぃっ!
- 749 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:24
- そのとき、声が、聞こえた。
聞こえるはずのない声が、絵里の耳に届いた。
絵里は思わず振り返る。
3人の友人と両親は不思議そうな顔で絵里を見ていた。隣にいたワタナベも「どうしたの?」と心配そうにのぞきこんでいる。
広い広い空港。何人もの人が行き交う、出会いと別れの場所。コンタクトをして世界がよく見える絵里は目を凝らすが、その声の主はいない。
幻聴が聞こえるとは、もう自分は病気だなと苦笑しながら、絵里は再び歩き出そうとした。
- 750 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:24
-
―絵里いいぃぃっ!
- 751 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:25
- だが、再びその声が聞こえた。
今度は先ほどよりもはっきりと聞こえる。
夢ではない。
そして幻聴でもない。
絵里はしっかりとその目で捉えていた。
- 752 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:25
-
―うそ……
- 753 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:25
- さゆみは絵里の視線に気づき、それを追った。
自分たちよりもさらに後方に向けられた絵里の視線の先に、“あいつ”はいた。
朝陽高校サッカー部の青いユニフォームを着て、息も絶え絶えに大声で叫ぶ彼女は傍から見れば変人そのものだ。空港という場所になんとも似つかわしくない。
だが、その変人を、さゆみたちはずっと待っていたのだ。
さゆみはケータイで時間を確認する。
14時15分と、さゆみの言ったタイムリミットをずいぶんオーバーしていた。
「…遅すぎなの」
さゆみが苦笑しながら呟くと愛は髪をかきあげながら笑った。
「だけど、ちゃんと来たやん」
愛の言葉を受け、里沙はため息をついた。
「あーあ、捕まらないと良いなあ…」
だが、里沙も何処か、嬉しそうな声をしていた。
それを合図にしたように、3人はそれぞれ走り出した。
- 754 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:26
- れいなは息を切らしながら、絵里たちの元へと走ってきた。
その距離はまだ5メートルほどある。
「絵里っ!」
相当急いで来たのか、れいなの額には汗が滲み、息も絶え絶えであった。れいなは青いユニフォームの胸元を握り締めている。
肩で息をするれいなを両親は不審な顔で見ている。なにが起きているのか分からないと言った表情を浮かべ、ふたりを交互に見る。
ワタナベは多少呆れた顔をしながら、れいなに問うた。
「…きみも見送りかい?」
だが、れいなはワタナベの質問には答えず、絵里を見つめた。絵里も真っ直ぐにれいなを見つめ返している。
それが、覚悟であり信念であった。れいなはユニフォームから手を離す。そして、自分にできる精一杯を彼女に叫んだ。
「行くな、絵里っ!」
息を整えながられいなは声を上げた。一瞬だけ、時が止まる。
周囲の何人かは、何事かと思うように振り返る。傍から見ればなんという不思議な光景だろう。
だが、れいなはそんな視線にも気づかず続ける。
「…れな、自分勝手やったな」
「え?」
「絵里ン気持ち、なんも考えてなかった。自分のことばっか考えて、絵里のこと…傷つけた」
れいなは真剣な眼差しで絵里に伝える。もうこれしか言えないのだが、言葉が足らなくても良いとれいなは思っていた。
ワタナベは言葉の真意が分からず、れいなと絵里を交互に見る。絵里の両親も心配そうな顔を向けている。
- 755 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:27
- 「れな、あの日、絵里ンこと、もう好きやないって言った」
その言葉を聞き、絵里は胸が締め付けられた。
れいなから別れを告げられた日、絵里の心を貫いたれいなの言葉。
『別れよう』よりも『友だちに戻ろう』よりも冷たく響いたその言葉が、いまも頭に残っている。
「そう言うことが、絵里のためやって思っとった。信じとったっちゃ。れな、ホントにバカやけん」
ギュッと握りしめた拳が痛い。サッカーをするために爪はいつも短めに切っているのだが、掌にそれが食い込み血が出てきそうだった。
そんな痛みなど、絵里の感じたものに比べれば100分の1ほどでもないとれいなは思った。
もういまさらかもしれない。とっくに手遅れかもしれない。だけど、だけど、伝えなければ、意味がない。燻った想いを抱えていても、良いことなんてないんだ。
「だけん…だけん、れな、嘘は嫌いやけん、もう嘘つくの嫌やと」
- 756 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:28
- ずっとずっと考えていた。
ワタナベに告げられた事実を受けとめた。スズキたちに暴力を振るわれた。冷たい雨にひとり打たれた。何年か振りにひどい風邪を引いた。
絵里のためにと別れを告げた。親友のさゆみに全力で殴られた。頬を冷やしながらひとりの暗い部屋に横たわった。サッカーをしながら天を仰いだ。
空が青かった。風が啼いた。涙が溢れそうになった。小さな脳みそをフル回転させた。
なんども立ち止まり、振り返り、それでもれいなは前に進もうとしていた。
「れなは、れなは絵里をいまでも好いとぉ!」
- 757 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:29
- いつもいつも、れいなは走っていた。
絵里と出逢ってからというもの、れいなは常に走っていた。
いつだったか、渡り廊下で絵里を探した日も、暴行を受けている絵里を見つけた日も、さゆみに発破をかけられた日も、絵里の誕生日に駅で待ち合わせた日も。
れいなはその場に留まることをせずに、ただ真っ直ぐに走り出していた。
そのほとんどに、根拠なんて存在しなかった。
ただ絵里を見かけた気がしたから。ただ絵里の声が聞こえたから。ただ絵里に逢いたいと思ったから。
くだらなくて、馬鹿げていて、傍から見れば一笑にふされてしまうかもしれない、そんな些細で陳腐なものだった。
- 758 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:30
- だが、れいなは唐突に、思った。
もしかすればいつだって、理由は単純なものかもしれない。
れいなが走る理由も、絵里の隣にいたい理由も、絵里と一緒に生きていたいという理由も。
シンプルで単純で、理屈をつけてこねくり回すものではない。
好きなんだ。
絵里のことが好きで、その笑顔が好きで、ずっと笑ってほしいと想うだけなんだ。
常識とか、絵里の生存確率とか、ドイツでの手術成功例とか、そういうものを飛び越えてしまうくらいの理由。
いつだって、人は単純な想いを抱えている。
それが、さゆみに言わせるところの『恋』なのかもしれない。
立ち止まることはもうしない。
いつだってれいなは、絵里のその笑顔のために走っていたのだから。
- 759 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:30
-
「絵里を、絵里を愛しとお!」
れいなの叫びが絵里を貫く。別れの日に聞いた冷たい言葉ではなく、確かな温もりをもっているその言葉。
絵里は信じられないというように目を見開く。だが、決してそれは逸らされることなく、真っ直ぐにれいなを捉えている。
気づくのが遅すぎた。
れいなには絵里が必要だった。だけどそれと同じように、絵里にもれいなが必要だった。
お互いが笑顔になるためには、お互いが一緒にいる以外に方法はない。
単純で、実にシンプルなその理由。その簡単な答えを見つけるために、れいなはずいぶんと遠回りをした。
絵里を傷つけて泣かせて、さゆみに迷惑をかけて、自分自身に痛みを課して、すぐ傍にあったはずの気持ちに目を伏せて、目の前にあったはずの答えにずっと気づかなかった。
どれだけ鈍感でいたのだろう。自分の気持ちにも、絵里の気持ちにも。
鈍感でいて良いことなんてない。もっと気づこうってあの日に誓ったはずなのに。
- 760 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:31
- だけど、だけど、手遅れでも構わない。
たとえ遅くとも、間違いだらけでも、もう一度、此処から始めれば良い。
たとえなんど迷っても、なんど立ち止まっても、空を見上げて、風を感じて、もう一度、あなたと手を繋ごう。
真っ直ぐに、伝えよう。この気持ちを、嘘偽りのない透明な心を、あなたに伝えよう。
自分勝手で、我儘で、バカで、ヘタレで、不器用で、どうしようもないくらいに幼いけれども、揺るがないこの想いだけを貫くから。
だから、だからさ絵里。
身勝手やけん、叫ばせて。
れなのこの想い、胸の中に確かに存在して、別れを告げたあの日でさえも絶対に消えることのなかったこの想いを、どうか叫ばせて。
たとえ、たとえあなたが、受け取ってくれなくても、構わないから―――
「絵里の笑顔が見たい。ずっとれなの隣で笑っとってほしい。れなと一緒に生きてほしいっちゃ、絵里!」
- 761 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:31
- れいなの言葉に、絵里は震えた。
そこには、迷いも、衒いもない。どこまでもシンプルで真っ直ぐな言葉。
だが、だからこそそれは、絵里に届いている。
「好きじゃない」と言われ、どん底にまで落ち、絵里は堰を切ったように病室で泣いた。
慰めてくれる人も、抱きしめてくれる人もいなかった。仲の良い親友にも相談せず、絵里はただひとり、病室で自らを守るように泣いた。
泣いて泣いて泣いて、もう涙は終わりにしようと思った。
どれだけ涙を流したところで、もうれいなは振り向いてくれないのだから。次に逢ったときには、れいなは「友だち」でしかないのだから。
そう決意した。決意したのに、その瞳から涙が零れ落ちる。
綺麗で透明な雫は、ゆっくりと床に落ちていく。頬を伝った温かいものは、絵里の心を溶かしていく。
頭の中をいろいろなことが駆け巡る。ぐちゃぐちゃになって、頭痛がしてしまうほど混乱していく。
そんななかで、たったひとつだけ、ハッキリと見えたものがあった。
- 762 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:32
- 絵里はほぼ無意識にその脚を進めた。
ワタナベはそれに気づいたのか、絵里の腕を取ろうとするが、絵里はそれをするりと交わし、走り出した。
たった5メートルの距離。いまのいままで遠く感じられたその距離が、一気にゼロになった。
絵里はれいなの胸に飛び込んだ。
「れーなぁ……れーなぁっ!」
泣きじゃくる絵里を、れいなは黙って受けとめる。よしよしとその頭を撫でてやる。
絵里の香りがした。絵里の温もりを感じた。勢いよく抱きついたせいか、絵里の重さも感じた。
それが、生きている重さなのかもしれないとれいなはボンヤリ思った。
- 763 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:32
- 「絵里!」
5メートル向こう、ワタナベが叫んだ。
「一時の感情だ!彼女に絵里は助けられない。国内での成功確率は格段と下がる。
いまドイツに行けば、絵里、絵里は助かるんだ、生きられるんだ。なぜそれを一時の感情で捨てようとするんだ!」
ワタナベは燃えるような目でれいなを睨みつけている。
その目はもっともであり、彼はなにも間違ったことは言っていないとれいなは思う。
れいながなにか答えようとする前に、絵里がゆっくりとワタナベを振り返る。その瞳は涙で溢れかえっている。絵里はゆっくりと涙を拭い、答えた。
「…れーなが好きなの。絵里はれーなの隣で笑っていたいの。
先生にとっては一時の感情でも、絵里にとっては、それがすべてなの。れーなと一緒に生きていたいの!」
混乱する頭の中、絵里の中にたったひとつだけ明確に見えたもの。それもまた、シンプルなものだった。
“れーなの隣で生きていきたい”
絵里の心に芽生えていた強い想い。れいなの隣で、れいなの言葉を信じて生きていきたい。それこそが、絵里にこの言葉を叫ばせたものだった。
- 764 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:33
- 「っ、バカな…そんなこと……」
ワタナベは苦虫を噛み潰したような顔をし、絵里と視線を逸らした。
絵里はそれでも、ワタナベを見つめている。そこに、れいながなにかを囁いた。
吐息が耳にかかり、くすぐったいような思いを一瞬したが、その言葉を聞き、絵里は強く頷いた。
―――ちょっと走るっちゃよ、絵里
れいなは一礼すると、絵里の右手を握り、ワタナベと絵里の両親に背を向け走り出した。
ワタナベは虚をつかれたのか、まったく動けないでいたが、母親の叫びに我に返り、慌てて追いかけようとした。
- 765 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:33
- しかし、それは叶わなかった。
ワタナベの走ろうとしたその先の道に急に障害物が現れた。それは右方向から流れてきた、スーツケースなどを運ぶ空港専用の大きなカゴだった。
それがワタナベの進路を塞ぐように大量に流れ込んでくる。
何事かと思い、カゴの上流を見た。
そのときワタナベは、絵里の見送りに来ていた友人らふたりが慌てて何処かへ走っていくのをハッキリと見た。
―あいつら…!
「ワタナベ先生、これはどういうことですか!」
絵里の母親はこの状況の意味が分からないというようにワタナベに詰め寄った。
だが、彼としても、この状況の説明はできない。「とにかく絵里を追って下さい」とワタナベは叫び、障害物をどける作業を始めた。
「お客様、これはいったい…」
「とにかく手伝ってくれ!命にかかわるんだ!!」
騒ぎを見たキャビンアテンダントや空港職員がワタナベらの元に駆けつけ、空港は一時騒然となった。
絵里の父親は呆気にとられたように、絵里とれいなが走り去った方向を見ていたが、ひとつ息を吐くと天を仰いだ。
―結局これが、お前の生き方か……
父親は騒ぎの中心にいるワタナベに歩み寄った。とにかくいまは、この場を収束させることが先決だと思った。
- 766 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:35
- れいなと絵里は後ろの騒ぎを聞きながら、空港ロビーから外へ出た。
絵里をあまり走らせるわけにはいかない。此処へ来たようにタクシーを拾うのが最適だと考えるが、乗り場は何処だとれいなは探す。
そんなふたりにクラクションと声が聞こえた。
「カメぇ、田中っち、こっち!」
ふたりが声のする方を向くと、そこには車の運転席から手を振っている里沙の姿があった。
れいなは絵里の腕を引き、迷わずにその車に乗り込んだ。
「助かったと、ガキさん!」
「…ってガキさん、免許持ってたっけ?」
絵里が車に乗り込み、ドアを閉めるのを確認し、里沙はアクセルを踏んだ。
急に発進した車は一度大きく傾くが、里沙は気にせず踏み込む。
「持ってない!」
里沙の答えにふたりは驚愕した。
「はあ?!」
「も、持ってないのになに運転しちゃってんの?!」
「うっさいなあ、私だって知らないわよ!」
里沙はそのままハンドルを切る。車体は大きく揺れる。後部座席のふたりは舌を噛みそうになる。
「なにやってんのガキさん!」
「つかこれ、だれの車やと?!」
「あー、もう!ゴチャゴチャ言うと集中できないでしょーが!」
- 767 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:35
- 里沙はそう叫びながら車を転がす。実に危なっかしい運転だ。
運転免許を里沙が持っていないということは、この車は誰のものだ?
れいなの頭に浮かんだ当然の疑問をかき消すように、その人物の声が響いた。
「里沙ちゃーん!!」
愛とさゆみが手を振りながら走ってきた。里沙はそれを確認するとブレーキを踏む。
急ブレーキをかけられた車体は当然揺れる。「ぐぇ」とれいなは運転席のシートに頭をぶつけるが、もう文句を言う気力もなかった。
愛は運転席のドアを開けると当然のようにそこに乗り込み、里沙はそのまま助手席へと移動した。
「ハイハイ、猫ちゃん詰めてねー」
後部座席のドアを開け、さゆみがれいなの横から乗り込んできた。
さゆみに押しやられ、急に狭くなり、文句でも言いたくなったが、これはこれで絵里に近づけるから良いかとれいなは思い直した。
そのとき、同じく場所が狭くなった絵里はというと、「うへへぇ、れいなと近いし、圧迫されてるぅ」と満更でもない様子だったことを、れいなは知る由もない。
「行くでぇ、みんな!」
愛の叫びとともに、車は再び急発進した。
バックミラーを確認すると、空港の出入り口にワタナベと絵里の母親、それに何人かの制服係員が見えた。
絵里は後ろを振り返ることはしなかった。れいなはそんな絵里の様子に気づいたのか、絵絵里の手に自らのを重ねる。絵里は黙ってそれを握り返した。
- 768 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:36
- 「あっはぁ!お姫様奪還成功ぉ!」
どんどん空港が小さくなっていくなか、愛の声が響いた。それは実に楽しそうだ。
「もー、もうちょっと良い作戦なかったの?」
里沙が頭を抱えながら疲れたようにそう言うので、さゆみはニコニコしながら答える。
「だってぇ、ふたり掛かりじゃないと、あんな沢山のカゴは流せませんし、逃げ脚を考えると、さゆみと愛ちゃんがベストじゃないですか」
「いやいや、愛ちゃんはともかく、さゆみんと私だったら私の方が速いでしょーが」
「えー、だってさゆみ、免許持ってないし」
「私だって持ってないから!」
「さゆみはまだ捕まりたくありません」
「私は捕まっても良いって言うの?!」
「いーやん、結果オーライやん」
前の席と自分の隣で繰り広げられる会話についていけないれいな。
だが、辛うじて分かる。この3人は、絵里のために、手を貸してくれたのだということが。
恐らくそれは絵里も分かっているのだろう。なにか言いたげな顔をしているが、この3人の会話に入り込めない。
それでも、黙っているわけにもいかず、れいなは声を出した。
「ありがとう、3人とも…絵里のために」
その声に、3人の話が止む。
「はあ」とため息が聞こえ、右を見るとさゆみのわざとらしいうんざりした顔があった。
- 769 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:37
- 「絵里のためじゃないの」
「え?」
「絵里とれいなのためなの」
その言葉を受け、れいなは一瞬、言葉を失う。
前を見ると、運転席の愛はにこやかに笑っている。助手席の里沙も、さっきまでは文句を言っていたが、いまは黙って頷いている。
左隣の絵里も、ギュッと握る手に力を込めた。絵里は優しい頬笑みでれいなを見つめている。
ああ、こんなにも支えられているのだと改めてれいなは感じた。
「で、これからどうするの?」
里沙の言葉でれいなは現実に帰る。
分かっている。絵里を奪還した所で事態はなにも変わっていない。
とりあえず今回のドイツ行きの話がなくなっただけで、何時かまた、その話が浮上するに決まっている。
いつまでもずっと逃げ続けているわけにもいかない。そんなことは現実的に不可能であるし、逃げ続ければ、絵里の国内手術も受けられない。
れいなが口を開こうとしたとき、先に絵里が声を出した。
「ちゃんと、お父さんたちに話す」
その声は小さいが、力強いものだった。
「お父さんとお母さんと、先生にも話す。逃げないで、ちゃんと」
絵里の決心を聞いたれいなも黙って頷く。それはれいなも考えていたことだった。
結局、ちゃんと話さない限り、事態は好転しない。誠意をもって、一度話すべきだと考えていた。
それは確かに、ずいぶんと勇気のいることではあるのだが。
- 770 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:38
- その言葉を聞いたさゆみは、いつもと変わらぬトーンで話しだした。
「ま、とりあえず今日はホテル取ってるし、そこに泊まりなよ」
「ホテル?」
「絵里をそのまま帰すわけにはいかんし、れいなン家もいつバレるか分からんやろ?」
愛はそう言ってハンドルを切った。一瞬だけ体験した里沙の運転とはケタ違いの安定感だった。
それにしても、いつの間にホテルを予約したのだろうと思う。何処までさゆみは計算して動いているのだろう。
「ちゃんとお金は返してもらうからね、利子つきで」
にこやかにそう言うさゆみが、れいなと絵里には天使にも悪魔にも見えた。
- 771 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:39
- さゆみの予約したホテルまで送ってもらうと、愛は運転席から手を振った。
「ちゃんと報告しろよー」と言うその顔は、いつまで経っても、生徒会長そのものだった。
里沙とさゆみも笑顔で手を振った。さゆみに至っては「10日で1割ね」なんて言うものだから、れいなは苦笑するしかなかった。
車が去っていくのを見届け、ふたりはホテルへと入った。
「予約した田中ですけど」と告げると、すぐに部屋へと案内された。
そこは、ベッドがひとつしかないことを除けば、申し分のない部屋であった。
れいなは少しの気恥かしさを感じながら荷物を置いた。絵里が所在なさげに立っていたので、座るよう促す。
絵里は一礼してベッドに座った。れいなはそれを確認し、近くの椅子へと腰掛けた。
「えっとー…なんか飲む?」
れいなの言葉に絵里は首を振る。お互いに妙に意識していることは分かる。
これからどうするか考えなければいけないはずなのに、ホテルで、しかもベッドがひとつというこの状況に動揺していた。
だが、そうは言ってもまずは絵里の両親のことを考えなくてはいけない。とりあえずれいなは、「今日は泊まるということを伝えては?」と絵里に話した。
絵里はその言葉に頷くが、すぐには動こうとしない。なにかを考えているような顔をして、床の一点を見つめる。
- 772 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:40
- れいなは、頭の中に次々と浮かぶ邪な欲望を消そうと必死に理性を動員させる。すると、絵里が言葉を発した。
「れーな…」
「なん?」
「……ここ、来て」
そうやって絵里は自分の横を軽く叩いた。
たったその仕草で、れいなの理性がいくつか飛んでいく。だが、必死に自重して、れいなはその横に座る。
絵里が真面目に考えているというのになんてことを妄想しているんだと自分を恥じたくなる。
れいなは心を落ち着かせるように息を吐き、絵里に告げる。
「絵里、れなが電話しちゃろか?」
「ううん、だいじょうぶ。自分で…言う」
絵里は首を振ってそう言った。れいなもそれ以上はなにも言わず、ただ黙って頷く。
再び沈黙が落ちる。考えてはいけないことを考えてしまう。欲望が出てくる。必死に抑える。その繰り返しが、バカみたいだった。
- 773 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:41
- 「れーな…」
「うん?」
「れーなは、絵里でいいの?」
絵里の口から出た唐突な質問にれいなは目を丸くした。絵里はそのまま続ける。
「絵里の…隣でって言ったけど、空港で。あれ、ホント?」
絵里は心配そうな瞳でれいなを見つめる。気づけばれいなの指に絵里の指が絡んでいる。
細い指がれいなに絡み付き、大きな瞳はれいなの心を全て見透かしているようだった。
―れなと一緒に生きてほしいっちゃ、絵里!
自分が空港で発した言葉が脳裏によぎる。ホントに青春ドラマの見過ぎだと今さらになって苦笑する。
れいなは一瞬だけ目を閉じ、そして覚悟したように「ホント」と言った。
「絵里をたくさん傷つけたくせに、いまさらって思うかもしれんけん、れなは、本気。もう、嘘はつかん」
ひと息ついて、れいなは言葉を紡いだ。
「絵里を愛しとぉ。れなと一緒に生きてほしい」
それは空港で絵里に見せた視線と全く同じものだった。
真っ直ぐで強くて、揺るがない意志を感じさせる瞳に、絵里は捕らわれる。その瞳に映った自分はとても不安げな顔をしていたけど、徐々に明るくなるのが分かる。
安心できる。この瞳に見つめられると、絵里は何処までも委ねられる。それは間違いなく、れいなであるからだった。
- 774 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:41
- 「れーな……」
甘い声がした。
れいながなにか言おうとすると同時に倒される。ベッドの柔らかさを背中に感じる。視界に入ったのは、天井ではなくて、絵里のドアップ。
首に回されたのは、絵里の綺麗な細い腕。唇に感じたのは、紛れもなく、絵里の甘い唇。ああ、押し倒されてキスされた。なんてボンヤリと頭が理解する。
え、そんなアッサリ理解して良いの?と急に思考が戻ってくる。触れるだけのキスが終わり、絵里は囁いた。
「好きだよ…れーな」
その言葉に、理性とか、欲望とか、そういうものを一気に忘れる。
ただ純粋に、ただ真っ直ぐに、絵里を愛したいって心の底からそう想った。ああ、それは、欲望というよりも、願いなのかもしれないな。
ほぼ無意識に、れいなは絵里の唇を奪う。触れるだけのものが、角度を変えていくことによって徐々に深くなっていく。
首に回っていた腕がゆっくりと上がり、れいなの髪をかきあげる。その感触が心地良くて、れいなはいっそう深いキスをする。
「っ…れー…なぁ」
口の端から絵里の声が漏れる。こんな体勢のキスは初めてだった。
絵里の家に泊まったとき、れいなはなんども絵里にキスを落としたが、それはすべて絵里の上からだった。
下からのキスは、絵里の重さをすべて受け止め、絵里の胸の柔らかさを感じることが出来た。少しの息苦しささえも、心地よい。
- 775 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:42
- 目を閉じて、すべての感覚を唇にだけ集中させる。絵里の舌がれいなの八重歯に触れる。れいなはそれを追い、ゆっくり絡める。
一瞬だけ絵里は逃げようとするも、そのままれいなと絡まっていく。
れいなは左腕を背中に、右腕を後頭部へと回す。絵里の髪を軽く掴む。サラサラの髪が指を通っていく。絵里はピクッと反応し、れいなと少しだけ離れようとする。
嫌だったのかと思い、れいなは舌を離し、絵里と向き合う。
絵里は「うん?」という顔を向ける。そのとぼけたような顔もまた、可愛かった。
「…髪、触られるの、嫌やったんかなと思って…」
「ううん、気持ち良くて、凄く、好き」
「……そーか」
れいなが微笑むと絵里も微笑んだ。れいなは右手で少し後頭部を押すと、絵里が近づいてきた。
再び交わされるキス。今度は絵里から舌を入れてきた。れいなは驚きながらもそれに従う。
絵里は不器用ながらも舌を絡ませようとする。そのぎこちなさが、逆にれいなを刺激する。
少しだけ目を開けると、絵里は眉間にしわを寄せ、悩ましそうな顔をしていた。その一生懸命な仕草に、れいなはぞくぞくする。
たっぷりと絵里を味わう。
甘い香りがれいなの思考を止めていく。心地良い狂乱がれいなに広がる。絵里のすべてに心が反応する。脳が支配されていく。
―絵里、絵里、絵里、絵里、絵里っ
なんどもなんども、愛しい人の名前を呼ぶ。聞こえるはずのないその声に呼応するように、絵里は舌を突き出してくる。
離れては出逢い、再び離れては絡まる。それはいままでの互いの気持ちのようだった。
お互いにそこにあったのに、気づかぬようフタをし、相手のためと思い引いてきた。
だけど、結局は触れ合いたくて仕方なかった。もっと近くで、あなたを感じていたかった。
- 776 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:42
- 長い長いキスが終わり、ふたりは顔を見合わせる。
とろけそうな笑顔を絵里は見せ、そのままクテッと身を委ねる。
「れーなの心臓の音がするよ?」
絵里はそう言って、れいなの胸に耳を当てる。
たぶん、バカみたいに早鐘を打っているんだろうなとれいなは思う。
「生きてるって、言ってる」
絵里の声に、れいなは締め付けられる。現実を忘れそうになっていた。
れいなは自分の想いで彼女を空港から連れ出した。それは、確かに彼女の想いでもあった。
だが、ドイツ行きを蹴ったということは、彼女が100%生きられるという確証を失ったことも意味していた。
ワタナベの言う手術をしない場合の生存年数。平均でも成人を越えなかったそれ。国内での手術の成功確率も、40%以下と大幅に落ちる。
自分の想いに素直になったところで、絵里がずっと生きられるという保障はどこにもない。
れいなは腕に力を込め、ぐるりと体を反転させた。絵里は急な出来事に「きゃっ」と少し驚いた声を上げた。
れいなは絵里に顔中にありったけのキスを降らせると、絵里はくすぐったそうに身を捩る。そしてれいなは絵里と同様に、胸元に顔を置いた。
―…聴こえた
れいなは目を閉じてその音を聴く。
絵里の心音。少しだけ早いリズムを奏でるそれが、れいなの耳にハッキリと届いている。
「生きとーよ、絵里も」
「…うん」
- 777 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:43
- 不安なのはだれもが同じなのだ。
絵里自身、死にたくなんてない。生きられることならずっと生きていきたい。
だから、その不安を埋めるように、れいなは絵里を抱きしめた。互いの心音が重なる。止まることなく鳴り続けるそれは、生命の音。
だれもが無意識のうちに願う。ただ、生きたいと。
限りある生命。皆、死ぬことが当たり前で、人はそれを目指してひたすらに進んでいく。死という終着駅に向かって、人生という名の電車は走り続ける。
それは仕方のないことなのだけれど。当たり前のことなのだけれど。
それでも、れいなは、絵里に生きてほしかった。
100歳までとはいわない。せめて、せめてれいなよりも長く生きてほしかった。れいなより10年、1年、いや、1日でも構わない。
あなたの笑顔を見失いたくなかった。あなたの笑顔のない人生を、れいなは生きたくなかった。
できることなら、何年時が経っても、絵里の隣で、絵里と笑っていたかった。
「愛しとぉよ、絵里」
「絵里も、愛してるよ、れーな」
- 778 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:44
- なんどとなく交わされる言葉。なんどとなく重なる唇。
生きることは死ぬことで、だけど、死ぬその直前まで、一緒に居たい。
この心臓が止まってしまうまで、あなたと一緒に居たい。
―――神様。赦して、くれますか?
