サディ・ストナッチ・ザ・レッド
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:06
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチ
ttp://m-seek.net/test/read.cgi/water/1238076010/
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:08
- ★
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:08
- 撃てるか? 躊躇わずに撃てるか?
誰かが必ず傷つくとわかっていても。
誰かの人生が、確実に、不可逆的に変わるとしても。
お前は撃てるか?
撃った相手が、お前の愛している人間ではないなんて
誰も保障してくれないとしても―――
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:08
- 第五章 流行
- 5 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:09
- ゴトウマキが初めて人間を撃ったのは、あの施設の事故から三年が経とうとしていた、
よく晴れた日の朝だった。
訓練は積んでいた。積むというよりも、この三年間は訓練のみがマキの日常だった。
毎日、息を吸うように何度も拳銃を撃ったし、
格闘技のスパーリングの回数は食事の回数よりもはるかに多かった。
呼吸と射撃と格闘技と食事。どれも皆、マキの日常であり、それらは不可分だった。
そういえばあの三年間、あたしはシャワーを浴びたことがあったっけ?
浴びた気もするが浴びなかった気もする。
歯だって磨いていた気がするが、一度も磨かなかったような気もする。
訓練を生業とするマキの日常は極端にイベントが減っていた。
メリメリと音を立てながらマキは強くなっていった。
身に付けた技術でいえば、どの国の特殊工作員にも見劣りしなかっただろう。
だがそれはあくまでも訓練でしかない。
スコープもつけずにマキはライフルを構えた。
数百メートル離れたターゲットの姿は全く見えなかった。
芥子粒ほどの大きさもなかった。文字通り「全く」見えなかった。
建物の隙間を流れていくビル風だけが、マキに標的の動きを教えていた。
- 6 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:09
- 引き金を引いた瞬間、マキの中に奇妙な感覚が流れた。
弾丸が標的の頭部を貫いたことに関しては疑いはなかった。
目で見ることは叶わなかったが、確信することができた。
これまで訓練でやってきたことと、全く同じ作業だったから―――
だが訓練では感じたことのない感覚がマキの体に流れた。
一人の命を絶ったのだという事実。一つの人生を終わらせたのだという事実。
その事実は一度確定すると、二度と覆ることはなかった。
物が壊れるのと、命が消えるのとは同じではない。
自分が、他人の人生に決定的に『介入』した事実は、決して軽くはなかった。
だがマキは、心の中で膨れ上がってこようとした罪悪感を、乱暴に踏み潰した。
人を殺すことには不慣れでも、自分の心を殺すことには慣れている。
マキにとってそれは、ずっと幼い頃から続けてきた行為だった。
その行為は、日々の訓練以上に、マキにとって日常的な行為だった。
確かに心は痛む。傷つく。だが見なければいい。直視しなければいい。
心を、自分の目の届かない遠くへ置けばいい。できるだけ遠くへ。
さして難しい行為ではなかった。
- 7 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:10
- 「撃ったか、人を」
「はい」
マキの教官は四十代半ばの軍人だった。
たった四十年しか鍛えていないとは、とても思えないような体つきだった。
見る人間に違和感を与えるほど、太い首と広い肩幅と分厚い胸板をしていた。
街で売ってる服など、きっと一着も合わないことだろう。
「気分はどうだ?」
「気分?」
「嬉しいか? 苦しいか?」
「・・・・・言ってる意味がわからない」
マキは素直に答えた。
この男に心を開いているわけではない。
どれほど濃密な訓練の時間を共有しようとも、共感を覚えることはなかった。
マキは忘れてはいない。自分が何を成すべきなのかを。
だが意地を張る必要もなかった。この男は自分の過去には全く関わりのない人間だ。
それに意地を張れば男との接点が増える。
他人との接触面を増やす。それは今のマキにとって望ましいことではなかった。
だからマキは素直に答えた。本当に、男の言っている意味がわからなかった。
「お前は難しいターゲットを仕留めた。達成感から嬉しさを感じてもおかしくない。
だがお前は一人の人間の命を絶った。罪悪感に苦しめられても不思議ではない。
俺は知っておきたい。お前は一体どっちのタイプの人間なんだ?」
「意味がわからない」
「わからない?」
- 8 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:10
- 「あたしは24時間ずっと訓練を受けてきた。まるで息を吸うように」
「・・・・・そうだな」
男は苦笑した。確かにマキには24時間苛烈な訓練を課してきた。
眠ること、体を休めて体力を回復させること、それすらも訓練の一環だった。
気が休まる瞬間は一秒だって与えてこなかったはずだ。
「同じ。今回も同じだった」
「まるで息を吸うように? 相手を撃ったと?」
「はい」
男は「ほう」と感嘆の声をもらした。
ごく稀にこういうタイプの人間がいる。
まるで特殊工作員になるために生まれてきたような人間だ。
こんな年端もいかぬ少女の言うことだ。ただの強がりと受け取る人間もいるかもしれない。
だが男はマキの言葉をごく自然に受け取ることができた。
自衛官からの選抜者ですら、半年で半数以上が脱落する過酷な訓練を続けて三年。
既にマキは素手の格闘においても、男の動きを完全に凌駕するようになっていた。
「嬉しくも、苦しくもないと?」
「息を吸って喜ぶ人間はいないし、苦しむ人間もいない」
「わかった。さがっていい」
「はい」
- 9 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:10
- ☆
- 10 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:10
- 次にマキはある武装勢力の制圧を命じられた。
舞台は日本ではなかった。
異質な気候。不慣れな食事。通じない言葉。異なる文化。
だがサポートは一人もつかなかった。
あくまでも一人で行動することを要求された。
一人で探査し、一人で殲滅し、一人で撤収せよという指令だった。
飛行機の往復チケットと偽造パスポートといくつかの化粧品。
老人たちの組織―――彼らはUFAと名乗った―――が用意したのはそれだけだった。
資金や武器すらも現地で一人で調達せよとのことだった。
マキは素手での戦闘や銃器の扱いしか訓練を受けていなかった。
だがそれで十分だった。
マキはその国に潜入し、まず銃器を強奪した。簡単なことだった。
次に武装勢力の居所を探った。これが難しかった。手がかりは組織の名前だけだ。
マキはその名前が書かれた紙を持って、
危険な匂いがする店をしらみつぶしにぶち壊していった。
ひたすら実力行使の毎日。罪悪感も何も感じなかった。
やがてマキはその組織の網にかけられ―――泊まっていたホテルを襲撃された。
マキはたった一丁の拳銃で返り討ちにした。簡単なことだった。
そこから組織のアジトをつかむまではあっという間だった。
- 11 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:10
- 武装集団のアジトは山の中にあった。
鬱蒼と茂った森の密度は、日本国内のそれとは比べ物にならないくらい濃い。
月の明るい夜だったが、森に入るとその月明かりも全く届かなかった。
マキは全神経を集中させて真っ暗な森の中を歩く。
ある意味、銃弾の最中にいるときよりも集中していた。
森の中には数え切れないくらいたくさんの生き物が蠢いている。
その動きをしっかりと肌で感じていた。
生き物が発する僅かな熱。僅かな分泌物。僅かな動き。
そういったエネルギーを、マキは残らず全てすくい上げていく。
マキの表皮細胞は異常に発達していた。
触覚が普通の人間の数億倍にも膨れ上がっていた。
その表皮細胞が持つ触覚の一つ一つが森の揺らめきを拾っていく。
拾い上げられた情報はその場で映像に変換され、マキの脳に届けられた。
脳内にサーモグラフィーのような映像が広がる。
マキの皮膚では、凄まじいまでの速度で膨大な計算が行われていた。
マキは満足していた。
自分が―――あそこで訓練したことを実践できていることに。
マキは自分が訓練を始めた頃のことを思い出していた。
- 12 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:10
- ☆
- 13 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:10
- 訓練の最初は戸惑いの連続だった。
自分の体に何が起こったのか。
そんなことすら、正確に把握するまで時間がかかった。
「お前の皮膚は、ウイルスの影響で触覚が異常に発達している」
老人は訥々と説明を続けた。
マキが理解できないと文句を言っても、言葉を変えて辛抱強く説明を重ねた。
「触覚。圧覚。痛覚。振動感覚。温度覚。全てが異常な数値を示している。
人智を超えた圧倒的な能力だ。お前はその正しい使い方を覚えなければならない」
老人の話によると、その異常感覚の使い方を誤れば、
イチイのようにただ痛みしか感じ取れなくなるだろうということだった。
「イチイ」という言葉が出た瞬間、マキの心はチクリと痛んだ。
まずは簡単な訓練から始まった。
部屋の中に舞っている埃の数を数えさせられた。
楽勝だった。それは施設の中でも何度か試したことだ。
空気のゆらぎを敏感に感じ取れば、狭い空間の中くらいは完全に把握できた。
次に部屋に舞う微生物の数を数えさせられた。これも楽勝だった。
その次は埃と微生物を見分けて、その比率を出せと言われた。
見分けるのは簡単だった。埃と微生物は明らかに質感が違う。
計算の苦手なマキは比率を出すのに若干戸惑ったが、なんとかクリアした。
- 14 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:11
- 条件はどんどん複雑になった。
まず部屋の温度を変えられた。
温度が高くなると、空気の流れが一変する。
これまで全く気にも留めなかったことに、マキは気づかされた。
温度が一度上がるだけで、埃の動きの複雑さが上昇するのだ。
さらに微生物は、埃とは比べ物にならないくらい強く、温度の影響を受けた。
マキは苦戦した。だがこれもなんとかクリアした。
その訓練と平行して、部屋の温度が何度であるか、
小数点一桁まで正確に答えろと言われた。
マキは触覚ではなく温度覚に神経を集中させる。
全くやったことのない動作だったが、慣れれば何とかなった。
慣れてしまえば、温度をつかむのは微生物の数を数えるよりも簡単だった。
- 15 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:11
- 次に、部屋の中の離れた位置にコップが置かれた。
コップの中のコーヒーの温度を答えさせられた。簡単に答えた。
するとコップの数が増やされた。
コップの中身も、コーヒーやお茶やアルコールなど、様々だった。
温度だけではなく、中身まで正確に答えることを要求された。
熱の放出具合の違いを感じ取れと言われた。これも何とかこなした。
コップの中身を把握すると同時に、部屋の中を舞う埃の数をカウントしろと言われた。
20を超えるコップの熱量の動き。
部屋の温度変化に敏感に反応しながら部屋を漂う埃と微生物の動き。
微生物は、コップが放つ温度からも敏感に影響を受けていた。
把握しなければならないパラメーターの数が爆発的に増えた。
しかもそれらは1秒ごとに刻々とその値を変動させていく。
膨大な数字がぐるぐると回りだしたマキの脳内は、熱を帯びてショートした。
文字通り発熱していた。
マキはかつて経験したことのない種類の熱と頭痛に苛まれ、三日ほど寝込んだ。
- 16 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:11
- 「頭で計算するのではない。お前の皮膚には何百万個という触覚受容体が存在している。
それを使うのだ。お前の触覚受容体は、もはやただの機械的な受容体ではない。
情報処理能力でいえば常人の大脳にも匹敵する能力があることがわかっている。
頭で計算するように、皮膚の表皮細胞で計算するのだ。細胞にある数百万の受容体。
正しく使用できたならば、その全てがお前の新たな頭脳となってくれるだろう」
この感覚はなかなかつかむことができなかった。
そのまま無為な時間が数ヶ月過ぎ―――
新たな感覚をつかむことなく、マキは別の訓練に移った。
次は、完全に閉鎖された部屋の中をただ歩くだけだった。
だが老人の出した課題はとてつもなく難しかった。
「この部屋の端から端まで移動するのだ。ただし部屋の埃は一粒も動かしてはならん」
とても無理な注文だった。マキが歩けば、空気が動く。空気が動けば埃が動く。
それは絶対的な真理であり、努力でどうこうできるものではなかった。
黙って訓練に従ってきたマキだったが、ここでついに音を上げた。
「無理だよ。そんなの絶対にできっこない」
- 17 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:11
- 「今のこの部屋の温度は?」
「ん・・・・・。だいたい21.1℃から21.3℃くらい」
モニターで室温を確認した老人は、満足げに頷いた。
「部屋の温度が一様ではないことはわかるな?」
「うん。端の方は温度低いしさ、あたしの体の回りはかなり温かい」
「温度の流れと、空気の流れが一体になっているのもわかるな?」
「うん。なんとなく感じ取れるようになった」
温かい空気は軽く、冷たい空気は重い。単純に言えばそうなる。
そして温度は熱エネルギーとして、絶え間なく色々なものから放射されている。
最も巨大なものは太陽から。そして生物からも同じように熱エネルギーが放射されている。
生物だけでなく、この世界のありとあらゆる物体は、熱エネルギーを持っていた。
熱エネルギーはそれ単体で存在しているのではなく、
お互いがお互いに干渉し合うことによって、複雑な物理的運動を誘発していた。
触覚だけではなく温度覚も異常に発達していたマキは、そういったエネルギーの流れを
的確に感じ取れるようになっていた。
「この部屋で最も影響力のある熱源はなんだ?」
「ねつげん?・・・・・・人間かな・・・・・・・」
「その通り。我々が発する熱が、この閉鎖した空間の空気の流れに最も干渉している」
- 18 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:11
- 難しそうな顔をするマキに、老人は噛んで含めるように言い聞かせた。
「埃を動かさないためには、空気を動かさないこと。それは確かに不可能だ。
私が言っているのはそういうことではない。今この瞬間も空気は動いている。
その動きに全く干渉せずに動いてみろということなのだ。わかるか?」
「わかんないよ・・・・・」
苛立ちを隠せないマキに、老人は「大事なのはイメージなのだ」と言った。
「埃は動いていてもいい。だが『お前が』動かしてはいけない。
この空間の空気の流れ、熱エネルギーの流れに一切干渉せずに動くのだ。
お前にはそれができる。できるはずだ。まず自分の体温を感じてみろ」
「だってあたしの体から出る熱は止められないよ」
「止めなくていい。その代わり、部屋の熱の動きをリアルタイムでモニターし続けろ。
熱の流れの『隙間』に飛び込むのだ。空気は常に動いている。絶対に静止しない。
逆にいえば常に『ひずみ』が生じている。それが隙間だ。そこにお前の体を収めろ。
お前の体の熱をそのひずみに押し込んで、温度を相殺するのだ。そして歩け」
老人の話はどんどん熱を帯びてきた。
何度も説明を受けて、ようやくマキにも老人の言わんとすることが理解できた。
だがその要求はマキにとっては「瞬間移動しろ」というのとほぼ同じ意味だった。
空気の流れを全く起こすことなく移動する?
果たしてそんなことが可能なのだろうか。
マキは全ての皮膚細胞に働きかけ、部屋の温度をモニターした。
確かに老人の言うように、部屋には熱エネルギーのゆらめきが存在していた。
―――だが。
- 19 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:11
- 「確かに『ひずみ』はあるみたい。でもすごい細いし、小さいし、
とてもそこに人間が飛び込んでいけるような感じじゃないよ」
「よし。感じ取れたか。一歩前進だな」
「前進じゃないって! 絶対に無理だってことがわかったんだよ。
それにその『ひずみ』は常に不規則に動いてるよ。風みたいに動いてるんだ。
それに合わせて動くなんてできない。行きたいところになんて行けないよ」
マキはそんな文句を言いながらも、自分の能力が一つ上がったことを感じていた。
部屋の中の温度の流れが見えるのだ。
皮膚で感じ取った温度情報が、脳内で一つのイメージを作り上げていく。
確かに、マキが動けば、マキの体が発する熱エネルギーも動く。
それが室内の温度の動きに大きく干渉していた。
マキが動けば空気が動く。それはごく当たり前のことだった。
温度だけではない。
純粋にマキという物体そのものが空間を移動するのだ。
移動した空間に存在していた空気は当然別の場所に流れていく。
マキにその流れを押し止める術はなかった。
マキは自分なりの言葉で、そういった考えを老人にぶつけた。
- 20 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:12
- 老人は頑なだった。
「いや、できる。全ての皮膚細胞を情報処理に使えば可能になるはずだ。
予測するのだ。空気の流れを。温度の分布を。温度の流れの『ひずみ』を。
使えるひずみと使えないひずみを分けて考えることはない。
どんなに狭い空間でも構わない。まずはそこを使うことを覚えるんだ」
「だから! 絶対無理だって言ってんじゃん!」
「見えるのだろう?」
「うん・・・・・・・」
老人と話している間にもマキの能力は上昇していた。
上昇したというよりも、使い方がわかってきたという方が正確だろうか。
とにかくマキは部屋の中の物質の動きを完璧に理解できるようになっていた。
だが老人の言うような「予測」は難しい。
マキの大脳ではとてもシュミレーションの計算が追いつかない―――
「お前はそこに存在していてもいい。だが干渉してはならないのだ」
老人の言葉がマキの心の中にある何かに触れた。
「存在してもいいけど・・・・・干渉はしない?」
マキの意識の中で何かが大きく変化した。
- 21 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:12
- 「そうだ。お前はそこにいる。だがこの世界では、お前単独ではお前たりえないのだ。
この世界は物質の『存在』だけで成り立っているのではない。
物質と物質の『相関関係』から成り立っているのだ。その関係こそが世界なのだ。
お前はこれから、世界を支配しているその『相関関係』の鎖を解き放つのだ。
もう一度いう。お前はそこにいてもいい。だが干渉してはならん。
その瞬間、お前はこの世界を支配するルールから、完全に自由になるのだ」
自由という言葉がマキの心を撃ち抜いた。
初めて老人の言葉が理解できたような気がした。
思えばずっとそういう生き方をしてきたような気がする。
マキはただそこにいるだけで、多くの人間を引き寄せてきた。
学校でも。地域でも。そして施設でも。
だがマキは自分以外の人間に、積極的に関与しなかったような気がする。
なぜだろう? 面倒臭かったから? 自由でいたかったから?
そうではないと思う。自分はずっと寂しかった。
他人にも積極的に関与したいと思っていた。
でもできなかった。上手くできなかった。どうしてだろう。よくわからない。
- 22 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:12
- 世界を支配する鎖を解き放つ。鎖から自分を解き放つ。
老人の言葉からマキが連想したのは、憎らしいテラダの笑顔だった。
「殺せ。俺を殺せ。そして―――お前に関係するの全ての人間を殺すことや」
確かにあの男はそう言った。
自らの意思で、自分を取り囲む全ての物に干渉しろと。
マキの体を縛っている鎖を断ち切るために、決定的に介入しろと言った。
「それが『自由』っていうもんやろ?」
あの時には答えられなかった。
だが今のマキにはその問い掛けに答えることができる。
その手の中でイチイを失ったマキには、はっきりと答が見えていた。
違う。そんなものは自由じゃない。
いちーちゃんを失ってもあたしは自由になんてなれなかった。
施設から解き放たれても、あたしは自由になんてなれなかった。
マキがその人生で唯一積極的に関わろうとした友人。
その友人を失ったときにマキの胸に残ったのは、深い悲しみだけだった。
そんなものいらない。悲しみなんて、寂しさなんていらない。
あたしはもう誰にも心を許さない。大切な人など必要ない。
もうあたしは二度と―――世界の何にも干渉したりしない―――
- 23 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:12
- マキは最初の一歩を踏み出した。
揺らめこうとする空気の流れに微かに逆らう。
違う。こうじゃない。逆らってはいけない。干渉してはいけない。
マキは再び歩みを進めた。
揺らめこうとする空気の流れに乗る。
どこまでも流されて―――マキは部屋の壁に激突した。
違う。こうじゃない。流されてはいけない。歩きやすい道に流れてはいけない。
三度目。マキは部屋に漂う空気を押し分けて進んだ。
だが空気には一切干渉しない。干渉してはならない。
あたしはもう二度と―――何事にも干渉しない。
皮膚に何万とある温度受容体の感度を、最大限に押し上げた。
まだだ。もっと。もっと。もっとできるはず。もっと速く。もっと鋭敏に。
- 24 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:12
- 「お前の皮膚細胞を、温度受容体を、大脳のように使うのだ」
おそらく老人の言葉を初めて実践することができたのだろう。
突然、マキの目の前の景色が一変した。
部屋に漂う億千兆万の分子の熱エネルギーが一括して処理された。
全てのパラメーターがリアルタイムで処理され、
同時に緻密なシュミレーションが施された。
1秒先。2秒先。3秒先。その程度だったが、革新的な進歩だった。
マキの目の前には―――何百何千という温度の裂け目がはっきりと見えた。
ごく自然な感じで歩けたと思う。
道は無数にあった。ほとんど制約を受けずに歩きたい方向へ歩けた。
マキが歩くことによって、部屋の埃や微生物は全く影響を受けなかった。
その瞬間マキは―――この世界から完全に孤立していた。
何にも縛られていなかった。
そこに存在していながら、同時に、存在していなかった。
その感覚を完全に自分のものとするまで二ヶ月の時間を要した。
屋外でも使えるようになるまでは、二年の月日を要した。
- 25 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:12
- ☆
- 26 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:12
- その感覚を身に付けてから、マキの訓練の成果は飛躍的に上昇した。
全く格闘技の経験のないマキだったが、空気の流れをつかむだけで、
常に相手より優位に戦いを進めることができた。
ただ移動しているだけでも、相手がマキのことを捉えるのは容易ではなかった。
打撃技も関節技も極めて短期間で習得できた。
温度の流れさえつかんでいれば、相手の動きを予測することは簡単だった。
相手に触れるだけで、触覚を通じてその肉体の情報を収集することができた。
マキは手練の格闘家のように、肉体で会話することが可能となった。
やがて、格闘技でマキに勝てる人間はほとんどいなくなった。
それ以上に射撃技術の向上は劇的だった。
的を外すということが全くなくなった。
訓練を重ねたマキは、たとえ目を閉じていても、
数百メートル先の的を感じ取れるようになっていた。
どれだけ強い横風が吹いていようとも、マキの射撃は全く影響を受けなかった。
射撃に関しては、もうマキに指導できる人間はこの世にいなかった。
マキに残されていたのは、ただひたすら体力と筋力と精神力を鍛え、
状況に応じた行動ができるよう、戦闘の戦術戦略を詰め込むことだけだった。
- 27 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:12
- ☆
- 28 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:13
- 状況に応じた行動ができる―――それが試されているのがまさに今だ。
異国の森でマキは皮膚感覚を全開にする。
数百メートル先の砦に、数人の人間がたむろしている気配がした。
マキは訓練の途中で何度か老人に抗議した。
自分は訓練をするためにここに着たのではない。
イチイを殺した『巨大な何か』を追うためだ。
だが老人はマキの要求をそっけなく却下した。
「あれは並の人間には倒せない。まずはお前が『並外れた存在』になることが先決だ」
マキはその言葉に素直に従った。
至近距離で『巨大な何か』に接したマキは、老人よりも強くそのことを実感していた。
今の自分ではあれに立ち向かうことはできないだろう。
まずは自分を鍛えることが先決なのかもしれない。
マキは歯を食いしばって三年の月日に耐えた。
今日この試験さえクリアすれば―――マキは関東に入る手はずになっていた。
- 29 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:13
- マキは懐中電灯はおろか、双眼鏡も使わない。
そんなものは必要なかった。砦から流れてくる風が、全てを教えてくれる。
武装集団の人数は21人。武装の程度まではわからない。
だが一人一人狙撃していけば、少なくとも半分くらいまでは減らせるだろう。
向こうが狙撃に気付いた時点で、砦に踏み込んでいけばいい。
マキは爆薬などの大掛かりな装置は持ってきていなかった。
あくまでも自分の力で相手を撃ち抜いていくつもりだった。
なぜかそれが―――自分に対するけじめのような気がしていた。
マキはライフルを構える。銃口を向けた先には夜の闇しか見えない。
だがマキの肌感覚は、相手の眉間をしっかりと捉えていた。
絞るように慎重に引き金を引く。
ガチィ
撃鉄が下りる音はしたが、銃声は響かなかった。
- 30 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:13
- 引き金を二度引くことはなかった。手応えでわかる。ジャムだ。
案の定、銃をばらしてみると、弾が目詰まりを起こしていた。
不覚―――。
銃器店でかっぱらってきた安物の銃だ。
精度の面では自分できちんと修正を施していたが、
動作確認の面ではメンテナンスがやや甘かったのかもしれない。
まるで見えない何かが―――あたしを試しているみたいだ。
マキは自嘲の笑みをもらしながら、一丁のハンドガンを引き抜いた。
弾は30発。無駄はできないが、十分足りる数だ。
マキは遠距離からの狙撃を諦めて、砦に突入することを決めた。
- 31 名前:【流行】 投稿日:2009/08/02(日) 23:13
- 難しく考えることはない。砦に乗り込む。21人全員殺す。それだけだ。
そんなこともできないようなら、
あの『巨大な何か』に立ち向かうことはできないだろう。
マキはポケットからスキンクリームの入ったケースを取り出した。
それがUFAから支給された、たった一つの『武器』だった。
マキはクリームを全身に塗っていく。丹念に。丹念に擦りこんでいく。
特殊なクリームはマキの肌の感受性をさらに増加させる効果があった。
マキは皮膚の温度受容器の感度を最大限まで上げる。
目の前に大海のうねりのような温度の波が姿を現した。
刻々と姿を変えていく空気のひずみに、迷うことなく身を投げる。
マキは走り出した。
常人では考えられない速さで―――
かつ、ジャングルの中で一つの物音も立てることなく―――
まるで瞬間移動するように―――
漆黒の闇と完全に同化して、マキは夜の森の中を駆け抜けていった。
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:13
- ★
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:13
- ★
- 34 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:13
- ★
- 35 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/03(月) 20:51
- 世界観にすごく引き込まれます
- 36 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:08
- 闇と同化したマキは、夜の奥底からやってきた死神と化した。
マキのハンドガンにはサイレンサーはついていなかった。
最初の一人を撃ち殺したとき、ターンという銃声が砦に響いた。
まるで運動会の徒競走のスタートを告げる号砲のような、軽くて安っぽい音だった。
それが人の死につながっているとは思えないような滑稽な音だった。
マキの動きは素早かった。
人間はその体から発する熱を抑えることはできない。隠すことはできない。
マキは砦にいる21人の体温の動きを完全に把握していた。
21個のビーズを、一本の糸で数珠繋ぎにするかのように、
マキは最短距離で砦を駆け抜けた。
撃っては闇に姿を消し、闇から姿を現しては撃った。
武装集団は、ただの一人もマキの姿を認識することができなかった。
21発の弾丸を使って、21個の死体を作り上げるまで―――
ものの1時間もかからなかった。
- 37 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:09
- ☆
- 38 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:09
- 帰国したマキを待っていたのは一匹の犬だった。
その巨大な黒い犬の横腹には、見覚えのある「0」のタトゥーがあった。
タトゥーがなかったら何の犬なのかわからなかったかもしれない。
施設にいた頃の愛らしさは消え、ゼロは屈強で精悍な雰囲気をその体にまとわせていた。
いや。よく見るとその顔に微かに面影が残っているかもしれない。
隙あらばマキにじゃれようと飛び掛かってきた、あの頃のゼロの面影が。
ゼロはマキに飛び掛ると、無防備にその体を思いっ切り預けた。
鋼のような筋肉をまとったマキは、ゼロの巨体をがっしりと受け止める。
「ゼロ! おっまえ・・・・・大きくなったなあ・・・・・・」
ゼロは長い舌でベロベロとマキの顔をなめる。
ざらざらとした舌の感触に、マキは思わず顔をしかめた。
ゼロの両耳をつかみ、「おい! ストップ! ちょっと待てい!」と叫ぶ。
ゼロは「うぉん」と一つ吠え、そのまま静止した。
戸惑ったマキが次の指令を出すまで、石像のように静止したまま動かなかった。
- 39 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:09
- 「イヌは極めて忠誠心の強い動物だ」
関東検閲所へと向かうミニバンの中で老人は言った。
マキは老人の隣に座っている。さらにその後方の席にゼロは座っていた。
外はじとじととした雨が降っている。そろそろ日が暮れようとしている時間だった。
ハンドルを握っているのはマキの教官を務めていた男だ。
助手席には誰も座っていない。機密は最小限度の人数で守るべきだということだろうか。
マキがこの三年間で接した人間は、老人と教官を入れても四、五人ほどだった。
教官は、バックミラー越しにゼロを見つめながらマキに説明した。
「ゼロの訓練は南米某国の軍用犬育成所で専門家に行なってもらった。
成績は極めて優秀。金はいくらでも払うから譲ってくれと何度も言われたよ」
特に危機の察知に関しては信じられない能力を発揮したという。
このイヌも確実にウイルスの影響を受けていた。
もしかしたらマキと同じような能力を身に付けているのかもしれない。
何億積まれても、UFAがゼロを手放すことはあり得なかった。
- 40 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:09
- 「成績は優秀だったが、一つだけ落第点となった項目があった。
何だかわかるか? それはな、飼い主に対する忠誠心だよ」
軍用犬は人間の指示を受けて活動する。
戦場という極限状態では、人間の指示は絶対でなければならない。
死ねと命令されれば迷わずに死ぬ。それが真の軍用犬なのだ。
元々イヌは人間に対する忠誠心が強い動物だ。
だからこそ軍用犬として用いられる。だがゼロはそうではなかったらしい。
「イヌの中には『二君に仕えず』というタイプのイヌがいる。
一度この人が主だと決めたなら、死ぬまでそれ以外の人間の命令には
一切従わないタイプの犬だ。どうやらゼロもそのタイプのようだな」
マキは犬に対する訓練など一度もしたことがない。
指示の出し方もしらないし、どういう命令を出せばいいのかもわからない。
だがマキが「走れ」と言うと、ゼロはマキが「止まれ」と言うまで延々と走り続けた。
ゼロにとっては、マキが唯一絶対の主であるらしい。
- 41 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:09
- 老人が一つ深いため息をついた。
「高い金を積んで訓練させたんだ。鎖につないでおいても意味がない。
この犬はお前が使うといい。きっと関東でも役に立つことだろう」
ワイパーが規則正しい動きで雨粒を跳ね除けていく。
その向こう側には関東の中と外とをつなぐ、関東検閲所が見えてきた。
教官は検閲所のゲートの前で車をとめ、窓を開けて通行書を提示した。
係員は通行書を見ると、極度に顔をこわばらせた。
建物の奥からは、さらに上官と見える男がやってくる。
短いやり取りを経て、マキを乗せたミニバンは、
ほとんどフリーパスの状態で関東の中に入ることができた。
「悪名高き関東検閲所も、金さえ積めばこの通りだ」
老人は憎憎しい表情でそう言った。
その憎しみの対象が何であるのだろうか。
金さえ積めば何でもできる。老人が暮らしてきたのはそんな単純な世界ではなかった。
金だけではどうにもならないシビアな世界を生き抜いてきた者にとって、
金だけで動く単純な世界は、嫉妬でも羨望でもなく、
憎しみの対象となるのかもしれない―――
- 42 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:09
- 一方、教官の方は涼しげな表情だった。
この男が表情を変えるところを、マキはあまり見たことがない。
「これからお前は東京都区内を管轄とする麻薬取締本部に配属となる。
警察や自衛隊は、縦も横も組織のしがらみが強くて、なかなか動きずらい。
だが麻取という立場なら、かなりフリーに動けるはずだ。
麻取の手帳があれば警察や自衛隊からも干渉は受けずに済むしな」
教官はマキに包みを渡した。中にはマキの顔写真が張られた麻取の手帳があった。
その他にも官製拳銃や手錠など、一通りの物が揃っていた。
警察や自衛隊や麻薬取締本部などの公的組織に関しては、
訓練のときに一通りレクチャーを受けている。
マキはそれらの組織の内部構成についても、かなりの知識を持っていた。
おそらくすんなりと麻取の立場に溶け込めるだろう。
何か質問は?と教官が訊く。
現時点で、わからないことは一つしかなかった。
- 43 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:10
- 「で、あの『巨大な何か』についての情報は?」
教官は答えない。答える気配を全く見せない。
彼は自分の役割を超える行動をとることを極端に嫌った。
つまりこれは―――老人が答えるべきことなのだろう。
「S.S、だ」
老人がマキの質問を汲み取って答えた。
えす・えす、という言葉がマキの中でアルファベットになるまで少し時間がかかる。
「我々UFAは、あの『巨大な何か』のことを便宜上、S.Sと呼んでいる。
S.Sに関してはこの三年の間でかなりの知見が得られたが、その大部分は
科学的、医療的な専門知識であり、これからのお前の仕事とは関係ない。
お前はとりあえず、この関東でこいつらのことを探せ。それが一つ目の指令だ」
老人はマキに封筒を渡した。中には八枚の写真が入っていた。裏には名前が書いてある。
ナカザワユウコ、イシグロアヤ、イイダカオリ、アベナツミ、ヤスダケイ、
ヤグチマリ、イチイサヤカ―――そしてご丁寧にもゴトウマキの写真もあった。
- 44 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:10
- 「悪趣味」
マキは眉をひそめながら写真を封筒にしまった。
イシグロ、ヤスダ、イチイの顔には黒いマジックで×印が付けられていた。
UFAによって死亡が確認された人間という意味のようだ。
「あの施設で事故が起こった直後に、イシグロアヤの死亡は確認した。
イシグロ本人の部屋の中で倒れている死体を発見した。
原型は止めていなかったが、肩のタトゥーの番号で確認した。
どうやら脂肪細胞が異常に発達したようだ。脂肪がごっそり溶けていたよ」
脂肪がごっそり溶けた死体。想像がつかなかった。
だが想像がつかなかったことはマキにとって幸運なことなのかもしれない。
「ヤスダケイの死体は施設内にある検死室で発見した。事故の前に死んだようだ。
これも原型はかなり怪しかったが肩のタトゥー番号で確認した。
ヤスダは分泌細胞が異常発達したらしい。新陳代謝が異常活性した形跡があった。
まるで老婆のように干からびていた。死後一年くらい経過したように見えたほどだ」
老人は各メンバーの異常な死を淡々と語った。
原型が怪しい死体というのはどういうものなのだろうか。
訓練の一貫で何人も人を殺してきたマキにも、全く想像がつかなかった。
- 45 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:10
- 「イチイサヤカのことについては説明する必要はあるまい」
マキは深く頷く。
それ以上何か言われたら、冷静さを保てる自信がなかった。
「つまり死んだ三人とお前を除けば、残りは四人。
ナカザワユウコ、イイダカオリ、アベナツミ、ヤグチマリだ。
お前の使命はこの四人の身柄を回収すること。生死は問わない。
だが、たとえ殺したとしても死体は必ず回収すること。これは絶対だ」
老人の口調はいつになく厳しかった。
「死体を回収? それは絶対なの? なんでそんなことするの?」
「死体の回収は絶対条件だ。ウイルスを投与された人間の体が必要なのだ。
我々は既に三人の体を回収した。お前の体は必要ないと言っておこう。
お前とイチイは同じウイルスを投与された。イチイの体があればそれで十分だ」
何が十分なのかマキにはよくわからなかった。
死体を道具のように語る老人のことが、ただただ不快だった。
「残り四人の体を回収すれば、ウイルスの断片が全て手に入ることになる。
S.Sを封じ込めるには、全てのウイルス断片が必要だというのが、
現時点での我々の研究結果から得られた―――結論だ。
そのウイルス断片も、人に投与されて変異したウイルス株が必要なのだ。
だから死体が無理なら血でも骨でも肉でもいい。一部でいいから持ち帰ってくれ」
- 46 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:10
- あまりよろしくない指令だった。人を殺すことはともかく、
死体を切り刻むことを、息を吸うように自然にできるだろうか?
マキにはいささか自信がなかった。
それにしてもSSとやらを封じ込める方法がわかっているとは意外だった。
あれはもうUFAにとっては謎の存在ではないのだろうか?
なぜウイルス断片を全て集めれば封じ込めることができるのだろうか?
「ところでさ、S.Sって何なの?」
「それはまだわかっておらん」
封じ込める方法がわかっていると言いながら、S.Sそのものはわからないと言う。
詭弁だ。老人は嘘をついている。マキはそう思った。
だがここで問い詰めても意味がない。
マキには論争を仕掛けるだけの情報がなかった。
とにかく全てのウイルスを集めて老人に渡せば、何らかの動きがあるのだろう。
まず今はこの四人を見つけ出すことが先決だ―――と自分の心を納得させた。
- 47 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:10
- 「で、四人の手がかりはあるの?」
あれから三年も経っているのだ。少しは捜査が進展していなければおかしい。
だが老人の返答は歯切れの悪いものだった。
「手がかりか・・・・・・今のところ捜査はほとんど進んでおらん。
とにかく関東内での混乱が酷すぎたからな。国はすぐに施設の封鎖を決定したよ。
今から思えば、事故直後に捜査が止められたのは痛かった。
施設職員にも生き残りはおらんかったからな。
ウイルス投与者を除けば、あの事故から生き延びた人間はおそらく六人」
「六人? それって職員?」
マキの知る限り、職員に生存者はいなかった。
公式発表では全員死亡と発表されたはずだ。
「いや違う。ウイルスを投与されたのはお前ら八人だけだったが、
テラダは予備の被験者を四人準備していた・・・・・我々に内密にな。
だからその四人の顔も名前もわからん。死体が見つからなかったから、
生きていることは間違いないだろうがな。その四人の肩にもおそらく
お前と同じようなタトゥーがあるだろう。9番から12番までのな」
マキの肩には今でも「8」のタトゥーが刻まれていた。
老人の組織の力をもってしてもこのタトゥーは除けなかった。
それができるのはテラダだけらしい。
「残り二人はお前もよく知っている人間だ」
老人は表情を変えることなく淡々と話を続ける。
- 48 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:10
- 「二つ目の指令だ」
老人は「この写真は必要ないと思うが」と言いながら二つ目の封筒を渡した。
中には二枚の顔写真が入っていた。
にやけた中年男の顔と、にこにこと笑った少女の顔がそこにあった。
「お前も知っているだろう。テラダだ。もう一枚の方はカメイ・エリという女だ。
この二人があの施設の事故の時にオリジナルのウイルスを持ち出した。
今もそのウイルスを持って、この関東に潜伏しているという情報がある。
放っておけば、あの事故のようなことが再び起こるかもしれん。
この二人を見つけ出して―――殺せ。殺してウイルスを回収するのだ」
テラダは勿論、カメイエリと呼ばれた少女にも見覚えがあった。施設で何度か見た顔だ。
確かテラダの助手のようなことをしていたはずだ。
公式発表では職員全員死亡だったが、報道されなかった事実もあったというわけだ。
「こっちも手がかりは全然ないの?」
「いや、一つある。どうやらこの二人の組織も『S.S』と名乗っておるらしい。
まずはこの組織を探して、末端から一つ一つ潰していくといいだろう。
回りくどいやり方だが、そうすれば最終的にはテラダに行き着くだろう」
S.Sと名乗っている―――か。
きっとテラダは『S.S』が何であるかわかっているのだろう。この老人と同じように。
マキはぼんやりとそう思った。
- 49 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:11
- 「三つ目。これが最後の指令だ」
老人はそう言ってマキに今の関東の状況を説明した。
例のウイルスがばらまかれたこと。多くの感染者が死亡したこと。
そして感染者の一部が―――マキと同じような異常な能力を獲得したこと。
「どうも体の一部分が異常に発達するらしい。器官だったり、細胞だったりが。
関東ではそういった異常能力の持ち主を『キャリア』と呼んでいるらしい」
半ば無法地帯と化した関東は、暴力が支配する街となっていた。
そういった状況の中で、キャリアはかなりの勢力を保っているらしい。
「おそらくナカザワ・イイダ・アベ・ヤグチの四人もキャリアとなっているだろう」
施設に残された試験のデータからそう推測された。
だが四人がどういった能力を持っているかまではわからない。
「お前は関東に入ったらこの『キャリア』を徹底的に狩っていくのだ。
そうすれば関東の浄化にもつながるし、四人の所在にもたどり着けるかもしれない」
「浄化」という言葉が少し気に入らなかった。
だがそれで臍を曲げるようなことでもない。
マキは老人から出された三つの指令を、とりあえずは素直に受け取ることにした。
- 50 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:11
- マキは目の前にある、助手席の座席の裏側のケースを開けた。
少し大きめの灰皿がそこにある。
その上でマキは、十枚の写真を一枚一枚燃やしていった。
写真の中のイチイは鋭い目をしていた。
マキが最後に見たやつれた姿ではなく、切れそうに鋭い美貌をしていた。
それはマキが壁越しに想像していた、イチイそのものだった。
こんな顔をしていたのか。笑ったらどんな顔になるのだろう?
マキは少しだけそんなことを思った。少ししか思わないようにした。
その写真が灰になったとき、マキの心の中で何かが終わった。
初めて人間の額を撃ち抜いた時のような―――形容しがたい感覚が流れた。
最後に自分の写真を燃やす。
施設に入る前に撮った写真だった。
たった三年ほど前のことなのに、はるか遠い昔のことのように思えた。
確かに、この時の自分と今の自分の間には、はっきりとした断絶がある。
もうその二人の間をつなぐ糸はない。
過去と未来をつないでくれる『誰か』は存在しない。
必要ともしない。あたしはもう―――誰からの干渉も受けない。
マキは写真を燃やし終えると、静かに灰皿を閉じた。
- 51 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:11
- ☆
- 52 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:11
- マキは麻薬取締本部の建物の前でミニバンから降りた。
傘を差すべきか差さないべきか迷うような弱い雨だった。
マキは傘は差さずにUFAから支給されていた黒の革のコートを羽織る。
老人は車の中から「本部長には全て言ってある」とだけ言った。
車から降りるつもりはないらしい。
ゼロはまるでそれが当たり前のことのように、車から降りてマキに寄り添った。
マキもそれが自然なことだと感じた。
これからはずっと、どこへ行くにもこいつと一緒だ。
教官はおそらく自分に声をかけることはないだろう。
それは教官の役割ではないからだ。そういうことをする人間ではない。
だがマキの予感は外れた。
教官は30センチほどの長さの細長い包みを投げてよこした。
「頼まれ物だ。例の特注のやつだ。一本だけだから、折らずに使えよ」
- 53 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:11
- その言葉だけで十分だった。
中身は確認するまでもないし、それ以外に話すこともない。
マキが包みの中身を取り出して腰にくくり付けていると、
ミニバンのエンジンがかかる音がした。
音がしたのはわかったが、マキはもう振り向かない。
ゼロと二人で建物の方へ歩き出した。背後で車が走り去っていく気配がした。
受けた指令の途中経過も報告しなければならない。
またいずれ老人や教官とも会う機会があるだろう。
だが、そういったマキの予測もまた―――当たることはなかった。
この日がマキにとって、老人と教官に会った最後の日となった。
- 54 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:11
- ☆
- 55 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:12
- レンガ造りの三階建てという本部の建物の中は、想像していたよりもずっと静かだった。
マキは初めて入る建物に対していつもやるように、
皮膚の温度受容器を覚醒させて、建物内部の空気の流れを微細に観察した。
建物の中にいる人間は32人。思ったより少ない。
これで都区内全域をカバーできるのだろうか?
それとも担当者は現地に張り付いていて、常時ここにはいないのだろうか。
マキはゼロを建物の前で待たせておいて、本部長室に向かった。
確かに本部長には老人からしっかりと話が通っていた。
マキはフリーな立場でイレギュラーな麻薬を追う、特殊捜査員という扱いとなった。
本部長はいかにも公務員といった硬い喋り方をする男だった。
親子ほど年が離れているマキに対しても、非常に丁寧な言葉遣いで話した。
「一口にイレギュラーな麻薬と言ってもですね、違法ドラッグは古いものも入れれば
数百種類にも及ぶんですよ。そちらではどれを捜査するか決めておられるのですか?」
- 56 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:12
- 老人から細かい話は全く聞いていなかった。
現場で臨機応変に対応しろということなのだろう。訓練では常にそうだった。
マキは本部長から手渡されたドラッグリストに目を落とす。
あまり興味はなかった。
だがとりあえず麻取の身分に慣れるためにも、調査から逮捕、尋問、送検まで、
一度は一通りの仕事をこなしておくべきだろう。
一連の仕事の中で、今の関東の雰囲気をつかむこともできるかもしれない。
ずっと訓練漬けだったマキは、この三年間に関東で何が起こったのかほとんど知らなかった。
さらっとリストを流し読みしていたマキの目が止まった。
目を凝らす。指で文字をなぞった。何度も何度も確認した。
たった三文字の言葉なのに、何度も何度も確認した。
まさかこんなところでこの文字を目にするとは思わなかった。
震えるマキの瞳には三文字のアルファベットが書かれていた。
- 57 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:12
-
GAM
- 58 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:12
- 「おっとGAMですか。さすがに特殊捜査員の方は目の付け所が違いますな」
本部長が言ったことは、まんざらお世辞というわけでもないようだった。
説明によれば、このGAMという薬の情報はほとんどないのだという。
かなり頭が切れる人間が、慎重に売りさばいているらしい。
「強烈な薬です。一時的に神経が麻痺するのはもちろんのこと、
常習していると、使用者の遺伝子に影響を与えていく薬なのです。
やがて神経の異常は慢性的なものになっていきます。まさに悪魔の薬ですよ」
そんなことは言われなくても知っている。
この薬を使い続けていればどうなるか―――マキは誰よりも詳しく知っていた。
「手がかりはないんですか」
「はい。残念ながらほとんどありません。まず流通している量が非常に少ない。
市場内の絶対量を低く維持して、価格を吊り上げているようです。
さばいている売人の数も少ない。さばいている場所もマイナーな場所ばかり。
とにかくひっそりと売買されている薬というイメージがあります」
- 59 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:12
- この薬を追いたい。これは私情なのだろうか。
いや。
あの施設では、この非常にマイナーと思われている薬が使われていた。
何かがあってもおかしくはない。
この薬をさばいている組織は、テラダと何かつながりがあったのかもしれない。
決して論理的ではなかったが、一度そういった理屈が形成されると、
マキはもうGAM以外の薬を追いかけようという気にはなれなかった。
あたしは何のためにこの三年間、訓練を重ねてきた?
老人の命令に従うため? いや違う。そうじゃない。
あの『巨大な何か』、SSとやらの正体を探るためだ。
探る? なんのために? 勿論、あの人の仇を取るためだ。
そう、あの人の仇を取るため。
それだったらこのGAMという薬を撲滅するのも、
あの人の仇を取るのと同じことになるんじゃないの―――?
マキの心は決まった。
- 60 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:13
- 「まず、このGAMを追います」
「わかりました。お願いします」
「他の捜査員には、このことは内密にお願いします」
「了解しました」
本部長はそれ以上、捜査に関しては何も言わなかった。
簡単に麻取の組織を説明すると、マキを捜査員の部屋に案内いた。
マキにも机とロッカーと携帯電話が支給される。
手帳と拳銃と手錠は既に持っていた。
これでいつでも捜査に出ることができるだろう。
部屋はがらんとしていた。
机は十個ほど並んでいたのだが、捜査員は二人しかいなかった。
本部長が申し訳なさそうに小声でささやいた。
「ここ数年はずっと人材不足でして・・・・・UFAさんからは
あなたを自由に動かすようと指示されているのですが、
もしものときは少し手を貸していただきたいと思いまして・・・・・」
- 61 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:13
- マキはしばし考えた。
麻薬捜査に慣れた人間のサポートをするのは悪くないかもしれない。
その方が早く仕事を覚えることができるだろう。
だがマキは、GAMに関してはどうしても一人で追いたいという気持ちがあった。
「すみません。あたしは一人でしか仕事できないんです」
「それでしたらお一人で結構ですから、別件を頼めませんか?
ぽつぽつと溜まっている仕事もありますので・・・・・」
本部長は意外としぶとく食い下がった。
ただ黙って老人の言いなりになっているというわけではないらしい。
どうもマキに麻取本来の仕事もさせて、記録に残したいと思っているようだ。
確かに麻取の看板だけを借りているのも気が引ける。
スムースに仕事を進めるためにも、どこかで妥協するべきなのかもしれない。
「わかりました。一人で仕事してもいいというのなら、別件も引き受けましょう」
「助かります。ではその別件というのを早速一つ」
- 62 名前:【流行】 投稿日:2009/08/06(木) 23:13
- 本部長はいきなり一枚の写真を取り出した。待ち構えていたように対応が早い。
だがマキは今すぐ仕事が始まるとしても、一向に構わなかった。
むしろ早く仕事に馴染んでおきたい。
本部長は「具体的な捜査の手順は現場の者から・・・・・」
と言いながら部屋を見回した。
相変わらず、閑散とした部屋の中には二人しか捜査員がいない。
「おいそこの二人! ちょっと来ぉい!」
マキに対するのとは全く違う荒い口調だった。どうもこちらが地のようだ。
二人の捜査員がパタパタと駆け寄ってくる。
この二人から捜査の手順について説明させます、
と元の丁寧な口調に戻って本部長は言い、二人の捜査員に自己紹介を促した。
二人の捜査員は胡散臭そうな目つきでマキのことを見つめる。
おざなりな敬礼をマキに向けながら、代わる代わる短い自己紹介をした。
「タカハシ・アイです」
「ニイガキ・リサです」
- 63 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/06(木) 23:13
- ★
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/06(木) 23:13
- ★
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/06(木) 23:13
- ★
- 66 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:15
- 「あたしはマキ。よろしく」
ゴトウという苗字を名乗ることはUFAから禁じられていた。
マキを含む8人の被験者の名前は今ではトップシークレットになっているらしい。
本部長から、マキが特殊捜査員として本日付で配属されたことが説明される。
配布された手帳をマキが見せると、タカハシとニイガキの二人は目を剥いた。
マキの階級は二人より五つも上―――本部長よりもさらに一つ上だった。
二人は手帳から目を上げると、直立不動でマキに敬礼した。
伸ばした指は1ミリも動いていなかった。
「捜査の手順っての教えてほしいんだけど・・・・・」
「はい!!」
二人は悲鳴を上げるような声で返答した。
そこまで硬くならなくてもいいのにと思いながら、
マキは先ほど本部長の方から受け取った一枚の写真を二人に見せた。
「はっ?」
写真を覗きこんだ二人が再び硬直した。
- 67 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:15
- ニイガキリサと自己紹介した女が、顔を上げて本部長の方を向いた。
丸顔で眉毛が濃い。本部長ほど公務員臭くはなかったが、
捜査員にありがちな、意固地で融通の利かなそうな顔をしていた。
「本部長。これは038号の写真ではありませんか」
どうやらそれがこの男の名前らしい。
麻取は指名手配者のことを番号で呼んでいるようだ。
「まさか特殊捜査員殿はこの038号を追うのでありましょうか」
そう尋ねたのはタカハシの方だった。
二人とも先ほどまでとはまた違った感じの怪訝な顔をしている。
「そうだ。この方は基本的に単独で動く。とりあえず038号の確保をお願いした。
以後の捜査手順は二人の方から説明して差し上げるように。指示は以上!」
本部長はそう言うと、二人に質問する隙を与えないように素早く敬礼した。
上長の怒声を前に、二人も背筋を伸ばして鯱張った敬礼を返す。
本部長の話はそれで終わりだった。
- 68 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:15
- 本部長が部屋を出るのを待って、タカハシが話しかけてきた。
話はいきなり脱線していた。
「マキさんって何者? どこの部署から回されてきたんですか?」
そんな話はしたくないから一人で仕事をすると言ったのだ。
だがそれを説明するのもまた面倒臭い。
マキはタカハシの問い掛けを無視して、ニイガキに写真を見せた。
「こいつ誰? あたし今初めてこの写真を見たところ。全然何も知らなくてさ」
ニイガキは軽いパニックに陥ったようだった。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよー、あたしももう何がなんだか。
038号を知らない? 捜査のやり方も知らない? 階級は本部長より上?
それなのに038号を確保するんですか? 単独で? 一人でってことですか?
うえええええええ。マジですか。わかんないっす。どうしよ。どうしよあたし?」
そんなこと知らないよー。
この三年間、およそ人間らしい会話を全くしていなかったマキは、
二人の会話のペースの遅さに苛立った。必要な情報だけ教えてくれればいいのだ。
だがようやく落ち着いたニイガキから説明を聞けたのは、
さらに五分ほどしてからだった。
- 69 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:15
- 「この038号というのはですね、旧新宿四谷界隈を仕切っている大物です」
「あだ名はサンパチ君。いつもくちゃくちゃガム噛んどーよ」
「アイちゃん」
「なんよ」
「ごめん。ちょっと黙ってて」
「へえ」
落ち着きを取り戻したニイガキの説明はわかりやすかった。
サンパチ君がさばいているのは主に覚醒剤。
組織の構成員の数は、本部がおよそ50。外郭団体を含めれば200と少し。
バックにはロシア系のマフィアがついており、
そちらの軍から流れてきた兵器で武装している。
重火器による武装度は東京でもトップクラスだが、派手に動くことは少ない。
基本的に睨みを利かせるだけで、実際に暴れたのは、この三年間でも二回だけ。
だがその二度の抗争で旧新宿エリアの約半分が瓦解した。
今では誰も手が出せない存在になっているのだという。
「おいそれとは逮捕できないですよ。本部長も何を考えてんだか」
- 70 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:15
- ニイガキはさらにすらすらと現状を説明した。
組織の本部。本部の警備状況。サンパチ君の一週間のスケジュール。
麻取本部のつかんでいる情報は、驚くほど詳細だった。
「そんなことまでわかってるの?」
「はあ。こちらは調べるのが仕事ですから」
マキは呆れた。ここまでわかっているのなら今日にでも踏み込めばいい。
重火器で武装しているといっても、こちらは公的機関なのだ。
正面切って制圧にかかれば逮捕は時間の問題だろう。
「いや、マキさん。それは無理ですよ。今のこの関東、とにかく人員が足りない。
神奈川でも千葉でも埼玉でも、同レベルの武装集団がゴロゴロしています。
自衛隊だって分散して治安維持にあたっている。警察の装備では手が出せない。
そんな悪党があちこちにのさばっているんですよ」
どうやら今の関東はマキが思っているよりも荒れているようだ。
だがとりあえず標的の情報はつかんだ。
マキは話を変えることにした。
- 71 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:16
- 「で、その荒れた関東で、逮捕の手順とかはどうなってんの?」
いちいち令状とか取っていたら面倒だ。
この手の公的機関の書類作成手続きはうんざりするほどまだるっこしい。
「はあ。荒れた関東で唯一便利になったのがその辺りのことです。
いちいち令状なんて取っていられませんから、みんな手帳を持って
バンバン踏み込んでます。手帳が令状代わりなんですよね。
今では現行犯逮捕の概念がバカみたいに拡大解釈されていまして、
家宅捜査も物品押収も、そして実際の逮捕もほぼフリーパス状態です」
それにタカハシが付け加えた。
「発砲もフリー。銃器携帯は当たり前の当たり前。威嚇射撃なんてとっくに死語。
こっちも正当防衛の概念がアホみたいに拡大解釈されていて、
手帳さえ持っていればどんな相手でも撃ちたい放題。殺したい放題」
「アイちゃん!」
「ホンマのことやん。この人にもちゃんと教えとかんと。死ぬでこの人」
なおもニイガキとタカハシは押し問答をしている。
だがどうやらこの関東では建前よりも本音の方が強いらしい。
最後にはニイガキの方が折れた。
「まあ、実際・・・・・今では公務員の正当防衛行為に対して、
第三者の証人が必要とされることはほとんど・・・全くなくなりました。
いちいちそんなことをやっていては、ここでは何もできないですからね」
- 72 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:16
- タカハシの言い方はもっと過激だった。
「基本的に、逮捕イコール射殺だと思ってくれていいです」
「アイちゃん!」
「嘘みたいな話ですけど、今の関東には拘置所も裁判所もないんです。いやマジで。
逮捕したって連れて行く場所はどこにもない。関東の中に住んでる人間が、
関東の外に出されることなんて、今じゃ誰も望んじゃいないですからね。
検閲所で検閲を受けている間に、謎の病死を遂げることになってるんです。
人権擁護団体だって、ウイルスまみれの人間は関東から出て欲しくないんですよ」
そんな話は老人からも聞いたことがあった。
関東の中に法律などないと。
警察も非合法集団もそんな建前が通るとは思っていないし、
通そうとも思わなくなったということを。
「でもあたしら一応国家公務員ですから。射殺したら報告は入れてください。
配布されてる公用の携帯で写真を撮ってメールで送ればオーケーです。
後は処理班が片付けてくることになってますから。殺したら『D確保』、
生きてるなら『A確保』と報告です。でもA確保しても誰も喜びませんよ」
タカハシの言葉に、ふっとマキは笑いをもらした。
正義のヒーローなら、ここで『A確保』とやらを連発するのだろうか。
信じるべき正義を持っている人間はいい。わかりやすくていい。
だがマキには信じるべき正義などない。
麻薬組織の人間など、一人も生かしておくつもりはなかった。
- 73 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:16
- 「了解。じゃ、今からこのサンパチ君を射殺・・・D確保してくるねー。
画像をメールで送ればいいんだ? アドレスは? 電話番号は?」
あっさりと言ってのけたマキに、ニイガキが諭すように言った。
「いや、だから、この038号はですね」
「番号とアドレス」
「・・・・・・・メモリーの一番上に登録されているはずです」
マキは片手で携帯を操作してメモリーを確認した。
確かに番号とアドレスがそれぞれ一つだけ登録されている。
これで十分。おそらくこの携帯にメモリーが追加されることはないだろう。
マキはニイガキが持ってきた書類を見て、038号の所在地を確認する。
ここからかなり近い。よほどのことがない限り、今日中に片がつくだろう。
「じゃあ、終わったらメールする」
「あのー、マキさん、一つ言い忘れていたことが」
「なに?」
「この038号ってバリバリのキャリアなんですよね。一人で大丈夫ですか?」
ニイガキの視線はあからさまに「一人じゃ絶対無理ですよ」と言っていた。
タカハシの方はというと、机に腰掛け、いつの間にか入れたコーヒーを飲みながら、
マキのことをどことなく見下した目で見ていた。
階級だけはやたら高いが何も知らない新人が、初日から張り切って、
こっぴどく返り討ちにしてやられることを確信しているようだ。
確信というより―――期待しているのかもしれない。一つの娯楽として。
- 74 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:16
- 「へえ。キャリアなの。この人」
そういえば老人からは「キャリアを狩れ」という指令も受けていた。
素で忘れてた。他の二つは何だっけ。忘れてちゃいけないよね。
マキは気合を入れ直す。無理矢理押し付けられたおまけの仕事かと思いきや、
どうやらそれなりに意味のある仕事になりそうだ。
「あたし、キャリアってやつを見たことないんだよね」
ニイガキとタカハシが揃ってうんうんと頷く。
関東の外から来た人間であれば、誰でもそうだ。
そしてキャリアの恐ろしさは、実際に対峙した人間にしかわからない。
「だから丁度いいよ。これから行って、ちょっと拝んでくる」
マキは写真をビリリと真っ二つに裂いてゴミ箱に捨てると、
手帳と携帯電話を懐に収めて足早に部屋を出た。
ニイガキは、マキが閉めた扉を、信じられないといった表情で見つめていた。
タカハシは飲みかけのコーヒーを置くと、ぽんぽんとニイガキの肩を叩いた。
「死ぬな。あの新入りさん。サンパチ君は美女の死体が大好きやからな。
きっとあの人、死体になってもここには二度と戻ってこれへんで」
- 75 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:16
- ☆
- 76 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:16
- サンパチ君は確かにくちゃくちゃとガムを噛んでいた。
マキの撃った弾丸が眉間を直撃するその寸前まで。
だぼだぼの服。一昔前のNBAファッション。
後ろ向きにかぶった野球帽に無理矢理押し込めている頭がやたら大きい。
みっともないくらい若作りしていたが、明らかに三十代半ばの男だった。
服装は情けなかったが、それなりの風格は備えていた。
部屋の中には、一呼吸の間にマキが撃ち殺した四つの死体が転がっていたが、
サンパチ君はほとんど動揺を見せなかった。
死体になった四人以外に部屋に駆け込んでくる兵隊はいない。
もし応援が来れば、扉の外で待ち受けているゼロが相手をするはずだ。
マキは完全に戦闘モードに入っていた。遊ぶ余裕など全く見せない。
キャリアというものがどんなものなのか探ることもできたが、
1秒も余裕を見せることなく、ハンドガンの引き金に指をかけた。
フルオートの拳銃から無数の弾丸が吐き出される。
弾丸は一分の狂いもなく男の眉間を直撃し―――
そして弾き返された。
- 77 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:17
- マキの判断は速かった。
表皮に点在する無数の感覚受容体の全てがマキの頭脳だった。
思考のネットワークは常人の数万倍の速さでマキの感覚器を往復する。
文字通り―――思考が網の目のように全身を駆け巡った。
マキは老人の言葉を思い出した。
「どうも体の一部分が異常に発達するらしい。器官だったり、細胞だったりが。
関東ではそういった異常能力の持ち主を『キャリア』と呼んでいるらしい」
マキは弾き出された弾丸の熱を全てモニターしていた。
弾は全て男の頭蓋骨の上で弾き返されていた。
男の頭蓋骨は、骨組織が溶けてもおかしくないような、異常な熱を帯びていた。
骨―――か。
男は骨組織が異常に発達しているキャリアだ。
マキは男の腹部を狙う。だが弾丸は同じように弾き返された。
- 78 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:17
- この音。この手応え。ここも―――骨?
信じがたいことだったが、男は肋骨の一部を広げて、腹部を防御していた。
男の骨はただ硬くなっているだけではないらしい。
自分の意思で自由自在に動かせるということだ。
ということは―――
ペッとガムを吐き出すと、男はゾンビのように両手を前に差し出した。
男の指の骨が、肉を突き破って飛び出してきた。
恐ろしい勢いで伸び上がってきた指骨がマキの眼前に迫る。
マキは寸でのところで十本の指骨の攻撃をかわした。
予測していなかったら頬肉をえぐられていたかもしれない―――
マキは男を中心点として円を描くように動く。
一対一の戦闘において、それは基本に忠実な動きだったが、
それだけに相手から読まれやすい動きでもあった。
男の骨は確実にマキの行く手を阻んでいく。だがそれはマキが誘い込んだ攻撃でもあった。
マキはハンドガンに残っていた弾丸を全て男の体に叩き付けた。
銃撃が通用しないことはわかっていた。
だが男の注意をハンドガンに引き付けるには十分だった。
マキは読まれやすい動きをすることと、無駄弾を使い果たすことで、
男の動きを極めて限定することに成功していた。
- 79 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:17
- マキは伸びてきた指骨をハンドガンで防ぐ。
一瞬だけ指の力を抜いた。弾かれたハンドガンはマキの指を離れて床に転がる。
銃の行方を追おうとしたマキの動きは巧妙なフェイントだった。
マキは太腿に装備していた30センチほどの長さのナイフを抜きながら、
空間のひずみに身を投げ、最大限の速さで男の背後に回った。
男はマキの姿を完全に見失っている。チャンスは一瞬だけだった。
羽交い絞めにして動きを封じることはできない。どうせ骨で弾き返される。
マキは教官から受け取ったUFA特注の純銀のナイフを男の喉に突きたてる。
全ての神経をそのナイフに注いだ。
皮膚の感覚受容体は、電気刺激で情報を神経に伝達する。
マキの受容体は異常に発達していた―――その電気刺激でさえも。
マキの受容体で数百万倍に増幅された高圧電流が、銀のナイフに流れる。
稲妻のように青白く輝いたナイフは、弾丸さえも弾き返す男の骨を、一瞬で断ち切った。
男の喉はバターのようにさっくりと鮮やかに切り裂かれた。
何かの冗談のように血が大量に噴き出す。
棒立ちになったまま、サンパチ君は帽子をばさりと床に落とした。
その帽子の中に―――大きな中身を収めたままで。
- 80 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:17
- はてさて。顔と体。この場合はどっちを写真に撮るべきなのかね?
