サディ・ストナッチ・ザ・ブラック
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:13
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチ
ttp://m-seek.net/test/read.cgi/water/1238076010/
サディ・ストナッチ・ザ・レッド
ttp://m-seek.net/test/read.cgi/water/1249221991/
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:15
- ★
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:15
- 見たくないなら 目を閉じていればいい
触れたくないなら 手を伸ばさなければいい
失いたくなければ 求めなければいい
それでも自分の居場所が欲しいというのなら
あたしが与えてあげる 作ってあげる
きっとあなたは 気に入るはず
もうあなたは 目を開く必要はない
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:15
- 第九章 再燃
- 5 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:15
- マリィが再びフォースから姿を消して数ヶ月。
フォースの中には奇妙な安定感が漂っていた。
店の中には、ナカザワがオーナーだった頃のような緊張感はない。
逆に果実が腐っていくような爛れた臭いが店内を支配するようになっていた。
果実は腐りきって落ちてしまう直前が最も美味しい。
ここのところのフォースは、そういった饐えた甘い匂いを
嗅ぎつけてきた地下世界の住人達で埋め尽くされていた。
最近は麻取も全く姿を見せなくなった。フロアには種々のドラッグが行き交い、
銃器や偽造書類などの非合法的な物資が異常な高値で取引されていた。
人が人を呼び、腐臭がさらなる腐臭を呼ぶ。
フォースは裏社会における関東一の拠点というだけではなく、
なにやら有象無象が蠢く伏魔殿の様相を呈し始めていた。
カゴはフォースの副オーナーとしての地位と名声を確立しつつあった。
地位が人を作る。良い意味でも、そして悪い意味でも。
カゴの言動からは少しずつ幼さが消えていった。
人格だけではなく、顔つきまでもが精悍さを増しているように見えた。
ヨシザワはカゴの変化に気が付いていたが、何も言おうとはしなかった。
- 6 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:16
- 一時はマリィに疑いの目を向けられていたリカも、
今はフォースの一員として、滞りなく業務を遂行していた。
元々ここの従業員は、人には言えぬ過去を持った「ワケあり」の人間が多い。
もっと言うなら、今の関東に残っている人間は皆そういった側面を持っている。
イシカワの過去や背後関係について、もう深く詮索する人間はいなかった。
イシカワのプライベートにまで及んでいた監視の目も、いつしか解けた。
客足が伸び始めたこともあって、従業員達は忙しさに振り回されている。
イシカワがマリィに疑われて軟禁されていたことも、
もはや従業員達の暇つぶしの話題に上がることもなくなっていた。
誰もが皆、この忙しさが半永久的に続くものだと思っていた。
そんな目が回るような忙しさの中にあっても、
イシカワは全従業員の動きを、その異常な視力でもって仔細に観察していた。
何か新しい動きがあればいつでも対応できるようにと。
イシカワはミツイと毎日連絡を取り合っていた。
ECO moni本部の動向も、リアルタイムで把握していた。
どうやらウイルス抗体作成は最終段階に入ろうとしているらしい。
- 7 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:16
- 「麻取のゴトウマキっていう適応者候補の人が協力してくれてるんですわ」
ミツイの言葉はイシカワを驚かせるには十分だった。
例の施設にいた8番目の被験者。
最初の話では、その人だけはウイルス作成に関係ないということではなかったか。
7番目の被験者と同じウイルスを投与されたとかいう話だったはずだが・・・・・
いつの間にか方針が転換されたのだろうか。
「あの人とは、いずれどこかでもう一度会うことになる」
あの時感じた予感が的中する日が近づいてきていると、イシカワは感じた。
マキの瞳の色は、どんな闇よりも深い黒だった。
イシカワの視力をもってしても、その底までたどり着くことはできなかった。
たどり着いたとしても、きっとそこもやはり周囲に何もない黒一色なのだろう。
マキの瞳は一体何を見つめているのだろうか。
わからない。わからないが、イシカワではないことは確かだ。
あの時のマキは、意固地なまでにイシカワのことを見つめることを拒んだ。
なぜ自分は拒絶されてしまったのだろうか。
イシカワはマキの対応に、言いようのない悲しみを覚えた。
次にマキに会ったらどうしよう。きっとまた拒絶される。
なぜだか、それがとてつもなく悲しいことのように思われた。
たった二回しか会ったことがない相手なのに、拒まれることがたまらなく悲しかった。
見たくないものまで見えてしまう自分の目が、ひどく疎ましかった。
- 8 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:16
- 「お疲れさまでした」
フォースの営業は明け方まで続く。夜明けが閉店の合図のようなものだ。
片づけを終えて家路に着くのは、いつも昼前になっていた。
帰る家が同じイシカワとヨシザワはいつも一緒に家路につく。
一時はぎこちなかった会話も、最近は以前のような自然さを取り戻していた。
ヨシザワが運転する車の助手席にイシカワは座る。
沈黙の時間が長く続いても、気を遣うような間柄ではなくなっていた。
それでも時折、ヨシザワの不安そうな視線に気がつく時がある。
ヨシザワだけは、今でもイシカワの背後にあるものを疑っているのだろう。
だがイシカワは、そのことを寂しいとも悲しいとも思わなかった。
結局のところ、人は何か一つを選ばなければならない。
それは仕事であったり、恋人であったり、生き方であったり様々だ。
だがどれもこれも、最後は自分で一つを選ばなければならない。
自分にとって何が一番大切なのか。
二つ選ぶことはできない。「一番大切」とはそういう意味だ。
イシカワにもいつかは選ばなければならないときが来る。
ヨシザワの疑いを晴らすのか、誤魔化すのか。
正直に告げるのか、嘘をつくのか。
自分にとって一番大切なものが―――何であるのか。
- 9 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:16
- 昔のように平和であったなら、もっと穏やかな選択もあり得ただろう。
あやふやなままにして問題を先送りすることができたはずだ。
今でも関東の外の世界では、平気で二股をかけている人間だっているに違いない。
だが今の関東は違う。
ここは純粋な力のみが生と死を分かつ世界なのだ。
生き方に曖昧な部分を残すことはできない。
ここはもはや、社交的な生き方が許されるような土地ではないのだ。
周りの人間がどうであるとかは全く関係ない。
自分がどう生きるのか、はっきりと意志表示しなければならない。
ヨシザワのことは好きだ。フォースは自分にとってかけがえのない場所だ。
だがECO moniと二つ同時に選ぶことはできないのだろう。
いずれどちらかを選び、どちらかを捨てるときがくる。
ECO moniを捨てる自分―――イシカワにはとても想像できなかった。
じゃああたしは、サユが「殺せ」と命じれば、ヨッスィーのことも殺すの?
あいぼんのことも殺すの? あたしにはそんなことができるの?
だがこの世界に身を置く以上、それを選ばなければならないのだろう。
殺すことができないのなら―――自分が殺されても文句は言えない。
それがここで生きるということを意味している。
ヨシザワがゆっくりとブレーキを踏む。車が小さなホテルの前で停まった。
- 10 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:16
- ナカザワが死んでマリィがオーナーになった頃からだろうか。
ヨシザワも、イシカワと同じホテルで暮らすようになった。
何も言わないが、他の従業員もそのことに薄々気づいているようだ。
ホテルの扉を開けると、小さな子供たちがワッと寄ってきた。
ヨシザワが養っている孤児たちだった。
以前は十五人ほどいて、ロビーを埋め尽くすほどの賑やかさだったが、
今はたった五人の子供しかいない。
以前のヨシザワはこのホテルに近づくことをできるだけ避けていた。
自分があちこちから恨まれていることは重々承知していたから、
襲撃や闇討ちに会う可能性のことを考慮し、
そういった危険に子供たちを巻き込みたくないという思いがあった。
だがいつからかヨシザワの心境に変化が現れた。
襲われたときは襲われたときだと、妙に腹を据えた。
来るか来ないかわからないようなものにおびえることを止めた。
それよりも、子供と触れ合う時間を増やしたいと思った。
そうすることでヨシザワは精神のバランスを保っていたのかもしれない―――
- 11 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:16
- それと同時に、ヨシザワは孤児の数を減らす努力を始めた。
これまではそういったことは一切していなかったが、
可能な限り孤児の親類を捜し、関東の外へ連れ出すルートを探った。
その結果、十人ほどの孤児がここを離れていった。
コハルもその動きに同調して、こっそりとECO moniの本部へと戻っていった。
孤児たちはここを出るときにはギャアギャアと泣きわめいたが、
それでいいんだとヨシザワは思った。
自分との別れのために泣いてくれる人がいる。それだけで十分だった。
残っている五人も、近いうちに別の施設に移ることになっている。
ヨシザワは自分でも気がつかないうちに、身辺を整理し始めていた。
五人の子供の相手を一通り済ませると、ヨシザワはソファに倒れ込んだ。
イシカワは電話をかけている。コハルとの毎日の定期連絡らしい。
彼女は毎日の連絡を欠かしたことがない。律儀なことだと思う。
イシカワの背後にどこかの組織がついていることは間違いない。
きっとコハルはその組織の連絡員か何かなのだろう。
だが今のヨシザワには、そんなことはもうどうでもよかった。
ここ数ヶ月の間、怪しい動きは何もなかった。ならば放っておけばいい。
今のフォースには失うものなど何もない。あるのは金だけだ。
金なんてどうでもいい。そんなものはなくなっても構わない。
イシカワの組織が金を欲しているというなら、全部くれてやればいいと思った。
金なんてマリィが持っていようが、イシカワが持っていようが同じだ。
今のヨシザワには極めてどうでもいいことだった。
どうでもいいことだと―――思い込もうとしていた。
- 12 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:17
- 電話を終えたイシカワの顔は心なしか青白かった。
「ごめん、ヨッスィー。しばらくの間、お店の方は休ませて」
「え? コハルちゃんがどうかしたの?」
「うん・・・・・体調悪いんだって。あたしが・・・・・行かなくちゃ」
嘘だ。ヨシザワの心に鈍い痛みが走った。
いつもだったら、電話の最後にコハルはヨシザワと喋りたがる。
病気になっているなら、尚更こっちの声を聞きたがるはずだろう。
だが今日のイシカワは受話器をヨシザワに渡すことはなかった。
この数ヶ月間は収まっていた胸の不安が、一気に膨らんだ。
抑えていたタガが吹き飛び、中からドロドロとしたものが溢れ出てくる。
あたしはいつまでこんなもやもやとした気持ちを抱えていなければいけないの?
いつまでこんな仮面をかぶったような会話を続けなければいけないの?
あたしは―――あたしはリカちゃんに何を求めているの?
あたしは一体、何をどうしたいの?
答えは出なかった。
ヨシザワがどう思おうと、イシカワはただの従業員の一人だ。
この世界は人の出入りが激しい。辞める奴は勝手に辞めていく。
イシカワがこのままヨシザワの目の前から消えてしまう確率だって低くはない。
皮肉なことだが―――イシカワの組織が、フォースに対して悪意を持っていれば、
イシカワはこれからも工作員としてフォースの中に留まり続けるだろう。
だが逆に―――フォースに対して何の悪意も抱いていないのなら―――
- 13 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:17
- 「リカちゃん。もう戻ってこないつもりなの?」
「えっ」
「いや・・・・・・・なんとなくそんな気が・・・・」
イシカワがフォースで働くようになってからも、
何の断りもなく勝手に辞めていった従業員は何人もいた。
ヨシザワが言っているのは、そういう意味でのことなのだろうか。
イシカワは唇を噛んだ。自分がそんな身勝手な人間だと思われるのは辛い。
自分は身を粉にしてフォースのために働いてきたつもりだ。
だが反論はできない。
これから自分は、ある意味、勝手に辞めるよりも酷いことを、
フォースに対して行おうとしているのかもしれない―――
「やめないよ」
イシカワは極めて明るい表情を作った。
電話でコハルはECO moni本部の緊急事態を告げた。すぐに帰還せよとのことだった。
緊急事態が勃発した以上、こっちに二度と戻ってこれない可能性もある。
フォースかECO moniか。それを選ぶときが来たかもしれない。
だがイシカワは選ばなかった。結論と正面から向き合うことを避けた。
「コハルちゃんが元気になったら、すぐにまた戻ってくるから。
だからお願い。フォースにあたしの帰る場所を残しておいてね」
- 14 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:17
- 「残すも何も・・・・・今のフォースはメチャクチャ人手不足じゃん。
元気になったらコハルちゃんも連れて来なよ。一緒に働けばいい」
「本当に?」
「あいぼんにはあたしから言っておくから」
賑やかさを取り戻したフォースで、イシカワやコハルと一緒に働く。
それはヨシザワにとって非常に胸躍る想像だった。
きっとコハルは、昔のツジやカゴのように、滅茶苦茶やってくれるだろう。
カゴは昔のナカザワのように鬼にならざるを得ない。
そして毎日のようにコハルに雷を落とすのだ。
でもカゴは怒るだけで後片付けはしない。それはヨシザワの仕事だ。
ヨシザワはぶつくさ文句を言いながら、コハルの尻拭いに追われる。
癪だからイシカワにも手伝わせてやろう。
そして二人でコハルが一人前になるまで、徹底的に鍛えるのだ。
きっと時間がかかる。だがその長い間、自分はコハルに夢中になれるだろう。
何もかも忘れて、それにかかりっきりになれるかもしれない―――
甘い妄想だった。ただの現実逃避だ。ヨシザワは自分の弱さを恥じた。
時計の針は逆には戻せない。たとえコハルがフォースにやってきても、
ツジやナカザワがいた頃のフォースを取り戻すことはできない―――
それでもヨシザワは自分の言葉を止めることはできなかった。
上っ面だけの言葉と知りつつも、夢を見ずにはいられなかった。
「じゃあ待ってるから。コハルちゃんと一緒に戻ってきなよ」
- 15 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:17
- イシカワは黙って頷いた。ヨシザワの瞳をじっと見つめる。
その瞳の、奥の奥まで覗きこんだ。
イシカワの瞳は真実のみを映し出す。
ヨシザワが自分を疑っていることは確実だった。
だがその一方で、自分のことを信じてくれていることも、確信できた。
そのどちらともが、イシカワが目にした真実だった。
リカは自分の体が、ヨシザワの瞳によって二つに裂かれるような気持ちになった。
最低だ。あたしはきっと選べない。
フォースもECO moniも、どちらか一つを選ぶなんてできない。
どちらかに自分の人生の全てを委ねることはできない。
だから―――だから、ごめんねヨッスィー。
それでもイシカワは、半分だけはヨシザワに嘘をつくまいと思った。
半分でいいのなら、その身を引きちぎってヨシザワに捧げてもいい。
自分で自分を裏切ることになろうとも、そうすることしかできなかった。
「うん・・・・わかった。コハルとあたしの二人で戻ってくるよ」
そのイシカワの言葉は―――半分だけが真実となった。
- 16 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:17
- ☆
- 17 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:17
- 「なんや、全員揃うのは、ごっつい久しぶりな気がするなあ」
テラダは抜いた鼻毛をフッと吹き飛ばした。
その表情を見ているだけでは、追い詰めているのか、追い詰められているのか、
SSという組織の現状を判断することはできない。
見事なまでのポーカーフェイスだった。
もっともそれは、装っているというよりも、テラダの地の顔だったのだが。
思えば、マキがSSと化してイイダを襲ってから、既に数ヶ月が経過していた。
時間の流れが恐ろしいまでに速く感じられる。
それだけ状況が目まぐるしく変化していた。
テラダ達は第二のアジトを捨てて、新たな拠点に移動していた。
ECO moniを分断させる陽動作戦―――と見せかけた本格的なアジト移転作戦。
テラダが仕組んだ二段構えの作戦はどうやら成功したようだった。
SSのメンバーが新たな施設に勢ぞろいしている。
誰一人離脱することなく無事に施設を移転することができたようだ。
カメイ。アベ。ヤグチ。テラダ。そしてアベが連れてきた麻取のニイガキ。
こういった面々が一堂に会していた。
- 18 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:17
- 「ECO moniの追跡からも上手く逃れることができたみたいですね」
カメイもいつものようにニコニコと笑っていた。
その表情を見ているだけでは、追い詰めているのか、追い詰められているのか、
SSという組織の現状を判断することはできない。
見事なまでのポーカーフェイスだった。
もっともそれは、装っているというよりも、カメイの地の顔だったのだが。
何はともあれ、ECO moniの監視の目を振り払うことができた。
これからは比較的自由に動くことができるだろう。
本格的な攻勢をかけるのはこれからだ。カメイの心は躍り上がっていた。
アベとヤグチが合流できたことも大きい。
何だかんだ言いながら、カメイはこの二人のキャリアの力を頼りにしていた。
今はもう、フォースで軍資金を集める必要もないし、
麻取の力を使ってわざわざGAMを潰す必要もない。
あとはイイダの血があればいいのだ。
必要なのは経済力でも政治力でも謀略でもない。純粋な暴力としての力だった。
目的がシンプルであれば、計画も立てやすい。
ややこしい計算はせずに、最強の力でもって奪い取る。
カメイの中にはそれしかなかった。
- 19 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:18
- 「それでカオリはどこにいるの? 次は良いとこ取りはなしだよ、カメちゃん」
アベは凄みのある貪婪な笑みを浮かべた。
その表情を見ているだけでは、追い詰めているのか、追い詰められているのか、
SSという組織の現状を判断することはできない。
見事なまでのポーカーフェイスだった。
もっともそれは、装っているというよりも、アベの地の顔だったのだが。
どうもカメイは回りくどいやり方を好みすぎる。
それがアベには気に入らなかった。
イイダの居場所がわかっているのなら、最初から自分が行けばよかったのだ。
そうすれば無駄にJJやLLを死なせることもなかっただろう。
別に死んでもどうっていうことはないが、彼女らは使える兵隊だったのだ。
それが消えたからといって、カメイが替わりのおもちゃを与えてくれるわけではない。
新しいおもちゃは自分で探すしかない。
JJやLLを返り討ちにしたというあの神社には、
とびきり楽しそうなおもちゃが山積みになっているような気がした。
- 20 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:18
- 「そうだよそうだよ。次はあたしらが・・・」
「ちょっとみんなこれを見てくれるかな」
いきり立つヤグチの言葉を遮って、テラダがノートPCを広げる。
ディスプレイには模式的な地図が広がっている。何度も目にした画面だった。
画面には煌々としたオレンジの光で「3」とあった。
あれだけの襲撃を受けて、なおECO moniはあの神社から動いていない。
これもECO moniなりの戦略か何かなのだろうか。
だがそれよりも驚くべきことは―――
そこにもう一つのはっきりとした光点が輝いていたことだ。
「8」
光り輝くその数字は、ゴトウマキが神社にいることを示していた。
そして丁度そのとき、「9」という数字が神社に入ろうとしているところだった。
追加メンバーとして施設に入れたイシカワだ。
ヤグチがフォースから離れたことによって、自由の身になったのだろうか。
彼女もまた、ECO moniに合流しようとしていた。
- 21 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:18
- 「イイダさんにゴトウさんにイシカワさん・・・・ですか」
「そうやな。光点が三つ。神社におるんはこれで全部やな」
二人で話を進めようとするテラダとカメイに、ヤグチが割り込んだ。
「つまりヨシザワやカゴは一緒に行動してないってことだな」
「なんやそれ。あいつらは関係ないやろ」
「いやー、少なくともヨシザワは、イシカワとかなり親しかったから・・・」
「はあ? ウイルスも打たれていない追加メンが一人増えたからってどうやねん」
「イシカワだのヨシザワだの、そんな追加メンのことはどうでもいいですね」
テラダとカメイは苛立ちながら、ヤグチの言葉を退けた。
どうもこのヤグチという女は、目の付けどころがずれている。
今、気にするべき点はそんなところではない。もっと大事なことは他にあるのだ。
そういった否定的な空気を、二人はあからさまにヤグチにぶつけた。
二人の口振りに気押されたヤグチは顔をしかめて口をつぐむ。
「あんな、今大事なんはこれや、これ。この8番の動きやがな」
テラダはディスプレイの「8」に向かってトントンと指をぶつけた。
適応者候補のゴトウマキがECO moniと接触している。
SSにとってこれ以上ないくらいの緊急事態だと言えた。
- 22 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:18
- 「ヤバイなあ、これ。ウイルス抗体を作られてしまうかもしれん」
「抗体が完成すれば、SSの完全体ですら抑えられてしまう可能性があります」
「つまり『究極のモーニング娘。』ってやつが・・・・・」
「抗体でその能力を抑制されてしまう可能性が高いですね」
カメイは頭の中でざっと計算した。
抗体を作成すると言っても、右から左に簡単に作れるわけではない。
全てが上手くいったとしても、通常の施設では三ヶ月はかかるだろう。
ECO moniが総力を挙げて作成に取り組めば―――二ヶ月か。
カメイは抗体完成までのタイムリミットを二ヶ月と設定することにした。
それまでにウイルス断片を集めれば間に合う。
「二、三ヶ月ってとこか?」
テラダも同じように計算したようだ。カメイは「そうでしょうね」と答える。
生化学的な知識がないアベやヤグチは、二人の話を黙って聞いていた。
難しい話はわからないが、タイムリミットが約二ヶ月ということは理解できた。
長いようで短い期間だ。
もしECO moniが一旦、姿を消してしまえば、
一ヶ月や二ヶ月では再発見することはできないだろう。
次の襲撃が―――もしかしたら最後の機会となるかもしれない。
- 23 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:18
- 「その抗体が完成したら、ウイルスは完全に消えちまうのかよ」
「ええ、そうですよ。キャリアとしての能力も綺麗に消えてしまうでしょうね。
ですからヤグチさんの素敵な歌声も、抗体が完成したら、はいそれまでよ、です」
ではきっと小型化できるあの能力も消えるのだろう。
全くの普通の人間に戻ってしまうというわけだ。
ヤグチはカーペットの床に唾を吐き捨てたい衝動をかろうじてこらえた。
そんなヤグチの動揺を、カメイは冷ややかな目で見つめていた。
ヤグチの能力のことなど些細なことだ。どうでもいい。
問題は、抗体によって七分割ウイルスの自我維持能力まで抑えられる可能性があることだ。
もしそうなれば、ウイルスに侵されたキャリアは自我を失う。
ただの植物人間となって、少ない余生を暮らすことになる可能性は―――決して低くない。
それは適応者であるアベナツミであっても例外ではない。
自我を持ったまま太陽の娘となる計画は頓挫してしまう。
それだけはなんとしても阻止しなければならなかった。
ゴトウマキを殺すか。あるいはイイダカオリの血を奪うか。選択肢は二つ。
どちらが簡単かは火を見るよりも明らかだった。
- 24 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:18
- 「もう一度あの神社に行って、イイダさんの血を奪うしかないですね」
「キャハハハハ! まさかまたこのチビに行かせるつもりじゃないよね?」
ヤグチは皮肉たっぷりに笑いながら、ニイガキのことを指差した。
一度目の襲撃の時にも、こんなガキを使わずに自分に任せていれば、
もっと簡単に上手くいったはずなのだ。
ヤグチは、自分が相手側に6番の血を渡してしまったという
失態を犯したことを棚に上げて、勝手にそんなことを思っていた。
ニイガキは一言も喋らずに四人のやり取りを聞いていた。
ウイルスのこともECO moniのことも知らないニイガキには、
全く理解できない話の連続だった。
究極のモーニング娘。? なにそれ? それがナッチさんの目的なの?
とりあえずニイガキが理解できたのは、このヤグチとかいう女も、
テラダもカメイも、自分を必要としていない、ということだけだった。
自分を必要としているのはナッチ一人だけなのだ。
その「必要」というのが、どんなにふざけた理由であったとしても―――だ。
ニイガキは、ナッチ以外の人間の言葉に対しては貝になることにした。
- 25 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/28(土) 23:18
- 「次はあたしが行く。だよね? カメちゃん」
珍しくアベの目は笑っていなかった。カメイもそれにつられて真剣な表情になる。
アベは馴れ馴れしく、ヤグチの首に腕をからませた。
一緒に行くのか。二人で神社に襲撃をかけるのか。
期待に目を輝かせたヤグチの心をざっくりと裏切るような言葉を発する。
「キャハハハハ! まさか今度はこのチビに行かせるつもりじゃないよね?」
ナッチはあからさまにヤグチの笑い声を真似ていた。
チビという言葉が、ニイガキではなく自分を指しているということに
ヤグチが気付くまで、少し時間がかかった。
それと同時に、さっき自分が言った言葉でからかわれているのだと気付いた。
きつい冗談言うなよと切り返そうとしたが、ナッチの目は全く笑っていなかった。
怒りに燃えたヤグチの心を凍らすような、冷たい冷たい顔だった。
「わかりました。次はアベさんにお任せすることにします」
「そうこなっくっちゃね」
破顔一笑。ナッチの表情は劇的に崩れ、いつものような笑顔を見せた。
ナッチはニコニコとほほ笑みながら、カオリとの再会に思いを馳せた。
いや、再開というのは正しくない。カオリとは一度も顔を合わせたことはない。
だが壁越しになら何度も語り合ったことがあった。
カオリを殺す。
思えばこれは、施設にいたあの頃から定められていた、運命なのかもしれない―――
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:19
- ★
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:19
- ★
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:19
- ★
- 29 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:21
- 「腐れ縁」
アベとイイダの関係を言い表すのなら、この言葉が最も適切かもしれない。
二人は同じ日に同時にあの施設の中に入った。
驚くべきことに、二人は誕生日も近い同年齢で、故郷も同じ都市の極めて近い地区だった。
母親が同じところに勤めていたということもわかった。
もしかしたらアベとイイダも、外で何度かすれ違ったことがあったかもしれない―――
きっかけはそんな簡単なことだった。イチイとゴトウがそうだったように、
二人はその日のうちに意気投合し、壁越しに語り合う仲になった。
二人が言葉を重ねた時間は、イチイとゴトウのそれを遥かに上回る。
まるで付き合い始めた男女のように熱烈な時間を過ごし、
倦怠期と呼べるいがみ合いの時期を経て、最後には戦友のような関係になった。
今のイイダが何を考えているのか、アベには手に取るようにわかった。
彼女は強烈に正義感が強い。きっとテラダやカメイに対して憤りを感じているのだろう。
殺してやりたい―――そういう思いを抱えてECO moniと行動を共にしているに違いない。
(ふふふふ。殺したい・・・・殺したいよねえ、あのおっさんを)
その思いはアベも同じだった。だがイイダと協力する気はない。
同じ殺意とはいっても、アベとイイダではテラダに対する思いが全く違っていた。
イイダはきっとある時点まではテラダのことを信じていたのだろう。
だからこそ、裏切られたことがわかったとき、全ての感情が反転したのだ。
だがアベは違う。最初からこのオヤジをいつか殺すと心に決めていた。
- 30 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:22
- だからアベはテラダに利用されていることがわかっていても全然慌てなかった。
むしろ好都合であるとすら思ったし、こんな素敵なことはないとも思った。
アベは全てに干渉する。世界の全てに介入する。テラダも例外ではなかった。
骨までしゃぶり尽くし、利用価値がなくなったら捨てる。それだけのことだ。
その時が来るまではテラダと深く関わっていようとアベは思った。
アベが強く輝くためにのみ、テラダは生存することを許されるのだ。
おそらくイイダにはそんな打算的な考えはできないだろう。
彼女は純粋すぎるし、直情的すぎる。
その一途さがたまらなく眩しく見えた時期もあったが、それも過去の話だ。
今のアベにはそんなイイダが、ひどく疎ましい存在に思えた。
もう彼女とは分かり合えない。
あれから三年の月日が流れた。過ごした時間の中身が違い過ぎる。
直接会って話しても、きっと通じ合う部分は残っていないだろう。
それでもアベにとって、部屋が隣だったイイダとヤスダは特別な存在だった。
カメイの話ではヤスダは事故が起こる以前に既に死んでしまっていたらしい。残念なことだ。
あの施設との決別の証として―――イイダとヤスダだけは自分の手で殺したかった。
太陽となる前に、腐れ縁は自分の力で断ち切りたかった。
自分の目に、二人の死に様をしっかりと焼きつけておきたかった。
それでもその願いは半分だけは叶うだろう。イイダカオリはあたしが殺す。
アベの望みは、少し遠い将来に、やや奇妙な形で叶うこととなる。
- 31 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:22
- アヤがコンノからの電話を受け取った時、ミキは手洗いで不在だった。
不在でよかったとアヤは思った。
どうやらあの神社では状況が一気に複雑化してしまったようだ。
ミキに伝える時には、慎重に言葉を選ぶ必要があるだろう。
「どうしたの、アヤちゃん。コンちゃんから連絡?」
「タカハシたちが神社の方に姿を現したってさ」
「マジで!?」
すぐに移動しようとするミキを「もう終わったって」と言ってアヤは制した。
コンノから受け取った事実を、アヤは順を追って説明する。
神社にタカハシ・ニイガキ・JJ・LLの四人が襲撃をかけてきたこと。
この四人こそが、GAMの本拠地を襲った四人に違いなかった。
JJとLLは返り討ちにあって死亡した。ニイガキという麻取は逃走した。
そしてマコを殺したタカハシは―――コンノが撃ち殺した。
「そっかあ。タカハシってのは死んだのかあ。なーんだ。
じゃあ、あたしらがやってたことも、全部無駄になったわけだ」
そんなことを言いながらも、ミキの表情に不満はなかった。
むしろ清々しさに満ちていた。マコの仇は一番の親友であるコンノが討った。
これで良かったんだ。一番良い結果になったんだとミキは思った。
- 32 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:22
- 「で、あたしは一旦、神社に戻ろうと思うんだけど、ミキたんにはここに残って
取り逃がしたニイガキっていう麻取を引き続き追ってほしいんだ。それでいい?」
「別にいいよ。神社に戻ってもすることねーし。じゃあそのニイガキってのは
見つけ次第、片付けちゃっていいのかな? もうタカハシは殺ったんだしさ」
「そうだね。泳がす必要はないから殺っちゃっていいよ。それでこの件は片がつく」
「了解」
アヤはそれ以上何も話さなかった。嘘は言わない。ミキは嘘に敏感だ。
もしミキが尋ねてくるようであれば話そうと思った。
ミキは落ち着きを失うかもしれないが、その時はその時だ。
だがミキはそれ以上、アヤの話に興味を示さなかった。
コンノがタカハシを殺ったということで、ミキの中ではこの件は決着したのだろう。
だからミキは尋ねなかった。
あれだけ強烈な戦闘力を持ったJJとLLを殺したのが誰なのか。
もしかしたらミキは、ミツイやコハルが殺ったと思ったのかもしれない。
あの守護獣とやらを見たときのインパクトは強烈だった。
ただの人間があれに勝てるとは思わないだろう。
だからミキは訊こうともしない。誰がJJとLLを殺したのかを―――
だからミキは知らない。
あの神社にゴトウマキがいることを―――
- 33 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:22
- アヤは麻取本部の監視のためにミキを残し、一人で神社へ向かった。
ニイガキとやらの行方が気になることは確かだが、そんなものは小物だ。
この関東で、看板のない麻取がたった一人で生きていくことはできない。
いずれ必ずアヤの網に引っ掛かってくるだろう。
それよりも今はマキだ。あの黒い女だ。
コンノの連絡によると、マキはカオリの説得にあった結果、
自分の血をECO moniに提供し、抗ウイルス抗体の作成に協力することになったという。
これで事態は一気に進むだろうとコンノは言った。
七種類あるウイルスのうち、五種類までなら抗体が作れる可能性が高いと。
ミキがこのことを知れば、黙ってはいないだろう。
マキはGAMのアジトを潰し、メンバーを大量殺戮した女だ。
受けた被害でいえば、タカハシやJJ、LLの襲撃の時以上の被害だったのだ。
そしてミキは、その前に直接マキと拳を交えて、手ひどく叩きのめされている。
そのマキと協力体制を築くなんて言っても、ミキは絶対に納得しないだろう。
アヤだって基本的には同じ考えだ。
組織がやられた借りは必ず返す。マキの命をもって償ってもらうつもりだ。
だが今はその時ではない―――例外的な判断が必要とされる時だ。
コンノに言われるまでもなく、アヤもまたそう思っていた。
そして復讐の気持ちを押さえつけられるだけの理性と度量を、アヤは備えていた。
- 34 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:22
- アヤは気配を消しながら神社へと接近していく。
気配の消し方はいつもとやり方を変えた。
マキがあの立体駐車場に襲撃をかけてきたとき、アヤは悟った。
なぜマキがあのアジトにたどり着くことができたのか。
尾行されたのは自分だ。タカハシを可愛がってやったときにつけられたのだ。
アヤはマキの存在を全く感知することができなかった―――
マキという女の能力のことも、イイダやミチシゲからある程度聞いていた。
コンノも電話でそういうことを少し話していた。
よくわからない部分も多いが、空間把握能力が尋常ではないことは確かだ。
(ホントはあの頃のあたしには戻りたくないんだけどなあ・・・・・)
アヤはミキと出会う前の、一人ぼっちの自分に戻った。
Nothingと出会う前の、真の意味でのNothingな自分に戻った。
身を隠すのではない。突出することによって、周囲に誰もいなくなるという、真の孤独。
孤独を愛するでもなく、疎んじるのでもなく、ただあるがままに受け止めていた自分。
自分の意志というものが極めて希薄だった頃の自分―――
そんな姿は誰にも見せたくなかった。ミキには特に見せたくなかった。
アヤは自分という存在を限りなく高め、この世界からふわりと離脱していった。
全てをNothingに帰すことは、アヤにとっては難しいことではなかった。
ウイルスの力など必要ない。太陽の力など必要ない。誰の力も必要としない。
持って生れた才能だけで、アヤはアヤという自分を消し去っていった。
- 35 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:23
- 神社からは焦げ臭いにおいがしていた。森の一部が焼かれたようだ。
アヤは焼けた木々の間を通って神殿の方に向かう。
庭には真っ二つに切り裂かれた死体が二つ転がっていた。
顔を見ずともそれがJJとLLであることはすぐにわかった。
コンノの話では、マキはたった一人でJJとLLを軽くあしらったという。
騙し討ちするでもなく真っ向たから立ち向かい、たった一本のナイフだけで、
あのJJとLLを二人まとめて斬り伏せたのだ。
アヤはちらりと死体に目を向ける。人体をここまで鮮やかに切り刻めるものなのか。
まるでレーザーで焼き切ったかのような切断面だ。やはりマキは只者ではない。
JJとLLは、できれば自分の手で始末したかった。
組織の半分を潰した裏切り者を、これまた組織の半分を潰した敵に始末してもらう。
効率が良いことだなどと手放しで喜ぶことはできなかった。
アヤの中にあったのは、ただ自分の至らなさを恥じる、忸怩たる思いだけだった。
落ちていく気持ちを奮い立たせ、アヤは改めて決断した。
マキだけは誰にも渡さない。あたしがこの手で殺す。
それがGAMのリーダーとして果たすべき最低限の責任であり―――
最後の責務だ。アヤはそう思った。
アヤは気配を断ったまま、建物に入り、声のする部屋の方へと向かう。
誰かが扉に向かってくる気配がした。
- 36 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:23
- 無造作に開かれた襖の向こう側には、真黒な少女が突っ立っていた。
アヤの気配を察することができなかったことが相当ショックだったのだろう。
マキは驚きの表情を、隠すことなく無防備にアヤの前に晒していた。
その隣には、いつも寄り添っていたあの黒い犬の姿がなかった。
一対一。どうやら今日の二人の条件は対等のようだ。
「やあ、マキちゃん、久しぶり。ゼロ君は一緒じゃないのかな?」
アヤは消していた気配を思う存分に解き放った。
封じ込めていたものを解き放つと、気分までもがウキウキと高揚した。
そうだ。私はマツウラアヤ。わたしはここにいる。もうどこにも消えたりしない。
そしてあなたはゴトウマキ。あなたはここにいる。もうどこにも逃げたりしないよね?
アヤは目を細め、百合のように厳かにほほ笑んだ。
「今日は『もう帰って眠りたい気分でさ』なーんて言わないよね?」
アヤは唇をすぼめて、ヒュウと一つ口笛を吹いた。
リズムもメロディもない音にのって、アヤの息吹がマキの前髪を揺らす。
殺してやりたい。殺してやりたい。心からそう思った。
それは憎悪ではない。敵意でもない。もしかしたら殺意ですらないのかもしれない。
殺してあげたい。殺してあげたい。そう、その気持ちを喩えて言うとするのなら、
泣き叫んでいる幼児の頭を思わず撫でてあげたくなるような―――
そんなとても優しい気持ちで、アヤはマキのことを殺してあげたいと思った。
- 37 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:23
- 「パーキングエリア。立体駐車場。この神社。会うのは三回目かな?」
アヤ以外の全員は黙りこくっていた。
ミチシゲですら息をすることも忘れてアヤの言葉を聞き入っていた。
その場にいた全員が、瞬きもせずに二人の姿を見つめていた。
だが。
誰一人として―――次の瞬間の二人のアクションを目に止めることができなかった。
マキは腰に差していた拳銃を、音も立てずに引き抜いていた。
拳銃に手をかける。腰から引き抜く。銃口を向ける。引き金を絞る。
四つの動作を同時に行った。電撃的な速さで、銃口はアヤのこめかみに押し付けられた。
これ以上はあり得ないというほどの絶対的な速さだった。
だがそれと全く同時に―――アヤの持つ拳銃がマキの眉間に押し付けられていた。
マキの伸ばした右腕と、アヤの伸ばした右腕が完璧な平行線を描いた。
真っ直ぐに伸びた二本の腕は、数学的な意味で「平行」だった。
マキの意志が込められた腕と、アヤの意志が込められた腕。
二つの腕は、確実に同一平面上に存在していたが、
それを永遠の彼方まで伸ばしたとしても、二つの腕が交わることは、絶対にない。
アヤとマキは同時に理解した。
上辺の部分では何を考えているのかわからない。相手の考えは読めない。
だが心の一番深いところで理解し合った。一番重要なことだけはわかった。
自分が相手を理解すると同時に、相手が自分を理解したのだということもわかった。
あたしはいつかきっとこいつを殺す。
あたしが殺さなければ―――きっとこいつがあたしを殺す。
- 38 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:23
- アヤとマキは同時に拳銃を下ろした。
殺したいという気持ちを確認し合った。相手が自分の目の前から消えることはない。
今はそれを確認できただけで十分だった。殺り合うのはいつでもできる。
マキはアヤに対する殺意を新たにしていた。
ただGAMのリーダーというだけではない。彼女は特別な人間だ。
キャリアでもないのに、ただ持って生れた才能だけで特異な力を発揮している。
気配の消し方。体の動かし方。それら全てがマキの動きとシンクロしていた。
その理由はわからない。理由があるのかないのかもわからない。
案外、ただの偶然なのかもしれない。
そしてそんな偶然を、人は少し大げさに「運命」と呼ぶのかもしれない。
どちらにしてもアヤの存在は、マキにとって眩しすぎた。
ただそこに存在しているだけで、アヤはマキの心に激しく干渉してくる。
見ているだけで自分の生き方が全て否定されるような気がした。
寂しいとは言わない。虚しいとも思わない。
ただし、自分がこの先もこの能力に従って生きていくのなら、
世界からの干渉を全て退けたいと思うのなら、
アヤを殺すという作業を避けて通ることはできない―――
この女を殺すためなら、自分の命がなくなってもいい。
この女を生かし続けることは、自分が生きる価値を失うことと等しい。
マキはもう一度心の中で力強くつぶやいた。
殺す。
- 39 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:24
- その時、アヤもまた、マキに対する殺意を新たにしていた。
メンバーを殺された借りを返してもらう。
マキと顔を合わせるまではずっと単純にそう思っていた。
だがアヤが拳銃を抜いた瞬間、世界は劇的に変化した。
黒が白に。白が黒に。鮮やかに反転して極太の境界線が描かれる。
アヤと全く同時にマキもまた拳銃を抜いていた。全く同質の動きだった。
その時アヤは、マキが自分をどうやって尾行したか理解した。
マキもまた、完全な「Nothing」になることができる女なのだろう。
彼女のアクションには何の予備動作もなかった。
アヤが生まれ持った動きと、全く同じ動きだった。
ウイルスの影響なのだろうか。
それとも適性者としての能力なのだろうか。
だがどちらにしても、このマキという女の能力は、決して認めることはできない。
アヤが持って生れた天性の能力が、人工的な力で再生産される。
そんなことは絶対に認めるわけにはいかなかった。
マキの生き方を認めるということは、自分の生き方を否定することだ。
この女を殺すためなら、自分の命がなくなってもいい。
この女を生かし続けることは、自分が生きる価値を失うことと等しい。
アヤはもう一度心の中で力強くつぶやいた。
殺す。
- 40 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:24
- 当たり前だが、二人の心の中の動きは周りの人間には見えない。
ミチシゲは、見つめ合う二人の動きが止まったところで、
二人のやり取りが終わり、一つの落ち着きがもたらされたと解釈した。
ミチシゲはアヤに対して現状の説明を始めた。
その多くは既にコンノから電話で連絡を受けていた事項だったので、
アヤはすんなりと神社の状況を理解することができた。
「なーんだ。じゃあ、あたしがここに戻ってくるまでもなかったんじゃん」
「フジモトさんはどうしたんですか?」
「ミキたんなら残してきたよ。ニイガキってのがまだ残ってるんでしょ?」
「そっちのことはマキさんに任せようかと思ったんですが・・・・・」
ミチシゲはそう言ってチラリとマキの方に目を向けた。
マキはあらぬ方向を見てぼーっとしている。
話はきちんと聞いているようだ。目はうつろだったが、放たれる気は鋭かった。
マキはずっと、神社に入ってくるもう一人の気配を探っていた。
「そうだね。あたしがここでやることは終わったし、麻取本部に戻るよ」
マキは立ち上がり、携帯などの連絡先をミチシゲに伝えた。
「本部でニイガキの動きを探ってみるよ。捕まえたらどうしよう?」
「こっちに引き渡してもらおうかな」
マキを見上げながらアヤが言う。だがマキはそれには答えずに扉の方を見た。
のそりと入ってくる人影が一つあった。
「リカちゃん・・・・・・・・・・・」
- 41 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:24
- マキのつぶやきを聞いて、ミチシゲが怪訝な顔をした。
「え? ゴトウさんはイシカワさんと顔見知りだったんですか?」
マキはミチシゲの問いにも答えない。
アヤと顔を合わせた時以上に、マキの頭は混乱していた。
リカはECO moniのメンバーだったのか?
最初から適応者である自分を狙って近づいてきたのか?
バカな。そんなわけがない。理屈に合わない。ではなぜフォースに?
ナカザワを狙っていたのか? 追加メンバーがなぜECO moniに?
説明して欲しいことは山ほどあった。
だからマキは、ただ質問すればよかった。
ECO moniに全面的に協力している今、マキの質問にミチシゲが答えないとは思えない。
だがマキにはそれができなかった。
全身を包む感覚受容器が、イシカワの視線を拒んでいた。
キャリアとして身に付けた特殊な視力に晒されることを、マキの肌は生理的に拒んだ。
「また来る」
マキは乱暴な動きでアヤを突き飛ばし、机に腰をぶつけながら、
大股で部屋の外に歩き出ていった。
背後からリカの刺すような視線を感じたが、マキは決して振り返らなかった。
- 42 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:24
- 「誰、この子?」
今度はアヤが怪訝な顔をする番だった。
この女の顔を見た時のマキのうろたえようは普通ではない。
なんだろうか、あのがさつな行動は。先ほどの流麗な銃捌きとは天と地の差だ。
「前にもちょっと言いましたが、フォースに潜入していた工作員の、イシカワリカです。
緊急事態ということで、コハルに言って早急に帰還するよう命じていました」
「この子は・・・・・・キャリアなのかな?」
「さすがよくわかりますね。確かにイシカワさんはキャリアです。
そしてあの施設にいた追加メンバーの四人の中の一人でもあります」
アヤは注意深くリカの姿を観察した。
キャリアには大きく分けて二種類ある。
いつぞやのカマキリ女のように、肉体の一部が異常発達しているキャリア。
もう一つはミキのように、器官の一部が異常発達しているキャリアだ。
リカの肉体からは、鍛えられた凶暴さは感じられなかった。
どこかの器官が異常発達しているタイプなのかもしれない。
そしてその能力が―――マキにとって天敵ともいえるような能力なのだろうか?
「イシカワさん、ご苦労様です。ゴトウさんとは面識が?」
「はい。あの人は何度かフォースに顔を出していたので・・・・・」
「なるほど。あの人もナカザワやマリのことを追っていたのですね」
「おそらく・・・・・」
リカはそれからフォースの近況について手短に説明した。
あれ以来、マリは店に全く姿を見せていない。
フォースの線からカメイのことを追うのは難しそうな状況だった。
- 43 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:24
- ミチシゲの決断は速かった。
「ではフォースの線は一旦切りましょう。今は人手が足りませんからね。
イシカワさんはここに残ってミッツィーのフォローに回ってください」
「はい・・・・・わかりました」
そう言われることは予想していた。イシカワは素直に返答してすっと下がる。
そしてマキが消えていった廊下の先をじっと見つめた。
やはり避けられてしまった。嫌われてしまったのだろうか。なぜだろう。
ここまで露骨に誰かに嫌われるというのは初めての経験だった。
どう対処してよいのやらさっぱりわからない。ただただ悲しかった。
「アヤさんはどうしますか? 引き続きニイガキとやらを追いますか?」
「それはミキたんに任せようかな・・・・・一人で十分だと思うよ。
それにマキちゃんも本部に戻ってニイガキを追うとか言ってたしね」
「では、できれば私と一緒に・・・・・・」
「わかった。カメイとテラダを探しに行くってわけね」
「二人を見失ってから手掛かりが少ないんです。アヤさんの情報網をお借りしたい」
「お安い御用」
カオリの警護は引き続きコハルとミツイが担当することになった。
マキがいなくなった分、手薄になったと言えなくもない。
しかしながら、コハルとミツイがどれだけ声を大にして要求しても、
ミチシゲは、守護獣の封印を解くことは、頑として認めなかった。
- 44 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:24
- 「話は聞きました。ゴトウさんに随分と助けてもらったようですね?」
「え・・・・・だって火の手が上がってたんですよ!」
「関係ありません。余所様の手を借りて神社やウイルスを守るなんて、
四家の一員として恥ずかしくないのですか? まだまだ覚悟が足りません」
「そんなあ」「無茶ですよお」
「お黙り。二人でイイダさんを守るのです。命がけでやればできます」
「そんなの合理的じゃないですよー」「効率が悪いっすよ」
二人は口を揃えてぶーぶーとミチシゲに文句を言った。
飛び抜けた能力を持っているとはいえ、二人ともまだ子供だった。
アヤはそんな二人を見ながらカラカラと陽気に笑った。
「二人で無理なら三人で守ればいいじゃん」
「えー、何言うてるんですか、マツウラさん」
「あ。それってもしかしてイシカワさんのことですか?」
コハルとミツイは一斉にイシカワの方を見つめる。
見つめられたイシカワは、情けなさそうな顔をしながらうつむいてしまった。
「この人はダメなんですよ。キャリアというても戦闘タイプの能力やないですから」
「目がいいんだよね。視力が凄くいいから偵察とかには向いてるんですけど」
コハルは訊かれもしないのに勝手にイシカワの能力についてペラペラと喋った。
そうか。イシカワは目がいいのか。その視力でマキの何を見つめているのだろう?
きっとそこにマキの弱点のようなものが含まれているに違いない。
アヤはその考えをしっかりと胸に刻んだ。
- 45 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:25
- 「あたしが言ってるのはイシカワさんのことじゃないよ」
「でもあたしとミッツィー以外にカメイさんに張り合える人はいないですよ」
「それも守護獣があって初めて互角に戦える感じなんですよね」
二人はまだ恨めしそうにミチシゲの顔を覗き見ていた。
確かに守護獣に頼らなくても、JJやLLの襲撃なら、なんとか退けられたかもしれない。
だがカメイ本人が来るというのなら話は別だ。
守護獣を操るカメイに対して、守護獣抜きで戦うのはかなり厳しい。
それなのになぜミチシゲは頑なに封印にこだわるのか―――二人にはわからなかった。
アヤは、なんとなくミチシゲの考えが理解できるような気がした。
コハルとミツイの二人は精神的な面でまだ甘い。子供なのだから無理もないが、
戦場で戦士として戦うのなら、年が若いなどという言い訳は通用しない。
最悪、二人のうちのどちらかが死ぬようなことになったとしても、
ミチシゲはその甘さを叩くことを優先しようとしているのだ。
組織の長としての重い決断だった。
目先のことではなく、五年先、十年先を見ている。
もしかしたら数千年先のことすら見通しているのかもしれない―――
涼しい顔でそんな冷酷な決断をしてみせるミチシゲが、アヤは少し好きになった。
ミチシゲの親心を知らず、のほほんとしているこの二人に、
ほんの少しだけ助けを与えてあげたいと思った。
ほんの―――少しだけだが。
- 46 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:25
- アヤは人差し指ほどの小さな筒を取り出した。
口にくわえてフッと息を吹き出す。
ただ息が漏れただけで、音らしい音は全くしなかった。
人の可聴範囲を遥かに超える周波数に反応することができたのは―――
超人的な聴力を持ったカオリと、一匹の子犬だけだった。
「アヤちゃん、その笛ってもしかして・・・・・」
「まあね。カオリは知らないと思うけど、ずっと昔に使ってたんだよ」
あの子の訓練のためにね―――という言葉は飲み込んだ。
その笛は、Nothingが死んだ後に彼女の小屋を整理していた時に出てきたものだった。
今となっては彼女のたった一つの形見になってしまった。
いや、もう一つ彼女の形見がある。彼女自身の―――忘れ形見が一つある。
待つこと数十秒。アヤの足元に白い弾丸が飛んできた。
Nothingから生まれおちて数ヶ月。子犬はかなりの大きさまで成長していた。
きょとんとした顔をしているコハルに、アヤは小さな筒を渡す。
「犬笛だよ。名前くらいは知ってるよね?」
コハルはかくかくと頷いた。犬を訓練するための笛という知識は持っていた。
- 47 名前:【再燃】 投稿日:2009/11/30(月) 23:25
- アヤは子犬を抱き上げて、コハルにぐいと押し付けた。
はっはっはっは、という子犬の熱い吐息が吹きかかった。
アヤの言う「三人で守ればいいじゃん」の意味を理解したコハルが渋い表情になる。
だがその表情は、ゆっくりとではあるが、にやけたものになっていった。
こんなちっぽけな子を従えて守護獣を操るカメイに立ち向かう。
とても胸がドキドキする想像だった。
初めて戦場に立った時のような、新鮮な気持ちがコハルの心に湧きあがった。
できるとかできないとか、そんなことは不思議と考えなかった。
アヤは知っていた。人が命をかけて戦うとき、最も大切なものがなんであるのか。
それは人数でも武器でも戦術でも幸運でもない。戦意だ。
猛るような戦意があるのなら、それ以外には何もいらない。
あの巨大な守護獣など必要ないのだ。
この子犬はきっとコハルとミツイの戦意を限界以上に高めてくれるだろう。
弱さも甘さも全部背負って、相手に立ち向かう勇気を与えてくれるはずだ。
彼女たちがその意味を理解できたとき、
きっとミチシゲは喜んでその封印を解くに違いない。
でもそれまでは―――ミチシゲが封印を解くその時までは―――
「こういうときのために訓練してるんだろ?
こいつがコハルの新しい守護獣さんだよ」
アヤが投げかけた言葉を、コハルはいつになく大人びた表情で受け止めていた。
- 48 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/30(月) 23:25
- ★
- 49 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/30(月) 23:25
- ★
- 50 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/30(月) 23:25
- ★
- 51 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:05
- タカハシ達がECO moniの本部を襲撃してから、一ヶ月が経過した。
その間、SSもECO moniも麻取本部もフォースも、何の動きも見せなかった。
ミチシゲはアヤの力を借りて、SS本部の割り出しに全力を挙げていた。
だがテラダもカメイも何の動きも見せなかった。
ECO moniが抗体の作成に着手しているということは知らないのだろうか?
もしそうだとすれば、こちら側の情勢が良くなったと言える。
何も起こらずに時間だけが進めば、抗体を手にするこちらの方が有利になるだろう。
一方、ニイガキの方も麻取本部に姿を見せなかった。
マキの話では、郵送で辞表が届いたらしい。どうやらニイガキは地下に潜ったようだ。
となれば地下組織に関するアヤの情報網に引っ掛からないわけがなかったが、
なぜかニイガキの情報は全く引っ掛かってこなかった。
アヤは情報網を使い、ミキは足を使ってニイガキの行方を追った。
足取りはつかめなかったが、捜索を止めることはしない。
情報がつかめない、などということはよくあることだ。慌てることは何もない。
こういうときは慌てず騒がず諦めず、単純作業に没頭すればいい。
見つからなければ、見つかるまで探すまでだ。
執念深い自分を客観的に観察するというのも、なかなか楽しいものだった。
いずれにせよ、GAMの崩壊に関わったニイガキを、アヤは逃すつもりはない。
ニイガキの死体を確認するまで、GAMの追跡は果てしなく続く。
- 52 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:06
- 一方、フォースの方にもマリィは姿を現さなかった。
イシカワはメールでなんとかヨシザワと連絡を取り合っていたが、
ECO moniは慢性的に人手不足であり、フォースに戻ることは叶わなかった。
イシカワは仕方なく「長期休暇」という形を取ることにしたが、
再びフォースで働くという可能性は極めて低くなった。
ヨシザワの話では、一向に姿を現さないマリは、
カゴの判断で、名誉職のようなものに祭り上げられたのだという。
実質的な支配人の座についたカゴによる経営は順調に進んでいるそうだった。
フォースはカゴを中心とした新しい体制に変わりつつある。
イシカワのことも、このまま時の流れとともに忘れられていくのかもしれない。
フォースへの思慕の気持ちを振り払うかのように、
イシカワはイイダと共にコンノとミツイによる抗体作成作業を補佐した。
こちらのプロジェクトは順調に進行していた。
どうやらあと一ヶ月ほどで抗体の試作品が完成しそうな感じだった。
さらにもう一つ。
ウイルスの解析を進めていくうちに、新たな事実が判明した。
- 53 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:06
- ゴトウマキの血はやはり特別な血だった。
適応者の血というのは他の血にはない特別な作用があった。
他のウイルスの活性を増大させる作用と、増殖を抑え込む作用を持っていた。
「数は増えないのに活性が上がる?」
「はい。数が増えないというか、むしろ減っています」
「ねえ、コンちゃん。これってどういう意味があるんだろうねえ?」
「正直言ってよくわかりません」
コンノもミツイも、カオリの問いには答えられなかった。
ただ一つわかるのは、被験者の血が特異であるということだけ。
今はそれしかわからなかった。確かにその作用の意味には興味があったが、
それよりも今は抗体を完成させることを最優先させるべきだった。
いくつかの問題は残っていたが、いくつかの問題は解決されつつあった。
そんなことを繰り返しながら、ECO moniの中ではまったりと時間が流れていた。
進む作業もあれば、進まない作業もある。
そんな単調な毎日の中で、カメイとの対決という緊張感は少しずつ薄れていき、
いつしか全ての作業が心理的なルーチンワークと化していった。
- 54 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:06
- ☆
- 55 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:06
- ECO moniはSSの行方を見失っていたが、
SSの方ではECO moniの動きを仔細にモニターし続けていた。
今やSSのリーダーのような存在になったカメイが、陣頭指揮を執っていた。
タトゥーのレーダーから、ゴトウが神社から去ったことがわかった。
その一方でイシカワの方は神社に残ったようだ。
ゴトウがいないとなれば随分とやりやすくなるかもしれない。
カメイは、ナッチを使ったイイダ再襲撃の計画を、一部変更することにした。
テラダは戦略的な部分はカメイに任せ、ウイルスの再研究に取り掛かっていた。
ECO moniがウイルス抗体の作成に着手していることは間違いない。
それに対抗する措置を考える必要があった。
さらにテラダは「究極のモーニング娘。」の完成に向けても動き出していた。
残るウイルス断片はイイダカオリのものだけだ。
それを手に入れたなら、すぐさまアベに投与する必要がある。
そして投与した後にどういう手順を踏んでSSを起動させるか―――
テラダはカメイの協力を仰ぎながらも、着々と準備を進めていた。
- 56 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:06
- いくつか問題が残っていた。
確かにアベはサディ・ストナッチを召喚することができる。
自分の体をガス状に拡散させることができる。
だがそれだけでは不十分なのだ。
ガス化して宇宙に飛び出して太陽にたどり着いた後、
さらにそのガス化した体で太陽を包み込み、一つに凝集せねばならない。
そのプロセスがまだ完成していなかった。
太陽は地球の数十万倍の質量を持った巨大な恒星だ。
それを包み込み、なおかつ自我を持って一点に凝集するのは至難の業だ。
少なくとも、今の人類の科学ではそんなことはできない。
どうするべきか。最後のウイルス断片を使えばそれも無条件で可能になるのか。
それはまだわからない。だがそれさえクリアされれば全てが可能になる。
究極のモーニング娘。という壮大な構想が完成するのだ。
もう少しであの太陽をつかむことができる。
それはまさに手を伸ばせば届くところにある。
テラダはそう思っていた。
- 57 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:06
- 太陽を手に入れた後のことも徐々に考えるようになった。
ただ手に入れただけではどうにもならない。
テラダの望みは太陽そのものではなく、この地球全体なのだ。
太陽を制御しているのが自分であるということを、
どのように世界にアピールしていくのか。
どういうプロセスでこの世界を動かしていくべきなのか。
ある程度の犠牲は必要だろう。一つか二つ、大陸を潰すべきかもしれない。
干ばつを起こし、大陸を干上がらせる。
あるいは氷河期を呼び起こし、この星の半分を氷で覆い尽くす。
圧倒的な恐怖と絶望感を植え付け、太陽を操る者こそが、
この地球にとって絶対的な存在であると、世界中に思い知らせる。
そんな存在が地球上に実在するということを、全人類に知らしめるのだ。
それはまさに「神」という存在を作り上げるプロセスに他ならなかった。
テラダは根っからの科学者気質をした男だったから、
このプロセスの実施過程を考えることは死ぬほど楽しかった。
自分が神になる。
それはまさに、歴史上における「神」という存在を、自分が否定することなのだ。
何万年という人類の歴史において、常に人類の頭を押さえつけていた「神」。
その神を自分が殺す。ただのウイルスが殺す。
それはまさに―――科学が神に勝利することを意味しているのだ。
そんな誇大妄想にも近いような思いに囚われながら、テラダは解析を進めていた。
- 58 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:07
- タカハシやニイガキがイイダ襲撃に失敗してから随分時間が経っていたが、
カメイから次の襲撃のゴーサインは一向に出なかった。
それでもナッチに焦りはなかった。
なぜゴーサインが出ないのか。カメイが何を待っているのか。
それについてはカメイからきちんと説明を受けている。
だからナッチは空を見上げて、「その日」が来るのをじっと待っていた。
東京は骨まで凍えるような寒さに包まれている。
カレンダーでいえば、とっくに夏になっているはずだ。
だがあの施設の事故以来、東京には夏らしい夏はやってこなかった。
この異常気象はウイルスの事故の影響なのだろうか?
それとも全世界的なものなのだろうか?
完全に隔離された関東にいるナッチにはそれはわからない。
ただ、少なくともこの関東が異常気象であることはわかる。
ここ数ヶ月は雨も全く降っていなかった。たまに雪がちらつく程度だ。
カメイの示した条件はさして厳しい条件ではない。
常識で考えればその日は必ずやってくるだろう。
だが今の関東ではその「常識」という言葉もかなり怪しい。
この空を見ている限り、その日が永遠にやってこなくても不思議ではない。
ナッチがそんなことを思い始めていると―――
唐突にその「条件」は空から舞い落ちてきた。
- 59 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:07
- ナッチはカーテンを引いて窓を開いた。
刺すような冷たい空気に混じって、微かな湿り気が肌をぬぐっていく。
隣に立っていたニイガキがハンカチでナッチの頬を拭いた。
しとしとと雨が落ち始めていた。二ヶ月ぶりの雨だ。
当然ながら、雨雲に隠れた夜空に月はない。条件は満たされた。
いつの間にかナッチの背後にはカメイが立っていた。
「ようやく雨が降り出しましたね」
驚くほどの速さで雨脚は強まっていく。風も出てきた。
「ナッチは別に雨じゃなくてもよかったんだけどね」
強がりではなかった。SSを全開放すれば神社ごと潰せるだろう。
だがそれはカメイに止められた。イイダ抹殺が目的ではない。目的は死体だ。
迅速に死体を回収するためにも、あまり派手はことはしたくなかった。
派手なことをやるのはイイダの血を回収してからでいい。
目的の物さえ手に入れてしまえば、神社ごと潰しても構わない。
だがカメイはナッチにはあまり細かいことは言わない。最初から目的は一つだ。
「ではアベさん、頼みますよ。イイダさんの血を取ってきてください」
「余裕だね。それとお土産もちゃんと持って帰ってくるよ」
「おみやげ?」
ナッチはカメイの問い掛けには答えず、
にっこりと微笑んで、ニイガキの頭を優しく撫でた。
- 60 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:07
- ☆
- 61 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:07
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 62 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:07
- 零――――
サディ・ストナッチがやってくるよ
一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
サディ・ストナッチがやってくるよ
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数
サディ・ストナッチがやってくるよ
闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇の中から
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 63 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:07
- 闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
分 厘 毛 糸 忽 微 繊 沙 塵 埃 渺 漠 模糊 逡巡
サディ・ストナッチがやってくるよ
須臾 瞬息 弾指 刹那 六徳 虚空 清浄 阿頼耶 阿摩羅 涅槃寂静
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇をまといながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇を引き裂きながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇と共に
サディ・ストナッチがやってくるよ
―――零
- 64 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:07
- ☆
- 65 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:08
- その夜もミチシゲとアヤは調査のために不在だった。
ミキもまた、ニイガキの足取りを追っているために不在だった。
そしてマキはあれ以来神社には姿を見せていない。
イイダを護衛しているのはミツイとコハルの二人だ。
それにキャリアであるイシカワがフォローに回っていた。
ミツイやコハルはあまりイシカワのことを頼りにしていなかったが、
コンノはこのイシカワというキャリアの能力を非常に高く買っていた。
―――使いようによってはコハルやミツイ以上に役立つかもしれない。
イシカワの視力は気持ち悪いくらいにずば抜けていた。
集中して目を凝らせば、顕微鏡なしでウイルス断片を目視できる。
あるいは遠くを見渡せば、地平線の果てまでも見通すことができるのだ。
こんな素晴らしい能力が、何の役にも立たないとは思えなかった。
だがコンノがいくら誉めそやしても、当のイシカワは自信なさげだった。
最初は謙遜しているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
イシカワは自分の能力に嫌悪感すら抱いているようだった。
本来は見えないはずのものが見える。見たくないものまで見える。
それがどれほどのストレスであるのか、普通の人間であるコンノには理解できなかった。
- 66 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:08
- 「そろそろ交替の時間ですよ」
コンノが声をかけたときも、イシカワはどこか物悲しそうな表情で森を見つめていた。
久しぶりの雨が神社の森をしっとりと濡らしていく。
雨垂れが葉を叩く音を聞いていると、なぜか懐かしい気持ちになった。
「ありがとう」とつぶやき、イシカワは腰を上げた。
夜の間もSSの襲撃に備えて、ECO moniは警備体制を緩めていなかった。
夜の間は、特別な目を持つイシカワにずっと警備に当たっていてほしいのだが、
ずば抜けた能力を持つ分、イシカワの目は疲労に弱かった。
あまりの鋭さに、集中力が続かないのだ。
一日のうちに、ほんの数時間しか本格的な警備に当たることができなかった。
ECO moniの人手不足もあって、コンノも警備体制に組み込まれていた。
非戦闘員とはいえ、GAMの頃から警備に当たることはよくあった。
簡単な警備くらいならコンノでも十分に可能だった。
イイダの寝室にはコハルが控えている。
今頃あっちでもミツイと警備を交替している時間だろう。
夜明けまではまだ長い。もう一踏ん張りしなければならない。
コンノは眠い目をこすってイシカワを見送った。
- 67 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:08
- コンノは改めて庭の方に目を向けた。
気のせいだろうか。
イシカワが姿を消した途端に、夜の深さが深まったような気がする。
いつも以上に―――夜が赤いように思われた。
なにそれ。夜がいつも以上に赤い? 朝焼け? まさか。
まだそんな時間じゃないよ。きっと気のせい、気のせい。
コンノは他愛もない思いつきをかき消した。
雨はしとしとと降り続いている。地面からは靄のようなものが立ちあがっていた。
細かい雨は霧雨のように変化しつつあった。視界が悪くなってきた。
これに乗じて敵がやってこないとも限らない。コンノは集中力を高めた。
敵を見落とさないように―――見落とさないように―――
そう強く念じるコンノの瞳にははっきりと赤黒い霧が映っていた。
不思議な赤さを交えた霧は、霧雨に混じって神社を覆い尽くしていく。
コンノの首筋を赤い霧がひんやりと触れた。コンノは襟を立てて身を縮める。
やがてその靄は神社の中にも滑り込んでいった。
見落とさないように―――見落とさないように―――
そんなコンノの思いを嘲笑うかのように、
赤い霧はカオリの寝室へと真っ直ぐ向かっていった。
- 68 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:08
- 「そろそろ交替の時間やで」
ミツイが声をかけると、コハルが返事する前に子犬が「おん」と吠えた。
ここのところは、警備のときもコハルは常に子犬を連れていた。
アヤの言う通りに「三人でカオリを守る」覚悟のようだ。
それについてミツイは何も言わない。
アホらしいこっちゃでと思う反面、それも悪くないやろかという思いもあった。
子犬はコハルの訓練もあって、メキメキと力をつけていた。
まあ、カメイに立ち向かうことは無理だろうが、ただの不審者が相手なら、
ワンワンと吠えたてて一噛みするくらいのことは、十分にやってくれるだろう。
猫の手も借りたいようなこの状況にあっては、犬の手を借りるというのも悪くない判断だ。
もっと正直に言うなら、コハルのことが少し羨ましくもあった。
子犬の訓練を始めてから、急にコハルの表情が生き生きとしてきたような気がする。
それでコハルの実力が上がるということはないかもしれないが、
コハルの内面に何らかの変化が出てきたことは確かだ。
今までとは違う何かを始めようとしているコハルが、少し眩しかった。
それによく見るとこの子犬は結構可愛い。少なくともコハルよりは可愛い。
ミツイはすれ違いざまに、子犬の鼻をきゅっとひねった。
「キャイン」
- 69 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:08
- 「ちょ! ちょっとミッツィー何すんのよ!」
「挨拶やがな」
「ブラックチョコレートが驚いてるじゃんか!」
「は? ブラックチョコレート? なにそれ」
「この子の名前に決まってるじゃん」
おいおい昨日まではメロンサワーとか呼んでたやないけ、
という言葉をミツイは飲み込んだ。コハルは子犬の名前を頻繁に変える。
メロンサワーの前はビッグドーナツだったような気がする。
ここ数日は食べ物系の名前にするのがマイブームのようだ。
「ブラックチョコレートて・・・チョコはたいていどれも黒いやろうが」
「白いのとかもあるじゃん」
「それにこいつの毛は白いやろうが」
「だから逆にブラックなんじゃーん。わかんないかなこのセンス」
「知らんわ・・・・・アホかお前」
アホと言われたコハルは、思いっきり目を細めると、口の端を曲げて笑った。
いつものコハルとは違ったひねくれた笑みだった。
「よかったねえ、ミッツィー。ミチシゲさんが頑固で」
「は? なんでやねん」
「もしも守護獣が封印されてなかったら、今頃ミッツィーは死んでたよ」
「アホか。外を見てみい。雨の日に青龍に勝てる奴なんかおらんわ」
「あんなずん胴守護獣、雨ごと全部燃やしてやるよ」
「へっ。うちより先にそのチョコを溶かしてしまわんように気ぃつけや」
- 70 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:08
- こんな言葉のやり取りも、二人にとっては毎日の挨拶のようなものだった。
警備の引き継ぎが終わると、ミツイはカオリの部屋に入り、
コハルは子犬と共に自室へと戻ることになった。
真っ直ぐに部屋に戻ろうとして、コハルはふと立ち止まった。
ミツイに言われたからというわけではないが、
逆側に廊下を曲がって、ちょっと庭の方に出てみることにした。
確かに庭からはさわさわと雨音が聞こえてくる。
だが雨脚はさほど強くないようだ。霧雨なのだろうか。
廊下の網戸を開けて、コハルは庭に下り立つ。
庭にでてその霧雨に触れた瞬間、子犬がコハルの胸から飛び出た。
すくっとその四本足で凛々しく立ちあがる。毛が逆立っていた。
雨のせいではない。子犬の気が異常に高ぶっていた。
「おいおい! 急にどうしたんだよブラッチョー」
コハルは子犬に手を伸ばそうとして、寸前で止めた。
軽々しく触れたなら、噛みつかれそうな殺気を感じた。
子犬は低い唸り声を上げたまま、戦闘態勢を解こうとはしない。
この姿勢は、今すぐにでも相手に噛みつける姿勢だ。
コハルは固唾を飲んでその姿を見つめていた。
この子犬は何に反応しているのだろう? 何をしようとしているのだろう?
見つめるコハルの前で、子犬がばっと中空に飛び上がった。
- 71 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:09
- 「あれ?」コハルはやや拍子抜けした。
なんと子犬は雨に向かってジャンプしているのだ。
そして霧雨に向かって牙を立てている。
当然ながら、牙は虚しく宙を切り、何もつかむことはできない。
「お前・・・・・・もしかして初めて雨を見たの?」
よく考えれば、ここ数ヶ月は雨が降った記憶がない。
もしかしたらこの子犬は今日、生まれて初めて雨を見たのかもしれない―――
「なあんだ。お前は本当にアホだねー」
コハルは苦笑いしながら雨に躍る子犬の姿を見つめていた。
子犬は必死の形相で霧雨に躍りかかっていた。
まるでこの霧雨が―――悪魔の化身であるかのように。
ECO moniのことを滅ぼさんとしている、究極の敵であるかのように。
少なくともコハルはそうは解釈しなかった。
暴れ狂っている子犬を無理矢理抱きかかえて、強引に部屋の中に入れた。
子犬は何かを訴えかけるように、コハルを見つめる。
雨に触れたその瞳は、心なしかしっとりと涙に濡れているようにも見えた。
コハルはそんな子犬の真摯な訴えをそげなく却下した。
「はいはい。怖がらない怖がらない。ただの雨だからね。ただの水だから」
コハルはもう庭に目を向けることはなく、自室に入り、扉をぱたんと閉めた。
- 72 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:09
- 赤い霧は霧雨に混じってするすると神社の内部に滑り込んできた。
そして迷うことなくイイダカオリの部屋に向かう。
ナッチの中にはニイガキが見たビジョンがそのままに残っていた。
神社の内部構造、ECO moniのメンバーの顔。
それら全ての記憶が、ニイガキの血を通じてナッチの内部に伝達されていた。
深紅の霧と化したナッチは縦横無尽にその手を広げていく。
異常に目が発達しているというイシカワのことは避けた方がいいだろう。
コハルと一緒にいるあの子犬も意外とやっかいだ。触れない方がいい。
とすると、ナッチの標的はコンノとミツイ。この二人に絞られた。
微粒子となり、波動と化したナッチの自我がコンノとミツイの影に忍び寄る。
二人はナッチが近づいてくる気配を察することはできなかった。
ただ冷え込んだ夜の空気が忍び寄ってきたとしか思えなかった。
ナッチの自我を秘めた微粒子が二人の内部に侵入する。
鼻から。口から。耳から。目から。そして表皮細胞からも―――
原子レベルまで解体されたナッチという微粒子は、容赦なく二人の体内に侵入していく。
ナッチの血がコンノの血と混ざる。
ナッチの血がミツイの血と混ざる。
二人の意識はゆっくりと混濁していった。
あくまでも騒ぎを起こさないように、ナッチはゆっくりと侵入していった。
- 73 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:09
- 目頭を軽く揉みながら、イシカワは布団の中に身を滑り込ませた。
いつ現れるやもしれない敵を探し続ける作業は、かなり骨が折れた。
正直言って、今夜はもうこの能力を使いたくない。
目の奥がじんじんとひどく痛んだ。この痛みは薬で抑えることはできない。
イシカワがこの能力と生きていく以上、一生付き合っていかなければならない痛みだった。
暗闇の中でイシカワは固く目を閉じる。
それでもなお、その目は何かをじっと見続けているような気がした。
イシカワは布団を蹴って立ち上がる。
いつも以上に痛みが酷い。どうやら今夜は眠れそうにない。
それならばせめて目の保養として―――
イシカワはカーテンを開いて庭先に広がっている森に目をやった。
真っ暗闇の中でも、イシカワの目はその緑の葉がくっきりと見えた。
この森を見つめているとひどく落ち着く。
イシカワは焦点を合わさないままぼーっと葉の表面を流れる葉脈を見つめていた。
そこでふと気になるものが目に入った。
霧雨の中を流れていく、一陣の赤い風。それが妙に気になった。
イシカワは窓を開け、雨に濡れるのも構わず顔を外に出した。
- 74 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:09
- 赤い風は一瞬にして消え去っていった。
まるでイシカワの目から迅速に逃れていくように―――
まさか。そんな風が吹くわけがない。
だがイシカワの心は落ち着かなかった。
姿を消すその一瞬、まるで生き物のような動きを見せた赤い風。
あれは確かに霧雨とも雨風とも全く違う種類の動きをしていた。
だがそれが何を意味するのだろう?
敵襲? あり得ない。風や霧が人を襲うなんてことがあるわけがない。
でもあんなものは、これまで一度も見たことがない。気になる。
そしてあれは、気のせいかもしれないが、カオリの部屋の方に向かった。
もし万が一カオリの身に何かがあれば―――
気になる。行こうか。どうしようか。
ミツイに任せておけばいい。それが正論だ。
わざわざ自分が行って何もなければ、またミツイに笑われてしまうだろう。
だけど―――だけど―――笑われることには慣れている。
イシカワは上着を羽織り、カオリの部屋の方へと向かった。
- 75 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:09
- カオリはぱちりと目を開いた。神経が高ぶっている。
この神社の中では、自分の特殊能力が何倍にも増幅されるような気がした。
だからカオリは気がついた。何かがおかしい。何かの音が変化した。
しばらくの間カオリは耳を澄まし、その変化がミツイの脈拍であることに気付いた。
緊張感を持って周囲の様子を探っていたミツイの脈拍が、徐々に落ち着いていく。
そして一定のリズムを刻みながら―――ミツイは眠りに落ちた。
催眠ガス?
その思いは一瞬でかき消した。ミツイ達は特殊な訓練を受けているという。
催涙ガスや毒ガスの類は全く通用しないのだと、彼女たちは言っていた。
それに、すぐそばにいるカオリには眠気が全くしない。これは催眠ガスではない。
どこかの誰かが―――ピンポイントでミツイのことを狙っている。
カオリは極限まで耳を澄ました。だが人が動く気配はない。誰もいない。
呼吸音も。心音も。人がいるのなら聞こえてくるはずの音が、全くしない。
ただ雨が降りしきる音だけが聞こえてきた。
しとしと しとしと。
ゆるゆると船をこいでいたミツイが、ぱたんと畳の上に倒れ伏した。
いびきを立てて熟睡しているようだ。そしてそれ以外の音は全く聞こえない。
カオリがどれだけ耳を澄ましても聞こえなかった。
しとしと しとしと。
- 76 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/03(木) 23:09
- 雨の音しか聞こえない。その意味に気付いたカオリは茫然となった。
ここは部屋の中だ。屋根の下だ。雨が入り込んでくる隙間などありはしない。
だがこの部屋の中に満ちている音は、明らかに「雨の降る音」なのだ。
雨が建物を叩く音ではない。雨そのものの音なのだ。
しとしと しとしと。
カオリは身を起こし、電気をつけた。
当然ながら、部屋の中には雨など降っていない。
何も濡れていないし、風も吹いていない。だが確実に雨の音がする。
しとしと しとしと。
カオリの目が、ようやく明るい光に慣れてきた。そして気付いた。
部屋の中にうっすらと赤い霧のようなものが立ち込めている。
どうやら雨の音はこの霧の流れから聞こえてくるようだった。
というよりも―――この霧が雨の音に擬態している。
カオリの耳のことを知っていて、雨の音に隠れてここまでやってきたのだ―――
赤い霧が不意に一点に凝集していく。もう雨の音は聞こえない。
ゆっくりと血流の音がしてきた。心音が聞こえ、呼吸音がしてきた。
そして人間の形に収束した赤い霧が―――聞き覚えのある声で言った。
「やあカオリ、三年半ぶりくらいかな? ナッチの声、まだ覚えてるよね?」
- 77 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/03(木) 23:10
- ★
- 78 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/03(木) 23:10
- ★
- 79 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/03(木) 23:10
- ★
- 80 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:29
- カオリの目の前に現れたのは、まあるい頬をした幼い少女だった。
その声には聞き覚えがある。忘れるはずのない声だった。
一枚の壁を隔てて、幾つもの夜を語り合ったあの声。
数年に渡って孤独を癒し合ったあの声。
その声はまさに―――アベナツミその人の声だった。
「ナッチ? なにそれ。それがあんたの新しい名前?」
施設にいた頃の彼女は、自分のことを自分の名前で呼んでいた。
この「ナッチ」というのが新しい呼び名なのだろうか。
そういえばタカハシとニイガキが襲撃してくる前に、
神社の前で電話で話していた相手が「ナッチさん」という名前だった。
「サディ・ストナッチ。カオリももう、この名前のことは知ってるんじゃないの?」
勿論カオリは知っていた。
モーニング娘。を太陽へと連れ去っていくというガス状の怪物。
太陽の意志を司り、適応者の自我を消し去る謎の生命体。
サユの説明は確かそういうようなことだった。
この女は―――やはり適格者の一人なのだろう。
ゴトウマキと同じような。
- 81 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:29
- 「ミッツィーに何をした?」
「三年振りに会ったのにご挨拶ねえ。そんなことの方が気になるわけ?」
「何をしたの!」
「・・・うっさいなぁ。大したことじゃないよ。寝てるだけだって」
アベの言っていることは嘘ではないようだ。
カオリの耳には、確かにミツイの心音が聞こえる。体に異常はないようだった。
するとコハルやコンノ達も眠らされてしまったのだろうか。
これが―――アベの特殊能力なのだろうか。キャリアとしての能力なのだろうか。
「やっぱりあんたもキャリアになったんだ。適格者の一人っていうわけ?」
「まあね。あたしには太陽の娘。となる資質があったってわけ」
「まさか本当にテラダと一緒に行動してるの?」
「そうだよ。決まってるじゃん。『まさか』ってなによ」
「それじゃ、あのヤグチマリって子もやっぱり・・・・・」
「うん。あの子も一緒にいるよ。一緒にオリジナルキャリアのDNAを集めてる」
カオリはアベの言葉に強い悲しみを感じた。
それは悲しみというよりも、絶望に近かった。
ほんの一言二言、言葉を交わしただけだったが、それだけでもう、
彼女と心を通じ合わせることが不可能に近いことが理解できた。
それでもカオリは言葉を重ねずにはいられない。
アベのことを理解しようとすることを、止めることができない。
- 82 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:29
- 「なんで? なんでテラダやカメイと一緒にいるの? 信じられないよ。
元々あいつらのせいでこうなったんじゃん。悪いのはあいつらじゃん」
「ふーん。相変わらず幼稚なこと言ってるね」
「幼稚?」
「手段なんてどうだっていいじゃん! 過程なんてどうだっていいじゃん!
カオリはなんでそんなことばっかり気にするのさ。結果良ければ全て良しだよ。
もっと大人になりなよ。割り切りなよ。テラダのせいにしてそれでどうなるの?
今更どうにもならないよ。あんただって金が欲しくて被験者になったんでしょ?
金はもらう。リスクは引き受けない。事故が起きたらテラダのせい。子供の我儘だね」
カオリは血が出るほど固く唇を噛み締めた。
このアベという女は、他人の痛みを全く解しないのだろうか。
そんな子じゃなかったはずだ。もっと優しい子だったはずだ。
今のアベには何かが欠けている。ウイルスを投与する前にはあったはずの何かが。
それが何であるのか―――カオリは知りたいと思った。
「結果良ければ全て良し? その『結果』っていうのが太陽の娘。になるってこと?」
「そうだよ。あたしは『究極のモーニング娘。』になる。あたしにはその資格がある」
「資格? なんの資格よ。あんたに何の資格があるってわけ?」
「うるさいなあ。資格は資格だよ。あたしは選ばれたの」
「誰に? 誰に選ばれたっていうの?」
「しつこいって。そんなのどうだっていいじゃん。選ばれたっていう結果が全てじゃん」
アベはカオリの問い掛けに苛立ちを感じていた。
テラダと一緒にいるというアベの行動を、カオリが信じられないと感じたように、
アベはアベで、カオリがアベのことを責めていることが信じられなかった。
自分を批判する人間がいるという事実がアベを苛立たせた。
- 83 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:29
- 「要するに、あたしは選ばれて、あんたは選ばれなかった」
この一言が全てだと思った。これ以上、何を説明することがあるというのだろうか?
それ以外の要素が必要であるとは思えなかった。
選ばれなかった億千の人間は、選ばれし一人の人間に傅くべきである―――
アベは単純にそう考えていた。単純で短絡であるがゆえに、その思いは力強かった。
「あはははは。カオリはそれが気に食わないってわけ? あたしに嫉妬してるんだ?」
カオリはアベの言葉に強い衝撃を受けた。
あの施設にいた被験者は、皆同じ境遇にある仲間だと思っていた。
テラダの実験の被害者だという、同じ立場にある人間であり、
どんな利害関係をも超えて、最後にはわかりあえる相手だと思っていた。
だがアベは、カオリが伸ばした手をあっさりと振り払った。
そこには何の心理的な葛藤も見られなかった。
なぜ彼女は苦しまないのだろう?
この女はなぜこんなにもあっさりと人の心を踏みにじれるのだろうか?
「あんたなんだ」
「は? なにが?」
「ナカザワユウコのことを殺したのも、あんただったんだ」
「ああ。あれはあたしじゃないよ。あれを殺ったのはヤグチだね」
アベは嬉々としてナカザワ暗殺の様子を話して聞かせた。
ヤグチがカゴを裏切らせたこと。カゴを使ってツジをはめたこと。
フォースの連中は今でもナカザワを殺ったのがツジだと思っていること。
それらを話す時のアベは、本当に嬉しそうだった。
- 84 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:30
- 「・・・・・・・・・・最低」
「最低? なにが?」
「なにがって・・・・・・それがあんたらのやり方?」
「だからぁ! 何度も言わせないでよ。やり方なんてどうだっていいの。
要はあの時施設にいた被験者の血が、全部集まればそれでいいの。
そのために一番楽で簡単な方法を選ぶのなんて、当たり前のことじゃん。
フォースの連中が内輪でなにをやろうが、知ったこっちゃないって」
内側から突き上げてくる激情があった。あまりの怒りに、カオリは眩暈がした。
この女は許せない。テラダ以上に許せない。
カオリは震える手に持った拳銃を、ぐっと突き上げた。
ナカザワユウコ。イシグロアヤ。イイダカオリ。ヤスダケイ。イチイサヤカ。ゴトウマキ。
カオリは心の中で六人の名前を叫んだ。
リボルバーの弾倉に詰まった六発の銃弾に、六人の名前を込めて引き金を引いた。
カチッ カチッ カチッ カチッ カチッ カチッ
だがいくら引き金を引いても、拳銃が銃声を立てることはなかった。
カオリは慌ててシリンダーを外す。弾倉がそのままゴトリと音を立てて外れた。
拳銃の内部が―――チョコレートのようにどろりと溶けていた。
カオリはもう一丁の拳銃を抜いた。だがそちらも結果は同じだった。
イイダカオリとアベナツミ。
二人の顔が同時に醜く歪んだ。
イイダの顔には怒りが、アベの顔は喜びが満ちていた。
- 85 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:30
- アベの腕がぬるりと伸びた。
人体の関節や靭帯や筋肉の構造を無視した伸び方だった。
アベの体は再び霧状に薄くなっていく。
だがアベナツミという人間の形が崩れるほどではなかった。
アベの手がカオリの脳天をわしづかみにする。
すっぽりとカオリの頭を完全に包み込む。
驚くほど巨大な掌だった。カオリは目も鼻も口もふさがれた。
鼻や口から何かが入り込んできたが、どうすることもできない。
蛇が這うように、アベの指がするするとカオリの後頭部まで伸びていく。
カオリは必死に両手でアベの手を払いのけようとしたが、
アベの腕は万力で固定したかのように、がっちりと固まって離れない。
そうしている間にも、カオリの鼻と口から何かが入り込み続けていた。
カオリの気道の中を、何百という数の虫のような何かが這いまわっていた。
酷い嘔吐感に襲われたカオリの胸は、激しく上下動を繰り返した。
だが何も吐き出すことはできない。
むしろ逆に何かが激しく入り続けていた。
喉から胃の辺りまで、一本の棒で刺し貫かれたような感覚がした。
痛みは感じなかった。ただひたすら酷い異物感だけがあった。
自分の体の内部が、自分ではない何かにかき回されているようだった。
「ねえ。カオリって耳が良いんだよね。だったら聞こえるかな? この音が」
- 86 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:30
- 返事などできない。カオリの鼻と口は完全にふさがっていた。
呼吸ができるのが不思議なくらいだった。
自分の体が今どういう状態になっているのか―――全く理解できなかった。
ただ、体の中を何かが這いまわり、内側から撫でまわされているという感覚があった。
「ふふふ。ここはね、下垂体」
ぶちっと何かが千切れる音がした。痛みは感じない。なぜか感覚が麻痺していた。
痛みという感覚だけが麻痺しているようだった。
千切られた下垂体の辺りから体液が滴り落ちていく。
カオリの中で蠢く体液循環の流れが変わった。リンパ液やホルモンの流れも変わる。
自分の体がパニック状態に陥っている―――カオリの耳にはそれがはっきりと聞こえた。
「次はねー、うーんと・・・・・声帯。これでうるさいことも言えなくなるね」
またもぶちりと何かがむしり取られた音がした。
それでも痛みはない。体の中に感じる異物感は相変わらず強かった。
まるで血の一滴までもが―――自分のものではないような感覚がした。
「ちゃんと聞こえてるかな? 次はね、膀胱。あはははは。おしっこだだ漏れ
じゃあついでに直腸もいっときますか? あはははは。くっさいなーこれ」
カオリの耳には、自分の臓器が破壊されていく音がはっきりと聞こえた。
体内に伸びたアベの手が乱暴に各臓器を握りつぶしていく。
カオリは抗議の声を上げることすらできない。
ただされるがままに、アベのおもちゃとなっていた。
- 87 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:30
- カオリは自分の体がどこまで破壊されているのか、正確に把握していた。
それがもう取り返しのつかないところまでいっていることも理解していた。
だがカオリの精神は、己の死を頑ななまでに拒否した。
カオリの精神はゆっくりと閉じ、内側に籠った。
だからカオリには聞こえなかった。
アベがカオリの大脳を頭蓋骨ごと派手に叩き割った音が。
アベがカオリの心臓を丸ごとひねりつぶした音が。
カオリの精神は肉体よりも一歩先に死んでいた。
そしてそれを追いかけるようにして―――カオリの肉体も死を迎え入れた。
アベはカオリの頭からようやく手を離した。カオリの体が床に落ちる。
全身の骨をことごとく砕かれたカオリの体は、
軟体動物のようにぐにゃぐにゃと歪にぐねりながら床に転がった。
「ふふふ。カオリって耳が良いんでしょ? それなら死んでも聞こえるかな?
あたしは究極のモーニング娘。になる。カオリの血は無駄にしないからね。
過程なんてどうでもいいでしょ? カオリの血はあたしの血になるんだよ。
みんなの血が一つになって初めてモーニング娘。が生まれるんだからね。
そうやって、みんなで一緒に太陽になるってのも悪くないんじゃない?」
- 88 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:30
- そしてアベはゆっくりと己の体を霧状に広げていった。
体の輪郭が溶けていく。
霧の粒子は急速に拡大していき、同時に周囲の様子を窺った。
カオリを殺した部屋から、ぱたぱたと駆け出していく足音が一つあった。
だがアベは、その人影を追いかけようとはしなかった。
今なら神社にいる人間を皆殺しにすることだって容易いだろう。
だが既に血は揃ったのだ。もうここの人間に用はない。
それよりも一刻も早くカメイの下へ戻って、カオリの血を渡すべきだろう。
アベは神社に満ちていた全ての粒子を引き上げた。
その時に一つの「お土産」を取ることも忘れない。
きっとこのお土産を見れば、あの子も喜ぶだろう。元気が出るだろう。
アベは神社の中ですべきことを全て済まし、
一陣の赤い霧風となって建物の中から這い出していった。
カメイの待つアジトへと戻る道すがら、アベはカオリの血の内部へと手を伸ばした。
カオリの持っている情報と記憶が全てここに詰まっている。
アベはカオリの記憶の中へと干渉していった。
アジトに着くまでの時間、アベはそれらの記憶をじっくりと鑑賞することにした。
- 89 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:30
- ☆
- 90 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:31
- イシカワがカオリの部屋の前まで辿りついたとき、中からカオリの声が聞こえてきた。
「ナッチ? なにそれ。それがあんたの新しい名前?」
部屋の中ではカオリが誰かと話しているようだった。
どうも知り合いと話しているような口調だ。
話し相手の「ナッチ」とかいう女は「三年振りに会ったのに」などと言った。
三年振り? ということは相手は施設にいた人間なのだろうか?
それがなぜここにいる? 結界を破って入ってきたのか? 何者だ?
ミツイは眠らされてしまったようだ。もしかしたら他のメンバーもそうかもしれない。
ここは自分がしっかりとしなければ。カオリを守らなければ。
イシカワは部屋の中の会話に耳を澄ませた。
やはり中でカオリと話している「ナッチ」は施設にいた被験者の一人のようだった。
しかも今はテラダと行動をともにしているという。
間違いなくカメイ達の組織の一員だ。カオリの血を渡すわけにはいかない。
イシカワは床に屈みこみ、そっと襖を開けて、隙間から中の様子を覗き見た。
小柄な少女がカオリの前に立っていた。後姿しか見えない。
その少女の周りには、赤い湯気のようなものが立ちあがっている。
あの赤い霧だ。やはり侵入者だったのだ。イシカワはさらに目を凝らした。
イシカワの血がすっと冷える。赤い霧はただの霧ではなかった。
- 91 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:31
- イシカワの視力は並ではない。そこいらの光学顕微鏡以上の精度を持っていた。
その目には、ナッチの体にまとわりつく霧の粒子の一つ一つがはっきりと見えた。
絶叫を上げそうになる口を、イシカワはかろうじて抑え込んだ。
すとんと腰が抜けた。足が動かない。金縛りにかかったように体が動かなくなる。
赤い粒子の一粒一粒が、ナッチという人間そのものだった。
一粒一粒が、ニコニコと微笑んでイシカワのことを見つめていた。
人形じゃない。おもちゃじゃない。人間そのものの姿だった。
それら一粒一粒が命を持ち、自我を持っていることが、イシカワには理解できた。
イシカワはもう一度ナッチの後姿に目を向けた。集中してその姿を見つめる。
ナッチの体もまた、無数の命の集合体だった。
その一粒一粒が自分の意志を持ち、一つのナッチという体を形成していた。
これがサディ・ストナッチというものなのか。これほどのものなのか。
勝てない。この相手には勝てない。少なくとも、普通の人間には勝てない。
たとえ守護獣が相手になったとしても、このサディ・ストナッチは殺せない。
どうすればいい? こういう場合はどうすればいいのだろうか?
イシカワはミチシゲに連絡を取ろうと、携帯電話を取り出した。
「ナカザワユウコのことを殺したのも、あんただったんだ」
「ああ。あれはあたしじゃないよ。あれを殺ったのはヤグチだね」
え?
- 92 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:31
- イシカワは携帯電話を持ったまま硬直した。
アベは得意気に、ナカザワユウコ暗殺の顛末を話した。
嘘ではなかった。じっくりと目を見ればわかる。
初対面の人間であっても、イシカワは嘘を見抜くことにかけては自信があった。
アベの表情と仕草が、その言葉が嘘ではないことを証明していた。
ヤグチがカゴを裏切らせたこと。カゴを使ってツジをはめたこと。
フォースの連中は今でもナカザワを殺ったのがツジだと思っていること。
それらを話す時のアベは、本当に嬉しそうだった。
その話を聞いたカオリは激怒していた。
イシカワもそれに負けないくらい強い怒りを感じた。
だがそれと同時に、どうしようもないくらいの無力感も感じた。
自分はツジのことを最後まで信じてあげることができなかった。
言われてみれば当たり前のことなのだ。ツジがナカザワを殺すはずがない。
どうしてそんな簡単なことを信じてあげられなかったのか。
ツジは―――ツジは自分が殺したようなものだ。
その思いに至ったとき、イシカワの脳裏にヨシザワの姿が映った。
ツジに最後の審判を下した時の、透明なヨシザワの顔が思い浮かんだ。
向こう側が透けて見えるほど透明に見えた、死神のようなヨシザワの顔が。
怒り。悲しみ。無力感。後悔。懺悔。自己嫌悪。
多くの感情が入り乱れ、イシカワの感覚をぐちゃぐちゃに掻き乱した。
- 93 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:31
- イシカワの瞳には、アベにわしづかみにされているカオリの姿が映っていた。
だが、映っているだけで、イシカワの脳には何も入ってこなかった。
ただ茫然として、我を失っていた。
そんな状態からイシカワが戻ったのは―――ナッチの声を聞いてからだった。
「ふふふ。カオリって耳が良いんでしょ? それなら死んでも聞こえるかな?
あたしは究極のモーニング娘。になる。カオリの血は無駄にしないよ。
過程なんてどうでもいいでしょ? カオリの血はあたしの血になる。
みんなの血が一つになって初めてモーニング娘。が生まれるんだよ。
そうやって、みんなで一緒に太陽になるってのも悪くないんじゃない?」
そしてアベはゆっくりと己の体を霧状に広げていった。
体の輪郭が溶けていく。
霧の粒子は急速に拡大していき、同時に周囲の様子を窺った。
イシカワは慌てて部屋の前から立ち去った。
ナッチと戦うことなど考えもしない。逃げることしか考えられなかった。
無我夢中だった。もうミチシゲに連絡することは考えなかった。
それよりも先に、伝えなければならない人がいる。
ヨッスィーに、ヨッスィーに―――
イシカワはそれしか考えられなかった。
神社から飛び出し、イシカワは何も考えずにフォースに向かって駆け出した。
- 94 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:31
- ☆
- 95 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:31
- 「ただぁいま」
「おかえりなさ・・・・・・い」
ナッチを迎え入れたカメイは、その姿を見てギョッとなった。
ナッチは凄惨な笑みをたたえたままカメイのことを見つめている。
見慣れたはずのナッチの笑みが、言いようのない寒気をカメイに与えていた。
これは―――ナッチの機嫌が良いからと考えていいのだろうか?
「はい、これはカメちゃんに」
ナッチはビニール製のバッグを取り出してカメイに渡した。
2リットルの医療用輸液バッグだ。中には赤黒い血がたっぷりと詰まっている。
それを見た瞬間、カメイの笑顔は最上級のものとなった。
「イイダさんの血ですね。ウエヘヘヘ」
「まあ・・・・・・ね」
カメイの顔から笑みが消えた。ナッチの顔にも笑顔はない。
むしろある種の緊張感があった。なぜだろう。神社で何かあったのだろうか?
ナッチは後ろ手に、もう一つの大きな荷物を持っていた。これに関係あるのだろうか?
「どうしたんですか、アベさん?」
「ちょっと血を探ってね、カオリの記憶を覗いてみたんだけどさ・・・・・」
「そこに何かが?」
「うん。これで完成っていうわけにもいかないみたい」
- 96 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:31
- アベはカオリの血の中に残っていた記憶のことをカメイに話した。
ゴトウマキの血を使った研究のこと。その血が特殊な性質をもっていたこと。
ウイルスの活性は高めるが、増殖は抑えるという性質があること。
それらに関する実験のこと、結果のこと。全てを話した。
「もしかしてそれって・・・・・・・・・・・」
「うん。カメちゃんがずっと探していたものじゃないかな?」
「そ・・・そうです! 確かにそうです」
声が震えた。カメイは興奮を抑えきれずにいた。
確かに彼女はずっと探していた。
ウイルスの能力を保持したままで、増殖を抑えられる物質を。
そういった物質さえあれば、ガス化した体を太陽の中の一点で凝集できるだろう。
極限まで拡散したサディ・ストナッチを、再び集結させることができる。
完全に自我を保ったままで―――太陽を支配できるようになるはずだ。
「驚きましたね。まさかゴトウさんのDNAにそんな力があったとは」
ゴトウに投与したウイルス断片は、イチイのウイルス断片と同じだ。
だから彼女のことは最初から完全に無視していた。
まさか「究極のモーニング娘。」の完成に不可欠な要素を持っているとは―――
夢にも思っていなかった。
- 97 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:32
- 歓喜に震えるカメイの姿を見て、ナッチが唇を歪めて言った。
「つまりナッチは・・・・・適格者として不完全なわけ?」
「いえいえ。そうではないです。もしウイルスを七分割にしていなければ、
アベさんでもゴトウさんでも、おそらく完全なSSになれたはずです。
でもその状態であれば、自我は完全に破壊され、太陽を操ることはできない」
自我を保つために、カメイはウイルスを七分割した。
その結果、ガス化に必要な要素と、太陽化に必要な要素も分割されたのだろう。
どちらか一つが欠けたとしても、カメイの目指す『究極のモーニング娘。』は完成しない。
「つまりアベさんとゴトウさんの二人ともが必要なのですよ」
「そのゴトウの血ってのがないままにSSを発動させたらどうなるの?」
「はっきりとしたことは言えませんが、おそらくゴトウさんの血がないままに
SSを発動させれば、完全なガス化が起こることは間違いないと思いますが、
ガス化したままで太陽と同化できず、元の姿に戻ることもできなくなるでしょうね
それどころか、自我も拡散したままで、意識を保つことも難しいくなるでしょう。」
「ややこしい話だねえ」
また一歩完成から遠のいた。
ナッチは失望を隠せなかったが、カメイの顔は輝いていた。
「いいえ。ついに最大の問題がクリアされたのです。残った問題は簡単です」
- 98 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:32
- カメイは目顔でアベさんにもわかりますよね?と問いかけた。
ナッチは苦笑を洩らしながらゆらゆらと揺れた。
顔色が悪い。彼女はまだガス化した余韻が残っているようだった。
ナッチといえども、まだ完全にガス化を身に付けたとはいえない。
あまり長時間ガス化していると、体にかなりの負担がかかるようであった。
「わかってるって。要するに今度はゴトウを殺ればいいんでしょ?」
「はい。簡単でしょ?」
「殺すのは簡単だけどさあ。探すのが面倒だよ。また時間かかっちゃうじゃん」
「いいえ。今度はもっと簡単です。こちらにはウイルスが全て揃ったのです。
今度はあちらが慌てて私達のことを探す番です。私達は待っていればいい」
ナッチはその言葉に喜びもせず、苛立ちもせず、ただふわふわと漂っていた。
ナッチと同じく、ガス化する能力を持つというゴトウマキ。
殺すのは簡単なことではないだろう。
面倒臭いことは好きじゃないが―――これだけは避けて通れないのかもしれない。
ナッチはいつになく神妙な顔で部屋の扉を開けた。
だが扉を開けた瞬間、いつもの能天気で自分勝手なアベナツミに戻っていた。
軽い足取りで廊下に一歩を踏み出す。
「あれ? アベさん、どこに行くんですか?」
「うん。カメちゃんにはもう、渡すものを渡したからね。
今度はちょっと、ガキさんにお土産を渡してくるわ」
- 99 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:32
- ニイガキはSSのアジトに一室で悶々とした日々を送っていた。
仕事らしい仕事は何もない。ただじっとアベの帰りを待っているだけだった。
日がとっぷりと暮れた頃、ニイガキの耳にも、
ナッチがカオリの血を入手したことが届いた。
いよいよナッチが太陽となる日が近づいている。
だがニイガキの心は晴れなかった。
いつになったら、どうなったら自分の心が晴れるのか、それすらわからない。
自分は麻取を辞め、ナッチに従う道を選んだ。
そのアベが太陽になったら、自分はどうすればいいのだろう。
テラダやカメイに従っていればいいのだろうか。
何のために従うのだろうか。自分の意志というものはどこにあるのだろうか。
「ガキさん。何を悩んでいるの?」
いつの間にかナッチがニイガキの背後に立っていた。
気配は全く感じなかった。息がかかる距離にいてなお、気配を感じない。
まさにアベナツミは一匹の化け物だった。
ナッチはゆらゆらとふらつきながらニイガキにまとわりつく。
時々、ナッチは煙のようになってニイガキの体内に忍び込んで遊んでいた。
性器だけではなく、全臓器、全細胞が凌辱されるような感覚。
体の中をぐちゃぐちゃにかき回されるような感覚は、何度味わっても慣れない。
ナッチはそんなニイガキの苦悶に満ちた表情を見ては、
満足そうな笑みを浮かべるのだった。
だが今日はそういう遊びをするつもりはないらしい。
- 100 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:32
- ナッチはすっとニイガキの正面で人間の姿に戻った。
両手を背後に回している。後ろ手には何かを持っているらしい。
そしてナッチは、右手で持ったスイカほどの大きさの塊を、ニイガキの眼前に差し出した。
「はい、ガキさん。あたしからのお土産」
最初は何かのオブジェかと思った。
あるいは昔よく売っていたようなパーティーグッズ。お面か覆面かそんな類のもの。
だが違った。血の気を失ったそれは―――明らかに人間の生首だった。
無感動が日常となっていたニイガキの精神が激しく揺れ動いた。
目の前にあったのは―――コンノという女の首だった。
タカハシを撃ち殺したあの女。あの女の生首が自分の目の前にあった。
右手で生首の髪の毛を持ったナッチは、左手ではコンノの顎の辺りを持ち、
それをかくかくと上下に動かした。
「あたし、コンノ。コンコンってよんでね。ごめんねニイガキちゃん。
タカハシちゃんをころしてごめんね。あたし、はんせいしていまーす
だからあたし、ナッチさんにころされちゃった。だからゆるしてねー」
ナッチは口を半開きにしたまま、陳腐な腹話術をしてみせた。
ニイガキの中で何かのスイッチがカチリと音を立てた。
ドミノが倒れていくように、次々と回路がつながっていく。
電撃的な速さでつながった回路の終着点には―――タカハシの死という事実があった。
ニイガキは喉を掻き毟りながら、大声で絶叫した。
- 101 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/05(土) 23:32
- ニイガキはタカハシの仇を取ろうなどと思ったことは一度もなかった。
タカハシの死は、ニイガキの中では独立した一つの出来事だった。
アベの命令とも、コンノの銃撃とも、なんら関係のない一つの出来事だった。
だから誰も恨まなかったし、何も引きずらなかった。
タカハシは死んだ。もう二度と会うことはできない。
そんな事実を、ニイガキは無意識のうちに拒み続けていた。
タカハシは特別な存在だった。ニイガキの中で特別な存在だった。
タカハシという存在は、そして記憶は、他のどんなことからも独立した王国を、
ニイガキの心の中に築いていた。
たとえタカハシが死んだとしても、その王国は永久に存在するはずだった。
だがその強固な王国も、ナッチの前では砂上の楼閣に過ぎなかった。
「だだだだだだだってライフルでうったら、タカハシちゃんきえちゃったー。
ごめんねニイガキちゃん。タカハシちゃんをころして、ごめんなさいねー」
ナッチは下手な腹話術を続ける。ニイガキは耳を塞いで狂ったように何かを叫んだ。
何も見たくなかったし、何も聞きたくなかった。
だがそれでもナッチは、傷口に塩をなすりつけるように、腹話術を続ける。
いつまでも、いつまでも続ける。ニイガキの絶叫は止まらない。
下手な人形劇は、夜が明ける頃まで延々と続いた。
「だだだだだだだっ だだだだだだっ」
- 102 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/05(土) 23:32
- ★
- 103 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/05(土) 23:32
- ★
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/05(土) 23:32
- ★
- 105 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:19
- イシカワの中では時間の感覚が飛んでいた。
神社からヨシザワの住むマンションまでは、決して近い距離ではない。
だが何かに取り憑かれたかのように、イシカワは黙々と歩き続けた。
二時間歩いたのか、二十六時間歩いたのか、それすらはっきりとしなかった。
ただ心の中で、ナッチの言ったことだけがグルグルと回っていた。
「カゴっていう子は簡単に金で転んだってさ」
「ツジっていう子がまたバカな子みたいでさあ」
「つまりヨシザワって子は無実の子を殺したことになるよねえ」
「まあ、ナカザワやツジっていう子に人望がなかったってことだね」
「あはははは。ヤグチの方がよっぽど人望あるんじゃないの?」
「ま、何にも知らないんだから、フォースの子らはみんなハッピーだよ」
まるで寒中水泳の後のように、歯の根が噛み合わなかった。
ガチガチガチガチと音を立てて震えていた。
純粋な怒りだった。一滴の湿りもない乾いた怒りだった。
燃えるような憎悪ではない。それは燃え切った後の灰のような怒りだった。
真っ白な灰のような、混じり気のない怒りだった。
燃え尽きた後も、怒りはイシカワの思考回路をぐるぐると無限に回り続けた。
どれだけ巡っても怒りのエネルギーが絶えることはない。
怒りだけを燃料にしてイシカワは歩き続けた。
もしフォースが月にあったなら、月まで歩いていっただろう。
久しぶりに見るマンションも、イシカワに懐かしさを呼び起こすことはなかった。
- 106 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:19
- 乱暴にドアを開け、階段を一段飛ばしで駆け上がる。
足を動かすのも、もどかしかった。早くヨシザワの顔が見たかった。
大股に開いた足にスカートのすそがひっかかる。
階段を踏み外したイシカワは、そのまま足を滑らせ、後方に雪崩落ちていった。
痛みよりも先に、強いショックが襲ってきた。自分の状況が把握できない。
イシカワの視界がぐるぐると回る。世界がゆらゆらと揺らめいていた。
頭が割れそうに痛い。その頭上から懐かしい声が降ってきた。
「おかえり、リカちゃん。死んでないよね?」
床にうずくまるイシカワの姿に、ヨシザワはデジャビュを見る思いがした。
そうだ。初めて二人で食事に行った日だ。確かあの時もイシカワは階段でこけていた。
全治何ヶ月だよ?、と思うような派手な転倒をしたイシカワだったが、
心配するヨシザワをよそに、元気一杯に立ちあがって笑顔を見せていた。
まだあれから一年も経っていない。だが全てが懐かしかった。
ツジもナカザワも元気だったあの頃に戻ることができれば―――
などと意味のない甘い妄想を抱きながらヨシザワは手を差し伸ばした。
きっとイシカワは、また「大丈夫!」と言って立ち上がるだろう。
この子だけはきっと変わらない。どれだけ時が経っても変わらない。
そう信じられるだけの芯の強さが、イシカワにはあるように感じられた。
だが―――
イシカワはヨシザワが伸ばした手に触れようともせず、
ヨシザワの顔を見た途端、大声で泣き出した。
- 107 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:20
- 痛いから泣いているのではないことはすぐにわかった。
イシカワの泣き崩れようは尋常ではなかった。
体のタガが外れたように、がくがくとぎこちなく震えている。
精神的な危うさを感じさせるような泣き方だった。
ヨシザワは何も言わずに、ぎゅっとイシカワのことを抱き締めた。
このままではリカちゃんが壊れる―――いや、壊れない。壊させない。
この子は泣くためにここに帰ってきたんだ。
あたしの顔を見て、そしてあたしの前で泣くために戻ってきたんだ。
ここに戻ってくることが、あたしに会うことが、
そして泣くことが、きっとリカちゃんには必要だったんだ。
だから大丈夫。もう大丈夫。いっぱい泣けばいいよ。好きなだけ泣けばいいよ。
少しずつ、少しずつだが、イシカワの息が整ってきた。
ヨシザワはこれまでの経験上、こういうときは何も言わない方が良いことを知っていた。
麻薬中毒者やアル中などが極度に興奮している時は、相手の話を聞いてあげればいい。
こちらが問題を解決してあげる必要はないのだ。
解決方法はきっと、既に当人自身の中に存在しているのだ。
話の聞き手はそれが出てくるまでじっと待っていればいい。
だがそんなヨシザワの経験論は、この場合には当てはまらなかった。
泣きやんだイシカワは、毒リンゴを胸に秘めた魔女のようなダミ声で、ぼそっと呟いた。
「ねえ、よっすぃー・・・・・・ここに薬って置いてる?」
- 108 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:20
- 何を言っているのか、意味がわからなかった。
確かに薬なら各種揃っているが、一体何の薬のことを指しているのだろう?
傷薬のことだろうか。だが今のイシカワがそれを欲しているとは思えなかった。
「リカちゃん・・・・・・どこか痛いの?」
「そうじゃない」
イシカワの声はぞっとするほど冷たかった。こんな声は聞いたことがない。
何の感情もこもっていないようでもあり、それでいて、
恐ろしいまでに莫大な量の感情がこもっているようにも聞こえた。
イシカワの体の震えがピタリと止まった。
小刻みな震えが、何か重大な一つの決意と化して固まったように思えた。
「いつだったか、よっすぃーが部下の子の薬を取り上げたことがあったよね」
「え? 何の薬のこと?」
「自白剤」
ヨシザワはぐっと息を飲み込んだ。
確かに少し前に部下からそういった薬を取り上げたことがあった。
いくら非合法組織とは言え、使ってはならないものがある。
裏切り者や潜入者のあぶり出しに使えるからとその部下は言ったが、
ヨシザワはそういった薬を使うことに激しい抵抗を示した。
その時はカゴも同じような反応を示した。
その結果、今ではフォースではそういった薬を使うことは禁じられている。
- 109 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:20
- 「おいおい。いきなり何言ってんだよ。あぶねーよ。ちょっと落ち着きなよ」
「無理。落ち着いてなんていられない」
「何があったんだよ?」
「話を聞いたら、薬くれる?」
「それこそ無理。何しようってんだよ、おい」
再びイシカワの呼吸が荒くなってきた。
ヨシザワにはイシカワがしようとしていることが全く理解できなかった。
姿を消してから数ヶ月。急に帰ってきたかと思えば、何の説明もなく号泣。
一体今まで何をやってたんだ? コハルはどうしたんだ? なぜ自白剤が?
「もしかしてコハルちゃんの身に何かあったの?」
「違う。コハルは元気。関係ない」
取り付く島もなかった。
過去にも喧嘩したり泣かせたりしたことなら何度もあったが、
いつものイシカワとは明らかに様子が違っている。
もしかして、マリィが片付けた、あの謎の連絡員に関係していることなのか?
これまで長い間、訊こうとして訊けなかった一言が、なぜかすんなりと訊けた。
「リカちゃん。もしかしてリカちゃんの背後にある組織のこと?」
イシカワの呼吸が止まった。
- 110 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:20
- 「知ってるよ。リカちゃんの背後に何らかの組織がついてるってことはね。
マリィさんがリカちゃんをいきなり軟禁しちゃったときあったじゃん。
あのときさ、何人かの連絡員がリカちゃんと接触したよね。
あたし達はそれをずっと見ていた。そいつらはマリィさんに殺されたよ。
そういうことも全部―――リカちゃんは知ってるんだよね?」
イシカワは黙ったまま答えない。
だが答えないということが一つの答えになっていた。
おそらくイシカワはその組織のところに戻っていたのだろう。
そしてそこで連絡員が殺されたことを知ったのだろう。
今のパニック状態は―――それに関係しているのだろうか?
いや、イシカワがフォースを去ってから随分時間が経っている。
それとはまた違った何かを抱えているのだろうか―――
「あたしはね、リカちゃんが何者だって別に構わないんだよ。
リカちゃんはフォースのことを好きでいてくれてるみたいだしね。
それはわかるよ。一緒に仕事をしていれば絶対にわかる。肌でわかる。
適当にやってる子。金のためにやってる子。好きでやってる子。全部わかるよ。
だからさあ、あたしはリカちゃんのことを信じるよ。だから話してよ。
今のリカちゃんが抱えていることを全部さ。あたしに話してほしいんだよ」
ヨシザワの言葉は嘘ではなかった。
信頼も不信感も愛情も疑問も、全てイシカワの前にさらけ出していた。
真っ直ぐにイシカワの瞳を見つめながら言った。
だからイシカワにも―――その言葉が真実であると伝わった。
それでもイシカワはなかなか話を切りだすことができなかった。
- 111 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:20
- 泣き止んだイシカワは、かなり冷静さを取り戻していた。
マリとカゴのしたことをヨシザワに伝えたい。その一心でここまで歩いてきた。
ECO moniのことも顧みず、イイダの件も投げうって、ここまでやって来た。
今のイシカワには、太陽の未来よりも、地球の存亡よりも、
友人の屈辱を晴らす方が大切だった。
だが―――
この話はあまりにも突拍子が無さ過ぎる。
実際にナッチの目を見た自分は、それが真実だと理解できる。
だがそんなことができるのは、世界中で自分一人だけだろう。
とてもヨシザワが信じてくれるとは思わなかった。
自分がその手にかけたツジが無実だったなんてことを―――
ヨシザワが受け入れてくれるとは思えなかった。
だからイシカワは一つの可能性にかけた。
ヨシザワが、疑うことなく信じてくれるような真実を、
自分の手で作り上げようと考えた。
そのためには―――薬が必要なのだ。
今のイシカワに必要なのは、ヨシザワの信頼ではなく、一錠の自白剤だった。
- 112 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:20
- イシカワは、ヨシザワの瞳を信じることにした。
彼女の瞳は、間違いなく真実を告げている。
何はともあれ、イシカワの話を聞いてくれると言っている。
イシカワはその瞳に賭けることにした。
イシカワは覚悟を決めて全てを話すことにした。
この話をするには、最初から全て話す必要がある。
この話をしていたのがアベナツミであること。アベとヤグチが仲間であること。
アベがイイダの命を、そして同じようにナカザワの命を狙っていたこと。
なぜ命を狙うのか。なぜウイルス投与者の命を狙うのか。
そういったことを一から順に話す必要があった。
ECO moniという組織のこと。組織の成り立ちと役割。
その組織の中にイシカワがいたこと。
イシカワがフォースに接近した真の理由。
そしてイシカワとコハルが―――ナカザワの命を狙っていたということ。
少なくとも一つ、イシカワは大きな嘘をついていた。
ナカザワの命を狙っているということを隠してフォースで働いていた。
果たしてヨシザワはそれを受け入れてくれるだろうか?
そんな大きな嘘をついていた人間の言葉を、信用してくれるだろうか?