れいなは哀しくもないのに涙を流した。
いつもいつも、信じてもいない神にれいなは祈る。それ以外に、だれに祈る術も、れいなはなかった。
この不安な気持ちを、だれに言えば良いのか分からない。自分の胸で押さえていられるほど、れいなは強くない。
だかられいなは祈るのだ。神を信じず、そのうえに恨んでいるとしても、れいなは祈るのだ。身勝手だと、言われようとも。
甘いキスがふたりを刺激した。れいなは絵里の温もりを感じながら目を閉じた。
無意識のうちにれいなは、「絵里」と名を呼んだ。それを聴いていた絵里は、ただ優しく微笑んで「れーな」と呼んだ。
その行為に意味はなくとも、彼女たちはそれをしたのだ。それが彼女たちにできる精一杯の愛情表現だったのだから。
それは、肌を重ね合わせるセックスよりも、官能的で情緒的かもしれないと、れいなはボンヤリ思った。
- 779 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:45
- ---
- 780 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:45
- 絵里が泣いていた。
暗くて狭い空間の中で、絵里が泣いていた。
ああ、もう泣くなと思ってれいなはその手を伸ばした。しかし、その手が絵里に届くことはなかった。
絵里は涙を流しながら、れいなに背を向けて歩き出した。「待て、何処へ行くっちゃ」と聞こうとするが言葉が出ない。声にならない。手も届かない。
―待て。待つっちゃ、絵里!!
必死に手を伸ばし、声を上げようとするが、それは叶わなかった。
暗闇の中、れいなは絵里を見失った。
- 781 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:45
- 目を覚ましたときに、隣に絵里はいなかった。
れいなは慌てて体を起こす。夢を見ていたことは自覚した。最悪な夢だと額についた汗を拭う。
此処は何処だと思考を巡らす。暫く経って、此処がホテルであることを思い出す。だが、だからといって絵里が居ないことの理由にはならない。
いつの間に寝てしまったのだろうとれいなはベッドからはね起きた。何処へ行ったのかとれいなは慌てる。
先ほどの夢が甦る。絵里が泣いているのではないかと心配になった。
れいなが椅子に掛けたジャージを羽織って外に出ようとしたときだった。部屋のドアが開かれた。れいなはハッとそちらを見ると、そこには絵里が袋を持って立っていた。
「あ、れーな、おはよー」
あまりにも自然な声を上げるので、れいなは眉を顰めた。だが、絵里はそんなれいなに気づいていないのか、話を進めた。
「とりあえずぅ、お泊りセット買ってきたよー。絵里のコンタクトセットとぉ…うへへぇ、れーなと絵里の下着」
はにかみながら説明する絵里を見る。
彼女は此処で生きている。なのに、れいなの心は不安でかき乱される。
「空港にスーツケース置き去りにしちゃったから、絵里なにも持ってなくてさー。焦っちゃったよ。れーな寝てるから分かんなかったけど、なにかいるものあった?」
- 782 名前:Only you 投稿日:2011/12/05(月) 00:46
- 無邪気に聞いてくる絵里にれいなは近づき、そして勢い良く抱きしめた。途端に、絵里の手に持っていた袋は音を立てて落ちる。
「れーなぁ?」
甘い声で囁く絵里を無視し、れいなは絵里の肩口にキスをする。絵里はくすぐったいように体を捩った。
「急にいなくなんな…心配、するっちゃ……」
舌をうなじに這わせながら、れいなはそう呟いた。絵里は目を見開いて、直後に微笑し、れいなに応えた。
「…ごめん、れーな起こしたくなくて…」
その言葉に被せるようにれいなは呟く。
「書き起きとか、メモとかメールとか、方法はあるっちゃろ…」
その声が少し震えているような気がして、絵里は困ったように笑う。
「あは、忘れちゃった…コンビニ近所だし……ごめんね」
どうしてこうも不安になるのだろう。たった少しの時間のことなのに。
先ほど見た夢が、れいなを感傷的にさせるのだろうか。
絵里が居ない人生を考えた。絵里が20歳に満たず、手術が成功せずに死んでしまったら、どうすれば良いのだろうと、れいなは泣きそうになるのを堪えて抱きしめた。
―絵里……絵里っ!!
れいなは強く絵里を抱きしめ、心の中で叫んだ。
―死ぬな…死ぬな……
抱きしめることで鼓動が聞こえた。それが、絵里が生きているという、ただひとつの証だった。絵里がその小さな体で、必死に生きているのだと主張している。
絵里の甘い香りがする。絵里の声が聞こえる。絵里はいま、此処に生きている。
―死ぬな、絵里っ!!
れいなはありったけの想いを込めて、心の中でそう、叫んだ。
それは、絶望を感じた時に人が無意識的に行う、祈りと似ていた。
- 783 名前:雪月花 投稿日:2011/12/05(月) 00:50
- 今日は此処までになります。
こんな展開に思うところや批判などありましたらコメントをお願いします。
では次回まで失礼します。
- 784 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/05(月) 01:19
- はぁー。ありがとう、
とにかく、ありがとうございます。
一安心です。
ちょっとだけ懐かしい素敵な5人が揃って嬉しくなっちゃいました!
- 785 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/05(月) 12:53
- 自分的には好きな展開ですがこの先がちょっと不安ですね…
でもすごいおもしろいです。
頑張ってください!!
- 786 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/05(月) 23:05
- このスレのれいながどうしようもなく好きです
- 787 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/06(火) 12:49
- 続きが気になる反面終わってほしくない気持ちも大きい...
終わったらまた最初から読み直そう(´∀`*)
- 788 名前:雪月花 投稿日:2011/12/07(水) 22:33
- 遂に寒さに負けてホットカーペットを出しました、雪月花です。
冬生まれのくせに寒いのはどうも苦手です…春が恋しいです。
>>784 名無飼育さんサマ
こちらこそ、コメントありがとうございます!
>>1に書いた人物たちは作者も好きなメンバーですのでちょっと贔屓目ですw
いまの娘。ももちろん大好きですよw いつか9機や10期メインの話も書きたいです。
>>785 名無飼育さんサマ
好きな展開と言っていただき嬉しいです。
絵里の体が弱い分、不安も多いかと思いますが、どうぞ見守ってやって下さい。
コメントありがとうございます!
>>786 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
実際のれいなはもっと乙女だと思いますが、ここのれいなさんは絵里のためにひたすらカッコいいですw
相方の絵里や友人のさゆなども愛していただけると嬉しいですw
>>787 名無飼育さんサマ
そうですね、作者も終わってしまうのは寂しいです。初作品なので思い入れも強いですし。
物語はもう少し続きますが、もし最終話を迎えても、また彼女たちに逢いに来て下さい。
どうぞ末永く愛してやって下さい。
では本日分です。
- 789 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:34
- 辺りは薄暗かった。夏とは言え、この時間になるとさすがに街灯もともり始める。
れいなはもう一度制服を整えて深呼吸をする。胃がキリキリと痛むがいまはそれに耐えるしかない。
れいなと絵里は手を繋ぎ、玄関先まで来た。手が汗で滲んでいる。隣にいる絵里も緊張しているのが分かる。
時計を確認する。電話で約束した19時まであと数分あるが、もう行くしかない。絵里はふうと息を吐き、チャイムを鳴らし、扉を開けた。
「ただいまー」
絵里は声を出して自宅へと入った。れいなも覚悟を決めて後に続く。
「お邪魔します」
家の玄関は明るかった。まるでふたりを歓迎しているようだったが、それにしては家中の空気は重い気がした。
絵里は靴を脱ぎ、れいなとともにリビングへと歩いた。そこには両親が座っていた。母親は絵里に「おかえり」と声をかけ、父親の顔を見る。父親は顔を上げない。
れいなもリビングへと入り、深々と一礼する。この空気に耐え切れる自信はなかった。
「……座りなさい」
母親に促され、ふたりは椅子に座る。悪いことをして叱られる直前のような気持ちになった。こんなのは10年振りだなとれいなは感じる。
絵里の母親は立ちあがってお茶を準備する。気まずい空気が流れる。父親は未だ、れいなの顔を見ない。
「…あの、お父さん」
「話は分かっている」
沈黙を破ったのは絵里だった。なにかを切り出そうとしたが、しかしそれは父親に切られた。
「昨日、電話で話した通りなんだろう?」
父親の言葉に絵里は頷いた。
- 790 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:34
- 昨日の夜、絵里は両親に電話をした。明日、会って話がしたいと言うと、電話口の母親がいま何処にいるのかと聞いてきた。
絵里は「ホテル」とだけ答え、とにかくちゃんと説明したいと言ったが、母親は聞こうとしなかった。
ちゃんと薬は飲んでいるのか、どうしてドイツ行きを断ったのか、一緒にいた子は誰なのかと問いただした。
絵里の困惑を見たれいなが、やはり自分が話そうと電話を替わろうとしたときだった。絵里の父親に替わったところで話が落ち着いた。
「絵里、ドイツで手術を受ける気はないんだな」
父親の強くて低い声が耳に響く。れいなもケータイに耳を当ててそれを聞く。下町の筋が通らないことを嫌う男の話し方だった。
絵里はそれでも負けないように「はい」と答えると、父親は再び質問をした。
「今日、空港で一緒にいた子……絵里は、好きなのか?」
好きという言葉に、絵里はドキッとした。
この気持ちが間違っているかもしれないと考えたことは何度もある。だが、それでも絵里はれいなを想った。
好きという感情を止めることはできなかった。
「はい」
- 791 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:35
- 両親がこの感情を認めなかったとしても、絵里は逃げたくなかった。
理解されなくても良い。間違っていると否定されてもかまわない。だけど、知っていてほしかった。
自分のこの感情は嘘じゃない。たとえばそれが、大人から見れば一時の気の迷いだと感じられるようなことであっても。
絵里の胸に広がった痛みと喜び。れいなと共に過ごした時間で感じたシアワセは、絵里にとっては嘘じゃないのだと。
「……明日の夜に、ふたりで家に来なさい」
「え?」
「20時頃なら、彼女の部活も終わっているだろう?」
父親の提案に絵里は驚きながらもれいなに確認を取った。
れいなは確かに部活がある。だが、あまりに遅くなるのも失礼であると考え、19時には行けると絵里に伝えた。
絵里はその言葉を受け、父親に「19時に行く」と返した。
父親は「分かった」とだけ言うと、そこで電話は切れた。
- 792 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:35
-
「名前、なんといったかな?」
父親は鋭い目をれいなに向ける。そう言えば自己紹介もまだだったことに気づく。それなのに座ってしまって最悪だと思うがもう戻れない。
れいなはぎゅっとスカートを握り締める。手に汗をべっとりとかいていた。
「田中、れいなと申します」
深々と頭を下げる。いつこの頭を上げるべきかタイミングをはかる。
胃痛がする。吐き気がする。頭が混乱する。汗が噴き出る。れいなはどうしようもなく、焦っていた。
そこにちょうど母親から湯呑を出され、れいなは頭を上げた。助かったと、正直に思った。
「……きみは、絵里を好きなのか?」
真っ直ぐにれいなは捉えられる。ああ、絵里の真っ直ぐな瞳は、父親譲りなのだなとれいなは納得する。
れいなはその瞳から逃げずに向き合い、「はい」と強く返した。
「本気で?」
「本気です」
本当に強い瞳だと思う。さゆみとも絵里ともまた違った迫力がこの人にはある。
れいなのすべてを見透かし、理解しようとしている。この人の前では、たったのひとつも嘘はつけないと思った。
父親は表情を崩さぬまま、れいなに言った。
「では、覚悟を見せてくれ」
- 793 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:37
- 「……覚悟…ですか」
父親はそうして立ち上がり、自室から『なにか』を持ってきた。そしてその『なにか』をれいなの前に出す。
それが、折り畳みのナイフだと気づいたのはその直後のことだった。れいなはぎょっとし、父親を見つめ返す。
「きみが絵里を本気で愛しているというのなら、絵里のために、死ねるか?」
父親の冷たい言葉がれいなを貫く。れいなは目を見開き、父親を見る。
「お父さん!」
絵里は叫び、立ち上がった。だが、れいなはそれを右手で制する。絵里は不安そうな顔をれいなに見せるが、れいなが頷くとゆっくりと座る。
れいなはテーブルに置かれた折り畳みナイフを見つめる。蛍光灯に照らされ、銀の縁が輝いている。
それを見つめると、いつか調べた自殺の方法を思い出す。
絵里の手術のドナーが見つからないなら、いっそこの心臓を差し出そうとまで考えていた、あのとき。
れいなはゆっくりとナイフを手にする。絵里は目を見開いて立ち上がろうとするが堪える。
沈黙が広がる。心臓が高鳴る。その音がれいなを支配する。自分の心音と目の前に置かれたナイフ、それがれいなの世界だった。
- 794 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:38
- れいなは目を閉じ、深く息を吐く。
「……すみません、れなは死ねません」
長い沈黙を破るように、答えた。
「絵里が助かるんやったら、この心臓を絵里にやっても良いと思いました。れなが死んで絵里が助かるなら、この命、絵里に差し出して良いと思ってました」
れいなの重い言葉がリビングに広がる。れいなの声は何処までも透明だった。
絵里は真っ直ぐにれいなの横顔を見つめる。そしてれいなは、絵里の父親を真っ直ぐに捉える。
「でも、そうやないって気づいたんです」
「…気づいた?」
「れなが死んでも、絵里が笑わんってことに」
ワタナベからドイツ行きの話を聞いてから、れいなは焦っていた。
国内でのドナー提供の確率が低いというのなら、この心臓を差し出しても良いと思った。
脳死であるならば心臓移植手術は可能になる。れいなは常にドナーカードを持ち歩いていた。インターネットや法医学書を読み漁り、脳死になるような自殺方法を考えた。
だが、それでは絵里は笑わない。絵里の笑顔を守るためと思ってやった行為は、絵里の笑顔を永久に失う行為だと気づいた。
「自惚れだって言われるかもしれません。でも、絵里はれなの隣で笑っていることが、生きてるってことなんです。
れなはそんな絵里とずっと一緒にいたい。一緒に生きていきたいんです。これから、ずっと。だから…」
れいなは一呼吸おいて、言葉を繋いだ。
「れなは、絵里のために生きていきます。絵里のために死ねません」
そしてれいなは、手に持った折り畳みナイフをゆっくりとテーブルに戻した。
銀の縁は相変わらず輝いている。それが妙に綺麗だなと、れいなは思った。
- 795 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:38
- その答えを聞いても、父親の表情は動かなかった。真っ直ぐにれいなを捉え続けていた。
だが、ふいに口角を上げて、ふっと笑った。
「…良い、答えですね」
それは、いままで聞いていた声よりも、もっと柔らかかった。先ほどまで威圧的で強い声だったのに、それが一転した。
れいなは目を逸らさずに父親を見つめる。その表情は、優しかった。
「絵里を、宜しくお願いします、れいなさん」
父親は深々と頭を下げた。
れいなはそこで初めて、彼に「れいなさん」と名前で呼ばれた。ふたりは半ば呆然としていたが、慌ててれいなも頭を下げた。
「こ、こちらこそ、宜しくお願いします」
れいなのあまりにも間の抜けた返事に、絵里の父親は再び笑った。
ああ、この柔らかい笑顔も、何処となく絵里に似ているなとれいなは思った。
- 796 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:38
- ---
- 797 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:39
- その夜は怒涛のような時間が過ぎていった。
絵里の父はれいなに夕食を食べていくように提案した。れいなはいったんは断ったものの、両親の勧めにより、結局ご馳走になることになった。
夕食の席では、れいなの出身地や部活の話、ふたりの学校生活や、空港にいたさゆみ、里沙、愛の話で盛り上がった。
食事も終わり、ひとしきり話し終えたところで、絵里の母は泊まっていけば良いと提案した。
れいなは次の日も部活があったし、これ以上に迷惑をかけるわけにはいかないと、その申し出を丁重に断った。
すると、絵里の父は「じゃあ、車で送っていこう」と提案した。
此処で断ってまた押し問答になるのは厄介だったので、れいなはこれを受け入れることにした。
「じゃあ、またね、れーな」
玄関先で絵里と絵里の母に見送られ、れいなは車に乗り込んだ。
絵里の父はエンジンをかけ、ゆっくりとしたスピードで夜の街を走り始めた。
「すいません、ご飯もご馳走になったのに…」
「いや、呼び出したのはこちらだからね。部活終わりなのに申し訳ない」
彼の運転は非常に丁寧だった。
下町生まれだと聞いていたので、江戸っ子気質の激しい運転かと想像していたが、それとはかけ離れていた。
れいなは無意識にハンドル捌きを見つめる。
- 798 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:40
- 「明日、ワタナベ先生の所へ行きます」
唐突に切り出された言葉にれいなは一瞬、なんのことか理解できなかった。
分からないままにれいなは父親を見つめる。その瞳は真っ直ぐにフロントガラスを見ている。
「絵里の、国内手術の件で、話をしてきます」
れいなはその言葉にハッと思いいたる。
ドイツ行きを蹴ったいま、絵里が助かる方法はただひとつ。国内での手術を受けることだった。
しかし、その成功の確率は40%以下。ドナーが見つかるという確証もない。ドナーなしでの手術も可能だが、それにしてもリスクはある。
「…絵里は大切な娘です」
目の前の信号が点滅し、赤に変わる。ゆっくりとブレーキを踏み、車が止まる。
れいなは絵里の父親を見つめる。その表情に、れいなは胸が締め付けられた。
「ドイツで手術を受けてほしかったんだ…」
重い言葉が車内に響く。先ほど笑いながら夕食を囲んでいたときとは違う表情、そして、れいなを問い詰めたときとも違う表情をしていた。
父親は、苦しみ、悩み、もがき、葛藤していた。自分の娘に生きてほしいという願い。それは親のエゴなどではなく、純粋な願いだった。
だが、生きられる未来と引き換えに、絵里は将来の相手を決めてしまうことになる。絵里の意志に関係なく。
未来の命と、此処から歩む道。
1日でも長く生きてほしいのか、どれだけ充実した短い人生を全うして欲しいのか。
天秤にかけたところで答えなんて出ない。どちらも正しく、どちらも願ってやまないことだ。
- 799 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:40
- 「空港で絵里を連れ去ったとき、私はあなたに一瞬、殺意すら抱きました。娘を殺すのかと」
信号が青に変わり、車が発進する。「殺意」という強い言葉にれいなは貫かれる。だが、それを拒否することなく、れいなは黙って甘受する。
目を逸らしてはいけない。逃げてはいけない。絵里の隣で生きていくということは、絵里の生命も人生も背負うということなのだから。
「だけどね」
父親はハンドルを切り、言葉を繋いだ。
「あのときの絵里の涙と笑顔が、答えだと思ったんです」
「え?」
れいなは一瞬理解が遅れて聞き返す。父親はふっと笑い続けた。
「あの子は“大人”でした。小さい頃から私たち親を困らせない、優しい子でした」
その言葉はいつかのワタナベの説明と似ていた。
絵里は、自分の体の弱さを知った、聞きわけの良い子だったと。
「でも、本来、あの子はもっと子どもであるべきなんだ。我儘を言って、親に嘘をついて、外に出るべきなんだ。
人生を諦めないで、青空の下を走り回って無茶をする、歳相応の子どもであるべきなんですよ」
- 800 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:41
-
―少しだけ、前へ進もうという感情が芽生えてきた
ワタナベの声が甦る。
それが無茶に繋がって、体調が悪化していると聞かされ、別れてくれと頭を下げられた。それが、医者としてのワタナベの判断だった。
だが、父親はそうは考えていなかった。“大人”じゃない、歳相応の子どもであるべきだと話している。
「それが結局、絵里の生き方なんです。大人がどうこう言っても仕方がない。間違いだらけでも、それが絵里の人生なんです」
本来なら、殴り飛ばされても文句は言えない。
大事な一人娘をあちこち振り回し、挙句に長生きできるドイツでの手術をぶち壊した張本人であるれいな。
だが、父親はそれをせずに、自分の本当の気持ちを語ってくれている。こんなガキんちょで幼い自分に。
「そして、ナイフを手にしながらも、絵里と生きると言ってくれたれいなさんなら、大丈夫だと思いました」
車が再び停止する。暗闇に走っているのは、この車1台だけだった。
静寂が広がる。セミの声が聞こえる。たった1週間の生命を必死に輝かせている声だ。
「れいなさん」
「…はい」
「絵里を…絵里をよろしくお願いします」
先ほど、絵里の家で言われた言葉と全く同じなのに、それが持つ効力はずいぶん違っていた。
あのとき以上に強い意味が含まれている。娘の人生を託す親の気持ち。ああ、花嫁を送りだす父親も、こんな気持ちなのだろうか。
「はいっ」
れいなはそれ以外に発する言葉を知らず、強く、強く頷き頭を下げた。
絵里の人生、絵里の歩む道、絵里のもっている生命、絵里に赦された時間。
全部全部、一生分、背負っていこうとれいなは思った。
- 801 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:41
- ---
- 802 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:42
- 「スペシャルチョコレートパフェ、お待たせしました」
可愛らしいウエイトレスがパフェを運んできた。それを受け取るのはれいなではなく、目の前に座っているさゆみだ。
さゆみは目を輝かせ、早速スプーンでその山を突き崩す。
さすがスペシャルと名がつくだけはある。パフェにはバナナにイチゴにポッキー、アイスがいくつも乗っかり、底の方までしっかりとチョコが入っている。
「んー、甘いの〜」
さゆみは嬉しそうにそのパフェを食べる。
彼女には、先日のホテル代の代わりに、昨日の昼食と今日の昼食、そしてデザートを奢っている。たぶん、総合するとホテル代より高い気がするが文句は言えない。
れいなはさゆみにお世話になりっぱなしだ。さゆみがいなかったら、れいなは絵里を見失っていた。それを引き留めたのは、間違いなく目の前にいる彼女だ。
確かにやり方はスマートではないかもしれないが、それでも、れいなはさゆみに感謝していた。
「なんだかんだでお父さんだもんね。そりゃ娘が心配だよ」
さゆみはイチゴをつまみ、口に放り込む。れいなはそれを聞きながら頷く。
れいなは、ほんの1週間前にあった出来事をさゆみに話していた。さゆみは昼食のパスタを食べながらそれを聞いていた。
もちろん、ホテルでキスをしたなんて話や絵里に下着を買ってもらった話は割愛している。
「で、ワタナベ先生はなんて?」
れいなはオレンジジュースを少しだけ飲む。
さゆみに昼食を奢ったら自分の分がなかったので、れいなはドリンクバーだけを注文していた。
次は珈琲にでもしようかと思いながら、先日のワタナベとの会話をさゆみに話した。
- 803 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:42
- 絵里と絵里の両親が国内手術の話をしに行った次の日、れいなは改めて藤本総合病院に向かった。
幸か不幸か、またもれいなは正面玄関でワタナベに会った。こういうタイミングは恐ろしく良いなと思う。
れいなが一礼すると向こうも会釈を返した。どう切り出すか悩んでいると、ワタナベが口を開いた。
「12月29日、16時30分」
それはただの数字の羅列ではない。それが持つ意味を、れいなはなんとなく理解した。
「それが絵里の手術日です。T大のドクターであるアサノ先生と相談した結果、その日のその時間しかないそうです」
果たしてれいなの理解は正しかった。それはすなわち、絵里の人生が決まる日である。れいなは頷き、拳を握り締める。
「それと、絵里にはこの夏、入院してもらいます」
「え?」
「入院日は明後日からですが、これは最低限の条件です。前にも言ったように、彼女の体はそんなに余裕がない。出来るだけ手術当日まで体調を安定させておきたいんです」
ワタナベはそう言って白衣のポケットに手を突っ込み、天を仰いだ。
それは決して、れいなへの嫉妬から来る行動ではない。
この人は、この人なりに絵里を救おうとしている。れいなにはれいなのやり方があるように、彼には彼の方法がある。
彼にしかできない方法で、ワタナベは絵里を助けたいのだ。彼なりに、絵里の命と、その笑顔を守ろうとしていた。
この人に、謝るべきだろうかとれいなは悩んだ。謝ると言ってもなにをどうする?