ひとしきり首を傾げた後、マキはサンパチ君の頭の方を写真に収め、
メモリーの一番上に登録されていたアドレスに送信した。
それが終わると本部に電話で連絡を入れる。
「038号をD確保」と言うと、受話器の向こうでタカハシとニイガキが
ぎゃあぎゃあと大騒ぎしている声が聞こえた。
時計を見たら、あの二人と別れてからまだ三十分も経っていなかった。
電話を切り、床に目を落とす。
床に転がっていたサンパチ君と目が合ってしまった。
死体には見慣れていたマキだったが、さすがに気持ち悪くて帽子を蹴った。
少し変だった。帽子はまるで頭に縫い付けたように外れない。
そういえば今のあたしは麻取の特殊捜査員で―――
こいつは麻薬組織のヘッドだったなあ―――
そんな当たり前のことを忘れていた。
一応捜査らしきこともしておいた方がいいかもしれない。
- 81 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:17
- マキは頭の一部を足で押さえて、ぐいぐいと帽子を引っ張った。
半ば意地だった。だがどうしても帽子が取れない。
強引に引きちぎると、ようやく男の頭から帽子が外れた。
あきれたことに、帽子は本当に髪に縫い付けてあった。
男の後頭部はバリカンで綺麗に刈り上げられていた。
その刈り跡に妙に見覚えがあった。冷たいものがマキの背中を流れる。
特殊な刃をしたバリカンで刈ったのかもしれない―――まさか。
そのとき、ゼロが横にやってきた。
ゼロの横腹にも同じようなバリカンの刈り上げ跡があり、
そこにはテラダによって刻まれた「0」のタトゥーがあった。
サンパチ君の後頭部にも全く同じようなタトゥーがあった。
その字体は、どことなくゼロやマキのタトゥーと似ているような気がする。
まるで蛇が二匹のたうっているかのような形で掘られていた。
S.S
マキはこの男を殺すことで、老人から与えられた使命を
二つ同時に遂行したことを知った。
- 82 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:18
- ☆
- 83 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:18
- 翌日からマキの孤独な進撃が始まった。
マキは平行して二つの獲物を追った。
まずはGAM。
少ない手がかりを頼りに、マキは各所に網を張った。
引っかかった人間はどんな小物であっても徹底的に叩いて半殺しにした。
どんな微かな痕跡でも、一度見つけたら絶対に逃さない。
マキの名が麻薬密売人の間で有名になるまで、さほどの時間はかからなかった。
だがマキは派手に動く一方で、GAMに直接アクセスする方法はとらなかった。
売人を叩くときにも、GAMの名は絶対に出さなかった。
GAMをさばいている人間は、明らかにGAMが有名になるのを嫌っている。
あくまでもひっそりと水面下で活動を続けたいらしい。
ならばマキも水面下で動く必要がある。こちらの動きを相手に悟られてはならない。
少なくともマキは、GAM本体の概要を掴むまでは、
GAMそのものには触れないという方針を立てて行動した。
マキがGAMを追っていることを知っているのは本部長だけだった。
麻取の同僚にすら、マキはそのことを隠し通した。
まずはGAMそのものを知ること。それがマキの最優先課題となった。
マキはGAMのルーツを辿る。
ゆっくりと、だが確実にマキはGAMへと近づいていった。
- 84 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:18
- そしてSS。
マキはGAMと平行してSSも追った。
まずマキは、本部に置いていある容疑者リストを閲覧し、
「キャリアの疑いあり」と書かれた容疑者を片っ端から当たっていった。
誰もマキを止めることはできなかった。容疑者も。キャリアも。麻取本部も。
マキは容疑者をことごとく撃ち倒していった。
逃した容疑者は一人もいなかった。目に付いたキャリアを全員殺した。
マキは麻取の捜査員の間からも恐れられるようになっていった。
そんなマキの活躍を見て、コンビを組ませてくれと言ってくる人間も多かった。
麻取は基本的に二人一組で行動する。
だがマキはそんな懇願は全て無視し、あくまでも一人で動いた。
まるで無人の野を行くがごとく、マキは動き続けた。
その後ろには、指名手配犯の死体が累々と積み重なっていった。
- 85 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:18
- ☆
- 86 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:18
- 「ねえ、アイちゃん。あの人のことどう思う?」
真剣な表情をしたニイガキの一言にも、タカハシはしれっと答えた。
「あの人って誰? あの人じゃわからんしー」
くそ。わかってるくせに。
今この麻取本部で『あの人』って言ったら一人しかいないじゃん。
タカハシはいつも回りくどい受け答えをする。
どんな簡単な話でも、ツーカーで話が進むことはほとんどない。
付き合いの長いニイガキは、それを流すことを覚えてはいたが、
流したからといって苛立ちが完全に消えるわけでもなかった。
まあ、アイちゃんに対する苛立ちが消えるときは、
あたしがこの子に対する興味を完全に失ったときかもしれない―――。
- 87 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:19
- ニイガキとタカハシは同期入所の腐れ縁だった。
タカハシの方が一つ年上なので始めのうちは若干偉そうにしていたが、
長く付き合ううちにそこらあたりの関係も曖昧になった。
階級も同じだし、今ではお互いため口の、全く同等の付き合いだった。
お互い、最初はただの同期の一人でしかなかった。
だが毎月のように誰かが殉職していく職場においては、
対等に話ができる同期という存在は、なかなか馬鹿にできないものがあった。
好きでも嫌いでもないのに、一緒にいるだけで自然と濃くなっていく人間関係―――
そんなものがあることをニイガキは初めて知った。
今の本部長はニイガキにとって三人目の本部長になる。
入所した時にここにいた人間で、今でも生き残っているのはタカハシしかいない。
この苛立ちだって、相手が死んでしまったら二度と味わえないのだ。
- 88 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:19
- 「マキさんのことだよ。今日も一人で出て行ったけどさ」
ホワイトボードには、出払っている各捜査員の行き先が書かれている。
マキの欄には一週間先までびっしりと予定が詰まっていた。
「こんなことする人、初めて見たよ」
マキが人の二倍働いているということは、麻取の間では周知の事実となっていた。
文字通り、並の捜査官の二倍の仕事量をこなすのだ。
本部長から与えられた仕事と、そしてマキ独自で動いている仕事。
ボードには前者の仕事の予定がびっしりと詰まっていた。
今まで、ここには一週間先の予定を書く者などいなかった。
捜査が予定通り進行することなんてまずあり得ないからだ。
だがマキは、困難極まりない任務を、流れ作業のように粛々とこなしていた。
それだけでもかなりの激務であるのに―――
マキはその合間を縫って別の獲物も追っているらしい。
時折、とんでもない大物を釣ってくることがあった。
だがマキはそんな大物には全く興味を示さなかったという。
マキが狙っている、本命の獲物が何であるのか―――知っている人間はいない。
本部長でも知らないのではないか。ニイガキはそうにらんでいた。
- 89 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:19
- 「いつ寝てるんやろうね、あの人」
「そういうことじゃなくってさー」
「なにを追ってるかってことやろ? SSやないの?」
ニイガキの濃い眉毛がぐっと中央に寄る。
SSとは最近よく耳にする組織の名前だが、どうも胡散臭い。
例のウイルスを扱っているとかいう、真偽のはっきりとしない噂を何度か耳にした。
だがそういう胡散臭い噂のある組織は、東京だけで二桁は存在している。
そのほとんどが暴走族に毛の生えた程度の小組織だ。
ニイガキはSSとやらもその程度のチンケな組織ではないかと考えていた。
とてもマキが本命としているようには思えない。
「その顔は、あり得ないって思ってる顔やろ?」
「まあね」
隠すつもりもない。同期だ。腐れ縁だ。駆け引きするのも面倒臭い。
少なくとも麻薬組織の情報に関しては、お互い隠し事などない―――
ニイガキは一方的にそう信じていた。
- 90 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:19
- 「ふーん。あたしは別にあの人に興味ないんやけどさ。ガキさんはあるん?」
「まあね」
「へええええ。なんで? 美人やから? クールやから?」
「バーカ」
ニイガキはタカハシに隠し事などしていなかった。
少なくとも、麻薬組織の情報に関しては。
だがそれ以外のことならば、タカハシに話せないことは山ほどある。
タカハシにだけは言えないこと、タカハシにだけは知られたくないこともある。
ニイガキはマキに憧れを抱いていた。マキの「強さ」に憧れていた。
別に憧れていることを隠すつもりはない。
強さに憧れていることだって、タカハシに知られても別にどうということはない。
だが、なぜ強くなりたいのか、どこまで強くなりたいのか、
それをタカハシに知られるわけにはいかなかった。
強くなりたい。麻取としてもっと強くなりたい。誰よりも強くなりたい。
少なくとも―――タカハシアイよりは、絶対に強い自分でありたい。
無関心から腐れ縁を経て、今ではニイガキにとってのタカハシとは、
絶対に負けたくないと強く意識する対象となっていた。
- 91 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:20
- 「マキさんってキャリアばっかり追ってるやん」
「うん」
「どうもそのキャリアってのがみんなSSにつながりがあるみたいなんよ。
中にはSSがキャリアを作ってる、みたいな噂まであるんよね」
「げ、マジ?」
タカハシは耳が早い。いつも信じられないくらいレアでコアな情報を持ってくる。
有能な情報員を多数抱えているというのは麻取の間では有名な話だ。
売人たちともかなり深い付き合いをしているようだった。
「ただし、それってあのボードにも書いてる仕事やからなあ。
裏では別のことやってるかも。ホンマわからんよ、あの人は」
「あの人ってキャリアだと思う?」
「200%キャリアやろうな」
「やっぱりそうだよね・・・・・」
わかっていたことだが、落胆を隠せなかった。
ニイガキはキャリアではない。そしてタカハシもキャリアではなかった。
マキの強さの秘密がキャリアというところにあるのなら、
普通の人間である自分は、何をやっても永遠に追いつけないのだろうか?
果たしてマキの強さの秘密とはそれだけなのか?
本当にそれだけ? その能力だけがマキの強さの全てなのだろうか?
- 92 名前:【流行】 投稿日:2009/08/10(月) 23:20
- 「あの人、今日は横浜に行ってるみたいやね。ガキさんの地元じゃん」
確かに今日のマキの行き先は、ニイガキもよく知っている土地だった。
あんなところに麻薬関係の組織があっただろうか?
容疑者の潜伏情報があっただろうか?
いや、地元にそんな情報が流れれば見逃すはずがない。
ニイガキはボードに書かれた行き先を凝視し、記憶をたどる。
一つ思い出した。
そういえば数年前にここで殺人事件があったはずだ。
自分が捜査員になって初めて関わった事件だから、今でもよく覚えている。
本来、麻取は殺人事件など関係ないのだが、殺された男の部屋から
大量の麻薬が出てきたこともあって、ニイガキもそこに駆り出された。
あの事件はまだ解決していない。
それどころか、男が殺されたときに、同時に男の職場が放火で全焼するなど、
かなり背後関係が複雑そうな事件だった。
この事件のことならよく知っている―――
土地勘もある―――
もしマキさんがあの事件を調べているというのなら―――
「あたし、ちょっと出てくる」
ニイガキは二丁の拳銃を両脇に差し込み、公用車のキーをポケットに入れると、
足早に捜査員室を後にし、横浜へと向かった。
- 93 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/10(月) 23:20
- ★
- 94 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/10(月) 23:20
- ★
- 95 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/10(月) 23:20
- ★
- 96 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:08
- 麻取になってから、マキが横浜に入るのは初めてのことだった。
本部長に押し付けられた雑用は午前中に済ませた。
麻薬とも捜査とも何の関係もない、ただの事務関係の仕事だった。
普段なら絶対に断るようなくだらない仕事だったが、行き先を聞いて気が変わった。
ずっと追い続けていたGAMのルーツ。
そこに引っかかってきた一つの会社が、その近くにあったはずだ。
医療用麻薬の線からGAMを追っていたマキは、
GAMと非常に似た構造の薬を作っていた会社を見つけた。
ただし、あまりにも副作用の強かったその薬は、臨床試験の段階で
死者を出したため、完全に製造がストップしてしまっていた。
その会社では4年ほど前に殺人事件が起こったことがあるという。
犯人はまだ捕まっていなかった。
それどころか―――その後におこったあの施設での事故の影響で、
今では捜査らしい捜査も行なわれていないらしい。
殺人が日常的に発生している今の関東だ。
4年前の殺人事件を追う刑事など一人もいないのだろう。
- 97 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:08
- 横浜はあの事故の後もそこそこの人間が残っていた。
東京の北側よりも、米軍基地が近いこちらの方がまだ治安がいいらしい。
食料品なども比較的容易に買うことができる。
昼飯を買ったマキは店の外に出た。
国道には、昔ほどではないにせよ、切れ目なく車が走り抜けていく。
その間を縫って、マキはすたすたと国道を渡る。
買い込んだ昼飯を抱えながら、拳銃を抜いた。
車の中に誰かいる。
スモークガラスの向こう側に、はっきりとした人の気配を感じた。
ゼロが車の周りをグルグルと回りながら臭いを嗅ぐ。
「うぉん」と一つ小さな声で鳴いた。どうやら知っている人間らしい。
マキは拳銃を構えたまま助手席のドアを蹴った。
「うえ! うおおお! おい!」
子供が悪戯で乗ったのだろうか。鍵はきちんとかけたはずだが・・・・
そう思いながらドアを開けると、麻取本部でよく見る捜査員が一人座っていた。
- 98 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:08
- 「マキさーん。びっくりさせないでくださいよー!」
びっくりしたのはこっちだ。勝手に鍵を開けやがって。
こいつ、名前は確かニイガキだったか。本部で何度か話したことがある。
妙に堅苦しくて古めかしい喋り方をする女だった。
「車から降りて」
「マキさん、ジーン・アレンジング・メディシンを追ってるんですね?」
じーんあれ・・・あれぐめ・・・?
なんのことかわからない。マキが初めて耳にする言葉だった。
「なんのこと?」
「今じゃ関東ではGAMって呼ばれています」
マキはニイガキの言葉を聞いて、あからさまに動揺した顔を見せた。
いつも能面のような無表情が張り付いているマキの顔が、
ここまで感情を露にするのは珍しい。珍しいというか、初めて見た。
どうやらニイガキが知り合いの刑事から仕入れてきた情報は、
かなりのインパクトを与えたらしい。
マキの捜査に強引に割り込むチャンスはここしかないと思った。
- 99 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:08
- 「あたし、知ってます。マキさんの力になれます」
「いらない。あたしは一人で動く」
「マキさん」
「車から降りて」
真っ黒な犬が唸り声を上げる。マキがいつも連れている犬だ。名前は確かゼロ。
ゼロはニイガキの首くらいなら十分に噛み砕けそうな顎をしている。
だがニイガキは怯まない。どうしてもマキの捜査のやり方が見たかった。
一度でいいから目の前で見たかった。
本物の強さというものを―――この目で直接見てみたかった。
そうすれば、どちらかがわかるような気がした。
自分が強くなれる方法か。あるいは自分が永遠に強くなれない理由が。
「焼失した工場の跡地に行っても何もないです」
動揺の次にマキが浮かべたのは怒りの表情だった。
怒られても構わない。無表情で無視されるよりはずっといい。
あたしは―――あたしは―――強くなりたい。
「今あの薬を作っている工場は別にあります。あたし、その場所を知ってます」
- 100 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:08
- ニイガキは仕入れてきた情報をマキに語った。
マキは氷のような視線をこちらに向けている。
この話に興味があるのかないのか、その目からは判断がつかない。
ギリギリの駆け引きだった。
今、関東で出回っているGAMを作っているのはその工場ではない。
その工場の薬は、強さがかなり劣るのだ。製造法が微妙に違うらしい。
医療用としての効果しかなく、麻薬としてトリップできる作用が弱かった。
マキを騙すわけではない。そこにいけばきっと何かがつかめるだろう。
ニイガキは祈るような目で見つめた。本当に精神的にギリギリだった。
次にマキが「車から降りろ」と言ったら、諦めて帰るつもりだった。
ゼロの唸り声が極限まで高まる。今まさに飛びかかろうとしたとき―――
「とりあえず、車から降りて」
マキはそう言って、持っていた食料をニイガキに押し付けた。
「そこはゼロの指定席だから。噛み付かれたくないんなら後ろに乗って」
- 101 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:08
- ☆
- 102 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:09
- マキの運転は「荒っぽい」などというレベルではなかった。
片手でサンドイッチをつまみながら、時速100キロ以上で突っ走る。
しかもほとんど前を見ない。完全に食事に没頭していた。
今の関東で交通ルールを守る人間なんていなかったが、それでも信号くらいは守る。
だがマキはどんな大きな交差点であっても、おかまいなしに突っ込んだ。
ニイガキはなるべく窓の外を見ないようにした。
とてもじゃないが生きた心地がしなかった。
何度か「降ろしてください」と言いそうになる。堪えるのに懸命だった。
まさか自分から押しかけてきておいて、帰りたいなんて言えない。
じっと足元を見つめながら、ニイガキはマキに行く先の住所を告げた。
そこでふと気付いた。
マキの運転は乱暴なように見えて、乱暴ではない。
車の走りは実にスムースだった。無駄な揺れが全くない。
周囲を確認しながら走っていないということを除けば、
マキの運転は快適そのものだった。
- 103 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:09
- ニイガキの告げた住所はその場からかなり離れていた。
だが以前の横浜ならたっぷり1時間はかかったであろう道のりを、
マキは15分そこそこで走り抜けた。
「ここ?」
「はい・・・・・」
二人の行く手にはコンサートホールほどの大きさの工場が立っていた。
知人の刑事の情報では、ここでGAMとよく似た薬が作られているのだという。
一応、法には触れていないので問題はない。
作っているのは―――殺された男の会社の同僚なのだという。
「で、その刑事は何人で作ってるって言ってた?」
マキは工場から少し離れたところで車を止めた。降りようとしない。
先にゼロだけを車から降ろした。ゼロは音も立てず工場へと走っていく。
真っ黒な後ろ姿が工場の裏側へ消えていった。
「一人で作ってるって言ってました。薬が認可されなかったので会社を辞めて
自分で新しい会社を作ったそうです。そこでGAMと似た薬を作っているとか」
「一人じゃない」
「は?」
- 104 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:09
- マキは遠く離れたところに見える工場を指差した。
窓らしい窓もない工場は、外からでは中の様子が窺えない。
だがマキはきっぱりとした口調で言った。
「あの工場の中に五人いる」
ニイガキにはマキの言っている意味がわからなかった。
視線の先には工場のコンクリート壁しか見えない。
どれだけじっくりと見ても、中は見えない。
だがマキの決然とした口調は、推測というような弱いものではなかった。
見えているとしか思えない。キャリアというのは透視能力でもあるのだろうか。
「家族・・・・・でしょうか?」
「空気が張り詰めてる」
「はあ?」
「親しい間柄じゃない・・・・・むしろ敵対している」
ニイガキはますます混乱した。
いくら人の気配がするからといって―――
中の人間同士が敵対していることまでわかるものだろうか?
この自信に満ちたマキの口調の根拠は何なのだろう?
- 105 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:09
- 「四人が自動小銃を持っている」
「え? ホントですか?」
「ゼロがそう言っている」
「え? ゼロが? どこどこ?」
ニイガキには全く理解できなかった。
ゼロが火薬の臭いから拳銃の数と種類を推測したことも。
ゼロが振るわせた空気の振動を伝って、マキに情報を流したことも。
マキが皮膚上の感覚受容体でゼロからの情報を受け取り、認知したことも。
普通の人間であるニイガキは、何一つ理解できなかった。
目の前の事態が予想以上に深刻であることも理解できなかった。
だから―――何気なく車から降りた。
自分の目で確認しないと、マキの言ったことが理解できないと思ったから。
マキもニイガキに続いて車を降りる。
工場に近づこうとするニイガキを、片手で制した。
- 106 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:09
- 「ここでじっとしてて。邪魔になるから引っ込んでて」
マキは優しさでそう言ったつもりだった。
情報を教えてくれたニイガキに対する感謝の気持ちだった。
だがマキは―――優しくすることに、あまりにも不慣れだった。
次の瞬間、マキの脳裏からはニイガキの存在は消えた。
全ての感覚が戦闘モードに切り替えられ―――マキは世界から孤立した。
ゼロの位置を確認すると、マキは全速力で走り出した。
ニイガキは走り行くマキの後姿に目を奪われた。
あんな動きをする人間を、ニイガキは初めて見た。
マキは、まるで出来の悪いパラパラ漫画のように、不連続な動きをした。
小刻みなワープを繰り返しながら、
マキはあっという間にニイガキの視界から消えた。
数秒置いて我に返った。
陽炎のようにぼやけて消えたマキの後姿を追って、
ニイガキも夢中で駆け出していた。
- 107 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:09
- 自動小銃を持った四人の男は日本人ではなかった。
中南米系の顔立ちをしており、まるで体の一部のように銃を扱っている。
何気ない足の運びにも、肉食獣的な俊敏さがにじみ出ていた。
死線をくぐり抜けてきた人間だけが持つ、独特の荒んだ雰囲気を持っていた。
これまでに狩ってきたどのキャリアよりも―――強い。
マキは肌を震わせ、ゼロに自重を呼びかけた。
ゼロとマキは、いつもは個人個人で動いていた。
敵味方の動線が入り乱れる戦場では、各個撃破のやり方が一番率が良い。
だがこの四人を相手にするにはゼロと力を合わせる必要がある―――
マキの皮膚細胞はそう判断した。
幸い、四人の男達は、工場内に侵入したマキとゼロの気配に気付いていない。
可能ならば、反撃を呼ばないためにも一呼吸で四人全員を倒したい。
だが四人は、お互いがお互いの死角をカバーするような動きをしている。
隙がない。
ゼロを陽動で使ったとしても、四人全員が一直線上に並ぶような、
初歩的なミスを犯すことはないだろう。
- 108 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:10
- マキは四人を同時に仕留めることを諦めた。まずは二人殺ることにした。
ゼロを対角線上の位置に移動させる。
なるべく離れた場所にいる二人を同時に殺したい。
マキは四人の中で最強の戦闘力を持っていると思われる男の背後に忍び寄る。
ゼロも準備ができたようだ。
同時だ。同時に殺す。そして次の瞬間には残った二人の背後に移る。
ゼロと呼吸を合わせて、マキが銃口を男に向けたとき―――
「動くなあ! 麻薬取締官、ニイガキ・・・」
その瞬間、四つの自動小銃が、二階のテラスから叫ぶニイガキに向けられた。
マキの皮膚にある数百万の感覚受容器がフル回転する。
情報が伝達する速度はまさに光の速さだった。無数の情報が無数の判断を呼ぶ。
間に合わない。目の前にいるこの男を殺すことはできる。
ゼロも一人は殺せるかもしれない。だが残った二人の銃弾がニイガキを貫く。
この角度。四人同時には殺せない。どうすればいい。答えは一つ。
マキは判断すると同時に拳銃を向けた。
四人の男よりも一瞬速く拳銃を向けることができた。
照準を―――ニイガキに向けて。
- 109 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:10
- マキの放った銃弾は正確にニイガキの膝を撃ち抜いた。
ニイガキはもんどりうって二階から落ちる。
落ちて死ぬ高さではないだろう。打ち所がよほど悪くない限り。
四つの自動小銃は、恐るべき速さで、標的をニイガキからマキへと切り替えた。
そのうちの一つがドウッと音を立てて倒れる。
ゼロに喉を食いちぎられた男は、断末魔を上げることもできなかった。
マキは最強の男の方へ踏み込んだ。
この間合いならば距離を取るよりも詰めた方が早い。
自動小銃の殺傷半径の内側に入り込めばこちらの勝ちだ。
マキは豹のように低い姿勢から、しなやかに男の足元に飛び込んだ。
二人はもつれ合って床に倒れる。
その場所に寸分狂わず銃弾が注がれた。残った二人の男の銃撃だった。
同士討ちになることも気にせずに広範囲に撃ちまくる。
最強の男は―――味方の銃弾の雨の中であえなくその生を閉じた。
- 110 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:10
- マキの感覚受容体はオーバーヒート直前だった。
受容体を行き来する神経伝達物質の量は通常時の三倍を超えていた。
マキの神経は、1万分の1秒後の銃弾の軌道をナノメートル単位で予測する。
空気の温度の歪の間を這いながら、マキの体は信じられない速さで動く。
銃を放つ男達の目には、残像を含めて六人のマキの姿が見えた。
雷雲の中をのたうつ龍のように、マキは銃弾の雨の中を泳ぎきった。
それでも二人の男の銃撃は正確極まりなかった。
ゼロがそのうちの一人を噛み殺し、銃撃が止まったとき、
銃弾をかわし切れなかったマキの体には五発ほどの銃弾が命中していた。
だが致命傷ではない。重傷ですらない。全て防弾チョッキの上だ。
マキは運動機能を損なうような箇所には被弾を許さなかった。
残るは一人。
マキは動きを止めることなく、工場の裏手に回った。
そして、ゼロから誘導されるように追い立てられてきた男の頭に―――
マキはきっちり五発の銃弾を打ち込んだ。
- 111 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:11
- ☆
- 112 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:11
- ニイガキは右の肩が折れていた。
頭からの出血も激しい。何針か縫う必要があるだろう。
膝の銃弾は綺麗に抜けていた。
関節を傷つけるような下手な射撃はしていない。後遺症は残らないだろう。
ニイガキは意識を失っていた。いずれにせよ―――死にはしない。
全治何ヶ月かなんてことはわからないが、生きていればそれで十分だろう。
とりあえずマキは着ていた服を破り、ニイガキの頭と膝の止血を行なった。
携帯で本部に連絡し、応援を請う。
そして激しくも短い一日を締めくくる前に―――
もう一つの大きな仕事が待っていた。
「うぉん」ゼロが吠える。目的の人間を見つけたようだ。
マキは工場の奥にあった扉を開いた。
中には血まみれの男が一人倒れていた。
拷問を受けた後なのだろうか。息も絶え絶えという状況だった。
一刻も早い治療が必要と思われたが―――マキは強引に喋らせた。
- 113 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:11
- 血まみれの男はやはり、GAMの開発チームの一人だった。
GAMの発明者が殺された後も、残された一部の資料を基にして
「GAMもどき」とでもいう薬を作っていた。
一人でひっそりと作っていたつもりだったが、この手の世界は狭い。
あっという間に噂が広がり、そこを中南米ゲリラにつけこまれたらしい。
「あ・・・あいつらバカだから・・・・・データを見せても
なにもわからないで・・・・ったくバカが。バカどもが。
英語も酷い訛りで・・・・何言ってんだかわかんねーんだよ・・・」
男には抵抗する気はなかったようだ。
ゲリラの英語がもう少し上手かったら、もしかしたら今頃五人は仲良く
中南米行きの飛行機に乗っていたかもしれない。
マキは机の上に散乱している白い粉を舐めた。
似ているが微妙に違う。悪魔的な響きが決定的に欠けている。
やはりここで作っているGAMは関東で出回っている麻薬とは違っていた。
「あの薬は・・・・本物のGAMはあの人にしか作れない」
男は四年前に殺された男の名前を口にした。
GAM本来の製法も、そのときに紛失してしまったのだという。
- 114 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:11
- 「誰が殺した? 心当たりはある?」
答を期待していたわけではない。
会社の同僚というのなら、警察の尋問も受けただろう。
知っているならとっくに喋っているはずだ。
だが男は遠い目をしながらポツポツと語り出した。
「今思えば・・・・・あの女だったのか・・・な」
「女?」
当時、男達が働いていた工場に出入りしていた女がいたのだという。
工場には色々な人間が出入りしていたが、
その少女は業者や営業の人間にしては幼すぎた。
だが学生のような雰囲気もしない。幼い割には妙に落ち着いていた。
近くにたむろしている不良だろうかと思っていた。
いくら見た目が冴えない古ぼけた工場とは言え、
学校をサボっている不良どもの溜まり場にされてはたまらない。
男は何度かその少女を追い払ったことがあった。
- 115 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:11
- 「不良っぽいって言ったって見た目はガキだ・・・・・。
工場には金目のものは置いていないし、いくらなんでも
薬の作り方を盗みに来たなんて思うやつは・・・いなかった」
その女は、殺人事件と放火事件が起こった後は姿を現さなかった。
刑事にそのことを話した人間も何人かいた。
その後、捜査がその少女に及んだかどうかは知らない。
刑事に聞いても捜査のことだからと言って何も教えてもらえなかった。
ただ―――知っている名前か?とその少女の名前だけは教えてくれた。
勿論、刑事には知らないと答えた。初めて聞く名前だった。
「だが・・・・あの事故で・・・関東がこんなことになって・・・
俺も麻薬を作るようになって・・・ある麻薬組織の噂を聞いた。
女が仕切ってるんだってよ。その名前がさ、同じだったんだ」
「同じ? その出入りしてた女と? その名前は?」
「フ・・・ジモト・・・ミキ」
男はそこで一つ大量の血へどを吐いた。
マキは思わず目を逸らした。男の首から下はメチャクチャになっていた。
ゲリラ達の拷問の非情さは常軌を逸していた。
- 116 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:11
- 「なあ、俺もうダメなんだろ?」
「・・・・・・・・」
この状況では、正直に言うのも、嘘を言うのも、惨すぎる。
マキは男の問いに沈黙で答えた。男もそれを理解した。
「最後に一つ、お願いを聞いてくれよ」
「・・・・・・・・」
「お前の知りたいことは全部教えて、やった・・・・・。なあ、頼む、よ」
「なんだよ」
「GAM打ってくれよ」
マキの頭がぐわあんと大きな音を立てた。
視界がゆらゆらと揺れる。無理矢理まぶたをこじ開けられた気分がした。
メリメリと音を立てながら、歪んだ映像がマキの眼球に押し入ってくる。
見たくないものを無理矢理見せられた。
「GAMくれよ! 打ってくれよ!」
その声は、まるで隣の部屋から壁越しに聞こえてくるような声だった。
- 117 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:12
- 「GAMくれよ! 打ってくれよ!」
堰を切ったように、男の言葉が雪崩れ込んできた。
「打ったら痛みが消えるんだよ。頼むよ、なあ」
男は骸骨のような顔をしていた。
頬はこけ、髪は抜け落ち、歯もぼろぼろで、唇は擦り切れていた。
マキは目を逸らす。だが耳を塞いでも男の言葉を遮ることはできない。
男の要求はマキの耳をこじ開けて脳内に侵入してくる。
「くれよ。GAMくれよ・・・・・・」
わんわんわんという耳鳴りがマキを襲った。
自分がゆっくりとゆっくりとパニックになっていくのがわかっているのに、
何もできなかった。
異常に発達した皮膚感覚も、銀のナイフも、獰猛な黒い相棒も―――
マキを助けてはくれなかった。
- 118 名前:【流行】 投稿日:2009/08/13(木) 23:12
- 違う。これはいちーちゃんじゃない。こいつはいちーちゃんじゃない
ここは施設じゃない。
じゃないないないないないないないないないないないないないないないないないないない
マキは必死で孤立しようと試みた。心を遠く離れた場所に置こうとした。
いつもやってることだ。簡単にできることだ。だから、だから、だから、だから。
世界に干渉してはならない。世界から干渉されてはならない。
あたしは孤独だ。あたしは一人だ。もう誰のことも干渉しない。
だから―――だから―――だから誰も―――
あたしの心に『干渉』するなああああああああああああああああああああ あ あ あ あ
「それが嫌だっていうなら」
必死で押さえこんだマキの心を、男の言葉が弾き飛ばした。
「おれを殺してくれ」
マキは狂ったように銃を連射した。
- 119 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/13(木) 23:12
- ★
- 120 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/13(木) 23:12
- ★
- 121 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/13(木) 23:12
- ★
- 122 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:18
- 「フジモトミキ」という名前を辿ることは困難を極めた。
GAMの線からいくら追っても、その名前が出てくることはなかった。
それでもマキは、キャリアを狩り、SSを探り、本部長から与えられた仕事をこなし、
その合間の限られた時間を利用して粘り強くミキの足跡を追った。
何の進展もない毎日が続いた。
このまま永遠に続くのではないかと思われるほどに―――
その間にマキは三足の靴を履き潰し、一台の車を乗り潰した。
傍から見ていれば、マキはただの優秀な麻取の一人にしか見えなかっただろう。
だがマキの心中に充実感や達成感などない。使命感すらない。
ただ機械のように心を殺して、ひたすら獲物を追い続けた。
こういった膠着状態というものは、徐々に開けていくものでなはい。
ある日突然。たった一瞬。たった一つの出来事が劇的に状況を変える。
そしてそれは多くの場合、予想しなかった方向からやってくる。
この時も例外ではなかった。
大きな変化は、GAMの捜査でもSSの捜査でもなく―――
本部長から与えられた一つのルーチンワークから起こった。
- 123 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:18
- 一人の男が薄汚れたビルの地下へと下りていく。
マキは50メートルほど離れた地点で男を尾行していた。
標的413号。その男は本部長から逮捕を命じられた売人だった。
これまで与えられたルーチンワークの中でもかなり楽な部類に入る仕事だった。
男にはややこしい背後関係はない。キャリアでもない。確保は容易だと思われた。
マキでなくてはできない仕事ではない。ただ単に麻取本部に人が足りないだけなのだ。
そういえば負傷したニイガキは今日、退院するとかいう話を聞いた。
本格的に捜査に復帰するのはもう少し先のことになるだろうが、
彼女が戻れば少しは雑用も減るかもしれない―――
マキはそんなことを考えながら、ゼロをビルの背後に配した。
男の気配はしっかりと地下一階に残っている。まだ動いてはいない。
だが出口があそこ一つだとも限らない。
マキが地下に降りるなら、ゼロは地上で待機させるべきだと判断した。
マキには微塵の油断もない。
なぜなら最近のマキは、相手の力量を推し量るという行為を
あまりしないようになっていた。
雑魚も大物も一緒だ。最強最速の行動でもって排除する。
数多の経験が、マキの判断力から無駄な贅肉を削ぎ落としていた。
マキは気配を殺しながら地下へと続く階段を下りていった。
- 124 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:18
- ビルの地下一階には四人の気配があった。
一つは奥の部屋。調理をしているような熱気を感じた。厨房だろうか。
中央の広い部屋に三人。そのうちの一人が413号であることは間違いない。
413号の傍には二人の人間の気配があった。なにやら剣呑な雰囲気だ。
取り引きか? 喧嘩か?
マキは耳を澄ます。413号が誰かと言い合っている声が聞こえる。
売買の行き違いによる口論だろうか。
そうだとしたら有難い。一気に仕事が楽になる。
売買の現場を押さえられれば捕縛は必要ないからだ。ただ撃てばいい。
三人まとめて撃つか。ゼロを呼ぶか。まずは413号だけ片付けるか。
判断を下すにはもう少し情報が必要なように思われた。
マキは壁から片目だけを覗かせて様子を窺った。
413号がいた。目が完全に飛んでいる。これで射殺を躊躇う必要は無くなった。
マキは銃を構える。銃口と男を結ぶ直線の上に一人の女が立っていた。
413号だけを撃つのは難しい。
だが二人まとめて殺すとするならば、その立ち居地はマキにとって好都合だった。
- 125 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:18
- 413号と一緒にいたのは二人の女だった。
一人は413号に無理矢理抱きかかえられていた。
そしてもう一人の女がそれを見ながら413号に何かを言っている。
二人の女は麻薬密売人のようには見えなかった。
取り引きではなく、413号がただ店の客にからんでいるだけのようだ。
「吸う? 彼女?」
413号は小さな紙包みを取り出した。包みを広げて女の鼻に近づける。
マキの肌がひりひりと反応した。包みの中身は改めなくともわかる。
ひりつく肌の感覚野を最大限に広げ、マキは銃の安全装置を外した。
トリップした男の頭はゆらゆらと不規則に揺れている。
その頭と、マキの照準の間には、相変わらず一人の女が立っている。
しかもその女は、今にも413号に飛び掛らんばかりだ。
狙撃のチャンスは一瞬しかないように思われた。
「さ、彼女、遠慮なくどーぞどーぞ」
囚われた女の鼻先に、紙包みが無理矢理押し当てられる。
マキの導火線に火が付いた。肌の感覚受容体が高速計算を始める。
交錯する無数のシュミレーション軌道の中から一つを選び、マキは引き金を引いた。
- 126 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:19
- ガウ ン
女を避けて撃つのは不可能だった。
銃弾は女の耳たぶをかすめて、413号の眉間に突き刺さった。
その小さな体に恐ろしいまでの運動エネルギーを溜め込んだ銃弾は、
男の体を後方へと軽々と吹き飛ばした。
そこまではマキも予想していた動きだった。
だが視線を切ろうとしたマキの目の中で、銀色の手錠がキラリと光った。
男と女は手錠でつながれていた。二人はもつれ合いながら後方に倒れていく。
その後ろには錆びた金属の棒が何本も突き出していた。
上着をかけるためのものなのだろうか。
その鋭利な先端に向かって、女の首が吸い込まれるように―――
観察すること。予測すること。判断すること。実行すること。
マキの神経内では4つの動作がほぼ同時に遂行された。
ガウン ガウン ガウン ガウン―――
4つの銃弾のうち、3つは男の体に突き刺さり、1つは女の肩を掠めた。
手錠でつながれた二人は空中でダンスを踊るように体をひねらせた。
そして女の体は―――狙ったように金属の棒の隙間にぴったりと収まった。
- 127 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:19
- マキはつかつかと歩み寄ると、413号の死体をぽーんと蹴り上げた。
取り出した携帯電話で男の顔を撮影する。画像はすぐさま本部にメールで送る。
逮捕の状況。怪我人の情報。本部には電話で状況を報告しなければならない。
マキは肩から血を流している女にチラリと一瞥をくれた。
「こちらマキ。標的413号をD確保。メール送信済み。軽傷一名。以上」
以上と言い終わるよりも早く、マキは携帯を切った。
ざっと店内を見渡し、何も異常がないことを確認すると椅子に座った。
「店の人は?」
派手な銃声がしたにもかかわらず、奥の部屋の気配が乱れる様子がない。
怪我をした女を介抱している女が顔を上げた。どこかで見たことがある顔だった。
「オヤジは奥に居る。揉め事があっても出てこないよ。ラーメンしか作らないヒトだから」
「ラーメン? メニューは?」
「ない。ここは一見さんは相手にしない店だから」
何気ない会話のつもりだったが、相手の女はやけに殺気立っていた。
「あのさあ、こっち怪我人いるんだけど」
「医者は呼んだ。ここに来るまでまだあと三十分はかかる」
マキは再び怪我人の方に目を向ける。銃弾がかすめた肩が赤く染まっている。
だがもう一人の女の応急処置によって、腕は既にタオルで固定されていた。
マキが見る限り、過不足のない、非常に適切な応急処置だった。
「あんた看護婦?」
- 128 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:19
- キッと睨みつけている女の顔が、やけにマキの記憶に引っかかった。
本部の書類の中に顔写真があったのかもしれない。
だが指名手配犯ではないことは確かだ。さすがにそれは忘れない。
「まさか。それより手伝ってよ」
「手当てならそれで十分」
「ちげーよ。鍵だよ鍵。鍵探すの手伝ってよ」
「鍵?」
怪我をした女と413号は、まだ手錠でつながっていた。
探すのを手伝えと言っているのは、その鍵のことらしい。
仕事柄、鍵をこじ開けるのは得意だ。
だがマキは女の次の言葉を聞いて、こじ開けるのは止めることにした。
「あんたさあ、探すのは得意だろ」
「え? なんで?」
「探すのが仕事みたいなもんだろ。麻取ってのはさ」
「へえ」
マキの表情が柔らかく変化する。
麻取と言われてもなぜか悪い気はしなかった。
むしろズバリと言い当てた女に対して少なからぬ興味を抱いた。
そしてその時、マキは思い出した。
本部にあった、関東広域団体に関する一枚の資料のことを―――
- 129 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:19
- 手錠の鍵を見つけることは難しくなかった。
マキは指先で手錠の鍵穴をなぞる。
皮膚感覚を最大限に上げて、その鍵穴に合う形をスキャンした。
周囲数メートルの範囲であれば、今のマキにはそんな芸当も可能だった。
「多分これだね」
鍵は男の耳にぶら下がっていた。
女は驚いた様子を見せながら鍵を受け取った。
すんなりと手錠が外され、怪我をした女が床に横たえられる。
これで本来の仕事は終わりのはずだったが、マキは立ち去らない。
この二人の女に対して、強い興味を引かれていた。
マキは表情を崩して女に語りかけた。
「じゃ、お礼にラーメンでもおごってよ」
話のきっかけは何でもよかった。言葉であれば何でもいいと思った。
だがマキの言葉は、女の神経をざわりと逆撫でたらしい。
「これ、あんたに撃たれたんだと思うんだけど」
憮然とした表情で女が言った。どうもマキと話すことすら不愉快な様子だ。
女は怪我をした女に優しく声をかけた。
「大丈夫? リカちゃん」
「うん・・・・・よっすぃー。たぶん・・・・・大丈夫」
よっすぃー。
その呼び名とマキの中の記憶とが完全に一致した。
- 130 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:19
- マキの記憶に誤りがなければ、よっすぃーと呼ばれた女の名前はヨシザワヒトミ。
関東で最大の賭博組織である「フォース」の幹部のはずだ。
マキは軽く流し読みした資料の内容をなんとか思い出そうとした。
フォースという組織自体は麻薬を扱ってはいないが、大きなクラブを抱えており、
そこでは様々な種類の麻薬が売買されていた。
麻取本部の書類にもクラブフォースは「重点注視地点」に定められていたはずだ。
フォースで一番人気があるギャンブルが、確か一対一のフリーバトル。
そのバトルでの看板ファイターがヨシザワヒトミ。
組織の中ではよっすぃーと呼ばれていると聞いたことがある。
よく考えてみれば、ここはフォースの本店からかなり近い場所だ。
この女がヨシザワヒトミであることは間違いないだろう。
ヨシザワは写真で見るのとではかなり印象が違って見えた。
白く透き通った肌に、ばさりと無造作に乗っかった黒い髪。
細かいメイクをしているようには見えなかったが、何よりもその無造作さが
女の持って生まれた美しさを明確に引き出していた。
こんなに美しい女だったのか。マキは唾を飲み込んだ。
ゴロツキの喧嘩師とは思えないような、近寄りがたい気品をたたえた女だった。
- 131 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:19
- ヨシザワの不機嫌の理由はすぐにわかった。
連れの「リカちゃん」とかいう女の怪我の具合が気になるらしい。
彼女を撃ったのは紛れもなくマキ本人なのだ。
好意的な反応を期待する方が間違っていたのかもしれない。
マキは立ち上がってリカに近づく。
「リカちゃんっていうんだ」
怪訝な顔をするヨシザワを、マキはゆっくりと押しのけ、リカの頬に手を当てた。
すべすべとしたリカの頬の上をマキの掌が滑る。
皮膚と皮膚のこすれる柔らかい感触が、マキの感覚受容体に吸い込まれていく。
マキはリカの細胞の動きを冷静にトレースした。
体液の流れ。リンパ球の流れ。その他の分泌物の流れや生体反応の強さ。
肩の傷口に直接触れなくとも、マキにはそういった情報を正確に掴むことができた。
大丈夫だ。怪我そのものは軽症だし、ショック症状もほとんどない。
マキはリカの体のダメージが、自分が予想した通りの強さだったことに満足した。
銃弾は狙った場所に寸分狂わず着弾してくれたらしい。
「うん。大丈夫だよ。弾はかすっただけ。命に別状はないって」
- 132 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:20
- それでもヨシザワの曇った表情は晴れなかった。
「それってさあ。撃った方が言う言葉じゃないと思うけど」
おっしゃるとおりです。
マキは心の中でぺこりと頭を下げた。
リカを撃ったときの状況をくどくどと説明するつもりはなかった。
かといって素直に謝罪する気もなかった。
自分は自分の仕事をこなしただけ。
そしてそのことを理解しているのは自分一人で十分だった。
マキは他人に理解してもらうことを欲さなかった。
世界に干渉する気はなかったし、世界に干渉される気もなかった。
ただ自分がやりたいと思ったことをやるだけ。
そしてその時にマキがやりたかったことは―――説明でも謝罪でもなかった。
「で、ラーメンは?」
マキは朝から何も食べていなかった。
- 133 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:20
- 「あたしはあんたの名前も知らない」
ヨシザワの返答は愛想の欠片もなかった。
「あたしは知ってる」
「は?」
マキは切り札を出し惜しみするような性格ではない。
常に持っている最強の札を相手にぶつけることを好んだ。
計算ではない。駆け引きでもない。ただマキは常に思うがままに行動した。
計算や駆け引きとは最も遠いところにある性格だった。
「クラブフォースの看板ファイター、ヨシザワヒトミ」
マキがオープンにした札はそれなりに効果があったようだ。
ヨシザワの顔色があからさまに変わる。
だがヨシザワはさすがにタフだった。一方的にやられているだけではなかった。
「マキ、でいいのかな。あんたの名前」
携帯で連絡している時に聞かれたのか。マキは心の中で舌打ちした。
- 134 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:20
- 「覚えなくていいよ」
この世界で名前を覚えられて良い思いをすることはない。
それは犯罪者も捜査官も同じことだった。
「あたしは―――名前も知らないヤツにおごってやれるほどクールじゃない」
「格好良いね。じゃあ、おごってくれたら忘れていいよ」
「忘れない方がいいかもしれない」
マキはいつしか仕事のことを忘れていた。SSのこともGAMのことも忘れていた。
マキは、自分がこの会話を楽しんでいることに気付いていない。
自分がヨシザワの内側に干渉しようとしていることに気付いていない。
「撃たれた恨み?」
「いんや。フォースをマークしてる麻取の名前なら覚えておかないとね」
「後ろめたい部分があるんだ」
「やり合う可能性がないわけじゃない」
ヨシザワにそう言われて、マキは初めて気が付いた。
彼女の体から、ゆらゆらと闘気のようなものが沸き立っていることを。
常人の目には見えないような気の流れだったが、マキにははっきりと見えた。
なるほどこいつは確かに―――大組織の看板ファイターだけのことはある。
- 135 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:20
- 「へえ。やり合う、ね」
「必要があるなら」
ヨシザワの闘気は殺気というほどのものではなかった。
今ここですぐにやり合うという話ではない。
麻取が相手でも引かないという一種の意思表示のようなものなのだろう。
「あたしは―――名前も知らないヤツを殺してやれるほどクールじゃないってか?」
「クールじゃなくても人は殺せる」
「同感だね」
マキの表情が緩む。笑うつもりはなかったが、無意識に笑みが漏れた。
なんだかこの関東で、久しぶりに人間らしい人間を見た気がした。
純粋に楽しかった。本当に久しぶりに人間らしい会話をしたような気がした。
これは捜査じゃなくて軽い雑談―――マキはそう思っていた。この時点ではまだ。
マキが言葉の接ぎ穂を探しているうちに、外が騒がしくなってきた。
どうやらタイムリミットが来たらしい。
「おごってくれたら忘れていいよって言ったけど―――」
本部の方から救護隊が到着したようだ。
いくらリカが軽傷とはいえ、手当ては早いに越したことはない。
「それはナシになりそうだね。残念ながら」
マキはそう言って席を立った。
- 136 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:20
- ストレッチャーを引きずった白衣の男たちにマキは指示を出す。
先に死体を担ぎ出そうとした男たちを蹴飛ばし、怪我人のイシカワの手当てを優先させる。
隊員の一人が連絡先を尋ねた。ヨシザワが二つの住所を告げた。
記憶しようと意識したわけではなかったが、
マキは職業的な条件反射から、二つの住所をしっかりと暗記した。
隊員達はリカが着ている服をびりびりと破いた。
移動させる前に簡単に消毒をしておくようだ。
リカの肩が露出する。
その肩に―――見覚えのある字体で9という数字が書かれていた。
マキの神経が逆立つ。9。9。9。9。9。
確か老人がこんなことを言っていた。
テラダは予備の被験者を4人準備していた―――
死体が見つからなかったから生きている―――
お前と同じようなタトゥーがあるだろう―――
9番から12番までの―――
- 137 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:21
- マキはリカの肩につかみ掛かりたい衝動に駆られた。
問い質したいことが次から次へと溢れてきた。
あんたが予備の被験者? あの事故の時に施設にいたの?
あの赤い霧を見たの? あの『巨大な何か』を見たの?
他のメンバーの行方を知っているの? テラダの行方を知っているの?
だが、殺人的な訓練によって作り上げられた、機械のような思考回路が、
かろうじてマキの衝動を押し止めた。
今ここで彼女を詰問するのは得策ではない。
沈黙されればそれで終わりだ。姿を消される可能性も高い。
まずは別角度から探りを入れるべきだ。
同じ質問をするにしても、外堀を埋めているかいないかによって、
リカの反応も異なってくるだろう。
マキは血を吐く思いで、二人にひとまず別れを告げた。
「また次の機会に」
真っ黒な背中を陽炎のように揺らしながら、マキは暗い街頭へと消えていった。
- 138 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:21
- ☆
- 139 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:21
- ニイガキの膝の傷は意外と軽傷だった。奇跡的な軽傷と言ってもよかった。
マキの放った銃弾は、骨も軟骨も靭帯も一切傷つけず、
かすかに筋肉をえぐっただけで綺麗にニイガキの膝を貫通していた。
その筋肉も既にほぼ元の状態まで回復していた。
ニイガキは松葉杖をついて職場に復帰した。
膝よりも、2階から落ちたときに骨折した右肩の方が痛かった。
だが同僚の冷ややかな視線は―――それよりも痛かった。
以前はにこやかな顔でニイガキに話しかけていた人間も、
急によそよそしい態度で、ニイガキと距離を取った。
触らぬ神に祟りなし。
どうもアンタッチャブルな存在のマキの邪魔をしてしまったニイガキは、
それ以上にアンタッチャブルな存在になってしまったらしい。
復帰の挨拶に行った本部長室でも、ニイガキを迎えたのは、
いつも以上に苦々しい顔をした本部長だった。
本部長からは当分の間、内勤で大人しくしているようにと命じられた。
怪我が癒えていないからというのがその理由だが、体のいい謹慎処分だろう。
ニイガキは左手で力なく敬礼をし、本部長室を後にした。
- 140 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:21
- 署内を行き交う捜査員たちの視線はどこまでも冷たかった。
ただでさえ人が足りない麻取本部だ。
自らのミスが招いた怪我で長期療養していたニイガキは非難の対象でしかなかった。
以前と全く変わらぬ態度でニイガキに接した人間は、一人しかいなかった。
「あはははは。アホやなあ、ガキさん。マキさんの真似なんかするからや」
タカハシは何も変わらなかった。
いつものようにニイガキをからかい、苛立たせ、自分勝手な話ばかりした。
ニイガキを批判するときでさえ、話の中心にあるのはタカハシ自身だった。
自分。自分。自分。自分。自分。タカハシの話にはそれしかない。
この女は「自分が他人からどう思われているか」ということに対して、
なぜこうまで無頓着でいられるのだろうか?
深く落ち込んでいる今のニイガキには、その無神経さが羨ましかった。
それともあたしの方が、他人の目を気にしすぎている?
タカハシと一緒にいると、まるで自分の方が間違っているような気がした。
少なくとも自分のやり方を通すという意味では、タカハシの方が正しいのだろう。
ニイガキはそのタカハシの強さが羨ましかった。
- 141 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:21
- 「ま、ガキさんが休んでた分はあたしが必死でカバーしたから」
タカハシの恩着せがましい言葉は、まんざら嘘でもなかった。
休んでいた間の書類に目を通すと、タカハシの働き振りが際立っている。
まさに二人分の働きをしていた。
特殊捜査員であるマキを除けば、間違いなくタカハシが今の麻取のエースだろう。
そのタカハシを陰で悪く言う人間は多かった。
やれ本部長のお気に入りだの、小物ばかり捕らえているだの、
子飼いの売人を小出しにして逮捕しているだの、
果ては押収した麻薬を横流ししているという噂まであった。
そういった噂を耳にするたびに、ニイガキはまるで自分のことのように腹を立てた。
わかっていない。そんな噂をするやつらは麻取の仕事のことをわかっていない。
この仕事は上に媚を売ってどうなるものではないのだ。
必要なのは力。それも圧倒的な力が必要なのだ。
この無法地帯ではそれ以外の価値観は存在しない。甘い理想論が通用する世界ではないのだ。
正統な種類の物ではないのかもしれないが、
確かにタカハシはそういう「力」を持っていた。
どうせ悪く言われるなら、ミスをして言われるのではなく
バリバリと仕事をこなして言われたいものだ。
ニイガキは大声で喋り続ける高橋を見ながらそう思った。
- 142 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:21
- 「で、ガキさんは2階に上ったんや」
タカハシは例の事件の概要を知りたがった。
他に話すこともないので、ニイガキもそれに素直に答えた。
「うん。2階の窓のところにさ、エアコンの室外機があって。
それがウインウイン言ってたから身を隠しやすいかと思って」
「へー。悪くない判断やん」
ニイガキは完全にゲリラ達の死角に入り込んでいた。
室外機から吹き付ける熱風は、ニイガキの体温を隠してしまい、
マキにもその気配を察することはできなかった。
ニイガキはそこまでは冷静に行動できていた。だがその後が最悪だった。
ニイガキの視界に入っただけでも三人の男が銃を携帯していた。
一人一人倒すという考えはなかった。
三人同時に制圧することしか頭になかった。
加えて言うなら―――マキがいることすら頭の中から吹っ飛んでいた。
認めなくはないが、パニックに陥っていたのかもしれない。
- 143 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:22
- 「で、帳面を出して麻取って名乗ったんかあ」
「最悪だった・・・・・・」
「まあねー。日本のヤクザなら警察組織には絶対楯突かないもんねえ」
基本的に、日本の非合法組織は国家機関には歯向かわない。
勿論、最低限の抵抗はするが、警察官を殺すような真似は絶対にしない。
そんなことをすれば、警察が威信をかけてその組織を潰すことを知っているからだ。
警察や麻取の逮捕技術も、そういった事実に基づいている部分が少なくない。
だがそんな甘い考えは―――海外から流れてきた組織には全く通用しない。
後のことは全く覚えていなかった。
現場はマキが一人で完全に制圧したと後で聞いた。
ニイガキはマキの戦い振りを一瞬も見ることは叶わなかった。
あまりの情けなさに、ニイガキは病院のベッドで何度も泣いた。
ニイガキは持っていた資料を置いた。
自分がベッドで泣いている間も、この同僚は着実に仕事を重ねていたらしい。
元々開いていた差が、さらに大きなものになった気がした。
いつまでも泣いてばかりいられない。負けてはいられないのだ。
- 144 名前:【流行】 投稿日:2009/08/17(月) 23:22
- 残念ながらマキの強さの秘密は分からなかった。
それどころか、ますます謎が深まったかもしれない。
だがニイガキはもう、マキのことをあまり気にしないようにしよう思っていた。
少なくとも「マキのことは理解できない」ということはわかったのだ。
あの人と同じようなやり方はできないし、やる必要もない。
自分が強くなる方法はわからなかったが、
自分が強くなれない理由はわかった気がした。
マキに頼っていてはダメだ。タカハシに頼っていてはダメだ。
自分が頼られるようにならなければいけない。
強くなる方法は、きっと他人の中ではなく、自分の中にある。
力だ。理屈じゃない。まずは力だ。
世界をくるりと反転できるような圧倒的な力。
ニイガキは神に祈った。
そんな力を身につけることができますようにと。
自分の中に見出すことができますようにと。
だが―――ニイガキはまだ知らなかった。
人間の苦境に手を差し伸べるのは、いつだって神ではなく悪魔なのだということを。
そしてその悪魔というものが実在し―――
そう遠くない将来に自分の目の前に現れるということを―――
- 145 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/17(月) 23:22
- ★
- 146 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/17(月) 23:22
- ★
- 147 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/17(月) 23:22
- ★
- 148 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:12
- 本部に戻ったマキはすぐさまクラブフォースに関する資料を漁った。
成果は予想以上だった。
まず組織のトップの名前を調べて驚いた。
「ナカザワ」
ありふれた名前といえばありふれた名前だが、偶然だとは思えなかった。
この女が施設で「1」の部屋にいたナカザワユウコであることを、
マキは微塵も疑わなかった。
しかもこの組織には、確認されているだけで3人のキャリアがいた。
「ヨシザワ」「ツジ」「カゴ」
ヨシザワもキャリアだったのか。
ならばマキを相手にして一歩も引かない自信というのも頷ける。
おそらくかなりの力を持ったファイターなのだろう。
「ツジ」と「カゴ」という名前は初めて見た。
だがもしかしたらこの二人も、追加メンバーの一員なのかもしれない。
施設にいた人間があのウイルスの影響を受けてキャリアになったということは、
かなり高い確率でありえることだろうと思えた。
- 149 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:12
- ようやく見つけた被験者の一人。だがマキは焦らなかった。
フォースは関東でも有数の巨大組織のようだ。
そのトップにいる人間が軽々しく身を隠しはしないだろう。
いきなり接触するのはかなり分の悪い賭けのような気がした。
ナカザワも、ゴトウマキという名前を覚えていないはずはないだろうが、
自分があの施設にいたことを、ナカザワに伝えるのは良い選択とは思えなかった。
マキ自身、あの施設にいたからわかる。
同じ施設にいた人間だからといって、相手を無条件で信用することはありえない。
逆に警戒しなければならない相手だと身構えてしまうかもしれない。
やはりまずは外堀から埋めるべきだ。
フォースのことを徹底的に探るべれば、次にやるべきことが見えてくるだろう。
フォースという組織が、いつどこでどのように作り上げられたのか。
どういったメンバーで構成されているのか。
背後には誰かいるのか。他の組織とつながりはあるのか。
調べることは山ほどある。
マキはしばらくの間は本部長からの雑用を無視することに決めた。
- 150 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:12
- それから数日が過ぎた。
フォースの概要を頭に叩き込んだマキは、店に顔を出すことにした。
本来は「重点注視地点」に定められた店に麻取が出入りすることはできない。
潜伏捜査を行なっている捜査員の邪魔となってしまうからだ。
そこで勃発する小さな犯罪は全て見逃されることになっている。
より大きな犯罪を摘発するために必要な措置だった。
その措置を超えて店に出入りする許可をもらうのは容易ではなかった。
老人と小刻みに連絡を取り合いながら、
何とか許可を得るまで、一週間ほどかかってしまった。
マキは公用車の鍵を持って席を立つ。
向かい側の机に座っているニイガキは何も言わなかった。
もう足は良くなったはずだ。捜査に行こうと思えば行けるだろう。
だがあの事件があって以来、彼女がマキにまとわりつくことはもうなかった。
それでいい―――
マキはニイガキに救いの手を差し伸べる気はなかった。
マキにはマキの世界があるように、きっとニイガキにはニイガキの世界がある。
ニイガキにとってマキは―――神でも悪魔でもなかった。
- 151 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:12
- 営業時間の真っ只中のはずだが、フォースは開いていなかった。
この手のクラブが臨時休業することは極めて珍しい。
常に金が回っていなければ水商売はやっていけない。
この店だって、おそらく開店するときにはかなりの借金を抱えたはずだ。
金はいくらあっても邪魔になることはないだろう。
今のフォースの一日の売り上げは百万円は下らないはずだ。
それをみすみす見捨てるのはおかしい。
何か非常事態が発生していると考えるのが自然だった。
マキは常連のような顔をして店に入り込もうとした。
麻取の帳面を振りかざす場面ではない。
だが、あっという間に店員がやってきてマキに退室を促した。
「お引き取りください」
言葉は丁寧だったが―――店員の表情からは切羽詰った殺気を感じた。
さてどうしようか。
この後の塩梅を思案していたマキの耳に、甲高い声が聞こえた。
「いいの。入ってもらって。その人、私の恩人だから」
聞いたことがあるようなないような甲高い声だった。
振り向くとそこには肩の傷も癒えたらしいリカが立っていた。
- 152 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:13
- リカは照明が落ちた暗い部屋の一角にマキを招き入れた。
店員は「じゃ、後はお願いします」とだけ言って消えていった。
最初から最後まで落ち着きのない態度だった。
「すみません。今ちょっとバタバタしてて」
リカは部屋の奥からコーヒー2つ入れて持ってきた。
マキはやけに柔らかいソファの上に腰かける。
妙に低いテーブルの上にリカはコーヒーカップを二つ置く。
薄暗いクラブの一室に、どこか場違いなコーヒーの臭いが漂った。
これじゃまるで普通の喫茶店みたい―――
だが悪くなかった。リカの淹れたコーヒーの味は上々だった。
リカはもう肩が痛そうな素振りは見せない。マキはその肩のことが少し気になった。
あの「9」という数字のタトゥー。リカが施設にいたことは間違いない。
リカもまた、あのウイルスを浴びてキャリアになったのだろうか―――
二人は小さなテーブルに向かい合って座った。
お辞儀をすれば頭が届いてしまいそうな距離だった。
そして実際にリカは、マキの胸元に触れそうなほど深々と頭を下げた。
「その節はどうもありがとうございました」
- 153 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:13
- 「さっきも『恩人』っていったけどさ。そうじゃないよね」
「え?」
「こっちこそ謝らなきゃいけない。ゴメンね。肩の傷」
マキの口からは素直に詫びの言葉が出てきた。
何も意識せずに出た言葉だった。
何も意識しない。そういった精神状態が、マキにはとても新鮮だった。
リカはにっこりと笑って首を横に振った。
黒く澄んだ瞳で真っ直ぐマキを見つめている。
「わたし、目が良いんです」
純粋な瞳というのは強い。
疑う視線よりも、信頼する視線の方が強い。
殺意を込めた視線よりも、無償の善意を込めた視線の方が強い。
はるかに強い力を相手に与えることができる。
「あのとき、あたしの後ろには尖った棒がありましたよね」
なぜかリカの瞳に見つめられると心の奥底まで見透かされそうだった。
だがマキは視線を逸らすことができない。リカの視線は強烈だった。
マキの肌の敏感な感覚受容体は、全身でリカの視線を受け止めた。
金縛りにかかったかのように全身の感覚が痺れる。
マキはリカのひとみに自分が映っていることを、強く意識させられた。
「マキさんが撃ってくれなかったら、あれが私の喉に刺さっていた」
- 154 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:13
- 「バカな」
自分でも不自然な誤魔化し方だと思った。
だがマキはどうしても自然に振舞うことができなかった。
どんなに不自然であっても、リカの言葉を肯定するわけにはいかなかった。
「そんなわけないじゃん。そんなこと―――できるわけないじゃん」
マキはむきになって否定した。
自分の特別な能力を知られることが何よりも恥ずかしかった。
この能力は、自分一人だけのものであるはずだった。
誰にも言わず、一人で満足していることを知られたくなかった。
「わたし、本当に目が良いんです。だからあの時も弾丸の軌道が見えた。
最初はすごい不思議でした。二発目以降の軌道が明らかにずれてたから。
でも強い意志のこもった軌道だった。ミスで外したわけじゃない。
倒れた後で気付いた。ああ、この弾丸はそういう意味があったんだって」
マキは赤面した。耳まで真っ赤になった。
自分が本音で書いた日記を親に読まれたような気持ちになった。
目の前で声を上げて読まれたような気分だった。
一瞬だけ―――自分が何をするためにここまで来たか忘れそうになった。
- 155 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:13
- 「あのさ!」
マキは強引に話題を変えた。
これ以上この話を続けていたら頭がおかしくなりそうだった。
「今日は店はやってないの? 休み? なんで?」
こちらから質問をすることで会話の主導権を握ろうとした。
捜査員なら誰でも使っている基本的なテクニックだった。
だがこの時のマキは捜査員ではなく―――リカも容疑者ではなかった。
マキの言葉はリカの返事であっけなく撃ち落された。
「私はこの店では一番下っぱですから難しい話はわかりません。
お店で遊びたいなら、申し訳ありませんが出直してもらえませんか?