- 113 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:21
- ナカザワの命を狙っていた。
もしかしたらそれだけでヨシザワの逆鱗に触れるかもしれない。
即座に死に値するかもしれない。
だがそういったことを抜きにして話すことはできない。
全てを話さなければ、ナッチの言ったことを説明することはできない。
そしてイシカワが抱いていた使命を全て話すということは―――
ECO moniを裏切ることでもあり、やはりイシカワの死を意味する。
こちらの死は、冷酷なまでに確実だろう。
あのミチシゲが組織に対する裏切り行為を許すはずはなかった。
つまりイシカワの先に待っているのは、不確かな一つの死と、確かな一つの死。
どちらにしてもイシカワの命が救われることはないのだろう。
だが、それでもイシカワは全てを話さずにはいられなかった。
だからイシカワは―――最初から最後まで包み隠さず全て話した。
ECO moniの成り立ちから、ナッチがカオリを殺したことまで。
話し終わった後、イシカワは怖くてヨシザワの目が見られなかった。
ヨシザワの瞳に宿る真実を見るのが怖かった。
それでもイシカワは―――勇気を振り絞って、ヨシザワの目を見上げた。
- 114 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:21
- 「それで・・・・・自白剤が欲しいってか?」
ヨシザワの瞳には強い怒りがあった。だがそれだけではない。
怒りは半分。そしてその瞳のもう半分を占めていたのは「怯え」だった。
その瞳の色を感じ取ったイシカワは、自分が超えてはならない一線を超えたことを知った。
ヨシザワはもう、イシカワの話をただの法螺話と笑い飛ばすつもりはない。
All or Nothing. ヨシザワの目はそう言っていた。
もし今の話が嘘ならば、イシカワは、カゴとヨシザワのことを、
そしてマリィのことを、これ以上ないくらい侮辱したことになる。死に値するほどに。
ヨシザワの怒りはカゴやマリィに向けられたものではなく、
イシカワに向けられたものだった。
それでもイシカワは動じない。むしろ、荒唐無稽な自分の話を、
ヨシザワが真剣に聞いてくれたことに感謝したいくらいだった。
どちらに転んだとしても、それがヨシザワが真剣に考えた結果ならば、
甘んじて受け入れる覚悟だった。
- 115 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:21
- 一方ヨシザワは、イシカワに対して怒りを感じると同時に、
イシカワが一から十まで全部嘘を言っているわけでもないということを、感じ取っていた。
施設で見たあの赤い霧。チョコレートのように溶けた鉄骨。山のような死体。
ウイルスにまつわる数多の噂。常識では考えられないような政府の対応。
まるで悪夢のようなイシカワの話が、妙に筋の通ったもののように聞こえた。
これまで疑問に思っていたことのいくつかが、嘘のように晴れ渡っていくのだ。
だから怖かった。
イシカワの話と、正面から向き合うのが怖かった。
イシカワの目は真剣だ。冗談で言えるような内容の話でもない。
命がけでヨシザワに真実を告げようとしているか、
命がけでヨシザワのことを欺こうとしているのか、そのどちらかだと確信できた。
どちらなのかはわからない。
だが一つ、確かなことがある。
この会話に決着がついたとき、間違いなく自分はイシカワかカゴのどちらかを失う。
その真実と向き合うことが、ヨシザワは怖かった。
- 116 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:21
- 「うん。自白剤を使えば、よっすぃーもきっとわかってくれると思うから」
イシカワは真剣だ。真剣な言葉だったからこそ、ヨシザワは怒りを爆発させた。
棚に乗っていた置物をつかむと、力の限り壁に向かって叩きつける。
陶器の置物は甲高い音を立てて粉々に砕け散った。
「ふざけんなよ。なにが自白剤だよ。そんなもんをアイボンに飲ませようってのかよ。
信じらんねーよ。疑いを晴らすためなら、何をやっても許されると思ってんのかよ!」
「ちがう」
「なにがちがうんだよ。お前、自分が何を言ってるのか、本当にわかってんのか?」
安易に薬に頼ろうとするイシカワのことが許せなかった。
イシカワはもう、カゴのことを信用していない。
信用していないことを隠そうともしない。その傲慢な振る舞いが不愉快だった。
カゴと三年半もの間、生死を共にしてきた自分を差し置いて、
イシカワが勝手にカゴのことを裏切り者扱いすることが許せなかった。
イシカワは勿論―――そんなヨシザワの心の動きが手に取るようにわかっていた。
だからイシカワは間違えなかった。今度はもう間違えてはならない。
なにが大事であるのか。間違えてはいけない順番というものがある。
あの時のように間違えることは、もう二度と許されない。
「あたしが飲む」
- 117 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:21
- 「は? それって・・・・・・どういう・・・・こと・・・・・」
確認するまでもなく、それがどういうことなのかヨシザワには理解できた。
イシカワは自分の体を張るつもりなのだ。
身を持って、自分の潔白を示そうというつもりなのだろう。
「アイボンに飲ませようなんて、そんなことは言わない。
あたしの言うことを、アイボンが否定しようがどうしようがあたしは構わない。
でもヨッスィーにだけは、あたしが言ったことが本当なんだって信じてほしいの。
だから飲む。ヨッスィーは好きなだけあたしに質問すればいい。何でも訊けばいい。
あたしは嘘はつかない。どれだけ薬を打ってもいいよ。発狂しても構わない。
それでヨッスィーが信じてくれるっていうのなら、あたしは喜んで発狂するよ」
ヨシザワはイシカワの頬を張った。これ以上ないくらいぎこちないビンタだった。
往復ビンタをしようとしたヨシザワの手は、抑制が利かないほど激しく震え、
まるで蠅を追い払うかのように、イシカワの頬をゆるくかすめただけだった。
「発狂するとか簡単に言うな! なんの・・・・なんのつもりで・・・・・」
「簡単に言ってるつもりなんかないよ」
切れた唇の端から血が滴った。だがイシカワは一歩も退かない。
ヨシザワの目からは怒りが消え、怯えが広がる。
あの自白剤は強力だ。飲んだ人間が嘘をつくことはまず不可能だろう。
ヨシザワは怖かった。イシカワの口から真実がこぼれるのが怖かった。
- 118 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:21
- 「あたし、マリィが許せない。アイボンが許せない。絶対に許せない。
そして何より―――のんちゃんを信じることができなかった自分が許せない」
ヨシザワのことを傷つけたくて言った言葉ではない。
だがイシカワの言葉は、ヨシザワのことをこれ以上ないくらい深く傷つけた。
誰よりもツジのことを信じてやれなかったのは―――ヨシザワなのだ。
ヨシザワは追い詰められていた。
リングの上では無敵を誇る絶対的な腕力も、ここでは何の助けにもならなかった。
何かを言わなければならない。何かをイシカワにぶつけなければならない。
ヨシザワは言葉を探した。あらん限りの力で探した。だが適当な言葉が見つからない。
失う。イシカワの言葉が真実であれば自分はカゴを失う。
失う。イシカワの言葉が嘘であれば自分はイシカワを失う。
得るものは―――何もない。
どちらに転んでも正解などない。ヨシザワは頭を抱えて、床に座り込んでしまった。
そのままただ、髪を掻き毟り、沈黙し続けるしかなかった。
「何も言わなくていいよ」
迷いの沼に沈みこんでいるヨシザワに向かって、イシカワが歌うように言った。
「裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を」
- 119 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:21
- ヨシザワの手の動きがぴたりと止まった。
イシカワは勝手にヨシザワの部屋に入り、がさごそと棚を漁り始めた。
それでもヨシザワは、イシカワのことを止めようとはしなかった。
ただじっと床の一点を見つめていた。
荒行に挑む修行僧のように身じろぎ一つしなかった。
やがてイシカワは白い錠剤の入った瓶を手にして戻ってきた。
もう一方の手には黒光りする拳銃を持っている。
中に銃弾が入っていることを確認すると、安全装置を外してからヨシザワに預けた。
イシカワは数個の錠剤をつかむと、水も飲まずに口の中に放りいれた。
喉がごくんと大きく一つ上下する。何度かむせたが、それでも無理に押し込んだ。
ヨシザワは瞬き一つせずに見つめていた。
「あの時、よっすぃーは言ったよね」
薬が効き始めるまで、まだ少し間がある。
もしかしたらこれが最後の会話になるかもしれない。
イシカワは言葉を選びながら話を続けた。
「金なんてどうでもいい。組織が潰れちゃっても構わないって。そう言ったよね」
- 120 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:22
- 「そして言ったよね。『そんなものよりも大切なものがある』って。
大切なものには順番があって、間違えちゃいけない順番があるって」
確かに言った。それはヨシザワの哲学のようなものだった。
親と恋人はどっちが大切か。そんなことに順番をつけるという意味ではない。
同じくらい愛している。それでいいと思う。
だが人間は、一足飛びに何かを愛することはできない。
順番を飛ばして、何かを省略して、愛を深めることはできない。
そんな愛は見せかけの愛だ。口先だけの愛だ。浅い愛だ。価値なんて認めない。
生きるというのはつまりそういうことだ。
何かを省略するということは、傍から見ればとても楽に見えるのかもしれない。
だがそれは、何かを失っているということに他ならないのだ。
裏切ること。嘘をつくこと。自白剤を使うこと。みんな間違っている。
楽をしようとして、得をしようとして、大事なものが何なのか見失っているんだ。
だから組織が潰れて、消えて無くなってしまうとしても、全然怖くなかった。
きっと、それも一つの過程なんだと受け入れることができたと思う。
そういう順番がやってきただけなんだって思えただろう。
潰れたならまた新しく始めればいい。それが世の道理というものだ。
自分は間違っていない。自分は間違っていない。自分は間違っていない。
- 121 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:22
- 「ねえ、よっすぃー。あたしだって本当は自白剤なんて飲みたくないよ。怖いよ。
ありのままの自分を見せるなんて嫌だよ。嘘つきな自分をさらけ出すのが怖いよ。
よっすぃーの前では綺麗な女の子でいたいよ。格好良いところだけ見せたいよ。
でもこうすることしかできないの。ねえ、よっすぃー。やっぱりあたしバカかな?
やっぱり『大切な順番』っていうのを・・・間違えて・・・るのか・・・な・・・・」
催眠術にかかったように、イシカワの瞼がゆっくりと落ちていく。
椅子に腰かけたイシカワの胸が上下に小さく揺れていた。
ヨシザワはまるで拝むように、両手でぎゅっと拳銃を包み込む。
選択肢は二つあった。
イシカワに質問する。
尋ねたいことは山ほどあった。
今のイシカワは真実しか答えることができない。嘘をつくことは不可能だ。
そしてきっと、イシカワの話したことは真実なのだろう。
コハルやゴトウマキのことだけ真実で、マリィやカゴのことが嘘であるはずがない。
訊けばきっと真実の言葉がこぼれてくるだろう。
イシカワが、ナカザワを狙うECO moniという組織の一員だということも、
同じくカゴが、ナカザワを狙うSSという組織に寝返っていたということも、
そして―――
ヨシザワが、無実の罪をかぶせてツジを殺したということも―――
- 122 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:22
- 選択肢はもう一つあった。
「裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を」
それこそがフォースの鉄の掟。
身分を偽ってフォースに近づいてきたイシカワは、間違いなく裏切り者だ。
隙を見てナカザワを殺そうとしていたことも事実だ。
そんなイシカワに対して、かける言葉はない。
同情の余地はないし、何かを思いやる感情など必要ない。
ただ機械的に、この手の中にある拳銃の引き金を引けばいい。
あたしはそうやってこれまでやってきた。多くの裏切り者を殺してきた。
どうしてこの子だけ例外だなんて言えるんだ?
イシカワは何も言わず、ただじっと椅子に座っている。
薬は既に十分に回っているようだ。
自白剤を飲んだとき独特の、激しい鼓動がイシカワの胸を揺らしていた。
この薬の効き目は長くない。話をする時間は限られている。
- 123 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/07(月) 23:22
- ヨシザワは一つ大きく息をした。
迷いが消えたわけではない。だがイシカワに何をぶつけるか、心を決めた。
あたしは間違えない。
何が大事なのか。何を愛するべきなのか。どう愛するべきなのか。
薄っぺらい上辺だけの愛なんていらない。
一足飛ばしのスカスカな愛なんていらない。
嘘で塗り固められた愛なんていらない。
あたしはもう―――何が一番大事なのか、その順番を間違えたりはしない。
ヨシザワは立ち上がり、イシカワの正面に立った。
ふっと軽くイシカワが微笑んだような気がした。
「リカちゃん」
ヨシザワは手にした拳銃を持ち上げ、銃口をイシカワの眉間に押し当てた。
ひんやりとした鉄の感触がイシカワの肌に伝わる。
イシカワの顔が上を向き、薄いピンクをした唇が、つんと上を向く。
まるで口付けをせがむかのように。
ヨシザワは心に決めた質問を口にした。
できうるなら―――カゴにも同じ質問をしてみたいと思った。
「リカちゃんにとって、一番大切なものって何?」
- 124 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/07(月) 23:22
- ★
- 125 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/07(月) 23:22
- ★
- 126 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/07(月) 23:22
- ★
- 127 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:18
- ナッチが神社から引き上げると同時に、ミツイは意識を取り戻した。
脳が痺れるような感覚。借り物の体のように上手く動かない手足。
これまで修行でいくつもの毒物を口にしてきたが、
そのどれとも違う感覚が体を這いずり回っていた。
何が何だかわからなかったが「なにかされた」ことは確実であり、
夜闇の暗さからいっても、自分が数時間気絶していたことは間違いなかった。
ためらうことなく携帯の緊急ボタンを押す。
神社中に消防のサイレンのような音が鳴り響いた。
いつもなら数人が素早く動き回る気配がするのだが―――
今はその動きが明らかに鈍い。
ミツイの心臓が鼓動を速くする。心音が自分の耳にもはっきりと聞こえた。
組織にとって致命的な何かが起こった。
そしてその事態は、おそらく自分の失態が招いたもの。
冷や汗が止まらなかった。この世から消えて無くなりたくなった。
吐き気がこみ上げてくる。
ミツイは這うようにしてカオリの部屋にたどり着いた。
襖の向こうに、どうやら先に来ていたらしいコハルの―――背中が見えた。
- 128 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:18
- 「やられた・・・・・・・・・・・・・・・」
警報が鳴ってから、たっぷり二分は経っただろう。
それなのにコハル以外の人間はまだ姿を見せていない。
ミツイの中の嫌な予感は物理的な圧力となって肺と心臓を押しつぶそうとする。
いや。部屋の中央に転がっている禍々しい死体を見た瞬間、
それはもう既に予感というものではなくなっていた。
「これ・・・・・イイダさん?」
「うん。顔はまだ残ってるから。体は原形とどめてないけどね」
「ほ・・・・他のみんなは?」
コハルは振り返り、呂律の回っていないミツイの胸倉をつかむ。
ぐいっと力強く自分の方に引き寄せると、ミツイの瞳をじっと見つめた。
ミツイが何か言おうとした瞬間、雷のような往復ビンタが飛んできた。
それでもミツイの目の焦点は、まだしっかりと合わなかった。
「おめー、目が飛んでるよ。何か毒にやられたみたいね」
コハルは押しつけるようにしてミツイをその場に座らせる。
「動くな」というコハルの命令にミツイは大人しく従った。
そしてコハル自身は携帯を取り出し、ミチシゲに連絡を取る。
神社の中が落ち着くまで―――二時間ほどの時間がかかった。
- 129 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:18
- ☆
- 130 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:18
- タカハシ達の襲撃を受けた時とは違い、ミチシゲは静かだった。
ミツイのこともコハルのことも叱責する気配はなかった。
ミツイは今にも死にそうな顔をしながら現状を報告していたが、
ミチシゲはそれをじっと聞いているだけだった。
何も言わずに、監視カメラに映っている映像をにらむように見つめている。
普段は部下に厳しいミチシゲが、小言の一つも言わない。
ミツイはそれが逆に怖かった。
状況は最悪と言ってよかった。
カオリは虐殺されており、大量の血が持ち去られた跡があった。
ミツイを含む警護担当者は全て、何らかの薬物で眠らされていたらしい。
その一人であるコンノは、首のない死体として発見された。
犠牲者はその二人だけだった。
抗体を作成している研究室も全くの無傷だった。
相手の狙いは―――あくまでもカオリの血だったようだ。
報告の途中でアヤとミキも神社に姿を現した。
ミツイはもう一度最初から現状を報告し直す。
カオリが殺されたと聞いても、アヤは眉ひとつ動かさなかった。
そしてコンノが殺されたと聞いても全く動じない。
彫像のような凛とした美しさを放ったまま表情を変えなかった。
瞬きもしないまま、ぐにゃりと歪んだカオリの死体を凝視していた。
- 131 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:18
- ミキは知っていた。アヤは決してポーカーフェイスではない。
表情や感情を隠すことで、駆け引きをするような女ではないのだ。
そのアヤが、今は怒りも悲しみも憤りも示していない。
ものも言わずただ死体を見続けている。
飛んでいる。今のアヤはぶっ飛んでいる。
感情の振れ幅がリミットを超え、遥か彼方まで飛んでしまっている。
アヤの周りの空気が歪んでいるように見えた。
こんなアヤを見るのは初めてのことだった。
ミツイがようやくアヤとミキへの報告を終えた時―――
黒い犬を連れて、マキがのっそりと姿を現した。
マキと会うのはあの駐車場の襲撃以来か。だがミキは慌てない。
この女がECO moniに協力することになったということは、既にアヤから聞いていた。
とりあえずは一時休戦という考えに、ミキも渋々ながら同意していた。
ミツイは三度目の説明を始めることとなった。
マキは、聞いているのかいないのかよくわからないような、
ぼーっとした表情でミツイの説明を聞いていた。
そんなマキのことを、ミキは怪訝な表情で見つめていた。
こいつは単なるポーカーフェイスなのだろうか?
人並み外れてクールな性格をしている捜査官なのだろうか?
それとも―――それともこいつもアヤと同じように―――
怒りのあまりぶっ飛んでいるのだろうか?
洞察力には自信のあるミキだったが、マキの表情の裏は読み取れなかった。
- 132 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:18
- 「GAMもとうとうあたしとミキたんの二人になっちゃったねえ・・・・・」
「関係ない。二人だろうが何だろうが、やるべきことはやる」
「ま、当然ね。借りは返さないと」
二人の会話に対して、ECO moniの面々は何も言葉を挟まない。
それどころか、どこか冷たい目で見ているようにミキには感じられた。
おそらくこいつらにとってはウイルスが全てなのだろう。
誰が殺されたとか、仇を討つとか、そういったことはどうでもいいのだろう。
だがGAMは違う。ウイルスなんてどうでもいい。抗体だってどうでもいいのだ。
殺られた仲間の仇を取るということに比べれば―――どうでもいいことだ。
「で、殺ったのは誰なんだよ。カメイエリ? なんかやり方が違う気もするけど」
「あたしもそう思うよ、ミキたん。こいつはあの鈍亀のやり方じゃないね。
監視カメラの映像があるじゃん。この赤い霧に触れた瞬間、みんな眠らされてる。
そしてカオリの部屋にも霧が入り込んでいる。こいつがカオリを殺したんだろうね」
残念ながらカオリの部屋の内部の監視カメラは破壊されていた。
中で何が起こったのかを見ることはできない。
それでもアヤは、そこに現れたのが誰であるのか、容易に想像することができた。
「きっと適格者の一人である、アベナツミってやつの仕業なんだろうね」
- 133 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:19
- 「だろ?」
アヤはミチシゲではなく、マキに向かって同意を求めた。
監視カメラに映っている赤い霧。生き物のように怪しく蠢く霧。
それは色こそ赤と黒で違うとはいえ、アヤも一度見たことがある霧だった。
GAMのアジトを崩壊させた黒い霧。それを操る適格者のゴトウマキ。
同じ適格者であるアベナツミが、同じような霧を操れるとしても不思議ではない。
アヤの意見に答えたのはマキではなくミチシゲだった。
「間違いないでしょう。この霧こそがガス化したサディ・ストナッチなのです。
まさか・・・・・エリがここで切り札を使ってくるとは思いませんでした。
あたしの判断ミスです。SSが相手ではミツイやコハルでは太刀打ちできない。
SSの襲撃を想定して、もっときちんとした対策を立てておくべきでした・・・」
フォローされてもミツイの心は晴れない。
ECO moniは大きな切り札を一つ失ったのだ。
これでアベナツミの太陽化計画がさらに進行することは間違いない。
重い空気の中でアヤが口を開いた。
アヤの口調はいつもとあまり変わらない。
「そのSSって霧だけどさ。アベナツミ本体そのものって考えていいわけ?」
「そうです。あの霧の粒子の一粒一粒がアベナツミそのものなのです」
「ふーん。じゃあ、あちこちに残ってるかもね。調べてみる価値はある」
「調べる? 調べるって何をですか?」
「カオリを殺したのはあいつなんだろ。死体を見たけど、かなり内部から破壊されてる。
もしかしたら霧になったアベが、カオリの体内に侵入して攻撃したのかもしれない。
それだったら、カオリの体内に、一粒くらいあいつの粒子が残っているかもしれない」
- 134 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:19
- 「残っているかもしれませんが・・・・・本体はもう消え去ったわけですからね。
残った粒子がどうなるのか。生きているのか死んでいるのか。私にはわかりません」
「死んでるんじゃないかな」
言葉を発したのはゴトウだった。
その場にいた全員の注目がゴトウに集まる。
この世界で、ガス化できるのはアベナツミとゴトウマキの二人しかいない。
マキはミチシゲよりも遥かに詳細な情報を持っていた。
「よくわかんないけどさ。一回ガス化したら、完全に元通りに戻るのは難しいよ。
人間の体だってさ、毎日少しずつ新しい細胞が生まれて、古い細胞と入れ替わる。
あれと同じで、霧の粒子にも新陳代謝はあるからさ。動いているうちにも、
古い粒子はどんどん死んでいって、新しい細胞が生まれてくる感じなんだよね。
死んだ粒子は風に乗ってどっかに流れていくから見つけるのは無理だけと思うけど、
もしカオリの体内に入り込んでいるのなら―――いくつかの粒子は残っているかもね」
ミツイはそこまで話を聞いても、まだアヤが何を考えているのかわからなかった。
なぜアヤはあんなにもカオリの死体をじっと見つめていたのか。
自分のミスで生まれた死体など、見向きもしたくないと考えるミツイには、
アヤの行動が理解できなかった。
「それならまずカオリの体を調べよう。そしてアベナツミの粒子を解析する。
これで4番のウイルス断片が手に入ると思う。ウイルス断片が6つ揃うよね。
そこで完全なウイルスから6つのウイルス断片を引けば、最後の一つが推測できる。
おそらくこの方法で、7つ全てのウイルス断片が揃うんじゃないかな?」
- 135 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:19
- 「ね。どうよミッツィー。いけるでしょ?」
アヤの意見に、ミツイは衝撃を受けた。
こんな時でもアヤはウイルスのことを考え続けていたのか。
いや、こんな時だからこそ、死ぬ気でウイルスのことを考えなければいけなかったのだ。
ミツイは自分の弱い心を恥じながらも、アヤの意見を素早く吟味する。
心の中で自問自答を繰り返す。シミュレーションを重ねていく。
大きな問題は一つしか見つからなかった。
「いけそうです。イイダさんのウイルス断片は既に解析が終わってます。配列もわかってる。
イイダさんの遺体の組織をとって、全ウイルスの配列を使ってスクリーニングする。
そこで拾ったウイルス断片の集合から、イイダさんのウイルス断片の配列を除外する。
そうすれば、アベナツミの持っているウイルス断片を拾い上げることができると思います」
アヤはミツイほどの生化学的な知識は持っていない。
だからミツイの話は半分も理解できなかったが、彼女にとってはそれで十分だった。
問題は―――アヤにとっても問題は一つだけだった。
「問題は、そこから抗体を作るのに、どれくらいの時間がかかるのかってことね」
「そうです。まさに問題はそこなんです。イイダさんの体内からアベのウイルス断片を拾う。
そこから1番と4番のウイルス断片の配列を推測する。そしてそれを使って抗体を作成する。
これらの作業を突貫工事で行うとしても―――最短で二ヶ月はかかってしまうと思います」
カメイ達がそこまで待ってくれるとは思えなかった。
アベが完全に太陽化して宇宙に向かってしまえば、それで終わりなのだ。
たとえその後で抗体が完成しても、もはやアベは手の届かないところまで行ってしまっている。
- 136 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:19
- 「問題ありません」
ミチシゲの言葉は自信に満ちたものだった。
とても今さっき大きな切り札を失ったばかりだとは思えないほどだった。
「エリはまだ『究極のモーニング娘。』を完成させることはできない」
その場に小さくない動揺が走った。
カオリの命が奪われ、カメイエリは7つのウイルス断片を全て揃えたのだ。
あとはそれらを再合成すれば、自我を持ったまま太陽化できる―――
それがこれまでのECO moniの統一見解だったはずだ。
「まだエリには知らない事実がある。時間は稼げます」
ミチシゲがこの期に及んで嘘を言っているとは思えなかった。
だが―――全て本当のことを言っているのでもないのだろう。
このミチシゲという女は、まだ皆に隠している何かを持っている。
アヤはミチシゲの口振りからそういったことを確信した。
「なるほど。敵を欺くにはまず味方からってわけか」
「すみません。そういうわけなんです」
「じゃあ、その『知らない事実』っての中身はあたしらには教えてくれないのかな?」
「申し訳ないですが、それはECO moniの中でだけに納めさせてもらいます」
「ふーん。まあ、いいや。とにかく二ヶ月くらいは引っ張れそうなんだね?」
「はい。ですからまず、抗体作成を急ぎましょう。それが完成すればSSも怖くない」
- 137 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:19
- アヤとミチシゲが無言で睨みあう。
もはやミチシゲは、自分が隠し事をしていることを隠そうとはしなかった。
アヤはそんな瑣末なことは気にしない。その程度は想定の範囲内だった。
数千年も続いているという組織だ。よそ者に容易く情報を流したりはしないだろう。
問題はそれがGAMの利害とどう絡むかということだった。
アヤとコンノを殺したアベ。Nothingを殺したカメイ。こいつらは生かしておかない。
その一点でのみ、GAMとECO moniは協力し合うことができる。それは変わらない。
だがウイルス抗体作成という点に関しては―――
お互いに利害が食い違う部分が少なくないのかもしれない。
アヤは自分の直感を信じることにした。
もうウイルス抗体作成にはこだわらない。
手に入れることが無理になったとしても構わない。
目的は―――1つに絞るべきだろう。
そんなアヤの心中を見計らったかのように、タイミングよく一人の男が部屋に入ってきた。
テラダの組織を探っていた、ECO moniの連絡員の一人だ。
どうもECO moniの張った網の一つに、テラダの姿が引っ掛かってきたらしい。
大型の機器を次々と搬入している施設が一つあるのだという。
何かを誘っているかのような、あからさまな動きだった。
- 138 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:19
- 「常識で考えれば、ウイルス断片を揃えたテラダが、最後の実験に入ったということですか」
「へえ。そのまんま投与するってわけにもいかないんだ」
「ええ。もし何も考えずに7つのウイルス断片を混ぜ合わせれば、あの施設の事故の時の
ように、爆発を起こしてしまう可能性が高いです。何らかの前処置は必要でしょうね」
「その検討を行う準備をしていると」
「少なくともテラダは、そう見せかけたいらしいですね」
アヤはミチシゲと会話しながらも、次の行動を決めていた。
ちらりと横を窺う。どうやらミキも同じ気持ちのようだった。
時には意見が食い違うこともある二人だったが、
ここぞという決定的な時には、必ず意見が一致するものだった。
つまりは今がその決定的な時なのだろう。
「あたし、そこに行くよ」
「アヤさん。気持ちはわかりますが、明らかにトラップですよ」
「だから行くんだよ。ねえ、ミキたん」
「そうだよそうだよ。なんかねえ。サユちゃんのやり方はまどろっこしいんだよ。
何を切り札として隠し持っているのかは知らないけどさあ。そんなのどうだっていいよ。
こんなもんは、バーンと行ってガーンと潰しちまえばいいんだって。罠? 上等じゃん。
赤い霧だか黒い霧だか知らないけどさ。そんなのにびびってたら商売できないって」
商売という言葉に、アヤは思わず苦笑した。
そういえば自分達は麻薬密売組織の一員だったのだ。
たった二人だけになってしまったとはいえ、GAMはGAM。
この場面でそんなことを意識しているミキのことが、何とも頼もしく思われた。
- 139 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:19
- 「決まりだね。あたしとミキたんはそこに行ってみるよ」
「無茶ですよ。もしそこにアベナツミが待ち構えていたらどうするんですか?
今のあなたたちでは、サディ・ストナッチに対抗する術はありませんよ。
せめて抗体が完成するまで待ってもらえませんか? そうすれば・・・・・」
「待たないよ」
もうウイルス抗体のことはどうでもいい。
それはECO moniの問題であり、GAMの問題ではない。
アヤは自分の手を離れたものに対して未練がましく執着するような人間ではなかった。
今のGAMの問題は―――カメイやアベに貸してある借りを返してもらうことだ。
一度決断を下すと、アヤの行動に迷いはなかった。
「コハルちゃん」
「はい」
「あの子はコハルちゃんに預けておくわ」
「ああ・・・・そうですよね・・・・・やっぱり無理ですよね」
コハルは少しがっかりした様子を見せた。
無理だとはわかっていたが、実際にアヤからそう言われると辛かった。
足手まといになるとわかっていても、連れていってほしかった。
いつの間にやらコハルは―――完全にアヤの考えに感化されていた。
「あの子、今で8ヶ月くらいだよね」
「え? あ、はい。そのくらいだと思います」
「Nothingが初めて人を殺したのは1歳のときだった」
「え?」
「それまでには使えるようにしてくれないと、ちょっと困るかな」
「は・・・・はい! 任せてください!」
- 140 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:20
- アヤはコハルの次にミツイに声をかけた。
そうやってECO moniのメンバーの一人一人に丁寧に声をかけていく。
まるで―――最後の別れの挨拶をしているかのようだった。
「コンちゃんとカオリがいなくなったけど、ミッツィー一人で大丈夫かな?」
「抗体ですか? それなら大丈夫です。絶対に抗体は完成させます。絶対に」
「サユちゃんはああ言ったけど、あたしはミッツィーやコハルがSSに勝てないとは思わない」
「でも・・・・・・」
「今の二人に、守護獣の封印が必要だとも思わない」
アヤの言葉にミチシゲがぴくりと反応する。
それでもミチシゲは口を差し挟まない。
アヤは腹いせに汚い言葉を残していくような卑小な女ではない。
むしろ、今のミツイに一番必要な言葉を残してくれるに違いない。
そしてそのアヤの言葉を受けて、きっとミツイはより強くなることだろう。
自分は確かにアヤに嘘をついた。だがアヤがそれにこだわるとは思えなかった。
アヤはそんな人間ではない。短い付き合いでもそれくらいのことはわかる。
ミチシゲはこの期に及んでもまだ、アヤのことを強く信用していた。
- 141 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:20
- 「でもあたしは実際に、イイダさんを守れなかったんです」
「あんたの一番大切な仕事はカオリの命を守ることじゃない。それを見誤っちゃいけない。
一時的な感情に流されちゃいけない。自分の力を卑下しちゃいけない。冷静になりなよ。
まだ『究極のモーニング娘。』は完成しちゃいない。やるべきことはまだ残ってるでしょ?
あたしはあたしのすべきことをする。だからミッツィーも自分のすべきことをするんだ」
「・・・・・・・・・・わかりました」
「良い子だね。素直な子は好きだよ」
やけに真面目ぶった雰囲気がくすぐったい。
戦場には不似合いな真っ直ぐな言葉のやり取りが、ミキには何とも耐え難かった。
真っ直ぐはよくない。適度に曲がった根性をしているものが、戦場では生き残るのだ。
ミキはたまらずアヤの言葉を混ぜ返した。
「あれ? じゃ、あたしのことは嫌いなんだ」
「断言する。素直じゃない子は―――好きじゃない」
「おー、おー、真顔でよく言うよ。自分が一番素直じゃないくせに」
「素直だよ。そんな自分が一番大好き。にゃははは」
そうそう。これでいい。これから二人は死にに行くのだ。
クソ真面目な雰囲気は似合わない。こんなバカに明るい雰囲気の方が似つかわしい。
- 142 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:20
- 「死にに行くつもり?」
ケラケラと陽気に笑う二人に向かって、マキが冷たい言葉を浴びせた。
電池が切れたように二人の笑いがピタリと止まる。
アヤとミキ。二人の心の間につながった一本の糸をマキが踏みつけた。
その隣で黒い犬が「うぉん」と吠えた。
「そんなの全部お見通しだぜ」と言わんばかりの憎たらしい吠え方だった。
「失礼なことを言うね・・・・・・マキちゃんは。あたしらが負けるとでも?」
「さあ。それはあんたらの中の『負け』の定義にもよるね」
場合によってはこの二人は命を捨てるつもりなのだろう。
たとえそうなったとしても、カメイとアベを葬り去ることができれば、
それはきっと彼女らにとっては十分な『勝ち』と呼べるような結果なのだろう。
だがマキは―――そんなことを許すつもりはなかった。
アベナツミはイチイを殺した仇だ。自分が殺す。
そしてGAMを作ったアヤとミキも自分が殺す。
それがマキにとっての『勝利』を意味する。
ウイルスがどうとか、太陽の娘。がどうとか、そんなことはもうどうでもいい。
そういう意味では―――今のマキは、アヤ達と同類だったのかもしれない。
- 143 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:20
- ミキの目が光る。喧嘩を売られて黙っているほど人間はできていない。
「そういえばおめーには借りがあったな。今ここで返そうか?」
「今返すって? 死んだら返せなくなるからっていう意味に聞こえるけど?
やっぱりアベやカメイと戦って死ぬつもりなんじゃないの、あんたらは」
ミキの喉がぎゅっと収縮する。息が詰まり、言葉も詰まった。
それでも殴りかかろうとは思わなかった。
口喧嘩は嫌いではない。負けたこともあまりない。
だが―――口喧嘩で負けたから手を出すというのはプライドが許さなかった。
そんなことをするくらいなら、黙って引き下がった方が、いくらかいい。
アヤが言葉を引き取った。
「そういや、マキちゃんには訊いてなかったね。あんたもSSに恨みがあるの?
施設にいたからテラダやカメイを恨んでるってのはわかる気がするけど、
本当にそれだけ? それとも『究極のモーニング娘。』ってのを阻止したいの?
あたしには、あんたがそういうタイプの人間には見えないんだけどね。
もしかしてもっと別の―――何か個人的な理由があるんじゃないの?」
今度はマキが黙り込む番だった。
全ての発端となったテラダとカメイは確かに憎い。
だがそれ以上に、イチイを殺したアベのことが憎かった。
やつらを殺すことが―――今のマキの生きる理由の全てと言ってもよかった。
- 144 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:20
- もう二度と他人には干渉しない。何度そう心に誓っただろうか。
だがそれを守ることが、いかに難しいことか、マキは何度も思い知らされていた。
振りほどいても振りほどいても「関係性」という名の鎖はなかなかマキを自由にはしない。
アヤとミキ。この世にGAMを作り出したこの二人も、マキとは無関係ではなかった。
この二人を殺せば自分は自由になれるのだろうか。
あの時のテラダの言葉が心に響く。
「―――お前に関係する全ての人間を殺すことや」
「それが『自由』っていうもんやろ?」
その内面の問い掛けに対して、一度は「違う」とマキは答えた。
アヤを殺すことが、ミキを殺すことが、自由を意味するのではない。それは幻想だ。
自分の力で何かを変えたとしても、自分の人生がリセットされるわけではない。
イチイが生き返るわけではないのだ。
それでもマキは戦うことを止めることができない。
DNAの奥底から噴出してくる戦意を留めることができない。
その牙を、今はGAMに向けるべきなのか? それともSSに向けるべきなのか?
マキの脳裏に、死の直前にあったイチイの顔が浮かんだ。
決して美しくはない、むしろこれ以上はないくらい醜く腫れ上がった顔。
血にまみれ、ところどころ骨が砕けていた、やせ細ったか弱い体。
彼女の命を奪ったのは誰だ? 魂を砕いたのは誰だ? 誰だ? 誰だ? 誰だ?
- 145 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:20
- マキの心は決まった。
その決断のためなら何でも利用しようと思った―――たとえ鬼畜でも。
「あたしもそこに行く」
「え?」
「あんたらじゃ、あの赤い霧は倒せない。殺されるだけだよ」
「ふふん。言ってくれるねえ・・・・・・」
「アベはあたしが殺す。誰にも邪魔させない」
「ま、あんたが付いて来たいっていうなら、あたしは別に構わないけどね」
そう言いながらもアヤは嬉しかった。
何かと何かが極上のバランスで釣り合っているような、そんな際どい感覚が体を貫いた。
マキを殺したいアヤ。アヤを殺したいマキ。見事に釣り合っている。
アベを殺したいアヤ。アベを殺したいマキ。見事に釣り合っている。
いまだかつて味わったことがない、眩暈がするような陶酔感だった。
発狂しそうなほどの美しさに、アヤは軽く溺れた。
実際、物事というものは何かが狂う直前が、一番美しいのかもしれない―――
アヤは美しいものが好きだった。マキが同行するということに異論はない。
たとえマキが―――どれほどアヤを殺したいと欲していたとしても、だ。
美しさは優先される。全ての、いかなる感情に対しても。
- 146 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:21
- 「じゃ、三人でSSのアジトに向かうってことで、それでいいかな、ミキたん?」
「別にいいよ。何か特別に準備するものある?」
ミキはマキを連れていくということに関してはどうとも思わなかった。
どうせSSを潰した後でマキには借りを返さなければならない。
むしろ探す手間が省けていいと思った。
それよりも、あの霧に対して何か特別な武器が必要ではないかと思っていた。
アヤは一度あの霧を見ている。何か対策があるのではと思って訊いてみたのだが、
アヤの答えは実にあっさりとしたものだった。
「ないね。いつもと同じでいいよ。マキちゃんの方は何かある?」
「この子がいればいい」
マキは隣にちょこんと座っている黒い犬の頭を撫でた。
やはり似ている。そう思ったアヤは、おもむろに犬笛を取り出して吹いた。
ゼロがぴくりと反応した。廊下からとてとてと駆けてくる小さな気配に気を向ける。
Nothingと同じように毛が伸びつつある白い子犬は、
ゼロの姿を見て、即座に回れ右をする。そしてコハルの背後に隠れた。
ゼロはゼロで、普段にはないような吠え方をしてなかなか落ち着かなかった。
その態度を見て、マキはピンと来るものがあった。
「ちょっと。その犬ってもしかして・・・・・・」
- 147 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:21
- アヤは必死で逃げようとする子犬をコハルの後ろから引っ張り出すと、
強引にゼロの鼻先に突きつけた。ゼロが子犬の顔をべろべろと舌でなめる。
子犬は硬直し、今にも泣きだしそうな顔をした。
思う存分ゼロに舐めさせると、アヤはさっと子犬を抱き上げた。
「父親との対面はこれくらいでいいでしょう」
「マジで?」
マキが思わず素に戻った。
ゼロに子供がいるとは思わなかった。だが似ている。
前にこの子犬を見た時もそう思ったが、ゼロと並べて見るとはっきりとわかる。
そしてその子犬には、アヤが飼っていたあの白い犬の面影も強かった。
「うわあ・・・その子の名前・・・・・・なんていうの?」
マキは完全に一人の女の子に戻っていた。
アヤから子犬を受け取ると、鼻つらをちょんちょんと突いた。
施設にいた頃の―――ゼロにやっていたように。
穏やかな雰囲気を突き破って、コハルが元気よく答えた。
「その子の名前はですね、バージニアスリム!」
マキとアヤが同時にずっこけた。ミキはコハルの頭をパコーンと叩いた。
- 148 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:21
- アヤがマキに向けて手を振った。心なしか顔が赤い。
「今のはなし。却下。無視して。名前はあたしがつけるから」
マキも黙ってはいなかった。
「任せられないなあ。バージニアスリムって何よ? 変な名前つけないでよ」
「いや、だからコハルじゃなくて、あたしが別の名前つけるから大丈夫」
「でもバージニアスリムって」
「だから別のをつけるって、あたしが」
「いやいや。ゼロの子なんでしょ? だったら、あたしが名付けるよ」
「なんで? この子はNothingの子なんだから。あたしが名前をつけるの」
「バージニアスリムみたいなのを?」
「しつこいなあ」
急に会話のレベルが落ちる。醜い言い争いは収集がつかなくなってきた。
ミチシゲそれを呆れながら見つめているだけだった。
ミツイはもういない。既にカオリの体の解析に向かっているようだった。
コハルは二人の会話に飛び込み、自分こそが名付け親になると主張する。
見るに見かねたミキが大声を張り上げる。
「うるさーい! ちょっともう黙れよお前ら!!」
皆が一斉に黙り込み、ミキの顔を見る。時間が止まったような静けさが訪れる。
お前らには中間はないのか。心の中で毒づきながらミキは三人を諭した。
「その子の命名権だけど、コハルはダメ。うるさい。あんたはダメ。センスない。
元々、親犬の持ち主であるアヤかマキが名付けるのが、筋っていうもんだよ。
とにかくその子は置いていくんだろ? じゃあ帰って来てからつけよう。
戦いに行く前から二人でごちゃごちゃ揉めるなんて、勘弁してほしいからね。
だから帰って来てからつける。どっちがつけるかは向こうで決めればいいじゃん。
そうだ。あのアベとかいうやつの命を獲った方がつける。それで文句ないでしょ?」
- 149 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:21
- アヤもマキも、明らかに納得できていないような、渋い表情だった。
そんな二人の顔を見て、ミキは苦笑いを浮かべた。
やはりこの二人はポーカーフェイスではない。考えていることが全部顔に出る。
マキの場合は、単に感情の起伏に乏しいために、無表情に見えるのだろう。
カオリが殺されたことには動揺しないくせに、子犬の名前にはこだわる。
こいつもたいがい変な性格をしているなとミキは思った。
アヤは渋々といった感じでミキの意見を取り入れた。
「まあ、それでいいよ・・・・・どうせアベを殺すのはあたしだからね」
「あたしもそれでいいよ。理由はこいつと一緒でいい」
マキはアヤのことを指して「こいつ」と言った。
さすがに親しげに下の名前で呼ぶ気にはならないらしい。
嫌いなものは嫌いと意志表示する。素直といえば素直な性格だ。
案外そういったところがアヤとも合うのかもしれない。
とにかく決めることは決めた。ミキはさっと気持ちを切り替え、車のキーを取り出した。
「じゃあ、行こう。こういうのは早い方がいい」
ミキがチャラチャラとキーホルダーを揺らすと、ゼロが「うぉん」と一つ吠えた。
- 150 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:21
- ☆
- 151 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:21
- 「『まだエリには知らない事実がある』―――サユはそう考えてるかもしれませんね」
カメイはついに手に入れたイイダの血を手に、テラダと話し合っていた。
試験管をゆらゆらと振ると、真紅の液体は重々しくゆさゆさと揺れる。
準備は着々と進んでいた。
7人分の組織サンプルを混ぜ合わせる。
勿論、そのまま混ぜてしまえばあの施設の事故のように爆発する可能性が高い。
適応者であるアベの血をベースにして慎重に、一つ一つ混合を重ねる。
もう同じ失敗を繰り返すことはなかった。
「まあでも実際に、この七種混合ウイルスをアベに飲ませても、
まだ『究極のモーニング娘。』は完成せえへんっちゅうわけやろ。
ECO moniの連中にしたら、それで時間稼ぎをしてるつもりなんやろな」
まだ一つ欠けているピースがある。
だがそれが何であるか、エリとテラダには見当がついていた。ゴトウの血だ。
テラダはいつものPCを使ってゴトウの動きを適宜マークしていた。
今はゴトウはECO moniの本部である神社にいるようだ。
ミチシゲ達と一緒に、イイダを殺された善後策でも講じているのだろう。
彼女達が最終的に下す決断は―――テラダ達が望むものとなる可能性が高い。
- 152 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/10(木) 23:22
- 「ゴトウが動き出したで」
ゴトウの位置を示すオレンジのランプがゆっくりと神社から出ていく。
カオリを殺害してから半日以上が経過している。
ゴトウ達もそれなりに対策を立ててから行動を開始したのだろう。
だが、その光が向かうのはやはり、テラダ達が待つアジトがある方向のようだ。
既にテラダはこの事態を見越して、ECO moniの耳に入るように、
様々なチャンネルを通じて、自分達がどこにいるのかという情報を流していた。
UFAの命を受けたゴトウがウイルスの奪還に動き出すのは必然だろう。
「アベさんの準備は万端ですよね?」
「さあな。あいつの考えてることはわからんわ。でもやるときはやるやろ」
「ヤグチさんは?」
「あいつは張り切ってるわ。『ゴトウはあたしが殺る』とかいきがってたで」
「ウエヘヘヘ。それは頼もしい限りですねー」
カメイの言葉は皮肉ではなかった。ゴトウが一人で来るとは限らない。
コハルやミツイといった連中と一緒に来る可能性はかなり高いだろう。
ヤグチにもしっかり働いてもらわないと少々面倒なことになる。
「なに言うてるねん」テラダはそんなカメイの心中などお見通しだった。
いつもならそれでも構わないと思っただろうが、今は違う。最終局面なのだ。
「お前にも働いてもらわな困るで。守護獣とやらの一匹や二匹は片付けてくれなな」
カメイはその言葉には答えず―――ただウエヘヘヘと下品に笑った。
- 153 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/10(木) 23:22
- ★
- 154 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/10(木) 23:22
- ★
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/10(木) 23:22
- ★
- 156 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:24
- 「裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を」
このルールを作ったのはナカザワだった。
彼女は、ごちゃごちゃと理屈をこねる口先だけの人間が大嫌いだった。
人間は、何を言ったかではなく、何をしたかで価値が決まると考えていた。
だがそういった価値観の下で行動するのは生半可なことではなかった。
人間の意志伝達というのは99%が言葉を通じて行われる。
そして同様に、自己表現というものの大部分も言葉で行われるのだ。
言葉以外のものを信じて生きていくというのは、簡単なことではない。
鬼のように豪胆な忍耐力と、天使のように繊細な洞察力が必要とされた。
それでも彼女はその信念に忠実に生きた。
いかなるときにも、軽い言葉や一時的な感情に惑わされることはなかった。
そしてその信念に殉じて―――死んだ。
ナカザワは最後の瞬間まで「あたしはみんなを信じている」と言ったという。
それを笑い飛ばしたマリには、彼女の言葉の意味が一生わからないだろう。
信念に殉じて生きるということが、どういうことなのか。
どれほど重いことなのか。
その言葉の圧倒的な重さを前に、ヨシザワの心は押し潰されそうになった。
- 157 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:24
- ヨシザワは、面と向かってナカザワから「信じている」などと言われたことはない。
ナカザワはそんな軽い言葉だけのやりとりを嫌っていた。
いつだってナカザワは信頼という言葉を、身を持って示していた。
それに気付く者もいれば―――気付かない者もいたが。
「裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を」
これまで何度となく口にしてきた言葉だ。
だがヨシザワは、初めてその言葉の重さが理解できたような気がした。
誰かを殺すということは、誰かを信用するということと同じくらい重い。
それら全てを背負って、自分の信念に殉じるということが、ここまで重いものだとは。
ナカザワは誰にも理解されることないまま、ずっとその重さを背負い続けていたのだ。
ナカザワは死んだ。全てはもう、遅きに失したのかもしれない。
それでもヨシザワは、ナカザワの信義に応えたいと思った。
ナカザワが示した価値を、その身に受け継ぎたいと感じた。
それはフォースという大組織を継ぐことよりも、遥かに意味のあることだろう。
信義に応えるのなら、それもまた信義をもって示すより他にない。
ヨシザワは決めた。
「裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を」
ヨシザワは捨てた。カゴに対する言葉と感情を捨てた。
- 158 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:24
- 「リカちゃん、終わったよ」
薄く膜が張っていたようなイシカワの目が、ゆっくりと晴れていく。
それに従ってイシカワの意識もはっきりとしていった。
目の前にいるヨシザワの手には、もう拳銃は握られていなかった。
だがそんな変化は、イシカワの目に映った変化の中でも最も些細なものだった。
イシカワの目は、それ以上に激しく変化しているヨシザワの表情を、はっきりと捕らえていた。
ヨシザワにいつものような明るさはない。
暗く沈みながらも、どこか決然とした覚悟を秘めた表情。
どこかで見た覚えがある。一度だけ見たような記憶がある。
あれは確か―――ツジに制裁を加える直前の表情ではなかっただろうか。
イシカワにはそれで十分だった。
彼女もまた、言葉を信じない人間の一人だった。
イシカワの異常に発達した視力は、言葉では言い表せないような
細かなニュアンスを十分に汲み取る力があった。
その視線によって解析される映像は、どんな言葉よりも雄弁に、物事の本質を語っていた。
そう。周囲の言葉は彼女の耳に届くことはあっても心に届くことはない。
彼女はいつだって言葉の奥底にあるものだけを見つめていた。
イシカワは自分の言葉がヨシザワの心に届いたことを知った。
だが喜びの感情など一切なかった。
ヨシザワがツジの死の真実を知ったという事実は、ただイシカワの心を暗くするだけだった。
- 159 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:24
- 「ケリはあたしがつける」
その一言で、肩の荷が幾分軽くなったように、ヨシザワは感じた。
大切なものを一つ一つ積み上げていくのは大変なことだ。
肉体的にも精神的にも重労働だし、守るべきものがどんどん大きくなるというのは、
それに従って不安やプレッシャーが大きくなっていくことをも意味する。
だが壊す時は一瞬だ。苦痛や後悔を感じる暇もない。
四年近くの月日をかけて積み上げた「フォース」という名の城も、
ヨシザワのたった一つの決断であっけなく瓦解していく。
店や建物は残るかもしれない。人も残るかもしれない。
「フォース」という名前も残るかもしれない。
だがナカザワもツジもそしてカゴもいない組織など―――
ヨシザワにとっては「フォース」足り得なかった。
それでもヨシザワは自分の決断を後悔するつもりはなかった。
たとえどんなに大切なものであっても、終わるべき時には終わるべきなのだ。
自分が大切にしていたのはフォースという入れ物ではない。
中身が消えた箱を、後生大事に持っていることに、何の意味があるのだろうか。
入れる物がない箱など、とっとと潰してしまった方がいい。
「全部あたしがやるよ。リカちゃんにはそれを見届けてほしい」
- 160 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:24
- ☆
- 161 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:24
- ヨシザワは今回の件に関して、イシカワに何も相談しなかった。
イシカワが話した以上のことを聞こうとはしなかった。
何も言わずに車に乗り込み、隣にイシカワを乗せてフォースへと向かう。
太陽が一番高く上る時間帯だった。まだ店には誰もいないかもしれない。
イシカワは、自分がヨシザワに信頼されていないとは思わなかった。
だがヨシザワの心の中には、明らかにイシカワの侵入を拒んでいる領域が存在していた。
何人なりとも侵入することはできない神聖なエリアだった。
おそらく、カゴやツジやナカザワでさえも―――そこに立ち入ることはできないのだろう。
イシカワにはただ見つめることしかできなかった。
じっとヨシザワの心を見つめることしかできなかった。
だがイシカワの超常的な視力をもってしても、
ヨシザワの心の一番深い部分を見ることはできなかった。
人の心を覗くことはできない。
ナカザワの心の強さを見ることができなかったように。
ツジの心の苦悶を見ることができなかったように。
カゴの心の暗闇を見ることができなかったように。
そして今、ヨシザワの心の葛藤を見ることができないように。
キャリアとして得た超能力なんてちっぽけな力だ。
人間の切実な思いに比べれば、塵芥のようなものでしかない。
イシカワは心からそう思った。
- 162 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:24
- ヨシザワはカゴやマリのような小細工はしなかった。
謀略を駆使して二人をはめるような回りくどいことはしなかった。
もしかしたら、ヨシザワの中では今回の件は既に「終わったこと」なのかもしれない。
ヨシザワにとっては決断を下すことが全てだった。
それに比べれば、実際に手を汚すなんていうことは、おまけのようなものだ。
大事なのは自分が何を為すべきかということを、
逃げずに直視することなのだ。自覚することなのだ。
その一番大切で一番難しい部分を乗り越えたヨシザワには、心理的な困難は残っていなかった。
だからヨシザワは―――ただ真っ直ぐにカゴの下に向かうだけでよかった。
イシカワを従えて、何の準備をすることもなくカゴに向き合うだけでよかった。
実際、その時のヨシザワはあらゆる意味で手ぶらだった。
ヨシザワには、カゴを使ってマリをおびき寄せるとかいったことも頭になかった。
勿論、マリは憎い。殺しても飽き足らないくらい憎い。
だがその「憎い」という感情は率直なものであり、心中で飼い馴らすことは困難ではなかった。
一方カゴに対する思いというのはとても一言では言い表せない。
心の中で飼い馴らすこともできなかった。
ならば―――直接本人にぶつけるしかないだろう。
ヨシザワはいつもの駐車場には入らず、ビルの裏側にそっと車を停めた。
あとは25階へと続く階段を上っていくだけでよかった。
- 163 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:25
- ヨシザワはノックもせずに支配人室のドアを開けた。
床の上に、ナイフを突き立てられたナカザワの死体が横たわっているような気がした。
もちろん、それは錯覚だが、かつてここにその死体があったことは事実だ。
あの時のカーペットは染み込んだ血がなかなか消えず、結局新しいものと交換された。
だが人間の心にはカーペットのように取り換えの利く部分などありはしない。
ヨシザワは血がしみていた辺りの床をギュッと踏みしめた。
イシカワもそれに続いて部屋の中に入った。
デスクで事務仕事をしていたカゴが顔を上げる。
店が終わったのは明け方のはずだが、ずっと今まで一人で書類仕事をしていたようだ。
支配人になる前に比べれば、貫禄のついたカゴの体は、
一回り以上大きくなっているように見えた。
だが丸顔の中央に配されたつぶらな瞳は、昔と何ら変わらぬ無邪気さを感じさせる。
イシカワは思わずカゴの瞳から目を逸らしてしまった。
今はもう昔のようにカゴの目に光る力を信用することはできない。
その奥底にあるどす黒い部分を直視してしまうだろう。
イシカワにはカゴのその無邪気な黒さがたまらなく怖かった。
一度その目の魅力の虜となってしまえば、二度と目が離せなくなるような気がした。
カゴの黒さが網膜に焼き付いて、一生消えなくなるような気がした。
- 164 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:25
- 「なんや。こんな時間に誰かと思ったらヨッスィーとリカちゃんやんけ。どうしたん?
変な時間に来るなあリカちゃん。またここで働きたくなったんか? 今やったらええで。
店はどこもかしこも人が足りてへんねん。コハルとかも来てくれたら大歓迎するけど・・・」
商売人じみたことを言いながらも、カゴの表情は少しずつ曇っていく。
二人の様子がただならぬものであることを敏感に察していた。
マリが消えた今、この店でカゴの頭を押さえることができるのはヨシザワしかいない。
何か良からぬ話を持ってきたことは予想できた。
そしてその隣にイシカワがいることが―――何よりもカゴの気に障った。
フォースに紛れ込んだ異分子、イシカワ。
こいつは紛れもなくどこかの組織から送られてきた偵察要員だ。
何を探っているのかは知らない。
だが、フォースにとって友好的な存在ではないことは間違いないだろう。
こうやって舞い戻って来た以上、また何かを探りに来たに決まっている。
そんなイシカワの背後関係を知りながら、
親しげに付き合っているヨシザワの気がしれなかった。
- 165 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:25
- なぜヨシザワは、自分ではなくイシカワの方に顔を向けるのだろうか。
何がそこまでヨシザワの気を引くのだろうか。
なぜ自分では―――ダメなのだろうか。
カゴはヨシザワが自分を愛していないことが大いに気に入らなかった。
ナカザワもそうだった。ツジもそうだった。そしてヨシザワも同じだ。
三年以上もこの関東地方で生死を共にして来ながら、誰も自分のことを信用してくれない。
皆、ナカザワの言うことに素直に従い、ヨシザワのことをリスペクトしている。
そしてよってたかってツジのことをちやほやと甘やかす。
自分だけだ。自分だけが誰からも認められていない。愛されていない。
だからカゴもまた、誰のことも信用しなかったし、誰のことも愛さなかった。
愛されなかったから愛さなかったのだ。
愛さなかったから愛されなかったのではないはずだ。
それでもまだツジやヨシザワのことなら仕方がないと思えた。
だが新参のイシカワにまで同じような扱いを受けるのは―――
どうにも我慢がならなかった。
- 166 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:25
- 「なんやねん、お前ら。黙っとらんと何か言えや」
沈黙を続ける二人に対して、カゴは苛立たしげに声を荒げた。
それでもヨシザワは答えない。ヨシザワは既にカゴに対する言葉を捨てていた。
捨てるのだと心に強く言い聞かせていた。
そう強く意識していないと―――無数の言葉が溢れ出てしまいそうだった。
なぜ仲間を裏切った?
なぜナカザワさんを殺した?
なぜツジに罪をなすりつけた?
なぜあたしを欺いた?
そこまでして――――何が欲しかった? お前は何を手に入れた?
そう問い掛ければ、きっとカゴは答えを用意しているだろう。
誰が聞いても納得できるような、綺麗な答えを用意しているかもしれない。
だがヨシザワが聞きたいのはそんな小綺麗な言葉ではなかった。
そんな言葉を聞いたとしても、きっと自分とカゴが違う人間なんだとういう
当たり前の事実を再確認することしかできないだろう。
もうとっくの昔に四人の関係は終わっていたのだ。
それをどこで区切るかなんていうことは、個人の解釈でしかなく、意味がない。
一つだけはっきりしているのは、関係を終わらせたのはカゴの方だということだ。
そこだけは間違ってはいけない。どんな理屈も逃げ道も許してはならない。
もうヨシザワには、カゴに対する言葉は一つしか残っていなかった。
「裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を」
- 167 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:25
- さあっと音を立てそうな勢いでカゴの顔色が変わった。
その表情を見て、イシカワはアベの言ったことが真実であることを再確認した。
嘘の下手な女の子。
だがイシカワはそんな嘘の下手な女の嘘を見抜けなかったのだ。
あのとき、ツジに罪をなすりつけていたことを見抜けなかったのだ。
いや、もしかしたらあの時、カゴは本気でツジが悪いのだと思っていたのかもしれない。
少なくともあの時のカゴの表情から、罪悪感を見出すことはできなかった。
カゴは本気で怒っていた。本気でツジのことを罵倒していたのだ。
そして、まるでそうなるのが当然のことであるかのように、
ナカザワとツジを死へと追いやったのだ。
もしあの時のカゴの心の中を覗くことができていたのなら―――
一体そこにはどれほどの虚無が佇んでいたのだろうか。
イシカワは背筋が凍えるような寒さを覚えた。
カゴのつぶらな瞳が、黒く深い底なし沼のように見えた。
全ての事象を飲みこんで無に帰す、ブラックホールの入り口のように見えた。
それでもイシカワはもう目を逸らすことはなかった。
見届けるのだ。これからヨシザワがやることをしっかりと見届けるのだ。
焼き付いて一生消えなくなるのなら、それもいい。一生見続けてやろう。
カゴを糾弾した自分には、その義務がある。イシカワはそう思った。
- 168 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:25
- カゴは魂が抜けたような目でヨシザワの顔を見つめている。
生気のない表情だった。だがそこには生気とはまた違った、
荒んだ覇気とも言うべき強い力が満ちているように見えた。
人を奈落の底へと呼び寄せるような、悪魔のように魅惑的な表情だった。
カゴ唇をゆがめる。どうやら笑った表情を作りたかったらしい。
だがイシカワの目には、カゴの顔が最後のバランスを崩したように見えた。
もうその笑顔には―――昔のような無邪気さはなかった。
「言い訳は一切聞かへんっちゅう顔してんな。ホンマにそれでええんか?
なんでうちがお前らを裏切ったのか、その理由を聞きたくはないんか?」
カゴはあっさりと自分が裏切ったことを認めた。
もしかしたらこの瞬間が来ることを、ずっと待っていたのかもしれない。
こうやってヨシザワと正面切って対決することを望んでいたのかもしれない。
いつだってカゴは何かと正面から向き合うことを避けていた。
そうやって人の背中に隠れながら生きてきた。
それが楽な生き方だと思う一方で、どこか物足りなさも感じていたのだろう。
いつかどこかでこうやって、自分の本性を引っ張り出してくれる人間が現れることを、
ずっと待ち続けていたのかもしれない―――
- 169 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:25
- だが全ては遅かった。カゴは既にナカザワとツジを失っている。
そして今、ヨシザワのことも失おうとしている。
カゴにはもう何も残っていない。正真正銘の一人だった。
確かにカゴにはフォースという店がある。彼女はそこのオーナーだ。
だがそれが何になる? 彼女の人生にとって一体何になるというのだろうか。
もはや彼女の店に周りには、金と欲にむらがる亡者しかついていなかった。
それでもカゴは叫びたかった。全てを失っても構わない。
亡者に骨の髄までしゃぶられて、何も残らなかったとしても構わない。
ヨシザワに向かって心の中に淀んでいる澱を思いっきりぶつけたかった。
聞いてほしかった。
自分がここで生きている理由を、存在している理由を、誰かに聞いてほしかった。
誰でもいいなんて言わない。
ヨシザワだ。今となってはヨシザワしかいない。
ヨシザワに向かって、ナカザワとツジを殺したのは自分だと、声高らかに告げたかった。
自分がツジとナカザワを殺した理由。
そんなものはヨシザワには理解できないだろう。絶対に理解できない。
他人から見つめられ、評価され、愛されることに慣れ切ったお前には、
絶対に理解できないんだということを、思いっきりぶつけてやりたかった。
- 170 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:26
- ヨシザワは真一文字に唇を結んだまま、手にした拳銃を持ち上げた。
どんな表情をしているのか、ヨシザワの背後にいるイシカワには見えない。
イシカワは一歩後ろに下がって、ドアの陰に身を寄せた。
邪魔はしたくない。きっとここからは、ヨシザワとカゴ、二人だけの領域だ。
「ふん。それがお前の答えなんか」
カゴはデスクから立ちあがった。
その小柄な体に似合わぬような、強烈で禍々しいオーラをまとっていた。
髪の毛をお団子状にまとめていた二つのリボンをカゴは解いていく。
それが、カゴが臨戦態勢に入る時の一つの儀式であることをヨシザワは知っていたが、
あえてその前に仕掛けるようなことはしなかった。
「相変わらず甘いやっちゃな」
ヨシザワはカゴの体勢が整うまで待っている。カゴもそれに気付いている。
カゴはあえてゆっくりと髪の毛を解いていった。
視界の端でイシカワが扉の向こう側に消えるのが見えた。
まあ、いいだろう。イシカワのことは、ヨシザワを始末した後でいい。
簡単なことや。わかりやすい話や。
自分が勝てば何も変わらない。フォースは完全に自分一人のものだ。
自分が負ければそれでお終い。フォースだけではなく命も失う。
今までだってそういったことを繰り返してここまでやってきたのだ。
ただ相手がヨシザワというだけで、いつもの仕事と変わることは何もない。
カゴもまた、ヨシザワに対する言葉と感情を捨てた。
- 171 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:26
- ヨシザワの拳銃が火を噴いた。
リボルバーから六発の銃弾が連続して発射される。
弾道は、確実に人体に致命傷を与えるような急所へと、正確に導かれていく。
弾丸はカゴの眼前で弾き返される。鋼のようなカゴの黒髪がそこに舞っていた。
火花が散り、髪が焼け溶けたときの焦げ臭いにおいがカゴの鼻を突いた。
カゴは動かない。ヨシザワの性格ならば誰よりもよく知っている。
だからカゴは、ヨシザワが歩み寄ってくるのをただ待っているだけでよかった。
相手が待ち構えていることがわかっていながら、
それでもヨシザワは悠々とカゴに向けて歩み寄っていった。
はなから拳銃でカゴの命が取れるなどとは考えていない。
そんなものは単なる挨拶代わりでしかない。
カゴの命は自分の手でもって断ち切る―――ツジを殺したときと同じように。
強い意志を込めたヨシザワの顔を見た時、カゴの心に突如として歓喜の泉が湧いた。
ああ、やっぱりこいつはヨシザワヒトミだ。
あたしが愛した、あたしが愛されたいと願った、ヨシザワヒトミその人だ。
ノンの仇がとりたいんやろ? ナカザワの仇がとりたいんやろ?
その手でうちの命を断ち切りたいんやろ? ノンと同じように殺りたいんやろ?
正々堂々、正面からあたしのことを殺したいんやろ?
なら来いや。もっと近くまで。もっと、もっと、もっと近くまで来いやぁ!
- 172 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:26
- カゴはヨシザワのことをよく知っていた。
キャリアとしての彼女の特殊能力が何であるのかも知っていた。
その能力は、肉弾戦においてはある種万能とも言える能力だった。
たとえ戦車があったとしても、ヨシザワを殺すのは簡単なことではない。
それでも―――それでもうちにはこの髪の毛がある。
カゴの髪の毛が孔雀の羽根のように放射状に広がった。
ツジを押さえつけた時のように、量で圧倒するのは得策ではない。
力づくの戦いになれば、ヨシザワに有利に展開するのは間違いないだろう。
ヨシザワとの戦いにおいてはもっと繊細な技術が必要とされる。
文字通り―――針の穴に糸を通すような技術が。
カゴの意志を帯びた黒髪が渦潮のような流れを作りながらヨシザワを包む。
だがそれらの髪の毛の動きは全てトラップだった。撒き餌だった。
ヨシザワが両手を広げて髪の毛をわしづかみにする。
尋常な膂力ではなかった。カゴの髪の毛がまとめて引きちぎられる。
ピアノ線並の硬度を持ったカゴの髪の毛も、ヨシザワの掌を傷つけることはできない。
だがその一瞬、ヨシザワの防御網に僅かなほころびが生まれた。
文字通り―――針の穴のような小さな穴が。
カゴのまつ毛が伸びる。数メートルの長さまで伸びたまつ毛は、正確に針の穴を通った。
針の穴の先には―――ヨシザワの瞳があった。
- 173 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:26
- 生死を賭けた戦いの最中には時間がゆっくり流れるものだ。
コンマ何秒かの動きが、まるでコマ送りのようにはっきりと見える。
ヨシザワの網膜には、カゴのまつ毛が飛んでくる様がはっきりと映っていた。
ヨシザワもまたカゴの性格はよく知っていた。
カゴの特殊能力が何であるかも知っていたし、戦い方も熟知していた。
そして戦いにおける引き出しの多さという点に関しては、
フォースで何度となくファイトを行ってきたヨシザワの方が遥かに上だった。
だからヨシザワはカゴの撒き餌を即座に見抜いた。
見抜くと同時にそれを最大限に利用して切り返す術も繰り出せた。
ヨシザワはカゴのトラップに大胆にのっかかり、あえて自分の防御網に隙を作る。
カゴのまつ毛は正確に防御網の穴を突いてきた。
ヨシザワはカゴの洞察力と技術の高さを信頼していた。
あえて開けた穴に気付き―――そこを寸分の狂いもなく攻めてくるであろうと。
針金のような強度となったまつ毛がヨシザワの右の瞳に突き刺さる。
恐怖。痛み。そんなものはファイトを生業とするヨシザワにとっては、
容易に飼い馴らすことができる感覚だった。
来る場所がわかっていれば、それなりに準備ができるし、耐えることもできる。
自分の眼球が刺し貫かれる感覚を味わいながら、ヨシザワは攻勢に転じた。
- 174 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:26
- 痛い。確かに痛みは激しかった。
だがヨシザワは―――この程度の傷では人間は失明しないことも知っていた。
あえて自分から目の中に異物を取り込むという恐怖心を、抑え込むことができるか。
問題はそれだけだった。
ヨシザワは一時的に右の視界を捨てて、カゴの前に出る。
狼狽するカゴの表情が左の目ではっきりと見ることができた。
反転攻勢の間など与えない。肩でフェイントを仕掛け、相手の退路を断つ。
重い気持ちを乗せたヨシザワの拳がカゴの体幹へと伸びた。
唸りを上げたパンチがカゴの下半身に突き刺さる。
ヨシザワのパンチは主にカゴのボディに向けられていた。
髪の毛やまつ毛に近い頭部は狙わない。
肝臓。心臓。膵臓。そういった内臓目掛けて正確なパンチを炸裂させた。
いつものリズミカルなヨシザワのパンチではなかった。
テンポなど無視して、左右の拳をあらんかぎりの力で叩きつける。
カゴは全精力を動員して、ボディをガードした。
髪の毛以外の部分は生身の体なのだ。
このままではとてもヨシザワの攻撃には耐えられない。
カゴは、体に微かに生えている体毛を逆立てて、鋼のごとく硬化する。
並の攻撃であればこれで十分にガードできるだけの防御力があった。
- 175 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:26
- だがヨシザワの打撃は明らかに「並」ではなかった。
ハリネズミのように逆立つカゴの体毛を突き抜けて、鋭いパンチが突き刺さる。
銃弾をも跳ね返すカゴの体毛ガードを真正面から突き破る。
剣山のようなカゴの体毛を叩きながらも、その攻撃は全くゆるまない。
尖った体毛が突き刺さり、ヨシザワの拳の表皮をざっくりと裂いていく。
それでもヨシザワは、両手の拳を血で真っ赤に腫らしながら、鬼神のようにカゴを叩き続けた。
ガードを突き抜けて伝わる衝撃は、カゴの内臓に甚大なダメージを与える。
もう数秒、カゴの髪の毛が生え替わるのが遅かったら、カゴは気絶していただろう。
だが異常に発達したカゴの髪の毛は、むしり取られてから数秒で再生することが可能だった。
禿げ上がったカゴの頭皮から再び黒髪が湧き出てくる。
カゴにはもう、細かい駆け引きをする余裕はなかった。
生命の危機に陥った野生動物がそうするように、生存本能のままに全精力を相手にぶつけた。
湧き出てきた全ての髪の毛をヨシザワの体に荒々しく絡みつけていく。
それでもヨシザワは狂ったようにパンチを放ち続ける。
もうこの状況では能力も技術もクソもない。
どちらが正しいかという理屈も、相手を許せないという感情も関係ない。
体力の強い方が勝つ。気力の強い方が勝つ。生命力の強い方が勝つ。
この世に存在し続けるんだという意志の強い方が最後に残るのだ。
カゴとヨシザワはその意志の強さを競い合うように、お互い言葉にならない雄叫びを上げた。
- 176 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/12(土) 23:27
- カゴは絶叫しながら、からみつけた髪の毛を操って、
なんとかヨシザワの体を自分から引き離そうとする。
間合いだ。間合いさえこちらのモノにできれば、この打撃の威力は半減する。
カゴは渾身の力で引き離そうとし、それが無理と見れば今度は引き寄せようとする。
だがヨシザワは動かない。間合いを保ったまま攻撃を続ける。
ヨシザワの馬力が並の人間のそれではないことは知っていた。
それでもカゴは自分の髪の毛の力をもってすれば抑えつけられると信じていた。
カゴは髪の毛の一端を部屋の柱に縛り付け、力の限りヨシザワをそちらに引っ張ろうとする。
だがヨシザワの攻撃は止まらない。異様な迫力の籠った攻撃だった。
ふとカゴの視界にヨシザワの表情が映る。
ヨシザワは文字通り狂ったように攻撃を続けていた。
実際に――――狂っていたのかもしれない。発狂していたのかもしれない。
ヨシザワの体の運びは、明らかに自分の退路を断ったものだった。
自分が生きて帰れるゾーンを、全くキープしていない者の動きだった。
ヨシザワの顔は笑っていた。底が抜けたような笑顔だった。
フォースを立ち上げた頃の、四人でバカばっかりやってた頃の、爽快な笑みだった。
おそらくヨシザワは自分では気付いていないだろう。
自分があんな笑顔をしながら戦っているなんて思ってはいまい。
そして今―――自分はどんな顔をしているのだろうとカゴは思った。
- 177 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/12(土) 23:27
- ★
- 178 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/12(土) 23:27
- ★
- 179 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/12(土) 23:27
- ★
- 180 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:09
- 笑いながら自分を殺そうとしているヨシザワを見て、
カゴは自分も笑うべきなのだろうかと思った。
笑うよりも泣く方がこの場に相応しいように思えるのだろうが、どうだろうか。
ナカザワとツジを殺した時。あの時、自分はもう二度と泣かないと心に決めた。
だからきっと今も自分は泣いていないだろう。
泣きそうな顔もしていないだろう。そんな弱い顔はしていないはずだ。
だけど今のヨシザワのように、何もかも忘れて笑うこともできない。
きっと自分は―――もう二度とあんな顔では笑えない。
ヨシザワは笑っていた。だが楽しそうには見えない。嬉しそうにも見えない。
ではなぜヨシザワは笑いながら戦っているのだろうか。
皮肉か。嘲笑か。いや、そんな笑いをするほどヨシザワの性格はひねくれていない。
むかつくくらいあっさりしているのがヨシザワの性格なのだ。
笑いたくないときに笑うような人間ではなかったはずだ。
ヨシザワの攻撃は止まらない。バカみたいに単調な攻撃だった。
狂ったんか。あいつマジで狂ってもうたんか。
カゴは殴られながら呆れていた。蹴られながら呆れていた。
やっぱりこいつは変わらんわ。出会った頃から全然変わってへん。
アホなヨシザワのままや。狂おうがどうなろうが、きっとそれは変わらへん。
なんで変わらへんねやろな。うちに裏切られても。フォースが消えても。
こいつは何も変わらへん。ヨシザワヒトミのままや。ホンマ、アホやでこいつ。
カゴは気付いていない。
いつしか自分の顔の上には、ヨシザワと同じような狂気に満ちた笑みが浮かんでいたことに。
- 181 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:10
- カゴの髪の毛の力では、ヨシザワの攻撃を止めることはできなかった。
ヨシザワはからみつく髪の毛もそのままに、攻撃を続ける。
爽快な笑みは、いつしか般若のような笑みへと変わっていった。
命を削りながら繰り出してくるヨシザワの攻撃は、
確実にカゴの肉体にダメージを蓄積させていく。
その時、ヨシザワの体に絡み付いていた髪の毛の一部がするすると解けた。
カゴは髪の毛でヨシザワの体を拘束することを諦めた。
髪の毛で攻撃をガードすることも諦めた。
どれだけ硬度を増しても、ヨシザワのラッシュを押しとどめることはできない。
ヨシザワのパンチによってカゴの内臓が破壊されるまであと数秒。
その数秒にカゴは賭けた。
カゴは一時的に防御を緩め、攻撃に最大限の力を集めた。
解けた髪の毛が、固く食いしばったヨシザワの歯の隙間から口の中へと入っていく。
体内に入っていく髪の毛を、ヨシザワは押しとどめることはできない。
文字通り「髪の毛一本の隙間」があれば、そこからカゴの髪の毛は侵入していく。
ヨシザワもまた防御することを捨てて、渾身の攻撃を続けた。
カゴと自分。どちらかの死が近いことを悟りながら。
- 182 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:10
- カゴは、ヨシザワの喉から侵入させた髪の毛を、肺の方へと伸ばしていく。
あと数秒。あと数秒あれば気管を通った髪の毛が、肺胞へと届く。
いくらヨシザワが化け物のように強いとはいえ、
体の内部を鍛えることができるはずがない。
カゴは急ぐ。全神経を集中させる。
ヨシザワから受けたダメージは、カゴの肉体の限界量を超えようとしていた。
あと数秒。あと二発ほど打撃を受ければ、カゴの体は機能停止を余儀なくされる。
カゴの髪の毛がヨシザワの肺の内部まで届く。
すかさずカゴは、髪の毛を枝葉のように展開させ、肺胞へと絡みつかせていった。
ヨシザワのパンチがカゴの肝臓を抉る。息が止まりそうになった。
それでもカゴは歯を食いしばってヨシザワの打撃に耐えた。
最後の一線で踏みとどまった。
勝った。勝った。勝った。うちの方が一発分、速かった!
カゴは渾身の力を込めてヨシザワの肺を引き千切りにかかる。
ヨシザワの肺はピアノ線のように硬化した髪の毛によって裁断される。
カゴの脳裏にはそういったイメージがはっきり浮かんだが―――
現実にはそうならなかった。
- 183 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:10
- カゴの髪の毛はいささかも揺るがなかった。
どれだけ強い意志を込めても、全く動かなかった。
ヨシザワの内部に広がる髪の毛は、何物かによってがっちりと固定されて動かなかった。
そんなアホな! 体の内部を操れるなんて、そんな人間おるわけないやろ!
カゴがそんなことを思ったのはほんの一瞬だけだった。
ヨシザワのパンチが再びカゴの肝臓を襲う。
カゴの肝臓は、あばら骨ごとごっそりと抉られていった。
骨の折れる音がし、折れた骨が内臓を深く傷つけていく感触がした。
やがてカゴは失神し―――カゴの髪の毛も意志を失って、力なく元の髪の毛に戻った。
カゴが失神したことを確認すると、ヨシザワもまた、うつ伏せになって倒れた。
喉にからみつく髪の毛が呼吸を阻害し、軽い呼吸不全に陥った。
ヨシザワは何度も、何度もむせ返り、唾液と胃液を吐き出した。
肺にまで入り込んだ髪の毛を全て抜き取るまではかなりの時間がかかった。
途中から部屋に入ってきたイシカワにも手伝ってもらいながら、
全ての髪の毛を口から抜き取って一息突いた頃―――
カゴがうっそりと目を覚ました。
- 184 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:10
- カゴもまた、ヨシザワと同じように激しくむせた。
だがカゴが受けたダメージの深さはヨシザワの比ではなかった。
カゴの口からは真っ赤な鮮血が冗談のようにどばどばとこぼれ落ちた。
荒く乱れた息はなかなか整わない。
もしかしたら―――永遠に整うことはないのかもしれない。
カゴは生気も覇気も失せた表情で、ヨシザワとイシカワの方に目を向けた。
「負けや。負けや負けや負けや負けや。うちの負けや。クソッ・・・・・・・」
カゴは床に大の字になって倒れ、その後も言葉にならない言葉で何かを呪った。
イシカワはカゴの様子をざっと観察してみた。
顔色は真っ青だった。出血も酷い。
だが致命傷と言うまで酷い傷であるようにも見えなかった。
もしカゴが命を捨てて、本気でヨシザワの相手をする気があるのなら、
まだもう一踏ん張りくらいできそうなように見えた。
だがカゴはもう立ちあがろうとはしなかった。戦おうとはしなかった。
- 185 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:10
- なぜだろうか。
なぜカゴは立ちあがろうとしないのだろうか。
全てを捨ててまで、ヨシザワに立ち向かおうとしないのだろうか。
戦うことに意義を見出そうとしないのだろうか。
カゴの姿には「勝つ」とか「勝ち取る」という意識が見えなかった。
カゴは何のために戦っていたのだろうか。何を得るために戦っていたのだろうか。
そもそもカゴは―――戦うことを望んでいたのだろうか。
イシカワは不思議に思ったが、それをカゴに尋ねるような真似はしなかった。
きっとカゴ自身も―――その答えを知らないだろうと確信できたから。
薄っぺらだった。カゴの体が透けて見えた。カゴの中には何も入っていない。
彼女はこれまでの人生の中で何を積み上げてきたのだろうか?
イシカワにはそれが全く見えなかった。それが悲しくもあり、不憫でもあった。
そしてそれをカゴ本人に尋ねるのは―――あまりにも残酷なことのように思えた。
ヨシザワはイシカワの手を振り払って立ちあがる。
そしてカゴの横たわる耳元まで歩み寄っていった。
カゴとヨシザワの目が合う。
- 186 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:10
- 「もうええわ。うちはもう何も言わん。だからよっすぃーも、もう何も言うな」
それはもう強がりですらなかった。カゴは完全に何かを諦めていた。
生まれてこの方、自分が背負ってきた全ての荷物を放り出してしまったかのようだった。
死ねば全てから解放される。荷物を降ろせば楽になれる。
そう信じ切っている人間の目をしていた。
「うちはもうええわ。殺せ。何もいらんわ。金も命も何もいらん。はよ殺せ」
ヨシザワは立ちつくしたまま、ギュッと拳を握り締める。
その拳から血が滴り落ちそうなほど、固く固く握り締めていた。
ヨシザワは何度か言葉を発しようとして唇を緩め、そして再び固く閉じた。
結局ヨシザワの口から洩れたのは「んはぁ」という、
言葉にならないような息が漏れた音だけだった。
ヨシザワが手刀を構える。再びカゴと目と目が合う。
ヨシザワは目でカゴに問い掛けた。
だが最後の最後で、カゴはヨシザワからすっと目を逸らした―――
ヨシザワは歯を食いしばり、唇の端を膨らませて顔を歪める。
一拍の間をおいて―――
- 187 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:11
-
ヨシザワの手刀がカゴの眉間に飛んだ。
- 188 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:11
- ☆
- 189 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:11
- カゴの死体はフォースの入っているビルの裏側に埋めた。
その間、幸か不幸かフォースの従業員には一人も会わなかった。
警備が緩みきっている現状を、ヨシザワは複雑な思いで受け止めていた。
どちらにせよ、もうこの店は終わりだ。
こういった巨大組織は、トップがいなくなると崩れるのが早い。
ナカザワを失った組織がここまで持ったこと自体、奇跡的なことなのだ。
そしてフォースは今またカゴを失い、マリィは姿を消したままだ。
誰が後を引き継いだとしても、この店全体を束ねていくことはできないだろう。
後は有象無象の怪しげな人間がフォースの残飯とでもいうべきものを漁りにくる。
そいつらが去った後には何も残らないだろう。
ただ一つ、フォースがかろうじて存続する可能性があるとすれば、
それはヨシザワがトップとして店を統括した場合だろう。
だが勿論、ヨシザワにはこの店に残る気は全くなかった。
テラダのいた施設で事故に遭ってからおよそ四年。
ナカザワとツジとカゴと出会ってからの流転の日々。
長いようで短かった一つのサイクルが終わりを告げたのだ。
ヨシザワは死体を埋め終わると、墓標代わりにスコップを突き立てた。
スコップの向こう側で、夕日がゆっくりと沈んでいくのが見えた。
- 190 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:12
- 「これで終わりだね」
ヨシザワの横顔に曇りはなかった。
ツジを葬ったときのようなどす黒い濁りのようなものはなかった。
二人の死はヨシザワの中でどのように整理されていくのだろうか。
知りたいとは思ったが、たとえ何十年経ったとしても、
自分はそれを訊くことはできないだろうとイシカワは思った。
「ここ・・・・・隣にのんちゃんの骨が埋まってるんだよね?」
「そうだよ。まあ・・・・・正直どうかとも思ったけどね。でもこれでいいじゃん?
どうせ地獄に行けば会うんだからさ。二人で好きなだけ喧嘩でも何でもすればいいよ」
ヨシザワはぶっきらぼうにそう言った。
自分で言いながらも「地獄」という言葉にどうもリアリティを感じられなかった。
今ここ以上の地獄というものが存在するのだろうか?
それにツジとカゴだったら、どんな地獄であってもキャアキャアとはしゃぎながら
いつものようにやり過ごすことができるんじゃないかと想像できた。
ほんの少しだけとはいえ、死んだ人間を羨ましいと思ったことは初めてだった。
- 191 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:12
- 「そうだね。地獄に行けばみんな会えるよね。でも地獄って広そうだからなあ。
きっと他にもたくさん人がいるよ。二人はナカザワさんとちゃんと会えるかな?」
「大丈夫だよ。絶対会えるに決まってるって。だってそこは地獄なんだろ?
だったら一番会いたくない人に、一番先に出会うに決まってるよ」
ヨシザワの乾いた冗談に、イシカワは乾いた笑い声をあげたつもりだった。
だがそれは客観的に見ればただの吐息でしかなかった。
ヨシザワは酷く傷ついていた。そして同様にイシカワもまた十分に傷ついていた。
それでもなお、イシカワには言わなければならない一言があった。
傷つくことを恐れるのなら、最初からあんなことをヨシザワに話したりはしない。
「でも、あたしらが地獄に行くのはもう少し先のことだよね。
あたしらには―――まだやらなきゃいけないことが残ってるよね?」
「うん。わかってる。このままじゃ済まさない」
ヨシザワはこれ以上ないくらい疲弊していたが、休息を求めようとは思わなかった。
まるで自分の体に罰をあたえるかのように、さらに激しい負荷を己に課そうとしていた。
熱を帯びたヨシザワの脳髄を冷やすように、イシカワがそっと寄り添う。
イシカワの冷え切った手は氷のように冷たく、
触れたヨシザワの頬に切れるような感触を残した。
「行こう、よっすぃー。今度はあたしが車を運転するよ」
- 192 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:12
- ☆
- 193 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:12
- 「少し眠った方がいいよ」というイシカワの言葉を差し置き、
ヨシザワはイシカワに向かっていくつも質問を重ねた。
イシカワが属するECO moniという組織のこと。
例のウイルスが太陽化するという意味と、例の施設で行われていた試験のこと。
一度は聞いた話だったが、あの時はあまりにも気が動転していて
話の流れがよくわからなかったということもある。
そして何より、今はそんな夢物語のような話を聞いて、自分の頭を冷やしたかった。
疲労の極致にありながらも、ヨシザワの頭脳は妙に澄み渡っていた。
目は痛いほど冴えている。眠気など微塵もなかった。
「なるほど。リカちゃんはそこに潜入するために追加メンバーとして施設に入ったんだ」
「そう。よっすぃーやあいぼんやのんと一緒にね」
「でも結局追加メンバーにはウイルスは投与されなかったんだよなあ」
「うん。その前に事故が起こってサディ・ストナッチが暴走しちゃったみたい」
「そのSSってのがアベナツミで、その指示を受けて動いていたのがマリィ?」
「うん。そして試験を裏で指揮していたのがテラダとカメイエリ」
「そっか。あとはマリィだけぶっ殺してやればいいと思ってたけど・・・・・」
ヨシザワは語尾を濁した。
ヨシザワ自身はテラダやカメイの計画についてどうも思わない。
イシカワの組織のように、使命感に燃えて阻止してやろうとも思わない。
だがマリィがそこの指示を受けて動いていた以上、無視することはできない。
- 194 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:12
- 「どうする、よっすぃー?」
「どうするって・・・・・どっちにしてもリカちゃんは全員と戦うんでしょ?
マリィだけじゃなくってテラダやカメイエリっていうのも標的なんでしょ?」
「あたしの組織は・・・・・・そうだと思う」
「そんな他人事みたいな」
イシカワは今後の行動のことについてずっと考えていた。
アベナツミが襲撃してきたとき、イシカワは持ち場を離れてヨシザワの下に来た。
ECO moniから見れば、その行為は敵前逃亡と映るかもしれない。
再び神社に戻ったときに、何らかの制裁を受ける可能性は高かった。
イシカワはそういったことをポツリポツリとヨシザワに話した。
「そっか」
なんでそんなことまでしてフォースに戻ってきたの?とはヨシザワは訊かなかった。
なぜイシカワが自分のところに戻ってきたか。うっすらと答えはわかっている。
自意識過剰かもしれないが、イシカワが自分のことをどう思っているかは、
ヨシザワはきちんとわかっているつもりだった。
今はそれを受け入れる勇気も、拒む勇気もない。
ならば卑怯と言われても、答えははっきりとさせない方がいいだろう。
「じゃあ、二人でやろう。ナカザワさんやノンや・・・・あいぼんの仇を取ろう」
- 195 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:12
- ヨシザワの言葉を聞いて、イシカワの心も決まった。
今の二人の心をつないでいるのは、ナカザワ達三人の無念を晴らすこと。
ならば今は何も考えずに、そこに真っ直ぐに向かっていけばいい。
「わかった。あたしとよっすぃー。二人でやろう」
「うん。まずはマリィだ。その他の連中のことはその後で考えよう」
ヨシザワはイシカワを軟禁していたときのことを話した。
イシカワの下にきたECO moniの連絡員をまとめて皆殺しにしたマリィ。
そのキャリアとしての能力は、ヨシザワをも震撼させるものだった。
「声? あの人の特殊能力って声なんだ」
「うん。すげーデカイ声でさ。押し潰されるような感じがしたよ。でもそれだけじゃないんだ。
あの人が『泣け』と言えば勝手に泣くし、『燃えろ』っていうと実際に体が燃えるんだ。
耳を塞いでもダメ。脳に直接響いてくるような声なんだ。まともに行っても勝ち目はないね」
イシカワはイシカワで、組織にいたミツイという少女の話を思い出していた。
確か、彼女が戦った相手というのは声が異常発達したキャリアだった。
おそらくそれがマリィのことなのだろう。
イシカワはその話をヨシザワにした。
声の振動が生み出したという―――強烈な電磁波放射の話を。
- 196 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:12
- 「その青龍っていうのは・・・・・強いの?」
「うん。ちょっと小さいゴジラみたいなものだと思ってもらえれば」
「えー、ゴジラかあ。そんな化け物でも相討ち寸前になるとはね」
ヨシザワも自分の能力にそれなりに自信を持っていたが、
それはあくまでも肉弾戦においての話だ。
そこまで超常的な戦いになんて、とてもついていけるような気がしなかった。
自分はマリィに勝てるのだろうか?
だがその一方で、妙に楽観的になっている自分がいることにも気が付いていた。
確かに一度、マリィの能力を見た時には怯んでしまった。
自分のことをひ弱な存在だと感じてしまった。
あの時にマリィと戦っていれば、100%勝ち目はなかっただろう。
だが今は違う。自分には戦う理由がある。勝たねばならぬ理由がある。
きっとその事実が自分を強くしてくれるだろう。
理由のないファイトを繰り返してきたヨシザワには、そのことが痛いほど確信できた。
自分は生まれて初めて誰かのために戦うのだ。そして自分のために戦うのだ。
当然、これまでとは全く違う戦いになるだろう。
そんな新鮮な状況にときめいている自分が、やや不謹慎なようにすら感じられた。
- 197 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:13
- 「よっすぃーがあいぼんと戦うところ、見せてもらった」
イシカワはイシカワはでまた違うことを考えていた。
ヨシザワはいつか必ずマリィと戦うことになる。
そして今のヨシザワはどうやらマリィに勝つのは難しいと考えている節がある。
だがイシカワには―――決して勝機がないようには感じられなかった。
「よっすぃーの能力がどういうものなのか、あたしにもわかった気がする」
ヨシザワは驚かなかった。
確かにこれまでキャリアとしての能力は隠していた。
そして隠さずに戦ったとしても、見ただけでその能力の意味がわかる人間はいなかった。
ナカザワやツジでさえ、ヨシザワの能力の全てを理解してはいなかっただろう。
だがイシカワにはあの目がある。真実を貫き通す神の目がある。
自分の能力が完璧に解析されたとしても、不思議はなかった。
「わかりにくい能力なんだけどね。さすがにリカちゃんの目で見れば一発か」
「うん。あたしはむしろわかりやすい能力だと思ったよ」
「ま、見る人が見ればね」
「あの能力、もっともっと凄い力を秘めているような気がする」
「・・・・・・本気で使ったことはないんだよ」
「一度も?」
「うん」
- 198 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:13
- イシカワはヨシザワに自分の考えを説明した。
おそらくこういう方法を使えば、もっと強力な能力を発揮できるだろうと。
その力をもってすれば、マリィや青龍やSSにも後れを取ることはないだろうと。
だがその方法というのは、ヨシザワの肉体に多大な負担を強いる方法でもあった。
喋りながらイシカワは後悔し始めていた。
きっとヨシザワはイシカワの提案を一もニもなく受け入れるだろう。
きっと彼女は、肉体的な負担を苦にすることはない。
むしろ今の彼女は、自分の体を痛めつけることを強く望んでいるかもしれない。
それはヨシザワに向かって「死ね」と言うことに、限りなく近い行為だった。
しかも一度ではなく、何度も何度も死の苦しみを味わえということに他ならなかった。
だがそうしなければ―――マリィに勝てないことは確実だろう。
イシカワは自分の非力を嘆いた。
「ごめんね、よっすぃー・・・・勝手なことばかり言って」
「いや、良いアイデアだよ。確かにこれならいけるかもしれない」
「あたしにも、もっと力があれば・・・・・」
「いや、リカちゃんにだって、きっとリカちゃんにしかできないことがあるって」
そうやってイシカワを慰めたものの、ヨシザワにはイシカワが今すべきことについて
何の考えも浮かばなかった。
だがイシカワはイシカワで、一つの考えが浮かんだようだ。
覚悟を決めた表情で、キッとフロントガラスを睨んだ。
- 199 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:13
- 「あたし、一旦、ECO moniに戻る」
「え? なんで?」
「だってマリィの居所を突き止めないとどうにもならないから」
「あっ。そうか・・・・・・」
マリィの居場所といえば、これまでもカゴが再三部下に命じて捜索させていた。
だが一体どこに住んでいるのか、誰も突き止めることができなかった。
尾行したまま永遠に帰ってこなかった人間もいた。
ヨシザワとイシカワの二人では、とてもその居場所を突き止めることはできないだろう。
「でもテラダ達はもう七人分のウイルス断片を集めちゃったんだろ?
後はもう『究極のモーニング娘。』ってのが完成するまでは絶対に表に出てこないよ」
今の関東で、身を隠そうとしている人間を探し出すことは容易ではない。
ましてやテラダの組織のような存在であれば尚更だ。
「ごめんよっすぃー。これから話すね。実はECO moniにはまだ一つ切り札があるんだ。
それを上手く使えば、きっとマリィやアベナツミをおびき寄せることができると思う。
問題は―――あたしがその切り札を上手く使うことができるかってことだけど・・・・・」
あの「奇妙な生き物」の管理はそれなりに厳重に行われている。
一緒に住んでいたGAMの連中ですら、その存在には一切気付いていなかった。
こっそり持ち出すなんていうことは不可能だ。あの神社の水槽の中で使うしかない。
イシカワはそういった自分の考えを、全てヨシザワに説明した。
- 200 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:13
- 「なるほど。リカちゃんの言うことはわかった。それなら神社に戻った方がいい。
でも大丈夫かな? そのECO moniって組織のリーダーもバカじゃないんだろ?」
「うん。でもこっちはこっちでなんとかする。時間はちょっとかかるかもしれない。
よっすぃーはそれまでに戦う準備をしていてほしいんだ。連絡はこまめにするよ」
「わかった。じゃあ、それでいこう」
ヨシザワはようやく緊張を解くと、シートに上体を深く預ける。
話がまとまると、急に眠気が襲ってきた。
「それでいこう」なんて言ったが、この計画が上手くいく可能性はかなり低い。
どんなに楽観的に計算しても、あのマリィに勝てる可能性は50%を超えないだろう。
もしかしたら、フォースの四人の友情が崩れた時が、
自分の運の尽きだったのかもしれない。
ここが自分の運命の終着駅だったのかもしれない。
こうやってまた、崩壊した関東で一人の女が野垂れ死にしていくのだろうか。
無残な死体が一つ転がることになるのだろうか。
だがもしそうなったとしても、それもまた、何も特別なことではない。
この四年間に無数に繰り返されたことの一つに過ぎない。
- 201 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:13
- きっと自分は幸せな死に方なんてできないだろう。
だがそれは、幸せな生き方ができないということ、同じではないはずだ。
いつ誰に殺されても構わない。どんな惨めな死を晒そうとも構わない。
だが、たとえそうなっても、殺されないことだけを考える生き方を選ぶつもりはない。
それが幸せな人生だなんていう考え方は、明らかに間違っている。
ヨシザワはそんな考えを認める気はなかった。
それにもう、自分は二人の親友を手にかけた。
自分だけこの結末に知らん顔をしているなんて、できるわけがない。
たとえ殺されるとしても―――殺されることがわかっていても、だ。
そうなったとしても最後の最後まであがいてあがいてあがき抜くしかない。
地獄で待っている三人の相棒に、できるだけデカイ冥土の土産を持って行ってやろう。
会えるのはそう遠い将来の話ではないはずだ。
地獄で一番先に出会ってしまうのは、ナカザワだろうかツジだろうかカゴだろうか。
自分が「うわあ。こいつは一番会いたくねえ相手だよ」と思うのは一体―――
ヨシザワは薄い笑みを浮かべながら、ゆらゆらと眠りに落ちていった。
- 202 名前:【再燃】 投稿日:2009/12/14(月) 23:13
- 第九章 再燃 了
- 203 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/14(月) 23:14
- ★
- 204 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/14(月) 23:14
- ★
- 205 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/14(月) 23:14
- ★
- 206 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/17(木) 23:25
- 誰にも干渉したくないなんてよく言えたもんだね
何にも介入したくないなんて甘ったれた考えだよ
誰にも干渉しなければ誰にも干渉されないなんて子供の考えだよ
あるがままに存在しているものなんてこの世には一つもないんだよ
そんなものは存在していないのと同じこと
あたしがそれを教えてあげる
あんたの全てに干渉してあげる
- 207 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/17(木) 23:25
- 第十章 増悪
- 208 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:26
- 「で、どこに行こうっての?」
マキの唇が尖る。車のハンドルはミキが握っていた。
他人に体を預ける行為を嫌うマキは、自分が運転すると主張したが、
「慣れた子が運転するのが一番」というアヤによってすげなく却下された。
三人を乗せた車がが出発する頃にはもう日が傾きかけていた。
一秒でも早くテラダのところに向かいたかったミキだが、
いつもとは違うパートナーと行動するときは、手際よく準備することも難しい。
誰が車の運転をするかで揉めるなんて、GAMではあり得ないことだった。
「あ? おめーはそんなことも知らずに運転するとか言ってたのかよ。
ていうかさあ、サユ達の話もなんにも聞いてなかったってわけ?」
ミキの言葉に棘が混じる。誰が運転するか揉めたときに
「運転が下手なやつの車には乗りたくない」とマキに言われたことを
まだ根に持っているようだ。根に持っているといえば他にも色々ある。
ラーメン屋で殴られたこともそうだし、立体駐車場を潰されたこともそうだ。
根に持つことが多すぎて持ちきれないくらいだ。
こうやって一緒に車に乗っているというのも、冷静に考えればおかしな話だ。
「有楽町だよ」
暢気な声でアヤが答えた。
いつもは助手席に座るアヤだったが、今は後部座席のマキの隣に座っている。
正確に言えば隣ではない。アヤとマキの間にはゼロが座っていた。
アヤはNothingにしていたように、優しい手つきで漆黒の毛を撫でる。
ゼロは特に抵抗する様子も見せずに、アヤに身を委ねていた。
- 209 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:26
- 「有楽町の駅前にさあ、ガラス張りの変な格好したデカイ建物があるの知らない?」
「ん・・・・・国際フォーラムのこと?」
「名前は知らないけどさ。ビルとビルがパイプみたいなんでつながってるやつ」
「そこなら捜査で行ったことある。今は廃墟になってたはずだけど」
「テラダ達はそこに機材を運び込んでるみたいだってさ」
アヤが口にした建物はマキも何度か目にしたことがあった。
関東がウイルスに汚染される前は、国際会議などが開かれていたホールだったという。
廃墟となった今でもその名残のようなものは散見されたような気がする。
四角い小さな四つのビルと、楕円形をした大きな一つのビルが、
幾何学模様のようなパイプ状の渡り廊下でつながっているという建物だった。
マキは窓を開けて車外の空気を取り込む。
流れ込む風と車外の景色がマキの肌に現在位置を教えてくれた。
ミキの運転する車は、目的地に向かって正確に最短距離を移動している。
有楽町のビルまでは三十分もかからないだろう。
「ところで捜査ってなに? マキちゃんは麻取の仕事も律儀にやってたんだ」
「律儀もなにもそれが仕事だし」
「そうなの? ウイルス被験者の体を回収することじゃなかったの?」
「それも含めて全部が仕事」
アヤの舌は気持ちよく回っていく。マキもアヤにつられるようにして話した。
老人のこと。老人が下した命令のこと。
普段は無口なマキだが、なぜかアヤには抵抗なくすらすらと話すことができた。
- 210 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:26
- 「ふーん。被験者の発見回収に、テラダカメイの暗殺。それにキャリア撲滅か。
とても一人でできる仕事じゃないなあ。その老人ってのも人使いが荒いねえ」
「サユの話ではそのヤマザキっていう老人もウイルスの正体を知ってるらしい」
「テラダと同類か。ていうかテラダがその老人を裏切ったっていう話だよね。
なるほどなるほど。なんとなくマキちゃんの周囲のことがわかってきたよ」
おそらくその『老人』というのは関東の外の世界では大きな力を持っているのだろう。
権力や政治力という点では、テラダとは比較にならない力を持っているに違いない。
だが今の関東ではそんな力はクソの役にも立たない。
そこで老人が持ち出した手札がこのゴトウマキという特別なキャリアだったのだ。
「はてさて・・・・・どうしたものかな・・・・・」
アヤは思考する。ひょっとしたらこのマキという女は、
自分が思っている以上に使い道の多い女なのかもしれない。
この女を使えば、外の世界にいる『老人』と関係を持つことも可能だろう。
テラダの計画を潰す。ウイルスを駆逐する。アヤは既にその先を考えていた。
ウイルスが消えれば関東は復興する。麻薬組織が暗躍する余地もなくなるだろう。
そうなれば外の世界に出て新たなビジネスを考えなければならない。
その時に、このマキという女と老人を使えば―――
- 211 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:26
- 「アヤちゃん。まさか変なこと考えてんじゃないでしょうね?」
ミキの野太い声がアヤの思考を真っ二つに断ち切った。
アヤと付き合いの長いミキは、アヤの考えそうなことが簡単に想像できた。
いつも先のことばかり考えている。それはアヤの長所でもあり短所でもあった。
「にゃはははは。わかる?」
「だいたいね」
「そっか・・・・・変なことかあ・・・・・・」
「順番に片付けていこうよ。目の前のことから一つ一つね。マコ達の仇は取った。
次はコンコンとカオリの仇を取る。Nothingの仇もね。立体駐車場の借りは最後だ」
立体駐車場の借りと言われても、マキは眉一つ動かさなかった。
むしろ表情を変えたのはアヤの方だった。
アヤはミキに心中を見抜かれていることを察した。
察するというより、教えられた。ミキに指摘されて初めて気付いた。
まさか自分の心の中に、この一連のドタバタが全部片付いたら、
マキと組んで新しい仕事を始めたいという気持ちがあるとは思わなかった。
それは―――それはこれまでの自分の生き方からすれば許されないことだろう。
この女は、組織を潰した仇敵として葬り去るべき相手なのだから。
やはり小賢しい計算に従って己の哲学を曲げるのではなく、
直感に従ってこの女を殺すべきなのだろう。
- 212 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:26
- 「わかったよ。テラダの件が全部片付いたら、次はマキちゃんが相手だね。
相手するのはミキたんでいいよ。任せるから好きなよう処理したらいい」
「へえ。あたしに任せてくれるんだ。殺っちゃっていいの? ホントにいいの?」
「どういうこと?」
「いやー、別にー」
「あたしが『好きにしたらいい』って言ったら、それはその言葉の意味のままだよ」
マキはそんな二人の軽いノリの会話をぼーっと聞いていた。
聞こえてはいたが、二人の言葉の意味を深く考えることはなかった。
マキの人生には何の関係もない言葉だとしか思えなかった。
アヤとミキの言葉は軽い。とても軽いお遊戯のような言葉だ。マキの心には響かない。
マキが心に響いたのは、イチイの言葉であり、カオリの言葉であった。
「あたしを殺してくれ」
イチイは確かにそう言った。
あの時はマキの胸に響くことはなかったその言葉だったが、
あれから四年近く経ってもその言葉がマキの胸から消えることはなかった。
あの時、もしも二人の間を隔てる壁がなかったとしたら―――
自分はイチイを殺すべきだったのだろうか?
殺すことがイチイのためだったのだろうか?
マキには否定も肯定もできない。かける言葉がない。
イチイの悲痛な叫びは、ありとあらゆる綺麗事を拒絶するだけの力があった。
かける言葉がないのなら―――やはりそれは行動で示すより他にないだろう。
- 213 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:27
- そしてカオリは言った。
「テラダを殺して」
それは非力なカオリが放った、たった一つの毒矢だった。
究極のモーニング娘。という幻想に狂ったテラダに向けられた、たった一つの矢だ。
世界に溢れる悪意に対して耳を塞ぐことができなかったカオリ。
あの施設で、たった一人、テラダの言葉を真正面から全て受け止めていたカオリ。
異常に発達した耳で集めた、億千万の言葉を凝縮したかのような、強い言葉。
カオリが放ったその言葉はとてつもなく重い。
カオリが残したたった一本の矢。届けなければならない。
どんなことをしても、その矢尻をテラダの胸に突き立てなければならない。
それが残された被験者である自分の義務だ。
テラダから押し付けられたこの能力でもって、テラダの野望を潰す。
きっとそれがテラダに対する最大の復讐になるだろう。
車が有楽町の駅前で停まった。
- 214 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:27
- 東京の空は相変わらずの曇天だった。
いつもなら最も高く太陽が昇る時間帯であるはずだったが、
厚く覆われた雲の向こう側の、どこに太陽があるのか、よくわからなかった。
ミキがエンジンを切ると、アヤとマキはそれぞれ別のドアから車を降りた。
丁度そのとき、鉛色の空からゆっくりと白いものが降りてきた。
マキに続いて下り立ったゼロが、空に向かって一つ「うぉん」と吠える。
東京ではここ数年間ずっと異常気象が続いている。
もはや夏に降る雪も珍しいものではなくなっていた。
ミキが最後に車から降りる。
目的とするビルは駅の向こう側だが、高架に隠れてここからはよく見えない。
見上げた目に入ってくるのは白い雪だけだった。
「ふん。雪か。まあそれはいいや。まだ例の赤い霧は出てないみたいね」
ミキは隣り合って歩き出したアヤとマキを追いかける。
二人の後姿を見ていると、なんだか気の合う友人同士のように見えた。
- 215 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:27
- アヤは白い革のコートのポケットに無造作に手を突っ込んでいる。
そこには拳銃が入っているはずだが、そんなものでSSに対抗できるのだろうか。
だが一度なりともガス化したSSのことを見たアヤが、
何の対抗策も持たずにここまでやってきたとは思えなかった。
一方のマキも黒のロングコートのポケットに手を入れている。
ただぶらぶらと歩いているだけのように見えるが、見る人間が見れば、
マキの足の運びが、極限まで訓練された人間のそれであると、はっきりわかるだろう。
それにしてもマキは生々しいまでに「女」だ。
体のラインがどうとかいうより、その雰囲気が本当に匂うような妖艶さをたたえていた。
とてもこの女が―――サディ・ストナッチと化すことができるとは思えないほどに。
ミキの敏感な鼻には、あるはずのない女臭さが感じられるような気すらした。
アヤからはそんな雰囲気は感じられない。いつものあっさりとしたアヤの姿そのままだ。
ミキには、アヤの考えていることが、まだよく見えていなかった。
相手がガス化して襲ってきたらどうするのだろうか?
同じようにマキにガス化させて対抗させる気なのだろうか?
車の中でも、アヤとマキは打ち合わせのようなものは一切していなかった。
決められた戦術がそこにあるようには思えない。
だがミキの目には―――二人がピタリと歩調を合わせて歩いているように見えた。
- 216 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:27
- 双子の姉妹のように、歩調だけではなく呼吸まで合わせて歩くアヤとマキ。
それに対して思うところがないではなかったが、ミキは雑念を閉じた。
駅のガード下をくぐり抜けると、そこはもう目的とするビルの敷地内だった。
見上げると上空にはビルとビルをつなぐ、ガラス張りの連絡通路が見える。
ここはもう戦場だ。雑念が入る余地はない。
ミキはミキで自分の仕事に専念することにした。
アヤをバックアップするポジションを取りながら、嗅覚を最大限まで広げる。
一つのミスが命取りになる。ミキは限界ギリギリまで能力を拡大させた。
膨大な数の嗅覚情報がミキの脳内に飛び込んできた。
それら全てを処理するのは、視界に入る全ての色に名前をつけることに等しい。
ミキはこれまでの経験から、無機質な物質の臭いや植物の臭いを除外していく。
戦闘に関係ないと思われる匂いは無視しながら、必要と思われる匂いだけを
拾い上げていき、脳内に嗅覚情報を下にした地図を描いていく。
この状況で、最も危険なのは人間の匂いだ。
次に火薬の匂い。化学薬品の匂い。どんなトラップが仕掛けられているとも限らない。
神経を尖らせるミキとは対照的に、アヤは無人の野を行くように軽やかに歩いていく。
そうやって危険に身を晒すことによって、相手の動きを引き出すつもりなのだろう。
背後に絶対的な嗅覚を持つミキがいる場合に限って、成立する戦略だと言える。
普段はあれほどキャリアの能力を嫌っているアヤが、今は全面的にミキの能力を信頼している。
それだけでミキは、アヤが眼前のサディ・ストナッチという敵を、
どれだけ高く評価しているかということを、理解することができた。
- 217 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:27
- ミキは拳銃を抜き、アヤの方にのみ神経を集中させる。マキは無視だ。
いくらミキがキャリアとはいっても、同時に二人を護衛することは難しい。
マキが死んでもいいということではない。
三人で戦うと決めた以上、この戦場においては、マキも重要な戦力の一つだ。
そのマキは、アヤに勝るとも劣らない敏感な対敵察知能力と、
瞬間移動かと見まがうほどの敏速な体さばきを得意としている。
麻取の捜査のときも、たとえ相手が何十人いてもたった一人で行動していたと聞いている。
いや―――正確には一人と一匹か。
そして今も、ミキがアヤをバックアップしているように、
マキの背後には一匹の黒い犬が油断ない足の運びで周囲を窺っていた。
索敵能力において犬に勝る人間などいない。
とりあえずマキのことはあの犬に任せておけば大丈夫だろう。
周囲に人の匂いはなかった。火薬の匂いもない。
だがつい数分前まで、人間がここにいた匂いが濃厚に残っていた。
ミキは微かに残っていた匂いの強度を解析していく。
匂いの強さの濃度勾配をたどれば、その人間の動線をつかむこともできる。
人間がいた場所。その人間が引き上げていった方向。引き上げていった時間。
そういった情報を匂いから割り出すのは、ミキにとっては簡単な作業だった。
- 218 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:27
- ビルとビルの間には、コンクリートで打ち放したかなり広いスペースがあった。
アヤとマキがそこで二人固まって何か言葉を交わし合っている。
ゼロも二人のところまで駆け寄っていく。ミキもアヤに手招きで呼ばれた。
まだ相手が仕掛けてくる気配はない。
どうやらここで一旦、作戦会議でも開こうということらしい。
「どう? ミキたん。マキちゃん曰く、上の階に三人いるらしいんだけど」
「む」
さすがのミキも、建物の中、それもこれだけの高さと広さを持ったビルの
屋内の匂いを全て嗅ぎつけるというのは難しかった。
マキにはそういったことが可能なのだろうか? この広いビルの中でも?
人数まで正確に把握しているなんて、常人にできることだとは思えなかった。
この女の能力の限界はどこにあるのだろうか?
ミキはマキの持っている能力に対して小さくない驚きを覚えた。
だがしかし、今はそんなことに驚いている暇はない―――
「建物の奥の方とかはわかんないけどさ。目に付くところの匂いは大体わかったよ。
どうやらこっちの動きは前もって把握されていたみたいだね。ほんの数分前まで
建物のあちこちに見張りが立っていた匂いが残っていたよ。でも今は一人もいない。
あたしらがここに着いたと同時に、見張りは全部この建物の外に撤収したみたい。
つまりあたしらは、そのビルの中にいる三人に誘い込まれたってことになるのかな?」
- 219 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:27
- マキはマキで、ミキの持っている能力の高さに驚いていた。
まさか数時間前の匂いまで嗅ぎつけることができるとは思わなかった。
さらに匂いから過去の人間の動きまでわかるなど、にわかには信じ難かった。
マキは既に肌の感覚受容器の感度を最大限まで上げていた。
楕円形の建物の七階に一人。四角形の建物の五階に二人。
いずれも小柄な女がいることを突き止めていた。
だが、さすがのマキも数時間前の人員配置の様子など察知することはできない。
マキの能力では、常に現状を把握することしかできないのだ。過去までは見えない。
ミキの話ではこっちの車が到着する寸前に見張りが消えているという。
ビルからそれなりの距離を空けて駐車したにも関わらず、だ。
そこから二つのことが推測できた。
テラダ達は、敵がこの場所に来ることを、前もって予測していた。
つまりテラダが流した情報はやはりトラップだったということだ。
逆に言えば、この場所には、テラダが仕掛けた何かが必ずあるということだ。
もう一つ。マキが肌でかなり広範囲の情報をカバーできるように、
ミキが嗅覚でかなり広範囲の情報をカバーできるように、
相手にもこちらの動きを察知できるような特殊な能力の持ち主がいる。
この二つのことはまず間違いない事実だろう。
互いに直接激突するまでの情報戦においては、どうやら相手の方が上のようだ。
それはマキにとっては未知の経験だった。
- 220 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:28
- だが特殊な嗅覚も異常な肌感覚も持たないアヤにとっては、
相手が見えないなんていうのは当たり前のことであり、動揺はなかった。
それに、今はもう情報戦という段階は超えているだろう。
ここは戦場。ここから先は普通の殺し合いだ。
「ま、相手が三人ならこっちも三人。プラス一匹だけど、まあ、人数は同じじゃん。
相手もなかなか気が利いているね。雑魚が山ほどいるより、ずっとやりやすくていい。
それよりもその三人の狙いってなんなのかね。誘ったからには狙いがあるんだろ?」
アヤはそんなことを言いながら、なかなかビルの中に入ろうとしなかった。
先んじてビルに入ろうとしたマキの足も止まる。
確かによく考えてみれば、この流れは少しおかしい。
テラダやカメイは既にウイルス被験者の組織七種類を全て回収したのだ。
今更相手を呼び込むリスクを冒してまで、こんなことをする理由がわからない。
「なあ、おい。三人いるっていったけどさ。それってテラダなのか?」
「いや、テラダじゃない。三人とも女だね。わかるのは女ってことくらいだけど」
「テラダじゃない・・・・・・とすると」
「その女ってのはさ、まあ順当にいけばアベとヤグチとカメイだろうね」
アヤの意見にミキとマキも同調した。
まさかここで友好的な話し合いが行われるはずもないだろう。
きっとECO moniの守護獣が相手でも苦にしないような、
屈強な相手が待ち構えていると考えるべきだ。
となれば―――ここにいる三人の女とは、その三人しかいないように思われた。
- 221 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:28
- ミキはとりあえず思いついたことを口にした。
黙っていても何も始まらない。きっかけは何でもいい。正しくなくてもいい。
とにかく何かを始めるのは、アヤではなくミキの役目だった。
「要するに奴らは、ECO moniっていう組織そのものを潰したいんじゃないの。
たまたまここに来たのはあたしらだったけどさ、元々テラダ達としては
ECO moniの連中を誘い出すために偽の情報を流したんだと思うんだよね」
「それはどうかな。確かに情報を流したのはECO moniを動かすためだと思う。
だけどテラダにすれば、今になってわざわざECO moniを潰す必要はないじゃんか。
どう考えたって、今あいつらが最優先しているのはウイルスの完成だと思うんだよね」
「アヤちゃんは、テラダには他に何か狙いがあるって言いたいわけ?」
「まあね。なんか嫌な予感するんだよね」
実際、こうやって話している間にも、アヤの背中には幾筋もの冷や汗が流れていた。
こんなことはあの施設で事故が起こったときにもなかったし、
カメイと鉢合わせたときにもなかったことだった。
それほどの強烈に嫌な予感だった。このまま引き返すべきではないかとすら思った。
実際に引き返さなかったのは―――
マキを前にして少し意地を張ったということもあるかもしれない。
敵にびびって引き返すなんて、そんな格好悪いことができるかよ。
そんなみっともない姿を、このマツウラアヤが晒すなんて、できるわけないじゃん。
ここまで来たら覚悟を決めて飛び込むだけじゃんか―――
実利よりも見栄を優先させる。
自分の勘よりもその場の勢いを重視する。
その判断が大きな誤りだったことを、後にアヤは深く後悔することになる。
- 222 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:28
- ☆
- 223 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:28
- 「おっ。どうやら本格的にこっちにやって来るみたいやで」
テラダはディスプレイに光る「8」の数字を指でつついた。
ECO moniが陣取る例の神社からこのビルまでのルートは既に抑えている。
PCの画面は、今まさにゴトウが神社から出てくるところをとらえていた。
移動の速さから考えて、ゴトウは車で移動しているようだ。
残り少なくなったテラダの配下は、そのルートの上に配置されている。
テラダは各方面に電話をかけ、ゴトウの乗る車の様子を探った。
「ゴトウさん・・・・・・まさか一人で来るってことはないですよね?」
テラダ達は有楽町の一角にあるビル群に身を潜めていた。
部屋の中には、カメイだけではなく、アベとヤグチも戻って来ていた。
カメイも加えた三人で相手を迎え撃つ。
SSとしては考えうる最強の布陣で最後の戦いに臨むつもりだった。
「バカかお前。一人で来るわけないだろ。どうせあの青龍ってやつが一緒だよ。
あいつが来たらおいらに相手させろよ。あの時の借りはきっちりと返さねーとな」
「まあ、一番可能性が高いのはミツイとコハルの三人で来るってパターンですね。
ヤグチさんはミツイの相手でいいですよ。あたしはコハルの相手をしますから。
そういうことで、アベさんはゴトウさんのことをよろしくお願いしますね」
アベは何も言わず、ニヤリと微笑んで頷いた。
- 224 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:28
- 「え? ホンマか? よく見ろや。他に車はないんか? え? マジか。
ほな神社はどうなってるねん。動きはないんか。うん。うん。わかったわ」
「どうかしたんですか?」
電話を切ったテラダの表情は冴えない。
何か想定外の出来事が起こったのだろうか。
「あんな、ゴトウが車でこっちに向かってるのは間違いない」
「そんなことわかってますよ。PCにも表示されてるじゃないですか」
「一緒におるのはECO moniのメンバーやない。GAMの連中や」
「は? GAM? なんで?」
「知らんがな。マツウラアヤとフジモトミキが一緒におるらしいわ」
カメイにはテラダの言葉がとても信じられなかった。
GAMの二人はイイダカオリの仇でも取りに来るつもりなのだろうか。
だがたとえ来るとしても、ミツイやコハルが一緒ではないというのは解せない。
あの施設で戦った時、あれだけはっきりとした実力差を見せつけたのだ。
あの時、ミチシゲとコハルが助けに入らなければ、GAMの連中は、
間違いなく守護獣と化したカメイに皆殺しにされていたはずだ。
これは一体どういうことなのだ? 陽動作戦?