絵里を空港から連れ出したこと? ドイツ行きを蹴らせたこと? ワタナベとの約束を守らなかったこと? 絵里と付き合っていること?
れいなが黙っていると、ワタナベが発した。
- 804 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:43
- 「僕は絵里が好きです」
ポツリと呟かれた言葉は空気に吸い込まれた。
何処までも純粋で真っ直ぐだったせいか、それはれいなの耳にもはっきりと届き、綺麗な音だと、思った。
「そして絵里はきみが好きで、きみも絵里が好き。ただそれだけの話ですよ」
そう言うとワタナベは白衣を翻し、院内へと戻っていこうとする。れいなは慌てて「先生!」と呼んだ。
まだ、れいなはなにも言っちゃいない。だが同時に、なにを言って良いかが分からない。
れいなは髪をかきむしりながら言葉を探す。ああ、絵里みたいに現国の成績が良ければなといまさら思うが、どうしようもない。
「僕は絵里を助けます。きみとやり方は違っても、必ず、絶対に」
ワタナベは息を吐き、言った。
その言葉はれいなを貫く。やはりこの人は、医者であり、ひとりの男だった。なにも間違ったことは言っちゃいない。これが、この人の答えなのだから。
れいなはその言葉になにも言えなくなり、ただ真剣なまなざしを向けたままひとつ頷いた。
「あんな風に泣くんだな…」
ふいに発せられた言葉がれいなに届いた。それは諦めのような、驚きのような、だけど納得したような声だった。
れいなは怪訝そうな顔をするが、ワタナベはそれを無視して続ける。
「絵里の泣き顔はいままでも見たことがあるけど…あんな涙は初めてだったよ」
それだけ言うと、ワタナベは今度こそれいなに背を向けて歩きだした。
れいなも、その背中にかける言葉を見つけられず、黙って彼を見送った。その背中は、いつもよりも大きく見えた。
ああ、あれが、決意を固めた男の背中なのかもしれないなと、れいなは思った。
- 805 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:44
- 「激ニブ」
辛辣な言葉を投げつけられ、れいなはムッとしながら新しく注いだ珈琲を飲む。
さゆみはグラスの底にあるチョコレートアイスを口に運ぶ。値段相応の量だと思うが、そんなに食べて太らないのだろうか。
そんなことを言おうものなら激昂されるのは目に見えていたので、れいなは黙っていた。
「それ、負け惜しみとかじゃなくて、素直に感心してるんだと思うよ」
「なにを?」
「さあ?」
さゆみは意地悪そうに笑ってアイスを頬張る。れいなは意味が分からないというような表情をするが、もう聞き返すことはしなかった。
ふうと息を吐いて天井を見上げる。ファミレス特有の黄色い天井は、嫌いではないが、好きにはなれない。
「そういえば、修学旅行のことなんだけど…」
さゆみからそう切り出され、れいなは飲みかけのカップを置いた。
朝陽高校では2年生の冬休み明けに、修学旅行に行くことになっていた。場所は北海道で主にスキーをする予定である。
九州出身のれいなにとっては、初めての北海道旅行であり、楽しみで仕方がない。だが、ひとつだけ問題があった。
- 806 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:45
- それは紛れもなく絵里のことだった。
絵里の手術日は12月29日。北海道へ発つのは1月6日。手術後10日も経っていないのに、北海道へ行くのはいくらなんでも無理であった。
「だから絵里、行けないんだよねー。温泉好きだから入りたかったのにぃ」
先日、れいなが絵里と電話をした際に、彼女からそう告げられた。
その声は確かに明るかったのだけれども、寂しくないわけがない。せっかくの高校生活の思い出を共有することができないのだ。
絵里は歳に似合わず温泉好きである。それも寂しさを感じるひとつの要因であった。
「れーな、写真いっぱい撮ってきてね」
そう言う絵里の顔は見えなかったけれど、絶対にムリして笑っているのだろうとれいなは思った。
れいなは、絵里とさゆみの3人で北海道に行きたかった。朝陽高校に入学してできた、大切な、とても大切な友人たち。大切な人と最高の思い出を作りたかった。
だが、そこに絵里はいない。それがれいなを戸惑わせた。
「れいな、行かないとか思ってる?」
さゆみから思っていることをズバリ当てられ、れいなはぎくりとする。相変わらず彼女はエスパー並みの鋭さを持っている。隠し事なんて出来やしない。
珈琲を一口飲み、れいなは肩をすくめて笑った。
「行って良いのか、わからんちゃ…」
「絵里に申し訳ないって思ってる?」
「それもあるっちゃけど…」
- 807 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:46
- そう言いかけてれいなはグッと押し黙った。
ひとつだけ、考えていたことがあった。
あの日の電話で、絵里は修学旅行に参加できないことを寂しがっていた。それは、単純に手術後のリハビリがあるからだけではない気がした。
絵里の心には、寂しさだけではなくて、もうひとつの感情があったのではないか。
それが確証は持てないのだけれど、なんとなく的を射ている気もする。だが、それを口にしたところで解決策にはならない。
「…とにかく、まだ悩んどるっちゃよ」
結局れいなは、ずっと考えていたことを残った珈琲と一緒に飲み込んだ。
そんな思案をさゆみは気づいているのか、意味ありげな表情のまま、チョコパフェを食べ終えた。綺麗になったグラスが目の前に並んだ。
「じゃあついでにもうひとつ聞きたいんだけど」
食べ終えたパフェのグラスにスプーンを入れるさゆみ。ガラスと金属が共鳴し、高い音が響いた。
「ワタナベ先生に会ったとき、もうひとり別の人に会ったでしょ?」
さゆみの指摘にれいなはぎょっとした。れいなが半ば呆然とした表情を向けると、さゆみはニコッと笑ってグラスを片手に立ち上がった。
確かにれいなはあの日、病院である人物に会った。だが、なぜそれを彼女は知っているのだろうか。
あの場にさゆみもいたのだろうか。それとも付き合っているという美貴にでも聞いたのだろうか。まさか、これも直感という奴だろうか?
だが、いずれにしても、彼女には本当に隠し事が出来ない。
いっそのこと、此処の地区の警察はさゆみを即座に採用すれば良い。そうしたら事件の検挙率も一挙に上がる気がした。
れいながそんな妄想を繰り広げていると、当の本人であるさゆみは透明の液体の入ったグラスを持って帰ってきた。泡が見えるから、それはサイダーだろうか。
「じゃ、その話を聞かせてもらいましょうか」
そうしてさゆみは微笑みながられいなに問うた。
いくつかの疑問は宙ぶらりんのままれいなの中に居座ったが、れいなはそれを解決することを諦め、あの日のことを話し始めた。
- 808 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:46
- ---
- 809 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:47
- ワタナベと別れたあと、れいなはすぐに病院を後にすることはせず、そのまま新棟の7階へと向かった。
彼の言葉によると、入院日は明後日であるので、絵里はいま、此処にはいない。だが、それでもれいなは702号室へと向かった。
新棟の7階には、相変わらず人気がなかった。そう言えば、この階に入院しているのは絵里と、707号室の患者だけだったなとれいなは思いだした。
れいなも度々この場所に来ているが、707号室の患者がどういう人なのかは知らなかった。それは当然と言えば当然なのだが、れいなは不意にその存在が気になった。
思いついたら行動を起こすのが良くも悪くも彼女の特徴だった。それを考えなしと取るか、思い切りが良いと取るかは人それぞれだが、れいなは7階の廊下を歩き始めた。
704号室の扉の前あたりを通り過ぎたときだった。れいなは目的の場所であるそこから、ひとりの人物が出てくるのを目撃した。
慌ててれいなは物陰に隠れる。別段、その必要はないのだが、なぜかれいなはそうした。れいながそっと顔だけ覗かせると、その人物はこちらへと歩いて来ていた。
これはバレるのは必然だなとれいなは思い、努めて自然に物陰から出てきた。物陰から登場する時点で充分に不自然なのだがそんなことは気にしてられない。
れいなはその人物とすれ違いざまに会釈をして、その顔を見た。そして思わず「え?」と声を上げた。
そこにいたのは、れいなも知っている人物、朝陽高校に勤務しているサトウ先生だった。
サトウもれいなを認めたのか、互いに立ち止った。沈黙が流れ、互いになにも言えないまま時間だけが過ぎていく。
サトウは頭を一度下げて歩き出すと、れいなも慌てて頭を下げた。
れいなはサトウのの背中を追ったが、彼はそのままエレベーターへと乗り込んだ。
頭が混乱していた。どうしてサトウ先生が此処にいるのだろう。
サトウ先生といえば、絵里の元担任で、だけど絵里とはあまり合わなかった、むしろ絵里を自主退学にまで追い込もうとしていたと里沙に聞いていた。
それはあくまでも、絵里の友人である里沙の情報である以上、ある程度のバイアスがかかることをれいなは理解している。
だが、そんなサトウが、絵里の入院している病院に来ていたのは、果たして偶然だろうか。
- 810 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:48
- れいなは足早に707号室の前へと向かった。
ネームプレートに患者の名前が書いてあるが、それは「サトウ」という名字ではなかった。れいなはますます混乱する。
暫し悩んだあと、れいなは病室の扉に手をかけた。
「それは反則ですよ」
後ろからの声にれいなはビクッと反応する。振り返ると、先ほどまで一緒にいたワタナベがカルテを片手にそこに立っていた。
彼は幾分か困った表情をして、空いた手で髪をかいていたいたので、れいなはどう反応して良いか悩んだ。
「とりあえず、彼女の診察の時間ですので、どいてくれるかい?」
ワタナベがそう言うので、れいなは素直に扉から手を離し、道を開けた。
だが、このまま終わっていい訳がないとれいなは判断し、思わずワタナベに聞いた。
「先生は、知ってるんですか?」
「…なにを?」
「サトウ先生は、どうして絵里を…」
その言葉を遮るように、ワタナベは人差し指を唇に当てた。思わぬ行動に、れいなは不意にドキッとした。その様子に気づかないまま、ワタナベは返した。
「……屋上にいて下さい。もう、話しても問題はないでしょうから」
ワタナベはれいなの返事を待たずに707号室へと入っていった。
れいなはただひとり取り残されたが、黙ってネームプレートを見つめたあと、屋上へと続く階段へと歩き始めた。
- 811 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:49
- 屋上には心地良い風が吹き抜けていた。れいなの前髪を揺らしたそれは、そのまま木々の葉を揺らし、夏の匂いを連れて行った。
今日も良い天気だなとれいなが青空を眺めていると、ものの10分もしない内にワタナベがやってきた。
白衣が風に靡かれている。彼はまぶしそうに目を細め青空を見上げた。「今日も晴れましたね」と呟き、れいなの横に並んだ。
「…彼女のことを、きみは知らない、よね?」
ワタナベの言葉にれいなは頷く。この場合、彼女とは間違いなく707号室の患者さんだろう。
ネームプレートを見ても、れいなには彼女が何者なのか、サトウ先生とどのような関係があるのかは分からなかった。
ワタナベはふうと息を吐いて話を始めた。
「彼女、恵里菜ちゃんは、サトウ先生のお子さんですよ」
自分の隣にいる人物の言葉にれいなは目を見開く。予想だにしなかったその言葉にれいなは困惑する。
「サトウ先生…独身だったんじゃ…」
「離婚したんですよ、ずいぶん前に。恵里菜ちゃんは、母親に引き取られたので、名字もそちらの方になっています」
ワタナベの説明にれいなは納得する。確かに、707号室のプレートの名字は「サトウ」ではなく「真野」になっていた。
「恵里菜ちゃんも、絵里と同じ病気なんですよ」
「え?」
「しかも症状は、恵里菜ちゃんの方が重い。彼女の心臓は、いつ爆発してもおかしくない状況なんですよ」
急に叩きこまれる情報を整理しようとする。だが、処理しようとしても脳は追いつかない。
その間にもワタナベの説明は続く。
- 812 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:49
- 恵里菜ちゃんも僕が担当しています。あの子も小さい頃から面倒を見ていました。歳の割に落ち着いている頭の良い子ですよ。
サトウ先生が離婚されたのは、恵里菜ちゃんの病気が発症してすぐですね。先生は離婚後も暇をみては娘さんの見舞いに来ていました。
だから僕ともよく会いましたし、なにより同じ病気である絵里のことも知っていました。絵里はサトウ先生のことを知りませんでしたけどね。
でも、まさか彼女が自分の高校に入学するとは思ってもみなかったみたいですね。
「…彼は、親なんですよ」
ワタナベはそう言って青空を見上げた。その視線は遠くまでを見通そうとしているようだった。
れいなは怪訝に思いながらも、次の言葉を待った。いま、なにかを言うべきではないなと、なんとなく思った。
- 813 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:50
- 彼は教師である前にひとりの親なんです。
ドナーが見つからず、その病状の重さや手術代の関係でなかなか手術が出来ない娘さん。彼女は幼い頃から病院にいて、滅多に外には出られません。
かたや、同じ病気を抱えているにもかかわらず、病状がまだ軽いため、学校にも通い、楽しく過ごしている絵里。
名前も、少しだけ雰囲気も似ているふたり。それなのに、どうして彼女だけが、どうしてうちの子だけが。どうして、どうして、どうして。
ワタナベの言葉をれいなは黙って聞く。いままでの説明で、なんとなくれいなは理解した。
彼の言うとおりだった。サトウ先生は、ひとりの高校教師である前に、子どもを守りたい親だったのだ。
最愛の娘を襲った突然の病気。手術をしないと成人まで生きられる保証はない。だが、その病状や費用のせいで手術を行うことがなかなかできない。
それどころか、小さい頃から小さな部屋に閉じ込められ、四角く切り取られた空と白い天井が世界のすべてであった。
そんな娘の近くに現れたのは、同じ病気を抱えた女の子。名前も一文字違いで、何処となく雰囲気も似ている女の子は、あろうことか学校に通っていた。
普通に中学校に通い、部活をし、青春を謳歌していた。そんな子がよりによって自分の勤務先の高校に入学してきた。
どうして彼女はこんなに元気なのに、娘は苦しまなければならないのか。同じ病気であるにもかかわらず、どうして娘だけが。
娘を想う親の気持ちは次第に歪み始め、結果的に絵里を傷つけることに繋がってしまった。
- 814 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:51
- れいなは拳を握り締める。サトウ先生の気持ちが分からないわけじゃない。立場は違っても、彼も守りたかっただけなのだ。
ただただ純粋に、自分の娘のこれからを、必死で守りたかっただけなのだ。その気持ちが、少しだけ間違った方向に飛びだしてしまったのだ。
だからといって、サトウ先生がこれまで絵里にしてきたことをすべて赦せるわけではない。
先生の気持ちは理解できるが、絵里がそのねじ曲がった気持ちから来る理不尽な怒りを受けとめる必要はないはずだ。
「…サトウさん、此処に来るときは必ず702号室に頭を下げるんですよ」
れいなはその言葉に顔を上げる。ワタナベは真っ直ぐな瞳をれいなにぶつけた。
その瞳が、何処となく綺麗だなと、れいなは思った。
「申し訳ないと思っているのか、謝っても赦されないと分かっていても、サトウさんは必ず、頭を下げているんですよ、絵里に対して」
「でも…でも、絵里は」
「分かってます。サトウさんのせいで、絵里が休学せざるを得ない状況になったと言っても過言ではないです。でも、僕に彼は責められません。どうしても」
「…なぜ、ですか?」
- 815 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:51
- れいなの問いにワタナベは答えなかった。代わりに視線を落として、白衣のポケットに手を突っ込む。
答えなんて、もう分かっていたのだけれど。それでもれいなは反論した。
「……サトウ先生は確かに親です。でも、絵里にだって、絵里にだってお父さんお母さんがいるとですよ」
「その事実にようやく気付いたから、サトウさんも辞めたんですよ、そういうことを」
れいなはぎゅっと唇をかみしめた。
サトウ先生が憎かった。だけど、サトウ先生の気持ちが分かる自分もいた。
ああ、自分もワタナベ先生と同じだ。自分もまた、サトウ先生を責めることは、出来そうになかった。
「恵里菜ちゃんの手術が再来週の土曜日に行われます」
ワタナベの言葉に、れいなは顔を上げた。
「担当はT大のアサノ先生とナカムラ先生、そして僕です。ドナーなしの手術になりますが、この手術、必ず成功させます」
ワタナベはそう言うと、再び空を仰いだ。この人は見た目に反して、こうやって綺麗な青空の下で走りたいのかもしれない。
病院という特殊な空間ではなく、もっと自由に、そう、れいなのようにボールを追いかけて走りまわりたいのかもしれない。
「…僕の話は以上ですよ」
そうしてワタナベはフェンスから離れ、屋上の扉へと歩いた。れいなは頭を下げし、「話してくれてありがとうございました」と礼を述べた。
そして続けて「手術、宜しくお願いします!」と叫んだ。ワタナベは振り返らずにその手を上げて応えた。
存外、彼はカッコつけだなとれいなは苦笑した。
- 816 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:52
- れいなはそのまま、707号室へと向かった。
『真野恵里菜』と書かれたネームプレートを見つめる。反則と言われたが、れいなはそのドアを叩いた。どうしてだったのかは、分からないけれども。
相手が返事したのを確認してれいなは室内へと入った。
ベッドに上半身を起こしていた恵里菜は一瞬、驚いた顔を見せるも、冷静に訪ねた。
「どちらさま、ですか?」
なんともシンプルだが、実に的確な質問だとれいなは思った。
「えっとー…お、お見舞い、です」
それは答えになっていないだろうと自分でも分かっていたが、れいなは咄嗟に応えることができず、結局そんなバカみたいな回答をした。
恵里菜は顔を傾けて困ったような顔をしたが、すぐに笑顔で返した。
「どうぞ、座って下さい」
恵里菜にそう言われ、れいなは素直に椅子に座った。ああ、手土産でも持ってくるのが常識だよなと、いまさら自分の計画性のなさにうんざりした。
「ビックリしたけど、嬉しいですよ。私ずっと此処にいるから、お父さんくらいしか、会わなくて」
お父さんという言葉にれいなは反応した。
先ほどのワタナベ先生の言葉を信じるなら、彼女の父親はサトウ先生ということになる。
自分の大切な人、絵里を追い込んで休学させたと言っても過言ではない張本人。その娘が、いま、れいなの目の前にいる。
- 817 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:52
- 胸のあたりまで伸びた髪は黒くて綺麗だった。
大きな瞳と対照的に小さな唇。その唇は潤いがあって、なぜだかキスしたくなる欲望に駆られる。
確かに雰囲気は、絵里によく似ていた。顔が似ているとか、名前が似ているとか、それを通り越して、彼女の持つ空気は、絵里のそれとよく似ていた。
「恵里菜ちゃん…お父さんのこと、好き?」
れいなはなんの計算もなく、恵里菜に聞いた。
聞かれた彼女は、自分の名前を知っていることに多少驚きはしたようだが、それを口に出すことはせず、質問に応えた。
「好きですよ。いつもお見舞いに来てくれるし、退院したらお母さんと旅行しようって言ってくれてますから」
そうして笑う恵里菜は、れいなよりずいぶんと大人に見えた。
絵里より年下であるということしか聞いていないが、実際のところ、彼女の方がずっと年上に見えた。
それは、恵里菜の持つ独特の雰囲気もさることながら、恵里菜が何処となく、昔の絵里に似ているからではないかと思った。
人生を諦めたような、何処か寂しそうに笑う絵里と、いま目の前にいる恵里菜がダブって見える。
それはれいなの勘違いかもしれないが、絵里だけを見てきたれいなにはなんとなく分かった。
大人を困らせないようにしている偽りの笑顔を恵里菜も持っていた。それは間違いではないのだけれど、れいなからすれば、どうしても寂しかった。
- 818 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:53
- れいなはほぼ無意識のうちにその腕を伸ばし、恵里菜の頭を撫でた。
黒くて艶のある髪に指を通すも、恵里菜は嫌そうな顔はしなかった。
「…大丈夫っちゃよ」
「え?」
「絶対、大丈夫っちゃよ」
なにを以ってして、なにがどういう意味で大丈夫なのか、れいな自身にも分かっていなかった。
だがれいなは、なんの根拠もなく、恵里菜の頭を撫でながらそう言った。それはいつだったか、絵里がれいなに伝えた言葉と同じだった。
―だいじょーぶだよ
―れーなは、絶対、自分の思い通りに未来を創っちゃうタイプだから。
そうだ、あの日、絵里はれいなに伝えたのだ。
絵里の発したそのたった一言で、れいなは前を向こうと決めたのだ。
たとえばそれが、彼女にとってはなんの意味もない言葉であったとしても、彼女自身、分かっていなかったとしても、絵里はれいなの世界を変えたのだ。
- 819 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:54
-
「恵里菜ちゃんは、絶対、大丈夫っちゃよ」
根拠も自身も、意味もなかったとしても良い。
れいながこの言葉で絵里に救われたように、恵里菜を救ってやりたかった。おこがましくても、自惚れでも、それでもれいなは伝えたかった。
きっと、きっと大丈夫だと。
それは、どうしてだろう。あなたの笑顔が見たいと思ったのだろうか。
言われた恵里菜は、困惑した表情を見せていたが、不意に目を細めて微笑した。
「はい。ありがとうございます」
その笑顔は、今日見た彼女の笑顔の中で一番綺麗に輝いていた。
それがまた、れいなの自惚れと言われてしまえばそこまでかもしれないが、れいなはなんとなく、そう感じた。
彼女もいつか、絵里のように笑ってほしいなと、れいなは思った。
- 820 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:54
- ---
- 821 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:55
- 「まーたファン増やしたの、れいな」
サイダーを飲みながらさゆみは呆れたように呟く。
「ファンってどういうこっちゃよ?」
朝陽高校には遂に『田中れいなファンクラブ』というものが密かに発足した。
活動内容などは特にないが、サッカー部の試合があるときには必ずファンクラブの生徒たちが応援に駆け付けている。
れいなはあの告白の1件以来、そういったファンの子たちの存在には薄々感づいてはいたが、どうして自分がこうもモテるのかは理解できていない。
しかも、そのファンの存在に絵里が嫉妬していることにも気づいていない。
「鈍感も此処まで来ると病気なの」
「だれが鈍感っちゃよ、だれが」
「……告白もキスもなかなかできなかった人のことですよ」
さゆみはそう言ってグラスに入っていた氷をストローで弄ぶ。カラカラと小気味よい音を立てて氷が揺れる。
れいなは「だれよ、それ」と呟いて珈琲を飲んだ。その言葉にさゆみは盛大にため息をついてやろうかと思ったが、やめにした。
「つか、なんでさゆはそれを知っちょっとよ?」
れいなの疑問にさゆみはサラッと答えた。
「藤本さんから聞いたの。真野ちゃんの病室かられいなが出てきたって。浮気でもしたんじゃないかって」
「う、浮気て、別にれなは、恵里菜ちゃんとは普通に会話を…」
「へー。恵里菜ちゃんって、名前で呼んでるんだぁ」
「ばっ…いや、だって…えぇ?」
- 822 名前:Only you 投稿日:2011/12/07(水) 22:56
- コロコロと変わるれいなの表情がおかしくて、さゆみはニヤニヤしながられいなに質問した。
この場に絵里がいたら、「れーなが浮気したぁ」なんて泣きそうな顔をして言うんだろうなとさゆみは想像した。
そうなると、またさゆみが間に入って仲裁しなきゃいけなくなりそうな予感がする。
だいたい、れいなにそんな度胸があるとは思えない。確かにこの人は天然のタラシではあるが、浮気できるほど器用な人間ではないと思う。
それ以上に、あれだけ絵里にベタ惚れであるのだから、いまさら別の人に流れる気もしない。
「そんなことより、れな、さゆに相談があると」
急に話を振られてさゆみは現実に戻る。
本当は、今日の目的はこれであった。
昨日の夜、さゆみはれいなから「相談がある」とメールをもらった。さゆみは「この前のホテル代の代わりに奢ってくれるなら」と返事をして、此処に来ることになった。
れいなの相談に乗る予定だったのだが、れいなと絵里に起こった物語を聞いていくうちに彼女の相談は流され続け、いまに至る。
よし、じゃあいまから聞いてあげよう、その相談をと、さゆみが「なに?」と聞き返すと、れいなは席を立った。
「よし、学校行くと!」
「…学校?なんで?」
「相談があるから」
「いや、相談なら此処で…」
「いーから、ほら!」
そしてれいなは伝票とカバンを持ってレジへと歩いていく。さゆみは半ば強引に席を立たされる。
この子は根っこはヘタレなくせに、妙なところは行動派だなとさゆみは思った。
さて、いまから学校に連れて行かれるのは確実として、いったいなにを相談されるのだろうと、さゆみはボンヤリ思った。
なにも考えつくような相談事がなかった分、さゆみは少しだけ、この状況を楽しんでいた。
- 823 名前:雪月花 投稿日:2011/12/07(水) 23:03
- 本日は此処までになります。
まさか話がこんなに膨らむとは思っていませんでした…自分でもびっくりですw
では次回まで失礼します。
- 824 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/07(水) 23:31
- 先生のこと見直しました(笑)
今まで邪魔者っぽい感じだったんで(^∀^;)
嫉妬えりりんサイコー!!