明日はいつも通り営業しているはずですから・・・・・」
出直してください。その言葉でマキを縛っていた何かが解けた。
マキは勢いよく席を立った。よそよそしい態度を装った。
そうしないと、リカの目から何かがマキの心に入り込んできそうだった。
今はこの場に一秒でも速くここから立ち去りたかった。
リカの目から逃れたかった。
「じゃ、出直す」
「ごめんなさい・・・・・・」
- 156 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:13
- 普段のマキならば絶対に引き下がらなかっただろう。
緊迫した空気が流れる店内に、深く探りを入れたことだろう。
だがマキはリカの前では能力を使いたくなかった。
何もかも見透かされるような気がした。
捜査員としての意図や技術が見透かされるならまだいい。
だがリカの瞳は、マキという人間の一番深い場所まで見通せそうな目をしていた。
なぜ能力を使うのか。なぜ能力を手に入れたのか。なぜ戦うのか。
何を追っているのか。なぜ孤立を望むのか。なぜ何にも干渉しないのか。
それらは全て、マキが誰にも知られたくないと思っていることだ。
リカのひとみは、きっとそれら全てを明らかにするのだろう。
生きてきた人生を全てトレースされそうな気がした。
リカの瞳は人の何かを狂わせる力があった。
その瞳に強く干渉されたなら、マキはそれを跳ね返せる自信がなかった。
だからマキは席を立ち、店を後にした。
何も考えず、何も探らず、一目散に本部まで戻った。
ミスを犯したことを知ったのは翌日のことだった。
そろそろ日も暮れて、クラブフォースの営業も始まるかという時間に、
フォースの資料調査を集めてくれた捜査員が、マキに声をかけた。
「マキさん。やばいですよ。フォースのナカザワが殺られたらしいです」
- 157 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:13
- ☆
- 158 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:13
- 老人は「死体は必ず回収すること」と言ったが、
マキはそれすら遂行することができなかった。
マキに情報を伝えた捜査員は、子飼いの情報屋からナカザワの死を知ったらしい。
まだ警察に通報はきていない。
当然だ。メンツを重んじる非合法組織が、警察を頼るわけがない。
おそらく組織の手で犯人を捕らえて報復措置を加えるのだろう―――
ナカザワの死が公にされることはない。死体がどう処理されるかもわからない。
大急ぎでフォースに出向いたマキだったが、死体は既に処理された後だった。
ビルに忍び込んだマキは上から下まで入念に調べたが、
血の一滴すら見つけることはできなかった。
おかしい。
ナカザワが殺されたこと自体はあり得る話かもしれない。
だがここまで完璧に死体が処理されるというのはおかしな話だ。
老人は言っていた。
「S.Sを封じ込めるには、全てのウイルス断片が必要だ」
もしかしたらウイルスを探しているのはUFAだけではないのかもしれない。
UFAの他にウイルスを探している組織―――
マキは一つしか思い当たらなかった。
- 159 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:14
- マキは老人に電話で報告を入れた。
ミスを犯したときほど詳細に頻繁に連絡を取らなければならない。
これもまた、マキが訓練の中で叩き込まれた習慣だった。
マキはそれまでの行動を全て報告した。
なぜか老人はGAMのことも詳しく知りたがった。
隠すことなど何一つない。マキはフジモトミキの名前を含めて全て話した。
「テラダが絡んでいるとすれば、ナカザワの体はもう手に入らないだろう。
用心深いヤツのことだ。二度とフォースには近づかないに違いない。
だがフォースに揺さぶりをかけることには意味があるかもしれない。
テラダがナカザワ以外の人間には一切接触しなかったとは考えにくい。
誰かテラダの連絡員を務めた人間がいるはずだ。それをあぶり出せ」
指示自体は簡単なものだった。実行はたやすいだろう。
だが成果が出るとは思えない作戦だった。
いわば敗戦処理のようなものだ。
それでも老人を責めることはできない。ミスを犯したのは自分なのだ。
マキはつかみかけていたテラダの背中が、大きく遠のいていくのを感じた。
- 160 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:14
- 「もう一つ。GAMを追え」
それは意外な指示だった。
マキは以前にGAMを追うことを提案したことがあった。
テラダの施設に出入りしていたのだから、追う価値はあるだろうと。
だがその時の老人の反応は味気ないものだった。
きっとマキがイチイのことで感情的になっていると判断したのだろう。
「こちらではキャリアを狩っている勢力を調査していた」
国の機関がキャリアを狩っているという話は有名だ。
だが老人の話では、国が狩っているキャリアなど微々たるものだという。
人々の口々に伝わるあいだに噂が大きくなってしまったのだろう。
だがそんな中でもキャリアと特に敵対している組織があった。
もしかしたらキャリアを狩ることでウイルスを調べているのかもしれない。
テラダと何かつながりがある組織という可能性があった。
ことによってはSSと敵対している組織という可能性もある。
「特にキャリアと強烈に敵対している組織が一つあった。
時には明らかに損得勘定抜きで動くこともあったという」
「つまりその組織っていうのが―――」
「GAMだ」
- 161 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:14
- その指令はマキにとっては願ったり叶ったりだった。
おそらく老人はマキの感情に気が付いている。それを利用しようとしている。
だがそれで構わなかった。
GAMを潰す。
それはマキにとっては「巨大な何か」を潰すことと同じ意味があった。
「わかった。フォースをつついてみる」
「ほどほどにな」
「わかってる。店を潰したりはしない」
老人はそれ以上何も言わずに電話を切った。
マキのミスに対して説教じみたことは一切言わなかった。
信頼されていることはわかっている。
マキという人間ではなく、マキが持っている能力に対する信頼だ。
そこに疑問はなかった。老人がマキに費やした月日や費用は並ならぬものがある。
では自分は老人を信頼しているのだろうか?
老人の持っている能力を信頼していいのだろうか?
老人の情報を、言葉を信頼してもいいのだろうか?
マキは携帯電話をポケットに入れると、力なく首を横に振った。
違う。信頼するのではない。利用するのだ。
きっと利用し合うという言葉の方が、二人の関係にピッタリと合う―――
- 162 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:14
- ☆
- 163 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:14
- クラブフォースが落ち着くまで一週間ほどの時間が必要だった。
新しい支配人はマリという女だった。
この女の調査は老人が引き受けることになった。
というのも、マリという女は全く店に姿を見せなかったからだ。
店の実質的なオーナーはカゴという女に引き継がれているようだった。
入念な調査の結果、ナカザワを殺したのはツジという女だったことがわかった。
そのツジはヨシザワが捕らえて殺したのだという。
常識的に考えれば、非合法組織にありがちな内部の権力闘争だ。
だがマキはナカザワの死体が消えたことがどうも頭に引っかかっていた。
それともあたしは、自分のミスをテラダのせいにしようとしているのだろうか?
意味のない自問自答だった。
マキはナカザワに会ったことがない。ツジにも会ったことがない。
かろうじて会ったことがあるのはヨシザワだけだ。
だが彼女がテラダの指示で動いているとはどうしても思えなかった。
あのヨシザワという女の体には凛とした気品が漂っていた。
だらしなく腐臭を撒き散らしていたテラダの雰囲気とはあまりにもかけ離れている。
ということは残るキャリアは一人―――
マキはまず、カゴという女に会ってみようと思った。
- 164 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:14
- 「すみません。お客さん、うちの店は犬はダメなんですよ」
そんなことは知っていた。
だがマキはやんわりと指摘した店員の鼻面に帳面を突きつけた。
隠密に行動していては意味がない。
この店に揺さぶりをかけるためにも、今日はとびきり派手に動くつもりだった。
フロアには人が溢れている。
ゼロはテーブルに乗ると大声で吠え立てた。
グラスが割れる音がそこかしこでした。店内は軽いパニック状態に陥る。
用心棒らしき男が二人駆け寄ってきたが、マキは問題にせず二人を叩きのめした。
無人の野を行くように、マキはゆっくりと店内を進んだ。
売人たちがこそこそと姿を消すのが見えた。
今日はあんな小者を追うつもりはない。
だが彼らに対する何らかの圧力になったのなら、それはそれで意味があるだろう。
騒がしかったフロアが急に水を打ったように静まり返る。
マキの真正面には一人の女が立っていた。
「よう。また会っちまったな」
ヨシザワヒトミはさらにその美しさに磨きがかかっていた。
それも以前に見せていた太陽のような輝かしい美しさではなく、
どこか影を帯びた深みのある美しさだった。
「なあ、あの時言った『次の機会』っていうのが今日なのかな?」
- 165 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:15
- マキは首を横に振った。
今ここでヨシザワと命のやり取りをするつもりはない。
それはカゴと話をしてからでも遅くはないだろう。
「今日はあんたに話があって来たんじゃない。カゴに会いに来た」
ヨシザワは意外な顔をする。やや気勢を削がれたようだった。
だがマキを前にして臆しているようにも虚勢を張っているようにも見えなかった。
ただ素直に自分の感情をあらわにしているように見えた。
きっと―――この女は強い。
自分がこれまで出会ってきた、どの人間よりもきっと。
「会いたいなら会ってけよ。でもあの犬はなんとかしてくんないかな」
ヨシザワが言うや否やゼロはテーブルから降り立った。
先ほどまで吠え立てていた凶暴は顔はそこにはもうない。
現金な犬だ。飼い主に似たのだろうか。
マキは頬をひきつらせて、はははははとぎこちなく笑った。
「へえ。利口な犬だな。うちのボスよりもお利口さんだったりしてね」
ヨシザワのきつい冗談に笑う人間は一人もいなかった。
まるで二人が競い合って場の空気を凍らせようとしているようだった。
マキは逃げるようにしてその場を去った。
- 166 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:15
- カゴはなかなか面白い女だった。
まずマキが麻取だと言って帳面を出すと、居丈高な態度を取った。
うちの組織は麻薬など扱っていない。
たったそれだけの事実を盾にしてカゴは麻取を追い払おうとした。
キンキンと喚きたてる声だけは大きいが、内容は支離滅裂だった。
次にマキが店内で行なわれている麻薬売買について指摘すると、
今度はカゴはピタリと口を閉じた。
挑発的な視線だけをこちらに向け、一切言葉を発しない。
どうやら黙秘権を行使する、ということをアピールしているようだ。
この女は本当にフォースの支配人なのだろうか?
一体何年この世界で生きてきたのだろうか?
捜査機関に対するカゴの態度はあまりにもナイーブだった。
対応が即興的すぎるのだ。子供そのものといった単純さしかなかった。
自意識過剰というのとはまた少し違う。
目一杯威張っているのだが、その自分に酔う余裕がないのだ。
有り余る力があるのに、それを上手く御することができていない。
なんだか昔の―――自分を見ているようだった。
- 167 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:15
- 「じゃあ、これから毎晩、ここに来て見張らせてもらうけど」
今度はカゴは泣き出しそうな表情になってマキに懇願を始めた。
一秒前の自分の態度というものは全く記憶に残っていないらしい。
だがそれが一つの愛嬌になっていると言えなくもない。
彼女が組織のトップに立っているのはそこら辺りが理由なのだろうか。
そういえばカゴもキャリアだと資料に書いてあった。
戦えばそれなりに強いのだろう。
だがマキはカゴに対して全く脅威を感じなかった。
彼女は戦闘マシーンとしてはあまりにも精神的にもろすぎる。
なるほど、フラットな精神状態においては、彼女はきっと強いのだろう。
もしかしたら鬼のように強いのかもしれない。
だが戦場にフラットな状態などあり得ないのだ。
きっとどんな力を持っていても、彼女はそれを使いこなすことができないだろう。
力を出そうとすれば漏れ出し、抑えようとすれば消えてしまう。
自爆させるのはそう難しいことではないように思えた。
マキが遠まわしに一つの要求を出すとカゴはすんなりと答えた。
頭が悪いわけではないらしい。そこそこ悪知恵は回るようだ。
- 168 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:15
- 「あー、これがうちに出入りしてる業者のリストですわ」
そんな大事なものを麻取に見せる組織などない。
しかし激しい動揺を見せていたカゴからそれを引き出すのは難しいことではなかった。
マキはパラパラと写真をめくる。
胡散臭そうな男からとびきり綺麗な女まで、数十人の顔写真があった。
マキは全てを頭に叩き込むと、写真の束をテーブルに投げ捨てた。
「なあマキさん。今までの会話、全部録音してるねん」
どうもそれがカゴの切り札らしい。
警察に持っていけばゆすりのネタにでもなると思っているのだろうか。
「お互い、持ちつ持たれつということで今後もどうですやろ?」
今度はカゴは分厚い封筒を取り出した。
飴と鞭ということのようだ。
「あははははははは」
堪えきれずにマキは笑った。まるでコントだ。しかも学芸会レベルの。
マキは確信した。ナカザワの死にカゴはからんでいない。
駆け引きも知らないこのガキに、そんな大それた真似ができるとは思えなかった。
マキは封筒を差し出すカゴに背を向け、フォースを後にした。
- 169 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:15
- ☆
- 170 名前:【流行】 投稿日:2009/08/20(木) 23:15
- 翌日から連日マキはフォースに顔を出した。
ただ店に入るだけはなく、目に付いた売人を片っ端から検挙した。
そんなことをしてSSが釣られるとは思っていなかった。
もしナカザワの死にテラダがからんでいるとしても、
老人の言うようにもう二度とこの店にはやってこないだろう。
連絡員を突き止めることができるとも思わない。
これはある種の示威行為だった。宣戦布告だった。
これだけ派手に暴れれば、少なくともマキの情報はテラダの耳に入るだろう。
あたしはここにいる。あたしは何かを諦めたりはしない。
マキはテラダに向かって叫ぶかのように動き回った。
向こうが影に潜るなら、こちらは表から派手に動こうと判断した。
案の定、何の反応も返ってこなかった。
だがその間にもマキは巧みに次の作戦への伏線を張り巡らせていた。
その網に思わぬ大物が引っかかった。
もっともその時マキは―――その女が大物だったとは気付かなかったのだが。
- 171 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/20(木) 23:15
- ★
- 172 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/20(木) 23:15
- ★
- 173 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/20(木) 23:15
- ★
- 174 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/21(金) 22:05
- 作者さんの才能とバイタリティに嫉妬
読んでてすんごい楽しいです
- 175 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:08
- その日もマキはゼロを連れてフォースの周りをうろうろしていた。
ここ数日は売人の姿もすっかり消えていた。
餌をまく時期は終わったのかもしれない。後は獲物がひっかかるのを待つしかない。
小腹を空かせたマキは、この頃よく行っているラーメン屋へ向かった。
「うぉん」
ゼロが一声吠えて駆け出した。
ラーメン屋の前には一匹の白い犬が座っていた。
ふわりと柔らかそうな長い毛をしている。大きさはゼロと同じくらいだろうか。
ゼロはくんくんくんとその白い犬を嗅ぎまわる。
白い犬も負けじとゼロの体を嗅ぎまわった。
白い体と黒い体が、溶けてバターになりそうな勢いでぐるぐると回った。
「へえ」
ゼロが他の犬に興味を示すことは珍しかった。
打ち解けることはもっと珍しい。一体この犬は何なのだろう?
マキは周囲を見回した。店の入り口には一人の浮浪者が座っている。
くるくる回る二匹の犬を笑いながら見ていた。この白い犬の飼い主だろうか?
「ねえ、これどこの犬?」
浮浪者はくたびれた格好に似合わぬ元気な声で答えた。
「うちのいぬー!」
- 176 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:08
- 浮浪者は若い女だった。今の関東でこの年頃の女が生きていくのは大変だ。
だがその女からは、そういった苦労の影はあまり感じられなかった。
身なりは汚いし、姿勢もぐだーっとしてだらしがない。
だがどこか生気のようなものを強く感じた。
何か一つの物に打ち込んでいる人間によく見られるような雰囲気だ。
そういう意味では全く浮浪者っぽくない。
世を捨てた浮浪者にありがちな厭世的な眼差しが全くなかった。
マキは少しこの女浮浪者に興味を持った。
「一緒にラーメンでも食べない?」
時間をとって話をしてもいいと思った。
浮浪者ほど街の情報に精通している存在もいない。
フォースの話が聞けるかもしれない。この白い犬についても聞いてみたかった。
浮浪者は警戒感など全く感じさせないあけっぴろげな顔をしていたが、
マキの誘いはきっぱりと断った。
- 177 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:09
- 「いやいやいや。あたしはいいです」
「なんかうちの犬がこの子を気に入ったみたいでさ」
「ああ、それで食事を一緒に」
「どう?」
「あたしは店の前で待ってますからどうぞどうぞ」
マキはじっと浮浪者の顔を眺めた。何かを企んでいるようには見えない。
演技とは思えないようなふわふわとした笑顔だった。
単に自分が楽しいから笑っているのだろうか。
それとも人を楽しませるために笑っているのだろうか。
マキにそんなことを考えさせるような、打算のない笑顔だった。
そのとき、マキの腹がぐーっと鳴った。
浮浪者がはっはっはと朗らかに笑う。釣られてマキも笑った。
笑ったついでにもう一度誘ったがやはり断られた。
マキは諦めて一人で店の中に入る。
ゼロがその後に続く。どうやら白い犬もついてくるようだった。
- 178 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:09
- 「ラーメン大盛り二つ!」
マキは店の奥に向かって叫んだ。この店のオヤジは注文を取りに来ない。
こっちから叫んで注文する。できれば勝手にもってくる。
食べ終われば御代をテーブルに置いて帰る。それだけの店だった。
それ以外は人の交流が全くない。愛想というものが全くないオヤジだった。
だがそれを有難がる連中もいる。この店は一時期は麻薬売人のたまり場だった。
最近はマキが派手に動き回ったせいで売人の姿も消えた。
もしかしたら店の売上も落ちたかもしれない。
マキは広い部屋の真ん中のテーブルにどかっと腰を下ろした。
足元にゼロがペタンと座る。その前に白い犬がとことことやってきた。
マキは身を屈めて、掌をその犬の鼻先に差し出す。
白い犬はパッと身を翻した。特別に人懐っこい犬というわけではないらしい。
相変わらずゼロの周りをくんくんと嗅いでいる。
その仕草がどこか麻薬捜査犬を彷彿とさせた。
もしかしたら捜査からはぐれて野犬になった犬かもしれない―――
そんなとりとめもないことを考えていたマキの下にラーメンが届いた。
丼の向こう側が見えない。
まるで山のようにもやしが積み上げられたラーメンだった。
マキはわさわさと箸を使って豪快にその山を崩していく。
二匹の犬のことも忘れて、もやしの山とラーメンの海に挑みかかった。
一杯目の丼が空になろうかというときに、一人の客が降りてくる気配がした。
- 179 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:09
- 客は店に入るときから慎重に気配を消していた。
マキでなかったらその気配に気付くことはできなかっただろう。
見事な気配の消し方だった。つまりアマチュアではないということだ。
ゼロもその気配に気付いたようだ。
何気ない振りを装って階段の方に体の向きを変えた。
客はなかなか降りてこなかった。こちらの様子を窺っているようだ。
マキは肌を震わせてゼロにバックアップを指示すると、あえて殺気を消した。
相手に隙を見せるために、わざと両手で丼を持ち上げた。
マキがずるずるとスープを飲んでる間に、客はゆっくりと姿を現した。
丼に影になって姿は見えなかったが、客は小柄な女のようだ。
だが足の運びは何度も死線をくぐり抜けてきた者のそれだった。
油断はできない。しかも女はポケットの中に銃を持っているようだ。
白い犬がとことこと女の下に駆け寄る。
なるほど。この女はあの浮浪者の知り合いなのか。
そして白い犬の飼い主ということなのかもしれない。
マキは空になった丼をドンと机に置いた。
女と目が合う。見たことがある顔だった。おそらく売人だ。
名前は知らないが、カゴが見せた業者の写真の一枚にあった顔だった。
場違いなほど綺麗な顔をしていたからよく覚えている。
- 180 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:09
- 二杯目に箸をつけようとしたとき、何食わぬ顔で女が帰ろうとした。
ラーメンを食べに来たわけではないのか? なぜ何もせずに帰る?
売人とわかった以上、タダで帰すわけにはいかない。
「なんか用?」
マキはあえて挑発的な口調で女を呼び止めた。
売人は一人残らず叩き潰す。今のマキはそのために動いていた。
「用って・・・・・それはこっちの台詞だよ」
「は? 別に用とかないけど?」
「うちの犬、勝手に連れて行かないでくれるかな」
女はどうもマキが麻取であることに気付いているようだ。
目はギラギラと光っていたが、態度は妙にしおらしいものだった。
「それ、あんたの犬なの? 店の前に髪の短い女の子がいたけどさ、
その子にその犬のこと聞いたら『うちのいぬー!』って言ってたよ」
マキは声のトーンを少し変えた。
白い犬も気になるし、あの浮浪者も気になる。そしてこの女も妙に気になる女だった。
「可愛い犬だね。うちのゼロも気に入ったみたいだからさ。
一緒にラーメンでも食べない?って誘ったんだけど、
その子は『店の前で待ってますからどうぞどうぞ』ってさ」
- 181 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:10
- 女はマキの問い掛けに対して何も答えなかった。
犬のことも。浮浪者のことも。そして自分のことも。何も話す気はないらしい。
そちらに話す気がないのなら、実力行使するまでだ。
女が立ち去ろうという気配を見せた、ほんの一瞬の隙をついてマキが動いた。
「ジーン・アレンジング・メディシン」
マキは立ち上がると同時に、女との間合いを詰め、拳銃を抜き、薬の名前を口にした。
フルオートのハンドガンの銃口をピタリと女のこめかみにあてる。
「3年前から出回ってる麻薬の一種。神経系に作用するだけではなく、
使用者の遺伝子にまで作用して中枢神経系に慢性的な麻痺を起こさせる。
まさに神の摂理に逆らう悪魔の麻薬、ジーン・アレンジング・メディシン。
略して―――G・A・M」
女の反応は劇的だった。そしてその反応が、突きつけられた銃ではなく、
マキが発した言葉に対してのものであることは、火を見るより明らかだった。
ここ数日、マキは同じような行動を繰り返していたが、
GAMという言葉にここまで激しい反応を示す売人は初めてだった。
- 182 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:10
- 「知っているか?と訊いても『知っています』とは答えないんだろうな」
マキは手綱をゆるめた。
このまま力ずくで問い詰めてもこの女は何も喋らないだろう。
今はこの女の顔と、そしてあの浮浪者の顔を覚えておくだけで十分だ。
マキは一瞬「フジモトミキ」という名前を口にしようかどうか迷った。
だがそれはまだ早いと判断した。
今のところマキは、この「ジーン・アレンジング・メディシン」という
言葉をばらまくことで売人のネットワークの反応を窺っている段階だった。
「フジモトミキ」という言葉をばらまくのはもう少し先でいい。
一匹でも餌に引っかかってくれたのだ。
今はこの獲物にじっくりと取り掛かるべきだろう。
マキは頭の中を整理し終えると、女の腰を強く蹴った。
「覚えておけ」
マキは女がポケットに入れていた銃を蹴り飛ばす。
視界の端で白い犬が動いていたが、ゼロがその動きを制した。
白と黒の塊が強い熱を帯びながらからみあう。白と黒の血が床に滴った。
- 183 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:10
- 「お前らが、クラブ・フォースで薬を扱おうが、そんなことはどうでもいい。
だが、GAMに関わる人間がいたなら―――あたしが全て殺す」
言うだけ言ってマキは拳銃を懐に収めた。
ここでこの女を撃つつもりはない。もう少し泳がせておいた方がいい。
「ゼロ! もういい! 放してやれ!」
ゼロがむくりと起き上がる。どうやら二匹の犬のやり取りは互角だったようだ。
白い犬の顎には血が滲んでいたが、ゼロの喉にも小さな傷があった。
それを見た女の顔からは先ほどまでのしおらしさが霧消した。
どうやら犬を傷つけられたことが、かなり癇に障ったようだ。
「てめえ・・・・・なんのつもりだよ!」
「今日は警告だけだから」
「な・・・・・」
「命まで取ろうとは言わない」
マキは言葉を重ねながら女に餌を撒くことにした。
この言葉で餌を撒くのも、今日が最後になるのかもしれない。
- 184 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:10
- 「お前らがフォースで薬をさばいてることはわかってんだよ。
お前らにも横のつながりはあるんだろ? だったら伝えておきな。
GAMはあたしが必ずぶっ潰す。GAMを売りさばいているやつらは―――
ただの一人も生かしてはおかない」
やはり女はGAMという言葉に敏感に反応していた。
無表情を装おうとしても、感情の迸りは抑えきれていなかった。
女は今にも飛び掛ってきそうな目をしている。火が出そうな視線だった。
面白い。やるならやってみろよ。相手してやってもいい。
先ほどの階段での気配の消し方は並のものではなかった。
この女はきっと強い。ここで一戦交えておくのも面白いかもしれない。
マキはダメ押しの挑発をすることにした。
女の肩を馴れ馴れしくつかみ、吐息を吐くように耳元でふうっとつぶやく。
「じゃ、あんたが払っておいて。ラーメン代二杯分」
女はマキの手を払いのけると、問答無用で殴りかかってきた。
- 185 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:10
- マキは最初から能力を全開にしていた。
そうしていなかったら、何発かパンチをもらっていたかもしれない。
それほど女の繰り出してくる攻撃は猛烈だった。
まるで速射砲のように次から次へと打撃が送られてくる。
放ったパンチを元に引き寄せる動作が、次のパンチへの予備動作となっていた。
パンチを出す。拳を引く。その反動を使ってまたパンチを出す。
その間隔がほとんどなく、一連の動作で流れるように繰り返された。
素手でここまで戦える相手に会ったのは、あの教官以来かもしれない。
マキは感覚野を最大限にまで広げた。
女が攻撃する。攻撃するためには肉体を動かす必要がある。その動きを予測する。
マキは相手が肉体を動かすと同時に、その肉体が動く前にあったスペースに滑り込んだ。
相手の死角に、死角にと、常に先回りして移動した。
女はマキの移動パターンにすぐに気が付いた。
速さと回転を重視した攻撃から、トリッキーで曲線的な攻撃に切り替える。
マキが見たこともないようなフェイントがいくつも織り交ぜられた。
かろうじて紙一重のところでかわしていく。
女の攻撃は一つも当たらなかったが、マキは劣勢を自覚していた。
- 186 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:11
- マキはディフェンスの方針を変えた。
攻撃を完璧にかわすことではなく、相手のリズムを狂わすことに重点を置いた。
先手をとって死角に飛び込むことは止めた。
相手の攻撃を誘導するように、あえて危険地帯に身を晒した。
完封勝ちを狙う力技の動きから、確実に一点差で勝つ堅実な動きに変更した。
効果は絶大だった。女のリズムが乱れてくる。
それでもマキは自分からは一切攻撃を仕掛けなかった。
この女とはいずれどこかでまたやり合うことがあるような気がしていた。
女の攻撃パターンを全て記憶できるように、マキはディフェンスに徹した。
どれくらい攻撃が続いたのだろうか。
女のスタミナはかなりのものだった。肺活量が並ではない。
だが激しい無酸素運動には必ず終わりの時がやってくる。
女の息が一瞬切れたときを狙って、マキは女の腕を取った。
相手の力を利用して綺麗に一本背負いで投げた。
受身を取らせるような甘い投げ方はしない。
全体重が女の背中にのしかかるように、しっかりと重心を落として投げた。
女はカエルのようなうめき声を上げ、床をのたうちまわる。
その息が再び整うまで、たっぷり1分はかかった。
- 187 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:11
- 「なんで・・・・・なんでGAMなんだよ・・・・・」
感情的な捨て台詞を予想していたマキは言葉に詰まった。
答えは用意していない。沈黙するわけにもいかない。適当に答えた。
「別に・・・・・麻薬だから取り締まってるだけだよ」
「GAMなんて滅多に見たことねえよ。マイナーなドラッグなんだよ!
麻取はそんな薬を追っかけるほど暇してんのかよ!」
女はなぜか急に元気を取り戻したようだった。
何かひっかかる言葉があったのだろうか。
マキは、女がなぜそんなことを言うのかわからなかった。
「暇じゃないよ。GAMは悪質だから追っかけてるだけ」
マキは女が持っていた拳銃を拾い上げると、弾倉を抜き取った。
空になった拳銃を女に向けて放り投げる。
もう餌はまいた。これ以上話すことはない。撤収するべきだろう。
だが次の女の言葉を聞いた瞬間、体が勝手に動いていた。
「悪質ねえ・・・・・GAMは医療用の薬って聞いたことが―――」
マキは女の胸元を思いっ切り蹴った。つま先が骨を砕く感触がした。
それでも高ぶった気持ちは収まらない。女の胸を力いっぱい踏みつけた。
- 188 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:11
- 「医療用って言うな」
あの薬は医療用なんかじゃない。決してない。
医療用なんて言葉は偽善だ。嘘だ。まやかしだ。
あれは麻薬以外の何物でもない。
あの麻薬は―――誰のことも救ったりはしない。
この女は殺してはいけない。泳がせなければいけない。
そう思っていても手加減できなかった。さらに足に力を込める。
再び何本か骨の折れる音が響いた。
だが女の方もなぜか一歩も引かなかった。理解しがたい抵抗だった。
「がはあっ、はぁっ! うるせえ! 医療用っつたらいりょ―――」
マキは拳銃を引き抜くと同時に撃った。
フルオートマチックのハンドガンが火を吹く。
ガガガガガガガガという雷音と共に、全弾があっという間に撃ちつくされた。
焦げ臭い火薬の臭いが流れる。女の顔の横には大きな窪みができていた。
「医療用って言うな」
もう一度言ったら殺す。本気でそう思った。他には何も考えられなかった。
「ま、やくは、まやく、だ」
- 189 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:11
- ☆
- 190 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:11
- マキは店から出ると、表にいた浮浪者に軽く挨拶してその場を立ち去った。
店の中の女はしばらくの間は立ち上がれないだろう。
少し離れた場所からラーメン屋を見張っていればいい。
そうやって気を張っていると、あの浮浪者もなかなか隙がないことがわかった。
どうやら只者ではないようだ。
近距離での尾行はほぼ不可能だと判断した。
マキは自分の能力がギリギリ及ぶところまで距離を取った。
これなら細かい動きはわからないが、相手に気配を悟られることもないだろう。
やがて数時間が経ち、女が店から出てくる気配がした。
女はしばらく浮浪者と話すと、浮浪者とは逆の方へと向かった。
あの白い犬は浮浪者と一緒に歩き出した。
マキはどちらを追うか少し迷った。
あの女の写真はフォースにあった。最悪の場合カゴに話を聞くこともできる。
マキは浮浪者と犬の方を追うことにした。
- 191 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:12
- 浮浪者はやんはり只者ではなかった。
明らかに尾行を警戒しており、マキに接近を許さなかった。
犬が一緒にいるというのもかなりやっかいだった。
犬の嗅覚というのは並外れたものがある。
浮浪者を追うマキの足は、何度かゼロによって止められた。
「これ以上近づくと、あの白い犬に気付かれる」ということらしい。
マキは仕方なく、浮浪者とかなりの距離を取って後を付けた。
浮浪者は途中で何人かの人間と接触した。
かなり長い時間話し込んでいたが、遠く離れているマキは話の内容がわからない。
一人で行動している以上、それらの人間を追うこともできない。
仕方なくマキは浮浪者が接触した人間の追跡は諦め、
ただ一人浮浪者のことのみを追うことにした。
もしかしたらあの浮浪者が何がしかの組織と関わっているかもしれない―――
そんなマキの予想はあっけなく外れた。
浮浪者は一日の仕事を終えると、人通りのない公園のベンチに寝転がり、
すやすやと寝息を立て始めた。
- 192 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:12
- ☆
- 193 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:12
- マキは次の日から浮浪者を張ることにした。
もうフォースには用はない。あちらに網を張るのは止めた。
浮浪者は、あの時のように尾行を警戒する素振りは見せなかった。
マキはかなり至近距離で浮浪者を観察することができた。
浮浪者は仲間内から「マコ」と呼ばれていた。
関東では若い女の浮浪者もさほど珍しい存在ではない。
マコも浮浪者の集団の中に適度に溶け込み、陽気に毎日を送っていた。
浮浪者の集団はなかなかの大人数だった。
マコが接する人間の数もかなりのものだった。
中には思わせぶりな接触を見せるときもあったが、マキは反応しなかった。
あれは違う。おそらくトラップだ。
マキはマコと接した人間は追わなかった。
マコは単なる連絡員以上の存在だという直感があった。
じっと待っていればいずれ必ず動き出す。
マコ自らが何らかの動きを示すはずだ―――マキはその時を待ち続けた。
- 194 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:12
- 焦りはなかった。尾行は索敵に次ぐマキの得意技だった。
じっと気配を消し、この世界の干渉から自由になっている時間―――
その時間の流れは普段の時間の流れとは全く違う。
一分が一年の長さに感じられるようでもあり、
一日が一秒の短さで感じられるようでもあった。
そしてマキが待ち続けていた「その時」がやってきた。
マコは分かりやすい性格だった。
警戒の度合いが極端に上昇していたので―――
マキにはその日の会合が特別なものであることが容易にわかった。
マコは一人の女と一緒に移動を始めた。
その女はこれまでもしばしばマコに会いに来ていた女だ。
組織との間を取り持つ連絡員だろうか。名前はJJとかいったはずだ。
二人はしっかりと尾行を警戒しながら目的地を目指す。
どこで習ったのだろうか。呆れるくらい慎重で複雑な行程だった。
マキでなかったら、その姿を確実に見失っていただろう。
やがて二人は一人の女と面会した。
マキはゆらりと気配を消して、三人の背後に極限まで接近した。
- 195 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:12
- ―――オッケー。では取り引き始めまショウ
JJが言うと女は麻薬らしき包みを取り出した。
驚いたことに相手の女は麻取本部の捜査員だった。マキも見知った顔だ。
名前はタカハシアイ。そういえば薬を横流ししているという噂を聞いたことがある。
単なる陰口かと思っていたが本当にそんなことをやっていたのか。
―――うは。マジで夢の薬を追いかけてるってわけだ
―――うん。そのためにもウイルスを持ってるらしいSSの情報がほしいんだ
マコ達の組織はSSを追っているようだった。
しかもSSがウイルスを持っていることも知っている。
GAMを追っていたのにSSの方にたどり着くとは・・・・・
もしかしたらその二つはUFAが思っている以上に近い存在なのかもしれない。
マキは自分が求める物に近づきつつあることを感じていた。
もしかしたらマコが所属する組織の背後には、
イイダ・アベ・ヤグチの誰かが潜んでいるのかもしれない。
その可能性はかなり高いように思われた。
―――そっちかってマキさんの動きをつかみたいんやろ?
―――SSの情報の代わりにそっちの情報を買う気はない?
- 196 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:13
- 話はSSの情報からマキの情報へと移っていった。
どうやらタカハシはマキの行動予定をマコに売りつける気らしい。
話はそれでまとまったようだったが―――最後に気になる単語が聞こえた。
―――いや、ダメだよ。これはGAMのお金だし・・・・
―――アホかマコ。GAMからあたしがもらった。それをJJにあげた。
GAM。その言葉を聞いた瞬間、マキは深いため息をもらした。
体を突き抜けた痛みにも似た感覚は、歓喜だろうか。安堵だろうか。
たどり着いた。
どうやらマコとJJが属している組織がGAMのようだ。
おそらくその組織のトップに近い位置にフジモトミキがいるのだろう。
そしてGAMの原料となる麻薬を卸しているのがタカハシ。
GAMは麻薬に飽き足らず、ウイルスにも手を出そうとしているようだ。
手間が省けていい。GAMを潰すと同時にウイルスを追う勢力も叩ける。
やるべきことが見えた。後は動くだけだ。
- 197 名前:【流行】 投稿日:2009/08/24(月) 23:13
- 痩せこけた市井の顔がフッと脳裏に浮かんだ。
GAMに蝕まれた市井の体は、まるで綿毛のように軽くて儚かった。
失われたモノを元に戻すことはできない。
だがGAMを討てばマキの心に残った痛みも少しは和らげられるかもしれない。
たとえそれが―――ただの気休めだったとしても。
いや、まだだ。まだ何も終わっていない。あたしはまだGAMを駆逐してはいない。
殺す。全員殺す。ラーメン屋にいたあの女も。
マコも。JJも。タカハシも。そしてフジモトミキも。GAMのメンバーは全員。
GAMに関わる全てを抹殺する。一人残らず根絶やしにする。
マキは気付かれないように三人の背後から離脱した。
もうマコやJJを追う必要はない。
タカハシがマキの行動をGAMに逐一報告してくれるだろう。
必要ならSSの情報を流してやればいい―――偽の情報でもいいだろう。
マキの顔には煮えたぎるマグマのような微笑が浮かんできた。
もう自分の感情を抑える必要はない。心の中で低くつぶやいた。
皆
殺 し
だ
- 198 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/24(月) 23:13
- ★
- 199 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/24(月) 23:14
- ★
- 200 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/24(月) 23:14
- ★
- 201 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:04
- 「マキさんって夜目が利くん?」
「別に」
マキが運転する車の前には無限の闇が広がっていた。
あの施設の事故以来、夜間の高速道路は全ての照明が落とされていた。
だがマキは車のライトも付けずに、かなりのスピードで走り続けている。
「でもあたしには何も見えへんけど?」
「あたしにも見えないよ」
「冗談ですよね?」
「いや、全然」
余計な情報はない方がいい。
皮膚の感覚野を広げているときは、目から入ってくる情報はさほど必要ない。
むしろ余計な先入観を与える可能性がある。
開け放った窓から吹き込んでくる夜風が、マキに全てを教えてくれた。
鍛え上げられたマキの空間把握能力は、100キロ以上の速度で
走っているときであっても、狂いを見せることはなった。
障害物の少ない高速道路の上であれば、
数キロ先の地形まで正確に把握することができた。
運転は快調だった。目的地はもう目と鼻の先だ。
- 202 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:04
- 「ライトくらい点けたらいいじゃないですか」
「面倒」
後部座席に座っているタカハシは、そんなマキの能力を全く理解できないようだ。
無理もない。たとえ正確に説明したとしても、一割も理解できないだろう。
GAMとの約束を律儀に守り、タカハシはここ数日ずっとマキに張り付いていた。
マキもあえて追い払うようなことはしなかった。
最初はマキのペースに振り回されていたタカハシも、
ようやくマキのやり方に慣れてきた頃だ。
そろそろGAMの方から何か仕掛けてくる時期かもしれない。
「いや、そこのスイッチ一ひねりで・・・・」
「面倒」
「じゃあ、あたしが」
タカハシが運転席に手を伸ばしてきたところで、マキは急ハンドルを切った。
目指すサービスエリアのかなり手前で車を止める。
建物の中で動いている人間を数える。28人。
麻取本部の報告より5人多い。だがこれくらいの誤差はよくあることだ。
- 203 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:04
- 本部長から請け負った麻薬組織壊滅の仕事だった。
ここ一週間ほどタカハシに張り付かれていたが、戦うところを見せたことはない。
見せておくべきか。隠しておくべきか。
いずれにしても28人殺るなら能力は全開にしなければならない。
マキは車から降りる。助手席にいたゼロも続く。
ターゲットがいる建物までは100メートルほどあるだろうか。
窓の隙間から微かに光が漏れていた。
ゼロは「やろうぜ」とマキをけしかける。
ここ数日は暴れていないのでストレスが溜まっているようだ。
タカハシの目の前で大暴れするのも一興かもしれない。
もっとも「見えれば」の話だが―――
マキは能力を全開にした。
不連続な動きを繰り返す空気の歪の中へとダイブする。
車の運転のように、ローからセカンド、セカンドからサードへと
一つずつシフトアップしていくのではない。
常識を超えた感覚を持つマキの肉体は、作用と反作用という物理的な制約を
最小限まで縮めることによって、静止した状態からいきなり
トップスピードで動くことが可能だった。
一つ呼吸をし終えると、マキは建物にたどり着いていた。
- 204 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:04
- サービスエリアに陣取っていた組織は貧弱だった。
派手なのは銃器だけ。それを扱う人間のレベルはお粗末な限りだった。
マキはナイフではなく銃を多用することにした。
ある者は殺し、ある者は半死半生して置いておく。暗闇の中に数多の銃声と悲鳴がこだました。
響き渡る悲鳴によって、武装集団はあっという間にパニック状態に陥った。
まるで的当てだった。蟻を踏み潰すように、マキとゼロは武装集団を血祭りにあげる。
28人全員を無力化するまで20分とかからなかった。
仕事を終えたところで建物の明かりを点けた。
そしてメインターゲットだった533号の写真を撮り終えたところで―――
タカハシが姿を現した。
マキはそれを無視して本部に電話連絡を入れる。
「こちらマキ。標的553号をD確保。メール送信済み。
553号の他、D確保15名。重傷者12名。以上」
マキの足元には、麻取が「553号」と呼ぶ重要指名手配犯の死体が転がっていた。
- 205 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:04
- その時、マキの肌の上で空気が震えた。ゼロからの信号だった。
「まだいる。別のヤツがいる。二つの気配がある」
マキは驚かなかった。気配を現すのが遅すぎたくらいだと思った。
戦い続けている間も、マキとゼロをずっと見つめている二つの気配を、マキは感じていた。
てっきり戦っている間に仕掛けてくるものだと思っていた。
ついに来た。GAMだ。それにしてもたった二人で来るとはいい度胸だ。
マキは迷った。相手をしたいのは山々だ。
だがここで二人を殺してしまえばGAMの足取りを追うことはできない。
捕らえて尋問するのも効率が悪い。相手もアジトの場所を吐いたりはしないだろ。
ここは一つ、ゼロに働いてもらうか―――
マキは顔を上げた。目の前にタカハシがいた。
「増援がここに来るまで三十分はかかると思う」
タカハシはただ無言でかくかくと首を縦に振るだけだった。
「なあ、タカハシ。腕に自信ある?」
- 206 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:05
- マキはGAMの人間の後を付けてアジトを割り出そうと考えた。
だが相手もただの売人というわけでもないらしい。
この気配の消し方はラーメン屋で会った女以上だった。
もしかしたらGAMの中でも選りすぐりの戦闘要員かもしれない。
その二人と一旦戦っておいてから、距離をおいて逆に尾行を開始する―――
これは難しいだろう。
こういうときはゼロが戦って相手を足止めし、その間にマキが距離を取って
気配を消し、ゼロが逃げ出した後に相手の後を追う―――
というのが二人のいつものパターンだった。
「あたしの今日の標的は553号だけだったからさ。
今晩はそれ以上は暴れたくない気分なんだよね」
話しているうちにも二つの気配は音も立てず近づいてくる。
その一つの足取りに覚えがあった。人間の足取りではない―――あの白い犬か?
なるほどラーメン屋のリベンジということか。
となると、ゼロだけで二人の注意をひきつけるのはちょっと難しいかもしれない。
- 207 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:05
- 「ここの・・・・・後始末をしろってことですか?」
「後始末? いや、違う・・・・・いや、そういうことかもしれないか」
タカハシはGAMとグルだ。
ならばやってくる気配の主とも知り合いかもしれない。
そこで相手の気が一瞬でも緩めば―――マキにチャンスがやってくる。
マキは「残りの仕事を後輩に押し付ける先輩」を演じることにした。
後はタカハシが上手くやってくれることを祈るばかりだ。
「とにかくあたしは今日のところはもう帰って眠りたい気分。
面倒なんだよ。でもゼロはまだもっと遊びたいみたいなんだよね」
まんざら嘘というわけでもなかった。
ゼロはやってくる白い犬の気配を嬉々としながら受け止めている。
借りがあると感じているのかもしれない。
マキは一応「無理はするな。適当なところで離脱しろ」と念を押す。
ゼロはややがっかりしたような反応を見せた。
本当にあの犬とやり合いたかったらしい。
だがゼロがマキの指示に背いたことは、ただの一度もなかった。
- 208 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:05
- 「嫌じゃなかったら、一緒に遊んでやってくれる?」
勿論嫌とは言わせない。これは公務だ。タカハシは命令に従うしかない。
タカハシがこの場に残れば、きっとあの気配の主は姿を現すだろう。
そしてタカハシと何らかの会話を交わし―――
そこで善後策を講じることになる可能性が高い。
マキはその間に尾行を開始できるくらいの距離まで離れればいい。
それくらいの時間ならゼロ一人でも稼ぎ出すことができるはずだ。
マキはその辺りのことをしっかりとゼロに命令した。
「じゃ、後はお願いね。逮捕できたら、タカハシの好きにしていいよ」
逮捕できるんならね―――」
逮捕できるわけがない。タカハシはGAMと内通しているのだ。
マキはそんな強烈な嫌味を一つ残して、暗闇の中に溶け込み、気配を断った。
- 209 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:05
- ☆
- 210 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:05
- その後の展開はマキが予想していたものと全く違った。
やって来たのはあの白い犬と一人の女だった。
犬の名前はナッシングというらしい。
マキは暗闇に身を潜めて二人の会話を聞いていた。
どうも二人は全く面識がないようだ。
タカハシは女のことを麻薬組織の残党だと思っていたし、
女の方はタカハシのことをマキの後輩の麻取としか見ていなかった。
女はアヤと名乗った。上から下まで真っ白なスーツを着ていた。
アヤはあっけなくタカハシの手によって拘束された。
だが次の瞬間―――アヤの華麗な一本背負いにタカハシは叩きのめされた。
バカな!
アヤのしなやかな体さばきを見た瞬間、マキの体は硬直した。
全く無駄のない動きだった。
その動きは周囲の何物にも―――『干渉』していなかった。
- 211 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:05
- 信じられなかった。
マキが血反吐を吐きながら三年かけて習得した動きと、同質の動きだった。
無駄の無さという点ではマキの方が上だった。完成度ではマキの方が上だった。
だがアヤはその体さばきを、特別な力として扱うのではなく、
まるで箸を操るときのように、全くの無意識で、自然な動作で繰り出していた。
マキが120%の力でやっていることなのに、アヤは60%くらいの力でやっているように見えた。
そう。あまりにも自然だった。
まるで生まれた瞬間から―――ずっとその能力を使い続けているように。
あり得ない。
アヤからは、キャリアが能力を全開にしている時に出るような、
独特の奇妙は雰囲気は全く感じられなかった。
キャリアと戦う経験を何度か積んだマキは、キャリアが異常能力を発揮した時の、
独特の雰囲気を肌でつかめるようになっていた。
だが今はそれが全く感じられない。
信じがたいことだったが―――
全く信じがたいことだったが―――アヤはキャリアではない普通の人間だった。
- 212 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:05
- ウイルスに感染することによって異常に発達した触覚。
それはマキにとっては、施設での忌まわしい記憶とセットになっていた。
テラダに刻み込まれた消えないタトゥーと同じように。
消えない傷であり、屈辱の刻印だった。
だがその一方で、この能力は三年間、死ぬ思いで鍛え上げた能力でもある。
努力し、試行錯誤し、発達させてきた能力だ。
そしてこの能力があったからこそ、一人で捜査を続けることができたのだ。
今となってはこの能力は―――マキのたった一つのよりどころとなっていた。
たった一人で戦い続けるマキが頼れるのは、この能力しかなかった。
だがこのアヤという女は、マキが身に付けた能力をいとも簡単に使いこなしてみせた。
信じられないくらい高度な動きも、アヤがやるととても簡単なもののように見えた。
まるで自分が重ねてきた三年間を―――軽いノリで否定されたような気がした。
マキはアヤから目が離せなかった。
吸い込まれるようにアヤの姿に見入った。
だがアヤは、その一瞬にしかその体さばきを見せなかった。
タカハシを徹底的に痛めつけると―――アヤはナッシングと共に姿を消した。
- 213 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:06
- ちくしょう ちくしょう ちくしょう
マキの胸には言いようのない挫折感と屈辱感が溢れてきた。
力は自分の方が上だ。強さでは自分の方が上だ。勝てる。やり合えば絶対勝てる。
自分の胸に必死にそう言い聞かせたが、何の慰めにもならなかった。
あたしは自分の限界を、自分で勝手に「ここだ」と決めていたのかもしれない―――
いつしか自分の能力に満足するようになっていた。
いつからだ? 初めて温度のひずみを見つけたとき?
初めてそこを歩けるようになったとき?
その能力を屋外でも使えるようになった頃? 教官に勝てるようになった頃?
初めて人を―――殺したとき?
マキの心に、今まで殺してきた無数の人間の姿が浮かんだ。
キャリアだったやつもいた。鍛えられた軍人もいた。だがそれがなんだ?
あたしはそんなものを殺すためにここに来たのか? それが目的なのか?
マキは能力を全開にしながらアヤの後を追う。
アヤは気配を完全に断ち、ナッシングは周囲の気配を窺っている。
完璧なコンビの後を付けるのは困難を極めた。
- 214 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:06
- まだだ。もっとだ。もっとできる。あたしはまだまだもっとできる。
全開のその向こう側へ―――マキは能力を開放し続けた。
感覚受容体の伝達物質は、制御能を失い、細胞間を暴走する。
自分の体がひらりと開いていくような感覚がした。
閉じていた箱が―――開くように。開いて一枚の紙になるように。
空気中に舞う分子が、マキの表皮細胞を構成する分子と衝突する。
激突の瞬間、分子と分子の衝突は原子と原子の衝突に変換される。
分子は原子に。原子は粒子に。粒子は波動に。情報は次々と変換されていく。
一枚の紙が―――無数の紙くずになるように。億万の塵芥になるように。
マキの目は、もはやアヤの姿もナッシングの姿も追っていなかった。
マキのビジョンには、ただ無数の粒子の波が揺らいでいるだけだった。
体がバラバラに弾けるような感覚がした。だが痛みはない。
やがてバラバラに弾けた体は、波の合間へと溶け込んでいった。
マキは一本の電流と化す。ただ一つの波動と化す。ただ一つの粒子と化す。
- 215 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:06
- マキは肌に突き刺さる全ての感覚を相殺していた。
プラスの力にはマイナスの力で応え、マイナスの力にはプラスで応えた。
この世界に溢れる全てのエネルギーが、マキを境にしてゼロに変換された。
マキの能力は新たな段階へ進もうとしていた。
全ての存在に干渉しないのではなく、全ての存在を相殺する。
風に乗るのではない。風を受け流すのでもない。全ての風を吸い込んで無に返す。
いつしかマキは、まるで小さなブラックホールのような存在になっていった。
マキが通った後には何も残らない。純粋に数学的な意味での「完全なゼロ」だけが残った。
気が付くと自分でも驚くほどアヤと近い距離にいた。
まるで自分の体が自分のものではないような感覚がした。
アヤはこちらの気配には全く気付かない。
マキはその距離を保ちながらアヤを追い続けた。
その間にも感覚はどんどん鋭さを増していく。
自分の体の外側の世界と―――内側の世界が全く違って見えた。
とても同じ世界だとは思えなかった。
流れる時間さえ違って見えた。
外で流れる1秒が、マキには1時間にも2時間にも感じられた。
怖くはなかった。体が壊れても構わない。精神が崩壊しても構わない。
とにかく行けるところまで行く。
自分で限界は作らない。マキはそう決めた。
- 216 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:06
- ☆
- 217 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:06
- マキはついにGAMのアジトを突き止めた。
ショッピングモールに隣接する巨大な立体駐車場内にそれはあった。
地上七階建ての駐車場は、各階ともに外壁に大きな隙間が開いており、
一見、偵察も侵入も容易なように見える構造をしていた。
一階にある入り口も四ヶ所もあった。
さらに隣の百貨店への連絡通路が七つ全ての階に作られていた。
閉鎖した百貨店の出入り口は封鎖されていたが、それも形ばかりのように見えた。
まるで建物全体が「来るなら来い」と言っているようだった。
調査を続けて数日。
マキはGAMのトップにいるのがアヤであることを確信していた。
同時にアヤの頭が抜群に切れることもわかった。
百貨店本体ではなく駐車場の方を本拠地にした判断には舌を巻いた。
アヤは攻撃を防ぐことを念頭においてアジトを据えているのではない。
あらゆる事態に対応できる柔軟さを考えて場所を選んでいた。
外から侵入しやすい建物ということは、中から逃走しやすい建物だともいえる。
百貨店本体は守りやすい反面、逃げ道も少ない。
アヤが想定しているのは、GAMの力を大きく上回る勢力の襲撃だった。
そういった勢力が来ても組織が全滅しないことを重視していた。
簡単に仕掛けることはできない。マキは慎重に行動することを強いられた。
- 218 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:06
- マキはまず、GAMという組織の全人員を把握することに取り掛かった。
アヤという頭だけを潰しても意味がない。
根元から全てを断たなければ悲劇は繰り返されてしまうだろう。
やがてマキはGAMの全容をほぼ掴むに至った。
人員が何人くらいいるのか。それぞれどんな仕事をしているのか。
麻薬の売買はどれくらいの規模なのか。
そのうちGAMはどれくらいの割合を占めているのか。
調査はかなり細かいところにまで及んだ。
二つ大きな発見があった。
まず一つはあのラーメン屋で叩きのめした女が「フジモトミキ」だということ。
フジモトは組織でもかなり大きな存在だった。
どうやらアヤに次ぐナンバー2的なポジションにいるようだ。
この女がGAMの製造に関わっていることは間違いないだろう。
そしてもう一つ。
GAMには髪の長い女が一人出入りしていた。
麻薬密売組織のメンバーとは少し毛色の違った、浮世離れした雰囲気を持った女だった。
その女は老人から見せられた写真の女に酷似していた。
名前は確か―――イイダカオリ。
二つの線が一つにつながった。
- 219 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:07
- ☆
- 220 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:07
- タカハシの入院期間は意外と短かった。
右腕肘関節の脱臼および肘関節靭帯部分断裂。
内出血を起こした筋肉の腫れはなかなか引かなかったが、
そんなことはお構いなしに、タカハシは完治を待たず職務に復帰した。
ニイガキが怪我をした時と同様に、同僚の視線は冷たかった。
いや、マキの後を付け回して大怪我をするという、ニイガキと全く同じミスを
繰り返したタカハシに対しては、より冷たい視線が投げかけられていた。
だがそんな非難も冷笑も蔑視も、タカハシには何の打撃も与えなかった。
タカハシは他人の評価や反応に極端に無関心な人間だった。
羨望や敬意といった感情にすら淡白に対応した。
そういう意味では、タカハシは打てども響かない鈍重な鐘だった。
タカハシが至上のものとするものと、タカハシ以外の人間が至上とするものには、
決して小さくないギャップが存在していた。
多くの人間はタカハシの心情を理解することができない。
タカハシも周囲の人間の心情を理解することはない。
彼女の中には「他人の気持ちを理解する」という概念が欠落していた。
だから自分が周囲の人間に理解されていないのだということすら、理解していなかった。
タカハシにとっては細かい心情のやり取りなど何の意味も持たない。
ただ目の前に見えているもの、それだけがタカハシの全てだった。
- 221 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:07
- 一番近い存在であるニイガキですら、タカハシのことを完全には理解できていなかった。
ニイガキはタカハシの無神経さを一つの強さだと理解していた。
他の何物にも影響されない、揺ぎ無い強さだと思っていた。
自分にはない強さだと思っていた。
「もう復帰するんだ。まだ寝てればいいのに」
タカハシはニイガキの言葉には答えず、ドカッと椅子に腰掛けると左手で資料を引き寄せた。
都合が悪いことには聞こえない振りをするのがタカハシの癖だった。
もしかしたら―――本当に聞こえていないのかもしれない。
都合の悪い言葉は聞こえない。
タカハシの耳だったらそれくらいの機能があっても驚かない。ニイガキはそう思った。
怪我をした右手はまだ使えないようだ。
タカハシは左手一本でガシャガシャと資料をかき回している。
見かねたニイガキが資料の整理を手伝った。
タカハシが見ていたのは例のサービスエリアの事件の資料だった。
「何か探し物? 手伝うこと、ある?」
都合の悪くないことだったら聞こえるだろう。
ここのところ内勤が続いていたニイガキは、資料の内容をほぼ全て把握していた。
- 222 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:07
- 「アヤって名前の女。知ってる?」
ニイガキはギョッとした。タカハシの目の下にはどす黒い隈ができていた。
実際にはそこまで黒くなかったのかもしれないが、凄惨な色を帯びたタカハシの瞳が、
その黒さを実物以上に濃く深い色に見せていた。
「女? あの組織に女のメンバーはいないよ。過去にも一人もいなかったはずだよ」
タカハシの右腕を破壊したのがその女だということは報告されていた。
そのアヤという女が大きな白い犬を連れていたということも。
だが捜査はそれ以上進展していなかった。
担当であるマキは既に別件に取り掛かっている。
首謀者は射殺したし、この事件はここまでで終わりということになるかもしれない。
「アヤはあの組織の女じゃない。別の麻薬組織の女だ」
タカハシには確信があった。
アヤの雰囲気は別格だった。あんな粗野な組織に馴染むような女ではない。
「アイちゃん、その女を追うの?」
「もちろん」
その腕で? 一人で? 大丈夫?
訊くまでもなく大丈夫ではない。だが止めても無駄だろう。
タカハシという女は自分の能力の限界を知らない。認識しない。
昔から背伸びしては大失敗を繰り返していた。
だが本人はそれが失敗であることすら気付いていないのだ。
ニイガキは説得を諦めて部屋を出た。
- 223 名前:【流行】 投稿日:2009/08/27(木) 23:07
- タカハシは心に決めていた。あの女を殺す。
ただでは殺さない。地面に這い蹲らせ、泥を噛ませ、四肢を切り落とす。
泣き喚くまで命乞いをさせ、それを受け入れ、許し、安心したところを殺す。
あの時自分が味わった恐怖の、100倍の恐怖と屈辱を与えて殺す。
そのためにはアヤという女の正体を知ることが必要だった。
手がかりは「アヤ」という名前しかなかったが、探せばすぐに見つかる気がした。
あれだけの実力を持っており、しかもそこそこ美しい。動けば目立つ女だ。
裏社会で名前が知れていないとは思えなかった。
自分が持っている情報網を駆使すれば、必ず何かが引っかかってくるだろう。
タカハシは分厚いファイルを前に苦闘していた。
ファイルが上手く開かない。紙と紙とがくっついている。
扱いなれていない左手の指ではなかなかめくれない。
癇癪を起こしたタカハシはファイルを壁に叩き付けた。
怒りが怒りを呼び、苛立ちが苛立ちを呼んだ。
コーヒーの入ったコップを床に叩きつける。
カップは甲高い音を立てて割れた。黒いコーヒーが床に広がる。
波打った捜査室の床を、コーヒーは蛇のようにどこまでも這っていった。
喰いついてやる。たとえどこに隠れていようとも―――
- 224 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/27(木) 23:08
- ★
- 225 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/27(木) 23:08
- ★
- 226 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/27(木) 23:08
- ★
- 227 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:27
- マキは辛抱強く機会を待った。
GAMは予想以上に警戒心の強い組織だった。
この立体駐車場が本拠地であることは間違いないが、
それでもここに全員が揃うなんてことは、まずないだろう。
それでもマキは待った。
多くの人間が関わる組織の活動というものには、必ず波がある。
一見、毎日が同じことの繰り返しのように見えるが、
その繰り返しの期間が長ければ長いほど、平穏であればあるほど、
その後にやってくる振り返しの強さは大きい。
マキはその時をひたすら待った。
全員とまではいかなくても、可能な限り多くのメンバーが揃う機会を待った。
その時がやってくる予兆は感じていた。
微かに、ゆるやかに、だが確実に組織内の空気が変わっていくのを感じた。
もはや待つことは苦痛ではなかった。
そして―――その時はやってきた。
- 228 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:27
- 月のない夜だった。
気温は零度を大きく下回っていた。風は向きを変えながら気まぐれに舞っている。
どうやら上空は曇っているようだが、凍った空気は透き通るほど澄んでいた。
マキの能力にとっては、有利でも不利でもない条件だった。
ただ一つ幸運なことがあるとすれば、いつもアジトにいるはずの番犬がいなかった。
あの白い犬が一匹いないだけでも、侵入のしやすさはかなり違ってくる。
マキはゼロを従えて駐車場の背面に回った。
立体駐車場には40人のメンバーが揃っていた。
被験者の一人と思われるイイダカオリもその中にいる。
これだけのメンバーが揃うのは初めてのことだった。
そしておそらく最後の機会になるだろう―――マキはそう思った。
GAMを皆殺しにし、イイダの死体を回収する。
マキは必要最小限のことしか考えなかった。
細かい作戦などない。乗り込み、蹴散らす。いつもやってきたように。
マキの頭の中にはそれしかなかった。
フジモトミキの顔も、アヤの顔も、全く浮かばなかった。
全てが「GAM」という記号の一部として認識されていた。
マキは使い慣れたハンドガンを持ち、ナイフを腰にぶらさげる。
ゼロを背面に残し、マキは建物の正面へ回った。
- 229 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:27
- マキは夜の闇に溶け込み、風のように流れながら駐車場内に忍び込んだ。
皮膚の感覚受容体の調子は最高に良かった。
立体駐車場の内部の構造が、ビスの一本に至るまで把握できた。
アヤの戦い振りを見たときから、マキの能力は再び大きな進化を見せ始めていた。
あれから数週間。マキはその新たな感覚を自分のものとしつつあった。
まだ完璧ではない。だが完璧である必要はない。
少なくとも自分からは―――これで完璧などと判断することはない。
完璧とは、それがすなわち一つの限界を意味するのだ。
自分は違う。完璧などではない。
まだまだこれからもっと強くなれる。どこまでいっても限界など存在しない。
マキは銃口をピタリとアヤの眉間に定めた。
- 230 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:27
- GAM壊滅作戦の実行を前にして、マキの神経は高揚していた。
神経の高揚が油断につながることはない。むしろマキの受容能力を高めていた。
だからいつも以上に完璧に気配を消していたはずだった。
気配を消したまま、まず最初にアヤを狙撃するつもりだった。
だがマキの計画は―――大きな修正を余儀なくされることになる。
風の向きが変わった。マキは勿論それに気づいていたが、構わない。
いくら風上だとはいえ、この距離でこちらの音や臭いが届くはずが無い。
襲撃実行に問題なし。それが常識的な判断だった。
だがマキの気配を―――微かな「臭い」を察知した人間がいた。
その反応の速さはマキの想定を遥かに上回っていた。
マキが引き金にかけた指を絞るように引き締めた瞬間、
暗い駐車場内に聞き覚えのある声が―――フジモトミキの声が響き渡った。
「伏せろ! 敵襲だ!!」
- 231 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:28
- マキの撃った銃弾がアヤの髪の毛をかすめた。
次の瞬間にはもう、アヤの姿はマキの銃口の前から消えていた。
的を外したのはいつ以来だろう。マキはそんな場違いなことを思った。
その感情は、悔恨というよりも喪失感に近かった。
手の中におさめていたはずのアヤという名の宝石は、
あっという間にマキの手をすり抜けていってしまった。
だがいつまでも喪失感に浸っているわけにはいかない。
マキは即座に能力を全開にし、蜘蛛の子のように散っていく40の気配を追う。
全員殺す。気配を追ううちに、その決意が揺らぎ始めた。
40の気配のうち、マキを取り囲もうとしてる戦意に溢れた気配は、30ほどだった。
残りの10は一直線に駐車場の外に向かっている。
こうした襲撃に備えて、あらかじめ役割分担をしていたのだろう。
最悪の場合でも、全滅だけは避けるという考え方の下で―――
アヤだけではない。
GAMという標的そのものがマキの前から姿を消そうとしていた。
- 232 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:28
- だがマキの大脳は諦めることを許さない。限界を認めることを許さない。
マキは己の細胞に不可能な命令を下した。
表皮細胞が悲鳴を上げる。
細胞の隙間から焦げた匂いがしてくるような気がした。
神経回路を行き交う電気信号の電力がマックスを超えて暴走する。
逃げ行く10の気配をがっちりと捕らえる。
だが気配を捕らえただけだった。それ以上のことはできない。
それでもマキは限界を認めない。声を大にして全細胞に命令した。
殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ
伸ばしても手は届かない。
それは不可能な命令だった。あまりにも理不尽な命令だった。
だがマキは諦めない。命ずることを止めない。
殺せという強い意志は、もはや一つの祈りとなっていた。
―――マキの中の時間が止まった。
- 233 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:28
- マキは立体駐車場内に存在する全ての分子をとらえていた。
全ての分子の運動をとらえていた。
そして―――自分の肉体を構成する全ての分子の運動もとらえた。
あの時感じた感覚と同じだった。
アヤを追跡していた時と同じ感覚。
自分の外側の世界と、自分の内側の世界が一つになってような感覚。
自分という存在が、世界を飲み込むブラックホールと化したような感覚。
分子は原子に。原子は粒子に。粒子は波動に。次々と変換されていく。
マキは一本の電流と化す。ただ一つの粒子と化す。ただ一つの波動と化す。
全てのエネルギーはマキを介してゼロに変換される。
そこからあと一歩を踏み出せば、自分の体が崩壊することは確実だった。
だが崩壊することがとても自然なことのようにも思えた。
それが自分の運命のように思えた。宿命のように思えた。
誰かが自分に命令している。崩壊せよと命じている。運命に従えと命じている。
誰だ? 誰だ? お前は誰だ? あたしに崩壊せよと命じているのは誰だ?