まさか。この最終局面においてそんなことをする余裕があるとは思えない。
何か―――何かこちらの計算が狂っているのか?
こちらが想定していること以上のことを、ECO moniは何か計画しているのか?
- 225 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:28
- カメイとテラダは鏡と向き合ったかのように、全く同じような悩ましい顔をした。
「その・・・・神社の方は・・・・」
「動きはないそうや。コハルとミツイもそこに残ってるらしいわ」
「そんな・・・・おかしい・・・・・」
「なあ。おかしいやんな。どうなっとるねん・・・・・・」
ディスプレイと携帯電話を見つめながら唸っている二人に向かって、
呆れたような口調でマリが言った。
「そんなのどうでもいいじゃんか。要はゴトウの血が手に入ればいいんだろ?
だったらゴトウがそこにいるなら、他の連中はどうでもいいじゃん。
それにそのGAMの二人ってのはどう考えても守護獣ほどは強くねーんだろ?
ラッキーじゃんか。なんならおいらがその二人をまとめて始末してやるよ」
それでもカメイはじっと考えていた。
マリはぎゃあぎゃあとわめきながら、カメイに早急な判断を迫る。
アベはそれを興味なさそうな感じで見つめていた。
その間にも「8」の光は着実にこちらに迫ってきている。
テラダはディスプレイを閉じ、ノートPCを小脇に抱えた。
- 226 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:29
- 「そろそろ限界やな。もう俺は撤収するわ。あとは手はず通りに行こう。
とりあえず最初の計画通りに進めるしかないやろ。後は頼むわ。ほな」
テラダは早口でそれだけ言うと、結論も曖昧なまま、足早に部屋から立ち去っていった。
部屋の中にはカメイとアベとマリが残される。
この三人でゴトウの血を奪うというのが当初の計画だった。
青龍・朱雀・白虎が来たときの対策も入念に立てていた。
だが―――GAMの二人を相手にするなどという場面は想定していなかった。
アベとヤグチに至ってはアヤとミキの顔も知らなかった。
部屋の中に気まずい沈黙を流れる。
その沈黙を破ったのはアベの大きな欠伸だった。
「ふぁーあ。まあいいよ。とりあえずナッチがゴトウを殺るから」
「そうですね。何がどうなってもそれだけは変わりません。計画通り行きましょう」
「じゃあ、おいらはどうすればいいんだよ」
「そうですね。ヤグチさんとあたしは逆側のビルに移りましょうか」
「なんでだよ」
「相手のフジモトミキというのがキャリアで、鼻の利く子らしいんですよね。
こっちが散っていることに気付けば、あっちも三つに散るでしょう」
「わかったよ。あとは来たやつを殺っちゃえばいいんだよね」
「はい」
当初からのカメイの計算は、既に大きく狂っていた。
とりあえず配置は決めたものの、もはや戦略と呼べるようなものではなかった。
何かが―――事前に予測できなかった何かが起こりつつある―――
だがそれが何なのか、今のカメイにはわからなかった。
- 227 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/17(木) 23:29
- カメイはマリと一緒に部屋を出て、連絡通路を通って向かい側のビルに移った。
そこでカメイとマリは右と左に別れる。
とにかく今はアベとゴトウが一対一になる状況を作り上げることだ。
一対一の戦いになれば、ガス化に慣れている分、アベに一日の長がある。
カメイとマリの仕事は、その一対一の戦いを誰にも邪魔させないことだ。
戦いにおける不確定要素を可能な限り排除することだった。
カメイはガラス張りの廊下からビルの真下を見下ろす。
見張りとして配置していた部下達が、手早く撤収していく様子が見えた。
どうやらテラダの方は上手くやったようだ。
この後テラダ達は、神社の方をしっかりと監視して、
コハルやミツイが動いた時にはカメイに連絡を入れることになっていた。
予想した展開とは違っているが、確かにヤグチの言うように、
守護獣を相手にするよりもGAMの二人を相手にする方が数倍楽だ。
これはこれでいいのかもしれない。気にするようなことではないのかもしれない。
とにかく今はゴトウマキの血を手に入れることだ。
もう既にアベの体内には七種混合ウイルスが封印されていた。
ゴトウの血がアベの体内に入った瞬間―――その封印が解ける手はずになっていた。
アベの遺伝子とゴトウの遺伝子がからまったとき、即座に太陽化が始まるだろう。
あとほんの少しのところで手がとどく。あの太陽に手が届く。
見下ろすカメイの視界に―――芥子粒ほどの大きさのゴトウとアヤの姿が映った。
- 228 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/17(木) 23:29
- ★
- 229 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/17(木) 23:29
- ★
- 230 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/17(木) 23:29
- ★
- 231 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:19
- 「さて。マキちゃんの話では、相手は三つに分かれたみたいだけどさ。
こっちはどやって戦う? こっちも三つに分かれて行動しますかね?」
そう言いながらミキは鼻をひくつかせた。
能力でマキに劣るというのは癪だったが、建物の中の匂いを嗅ぎとることはできなかった。
ヤグチの匂いは知らないが、カメイの匂いなら覚えている。
目の前でNothingを八つ裂きにしたカメイ。あの匂いを忘れたことは一度もない。
マキとアヤが同時に答えた。
「 み っ つ に わ か れ て い こ う」
「さ ん に ん い っ し ょ に い こ う」
マキの答えは予想できたものだったが、アヤの答えはミキにとって若干意外だった。
それはミキだけではなく、マキにとってもそうであったようだ。
「なんであたしがあんたらと一緒に行かなくちゃいけないわけ? 足手まといだよ。
あんたらはあんたらで勝手にやればいいじゃん。あたしは関係ないね」
「いや。三人一緒の方がいいって。向こうは明らかにこっちを分断しようとしてる。
わざわざそれに乗ってやることもないよ。こっちはこっちのペースで戦おうよ」
「だから! こっちのペースで戦わせてもらうってこと。あたしはこっちに行く」
マキは「付いて来ないでよ」とだけ言い残してエレベーターに身を躍らせた。
ゼロがするりと忍び込むと同時に「閉」のボタンが押される。
ドアはかなりゆっくり閉じていったが、アヤはそこに飛び込もうとはしなかった。
- 232 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:19
- マキとゼロを乗せたエレベーターはゆっくりと上昇していった。
「5」のランプが点いたところで止まったようだ。
「ねえ、アヤちゃん。あいつ、放っておいていいの?」
「え。しょうがないじゃん。追いかけるのも面倒だし」
アヤは追いかけられることには慣れていたが、追いかけることには慣れていなかった。
それに元々マキは一人で戦うスタイルに慣れている。
最初からすんなりと三人で戦えるなどとは思っていなかった。
最後の最後で三人に合流できればいいかと、アヤは考えを改めた。
マキは直方体の形をしたビルの方へ入っていった。
つまり相手が二人待ち構えているところへ向かったわけだ。
もしかしたら一人で全員を片付けるつもりなのかもしれない。
「じゃ、あたしらはあっちのビルの方に行きますか」
アヤが背後にある楕円形のビルに顎を向けた。
なかなか巨大なビルだ。マキが言うにはそこの七階に一人の女がいるらしい。
鬼が出るか、蛇がでるか。とにかく行ってみるしかないだろう。
アヤは楕円形のビルを見上げると、目を細め、頭と体を戦闘モードに切り替えた。
「ここからは、なるべく離れないように行こう」
アヤが出したたった一つの指示に忠実に従い、ミキはピタリとアヤに寄り添った。
- 233 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:19
- マキほどではないが、アヤも普段は一人で戦うことを好む。
ミキがバックアップにつくことが多かったが、
その場合も二人の距離というのは、かなり離れていることが多かった。
そのアヤが、今は神経質なくらい「離れないで」とミキに繰り返す。
ビリビリとアヤの肌を流れる緊張感が、そばにいるミキにも敏感に伝わった。
アヤはエレベーターを使わなかった。階段を一段一段、慎重に上がっていく。
一つ階を上がるごとに、ビルに漂う邪悪な臭気が濃さを増していくように感じられた。
そばにいるミキには、アヤの体毛が逆立っているところがはっきりと見えた。
肌が粟立ちっている。鳥肌がびっしりとアヤの体を埋め立てていた。
空気が凍りつくような沈黙がビルを支配していた。
一歩間違った方向へ足を踏み出せば、即座に奈落の底へ突き落されるような気がした。
戦いが始まる前のこの緊張感が、ミキは好きだった。
一度戦いが始まってしまえば、ここまでの緊張感はなくなる。
相手が誰なのか。どこにいるのか。武器は何なのか。戦い方はどうなのか。
そういったことが全く見えない時間が流れる。その時間がたまらなく好きだった。
100%ビックリ箱だとわかっている箱の目の前にいる時の感覚に似ているだろうか。
だがその箱がいつ開くのかは誰にもわからない。
開いたときに何が出てくるのかもわからない。
ただ一つわかっているのは―――開いてしまえば、もう後戻りはできないということだけだった。
アヤとミキは七階にたどり着いた。
- 234 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:19
- 七階の階段を上がりきったところは、乾いた床がなだらかに続く廊下だった。
ミキの鼻腔につんと覚えのある匂いが流れる。
これは―――カオリの死体に微かに残っていた匂いだ。
ミツイやコハルが、カオリの死体から拾い上げた、SSの残留粒子の匂いだ。
「アベナツミだ・・・・・奥の部屋からきつい匂いがしてる」
「奥の部屋だけ? 手前の部屋は?」
「無人だね。人の匂いはしない。このフロアで臭うのは奥の部屋だけ・・・だけど・・・・」
「だけど?」
「死体の匂いがする。同じ部屋から」
「え? 別々の匂い? アベの匂いと死体の匂い、二つするってこと?」
「うん。まだ新しい死体だ・・・・・死んでから一日も経っていない・・・・・」
アベナツミが誰かを殺したということなのだろうか?
なぜだ? なぜこれから戦おうという今になって? 相手は誰?
中で何が起こっている? 一通り考えて、アヤは答えを出すことを諦めた。
「ま、死体は死体だ。とりあえずそいつは無視しよう。相手はアベ一人だ」
「わかった。だけど相手はガス化とかできるんだよね? どうやって戦う、アヤちゃん?」
「まずはオーソドックスに行こう。この世に絶対無敵の能力なんてありはしないんだよ。
戦っていけばかならずどこかに攻略の糸口が見える。事前に計算したって意味はない。
実際にぶつかってみて、それからだね。今からあれこれ予測するのはかえって危険だよ」
アヤの言葉はミキを落ち着かせると同時に、自分に言い聞かせているようにも見えた。
アヤは指を曲げてサインを送る。ここからは無駄口は無用ということだ。
部屋の扉の前でアヤとミキは左右に別れる。
ミキが扉を開けると同時に、アヤが部屋の中に雪崩れ込んだ。
- 235 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:19
- その部屋は席数が200は超えるような大きなフロアで、
部屋の中央奥には大規模なプレゼンができるようなステージがあった。
先に飛び込んだアヤが床を転がりながらステージに向かって発砲する。
だがこれは一つの陽動。
派手に銃を打ち続ける背後で、ミキはドアの陰に隠れながら銃を構える。
扉を開ける前から、匂いで標的がステージのどこに立っているか把握していた。
ミキが合わせた照準の先には、真っ赤なドレスを着た少女が立っていた。
「まずはオーソドックスに」というアヤの言葉を思い出しながら、ミキは引き金を引く。
ミキが放った弾丸は少女の眉間と喉と胸に突き刺さる。
それでもミキはいつものように「死ねよ」とつぶやくことはなかった。
不思議なくらいに―――相手が死んだという手応えを感じなかった。
出鱈目に放ったように見えたアヤの銃弾が、ステージの上の照明に突き刺さる。
シャンデリアのような豪奢な照明装置が大きな音を立てながら割れた。
二、三度ゆらゆらと揺れると、照明は一直線に少女の脳天目掛けて落下した。
ガラスが割れる音と、骨が砕ける音。
聞きなれた二つの音も、二つ同時に起こると何が違う音のように聞こえた。
耳障りな音の反響が消えると、今度は不自然なくらいの静寂がやってくる。
アヤとミキは空になったマガジンを排出して新しく装填し直すと、同時に立ち上がった。
- 236 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:19
- 上部からの強烈な衝撃を受けて、少女の身長は半分ほどに縮んでいた。
だが恐るべきことに、少女は倒れることなくそのまま立ちすくんでいた。
背骨は折れ、腿や膝もあらぬ方向に折れ曲がっている。
首筋と胸からは噴水のように血が迸っている。
通常であれば、これで戦闘は終わりだ。
これ以上何か攻撃を加えることに意味があるとは思えない。
だがアヤもミキも銃を構えたまま戦闘態勢を解くことはできなかった。
死体となったはずの少女は、ステージの上でぎこちなく動き始めた。
折れた脚から骨が飛び出ている。
だが血で濡れた骨は、まるで血に引っ張られるように体内に収まっていく。
ミキの銃弾でぐちゃぐちゃに引き裂かれた顔面も、みるみるうちに元に戻っていく。
まるで―――血が傷口の中へと逆流していくように―――
そして血が体内に収まっていくと同時に、傷口もふさがっていく。
そしてビデオを逆回しにしたかのように、少女の体は元通りになった。
その顔には朗らかな笑顔すら浮かんでいた。
少女は頭に乗っかったままになっていたシャンデリアを軽く払いのけた。
髪を手櫛で整えながら、アヤとミキの顔を舐めるように見回す。
「なんだ。ゴトーじゃないのか。ナッチは外れクジを引いちゃったみたいだね」
- 237 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:20
- ☆
- 238 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:20
- アヤとミキが七階を目指して階段を上り始めた頃、マキは既に五階のフロアを探索し終えていた。
マキがいるビルのフロアに、一人の女がいる。もう一人の女は別の棟にいるようだ。
ここには隣り合うようにして四つのビルが並んでいたが、
一度上にあがってしまえば、簡単に隣のビルに移動することはできない。
どうしても移動したいなら、ガラス張りの連絡通路を通る必要があるのだが、
そんな場所に無防備な体を晒すのは自殺行為に近いように思えた。
マキはまずこのビルにいる一人を片付けることにした。
移動が難しいということは、もう一人の女が邪魔に入ることもないということだ。
向こうに有利な条件がこちらにも有利に働く可能性がある。
音も立てず廊下を移動するマキは、ドア越しに部屋の中のぬるい空気を感知した。
中はかなり広い。小さな映画館のように取り付けの席がずらりと並んでいる。
部屋の中央にはイベントが取り行えるようなステージがあった。
そのステージに一人の少女が腰かけている。
誰だろうか。どこかで感じたことがあるような体のラインだった。
マキは記憶をたどるような無駄な真似はしなかった。
この扉を開ければ、その先に答が座っているのだ。
ならばただそうすればいい。
マキは扉を開いてフロアの中に足を踏み出した。
- 239 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:20
- 懐かしい顔がマキのことを待っていた。
カメイエリ。
その名前を知ったのはUFAでの訓練が終わった後だった。
施設にいた頃は、ただ多くいるテラダの配下の一人くらいにしか思っていなかった。
まさか彼女の方がテラダを操っていたとは―――思いもよらなかった。
カメイはステージに腰かけたまま、丸太のように太い足をぶらぶらとさせている。
無造作に置かれた手には何も握られていなかった。
カメイの胴回りを素早くスキャンしたマキだったが、武器のようなものは確認できない。
どうやらこいつは素手で戦う気のようだ。
まさか―――戦う気がないということはあるまい。
彼女の体からは、マキに向けて、十分過ぎるほどの殺気が放たれていた。
「おやおや。ゴトーさんはこっちの方に来ちゃったんですかー。
ヤグチさんの方に行ってくれたら、エリも楽できたんですけどねえ」
ステージの上にいるカメイ。扉の近くにいるマキ。二人の距離は数十メートル離れていた。
素手で戦うというのなら間合いが命だ。マキも慎重にカメイとの距離を計る。
カメイは子供のように無邪気にぶらぶらと足を振っている。
「しょうがいないですね。じゃ、いきますよー」
一度大きく反動をつけると、カメイは勢いをつけてステージの上から飛び降りた。
次の瞬間―――カメイの目はマキの目の数センチ先にあった。
- 240 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:20
- 胃の下あたりに火の玉が弾けたような衝撃を受けた。
それがカメイのボディーブローだったことに、マキは吹き飛ばされてから気付いた。
腹が痛むと同時に、背中も焼けるように痛んだ。
吹き飛ばされたときに、背中をドアでしたたかに打ちつけたらしい。
マキは痛みと痛みに挟まれて、しばしの間、悶絶した。
追撃を加えようと歩み寄って来るカメイに、ゼロが襲いかかる。
研ぎ澄まされた牙がカメイの頬をかすめる。
ゼロは着地すると同時に再び飛び上がる。
重力を無視したかのような軽やかな動きだった。
粉雪が舞うように軽くゼロは舞い、鋭い牙をカメイに突き立てる。
「今度は黒い犬かあ。GAM関係は犬が好きだねえ。また八つ裂きにしてやろうか?」
カメイは目でゼロを牽制する。
カメイの瞳の中にある凶暴な光は、ゼロの攻撃を押しとどめるに十分だった。
だがさすがにゼロもマキを守るポジションだけは動かさない。
二つの獣が、唸り声を上げ、睨みあうこと数秒。
その背後で、荒く乱れた呼吸を整えながら、マキがゆっくりと立ち上がった。
- 241 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:20
- 「そのまま寝ていれば楽になれるんですけど? 起き上ったって辛いだけですけど?」
マキの息はなかなか整わない。口の中をざっくりと切ったようだ。
上唇から血がつつつーっと垂れる。
絨毯を敷き詰めた廊下に、マキの赤い血が染みをつけた。
「ははっ! 切っちゃいましたか。その血欲しいなー、欲しいなー、欲しいなー!」
マキの血を見てカメイのテンションが上がる。
両手をだらりと垂らしたまま、カメイはバタバタと足を踏みならした。
あの血。あの血があれば『究極のモーニング娘。』が完成する。
太陽をこの手にすることができる。そのために自分は全てを捨てた。
自分にはあの血を―――手にする権利があるはずだ。
いや。権利じゃない。義務だ。自分には太陽を操る義務がある。
マキに負けず劣らず、カメイの息も荒くなっていく。もう抑えつけることができなかった。
ぶち殺す。ずったずたに引き裂く。血を舐める。舐め尽す。骨の髄まで。しゃぶる。
カメイの目に狂気の光が宿る。もうマキのことしか見えなかった。
「殺す! 殺す! 殺すぅ! 殺すぅ! ころしゅ! ころしゅ! ころしゅ! ころ」
次の瞬間、今度はマキの目がカメイの目の数センチ前にあった。
- 242 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:20
- 目の前にいたマキの姿がカメイの視界から消えた。
一度グイッと沈み込んだマキの体から、カメイの下腹目掛けて膝蹴りが飛び上がった。
重いカメイの体が吹き飛ぶほどの凄まじい膝蹴りだった。
下腹で弾けた衝撃が収まるひまもなく、今度は後頭部で火花が弾けた。
天井まで吹き飛ばされたカメイは、廊下の天井にある蛍光灯に頭から突っ込んでいた。
衝突の反動で、カメイは空中で前のめりになり、顔から床に落ちて転がった。
蛍光灯が粉々に砕け、カメイの頭にガラスの雨を降らせる。
「殺す・・・・・? 誰を殺すって? もういっぺん言ってみな」
口から流れ落ちる血もそのままに、マキは腰から銀のナイフを抜く。
このカメイという女が遊びで勝てる相手ではないことはわかった。
なるほどこいつは強い。だがマキも一歩も下がる気はなかった。
全ての感覚受容器をオーバーロードさせる。神経を伝達する電流が増幅される。
体中から掻き集めた電流をナイフに叩きこみ、マキはカメイに襲いかかった。
カメイは立ち上がり様に頭を左右に振る。
肩まで伸ばした髪の毛にからまっていたガラスと血が、四方に飛び散った。
マキは顔面に飛び掛かってくるガラスの破片とカメイの血滴の動きを、
ナノメートル単位で計測し、かわせるものはかわし、かわしきれないものは、
最も体のダメージが薄い部分で受け止めた。
日本刀のように伸びた銀の刃が、右から左へとカメイの首筋を一閃した。
- 243 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:20
- 何かのゲームのように、カメイの首が鮮やかに飛んだ。
飛んだ首は、ゆるやかな放物線を描き、廊下の隅に置いてあったゴミ箱に
ぶつかって落ちると、ころころころとボールのように床を転がった。
「念仏でも唱えな」
何気なくマキは転がった首の方に視線をやった。
油断というほどの動きではなかった。だがカメイはその一瞬を逃さない。
背を向けたマキに向かって、カメイの胴体が後ろから抱きついた。
首のないカメイの胴体は、マキの体を両腕ごとがっちりと抱きしめた。
カメイはぐるりと回した太い腕を、マキの胸の前で組み合わせる。
もうマキは身動き一つできなかった。
肌と肌が密着する。カメイとマキの間合いがゼロになる。
こうなるとマキの感覚受容体は何の役にも立たなかった。
ピタリとくっついてしまえば―――相手の動きを上回ることはできない。
ゼロは絡み合う二人の体の周りをうろうろと回り、情けない声で吠えたてるだけだった。
こういうときは相手の顔や首筋を狙うことを徹底的に仕込まれている。
だが今は―――その相手には首から上が存在していなかった。
- 244 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:21
- 「ほっほっほっほ。つーかまえた!」
床に転がったカメイの首が叫んだ。
顔は全く違う方向を向いているのが、なんとなく滑稽な感じだった。
マキはカメイの両腕を振り払おうと渾身の力を込める。
だが丸太のように太いカメイの腕は、マキの力をもってしても、微塵も動かなかった。
「血ぃちょうだい。血ぃちょうだい。ごとーさんの血ぃちょうだい」
カメイの首は、唇を動かしながらもぞもぞと揺れ動いた。
だがカメイの思うように動くことはできなかったらしい。
カメイは面倒臭そうな顔をして、それ以上動くのを諦めた。
相変わらずその目はマキとは正反対の方向を向いている。
「ああ、もう。面倒臭いなあ・・・・・・・・」
その間も、カメイの胴体はマキの体を思いっきり絞め続ける。
血が通わない。マキの肘から先が真っ白になった。
ついにマキは手にしていた銀のナイフを取り落としてしまった。
それでもカメイは緩めることなくマキの体を締め上げる。
マキの体から骨が軋む音が響き始めた。
「では、ごとーさんの言う通り、念仏でも唱えますか?」
カメイの唇から、古より伝わる悪魔の言葉が漏れ始めた。
- 245 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:21
- 「黒き土よ・・・赤き炎よ・・・白き月よ・・・青き水よ・・・・」
カメイの胴体は拳を握った手を胸の前で交差させた。
右手を前に。次の瞬間には左手を前に。そしてまた右手を前に。
目にも止まらぬ速さで、何度も何度も交差を繰り返す。
腕が緩んだ隙を逃さず、マキはカメイの手からするりと逃れた。
それでもカメイはマキの姿を追うことはしない。動かないまま詠唱を続けた。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉をカメイは一息で一気に唱えた。
クロスさせたカメイの両手の手首が、強烈な黒い光を放つ。
マキはそれを押しとどめることもできず、ただ自分の息を整えるのに精一杯だった。
「無限の闇の向こうから来たれ 無限の闇をまといて来たれ、我が守護神よ。
今こそ、その力を解き放ちたまえ。 いざ、開け! 黒き北方の門!」
黒き光がカメイの体を包み込み、カメイの輪郭をゆっくりと溶かす。
次の瞬間、カメイの肉体は人間の輪郭を消し、異形のものと化していた。
- 246 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:21
- ☆
- 247 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:21
- ぼんやりと廊下から階下を見ていたヤグチの耳に、ガラスが割れるような音が聞こえた。
どうやらその音は、隣のビルから聞こえてきたようだ。
敵はまずカメイの下に姿を現したらしい。
「ふん。カメイなんかで大丈夫なのかよ」
ヤグチは大して面白くなさそうにそう一人つぶやく。
まだヤグチはカメイが守護獣と化したところを見たことがなかった。
研究したり指示したりするカメイの姿しか見たことがなかった。
ゆえにヤグチは、カメイの戦闘能力に関しては大いに疑問を持っていた。
アベの方は大丈夫だろう。相手が誰であれ、負けるはずがない。
あのアベに勝てる人間などこの世には存在しないだろう―――このマリィ様を除いて。
どうもテラダやカメイの計算によれば、ゴトウよりもアベの力の方が上のようだ。
となるとアベはゴトウを殺し、その血を手に入れることになるのだろう。
チャンスはその一瞬しかない。
アベがゴトウの血を飲み干そうとするその瞬間―――横からかっさらうのだ。
ヤグチは既に七種類のウイルス被験者の血液を入手していた。
アベに移植を終えた後の組織の管理は杜撰の一言に尽きた。
テラダやカメイにしてみれば、アベに移植が終わった時点で、
この仕事はもう終わったも同然だと考えていたのだろう。
ヤグチがこっそりその一部を持ち出すのは難しいことではなかった。
- 248 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:21
- ヤグチはポケットから血の入った七つのバイアルを取り出す。
どうもこれをそのまま飲むのはマズイようだ。
アベは適格者であるからそれでも構わないのだが、ヤグチの場合は無理だ。
ゴトウの血を入手し、それを混合してから飲むのがいいのかもしれない。
ヤグチは小学生並の理科の知識でこのウイルスのことを理解した気になっていた。
ウイルスの本質が何であるのか、何も知らない。
それでも自分が「究極のモーニング娘。」になれることを信じて疑っていなかった。
無知ゆえに―――ヤグチは何物にも恐れることなく行動することができた。
ヤグチは、アベが究極のモーニング娘。になることを、
このまま指をくわえてむざむざと見送るつもりはなかった。
テラダやカメイの計画などぶち壊してやる。
ゴトウの血はアベには渡さない。最後の最後で笑うのは自分だ。
この世界を、太陽を支配するのはこのマリィ様だ―――
ヤグチはガラス張りの連絡通路へと向かった。
- 249 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:21
- 連絡通路に出たところで、今度は楕円形のビルの方から、何かが壊れる音がした。
どうやらアベの方にも敵がお目見えしたらしい。
すると残るのは自分のところだけか。
だがヤグチのいるビルには敵の気配は全くしなかった。
エレベーターも動いていないし、階段に仕掛けてあるカメラにも何も映っていなかった。
ヤグチはじっと目を凝らす。
楕円のビルからは赤い霧も黒い霧も発生していないようだった。
するとまだゴトウとアベは接触していないのだろう。
もし接触したのなら、おそらく両者は即座にガス化して戦うことになるはずだ。
つまりアベの下にゴトウが姿を現していないなら―――カメイの方に現れた可能性が高い。
カメイが勝つか、ゴトウが勝つか。そんなことにヤグチは興味がなかった。
だが、どちらが勝つにしても、ゴトウが流血する可能性は高い。
その血が向かい側のビルにいるアベに届く前に、自分が手にすることができれば―――
そうすれば、カメイやテラダを出し抜くことができる。
自分こそが「太陽の娘。」となることができる。
ヤグチは連絡通路を右に折れ、カメイのいるビルの方へと足を向けた。
- 250 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:21
- ☆
- 251 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:21
- 「なんですか、イシカワさん。今までどこに居たんですか?」
ミツイやコハルにはとりたてて厳しいことは言わなかったミチシゲだったが、
のこのこと神社まで戻ってきたイシカワには、これ以上ないくらい厳しく接した。
「す、すみません・・・・・アベナツミの姿を追っていて・・・・・」
勿論イシカワも、ミチシゲから厳しく叱責されることは予想していた。
自分は敵襲を受けた後、勝手に無断で持ち場を離れていたのだ。
それ相当の理由を用意しておかなければ、命すら危ういだろう。
「イイダさんの血を取り戻そうと必死だったんですが・・・・見失って」
「なぜ連絡をしなかったのです」
「そんな暇なかったんですよ! 追いすがるのに必死で!」
「相手はサディ・ストナッチですよ? 追いつけるとでも思ったのですか?」
「いえ、相手はイイダさんを殺した後はすぐにガス化を解いたので・・・・・」
苦しい言い訳だった。常識で考えれば、相手も簡単にガス化を解いたりしないだろう。
敵の追跡を振り切るために、ガス化したままで姿を消すはずだ。
だがミチシゲは―――なぜかイシカワの言葉に少し納得したようだった。
- 252 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:22
- 「まあ、確かにガス化は長く続けることができない能力ですけどね」
それはイシカワには初耳だった。瓢箪から駒。
どうやら無理矢理作った言い訳が、なんとか上手く通ったようだ。
「でもイイダさんの血が奪われるという、これ以上ないくらいの非常事態ですよ?
それなのに連絡一つ寄こさずに姿を消すとはどういうことです! 論外です!」
「まあまあ、ミチシゲさん落ち着いて」
「気持ちはわかりますけど、イシカワさんかて必死やったんちゃいますか」
ミチシゲの怒りは収まっていないようだったが、
コハルとミチシゲの取りなしもあって、その場はなんとか切り抜けられそうだった。
それに今のECO moniは抗体作成に向けて人員をフル回転させている。
見張りの者を減らしてまで研究開発に人を回していた。
GAMの人間もいなくなったし、とにかく人が足りない状況だった。
目が異常発達したキャリアであるイシカワが帰って来たのは非常に大きい。
コハルとミツイは今からすぐにでもイシカワを警備に復帰させるべきだと説いた。
そしてミチシゲも―――渋々ながらその意見を取り入れた。
結果としてイシカワは、思っていたよりもすんなりとECO moniに復帰することができた。
- 253 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:22
- 「イシカワさーん。あんまりミチシゲさんのこと心配させちゃダメですよ」
「え?」
ミチシゲの部屋を出て、持ち場までイシカワを案内しようとしていたコハルとミツイは、
イシカワが不在だった間のことをつらつらと話した。
ECO moniの皆は姿を消したイシカワが、サディ・ストナッチに殺されたと思っていたこと。
ミチシゲもイシカワの死を受け入れる覚悟を決めていたこと。
おそらくミチシゲの怒りは、死んだと思っていたイシカワが生きていたことに対する、
混乱の気持ちもあったのだろうと、ミツイは説明した。
「そうだったんだ・・・・・ごめんね。心配かけて」
「だから、そういうことはミチシゲさんに言ってくださいよ!」
「うん・・・・・機会を見つけて・・・・またそのときに・・・・」
「ホンマ頼みますよ。ミチシゲさんの機嫌が悪いとこっちまでとばっちりが来るんやから」
「ふふふ。ありがとう。ちゃんと謝っておくよ」
イシカワにはコハルとミツイの気遣いが嬉しかった。
普段は何だかんだとイシカワに文句ばかり言っている二人だが、
肝心のときには決まって優しく接してくれた。
優しくされる度に―――イシカワの心は揺れた。
- 254 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:22
- コハルとミツイから警備体制に関する簡単な説明を受け、
イシカワは自分の持ち場に向かった。
今はコハルもミツイも抗体作成の方に回ることがほとんどだという。
テラダやカメイが七種類の組織を揃えた今、そちらからの襲撃を考える必要はないはずだった。
なぜならテラダ達は―――
ECO moniが持っている最後の切り札の存在を―――知らなかったから。
イシカワの任務は、その最後の切り札を守ることだった。
この切り札の存在は、GAMもゴトウも知らない。
いわば、イイダカオリというのはダミーの切り札のようなものだった。
たとえ奪われてしまっても、保険の利く存在だったと言える。
だが今度ばかりはこの切り札を奪われるわけにはいかない。
この最後の切り札には保険は利かないのだ。
これを奪われれば―――今度こそ「究極のモーニング娘。」が完成してしまうだろう。
だがイシカワはそれを利用しようとしていた。
ECO moniを裏切ろうとしていた。
たった一人の女のために。出会って一年もしない、ただのファイターのために。
彼女が望むものを―――叶えてあげるために。
- 255 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/19(土) 23:22
- 自分はおそらく間違っているのだろう。
自分の行動には、いかなる大義名分もない。
ただ単に、自分の欲望のままに行動しているに過ぎないのだ。
ミチシゲが知ったら、烈火のごとく怒り、間違いなく自分のことを殺すだろう。
だがそれでもイシカワは決心を変えることはしなかった。
自分はそのためにここに帰って来たのだ。もう後悔はしない。
イシカワは神社の裏に回る。そこには巨大な水槽があった。
水槽の中には多種多様な生き物が生存していた。誰がどう見ても、普通の水槽だ。
この中に特別な生き物が―――太陽と地球の未来を左右するような、
特別な生き物が棲んでいるなどと、誰も想像することはできないだろう。
イシカワは水槽のガラスにもたれかかり、こつこつと水槽を指で叩く。
この生き物を使ってヤグチをおびき寄せる。
ヨシザワに、ナカザワやツジやカゴの仇を討たせる。
それだけが今のイシカワの生きる意味だった。
自分はきっと間違っている。
地球全体と一人の女の気持ちを天秤にかけるなんて―――
もしかしたら、狂っているのかもしれない。
イシカワの思いは正しかった。
信じる者に殉じる瞳を狂気と呼ぶのなら―――
その時のイシカワの目にあったものは、確かに「狂気」としか言いようのない光だった。
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/19(土) 23:22
- ★
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/19(土) 23:22
- ★
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/19(土) 23:22
- ★
- 259 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:08
- アヤとミキの前に現れた真っ赤なドレスの女は、一つの傷も負っていなかった。
赤子のようにつるつるとした頬に、さらさらのショートヘア。
ドレスから伸びた手足も、フィギュアのような美しさを保っていた。
だが彼女の上にシャンデリアが直撃したことは間違いない。
赤いドレスは所々引き裂かれ、その滑らかな生地の下からは、
レースをあしらった高価そうな白い下着が覗いていた。
真っ白な下着には一滴の血もついていない。
何かを主張するような潔白の輝きは、アヤの脳裏に一つの仮定を構成させる。
「ふうん・・・・・・あんたがもう一人の適格者、アベナツミ、か。
やっぱりあんたもキャリアなんだな。なかなか面白い能力だよね」
アヤの言葉を受けて、ナッチはきらきらと輝くように微笑んだ。
その笑顔は悪魔のように魅力的なものだったが、
美しいものをこよなく愛するアヤの琴線には触れなかった。
アヤは切れるような美しさを愛す。張りつめた美を、瞬間的な美を愛す。
不安定でありながらも、奇跡的なバランスで成り立っている美を、ひたすらに愛した。
ナッチの微笑みはそうではなかった。
どっしりと大地に根を下ろした、揺るぎのない微笑みだった。
自分の美が唯一絶対であることを強烈に自己主張していた。
永遠に続くもの。絶対的であるもの。
そんなものなど、この世には存在しえないはずであるのに―――
- 260 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:08
- 「面白い能力? へえ。あんたこそ面白いことを言うじゃんか。
マツウラアヤだっけ? あんたにはあたしの能力のことがわかるっていうの?」
JJにしてもLLにしても、戦っている最中にナッチの能力を見抜くことはできなかった。
他の人間にしてもそうだ。簡単に見抜くことができた人間など一人もいなかった。
ナッチの方からそれとなく仄めかすことによって察することができたのだ。
このマツウラという女が、一目見ただけで能力の全てを理解できたとは思えなかった。
彼女達が理解していること―――
それはおそらく、ナッチがサディ・ストナッチと化すことができるということだろう。
ガス化して攻撃できるということくらいしか知らないはずだ。
もしかしたらガス化に対する対策を練ってきたのかもしれないが―――
この異常に発達した血の能力の前では、そんな対策など全て無に帰すだろう。
ナッチはこの二人との戦いを、かなり楽観的にとらえていた。
「血だね。正確に言えば体液かな。体液が異常に発達してるキャリアってことか」
「体液? じゃあ、さっき血が逆流していったのもそういうことなの?」
「だろうね。異常発達した体液によって治癒能力も異常に高まってるみたいだね」
「へえー。結構ヤバイ能力だね。もしかして、あの血を浴びたらマズイかも?」
「マズイだろうね。あの血が強烈な毒だったとしても、あたしは驚かないね」
アヤとミキはナッチを前にしながら軽い雑談のように話を続けた。
ナッチの驚異的なパフォーマンスを見せつけられても、臆することが全くない。
こいつらはタカハシやニイガキのようなイージーな相手ではない。
ナッチは認識を改めた。
- 261 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:09
- 「ふーん。よくわかってるじゃん。マツウラの言う通り、あたしの血は特別な血だよ。
誰が何をしようが、あたしは傷つかない。どれだけ傷つけても、あたしは死なない」
アベはあくまでも精神的に優位に立って戦いを進めようとする。
相手を対等に扱うような真似はしない。見下ろしながら戦うのだ。
「泣いて許してもらおうと思ってもダメだよ。あたしは絶対に許さない。逃がさないよ。
たっぷり遊んであげる。わかるよね? 自分達がこれからどうなるか―――わかるよね?」
袋小路に追い詰めた相手が、破れかぶれになって、
最後は死ぬとわかっていながら暴発して自爆する。
そういった、精神の破綻の経過を見ることを、ナッチは好んだ。
だがGAMの二人は動揺を見せない。むしろナッチの言葉を楽しんでいるようだった。
「どうなる? さあね。どうなるんですかねえ。わかりますか、ミキたん?」
「わかるよ。そんなの決まってるじゃん。あたしらはアベさんに殺されるんだよ」
「えー! うそぉ! あたし達って殺されちゃうの!? そんなのやだよー!」
「ダメだよアヤちゃん。泣いてもダメだってさ。代わりにケツの穴でも舐めてみる?」
「それいいね。案外、あのおばさんも、アンアン言って許してもらえるかもよ」
「臭そうな肛門だけどさ」
「それも人生の試練だね」
アベの能力を見て、ここまで口が減らない人間というのも初めてだった。
こんなに生きの良い獲物はいつ以来だろうか。ナッチの体の芯に熱いものが流れる。
その熱さは、怒りなのか喜びなのか。それはナッチ本人にもわからなかった。
- 262 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:09
- 「ふん。口だけじゃないところ、見せてみなよ」
アヤとミキの軽口を、ナッチは一つの挑発だと解釈した。
おそらく二人は誘っている。ナッチがガス化することを誘っているのだろう。
GAMの後ろにはECO moniのミチシゲがいる。
ガス化の対策を何も講じていないとは考えられない。
そんな対策など何の意味もないということを―――体で教えてやろう。
ナッチは背中から真っ赤なナイフを二本抜いた。
両手で持ったナイフを代わる代わる口に突っ込み、ざっくりと舌を切り裂く。
たっぷりと血を吸ったナイフは、闇夜に漂う猛獣の瞳のように妖しい光を放った。
相当量の血を吸ったナイフだが、それでも血は一滴も垂れなかった。
まるで蝋燭の炎のように、ナッチの血はナイフの刃の周りをたぷたぷと揺れる。
ナッチはステージからぴょんと飛び降り、試し切りをするように、
ステージの下にある椅子の前でナイフを左右に振った。
チェーンソーで乱暴に切り取られたかのように、椅子は木っ端微塵に弾け飛んだ。
「切れ味鋭い」という概念の対極に存在するようなナイフだった。
えぐり取られた椅子の残骸は、熱したチョコレートのようにどろりと溶けていく。
ナッチはそうやってバキバキと椅子を砕きながら歩き出した。
右のナイフをアヤに、左のナイフをミキに向ける。
「ただでは殺さない。首から上だけは生かしておいてあげるよ。永遠にね」
- 263 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:09
- 「なるほど。あんたの血は他人に忍び込ませることもできるわけだ。
そして眠らせたり、操ったり、無理矢理生かしておいたりもできると」
「マツウラ。あんた小賢しいね。あたしの一番嫌いなタイプだよ」
「それは光栄」
「それともう一つ」
「前置きが長いねえ」
「首だけを無理矢理生かすってのはさすがに無理だね。さっきのは言葉の綾だよ」
ナッチは右手に持っていたナイフを左手に預けると、
フロアの座席の一つに乗っかっていた丸い塊を拾い上げた。
そしてそれを―――無造作にぽーんとミキの方に投げ捨てる。
さすがにミキはそれをキャッチするような無防備な真似はしない。
「手榴弾?」と思いながらさっと避けるが、そこからは火薬の匂いはしない。
そこから濃厚に漂ってきたのは―――死体の匂いだった。
床に落ちた丸い塊は、ミキの足元にどさりと落ちて、ごろごろと転がる。
「アハハハハ。落としちゃダメだよー。仲間でしょ? 可哀相じゃんか」
仲間。ナッチの言葉からミキは一つのことを連想した。
もしかして。いや、そんなバカな。そんなバカなことが―――
だがミキの連想は現実のものとなった。
そこに転がっていたのは―――腐敗も始まっていた―――コンノの頭だった。
- 264 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:09
- 「アハハハハ! そうなっちゃったらさすがのナッチも生き返らせるのは無理!」
ミキの撃った弾丸がナッチの前歯を直撃した。
血飛沫とともに白い歯が飛び散る。
アヤの撃った弾丸はナッチの喉元を直撃した。
二人は蒼白な顔をしながら、同時に同じことを言った。
「黙れよ」「黙ってそして死ね」
ナッチの顔色が変わった。肩がぷるぷると震えている。
右手に二本持っていたナイフのうち一本を取り落としてしまった。
ナイフは乾いた音を立てて床を跳ね上がり、椅子のところへと転がっていく。
それでもナッチは二人の方を見るでもなく、落としたナイフを見るでもなく、
自分の口の辺りを抑えて、傷の状態を確認していた。
「ちょっと・・・・・・歯は・・・・歯は治らないんだけどなあ・・・・」
骨ならば造骨細胞を活性化させることによって再生することができる。
筋肉ならば筋原細胞を活性化させることによって再生することができる。
だが永久歯は、一度欠けてしまえば、ナッチの異常に発達した体液をもってしても、
再生することは不可能だった。
脳や心臓や骨はいくらでも再生ができる。
異常に発達した体液を活性化することによって完全に治癒することができる。
だが、治せない部分も存在する。ナッチの能力といえども万能ではない。
アヤはナッチの狼狽振りからそういったことを即座に察知した。
相手の弱みに付け込むことは得意だった―――得意中の得意と言ってもいいくらいに。
- 265 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:09
- 「ミキたん!」
「オーケー、アヤちゃん!」
以心伝心。心を通い合わせることができる人間がいたことを、アヤは素直に喜んだ。
アヤもミキもコンノの死体には見向きもしない。
そこにはもうコンノの魂はないのだ。弔うことなら後でいくらでもできる。
今は、そのコンノの頭がきっかけになって見えた微かな光に向かうべきだ。
微かに見えた突破口目掛けて、全ての力を注ぐべきときなのだ。
もしかしたら、ほんの一瞬、コンノがこの地上に舞い戻ってきて、
ちょっとしたナッチの弱点をあたし達に示してくれたのかもしれない―――
アヤは、らしからぬロマンチックな思いを抱きながら引き金を引き絞る。
アヤもミキも、狙うところは一つだった。
ナッチの口腔内目掛けてあらんかぎりの弾丸をブチ込む。
発砲の反動を後ろに逃がしながら、アヤは次の手を考えていた。
相手がガス化してしまったらこちらが不利になる。
できればそうなる前に一気に決着をつけてしまいたい。
ただ歯をぶち抜いただけでは相手は死なないだろう。
どこか他の弱点を探さなければならない。
再生できないところ。体液でも治癒できないところ。必ず他にもあるはずだ―――
視界の奥でナッチの目が大きく見開くのが見えた。
- 266 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:09
- 「ちょ・・・ちょほしに乗んなよ・・・・・・」
ナッチの口からは滝のように血が流れていた。
前歯も奥歯もことごとく砕かれ、残っているのは数本の歯だけだった。
ナッチは唇を閉じ、流れ落ちる血を口に目一杯含むと、毒霧のように吹きつけた。
血煙に触れた弾丸は、溶けて捻じれてその軌道を逸らしていく。
「そんなこともできんのかよ・・・・・」
無意識にもらしたミキの言葉には隠しきれない恐怖の響きがあった。
この化け物は、一体何回殺せば死ぬのだろうか? 本当に殺せるのだろうか?
死ぬまで殺し続けると決めた心が―――揺らいでいく。
徐々にナッチの能力に押されていくミキの心を、アヤの言葉がつなぎとめる。
「なるほど便利な能力だね。そんな能力を持っていたら勘違いするのも仕方ないな」
「か・・・・・勘違いってなにさ?」
ナッチはなおも歯茎から血を滴らせながらアヤに問い掛けた。
跳ね返しても跳ね返しても挫けるということがないこのマツウラという女の、
強気な態度の拠り所となっているものが何なのか知りたいと思った。
「アベさんって適格者なんだよね。太陽の娘。となる資格を持っている一人だ。
それを知っちゃったことも、勘違いの原因の一つになってるんじゃないかな」
「だから勘違いってなんなのさ。はっきり言ってみなよ」
アヤの言葉はいつも以上に冷たかった。
「―――『自分は特別な人間だ』っていう思い込みだよ」
- 267 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:10
- 「はあ?」
「アベさん。あんたは決して特別な人間なんかじゃない。あたしから見れば普通の人間だよ」
アヤはそう言ったかと思うと、一直線にアベに向かって走り出した。
何かをふっ切ったかのような、迷いのない全力疾走だった。
ミキは思わず悲鳴を上げそうになる。アヤは赤い血煙の中に頭から突っ込んでいく。
時間にすれば数百分の一秒の間だったろう。ミキは色々なことを考えた。
無謀だ。あの血に触れたらヤバイ。でもアヤはそんな無茶する子じゃない。
何か勝算があるのか。勝算がなければ動く子じゃない。
何あの動き。全力だ。フェイントじゃない。100%の力だ。
100%の力で動くアヤなんて初めて見た。あたしが初めて見る動き?
なぜ今そんな動きを? あたしのフォローはいらないの? まさか。
でもあたしはどう動けばいい? アヤの動きが予測できない。どうすればいい?
動けないなら動くな。絶対に動くんじゃない。ミキの本能がそう告げた。
ミキは銃をナッチの脳天に向けたまま、固定して動かさなかった。
銃口と脳天を結ぶ直線上に、全力疾走するアヤの姿が重なってきた。
何が起ころうが、アヤの姿から目を逸らすまい。
そう思った瞬間のことだった。
ミキの視界からアヤが消えた。
- 268 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:10
- 次の瞬間、アヤはナッチの頭上に飛びあがっていた。
まるで重力が逆になったように、まるで上下が逆になったかのように、
アヤはお淑やかにつま先から天井に着地していた。
ミキは、アヤのその俊敏な動きからマキの動きを連想した。
全く無駄のない体重移動。予備動作のない、瞬間移動のような電撃的な体さばき。
アヤは周囲の空気を巻き込みながら常識では考えられない動きを見せた。
ナッチもその動きに全く付いていけないようだった。
天井でアヤがクンと膝を屈めた気配を察し、ナッチが天井を仰ぎ見る。
真っ赤なナイフを振り上げようとするナッチ。
その右手の親指を、ミキは正確に撃ち抜いた。
他の指は一切狙わない。親指の付け根だけを狙って6発の銃弾を重ねる。
生半可な攻撃ではすぐに再生してしまう―――ミキはナッチの親指を彼方まで弾き飛ばした。
親指を失ったナッチは、持っていたナイフを手の中で滑らせる。
コントロールを失ったナイフはすっぽ抜けてアヤの肩口を抜けていき、
固い天井にぶつかってあさっての方向へと飛んでいった。
ナイフをかわしたアヤは、人間魚雷のように頭からナッチに突っ込んでいく。
いつの間にかアヤの手には―――ナッチが取り落としたもう一本のナイフが握られていた。
- 269 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:10
- アヤはナイフを両手で持つと、自分の頭の上に乗せた。
そこに全体重をかけて、頭からナッチの右肩に斬りかかる。
ナッチの血を帯びたナイフは、ナッチの肉を裂き、同じナッチの血に触れた瞬間、
磁石のSとSが弾けるように、強烈に反発し合った。
アヤはその反発力をナッチの体の内側へと逃がす。
ナッチの右肩が爆発した。
斬り落とされた右腕が、竹トンボのようにくるくると回りながらステージの後方に飛んでいく。
アヤの動きは電光石火だった。
右肩から弾け飛んだ血飛沫をかわす。予測していなければできない類の動きだ。
右足を軸にしてくるりと反転しながらアヤは身を屈める。
今度はナッチの左足に狙いを定めたアヤだったが、
膝下から斬りかかろうとした動きを途中で止め、
力強いバックステップで後方に宙返りを打ちながら、ナッチとの距離を取った。
ミキはその動きをバックアップする。
ナッチに対してアヤが無防備な背中をさらした瞬間、ナッチの腹部に向けて銃を撃つ。
弾は全てナッチの血飛沫によって弾かれたが、アヤの後退を補助するには十分だった。
ナッチは左手で右肩を抑える。血はあっという間に止まった。呼吸も乱れていない。
傷は瞬間的に治るようだが―――
「やっぱりね。特別なのは血だけ。斬られた指や手が生えてくるってことはないわけだ」
アヤは手にしていた真っ赤なナイフをナッチに向けて投げつける。
ナッチが左手で受け止めようとした瞬間―――
ミキの放った銃弾がナイフの柄を弾き飛ばした。
ナイフはあらぬ方向へ飛んでいき、ナッチは伸ばした手の行き場を失った。
- 270 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:10
- 失笑。思わずミキの顔から笑みが漏れた。
アヤのたった一つの攻撃が、ミキの中にも気持ちのゆとりを取り戻させていた。
「惜しい惜しい! もうちょっとでキャッチできたのにねえ。残念でしたー」
ミキの軽口はナッチの耳には届かない。
ナッチはじっとアヤのことを見つめていた。
あの奇抜な体の動き。技と力の合わさったナイフの扱い方。
飛び散る血の動きの正確な予測。どれ一つとっても全く無駄のない動きだった。
ナッチの左足を切り落とさなかったのも、あの低い体勢では次の動きが鈍り、
膝から飛び散るであろう血を避けきれない、という判断があったからなのだろう。
「やるねえ。マツウラさん。でもせっかく手に入れたナイフを捨てちゃっていいの?」
「いいんだよ。アベさんの血のついたナイフだからね。長くは持っていたくない」
「で? 腕を一本落としたくらいで勝ったつもり? これくらいどうってことないさ。
ナッチは特別な、選ばれた人間だからね。あんたらがどれだけ足掻こうが、全部無意味さ」
「特別じゃないよ。あんたは特別な人間じゃない」
「へーえ。果たしてあんたにそんなことを言う資格があるのかな?」
「こういう話、好き?」
「そんなに議論がしたいっていうなら相手してやってもいいよ」
「ははっ! 議論なんて言わないでよ恥ずかしいから。こんなの子供の口喧嘩レベルじゃん」
マツウラは大口を開けて、ゲラゲラと笑った。
- 271 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:10
- 「実際、アベさんは特別な存在なんかじゃないんだよ。あんたに比べれば、
テラダやカメイの方がよっぽど特別な人間のようにあたしには見えるけどね。
何が特別って、特別なのはそのウイルスだろ? あんたはそれを勘違いしてる。
ウイルスの力を自分の力と思いこんでる。まさに『虎の威を借る狐』だよね。
その特別な血もウイルスの力。ガス化できる能力もウイルスの力。全部借り物の力。
ウイルスがなくなったら、あんたには何が残るっての? 何もないんじゃないの?」
ミキにはアヤの言っていることが極めて正論であるように思われた。
だが当のナッチは痛いところを突かれたとも思っていないようだった。
むしろアヤを憐れむような口調で切り返す。
「子供な考えだねえ。カオリもたいがい子供な性格だったけど、あんたはそれ以上だね。
あんたは自分で食べる魚を自分で獲ってるの? 自分で着る服を自分で縫ってるの?
その拳銃。あんたが作ったの? あんたが鉄を掘って、精錬して、組み立てたの?
違うでしょ? そういうことは、そういうことをする人が別にちゃんといるんだよね。
そういう人達が全員いなくなったとき、あんたは今まで通り生きていけると思う?
もしウイルスがなくなったらって考えるのは、それを考えるのと同じことなんだよ。
あんたが偉そうに『虎の威を借る狐』って言ってるのはそういうことなんだけどな」
へえ、と思わずアヤは感嘆の声を上げてしまった。
アベがここまで饒舌だとは思わなかった。
しかも熱い。熱い話だ。
熱くてそして思いっきり自己中心的であるという、アヤが最も好きな種類の話だった。
自己中心的でない、客観性を強く意識した話など、何の価値もない。
アベの話は、論旨が通っているとは思えなかったが、耳を傾ける価値のある話だと思った。
- 272 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:11
- 「まあ、世の中ってのはそうやって回ってる。魚を獲る人。服を縫う人。拳銃を作る人。
そういった誰にでもできるような仕事は、マツウラみたいな凡人がやっていればいい。
ナッチは違う。ナッチは何も生み出さないし、何も作り上げない。誰にも貢献しない。
ただナッチは、ナッチとして輝く。誰かのために何かをするなんてあり得ないんだよ。
他の人間はナッチのために働けばいいんだ。テラダも、カメイも、そしてカオリ達もね」
アベは強がりで言っているのではなかった。
心の中で思っていることを、単純にそのまま口にしているだけだった。
もしかしたらアベは「信じられない」という気持ちでいるのかもしれない。
アヤやミキが―――自分のために働いてくれない、ということを。
アベは言葉を続ける。アベは優しい。
少なくともアベ本人は、アヤやミキに対して優しく接しているつもりだった。
「で、『ウイルスがなくなったら、あんたには何が残るっての?』だっけ?
もうマツウラにも答はわかるよね。ナッチの答は『なくならない』だよ。
ウイルスはなくならないし、ナッチはずっと特別な存在であり続ける。
テラダやカメイはナッチのために働き続ける。この先も何も変わらない。
なぜなら『ナッチが特別な存在だから』なんだよ。それが唯一絶対の答さ。
借り物の力? 結構じゃない。借り物の力っていうのなら、ナッチは世界中から
ありとあらゆる力を借りてやってもいいよ。勿論―――誰にも返さないけどね」
ナッチはアヤのことをも、飲み込もうとしていた。
傲慢な言葉の数々でもって、アヤの自意識ごと取り込もうとしていた。
ナッチは―――この世の全てに干渉する。
- 273 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:11
- アヤは爛々と目を輝かせながらナッチの話を聞いていた。
凡百のキャリアにはない能力観をナッチは持っていた。
そしてこのアヤ様のことすら丸ごと飲み込もうとしている。良い根性だ。
この女が適格者の一人に選ばれた理由が―――わかるような気すらした。
「残念だよ」
そういうアヤの表情は全く残念そうではなかった。
むしろ生き生きと高揚しているように見えた。
湧き上がる歓喜を苦労して抑えつけているようにも見えた。
叩き甲斐のある、潰し甲斐のある相手に会ったときに、アヤがよく見せる表情だった。
「アベさんとは良いお友達になれそうな気がするんだけどね。残念だよ」
「残念ながら―――殺されなきゃならないから?」
「殺さなきゃいけないから」
「はははは。それってさあ、どっちでも大して変わらないと思わない?」
まったくその通りだ。殺すも殺されるも同じこと。その通り過ぎて笑えてくる。
だがアヤはもう大声をあげて笑うことはなかった。
ただ目を細めて、くすぐったそうな表情を作るだけだった。
そんな些細な顔の動きだけで、アヤは今の居心地の良さを完璧に表現していた。
- 274 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:11
- 「同感だね。全く同感だよ。全く―――本当に友達になれそうな気がしてきたよ」
「気持ち悪い―――って言ったら?」
「それも同感」
「あー、気持ち悪い」
今度はナッチが目を細める番だった。
ナッチはアヤを見つめる。アヤはナッチを見つめている。
一体どれくらいの間、そうやって見つめ合っていたのだろうか。
ほんの数秒のようにも思えたし、数時間であったような気もする。
二人はその愉悦の時間を骨の髄まで味わった。
アヤが感じている妙な居心地の良さを、同じようにナッチも感じていた。
ナッチはアヤのことを認めた。だが殺すには惜しいとは思わなかった。
結びつきを感じた次の瞬間に、その関係を自ら進んで消滅させるという行為にも、
虚しさは感じなかった。
「じゃあ、遊びはここまで」
むしろ、細胞の一つすら残さずにマツウラのことを死滅させることを強烈に望んだ。
そうすることが、彼女のことを完璧に理解できる唯一の方法だと思った。
えぐり取る。マツウラの全てをえぐり、全てを蹂躙する。
それこそがナッチの好む―――介入の手法であり、干渉の手法であった。
「死ねよマツウラ。一片のDNAも残さずに」
- 275 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:11
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 276 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:11
- その声はアヤの耳にも、ミキの耳にもはっきりと聞こえてきた。
永遠の眠りをいざなう子守唄のような響きでもって。
これから先、何が起こるのか、二人はかなり正確に理解している。
もしかしたらここから全力で逃げ出すことが正解なのかもしれない。
生き延びるための、たった一つの方法なのかもしれない。
だが二人は、まるで影を縫い合わされたかのように、ピクリとも動かなかった。
ただただ、目の前にいる赤い少女の姿に目を奪われていた。
重力感覚がおかしい。床から埃が舞い上がっている。
そして全ての闇がナッチに吸い寄せられていくような気がした。
この世に存在する全ての闇を飲み込んで、ナッチはゆっくりと膨れていく。
いや。闇を飲み込んでいるのではない。
全ての光を放っているのがナッチなのだろうか。
それともその二つのことは―――同じことを意味しているのだろうか。
闇が消えていく。光が溢れていく。アヤは視線を逸らさない。
自らを「特別な存在だ」と断じたアベの言葉を見極めるために、
アヤは瞬き一つせずに、アベの体の動きを見つめ続けていた。
- 277 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:11
- 零――――
サディ・ストナッチがやってくるよ
一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
サディ・ストナッチがやってくるよ
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数
サディ・ストナッチがやってくるよ
闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇の中から
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 278 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:12
- 闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
分 厘 毛 糸 忽 微 繊 沙 塵 埃 渺 漠 模糊 逡巡
サディ・ストナッチがやってくるよ
須臾 瞬息 弾指 刹那 六徳 虚空 清浄 阿頼耶 阿摩羅 涅槃寂静
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇をまといながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇を引き裂きながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇と共に
サディ・ストナッチがやってくるよ
―――零
- 279 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/21(月) 23:12
- ナッチの姿が赤い霧の彼方に消えていく。
あんなに広いと思えたホールは、赤い霧が広がった途端に、ひどく狭く感じられた。
霧は壁沿いに円を描くように、ぐるりとアヤとミキのことを取り囲んだ。
天井にも舐めるように赤い粒子が走っていく。
粒子は赤いドライアイスのように、ゆっくりと天井から降りてきた。
目の前に広がる座席が、赤い霧の拡散を受けて、
まるで盛り上がっては潰れていく波のようにドロリと溶けていく。
上質の麻薬を舐めたときのような、幻想的な風景が眼前に広がった。
ミキの体にどっと冷や汗が流れる。無意識のうちにアヤの方に寄っていた。
手を伸ばせばもう触れることができる距離だ。
ミキはかたかたと噛み合わない歯の震えを力づくで抑え込み、アヤの方に手を伸ばす。
アヤもそっとミキの手に手を重ねた。
「ねえ、ミキたん」
それが最後の別れの言葉だとは思わなかった。
ミキの心の中で決めていることが一つある。絶対に揺るがない思いが一つある。
別れの言葉をかわすときは―――アヤではなくミキの方から言葉をかけると。
それはミキの最後の意地だ。そしてその瞬間が来るまでは、二人は一つだ。
「ミキたんの命、あたしにくれる?」
- 280 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/21(月) 23:12
- ★
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/21(月) 23:12
- ★
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/21(月) 23:12
- ★
- 283 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:08
- 「ウエヘヘヘヘヘヘ」
守護獣を召喚したエリは子象ほどの大きさの亀になっていた。
甲羅の隙間から、千切れたはずの頭がのっそりと顔を出す。
一体なんなんだこれは? 虚を突かれたマキは後ろを振り返る。
確かにそこには、先ほど斬り飛ばしたカメイエリの首が転がっていた。
目と目が合う。頭だけになっても、カメイは変わらず楽しそうだった。
「ウエヘヘヘヘヘヘ。楽しいですねえ、ゴトウさん」
何かを思うよりも先に、マキの体が動いていた。
まるでスイカ割りのように、銀のナイフがカメイの頭を縦に両断する。
強烈な電撃を受けた頭部は、二つに裂けたかと思うと、木っ端みじんに砕け散った。
「ウエヘヘヘヘヘヘ。それがゴトウさんの能力ですか? すごいなー」
ぬう。砕かれたばかりのエリィの首が新たに甲羅から湧き出てくる。
新しい頭を加えた巨大な亀は、マキよりも二周り以上大きかった。
それでもマキは退かない。エリの正面に立ちふさがる。
マキの背後に位置していたゼロは、勢いよくジャンプすると、
壁を蹴ってエリの側面に回る。
エリの反応は速い。エリの右腕が音もなくゼロに向かって伸びていく。
- 284 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:08
- エリの右腕は、まるで蛇のように湾曲しながら宙を舞った。
通常の腕の関節の動きなど全く無視した動きだった。
ナイフのように研ぎ澄まされた爪がゼロの腹を深く切り裂く。
衝撃を受けたゼロは、撃墜された飛行機のように空中できりもみした。
完全に制御を失ったゼロの体に向けて、今度はエリの左手が伸びる。
エリの体の背後を回って伸びていく左腕もまた、蛇のようにしなやかに躍り、
ありえない軌道を描いてゼロの首筋へと伸びていった。
その瞬間。
エリが感知したのは「同時」ということだった。
軽い混乱に陥ったことは否めない。起こり得ないことが起こったのだから。
とにかくその衝撃は、唐突に、同時にやってきた。
エリの右腕と左腕は、全く違う動線上にあったにも関わらず、
マキの持つ一本のナイフによって同時に斬りおとされた。
肘から先が―――消えてなくなったかのように感じた。
目に見えない悪魔にすっぽりと飲み込まれたような感覚だけが残った。
それくらい唐突に―――そして同時に、エリの両腕は斬りおとされていた。
腕を再生させなければならない、ということに思いが至るまで、少しの間が空いた。
- 285 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:08
- エリの爪にゼロが切り裂かれた瞬間、マキは空間の歪みに身を投げていた。
ゼロの動き。エリの動き。それらに付随した空気の動き。熱の揺らぎ。
そういった諸々の運動エネルギーを、マキはその身を投げることによって相殺した。
その結果、マキは全ての細胞を零に帰し、瞬間的にその場から消失した。
世界をつなげるあらゆる関係性から自由になった。
マキは何者にも干渉しない。何事にも介入しない。場の空気の流れにさえも。
ただあるがままに、ただ独りで存在していた。
その瞬間、マキはたった一人であり、それと同時に二人でもあった。
三人であり、四人であり、五人でもあり、百人でもあった。
無限無数のマキという人間の集合体となっていた。
無数のマキは、エリの右腕と左腕を同時に切断した。
能力を全開にしたマキの動きを遮ることができる人間などこの世にはいない。
マキはエリの首を改めて斬り飛ばし、
返す刀でエリの胴体を縦横に十文字に斬り伏せた。
その時もまた―――エリの胴体は縦と横に「同時」に斬られていた。
エリの体は、左右上下四つの巨大な肉片に分かれて、ばっさりと床に倒れた。
マキがゼロの下に駆け寄る。
- 286 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:08
- ゼロの腹の傷は思った以上に深く、筋肉を貫き内臓にまで達していた。
意識はしっかりとしていたが、呼吸の乱れは並ではなかった。
エリの腕はあり得ない角度から飛んで来ていた。
ゼロとしても、攻撃に対して備える暇がなかったのだろう。
「ウエヘヘヘヘヘヘ。なあるほど。強い強い! つおいつおい!」
斬り飛ばされたエリの頭は、またしても陽気に笑っていた。
この化け物には「死」という概念が該当しないのだろうか?
マキは上着の袖を切ると、ゼロの腹に巻きつけた。
緊急の応急処置だが、少なくともこれで出血は止まるだろう。
丸太のように太いエリの首がするすると伸びていった。
20メートル近い長さになったところで、エリは鎌首をもたげる。
甲羅を脱ぎ捨てた巨亀は―――今度は巨大な蛇と化していた。
尻尾の方はとぐろを巻き、唇の端からはちょろちょろと舌をのぞかせる。
頭に柔らかそうな髪の毛が乗っていることを除けば、
その姿はまさに巨大なコブラそのものだった。
- 287 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:08
- 「んふふふふ。玄武の真の力を知るのはこれからですよ?
大丈夫ですか、ゴトウさん? そっちも本気出した方がよくないですか?」
エリが言う「本気」の意味するところはよくわからない。
もしかしたらサディ・ストナッチを呼べとそそのかしているのだろうか。
だがマキはここであの力を使うつもりはなかった。
使うとすれば―――それはイチイを殺したあいつを殺すときだけだ。
そう決めたのだ。これくらいの状況で決意が揺らぐはずもない。
マキは全身の肌で知覚していた。敵は正面にいるこいつだけではない。
斬り伏せたエリの両腕もまた、マキの見えないところで密かに大蛇と化していた。
正面で構えるエリが喋りながらマキの気を逸らす。
その隙をついて、左右両側から大蛇と化したエリの両腕が飛んできた。
ゼロを両手で抱えたマキは、後方に飛び下がって二匹の大蛇の攻撃をかわす。
着地すると同時に、今度は真正面からエリが飛んできた。
- 288 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:09
- エリの牙がマキの左の肩に食らいつく。
ゼロを抱えたままのマキは、エリの牙を避けることはしなかった。
むしろその牙に向かって、自らの意志で一歩前に踏み出した。
重くて軽い一歩だった。
その一歩の合間に―――マキとゼロの間で何かが流れた。
マキの両腕から、ゼロの重さがふっと消えた。
肌と肌が触れ合っていれば、ゼロの考えていることは全て理解できる。
ゼロもまた、マキの意志を完璧に理解していただろう。
マキはゼロのことを全面的に信頼していた。
全てを委ねるでもなく、全てを委ねられるのでもない。そういう関係ではない。
お互い依存し合うような、甘く弱々しい関係ではなかった。
マキとゼロの力関係は、完全にイコールでつながっていた。完全な等価だった。
ゼロはマキという集合に含まれる部分集合であり、
それと同時にマキもまたゼロという集合に含まれる部分集合であった。
それが、アヤとNothingの関係と全く同じであることを、
当然ながらマキとゼロは全く知らない―――未来永劫知ることはない。
- 289 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:09
- マキは、ゼロを手放した両手でエリの頭をつかみ、指をめり込ませる。
戦いの最中に銀のナイフは手放してしまっていた。
それでもマキは、当然のように素手でエリに立ち向かう。
素手であることは、マキにとって何のハンディキャップにもならなかった。
マキは爪を立て、エリの皮膚を直接引き裂いていく。
直接、エリの皮膚の上にある感覚受容体にアクセスしていく。
再びマキの左右から二匹の大蛇が襲いかかった。
マキは強引に体を倒してその動きをかわす。
二匹の大蛇が衝突する地点に―――ゼロが舞いあがっていた。
大蛇の牙が容赦なくゼロの体に突き刺さる。
ゼロは右から飛んできた蛇の頭に噛みつく。
左から飛んできた蛇が無防備になったゼロの腹に噛みつく。
噛みついた蛇はその体をゼロの体に巻き付けていった。
だがゼロは己の牙を右の蛇から離さない。左の大蛇の牙も離させない。
ゼロはその身を呈して、二匹の蛇の動きを押しとどめた。
- 290 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:09
- マキは自分の体内で、感覚受容体に流れる神経電流を増幅させた。
何万倍にも増幅された電流を、そのままエリの神経回路にぶつける。
マキの神経の流れが、エリの神経の流れと合流する。
その時初めてマキはエリに対して恐怖を抱いた。
エリの神経回路は、人間のそれとは明らかに異なっていた。
それどころか、マキが知る地球上のあらゆる生物とも、完全に異なっていた。
見た目がどんなに化け物でもマキは恐怖を感じることはない。
だがその内部を完全に理解してしまったとなれば、話は別だ。
エリは完全に異物だった。異次元の生命体だった。
マキの受容体の動きが鈍る。
エリの神経回路は、予想していたものと全く違うのだ。
思うように電流を流すことは難しかった。
今度はエリが反撃に移る番だった。
大蛇の尻尾の部分がマキの胴体にからみつこうとする。
マキは捕まる直前にその動きから逃れ、エリの目の前で両手を交差させる。
マキの手の中で、ショートした電流が青白い火花を散らせた。
子供だましの目潰しだったが、エリの動きを数秒留めておくには十分だった。
マキは床に落ちていた銀のナイフを視界に入れる。
ナイフを見つけること。そこに移動すること。拾い上げること。大蛇を斬ること。
マキは四つの動作を同時にこなし、ゼロに噛みついていた蛇の頭を切り落とした。
- 291 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:09
- 大蛇の牙が離れる時、ゼロの腹部から筋肉がごっそりとむしり取られた。
それでもゼロは、もう一方の大蛇から牙を離そうとはしなかった。
渾身の力を込めて、大蛇の首を引き千切らんとする。
我慢比べに勝ったのは、黒い肌を真っ赤な血で染めた軍用犬の方だった。
大蛇の首が異様な音を立てて砕け落ちる。
二匹の蛇の目からはすっかり生気が抜け落ちていた。
マキは斬りおとした蛇の頭を、思いっきり踏みつける。
恐怖からだろうか。それとも大いなる違和感のせいからだろうか。
踏みつけても踏みつけても殺したという手応えを感じることができなかった。
最後にマキは青白く輝いた銀のナイフで大蛇の頭を貫いた。
一瞬、焦げ臭いにおいがしたかと思うと、蛇の頭は粉々に砕け飛んで消失した。
そしてマキは同じように―――もう一匹の蛇の頭も消滅させた。
ゼロが荒く乱れた息を整える。
先ほど以上に深い手傷を負っているはずなのだが、目の輝きは失せない。
戦うことだけが生存理由である軍用犬にとって、戦場は自分が輝ける唯一の地だ。
たとえどれほどの傷を負おうとも、ゼロの戦意が喪失することはない。
マキが命じれば、次の瞬間には、傷のことなど一切忘れて、
躊躇うことなくエリの喉笛に噛みついていくだろう。
- 292 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:09
- マキは知っていた。ゼロがどれほど深い傷を負っていたのか。
それでもマキは命じることを躊躇わない。
マキもまた、戦場のみで生きることを選んだ一人の戦士だった。
戦士と戦士の間に馴れ合いの感情など似合わない。
必要なのは治療や休息などではない。だからマキは命じた。
たとえマキの命令によってゼロの命が終わることになろうとも、
その命令を下すことに迷いはない。
「ゴー! ゼロ! ゴー!」
マキの命にゼロは歓喜する。筋肉が躍動する。細胞が弾ける。
引き締めた腹筋から血を滴らせながら、ゼロはエリの右側に回る。
それと同時にマキは左側に回る。
エリの注意が左右に散った。
その瞬間を見越して―――マキは電撃的に方向転換してエリの右側に回る。
ゼロが飛び掛かるその斜め背後から、マキもまたエリに襲いかかった。
ゼロとマキの動線がクロスの形で重なる。
圧倒的な速さを持ったマキの動きは、先に動いていたゼロをも追い越した。
マキのナイフがエリの首筋をかすめる。
エリの牙がナイフの刃を弾いた瞬間―――ゼロの牙がエリの喉に食らいついた。
- 293 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:09
- 蛇のような形態をしたエリの武器は、長く伸びた牙だけだった。
だが自分の首筋に食らいついた相手に、噛みつくことはできない。
ゼロを追い落とそうとするエリの牙は、何度も虚しく宙を舞った。
エリは激しく全身をのたうちまわらせた。
砂埃をたてて、巨大な大蛇が荒れ狂ったように動き回る。
あまりの激しい動きに、マキもゼロがどこにいるのかわからなくなるほどだった。
やがてエリの動きが止まった。
今度は蛇の胴体部分が縮み、太く膨れ上がっていくように見えた。
エリの顔が真っ青になる。死体のように血の気のない顔だった。
顔だけではなく、首から下も真っ白になっていく。
もはやその皮膚は生き物の質感ではなかった。
殺ったか? と全く思わないではなかったが、
それと同時に、そんな簡単には終わらないだろうとも思っていた。
そして実際に―――これはエリの死を意味しているのではなかった。
エリの顔は死体のように真っ白になり、老婆のように皺だらけになっていく。
そして―――その皮膚がパリパリと裂けていった。
- 294 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:09
- まるでファスナーを引き下ろしたように、エリの皮膚が裂けていく。
ゼロが噛みついていた部分も、綺麗にはがれていった。
エリという名の大蛇は―――脱皮しようとしていた。
中から異様な質感を持った何かが出てくるのを感じ、ゼロが離脱する。
バリバリバリと音を立てて、中から出てきたのは―――
象のように巨大な亀の化け物だった。
「ウエヘヘヘヘヘヘ。お久しぶりです、ゴトウさん」
天井に頭が届いていた。最初のときよりもさらに二周りは大きい。
なんだこれは。なんなのだ。苦笑いが漏れる。マキはもう笑うしかなかった。
完全に質量保存の法則に背いている。一体この亀はどこから来たのだろうか?
この亀はどこからエネルギーを取り入れているのだろうか?
そこを突き止めない限り―――この戦いは永遠に終わらない気がした。
永遠に戦うのも悪くはない。マキ一人でならば、だが。
ゼロの傷はもう限界に近かった。
これ以上ダラダラと戦いを続けることはできないだろう。
ゼロの援護が期待できるのは―――あと一度だけだ。
- 295 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:10
- エリは大きな手を広げて、廊下の隅から輸血パックを取り出した。
輸血パックに連結してあるチューブをくわえると、
その中に真っ赤な液体を流し込んだ―――マキの血だった。
「ウエヘヘヘヘ。さっき噛みついたときに頂いちゃいました」
エリはマキの血の入った輸血パックを、袋のままごくりと丸ごと飲み込んだ。
これで―――究極のモーニング娘。完成に必要なパーツは全て揃ったことになる。
あとはこれをアベの下に届けるだけでいい。
もう誰もアベの太陽化を阻止することはできないだろう。
マキはそれを冷ややかな目で見ていた。
究極のモーニング娘。だと? そんなものに何の価値があるのだろう。
太陽を操り、この世界を支配する。そんなことに何の価値があるというのだ。
そんなくだらない計画のために、多くの人間の人生を弄ぶ。
そんなことが許されるはずがなかった。
世界を支配する。いいだろう。支配したければ支配すればいい。
だが世界を支配する資格があるのは、それだけの力を持った人間だけだ。
お前にその力があるのか? 60億の人間の上に立つだけの資質があるのか?
世界を支配するなんて夢を抱いている連中全員に、ゴトウは叫びたかった。
世界を支配するというのなら―――60億人全員をぶち殺してからやれよ。
全員殺せる人間にのみ、全員を生かす資格がある。全員を操る資格があるんだ。
ゴトウにとって世界を支配するとは、そういう意味だった。
- 296 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:10
- 「まずはあたしだ」
ゴトウマキは思う。自分は60億分の1の存在でしかないが、間違いなく地球の一部だ。
自分には資格がある。地球を支配したいなんていう寝言を言ってるやつに対して、
全力で立ち向かう資格がある。真っ向から否定してやる資格がある。
そういう人間の思いを無視して、何が地球の支配だ。何が太陽の娘だ。
「地球を支配したいっていうなら、まずはあたしを殺してからだよ」
マキはエリに覚悟を問うた。
あたしを殺すことができるのかと。世界中の人間を殺すことができるのかと。
お前は自分が―――何をしようとしているのか、わかっているのかと。
勿論エリはわかっていた。だがエリは揺るがない。
そんなことは生まれてきてからこの方、ずっと考え続けてきたことだ。
ずっとずっと、己に問い掛け続けてきたことだ。
今更ぽっと出の適格者もどきに説教されるほど、甘い人生は送っていない。
太陽を人間の手で支配する。
それはエリの中で絶対的な結論だった。
相手がミチシゲだろうが、テラダだろうが、ゴトウだろうが、その結論が動くことはない。
言葉で問うてもわかりあえない。それはミチシゲとのやり取りで思い知らされたことだ。
行動を共にしたとしてもわかりあえない。それもテラダとの行動で学んだことだ。
ならば何をもって答えるべきなのか?
- 297 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:10
- 「わかりました」
エリは納得する。なるほどゴトウの言うことは正しいのかもしれない。
人を支配するということはそういうことなのかもしれない。
ミチシゲの甘い理想論よりも、テラダの打算的な政治的判断よりも、
己の命をもって真っ直ぐに問い掛けてくるゴトウの方が、少しは真実に近い気がする。
「わたしはゴトウさんを殺しましょう。GAMやECO moniの連中も殺しましょう。
安心してください。ゴトウさんが死んだ後も、わたしは永遠に殺し続けます。
太陽を支配するという私の哲学に反する勢力を、全て殺すと約束しましょう」
「うん。その言葉を聞いて安心したよ」
エリは言葉に詰まってゴトウの顔を見る。
そんな軽い冗談を言うようなタイプだとは思わなかった。
いや、やはりこれは―――冗談で言っているのではないのかもしれない。
「でもお前に―――本当にそれができるかな?」
言葉のやり取りはそこまでだった。
ゼロの心臓の鼓動は限界を超えようとしていた。動けば命はない。
それどころか、気力を掻き集めても、もはや100%の力では動けないかもしれない。
だがマキは強い意志で命じた。100%の力で動けないなら―――99.9%の力で動けと。
マキの絶対的な信頼を受け、ゼロは99.99%の力で駆け出した。
- 298 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:10
- ゼロがマキの信頼に応えたように、マキもまたゼロの動きに最高の動きで応じた。
マキの体を形作る全ての分子が波動と化す。
マキはサディ・ストナッチと化すことなく、
限りなく己の体を粒子化することに成功しようとしていた。
カメイが何度も再生するというのなら、再生した回数だけ切り刻む。
何度も生き返るというのなら、生き返った数だけ殺す。
質で勝てないのなら、量で圧倒する。
マキは、己の体内にある感覚受容体のポテンシャルを、限界まで引き上げた。
ガス化した体を再び凝集させることができるという力―――
エリが欲して止まなかった太陽化の力がマキの中で萌芽した。
部屋中に意識を拡散させていたマキの感覚受容体が、急激に収縮していく。
全ての情報が凄まじいまでの重力を帯びて一点に収斂する。
その瞬間、その空間からゴトウマキという存在が消えた。
いや、消えたという言い方は正しくない。
ゴトウマキは極限まで収縮した。収縮すると同時に拡散した。
極限まで質量を減じ、体細胞を空間中に拡散させた。
それはすなわち―――サディ・ストナッチと化すこととほぼ同義だった。
マキはサディ・ストナッチを召喚することなく、己の体を拡散させる。
霧のようにとまではいかなかったが―――
その瞬間、エリの目には五人のゴトウマキが映っていた。
- 299 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:10
- 五人のゴトウマキのうち、二人は陽炎のようにゆらめき、ゼロの体に吸い寄せられた。
同じウイルスを投与されたマキとゼロ。
二人のDNAがお互い引き寄せ合うようにして一点で結びつく。
黒い陽炎を死装束としてまとったゼロが、暗黒の稲妻と化してカメイを貫く。
ゼロの牙に触れたカメイは、強烈な電撃を受けて動きを止められる。
一瞬にして全身の感覚が痺れていた。自分の体を自分の意志で動かすことができない。
置物と化した巨大な亀に三人のゴトウマキが襲いかかった。
三人の手はオーバーロードした感覚電流の滞留を受けて銀色に輝いていた。
電気と熱によって鋭利な刃物と化したマキの手刀が容赦なくカメイを切り裂く。
カメイのことを追い込みながらも、マキの体もまた限界を超えようとしていた。
明らかに人体の生理を超えたマキの動きに、体のあちこちが悲鳴を上げた。
それでもマキは着実にカメイを追い詰めていく。
全ての感覚は、マキ自身の体内に収斂させていた。
だからカメイの体がどうなっているのか、マキには見えない。
一切感じなかった。見えないし、聞こえないし、肌で感じることもできない。
ただ、斬りかかる時に触れるカメイの肌の感触だけが、マキに全てを教えていた。
カメイは―――全てのエネルギーを、両足を通じて地中から吸い上げている。
この亀の化け物のパワーの源は、大地の底にあった。
なるほど、地に足をつけている限り、カメイの再生能力は無限というわけだ。
こいつの弱点は―――頭でも腕でも甲羅の中でもなく、両足なのだ。
マキは太腿に狙いをつけ、大地のエネルギーの流れを断ち切りにかかる。
その動きを受けて、カメイはあからさまに動揺を見せた。
- 300 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:11
- いける。ここが最後の勝負どころだ。
マキは移動する間も惜しんで、猛然とラッシュを続けた。
土管のような腕で殴りかかってくるカメイの攻撃も逃げずに受け止めた。
マキのエネルギーとて無限ではない。
カメイの攻撃を受けて、マキは、一人、二人とその数を減らしていった。
最初は五人いたマキは二人に減っていた。
それでも二人のマキは、ゼロと協力しながらカメイのエネルギーを削り取っていく。
もはやカメイの足はずたずただった。
血管も神経も断たれ、エネルギーを伝えることができない。
エネルギーがある一定量を下回ったのだろうか―――
亀の化け物をしていたカメイの姿が、急にただの人間の姿に戻った。
終わりだ。
ここで首を跳ね飛ばせば、いくらカメイでも再生することはできないだろう。
また一人、黒いマキが霧のように姿を消した。
そして限界を超えたゼロが、糸が切れたように急に動きを止めて、床に倒れ伏した。
それでも一人残った最後のゴトウマキがカメイに対峙する。
返り血でマキの姿は炎のように真っ赤に染まっていた。
あと一手―――
だが振り上げたその一手は、カメイの下までは届かなかった。
「飛べよ」
マキと体がふわりと浮きあがり―――廊下のガラス窓を突き破っていった。
- 301 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:11
- 「キャハハハハハハ! ざまあねえな。やられっぱなしじゃねえかよ、おい。
普段は偉そうにしてるクセによお。実戦じゃとんだ役立たずじゃんかよ!」
ヤグチの嫌味に対して、エリは反論しない。
実際、立っているだけでもやっとの感じだった。
もし最後の一撃を受けていたら―――おそらく命はなかっただろう。
まさかゴトウがあそこまで戦略的な戦いをしてくるとは思わなかった。
あの冷酷なまでの犬の使い方。相手の弱点を見抜く洞察力。
そしてなによりも―――圧倒的なあの速さと強さ。
ガス化しなかった相手に、あそこまで後れをとるとは思っていなかった。
だがマキに対するそんな敗北感も、嫌味を言うヤグチに対する屈辱感も、
カメイにとっては小さなことだった。どうでもいいことだった。
ゴトウマキの血―――目的とするものは手に入れたのだ。
自分に言い聞かせる。結局のところ、最後の最後で勝利したのは自分だ。
ゴトウでもないし、ましてやヤグチマリであるわけもない。
あとはこの血を有効に使うことだけを考えればいい。
そう考えればいいのだ。そう考えれば―――だがどれだけ必死に抑えようとしても、
湧きあがってくる屈辱感をカメイは抑えることができなかった。
こんなことは初めての経験だった。
- 302 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:11
- 「ぎゃあぎゃあ言ってますけどね、ヤグチさん」
「なんだよおい。助けてもらっておいて礼の一つも言えないのかよ」
この女はやっぱりバカだ。基本的な部分で頭が悪い。
どれだけ強力な能力を持っていても、頭が悪いのであれば使えない。
いや。バカであるからこそ使いようもあるというものだ―――
「ふー。・・・・・あのね、ヤグチさん。邪魔されたのはこっちなんですけど?」
「何言ってんだよ。あいつに殺される寸前だったじゃんかよ」
「あのね。ゴトウさんを吹き飛ばしちゃってどうするつもりなんですか?」
「あ? ここは五階だぜ? 空を飛べる能力でも持ってりゃ別だけどさ、
こっから落ちたらまず助からねーよ。ゴトウはおいらが殺ったってことさ」
ここまで言ってもわからない。
今ここでは何が重要なのか、何が大事なのか。それを全く理解しようとしない。
やっぱりこいつは使えない奴だ。兵隊以上の役割はできない人間だ。
カメイはがっかりすると同時に、少し安心した。
- 303 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:11
- 「今大事なのは勝ったとか負けたとかじゃなくて、ゴトウさんの血を獲ることでしょ?
あんな遠くまで吹き飛ばしちゃったら、回収することもできないじゃないですか?
そこまで考えてああしたんですか? 違いますよね? どうするつもりなんですか?」
そこまで言ってようやくマリの顔色が変わった。
カメイは、ゴトウの血を既に手に入れていたことを、あえて隠した。
このヤグチという女が、密かに太陽化計画の乗っ取りを狙っていることはわかっている。
ちょっとばかりせっついてやった方がいいだろう。
「あ、いや、だからさあ。これから下に行って死体を回収すればいいじゃん」
「ゴトウさん達は三人で来たんですよ? 他の二人が回収していたら?」
「いや、きっと他の二人はナッチのところにいるんじゃないかな」
「なんですかそれ。なにか根拠があるんですか?」
「いや、さっき音がしたから」
「音がした? それだけでわかるんですか?」
「それで十分だろ! さっきから何いちゃもんつけてんだよ!」
そうか。マツウラアヤとフジモトミキはナッチの方に行ったのか。
それならばこちらも早急に動く必要があるだろう。
あのゴトウマキが、五階から落ちたくらいで死ぬはずがない。
カメイは窓から外を見て、ゴトウの様子を確認しようとした。
そのとき―――
- 304 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:11
- 「あ! おい見ろよカメイ! あれゴトウじゃねえの?」
「・・・・・・そうですね」
「やべえよ! あっちのビルに向かってるじゃんかよ!」
「見ればわかりますって」
「あたしらも行くぞ! グズグズすんなよ。ああ、もう・・・先に行ってるからな!」
「はいはい。お先にどうぞ」
ヤグチは来たときと同じように、唐突にカメイの前から姿を消した。
これからナッチの下に向かうらしい。御苦労なことだ。
どうせそこに行っても―――何もできないくせに。
二人が見下ろした先には、黒い霧のようなものが漂っていた。
ビルとビルの隙間から立ち上り、向かいの楕円のビルに向かって流れていっている。
やはりゴトウマキは、サディ・ストナッチと化して転落から免れたのだろう。
当然のことだ。それを予測できないマリの方がどうかしているのだ。
そして黒い霧が向かう先には、割れた窓から漂う赤い霧の存在があった。
おそらくアヤとミキの前で、ナッチがガス化したのだろう。
サディ・ストナッチと化したゴトウと、サディ・ストナッチと化したナッチが出会う。
そこで何が起こるのか、それはカメイにも予想することはできない。
黒い霧は力強い動きで赤い霧に引き寄せられていく。
まるでそうやって出会うことが―――定められた運命であるかのように。
- 305 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/24(木) 23:11
- こちらも急がなければならない。カメイは痛む両足を引きずりながら歩き出した。
四家の人間の回復力は並ではない。切断された血管や神経は徐々に再生してきていた。
もう少しすれば、全力で走ったり戦ったりできるようになるだろう。
だが―――守護獣を召喚することは、当分無理かもしれない。
カメイは舌打ちしながら階段へ向かう。
その先に―――息絶えて転がっている一匹の黒い犬がいた。
「ふん。意外とゴトウさんもクールですねえ・・・・・」
戦いの最中にこの犬がいくら傷つこうとも、マキは一切甘やかさなかった。
マキの命令によって、この犬が限界以上の力を引き出されていなかったら、
エリもあそこまで追い詰められることはなかっただろう。
死の直前まで追い詰められることなど、かつてない屈辱だった。
ゴトウマキに対する怒りが湧いてくる。燃え上がる。止められない。加速していく。
「でも・・・まっ、所詮、犬は犬よ」
カメイはそう言ってゼロの頭を踏みつけた。
傷ついた足に渾身の力を込めて、ゼロの頭を生卵のようにかち割った。
マキの愛犬の潰れた頭から流れ出てくる灰色の脳髄を見て―――
カメイの怒りは、さらに、強烈に、加速していった。
- 306 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/24(木) 23:12
- ★
- 307 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/24(木) 23:12
- ★
- 308 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/24(木) 23:12
- ★
- 309 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:05
- カメイに痛烈な手刀を加えている最中、マキの感覚はぴったりと閉じていた。
全ての感覚受容体を回収し、収斂させ、極限まで凝縮させていた。
普段のマキとは、明らかに違う能力の使い方だ。
マキは全てのエネルギーを自分の内側に閉じ込めていた。
別の表現をするのならば―――極限まで孤立していた。
世界の全てと干渉を断って、自分の内側の世界で完結していた。
だから気付かなかったのかもしれない。
いつしかエレベーターを上って、一人の少女がフロアに姿を現したことに。
少女の名はマリィ。彼女が殺意を向けていることすら、マキは気付かなかった。
普段の―――いつものように能力を全開にしているマキにはあり得ないことだった。
「飛べよ」
マリィの声もマキの耳には届かない。
鼓膜は確かに震えていたし、その情報は脳へと届けられていたが、
全ての感覚を閉じていたマキには、その情報を認識する術がなかった。
それでもマリィの能力は絶大だった。
マリィの声は、マキの感覚受容体に確実に浸潤し、脳へと至る。
大脳の認識部位に届けられた「飛べよ」という音波は、即座に実行に移された。
マキの体がふわりと浮きあがる―――マキ自身の肉体の作用によって。
己の体が自由を失うことによって、マキはようやく自分の異変に気がついたのだった。
- 310 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:05
- 廊下のガラスを突き破り、マキの体がビルの5階から投げ出された。
マキの体が落下運動に入ろうとするその瞬間、マキは奇妙な浮遊感を味わった。
力と力が釣り合っている感触。
浮きあがる力と、落下する重力が釣り合っている感触。
二つの力が同じ重さで釣り合っているという、まさに刹那の瞬間。
そして次の瞬間には、マキは重力に従って急降下していく。
マキは即座に能力を解放した。
一点に凝縮させていた感覚を、瞬時にして最大限のエリアまで広げる。
マキは全身の感覚受容体で有楽町の街並みを知覚した。
網を徐々に絞っていき、知覚可能エリアをこのビルのみにまで縮める。
地面までの距離。落下速度。地面に到達するまでの時間。
そして―――地面に衝突したときの衝撃と、肉体が受けるであろう損傷。
全身の感覚受容体によって計算された結果は「死」だった。
それと同時に、マキはあと二つの情報を知覚していた。
向かい側にあるビル。あの楕円形のビルの中にアベナツミがいる―――
- 311 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:05
- マキは落下しながら楕円のビルの方へと視線を向けた。
7階に位置する一角の窓が破れている。
そこからゆらゆらと流れ出ている、一陣の赤い霧の揺らめきが目に入った。
マキは目で見ると同時に皮膚で感じていた。
あいつだ
あの「巨大な何か」だ
マキの胸は、大型のスピーカーのように地響きを立てて振動した。
体中が、小刻みではなく、ダイナミックに震えていた。
体の内側からドラムが叩かれているようだった。
この四年近くの間、ずっと探し続けていた相手。イチイの命を奪った張本人。
それが今、目の届くところにいる。
マキの脳内で、手榴弾のピンのようなものが、弾けるようにして引き抜かれた。
マキは思う。
あたしはそこに行くだろう。そしてあたしは向き合うだろう。
あたしはあたしの望む相手と向き合うことになるだろう。
殺すのだろうか。殺されるのだろうか。
どちらにしてもその運命を変えることはできない。
マキの眼前に地面が迫って来る。髪の毛が触れようとする。
マキが決断を躊躇ったのは、その髪の毛が触れるか触れないかという、
ほんの一瞬だけだった。
マキは内なる歌声に耳を傾ける。
- 312 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:05
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 313 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:05
- 零――――
サディ・ストナッチがやってくるよ
一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
サディ・ストナッチがやってくるよ
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数
サディ・ストナッチがやってくるよ
闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇の中から
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 314 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:05
- 闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
分 厘 毛 糸 忽 微 繊 沙 塵 埃 渺 漠 模糊 逡巡
サディ・ストナッチがやってくるよ
須臾 瞬息 弾指 刹那 六徳 虚空 清浄 阿頼耶 阿摩羅 涅槃寂静
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇をまといながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇を引き裂きながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇と共に
サディ・ストナッチがやってくるよ
―――零
- 315 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:06
- 漆黒の霧と化したマキはゆらりと上昇していった。
向かう先は、カメイの方ではなく、あの赤い霧だ。あの「巨大な何か」だ。
マキは赤い霧を知覚すると同時に、もう一つの情報も知覚していた。
だからもう、カメイのいる方には向かわない。
施設にいた頃からの唯一の友はもうこの世にはいない。
そう。マキは「友」という言葉を使った。失って初めてそれに気付いた。
イチイを失った時に、自分はもう二度と友と呼べる存在など作らないと誓った。
だがゼロは例外だ。例外中の例外だ。
同じウイルスを打たれた盟友という意味では、皮肉にもマキとイチイとゼロは同じだった。
イチイは既にこの世を去り、そして今、ゼロもまたマキの前から姿を消した。
マキと一緒にいなければ、ゼロは天寿を全うできたのだろうか?
もっと穏やかな暮らしの中で生きていくことができたのだろうか?
そしてあの時、ゼロが負傷を受けた時、すぐさま「撤退せよ」と命じておけば、
少なくともあそこで命を落とすことはなかったのだろうか?
いや。違う。ゼロはマキと共に戦うことを選んだのだ。
彼はマキのために生きて死ぬことを望んだのだ。
そこに綺麗事が入る余地はない。そんなものはゼロの精神を侮辱するだけだ。
自分はゼロの信義に応えるために、必要なことをしただけなのだと、マキは思う。
そしてこれからも、彼の信義に応えなければならない。命をもってしても。
潰す。サディ・ストナッチを。モーニング娘。を。
テラダの計画を―――全て。
- 316 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:06
- ☆
- 317 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:06
- フロアに設置されていた数百の座席は、既に完全に溶けきっていた。
さらに赤い霧は、天井にある照明器具を舐めまわし、同じように溶かしていく。
アヤとミキの頭上にも溶けた蛍光灯の滴が垂れ落ちてきていた。
背後にあるドアもきっともう溶けているのだろう。逃げ場はない。
ナッチは完全にガス化していた。
その姿は霧の中に溶け込んでおり、どこにいるのかもわからない。
ミチシゲの話によれば、この霧の粒子の一粒一粒が全てナッチ自身なのだという。
ナッチという存在が、無限に分裂しているとでも言えばいいのだろうか。
アヤは目を細め、冷静に赤い霧を観察していた。
どうやらこの霧の粒子は、物質の分子結合に干渉し、
なにもかもを、バラバラにしてしまう力があるらしい。
アヤは立体駐車場でマキに襲われたときのことを思い出していた。
あの時、アヤは黒い霧に向かって何度か発砲した。
その時はほとんど手応えを感じなかったのだが、今から考えると、
あの発砲によって霧の粒子の一部は死滅していたのではないだろうか?
アヤは考える。さらに考える。
人間は、考えることによってのみ、真実に近づくことができると信じて。
- 318 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:07
- アヤは思い出す。カオリの死体を解析した時だ。
あの時、カオリの体内に残っていた粒子は確かに生きてはいなかった。
ただの赤い粒子でしかなく、生命活動はしていなかったのだ。
そこからアヤは確信する。
この「ガス化」という能力は、絶対無敵の能力ではない。
そんな完璧な能力などありはしないということは、人類の歴史が証明している。
付け入る隙は必ずある。現象を分析するのだ。真実を見抜くのだ。
それが―――命を賭けて戦うということだ。
命を捨てて、捨て身でがむしゃらにぶつかっていくことだけが戦いではないのだ。
ナッチはなかなか襲いかかってこない。
もしかしたらアヤとミキのことを精神的に嬲っているつもりなのだろうか。
だがアヤにもミキにも恐怖心はなかった。
ミキは完全に心を殺していたし、アヤはずっと深い思考の中に沈んでいた。
確かにこの霧の粒子は生きている。そして生きているがゆえに、殺すこともできる。
問題は数だ。数が信じられないくらい多い。
おそらく人間の体細胞の数と、同じだけ存在しているということなのだろう。
だが人間の体細胞が粒子となっているのなら、今以上に増えることもないのでは?
成長期を過ぎた人間の身長が止まるように、今のアベナツミの体細胞が
激しく分裂し続けているということは考えにくかった。
つまり―――たとえガス化しようとも、アベナツミの命は有限だ。
有限であるのなら勝ち目はある。
- 319 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:07
- 赤い霧はなおも生き物のようにゆらゆらと動いている。
動いている? つまりナッチの意志がそこにあるということか。
当然だ。自分の意志で動かすことができないのなら、ガス化しても意味がない。
だが―――どうやって動かしているのだろうか?
ただの粒子なのに、なぜああも自由に運動することができるのだろう。
粒子に自我がある。それはいいだろう。
だが自我があるからといって、自由に運動できるという理由にはならない。
運動するためには―――それなりの構造や機能が必要ではないのだろうか?
アヤはなおも観察を続ける。そして一つのことに気付く。
この粒子。この運動。もしかして―――
赤い霧の粒子は、決して単独では動いていなかった。
全ての粒子が、連動して動いているのだ。
まるで数珠つなぎになった玉のように、一つの粒子が動けば、
それに連動して全ての粒子が動き出すのだ。
ただし玉をつないでいる糸は一本ではない。
何だろうかこの糸は。この糸の正体は何なんだ。アヤはぐっと集中力を高める。
- 320 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:07
- アヤは、間違いなく天才だった。
天が誤って産み落とした、時代の鬼子だった。
アヤの真の能力を知れば、おそらくミチシゲは卒倒したことだろう。
いや、ECO moniの長として、あらゆる手段を講じてその命を断ち切ろうとしただろう。
アヤは―――ウイルスの能力を一切必要とすることなく、
全ての能力を、感覚を、異常に高めることができた。
勿論、アヤは自らを太陽化することはできない。ガス化することもできない。
ウイルスの適格者ですらない。
いや、アヤにはウイルスの助けなど必要ないのだった。
ただひたすら、より強くより賢くより美しく生きる。
そういった生物が本来持っている本質的な部分が、異常なまでに強い生物だった。
目が、耳が、鼻が、舌が、そして触覚が―――異常に高ぶっていく。
アヤの感覚がオーバーロードしていく。
時間の流れがスローに感じられ、やがてそれがピタリと止まった。
次の瞬間―――アヤは見た。
アヤが目にしたものは「空間の歪み」とでも言うべきものだった。
アヤにはそれがはっきりと見えた。
それはあのゴトウマキが、ウイルスの力を借り、老人の指導を受け、
血がにじむような訓練を数年繰り返して、初めて身に付けた力と同じ種類の力だった。
- 321 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:07
- アヤには全ての粒子の動きが見えた。
赤い粒子は、全てお互いの「関係性」の鎖でつながれていた。
お互いが発する熱エネルギーの干渉を受け、ぶつかるようにして漂っている。
アヤにはそれをつなぐ糸が見えた。勿論糸は一本ではない。
それどころか、糸は次の瞬間には千切れ、他の糸とつながっていく。
そうやって無数の糸が切れたりつながったりしながら、動いているのだ。
まるでパズルだ。いや、無数の阿弥陀クジか。それとも電子回路か。
とにかくそこには、一つの確かな規則性が編みあげられていた。
これが意志か。ナッチの意志か。
ナッチの姿は相変わらず霧の中にあって見えない。
だがアヤは、その霧の中にはっきりとナッチの意志の足跡を見出すことができた。
そして同時にアヤは―――絶望した。
アヤは知らない。
マキがやっていたように、皮膚の感覚受容体を大脳のように使い、
膨大な量の計算を瞬時にやってのけるという手法を―――アヤは知らない。
ゆえにアヤは、冷静に、客観的に、この状況に絶望した。
だが絶望することがすなわち敗北を意味するのではない。
アヤにとっての絶望とは、己の進路を切り替える、一つの分岐点でしかない。
- 322 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:07
- この赤い霧を支配している規則性。それを瞬時に計算することなど不可能だ。
それはいわば、10億桁の掛け算を数秒で解けということに等しい。
アヤは、計算と予測でナッチの動きをとらえることを諦めた。諦めて別の進路を探る。
今の自分にできることは「予測」ではない。
できることといえば、ナッチの意志を観察し、その場で即座に「反応」することだろうか。
アヤはただそれだけの材料から、ナッチを追い詰める手段をひねり出す。
だがそれには―――あまりにも重い代償が必要だった。
方針を立てたアヤは、チラリと隣に目をやった。
ミキの表情には微かに怯えのようなものがあるように見えた。無理もない。
ナッチの圧倒的な力を肌で感じているのだろう。それは恥ずべきことではない。
この状況で怖さを感じないような鈍いやつに、戦場を生き抜く力などない。
震えるミキの手がアヤの方へと伸ばされる。
アヤはその手を優しく包みながら、ミキに声をかけた。
「ねえ、ミキたん」
それを、最後の別れの言葉として言ったつもりはなかった。
アヤの心の中で決めていることが一つある。絶対に揺るがない思いが一つある。
別れの言葉をかわすときは―――アヤではなくミキの方から言わせてみせると。
それはアヤの最後の意地だ。そしてその瞬間が来るまでは、二人は一つだ。
「ミキたんの命、あたしにくれる?」
- 323 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:07
- アヤの言葉を受けて、ミキはアヤの手をぎゅっと握りしめた。
弱い力でもなく、渾身の力でもなく、あくまでも自然な強さで握り締めた。
そしてその手をすっと離す。一人の人間として、やるべきことはそれで終わった。
ミキは自分自身のイメージを鋭く硬化させる。
自分は武器だ。刃だ。アヤのための一本の剣だ。自分の意志などいらない。
自分の心を、魂を、極限まで硬化して研ぎ澄ませる。
そしてミキは自分の存在全てをアヤに捧げる。あとは好きに使ってくれればいい。
ミキはもう一度、強く心に念じた。自分は剣だ。あの豚を貫く刃だ。
アヤはそんなミキの姿をじっと見つめていた。
ミキの体から震えが消えていく。それに代わって強い覚悟が立ち上がってくるのが見えた。
怯えている時のミキも美しいが、やはり好戦的な時のミキの方が美しい。
そんな姿を愛でるのもこれが最後だろう。それが少し寂しかった。
やはりあの時、意地を張らずに出直した方がよかったよね、とアヤは思ったが、
そんなアヤらしからぬ深い後悔の気持は、ミキの言葉によって瞬時に吹き飛ばされた。
「オーケー、アヤちゃん。あとは任せた」
そっか。あたしに全て任せてくれるのか。そうだよね。それがGAMだよね。
ならばアヤとしても―――応える言葉は一つしかなかった。
「サンキュー、ミキたん。あとは任せて」
それが、アヤとミキが交わした最後の会話となった。
- 324 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:08
- アヤは腰からもう一丁の拳銃を抜いた。
両手に拳銃を持ち、赤い霧に向かって引き金を引く。
銃弾は霧を突き抜けていくだけで、全く何の手ごたえもなかった。
ずっと鳴りを潜めていたナッチの、ご機嫌な高笑いが部屋に響き渡る。
「あはははは! なにやってのよマツウラ! 気でも狂っちゃったの?」
不思議な光景だった。
銃弾は、壁に当たっても天井に当たっても、兆弾することなく、
溶けた壁や天井にずぶずぶと吸い込まれていくだけだった。
ホールには銃声とナッチの笑い声だけが響く。異様に寒々しい光景だった。
アヤは銃を撃ちながら、ミキに向かって、二人だけの符号で合図する。
ミキと二人で何百回もやってきた戦い方だった。
アヤの符号に従って、ミキは溶け切った椅子の海の上を滑るように走る。
アヤはさらに銃撃を続けた。勿論、適当に銃を撃っているのではない。
アヤには確かな目的があった―――
粒子と粒子をつなぐ糸。糸と糸をつなぐ結び目。
アヤはその結び目のいくつかを的確に撃ち抜いていった。
ミキはその銃撃の合間を縫って、ジグザグに走り続ける。
どこを目指して走っているのか、ミキにもナッチにもわからない。理解できない。
それを理解しているのは、この地球上でマツウラアヤ一人だけだった。
- 325 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:08
- 「だからあ! そんなことしても無駄だっての。やだやだ。偉そうに言ってたけどさあ。
結局のところ、ナッチが本気を出したら、びびっちゃって冷静な判断ができなくなる。
マツウラも案外、普通の人間なんだね。ちょっとだけ期待したナッチが間違ってたよ」
ナッチの嘲りを無視して、アヤはなおも撃ち続けていた。
弾が切れると、器用に片手で弾倉を入れ替える。
ナッチには理解できない。なぜアヤが撃ち続けるのか。何を狙っているのか。
こんな戦い方をしてくる人間を―――ナッチは知らなかった。
だからナッチは、ただマツウラがパニックに陥って撃ち続けているのだと思っていた。
死に物狂いになっている人間を見ることは大好きだったが、
あまり好き勝手に撃たれて続けているのもよろしくない。
ナッチは霧の中でもぞもぞと動き出した。
アヤが考えていた通り、ナッチという粒子は有限の存在だった。
銃弾が当たれば、その部分は死ぬ。そして簡単には増殖できない。
ナッチはカメイやテラダから受けた訓練の中で、そのことを繰り返し言い聞かされていた。
それでもナッチは勝負を急ぐ気はなかった。
腕と足。一本一本もぎとる。圧倒的な力の差を見せつけてから殺す。
まずは右腕からだ。一本、千切られれば、マツウラも少しは大人しくなるだろう。
ナッチは粒子の一部を集めて一つの形を作ろうとした―――
- 326 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:08
- 赤い霧の動きはその質を変えていく。
普通の人間の目には見えなかっただろう。
研ぎ澄まされたアヤの眼だけが、その変化を感じ取っていた。
阿弥陀クジのような散漫な糸の絡み合いが、
クモの巣のように放射状に広がっていく。
やがてその放射線が一点に収縮していこうとしていた。
アヤは撃ち続ける。糸の結び目を狙って撃ち続ける。
霧の動きを司る結び目は、それこそ無数にあった。とても数え切れない。
アヤがやろうとしていることは、まさに天に唾することだったのかもしれない。
だがアヤは諦めない。投げ出さない。観念しない。
ただ自分ができることをコツコツと一つずつ積み上げるだけだった。
ナッチの狙いは二つ。アヤか、ミキか、どちらかの命だ。
選択肢はたったの二つ。狙いを見抜くのは不可能ではないとアヤは信じていた。
ミキはアヤに命を預けると言ってくれた。
ならば自分もまた、ミキに命を預けるまでだ。
アヤとミキ。
いつだって、この二人が力を合わせて打ち勝てなかった敵はいない。
アヤは、ミキの動きと霧の動きを注意深く観察しながら、銃を撃ち続ける。
その背後で―――ナッチがするりと手を伸ばした。
- 327 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:08
- アヤの右肩に赤い霧の粒子が触れた瞬間、アヤは全てを察した。
ナッチの考えていること。ナッチのやろうとしていること。
そして―――ナッチの本体が今、どこにいるのかということを。
アヤは素早く身を屈め、伸ばしてきたナッチの手をすり抜ける。
肩のところでジャケットが破れ、肉がえぐられていく。だが浅い。かすり傷だ。
溶けた椅子の海を転がりながら、アヤは叫ぶ。ミキに向かって符号を叫ぶ。
アヤの目は、ナッチの本体へとつながる、粒子の糸の流れをしっかりととらえていた。
ナッチの本体は―――攻撃を加えているアヤの近くにはいなかった。
ミキはアヤの指示を受けながら、ずっとフロアの中を駆け回っていた。
アヤ以外の人間が見れば、ただ半狂乱で跳ねまわっているようにしか見えなかっただろう。
だがその動きにはアヤなりの根拠があった。
ナッチの本体へとつながる、渦を巻くような赤い粒子の動き―――
ミキの動きは見事にその動きに連動していた。
アヤの指示を受けて、ミキの体はナッチの本体へと吸い寄せられる。
ミキの動きと粒子の動きが一点で重なろうとしていた。
フロアのほぼ中央でナッチがゆっくりとその像を形作ろうとしているところだった。
それとほぼ同時。ナッチが瞳を開くのとほぼ同時にミキが飛び掛かる。
もうミキの銃はとっくの昔に弾切れになっていた。
用意していたはずのナイフも、走り回るうちに、いつしかどこかへ落としてしまった。
ミキは―――その体一つでナッチに向かって体当たりしていった。
- 328 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:08
- ナッチは驚愕した。
異常に発達した体液。そしてガス化するという特殊能力。
こういった力を身につけていたナッチだったが、それ以前は普通の女だったのだ。
あの施設に入れられるまでだって、普通の毎日を送っていた。
殴り合いのケンカなど、一度もした経験がなかった。
そしてキャリアとなってから、何十回と命を取り合うような戦いをしてきたが、
それも全て、二つの特殊能力を前面に押し出してのものだった。
基本的な体術の使い方も一通り身に着けてはいたが、
体当たりのような原始的な攻撃を受けたことは初めてだった。
ガス化が解けたナッチの体はあまりにも無防備だった。
ナッチは慌てて再びガス化しようとするが、粒子が思うように動かない。
マツウラの弾丸によって、粒子を動かす力のエネルギーの方向が制限されていた。
ミキのショルダータックルが思いっきりナッチの胸に入る。
ナッチは怯んだが、ミキは怯まなかった。
すかさず右腕をナッチの首に巻きつけて固定する。
そのまま締め上げることはしなかった。そんなことに無駄な力は使わない。
ミキは左手でナッチの腕を取り、さらに両足をナッチの腰に回してロックした。
獅子を絞め落としにかかる大蛇のように、ミキは手足をナッチに巻きつける。
ミキは理解していた。命を捧げるとはこういうことを意味しているのだと。
ミキはアヤに向かって会心の笑みを向けた。
それを待っていたかのように、アヤの弾丸が容赦なくナッチの体を貫いた。
ナッチを固定している―――ミキの体ごと。
- 329 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:08
- アヤの銃撃は、ミキとナッチの区別なく、目の前にあった全てを破壊した。
その弾丸は、ミキの細い右腕を貫通して、ナッチの喉に突き刺さる。
さらに、ミキの細いウエストをかすめながら、ナッチの下腹部をぶち破る。
アヤは、引き金を絞る指が痙攣を起こすほど、狂ったように銃を撃ち続けた。
かなりの広範な部位で、アベナツミという名の粒子が死滅した。
だがそれでもナッチは―――サディ・ストナッチだった。
ナッチはミキの体に反撃を加えることを諦めた。
この女は端から命を捨てている。こいつの相手をしていては敵の思う壺だ。
まず殺すべきは、飛び切り頭の切れるアヤの方だ。
認めたくはないが、あいつがこの戦いの主導権を握っている。
あいつさえ殺してしまえば―――フジモトミキなどただの雑魚でしかない。
ナッチは瞬間的に体をガス化させた。
かなり無理のある動きだった。体のあちこちが悲鳴をあげ、いくつかの線が切れた。
粒子の動きを司っているエネルギーの動きが乱れる。
それでもナッチは強烈な意志の力で、粒子の乱れをねじ伏せた。
粒子自体はまだ、部屋の至るところに残っている。アヤの後ろにも腐るほどあった。
そこにある粒子の自我を発動させることは、ナッチにとって容易いことだった。
ナッチは自意識の全てを動員して、アヤの背後に姿を晒した。
粒子化のコントロールが乱れる。ナッチは一瞬、ガス化を解除して本体を晒した。
そしてアヤは―――ナッチのその動きを事前に読み切っていた。
- 330 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:09
- アヤはナッチが消えると同時に、持っていた拳銃の一つをミキに向かって投げつける。
そこには最後の弾倉が一つ、残っているはずだ。
ミキの襲撃から逃れた次にナッチが、次に狙うのはアヤしかいない。
ならばアヤを撃つのは―――ミキしかいない。
アヤはミキのことを信じていた。
自分のことを深く理解してくれているはずだと、信じていた。
ミキを信じることができないとしたら―――誰を信じればいいのだろうか?
「ミキたんの命、あたしにくれる?」
アヤが最後に発した、その言葉が意味したことは二つ。
ミキの命をアヤに預けること。
そして―――それと全く同じ意味で、アヤの命をミキに預けること。
ミキはきっとわかってくれるはずだと、アヤは確信していた。
アヤは既に粒子の動きを見切っていた。糸と糸の絡み合いの意味を理解していた。
背後に回ったナッチがアヤの両腕をつかみにかかる。
その動きも予測することができた。
腕を引き千切られるわけにはいかない。
アヤは後方に体重をかけた。頭突きをかますと、ナッチの動きが一瞬止まった。
踵で勢いをつけながら、アヤは足から飛び上がる。
ナッチの頭の上でくるりと一回転したアヤは、ナッチの姿を羽交い絞めにした。
相手は瞬時にガス化できる。この体勢が長く持つはずはなかった。
この一瞬に、ナッチの全身を撃ち尽くす。それしかない。
死んでしまえばガス化することだってできないはずだ。この一瞬しかない。
だからアヤはミキに命じた。息が切れて声が出ない。目で命じた。最後の命令だった。
あたしごと撃て
- 331 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:09
- ミキは勿論、アヤが言ったことを理解していた。
自分が撃つべきものが何であるかも、理解しているつもりだった。
だがミキは―――アヤではなかった。
アヤのような、神が間違えて産み落としてしまった、この世の異端児ではなかった。
人間を超越したような思考と判断ができるような超人ではなかった。
引き金を絞る指が震える。ミキが手にした拳銃はかなりの大口径だ。
このまま指を引けば―――確実にアヤは死ぬ。
できるのか? 自分にそんなことができるのか?
神の最高傑作のようなこの少女を、この世から葬ることができるのか?
そんなことを考えながら、ミキは自分に絶望していた。
時間にすれば一秒にも満たない時間だっただろう。
ミキは自分の弱さを嘆いた。アヤは躊躇うことなくミキごとナッチを撃った。
だがミキは、アヤと同じことができない自分がいることに気付いた。
アヤが命がけで作った、たった一度のチャンス。自分はそれを棒に振るのか?