更新してくださったばかりだけど続きが超気になります(^皿^)
期待して待ってます♪
- 825 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/09(金) 23:15
- ある意味で絵里のお父さん、格好いいですね。(笑)
絵里の両親も二人の愛を応援してあげることになって本当に良かったと思いました。
次はどんな話になるかすごく楽しみです。^^
- 826 名前:雪月花 投稿日:2011/12/10(土) 18:40
- 実は明日が誕生日です、雪月花です
いくつになるのかはご想像にお任せしますww
>>824 名無飼育さんサマ
ワタナベ先生ですか?彼は純粋に絵里が好きなので、決して悪い人じゃないと思いますw
ただ、れいなと絵里の前ではいかんせんこんなキャラになってしまいますが…w
期待に応えられるようにしっかり書いていきたいと思います!
>>825 名無飼育さんサマ
作者には当初、脇役までカッコ良く書きたいっていう目標があったのですが、どうでしょうか?w
絵里の想いに反対したい気持ちもあるんだろうけど、応援するのも親なのかなとか考えてしまいます。作者は親じゃないのでわかりませんがw
がんばって更新していきますので、今後も宜しくお願いいたします。
では、本日の更新です。
- 827 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:41
- 課題をやる手を止めて、絵里はグッと伸びをした。
夏休みに入ってもう半分が過ぎているが、絵里は相変わらず藤本総合病院の702号室で過ごしていた。
最近はだれも見舞いに来てくれず、ひたすら部屋で課題をする日々が続いていた。
最も逢いたい人物であるれいなは、部活が忙しいのか、夏休みに入ってからまだ1度も見舞いには来ていない。
クラスメートのさゆみも、家の手伝いや課題で忙しく、見舞いに行けなくてごめんねとメールをもらっていた。
生徒会長の里沙は、夏休み明けのOG戦や推薦入試、文化祭の準備に加え、受験勉強で大変だと先日メールをした。
みんな、それぞれの事情があることは分かっている。
それなのに逢いたいと思ってしまうのは我儘だろうかと絵里は苦笑した。
絵里は壁にかけてあるカレンダーを眺めた。ワタナベの言っていた手術の日まで、残り4ヶ月と少し。
その日が近づくにつれて、絵里は漠然とした不安に支配されることが多くなっていた。
手術の成功確率は40%以下であり、それはどう転んでも変わらない。
もし、失敗してしまったらという考えが頭にまとわりついては離れない。
自分で、自分の意志でドイツ行きを蹴ったことは分かっているのに。それが自分が選んだ道だと分かっているのに、それでも絵里は怖かった。
発作も、最近はおさまってはいるものの、この心臓はいつ爆発してもおかしくない状況であることは絵里も分かっていた。
時限爆弾式のこの心臓を抱えるいま、絵里にとっては出口のない闇を歩いているような気分だった。
- 828 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:42
- 絵里はだれかと話したかった。
この気持ちを共有したいだけではない。なんの生産性がなくとも、だれかと一緒にいたかった。
ひとりでいることが怖い。この窓の外の風景が見られなくなってしまうことが怖い。
れいなに逢えなくなることが、怖い―――
絵里はそこまで考えて頭を振る。
きっと、そんなことはない。
ワタナベ先生がきっと手術は成功させてくれる。絵里はリハビリをして、れいなと一緒に生きていける。
そう信じようとすればするほど、絵里の中に巣食った小さな黒い染みは少しずつその鳴動を大きくし、その範囲を広げていく。
絵里の心をすべて喰らってしまいそうなほどに成長したとき、絵里はどうなるのだろうと不安になる。
大丈夫だと信じる心。
だけど、もし失敗したらと思ってしまう心。
どちらも本心で、どちらも本音。
生きたいという強い想いを、信じきれない弱い自分が邪魔をする。
絵里は自分を守るようにぎゅっと腕を掴んだ。
- 829 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:42
- 無性に、れいなに逢いたくなった。
絵里はベッドから起き上がり、棚の中に入れておいた携帯電話を取り出す。
電源を切っているそれを服の中に仕舞い、絵里は病室の外へと歩き出した。
携帯電話を使えるスペースは限られている。
絵里は外の空気も吸いたくなり、いい機会だと中庭へと出た。真夏の太陽は容赦なく照りつけ、今日も天の頂上に居座っている。
れいなもこんな炎天下で、相変わらずサッカーボールを追いかけているのだろうかと絵里はボンヤリ思った。
絵里が中庭から病院の玄関を見ていると、ワタナベ先生が立っていた。
その隣には、見覚えのある人物もいる。目を凝らすとそれは、絵里の去年の担任であったサトウ先生だった。
サトウ先生には娘がいて、彼女が同じ病院の同じ階に入院しているということを絵里はワタナベから聞いていた。
彼女も絵里と同じ病気を患っていて、手術が行われることになったという話を、2ヶ月ほど前に聞かされて絵里は驚愕した。
知らない事実を突き付けられると、人間は思わず黙りこくってしまうということを、絵里は身をもって体験した。
絵里が黙って彼を見つめていると、彼もこちらに気づいたのか振り返り、絵里の姿を見つめると深々と頭を下げた。
予想外の行動に絵里は驚きながらも頭を下げる。
- 830 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:43
- 正直、サトウ先生のことは好きではない。だけど、嫌いになることもできなかった。
いままでサトウが絵里に対して行ってきたことは赦せるものではないし、休学まで追い込んだ張本人といっても過言ではない。
それでも、それでも、絵里が彼を憎みきれないのは、一度だけ、サトウが娘である恵里菜の見舞いに来たのを見たことがあったからだ。
そのときのサトウは、いままで見たことがないほど、優しい表情をしていた。
丁度この中庭を、車いすに乗った恵里菜と一緒に歩くサトウは、何処までも柔らかい笑顔をしていたのだ。
ああ、そっかと絵里は理解した。
サトウ先生は、絵里が嫌いなんじゃなくて、恵里菜ちゃんが好きだからなんだよね。
それはもちろん当たり前のことだったけど、絵里は唐突に理解した。
生徒が嫌いなのではない、娘のことが大切で好きだから、その感情が歪んでしまったのだ。
赦される行為じゃないと分かっていても、絵里はサトウを責める気にはなれなかった。
- 831 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:43
- 頭を上げると病院内から花を抱えた少女が出てきた。
それは紛れもなく、サトウ先生の娘である恵里菜だった。恵里菜はあの日より何倍も輝いた笑顔を見せて日の光を浴びていた。
そっか、手術成功したんだね、恵里菜ちゃん。
「おめでとう―――」
負け惜しみでもなんでもなく、絵里は素直にその言葉を口に出せた。
きっと、だれにも届かないであろうその言葉は、そのまま夏の風に運ばれて空気に溶け込んだ。
絵里は携帯電話を握り締めたまま、拍手を受けながら退院していく恵里菜とサトウを黙って見つめていた。
- 832 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:44
- ---
- 833 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:45
- さゆみは大粒の汗を拭いながら座りこんだ。
あの日れいなから受けた相談事がまさかこんなにもキツいものだとは思ってもみなかった。
万年帰宅部、体育の成績は基本的に「3」のさゆみにとって、これはかなりハードなものであった。
「道重さんお疲れ様です」
さゆみがその声に顔を上げると、つい最近知り合った光井愛佳がニコッと笑ってさゆみにペットボトルを差し出していた。
さゆみは素直に「ありがとう」と言ってそれを受け取った。疲れた体に冷たい水が沁み込んでいくのがよく分かる。
これは普段から運動をしてこなかったツケだとは思うが、それにしても足腰が痛くてついていけない。
毎日のように練習しても、単なる振り付け以外に、場位置やフォーメーション、ついでに歌唱力も求められるいま、覚えることが多すぎて追いつかない。
さゆみはこのままで大丈夫か不安になった。
「愛佳ちゃんはダンス部だったんだっけ?」
その不安を払拭しようとさゆみは隣に座った愛佳に話しかけた。
愛佳は自分のペットボトルのお茶で喉を潤したあとに答えた。
「はい、中学の3年間だけでしたけど」
「なんで高校ではサッカー部のマネージャなの?」
「ああ、それは…」
愛佳はそう言うとジャージの裾を軽くめくり足首を見せた。そこにはさゆみでもハッキリ分かるほどの傷痕が出来ていた。
それは正確に言えば、傷痕ではなく、手術のあとだった。
- 834 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:45
- 「ちょっと脚を悪くしまして…普通に生活するには大丈夫なんですけど、部活でするには厳しいんです」
そうして愛佳は困ったように笑った。それは、どう考えても無理して作った笑顔だった。
愛佳の答えにさゆみは申し訳なくなったが、その雰囲気を察したのか、先に切り出したのは愛佳だった。
「でも、サッカー部のマネージャーは楽しいですよ。もともと、人のためになにかするの好きですし。
こうやって田中さんに誘われて、またダンスできるのは、ほんまに嬉しいですしね」
ジャージを整えてそう言う愛佳の表情は真っ直ぐだった。無理をして作った笑顔なんかでは太刀打ちできない力がそこにはあった。
さゆみはそれ以上深く聞くことはせず、「そう」とだけ言って立ち上がった。
後輩がこうしてがんばっているのに、自分がくよくよ不安になっていても仕方がない。
ダンス未経験、万年帰宅部ではあるが、なんとしてでもやり遂げようとさゆみは決意した。
「ガキさん、ちょっとここの振りっちゃけど」
ガキさんこと里沙と入念に振りつけの確認をしているれいなの元へさゆみは歩いた。
親友である彼女の頼みだ、断るわけにはいかない。絶対に成功させようとさゆみは思った。
- 835 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:46
- そうは思っても簡単にはいかない。
いくらひとりで振りを覚えたとしても、数人でフォーメーション移動などをやっているとすぐにつまずいてしまう。
そこは経験者の愛佳や里沙がうまく立ちまわってくれているが、さゆみは頭が混乱しそうになっていた。
そんな中、さらに混乱させる事実に突き当たった。
それは、れいなと里沙、そして愛佳とさゆみが練習している場所に何処かで見覚えのある女の子たちがやってきたことだ。
彼女たちはおどおどしながらもだれかを探しているようだった。さゆみがなにかを言う前にれいなが「お、待ってたっちゃよー」と声をかけた。
「あ、みんなちょっといーかいな」
れいなの綺麗な声が響き、3人は彼女たちを見た。あどけなさの残る顔立ちだが、いったいいくつくらいだろうとさゆみは思う。
- 836 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:46
- 「この子たちも混ざって8人でやるけん、よろしくっちゃ」
れいなの言葉をさゆみが噛み砕いている間に、彼女たちは各々、自己紹介をしていた。
そこでさゆみは漸く思い出した。彼女たちは、去年の文化祭のダンスカラオケ大会に出場していた中等部の生徒たちだった。
まさか中等部のダンス部をこんなに入れて踊るとは……れいなの作戦にさゆみは思わず脱帽した。
「んじゃよろしくっちゃー」
れいなは相変わらず明るい声でそう言うと、自分のダンスレッスンに戻った。
どうして彼女はこうも能天気に話を進めるのだろうと思うが、さゆみは半ば諦めながら中等部の生徒たちを見た。
先ほどの自己紹介を聞く限り、彼女たちはまだ13歳。自分とは4つも差があるのかと愕然とする。
まだまだ遊びたい盛りの13歳の彼女たちは、荷物を置くや否や、4人で話し合い、振りを確認し始めた。
さすがはダンス部というだけのことはある。正直に、うまい。
―これはホントに大変なことになったの…
さゆみははあとため息をつきながら自分の振りの確認を始めた。
予選会まではもう、あと2週間もなかった。
- 837 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:47
- ---
- 838 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:48
- パフェを奢られたさゆみが、れいなに連れられてきた朝陽高校生徒会室にはすでに役者がそろっていた。
そこには生徒会長の里沙、サッカー部マネージャーの愛佳、今年の春に卒業した愛、そしてれいながいた。
さゆみは愛との空港以来の再会を喜びつつ、なぜこのメンバーが集められたのかに疑問を持った。この時点でさゆみは、愛佳とは初対面であった。
いったいなにをしようというのか、さゆみにはれいなの考えが読めなかった。
さゆみが着席したところで、れいなはわざとらしく咳払いをし、急に言葉を発した。
「れなたちで、ダンス大会でるっちゃよ!」
れいなの発言は静かな生徒会室によく響いた。夏のせいか、セミはやかましく鳴いている。
なんだかシュールな光景だと思いながらも、さゆみはれいなの言っていることを理解しようと彼女の言葉を反復した。
- 839 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:48
- 「ダンス大会…?」
「知っとぉやろ?文化祭で行われる、ダンス部主催のやつっちゃよ」
れいなはそう言うと、ダンス大会のチラシを机の上に置いた。
去年は「カラオケ大会」と銘打って行われたこの企画、今年は「ダンス大会」と名前が変わっていた。
趣旨は、パフォーマンス込みのカラオケ大会であり、『歌って踊れる朝陽高生求ム』というキャッチコピーも去年のままだが、内容は去年よりも趣向を凝らしているように見えた。
「出るからには優勝狙いたいけん、愛ちゃんにもスーパーバイザーとして来てもらったと」
れいなは嬉しそうに話を続ける。
生徒会長の里沙、元ダンス部の愛佳、そして中等部4人とさゆみとれいなの8人で挑むことを告げたれいなは、やりたい曲をホワイトボードに書きだした。
どうしてこのメンツなのか、そもそもなぜダンス大会に出るのか、さまざまな疑問が浮かぶかさゆみは盛大にため息をつきながられいなを見つめる。
ひとつひとつ解決していきたいのだが、彼女は言い出したら聞かない性格だし、この場にいるさゆみ以外の3人は既に納得しているようだったので、さゆみは追及を諦めた。
さゆみは次々に曲が書きだされたホワイトボードを見つめる。
愛と里沙がそれぞれやりたい曲をひとつずつ出し、「さゆは?」とれいなに振られたが、とりあえずさゆみは隣の愛佳に回した。
- 840 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:48
- ---
- 841 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:49
- 今日の練習を終えたさゆみは壁にもたれかかって汗を拭った。
覚えることに自信はあったのだが、勉強とはわけが違う。ひとつひとつの動き自体は覚えられても、全体で動いたり通したりすると急に出来なくなった。
本当にあと10日足らずで完成するのだろうかとさゆみはため息をついた。
「おつかれさまなのだー」
降ってきた声に顔を上げると、そこには笑顔の里沙がいた。
今年から生徒会長に就任した里沙は、以前よりもずいぶん柔らかくなった印象を受ける。
前から優しい人ではあったのだが、生徒会長になることによって逆に物腰が柔らかくなった。
前会長である愛とは頻繁に逢っているようであり、その際にアドバイスでももらっているのかもしれないなとさゆみは納得する。
さゆみは「お疲れ様です」と返したあと、ずっと疑問に思っていたことを彼女に聞いてみることにした。
幸いにも、れいなは愛佳とともに中等部の生徒に振付を教えているため聞こえていないはずだった。
「ガキさんは、知ってるんですか?」
「なにを?」
「どうして、れいながこの大会に出ようって言ったか」
それを聞いて里沙はきょとんとした顔を見せる。
『鳩が豆鉄砲を食らったような』という表現があるが、それはまさにこういう表情を言うんだろうなとさゆみは思った。
「田中っち、言ってないんだ…」
里沙はひとりで納得したあとに、さゆみの耳元でそっと囁いた。
ダンス大会に出場しようと決めたその理由を聞いたさゆみは目を見開いたあと、未だに中等部の生徒に振りを教えているれいなを見つめた。
「…ばかれいな」
「まあ、田中っちはああ見えて照れ屋さんだからね」
「……見たまんまですよ、あの子は」
さゆみがそうして笑うのを見て里沙も同じように笑った。
本当にへたれで口下手で、強がりなんだからとさゆみは思った。
ダンス大会の予選会まで残り10日を切っていた。
- 842 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:50
- ---
- 843 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:50
- 2学期開始直後に行われるOG戦と推薦入試に向け、朝陽高校は色めき立っていた。
サッカー部の伝統行事であるとはいえ、お祭り好きな生徒たちにとっては一大イベントである。
その後に控えている文化祭や体育祭を前に、生徒たちの興奮は徐々に高まっていた。
こういう時に混乱が起きないように着々と準備を進めるのは、裏方であり、朝陽高校を支える生徒会執行部である。
今年から会長に就任した里沙も、前任の愛と変わらぬ人望を集め、生徒会を引っ張っていた。
「れいなはOG戦には出るんだっけ?」
いつものピンク色の弁当箱を片手にさゆみは質問した。
「うん、推薦入試は1年生が出るけん、れなは土曜のOG戦だけやな」
れいなは、珍しく学校に来る直前にコンビニで買ったおにぎりを頬張りながら返した。
「さゆと絵里は見に来ると?」
「うーん…まだ予定は分からないの」
「藤本さん来るみたいっちゃよ」
「それは行かなきゃなの」
一瞬で表情を変えたさゆみにれいなは思わず苦笑した。
この子は相変わらず、自分の心に素直だなと思っていると、れいなはふと絵里を見つめた。
絵里はれいなの質問に答えず、いまのさゆみとの会話にも入ってこなかった。
それどころか、会話を聞いていなかったのかぼんやりと一点を見つめ、その箸の動きも止まっていた。
- 844 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:51
- れいながなにか絵里に話しかけようとしたとき、教室がざわめいた。
なんだろうと振り向くと、2年3組の前方の扉に我らが朝陽高校の生徒会長がやって来ていた。
その後ろには、サッカー部マネージャーの愛佳がぺこりと頭を下げていた。
れいなは用事は自分にあったのかと立ち上がり、一瞬絵里を気にしながらも、扉へと歩いて行った。
「どしたと、愛佳?」
「田中さんに用があったらたまたま新垣さんに会ったので、案内してもらいました」
絵里はその声に顔を上げた。
れいなが嬉しそうな顔をして女の子と笑っていた。自分の知らない場所に、彼女が、居た。
「あ、さゆみーん、ちょっと良いかな」
「はいはーい。絵里、さゆみ行くね」
絵里がなにか言おうとする前に、里沙に呼ばれたさゆみは扉へと小走りに向かった。
教室の入口で、4人はそれぞれの会話をしていた。
- 845 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:51
- それは、絵里の知らない、れいなとさゆみの姿。
絵里のいない場所で、絵里の知らない場所で、あのふたりは生きている。
瞬間、絵里はその胸がぎゅうと締め付けられそうになった。
夏休みからずっと考えていたこと。
絵里の手術の成功確率は40%以下であり、年を越せるかも微妙な数字であった。
それに対して、れいなとさゆみには未来がある。
この先も、きっと何処かで彼女たちは生きていく。
絵里の知らない場所で、絵里の知らない友だちと笑って、絵里のことも、いつかは忘れて―――。
絵里は暗くなっていく自分に嫌気がさし、弁当箱に蓋をした。
なんという浅はかで、情けない考えかなど、分かっている。自覚しているのに、絵里は顔を上げられそうになかった。
絵里は嫌な考えを振り払うように立ち上がり、教室の後ろの扉から廊下へと歩き出した。
- 846 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:52
- れいなは授業が始まってからも集中できなかった。
昼休みに里沙と愛佳が教室にやってきたあと、絵里はいつの間にか姿を消していた。
トイレにでも行ったのだろうかと考えていたが、午後の現国の授業が始まっても彼女は帰ってこず、いまに至る。
「じゃあ次の文章読んでもらおうかな」
最近の絵里の様子がおかしいことにはさすがのれいなでも気づいていた。
今日の昼だって、ほとんど彼女は会話に入ってこなかったし、食事も摂っていなかった。
「じゃ、この列の子、前からお願いしますー」
夏休みの間は確かにほとんどれいなは絵里に会いに行っていなかった。
ほとんどというか、まったくという方が正しいかもしれない。
夏休み中は、サッカー部の練習とダンス大会の予選会の練習で、とてもではないが見舞いに行く余裕はなかった。
そのことに関しては絵里に「忙しくてごめん」と謝ったが、それでも絵里は笑ってくれなかった。
「はい、次の子」
笑ったのだけれど、笑ってくれなかったのだ。
哀しそうに目を伏せて、いつかのように偽りの笑顔を向けて「大丈夫だよ」とつぶやいたから、れいなは泣きそうになった。
そんな顔はもう二度と見たくなかったのに、絵里はまた、あの笑顔の仮面をかぶってしまったのだ。
「ほい、続きー」
それはひとえに、自分のせいだろうかとれいなは考える。
絵里が傷つくとしたら、たぶんそれは、自分が原因に他ならない。
だが、見舞いに行かなかったことはもちろんだが、それであんなにも哀しそうな顔をするだろうか。
- 847 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:53
- 「んー? 続きー」
それ以外に理由があるとしたら、それはなんだろう。
絵里を悩ませる、哀しませる原因があるとすれば、やはり自分の病気のことだろうけど、
そうなると問題は非常にデリケートであり、れいながどうアドバイスすれば彼女はまた笑ってくれるのだろうか。
やはり、ちゃんと時間をつくって話すべきなんだろうけど、いかんせん時間と余裕がない。
それを言い訳にできないことくらいわかっているのだけれども。
どうすれば良いのだろう…
「つ・づ・き!」
れいなは思考を中断させた。
というよりも中断せざるを得なかった。
教科書で頭をはたかれて顔を上げると、そこにはそれこそ笑顔だけれども目が全く笑っていない安倍先生がいた。
れいなはなにが起きたか一瞬で把握したが、これを切り抜ける方法までは分からなかった。
曖昧な笑顔を安倍先生に見せると、安倍は口角を上げてもう一度れいなの頭を軽く叩き、「34ページの12行目」と教えてくれた。
れいなは慌てて立ち上がり、言われた場所の朗読を始めた。
- 848 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:53
- 授業が終わった後、れいなは教卓に呼ばれた。
「なんか悩みごと?」
「え?」
「なんか真剣な顔してたからさー」
怒られるかと思いきや、意外にも心配されたれいなは一瞬絵里の顔を浮かべたが頭を振って消し、「なんでもなかです」と笑った。
「カメちゃんなら保健室だよ?」
「え?」
「違うの?」
安倍の突然の言葉にれいなは驚くが、安倍はニコッと笑って教室を後にした。
去り際に「いやぁ、青春って良いねぇ」と、文化祭で絵里に発した言葉をれいなにも渡したが、そんなことをれいなは知る由もない。
安倍の残した言葉を噛み砕いていると、一瞬、絵里の寂しそうな顔が浮かんだ。
―ああ、結局れなは……
れいなは天井を仰いだ後、さゆみの元へ行き、「ちょっと次の時間サボる」と伝えた。
「え、次サトウ先生の英語だよ?」
「かまん。れな行く」
れいなはさゆみの言葉を無視し、教室を飛び出した。
- 849 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:54
- 走って階段を降りようとしたところで、次の授業のサトウと鉢合わせをしたれいなは「あ」と声を出して立ち止った。
サトウもそれに気づいたのか、上りかけた足を止め、れいなと向き合う。
校内中に予鈴が鳴り響き、生徒たちは駆け足で教室へと帰っていく。
「……授業ですよ」
サトウはそう発してれいなの横を通り過ぎようとしたが、れいなはその瞬間に走り出した。
「田中さん」
サトウがその背中に声をかけると、れいなは振り返る。
見下ろすサトウと見上げるれいなという構図ではあるが、れいなのその目は真っ直ぐにサトウを捉えている。
意を決したように、れいなは言葉を紡いだ。
「サトウ先生が守りたかったんは、恵里菜ちゃんですよね?」
その名前が出てくると思っていなかったのか、サトウは目を見開いた。
一瞬の沈黙の後、「きみは…」と呟くが、れいなはそれを遮って自分の言葉を繋いだ。
「れなが護りたいんは、絵里なんです」
いつだって、抱える想いは単純だ。そこにあれこれ理屈づけることなんて無意味でしかない。
好きだから、あの笑顔を護りたいから、だかられいなは走るんだ。そこに意味なんてなくて良い。馬鹿げていても、それがれいなの選んだ道だから。
れいなは頭を一度下げて、階段を駆け下りた。
サトウはただ茫然とその後ろ姿を見つめることしかできなかったが、困ったように頭をかいた。
すべて知っているのかといまさら自覚したサトウはため息をついて天を仰いだ。
「無茶苦茶ですよ、田中さん」
だが、その無茶が、いまのサトウにはただ、羨ましかった。
自分のしてきた「無茶苦茶」と、れいなの行為の「無茶苦茶」は言葉こそ同じであれ、意味がまったく違っていたのだから。
サトウは「宜しくお願いします」と頭を下げたあと、教室へと歩いた。
- 850 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:55
- 保健室に入ると、養護教諭は会議中なのか留守だった。
それは説明する手間が省けて好都合だなとれいなは思い、カーテンの閉められているひとつのベッドに近づく。
そっと隙間から覗くと、そこには紛れもない絵里が安らかに眠っていた。
れいなはカーテンの中に入り、ベッド脇にあった椅子に座って絵里を眺めた。体調が少し悪いのか、その顔色は良くない。
そっと髪を撫でてやるも、絵里は全く起きようとしない。
起こしたくはないのだけれども、その唇に触れたい欲望がれいなの中に巻き起こった。
やっぱり、可愛いと思う。
クラスメートのさゆみも、生徒会長の里沙も、前会長の愛も、サッカー部マネージャーの愛佳もれいなの周りには可愛い女の子が多い。
そうなのだけれど、その中でも絵里は飛び抜けて可愛いと思う。
ひとつひとつの仕草とか、寝顔とか、ボーっとした表情とか、ひとつには絞れないのだけれど、絵里は可愛いと思う。
だが、それでもれいなは無性に怖かった。
安らかに眠る絵里が、このまま目を覚まさないんじゃないかとか。
このまま振り返ることなく、絵里が消えてしまうんじゃないかとか。
そういった漠然として付き纏う「死」の影が、チラチラと顔を見せて怖かった。
- 851 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:55
- れいなは絵里の唇をそっと人指し指でなぞると、絵里は一瞬だけ反応した。
その顔が無性に愛しくて、そして怖くて、どうして良いか分からなくて、れいなは絵里の顔の横に手を置き、そのまま口付けた。
甘い香りが一瞬でれいなを虜にし、離さない。
合わせるだけのキスなのに、その温もりが、その柔らかさが、その甘さがれいなを刺激して捉える。
そっと体を離そうとすると、れいなの首に両腕が回った。
「え?」と思う前に、れいなは絵里に再びキスされた。
「れーな…」
目を閉じてその名を呼ぶ彼女が、愛しかった。
れいなはなにも考えられなくなり、そのままベッドへと上り、キスを落とした。
角度を変え、啄ばむように唇を合わせ、互いの舌と舌が絡まる。徐々に深くなるにつれ、ベッドがギシッと音を立てるが、もう気にしている余裕もなかった。
絵里はれいなを、れいなは絵里を、その名を呼んだ。
愛しい人に名を呼ばれると、それだけで、自分の名前は特別な響きを持っているように感じられる。
そんなシアワセが他にあるだろうかと、ふたりは目を閉じて、互いの温もりを感じあった。
- 852 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:56
- 「授業、サボっちゃったの?」
長いキスを終え、甘い空気が漂っている中で指摘された言葉にれいなはドキッとする。
曖昧な笑顔で誤魔化そうとすると、絵里はむぅと顔を膨らませ「サボっちゃダメだよぉ」と両手でれいなの頬を包み込んだ。
れいなは苦笑しながら絵里の隣に横になり、絵里を抱きしめた。
「どうしても、絵里と話したかったから…」
ギュッと強く抱きしめられると、れいなの心音を直接感じられた。
いつでも傍にある優しさは、絵里をいつまでも包み込み、その心に降り注いだ。この温もりをずっとずっと、感じていたかった。
「どうしたの?」
絵里は目を閉じ、れいなの胸の中にすっぽりと納まると彼女に聞いた。
れいなは一瞬、抱きしめる腕の力を強くした後、言葉を紡いだ。
「絵里を、見失いそうやったと…」
弱々しく呟かれた言葉に絵里は顔を上げた。
「ちゃんと、話さんといかんことたくさんあるっちゃけど、いっつも、言い訳作って、言わんでも絵里は許してくれるやろって思っとって…」
―そうやって、たくさん知らない間に絵里を傷つけて、そうしたら、絵里を泣かせてしまって…
ひとりにしないと約束した。
絶対に離さないと誓った。
どうして口ばっかりになってしまうのだろう?