- 234 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:28
- マキは耳を澄ました。
心を平らかにして、自分の内なる声に耳を傾けた。
何も聞こえない。そこは何もない空白の世界だった。
だが景色は白ではない。何もない、真っ暗闇の世界だった。
人が生まれ来る場所のように。人が死に行く場所のように。一切の光がない世界だった。
何もない漆黒の世界からは、キーンという耳鳴りだけが聞こえた。
耳鳴りは徐々に音量を高め、間隔を狭めてマキに近づいてくる。
近づいてくる。近づいてくる。近づいてくる。マキのすぐ後ろまで。
キーンキーンキーンキンキンキンキンキンキキキキキキキキキキキキキキキキキキキ ―――
マキの背後で耳鳴りが消えた。
振り向けば息が吹きかかりそうなほど近い距離だった。
首筋に寒気が走る。体毛が逆立ち、肌が粟立った。
一瞬の空白。そして空白の向こう側から何かが聞こえてくる。
歌声のようなものが聞こえてくる。
歌声はマキの内側からやってきた。細胞の中から聞こえてきた。
- 235 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:28
-
・・・・・・・・・・・・・・・・やってく・・・・・
- 236 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:29
-
・・・・・・・・・・・ッチがやってく・・・・
- 237 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:29
-
・・・・・・ストナッチがやってくるよ
- 238 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:29
-
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 239 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:29
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 240 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:29
- マキは歌声に導かれるまま、最初の一歩を―――最後の一歩を踏み出した。
自分の体が一つ一つの粒子に解体されていくことがわかった。
細胞も、血液も、そしてマキの自我さえも―――
全てが一粒の粒子に解体された。
いや、ただ解体されただけではない。解体されると同時にそれは複製していた。
全ての細胞がマキの頭脳となった。全ての粒子がマキの自我となった。
マキは、マキという名の粒子の嵐となって、恐ろしい速度で空間内に拡散していく。
霧状になった粒子の一粒一粒が全てマキだった。
マキという名の霧は―――夜の闇よりも深く濃く黒かった。
真黒の霧が駐車場内に広がっていく。
その黒い霧は―――逃げ行く10人の姿を逃すことはなかった。
マキは叫び続ける。全てが終わるまで、その叫びが絶えることはない。
殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ
- 241 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:30
- ☆
- 242 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:30
- 銃声は一度しかしなかった。
弾丸はアヤの頭上をかすめていったようだ。
ミキは床を這いながら臭いのした方向を確認する。
それは銃声がした方向と見事に一致した。
アヤはすぐさま車の間に紛れていったようだ。速い。もうその姿は見えない。
臭いを辿る。アヤは敵の背後に回ろうとしている。
ならば即座にその動きをサポートしなければならない。
ミキはGAMメンバー40人全員の臭いを確認した。まだ誰も死んでいない。
40人のうち、10人はすぐにこの場を撤収しようとしていた。
それでいい。30人残れば、たとえ相手が一個中隊であっても、
かなりの時間、持ちこたえることができるだろう。
最悪の場合でも、GAMという組織が全滅することは避けられる。
全てがアヤの作った襲撃対策マニュアルの通りに進んでいた。
- 243 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:30
- ミキは明かりが煌々と照らす駐車場の中を素早く移動する。
照明を消すような真似はしない。
この駐車場はGAMのホームグラウンドだ。
ここでの戦いなら絶対にGAMの方に分がある。
有利な側が不確定要素を増やすようなマネをする必要はない。
ミキは散会していく30の臭いを把握する。
組織のリーダーはアヤだが、こういった集団戦闘のときはミキがリーダーだった。
ミキが臭いで集団を把握し、集団を動かして優位な陣形を保つ。
その隙間を縫ってアヤがフリーで動くというのがGAMの戦闘スタイルだった。
今回もいつものやり方で勝つ自信があった。
ミキは先ほど嗅いだほんの一粒の臭いを思い出す。
あの女だ。ラーメン屋で対峙したあのマキという麻取に違いない。
- 244 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:30
- 他の臭いは一切しなかった。
なぜかミキは、マキがたった一人で乗り込んできたということを疑っていなかった。
あの女ならそうするに違いない。その確信の下に陣形を動かした。
相手が一人だからといって油断することはない。
むしろいつも以上に細心の注意を払って移動を続けた。
駐車場内をアヤの臭いが素早く駆け抜けていく。ミキはその動きも把握していた。
取り決めた符号を叫びながら、部隊を動かす。
相手に自分の位置を教えることになるが、今はそんなことはどうでもいい。
今は30人がかりでマキの動きを抑えることが先決だった。
少なくとも―――逃げ出した10人が安全な位置に達するまでは。
マキの臭いは動かない。気味が悪いくらい全く動かない。
その間にも30人は着々とマキの退路を封鎖していく。
あとは力づくで抑えるしかない。何人か犠牲は出るだろうが、命がけで動きを抑える。
後はアヤがケリをつけてくれるだろう。
逃げ行く10人の臭いが駐車場の外に出ようとしている。あと数秒だ。
そのとき―――マキの臭いに異変が起こった。
- 245 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:30
- マキの臭いが急速に広がり出した。上下左右前後にマキの臭いが拡散していく。
ミキは戸惑いを隠せない。マキのやっていることが読めなかった。
(トラップか? 煙幕か何かの一種か?)
だがその臭いは香料のような人工的な臭いではなかった。
超常的な嗅覚を持ったミキには、それがマキそのものの臭いだと感じられた。
体臭が風に流れているのではない。臭いの源であるマキ本人が広がっているのだ。
まるでマキという人間が風船のように、いや、ガスのように膨れていくようだった。
これまで感じたことのない臭いの広がり方だった。
臭いはあっという間に、立体駐車場すべてを覆い尽くした。
臭いと同時に黒い霧が駐車場を覆っていた。
ミキのような特殊な嗅覚を持っていない人間が見れば、
ただ単に黒っぽい霧が建物全体を覆っているようにしか見えなかっただろう。
だが臭いがわかるミキにはそれがマキ自身だということが認識できた。
正確に認識できてしまった。
そしてその認識を―――常識で解釈することは不可能だった。
ミキの思考回路が一時停止する。30人の動きも止まった。アヤの動きすら止まった。
時間が止まった駐車場の中を―――マキという霧だけが包んでいた。
- 246 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:30
- 夢でも見ているのかと思った。目の前の景色がぐにゃりと歪んで見えた。
立体駐車場を支える巨大な鉄骨が曲がっていた。
流れ行く黒い霧が触れた部分が、あちこち溶け出していた。
ミリミリミリ・・・・・・・
裂け行く天井の音がミキを我に返した。
曲がっている。本当に鉄骨が曲がっている。まるでチョコレートのように溶けている。
今だかつて経験したことのない、悪夢のような状況だった。
いや。ミキは一度これと似た状況を経験していた。
霧の色が赤と黒で違っていることを除けば―――あの時とほぼ同じ状況だった。
だからミキは、アヤよりも若干速くこの状況を把握することができた。
声を限りに叫ぶことができた。
「総員撤退! 全力で離れろ! この黒い霧に触れるな!!」
- 247 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:30
- ☆
- 248 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:30
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 249 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:31
- 零――――
サディ・ストナッチがやってくるよ
一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
サディ・ストナッチがやってくるよ
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数
サディ・ストナッチがやってくるよ
闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇の中から
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 250 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:31
- 闇の向こうから
サディ・ストナッチがやってくるよ
分 厘 毛 糸 忽 微 繊 沙 塵 埃 渺 漠 模糊 逡巡
サディ・ストナッチがやってくるよ
須臾 瞬息 弾指 刹那 六徳 虚空 清浄 阿頼耶 阿摩羅 涅槃寂静
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇をまといながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇を引き裂きながら
サディ・ストナッチがやってくるよ
無限の闇と共に
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 251 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:31
-
―――零
- 252 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:31
- ☆
- 253 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:31
- 黒い霧は逃さなかった。逃げ行くGAMのメンバーを逃さなかった。
この駐車場の周辺を完全に掌握していた。全ての分子を探知していた。
まず黒い霧は、先行して撤収していた10の気配を飲み込んだ。
黒い霧はマキだった。霧の粒子の一つ一つが全てマキだった。
マキはゆらゆらとまだらに漂い、ターゲットの周囲を取り囲んでいく。
逃げ惑うGAMメンバーの前で、真っ黒な霧は急激に濃度を上げる。
その霧の濃淡によって、マキの姿が点描画のように浮かび上がった。
殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ
マキの右手に握られていた真っ黒なナイフが逃げ行くメンバーの喉を掻っ捌いた。
一つの命を断ち切ると、マキの姿は再び黒い霧と化した。
霧は濃度を薄めて次のターゲットの下へと流れていく。
既に黒い霧は敷地内に充満していた。移動は瞬時に行なわれた。
四方に散った10人の逃走者は―――ほぼ同時に息絶えた。
- 254 名前:【流行】 投稿日:2009/08/31(月) 23:31
- さらに黒い霧は駐車場内に陣取る30の気配に襲い掛かっていく。
ミキの指示を受けた30人のメンバーは、全力疾走で屋外へ出ようとしていた。
厳しい訓練を受けた30人の兵隊の俊敏で複雑な動きは、
通常であればとても一人の人間に把握できるようなものではなかった。
だがマキは全ての動きをつかんでいた―――逃さない。
この黒い霧の中で、マキの手から逃れることは不可能だった。
殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ 殺せ
黒い霧は生き物のように蠢きながら、メンバーを次々とその毒牙にかけていく。
抵抗することなど叶わなかった。
自動小銃の掃射も、ただ無為に黒い霧を突き抜けていくだけだった。
霧の中にマキの姿を見た者は、全て致命的な攻撃を受け、二度と起き上がらなかった。
その間にも、鉄骨は超高温にあてられたように溶解していった。
7階建ての立体駐車場が軋みを立てながら大きく傾いていく。
コンクリート柱が悲鳴のような音を立てて崩れていく。
圧力の逃げ場のなくなった壁面にはひび割れた亀裂が走る。
最後にほんの一瞬の沈黙の時間があり―――
その直後に立体駐車場は地鳴りのような轟音を立てて崩れ落ちた。
- 255 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/31(月) 23:32
- ★
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/31(月) 23:32
- ★
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/31(月) 23:32
- ★
- 258 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:36
- マキが目覚めたとき、既に陽はかなり高く上っていた。
起き上がろうとした途端、体がバラバラになるような激しい痛みを感じた。
体の一部が痛むのではない。体中の全ての細胞が電撃的な痛みを発していた。
荒い息を吐くマキの顔に冷たい水が降りかかった。
ペットボトルをくわえたゼロが横にちょこんと座っている。
口を開けるのも億劫だったが、マキは無理をしてなんとか水を飲み込んだ。
一口の水を喉に流し込むことが、ひどく重労働のように感じられた。
手を動かすことも、足を動かすこともできなかった。
マキに出来たのは記憶を探ることだけだった。
あの晩にここで起こったこと。マキはその一部始終を思い出していた。
自分の体に決定的な変化が起こったことは間違いなかった。
そしてそれがウイルスの影響であることも―――おそらく間違いないだろう。
マキは瞳を閉じて全ての感覚を開放しようとした。
まだ感覚が痺れている。周囲の状況はよくわからなかった。
だが―――自分の体の中のことは一通り把握することができた。
- 259 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:37
- 怪我らしい怪我はなかった。
骨折や筋断裂はおろか、切り傷一つなかった。流血もしていないらしい。
マキは体中にくまなく行き渡る体液の流れを感じることができた。
そしてそれと同時に―――実感した。
ウイルスはまだ生きている。あたしの体の中で生きている。
もはやそれは絶望的なレベルに達していた。
寄生しているという段階から、さらに先に進んでいた。
ウイルスのDNAとマキのDNAが絡み合い、組み替わり、新たなDNAを構成していた。
あの時、マキの内側から聞こえてきた歌声―――
あれはウイルスではなく、マキ自身の歌声だったのかもしれない。
マキはもう一度耳を澄ました。感覚を全開にし、肉体の粒子を一本の波動と化す。
体の痛みは関係なかった。
あっけないまでに簡単に、マキの体はあの夜と同じような状態に陥った。
- 260 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:37
-
・・・・・・・・・・・ッチがやってく・・・・
- 261 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:37
- かすかに歌声が聞こえてきた瞬間、マキは即座に全ての感覚を閉じた。
歌声とともに、あのウイルスが自分の体の中でもぞもぞと蠢き出していた。
自分の細胞の全てを、マキは生理的に拒絶した。
痛みを忘れてマキはエビ反りになった。
自分のすべてを洗い流したかった。ウイルスを取り除きたかった。
そのためには全てのDNAをズタズタに断ち切っても構わないと思った。
それは―――自分という人間を丸ごと全て拒絶する行為に等しかった。
マキは仰向けになったまま嘔吐した。
黄色い胃液が顔面を濡らす。鼻腔に飛び込んだ胃液は気管にまで流れ込んできた。
マキは吐いた。吐きながらむせた。息が止まる。
呼吸を求めてマキの体はのたうちまわった。
自分の体を破壊したいと欲しながらも、マキの体は生を求めて咆哮していた。
マキはうっすらと理解していた。あの時自分が何をしたのかを。
ウイルスの力を借りて黒い霧と化した自分。
自分はおそらくあの『巨大な何か』と同じことをしたのだ。
あの赤い霧と全く同じような状態に陥ったのだ。
それも自分の意思で―――
あたしはあの赤い霧と同じことをした。
いちーちゃんを殺したやつと同じことをした。
その事実は、吐き出された胃液よりも強くマキの胸を焼いた。
- 262 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:37
- パニックになったマキを押さえつけたのはゼロだった。
じたばたと手足を振り舞わすマキに抱きついた。
ゼロともみ合ううちに、マキの体には再び焼けるような痛みが戻ってきた。
マキの動きは徐々に弱々しいものに変わっていく。
そのうちマキは呼吸をするだけで、その他の動きを全て止めた。
痛みは続いていた。皮膚が焼けるように痛んだ。
この痛みを止めてくれるのなら、悪魔に魂を売っても構わないと思った。
GAM打ってくれよ。痛みが消えるんだよ。なあ。頼むよ。
脳裏に市井の声が響いた。
市井は連日連夜、これほどの痛みに耐えていたのか。
失神することすら叶わない、火に炙られるような鮮烈な痛み。
呼吸するだけで喉が痛んだ。硫酸を飲み込んだような痛さだった。
発狂する―――
だがこの痛みが消えてくれるなら、発狂した方がましだと思った。
- 263 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:38
- 「あっ! マキさん! 大丈夫ですか!?」
声が届くほどの距離に来るまで、人の気配に気付かなかった。
普段のマキならあり得ないことだったが、今のマキは痛みと戦うだけで精一杯だった。
「ぅぅ・・・・・・・・・」
声が出なかった。出そうとも思わなかった。声帯を震わせるだけで痛みが走った。
マキの傍にいたのは二人の捜査官、タカハシとニイガキだった。
タカハシは怪我をしている間もマキの動きを追っていた。
完全につかむことはできなかったが、行動範囲をかなり絞ることができた。
その行動範囲の真っ只中で起こった立体駐車場での銃撃戦と建物の倒壊。
タカハシは真っ先に動き出した。
タカハシの怪我はまだ完治していなかった。
「怪我で半人分しか働けないとしても、二人いれば一人前になるでしょ」
ニイガキは訳のわからない理屈をこねてタカハシに同行しようとした。
もう松葉杖なしでも普通に歩けるらしい。
タカハシはいつものようにニイガキの言葉を適当に流したが、
無視してもニイガキは黙って付いて来た。
「マキさん! 痛むの? 怪我は?」
バウバウと吠え立てるゼロを前にして距離を取っているタカハシをよそに、
ニイガキは一直線にマキの下に飛び込んできた。
ゼロは吠えるのを止めて心配そうに二人を見つめる。
それを見てタカハシも二人の下に近寄っていく。
- 264 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:38
- いつも無神経な目で状況を見ている分、
こういった修羅場ではタカハシの方が冷静な判断が下せた。
「外傷はないねえ。でも痛みによるショック症状が強く出とるわー。
もしかしたら肋骨とか腰骨とかそこらへんをやったんかもしれん」
タカハシはカバンからアンプルと注射器を取り出した。
怪我人を扱うことが多い職場なので、鎮痛剤は必須アイテムだった。
タカハシはテキパキと準備し、鎮痛剤をマキに投与した。
それでマキの呼吸が幾分落ち着いた。
「冷や汗は出とらんなあ。骨折ではないんとちゃうかな?」
「ホント? よかったあ! マキさんちょっと落ち着いたみたい!」
マキは複雑な思いでタカハシが取り出したアンプルを見つめていた。
鎮痛剤。つまりは医療用麻薬。それに救われた自分がひどく情けなかった。
それでもとにかく気持ちが落ち着いたのは確かだった。
異常に亢進していたマキの受容体はあっという間に麻痺していった。
マキの受容体は恐るべき速さで麻薬物質を消化して行った。
薬の効果はほんの数分しか続かなかった。
それでも再び焼けるような痛みがマキを襲うことはなかった。
マキが感覚を開放しない限り―――あの歌声はもう聞こえなかった。
- 265 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:38
- ショック症状を抜け出したマキのことはとりあえずゼロに任せ、
タカハシとニイガキは崩壊した立体駐車場の瓦礫の山を踏み越えていった。
「警察は来ないでしょうね」
「来んやろ。被害者の届けでもない限り警察が動くことはないわ」
「まあ、誰かが届けたとしても―――」
「来るかどうかは怪しいもんや」
警察の人手不足は麻取以上だった。
窃盗や暴行など挨拶のようなものだったし、殺人事件も日常茶飯事だ。
非合法組織が殺し合いをしようが、警察が介入することはほどんどない。
今の関東での警察の仕事といえば、公的施設の警護くらいのものとなっていた。
「手分けして捜索してみよっか」
タカハシとニイガキは左右に別れ、瓦礫に埋まっている生存者の捜索にかかった。
ここが倒壊したという情報を売人から入手してからもうすぐ8時間。
生存者がいるならばまだ救出することが可能な時間だった。
そしてニイガキよりも先に―――タカハシが生存者を発見した。
- 266 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:38
- 「あっ」
タカハシは声を漏らしてから慌てて口を塞いだ。
崩れた鉄骨の隙間に挟まっていた生存者は、タカハシのよく知っている顔だった。
マキの居所をGAMに教えるときに使っていた、連絡員の一人だった。
タカハシはさりげなく後ろを振り返る。ニイガキがこちらに気付いた気配はない。
マキはまだぐったりと座り込んでいて、周囲に気を配る余裕すらないようだった。
「タ、タカハシ・・・・・さん?」
考えろ。よく考えるんだ。なぜGAMの構成員がここにいる?
タカハシは脳味噌をフル回転させて必死に考えた。
GAMはSSの情報を知りたがっていた。
だからSSの情報を知っているマキの身柄を押さえようとしていた。
マキとGAMがここで衝突した? GAMがマキをここに誘い込んだのか?
「おい。マキだな。マキにやられたんだな?」
「わかんねえよ・・・・・いきなり襲い掛かってきやがった」
襲い掛かってきた? マキの方から仕掛けてきたのか?
ということはマキはGAMの動きに気付いていたということだ。
どこで気付いた?
タカハシが知る限り、ここ数週間、マキが接したのは小規模な組織ばかりだ。
どれも麻取の間でよく知られている組織であり、未知の組織の影はなかった。
一つ例外を挙げるとすれば―――アヤか? あの女か?
- 267 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:38
- タカハシは一つカマをかけてみることにした。
「おい。アヤの勇み足で情報が漏れたみたいやな」
男は顔を曇らせた。だが容易く情報を漏らすような真似はしなかった。
「アヤ? 誰だそれ。情報が漏れたってお前の方からじゃないのか?」
「とぼけんじゃねーよ。アヤがサービスエリアで麻取を一人叩きのめしただろ?
ご丁寧に名前まで名乗ってさ。もうアヤって名前は知れ渡ってんだよ。
どうやらアヤはマキを追ってたみたいやんか。でもマキに逃げられたんよ。
あそこでマキを仕留め切れなかったから、ここで逆襲されたんやないの?」
タカハシはそう言いながら、傷ついていた男の肩を踏みつけた。
男は苦痛に顔をゆがめる。
「もうバレてるんだから言えよ。お前が教えてくれないとあたしも動けないんだよ。
マキの情報はどうすんだよ? 今後の取り引きは? 薬も納めなくていいのか?」
- 268 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:38
- 男は観念したように全てを語り出した。
「そこまで知ってたのか・・・。確かにアヤさんはマキを逃したって言ってた。
だがまさかアヤさんが後を付けられていたとは・・・・・・考えられん。
あの人は何よりも組織の存続を第一に考えて行動する人なんだ・・・・・
このアジトを突き止められたのも・・・どこか他から情報が漏れたとしか思えん」
ここがGAMのアジトだったのか。タカハシはそれを初めて知った。
何度かマコを尾行したこともあったが、マコがここを訪れることは一度もなかった。
そしてタカハシはアヤという女がGAMのメンバーであることも確認した。
GAMのメンバーであるアヤは、SSの情報を持つマキを狙っていたのだ。
だがその気配を察したマキはその場から逃げた。
そしてタカハシがそのとばっちりを受けたというわけだ。
タカハシは喉にからんだ痰をペッと吐き捨てた。
「アヤは生きとるんか? どこに連絡を取ればええんや?」
「もちろん生きているだろう・・・・・あの人が死ぬとか考えられん。
連絡は・・・わからん。またマコを通して連絡を取るしかないだろう・・・」
「アヤは生きとるんか・・・・それでも随分たくさん死人が出たみたいやけど、
GAMという麻薬組織はまだ続いていると考えてええんやね?」
「当然だ。GAMはアヤさんそのものだ。構成員が何人死のうが関係ない。
アヤさんがいる限りGAMは永遠に続く」
アヤはただのメンバーというわけではないようだ。
男の口ぶりではどうも彼女こそが―――GAMのトップのようだ。
- 269 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:39
- タカハシは確認した。
「つまりアヤが死ねばGAMは終わる。トップが替わることはあり得ないんやね?」
「あり得ない」
男は即答した。間違いない。GAMのトップはアヤだ。
これでタカハシの心も決まった。
GAMを内部と外部から切り崩す。
マキとの戦いでGAMの戦力が大幅に減ったのは幸便だ。
生き残りのメンバーの何人かを手なずけて、まずは内部抗争を誘発する。
そして最後は―――自らの手でアヤを殺す。
GAMの規模は半分以下になるだろうが、それでも立派な麻薬組織だ。
そこのトップに自分が納まる―――悪くない想像だった。
運が回ってきた。タカハシはそう思った。
そして自分はこの幸運に乗っていくのが当然のことだと思った。
人間には幸運と不運が交互に等分にやってくる。
あの時油断してアヤにやられたのは、実力ではなく、単なる不運だったのだ。
そしてその揺り返しとしての幸運が今、自分の目の前にやってこようとしている。
これに上手く乗っかかれば―――自分は関東有数の組織の長だ。
タカハシは顔をくしゃくしゃにして笑いながら、
手ごろな大きさのコンクリート片を拾い上げた。
- 270 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:39
- ☆
- 271 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:39
- 「アイちゃーん、生存者いた?」
ニイガキが探した範囲では生存者はいなかった。死体をいくつか確認しただけだった。
この立体駐車場は7階建てだったらしい。瓦礫の山は相当な高さになっている。
おそらくこの下にはまだまだ死体が埋まっているのだろう。
最終的な犠牲者が何人になるかは想像もつかなかった。
「いや、おらんみたいや。この男もさっきまでは生きてたみたいやけど・・・・・」
タカハシの足元を覗き込むと、一体の死体が鉄骨の間に挟まっていた。
頭頂部がべこんと凹んでいる。瓦礫の一角が直撃したのだろう。むごたらしい死体だった。
「うーん。これはやっぱりマキさんに話を聞かないとダメみたいだね」
「そうやね。マキさんが素直に話してくれるならええんやけどね」
「ああ・・・・・・・」
ニイガキは深いため息をもらした。
そうだ。マキが全てを喋ってくれるとは限らないのだ。
むしろ何も説明してくれない可能性の方が高いかもしれない。
振り返って見てみると、マキは茫然自失の状態で座り込んでいた。
ここまで無防備な状態のマキというのは初めて見た。
もしかしたら―――今ならば何かを話してくれるかもしれない。
ニイガキは淡い期待を抱いてマキの下へ行った。
- 272 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:39
- マキの体からは綺麗に痛みが消えていた。
痛みのない状態というのがいかに恵まれた状態かということを、マキは噛み締めていた。
皮膚はまだ少し痺れている。いつものように感覚受容体を使うのはまだ無理だろう。
マキは心に決めていた。
―――あの奇妙な能力は使わない。
暗い歌声に導かれて、自分の体がまるで霧のように拡散していったあの瞬間。
あの瞬間、ゴトウマキという人間は消えたのだ。
自我と自意識が違う世界へと遊離していた。あれは決して自分ではない。
あの能力を使うということは、ウイルスに自分の魂を売り渡すことに等しい。
それは受け入れがたかった。
だからあの能力は使わないと決めた。
自分が訓練で身に付けた能力のみを使おうと決めた。
ウイルスによって身に付けた特殊な感覚受容体を使うのはいい。まだいい。
それはリスクとともに、自分が自分の意思で受け入れたものだから。
だが自分が市井を殺した化け物と同じものになるなんて、そんなことは耐え難かった。
あたしは化け物なんかじゃない。化け物を殺す側の人間だ。
マキはもう一度心に決めた。あの能力だけは使わない。たとえ何があったとしても。
- 273 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:39
- 気がつくと驚くほど近い距離にニイガキがいた。まだ皮膚の感覚が少しおかしい。
「マキさん、ここで何があったんですか?」
無視してもよかった。
確かにニイガキには助けてもらった借りがあるが、よく考えればその前の一件では
マキの方がニイガキの命を助けたのだ。これで貸し借りはなしだ。
だが無視しようしたマキを咎めるように、ゼロが「うぉん」と低く吠えた。
情報交換くらいはしておけよ、ということらしい。
「なにってさ。麻薬組織を潰してたら建物が壊れたんだよ」
嘘は言っていない。それ以上言うことは何もない。交換する情報なんてないよ。
マキは心の中でそう思ったが、タカハシはそうは思っていなかった。
「マキさんはずっとGAMを追ってたんですね?」
マキは意表を突かれた。タカハシがGAMに薬を横流ししていることは知っていたが、
おそらくタカハシは、マキがそれを知っていることには気づいていないだろう。
マキは珍しく、他人の言葉に興味を覚えた。
タカハシの次の台詞が気になる。固唾を呑んで待った。
- 274 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:39
- タカハシはマキのリアクションに満足した。
いつもはポーカーフェイスを装っているマキが、興味深そうに自分の話を聞いている。
まさかGAMを追っていることを知られていたとは思わなかったのだろう。
主導権は完全にこちらが握った。マキという切り札を手に入れたのだ。
タカハシはまた一歩、自分が勝利に近づいたことを確信した。
「あたしもGAMのことはまんざら知らないわけでもないんですよね。
ここってGAMのアジトですよね? いつか踏み込もうと思ってたんですが・・・」
タカハシの考えは既にまとまっていた。
マキとGAMを正面から喰い合わせる。
アヤが生きているなら、アヤとマキを戦わせるのもいいかもしれない。
たった一人でこれだけの数のGAMのメンバーを葬り去ったマキだ。
上手く使えばGAMにさらなるダメージを与えることができるだろう。
たとえマキが完全にGAMを叩き潰しても構わない。
マキは麻薬組織の後釜を狙うようなことはしないだろう。
残り物をじっくりと頂けばいいのだ。
「GAMの残党も何人か知っていますよ。あたしと組みませんか? マキさん」
今度はマキにGAMの情報を流す番だ―――
タカハシは両掌の上で、GAMとマキを上手く転がし、自分の意のままに操るつもりだった。
- 275 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:40
- ニイガキはじりじりと身が焦がれるような思いでタカハシの話を聞いていた。
なんで? なんでマキさんの狙いを知ってるの? なんでGAMのことなんて知ってるの?
驚いた。そして悔しかった。自分が完全にタカハシに出し抜かれていることが悔しかった。
GAMという組織のことなど名前しか知らない。かなりマイナーな組織だったはずだ。
それをマキが追っていた? あのマキが? なぜ? ドウシテ? ナンノタメニ?
それよりも驚きだったのはタカハシがそのことを知っていたことだ。
タカハシはここがGAMのアジトだということも知っていたらしい。
なんで? なんで? どうして? マキさんのことをどこまでシッテイルノ?
自分がこれまでやってきた捜査は一体何だったのだろう。
どれだけ努力しても、どれだけ汗をかいても自分が届かなかったものに、
タカハシはひょいと手を伸ばして掴み取ってしまう―――いとも簡単に。
自分が心の底から欲しいもの。タカハシはいつも一歩先にそれを奪い去ってしまう。
悔しかった。
何より悔しかったのは、マキが興味深そうにタカハシの話を聞いていることだった。
常に一人で仕事をするマキ。誰にも媚びないマキ。そんな孤高なマキが好きだった。
タカハシの話なんて聞かないで欲しい。
興味を示さないで欲しい。いつものように無視して欲しい
ニイガキは激しい嫉妬心に苛まれながら二人のやりとりを凝視していた。
- 276 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:40
- マキはタカハシの話をじっくりと吟味した。
どうもおかしい。GAMの待ち受けている罠に引き込もうとしているのだろうか?
それとも本気でGAMを潰そうとしているのだろうか?
今の段階ではどちらとも判断がつかなかった。
だがこの話は軽々しく無視できなかった。
あの夜のことはまだ覚えている。皮膚が覚えている。逃したメンバーがまだ数人いる。
その中にはアヤもフジモトミキもイイダカオリも含まれている。
警戒心を高めた組織を追うのは容易なことではない。
今までのように、タカハシを通じて自分の居場所を意図的に流すくらいでは、
向こうの動きをコントロールすることはできないだろう。
今度はこちらから積極的に動く必要がある。
となると、数少ない手がかりである、あのマコという浮浪者とつながっているタカハシは、
是非とも利用したい人間だった。
それにタカハシを引き込めば―――もう一つの「手間」が省ける。
「いいよ。あんたと組んでGAMを追ってもいい」
- 277 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:40
- タカハシは顔をくしゃくしゃにして笑った。
ちょろいもんだ。特殊捜査員といっても他に能がない捜査バカなのだろう。
自分が操られているなんて夢にも思っていないに違いない。笑いが止まらなかった。
これでマキは自由に操ることができる―――
タカハシはそう思い込んでいたから、マキの次の一言に少し戸惑った。
「あたしとタカハシとニイガキ。この三人で一緒にやろう。あたしは一人で動く。
そっちは二人で動く。何か新しい情報が入ったら三人で集まり、相談する。
そのやり方でいいんだったら、あんたと一緒に捜査をやってもいい」
ニイガキ? なんでこの子をあたしと組ませる?
一人では不十分だと思ったのだろうか。まだ怪我が癒えていないと思ったのだろうか。
タカハシはニイガキを見つめた。ニイガキはうざったいほどやる気十分の顔をしている。
連れて行くしか仕方ないだろう。しかしこいつが隣にいればマコとは話がしにくくなる。
麻薬横流しの事実を上手く隠して話せるだろうか? かなり難しいように思える。
そうだ。いざとなればニイガキをこちら側に引き込めばいい。
あたしがGAMのトップになる。ニイガキはあたしの後を継いで横流しの担当になる。
それがいい。何の問題もない。ニイガキはいつだって金魚の糞みたいにあたしについてきた。
あたしのために働いてきた。今回だってきっとそうなるに違いない―――
「あたしはそれでええですよ」
- 278 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:40
- マキがニイガキの名前を出したのは意外だったが、
タカハシがマキの条件を飲んだのはそれよりも意外なことだった。
もしかしたら「二人でやりましょうよ」と言うかもしれない―――
ニイガキはそう思っていた。
タカハシはいつだってあっさりと人の気持ちを踏みにじることを言う。
いずれにせよこれは挽回のチャンスだ。
マキの信頼を得るということに関しては、きっと最後のチャンスになるだろう。
マキがニイガキの名を出したときは飛び上がりそうなほど驚いた。
ただ名前を呼ばれるだけでもドキドキする。
それなのに「一緒にやろう」とまで言ってくれた。
期待に応えたい。マキの興味を引くような、印象に残るような仕事がしたい。
心の底からそう思った。
GAMか。GAMという組織を潰せばいいんだ。
まだ名前しかしらない組織だったが、調べればなんとかなるという思いがあった。
派手な逮捕劇は苦手だけど、地味な調査だったら誰にも負けない。
やろう。やるしかない。靴を潰してでも歩き回るしかない。
ニイガキはまだ完全には癒えていない膝の痛みも忘れて、強くそう思った。
「あたしもやります。お手伝いします」
- 279 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:40
- マキは二人の返事を黙って聞いていた。
これでタカハシからの情報が途切れることはなくなった。
タカハシとGAMが、どういう関係になっているのかはよくわからない。
まだGAMとつながりがあって、マキを罠にかけようとしているのかもしれないが、
同じ麻取であるニイガキを付けておけば、そうそう変な真似はできないだろう。
「じゃあ、それで決まり。情報を集める。GAMを潰す。それまでは三人一緒だよ」
とても自然に嘘がつけたと、自分でも思った。
三人一緒では困る。ニイガキはいずれ途中で捜査から外れてもらう必要がある。
彼女はGAMとは無関係な人間だ。
タカハシのように最後までこの件に関わる必要はない。全くない。
それに、いつまでもタカハシと一緒にいられては―――都合が悪い。
とにかくニイガキには適当なところで外れてもらう。
そしてタカハシは―――GAMに麻薬を流したタカハシには―――死んでもらう。
マキはGAMに関わった全ての人間を殺すつもりだった。
どんな手間も惜しむ気はなかった。
「じゃあ、行こうか」
マキの声を合図に、三人の麻取はそれぞれ違うことを考えながら―――歩き出した。
- 280 名前:【流行】 投稿日:2009/09/03(木) 23:41
- 第五章 流行 了
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/03(木) 23:41
- ★
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/03(木) 23:41
- ★
- 283 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/03(木) 23:41
- ★
- 284 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/07(月) 23:28
- 強くなりたい? その言葉に偽りはないか?
愛している? その気持ちに偽りはないか?
守りたいものがある? 己の命をかけても?
ならばお前はそれを証明しなければならない
たとえ、悪魔に魂を売り渡すことになろうとも
- 285 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/07(月) 23:28
- 第六章 診断
- 286 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:29
- 月のない夜だった。
気温は零度を大きく下回っていた。風は向きを変えながら気まぐれに舞っている。
どうやら上空は曇っているようだが、凍った空気は透き通るほど澄んでいた。
真っ暗な部屋の中。電燈は一切灯っていない。
部屋の中で唯一光を放っているPCのディスプレイが、男の顔を青白く照らし出していた。
ディスプレイの中には大きな橙色の輝点が二つ光っている。
男はそれを確認して会心の笑みを浮かべた。
その背後では、一人の少女が男の肩越しにディスプレイを覗き込んでいる。
「やっと見つけましたね」
「おう。意外と時間がかかったな」
男はPC画面に映っている地図をプリントアウトする。
少し間を置いて、一人の男が一枚の紙を手にして部屋に入ってきた。
「テラダさん、『3番』の所在地が割り出せました。応援送りましょうか?」
「すぐ送れ」
男は入ってきたときと同じくらい慌しく部屋を出て行った。
部屋の中にはテラダと一人の少女―――カメイエリが残された。
- 287 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:29
- 「これが最後のターゲットっちゅうことになるんやろな」
「いえいえいえ。まだあと一つ残ってますよ。お忘れなく」
「おお、そうやったな。でもまあ、これが終わったらUFAにも『挨拶』に行けるやろ」
テラダとエリは、UFAの老人よりも遥かに深くウイルスのことを理解していた。
SSを完成させるためには、全てのウイルス断片が必要なことも、既につかんでいた。
しかしながら、あの事故のとき、全被験者から集めた血清は爆発して失われてしまった。
もう一度集めるしかない。
二人はこの三年間、その目的を達成するためだけに動いてきた。
ディスプレイの中の二つの光点が接近しようとしていた。
一つの点には「3」という数字、もう一つの点には「8」という数字が書かれていた。
今、その「8」の方が「3」のいる建物の敷地内に入ろうとしている。
画面を見つめるテラダとエリの緊張が高まった。
「どうやらゴトウはずっとイイダを狙っていたみたいやな」
「あーあ。ゴトウさんに先越されちゃいそうですよ?」
「まあええわ。たとえゴトウに先を越されてもな。行き先がわからんよりはええやろ。
今日のところはとりあえず、イイダの居場所がつかめただけでも万々歳やわ」
- 288 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:29
- 被験者の肩に刻まれたナンバータトゥー。これは実は一種の発信装置となっていた。
その独自の周波数を知るテラダだけが、タトゥーの持ち主を追跡できた。
だがあの事故で探知装置も破壊されてしまった。
UFAのバックアップを失ったテラダが、一から装置を組み立てるのは至難の業だった。
荒れ果てた関東で丹念にパーツを集め、なんとか探知装置を再製するまでに、
一年以上もの時間が費やされた。
装置の効果は絶大だった。
探知できる範囲が狭いのがネックだったが、それでも何の手がかりもない状態から
オリジナルキャリアを探すことを考えれば、飛躍的な前進だった。
テラダはまず「1」のナカザワユウコの所在を突き止めた。
ナカザワの組織には「10」のヨシザワ、「11」のツジ、「12」のカゴもいた。
さらにその後には「9」のイシカワまでもが合流した。
彼女たち5人は全員キャリアであり、容易に手出しができなかった。
そこでテラダは搦め手を使うことにした。
テラダは―――同じオリジナルキャリアのヤグチを使う決断を下した。
- 289 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:29
- あの事故のとき、テラダたちはSSの使い方を誤ってしまったらしい。
SSは暴走し、施設は全壊の憂き目に会った。
だがテラダとエリは施設がヘリに爆破される直前に、ウイルスを持って施設から脱出していた。
あの事故で独自の実験をしていたことが老人に露見するのは時間の問題だった。
事故直後のテラダの判断は素早かった。
この施設から―――そして組織そのものから抜け出すことを即座に決めた。
施設を抜け出す途中で、テラダは一人の少女が倒れているのを発見した。
被験者番号「4」のアベナツミだった。
エリはナツミを抱えて連れて行こうと主張した。
テラダは拒否した。そんな重いものを抱えていては逃走もままならない。
だがエリはウイルスだけを持っていても意味がないという。
ウイルスを投与した人間が絶対に必要だと言って譲らなかった。
- 290 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:29
- エリの主張が正しかったことは後に明らかとなった。
SSはウイルスに宿るのではなく―――ウイルスを投与された被験者に宿っていた。
ウイルス断片のDNAと被験者のDNAが組み合わさったときにSSは発動する。
とにかくテラダはナツミを抱えて施設から逃げ去った。
走っている途中でナツミの体はどんどん重くなっていった。まるで二人分の体重のようだった。
やがてナツミのポケットが破れ、そこからは小型化していたマリが零れ落ちた。
信じられなかった。これもウイルスの影響なのだろうか。
マリは徐々に巨大化し、やがて小学生くらいのサイズで落ち着いた。
テラダはナツミを抱え、エリがマリを抱えた。
その後、大混乱に陥った関東で、身を隠すのはそう難しいことではなかった。
- 291 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:30
- ナツミとマリはキャリアとなっていた。
異常な能力を身に付けた二人は、当然ながらその意味を知りたがった。
テラダとエリは二人の体を使って再び研究を始めた。
機器も設備もなかなか手に入らない状態では、研究は遅々として進まなかった。
それでも一年が経つ頃になると、組織も整い、研究もはかどるようになった。
テラダとエリは新たな組織に「SS」と名づけた。
その言葉の真の意味は―――エリ一人しか知らない。
老人は勿論のこと、テラダすら知ることはなかった。
研究の結果、ウイルスの効果はまだ未完成であることがわかった。
テラダたちは分割した七種類のウイルスを全て持っていたが、それでも不十分だった。
あの時施設でウイルスを投与した、七人の体が必要であることがわかった。
七つのウイルス断片のDNAと組み合わさった、七人の被験者のDNAが必要だった。
テラダは新たに何人かの人間を選んで分割ウイルスを投与してみたが、
ほとんどの人間は投与直後に死亡してしまった。
やはりランダムに選んだ人間にウイルスを投与しても無理か―――
それがテラダの結論だった。
元々、施設に連れて来た被験者は、血液学的検査でスクリーニングにかけた人間だ。
ウイルスDNAに対して、極めて相同性が高い人間のみが選ばれていた。
だが今の関東でそんな選抜を行うことは不可能だった。
SSを完成するためには、七人のオリジナルキャリアのDNAを手に入れることが必要―――
それがテラダとエリの出した結論だった。
ナツミとエリもそれに納得し、SS完成のために協力すると誓った。
- 292 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:30
- テラダたちは既に大部分のウイルス断片を手に入れていた。
「1」のナカザワはヤグチが葬り去った。死体も入手し、DNAを調製済みだ。
「2」のイシグロの血は施設から出るときに手に入れた。
ナツミの服にべったりと大量の血がついていたのだ。
どうやら施設から逃げるときにナツミの能力が暴走したらしい。
ナツミは同じように「7」のイチイサヤカにも襲い掛かっていたようだ。
ナツミの服からは二人の血液を採取することができた。
そして「4」のナツミと「6」のヤグチはここにいる。
つまりテラダの下には「1」「2」「4」「6」「7」のDNAが揃っていた。
残るはイイダカオリの「3」とヤスダケイの「5」のみ。
この二つを入手して七つのDNAが揃ったとき―――
彼らはSSの完全な力を手に入れることになる。
テラダはUFAの動きにも探りを入れていた。
どうやらあちらは「2」「5」「7」の三つしか入手していないようだ。
「3」のイイダの動きを掴んだこちらの方が今は有利な状況かもしれないが、
向こうはこちらが持っていない「5」のDNAを持っている。
いずれこちらからUFAに『挨拶』に行かなければならないだろう。
こちらが有利な条件はそれだけではない。
完全体SSを使いこなせる人間―――その候補となる人間は世界で一人しかいない。
その人間がいなければウイルスは何の役にも立たない。ただの有害物質だ。
テラダはその「一人」の身柄を押さえていた。
- 293 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:30
- テラダは余裕たっぷりの表情でディスプレイを眺めていた。
おそらく今回はイイダに逃げられるだろう。
今からこの場所に向かうとしても、最低一時間はかかる。
それまでの間、ゴトウがじっとしているとは思えなかった。
だがテラダはゴトウの動きを完全につかんでいた。
ナカザワを発見した時から、テラダたちはずっとフォースを張っており、
「8」のタトゥーを持ったゴトウがその網に引っかかった。
テラダはゴトウを捕らえずに泳がすことに決めた。
というのも、ゴトウにはイチイと同じウイルスを投与していたので、
既にイチイのDNAを入手したテラダには、ゴトウの体は必要ではなかったからだ。
だがゴトウはどうやらUFAの命を受けて動いているようだった。
彼女の動きを張ることは、後々「5」を入手する上でも重要だと判断した。
それ以来、テラダの組織はゴトウを追跡していた。
気配を消すことが得意なゴトウではあったが、
タトゥーの電磁波を探知して追って来るSSをまくことはできなかった。
ゴトウがイイダの死体を手に入れるならそれはそれで構わない。
あとでじっくりゴトウを料理すればいい。
だが次の瞬間―――テラダの顔から笑みが消えた。
- 294 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:30
- 「なんやこれ」
テラダは慌ててマウスを操作した。
パソコン画面上の地図を可能な限り拡大する。
画面いっぱいに立体駐車場の敷地が表示された。
その敷地内を覆い尽くすように―――橙色の輝きが広がっていった。
あり得ない。橙色の光はタトゥーの位置を示す光なのだ。
人間の位置を表示する光なのだ。だから本来は小さな点で表示されるはずだ。
その橙色が、今は17インチのディスプレイいっぱいに光り輝いている。
巨大な立体駐車場が―――全てオレンジの光で満たされていた。
なぜ?という答を求めるテラダの視線を受け止め、カメイが重々しく頷く。
「どうやら・・・・・ゴトウさんも覚醒してしまったようですね」
「そんなアホな。あり得へん。この世でSSを発動させることができるのは―――」
「アベさん一人ではなかったということでしょう」
「ぐぅ・・・・・」
テラダは呆然とディスプレイを見つめていた。
ついさっきまでの温泉気分は跡形も無く吹き飛んだ。
自分が重大な判断ミスを犯したということに気付いた。気付かされた。
イチイのDNAがあるからといって、ゴトウを無為に泳がせ続けたのは間違いだった。
まず一番最初に―――ゴトウを殺すべきだったのだ。
- 295 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:31
- 七つのDNAが揃わなければSSが完全に発動することはない。
だが不完全な状態のSSであれば、たった一つのDNAでも発動することができた。
もっともそれは誰にでもできることではない。
オリジナルキャリアの中でも、特別に適性の高い人間にしかできないことだった。
「サディ・ストナッチがやってきてしまったみたいですね・・・・・」
カメイはSSの不完全な状態をサディ・ストナッチと呼んだ。
これまではサディ・ストナッチと化すことができるのはアベナツミだけだった。
マリはいくら訓練しても発動することはできなかった。適性が低いのだ。
カメイは常々テラダに対して言っていた。
「おそらく、この世でSSを完全に操ることができる人間は一人しかいないでしょうね」
カメイはそれが必然だと言った。SSの『使命』から考えれば、間違いなく一人だけだろうと。
八人の被験者のように、候補となる人間は多いが、最終的に使える人間は一人に違いない。
完全な適性者は、この地球に一人しかいない―――空に太陽が一つしかないように。
それがウイルスの研究に生涯の全てを捧げたカメイの結論だった。
声もなくディスプレイを見つめるテラダの前で、
オレンジの光は徐々に小さくなっていった。
やがて光は元のように小さな一つの光点に戻った。
- 296 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:31
- 「わかってたんや・・・・・施設で試験をしとったときから・・・・・・・
飛び抜けて適性が高いのがアベとゴトウということは・・・・・わかってたんや」
テラダは己の油断を悔いた。「適性者は一人」という予測が判断を誤らせた。
七人の血清を混ぜたとき、ウイルスDNAは爆発的な反応を見せて、
一時的に不完全なサディ・ストナッチを暴走させてしまった。
その事故のときにSSが選び、宿ったのは間違いなくアベの体だった。
ゆえにアベ以外に適性者がいないと思い込んでしまった。
だが今は違う。もう一人適性者の候補が現れたのだ。
しかもその一人はUFAのあの老人の手の内にある。
テラダが持っていた切り札の一つは意味をなさなくなった。
「おやおや。どうやらイイダさんは逃げおおせたようですね」
まだショックから立ち直れていないテラダとは違って、
カメイはいつものような暢気な表情でディスプレイの光点を見つめていた。
カメイはどんな極限状態に陥ってもあまり深刻な表情を見せない。
そういう意味ではテラダと共通する部分がある人間だった。
立ち直りが早いというよりは、受けた傷の深さを深刻に考えない人間だった。
- 297 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:31
- それにカメイの目的はテラダとは違う。
テラダはアベをSSにすること、SSにした後のことを考えていた。
SSを通じてこの世界を支配することを考えていた。
そればかりを考えているがために、全体の状況が見えにくくなっていた。
カメイは違う。誰がSSになっても構わなかった。
SSを通じて世界が支配できるなんてことは全く考えていなかった。
だからSSになるのがアベだろうがゴトウだろうがどちらでもいい。
あいつらに―――ECO moniのメンバーに邪魔されることなくSSを完成させること。
それがカメイの唯一の目的だった。
だからゴトウが適性者候補の一人であるという事実にも、さほどショックは受けなかった。
「これだけゴトウさんが拡散していながら、イイダさんを逃がしてしまうとは意外です。
もしかしたらゴトウさんは、まだSSを上手く操れないのかもしれませんね」
我に返ったテラダはもう一度地図を広範囲なものに戻す。
確かにそこには駐車場から全力で離脱していく「3」の光があった。
「8」の光は動かない。イイダを追おうともしない。
SSを操るのは容易なことではない。持って生まれた資質と、特別な訓練が必要だ。
もしかしたらカメイの言うように、ゴトウは完全にSSを操れていないのかもしれない。
- 298 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:31
- 「とにかくゴトウのやつを何とかせなイカンな」
「そうですね。イイダさんとゴトウさん。この二人を抑えないとダメですね」
「うーん・・・・・二面作戦でいくか・・・・・」
テラダは思案した。ゴトウに手を出すのは簡単なことではない。
公的には麻取の身分を持っているし、キャリアとしての能力も高い。
さらにUFAの下で特殊な軍事訓練も受けている。
そしていざとなったらSSと化すことができるのだ。
「こちらも切り札を使うときが来たのかもしれませんね」
カメイの言葉にテラダも同感だった。
出し惜しみしている場合ではない。こちらも最強の札を使うときが来た。
「アベを使うか」
「それしかないでしょう。自由に動かすのは、ちょっと怖いですけどね」
「下手をしたらこっちが殺られるかもしれへんからな」
「ウエヘヘヘヘヘ。それは―――笑えない冗談ですね」
テラダはカメイと話しながらも、横目でディスプレイを見つめていた。
「8」の光はまだ動かない。死んだように動かない。
だがゴトウが生きていることは間違いない。
対象者が死ねば、オレンジの光はブルーの光に変わるはずだった。
- 299 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:32
- 「しゃあないな・・・・ゴトウの方は、やり方も含めてアベに一任しよう。
こっちが指示したって―――大人しく従うようなヤツやないからな」
テラダは苦虫を噛み潰した。
「下手をしたらこっちが殺られる」というのは冗談でも何でもなかった。
まだ不完全とはいえ、サディ・ストナッチを発動したときのアベは無敵に近い。
いかなる武器をもってしてもその動きを制することはできない。
ただじっとSSが去るのを待つしかないのだ。
それにアベという人間も、極めて押さえつけにくい性格をしていた。
彼女は理屈で動くことはない。理屈を理解しようとすることもない。
彼女は本能のままに動くわけでもない。非常に人間臭い感情を持っていた。
かといって―――彼女は義理や人情や常識や理性に従って動くわけでもなかった。
テラダはいまだ―――彼女を自由に操る術を知らなかった。
それでもアベがテラダにとって最も重要な人間であることには変わりない。
アベの気まぐれ一つでこのプロジェクトが瓦解してしまうのだ。
本音を言えば鎖で地下室にでも縛り付けておきたいくらいだった。
- 300 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:32
- 「ではイイダさんの方は」
「いつものようにヤグチに動いてもらうしかないやろ」
「いっぱいいっぱいのところですね」
「まあ、それは別にええやろ」
アベに比べれば、ヤグチの方がずっと御しやすかった。
それはヤグチの性格の問題ではなく、テラダの心がけの問題だった。
テラダはヤグチに対しては常に負荷をかけ続ける手法を取った。
良い意味でも悪い意味でも、とにかく負荷をかけ続けた。
ヤグチは、テラダのプロジェクトにおいては、いくらでも替えの利く人間だった。
潰れてしまっても一向に構わない。
つまり、ヤグチに対しては、潰すまで使うことが最も効率の良い使い方なのだ。
ヤグチが負荷に負けてペシャンと潰れてしまう瞬間、その瞬間こそが、
ヤグチが己のポテンシャルを100%使い切った時だと言えるのだ。
テラダに対して最も貢献した時だと言えるのだ。テラダはそう信じて疑わなかった。
だからナカザワを殺すときにはヤグチを使った。
イイダを殺すときにもヤグチを使うことになるだろう。
そしてUFAに挨拶に行くのも勿論、ヤグチだ。
テラダは半ばワクワクするような浮ついた気持ちで、
ヤグチが潰れる日を待っているのかもしれない―――――。
- 301 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:32
- カメイはそんなテラダの心のうちは知らない。
そしてヤグチの心情を思いやるようなこともしない。
ヤグチが潰れる日がやってきても―――カメイの心にはいささかも波立つことはないだろう。
彼女は他者に何かを期待するということをあまりしなかった。
他者の力を頼まないという意味ではない。
むしろ他者が自分のために動くことを当たり前のこととして認識していた。
それは、カメイにとっては空気の存在のように当たり前すぎることだったので、
改めて認識することすらなかったのかもしれない。
いずれにせよ、今はアベとヤグチが動くより他にない。
テラダたちの組織は決して大きな組織ではなかった。使える人間もさほど多くない。
オリジナルキャリアに対抗できる力を持った人間となると、アベとヤグチの二人しかいない。
いや―――正確にはもう一人いた。
アベやヤグチに匹敵する戦闘能力を持った人間が一人いた。
「勝負所やな。手が足りんときにはお前にも働いてもらうで」
「ほえ?」
「お前にもキャリアの2、3人くらいは狩ってもらわなアカンようになるかもな」
「ウエヘヘヘヘ」
キャリアでもなんでもないその一人は、自信ありげに下品な笑い声を漏らした。
- 302 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:32
- ☆
- 303 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:32
- ヤグチが駐車場跡の廃墟に到着したときには、既にゴトウの姿はなかった。
そんなことは例のタトゥーの発信装置を見たときにわかっていたことだが、
なぜだか約束をすっぽかされた時のような、やるせない気分になった。
「ケッ。なーにが気をつけろだよ。誰もいねーじゃんかよ」
アジトを出るときには、くどいくらいテラダから注意を受けた。
要するに「SSには絶対勝てないからゴトウには手を出すな」ということらしい。
ゴトウと正面切って戦闘にならないように細心の注意を払えと指示された。
不愉快だった。自分が過小評価されていることが不愉快でならなかった。
「なにがサディ・ストナッチだよ・・・・・・」
独り言だったが、声が擦れた。ヤグチは喉にからんだ痰を吐き出す。
声は文字通りヤグチの生命線だった。これが潰れては何にもならない。
「アベがサディ・ストナッチならこっちはマリィ・ストナッチだっつーの」
それは単なる負け惜しみでしかなかった。
どれだけ訓練を受けても、ヤグチの体はSSを呼び起こすことができなかった。
テラダたち曰く「適性が低いから」ということらしい。
適性ってなんだ? ふざけんじゃねーよ。誰が決めたんだよそんなこと。
- 304 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:32
- ヤグチは自分が選ばれた人間ではないという事実を、断じて受け入れなかった。
選ばれる必要などないとすら思っていた。
大体「選ぶ」側の人間には、何かを選ぶ資格があるのか?
このヤグチマリ様のことを取捨選択できるほど偉い存在なのか?
くっだらねえ。あたしは選ばれる側の人間じゃない。あたしこそ選ぶ側の人間だ。
ヤグチはテラダに協力すると誓った。
だがそれはテラダに選ばれたからではない。
自分がやりたいと思ったから、自分でその選択肢を選んだのだ。
ヤグチはするすると小指ほどの小ささまで縮んだ。
この能力はヤグチだけが持っている能力だ。アベもゴトウも持っていない。
その他のキャリアも持っていない、ヤグチだけの特別な能力だった。
ヤグチは自分が特別な存在であることを疑っていなかった。
自分こそが「地球で唯一の何か」であるべきだと思っていた。
だからこそテラダに協力しようと思った。
適性があろうがなかろうが、そんなことは関係ない。
あのSSとやらをが完全になった暁には、その能力を全て我が物にしてやろうと考えていた。
- 305 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:32
- 「まあいいや。とにかくナカザワの次はイイダだ」
あたしが殺ってやんよ―――ヤグチは流れていく風に乗せて小声でつぶやいた。
テラダもカメイもアベも、結局のところは何もしてないじゃん。
理屈をこねまわしてあーだこーだ言っているだけじゃんか。
あたしは違う。実際にナカザワを殺った。この手を汚したんだよ。
そのあたしに向かって「適性がない」だって? 笑わせてくれるよまったく。
この世界のルールを書き換えるのはサディ・ストナッチじゃない。
このマリィ・ストナッチだ。あたしが新しい世界を作る。
ヤグチは七つ全てのウイルスを揃えるつもりだった。
テラダとカメイの二人は、それをアベに与えるつもりのようだが、そうはさせない。
ギリギリまで夢を見させてあげるとしよう。
だが最後に全てのウイルスを手に入れるのはあたしだ―――
ヤグチはウイルスのこともSSのことも何も知らない。
何のために存在していて、何のために、どう使うべきなのかも知らない。
自分の適性も知らない。
世の中の理屈もルールも何も知らない。
ただ自分の欲望と自尊心のままに、自由気侭に動くことだけを欲していた。
- 306 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:33
- ☆
- 307 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:33
- 「三人一緒に捜査しよう」とマキは言ったが、それを実行するのは容易ではなかった。
マキの方から本部長へと話を通してくれたのだが、
その時の本部長の答えは「通常業務をこなした上でやるなら構いません」だった。
つまりGAMを追いたいなら、いつものマキのように二人分働けということだ。
二人分働く。それは言葉で言うほど簡単なものではなかった。
それでもタカハシは上手く仕事を回しているようだった。
どうも知り合いの売人や麻取や、果ては刑事にまで自分の仕事を押し付けているようだ。
ニイガキにも刑事に知り合いはいたが、仕事を頼めるほど親しくはない。
結局、GAMの捜査に関しては、具体的に捜査に動くのはタカハシで、
集めた情報の整理をするのがニイガキという役割分担となった。
普段ならどうということも思わない役割分担だったが、
今回に限ってはニイガキは焦りを感じていた。
このままでは良いところは全部タカハシにさらわれてしまう。
マキに認められるのがタカハシの方になってしまう。
どうしてもそれは―――耐えがたかった。
- 308 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:33
- その日もタカハシは外に出ていた。
今日はマコとかいうGAMとつながりのある売人に会うらしい。
ニイガキとしても是非その売人と話してみたかったが、
山のように積まれた書類仕事から逃れることはできなかった。
タカハシは着実にGAMへと接近している。それなのに自分は何をしてるんだ?
同僚から上がってきた書類を、ワードやエクセルの雛形に打ち込んでいく。
別にニイガキではなくても、誰にでもできる仕事だった。
こうして今日も無為な一日が過ぎていく―――
タカハシが、そしてマキの姿が遠く離れていくような気がした。
自分はこうやって他人の仕事のサポートしかできないのだろうか?
自分自身から能動的に動く仕事はできないのだろうか?
その時、本部長が部屋に入ってきた。
携帯電話を右手に持ち、左手で手招きしてニイガキを呼んでいる。
手にしてるのは署から配布された公用の携帯電話ではないように見えた。
- 309 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:33
- ニイガキは本部長の方へと駆け寄った。
膝はもう完全に治っている。肩の骨折も癒えた。体調はまずまずだった。
「タカハシから増援要請だ。すぐに現場に向かってくれ」
「え? どうして私が?」
あの失敗以来、ニイガキはずっと内勤に回されていた。
それがいきなり出入りに回されるとは唐突すぎる気がする。
本部長はそれに答えず、黙って携帯電話をニイガキに渡した。
それはやはり本部長個人のプライベート用の携帯電話のようだった。
なぜタカハシはそんな番号を知っているのだろう?
なぜタカハシは本部長にそんな指示を送ることができるのだろう?
ほんの一瞬、きな臭いものを感じたニイガキだったが、
そんなもやもやとした思いをタカハシの無神経な声が打ち消した。
「ガキさーん、暇してるんやろ。今から大久保に向かって」
「はあ? 暇じゃねえよ! なんでまた急に」
「G関係や」
無意識のうちにニイガキの背筋が伸びる。
タカハシが素っ気なく口にした「G関係」とはGAMのことを差す符号だった。
- 310 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:33
- タカハシの方はもうそれ以上の説明は加えない。
G関係と言えばニイガキが無条件で従うと考えているようだった。
悔しいが反論はできない。
今のニイガキにはG関係の情報を無下に切り捨てることなどできなかった。
タカハシは、大久保にあるとある雑居ビルの名前を挙げた。
そこにいって「JJ」という女と会えという。
詳しいことは後でメールで知らせるということだった。
タカハシは「あたしも少し遅れてそこに行く」とだけ言って、一方的に話を打ち切った。
何がなんだか全くわからない。
もっと詳しいことをタカハシに問い質したいところだったが、
すぐ横では本部長が聞き耳を立てている。
仕方なくニイガキは不満一つ言うこともできず、タカハシに了承の返事を返した。
話を終えたニイガキは携帯を本部長に返した。
本部長はタカハシと一言二言話すと電話を切った。
二人の間でどういうやり取りがあったのかはわからないが、
とにかくニイガキはタカハシの応援に向かうという形で、外出が許可された。
防弾チョッキを着込み、ホルスターに2丁の拳銃を差し込む。
銃を持つのはマキの後について行ったあの時以来だった。
あれ以来、拳銃は一度も撃っていない。
それどころか外で捜査を行なうことすらしていなかった。
- 311 名前:【診断】 投稿日:2009/09/07(月) 23:33
- 自分はあの時よりも強くなっているだろうか?
あの失敗から何かを得ることができたのだろうか?
逆にあの時よりも弱くなっていないだろうか?
何かを失ってはいないだろうか?
それを決めるのは自分だ。ニイガキは自問に自答した。
自分の強さを評価するのはマキでもタカハシでも本部長でもない。
少なくともニイガキの人生においては、そしてニイガキの主観においては、
マキもタカハシも脇役でしかない。観客でしかない。
脚本を書けるのは自分しかいないのだ。
主役になれるのは自分しかいないのだ。
あたしは決してあたしの人生の観客になったりはしない―――
マキを相手にしても戦えるような強さを持たなければならない。
どんな困難があろうとも、自分はそういう人生を選択するのだ。
覚悟を決めたニイガキはドアのノブに手をかけた。
ニイガキは知らない。
そのドアの向こうに、マキをも超える強さを持った、絶対的な邪悪が存在することを。
観客席からずかずかと舞台によじ登って、ニイガキから、
ニイガキの人生の主役の座を強奪してしまうような、
悪魔のように厚顔で尊大な自意識を持つ人間が存在していることを。
この世界の全てに『干渉』してくるような極太の自我が存在することを。
ニイガキは―――まだ知らない。
- 312 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/07(月) 23:34
- ★
- 313 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/07(月) 23:34
- ★
- 314 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/07(月) 23:34
- ★
- 315 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:21
- タカハシは本部長との電話を終えると、満足そうに携帯を畳んだ。
本部長と「特別に懇意な関係」にあるタカハシにとって、
ニイガキ一人を動かす程度の要求を通すのは簡単なことだった。
今の本部長がタカハシにとって3人目の本部長ということになる。
自分の体を使って、全ての本部長と「懇意な関係」になったタカハシだったが、
特に今の本部長とは長い付き合いだ。そろそろ関係を清算する時期かもしれない。
GAMを乗っ取った後も、麻取の看板は必要かもしれないが、
本部長との深い男女関係は命取りになるかもしれない。
タカハシのGAM乗っ取り計画は着実に進行していた。
タカハシはまず、JJと連絡を取った。
マキとの戦いの場にいなかったJJとその友人であるLLは、
ともにGAM本隊からはぐれてしまっていた。
そういう事態になったときは「ほとぼりが冷めるまでは絶対に連絡を取り合うな」
というのがGAMのマニュアルなのだという。
これでJJからアヤを探る線は消えてしまったが、
GAMの分裂を目論むタカハシにとっては好都合とも言えた。
案の定、GAM組織内で浮いていたJJとLLは、
アヤやミキに対して、ほとんど忠誠心を抱いていなかった。
GAMから独立して新しい麻薬組織を立ち上げようというタカハシの提案に、
JJとLLは大喜びで乗っかかってきた。
あまりにもあっさりし過ぎて、タカハシの方が拍子抜けしたくらいだった。
- 316 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:21
- もっとも「ギャラはGAMの2倍で」というタカハシの提案は拒否された。
LLは歩合制を主張し、その点に関しては交渉の余地を示さなかった。
このLLという女は、表向きはJJと同じくらい子供のような無邪気さを
持っている女だったが、JJとは違ってかなりしっかりした面も持っていた。
とにかく今のタカハシには使える人間が必要だった。
LLは同国人のつてを頼れば、20人くらいはすぐに集められると言う。
今の関東をうろついている、怪しげな組織の構成員といえば、
もしかしたら日本人よりも中国・韓国系の人間の方が多いかもしれない。
その方面につてがあるLLは何としても手元に置いておきたかった。
そういうわけで、タカハシは渋々とLLの条件を飲んだ。
だがLLの条件はそれだけではなかった。
条件を示すというよりも、タカハシに対して指示を出すような態度だった。
「タカハシさーん。麻取からも何人か引っ張ってきてくださーい」
「あのなあ。そんな簡単にいくわけないやろ」
「私、20人連れてくる。タカハシさん、0人。これ釣り合わないネ」
「アホか。街のゴロツキと麻取を一緒にすんなよ」
「じゃ、一人でいいデス。麻取が一人増えれば、仕事もやり易くなりマス。
タカハシさんはゴロツキと言いますけど、ただのゴロツキじゃないでーす。
この街で市街戦をやれば、そんじょそこらの軍隊よりも強いですヨ。
ホントは麻取5人くらいとじゃないと釣り合わないメンツなんですけどネ」
LLは強気で交渉を押してくる。
黙って人の言うことをハイハイ聞いているような女ではないらしい。
タカハシも、手持ちのカードがない状態では彼女を説得できないと判断した。
- 317 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:21
- 「心当たりは一人おる。けど慎重にやらんと・・・・・・・」
「じゃ、その人、ここに連れてきてくだサイ」
「あのなあ、いきなり『麻薬密売やろうぜ』って言われてハイハイ言う麻取はおらんで」
「大丈夫、そこはLLが上手くやるネ」
LLはそう言って派手なウインクをして見せた。
どうにも気乗りのしないタカハシだったが、LLの説明を聞いて一応納得した。
LLの計画では、とりあえず囮捜査だと称してその麻取を組織内に潜入させるのだという。
そうやって形の上で組織の一員にしてしまって、組織の活動に組み込む。
そこから徐々に麻取を取り込んでいって完全に寝返らせる手法に関しては、
麻薬組織の中にそれなりのノウハウがあるのだという。
タカハシはその作戦の可否を思案した。
まあ、ガキさんは単純な性格やから上手くいくやろうな・・・・・・
そう思う一方で、ニイガキほど正義感の強い人間もいないとも感じていた。
そこに一抹の不安がある。しかもニイガキはそこそこ強情な性格でもある。
それにこの作戦は、上手く行けばいいが、失敗した時は取り返しがつかないのではないか?