目の前の動きがすべてぐにゃりと歪んで見えた。
ガス化を解いたナッチ。撃てと目で訴えかけるアヤ。全てが幻のように見えた。
そして再びゆるりとガス化しようとしているナッチ―――
時間がない。撃たなければ。今撃たなければナッチを殺すことはできない。
ミキは必死で己を奮い立たせる。撃て。撃て。さっさと撃てよボケが!
撃て! 撃てって! 撃てうてうてう!て!うてうて!うつえつ!えう!てうつうてう!
- 332 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/26(土) 23:09
- 雷撃のような銃声がフロアにこだました。
その轟音がミキを白昼夢から引き戻す。
正気の戻ったミキの目には、自分達のいるフロアが、ひどく広く見えた。
1発。2発。3発。
銃を撃ったのはミキではなかった。
銃弾はアヤの背後から飛んで来ていた。
いつの間にか開かれていた、扉の向こうからの狙撃だった。
4発。5発。6発。
弾丸は6発ともアヤの背中に刺さり、胸を貫き、噴水のように血を吹きあげさせた。
ミキの見ている目の前で、アヤがゆっくりと床に崩れ落ちていく。
天が生んだ真の天才は、そのまま二度と目を開くことはなかった。
強さも。賢さも。美しさも。唯一無二の絶対性を二度と花咲かせることはなかった。
神が気まぐれでスイッチをパチリと切ってしまったかのような―――
あまりにもあっけない幕切れだった。
かろうじてガス化が間に合ったのだろうか。
赤い粒子は生気を失うことなく、再び生き物のように動き出した。
ナッチは霧の中で目を剥く。その視線の先には、真黒な少女の姿があった。
目と目が合った瞬間、電撃のような異様な寒気がナッチの体の中を走った。
漆黒の少女は空になった弾倉を捨てながら、厳かにナッチに告げた。
「サディ・ストナッチ。最後だ。ここで全部、終わりにしよう」
- 333 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/26(土) 23:10
- ★
- 334 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/26(土) 23:10
- ★
- 335 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/26(土) 23:10
- ★
- 336 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:07
- ナッチとアヤが戦っているフロアにたどり着く前から、
ガス化したマキはそのフロアで繰り広げられている戦いを感知していた。
だからミキが走り回り、アヤが拳銃を撃ち出したところから、
マキは、アヤが何をしようとしているのかを理解した。
理解して―――戦慄した。
アヤという人間の天才性を認めざるを得なかった。
彼女が組み立てた戦略は、ガス化した人間と戦うにおいて、
唯一絶対とも言える、最良の戦略だった。
自らもガス化していたマキは、その戦略の確かさが痛いほど理解できた。
楕円のビルにたどり着くと同時に、マキはガス化を解いた。
ナッチたちがいるフロアは目と鼻の先にある。扉を開ければすぐそこだ。
ナッチとアヤ。今まさに矛を交えている二人の、どちらが生き残るかはわからない。
もし、万が一アヤが生き残るとするのなら、ガス化した姿を晒さない方がいいだろう。
マキは、アヤに対する評価を、はっきりと改めた。
彼女は手ごわい。もしかしたら―――ナッチ以上に。
- 337 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:07
- ナッチもアヤも、二人とも自分の手で殺す。誰にも邪魔させない。
その思いは、マキの中で絶対的であるはずだった。
だが、イチイを直接殺したナッチに対する怒りが一向に収まっていない一方で、
マキの中ではアヤに対する思いはかなり変化していた。
アヤという人間と触れ合っていたのはほんの僅かな時間でしかない。
だがそんな僅かな時間の中でも、アヤに魅了され始めているマキがいた。
彼女の言葉。彼女の思考。彼女の行動。そして彼女の笑顔。
マキは相変わらず、アヤと戦いたいという気持ちは持っていたが、その中でも、
殺したいという思いよりは、深く理解したいという思いの方が勝っていた。
命のやり取りを交わすことで、アヤのことをより深く知ることができるのでは?
もしそうであるのなら、究極のコミュニケーションの手段として、
アヤと殺し合うのも悪くないと思った。
そしてアヤの方も、案外自分と同じ思いを持っているのではないかと感じていた。
そんなアヤが、ナッチに殺されている場面というのは―――
マキにとって想像しがたく、そして受け入れがたいものだった。
- 338 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:07
- マキは何物にも干渉することなく扉を開いた。
その扉の動きさえも、フロアの空気の流れに干渉することはなかった。
丁度その時、アヤの背後でナッチがガス化を解くところだった。
アヤの弾丸によって死滅したナッチの粒子は、全体の1%ほどでしかないようだ。
だがその1%がナッチにとって甚大なダメージを与えていた。
粒子と粒子の関係性を連ねる赤い糸。その糸と糸の結び目。アヤの狙いは確かだった。
ナッチは一時的であるにせよ、粒子を自在に動かすことが不可能になっていた。
ナッチという存在が、自我が、ガス化を解いてアヤの背後にその姿を晒す。
まるでその動きを前もって知っていたかのように、アヤの反応は速かった。
後方に体重を預け、アヤはそのままナッチの頭上でくるりと一回転した。
逆にナッチの背後に回ったアヤがナッチを羽交い絞めにする。
マキの目には、はっきりと見えた。ナッチが見せた一瞬の迷いが。
アヤの体内に激しく干渉するか、それとも再びガス化するか、ナッチは一瞬迷った。
そのナッチの迷いに呼応するかのように、マキもまた、らしからぬ迷いを見せた。
ここで撃つべきか? 撃たないべきか?
- 339 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:07
- ここでナッチを撃てば命を絶てるような気がした。
マキとて、ガス化していないときに急所に銃撃を受ければ、間違いなく死ぬ。
ガス化できることが、不死の肉体になることを意味するのではないのだ。
ナッチも例外ではないだろう。
今のナッチは間違いなくガス化を解いている。
そして今また、粒子の関係性の糸の網目を修正して、ガス化しようとしている。
狙撃のチャンスはこの一瞬にしかないように思えた。
だが今この体勢でナッチを狙撃することは―――同時にアヤを撃つことも意味していた。
アヤを殺す。確かにそれはずっとそう願い続けてきたことだ。
今ここで引き金を引けば、それは簡単に叶う。
だが自分はこんな結末を望んでいたのだろうか?
アヤという存在に真っ向から立ち向かい、堂々と一対一の戦いを臨むべきではないのか?
こんな風に後ろから無防備な姿を撃ち抜くことを、自分は望んでいたのか?
そもそも、アヤを殺したいと思うことは正しかったのか?
イチイがあんな姿になってしまったのは、本当にアヤとミキのせいだったのか?
あたしは引き金を引く相手を―――間違っているんじゃないの?
- 340 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:08
- マキのそんな甘ったれた逡巡は、アヤの清冽な背中によってきっぱりと否定された。
アヤの背中には、揺るがぬ決意だけがあり、そこには一欠片の甘えも迷いもない。
何かを得るために、何かを失うことを恐れるような背中ではなかった。
たとえその失うものが―――自分の命であったとしても、だ。
自分が得たいと思うものに対して、アヤは逃げることなく真っ直ぐに立ち向かう。
アヤの背中が叫んでいた。
おそらくそれは、ミキに対して放たれた思いだったのだろう。
だがマキもまた、その無言の叫びを、感覚受容体ではっきりととらえていた。
異常発達した特別な受容体ではなくても、きっととらえることができただろう。
それくらいアヤの肉体の叫びは鮮烈だった。
声に出さずともはっきりと伝わるくらい、彼女は全存在を投げうって叫んでいた。
あたしごと撃て
マキは一瞬だけミキの方に意識をやった。ミキは動かない。
ミキには撃てないだろう。彼女はアヤのような非情な強さはない。普通の人間だ。
ではあたしは―――ゴトウマキは、普通ではない人間なのだろうか?
勿論そうだ。あたしはもう普通の人間じゃない。
あの日あの時、自分で決めたことだ。
普通の人間に戻りたいとも思わない。ただ異常な人間として生きて死ぬだけだ。
そうだ。あたしが決めることだ。生きることも。死ぬことも。殺すことも。
マキは拳銃を引き抜き、アヤの背中に向けて6発の銃弾を放った。
- 341 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:08
- 老人はどっかりとソファに腰掛けていた。
革でできたソファは信じられないくらいの柔らかさで老人の重さを受け止めている。
殺風景な部屋には、ソファとテーブルしかなかった。
その他に調度品と言えるのは、木製の本棚くらいだったが、その中は空だった。
少し前までそこにぎっしりと詰まっていた資料は、配下の者に全て処分させていた。
運命の時は近い。この施設もそろそろ用済みとなるだろう。
ノックもなく扉が開かれ、部屋の中に一人の男が入ってくる。
かつてマキが「教官」と呼んでいた男だった。
教官は老人の前で直立不動の姿勢を取ると、持ってきた情報を口頭で伝えた。
「どうやらアベナツミに続いて、ゴトウマキもサディ・ストナッチと化したようです」
老人の中に驚きはない。
既に関東の中には、怪しい霧の噂がちらほらと聞こえてきていた。
どんな荒廃した世界にも耳の早い人間というのはいるものだ。
だが勿論、教官が持ってきた情報は、そんな不確かな噂などではなく、
しかるべき調査機関から上がってきた、しっかりとした裏付けのある情報だった。
老人は懐からタバコを取り出す。
教官は音もなく老人の右隣にすり寄ると、その先に火をつけた。
- 342 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:08
- 「ウイルス断片は・・・被験者のサンプルは・・・全部揃ったのか?」
「おそらく。テラダとカメイの方が先に七つ揃えたようです」
「なるほど。で?」
「ただし完成にはゴトウのサンプルも必要だったようで、どうやらテラダ達は
ゴトウのことを追い回し始めたようです。両者の交戦は時間の問題でしょう」
老人はゆっくりと思考する。
これ以上ないくらい判断が急がれる場面だったが、全く慌てなかった。
判断を急ぐことと、正しく判断することは、全く別の問題だ。
老人はそれを知っていた。だから慌てない。可能な限りじっくりと考える。
ゴトウからの連絡はかなり前から途絶えていた。
どうやらゴトウはECO moniの人間と接触してしまったようだ。
ゴトウがあちら側に取り込まれてしまった可能性は高い。
だがものは考えようだ。ゴトウがECO moniと協力することで、
テラダやカメイに対する大きな抑止力となる可能性は高い。
ゴトウが連絡を絶った当初はそう考えていた。
老人の最大の目的は、ゴトウの確保ではなく、ウイルスの確保だ。
必要とあらば、いつでもゴトウのことは切り捨てるつもりだった。
- 343 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:08
- 「アベが太陽化するとして、そこからテラダ達が具体的に世界を
コントロールし始めるまでの期間は、どれくらいになりそうだ?」
「あの男の性格から考えると、動き出すのはかなり早いと予想されます。
常識で考えれば一年以上かかるでしょうが、あの男に常識は通じない」
「知っとるよ」
「下手をすれば、太陽化が完成した次の日から大々的にアピールしかねません」
「ま、成功するかしないかはともかく、あいつならやりかねんな」
老人は既に、アベやゴトウといった適格者を自分の思うままに操ることを諦めていた。
一つの方針にずっと縛られて動くのは、愚か者のやることだ。
老人はそこまで愚かではなかった。
今の計画が達成不可能と判断すると、すぐさま別の計画の立案にかかっていた。
太陽を操ることが不可能なら―――太陽を操る者を操ればいい。
テラダは何らかの手段によって太陽化したアベと通信するつもりなのだろう。
そこには元ECO moniメンバーのカメイの知識も生かされるかもしれない。
ならば、テラダとカメイを抑えればいいのだ。
その二人の身柄を拘束して洗脳でもすれば―――太陽を支配することも可能だ。
いずれにしても急がなければならないだろう。
太陽を手に入れたテラダが、世界中にそれをアピールする前に、
こちらとしてもある程度の体制は作っておかなければならない。
- 344 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:09
- 「テラダの計画が完成するまでの見込みは?」
「明日完成したとしても不思議ではありません」
「ゴトウと連絡を取るのはもう不可能なんだな?」
「はい。彼女の性格からいっても、もう指令を遂行させることは無理でしょう」
老人は今すぐにでもテラダの身柄を抑えることを望んだ。
だが最大の手足であるゴトウマキはもう使えない。
おそらく彼女も太陽化計画のことを知ってしまったのだろう。
彼女は、もう老人にとっての切り札とはなり得なかった。
むしろ彼女の存在は、後々邪魔となってくるかもしれない。
テラダと同様に、早急に排除すべき対象と認識すべきだろう。
「では我々が直接出向くとするか。テラダのところに」
「手はずは既に整えております。今からでも関東に入ることは可能です」
「では明日の朝一番に出発するとするか。部隊を整えておけ。精鋭をな」
「わかりました」
「わかりました? ほう、そうか。それで勝てるというのだな?」
老人の言葉が意味するのは、テラダやカメイに対してのことではない。
あのゴトウマキに勝てるのか? という問い掛けだった。
それは同時に、ガス化したナッチに勝てるのか? という意味も含んでいた。
だが直立不動のまま立ちすくむ教官の姿勢には、いささかの乱れも見られない。
自信満々というわけでもない。何かを誇るようでもない。
ただ息を吸って吐くかのように、自然な所作で教官は答えた。
「しかるべき対処をすれば、無力化は可能です」
- 345 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:09
- ☆
- 346 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:09
- マキが放った銃弾は、雷撃のような銃声をフロアに響かせた。
1発。2発。3発。
さすがのマキも銃弾を同時に放つことはできない。
一息で放った3発の銃弾は、赤い霧が立ち込めるフロアの中を横切った。
銃弾が通り過ぎた後を、彗星のような尾が伸びていく。
それは瞬きするほどの刹那に流れた、マキにしか見えない彗星だった。
弾は発射とほぼ同時にアヤの背中に突き刺さる。
4発。5発。6発。
マキは次の呼吸で再び3発の銃弾を放った。
その銃弾は先発した3発と同様に、アヤの背中の中央をしっかりととらえた。
弾はナッチもろとも貫通してアヤの胸を貫いた。
アヤの心臓から噴水のような血がほとばしる。
だがマキの手には―――何の手ごたえも感じられなかった。
やり損なった。
そんな嫌な感触だけがマキの手の中に残った。
- 347 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:09
- 6発の銃弾に貫かれたアヤが、ゆっくりと床に崩れ落ちていく。
その向こう側に、茫然と立ちすくむミキの姿があった。
皮肉なことだ。
もしマキが、あのとき一瞬ミキに目をやらなければ、間に合っていたかもしれない。
ナッチが再びガス化する前に、ナッチの体を撃ち抜くことができたかもしれない。
だが全ては遅きに失した。
着弾するほんの一瞬前にガス化したナッチは、ほぼ無傷のままで霧と化して浮上した。
アヤは死んだ。あたしが殺した。
それでもマキは自分のなすべきことを見失ったりはしない。
ゼロがこの世を去った時のように、アヤという人間がこの世から消えてしまったとしても、
マキは、その事実を嘆いて立ち止まったりはしない。振り返ったりしない。
アヤは前のめりに倒れた。ならば自分ができることは、同じように前に進むことだろう。
マキは顔をあげる。ナッチと目が合う。初めての邂逅。一途な思いが弾けた。
殺す。
余計なものがそぎ落とされて純化された意志は、
透明でも白でもなく、一点の光もない黒い色をしていた。
消し去る。何事であっても、もう二度とこの女に余計な干渉はさせない。
空になった弾倉を捨てながら、マキは厳かにナッチに告げた。
「サディ・ストナッチ。最後だ。ここで全部、終わりにしよう」
- 348 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:09
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 349 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:09
- マキは再び内なる歌声に耳を澄ました。
おそらくこれが最後になるだろうと思った。
サディ・ストナッチが何なのか、それは知らない。
太陽へ連れて行こうがどうだろうか、そんなものは構わない。
マキはただ、純粋な力のみを求めた。
この世界を支配する力。そんなものはいらない。
太陽を、地球を支配する力。そんなものもいらない。
マキが欲するのはただ一つの力だった。
自分を縛り付けている、見えない鎖を断ち切る力。
世界を取り囲む関係性の鎖を断ち切る力。
何事にも干渉されず、自分もまた何事にも介入せずに済む力。
マキに始まり、マキに終わる。
マキが望んだのは、小さく自己完結した、そんな寂しい世界だった。
その世界にはマキ以外の誰も干渉することはできない。
そんな力を手に入れるために―――
目の前にいるこの女を消し去るために―――
マキにはサディ・ストナッチの力が必要だった。
- 350 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:10
- 零――――
サディ・ストナッチがやってくるよ
一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
サディ・ストナッチがやってくるよ
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数
サディ・ストナッチがやってくるよ
闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇の中から
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 351 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:10
- ナッチは不思議な気持ちでマキのことを見つめていた。
目の前でガス化しようとしているその少女の動きを、止めようとは思わなかった。
マキの体が徐々に黒い霧と化していく。
こいつがゴトウマキなの? 例の黒い女なの?
この黒い霧、これがこの女のサディ・ストナッチなの? 本当にそうなの?
ナッチは目を疑った。
想像していたのとは全く違う情景がそこに広がっていたのだ。
空間に溶けて広がっていく黒い霧が、自分の赤い霧と同じ、
サディ・ストナッチであるとはとても信じられなかった。
普通の人間の目には、色が違うだけで、それが同じような霧として映ったことだろう。
だがナッチの目には全く違うものとして映っていた。
この霧は違う。自分の霧とは全く違う。
一つ一つの粒子が、ナッチの粒子とは本質的に異なっているように感じられた。
なんだろう、この違和感は。
鏡を見ているのに、鏡を見ていないような、そんな気持ちだった。
本来であれば、左右が逆になっているべき鏡像が、逆になっていないような。
前後が逆になっているべき鏡像が、逆になっていないような。
マキの体と精神が、自分の体と精神に、ぴったりと重なってしまうような。
それでいて、何から何まで全てが反転しているような。
そんな形容しがたい違和感だけが―――そこにあった。
- 352 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:10
- 闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
分 厘 毛 糸 忽 微 繊 沙 塵 埃 渺 漠 模糊 逡巡
サディ・ストナッチがやってくるよ
須臾 瞬息 弾指 刹那 六徳 虚空 清浄 阿頼耶 阿摩羅 涅槃寂静
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇をまといながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇を引き裂きながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇と共に
サディ・ストナッチがやってくるよ
―――零
- 353 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:10
- ☆
- 354 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:10
- エリは痛む足をひきずりながら、なんとか地上まで降りてきた。
ビルの間に広がった無人のスペースを横切り、楕円のビルへと向かう。
少し遠回りとなってしまったが、無防備なガラスの連絡通を歩く気にはなれなかった。
そのとき、冷たい感触がエリの首筋で弾けた。
思わず空を見上げる。どうやら雨が降っているらしい。
さきほどまでは雪だったのだが、今は弱々しい雨に変わっていた。
土の属性を持つエリにとって、水はあまりよろしくない物質だった。
別に水によって何かのダメージを受けるわけではないのだが、
能力を発揮する上では、ちょっとした邪魔になってしまう。
傷ついた足の回復具合が鈍ってくるような感覚がした。
どうやら今は完全にツキから見放されているらしい。
見上げたビルの七階にナッチたちがいることは間違いなかった。
上層の窓に沿って舐めるように行き交うエリの視線が、
階段から、七階の廊下にひょっこりと現れたヤグチの姿をとらえた。
そしてそれとほぼ時を同じくして―――
強烈な破裂音が響き渡り、七階の一室に稲妻のような亀裂が走った。
- 355 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:10
- 亀裂の一角からは赤い霧がつむじ風のように吹き出てきた。
そのすぐ隣のひび割れからは、黒い霧が、同じくつむじ風のように吹き出てくる。
赤い霧と黒い霧は、ビルから飛び出して、屋上の方へと向かった。
ついに来たか。ついにあの二人が交わる時が来たのか。
赤い霧は濃く細くその形状を変え、円盤のように平らに広がった。
黒い霧もまた、その濃度と密度を高め、回転しながら一つの平面を形作る。
どこかで見たことのあるような形をしていると、エリは思った。
それは―――銀河系のような細長い楕円の渦潮だった。
マキとナッチ。二つの銀河系が交わる。
いや―――交わらない。交わる直前で、二つの平面はピタリと止まった。
ビルの屋上の、さらにその10メートルほど上空だろうか。
赤い銀河系の上に、小柄な少女が姿を現した。
そして黒い銀河系の上には、スレンダーな少女が姿を現した。
二人の少女は、声もなくじっと見つめ合う。
- 356 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:11
- エリはそこまで見届けると、エレベーターへと急いだ。
まだ足の負傷は完全には癒えていなかったが、
とりあえず、屋上へと続くドアをブチ破ることくらいはできるだろう。
エリは何としてもマキとナッチの戦いを見届けるつもりだった。
それが―――SSを盗み出した自分の義務だと思った。
エレベーターは最上階である7階で止まった。
ここから先は自力で切り開かなければならないだろう。
エリは廊下の気配を窺う。アヤやミキはまだここにいるのだろうか?
マリはどこにいるのだろうか? もしかして交戦しているのか?
だがエリが感じ取れたのは、ふらふらと所在なげに歩いているマリの気配だけだった。
「ヤグチさん。なにしてるんですか?」
「なにってよお。ナッチのやつはガス化して上に行っちゃったみたいだからさあ」
「じゃ、私達も屋上に行きますよ」
「え? お前、屋上に行く道知ってるのかよ?」
「これから探すんですよ。さあ、急いで」
「お、おう」
ここは特殊なビルというわけではなかった。普通の商業用のビルだ。
屋上へとつづく道は簡単に見つかった。
エリは施錠を力づくでブチ壊し、屋上へと続く階段を上った。ヤグチがそれに続く。
ナッチとマキ。それはどちらの血だったのだろうか?
屋上へと出たエリとマリの頭に―――どっと血の雨が降り注いだ。
- 357 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:11
- ☆
- 358 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:11
- ミキは夢遊病者のようにふらふらと歩き出した。
アヤに撃ち抜かれた脇腹や二の腕からはかなり出血していた。
だがそんな自分の傷には一切構うことなく、ミキはアヤの下へと近づいていく。
アヤがもう息をしていないことは、誰の目にも明らかだった。
うそだろ? 冗談だろ? こんなこと、こんなこと―――
Nothingの死や、マコやコンノの死はなんとか受け入れることができたミキだったが、
アヤの死を現実のものとして受け入れることは、それらよりも遥かに難しかった。
ミキはアヤの傍らにぺたりと座りこむ。
うつ伏せに倒れていたアヤの上体を、両手で抱きかかえて起こした。
死体になったアヤは、生きているときと同じくらい我儘だった。
意志を失った体は、人形のようにあちこちにぐにゃりと曲がり、
なかなかミキの意図したような場所には収まってくれなかった。
おいおい、なにふざけてんだよ? 死んだ振りでもしてんのか? 早く起きろよ。
ミキは血の気を失ったアヤの頬をぐっとつねった。
固かった。
死後硬直が始まるにはまだ早かったが、アヤの頬は既に生前の柔らかさを失っていた。
- 359 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:11
- ミキは悟った。
常識だとか生物学的な真実だとかはどうでもいい。
そんなものはリアルじゃない。この手の中にあるもの、それが全てだ。
ミキは常識や知識を超越して、二つのことを同時に知覚した。
アヤはまだ生きている。それが一つ。アヤは死んでしまった。それがもう一つ。
ミキはそういった矛盾した二つの思いを受け止めた。
それがミキにとっての真実だった。
アヤはまだ生きている。かろうじて、アヤの体はまだ奇跡的な美しさを保っている。
美しくあること。それはすなわちアヤの天才性が生きていることを意味する。
だがアヤは死んでしまった。不可逆的な変化の向こう側に、一歩を踏み出してしまった。
もうアヤは戻らない。二度とこちら側の世界には戻ってこれないのだ。
アヤの死が確定的になるのは、もう時間の問題だろう。
アヤの体温が失われていく。アヤの頬が柔らかさを失っていく。
ミキにはそれを押しとどめる術はなかった。
アヤは消えていく。死という絶対的な概念の向こう側に消えてしまう。
アヤは向こう側の世界でも天才なのだろうか。
躊躇わずに友を撃てるような、躊躇わずに友のために撃たれるような、
そんな非人間的な判断の下で動ける―――真の天才なのだろうか。
- 360 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/28(月) 23:11
- ミキは悔いた。心の底から悔いた。
アヤを死なせてしまったことに対してではない。
最後の最後、自分の銃弾でアヤの命を断つことができなかったことを悔いた。
ミキには、自分の命をアヤに預けるだけの覚悟があった。
だが、アヤの命を預かるだけの度量はなかったのだ。
なぜあたしは、アヤの信頼に応えることができなかったのだろう?
ミキはその答を知っていた。
自分はアヤのような天才ではなかった。それが答えだ。
真実はいつだって、氷のように冷たく、自分の心の中に動かず存在している。
少なくともアヤは、ミキのことを天才として扱ってくれた。
ミキがキャリアとなったあとも、無二の親友として接し続けてくれた。
自分はその信頼に背いたのだ―――それも最悪の形で。
許せなかった。ナッチでもマキでもなく、自分自身が一番許せなかった。
このままでは終われない。終わらせない。ケジメはきっちりとつける。
落とし前はきっちりとつける。たとえ自分の命を使ってでも、だ。
それが―――それがGAMの精神だよね? ねえ、アヤちゃん?
アヤは答えない。
ミキの鼻腔にかすかな死臭が漂ってきて、容赦なく脳髄をえぐった。
それはもはや嗅ぎ慣れたアヤの匂いではなかった。
溢れ出てくる死臭をなんとか押し戻そうとしたミキだったが、
そこでついに力尽き、アヤの上に重なるようにして―――気を失った。
- 361 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/28(月) 23:11
- ★
- 362 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/28(月) 23:11
- ★
- 363 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/28(月) 23:12
- ★
- 364 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:11
- ガス化したアベナツミとゴトウマキは、互いに己の能力を全開放した。
太陽の娘。たる資質を持った二人が激突するには、その部屋はあまりにも狭すぎた。
二つの波動は窮屈な部屋を飛び出し、ビルの屋上へと駆け上がっていく。
ビルの屋上のさらにその十メートルほど上空で二人の動きが止まった。
ナッチはイメージする。
この地球を飛び出し、宇宙全体を覆い込むような広大なスペースを。
地球を飲み込み、太陽を飲み込む。無数の惑星と恒星を包む無限の世界を。
赤い霧はナッチのイメージに従って、銀河系のように渦を巻いていく。
マキはイメージする。
自分の中の、細胞の一つ。分子の一つ。原子の一つ。
この世界のあらゆる物質の存在を規定する、粒子の波動。
黒い霧はマキのイメージに従って、原子を包む電子のように運動していく。
だが、結果として二人が作り上げた霧の形は、極めて近い相似形を描いた。
二つの小宇宙が限りなく接近する。
その端と端が触れ合ったかと思うと――――
互いの小宇宙の中央部に、ナッチとマキが姿を現した。
- 365 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:11
- ナッチは右手に力を集中させる。
その手の中には、真っ赤な剣が握られていた。
体中の体液という体液が沸騰していた。
誰に教えられるでもなく、ナッチ自身の細胞が理解していた。
この女だ。目の前にいるこの黒い女。
ウイルスを投与された時からずっと、あたしはこの女を求めていたんだ。
この女こそが、究極のモーニング娘。となるために必要な、最後のパーツだ。
赤い剣が強烈な熱を発していく。
周囲を包む空気中の水蒸気が沸騰し、靄のようなものが立ち込める。
熱だけではない。ありとあらゆるエネルギーがそこに込められていた。
ナッチの自我そのものである赤い粒子が、そこにぎっしりと詰まっていた。
この剣はナッチだ。世界に一本しかない、ナッチそのものといえる剣だった。
「ここで全部、終わりにしよう」だって?
それはゴトウの大いなる勘違いと言うべきだろう。
あたしはゴトウを殺す。だがそれはほんの始まりにすぎない。
ゴトウマキなんていうのは、世界に溢れる人間の、ほんの60億分の1でしかない。
思い知らせてやるよ。
ナッチは剣を上段に構え、最初の一歩を踏み出した。
- 366 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:11
- マキは右手に力を集中させる。
その手の中には、いつもの銀のナイフが握られていた。
体中の感覚細胞がオーバーロードを起こしていた。
誰に教えられるでもなく、マキ自身の細胞が理解していた。
この女だ。目の前にいる、この赤い女。
ウイルスを投与された時からずっと、あたしはこの女を消したいと望んでいたんだ。
この女こそが、世界を縛り付ける関係性の鎖を握り締めている女だ。
銀のナイフが強烈な電流を帯びていく。
ナイフの中に内包し尽くせなかった電流が、音を立てて放電されていく。
電流だけではない。ありとあらゆるエネルギーがそこに込められていた。
マキの自我そのものである黒い粒子が、そこを幾重にも包み込んでいた。
このナイフはマキだ。世界に一本しかない、マキそのものといえるナイフだった。
マキはもう一度心の中でつぶやく。
ここで全部、終わりにしよう。
あたしはナッチという女を殺す。それがこの長い物語の最後の章になるんだ。
この女さえ殺せば、きっと関係性という名の鎖は解き放たれることだろう。
あたしは自由だ。誰からも、何からも自由だ。
マキはナイフを下段に構え、最初の一歩を踏み出した。
- 367 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:12
- アヤとミキとの紙一重の戦いから、ナッチは一つのことを学習していた。
サディ・ストナッチといえども、それは完璧な能力ではない。
完璧な太陽化の能力を手に入れるまでは、絶対無敵の能力ではないのだ。
今から思えば、アヤとの戦いには甘さがあった。
油断したわけではない。相手を過小評価したつもりもない。
ただ、自分の能力のことを真摯に理解しようと努めていなかったことは事実だ。
そこをアヤに突かれた。
相手に付け入れられるだけの、脇の甘さがある戦い方だったのだ。
今のナッチにそんな隙はなかった。
ナッチは全ての粒子に関係性の糸をからみつかせた。
アヤと戦った時のような横着な動きはさせない。
糸を切ったりつなぎ合わせたりといった効率の良い運動はさせない。
効率良くやろうなんていう考え方が間違っていたのだ
非効率的でいい。そんなやり方こそが、このアベナツミには相応しい。
効率じゃない。全てだ。あたしは全てを支配する。
無駄なように見える物さえも、一つ残らず支配するのだ。
ナッチは関係性の糸を全ての粒子にからみつかせる。
億万とある粒子の中の一つの粒子が、残りの全ての粒子と関係する。
億万×億万の計算ではない。億万の億万乗の計算がナッチの世界を支配した。
天文学的な数の網目をもったタペストリーのように、
複雑怪奇に織り込まれた粒子のマントをまとい、ナッチはマキに斬りかかった。
なあ、ゴトウ。あんたにあたしの糸が全て斬れるかな?
- 368 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:12
- エリとの紙一重の戦いから、マキは一つのことを学習していた。
ガス化した体を再び凝集させることができるという力。
太陽化に不可欠なその能力を発動させることを、マキは学び取ろうとしていた。
感覚受容体の知覚エリアを極限まで収縮させる。
全ての粒子に、それぞれに収斂させていく。
霧の粒子は極限まで拡散している。拡散させた粒子に感覚を凝縮させていく。
エリと戦ったときには5人のゴトウマキが発動した。
人数が増えればいいというものではない。逆だ。少ない方がいい。
ガス化のように自我を無数に増やす行為ではないのだ。
その逆に、無数の粒子を一点に凝縮させる行為こそが「太陽化」なのだ。
まだ5人もいたということは、それだけ凝縮が不完全だったということなのだ。
ウイルス断片が全て揃い、究極のモーニング娘。となった暁には、
太陽を包み込むような膨大なエリアすらも、一点に凝縮できるようになるはずだ。
ガス化した一人の自我で太陽を包み込んだ後に、一点に凝縮させる―――
テラダやエリは、そうやって太陽を支配しようと計画しているのだろう。
今のマキにはまだ、太陽のように広大なエリアを支配することはできなかった。
だが―――ナッチとの戦いの場を支配するには十分だった。
赤い霧の粒子が、ナッチとぶつかる直前に、一点に凝集する。
マキの意識の全てが一点に凝縮する。
斬ってやるよ。あんたが支配しているもの全てを。
- 369 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:12
- ナッチの目の前で、黒い霧がさっと晴れた。
ガス化の解除? なぜ今? ナッチにはマキの意図を察することができない。
それでもナッチは、慎重に間合いをとって様子を見るようなことはしない。
斬撃あるのみ。
全てに斬りかかり、全てに干渉し、全てに介入し、全てを支配する。
ウイルスDNAと混じり合い、互いにからみあったナッチのDNAには、
もはやその指令しか組み込まれていない。
赤い剣をマキの脳天に突き立てる瞬間、ナッチの軌道は変化する。
一直線の斬り合いを望むほど、ナッチは直情的な性格をしていない。
たった一つの動作においても複数のフェイントを織り交ぜる。
まるでジャングルの蟻の大群のように、ナッチの赤いマントがもぞもぞと蠢いた。
ナッチはマキの目の前でそのマントをひらめかせる。
億万の億万乗の組み合わせから選ばれた最適の選択。
マントの中央を突き破って、マントの内部から生まれた新たな剣が顔を出す。
剣は一本ではなかった。卵から生まれる蜘蛛の子のように無数に飛び出してきた。
人間の反射神経でそれを避けることは、物理的に不可能だった。
赤い剣がマキの胸を、二の腕を、太腿を貫く。
- 370 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:12
- マキは目を見開き、驚愕した。
斬りかかってくるナッチが晒した、真っ赤なマント。
霧の粒子で形成されたそれは、無数の関係性の糸でつながれていた。
全ての糸が、マキへの殺意をもって蠢いていた。
マキの表皮に存在する全ての感覚受容体が作動する。
それら一つ一つの計算能力は人間の大脳をも遥かに凌駕する。
今までもマキはそうやって複雑な計算を処理し、相手の体さばきを解析していた。
だが今は計算が追い付かない。
まず、ナッチの意志そのものが理解しがたいものだった。
普通の人間の思考パターンとは明らかに異なっており、安易な予測が通用しない。
さらに、ナッチの意図が生み出す粒子の運動パターンは複雑を極めていた。
確かに、粒子の一つ一つを見れば、それは糸で結ばれている。
そこには明らかに関係性が見て取れる。
だが粒子は一つの流れを持っているのではなく、複数の流れを持っていた。
「複数」という言い方すら生ぬるい。全ての粒子が全ての粒子とつながっていた。
マキは、蠢く赤いマントに見とれていた。
まるでこの世界の縮図のような関係性の海に、目で溺れていた。
マントから無数の剣が飛び出してきたことに気付いたのは―――
その剣に体を貫かれてからだった。
- 371 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:12
- ナッチは比較的単純な性格をしていた。
周囲から見れば、時にそれは理解しがたいものだったかもしれないが、
ナッチはいつだって自分の気持ちに素直に従っているだけだった。
無数の剣がマキの体を貫いたとき、だからナッチは素直に「勝った」と思った。
だが素直なナッチは、それとほぼ同時に自分が間違ったことにも気付き、
すぐさま体勢を立て直した。
マキの体から大量の血が噴き出す。
それはまるで雨のように、ビルの屋上に降り注いだ。
ふと下に目を向けると、そこにはカメイとヤグチの姿があった。
降り注ぐ血を浴びて、軽い混乱状態に陥っているようだ。
だがそれがマキの血だとわかれば、次の瞬間には狂喜乱舞することだろう。
おめでたいことだ。だがナッチの気持ちは全くおめでたくはなかった。
剣を通じてゴトウの肌に触れた瞬間、ナッチは感じ取った。
ゴトウマキという人間の分厚い存在感を嗅ぎ取った。
そう。ゴトウは異様なまでに分厚かった。
電話帳? いや、電話帳などたかだか数百ページでしかないだろう。
百科事典? いや、それだってほんの数千ページでしかないだろう。
だがゴトウマキは違う。ゴトウマキという存在は―――
まるで体細胞と同じ数だけ―――つまり数十億というオーダーで―――
積み重なっているような、とてつもなく重層的な存在だった。
- 372 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:12
- 痛みはなかった。ただ不快感だけがあった。
ナッチの赤い剣は、マキの体内に鋭く干渉してきた。
肉が裂け、血が吹き出る。そんなものはどうでもいいことだった。
ただ、自分の細胞一つ一つに忍び込んでくるような、
ナッチという名の粒子の存在がマキの神経を苛立たせた。
これがナッチか。これがアベナツミのサディ・ストナッチか。
それはマキの持つ粒子とは対極の特質を持った粒子だった。
とんでもなく傲慢な意志をもって他人に干渉してくる。
ナッチに食い破られた細胞は、全てナッチという名の関係性の糸にからめとられていった。
自分の体が侵略される―――それは言いようのない不快感だった。
ナッチという意志から逃れる術はない。少なくとも今のマキはそれを知らない。
いいさ。凌辱したければ凌辱すればいい。
もしナッチが体の右半分を凌辱するというのなら、あたしは体の右半分を切り捨てよう。
あたしの精神を蹂躙するというのなら、精神を切り離そう。
そのための力なら―――あたしは持っている。
ウイルスのことなど関係なく、小さな子供の頃からずっと持っている。
マキは体を包み込む薄い膜の、一番外側を捨てた。自分から遠く離れた場所に捨てた。
それでもマキの存在感は衰えない。
己の存在を極限まで凝集したマキにとって、その行為は、
ガス化した粒子の一粒を捨てるという程度の痛みしか伴わなかった。
- 373 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:13
- ナッチは自分の攻撃が、ゴトウに対していささかのダメージも与えなかったことを知った。
ゴトウは損傷した部位を廃棄して、何食わぬ涼しい顔をしている。
憎らしかった。それと同時に、言いようのない嬉しさもこみ上げた。
この感情を言葉で表現することは難しい。だが、ただひたすらに楽しかった。
ナッチが無数の粒子を無数の糸で結んでいるように、
ゴトウはゴトウで無数の粒子を一つに重ねているように感じた。
なるほど、こういう戦い方もあるのか。
確かにサディ・ストナッチという特質を有効に活用した戦い方かもしれない。
だがやはり、ゴトウマキという女は王者たりえない。
なるほど、その戦い方であれば、自分の身を守るには十分かもしれない。
だが極限まで「自分」に特化したその戦い方では、他者を支配することはできない。
自分さえ良ければそれでいい。他人には興味がない。放っておいてくれ。
おそらくマキが言いたいのはそういうことなのだろう。
きっとマキが思い描いている「自由」という概念はそういうものなのだろう。
子供だ。カオリやマツウラと同じように、マキもまた、自分勝手な子供だ。
人間には二種類しかない。支配する人間と支配される人間。
そこには自由などない。選択の余地すらない。生まれつき決まっていることだ。
いいだろう。自由になりたいというのなら、あたしが自由にしてやろう。
お前が望むのなら、全ての関係性の糸から解き放ってやろう。
お前はもう、支配する人間でもなく、支配される人間でもない。存在することすらない。
今ここで死ね。
- 374 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:13
- 消滅せよ。
銀のナイフに全ての思いを込める。
マキは、体を包み込む幾重ものゴトウマキのいくつかを、解放した。
影武者のように湧き出てきたマキの分身が、ナッチに襲いかかる。
5人。6人。7人。
次々と湧き出てきたマキの分身は、全てナッチのマントに吸い込まれていった。
「干渉せよ」というナッチの意志で溢れた赤いマントは、
血に飢えた獰猛なピラニアが群れをなす、悪魔の血の池と化していた。
マキから分散していった黒い影は、跡形もなく食い散らかされていった。
マキは全ての意識を、ナッチが持つ赤いマントに向ける。
マントの中に織り込まれている関係式を解くことは困難を極めた。
億万の億万乗の升目が行き交う魔方陣は、マキの攻撃を全て跳ね返す、嘆きの壁だった。
解析することが不可能だとわかった瞬間、マキは笑った。
必死に問題を解こうとしている自分が、なんだかとても可笑しかった。
これは学校の定期試験ではないのだ。
解けないのなら、問題用紙ごと破り捨てればいい。
解くことはできなくても、そうやって問題を失くすことは可能だろう。
なんだかそういうやり方こそが、最も「自由」に近いような気がした。
もうあたしは、粒子の糸をたぐるような真似はしない。
アヤと同じやり方は選ばない。
ここからは、あたし、ゴトウマキの戦いだ。
- 375 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:13
- ナッチは再びマントを首にまきつけ、ふわりと羽織った。
このまま相手の攻撃に対して、延々とカウンターを続ける気はなかった。
そんな戦いは退屈だ。欠伸が出る。自分らしくないだろう。
ゴトウマキが十億のゴトウマキを重ねてガードするというのなら、
アベナツミは十億のゴトウマキ全てに干渉してみせよう。
それこそが王者の戦いというものだ。
太陽の、そして地球の支配者に相応しい戦いというものだろう。
ナッチは正々堂々と正面から斬りかかった―――と見せかけて再び変化した。
マキの右斜め下にしゃがみこんだナッチは、
下段から浮き上がるようにして、マキの脇腹に斬りかかる。
肉を引き裂いたような、しっかりとした手応えを感じた。
だがしかし、ナッチがそこに干渉しようとした瞬間、
再びその部分はマキによって廃棄され、マキの本体から離れていった。
今度はマキの持つ銀のナイフがナッチの頭上に振り下ろされる。
ナッチはそれを肩のマントで受け止めた。
ナッチのプラスエネルギーとマキのマイナスエネルギーが衝突する。
そこには何も残らなかった。
ゼロだけが残った。
- 376 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:13
- 脇腹を斬られた瞬間、ナッチの邪悪な意志がマキの細胞に浸潤してきた。
マキは、脱皮するようにして、体の外側を包んでいた膜を一枚離脱させる。
離脱した膜はあっという間にナッチの意志によって食い尽くされていった。
だがそれを待つことなく、マキは次の攻撃に移る。
体内で増幅させた電気エネルギーを銀のナイフに込める。
数万ボルトまで膨れ上がったマイナスエネルギーが稲妻のようにナッチの肩をとらえた。
ナッチの肩にかかっていたマントには、ナッチの偉大な意志が満ちていた。
「干渉せよ」「世界の全てに干渉せよ」「介入して支配せよ」「世界の全てを」
それは誰にも侵すことができない、絶対的な、揺るぎない感情だった。
銀のナイフにはマキの悲痛な思いが込められていた。
「あたしはもう何物にも干渉しない」「世界から孤立する」「自由だ」「一人だ」
それは誰にも理解することができない、個人的な、不確かな感情だった。
二つの思いがナッチの肩の上で炸裂した。
プラスの感情とマイナスの感情が重なったそこには、何も残らなかった。
物質的な意味でも、精神的な意味でも、完全なゼロだった。
銀のナイフを持っていたはずのマキの右腕は、手首から先が消失していた。
- 377 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:13
- ナッチの左腕がぼとりと落ちた。
左の肩の部分が、マントごと綺麗に消失していた。
あまりの完璧な「ゼロ」の感触にナッチは戸惑った。
いや、感触すら全くなかった。時間までもが根こそぎもっていかれた気がした。
ナッチはあえて傷口をふさがなかった。
ガス化した粒子を埋め合わせることはしなかった。
肩が消失したということは、自分とマキの力が互角だということを意味する。
もしかしたら、サディ・ストナッチとサディ・ストナッチの力は五分かもしれない。
特質が異なるというだけで、能力の絶対量自体は同じである可能性が高い。
ならばこの勝負を分けるのは、ガス化能力の強さではない。
粒子をいかにして上手く操るかという戦いではないのだ。
それに、もしこのまま粒子一粒ずつの削り合いを続けていても、
永遠に決着をつけることができないだろう。
ナッチは自らが持つ、もう一つの能力に賭けることにした。
賭け事は好きじゃなかったが、その一方で、自分は賭け事に負けるような、
弱い星の下に生まれてはいない、という強い自信も持っていた。
賭けるのは金ではない。自分の判断の確かさだ。決断の迅速さだ。
ナッチの肩口から、大量の血が飛び出した。
血流は、ナッチの意志によって巧みにコントロールされながら、マキへと飛んでいく。
マキは知らない。キャリアとしてのナッチの特殊能力が何であるのかを。
ナッチの体液が異常に発達していることを―――マキは知らない。
マキは、ナッチの血を頭から大量にかぶった。
- 378 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:14
- マキは右腕を再生させようと試みる。消えた右腕を廃棄しようと試みる。
だがそこは「完全なゼロ」になっていた。
廃棄し、再生しようとしても、そこにはただのゼロが残るのみだった。
マキは一旦、凝縮させた意識を通常モードに戻した。
解放された感覚が拡散していく。ゼロがゼロではなくなっていく。
なんとか右腕が再生したが、そこに短くない時間がとられてしまった。
そんな戦いの最中にあっても、マキは戦いの流れを思考し続けていた。
ナッチもマキと同じようにして、消失させた肩を再生させるだろう。
そこにはマキと同じだけの時間がとられるだろう―――そう考えていた。
だがナッチは肩を再生させなかった。
ナッチの左腕は遥か下方の地面へと落下していく。
腕を再生させないでおくメリットが、マキには理解できなかった。
ナッチのもう一つの能力を知らないマキには―――理解できなかった。
ナッチの肩口から大量の血が迸り出てくる。
マキはそれをまともに頭からかぶった。
血は髪を濡らし、頬を伝い、そして目にも飛び込んでくる。
一種の目潰し? それとも相手を一瞬だけ驚かせるため?
あらゆる情報を肌の感覚細胞で知覚するマキには、目潰しは効かない。
だがナッチはきっとマキの特殊能力が何であるか知らないのだろう。
知らないのなら教えてやろうとマキは思った。
だが、この手の攻撃は一切無効だとしたマキの判断は―――大きな誤りだった。
- 379 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:14
- ナッチはその血をマキの体内に滑り込ませていった。
目から、鼻から、口から、そして表皮細胞の隙間から―――
ありとあらゆる隙間から、ナッチの血は侵入していった。
ミツイやコンノを眠らせた時のような、生半可なことはしない。
異常発達した血球細胞は、口を開き、牙を突き立て、マキの細胞を破壊しようとする。
そしてナッチはマキの精神にも忍び込んでいく。
マキの精神は、常人では考えられないくらい、固く閉じられていた。
深く干渉しようと働きかけるナッチの血球細胞を、頑ななまでに拒絶する。
凄まじいまでの自己防衛本能の強さだった。
きっとこれはウイルスの影響など関係ない。
三年や四年で形成されるような固さではなかった。
おそらくマキという人間が生まれてから今までの間、
特殊な環境の中でずっと形成し続けてきたものなのだろう。
さらに、マキの神経回路は並外れて強靭だった。異常なまでに発達していた。
これこそがキャリアとしてのマキの能力なのだろうとナッチは察した。
ナッチの血球細胞と、マキの神経細胞が真っ向から激突する。
キャリアとキャリア。適格者と適格者。特殊能力と特殊能力のぶつかり合いだった。
それでもその戦いに最後に勝利したのは―――ナッチだった。
- 380 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:14
- ナッチの血に触れた瞬間、マキの体に電敵的な痛みが走った。
それは不快感や異物感といった生易しいものではなく、はっきりとした痛みだった。
マキは自分が不覚を取ったことを察した。
なぜナッチが肩を再生させなかったのか。なぜナッチが血を飛ばしたのか。
特異な感覚受容体を持つマキには、一瞬にしてそれが理解できた。
ナッチの血は―――異常に発達している。明らかに普通ではない。
これこそがナッチのキャリアとしての能力なのだ。
ナッチの血は猛毒だった。
全ての細胞を食い千切らんと、マキの体内で暴れまわる。
細菌よりも、ウイルスよりも、真菌や寄生虫よりもタチが悪かった。
マキの免疫担当細胞は全く機能しなかった。
ただ、鋭敏に発達した神経回路だけが、かろうじてナッチの侵略に立ち向かった。
だがそれもまた、蟷螂の斧でしかなかった。
ナッチの血という猛毒は、体だけではなく精神までも蝕んでいく。
そこはマキの一番大切な場所だった。固く固く鍵を掛けて封印していた場所だった。
心の一番深いところは、誰にも覗かれたくない。死んでも嫌だ。
見られるくらいなら―――死ぬ。
マキの精神がマキの肉体に反抗した。精神と肉体のバランスが崩れる。
もはやマキは、キャリアでもサディ・ストナッチでもない、普通の少女だった。
マキは絶叫する。そして崩壊する。体と心がバラバラになった。
魂をかけて拒んだのは、死だったのか敗北だったのか。
それとも―――自分の心の奥底に隠し持っていた感情だったのか。
力を失ったマキは、体中を猛毒で侵されながら、上空から急速に落下していった。
- 381 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:14
- ☆
- 382 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:14
- 雨が降っている。気温は相変わらず低い。
雨になったり雪になったり、はっきりとしない空模様だった。
だが今は大粒の雨となり、その勢いも徐々に増していっているようだった。
ミチシゲは神社の中でも、一番広い部屋の中で正座していた。
座布団も敷かずに板間に直接座る。大地の冷たさがひしひしと伝わってきた。
殺風景な部屋だった。この神社には崇めるべき神像のようなものはない。
あくまでも地球と太陽が、ECO moniの信仰の対象だった。
そして今、ミチシゲの前に立てられた四本の蝋燭が火の勢いをあげた。
白。青。赤。黒。四色の光は、小さな太陽のような眩さを放った。
その凄まじいまでの熱量は、ミチシゲに一つの決断を促させるに十分だった。
ミチシゲは部屋に主要なメンバーを集める。
研究の途中だったコハルとミツイ。
そして警備の最中だったイシカワが部屋に入ってきた。
コハルは赤い蝋燭の前に、ミツイは青い蝋燭の前に座る。
ミチシゲの正面には白い蝋燭があった。
必然的に、イシカワは黒い蝋燭の前に座ることとなった。
そこは本来なら―――カメイ家の当主が座るべき席であったのだが。
- 383 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:14
- 「どうやら例のビルで、二人の適格者がぶつかり合ってしまったようです」
マキが、アヤやミキと一緒にテラダの下に向かうと言った時から、
こういった事態は、十分に起き得ると予想されていた。
戦い、生き残った方が、真の適格者ということになるのだろう。
そしてその真の適格者こそが―――ECO moniの最終的な標的ということになる。
「マジっすか。抗体はまだ全然完成してないっすよ」
「どう考えてもあと二ヶ月はかかりますって」
七種類の分割ウイルスの抗体のうち、初期に作成を開始した三つの抗体は
既に完成していたが、まだ残りの四つは完成していなかった。
特に1番と4番のウイルス断片に関しては、まだ配列の解析も終わってないのだ。
二ヶ月で完成するかどうかもあやしかった。
そしてこの抗体は―――七つ揃わなければ意味がない。
「連絡員の情報では、アベナツミだけではなく、エリとヤグチもそこにいるようです」
「マジっすか!」
「えー! 罠じゃなかったんですか?」
ミツイにはそれが意外だった。てっきり罠かガセ情報だと思っていた。
よもやそこに本当にエリやアベナツミがいるとは思っていなかった。
まんまとテラダに裏をかかれたということなのだろうか。
「それだけではありません」
- 384 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:15
- 「他にも何か情報が入ったんですか?」
「ヤマザキが動き出しました」
「!」
「どうやら部隊を率いて関東に入ってきたようです」
ECO moniは全国各地に支部を持っている巨大組織だ。
ミチシゲ達四家の主要メンバーは皆、関東に入っていたが、
所属するほとんどのメンバーは関東圏外で情報収集活動を行っている。
その多くは国の機関を監視し、そして一部はヤマザキの動きを追っていた。
「もしかしてヤマザキもカメイさんのことを狙ってるんですか?」
「いや、ヤマザキの方はゴトウさんのことを追ってるんとちゃうか?」
「もしかしたら、アベとゴトウ。二人まとめて抑えるつもりなのかもね」
「そんなあ!」「そんなん絶対無理ですって」
「無理かどうかはともかく、ヤマザキはかなり大がかりな部隊を用意しています。
今のこの状況で、何も軍事行動を起こさないとは考えにくいでしょう」
ヤマザキはエリとテラダを引き合わせた人物だと考えられている。
ウイルスやサディ・ストナッチのことを知らないわけがないだろう。
そのヤマザキの狙いがなんであるのか、それは今の段階ではわからないが、
巨大な財力と権力を持っている分、テラダよりも強引な動きをしてくる可能性があった。
ミチシゲは、アベとゴトウの戦いを黙って見届けるつもりだった。
二人が戦えばお互い無傷では済まないだろうし、
そこで消耗し合えば、ECO moniが漁夫の利を得ることができる―――はずだった。
だがしかし、このまま高みの見物を続けるわけにはいかないようだ。
- 385 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:15
- ミツイもミチシゲの心の動きを敏感に察した。
「うちらも動くわけですね。カメイさんとヤマザキ、どっちを追います?」
「ミチシゲさんがカメイさんを追って、あたしとミッツィーがヤマザキでどうですか?」
「いえ。この神社を不在にするわけにはいかないでしょう」
別にこの神社がECO moniの総本山というわけではない。
捨てようと思えばいつでも捨てられる場所だし、
それにここは既にテラダ達にも知られてしまっているのだ。
むしろそろそろ別の場所に移るべき時期が来ているのかもしれない。
だがしかし、容易には移せない施設が一つあった―――
「とりあえずヤマザキへの監視は続けます。だが今はそこに行く必要はない。
ヤマザキはいずれエリかゴトウさんの前に姿を現すでしょう。それを待てばいい」
「じゃああのビルから先に片付けるってことですね?」
「テラダもそこにおるんやろうか・・・・・・」
「連絡員の話では、テラダの姿は確認できなかったそうです」
「いずれにしてもカメイさんを殺れば、テラダも無力化できるっちゅうことですな」
「その通り」
コハルとミツイが同時に立ち上がった。
カメイとアベとヤグチ。テラダ以外の役者が三人、例のビルに揃っている。
向こうが三人いるのなら、こちらも三人揃えるべきだろう。
だがミチシゲの下した判断はそうではなかった。
- 386 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:15
- 「私とミッツィーは例のビルに向かいます」
「了解しました」
「えー! コハルは?」
「コハルはイシカワさんと共にこの神社を守ってください。いいですね?」
「はい・・・・わかりました」
「なんでー! なんでコハルじゃなくてミッツィーなの!?」
「今日は雨ですからね。ミッツィーの方が何かと動きやすいでしょう」
火の属性を持つコハルは、はっきり言って水と相性が悪い。
雨の中ではその力が制限されることもあった。
一方、水の属性を持つミツイは雨の中では最大限の力を発揮できる。
ミチシゲとしては当然の選択をしたまでだった。
「つまんないつまんないつまんないー!」
「うるさいなあ。雨の日くらいはうちに任せといたらええねん」
「うっせーバーカ。これくらいどーってことないの!」
「バカって言うな。愛情が感じられへんねん」
「愛情なんてないし」
「うっさいアホ」
「アホって言うな!」
くだらない言い合いをしている二人の間には、だれ切った空気が流れていたが、
ミチシゲの一言を受けて、一瞬にして緊迫した空気に切り替わった。
「今日をもって守護獣の封印は解きます」
- 387 名前:【増悪】 投稿日:2009/12/31(木) 23:15
- 「え!?」
「マジっすか!?」
「冗談でこんなことは言いません。すぐに解きますよ。急いで準備しなさい」
「でもまだ一年経ってないですよ?」
「ホンマにええんですか?」
「必要だからです。コハル、特にあなたには言っておくことがあります」
いつになく真剣な目をしたミチシゲを前にして、コハルは硬直した。
ミチシゲが、コハルにとって良いことを言うことはほとんどない。
かけられる言葉は、いつも非情で容赦ない言葉ばかりだった。
だから今回も、きっととびきり重い言葉をかけられるのだろうと思った。
そして実際に―――その言葉は重かった。
「これは命令です。もし最悪の事態が来たなら、全てを燃やしなさい」
最悪の事態。ミチシゲが言う最悪の事態とは一つしかない。
コハルもそれは痛いくらいによく理解していた。
それは―――この地球が、あるべき運命から外れてしまうことだ。
さらに重ねられたミチシゲの命令は、コハルにとってあまりにも重たかった。
「例の水槽も、この神社も、ECO moniが存在した証も―――全てを燃やすのです」
- 388 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/31(木) 23:16
- ★
- 389 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/31(木) 23:16
- ★
- 390 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/12/31(木) 23:16
- ★
- 391 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:04
- ミチシゲとミツイの行動は素早かった。
もっとも、戦いの地に赴くにおいて、準備するものなど何もない。
鍛え上げた肉体こそが四家の人間の最大の武器なのだ。
守護獣の封印を解くのには三分もかからなかった。
ミチシゲが最も時間をかけたのは、出発する自分達の準備ではなく、
後に残されたコハルとイシカワに対して入念な指示を与えることだった。
ミチシゲの指示はいつになく細かく厳しかった。
「ここの責任者はコハルです。いいですね。あなたが全部仕切るのです」
「・・・・・了解です」
「イシカワさんはコハルのサポートをお願いします」
「わかりました」
「じゃあ、ミッツィー、行きましょうか。コハル。後は任せましたよ」
最後にそれだけ言い残すと、ミチシゲは振り返ることもなく神社を後にした。
- 392 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:04
- コハルとイシカワ。残された二人の表情は暗い。
特にコハルの表情は暗かった。
与えられた任務は神社の警備。ただそれだけだ。
日常的に行っている任務と、基本的には何も変わらない。
だがミチシゲの口調からは、とてもそんな軽さは感じられなかった。
今まで当たり前にこなしてきたことが、ガラリとその色を変えたように感じた。
これがミチシゲの言うところの「非常事態が日常」ということなのだろうか?
「任せます」という言葉がコハルの肩に重くのしかかる。
どんな困難な任務であっても、陽気な性格で軽く乗りきってみせる、
いつものコハルの姿はそこになかった。
任務が怖いのではない。コハルはミチシゲの口調に一種の恐怖を感じていた。
ミチシゲは―――もしかしたら、二度とこの神社に戻ってこないつもりではないのか?
もう二度とこの人には会えないのではないのか?
何の理由もなく浮かんだ二つの直感は、コハルの中でなかなか消えなかった。
- 393 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:04
- ミチシゲとミツイが出発すると、今度はコハルがECO moniのメンバーに指示を与え始めた。
ミチシゲの懸念もなんのその、イシカワの目には、
コハルがかなりしっかりと組織を仕切っているように見えた。
各メンバーが神社の四方に散り、警備を固める。
いつものような内向きの警備ではなく、外向きの警備だった。
通常は敵の襲撃があったときは、警備の人間は神社の内部に向かう。
守るべきものがそこにあるのだから、それは当然の判断だ。
だが今回はそれとは逆の指示が送られた。
敵が神社の中に入ったなら―――外から神社を包むような布陣をとること。
敵を神社の外に出さないようにすることが優先されることになった。
それは同時に、各メンバーが神社の外に離脱しやすくなることを意味する。
なぜならば―――最悪の事態が出奔した場合、
コハルはこの神社ごと全てを焼き払うつもりだったから。
それがミチシゲの下した判断だ。ECO moniの長が下した判断だ。
コハルにはそれに逆らう理由はなかった。
- 394 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:05
- コハルには逆らう理由がなかったが―――イシカワにはあった。
神社ごと全てを焼くというミチシゲの判断は、なるほど正しい。
この地球を守るためには最善の判断だと言ってもいいかもしれない。
だがイシカワにはそれよりも大切なものがあった。
それを守るために―――イシカワは組織の動きに反する必要があった。
幸か不幸か、イシカワの担当は例の水槽の周囲ということになった。
この水槽の中身こそがECO moniの最後の切り札なのだ。
特別な目を持つイシカワがそこに割り当てられたのも当然の判断だった。
コハルは神社の屋根に上り、集中力を拡散させて四方に注意を払う。
もう日が暮れようとしていた。
だが地平線の彼方に沈もうとしている太陽の姿は、厚い雲に覆われて見えない。
雨に濡れるのにも構わず、コハルは遠くをぼんやりと眺めていた。
ミチシゲに言われた様々な言葉が脳裏を行き交う。
「守護獣に頼り過ぎです」「意識が低すぎます」そして「任せましたよ」
自分に求められているものが何であるかはわかっているし、
それを実行する自信もあるつもりだった。
だがいざ全てを任されてみると―――そこにあるのは大きな不安だけだった。
でも泣きごとは言うまい。それは自分一人の心の中に収めていればいいことだ。
自分は戦士だ。戦場で弱みを見せてはならない。
コハルは大きく一つ息を吸うと、屋根の上でゴロリと寝転がった。
- 395 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:05
- コハルが屋根に上がったのを見計らって、イシカワはヨシザワに連絡を取った。
イシカワのアドバイスを受けて、自らの能力を高めるべく
鍛錬に励んでいたヨシザワだったが、どうやら間もなく準備が整うようだった。
「こっちの方だったら、もういつでも出ていけるよ」
「本当に? 体は大丈夫?」
「うん。嘘は言わないよ。どうせ見ればすぐわかることだしね」
「わかった。すぐまた後で連絡する」
「そっちこそ気をつけて」
「うん。じゃあね」
携帯電話を切ったときには、もうイシカワの中には迷いは残っていなかった。
サユはおそらくこの神社を捨てるつもりなのだろう。
イシカワもまた、ミチシゲがここに戻ってこないことを感じ取っていた。
コハルの封印を解いたのが何よりの証拠だ。
きっとあの水槽ごと全てを燃やしてしまうつもりなのだろう。
そうはさせない。あれはあたしのものだ。
イシカワはその生き物を拾ったときのことを思い出していた。
あれはイシカワが例の施設に潜入していた時に手に入れたものだった。
あれを見つけた自分には、あれを使う資格がある。
そう思ってイシカワは組織を裏切ろうとしている自分を、必死で誤魔化そうとした。
- 396 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:05
- イシカワは、水槽の中身を自分とヨシザワのために使うことを決心した。
あれは―――あの水槽の中に入っている奇妙な生き物は、
テラダ達をおびき寄せるために絶対に必要なものだった。
逆に言えば、あの切り札がアベに奪われれば全てが終わる。
だが今のイシカワはどんなリスクを冒してでも、
アベとヤグチをヨシザワの前まで引きずり出すつもりだった。
イシカワは神社の裏に回り、水槽の下へと赴く。
鬱蒼と茂る森の影と、建物の暗い影との間にその水槽があった。
イシカワが神社にいるときには、基本的にはイシカワがここの世話をしている。
どう扱えばいいのかは、ECO moniのどのメンバーよりも、十分承知していた。
水槽の前に立ったイシカワは、そっと排水のボタンを押した。
ごぼごぼと音を立てて中の水が排出されていき、水面が徐々に下がっていく。
今はもう、魚もあまり入っていない。
この水槽の主とでもいうべき生物に食べられてしまったのだろうか。
そして今、その「奇妙な生き物」の顔がイシカワの前に―――
- 397 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:05
- ☆
- 398 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:05
- 有楽町前のビルを、テラダは別のビルの一室から遠巻きにして眺めていた。
手にした超望遠の双眼鏡には赤い少女と黒い少女が映っている。
二人はどうやら屋上で交差することを選んだようだ。
遠目に見ても二人の存在感は際立っていた。
どちらもテラダ好みの―――美しいシルエットをした少女だった。
「惜しいわな。どっちか殺さなアカンなんてな」
やがて二人はその身にまとった霧を変化させ、激しく交錯した。
だが互いの力が釣り合っていたのは、時間にして数秒だけだった。
互角の攻防を続けていた二色の霧の均衡が、一挙に崩れる。
アベの血をまともに浴びたゴトウが体の制御を失う。
黒い霧がすうっと消え、ゴトウは真っ逆さまに墜落していった。
「お。やったか。決まったか」
テラダは双眼鏡から目を離し、机の上にあるノートPCの方に目を向ける。
地図上でオレンジに輝く4という数字と8という数字。
立体的な図を示していたディスプレイの中で、
8という数字がゆっくりと落下していく。
やがてその8というオレンジの光は地面に激突し―――
青い光へと変わっていった。
- 399 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:06
- 「終わりやな」
テラダは満足そうな笑みを浮かべ、ディスプレイを閉じた。
これで被験者全員のサンプルが手に入ったことになる。
このナンバータトゥーシステムを使うのも、これが最後かもしれない。
ヤマザキから誘われて、SSの研究をスタートさせて八年。
カメイという少女と出会い、ウイルスを受け取って五年。
そしてあの施設の事故からもうすぐ四年。
それだけの月日をかけた壮大なプロジェクトの終焉を前にしても、
テラダの反応は実にあっさりしたものだった。
時間をかけることには慣れている。
通常の新薬開発だって優に十年はかかるのだ。
二十年近く研究者生活を送ってきたテラダにとっては、
どうということのない時間だった。
だがそれにしても一段落ついたことに変わりはない。
後はゴトウの血をアベに投与すれば、究極のモーニング娘。が完成する。
- 400 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:06
- だがテラダは慌てない。
アベナツミがいるビルに移動しようとはしない。
あのビルにはカメイがいる。既に彼女とは入念に打ち合わせをしている。
後は彼女が上手くやるだろう。
テラダはただ、ゆっくりと椅子に腰かけ、熱いコーヒーを飲んでいるだけでよかった。
アベの体内には既に7人の被験者から取ったサンプルを投与している。
7人の被験者の体内にある、7分割ウイルスの変異型DNA。
これをアベの体内で再合成することによって、自我を持ったままガス化できるはずだ。
そして今、アベはゴトウの血を手に入れた。
これを投与することによって、アベはガス化した体を、再び凝縮する力―――
つまり完全な太陽化の力を手に入れることになるだろう。
準備は終わっている。全てはその場で迅速に行われるはずだ。
アベが太陽の娘。となるまで、究極のモーニング娘。となるまで、
あとほんの数分待てばいいわけだ。
- 401 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:06
- 無人のビルの一室でテラダは一人、優雅にコーヒーを飲んでいた。
これまで自分が行ってきた実験の経過を脳内で再確認する。
ぬかりはない。これでついに計画が完成することだろう。
「まあ、エコモニの諸君もよう頑張ったけどな。最後に賭けに勝ったんは俺や」
今頃エコモニのミチシゲは、せっせと抗体作成に励んでいるのだろう。
確かに抗体が完成すれば、この関東で苦しんでいるウイルス感染者を、
治療することができるだろう。キャリアと呼ばれる異能力者を消すことも可能だろう。
だがその抗体が―――太陽と化したアベナツミに届くことはない。
地球と太陽の距離は、およそ1億5000万キロメートル。
文字通り「手の届かない場所」だ。
「どれどれ。今頃あいつらは神社で何してるんやろな」
深い考えがあったわけではない。
ほんの冷やかし程度の気持ちで、テラダはPCを再度、起動させた。
アベがSSを使ってつかんだ情報を下に、神社の内部は正確に把握することができた。
人員がどこにどう配置されているのかすらつかんでいる。
知らぬはミチシゲばかり。もはやこの施設はテラダの前には完全に丸裸となっていた。
「お。イシカワやんけ。こいつまだここにおったんかいな」
テラダが見つめるディスプレイの中には―――「9」という数字が光っていた。
- 402 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:06
- ☆
- 403 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:06
- ナッチはしっかりとその目で見届けた。
サディ・ストナッチとしての力を失ったゴトウマキが、墜落していく様を。
ゴトウの体内にはナッチの血液細胞が充満していた。ナッチの意志に抗う術はない。
やがてゴトウは地面へと激突した。
それを見届けたナッチは、サディ・ストナッチの力を解除した。
赤い粒子が次々とナッチの下へと集結し、一つの自我を形成する。
そしてナッチは一人の少女に戻った。
ぬかりはない。やるべきことは終わったのだ。
ゴトウの心臓が止まったことは確認したし、呼吸が止まったことも確認した。
脳波はまだ完全に消えていなかったが、これも時間の問題だろう。
もうゴトウの体内にナッチの自我を残す必要はない。
ナッチがSSを解除すると同時に、ゴトウの体内からもナッチの自我は消えた。
死体となったゴトウにこれ以上干渉を続ける意味はない。
あとは、自我を失い、ただの異常細胞となったナッチの血球細胞が、
内部からゴトウの細胞を食い散らかしていくことだろう。
- 404 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:06
- そう。確かにナッチにぬかりはなかった。
自我を失ったとはいえ、しっかりとその異常に発達した血球細胞を、
ゴトウの体内に残してきていた。
猛毒と化した血球細胞は緩めることなくゴトウの体を死滅させることだろう。
たとえゴトウが奇跡的に蘇生したとしても、
瀕死の重体である状態で、血球細胞の猛烈な攻撃から逃れる術はない。
ゴトウを待っているのはやはり、通常のウイルス罹患者と同じ、絶対的な死だ。
そういう意味ではゴトウマキは―――二重の意味で死んだのだ。
さよならゴトウマキ。
この世にたった二人しかいない適格者の一人であるアベナツミは、
もう一人の適格者に向かって最後の別れを告げた。
これでもう二度と、ゴトウの姿を見ることはないだろう。
ナッチの右手には、ゴトウの血が含まれた真っ赤なマントがあった。
もはやナッチの太陽化を妨げる要素は―――何一つ残っていなかった。
- 405 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:06
- サディ・ストナッチを解除したナッチは、ふわりと屋上に着地した。
戦いの最中には気付かなかったが、そこにはカメイとヤグチが待っていた。
ナッチの勝利に歓喜しているかと思いきや、意外と顔色が悪い。
二人とも、ナッチが能力を全開にして、本気で戦ったところを初めて見たのだ。
その絶対的な実力と存在感に、完全に圧倒されていた。
「はい、カメちゃん。これがゴトウの血」
ナッチはそんな二人を気遣うこともなく、持っていたマントをカメイに渡した。
霧の粒子で編みあげられていたマントは、SSが解除されたこともあって、
もう、ただの粗末な布にしか見えなかった。
だがそこにははっきりと―――マキの真っ赤な血が染みついていた。
カメイはマントを受け取ると、片手で赤い染みの部分をギュッと絞る。
もう一方の手に握られてた試験管にマキの血の滴が落ちた。
いくらか冷静さを取り戻したエリが、血を絞り出しながらヤグチに冗談を飛ばす。
「最後の血ですね。ヤグチさん、これ飲みます?」
ヤグチは真っ青な顔をしてぶるぶると首を左右に振った。
アベから太陽の娘。の座を奪い取る。そんな野心は完全に吹き飛んでいた。
ヤグチは自分と他人の距離感に敏感だった。実力差がわからないほどバカではない。
今はもう、アベに逆らおうなどという気持ちは微塵もなかった。
- 406 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:07
- エリから試験管を受け取ったナッチが、それを天にかざす。
日はもう完全に暮れていた。
それでも屋上のサーチライトが照らし出した試験管の中には、
確かに赤くキラキラと輝くゴトウマキの血があった。
ナッチが求めていた―――最後の血が。
「うん。これ、今ここで飲むからね」
「ええ大丈夫ですよ。どうぞどうぞ」
「えっ! なんだよおい。それってそのまま飲んですぐに太陽化が始まるのか?」
エリはヤグチに向かっていくつかの説明を加えた。
元々、サディ・ストナッチとは個人の意志で自由に呼べるものではない。
ウイルスを7分割してその能力を弱め、その上で訓練を重ねたからこそ、
アベやゴトウはその力を自在に操れるようになったのだと。
もしSun-Seedという完全なウイルスを投与したならば、
いくら適格者といえども、サディ・ストナッチを自由に操ることはできない。
覚醒したサディ・ストナッチによって、問答無用でガス化させられてしまう。
「アベさんがここでゴトウさんの血を飲めば、アベさんの体内でSSが完成します。
あとは歴代のモーニング娘。と同じ経過をたどることは間違いないでしょうね。
体は勝手にガス化していき、無条件で太陽に向かって上昇していくことになります」
- 407 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:07
- ヤグチはその説明で納得したようだった。
「なるほど。じゃあナッチがそれ飲んだらさあ、アッという間にガス化してさあ。
そのままふわふわと宇宙に旅立って行っちゃうってわけか。お別れだね」
カメイはクスリと笑った。
取ってつけたかのような「お別れ」という言葉が何とも安っぽくて嘘臭かった。
だが嘘ではない。この血を飲めば、アベとは永遠のお別れとなる。
これから先は、宇宙線による交信によって、太陽と化したアベと
綿密なコミュニケーションを取っていくことになる予定だった。
「ううん。別れじゃないよ。これからナッチは地球を支配するの。
カメちゃんやヤグチも含めてね。これからはあたしと一蓮托生だよ」
アベは笑った。
ヤグチとエリはもう笑わなかった。あとは見守るしかない。
ヤグチは既に別角度からの地球支配を考えていた。要はアベの代理人になればいい。
アベは太陽になる。つまり地球上からは消えるのだ。そう考えると気が楽になった。
一方、カメイはまだ一抹の不安を抱いていた。理論上は間違いない。
理屈でいえば、血を飲んだ瞬間、アベは即座に本格的なガス化を始めるはずだ。
だがこれは、人類の歴史上まだ誰もやったことがない実験なのだ―――
二人が見守る中、ナッチは試験管を傾けてその血を喉に流し込んだ。
- 408 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:07
- ☆
- 409 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:07
- ミチシゲとミツイは電撃的な速さで移動していた。
有楽町の例のビルまでの道のりも、完全に把握していた。
だがしかしナッチとゴトウの戦いには―――際どくも間に合わなかった。
彼女達がビルの前で車を止めた時、既に赤と黒の霧が上空で激しく交錯していた。
二人は慌ただしく車から降りる。踏みしめた足の下で、水たまりが大きく弾けた。
明かりも少ない暗闇の中を、楕円のビルに向かって二人は走り出す。
数歩走っただけで体がずぶ濡れになるほどの激しい雨だった。
濡れた髪をかき上げ、ミツイが上空に目をやる。
「ミチシゲさん! あれ!」
遠目にもはっきりとわかるほど生命力を失った黒い少女が、
遥か上空から真っ逆さまに落下してきた。
あの距離から落ちれば―――助かるわけがない。
それを見たミツイとミチシゲが同時に下した同じ判断は、
カメイ達に対する戦略的な判断ではなく、地球のための判断でもなかった。
ただ一人の人間として本能的に感じた、ごく当たり前の判断だった。
「ミッツィー! お願い! ゴトウさんを助けて!」
- 410 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:07
- 守護獣を召喚している暇はない。ミツイは一秒未満の時間でそう判断した。
ミツイは目についた中で一番大きくて深そうな水たまりに身を投げる。
触れた水の中に自分の感覚を溶け込ませていった。
間に合うか。間に合え。間に合う。絶対に間に合う。
今はもうミツイの中に封印はない。青龍の力を最大限に発揮することができた。
ミツイは濡れたコンクリートの上に感覚を広げていく。
触れた水の全てがミツイの手足となって知覚された。
大気を伝わり、雨を伝わって上空の情報もつかむ。
ミツイはゴトウの落下地点をこれ以上ないくらいの正確さでつかんだが―――
一歩遅かった。
ゴトウが地面に激突する。
そこに薄く流れていた水に、ミツイは最大限の力を注ぐ。
頭が割れそうになった。ミツイの脳髄にゴトウが激突した衝撃が広がった。
ミツイはそれでも全能力を駆使して、ゴトウのためのクッションとなった。
その能力を水に伝わせて、ゴトウの衝撃を可能な限り弱めようとした。
だがやはり―――ゴトウの体を完全に救うには至らなかった。
- 411 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:07
- ゴトウの体が鈍い音をたててバウンドする。
いくらかはミツイのフォローが間に合ったようだった。
ゴトウの体はかろうじて四散することなく、原形をとどめていた。
だがしかし―――ゴトウがその体に致命傷を負ったのは明らかだった。
「ゴトウさん!」
ミチシゲが全力でゴトウの下に駆け寄る。それにミツイが続いた。
ゴトウの体に触れることなく、その体の状態を確認する。
全身打撲。開放骨折。内臓破裂。そんなものがどうでもよく思えた。
ゴトウの心臓は―――既に停止していた。
「やばい。ミッツィー急いで。早く蘇生させるの!」
「ああもう邪魔やって! ちょっとそこどいてくださいよ!」
ミツイは水たまりの水をすくい上げて、ゴトウの中に浸透させていく。
水を自分の手足と化して、人体の内部を修復させる。
人体が元々持っている自然治癒力を最大限まで活性化させる。
それが青龍のミツイが持つ、医者顔負けのもう一つの能力だった。
ミツイはまず、ゴトウが自律呼吸を回復するまで気道を確保することにした。
許される時間は、心臓が止まってからおよそ二分。
それまでに呼吸を回復させなければ―――脳が死ぬ。
時間との戦いだった。
だがもう一つ―――ミツイは絶望的な相手と戦わなければならなかった。
- 412 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:08
- 「・・・・・・ゴトウさんの中に何かがおる・・・・・」
「は? なにかってなによ?」
「なんやこれ・・・・ゴトウさんの体を食べてる・・・・・」
「なにわけわかんないこと言ってるのよ!!」
ミツイは必死でゴトウの体を修復しようと試みた。
これまでも半死人を蘇生させた経験は何度もある。自信ならあった。
事実、ミツイは瞬く間にゴトウの体の内部を修復させていった。
止血。骨折の接合。破裂した内臓の再生。発熱していく体温の恒常性の回復。
そういったものは技術的に難しいことではない。
あとは本人の体力次第―――ということになるのが常道だった。
そしてゴトウマキであるのなら、そんな体力は十分にあるはずだと思っていた。
だがゴトウの心臓は一向に動きださない。自律呼吸も戻ってこない。
60秒・・・・・・・・・70秒・・・・・・・・・80秒・・・・・
ただ時間だけが無為に経過していった。
「まだ? まだなのミッツィー!?」
「ちょっと待って。もっと内部までスキャンしてみますわ」
- 413 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:08
- ミツイは水を通じてゴトウの内部深くまで潜りこんだ。
ゴトウの器官、ゴトウの組織、ゴトウの細胞を深くスキャンした。
そして―――驚愕した。恐慌をきたしたと言ってもいい。
ゴトウの体内では異常な形態をした血球細胞が暴れ回っていた。
人体の解析に慣れたミツイにも、初めて目にする細胞だった。
恐るべき浸潤性をもった細胞だ。ミツイの水の力など一切通じない。
ミツイが必死の思いで修復したゴトウの体を、あっさりと破壊していく。
ゴトウの免疫系も既にフル回転を始めていたが、異常な血球を排除することはできない。
体内のそこかしこでゴトウの細胞と異常血球細胞がせめぎ合っている。
貪食が起こり、化学反応が連鎖していき―――ゴトウのエネルギーが失われていく。
これ以上破壊されたら―――ゴトウの体力が完全に奪われてしまう。
生命活動を維持していくだけの体力すら失われてしまえば、
ミツイがどれほど完璧な治療を施しても意味がなくなってしまう。
蘇生の可能性は、風前の灯ように、あっさりとかき消えようとしていた。
- 414 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:08
- 完全に冷静さを失ったミチシゲとミツイは、つかみあいながら絶叫した。
「ミッツィー! 早く! なんとかしてよぉ!」
「なんかおる! なんかおるって!」
「だからなんかってなによ! なに言ってんのよあんた!」
「なんやねん。なんやねんなこいつ。なんとかしくれや!」
ミチシゲはミツイの横面を張り飛ばした。
ミツイの顔は涙と恐怖でぐちゃぐちゃに歪んでいた。
「パニックになってる場合じゃないの・・・・・早く蘇生させて」
「だからゴトウさんの体内に何かおるんです。それが暴れてるんです」
「それがなに? 何かいるなら殺せばいいじゃん。さあ、早くするの」
「だから・・・・今やってますがな!」
雨に濡れたゴトウの体は、体温を失い、徐々に冷たくなっていく。
それでも雨は無情にも降り続いた。
ミチシゲとミツイの必死の思いを無視するかのように―――
ますますその勢いを強めていった。
- 415 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:08
- ☆
- 416 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:08
- 「あれ・・・・・・・?」
ナッチが最後の血を飲みほしてから数秒が経った。
条件は全て揃ったはずだったが、ナッチの体には何の変化も見られなかった。
固く目を閉じて、ナッチは心の内なる声に耳を澄ました。
だがサディ・ストナッチの声は聞こえない。何も聞こえなかった。
「カメちゃん。これどういうことよ?」
「そんなバカな・・・・・・理論上は完璧なはず・・・・・」
「なんで? なんで何も起こらないの?」
「アベさん、ちゃんと七種類全部飲みましたよね?」
「バカ言わないでよ」
ナッチは突然、長く伸びた爪で、自分の喉をかき切った。
ヤグチとエリがぎょっと目をむく。だがナッチの意図はすぐに理解できた。
ナッチは流れ出る自分の血をじっと見つめた。
血で濡れた手をそっと口の中に入れる。自分の血液を入念に味わった。
ゴトウの血が、反応開始の活性化因子になったことは間違いない。
今まで、いくら七つの血清サンプルを混ぜても開始しなかった正反応が、
ナッチの血の中で起こっていた。ウイルス断片が再合成しようとしていた。
そこまではいい。だが反応が不十分だ。一つだけ合わないパーツがある。
ナッチはさらに深く、血の中を解析する。
組み合わないパーツがどれなのか。異常に発達したナッチの血がそれをとらえた。
「5番・・・・・・5番の血清が・・・・合わない・・・・・」
「え? どういうことですか?」
「全然組み合わないの。形が違う。5番のサンプル・・・・あれが偽物だったんだ」
- 417 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:08
- ☆
- 418 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:08
- 温泉気分でディスプレイを見つめていたテラダの表情が変わった。
最初はそこまでシリアスなものではなかった。
おや? なんかバグが出てるやんけ―――その程度の反応だった。
だが何度ソフトを調節し直してみても、異常は消えなかった。
あり得ない数字がディスプレイに浮かんでいた。
絶対に映らないはずの数字が、オレンジ色に輝いていいる。
それでもなお―――テラダは現実を直視しなかった。
ゴトウの血を手に入れたという一つの安心感が、
研究者としての鋭敏なテラダの判断を、普段にはない鈍いものとしていた。
テラダは乱暴にキーボードを叩き続けた。
それでも異常は消えない。徐々にテラダはイラついてきた。
普段なら絶対しないような強引な操作を何度も繰り返す。
巨大な負荷を押しつけられたPCはどんどん解析速度を落としていき―――
やがてピタリと凍結して動かなくなった。
「なんや。フリーズかいな。いつの時代のパソコンやねんな全く」
それでもテラダに落胆はなかった。被験者のサンプルは全て揃ったのだ。
最悪、このシステムが壊れてしまっても、今後の活動に影響はないだろう。
テラダはそう考えて、システムを再度修復することを一旦止めた。
コーヒーでも淹れなおして気持ちを切り替えようと席を立つ。
ディスプレイの上には、イシカワを現す9の数字の横に、
オレンジで光り輝く「5」の数字がくっきりと映っていた―――
- 419 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:09
- ☆
- 420 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:09
- 低下していった水槽の水位は、イシカワの胸の辺りまで下がって止まった。
「奇妙な生物」がガラス越しにイシカワの目を見つめた。
そのガラスはさほど強靭なものではない。
ガラス越しに会話することは難しいことではなかった。
「なんだ。イシカワじゃん。また愚痴でも言いに来たの?」
奇妙な生物は、爬虫類のような顔をした、少女の姿をしていた。
黒いウェットスーツを着込んだ、立派な人間の姿をしている。
だがこの一年近く、ずっと水の中で生活しているこの少女が、
普通の少女であるわけがなかった。
「あのね。どうやらね。アベナツミがゴトウマキと交戦してるみたいなの」
「ふーん。ぼちぼち決着がつきそうな塩梅じゃん」
水の中で暮らす少女はECO moniが持つ情報を全て把握していた。
少女は水を通じて情報をつかむシステムを持っていた。
それは、水のスペシャリストである、ミツイが試験的に行っていたものだった。
だから少女は、水を通じて神社内の情報を全て知っていた。
アベやヤグチが求めていたものも。カオリやマキが求めていたものも。
特にアベとヤグチの性格は―――誰よりもよく知っていた。
- 421 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:09
- 「で、イシカワはどうすんの?」
「え?」
「あたしが何にも知らないとでも思っているの? どうせあんたは、
ここを裏切って、フォースのヨシザワの所にでも行くつもりでしょ?」
図星だった。
イシカワはここにいる時は、いつもこの少女を相手に愚痴をこぼしていた。
ヨシザワに対する思いも、すっかり見抜かれていたようだった。
爬虫類顔をした少女は、ばっと飛び上がり、水槽の縁に手をかけた。
ぐいっと伸びあがり、上体を水槽から出して、ウェットスーツから両手を出した。
「勘違いしないでよ。確かにあたしは今までずっとここで世話になってたけどさ、
あたしはECO moniの人間じゃない。あたしはあたしのやりたいようにやるから。
あんたが自分の正しさを主張するってのなら、聞いてやらないこともないよ」
少女はそう言いながらも、マイペースでウェットスーツを脱ぎ出した。
常に我が道を行く。少女はいつも、その考え方を曲げることはなかった。
その言葉に何度救われただろう。
この人ならきっとわかってくれる。ECO moniの使命より大切なものがあると。
イシカワは意を決して思いを口にした。
「お願い、ケイちゃん。あたしに力を貸して」
イシカワの悲痛な言葉に、ケイと呼ばれた少女は耳を傾けた。
その右肩には―――例の字体で「5」というタトゥーが掘られていた。
- 422 名前:【増悪】 投稿日:2010/01/02(土) 23:09
- 第十章 増悪 了
- 423 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/02(土) 23:09
- ★
- 424 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/02(土) 23:09
- ★
- 425 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/02(土) 23:09
- ★
- 426 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/04(月) 23:00
- 物語には結末が存在するが、人生には結末など存在しない。
全ての人生は尻切れに終わる。
完結もしないし、永遠に続くこともない。
彼女の人生も例外ではないだろう。
彼女は美しい結末など望まない。ましてやそれが無限に続くなど。
半ばで折れた刀でいい。
刀が折れるときまで、彼女はただひたすらに斬り続けるだろう。
- 427 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/04(月) 23:00
- 第十一章 処置
- 428 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:01
- 雨はまだ降り止まない。
完全に日が落ちた暗闇の空をサーチライトだけが照らしていた。
ナッチは必死で自分の血の中にあるウイルス断片の解析を続けている。
エリは携帯電話でテラダと連絡を取り、今後のことについて協議を始めていた。
それまでとはうってかわって、彼女達の周囲ではゆっくりと時間が流れていく。
降りしきる雨の中、最初に異音に気付いたのは―――
その場でやることが何もなく、暇を持て余していたヤグチだった。
黒い闇が覆った空の向こう側からバラバラと妙な音が聞こえてくる。
雷の音ではない。突風が吹きすさぶ音とも違う。
耳に嫌なしこりを残す、人工的な音だった。その音が少しずつ近づいてくる。
雲の切れ間からその姿がはっきり現れた時、
ナッチとエリも、ようやくその音を認識しようとしていた。
「ヘリだ」
最初はぽつりと一機だけが。その後ろから二機、三機と。
灯りを照らしながらヘリがこちらに飛んでくる。
「あっちにも」「あっちもだ」「ホントだ」「ヘリ?」「なにあれ?」
三人は三人とも違う方向に目を凝らす。
ヘリは四方から現れ、楕円のビルを包囲しようとしていた。
妙な雲行きになってきたが、それでもエリはまだ携帯から耳を離さない。
テラダとの会話は深刻を極めているように、マリには見えた。
- 429 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:01
- 「いえ、どこのヘリかはわかりませんが。まあすぐにわかると思います。
それで確認なんですが・・・例の神社に映っていたのは5番なんですね」
エリは最後にそれだけはしっかりと確認しようと、声のトーンを上げた。
だがテラダの声は、突然聞こえてきた轟音にかき消される。
エリは思わず後ろを振り返る。だがヘリの音ではない。ビルの周囲の音ではない。
その音は携帯の向こう側から聞こえてきたものだった。
少しの間、携帯からはテラダのうめき声が聞こえていたが、
マシンガンの掃射のような音によって、それもまたかき消されていった。
エリは携帯を耳から離すと、屋上から無造作に投げ捨てた。
いらないものは捨てる。それがいつものカメイエリのやり方だった。
テラダは十分にこの計画に貢献してくれた。使える男だった。
だがそれも過去の話だ。撃たれる前の話であり、生きていた頃の話だ。
生存していないのに利用価値があるほど、テラダは高級な男ではない。
今、テラダとの専用携帯も、テラダという男も、同時に利用価値はゼロになった。
ヘリはゆっくりと動いている。遠巻きに包囲しており、ビルには接近してこない。
むしろ一定以上の距離を取ろうと慎重に行動しているように見えた。
ふらふらと揺れるヘリの大群は、まるで秋空のトンボの群れか、
はたまた川原に飛び交う優雅な蛍の群れのようだった。
ヘリの胴体の下部から、にゅうっと鉄の棒のようなものが伸びる。
警告のようなものは一切なかった。
ビルの四方から、屋上に立つ三人に向けて、一斉に銃撃が開始された。
- 430 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:01
- 銃弾が水溜りの上を跳ねる。屋上には一斉に水煙が舞い上がった。
それだけではない。ヘリからはガス弾のようなものもいくつか投下されていた。
あっという間に屋上のスペースは土色の煙に包まれる。
ヤグチは咄嗟にエリの方に体を寄せると、素早く体を小型化させた。
小型化は便利な能力だが、度が過ぎると移動もままならなくなる。
ヤグチは米粒ほどの大きさまで縮むと、エリのポケットに滑り込んだ。
エリはヤグチの体を指先でつまむと、ナッチのところに近づいた。
体をガス化させようとしたナッチの右腕を、軽く抑える。
「ダメです、アベさん。今は我慢です」
「なんでよ。わけわかんないよ。どうなってるっていうのよ!」
「ヘリですか。あれはおそらくゴトウさんのバックにいる連中でしょう」
「ゴトウの? マジで?」
「多分。今の関東でこれだけの部隊を動かせるのはあの連中しかいません」
エリはヘリで襲ってきた連中の正体を一瞬で見抜いた。UFAだ。ヤマザキだ。
ここと同時にテラダの方を襲撃したのも、おそらくヤマザキだろう。
やつらはやつらでゴトウマキのことを張っていたのかもしれない。
全てのウイルスが集まる瞬間を―――狙っていたのだろう。
- 431 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:01
- 煙幕の向こう側から、延々と銃撃は続いていた。
サディ・ストナッチの能力については、かなりのことを知っているヤマザキだ。
このガスにも何らかの意図があるのかもしれない。油断はならない。
ヤマザキの狙いはエリやマリではない。ナッチなのだ。
「アベさん。携帯でテラダさんとちょっと話しました。
例のエコモニの神社に5番の姿が確認されたそうです」
「うそ! だってこの前あそこには3番と9番しかいないって」
「どういうことかはわかりません。機械に不備があったのか」
「ふざけんなよー。じゃあカメちゃんが取ってきた5番の検体は何だったの?」
ナッチの頭を銃弾がかすめる。髪がぱっと弾けた。
慌てて二人は地面に伏せる。だがエリはナッチのガス化は許さなかった。
どうもUFAはナッチのガス化を誘っているように見える―――
ガス化したいナッチとの押し問答が続いた。
「すみません。今はごちゃごちゃ言ってる暇はないんです」
「ないよね。だからこそさっさと」
「アベさんはもう一度あの神社に向かってください」
「マジで? マジでそこに行けば5番のサンプルが手に入るの?」
「・・・・・今はそこしか手掛かりがありません」
アベはまだ納得したようではなかったが、
それでも渋々といった感じで屋上の縁に手をかける。
- 432 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:01
- 「じゃあ、神社に行ってみるけどさあ。急ぐんでしょ? ガス化しちゃダメなの?」
「仕方ないですね・・・・・でもヘリの方には絶対に近づかないでください」
「なんで? あんなの一瞬で潰せるよ」
「とにかく、ヘリには悟られないように動いてください。お願いします」
真剣な表情を見せるエリを前にして、ナッチも鋭い目つきで上空を睨んだ。
銃撃はなおも続いてる。だが本気で狙っているようにも見えない。
まるでそこに潜んでいる人間をいぶり出そうとしているかのようだった。
こちらの反撃を待っているのだろうか。何かを誘っているのかもしれない。
「なるほど。相手の誘いに乗って反撃を開始するってのもつまんないかもね」
「さすがアベさん。理解が速い」
「でもさ。空がダメなら、ここからどうやって脱出するのさ」
「簡単です。サディ・ストナッチをこのビル全体に干渉させてください」
面白い提案だった。少なくともアベにとっては。アベはニヤリと笑う。
「別にいいけど。カメちゃんはそれで大丈夫?」
アベにとって面白いことはエリにとっても面白い。エリも負けずにニヤニヤと笑った。
「大丈夫です。どうせやるなら派手にいきましょうよ」
ナッチのご機嫌を取ることなど、エリには容易いことだった。
今のナッチにはもう、太陽化が不完全に終わった憤りはない。
むしろ、この状況を反転させる快感を素直に楽しもうとしていた。
そういった酔いを味わう瞬間にこそ邪悪な魂は輝く。
「じゃ、いくよ」
- 433 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:01
- ☆
- 434 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:02
- 老人は、部屋の奥に転がっているテラダの死体を見つめていた。
マシンガンでハチの巣にされた体は無残な最期を晒していた。
思えば、大学の隅でくすぶっていたテラダを拾い上げたのは、この自分なのだ。
あれはもう十年以上前のことになるだろうか。
珍奇な才能を持ちながら、世間にはほとんど認められることがなかったテラダ。
その男に輝ける場所を与えてやったのは自分だ。
ゆえに、そのキャリアに終止符を打つのも―――自分の仕事であるべきだろう。
面白い男だった。だがここまでがこの男の限界だったとも言える。
結局のところ、こいつはアベもヤグチもカメイもイイダも、
そしてマツウラやフジモトやゴトウマキさえも―――御することはできなかった。
力でも、知恵でも、信念でも、彼女たちを動かすことができなかったのだ。
彼はただ状況をかき交ぜることしかできなかった。
彼女達と同じ高さに立って遊ぶことしかできなかったのだ。人の上に立つ器ではない。
この計画をスタートさせるためには必要な人材だったかもしれないが、
計画を綺麗にまとめあげるには少々力量不足だったということだ。
いや、元々、何かを綺麗にまとめるという才能ではないのだ。
テラダが持っていたのは、もっと違う能力だ。
何かをかき交ぜ、燃焼させ、爆発・発散させる能力だ。まき散らす能力だ。
そしてその能力は、この計画において遺憾無く発揮されたと言っていいだろう。
彼の役割は終わった。
- 435 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:02
- 老人は、マシンガンで武装した軍隊とともに部屋の中に足を踏み入れる。
机の上においてあるノートPCはテラダが使っていたものだろう。
そのPCもまた、派手な銃撃をうけて粉々になっていたが、
上手くサルベージすれば、中のデータを閲覧することもできるかもしれない。
あとはアベナツミを捕獲できれば計画の全てはほぼ終了する。
老人は窓越しに、楕円のビルの方を見やった。
屋上には土色の煙がもうもうと立ち込めている。
一見すると、普通の砂煙にしか見えないが、この日のために準備した特殊なガスだった。
老人の手元にはゴトウマキの血液サンプルがあった。
ゴトウの血にも特別な意味があるという情報をつかんだときから、解析を開始していた。
なるほど、ゴトウの血には、ガス化した体を再凝集させる力があるようだった。
今日使っているガスは、その「特別な凝集力」を秘めたガスだった。
もしアベが今ガス化したら、あっという間に凝集させて、捕縛することができるだろう。
勝利はもはや目前だ。
そう確信していた老人の目に、信じられない光景が映った。
- 436 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:02
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 437 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:02
- 零――――
サディ・ストナッチがやってくるよ
一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
サディ・ストナッチがやってくるよ
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数
サディ・ストナッチがやってくるよ
闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇の中から
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 438 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:02
- 闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
分 厘 毛 糸 忽 微 繊 沙 塵 埃 渺 漠 模糊 逡巡
サディ・ストナッチがやってくるよ
須臾 瞬息 弾指 刹那 六徳 虚空 清浄 阿頼耶 阿摩羅 涅槃寂静
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇をまといながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇を引き裂きながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇と共に
サディ・ストナッチがやってくるよ
―――零
- 439 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:02
- 老人の狙い通り、ナッチは体をガス化させた。
だがその赤い霧は、ヘリが撒き散らした特殊ガスの方へとは向かわない。
むしろ逆に、下へ下へと染み込んでいく。
ナッチは全てに干渉する。全ての力に介入する。
赤い粒子と化したナッチは、楕円のビルを構成するコンクリートに干渉した。
コンクリートに、鉄柱に、ボルトに、ビスに、窓ガラスに、全てに干渉していく。
ナッチはビルの内部を、電撃的な速さで拡散していく。
ゴトウがGAMの立体駐車場を完全に瓦解させるまで、五分ほどかかっただろうか。
だがその立体駐車場より遥かに巨大なビルを―――ナッチはほんの数秒で崩して見せた。
液化した楕円のビルは、その形を滑らかに崩しながら沈んでいく。
まるで地面に飲み込まれるように、足元からビルは崩れていった。
轟音。
そしてビルの崩壊とともに巻きあがった突風が、ヘリを上下に激しく揺らす。
巨大建造物の倒壊に伴う、凄まじい気流の乱れがあった。
巻き上がった風は、ヘリが撒き散らした特殊ガスをも吹き飛ばしていった。
後には何も残らなかった。
いや、何もと言ってしまうと嘘になるだろう。
そこには山と積まれた瓦礫の塊と、墜落したヘリの残骸が残っていた。
- 440 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:02
- ☆
- 441 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:02
- 「なるほどねえ。それでイシカワはヨシザワに仇を取らしてやりたいと」
「うん・・・・・・」
ヤスダ・ケイは、ぼりぼりと右肩のタトゥーをかいた。
久しぶりに見るそれは、ケイに施設の嫌な記憶を呼び覚まさせる。
あの事故の直前に、ケイは発作を起こして地下六階の集中治療室に運びこまれた。
そこで治療を受けている間に、例の事故が起こったのだ。
流れてきた赤い霧が、仮死状態にあったケイの肉体に強く干渉した。
あの時はまだ、アベナツミはサディ・ストナッチを正確に操ることができなかった。
結果的に、サディ・ストナッチはケイの生命活動に強く介入し、
止まっていた呼吸と心臓を強引に動かしだしてしまった。
ケイは蘇生に成功し、自力で集中治療室から這い出した。
そこで―――施設から脱出しようとしているイシカワリカと鉢合わせしたのだった。
イシカワの手によって施設から救助されてから、ほぼ一年が経とうとしている。
その間、ケイはずっとECO moniの水槽の中で暮らしていた。
ウェットスーツを着込み、水中深く沈んでいた結果、
ケイのタトゥーナンバーは、テラダの装置でも感知することはできなかった。
- 442 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:03
- 「確かにアベにあたしの存在を教えたら、おびき寄せることはできるね」
ケイの存在はECO moni内部でもトップシークレットとされた。
ウイルス被験者の身柄を抑えていることが、大きな切り札となるからだ。
だからミチシゲは、GAMの人間にもケイのことは一切教えなかった。
GAMの人間は奇妙なことを言っていた。
「施設で5番の死体を見つけた」と。
そしてカメイエリも、その5番の死体のサンプルを入手してしまったと。
妙な話だ。ケイが生存していること明らかに矛盾している。
だがその問題に関してミチシゲは、イイダの話から一つの可能性を思い立っていた。
その昔、施設から逃走したという「アスカ」という少女。
施設にあった5番の死体というのは、彼女のことではないのだろうか。
アスカという少女もまた、肩に5番のタトゥーがあったという。
逃走に失敗した彼女は、テラダの手によって殺され、死体は施設に保管されていた。
そして何かの手違いで、GAMの連中はアスカの死体を見つけてしまった―――
そういう可能性くらいしか思い当らなかった。
だがそれはECO moniには好都合だった。
カメイが5番のサンプルを入手したと勘違いしているのなら、
しばらくの間、時間を稼ぐことができるだろう。
ミチシゲの冷静な判断と慎重な行動の奥には―――ヤスダケイという切り札があった。
- 443 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:03
- ECO moniにやってきたケイは水中で暮らすことを望んだ。
彼女は―――呼吸器系が異常に発達したキャリアだった。
ケイの肺は異常に発達しており、イチイの肌のように過敏になっていた。
酸素は毒。
空気中には約20%の酸素が含まれているが、その量はケイにはあまりにも多過ぎた。
水中の溶存酸素でも彼女は楽に呼吸することが可能だった。
それくらい薄い酸素濃度であれば、呼吸器官が過敏に反応することもなかったのだ。
過酷な訓練を繰り返した結果、今ではこうやって空気中でも普通に呼吸が
できるまでになったが、それでもケイにとっては水中が一番楽な環境だった。
ケイはここで、表向きはまるで熱帯魚のような優雅な生活を送っていた。
だがひと時さえもウイルスのことを忘れたことはない。
テラダやカメイに受けた仕打ちを深く心に刻み込んでいた。
彼らの動きは細かいところまで情報を仕入れていた。
その間ずっと世話をしていたのが、イシカワだった。
一年という時間は、二人の人間が向き合うにしては十分な時間だ。
それにケイにとっては、この一年間は、イシカワだけがまともに話をする相手だった。
だからイシカワが抱いている思いに強く感情移入してしまったのかもしれない。
いや。
それよりなにより、ケイはよく知っていた。
あの施設にいた数年間、ずっと壁越しに会話をしていたから知っていた。
アベナツミとヤグチマリという女が、どういうタイプの女かということを、
誰よりもよく知っているつもりだった。
イシカワの話を聞いて、ケイはアベとヤグチが道を誤ったことを確信した。
- 444 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:03
- 「気に入らない」
「え!?」
「いや、イシカワのことじゃない。アベとヤグチのこと」
ケイは最もウイルスの副作用に苦しめられた被験者の一人だった。
呼吸困難に陥った夜は一晩や二晩ではない。それはまさに地獄の苦しみだった。
その苦しみが、何の意味もなかったものだったとは思いたくない。
何の意味もなく、ナカザワユウコが、イシグロアヤが、イイダカオリが、
そしてイチイサヤカが死んだとは思いたくなかった。
ケイは二つのことを考えていた。
一つに関してはすぐに結論が出た。迷うようなことではない。
だがもう一つのことに関しては、なかなか迷いが消えなかった。
異常なまでに発達した肺を抱えて一年。だがそれも限界に達しようとしていた。
自分の体のことは自分が一番よくわかる。余命はそう長くないだろう。
確実に先が見えるか細い命を抱えた今のケイにとって、
どう生きるかという命題は、どう死ぬかということと同じ命題だった。
ナカザワユウコの死に様が醜かったとは誰にも言わせない。
同様に、イイダカオリの死に様が醜かったとも思いたくない。
では自分はどうなのだ?
自分はテラダやアベやヤグチに対してどう向き合うべきなのか?
彼ら彼女らに対して、どこまで戦う覚悟があるのだ?
「命を賭けて」なんていう使い古された常套句があるが―――
自分にその覚悟があるのか?
- 445 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:03
- ケイはその難しい問題に結論を出す前に、簡単な問題から片付けることにした。
イシカワの態度如何によっては、難しい方の問題も片付くかもしれない。
ケイは濡れた髪をかきあげると、耳の後ろから一本の試験管を取り出した。
試験管の中は赤黒い色で満たされている。
その色を見た瞬間、ケイの意図を察したイシカワの顔色がさっと変わった。
ケイはイシカワの顔をじっくりと見つめていた。
イシカワの顔に広がったのが歓喜であったなら、どんなに楽だっただろうか。
ケイは喜んで自分の血をイシカワに託すつもりだった。
だがケイが予想していた通り―――イシカワの顔に広がったのは深い悲しみだった。
それでもケイの決意は揺るがなかった。
何度考え直しても――――イシカワ以外の誰かに自分の血を託す気にはなれなかった。
「あたしの血、イシカワに預けるよ」
「ごめん・・・・・ケイちゃん」
ケイの目には、はっきりと見えた。幻覚にしてはあまりにもリアルな映像だった。
試験管を受け取った瞬間、イシカワの背には重い十字架が背負わされた。
それを架したのはケイだろうか、イシカワ自身だろうか。それともテラダなのか。
誰であろうが結論は変わらない。
イシカワは、自分の意志で十字架を背負うことを選んだのだ。
ケイはイシカワに何も言うつもりはなかった。
- 446 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:03
- ☆
- 447 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:03
- 雨は降り止まない。
水溜りは溢れ、流れ出した水流が横たわるゴトウの体を舐めていく。
夜が深まっていく。ゴトウの体が冷えていく。ミツイの混乱は収まらない。
だがミチシゲは、驚異的な速さで冷静さを取り戻していた。
「我々の組織は常に非常事態と向き合っているの」という言葉は、
コハルとミツイに向けた、単なる教育的なお為ごかしの言葉ではなかった。
生まれた時からずっと非常事態に身を置いてきたという自負がある。
太陽を守ることができるのは自分達しかいないのだ。代わりとなる者などいない。
圧倒的なまでに孤独で、絶望的な状況こそが、彼女が生きてきた日常だった。
ゴトウマキを使ってアベナツミを殺すということは難しくなった。
だが当初考えていたように、二人が激しく交戦したというのなら、
アベだって無傷では済まなかった可能性が高い。
この機会を逃すわけにはいかない。
「ミッツィー。とにかくここはダメ。ゴトウさんの体が冷える」
判断と行動は一体だった。ミチシゲとミツイはゴトウの体を掲げ上げ、車に押し込む。
ミツイがタオルを出してゴトウの体をさっと拭く。冷たい。血の気が感じられない。
ゴトウの顔は死人のように真っ白だった。
ここに二人が固まっている意味はない。治療はミツイに任せればいいだろう。
ミチシゲはそう判断し、ミツイ一人で車を移動させることにして車から降りた。
このすぐ近くにもECO moni関連の治療施設があったはずだ。
こんな道端ではろくな治療もできない。早急に移動するべきだった。
- 448 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:03
- ミツイの運転で車は動き出した。
雨に濡れながらミチシゲは車を見送ると、再び楕円のビルに向き合った。
屋上では激しい銃撃が始まっていた。
生き残ったアヤやミキがまだ戦いを続けているのだろうか?