言わないで良いことなんてない。伝えなければ意味がない。
恥ずかしいとか、ヘタレとか、そういった言葉だけで彼女を傷つけて良い理由になんかならない。
「ごめん、絵里…」
想いとは裏腹に素直になれない自分自身。
だが、不甲斐ない気持ちを抱えたまま、絵里を見失いたくはなかった。
だかられいなは、精一杯、自分が言える言葉で絵里に伝えた。
- 853 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:57
- 「……絵里、もっ…不安だったの…」
いつの間にか、絵里は泣いていた。れいなの制服を握りしめ、その胸元に顔を埋め、肩を震わせた。
「絵里の、知らない場所で、れいなは笑ってて、そのまま何処か行っちゃうんじゃないかって……」
―独占欲だって分かってる。れいなは絵里のものじゃない。分かっているのに…
「寂しかったの……ごめんなさい…」
絵里の口から聞かされる、絵里の心。
言わないことが、人を傷つける。鈍感であることは、人を泣かせる。
れいなは絵里の肩を強く抱いた。
「さっきの子、サッカー部のマネージャーやと」
「そうなの?」
「…ホントはビックリさせようと思って黙っとったっちゃけど」
そうしてれいなはスカートのポケットから1枚の紙を差し出した。
絵里は不思議そうな顔をしながらも、その紙を受け取り、中身を確認した。
それは、今年の文化祭におけるダンス部主催の「ダンス大会」のチラシであった。
まだ製本されていないのか、下書きの段階であるが、出場者の欄にはハッキリと、れいなやさゆみ、そして里沙の名前が書いてあった。
「これって…」
「絵里に見てほしいっちゃん。れなたち、絶対優勝しちゃるから」
夏休み、絵里の見舞いに行けなかった理由は、ダンス大会の練習をしていたためだったと、絵里はようやく気付いた。
どうしてこの大会に出たいと思ったのかまでは分からなかったが、決して、自分を嫌いになったから見舞いに来なかったんじゃなかったのだと知った絵里はホッとした。
「できれば、OG戦も見に来てほしいと」
その言葉に絵里は笑顔を見せて「うん」と頷いた。
それは、夏の間に見せた偽りの笑顔じゃなくて、絵里の本当の笑顔だった気がした。
れいなは良かったというように笑い、絵里をもう一度抱きしめた。
- 854 名前:Only you 投稿日:2011/12/10(土) 18:58
-
大丈夫。
きっと、きっと大丈夫だから―――
だれにともなく呟いた言葉は、甘い空気に溶けて消えていった。
- 855 名前:雪月花 投稿日:2011/12/10(土) 19:02
- 今日は此処までにします。
終盤終盤と言っておきながらいつ終わるんだという話ですが、もうすぐ最終章(っぽいもの)が始まります。
どうか最後までついてきてください。
よろしくお願いいたします。
- 856 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/11(日) 01:25
- いやだぁ終わらないで(T-T)
ずっとずーっと読んでいたい!!
ダンスはどの曲を踊るのか密かに楽しみにしてます(笑)
そしてそして..雪月花さん!!
お誕生日おめでとうございまーす(^∀^)♪
年齢は…永遠の13才??(田中れいな風)笑
- 857 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/12(月) 17:44
- ちょっと遅くなりまりたが、雪月花様!お誕生日おめでとうございます!
おかげさまでこんな素敵な話に出会えましたね。
他の方も言ったんですが…
どんな結末になるかも気にしますが、
一方ではこれからもずっとこの話の皆に会いたい気持ちもいっぱいなんです。
- 858 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/14(水) 12:26
- ワクワク
ドキドキ
- 859 名前:雪月花 投稿日:2011/12/15(木) 20:08
- さゆの黄金伝説でのがんばりを見て泣きそうになった雪月花です。
ホントに彼女は娘。のために身を削ってるよなあ…
>>856 名無飼育さんサマ
どの曲を踊るか…予想もついている方もいるかもしれませんが、本編をお楽しみにw
お祝いありがとうございます!歳を重ねても実感がないですね…なぜだろう?
もう少し続きますので、どうぞ変わらぬ応援をよろしくお願いいたします。
>>857 名無飼育さんサマ
お祝いありがとうございます!素敵な話と言っていただいて本当に嬉しいです!
この話はいつか終わってしまいますが、もし完結しても、必死に青春している彼女たちにまた逢いに来て下さい。
末永く愛される物語になるように、今後も精進してまいります
>>858 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
期待に応えられるように更新していきますので、今後も応援お願いします。
今回はまた本編とは離れた世界の物語です。
読み飛ばしていただいても構いません。
- 860 名前:果てない約束 投稿日:2011/12/15(木) 20:09
-
―――ずっと一緒やって思っとった。
- 861 名前:果てない約束 投稿日:2011/12/15(木) 20:09
- 第6期メンバーとしてモーニング娘。に加入したとき、田中れいなには夢があった。
いつか、自分たち6期がいちばん上に立ったとき、モーニング娘。をこの3人で引っ張っていこうと。
だれかがリーダーになって、サブリーダーに支えられて、中間管理職が後輩とのパイプ役を担って、どんどん盛り上げていこうと。
そんな時代は来るのだろうか。本当にやってきたら楽しみだ。だれがリーダーになるのだろう。できれば、れながなりたいな。
そのときのためにも、もっともっと練習しよう。
ダンスも歌もうまくなって、モーニング娘。を盛り上げていける存在になるために、一生懸命頑張ろうって。
そうやって、突っ走ってきた、あの日まで。
- 862 名前:果てない約束 投稿日:2011/12/15(木) 20:10
- 「っくしょい!」
仕事を終えたれいなは、会社を出てすぐに外の寒さでくしゃみをし、体を震わせた。
そうだ、あの日もこんなに寒かったっけと1年前を思い出す。
1年前の今日、2010年12月15日。
モーニング娘。にとって、忘れることのできない伝説のコンサートが横浜アリーナで行われた。
第8期留学生メンバーである、ジュンジュン、リンリン、そして第6期メンバーの亀井絵里の卒業コンサートだった。
それは、長く変化のなかったモーニング娘。が、再び動き出したと言っても過言ではない日でもある。
数年振りの新メンバーオーディション開催決定と、9期メンバー4人の加入。
4年間という長きにわたり娘。を引っ張って来たリーダーの高橋愛の卒業、10期メンバー4人の加入。
新しく7代目リーダーとして新垣里沙が就任し、彼女は過去最長の在籍年数を誇ることになる。
動き出した針は止まることを知らず、時を刻み、時代は流れていく。
「なーんてね」
と、れいなは急に感傷に浸った自分を苦笑した。
この時期になると、どうしても思い出してしまう。
自分の大切な人、亀井絵里が卒業してしまったことを。
- 863 名前:果てない約束 投稿日:2011/12/15(木) 20:10
- 普段は「うへへぇ」なんてだらしなく笑って、仕事現場に「財布がなーい!」なんて言いながら入ってきて
「ガキさぁ〜ん、前髪やってー」って笑いながら里沙に絡んで、「さゆー、会いたかったぁ」と同期の道重さゆみに抱きついて。
なんかそんな姿を見るだけでちょっとイライラしている自分がいて、すねたように楽屋を出ていくと、いつも笑顔で「れーなっ」って声をかけてきた。
たったそれだけで、れいなは自然と笑顔になって「絵里」と名を呼んでしまった。
重症。
恋の病。
ただのバカ。
それは重々自覚しているのだが、ちっとも改善の余地はなかった。
結局のところ、亀井絵里という存在に溺れ、この恋に夢中になり、いつの間にか、愛してしまったのだから。
「すねたれーなも可愛いなぁ〜」
「あ、れーな、怒った?」
「怒んないで、ね?」
「絵里はれーなが大好きですよ」
そんなこと言われたら、「れなも絵里を好いとぉ」って言うしかなくなってしまったのだから。
- 864 名前:果てない約束 投稿日:2011/12/15(木) 20:11
- 絵里はあの日、冬の横浜で1万人以上のファンに見守られて卒業していった。
本当なら、引き止めたかった。
これを盛大なドッキリにしてしまったら、楽しくない?とか、明日には電撃復活とかどう?なんてくだらない言い訳とかまで考えてしまった。
だけど、それを実行に移すことは当然できなかった。
1回1回のコンサートを真剣に楽しんで輝いている絵里を見たら、そんなくだらない世迷言、言えるわけなかった。
それでも、引き止めたかった。
いかないでほしい。卒業しないでほしい。そうやって子どもみたいに駄々をこねてみたかった。
我儘だって分かっている。絵里のからだの悲鳴も聞こえている。絵里が一生懸命に悩み抜いた末の決意も分かっている。
だから、最後は送り出した。
涙でぐしゃぐしゃになりながらも、安心して卒業してと、れいなは絵里を送りだした。
たったひとつ、約束をして。
- 865 名前:果てない約束 投稿日:2011/12/15(木) 20:11
-
れいなの加入当初から持っていた夢。
6期3人で、絵里とさゆみとれいなの3人で、モーニング娘。を引っ張っていこうという夢。
その夢はもう、叶えることはできないけれども
だけど、これからのモーニング娘。は、さゆみとれいなの2人で引っ張っていくから
だから、大丈夫―――
- 866 名前:果てない約束 投稿日:2011/12/15(木) 20:12
- れいなは夜空を見上げた。
東京の空は明るすぎて星がわずかにしか見えない。地元福岡でさえ、もう少し見えたのになと苦笑する。
それでも、天の頂上には雪白の月が居座り、こちらを見ている。月食を終え、少しだけ欠けたその月は、思ったよりも円くない。
そんな月は、れいなをただじっと見つめている。
「……大丈夫っちゃよ、絵里」
卒業していく絵里と交わした約束。
さゆみとれいなの2人で盛り上げていくから、絵里は見守っていて。
その約束は、まだ果たせていないかもしれない。
- 867 名前:果てない約束 投稿日:2011/12/15(木) 20:12
- リーダーである里沙を6期の2人が支え、中間管理職を絵里から光井愛佳が引き継いだ。
10期メンバーが入ったことにより、9期メンバーにも自覚が出てきて、少しずつではあるけど、娘。の土台はできてきた。
実際、まだ充分じゃない。
先輩4人と新人8人という構図はまだまだ変わらないし、過去最高の8人と言わしめたあのメンバーの表現力には到底及ばない。
それでも、少しずつではあるが、変化が起こり始めてきた。
歌唱力だって表現力だって、まだ、発展途上の段階ではあるけれども、先輩4人と新人8人という構図は、春のコンサートまでには、先輩8人へと変わるはずだった。
9期メンバーの力をれいなは信じているし、れいな自身の力も信じている。
絶対に負けない。
世間の風向きも少しずつではあるが、良くなってきている。
地道に蒔いた種は、必ず綺麗な花を咲かせるはずだから。
れいなは深く息を吐き、ポケットに手を突っ込んで歩き出す。
あの日のことは絶対に忘れない。
1万人以上のファンの前で誓ったのだから。
れいなの約束は、いまもまだ続いている。
- 868 名前:雪月花 投稿日:2011/12/15(木) 20:14
- ライサバから1年経ちましたということで、特別編でした。
作者はそのときまだ娘。にハマっていなかったのですが…本当に悔やみきれません。
れいなの“3人で”っていう夢は果たせませんが、さゆとれいなのふたりなら、きっと大丈夫だと信じています。
れなえりというよりも、これからの娘。への期待みたいな話になっちゃいました。
で、れいなが自宅に帰ると、絵里が手料理をつくって待っていてくれて
なんか嬉しくなって手料理の前に絵里を食べちゃったって話は、また次の機会にでもww
次回から通常更新に戻ります
- 869 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/16(金) 18:00
- れいなが自宅に帰ると、絵里が手料理をつくって待っていてくれてなんか嬉しくなって手料理の前に絵里を食べちゃったって話が激しく気になるwww
- 870 名前:雪月花 投稿日:2011/12/16(金) 23:33
- ジブリ作品の中ではラピュタがいちばん好きな雪月花ですw
だからか、絵里を守るために奔走するれいなはパズーのイメージが近いのかもしれないです。
影響受けやすい性格だなあ自分…
>>869 名無飼育さんサマ
やはりそこに食い付いちゃいますかw
そのお話はまた何処かで書くと思います、たぶんw
コメントありがとうございました!
では本日分です
- 871 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:34
- オレンジのユニフォームの選手たちがボールを持つたびに黄色い歓声が飛んだ。
毎年恒例のOG戦ではあるが、年々、このファンの数が増えていっている気がするなと絵里は思う。
「藤本さん、ちょーカッコいいの!」
そういえばこのウサギもファンになったんだったなと思いながら絵里は肩をすくめた。
オレンジの6番である美貴は、華麗にボールを捌きながら現役生の陣に入り込んでいく。
右脚で放たれたシュートは枠を捉えていたものの、キーパーのファインプレーに阻まれた。
去年卒業した紺野あさ美に徹底的に叩きこまれたおかげか、朝陽高校の現役のゴールはなかなか割れることはない。
ボールはセンターへと蹴り込まれ、それを受けたれいなは一度切り返し、その後一気に敵陣へと上がっていく。
すると、いままでに負けないような黄色い歓声が飛んだ。
「れーな、人気なんだね…」
ぼそりと呟かれたその言葉に、絵里は自分で幻滅した。
醜い嫉妬だと分かっているのに、自覚しているのに心の動揺が抑えられない。
寂しくて、不安で、あの日、れいなは大丈夫だと言ってくれたけど、本当に?と疑ってしまう。
そんな弱い自分が嫌いで、もっと塞ぎ込んでしまいそうになる。
れいながシュートを放ち、ゴールの右隅にボールが蹴り込まれてネットが揺れると、一気に歓声が上がった。
れいなは右腕を天に突きあげ、チームメイトの荒い祝福を受けていた。グラウンドで輝くれいなの笑顔が、絵里を締め付けた。
- 872 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:34
- 「文化祭のこと、聞いた?」
先ほどまで美貴を黄色い声で応援していたとは思えないような落ち着いた言葉がさゆみから放たれた。
絵里はさゆみを見つめると、彼女も真っ直ぐに絵里を捉えていた。絵里は素直に「さゆも出るんでしょ?応援してるよ」と頷いた。
「なんでダンス大会に出るのかは、聞いた?」
絵里の言葉には答えずに、さゆみは質問を続けた。確かに出場することは聞いていたが、理由までは聞いておらず、絵里は首を振る。
さゆみは「やっぱりね」と半ば呆れ気味に口にすると、絵里に話し始めた。
「絵里にね、伝えたいんだって」
「え?」
「口下手だから、直接は言えないけどね」
さゆみは「れいなはホントにへたれだから」と付け足して話を続けた。
- 873 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:35
- ---
- 874 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:36
- 絵里にはずっと心配かけてきたと。
いっぱい傷つけて、いっぱい泣かせてしまって…守りたいって思っとったのに。
だけん、やっぱ絵里には笑っててほしいっちゃん。
へたれやって言われてもしゃぁーないけん、こんなやり方しか知らんけん、とにかく絵里に伝えたいと。
絵里は、絵里は、絶対に大丈夫やって―――
- 875 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:36
- ---
- 876 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:36
- 口にすることが出来なくても、伝える方法はあるはずだった。
れいなは自分なりに必死に考えて、里沙に自分の気持ちを伝えた。
自分の都合に、里沙やさゆみを巻き込んでしまうことに少なからずの罪悪感を覚えていたが、里沙はニコッと笑い、その言葉を受け止めた。
そして、愛や中等部の生徒たちにも話をもっていってくれたのだ。
「ま、さゆみもガキさんから聞いた後に、れいなを問い詰めて分かったんだけどね」
さゆみも巻き込まれた張本人ではあるのだが、本人の口からちゃんと理由を聞いたのは最近であった。
それも結局は「へたれ」のひとつだと思ったのだが、さすがにそれを指摘するのは酷だと思い、やめていた。
れいなのことだから、言わなくても分かってくれると思っていたのかもしれないが。
「れーな……」
さゆみから聞かされる事実に、絵里は思わず胸が締め付けられた。先ほどの歓声を聞いたときとは違う痛みが胸に走る。
れいなの確かな想いが、れいなの声が、絵里の胸にこだましていた。不器用で、へたれで、それでも何処までも真っ直ぐな想いは、絵里に届いている。
絵里はフェンスに指をかけてグラウンドを見つめた。雲ひとつない青空の下、選手たちはボールを追い駆けて所狭しと走っている。
青いユニフォームの07番、れいなも例外なくその輪の中に入り、OGたちと対等に渡り合っていた。
ボールは現役生により大きくコートから外れ、OGたちのスローインになった。れいなはOGらのマークには入らず、少し遠めの場所で顔を下げて脚を動かしている。
- 877 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:37
- 「れーなぁっ!」
絵里は思わず、そう、本当に無意識のうちに叫んだ。
その声は、下で応援している生徒たちの歓声に紛れ、とてもではないが聞き取れるものではなかった。
だが、れいなは俯いていた顔を上げた。
そして、屋上にいる絵里の姿を認めると、あのあどけなくてちょっと意地悪そうな笑顔を見せ、右腕を突きあげて応えた。
れいなには、届いていた。
たとえ、どんなに小さな声であっても、どんなに周りがうるさくても、確かな想いがそこに在るのなら、れいなはその声を拾える。
とてもとても大切な、世界でいちばんの絵里であるなら、絶対に聞き逃さない。
れいなのその右腕に、絵里も思わず応えた。
照れながらも、ニコッと笑ってれいなに手を振ると、れいなは笑ってそのままプレーに戻った。
―ホントにあり得ないの、この人たち…
不安も、怖さも、寂しさも、すべてはそこに滞在しているのに、たったのひとつの笑顔でそれは消えていく。
人から聞いた言葉じゃなくて、本人のその行動であるのならなおさらであった。
れいなは確かな想いを持っている。
一方通行でない想いが此処に在るなら、絵里は絶対に大丈夫だと胸を張れるのだから。
―バカップル万歳なの
目の前で繰り広げられる光景にさゆみは大袈裟に肩をすくめて苦笑したが、絵里はそんなさゆみにも気づかないまま、試合を見続けた。
れいなは2点目を決めようと、グラウンドを大声を出しながら走っていた。
OG戦はいよいよ佳境を迎えようとしていた。
- 878 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:37
- ---
- 879 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:38
- 絵里は心臓を押さえながらしゃがみ込んでいた。必死に呼吸が落ち着くのを待つ以外、彼女に成す術はない。
深く大きく息を吸って吐いてとなんどか繰り返すと、ようやく心臓のうねりは収まった。
絵里は静まった心臓を押さえながら、あまりの痛みに耐えきれずに零れた涙を拭った。こんな顔、クラスメートに見せるわけにはいかなかった。
最近は発作の回数は減ったものの、いちど発作を起こすと収まるまでの間隔が長くなっていった。
日に日に飲む薬の数も増えていっているのに、この心臓はいちど爆発のスイッチが入ると、そのタイマーは一気に加速し、「0」を刻もうとしていた。
いよいよ危ないのではないかと自覚はしている。自分の体のことは自分がよく分かっている。いつ、「その日」が来てもおかしくはなかった。
だけど、だけどまだもってほしかった。
手術まで残り2ヶ月。それまではどうか、この心臓には動いていてほしかった。
まだ可能性はある。生きられる確率は40%以下でも、決してそれは0じゃない。だったら、せめてその日までは動いていて。お願い。
まだ、まだれーなと一緒に居たいの。
絵里は青空を見上げて大きく息を吐いた。
無意識のうちに絵里はれいなの名を呼びながら、屋上をあとにした。
- 880 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:39
- 文化祭直前の慌ただしい空気が好きだった。
2年3組はコスプレ喫茶店を出すらしく、それに向けての準備が行われていた。
絵里は一昨年と同じように壁に貼りつけるメニューに色をつけていた。
しかし、そのとき急に心臓に痛みが走り、トイレに行く振りをして屋上にまで逃げてきたのだ。
教室で発作を起こして混乱させるわけにはいかないが、もう誤魔化すことも限界ではないだろうかと心配になった。
発作の落ち着いた絵里は、とりあえず何事もなかったかのように教室に戻り、再び作業を続けようとした。
「絵里ー、ちょっとー」
そのとき、後ろから呼ばれた絵里は「うん?」と顔を上げた。
そこにはクラスメートの子がふたりいる。申し訳なさそうな表情をこちらに向けているが、どうしたのだろうと絵里は立ち上がる。
「どうしたの?」
「あのさ、絵里。お願いがあるんだけど」
その顔をされてはたいていは断れないのが絵里である。
絵里は悩みながらも、「うん?」とたずねた。
- 881 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:39
- 「では、明日はよろしくお願いします」
ダンス部の説明を聞いていたれいなはぺこりと一礼した後、体育館をあとにした。
そのまま体育館裏へ行くと、音楽をかけながら振り付けの最終確認をしているさゆみと愛佳がいた。
「あ、おつかれなのー」
さゆみがそう言うと、愛佳も「お疲れ様です!」と声を出した。
「順番決まったと」
「何番目ですか?」
愛佳の質問に、れいなは一瞬躊躇してから答えた。
「……5番目」
その言葉にさゆみと愛佳は思わず顔を見合わせた。
ダンス大会は、夏休みに予選会を行い、それを勝ち抜いた5組が文化祭の本選に出場できる。
「トリですか…」
「それは凄いことになったの」
つまり、それはそのまま、最後の出演ということをあらわしていた。
ダンス未経験のさゆみ、ほぼ1年振りのダンスをする愛佳、そしてダンス大会初出場であるれいなにとってそれは大きなプレッシャーであった。
サッカー部の試合などで、全国大会を経験しているれいなであっても、普段とは違う緊張を感じていた。
今日でさえそれを感じるのだから、当日の明日はどうなるのだろうとれいなは不安になった。
- 882 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:40
- 「やるしか、ないやろ」
れいなはふうと息を吐き、空を見上げた。
困ったときにはとにかく青空を見るようにしていた。顔を上げると肩の力が抜けて緊張がほぐれるという効果がある。
しかし、れいなはそれ以上に、青空を見るのが好きだった。
なにものにも負けないように主張して、それなのに何処までも溶けていきそうな綺麗な青が好きだった。
れいなの決意にさゆみと愛佳も覚悟をし、頷いた。
そこへ生徒会長である里沙が「遅れたのだー」とやって来た。
リアクションの大きい彼女のことだから、トリになったことを伝えたら驚くんだろうなと思いながら、れいなは順番を伝えた。
果たして里沙は、れいなの思惑通り「うぇぇぇ、そうなの?!」とオーバーリアクションを見せていた。
さすがギリギリ昭和生まれ、略して「ギリ昭」だなとれいなは笑った。
同じ「ギリ昭」の絵里でもここまで大きなリアクションじゃないんだけどなと、れいなはコスプレ喫茶の準備をしているであろう絵里をぼんやりと思った。
- 883 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:41
- れいなとさゆみは練習をいったん切り上げ、クラスへと戻った。
2年3組の前にはなにやら人だかりが出来ていて、何事かと思ったふたりは顔を見合わせ小走りした。
「ごめん、ちょっと通して」
ふたりが人垣をかき分けて教室内へ入ると、そこは即席の喫茶店が出来上がりつつあった。
だが、そんなことを気にする余裕もなく、れいなは目の前にいる女の子に目を奪われた。
「あ…」
彼女を見た瞬間、思わずれいなは言葉をなくした。
ピンクを基調としたシャツに、その上から黒いベストを羽織り、胸元には大きな赤いリボンをつけたメイドがそこにいた。
そしてそのメイドは、紛れもなく、れいなにとってただひとりの女性、亀井絵里であった。
「れーな……へへ、似合ってる?」
絵里から話しかけられていることも忘れ、れいなは言葉をなくして呆然とする。
その後ろから「やばーい、絵里可愛いー!」と興奮したさゆみがケータイで絵里の写真を撮り始めた。
絵里はそれを見て恥ずかしそうに体を揺らすが、その場にいたクラスメートの何人もが口々に「可愛い」「似合っている」と褒めちぎっていた。
「あとはコレをつければ完成だから」
そしてクラスメートの女子生徒が絵里になにかを手渡した。
それは猫耳のついたカチューシャであり、絵里は「えぇー、恥ずかしいよぉ」と照れながらもそれを頭につけようとする。
その瞬間、れいなはなにも考えずに絵里の右腕を取り、教室から彼女を連れだした。
「あ、れいなー!」
クラスメートたちはただ呆然と、ふたりの走っていく背中を見つめることしかできなかったが、さゆみは苦笑しながらも「素直じゃないんだから」と呟いた。
- 884 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:42
- れいなは絵里の腕を引っ張り屋上へと連れ出した。
今日此処に来るのは二度目だなと思いながら、一言も喋らないれいなを、絵里は不安そうに見つめていた。
なんだかその表情は怒っているようにも見えて、なにか怒らせるような事でもしただろうかと絵里は不安になった。
「あの…れーな?」
だれもいない屋上に絵里の声が響いた。
腕は解放されたものの、れいなは絵里を見ようとはせず、背中を向けたまま黙っている。
「どうか、した……?」
絵里が恐る恐る尋ねると、れいなは頭をガシガシとかき、そのまま勢いよく振り返って絵里を抱きしめた。
突然のれいなの行動に絵里は驚くも、れいなの言葉を待った。
「……もー、可愛すぎっちゃ、アホ…」
「ふぇ?」
「んな格好見たら…」
―――我慢出来んくなるやろ?