「でもさあ、それでもし失敗したときはどうすんの?」
「オー。失敗したとき? それは成功したときよりも、もっと簡単」
「簡単?」
「ばれたら殺す。それでお終い。頭を使う必要は全然ないデース」
LLはそう言うと、JJと顔を突き合わせて、
腹がよじれそうなくらい豪快にゲラゲラゲラと爆笑した。
- 318 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:21
- ☆
- 319 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:21
- そんな話をしたのが一週間ほど前のことだった。
本当にLLは20人の兵隊を集めてきて、簡単な組織を作り上げた。
LLの手腕はなかなかのものだった。
仕事ができるという意味では、タカハシよりもLLの方がずっと上だった。
LLは自分でもそれを自覚していたが、
同時に自分が組織の頂点に立つタイプの人間ではないことも自覚していた。
彼女はどちらかというと、組織におけるナンバー2的な立場が似合う人間だった。
これは能力がどうとかいう問題ではない。あくまでも性格的、気質的な問題だ。
そして同様にJJも組織のトップに立つタイプの人間ではかった。
彼女は部下に指示を与えて動かすようなタイプではない。
それに重責を与えてしまうと、慎重になりすぎて彼女の良さが出ない。
あくまでもフリーな立場で好き勝手やる方が、力を発揮しやすいタイプだった。
そんなわけで日本に来てからは二人ともあちこちの組織を流れ続けていた。
常に自分達にとって都合のよいトップを探し続けていた。
- 320 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:22
- アヤは優秀な人間だった。
組織のトップに立つために生まれてきたような人間だった。
だがJJやLLにとってはあまり良いトップではなかった。
アヤは優秀すぎた。頭が良すぎるのだ。隙がなさすぎるのだ。
そして何よりも、何もかもを見通してるような目が気に入らなかった。
自由と暴力を愛する二人にとって、アヤが作り上げた一分の隙もない組織は、
息苦しかった。GAMは悪い組織ではなかったが、離脱することに迷いはなかった。
彼女たちにとっては、タカハシのような、そこそこ優秀でプライドや自意識が高く、
それでいて下に対する目配りが甘いような、そんなルーズな管理職の方が動きやすかった。
JJとLLはタカハシに対して一つの共通理解を持っていた。
「生かさず殺さず」
タカハシに対しては、そうやって接していけば、きっと新しい組織は上手くいく。
適度におだてておいて、美味しい部分は自分達がかっさらう。
きっとそういった居心地の良い組織が作れるはず―――二人はそう思っていた。
そしてこの組織がそうやって上手く回っていくかどうかは、
タカハシが連れてくるという、もう一人の麻取次第であるとも思っていた。
組織がようやく一つの形に固まりかけた時、
LLはタカハシに、その麻取を連れてくるように要請した。
その麻取―――ニイガキ・リサが今日ここにやってくることになっていた。
- 321 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:22
- ☆
- 322 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:22
- ニイガキは大久保へ向かう車の中で、タカハシからのメールを受信した。
これからニイガキが会うことになるJJという女は、GAMの残党の一人らしい。
マキから襲撃を受けて以来、GAMは見事にその姿を隠していた。
JJもGAMとの連絡が取れないまま身動きが取れなくなったため、
GAMとは別の新たな麻薬密売組織を立ち上げることになった。
どうやったのかは知らないが、タカハシは見事にその組織に食い込んでいた。
JJが麻薬の専門知識を持つ日本人を探しているという情報をつかみ、
そこにニイガキのことを押し込んだということだった。
「ガキさんが現役の麻取やということは向こうも知っとるから」
メールには素っ気無くそう書いてあった。
業務連絡メールの文章に情熱も冷静もないのだが、タカハシの文面はなぜかいつも、
どんなことが書いてあっても素っ気無く見えるのだった。
要するにニイガキの仕事は、その新しい麻取組織に潜入して、
地下に潜ってしまったGAMの動きを探れということらしい。
こちらの身分が麻取ということは向こうは気にしないだろう。
裏で麻薬組織とつながっている麻取など掃いて捨てるほどたくさんいる。
向こうはむしろ大喜びするかもしれないだろう。
現役の麻取とつながっていれば、貴重な情報が簡単に手に入るのだから。
- 323 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:22
- 「潜入捜査かあ・・・・・・・」
それはニイガキが最も苦手とする捜査だった。
特に身分を偽って行動する囮捜査が何よりも苦手だった。
自分ではあまり意識しないのだが、どうやら自分はかなり公務員臭が強いらしい。
麻薬密売人の振りをするというのがどうしても上手くできなかった。
だが向こうの麻薬組織の人間が、こちらが麻取であることを既に知っているなら、
演技することもかなり少なくて済むだろう。
それにこちらの最大の目的はGAMの動向なのだ。
極端な話、この新組織がどれだけ麻薬を動かそうが関係ない。
検挙しようと動く必要がないのであれば、ボロが出る可能性もグッと低くなる。
それならば―――なんとか上手くやれるかもしれない。
ニイガキは車を左に寄せ、ガードレールの手前で車を止めた。
もう大久保までは目と鼻の先だ。ここからは歩いて行った方がいいだろう。
「あれ?」
車から降りたニイガキは思わず時計を見た。午後4時。日が暮れるにはまだ早い。
それなのに、大久保の街には、夕焼けに包まれたような一面の赤が覆っていた。
「霧・・・・にしては赤い・・・・・・・」
街一面を真っ赤な霧が覆っていた。赤い霧。これはただの自然現象ではない。
何かに誘われるように、ニイガキは目的の雑居ビル目掛けて駆け出した。
- 324 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:22
- ☆
- 325 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:22
- 大久保は新宿の北側に位置している街だ。両者の物理的な距離はかなり近い。
徒歩でも楽に移動できるほどであり、まさに指呼の間といえる近さだった。
だが同じ歓楽街であっても新宿と大久保ではかなり様相が異なる。
街の空気感は勿論、道の広さや建物の大きさまで違って見えた。
同じく新宿の南側に隣接する代々木や、東側に隣接する四谷が、
新宿の町並みと同じ雰囲気を微かに残しているのとは対照的に、
大久保は大久保として独立した雰囲気を持った街だった。
といってもある一点を境にして急激に雰囲気が変わるわけでもない。
北へ行くに従って、朝が夜に変わるように、ゆるやかに空気が変わっていく。
気が付けばそこは新宿ではないどこかとなっている。
大久保の街に漂う腐臭に、新宿歌舞伎町のような華やかさはない。
新宿というアジア最大級の歓楽街が放つ毒々しい光も、
すぐ傍にあるこの街の一番深い場所には届かない。
そんな底の深そうな闇の中の古ぼけたビルの一角に、JJとLLは潜んでいた。
- 326 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:22
- JJとLLがGAMの本隊から外れてから半月ほどが経った。
本隊が壊滅的な打撃を受けた場合、分隊は決して本隊に合流してはならない。
それがアヤが決めたGAMのルールだった。
もし合流したところを叩かれたら、全てが終わってしまうからだ。
組織の全滅を避けることを第一に考えるアヤらしい判断だった。
そこでJJとLLは、GAMの商圏である新宿の背後に位置する大久保に移動した。
大久保は新宿から近くて遠い街だ。そして身を潜めるのに不自由する街でもない。
そこに身を落ち着け、さて、GAMの本隊が復活するまでどうしようか?
というところで、JJは麻取のタカハシから新組織を立ち上げないかと誘われた。
LLと相談したJJはすぐにその話に乗ることに決めた。
どうもタカハシはGAMそのものを乗っ取ろうとしているらしい。
だがJJとしては、そうなってもならなくてもどちらでも良かった。
とりあえずはタカハシのお手並み拝見という感じで新組織を立ち上げ、
それが上手くいけばそこを拠点にして動けばいい。
ダメになればGAMに戻ればいい。
将来的にタカハシがGAMと対立するとしても、
その時点で勝機が高そうな方の組織につけばいいのだ。
どっちに転んでも自分達は損をしない。
そう計算して、JJとLLはタカハシと共に新組織を立ち上げることにした。
- 327 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:23
- ホテルのシングルルームほどの狭い部屋の中でJJとLLは時が来るのを待っていた。
「ようやく形になってきたネ」
LLの言葉にJJは無言で頷き返す。
JJは細かいことは苦手なので組織の立ち上げの大部分はLLに任せていた。
事務的な仕事に関してはLLの方が向いている。
一方、20人の兵隊に「教育」を施すのはJJの仕事だった。
そういった荒くれ者をまとめる仕事に関してはJJの方が適任だった。
本拠地と決めた廃ビルには、集めた20人の兵隊が全員揃っていた。
全員揃うの今日が初めてかもしれない。
とりあえず麻取のニイガキがやってくるということで、全員集めた。
仕事を始める前に一度は全員で顔合わせをしておくべきだろう。
とにかく、お金を回していかないことには人間はついてこない。
人間が動かなければ組織は回らない。
今は一刻も早く、タカハシから麻薬を仕入れて動かしたいところだ。
その辺りの話はタカハシからニイガキに伝わっているはずだった。
まずはニイガキに麻取本部から麻薬を横流しさせる。
その行為自体が後々ニイガキに強請りをかける材料にもなる。
そうやって一つずつ既成事実を積み上げて、ニイガキを犯罪組織に溶け込ませる計画だった。
- 328 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:23
- LLは壁の向こうに不審な人の気配を感じた。
まだニイガキが来る時間にはかなり早い。
カーテンを薄く開けて、外の様子を窺い見る。その瞬間LLは瞠目した。
LLはマキのような特殊な受容器官を持っているわけではない。
ミキのように異常な嗅覚を持っているわけでもないし、
アヤのように生まれ持った特異な危機感知能力があるわけでもなかった。
だがそんな普通の人間であるLLにも、外の異常な事態は容易に察することができた。
「JJ、外の様子がおかしい」
LLはそう言ってカーテンを全開にした。
もはや、こそこそ隠れているような事態ではないという判断だった。
擦りガラスの向こう側は―――火事でも起こったかのように真っ赤に燃えていた。
暗殺者として磨き上げられたJJの鋭敏な神経は、場の異常さをすぐさま察知した。
窓ガラスに向けて続けざまに発砲すると、反転してドアから飛び出し、
廊下に出るや否やビルに響き渡るような大声で叫んだ。
「出入りだ! みんな出ろ! 撃って撃って撃ちまくれ!」
- 329 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:23
- ☆
- 330 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:23
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 331 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:23
- JJの拳銃が砕いた窓の向こう側には、真っ赤な霧が広がっていた。
赤い霧はゆらゆらと形を変えながら、ビルの中へ入ってくる。
それは百千の蛇の束のようにも見えたし、億万の百足の塊のようにも見えた。
その霧を目にして、LLの腹の奥からふつふつと湧き上がる感情があった。
気が付くと、窓のすぐ前にいたはずのLLの体は、部屋の奥まで後退していた。
足が前に進まなかった。勝手に体が後退を選んでいた。
湧き上がってくる感情、それは「恐怖」だった。
LLにとって恐怖とは見知らぬ感情ではない。
何度も味わってきたし、何度も克服してきた感情だった。
今もLLは必死に、目の前にやってくる恐怖をねじ伏せようとしていた。
だが今、目の前に迫ってくる恐怖は、圧倒的に「量」が違った。
斬っても斬っても止め処なく押し寄せてくる。
LLは虎だった。まさに見まごう事なき虎だった。
だが虎でしかなかった。たった一匹の虎でしかなかった。
地平線の彼方まで埋め尽くす蜘蛛の子の大群のような恐怖の波は、
LLという誇り高き猛虎を、片っ端から食い散らかそうと襲い掛かって来た。
「LL! 外に出ろ! このビルは守りには向いてない!」
JJの一言がLLにかけられていた恐怖の金縛りを解いた。
LLは言葉にならないうなり声を上げながら、ビルの外へと飛び出た。
- 332 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:23
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 333 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:23
- JJが言うように、その廃ビルは外からの襲撃に弱い構造をしていた。
20人の配下が雪崩をうって飛び出そうとしたが、
出口は一つしかなく、その通路もかなり狭かった。
それでもさすがに各々が修羅場をくぐり抜けてきているメンバーだった。
20人はJJから施された訓練通りに、四人一組の五班に分かれて散っていく。
手に手に拳銃を持ちながら、手際よく散会していく。
だがその行く手に―――赤い霧が立ちふさがった。
敵の姿は全く見えない。
だがその場にいた誰もが、襲い掛かって来る殺意の存在を疑わなかった。
何よりも、そこかしこに人の気配が濃厚に漂っているのだ。
まるで数百人の透明人間に囲まれて見つめられているような―――
そんな気味の悪さをじとじとと感じた。
JJは全員をビルから出した後、LLと分かれて、逆方向へと走り出す。
全滅してはならない。LLと共倒れになってはならない。
GAMに長く所属している間に、いつの間にか刷り込まれた行動様式だった。
赤い霧は、いつの間にか大久保の街全体を包むほどに広がっていた。
- 334 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:24
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくる よ
サディ・ストナッチがやってくる よ
サディ・ストナッチがやってくる よ
- 335 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:24
- 潰れた風俗店の看板に身を隠すJJの視界に、四人一組の一班が見えた。
彼らも、敵の姿が見えないことに大きく動揺しているようだった。
その四人が佇む中心点に、つむじ風のような赤い霧が舞った。
四人は一瞬、何か信じられないようなものを見たかのように、
目をカッと見開いた。そしてバタバタと倒れていった。
彼らが二度と起き上がることはないだろうということは、
その倒れ方を見ていれば明らかだった。
JJは喉元まで上りあがってきた悲鳴を、かろうじて飲み込む。
こんな時、コンノだったら「毒ガス? 超音波兵器?」などと考察したかもしれない。
あるいはミキだったら理屈抜きで赤い霧に向かって撃ちまくっていたかもしれない。
そしてアヤだったら―――本能でそれが何か理解できたかもしれない。
だがJJには何もできなかった。
ただじっと目の前で起こっている事態を甘受するしかできなかった。
冷たい汗が頬を流れていき、首筋へと伝う。
- 336 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:24
- サディ・ストナ ッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやっ てくるよ
サ ディ・スト ナッチが やってく るよ
サ ディ・ストナッ チがやっ てくる よ
- 337 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:24
- 背後に鋭い殺気を感じたJJはバッと振り返る。
そこには誰もいなかった。
今度は左右で鋭い殺気を感じた。あわててJJは首を振って左右を確認する。
だがそこにも誰もいなかった。
あり得ない。そんなバカな。
暗殺現場という極限状態で生きてきたJJにとって、
人の気配を察するということは必要不可欠なスキルだった。
周囲に張り巡らされた殺気は、どう考えても本物だとしか思えない。
だがそこに人の姿はなかった。影も形もなかった。
さらに頭上に圧倒的な殺気を感じた。
もうJJは頭上を仰ぎ見ることはしなかった。
JJは全力で走り出す。瞬間的な速さなら誰にも負けない自信があった。
だがJJを見つめる殺気は一向に薄れない。
それはもはや背後や頭上に感じるといったレベルではなく、
JJの肌にべったりと張り付いて離れなかった。
- 338 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:24
-
サディ・
スト
ナッチ
が
やっ
てくる
よ
- 339 名前:【診断】 投稿日:2009/09/10(木) 23:24
- JJはそのとき初めて恐怖を感じた。
殺しを生業とするJJにとって、殺気とは言葉よりもはるかに雄弁な
コミュニケーションツールだった。
何にも増してその人間の内面を強く語る、極めて現実的な感情だった。
その殺気が今、はっきりとした形となって自分の体に張り付いている。
信じられなかった。こんなに近くに殺気を感じたことはない。
手が届く範囲に殺気を感じる―――それはまさに「死」を感じることに等しい。
だがペタリと肌に吸い付いた殺気は、JJから1ミリも離れなかった。全身を包んでいた。
その状況は、もはやJJにとっては「死」とほぼ同義だった。
恐ろしいまでの現実感を伴って、JJの内部に「死」が介入してきた。
JJの心の中に、ひたひたと殺意が『干渉』してきた。
立ち止まったJJは絶叫しながら肌を掻き毟った。
頬や首筋から血が吹き出たが、その真っ赤な血も殺気を流し去ってはくれなかった。
千切れた髪の毛が爪にからまる。それでもJJはただひたすら叫び続けた。
何も起こらないとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。
赤い霧が―――そんなJJを無言で包んでいた。
- 340 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/10(木) 23:24
- ★
- 341 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/10(木) 23:24
- ★
- 342 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/10(木) 23:25
- ★
- 343 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:19
- LLの目前でも四人一組の一班がバタバタと崩れ落ちていった。
赤い霧はその瞬間、大蛇のようなうねりを形作り、男達に巻きついていた。
同じような赤い霧はLLの周りにも充満している。
背中の産毛がぞわぞわと逆立った。
あの霧が襲い掛かってきたら―――逃れることはできない。
LLは大久保の街から一旦退避することを選んだ。
踵を返して街の東側へと向かう。あとワンブロック駆け抜ければ、広い通りに出る。
そこまで行けばこの霧を振り切れるような気がした。
途中で短い銃声を何度か聞いた。それよりも遥かに大きな絶叫を何度か聞いた。
相手は銃が通じる相手ではない。何か、何かもっと別の種類の武器が必要だ。
火炎放射器? 濃硫酸?
あるいは街一つを吹き飛ばすような―――爆撃?
- 344 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:19
- LLは狭い中通りを抜ける。
その数十メートル先には、道幅の広い幹線道路が広がっていた。
赤い霧も丁度そこで途切れていた。
道路の向こう側には暗く澱んだいつもと同じ街並みが見えた。
あと一息―――だがその目前でLLの足が止まる。
その行く手に、突如として赤い霧が壁のように立ちふさがった。
濃く薄く、1秒ごとに密度を変えていく赤い霧は、
LLの視界に存在するあらゆる光を、万華鏡のようにキラキラと屈折させた。
オーロラのような赤いカーテンの向こう側から一人の少女が現れた。
霧よりも濃く深い、真っ赤なドレスに身を包んだ少女は、
まあるい頬の上に太陽のような微笑みを浮かべて、LLに言った。
「前門の虎、後門の狼・・・ってことわざ―――こういう時には使わないのかな?」
- 345 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:19
- ★
- 346 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:19
- 絶叫を続けるJJの耳にバタバタと人が走る足音が聞こえた。
足音は突然止まり、続いてうめくような絶叫が響いた。
我に戻ったJJは、声が聞こえた方に振り返る。
四人の男がアスファルトの上をのた打ち回っていた。
その体の回りには赤い霧が炎のような形になってまとわりついている。
男達が絶命すると、赤い炎はゆっくりと霧へと形を変え、JJの方に流れてきた。
あの霧が襲い掛かってきたら―――逃れることはできない。
JJ大久保の街から一旦退避することを選んだ。
踵を返して街の西側へと向かう。あとワンブロック駆け抜ければ、広い通りに出る。
そこまで行けばこの霧を振り切れるような気がした。
- 347 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:19
- JJは狭い中通りを抜ける。
その数十メートル先には、道幅の広い幹線道路が広がっていた。
赤い霧も丁度そこで途切れていた。
道路の向こう側には暗く澱んだいつもと同じ街並みが見えた。
あと一息―――だがその目前でJJの足が止まる。
その行く手に、突如として赤い霧が壁のように立ちふさがった。
濃く薄く、1秒ごとに密度を変えていく赤い霧は、
ナイアガラの滝のように轟々と天から降り落ちていた。
ハリケーンのような赤い土砂降りの向こう側から一人の少女が現れた。
霧よりも濃く深い、真っ赤なドレスに身を包んだ少女は、
まあるい頬の上に太陽のような微笑みを浮かべて、JJに言った。
「前門の虎、後門の狼・・・ってことわざ―――こういうときには使わないのかな?」
- 348 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:19
- ★
- 349 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:20
- 「ダ レ ダ オ マ エ ?」
LLはこの赤い霧を生み出したのがこの小柄な少女であることを悟った。
信じて疑わなかった。この少女は只者ではない。
背丈はLLと同じくらいだったが、その体が発する存在感は圧倒的だった。
少女はLLの疑問には答えない。ただじっとLLのことを見つめていた。
LLが恐怖に足をすくめていることを見透かしているようだった。
恐怖と疑問の渦の中でもがいているLLを笑顔で見つめていた。
LLの窮地を、心から楽しんでいるようだった。
「20人も集めてたんだね。でも全員死んじゃったよ。あはははは。どうもご苦労さま」
LLは動けなかった。
鋼のように鍛え上げられたLLの体躯は、全身全霊をかけて少女の動きを探っていたが、
どのように動いても、返り討ちにあうイメージしか湧かなかった。
隙がないというわけではない。むしろ隙だらけだった。
隙を見せて誘っているのでもない。遊んでいるのだ。本気で戦う気がないのだ。
LLには少女の力量の底が見えなかった。
- 350 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:20
- 「ナッチはね。使えない人間はいらないの。たとえ20人だろうが100人だろうが、
いらない人間はいらない。欲しいのはナッチの役に立つ人間だけ。使える人間だけ。
LLはどうかな? ナッチにはLLが虎に見えるんだけどね。ホントにそうなのかな?
5分間だけチャンスをあげるよ。自分が虎だって証明してみな―――命を賭けてね」
赤い少女は自分のことを「ナッチ」と呼んだ。
少女は赤いロングスカートの裾をたくし上げると、
太腿に仕込んだ30センチほどの長さのナイフを抜いた。
花を摘むように軽くナイフを持ち上げ、切っ先をLLに向ける。
戦うのか。この女とアタシは戦うのか。
LLは慄然としてナッチのナイフを見つめた。
相変わらず構えは隙だらけ。顔には笑み。声には嘲り。
ナッチは遊んでいる。LLは遊ばれている。この女はわかっているのだろうか?
LLがどれほどの力量を備えているのか、分かっていて遊んでいるのだろうか?
「きな」
ナッチの言葉がLLを恐怖の呪縛から解いた。
赤いドレスの中に己の死に場所を見出したLLは―――
心を空にし、一匹の猛る虎と化してアスファルトを蹴った。
- 351 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:20
- ★
- 352 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:20
- 「ダ レ ダ オ マ エ ?」
JJはこの赤い霧を生み出したのがこの小柄な少女であることを悟った。
信じて疑わなかった。この少女は只者ではない。
背丈はJJよりもかなり低かったが、その体が発する存在感は圧倒的だった。
少女はJJの疑問には答えない。ただじっとJJのことを見つめていた。
JJが恐怖に足をすくめていることを見透かしているようだった。
恐怖と疑問の渦の中でもがいているJJを笑顔で見つめていた。
JJの窮地を、心から楽しんでいるようだった。
「20人も集めてたんだね。でも全員死んじゃったよ。あはははは。どうもご苦労さま」
JJは動けなかった。
命のやり取りを日常とするJJの神経は、全身全霊をかけて少女の動きを探っていたが、
どのように動いても、返り討ちにあうイメージしか湧かなかった。
隙がないというわけではない。むしろ隙だらけだった。
隙を見せて誘っているのでもない。遊んでいるのだ。本気で戦う気がないのだ。
JJには少女の力量の底が見えなかった。
- 353 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:20
- 「ナッチはね。使えない人間はいらないの。たとえ20人だろうが100人だろうが、
いらない人間はいらない。欲しいのはナッチの役に立つ人間だけ。使える人間だけ。
JJはどうかな? ナッチにはJJが狼に見えるんだけどね。ホントにそうなのかな?
5分間だけチャンスをあげるよ。自分が狼だって証明してみな―――命を賭けてね」
赤い少女は自分のことを「ナッチ」と呼んだ。
少女は赤いロングスカートの裾をたくし上げると、
太腿に仕込んだ30センチほどの長さのナイフを抜いた。
花を摘むように軽くナイフを持ち上げ、切っ先をJJに向ける
戦うのか。この女とアタシは戦うのか。
JJは慄然としてナッチのナイフを見つめた。
相変わらず構えは隙だらけ。顔には笑み。声には嘲り。
ナッチは遊んでいる。JJは遊ばれている。この女はわかっているのだろうか?
JJがどれほどの力量を備えているのか、分かっていて遊んでいるのだろうか?
「きな」
ナッチの言葉がJJを死の恐怖から解き放った。
赤いドレスの中に最後の活路を見出したJJは―――
心を殺意で満たし、一匹の飢えた狼と化してアスファルトを蹴った。
- 354 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:20
- ★
- 355 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:20
- LLは最初の一撃に渾身の力を込めた。二撃目のことなど考えない。
体勢が大きく崩れるのも厭わない、まさに捨て身の一撃だった。
たとえ相手がナイフで迎撃してきても、それをかわすつもりはなかった。
刺すなら刺せ。この命ならくれてやる―――
防御のことなど一切考えなかった。
まともに戦えば100%負ける。確実な死がそこに待っている。
己の右拳でこの女の脳髄を吹き飛ばす。それだけを考えた体の動きだった。
ナッチも最初からLLを攻撃することは考えていなかった。
もし少しでも攻撃体勢を築いていたなら、LLの一撃はかわせなかったかもしれない。
だがナッチは時間いっぱいまでLLと遊ぶつもりだった。
最初は好きなようにLLに攻めさせるつもりだった。
その判断がLLの最強の一撃をかわす一助となったのかもしれない。
LLの拳がナッチのうなじをかすめる。
拳を振り切ったLLの体がナッチの体とからまる。だがナッチは瞬き一つしない。
大きく体勢を崩したLLの頚動脈を、ピタピタとナイフで叩いた。
「惜っしーい」
- 356 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:21
- ナッチのからかいの声はLLの耳には入らない。
首筋をなでる冷たいナイフの感触すら意識の向こう側に捨て置いた。
LLは崩れた粘土細工のようにぐにゃりと腰をひねった。
一旦、体勢を整えなおすことなど微塵も考えていない動きだった。
乱れた体勢を、さらに激しく乱すような強引で豪快な切り返しの一撃だった。
全ての攻撃が、後のことなど一切考えない捨て身の攻撃だった。
効率を無視したLLの拳は、効率を超えた弾幕となってナッチに襲い掛かる。
ナッチはそんなLLの渾身の連撃を前にしても一歩も退かない。
退くこともなく、踏み込むこともなく、二つの足を地に付けたままLLの拳をやり過ごす。
ナッチとLLは、まるで上半身の可動領域の広さを競うかのように、
強引で不自然な体幹のうねりを繰り返した。
だが二つの竜巻が至近距離を保っていたのは、そう長い時間ではなかった。
一際大きな反動をつけて繰り出されたLLの正拳がナッチの可動領域を僅かに超えた。
かろうじてふわりとバックステップしたナッチの体は、
LLの一撃の風圧に乗ったかのように軽々と宙を舞った。
「なるほど。LLは虎だね」
それでもなお余裕を見せるナッチが着地するよりも速く、
LLは既に次の攻撃体勢を整えていた。
- 357 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:21
- ★
- 358 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:21
- JJは懐からナイフを取り出した。
この至近距離での一対一に拳銃は向かない。
拳銃には「抜く」「構える」「狙う」「撃つ」の4アクションが必要だ。
だが相手は荒野のガンマンではない。その間にいくらでも逃げることができる。
どれだけ拳銃に慣れ親しんだプロであっても、狙うことなく発砲して、
相手の急所を撃ちぬくというのは至難の業だ。
それに元々JJは拳銃よりもナイフを使う方が好きだった。
拳銃はどこまで使いこなしても、所詮は機械という感じがしてしまう。
肌にしっくりとこない感じがあった。
だがナイフは違う。
使えば使うほど、自分の手足の一部のように感じられるようになるのだ。
まるで指先からグリップを伝ってナイフの刃先に血管が通っているような感覚があった。
そんな使い込んだ自分だけのナイフを使って相手を殺すときは、
自分の人生の全てを使って相手の人生を終わらせたのだという達成感を得ることができた。
JJのナイフはナッチが持っているナイフよりもかなり短い。だが肉厚だった。
このナイフを使うようになってから何年が経っただろうか。
何人の人間の命を断ってきただろうか。
JJはナイフと会話をし、ナイフの脈動を感じ、ナイフと共に生きる。
JJはまさに生まれながらの暗殺者だった。
- 359 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:21
- ナイフを抜くと、JJの精神はかなり安定を取り戻した。
ナッチの動きに慎重に対応する。JJは動かない。自分からは動かない。
天性のナイフ使いであるJJは、ナイフを持った人間が、
隙を見せずに動くことはできないということを、よく知っていた。
相手が先に動き出すまで、一歩も動くつもりはなかった。
JJは待つことなど苦痛ではなかった。暗殺という仕事の9割は「待つこと」だ。
ナイフさえ右手に持っていれば、一日でも二日でも待つことができた。
だがナッチは待つことが嫌いなようだ。
万全の体勢で構えているJJに向かって正面から斬り込んで来た。
ナッチの長いナイフを、JJは肉厚のナイフで受け止める。
刃と刃が重なった時の衝撃から、練達の暗殺者であるJJはいくつもの情報をつかんだ。
刃の硬さは互角。純粋なパワーはこちらが上。速さはあちらが上。
総合的な技術は―――こちらが上!
ナッチは赤いスカートをひらひらと舞わせて、上から下からJJを切り刻みにかかる。
相変わらず強い殺気はJJの肌にまとわりついていたが、
もう先ほどまでのような精神的な混乱状態からは脱していた。
確かにこのナッチとかいう女は強い。弱くはない。
それどころか、並外れて強いと言ってもいいかもしれない。
だがJJやLLよりも明らかに強いというようにも見えなかった。
ナイフと一体になっているという点に関しては、JJの方が明らかに上だった。
- 360 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:21
- ★
- 361 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:21
- ナッチが宙に舞った瞬間、LLは勝機が訪れたと感じた。
どんな化け物であったとしても、空中で体勢を変えることはできない。
この地球上に存在する全ての人間は、重力という絶対的な定理に逆らうことはできない。
飛んだ人間は、ただ重力に従って着地することしかできないのだ。
そして地面に着地した瞬間、人間の体幹は着地の反作用を受けて、必ず無防備な状態になる。
LLはナッチが飛び道具を抜く素振りを見せないことを確認すると、
「フン」と一つ大きく呼吸して力を溜めた。
LLの体の動きが完全に止まる。
ナッチは待っていたかのように、その一瞬の隙を逃さなかった。
「ペッ」とLLの両瞳を目掛けて唾を飛ばす。
力を溜めていたLLはそれをよけることはできなかった。
だが、たかが唾だ。よけるまでもない。唾程度で体の動きを止められるわけがない。
LLはほんの一瞬、視界を失ってしまったことにも動揺を見せず、
ナッチが着地するであろう地点へと強く踏み込む。
一時的に視界が塞がれても、ほんの数秒前に確認したその地点を見誤ることはなかった。
- 362 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:21
- LLは全体重を乗せて掌底を放った。
持ちうる全てのエネルギーを乗せた一撃がナッチの腹部を捕らえた―――はずだった。
だがLLの掌底は、力が爆発するはずだった地点をするりとすり抜けて、
そこよりも1メートル先の電柱を粉々に砕いた。
次の瞬間、LLは肩に強い衝撃を受けて地面に倒れこんだ。
倒れこんだと思ったが―――倒れていなかった。
そこは地面ではなかった。地面ではない? ではなんだ? これはなんだ?
LLはいきなり頭上目掛けて釣り上げられた気がした。
急上昇しながら、目をこすって唾を拭う。次の瞬間、LLは強く頭を打った。
天井?と思って瞳を凝らして見てみると、それは壁だった。
あわてて立ち上がろうとするが、立てない。前に進もうと思っても、進めない。
壁にぶつかった。なぜここに壁が?と思って見たら、それは地面だった。
LLは我が目を疑った。
世界が歪んでいた。世界が回っていた。世界が踊っていた。
上が左に。左が下に。下が右に。右が上に。
LLの視界の中で―――上下と左右が激しく入れ替わっていた。
- 363 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:21
- ★
- 364 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:22
- やはりナイフの扱いはJJの方が上だった。
JJは幾分かの余裕を持ってナッチの刃を受け流す。
先ほどまで感じていた得体の知れない恐怖感は何だったのだろう?
あの赤い霧は何だっただろう?
とくかく今は一刻も早くこの戦いを終わらせることだ。
あの奇妙な赤い霧の力を使わせないことだ。
JJは僅かに保っていた優勢をかなぐり捨てて、ナイフの回転率を上げた。
自らの安全地帯を投げ打って、相手の安全地帯に踏み込んでいく。
攻勢に回っていたナッチの刃が守勢に回ることが多くなった。
JJが一つ切りかかる度に、ナッチの安全地帯が数センチ切り離されていく。
手応えを感じたJJはさらに回転を上げた。「溜め」を作らずに猛攻を仕掛ける。
極限の無酸素運動の連続に、JJの二の腕の筋肉が悲鳴を上げた。
息を吸うことを忘れた肺が、一滴の酸素を求めて体の中で跳ね回った。
だがJJは休まない。息をつかない。攻撃を止めない。
己の肉体を内側から燃やしながら、阿修羅のような形相でナッチの退路を削っていく。
一歩。また一歩。着実にJJはナッチを追い込む。
そしてついにJJのナイフがナッチの首筋を捉え―――鮮血が滴り落ちた。
- 365 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:22
- 「浅い」
それがJJが感じた手応えだった。致命傷を与えるには至らなかったか。
だが同時に「勝てる」とも思っていた。
ナッチのナイフの技量は完全に見切った。攻撃パターンも体の動きも含めて全て。
喉を切られたナッチの表情が苦悶に歪むのが見えた。
そうそう。それでいい。みんなそうやって死んでいくんだ―――
だがナッチの表情が歪んだのは、JJが考えていたような理由からではなかった。
「あーあ、やっちゃった・・・・・・・」
ナッチはそうつぶやくとJJから少し距離を取った。
ここで逃がすわけにはいかない。JJはナイフで牽制しながらナッチの退路を断つ。
「あーあ、とうとう斬られちゃったかあ。ていうかJJって意外と強いねえ。
もうちょっと軽く遊べる相手だと思っていたんだけどなあ・・・・・・」
JJにはナッチの言っていることの意味が理解できなかった。
時間稼ぎのつもりなのだろうか? あの赤い霧のことも気になる。
JJはすぐにでも止めを刺そうと間合いを詰める。
ナッチはそんなJJの動きには全く無頓着であり、首筋を左手で押さえ、
血で真っ赤に染まった左手の掌をじっと見ていた。
そしておもむろに―――その血を右手に持ったナイフの刃に塗りこんだ。
- 366 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:22
- ★
- 367 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:22
- 平衡感覚を失ったLLは地面に這い蹲りながらバタバタともがいた。
LLの真下にあるはずの地面は―――今のLLにとっては「左」だった。
だがLLはそのことが理解できない。脳が現実を受け入れない。
重力と決して一致することのない体の動きに、ただ戸惑うばかりだった。
陸に釣り上げられた魚のように、LLの体は無力で無防備だった。
じゃりじゃりじゃりとLLの頬がアスファルトをこする。
激しい痛みとともに鮮血が頬に滲んだが、それでもLLは地面から離れられなかった。
そのLLの顔を―――ナッチが思いっ切り踏みつけた。
硬いローヒールがLLの顎骨を木っ端微塵に砕く。
下顎がまだ顔についているのが信じられないくらいの苛烈な一撃だった。
ナッチはさらに、LLの歯が折れていく感触を楽しむかのように、ヒールを左右に動かした。
「アア、ガガガガグゥゥ!」
LLの口から、腐肉に湧く蛆虫のように、白い塊がぽろぽろとこぼれた。
歯だった。その歯を追いかけるように、LLの口からは大量の血が流れ出てきて、
ボロボロに砕けた歯を押し流していった。
- 368 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:22
- ★
- 369 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:22
- ナッチはなおもタバコの吸殻を消すように、LLの顔を執拗に踏みつけ続ける。
口内に溢れた歯が、LLの頬の内側に無数の傷をつけた。
ナッチは折れた顎の骨も同じように丁寧に踏みつけた。
踏むというよりも、擂り鉢でゴマを擦るような粘質な足の動きだった。
LLの目にはもはや戦意は残っていなかった。
彼女の脳髄は、目前に展開される現実の全てを拒絶した。
受け入れ、対応し、そして能動的に行動するという機能が、もはや脳に残っていなかった。
LLの目には、慈悲を乞うような弱々しい光が残っているだけだった。
ナッチはその目に向かってもう一度ペッと唾を吐き捨てた。
白濁した唾がLLの顔をべっとりと濡らす。目に浸み込む。口内の傷口に浸み込む。
何かがゆっくりとLLの精神に『干渉』していった。
「グガアアアアアアアアアアアアアアアア!」
LLは心臓を吐き出すような絶叫を上げた。
さらにLLの肉体に、細胞に、精神に、何かが介入していく。
弱りきったLLの精神はそれを察知する前にゆっくりと崩れ落ちた。
痛みから解放され、LLが気絶する直前、ナッチの残念そうな声がかすかに聞こえた。
「あーあ、思わず本気出しちゃった。ていうかLLって意外と強いねえ。
もうちょっと軽く遊べる相手だと思っていたんだけどなあ・・・・・・」
- 370 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:23
- ★
- 371 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:23
- ぞくり
JJの足が止まった。視線の動きも固定された。
ゆらりと構えを変えたナッチのナイフから、一秒たりとも目を離せない。
血を塗りこんだナッチのナイフは真っ赤に輝いていた。
それはただの血の赤さではなく―――まるで刃そのものが燃えているかのようだった。
ナッチはキャリアだった。
体液の全てが異常化しているキャリアだった。
血も、汗も、唾も、尿も、痰や膿をも含む、全ての分泌物が異常に発達していた。
マキの表皮にある全ての感覚受容体がマキ自身の自我であるように、
ナッチの体に流れる全ての体液の一滴までもがナッチ自身の自我だった。
ナッチの首筋を流れる赤い血流は、鎖骨を濡らしながら、胸の谷間へと滑り落ちていく。
その全てがナッチだった。ナッチ自身だった。
ナイフに塗り込められた赤い血の全てが生きたナッチ自身だった。
その全てが流れ落ちたとしても―――ナッチは死なない。
ナッチの体内では通常では考えられないほどの異常速度で血液細胞が再生されていた。
脳が砕かれても、心臓が破られても、ナッチは死なない。
ナッチは無数のナッチの集合体だった。無数の命を持つ集合体だった。
「こうなったからには、もうこれ以上は遊べない」
強烈な自我が宿ったナッチのナイフが、まるで生き物のようにJJに襲い掛かった。
- 372 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:23
- ナッチのナイフテクニックが急に上昇したわけではない。
だが、ナッチの血を浴びて自我と意識を持ったナイフは、
ナイフ自身の意思をもってJJに襲い掛かった。
かわしきれない。まるで二人を同時に相手にしているようだった。
JJの目には高速で踊る真っ赤なナイフが二本にも三本にも見えた。
この攻撃は、手が二本しかない人間には物理的にかわしきれないように見えた。
防御を諦めたJJは、ナッチの体にナイフを突き立てた。
「ぬるり」という人体を切りつけたとき独特の感触がナイフを介して伝わった。
そうだ。いくら化け物みたいに強いとはいえ、この女も人間なのだ。
刺せば肉を穿つし、斬れば筋を断つ。恐れるな。攻めろ。戦え。殺せ。
JJは己を鼓舞しながら半狂乱の体でナイフを振るい続けた。
JJのナイフはナッチの分厚い脂肪を切り刻んでいく。
その度に真っ赤なナッチの血が噴き出した。
それでもナッチの攻撃は止まらない。
むしろ激しさを増していき―――ついにJJの肉をざっくりと捉えた。
「グガアアアアアアアアアアアアアアアア!」
JJは心臓を吐き出すような絶叫を上げた。
- 373 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:23
- 「アアアアアアアアアアアアアアアアゥゥ!」
絶叫が止まらない。
ナイフで斬られた経験など何度でもある。
それに今斬られたのは、二の腕の脂肪であり、傷はかなり浅いはずだった。
ゆえにJJは己の経験上、これくらいの傷は何でもないと判断し、
防御せずにあえてそこを斬らせておいて、次の攻撃に移るつもりだった。
「アアアッアッアッアッアイヤァァァァアァァ!」
だがナッチの血が宿った赤刃がもたらした痛みは、尋常なものではなかった。
そしてそうやって叫んでいる間も、痛みはどんどんと強くなっていく。
際限なく増していく痛みに、JJは生理的な恐怖を覚えた。
まるで生きたまま裂かれた腹に、寄生虫の卵を植えつけられたような気がした。
「アッ!ァッ・!ァァ・・・!・・!・・・・!!・・!・・!・・!・・!」
JJの悲鳴は、もはや人が発声できる音階を大きく超え、声にならなかった。
卵から孵った「激痛」という名の寄生虫は、
JJの血肉を食らって恐るべき速さで成長していった。
寄生虫は次の卵を産み、孵化した虫がさらに次の卵を産む。
JJのはらわたに巣食う恐怖と激痛は、等比級数的に膨れ上がっていった。
だが真の恐怖とは―――「痛み」ではなかった。
刃を通じてJJの体内に入り込んできたナッチの血が―――『干渉』してきた。
- 374 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:23
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 375 名前:【診断】 投稿日:2009/09/14(月) 23:24
- 歌声のようなものが聞こえてきた。
それは外部からではなく、JJの体の内部から聞こえてきた。
悶絶したJJには、もはやその歌声は届いていないかもしれない。
だがそれでも歌声はJJの内部で、鳴り止むことなくとつとつと続く。
どくどくどく。どくどくどく。どくどくどく。
JJの中の血の流れに、外部からナッチの血が入り込んできた。
本来ならそれらを排除せんと動くはずの、JJの免疫機能は一切作用しなかった。
白血球も、マクロファージも、キラー細胞も、樹状細胞も、
免疫担当細胞と呼ばれる細胞は、何一つ活性化されなかった。
ナッチの血は我が物顔でJJの体内を闊歩し、JJの体内組織に激しく干渉した。
やがてJJの血はナッチの血と濃く強く混ざり合い、
ナッチの血液細胞のDNAがJJの血液細胞のDNAとからまる。
そして何事もなかったかのように、JJの細胞は以前のような体内活動を再開した。
どくどくどく。どくどくどく。どくどくどく。
JJの体内を血液が流れる。体中を循環していく。
酸素を運び、栄養分を運び、老廃物を運び―――
JJの体内を血液が流れる。体中を循環していく。
だがもはや、JJの血は以前のJJの血ではなかった―――
- 376 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/14(月) 23:24
- ★
- 377 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/14(月) 23:24
- ★
- 378 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/14(月) 23:25
- ★
- 379 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:41
- ニイガキが約束の場所に着こうとした時、赤い霧が街から消え去っていった。
一瞬にして大久保の街は以前のようなうらぶれた雰囲気を取り戻す。
まるで先ほどまでの濃霧が夢であったかのような、急激な消え方だった。
JJが待つというその場所に到着するまでに、ニイガキは何度か銃声を聞いた。
この街も新宿同様に荒れているのだろうか。
もっとも今の関東では、銃声のしない、荒れていない街を探す方が難しかった。
車を降りてから、誰に会うこともなくニイガキは約束の場所にたどり着いた。
到着したはいいが、約束の時間までまだあと20分ほどある。
念の為にこの付近の地理を頭に叩き込んでおくべきだろうか―――
そう思って狭い路地に顔を向けると、その先には死神のような顔をした女が立っていた。
「オマエが・・・・・ニイガキか?」
死神のような、というのは正確な表現ではないかもしれない。
女は死神というよりも、死体のような顔をしていた。
顔面が蒼白だ。顔色というものが全くない。
人間というものはここまで血の気のない顔をすることができるのだろうか。
麻取として何度も死体を見てきたニイガキも、思わず後ずさりするほどだった。
- 380 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:42
- 「JJダ」
女はそう言ってポケットから携帯を取り出し、ディスプレイをニイガキに見せた。
そこにはタカハシから受信したメールの文面が映っていた。
確かにこの女が、タカハシの言っていたJJという女のようだ。
JJは女にしては背が高く、肩幅も広いガッチリとした体型をしていた。
見るからに戦闘要員という雰囲気を醸し出している女だった。
「こっちへコイ」
JJはぎこちなく振り返ると、暗い路地をゆらゆらと歩きだした。
体のどこかをかばうような歩き方だった。怪我でもしているのだろうか?
だが最初はたどたどしい歩みだったのが、歩いていくうちにシャキッとしてきた。
目的のビルに到着する頃には―――JJはすっかり普通に歩けるようになっていた。
「このビルだ」
そう言ったJJの顔は、かなり血の気が戻ってきていた。
ニイガキはJJに連れられて狭いビルの中へ足を踏み入れていく。
ここまで来たらもう逃げられない。
覚悟を決めて、麻薬組織の一員として行動するしかない。
二人は階段を上がり、二階の突き当たりにある部屋の中に入る。
タカハシの話では既に構成員が20人ほどいるという話だったが―――
その狭い部屋にはたった二人しかいなかった。
- 381 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:42
- 部屋の中央の大きなテーブルの上には、高そうな酒瓶といくつかの空のグラスがあった。
テーブルの奥に座っている二人の女は、何も言わずにただニコニコと笑っている。
視線が絡まる。沈黙が流れる。どうやら彼女達の方から話しかける気はないようだ。
場の妙な雰囲気に、先に我慢できなくなったのはニイガキの方だった。
「どうも初めまして―――あたし、ニイガキ・リサです」
なんとも間の抜けた自己紹介だった。沈黙を破っても、妙な雰囲気は消えなかった。
二人はまだニコニコと笑っている。JJもただ黙っているだけだ。
ニイガキは早く仕事の話を始めたかった。
そういえば、遅れて来るとか言ってたが、タカハシはまだ着いていないのだろうか?
とりあえず、唯一の共通の話題として「タカハシは―――」と言おうとした。
だが声にならなかった。僅かに動いたニイガキの喉に冷たい感触が走った。
背後からピタリと当てられたナイフの柄はJJに握られていた。
ニイガキはその動きを全く察することがでなかった。
動けない。唾を飲むことすらままならない。
「コイツ、隙だらけだゾ。こんなんで使えるのカ?」
JJの言葉がニイガキの胸を刺した。
それはほんの数秒のやり取りだった。
どすんと音を立てて、ニイガキの横の椅子にJJが腰掛けた。
突き立てた時と同じくらい唐突に、JJのナイフはニイガキの喉を離れていた。
- 382 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:44
- 「LLは虎。JJは狼。ナッチさんそう言ったネ。ではニイガキさんは何?」
小柄な女が、もう一人の小柄な女に語りかけた。
二人とも、体格はニイガキと同じくらいだろうか。JJに比べるとかなり小さい。
ナッチさんと呼ばれた女が笑う。
二十代半ばにも見えるし、十代半ばにも見える年齢不詳な女だった。
だが二十代半ばだとしても、とても大人っぽいようには見えない。
ニイガキは麻取としての経験から、犯罪組織に出入りするこの手のタイプの女は、
子供っぽく見える大人ではなく、大人っぽく見える子供ではないかと想像した。
だがその女の声は予想に反して二十代半ばを思わせる響きを湛えていた。
「この子は見たまんまじゃん。虎でも狼でもない、ただの普通の女の子。
それ以上でもそれ以下でもないんじゃない? でもだいたいさあ、
この子を連れてきたのはJJなんでしょ? JJが自分のツテを使って
この麻取の子を連れてきたんでしょ? 文句言うなら自分に言いなよ」
JJは不服そうな表情を浮かべたが、文句を口に出すことはなかった。
ニイガキはその場の雰囲気から、このナッチという女がその他の二人の
上役になるのだろうと察した。
- 383 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:44
- 「それで、新しい組織のメンバーっていうのはどこに?」
ニイガキはナッチを真っ直ぐ見つめてそう問いかけた。
ナッチは人差し指を大柄な女の方に向けて言う。「JJ」
返す刀で、自分の隣に座っている小柄な女を指す。「LL」
そしてニイガキに向かって真っ直ぐ指を向ける。「ニイガキ」
JJが付け加えた。「それにタカハシさん」
LLが締める。「その四人で全部ネ」
四人? それだけ? おかしい。タカハシから聞いていた話と随分様子が違う。
ニイガキは表情を曇らせた。
タカハシを頂点として、その下にニイガキを含む三人のサブリーダー。
そしてその下に20人の構成員が配置された組織―――
新しい麻薬組織の構成に関して、タカハシはそう説明していた。
この手の非合法組織の陣容が流動的なのは、ある程度は仕方がないことだが、
タカハシが電話でそう言っていたのは、たった数分前のことなのだ。
何かトラブルが起きたのか? 誰かが何かを企んでいるのか?
それに四人だって? このナッチとかいう人は入っていないのか?
入っていないのならどうしてこの場に座っているのだ?
ニイガキがそんなもやもやとした疑問を膨らませていると、
その問いに真っ先に答えてくれそうな人物が、ドアを開けて入ってきた。
「いよう。部屋に誰もいなかったけど? もうみんな揃ってる?」
- 384 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:45
- 部屋に入ってきたタカハシは、室内を見渡して怪訝な顔をした。
その視線の先にはどうやらナッチがいるらしい。
「いよう、タカハシ。遅かったじゃん。もうとっくに全員揃ってるよ」
ナッチの言葉を聞いてタカハシが硬直した。
タカハシはナッチから視線を逸らし、JJとLLの顔を代わる代わる見た。
「おいJJ。ちょっとこれどういうこと? この人誰? 集めた兵隊は?」
どうやらニイガキに説明したことは本当のことだったようだ。
ナッチという女と会うのも初めてのような口ぶりだ。
この場の状況が飲み込めていないのはニイガキもタカハシも同じようだった。
JJがポツリとつぶやいた。
「メンドクサ」
「は?」
「説明するの、メンドクサー」
椅子の背もたれに深く寄りかかったまま、JJはそれだけ言ってため息をついた。
こういう時、タカハシはいきなり怒りを沸騰させる。
沸点が低いのではない。速いのだ。0℃からいきなり100℃まで上昇するのだ。
その間の温度帯というのは普通の人間であれば一番広いゾーンなのだが、
タカハシの場合はそのゾーンが異常なまでに希薄だった。
「ざけんなよ! 遊びでやってんじゃねーぞ! 調子乗んなやァ!
殺すぞコラァ! 連れて来い! 今すぐ兵隊連れて来いやァ!」
- 385 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:45
- タカハシとは対照的なのんびりとした声でナッチがなだめる。
「まあまあ、アイちゃん。そうカリカリしなさんな」
「誰がアイちゃんじゃ!」
「オマエだよ」
ナッチの声色が変わる。
顔には笑いを残したまま、その手には真っ赤な刃をしたナイフが握られていた。
二人の麻取が殺気も露に拳銃を抜いた。JJとLLは全く動かない。
赤刃のナイフと二丁の拳銃の存在など目に入っていないかのように、
二人は悠然とした態度で、空のグラスに酒を注いだ。
ナッチはナイフの柄の方をテーブルに突き立てた。
銃口を向ける二人の麻取に向かって、唐突に会心の笑顔を見せる。
そして幼児のように無邪気に歌い出した。
「カッチン、カッチン、カッチン、カッチン」
音に一切抑揚をつけずにナッチは歌う。
メロディのない単調な言葉の繰り返しだったが、それは歌声としか聞こえない。
ナッチは歌に合わせて、上に向けた刃をメトロノームのように左右に振った。
「カッチン、カッチン、カッチン、カッチン」
赤刃のナイフが何度も何度もナッチの眼前で往復する。
眼前―――というのは正確ではなかった。
ナイフはざっくりとナッチの顔を十分な深さで切り刻んでいた。
「カッチン、カッチン、カッチン、カッチン」
- 386 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:45
- ニイガキとタカハシは口を半開きにしたまま呆けていた。
もはや拳銃を撃つどころか、その場を動くことすらできなかった。
目の前に展開されている非現実的な光景に―――ある意味見惚れていた。
「カッチン、カッチン、カッチン、カッチン」
赤刃はザッザッザッザッと軽い音を立ててナッチの顔面を往復した。
目を切り裂き、鼻を削り、唇を抉り、そして喉元に何本もの深い亀裂を刻む。
顔面から、粘り気を帯びた赤黒い血が、ダラダラと流れ落ちた。
「カッチン、カッチン、カッチン、カッチン」
それでもナッチの楽しげな歌声は止まらない。
スキップを踏むようにリズミカルに赤刃を往復させる。
切り裂かれた喉が、何か別の生き物のようにパックリと開いて鮮血を飛び散らせた。
「カッチン、カッチン、カッチン、カッチン」
異常に切れ味の鋭い赤刃は、血脂を吸っても鈍ることなく、さらに鋭さを増した。
もはやナッチの顔面は原型を止めていなかった。髪の毛が乗った赤い塊だった。
ぐずぐずに崩れて、どこにあるのかすらわからなくなった唇から、なおも歌声が漏れる。
「カッチン、カッチン、カッチン、カッチン」
- 387 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:45
- 「カッチン、カン」
永遠に止まないとも思われた歌声が止むと同時に、ナイフも止まった。
そして顔面からもの凄い勢いで流れていたナッチの血も、不自然なくらい唐突に止まった。
ナッチはナイフを水平に掲げて、テーブルの中央に向ける。
そこには酒を満たされた4つのグラスが置かれていた。
ナッチはそのグラスの一つ一つにナイフの切っ先を向ける。
ぽとり。ぽとり。ぽとり。ぽとり。4つのグラスに、4滴の血の滴が垂れた。
琥珀色の液体が満たされたグラスの中で、ナッチの赤い血がイトミミズのようにのたくった。
「あんたたちには、前に進む権利も、後ろに退く権利もない」
ナッチの声から幼さが消えた。低い声が静かな部屋に響く。
永遠に開くことのない、堅く閉じた城門を叩いた時のような響きがあった。
「それでも、あたしの血を引き継ぎ、死地に赴く義務がある」
JJとLLは無言で頷き、ナッチの血を孕んだ琥珀のグラスを手に取った。
二人ともそれぞれ二つ取り、一つをニイガキとタカハシに渡す。
ニイガキとタカハシはあっけにとられたままグラスを受け取った。
鼓動が速くなる。呼吸が乱れる。視界が歪む。正気を保っているのが難しかった。
「さあ、グラスを空けて」
- 388 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:45
- JJとLLが一気にグラスを空にした。
ニイガキとタカハシは動かない。何をどうすればいいのかわからない。
目の前で展開している事態の意味が全く理解できない。
「ふふふふふ。遠慮しなくていいよ」
グラスを見つめていたニイガキは、ふっと顔を上げた。そして再び我が目を疑った。
ナッチの顔は元通りになっており、幼子のような無邪気な笑みを浮かべていた。
夢か。幻か。それともこれは一種の幻覚? 催眠術?