屋上のさらに上空では、どこかで見たことがあるようなヘリが見えた。
あれは―――もしかしてUFAの―――
以前にUFAを調査した時の資料にあったヘリだった。
どうやらヤマザキは思っていた以上に素早く部隊を展開したようだ。
もしかしたらこのビルの周囲は既に包囲されているのかもしれない。
だがそれは―――ヤマザキの命を狙うミチシゲにとっては不都合な状況ではなかった。
その時。
ミチシゲの超人的な知覚は感知した。心の中に映る赤い蝋燭が激しく燃え立っていた。
何かが急速な勢いで広がっていく。ビルの上から下へと伸びていく。
その感覚は、サディ・ストナッチと化したゴトウを見た時と同じ感覚だった。
間違いない。ビルの上部には微かに赤い霧のようなものが見えた。
そしてその霧は、銃撃を続けるヘリではなく、ビルの下方へと伸びていく。
それとほぼ同時に―――ミチシゲはアベの意図を察した。
ミチシゲは空を飛ぶように駆け出し、全速力でビルから退避した。
そのミチシゲの足音を追い掛けるかのように、ビルは轟音を立てて崩れ落ちた。
- 449 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:04
- 砂煙が舞い上がり、瓦礫が飛び交う。
耳をつんざく轟音に包まれながら、ミチシゲは周囲の様子を窺った。
やはりUFAの軍隊が展開している。そこかしこに軍事関連の車輌があった。
「これは好都合ね」
ミチシゲはその中でも最も機動力に溢れる一品に目をつけた。
交通機動隊が使うような大型のバイクだった。
横向きに流れる雨の中、ミチシゲはあり得ない距離から音もなく飛び掛かり、
バイクに乗っていた男を一蹴りで吹き飛ばす。
背後で銃撃音が聞こえ始めた頃には、ミチシゲは既に数十メートル先にいた。
このままバイクに乗って一旦神社まで戻るつもりだった。
ミツイの下に行くつもりはない。もはやゴトウの蘇生は絶望的だろう。
今はそちらに気を遣う余裕はなかった。
風圧で雨粒を吹き飛ばしながら、ミチシゲはバイクを走らせる。
雨でにじむ視界の中を、暗闇が前から後ろへと流れていく。
ゴトウは殺られた。アヤやミキもただでは済まなかっただろう。おそらく殺られている。
こうなってしまっては、ECO moniとしても抗体を完成させなければ、
サディ・ストナッチを倒すことは難しくなるだろう。
そしてそれまでの間は、なんとしてもヤスダケイの血を守らなくてはならない。
もしも守れないような事態になったら―――そのときは―――
雨で煙る視線の先に神社の鳥居が見えてきた。ミチシゲは速度を落とす。
その先にゆらりと動く人の姿が見えた。
その人影はミチシゲの姿に気付くと、車に飛び乗り、逃げるように急発進させた。
- 450 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:04
- ☆
- 451 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:04
- 「行きなよ。ヨシザワって子のところへ」
「でも・・・・・でもケイちゃん・・・・・」
「お前はもうECO moniの人間じゃないんだろ。ほら、早く行きなよ」
ケイの血を使ってアベとヤグチをおびき寄せる。
そしてヨシザワと二人で、アベとヤグチを殺してナカザワやツジの仇を討つ。
イシカワの計画には、いささかの狂いもないはずだった。
結果的にアベに敗れてケイの血を渡すことになっても構わない。
太陽の未来とか地球の行方とかどうでもよかった。
そういったことはどうでもよかったが―――
どうでもいいとは思えないことも、まだ一つだけ残っていた。
「ケイちゃんも一緒に行こう」
「は? あんたなにバカ言ってんの?」
「ケイちゃんは・・・・・ここにいたら殺される。間違いなくサユに殺される」
「ああ、なるほど。そういうことね・・・・・・」
ヤスダケイの中に流れる血は、ECO moniにとっては最後の切り札だった。
もしアベがゴトウに勝利してゴトウの血を手に入れたなら、
アベにとってはケイの血が最後のマスターピースとなる。
ミチシゲは、それをアベに渡すくらいなら、自らの手で消し去ることを選ぶだろう。
ただ殺すのではなく、その存在そのものを消滅させようとするだろう。
イシカワにはサユの考えが手に取るようによくわかった。
- 452 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:04
- 「いや。あたしはここに残るよ」
「ケイちゃん!」
「急ぎなよ。サユが帰ってきたよ。バイクかな。もうすぐ着くよ。さあ、行きなって」
「でもケイちゃんが!」
「いいから行けって。急げって!」
ケイは空気中の酸素濃度に異常なまでに敏感だった。
どれだけ微かな酸素濃度の変化であっても、確実に読み取ることができた。
人間が接近してくれば、その呼吸パターンで誰なのかがわかる。
誰が、どれくらいの速さで接近してくるのかを、察知することができた。
それこそが―――ケイのキャリアとしての異常能力だった。
そして今、ミチシゲサユミが猛烈なスピードで神社に迫っている。
このままではイシカワと鉢合わせしてしまう。急がなければならない。
そしてそのサユの背後から―――
ミチシゲは気付いていないがその背後から―――
急速に神社に迫りくる一つの殺気があった。明らかに人間の呼吸パターンではない。
人間ではないというか―――地球上のいかなる生物の呼吸パターンとも一致しなかった。
ケイはそれに気付いていた。
そしてどうやら神社の屋根の上にいるコハルも―――その気配に気付いたようだ。
コハルが動き出した。もはや一刻の猶予もない。ケイはイシカワを急がせた。
- 453 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:04
- 「ほら。上にいるコハルも動きだした。降りてくるよ。早く行けってイシカワ」
「でも」
「あんたはサユやコハルだけじゃなく、ヨシザワのことも裏切るつもりなの?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「サユとヨシザワ。二つは選べないんだよ。あんただってわかってるはずだ」
勿論イシカワはわかっているだろう。わかり過ぎているくらいわかっているはずだ。
そしてイシカワは―――サユではなくヨシザワと共に進むことを選んだのだ。
他の誰かを裏切るとしても、自分の下した決断だけは裏切ってはならない。
ケイはイシカワの心を力強く押した。
それこそが―――自分がこの世に残せる最後の希望だと信じて。
「行けって! あとのことは任せな」
「うぅ・・・・・・」
「行け!」
「・・・・・・」
「行け!!」
そこまでがイシカワの我慢の限界だった。
イシカワはケイから目を逸らすと、試験管をポケットの中に入れて、
神社の外に向かって全力で駆け出した。
森を抜けたイシカワが神社の塀をよじ登って乗り越えるのと、
ミチシゲの乗ったバイクが神社の前で止まるのとほぼ同時だった。
だがケイはそれ以上のことをするつもりはなかった。
ここを動くつもりはない。ケイは再び水槽の中へと身を屈めていった。
- 454 名前:【処置】 投稿日:2010/01/04(月) 23:04
- 塀を飛び降りた時、イシカワの目に、丁度バイクから降りるサユの姿が見えた。
慌てて顔を伏せると、イシカワは用意していた車に飛び乗った。
運転は得意ではないが、今はそんなことは言っていられない。
イシカワは思いっきりアクセルを踏んで車を急発進させた。
乱暴なハンドルワークでコーナーを曲がりながら、
可能な限り速度を上げて、車を神社から引き離しにかかる。
もう自分がこの神社に戻ってくることはないだろう。
サユたちと語り合うこともないだろう。
自分はECO moniの信念を踏みにじったのだ。
そういう意味では―――自分はカメイエリと同類なのかもしれない。
深く考えるのはよそう。
今の自分に必要なのはヨシザワだ。彼女と感情を共有することが全てだ。
ECO moniを捨てた自分にはそれしか残っていない。
この血を使ってフォースの無念を晴らす。
その行為には自分の人生を賭ける価値があると思った。
その価値観こそが―――ヨシザワと共有できる全てだとイシカワは信じた。
車を走らせて十五分程経っただろうか。
待ち合わせの地点は、もうすぐそこだ。どうやら時間通りに着いたようだ。
そろそろヨシザワに連絡を入れた方がいいかもしれない
ようやく落ち着きを取り戻したイシカワは、
携帯電話を取り出して、片手でボタンを押しながら、ふとルームミラーに目をやった。
鏡に映し出されたリアウィンドウのガラスに―――
鬼の形相をしたミチシゲサユミの顔がべっとりと張り付いていた。
- 455 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/04(月) 23:04
- ★
- 456 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/04(月) 23:04
- ★
- 457 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/04(月) 23:05
- ★
- 458 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:10
- 「あれ? ヤスダさん、何してるんですか?」
異変を察したコハルが下まで降りてきたらしい。
水槽にちゃぷちゃぷと浸かりながら、ケイはわざとらしく暢気に答えた。
「別に。イシカワとちょっと話してただけ」
「イシカワさんと? あれ? あの人どこに行ったの?」
ケイは空気中の酸素濃度の動きを計る。
どうやらサユはギリギリのところでイシカワに気付いたらしい。
排気量からいって、かなり大型のバイクに跨ってサユはイシカワを追ったようだ。
イシカワが車の運転が苦手だったはずだ。追いつかれるのは時間の問題だろう。
それでもケイに焦りはなかった。託す物は託したのだという達成感だけがあった。
あの血をどう使うかは、それはもうイシカワ次第だ。
たとえ無駄になったとしても、ちっとも惜しいとは思わない。
ミチシゲに殺されたとしても、それがイシカワが選んだ人生なのだ。
自分の行く道を、運命に委ねることなく自分の意志で選んだイシカワに対して、
ケイは心の中で大きなエールを送った。
そして―――そこでケイの穏やかな気持ちが、緊迫したものへと切り替わった。
サユの背後に位置していた巨大な呼吸の塊が迫ってくる。
塊というよりは集団。無数の集団。それが神社の塀を易々と乗り越えてくる。
それが何であるのか。思い当るものは一つしかなかった。
「あいつが来たよ、コハル。あんた覚悟は決めたかい?」
- 459 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:11
- 神社全体を覆い尽くそうとしている赤い霧の存在に、コハルも気付いていた。
今ならわかる。
雨は上がっていた。雲の隙間から月がそっと姿を覗かせている。
月明かりに照らされて赤く煙る霧の存在を、はっきりと目にすることができた。
あの日、カオリとコンノが殺された時、神社に満ちていた雰囲気と同じだった。
人生に同じ日は二度とないと人は言う。
だがコハルには今日という日が、あの日と同じであるように感じられてならなかった。
やり直しが利くというのなら、ここでやり直すしかない。
自分は同じ過ちは繰り返さない。覚悟は決めたかいって? 勿論答は一つしかない。
「腹は決めました。ヤスダさんも覚悟してくださいよ」
「あんたのやりたいことはわかってるよ。あたしも最後まで付き合うから」
「え? ホントに?」
「うん。これは誰の問題でもない、あたし自身の問題だ」
「いや、ケリをつけるのはコハルですよ」
「考えてることは同じってことか」
ケイは水槽からのそりと這い出て、コハルの横に立ち、ニヤリと笑う。
コハルの意図は理解しているつもりだ。あとはタイミングの問題だろう。
だがコハルは笑い返さない。
コハルはケイが全てを察しているということに気付かなかった。
ただ一つ、コハルはサディ・ストナッチに対してのみ向き合っていた。
コハルが見つめるその先で―――赤い霧が一つの人型を形作っていく。
コハルも、ケイも、その顔を見るのは初めてだった。
アベナツミ。
赤い霧の少女は、二人が想像していたよりも、ずっと幼くあどけない顔をしていた。
- 460 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:11
- ☆
- 461 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:11
- イシカワは反射的にハンドルを切った。
何かを考えて、計算してとった行動ではなかった。
サユの表情に含まれた殺意に対する、純粋な恐怖がとらせた行動だった。
事実サユの憤怒の表情は―――1人の人間の行動を狂わせるに十分なものであった。
車は中央分離帯を突っ切って、対向車線にはみ出ていく。
あわててイシカワは今度は左に大きくハンドルを切る。
車は左右に大きく揺れたが、リアガラスにへばりついたサユの顔は微動だにしない。
恐怖に囚われたイシカワには、むしろその顔が大きくなっていくように感じられた。
左のフロントタイヤが歩道に乗り上げた。車の左半分が大きく浮き上がる。
バランスを崩した車体は―――横向きに綺麗に一回転し、
天井を下にして嫌な音を立てながらアスファルトをこすっていく。
人通りの全くない夜の街の沈黙を、車が擦れる音だけが走り抜けていく。
完全に車が止まると、イシカワは芋虫のようにもぞもぞと窓から這い出た。
ガラスが割れ、おはじきのようなガラスの玉が地面に散らばっていた。
イシカワは立ち上がろうとして、両手を地面についた。
その手を―――激しく踏みにじる細い足があった。
イシカワが悲鳴を上げる。手の甲の骨がへし折られた音がした。
虫ピンで固定された標本のように―――
イシカワはその一点で固定されて動けなくなった。
- 462 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:11
- 「何をしてるの? イシカワさん」
サユの声は歌うように軽やかだった。
だがそういう声で話す時のサユがいかに怖いかということを、
イシカワは身にしみてよく知っていた。
「血の匂いね・・・・・・誰の血を持っているのかな? イシカワさんは」
イシカワはもう一方の手でぱっと自分の胸を抑える。
割れていない。試験管は無事だった。
どうしようもないくらい安心した表情を晒してしまうイシカワ。
その動きを見たサユの表情には―――イシカワを憐れむようなものがあった。
「なるほど。そこに持っているわけね。大切な血を」
全て見抜かれている。サユの言葉には内臓を引き抜くような冷たさがあった。
今この状況でケイの血を持ち出すことは、
ECO moniにとってこれ以上ない裏切り行為だ。
サユの心の中に、怒りを通り越した感情が湧いていることは、確実だろう。
「それをエリのところに持っていくのかな? まさかイシカワさんが・・・
エリみたいな『甘っちょろい思想』を持っているとは思わなかったですよ」
- 463 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:11
- イシカワの体から力が抜けた。
抜群の視力を持っているイシカワだが、この状況ではそんな能力など無意味だ。
甘い声で語りかけてくるこの少女は―――イシカワの勝てる相手ではない。
届かなかった。イシカワの心に広がったのは苦い無力感だった。
必死で頑張り、自分で自分の心を傷つけ、もがき、苦しみ、それでも届かなかった。
これも人生さと開き直ることなんてできなかった。
体中に広がった無力感は、イシカワに絶望しかもたらさなかった。
届かなかった。届けたい思いはいつだって、届けたい相手には届かない。
ヨシザワにも。サユにも。そしてゴトウマキにも。
イシカワには伝えたい思いがいくつもあったはずだったのに、
一つとしてそれらを形にすることはできなかった。
それは自分が無能だからだ―――としか解釈することができなかった。
一方、サユはそんな無力感とは無縁だった。
機械のように、やるべきことを着実にこなす。守らなければならないものは守る。
そして―――殺さなければならないものは殺す。
そこには希望も絶望も入る余地はない。あるのは圧倒的な意志の力だけだ。
サユは動く。懐に手を入れる。息を吸う。拳銃を取り出す。イシカワに向ける。
息を吐く。安全装置を外す。引き金に指をかける。照準を合わせる。息を吸う。
無駄な感情は一切こめない。ゆえに無駄な動きは一切しなかった。息を吐く。
雨は上がっていた。月明かりだけが二人を照らしていた。
サユが息を吸う音。
そして乾いた銃声が無人の街に響き渡った。
- 464 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:11
- ☆
- 465 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:12
- ゴトウマキは人工呼吸器をつけた状態で、かろうじて生きながらえていた。
ミツイは、ECO moniが管理する治療施設にゴトウを運び込んでいた。
幸運なことに、有楽町のすぐそばにあったその施設は、
東京にいくつかある拠点の中でも、特に最新鋭の医療機器を揃えた施設だった。
だがそんな最新の機器も、ゴトウの体を治療するには何の役にも立たなかった。
相変わらずゴトウの体内では理解不能な何かが暴れ狂っている。
ゴトウは薬物と生命維持装置の力で無理矢理生かされているにすぎなかった。
その状態も、刻一刻と悪化の度を強めていく。
これ以上はもう限界。ミツイはそう判断せざるを得なかった。
ミツイは施設にいた部下に命じて特別な機器を用意させた。
機器のなかに超低温である液体窒素が充填されていく。
気化した窒素が、ドライアイスのような白い煙となって床を這う。
こうするしか、こうするしか方法がない―――ミツイはそう判断しようとした。
その時、表で騒がしい気配がした。
何か押し問答をしているような空気が伝わってくる。
まさかUFAの人間が包囲したわけではないだろう。
この治療施設は神社以上に巧妙にカモフラージュされているし、
結界だってしっかりと張られているのだ。
ECO moniの関係者以外の人間が―――ここにたどり着けるはずがなかった。
- 466 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:12
- 「邪魔すんよ」
ものすごい音を立ててドアが開いた。
足でドアを蹴り開けたのはフジモトミキだった。
スタッフは数人がかりでミキを止めようとしていたが、ミキの足は止まらない。
からみつくスタッフをひじ打ちで弾き飛ばし、ミツイににじり寄ってきた。
ミツイは、ミキを止めようとするスタッフに、下がるように命じた。
ミキは一人の人間を背負っていた。
既に冷たくなりきったそれは―――マツウラアヤの死体だった。
ミツイは唾を一つ飲み込むと、部下に命じてベッドを一つ持ってこさせた。
そこにアヤの死体を乗せると、ミキは部屋にあったソファにどっかと腰を下ろした。
もう二度と起き上ってこないのではと思わせるくらい―――重い座り方だった。
短い付き合いだが、ミキの性格は一通り理解しているつもりだ。
ここでアヤの死を悼んで泣きだすようなミキではないだろうし、
意気消沈して慰めを欲するようなミキでもないだろう。
だからといって―――ミキが今、何を必要としているのか。
そこまではミツイには理解できなかった。
ミキはだらしなく両足を広げて伸ばす。
ソファの後ろに深くもたれかかって、首を倒す。天井をじっと見ていた。
だが脱力していたのはごく短い時間だった。
ミキはすぐに―――ゴトウの存在に気がついた。
- 467 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:12
- 「悪いね。ミッツィーの匂いがしたもんで、それをたどってきた」
「別にいいですけど。雨なのによく匂いがわかりましたね」
「まあね。そこらの水溜りにあんたの匂いだけが残ってた。不思議だね」
おそらくミツイが能力を発動したときの匂いが、水の分子に付着していたのだろう。
ミキはその匂いをたどってここまで来た。
こんな緊急事態の中にあっても、ミツイはミキの能力の高さに驚かされてしまった。
だが今はお世辞をいうような状況ではない。
早急に次の一手を打たなければならないときだ。ミツイは作業を再開した。
「で、なにしてんの? なにこれ?」
「凍結処理の準備です。急がんと間に合わへんようになってまいます」
「凍結? 何を凍らせんの?」
「ゴトウさんの体です」
「はあ? なんで?」
「今すぐ凍らせておかないと、ゴトウさんが本当に死んでしまいます」
「『本当に』って・・・・それどういう意味?」
アベの前に敗れたゴトウ。負傷した彼女の体力はもう限界を超えている。
このまま生命維持を続行するのは不可能と判断せざるを得ない。
ゆえに凍結処理を施す。上手く凍結させれば、半永久的に冷凍保存が可能だ。
そうしておけば、少なくとも生きたままのゴトウマキを保存することができる。
治療法にめどが立てば、解凍して復活させることもできるだろう。
ミツイはそう説明した。これしかゴトウを救う方法はないと。
だがミツイの言葉を聞いて―――ミキは激昂した。
- 468 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:12
- ミキは椅子から飛び上がる。
自分でも、なぜこんなにも怒りが湧いてくるのかよくわからなかった。
だがそこにあったのは純粋な怒りだった。
アヤの死のことすら一時的に忘れてしまうような苛烈な怒りだった。
それはミツイに対する怒りであり、ゴトウに対する怒りだった。
「あぁ? 冷凍保存? なんでそんなことすんだよ」
ミキの声は低く震えていた。
雷が落ちるような突然の怒り。ミツイにはその怒りの意味が理解できない。
アヤの死よりも、ゴトウの治療に対して激しく反応するミキの行動原理が理解できない。
だがミキは、ミキなりのルールの中で規律正しく動いていた。
戦って死ぬ。それは決して不名誉なことではない。
無駄な行為ではないし、無意味な出来事ではない。
戦争を真っ向から全否定するようなエセ平和主義者には理解できない概念だろう。
だが戦いの歴史の中に生きているミツイに理解できないとは言わせない。
ミツイがやろうとしていることは、全ての戦士に対する侮辱だ。
半永久的に保存する? お前は一体何様のつもりだ?
ミツイは必死でゴトウの容体について説明するが、ミキの耳には入らない。
ミキはゴトウにかかっていた毛布をバッと取り払う。
血と痣で汚れた体がそこにはあった。生臭い血の匂いが漂ってくる。
ミキはその匂いを全身で受け止める。
そうだ。これが戦士の匂いだ。
- 469 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:12
- アヤは死んだ。だがミキの中にはアヤの死を惜しむ気持はない。
生き返らせることができたとしても、そんなことは絶対にしない。
なぜならそれは、アヤが生きた人生に対する侮辱に他ならないからだ。
ゴトウはアヤを殺した。これ以上ないくらい憎い相手だ。
だがミキが怒りを感じているのは、そんなちっぽけな理由からではない。
そんな理由でゴトウの凍結保存に反対しているのではない。
ミキの怒りは、もっと理不尽で傲慢で自己中心的な怒りだった。
ゴトウよお。お前よお。そうまでして生きたいか?
アベナツミに負けたんだろ? だったら死ねよ。そのまま死ねよカス野郎が。
冷凍保存するんだってよ。半永久的に保存できるんだってさ。バカじゃねーの。
くっだらないよな? そんなことするくらいなら死ぬよな。死を選ぶよな。
きっとお前ならわかると思うんだけどな。わかんないとしたら幻滅だよ。
そんなに生きたいっていうのなら―――自分の力でつかみとれよ。
アベがなんだよ。あんなの大した相手じゃねーよ。
お前がやられるほど強い相手じゃねーだろーがよ。
あたしとアヤちゃんだって、お前が邪魔しなけりゃ楽勝で勝ってたさ。
お前はそんな奴に殺されちまうのかよ? くっだらねえよなそんなの。
あたしはそんな弱っちょろい奴にボコボコにされたのかよ。
そういえばあの時の借りもまだ返してねーよな。
死んだら返せねーな。どうしようかこの借り。返したいんですけど。
なあ、ゴトウ。死ぬのは勝手だけどさ。死んだら生き返れよ。
お前よう、あたしのために生き返れよ。それが筋っていうもんだろ?
あたしには死体を殴るような変態趣味はないんだよ。だから生き返れ。
あたしにボコボコに殴られるために―――さっさと生き返ってこいよ!
- 470 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:12
- ミキはそんなことを大声で叫びながら、
ゴトウの体にからまっているチューブを引き千切った。
人工呼吸器を蹴り上げ、点滴の針も引き抜いた。
ミツイが用意していた人体凍結装置は、渾身の力で二階の窓から投げ捨てた。
周囲一帯に響き渡るような音をたてて、凍結装置が砕け散った。
それでもミツイはミキの行動を止めることができなかった。
ミツイも心の底ではミキの哲学に共鳴していたからかもしれない。
戦士に対する侮辱―――その言葉が胸に痛かった。
これで間違いなくゴトウは死ぬだろう。だがそれでいいのかもしれない。
ミツイはゴトウのことは諦めた。
アベナツミを殺すための方法ならば、他にも何かあるだろう。
ゴトウの死は厳然たる事実として受け止め、新たな対策を立てるしか―――
だが次の瞬間にミキの唇から洩れたのは、
なんとか気持ちを切り替えたミツイの心を、再び大きく裏切る言葉だった。
「臭う。生臭せえ。生の臭いだ」
「え? 今度は何ですか?」
「ゴトウの体の中から、強烈に臭ってくるものがあんだよ」
「まさか死臭とか・・・・・・」
「違う。正反対の臭いだ。あたしにはわかる。生命の臭いだ」
「そんなアホな」
ミツイは反射的にゴトウの手をとった。
ゴトウの肌は相変わらず氷のように冷たい。脈拍も弱い。
ミツイはテーブルにあった水差しをゴトウに向け、その口を濡らす。
能力を全開にして、ミツイはゴトウの体内をスキャンしていった。
- 471 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:13
- 鳥肌が立った。
ゴトウの体内では信じられない光景が展開されていた。
ゴトウの体内で急速に増殖してくる細胞があった。
メモリーB細胞だ。それは過去に産生した抗体を記憶している細胞だ。
その細胞は次々と新しい抗体を産生していく。
信じられないことに―――その抗体はナッチの異常細胞を次々と破壊していく。
「アホな。ありえへん」
「は? なにしてるのさ、みっつぃー」
「いや、ちょっとゴトウさんの体内をスキャンしてるんですが」
「マジかよ。おめー、そんなこともできんのかよ」
「ええ。でも・・・・なにがどうなっているのやら・・・・・・」
産生された抗体は、ゴトウの体内に巣食っていた異常な血球細胞を、
次々と破壊していく。確かに、二度目の感染なら抗体は強い。
ワクチンなどの例にもあるように、二度目のウイルス感染であれば、
抗体は強力なウイルス防御能力を発揮することができるのだ。
だが一度目からここまで強力な反応を示すことはあり得ない。
これほど大量の抗体が作られるなんて、生化学的にあり得なかった。
通常では数週間かかる反応なのだ。ゴトウの体内で何かの突然変異があったのか?
いや、そういった可能性は全く考えられなかった。DNAに変異はない。
ミツイの学術的な知識の範疇では―――何とも解釈のできない現象だった。
- 472 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:13
- だが説明を聞いたミキの言葉は単純だった。
「アホかミッツィー。そんなの簡単じゃん」
「いや、でもあり得ないですって」
「ゴトウは以前にナッチのこの異常細胞に接したことがあった。そういうことだろ?」
「!・・・・・・まさか・・・・・・」
ミキは何も悩まなかった。
二度目ならあり得る反応。ならば今回の接触が二度目と考えればいい。
元々、ゴトウとアベは同じ施設に住んでいたのだ。
接触する機会などいくらでもあっただろう。
「でも被験者同士の接触は固く禁じられていたってイイダさんが・・・・」
「カオリの知らないところで接触してたんだろ」
「でもゴトウさん本人が、アベナツミとは会ったことがないって言ってましたし」
「知らねーよ。そんなことはゴトウが目を覚ましてから聞けばいいじゃん」
「はあ・・・・・・」
ミツイは議論を諦め、ミキが無茶苦茶に荒らした病室を整えながら気持ちを整理しようとした。
驚いたことに、マキには自活呼吸が戻ってきていた。
再起動させたモニターを見ると、少しずつではあるが体温も戻ってきている。
ミツイは戸惑い、ミキは笑った。子供のような無垢な笑顔だった。
そしてミキは、らしからぬ優しさすら発揮して、マキの体に毛布をかぶせた。
「早く治せよゴトウ。あたしはいつでも相手してやるからよ」
- 473 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:13
- ☆
- 474 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:13
- 「おや、コハルちゃん。今日は寝ずに起きてたんだ。えらいえらい」
ナッチのにこやかな皮肉に、コハルは思わず顔を歪めた。
忘れようと思っても、あのときの屈辱は忘れようがない。
怒りに我を忘れそうになったコハルの腕に触れ、ケイがそっとたしなめる。
それでもコハルの怒りはなかなか収まりそうになかった。
ケイはそんなコハルを制して、一歩前に進む。
「あんたも相変わらずみたいだね。こんな子供をおちょくってどうすんのさ」
「あれ!? その声はケイちゃんじゃん! ホントにここにいたんだ・・・・・」
ナッチは、テラダやエリの言うことは、もうあまり信用していなかった。
5番の光が神社で確認されたという話も、かなり眉唾だと思っていた。
だが今耳にした声は、間違いなく施設の壁越しに耳にしたものと同じだった。
一瞬、殺意を忘れてナッチの中に懐かしい記憶が蘇った。
自分がまだ―――普通の人間だった頃の記憶が。
一方ケイの方は、懐かしさなど一瞬たりとも感じなかった。
アベナツミがこれまでにやってきたことは、イシカワから全て聞いている。
テラダと結託して、フォースを潰したことも、カオリを殺したことも、全て。
それらの行動を―――許す気はなかった。
- 475 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:13
- 「驚いたね。まさかケイちゃんが生きてるとは思わなかったよ・・・・・
副作用の方はもういいの? あの頃は毎日しんどそうだったけどさあ」
「ああ。ホントにあの頃は毎日死にそうだったよ」
「あはははは。死なないのが不思議なくらいだったねえ」
「・・・・・あんたにはわからない」
「え? なになに?」
「あんたには、あたしらの苦しみなんて理解できない」
「なにそれ? ケイちゃんもカオリみたいに説教するつもり?」
まるで楽しんでいたアニメが急に次回予告に切り替わったときのように、
ナッチの心は急速に冷え切っていった。
カオリとの会話は思い出すだけで不愉快になるものだった。
ケイとはそんな話はしたくなかった。
ケイの血と一つになって、太陽を支配する。
そんなドキドキするような夢を語り合いたいと思っていた。
「ケイちゃんもここにいたっていうことは、話は知ってるんだよね」
「だいたいはね」
「テラダの目的も知ってる」
「うん」
「テラダは死んだよ」
「え!?」
アベを前にしても冷静さを保っていたケイの表情が、そこで初めて大きく崩れた。
それだけテラダの死というのは、ケイの中で重かった。
あのウイルスに関する数千年の歴史がどうとかということよりも、
彼女達にとってはテラダという人間こそが、あの施設の―――
そしてウイルス投与計画の象徴的な人物だった。
- 476 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:14
- テラダの死はコハルにも驚きをもたらしたらしい。
だがコハルはコハルらしくナッチの言葉を受け流した。
戦いは既に始まっているのだ。言葉の駆け引きに翻弄されてはならない。
「気にしないでヤスダさん。そんなのただの嘘かもしれませんよ」
アベはコハルの言葉を無視して語り続ける。
彼女には偽りの言葉を駆使した細かい駆け引きなど必要ない。
自分が語りたいことを語る。
それだけで地球上に存在する全てのものを動かすことができると信じていた。
自分の言葉で動かないものは、地球上に存在するべきではないと思っていた。
「カメちゃんの話では、どうやらヤマザキに殺されたみたいだね。
ヤマザキっていうのは、あのゴトウマキのバックにいた人物でさあ、
元々、テラダを使ってウイルスの研究を始めたのもそいつなんだって。
まあ、そのヤマザキってのは今、カメちゃんとヤグチが追ってるからさ。
そのうちカメちゃんに見つけ出されて、サクッと殺されちゃうと思うよ」
ナッチは有楽町でビルを倒壊させた後、カメイと別行動を取っていた。
カメイはヤグチと共に、部隊を展開させているUFAと相対している。
彼女の狙いはUFAそのものではない。
UFAの中でも、ウイルスの詳細を知っているのはヤマザキだけだ。
ヤマザキさえ殺せば―――UFAなど取るに足らない存在だろう。
ナッチは上機嫌で話を続ける。
- 477 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:14
- 「さあ、あんたの憎いテラダは消えた。で、ケイちゃんはどうする?
あたしを殺す? なんのために? カオリの復讐のために?
でもさあ、あんたとカオリって元々何の関係もない人間でしょ?
復讐したって仕方ないじゃん。素直にあたしに血を差し出さない?」
「あんたは口が上手いね。口喧嘩じゃ勝てない気がしてきたよ」
「負ければいいじゃん。素直になりなよ」
「嫌だね。負けたままで死ぬなんて、まっぴらごめんだよ」
言葉を交わしながらも、ケイは会話がアベのペースで進んでいることを自覚していた。
口が上手いというのとは少し違うかもしれない。
アベは何かを誤魔化そうとして喋っているのではないのだ。
それなりに付き合いが長かったからわかる。アベの言っていることは全て本心なのだ。
嘘であろうと真実であろうと―――それは全て本心なのだ。
「あんたはあたしにどうしてほしいのかね」
「血が欲しい。あたしが欲しいのはそれだけ」
「血を渡せば命だけは助けてやるってか? そんなの信じられないね」
「冗談。殺すわけないじゃん。そんなことして何の得になるのさ?
カオリはね、あたしを殺そうとしたんだ。だから殺したんだよ」
「ふーん。逆らわずに黙って従えば、殺しはしないってか?」
「幹部待遇で迎えてあげてもいいけど?」
「嫌だね。負けたままで生きながらえるなんて、まっぴらごめんだよ」
「なにそれ。意味わかんないって。なんでイエスって言ってくれないのさ?」
軽い言葉では対抗できない。
アベの本音に対して、ケイもまた本音で対抗した。
「アベナツミ。あたしはあんたが嫌いなんだよ。施設にいた頃からずっとね」
- 478 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:14
- ヤスダケイはアベナツミをぐっと睨みつける。
この口調。この言葉。そしてこの思考回路。
アベは施設にいた頃からちっとも変っていなかった。
自分の話したいことだけを話し、自分が聞きたいことだけを聞く。
自分が必要なときだけ相手をして、必要ないときは完全に無視する。
彼女との会話で得るものは確かにある。
だが彼女との会話で、こちらが与えられるものは何もないのだ。
アベナツミはアベナツミの中で完結している。混じる物は何もない。
アベナツミが干渉することはあっても、アベナツミが干渉されることはないのだ。
ただもらうだけの関係。
逆に言えば、アベから見ればただ与えるだけの関係。
乞食だ。それは乞食扱いされているのと同じじゃないか。
ナッチと他人の関係は、本当に王様と乞食の関係のようなものだとケイは思う。
そんな関係を、一体この世の誰が望むだろう。
そんな王様が太陽となって君臨することなど―――誰が望むだろうか。
少なくともヤスダケイは望まない。
アベナツミが太陽として君臨することを望まない。
たとえ太陽が―――与えるだけの存在であったとしても。
- 479 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:14
- 「交渉決裂かあ。意外と上手くいかないもんだね」
それでもアベの表情にはまだ余裕があった。
マツウラとの戦いやゴトウとの戦いを経て、
自分がまた一回り強くなったとアベは感じていた。
目の前にいるコハルは守護獣とやらに変化できるらしいが、
そんなものが二匹いようが三匹いようが、今のナッチは負ける気がしなかった。
そんなアベの余裕が、ケイには手に取るようにわかった。
だがアベにはケイの気持ちなど理解できないだろう。
王様には乞食の考えなど理解できない。理解しようともしない。
太陽に選ばれなかった、ただの人間の気持ちなど一生理解できないだろう。
だからこそ、示さなければならない。
アベという人間の意志を否定する人間がいることを―――
ここではっきりと見せ、証明してみせなければならない。
ケイにはその決意があった。
どうせ自分の体は長くない。あと数年かそこらしか生きられないだろう。
ならばこの命をもってアベに伝えよう。
この世界は、お前の思う通りには進まない。
- 480 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:14
- 「コハル。もういいよ。こいつとの話は終わった」
「わかりました」
ケイはそう言うと、ジャンプして水槽の中に戻った。
アベとケイはガラス一枚を隔てて向き合う。
それは施設の壁に比べればどうということのない薄さだったが―――
二人の人間を隔てるには、十分過ぎるほどの厚さだった。
コハルが二人の間に割り込む。
自分がやるべきことはわかっていた。
ケイがそのことを悟っていることにも、その瞬間に気付いた。
気付くのが今になってしまっても、遅くはなかったとコハルは思う。
ケイという人間と心が通じた。それが全てだ。
アベナツミにはできないことが、自分にはできたのだ。
小さなことだったが、コハルにとってはその小さなことが重要だった。
もはやコハルの決断を遮るものはなかった。
『―――全てを燃やすのです』
ミチシゲの言葉だけが、コハルの中で頑として揺るがず存在していた。
その指示を遂行する時は今しかない。
- 481 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:14
- 「黒き土よ・・・赤き炎よ・・・白き月よ・・・青き水よ・・・・」
コハルは瞳を閉じて、拳を握った手を胸の前で交差させた。
右手を前に。次の瞬間には左手を前に。そしてまた右手を前に。
何度も何度も交差を繰り返す。何百万回と修行して身に付けた動作だった。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉を、コハルは一息で一気に唱えた。
両腕をクロスさせた手首の接点が、強烈な赤い光を放つ。
「無限の闇の向こうから来たれ 無限の闇をまといて来たれ、我が守護神よ。
今こそ、その力を解き放ちたまえ。 いざ、開け! 赤き南方の門!」
コハルは巨大な朱雀と化して羽ばたいた。
時を同じくしてナッチの体の輪郭も崩れていく。
ナッチは既にサディ・ストナッチを召喚していた。
赤い粒子が無限の織り目をなして絨毯のように広がっていく。
ケイよりもまず先にコハルを始末する―――
だがそういった意志を込めた赤い粒子の侵略を、朱雀はひらりと後退してかわした。
朱雀はずるずると後方に下がっていく。どうもナッチと戦うという意志を感じなかった。
何かを―――狙っているのか?
「どうしたコハル? ナッチと一緒に遊ばないの?」
- 482 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:15
- ナッチが感じた通り、朱雀はナッチに襲いかかってはいかなかった。
それどころか水槽の上部に身を躍らせ、蓋の上に立った。
その下ではケイが大きく深呼吸をしている。
ナッチには二人が何をしようとしているのか全く理解できなかった。
だが―――コハルとケイの二人は等しくそれを理解し合っていた。
ケイはさらに深く息を吹き込む。
異常に発達したケイの肺臓が、神社を包む青い森から濃厚な酸素をかき集める。
ケイの胸はまるで気球のように膨らんでいく。
それでも――――ケイの深呼吸は止まらない。
ついにケイの胸部は巨大な水槽一杯に膨れ上がった。
そしてヤスダケイは最後の捨て台詞を吐いた。
あの日あの時あの施設で、仮死状態から蘇生してからの一年。
奇形と化したこの胸の異常に苦しみながら生きた一年。
この一年間は、この捨て台詞を吐くために生きていたのかもしれない―――
「ざまあみろ、アベナツミ。あたしに会いたきゃ地獄の底まで追い掛けてきな!」
- 483 名前:【処置】 投稿日:2010/01/07(木) 23:15
- 極限まで膨らみきったケイの胸が破裂する。
異常に発達したケイの肺では莫大な量の酸素が圧縮されていた。
そしてその高濃度圧縮酸素が―――突如として解き放たれた。
星状に弾けた圧縮酸素に、朱雀が放つ紅蓮の炎が重なる。
真っ赤な火球が水槽の中でふわりとふくらんだ。
火球から伸びた炎は爆発的にその手足を広げていき、一瞬にして全てを飲み込んだ。
炎がさらなる炎を引き寄せ、ケイの胸から吐き出される無限の酸素とからみあう。
水槽の中で発生した天文学的な熱量は―――核爆発にも匹敵した。
まさに小さな太陽。
ケイを、水槽を、神社を、森を、そしてアベナツミを。
朱雀の羽ばたきに乗せられた魔神の炎が全てを包んでいく。
光速で拡散していく赤い津波は、触れるもの全てを瞬時に焼き尽くす。
光り輝く赤黄の火球は、小さな太陽となって無限の炎を走らせた。
森が溶け、大地は陥没し、神社が気化していく。
全てを燃やし尽くした朱雀の羽が消えたとき、神社の周囲数キロは―――
影も形も残らない、黒い焦土と化していた。
- 484 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/07(木) 23:15
- ★
- 485 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/07(木) 23:15
- ★
- 486 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/07(木) 23:15
- ★
- 487 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:34
- 「意外と早かったじゃん、リカちゃん」
ミチシゲの手から鮮血が滴り落ちた。
引き金が引かれることはなかった拳銃が、地面に落ちて硬質な音をたてた。
ミチシゲは痺れるような痛みを発している右手から視線を外し、
銃声のした方へと顔を向けた。
ミチシゲの視線の先には一人のほっそりとした女が立っていた。
撃たれるまで気配らしい気配を感じ取ることはできなかった。
この女もプロか。あるいはエリの手先の者なのか?
イシカワはミチシゲに手を抑えられたままの姿勢で、
銃を撃った女に向かって試験管の入ったケースを投げた。
正確にコントロールされたそれを、細身の女は慎重に受け取った。
「お願いヨッスィー。それを持って逃げて!」
なるほど。イシカワの一言を聞いてミチシゲは納得した。
この女がフォースを仕切っていた一人、ヨシザワヒトミか。
ミチシゲの頭の中に一本のラインが描かれる。
カメイ―ヤグチ―カゴ―ヨシザワ―イシカワ。
やはりフォースは、SSの中でも特に重要な下部組織であり、
おそらくイシカワは、そこに取り込まれてしまったのだろう。
ミイラ取りがミイラになる。諜報活動にはよくあることだ。
- 488 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:34
- 「はじめまして、ですかね? ヨシザワヒトミさん」
「はじめまして、だね。あんたがミチシゲサユミちゃん?」
ヨシザワもECO moniのことについてはイシカワから色々と聞いていた。
あのコハルが幹部だというのも驚きだったが、そのコハルも含めて幹部は三人。
ミチシゲサユミ。クスミコハル。ミツイアイカ。
目の前に立っている雪のように可憐で美しい少女の身なりは、
ECO moniの長であるというミチシゲサユミの特徴と、完全に一致していた。
「ええ。わたしがミチシゲです。イシカワさんから聞いたのかな?」
その時、見つめ合う二人の背後で地面が揺れた。
人為的な揺れではない。そんな小さなスケールではなかった。
かなりの広範囲で大地が揺れている。地震だろうか。
遥か後方では、何かが爆発を起こしたような地鳴りが響いていた。
その音と、さらに後方に上がった黒煙を見て、ミチシゲは神社の命運を察した。
コハルがついに―――全てを燃やし尽くしてしまったのだろう。
自然と体から力が抜ける。
イシカワはその隙を逃さず、ミチシゲの足からするりと逃れた。
逃げるイシカワの後頭部に向けて、ミチシゲは手刀を放とうとする。
だがその動きはヨシザワの銃撃によって鋭く牽制された。
ミチシゲは軽やかにステップをきって弾丸をかわす。
欠伸が出るほど簡単な動きだったが、ヨシザワの手に握られている試験管の
中に入っているものを思うと、心はとても平静ではいられなかった。
- 489 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:35
- 銃撃が止む。
どうやら弾が切れたようだが、ヨシザワは新たな弾を込めようとはしない。
それどころか、もう用済みになったと言わんばかりに拳銃を捨てる。
受け取った試験管を再びイシカワに返すと、
ヨシザワはゆっくりとミチシゲの方へと歩き出してきた。
「悪いね。あんたらに恨みはないけど、この血はもらっていくよ」
「あら。つまらない冗談ですね。このまま生きて帰れるつもりで?」
「あんたがここで黙って引き下がってくれるなら、命まで取ろうとは言わない」
「ふふふふふ。それは面白い冗談です。とても面白い」
「冗談を言ってるつもりはないんだけどな・・・・・」
「いえいえ。冗談でしょう。悪い冗談ですよ」
ミチシゲはそこまで話すと、ヨシザワの後方にいるイシカワに視線を向けた。
だがイシカワは目を逸らしたままで、ミチシゲの方を向こうとはしなかった。
言い訳することなど何もないようだ。
お互いに、話してわかりあえる―――という段階などとっくに過ぎたということか。
ミチシゲは血に濡れた右腕を下から斜め上へと振り上げた。
鞭のようにしなった赤い血の流れが、ヨシザワの顔に降りかかる。
それが戦闘開始の合図だった。
目に飛び込んでくる血飛沫をかわしたヨシザワの腹に、ミチシゲの蹴りが入る。
だが苦悶の声をあげたのは―――ミチシゲの方だった。
- 490 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:35
- ミチシゲとて生半可な鍛え方をしてきたわけではない。
だが鉄槌のようなミチシゲの蹴りは、鍛え上げられたヨシザワの腹筋に跳ね返された。
堅い。強い。賢い。上手い。敵の資質に対するミチシゲの判断は速い。
たった一度の接触で、ミチシゲはヨシザワのおおまかな戦闘能力を見抜いた。
どうやらこの女―――拳銃やナイフなどでは殺せそうにない。
雨は既に完全に止んでおり、雲は恐ろしい速さで流れている。
冷たい風が音もなく過ぎていく。黒い前髪がミチシゲの瞼をなでる。
真っ暗闇の空の中で、丸い月だけが三人の姿を照らし出していた。
白い輝きを放つ満月の下で、ミチシゲの黒い影がゆらりとたおやかに躍動する。
「黒き土よ・・・赤き炎よ・・・白き月よ・・・青き水よ・・・・」
ミチシゲは瞳を閉じて、拳を握った手を胸の前で交差させていた。
右手を前に。次の瞬間には左手を前に。そしてまた右手を前に。何度も交差を繰り返す。
その言葉の意味を知るイシカワが何かを叫ぶ。だがヨシザワは動かない。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉を、ミチシゲは一息で一気に唱えた。
両腕をクロスさせた手首の接点が、強烈な白い光を放つ。
「無限の闇の向こうから来たれ。無限の闇をまといて来たれ、我が守護神よ。
今こそ、その力を解き放ちたまえ。いざ、開け! 白き西方の門!」
白き光がミチシゲの体を包み込み、サユの輪郭をゆっくりと溶かす。
次の瞬間、ミチシゲの肉体は人間の輪郭を消し、異形のものと化していた。
- 491 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:35
- 地獄の奥底のように深く堆積している夜闇が、そっと手を招く。
その長い手の先にあるのは、天空に輝くたった一つの月明かり。
ヨシザワの影が伸びる。
その数倍の長さで―――真っ白な虎の影が伸びる。
甲高いイシカワの悲鳴が響き渡る。
静かだった。
悲鳴は鳴りやまなかったが、それでもなお、夜は静かだった。
ヨシザワが唾を飲み込む音ですら、数里先まで聞こえそうな静寂。
巨大な爪が土を噛む。
白虎と化したサユが伸びあがる。
影が伸びる。伸びて 伸びて 伸びて 伸びて―――ふわりと縮む。
- 492 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:35
- まるで―――月面。
真っ白な虎は、その巨体の重さを感じさせない跳躍を見せた。
薄く張った湖面の氷のように張りつめた夜の寒気。
白虎はその薄い氷を割ることなく上品に夜の闇を押しのけていく。
全てが静かだった。
死というものも―――こんなに静かなのだろうかとヨシザワは思う。
近づく。寄る寄る寄る。迫る迫る迫る迫る迫る。触れる。止まる。
ヨシザワは白虎の巨体を真正面から受け止めた。
白虎の軽やかな跳躍に敬意を払うような
暗く澄んだ夜の静寂に敬意を払うような
そんな穏やかな所作でもってヨシザワは全てを受け止めた。
- 493 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:35
- 白虎の長い爪がヨシザワの肩に食い込む。
肉をえぐろうなどという細かい動作ができるような爪ではない。
その爪の動きは、ヨシザワの両腕を肩からもぎ取ろうとしていた。
いや。腕ではない。肩でもない。そんな名称は瑣末なこと。
白虎は洞穴のような口を開き、ヨシザワの頭にかぶりつく。
いや。頭ではない。そんな名称など、白虎にとっては何の意味も持たない。
抉る刺す噛む殴る斬る裂く打つ折る砕く壊す崩す絶つ潰す。
そんな名称にも、やはり意味はない。
白虎のなすことは一つ。己に相対するもの全てを飲み込む。
全てをバラバラにして、無に帰す。
たった一つの理念に従い、白虎はヨシザワという存在に対峙する。
- 494 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:36
- 筋肉の千切れる音がする。
だがそれは外側からの衝撃によってではない。
ヨシザワの筋肉は、ヨシザワの内側から破壊されていく。
ヨシザワの―――意志に従って。
あの時、イシカワからの示唆を受けて編み出した新しい使い方。
自分の肉体を自分の力で破壊し、自分の力で再生させる。
自然の理に逆らった悪魔の手法。
全身に流れる飴色の灼熱の痛み。
この訓練を繰り返していなければ、ここで死んでいただろう。
それほどに白虎の圧力は絶大だった。
だがヨシザワは生まれ変わる。破壊され、再生し、生まれ変わり、また潰れる。
ヨシザワは―――筋肉が異常発達したキャリアだった。
- 495 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:36
- 爆発音。
白虎の右頬でヨシザワの拳が炸裂する。
まるで内側と外側から同時に破壊されたような重層的な衝撃。
ヨシザワの両肩の筋肉が山のように盛り上がる。
ヨシザワの筋肉は、無限ループの中で筋破断と超回復を繰り返す。
殴る。殴る。殴る。相手をひたすら痛めつける。走る衝動と巡る激情。
ヨシザワにはミチシゲのような理念はない。哲学もない。
理由もなくただひたすら殴るヨシザワの体を貫く戦士の本能。
殴る。殴る。殴る。壊すために殴る。潰すために殴る。そして笑み。
壊すことに歓喜を覚える加虐的な精神が肉体を支配する時間。
ヨシザワの心は行動目的を忘れ刹那的な快楽に溺れていく。飴色の笑み。
- 496 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:36
- 不合理な、不条理な、非科学的な力。科学や生理を超えたそれは―――悪魔か?
白虎は肉体に刻まれる衝撃の強さに戸惑う。
殴る。殴る。殴る。悪魔か、はたまた殴る機械か。
ヨシザワヒトミが戦いの中で我を忘れていることは、もはや明らか。
いいだろう。ヨシザワが殴る機械ならば、白虎は理念に殉じる神の代理人。
神を称する罪に身を焼かれようとも、己の使命に背くことは許されぬ。
屈む。這う。伸びる。縮む。回る。飛ぶ。そしてまた這う。
爪。牙。爪。三つの方向から同時に攻撃を加える白虎の軽やかな殺戮の舞。
月が地平に消えゆくまで終わりなく続く白き虎の無敵時間。
ヨシザワヒトミという筋肉の山脈を攻略にかかる一匹の美しきアルピニスト。
白虎の爪がヨシザワの右拳の爪をえぐり取る。血。血。そして血。
- 497 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:36
- 己の絶叫すら今のヨシザワには精神を鼓舞するバックグラウンドミュージック。
えぐられた爪に流れる激痛の上からかぶせる再生筋肉の厚い膜。
体に蓄積していく疲労物質すら即座に消化していくヨシザワの異常筋肉。
それはまさに疲労を燃料として動き続ける悪魔の永久機関。
腕はまだ二本ついている。足だって二本ある。何も失っていない。
白虎が再びヨシザワの頭に噛みつく。髪の毛がいくらか剥がされていく。
流れる血。血。血。そして痛み。全て時間の流れの向こう側へおしやる。
矛を交えているときにだけ感じる永遠という名の時間静止。
だがそれは幻の滞留。それが終わるのは突然でありそして必然。
夜が明けた。月が消えゆく。夢と幻の時間は終幕を告げる。
あれだけの打撃を受けながら無傷で去っていく白虎の気高き後ろ姿。
- 498 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:36
- ☆
- 499 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:36
- 「お久しぶりですね、ヤマザキさん」
老人の足元にはまだテラダの死体が転がっていた。
だがそれを見ても、カメイエリは眉一つ動かさなかった。
部屋の中にある死体は一つではない。
無駄に広い部屋にはあと六つほどの死体が転がっていた。
そしてその中には―――かつてマキが教官と呼んでいた男も含まれていた。
老人の顔には驚愕の表情が張り付いたままであり、なかなか消えようとしない。
準備には完全を期したつもりだったが、
異常な声を発するマリによって部隊は完全に制圧され、
その隙間を縫うようにして侵入してきたカメイエリを―――
押しとどめることができる人間はいなかった。
それはヤマザキの目の前で行われた殺戮劇だった。
だが今でもヤマザキはその光景を現実のものとして受け入れることができない。
カメイエリは屈強な六人の兵隊を―――マッチ棒をへし折るように殺してみせた。
「戦い」という言葉を使うことすら躊躇われるような一方的な虐殺劇。
ヤマザキはマリとエリの力を完全に見誤っていた。
- 500 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:37
- 「どうやらきっちりしていたのはガス化対策だけだったみたいですねー」
エリはまだゴトウとの死闘で負った傷が癒えていなかった。
守護獣を召喚するだけの体力も残っていなかった。
それでも普通の軍人を半ダースくらい片付けることなど朝飯前だった。
ヤマザキはそういったことは全く知らなかったのだろう。
マリの特殊能力に対する備えも全くなかった。
窓越しに見える有楽町の街には、まだ所々で黒煙が上がっている。
エリとマリがUFAの部隊を全滅させるまで―――三十分とかからなかった。
「なぜだ・・・・なぜこんな無駄なことをする・・・・・」
「ほえ? 無駄なこと?」
「我々を殺して何になるというのだ。お前たちの目的はウイルスなのだろう?
我々がそれを持っていないことも知っているはずだ。これは意味のない戦いだ。
お前達が本来戦うべき相手は、ECO moniとかいう組織ではないのか―――」
「あれ? ヤマザキさんってあたし達のこと、殺そうとしませんでしたっけ?」
「停戦しよう。こちらから戦いを仕掛けたことは認める。だが敗北も認めよう。
我々の負けだ。ここで手を結ばないか? お前達が関東から出た時、きっと我々の」
ヤマザキの声を遮るようにして、薄暗い部屋に銃声が響いた。
眉間から血を噴き出してヤマザキは倒れる。
エリの背後から、拳銃を持ったヤグチが姿を現した。
大口径の軍用拳銃は―――小柄なヤグチが持つとまるでおもちゃの拳銃のように見えた。
- 501 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:37
- 「撃っちゃったけど、よかった?」
「ヤグチさぁん。そういうことは撃つ前に訊いてくださいよー」
「ヒャハハハハハ! 悪い悪い」
当然ながら、カメイはヤマザキのことを生かしておくつもりはなかった。
これでECO moniやSun-Seedのことを知っているのは、
当のECO moniのメンバーと、SSの生き残りの三人である、
アベナツミ、ヤグチマリ、カメイエリだけということになった。
秘密を知る人間をこれ以上増やすことはできない。
ヤマザキの処刑は当然の決断だった。
ヤグチはヤマザキの死体には目もくれず、
その奥に転がっているテラダの死体の脇にしゃがみこみ、
だらしなく広がっている死体の口を拳銃の先で突いた。
「なんだ。やっぱりこのオッサンも死んでたのか」
「パソコンも壊されてたみたいです」
「まあいいじゃん。どうせもう用済みだったんだろ?」
「さすがヤグチさん。誰が用済みになったかということには敏感ですね」
「バーカ。適当なこと言ってんじゃねーよ」
とにかくこれでUFAの件は片付いた。
ヤマザキは死んだし、ゴトウマキも目の前から消えた。
思わぬところで邪魔が入ったが、かえって状況がすっきりしたかもしれない。
- 502 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:37
- 「ところでよお。これからどうすんのさ」
「アベさんを追いましょう」
「ナッチはもう一回神社に行ったんだっけ?」
「ええ」
最後の通信のときに、テラダは言った。
ECO moniが拠点を構えている神社に5番の光があったと。
あそこはエリも何度もチェックした地点だったが、
その時には5番なんていう光は見つからなかったはずだ。
エリが何か特殊な防御網を使っていたのだろうか。
ならば、なぜ今になって5番の光を探知できるようになったのだろうか?
もしかしたらECO moniの内部で何かあったのかもしれない。
抗体作成途中にトラブルが発生する。十分考えられることだ。
とにかく今は5番の検体を奪うことが最優先だろう。
もう太陽化計画に残された時間は少ない―――エリはそう考えて行動を急いだ。
「行きましょう。時間がない」
「時間がない? なにそれ。急ぐのかよ」
「まあ、それはとにかく。神社に・・・・」
「あれ? 神社ってあっちの方向じゃなかったっけ?」
「ええ、そっちですよ・・・・あれ?」
「なあ、あれ変だろ? なんだろうあれ?」
かなり遠方だった。高層ビルの窓からだからこそ、見えた光景だった。
遥か彼方、神社があるはずの方向から真っ赤な煙がもくもくと上がっていた。
まるで―――
原爆投下直後のキノコ雲のような雲が―――
- 503 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:37
- ☆
- 504 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:37
- 「お!? なんだこいつ」
下から柔らかな不意打ちを受けてミキは飛び上がった。
もこもことした白い塊が足元を駆け抜けていく。
ミキは片手を伸ばして素早くそいつの首根っこをつかんだ。
片手で持ち上げようとして、よろめく。思っていた以上に重い。
知らぬ間にすくすくと成長していたのだろうか。
ミキは改めて両手を両脇に差し込み、その子犬を抱き上げた。
白い子犬は「やったのは私ではありません」というような顔を向けている。
Nothingの子だ。神社で飼っていたはずだがなぜここにいるのだろうか。
誰かが連れてきたのか。ミツイが横にいるスタッフに声をかける。
「ミキさん。どうやら研究スタッフはみんなこっちに移動してるみたいです。
その子もそのときに一緒にまぎれてこっちに来ちゃったみたいですね。
コハルのやつ・・・・・ちゃんとつないどけって言ったのに・・・・・」
コハルは「全てを燃やすのです」というミチシゲの言葉の意味を正確に理解していた。
それを実行する覚悟もあった。
だからこそ、巻き添えをくわないように、この子犬をスタッフに託していた。
そんなコハルの覚悟の重さを―――ミツイはまだ知らない。
- 505 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:37
- ミキは両手で抱き上げたまま、子犬と睨みあった。
耳をぺたんと垂れさせて、子犬は不安そうな顔を晒している。
軍用犬としての訓練を受けているそうだが、カメイやアベとの戦闘には、
とても役立たないようにミキには見えた。ミキは子犬を床に下ろす。
このちっぽけでか細い子犬を、戦いの場に連れていく気にはなれなかった。
「じゃあ、行ってくるわ」
「え? どこ行くんですかフジモトさん」
アヤの死体は既にミツイの部下によって霊安室に運ばれていた。
後日丁重に埋葬するとのことだったが、ミキにとってはどうでもいいことだった。
大切なのはアヤを弔うことではなく、アヤの意志を引き継ぐこと。
今すぐにでも動き出すべきだとミキは思った。
「決まってるじゃん。アベのやつを殺しに行くんだよ」
まるでタバコでも買ってくるわ、というような口調でミキは言った。
アベがゴトウの血を手に入れたことは、まず間違いのないところだろう。
だがたとえそうなったとしても、まだ時間に猶予はあるはずだと、サユは言った。
ならばナッチが太陽となってしまう前に―――叩く。
「・・・・・あたしも行きます」
「え? なに言ってんだよ。ここはどうするのさ」
「ゴトウさんは、なんとか小康状態を保っていますから、
後の処置はここのスタッフでも対応できると思います」
「ふーん。あっそう。とりあえずあたしは有楽町に戻ってみるけど」
「いいえ。そっちではなく神社に戻りましょう」
- 506 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:37
- 「なんでだよ?」と尋ねるミキに、ミツイは説明した。
おそらくアベはゴトウの血を手に入れた。
だがミチシゲの考えが正しければ、まだ太陽化には不十分だ。
それに気付いたアベやカメイが取る行動は何か。
おそらくそれは―――抗体作成の妨害だ。
カメイ達が完全な太陽化を成し遂げる前に抗体が完成すれば、
それはアベナツミにとっては唯一の弱点となるだろう。
カメイ達がそんなことを許すはずがなかった。
ミキはそんな話を冷ややかな目で聞いていた。
「あれ? うちの話、なんかおかしいところありました?」
「いやねえ。変なところはないんだけどさ」
「じゃあ、神社に行くということで。すぐに車を用意しますわ」
ミキはずっと一つ引っ掛かっていることがあった。
サユが言った「ECO moniの最後の切り札」。それは何なのか。
今ここでミツイを問い詰めても答を聞くことはできないだろう。
アヤを失った今、こいつらとの関係もそろそろ潮時なのかもしれない―――
「いや。あたしはそっちには行かない」
結局ミキは、神社に向かうというミツイとは別れ、有楽町に戻ることにした。
- 507 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:38
- ☆
- 508 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:38
- 朱雀の炎は全てを燃やし尽くしたはずだった。
圧倒的な熱量。そこから逃れることができるものはいなかった。
だが逃げずに全てを受け止め、飲み込んでみせた存在があった。
サディ・ストナッチ。
太陽の化身たる悪魔の使者を、地上の炎で燃やし尽くすことなど、できはしない。
ヤスダケイはその特殊能力を使って、周囲全ての酸素を圧縮してコハルに送った。
コハルはその酸素を受けて、己の体をも焼き尽くす業火の翼となった。
だがケイが命を捧げて燃やした炎は―――
太陽の娘。にとっては一つの栄養素でしかなかった。
サディ・ストナッチは歓喜する。
まるで太陽のような鮮烈な炎を受けて、赤い粒子は無限に膨張していく。
アベナツミの体内に潜むガス化のDNAが、熱を受けて著しく変性していく。
もはやアベ本人にもガス化のスイッチを押しとどめることはできなかった。
朱雀という守護獣の炎を生贄として捧げられたアベは、全てを飲み込んだ。
コハルという存在すら、丸々とそのまま飲み込んでしまった。
無限の赤い粒子をもってすれば、それは難しいことではなかった。
コハルという少女の意識も精神も肉体も、今は全てアベの中にある。
朱雀の強烈な炎がナッチの自我の内部で燃え盛っていた。
膨大な熱量を受けて、アベは太陽の娘。としての機能を徐々に動かしつつあった。
一度動き出した歪な歯車は―――もう誰にも止められない。
- 509 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:38
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 510 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:38
- 零――――
サディ・ストナッチがやってくるよ
一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
サディ・ストナッチがやってくるよ
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数
サディ・ストナッチがやってくるよ
闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇の中から
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 511 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:38
- 闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
分 厘 毛 糸 忽 微 繊 沙 塵 埃 渺 漠 模糊 逡巡
サディ・ストナッチがやってくるよ
須臾 瞬息 弾指 刹那 六徳 虚空 清浄 阿頼耶 阿摩羅 涅槃寂静
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇をまといながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇を引き裂きながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇と共に
サディ・ストナッチがやってくるよ
―――零
- 512 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:38
- サディ・ストナッチは歓喜していたが、アベナツミは絶望していた。
5番のウイルスの被験者であるヤスダケイは、一瞬のうちに蒸発した。
もうその血を手に入れることはできない。その組織を手に入れることはできない。
7種ウイルスの被験者の血清を再合成させることは―――もう二度とできない。
これが狙いだったのだ。
アベの目の前で最後の被験者を消滅させる―――絶望を与えるために。
エリの計画が達成不可能になってしまったことを見せるために。
アベナツミに見せつけるために。
コハル達は最初からこれを狙っていたのだ。
アベは絶望し、憤怒した。アベは不完全なガス体となって宙空を彷徨う。
許せなかった。世界の全てが許せなかった。
それでもアベの怒りは内側へ籠ることなく、外側の世界に向かって開く。
いつだってアベの怒りの対象は―――アベ以外の誰かにしか向かうことはない。
いいだろう。
天に輝く太陽になれないというのなら、それでもいい。
この地球上を燃やし尽くす地上の太陽となってみせよう。
そうだ。
燃やす。潰す。殲滅する。
皆殺しにする。この地球上の全てを。命を―――枯らす。
- 513 名前:【処置】 投稿日:2010/01/09(土) 23:39
- いつの間にか夜が明けていた。
そんなことにも気付かないくらい、アベは怒りに我を忘れていた。
真っ赤な怒りの粒子と化した赤い霧は、やがて一人の人間の形へと戻っていく。
だが完全な人間の姿には戻れなかった。もう二度と戻れなかった。
アベはあの強烈な炎が、自分の体の中の何かを変えてしまったことに気付いた。
自分の手の指を見る。6本あった。7本あった。焦点が合わない。
それは目がくらんでいるからではなく、指の方が霧のように揺らめいているからだった。
体内を血液が流れゆく音が聞こえた。激流のような荒々しい音が。
怒り。悲しみ。虚しさ。悔い。恐るべき速さで、血管の中を感情が流れていく。
感覚が研ぎ澄まされていく。粒子が一原子単位で動くことが知覚できた。
音が聞こえた。一台の車が近づいてくる。
殺す。
それがカメイであろうがミチシゲであろうが殺す。
味方みたいな顔をしても殺す。敵のようにふるまっても殺す。必ず殺す。
言い訳しても殺す。命乞いをしても殺す。死んでいても殺す。殺してから殺す。
殺して殺してから殺して殺そうとして殺してやっぱり殺してそれでも殺す。
アベは行き場のない殺意を抱えたまま車の方へ振り返った―――
- 514 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/09(土) 23:39
- ★
- 515 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/09(土) 23:39
- ★
- 516 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/09(土) 23:39
- ★
- 517 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:06
- 車が神社に近づいていくにつれて、ミツイの中で不安がもたげてきた。
神社がある方角からは、いつものような神気が伝わってこない。
いつもなら神社に近づくと、結界で守られた神木の生気が伝わってくるものなのに、
今はそういった安らぎに似た空気感が一向に感じられてこないのだ。
「―――全てを燃やすのです」
ミツイの中に、ミチシゲが放った言葉が蘇った。
不安が不安を呼び、妄想が妄想を呼ぶ。
不穏な想像が現実性を増しつつある中、ミツイは急いで車を走らせた。
そしてある一点で街が途切れた。
街の中に突然現れた断絶だった。
一本の線。その先は何もない空白地だった。地面しかないのだ。
ミツイは車を止めて外に飛び出す。
そこは見渡す限り何も存在しない無の大地だった。
ない。何もないのだ。ビルはおろかその瓦礫すら見当たらない。
人や動物のような生気が全く感じられない。空気すら薄いように感じた。
空気。酸素。全てを燃やす。まさか。
まさかコハルが朱雀の能力を全面発動させて―――
ミツイは再び車に飛び乗ると、思いっきりアクセルを踏み込んだ。
- 518 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:07
- 目標物が何もない真空の大地の中でも、ミツイは迷いなく車を走らせた。
神社のある場所なら目をつぶっても行くことができる。
だがどれだけ車を走らせても、神社の姿は見えてこなかった。
夢の中の世界であっても、ここまで何もない空間はないだろう。
無の世界の中で、ミツイは発狂しそうになる恐怖と戦いながら、前方を凝視し続ける。
やがてその先に一点の赤い光が見えてきた。
赤。
ミツイがその色から連想することは二つ。炎と霧。クスミコハルとアベナツミ。
そのいずれかがあの赤い光の先にいるような気がした。
なぜか二人が同時にそこに立っている図は想像できなかった。
近づくにつれて、赤い光は大きくなっていくのだろうとミツイは考えていた。
徐々にはっきりと見えてくるのだろうと思っていた。
だが、その光は逆にどんどん縮んでいった。小さく小さくなっていく。
そして光は一点に収斂する―――その地には一人の少女がポツンと立っていた。
少女は陽炎のようにゆらゆらと揺れている。
なぜだろう。
ミツイにはその少女がコハルであるのかどうか、判別がつかなかった。
車を止め、怯えるようにゆっくりと外に出て視線を彼方へと向ける。
その先にいる少女は―――やはりコハルなのかどうかはっきりとしなかった。
- 519 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:07
- 透き通るような無の空気の中を、毅然とした一言が貫いた。
「殺す」
赤い少女はそれだけ言うと、その身を紅蓮の炎で包み込んだ。
木で彫った仏像のような、くっきりとした輪郭を持つその炎は、
ミツイの目には、見慣れた朱雀の炎の特徴と一致しているように見えた。
だが声が違う。少女の声は明らかにコハルとは違う。
美術品のような造形を持つ炎に包まれている少女は―――コハルではなかった。
何が何だか全くわからないまま、ミツイは車の影に身を寄せた。
紅蓮の炎は、まるで巨大な鳥ように、雄大に翼を広げている。
その姿は朱雀が能力を発動させているようにしか見えなかった。
- 520 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:07
- だがコハルはいない。神社もない。大地からは全てが消えている。
コハルは殺られてしまったのだろうか?
それではヤスダケイはどうなったのか? ヤスダの血はどうなった?
この赤い少女は何者なのだ? こいつがアベナツミなのか?
答の一つはミツイの目の前にあった。
少女の体が崩れていく。赤い霧とかした少女が拡散していく。
その動きはまさに―――ゴトウが見せたような、サディ・ストナッチそのものだった。
アベナツミ。
それが生き残った者の名前か。
もしかしたらコハルは既に殺されているのかもしれない。
ミツイは車の後部にあるトランクを開けた。
そこには20リットルのポリタンクが三つ入っていた。
サディ・ストナッチの相手をするには少々心もとないが、数分くらいはもつだろう。
- 521 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:07
- ミツイはポリタンクの蓋を開けると、20キロのタンクを軽々と持ち上げ、
頭から水を浴びる。三つのタンクはあっという間に空になった。
「黒き土よ・・・赤き炎よ・・・白き月よ・・・青き水よ・・・・」
タンクを下におろすと、ミツイは瞳を閉じ、拳を握った手を胸の前で交差させた。
ずぶ濡れになった頭からは、前髪を伝って透明な水が滴り落ちる。
右手を前に。次の瞬間には左手を前に。そしてまた右手を前に。
目にも止まらぬ速さで、何度も何度も交差を繰り返す。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉を、ミツイは一息で一気に唱えた。
巨大な水球の向こう側で、クロスさせたミツイの手首が鮮烈な青い光を放つ。
「無限の闇の向こうから来たれ。無限の闇をまといて来たれ我が守護神よ。
今こそ、その力を解き放ちたまえ。いざ、開け! 青き東方の門!」
青き光がミツイの体を包み込み、ミツイの体をゆっくりと溶かす。
次の瞬間、ミツイの肉体は人間の輪郭を消し、異形のものと化していた。
それとほぼ同時に―――紅蓮の炎が車を包み込んでいった。
- 522 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:07
- 紅蓮の炎に触れた瞬間、青龍の中に奇妙な痛みが溢れた。
奇妙というよりも―――それは懐かしい痛みだった。
ずっと昔、幼い頃、コハルと何度も修行で戦ったときに触れた炎。
それと同じ感覚だった。間違いない。この炎は朱雀の炎だ。なぜそれがここに?
守護獣というのは元々、SSを変異させて作ったものだ。
つまり、本をたどればSSも守護獣も同じ親を持つ兄弟だと言える。
ゆえにSSも朱雀と同じような力を持っているということなのだろうか?
だがミツイがそんな疑問にとらわれていたのはほんの一瞬だけだった。
今はそんなことをのんびりと考えている場合ではない。
そして今の状況では、アベと真正面から戦うことはできない。
吸い込んだポリタンクの水が尽きる前に、ミツイができることは一つ。
青龍は紅蓮の炎をかわし、背後に大きく跳び下がる。
今は何もない土地だが、間違いなくここは神社のあった大地のはずだ。
理屈ではない。匂いでわかる。感覚でわかる。
そしてここが神社のあった大地であるのなら―――
相手がサディ・ストナッチであっても、ミツイには少なからぬ勝算があった。
ミツイは体内に循環していた水分を全て集め、口から吐き出す。
水流を細めて地面の一点に叩きつけた。
- 523 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:07
- 針のように細く伸びた水流が、固い岩盤を突き破って地下に伸びる。
狙いは寸分たがわなかった。
ミツイが放った強力なエネルギーは瞬く間に地下水脈までたどり着いた。
関東でも一、二を誇る芳醇な地下水源。
これが地下を流れているからこそ、ECO moniは神社をここに建てたのだ。
深く潜り込んだ水の流れが反転する。
水の匂い、水の味。青龍は喉をうならせて、地下水脈を吸い上げた。
大地が裂ける。朱雀の炎によって乾ききっていた大地が、黒く湿りを帯びていく。
地面のところどころから小さな噴水が湧きたった。
青龍は水を吸い込むと、すかさず霧と化して空気中に撒き散らす。
局地的な湿度が急激に上昇していった。
アベがコハルのように炎を操るというのならそれもいいだろう。
だが炎は水に勝つことはできない。水の中で燃えることはできない。
ミツイは、修行中もコハルに敗れたことは一度もなかった。
母なる水は全ての生物を飲み込む。
炎の燃焼など一時的な煌めきに過ぎない。
青龍は水の鎧を身にまとうと、後ろ足で立ち上がり、巨大な咆哮をあげた。
- 524 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:08
- 巨大な青龍を前にしても、ナッチの絶対的な殺意は一向に衰えていなかった。
それどころか、朱雀の炎を受けて、より一層激しく燃え立っていた。
殺す。殺殺す。殺殺殺す。殺殺殺殺す。殺殺殺殺殺す。殺殺殺殺殺殺す。殺殺殺殺殺殺殺す。
ナッチは全てに干渉する。全てに介入する。
既にコハルの意識は完全にナッチの意識と同化していた。
ナッチは異常発達した血液を通じて、飲み込んだコハルの意識に介入していく。
もはやコハルはナッチの右腕。忠実な下僕。自我の一部。
守護獣の変異DNAがナッチのDNAとからまる。
同じDNAから進化していった二つのDNAの相性は良好だった。
ナッチは右手を天にかざす。太陽に向けて人差し指を伸ばす。
その先に、一羽の巨大な朱雀が舞い降りた。
朱雀は羽を広げたまま、雄大なその体を炎のようにゆらめかせている。
ナッチは左手を水平に伸ばす。そしてまた人差し指を伸ばす。
その先に、もう一羽の朱雀が舞い降りる。
いつの間にかナッチの周囲には赤い霧が立ち込めていた。
その霧の一粒一粒が―――全て灼熱の朱雀だった。
ナッチが胸の前で両手をクロスさせる。
ふわりと舞う朱雀の尾から、流星のように一陣の炎が流れた。
二羽の朱雀が甲高い鳴き声をあげながら青龍に襲いかかっていく―――。
- 525 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:08
- 青龍の足元から地下水流が噴き出してきた。
周囲六ヶ所から吹き出た水流は、上空から見れば六芒星の形に見えたことだろう。
描かれた巨大な星印は、突端からゆるやかなアーチを描いて、
青龍の頭上で一つに重なった。
莫大な量の水を受けた青龍の背中からは巨大な羽が生えてくる。
翼竜と化したミツイは、上昇して、水流が重なる地点に身を躍らせる。
水飛沫の彼方へと消えた翼竜を追って、二匹の朱雀が飛び掛かってくる。
朱雀が一つ羽ばたくごとに、灼熱の熱風が舞いあがり、水霧を蒸散させていく。
二匹の朱雀は、それぞれ青龍の両肩に噛みつくと、
青龍を水流の中から強引に引きずり出してきた。
青龍は顔を右に向けると、至近距離から朱雀の顔に食らいついた。
その朱雀の顔は―――まるでコハルの顔のように見えたが、
青龍がそんなことに頓着する様子はない。
噛み砕くと同時に、水流もろとも朱雀を吐き出す。
返す刀で左に向きかえると、今度は巨大な腕を振り上げて、
鋭利な爪を立てたまま、もう一羽の朱雀を殴り飛ばした。
だが二匹の朱雀は―――頭から上を失いながらもその飛翔を止めることはない。
- 526 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:08
- ミツイは背中に衝撃を受けた。
背後から三羽目の朱雀が襲いかかってきていた。
背後に伸ばす手に向かって四匹目の朱雀がからみついてくる。
ターンしようとする青龍の両足に、今度は五匹目と六匹目の朱雀が食らいつく。
ミツイは全精力を振り絞って、地下水脈を吸い上げた。
口を開き、鉄砲水のような水流を朱雀に浴びせかける。
ビルをも砕く激流を受けて、二匹ほどの朱雀が彼方へと吹き飛ばされていった。
その上唇に七匹目の朱雀が噛みつく。下唇には八匹目の牙が。
舌には九匹目の牙が入り込んでくる。そして目には十匹目の牙が―――
赤い怪鳥の爪牙が、雲霞のごとく押し寄せてきた。
青龍は爆発音のような絶叫をあげながら、しゃにむに両手を振り回す。
パワーショベルのような爪が朱雀の首を吹き飛ばしていく。
だがその爪にも十一匹目の朱雀がからまる。逆の手には十二匹目が。
青龍は翼をはためかせて朱雀を払い落そうとした。だが落ちない。剥がれない。
そして背中には十三匹目が。腹には十四匹目が。喉には十五匹目が。
青龍の体には、まるで飴に群がる蟻の大群のように、無数の朱雀がからみついてくる。
もはや一匹一匹を相手にする余裕はない。肉弾戦は無効だ。
そう判断している間にも十六匹目の朱雀が青龍の翼を引き千切る。
空中でバランスを崩しながらも、青龍は大量の水を腹にため、全身を覆う鱗から発した。
極限まで薄められた水のカッターが鱗もろとも全身から飛び出す。
青龍にからみついていた朱雀の体は、ことごとく切り裂かれて四散した。
- 527 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:08
- 十六匹の朱雀はバラバラに引き裂かれる。
朱雀の赤い羽根がはらはらと舞う。一枚の羽根から―――新たな朱雀が再生する。
十六匹の朱雀が三十二匹の朱雀に分かれる。三十二匹が六十四匹に分かれる。
六十四匹が百二十八匹に、そして百二十八匹が二百五十六匹に分かれる。
朱雀は無限の広がりを見せる。赤い粒子の全てが朱雀だった。
朱雀の群れは地平の景色すら変えた。空一面が羽ばたく赤に染められていく。
無数の朱雀の分裂によって、空の青が全て覆い尽くされていく。
その中の一匹に、足で両肩をつかまれて空に浮かんでいる一人の少女がいた。
「殺す」
少女の自我はかろうじてまだ保たれていた。
直前にゴトウの血を吸収していた効果だろうか。
自我は拡散することなく、ナッチという人格の中に押しとどめられていた。
だがそれは逆に―――彼女が完全な太陽とはなれなかったことを意味している。
たった一つ。
5番のヤスダケイの遺伝子だけが足りなかった。
たった一つのマスターピースを失ったナッチの自我は、
大きくバランスを崩し、落ち着くべき場所を失くして不安定に彷徨う。
ただ太陽が燃えているかのごとく、目の前にあるもの全てを
燃やし尽くすということだけが、今のナッチの中にある意識の全てだった。
ナッチが両手を大きく広げる。
十本の指の先には陽炎のような真っ赤な炎が揺らめいていた。
天に太陽がある限り、紅蓮の炎が尽きることはない。
- 528 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:08
- 地面からは靄のようなものが漂っていた。
それはもはや、青龍が呼び寄せた水霧と表現することはできなかった。
それは大量の朱雀が蒸発させた、灼熱の蒸気だった。
空白の大地の気温が異常なまでに高まっていく。
熱による水分の蒸散。
青龍の体も例外ではなく、どんどん水分が失われていった。
無限のように思われた地下水脈が、急に矮小なものに思われて仕方なかった。
ミツイは驚愕していた。この少女は本物だ。本物の太陽の娘だ。
ミツイの足元には大地がある。地球がある。
その水脈は、地球そのものの大きさと同じであり、無限であると思っていた。
この地球上では、水を操る青龍こそが最強で無敵の存在だと確信していた。
だが違う。地球の力は確かに膨大ではあるが、無限ではないのだ。
水脈が枯れ、川が乾き、山が枯れ、海が干上がる。
使い続けていれば、いつか必ず水は尽きる。
だがこの少女の炎の源はなんだろうか。無限であるとしか思えない。
太陽がその輝きを止めないように、溢れ出てくる炎は無限の輝きに満ちていた。
ミツイには両者の力の差が―――
地球と太陽の大きさと、同じくらいの差があるように思われた。
天に唾する。
ミツイが水流で朱雀を撃ち落とす行為は、まさにそれに他ならなかった。
- 529 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:08
- 圧倒的な劣勢。なぜだろうか。不意に笑みが漏れた。
ミツイは長い舌で口腔内をまさぐる。唾はまだ枯れてはいない。
ならば血反吐となるまで吐き続けるべきだろう。
たとえ相手が太陽であっても、だ。
それが青龍の使命であり、ECO moniの日常であるのだから。
最後にミツイの心に浮かんだのは、なぜかミチシゲの言葉ではなく、アヤの言葉だった。
―――自分の力を卑下しちゃいけない。やるべきことをやるんだ。
そうだ。たとえ相手が太陽であっても、神であっても、やるべきことをやるんだ。
破格の巨大さを持つことは確かだが、太陽の大きさだって無限ではないはずだ。
ならばこつこつと一つずつ仕事を重ねていくべきだろう。
きっとアヤならそうする。ミチシゲだってそうするだろう。
それが生きていくということなんだ。
どう生きていくかということは、どう死ぬかということも含まれるんだ。
そして、それでも人間は―――死ぬために生まれてきたんじゃない。
だからこそ戦う。天に唾し続けなければならないんだ。
- 530 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:09
- 青龍は地鳴りのような咆哮をあげて、水流を吐き出す。
打ち砕かれた朱雀が数匹地面に落ちた。それでいい。これを繰り返すまでだ。
己の使命に殉じ、闘志を奮い立たせるミツイの目に、太陽の娘。が立ちはだかる。
再びナッチが両手をクロスした。十匹の朱雀が同時に飛び掛かってくる。
ミツイは唇を薄く細めて横に伸ばした。それに合わせて水流の形が薄く伸びる。
青龍刀のように薄くしなった水の刃が右から左に流れた。
五、六匹の朱雀がそれによって切り裂かれていく。
だが朱雀の屍を乗り越えて、さらに多数の朱雀が舞い上がる。
切り裂かれた屍からも無数の朱雀が生まれてくる。
ミツイに向かって覆いかぶさってくる。
赤い空が―――天が落ちてくる。
真っ赤な空は完全に青龍の存在を押し潰していった。
やがてミツイの視界は完全無欠な赤で満たされた。
そして視界だけではなく―――その精神すらも傍若無人な赤に侵略されていった。
- 531 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:09
- ☆
- 532 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:09
- エリが運転する車が神社の跡地近くに到着したのは、
まさに無数の朱雀が青龍を飲み込もうとしている、その時だった。
周囲は核爆発の後のように塵一つ残っていない。
ナッチが関わる何らかの激しい衝突が起こったことは明らかだったが、
さすがにエリもここまでの惨事は予想していなかった。
まさか5番のウイルスを入手したアベが即座に太陽化してしまったのだろうか?
だが周囲にはそんな荘厳な雰囲気は感じられなかった。
それどころか、車の先ではまだ何らかの戦いが続いているように見えた。
エリにもヤグチにも見覚えのある青龍のシルエットが、
真っ赤な怪鳥の群れに包まれていくところがはっきりと見えたのだ。
「あれ? あれって朱雀じゃ・・・・・・・」
「なんだそれ。例の青龍ってやつの仲間か?」
「ええ。そのはずですが・・・・・でもあれってアベさんですよね?」
フロントガラスの向こう側には一人の少女の姿が見えた。
一匹の朱雀に足で肩を掴まれた少女は、ゆっくりと降下して地上に着地した。
少女の体に無数の朱雀が重なっていく。
そしてまるで霧が晴れるかのように―――朱雀の群れは消えていった。
そこに残ったのはたった一人の少女だけだった。
- 533 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:09
- ナッチはコハルだけではなくミツイのことも飲み込もうとした。
大爆発を起こした朱雀は、唐突にナッチの内部に吸い込まれていった。
だからその動きをナッチ自身が自覚することはできなかった。
だが今回は違う。ナッチは自らの意志で青龍を飲み込もうとしていた。
ナッチは全てに干渉する。全ての粒子に介入する。
青龍を構成している要素は、朱雀のそれと似ているような気がした。
ならば朱雀と同じように取り込めるかもしれない。
ナッチの直感は正しかった。
朱雀と同様に、SSを変異させたDNAから生まれた青龍のDNAは、
適格者たるナッチのDNAと並外れて相同性が高かった。
ナッチはさして苦労することなく―――青龍の全てを飲み込んだ。
だがナッチの体内で起こった反応は、朱雀の時以上に激烈だった。
朱雀の持つ炎の属性と、青龍の持つ水の属性。
正反対の属性を持つ二つの要素が、ナッチの体内で真正面からぶつかった。
コハルとミツイ。二人の力は全くの互角だった。
朱雀が青龍の尻尾に噛みつく。青龍は朱雀の尻尾に噛みつく。
二匹の魔獣はお互いの尻尾を飲み込みながら消失していく。
正反対の属性が重なり合った巨大なウロボロスが超高速で回転した。
ナッチの心に炎が満ちる。ナッチの心に水が満ちる。
ナッチの心から炎が消える。ナッチの心から水が消える。
ナッチの心から炎が生まれる。ナッチの心から水が生まれる。
永遠に終わらないようにも見えた輪廻は、突然臨界点に達した。
- 534 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:09
- 理性的な判断だったわけではない。むしろ動物的な直感だった。
エリはマリの首根っこを片手でつかむ。
もう一方の手で車の床をぶち抜いた。
守護獣を召喚している時間も惜しかった。
エリは素手で地面を掘って地中深くへと身を投げる。
爪が割れる音がした。指の骨も何本か折れたかもしれない。
だがそれよりも「逃げろ」「遠くへ」「潜れ」「深く」という本能の声が、肉体を支配していた。
ナッチが突如として放った赤黄色い光。エリは全力でその光から逃れた。
5メートルほど潜ったところだっただろうか。
強烈な光が地上をかすめていった。
エリはあわてて分厚い岩盤で穴をふさぐ。
土と石を操る属性を持ったエリでなければできなかった芸当だろう。
岩盤の隙間からも、かすかに強い熱が漏れてくる。
その間にもエリは、留まることなく地中目指して穴を掘り続けていた。
背後から熱風が迫ってくる。皮膚が焦げる感覚がした。
これだけ深く潜っているにも関わらず、熱風の威力は並ならぬものがあった。
地上は一体どういう状況になっているのか―――想像するのも恐ろしかった。
- 535 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:09
- ようやく落ち着いたところでマリが声を発した。
「おい・・・・・お前・・・・こんなことできんのかよ」
「え? まあ・・・・・そんなこと言ってる場合じゃないみたいですけど」
マリはエリの玄武としての力は知らなかった。
瞬く間に地中深くまで素手で掘り進んだエリの力に、改めて驚かされていた。
だが確かに―――今はそんなことを話している場合ではないようだった。
「あれなんだよ。あの光。もしかしてナッチが太陽になったのかよ?」
ナッチが5番の血を手に入れて太陽化が始まった。
そうとでも解釈しない限り説明がつかないような事態だった。
だがエリはマリの意見を即座に却下した。
「違います。おそらく失敗でしょう」
「なんでそんなことわかんだよ! ちらっと見ただけじゃねーかよ」
「太陽の娘。が完成したとき、まず起こるのはガス化です」
「ナッチがときどきやってるあれか」
「あれのもっと大規模なものです。それがまず最初に起こるのです」
「そんでどうなるんだよ」
「ガス化が起こると、次にそのガスが上空に向かって上昇していくはずです。
地上で太陽化が起こることはないのです。上昇して大気圏を超え、
太陽の近くに到達してから太陽化のプログラムが作動するはずなんです」
だが今まさに地上で起こったことは―――
太陽化が始まったようにしか見えなかった。
- 536 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:09
- 「・・・・・・じゃあ、この先はどうなるんだよ」
「そんなこと誰にもわかりませんよ」
「わからないじゃねーだろ!」
「この地上で太陽化が起こったことなど有史以来一度もないんですよ」
「マジで? マジで太陽化が起こったのかよ?」
「それも・・・・・・わかんないです」
太陽化に必要なゴトウマキの血は既にナッチの体内に入っている。
だがそれで太陽化が起こるのであれば、もっと前に起こっているはずだ。
もしかしたらこの神社で何かが起こったのかもしれない。
5番の血を入手するときに何らかのトラブルがあったのだろうか?
そしてナッチの体内で何らかの変化が起こり―――太陽化が発動してしまったのだろうか。
「ナッチは5番を手に入れたのかよ? 失敗したのかよ? どっちだよ?」
「おそらく手に入れてないでしょう。5番を入手しているのであれば、
アベさんは完璧にウイルスの能力をコントロールできたはずです。
自我を失うこともありませんから、さっきみたいに暴走することはあり得ません」
「とにかく・・・・・一旦地上に出てみねえか?」
「そうですね。熱量も衰えてきたようですし・・・・・・」
マリは小型化してエリの口の中に入った。
エリは念のために玄武を召喚し、分厚い甲羅で体をカバーしながら、
のっそりと地上に這い出ていった。
エリは空を見上げる。
そこには―――二つの太陽があった。
- 537 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:10
- 地上は信じられないくらい暑かった。
先ほどまでの真冬のような寒さはどこにもない。
40℃? 50℃? まるで灼熱の砂漠のように、強烈な太陽光が地面に降り注いでいた。
一つの太陽はいつものように遠く空の彼方にある。
だが新しく発生したもう一つの小さな太陽は、信じられないくらい近い距離にあった。
小さな太陽はガス体のようにふらふらと漂いながら―――
やがて赤い霧のように拡散していき、その熱量を弱めていく。
そして雲が流れていくようにゆらゆらと流れていき、地平線の彼方へと消えていった。
それでもまだその場には、夏の盛りのような暑さが残っていた。
エリはペッとマリを吐き出す。
元の姿まで巨大化したマリは、巨大な亀となっているエリの姿を見て
しばし呆然としていたが、エリが元の姿に戻ると、やや落ち着きを取り戻した。
「お前よお。なんか知らねーけど凄いな、おい」
「だから今はそんなこと言ってる場合じゃないんですって」
「あの消えてった太陽みたいなというか、赤い霧がナッチかよ」
「おそらくそうです。マズイですね。太陽化が不完全なまま、暴走してますね」
ECO moniの古い資料には、非適格者にSSを投与したときの失敗例の記載もあった。
今のナッチの状態はどことなくその状態に似ているように思える。
このまま無意味な暴走が続き―――やがて燃え尽きてしまう可能性が高い。
だがそこに至るまでに、地上のどれほどが焦土と化すかは、誰にも想像できない。
それを止めることができるのは―――アベナツミ本人しかいないのだ。
- 538 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:10
- 「ナッチは自我を失っちまったのか?」
「その可能性は半々ですね」
それでもエリは7分割ウイルスの作用に、まだ自信を持っていた。
能力が暴走したとはいえ、まだナッチが自我を保っている可能性は高い。
自我を失っていなければ、そのうちアベ自身が自分をコントロールし始めるだろう。
また、仮に自我を失っているとしても、それは一時的なものであるはずだ。
なぜなら太陽化が不完全だからだ。
太陽化が完遂するまで―――自我は失われないのだから。
一時的に自我を失っているのなら、回復させる方法はある。5番の血があればいい。
5番の血を与えれば、アベの中で7分割ウイルスが完全な形となり、自我も戻り、
きっとアベは究極のモーニング娘。となることができるだろう。
だが5番のタトゥーナンバーが光っていた神社は既に消失している。
今から5番の血を探していては、とても間に合わないかもしれない―――
「間に合わないって何にだよ?」
「それはですね・・・・・」
そこでヤグチの携帯が鳴った。虚を突かれたヤグチの表情がこわばる。
この携帯の番号を知っているのは、アベとカメイと死んだテラダしかいない。
いや、もう一人いた。カゴだ。
いつもならフォースのことなど軽く無視するヤグチだったが、
場の重々しい雰囲気から逃れるように、携帯を取り出して通話ボタンを押した。
「おう。カゴか。なんかあったのか?」
- 539 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:10
- ☆
- 540 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:10
- ヨシザワはイシカワの作った朝食を黙々と食べていた。
白虎との戦いの疲れは全く残っていなかった。
むしろ戦う前よりも、ヨシザワの筋肉は数倍パワーアップしていると言ってよかった。
そんなヨシザワの異常に発達した筋肉は、大量のカロリーを要求していた。
ヨシザワはテーブルに出された五人分の食事を、残すことなく綺麗に平らげた。
「ヨッスィー、体に異常はない?」
「ない。なさすぎて気持ち悪いくらい・・・・・」
筋肉痛はおろか筋肉疲労のようなものすら感じられなかった。
明らかに人間の生理的作用に反している。その感覚がかなり気持ち悪かった。
イシカワの指導を受けてトレーニングを開始してから数週間。
まさかこれほど早くその成果が出るとは思っていなかった。
もっともイシカワのあの目に狂いがあるはずもないだろう。
イシカワは、どんな厳しい訓練の最中にあっても、
ヨシザワの筋肉の限界をギリギリのところまで見極めることができた。
そのイシカワが作成したトレーニングカリキュラムは、
完全にヨシザワヒトミ個人にカスタマイズされたものだった。
もはやヨシザワヒトミは、以前のヨシザワヒトミではなかった。
イシカワリカという精密機械によって作り上げられた、
筋肉のサイボーグと化していた。
- 541 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:10
- 訓練の成果はイシカワにとっても驚くべきものだった。
確かに訓練には完璧を期してきた。
人間の限界を超えるような、過酷なトレーニングをヨシザワに課してきたのだ。
だがそれでもヨシザワがどこまで強くなるかは、イシカワには未知数だった。
そんなヨシザワがサユと激突したのは予定外のことだった。
だがヨシザワは白虎と化したサユと互角の勝負をしてみせた。
満月の下の白虎は、他の三獣の力をも遥かに凌駕する力を持つという。
これ以上のスパーリングパートナーはいなかっただろう。
白虎と互角の戦いを見せた今、ヨシザワの力がマリィやナッチよりも
大きく劣ることは考えられなかった。
そして今―――イシカワの手にはヤスダケイの血がある。
ぐずぐずしていたら、ECO moniの追手が迫ってくるかもしれない。
仕掛けるのは今しかないのかもしれない。
イシカワはヨシザワに最後の決断を促した。
ヨシザワがそれを躊躇う理由は一つもない。黙って鞄から携帯電話を取り出した。
それは―――ヨシザワが持ってきた、たった一つのカゴの形見だった。
ヨシザワはそこに登録されていた一つの番号を選び、ボタンを押す。
間髪入れずに相手が出た。
『おう。カゴか。なんかあったのか?』
- 542 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:10
- ☆
- 543 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:11
- 『マリィさん、お久しぶり』
ヤグチは戸惑う。
携帯の向こう側から聞こえてきたのは、予想したカゴの声ではなかった。
その声の主が誰であるのか、記憶をたどるのに少々時間がかかる。
この女と携帯で話したのは初めてのことかもしれない。
「ああ。ヨシザワか。おめー、なんでカゴの携帯から電話してんだよ」
『なんでって? ナカザワさんの借りを返すためだよ』
すっとヤグチの体温が下がる。
バカな。いきなりなぜそんなことを言い出す。計画は完璧に遂行したはずだ。
今更カゴのやつが秘密をばらしたとも思えない。
だがヨシザワの口調からは断固とした強い意志が窺えた。
『あんたがやったってことは全てわかった』
「はあ? 何言ってんだかわかんねーよ。そんなことはカゴにでも訊けよ」
『カゴは死んだ』
ヤグチの体温がさらに下がる。
カゴが死んだ? バカな。ヨシザワが殺したのか?
ヨシザワはカゴから全ての情報を手に入れたのか?
ナカザワが殺したのがマリィであることも―――知ったのか?
- 544 名前:【処置】 投稿日:2010/01/11(月) 23:11
- だがナカザワのことなど、とっくに終わった話だ。過去の話だ。
ヤグチは数秒かかって冷静さを取り戻した。
こっちは太陽を支配できるかどうかという瀬戸際の話をしているのだ。
何がナカザワだ。何がカゴだ。話が小さ過ぎて比較にならない。
フォースみたいなチンケな店のことなど、今はどうでもよかった。
ヨシザワをブチ殺すのは簡単だが、そんなことをしている時間はない。
とりあえず今までのようにフォースのことは無視しておこうとヤグチは思った。
どうせヨシザワにはマリィの足取りをつかむことなど不可能だ。
過去にも何度かカゴの手の者に身辺調査をされたことがあったが、
マリは何の足取りもつかませなかった。こっちだって素人ではないのだ。
しかもここは関東。身を隠そうと思えばいくらでも隠せる。
とにかく今はヨシザワの相手などしている暇はない。
だが携帯を切ろうとしたヤグチの耳に―――あり得ない言葉が飛び込んできた。
『5番。エコモニが持っていた5番の被験者の血』
ヤグチは携帯を取り落としそうになる。お手玉をしながらかろうじて受け止めた。
その携帯にエリがすっと寄ってくる。
彼女にも、大声で叫んだヨシザワの言葉が聞こえたようだ。
『あたしがそれを持ってるって言ったら?』
- 545 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/11(月) 23:11
- ★
- 546 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/11(月) 23:11
- ★
- 547 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/11(月) 23:11
- ★
- 548 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:11
- エリが問答無用でヤグチから携帯をひったくった。
「なにすんだよ!」
取り返そうとするヤグチの動きをエリは太い腕で抑える。
真偽のほどは確かではないが、相手が本当に5番の検体を持っているのならば、
これ以上ないくらい慎重な態度が必要とされる。
重要な取引を仕掛けるにはヤグチの口は軽過ぎる。
もしナッチが自我を失っているのなら―――
それを取り戻すには7分割ウイルスを完成させるしかない。
今はこの5番の血に、地球の命運がかかっていると言っても過言ではなかった。
『なんだなんだ? そっちはなんか取り込み中なの?』
「いいえ。お気遣いなく」
『誰だお前』
「フォースのヨシザワさんですね。ナカザワさんの仇が取りたいですって?」
ヤグチからの報告もあって、エリもフォースのことについては一通り知っている。
このヨシザワという女が、あの施設にいた追加メンバーであることも、
強力なキャリアであることも知っていた。
ヨシザワがどこかでECO moniとつながっているとすれば、
それはあの9番のイシカワリカを介してではないだろうか。
とにかく、彼女の話が本当であるのか、慎重に見極める必要があった。
- 549 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:11
- 『そうか。お前がアベナツミか』
「いいえ。アベさんは今ちょっとお出かけ中でしてね」
『じゃあ、カメイエリか』
「ええ。詳しいんですね」
『お前らがSSか。ナカザワさんを殺って血を奪ったのはお前らか』
SSのことも知っている。アベナツミという名前も知っている。
ヤグチはフォースでは一度もその名前を出さなかったはずだ。
ヨシザワもこの件に関してかなり詳細な調査をしたということか。
だが調べてすぐにたどり着ける名前でもない。
やはり彼女はイシカワを通じてECO moniとつながっているのだろうか。
彼女達がECO moniと敵対しているのか、いないのか。そこが鍵だ。
「ええ。そうですよ」
『否定しないんだ』
「なにをいまさら」
『だな』
「その血、くださいな」
『やなこった』
「本物?」
『さあね』
相手のヨシザワという女は、かなり場慣れしているようにエリには感じられた。
声でわかる。これだけ重要な取引の場だというのに、全く気後れしていない。
まるで友達との雑談かのように適当に話しているように聞こえた。
それでも不思議とその話は―――嘘のようには聞こえない。
徐々に緊張が高まってくる。
エリは問題の本質に迫るため、いくつかの質問を重ねることにした。
- 550 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:12
- 「5番の名前はご存知ですか?」
『ヤスダケイ』
「彼の居た場所は?」
『ケイは女だね。居場所は神社の水槽の中』
「水槽の中? 溺死体でも見つけたの?」
『生きてたよ。ケイは呼吸器が異常に発達したキャリアだからね』
「なるほど。それであなたが神社に侵入した」
『いや。あたしはお祓いとやらを受けてないし』
携帯を持つエリの手に汗がにじんだ。
ヨシザワが話してみせたことは、関係者でなければ知り得ない情報ばかりだった。
水槽の中にいたというのも頷ける話だ。真実味がある。
以前にテラダは、水中ではタトゥーを感知できないかもしれないと言っていた。
間違いない。この女は本物のケイのことを知っている―――
「じゃあイシカワリカさんが持ってきたのかな?」
『へえ。知ってたんだ』
「イシカワさんもそこにいるんですね」
『いるよ』
「否定しないんですね」
『なにをいまさら』
「ですね」
間違いない。
イシカワがなぜECO moniを裏切ったのか、それはわからない。
あるいはこれはECO moniが仕掛けた罠なのかもしれない。
だがそれはともかく、この女がケイの血を持っている可能性は非常に高い―――
- 551 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:12
- 「あなたの願いは?」
『願い? 急にどうしたのさ』
「取引をもちかけるために電話してきたんでしょ?」
『マリィとアベの命』
その条件は想定の範囲内だった。
ヤグチはかなり汚い手を使ってナカザワの命を奪った。
だからヨシザワが復讐のためにこちらに迫ってくるというのはわかる。
だが彼女はなぜアベナツミのことまでも知っているのだろうか―――
「それは難しいですね。お金で片付きませんか?」
『じゃあ、200円で』
「200億円の間違いじゃなくて?」
『どっちでもいいよ。200円でも200億円でもお好きなように』
「・・・・・血なんて別にいらないとおっしゃる」
『頭が良くて助かるよ』
ヨシザワの投げやりな言葉を聞いてエリは顔色を失くした。
5番の血は何としても欲しい。
そしてこっちが死ぬほど欲しがっていることを、ヨシザワもわかっているのだ。
取引としてはこれ以上不利な条件はない。
向こうはその気になれば、血をドブに捨てることだってできるのだ。
- 552 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:12
- エリは頭を冷やした。
売り言葉に買い言葉では、会話はあちらのペースになってしまう。
こういう時は―――相手の立場になって考えるに限る。
なぜヨシザワはヤグチの携帯に電話をしてきたのだろうか?
このヨシザワという女。電話で話している限り、頭の悪い女には見えない。
それがなぜ、わざわざ向こうから電話をしてきたのだ?
なぜ5番の血を持っているという決定的な切り札を晒すのだ?
この女が今一番必要としていることは―――なんなのだ?
エリは熟考した。時間にすれば短い。一瞬の判断が要求された。
一つの推論がひらめく。
もしかしてヨシザワはヤグチの居場所をつかめなかったのではないか?
「200円でも200億円でもいいから、直接持ってこいとおっしゃる」
『・・・・・頭が良くて助かる』
「つまりヤグチさんに会いたいと」
『アベさんもいれば言うことないね』
「あなた、ヤグチさんとアベさんの二人を、たった一人で相手するつもり?」
『いや。カメイエリとテラダ。あんたらも入れた四人がターゲットだ』
エリは声にならないうめきを飲み込んだ。
- 553 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:12
- 自分の推論はおそらく正しかったのだろうとエリは思った。
この女はヤグチを探している。だが居場所がつかめなかったのだ。
もしフォースつながりでヤグチを探り当てることができても、
アベやテラダのところまでは手が届かないと考えていたのだろう。
だがエリは己の推論に手応えを感じると同時に、
自分が一つの失態を犯したことを知った。
ヨシザワがなぜ5番のウイルスの話をしたのか。
その狙いがうっすらと理解できた。
おそらくヨシザワは、最強の獲物をぶらさげて取引を持ちかけ、
ヤグチの裏にいるSSの中心人物を―――
つまりはエリのことを、表舞台へと引きずり上げようとしたのだ。
なんのことはない。
まんまとヨシザワの企みに乗って、エリは生の声を晒してしまったのだ。
情報を得るために、リスクを冒してでも切り札を切る。
わかっていてもなかなかできることではない。
ヨシザワという女がかなり切れる女であることを、エリは認めざるを得なかった。
- 554 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:12
- 「テラダさんは死にましたよ」
『ふーん・・・・・あんたが殺した』
「いいえ。でもテラダを殺した人間はヤグチさんが殺しました」
『御苦労さん』
「どういたしまして」
『マリィに伝えといて』
「なんでしょう」
『裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を』
電話はそこで切れた。エリは持っていた携帯をヤグチに押しつけた
勿論ヤグチにはヨシザワの最後の言葉が聞こえていただろう。
「おいカメイ。これ、マジな話だと思う?」
「おそらく嘘じゃないと思います」
「じゃあ5番の血はイシカワが持ち去ってたってことか」
「ええ。だからアベさんは5番の血を入手できなかったんでしょうね」
エリは考えを整理した。
UFAはヤマザキもゴトウも片付けた。この組織はもう消滅したと考えていい。
ECO moniはどうだ。神社は消し飛んでいた。
おそらく朱雀とナッチが激突した衝撃でそうなったのだろう。
そしてその後でナッチは朱雀を操って青龍を飲み込んでいた。
つまり朱雀と青龍は既にナッチに完全に干渉されてしまった可能性が高い。
ECO moniは二匹の守護獣を失ったということだ。残るはサユ一人。
今は―――ECO moniも、もはや恐れるような組織ではない。
現段階でSSの前に立ちふさがっているのは、
ヨシザワとイシカワの二人だけと考えていいのではないだろうか?
- 555 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:12
- 「で、ヤグチさん。ヨシザワさんっていうのは強いんですか?」
「弱くはねーよ。一応フォースの看板ファイターだったからよ。
でもまともに戦うなら、おいら一人でも軽く料理できる相手だな。
ヨシザワだってそういう力関係はわかってるんじゃねーの?
あいつはあたしが全力で戦ったところも見たことあるしな」
ヤグチはECO moniの偵察部隊を焼殺したときのことを思い出す。
たしかあの時はヨシザワは手も足も出なかったはずだ。
いくらヨシザワが強いと言っても、それはあくまでもリングの上の話。
殺すか殺されるかという戦いにおいて自分が劣るとは思えなかった。
「つまり向こうもまともにはやってこないと」
「まあな。常識で考えたら、まともには来ないんじゃねーの。
まともにきたら、おいらでもお前でも普通に勝てるからさ」
「ヨシザワさんもそれはわかってる?」
「あいつはそんなにバカじゃねーからな。何か考えがあんだよきっと。
5番の血を使っておびき寄せて・・・なんか罠でも準備してんだろ」
ヨシザワがバカではないということに関しては、エリも同意見だった。
だがヤグチの意見に全てすんなりと賛成することもできなかった。
気のせいだろうか?
電話越しに聞こえたヨシザワの声には強い意志がこもっていた。
とても騙し討ちを仕掛けてくるような気配は感じられなかったのだ。
むしろ真正面から堂々と向かってくるような―――
愚直なまでにまともにぶつかってきそうな―――そんな気配を感じたのだ。
- 556 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:13
- 「とにかくアレだろ。ナッチを正常に戻すには5番の血がいるんだろ」
「ええ。絶対に必要です」
「それがあったらどうなるんだよ?」
「おそらく通常のガス化を経て、アベさんは正常に太陽化されるでしょう」
「それでめでたく、ナッチが次の太陽になるっていうわけか」
「まあ、そうなりますね」
本当は、ことはそう容易ではない。
―――急がなければならない。
ミチシゲの作戦に乗せられて、かなりの時間を浪費してしまった。
エリは腕時計にちらりと目を落とした。残された時間は少ない。
この地球が滅んでしまってからでは遅い。ナッチの太陽化を急がなければ。
残された時間はあと数日。エリには太陽化を急ぐ理由があった。
だがエリはそういったことをヤグチに伝えることはなかった。
「ヤグチさんの方から、ヨシザワさんに電話することはできますか?」
「できるよ。あっちが出るかどうかは知らないけどさ」
「ちょっとかけてみてくださいよ」
「え、マジで? いいけどさあ。さっきの今だからなあ。出ないんじゃねーの?」
確かにヨシザワには取引を急ぐ必要はない。
じっくりとことを構えようと考えるのが普通だろう。
だがエリには急ぐ必要があった。
そしてその必要性を理解できる人間がもう一人いるはずだ―――
エリはその一点に賭けてみることにした。
- 557 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:13
- ヤグチの予想に反して、ヨシザワはあっさりと電話に出た。
やはりこの女は細かい駆け引きなど考えていないのではないか?
エリの直感は確信に変わりつつあった。
『はいヨシザワ』
「どうも。カメイエリです」
『お。早いね。200円はもう銀行から下ろしてきたの?』
「ははは。すみませんが、ちょっとイシカワさんに替わってもらえませんか?」
ヨシザワはなぜと尋ねることもなく、すんなりとイシカワに替わった。
こういったところにも全く頓着しない。エリにはヨシザワの性格が少しずつ見えてきた。
そしてイシカワが電話に出る。伝わってくる雰囲気がガラっと変わった。
余裕が感じられるヨシザワと違って―――イシカワの声はかなり切迫したものだった。
「・・・・・・イシカワです」
「はじめまして。カメイエリです」
同じ組織に属していた二人だったが、接点はなかった。
エリはイシカワの顔も知らなかったので、イシカワが追加メンバーとして
施設にやってきたときも、ECO moniの潜入工作員だと気付くことはできなかった。
こうやって話をするのも全くの初めてだった。
だがエリは―――イシカワの声に弱さと優しさを感じた。
そしてその二つがあったからこそ、ECO moniを裏切ったのではないかと察した。
もしイシカワがECO miniを裏切っていたのなら、十分に勝算はある。
- 558 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:13
- まわりくどい訊き方をしても、イシカワの警戒心を煽るだけだろう。
エリは単刀直入に訊いた。
「イシカワさんはサユの考え方に賛成なのですか?」
「え?」
「まさか今の状況がどうなのか、知らないわけじゃないですよね?」
「・・・・・・・知ってます」
「知っているというのはどの程度ですか?」
ECO moniの中では全ての情報が共有されているはずだ。
長であろうと末端であろうと守るべき使命は一つなのだから。
だからイシカワは知っているはずだ。
過去にECO moni内で散々議論されたことも、全て知っているはずだ。
エリはそれを確認したかった。
「全てです」
「全て知っているわけですね」
「はい」
「それでもあなたはサユに一生ついていくつもりなんですか?」
電話の向こう側が沈黙に沈んだ。
無理もない。簡単に答えることのできない質問なのだ。
「サユに従って、滅びの運命を受け入れるつもりなのですか?」
エリは畳みかける。
- 559 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:13
-
「このまま太陽が正常なままであれば、地球は滅びる」
- 560 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:13
- それはサユとエリの間で何度も議論したことだった。
オゾン層が破壊され、猛烈な勢いで温暖化が進んでいる地球。
このままいけば確実に地球は滅びる。
太陽を緻密に観測し続けていたECO moniだからこそ推測できることだった。
オゾン層の寿命はあと数年。やがて決定的なカタストロフがやってくる。
当時のECO moniの調査ではその正確な日時すら判明しつつあった。
ならば―――地球が滅びる前に、太陽を人為的に操るべきではないか。
人為的に太陽の力を弱め、オゾン層破壊の影響を抑えるべきではないか。
そのためには掟を破ってでもサディ・ストナッチの力を使うべきではないか。
それがエリの主張だった。
地球のために、人間のために、太陽を支配する。
人間の意志でもって、太陽の力を自在にコントロールする。
だがサユはそういったエリの主張を一切認めなかった。
「すべてはこの地球のために」
それがサユの、そしてECO moniの答だった。
- 561 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:13
- 地球はあるべき姿として存在すべきであり、あるべき姿として消滅すべき。
すべては定められた運命に殉じるべきであり、そこに人為の入る余地はない。
サユは座して滅びを受け入れる決断をくだした。
なぜなら―――それがECO moniという組織の定めであったから。
SSを受け継いできたECO moniに許されるのは、あくまでも太陽の治癒のみ。
太陽が弱ってもいないのに、SSを使うことなど許されはしない。
ましてや太陽を人の意志で操ろうなど―――言語道断であると。
宇宙の意志を捻じ曲げることは、神の領域を侵す行為であると。
決して人間に許される行為ではないというのが、サユの結論だった。
エリはその決断に猛烈に反発した昔の自分を思い出していた。
なぜ太陽の治癒は許されても、地球の治癒は許されないのか?
サユの言っていることには大きな矛盾が感じられた。
もしかしたらその反発はイシカワの心の中にもあるのかもしれない。
だからこそ組織を裏切ったのではないか。
エリはその一点に賭けていた。
- 562 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:13
- 「一度しか言いません。嘘も言いません。アベナツミが暴走を始めました」
この言葉で全てが理解できたのだろう。
電話の向こうでイシカワが息を飲む気配が伝わってきた。
「このまま暴走が続けば、アベさんは燃え尽きてしまい、太陽化は幻と終わります。
アベさんの暴走を止めるためには、あなたが持っている5番の血が必要です。
いいでしょう。あたしの命はあなたにあげます。ヤグチさんの命もあげましょう。
でもその前に、その血は正しく使ってもらえませんか?
あたしに渡せとはいいません。イシカワさんが使ってくれればいいです。
アベさんの暴走を止めてください。アベさんをきちんと太陽化させてください。
地球を救ってください。今それができるのは、イシカワさんしかいないのです」
それだけ言うと、エリは答も聞かないまま電話を切った。
難しい表情を崩さないまま、携帯電話をマリに返す。
エリの話を聞いていたマリは、いつものようなニヤけた笑いを浮かべた。
「面白いなあ、今の話。なかなか上手い嘘つくじゃん」
エリは笑わなかった。笑った方が良かったのかもしれない。
マリの話に乗っかかったまま、さらっと流した方がよかったのかもしれない。
だが笑えなかった。エリは無言で腕時計に目を落とす。
刻み続ける秒針の歩みは、誰にも止めることはできない。
オゾン層が決定的なカタストロフを起こすまで―――あと数日しか残されていなかった。
- 563 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:14
- ☆
- 564 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:14
- 複雑に入り込んだ東京の地下鉄の駅の一角。
さらにその奥深くにECO moniの抗体作成施設が構えられていた。
ミチシゲは壁にかかったタッチパネルに人差し指を添える。
指紋を認証したロックが自動的に解除される。
重い扉を押し開き、ミチシゲは施設の内部へと入っていった。
すかさずECO moniのスタッフがミチシゲの下に駆け寄る。
施設内に大きな異常がなかったことを確認すると、ミチシゲはスタッフを下がらせた。
「しばらく一人になります。誰も入れないように」
それだけ言い残すと、ミチシゲは一人で司令室に入っていった。
司令室の机の上には無数の報告書が山積みになっていた。
抗体作成研究所から。世界中の天文所から。四家の故郷から。
あらゆるところから上げられた報告書に、ミチシゲは一通り目を通す。
どうやら抗体作成は順調なようだ。
このままいけば、あと数ヶ月で全ての抗体が出揃いそうな様子だった。
太陽にも異常はない。
もっともオゾン層の破壊は決定的なところまで進行していたのだが―――
そんなことでミチシゲの心に動揺が生まれることはない。
彼女の人生は、そんな感情とは無縁だった。
- 565 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:14
- ミチシゲは部屋の明かりを落とすと、冷たいコンクリートの床に座った。
こうする方が、椅子に腰かけるよりも強く地球を感じられるような気がした。
ミチシゲは床に四色の蝋燭を立てる。
ふっと息を吹きかけると、いつもなら瞬く間に四色の炎が立ち上がるはずだった。
だが今は赤と青の蝋燭に火がつかない。
だが黒と白の炎だけがゆらゆらと力強く燃え盛っていた。
「コハル・・・・・・ミッツィー・・・・・・」
赤い蝋燭はコハルの命を、青い蝋燭はミツイの命を象徴していた。
ミチシゲは二人が戦いの果てに散ったことを知った。
天文台からの報告では、まだアベが太陽化した兆しは見られないという。
ということはコハルがきっちりと神社を燃やし尽くしたということだろう。
これでエリも、カタストロフまでの間に、目的を達成することはできないはずだ。
最後の時は近い。
四家の宗主の生き残りも二人となった。
ミチシゲサユミとカメイエリ。
地球の破滅の前に、二人で決着をつける時はやってくるのだろうか―――
- 566 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:14
- ミチシゲの中にはヨシザワと戦ったことによる疲労はなかった。
満月の光の下で戦うのなら、どれだけ激しく動いてもエネルギーが枯渇することはない。
圧倒的なパワーで押して、何時間もかけてじっくりと相手を料理する。
それがミチシゲの不敗の戦闘パターンだった。
だがあのヨシザワという女は一歩も退かなかった。
あれだけの長時間、肉弾戦を展開させておきながら、疲労の影も見せなかった。
おそらく筋肉が異常発達しているキャリアなのだろう。
それにしても、人間の体があれほどまで鍛え上げられるものだとは―――
やっかいだ。
あれほど強力なキャリアと、裏切り者であるイシカワが行動を共にしている。
かなりやっかいなことになったとミチシゲは思った。
だが、どうやらイシカワとヨシザワは、エリの仲間というわけではないようだ。
ミチシゲは戦いの最中で考え方を変えた。
あえて戦いを引き分けに終わらせ、ヨシザワを泳がせて尾行することを選んだ。
てっきり彼女達二人はエリの下へと向かうだろうと予想していたのだが、
彼女達は意外にもヤグチマリへと電話をかけただけだった。
そしてミチシゲは―――携帯電話での会話をしっかりと盗聴していた。
- 567 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:14
- ヨシザワとエリの会話はなかなか興味深いものだった。
とりあえず、5番の血がアベナツミに渡るという最悪の事態は回避されたようだ。
それどころか、イシカワとヨシザワの二人は、エリに対して宣戦布告をしていた。
どうやら彼女達は、フォースの仲間を殺された復讐を遂げようとしているらしい。
だが間を置かずに、次はエリの方からヨシザワに電話をかけた。
そこでもたらされた情報は、サユにも小さくない衝撃を与えた。
アベナツミが暴走を始めたというのだ。
関東各地の気象台の情報は、エリの言葉が真実であることを裏付けていた。
エリはどうやらイシカワを懐柔する方向へと方針を変えたようだ。
イシカワがどういった決断を下すかはわからない。
だがエリの甘言に乗せられて5番の血を渡してしまう可能性もある。
そうなってしまえば―――『究極のモーニング娘。』が完成してしまう。
エリの意のままに太陽が操られてしまう。
それだけはなんとしても阻止しなければならなかった。
たとえ―――地球が滅亡することになってしまうとしても。
ミチシゲはとりあえずヨシザワの尾行を他のスタッフに引き継ぎ、本部に帰還した。
ヨシザワとイシカワの動きは六人のメンバーで尾行している。
何か動きがあればすぐにミチシゲの下まで情報が届くようになっていた。
それでもまだ尾行の体制は十分ではなかった。
もしヨシザワ達がエリと接触すれば、即座に迎撃できる体制を作る必要があった。
- 568 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:14
- ミチシゲはエリが姿を現すのを辛抱強く待った。
翌日になっても、ヨシザワには何の動きも見られない。
相変わらずイシカワと二人で行動しているようだ。
それでもミチシゲはただじっと待つ。
ECO moniの方からエリに取引をもちかけることなどできはしない。
向こうもバカではないのだ。ECO moniの動きには最大限に警戒しているはずだ。
もうここまで来てしまえば、取引などあり得ない。
接触することすら難しいだろう。
だがヨシザワとイシカワならどうか?
いくら二人がキャリアだとはいえ、たった二人だけの小さな勢力だ。
しかもそのか弱な勢力が、エリが最も欲する5番の血を持っているのだ。
案外エリは簡単に二人の前に姿を現すのではないだろうか?
ミチシゲはイシカワの裏切りを利用することに決めた。
5番の血という餌がひっかかったイシカワという名の釣り針。
それに魚がひっかかる時をじっと待つことにした。
エリに残された時間はもう数日しかない。
きっと動き出すはず―――その予測は翌日に早くも現実のものとなった。
「ミチシゲさん! ヨシザワが動き出しました!」
- 569 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:15
- ☆
- 570 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:15
- ミキは当てもなくうらぶれた街をぶらついていた。
一向にテンションが上がってこない。やる気が出なかった。
目的を失った人生がこれほど味気ないものだとは思わなかった。
あの時ミキは、神社に戻るというミツイと別れ、有楽町に向かった。
だがその選択は完全に「外れ」だった。
有楽町には激しい戦闘の後が残っていたが、人影は全くなかった。
どうやらもっと早く戻ってくるべきだったようだ。
硝煙のすえた臭い。夥しい死体から漂ってくる死臭。
そういった臭いが充満しており、手掛かりとなるような匂いは何も感じ取れなかった。
やることがなくなったミキは、マキの待つ診療所へ戻った。
だがほんの数時間前まで確かにそこにあったマキの姿は、影も形も残っていなかった。
引き千切られたチューブと、シートの上の微かな温もり。
部屋に残っていたのはそれだけだった。例の子犬すらそこには残っていなかった。
どうやらマキは―――自力でここを脱出したようだ。
たったあれだけの時間でそこまで回復したのか。
ご丁寧なことに香水のようなものまで撒き散らしている。
これでは尾行も難しいだろう。ミキに対する臭い対策も万全だったということか。
大切な獲物に逃げられたというのに、ミキの顔の自然とにやけたものになっていた。
生きていれば―――またいつか必ずどこかで会うことになるだろう。
そんな予感があった。
- 571 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:15
- とにかくミキは、たった一人になってしまった。
今のミキは、やることなすこと全てが後手後手に回っていた。
ECO moniの連中と今更連絡をとるというのも面倒臭かった。
だからといって他にやることがあるわけでもない。
どうもアヤというパートナーが横にいないと、調子が出なかった。
ボーっとしていると、どうしてもアヤの顔が浮かんでしまう。
コンノやマコやカオリやNothingの顔が浮かんでしまう。
自分でも笑ってしまいそうだが、泣きたくなるほど寂しかった。
自分はこんなに弱いはずではなかったと、自分に言い聞かせようとしたが、
何かに没頭していないと本当に泣きだしてしまいそうだった。
ミキは我を忘れて、ひたすら東京の街を歩き回った。
歩いて歩いて歩いて歩き倒し、いかれた街を東西に横断しては南北に縦断した。
本当はこんな非効率的なやり方は好きではなかった。
こんなのはバカのやるやり方だ。アヤならば一番嫌うやり方だろう。
だがミキは、頭の中からアヤの思考を追いだすかのように、非効率的な作業に没頭した。
アヤはもういないのだ。そろそろ気持ちの整理をつけるべきだろう。
アヤがいないのであれば、今までのやり方を続けるのは無意味だ。
ミキは、自分もまた天才であることを思い出そうとしていた。
自分から動くことで周囲の状況を変える。
それがミキのスタイル。天才であると信じてやまなかった頃の自分のスタイル。
ミキは体でそれを思い出しつつあった。
- 572 名前:【処置】 投稿日:2010/01/14(木) 23:15
- とにかくミキは歩いた。時間の感覚も忘れて歩き続けた。
細かい計算があったわけではない。勝算があるから続けたのではない。
とにかく自分が動くことによって何かが動く。
それだけを信じてミキは歩き続けた。
そんな非効率的な行動が功を奏すときもある。
「偶然」という名の蜃気楼をつかむためには、効率など無視して、
ひたすら力ずくで数を重ねるしかないのだろう。
もしかしたら―――それそこが最も効率の良い方法なのかもしれない。
とにかくミキの手には偶然という一片の雪が舞い降りた。
ミキの鼻腔に、記憶に残る一つの匂いがひっかかった。
ナッチの匂いではない。ゴトウでも、ミチシゲでも、ニイガキの匂いでもない。
だがその匂いは、ミキを約束の地へと誘ってくれるような気がした。
匂いの記憶は、他のどんな記憶よりも鮮やかに、ミキの脳裏に映像を描く。
ミキは慎重にその匂いをたぐる。逃さない。つかみとる。
電柱の陰からそっと窺うミキの目に、見覚えのある姿が映った。
ミキの脳裏に描かれた映像とピタリと一致したその人間は―――
一人の天才的な美少女だった。
- 573 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/14(木) 23:15
- ★
- 574 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/14(木) 23:15
- ★
- 575 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/14(木) 23:15
- ★
- 576 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:11
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 577 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:11
- サディ・ストナッチは全てを焼き尽くす。
街を、木々を、人々を、空気を、大地を、海を、全てを。
その炎は関東から大きくはみ出て、西南西へと伸びていった。
やがてナッチはこの国で最も高い頂を目指す。
富士山頂。
サディ・ストナッチはその地でもう一つの太陽にならんと欲す。
ナッチの通過に伴って流れてきた炎波は、登山客の骨肉を焼き払った。
山頂に降り積もる雪を溶かし、ナッチは赤い輝きを放つ。
濃く赤い霧が富士山頂を広く覆い尽くす。
その粒子の一つ一つが、全てナッチだった。
ナッチはこの国の一番高い場所から―――
太陽に一番近い場所から―――この国の全てに干渉を始めた。
- 578 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:11
- ☆
- 579 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:12
- ミチシゲはアベナツミの動きを即座につかんだ。
ECO moniの組織網は日本全国に張り巡らされている。
樹海を焼き、山肌を焦がし、万年雪を蒸発させたSSの動きは逐一報告されていた。
日本各地の気温が一斉に上昇する。
特に富士近辺の温度上昇は常識では考えられないほどだった。
このままでは関東一帯は完全に干上がってしまう―――
富士は山頂からゆっくりと過熱していき、膨大な熱を麓へと下ろしていく。
もしかしたら噴火が誘発されるのではないか―――
人々にそんな非科学的な幻想を抱かせるほど、赤い霧波は強烈だった。
山頂に輝く怪しい赤い光をとらえた政府は、ただちにそれを調査する行動に出た。
だがそれは全て無駄な行為でしかなかった。
山頂に近づこうとした調査機や戦闘機は全てナッチによって撃ち落とされた。
赤い霧に触れたものは全て溶け出してしまい、その形を失った。
飛行機やヘリなどの機器は、著しい電波的な干渉を受け、その制御が失われた。
そして赤い霧は山を覆い、あらゆるものの接近を拒んだ。
いや。拒むというよりも、接近する全てに介入して、飲み込んでしまった。
一度飲み込まれたものは、二度と帰ってこなかった。
日本国政府は―――ほんの数時間で打つ手を全て失った。
- 580 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:12
- それでもミチシゲの決断はいささかも揺るがない。
今のこの時代に太陽の娘。は必要ない。
太陽が輝きを失っていない限り、サディ・ストナッチを召喚してはならないのだ。
それこそがこの地球を、そして宇宙を統べる理なのだと信じて疑わなかった。
地球の滅亡すら、宇宙の歴史における小さな一ページに過ぎない。
だがエリはそう考えなかった。理に従わなかった。
地球の運命を変えるために、太陽を操作するという暴挙に出ようとした。
それは間違いだ。地球が滅びる運命にあるのなら、人間はそれを受け入れるべきなのだ。
エリのやろうとしていることは、いわば死人を生き返らせようとする行為だ。
それは生命の神秘に対する冒涜であり、神の領域を侵す行為に他ならない。
あってはならないことだ。人間のエゴで宇宙の理を変えることは許されない。
どうやら今の段階では、アベナツミは暴走してしまい、
究極のモーニング娘。を生み出す計画は頓挫しているようだ。
だがイシカワが5番の血をもっている限り、計画が成功する可能性は残っている。
消さなければならない。
アベナツミも、5番の血も。そしてイシカワリカも。
全てを消さなければならない。
全てを消失させることがECO moniの定めなのだ。
ミチシゲは黙々と情報収集を続けた。
- 581 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:12
- ☆
- 582 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:12
- アベナツミが暴走したというカメイの言葉は嘘ではなかった。
古ぼけたラジオから聞こえてくる言葉は、
先ほどから狂ったように同じことを繰り返し伝えていた。
曰く、関東から謎の赤い霧が大発生した。
曰く、赤い霧が太陽のような強い光を放った。
曰く、小さな太陽のような光の玉が富士山頂に向かった。
曰く、富士山頂の上空で、赤い光の玉が強烈な光と熱を放っている。
曰く、赤い光の玉を破壊しようとした自衛隊の戦闘機が制御を失って墜落した。
曰く、日本各地の気温が異常に上昇を続けている―――と。
「どう思う? リカちゃん」
ヨシザワはサディ・ストナッチのことをほとんど知らなかった。
一応イシカワから話だけは聞いていたが、そんなおとぎ話など、
今の今までは話半分にしか聞いていなかった。
だがこの事態は―――明らかにその内容と関連があるように思われた。
「カメイエリの言ったことが本当だったんだと思う」
「暴走したって?」
「この5番のウイルスだけが欠けていることで、制御を失ったのかも」
イシカワの手には、ヤスダケイの血が入った試験管が握られていた。
血は三本の試験管に分けていた。ヨシザワが一本、イシカワが一本持つ。
残った一本は取引用だった。それもイシカワが保持していた。
ヨシザワは取引用にはダミーの血を用いるべきと主張したが、
四家の人間の能力をよく知るイシカワは、ダミーを使う気にはなれなかった。
- 583 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:12
- 「確かに危険だけど、四家の人間なら偽物だってことにすぐに気付くと思うから」
「まあ、リカちゃんがそう言うなら別にいいけど」
「ごめんね」
「それよりさあ。あのカメイってのが言ったことはどこまでホントなの?」
ヨシザワはまずそれが知りたかった。
本当にオゾン層の破壊は最終的な段階まで進行しているのだろうか。
誰かが太陽になって制御しなければ、今日明日にでも地球は滅びてしまうのだろうか。
それを食い止めるためには―――この血が必要なのだろうか?