その言葉を呑みこんで、れいなは絵里を強く抱きしめた。
アホ、そんなこと言えるかと言葉を変えて絵里に伝えた。
「…嫉妬、したと」
「嫉妬?」
「みんな、絵里のこと見に来とった」
3組の前にできていて人だかり。よく思い出せば、あそこには同学年だけではなく、下級生も上級生もいた。
れいなはよくさゆみに「ファンができてモテモテ」だと言われるが、れいなにはその自覚はない。
それよりもれいなは、絵里の方がモテると考えていた。
こんなに可愛くて優しくて笑顔が素敵な女の子、何処にもいない。たぶん世界中探したっていないはずだった。ガサツで鈍感なれいなよりも、絵里の方が絶対にモテる。
だから、れいなは漠然と不安になった。こんな可愛い姿を他人に見せて、絵里のファンがまた増えるのではないかと。
- 885 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:42
- 「そんな…勘違いだよ」
「んなことなか。絵里、バリ可愛いし…」
絵里は困ったように笑うも、その顔は真っ赤に染まった。
今日はもう2回もれいなに「可愛い」と言われている。普段なら学校で絶対に口にしない言葉を聞かされて、そのうえ抱きしめられて、絵里の心臓は高鳴る。
あー、なんか心臓ドキドキしちゃって急に止まっちゃいそうだよと絵里は照れながらも事情を説明した。
「クラスの子に頼まれちゃって。メイドさんをする予定だった子が骨折しちゃって、絵里に代理できないかって」
「…んなのメイドじゃなくても良か」
「だってコスプレ喫茶だよ?普通の格好じゃダメでしょ」
「じゃあ絵里やなくても良いやろ…」
今日はなんだか我儘ですねぇと思いながらも絵里はれいなの頭を撫でる。
こういうところは、歳相応の16歳の女の子なんだなと思うと、絵里は無性にれいなが可愛くなった。
「あれ、なん?」
「へ?」
「さっき渡されとったやん」
れいなの言葉を聞き、絵里は自分の左手に持たされたカチューシャを思い出した。
確かにクラスメートに渡されたものであるが、普通のそれではなく、オプションとして猫耳がついている。
絵里はふっと微笑しながら片手でそのカチューシャを頭に付けた。
- 886 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:44
- 「れーな、似合ってる?」
その言葉にれいなは顔を上げると、一気に紅潮した。
猫耳のもつ破壊力をれいなは知らなかった。予想以上に可愛くなった絵里を見て、れいなは絵里のその胸に顔を埋めた。
絵里の胸は柔らかくて心地良くて、いつかの病室で見た彼女の裸体が思い起こされてれいなは悶え死にそうになった。
顔を上げれば猫耳の絵里、顔を下げれば絵里の胸、ああ、シアワセ、いやいや、ただの変態やんか!とだれにも聞こえない突っ込みをれいなは自分でした。
「うへへぇ、照れたれーなも可愛いにゃー」
「うー…にゃーとか言うな!」
「れーなぁ。れーにゃぁ。絵里ちゃん可愛いかにゃ〜?」
おちょくられていることに気づきながらも、れいなは顔を上げることができず、絵里に抱きついたまま脚をばたつかせた。
ヤバい、可愛い。もうマジで可愛すぎる。ホントにどうしたら良いと?あー、もう、アホ絵里。アホ、アホ、可愛すぎっちゃん!
「れーなにゃぁ?」
頭に降ってきた甘い声に観念し、れいなが顔を上げると、今度はその唇に甘いキスが降ってきた。
触れるだけの唇は柔らかくてそして温かかった。
- 887 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:44
- 「絵里はれーなだけのメイドさんだから、大丈夫ですよ?」
はぅっ。き、キスしといてそんな可愛いこと口にせんで…も、逆効果……
つか待って、なんで今日はそんなに可愛いと絵里?いや、いつも可愛いっちゃけどさ、なん、なん、なんかあったと?ねえ。
つか、れな、いま、学校でキスされ…絵里、絵里にキスされ…ふぇあぁぁ?!
数々の予想外の出来事に腰が砕けそうになりながらも、れいなは絵里のその大きな瞳に見つめられて頷く。
絵里の可愛い姿が見られたことには感謝しているが、この可愛い姿を他の生徒に見られることはやはり不安だった。
明日は他校生も入ってくるし、それこそ近隣の男子生徒も来るわけで…どうしよう、絵里に悪い虫がつかんか不安っちゃ…
いや、それはただの独占欲やし、絵里はクラスメートに頼まれているわけやし…うあー、どうしたらいいっちゃん?!
れいながひとりで悶々と悩んでいると、頭の上から再び声が降って来た。
- 888 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:45
- 「…ごしゅじんさま?」
「はにゃぁぁぁ?!」
恐らく一生言われることがないであろう言葉を目の前の女の子に言われ、れいなは素っ頓狂な声を上げる。
絵里は急に猫になってしまったれいなを見てふふっと笑いながらも、言葉を繋げた。
「れーながイヤなら、メイドさんやらないよ?」
「ふぇ?」
「ホントは他にも候補あって、とりあえずメイドさん着ただけだから」
絵里はそう言って他の候補をつらつらと上げた。
メイドに対抗して「執事」、定番の「ギャルソン」、何処から調達してくるのか「学ラン」、なぜか「サルの着ぐるみ」まであった。
れいなは黙ってその言葉を聞いているが、途中で彼女を遮った。
「…メイドで良かよ」
「え?でも、れーな、イヤなんでしょ?」
絵里が不安そうな顔で聞いてきた。
確かに絵里の可愛い姿を他の人に見せるのは不安ではあるし、嫌といえば嫌ではあるが、れいなは満面の笑みで返した。
「やっぱいちばん可愛い格好の方が良いっちゃ。その服、絵里に似合っとーし」
そうしてれいなは絵里の頭をポンポンと撫で、その頭から猫耳のカチューシャを取り外した。
「これだけは勘弁な」
れいながそう言うと、絵里も嬉しそうに笑い「はい、ごしゅじんさまっ」と返した。
ああ、もう勘弁してくれ。そんな言葉を聞かされたら理性なんて吹っ飛んでしまうからと思いながらも、れいなは絵里の手を引いて教室へと歩き出した。
「ごしゅじんさまぁー」
甘い声にれいなは思わず足を止める。何処まで人をおちょくる気だと思うが、これに対抗する術を持っていないところが、結局は惚れた弱みだなとれいなは振り返った。
「ダンス大会、がんばってくださいねっ」
すると絵里は満面の笑みでれいなにそう言った。
ああ、もう、そんな世界でいちばん可愛いメイドにそんなこと言われたら、優勝するしかないやんとれいなは絵里の頭を撫でた。
- 889 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:45
- 「精一杯、がんばるけんな」
「うへへぇー、はいっ」
そうやって笑う絵里が、やっぱり可愛いなってれいなは思った。
世間じゃ「メイド喫茶」が流行っていて「お帰りなさいませ、ご主人様」というフレーズもよく聞くが、まさか自分は言われてこうも悪い気がしないとはなとれいなは苦笑した。
- 890 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:46
- ---
- 891 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:46
- 時間はあっという間に過ぎていく。
それを自覚しながら里沙は手元の資料をめくった。
里沙の高校生活最後の文化祭は、いまのところ大きな問題もなく進行していた。
各クラスの企画も概ね成功しているし、文化部の出し物に関しても、問題は聞いていない。
絵里のクラスのコスプレ喫茶に関しては、先ほど見に行ったところ、大盛況であった。
それは、メイドの姿で接客をしている絵里のおかげもあるという話を聞いたが、確かにあんなに可愛い格好をしていては人も入るなと里沙は納得した。
里沙は生徒会室へと戻り、資料を置いた。
ワイシャツを第2ボタンまで開けて、大きく深呼吸をする。ああ、昔は第1ボタンまでしか開けなかったのに、こんなところまで彼女に影響されたのだろうかと苦笑した。
手元の時計を確認すると、休憩している余裕はもうなさそうだった。里沙は机上に置いてあった衣装を手に取り、体育館へと走り出した。
- 892 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:47
- 大きな歓声が聞こえる中、れいなは簡易の控室で振り付けの最終チェックを行っていた。
思いの外に緊張していることが分かる。サッカー部の全国大会とは違った緊張感に包まれ、れいなは息を深く吐いた。
中等部の生徒たちはというと、ほんの1時間前まではキャッキャと騒いでいたのに、本番が近付くとにつれてその口数は減り、各々でチェックを行っていた。
さすがはダンス部ということだけはあり、舞台慣れしているのか、その表情は立派な一人前に見えた。
「田中さん、ちょっといいですか?」
愛佳に話しかけられてれいなは振り向く。
「ここの移動なんですけど…」
愛佳の言葉を聞き、れいなも立ち位置を確認していると、生徒会長の里沙が入ってきた。
「お待たせなのだー」
「ガキさんお疲れ様です」
里沙の姿を認めたさゆみはニコッと笑い、そのままふたりは音の確認を始めた。
それぞれが、それぞれのやり方で舞台に立つ準備を整えていた。いよいよ幕が上がるのかとれいなは気を引き締めた。
- 893 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:48
- 「すいませーん、そろそろ舞台袖に移動してください!」
ダンス部の生徒にそう言われ、控室内の空気が一気に変わった。
れいなは天井を見上げてふうと息を吐いた。
遂にこの日が来た。もう戻ることもできないけれど、精一杯、自分たちの成果を出すしかない。
夏休みの間、宿題を放り投げ、部活で忙しい合間を縫ってダンスの練習に励んだ。
そのツケとして、2学期最初の試験では散々な結果に終わったが、文化祭以降に挽回すると安倍先生に宣言し、見逃してもらった。
部活とダンスという両立は非常に難しかったが、れいなはそれでも毎日練習した。
すべては、この舞台のために。
「田中っちー、さゆみんも、集合ー」
里沙に呼ばれていることに気づき、れいなが振り返ると、そこには円陣が出来ていた。
そうだ、サッカー部で試合に挑むときもこうやって円陣を組んでいた。
れいなは既に出来上がっていた円の中に入り、右手を中心に出した。その上に里沙の手が乗った。
「じゃあ、本番、がんばりましょう」
「はい!」
「田中っち、なにか言いたいことある?」
里沙に急に振られて、れいなは迷った。
言いたいことなんて山ほどあるのだが、なにも言えない気がした。
- 894 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:48
- 元を正せば自分のわがままに付き合ってもらったこの大会だ。
里沙は会長としての仕事が忙しい、さゆみだって自分の勉強がある。愛佳もマネージャーとしての活動があるのに時間をつくってくれた。
中等部の生徒たちも、自分たちのダンス部の活動や勉強と並行しながら、この大会に向けて練習してくれていた。
その行動にれいなは心の底から感謝しているが、それをいま言うべきかは悩みどころであった。
絶対に優勝しようも、がんばろうも、ありがとうも、なにを言ってももう時間はそこまで迫っている。
だったら、とれいなは一度天を仰ぎ、口を開いた。
「笑顔で、楽しくやろう!」
その言葉に7人は笑顔で頷くと、里沙の声が控室に響いた。
「がんばっていきまーっしょい!!」
8人で組んだ円陣の掛け声は、いま客席にいるであろう愛の考えたものであった。
こういう形で受け継がれると思っていなかった里沙はなにやら嬉しそうに笑いながら舞台袖へと移動を始めた。
- 895 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:51
- ---
- 896 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:51
- 「…なんちゅー格好で来たんや」
「いやぁ…着替える時間なくて…」
客席についた絵里を見て愛は開口一番、そう言った。
絵里はコスプレ喫茶のメイドの格好そのままで体育館へ入ってきた。
確かにちらほらとそう言う格好の生徒もいるが、それでも目立たないわけはない。
愛は苦笑しながらも、パンフレットを開いた。
「トリにガキさんとれいなとは…くじ運が良いのか悪いのか…」
愛の持っていたパンフレットを絵里は横から覗き込んだ。
―『生徒会長とサッカー部の新鋭がダンスで魅せる!』
そのキャッチコピーの下には、れいなたち出場者8人の写真とインタビューが載っていた。
相変わらず気合の入ったパンフレットだと思うが、こういう才能がある人は羨ましいなと絵里は感心する。
絵里はぼんやりとその記事を見ていると、れいなのインタビューに目が止まった。
- 897 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:52
-
―今回の選曲については?
―「恋愛ソングでもありながら応援ソングでもある。みんなで話し合って選びました。自分としては、大切な人に聴いてほしいです」
―というと?
―「勉強とか部活とか、恋愛でも良いんですけど、なんでもがんばってる人に聴いてほしいんです。“大丈夫だよ”って伝えたいですね」
―優勝の自信は?
―「自分も含めて初心者も多いですけど、とにかく精一杯やります。中等部の子たちもがんばってるし、負けたくないです」
絵里がインタビューを読み終わると、照明が暗転した。
ダンス部による紹介が終わると、8人は舞台の真ん中に立った。
歓声が上がり、イントロが流れ始めた。
激しいギターの音が響き渡り、舞台上の8人がゆっくりと動き出す。
きびきびとした動きに合わせて照明が赤と黒に変わり、客席が徐々に煽られていく。
- 898 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:54
- 愛と絵里が黙って舞台を見つめていると、歌が始まった。
愛しの君へ いつものI Love You 大丈夫 君ならできるよ 怖がらないでね
愛しの君へ いつものYell for You ちょっぴり不器用な私 まっすぐ愛するから 貫いてね
それは確かに恋愛ソングだった。
だが、強い曲調と激しいダンスは、れいなの言うように応援ソングでもあった。
目まぐるしく変わっていくフォーメーションに絵里は目が離せない。隣に座っている愛も、「レベル上がったなあ」とぼそりと呟いた。
―絵里にね、伝えたいんだって
OG戦の日に聞いた、さゆみの言葉が頭をよぎった。
自分の中に在る想いを、口にすることが難しいれいなは精一杯考えて、この大会に出場することを決めた。
君の魅力 そこが魅力 ほんの少し 時にジェラシー
口下手でへたれで、それでも立ち止まることは決してしないれいななりの答え。
れいなの持つ想いが、この舞台から、そのパフォーマンスから、その歌声から絵里には届いていた。
愛しの君へ 一途なI Love You 大丈夫 たとえ迷っても 諦めないでね
愛しの君へ 無限のYell for You ちょっぴり幼いけれども 揺るがぬこの想い 君を守る
- 899 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:54
- 「れーな…」
絵里は無意識のうちに、彼女の名を呼んでいた。
舞台の真ん中に立って腕を伸ばし、首を振って激しく唄って踊るれいなに目を奪われて動けない。
先ほど読んだインタビューの文字が脳裏によみがえった。
―「“大丈夫だよ”って伝えたいですね」
そして、さゆみから聞いた、れいなの言葉。
―とにかく絵里に伝えたいと。絵里は、絵里は、絶対に大丈夫やって
その想いは、確かに届いていた。
不器用ゆえの、幼いゆえの、そしてへたれゆえの燻った気持ち。
いつでも遠回りをして、ストレートに伝えられなくて、勘違いしてひとりで焦って、間違った答えを選びそうになって。
それでも、それでもれいなはいつも、絵里の隣で変わらずに愛してくれていた。
不安も、哀しみも、寂しさも、怖さも、自分を強く見せようとしないれいなは常にそういった負の感情をぶら下げていたが、それでもれいなは立ち止まらなかった。
絵里が同じように持っていた負の感情と向き合い、ひとつひとつを溶かしていって、れいなは笑うのだ。
あの「ニシシ」という得意そうな顔を見せて、「絵里は大丈夫と」と言って笑うのだ。
2年前の推薦入試の日、雨に打たれたれいなに、保健室で絵里が伝えた「だいじょーぶ」と同じ重さを、今度はれいなが絵里に伝える。
絵里の言うように、れいなが自分の思い通りに未来を創れるというのなら、絵里の未来を創ってやる。
手術の成功率が40%以下であったとしても、そんな不安すらも吹き飛ばしてやる。
絵里の生きていく未来を、思い通りにれいなが創ってやる。絶対に、絵里は大丈夫なのだから―――
- 900 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:55
-
愛しの君へ 無限のYell for You ちょっぴり幼いけれども 揺るがぬこの想い 君を守る
最後に8人は一列に並び、音が終わると同時に顔を上げて客席を鋭い視線で射抜いた。
それは普通の女子高生のそれとはまるで違い、未来と、そしていまを精一杯生き抜こうとするひとりの意志の強い人間のものだった。
客席は音が終わると同時に惜しみない拍手を送り、体育館は割れんばかりの歓声に包まれた。
ただひとり、絵里だけは拍手を送ることをせずに、中央に立っているれいなを泣きそうな瞳で見つめていた。
- 901 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:55
- ---
- 902 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:56
- クラスメートから手荒い祝福を受けながら、れいなとさゆみは教室へと戻ってきた。
「おつかれいなぁ!」
「さゆ、カッコ良かったぁ!」
れいなたちのパフォーマンスは確かに高かったものの、今年は例年以上にレベルが高く、初心者も多く急造感のあったれいなたちは、優勝は逃してしまった。
しかし、全体を通して安定感は高く、客席からの拍手喝采は本物であったため、審査員特別賞を受賞した。
「2年連続で特別賞とは嬉しいのだ」と里沙は笑い、そのまま生徒会の仕事へと戻っていった。
れいなとさゆみは、「近いうちに打ち上げするっちゃ!」と愛佳や中等部の生徒たちに感謝をしながらクラスへと戻ってきた。
「ごめんね、こっち手伝えなくて」
「ううん、こっちは大丈夫。絵里のおかげで黒字だよ」
その言葉を受けてクラスメートは絵里を探すのだが、教室に彼女の姿は見られなかった。
れいなは不思議に思いながらも教室を見渡すが、やはり絵里はいない。
もうすぐフィナーレだというのに彼女は何処へ行ったのだと、れいなは黙って教室から走りだした。
「はー…相変わらず忙しいね、れいなって」
クラスメートのひとりがれいなの背中を見つめながらそう呟いた。
「思い立ったら即行動の子だからね。良くも悪くも」
そうしてさゆみは席に座り、メニューを眺めた。
あれだけがんばったのだから、れいなにココアのひとつでも奢ってもらおうと思っていたのになと苦笑した。
- 903 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:57
- 走り出しても思い浮かぶ場所はひとつしかなかった。れいなは迷わず階段を駆け上がり、屋上の扉を開けた。
そこには、こちらに背を向けてひとりグラウンドを見つめる絵里の姿があった。
「絵里……」
メイドの格好をした絵里は、れいなの呼びかけに反応し、こちらを向いた。
その瞳にはいまにも零れ落ちそうなほどに涙が溜まっていた。彼女の涙の理由が分からないれいなは慌てて絵里に近づく。
「どうしたと?」
心配そうに話しかけるれいなに絵里は迷わず飛び込んだ。
心構えが出来ていなかったれいなは思わず背中を反らせたが、慌てて体勢を立て直し、絵里の背中を優しくさする。
泣いているのか、絵里の肩が震えていた。
どうして涙を流すのか、理由が分からないれいなは、困惑しながらも、その頭を優しく撫でた。
ある程度の時間そうしていると、絵里が顔を上げた。その瞳にはまだ少しだけ涙が溜まっていて輝いている。
ああ、そんな目で見らんで。と思っていると絵里が口を開いた。
「あの曲……れーなが選んだの?」
「え?」
「今日、唄ったやつ」
絵里の問いかけにれいなは答えに行きついた。
それは、れいなたち8人がダンス大会で踊った曲だった。
「うん、れなが提案して、話し合ってそれになった」
絵里の質問にれいなが正直に答えると、絵里は顔を赤くしながらも、れいなに向き直った。
- 904 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:57
- 「カッコ良かったし…嬉しかったの」
「え?」
「れーなの気持ち、ちゃんと伝わったから…」
泣きそうになるのを堪えて絵里はそう呟き、れいなの背中にまわした腕に力を込めた。
その言葉を聞いて、れいなはなんとなく理解した。もしかしたらさゆみや里沙からなにか聞いたのかなと思ったれいなは軽く頷いて「どういたしまして」と笑う。
曲がりなりにも必死に考えた結果が少しだけでも伝わっていたのは正直に嬉しかった。
「曲名、なんていうの?」
絵里からそう聞かれ、れいなは少しだけ間を置き、答えた。
「『Only you』って言うっちゃよ」
- 905 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:58
- “Only you”
それは、その名の通り、“あなただけ”という意味だった。
れいなの伝えたかったすべてを理解した絵里は、その瞳から涙を零しながられいなにつよく抱きついた。
絵里の甘い香りが全体に広がり、れいなの胸は温もりで溢れかえった。れいなは決して離さないように、絵里を抱きしめる力を強くした。離れたくない。離さない、絶対に。
強い想いは何者にも負けないといまなら言える。
きっと、きっと大丈夫だと、あの日よりも強く言える。
そして漠然とした想いが此処に生まれた。
あなたがいて、良かったと―――。
- 906 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:58
- 「絵里…」
「うん?」
「れなと、踊らん?」
耳元で囁かれた甘い言葉に絵里は顔を上げた。
するとそこには得意そうな顔をして笑う、いつものれいながいた。
「フィナーレのフォークダンス、一緒に踊らん?」
その言葉に、2年前からの出来事が思い起こされた。
2年前の文化祭で、絵里は冗談半分で里沙を誘ったが、結局里沙は忙しくて一緒に踊ることはできなかった。
だが、その年に絵里は、れいなと出逢い、暗くて寂しい自分の世界は少しずつ変わり始めた。
次の年は、絵里が体調を崩して休学したため、文化祭に参加すること自体が叶わなかった。
そして今年。絵里は自分が最も一緒にいたいと思う人からダンスに誘われている。
2年越しの想いが一気に溢れ出し、絵里はシアワセそうに笑って「はい」と答えた。
するとれいなもシアワセそうに微笑み、日が落ちた空の下で抱きしめ合った。
- 907 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:59
- 「なあ、絵里」
「うん?」
そうして絵里は顔を上げた。
夕陽に照らされたメイド姿の絵里は、やっぱり可愛いかった。これじゃ黒字なるのも当然だと思ったれいなはひとつだけ、調子に乗った。
「絵里はさ…その、えっと…」
調子に乗ろうとするのだが、いざ、彼女を前にするとなにも言えなくなった。
ああ、もう何処までもヘタレだと思いながらも、れいなは絵里の耳元で囁いた。
「れ、れなだけのメイドさん、やっちゃろ?」
自分で言っておきながらもの凄く恥ずかしくなったれいなは顔を真っ赤に染めて、絵里の腰に回した手をぎゅっと握る。
絵里はといえば、一瞬きょとんとしながらも、昨日の自分の発言を思い出し、顔を赤くしながらも「はい」と答えた。
「や、やったら、ご…ご主人様のいうこと、聞いてくれる?」
「…はい、ごしゅじんさまっ!」
相変わらず少しだけ舌っ足らずな発音で絵里はれいなに返した。
何処かへ行きそうになる理性を必死に足止めし、れいなは絵里に言った。
- 908 名前:Only you 投稿日:2011/12/16(金) 23:59
- 「れなに、キスして?」
あーあー、もう言ったっちゃん。
アホ、もうアホれいな。れなはアホです。バカです。世界でいちばんのバカです。なんを言おーとやもう…あーあーあー…。
そうやってれいなが自己嫌悪していると、絵里はにっこりと微笑み、「喜んで」と口にした。
れいなの理解が遅れている間に、顔が傾けられ、世界でいちばん甘いキスが降りて来ると、れいなは自然と目を閉じて、その唇の感触を味わった。
ああ、れなはいま、世界でいちばんバカなご主人様なんだろうなと思いながら、世界でいちばん可愛いメイドを抱きしめた。
文化祭のフィナーレはもうすぐ始まりそうだった。
- 909 名前:雪月花 投稿日:2011/12/17(土) 00:01
- 本日は以上になります。甘いの苦手…w
次から最終章(っぽいもの)が始まります。
ようやくここまで来たなあ…という感じです。長いんだもんw
では失礼します。
- 910 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/17(土) 01:03
- 苦手??