現実に戻りかけたニイガキの視界で赤い波がさざめいた。
白いテーブルの上には大量の血が流れていた。
それは間違いなく、先ほどナッチの顔面から流れ落ちたものだった。
ナッチの血は、寄せては返す波のようにテーブルの上を蠢いていた。
ニイガキはグラスと取り落とした。甲高い音を立ててグラスが砕ける。
その音を聞いてタカハシが我に返った。いや、我を失ったのかもしれない。
もはや彼女達は、自分たちにとって何が現実で何が幻か、
あるいは何が正気で何が狂気か、その境界線を完全に見失っていた。
「うああああああああああああああ」
タカハシが拳銃を掲げて、引き金に指をかける。
だが銃弾が放たれるその前にテーブルの上で赤い波が跳ねた。
天井まで届きそうな赤い波は、あっという間にニイガキとタカハシを飲み込んでいった。
- 389 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:45
- ☆
- 390 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:46
- 「アベはまだ大久保におるんか」
コーヒーを片手に部屋に入ってきたテラダがカメイに声をかける。
テラダはカメイの背中越しにPCのディスプレイを覗きながら、カップに口をつけた。
てっきり自分のためにコーヒーを持ってきてくれたと思っていたカメイは、
不満そうに口を尖らせながら現状を報告する。
「今丁度終わったみたいでーす。大久保からこっちに向かってまーす」
いかにも不満そうなカメイの変声だったが、その声はとびきり上機嫌で
ハイテンションになっているときの変声とほとんど変わらない。
カメイの表情や仕草にはノーマルな状態とアブノーマルな状態の二つしかなかった。
憤怒も愉悦も滂沱も呵責も、どんな精神状態であっても、
アブノーマルな精神状態に陥っている彼女の姿は、どの時もほとんど同じように見えた。
テラダはそんなカメイの精神状態に頓着することなくPCに目をやった。
画面に映った大久保の地図から、橙色をした「4」という光点が移動していく。
どうやらGAMの残党との接触は上手くいったらしい。
「アベさん派手にやったみたいですよ」
先ほどまでは大久保の街全体を橙色の光が満たしていた。
これまでとは比べ物にならないくらい広範囲な拡散だった。
ゴトウが覚醒したという話は既にアベに伝わっている。
アベは嫉妬深い人間だ。ゴトウに対して対抗意識を持ったのかもしれない。
テラダはカップをテーブルに置くと、濃いコーヒーに負けないくらい渋い表情を作った。
「あいつのことや・・・・・やりすぎんかったらええんやけど」
- 391 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:46
- 「アベさんにやり過ぎるなって言うのは、犬に吠えるなっていうのと同じですよ」
「まあな。でも飼い主に向かって吠える犬では困るわけや」
「ふふん。いいじゃないですか。それに飼い主はこっちじゃなくてあっちかもしれませんよ?」
「笑えん冗談やな」
「あははははははあははははは、あは」
カメイはすっかり上機嫌に戻っていた。
だがその嫌味ったらしい口調は、不機嫌であるときと何ら変わらない。
わかりやすいような顔をして、その実なかなか一筋縄ではいかない女だった。
テラダたちはイイダの追跡に手こずっていた。
イイダを追ったヤグチは、何の成果も挙げることができなかった。
元々、イイダに関しては何の手がかりもなかったのだ。
ゴトウを追っていて偶然GAMという組織にたどり着いたに過ぎない。
再び地下に潜って姿を消したGAMを追うのは容易ではなかった。
敵の敵は味方―――テラダは発想を変えた。
GAMを直接追うことは諦め、GAMを追うゴトウを追うことにした。
そしてゴトウの身辺を洗うにつれて、より麻薬組織の事情に詳しいのは、
ゴトウの部下の、タカハシとニイガキという二人の麻取であることが判明した。
どうやらゴトウもこの二人を使ってGAMを追っているらしい。
タカハシとニイガキはキャリアではない。ただの麻取、ただの公務員だった。
ゴトウに比べれば、かなり組み易い相手であると言えた。
テラダはこの二人にアベを食いつかせることにした。
- 392 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:46
- アベは体液が異常発達しているキャリアだった。
この能力こそ、サディ・ストナッチとなるために生まれてきたような能力だった。
アベがその全存在を拡散させてS.Sと化すとき、アベの体液も同じように拡散した。
その体液の一滴一滴までが、全てアベだった。アベの自我であり、アベの意識だった。
真っ赤な霧と一体化したアベは、世界中のありとあらゆるものに介入した。
物理的には、S.Sの進行を阻むあらゆる素材を解体した。
分子の結合に干渉し、金属結合を速やかに解いていく。
どんな強固な扉であろうと、どんな屈強な鉄骨であろうと、S.Sの前では無力だった。
S.Sと化したアベは、物理的だけではなく、精神的にも強く干渉した。
異常発達したアベの血液細胞やリンパ球やそれらの前駆細胞は、
生体内を網羅する免疫機構にすら強く干渉し、無力化した。
侵入してきたアベの細胞の活動を阻害し、駆除することは、誰にもできなかった。
対象となる人間の組織に侵入したアベの血液細胞は、血液の循環に乗って全身を巡る。
そして寄生虫のように宿主の細胞を駆逐し、乗っ取ってしまうのだ。
アベがS.Sを使うとき、それは相手を殺傷するだけに留まらない。
相手の肉体を、そして精神すら乗っ取ってしまうことが可能だった。
微小な細胞と化したアベの侵入を阻止することは誰にもできない。
アベは世界の全てに干渉する。世界の全てに介入する。
S.Sとアベの能力の組み合わせは、まさに世界を統べるための力のように思われた。
- 393 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:47
- テラダはアベの成果にいたく満足した。
この能力があればすぐにでも世界を制覇することができると信じた。
だがカメイはそうは思わなかった。
まだあのウイルスの能力は100%発動していない。ただ拡散できるだけでしかないのだ。
S.Sが100%発動したときの力は、こんなものではない。
たかが数百数千の人間の精神を乗っ取るだけなんていう、卑小な能力ではないのだ。
そんな人間レベルの歴史しか変えられないような―――
くだらない能力のために、あのウイルスを盗み出したのではない。
そんなもののためにあの組織を裏切ったのではない。
かつて友と呼んだ―――あの子を裏切ったのではない。
カメイはテラダのように「世界制覇」には興味がなかったし、
「人類の歴史を変える」ことにもさして興味はなかった。
彼女の真の望みはもっと違う次元に存在していた。
とにかくカメイはテラダを押し止めた。
まずは7つのウイルス断片を集めることが先決だ。
7人のオリジナルキャリアの組織さえ集めれば、おそらくS.Sは完成する。
そう、今はまだS.Sは未完成なのだ。
アベでさえその能力を100%使い切ってはいない。
このまま単一のウイルスのみで成長していけば、極限まで拡散することはできても、
極限まで『凝集』することはできないだろう。
そしてその力こそが―――真の『S.S』なのだ。
- 394 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:47
- 「で、あとはこのタカハシとかニイガキとかいう麻取がGAMを探してくれるわけか」
「はい。一緒にいるJJとLLという中国人がGAMの元構成員らしいです」
「ゴトウはどう動くかな・・・・・」
「うーん。あの人の動きを予測するのは難しいですね・・・・・・」
ここ数ヶ月の間、ゴトウは鳴りを潜めていた。
表立った活動はタカハシに任せ、そのバックアップはニイガキに任せていた。
まるで傷ついた獣が洞窟で傷を癒すかのように、じっと動かなかった。
タカハシとニイガキに捜査を丸投げしているのか。
あるいはこれから独自の動きを見せるのか。
ゴトウの動きは常に神出鬼没であり、そこに法則性のようなものは見出せない。
カメイの言うように、次の動きを予測するのは難しかった。
「まあ、ええか。とりあえずゴトウにはタトゥーもあるしな」
「追いたくなればいつでも追えるってわけですね」
「そうや。あのタトゥーがある限り、この装置で探知することができる」
「あ、それでこの装置のことなんですけどね・・・・・」
カメイは話題を替えてパソコンをいじり出す。
東京の地図が大きくスクロールし、縮尺の拡大と縮小を繰り返す。
やがて画面は、聞いたことのない名前の神社の上で止まった。
- 395 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:47
- 「これってここも範囲に入ってますよね?」
「あん? おお、一応入っとるみたいやな」
カメイは極大まで地図を拡大する。神社の敷地が画面いっぱいに広がった。
しばらくすると、そこにぽつんと一つ「9」というオレンジ色の数字が灯った。
「お? イシカワやんけ。なんでお前、そこにいるとわかってん」
「まあ、まあ、まあ」
カメイはテラダの疑問をさらっと流した。
この神社のことは昔から知っている。何度か修行で使ったこともあった。
まさか今もそこを拠点としているとは思わなかったが―――
よく考えれば「ECO moni」が拠点として使える施設は少ない。
それに彼女達にすれば、カメイがそこを知っているということも、
大した問題ではないのだろう。
もしカメイが神社を襲撃するようなことがあれば、逆に彼女達は大喜びするだろう。
勿論彼女は、自分からそこに赴くつもりは一切なかった。
彼女達は自分のことを探しているのだ、こちらからのこのこ出向いていくことはない。
ぶち殺してやりたいのは山々だが、一時的な感情に流されてはならない。
それにあの時―――ECO moniからウイルスを持ち出した時―――
もう二度と『彼女』とは会わないと自分に誓ったのだ。
- 396 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:47
- とにかくカメイはもうECO moniと関わるつもりはなかった。
彼女らにウイルスを奪還されるような事態を招いてはならない。
それだけは絶対に避けなければならなかった。
ゴトウにウイルスを奪われるのはまだいい。
もしUFAにウイルスを奪われるような事態になったとしても、まあ仕方がない。
どうせ彼らはS.Sの真の使い道を知らないのだ。後でゆっくりと取り戻せばいい。
だがもしECO moniにウイルスを奪還されるような事態になれば―――
これまでカメイがやってきたことは全て灰燼と化す。
「これって、範囲に入ってたら、どこに隠れてても橙色に光るんですよね?」
「何を今更。まあ、コンクリート詰めにして地底に埋めてたり、
ウェットスーツでも着て海底に沈めてたりしたら映らんけどな。
そんなことしたらいくらキャリアでも死んでまうやろ。あはははははは」
テラダはつまらない冗談を言って自分で笑った。
だが装置に自信があることに変わりはない。
実際、この神社内にいるイシカワのことはきちんと探知できていた。
機械が故障しているということはない。
タトゥーを掘られた人間がそこにいれば橙色に光るし、対象者が死んでいれば青色に光る。
一度に探知できる範囲が狭いことを除けば、これ以上ないくらい強力なツールだった。
- 397 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:48
- カメイはテラダの返事に満足した。
これでECO moniが手にしているカードを判断することができた。これは大きい。
数ヶ月前、カメイが連絡員として使っていた里の者が連絡を絶った。
その一人だけではない、カメイが生まれ育った里そのものが忽然として消え失せた。
そんなことをする動機と能力を持った組織は一つしかない―――
カメイは自分の身にECO moniが迫ってきていることを感じていた。
今ではあの組織がこの関東でウイルス奪還に向けて動いていることは間違いないだろう。
そこでカメイは記憶に残っていたこの神社に探りを入れてみたのだった。
すると案の定、「9」という光が灯った。
特殊な結界を施したこの神社はECO moniのメンバーしか使えない。
イシカワという女ががECO moniと関係していることはまず間違いないだろう。
ECO moniもなかなかやるじゃんか。カメイはそう思った。
まだオリジナルキャリアは一人もつかんでいないようだが、それでも
施設にいたキャリアを一人手中に収めているとは、やはり油断ならない組織だ。
ゴトウやGAMの動きと同時に、こちらの動きも把握しておく必要があるだろう。
だがやはり自分がECO moniと対峙することはできる限り避けたい―――
「ねえ、テラダさん、ヤグチさんを借りていいですか?」
- 398 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:48
- 「ヤグチ? おう。別にええで。あいつも遊んでるようなもんやからな」
テラダの命を受けて、ヤグチはずっとイイダのことを追っていた。
だが彼女は探索や追跡のスペシャリストではなない。
それどころか、それに関する基本的な技術すら持っていない。
適材適所とは言い難い人員配置だった。
「あの人にイシカワさんのことを張ってもらいたいんですけど」
「張るもなにも、あいつはフォースのオーナーやろ」
「だからまあ、見張っていてほしいというか、足止めしてほしいというか」
「なんやそれ。イシカワのことが気になるんかいな」
「ええ。この人に邪魔されるような事態は避けたいので」
「まあ、それくらいやったらヤグチにでもできるやろ」
これでいい。
アベを通じてニイガキとタカハシを使い、GAMのイイダを追う。
テラダを通じてこの装置を使い、UFAのゴトウの動きを把握する。
フォースのヤグチの力を使って、ECO moniと通じているイシカワを抑える。
カメイの脳裏に、綺麗な絵図が描かれた。
- 399 名前:【診断】 投稿日:2009/09/17(木) 23:49
- 今やこの「S.S」という組織を動かしているのは、テラダではなくカメイだった。
実際、テラダにはキャリアのような能力はないし、
カメイのような「特殊な強さ」を持っているわけでもない。
ウイルスに関する知識においても、カメイの方が圧倒的に上だ。
もはやテラダが組織の行動においてイニシアチブを握ることはほとんどなかった。
もっともカメイは―――それという態度ををあからさまに悟られないために、
常に下手に下手に出ながらテラダのことを動かしていたのだが。
とにかくカメイは今できうる範囲で万全の体制を敷いた。
あとは状況に応じて自分が出て行けばいいと思った。最後に決めるのは自分だ。
もしECO moniを潰す必要があるのなら―――その時は自分が動く必要があるだろう。
あそこを潰すことができるのは自分しかいないとカメイは思った。
ECO moniを潰す―――いずれその必要が出てくるのだろう。
もう一度「彼女」と会うのは、それはそれで一つの運命のような気がする。
だが次に会うときこそ、本当に最後の別れになるときかもしれない。
きっと「死」という唯一絶対の別れが、どちらかの頭上に降り注ぐことだろう。
カメイはぼんやりとそんなことを考えていた。
彼女の計算はほぼ完璧に進んでいた。だが一つだけぽっかりと抜けている部分があった。
彼女はまだ知らない。
ECO moniが既にカメイの所在を突き止めていることを―――まだ知らない。
- 400 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/17(木) 23:49
- ★
- 401 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/17(木) 23:49
- ★
- 402 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/17(木) 23:49
- ★
- 403 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:09
- サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
- 404 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:09
- タカハシは真っ赤な海の中を泳いでいた。
海の中には上も下も右も左もなく、光と影の境界線も曖昧だった。
ただ潮の流れに流されるままに、タカハシはゆらゆらと漂った。
不思議と息苦しくはなかった。
肺の中にも、血管の中にも、赤い海水が満ちていた。
タカハシは体の内側と外側に赤い水の流れを感じていた。
海の中には赤が濃い部分と薄い部分があった。
濃い部分は限りなく濃く赤黒く、そこに触れると電流に当たった時のような痺れが走った。
薄い部分は限りなく薄く透明で、そこに触れると自分が溶けて無くなるような感覚がした。
タカハシは赤い海の濃い部分と薄い部分に触れながら漂う。
濃い部分に触れては自分の存在を認識し、
薄い部分に触れては自分の非存在を認識した。
赤い海水を介して、タカハシの体の内側と外側という概念が消えた。境界線が消えた。
やがてタカハシは海の中に溶けていき、その存在を消した。
海そのものがタカハシという存在と同化した。
タカハシは赤い海の中にあり、それと同時に赤い海はタカハシの中にある。
タカハシの中で、赤い海は再び濃い部分と薄い部分を交えていく―――
- 405 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:10
- タカハシが目覚めたとき、既にニイガキも目覚めていた。
だが最初にタカハシの視界に入ったのはニイガキの顔ではなく、
安っぽい質感をたたえた白いテーブルの表面だった。
どうやらテーブルに突っ伏したまま気を失っていたらしい。
体を起こすと、Tシャツがベリベリベリと音を立ててはがれた。
見るとそこにはべっとりと黒い染みが付いている。
それに気付くと同時に生臭い臭気が鼻腔の奥をツンと突いた。血の臭いだ。
「夢やなかったんか・・・・・・・・・」
白いテーブルの上には真っ黒になった血の海がそのままに残っていた。
だがテーブルの奥に腰掛けていたナッチの姿はもうない。
部屋にはタカハシ、ニイガキ、JJ、LLの4人しかいなかった。
不在になったことで、ナッチの存在感があらためて浮き彫りになった気がした。
そこにナッチがいないというだけで―――まるで違う部屋にいるようだった。
「この二人にこの状況を説明してくれって言ったんだけどさ。
アイちゃんが起きるまで待ってくれって言われたよ」
ニイガキがJJとLLに目を向けながらタカハシに声をかけた。
テーブルの上には四つのグラス。
そのグラスは、いつの間にか四つとも空になっていた。
- 406 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:10
- 「説明してもいいですケド。でもきっとタカハシサン、怒るよ」
JJの声を聞きながらタカハシの頭が徐々に覚醒していく。
まだ朦朧とした部分はあったが、現状を認識するには十分だった。
とにかく今は情報を整理しなければならない。話を進めなければならない。
「もう怒らねーよ。いいから説明しろよ。何があったんだ、JJ?」
「タカハシさん、本当に怒らナイ?」
「怒らないって」
「本当に?」
「もういいよ。そんな場合じゃないじゃんか。でさ、あのナッチって誰?」
「全然知らナイ」
空のグラスが二つ続けて宙を飛び、JJの真後ろの壁に当たって砕けた。
JJが超人的な反射神経で避けなければ、間違いなく顔面に当たっていただろう。
それでもJJは落ち着いていた。グラスを投げつけたタカハシの怒りよりも、
割れたグラスと傷ついた壁紙が気になっているような素振りを見せた。
「アイちゃん落ち着いて。それじゃ話にならないよ」
「うっさいボケ! 『全然知らナイ』だ? それこそ話になんねーよ!」
タカハシは大声で喚き散らした。体の中に溜まった濁りを全て吐き出した。
そうやって何かを発散していなければ、体の中で何かが破裂しそうだった。
文句の内容は何でもよかった。相手も誰でもよかった。
とにかく理屈抜きで何かに当り散らすことが、今のタカハシには必要だった。
人並以上の人間観察力を持つJJとLLはそのことをよく理解していた。
だからしばらくの間、タカハシに好きなだけ騒がせておいた。
- 407 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:10
- タカハシがようやく一息ついたところで、LLが落ち着いた声で言った。
「まあ、今のはJJの言い方も良くなかったネ。LLからちゃんと説明シマス」
タカハシが文句を言う前に、ニイガキがサッとLLに質問する。
よく考えれば初対面なのだが、そんなことで遠慮しているような状況でもなかった。
「アイちゃんは既に20人の兵隊が準備できてるって言ってたけど。
それは本当なの? 嘘なの? 本当ならその兵隊は今はどこにいるの?」
それでもタカハシは強引に会話に割り込んでくる。
「嘘やない。その20人の兵隊はあたしも一度見たから間違いない。
今は別の場所に置いてるんか? 組織の配置換えでもしたんか?」
LLは頭の後ろをボリボリと掻きながら口をへの字に曲げた。
「アー、そこから説明を始めるとしましょうカ。まあ、JJの言うように、
信じてもらえないかもしれないケド、二人ともあのナッチさんを見た後だしネ。
訳わかんなくても、それで納得してもらうしかないと思いますよ、ウン」
LLはかなり持って回った言い方をした。
だがいつもそういう話し方をするタカハシとの会話に慣れているニイガキには、
さして苦痛な会話ではなかった。「わかった。そこから説明して」。
LLはJJの顔を見る。JJも「それでいいんじゃない」と目顔で応えた。
- 408 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:10
- 「確かにタカハシさんの言う通り、LLはここに兵隊を20人集めましタ。
数時間前までこのビルに全員揃ってましたヨ。で、今日はニイガキさんが来る。
タカハシさんも来ることになっていたし、全員で顔合わせするつもりデシタ」
タカハシとニイガキが頷く。確かに今日はそういう予定になっていた。
予定になかったのはあのナッチという女の存在だ。
「そこにあの女が、ナッチさんが来た。そして―――兵隊は全員殺されたネ」
半ば予想していた事態ではあったが、改めて聞くと戦慄が走った。
特にタカハシの驚きは小さくなかった。
タカハシはあの20人の兵隊を何度か間近に見ている。
たった一人の人間に簡単にやられるようなひ弱な兵隊には見えなかった。
「LLとJJもナッチさんと戦ったんだけど、全然相手にならなかったネー。
まあ、命が助かっただけでもラッキーだっだと思わなきゃいけないデス。
それで、さっきまでの二人と同じように、LLとJJも気を失っていたヨ。
どうもナッチさんの血を浴びると―――そうなっちゃうみたいですネ」
それまでずっと黙っていたJJが、一つ説明を加えた。
「あの人、きっとそういう能力を持つキャリアなんだろうネ」
確かにキャリアだと言われてみれば、そうだとしか思えない。
ニイガキとタカハシも、ほんの少しだけ納得した。
- 409 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:10
- 「で? JJとLLは目覚めてからどうしたの?
ナッチさんはなんでここに座ってたの? あの人の目的は何なの?」
ニイガキにはそれが不思議でたまらなかった。
話を聞くと、どうもナッチはこの新組織を壊滅状態に追い込んだようだ。
それならばJJとLLの命も奪うべきではないのか。
ニイガキとタカハシの命も奪うべきではないのか。なぜ生かすのか。
あのナッチという女は一体何をしようとしているのか。それが全く見えなかった。
LLは相変わらず持って回った言い方をした。
だが、それがLL本来の話し方ではないことは明らかだった。
LL自身にもわからないことが多すぎるがために、そんな話し方になるのだろう。
「LLもね、ナッチさんに会ったのは今日が初めてなんですヨ。
あの人の考えていること、全然わからナイ。でもね、本人が言ってたヨ。
『使える人間が欲しい』って。20人の兵隊は使えないから殺したってサ」
「それどういうこと?」
「つまりナッチさんは、あたし達を配下に入れて使いたいってことらしいですネ」
「バカな!」
タカハシが椅子を蹴って立ち上がった。
- 410 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:10
- 「部下ってなんだよ! なーんであたしらがあいつのために! ざけんなよ!」
「じゃ、本人に直接そう言いますカ?」
「は?」
「携帯電話の番号を預かっているヨ。タカハシさんと話がしたいって言ってましタ。
目が覚めたら連絡をよこすようにって、ナッチさんから伝言を言付かってマス」
LLはそう言って一枚の紙をタカハシに渡した。
そこには流麗な書体でナッチの携帯の番号が書かれていた。
タカハシはその数字をしばらくの間、じっと見つめていた。
今日、ここに来てから、初めて冷静になれたような気がした。
何かを決断するために、初めて頭を使って思考しているような気がした。
かけるべきか、かけないべきか。その答えは最初から決まっている。
重要なのは、何を喋るのか、何を喋らないのか、だ。
タカハシは紙をビリビリと破くと、覚えたばかりの数字を携帯電話に乱暴に叩き込んだ。
5回目のコールで相手側が電話に出る。
電話越しに聞くナッチの声は、直に聞くよりもずっと幼く聞こえた。
「おはよう、タカハシ。随分寝てたねえ。お目覚めはどう?」
- 411 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:11
- アイちゃん。タカハシ。どちらの呼び方も気に食わなかった。
この女から名前を呼ばれることがたまらなく不快だった。
ましてや配下に収まるなんて―――とても我慢ならなかった。
「あたしはあんたに自分の名前を教えた覚えはない」
「あんた? あれー、アイちゃん、行儀悪いねー。敬語の使い方は知らないの?」
「敬語は尊敬に値する人間にだけ使う」
タカハシは一種の威嚇か挑発のつもりでそう言ったのだが、
電話の向こう側からはナッチが爆笑する声だけが聞こえてきた。
不快だった。ナッチの発する言葉や気配の全てが不快だった。
そういった負の感情は、真っ黒なエネルギーとなってタカハシの内部に堆積していく。
「なにそれ。まるで反抗期みたいな言い分じゃん! 典型的すぎ! 笑えるわー」
ナッチは本当に、声を押し殺して笑っていた。
笑いをこらえて話すのがつらそうなくらい、引きつった笑いを必死で噛み殺していた。
「ねえ、アイちゃん。あんまりオイタが過ぎると、心臓が痛くなっちゃうよ?」
「はあ? 何を言っとるんやお前? 意味わからんぞ―――」
そこまで話したところで、タカハシは携帯電話を取り落とした。
落とすというより、反射的に手放したという方が正しかった。
胸に激痛が走る。思わず両手で押さえた。心臓が内側から暴れていた。
- 412 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:11
- 「アイちゃん! 大丈夫!? どうしたの?」
ニイガキが駆け寄る。タカハシは息も絶え絶えといった様子で悶えている。
その横でLLがタカハシの携帯電話を拾い上げていた。
「ナッチさんもう十分デス。もういいんで、勘弁してやってくれませんカ?」
LLがそう言った途端、タカハシの胸からすっと痛みが退いていった。
「やあ、タカハシ。敬語の使い方は覚えた?」
LLが押し付けてきた携帯の向こうから、ナッチの声が聞こえてきた。
「な・・・・なんやこれ」
「あんた達四人はあたしの血を浴びた。もうあたしの血から逃れることはできない」
「血? どういうこと?」
「まあ、そういうことよ。だいたいわかるっしょ? 後は自分で考えな」
JJが氷のような冷たい目をして言った。
「つまりあたしたちの体の中にはナッチさんの血が流れてるってことですヨ。
ナッチさんに逆らったら、その血が体内で暴れる。今のタカハシさんみたいにネ」
これがナッチのキャリアとしての能力なのだろうか。信じられない。
信じられないが、それが事実なら、自分の命を人質に取られたということになる。
逆らえない。絶対に逆らえない。とてもそんな事実は受け入れられなかった。
だが先ほどタカハシの胸を走った痛みは―――紛れもない現実だった。
- 413 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:11
- 「ねえ、タカハシ。あんた、GAMを乗っ取るつもりなんでしょ?」
「え、あ、はい・・・・・・・」
もう生意気な口は利けなかった。微妙な敬語で間合いを測る。
タカハシには、もう一度あの痛みを試すような勇気も根性もなかった。
「応援してやるよ」
「え!?」
「あたしもGAMを潰したいんだよね。だから手伝ってあげるよ」
「そんな・・・・・でもどうして?」
ナッチの言い分はあまりにも意外なものだった。
まさかGAMを追っている組織が他にもあるとは思わなかった。
タカハシ自身、マキ、そしてナッチ。それぞれがGAMを追っている。
一体GAMという組織には何があるのだ? ただの麻薬組織ではないのか?
まさか―――まさか、本当に例のウイルスを―――
「そんなのどうだっていいじゃんか。とにかくそういうことだからさ、
手っ取り早くGAM本隊の居場所を見つけてこっちに教えて欲しいんだよね。
一週間待ってあげるよ。一週間だよ? 余裕でしょ? ナッチ優しいっしょ?」
「そんな! たった一週間で見つかるわけが」
「一週間経っても連絡がなかったら、四人の心臓はバーン!だからね。あはははは」
ナッチは言いたいことだけを言って勝手に携帯を切った。
- 414 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:11
- 「一週間経ってもGAMの本隊が見つからなかったラ・・・・・・・」
「四人の心臓はバーン!ですカ・・・・・・・・」
ナッチの傍若無人な声はJJとLLにもしっかりと聞こえていた。
そして勿論、ニイガキの耳にも届いていた。
「ちょっとなにそれ。訳わかんないですよ。心臓がバーン? なにそれ?
もしかしてみんなそんなことを信じているの? ありえないよそんなの!」
騒いでいるのはニイガキ一人だけだった。他の三人は黙り込んでいる。
ナッチから受けた絶対的な指令を、どうこなすかで頭が一杯のようだった。
もはやナッチから支配を受けていることを疑いもしない。
それがニイガキには不思議でたまらなかった。
「あのね、ニイガキさん。実はそれ、何度も試したのヨ」
「試した?」
「ナッチさんの血を浴びた後にね、JJはナッチさんに襲い掛かっていったのヨ。
その度に見事に心臓が大暴れしたネ。三回は繰り返したから間違いないヨ」
LLの説明を受けて、JJは黙って頷いた。
あの戦いの後、気絶から目を覚ましたJJは三度に渡ってナッチに再戦を挑んだ。
その度に、内側から心臓に強い衝撃を受けて、半死半生の状態に陥った。
ニイガキを迎えにいったとき、真っ白な顔をしていたのはそれが原因だった。
- 415 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:11
- JJはけだるそうな顔をしてニイガキに諭す。
「ナッチさんの意思一つで、あたし達の心臓は破裂する。それ、間違いないネ。
もうどーしょーもない。ナッチさんが命ずるなら、それに応えるしかないヨ」
逆らえないのか。絶対に逆らえないのか。ニイガキは自分の胸を押さえた。
この胸の中にあの人の血が流れているなんて、とても信じられなかった。
そしてニイガキは―――気絶する前にナッチが言った言葉を思い出した。
「あんたたちには、前に進む権利も、後ろに退く権利もない」
確かナッチはそう言った。
その言葉の意味が今ではとてつもなく重く感じられる。
「それでも、あたしの血を引き継ぎ、死地に赴く義務がある」
あの女のために死ななければならないのか。
もはやその意思に逆らうことは許されないのか。
それはニイガキにとっては理不尽極まりないことのはずだった。
だがなぜか―――あの人のために死ぬのも悪くないと思えた。
- 416 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:11
- ニイガキの体内にも、間違いなくナッチの血が流れていた。
ニイガキの血とナッチの血が交わる。ニイガキのDNAとナッチのDNAがからまる。
そうやってニイガキの血もまた新しく作りかえられていた。
その血がニイガキの全身に巡り、酸素と栄養素を運ぶ。体の隅から隅まで循環する。
ニイガキの体にナッチの意思が強烈に介入していた。
ナッチの意思がじわりとニイガキの自我に浸み込んでいく。
その干渉を断つことは誰にもできない。
今やニイガキ達は、ほぼ完璧なナッチの人形と化していた。
肉体だけではなく、精神もがその血の支配下に入ろうとしていた。
ナッチの意思に逆らうことは、もはや自分の意思に逆らうことに他ならなかった。
あの人のために死ぬのも悪くない―――その意思は一秒ごとに強くなる。
あの人のために死ななければならない―――と思えるほどに。
あの人が求める物があるのなら、それを探すために命を賭けよう。
そんな風に、ごく自然に思うようになった。
ナッチは世界の全てに干渉する。世界の全てに介入する。
ニイガキは濃い眉毛をキリッと引き締めて己の意思を三人に告げた。
そう、その意思は―――まぎれもなくニイガキ自身の意思だった。
「わかった。やるしかないよ。GAMを探そう。四人の命を賭けて」
- 417 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:11
- ☆
- 418 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:12
- 「一週間経っても連絡がなかったら、四人の心臓はバーン!だからね。あはははは」
ナッチは言いたいことだけを言って勝手に携帯を切った。
言いたいことを言いたいときに言い、やりたいことをやりたいときにやる。
それが生まれつき持ったナッチの性格だった。それを止めることは誰にもできない。
テラダでさえも、ナッチに対しては腫れ物に触るように接する。
「どうや。GAMの方は上手くいきそうか?」
テラダはコーヒーの入ったカップを二つ手にしている。
その一つをアベの前に置いた。
S.Sの本拠地の司令室には、テラダとアベとカメイの三人が座っていた。
「んふふふふふふ。さーて、どうなるかなー」
アベは熱したチーズのような、とろける笑顔で満足そうに答えた。
テラダとしては必死だった。GAMにつながる線は、今のところここしかない。
GAMの元構成員だというJJとLLの線が切れたらお終いだ。
だがそんなことはアベには全く関係なかった。
ダメならダメでそれでもいい。アベはそう考えていた。
そうなったらそうなったで、あの四人の処刑が楽しめる。
どちらかといえばそっちの方が楽しいんじゃないかとすら思った。
誰の心臓が一番大きな音を立てるだろう?
あのタカハシとかいう女の心臓は小さそうだ。ニイガキも器が小さい。
案外、あのLLとかいう女の心臓が、一番派手な音を立てて砕けるかもしれない。
そんな情景をリアルに想像することが、たまらなく楽しかった。
- 419 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:12
- 「ダメですよぉ、アベさん。あの四人は簡単に殺しちゃダメです」
そんなアベの心情を見透かしたように、カメイがゆるりと諭した。
お互い自己中心的な性格をしているカメイとアベだったが、妙に気が合った。
誰の言うことも聞かないアベだが、カメイの言うことは比較的よく聞いた。
「なんでー、あいつらあんまり使えなさそうじゃーん」
「そりゃアベさんに比べれば誰だって使えない子ですよぉ」
「あれ? こいつー、また上手いこと言ってー」
「ウエヘヘヘヘヘヘ」
笑顔でキャッキャとじゃれあう風景は、仲の良い姉妹が戯れているようにも見える。
その笑顔の奥底に、お互い一匹の悪魔を飼っているなどと―――
見抜ける人間はいなかっただろう。
「でもさあ、一週間ってちょっと長すぎたかなー」
「とんでもない! 短すぎますって!」
「やっぱり? あはははははは」
「アベさん冗談きついー」
アベは豪快に笑った。釣られてカメイもケタケタと笑った。
まるでこの冗談を言うために、短い期間にしたのかと思わせるほどの笑いだった。
- 420 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:12
- テラダはそんな二人を見ながら気が気ではなかった。
ただでさえアベは扱いにくい存在なのだ。
これ以上デリケートな仕事をさせるのは―――危険が大き過ぎる。
だがそれをわかっているはずのカメイは、アベを止めるどころか、
追従するようなことしか言わない。それどころか煽り出す始末だった。
「アベさんにはこういう仕事じゃなくってー、本当はもっと派手なことを」
「そうだよそうだよ! もっと面白そうな仕事をガンガン回してよ!」
「やっぱり今の仕事はつまんないですか?」
「つまんないよー、これって要するにただの人探しじゃん」
「じゃあ、いずれこの仕事はエリが引き継ぎますんで」
「頼むよー、カメちゃん。あたしホントはこっちの仕事がいいんだよね」
アベはそう言ってPCのディスプレイを指差した。
そこにはオレンジの「8」が点灯していた。
今度こそテラダは卒倒しそうになった。
アベとゴトウをかち合わせるなんて、今の段階では最悪の選択肢だとしか思えない。
「ゴトウさんですかー。この人、今はスランプみたいですね」
「スランプ?」
「全然動かないんですよ。S.Sになっちゃったことに戸惑っているのかな?」
- 421 名前:【診断】 投稿日:2009/09/21(月) 23:12
- あの立体駐車場でS.Sと化してしまった日から、ゴトウはほとんど動かなかった。
もしかしたら精神的に大きな打撃を受けたのかもしれない。
そうなっても不思議ではないくらい、S.Sと化すことは衝撃的な体験なのだ。
もっともそれを知っているのは―――アベナツミただ一人しかいないのだが。
「ふふふ。ゴトウマキちゃんも案外だらしないねえ」
「だってS.Sになるのって大変なんでしょ?」
「ぜーんぜん。ナッチさんは余裕だよ、余裕」
「すごーい。やっぱりアベさんが一番ですね!」
「でしょ? 当然だよ」
「それじゃあ、だらしのないゴトウさんはしばらく放っておきましょうよ。
そのうち元気も出てくるかもしれませんし。アベさんの出番はその時ですよ」
「ま、それもそうだね」
二人はこれら一連の会話を、機関銃の連射のようなテンポで一気に喋り倒した。
テラダは全く口を挟めない。
(まあ、ええか)テラダは心の中で一人つぶやいた。
所詮、ガキはガキだ。今は好きなようにやらせておけばいい。
それに強気な二人の会話を聞いていると、
案外簡単にGAMの行方がつかめるかもしれないと思えてきた。
テラダは一度も会ったことのない人間に向かって、もう一度心の中でつぶやいた。
(死ぬ気で頑張ってくれよ、タカハシにニイガキ)
- 422 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/21(月) 23:12
- ★
- 423 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/21(月) 23:12
- ★
- 424 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/21(月) 23:12
- ★
- 425 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:48
- 廃墟と化した関東では無数の浮浪者が寝床を探して徘徊していた。
普通のマンションや一軒屋は彼らにとって決して住み良い場所ではなかった。
人が消えた建物であっても、たいていの建物は固く施錠されている。
それらを打ち破って出入りするのはあまり効率のよい行動とは言えなかった。
より快適な寝床を探して彼らは街を彷徨う。
あるものは学校の校舎に安住の地を見出し、あるものは以前と全く変わらず、
公園にテントを張って生活をしていたりしていた。
そんな彼らにとって神社は、非常に住み良い場所であった。
今もまたリュックを背負った一人の浮浪者がある神社に近づいていくが―――
なぜかその浮浪者が神社の敷地内に入ることはできなかった。
「あれ? なんか嫌な感じだなあ、ここ」
背中を虫が這うような奇妙な感覚が浮浪者を襲う。
せっかく見つけた快適な空間を通り過ぎ、浮浪者は再び街へと流れていった。
何人たりともこの神社に足を踏み入れることはできない―――
それができるのは、この神社に張り巡らされた結界を中和することのできる、
ごく限られた人種だけだった。
- 426 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:48
- 「どうしたのミッツィー。また浮浪者でも来たの?」
「うん。でもまあ、結界に弾き返されていったわ」
「当然でしょ。それよりミチシゲさんがみんなを呼んでるよ」
「わかった。ほな行こか」
神社の境内には巨大な神木がいくつも聳え立っていた。
その中の一際大きな一本には青い注連縄が締められていた。
神社の四方を守る、主柱となっている一本だ。
ミツイは、神社の東側を守るこの神木の手入れの担当になっていた。
ちなみにミツイを呼びに来たコハルは、神社の南側を守る、
赤い注連縄をした神木の手入れの担当となっている。
神社の木々を守るのは、ECO moniメンバーの大切な仕事の一つだった。
そういった神木の力で作られた結界によって、この神社は守られていた。
天然の木々の力は人間たちに無限の力を分け与えてくれる。
生命の息吹が絶えたこの街にも、いつか再び緑の木々が覆う日がやってくるだろう。
愚かな人間の営みなど易々と飲み込んで、この星を優しく包むその日が。
彼女たちはその日が来ることを信じて疑わなかった。
- 427 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:48
- ミチシゲは道場の一番奥の指定席で正座をして待っていた。
二十畳ほどの広さの板間には四本の蝋燭が置かれている。
その他に明かりは一切ない。
この神社では不要な電力が使われることはない。
屋根の一部から取り込んだ太陽光発電で全ての電力をまかなっていた。
「あれ? これで全員ですか?」
「昨日までは四、五人のメンバーが来てたと思うんですが・・・・・」
その板間にはミチシゲとコハルとミツイの三人しかいなかった。
元々少数精鋭で鳴らしている組織ではあるが、それにしても少ない。
ミチシゲの表情も固い。何か緊急事態でも発生したのだろうか。
「どうやらエリが動き始めたようなの」
銀の蝋燭受けに置かれた四本の蝋燭がジリジリと燃える。
白い蝋燭。黒い蝋燭。赤い蝋燭。青い蝋燭。
その四色がECO miniを象徴する色だった。
蝋燭はミチシゲの息吹を感じながらゆらゆらと揺れる。
- 428 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:48
- 「フォースの方に例のマリィという女が再び現れたという報告が入りました。
そして―――その報告を最後にイシカワさんと連絡が取れなくなったの」
生真面目な性格のイシカワは、毎日必ず電話で本部に連絡を入れていた。
そして週に一度はこの神社にやってきて、ミチシゲに直接報告を行なっていた。
毎日繰り返される「異常ありませんでした」という無機質な報告。
誰もがフォースに対する興味と警戒を失っていた。隙を突かれた感は否めない。
「では早速、人を送って―――」
「もう送ったの。増援を二回に分けて送ったの。一回目は二人。二回目は四人。
みんな一騎当千の強者よ。そこいらのヤクザ組織なら一人で潰せるほどのね。
その六人が六人とも連絡を断ちました。いまだ死体すら見つかっていません」
ようやくミツイとコハルにも、ミチシゲが漂わせている緊張感の意味が理解できた。
ECO moniの連絡員六人をまとめて闇に葬り去ることができる。
そんな芸当ができるのは普通の人間ではない。
相当な力を持つキャリアか―――
あるいはミチシゲ達と同等の力を持つ―――カメイエリしかいなかった。
- 429 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:48
- 「で、ミッツィー、エリの方の動きはどうなの?」
ミツイはずっとカメイエリに張り付いていた。
その行動は逐一把握している。
「えーっと、カメイさんが直接接触した人間は三人いました。
一人は中年の男。この男がテラダであることは間違いありません。
あとの二人は若い女です。二人ともかなり小柄。そのうちの一人が、
イシカワさんが言うところのマリィという女に、かなり似ています」
ミツイは懐から一枚の写真を取り出してミチシゲに渡した。
隠し撮りしたとは思えないほど鮮明に、一人の少女の顔を真正面から捉えていた。
幼い顔に濃い化粧。そのアンバランスさが女の魅力をひどく歪なものにしていた。
「今日はイシカワさんに会ってその写真を見てもらう予定だったんですが・・・・・」
「確かにイシカワさんが言ってた特徴に当てはまる女ね。それでもう一人は?」
ミツイはもう一枚、写真を取り出した。
丸い頬をした、どことなく田舎臭い顔をした女がそこに写っていた。
マリィが年齢以上に老けた印象を与える顔だとしたら、
その女は逆に年齢以上に幼い印象を与える顔だった。
- 430 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:48
- 「誰? この人?」
「はあ、それを探らせようと思って、何人かをこの女の尾行に当てたんです。
そのメンバーから、今日その報告を受ける予定だったんですが・・・・」
「そのメンバーも連絡を絶ったと?」
「残念ながら。そうかと・・・・・・」
キリキリキリキリ・・・・・・・・
ミチシゲが歯噛みする音が静謐な空間に響いた。
ミツイは驚いてミチシゲの顔を見る。その顔には、はっきりと憔悴の色が見て取れた。
常に冷静さを失わないミチシゲにしては極めて珍しいことだった。
確かにミチシゲは小さくない衝撃を受けていた。
S.Sをカメイに盗み去られて以来、ずっと不利な立場だったことは間違いない。
イニシアチブを握っているのは、常にカメイの方だった。それはわかっている。
だが少なくとも組織の「力」においては、こちらが優勢であると思っていた。
カメイが頼ったテラダの組織など、ECO moniの頑強な組織力を持ってすれば、
紙で作った城のように一触で粉砕できると思っていた。
それが今はどうだ。完全に立場が逆転しようとしている。
切り札はあちらに握られ、情報収集でも遅れを取り、
さらには尾行や斥候などの軍事行動においてまで敗走を重ねることになるとは。
このままでは―――組織の存続すら危うくなってくる。
- 431 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:48
- 動揺を隠せないミチシゲの気を逸らすように、ミツイが言った。
「なあ、コハル。テラダの方はどうや。なんか動いたか?」
ミツイはカメイの動きを追うことで精一杯だった。
テラダの方の監視はコハルに一任している。
「ほーい。テラダさんは結構あちこちちょこまかと動いてます。
うちもですが、向こうの組織も全然人が足りていないみたいですねー。
テラダさんはどうも麻薬組織のことを色々調べているみたいです。
麻取の本部の人間にも結構ちょっかい出してますね。
何を調べているかというと『GAM』という組織のことについてです。
どうやらそこにウイルスの投与を受けた被験者がいるみたいです」
「被験者? 誰や?」
「テラダたちは『3番』って言ってたから、多分イイダカオリのことじゃないかと」
テラダたちは既に『1番』のナカザワユウコの体を手に入れている。
このままいけば『3番』のイイダカオリの体すら奪われてしまうかもしれない。
それだけは何としても阻止しなければいけない。
それを阻むことこそが「ECO moni」という組織の存在意義だった。
「もうあまり時間は残されていないのかもね・・・・・・・・」
ミチシゲがぽつりとこぼした。
力無い言葉ではなかった。むしろある種の覚悟を秘めた言葉だった。
- 432 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:49
- 「もうのんびりしていられない。エリを直接殺るしかない」
ミチシゲの覚悟を込めた言葉を前に、ミツイもコハルも沈黙した。
一つ間違えばS.Sが完全発動してしまい、この世界が終わるかもしれない。
だがミチシゲの言うように、もう時間が残されていない可能性もある。
今できる最善のことを成すべきなのかもしれない。
「エリはあたしが殺ります。ミッツィーとコハルはテラダをお願い」
「そんな! ミチシゲさん一人じゃ無理ですよ!」
「無理じゃないの! あたしがエリに負けるとでも思うの!?」
「でも! 万が一負けたらそのときは」
「まあ、待てやコハル」
ミツイはコハルとミチシゲの言い合いに割って入った。
ミチシゲのカメイに対する対抗意識は半端なものではない。
生まれた時から共に修行し、共に同じ運命の道の下を進むと誓い、そして裏切られた。
ここでミチシゲが大人しく引き下がるとは思えない。
「ねえ、ミチシゲさん。カメイさんを誰が殺るかはともかく、テラダの方やけど」
「なに?」
「テラダの方はキャリアでも何でもないただのおっさんや。
格闘技の経験もないし、銃器の扱いにしてもド素人。
そんなヤツが相手やったらあたし一人で十分やと思うねんな」
確かにミツイは並みの人間ではなかった。
一人でも一つの非合法組織を潰すことなど容易いことだった。
- 433 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:49
- 「そういうわけで、テラダはあたし一人で殺りますから、
コハルはそっちに回してもええんとちゃいますか?
もしS.Sを使うことができるとしたら、それはテラダやなくてカメイさんや。
それやったら念の為にそっちの方に二人回したほうがええと思うんですけどね」
あくまでも穏やかな口調でミツイは提案した。
ミチシゲとて、このECO moniという組織の長なのだ。
こちらの言い分に筋が通っていれば、無理に自分の意見を押し通すことはしないだろう。
ミツイは、後はミチシゲの理性的な判断に任せた。
コハルは気が気ではないといった感じで話を聞いていた。
テニスのラリーを見ているかのように、首を左右に振りながら、二人を見ていた。
自分はいつも激しく口論することなど平気なくせに、いざ自分以外の人間が
そうしているところを見ると、なぜか狼狽してしまうのがコハルという人間だった。
「あのー、ね、みんな仲良く・・・・」
「わかった。ミッツィーの言う通りにする。あたしとコハルはエリを、
ミッツィーはテラダを。それぞれ同時に仕掛ける。それでいいわね?」
「了解しました」
まだ何か言いたそうなコハルを残して、四本の蝋燭がフッと消えた。
- 434 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:49
- ☆
- 435 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:49
- 「ねえ、マリィさん。フォースの経営は順調ですって。ホント何しに来たんすか?」
「あ? うるせーな。お前の知ったことじゃねーよ」
「あのですねえ。いきなり来て無茶苦茶なことされると困るんですよ、こっちも」
「黙れよ。誰がここのオーナーだと思ってんだよ? あ?」
マリィの機嫌はすこぶる悪かった。
テラダやカメイに便利屋扱いされていることがひたすら我慢ならなかった。
手がかりもなしに「イイダを探せ」などと、砂漠に落ちた針を探すような難問を押し付けておき、
僅かな期間でそれが果たせないとなると、問答無用で能無しの烙印を押す。
そして次に与えられた任務が「イシカワを足止めしろ」だと?
フォースのオーナーという地位にある人間には簡単すぎる任務だった。
簡単過ぎて屁が出た。こんな仕事しかできない人間だと思っているのだろうか?
馬鹿にするにもほどがある。ヤグチの体は、芯まで痺れるような怒りに満ちていた。
カゴが「無茶苦茶なこと」というのも無理なかった。
マリィは突然フォースに現れたかと思うと、
「イシカワに裏切りの疑いあり」と言っていきなりイシカワを軟禁してしまった。
詳しい説明は一切なかった。全く筋の通らない暴挙だった。
下の人間たちの反発たるや凄まじい。カゴに対してまで批判が出始めていた。
それぐらいならまだカゴにも押さえが利くが、
何よりもヨシザワがマリィに対して疑念を抱き始めていることが怖かった。
あいつだけは―――敵に回したくなかった。
- 436 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:49
- 「とにかく、嘘でもなんでもええですから、イシカワが裏切り者っていう証拠を」
「うるせーなー。それを何とかするのがお前の仕事だろ!」
アホかこいつ。そんなんあたしの仕事とちゃうわ。
カゴは心の中で舌打ちをした。
だがこのまま放っておくわけにはいかない。
もしヨシザワが動き出してマリィの身辺にに探りを入れるようなことになれば、
ナカザワとツジをはめたことが露呈しないとも限らない。
カゴは必死で妙案をひねり出そうとした。だがなかなか上手い案が思いつかない。
イシカワとヨシザワは相当仲が良い。
よほどはっきりとした証拠がないと、ヨシザワは納得しないだろう。
半端な工作では逆効果になりかねなかった。
「嘘でもねえ・・・・・おい、カゴ。お前、信じてないだろ」
「は? 何をですか?」
「イシカワが裏切り者だっていうことさ」
「はあ? マリィさん、何言ってるんですか?」
「まあいいさ。黙ってあたしのやることを見てな。そんなに時間はかからない」
マリィはそういってニヤリと笑った。
いつもの下品な笑いとはまた違った、深い傷跡のような凄絶な微笑みだった。
- 437 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:49
- ☆
- 438 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:50
- マリィは不本意ながらもカメイの指示に従うことにした。
カメイの案が優秀だからではない。他の案を考えるのが面倒臭かったし、
何よりも、カメイの案を採用すれば思う存分暴れまわることができるからだった。
とにかく今は、能力を全開にして暴れたい気分だった。
何もかもぶち壊してやりたい気分だった。
フォースの入っているビルの隣の建物に、イシカワは軟禁されていた。
軟禁といってもさほど警備が厳重なわけではない。
あえて容易く侵入できるような、ゆるい警備体制を敷いていた。
暗い路地の奥の、その建物の入り口が見える場所に、ヤグチは陣取っていた。
陽はすっかりと落ちてあたりは暗闇に沈んでいる。
この通りには街灯など一つもない。
並みの人間であれば1メートル先も見えないほどの深い闇だった。
ヤグチの横にはカゴとヨシザワがいた。二人の気配の消し方は見事なものだった。
やっぱりこいつらも只者じゃねえな。
ヤグチは変なところで二人に対して感心して思わず笑みを漏らした。
だがカゴとヨシザワはそんなヤグチの微笑みを疑念の目で見ている。
店のことなどカゴに任せっきりで、ほとんど顔を出していなかった、
この新参者のオーナーの言うことがどうしても信用できなかった。
- 439 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:50
- 「なあ、ヤグチさん。本当にリカちゃんが裏切ってると思ってるの?」
「知らねーよ」
「ちょっと!」
ヨシザワが思わず声を荒げる。ヤグチがおどけて人差し指を唇に当てる。
だがそんな仕草を見てもヨシザワが声を落とすことはなかった。
「知らないじゃないでしょ。何の理由もなくリカちゃんを軟禁したの?
だいたい、リカちゃんが裏切って何をするっていうんですか。
フォースを乗っ取るとでも? そんなことできるわけないでしょ?」
カゴは顔を真っ赤にしてうつむく。吹き出しそうになるのを懸命に堪えた。
ヨシザワの言い分が、アホらしくておかしくて仕方なかった。
乗っ取るのが無理? 何言うてるねん。アホちゃうかこいつ。
そうやってヤグチに店を乗っ取られたのはどこのどいつやねん。
「だから目的は知らないって。ただイシカワが変な組織とつるんでるのはマジだって。
あいつの背後に変な組織がついていて、イシカワがそこに情報を流してるんだよ。
確かな情報なんだよ。だからそれを確かめるためにこうやって張ってるんだろうが」
それもこれもカメイの指示だった。
イシカワを軟禁状態においてECO moniとの連絡を絶てば―――
必ずECO moniの方から連絡員を遣して来るだろうと。
ECO moniの遣り方を熟知したカメイの予想は―――見事に的中した。
闇の彼方から微かな気配が漂ってきた。
- 440 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:50
- 漂う気配は二つあった。
二人の人間がゆっくりとこちらに向かってくる。
それも綺麗に気配を消して。明らかに普通の人間の歩き方ではない。
先ほどまで無駄口を叩いていた三人の体は即座に戦闘モードに切り替わった。
まず最初にヨシザワが動こうとした。
だがその動きをヤグチが押し止める。
その場にいたヨシザワとカゴにだけかろうじて聞こえるような小声でヤグチが言った。
「まだ早いよ。あいつらがイシカワと接触したことを確実に抑えてからだ。
あいつらの口を割らせるのはその後の方がいい。おい。カゴは裏に回れ。
あたしは正面玄関を押さえる。ヨシザワはあたしのフォローに回れ」
ヤグチはそれだけ言うと返事も待たずに闇に消えた。
一呼吸置いてカゴとヨシザワも同様に闇に消えていった。
- 441 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:50
- 5分ほどしてから二つの気配は建物から出てきた。
あの建物の中にはイシカワ一人しかいない。
二人の人間がイシカワと接触するためにやって来たことは、もはや明白だった。
これはなんなの? あいつらは誰? リカちゃんって―――何者?
ヨシザワの中ではいくつもの疑問が渦巻いていた。
ヤグチの言い分を疑うことは、もうなかった。
その疑念は、今は全てイシカワに向けられようとしていた。
この世のすべてを見通しているかのような彼女の瞳は一体何をみているのだろう?
それはあたしにも見えるもの? 一緒に見ることができるもの?
ヨシザワは答を問うのが怖かった。イシカワに問うのが怖かった。
自分が予想もしない答が返ってくるような気がした。
だからといってこのまま見て見ぬ振りをすることはできない。
解決の糸口すら見えないような難問にぶつかったとき、
ヨシザワはいつだって立ち止まるよりも前に進むことを選ぶ人間だった。
今回も考えるよりも先に体が動いていた。
「あたしのフォローに回れ」というヤグチの指示を無視して、
ヨシザワは無造作に二つの気配の前に身を晒した。
駆け引きはしない。ただ真っ直ぐに、訊きたいことをヨシザワは訊く。
「あんたたち、誰?」
- 442 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:50
- 二人は真っ黒なレインコートのようなものを着ていた。
コートは異常に長い。丈はくるぶしのあたりまでの長さがあった。
顔の下半分は黒いマフラーのようなもので覆っている。
そして黒いサングラスをしており、目の光がどこに向いているかはわからない。
ぞくり。
ヨシザワは感じた。この二人の視線が自分に向けられていることを。
同時にこの二人が只者ではないことにも気付いていた。
そのコートの下にあるものが、筋肉ではなく鋼鉄だとしても驚かないだろう。
それほどまで鍛えられた筋肉が、コートの下から乱暴に自己主張していた。
あたし一人だったらやばかったかもな。
相手の圧倒的な力量を目の当たりにして、ヨシザワの頭に冷静さが戻った。
ここはヤグチかカゴのフォローを待つのが賢いのかもしれない。
いつでも逃げられるように。それでいて相手は逃がさないように。
そんな間合いを保つことが必要だった。
ヨシザワは前にも後ろにも動けるようにと重心を保ちながら、
じっくりと相手の動きを観察した。
だが不思議と二人の黒コートからは、殺気のようなものが感じられなかった。
それどころか、一瞬の当惑をヨシザワに晒し、
二手に分かれて一目散にその場から退散しようとした。
攻撃のことなど微塵も考えていない動きに、ヨシザワは意表を突かれた。
- 443 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:50
- しまった。
彼らの目的はフォースのメンバーの暗殺ではないのだ。
イシカワから何らかの情報を受け取りに来ただけあなのだろう。
相手を倒すのではなく、まず確実に帰還する。それだけを考えた動きだった。
そうなると相手は二人だ。ヨシザワ一人では確実に手に余る。
どちらか一人をカゴかヤグチに任せて、あたしはどちらか一人を。
そう考えている僅かな間にも、電撃的な速さで動いた黒コートの二人は、
あっという間にその姿を闇の中に溶け込まそうとしていく。
ヤバイ逃げられる―――と思ったヨシザワの耳に、ヤグチの絶叫が響いた。
「待てやこらああアアアァアァァァアアアアアア! 待て待て待て待て待てえ!え!え!え!え!え!え!」
熊手で心臓を抉るような、重く鋭い声だった。
ヤグチの声は何重にも重なりながら、それを聞く者の神経をガリガリと削った。
その場にいたヨシザワは胸を押さえて倒れた。
声が耳から入るのではなく、直接体に襲い掛かって来るような感覚だった。
そのとき、建物の二階部分からパッと明るいライトが照らされた。
裏手から建物に入ったカゴが点けたものだった。
ライトの光が逃げようとした二人の侵入者を照らし出す。
二人ともヨシザワと同じように、胸を押さえて地面にうずくまっていた。
- 444 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:50
- ヤグチの声が一瞬止んだ。
ヤグチはすたすたと歩いて倒れているヨシザワを追い越していく。
うずくまっている二人の黒コートの足元まで歩いていった。
ヨシザワは顔を上げてヤグチの背中を見た。
子供のような小さな背中がそこにあった。だがそこから発される殺気が尋常ではない。
まるで湯気のようにたゆたう殺気が、ヨシザワの目にはっきりと見て取れた。
背中を向けているヤグチの顔は見えない。だが見えないからこそ怖かった。
一体どんな顔をしているのだろう。
どんな顔をすれば、ここまでの殺気が放てるものなのか。
ただの雇われオーナーではない。
間違いなく彼女はキャリアだ。それもずば抜けた能力を持つキャリアだ。
まさかヤグチがここまでの力を持っていたとは思わなかった。
まだ痺れが消えぬ胸を押さえながら、ヨシザワは驚愕の面持ちでヤグチの姿を見つめた。
「誰だよおめーら。人ん家に勝手に土足で上がりこんでよ、挨拶もなしか? あぁ?」
ヤグチは普通に喋っているだけだ。だがその言葉の一つ一つがとてつもなく重かった。
まるで砲丸のようにずっしりと聞き手の鼓膜に重みと痛みを押し付けてきた。
ヤグチの背後にいるヨシザワは、脂汗を流しながらも、かろうじてその重さに耐えた。
だがヤグチの声をまともに受けて痙攣している二人の男は、
もはや意識を保つことすら難しそうだった。
- 445 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:52
- 確かにヤグチはキャリアだった。
声帯が異常に発達しているキャリアだった。
その声帯から発せられる音波の圧力は凄まじく、人体に物理的圧力を加えるほどだった。
音の波は空気を震わせ、強烈な波動となって相手に襲い掛かる。
「いらああああああああつくううううううううぜえええええええええ」
それだけではない。ヤグチの声は、対象者の脳に直接「介入」した。
ヤグチの異常声帯から発された音波は、相手の脳内でダイレクトに映像化された。
相手の神経受容体を破壊し、神経伝達を狂わせ、神経細胞の髄の髄まで『干渉』した。
まだまだ不完全な能力だったが、その作用機構は人体の生理能力を遥かに超えていた。
「泣けよ。喚けよ。泣いて己の無力を晒せ。醜態を晒せ。笑わせてくれよあたしを。
思う存分さあ! 泣け泣け泣け泣け泣け泣けなけええええなえけええええええええ」
「泣け」というヤグチの叫びに突き刺された二人の男が地面をのたうちまわる。
頭蓋骨が内側から砕かれるような痛みが走った。
「泣け」「泣け」「泣け」「泣け」「泣け」という言葉が脳から膿のように湧き出てくる。
強烈な物理的圧力を受けた脳は、狂ったように「泣け」という言葉を行動に変換した。
二人の男は泣いた。動脈を切ったときの血流のような勢いで、涙が涙腺から射出した。
二人の肉体は、目から水鉄砲を放つ、滑稽な生きた玩具と化した。
ヤグチはそれを見てヒャハハハハと笑う。
その笑い声は暗いビル街を貫いて、信じられないくらい遠くまで響いた。
- 446 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:52
- ヨシザワの目からも、ぼろぼろと涙が出てきていた。
ヤグチの声が直接作用しないだけ、まだ効果が薄いらしい。
だが耳を塞いでいても、ヤグチの声を完全に遮ることはできなかった。
ヤグチの声は、耳ではなく頭脳に直接響くのだと、感覚的に理解できた。
そしてヨシザワはヤグチの能力に戦慄した。
あたしはこの人には勝てないかもしれない。
それはヨシザワが初めて抱いた、真の敗北感だった。
ヨシザワはさして自信家というわけではない。
自分より力が上の人間などいくらでもいると思っていた。
だがそう思うことと実際に目にすることは、天と地ほども違っていた。
ヨシザワは敗北感を抱いて初めて気付いた。
自分がいかに自分の力に溺れていたかということに。
自分がいかに自分の力を過大評価していたかということに。
そしてその評価が覆ったときに、いかに自分が傷つくかということに―――
夜の闇を引き裂くようなヤグチの笑い声は、どんどん高まっていく。
不意にヨシザワの肌がカッと熱くなった。
海辺の強い日差しを受けたときのように、肌がほんのりと赤くなっていく。
必死で耳を塞ぎ続けるヨシザワの耳に、ヤグチの金切り声が響いた。
「燃えろよ」
- 447 名前:【診断】 投稿日:2009/09/24(木) 23:53
- ヤグチはもはや二人の男に対する興味を失っていた。
いや、興味など最初からなかった。
カメイは、やってきた連絡員を捕らえてこちらに渡せと言っていた。
イシカワの背後にある組織のことを詳しく知りたいらしい。
だがヤグチにはそんなことはどうでもよかった。知ったことではなかった。
これはあたしの獲物だ。あたしが楽しむ。カメイに楽しむ権利なんかねーんだよ。
背後関係を知りたい? 知らねーよバカ。調べたければ自分で調べろウスノロが。
お前なんかに何一つ渡すもんか。全部消してやる。この世から、残らず、全て。
「燃えろ。いらねーんだよお前らなんか。カス野郎が。燃えカスになっちまえ。
さあ、綺麗な色で。燃えろ。燃えろ!燃えろ!もえろもえろもれろもえれもれももぇおめおぁ!」
ヤグチの声を受けて二人の男の肌が異常に発熱した。
男達の感覚受容体がオーバーロードを始めていた。
神経内を行き交う情報伝達物質の速度は、タンパク質の耐久強度を遥かに超え、
肉体を内側から燃やす。肉体が擦り切れ、燃え上がると、周囲に肉の焦げる嫌な匂いが漂った。
燐を帯びた青い炎が立ち上がり、二人のレインコートあっという間に溶かしていく。
やがて青い炎は二人の背丈を越えて大きく燃え上がり、その肉体を燃やし尽くした。
人体発火現象。その輝きは一瞬であり、その終わりは唐突だった。
人魂のような青い炎がすっかり消え失せたとき―――
焦げたアスファルトの上には、膝から下だけ燃え残った足が一本、
ごろりと転がっているだけだった。
- 448 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/24(木) 23:54
- ★
- 449 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/24(木) 23:54
- ★
- 450 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/24(木) 23:54
- ★
- 451 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:25
- ヨシザワは、イシカワに話を聞きたがったが、ヤグチはそれを許さなかった。
イシカワを軟禁してある部屋は防音が施してある。
外のやり取りは、中には聞こえていないはずであり、
イシカワは黒コートの男達が死んだことを知らないはずだ。
ヤグチはまだもう少し様子を見ろと命令した。
「特にヨシザワ。お前はこのことを絶対にイシカワに言うなよ。いいな。
お前は『イシカワの唯一の味方』になるんだ。そういう演技をしろ。
あくまでもイシカワは『我侭オーナーの理不尽な命令で軟禁されている』
ということにしろ。あたしたちはまだイシカワの本当の正体に気付いていない。
イシカワにはそう思わせておくんだ。いいな。あえて隙を見せておくんだ。
まだイシカワの方が優位に立っていると、イシカワにはそう思わせておけ」
オーナーの命令は絶対だった。
実際にイシカワと密会している勢力がいると確定した以上、
もうヨシザワには勝手に自分の判断で行動することは許されなかった。
カゴもヤグチの案に賛成した。
フォースの従業員に対しては、ヤグチが悪役に回ってイシカワを叩く。
ヨシザワが正義の味方役になり、従業員とイシカワを宥める。
カゴがその間に入ってバランスを取る。
しばらくはそうやってイシカワの様子を見ることになった。
- 452 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:25
- イシカワの監視はヤグチ、カゴ、ヨシザワの三人で続けた。
いずれにしてもあれほどの手練を送られては、キャリアである三人しか応対できない。
他の従業員はイシカワの監視から外すことにした。
その後、一度だけ同じような男達が4人やってきた。
ヤグチは男達を捕らえて吐かせるなどという生易しい方法は取らなかった。
あの時と全く同じように、ヤグチはその声で4人の男を焼殺した。
その時はイシカワと接触することすら許さなかった。
接触する前に、有無を言わさず殺した。カゴとヨシザワの出る幕など全くなかった。
その4人を燃やし尽くしてからは、怪しい動きは一切なくなった。
そのままただ悪戯に時間だけが流れていく。
膠着状態を前にして、ヨシザワは強い苛立ちを感じるようになった。
- 453 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:25
- だがヨシザワ以上に短気なはずのヤグチは、一切苛立ちを見せない。
ヤグチとしては、ただイシカワを足止めしておくだけでいいのだ。
与えられた任務はただそれだけであり、背後関係などは全く興味ない。
今の状態が続いてイラつくのは自分ではなくカメイ。
ヤグチはそんな他人任せなことを考えていた。
ゆえに、むしろこの膠着状態を楽しんでいるようなところがあった。
ただ、ヤグチは以前からヨシザワとイシカワの仲が良いことが気に入らなかった。
強い力を持つ二人のキャリアが連帯することに危険を感じていた。
これを機に二人の仲を微妙なものにしておくのも一つの手かなと思っていた。
だからヨシザワがイラついていることを知りながら―――あえてイシカワの世話を命じた。
ヨシザワに『イシカワの唯一の味方』という演技を続けさせながら。
- 454 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:26
- 「よう、リカちゃん。元気してる?」
三度の食事を運ぶのも、いつしかヨシザワの役目となっていた。
誰にでもできる仕事だ。フォースの重鎮であるヨシザワがやる仕事ではない。
なぜヨシザワにそんな仕事を続けさせるのか。
ヤグチやカゴに対する従業員の不満は、日に日に高まっていた。
「ありがと、よっすぃー。いつもゴメンね」
軟禁生活も二週間目に入っていた。
いつも無駄に元気なイシカワの顔にも、さすがに疲れが見え始めている。
そんなイシカワの顔を見て、ヨシザワは声をかけようと口を開くが、
その目に、天井に設置された監視カメラがちらりと映った。
カメラの向こうにはヤグチがいる。カゴがいる。
無機質なレンズを通して、与えられた仕事を果たせと無言の圧力をかけてくる。
- 455 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:26
- 「監視カメラかあ・・・・酷いよね、これ。プライバシーないじゃん」
「しょうがないよ。疑いはまだ晴れてないみたいだし」
「疑いなんて最初からないじゃん! なんの証拠もないじゃん! おかしいよ絶対」
「ありがとよっすぃー」
イシカワは無理に笑顔を作った。フォースの批判をするヨシザワは見たくなかった。
たとえその矛先が、ヤグチに向けられていたとしても。
何もしていないのに、悪いのは全部自分のように思えて仕方なかった。
自分のせいでヨシザワのフォースへの思いが変わってしまうのが嫌だった。
ほんの少し前のヨシザワだったら、そんなことはあり得なかったのに―――
「気にしないで。あたしは大丈夫だから」
「あたしは信じてるから。リカちゃんが裏切るなんてそんなことありえないよ」
「ホントありがとう。そう言ってもらえるだけですっごい救われる・・・・・・」
ヨシザワは真っ直ぐにイシカワの瞳を見つめる。
とても嘘を言っているようには見えなかった。
嘘を言っているように見えないことが―――たまらなく悲しかった。
- 456 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:26
- ヨシザワは気難しい顔を作りながら、監視カメラのコントローラーをいじる。
「点検、点検」とわざとらしい独り言を言いながら、パチンと電源を切る。
自嘲するような、それでいて少し寂しそうな笑顔をイシカワに向けながら―――
「失敗、失敗。カメラの電源切っちゃった」
「えっ?」
「これさあ、もしあたしがこのまま電源切ったことに気付かなかったら、
少なくとも1時間くらいは誰も気付かないんじゃないかな」
「よっすぃー・・・・・・急にどうしたの?」
わざとらしいヨシザワの演技だった。
この部屋には、監視カメラの他にもう一つ隠しカメラがある。
勿論、その先ではヤグチとカゴが、ヨシザワとイシカワとの会話を聞いている。
ヨシザワは血が出そうなほど強く唇を噛んだ。
そんなヨシザワを、イシカワは不安そうな目で見ている。
- 457 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:26
- ヨシザワに言葉を選ぶ権利はなかった。
全てマリが用意した言葉を使わなければならない。、
誰かに覗き見されていることを知りながらも、イシカワと話さなければならない。
悔しかった。恥ずかしかった。情けなかった。
それでいて、イシカワに対して疑いを抱いている自分がいた。
自分が何をすればいいのか、何をするのが正しいのか、ヨシザワは見失っていた。
考えに考えて、最後に残ったのは支離滅裂な思考の残骸だけだった。
そしてそんなもので―――相手と思いを通じ合わせることなどできるはずもなかった。
気付けよ。あたしが演技してるって気付けよ。
リカちゃん目がいいんでしょ? なんだって見える目なんでしょ?
きっと嘘なんてビシバシ見抜けるんでしょ?
だったらあたしの下手な演技なんて見抜いてよ。疑われてるって気付いてよ。
隠したいことがあるのなら―――ずっと嘘をついていればいいんだ。
- 458 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:26
- 「ねえ、よっすぃー。やっぱりヤグチさんはあたしのこと疑ってるのかな?
何か証拠があるのかな? 証拠じゃなくても噂とかあったのかな?
ヤグチさん、何も言ってくれないよ。あたしは一体どうすればいいの?
どうすればヤグチさんに信用してもらえるの? みんなに信用してもらえるの?」
うそつき。
心の底からせり上がってきた言葉は、ヨシザワの喉元で止まった。
あの黒いコートの男達は誰なの? リカちゃんは何のためにフォースに来たの?
次々と湧き上がってくる疑問も、ヨシザワの喉元で止まった。
問えない。問うことはできない。そして信じることもできない。
真実の言葉で会話することができない。心を開くこともできない。
そんな二人の間に流れる会話に、一体何の意味があるのだろうか?