「カメイが言ってたことは・・・・・・だいたい本当のこと・・・・・」
イシカワはポツリポツリと説明を始めた。
地球の異常気象が進むところまで進んでしまっていること。
壊滅的な打撃を回避するためには、人間の力で太陽を制御しなければならないと、
かつてECO moniに在籍していたカメイが強く主張していたこと。
だが自然をあるがままに受け止めるというのが大きな掟であるECO moniは、
そういった人為的な操作を認めなかったこと。
すなわち―――ECO moniはあるがままに滅亡を受け止めることを決めたこと。
そんな考え方に反発したカメイエリが、ウイルスを無断で持ち出したこと。
人間の力で太陽を制御できる研究を続けていたこと。
そしてナカザワを始めとする7人の被験者が、その計画にまきこまれてしまったこと。
もう自白剤は必要なかった。
ヨシザワはイシカワの話を信じるしかなかった。
- 584 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:12
- 「で、そのカメイってのとマリィは何を考えているんだと思う?」
ヨシザワの手には携帯電話が握られている。
あの後、一度だけエリに電話をかけて話してみたのだが、
エリは「富士で会いましょう」とだけ言って電話を切ってしまった。
それ以後は、何度かけてみても電話はつながらなかった。
今の状況から考えれば、5番の血は喉から手が出るほど欲しいはずだ。
それなのになぜこちらに仕掛けてこないのだ? 本当に富士に行ったのか?
そうだとすれば、なぜ先に関東から姿を消してしまったのか?
「あたし達が・・・・・この血を使うと信じているのかも」
「血を使う? アベナツミを太陽にするために?」
「うん」
「バカな。リカちゃん、本気でそんなことするつもり?」
どうしても口調が尖ってしまう。
イシカワはヨシザワの厳しい言葉を受けて沈黙した。
ヨシザワは、どうしてもカメイの言葉を信じることができなかった。
カメイの言う通りに動くことに強い抵抗を感じた。
自分達で勝手に計画して。こっちの人生をメチャクチャにしておいて。
それでいて、その計画の失敗の尻拭いをこっちに頼むだって?
あり得ない。人をコケにするにもほどがある。
ヨシザワの目を見つめているイシカワには、
ヨシザワの気持ちが痛いくらいに理解できた。
- 585 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:12
- 地球の未来に関して、二人の意見は合わないのかもしれない。
だが一つだけなら、絶対に一致するはずのものがある。
「カメイとマリィを殺る。アベナツミも殺る。それに変わりはないよ」
イシカワの言葉にヨシザワも頷く。ヨシザワの中でもそこだけは揺るがない。
異常気象が起ころうが、天変地異が起ころうが、そこだけは譲れない。
そのためにイシカワはECO moniという組織を捨てた。
自分は何を捨てただろうか。何かを―――捨てるべきなのだろうか。
このまま地球が滅んでしまえば、エリやマリも死ぬだろう。
だがそれで納得できるなんて思えなかった。
あいつらは自分の手で殺す。この手で殺す。ツジやカゴをそうしたように―――
そうしなければ、ナカザワやツジやカゴの無念は晴らせない。
いいだろう。
あいつらが逃げると言うのなら、地獄の果てまでも追いかけよう。
何かの罠だったとしても、喜んでひっかかろうじゃないか。
5番の血をどう使うかはまた別の問題だ。
「行こうか、リカちゃん。あいつらが待ってる富士へ」
イシカワは試験管を握り締めたまま、ヨシザワに深く頷き返した。
- 586 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:13
- ☆
- 587 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:13
- ミキがヨシザワを発見した時、ヨシザワは一人の女を連れていた。
その女の匂いにも覚えがあった。たしかイシカワリカとかいっただろうか。
あの神社に顔を出していたECO moniのメンバーの一人だったはずだ。
なぜフォースのヨシザワとECO moniのイシカワが行動を共にしているのだろうか?
そういえばイシカワはフォースに潜入していた工作員だったはずだ。
フォースの中でヨシザワとつながりを持ったのだろうか。
それにしても二人は―――何をしようとしているのだろうか?
ミキはフォースを調査していた頃の記憶を必死で探る。
確か、フォースではナカザワが殺され、マリとカゴが後を継いだはずだ。
そのときに幾分、怪しい金の動きもあった。
ナカザワの血を狙ったマリが、カゴを利用してフォースを乗っ取った。
おそらくそんなシナリオだったのだろう。
二人を追おうとしたミキは、不審な動きに気付いた。
どこかで感じたことのある匂いがそこかしこに漂っている。
なんだろうか。ミキはさらに嗅覚を研ぎ澄ませた。
どうやらヨシザワとイシカワのことを尾行している人間がいるようだ。
そしてその人間の匂いには覚えがあった。
ECO moniで活動していたメンバー達の匂いだ。
そいつらの怪しい動きは、どうもあの二人をガードしているようには見えない。
もしかしたら逆に―――イシカワ達はECO moniにマークされているのか?
- 588 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:13
- ミキは携帯電話を取り出した。
もう二度とかけることはないだろうと思っていた番号を選んでプッシュする。
ミチシゲサユミは―――二度ほどのコールの後に電話に出た。
「おひさ。ミキだけどね」
「ああ、ミキさんですか。ミッツィーのところに顔を出したそうですね」
例の施設にいた人間からミチシゲに連絡がいっていたのだろう。
ミチシゲは、回復したゴトウが消えたことも、アヤの死のことも知っていた。
ミチシゲは簡潔な言葉でアヤの死を悼んだ。
だがそんな儀式的なことは、ミキにとってはどうでもいいことだった。
「そんなことよりそっちはどうなったんだよ。コハルは? ミッツィーは?」
「二人とも死んだようです」
まるでタバコでも買いに行きましたよ、というような口調でサユは言った。
なるほどこういう喋り方はクールで格好いいかもしれないと思っていたけど、
いざ外側から眺めてみれば、意外と味気ないというか、
実にくだらないもんだな、とミキは思った。
もっとも、コハルとミツイのことを訊いたのは話の枕みたいなものだった。
ミキが本当に訊きたいことは別にあった。
「で、イシカワってのは何してる?」
- 589 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:13
- 空気が微妙に動いた。
電話の向こう側であっても、サユの緊張感が高まることがわかる。
ミキはそういった相手の感情の揺らめきには敏感だった。
「あれ? もしかして裏切られたとか?」
「御心配は無用です」
「返事になってないけど?」
「どんな返事が欲しいんですか?」
「そのイシカワってやつの狙いが知りたい」
まだ同盟関係は生きているはずだと、ミキは協力を迫った。
サユは渋々といった感じでミキに情報を伝える。
だが勿論、5番の血をイシカワが持っていることは伝えなかった。
「イシカワさんは組織に無断でフォースのヨシザワと組んだんですよ。
どうやらナカザワを殺された借りを返そうとしてるみたいですね。
ヨシザワと一緒になって、エリとマリの命を狙っているようです」
「ふーん。あんたの部下にそんな好き勝手させておいていいんだ」
「好き勝手させているわけではないです」
「イシカワを餌にして―――エリを釣る?」
「まあ・・・・・そんなところです」
どうも嘘くさい。嫌々話しているところからして、サユらしくない。
何かを隠して喋っているようにミキには聞こえた。
それにイシカワが餌になるだろうか? そんなに特別な人間なのだろうか?
イシカワ程度の餌に、あのエリが釣られるとはとても思えなかった。
何か―――サユは何かを隠している。
- 590 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:13
- 今度はサユが質問する番だった。
「またどうして急にイシカワさんのことを?」
ミキは正直に答えた。
相手が何かを隠しているときは、こちらは正直に喋った方がいい。
その方が相手がボロを出しやすいことを、ミキは経験上よく知っていた。
「いや、そのイシカワをちょっと変なところで見かけたものでね」
「変なところ?」
「ヨシザワと一緒にいるよ」
「・・・・・・そうですか」
「なんならあたしが捕まえてやろうか?」
「いえ、これはあくまでも我々の組織の問題ですから」
「あっそう」
さすがにサユはそう簡単にボロを出しそうにはなかった。
だがイシカワとヨシザワがSSの連中を狙っていることはわかった。
サユもそこで嘘をつくほど安っぽい女ではないだろう。
このままイシカワを尾行し続ければ、SSの連中にたどり着くかもしれない。
おそらくECO moniの連中も同じことを考えて、イシカワを尾行しているのだろう。
- 591 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:14
- ミキはそのまま何も言わずに電話を切った。
礼を欠いた行為だとは思わなかった。
GAMにも隠していたという、ECO moniの最後の切り札。
イシカワの行為はおそらくその切り札と関係があるとミキは睨んだ。
この期に及んでも、サユはそのことについて言及する素振りはみせなかった。
先に礼を欠いたのは、サユの方だとミキは思う。
向こうが信義を尽くさないというのなら、こちらから信義を尽くす義理はない。
ここまでだろう。
ECO moniとGAMの同盟関係はここで終わりだ。
ミキの中で一本の線が切れた。
誰にも邪魔はさせない。ヨシザワとイシカワは、自分が抑える。
ミキは気配を消した。イシカワを包囲しているECO moniの人員を探る。
六人。なかなか厳重なことだ。
だが尾行している人間というのは、案外警備が手薄なものだ。
まさか自分の方が尾行されているとは思わないのだろう。
ミキは気配を消したまま、六つの呼吸を一つ一つ絶っていった。
- 592 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:14
- ☆
- 593 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:14
- 思いもよらぬミキからの電話があった数時間後、
サユの下にはそれ以上に思いもよらぬ連絡が入った。
「え? 連絡員が殺られた?」
ヨシザワとイシカワの尾行には万全を期していた。
現状で考えられる限り、最高の人員を配したのだ。
だがその六人が次々と連絡を絶っていったのだという。
その場に残されていたのは無残な六つの死体だった。
サユがまず思い至ったのはカメイエリのことだった。
彼女ならそれくらいのことはやる。
だが電話を盗聴した限りでは、エリ達とイシカワ達はお互いの場所を知らないようだった。
エリは最後の電話で「富士で会いましょう」とヨシザワに伝えた。
その言葉が何かのフェイントだったとは考えにくい。
では一体誰が? ミキが? いやまさか。彼女がそんなことをする理由がない。
では尾行に気づいたヨシザワ自身が? これが一番あり得るかもしれない。
もしそうだとすれば、それはヨシザワが行動を開始する合図に他ならない。
急いで対応しなければならない。それも最高最強の対応を。
サユは組織の運営を他のスタッフに任せ、自ら死地に赴くことを決めた。
目指す場所は一つしか思い当らない。迷いはなかった。
ミチシゲサユミは―――富士に向かって一人、旅立っていった。
- 594 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:14
- ☆
- 595 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:14
- ECO moniの連中を殺るのは簡単な仕事だった。
だがその後のヨシザワとイシカワの行動は、ミキにとってやや意外だった。
彼女達二人は、関東の外に出ようとしていた。
関東の内と外は、巨大な壁によって隔てられており、厳重な警備が施されていた。
だがヨシザワには何らかのつてがあるようだった。
二人は入念な準備をして関東の外へ出ようとしていた。
慌てたのはミキだ。ここで二人を見失ってはならない。
これまでの麻薬密売で積み上げた札束を全て使って、ミキもなんとか関東検閲所を出た。
関東の外へでた二人は、列車に乗った。
それまで完全に情報をシャットアウトしていたミキは、新聞を一枚買った。
新聞には富士で起こった異常な赤い霧のことが、載っていた。
霧の内容については何一つ触れていなかったが、ミキにはそれで十分だった。
二人がどこへ行こうとしているのか、一瞬で理解した。
富士山か。
どうやらそこにアベナツミがいるらしい。
サユが言っていたように、アベは完全な太陽化を果たせなかったようだ。
よくわからないが、まだ何か欠けている要素があるのだろうか。
もしかしたら、エリやマリはまだ研究を続けているのかもしれない。
そしてそのアジトは―――おそらく富士近辺にあるのだろう。
やがて列車は―――富士近郊に到着した。
- 596 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:14
- ヨシザワとイシカワの二人は、そこから歩いて富士山に向かうようだった。
車での移動は危険と判断したのだろう。
道路のそこら中で陥没が起こっていた。
どうやら地盤に何らかの異常が発生しているらしい。
地震のような地鳴りも頻繁に起こっていた。
ミキは富士山まで来たのは初めてだった。
だがこの地の気候が異常な状態であることにはすぐに気付いた。
暑い。とにかく暑いのだ。
そして木々が異常に覆い茂っている。
富士の樹海といえば当り前なのかもしれないが、それにしても凄い。
まるで熱帯雨林のようなジャングルが、周囲を包んでいた。
ヨシザワとイシカワは、それに構うこともなく進んでいく。
ミキはかなり距離をおいて二人の後に続いた。
風は山頂から裾野に向かって吹き下ろしている。
風上に立っている二人の匂いは、数百メートル離れていてもつかむことができた。
二人は一般的な登山道を通ることなく、道なき道を行く。
それを追い掛けるミキも必死だった。
ミキは二人とは違って本格的な登山の用意など何一つ準備していない。
ヒールではなく普通のスニーカーを履いているのがまだ救いだった。
それにしても暑い。ミキは一つ汗をぬぐった。
- 597 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:14
- あのイシカワは目が異常発達しているキャリアだと、確かアヤがそう言ってたはずだ。
たとえ数百メートル離れていても、人の姿があればそれが誰か識別可能だろう。
ミキは常にイシカワの視界に入らないように注意しながら移動した。
さらにミキは周囲の匂いを慎重に拾い上げていく。
警戒すべきはカメイの匂い。マリの匂い。サユの匂い。マキの匂い。
こんなところだろうか。
そういった臭いが周囲数十メートルに漂っていれば、すぐに感知できるつもりだった。
もっともアベナツミの匂いは―――既に濃厚に漂っていた。
漂っているというよりも、富士山を覆い尽くしていた。
あの楕円のビルで感じた時よりも、数百倍のスケールで巨大化していた。
アベの体に何らかの変化があったのだろうか。
それともこれが太陽化というものなのだろうか。
アベナツミを殺す。その決意に変わりはなかった。
だが本当にあの女を殺すことなどできるのだろうか?
これだけ巨大で莫大な粒子群を全滅させることなどできるのだろうか?
やはりあの時が―――たった一度のチャンスだったのではないのか。
ミキの中に弱気な思いが広がった。
あの時、引き金を引けなかった自分。
それを一生後悔し続けなければならないのだろうか?
- 598 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:15
- ミキはそんな鬱屈とした思いを、強引に頭の中から振り払った。
鶏が先か、卵が先か、そんなことは知らない。
だがあの時の悔いを晴らしたいのなら、アベを殺すより他にない。
殺せば悔いは晴れる。殺せなければ悔いは晴れない。
考えてみれば簡単な問題だ。やるかやらないかの違いでしかない。
そんなことを考える一方で、ミキはマキのことも考えていた。
エコモニの治療施設から姿を消したマキ。
彼女はどこに消えたのだろうか。
アベナツミの命を狙う以上、ここ富士山にやってくるより他にないだろう。
もう既にマキもこの山に入っているのだろうか?
マキもまた、ナッチによって死に至るほどの傷を負わされていた。
彼女にはナッチに対する怯えのようなものはないのだろうか?
あれほど手痛く叩きのめされても、再び闘志が湧いてくるものなのだろうか?
マキは―――何のために生きているのだろう?
なぜナッチを殺そうとしているのだろう?
そして彼女は―――
『究極のモーニング娘。』になりたいという思いを抱いているのだろうか?
- 599 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:15
- ☆
- 600 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:15
- ヨシザワとイシカワが富士の樹海に足を踏み入れる数時間前。
既にそのときにカメイとヤグチは富士に到着していた。
樹海の森は、焼けるように暑い。
だがなぜか植物は枯れることなく、むしろ生命力を増しているように見えた。
日本では見られないような熱帯雨林系の植物が、そこかしこに溢れかえっていた。
これらも全て―――ナッチが干渉している効果なのだろうか。
森の至るところには赤い霧が満ちていた。
だがその赤い霧は、ガス化した時のナッチのようなものと少し異なっていた。
どうもこの霧にはナッチの自我は存在していないようだ。
カメイの目には―――ただの霧にしか見えなかった。
おそらくナッチの本体は山頂に位置しているのだろう。
このまま山を登っていけば、ナッチの自我もそれにつれて濃度を上げるのかもしれない。
だがエリは山頂への道を急ぐことはなかった。
どうせ上に行ってもやることはないのだ。下手をすれば殺されるかもしれない。
まずは5番の血を手に入れることが先決だった。
5番の血を手に入れれば―――山頂へ行く意味も出てくるだろう。
- 601 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:15
- 「なあ、本当にイシカワは血を持ってくるのかよ?」
「さあ。可能性は半々ですね」
「半分? 随分低い確率だな、おい」
「しょうがないですよ。賭けですからね、これは」
だがエリはそう言いながらも、イシカワが来ることをほぼ100%確信していた。
5番の血を持ち出したイシカワには、もはや帰る場所などない。
自分とマリがここにいる以上、イシカワも来るより他にないだろう。
問題はいつ来るかだ。
残された時間はそう多くはない。
今日か明日。あるいは明後日。
オゾン層は、もはやいつ破断してもおかしくないほど傷ついていた。
それでもエリは諦めない。投げ出さない。悲観しない。
生まれつき持った楽天的な性格が、エリの最大の武器だった。
地球はきっと滅びない。そう信じることが大事。
その考えを信じ、信じて行動することによってのみ運命は変わる。
そう。カメイエリは信じていた。
人間の力で、運命を変えることができると信じていた。
変えるという言葉は正確ではない。運命とは作り出すものなのだ。
あらかじめ確定した未来など、一つも存在しないのだ。
確固たる意志を持った人間が通った後に―――運命という道筋が通るのだ。
- 602 名前:【処置】 投稿日:2010/01/16(土) 23:15
- エリは空を見上げる。
空には二つの太陽。
大きな太陽と、小さな太陽が富士山を照らしていた。
小さな太陽は、大きな太陽に比べて、あまりにも小さかった。
まるで太陽と人間の差のようだ。
あまりにも矮小で、卑小で、くだらなくて、ちっぽけな人間という存在。
だがその小さな人間が、この先永遠に太陽を支配することになるのだ。
小さな太陽が大きな太陽に重なる瞬間は近い。
その瞬間にこそ、人類の新しい運命が切り開かれるのだ。
エリは信じていた。必ず上手くいく。
誰にも邪魔はさせない。邪魔するものは―――全て排除する。
エリはうっとりとした表情で小さな太陽を見上げた。
あの小さな太陽が、大きな太陽と一体になる瞬間は必ず来る。
天に二つの太陽はいらない。
- 603 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/16(土) 23:15
- ★
- 604 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/16(土) 23:15
- ★
- 605 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/16(土) 23:15
- ★
- 606 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:03
- 樹海は暗闇に包まれていた。
日が落ちてしまえば、周囲を照らすような灯りは一つもない。
かろうじて微かな星灯りだけが、鬱蒼と茂った森を薄く照らしている。
それでも相変わらずヨシザワとイシカワは道なき道を進んでいる。
むしろ深い暗闇を好んで選びながら進んでいるように感じられた。
それでもミキは慌てなかった。暗闇で行動することには慣れている。
嗅覚を頼りに動くミキにとっては、この程度の暗闇は
行動するにおいて何の障害にもならなかった。
今もミキは、イシカワとヨシザワの匂いをしっかりとつかんでいた。
二人の汗の匂いから、体温や体調を推測することすらできた。
快調に歩いてきた二人だが、どうやらここでテントを張って野営をするようだ。
このまま一泊するのだろうか。面倒なことになったとミキは思った。
着の身着のままでここまで来たミキは、野営の用意など何もしてない。
潜伏行動は苦手ではないが、さすがにこんな森の中で野宿したことは一度もない。
寒くはない。突然夏がやってきたかのような暑さだ。それは助かる。
だが暗い森の中には、小動物や昆虫が蠢いている気配がそこかしこに溢れていた。
あまり良い気はしない。
せめて寝袋の一つでもあれば、まだマシなのだが。
ミキは、二人のいるテントに向かいたくなる誘惑と戦わなければならなかった。
- 607 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:04
- そもそも自分はイシカワ達と利害が対立するのだろうか?
ミキは困ったことがあると「アヤならどうするだろうか」と考える。
死してなおアヤはミキの中に強い影響力を残していた。
最初はその影響力を嫌っていたミキだったが、今はもう特に気にしなかった。
あの天才と同じ時間を過ごしたという経験も、自分の武器の一つなのだと解釈した。
戦いの場において、武器を使うことに躊躇いを覚える必要はないだろう。
アヤならばどうするか。想像することは難しくなかった。
彼女ならば案外、無防備なままぶらっとテントに向かうかもしれない。
こちらの狙いはアベであり、カメイであり、ヤグチマリだ。
イシカワとヨシザワの狙いと見事に一致する。
敵の敵は味方。そういう考えがあってもいいだろう。
だが逆に自分がイシカワやヨシザワの立場ならどう思うか。
いきなり訪ねてきた怪しい人間と無条件に協力し合おうと思うだろうか。
ヨシザワもイシカワも、ミキと面識がないわけではないが、友達というわけでもない。
むしろ好意的な感情は抱いていない可能性の方が高い。
そして世の中は―――アヤのように器の大きな人間ばかりではない。
こちらの意図を理解してもらうには、かなり丁寧な説明が必要とされるだろう。
そういった言葉のやり取りはアヤが最も得意とするところだった。
アヤがいたからこそ、GAMはECO moniと協力できたと言ってもいい。
そしてミキはそういった言葉のやり取りが―――決して得意ではなかった。
- 608 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:04
- ミキは軽く脳内でシミュレーションしてみた。
「こんなところで会うなんて偶然だね。余分なテントとかある?」
呆れた。わざとらしい。なんというわざとらしい台詞。バカかあたしは。
ミキはこめかみのあたりが引きつるのを感じた。
だが他に適当な言葉が見つからなかった。
その時、下から駆け上がってくる小さな気配を感じた。
風は生ぬるく、山頂から吹き下ろしてくる。
下から来る気配の匂いを上手くつかむことはできなかった。
だが確実に何かがやってくる。しかも、ミキに向かって一直線に。
ミキは立ち上がって拳銃を抜いた。
着の身着のままで来たとはいえ、銃弾だけはたっぷりと用意している。
だが簡単に発砲するわけにはいかなかい。銃声が上に聞こえてしまうだろう。
上の二人の匂いは、まだテントの中で動かない。
素手で相手するしかないのか。
向かってくる気配は、素早く、そして小さい。
少なくとも、あの巨大な亀の化け物ではなさそうだ。
ならば素手でもいけるか。だがもしも相手が拳銃を持っていたら―――
接近してくる小さな気配が拳銃の射程距離内に入った。
距離を置こうとするミキの鼻腔に―――覚えのある匂いが入り込んできた。
- 609 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:04
- ミキは足を止める。
この匂い。敵じゃない。知らない相手じゃない。そして―――人間じゃない。
暗闇の中から、真っ白な子犬が飛び出てきた。
元気よくジャンプしてミキの胸に飛び込む。間違いない。Nothingの子だ。
ミキは少しよろめく。受け止めた両手の重みは思った以上だった。
もしかしたら、治療施設で会った時から、また少し大きくなったのかもしれない。
「お前よう」言葉を続けようとしたミキの顎がピタリと止まる。
喉元には銀のナイフが突きつけられていた。
匂いは全く感知できなかった。
こちらが風上に立っていとはいえ、何も感じさせないとは信じがたい。
だが匂いだけではなく、音や体温といった人の気配を全く感じさせなかった。
草木が掠れる音すらしなかったのだ。
この鬱蒼と覆い茂った密林の中でそんな行動がとれるものなのだろうか?
まるで幽霊だ。冗談でもなんでもなく、こんな芸当ができるのは幽霊しかいない。
ミキは自分の背中に張り付いているのが、人間ではないように思われて仕方なかった。
だがそれは紛れもなく人間であり、一人の少女だった。
暗闇に溶け込んでしまったかのような黒髪を揺らしてマキはフッと息を吐いた。
それが何かの合図だったのだろうか。子犬がペタンと地面に座り込んだ。
おいこら裏切り者。お前はいつからマキの飼い犬になったんだよ。
ミキは頸動脈に当てられているナイフの冷たさも忘れて、
目の前に座っている仔犬に向けて土を蹴り上げた。
- 610 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:04
- 子犬の動きは俊敏だった。
ミキが土を蹴るよりも早く、さっとミキの左側に回り込む。
コハルが訓練をしていた頃からすれば、信じられないくらいの変わりようだった。
もはやその動きは―――完全に軍用犬としてのそれと言ってよかった。
「おいおい。なにこれちょっと凄いじゃん。あんたが躾けたわけ? こんな短期間で?」
「なぜここにいる? あんたがここにいる理由は?」
「コハルの教え方が下手だったのかねえ。見違えたよ」
「目的は何? 返答によっては殺す」
マキの声は聞いたこともないような余所行きの声だった。
完全に暗殺者の声だ。どことなくJJと似てる。それが少し可笑しかった。
暗闇の中でミキは笑いをこらえた。だがよく考えれば、別にこらえる必要もない。
もしここで死ぬのなら、ケラケラと笑いながら死にたいものだ。
鼻息が漏れる。笑いが喉元まで上がってくる。一緒に言葉も漏れた。
「こんなところで会うなんて偶然だね。余分なテントとかある?」
ミキは、マキに負けないくらい余所行きの声を出した。
我ながら、よくぞここまで可愛い声が出せたものだと思う。
後ろに立つマキの力が幾分か抜けたような気がした。
「それがあんたの最後の台詞になったら―――アヤも悲しむんじゃない?」
「まさか。地獄で大爆笑だよ」
銀のナイフがすっと下がった。
- 611 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:05
- マキは余分なテントどころか、自分の分すら持っていなかった。
「使えねーやつだなー」とミキはつぶやいたが、マキは顔色一つ変えない。
テントがないと気持ち悪くて眠れないというミキの気持ちが、
どうやらマキには全く理解できないようだった。
「お前さあ、野宿とかそういうの、平気なの?」
「うん。そういうのしょっちゅうやってたから。どうってことない」
「UFAでの訓練ってやつか?」
「そうそう。あそこではそういうことばっかりやってた」
ナイフを鞘に収めたマキは、年齢以上に幼く見えた。
言葉使いもその年頃の少女と何ら変わらない。素の喋りだった。
なんだかミキには、その素の喋りの方がくすぐったくて聞きにくかった。
むしろ暗殺者のような声で喋ってくれた方がやりやすい。
「で、お前もアベナツミを殺るためにここに来たのかよ」
「・・・・・あんたもそのために来たの?」
「お前、怖くないのかよ」
「怖い?」
「アベナツミがだよ。あいつに半殺しにされたんだろ。怖くないのかよ」
少なくともミキは、サディ・ストナッチと対峙したとき、恐怖を感じた。
普段なら「怖かった」などという泣きごとは言いたくなかったが、
このことに関しては、虚勢を張ることに何の意味もないように思われた。
あの圧倒的な恐怖感は、実際に向き合ったものにしか理解できないだろう。
マキがそれをどう感じているのかが知りたかった。
- 612 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:05
- 「やめといた方がいい」
「はあ? なにが?」
「あんたじゃアベナツミに勝てない。やり合っても無駄に死ぬだけだと思う」
反論しようとしたが、ミキは一旦口を閉じた。
マキの口調はあくまでも穏やかだ。挑発してるわけではない。それくらいはわかる。
この女は、ただ単に自分が感じたことをそのまま口にしているだけなのだ。
単にそれだけ。きっとミキと議論をするつもりもないのだろう。
「答になってないね。あんたはアベが怖いのか?」
「そんなことを知ってどうするの?」
「怖いんだ」
「あたしが『怖い』って言ったらあんたは安心できるわけだ」
「はあ? 安心?」
「アヤがいないから、今のあんたは安心できない」
「おい。勝手なこと言ってんじゃねーよ」
「だからあんたはあたしを恨んでる」
「てめえ・・・・・」
ミキは自分の思い通りに進まない会話に苛立ちを覚えていた。
それにしても、なぜ自分はこいつとダラダラと話しているのだろうか?
こいつの言うように、あたしは『安心』したいんだろうか。
誰かに怖がっている自分を認めてほしかったのだろうか。
いつもならミキの隣にはアヤがいた。
そこに馴れ合いがあったとは思わないが、アヤは常にミキを認めてくれた。
だがアヤはもういない。
もしかしたら自分はアヤの代わりをマキに求めているのだろうか―――
それは吐き気を催すような酷い想像だった。
- 613 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:05
- 自分はそこまで弱い人間ではない。愚かな人間ではない。
ただちょっと複雑なだけ。そして繊細なだけだ。ミキはそう自己分析する。
「なめんなよ。アヤちゃんが死んだのが、お前のせいだなんて言わねーよ」
「撃ったのはあたしだ」
「それ以上言うな。それ以上はアヤちゃんに対する侮辱だ」
「だからあんたはアベナツミを殺そうとしている。アヤの仇を討とうと」
「黙れよ」
ミキは冷静になりきれていない自分に気が付いていた。
だが同時に自分は間違っていないことも確信していた。
決して感情に流されているわけではない。
だがマキの言葉は容赦なくミキの心の繊細な部分をえぐっていく。
「いや、本当にやめといた方がいいよ。ここで帰ったほうがいい」
「てめえ。なめてんのかよ」
マキはあくまでも、ミキに対する優しさで言ったつもりだった。
だからあくまでも優しく、ミキの肩に手を置いた。
だがマキは―――他人に優しくすることに、あまりにも不慣れだった。
「アベはあたしが殺る。心配しなくても、アヤの仇はあたしが取ってあげるから」
- 614 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:05
- ここまでコケにされたのは二回目だ。
いや、初めてと言ってもいい。
ラーメン屋でやり合ったときも、ここまでの怒りは感じなかった。
ミキは考えるよりも速く、右拳を繰り出した。
マキはそれを見つめながらも、全く避けようとしない。
ミキのパンチはマキの体をするりと通り抜けていった。
確かに当たったはず。マキは一歩も動かなかったのだ。
だがパンチは当たらなかった。まるで幽霊のようなマキの体をすり抜けていった。
ミキは体ごとマキの体を通り過ぎて、向こう側にある大木にぶつかった。
木々が揺れ、大きな音を立てて枝がしなる。
地面に転がったミキがマキを見上げる。
マキの体はガス化しているようには見えなかった。
だがミキは―――マキに指一本触れることができなかった。
まるでホログラムの映像のように、マキの体を突き抜けてしまったのだ。
「お前・・・・・・ガス化してんのか?」
「いや。別にサディ・ストナッチを召喚してるわけじゃないんだけどね」
「おかしいだろ! だって今」
「あれ以来こんな感じでさ。自分の粒子が自分でも上手くコントロールできない」
- 615 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:05
- アベナツミの血を体内に取り込んでしまったマキの体は、変異を起こしていた。
やはりアベとゴトウの血は特殊だった。お互いに強く影響し合った。
アベの血はガス化を誘導する力が強く、マキの血は太陽化を促進する力が強い。
マキの血を受け、さらに守護獣のDNAを吸いこんで、
アベの体は制御を失って不完全な太陽化を起こしてしまった。
同じようにマキの体は、アベの血を受けてからというもの、
しばしばランダムに不完全なガス化を起こすようになっていた。
二人の体で起こった変異は、通常のSS投与の場合には起こらない。
7分割したウイルスの一部が欠けていることによって起こった奇妙な現象だった。
アベもゴトウも不完全な体を抱えたまま―――
ウイルスの副作用が顕著に表れるようになっていた。
きっと自分に残された時間は少ないのだろうとマキは思う。
一秒ごとに自分の体から粒子が剥がれおちていくのを感じた。
このまま自分の体から自我の一粒一粒が抜け落ちていけば―――
最後は今のアベのように暴走してしまうのかもしれない。
そうなる前にアベと決着をつけたい。
マキはその一心で富士の麓までたどり着いたのだった。
- 616 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:06
- ☆
- 617 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:06
- 富士山頂は灼熱地獄だった。
並の人間であれば、数分で干上がってしまうだろう。
だがナッチの血を浴びたニイガキにとっては、さして不快な環境ではなかった。
「ガキさん、見ていてね。今日はあっちの方を焼き尽くすから」
アベが指差したのは甲府の方向だった。
もう富士の周囲には人が住めるような環境はほとんど残っていない。
ナッチが全て焼き尽くしてしまったからだ。
甲府の街もおそらく既に避難勧告が出ていることだろう。
それでも、そんなことはナッチにとってはどうでもいいことのようだった。
彼女はもう人の命に関して頓着することが全くなかった。
いてもいなくても、消えても消えなくても、どちらでもいいのだろう。
ただニイガキに見せるために燃やしている。そんな風に感じられた。
今のアベであれば、わざわざ火をあげなくても街を潰すことはできる。
ただ豪快に火をあげて遊んでいるように、ニイガキには見えた。
ニイガキはアベが富士山頂に来た直後にここに呼び寄せられた。
今のアベには、身の周りの世話をする人間など必要ないはずだったが、
ただ自分の行動を見ていてくれる人間が欲しかったようだ。
アベは、ニイガキの目の前で次々と周囲の街を燃やしていった。
- 618 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:06
- 今やニイガキの肉体は、完全にナッチに干渉され尽くしていた。
ニイガキの肉体はナッチの肉体であり、ニイガキの自我はナッチの自我だった。
ナッチはニイガキの他にもいくつもの自我を飲み込んでいた。
それはクスミコハルという自我だったり、ミツイアイカという自我だったり、色々だ。
これまでにアベが殺し、飲み込んだ自我の数は膨大なものだった。
しかもその数は、日々、等比級数的に増していく。
もしかしたらナッチは―――世界中の自我を飲み込もうとしているのかもしれない。
ナッチの見るものはニイガキにも全て見えたし、
ナッチが考えることはニイガキにも全て理解できた。
ナッチの歓喜も無念も野望も失望も、全てニイガキは共有していた。
太陽の支配者となる夢が破れたナッチが望むことは一つ。
この大地を全て燃やし尽くすこと。
この星を滅亡させることで、この星を支配すること。
この星の生物の自我の全てに干渉し、飲み込むこと。
ナッチに介入された自我は、全てナッチの支配下におかれるのだ。
究極的には、それらの膨大な数の自我が、アベナツミの名の下に統一される。
この地球が一つになるのだ。
今のナッチの能力からすれば、それは不可能ではないように思われた。
- 619 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:06
- ナッチは全てに干渉する。ナッチは全てに介入する。
もはや人間だけではなかった。生物だけではなかった。
ナッチは石や岩や空気や水や海にも干渉していく。
ナッチに干渉されたものは、全てナッチの自我に統一された。
今はまだ富士近辺の一帯だけに過ぎない。
だがそれはやがて日本全国を覆い、そして世界中へと広がっていくだろう。
ニイガキはそれを最後まで見届けることに決めた。
この星の運命が、どんな結末を迎えようと、それを直視すると決めた。
もうニイガキにはそれくらいしかすることが残っていなかった。
最近では、麻取だった頃の記憶も薄れてきていた。
それどころか、自分が自分であったという認識すら曖昧だった。
自分がナッチ以外の誰かであるということが―――徐々に信じられなくなってきた。
それは悲しいことではなかった。むしろある種の快楽を伴う変化だった。
これこそが『究極のモーニング娘。』の真の最終形態なのかもしれない。
ニイガキはそう感じるようになっていった。
- 620 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:06
- ☆
- 621 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:06
- 「おい、ちょっと! どこ行くんだよ!」
ずんずんと森を進むマキの肩を、ミキはつかんだ。つかむことができた。
先ほどのように、マキの体をすり抜けたりはしなかった。
ランダムにガス化するとマキは言っていたが、そういうことなのだろうか。
「テントが欲しいんでしょ?」
「お前なに考えてんだよ」
「この先にテントが張られてる。人が二人入れるくらいのが」
「そんなことはわかってんだよ」
そう言いながら、ミキは体を固くした。匂いが弱まっている。
マキに気を取られているうちに匂いを見失ってしまった。
どうやら二人はテントから離れていってしまったらしい。
「やべえ・・・・・あの二人が消えた・・・・・」
「知ってる人?」
「二人とも、お前の知ってる人間だよ」
「ヨシザワとイシカワ」
「お前、全部わかってて・・・・・からかってんのか?」
「その二人なら、そこにいるよ」
ミキは後ろを振り返った。
暗闇の彼方には何も見えない。匂いもしない。だが微かに人の気配がした。
マキはずっと―――気付いていたのだろうか。
- 622 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:07
- 「なんだよ気付いてたのかよ。あんたも人が悪いね」
藪の奥から出てきたのはヨシザワヒトミだった。
風下に位置していたヨシザワの匂いはほとんど感じなかった。
イシカワリカは姿を見せない。まだどこかに隠れているのだろうか。
ヨシザワは軽い口調でミキに話しかけてきた。
「リカちゃんから聞いたよ。フジモトさんは匂いに敏感なキャリアらしいね。
もっとも、風下にいる人間の匂いにはあまり敏感じゃないらしいけど」
「うるせーよ。そのリカちゃんとやらはどこにいるんだよ」
「あれ? やっぱり臭わない?」
「まったくもう・・・・・」
どいつもこいつもどうしてこんなにも無神経なのだろうか。
一つ一つの会話になにかと棘がある。
マキといい、ヨシザワといい、普通の会話ができないのかと言いたくなる。
そのマキには、イシカワのことが見えているようだった。
「リカちゃんはそこにいるみたいだね。リカちゃんなら夜目も利くよね。
リカちゃんの目には―――今のあたしの姿がどう映っているのかな?」
マキは寂しそうにつぶやいた。
かつては自分の姿が、その異常な目に映ることを嫌っていた。
リカに見つめられ、解釈され、理解されることを恐れていた。
だが今は恐れなかった。どれだけ見つめられても構わない。
皮肉なことに、ナッチの血を浴びて自分が変化したことによって、失うものが無くなった。
自分が誰からも理解されない存在だということに関して、今は揺るぎない自信があった。
- 623 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:07
- マキの声を受けて、リカも藪の中から姿を現した。
その瞳は真っ直ぐにマキのことを見つめている。
原子の一粒一粒まで見極めようという強い意志のこもった視線だった。
リカとマキは、お互いの信念の強さを比べるかのように見つめ合う。
「勿論ゴトウさんのことは見えていますよ。全然何も変わっていませんね。
ゴトウさんはゴトウさんのそのままです。あたしにはそれしか見えません」
先に目を逸らしたのはマキだった。
イシカワの言葉を聞き、気休めだな、とマキは思った。
だがそれと同時に、自分が気休めを欲していたことに気付いた。
欲しかったからこそ、それをイシカワに求めたのだと。
そしてイシカワは、それが気休めと知りながら、あえてマキにそれを与えた。
このリカという子は、思っている以上に賢い。そして優しい。
だがマキが欲しているのは、あくまでも気休めであって、真摯な優しさではなかった。
「おいおい。こんなところまで麻薬の捜査か? 最近の麻取ってすげーな」
ヨシザワの軽口に、マキは苦笑いで応えた。
自分が麻薬取締官だなんていうことは、完全に忘れていた。
そんな身分だったころの自分が、妙に懐かしかった。
「じゃあ、ちょっとあっちで家宅捜査でもさせてもらおうかな」
ヨシザワはマキに負けないくらいの苦笑いを浮かべた。
二人の寒々しいやり取りにミキは顔をしかめる。
相手したくないなと思いつつも、テントが使えるという誘惑には勝てなかった。
微妙な空気をまといつつも、四人は連れ添ってテントの方へと向かう。
イシカワが用意してきたテントは―――なんとか四人が入れるほどの大きさだった。
- 624 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:07
- 「すごーい。このテントってこう広がるんだ」
「へーえ。よくもまあ、こんなでっかいテントを持ってきたもんだな」
「すげえ重かったんだからな、それ」
「これってリカちゃんが準備したんだ?」
「おいおい。人の話聞いてる?」
「はい。ECO moniの教練ではよく使ったものですから」
「あのなあ」
やいのやいのと言い合う三人をよそに、ECO moniという言葉にミキが反応する。
話のとっかかりとしては丁度良いかもしれないと思った。
イシカワには訊いておかなければならないことがある。山ほどあるのだ。
「そういえばサユがリカちゃんのことを探してるって言ってたよ」
「サユは・・・・・・なんと?」
「何にも教えてくれなかったよ。もうGAMとの関係も終わりにしたいみたいだね」
「そうですか・・・・・では順に説明します」
イシカワはこれまでにあったことや、これまでに調査したことを説明した。
最初に施設で事故があったとき、施設に潜入していたイシカワが、
タトゥーナンバー5番のヤスダケイの身柄を捕らえて連れ帰ったこと。
それ以来、あのECO moniの神社の裏の水槽に、ヤスダケイを隠していたこと。
GAMやカメイエリが施設で見つけた5番の死体は、
以前に施設にいたフクダアスカという被験者の死体だったこと。
ヨシザワと組んだイシカワは、組織を裏切って5番の血液を入手したこと。
その後、アベナツミが神社にやってきたため、
コハルがその能力を使って、ヤスダケイごと神社を燃やし尽くしたこと。
つまり―――今イシカワ達が持っている5番の血が、
真の5番の血であり、そして最後のサンプルであること。
長い話だった。
だがミキとマキは身じろぎ一つすることなく、イシカワの話に聞き入っていた。
- 625 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:07
- 「ここから先は真偽がはっきりしない話ですが・・・・・」
イシカワはそう断ってから、カメイに電話したときのことを話した。
アベナツミが不完全な太陽化を起こしたまま暴走してしまったこと。
その暴走を止めるためには、5番の血を与えなければならないこと。
当然ながら5番の血を与えれば、アベは完全に太陽となってしまうこと。
だがそうしなければ、オゾン層の破壊が起こり、いずれ地球は壊滅的な打撃を受けること。
そしてカメイが―――イシカワとヨシザワに協力を求めたこと。
そこまで話すと、さすがにミキは黙ってはいられなかった。
「おいおい。それってちょっと都合が良過ぎるんじゃねーの」
「ええ。そう言われれば反論はできません」
「なに大人しく納得してんだよお前」
ミキの言葉をさえぎって、マキが質問を加えた。
「一つだけリカちゃんにも真偽がわかることがあるよね。
その・・・・オゾン層の破壊がどうたらっていう話は―――」
「残念ながら本当の話です」
「じゃあ、ミチシゲサユミもその話は」
「知っています」
「それっておかしいだろ!」
ミキがさらに声を荒げる。
- 626 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:08
- 「なんだ? サユのやつはこのままだったら地球が滅びるってのを知ってたのか?
おかしいだろ。だったらカメイのようにSSを使って太陽を制御すべきだろ?
なんでサユは動かないんだよ。カメイと内輪で主導権争いでもやってんのか?」
「いいえ。誰が太陽を支配するとか、そういうことは全く考えていないんです」
「黙って滅びるのを待てっていうのかよ!」
「それがサユの考えなのです」
イシカワはECO moniの基本理念について説明した。
モーニング娘。とは、あくまでも太陽に奉仕する存在であり、
それを支配することなど絶対に許されない。
人間は人間としての分を超えることは許されないのだ。
「バカかあいつ」
「バカではありません」
「バカだろ。どうしようもないバカだろ」
「考えに考えての結論なのです。何千年もかけて考えた結論なのです」
太陽の不調によって世界が歪むのなら、それは正さなければならない。
だが、もし人間の経済活動のせいで世界が歪むのなら、
それは人間の責任として受け止めなければならない。
人間のエゴによって宇宙の理を歪めることなど許されないのだ―――
「いや、違う。何万年かけようが、サユの考えは間違っている」
ミキはアヤのように言葉で説明することは得意ではない。
だがたとえ上手く説明できないとしても、それが間違いだという直感は揺るがなかった。
ミキは隣で寝転がっているマキに、そっと触れながら言った。
「地球が滅んじまったら、借りてるもんも返せねーよ」
- 627 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:08
- ☆
- 628 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:08
- 夜が明けた。地平線の彼方には輝く朝日。
明日も今日と同じような朝日を呼ぶために―――
究極のモーニング娘。とやらが必要なのかもしれない。
だがそれは同時に、アベナツミによる地球支配が完成することを意味していた。
どうするのが一番良いのか。夜通し議論しても四人の中で結論は出なかった。
「やるしかねーよ」
曖昧なミキの一言で、四人は起き上がり、テントから出た。
確かにやるしかないだろう。このままテントで寝ていても事態は好転しない。
だが何をやるべきなのか? 四人それぞれ考えていることは違っているのだ。
違っていてもいいのだろうか。バラバラでもいいのだろうか。
イシカワの中で迷いは消えなかった。
この世界をなんとかしなければという思いがあった。
それでも四人を一つにまとめるような理念は存在していなかった。
イシカワとヨシザワ。ミキ。そしてマキ。
四人は三つの道に分かれて、進み出そうとしていた。
こうやって顔を突き合わせるのも最後だろう。
ここで別れてしまったら二度と会えない。きっと死が永遠に四人を分かつ。
イシカワにはその真実が重かった。
意を決したイシカワは、鞄から二本の試験管を取り出した。
「待って二人とも。渡す物があります」
- 629 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:08
- イシカワの手にあったのは、赤黒い血が入った二本の試験管だった。
そこに入っている血が誰のものであるのか、ミキにもマキにも即座に理解できた。
「これ、三本に分けたの。もう一本はヨッスィーが持ってます」
ヨシザワは何も言わない。
これからイシカワがしようとしていることが何なのか理解していたが、
その判断が正解であるのか、不正解であるのか、考えようとは思わなかった。
何かを放棄したわけではない。何かを投げ捨てたのでもない。
ただ自分は自分の運命を信じて、自分の意志で動くだけだと思った。
アベを殺すのか、それとも太陽の下まで送り届けるのか、どちらでもいい。
ただ一発思いっきり殴ってやればそれでいいと思っていた。他のことはもう、どうでもいい。
「二人とも受け取って。どう使うかは二人の判断に任せます」
きっとそうすることをヤスダケイも望むはず―――
それは自分の勝手な思い込みだろうかとイシカワは思う。
それとも自分が背負ったものを三分の一に減じようとする責任逃れの行動だろうか。
だが思い込みだろうが、責任逃れだろうが、構わない。
この選択が間違いだったとしたら、地獄で笑ってヤスダに詫びよう。
ミキとマキは、それぞれ何も言わずに試験管を受け取った。
そこで四人は別れた。
ヨシザワとイシカワは右の道を進み、ミキとマキは左の道へ進んだ。
イシカワは一度だけ振り返り、ミキとマキの後姿を目に焼き付けた。
マキとミキは振り返ることはなく―――そのままイシカワの視界から消えた。
- 630 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:09
- 「なんだよ。ゴトーもこっちにくんのかよ」
「ゴトーって呼ぶな」
「はあ? マキちゃぁんとでも呼んで欲しいのかよ」
「ゴトウさん、でいいよ」
ミキは鼻の穴を大きく広げて一つ息を吐き出した。
マキが一番嫌がる呼び名で呼んでやろうと思ったが、適当なものが思いつかない。
そういえば呼び名といえば―――
ミキは後ろからついてくる白い子犬を見ながら言った。
「こいつには名前、つけたのかよ」
どちらが名前をつけるのかということでアヤとマキが揉めたとき、
確か「アベを殺した方が名前をつける」とかいう約束になったはずだ。
だがアヤはもういない。あの約束は果たせぬまま終わってしまった。
なんなら自分がつけてやってもいいとミキは思ったが、マキは素っ気なく答えた。
「つけたよ」
あっそう。ミキも同じくらい素っ気なくそう思った。
こいつならポチとかシロとか安直な名前をつけそうな気もしたが、
それでもまあ、コハルのネーミングセンスよりはましだろう。
ミキは特に気にすることもなくマキに訊いた。
「あっそう。まあいいや。で、なんて名前?」
- 631 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:09
- ミキはあくまでも気軽に訊いたつもりだったが、
マキは妙に真面目な顔をして立ち止まった。
怪訝な顔を浮かべるミキをよそに、マキは道の横にあった木の枝を折る。
そして足でざざっと地面をならすと、その名前をぼそりとつぶやきながら、
手にした枝の先で土の上に二文字の漢字を書いた。
零 無
なんだこりゃ。暴走族のチーム名みたいだな、と思ったのは一瞬だけだった。
ミキは即座にその名が意味するところを察した。
父親のゼロと母親のNothing。
二人の名前から一文字ずつとるとは、なかなか心憎いことをやってくれる。
もしかしたらアヤがつけたとしても―――
同じ名前になっていたかもしれないと、ミキは思った。
先ほどまでの不機嫌も吹き飛び、ミキはくしゃっと表情を崩した。
マキのことは相変わらず好きになれなかったが、並んで歩くことにもう抵抗は感じなかった。
それに元々この犬はGAMのメンバーなのだ。
名前を呼ぶ権利には自分にもある。ミキは大きな声で叫んだ。
「コラ! レイナ! ちゃんとついて来いよ!」
ミキの大声にビクッとしながらも、レイナは強気な声で「おん!」と吠えた。
- 632 名前:【処置】 投稿日:2010/01/18(月) 23:09
- 第十一章 処置 了
- 633 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/18(月) 23:09
- ★
- 634 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/18(月) 23:09
- ★
- 635 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/18(月) 23:09
- ★
- 636 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/21(木) 20:50
- 思わず溜息が出た。圧巻です
- 637 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/21(木) 23:31
- 待っていたよ。
あたしはずっとあんたが来るのを待っていた。
さあ行きな。
ここに留まる理由はない。
あんたは自由だ。
そしてあんたを見送ることができるのは―――あたししかいない。
- 638 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/21(木) 23:31
- 第十二章 劇症
- 639 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:32
- 夜明けとともに富士山麓には強烈な日差しが降り注いだ。
粘っこい湿度を含んだ生温かい空気は、熱帯雨林のそれを思わせる。
ナッチがこの山に腰を据えるようになってからというもの、富士周辺には、
そこだけが赤道直下となってしまったかのような、急激な気候の変化があった。
ほんの数日の変化のはずなのに、樹海の生態系は大きく変化していた。
これもナッチの粒子の干渉による効果なのだろうか。
アマゾンのような密林は富士の麓を浸食し、じわじわと頂きに向かっているように見えた。
二つの太陽の光を受けて―――森が生き物のようにぞわぞわと動きだす。
蝋燭が揺れた。
野宿から目覚めたカメイは、夜通し点けていた黒い蝋燭に目をやる。
黒い炎は複雑怪奇なゆらめきを見せたあと、フッと消えてしまった。
カメイにだけ理解できる、特徴的な炎の動きだった。
「どうやらサユがやってきたようですね・・・・・」
「え? マジで?」
カメイの独り言を聞いたマリィが、寝袋の中からもぞもぞと這い出てきた。
暑さのせいもあってか、何をするにも面倒臭そうな仕草が見える。
勿論テントにはクーラーなどついていない。
ただじっとしているだけでも汗が噴き出てくるような暑さだった。
- 640 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:32
- カメイはテントから出ると、手早くテントを畳み始めた。
まだ寝足りないような顔をしたヤグチが、それにのろのろと従う。
もはや二人の力関係は完全に逆転していた。
「昨日はイシカワとヨシザワが来たとか言ってたじゃん」
「ええ。そっちもどうやら富士に入ったようです」
「役者が揃ったってわけか」
「ええ。じゃ、ヤグチさん、準備してください」
エリはヤグチを急かして、すぐに出発することにした。
ミチシゲの存在だけではない。
この山に満ちている怪しげな何かが、カメイの心を奮い立たせていた。
カメイの体力は既に回復していた。
ゴトウに刻まれた両腿の傷も完全に癒えている。体調は完璧だった。
土と岩を司る玄武のエリ。
この国で一番巨大な岩の塊とも言える富士の袂に立ったエリは、
その岩盤から膨大な量のエネルギーを吸収していた。
今ならば―――たとえあの時のゴトウマキが相手であっても負ける気がしなかった。
- 641 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:32
- 二本の太い足を通して、エリの体の芯に凄まじいエネルギーが流れ込んでくる。
その総量は明らかにカメイという人間のキャパシティーを超えており、
肉体の中に閉じ込めておくのが辛いほどだった。
エリはこの国で最も高い頂きを見上げる。
富士の存在感は圧倒的だった。
この地は、もしかしたら自分が最も力を発揮できる場所かもしれない。
エリは決戦の地に富士を選んだナッチの選択に感謝した。
いや、もしかしたら今のナッチの存在そのものが、守護獣の遺伝子に
膨大なエネルギーを分け与えようとしているのだろうか―――
ヨシザワとイシカワのことはさほど怖くない。
東京ではいざしらず、このジャングルのような密林の中で、
罠らしい罠を仕掛けることができるとも思えなかった。
せいぜいブービートラップ程度のものだろう。
そんなものの処理はマリに任せておけばいい。
今はサユを殺ることを優先的に考えるべきだろう。
決着をつけるのは、まだ日が高いうちがいい。
月が―――姿を現す前に。
- 642 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:32
- これは戦争。この星の命運をかけた最後の戦い。
お互い万全の態勢で決着をつけようなどと、甘いことは考えない。
サユが力を出せないような状況で殺す。それが戦場における最良の選択だ。
守護獣を召喚することに迷いはなかった。
「黒き土よ・・・赤き炎よ・・・白き月よ・・・青き水よ・・・・」
カメイの胴体は拳を握った手を胸の前で交差させた。
右手を前に。次の瞬間には左手を前に。そしてまた右手を前に。
目にも止まらぬ速さで、何度も何度も交差を繰り返す。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉をカメイは一息で一気に唱えた。
クロスさせたカメイの両手の手首が、強烈な黒い光を放つ。
マリィはのけぞりながらその光景を見ていた。
カメイの放つ黒いエネルギーに、ただただ圧倒されていた。
「無限の闇の向こうから来たれ 無限の闇をまといて来たれ、我が守護神よ。
今こそ、その力を解き放ちたまえ。 いざ、開け! 黒き北方の門!」
黒き光がカメイの体を包み込み、カメイの輪郭をゆっくりと溶かす。
次の瞬間、カメイの肉体は人間の輪郭を消し、異形のものと化していた。
- 643 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:32
- 「ふしゅぅ・・・・・・・・」
エリがだらしなく息を吐く。
それだけで小さな風が生まれ、周りの空気の流れが変わる。
体の状態を確かめるかのように、エリは二、三度足を踏みならした。
甲羅を背負った巨大な体躯が、周囲の木々をゆさゆさと押しのける。
マリィは自分が小型化したのかと錯覚した。だがそれは違う。
エリが巨大化したのだ。それも規格外のとんでもない大きさに。
まるで重戦車だった。巨大な亀が体を少し動かしただけで地面が揺れる。
踏みならした足元には、深い足跡が残されていた。
「おいおい・・・・おまえ・・・・・おまえよう・・・・・」
マリィは言葉が続かない。絶句したまま硬直していた。
あの青龍とかいう化け物と比べれば、大きさでこそ劣るだろうが、
体から発される異様な圧迫感は、青龍に勝るとも劣らぬものがあった。
一年近い付き合いになるが、エリのこんな姿を見たのは初めてだった。
それでもエリは、マリィの狼狽など気にも留めない。
「それじゃあ、ヤグチさん。ここで二手に分かれましょう」
- 644 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:32
- 「え? 二手に? 今すぐか?」
「ヨシザワを見つけたら携帯で連絡してください。抜け駆けはなしですよ」
「けいたい? けいたいで?」
「じゃ、またそのときに」
エリはそれだけ言い残すと軽くジャンプした。反動で地面がかすかに揺れる。
巨体の周りを覆っていた草木がばきばきと音を立てて折れる。
マリィはまだエリの言葉に戸惑ったままだった。
目の前にいる怪獣のような非現実的な生き物と、
「携帯電話」というごく普通の単語が、頭の中で上手くつながらなかった。
空中でエリは両手両足を甲羅の中に収める。
そしてマリィに対してなんの予告もなく、頭から地中にダイブした。
爆音を立てて砂飛沫が舞い上がった。
「え? コラ、カメイ! ちょっ」
激突したかと思った次の瞬間、エリの巨体は地中に吸い込まれていた。
だがその姿をマリが見ることは叶わなかった。
土が、石が、岩盤が、爆破されたかのように派手に飛び散る。
粉塵の爆風に巻き込まれたヤグチは、防御の態勢を取る暇もなく吹き飛ばされた。
- 645 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:32
- 石や砂に混じってヤグチは宙を飛んだ。
周囲の木々に、背中や肩をしたたかに打ちつけていくが、
本人には痛さを感じる余裕すらなかった。
砂まみれになったヤグチが、ようやく立ち上がろうとしたとき、
今度は地面が縦に横にと激しく揺れ始めた。
「何なんだよ! おいコラァ! ふざけん」
玄武と化したエリは、富士の地中深くを縦横無尽に駆け抜ける。
巨体に含まれていた膨大なエネルギーが、まるで地震のように地表を揺らした。
地中こそが我が故郷。エリは地中で歓喜の歌声をあげていた。
まるで稲妻のようだった。度を超えた歓喜に、体が痛いほどだった。
それでも歓喜の稲妻は止まらない。
エリの中では、自分ではない誰かに体を乗っ取られたかのような感覚が流れた。
玄武という存在を媒介して、地球のエネルギーが次々と弾ける。
富士の持つ異様な磁場によって、エリは完全に我を失っていた。
富士山に―――無数の巨大な亀裂が走った。
- 646 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:33
- ヤグチは緊急事態に陥ったときのクセで、咄嗟に体を小型化させた。
体を小さくしてしまえば、飛ばされて打ちつけられたときのダメージが少ない。
地震の揺れの影響も、少ないままでやり過ごせるのではないか。
だが最適な小ささを考えるというのも難しい。
あまりにも小さくなってしまえば、今度は小さな石や岩にでも押し潰されてしまう。
ヤグチは親指ほどの大きさになった。
地震に対して小型化で対応するというのは何の意味もないことだった。
かえって危険だったかもしれない。
単に地震に対応するというためには、効果が小さ過ぎたかもしれない。
だが結果的に―――ヤグチの選択は吉と出る。
地表に亀裂が走り、断層が生じる。ヤグチの足元にもぽっかりと穴が開いた。
ヤグチの体が暗闇に吸い込まれていく。
どこまでも。どこまでも。ヤグチは奈落の底へと落ちていく。
やがて地震が止まった時、富士にいた人間はことごとく地中に吸い込まれていった。
ほぼ全て―――二人の人間を除いて全て地中に落下していった。
ただ二人。
アベナツミとゴトウマキを除いて。
- 647 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:33
- ☆
- 648 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:33
- 「あれ? 地震かな?」
「え? そうかなあ。確かにちょっと揺れてるけど」
イシカワの言葉に、ヨシザワは首をひねる。
なぜだか「山」という言葉と「地震」という言葉が結びつかなかった。
これほど巨大な山が揺れるわけがないという先入観があったのかもしれない。
だが山であろうが海であろうが、起きる時には地震は起こる。
イシカワとヨシザワが余裕のある会話をしていたのはそこまでだった。
最初は遠くに聞こえていた地鳴りが、突然自分達の真下にやってきた。
それはまさに突然。驚く暇もないほどの突然の揺れだった。
大地が横だけではなく、縦にも揺れる。
地面が揺れているのか。それとも自分が揺れているのか。それすらわからない。
とにかく目線の高さが定まらなかった。
とても立ってはいられない。イシカワはヨシザワにもたれかかる。
ヨシザワはそばにあった大木の枝をつかんで耐えようとした。
だがその大木が―――すとんと下に落ちていった。
違和感のある光景だった。地面がない。ほんの数歩先の地面がないのだ。
それは咄嗟には「断層」と認識できないほどの巨大な断層だった。
地面が裂け、その先には何も見えない。
木々や岩や全てを飲み込んで、なお底の見えない暗闇がそこにあった。
- 649 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:33
- 落ちる。
闇に吸い込まれそうになったイシカワの姿を見て、
ヨシザワはイシカワの手を強く引いた。
なんとか踏みとどまったヨシザワは、手を引いた反動で今度は後方に倒れる。
なんとか両足を広げて踏みとどまった。かろうじて断層から身を離す。
だが揺れはなかなか止まらない。異常に長い地震だった。
ヨシザワの体が左右に跳ね上がる。
自分の体の動きすら制御できなくなってきた。
自由を失ったヨシザワの体は、イシカワと正面からまともにぶつかった。
二人の頭が鈍い音をたてる。目の前が暗くなる。暗闇の中で飛び散る火花。
ヨシザワの前から視界が消えた。
1秒にも満たないほんの少しの時間。
ヨシザワの感覚はエレベーターが降下するときのような浮遊感に包まれた。
それでもヨシザワは―――手を離さなかった。
それが良かったことなのか、悪かったことなのか、それはわからない。
固く握り合った手で結ばれた二人の体は―――
地面に走った亀裂の奥の闇の中へと、真っ逆さまに落下していった。
- 650 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:33
- ☆
- 651 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:33
- ミキはレイナを先導させつつ、ゴトウよりも数歩前を歩いていた。
ミキはどうも人の後ろを歩くというのが好きではない。
かといって隣り合って歩けるほど道は広くなかった。
縦一列になって二人と一匹は山頂を目指す。
だがレイナはどうもこの隊列が気に入らないようだ。
マキのことを気にして、頻繁に後ろを振り返る。
ミキはそんなレイナを、苛立たしげに足先でつつく。
「ほらぁ。きょろきょろしないの。きびきび歩く!」
レイナは少し垂れた目で「言えばわかるから蹴らないでください」と訴える。
だが少し経つと、さっき言われたことなど忘れて、再び後ろを振り返る。
バカかこいつは。ミキはレイナが振り返るたびに足でつつく。
そのたびにレイナは目で訴える。そして忘れる。同じことの繰り返しだった。
振り返るレイナ。その度にレイナをまた蹴るミキ。また目で訴えるレイナ。
蹴るミキ。吠えるレイナ。吠え返すミキ。尻尾を巻くレイナ。呆れるミキ。
隙をみてミキの足を噛むレイナ。怒るミキ。逃げるレイナ。追いかけるミキ。
足を滑らせるレイナ。つまづくミキ。こけるレイナ。こけるミキ。
- 652 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:34
- 出来の悪いコントのようなやり取りを続ける二人を、
マキは眠たそうな目でみつめていた。
別に気を抜いているわけではない。
もはやそんな生ぬるい状況ではないことは、体で感じていた。
一見するとのんびり歩いているように見えるマキだったが、
全力疾走で駆けるレイナとミキの背後に、ぴったりと寄り添っていた。
体の動きは悪くなかった。いつも以上に切れのある動きができるように感じた。
それがこの赤い霧の影響ではないかと考える自分が―――少し奇妙だったが。
富士には赤く薄い霧がかかっている。山全体がうっすらと赤く見えるほどだった。
この赤は、勿論あの女が発したサディ・ストナッチの一部だろう。
それにしてもこの粒子の数は尋常ではない。
一人の人間が生み出す細胞の数の限界を遥かに超えている。
そしてその粒子は、微かにではあるが、触れるもの全てに干渉しようとしていた。
これが太陽化というものなのだろうか―――
それはマキの想像を遥かに超える変化だった。
だがよく考えてみれば、太陽という存在は富士よりも遥かに大きい。
ナッチが今の数億倍に膨れ上がる可能性も十分に考えられる。
自分は本当に、この相手を倒すことができるのだろうか?
この膨大な数の細胞を全て死滅させることができるのだろうか?
倒すことはおろか―――まともに戦うことすら容易ではないように思えた。
- 653 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:34
- 突然マキは立ち止まる。
異変がやってくるほんの数秒前に、マキは足元に言いようのない違和感を覚えた。
情報をつかむことはできたが、経験したことのない情報だったため、
解析することも、対策を立てることもできなかった。
マキにできたことは―――いつもよりもやや固く身構えることだけだった。
地震は突然やってきた。
全くのゼロの状態から、いきなり激震がやってきた。
そう。まるで戦うときのマキのように、予備動作なしで突然やってきた。
だが地震が来た瞬間のマキの対応は速かった。ほぼゼロ秒で対応してみせた。
地震の強さは過去にマキが経験したことのない強さだった。
マキは即座に体をガス化させて地表から遊離させる。
地面から離れてしまえば、地震の影響をほぼゼロにすることができる。
マキは幾分の余裕を持って周囲の状況を観察することができた。
山が動いていた。
マキは山を包む赤色の霧の動きを測る。
赤い霧が山に影響を与えているというわけではなかった。
地震は純粋に地面の下からやってくる。そのエネルギー量は莫大だった。
日本で一番高く、美しい山に、幾つもの巨大な亀裂が走る。
山が砕けてしまうのではないかと思えるような激しい揺れだった。
そして実際に―――富士は数十メートルという規模で陥没していた。
- 654 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:34
- 地面が裂ける。山が少しずつ飲み込まれていく。
やがて揺れは止まったが、山の陥没はなおもゆっくりと続いていた。
この地震は―――ただの地震じゃない。マキの皮膚感覚がそう告げていた。
黒い霧の粒子と化したマキの自我は、数十億個に分裂して富士周辺の情報を集めた。
空気から、木々から、岩盤から、次々と情報を集める。
信じがたいことに、この揺れは純粋な意味での地震ではなかった。
地中深くにあるプレートが揺れたのではない。震源はもっと浅かった。
マキの感覚に何かが触れる。
地面の中に何かがいる。地中の奥深くに得体の知れない何かがいる。
今の地震は、その「何か」が起こした人為的な揺れと言ってもいいようなものだった。
この山の奥にいるものは一体―――?
マキは地面に目を落とした。
あちこちに亀裂が走っており、大きなものは数十メートルにもなる。
急いだ方がいいのかもしれない。
この山が崩れる前に、あの女に会わなければならない。
その時になって、マキは初めてミキとレイナのことに思いが至った。
いない。どこにもいない。影も形もなかった。死体すら転がっていなかった。
先ほどまでミキとレイナがいたはずの大地には―――
ただぽっかりと大きな断層が一つ、口を開いているだけだった。
- 655 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:34
- ☆
- 656 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:34
- 「リカちゃん・・・・・・リカちゃん・・・・・」
暗闇の中で目を覚ますと、ヨシザワはすぐにイシカワの名を呼んだ。
どうやら富士の地底を走る、無数の洞窟の一つに落ち込んだようだ。
どれほどの深さまで落下したかは知らないが、異常なまでに発達した筋肉に
覆われているヨシザワにとっては、十分にガードできるだけの衝撃だったようだ。
それでもヨシザワは入念に自分の体の状態を確認する。
やはり大きな怪我はなかったし、ダメージらしいダメージもなかった。
懐に入れていた試験管のケースも、幸運にも破損していないようだった。
だがイシカワは違うはずだ。彼女の肉体は特別ではない。怪我をした可能性が高い。
ヨシザワは夢中になってイシカワの姿を探した。
あまりにも必死になり過ぎて―――自分の右手が握っているものが、
イシカワの左手であることに、なかなか気付かなかった。
「大丈夫・・・・・あたし、大丈夫、よっすぃー」
イシカワの手がヨシザワの手を握り返してきた。声は驚くほど近くにあった。
息がかかるほどの距離にいるのに、その姿はほとんど見えない。
洞窟の中には太陽の光は一切届いていないようだった。
- 657 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:34
- 「リカちゃん・・・・リカちゃんの目には見える? 周りが見えてる?」
「うん。ちゃんと見えてるよ」
「マジかよ。訊いといてなんだけど・・・・本当に見えんのかよ」
「これだけがあたしの取り柄だから」
「それよりリカちゃん、怪我ない? 大丈夫?」
「大丈夫」
ヨシザワの目にはほとんどイシカワの姿が見えなかったが、
どうやらイシカワの方にも怪我はなかったようだ。
もしかしたらヨシザワの筋肉がクッションのようになったのかもしれない。
それにしても周囲は暗い。
方向感覚だけではなく、時間の感覚まで狂わされそうな暗さだった。
「ライターでもあればなあ」
ヨシザワもイシカワも煙草は吸わない。ライターを持つ習慣はなかった。
ここはイシカワの目を頼って動くしかないようだ。
ヨシザワはイシカワの手をしっかりと握り締めた。
「とにかくリカちゃん、手は離さないで」
「え? うん」
「多分一回離したら、あたしからはもう見つけられないと思う」
「わかった。絶対離さない」
「そこまで強く握らなくてもいいけどね」
- 658 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:34
- じゃあ行こうかと言ってイシカワの手を引いて歩き出したヨシザワだったが、
1メートルも歩かないうちに気付いた。イシカワの様子がおかしい。
体の左右のバランスが著しく崩れている。まともに歩けないようだった。
「リカちゃん・・・・・・どこか怪我したの? 足?」
「大丈夫。ちゃんと歩けるから」
ヨシザワはイシカワを強引に抱き寄せた。
右手ではイシカワの手を持ったまま、左手でイシカワの体を撫でる。
首から上半身。特に問題はなかった。
そして腰から太もも。太腿から膝。ふくらはぎから足首へと、入念に手を滑らせた。
ヨシザワの手がイシカワの左の脛の一点で止まる。イシカワがうめき声をあげた。
「折れてる」
そこは瘤のように腫れあがり、かなりの熱を帯びていた。
とても歩けるような状態ではない。
ヨシザワは強引にイシカワを背負った。
こんな傷を抱えたまま歩かせるわけにはいかない。
こうするのが一番良い方法だと思っての行動だったが、
なぜかイシカワはヨシザワの背の上でぐずぐずと泣きだした。
- 659 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/21(木) 23:35
- 「ごめん・・・・・ごめんねよっすぃー」
「なにが?」
「足手まといだよね、あたし。置いていって。邪魔だから」
「バカな」
「うん。あたしバカよね。本当にバカだよね」
今ここでマリィやエリに遭遇すれば、ひとたまりもないだろう。
いくらヨシザワとはいえ、人間を一人背負って戦えるわけがない。
イシカワは本気でここに一人で残るつもりだった。
だがヨシザワの口調はいつもと同じような、素っ気ないものだった。
「あー、もー、リカちゃんのそういうところって正直ウザいよね」
「だって。だってだって!」
「だってじゃねーよ。だからちょっと落ち着いてよ」
「でも今敵が来たら!」
「その前にさあ、こんな暗闇の中で歩けるわけないじゃん。
リカちゃんがあたしの目になってくれなきゃ困るんだって」
「目に・・・・・」
「これだけ暗かったら手さぐりで歩くのだって無理だよ」
嘘ではなかった。
ようやく暗闇にも慣れてきたが、ヨシザワの目にはうっすらとしか
洞窟内の様子が見えなかった。だがイシカワの目にははっきりと見えるだろう。
イシカワと二人でならば―――こんな暗い道でも歩いていけるかもしれない。
「だからさ、リカちゃん。光のある方向に、あたしを引っ張っていってよ」
- 660 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/21(木) 23:35
- ★
- 661 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/21(木) 23:35
- ★
- 662 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/21(木) 23:35
- ★
- 663 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:10
- 方向感覚が失われていた。上下も左右も前後もわからない。
ただキーンという金属音のような耳鳴りだけが脳髄に響き渡っていた。
まるで水で包まれたかのような、無重力な感覚。
いや、実際に―――ミキは水の中でもがいていた。
胸が焼けるように熱い。肺が酸素を求めていた。
そこで初めて自分が水中にいることに気付く。
それでもどちらが上でどちらが下なのか、ミキには全く見当がつかない。
デタラメに動かしていた右手の指先で、ふっと抵抗力が薄れた。
何もない。いや、そこにあるのは空気。ミキはそこに向かって全力で上昇した。
水中から勢いよく飛び出る。強い衝撃。勢いが良過ぎて天井で頭を打った。
水面と天井の間は30センチほどしかなかった。
ミキは両腕を天井に伸ばして、ごつごつとした岩に指をかける。
それでなんとか体を固定することができた。
貪るように空気を飲みながら、ミキは仰向けの姿勢で水面に浮かんだ。
体を固定して初めて気付いた。水はかなりの勢いで流れている。
富士の地底に流れる地下水脈だろうか。
どうやら地表の断層からそこに落下し、かなり流されたようだ。
呼吸が落ち着く。ようやくミキは冷静さを取り戻そうとしていた。
大きな怪我はないようだ。体には問題ない。
とりあえずこの状況から―――脱しなければならないが。
- 664 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:11
- だが脱するも何も、周囲は全く光のない暗黒の世界だった。
地上で生活している限りでは、滅多にお目にかかれないような、真の暗闇だった。
体を伝って流れていく水がなければ、空間感覚をつかむことすら難しいだろう。
思い切って足を水流の底へと伸ばしてみると、かろうじて足先が届いた。
つま先立ちすれば、なんとか顎から上は水面の外に出すことができた。
しかしここからどうすればいいのだろうか。
判断材料が何もなかった。これでは動きようがない。
どちらの方向へ行けば、この水流から上がることができるのか、見当もつかない。
材料がなければ探せ。ミキは窮地に陥ったときのクセで、鼻をひくつかせた。
とにかくなんでもいいから―――生き物の匂いが嗅ぎたかった。
ミキの鼻をつんと突いてくる生臭い匂いが一つあった。
30メートルほど彼方だろうか。感覚的には―――かなり近い。
二、三度息をついてから呼吸を整え、ミキは大声で叫んだ。
「うおおおおい! レイナ! 聞こえるかあ!」
ミキの大声が岩肌に反響し、洞窟中にこだました。
聞こえないはずがない。案の定、叫んだ直後に強烈な反応が返ってきた。
おうおうおうおうおうぅぅぅぅぅおうおうおおうおうおうおうおうううううう
- 665 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:11
- レイナの鳴き声だった。
人間でいうなら号泣といったところだろうか。
その情けない泣き声を聞いて、ミキは思わず表情を緩めた。
どうやらレイナは必死で泳いでこちらに向かっているらしい。
だがその匂いは、少しずつミキのいる場所からは遠ざかっていく。
どうやらあの子犬は泳ぎがあまり得意ではないらしい。
(なんだよコハル・・・・・マキもよお。そのくらいちゃんと仕込んどけよ)
ミキは天井から手を離し、レイナの匂いのする方へと足を進めていく。
レイナはミキよりも、水の流れの下流にいた。
流れに逆らってレイナが泳ぐよりも、流れに沿ってミキが歩いた方が速いだろう。
ミキは体が流されないように注意しながら、下流へと進んでいった。
相変わらずレイナは滅茶苦茶な声で泣いていた。やかましいことこの上ない。
泣き声は、周囲の岩に反響してしまい、どこから聞こえてくるのかわからないほどだった。
ミキは匂いを頼りにレイナに近づいていく。
だがレイナの匂いはそれよりもどんどんと遠ざかっていく。
水の流れも徐々に速くなっているように感じられた。
- 666 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:11
- (やべえ。意外と流れが速いんだな)
ここで一気に差をつめてレイナを捕捉するか。
それとも、もう少し慎重に動くべきか。
ミキはもう一度天井に手を伸ばして、改めて体を固定した。
天井は先ほどよりも高い。かろうじて手が届く高さだった。
ここから先に行ってしまえば、戻るのは難しいかもしれない。
この流れに逆らって動くのはかなりの重労働になりそうだ。
忘れてはならない。ここは戦場なのだ。余分な体力は消耗したくない。
もう少し慎重に進んだ方がいい―――と思ったミキの判断は正しかった。
おうおうおうおうおおおおおおううううううん。おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉん。
ミキのいる場所の20メートルほど先で、レイナの匂いが急激に下降していった。
水に呑まれて数十メートル落下していき、そしてあっけなく消えた。
(ふーん。あっちには滝でもあんのか? 危ない危ない)
ミキはくるりとターンして、レイナが落ちていったのとは逆に向かって泳ぎ出した。
- 667 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:11
- ☆
- 668 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:11
- エリが巨大な地震を起こした時、サユは、マキとミキのすぐ近くにいた。
富士の樹海に入ったときから、神かと見まごうような巨大なオーラを、サユは感じていた。
これが今のアベナツミなのかと驚愕したが、どうやらそうではないらしい。
慎重にそのオーラの後をたどっていくと、どうもその正体はマキのようだった。
サユは慎重にマキのあとをつけた。
マキの後をつけるのは困難を極めたが、彼女が一緒に犬を連れていたのが幸いした。
サユはマキではなく、その白い子犬のあとをつけることにした。
やがてマキはミキと合流し、驚くべきことにその後、ヨシザワとイシカワとも合流した。
彼女達四人はいつからこんな親密な関係になっていたのだろうか?
だが今はそんなことはどうでもよかった。
今、最も重要なのは―――ヤスダケイの血を誰が持っているかということなのだ。
そして夜が明け、四人が出発しようとしたとき、サユに衝撃が走った。
なんとイシカワは、ミキとマキに試験管を一本ずつ渡してしまったのだ。
それがヤスダの血であることは想像に難くない。
その二本と、もう一本はヨシザワが持っているケースに入っているようだ。
サユが回収しなければならない試験管は―――三本に増えた。
- 669 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:11
- マキ達はそこで二手に分かれた。
マキとミキは右側の道へ。イシカワとヨシザワは左の道へと進んでいく。
どちらを追うか少し迷ったサユだったが、
二本の試験管を持っているマキとミキのことを追うことに決めた。
サユは戦って奪い取ることよりも、まず二人と接触することを考えた。
ミキはともかく、あのマキから強奪するのは難しい。
一度は協力してくれたマキだ。話が全く通じないとは思えない。
まずは話し合って解決を図るのが先決だと考え、サユはマキに近づいていった。
その時、マキがピタリと立ち止まった。
さすがにここまで近づけば、尾行にも気付かれるか。そう思ったサユだったが、
マキはサユに話しかけることはなく、横にある木の枝を折って、地面に突き立てた。
どうやらミキと犬の名前について話しているようだ。
この白い犬の名前はレイナというらしい。
レイナねえ。なんかイマイチでダサい名前だなあとサユは感じた。
アヤならもっとセンスに長けた名前をつけていたことだろう。
ミキはレイナとじゃれあいながら、ぱたぱたと駆け出した。まるで子供だ。
だがミキが離れれば、マキにも話しかけやすいだろう。
そう思ってマキとの距離を詰めたとき―――強烈な地震がやってきた。
- 670 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:11
- サユは倒れてくる木や転がり落ちてくる岩を素早くかわす。
体の動きが軽かった。体中にエネルギーが満ちているように感じられた。
今は朝だ。当然ながら月が出ているわけでもないのに、
自分の中に流れる守護獣の血が妙に沸きたっていた。
(何これ・・・・・これもナッチが富士を覆っている効果なの?)
四匹の守護獣はSSを守るためにのみ使用が許される。
その時に最大限の力を発動することができると、言い伝えられている。
もしかしたら―――ガス化したSSの影響を受けて、
守護獣の力が異常に活性化されているのかもしれない―――
富士を揺るがす烈震の最中においても、サユはそんなことを冷静に考察していた。
全く根拠のない考察ではなかった。
自分の体の力が異常に沸き立っているのなら、
きっとエリの方にも同じような効果が表れているはずだ。
サユはこの地震から、エリの持つ守護獣である玄武を連想していた。
- 671 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:12
- 玄武は地中において最大の力を発揮する。
そんな玄武にとっては、地震を起こすことくらいは容易いことだ。
軽い地震を起こして相手の動揺を誘うのは、エリの得意な戦闘パターンの一つだった。
だがそれにしても、この揺れは尋常ではない。
サユのいる周囲だけではなく、山全体が揺れているのだ。
とても玄武一人の力で起こしたとは思えない。あまりにも規模が大き過ぎる。
もし玄武がこの地中の奥底にいるとしても、
このまま地上におびき出して戦うというのは難しいかもしれない。
地表を走る断層が、食虫植物のようにがばりと下品に口を開けた。
この先にエリがいる。間違いなく彼女がいる。
地下世界は玄武にとって最強のフィールドであることは間違いない。
だがサユに迷いはない。虎穴に入らずんば虎児を得ず。
サユは断層の中に―――軽やかに身を躍らせていった。
- 672 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:12
- ☆
- 673 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:12
- 日が徐々に高くなってくる。
だが富士を包む大気の状態は、遠く離れた太陽ではなく、
すぐそばにいるはずのナッチの影響をより強く受けているようだった。
まだ夜が明けてからさほど時間は経っていないはずだが、
周囲は既に真昼のような暑さになっている。
このままいけば昼ごろにはどれほどまで気温が上昇するのだろうか。
それでもハイペースで山を登るマキの肌には汗はない。
汗を蒸散させて体熱を冷ますという原始的な作用はマキには必要なかった。
マキは既に皮膚の感覚受容体の能力を全開にしていた。
全ての存在に一切干渉せず、全ての存在を相殺する。
いつものようにマキは、純粋に、数学的な意味での「完全なゼロ」と化していた。
富士に覆いかぶさっている灼熱の空気も、マキには全く干渉することはできない。
逆にマキは、体が冷え切っていくような感覚すら感じていた。
- 674 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:12
- 陽炎のようにゆらめきながらマキは富士を登っていく。
登るというただそれだけの単純な行動に没頭していた。
マキの脳内には、感情も思想も想像も願望も、なにもなかった。
頭の中を空っぽにして、ただひたすらマキは山を登っていく。
山道に覆いかぶさってくるように伸びる木々の枝も、マキの目には入らない。
マキは全てを忘れていた。全てを忘れようと努力していた。
ミキのこともレイナのことも忘れていた。
サユのことやイシカワのことやヨシザワのことも忘れていた。
地震のことや富士を包む赤い霧のことも忘れていた。
忘れてしまえば、それらの存在がこの地上から消えてしまうと信じて。
それでも彼女の中には不意に湧きあがってくる思いがあった。
自分の前に立ちふさがる壁。自分が切り開いてきた道。
そして―――自分が歩いてきた道。
彼女が思いを巡らせていたのは、現在ではなく過去に対してだった。
- 675 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:12
- テラダが死んだということはヨシザワから聞いた。
テラダを殺したヤマザキが、カメイに殺されたことも聞いた。
実はGAMに匿われていたヤスダが、アベに殺されたらしいことも、イシカワから聞いた。
それらを聞いたとき、確かにマキの心には小さなさざ波が立った。
ヤマザキ。テラダ。ヤスダ。
イチイやナカザワやイイダが死んだときと同じだ。
自分の過去と現在をつないでいた糸が、またいくつか切れた。
その糸は、断ち切りたいと思うものもあれば、つなぎとめておきたいと思ったものもあった。
だがマキの意志とは何の関係もなく、糸は一つ、また一つと切れていく。
つながっていた糸はマキにとっては「過去」の象徴だった。
生まれたときからまとわりつき続けている、呪縛の鎖に他ならなかった。
自分が生まれてから、どれほどの月日が経ったのだろう。
どれほどの人間と関係してきたのだろうか。
そして―――残っている糸はあと何本なのだろうか。
それらの糸が全て切れてしまった瞬間、自分は真の意味で自由になれるのだろうか。
暗黒の過去から解き放たれて、純白な未来へと羽ばたくことができるのだろうか。
自分はそれを求めているのだろうか。そのために生きているのだろうか。
そのために生きるということに―――意味はあるのだろうか?
- 676 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:12
- だがマキの中に立ったのは、あくまでも小さなさざ波にすぎなかった。
やがて波は引いていく。
水面には一つの波紋も残らなかった。残すことを、マキの心が望まなかった。
他人の死を悼むことはない。消えた絆を嘆くこともない。
解放されたという喜びに浸ることもない。ない。何もない。ゼロだ。
マキの心はただ一つ、完璧なゼロになることを欲していた。
完璧なゼロとなる。それは自殺願望のようなものではない。
自分の存在をこの地球上から消し去ることを望んでいるのではないのだ。
マキの感情はそんな儚げな自己陶酔とは無縁だった。
むしろ逆に、マキにとってゼロとなるということは、
はっきりとした自己主張であり、自己表現であった。
自分がこの世界で生きていく上で、必要不可欠な要素だと考えていた。
全ての関係をゼロに帰し、誰にも、何にもよりかからずに一人で生きていく。
その望みがかなえられるのなら、どんな犠牲も厭わないつもりだった。
いや犠牲というのなら―――既に小さくない犠牲を払っている。
もう後戻りをすることはできない。
- 677 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:12
- 生きていくうちに、失ったものもあれば、得たものもあるだろう。
そういったものの収支がプラスになったりマイナスになったりする。
それが普通の人生だ。マキも施設に入るまではそうやって生きてきた。
だがここからは違う。
きっとこの山を登りきったら、もう後戻りすることはできないだろう。
この山頂にいる人間にもう一度出会ってしまったなら―――きっと。
きっと奪い取ったものを戻すことはできないし、失ったものを取り返すこともできない。
壊したものを直すことはできないし、新しいものを生み出すこともできないのだ。
プラスとマイナス。
どちらに針が触れるとしても―――二度とゼロの方向に戻ることはない。
きっとそれが、適格者として生まれてしまった人間の運命なのだろう。
マキはテントの中でのヨシザワやイシカワやミキとの会話で、それを痛感した。
彼女達はまだ大丈夫だ。きっとやり直しが利く。
どれだけ異常な能力を持っていようとも、結局のところ、彼女たちは普通の人間だ。
自分やアベナツミがこの地球上から消えたとしても―――
その後、彼女達がそれまでのような普通の生活を取り戻すことは、不可能ではないだろう。
- 678 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:13
- だが自分は違う。おそらくアベナツミもそうだろう。
きっと自分とアベの、どちらかがマイナスでどちらかがプラスだ。
ウイルスのせいなのか、それとも生まれつきそうなのか。
自分とアベは二つに分かれてしまった太陽の片割れなのだろう。
二人の人間を足して二で割るなんていうことはできない。
どういう結末になろうが、二度と元の自分に戻ることはできない。
アベを殺すか、自分が殺されるか。
最後に残る結末は、きっとそのいずれかでしかないのだろう。
そのとき、初めてマキは自分の運命を甘受できたのかもしれない。
体中に流れているウイルスの存在を、受け止めることができたのかもしれない。
この地球をぶち壊すか。あるいは太陽を再生するか。
どちらの結末を選ぶとしても、一度選んでしまえば、やり直すことはできない。
それはわかっていた。
だがわかっていてもなお、マキはゼロになることを望んでいた。
叶わないとわかっていても、痛みや悲しみや苦しみから解放されることを、一心に望んだ。
理想の自分の姿を追い求めて生きることを欲した。
それを欲することは―――ゴトウマキという人間には許されないことなのだろうか?
- 679 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:13
- そんな望みすら、今のマキの頭の中からはゆるやかに消えようとしていた。
過去よ消えろと己の心に念じる。
一つ。また一つと、体から黒い粒子が剥がれ落ちる度に、
マキは、自分の心から過去の思い出が一つ一つ消え去っていくように感じられた。
だがそれも悪くない。それを望む自分というのも悪くない。もう考えるのはよそう。
マキは文字通り無心となって黙々と足を進める。
瞬間移動のように、無駄な動きを全く入れず、雷のように進むマキ。
富士の急勾配にあってもその動きは衰えを見せない。
むしろ、山にかかる赤い霧に誘われるように、たった一人の行軍は勢いを増していった。
記録的な速さでマキは富士の山稜を登りつめていく。
だが誰にもこの勢いは止められない―――というわけではなかった。
不穏な空気を感じたマキが足を止める。周囲の霧の流れが変わったように感じた。
その時になって初めて、マキは顔を上げて山の様子を見やった。
もはや樹海の森は遥か彼方の下方にかすかに見えるだけだった。
かなり登ってきたが、山頂まではまだ少しあるはずだ。
ナッチがここで現れるとも思えない。カメイか? あるいはヤグチマリか?
今ここでマキの前に立ちはだかるのはその二人以外にないように思えた。
だが―――マキの前に現れたのはその二人ではなかった。
- 680 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:13
- マキの前方で、赤い霧がにわかにその濃度を高める。
殺風景な山稜の岩肌を、あでやかな赤のカーテンが彩る。
それは毒虫の羽のような際立った人工的な赤だった。
マキは一歩下がる。
霧のカーテンの向こうに人の気配が感じられた。
マキは全身の感覚受容体の感度を最大限まで上げる。
その感度の上昇に呼応するように、マキの受容体に痛いほどの情報が突き刺さる。
赤い粒子は叫んでいた。マキに向かって高らかにその存在を告げていた。
見て。わたしはここにいる。わたしを見て。その全身で認識せよ。
絶叫する粒子の波動の向こう側から現れたのは真っ赤な少女だった。
細い体、細い手足に薄い胸板。そのシルエットはアベナツミのそれではなかった。
「お久しぶりです、マキさん」
目と目が合う。まさかこんなところで会うことになるとは、思いもしなった。
少女はマキのよく知る人間だった。かつては後輩と呼んでいた女だった。
だが少女にはその頃の弱々しい面影は全くない。別人かと見間違えた。
その真っ赤な少女―――ニイガキリサは喋り方まで様相を変えていた。
「ここから先へは行かせません。申し訳ありませんが、ここで死んでもらいます」
- 681 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:13
- ☆
- 682 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:13
- サユは蝋燭に火をつけた。
真っ白な蝋燭からは真っ白な火が燃え立つ。
それでも周囲の闇は驚くほど深い。
どうやらあの断層に身を投げた後、かなり深いところまで落ち込んだようだ。
サユは最大限に神経を集中させて辺りの様子を窺う。
だが―――わざわざ集中しなくとも、うるさいくらいはっきりと聞こえてくる声があった。
その声がエリやヤグチのものではないことは明らかだった。聞けばわかる。
サユはそちらの方に向けて蝋燭を軽く振った。
どうやら向こうでも蝋燭の光に気付いたようだ。派手に騒ぎたてながらこちらに近づいてくる。
わんわんわんお。おうおうおうおうおおおおおおうん。おうおうおうおうぅぅぅぅん。
走り寄ってきたのが、コハルが育てていたあの子犬だということは予想していた。
マキと一緒に行動していた、あのレイナとかいう白い子犬だということは想像できた。
だがその犬が―――びしょびしょに濡れたまま胸元に飛び込んでくるとは予測できなかった。
ギュッと抱きとめた瞬間、サユの胸に冷たい水の感触が伝った。
思わず顔をしかめるサユ。だがレイナの反応はもっと衝撃的だった。
抱きとめたときにサユの持っていた蝋燭の火がレイナの背中に当たったようだ。
絶叫し、爪を立てて全力でもがきながら、サユから飛び離れるレイナ。
二つの白い生き物は、しばしの間、ぎゃあぎゃあと騒ぎながら罵り合った。
- 683 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:13
- 「ちょっともう信じられない。服がびしょびしょじゃん!」
サユの声を無視して、レイナはぶるぶると体を震わせた。
母親のNothing譲りの白い毛から水滴が飛び散り、再びサユの服を濡らす。
焦げた背中を気にしながら、レイナは恨めしそうな視線を向けた。
なんとなくサユを苛立たせるような目線だった。
「ちょっともう! ちゃんとしなさい!」
レイナは目じりを下げ、不服そうな顔をサユに向けた。
だがそれでも、知っている人間に会えたことが嬉しかったのだろう。
尻尾は千切れんばかりに激しく振られている。
それに合わせてまたまた水滴が飛び散る。
サユはもう服が濡れることは諦めて、その小さな犬を呼び寄せて頭を撫でた。
バカな子に対する応答の仕方なら慣れている。
そういえば昔のエリも、こんな感じでバカなことばかりやっていたものだ。
自分のレベルをバカな子目線に合わせることにも、さしたる抵抗は感じない。
突き抜けた優秀さを持ったサユにしてみれば、
その行為は、毎日誰かに向かって行っていることであり、程度の問題でしかない。
「おまえ、レイナっていうんだっけ?」
- 684 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:13
- 子犬はおん!と嬉しそうに吠えた。どうやら結構単純な性格らしい。
そういえばこの子はコハルに鍛えられていたはずだ。単純さもコハル譲りか。
その後はマキが持ち去って、軍用犬としてしっかりと仕込んだようだ。
犬か。犬―――もしかしたらこいつは―――
エリを倒すための、とっておきの切り札になるかもしれない。
「よし。それじゃあ、一緒に行こっか、レイナ」
レイナはまるで人間の言葉が理解できるかのような機敏な反応を見せた。
おん!おん!と何度も吠えて無邪気に嬉しさを表現している。
甲高い泣き声が洞窟の中に、わんわんお、わんわんお、とこだました。
サユは慌ててレイナのことを黙らせる。
慣れているとはいえ、バカの相手をするのはやはり少し疲れる。
「ちょっとちょっと。ここは戦場なんだから、もう少し静かにね・・・・・」
サユの言葉を受けると、子犬はすぐに黙り込み、真剣な表情を見せた。
なかなか切り替えの速い犬だ。やはり使えるかもしれない。
そういえばこの犬も、もう生まれてから一年くらい経つはずだ。
- 685 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:14
- 親犬であるNothingは一歳の頃から戦場で戦っていたとアヤは言っていた。
犬の一歳は、人間でいえば十七歳に相当する。
立派なレディじゃんか。サユはこの犬のことを少し見直した。
アヤがNothingを引きつれていたように、マキがゼロを連れていたように、
自分がこの犬を引きつれているというのもいいかもしれない。
勿論、このちっぽけな子犬が、単独でエリやヤグチに対抗できるとは思わない。
だが既に、サユはこの犬の決定的な使い道を考え付いていた。
少なくとも、この犬にしかできないようなことを、サユは一つ思いついた。
「ねえ、レイナ。フジモトさんはどこにいるのかな?」
マキはガス化することができる。地下に落下したとは思えない。
だがこの犬と一緒にいたミキは、きっと落下してこの近くにいるはずだ。
そう考えてサユは何度も尋ねたが、レイナは口を半開きにしてきょとんとしている。
真っ白な毛の中に黒目がちな瞳がきらきらと光っていた。
「だからフジモトさん。フ・ジ・モ・ト。ミキさんだよ。ミ・キ」
- 686 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:14
- おん!
レイナは「ミキ」という言葉に鋭く反応した。
ぴょんぴょんとジャンプしてとび跳ねる。意味がよくわからない。
今度は鼻を天井に向けて、おん!おん!と吠えた。
その表情は、どことなく威張っているようにも見える。
「うーん。もしかして・・・・・この上にいるってこと?」
サユは天井に向けて指を差した。レイナはそれに反応する。
どうやらこの地下洞窟は何層にもなっているようだ。
レイナは上の階層から降りてきたらしい。ミキは上の層にいるのだろう。
「で、お前はどうやって上から降りてきたの?」
レイナはうっと言葉に詰まった。そしてぷいっと下を向く。
そんな細かいリアクションも、まるで人間のようにわかりやすいものだった。
純粋なバカというよりも、なんとも面倒臭いというか、扱いに疲れる犬だった。
一体誰のせいでこんな人間臭い犬になってしまったのだろうか。
もっともサユには、一人しか思い当らなかった。
クスミコハル。
いかにも彼女が仕込んだような、わかりやすくて面倒臭い犬だった。
- 687 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:14
- 「もーう。しょうがないなあ・・・・・・」
サユはこの子犬を使ってミキの居場所をつかむことを諦めた。
レイナはびしょびしょに濡れている。
おそらく富士の地底を流れる水脈にでも流されてきたのだろう。
そしてどうやらフジモトミキはここよりも上のエリアにいる。
水流を伝って上から下に流れていくのは簡単だが、その逆は難しい。
たとえレイナが落ちてきた水流を見つけることができたとしても、
その水流を伝って上のエリアに行くというのは、ちょっと無理だろう。
別の通路を探さなければならない。
サユは白い蝋燭を持ち、再び腰を上げた。
探すしかないだろう。そして上にいるミキからも試験管を回収しなくては。
富士の地底には無数の洞窟が行き交っていると聞いたことがある。
上の層へと抜ける通路も一つや二つではないはずだ。
きっとこの犬も、ミキの匂いをたどることくらいはできるだろう。
サユは不貞腐れているレイナの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「行くよ。ミキさんの匂いを探してよ、レイナ」
- 688 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:14
- レイナの目がぱっと輝く。またまた大きな声でおん!と吠えた。
どうも頭をなでられると元気が出る性格らしい。
単純な性格のバカといえば、誉められて伸びるタイプと相場が決まっている。
それにしても、レイナはサユが思った以上の反応を示した。
テンションが上がったレイナは、洞窟の先へと元気よく駆けていく。
「あ! コラ! そっちは暗いから! そんな勝手に走らないの!」
レイナを追いかけて一分ほど走っただろうか。
暗闇の向こうから、おおうううううおうおうおうお。というレイナの鳴き声が聞こえた。
暗くて怖くなったらしい。とことことこと、半泣きの顔でこちらに戻ってくる。
本当にこいつは犬か。軍用犬か。どうにもこうにも面倒臭い犬だった。
それでもサユはバカな子の扱いには慣れている。
慣れている―――つもりだった。だが認識が甘かった。
健気な子犬との暢気なやり取りの中で、ここが戦場であることを忘れていた。
暗闇の中を、空気を切り裂く不穏な音が伝ってきた。
黒い殺気。それに気付いた時には、それはもはや避けがたいところまで届いていた。
何か巨大な刃物が宙を飛んでこちらに向かってくる。
その殺気は―――真っ直ぐにレイナの首に向けられていた。
「危ない! レイナ!」
- 689 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/23(土) 23:14
- サユは右手を伸ばし、レイナの首根っこをつかむ。
もはやその瞬間にはサユの目にはレイナの姿しか見えなかった。
あまりにも無我夢中で、他のものが目に入らなかった。
視野の狭さは判断力の低下に直結する。らしからぬ失態。
そう。サユの行為はまさに―――致命的な失態といってよかった。
レイナの体をぐいっと手前に引き寄せようとしたところで、右腕に激しい痛みが走った。
「ほおおぉう」思わず声が漏れる。サユといえども冷静ではいられなかった。
血飛沫が一瞬だけ、暗闇が支配する空間をべっとりと赤く染めた。
サユの右手は―――肘から先が切断されていた。
レイナの首をつかんだまま、切断の衝撃でサユの右手が宙を舞う。
そしてレイナと一緒に、切断された腕が洞窟の床に落ちて転がった。
サユの腕を吹き飛ばしたのはブーメランのようなものだった。
それが空中で方向を変え、元のところへと戻っていく。
ブーメランが消えた暗闇の向こう側から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ウエヘヘヘ。そんな子犬をかばうなんてねえ。意外と甘いとこもあるのね、サユ」
サユの左手にある白い蝋燭が照らし出していた。
暗闇の向こう側には、その闇よりも黒い一匹の巨大な亀。
玄武はニヤニヤと笑いながら、くぱあぁと巨大な口を開いた。
- 690 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/23(土) 23:14
- ★
- 691 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/23(土) 23:14
- ★
- 692 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/23(土) 23:14
- ★
- 693 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:12
- ミキは水流から身を引き上げると、そのまま地面に転がって荒い息を整えた。
三十分近くは泳いだだろうか。広い空間に出ることができたのは幸運だった。
滝のようなところから落ちていったレイナのことは気になるが、
今はどうしようもないだろう。
気に病んでも仕方ないし、追いかけようなんてことは自殺行為だ。
ミキは一旦服と靴を全て脱ぐと、絞れるだけ水を絞って、軽く乾かした。
ここから先は体力勝負になりそうな予感がする。
余計な体力はなるべく消費したくなかった。
洞窟の中も、外と同じくらい暑かった。
いや、外よりもむしろ暑いかもしれない。
ミキが泳いでいた水流の温度も、かなり温かかった。
服もそのうち乾くだろう。ミキは生乾きのままの服を再び身につけた。
もう一度呼吸を整える。自分の体に問い掛ける。動けるかと。
体のコンディションはまずまずだった。最高ではないが最低でもない。
とりあえず歩いていこう。
どうやら右手の奥からは光が漏れているようにも感じられた。
地表からどれくらい落ちたのかはわからないが、そう深くはないはずだ。
なんとしても外に出て―――カメイとアベをぶちのめす。
それだけを考えて、ミキは歩き出した。
- 694 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:12
- ミキは全くの手ぶらだった。
小さな荷物は持っていたのだが、不運にも落下の衝撃で失ってしまったようだ。
まあ、靴が脱げなかっただけでも幸運だったと思うしかないだろう。
幸運だと思うのなら、落ちた下が水流だったのも幸運だったし、
その水流からこうやって上がることができたのも幸運だ。
こうやって生きていること自体が幸運な証だと言える。
逆に不運だと思うのなら、ここに落ちたことも不運だし、
こうやって太陽化計画に巻き込まれたこと自体が不運だ。
関東に住んでいたことも不運の一部かもしれないし、
アヤと出会ってGAMという組織を作ったことが不運の始まりだったかもしれない。
だがそれを言うのなら―――生まれたこと自体が不運、という結論になってしまうだろう。
要するに、何が幸運で何が不運かを考えることなど、意味がないということだ。
こうやって生き延びている以上、生き延びるためにもがき続けるしかない。
それは運命ではなく、義務だ。この世に生を受けたものの義務なのだ。
好きとか嫌いとかそういう問題ではない。
与えられた状況。与えられた運命。与えられた条件。
人それぞれ違うのだから、自分の頭で考えて進まなければならない。
だからこそミキは、常識も定跡もなぞることなく生きてきた。
今更そんな生き方を変えるつもりもない。
- 695 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:12
- そうだ。自分の道は自分で考えて選ぶべきだ。
生きることは義務だが、どう生きるかは自由だ。
誰からも、何からも束縛されることはない。
他人から束縛されずに生きるというのは、そんなに難しいことではない。
人間のカスみたいなやつにだってできることだ。
関東の裏社会で生きてる屑どもは、みんなそうやって気ままに生きている。
自由の意味を履き違えた中学生みたいな生き方だ。
本当に難しいのは自分自身にも束縛されずに生きること。
自分の信念や哲学ですら、状況によっては疑ってかかるべきなのだ。
どんな時にも使えるオールマイティーな人生哲学などありはしない。
人生に王道などないのだ。どう生きるかはその場その場で考えなければならない。
そしてどう生きるかということにも、幸運とか不運とかは関係ない。
幸運だろうが不運だろうが、生き方を変える必要はないだろう。
そんなものに左右される行き方ってなんだ? くっだらない。カスみたいな人生だ。
だから歩け。前を見て歩け。余所見をしている暇なんてないんだ。
ミキはそんなことをぐだぐだと頭の中で考えていた。
あまり意味のない行為だったが、不運を嘆くよりは幾分か前向きだと自己評価した。
そんな思索を続けるミキの鼻が嗅ぎ取ったのは―――幸運の匂いだった。
- 696 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:12
- ミキが嗅ぎ取ったのはヨシザワとイシカワの匂いだった。
閉鎖された洞窟という環境においては、
数百メートル先の匂いであっても容易に感知することができた。
とりあえず敵ではない匂いだ。ミキはその匂いに向かって歩を進めた。
匂いの方へと進むたびに、少しずつではあるが、周囲が明るくなっていく。
どうやら光が漏れている方向と、二人がいる方向は一致するらしい。
とりあえず三人が集まれば、ここから脱出するアイデアも浮かぶかもしれない。
そういえばゴトウマキはどうなったのだろう。
洞窟内からは、彼女の匂いは全く感じ取ることができなかった。
おそらく彼女は地下には落ちなかったのだろう。
いざとなればガス化して地上に出ることもできるはずだ。
もし落ちていたなら、即座にガス化して拡散し、ミキやイシカワと接触を図っているだろう。
つまりマキは―――他の三人を見捨てて、一人で山頂に向かったということか。
そのことに関しては、ミキは何も思わなかった。
もし自分がマキだったら、全く同じことをしただろう。
今はとにかく、アベをぶちのめすことだけを考えるべきだ。
そこに考えが至った時、ミキはそっと懐に手を伸ばした。
失くしていない。割れていない。試験管の入ったケースはそこにあった。
それを確認して軽く安堵のため息をもらしたところで―――ミキは光の漏れている場所に出た。
- 697 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:12
- 一面の光が溢れていた、というわけではない。
だがそこに座っているヨシザワとイシカワの姿が確認できるほどの明るさはあった。
山の上で二手に分かれてから地震が起こるまで、
それなりの距離を歩いたと思ったが、さほど離れてもいなかったらしい。
それとも水流に落ちてから、かなり流されてしまったのだろうか。
都会の雑踏に慣れたミキの感覚では、どうも山や洞窟の中では距離感がうまくつかめなかった。
ヨシザワとイシカワは寄り添うように二人座っている。
そのスペースの中央にも、ミキが流されたのよりも少し小さい川が流れていた。
水音や雰囲気から察するに、腰ほどの深さの川だろうか。
どうやら富士の地下にはこういった水流が、網の目のように無数に流れているらしい。
それはともかく、ミキは、ヨシザワとイシカワとそこで再会した。
「よお。そっちも落ちたのかよ。地震で」
「まあね。そっちもそうか。ゴトウとあの犬はどうしたの?」
「ゴトウは多分落ちてないと思う。今頃一人で山の上に向かってんじゃないの」
「犬は?」
「落ちたことは確か。でも途中ではぐれちゃった」
そんな会話をかわしながら、ミキは壁にもたれて座っている二人に近づいた。
ヨシザワは普通に喋っているが、どうもイシカワの様子がおかしい。
薄明かりの中でも、その表情が憔悴していることが感じ取れた。
- 698 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:13
- 「この子、怪我でもしたの?」
イシカワの代わりにヨシザワが答える「ああ。足が折れた」
「うわぁ」
「ごめんなさい・・・・・・・」イシカワの声は涙声だった。
「はあ? なに泣いてんだよ。なんであたしに謝るの?」
「だって、だってあたしのせいで・・・・・・・」
「いや、別にどうでも」
ミキにはイシカワの怪我などどうでもよかったが、イシカワはそれを別の意味でとった。
「そうですね。あたしなんて別にどうでもいい存在ですよね・・・・」
「はあ?」
「あたしがいるばっかりに。あたしがいたからこんなことに・・・・・」
「ああ、もう。なんかあんたもさあ、色々と面倒臭い子だねえ」
あの子犬といい、ゴトウやイシカワといい、どうして自分の周りには、
こんな面倒臭い女ばかりが集まってくるのだろう。
それとも、これまで付き合っていたアヤという女が、
人並み外れて面倒臭くない女だったということなのだろうか―――
「あんまりリカちゃんのことを責めないでやってよ」
「別にいいけどさ」
- 699 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:13
- ミキにとっては本当にどうでもいい問題だった。心の底からどうでもよかった。
だがよく考えれば、このイシカワという女は目が発達したキャリアなのだ。
この真っ暗闇の状況ではいくらでも使いようのある女かもしれない。
どちらにしても、ヨシザワはイシカワのことを見捨てたりはしないだろう。
一緒に行動するとすれば、三人でということになる。
「で、どうやってここから出る? そのイシカワっていう子は目が良いんだよね?
ここら辺に上に通じる道とかなかったの? ここの光ってどこから来てるの?」
「光はこの上から漏れているみたいです」
「壁をよじ登っていけば出られると思うんだよね。ロッククライミングみたいに。
それで今はリカちゃんに、一番良い登攀ルートを探してもらっているところ」
「えー! この壁を登るのかよ。足が折れてんだろ?」
「この子はあたしが背負う。ついでだからあんたも乗ってく?」
「え? 乗ってくって?」
「背負っていってやるよ。二人くらいならどうってことない」
ヨシザワの口調には気負っているところが全くなかった。
この急角度の壁をよじ登っていく? それも二人を背負って?
何メートル上に出口があるんだ? イシカワにはそれも見えているのか?
「出口までは、光の加減からいって、およそ四十メートルくらいだと思います」
- 700 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:13
- 「思います、じゃねえよ。四十メートルって・・・・・絶対無理だろ」
「無理じゃない。あたしの筋力なら大丈夫」
「お前・・・・・もしかして。そっち系のキャリアなのか?」
「まあね」
ミキはフォースでヨシザワとバトルした時のことを思い出す。
あの時のヨシザワの奇妙な筋肉の動き。あの時は理解に苦しむ動きだと思ったが、
改めてそういう観点で見れば、理解できるような気がした。
この女は、おそらく筋肉細胞が異常に発達したキャリアなのだろう。
「で、その登攀ルートってのは本当にあるの? その前に、本当に見えてんの?」
「見えてますよ。これくらいの光なら昼間と同じです。岩の窪みも把握できました。
今のよっすぃーの筋力なら、二人の人間を背負っても十分に登りきれるはずです」
「マジで?」
「あなたの体重が400kgくらいあるというのなら別ですけど」
暗くてよく見えなかったが、それでもイシカワの表情は、
とても冗談を言っているようには見えなかった。
その真面目な口調がなぜかやけに癇に障る。
ミキもイシカワと同じくらいクソ真面目な口調で答えた。
「ふーん。あたしの体重? まあそうね。300kgくらいですかね」
「それなら大丈夫。よっすぃーなら登れます」
「マジかよ」
- 701 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:13
- 「本当ですよ! ヨッスィーはキャリアとしての能力に驕ることなく、この日まで
異常な筋肉細胞を鍛え上げる過酷なトレーニングを何日も積み重ねてきたんです。
その結果、今ではあのサユちゃんとだって互角以上に戦えるほどになったんです。
これくらいの登攀くらいなら、全然軽いでしょう。落ちることはまずないと思います」
おいおいいきなりなんだよ。サユちゃんってなんだよ。いきなりだなおい。
どこのスイッチが入ったんだよ。とにかく落ちつけって。怪我してるんだよね?
早口でまくしたてるイシカワに、ミキはやや圧倒された。
まるで足の怪我のことなど忘れたかのようなイシカワの口振りだった。
やけに興奮しながら、訊かれもしないことまでべらべらと答える。
ヨシザワのことを語るイシカワの長饒舌には、妙な自信が溢れていた。
自分のことを話しているときとは、自信の程度が全く違っていた。
まったくややこしい性格だ。ミキは一つ深いため息をついた。
それはともかく、ミキとてキャリアの一人だ。
キャリアというものが、どれほど異常な力を持っているか、深く理解している。
目のキャリアであるイシカワが見て、筋肉のキャリアであるヨシザワが登る。
確かにそんなに難しいことではないのかもしれない。
もしそこに―――余計な邪魔が入らなければ、という話だが。
だがそのとき、ミキの鼻が余計な匂いをかぎとっていた。
この匂いの元が―――余計な邪魔をしないという保証はなかった。
- 702 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:13
- 「誰かこっちに近づいてくる」
ヨシザワとイシカワが身を固くした。
ヨシザワは立ち上がり、イシカワをガードするような姿勢を取る。
マキが下に落ちていないとすれば、ここにやってくるのは敵しかいない。
「誰だよ? 誰の匂いだ?」
「わかんねーよ。少なくともマキの匂いじゃない。子犬の匂いでもない。
あの亀の化け物の匂いでもないし、アベナツミの匂いでもねーな。
・・・・・あ! あいつの匂いだ。あのとき有楽町にいた女!」
「有楽町?」
「たしか名前は―――ヤグチマリ」
空気の色が変わった。温度が変わった。硬さが変わった。
ミキは無意識のうちに、一歩大きく後ろに飛び下がった。
戦い慣れたミキの体に後退を強いるような、激しい殺気が立ち上っていた。
ヨシザワだ。ヨシザワの体から、妖気のような殺気が湧き出ている。
近づくことすら躊躇われるような、緊迫感のある空気がその場を支配している。
ミキはヨシザワから大きく離れざるを得なかった。
その横ではイシカワが勢いよく立ち上がった。
顔をしかめて体を右側に傾ける。どうやら折れているというのは左足のようだ。
だがイシカワの表情に、先ほどまでのような弱さはなかった。
暗闇の奥の一点を見据えたまま、微動だにしない。
イシカワの体から立ち上る殺気もまた、ヨシザワに劣らぬものがあった。
- 703 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:13
- 「ふーん。カメイでもアベでもなくマリィが先に来たか」
「運が良いね、あたしたち」
ヨシザワとイシカワは、もうミキの存在など眼中にないようだった。
そういえばこの二人は、フォースの仲間を殺られた借りを返しにきたと聞いた。
ナカザワやツジを殺ったのがマリィだったということなのだろう。
筋肉が異常発達しているというヨシザワが戦うのはいい。
だがイシカワは、足の骨が折れているというイシカワは―――
「おい。おめーよう。足折れてんだろ? 戦えんのか?」
「戦える」
「戦える。じゃねーよ。遊びじゃねーんだぞ?」
「戦える」
「おい。人の話を」
「戦える」
先ほどまでの「あたしのせいで・・・・」といった弱気な言葉はそこになかった。
このイシカワという女は、切れると人が変わるタイプなのだろうか。
だがどう見ても、今の彼女は戦えるような状態ではない。
普段なら放っておくところだが、今のミキはとにかく一秒でも早く地表に上がりたかった。
もしイシカワが死んでしまったら、上に出るのは大幅に遅れてしまうだろう。
「おいヨシザワ。イシカワはこう言ってるけどさあ。いくらなんでも無理だろ。
マリィってのもすげー強いキャリアなんだろ? あたしが代わりにやろうか?」
- 704 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:13
- イシカワが戦うよりはよっぽど戦力になるだろう。
ヨシザワとミキが協力して戦う方が、より強い戦い方ができる。
ミキと戦ったことがあるヨシザワなら、それが理解できないはずがない。
だがヨシザワから返ってきたのは、ミキが思っていたような言葉ではなかった。
「こんなときにこんなこと言って悪いけどさ」
「なんだよ改まって」
「アヤっていう子はアベナツミに殺られたんだよね」
「はあ?・・・・・まあ、そんな感じかな・・・」
「もしアベが目の前にいたとしてさ、その時にミキの足が折れていたら、逃げる?