いやいや、何をおっしゃいますか!
甘すぎて、読んでるこっちがとろけてしまいそうですよ\(//∇//)\
もちろん、いい意味で。笑
もー、何もかもかわゆいかわゆいかわゆい!
最高です!ありがとうございます。
- 911 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/17(土) 14:11
- キターOnly you!!
この曲のダンスめっちゃかっこいいから好き!!
てかれいな達は歌いながら踊ったんですか??
発表終わったあとにえりりんが「今日唄ったやつ」って言ってたんで...(^-^;
メイドえりりん…想像しただけで理性飛びそうだわ(笑)
ハロプロチャンネルのえりりんはかわいすぎて犯罪でしたねw
- 912 名前:雪月花 投稿日:2011/12/18(日) 19:19
- 更新もあと数える程度になってきました、雪月花です。
年内中に終わるか、年を越すかは微妙なところですが、宜しくお願いします。
>>910 名無飼育さんサマ
本当に甘いの苦手なんです…いままでの自分のストックとか見返しても暗いのばっかりなので…w
お褒めの言葉をいただけて嬉しいです。甘いのがお好きなんですね。
いつもコメントありがとうございます!励みになります!
>>911 名無飼育さんサマ
パフォーマンス込みのカラオケ大会ですのでれいなたちは唄ってます。娘。の本領を発揮してもらいましたw
最初にこの曲を聴いたときにこの話を書こうと思ったので、とにかく書けて良かったですw
メイド絵里はドラマのイメージから書きました。もう可愛すぎてれいなじゃなくても理性さんサヨウナラでしたw
別スレ>>205-206
こちらで返レスします。まずはコメントありがとうございます!
泣いていただけて本当に嬉しいです。ずっと書きたかったシーンだったので一安心しました。
ひたすら絵里とれいなが好きで書いていたらこんな長さでした…w 雰囲気は向こうとだいぶ違いますが、温かく見守って下さい。
では本日分です。最終章突入です。
- 913 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:20
- 「田中ちゃーん、さすがにこれはどうかなぁ…」
安倍先生の言葉にさすがのれいなも笑うしかなかった。
文化祭と体育祭、そして秋のサッカー部の大会も終わり、朝陽高校は平穏な日々を取り戻しつつあった。
今年もサッカー部は地区大会を勝ち抜き全国大会まで駆け上がったものの、結果は去年と同じく準優勝であった。
最後の最後で詰めが甘いのは、技術力よりも自分のメンタルの問題なのかもしれないとれいなは自己分析した。
そして今日はそんなサッカーのことを少しだけ忘れざるを得ない状況にある。
高校に入学して初めて入った「進路指導室」は、たくさんの赤本や進路状況に関する資料が置かれてあり、れいなは委縮した。
さらに目の前の安倍に提示された成績表を見て、れいなは余計に体を小さくさせた。
「1年生の中間考査が128で期末考査が96…これは大躍進だね。此処からは中間も期末も概ね良いんだけど…2年生になってちょっと下降しすぎかなぁ…」
安倍がそう言うのも無理はなかった。
れいなは1年生の期末考査では絵里と「賭け」をして、それに勝つために必死に勉強をしてこの順位を勝ち取ったのだ。
それ以降もコンスタントに成績を伸ばしてきたのだが、進級してからは、絵里との話がもつれることが多々あったうえに、
2学期に入ってからはダンス大会の練習や部活で忙しく、勉強どころではなかった。
そう考えると、自分の生活がいかに絵里に影響を受けているかが分かり、れいなは苦笑するしかなかった。
- 914 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:21
- 「田中ちゃん、将来はどうするか考えてる?」
「そう…ですねぇ…」
安倍の話に耳を傾けるが、れいなはなにも考えていなかった。
近年の不況の波は、れいなたちにも襲いかかってきている。高卒で就職できるほど、世の中が甘くないことも知っている。
大学へ進学するか、それとも真面目に就職するかは考えなくてはいけない問題ではあるが、れいなはまだその決断を出来ないでいた。
もし進学するにしても、いったい自分が大学でなにを学びたいのか、このままサッカーを続けていくのか、それともスポーツ関係の学部に行くのか、まったく分からない。
まさに、未知なる道への船出は、れいなにとって漠然とした不安であり、将来を決めかねていた。
「まあ、時間はまだあるし、ゆっくり考えてほしいんだけどさ」
安倍はニコッと笑ってそう言った。
此処で結論を急がせないところを考えるあたり、この人はやっぱり良い先生だなとれいなは思う。
れいなは「はい」と答えながら、真剣に将来についても考えようと思っていた。
「そういえば、修学旅行の件なんだけど」
修学旅行の話題になり、れいなはピクッと反応した。
この話題は絶対に避けては通れないことくらい分かっていたが、いざ話を振られるとどう答えるべきか悩んだ。
「もしかして、行くか悩んでる?」
年明けにある朝陽高校修学旅行まで、残り2ヶ月もなかった。
れいなはまだ修学旅行の旅費代を支払っていない。振り込み予定日はとっくに過ぎているのだが、実家から離れての独り暮らしであるが故に優遇されている。
しかし、その優遇対応ももう効かなくなってきているので、れいなはどうすべきか結論を迫られていた。
- 915 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:22
- 「……絵里、哀しそうに笑うんです」
恐らくこの人に嘘は通用しないとれいなは思った。
しかも、いままで安倍にはなんども助けられているので、誤魔化したくはなかった。自分の気持ちをちゃんと伝えようとれいなは口を開いた。
「自分が北海道に行けんのは仕方ないって分かってると思うんです。だから、れなが、また一緒に行こうって言うんですけど、絶対に哀しそうな顔するんです」
一生に一度の思い出である、修学旅行。
絵里は手術直後の絶対安静が必要な時期であるため、行くことはできない。
だから、れいなは絵里に「春休みとか、夏休みに一緒に行こう」と誘うのだが、絵里は寂しそうに笑って頷く。
「それって、れなの個人的な考えなんですけど、たぶん、「また」とか「次」とか、そういう将来が描けないんじゃないかなって。
れなたちには漠然とある未来やけん、絵里は手術というでかい壁があって、それを越えられるか不安定やから。やけん、あんまそういう話をしたくなくて…」
さゆみにパフェを奢ったあの日話しかけていた、れいなの持った疑問。
未来はだれにも見えないし、分からない。
それは当然であるのに、れいなはただ漠然と、自分の将来像を描くことはできる。
最後のサッカー部の大会に向けて練習をして、来年になったら否応なしに受験勉強をして、いずれは社会に出て働くその姿がなんとなく想像できる。
だが、絵里は自分の将来を描くことができなかった。
成功率40%以下という手術が迫る年末。日に日に弱くなっていく自分の心臓。
本当に、本当に、れいなと行く「また」なんてあるのだろうかと、絵里は不安定であった。
その気持ちが絵里から少しだけ伝わってくるから、れいなはなにも言えなかった。
なんて言えば良いのか、分からなくなる。絵里の寂しい笑顔を見るたびに胸が締め付けられ、別の話題を振って誤魔化した。
自分の言葉がこんなに陳腐で意味を成さないものだなんてと、れいなは頭が痛くなった。
- 916 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:22
- 「田中ちゃんは優しすぎるんだよ」
俯いてしまったれいなに対して安倍は優しく笑った。
「カメちゃんを心配させないように田中ちゃんは笑ってるんでしょ?だったら、田中ちゃんは最後まで、カメちゃんといっしょに笑っていてあげなきゃ」
目の前で優しく笑う安倍は、れいなからすれば間違いなく「大人」であった。
痛みも哀しみも不安も、すべてはそこにあるのだけれど、この人の前に立つと、負の感情がゆっくりと消えていく。
現国教師だからだろうか。きっと普通の言葉なのだけれど、この人が言葉を発すると、表面上だけでなく、心に直接響いてくる。
安倍の言葉には、さゆみや絵里とも違った力があった。
「田中ちゃんが行かないって言ったら、カメちゃんはそれこそ哀しいんじゃないかな?カメちゃんの笑顔って、田中ちゃんの笑顔があるから引き出されると思うんだ」
- 917 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:23
- 安倍の言葉は、いつかさゆみやワタナベがれいなに投げたそれと同じだった。
―絵里の本当の笑顔を引きだしたの、だれだと思ってるの?
―きみに会ってから、彼女はよく笑うようになったよ
絵里の、本当の笑顔。
絵里が自分の殻に閉じこもってしまい、何処かに置き去りにしていたその美しく輝く感情。
それをもう一度、青空のもとに引き出したのは、間違いなくれいなの存在であり、絵里のもつれいなへの恋心だった。
それがいま、再び曇ろうとしているのなら、やはりれいなは、笑っていなくてはいけない。
れいな自身が暗い顔をしていたところで、事態は好転しないのだから。
安倍の説得はもっともなもので、分かり切っているのだけど、どうしても立ち止まってしまう自分がいた。
それでもれいなは「はい」と頷き、明日には旅費を支払うと約束した。
九州出身のれいなにとっては初めての北海道。
博多豚骨ラーメンとは全く違う、北海道の味噌ラーメン。大きなカニ、ジンギスカン、じゃがバター、大雪、スキー、時計台。
そうはいっても、なんだかんだで、心が躍っている自分自身がいるのであった。
- 918 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:24
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- 919 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:24
- 厚い雲がどっしりと天上に居座っていた。
12月に入り、期末考査が終わればいよいよ修学旅行だという空気が流れていた。
クラスメートたちも、絵里に気を遣いながらも、目前に迫った北海道に心を躍らせていた。
当の本人である絵里は、そんなクラスメートたちの気遣いが申し訳ないので、努めて笑顔で「お土産よろしくね」と返した。
昼食を摂りながら、絵里はふと手帳を開いた。
手術までもう2週間もなかった。いよいよ、自分の人生が決まる日は目前に迫っていた。
最近は急に寒さが厳しくなったせいもあり、体調を崩す日々も多くなってきていた。
11月以降の土日は必ず病院で過ごすようになり、体調の関係によっては月曜と金曜も入院することが増えてきている。
発作の回数は以前からそれほど増えてはいないものの、それでも本当に手術の日までもってくれるのか、絵里は不安だった。
締め付けられる胸を見つめながら、絵里はただ祈った。どうか、どうかあと少しだけ時間をくださいと。
- 920 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:24
- 「へぇっくしょん!」
絵里がネガティブな思考になりかけたとき、横から盛大なくしゃみが聞こえた。
本当に彼女のくしゃみは女子高生らしくないなと絵里が苦笑すると、当の本人であるれいなは恥ずかしそうに笑った。
「寒いのは苦手なの…」
さゆみはといえば、ピンク色の膝掛けと使い捨てのホッカイロという防寒体制を敷いているが、それでも不十分なのか身をこわばらせた。
「去年もそうやったっちゃけど、れなは冬を越せるか微妙っちゃん…」
「そんなに福岡とこっちって気温差ある?」
「こっちの寒さが異常やと!もう意味が分からん…」
れいなはさゆみの使っているホッカイロを半ば強引に奪い取り、手を温めた。
しかし、さゆみはすかさず奪い返す。
「猫はコタツで丸くなって寝ればいーの」
「あー、コタツいいっちゃねー」
「コタツで鍋とか食べたいの」
れいなは焼きそばパンを頬張りながら、確かに鍋は美味しそうだなと思った。
独り暮らしを始めてから、こっちで鍋を食べたことはない。さすがにひとりで鍋を食べる勇気は、れいなにはまだない。
- 921 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:25
- 「絵里はなに鍋が好き?」
絵里は急に話を振られてドキッとした。
家族と冬になるとなんどか鍋は食べるのだが、特にどれが好きというものはない。
ちゃんこ鍋にトマト鍋、水炊きもよく食べるし、最近流行りのカレー鍋も嫌いではない。
オーソドックスなキムチ鍋はキムチが辛くて少し苦手なのだが、基本的に嫌いなものはなかった。
絵里はうーんと考えながら、ふと思いついた鍋を出した。
「モツ鍋食べたい」
その言葉にれいなとさゆみは目を丸くした。
れいなは去年の年末年始には数日だけ福岡に帰省したが、そのときにモツ鍋を家族で食べたのが最後になる。
「じゃ、れいなの家で冬休みに鍋パーティーしよ」
「…なんでれなン家?」
「福岡から美味しい美味しいモツ、調達してきてね」
「ちょぉ待て。だれもいいとは…」
「い・い・よ・ね?」
「いや、悪くはないけん…」
話が勝手に目の前で進んでいき、絵里はきょとんとしながらもその会話を聞いていた。
そして、自然と笑顔になっている自分がいることに気づいていた。
やっぱり、この空間が好きだ。大切な友人と過ごす、何気ないけれども大切な時間。自然と笑顔になれるこの場所が好きだった。
寒い寒い冬にも関わらず、温もりが体と心に沁みわたっていくのが分かる。
優しくて嬉しくて、絵里は泣きそうになるのをこらえながら、弁当のハンバーグに箸を伸ばした。少しだけ焦げていたのに、それがとても、美味しかった。
「じゃ26日にれいなの家で鍋パーティーするから絵里も予定あけといてね」
絵里は急にさゆみにそう言われ、慌てて手帳を開いた。
ちらりとれいなを見ると、盛大に溜息をつきつつも、肩を竦めて苦笑していたので、絵里もなんだか嬉しくなって26日に丸をつけた。
- 922 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:26
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だが、結局、26日に鍋パーティーをすることは、叶わなかった。
- 923 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:27
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- 924 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:27
- 手術まで残り1週間と迫っていた今日、12月22日、朝陽高校は2学期の終業式を迎えていた。
絵里は今日から藤本総合病院に入院をし、手術当日を迎えることになっていた。絵里の体調は此処に来て急速に悪くなっている。
当初の予定では、前々日である27日から入院することになっていたのだが、あまりの体調の変化に、ワタナベは今日からの入院を勧めた。
絵里は、できれば入院はしたくなかったが、自分の体の悲鳴が聞こえていたので、その提案に素直に従った。もう限界なのかもしれないと絵里は苦笑するしかなかった。
終業式を終えた直後に、れいなとさゆみにそのことを伝えると、ふたりとも寂しそうな顔をしながらも、「お見舞いに行くよ」と笑ってくれた。
それでも、心配そうに見つめるその瞳が申し訳なかった。
「送っていこうか?」
「れーな部活でしょ。サボっちゃダメだよ」
「でも…」
―れーな、お願い、そんな寂しそうな顔しないで…
絵里はその顔にそう伝えたかった。
だって、れいなの顔は、まるでもう逢えなくなるみたいで、いまにも泣きだしそうだったから。
「また、お見舞い来てね」
絵里はそうやって無理に笑顔をつくって、カバンを持って教室を飛び出した。
駆け足になりながら廊下を曲がっていく絵里の姿を、れいなはただ黙って見つめているしかなかった。
- 925 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:28
- 上空にはどっしりと厚くて黒い雲が居座っていた。
寒さはどんどん厳しくなり、いまにも雪が降り出しそうな天候に、絵里は「はあ」と大きく息を吐いた。
真っ白い吐息が空気に溶けていき、絵里はぶるっと体を震わせた。
先ほど見た、れいなの顔が頭をよぎった。
いまにも泣き出しそうな、そんな切なそうな瞳で見つめられては、絵里自身も泣きそうになった。
もう逢えないみたいな、そんな顔しないでと叫びたくなるから。
「れーなぁ……」
泣き出しそうな空を見上げて、絵里は愛しいその人の名を呼んだ。
手術までもう時間はない。此処まで来たら、あとは手術を受ける以外に術はないのに、絵里は此処から逃げ出したくなっていた。
怖かった。
漠然とした不安が絵里の心に巣食い、大きな闇となってすべてを呑み込もうとしていた。
手術を受けない場合、絵里が成人まで生きられる可能性はほとんどない。
絵里と同じ病気の患者の、手術をしない場合の生存年数は19.89歳であり、仮に成人できたとしても数年しか生きられない。
30歳まで生きた患者は僅かに数例であり、それ以上の症例は確認されていないとまで言われている。
でも、手術の成功確率はどう転んでも40%以下。
手術を29日に受けて、そのまま目が覚めないという可能性だってない訳じゃない。
- 926 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:28
-
だったら―――
手術をしないで、19歳まで生きる道を選ぶ方が良い?
そうすれば、もう少しだけ、れーなと一緒にいられる?
絵里の心の中に、そんな声が聞こえてきた。
白くなった息が空気に混ざって溶けていく。絵里はもう一度天を仰ぐ。
とにかく寒い。今日はもう本当に寒すぎると絵里は歩く速度を上げた。
こんな寒い日には温泉にでも行きたかった。
修学旅行先の北海道の温泉は温かいだろうかと考えながら、絵里は商店街を歩いて行く。温泉好きの絵里にとって、れいなと北海道に行けないのは本当に残念だった。
「温泉行きたいなぁ…」
吐息とともに呟かれた一言は、妙な重さをもって空気に溶けていく。
修学旅行。温泉。手術。れーな。寒い。さまざまな単語が頭をよぎる中、絵里は歩く足を止めた。絵里はほぼ無意識のままにいま来た道を戻り、小さな書店へと入っていった。
- 927 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:29
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- 928 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:29
- 12月23日は天皇誕生日であるのだが、れいなにとっては、正直どうでも良い。
世間じゃ天皇誕生日というよりも、クリスマスのイヴイヴなんて言われているらしいが、それもどうでも良い。
れいなにとっての12月23日は、世界でいちばん大切な絵里の誕生日であった。
去年の誕生日は、絵里と一緒に時間を過ごした。
その日は絵里の中学校へ行き、彼女の心に巣食った闇の話を聞いた。
底が見えないような絵里の深淵を覗きこみ、それでもれいなは絵里をそこから引っ張り上げようとした。
絵里には泣いてほしくなくて、ずっと笑っていてほしくて、だかられいなは絵里を強く抱きしめた。
絶対に離してはいけないと思った。彼女を見失いたくなかった。
れいなは自分の心の内を精一杯絵里に伝えた。なんの衒いもなく、ひたすら真っ直ぐに、れいなは絵里が好きだと伝えた。
あの日に見た、絵里の涙は、何処までも綺麗だった。
その日から、絵里とれいなは付き合うようになった。忘れることなんてできない、大切な、大切な日だった。
- 929 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:30
- 今年のれいなの誕生日は、絵里からメールをもらった。
体調が悪くて誕生日プレゼントを買うことができなくてごめんなさいと、その文面で必死に謝っていたので、れいなは笑いながら返信をした。
だいじょうぶ。またゆっくり時間作って、れなとデートしてほしいっちゃと返すと、絵里はごめんねと、ありがとうを繰り返した。
れいなは今日の絵里の誕生日になにを買うかを迷っていた。
なにが良い?と聞いたところで、「れーなから貰えればなんでもいー」なんて絵里は笑うし、かと言って良い案は浮かばない。
さゆみにでも聞いてみようかと思ったが、あのニヤけた顔が浮かんだので、れいなはやっぱり聞かないことにした。
OG戦、文化祭でのダンス大会、秋のサッカー部の大会などがあり、れいなの学業成績の方は下降気味である。
そのことを安倍に指摘されたため、れいなは否応なしに勉学にも力を入れざるを得ない状況にあった。
部活と勉強の両立は、高校生として当たり前といえば当たり前なのだと、れいなは苦労しながらも課題に取り組んでいた。
結果、れいなは絵里の誕生日プレゼントを考える暇もなく、どうしようどうしようと悩んでいる間に23日を迎えようとしていた。
さすがになにも渡さないのはどうかと思い、ただいまそれを考えながら部活の休憩時間を過ごしている。
- 930 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:30
- 「悩みごとですかー?」
いつの間にか隣にいたのか、サッカー部マネージャーの愛佳がれいなの顔を覗きこんでいた。
そうだ、彼女になら聞けるかもしれないと、れいなは素直に質問した。
「女の子ってなにプレゼントしたら喜ぶっちゃろ?」
「あぁ、亀井さんにですか?」
れいなは敢えてその名前を出さないでいたのに、愛佳から絵里の名前が出てきたので思わず噴き出しかけた。
れいなのあまりの慌てように、「ちゃうんですか?」と愛佳は苦笑しながらサッカー部の日誌を開いた。
「好きな人から貰えるんやったらなんでも嬉しいと思いますけどねー」
「うーん…そりゃ、まぁ……って?!」
愛佳があっさりと「好きな人」と言ったことにれいなは余計に焦った。
れいなが絵里と付き合っているとか、ましてや好きな人がいるなんて話をした覚えは全くない。
なのになぜ、愛佳はそれを知っているのかとれいなは背中に汗をかいた。
「去年はなにをあげたんですか?」
「え…あー、去年は時計やった」
れいなの疑問は宙ぶらりんのまま愛佳の質問に答えた。多分に動揺していたので、ドモリ気味になってしまったが。
「オーソドックスなアクセサリーとかはあげてないんですね」
「あ、ま、誕生日やないときにあげたけん。ネックレス」
それを聞くと、「へぇー」と愛佳はニコッと笑いながら答えた。
なんだか、後輩なのに少しだけからかわれているような気がしないでもないと思いながらも、れいなは愛佳の回答を待った。
- 931 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:31
- 「いっそ、指輪とかにしてみたらどうですか?」
「指輪ぁ?」
「亀井さんってモテそうやし、えーんやないんですか?」
ん、モテることと指輪とどういう関係があるのだと思いながら、れいなは愛佳の答えを吟味した。
確かに指輪も良いかもしれないが、今日の部活が終わってから買いに行くとすると、閉店間際に駆け込むことになりそうだなと思った。
れいなはふと空を見上げた。漆黒の雲が天井には居座っている。今日の寒さを考慮すると、いつ雪になってもおかしくない天候だった。
「サイズが分からんっちゃけど、大丈夫かいな?」
「うーん…どの指にするかにもよりますけど、だいたい田中さんと同じくらいやと思いますよ」
確かに、れいなの手は身長に比例して少し小さめだが、それでも絵里とは大差ないと言えるだろう。
そこでれいなは、どの指にするかという愛佳の言葉を吟味した。そうか、指によって意味合いが変わるんやったな。
- 932 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:31
- そのとき、「あー!」というサッカー部員の声が響いた。
なんだ?と思っていると、れいなはその理由に思い至った。
「雪……」
遂に、空が泣き始めていた。
天上にいる黒雲は、真っ白い氷の粒を、ゆっくりと地上に降らせてきた。
れいなは大きく身震いした愛佳を見て、手に持っていたウィンドブレーカーを羽織らせてやった。
そういえば、文化祭で絵里にパーカーを貸したのだが、あれはどうなっているのだろうと、れいなはいまさら思い出した。
絵里の家に泊まりに行った際も考えたのだが、結局指摘はしていないあのパーカー。別にどっちでも良いのだが、今度彼女の家に行った時にでも探してみるかとれいなは思った。
サッカー部員らの声に気づいたのか、部顧問も空を見上げた。
いまはまだミゾレ程度であるし、さほど降ってはいないが、このまま部活を続けるかどうかを思案しているようだった。
れいなとしては、せっかくの部活が雨や雪で中止になってしまうのは嫌だったのだが、いまの状況を考えると、正直、中止でも良いかと思ってしまった。
部顧問は、今後の雪の降り方をインターネットで調べてくるといちど職員室へと戻っていった。
- 933 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:32
- 果たして部活は中止になった。
予報では、昼から夕方にかけて本格的に雪が降り始め、寒さも厳しくなるということであった。
本来ならば、室内を使って筋トレなどを行うのだが、あまり帰りが遅くなっても交通機関の乱れがあるかもしれないと、帰れるうちに帰そうと部顧問は判断した。
自主練は怠るなよという部顧問の言葉を聞き、彼の見えないところでガッツポーズを作ったれいなは、急いで部室へと走った。
「愛佳、ありがとー!」
「いーえー。田中さんも気をつけてぇ」
自転車で校門を出る直前に、れいなは愛佳に礼を叫ぶと、愛佳も笑顔で返してくれた。
れいなはそれを確認すると、笑顔で手を振り、自転車のペダルを勢いよくこいだ。雪のちらつく街を、れいなは全速力で駆け抜けた。
寒さで顔は凍てつくように痛く、手も悴んでいたが、そんなことは意に介さず、絵里にはどんな指輪が似合うかを考えながら、れいなは走った。
- 934 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:32
- れいなは藤本総合病院の駐輪場に頭から突っ込んでいった。
部活が途中で中止になったおかげで、れいなは無事に絵里の誕生日プレゼントを買うことが出来た。
店員に絵里のイメージを伝え、あれやこれやと多くの商品を手にとって財布と相談し、ようやくひとつの指輪を選んだ。
全体がシルバーであり、中心に小さな石のついたシンプルなデザインは、絵里のイメージに近かった。
本当はもう少し高くて質の良い物を買いたかったのだが、いまのれいなの財布事情ではこれが精一杯であったので、れいなはこれを選んだ。
れいなは指輪を入れた紙袋を片手にエレベーターへと乗り込んだ。
迷うことなく7の階数ボタンを押すと、小さな箱はれいなを運んでいく。
絵里は喜んでくれるだろうかと期待していると、エレベーターの扉が開き、目の前にはワタナベと美貴がいた。
「あ…」
れいなはふたりを認めると、思わず声を出した。ふたりもれいなの姿を見て、気まずそうな顔をした。
「れいな、カメちゃんのお見舞い?」
「え…あ、はい」
美貴からそう聞かれ、れいなは素直にそう頷いた。
美貴はチラリとワタナベを見ると、ワタナベは困ったような顔をしながら頭をかき、言葉を発した。
- 935 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:33
- 「…本当に申し訳ないが、今日は帰ってくれるかい?」
「え?」
「いま、面会謝絶なんだ」
ワタナベの言葉がれいなに突き刺さった。
『面会謝絶』という小説やドラマの世界でしか聞いたことがなかった言葉に、れいなは困惑した。
いま、此処で彼が嘘をつく必要はない。ということは、彼の言葉は真実ということになる。つまりそれがなにを意味しているのか、そんな単純なことはれいなにでも分かる。
「カメちゃん、体調が良くなくてね。ちょっと今日はもう薬で寝てるから」
美貴がワタナベの言葉を噛み砕いて説明してくれた。
手術まであと1週間もない。万全の状態で手術に臨みたいというのは当たり前であるし、れいなもそれには賛成だった。
しかし、『面会謝絶』というその言葉。それほどにも絵里の状態はよくないのだろうかと不安ばかりが募った。
「面会謝絶という言い方をして申し訳なかったです。薬が効いて休んでいるときですので、もう起こしたくないんです」
ワタナベは努めて明るくそう答えると、エレベーターへと乗り込んだ。
れいなも7階で降りようとはせず、彼が1の階数ボタンを押すのを黙って見ていた。ぎゅっと紙袋を握り締める指が痛かった。
「明日には良くなってると思うから、また来てくれるかな?」
彼の言葉にれいなは顔を上げた。
その表情は優しくて、だけど何処か泣きそうになっていたので、れいなは胸が締め付けられた。
この人は、大人だけど、それでも同じ不安を抱えているのだとれいなは気づいた。
医者だって万能じゃない。神様じゃないんだから、絵里の病気を100%治せるなんて保障はない。
しかも今回の手術の成功率は一般的に言って40%以下であり、いまの絵里の体の状態はとてもじゃないが万全ではない。
出口の見えない闇の中で、必死に闘っているのは、絵里やれいなだけじゃなく、医者であるワタナベも同じなのだとれいなは強く頷いた。
- 936 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:34
- 「それ、プレゼントですか?」
れいなの手にしていた紙袋を見つめ、ワタナベはそう言った。
「え、あぁ…はい。直接渡したいから、また明日持ってきます」
「そうしてあげて下さい。絵里ちゃんも、きっと喜ぶと思うので」
そう話していると、箱は1階へと到着し、ワタナベ、美貴と続いてエレベーターを降りた。
「じゃあ、れなはこれで」
れいなはそう言って頭を下げると、ふたりに背中を向けて正面玄関へと歩いて行った。
「……宜しくお願いします、田中さん」
ワタナベはボソッとそう呟きながられいなの背中をじっと見つめていた。
彼が初めて名前を呼んだことに驚きながらも、美貴はカルテを持つ彼の手が震えていたので、黙って見つめていた。
れいなにその言葉は届くことなかったが、きっと彼女はいちばん、絵里のことを分かっているのだろうなと美貴もれいなに呟いた。
「がんばれよ…れいな」
なんの捻りもないストレートな言葉であるが、もしかしたら結局は、そういう飾らない言葉の方が響くのかもしれないなと、ワタナベはぼんやり思った。
- 937 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:36
- ---
- 938 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:37
- れいなは鬼のような形相で自転車をこいでいた。なんども転びそうになるがスピードは絶対に落とさない。落とすことなんて、出来なかった。
今日も雪の影響で部活が中止になったのが不幸中の幸いと言えたが、れいなはユニフォームを着たまま自転車を走らせていた。
事の始まりは10分前、10時という中途半端な時間に部活を終えたれいなが携帯電話を開いたことだった。
そこには不在着信がずらりと並んでいた。着信相手は、ワタナベと美貴、そして、クラスメートのさゆみであった。
この3人に共通していることなどひとつしかない。れいなは慌ててワタナベに折り返したが繋がらなかった。
受話器から聞こえる無機質な通話音が余計に焦燥感を駆り立て、れいなは美貴に折り返した。だが、結局彼女も通話中であり、会話ができなかった。
れいなは祈るような気持ちでさゆみに電話した。
一体なにが起きているというのだ。良い予感なわけはない。そんな予感は微塵もしない。最悪の事態を想定していると、と、3コール後にさゆみが出た。
「れいな、いまどこ?」
「部活終わって学校。どしたと?」
切迫したさゆみの声に、心臓が早くなっているのが分かる。
まさか、まさか、絵里が……?