それでもヨシザワは喋り続けなければならなかった。
「あたしが・・・・・もしあたしがヤグチさんを殺るっていったら?」
「え!?」
- 459 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:26
- 「もうヤグチさんにはついていけない。やること全部メチャクチャだよ。
もう一度フォースを、ナカザワさんが居た頃のフォースに戻したいんだ」
「そんな・・・・・そんなこと言わないでよ・・・・・」
「あたしが殺るって言えば、少なくともフォースの半分は動く。
もしそうなったらリカちゃんはどうする? 手伝ってくれる?」
ヨシザワは血を吐くような思いでそう言った。無理矢理そう言わされた。
屈辱だった。口の中が乾く。靴の裏を舐めたようなザラザラした感覚が舌に広がる。
隠しカメラの向こう側で、ヤグチがキャハハと高笑いをあげたような気がした。
「やめてよっすぃー。あたしはフォースを裏切ってはいない。自信を持って言える。
それが真実なんだから、ヤグチさんにもいつか必ずわかってもらえる日が来る。
だからヤグチさんを殺すなんて言わないで。フォースを壊さないで。お願い・・・・・」
イシカワは嘘を言っているようには見えなかった。
本気でフォースのことを案じているようにしか見えなかった。
そのことが再びヨシザワを―――たまらなく悲しくさせた。
- 460 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:26
- イシカワは嘘が下手な女だった。
何かを誤魔化すために時々吐かれるイシカワの嘘は、
誰の目にも嘘とわかるような幼稚な嘘だった。その幼稚さが今は微塵も見られない。
だからと言って―――イシカワの言葉が真実だとは思えなかった。
黒いコートの男は、実際にイシカワと接触したのだ。
そこで何かがあったのだ。ヨシザワの知らない何かがあったのだ。
それがとても悲しかった。
これまでイシカワがついていた幼稚は嘘は―――
嘘をつくという行為そのものが嘘だったのだろうか。
いつか必要となる、より大きな嘘をカモフラージュするための。
不信感が不信感を呼んだ。あり得ないことにまで疑いが向く。
中身のない蜃気楼のような疑念が、ヨシザワの心の中で際限なく膨らんでいった。
- 461 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:27
- あの黒いコートの男は誰なの?
リカちゃんとあの男達は何をしようとしているの?
ヨシザワは心の中で何百回もイシカワに問うた。
それを問えば全てが解決するような気がしたが、口に出すことは許されなかった。
問うことを禁じたヤグチのことを恨んだ。
だがヨシザワの口から出てきた言葉は、それとは全く違う言葉だった。
その言葉は、間違いなく今のヨシザワの本心だった。
「わかった。あたしはもう、フォースを壊すようなことはしない」
壊すようなことをするヤツは許さない。
死をもってそれに報いる。
それがたとえ自分が好きな人間であっても―――
- 462 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:27
- ヨシザワは唇を薄く開けて、天を仰いだ。
固く閉じた瞳の中に浮かんだのは、自ら手にかけた友の、最後の姿だった。
あの日以来、一度も消えたことのない残像だった。
今、この心にある言葉を、決意を、一体誰に伝えればいいんだろうか。
この心に浮かんだ情景を、誰が理解してくれるんだろうか。
誰と共有することができるんだろうか。自分以外の一体誰と―――
ヨシザワの痛切な嘆きに応えてくれる人間は誰もいなかった。
少しずつ、少しずつ砂漠が広がっていく。
青々とした木々は朽ち果てていき、水は枯れ、大地は干上がっていく。
最初はあるのかないのかわからないくらい小さかった砂の地は、確実に広がっていく。
ヨシザワの心の中に、二度と消えない荒涼とした世界を作っていく。
渇きを増したヨシザワの心を潤してくれるものは、まだない。
それが何であるのか、ヨシザワはまだ気付いていない。
- 463 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:27
- ☆
- 464 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:28
- 大きなリュックを背負った浮浪者が一人、のたのたと街を歩いていた。
適当な場所で休憩しようと周囲を窺ったその目に、神社らしき建物が見えた。
ここらで一休み、と神社に近寄った浮浪者だったが、なぜかその手前で足を止めた。
「あれ? なんか嫌な感じだなあ、ここ」
背中を虫が這うような奇妙な感覚が浮浪者を襲う。
せっかく見つけた快適な空間を通り過ぎ、浮浪者は再び街へと流れていった。
(あーあ、あたしも焼きが回ったかなあ。さっきまで確かに見えてたのになあ。
幻覚っていうか蜃気楼だったのかな。まだ陽も明るいのにねえ。やれやれ・・・)
先ほどまでは、はっきりと見えていたはずの神社。
だが今は浮浪者の目には何も映っていなかった。
目の前にあるはずの神社を―――認識することができなかった。
- 465 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:28
- 浮浪者は脳裏から消えた神社の前を通り過ぎ、さらに先へと進んでいく。
当てなどなかった。
近くには浮浪者の溜まり場となっている所がいくつもあった。
だがその浮浪者はそういった場所を可能な限り避けていた。
彼女は自分を探している人間がいることを知っていた。
そしてその人間から身を隠す必要があることも、きちんと理解していた。
できるだけ一人きりになれる場所が欲しかった。
一人きりになれないのなら、もうしばらく歩き続けようと思った。
歩くことは苦痛ではない。物事を考えたり判断したりするよりは、ずっと楽だった。
声をかけられなかったら、本当にぶっ倒れるまで歩き続けていたかもしれない。
「マコ。探したよマコ」
- 466 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:28
- マコと呼ばれた浮浪者は、声をかけられた瞬間、脱兎のごとく駆け出した。
とても大きなリュックを背負っているとは思えないほどの、俊敏な動きだった。
通りから通りへ、路地から路地へと、どんどん狭い方へと駆けていく。
背後から追ってくる気配が消えたところで、マコはようやく一息ついた。
息を整え、取り出したペットボトルから、一口水を飲んだ。
「マコさん、久しぶりデス」
水が喉に詰まり、気道に入る。げほげほとむせる。
全く気配を感じさせずに、真後ろからいきなり声をかける。
それがJJのクセだったが、何度味わっても慣れることはなかった。
「JJ! どこ行ってたんだよ! ずっと探してたんだよ!」
アヤやミキを含むGAM本隊が襲撃を受けて姿を消してから、
分隊であるマコは本隊に対して一切連絡を取らなかった。
非常事態の時は絶対に連絡を取らないこと。それがGAMのルールだった。
- 467 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:28
- だからマコは、同じく分隊の一つを預かっていたJJとLLを探した。
だがJJとLLも、本隊と時を同じくして姿を消していた。
仕方なくマコはNothingと共にあてもなく街をうろついていた。
そのうちNothingが体調を崩して寝込んでしまった。歩ける状態ではなかった。
そこでマコは、とりあえずNothingが落ち着ける新しい寝床を探すことにした。
そんなときにバッタリとJJと鉢合わせたというわけだ。
マコがJJにそんなことを話していると、向こうから見覚えのあるシルエットが近づいてきた。
その表情がはっきりと見える前に、歩き方で不機嫌なことがわかった。
そんな面倒臭い歩き方をする人間を、マコは二人知っていた。
一人はミキ。そしてもう一人は―――
「なんよ、マコ。あたしのこと忘れたん? 声かけるなり逃げるなんてひどくない?」
同じ組織の人間でもないのに、やけに馴れ馴れしい話し方をしてくる。
そして普通に喋っているのに、どこか押し付けがましいニュアンスが滲んでくる。
タカハシアイの喋り方は、以前と全く変わっていなかった。
なぜタカハシアイがあたしのところに―――
- 468 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:28
- マコは表情を曇らせた。確かにタカハシは大事な取り引き相手だ。
だがそれ以前に、彼女は麻取でもあるのだ。
いつなんどきこちら側と対立することになるかもしれない相手だ。
彼女との付き合いには細心の注意が必要とされた。
そして今、GAMはマキという一人の麻取に追い詰められている。
同じ麻取であるタカハシが、敵なのか味方なのか。
判断を誤れば組織が潰れる。慎重に見極める必要があった。
「大丈夫よ、マコさん。タカハシサンはGAMの味方ネ」
「LL!」
JJの大柄な体の向こう側から姿を現した少女に、マコは再び驚かされた。
そういえばLLはJJといつも一緒にいた。今ここにいるのは不思議ではない。
それにしても、JJもLLもこれだけ近い距離にいるのに全く気配を感じさせない。
「あいつら色んな意味でヤバイから気をつけろよ。あんまり信用すんじゃねーよ」
いつかミキがそう言っていたことをマコは思い出した。
慎重にならなければならない。
最悪の出来事というものは、最悪の状況の時にやってくるのだ。
- 469 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:29
- 「マコ。GAMがマキさんに叩かれたっていうのは聞いたよ。
もっともあんたらのヘッドの『アヤ』ってのは生きてるらしいけどね」
「え!? 何言うのよいきなり・・・・・・」
「あー、もう隠さんでええで。GAMの頭がアヤっていう女だっていうことは
知ってるから。あとミキっていう女がいることも知ってるから」
マコはパクパクパクと口を動かした。言葉が出てこない。
なぜタカハシがGAMのトップのことを知っている?
JJとLLが喋った? いやまさかそんな―――
「JJとLLが喋ったんやないで。全部マキさんが調べたんや。
今はもう麻取の間では知れ渡っとることや。どうしようもないで」
タカハシは、GAMに関してはマキやニイガキと情報交換をしていた。
アヤが頭であることは教えたし、ミキが薬を作っていることを教えてもらった。
GAMにとってはトップシークレットなのかもしれないが、
知ってしまえば特にどうということのない情報だった。
- 470 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:29
- タカハシの言葉に衝撃を受けているマコに向かってLLが言った。
「まずいネ、マコさん。麻取サイドにかなりGAMの情報が流れてる。
なんとかしないとマズイね。どうする? どうする? どうする?」
JJも畳み掛けるようにマコに語りかけてくる。
「ねえ、マコさん。決めてくだサイ。このあとどうしますカ?
あたしたち、どうすればイイ? 命令してくだサイ。指令くだサイ」
マコは混乱に陥っていた。
とりあえず一人でも多くのメンバーと合流することしか考えていなかった。
JJやLLと合流すればなんとかなると思っていた。
あとは他の人が決めてくれると思っていた。マコは自分で考えるのが苦手だった。
だがJJとLLは全てをマコに委ねようとしている。
「あー、あー、あのー」
マコの頭はオーバーヒート状態だった。
そうなることを待っていたかのように、タカハシが助け舟を出した。
「とりあえず、そのナッシングっていう犬のいるところにいこうか?
落ち着いて話さないと、いつまでたっても考えがまとまらないよ」
マコはこくこくと首を縦に振ることしかできなかった。
- 471 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:29
- ☆
- 472 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:29
- タカハシは驚きを隠せなかった。
まさかナッシングという犬が、アヤが連れていたあの白い犬のことだとは思わなかった。
自分の臭いを覚えられていないかと冷や冷やしたが、
ナッシングはナッシングでそれどころではないようだった。
白く長い毛の下で何かがもぞもぞと動いた。
「うわあ! 生まれたぁ! いっぱいいる!」
マコが弾けるような歓声を上げた。
JJとLLも一瞬目を点にして向き合った後、ナッシングの元にしゃがみ込んだ。
「1、2、3、4、5! 5匹いまーす!」
「うわ、みんな黒い!」
「あ、こいつ1匹だけ白いデス!」
「ちっちぇー」
4人はこれまでの関係もこれからの思惑も忘れて、しばし可憐な子犬に見入った。
金のことや麻薬のことや個人的な恨みや胸に秘めた計画を忘れ、騒ぎ合った。
ちっぽけな5つの命には、それだけの愛らしさがあった。
黒い力を吹き払うかのような生命力に満ちていた。
だが勿論―――タカハシの思惑を完全に消すことはできなかった。
- 473 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:29
- 「黒かあ。黒かあ。うふふふふふ」
「なんですカ、マコさん。気持悪いデス」
「何か思い当たることでもあるですカ?」
「まあね。ナッシングもやるなあ。きっと父親は・・・・・」
「まあ、それはともかく、さ!」
しばらくの間続いた暢気な会話を打ち切ったのは、やはりタカハシだった。
太腿についた子犬の毛を振り払うと、タカハシは勢いよく立ち上がった。
「なあ、マコ。こっちも急いでるんよ。もしアヤが検挙されるようなことになったら、
あたしもお終いや。署から麻薬を横流ししてたことが間違いなくバレるわけやから。
わかるやろ? その前になんとしても、マキさんの情報をアヤに伝えたいんよ。
今のところGAMを追ってるのはマキさん一人やからな。マキさんの情報さえ
押さえていたら、あとはどうとでも対応できるやろ。JJとLLもそう言ってる」
タカハシの言葉を受けてJJとLLが頷いた。
JJとLLはアヤと連絡する術を知らなかった。
もしその術を知っている人間がいるとすれば―――思い当たる人間は一人しかいない。
それが連絡員のマコだった。
マコを焚き付けてアヤの動向を探る―――
一週間の猶予しかない以上、他の選択肢は考えられなかった。
- 474 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:29
- タカハシはマコの返事を聞く前から、マキの動向を勝手に喋り始めた。
今後の捜査の方針、予定。具体的な行動スケジュール。
全部嘘だったが―――そんなことは後からどうにでもなる。
今はマキと一緒に捜査をしているのだ。
こちらから情報を流してマキを動かすことなど簡単なことだと思えた。
タカハシは言うべきことを言い終えると、マコに背を向けた。
「そんじゃ、頼んだで」
イエスか、ノーか。マコの返答はあえて聞かない。
問い掛けを投げかけるだけで十分だと思った。
マコは自分の頭で考えるのが苦手な性格―――LLからはそう聞いていた。
あとはLLとJJが上手くやってマコの行動を誘導してくれることだろう。
あの二人にしてみれば、マコの精神に揺さぶりをかけることなど造作もないだろう。
そのためには自分はこの場にいない方がいい。
後でLLから携帯で連絡をもらうことにして、
タカハシはその場から立ち去ることにした。
- 475 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:29
- だが「キューン」という声に思わず振り返る。どの子犬が鳴いたのだろうか。
タカハシは5匹の子犬を見つめた。ナッシングのような、真っ白な毛をした犬が一匹。
そしてそれとは対照的に、闇のように深い黒をした犬が四匹―――
黒い犬になら、タカハシにも一匹思い当たる犬がいる。
そうか。マコが言っていたのはあの犬のことか。
こいつらは五匹は―――あの二匹の犬の子供になるのか。
そのときタカハシとナッシングと目が合った。
あのパーキングエリアでのアヤとのやり取りが記憶に甦る。
苦い思いがタカハシの心に湧きあがり、治ったはずの右肘がしくしくと痛んだ。
タカハシは自分からすっと視線を外す。
なぜかナッシングが小馬鹿にしたような目で自分を見たような気がした。
クソが。犬畜生が。
あたしは誰にも負けてない。誰にも劣ってない。そんなことは認めん。
バカにするやつは殺す。そんな目で見るやつは殺す。全員殺す。
俯きながら、タカハシは心の中で何度も想像した。
アヤの目の前で、あの毛並みの美しい白い犬の首を引きちぎるところを。
子犬も五匹いる。一匹一匹アヤの目の前で引き裂いてやる。できるだけゆっくりと。
赤子のように泣き喚くアヤの顔を想像し、タカハシはクスリと笑った。
- 476 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:29
- ☆
- 477 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:30
- 「で、マコさん、どうしますカ?」
マコは両手で頭を抱えてうずくまった。
アヤには連絡を取るなと命じられている。
だが、マキという只者ではない麻取がアヤに迫っていることも確かだった。
ミキがGAMの製造を行なっていることまで知られている。
これ以上ないくらいの緊急事態だと思えた。
だがアヤはこうも言っていた―――
「緊急事態だからこそ、基本的なルールを守るべきなんだよ」
GAMはもはや麻取によって丸裸に近い状態にされている。
それでもまだルールを守り続けていくべきなのだろうか?
これまでのマコだったらGAMのルールを破ることなどなかった。100%なかった。
アヤとミキのことを、これ以上ないくらい信頼していた。
ただ黙って二人の指示に従っていればよかった。
だが今は、そのアヤとミキに麻取の捜査の手が伸びようとしている。
それを阻むことができるのは、今自分が握っている、
マキの情報を有効に使える人間だけのような気がした。
自分は無理だ。自分にはあの麻取を止めることはできない。
- 478 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:30
- 「ねえ、JJ、LL」
「ハイ」
「なんですカ」
「この情報を使ってさ、二人でマキのことを暗殺できないかな?」
これはLLが事前に予想していた質問だった。
きっとマコならそうやって事態の収拾を二人に依頼するだろうと思っていた。
勿論、LLはこの事態を収拾する気など毛頭ない。
事前に考えていた答をさらっとマコに言った。
「できますよー。でも麻取を暗殺となるとアヤさんの命令が必要ですネ。
GAMのルールを無視して、勝手に暗殺行動を起こしたりはできまセン」
「ああああああ・・・・・・・」
ルール。ルール。ルール。ルール。
確かにそうだった。警察や麻取には絶対に手出ししてはいけない。
それもまたアヤが定めたGAMのルールだった。
それは、数多くあるルールの中でも、特に重要な一つだった。
この国では、公的機関に表立って楯突く非合法組織は生きていけない。
そんなことをすれば、警察はメンツにかけて、その非合法組織を叩き潰すだろう。
それはこの世界で生きる人間にとって、当たり前すぎる常識だった。
公的機関の人間を殺傷することなど絶対にできない―――アヤの命令なしでは。
- 479 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:30
- ルール。ルール。ルール。
マコは性格的に、絶対にルールを破れない人間だった。
だが今はどちらを選んでもGAMのルールに抵触してしまう。
ルールに従うことは、座してGAMの壊滅を待つことを意味した。
どうすればいい? どうすればいい? どうすればいい?
マコは自分の頭で考えることが苦手だった。
いくら考えに考えても、思考は同じところをグルグル回る。
マコは決断力に欠ける人間だった。一点突破型の思考ができない人間だった。
そんなマコに向かって、LLがすっと救いの言葉を投げかける。
そうなのだ。
人間の苦境に手を差し伸べるのは、いつだって神ではなく悪魔なのだ。
「マコさんはアヤさんのことを信頼していますカ?」
「もちろん!」
「じゃ、アヤさんに会いにいきましょう。そして全ての情報を差し出して、
アヤさんの指示を受けまショウ。アヤさんが指示を誤るとは思えまセン」
「でもそれじゃルールが!」
「アヤさんは、マコさんとルールのどっちを大事にしますかネ?」
- 480 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:30
- マコは口をつぐんだ。アヤはルールを守らない人間には鬼のように厳しかった。
その人間の人格を全否定するような叱責が飛んでくる。
マコ自身、死ぬような思いをしたことは一度や二度ではない。
だがマコはアヤが怖いからルールを守っていたのではない。
アヤのことを信頼していたからこそ、ルールを守っていたのだ。
全人格を否定されようが構わない。自分には失うものなど何もないのだ。
だがアヤから見捨てられることは怖かった。
こんな役立たずの自分の存在を認めてくれるアヤのために、何かをしたかった。
その機会を奪われることが何よりも怖かった―――
「それでアヤさんが怒るのなら、LLも一緒に怒られまショウ」
「JJも一緒にネ。怒られるくらいどーってことないネー」
JJのおどけた口ぶりにマコは思わず笑った。
確かにJJはいつもアヤに怒られてばかりいた。
怒られた回数でいえば、全メンバーの中でもダントツで一番だろう。
だがJJはいつもどこ吹く風といった感じで、アヤの怒りを受け流していた。
マコとはまた違った意味で、JJもまた失うものが何もないように見えた。
こういう人間は強い。自分も同じように強くなりたいとマコは思った。
- 481 名前:【診断】 投稿日:2009/09/28(月) 23:30
- 自分は深刻に考えすぎていたのかもしれない―――
マコの中で何かが吹っ切れた。とにかく今はGAMを潰さないことだ。
そうだ! アヤだっていつもそう言ってたではないか。
「全てはGAMの存続が優先する」と。
GAMの存続に全てを賭ける。マコの中で一つの揺ぎ無い行動規範が確立された。
今はそのために動いてみよう。自分の命を賭けてみよう。
それでアヤの怒りを買うのだとしたら―――甘んじて受け入れよう。
マコの心は決まった。
「よし。アヤさんとミキさんに連絡を取るよ!」
マコの決断を待っていたかのように、LLが言葉を続けた。
「じゃ、LLがマコさんのガードに入りマス。JJはここでお留守番。
ナッシングの世話役とタカハシサンとの連絡係をお願いしますネ」
「オッケー」
「それでいいですネ? マコさん」
「うん!」
重い決断をし終えたマコは憑き物が落ちたかのようなすっきりとした表情を見せた。
そしてその後ろでは―――JJとLLが、まるでマコから落ちた憑き物が
取り付いたかのような、凄絶な笑みを浮かべていた。
- 482 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/28(月) 23:31
- ★
- 483 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/28(月) 23:31
- ★
- 484 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/28(月) 23:31
- ★
- 485 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:18
- 一度決断を下すと、マコの行動は素早かった。
それまでの優柔不断っぷりが嘘のようにテキパキと動き、
あっという間にアヤ達の動きをつかんだ。
GAMの本部がマキに襲撃を受けてからおよそ二ヶ月が経とうとしていた。
本来ならもう「ほとぼりが冷めた」と言っていい時期かもしれない。
だがアヤの行動は慎重を極めていた。
情報収集のプロであるマコでなければ、その動きをつかむことはできなかっただろう。
そしてマコも、そんなアヤに負けないくらい慎重に行動していた。
もしもここでマキに尾行でもされていれば本末転倒だ。
そういった事態だけは、なんとしても避けなければならなかった。
「早く早く」と、苛立ちを隠さないLLに急かされながら、
ようやくアヤとコンタクトが取れたのは、マコが決断してから三日後のことだった。
- 486 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:18
- マコは念のためにJJに命令して、タカハシの動きを張らせることにした。
ここで尾行されるわけにはいかない。
とにかくタカハシだけはきっちりマークしておかねばならないだろう。
マコを利用してアヤの居所を探している人間がいるとすれば、
今現在、タカハシが最有力候補であることは間違いなかった。
「そんじゃ、明日、あたしはLLと一緒にアヤさんのところに行ってくるから。
JJは、タカハシがあたしたちを尾行していないかどうかチェックしといてね」
「オッケー、了解しまシタ」
JJは朗らかに笑ってそう答えた。
言われるまでもなく、タカハシもJJもマコの跡をつけるつもりはない。
そんなことは―――LLに任せておけばいいのだ。
- 487 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:18
- LLは既にタカハシを通じて、ナッチに対して既に
「アヤと接触する」ということを伝えていた。
ナッチが切った期限には余裕で間に合うことになるだろう。
どうやら4人とも命だけは助けてもらえそうな雰囲気だった。
タカハシやニイガキはそのことを無邪気に喜んでいたが、
LLの中にはまだ不安の種が残っていた。
あの女が―――あのナッチが、これではい、さよならよ、
と自分達をあっさりと解放するとは思えなかった。
何かまた新しい無理難題を押し付けられるのではないか。
今回以上の苦難を味わうことになるのではないか。
そういった確信に近い思いを抱いていた。
LLは自分の手首に浮き上がった薄青い血管をじっと眺める。
この血の中にナッチの血が流れているなんて、今でも信じられなかった。
- 488 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:18
- 確かに自分は、自分のボスとなる人間を探していた。
アヤでもなく、タカハシでもなく、
もっと自分の人生の全てを捧げられるような人間を―――
LLはずっと探していた。
だが、必死で探しながらもその一方で、
そんな人間は一生見つからないのではないかとも考えていた。
きっとそれは、理想の恋人を見つけることよりも難しいだろうから。
果たして探し続けていたその人間が、ナッチなのだろうか?
そんな気もするが、そうでない気もする。
どうすれば確かめられるのだろう?
誰が答えを持っているのだろう?
薄ぼんやりとした思いはなかなか晴れず、LLの心を落ち着かないものとした。
- 489 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:18
- ☆
- 490 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:18
- アヤたちは、とある私立高校に隣接している、
50メートルプールの底に身を潜めていた。
飛び込み競技もできるような立派なプールだった。
水は入っていなかったが、深さは5メートル以上あり、外からは全く見えない。
屋根も何もない施設だったので、マコもすんなりと入ることができた。
無理にこちらから接触したときにアヤがどういった反応を示すか、
LLは全く予想できなかったが、ミキがどういった反応をするかは容易に想像できた。
そして案の定、ミキは予想通りのリアクションをした。
乾いた藻が敷き詰められた、だだっ広いプールの底に、
パコーンという小気味良い音が響く。
- 491 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:19
- マコは叩かれた頭をさすりながら、弱々しく抗議した。
「ちょっとミキちゃんなにすんだよー。久しぶりに会うなりそれはないでしょー」
ミキは顔をしかめ、ひらひらと掌を振る。
まるで汚いものに触ったかのような仕草だった。
「うるせー、バカ。こういうときは軽々しく接触してくんなって、
いつも言ってるだろ。わかんないかなあ。ホントバカだなお前。
麻取に嗅ぎ付けられたらどうすんだよ。お互い即死だろ。
緊急事態のときこそ、慎重に行動をなあ・・・・・」
アヤからの受け売りのような言葉をずらずらと並べて、ミキは説教を始めた。
だが言葉の内容ほど態度は刺々しくない。
どうも本気で怒っているわけではないらしい。
なんだかんだ言って、この女はマコのことが好きなのだ。
この場にミキがいた幸運を、LLは心の中で素直に神に感謝した。
- 492 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:19
- 「もうそんくらいでいいよ、ミキたん」
「えー、マジで? ダメだよ。そんなこと言ったら、他のやつに示しがつかないじゃん!」
「あはははは。そうだね。マコには罰として、このプールの掃除でもしてもらおっか」
「それいいね。ここちょっと臭いしさあ。掃除は必要だよね。うん。それで決まり」
壊滅的な打撃を受けた組織の長とは思えないようなにこやかな笑顔で、
二人は空恐ろしいことをさらっと言ってのけた。
広大な50プールの底一面にびっしりと張った藻を見て、マコは顔を青くした。
だがLLはそんな冗談を真に受けたりはしなかった。
あくまでもさりげない口調で、話を元に戻す。
「マコさん、掃除はとりあえす後でしまショウ。それより大事な話あるでショ
そのためにマコさんは、GAMのルールを破ってここに来たんでショ?」
- 493 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:19
- LLの言葉を受けて、その場にいたGAMの残党がすっと集まった。
アヤ。ミキ。コンノ。カオリ。その他数名。
その場に居るメンバーを全員合わせても、10人にも満たなかった。
「そうだ! 大事なことを言いに来たんだった!」
背筋をピンと伸ばしたマコに対して、アヤは冷ややかな目で言った。
「まさかさあ・・・・・・・『Nothingが子供産んだよ!』
とか言いに来たんじゃないでしょうね?」
まるで雷に打たれたようだった。
マコはミキに叩かれたとき以上に大げさなリアクションを見せた。
「な・・・・なんでそのことを・・・・・」
広いプールに、先ほど以上のスパコーンという乾いた音が響いた。
- 494 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:19
- 「そんなこと言いに来たんじゃないでショ。もういいヨ。LLから言うカラ」
ミキに軽くしばかれたマコを押しやって、
LLが人の輪の中心に入り、アヤに麻取の捜査状況を説明した。
GAMのトップがアヤであること。
薬を加工する技術を仕入れたのがミキであること。
生き残った人員が何人程度いるのかということ。
そういったかなり詳細な部分まで、麻取が情報をつかんでいることを説明した。
さらに、捜査を行っているのがほとんどマキ一人であること。
薬の取引を行っている「タカハシ」という麻取がサポートについていること。
タカハシは保身のためにもGAMが壊滅することを望んでいないこと―――
等を一つ一つ、順を追って説明した。
そして最後に、タカハシから仕入れた、今後のマキの予定を伝えた。
話を進めていくごとに場の緊張感が高まっていく。
GAMという組織が、予想以上に追い詰められているということが明らかになった。
もう、相手が麻取だからとか公的組織だからとかは言っていられない。
殺るか、殺られるか。
そういった状況にあるのだという認識が共有されようとしていた。
だが―――
- 495 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:19
- 「気に入らないな」
アヤの言葉が、麻取の捜査状況に向けられたものでないということは明らかだった。
壊滅的な状態にある、己の組織に向けられたものでもなかった。
アヤは動物的な直感から、目には見えない「誰かの意思」が、
自分たちの動きをコントロールしようとしていることを察した。
それは目の前にいるLLのことではない。その言葉の向こう側にいる人間だ。
「そのタカハシってやつは何してるんだよ?」
その女が、かつて自分が叩きのめしたマキの部下であることは間違いないだろう。
そしてきっとタカハシも、アヤというのが
自分を叩きのめした女であることに気づいたはずだ。
それなのになぜGAMに協力しようとする? 己の保身のため?
本当にそれだけだろうか。
アヤの直感は大きな声で「ノー」と言っていた。
- 496 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:19
- 「大丈夫デス。タカハシさんのことなら、今はJJが見張っていマス。
麻取の方に変な動きがあったら、すぐに連絡が入るようになってマス」
ますます怪しい。
自分がタカハシの立場なら、必ずマコの後をつける。
絶対にGAM本隊の動きをつかもうとするはずだ。
それなのにタカハシは動かない。そこに何か―――何らかの作為を感じる。
タカハシの真意がどこにあるのかはわからない。信用もできない。
だが一つだけはっきりしていることがある。
タカハシは―――GAMとマキをぶつけようとしている。
ミキもそのことに気づいていた。
「要するにそのタカハシってのは、あたしらにマキを殺れって言いたいんだろ
そうすることで―――そのタカハシっていう麻取が何らかの得をするわけだ」
- 497 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:20
- コンノもミキの意見に賛成した。
「あたしもそう思います。それらしい情報を与えてこちらの行動を操作する。
あのタカハシっていう女の好きそうなやり方です。そこで重要になるのは、
タカハシにとっての「得」が、GAMにとっても「得」になるかどうかです。
本当に、GAMを潰したくないために、そういうことをやっているのか。
それともGAMを潰すためにやっているのか。どちらもあり得ると思います」
LLは意見を差し挟まない。
本当は、GAMにはタカハシの計算通りに動いて欲しい。
だが議論を誘導するような発言はするべきではないと思っていた。
アヤはそういった言動に敏感だ。一瞬の油断が全てをぶち壊してしまう。
GAMがこちらの計算通りに動かなくても、それはそれで仕方がない。
最悪でも、GAMの居場所をナッチに伝えれば、それで最低限の仕事は果たせるだろう。
それにLLが何も言わなくても、周りの人間が次々と発言を始めた。
皆が皆、それぞれに自分なりの意見を持っていた。
議論が散漫になりかけたとき、アヤが一つの重大な決定を下した。
「よし。人間を集める。JJもNothingも他の連中も全員だ」
- 498 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:20
- ☆
- 499 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:20
- GAMの結束は固かった。
アヤが一度声を上げれば、あちこちからメンバーが集まってきた。
それでもかき集めたメンバーは、全部で20人ほどにしかならなかった。
やはりマキに本拠地を叩かれたダメージは大きかった。
だがアヤは現状に悲観していない。
麻薬組織にとって大事なのは「ブツ」だ。
ブツが回れば金が回る。金が回れば人が集まる。
そしてブツを動かすことができるのは、ごく限られた一部の人間だ。
とびきり切れる頭を持った優秀な人間だ。
そういった人間がいる限り、必ずまた組織は大きくなっていくだろう。
そう。
今やるべきことはマキを倒すことではない。タカハシの相手をすることでもない。
今はただひたすら、新しい「ブツ」に向かって動くべき時だ。
マキやタカハシを殺すのは―――その後でも遅くない。
じっくりと人を集めて、必勝の体制を整えてからでも遅くはないだろう。
もっともマキとやり合うときは一対一でやると―――アヤは心に決めていたのだが。
とにかく、今はまだその時ではないと判断した。
- 500 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:20
- 「チームを二つに分ける」
空のプールに集まった20人弱がアヤの言葉に耳を傾けた。
マコはそこにいない。なんと産まれた子犬の世話をしていた。
Nothingは威風堂々とそこにいる。彼女は子育てよりも戦線復帰を選んだようだ。
「このプールからは出て行く。ここは隠れるにはともかく、守るには向いていない。
みんな、マコと子犬がいる建物の方に移ってちょうだい。あそこを固めてほしい」
子犬がいるのは市営の体育館の物置だった。
アヤはその体育館を、麻取から襲撃に耐えうる拠点にしておけと命じた。
担当はJJとLLになった。その下に10人ほどの担当者をつける。
暗殺術に長けたJJなら、襲撃に対する備えを築くことも慣れたものだろう。
「他のメンバーはあたしについてきてほしい」
他のメンバー。そこにはミキ、コンノ、イイダカオリ、その他数名が含まれていた。
「例の施設に襲撃をかける。忘れたわけじゃないよね? 例の事故があった施設だ。
あそこにはウイルスに関する情報が眠っている。それを掘り起こしに行くよ」
- 501 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:20
- マキを殺すか。それともマキから逃げるか。
捜査の手は確実に迫っている。時間が限られていることは間違いなかった。
だがアヤはタカハシが用意したどちらの選択肢も選ばなかった。
他人の敷いたレールに乗るなんて、天才のすることではない。
自分が行く道は、自分の力で切り開くもの。
アヤが選ぶ選択肢は、常にそれ一つだった。
マキがGAMを潰す前に、ウイルスの全てを手に入れる。
そしてGAMを今以上に巨大な存在にしてみせる。
国家さえも手が出せないほど大きな組織に―――
アヤはコンノに武器と資材の手配を命じた。
出発は三日後。その日に動き出せるように、全ての人員を配置した。
- 502 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:20
- アヤの命を受けて、全てのメンバーが動き出す。
「使命」という命を吹き込まれた組織が動き出すときは、いつだって美しい。
アヤはその美しさを目で味わいながら、同時に全く別のことを考えていた。
三日後という運命のその日。
果たしてマキはあの施設に姿を見せるだろうか?
常識的に考えれば、マキがやって来るはずがない。何の情報もないのだ。
だがアヤは、あの施設でマキと鉢合わせする確率は五分五分だと考えていた。
アヤがその才覚の全てを注いで作り上げた、GAMという名の不滅の城塞。
それをたった数分で壊滅状態まで追い込んだ漆黒の少女、マキ。
あの死人のような美しい女と最後の決着をつけるとしたら―――
例の施設以上に相応しい舞台は存在しないような気がした。
- 503 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:20
- ☆
- 504 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:21
- その日からGAMは二つに分かれて行動を開始した。
JJとLLは銃器やパソコンなどの資材を次々と体育館に搬入した。
広々とした体育館の中には何もなかった。
逆に言えば、武器でも機材でも、どんなものでも入れることができる。
とりあえずはここが新しいGAMの拠点となる。
やるべき仕事は山ほどあった。
LLは、ナッチとのやり取りはタカハシとニイガキに一任した。
心臓を流れるナッチの血のことも、ひとまず忘れることとした。
あれほど気になって仕方なかった血のことも、事務所開設という単純な仕事に
追い掛け回されているうちは、全く気にならなかった。
忙しさに勝てる悩みなど存在しない。
人間の真理の一つを、LLとJJは身をもって体験することとなった。
- 505 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:21
- 二人がそんな忙しさに追われている間も、マコは暢気に子犬の世話をしていた。
五匹いる子犬にはまだ名前がつけられていない。
一度だけNothingと共に様子を見にやってきて子犬の顔を拝んだアヤは、
「なるほどね。名前は帰ってきてから付けるとするか」とだけ言って、にゃははと笑った。
ミキはミキで、マコ以上に子犬のことを猫可愛がりして、なかなか離さなかった。
普段は絶対見せないようなだらしない笑顔を見せて、
赤ちゃん言葉で子犬をあやすミキを見て、マコはうっすらと背中を寒くした。
寒いから寒いと言った。面と向かって言った。
だが思ったことをそのまま口にしても、いつものように叩かれることはなかった。
それどころか「おい、マコ。写真とってよ写真」と言われてデジカメを渡された。
画面の中でより一層だらしない顔をするミキを見ながら、
マコは顔を引きつらせてボタンを押した。
- 506 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:21
- ☆
- 507 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:21
- 「へーえ。GAMは組織を二つに割ったんだ。へー。ふーん」
ナッチはニイガキからの報告を受けながら、グラスに酒を注いだ。
差し出されたグラスを、ニイガキは黙って受け取る。
グラスの中には、あの時のようにナッチの血は入っていない。
だがどうしてもそのことを思い出してしまい、
ニイガキはなかなかグラスに口をつけることができなかった。
「はい。アヤ達のグループは研究施設に向かい、残りの半分は体育館に残るようです」
「で、出発が明日と」
「おそらく・・・・」
「それ、マキちゃんには教えてないよね?」
「勿論です」
ナッチは、最初はGAMとマキをぶつけようかと計画していた。
だがGAMの目的が例の施設だということを知ると、
カメイの方からストップがかかった。
「あの場所にゴトウさんを引き込むのは危険です。後のことはあたしに任せてください」
なんとなく上手く丸め込まれた気もしたが―――
ナッチは気前よく残りの仕事をカメイに預けた。
- 508 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:21
- GAMのイイダを見つけるというゲームは終わったのだ。
後片付けはカメイに任せておけばいい。
ナッチの中ではもう、どうでもいいことだった。
方針を変えたカメイは、GAMの情報を一切マキに流さないことにしたらしい。
イイダ一人にターゲットを絞って対策を立てているようだった。
他にも色々と策を巡らせているように見える。
能天気な顔でウエヘヘヘと笑いながら、カメイはいつも裏で何かを仕掛けていた。
そうやって生き生きと動くカメイをよそに、ナッチは退屈していた。
一つのゲームが終わったなら、次のゲームが必要だ。
それも、前のゲームよりもずっと楽しめるものでなくてはならない。
ナッチはグラスを置き、ニイガキのすぐ隣に腰掛けた。
ニイガキの心臓の鼓動が急激に高鳴っていくことが、手に取るようにわかった。
ナッチの指がニイガキの前髪に触れると、ニイガキの心臓は、
もはや爆発しそうなほどに激しい動きを示した。
- 509 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:21
- うふふふ。小さい心臓。かわいいね。
ナッチはこの小さな心臓を破裂させたいという誘惑と戦っていた。
誘惑に勝つ必要も、負ける必要もなかった。誘惑され続けることそのものが楽しかった。
ニイガキの小さな体に理不尽な運命が降りかかる様を想像するだけで、体が震えた。
それはとても甘美で、それでいてとても切ない情景だった。
だがその情景は、実現した途端に色褪せて、味わいのないものになってしまうだろう。
ナッチは過去に何度もそういった経験をしていた。
おもちゃを使った激しい遊びは、それが壊れる寸前が一番楽しいのだ。
壊す行為そのものに愉悦を覚えたりはしない。そんなことは無意味だ。
壊れてしまっては、もはやおもちゃは意味のないただのガラクタでしかない。
もうちょっと。もうちょっとだけ楽しませてよ。ねえ。
- 510 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:21
- 「ガキさん」
「は、はい・・・・・」
「ガキさんはGAMを潰したいんだよね?」
「はい」
「ゴトウマキのために?」
「・・・・・・・はい」
ナッチの前で心を偽ることはできなかった。
もし嘘をつけば、ニイガキの中を流れるナッチの血が全てを見抜く。
血圧。心拍数。そういった数値が、雄弁にニイガキの精神状態を語っていた。
真実は常にナッチの掌の上にある。
ニイガキの精神という小集合は、既にナッチという大集合に含まれていた。
これまでにもニイガキは、ナッチからいくつもの屈辱的な質問を受けていた。
彼氏はいるの? セックスは好き? どうされるのが一番感じる? 具体的にどこを?
同期のタカハシのことはどう思ってるの? 自分より有能だと思う?
自分はどこがタカハシよりも劣っていると思う? なぜ勝てないと思う?
ゴトウマキのことはどう思っているの? ただの憧れ? 好きなの?
ナッチの質問は際限がなかった。
ニイガキが心に血を流しながら一つ答えると、
ナッチはその傷口を引き裂くようにして、さらに質問の輪を広げていった。
- 511 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:22
- 全て真実を語らされた。
マキやタカハシのことをどう思っているのかも。
それを語らされることは、性的なことを語らされることよりも屈辱的なことだった。
「んふふふふ。ガキさんはナッチよりマキちゃんのことが好きなんだ」
「そんなことないです・・・・・・」
「それはね。ナッチに命を握られているからでしょ? 脅されてるからでしょ?」
「そんなこと・・・・ないです」
「あ、嘘を言った」
ニイガキの心臓がキュルキュルと音を立てて収縮していった。
「かはぁっ」小さな息を吐き、ニイガキが胸を押さえてうずくまる。
だがナッチはニイガキが倒れることを許さない。
前髪を乱暴に握り締めると、強引にニイガキの顔を起こした。
「ナッチのこと嫌いなんだ」
「そんなことないです」
「嘘だね」
「す、すきです・・・・」
「嘘だ」
「そんな・・・・」
ニイガキの声がかすれる。ほとんど声にならなかった。
- 512 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:22
- 「ナッチのことが恐いんだ」
「恐くないです」
「それも嘘」
「こわ・・・こわ・・こわくな・・・」
ニイガキは口を開けたままガクガクと痙攣した。
体中を流れる血が、粘り気を増し血管の中で停滞しているような感覚がした。
組織に血が回らない。酸素が運ばれない。栄養素が届かない。
あまりの激しい眩暈に、目の焦点が合わなくなる。ニイガキの黒目から生気が失せた。
そんなニイガキの眼球を、ナッチは舌を伸ばしてペロリと舐めた。
「ねえ、ガキさん。それじゃあ、ナッチの言うこと聞いてくれるかな?」
弾むような生き生きとした声がニイガキの耳に入ってくる。
ニイガキはかすかに顎を下げてイエスの意を表した。
もう声に出して返事ができるような気力は残っていなかった。
「GAMのさあ。体育館に残った方の連中をさ、全員殺ってくんないかな?
それもね、ガキさんとタカハシの二人で。JJとLLは見てるだけ。手出しはなし」
ナッチはそう言ってクックックと噛み締めるように笑った。
GAMの片割れをぶっ潰すにしては、JJとLLは強すぎる。
あっという間に終わってしまっては面白くない。ゲームとして楽しめない。
- 513 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:22
- 「ナッチのことが好きならできるよね?」
「は・・・・い・・・」
「ナッチのこと、好きだよね?」
「・・・・・はい」
「愛してるよね?」
「は・・・い」
「ナッチの言うことは絶対だよね?」
「はい・・・」
「うふふふ。その言葉は嘘じゃないね。良い子良い子。じゃあ一つ、条件を出そう」
条件ってなんだろう?
失敗したらまた心臓を破裂させるとかだろうか?
ニイガキは不安そうな瞳をナッチに向ける。
ナッチはスローモーションのようにゆっくりと舌を伸ばし、その瞳を再びペロリと舐めた。
本当は丸ごと潰して吸い出して、全部を口に含んで味わいたいと思った。
思った次の瞬間には、ナッチは鮫のように口を大きく開けていた。
ナッチはニイガキの瞳に軽く歯を立てる。
あと少し。あと少し力を加えればぺしゃりと潰れてしまう。
だがニイガキは一切抵抗することはできない。許されない。受け入れるしかない。
ナッチの体には電流のような快感が走った。
- 514 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:22
- 「ガキさんとタカハシ。二人で競争をしよう。よーいドンでどっちがたくさん殺せるか。
ガキさんはタカハシに負けたくないんだよね? タカハシより強くなりたいんだよね?」
ナッチは嬉々としてニイガキに語りかける。
それは明らかに、罰を与える時の表情ではなく、ご褒美をあげるときの表情だった。
罰と褒美。それはナッチにとっては同じ意味なのだろうか。
「タカハシよりも自分の方が有能だってことを、マキちゃんに認めて欲しいんだよね?
でもさあ、マキちゃんなんてどうでもいいじゃん。それよりナッチが認めてあげるよ。
ガキさんの方がたくさんGAMのメンバーを殺せたら、あたしが認めてあげるからね。
もしガキさんが勝ったら、ガキさんの目の前であたしがタカハシを―――殺してあげる」
もしニイガキの方が負けたら。
その場合どうするかはナッチはあえて言わなかった。
ナッチはニイガキの瞳から口を外して、ニイガキの顔をじっと見つめた。
- 515 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:22
- ニイガキの瞳からは、はらはらと大粒の涙が流れた。
痛みから? 目を噛まれた痛み? 唾液が目にしみた痛み?
そうではなかった。ニイガキは純粋に泣いていた。
涙は目からだけではなく、鼻からもこぼれ、次々とニイガキの顔を濡らしていった。
ニイガキは喉をひくつかせ、顔をゆがめ、声を上げて泣いていた。
タカハシのこと。マキのこと。ナッチのこと。自分のこと。
全てがごちゃまぜになってニイガキの頭の中でグルグルと回っていた。
勿論、ニイガキは自分の意思で泣いていた。
だがその涙はニイガキだけの涙ではなかった。
その涙の中にも、ナッチの血が、唾液が流れていた。
もはやニイガキには、命も、意思も、そして涙すら―――
自らのものとして持つことは叶わなかった。
- 516 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:22
- ☆
- 517 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:22
- アヤが決断を下してから三日。
コンノは見事に必要な物品を全て揃えてみせた。
今の関東で、これだけの仕事ができる人間はそうはいないだろう。
だがアヤもミキも特に誉めるでもなく、それが当然といった態度を取っている。
それこそがコンノに対して最大限の信頼をおいている証だった。
「そんじゃ、行きますか」
アヤの号令の下に、8人のメンバーが二台の車に別れて乗車する。
アヤ、ミキ、コンノ、カオリなどは前の車に乗る。
その後ろからNothingが飛び乗った。
Nothingは後部座席に座ったアヤとカオリの間に収まった。
そしてメンバーの中から選抜された戦闘要員4人が後ろの車に乗った。
それ以外の、マコやJJ、LLといったメンバーは事務所に残ることになった。
- 518 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:23
- 事務所には15人ほどの人間が残ることとなった。
ここまで組織が小さくなった以上、
アヤもいたずらにメンバーを分散させることはなかった。
ここにいるメンバーが、今のGAMの全メンバーと言っていいだろう。
この二つのグループが壊滅すればGAMは終わり。もう保険はなかった。
普段のGAMとは違った人員配置は、
アヤの不退転の決意を表しているのかもしれない。
だがアヤはそんなことはおくびにも出さず、涼しげな顔をしている。
いつものご機嫌なアヤそのものの顔だった。
アヤが出した出発の合図を受け、ミキが思いっきりアクセルを踏む。
ほどよく走りこまれたランドクルーザーは、
何度か車輪を空転させた後、勢いよく走り出した。
- 519 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:23
- ☆
- 520 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:23
- 砂煙を上げながら走り行く車を見つめる、一つの視線があった。
「どうやら出発したようね」
カメイは誰に話しかけるでもなくそうつぶやくと、
前の席に座っている運転手の頭をポンポンと叩いて、発車を促した。
車は遠慮がちにゆっくりと進み始めた。
アベを通じて、LLからGAMの情報を仕入れてから、
カメイはナッチに替わってずっとGAMの動きを張っていた。
ここから先は、命のやり取りだけではなく、ウイルスのやり取りになるかもしれない。
それなりに気を遣った行動をしなければならないだろう。
ただ派手に暴れることだけが好きがナッチには、不向きな仕事と言えた。
- 521 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:23
- カメイを乗せた車は、GAMのメンバーを乗せた車から、かなり離れていた。
もはや視界にすら入っていないが、カメイは気にしない。
行く先はわかっているのだ。ゆるゆると付いて行けばいい。
そしてあの施設の中でも、ある程度は自由に行動させてもいいだろう。
GAMの連中がウイルスに関する情報を集めたところで皆殺しにすればいい。
そうすれば情報を集める手間が省けるというものだ。
だからカメイは前方を行く車のことなど全く気にしていなかった。
それよりも―――遥か後方からゆっくりと付いて来る一台の車の動きを、
注意深く観察していた。
誰が乗っているのかは何となくわかる。長い付き合いだ。
どうやら今日は思っていた以上に忙しい一日になりそうだと思いながら、
カメイはシートに体を預けてゆっくりと目を閉じた。
- 522 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:23
- ☆
- 523 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:23
- 砂煙を上げながら走り行く車を見つめる、一つの視線があった。
「どうやら出発したようね」
ミチシゲは誰に話しかけるでもなくそうつぶやくと、
前の席に座っているクスミの頭をポンポンと叩いて、発車を促した。
車は遠慮がちにゆっくりと進み始めた。
イシカワの動きを封じられてから、ミチシゲはターゲットをエリに絞っていた。
エリはなかなか外出しなかった。研究所らしき場所に篭りっきりだった。
研究所を襲撃するのは最後の手段として考えていた。
可能であるなら外で勝負がしたい。エリの庭で戦うことは避けたかった。
そのエリがようやく動き出した。
ミチシゲはテラダの監視はミツイに任せ、コハルと共にエリを追った。
- 524 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:23
- エリの目的が何であるかはまだわからない。
だがある場所で落ち着いたなら、ミチシゲはそこで襲撃をかけるつもりだった。
コハルにはサポートとミツイとの連絡役を任せた。
エリを襲うと同時にテラダを襲うという手はずになっていた。
ウイルスの全てを奪還するのは難しいかもしれない。
だがエリとテラダの二人を殺せば、とりあえず最悪の事態は先送りできるだろう。
それがミチシゲの下した結論だった。
今日で終わりにしたい。
何十億年も前からも続く、この星のルールを守るというECO moniの仕事も、
あの子との長い付き合いも。愛憎も。因縁も。運命も全て。
今日この日をもって―――全て一段落ということにしたい。
強い決意を秘めたミチシゲを乗せて、車はゆっくりと走り出した。
- 525 名前:【診断】 投稿日:2009/10/01(木) 23:24
- 第六章 診断 了
- 526 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/01(木) 23:24
- ★
- 527 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/01(木) 23:24
- ★
- 528 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/01(木) 23:24
- ★
- 529 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/05(月) 23:04
- 「この星は 美しい」
そんな言葉は何の真実も表現していない
ただ人間の傲慢さを示しているにすぎない
この星はただあるがままに存在する
誕生も 滅亡も
全てはただ、あるがままに
- 530 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/05(月) 23:04
- 第七章 治療
- 531 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:05
- 車で走り続けて数時間。例の施設まであと10分ほどの所まで来ると、
コンノが抱えていたガイガーカウンターが耳触りな警報音を発した。
空気中の放射線量が人体に影響を与えるレベルまで達しているようだ。
ミキはあわてて車を路肩に寄せた。
後ろから付いて来ていたもう一台の車も同じように路肩に止まった。
「おいおいコンちゃん。これちょっとやばいんじゃないの?」
「ええ。どうやら放射能が発生したという政府発表は事実だったようですね」
「で、どうするの?」
「着替えましょう。用意はしてあります」
まだこのレベルなら外に出ても大丈夫、というコンノの言葉を受けて四人は車を降りる。
後ろの車に乗っていた四人も同じように降りてきた。
コンノはランドクルーザーのトランクから放射線防護服を取り出す。
他の人間に説明しながら、まずコンノが防護服を装着した。
最後にヘルメットをかぶると、その姿はまるで宇宙飛行士のようになった。
「げ。マジでそんな服を着るの? 他になんかもっと良いのないのかよー」
ミキの表情が歪む。この服を着て車を運転するのはかなり骨のように思えた。
「嫌だっていうなら別に着なくてもいいですよ」
コンノは涼しげにミキの意見を聞き流した。
「発癌する確率が、ほんの数百倍に上がるだけですから」
- 532 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:05
- 「そういう意味じゃねえよ」
放射能が発生している以上、防護服を着る以外に選択肢はない。
なんだかんだ言いながら、ミキは防護服を着る。そしてヘルメットを手に取った。
「無駄にでかいねこれ。あたしはコンコンの半分のサイズでいいんだけどなー」
「ああもう、早く着てくださいよ!」
耳を赤くしながら叫ぶコンノに促され、ミキはようやく装備を整えた。
アヤはNothingに特注の防護服を着せながら、それとなく周囲の様子を探っていた。
「今のところ後を付けられてる感じはないかな・・・・・」
「わかんないよそんなの」
ミキはアヤの判断を軽く一蹴した。今はもう普通の状況ではない。
これまでの常識が通用するような段階ではないような気がしていた。
「もし例の麻取―――マキが尾行していたとしても、気づけないんじゃないかな」
「まあ、そうかもね。駐車場では完全にしてやられたわけだし」
アヤはそんな未体験の領域に足を踏み入れたことを心から楽しんでいる―――
ミキにはそんな風に見えた。
- 533 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:05
- ☆
- 534 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:05
- マキは動かなかった。
タカハシとニイガキが何か妙な動きをしていることには気付いていたが、
あえて放置していた。
ここのところマキは、捜査らしい捜査を全くしていなかった。
それよりもあの駐車場の一件で体内に芽生えた奇妙な生き物を、
心の中で飼い馴らすことに必死になっていた。
マキがふっと気を緩めると、例の歌声が心の奥底から聞こえてきた。
隙を見せると、あの奇妙な生き物に自分の体が乗っ取られるような気がした。
マキといえども、24時間気を張っているのはかなりの難行だ。
灯りを消した部屋に一人正座し、精神的な試行錯誤を繰り返しながら、
マキはようやくあの能力を押さえつける術を身につけようとしていた。
これならなんとか今までのように普通に動くことができそうだ。
あの能力を解放すれば、凄まじい力を発揮することができる。
それはわかっていた。わかっていたが、進んで使うつもりはなかった。
おそらくこの力こそが、テラダ達が追い求めているものなのだろう。
だったら、尚更そんな力を使う気にはなれなかった。
いや。一度くらいは使ってもいいかもしれない。だがそれは最後の最後だ。
麻薬やウイルスに関わった人間を全員殺す時―――自分も含めて。
ここで死んでも構わない。そう思ったときに使うことにしよう。
そう心に決めた。
- 535 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:05
- ここのところはタカハシやニイガキと連絡を取っていなかった。
向こうからもなぜかほとんど連絡はしてこなかった。
そんなわけでここ数日はGAMやSSの情報は全く入ってこなかった。
だがマキの心は、澄んだ湖面のように、不思議なくらい平静さを保っていた。
それどころかある種の手応えすら感じていた。
GAMもSSもあのウイルスを追っていることは間違いない。
そして自分の中で生まれたこの奇妙な能力は、明らかにウイルスの影響だ。
もしあたしがこんな能力を身に付けたことを知れば―――
きっと向こうの方からやって来るに違いない―――
そんな確信があった。
何かが大きく動き出していることを、マキは体で感じていた。
そしてそういう時は、逆に自分は動くべきではないと。
じっと息を潜めて、流れに身を委ねていればいいと。
きっとその流れが、自分を、あるべき場所へと流してくれるだろう。
マキは動かない。
じっと『その時』が来るのを待ち続けていた。
- 536 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:05
- ☆
- 537 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:06
- 「おいおい、どーすんだよ、これ」
確かにそこは、例の施設が立っていた場所に相違なかった。
地図でも確認したし、そこに至る道のりもほぼ記憶の通りだった。
だが目の前に広がっているのは、以前とは全く違う景色だった。
三年前はここに一つの建物があったはずだ。
だが今、そこにあるのは建造物というより―――ただのコンクリートの広場だった。
かつて建物があったはずの敷地を、広大で巨大なコンクリートが覆っていた。
窓も扉も何もない、正真正銘の、純正のコンクリート塊だった。
ただ敷き詰められているだけなのだが、やたら分厚い。
近づいてよく見てみると、コンクリートのブロックが何層にもなって、
積み上げられていた。
他には何もない。本当にただコンクリートが積んであるだけだった。
草も生えていない。木も立っていない。本当に何もないのだ。
いっそ潔いといってもいいくらいだろう。
その完全無欠な無機質さには、ある種の威厳が感じられるほどだった。
- 538 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:06
- アヤは記憶をたどりながら、コンノに確認する。
「ねえ、コンちゃん。確かあのとき、ここって爆破されたんだよね?」
「はい。確かヘリからの爆撃で爆破されて、地上の建物は全壊したはずです。
その時の政府発表では、研究所の地下から放射能が漏れ出たとかいう理由で、
敷地内を全てコンクリートで覆ったとのことでした」
アヤは今度はカオリに確認した。
「ウイルスを打ったりした試験施設は地下にあるんだよね?」
「うん。あたしらの居室は、あの施設の地下七階にあった。
ウイルスを打ったり検査をしたりってのは地下五階と六階でやってたよ」
「地下五階の深さならまだ何か残っているかもしれない・・・・・・・」
何か残っているからこそ、コンクリートで覆っているのではないか。
政府は何かを隠匿しようとしているのではないのか。アヤはそう考えた。
だが巨大なコンクリート塊の内部には、
そのままではとても入っていけそうになかった。
- 539 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:06
- 「ちょっと調べてみます」
コンノは片手に研究所の見取り図を手に持って歩き出した。
もう一方の手には非破壊検査用のセンサーを持っていた。
こういう時のコンノの行動力はなかなか馬鹿にできないものがある。
ピラミッド状に積み重ねられているコンクリートの上を、
ひょいひょいとよじ登って、センサーをコンクリートのあちこちに当てる。
小一時間ほどそうしていただろうか。やがてある一点で立ち止まった。
「反応アリです! どうやらこの下がぽっかりと空洞になっているようです」
「よし・・・・・・おい! 準備しろ!」
アヤが声をかけると、男たちが爆破装置の準備を始めた。
コンクリートを爆破するというのも、事前に想定していた作業の一つだ。
四人の男たちは、テキパキと作業を進め、爆破装置のスイッチをアヤに手渡した。
周囲から人を遠ざけると、アヤはスイッチを無造作にひねった。
バスッという鈍い音がしてコンクリートの一部が陥没する。
砕けたブロックを取り除くと、その下には広大な暗闇が広がっていた。
ミキがその穴を覗き込み、記憶の中にある三年前の景色と照合する。
間違いない。この場所が地下へとつながる階段だ。
どうやら一発で上手くいったようだ。
ミキはアヤに向かって無言で親指を突き立てた。
- 540 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:06
- 四人の男たちは地上に残された。
地下に侵入した後で、入り口を塞がれてはどうにもならない。
このポイントを死守することは、何より重要な使命だった。
だがアヤはそんなことはおくびにも出さず、あくまでも軽い口調で命令を下す。
「じゃ、頼んだよ」その一言だけだった。
アヤは信頼していた。
部下達が自分のために命を投げ出すことを確信していた。
自分はそれだけの価値がある人間であることを疑っていなかった。
彼らの能力を信じていたし「自分がこんな場所で死ぬわけはない」とも思っていた。
自分の運の強さを誰よりも強く信じていた。それもまた立派な才能の一つだ。
だからなんの躊躇いもなく、四人の部下に自分の命運を託すことができた。
運命共同体。そういう言い方をするなら、アヤの周りを包む全てが
アヤの運命と命運を支えていた。そのエリアの広さこそが人間の器の大きさなのだ。
アヤは軽い足取りで地下へと続く階段を降りていく。
そのあとにコンノとカオリが続き、最後にミキとNothingが続いた。
アヤはヘルメットに付いているヘッドライトを点灯させた。
地中世界を埋め尽くしていた闇がさっと光の筆で払われる。
そこにはアヤにも見覚えのある景色が広がっていた。
「懐かしいねえ。ここってカオリとミキたんを拾った場所じゃないかな」
- 541 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:06
- あの時、気を失っていたカオリは覚えていないようだったが、
ミキはその時のことをはっきりと覚えていた。
確かにここは、地下から命からがら撤収してきたミキとカオリが、
迎えにきたアヤとNothingと鉢合わせした場所だ。
その場所は、驚くくらい、何もかもが当時のままで残っていた。
机の上にはノートや筆記用具がそのままになっている。
おそらく職員が避難した後で、即座にコンクリート漬けにされたのだろう。
アヤが推測したように、もしかしたらこの施設には、
ウイルス関係の資料がまだ手つかずのままで残っているかもしれない。
ミキはそんな期待を膨らませながら、慎重に廊下を歩く。
地下一階では、道筋を把握しているミキが先頭に立って歩いていた。
ミキは停止したままになっているエレベーターには見向きもせず、
水道管が収められている配管鋼のわずかなスペースに三人と一匹を導いた。
「ここから降りるよ」
ミキ、コンノ、カオリ。
そして最後にNothingを背負ったアヤが、
そこから地下五階に向かって滑り降りていった。
- 542 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:06
- ☆
- 543 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:06
- アヤたちが施設の地下へ潜り込んでいってから10分ほど経ったその時。
カメイエリを乗せた車が施設の手前数百メートルのところで止まった。
エリの視線の先には、施設の地下へと続く階段を守る、四人の兵士の姿が映った。
「なーるほど。イイダさん達はあそこから入ったってわけね」
車を運転する男は放射線防護服を着ていた。
だがエリはそういったものは全く身につけていない。
生まれつきの特異体質を持ったエリは、放射能の影響を全く受けなかった。
「さてと。どうしよっかなー」
四人の兵士を殺すことは容易い。
だがGAMのリーダーであるマツウラアヤはかなり頭の切れる女だと聞いている。
もしかしたら、四人の見張りを殺した瞬間、それがアヤの元へと伝わるような
仕掛けになっているかもしれない。
イイダを殺して死体を回収する作業は、さして難しいことだとは思わないが、
知られずに接近できるのなら、それに越したことはない。
エリは極めて面倒臭がりな性格をしていた。
作業がより楽になるのなら、迷わずにそちらの選択肢を選ぶ。
「そんじゃ、久しぶりに『あの力』を使おっかなー・・・・・ウエヘヘヘヘ」
- 544 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:07
- エリは車から降り立つと、靴を脱いで素足で大地に立った。
足は肩幅からやや広く開く。
足の裏の肌を通じて、土の感触が背中を伝って上っていく。
脊髄のあたりを沿って、刷毛でそっと撫でられたような快感が走った。
「黒き土よ・・・赤き炎よ・・・白き月よ・・・青き水よ・・・・」
エリは瞳を閉じて、拳を握った手を胸の前で交差させた。
右手を前に。次の瞬間には左手を前に。そしてまた右手を前に。
何度も何度も交差を繰り返す。何百万回と修行して身に付けた動作だった。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉を、エリは一息で一気に唱えた。
両腕をクロスさせた手首の接点が、強烈な黒い光を放つ。
「無限の闇の向こうから来たれ。無限の闇をまといて来たれ、我が守護神よ。
今こそ、その力を解き放ちたまえ。いざ、開け! 黒き北方の門!」
黒き光がエリの体を包み込み、エリの輪郭をゆっくりと溶かす。
次の瞬間、エリの肉体は人間の輪郭を消し、異形のものと化していた。
- 545 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:07
- ☆
- 546 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:07
- 地下五階には巨大な培養装置があった。側面が大きく破損している。
真っ暗な部屋の中に四つのヘッドライトが交差する。
暗闇にそびえ立つ巨大な容器は、暗い森の中に佇む祠のようにも見えた。
「ねえ、カオリ。これがカオリが言ってた、爆発した培養槽ってやつかなあ」
「うーん。ごめんミキちゃん。そこまではよくわかんないや」
「アヤちゃんはどう思う?」
アヤは巨大な培養槽に頭を突っ込んで容器の内側を見ていた。
容器の中には、どす黒く濁った液体培地がまだ微かに残っていた。
「コンちゃん、あれ採取しておいて」
「わかりました」
コンノは培養槽に残っていた液体培地を、小型のクライオチューブに納めた。
「ミキたん、何か臭う?」
「いやー、全然ダメだね。この防護服を着てると何も臭わないわ」
ミキはヘルメットの側面をコツコツと叩いた。
いかにも腐臭を放っていそうな培地に顔を近づけても、何も臭わなかった。
同じように、Nothingも力なくクーンと鼻を鳴らした。
Nothingの防護服だけは特注で、最大の武器である爪と牙が使えるように、
その部分だけ露出して、繊維状のシートでコートされていた。
それでも鼻は全く利かないようだ。この状況では二人の鼻に頼るわけにはいかない。
アヤはミキに目で合図を送る。二人は拳銃の安全装置を外した。
- 547 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:07
- 「まさか・・・また生きてこの施設に戻ることになるとはね・・・・・・」
カオリは感慨深げに左右を見やった。それに併せてライトの光が左右を走る。
アヤやミキは薬の卸しに来ていただけだが、カオリはここに二年も住んでいたのだ。
色々と、彼女にしか感じ得ない思いがあるのだろう。
「カオリ、他に何か見ておくべき場所がある?」
「ううん。五階はここだけでいいと思う。他の場所に行ったことはないし。
毎日の検査とかは六階でやってた。でもそこにも何もないんじゃないかな。
何か残っているとしたら、あたしたちが住んでいた七階のフロアだと思う」
「よし、じゃあ地下七階に下りてみるか」
「うん」
アヤとカオリがそんな会話をしている間にも、
コンノはせっせと部屋のあちこちを拭き取っていた。
ウイルスが残っている可能性がありそうな場所は、残らず全て拭き取った。
だがあれから三年も経っているのだ。
生きているウイルスを採取できる可能性はかなり低いかもしれない。
「行くよ、コンコン」
「はい」
コンノは採取したサンプルを二つに分割してそれぞれ別のケースに収納すると、
アヤ達に続いてその部屋を後にした。
- 548 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:07
- 地下六階には見るべきものはないだろうとカオリは言った。
だが、とある部屋の一角で、アヤたちは極めて重要なものを発見した。
六階のその部屋の扉の上には「集中治療室」と書いたプレートが貼ってあった。
「カオリはここに入ったことある?」
「いや、あたしはない。でも隣の部屋に住んでいたイシグロアヤって子が
何度か発作を起こしてここに担ぎ込まれていた。そのアヤから、確か、
中は普通の病室みたいになっているって聞いたことがあるけど・・・・・」
一応、確認ということでその部屋の中にも入ることにした。
集中治療室の中には特に気を引く物は何もなかったが、
その部屋のさらに奥には、もう一つ扉があった。
「この部屋は何?」
「さあ? こんな部屋があるなんて聞いたことなかったよ」
ミキは頭を振って、ヘッドライトの光をその扉に向けた。
扉の上には「霊安室」というプレートがかかっていた。
「霊安室? 死体でも置いてあるのかな?」
ミキは無造作にノブをひねって、その扉を開いた。
防護服の上からでもわかるような冷気が、扉の隙間からすっと這い出てきた。
- 549 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:07
- 「うわ。寒!」
「なるほど。死体が腐らないように、-20℃に設定してるんですね」
大げさなリアクションをとるミキをよそに、コンノは冷静にそう分析した。
確かに部屋の中は冷凍庫の中のように冷え切っていた。
Nothingがふるふると震えながら、アヤの太ももにからみつく。
「え? エアコンってこと? じゃあ電気通ってるのかな、ここ」
「こういう施設にはたいてい自家発電装置がついてるはずだよ、ミキたん」
「へーえ。三年経っても動いてるんだ。じゃあ、ここの電灯も点くのかな?」
「スイッチの場所さえわかればね・・・・・・お? なんだこりゃ?」
部屋の奥には大きな引き出しのようなものが何十とあった。
「どうやらこれが死体の安置所みたいだね」
「うひゃー、この引き出しの中に死体があるの? 気持ち悪いなー」
「よし、手分けして全員で全部あけるよ」
「マジで?」
アヤはミキの問いかけに行動で答えた。
右上から順に大きな引き出しを開けていく。
引き出しの中は異常に冷たかった。モニター表示を見ると、-80℃前後の超低温だった。
きっと何年間もの長期に渡って死体を保存するために作られた設備なのだろう。
仕方なくミキも、コンノと協力しながら、左上から順に引き出しを開けていった。
一番左の一番下の引き出しのところに―――重い手応えを感じた。
「うわ。アヤちゃん! これ見て!」
- 550 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:07
- 引き出しの中には一体の死体が収まっていた。
あの事故から三年以上が経っていたからだろうか。
超低温で保存されていたにもかかわらず、なぜか死体はすっかり干からびていた。
真っ白な霜に覆われていたその死体は、全裸の―――女のように見えた。
ガチガチに凍りついた顔には、表情らしいものが一切なかった。
「これ、カオリの知ってる子?」
「ううん。わかんない。でも・・・・このタトゥーは・・・・・」
カオリは死体の右肩の部分の霜をさっと拭き取る。
死体の肩には「5」というタトゥーがはっきりと彫られていた。
カオリの肩にあるのと全く同じ種類のナンバータトゥーだった。
「じゃあ、この子が・・・・・例の5番の・・・・」
「ヤスダケイって子だと思う」
カオリは自分以外の被験者の顔を見たことがなかった。
声を聞いたことがあるのも、両隣の部屋にいた、アベナツミとイシグロアヤのみだ。
だが肩に5番のタトゥーがある以上、
この死体がヤスダケイであると考えて間違いないだろう。
- 551 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:08
- 「コンコン、写真撮って。それとこいつの組織の一部を持って帰ろう」
「はい」
コンノはアヤの命令を受けて、写真を撮り、そして死体の一部を削り取った。
これだけ低温で保存されているのだ。
もしこの死体がウイルスに感染していたとすれば、
ウイルスが凍結されたまま生き残っている可能性は高いと思われた。
アヤ達はそれから他の引き出しも全て開けてみたが、
死体が入っていたのは最初の一つだけだった。
なぜこの死体だけが冷凍されているのだろうか?