勝ち目がないからって逃げる? 逃げて次の機会を待てばいいやって思える?」
ミキは口をつぐんだ。
理屈はわかる。ヨシザワの言いたいことはよくわかる。
だがこの場にはイシカワだけではなく、ヨシザワもいるのだ。
足手まといになりそうなイシカワは、とりあえず下がるべきではないのか。
イシカワがいなくとも、ヨシザワが借りを返せば、それでいいのではないのか?
だが議論を続けることはできなかった。匂いの元が三人の目の前までやってきた。
「もう遅いな。来ちゃったよ」
「来た? どこに?」
「よくわかんないけどさ、匂いの元はあたしたちの目の前にいるよ」
- 705 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:14
- 今、三人の目の前には誰もいない。影も形もなかった。
だがヤグチマリ匂いは、目の前にはっきりと漂っている。
ミキは自分の目よりも鼻の方を信頼していた。
たとえ相手が透明人間であったとしても、ミキには関係ない。
見えていなくとも関係ない。邪魔するやつがいるのならぶちのめすだけだ。
ミキはヨシザワ達とは逆の方に回り込み、その匂いの元の背後に回る。
ミキやヨシザワには見えなかったが、イシカワにははっきりと見えていたようだ。
イシカワは震える声を抑えるようにして言った。
「マリィさんですね。小さくなってても無駄です。あたしには見える」
何もない空間から、耳障りな笑い声が聞こえた。
「ヒャハハハハハ! さすがイシカワ。目がいいねえ。無駄に能力が高いねえ」
笑い声は地面の上から聞こえるような気がした。マリはまさにそこにいた。
三人の目の前で、マリィがゆっくりと小型化を解いた。
地面から盛り上がるようにして、一人の少女の姿が現れる。
マリィは肩から赤い大きなマントを羽織っていた。服も小型化できるらしい。
そんな能力を持っていたことは、ヨシザワもイシカワも知らなかった。
あれだけ小型化されれば、物理的な打撃を与えるのは難しいだろう。
鍛え上げられた肉体だけが武器のヨシザワにとっては、相性の悪い能力と言えた。
だが勿論―――そんな事実を目の前にして、ヨシザワの戦意が衰えることはない。
- 706 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:14
- 「お会いできて嬉しいっすよ、ヤグチさん」
「あぁ? 誰がヤグチだよ。マリィと呼べよマリィと」
「そういえばあんたはマリィ・ストナッチとか名乗ってたね」
「そうだよ。良い名前だろ? 似合ってるだろ?」
「ええ。サディ・ストナッチに選ばれなかった半端者にはお似合いの、半端な名前ですよ」
「てめえ・・・・・言ってくれるじゃんかよ」
マリィはヨシザワに向かって何かを投げつけた。
暗闇の中にキラリと反射する、二つの銀の光があった。
飛んできた銀色の塊二つをヨシザワは冷静に受け止める。二枚の百円玉だった。
「持ってきたぜ、二百円。さあ、例の血を渡してもらおうか」
「毎度あり。二百円、確かに受け取りましたよ」
「取り引きは成立だろ?」
「ええ。でももう一つ取り引きが必要ですけどね。順番的にはそっちが先」
「そっちが先?」
「ええ。時間的にはそっちが先ですから。それが終わったら血でも何でも渡しましょう」
「何だよそれ。いったい何の取り引きだよ?」
ヨシザワはぎゅっと固く握った拳をゆるめた。
醜くひしゃげた二枚の硬貨が音をたてて地面を転がる。
硬質な音が響き終わると、ヨシザワは重い声で告げた。
「あんたの命と、あたしらの命の取り引きだよ」
- 707 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:14
- ☆
- 708 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:14
- マキ。マキ。ゴトウマ。キ。ゴトウマキ。
ナッチに飲み込まれつつあったニイガキの自我に残った、数少ない記憶。
その記憶の片隅にはこの黒い女の姿があった。
ある日突然ニイガキの目の前に現れた黒い女。
キャリアであるということを超越した、理解しがたい強さを持った女。
タカハシとは全く違う次元から、ニイガキの本能を刺激して止まなかった女。
この人に問い掛けたい。
強くなりたいと願ったあの頃の自分。力を欲したあの頃の自分。
今の自分は、あの頃の理想の自分に近づいているはずだ。超えているかもしれない。
それを確かめるためには―――言葉なんかではなく―――
「申し訳ありませんが、ここで死んでもらいます」
かつてニイガキの前には、タカハシアイという女がいた。
ニイガキよりもずっと強い女だった。ずっと彼女のことを追いかけていた。
彼女を追い越したいと、死に物狂いで努力した日々を忘れはしない。
強くなりたかった。明確な理由などなく、ただ純粋に強くなりたかった。
そのタカハシは死んだ。この世から消滅した。ニイガキの頭を抑えつけていた重しが消えた。
ニイガキの心の中にあった地図が消えた。標識が消えた。
そこに残ったのは「強くなりたい」という気持ちだけだった。
- 709 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:14
- 強くなりたいという気持ちは、タカハシが死んでもニイガキの中からは消えなかった。
その時初めてニイガキは気付いた。
タカハシの死を悲しむ自分に、本当の意味で気付いた。
タカハシが消えたからといって、ニイガキの絶対的な価値が上がるわけではないのだ。
繰り上がりで順位が上がるだけ。そんな相対的な価値に何の意味があるのだろうか。
今この瞬間にどれだけ強いかということ―――それが全てだ。
タカハシという存在は、ニイガキの心の中からなかなか消えようとしない。
隙を見せれば、タカハシの幻影はすぐに声高に主張を始める。
お前は強くなったのか? 強くなったなんていう自己評価は、思い込みじゃないのか?
あたしを超えるなんてことが―――あんたに本当にできるのか?
その声を封じるために、少なくない努力が必要とされた。
反論することは許されない。それはタカハシの幻影と交わる行為だ。
今のニイガキにはそういった行為は許されないだろう。
彼女に対する憧れも、妬みも、敬意も、そして彼女のその強さも、
決して美化してはならないのだ。そしてそれは劣化させてもいけない。
過去の記憶と今の気持ちを交えてしまえば、きっと美化か劣化を強いてしまうだろう。
形を変えることを許してはならない。ありのまま評価して―――葬り去るのだ。
そのためにやるべきことは一つ。
自分はタカハシより強いと、完全な形で証明してみせなければならない。
- 710 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:14
- (ガキさんはタカハシなんかよりもずっと強いよ。あたしがそれを―――証明してあげる)
アベナツミの囁きは、甘くニイガキの心に響いた。あまりにも甘い響きだった。
ニイガキの心の中の一番弱い部分を、アベは巧妙につついてきた。
強いよ強いよ強いよ強いよ強いよあんたは強いよ誰よりも強いとあたしが知っているよ。
アベの言葉がニイガキの心を満たす。その言葉が嘘であるとは思いたくない。
認められたい。アベからも。タカハシからも。そしてゴトウマキからも。
他人の評価と無関係な強さに満足できるほど、ニイガキはストイックにはなれなかった。
称賛されたい。認められたい。評価されたい。
ニイガキにとって―――それは愛情とほぼ等価だった。
タカハシへの愛。
それはタカハシの強さを認めることであり、そして同時にタカハシに強さを認めさせることだった。
この長い片思いをここで終わりにしたい。
認めさせることによって愛されたい。愛されない人生に―――何の意味があるのだろう?
だが自分の強さをタカハシに見せつけることは、もうできない。
そしてアベに見せつけることに意味があるとも思えない。
自分に強さを与えてくれたのは、当のアベナツミなのだから。
今の自分はアベナツミと一体なのだから。
だから、だから、だから―――
- 711 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:15
- ゴトウマキ。
彼女にならそれを見せる意味があるように思えた。
自分の強さを認めさせることに意味があるように思えた。
彼女は決してニイガキリサという女のことを、高く評価したりはしないだろう。
それはわかっている。彼女は誰かに膝を屈したりはしない。絶対に。
きっと彼女は誰とも混ざらない。誰かを美化したり蔑視したりすることはない。
評価すること自体を拒むかもしれない。
評価されることからも自由であろうとするかもしれない。
混じらないとはそういう意味だ。
ニイガキの目にはそう見えた。マキが極めてストイックな存在に見えて仕方なかった。
おそらくその見方は間違っていない。
きっとマキは誰にも干渉しない。干渉されることも望まない。唯一絶対の存在なのだ。
だからこそ―――見せる価値がある。認めさせる価値があると、ニイガキは信じた。
アベナツミの血がニイガキリサの心の中で沸騰する。
もはやその血は、無理矢理架せられた呪いの十字架ではない。ニイガキの意志だ。
強さを与えてくれるのなら、それが毒リンゴであったとしても、自ら進んでかじる。
それが答だった。ニイガキがこれまで生きてきた人生の―――答だった。
その選択が正解だったか不正解だったかということは、さして重要ではない。
ニイガキにとっては、その「答」を出そうとする意志こそが「強さ」そのものだと思われた。
強くなれるのなら、神でも悪魔でもどちらでもいいと思えた。
そんなちっぽけな「強さ」を一つ携えて、ニイガキはマキと対峙した。
- 712 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:15
- マキの眼前で、赤い霧がゆらゆらと広がり、上下左右に展開していく。
マキは注意深くその霧を観察する。アベナツミと戦ったときと同じ光景だった。
その中心にいるのが、アベではなくニイガキであるということが信じられないくらい、
あの時と全く同じ光景だった。
ニイガキの姿を見たのはいつ以来だろうか。
確か彼女はタカハシやJJやLLと共に、イイダの血を狙っていたはずだ。
その後ろにはカメイエリがいて、アベナツミとも接触があったということか。
マキは既に、アベナツミという女が、血液細胞が異常に発達したキャリアだということを、
十分承知していた。その血を全身で浴び、身をもって知った事実だった。
だから今、目の前にいるニイガキの身に何が起こっていたのか、容易に推測できた。
おそらくニイガキはナッチの血に侵略され尽くしたのだろう。飲み込まれたのだろう。
ナッチの血は全てに干渉する。人間の意志にすら激しく介入してくるのだ。
一人の人間を操り人形にしてしまうことなど、容易いことだろう。
見た目に騙されてはいけない。
マキは皮膚の感覚受容体の感度を極限まで上げた。
- 713 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/25(月) 23:15
- ニイガキの周囲に漂う赤い粒子の動きを、マキは慎重に計測した。
やはりこの粒子はダミーではない。明らかにサディ・ストナッチの動きだった。
マキの受容体を誤魔化すことはできない。
マキは銀のナイフを抜いた。
目の前にいるこの女は―――もはや純粋な意味ではニイガキリサではない。
ただの麻取の一人と侮ることなはできない。
アベナツミの分身であり、サディ・ストナッチの一人であるとして、対応すべきだろう。
油断すれば殺られるかもしれない。
マキは無意識のうちにニイガキの強さを感じ取っていた。
だが完全にその強さを認めたわけではない。
マキの感覚受容体の前では、偽物の強さなどあっという間に剥げ落ちる。
その強さが本物なのか、それともただの飾り物なのか、刃を交えればわかるだろう。
サディ・ストナッチを操るマキだからこそわかることがあった。
本物の強さというものは、そんな派手な装飾とは一切関係ないところにある。
もっと深い、人間という存在の一番深いところにあるものなのだ。
ただ単に赤い霧をまとったというだけで、真の強さを身につけたなんて思ったら大間違いだ。
こんな霧なんて。こんな霧なんて―――
だが―――マキがサディ・ストナッチを発動させるよりも速く、ニイガキが先に動いた。
- 714 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/25(月) 23:15
- ★
- 715 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/25(月) 23:15
- ★
- 716 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/25(月) 23:15
- ★
- 717 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:23
- ニイガキの自我はアベの自我に接収されることを選択した。
アベが選んだのではない。ニイガキが選んだのだ。
少なくともニイガキはそう考えていた。
アベの意志を受け入れ、自分を捨ててまでも絶対的な力を手に入れることを選んだ。
虎の威を借る狐―――いや違う。
自分は虎そのものだ。それを証明してみせる。
それが証明できるというのなら―――自分という人間が消えてしまっても構わない。
自分が自分であるという存在意義を失っても、強くなれるのならば、それでいい。
あたしは間違っていない。
ニイガキは右手を天にかざす。富士に輝く小さな太陽に向けて人差し指を伸ばす。
その指先に、一羽の巨大な朱雀が舞い降りた。
朱雀は羽を広げたまま、雄大な体を炎のようにゆらめかせている。
ニイガキは左手を水平に伸ばす。そしてまた人差し指を伸ばす。
その先に、もう一羽の朱雀が舞い降りる。
燃えろ。燃えろ。燃えろ。
今やニイガキは、アベの持つ霧の力を自由に使いこなすことができた。
異常に発達した血の力だって使えるだろう。
朱雀の炎の力や、青龍の水の力すらも同時に手に入れた。
それは他人の力ではない。ニイガキリサという人間の力だ。
手段を選ばず手に入れるという決断こそが、自分の持つ最大の力だと信じた。
誰にも文句は言わせない。もう非力だった昔の自分には戻らない。
あたしは間違っていない。
- 718 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:23
- 二つの人差し指が赤く輝く。指だけではない。掌を伝い、肘まで炎が広がる。
ニイガキはナッチのように完全に相手の心に干渉することはできなかった。
全てに介入して、完璧な制御を行うことはできなかった。
だがそれでもニイガキは、朱雀という荒馬を強引に乗りこなし、命じる。
以前のニイガキには見られなかったような、強い意志の力がそこにはあった。
あたしは間違っていない。
願うこと。叶うこと。戦うこと。信じること。全ての思いが交差する。
心に沈む思考の滓を振り払うかのように、ニイガキは胸の前で両手をクロスさせた。
ふわりと舞う朱雀の尾から、流星のように一陣の炎が流れた。
二羽の朱雀が甲高い鳴き声をあげながら青龍に襲いかかっていく―――
燃えろ。燃えろ。燃えろ。
ニイガキは叫ぶ。熱い思いを託して叫ぶ。
きっとこの瞬間のために生きてきた。全てを焼き尽くすために生まれた。
その思いがニイガキのものなのか、はたまたアベのものなのか、もうニイガキにはわからない。
だが叫ぶ。ニイガキは声の限りに叫ぶ。
あたしは間違っていない。
- 719 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:23
- マキは腰をすえてニイガキを睨みつける。
ニイガキが指を天にかざした。
その指先に、巨大な怪鳥が舞い降りる。
真っ赤な色をした怪鳥は、マキにも見覚えのある、朱雀そのものだった。
マキは皮膚の感覚受容体のレベルを最大限に上げて、もう一度周囲の熱量をスキャンする。
サーモグラフィーのような七色の映像がマキの脳内に広がる。
人間の熱量分布には、その人特有のパターンがある。
目の前にいる少女の熱パターンは、間違いなくニイガキリサのものだ。
そしてその指に止まっている火の鳥は、コハルが持っていたパターンと完全に一致した。
テントの中で聞いたイシカワの話が、ふと思い出される。
ECO moniがアジトにしていた神社は、ナッチと衝突したコハルが燃やしつくしてしまったと。
そのままコハルは消失してしまって、行方不明になっているのだと。
そのコハルが目の前にいる。朱雀の姿をしてそこにいる。
自我と言えるものを失って、赤い粒子の一部となってしまっている。
もしかしたらコハルはそのときにナッチに取り込まれて―――
- 720 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:23
- マキはそんなことを脳細胞で思考していたが、それと同時に、
感度を変えた感覚受容体では、全く別の計算をフル回転で行っていた。
目の前で展開されている分子の動きをナノ秒あたりの単位で解析する。
神経回路が焼けるように痛んだ。痛みがマキの精神をさらに覚醒させていく。
脳内が澄み切った青空のようにクリアになっていく。
ニイガキの指から解き放たれる朱雀。
美しい曲線を描いてマキに向かってくる炎の怪鳥。
速度。距離。質感。重量。温度。空気抵抗。干渉し合う粒子と粒子。
全ての数値が複雑に絡み合っていた。そこでは時間の流れすら一様ではなかった。
だがマキの神経細胞に計算できない因子など一つもなかった。
クリアになった脳内の青空の中を、いわし雲のような数字の群れが流れていく。
見える。マキは目ではなく神経でその動きを見つめる。
そして体ではなく―――その感覚受容体の能力を最大限に生かして―――
マキが動く。
両手をだらりと下げて、下半身の力だけですっと滑るように移動した。
朱雀の激しい熱が生み出した、分子運動の歪みに身を投げ出す。
黒い髪がさらりと揺れる。それ以外は、全く無駄のない動きだった。
マキの長いまつ毛の、ほんの1センチ先を朱雀がすり抜けていく。
それでもマキは瞬き一つしない。
- 721 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:24
- 朱雀から放たれる灼熱の旋風がマキの網膜を軽くかすめていく。
だが熱は感じない。マキの防御は鉄壁だった。
瞳を焦がす熱エネルギーすら、完全に相殺してゼロに戻した。
どんな種類のエネルギーであっても、マキは一切の干渉を許さなかった。
それは絶対的な防御であると同時に、相手を消し去る絶対的な攻撃でもあった。
防御と攻撃が一体。予測と決断が一体。始動と動作が一体。
それが一分の隙もない、いつものマキの戦い方だった。
防御すると同時に、マキの銀のナイフは朱雀の体躯を薄く切り裂いていく。
全てが計算された動きだった。
舞い踊る朱雀の羽は、マキに一触することすら叶わない。
朱雀の動きと垂直に銀のナイフが交差する。
まるで朱雀の方から望んでナイフに突っ込んでいくかのようだった。
二匹の朱雀がマキの頭上で交差したのは、時間にすれば一秒未満だっただろう。
だがその間に、銀のナイフは十往復以上、朱雀の体を切り裂いていた。
触れた刃は、朱雀の羽に宿る高熱を瞬く間にゼロに帰していく。
二匹の朱雀は、赤い紙吹雪のようにはらはらと散り、霧の中へと消えていった。
- 722 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:24
- ニイガキは目を見開く。
霧の合間に、切り裂かれた無数の朱雀の羽が舞う。
それは凄惨な戦いの場において、場違いなまでの美しさを呈する光景だった。
マキに切り裂かれた二匹の朱雀は、深紅の桜吹雪となって消えていく。
ニイガキが次の朱雀を放とうとしたとき、既にマキは必殺の間合いに入っていた。
美しさに見惚れていたわけではない。
だがマキの動きは、人間の生理的な反応速度を遥かに上回っていた。
マキのナイフがニイガキの喉を撫でる。
ニイガキの反応も決して遅くはなかった。
超人的に速い、と言ってもよかったかもしれない。
鋭い刃が己の首に深く突き立てられたことにも動揺は見せない。
ニイガキの頭にはマキを殺すという、ただそれだけしかなかった。
ナイフが頸動脈に触れた瞬間、ニイガキは僅かに首の角度を変える。
噴水のように飛び出した動脈血が、マキの体目掛けて飛び掛かるように―――
だが血が飛び散るよりも先に、ニイガキはゴトウマキという人間に深く触れた。
ニイガキの神経が粟立つ。
- 723 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:24
- マキのナイフが触れた瞬間、ニイガキの細胞のエネルギーがゼロになった。
糖分。脂肪。タンパク質。そういったエネルギー源が細胞から除去された。
体内のクエン酸回路で発生するべき電子の伝達の一切が消失した。
代謝が止まり、熱エネルギーが消え、酵素反応のカスケードも停止された。
すべてが一瞬にしてゼロになり―――そして細胞そのものが消えた。
これがマキの言うゼロか。
これがゴトウマキという人間の戦い方なのか。
ニイガキは驚かずにはいられなかった。
真逆。マキの戦い方とは、ナッチの戦い方とは真逆だった。
全てを吸いこみ、全てを飲み込み、一つに統一して支配するアベナツミ。
全てを止め、全てを消し去り、ゼロに帰して関係性を断ち切るゴトウマキ。
まるでプラスとマイナス。磁石のSとN。炎と氷。裏と表。過去と未来。
ニイガキの精神を、ほんの一瞬だけ悲しみが支配した。
真逆だからこそ理解できた。愛の逆は憎ではない。その二つはむしろ同じ感情。
愛の逆は無。無関心。マキの心は、悲しいほどにニイガキに対して無だった。
- 724 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:24
- ニイガキは首の角度を変えて、頸動脈から噴き出した血を浴びせかけてきた。
マキの対応は速い。あの時と同じ手をくらうほどバカではない。
銀のナイフから電撃を発し、飛び掛かってくる血を弾き飛ばす。
並の電圧ではない。血液など完全に蒸発させたつもりだった。
だが血は蒸散することなく、ニイガキの頭上に向かって吹きあげる。
まるで水芸―――噴き上げた血の流れが湾曲する。
完全に地球の重力を無視した動きだった。
垂直方向に打ち上げられていた血流が、くるくると水平方向に回り始める。
幾何学模様のスクリーンセーバーのように渦を巻いた血流は、
縦に長い竜巻を形作り、さらに回転軸の角度を変えていく。
血の流れはニイガキの意志に従い、まるで生き物のように動き出す。
- 725 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:24
- 竜巻はぐにゃりと捻じ曲げられて横に長くなり、さらに複雑な回転を加える。
複雑にぐねった血流は、やがて一つの球体のような形になった。
膨大な量の血液だった。
とても人間の体内に収まっている量だとは思えない。
増殖していた。噴出した血液は体外で増殖していた。
ナッチの血球細胞は、異常な速度で分裂を繰り返し、激しく増殖していた。
分厚い血の盾の向こう側から異様な気配がする。
目には見えないが、そこには確実に巨大な存在感があった。
巨大な赤い血球が裂け―――突然洪水のような水流が飛び出してきた。
それは血ではなかった。水だ。
マキの目の前に突如として現れたのは、普通の水だった。
一体どこから現れたものなのだろうか。これもナッチの力なのか。
襲いかかってくる圧倒的な水量。そこから計算される圧力は数千トンにも及んだ。
だがマキは右にも左にも逃げない。
銀のナイフを、電流で剣のように長く伸ばし、眼前で垂直に構えた。
数百トンの圧力がナイフを直撃する。だが銀のナイフは折れない。圧力をゼロに帰す。
ナイフの前で左右に切り裂かれた水流は、轟音を立てて富士の裾野へと流れていった。
- 726 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:25
- 頸動脈から放った血流はマキのナイフに弾き飛ばされた。
だがニイガキは慌てない。今のニイガキには、アベナツミの絶対的な力がある。
火と水を操る力、朱雀と青龍の力を自由に使うことができた。
ニイガキは噴き出した血の流れを操り、巨大な赤い球を作り上げた。
ナッチの異常血液細胞で盾を作り、一時的にマキの攻撃を牽制する。
その間に足元の地下水脈から水を吸い上げた。
富士の地下に流れる水流の量は圧倒的だった。
ニイガキは青龍の能力を発動させ、集めた全ての水をマキに浴びせつける。
小さくない地響きが起こった。富士の地下の地形が少し変わったかもしれない。
それほどまでの圧倒的な量の水を、ニイガキは吸い上げた。
種も仕掛けもない。ただ単純な、数千トンの力。
純粋な力こそが全て。圧倒的であればいい。数字で勝ればそれでいい。
たとえ単純であっても、圧倒的な力であれば、それはきっと特殊な能力に勝るはず。
ニイガキは愚直なまでに真正面からマキに襲いかかった。
- 727 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:25
- なるほどゴトウマキは強い。
キャリアとしても、人間としても強いのかもしれない。
それは生まれつき持った力であり、凡人が及ぶところにはないのかもしれない。
だがこの世には、力で砕けぬものなどない。
それは数学的な定理。宇宙を統べる全ての理。
質量の大きさに勝る価値観など、存在するはずがない。
百の力で砕けなければ、千の力で叩く。千の力でも砕けなければ、万の力で叩く。
力。力。力。圧倒的な力。地球の力。太陽の力。それはすなわち宇宙の、万物の力。
そんな力を前にして、抵抗できる生物など存在できるはずがない―――
ニイガキは信じる。悪魔に魂を売ってまで手に入れた力を。
どうだこの圧倒的な力は。全てを燃やし尽くす炎。全てを流し去る水。
もう誰にも負けはしない。誰かに劣っているなどと言わせはしない。
いくらマキが無関心を装おうが、これだけの力であれば認めざるを得ない―――
だがニイガキが圧倒的な力でもって水流をぶつけ終わった時、
マキは何も変わらずに、ニイガキの前に一人、無の状態で立っていた。
「水撒き、ご苦労さん。この山もちょっとは涼しくなったかな?」
- 728 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:25
- ☆
- 729 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:25
- 「キャハハハハハ! なに寝言いってんだよお前は」
笑いながらもマリィは興奮していた。
ヨシザワは、マリィが予想していたよりもずっと冷静だった。
恐ろしいまでの自制心で、沸騰しようとしている感情を抑えつけている。
だがその下に存在しているのは―――隠しようもないマリィへの殺意だった。
マリィはヨシザワの中に横たわる感情を敏感に察した。
あはは。憎いよねえ。殺したいよねえ、あたしのことを。
殺したくて殺したくてたまんないんだろうねえ。
でもだからといって怒りに我を忘れることができるほど、バカでもないってことだ。
お利口さんだねえ。賢いねえ。クールだねえ。あは。あはははははは!
つまりあたしが、我を忘れた状態で勝てる相手ではないと。
そう判断できるほどには冷静なわけだ。
真剣にあたしを殺したいってことか。真剣になれば―――勝てると思ってるんだ。
勝てると思ってるんだ。勝つつもりなんだ。真剣なんだ。熱いねえ。熱血だねえ。
あはははは。いいねえ。嬉しいねえ。やっと面白くなってきたよ。
マリィの心がぐつぐつと煮え立つ。
湧きあがってくるのは笑い。笑い。笑い。
どれだけ抑えても、次々と噴き上がる笑いだった。
- 730 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:25
- マリィの嗜好はナッチのそれとはやや異なる。
ナッチは圧倒的な力で弱者を叩くことを好んだ。
好きなのは圧勝。勝利することに対して、一分の緩みも見せない手法を選ぶ。
相手に対して、絶対に勝てないんだという絶望感を与えることを好んだ。
人間が生きることを諦めたときに見せる表情。ナッチはそれを見ること好きだった。
だがマリィの好みは違う。
テラダが言うところの「絡み手」を好む。
絡み手を好むというのは、回りくどい手法を好むという意味ではない。
相手の精神を弄ぶ行為が好きなのだ。
「この相手なら絶対に勝てる」という気持ちを裏返すことを特に好んだ。
あるいは「絶対にこうなる」「絶対にこうだ」というような、
相手の計算や判断をくるりと逆にしてやることが好きだった。
自分の計算が狂う瞬間。
自分の計算が、相手に完全に読まれていたんだと知ったときの屈辱。
自分という人間を、自分で裏切ってしまったときに人が見せる表情が好きだった。
- 731 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:25
- ヨシザワが勝てると思っているのならそれでいい。最高に良い。
その計算が間違っていたと気付いた時。
あるいはマリィがその計算の上を行ったと気付いた時。
その時きっとヨシザワは、言いようのない屈辱にまみれた表情を晒すだろう。
最高だ。
自分で自分の過ちに気付いた時。その時ほど屈辱を感じることはないだろう。
その時に晒す表情は、きっと凌辱された時なんかよりも無残なはずだ。
見てやろう。じっくりと見てやろう。
できるならビデオに撮って本人に見せてやりたいくらいだ。
マリィはそこまで考えて、今自分がビデオを持っていないことをひどく残念に思った。
「おい、ヨシザワ。おめえ、マジであたしに勝てると思ってんのかよ?」
「勝つ? あたしは勝つなんて一言も言ってない」
「はあ?」
「殺す。あんたを殺す。あたしが望むのはただそれだけ」
「へーえ。刺し違えてでもってか? それがお前の言う『命の取り引き』かよ」
ますます素晴らしい。マリィは心の中でヨシザワに喝采を送った。
命を捨ててまで果たそうとする行為。素晴らしいではないか。
その行為が無為に終わった時、ヨシザワはどんな表情を見せるだろうか。
「やることだけはやりきったのだ」とかいう安っぽい充実感など―――残させはしない。
- 732 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:25
- マリィは心の中でじっくりと、ねっとりと、戦略を練った。
ヨシザワにはギリギリまでは「勝てる」と思わせてやろう。
遊ばれていると気付かれないように、細心の注意を払って遊んでやろう。
そして僅差で勝つ。
あとほんの少し頑張れば勝てたのにと思わせてやろう。
そう思った瞬間に―――圧倒的な力の差を見せてやることにしよう。
きっとヨシザワは、自分がしていた浅はかな計算が間違っていたことに気付き、
マリィに勝てると判断したことを、ひどく後悔しながら死んでいくことになるだろう。
もしそうなったなら、殺さずにそのまま生かしておいてやるのもいいかもしれない。
そうだ。ヨシザワは生かしておいてやろうかな。
殺すというのなら―――イシカワの方を殺してやろう。ヨシザワの目の前で。
「キャハ! キャハハハハハハハハハハハハハハ! ヒャハハハハハハ! ヒャホヘエホホホヘヘヘヘヘ!」
まずは挨拶代わりとばかりに、マリィは声を上げて笑った。
マリィが喉が異常に発達したキャリアだということは、ヨシザワも知っている。
その特殊能力がどういったものであるのかも、何度か見ているはずだ。
どうやって戦うつもりなのかじっくり見物させてもらうとしよう。
マリィは余裕綽々な態度で戦況を見つめる。
- 733 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:26
- 異常に甲高い笑い声を受けて、イシカワとフジモトが相次いで倒れた。
マリィの放った声は、超音波となって確実に人体に打撃を与えていた。
閉ざされた洞窟という空間の中では、音波は激しく反響してその音量を上げていく。
イシカワは岩の床の上をのたうちまわる。
おそらく手や足は擦り傷だらけとなっているだろう。
その背後ではフジモトミキがもがいていた。
マリィの攻撃の正体が音波だということは知っていたのだろうか。
もがきながらも、ミキは広場の真ん中にあった水流の中に身を投げた。
なかなか良い判断じゃねえか。マリィは感心した。
水の中では音が伝わる速さは鈍る。それを狙ってのことならなかなかの判断だ。
まあ、あいつは別に無視してもいい。何の思い入れもない相手だ。
殺すのはこいつだ。イシカワとヨシザワ。あたしを殺すために来た、この二人だ。
殺したいんだろ? 悔しいんだろ? あたしを殺したいんだろ?
やってみろよ。ほら。あたしはここにいるぜ。逃げたりはしないぜ。
マリィは笑うのを止めた。まだ殺さない。ただでは殺さない。
体だけでは物足りない。心を潰す。こいつらの精神を丸ごと潰す。
「おい。かかってこいよコラ。ナカザワを殺ったのはあたしだよ?
ツジをそそのかしたのはあたしだよ? カゴを寝返らせたのは―――」
- 734 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:26
- 「うるせえよ」
それでもヨシザワは動かなかった。
あえて隙を見せたマリィだったが、ヨシザワはその誘いには乗らない。
ぐっと低くガードを固めたまま、暗い目でじっとマリィの動きを見つめていた。
鼻と耳からは鮮血が滴り落ちている。だがそれでもヨシザワは動じない。
どうしてこの女はここまで冷静でいられるのだ? 何を狙っている?
「うるさくねえよ。親切に教えてやってんだろ」
「いらねえよ」
「バカかお前は。ツジを殺したのはお前だろうが。ナカザワを殺ったのはあたしなのによぉ。
本当にバカだよな。無実のツジに罪を押し付けて殺しちまったんだからよぉ。鬼だよな。
あ、実は真相がわかってたけど殺したとか? 賢いヨシザワさんのことだからな。
あれが罠ってことは全部わかってたけど、それに便乗してツジを殺したってわけか。
普段から仲が悪かったんだってな。上手い具合に殺せてせいせいしたんじゃねーの?」
マリィはなおも汚い言葉でヨシザワを挑発する。
相手が本気にならなければつまらない。
むきになってかかってこなければ、弾き返す甲斐がないというものだ。
ヨシザワには命を賭ける理由があるはずだ。怒りに震える理由があるはずだ。
挑発に乗らないはずがない。
だが―――それでもヨシザワは動かない。
- 735 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:26
- ヨシザワは、肩幅よりやや広くスタンスを構え、マリィが動くのを待っていた。
まるでそれは―――クラブでファイトするときのスタイルのようだった。
マリィもそれに気付いた。クラブでのファイトを収めたビデオなら何度も見ている。
ヨシザワの戦い方は一通り理解しているつもりだったし、
こういう事態となってからは、入念に対策も立てていた。
だがまさかこいつはクラブでのファイトと同じように戦うつもりなのか?
それであたしに勝てるとでも思っているのか?
バカか? もしかしてこいつは、ツジやカゴみたいな真性のバカなのか?
あたしはこいつのことを―――買い被り過ぎていたのか?
「どうしたおい。反論しねーのか?」
「なにが?」
「おいおい。マジでそんな理由でツジを殺したのか?」
「さあね。もう忘れたよ」
「嘘つけ」
「まあ、嘘だけどさ」
ヨシザワの目は相変わらず暗い。だがその言葉は軽い。
電話で話しているときにも感じたことだ。
ヨシザワの話し方はどこか軽い。
とても真剣に復讐をしようと思っているような人間の声に聞こえないのだ。
まるで自分を無理矢理偽っているような、
偽悪的に自分を貶めているような―――そんな軽さのある声だった。
- 736 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/28(木) 23:26
- マリィはそんなヨシザワの偽悪的な態度が気に入らない。
偽善的な相手なら好きだ。
だが変に悪ぶっているような相手は大嫌いだった。
傷ついた自分を笑いながら愛せるような―――そんな甘ちゃんが大嫌いだった。
まだ足りないのか?
ヨシザワが本気になるためには、もっと言葉が必要なのか?
必要というのなら―――いくらでも汚い言葉をかぶせてやってもいい。
だがマリィがいくら挑発しても、ヨシザワの姿勢は変わらなかった。
「思い出せよ。あたしが目の前にいるんだぜ? ナカザワを殺ったあたしがよ?」
「そこ、強調するね」
「して悪いかよ」
「あたしも一つ強調していいかな」
「なにを?」
「カゴはあたしが殺した」
暗い洞窟に暗い言葉が響き渡った。
ヤグチはヨシザワの言葉に引き込まれるように、一つ唾を飲み込んだ。
言葉が出ない。先ほどまで山ほど頭の中にあった小汚い言葉が、一つも出てこない。
沈黙するマリィに向かって、ヨシザワがもう一度同じ言葉を落とした。
「カゴは―――あたしが殺した」
- 737 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/28(木) 23:26
- ★
- 738 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/28(木) 23:26
- ★
- 739 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/28(木) 23:26
- ★
- 740 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:05
- マリィは食い入るようにヨシザワの姿を見つめていた。
先ほどヨシザワが言った言葉が脳内でリフレインしている。
(カゴはあたしが殺した)
こんな会話はマリィのペースではない。
明らかに相手のペースで物事が進んでいたのだが、
不思議とその状況を挽回しようという気持ちにはならなかった。
まるで吸い込まれるかのようにヨシザワの言葉を聞き入ってしまう。
次に彼女が何を言うのか、じっと待ちわびてしまう。
本意ではなかった。だが不愉快でもない。むしろこの会話を楽しんでいた。
マリィは既に、相手をどういたぶろうかとは考えていない。
そういったところから考えが引き離されていた。
ヨシザワは何を考えているのだろう?
常に人の考えの裏を取ることを好むマリィは、そこが知りたいと思った。
ナカザワの復讐に来た。そういったわかりやすいストーリーを想定していた。
だがヨシザワは一向にそういった部分を強調しようとはしない。
それどころかヨシザワは―――唐突にカゴの名前を出した。
マリィは戸惑っていた。明らかに、ヨシザワの繰り出す言葉に翻弄されていた。
カゴが何だ? どういうつもりで喋ってんだこいつは? 何を考えてる?
- 741 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:05
- 「強調、終わり」
「おい。ふざけんなよコラ! 何がカゴを殺しただよ。適当なこと言ってんじゃ」
会話を続けながらも、マリィはヨシザワの背後に注意を払い続けていた。
目の端でイシカワがかすかに動くのが見えた。
拳銃の早撃ちならばマリィもちょっとした自信がある。
腰から引き抜くと同時にイシカワに向けて撃った。
「ヒャハハハハハハ!」
暗い洞窟の中にマリィの放った跳弾の火花が飛び散る。
ほぼ同時にイシカワも銃を撃つ。
なるほど目が異常なキャリアというだけのことはある。
イシカワの狙いはこの暗闇の中にあっても正確極まりなかった。
一直線にマリィの眉間や喉元に飛び込んでくる。だがマリィは慌てない。
「キャハハハッハハハ! 無駄無駄! なにしたって無駄だっての!」
マリィは笑い声で防御の幕を張る。
振動した空気は銃弾の軌道すら歪めるだけの力があった。
この声のガードがある限り―――マリィには飛び道具は一切通用しない。
- 742 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:05
- マリィはその声を主に防御へと向けて使用していた。
その分、イシカワやヨシザワが受けたダメージは浅かったようだ。
二人の動きは鋭さを失うことなく、そのまま闇へと消えゆく。
拳銃を手にしたイシカワが右に、素手のヨシザワが左に動くのが、
かろうじてマリィの視界の端に入った。
右か左か。マリィは判断を誤らなかった。
拳銃を持っていようがなんだろうが、
目が異常に発達していようが、イシカワはどうでもいい。
先にぶちのめすべきはヨシザワの方だ。まずはヨシザワの動きを止める。
狙いをヨシザワに定めて、マリィは左へと動く。
「キャハハハハハ! 逃げ回ってないでかかってこいよコラァ!」
マリィはイシカワとヨシザワを結ぶ一直線上を移動した。
これならばイシカワも銃を乱射することはできないだろう。
下手をすればヨシザワに弾が流れてしまう―――
だがマリィの読みは甘かった。
- 743 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:06
- イシカワはマリィの向こう側にヨシザワがいるにも関わらず、銃を発した。
マリィは肩に巻きつけていた長いマントを翻した。
ナッチの血で作った特注のマントだ。銃弾くらいどうということはない。
だが―――その衝撃で体の動きが少なからず制限されたことは否めない。
その僅かな隙を突かれた。
ヨシザワの渾身の右拳が―――マリィの顎に向かって飛んできた。
咄嗟に交わすマリィ。肩口で衝撃が弾けた。
マントでカバーした部分でなければ死んでいたかもしれない。
それほどまでにヨシザワのパンチは強烈だった。
かつてファイトで見せていたものとは全く質が違う。
これがヨシザワの本気か。これが―――ヨシザワヒトミか。
肩で留めていたマントは、ばっとマリィの体から離れて宙を舞った。
マリィの中にあった余裕は木っ端微塵に砕けた。
もはや小癪な計算をするような気分ではなかった。
屈辱。マリィの表情が醜く歪む。
楽勝できるはず―――という事前の計算が狂わされたのはマリィの方だった。
オーケー。いいよ。もういいだろ。もう十分「勝てる」とか思えただろ?
その強烈なパンチがあれば、誰でも倒せるとか思っただろ?
そんなに間違っちゃいないぜ。確かにヨシザワは強いよ。並じゃないって認めてやる。
だけど相手が悪かったね。あたしにはそんな物理的な打撃じゃ―――勝てない。
- 744 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:06
- 「キャハ! キャハハハハハハハ! キャハハハハハハ!」
マリィは再び喉を震わせた。洞窟の反響を利用し、最大限に音波を発射する。
ヨシザワとイシカワの動きが止まった。イシカワの手からは拳銃が落ちる。
フジモトやらは、さっきからまだ水面から上がってこない。
いくらなんでもそこまで息が持つはずがない。
おそらくどこかへ流されていったのだろう。
そしてヨシザワは―――じりじりと前進してきた。
マリィの音波を真正面から受けながらも、一歩一歩進んでくる。
目や鼻や口からは血が滴り落ちていた。
いくらマリィがその声を幾分加減しているとはいえ―――
ここまで耐久力に優れているとは驚きだった。
「ヒャハハハハハ! ずいぶん頑張るじゃねえかよ! おい!」
「カゴはあたしが殺した」
「キャハハハハハ! あっそう! そうかい! 好きなだけ強調しな! キャハハ!」
ヨシザワはじっと筋肉を固めて、マリィの攻撃に耐えていた。
こういった事態は勿論予想していた。
イシカワとも何度も話し合い、どう戦うかについて検討を重ねていた。
だが音波を防ぐ完璧な対策など思いつかなかった。
ならば耐えるしかない。受け止めて耐えきるしかない。
あえて音響地獄に身を晒して戦う―――それがヨシザワの結論だった。
- 745 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:06
- 「キャハハハハハ! 頑張れ頑張れ! ナカザワも地獄で応援してるよ! キャハハ!」
マリィがナカザワの名前を出すたびに、ヨシザワの体は固く引き締まった。
挑発に乗ることはなかったが、何の感情も沸かないほど冷血漢にもなりきれなかった。
湧きあがる強い感情に自分が流されそうになったとき、
ヨシザワはさらに一つつぶやいて、気持ちを落ち着かせようとする。
自分が何をするためにここに来たのか―――忘れてはならない。
「カゴはあたしが殺した」
音波が針のようにヨシザワの全身に突き刺さる。
耳の奥は痛みを通り越して固く痺れ、まるで石を詰め込まれたかのようになっていた。
脳の中で音が歪む。脳そのものが歪んでいるようにも感じられた。
音という巨大な掌につかまれて―――ヨシザワの脳がまさぐられる。
それでもヨシザワはガードを固めて前進を続けた。
体の外側だけではなく、鼓膜や心臓といった内側も筋肉でガードする。
ヨシザワの筋肉は普通の筋肉ではない。人間の生理的機能を超越している。
随意筋だけではなく、不随意筋をも自らの意志で自由に動かすことが可能だった。
ヨシザワにとっては筋肉イコール己の意志だった。
筋肉の塊、それすなわち意志の塊。筋肉の固さ、それすなわち意志の固さ。
ヨシザワは全身の筋肉を総動員してマリィの攻撃に立ち向かう。
勝機はある。必ずあると信じていた。
- 746 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:06
- 「カゴはあたしが殺した」
勝機という言葉は正しくないかもしれない。
たとえマリィを殺したとしても、それが自分の勝利だとは考えられなかった。
犯した過ちが消えるわけではない。許されることもない。忘れることもない。
それはヨシザワの心に永遠に刻まれているだろう。
カゴはあたしが殺した。ツジもあたしが殺した。それでもあたしは生きている。
マリィは「刺し違え」という言葉を使った。
なるほどそういう発想もあったのだなと、その時初めて気付いた。
自分が死ぬことで自分の行動を正当化しようと試みる。
命を捨てることで犯した罪を帳消しにする。そんな命の使い方もあるのだろうか。
だがヨシザワにはそれが正しいことだとは思えなかった。
生きるという行為そのものが罪を甘受することではないのだろうか。
勿論、カゴやツジに対して、申し訳ないという気持ちは強く感じていたが、
だからといって自分の命を捨てることで釣り合いを取ろうとは思わない。
いくら重い罰であっても、罪と罰が釣り合うことなどありはしない。
あたしは罪を犯した。
何をどう贖おうが、いかなる罰を受けようが、罪が消えることはない。
ヨシザワは己の体に罰を刻むかのようにマリィの攻撃を受け止める。
- 747 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:06
- そうだ。あたしは罪を犯した。
何をどう贖おうが、いかなる罰を受けようが、罪が消えることはない。
それでもその罪を―――自分の命で贖おうとは思わない。
ヨシザワはもう一度自分の心に言い聞かせた。
何度も何度も自分の心に問い掛けた。
本当に罪と罰が釣り合うことはないのか?
自分は生きていく価値がある人間なのか?
だが結論は―――揺るがない。
それでもあたしは生きていく。
たとえ罪人だろうが、面白いことがあれば笑い、好きな人の前ではときめく。
悪いな、のん。ごめんな、あいぼん。
勝手かもしれないけど、これがあたしっていう人間なんだよ。
犯した罪が死ぬまでずっと消えないように、
あたしも死ぬまでずっと自分の生き方を変えることはできないんだよ。
それでも人間は死んだら全部チャラだからさ。
きっと全部チャラになるはずだからさ。文句はそのときに聞くよ。
ヨシザワの体から、ふっと痛みが消えた。
- 748 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:06
- ヨシザワの歩みは止まらない。
洞窟を反響する魔の音波を全身に受けながらも、退くことはない。
ゆっくりとはしているが、確実に前に進んでいる。
ようやくマリィもそれに気付いた。ヨシザワの目は死んでいない。
死にゆく者の目ではない。あれは刺し違えてやると意気込む人間の目ではない。
そして何かを企んでいる者の目でもない。
切り札を隠し持っている時のような、特別な何かに期待する目でもない。
マリィは初めてヨシザワに対して畏怖を感じた。
おそらくヨシザワの狙いが理解できただろうと確信していたが、
その狙いがあまりにも単純であることから、俄かには信じ難かった。
だが理解可能な事実が、理解不能な行動を明示する。
ヨシザワの精神は理解不能だが―――ヨシザワの意図は感知できた。
自明なのだ。
この国では太陽が東から上る、ということのように、自明なことなのだ。
だがその行為には、命を捨てるという以上の強い覚悟が必要なはずだ。
単純な死よりも、遥かに痛烈な痛みに耐えることが必要なはずだ。
まさか。まさか。まさか―――でも。おそらく間違いないだろう。
ヨシザワは―――マリィの攻撃を全て受け止めて、正面から殴りかかろうとしている。
- 749 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:07
- 逃げも隠れもせず、己の全てを真正面からぶつける。
ヨシザワの体の動きや目の光から察することができたのはそういうことだった。
マリィはさらに声を荒げる。
この女を生かしておいて遊ぼうなんていう考えは甘かったかもしれない。
イシカワとセットでいたぶるという計画についても、もう考える余裕はなかった。
イシカワは何の抵抗もできないまま、痙攣している。失神しているかもしれない。
だがヨシザワは、そんなイシカワに気を使う素振りを、全く見せない。
本気か。マリィはヨシザワにとっての「本気」がどういうものかを理解した。
こちらも覚悟を決める必要があるだろう。もう遊んでいるような場面ではない。
気に入らない。気に入らないが、認めざるを得ない。
マリィは初めてヨシザワの力を認めた。
本気を出さなければ、いや、本気を出してなお、ヨシザワに勝つのは容易ではない。
それでも最後に勝つのは自分だ。
ヨシザワが真っ向から勝負するのなら、真っ向から弾き返してやろうじゃないか。
それはマリィ本来のやり方ではなかったが、
ヨシザワの生き方を否定するにはそれしかなかった。
真っ向勝負で跳ね返す―――自分が持つ最高最強の力で。
「燃えろよ」
- 750 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:07
- マリィの低い声は、暗い洞窟の壁を這うようにして進み、ヨシザワの右腕に到達した。
ヨシザワの腕に火がつく。
服が燃えているのではない。肉が、骨が、神経が燃えていた。
炎は右腕から右肩を伝って右胸に燃え移り、そして腹から下へと広がっていく。
赤い炎は、マリィの神経をさらに高ぶらせていく。
「燃えろよ。燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ! 全身燃えちまえよぉぉコラァァァ!」
暗かった洞窟の中が眩いばかりの輝きで満ちる。
ヨシザワの体から発生する炎の勢いは凄まじかった。
体幹に燃え移った火は、瞬く間に両足にも広がって生き、さらに頭部へも伸びる。
炎はヨシザワの体の内部から発生していた。細胞が燃えていた。
自分の体からは逃れられないように、その炎から逃れることはできない。
それでもヨシザワは―――歩みを止めない。
マリィのこの能力のことも、勿論ヨシザワは知っていた。
声で人を燃やすところを見たのも初めてのことではない。
戦えばこういう展開になることも、容易に予想できていた。
それでもヨシザワはマリィと戦うことを選んだ。
覚悟はできているつもりだった。
- 751 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:07
- 細胞が燃焼する。それは想像を絶する痛みだった。
だがヨシザワは進む。異常に発達した筋肉だけがヨシザワの頼りだった。
ヨシザワの筋肉は、生理的な限界を遥かに超える負荷にも耐えることができた。
そして負荷を受けると、瞬時に超回復を起こし、筋肉を再増強することも可能だった。
ヨシザワは燃えながら進む。再生と燃焼を繰り返しながら進む。
再生した筋肉で、筋肉細胞以外の細胞をガードしながら進む。
ガードは完璧ではない。むしろ穴だらけと言っていい。
長くは持たないだろう。だが長く持つ必要もない。一瞬。一瞬だけで良い。
火だるまになりながらも―――ついにヨシザワはマリィに手が届く間合いに入った。
「もえろもえろもえろもえれもえろもえろもえおええろろえろえろえろもえろろろろろ!」
マリィは息継ぐ間もなく呪いの言葉を連呼した。
酸素を失った肺が悲鳴を上げる。唇が紫になりながらもマリィは叫ぶ。
声が止まるときがマリィの攻撃が止まる時。死んでも声を止めることはできない。
息が続くのは一、二分といったところだろうか。これで十分なはずだった。
人間の全身を焼き尽くすには、十分な時間だったはずだ。
だがヨシザワという人間は―――この世から焼失しない。
- 752 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:07
- なんで?
マリィの思考が停止する。元々、考えるのはあまり得意ではなかった。
考えても理解できるはずがないと、元から考えることを放棄している部分があった。
思考が停止した人間というものは―――通常、行動も停止する。
マリィの行動がほんの一瞬止まった。
息が切れたマリィが、空気を飲み込むほんの一瞬、その時に隙ができた。
マリィの声の音波による細胞の制御が消える。強烈な負荷が消える。
ヨシザワの細胞は、その空白の一瞬にわずかな自由度を取り戻した。
水を得た魚のように―――ヨシザワの細胞が躍動する。
火だるまになったヨシザワの体が、ゆらりと右に傾いだ。
軽く屈んだ姿勢から繰り出したヨシザワの一撃がマリィをかすめる。
かろうじてパンチをかわしたマリィだったが、その動きはヨシザワの予測の範疇だった。
マリィの行動範囲が極端に狭められる。動ける方向は一つしかなかったが、
その先には万全の体制で待ち構えるヨシザワの姿があった。
これが最後の一撃だ。
そう決めたヨシザワのパンチは真っ直ぐにマリィの顔面に向かう。
炎に包まれたヨシザワの右拳が唸りを上げて空気を切り裂く。
その拳がマリィの鼻先を叩こうかという瞬間―――二人は濁流に飲み込まれた。
突如として発生した洪水のような水の流れが、
イシカワを含む、その場にいた三人全員を押し流していく。
富士の地下水脈の乱れが収まった時、その場には一人の人間も残っていなかった。
- 753 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:07
- ☆
- 754 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:08
- 「水撒き、ご苦労さん。ちょっとは涼しくなったかな?」
マキは濡れた髪をかきあげ、顔についた水滴をさっと払うと、再びナイフを構えた。
それにしても凄まじいまでの水流だった。
あれがニイガキの体内から出てきた体液だとはとても思えない。
おそらく富士の地下水脈の流れを操作して、強引に吸い上げたものだったのだろう。
事実、マキの足元は軽く揺れていた。
水流を吸い上げることによって、この山にも小さくない影響があったのだろう。
どうやら富士の地下ではいくつかの洞窟が崩壊しているようだった。
火の力に水の力。
そういえば守護獣とやらも、変異させたSSウイルスから生まれたと聞いた。
サディ・ストナッチが暴走してしまった今のアベナツミが、
そういった力を自在に使えるようになっているとしても、さほど不思議ではない。
次に飛び出してくるのは土の力だろうか、それとも月の力だろうか。
どちらでも構わない。どんな力であろうが、全てこのナイフで無に帰すのみだ。
ニイガキが憤怒の表情を浮かべる。
だがマキにはそれが苦悶の表情のように見えた。
殴りながら泣いている、幼児の喧嘩のような顔に見えて仕方なかった。
アベナツミの血に支配されているといっても―――中身はニイガキそのものなのだろう。
- 755 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:08
- どちらでも構わない。
最後までアベナツミの一部として生きるというのなら、アベナツミの一部として葬ろう。
ニイガキリサとして生きるというのなら、ニイガキリサとして葬ろう。
選ぶのはマキではない。決めるのはマキではない。ニイガキ本人だ。
ここで決めな。さあ、どっちだ? あんたはどう生きて、どう死ぬ?
マキは銀のナイフを一本かざし、問い掛けるようにニイガキに向ける。
ニイガキはそれでもまだ苦悶の表情を消さない。
なぜ苦しんでいるのか。何に苦しめられているのか。
そんなことを慮ってやるつもりはなかった。思いやるつもりはなかった。
アベナツミに取り憑かれていようが、操られていようが、そんなことは関係ない。
戦いにおける価値観は、強いか弱いか、ただその二つだけだ。
勝利か敗北か。いずれかの結果にしか意味はない。
傷みも苦しみも、戦いにおいては単なる途中経過でしかない。
そこに戦いの本質はない。
途中経過を強調しようとする人間は―――真の価値を知らない人間なのだ。
- 756 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:08
- 結果が全てだというと、妙に反発する人間がいる。
途中経過だって大事じゃないかと主張したがる人間がいる。
だかそういった人間も、本質的な価値を知らない人間だと言っていいだろう。
少なくとも、戦いというものの本質は、そこにはない。
生か死か。一度でもそういった世界を覗いた人間であれば、
途中経過がどうとかいう甘いことは、口が裂けても言えないはずだ。
だからこそマキは―――ニイガキの痛みに興味を示したりはしない。
ニイガキの過去にも未来にも、その自我にも人格にも、全く興味がなかった。
戦いにおいて、そんな不純物を混ぜようとは思わなかった。
プロフィール欄に何が書かれているかなんてどうでもいい。
今ここでどう戦うかが全てだ。刃を交えることが全てだ。
だからマキは介入しない。ニイガキという人間に一切干渉しない。
ニイガキだけが特別というわけではない。全ての人間に対してそうだった。
戦いの最中に、目的や主義や主張や哲学や痛みや苦しみなどを訴えかけ、
何らかのつながりを求めようとする相手がいるのなら、それに応える言葉は一つしかない。
「死ねよ」
- 757 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:08
- 「死ねよ」
マキの一言がニイガキの心を刺し貫いた。
アベナツミが口にすれば究極の干渉とも聞こえるその一言も、
ゴトウマキが口にすれば究極の拒絶の一言にしか聞こえなかった。
干渉か、それとも拒絶か。あたしはどちらかを選ぶべきなのだろうか?
違う。
そんなことを考えるのは間違っている。そんな戦いは不純だ。
ニイガキは思う。
自分は干渉されたかったわけではない。拒絶されたかったわけでもない。
誰かと交わりたくて、馴れ合いたくて戦っているわけではない。
相手の生き方を否定するためでもない。勿論、肯定するためでもない。
生き方を、人格を比べ合うような戦いに何の意味がある?
そんな戦い方をするのなら、タカハシアイなど人類最弱の部類に入るだろう。
あたしが求めたのはそんな戦いじゃない。
そんな勝利じゃ―――ない。
- 758 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:08
- ニイガキは思う。強く思う。ただひたすらに思う。
あたしはただ純粋に、強くなりたい。強くありたい。
どんなときも、誰に対しても、揺らぐことのない強さを持つ人間になりたい。
そして今は目の前にいる―――この人より強い自分でありたい。
アベが干渉するというのなら、いい。マキが拒絶するというのなら、それもいい。
だが自分は、そんなこととは関係なく常に強い自分でありたい。
超えろ。干渉の向こう側へ。
乗り越えろ。拒絶の向こう側へ。
もっと遠くへ―――飛べ。
自分の内なる声に応えて、ニイガキの精神はふわりと一段、飛翔した。
一つの壁を越え、その向こう側へと下り立つ。
ナッチの血も。マキの言葉も。もう何もニイガキを束縛するものはなかった。
あたしはあたしだ。ニイガキリサだ。
強さを増したニイガキの精神は、マキの精神を正面から受け止めて、弾き返す。
「お前が死ねよ」
- 759 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:08
- マキはニヤリと笑った。
普段のマキならば絶対に見せないような、意地の悪い笑みだった。
ゆるく微笑みながらも視線は逸らさない。その視線の先にはニイガキの瞳があった。
ニイガキの目が問い掛けていた。
生意気にも、視線でマキに語りかけてきていた。
「あんたとあたし、どっちが強い?」
マキは笑いを抑えることができない。
このちっぽけな少女が、命がけで背伸びしている姿勢が、可愛らしくて仕方なかった。
生意気だ。背伸びだ。だがそこに嘘はない。見栄も計算もない。
退くくらいなら死ぬ。まさに背水の陣。その背後にあるのは退路を断つ死の泉。
それでこそ戦士。
ニイガキの瞳に宿っているちいさな火は、戦士の炎に他ならなかった。
マキはその炎の向こう側に、かつて対峙した戦士の姿を重ねる。
ヨシザワヒトミ。マツウラアヤ。フジモトミキ。そしてアベナツミ。
そういった一筋縄ではいかぬ面々の顔が自然と連想された。
- 760 名前:【劇症】 投稿日:2010/01/30(土) 23:09
- 「あんたとあたし、どっちが強い?」
皆そういったギラギラした目をしながらマキに挑みかかってきた。
同類だ。このニイガキリサという人間も、彼女達と同じ種類の人間なのだ。
麻取で一緒に仕事をしていた時にはとても想像できなかったが、
今のニイガキは、間違いなく戦場に生きる一人の戦士だった。
いいよ。わかった。
どっちがどれだけ強いのか、知りたいというのなら教えてあげるよ。
今のニイガキになら知る権利があるだろう。知る資格があるだろう。
アベナツミの能力を身につけたからとか、そんなことはもう関係ない。
あの目だ。こちらに問い掛けてくるような、強い意志の籠ったあの目。
戦士の目を持つ相手には、こちらも戦士の敬意をもって応えなければならないだろう。
殺す。
その意志だけが戦士の敬意。
マキの意志を受けて、銀のナイフがすっと上から下に動いた。
次の瞬間が―――マキとニイガキの最後の交差となった。
- 761 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/30(土) 23:09
- ★
- 762 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/30(土) 23:09
- ★
- 763 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/30(土) 23:09
- ★
- 764 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/01(月) 00:25
- ヨシザワ負けるな!
- 765 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:04
- 最後にニイガキが選んだのは、水の力ではなく火の力だった。熱の力だった。
ニイガキは胸の前で、何かを両手ですっと包むような仕草をした。
無数の朱雀の群れが、ニイガキの背後に集まる。
飛び交う朱雀の動きは、ニイガキを中心とした大きな円を描いた。
全ての赤い粒子がその巨大な円に沿って高速で回転する。
円の中にいた朱雀が、鳥の形を崩し、ただ一点の粒子となる。
赤い粒子となった朱雀は、渦を巻きながら円の半径を縮めていき、
最後にはニイガキの両手の間で重なり合っていく。
無数の粒子が一つに重なる。
強く。もっと強く。もっと激しく。
ニイガキは強い思いを両手の間に込める。
もはや朱雀には新鮮な空気など必要なかった。酸素など必要なかった。
燃焼ではない。酸化ではない。
ニイガキは、ただ単純に赤い粒子の原子の回転数を上げていく。
掌の中で重ねた、たった一つの粒子。ちっぽけな粒子。
その小さな粒子の原子核の周りを回る、電子の回転数を上げていく。
百度。千度。万度。ニイガキは全ての意識を一点の粒子に集中させる。
ニイガキの両手の間で輝く赤い小さな光は、ニイガキが生み出した小さな太陽だった。
- 766 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:04
- 回れ。回れ。回れ。もっと速く。もっと速く。もっと速く。
ニイガキの体の周囲に赤い靄が立った。
それはもはやナッチが生み出した赤い霧ではなかった。
ニイガキを構成する細胞が、あまりの高温に溶け出していく。
溶け出した細胞が蒸散し、薄い膜となってニイガキを包む。
それでもニイガキの意識が薄まることはない。
ただ一点に集中させて、極限まで意識を高めていく。
回れ。回れ。回れ。
ニイガキという人間の肉体が、精神が、輪郭を失って気化していく。
赤い霧と化したニイガキの自我は、赤い火球の周りで踊るように揺れる。
ナッチの意志ではなく、ニイガキは自らの力でサディ・ストナッチと化す。
己の体を燃やしながら、己の体を削りながら、ニイガキはその自我を高めていく。
小さな太陽を放つ瞬間―――ニイガキは心の中で一人叫んだ。
強くなりたい。もっと強くなりたい。強くなるためだったら、どんな犠牲も厭わない。
あたしは、あたしは―――間違っていない。
- 767 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:04
- マキの目の前には無数の空間の歪みがあった。
ニイガキの掌の中にある超高温の球体が放つ、熱の渦潮達。
マキの感覚受容体はそれらの動きを全て瞬時に把握していた。
まるで八艘飛びをするかのように、マキは無数の渦潮の間を軽やかに跳躍した。
銀のナイフは最後まで非情だった。
祈るようにかざされたニイガキの両手を一閃のもとに斬り跳ばした。
数万度の熱を帯びた小さな太陽。赤い色をしたニイガキの魂。
だがそれすらもマキの目から見れば、むらの多い、ただの熱の流れの束でしかなかった。
ニイガキが生み出した熱の流れの中の僅かない歪みを、マキの目は見逃さない。
その隙間を縫うようにして、マキは銀の刃を滑らせる。
熱の歪みの中ではマキは自由だった。
たとえ空気中に漂う微小な塵であろうが、マキに触れることはできない。
マキは泳ぐ。ニイガキの熱い心の中を涼しげに泳いでいく。
ニイガキの心の一端に全く触れることなく、マキのナイフはニイガキの存在を裂いていく。
ニイガキには、マキの動きを押しとどめることなどできはしない。
マキの動きを情熱の鎖で繋ぎとめることはできない。
マキの精神は―――ニイガキとは別の次元に存在していた。
その時ニイガキにできたことは、ただその瞬間を目に焼き付けることだけだった。
銀のナイフが―――ニイガキの全てを斬る。
- 768 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:04
- 斬られて初めてニイガキは悟った。マキが自分に何をしたのかを。
これからここで何が起こるのかを。
そして―――マキと自分の、どちらがどれだけ強かったかということを。
二人の距離が、どれだけ離れていたのかを。
全てを悟っても、驚きはなかった。悲しみもなかった。
触れた瞬間にマキのことがほんのりと理解できたような気がした。
気のせいかもしれない。だがそれが、この戦いの果てにニイガキが得た全てだった。
アベの強さに見惚れて魂を売ったように、ニイガキはマキの強さに見惚れた。
結果としてニイガキは、アベに魂を捧げ、マキに命を捧げたこととなった。
ニイガキの魂が―――音を立てて砕け散る。
赤い火球から発せられた熱も、刃に触れた途端に中和され、ゼロと帰した。
膨大な熱量が一瞬にしてゼロになる。
熱を受けて膨張していた空気は、急激に熱を失うことによって、
今度は逆に収縮することを余儀なくされた。
空気の流れが反転し、加速する。
- 769 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:05
- ニイガキの胸の前、その掌の間で、無が有に転換した。
小さな太陽のエネルギーと等量のエネルギーがそこに流れ込む。
マキが止めを刺すまでもなかった。
地球上の気候ではあり得ないような爆発的な気流が発生し、気圧が急上昇する。
ニイガキとマキ。二人の目と目が合う。
そこに言葉はなかった。目線による意志疎通すら叶わなかった。
ニイガキの魂は―――既にこの世界にはなかった。
四方から流れ込んできたカマイタチのような気流がニイガキを切り裂く。
一点に押し潰されたニイガキは、次の瞬間には、反動で弾け飛んでいた。
気流はなおも暴れ回り、周囲の木々を切り倒していく。
亜空間から突如発生したかのような悪魔的な気流は、赤い霧すら全て吹き飛ばした。
完全なゼロ。
ニイガキリサという存在は、一粒の粒子も残さずにこの世界から消失した。
- 770 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:05
- 嵐のような突風が駆け抜け、マキの周囲の草木を吹き飛ばしていった。
それでもマキの体は揺るがない。全ての干渉を押し流していく。
いや。干渉から逃げるまでもない。
マキの体は、再びホログラフの映像のように、形を失っていた。
解放された感覚受容体は二度と元に戻ることはなかった。
どうやらもう普通の人間には戻れないようだ。
また一つ、自らの体をつなぎ止めていた鎖をマキは断ち切った。
イチイやカオリのときとは違い、自らの意志で断ち切った鎖だった。
だがそこに爽快感はない。達成感もないし、自分が前進したという感覚もない。
これで終わりではない。まだ歩き続けなければならない。
待っている人がいる。
それはニイガキではない。
山頂で待っている人のためにも、もう少し歩かなければならない。
マキはナイフを収めて再び山を登り始める。感覚を操作し、体を加速させる。
山頂はもう手の届くところにあった。
- 771 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:05
- ☆
- 772 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:05
- 「一緒に修行してた頃、よく言われたよね。『エリはバカだ』って」
巨大な亀の姿をしたエリは、手に持っていたブーメランをぐにゃりと曲げた。
鋼鉄製のブーメランは、100キロ近い重さがあったことだろう。
だがそんな厚い刃も、エリの手にかかれば、ガムのように簡単に折れ曲がった。
エリは用済みになったブーメランを無造作に捨てる。
「今ほどね、それに反論したい時はないよ。『バカなのはサユの方だ』ってね」
こんなおもちゃのような武器でサユに勝てるなどとは思っていなかった。
ほんの挨拶代わりのつもりで投げたにすぎなかったのだ。
だがサユは、どこにでもいそうな子犬をかばって片腕を捨てた。
昔からサユを知るエリにとっては、とても信じられない光景だった。
「あら。片腕を斬ったくらいでもう勝った気になってるの? 相変わらずバカね」
服の一部を破り、サユは手早く止血を施した。
だが既にかなりの量の血が失われていた。
体中から汗が噴き出る。それなのに体は氷のように冷たかった。
体温が上がらない。血の流出に伴って、体熱がどんどんと奪われていく。
それでもサユの勝気な言葉は止まらなかった。
「エリにはあたしの行動の意味が理解できていない。だからバカだっていうのよ」
- 773 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:05
- 「理解なんてしてあげない。バカで結構」
暗闇を引き裂いて、巨大な蛇がサユの胸元に襲いかかってきた。
玄武の姿をしたエリ、地底からエネルギーを得て最高のコンディションにあった。
エリの両腕は無限に伸びる二匹の大蛇。エリの意志が込められた邪悪な刃。
今ならば―――どんなものであっても引き裂くだけの力があるだろう。
これを受け止めるわけにはいかない。
つんのめるようにして体をかがめて大蛇の牙をかわすサユ。
だが片腕を失ったサユは、急な体の動きにバランスを大きく崩す。
すかさずもう一匹の大蛇が、足元から伸び上がり、サユのみぞおちにめり込んだ。
吹き飛ばされたサユは洞窟の天井に打ちつけられる。
苦悶の声が漏れる。片腕では受け身をとることすらままならなかった。
鍛え上げられたサユの肉体も、常ならぬ悲鳴を上げて制御を失った。
「あっけないものね」
地面を転がるサユ。だがエリは慌てて間合いを詰めることはしない。
サユは確実に殺す。一撃で殺すことはないのだ。
隙を見せずに、じわじわと相手の体力を奪っていくべきだ。
戦いのバランスが崩れた以上―――このまま嬲り殺しにするのが一番確実だろう。
- 774 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:06
- そう。すでに戦いのバランスは崩れていた。
客観的に見て、今のエリとサユの力は互角だったはずだ。
だがサユが腕を一本失ったことで、そのバランスは既に瓦解した。
互角だったからこそ、ほんの少しバランスが崩れただけで、一方的な展開となる。
最初の一撃で勝負は決まっていたのだ。
片腕を失った今のサユでは―――絶対にエリには勝てない。
それでもサユは立ち上がってきた。目から力は失われていない。
上等だ。徹底的に叩きのめす。サユという人間の全細胞を一つずつ潰す。
全ての思想を否定する。人格を、生き方を、精神を否定する。
それでもサユは抗うだろう。死ぬまで己を貫くだろう。
ならば死ね。
死んでも己を貫くというのなら、それすらも否定してみせよう。
そんな美学など絶対に認めてやらない。
どんな哲学であろうが、死ねば貫くこともできなくなるのだ。
それを知れ。屈辱の中で知れ。
全身で思い知ってから―――死ね。
- 775 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:06
- サユは素手でエリに立ち向かっていった。
ナイフも拳銃も、そんなものは守護獣には通用しない。
守護獣を倒せるものは、守護獣しかいない。それが古くからの言い伝えだ。
だが今のサユには―――守護獣を召喚することはできなかった。
エリの左のハイキックが炸裂する。
右手を失ったサユにはガードする術がない。左手のガードは間に合わない。
再び吹き飛ばされたサユは、今度は洞窟の壁にしたたかに打ちつけられた。
折れた歯が頬の内側を裂いていく。口の中が切れ、噴水のように血が吹き出る。
それでも―――サユの目は力を失わない。
「サユ・・・・・・あんたホントにバカだよ」
エリにはサユの考えていることが理解できない。一から十まで理解できない。
片腕を失ったサユは、もはや印を結ぶことはできない。
守護獣を召喚することは永遠にできなくなったと言っていいだろう。
そもそも、地中に降りてきたこと自体が自殺行為なのだ。
地面の下では月明かりを受けることは―――不可能だ。
- 776 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:06
- 地中で絶対的な力を発揮する玄武に、地中では力がゼロになる白虎。
それなのに地下まで降りてきた理由が理解できなかった。
あの施設のときには朱雀のコハルがいた。
あの時のコハルのような切り札を―――今のサユが持っているようには見えなかった。
「どうしたのエリ? あんたの力はそんなもん?」
「そこまで負け惜しみが言えるなんてすごいね。逆にすごいよ」
「負け惜しみ? あたしがいつ負けたの?」
「もうとっくの昔に負けてるんだよ。サユがあたしを選ばなかった時点でね」
「へえ。あんたってば相変わらず自信過剰だね」
「過剰じゃないよ。確信だよ」
エリは自分が正しい道を進んでいるという確信があった。
だからサユの挑発的な言葉にも一切揺らがない。強く拳を握りしめる。
エリはその腕を伸ばす。大蛇の頭が次々とサユの体躯を捕らえる。
無限に繰り出す重量級のパンチで、エリはサユの体をサンドバックのように叩き続けた。
人間は何のために生まれてきたのか。その問いに応えられる人間はいない。
だがそれでも人間は生まれてくるのだ。答がなくとも人間は生まれてくる。
生まれてくることに、何の意味もないわけがない。
意味があるということに、疑問を持つ人間など一人もいないはずだ。
だがサユはそれを否定した。
- 777 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:06
- サユは太陽を操ることを否定し、地球が滅ぶという道を選択した。
いや、選択などという高尚な言葉は似合わない。
サユは何も選択していない。傍観しているだけなのだ。流されているだけなのだ。
ただあるがままに、振りかかった災厄を受け入れている。
なぜ抵抗しない? なぜじたばたしない? 一体なんのために生まれてきたの?
一際重いパンチがサユの脇腹を捕らえる。
何かがぐしゃりとへしゃげるような音。吹っ飛びのたうちまわるサユ。
その背中には確実に死が忍び寄っているように見えた。
それはサユ自身が招いた死だ―――とエリは思う。
エリは生きる。
オゾン層が破壊されるというのなら、破壊されない道を選ぶ。
太陽を操ることによってそれが可能となるなら、操る道を選ぶ。
どれだけ見苦しくとも、じたばたできるだけやって、生きる。
それがこの世に生を受けた存在が、取るべき道であると確信していた。
- 778 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:06
- もう一度。もう一度エリはサユに問い掛ける。
返ってくる答がエリの望むものではない可能性が高いことはわかっていた。
もしかしたら答などない問い掛けなのかもしれない。
それでも言葉を重ねずにはいられない。
否定でも構わない。エリはサユと混じり合うことを強く望んだ。
「サユ。あんたは人間の生存本能を甘くみてる」
「生存本能? そんなものは人間のエゴだよ」
「エゴで何が悪いの?」
「この星は人間だけのものじゃない」
「ううん。この星は人間のものだよ。人間こそが万物の霊長なんだ」
何度も繰り返してきた議論だった。
最後はいつも倫理的に許されるかどうかという議論になる。
サユはしばしば「神」という言葉を使った。
エリはそれも気にいらなかった。
神という言葉が―――議論の逃げ道になっているように思われてならなかった。
- 779 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:06
- 太陽を操る。それは「神の領域」を汚す行為だとサユは言う。
だがエリはそうとは考えない。
人間の力によって可能となることは「人間の領域」だ。
神というものが人間を超えた絶対的な存在であると前提するのなら、
そして「神の領域」という人間には許されない領域が存在するというのなら、
神は、そんな場所を侵すことが可能な能力を、人間に与えたりはしないだろう。
つまりは―――人間にとって可能な行為と言うのは、全て神によって許された行為なのだ。
太陽を操るという行為だって、人間に可能であるというのなら、
それは神によって許された行為だと解釈するのが自然だろう。
すなわちそれは「人間の領域」なのだ。
エリの考えは揺るがない。
たとえ1億人の人間を殺すことになろうとも、その結果として
数十億の人間が救われる方法あるのなら、きっとその方法を選ぶだろう。
それはエゴではない。極めて合理的な考え方だとエリは思った。
「そうでしょ? それが合理的な考えっていうものでしょ?」
- 780 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:07
- 「合理的な考えだっていうことは否定しない」
「だったらなぜ滅びを受け入れるの?」
「何度でも言う。この星は、この地球は、人間だけが生きている星じゃないの。
エリの言う『理』っていうのは人間だけの理だよね。やっぱりそれはエゴだよ」
「それのどこが悪いの? 人間が人間のエゴを持って、何が悪いっていうの?」
サユの唇が紫色になっていく。呼吸が荒い。血色も悪い。
だがサユがダメージを受けているのは、あくまでも肉体だけだった。
その精神や哲学が、エリの攻撃を受けて軋みを上げているのではない。
腕を一本失ったくらいで、サユの心が揺らぐことはない。
「この世に生を受けた限り、人間はより善く生きていく義務がある。
それは理屈なんかじゃない。全ての動物が持っている本能のようなもの。
エリ。あんたが言っているのはね、道理を知らない幼子が言っているのと同じよ。
『なんで人を殺しちゃいけないの?』『なんで物を盗んじゃいけないの?』ってね。
人を殺しちゃいけない合理的な理由なんてない。盗んじゃいけない理由もない。
だからといってその行為が許される理由にはならないでしょう。それと同じよ」
サユの言葉が熱を帯びる。
人は理屈によって強くなることもできるが、理屈によってのみ強くなるわけではない。
理屈だけで全てを理解しようとするエリは―――明らかに間違っている。
- 781 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/01(月) 23:07
- だからこそサユは何度でも主張する。
何度でもエリの意見を否定する。
この戦いにだけは敗れてはならない。敗れることは許されないのだ。
「もう一度言う。これが最後になるかもしれないから、もう一度だけ言うよ。
人間にはより善く生きていく義務がある。太陽を操るなんていう行為は許されない」
「地中が滅亡したら、より善くどころか、生きていくことができなくなるよ!」
「死もまた生の一部。より善く生きるということには、より善く死ぬということも含まれるの」
十年以上前から、二人の間で何度も繰り返された議論だった。
お互い歩み寄りをみせることはない。
足して二で割れるような種類の問題でもなかった。
エリはサユと一緒に生きていきたかった。生きる道を切り開きたかった。
サユはエリと一緒に一生を終えたかった。滅ぶ道を受け入れたかった。
だが二人の願いは―――最後の一瞬まで交差することはなかった。
エリの表情が大きく歪む。
そして歪んだ唇から絞り出された獰猛な言葉がサユの哲学を切り裂いた。
「だった、ら、今、ここで、より善く、死ね、よ」
- 782 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/01(月) 23:07
- ★
- 783 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/01(月) 23:07
- ★
- 784 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/01(月) 23:07
- ★
- 785 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:05
- エリの中で、長年抑えつけていたタガが外れた。
今まではまだ、心の中にかすかにサユのことを友人だと思う自分がいた。
わかりあえるのではないかという、楽観的な自分がいた。
そういった楽観性こそがカメイエリの本質なのだと、エリは自分でそう思っていた。
だが、どこまでもサユが理解しようとしないというなら、話は別だ。
もう友情も良心も思い出も、何もエリを押しとどめることはできない。
敵! 目の前にいるのはただ一人の敵だ。殺す。食らう。否定する。消し去る。
玄武は血の涙を流しながら咆哮する。
その次の瞬間に見せた動きは亀の姿に似合わぬ俊敏なものだった。
両腕を伸ばして、正面からサユの肩をつかむ。
大蛇の刃に噛みつかれたサユの両肩は、激しく血を噴き出した。
エリの顔の半分が口になった。
巨大な口を開けたエリは、サユの頭に噛みつこうとする。
サユはそれをかろうじて片手で受け止めた。牙が食い込む。
圧倒的な質量を持つ玄武の頭部が、じりじりとサユの腕を押し込んでいく。
その間にも、肩に食い込んだ牙が、容赦なくサユの筋肉を切り裂いていく。
肩の筋肉を断たれたサユの腕の力がゆるむ。
玄武の顎がサユの髪に触れようかとしたとき―――白い小さな稲妻が流れた。
- 786 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:05
- レイナの小さな牙がエリの両目を遮った。
ほんの小さな、蚊に刺されたような痛み。だがそれだけで十分だった。
一瞬の猶予を得たサユは、エリの腕から逃れて地面を転がる。
レイナは着地するや否や、今度はエリの足元に食らいついた。
太い足を振り上げて、レイナの動きを牽制しようとするエリ。
素早く足を上下させてその小柄な犬を踏みつぶそうとした。
だがレイナの次の動きはそれよりもずっと速い。
明らかにエリの動きをあらかじめ読んでいた動きだった。
レイナはエリの背後に回ってジャンプすると、
小さな爪を突き立てて、エリの甲羅にしがみついた。
そして生意気にもサユの方に一瞥を向け、おん!と勇ましく吠える。
両腕から血を流しながらも、サユはエリから距離を取った。
レイナは今なにをすべきかということを完全に理解していた。
戦場の緊迫感に誘発され、体に流れるゼロの血とNothingの血が覚醒していた。
黒きゼロの遺伝子と、白きNothingの遺伝子が螺旋を描いてからまる。
形成された戦士の二重螺旋が―――レイナの中で大きな動きを見せようとしていた。
- 787 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:06
- エリは甲羅に張り付いたレイナを引きはがそうと、大蛇の両腕を伸ばす。
だが完全に死角に入った子犬の姿をとらえることができない。
両腕が虚しく背中の上を左右する。
レイナは下手に動かない。
攻撃を仕掛けることなく、ただじっとしていた。
今は動くべきときではない。サユが態勢を立て直すまで、時間を稼ぐときだ。
レイナは戦いの流れを完璧に理解していた。
軍用犬だけが持つ戦士のDNAがレイナに命じていた。
それでもエリの耳元でやかましく吠えたてることは忘れない。
ただそれだけの行為で、エリは今何をすべきかという優先順位を忘れてしまった。
一歳になったばかりの子犬に―――守護獣を操るエリは完全に翻弄されていた。
レイナが時間を稼いでいる隙に、サユは急いで次の行動に移っていた。
地面を転がるように駆け、レイナと共に弾き飛ばされた右腕を拾い上げる。
切断面はあきれるほどに綺麗だった。余計な砂もついていない。
切断されてから時間もほとんど経っていないし、これなら再接合は可能だろう。
サユは再び白い蝋燭を取り出し、火をつけて切断面の側面を炙る。
- 788 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:06
- 二つに切り裂かれたサユの右腕は、白い炎に包まれた。
SSを守護したるもの、足や腕を一本斬られたくらいでうろたえてはならない。
四肢を早急に再生する秘術だってきちんと伝えられているのだ。
炎を介して一つに戻った右腕は、瞬く間に筋肉や神経や血管までもがつなぎ合わされた。
右腕の拳を握る。開く。問題ない。もう大丈夫だ。
腕を接合したサユは息を整えて立ち上がる。
かなり出血したために、体力はやや消耗しているように感じられたが、
白い炎をまとった右腕は、斬り飛ばされる前よりも、遥かに力に満ちていた。
一つの危機を乗り越えたサユの顔に、自然と笑みがこぼれる。
そうそう。これこれ。これこそがECO moniの日常なの。
危機を脱したことを喜んで笑ったわけではない。
危機と共に生きているのだという充実感がもたらした笑みだった。
望遠鏡で太陽を覗きつつのんびり暮らすのも悪くはない。
だが本能的な闘争心が炙られるような、地獄の戦場というのも悪くない。
それもまたECO moniの日常。そして全ての生物の日常。
そこに生き甲斐を見出すことも、決して責められるべきことではないだろう。
だからサユは叫ぶ。全身の細胞を沸騰させ、声を高らかにして叫ぶ。
「ゴー! レイナ、ゴー!!」
- 789 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:06
- サユの命令を受け、甲羅に張り付いていたレイナの目が輝きを増した。
一人で戦うのも悪くはない。自分のために戦うのも悪くはない。
だが軍用犬というものは、主の命令を受ける時にこそ、最大の輝きを放つ。
この主のために戦う。この主のために死ぬ。
そういった主を見つけた犬は強い。時として常識を超えた強さを発揮する。
根が単純なレイナという犬は、訓練を施してくれたコハルやマキではなく、
ただ自分の頭を撫でてくれたからというだけの理由で、サユに命を捧げた。
この主人の命令に殉じることこそ我が使命。
論理的ではない。理性的でもない。
だが理屈抜きでそう思えることが、野獣だけが持つ非人間的な単純な強さだった。
レイナはもう迷わない。
甲羅に前足をかけたままで、レイナは後ろ足で飛び上がった。
エリの肩に前足をかけたまま、エリの頭上で逆立ちするような姿勢になる。
そのまま空中でくるりと半回転すると、レイナはエリの瞼に噛みついた。
瞼に噛みついたまま―――全体重をかけてエリの体の左側に、その白い体躯を落とす。
エリの左目が吹き飛んだ。
- 790 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:06
- レイナの攻撃に連動してサユが動く。
エリの目が再生する隙を与えない。
死角となったエリの左サイドに滑り込むと、思いっきり右腕をめり込ませた。
白い炎をまとった拳撃がエリの内臓まで深く衝撃を与える。
エリは大きくむせ込みながら大量の黒い血を吐いた。
サユの攻撃が終わるのを待っていたかのように、レイナが襲いかかる。
しゃにむに振り回されたエリの両腕を避けながら、再び甲羅にしがみつく。
それがエリに何らかのダメージを与えるわけではない。
だがレイナの戦士の遺伝子が教えていた。
単なる攻撃だけではない、戦闘の綾というものを指し示していた。
肉体的なダメージを与えるだけが戦いではない。そして今はサユと二人で戦っている。
ならば今は陽動に徹して、相手の隙を生み出す作業に専念するべきだ。
闘争本能が沸騰すると同時に、どこか冷徹な目で戦況を見つめる自我があった。
レイナはまだ1歳。体も小さいし、牙や爪も小さい。
単独攻撃でこの巨大な亀の化け物を倒すことは不可能だろう。
様々な選択肢の中から、レイナは最も効率的で現実的な戦い方を選択していた。
それこそがただの野犬ではない―――軍用犬の誇り高き戦いだった。
- 791 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:06
- サユはサユでレイナの意図をしっかりと理解していた。
なるほどこの犬は、戦場においては決してバカではない。
自分が何をすべきなのか、何ができるのかを、確実に理解している。
やはりこの犬を連れてきたのは正解だった。
足手まといになるどころか、サユにとって大きな力となってくれていた。
それにサユはもう一つ―――この犬の使い道を考えていた。
このまま戦いを続けていても、残念ながらエリに勝てる可能性は低い。
いくらサユが四家の総帥とはいえ、素手で守護獣を殺すことなどできない。
やはりここは自らの命を捨てるべきなのだろうか。
命が惜しいわけではなかったが―――命を捨てれば全てが報われるのだろうか?
そこが重要だ。己の美学に酔って自爆することなど許されないのだ。
イシカワとマキとフジモト。
三人が持った三本の試験管の行方が気にならないではなかったが、
いずれにしても今のアベナツミは不完全なままで暴走しているのだ。
一度狂った歯車が、そう簡単に修復するとも思えない。
敵の司令塔であるエリの動きさえ封じてしまえば、アベが完全体となる可能性は低い。
サユは最終的にそう判断して―――己の命を捨てるという決断を下した。
- 792 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:06
- 命を捨てる覚悟を決めたサユだったが、エリはやはり只者ではなかった。
背後からちょこちょこと手出しするレイナに手を焼きながらも、
サユの繰り出す肉弾攻撃に、ほぼ完璧に対応してみせていた。
ほんの数秒。数秒でいいから空白の時間が欲しかった。
だがエリはその数秒の隙すら見せなかった。
それどころか、時間が経つにつれて、サユとレイナのコンビネーションを
着実に見切るようになってきた。サユの攻撃が空回りする回数が増える。
エリの牙がレイナの体をかすめる回数が増えてくる。
押されている。
戦いの最中において、それに気付いた時は、既に遅い。
気付くほどはっきりと差がついたような局面は、もはや手遅れと言える。
手こずっていたレイナの動きを、ついにエリの左腕がとらえた。
大蛇の牙にえぐられたレイナの腹部が、みるみるうちに赤く染まっていく。
- 793 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:06
- レイナの動きが急激に衰える。
訓練を受けた軍用犬といってもまだ一歳の子犬なのだ。
体はまだ小さかったし、それに比例して体力も十分ではなかった。
サユは咄嗟にレイナをかばう。この犬がサユの切り札なのだ
―――死なせるわけにはいかない。
レイナを拾い上げるために、一瞬、エリの前に無防備な背中を晒すサユ。
だが普段は戦いにおいて冷酷非情なサユが、一度ならず二度もとった、
子犬を助けるという行動は、エリにとってはかなり意外なものだったらしい。
呆然とサユの後姿を見送るエリ。
てっきりサユの動きはエリを死地へと誘う一種のフェイントかと思っていた。
だがレイナの顔を見てほっとしたサユの表情は、
何かを計算していた者の表情ではなかった。
おかしい。こんなのはエリの知るサユではない。
何かが彼女を変えたのか? いや違う。彼女の哲学は何一つ変わっていない。
それは太陽と地球に関する議論からも十分に窺える。
では―――なぜ?
- 794 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:07
- 「意外ね。ホントに意外だわ。サユってそんなに甘い子だったっけ?」
手応えはあった。あの子犬はもう動けないだろう。
そもそも、動けるとしてもあんな子犬など戦力になるはずがないのだ。
ちょっと耳元でキャンキャン吠えられたがために
やや冷静さを失ってしまったことは確かだが、
落ち着いて対応すればどうということのない雑魚だ。問題にならない。
その子犬をずっとかばい続けるサユの行動が、エリにはどうしても理解できなかった。
フェイントじゃなかったの? 罠じゃなかったの? じゃあなんで助けるの?
その子犬が、そんなに大切な存在なの?
サユにとっては、この戦いよりも、エリと戦うことよりも大事なものなの?
エリは場違いなジェラシーを感じた。戦いが汚されたように感じた。
それは戦場において何の意味も持たない感情だ。
愛情も嫉妬も戦場における小汚い不純物だ。
そんな感情を戦場に持ちこんでいる自分が―――たまらなく嫌だった。
「あらどうしたのエリ。もしかしてこの子に嫉妬しているの?」
- 795 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:07
- 嫌なやつ。
相変わらずサユは人の弱みにつけこむことが上手かった。エリの心が乱れる。
純粋に「殺す」という一文字だけを背負って戦っていたはずだ。
それはサユも同じであるはずだ。同じであるべきだ。
こんな子犬が―――なんだというのだ。
「殺す」
もう一度エリは、その言葉を口にして決意を新たにした。
だがサユはそんなエリの動揺などお見通しのようだった。
サユはなおもちくちくとエリの心の中の一番繊細な部分を突いてくる。
「殺す? どうしたの急に。なんだか無理矢理自分に言い聞かせてるみたいよ。
エリは気に入らないんでしょ。あたしがレイナに優しくすることが気に入らない。
だから苛立っている。戦いに不純物が混ぜられたと感じてるんだ。だから」
「うるさい!」
「エリは昔から何も変わっていない」
「変わった。あたしは変わった。もう昔のあたしじゃない」
ECO moniを去って以来、エリは常に変化を続けてきていた。
進歩であろうが退歩であろうが、変化し続けることを自分に強いていた。
変化することこそが、人間にとって重要なことなのだ。
変化を拒み、掟に固執するサユに―――サユにだけはそんなことは言われたくなかった。
エリの中で怒りが弾ける。
- 796 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:07
- 毒をもって毒を制す。
エリは自分の中に生まれた怒りを最大限に燃やした。
サユに対する怒りをもって、子犬への嫉妬心を強引に抑えつけた。
それでいくらか冷静になることができた。冷静に見れば簡単なことだ。
戦況は圧倒的にこちらが優位。サユは守護獣を呼ぶことができない。
だからこそ心理戦を仕掛けてきているのだろう。惑わされてはならない。
一方、サユはずっと隙を窺っていた。
最後の切り札を切るために必要な、ほんのわずかな隙を狙っていた。
エリは隙を晒さない。隙を作るために、今度は足の一本でも捨てるか。
だがそう考えていたサユに、思わぬ幸運がやってきた。
サユは知らない。それが、ニイガキが巻き起こした青龍の能力の影響であったことに。
サユもエリも―――永遠にそれを知ることはなかった。永遠に関係することはなかった。
幸運にしろ不運にしろ、運というものはそういうもの。
轟音。そして衝撃。
エリの背後から、突然巨大な水流が飛び込んできた。洞窟内は瞬く間に大河と化す。
さすがは守護獣。玄武はややよろめいたものの、見事に踏ん張ってみせた。
だがそこに一瞬の隙が生まれた。一瞬だけ、サユに自由を与えてしまった。
玄武の巨体に遮られて、若干勢いが弱まった激流の中で、
サユは両手を胸の前で合わせ、印を結んだ。
月のない暗闇の中で―――レイナを抱えたサユの両腕が白く光り輝いた。
- 797 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:07
- ☆
- 798 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:07
- 九合目まではあっという間だったが、そこから山頂までが長かった。
もしかしたらマキ自身が無意識のうちにブレーキをかけていたのかもしれない。
このまま山頂についてしまうことに、幾ばくかの不安を抱えていたがために。
二度目の敗北は許されない。
敗北の先に待っているのは、ただ単なる自分の死だけではないのかもしれないのだ。
マキの心には漠然とした不安が広がっていた。
敗北を恐れる心ではない。
アベナツミに力が及ばないのでは、という恐れは感じていなかった。
むしろ自分が敗北を全く恐れていないことに引け目のようなものを感じていた。
胸にあるのは一本の試験管。中に入っているのはヤスダケイの血だという。
果たして自分にこれを持つ権利があるのだろうか。使う資格があるのだろうか。
マキはこの血を使うことはないだろうと思っていた。
アベナツミを殺してそれで終わり。単純にそう考えていた。
だがイシカワの話では、誰かが太陽をコントロールしない限り、
この地球が異常気象に晒されて壊滅的な打撃を受ける可能性が高いという。
ならばアベを殺すという行為は―――この星を滅ぼすということに直結するのか?
- 799 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:07
- 体調は万全だった。
ニイガキとの戦いにおいても、マキはほとんど疲労を感じていなかった。
もしかしたら、そういった感覚が麻痺しているのかもしれない。
自分の体の限界がどこにあるのか、自分でも把握できていない感じがあった。
マキは体中に張り巡らされた神経回路を内側に向ける。
体の中には何の異常もなかった。
かつて体内で暴れ回っていたナッチの異常な血液細胞も完全に駆逐されていた。
マキの体内にはナッチの血液細胞に対する抗体が作成されていた。
ナッチに血を浴びせられる前から既に存在していた。
もしこの抗体があらかじめ作られていなかったら―――あの時確実に死んでいただろう。
マキはすっと唇に手を触れる。
あのとき交わした、たった一度の口付け。その時に混じっていたイチイの血。
きっとあの時のイチイの血の中に、ナッチの血が混じっていたのかもしれない。
イチイの体内を食らいつくし、活動を止めて弱毒化したナッチの血。
それがほんの少量だけマキの体内に入り、ワクチンのように作用して、
マキの体内にいくつかの抗体を作らせたのだろう。
イチイにもらった命。どう使うべきだろうか。
彼女の望むように使うべきだろうか。それとも自分の思うように使うべきだろうか。
いずれにせよ、一度は死んだ体だ。惜しむようなものは何も残っていない。
そうやって自分が死を恐れていないことに―――マキは不安を感じていた。
- 800 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:08
- イチイならおそらくこう言うだろう。
(バカか。あたしのために使うことなんてないだろ)
彼女と別れてから、決して短くない月日が過ぎている。
思い出のいくつかは薄くかすれ、そしていくつかは美化されて象徴化されている。
いずれにしても当時のままで残っている記憶など一つもなかった。
ただイチイという少女がいたという事実が、重くマキの胸に残っているだけだった。
それだけは消えない。なぜなら彼女のことが好きだったから。
山頂に近付くにつれて、赤い霧が晴れ上がってきているように見えた。
マキの周囲だけではない。富士を厚く覆っていた霧が、徐々に薄くなっている。
薄くなっているというよりも―――山頂へと向かっている。
目指す山頂にはより一層濃い赤が集結しているように見えた。
富士の景色が変わる。
それが富士本来の持つ景色だったのだが、マキはそんなことなど知らない。
マキが知っているのは、ただ一つ。
あの女が山頂にいるということだけだった。
- 801 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:08
- 待っている。
アベナツミはあたしがやってくることを知っている。そして待っている。
彼女は、あたしがケイの血を持っていることを知っているだろうか?
おそらく知っているのだろう。この山は全てこの赤い霧のテリトリー内だ。
そして彼女はまた、本能で察しているのかもしれない。
これが二人の最後の邂逅だということを。
マキがわかっていることはアベもわかっている。なぜかそんな気がした。
マキは感覚を広げて周囲をスキャンする。
やはり山頂に一人いる。その人間が誰であるのか、詳細な解析は必要なかった。
そして周囲1キロメートル四方には、他の人間は誰もいなかった。
ヨシザワもイシカワもフジモトも。そしてカメイもマリィも誰もいない。
今ここにいるのはアベとゴトウの二人だけ。誰も邪魔はしないだろう。
だからだろうか。マキの足は山頂に近付くにつれて速度を落としていく。
永遠に到着しなければいいのに。少しだけそう思った。
それでも運命はマキのことを自由にしようとはしなかった。逃げることを許さなかった。
ずっとうつむいていたマキが顔を上げると―――そこはもう山頂だった。
- 802 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:08
- 雲一つない青空だった。
いや。雲は山頂よりも下方にある。驚くほど空が近い。
そして太陽も近かった―――それはマキとほぼ同じ目線の高さに存在していた。
「待ってたよ」
太陽の少女は、以前に会ったときと変わらぬ童女のような笑顔をマキに向けた。
真っ赤なドレスに身を包んだアベナツミは、殺風景な山頂の広場においてさえ、
眩しく光り輝き、周囲の空気を華やいだものに変えていた。
この人は本当に太陽となるために生まれてきた人なのかもしれない。
それがアベナツミという女に対する、マキの偽りのない思いだった。
それと同時に、なぜ自分もまた適格者の一人として選ばれたのだろうと疑問に思った。
自分はきっとこの人と同じように輝くことはできない。
世界を照らすことなんてできないだろう。
マキにそう思わせるには十分すぎるほど、アベの笑顔は眩しかった。
- 803 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/04(木) 23:08
- アベは遠い。彼女のいる場所は遠い。
手を伸ばせば届きそうなところに立っているのに、
マキとは最も遠く離れた場所に立っているように思われた。
それでもマキはアベに声をかける。
「あたしも待ってたんだよ」
アベに手痛い敗北を喫してから、マキはずっとこの日が来るのを待ちわびていた。
再びアベと相見える日を。言葉を交わせる日を。
だが不思議なことに、あの時のような、燃えるような殺意は湧いてこなかった。
あの日あの場所でアベと戦うことで、マキはいくらか理解してしまったのかもしれない。
このアベナツミという少女がどういった人間なのかを。
何を考えているのかを。
裏と表。光と影。赤と黒。真と偽。どっちがどっちかだなんてことは重要ではない。
重要なのは彼女が自分にとって欠けている最後のピースだということ。
そしてそれはきっとアベにとっても同じことに違いないだろう。
もうマキには―――このアベナツミという女が、他人だとは思えなかった。
- 804 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/04(木) 23:08
- ★
- 805 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/04(木) 23:08
- ★
- 806 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/04(木) 23:08
- ★
- 807 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:10
- 「下の方で随分騒いでたみたいだね」
「ニイガキのこと?」
「それよりもずっと下のこと。昨日の夜のことさ」
「全部聞いてたんだ」
「イシカワとヨシザワとフジモトがいたね。あと子犬も一匹」
「じゃあ、これのことも知ってる」
マキは懐から一本の試験管を取り出してアベに示した。
それを見てアベも無言でうなずく。
この山には、ナッチの自我である赤い粒子が、薄く覆い尽くしていた。
やはりこの山で交わされた会話は全て掴まれていたのだろう。
「ゴトウも知ったんだよね。カメちゃんの本当の目的を。ミチシゲの正体を」
「うん。イシカワから聞いたよ」
「で、ゴトウはどうする? ケイちゃんの血をどうするつもりなの?」
「その前に一つ訊いていいかな」
「なに?」
まだゴトウの中では決心がついていなかった。
だがそれは「はっきりした形になっていない」というだけで、
既に答は自分の心の中で決まっているように感じられた。
あとはそれを形にするだけでいい。
- 808 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:10
- 「あんたの体の中には、もう全部の血が揃ってるのかな。これを除いた全部が」
「うん。ケイちゃん以外の血は全部揃ってるよ。あの時にもらったゴトウの血もね」
「全部体の中にある」
「うん。全部飲んだからね。あとはその血を飲めばお終い」
「お終い?」
アベはマキの問い掛けに淡々と答える。
どうやらマキはニイガキのことも始末してここまで来たようだ。
アベがニイガキに命じたわけではない。ニイガキが勝手に動いただけだ。
話さえきちんとできるのなら、戦う必要はないとアベは考えていた。
「たぶんそのままガス化して、太陽まで飛んでいくことになると思う」
「自動的にそうなるんだ」
「もう特別な操作は何もいらないってカメちゃんが言ってたよ」
「ああ、そういえばサユもそんなこと言ってたかな」
アベはじっとマキの表情を観察していた。
彼女の表情は、以前見たときと何ら変わっていない。
あの時の手痛い敗北も、彼女の中には何も残さなかったようだ。
自尊心と地球の未来。
マキにとってはどちらもさほど重要ではないのだろう、きっと。
- 809 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:11
- 「時間がないってことも聞いた?」
「さあ。それは聞いたかな。聞かなかったかな。時間、ないんだ」
「このままだったら今日か明日にはこの星は終わるだろうね。結構ギリギリだったよ」
アベの言うギリギリとはどういうことだろうかとマキは思った。
ギリギリ間に合ったとでも言いたいのか。
それはつまり、アベがケイの血を手に入れたということを意味するのだろうか。
「この血があれば問題は解決できるってこと?」
「その通り。ていうかそれ以外には解決できない」
「あんたが太陽になる」
「他に誰がいる?」
マキは唾を飲み込んだ。
なぜかそこで自分がいる、とは言えなかった。
おそらく自分にはアベのような生き方はできない。
太陽となり、全てを支配し、全てに干渉するような分厚い生き方は無理だ。
そこまで自我を肥大させて生きることなど―――できはしないだろう。
- 810 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:11
- 「あんたにしかできないと」
「そうだよ。この世で太陽になれる人間はあたし一人だけ」
「その資格があると」
「資格?」
「力があると」
「あるよ」
「本気なんだ」
「あたしは全てを支配する。それ以外は考えない。それがあたしの生き方さ」
思っていた以上にアベの言葉は真っ直ぐだった。
その言葉を聞いていると、まるで自分が極めて優柔不断な人間のように思えてくる。
躊躇いのないアベの言葉に、マキは軽い羨望すら覚えた。
あたしはそんなタフな生き方を―――自分に架すことができるだろうか?
「じゃあ、その血、あたしに渡してくれるかな」
アベは悠々とマキに向かって手を伸ばす。
マキが血を渡すと信じて疑っていない仕草だった。
おそらく一度マキと戦うことで、マキの性格がどんなものなのか見抜いたのだろう。
血液細胞を使ってマキに激しく干渉することによって、
マキの生き方というものが、どういうものであるのか理解したのだろう。
アベのその判断は―――おそらく間違っていない。
- 811 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:11
- マキの性格は、ほぼアベの思った通りのものだった。
彼女の性格はアベとは全く異なる。
マキは誰にも干渉しないし、介入しない。支配することなど考えもしない。
自分が太陽になろうなどと、マキは一度も考えてことがなかった。
マキの自我はあくまでもマキだけのものであり、それ以上の広がりは持たない。
それでもマキは言わずにはいられなかった。
自分にできないとは思いつつ、アベに問い掛けずにはいられなかった。
この極太の自我を持つ究極のエゴイストに訊いてみたかった。
この女は―――あたしの問いに何と答えるのだろうか?
「もし、あたしが太陽になるって言ったら?」
アベの答は簡単だった。
もしかしたらその答こそが、太陽となろうとしてる人間にとって、
最も相応しい言葉だったかもしれない。
- 812 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:11
- 「殺す」
とても通りの良い言葉だった。マキはそれをすんなりと理解した。
アベと言う女の思考回路が理解できたような気がした。
やはり彼女は宇宙一のエゴイストだ。
このアベという女はいつだってそうやって生きてきたのだろう。
そしてこれからもずっとそうやって生きていくのだ。
自分はそれを知っていたはずだ。だがずっと忘れていたような気がする。
太陽がどうだとか地球がどうだとかいうことを考え過ぎて、
一番大切なことを見落としていたような気がする。
あたしは―――この女を殺す。
この女に奪われたものを取り返す。
アベを殺してもイチイが生き返るわけではない。
ゴトウの体の中からウイルスが消えるわけではない。
地球の危機が救われるわけでもない。
だが順番が違う。そんなことは全部、後の問題だ。
マキは自分に言い聞かせる。許してはならない。
あいつらを許すわけにはいかない。
- 813 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:11
- 最初に被験者にこんなウイルスを投与したのは、テラダなのだ。カメイなのだ。
そして、あたしから大事なものを奪ったのは他ならぬこのアベだ。
手を出したのはあいつらが先だ。
それを無視して次の問題に進むことなんて許されない。あたしは許さない。
マキは試験管のふたを外すと、中に入っていたケイの血を、一気に飲み干した。
アベの目が見開かれる。笑顔が消えた。輪郭が薄くなる。山頂の温度が急上昇した。
ゆっくりと赤いサディ・ストナッチが始動していく。
今度はアベが―――マキに問い掛ける番だった。
「なんで? なんで血を飲んだの? あたしが太陽になって、あんたが何の損をするの?
あんたには太陽になるなんて絶対に無理でしょ? なのになんでそんなことをするの?」
マキもまた、その体の輪郭を薄めていった。黒い霧が辺りに漂う。周囲の温度が下がる。
ゆっくりと黒いサディ・ストナッチが始動していく。
マキは銀のナイフを下段に構えると、アベの問いに対して素っ気なく答えた。
「意地だよ、意地」
- 814 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:11
- ☆
- 815 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:11
- 酷い耳鳴りと頭痛。
再びミキは暗闇の空間でもがくこととなった。
マリィの声の攻撃を、水中に飛び込んで防いだところまではよかった。
そのままマリィの背後に回り込むつもりだった。
どうやらヨシザワにはマリィしか見えていないし、
マリィにはヨシザワしか見えていない。
そんな近視眼的なやり方は、戦いの場にはそぐわないことをミキは知っていた。
最後に戦場に生き残るのは、もっと冷静でしたたかな目を持った人間だ。
別の言い方をすれば、複数人数での戦闘においてはファインプレイなど必要ない。
プロレスのバトルロイヤルと同じだ。
こういった混戦では、最強の戦士が最強の存在というわけではないのだ。
最強の戦士ではなく、ミスをしなかった人間が生き残る。
陰でこそこそと隠れていた、打算的で臆病な人間が最後に生き残るのだ。
ミキは決して臆病ではなかったが―――十分過ぎるくらい打算的ではあった。
- 816 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:12
- ミキの手には一本のナイフがあった。
ヨシザワに気を取られているマリィの背後に回り、
一発、不意打ちを食らわせてやるつもりだった。
出し抜いてやる。粟を食わせてやる。目にものを見せてやるぜ。
戦場には卑怯もくそもない。油断した方がバカなのだ。
音も立てずにミキがそろりと水面から浮き上がった時、
マリィは燃え上がる炎に完全に気を取られていた。
背後であれば、マリィの声の影響もいくぶんかは和らげられているように感じた。
今なら簡単に殺れる―――
だがミキが伸ばしたナイフがマリィに触れる前に、地下水脈が氾濫した。
突然の激流。人の力ではとても抗えないような、凄まじいまでの勢いだった。
闇の向こうからやってきた濁流は、ミキやマリィやヨシザワやイシカワを押し流していった。
水に飲まれた四人は、体の自由を失って水の中でもがく。
流されて流されてたどり着いた先は―――またしても真の闇の中だった。
- 817 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:12
- ミキはうつ伏せになって荒い息を吐き出す。
どうやら水は全て流れ去ったようだ。
立ち上がろうとしてうめく。流されている間に岩にぶつけたらしい。
ミキの体のあちこちから鈍い痛みが押し寄せてきていた。
我に返ったミキは胸を抑える。
あった―――血の入っていた試験管のケースは無事だった。
イシカワからもらったケースはかなり頑丈なようだ。
さらに体にも決定的なダメージは受けなかったようだ。
今は血よりも自分の体の方が大事だ。動けるか。戦えるか。ミキは様子を探る。
水は引いても周囲は真の闇。何も見えない。ミキは鼻をひくつかせた。
イシカワの匂い。そしてマリィの匂い。いずれも近かった。
だがそれよりも遥かに近くに感じたのは―――強烈な焦げ臭いにおいだった。
すぐ横に感じたヨシザワの匂いに、ミキはそっと手を伸ばした。
一旦触れた手をミキは思わず離してしまった。熱い。火傷しそうな熱さだ。
ということは当のヨシザワは―――火傷などというものでは済まないだろう。
- 818 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:12
- それでもミキは、なんとか手さぐりでヨシザワの体を調べる。
焼けた服が肌にはりついていて脱がすことも容易ではない。
ミキは手にしたナイフでヨシザワの服を切り裂いていく。
刃先が何かにひっかかった。
ガラスのような硬質プラスチックのような何か―――
それもやはりミキが持っているのと同じようなケースだった。
あれだけの炎に焼かれたのに、ケースはびくともしていない。
こちらの中の血も大丈夫そうだった。
だがそんなことより今は、ヨシザワの体の方が気がかりだ。
とにかく生きた人間の体を触っているような気が全くしなかった。
手ひどい傷を負っているはずなのに、ヨシザワはうめき声一つあげない。
どうやら顔らしい部分にミキは鼻を近づける。息はあった。
ほんのかすかだったが、呼吸していることは確認できた。
だがやはり―――ダメージが大き過ぎる。
人間としてのヨシザワは既に壊れていた。
- 819 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:12
- おそらくヨシザワはもう立ち上がれないだろう。もしかしたらもう二度と。
火傷は全身に及んでいた。生きているのが不思議なくらいの重傷だ。
そしてその呼吸は―――徐々に弱まっていく。
残された時間は少ない。戦場を日常とするミキにはそれがすぐにわかった。
ミキはイシカワを呼び寄せようとしたが、言い掛けてすぐに口をつぐんだ。
近い。すぐそばにマリィの臭いが漂っていた。
「なんだよおい・・・・いてえよ・・・・なんだよ・・・・折れてるじゃんかよぉ」
情けない声を出しているのはマリィだった。
ミキは神経を集中させて、周囲の臭いの情報を集める。
ここがどれほど広い空間かはわからなかったが、四人の正確な位置はつかめた。
イシカワは少し遠い。そのイシカワの懐から、かすかに火薬の臭いがした。
ミキはヨシザワを抱えてその場にしゃがみこむ。
イシカワとマリィの間を結ぶ線上から離れるように移動した。
真の暗闇の中でも、イシカワの目にはミキの動きが見えていたようだ。
- 820 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:12
- カチッ。 カチッ。 カチッ。
イシカワが手にした拳銃が火を噴くことはなかった。
鉄砲水に流されているあいだに、どこかが壊れてしまったのだろうか。
だが撃鉄を降ろす音は、マリィにもはっきりと聞こえたようだ。
「誰だ! イシカワか? ヨシザワか? 何も見えねえじゃんかよ!!
はははっ。バカかよお前ら。こんな暗闇で銃が当たるわけねーだろ!」
マリィには、この暗闇でもイシカワには全て見えているということが、
わかっていなかった。それゆえに、この暗闇が自分に有利だと判断した。
圧倒的な優勢であるという事実がマリィの心に油断を生んだ。
マリィは―――完全にイシカワの能力を侮っていた。
もっとも圧倒的な優勢であるということは事実だった。
マリィには狙いを定めなくとも相手にダメージを与えられる武器がある。
イシカワがマリィの下へと駆け寄るよりも早く、マリィは再び声高らかに笑った。
「ラッキィ! この勝負、あたしの勝ちだ! ヒャハハハハハハハハ! ヒャハハハッハハハ!」
- 821 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:12
- あまりにも強烈なマリィの声の衝撃波を受けて、洞窟全体が大きく揺らいだ。
どうやら先ほどの水流で岩盤が不安定になっているようだ。
上から小さな石がぱらぱらと落ちてくる。
やがてそれに大きな岩も混じり始め、洞窟が本格的に崩れ始めた。
「マジかよ! やべえなおい。洞窟くずれちゃうよー。キャハハハハ!!」
それでもマリィの笑いは止まらない。
それどころか、ますますその声の音量を高めていく。
マリィの声の大きさに比例して、洞窟の揺れも大きなものになっていった。
さすがにミキは焦った。
(バカかこいつ! 笑うなよ! 崩れたらお前も死ぬのがわかんねーのかよ!)
ミキは慌てて移動する。手さぐりで洞窟の壁を伝う。
上からはさらに岩が落ちてくる。当たればただでは済まないだろう。
ミキはヨシザワの体を引きずり、なんとか体を岩壁の影に隠した。
- 822 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:13
- マリィはミキの焦燥を嘲笑うかのように、さらに笑い声を高めた。
可笑しくて可笑しくてたまらなかった。
おそらくイシカワやヨシザワは、洞窟が崩壊することに恐怖を感じているだろう。
そしてなぜ崩壊することを恐れずに、自分が笑い続けているかも、理解できないだろう。
相手に理解不能なものを与える。それはマリィにとってたまらない快感だった。
マリィはむしろこの洞窟を崩すつもりで笑い声をあげていた。
もし洞窟が崩れれば、さすがにイシカワもヨシザワもフジモトも、
生き残ることはできないだろう。
だがマリィは違う。小型化の特殊能力がある。
本来なら太陽化の一部に属する、物体を極限まで収縮させるという能力。
ウイルスの突然変異によって生じた、マリィだけの特殊能力があった。
これこそが、自分は神に選ばれた人間なのだというマリィの自尊心の根本だった。
洞窟が崩れたからと言って、全てのスペースが埋まることはないだろう。
小型化してしまえばその隙間を通って外に出ることだって可能だ。
「死ねよ! 死ね死ね死ね! おまえら全員死んじまえよ!!」
生き残るのはあたしだ―――マリィは笑いながら小型化を始めた。
子供ほどの大きさに。猫ほどの大きさに。
鼠ほどの大きさに。そして蚊ほどの大きさに―――
- 823 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:13
- 「きゅうぅ」
突然マリィの胸が強く圧迫された。
なにがなんだかわからない。相変わらず周囲は完全な闇だった。
マリィには、自分の周囲に起こった状況が全く理解できない。
「死ぬのはあんただよ」
いつものような甲高い声ではない。イシカワの声は低く暗かった。
この完全な闇の中でも、イシカワの異常なまでに発達した目は、
蚊ほどの大きさになったマリィの姿をしっかりととらえていた。
その黒い瞳が、油断の海に溺れていたマリィの姿を捕らえる。
誰にも見えていないと思い込んで、暗闇の中で無防備な姿を晒しているマリィの体を
捕まえることは、そう難しいことではなかった。
イシカワの親指と人差し指が、がっちりとマリの体をつまむ。
渾身の力を込めて握りつぶす。マリィの肋骨がまとめて砕ける音がした。
折れた骨が内臓に食い込んでいく手応えがあった。
それでもイシカワは力をゆるめない。すり潰すように二本の指をこすらせた。
- 824 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:13
- 「あんぎゃぁあっぁぁっぁあ!あ!あ!あ!」
「死ねよ」
「じ、じ、じぬのはてめえだ・・・・・」
「ああ!? 死ねよてめえが!」
「ちょ、ちょおしにのってんじゃねえ!」
マリィは最後の力を振り絞って小型化の能力を解こうとする。
だがそれは叶わなかった。
マリィの脳から発された解除指令を全身へと伝える神経回路は、
既にイシカワの指によってズタズタにすり潰されていた。
「ぐがががががが。ぎぎぎ!」
「死ねぇ!」
「もえろ。もえろもえろもえおもえもえろもえろもれおれもえれももももおえ!」
イシカワの髪に火がついた。周囲の闇がさっと払われる。
ミキの目にもはっきりと見えた。
顔面を火だるまにしながらも、般若のような形相を浮かべて、
二本の指を何度もすり潰すイシカワの姿が。
やがてマリィの声は途絶え、イシカワを包んでいた炎も消えた。
そしてまた周囲には―――何もない闇だけが残った。
- 825 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:13
- 「よっすぃー・・・・・やったよ。やったよ・・・・・」
ミキは手さぐりで辺りの岩の様子を探ると、ヨシザワの体をさらに岩陰の奥に収めた。
この角度ならば岩が邪魔して、ヨシザワの姿はイシカワには絶対見えないはずだ。
今のイシカワに―――この戦いの結末を見せるのは酷過ぎる。
焦げ臭いにおいがイシカワの頭部から漂っていた。
命に別状はなさそうだ。だがダメージは決して小さくはないようだ。
それに元々足の骨が折れていたイシカワは、すぐには動けないようだ。
洞窟の床にごろりと転がっているのだろうか。荒い息使いだけがミキの耳に聞こえた。
「よっすぃー。見える? 見てた? 殺ったよ。マリィを殺ったよ・・・・・」
ミキは何と言おうか迷った。
ここで何が起こったのか。何が終わったのか。いずれはわかることだ。
だが今は―――そういうことを伝えるべきではないような気がした。
「見てたってよ」
「え? フジモトさん?」
「おう。ヨシザワならここにいるよ。マリィを潰したところも見たってさ」
「本当に?」
「ああ。炎で一瞬明るくなったからな。あたしも見てたよ」
- 826 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:14
- ミキの声が震えた。それに呼応するかのように、洞窟の壁も震えた。
まだここは不安定な状態にあるのかもしれない。
今にも崩れそうな気配を漂わせながら、天井が揺れているような気がした。
だがヨシザワもイシカワも―――自力で動けるような状態ではなかった。
ミキはヨシザワのように筋肉が発達しているキャリアではない。
二人を背負ってここから出ていくことは不可能だろう。
だが一人くらいならなんとかなるかもしれない。
ミキは一つの決断を迫られていた。時間はもう残されていない。
「よっすぃー。ねえよっすぃー。どうしたの? 大丈夫?」
「今ちょっと動かせないよ。無理に喋らせない方がいい。安静にしないと」
「ホントに?」
「聞き分けろよ。あれだけマリィに焼かれたんだ。ダメージでかいに決まってるじゃん」
「でもよっすぃーなら大丈夫だよ! すぐに筋肉が再生するからきっと!」
「ああ。だから・・・もうちょっと待ってやろうぜ」
だがミキは、ヨシザワの体が二度と再生しないことを知っている。
こぼれたミルクが元には戻らないことを知っている。
洞窟の天井が揺れている。
目には見えないが、洞窟全体が崩れようとしているのが肌でわかった。
動き出さなければならない。このままでは生き埋めになるのは確実だ。
だがイシカワが―――果たして言うことを聞くだろうか?