- 939 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:37
- 昨日のワタナベと美貴の声が甦る。
―面会謝絶なんだ
―カメちゃん、体調が良くなくてね
いよいよ最悪の事態が頭をよぎる。
絵里は、絵里は無事なのか?なにが、どうした。
絵里、絵里、絵里、絵里、絵里―――!!!
- 940 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:38
- 「絵里がいないの!」
自分の心配の斜め上をいったさゆみの言葉に、れいなは思わず「は?!」と大声で返した。
周りの部員たちも心配そうな顔でれいなを見つめるが、れいなはお構いなしに話を続けた。
「おらんって…おらんってどういうこっちゃ?!」
「だから病院にいないの!いま先生や藤本さんたちと探してるんだけど…とにかくれいなも来て!」
そうして一方的に電話は切られた。
無機質な通話音とともに、絵里の笑顔が浮かんだ。あのだらしがなくて、情けなくて、だけど世界でいちばん可愛い笑顔が浮かんだ。
―うへへぇ、れーなっ
唐突に聞こえたその声に、れいなはそのままカバンを掴んで駐輪場へと走った。
その途中で、「お疲れ様でしたー!」と愛佳に声をかけられた気がしたが、とてもではないが、それに応える余裕はなかった。
心の中で愛佳に謝りながら、れいなは自転車を藤本総合病院へと向けて走らせた。
- 941 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:39
- 「絵里っ!」
れいなが702号室の扉を開けると、そこにはだれもいなかった。それは文字通り、もぬけの殻である。
息を整えながら室内を見渡す。シーツは綺麗に畳まれており、着替えや雑誌、見舞いの花はそのままに置いてある。
「朝の診察に来たら、もぬけの殻でした」
れいなの後ろからワタナベの声が降ってきた。
振り返ると、彼はカルテを片手にガシガシと頭をかいた。
「僕は此処を離れるわけにはいきませんので、いま、安倍先生やサトウ先生に探してもらっています。あと、藤本さんや道重さんも心当たりを探しているそうです」
それを聞いて、れいなは頭の中に4人の顔が浮かんだ。
いつもそばで見守ってくれている担任の安倍先生。
赦すことはできないけれど憎むこともできない元担任のサトウ先生。
からかってはいるが、アドバイスをくれる朝陽高校サッカー部OGの美貴。
絵里とれいなのシアワセを誰よりも祈る大切な友人であるさゆみ。彼女のことだから、愛や里沙にも頼んでいるのだと思う。
ああ、こんなにもたくさんの人に支えられているのだと改めて実感し、申し訳なくなると同時に力強いと思った。
そうこうしていると、絵里の父親が廊下に現れた。れいなはそれを認めると反射的に頭を下げた。
父親もれいなを判断したのか「お久しぶりです」と優しく笑いながら、ワタナベに話しかけた。
「まだ家には帰ってません…やはり何処か遠出したのかと」
「無茶な…あんな体で、薬も残り少ないのに…」
ワタナベの顔に絶望の色が浮かんでいることに気づき、れいなも焦った。
なんで急にいなくなったのか、何処に行ってしまったのか、分からないことが山のようにあるが、とにかくいまは絵里の居場所を探すしかない。
- 942 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:39
- 絵里の行きそうな場所をれいなは考えた。
初めて行ったデートの場所?
というと、駅前のアウトレットか、れいなの家の近くの公園か。そんな病院の近所だったら、とっくにだれかが発見していそうなものだが。
次のデートの場所は?
といっても、2回目のデートはデートらしいことはしていないし、行った場所は絵里の中学校であった。
確かに初めてキスをした場所でもあるが、忌まわしい過去の記憶がある場所に、絵里が1年振りに訪れる理由が分からなかった。
次のデートは…絵里の家だった。
いまの父親の話を信じるとすれば、家には帰っていないということなのでこれも却下。
あとは……あとは?
そこでれいなの思考が止まる。
もう思い浮かばない。たったの3つでれいなは止まってしまった。
―なんも、なんも知らんやん、絵里のこと……
絵里と過ごしてきたこの2年間。長いのか短いのかなんて判断はできないが、それでも絵里の行きそうな場所すられいなは分からないことが無性に腹立たしかった。
- 943 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:40
- れいなは頭を掻き毟った。
最悪だ。なにか、なにか手がかりはないのかと、絵里の病室の小さな棚を開けた。するとその2段目に気になるものが入っていた。
ボールペンが1本と、使いかけと思われる水色の付箋、そして小さなレシートがぽつんと置かれていた。
れいなはそのレシートを見ると、そこには2冊の購入履歴が乗っている。
それは、『日光へ行こう』と『京都大阪観光案内』という、極めてオーソドックスな観光雑誌であった。
購入日時は12月22日と朝陽高校の終業式が行われた日であった。
購入場所は、れいなたちの街にある小さな書店であり、これは絵里が買った可能性が高いことが分かる。
しかし、ひとつの疑問が浮かんだ。
なぜ、日光と京都なのだろう?
朝陽高校の修学旅行の行先は北海道であるし、日光と京都の関係はなにもない。
れいなが小さな脳みそを回転させ必死に考えていると、ある仮定に行きついた。
まさかと思ったれいなは、いままさに病室を出て行かんとする絵里の父親とワタナベを呼び止めて訊ねた。
- 944 名前:Only you 投稿日:2011/12/18(日) 19:40
- 「あのっ、絵里って、修学旅行に参加したことってありますか?」
突然のれいなの質問に父親は眉を顰めた。
しかし、れいなの真っ直ぐな視線を認め、首を振った。
「小学校のときは入院、中学校のときは…少し色々あって、あの子は参加していないよ。高校も、手術の直後だから行けなくてね…可哀想なことをしたとは思っているけど」
父親の言葉にれいなは「ああ」と天井を仰いだ。
まさか絵里は…とひとつの仮定に行きついたとき、れいなは父親とワタナベにレシートを見せた。
「これ、たぶん絵里の買った本です」
「『日光へ行こう』と『京都大阪観光案内』……?なんでこんなものを…」
「…絵里、一回も修学旅行に参加したことないんですよね?」
父親の言葉に被せるように、れいなは確認するように言葉を乗せた。
その言葉を聞いた父親は、「まさか…」と呟いてれいなを見つめる。
「たったひとりで、行こうとしたんかもしれません……修学旅行に」
病室にはれいなの言葉が綺麗に反響する。
窓の外には雪がしんしんと降り積もり続けた。
- 945 名前:雪月花 投稿日:2011/12/18(日) 19:42
- 本日は此処までになります。
たぶん収まりきらないので次のスレッドも立てますが、感想は此処にお願いします。
では次回まで失礼します。
- 946 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/19(月) 01:01
- いつもコメントしてるのバレてる!!笑
なるほど。
こんな展開になっちゃうわけですね(^○^)
れいな、カッコいいとこみせてよれいな!!
某掲示板のほうもずっとチェックしてます!
あちらではROM専ですが。
作者様の作るどの話も大好きです。
更新楽しみにしています!
- 947 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/19(月) 12:34
- えりりんどこ行ったのー(汗``
不安で仕方ないです…
がんばれいな!!!
- 948 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/22(木) 23:24
- 絵里のことがすごく心配ですね。
嫌な予感が…OZL
れいな!早く絵里を探してね!
- 949 名前:雪月花 投稿日:2011/12/23(金) 18:52
- さゆとれいなのディナーショーに参加したかったけど断念した雪月花です。
愛しく苦しいこの夜に初披露だったみたいですね…
れなえり好きとしては、その場で聴いていたら泣いてたかも…ww
>>946 名無飼育さんサマ
いつも温かいコメントをいただいているので励みになります!ありがとうございます
しかもあちらも見ていただけているようで…あちらとは作風も内容もだいぶ違いますが、作者としてはこっちの方が書きやすいですw
カッコいいれいなさんに期待していて下さい。どうなるかは本編で…w
>>947 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
絵里の最初で最後の勇気というか無茶だと思います。
何処へ行ったのか、れいなが見つけられるのか、今後どうなるのか見守っていて下さい。
>>948 名無飼育さんサマ
ダンス大会に引き続き、このシーンもかなり書きたかったのですが、確かに心配です…
その嫌な予感が当たるのか当たらないのかも含めて今後も見守っていて下さい。
コメントありがとうございました!
今回もつづきではなく特別編です
読み飛ばしていただいても構いません。では、どうぞ。
- 950 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:53
- クリスマスのイヴイヴって言葉、流行ってるのかな?
私は使ったことないけど、街の雰囲気を見る限り、なんかそんな気がする。
天皇誕生日よりも、クリスマスの方が世間にはあってるみたいで、街は赤と白に染まって、イルミネーションもキラキラ輝いてる。
毎年恒例のことなんだけど、それはやっぱり寂しいんだよね。
絵里はお母さんと一緒にケーキを買いに来た。
これも毎年恒例なんだけど、別にクリスマスのためじゃない。相変わらずケーキ屋さんは満員御礼、1番売れているのは当然、クリスマスケーキ。
サンタクロースさんが白いクリームの上でニコッて笑ってるけど、絵里たちが欲しいのはこれじゃないからって店員さんに伝える。
今年はちゃんと予約しておいて良かったぁ。そういうところはちょっとは成長した気がする。
お母さんとふたりで、自分の誕生日ケーキを持って家へと帰る。
今日は1年に1回の、絵里の誕生日なんだから。
- 951 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:53
- ---
- 952 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:54
- 思えば、小さい頃からクリスマスと一緒に祝われちゃう寂しい誕生日だったっけ。
別に、ほんとに寂しいってわけじゃないんだけど、なんだかオマケみたいな気がしちゃうんだよね。
街はみんなクリスマス一色だから、絵里の誕生日なんて二の次って感じがしちゃって、ちょっとだけすねちゃったこともあった気がする。
それは理不尽だっていうことも、もう分かる。絵里だって子どもじゃない。
理不尽って言葉、使い方が合ってるかは、自信ないけど。うん、やっぱりまだ子どもだ。
それでも誕生日は楽しいし嬉しい。
モーニング娘。に入ってからは、メンバーやスタッフさんみんなにお祝いしてもらって、もっと楽しくなった。
メンバーやマネージャーさんはちゃんと忘れずにメールをくれる。
同期で親友のさゆ、道重さゆみは超気合入れました!って感じのデコデコのやつ。
先輩で同い年のガキさんこと新垣里沙は、キラキラしてるんだけど中身もしっかりした文章をくれる。
そして、同期の田中れいなは、メンバーの中では平均的なメールをくれるんだけど、絵里はいちばん、貰って嬉しい。
- 953 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:54
- 誕生日メールと言えば、もう3年前になるんだけど、あの日を思い出す。
その年は絵里が20歳になるっていう特に大切な日だったんだけど、れーなからは0時ジャストには来なかった。
ちょっと寂しい気分だったんだけど、0時23分に「おめでとう」と「みんなが0時ちょうどだから、あえて23分を狙ったんだよ」って得意そうなメールが来た。
正直、嬉しくて、胸がキュンってして、「大好き!ありがとう!」なんて返信したんだよなあ。
でも、実際は寝ちゃっててギリギリに23分に送れただけだったんだけどね…それをファンの皆さんの前で暴露して……
絵里は笑って許したけど、ホントはとても、とても寂しかった。
なんだか、寝ちゃうような、そんな些細な日だったのかなって。
絵里だって人のこと言えないくせに、ホントにひどいなって思うんだけど、でも、寂しかったんだ。
- 954 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:54
- 2年前の誕生日はというと、最初は一緒にお祝いしようって約束してたんだ。
でも、急遽、絵里の方がお仕事が入っちゃったんだよね。ガキさんとのラジオの公開録音。
ファンの皆さんにお祝いしてもらえるっていうから凄く嬉しかったし、れーなも喜んでたけど、あのときれーなは、少し寂しい顔してた。
「行ってらっしゃい」って笑顔で手を振ったし、「がんばってこい!」なんて励ましてくれたけど、れーなは一瞬だけ切なそうな表情を見せたんだ。
でも、れーなはなにも言わない。
絵里に負担をかけたくないからって、お仕事だからって、れーなは笑うんだ。
- 955 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:55
- 1年前の誕生日。
その8日前である、12月15日、絵里はモーニング娘。を卒業した。1万人以上のファンの方に見守られて、横浜アリーナで完全燃焼した。
れーなと出逢ってから、初めて1人で過ごした誕生日の夜は、久しぶりに家族と一緒にいたけど、それでもやっぱり寂しかった。
モーニング娘。にいる頃には考えられなかった喪失感が絵里に襲ってきた。
確かに、12月15日のあの日、絵里は完全燃焼したし、得たことの方が大きかったっていまでも思ってる。
それでも、それでも心にぽっかりと空いた穴は、そう簡単に埋めることはできなかった。
みんな誕生日をお祝いしてくれた。
22歳おめでとうって、れーなだって言ってくれたのに、やっぱり逢えない時間があると、胸がぎゅうってなった。
- 956 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:55
- そして今年。れーなはさゆとディナーショーのお仕事をしてる。大切な大切なお仕事で、絵里はそんな邪魔はできない。
たぶん、会場では絵里の話も出てるんだろうけど、絵里は今日も、家族と一緒に過ごすの。
それはとてもシアワセで恵まれてることだって分かってる。分かってるのに……
こんなにも胸が痛むの。
寂しくて切なくて、れーなに逢いたいの。
いたずらっ子みたいに「ニシシ」って笑うれーな。
ステージの真ん中に立って、キラキラ輝くれーな。
「れーな弁」をずっと一貫して使い続けるれーな。
大きい瞳で真っ直ぐに絵里を見るれーな。
小さい体で精一杯に前に進んでいくれーな。
優しい腕で絵里を包み込んで抱きしめてくれるれーな。
甘い声で絵里に「好いとー」って言ってくれるれーな。
れーなに、逢いたい―――
それはワガママだって分かってるのに。
- 957 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:55
- ---
- 958 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:56
- 絵里は家族にお祝いしてもらって、美味しいご飯を食べて、少しだけお酒を飲んで、大人な誕生日を過ごした。
部屋に戻って「ふう」とひと息ついて、窓を開けたら、夜空に星が輝いていた。
冬の空気は澄んでいるからか、都会なのに星が綺麗に見えた。
「届けぇー」
そうやって子どもみたいに空に手を伸ばしてみたら、冷たい空気が絵里を包む。
うへへぇ、なんだか絵里、酔っ払ってるのかな。こんな子どもみたいなこと、久しぶりにしたなぁ。
ガキさんが見たら「まーたそうやってカメは!」なんて怒るのかな。
「えへへ……」
腕を引っ込めて夜空を見上げる。星に手は届くはずもなくて、相変わらず暗い空高くに星は光る。
はあって息を吐いたら、白く染まって空気に溶けた。
「れーなぁ……」
無意識にれーなの名を呼ぶと、胸が締め付けられる。
そろそろ日付が変わるけど、ディナーショーはちゃんと終わったのかな?
絵里がケータイが鳴っているのに気づいたのはちょうどそのとき。
だれだろうと思っていると、ディスプレイには「田中れいな」という名前が表示されて絵里は慌てて出た。
「も、もしもし?」
「遅いっちゃぁ、何回鳴らしたと思っとーと?」
「ご、ごめん…」
電話から聞こえてきたのは、相変わらず憎まれ口のれいなの声。
ちょっとだけ強気なれいなの声を聞くと、胸が締め付けられるけど、凄く、凄く安心した。
- 959 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:56
- 「星に手は届かんよ」
「へ?」
「手近な星の方が輝いとーかもしらんよ?」
絵里の胸がドキッと高鳴った。
まさかと思って開けっ放しの窓から体を出すと、そこに彼女はいた。
絵里の家の前、白いコートに白いスカート、黒のタイツにムートンブーツ、ついでに冬の夜に不釣り合いな大きめのサングラスをかけたれーながいた。
彼女はニコニコしながらこちらに向かって手を振っている。
「絵里ぃー」
「な、な、ななな、なんで、なんでいるの?!」
「アホ、近所迷惑っちゃ、声がでかい」
笑いながらも冷静に宥めるれいなの意味が分からない。
なんでれいなが此処にいるわけ?ディナーショーは終わったの?てかいつからいたの?なに?あーーー、もう!
「ちょ、いまから行くから!」
「は?」
- 960 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:57
- れーなの返答を待たずに絵里は上着だけ羽織って慌てて階段を降りていく。
リビングにいた家族が不思議そうな顔をしたけど気にしちゃいられないって。
サンダルをはいて玄関を開けると、その少し先にはきょとんとした顔のれーなが立っていた。
なんでそんな顔するのよ、もう。なんかムカつく!可愛い!ん?!あー、認めちゃった!
「よ、絵里」
「よ、じゃないでしょ!なんでいるの?」
れーなは「ん?」って言って、サングラスを外した。
「ディナーショー終わったの?どうやって此処来たの?てゆーかいつからいたの?」
矢継ぎ早に質問する絵里の声が鬱陶しいのか、れーなは両手でわざとらしく耳を塞ぐと、大袈裟に肩を竦めた。
「とりあえず、れなから1個だけ言わせて」
そうしてれーなは両手を耳から離すと、絵里の左腕をぐいと掴んで引き寄せた。
「わっ」って声が出たのも束の間、絵里はれーなの胸に吸い込まれて、その腕の中にすっぽり収まった。
- 961 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:57
- 「誕生日おめでと、絵里」
耳元で囁かれた甘い言葉は、絵里の中にあったさまざまな疑問や不満、寂しさをぜんぶ消し去ってくれた。
なに、それ。まさか、それを直接言うためにわざわざ仕事終わりに絵里の家まで来たの?ねえ、れーな、ウソでしょ?
「23歳、ホントにおめでとう」
だって…ねえ…
れーな…れーな……れーなぁっ…
絵里はぎゅうとれーなの背中に腕を回して抱きしめ返した。れーなの温もりが伝わってくる。すごく、すごく、ぽかぽかする。
だから、絵里の考えていた不安も寂しさもなくなっちゃったし、嬉しさで溢れたこの想いを口にするしかなかったの。
「…ありがと、れーな」
「どーいたしまして」
れーなは後先考えないで行動しちゃうような人です。
こんなわがままで気まぐれな絵里の誕生日をお祝いしに、わざわざ家まで来てくれちゃうようなお人よしです。
普段は強気で、目つきも怖くて、言葉づかいも荒くて、態度も大きくて、ヤンキーみたいな人なのに、とてもとても優しいです。
そんなれーなが、大好きです。
「絵里……」
「うん?」
そして、絵里が顔を上げた瞬間に、世界一甘いキスをくれる、ちょっとだけ早い、絵里だけのサンタさんです。
「うへへぇ」
「アホ」
「いーの。うれしいんだから」
いままでも、たぶん、これからも、甘い甘いシアワセをくれる、絵里の大切な人なんです。
- 962 名前:思い出とこれからと 投稿日:2011/12/23(金) 18:58
- ノノ*^ー^) < いつから絵里見てたの?
从*´ ヮ`) < 窓を開けたときから
ノノ;^ー^) < なんで呼んでくれなかったのよ
从*` ロ´) < 電話したっちゃけん、絵里が出てくれんちゃもん!
ノノ;´ー`) < あ…ごめん。。。
Happy Birthday ERI!!
- 963 名前:雪月花 投稿日:2011/12/23(金) 18:59
- さゆれなディナーショーでは、絵里の話は確実に出たことでしょう。
実際の時間軸とかは無視してますがそこはご愛敬で…w
仕事終わりに逢いに行っちゃうくらいな行動力がありそうなれいなさん
ラブラブしとけばいいんです、このふたりはw
次回から通常更新に戻ります
- 964 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/23(金) 22:07
- えりりんかわいいなぁ(*´∀`)
雪月花さんの言う通り、この2人はイチャイチャラブラブしてれば良いですww
このお話の続き的にはやっぱりれーなが嬉しくなっちゃってえりりんをいただいちゃったって感じですかね??笑
- 965 名前:雪月花 投稿日:2011/12/24(土) 23:02
- クリスマスイブもクリスマスも予定はない雪月花ですw
華の3連休ですので、家に籠って珈琲片手に読書します(泣きながら)
>>964 名無飼育さんサマ
本編がどうしてもシリアスなので特別編くらい甘くしたいのですが…難しいです
うーん、今回は絵里が実家なのでれいなも狼になるのは我慢した…かな?w
いただいちゃったって話も書きたいんですが、需要あるのかしら?
では更新します。
- 966 名前:Only you 投稿日:2011/12/24(土) 23:03
- 絵里が駅に降り立つと、ロータリーは真っ白な雪に覆われていた。
こっちの方が寒いのかと考えながら「はあ」と吐いた息は、真っ白に染まって空気へと解けた。絵里は傘をさしてバス停へと向かう。ボタボタと雪をかぶり、傘は重くなる。
最初の行先はもう決めてあった。
絵里が此処へ来ようと決めたのは23日の夜、つまりはほんの18時間前のことであった。
22日に書店で観光案内雑誌を購入し、気の向くままに行きたい場所に付箋を付けたりペンで丸を書いたりしていた。
そのときはただ、「行きたいなあ」くらいの気持ちであったのだが、23日の夜、薬で眠ったあとに目覚めた瞬間、絵里は行こう