- 827 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:14
- この闇の中から脱出するには、イシカワの目が必要だ。
イシカワに―――生き続けるのだという意志を持たせることが必要だ。
ミキにはそんなことをする自信がなかった。
だが自信がなくとも、ここから生きて出るためには、やらなければならない。
「ぐう」
ミキはうめき声をあげる。
一際大きな岩がミキの背中を打った。洞窟の本格的な崩壊が始まっていた。
石が次々とミキの体を叩く。衝撃と恐怖に我を忘れそうになる。
そのとき、走馬灯のようにミキの人生が脳内でフラッシュバックした。
一際大きく輝いていたのは、アヤが好んで使った一つの言葉だった。
生き残る。
それはアヤが好んでよく使っていた言葉。
ミキの心の一番深い場所に刻まれている、GAMの魂だった。
GAMの生き残りは今となってはミキとレイナしかいない。
だが一人でも残っているのなら、GAMはアヤの精神とともに生き続けるだろう。
絶やしてはならない。そのためにはありとあらゆる手段を尽くさなければならない。
ヨシザワの体がなんだ。イシカワの気持ちが何だ。
遊びでやってるんじゃない。ここは―――戦場なんだ。
- 828 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:14
- ミキは駆け出す。
イシカワの臭いに向かって一直線に駆け出す。
暗がりの向こうでイシカワが息を飲む音がした。
ミキはそっけなく、だが万感の思いを込めて言った。
短い付き合いだがイシカワにもきっと伝わった―――とミキは思う。
「行くぜ。二人で」
イシカワが何かを言う。
だがその言葉は
洞窟が崩れ落ちる轟音にかき消され
ミキの耳には
届かなかった。
- 829 名前:【劇症】 投稿日:2010/02/06(土) 23:14
- 第十二章 劇症 了
- 830 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/06(土) 23:14
- ★
- 831 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/06(土) 23:15
- ★
- 832 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/06(土) 23:15
- ★
- 833 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/08(月) 23:21
- 太陽が昇ったら おはよう
太陽が沈んだら おやすみ
陽はまた昇る。
衰えても。傾いても。
モーニング娘。がいる限り太陽は何度でも蘇る。
それでも 太陽が消えたらなら 消えたなら。
太陽が消えたなら さようなら
- 834 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/08(月) 23:21
- 第十三章 終息
- 835 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:21
- ナッチは薄く広く微笑んだ。
それはいつものナッチの笑顔ではなかったが、とびきり優しい微笑みだった。
まばゆい笑顔が、ナッチの姿を赤く豹変させる。
それでもマキは微笑みを返すようなことはしない。
ナッチの笑顔の下にある感情は、決して喜びや楽しさだけではないはずだ。
その奥にある感情を引きずり出す。
ナッチ本人ですら見たことがないような感情を―――この太陽の下にさらす。
マキの顔から表情が消える。その無表情が、マキの姿を黒く豹変させる。
「そう。あんたがそんな意地っ張りだとは知らなかったよ」
「うん。あたしも知らなかった」
「誰に似たんだろうねえ。マツウラか? ヨシザワか? それともミチシゲかな?」
あんたが殺した女だよ。
マキは体中に点在する感覚受容体の機能を最大限に引き上げる。
神経回路を包み込むように赤い血が流れる。体の中にはケイの血があった。
それだけではなく、カオリの血があり、イチイの血があり、
イシグロアヤの血やヤグチマリの血もあった。
- 836 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:21
- ウイルスを投与された被験者の血が、マキのDNAに改変を促す。
姉妹とでも言うべきあの施設の同輩たちがマキに力を貸す。
体内時計のカウンターが恐ろしい速さで回転を重ねていく。
それに伴って、マキという存在は一秒ごとに遺伝子変異を繰り返していった。
同輩。そうさ同輩。同じ運命の下に集った輩。
思えばこのアベナツミだって、同輩と呼ぶべき存在だったのだ。
彼女と自分は、どこでどうすれ違ってしまったのだろうか。
マキは欲す。そのとき初めて自分が欲していることに気付いた。
己の意志が、DNAの支配下にあることを知った。遺伝子の下僕であることを知った。
だが抵抗はしない。求めるがままに欲する。進化の流れに沿う。
欠けているのはアベの血。そしてナカザワユウコの血。
その二つの血が欲しい。
それはもう、手を伸ばせば届く距離にある。
マキの血とアベの血が共鳴する。二つの血が激しく魅かれあう。
銀のナイフを天にかざし―――ゆらりとマキが加速を始めた。
以前ナッチと戦ったときのように、五人のマキがそこに現れることはなかった。
マキは一人。完全な一人。存在すれども存在せず。
位置はあれども体積は存在しないという、数学的な定理としての「点」となる。
全ての粒子を一つに極限まで重複させ、凝縮したマキの姿がそこにはあった。
意地。
限界を超えてその能力を引き出したのは、ナッチに対するマキの意地だった。
- 837 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:22
- ゴトウマキという存在が極限まで収縮しようとしているのに対して、
アベナツミという存在は極限まで拡散しようとしていた。
全ての細胞が、ナッチの自我を抱えたままガス化していく。
マキという一点の存在に、ナッチの血が、遺伝子が、激しく共鳴していた。
自我。自我。自我。エゴ。エゴ。エゴ。
無限の自我が赤い粒子となって富士の頂きを覆い尽くす。
ナッチは無数の自我を抱えた究極のエゴイストと化す。
エゴイストと化し―――世界の全てに干渉を試みる。
あたしのために。あたしのためだけに。この世界は。あたしのために。
ナッチもまた強く欲していた。吸い込まれるようにマキに魅かれていく。
マキの中に流れるヤスダケイの血。
最後のマスターピースを求めて、ナッチの粒子が拡散していく。
体の輪郭が溶け出し、拡散していきながらも―――
赤い霧は薄まるどころか、濃縮してどす黒い赤に変わっていく。
血液細胞もまた、完全にガス化していた。
肺で行われるはずの酸素と二酸化炭素のガス交換も、
今は大気中でダイレクトに行われていた。ヘモグロビンが蛭のように蠢く。
赤い粒子が酸素を遊離して黒くなり、黒い粒子は酸素と結合して赤くなっていく。
- 838 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:22
- 赤と黒だけのツートンカラーの鈍い電飾。
歪な色のクリスマスツリーは、ナッチの顔を頂点として放射状に広がっていく。
富士の山頂に姿を現したもう一つの山。その山を飾る赤と黒の粒子。
点滅を繰り返す粒子は、まるでモールス信号であり、
マキに何かを訴えかけているかのようだった。
そしてガス化していた粒子が、ナッチの意志を受けてある一点で液化した。
攻撃は突然始まった。
液化したナッチの自我が―――マキに牙を突き立てる。
ゴトウマキの体に降り注ぐ赤と黒の雨。
雨と言うより―――それは滝だった。
何かのトリックアートのように、赤い流れと黒い流れが鮮やかに明滅する。
傍若無人な赤と傲岸不遜な黒が織りなす地獄の大瀑布。
マキはそれから逃れる術もなかった。
ただ黙って、己の体の周囲に発生した、大河のような血の奔流を受け流した。
目から、口から、鼻から、耳から。
ありとあらゆるところからナッチの血球細胞が侵入してきたが―――
マキの体内に配置されていた抗体が全ての血球細胞を破壊し尽くした。
- 839 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:22
- ほんの数秒の激流だった。
赤と黒のツリーはその大部分の粒子を失っていた。
その頂点にあるナッチの顔が、マキの姿を見て眠たそうな顔に変わる。
マキは血でべたついた髪を荒々しくかきあげた。
服も血でねばねばしていたが、気にする素振りは見せない。
マキの体内では、マキの精神を支配しようと、
ナッチの異常に発達した血球細胞が荒々しく動き回っていたが、
それらの獰猛な細胞達は、全てマキの抗体によって溶解させられていた。
「あんたの血の刃は、もうあたしの体には効かない」
ナッチの細胞は決して不死身ではない。
凶暴ではあるが、あくまでも生きた細胞の一種でしかなかった。
抗体という生体最強の武器の前では全くの無力だった。
イチイがゴトウの体内に残した、ほんの数滴の血。
そこに含まれていたサディ・ストナッチの血がもたらしたマキの抗体。
適格者の血を持つがゆえに作成可能だった、地球上でたった一種類だけの抗体。
その特別な抗体の前では―――アベの血球細胞も全くの無力だった。
- 840 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:22
- マキの銀のナイフが伸びる。
まるで満月の光のような、鮮やかな銀色の電流を放つマキのナイフ。
月は太陽の光を反射する。反射して弾き返すことによってのみ夜空に輝く。
マキのナイフもまた―――太陽の光を全て跳ね返さんとする意志に満ちていた。
ゆえに銀色。夜の闇を切り裂くのは太陽ではなく月か。
ナッチが一時的にサディ・ストナッチを解除する。
押し流した血流と共に再度赤い粒子を掻き集める。
渦を巻きながら帰還してくる粒子達は、かまいたちのようにマキに襲いかかる。
だがその粒子の旋風は、一粒たりともマキの体に触れることはできない。
いかなる干渉も退け、マキは粒子の流れの歪みに身を投げる。
ナッチへ帰還しようとする流れに乗って―――マキは亜空間を泳ぐように動く。
風に乗り、マキのナイフが空気を切り裂きながら伸びる。
夜も昼も。光も闇も。マキのナイフは全て斬り落としてゼロに帰す。
それに触れたものが―――地球であったとしても、きっと。
そんなマキの自我がこもった銀の刃が、ナッチの喉元に突き刺さった。
- 841 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:22
- 自分の攻撃が全く効かない。
それはナッチにとっては衝撃的な経験だった。
マキの自我を乗っ取ろうとした血球細胞は、マキの免疫担当細胞に全て貪食された。
自我が。自我が。最強の自我が利かない。ナッチのエゴが通らない。
そんなことはあってはならないはずのことだった。
ナッチの心に生じたのは、悔しさや敗北感といったネガティブな感情ではなかった。
それよりもむしろ、自分が勘違いしているのではないかと感じた。
この現象については、新たな推察が必要なのではないかと思ってしまった。
錯覚が生じた。
このマキという女には攻撃が利かない。なぜ? どうして?
もしかしてこの女は―――ナッチ自身なのか?
これはあたし? 無敵のあたしだからこそ、攻撃が利かないの?
あたしはあたしと戦っている? あたしはあたしを殺そうとしている?
無敵と思いこんでいるがゆえの思い上がりだった。
ナッチにとっては、この世に存在しているものは二種類しかない。
ナッチに支配されるべき存在か、ナッチと同化すべき存在か。
つまりはナッチが殺すことができる存在か、あるいはナッチ自身か。
この世界には、その二つしか存在しない。
- 842 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:22
- そしてナッチの自我はさらに肥大していく。
マキには攻撃が通じないという現実を目の前にしてなお、
ナッチはエゴイストであることを止めない。
究極のエゴイストの思考は、常人には理解不能なものだった。
このゴトウマキという女は、ナッチという広大な大地の一部ではないのか。
あたしイコール無敵。ゆえに無敵の存在イコールあたし。
マキとあたしは、地続きの存在であるに違いない―――
ナッチの中ではそんな子供じみた単純な等式すら成立していた。
だがその等式が真であると証明できる理論はどこにも存在しない。
そしてナッチ自身の感覚ですら―――その理論を裏切ろうとしていた。
マキのナイフが―――ナッチの喉に突き刺さる。
その時感じた痛み。その時溢れた血。それらによって簡単に証明できることがあった。
ゴトウマキという女は、ナッチではない。ナッチの一部ではない。触れてわかった。
猛るような感覚の高ぶりがあった。さきほどまでの等式が砕け散る。内なる声が叫ぶ。
非自己! 非自己! 非自己! 非自己!
ならば―――殺せ。
己ならぬものは全て殺戮せよ。
もっと強い自我を! エゴが通らぬなら、より強大なエゴを!
眠たい目をこすりながら、ナッチの内部の巨大な自我がうっそりと目覚める。
- 843 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:22
- マキのナイフがナッチの喉を刺し貫くと、周囲の粒子が激しく変化し始めた。
膨大な数の粒子が、マキのナイフというたった一つの起点を軸に、
夥しいまでの数の因果律を、同時進行で機動させていく。
因果は巡る。
原因が結果となり、その結果が原因となってまた結果が生じる。
その結果が別の結果と混じり合い、複数の原因を同時発生させる。
複数の原因がこれまた複数の別の原因とからみあい、たった一つの結果を生み出す。
マキが原因か。ナッチが結果か。はたまたその逆か。
銀のナイフがナッチをゼロに導く。ゼロがナッチにマキをもたらす。はたまた逆か。
ナッチの赤い粒子がマキの黒い粒子を導く。マキの黒い粒子がナッチの赤い粒子を導く。
はたまた―――その逆か。
親が交わり子が生まれる。子が交わり孫が生まれる。
それはまさに、この星の歴史の縮図に他ならなかった。
一点のビックバンから拡散していった無数の粒子の、
物理学的法則に則った行動の帰結。その帰結の先に「今」がある。
ゼロでも無限でもない―――「今」という一瞬がそこにあった。
- 844 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:23
- つまり、ナッチとマキの接点こそが、
この星を生きる全ての人々の関係性の縮図に他ならない。
いや。縮図どころではなかった。
ナッチは既に、この地球と一対一で対応できるほど、巨大な存在となっていた。
さらにマキは、地球上の全分子と対応できるほどの、無限の存在となっていた。
ナッチの中で生命が芽生える。人類が進化する。文明が開化する。
そして極限まで発展した文明は―――サディ・ストナッチに至る。
そうやって生み出された無数の分子の集合体、つまりは
人類の進化の到達点の一つが、ゴトウマキという一つの自我だった。
まるで、マキのナイフが巡り巡って、アベナツミという人間を生み出したかのようだった。
生み出し、そして、究極のモーニング娘。の適格者たる人格を形成させる。
そこにいるのはナッチでありマキでもあった。
ナッチの歴史はマキによって生まれ、そして再びマキを経て、
ナッチ自身によって完結したかのように見えた。
全ての因果律が一点に収斂し、ナッチという存在に至る。
歴史の流れが「今」という一点で一致した。
消滅していたナッチの細胞が再生する。
マキの銀のナイフが、ナッチによって弾き返される。
- 845 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:23
- マキはナッチから大きく距離を取った。
ナッチの横で赤い波がむくりと頭をもたげた。
もはやマキとナッチの周囲では右も左もなかった。上も下もなく、前も後ろもなかった。
二人の周囲の空間では、「横」という位置関係すら怪しかったが、
その波がナッチのすぐ傍らにあったことは間違いない。
ナッチは歴史。ナッチは地球。ナッチは原始。
ナッチには海があり、風があり、そして波があった。
マキの感覚受容体には、その波が無数の方程式の連鎖として認識された。
外部からの力、すなわちナッチの意志を受けて、流体である水が力学的に作用する。
一つの分子が動けば、その影響を受けて隣の分子も動き出す。
まさに無数の分子の連鎖だった。
ナッチの意志という一点を起点として、星の数ほどの方程式が動き出す。
だがそれらは一つとして物理学的法則から外れた動きは示さない。
それこそがナッチが意図する「支配」という概念だった。
ナッチの概念は、波という具象を伴ってマキを飲み込もうとする。
赤い波が盛り上がる。高く。高く。富士をも超えて高く。
- 846 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:23
- マキはナッチが作り上げた赤い波に、全身で抗った。
避けようなどとは思わない。
これはあたしだ。ナッチはあたしの一部だ。
マキもまた、ナッチと同じように本能でそれを理解していた。
自分自身からは逃げられないように、ナッチから逃げることはできない。
できることはといえば―――真正面から斬り伏せることくらいだ。
マキにはその覚悟、自分自身をも斬り伏せる覚悟があった。
波を構成する無数の方程式。マキはその鎖の一端にナイフを挿入する。
斬れぬものなどない。断てぬものなどない。
この世には、変化を拒めるものなどは存在しない。
この絶対的な真理に例外はない。
ナッチが作った波もまた、無数の変数を含んでいた。
マキはその変数に、波を消し去るために必要なたった一つの解を代入する。
問題を解くことは難しくなかった。答えは全て自分の心の中にある。
武術の演武のようにマキはたおやかに舞い、襲いかかってきた波を次々と打ち消していった。
マキとナッチの距離が詰まる。
- 847 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:23
- ほう。
ナッチの口から漏れたのは、屈辱でも恐怖でもなく、感嘆の声だった。
鮮やかだ。神がかり的に美しいと言ってもいいかもしれない。
マキはナッチの持つ水の力を鮮やかに解きほぐしてみせた。
ならば次は炎の力か。朱雀の羽の舞を披露してみせようか。
いや、それもきっとマキの前には何の驚異とも映らないだろう。
きっとニイガキのように―――全てをゼロに帰されることは目に見えている。
全てを斬り捨ててゼロに帰す。
マキのやることは容易に予測がつく。彼女の攻撃はワンパターンだ。
感嘆には値しても、尊敬には値しない。
曲芸のような技術がもたらすのは一時的な享楽にすぎない。
それで腹が膨れるわけではないのだ。甘い。青い。浅い。わかっていない。
そんなにゼロが好きか?
崩れ去る波濤に共鳴するように、ナッチは吠える。
ナッチは噛みつく。ナッチは猛る。ナッチは罵る。ナッチは高ぶる。
マキという女の戦い方が、何から何まで気に入らなかった。
彼女の考えが、サディ・ストナッチという怪物の存在を否定するものだったからだ。
自然界の摂理に―――反するものだったからだ。
正統に対する異端。王道に反する邪道。それがマキという女が選んだ生き方だ。
認めない。世界の王たるあたしは、そんなものは絶対に認めない。
- 848 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:23
- 拡散していた真紅の粒子が光速で点滅を始める。
一点に凝集していたマキという漆黒の粒子を、包むでもなく弾くでもなく―――
億万を超える数の赤い粒子が、ただひたすらに点滅を繰り返す。
赤い粒子が赤い糸でつながる。関係性の糸でつながる。
まるで蜘蛛の巣のように張り巡らせた糸がマキの退路を断っていた。
マキに動く隙は与えない。ここからは絶対に逃がさない。
マツウラと戦ったときのような軽率なミスは犯さない。
億万の糸の億万の結び目がマキの姿を凝視していた。
点滅する赤い粒子。赤い結び目は赤い瞳。その瞳こそがナッチの瞳。
マキの存在をじっと見つめ続ける―――真っ赤な自我の結び目。
ナッチの瞳が―――舐めるようにマキの姿を見つめる。
赤い粒子は光速で瞬きを繰り返す。限りなく続く無数の点滅。
だがゼロの反対は無数ではない。無限ではない。数などどうでもいい。
ゼロの反対はイチ。ただそこに「存在する」ということ。
ナッチの瞳は瞬きを繰り返す。イチとゼロを繰り返す億万の点滅。
そして全ての点滅が「イチ」を示して停止する。
億万の瞳が―――爛々と見開かれたままマキの姿を見つめる。
- 849 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:23
- ナッチの瞳は―――瞬きを止めてじっとマキの姿を見つめる。
360°前後左右上下。全ての方向からナッチは見つめている。
まるでマキの体の全ての細胞を見透かすかのように、凝視して止まない。
無数の「イチ」がマキの体を捕らえて離さない。
ナッチはそのイチの視線でもってマキの体を激しく干渉した。
勿論マキは、ナッチの行動の意図することを正確に理解していた。
彼女の瞳が閉じ続けることはないのだろう。彼女はゼロを憎む。
今ならばナッチの考えていることは―――全て理解できるような気がした。
そしてナッチの思いに応えるならば、マキが選ぶ言葉もまた一つしかない。
そんなにゼロが嫌いか?
ナッチの瞳は問う。
ゼロを愛すことは、否定を愛すること、死の運命を受け入れること。
それは破滅を愛することではないのかと。
自然の摂理に反する行為ではないのかと。
成長する義務を放棄し、生きる意味を否定する行為ではないのかと。
だがマキは答える。
今なら自信を持って答えることができるだろう。
それは決して―――自然の摂理に反することはないと。
- 850 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:23
- この世に存在するものは全て、誕生と消滅を繰り返して生きている。
ゼロを拒むことは、そういった摂理を拒むことを意味するのだ。
ゼロを受け入れることこそが、この世に生を受けた者の運命ではないのだろうか。
確かにゼロは消滅を意味する。そして消滅はある種の恐怖を伴う。
自分の自我が消えてしまうことは、怖いし、少し悲しい。
だからといって、怖いからといってそれを否定するなんて―――
そのとき、マキは気付いた。
そっか。
あんたは怖いのか。悲しいのか。何かを失うのが怖いんだね。悲しいんだね。
だからそんなにも貪欲に他者に干渉しようとするんだ。
臆病だよね。あんたはゼロを恐れている。
嫌っているんじゃないんだ。ただ恐れているだけなんだ。
バカだねあんたは。太陽だってね。永遠に生き続けることはないんだよ。
マキは、背中から何か重いものがすとんと落ちたような気がした。
体が軽い。今ならば飛べるかもしれない。
ナッチの指し示した問いに、答えることができるかもしれない。
あの網を突き破ることができるかもしれない。
ならば―――飛ぼう。
- 851 名前:【終息】 投稿日:2010/02/08(月) 23:24
- マキは飛翔する。
無数に存在する赤い瞳の一つに、マキは銀のナイフを刺し入れた。
血を噴き出して潰れたナッチの瞳は、固く閉じて一つのゼロに帰る。
マキの感覚受容体が再び感度を上げる。
赤い粒子の間を行き交う空気の質が、ほんの少しだけ変化を見せていた。
それは怯えだ。ナッチが本能的に持つ、ゼロに対する恐怖だ。
マキの受容体は、DNAの変異を受けて、さらなる進化を遂げていた。
ただ空気の流れを読むだけではなく、自分から能動的に空気を変えていく。
粒子の運動を増幅し、波立たせ、新たな空気の流れを作り出していく。
ナッチが漏らしたほんの微かな恐怖心を、マキはナイフで拾い上げた。
赤い瞳は全て一本の糸でつながれている。
赤い粒子は決して一粒では存在することはできないのだ。
それは―――全てに干渉するというナッチの生き方に沿う形態だった。
マキはそこにつけこむ。
関係性の鎖を伝って、ナッチの恐怖心を隣の細胞に感染させていく。
まるで億万の升目の中で繰り広げられる、イチとゼロのオセロゲームだった。
マキの置いたたった一つの黒が、ナッチの中にあった黒い恐怖心とつながる。
間に挟まっていたナッチの白い自我は、瞬く間に黒く塗りつぶされていった。
白が黒に反転する。反転の連鎖が黒い波を呼び起こす。
ナッチの精神は、恐怖の黒波に飲み込まれていく。
銀のナイフを待つまでもなく、関係性の糸はズタズタに切り裂かれていった。
ナッチが―――赤い悲鳴を上げる。
- 852 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/08(月) 23:24
- ★
- 853 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/08(月) 23:24
- ★
- 854 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/08(月) 23:24
- ★
- 855 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:08
- イチがゼロになっていく。有が無になっていく。
ナッチの無数の瞳は次々とドミノ倒しのように潰されていった。
混乱そして恐怖。ナッチの自我が悲鳴を上げる。
目は見えず、声も聞こえない。隣の粒子と手をつなぐことすらままならない。
ナッチの中の感覚が、次々とデリートされてゼロに帰していった。
だが。
それでもなお、サディ・ストナッチは絶対だった。
揺るぎない究極のエゴイストであることを譲らなかった。
アベナツミが誰かに何かを譲るなどということはあり得ない。
最初から最後まで、アベナツミは誇り高きサディ・ストナッチだった。
王者の遺伝子は譲らない。
太陽となるべき人間に、ゼロとなることなど許されはしない。
それを回避できる精神の持ち主にのみ、適格者の栄誉が与えられるのだ。
ナッチとて例外ではない。彼女は生まれながらの適格者。
究極のモーニング娘。たりえる、極大の自我をもった存在だった。
ナッチは恐怖など受け入れない。恐怖を感じても、それを認めることはない。
体の中にゼロを受け入れ同居させながらも、それを完全に否定する。
それは明らかに矛盾した思考だった。
嘘を嘘で塗り固めた、つぎはぎだらけの張りぼての理論だった。
だがナッチの精神は―――嘘を許容する。矛盾をも飲み込む。
- 856 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:08
- 嘘でなにが悪いのさ? 矛盾してるからってそれがなにさ?
ナッチは笑顔を取り戻す。
恐怖は消えない。だがナッチは開き直った。
開き直ると同時に、嘘のように恐怖心が拭き取られていくのだと感じた。
自分に嘘をついている自分が、たまらなく可愛らしかった。
そんな自分が、たまらなく好きだった。
自己愛。新たな燃料を得て、再びナッチはそのエゴを増大させていく。
赤い粒子が動いた。もはや整然とした動きは失われた。
地表に引きずり出されたミミズのように見苦しくものたうちまわる。
いいさ。マキよ。見たいというのなら見せてやる。
あたしの心の一番奥にあるものを。一番汚い部分を。最も醜い部分を。
ナッチは新たな数式を編み出し、再び関係性の糸を結び合わせる。
もはやその方程式は誰にも解きほぐすことは不可能だった。
なぜならそれは―――大いなる矛盾をはらんだ偽りの数式だったから。
矛盾を受け入れる精神。それは狂気だった。
一匹の赤いミミズは矛盾という羽を得て厳かに羽ばたく。
赤いミミズは―――狂った野獣のようにとめどなく吠えたてた。
拡散していた赤い霧が、渦を巻きながら一つに重なる。
その中心点に真っ赤な少女が姿を現した。
赤いミミズで織り込まれた生臭い衣。まとったその衣には矛盾に満ちた数式。
かざした剣には真っ赤な嘘で塗り固めた偽りの方程式。
狂者のみが扱うことを許された、狂気の世界の論理がそこにはあった。
- 857 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:08
- ナッチの口許から赤い吐息が漏れる。
涎が口端を伝い、粘り気のある糸を引きながら、足元へと垂れていく。
重なりたい。一つになりたい。
狂気に支配されたナッチにとって、もはやゼロとは忌むべき存在ではなかった。
目の前にいるこの黒い少女がゼロを孕むというのなら、それでいい。
飲み込み、重なることでそれを受け入れよう。望んでゼロに刻まれよう。
ナッチという整数をゼロで割る。得られる解が新しいナッチだ。
狂気と不可解と無限大を孕んだ矛盾の天使だ。
嘘の剣が唸りを上げてマキに襲いかかる。
あまりにも無造作で隙だらけな、乱暴極まりない一撃だった。
マキは銀のナイフで受け止める。だが嘘の力を相殺することはできなかった。
乱暴で大雑把な一撃。だがそれは嘘。
緻密に計算された刃の角度は、マキの下半身を地面に縫いつけるためのものだった。
全ての力を両足で受け止め、マキの足が地にめり込む。マキの動きが止まる。
右手に握られていた剣。それも嘘。今はそれが左の手に。
左手の剣が空気を舐めながら走る。マキの胴を右側から薙ぐ偽りの一撃。
逃れられないマキは、刃を肋骨で受け止める。
刃の力を肋骨の堅さで相殺し、生まれるダメージをゼロに帰そうとするマキ。
だが嘘の剣が持っていたはずのエネルギー。
速度。質量。角度。硬度。軌道。熱量。磁気。それらは全て嘘だった。
億万の感覚受容体での計算から導かれたマキの解は、音を立てて崩れた。
赤い剣がマキの肺を横断する。
- 858 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:08
- 肺を切断されたマキは一瞬呼吸が止まった。目の前が暗くなる。
すっぱりと穴が開いた肺から空気が漏れる。体の機能の一部が停止する。
歯を食いしばりながら、マキはサディ・ストナッチを召喚して黒い霧と化す。
ゼロがイチに帰る。マキの体からゼロが消えていく。
体に受けた致命的なダメージを消失させるために、
マキはゼロの亜空間から一時撤退せざるを得なかった。
体の傷以上に、マキの精神は大きなダメージを受けていた。
狂うはずのない計算が狂った。正しいはずの解が意味を持たなかった。
血を吐きながらもマキはなんとかその理由を理解しようと試みる。
結果には必ず理由がある。問いには必ず答えがある。
それが正気の世界に生きるマキの、常識的な判断だった。
胴にめり込んでいた剣は、既にそこにはない。
上段に構えたナッチの両手から、マキの脳天に振り下ろされようとしていた。
受け止めるべきではない。マキはナッチの刃をゼロに帰すことを諦めた。
間違った方法論に固執すべきではない。マキの無数の頭脳はそう判断した。
肌に点在する感覚受容体。これがマキの頭脳であり、戦いの拠り所だった。
相手が天使だろうが狂者だろうが、マキはこれを頼りに戦うより他にない。
振り下ろされる剣の速度と角度から軌道を計算し、
それを数ミリの幅で回避しながら、ナッチの懐へと最短距離で移動する。
だが―――その計算はまたも狂わされていた。
- 859 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:09
- こめかみに衝撃。マキの耳が皮膚ごとばっさりと斬りおとされる。
剣が肩にめり込む。押し返そうとしたときには、既に剣はそこにはない。
そしてマキのナイフはナッチには届かない。あり得ない事態だった。
嘘。またしても嘘の一撃と偽りの間合い。マキは我が目を疑う。
重力に逆らい、水が低きから高きに流れた。少なくともマキにはそう思えた。
計算による予測を失ったマキは、まるで赤子だった。
歩く術すら失ったマキは、よろめき倒れ、尻もちをついた。
それでもナイフは手放さない。
いくら精神的に押されようとも、マキは最後の一線で踏みとどまる。
ナッチが開き直ったように、マキもまた弱い自分を受け入れ、開き直った。
赤子というならそれでもいい。赤子には―――赤子の戦い方というものがある。
マキは数式計算に回していた受容体を、全て神経伝達経路の方に回した。
シフトチェンジを受けて、全身の神経回路が逆回転で加速を始める。
個々にバラバラで計算していた細胞が、神経電流でつながる。
全ての神経細胞が、一つの回路に統一された効果は大きかった。
回り回った神経電流は、全てマキの手にある銀のナイフに集積された。
守れないなら攻めろ。肉を斬らせて骨を立て。
マキの殺意が宿ったナイフの光は、もはや月のような慎ましい銀ではない。
それは太陽のように輝く黄金の光を放ちながら、剣のように長く伸び上がった。
- 860 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:09
- マキは黄金の剣を―――しゃにむに振り回した。
泣き叫ぶ赤子のように、聞き分けのない子供のように、乱暴に振り回した。
乱暴ではあったが、無目的ではなかった。
黄金の剣は、マキの周囲の空間を隙間なく埋め潰していった。
嘘も真も全て斬る。全ての時間と空間をこの剣で切り刻んでみせる。
そこに存在しているものはなんであれ、黄金色の軌道から逃れることはできない。
ナッチといえども―――例外ではなかった。
黄金の刃がついにナッチの体を捕らえる。
極限まで増幅されたマキの神経電流が、刃から稲妻のように放出された。
触れたもの全てを、全ての関係性の糸を焼き尽くす。
だがしかし。ナッチを包む赤い衣は―――矛盾の衣。
黄金の剣によって胴体を完全に裁断されながらも、ナッチは無傷だった。
もちろんそれは矛盾した観測。だがそれは矛盾した事実。
ナッチは矛盾を晴らすこともまく、誤魔化すこともなく、さらっと流す。
そして涼しい顔で再びマキに問い掛けるのだった。
さあ、ゴトウ。あんたはどうする?
確かにあんたは、あたしの関係性の糸を全て断つことができた。
おめでとう。パチパチパチ。
だけどあんたに―――あたしの矛盾の糸までが断ち斬れるかな?
- 861 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:09
- 「斬れる」
即答したマキの言葉に、ナッチはやや戸惑った。
どうやら赤の粒子と黒の粒子が親和性を高め、一部は融合しているようだった。
正反対の特質を持った二つの粒子が融合するなど、あり得ないことだ。
だがこれも―――矛盾した一つの事実ということなのだろう。
ナッチはその矛盾を事実として受け入れた。
なぜなら、ナッチもまたマキの考えていることが手に取るようにわかったから。
きっとマキも同じように、ナッチの考えが透けて見えているのだろう。
今やナッチはマキの一部であり、マキはナッチの一部だった。
驚くべき速さで―――というよりは同時。
ほとんどタイムラグなしに、今の二人は意志疎通することができた。
面白い。お互いの考えが相手に筒抜け。こういう戦いも悪くはない。
ここから先は言葉だけの神経戦など意味はない。駆け引きも通用しない。
純粋に―――力が強い方が勝つ。それ以外の結末はあり得ない。
そしてその強さにおいて、自分がマキ以下であるとは考えられなかった。
「いや、あんたには無理。絶対斬れない」
「斬れる」
「ふふふふふふ・・・・・・・」
- 862 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:09
- ナッチは議論を続けることなく、ただ笑みを返すだけだった。
議論をしないのは、こちらの考えがマキに全て読まれているからではない。
もう既に結論が出ているからだ。
結論がわかっている議論を続けることに意味はない。
誰かの意見を聞き入れて、こちらの結論が変わることなどないのだ。
そしてマキもまた、こちらの言葉を聞き入れることはないだろう。
マキには無理だ。彼女にはナッチのように矛盾を抱えることなどできはしない。
彼女の精神は―――あまりにも未熟すぎる。
筋を通す。理を重んじる。
そんな人間に、この世界を支配することなどできない。
この人間世界は、物理学的な法則だけで動いているのではない。
それを動かしているのは、どうしようもない屑のような人間の感情なのだ。
この嘘と矛盾に満ちた人間の感情で彩られた世界を統べることができるのは、
圧倒的な自我、徹底的な自己肯定、絶対的な自己愛、
そして全世界への貪欲な干渉と介入。そういったエゴの力のみだ。
そういった資質を持つ究極のエゴイストにのみ可能なのだ。
自由とゼロを欲するマキに―――そんなことができるわけがない。
- 863 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:09
- 「斬ってみせる」
マキは勿論、そんなナッチの考えを全て理解していた。
自分の心と同じように、ナッチの心を見通すことができた。
なるほど自分には―――そんなことはできないのかもしれない。
世界を支配できるほど、サディストでもエゴイストではないのかもしれない。
それでもマキはナイフを手放さない。ナッチへの殺意を失わない。
マキの体をとりまく黒い粒子は、既に三分の一ほどがナッチと融合していた。
足元から泥沼に溶け込んでいくような感覚が頭を支配していた。
今はもう腰のあたりまで浸かっているのだろうか。
だがそれは―――なぜか悪い感覚ではなかった。
そしてナッチもまた、自分の細胞の三分の一ほどがマキと融合していることに気付いた。
悪くない。このままいけば数分でマキを飲み込むことができるだろう。
融合などという生易しいものではない。こちらがあちらを吸収するのだ。
勝つのは自分だ。
ナッチは確信する。
支配を欲する自分が、自由を欲するマキに負けることは考えられない。
二人の自我が一つになったとき、生き残るのは自分だという確信があった。
だからこそ―――マキが今の状況をどう考えているのか興味があった。
マキの心の一番深い場所にあるものに触れてみたかった。
見せてみなよ。あんたの心の一番深い場所にあるものを。
一番醜いものを。
- 864 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:10
- ナッチは言葉を放つ。マキに変化を強いる言葉ではない。
彼女の無意識下にあるものを引っ張っり出そうとするような言葉を選んだ。
マキの心の中にあるもやもやとしたイメージを、
より具現化させるような言葉を選ぶ。
あんたの心の中に巣食っているミミズを―――今度はあたしが引きずり出してやるよ。
「斬れるっていうけどさ。あんたの根拠はなに? いや、根拠があっても意味ないよ。
どんな根拠があろうが、どんな理屈や理論があろうが、あたしの矛盾は斬れない。
この世には矛盾を解析できる理屈なんてないからね。定義からして無理なんだよ。
だって『矛盾』っていう言葉は、理屈にあてはまらないことを言うんだからさ」
「理屈じゃない」
「理屈じゃないならなんなのさ? 矛盾には矛盾ってか?」
「違う。矛盾じゃない。そんないい加減なものじゃない」
「じゃあなんなのさ! 説明できないっていうなら、そんなものはないんだよ」
「ある。あたしには、矛盾を断ち斬れる、この世でたった一つの言葉がある」
「はあ? 言葉? なんだそりゃ」
マキにもわかっていた。最初からわかっていた。この戦いは理屈ではない。
マキとナッチ。どちらが正しいかなんて、何の意味もないことなのだ。
自分の心を突き動かすものに―――理屈を当てはめる必要などないのだ。
マキの心には黒いミミズなど巣食ってはいない。そこにあるのは言葉。ただ言葉。
矛盾を断ち斬る意志。それが何であるのか。マキは知っている。
心の一番深いところから立ち上ってくる言葉。
マキは自分に言い聞かせるようにして、もう一度その言葉を口にした。
「だから意地だよ、意地」
- 865 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:10
- ☆
- 866 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:10
- サユの両腕が白く光り輝き始めたとき、エリはそれがブラフではないかと思った。
ここは月の光の届かない地底。サユが守護獣を召喚する術はない。ないはずだった。
それでもサユは詠唱する。その言葉を聞いて―――エリは耳を疑った。
「白き月よ・・・そして我が生命に宿る月の僕よ・・・・」
サユは瞳を開いて、両手を胸の前で組み合わせた。
通常の、守護獣を召喚する時の動作ではなかった。
だがエリは一度だけこの動作を見たことがあった。
たった一度。四家の前任者から―――守護獣を譲り受けたときに。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉を、サユは一息で一気に唱えた。
両腕をクロスさせた手首の接点が、強烈な白い光を放つ。
「無限の闇の向こうから来たれ。契約に従い務めを果たせ我が守護神よ。
今こそ、白き西方の門を開き、その鍵をわが手にささげよ!」
白き光がサユの体を包み込む。白虎の姿がサユの頭上にゆっくりと浮き上がる。
これこそ四家の者に伝えられた、守護獣禅譲の儀式だった。
これを行うということは、守護獣を次代の者に託すということを意味し、
そして―――それまで守護獣を扱っていた前任者が命を捨てることを意味した。
- 867 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:10
- サユは命を捨てたのか。その行為自体に驚きはない。
サユであれば使命のために喜んで己の命を捨てることができるだろう。
それにこのまま守護獣なしで戦っていても、絶対にサユに勝ち目はないのだ。
だから命を捨てて守護獣を呼ぶ選択をした。それはわかる。
確かにこの方法であれば、月の光がなくとも白虎を呼び寄せることができる。
だがそれはあくまでも一時的なものでしかないのだ。
守護獣を呼ぶ。それはいい。
だがそこからどうやって守護獣を扱おうというのだ?
守護獣はあくまでも契約に則ってしか動くことはない神獣なのだ。
いくらECO moniの長とはいえ、契約に背くことなどできるはずがない。
このままでは―――白虎の魂が宙に浮いてしまう。
呆然と見つめるエリの前で、真っ白な光に満ちたサユは、軽々と跳躍した。
その手には白く輝く鍵のようなものが握られている。
その鍵を受け取る者に―――次代の四家の未来が託されるはずだった。
それをこんな場所で発動させるなんて。バカな。血迷ったのか。
そんな無謀で無意味な行動は、エリにはとても正気の沙汰とは思えなかった。
だがサユにはルールを破ることに対する抵抗感などない。
ルールが大事なのではない。なんのためにルールが存在するかが重要なのだ。
太陽を守るため。SSを封印するため。そのためにルールは存在する。
ならば太陽を守り、SSを封印するためになら―――ルールを破ることは許される。
- 868 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:10
- 今はまさに太陽を守るべきとき。
命を捨ててでもSSの復活を阻止するとき―――いかなる手段を用いてでも。
そのためになら、サユは四家の血筋を絶ち、
守護獣の伝承を消失させることも厭わなかった。
歴史がなんだ。伝統がなんだ。血筋がなんだ。
そんなものは太陽を守護する使命から生まれた副産物でしかない。
何が一番大切なものなのか。サユがその判断を誤ることはない。
だからサユは、ルールどころか自分の命を捨てることすら躊躇わなかった。
エリはまだ理解していないようだ。この守護獣の新たな主人が誰なのかを。
サユは白い鍵を手にしながら着地する。
着地した両足の間には、一匹の小さな白い犬がいた。
白い鍵には並外れた生命力が満ちていた。サユの生命力はそこに吸い取られていく。
もう立っているのも辛いくらいだった。後戻りはできない。するつもりもない。
「いいね、レイナ。あんたの命、あたしが使うから」
嫌も応もない。
怖がるレイナを両足で挟んで抑えつけ、サユは白い鍵をレイナの首に差し込む。
真昼のように洞窟を照らし出す白い光。レイナの体が白い輝きを放つ。
レイナの白い毛が逆立つ。筋肉が裂け、骨が軋みをあげる。
小柄な骨格が―――音を立てて崩れていく。
それをじっとサユは見つめている。
だがそうやってレイナの姿を見つめられていたのは、ほんの僅かな時間だけだった。
サユの肉体は白い鍵もろとも強烈な白い炎に包まれ―――この世から消失した。
- 869 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:11
- サユを消し去った白い炎が、次はレイナの体を包む。
白き光がレイナの体を包み込み、体の輪郭をゆっくりと溶かす。
次の瞬間、レイナの肉体は犬としての輪郭を消し、異形のものと化していた。
ド ル ル ゥ ゥ ゥ ゥ ゥ
守護獣の遺伝子がレイナに乗り移る。
レイナに流れるゼロの血。7番のウイルスの遺伝子。
そして同じくレイナに流れるNothingの血。Nothingの遺伝子。
施設で大量に撒き散らされたウイルスの洗礼を浴びながらも、
キャリアとはならず、ウイルスの力を逃れる抵抗力を持ったNothingの血。
守護獣と共に白い魂と化してレイナの体に乗り込んだサユは、
その二つの遺伝情報を秘めた二重螺旋を、見事に解きほぐした。
7番のウイルス遺伝子で、守護獣のリミッターを外す。
本来であれば、月の光の作用で動くリミットは、サユによって簡単に外された。
暴走しようとする守護獣の血は、Nothingの遺伝子で制御した。
SSの遺伝子を跳ね返す力がある、Nothingの遺伝子だからこそ可能な制御だった。
一か八か。
正式な儀式に則らずに、しかも犬に守護獣を託そうという、
前代未聞のサユの賭けは成功した。
白虎が―――最強の守護獣がレイナの体を借りて立ちあがる。
- 870 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:11
- ボ ウ ウ ウ ウ ゥ ゥ ゥ
レイナは巨大化する。
後ろ足で立ち上がれば、身の丈は軽く十メートルは超えた。
その巨大さは非動物的だった。非生物的だった。
もはや大きさで玄武に後れをとることはない。ほぼ互角の大きさだった。
白虎は自分の体の動きを確かめるように、その巨大な体躯をしならせる。
筋肉の動きは極めて流麗だった。
巨大な筋肉の流れに従って、白いオーラが立ち上る。
まさにそれは守護獣。
SSを守護したる者。異形の遺伝子を持つ最強の神獣。
体中に、太く分厚い重層的なエネルギーが満ち溢れ、
樹齢百年の大木を思わせる、威厳に満ちた存在感を放っていた。
DNAの合成と変異に従って、レイナの毛色にも変化が見られた。
発動したゼロの遺伝子が黒く染め、同じく発動したNothingの遺伝子が白でせめぎ合う。
結果としてレイナの体毛は白と黒が交差し―――
その二つの色が、小川のせせらぎのように波打った。
そこに立っていたのは、エリの目にも見覚えがある、完全無欠な白虎の姿だった。
- 871 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:11
- 「バカな!・・・・・こんなことが・・・・・・こんなことが・・・・・」
さっきまではちっぽけだった子犬が、驚くほど巨大化し、
白いエネルギーのオーラをまとってそこに立っていた。
その白い光が洞窟の中をも薄く照らし出している。
間違いない。その姿は間違いなく白虎そのものだった。
『エリ。やっぱりバカだったのはあんたの方ね』
「サユ! サユ! あんたどこにいるのよ!?」
『ここよ。あたしはレイナの中にいる』
「レイナ?・・・・・こいつの中に? バカな。犬の中に入るなんてそんなバカな!」
『バカはあんたよ。守護獣譲渡の仕組みを知っているなら、これが理解できるはず。
なぜあたしがこの子犬にこだわったのか。あんたにもそれがわかるはずよ』
エリは唇を噛んだ。
確かに命を投げ出せば、そこいらの一般人にも守護獣を譲渡できる。
だが普通の人間に守護獣を操ることなど無理だ。特殊な訓練が必要なのだ。
だからサユは、譲渡ではなく同化させることを選んだ。
そのために連れてきた犬だったのか。
この犬も何か特別な処置を施した犬に違いない。
だからこそ―――サユはあそこまでこの犬の命にこだわったのだ。
犬を触媒にして守護獣を具現化させる。
二つのDNAを強引に合成させて、犬と守護獣を同化させる。
乱暴だが無理な理屈ではない。四家の者の手があれば不可能ではないかもしれない。
もっともその決断には―――二度と人間には戻れなくなるという覚悟が必要だろうが。
- 872 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:11
- 「サユ・・・・・あんた人間に戻れなくてもいいの?」
『構わない』
サユの心にあったのは、後悔ではなく安堵だった。
かなり分の悪い賭けだったが、どうやら上手く融合できたようだ。
もはや白虎の力を縛り付けている物は何もない。
月の光の力を借りて外すはずのリミッターは既に強引に外してある。
今ならば、満月の光を受けた時と同じように、最大限の力が発揮できるはずだ。
これで―――条件は同じ。
守護獣と守護獣の戦い。玄武と白虎の戦い。
ならば自分がエリに負けることなどあり得ない。
二人の立場は完全に逆転したのだ。サユは勝利を確信した。
『エリに勝つためなら、あたしは体も命もいらない』
「うそよ! あんたにそんなことが・・・・・そんなことが」
『これがあたしの覚悟よ』
「なにが・・・なにが・・・・・」
嘘ではなかった。太陽を守るという己の哲学のためなら、自分を捨てても構わない。
それが生まれてからずっと貫き通してきた、サユの生き方だった。
いかなる結果になろうが、後悔をすることなどない。
ただ一つ―――この可愛らしい犬を巻き添えにしてしまったことが残念だったが。
- 873 名前:【終息】 投稿日:2010/02/11(木) 23:11
- だがレイナの心にあったのは、サユと一つになったという驚きと、そして喜びだった。
レイナにはサユの哲学は理解できない。難しいことはわからない。
だけど、サユと一つになれたということが、ただただ嬉しかった。
それがとても温かい行為のように感じられた。
嬉しくて嬉しくて、体中の血が沸き立つような感覚がした。
レイナの思いは嘘ではない。
それはサユにも完全に伝わっていた。
一つになったレイナとサユの心。それを隔てるものは何もない。
二人の体は一つ。そして心も一つ。
レイナの心はサユとつながり、サユの心はレイナとつながる。
レイナの思いはサユの思い。サユの思いはレイナの思い。
もう二人には会話などいらない。
だがサユはあえて心の中で、その言葉を口にした。
それが―――命と体を分けてもらった、一匹の子犬に対する礼儀のように感じたから。
「いくよ、レイナ!」
白き虎は、サユのその声に応える。全身全霊で応える。
その巨体の内側でレイナもまた吠えた。
吠える必要などなかったが、それが―――主人に対する忠儀であるように感じたから。
ゆえにレイナは、獰猛な身なりには似合わぬ可愛い声色で、一声鋭く吠えたてる。
「おん!」
- 874 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/11(木) 23:12
- ★
- 875 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/11(木) 23:12
- ★
- 876 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/11(木) 23:12
- ★
- 877 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:19
- 富士の地底を薄く照らす微かな光。
光は闘気。白虎の針金のような体毛から放たれる白銀の闘気。
サユの心がレイナの体を操る。
サユの頭脳がレイナの筋肉を司る。
サユの思想がレイナの心を燃やす。
筋肉細胞が糖分を燃焼させ、発生させたエネルギーが回転する。
回る。回る。回る。
命あるものは全て回る。エネルギーを秘めたものは全て回る。
歴史の輪廻の中で回る。生命の連鎖の中で回る。天体の運行の中で回る。
そして跳ねる。
燃える。
- 878 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:19
- 白き炎が洞窟を舞う。巨大。あまりにも巨大。
もはやそれは蝋燭の炎ではなく、地下世界に君臨する小さな太陽なのか。
認めない。この空に太陽は一つ。
エリは白虎のリズミカルな跳躍を全否定する。
ここは地底。玄武の庭。我が掌の上。
暗黒が支配する玄武の帝国に太陽などいらぬ。存在など許可しない。
伸びる。
腕が、首が、背が、牙が、爪が、影が、ぬるりぬるりと伸びる。
闇の中では全てが伸びる。お前の心に向かって伸びる。
教えよう。
ここは闇。
- 879 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:19
- 玄武の両肩から伸びてくる二匹の大蛇。
首にからみつく破格の質量と速度。
レイナは怯まない。臆さない。
時間という概念が消える。戦いの中には過去も未来も存在しない。
輝ける 今 それが すべて
猛り狂う本能に、不純物が入り込む余地はない。
目の前にいる巨大な何かがこの身を吸いこもうとしている。
魅かれる。
導かれる。
ならば呼べ。
我が名はレイナ。
- 880 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:20
- 白き虎の体躯に巻き付く二匹の大蛇。
舌が届く距離で向き合う、土の覇者玄武と月の女神白虎。
互角の重さで衝突した力が、逃げ場を求めてじりじりと二人を回す。
動きを封じた者と封じられた者が織りなす死のチークダンス。
猛るレイナの中で氷のような目を保つサユ。
氷のような殺意。唇に秘めた淡い毒。燃える白銀の体毛。
この場はもはや、玄武が支配する闇の地底空間にあらず。
白虎が照らし出す一面の月面世界。
見よ。そして知れ。
その命の終焉をもって思い知るがいい月の力を。白虎の真の力を。
大蛇の緊縛を悠々と引き千切りながら、白虎の爪が玄武の頭を吹き飛ばす。
- 881 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:20
- 強い。
腕は引き千切られ、頭は吹き飛ばされた。
甲羅の上からでもなお、内臓に深く浸食してくる白虎の濃厚な一撃。
まさに濃厚。そこに詰まっているのは力ではなく時間。
堆積した数千年の月日の重みだけが可能とする力学の理を超えた悪魔的な打撃。
バカな。
ここは地底。月の光など一片も届かない地底。
なぜ? なぜ? なぜ? どうして? どうして? どうしてあたしが?
困惑の音楽を奏でながら回転する疑問のメリーゴーランド。
そこには解答という名の乗客は一人も鎮座することはない。
白虎の牙が玄武の肩口に食らいつく。激痛。
- 882 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:20
- レイナは見ない。読まない。考えない。
爪を掻き立て、牙を突き立て、しゃにむに眼前の巨壁を切り崩す。
玄武は固い。速い。膂力も並ではない。
だがそんな原始的な情報すら解析して判断することを拒む軍用犬の戦闘頭脳。
レイナは知らない。知る必要がない。知ることを、満ち足りることを欲さない。
必要なのは生きること。すなわち相手を殺すこと。
だからレイナは知らない。見ない。読まない。考えない。求めない。
父親を殺したのが誰なのか。
母親を殺したのが誰なのか。
関係ない。
条件によって左右されるような脆弱な戦闘を拒絶する野生の闘争本能が玄武を貫く。
- 883 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:20
- 白虎の牙が玄武の甲羅を破断する。圧倒する力と技と意志。
早く、早く、早く殺せ。
早期決着を求めて水に溺れる子供のように両手を振り回す白き虎。
そこには気高き所作の欠片もない。
サユの心の中にある小さな砂時計。
異常な速度でエネルギーを燃焼させて回転を続ける白虎の筋肉細胞。
燃やし続けているのは月の光ではなく、己の命の輝き。
異常な速度で落ち続ける一握の砂。気取られてはならない。
エリに悟られてはならない。それよりも早く。それよりも早く。
もし、今でもあたしのことを愛してくれているのなら。
ねえ。エリ――――早く死んでよ。
- 884 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:20
- 勝てない。
ずっと勝てなかった。一度も勝ったことがなかった。
でもあたしは今まで、どれくらい本気でサユに勝ちたいと思っただろうか。
負けることを認めて傷つくことを恐れ、本気で戦っていなかったのではないか。
いつだって言い訳ばかりしてた。本気で向き合うことを避けていた。
それでも。
それでもあたしは―――サユに勝ちたい。
もう嫌。負けるのはもう嫌なのだよう。
土よ。岩よ。大地よ。暗黒の地底世界よ。もう少しだけあたしに力を貸して。
あとほんの数分でいい。
サユの中に見えている―――あの砂時計の砂が落ち切るまで。
- 885 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:20
- 羽を背負った天馬のごとく宙を駆るレイナ。
白き虎の躍動を遮るものは何もない。
玄武の爪も大蛇の牙も。そして闇も。鋼のような体毛で全て跳ね返す。
だが玄武の命の炎は消えない。
出来合いの結末を拒む巨大な亀の悲鳴が洞窟に響き渡る。
愉悦。
狩の勝者のみが感じ得る至福の時間。
油断ではない。
両腕を失い、頭を失い、大量の血を失った悪意の抜け殻。
絶対的な優位を動かすものはもうない。あとは止めを刺すだけ。
最後の跳躍を試みたレイナの背中に―――鉛のような重さが貼り付く。
- 886 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:20
- 白虎の体毛が放つ白銀の光が衰えを見せた。
動いて。
サユの願いも虚しく、白虎の足が止まる。
己の生命を触媒として構築した偽りの月面世界。
白銀のバーチャルワールドは砂時計の砂とともに完全に姿を消した。
暗転する地底世界。
暗闇が象徴するものは、圧倒的な恐怖か、はたまた抗いようのない絶望か。
サユは知っている。全ての理を知っている。己の資質を知っている。
ゆえにそれを無視できない。受け入れることしかできない。
理のその向こう側。サユの目には未来が見える。
理解。絶望。そして沈黙。
- 887 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:21
- 玄武の両肩から腕が生える。甲羅の隙間から頭が出てくる。
いつものような生々しい音はしなかった。
天使は足音を立てない。
悪魔に息吹などない。
ただ両者に共通してそこにあるのは―――笑顔。
エリは笑う。
殴られた。蹴られた。罵られた。蔑まされた。無視された。
いつだって逆境の中に生きてきた。
順境の中ですくすくと育ってきたサユとは鍛錬の月日の重さが違う。
「命を捨てる」―――の意味が違う。
命など元から計算に入れていないエリの思考は、天使的か、はたまた悪魔的か。
- 888 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:21
- 玄武の両腕はもはや蛇の形ではなかった。
風前の灯だったはずの玄武の生命力が、にわかに勢いを取り戻す。
スローモーションのようにレイナの頬に迫る玄武の握り拳。
動け。退け。回り込め。
神経回路の伝達を受けてもぴくりとも動かない、山脈のような白虎の筋肉。
散る火花。把握できない現状。走る痛み。蓄積する損傷。遅れる理解。
右に傾げば右から殴られ、左に傾けば左から殴られる。
ラリー中のテニスボールのようにエリに弄ばれるレイナの命。
エリという演奏者によって奏でられるレイナという名の打楽器。
音色は鈍くも美しい。
たった一人のオーケストラは、クライマックスに向かって激しく加速していく。
- 889 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:21
- ずっと一番だった。才能に、容姿に、頭脳に、環境に恵まれていた。
それが悪い?
全てに恵まれたサユが持っている唯一の劣等感。
優れているのは自分ではなく―――自分の入れ物ではないかという不安。
エリは違う。何にも恵まれていない。非才の塊。凡庸の化身。
ゆえにエリの得点はすべてエリ自身の得点。
それがなに? 天才なのが悪いっていうの?
不運の元に生まれればよかったの? 悲惨な環境に育てばよかったの?
そうすれば何をやっても「よくやった」と誉めてもらえたの?
たとえ失敗しても「君は悪くない」と慰めてもらえたの?
同情を買うことが―――そんなに偉いことなの?
- 890 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:22
- サユ。あなたにはわからない。
生まれつき特別な環境に育ったあなたには絶対に理解できない。
貧しさに生きること。泥を舐めながら生きること。
何をやっても絶対に上手くいかないという絶望的な環境があるということ。
あなたは本当の地獄など知りはしない。
あたしはそこで生きてきた。今もそこで生きている。
白虎? 月の力? すごいね。守護獣の中でも最強かもね。
でもあたしは負けない。もうあたしは敗北を受け入れることはしない。
地球は滅亡するべきだ? その運命を受け入れる? 寝言は寝てから言って。
あたしがあなたを眠らせてあげるから。
この闇の中でおやすみなさい、サユ。
- 891 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:22
- レイナは吠える。
ただの犬が一匹。そこには劣等感も対抗意識もない。過剰な自意識などない。
レイナのDNAが吠える。
100%の力で動けないのなら、99.99%の力で動け。
99.99%の力で動けないのなら、99.98%の力で動け。
レイナの二重螺旋に宿る黒い闘鬼のDNAが自己の肉体に非情の命を下す。
非情? 情けなどいらぬ。欲しいのは信頼と命令。
命令を父とし、信頼を母としてレイナの血肉は育てられてきた。
両親の意志のもと、レイナの内部で崩壊の音色を奏で始める筋肉の弦楽器。
強引な動きを受けて筋繊維がところかまわず伸長、収縮、そして断裂。
断末魔のような楽音が―――終曲に向かう打楽器の演奏に不協和音を混ぜる。
- 892 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:22
- 動いて。
たった一つのサユの命令に、レイナは命を投げうって応えた。
サユの心から溶けて消えゆく卑小な劣等感。
犬でいい。たった一匹の犬でいい。
この小さな一匹の犬が全てを捧げてくれるというのなら。
あたしも全てを捧げよう。未来も理解も絶望も沈黙も投げ捨てよう。
全身の筋繊維細胞の断裂でもって奏でる白き虎のたった一度の崩壊の旋律。
燃やせ。
一滴の体液も残さずにこの身を燃やせ。
噛め。
玄武の背後に広がる暗闇をもまとめて食らい―――飲み込め。
- 893 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:23
- エリの目にははっきりと見えた。
サユの心の中で砕け散る小さな砂時計。飛び散る真っ白な砂。
宙に散った砂が床に落ちて動きを止めるまでのほんの一瞬。
全てを受け切ればエリの勝利だ。
伸びろ。どこまでも伸びて行け。
暗闇に果てはない。広さという概念自体がない。
ゆえに伸びる。どこまでも伸びる。伸びて、囲んで、包みこめ。
この白き虎の存在を。背後に存在する月ごとまとめて包みこめ。
極限まで体細胞密度を薄めて長く伸ばす玄武の腕。首。牙。爪。そして自我。
すべてが暗闇に溶けた。
誰にも見えない。サユにも、エリにも、神にも―――見えなかった。
- 894 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:23
- もはや眼前の敵は亀の形などしてはいなかった。
首も、手足も、多方向に伸びて、薄く陽炎のようにゆらめいている。
まるで太陽のような丸い甲羅の端々から迸る、黒きプロミネンス。
回る。回る。回る。
機械のような完全無欠な円運動を前にして戸惑いを隠せないレイナ。
自然界の生物には、車軸のような完全な円運動を見せるものはほとんどいない。
だがレイナの本能は、黒きプロミネンスが命の燃焼であることを感じ取っていた。
同じ。
命を燃やし、内部から体を引き千切りながら最後のあがきを見せる白虎と同じ。
ならばこちらも回ろう。
右旋回を見せる真黒の回転に立ち向かう、左旋回の純白の回転。
- 895 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:23
- 跳躍した瞬間、両足の主要な筋肉が全て断裂した音が聞こえた。
回れ。
レイナの内なる衝動に歩みを合わせ、サユもまたそう命じる。
回れ。
白虎の体は、ライフルを切られた銃弾のような美しい螺旋を描きながら宙を舞う。
回れ。
サユの脳裏には過去の記憶が走馬灯のように駆け廻る。それもまた円運動。
回れ。
変異を重ねたウイルスのDNAが最後の変異を見せる。回る螺旋。重なる螺旋。
回れ。
白虎の体内エネルギーが最後の燃焼を見せる。輝く白銀の軌道がエリに向かう。
- 896 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:23
- 燃焼しながら飛来する白銀の銃弾。
エリにはそれを避ける術はない。
もはや目は見えず、耳は聞こえず、肌で感じることもできなかった。
エリは闇。エリは黒。すべてを飲み込み何一つ弾き返さぬ真の暗黒。
飲み込もう。それが玄武の力。
太陽の光を受けて輝きを放つのが白虎の力というのなら、玄武は全てを飲み込んでみせよう。
サユが太陽を神とあがめるのなら、エリは太陽を地に貶めてみせよう。
これが玄武の力。人間の力。生きとし生けるものが持つ―――究極の力。
玄武もまた回る。白虎とは逆側に回る。
地底が揺れる。山が揺れる。
全てを飲み込むブラックホールと化したエリは、富士の山麓をも飲み込もうとしていた。
- 897 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:23
- 黒と白の衝突。そして訪れる恍惚。
レイナは主であるサユの命令を全うしたことを願う。願うことしかできない。
腕も、足も、牙も、もう一ミリたりとも動かせなかった。
白き銃弾は既に黒き甲羅を貫いていた。
だがその先に待っていたのは、出口のない永遠の暗闇。
回れ。燃やせ。輝け。全ての闇を払え。
サユが下した命令を完遂したことを、自分の目で確認することは叶わなかった。
ただ、自分がこの闇を塗りつぶせた、光り輝けた、という感触はあった。
狩人だけが持つ直感によって、レイナは自分を納得させた。思いは満ちた。
レイナは最後に一つ―――自分らしい鳴き声で吠えた。
「おん!」
- 898 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:23
- 完璧な白を飲み込み、崩壊を余儀なくされる完璧な黒。
白虎という巨大な存在を飲み込んだブラックホールは、不完全なまま形を崩す。
時間と空間がねじれた洞穴で、生き延びることができる生物などいない。
サユ。エリ。そしてレイナ。
二人と一匹の自我を飲み込み、暗黒が弾ける。
洞窟の一部は暗闇に飲み込まれ、一部は白虎によって光をもたらされた。
暗闇という主を失い調和を乱した洞窟が見せた、狼狽と瓦解。
崩れゆく。
富士の地下洞窟は闇の一部を失い、均衡を崩し、轟音を立てて崩れ落ちる。
光はどこにも行かずに輝き、闇もまたどこへも消えずに佇む。
それに従って二人と一匹の自我も―――
- 899 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:23
- ごめんね、レイナ。
自我が崩壊せんする最後の瞬間。サユはレイナの体を解放した。
十分。もう十分だから。
世界を飲み込まんとする暗黒世界に、白き楔は打ち込まれた。
白虎は見事に―――その使命を果たしたのだ。
サユはレイナを解放し、白き守護獣を従えて黒き守護獣と重なる。
ありがとうね、レイナ。もういいよ。あんたはお帰り。
白虎と玄武が重なる。白と黒が重なる。サユとエリが重なる。
そこに残ったのは―――完全なゼロ。完全なNothing
レイナはそれを追う。ゼロを追い、Nothingを追う。
だが―――届かない。
- 900 名前:【終息】 投稿日:2010/02/13(土) 23:24
- あんたにはまだ早いよ。こっちの世界に来るには幼すぎる。
だからあんたは、生きてお帰りなさい。
そんな声が―――聞こえた気がした。
だがそれは幻聴。もはやレイナの中にサユはいない。サユの中にレイナはいない。
ゼロが全てを飲み込む。Nothingがどこまでも広がる。富士が沈没していく。
サユがどこへ消えたのか、それは誰も知らない。
エリがどこへ消えたのか、それは誰も知らない。
レイナは駆け出す。崩壊していく洞窟の中を、しゃにむに駆け出す。
生きてお帰りなさい。
主の最後の命令を胸に秘め、その小さな命を抱いて駆け出す。
レイナがどこへ駆けていったのか―――それもまた、誰も知らない。
- 901 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/13(土) 23:24
- ★
- 902 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/13(土) 23:24
- ★
- 903 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/13(土) 23:24
- ★
- 904 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:03
- 「だから意地だよ、意地」
マキは意地の悪い笑顔を浮かべながらそう言った。
邪魔してやる。
ただそれだけの邪気。計算など何もない稚気。子供のような幼稚な感情。
あんたが太陽になるというのなら、あたしも太陽になっちゃおうかな?
もう地球の未来がどうなろうと、そんなことは知ったこっちゃないよ。
そっちが理屈を捨てて矛盾を抱えるというのなら、
こっちは理性を捨てて意地を張ってやろうじゃないか。
「あんたとあたし」
マキは銀のナイフでもってナッチを指差した。
よく見ればアベナツミという子は、案外可愛い顔をしているではないか。
太陽になるという大それた欲望には不似合いなほど可愛らしい顔だ。
なんだかそれが、無性に可笑しかった。
今までは彼女の顔をじっくりと見る程の余裕もなかったということらしい。
だが今は違う。アベと自分。二人の立場は同じだ。同じ場所に立っているのだ。
「どっちが究極のモーニング娘。に相応しいかな?」
もう逃げない。運命から逃げない。自分から逃げない。あたしは太陽になる。
マキの決断を受けて、銀のナイフがより強く深い鈍色の輝きを放った。
幼稚でいい。不完全で構わない。ただ真っ直ぐに―――生きる。
それでいいよね?
いいよね、みんな?
- 905 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:04
- その時、富士が轟音を立てて沈み始めた。
豪快にその身を揺らしながら、ゆっくりと大地に吸い込まれていく。
地震というにはあまりにも大きく不自然な揺れだった。
重力と慣性の力から逃れるように、マキとナッチは同時に空に向かって飛翔した。
無数の粒子の霧と化した二人は、もはや大地から完全に自由な身となっていた。
黒く揺れるゴトウマキという名の霧。
赤く揺れるアベナツミという名の霧。
二つの気流が付かず離れずの微妙な距離を保っている下で―――富士が沈んでいく。
ぱかりと開いた富士の火口から見えるのはマグマではなかった。
そこにあるのは闇と光。
太陽すらも飲み込まんとする巨大な闇の中で、白く輝く一陣の光があった。
深さを知らぬ無限の闇の中を、まるで血管のように白い光が交錯している。
どくどくと心臓のように脈打っている。混じり合う無数の黒と白。
山が、沈む。
突如として口を開けた暗闇の中に、山が吸い込まれていく。
そこからは、何か巨大な獣が吠えたような声が聞こえてきた。
まるで富士という巨大な存在の断末魔のような、禍々しい悲鳴だった。
その悲鳴はマキとナッチの耳に届いただろうか。
ナッチは何も言わず、鬼のような形相でマキを睨んでいた。
- 906 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:04
- 「どっちが究極のモーニング娘。に相応しいかな?」
マキの一言は、ナッチの怒りに火をつけるには十分過ぎるものだった。
問い掛けられることはおろか、相応しいという言葉を使われるだけで腹立たしかった。
『究極のモーニング娘。』という言葉は、アベナツミのためにある言葉なのだ。
アベナツミ一人ために作られた、オーダーメイドの概念なのだ。
触るな。お前ごときが触るんじゃないよ。汚れる。名が汚れるんだよ。
自分がその生涯をかけて積み上げてきた積み木の城。
その頂点に位置する最も美しい一つのパーツ。
最後のその一つを積むのが、自分以外の誰かであるなんてありえない。
一番美味しいところだけ持っていくなんて許さない。横取りなんて許さない。
この城は、あたしが築いた、あたしだけの城だ。あたしが―――女王だ。
この寄生虫が。食えるものなら食ってみやがれ。盗めるものなら盗んでみやがれ。
だけどさ、大切なあたしの宝物に手を出した代償は高くつくよ?
あんたの自我は壊さない。同化させない。永遠にあたしの中で飼ってあげる。
死ぬことすら許さない。狂うことも許さない。
生殺しだ。あたしの中で永遠に生き続けな。
それが寄生虫に相応しい生き方っていうもんじゃないの?
- 907 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:04
- 晴天が割れた。
何もない空に、まるで雷鳴のような轟音が鳴り響いた。
雲一つない空に、稲光が走ったときのような白い亀裂が走った。
それでもやはり―――空は抜けるような青。
いや、実際に空は抜けていた。
青というにはあまりにも青すぎる青だった。
それまでかかっていた薄い膜が剥がれたかのような、透き通る青がそこにあった。
ひび割れた青空の隙間から覗いてくるのは、白い光。
オゾン層という傘を失った地球に、太陽光線がダイレクトに降り注ぐ。
時は満ちた。
空が割れる。空気が霞む。光が降る。
生のままの太陽光線は、マキの頭上にもナッチの頭上にも矢のように降り注ぐ。
太陽光線は野獣のような爪を立てて、地球の表層に襲いかかる。
生物にとっては死の光でしかないその放射線も、
二人の適格者にとっては清々しい生命のシャワーであると感じられた。
太陽のエネルギーが赤の粒子と黒の粒子を激しく回転させる。
太陽の意志の下に、放射線は二人の自我に激しく干渉してくる。
ナッチは干渉に対して干渉で応え、マキは干渉に対して拒絶で応えた。
太陽がアベナツミを選んだのは―――必然だった。
- 908 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:04
- ナッチは降り注ぐ全ての太陽エネルギーを、何の制約もなく受け入れた。
「エネルギー」という言葉だけではとても説明しきれないような、莫大な力だった。
数秒ほどすると、アベの体を満たした総エネルギー量は、
地球が太陽から受け取るエネルギーの量と、ほぼ等しいものとなった。
一時的であるにせよ―――地球は太陽からのエネルギーを全て失った。
マキはそれをじっと見つめていた。
太陽となるために太陽のエネルギーを全て吸い取る。
それは非常に理の通った、矛盾のない行動のように思われた。
地球の体温が下がる。今まさにこの瞬間、地球の命運はアベナツミ一人に握られた。
アベは再び真っ赤なマントをマキの前に広げた。
埋め尽くされた無限の数字の魔方陣。
以前に見た時とは比べ物にならないくらい、その複雑さを増していた。
いや、複雑というよりもそれは、宇宙の全情報が含まれているようにすら見えた。
そこに欠けていたのはただ一つ、ヤスダケイの血が持つ血清のDNAだけだった。
マキは銀のナイフを剣のように伸ばす。
マキもまた、ナッチの赤のマントのように、己の銀のナイフに全てを込めた。
自分の持つ全ての遺伝情報をそこに込めた。
そこには勿論―――ナッチが欲するヤスダケイの遺伝情報も含まれていた。
この剣は鍵。
あの赤いマントに展開された、宇宙の理を示す方程式を解く、たった一つの鍵だ。
きっとこの鍵はあの問いを解くだろう。あの式を展開することができるだろう。
解くマキ。解かれるアベ。
解いた後には何が残るのだろうか?
- 909 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:04
- 「きっとこの鍵はあの問いを解くだろう」だって?
融合した粒子越しに伝わってくるマキの思考を、ナッチはせせら笑った。
赤いマントは真夏のような太陽光線を受けて、裾野を大きく広げる。
見よこの赤を。この燃える赤こそが、太陽の全てを解き明かす神の方程式。
マキにこの問題を解くことなどできはしない。
確かにヤスダケイの遺伝情報は欲しい。
それこそが最後の鍵であることは認める。
最後の鍵を受け入れた瞬間、太陽化が始まることは間違いないだろう。
この赤き血の方程式は―――まだ完成していない。
その最後の鍵を差し込むのはマキなのかもしれない。
だがそれでも、マキがその全てを理解することはない。
たかが一人の人間に、太陽誕生の全てを理解することなど不可能だ。
目で見ることと、それを理解することはまた別の問題。
問題が解ける瞬間を見たからといって、それがすなわち、
ゴトウマキがその問題の解法を完全に理解したことにはならないのだ。
思い上がりも甚だしい。勘違いにもほどがある。
あんたは神じゃない。あんたは選ばれなかったんだ。
最後にあんたにできることは、ただぼーっと傍観していることだけ。
あんたは運命の―――下僕でしかない。
- 910 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:05
- ゴトウマキ。最後にこれだけは伝えよう。
あんたは確かに適格者たる能力を持っていたよ。
それは認めてあげる。
なるほどゴトウマキは強かった。他のどのキャリアよりもずっと。
強くて華麗でそして孤高で―――確かに自由だった。
誰にも縛られないだけの強い光を持っていたよ。
あんたの能力に軽い嫉妬を覚えた時もあったかもしれないね。
でもね。あんたはその能力を使いこなすことはできなかったんだよ。
それだけの器を持たない人間だったんだよ。
あんたは全てを拒絶した。出発点から大きく間違っていたんだよ。
なぜ太陽のように真っ直ぐ生きない?
なぜもっと素直な生き方ができなかった?
残念だよ。
皮肉でもなんでもなく、あたしはあんたのことを残念に思う。
ゼロになりたい? そんな狭い領域で満足してほしくなかったよ。
あんたにはもっと大きなスケールであたしに立ち向かって欲しかったよ。
もう一度言う。あんたは小さい。あんたは間違っている。
手に入れた偉大な力を、ただ自分のためだけに使うだなんてね。
そんな凡庸な人間にあたしという問いを解くことはできない。
究極のモーニング娘。を名乗る資格はない。
太陽を斬ることは―――できない。
- 911 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:05
- 「斬る」
銀の剣を手に、マキは最後の一歩を踏み出した。
もちろんナッチの思考は、融合した粒子を通じてマキにも手に取るように理解できた。
あんたはあくまでもあたしの生き方を否定するんだね。
ならば答えようではないか。
言葉ではなく、この銀の剣でもってあたしは答える。
その赤い方程式と一緒に―――あんたの間違った考えをも斬り倒してあげよう。
マキは無数の記号が蠢く赤い方程式を睨みつける。
もはやアベのマントには矛盾を含む数式は一つもなかった。
全ては宇宙を統べる物理学的な法則に則って展開されている。
量が圧倒的であるというだけで、マキが理解できない数式はそこには一つもなかった。
太陽に、宇宙に矛盾などない。
この世界で矛盾を抱えているのは、人間の心だけなのだ。
人間だけが持つ弱さ。醜さ。エゴ。それが矛盾だ。
太陽にならんと欲したナッチは、最後の最後で矛盾を手放した。
究極のエゴイストが、エゴを捨て去った。
それによってナッチは、人間らしさという醜さを捨て、より強くなったのだろうか?
より太陽に近い存在になったということなのだろうか?
それが宇宙にとって正しいということなのだろうか?
それが究極のモーニング娘。というものなのだろうか?
- 912 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:05
- 違う。
あたしにとっての太陽はそんなものじゃない。
あたしが夢見る太陽とは、究極のモーニング娘。とは、そんな像を描きはしない。
あくまでも一人。この地球の上にたった一人。一人しかいない自分。
この宇宙で一人しかいない自分の集合体。誰ひとりとして重ならない。
それでいて一つ。全ては一つ。照らすものと照らされるもの。各々が一つ。
誰にも干渉せず。誰とも交わらず。それでいて光輝く。
そんな太陽でいいじゃないか。
誰かのために輝くのではない。ただ独り、そこで輝ければいいじゃないか。
それがそんなに虚しいこと? 無意味なこと?
交わらなくとも伝わることはあるはずだ。一つになれる心があるはずだ。
そこにこそ、人の心の真実がある。人が人として生まれた意味がある。
言葉を交わすことなんかより、もっと大切なものがそこにあるはず。
あたしはそれを照らす。
それがあたしにとっての―――宇宙でたった一つの太陽だ。
アベナツミが夢見る、全てを飲み込む太陽など、あたしは認めない。
全ての人間を一つにまとめるような行為など、人間には無意味だ。
全てを飲み込んだ後の世界に何が残るというのか。何も残りはしないではないか。
それでもなお、あんたは光輝くと言うの?
あり得ない。
あたしにも、そしてあんたにも―――そんな力などありはしない。
- 913 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:06
- 「あたしにはその力がある」
ナッチはマントを広げてマキを飲み込んだ。
赤い方程式は、宇宙空間と等しい広さと深さと冷たさと歪みを持っていた。
流れる時間はとてつもなく速く、そして積み重なる時間はあまりにも膨大だった。
このマントの中で流れる時間に比べれば、人間の一生などほんの一刹那でしかない。
加速していく時間。堆積していく時間。光の速さと闇の深さを持つ時間。
そんな時間の中では全ての存在が等価値だ。全ての人間が一つだ。一つの粒子だ。
全人類を一つにまとめることは、決して不可能なことではない。
それを夢見ることができるのが、他の動物にはない、人間だけの能力なのだ。
なめるなよゴトウマキ。
あたしは全てを一つにまとめる。
究極のモーニング娘。の名の下に、全ての自我を飲み込んでみせる。
マキ。あんたはむきになってあたしの生き方を否定するよね。
だけどさ、あんたもあたしの一部なんだよ。
あんたとあたしは親子であり、姉妹であり、親友であり、恋人であり、そして同一人物なんだ。
あんたはそれを認めないだろう。受け入れないだろう。
だけどあたしにはわかる。なぜならあたしは、あんたの太陽だから。あんたの上位自我だから。
あたしはあんたを兼ねるけど、あんたはあたしを兼ねない。
だからあんたがあたしを理解できないのも、無理ないかもしれないね。
嘘じゃない。あんたはあたしの娘だよ。だから、だからね―――
「好きだよ、マキ」
- 914 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:06
- 赤いマントがマキの全身を包み込む。
吹き荒れる数字の嵐の中にマキは飲み込まれていた。
ナッチの自我の中では、二進法と四進法と十進法と十二進法が並走していた。
それだけではない。二進法は時として三進法と交わり、歪な曲線を描く。
無限の数の変化から少し離れた位置では、十六進法が孤独な計算を続けている。
関係性の糸の展開図は、とても三次元の世界の中には収まらなかった。
マキが全ての感覚細胞を駆使しても―――それらを解析するのは容易ではなかった。
「愛しているよ、マキ」
アベナツミの感情に嘘はなかった。
彼女は本気でゴトウマキのことを愛していた。
マキのことを骨の髄まで愛して愛して愛し尽くしたいと、強く欲していた。
愛情―――それは時として究極の干渉であり、究極のエゴであった。
熱烈な愛は止めどなくマキの上に襲いかかってくる。
純粋な愛情の絨毯爆撃の中で、マキは銀の剣を振り払う。
愛してるよ。だから愛して。あたしを愛して。あたしだけを愛して。
ナッチの愛情は一直線であり、自己中心的であり、粘着質であった。
それは人間の普遍的な感情であり、とても自然な感情だった。
人間の率直な感情に逆らうことは難しい。
好意を斬り倒すのは難しい。
一途な思いを受け止めて、マキの銀の剣はひび割れ、ところどころ刃が欠けていった。
- 915 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:06
- マキの黒い粒子とナッチの赤い粒子がからまる。
プラスはマイナスに引き寄せられ、マイナスはプラスに引き寄せられる。
極端に高い相同性を持つ二つの粒子の同化融合は、着実に進んでいた。
もはやそれが100%に達するのは時間の問題だった。
マキは必死でそれに抗う。
自分が自分以外の何かに浸食されることに、強い抵抗を示した。
干渉の海の中でもがき苦しみながらも、抗い戦うことを止めることはない。
たとえそれがアベからの愛情であったとしても。
いや、愛情であるからこそ、マキの孤独な心は決してそれを受け入れることはない。
あたしは誰も愛さない。だから誰もあたしのことを愛さないで。
マキの声が裏返る。泣き叫びながらも銀の剣を振るう。
襲いかかってくるナッチの愛の十二進法を斬り断つ。
体に浸食してくるナッチの憎しみの十六進法を薙ぎ払う。
たとえ宇宙の真理が一つになることを欲していようが、決して受け入れはしない。
ビックバン以降、宇宙がひたすら広がっているように、
宇宙のエントロピーはひたすら拡散の方向へと広がっていく。
マキにとって拡散とは別離を意味し、孤独を意味した。
世界は常に拡散の方へ向かうのだ。
人間だってそうだ。いつか別れの時が来る。旅立ちの時が来る。それが拡散だ。
あたしは、ただ宇宙の法則に従っているだけなんだ。
あたしは、あたしは―――寂しがり屋なんかじゃない。
- 916 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:06
- ナッチとマキの同化率はついに100%に達しようとしていた。
その間にも、赤い粒子と黒い粒子は宇宙に向けて拡散を続けている。
もはやナッチとマキはほぼ同一の存在になろうとしていた。
マキの血はナッチに流れ、ナッチの血はマキに流れる。
二人の体の中で、同時にガス化が起ころうとしていた。
ナッチは満足していた。
エントロピーは変わらず拡散の方向に広がっていく。
整った秩序が崩壊していく様を見つめるのは、いつだって楽しい。
楽しいというよりも―――気持ちがとても落ち着く。
拡散。おもちゃ箱をぶちまけた時のような、混沌と安定がもたらす安らぎ。
それこそがナッチが夢見る究極の支配の理想像だったから。
ナッチのとっての拡散とは、領土の拡大を意味していた。
それは決して濃度を薄めたりはしない。
広がることによって、自我は新たな未知の大地を目にすることになるのだ。
未知のものに触れることによって、さらに濃度を高めていくのだ。
冒険と開拓。それこそが進化。
それこそが人間が生まれてきた意味じゃないの?
人間はいつだって出会いを求めて新しい大地を目指す。それが拡散だ。
確かにあたしは、ゼロになることを恐れていたかもしれない。
でもあたしは、ただ宇宙の法則に従っているだけなんだ。
あたしは、あたしは―――寂しがり屋なんかじゃない。
- 917 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:06
- マキは真っ赤な数字にまみれながらも、ひたすらに剣を振り続ける。
体内では激痛と麻痺が縦横無尽に交差していたが、戦意が途絶えることはない。
目まぐるしく展開していく数式の嵐。もう解析しようなどとは思わない。
目の前にあるナッチの粒子をただ無心で斬り倒していく。
切り開いた血路の先にあるのは希望か、死か。
だがマキの目の前に広がったのは―――いずれの景色でもなかった。
そこにぽっかりと現れたのは空白の大地。未知の領域。不可知の空間。
赤い粒子の流れが途切れた。空を斬る銀の剣。透明な空。
そこにはいかなる数字も数式も干渉していなかった。
ただそこには、無残にも途切れた出来損ないの数式だけが転がっていた。
マキがその場所から連想したのは―――母の胎内。
ここが終着点だ。
全ての出発点であり、終着点であるんだ。
マキの中に流れる血がそう教えていた。
その血がマキの血であるのか、ナッチの血であるのか、それはもうわからない。
二人を隔てる全ての境界線は、もう境界線としての意味をなしていなかった。
- 918 名前:【終息】 投稿日:2010/02/15(月) 23:06
- マキはボロボロになった銀の剣を掲げる。
剣は今にも朽ち果てそうなほど酷く傷ついていた。
か細い銀の光が消えようとしている。
長い旅だった。
ありがとう。よくぞ最後までもってくれたね。
マキは、マキの全ての情報が刻まれた銀のナイフに、深い感謝のキスを捧げる。
もはや銀の剣は、マキの自我そのものと言ってもよかった。
マキは、魔方陣の中に存在していた、たった一つの空白地帯に銀の剣を差し込む。
ナッチはなんら抵抗を見せることなくマキの最後の一撃を受け入れた。
抵抗するはずがない。
今のナッチはマキそのものだった。マキの意志はナッチの意志。
一つに重なる二つの思い。全てが今、一致した。
銀の剣に刻まれた、ヤスダケイの遺伝情報がナッチの体内に拡散していく。
7つの分割ウイルスの血清情報が、ついに一つに重なる。
ウイルスDNAが光を放ち、全ての細胞にガス化を強いる。
赤が弾ける。ナッチが拡散する。黒が弾ける。マキが収縮する。
銀のナイフが―――マキもろとも砕け散った。
- 919 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/15(月) 23:07
- ★
- 920 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/15(月) 23:07
- ★
- 921 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/15(月) 23:07
- ★
- 922 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:11
- 「もう死んでもいいよ」
ミキは冗談交じりにイシカワにそう言った。
イシカワは押し黙ったまま言葉を返そうとはしない。
ただぐったりと疲れた様子を見せながら、地面にしゃがみこんでいる。
生き続ける気力が残っているのかどうかはわからないが―――
自決する気力が残っているようにも見えなかった。
辺り一帯がやけに騒がしい。
ミキは周囲を一通り見遣り、視線を上空に向ける。
何とか樹海の裾野まで無事にたどりつくことができたようだ。
見上げる彼方では、日本で一番高い山が地底に飲み込まれようとしている。
岩が砕け落ちる音が耳鳴りのように鼓膜に張り付いてくる。
山が―――消えようとしている。
たいていのことでは驚かないミキも、この状況には驚かざるを得ない。
もっともその時は、驚きを通り越して呆れかえっていたのだが。
富士の地底で何が起こったのかはわからない。
だがおそらく、あの空の彼方で起こっていることと無関係ではないだろう。
富士の山頂があった辺りの空では、赤い霧と黒い霧が交差している。
あそこにアベとゴトウがいることは、まず間違いないだろう。
- 923 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:12
- ミキが予想した通り、二人で逃げようと言ったときイシカワは「残る」と言った。
たとえ死ぬことになっても、ヨシザワの下に残ると言って思いっきり暴れた。
むしろここで死ぬのがあたしの運命と、訳のわからない主張を叫んだ。
だがミキは、そんなイシカワの横面を張り飛ばし、強引に連れ出した。
「死ぬんだったら、あたしを安全地帯まで連れてってから死ねよ」
ぎゃあぎゃあと騒ぐイシカワを引きずりながら、ミキは暗闇を走った。
腕力ならイシカワごときには負けない。
ミキは言葉ではなく力でイシカワを動かした。
イシカワの泣きごとなど耳に入れず、ただ自分の意志だけを押し通す。
壁にぶつかったときは、イシカワの髪をつかんで「どっちだ!」と叫んだ。
泣き叫ぶイシカワの頭を、何度も壁に押し付けて擦りつけた。
ミキの怒声に気押されたのか、イシカワは大人しくミキの質問に答え、
暗闇に目を凝らし、地底からの脱出経路を指し示してみせた。
泣きわめきながらも、罵りながらも、目の前の光景から目を逸らすことはなかった。
そういった行為に没頭することで―――何かから逃避していたのかもしれない。
- 924 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:12
- 轟音は一向に鳴りやまない。山が沈んでいく。
加速することもなく、減速することもなく、着実に沈んでいく。
何者の意志によって沈んでいくのかはわからなかったが、
その意志が強固であることは間違いないのだろう。
山が沈む。
だが天変地異はこれで終わりではなかった。
大地を震わせるような轟音が、今度は空の上から降ってくる。
赤い霧と黒い霧が交錯するその彼方で新たな動きがあった。
ミキが見上げるその前で、青く晴れ上がった空に亀裂が入る。
「稲光?」と思ったがそうではない。
陶器に入ったひびのように、亀裂は広がっていく。
その広大な亀裂の間から強烈な白い光が漏れてきた。
とても直視できないような、荒々しいエネルギーに満ちた光だった。
「おい・・・・・・あれってもしかして・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
「もしかして、そうなのか?」
「・・・・・・・・・・」
その光景からミキが連想した事態は―――考えうる最悪の事態だった。
- 925 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:12
- イシカワは何も答えない。
だが、改めて説明されるまでもなく、オゾン層が裂けたことは明らかだった。
究極のモーニング娘。を完成させるという計画は―――間に合わなかったのだろうか?
もはや誰もあの太陽の光を押し止めることはできないのだろうか?
今のところ、空の裂け目は一ヶ所だけのようだ。
そしてそこから洩れてくる放射線は、赤と黒の霧によってかろうじて遮られている。
だがそんな脆い均衡が崩れるのは、おそらく時間の問題だろう。
いよいよ破滅の時がやってきたのかもしれない。
裂ける空。沈みゆく大地と山。全てが非現実的な光景だった。
だがイシカワはそこから目を逸らすことなく、じっと見つめていた。
ミキはそれ以上イシカワに説明を求めなかった。
イシカワは何も言わずただ見つめている―――赤と黒の霧が織りなす渦の流れを。
ミキはボーっと突っ立ったまま、そしてイシカワは岩に腰かけたまま、
二人は映画でも観るかのように、じっと空のスクリーンに見入っていた。
空には赤と黒の渦が回っている。
やがてその二色の渦は―――大きくその動きを変えていった。
- 926 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:12
- ミキはその渦の流れの変化の意味を理解した。
遅かったのか。それとも際どいところで間に合ったのか。
どちらの結末を迎えたのかはわからない。
だがどちらであっても、ミキにはどうでもいいことのように思えた。
重要なのは―――あれが完成したということだ。
全てが揃ったということだ。ミキはただそれだけを静かに理解した。
理解したがゆえに―――懐から二本の試験管を取り出した。
「どうやらこいつらは・・・・もう用済みになっちまったみたいだな」
一本はイシカワから受け取った試験管。
そしてもう一本はヨシザワの懐に入っていたものだった。
ミキは一応、持ち主に返そうかと思って、二本の試験管をイシカワに差し出した。
だがイシカワは石像のように動かず、試験管に手を伸ばすことはなかった。
何の反応も示さず、ただ黙って空の彼方を凝視しているだけだった。
ミキと同じように、イシカワもまた、何が起こったかを理解していた。
その理解は痛みしかもたらさなかった。イシカワにも。そしてミキにも。
- 927 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:12
- ミキは差し出した手の持っていき場を失った。
イシカワは試験管に手を伸ばそうとはしない。
きっと、彼女は二度と手を伸ばそうとはしないのだろう。
「まあ、そうだろうな。今更もう、どうしようもねーみたいだし」
ミキはふと思う。
自分がやってきたことは何だったのだろうか。
意味があることだったのだろうか。
ウイルスを追い、ウイルス抗体を追い続けたこの一年と少し。
ミキはミキ以外の全てを失ったといってもいい。
そしておそらくイシカワも、イシカワ以外の全てを失ったのだろう。
ミキは素っ気なく手を振り払い、二本の試験管を岩肌に叩きつける。
試験管が鈍い音を立てて割れた。
その中にあった血は、岩肌を伝い、土の中へと染み込んでいった。
あっけなかった。
ミキのたった一つの動作。ただそれだけで―――
多くの人間が命を賭けて追い求めていたサンプルは、無為と消えた。
あの地獄のような戦いの日々は―――全て幻だったのだろうか?
- 928 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:12
- ミキは、呆然とした表情で空を見上げているイシカワの手を取った。
彼女の絶望は痛いくらいによくわかる。
全てを失ったという喪失感。
それはミキもまた、今この場所で感じていた。
だがそれでも。だがそれでもあたしは―――生きる。
あがいてあがいて、もがいてもがいて、地を這いずり回りながらも、生きる。
全てを失ったわけではない。自分の体が残っている。自分の命が残っている。
ならば生きるべきだろう。気持ちを奮い立たせて、歩き出すべきだろう。
それが命ある人間の使命なのだ。
良いとか悪いとか、やるとかやらないとか、そんな問題ではないのだ。
だからこそミキはリカの手を取る。好きとか嫌いとか、そんな問題ではないのだ。
人間ならそうするべき。手を取り合うべきなのだろう、きっと。
では人間ではないあの二人はどうするのだろう?
彼女達の使命とは何なのだろうか?
あの二人が手を取り合うなんてことがあるのだろうか?
ミキはふとそう思いつき、もう一度空を見上げた。
- 929 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:13
- アベナツミとゴトウマキ。
太陽を目指した彼女達二人は、何を失い、何を得たのだろうか。
それともそんなことを考えること自体、彼女達二人には無縁なのだろうか。
もはや彼女達は人間ではない。
きっと人間の使命などとは、遠くかけ離れたところで生き続けるに違いない。
ミキの目には、彼女達は何も得ず、全てを失ったように見えた。
自分の体。自分の命。自分の意志。自分の運命。
そして普通に人として生きていくこと。それすなわち自分の人生。
そういった全てを失ったようにしか見えなかった。
人間が太陽になるというのは―――そういうことを意味するのだろうか。
彼女達はその事実を受け入れることができたのだろうか。
ミキが見つめる空の彼方では―――
赤と黒の霧が、太陽に向かってゆっくりと上昇していた。
- 930 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:18
- 「行くぜ」
ミキは強引に手を引き、イシカワを立ち上がらせる。
あの時のようにことさら「二人で」と強調することはなかった。
それでいいだろう。それでいいはずだ。
どこへ歩き出せばいいか、ミキにはわからない。
だがそれは今に始まったことではない。
これまでもずっと暗い闇の中を歩いてきたのだ。
どこを目指すべきかなんて、自分で決める必要はない。
ミキは太陽に背を向けて歩き出した。
その光が、今はただひたすらに眩しかった。
今はまだ―――まだその光に目を向けることはできなかった。
直視してしまえば、あまりの眩しさに、きっと―――
だからミキは、イシカワの手を取り、俯いたまま歩き出す。
どこか遠いところで、犬が吠えるような声が聞こえた気がした。
- 931 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:18
- ☆
- 932 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:18
- 上る。上る。上る。
赤い霧と黒い霧は混ざり合いながら上昇していく。
マキが振りかざした銀の剣は、やはり最後の鍵だった。
アベナツミという宇宙一の難問を解き明かす、たった一つの鍵だった。
ヤスダケイの中にあったウイルス断片情報を得て、
ナッチの中で七分割ウイルスは完全体となった。
自我を維持したままガス化を果たし、太陽を目指して上昇していく。
干渉を欲するアベ、干渉を拒むマキ。
だがそのプラスの力とマイナスの力は、大いなる矛盾を抱えたまま共存を果たした。
いや。
それが「共存」という概念に等しいかどうかは誰にもわからない。
だがアベナツミは間違いなくゴトウマキという存在を受け入れ、
ゴトウマキは間違いなく、アベナツミという太陽の中に自分の居場所を見出した。
二人は一つ。もはや同化率は完全に100%に達していた。
- 933 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:19
- アベと同化を果たしたのはゴトウだけではない。
アベやゴトウと交わった全ての人間たち。
矛を交え、血を重ね、モーニング娘。という物語に関わったもの全て。
そういった全ての人間の血がそこに結集しようとしていた。
アベの遺伝子は全ての遺伝子を優しく飲み込もうとし、
マキの遺伝子は全ての遺伝子を優しく弾き返そうとした。
それでもなお―――二人は一つだった。
アベとマキ。もう誰も二人を分かつことはできない。
二人の自我は一つ。全ての自我を受け入れて一つ。
赤と黒の霧はお互いを打ち消し合うことなく、天に向かって手を伸ばす。
ありとあらゆる細胞から、人格と自我と記憶を飲み込み、
マキをも懐に収め、アベはまさに『究極のモーニング娘。』と化していた。
全ての矛盾を飲み込み、全ての人格を納めるだけの器を持った世界がそこにあった。
もはやアベナツミは―――アベナツミと呼ぶのもはばかれるような存在となっていた。
- 934 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:19
- 上る。着く。広がる。包む。縮む。集まる。
宇宙を超え、究極のモーニング娘。はついに太陽に至る。
厳かに太陽は輝き、地球上の世界を究極の干渉とも言うべき愛の光で照らす。
その光はきっと全ての人に届くだろう。
あらゆる闇を照らすだろう。
この宇宙には、無駄なものなど何一つない。
無駄に生まれる存在もなければ、無駄に消え行く存在もない。
全ては宇宙の理のままに。太陽の意志のままに。
あるがままに生き、そしてあるがままに死にゆくのだろう。
だから―――太陽もまた、あるがままに輝き続ける。
- 935 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:19
- 太陽は、人々がそれを望もうが望むまいが、そんなこととは関係なく輝く。
新しい太陽となったアベは、穏やかに、そして時に傲慢に地球を照らす。
そこにはもはやアベナツミという個人の自我は薄く存在するのみだった。
全てを飲み込み、一つに統一された、モーニング娘。という自我がそこにはあった。
統一されたがゆえに―――個としての意志を持ち得なかった。
多くの人間の思惑を超えて、太陽は誰の意志に従うこともなく輝き続ける。
愚か者達の儚い野望はついに潰えた。
適格者であるアベにも、ゴトウにも、太陽を操ることはできなかった。
それこそがアベの意志であり、ゴトウの意志であり、太陽の意志だった。
これまでも、そしてこれからもずっと。
太陽はただ―――あるがままに輝き続けるのだろう。
- 936 名前:【終息】 投稿日:2010/02/18(木) 23:19
- 第十三章 終息 了
- 937 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/18(木) 23:19
- ★
- 938 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/18(木) 23:19
- ★
- 939 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/18(木) 23:20
- ★
- 940 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:13
- 物語は続く。
それが終わったなどと、誰が決めつけることができるだろう?
光り輝く太陽が、昨日と同じ太陽だなどと、誰が証明できるだろう?
宇宙には無数の恒星が存在する。
その全てが同じ恒星ではないなどと、誰が証明できるだろう?
そうやって物語は果てなく続く。
誰もこの物語に終止符を打つことはできない。
- 941 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:14
- エピローグ −休眠−
- 942 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:14
- 青々と茂る広大な森があった。
木々は生命力豊かにその枝を伸ばし、太陽の光を受ける。
その光もいくぶんかゆるい。もう夕暮れが近い時間だった。
一人の幼い少女が森を駆けていた。
盛り上がる大木の根を踏み越え、積み重なる落ち葉を踏み分け、
ぱたぱたと元気よく走るその先には、一匹の小さな子犬が。
少女は倒れ込むようにして、頭からその子犬に飛び掛かる。
だが少女が必死で伸ばした手をすり抜けて、子犬は軽やかに駆けていく。
その小さな姿はあっという間に森の中へと消えていった。
残された少女の顔には一面に泥がベッタリとついていた。
少女の目に涙がにじむ。
だがそれが流れ落ちるよりも早く、少女の頭に優しく触れる手があった。
- 943 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:14
- 「あーあ。逃げられちゃったねえ」
「黒ばーちゃま!」
手の持ち主は皺だらけの老婆だった。
齢は八十を超えているだろうか。老婆は優しく少女を抱き上げた。
まだ七つにも満たない小さな少女の体は、軽々と老婆の胸に抱かれた。
「あのね! あのね! タレメブタネコがね!」
「タレメブタネコ?」
「あの子の名前」
「え? さっきの白い子犬の?」
「うん!」
「はあ・・・タレメブタネコねえ・・・まったくこの子は・・・・・
可愛い顔して、一体誰のネーミングセンスを受け継いだのかねえ?」
嘆きの言葉をつぶやきながらも、老婆の表情は妙に明るい。
そして老婆は少女を抱えたまま、村で一番高い櫓の方へと向かった。
- 944 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:14
- 「えー! またおべんきょう? つまんなーい」
「こらこら。暴れるんじゃないの。落ちたら危ないでしょ」
老婆は少女を肩に乗せ、木の梯子を登っていく。
梯子の先はかなりの高さがあった。
それでも老婆は特にふらつくこともなく、慣れた足取りで梯子を登っていく。
登り切ったその先には、雨風を避けるためのこじんまりとした小屋があり、
さらにその小屋の中には、年季の入った木の梯子とは対照的な、
最新鋭の天体望遠鏡装置が備え付けられていた。
「さあ、今日もちゃんと太陽様の様子を見ておかないとね」
「えー。だってまいにち見ても同じじゃーん」
「じゃあ今日はちょっと倍率を上げようか。ほら、表面に黒い点が見えるでしょ?」
「え? あ、ホントだ。なにこれ?」
「これは黒点といってね」
「たいようは赤いのに、なんでここだけ黒いの?」
「そうね。実はここだけ温度が低いのよ。冷めているんだな、あの人は」
「あの人?」
「いやいやいや。それはのう。ここだけの話じゃわい」
老婆は都合が悪くなったときだけ使う老人言葉で、少女の問いをかわした。
- 945 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:14
- 「なーにが『ここだけの話じゃわい』だよ」
「わ!」
二人の真横にあったムシロから、一人の老婆が這い出てきた。
黒い老婆と同年代だろうか。
その老婆は面倒臭そうな顔をしながらも、少女を抱えた老婆に向かって毒づく。
二人の老婆はやいのやいのと、意味のないやり取りを続けた。
じっと我慢して二人の会話を聞いていた少女が―――とうとう癇癪を起した。
「もう! 白ばーちゃまも黒ばーちゃまもいい加減にしてよ!」
「だってこいつが『じゃわい』とか変な言い方で誤魔化すから悪い」
「ちがうよー。白ばーちゃまが悪い!」
「なんで」
「悪いものは悪い! 黒ばーちゃまをいじめちゃダメ!」
- 946 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:15
- 「はいはい。わかりましたよ」
「ホントにわかったのぉ?」
「言うねえ。ホントに誰に似たんだか」
白ばーちゃまと呼ばれた老婆は、少女の説教を軽くいなして望遠鏡を覗きこんだ。
なるほど、今日の太陽は黒点がはっきりと見えている。
だが特に異常はないようだ。今日もまた、太陽は滞りなく運行している。
老婆は望遠鏡を覗きこんだまま、もう一人の老婆に話しかけた。
「あんたも随分と好かれたもんだねえ」
「なにがよ」
「この子にだよ。あんたみたいな気持ち悪いババアに、なんでなつくかねえ」
「気持ち悪い言うな」
「そうだよ! 黒ばーちゃまは顔は変だし頭は悪いし性格はうっとうしいけど、優しいよ!」
「あ・・・・あのねえ・・・・」
「ふふん。まったく子供ってのは正直だねえ」
- 947 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:15
- 「だいたい、この里の子の口が悪いのは、あんたの影響が強いから」
「あー、もう飯の時間みたいだな」
「急に話題変えんなよ」
「そうだよ白ばーちゃま。まだご飯の時間には早いよー」
「早く行かなくていいのかよ? 今日の飯はイノシシの煮込みみたいだけどさ」
「相変わらず鼻が利くねえ」
「ふん。そっちの目はどうなんだよ。もう腐っちまったのかよ?」
「あのねえ」
「イノシシ! イノシシ! 黒ばーちゃま、早く行こう!」
「はいはい」
少女は好物にありつこうと、老婆を急かす。
黒ばーちゃまと呼ばれた老婆は、再び少女を乗せて梯子を下り始めた。
少女の小さな手が老婆の首筋に触れる。
黒い老婆の首から額にかけては、大きな火傷のあとが残っていた。
だが少女はその傷跡を特に醜いものだとも思わず、
老婆の一つの目印くらいに思っていた。
それに里の者には深い傷跡をあちこちに残した者が多い。
いずれは自分もそうなるのかもしれないと、幼いなりにそう思っていた。
- 948 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:15
- 少女は既に―――厳しい軍事教練を毎日のように受けていた。
そういった者だけが集まった里だった。
それが少女の日常であり、それ以外の日常は知り得なかった。
この星にかつてのような危機が迫る可能性は、今は限りなくゼロに近かったが、
それでも老婆たちは、自分達の使命をおろそかにすることはなかった。
黒い老婆は梯子の途中で立ち止まり、顔を上げて白い老婆に声をかける。
「ねえ。あんたは食べないの?」
「食べるに決まってんだろ。もうちょいしたら行くから、ちゃんと残しとけよ」
「見るか食べるかどっちかにしなよ」
「どっちとかないんだよ」
「あっそう。来ないんなら先に食べちゃうよ。たぶん一つも残らないと思うから」
「殺すぞ」
「だからそういうことを言うから」
「黒ばーちゃま! 早く!!」
「はいはい」
黒い老婆と少女が去ると、白い老婆は再び望遠鏡を覗きこんだ。
そこにはただ太陽があるだけであり、他に変わったものはない。
だが老婆は、その太陽をいくら見ていても見飽きることがなかった。
- 949 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:15
- 白い老婆は太陽に向かって一人つぶやく。
あんたらもさあ、毎日ごくろうなことだねえ。
太陽は昨日と変わることなく今日も輝く。
地球と絶妙の距離を保ちながら、絶妙な量のエネルギーを送り続けている。
ほんの少し位置がずれてしまえば、地球は灼熱の星か、凍てつく星になっていただろう。
夢も希望もない―――乾いた惑星になってしまうことだろう。
まるで何かの意志が、地球を生かし続けているかのようだ。
以前はそんな意志の存在など認めようとは思わなかった。
人間を遥かに上回る存在を認めることは、自分の小ささを実感することに他ならなかった。
そんなことを考える暇があったら、自分の価値を高めることに専念すべきだと思っていた。
若かったな、と今は思う。
あの頃の自分の命の価値と、今の自分の命の価値が、等価値であるとはとても思えない。
今はもう、十分過ぎるほど老いてしまった。
情けないことに、近頃考えることといったら昔のことばかりだ。
自分の命の価値の頂点で死んでいった友人のことばかりが、思い出されてならなかった。
- 950 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:16
- 己の使命を全うした戦友達。
「羨ましい」とは口が裂けても言うまい。
少なくとも自分は、そういった友人達と互角に渡り合ったはずだ。
羨まれることはあっても、羨むなんていうこと、あるはずがないよね?
老婆のつぶやきに答えるかのように、一つの流れ星がさっと空を横切った。
そうそう。星が一つ流れた。一人の人生なんてそんなもん。
老婆はようやく望遠鏡から目を離すと、ゆっくりと梯子を下り始めた。
風に乗って、イノシシの煮込みの臭いが漂ってくる。
良い臭いだ。その煮込み料理は白い老婆の好物の一つだった。
そしてこの森では滅多にお目にかかれない珍しい料理でもあった。
だが食欲をそそるその臭いは、物凄い勢いで一つの胃袋に次々と収まっていく。
- 951 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:16
- あのバカ。
本当に一つも残さないつもりかよ。
あたしの「殺すぞ」という言葉も随分と安っぽくなったものだと老婆は思う。
だが本当に殺す必要がない生活というのも悪くない。
実に悪くない。
イノシシの肉の臭いはもう残っていないようだ。
手に入れた安穏とした日々をじっくりと味わいながら、それでもなお、
あのクソババアのことなら、半分くらいは殺してやってもいいかなと老婆は思う。
そうだそうだ。そうしよう。それが今のあたしの使命だ。はははっ。
そんな老婆の愉快な想像を知ってか知らずか、
太陽は今日もまた、いつもと同じように西の空に沈もうとしていた。
- 952 名前:【休眠】 投稿日:2010/02/20(土) 23:16
- エピローグ −休眠− 了
- 953 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:16
- ★
- 954 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:16
- ★
- 955 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:16
- ★
- 956 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:17
-
サ デ ィ ・ ス ト ナ ッ チ
完
- 957 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:17
- ★
- 958 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2010/02/20(土) 23:18
- さて。
なんとなく気になったので数えてみたら、
この小説はおよそ1020890文字くらいありました。
思わず「一桁間違ってるんじゃない?」と言いたくなりますよね。
書く人にとっても長かったですが、読む人にとっても長かったと思います。
読んでいただいた方には感謝の言葉しかありません。
思うところがあって、完結まではレス返し等は控えていました。
愛想が悪くてすみませんでした。
物語に関する感想などがあれば、このスレに直接書いてもらえると嬉しいです。
作者が泣いて喜びます。多分。それを励みに一年間書いてましたから。
一年間。長いようであっという間でした。
最初から最後までお付き合いいただいた読者の皆さん、
本当にありがとうございました。
全ての読者の方に1020890回の感謝の言葉を捧げつつ、
とりあえすここで幕とさせて頂きます。
ご愛読ありがとうございました。
- 959 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:18
- ★
- 960 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:18
- ★
- 961 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 23:18
- ★
- 962 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/21(日) 00:15
- 正直言うと凄く長かった。でもその分スケールがでかくて、引き込まれました。
推しが死んでも読んでしまう何かがありました。
この量を2日に1度のペースで、連載出来ていて量・スピード・質、3つ全て揃えられるのはあなただけだと思います。
お疲れ様でした。また顎ヲタさんの書く話を楽しみにしています。
- 963 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/21(日) 00:21
- 今夜ありがとう
- 964 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/21(日) 00:31
- 更新が滞ることなく
この超大作を書き上げられた
作者様は本当に凄いと思います。
またこんな素晴らしい作品を
タイムリーに読めたことが
本当に喜ばしいです!
- 965 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/21(日) 00:47
- 往年のメンバーから現役までフルキャストでてくるって素敵です。
長編っていいなぁ〜☆
作者殿に感謝m(._.)m
- 966 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/21(日) 01:04
- 完結おめでとうございます。
これほど更新を楽しみにしていた作品はありません。
感想を文字にするのがとても難しいのでひとまず作品公開の御礼まで。
本当にありがとうございました。
- 967 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/21(日) 21:06
- 完結おつかれさまでした
この作品を読むため久し振りにmseekに来てました
中途半端な誉め言葉では作品にも作者さんにも失礼な気がしますが
特殊な世界観を血肉の入ったものにする筆力に圧倒されました
- 968 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/22(月) 00:54
- 完結おめでとうございます。毎回楽しみにしてました。
これだけの登場人物を生き生きと動かし、
スケールの大きな作品を書くことが出来るなんて…。
リアルタイムで読むことが出来て幸せでした。
ありがとうございました。
- 969 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/22(月) 11:22
- お疲れ様でした。
毎回楽しませてもらいました。
こんなに濃い内容の小説はなかなかありません。
圧倒されました。
いいものをありがとうございました。
- 970 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/23(火) 19:38
- 応援していたヨシザワが死んで残念だったですが、すごく引き込まれる作品でした☆
- 971 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/24(水) 07:34
- 月・木・土の23時の僕の楽しみでした
ありがとう
- 972 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/24(水) 21:23
- 楽しかったです!
4年ぶりに訪れてハマったのがこの正月のこと。夢中で読んでました!
- 973 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/25(木) 23:04
- 完結お疲れさまでした
すごくおもしろかったです
読むたびに次の更新をいつも楽しみにしていました
すばらしい作品をありがとうございました
- 974 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2010/02/28(日) 16:09
- 完結からおよそ一週間。
ちょっとびっくりしました。
これまでも飼育では何作か小説を書いたことがあるのですが、
こんなに多くのレスがついたのは初めてじゃないかと思います。
皆さん本当にどうもありがとうございます。
ありきたりな言葉で申し訳ないですが、非常に嬉しいです。いや本当に。
- 975 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2010/02/28(日) 16:10
- >>962
このペースで書くのは正直きつかったんですが
長い話になるのはわかっていたので一気に更新したかったんです。
更新間隔を空けたら忘れられそうで・・・・・
>>963
また会えるだろう
>>964
タイムリーに読んで頂いたんですか。ありがとうございます。
超長い作品だったんですが最後までよんでもらえて嬉しいです。
>>965
えへへへ。フルキャストですよ本当に。
石黒福田以外は一度は見せ場を作れたと思うのですがどうでしたでしょうか。
- 976 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2010/02/28(日) 16:10
- >>966
更新を楽しみにしていてくださってありがとうございました。
そういう人が少なからずいるんじゃないかと信じて更新していたのですが
最後まで更新してよかったです。
>>967
わざわざこの作品を読むために・・・・・ありがとうございます。
登場人物に血の通ったものを感じていただけたでしょうか。
筆力があるかどうかはわかりませんが一生懸命書いたので届いてくれると嬉しいです。
>>968
ありがとうございます。登場人物が生き生きしていると言われるのが一番嬉しいです。
スケールが大きいだけに最後まとめるのが難しかったですが
読んで楽しんでいただけたのなら嬉しいです。
>>969
疲れました・・・・というのは嘘じゃなくて本当ですが書いていて楽しかったです。
濃い文章だから読みにくい部分もあったかと思いますが
その濃さを楽しんでいただけたのなら作者としても嬉しいです。
- 977 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2010/02/28(日) 16:10
- >>970
どうもどうも。作者としては全ての登場人物の行動に意味を持たせたつもりです。
そういったものに共感なり反感なり、何らかのものを感じてもらえればと思います。
>>971
2スレ目までは週二回の更新だったんですが、このペースだと一年以内に終わらないので
3スレ目からは週三回の更新にしてみました。
定期更新に合わせて定期的に読んでもらえたなら嬉しいです。
>>972
四年振り! 四年前って私は飼育にいなかったですよ。
この小説は今のファンだけではなく昔のファンにも楽しんでほしいという意図で書いたので
昔からの娘。小説ファンにも楽しんでもらえたのなら嬉しいです。
>>973
ありがとうございます。ストーリーには山も谷もあるわけですが
次の更新を楽しみにしてもらえるように工夫しながら書いたつもりです。
すばらしい作品と言ってもらえて本当に嬉しいです。
- 978 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2010/02/28(日) 16:10
- たくさんの感想レスありがとうございます。
私の書いたものが何がしかの形となって伝わったことが確認できて大変嬉しかったです。
感想レスは本当に書き手にとっては大きな励みになるのですよ。
ちなみに私は最近ブログを始めました。
ttp://m-seek.net/press/homare0510/
このスレに書き込みにくいと思われるような感想があれば、
こちらのコメント欄に書いていただけたらと思います。
よろしくお願いします。
- 979 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/28(日) 19:31
- 遅まきながら完結お疲れ様でした
たたみかけるような文章に圧倒されながらも読むのを楽しみにしていました
なんというか、本当にありがとうございました
- 980 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/03/06(土) 23:56
- なんかすごい作品でした。
それぞれのキャラクターの物語、濃かったです。
- 981 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/03/12(金) 00:20
- すばらしい大作でした。おもいきって、次回作を期待してみます♪
- 982 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2010/03/17(水) 19:29
- >>979
感想ありがとうございます。
たたみかけるというか、これでもかこれでもかという感じで
のめり込んで書いていたような気がします。
そういったしつこい文章を楽しんでいただけたなら幸いです。
>>980
このお話は登場人物が多いですし、その登場人物それぞれに
物語があればいいなって思いながら書きました。
なんかお話がバラバラになりそうな気もしたのですが
そういう書き方をして良かったなって思います。
>>981
大作というか長い話でしたよね。
最後まで読んで頂いて本当にありがたいなって思います。
このお話はここまでですが、次回作はまた全然違うものを書こうかなって思っています。
- 983 名前:rainbow 投稿日:2011/06/26(日) 01:23
- ものすごく今さらながらにコメントさせていただきます。
ここ4日間で一気に読ませていただきました。
壮大なストーリーラインと、それに勝るとも劣らない表現力に脱帽です。
ドラマ化でもして欲しいくらいの超大作だったと思います。
ありがとうございました!
- 984 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2011/07/08(金) 21:55
- >>983
感想ありがとうございました。
この長編を一気読みしてくれる人がまだいるとは思いませんでした。
壮大というかわかりにくいというか、作者なりに頑張って組み立てたストーリーなので
楽しんでいただけたなら本当に嬉しいです。
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