なぜ他の死体は冷凍されていないのだろうか?
冷凍した目的は一体何だったのだろうか?
これも何かの試験の一環だったのだろうか? それとも?
手掛かりが何もない状態で、そういった疑問に答えることは、
さすがにアヤやコンノにも不可能なことだった。
だがアヤは「なぜ?」という問い掛けだけはしっかりと頭の隅に残した。
曖昧さをそのまま残しておくようなことはしないつもりだった。
霊安室から出ると、四人はぐるりとフロアを一周したが、
地下六階には他に特別なものは何も残っていなかった。
四人はさらに下の階―――カオリ達が住んでいたという地下七階に向かった。
- 552 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:08
- カオリの話では、地下七階には八人が住んでいたのだという。
ナカザワ、イシグロ、イイダ、アベ、ヤスダ、ヤグチ、イチイ、ゴトウ。
この八人が、隣り合った八つの部屋で暮らしていた。
「ミキたんやカオリの言った通りだね」
廊下を歩きながらアヤが言った。
ヘッドライトが照らし出した扉は、溶けたチョコレートのようにぐにゃりと曲がっていた。
あのマキとかいう麻取に本部を急襲されたときと同じような感じだった。
「あの麻取のマキってのがこの施設のナンバー8であることは間違いなさそうだね」
アヤの意見に異論を挟む者はいなかった。
こんなことができる人間が二人も三人もいるとは思えない。
おそらくこの施設で暴れまわったのも、そのマキという8番の女なのだろうとアヤは思った。
「とりあえず端から順に部屋を回ってみるか」
アヤは溶けた扉を踏み越えて、まず8番の部屋に入った。
マキの部屋であるその部屋は、特に異常らしい異常はなかった。
アヤ達は一端廊下に出て、次は7番のイチイの部屋に入った。
- 553 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:08
- イチイの部屋の中には一体の白骨死体があった。
そして部屋の中は滅茶苦茶に荒らされていた。
おまけに隣の6番の部屋との間の壁が崩れ、大きな穴が開いていた。
「さすがに三年前の死体じゃ白骨化しているか・・・・・・
これじゃ誰の死体だか全然わからないな・・・・・・・」
アヤは人骨の前にしゃがみこんだ。
「ん?・・・・・!」
「どうしたのアヤヤ?」
「いや、カオリは見ない方がいい・・・・」
「え? なになに? なにがあ・・・・!・・・・あ!?」
その白骨の右肩の部分には、真黒な字ではっきりと「7」という数字が刻まれていた。
カオリは一瞬、その意味がわかりかねた。
誰がこの白骨にマジックで「7」なんて書いたのだろう。そんなことを思った。
そして次の瞬間、電撃的に真実を悟った。まさか。そんな。でも。これは。確かに。
「うええええ!!・・・・・げぁはぁっ!・・・・あっ!あっ!」
カオリは部屋の隅に倒れこみ、胃の中のものを全部吐いた。
タトゥーだ。あの「7」というのはテラダに刻まれたタトゥーなのだ。
たとえ骨になったとしても、あのタトゥーは消えないのだ。
骨の髄まで―――タトゥーは刻まれているのだ。
カオリの鼻筋を涙が伝った。
泣きながら吐いた。吐く物はもう何も残っていないが、それでも吐いた。
長く伸びた爪で狂ったように自分の右肩をかきむしりながら、
カオリは喉を痙攣させて胃液を吐き続けた。
- 554 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:08
- ☆
- 555 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:08
- 「はい、はい、了解しました。大丈夫です。そちらこそ気を付けて」
ミツイはそれだけ言うと携帯電話を切った。
通話相手はミチシゲだった。
どうやらミチシゲの追っているカメイエリが、例の施設の地下に入ったらしい。
地下に潜った以上、これでしばらくの間は、
エリはテラダと連絡を取ることができないだろう。
つまりカメイとテラダがお互いに孤立していることになる。
二人を同時に倒す、最大にして最後のチャンスが来たのかもしれない。
ミチシゲは、エリの後を追って地下に潜るとだけ連絡を寄こした。
これでこちらもミチシゲと連絡を取ることはできなくなる。
賽は投げられた。
ミチシゲとコハルがエリを殺る。それと同時にミツイがテラダを殺る。
それ以外にやつらからSSを取り戻すことはできないだろう。
殺るしかない。失敗は―――許されない。
ミツイは携帯電話をポケットに突っ込むと、辺りの様子を窺った。
目の前には八階建てのビルが二つと五階建てのビルが二つ並んでいる。
四つとも完全に廃墟となっているビルだった。
- 556 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:08
- この八階建てのビルの一つの中にテラダがいる。それは既に確認してあった。
テラダは単なる研究員であって、戦闘のプロではない。
警備の兵隊も何人かいたが、キャリアではない普通の人間だ。
エリを狙うミチシゲとは違って、こちらの仕事は簡単なもの―――
そう考えていたことが、ミツイの一つ目の油断だった。
背後から耳障りな声が響くまで、ミツイは敵の接近を感知できなかった。
「おいおい。そこでなにをしてんだ? てめー、誰だよ、おい?」
油断していたといっても、あくまでも微かな油断だ。
気配はほぼ完全に消していたつもりだった。
ミツイは動揺を押し隠し、声のした方向へと顔を向ける。
背丈ほどの高さのブロック塀の上に、見覚えのある小柄な女が一人立っていた。
もしかしてこいつがイシカワさんが言ってた―――
「あんたがマリィか?」
ミツイの直感が正しいのなら、この女がフォースの新しいオーナーだ。
いつの間にフォースからテラダのところに戻っていたのだろうか。
それにしてもこいつのこの雰囲気。筋肉の動き。只者ではない。
ひょっとしてキャリア―――異常能力者か?
- 557 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:09
- 「マリィだって言ったらどうすんだよ?」
「殺す」
「え? 殺す?・・・・・・・・・・キャハハハハ!!!」
ミツイは確信した。このチビがマリィだ。
テラダを殺る前に見つかったのは失敗だったかもしれないが、
こいつもまとめて殺ってしまえば、イシカワの身が解放できるだろう。
災い転じて福となす。
上手くやれば一石二鳥といくかもしれない。
そして同時にミツイは確信した。
やはりこいつは普通の人間じゃない。強い。並はずれて強い。
イシカワの下へとやった六人の連絡員を殺ったのは、きっとこいつだ。
殺す。こいつは殺す。今ここで―――殺られた仲間の無念を晴らす。
ミツイは背中に差し込んでいた青龍刀をぬっと抜いた。
- 558 名前:【治療】 投稿日:2009/10/05(月) 23:09
- いくらキャリアだといっても、ミツイからすればただの人間だ。
『例の能力』を全開にするまでもないだろう。この刀だけで十分だ。
そう考えていたことが、ミツイの二つ目の油断だった。
青龍刀が流れ星のような輝きを放ちながら一閃される。
手応えあり。
ミツイの顔面には霧雨のような赤い血が降り注いだ。傷口は浅くないはず。
だが小柄な女はミツイからたっぷりと距離をおくと、
それでもう勝負あったかのような勝利のほほ笑みを浮かべた。
「そうだよ。あたしがマリィだよ。殺す? できんのかよ、そこの全身不細工。
死ぬのはテメーの方だぜ。さあ、どんな死に方がいい? 選ばせてやるよ。
笑い死ぬか? 泣きながら死ぬか? 焼け死ぬか? どうやって死にたい?」
マリィもまた、ミツイが只者ではないことを察していた。
これまでイシカワと連絡を取りにきた連中よりも格上だと見抜いていた。
ゆえにマリィは拳銃を抜くことではなく笑うことを選んだ。
最初から全開だった。分厚い声帯をギザギザと震わせて魂の限りに笑い叫んだ。
「ヒャハハハハハ!! キャハハハハハハハ!! ハハハハハハハハ!!!」
- 559 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/05(月) 23:09
- ★
- 560 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/05(月) 23:09
- ★
- 561 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/05(月) 23:09
- ★
- 562 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:21
- 「大丈夫?」
「ん・・・・・もう平気」
アヤの手を借りながらカオリはふらふらと立ちあがった。
気分はすぐれなかったが、精神的なダメージからはなんとか回復していた。
忘れてはならない。
この施設に来たのはウイルスを消すためだ。
テラダを殺すためだ。その手掛かりをつかむためだ。
全てが終われば、きっとこの忌々しいタトゥーも消えていることだろう。
自分の体にそう言い聞かせて、カオリは気持ちを奮い立たせた。
「隣の部屋もだいたい同じ感じだよー」
壁に開いた大きな穴の向こう側から、ミキの声が聞こえた。
カオリはその穴をくぐって、ヤグチマリが住んでいた6番の部屋に入っていく。
それに続こうとするコンノの肩を、アヤがぐいっと引き留めた。
「待って、コンコン。この死体からもサンプルを取っていこう。あと写真も」
「え? でも白骨化してますよ。これじゃウイルスは完全に死滅してますよ」
「いいから。一応、取れるものは全部取っておこう」
アヤの命令に従い、コンノは渋々といった感じで骨の一部をサンプリングした。
- 563 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:21
- ミキが言ったように、6番の部屋も7番の部屋と同じように荒らされていた。
そして同じように、隣の部屋とつながっている壁に大きな穴が開いている。
隣の部屋は、カオリの話ではヤスダケイという女の部屋のはずだ。
その死体は地下6階の霊安室に収まっていた。
案の定、部屋の中には何もなかった。
さらにその奥の部屋へとつながる壁にも穴が開いている。
アヤたちは穴をくぐってどんどんと奥へ進んでいった。
5番のヤスダケイの部屋、4番のアベナツミの部屋、そして3番のカオリの部屋。
それらの部屋は、ただ中が荒らされているというだけで、特に何もなかった。
そしてその隣の2番のイシグロアヤの部屋―――
そこはあの事故のときにミキとカオリが出会った部屋でもあった。
その時の話に出てきた、「どろりと溶けた死体」らしきものが、
2番の部屋の真ん中に横たわっていた。
もっともその死体も7番と同じように白骨化していたのだが―――
その肩にはしっかりと「2」というナンバータトゥーが刻まれたままだった。
- 564 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:22
- さすがに今度はカオリも吐いたりはしなかった。
しっかりとその「2」という数字を自分の目に焼き付ける。
まるでそれが、イシグロアヤに対する最大の弔いになるかのように―――
「これがミキたんの話に出てた死体だね」
「うん。場所はここだったと思う。だよね? カオリ?」
「まず間違いないと思う」
「よし。コンコン、サンプル取って」
「やっぱり取るんですか? この白骨死体から?」
コンノは怪訝な顔をしたが、アヤには迷いはなかった。
ここに来るまでの準備期間に、アヤにはじっくりと考える時間があった。
集めた情報を整理し、各組織の動向を分析し、
周囲の状況を把握して自分なりの仮説を組み立てていた。
SSという組織は一体何を手に入れようとして動いているのだろうか?
ウイルスなのか? それとも抗ウイルス抗体なのか?
SSはおそらく、ウイルスそのものは既に手に入れているに違いない。
キャリアを作りまくっているというのがその根拠だ。
だが、明らかに奴らはまだ抗ウイルス抗体は手に入れていない。
きっとウイルスだけでは、抗ウイルス抗体は作れないのだろう。
では何が必要なのか?
この施設に残された情報か? いやそれも違うとアヤは考える。
もしそれが欲しいとすれば、奴らはもっと早くこの施設にやって来ただろう。
だがこの施設を封鎖しているコンクリート塊には、
過去に誰かが侵入したような形跡は全く残っていなかった。
- 565 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:22
- 「SSが探しているのは、きっとここでウイルスを投与された被験者なんだ」
アヤはコンノが入手した情報を思い出していた。
あの紙には確かこう書かれていた。
「T氏、行方不明」
「1番、行方不明」
「2番、死亡確認」
「3番、行方不明」
「4番、行方不明」
「5番、死亡確認」
「6番、行方不明」
「7番、死亡確認」
「8番、生存確認」
この施設には2番と5番と7番の死体があった。
合致する。見事にこのデータと合致するのだ。
おそらく国もSSも、ここまでの情報はつかんでいるのだろう。
そしてきっとやつらは―――残りの「行方不明」の人間を探している。
このデータは、それを証明する立派な証拠と言えるだろう。
「ほー。なるほどね」
「わかりました。やっと何かが見えてきましたね」
アヤの説明を聞いてミキとコンノも納得した。
- 566 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:22
- GAMとしても、2番と5番と7番のサンプルを持っていることは、
後々それなりに重い意味を持ってくることになるかもしれない。
そして、今はまだはっきりとしたことは言えないが、
抗ウイルス抗体を作るには、残りの人間を探す必要があるのかもしれない。
「それにしてもさあ、被験者の体がそんなに重要なものだとしたらさあ、
なんでこの死体を三年もの間、この場所に放置しているんだろうね?」
ミキの疑問はもっともだ。
たとえ用済みだったとしても、死体をそのまま放置するだろうか?
ウイルスを投与した患者の死体なのだ。これほど貴重なサンプルもないだろう。
国の施設に持ち帰るなりして、詳細に検査を行い、厳重に保管するというのが、
常識的な判断ではないだろうか。
「逆に言えば―――『ここに残す』ということに何か意味があるのかもしれない」
さすがのアヤも、今の段階ではその程度のことしか推測できなかった。
- 567 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:22
- それにしても、施設で得られた情報は決して少なくなかった。
危険を冒してここまで来た甲斐があったというものだろう。
そんなある程度の満足感のようなものが、四人の間に流れる。
そんな弛緩した空気を薙ぎ払うかのように―――
暴力的な光が部屋を照らし出した。
「うわ!」「あ!」「!」「!」
普段であればどうということはない室内灯の光だったが、
暗闇に慣れきった目には強烈な刺激だった。
四人は四方に散り、部屋をごろりと転がりながら床に伏せる。
明るい光の次に、這いつくばった四人に襲いかかってきたのは、
ナイフでも銃弾でもなく、甘ったるい口調の言葉だった。
「ごめいさーつ」
- 568 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:22
- 聞いたことのない声だった。
アヤは極限まで目を細め、己の網膜が明順応してくるのを待った。
それと同時に視界の端にとらえたミキに向かって手で合図を送る。
気配で合図を察したミキは、コンノをガードするポジションに移った。
同様に、アヤはカオリをガードするポジションに移動する。
「ウエヘヘヘ。その死体はですね、国の偉いさんなんかには動かせないんですね」
アヤは耳を澄ませて声のする方向を探った。
目はなかなか部屋の明りに順応していかない。耳が頼りだった。
だがその声は、コンクリートで囲まれた部屋や廊下を反響している。
位置がつかめない。
「いたいた、イイダサン。ちょっとそのお命もらっていいですか?
勿論あなたの死体は、お仲間達と同様に、ここに残していきますけどね」
わんわんとエコーがかかった声が部屋に響く。
相変わらず声の出所はわからない。
部屋の中には四人しかいない。廊下か。だが簡単に廊下に出ることはできない。
相手が待ち伏せているとすれば、まさに飛んで火にいる夏の虫だ。
来るものが来たか。防護服に包まれたミキの体躯に冷たい汗が流れる。
その声の主がマキではないことが少し意外だったが、
こういった攻撃を受けることは、十分に予想していた。
- 569 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:22
- 「他に三人もお仲間の死体があるんだから寂しくないでしょ? ウエヘヘヘ」
声の主は襲いかかって来るでもなく、だらだらと喋り続けていた。
そうしているうちにアヤの眼が明りに徐々に慣れてきた。
今なら問題なく動き出せそうだ。だがどう動く?
その時、カオリがそっとアヤの肩を叩いた。
カオリは人差し指を自分の耳に当て、次に床の上をとんとんと突いた。
(床の下?)
声に出さず唇の動きだけで伝えたアヤの問い掛けに、カオリは強く頷いた。
大きく反響する声からでも、カオリの異常聴覚は正確に声の出所をつかんでいた。
相手は下にいる。ならば今は動くときだ。
アヤはカオリを抱え上げると、ダッシュで部屋の外に飛び出した。
コンノを抱えたミキがそれに続く。
二人の背後をガードするような形で、最後にNothingが部屋の外に駆け出た。
そのNothingを追いかけるかのように―――部屋の中に凄まじい轟音がこだました。
- 570 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:22
- 部屋の床が盛り上がったかと思うと、真っ二つに割れた。
床を走った巨大な亀裂からぬうっと這い出て来る巨大な気配があった。
どす黒い気配を帯びたその巨大な『何か』は、部屋に人がいないことを確認すると、
再びその亀裂に身を沈め、地中を移動し始めた。
コンクリートを易々と砕きながら亀裂は廊下を走り、前を行くNothingの姿を追った。
先頭を行くアヤはT字路に突き当たった。
カオリの手を引き、アヤはT字路を右に折れる。
その後ろを行くミキは、当然のようにコンノとともにT字路を左に折れた。
Nothingは空を飛ぶように駆け、ミキとコンノを追い越す。
二人の手前、5メートルほどのところでNothingは立ち止まり、後ろを振り返った。
今はその真っ白な体毛を防護服に納めた一匹の犬の前に、
ガガガガガと線路の高架下のような轟音を立てながら、巨大な亀裂が迫る。
その亀裂が、駆けて来るミキとコンノの足を飲み込もうとした瞬間、
Nothingは一切の躊躇を見せることなく、亀裂の中にその身を躍らせた。
ミキが立ち止まる。コンノも立ち止まり、Nothingの後を追おうとした。
だがそのコンノの手をミキはつかみ、乱暴に後方に投げ捨てる。
生きるか死ぬかの戦い。そこはミキの領分であってコンノの領分ではない。
「Nothing!!」
ミキは声の限りに叫びながら、今もなお蠢いている亀裂に銃口を向けた。
- 571 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:23
- ☆
- 572 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:23
- 「アヤヤ! アヤヤ! あっち!」
「うん。声の主はあっちに行ったみたいね」
「ちょっと待ってよ!」
「待てない」
アヤは足を止めなかった。
相手が何者かはわからないが、少なくとも味方ではないだろう。
ミキが相手を足止めしているうちに、一刻も早く施設から脱出するつもりだった。
「カオリ。他に音はした? 誰か他にもいる?」
「いないよ。声はあいつ一人だけだった。だから戻ろうよ!」
「一人だけ? それはラッキー。このまま逃げるよ」
「でもミキちゃんを助けないと!」
それでもアヤは足を止めない。
カオリの手を強く握りしめたまま、半ば引きずるようにカオリを先導した。
その先に、地上へとつながる配管鋼の隙間が見えてきた。
アヤはそのスペースに、先にカオリを押し込む。
「ミキは相手を足止めしてる。あたし達のために、体を張ってね。
あたしらはそれに応えて全力で逃げる。引き返さない。わかるよね?」
「わかんない。今すぐミキちゃんを」
アヤはカオリの頬を思いっきり張り飛ばした。
「いくよ」
アヤは有無を言わせず、重たいカオリの尻を押し上げる。
二人は地上目指し、水道管を伝ってのろのろと上り始めた。
- 573 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:23
- ☆
- 574 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:23
- 「いったーい!!」
亀裂の中から巨大な『何か』がのそりと這い出てきた。
人間は、見たことがないものを見た瞬間、それを正しく認識することができない。
はっきりと見えているのに認識できない。ミキは今まさにそういう状況に陥っていた。
目の前にある物体は、逃げも隠れもせず、堂々とミキの目の前にそびえ立っていた。
だがなかなかその物体が脳内で言葉に変換されない。
あまりにも常識外れのサイズをしていたそれが―――
巨大な『亀』らしき形をしていることを理解するまで、数秒の時間を要した。
大きい。破格の大きさだ。象ほどの大きさのある亀だった。
甲羅の腹面は深い緑をしている。見るからに堅そうな質感をしていた。
その甲羅からぬっとでている頭部は、ミキの胴体よりも太そうだ。
「いたいってばこの馬鹿! 離れろこのバカアホボケナスウンコ野郎!」
巨大な亀の頭部には、Nothigがガブリと噛みついていた。
たらたらと赤い血がしたたりおちている。
亀の血も赤いのだろうか―――ミキはそんなことをぼんやりと考える。
食い付いて離さないNothing目掛けて、その亀の右腕が襲いかかってきた。
ミキは我に返る。
その亀の包丁のように巨大な爪に目掛けて、ありったけの銃弾を放った。
- 575 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:23
- 「ぎゃん!!」
銃弾のほとんどは、硬質な爪に弾き返された。
だがその一部は確実に巨大な亀の指を貫き通していった。
亀の指が二本ほど吹き飛ぶ。
「あいたたた・・・・」
Nothingは亀の頭部からパッと離れると、ミキの足元にふわりと着地した。
巨大な亀の爪から、どばどばと鮮血が滴る。
だが亀はそれには大して注意を払わず、のそりと床の亀裂から這い出てきた。
全身が廊下の上に現れた。
施設の廊下は通常のビルなどに比べると、かなり広い造りになっていたが、
その亀の全身を納めるには、やや容積不足といった感じだった。
亀はその巨体を窮屈そうに縮めながら「ウエヘヘヘ」と笑った。
千切れた指をペロリと舐める。ダメージは全くないのだろうか。
痛そうな素振りを全く見せなかった。
「ちょっと大きすぎたかな・・・・・・」
そう言うと、亀のサイズがするすると小さくなっていく。
やがて亀は2メートルほどの大きさで落ち着いた。
それでもまだ、普通の人間の体よりも二回り以上は大きい。
- 576 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:23
- 「あらららら? イイダさんはこっちじゃなかったのかー」
亀はそういってエヘヘヘと照れ笑いを浮かべると、
ミキたちを無視して、再び床を走る亀裂の中に足を踏み入れた。
そのまま床の下に潜り込んでいこうとする。
ミキの拳銃が火を噴いた。落雷のような銃声が密閉された地下室に響く。
コンノは耳を塞いで床に伏せた。
弾丸が頭部に突き刺さる度に、亀の頭が右に左にふらふらと揺れた。
ミキは狙いを外さず、亀の頭部に残りの銃弾を全て叩きこんだ。
空になったマガジンを手早く排出する。
慣れた手つきで新たな弾装を込めながら、亀の背中に向かって言った。
「カオリのところに行きたいんなら、死んでから行けよ」
ミキの持っている拳銃はかなりの大口径だ。威力も半端なものではない。
亀の頭部は、かろうじて千切れてはいなかったが、
弾丸によってずたずたに切り裂かれ、血が噴水のように吹き出していた。
亀は緑色の甲羅を重そうに揺らしながら、再びミキの方に向きあった。
もはやどこが目でどこが鼻なのかわからないほど、
その顔面は銃弾によって粉微塵に砕かれていた。
- 577 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:24
- どさり。
大きな音を立てて、亀の頭が床に落ちた。
頭が落ちたというより、首が抜けたという感じだった。
甲羅の中に収まっていたのだろうか。思っていたよりもずっと長い首をしていた。
もしかしたら、ミキの身長と同じくらいの長さかもしれない。
「ウエヘヘヘヘ」
亀は笑った。笑い声は腹から聞こえてくるようだった。
亀は床に落ちた自分の首をぐじゅりと踏んだ。
びちゃびちゃと血や体液を飛ばしながら、千切れた首がへしゃげる。
「ウエヘヘヘヘ」
ミキは再び引き金を絞った。今度は銃口を二つの腕に向けた。
その肉は、甲羅や爪ほど硬くはなかった。
銃弾は一弾ごとに確実にその肉を弾き飛ばしていく。
ミキが二つ目のマガジンを空にしたときには、亀の両腕は原形を留めていなかった。
「ウエヘヘヘヘ」
それでも亀の笑いは止まることはなかった。相変わらず腹から響いてくる。
亀の両腕がずるりと胴体から外れて床に落ちた。
腕も異常に長かった。腕だけで2メートル近くあるように見えた。
ミキは忘れていたものを取り戻したかのように、口を開いた。
実際、戦っているときは喋るということを忘れているものだ。
「てめえ・・・・・・・・・何者だよ」
- 578 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:24
- 「エリィ・ストナッチ。なーんてね」
頭も腕もない亀は、スキップを踏むように軽やかに答えた。
短いその答えを聞き終わる前に、ミキは三つ目のマガジンを装填していた。
ミキの左手に向けてコンノが二つのマガジンを放り投げる。
それを片手で器用に受け取ると、ミキはマガジンを腰のポケットに収めた。
「イイダさんが地上に上るまで一時間くらいかかるかな?」
地下七階まで降りて来るのは早かったが、登って戻る時は同じようにはいかない。
腕力だけで地下七階から地上に上がるまで、そのくらいの時間はかかるかもしれない。
亀の言うことはおおよそ当たっていると言ってよかった。
「そんなに死にたいっていうなら、殺してあげましょっか。じわじわと。
たーっぷりと痛みと恐怖を味わいながら。59分くらいの時間をかけてね」
ぬう。
本当にそんな音を立てながら、甲羅の中から新しい亀の首が出てきた。
先ほど吹き飛ばしたのと、寸分変わらぬ顔がそこに乗っていた。
ぬう。ぬう。
さらに両肩からも腕が突き出てきた。腕というより―――それもまた首だった。
その先の、本来拳がある位置には、首の上に乗っているのと同じ顔が乗っていた。
両腕はまるで蛇のようにぬらぬらと波打ちながら伸びていく。
その長さは2メートルを超えて、なおも伸びていきそうな勢いだった。
まるで顔と首が三つあるろくろ首のような姿だった。
- 579 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:24
- 「へっ。キングギドラかよ」ミキは吐き捨てた。
修羅場なら何度もくぐり抜けてきたが、こんな化け物に相対するのは初めてだ。
ヤクザやジャンキーやキャリアとは明らかに違う。
どうやら頭を打ち抜いても死なないらしい。正真正銘の化け物だ。
ではどうやって戦う?
ミキはエリィとかいう亀の腹部に向かって二発撃った。
だが予想通り、銃弾は硬い甲羅に弾き返された。
その間隙を突いて、エリィの両腕がぬるりと伸びて来る。
その先にはエリィの顔があった。ミキの目の前で、エリィがにっこりと笑った。
エリィは十代半ばの少女のようなあどけない顔をしていた。
化け物の顔にしておくには惜しいくらいの、愛らしい笑顔だった。
くぱあ。
エリィはゆっくりと口を開けた。
上の牙と下の牙の間に、つつつつつつーっと唾液の線が広がっていく。
その牙が、硬直したミキの喉元に食らいつこうとした時―――
急にがくんとエリィの顔が沈んだ。狙いが逸れる。
ミキの視線の少し先にある、エリィの胴体ががくりと傾いていた。
エリィの右の膝には、Nothingが深く食らいついていた。
我に返ったミキは姿勢を低くして、エリィの二つの顔をやりすごす。
何かをふっ切ったかのように、胴体向けてミキは駆けだした。
- 580 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:24
- Nothingの狙いは正しい。
こいつの首や腕は、取り換えの利く、ただの使い捨てパーツだ。
ならば本体を、胴体を叩くしかない。
甲羅が硬いということは、つまりその下に致命的な急所が潜んでいるということだ。
エリィの長く伸びた腕が、大蛇のようにのたうちながら、ミキを捉えようとする。
ミキは狭い廊下をジグザグに走り、床を蹴り、壁を蹴ってその手から逃れた。
壁を蹴ったミキは、三角蹴りの要領で、エリィの肩口に着地した。
首筋に拳銃をめり込ませ、垂直方向に向けて銃を撃つ。
ボス。ボス。ボス。
鈍い音が三つしたところで、ミキは、エリィの腕に弾き飛ばされた。
エリィの腕はありえない角度で曲がり、ミキの死角から飛んできた。避けられない。
咄嗟に左手で後頭部をかばったミキだったが、
エリィの腕は、そのしなやかな動きとはうらはらに、石のように硬かった。
ミキの耳には「バッキィ」という骨の折れる音がはっきりと聞こえた。
それでもミキは懸命に全身で受け身を取り、
コンクリートに叩きつけられる衝撃を最小限に抑えた。
だがミキにできたのはそこまでだった。それで全部だった。
かろうじて―――意識だけはつなぎとめると、絞り出すような声で懸命に叫んだ。
「コンコン・・・・・は、走れ・・・・・逃げろ!」
- 581 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:24
- コンノは動かなかった。
持っているバッグには三つ死体から取ったサンプルが入っている。
だがそのサンプルは、採取したときに既に二つに分けてある。
一つはアヤが持っているはずだ。
アヤさえ逃げ切れれば、このサンプルは失っても構わない。
ミキを見捨てて逃げることはできない。
コンノは不慣れな手つきで銃を持つと、エリィに向けて二発撃った。
エリィの注意がコンノに向いた一瞬の隙をついて、Nothingが襲いかかる。
Nothingの俊敏さは、エリィの動きを凌駕していた。
だがエリィは全く動じることなく、緩慢にも見える動作でNothingの相手をする。
ミキの放った銃弾も、Nothingの牙や爪も、全くダメージを与えていなかった。
考えろ 考えろ 考えるんだ
コンノは銃を構えたままで自問する。
銃の扱いは苦手だ。素手で戦うことなど論外だ。だが何か手段があるはずだ。
Nothingだって、体の大きさではあんなに劣っているのに、速さで対抗している。
あたしだって何かができるはずだ。あたしになにが。あたしになにが。
ふとコンノは気付いた。
Nothingはエリィをミキから引き離すように誘導しながら戦っているのではないか。
- 582 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:24
- コンノはそれ以上何も考えなかった。
自分の性格は、誰よりも自分がよく知っている。
これ以上深く考えていたら「可能性」という言葉の沼に呑み込まれてしまう。
「可能性が高い」「可能性が低い」それは勿論大切だ。
だが今はそういう状況ではない。予測するときではなく行動するときだ。
コンノは目をつぶって全速力で駈け出した。
エリィが立っているところを目掛けて。
その先に倒れている、ミキの下へ。
コンノは全速力で駈け出した。
ひゅん ひゅん ひゅん。ばしゅっ。
何かが髪をかすめていった。爪のような硬い何か。血のような温かい何か。
コンノはそれでも足を止めずに、エリィの脇を駆け抜けた。
襲い来る恐怖心をねじ伏せたのは、理性でも可能性でもなく、
ミキを助けたいという、ただそれだけの思いだった。
大丈夫大丈夫。絶対にNothingが守ってくれる。信じろコンノ。走れコンノ。
コンノは自分に言い聞かせながら、心の中で5つ数えた。
数え終わるやいなや、コンノは目を開けて、床に滑り込む。
滑り込んだ先には左手を抱えてうずくまっているミキの姿があった。
- 583 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:25
- 「ミキちゃん、しっかり!」
コンノはそう言いながらミキの左手をチェックした。
Nothingが戦っているうちに治療すればあるいは―――
そんなコンノの微かな望みは、ミキの手を見た瞬間に呆気なく打ち砕かれた。
手首から先があらぬ方向を向いている。尺骨と橈骨。完全に二本折れていた。
「こんなもん・・・・かすり傷・・・・」
ミキの声は震えていた。顔色は真っ白だ。湧き出てくる冷や汗が止まらない。
体を支える主要な骨が折れれば、人の体はその動きを一時的に止める方向に作用する。
肉体は勿論のこと、それ以上に精神がその方向に強く作用するのだ。
それが生命を維持するために、人間に架せられている根源的な生理機能だ。
骨折をおして戦える気力を持つ人間など、生物学的に存在しえない。
「痛いよ。我慢してね」
コンノはそれだけ言うと、ミキの手首をつかんでひねり、強引に接骨した。
測定機器用の脚立を折って添え木にし、ミキの腕を固定した。
言葉にならない呻きを発するミキの唇に、鎮痛剤のカプセルをねじ込む。
だが鎮痛剤は即効性ではない。もうミキは戦えないだろう。
撤収するしかないのか―――
その考えに至り、コンノは途方に暮れた。
どうやってあの化け物から逃げるのだ?
ここは地下七階なのだ。エレベーターは動かないのだ。
あの化け物を殺す以外に、逃げ切る道はないように思われた。
だが強すぎる。あの化け物は強すぎる。
今の戦力では―――あの亀を倒すことは絶対に不可能だ―――
- 584 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:25
- 「グルルルルルル・・・・・ガアゥゥゥ!!」
地鳴りのような唸り声が地下施設の廊下に響いた。
あっ気に取られてコンノはNothingの姿を凝視した。
全身、体毛が逆立ち、その毛が燃え盛る炎のように震えていた。
三年も一緒にいるが、こんなNothingは一度も見たことがなかった。
Nothingの耳は千切れかけていた。もう一つの耳は既に千切れていた。
自慢の真っ白な毛が、流れ出た血で赤黒く染まっている。
だが、それでも炎のようなNothingの戦意は衰えない。湧きあがる。
獣という枠を超えて、悪魔のような形相をしたNothingがそこにいた。
目の前の獲物を噛み殺すために―――
それだけのために組み込まれたNothingの遺伝子が、体内で電流のように渦巻く。
肉食獣だけが持つ、生存本能と直結した闘争本能が完全に着火していた。
殺るか、殺られるか。
猟犬が、そんなシビアな環境で生き続けてきた年代は、人間の比ではない。
犬にとっては、相手を殺すことこそが、生きる糧を得ることを意味するのだ。
数千年、数万年前の先祖から受け継ぎ、蓄積された、
天性の狩人たるDNAがNothingを駆り立てていた。
「Nothing! ダメ! 逃げて!」
野生に返ったNothingの耳には、もうコンノの声は届かない。
- 585 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:25
- Nothingは左右にジグザグとフェイントを入れながらエリィに襲いかかった。
まるで白い稲妻のようだった。
これまでにNothingが見せてきた中で、間違いなく最速の動きだった。
だがコンノの目にも、骨折の影響による発熱で朦朧としたミキの目にも、
Nothingの最後の動きは、スローモーションのように映った。まるで走馬灯のように。
そう。それがNothingの最後の動きだった。
Nothingが飛び掛かった瞬間、エリィがにやりと笑った。
それまでずっと速さでは明らかにNothingに劣っていたエリィの動きが、
突如としてスピードを上げた。
文字通り「目にも止まらぬ」速さだった。
エリィが消えた空間には、ただNothingだけがふわりと飛び上がっていた。
まるでエリィによって誘い込まれたかのように―――
Nothingの牙が虚しく宙を舞った。
- 586 名前:【治療】 投稿日:2009/10/08(木) 23:26
- その瞬間―――やはりエリィは笑っていた。
してやったりと、会心の笑みを浮かべていた。
エリィの二本の腕の先にあった口が、Nothingの前足と後足を噛んでつかむ。
そのままNothingの体を前後にぐっと力強く引っ張った。
ピーンと一直線に伸び切ったNothingの腹の辺りを目掛けて、
物凄い速さでエリィ本体の口が噛みついた。
ぐちぐちぐちゅ。ぐりぎぎぎぎ。びっびちっ。
Nothingには最後の断末魔を上げる時間すら与えられなかった。
上半身と下半身。
嫌な音を立てながら、Nothingの体が、腹のところから真っ二つに千切れた。
エリィの頭の上にNothingの血の雨が降る。
「ウエヘヘヘヘ。ウエヘヘヘヘヘヘ」
血まみれになったエリィの口から、消えゆく命を嘲るような笑い声が漏れる。
その歯の間にはNothingの腸が挟まっていた。
エリィはぐずぐずと何度か歯噛みすると、挟まっていた腸をペッと吐いた。
ミキとコンノの口から、魂が引き裂かれたような絶叫が迸った。
- 587 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/08(木) 23:26
- ★
- 588 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/08(木) 23:26
- ★
- 589 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/08(木) 23:26
- ★
- 590 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:30
- 二つに分かれたNothingの上半身と下半身は、まだエリィの両手に握られていた。
握られていたというよりも―――手の先にある口に、しっかりと噛みつかれていた。
エリィはまだ温かさの残るNothingの体を、二、三回ぶんぶんと振り回すと、
ミキとコンノに向けて乱暴に投げつけた。
「うわああ!」
「いやあああ!!」
二人は半狂乱になってNothingの「部品」を掻き集めた。
コンノはこぼれ出て来るNothingの臓器を必死に押し込もうとする。
あまりの必死さに、見ていたエリィは笑いをこらえることができなかった。
「あははははは! 急いで急いで。急げばまだひっつくかもしれませんよー」
エリィの言葉はたちの悪い冗談でしかなかった。
Nothingの顔からは、既に完全に生気が消えていた。
だらりと伸び切った舌は自律神経による制御を失い、無意味な長さを晒していた。
もはやその肉体からは一片の意志も精神も感じられなかった。
まだ冷静さを取り戻せないコンノをよそに、ミキはNothingの死を受け止めた。
もう彼女は二度と動くことはない。その事実を冷徹に、厳粛に受け入れた。
受け止めたが―――嘲笑や侮辱を受け入れることはできなかった。
全身全霊を込めて、魂でそれに抗った。
- 591 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:30
- ミキの頭の中で、何かが凄い勢いで広がった。何かが極限まで張りつめた。
何かが切れた。何かがひび割れ、何かが弾け飛び、四方に飛び散った。
言葉にならない声を発しながら、ミキは右手に持った銃を乱射した。
耳をつんざく炸裂音が空間を支配する。だがエリィは全く避ける素振りを見せない。
頭を弾かれ、両腕をえぐり飛ばされても、一歩もそこを動かない。
獣のような叫び声をあげながら、ミキは走りだした。
一気に間合いを詰め、ぬるりと甲羅の中から出てきた新しいエリィの首を、
右手でむんずとつかむ。エリィの首は太い。常人のウエスト以上の太さがあった。
それでもミキは爪をめり込ませて、エリィの首を思いっきり締め上げる。
肉を引き裂くような手応えがあった。それでもエリィの顔から笑いは消えない。
そのにやけた瞳を目掛けて、ミキは渾身の力を込めて、折れた左腕を叩きつけた。
絶叫が止まない。もはや自分がなぜ叫んでいるのかもわからなかった。
自分の左腕が折れていることも忘れていた。
怒りが痛みを麻痺させていた。感情が生理を超越していた。
- 592 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:30
- ミキはがむしゃらに指を突っ込む。
小指がエリィの口に入った。薬指は鼻に、中指と人差し指は目に突っ込んだ。
そのまま力任せに奥まで差し込む。エリィの眼窩から眼球がこぼれおちた。
視神経とつながったままの眼球が、ぷらぷらと宙に揺れる。
ミキは眼球を握りしめて視神経ごと引きちぎった。
「ウエヘヘヘヘ。何度やっても無駄ですよーだ」
お遊戯をする幼稚園児を思わせるような、無邪気な笑い声だった。
声はエリィの腹の中から聞こえて来る。
ミキはエリィの腹を思いっきり蹴った。硬い。鉄の塊のように硬かった。
それでもミキは何かに取り憑かれたかのように腹を蹴り続けた。
ミキの皮膚は破れ、肉は裂け、爪が割れた。足指の骨も何本か折れた。
脛から、つま先から、次々と鮮血が滴り落ちる。
それでもミキの動きは止まらない。
- 593 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:30
- 「危ない!」
コンノが叫びながらミキの背中に覆いかぶさる。
その上からエリィの丸太のような腕が襲いかかってきた。
まるで爆撃だった。硬質の打撃がコンノの肩上で炸裂した。
骨が砕ける音がした。コンノとミキは、二人からまりながら床を転がる。
電流のような激痛が肩から爆発的に広がり、コンノの体躯を貫いたが、
それでもコンノは自分の肩を直視することはできなかった。
触れることすらできなかった。
コンノの心に取り付いていたのは圧倒的な恐怖心だった。
もしかしたら肩から先が千切れてしまったのかもしれない―――
そんな想像が湧き出てしまうような凄まじい痛みだった。
そしてその想像が事実であったなら、精神の均衡を保つ自信がなかった。
- 594 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:30
- 「あは。まだ30分も経ってないですけど」
右手。左手。首。エリィの三つの顔が同時に言葉を発する。
全く同質の声で彩られた異様なユニゾンが、二人の耳をくすぐる。
三つの顔の六つの瞳が瀕死状態に陥った獲物をじっと見つめていた。
「遊ぶのにも飽きちゃったしー」
エリィの体は再びスルスルと巨大になっていく。
2メートルほどに縮んでいた体は広い廊下を埋め尽くすほどになっていた。
壁だった。岩だった。山だった。圧倒的な巨体だった。
象を思わせる巨体が、コンノとミキを押しつぶそうと、のそりのそりと迫る。
「そろそろ死にます?」
ミキによってずたずたにされたエリィの顔がずるりと床に落ちた。
床にはエリィの首や腕が千切れた残骸が、いくつも転がっている。
それらは動物の死骸のような饐えた腐臭を放っていた。
エリィは悪臭を放つ己の体液を踏みわけながらゆっくりと前に進む。
コンノとミキは蛇に睨まれたカエルのように身動きできなかった。
- 595 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:30
- ぬるり。
甲羅の中から再びエリィの首が生えてくる。
ぬるり。ぬるり。
両肩からも二本の腕が生えてくる。
だが今度生えてきたのは正真正銘の「腕」だった。
長く伸びた腕の先端には、その巨体に見合う太い指が五本ついていた。
指の先には中華包丁のような鋭利な爪が姿を見せている。
「あの犬っころのように横に二つになります? それとも縦がいいですか?」
蛇のようにくねくねと曲がっていた腕が、腕本来の形を取り戻す。
エリィが渾身の力を込めたのがわかった。
血が通い、腕がフッと膨らむ。二の腕に筋肉で形取られた力瘤ができた。
無我夢中で動いていたミキもコンノも、いつの間にか拳銃を手放していた。
ここまでか―――コンノはポケットに入れていた手榴弾を握りしめる。
最後の手段だった。引きつけるだけ引きつけて自決する―――
だがコンノが最後の勇気を振り絞る前に、可愛らしい声がエリィの歩みを止めた。
「そこまでよ、エリ」
- 596 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:31
- その声を聞いたエリィは、小さくない反応を示した。
一瞬表情を失い、次の瞬間には水に落としたインクのように、笑顔がすっと広がった。
さきほどまでの無邪気な笑顔とは違った、奇妙な笑顔だった。
誰がどう見ても笑顔なのに、その表情が表現しているのは明らかに「怒り」だった。
「あは。やっと来たの。意外と遅かったじゃん、サユ」
コンノは肩の痛みも忘れて後ろを振り返った。
驚くほど近い距離に「サユ」と呼ばれた一人の少女が立っていた。
掃き溜めに鶴―――連想したのは戦場に不似合いなそんな言葉だった。
実際、少女の出で立ちは血生臭い修羅場にはあまりにも不似合いだった。
少女はコンノやミキのように放射線防護服を着ていなかった。
雪のように白いワンピースには、あちこちに少女趣味なひらひらがついていた。
上から下まで、まるで舞踏会にでも出かける時のような、瀟洒な服装だった。
そして真っ白なドレスに包まれた少女の肌もまた、雪のように白い。
能面のような幽鬼さをまとった無表情な顔は、ただ一直線に美しく、
白い体のラインは、精巧な人形を思わせる人間離れした美しさを形作っていた。
- 597 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:31
- 「で、何しに来たの、サユ?」
コンノはミキを抱えたまま、ずるずると床を滑って移動した。
無意識のうちに、サユが通る道を開けていた。
どうやらこの化け物とサユという少女は面識があるようだ。
しかも雰囲気からして敵対関係にあるように見える。
コンノは固唾を飲んでその場のなりゆきを見つめていた。
「ご挨拶ね、エリ。勿論、返してもらうためにこんなところまで来たのよ。
エリがあたしから奪っていったものを、全部返してもらうためにね」
「奪っていったもの? SSのことね。ふん。何をいまさら。もう手遅れよ」
「それだけじゃない」
サユはヒールをコツコツと響かせながら一歩一歩前進していく。
武術の心得があるような体の運びではなかった。
むしろダンスやバレエを彷彿とさせるような、しなやかな動きだった。
だがその足取りには確固とした強い意志が感じられる。
この歩みを止めたければ、それ相応の強い意志を必要とされる―――
そう思わせるような、力強いサユの歩みだった。
「それだけじゃない? 他に何があるっていうの? ねえ。ねえ。ねえ!」
だがエリィも裂帛の気合でもって、サユの気迫を正面から弾き返す。
この二人には浅からぬ因縁がある。
それはもはや疑いようのない事実であると、コンノは感じた。
- 598 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:31
- エリィの言葉に、サユが一瞬戸惑った。足が止まる。
何かを言おうとして、言葉を飲み込む。
言葉にするのは簡単なはずだった。
エリィが組織を裏切ったあの日から、何百回と心の中で叫んだ言葉だ。
だがそれをエリィ本人にぶつけることは躊躇われた。
壊れたものはもう二度と戻らない。
割れたコップなら接着剤でくっつけることもできるだろう。
だが壊れた心は二度と元には戻らない。消えた愛情が再び燃え上がることもない。
エリは越えてはならない一線を越えたのだ
数千年前から続く一族の、組織の、存在意義を全否定したのだ。
「裏切り者が・・・・・・」
サユはかろうじてそれだけを言葉にした。
返して欲しいものはたくさんある。
だがその全ては二度と戻らない。たった一つを除いて、全て戻らない。
ならばその一つだけは返してもらおう。
SS。
一族の全存在にかけてもそれだけは必ず取り戻す―――
- 599 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:31
- 火の出るような視線で宿敵を見つめていたサユだったが、
エリィの視線もまた、激しさで一歩もサユに劣っていなかった。
このわからず屋。どうしてわからないの?
この世で何が一番大切なの。一族の掟が一番大切なの?
それは違うでしょ? 絶対に違う。サユ、あなたは間違っている。
確かにあたしは馬鹿かもしれないけれど、これだけはわかる。
サユ。あなたは間違っている。
あたしは、あたしの全存在をかけて、あなたにそれを教えてあげる。
それが、それがあたしの―――あたしなりのサユへの―――
「問答無用! 死ね! 裏切り者!!」
突然、甲高い声がエリィの背後から襲いかかった。
正面に立つサユに気を取られていたエリィは、背後からの攻撃に無防備だった。
あわてて後ろを振り返るエリィ。だが間に合わない。
炎のように真っ赤な剣を掲げた一人の少女が、真っ向から斬りかかる。
剣はエリィの脳天をかち割り、眉間から鼻を断って上唇のところで止まった。
少女の視線とエリィの視線がからまる。
エリィが化け物じみた吠え声をあげた。
「こはりゅううううううううううううううううううううううう!!」
- 600 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:31
- 赤い剣を間に挟んで、少女はエリィに言葉を放った。
「相変わらずスカスカの頭ですね。中身が無さ過ぎですよ、カメイさん」
エリィやサユよりもずっと幼い顔をした少女だった。
少女もまた、サユと同じように防護服は着ていなかった。
彼女達には放射線の影響がないのだろうか?
だがさすがに少女はサユのようなお洒落な格好はしていなかった。
忍者の黒装束のような実用的な服装をしており、
長い髪はポニーテールのようにひとくくりにされていた。
その長い髪がなければ少年と見まごうような、精錬な顔つきをした少女だった。
唇は笑おうとしているのだろうが、目には抑えきれない怒りがあった。
余裕を見せようとしているのだろうが、少女の顔からは、
興奮を抑えきれていない様子がありありと見てとれた。
- 601 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:31
- 「ふひゃ。偉くなったものね、コハル」
剣を握った少女に向かって、エリィはペッと血を吐いた。
そして両腕の爪でコハルと呼んだ少女の脳天を挟みにかかる。
コハルはぱっと剣から手を離して攻撃を交わし、空中でくるりと一回転して着地した。
背中からするりと二本の剣を取り出す。
その二本もまた、火が出るほどに赤い色をした剣だった。
エリィの脳天に刺さった剣がぼうっと火を放つ。
肉を焼く焦げ臭い空気があたりを漂った。
それでもエリィは、焼ける肉にも慌てず騒がず、ゆっくりと剣を引き抜いて捨てる。
「ワンパータンな攻撃ねえ。進歩してないんじゃない、コハル?」
余裕を取り戻したエリィの巨体が、邪悪な意志を込めながら、
さらにゆっくりと巨大化していく。
コハルは剣を持ったままじりじりと後ずさりした。
- 602 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:32
- コハルとエリィの戦いを茫然と見つめていたコンノとミキの下に、サユが歩み寄った。
「大丈夫?・・・・・じゃないみたいですね、二人とも」
サユは二人の状態をざっと確認すると、懐から白い布を取り出した。
ミキの左腕を三角巾にして釣り、コンノの右肩をぐるぐる巻きにして固定する。
「誰だお前ら? あの化け物と関係あんのか? あの亀の化け物はなんだよ?」
ミキの質問に対して、サユは質問で返した。
「知ってますよ。あなた達はGAMのフジモトミキさんとコンノアサミさん。
お友達のマツウラアヤさんとイイダカオリさんは、どこに行ったんですか?
別行動になったんですか? まさかエリに殺されたとかじゃないですよね?」
ミキとコンノは言葉を失った。
あの亀の化け物の正体はわからないが、この施設に現れたということは、
例のウイルスに関係がある組織の者であることは間違いないだろう。
そしてこのサユという女は、その組織と敵対する組織の人間のようだ。
ということは、国家に匹敵するような巨大な組織の人間である可能性が高い。
その女がGAMの幹部の名前を完全に把握している―――
- 603 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:32
- 「驚かせちゃったみたいですね」サユはペロリと舌を出した。
ミキやコンノと同じくらいの年齢なのだろうか。
彼女が笑うと、その場に花が咲いたようなあでやかな空気が流れた。
ECO moniは既にGAMのことを調べ上げていた。
コハルの調査により、ウイルス投与者であるイイダカオリが在籍いることもつかんでいる。
サユはエリを殺すと同時に、カオリの身柄もここで抑える心づもりだった。
できる限り友好的な表情を作り、サユは穏やかにミキに語りかけた。
「あたし達はおそらく、あなた達の敵ではありません。それだけは信じて。
詳しいことを話すと長くなりますから、後でゆっくりと話しましょう」
サユはすくっと立ち上がり、後方に視線を向けた。
二つの剣を両手に持ったコハルが、舞うようにエリィに斬りかかっている。
エリィの動きはミキやコンノを相手にしていたときとは全く違い、
鳥のように軽やかで俊敏で、虎のように獰猛で力強かった。
「あのドン亀をブチ殺してから―――ゆっくりと話をすることにしましょう」
サユはヒールを脱ぎ捨てて素足になると、
氷の上を滑るように、音も立てずに動き出した。
- 604 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:32
- 「そこまでよ、コハル。エリとのケリはあたしがつける」
コハルの動きがピタリと止まる。
エリィは体をコハルに向けたまま、首だけぐるりと180度回してサユを見た。
もはやその体長は5メートルを超えている。廊下からはみ出しそうになっていた。
「ウエヘヘヘヘ。なんか勘違いしてない? サユ」
「勘違い?」
「あんた達は既に負けているのよ。ここを戦いの場所に選んだ時からね」
エリィはいきなり脳天を床に叩きつけた。
腹に響く轟音がして、床が割れる。エリィは両腕を割れ目に突っ込んで抉る。
首から上がドリルのように鋭く回転を始めた。
石と石が激しくぶつかる音がしたかと思うと、床に大きな穴が開き、
あっという間にエリィの巨体が床の下へと消えていった。
穴に飛び込もうとしたコハルを、サユは視線で押しとどめる。
土の中でエリに勝てる者などいない。
コンクリートの下から甲高いエリの声が響く。
「月の属性を持つサユと、火の属性を持つコハル。あんた達二人が、
土の属性を持つあたしに、この地下施設で勝てるとでも思ったの?」
- 605 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:32
- やられた。地下に潜られてしまったか。
サユは唇を噛んだ。
この状況を想定していなかったわけではない。
だからこそ、エリとの戦いでは一気に勝負をつけるつもりだった。
その戦略も作戦もきちんと準備していた。
だが傷つき倒れていたGAMのメンバーがサユの計算を狂わせた。
ウイルス投与者であるイイダカオリの存在を無視するわけにはいかない。
今はエリの命よりも、むしろイイダの命の方が大事なくらいなのだ―――
足元がぐらぐらと揺れる。
揺れは徐々に大きくなり、床が上下に波打ち始めた。
土の属性を持つ『玄武のエリ』。彼女は土や石を自在に操ることができる。
確かに地下で彼女と戦うことは自殺行為だったのかもしれない。
サユはぎりぎりと奥歯を噛んだ。悔しさがにじんだ。
もはやこれまで。
だがそれは敗北を前にしての思いではない。
最初に準備していた二つのシナリオのうち―――
意に沿わない方のシナリオを選択しなければならないという悔しさだった。
だが決断のときは今だ。エリとはまたどこかで相見える時が来るだろう。
「コハル! シナリオBで行くよ!」
- 606 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:33
- 「ウエヘヘヘヘ。なーにが『シナリオBで行くよ!』だっての」
床は、何かの冗談のように波打っている。
硬いコンクリートがウォーターベッドのようになっていた。
土と石でできた硬質の空間は、エリが揺蕩うゆりかごと化していた。
「ここがサユとコハルの墓場になるのよ。それがたった一つのあたしのシナリオ」
コンクリートの床からにゅっとエリの腕が飛び出してきた。
サユは体を引いて、間一髪のところでエリの爪を交わす。
白いドレスがパッと断たれて肩のところがずり落ちた。
サユの白い鎖骨が露わになる。それでもサユは慌てない。
よしよし。こっちこいエリ。もっとこっち。もっと深追いしてこい。
サユの心の声に導かれるように、エリは地中を通って夢中でサユを追った。
エリは既に勝った気になっていた。
この地下七階のエリアで自分に勝てるものがいるなどと夢想もしなかった。
月の属性を持つサユは月の出ているところ。
そして火の属性を持つコハルは新鮮な空気が大量に満ちているところ。
二人はそういった場所でしか本領を発揮できないはずだ。
その思いが―――エリの油断につながっていた。
サユはエリの性格を完全に見切っていた。十分に引きつけたところで合図を送る。
「今よ、コハル!」
- 607 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:33
- 「ラジャー!」
コハルは懐からスプレー缶を二つ取り出した。
地中に潜っているエリにはその様子は全くわからない。
そして次の瞬間にエリは、コハルの言葉に我が耳を疑うことになる。
コハルは二つのスプレー缶を宙に投げると、剣で真っ二つに切った。
それは酸素吸引用の缶だった。圧縮された高濃度酸素が爆発的に広がっていく。
「黒き土よ・・・赤き炎よ・・・白き月よ・・・青き水よ・・・・」
その新鮮な酸素を存分に吸いながら、コハルは瞳を閉じて、
拳を握った手を胸の前で交差させた。
右手を前に。次の瞬間には左手を前に。そしてまた右手を前に。
目にも止まらぬ速さで、何度も何度も交差を繰り返す。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉をコハルは一息で一気に唱えた。
その声を聞いたエリは、地上で何が起ころうとしているのかを察した。
コンクリートを貫き、慌ててエリは床の上に這い出てくる。だが一歩遅かった。
エリの目の前で、クロスさせたコハルの両手の手首が、強烈な赤い光を放つ。
「無限の闇の向こうから来たれ 無限の闇をまといて来たれ、我が守護神よ。
今こそ、その力を解き放ちたまえ。 いざ、開け! 赤き南方の門!」
- 608 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:33
- 赤き光がコハルの体を包み込み、コハルの輪郭をゆっくりと溶かす。
次の瞬間、コハルの肉体は人間の輪郭を消し、異形のものと化していた。
それは巨大な鳥だった。
象のようなエリの巨体をも上回る、巨大な鳥だった。
その翼を完全に広げるには、地下七階の廊下はあまりにも狭すぎた。
だがコハルは躊躇うことなく雄大な翼を広げる。
炎をまとった深紅の翼がはためいた瞬間、
灼熱の竜巻が巻き起こり、地下施設を形作るコンクリートを瓦解させた。
「うわあ!」「きゃあああ!」
天井が崩れていく。上からコンクリート片がぱらぱらと落ちてきた。
サユはすっとコンノとミキの傍に駆け寄ると、二人の体を抱き上げた。
この細い体のどこにそんな力があるのだろう。
サユは軽々と二人の体を抱え上げると、脱兎のごとく駆け出した。
「オッケー! 行け! コハル!」
サユの指令を聞きとめると、炎に包まれた巨大な朱雀は、
真っ赤な爪でエリの両肩をつかみ、そのまま地下施設を粉々に破壊しながら、
天を目掛けて一気に上昇した。
- 609 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:33
- 朱雀と化したコハルが、地下七階から上空に舞い上がるまで一分とかからなかった。
コハルの上昇に従い、施設の地下組織は完全に崩れ落ち、
コンクリートで塗り固められていた施設の敷地には、
火山口を思わせる巨大な穴が開いた。
コハルは足の爪でつかんでいたエリの体を地面に叩きつけた。
地震のような地鳴りがして、エリの巨体が地面にめり込む。
背中から落ちたエリは、地面の上をゴロゴロと数回転して身悶えした。
その間もコハルは、エリの姿を遠巻きにしながら、
上空高く、悠然とその翼を広げていた。
「こ、こ、こ、こはりゅうううううううううううううううう!!」
エリは自分が油断していたという事実を受け入れたりはしない。
戦いを細かく分析したりしないし、
自責の念にかられるということも全くない女だった。
ただ純粋に自分を傷つけたコハルに対して強い怒りを抱いていた。
怒りを帯びたエリの巨体が止めどなく巨大になっていく。
もはやそれは象などではなく、一台の戦車だった。
- 610 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:33
- 「惨めね。エリ」
エリの背後から声をかけたのは、
電撃的な速さで地上まで駆け上がっていたサユだった。
コハルの一連の行動は事前にシミュレーションしていたものだ。
そしてサユはサユで、こういった状況になったときの準備はしていた。
ミキとコンノは既に安全な場所に隠している。
これで完全に2対1の状況が作り上げられた。
もっともそれは、サユが望んでいた状況ではなかったが―――
憎悪の表情をむき出しにしているエリに対して、
サユは人差し指を天に向けて見せた。
指の先には夕焼け空をバックに飛翔するコハルの姿があった。
さらにその先に、うっすらと浮かぶ夕月があった。
エリは状況を把握した。立場は逆転したのだ。
空にはコハルがいる。そして月が出た今、サユも変化することが可能だ。
変化したサユとコハル。この二人を同時に相手するのは難しい。
やり損なったか。
だがまあいい。エリは既に気持ちを切り替えていた。
負けではない。引き分けだ。こちらが失ったものは何もない。
エリは頭をドリルのように鋭く回転すると、地中目掛けてその巨体を躍らせた。
- 611 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:33
- ☆
- 612 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:34
- 「また派手にやったもんだな」
ミキはあきれ返っていた。呆れることしかできなかった。
どこをどう通って地下七階から地上に出てきたのか全く覚えていない。
だがどうやらサユとかいう少女が自分とコンノのことを抱えて、
崩れ落ちる地下施設の中を、稲妻のような速さで駆け上がっていったようだ。
いや、本当は覚えている。だが信じられなかった。全くもって人間業ではない。
だがそんなことも驚きに値しないのかもしれない。
巨大な亀の化け物。そしてそれ以上に巨大な真っ赤な鳥に変身する幼い少女。
何もかもがあまりにも非現実的すぎた。何だこれは。何なのだこれは。
全くもって呆れるしかできなかった。思考が停止していた。
だがコンノの一言を聞いて、ようやくミキの脳は動き出した。
「マツウラさんとイイダさんは無事でしょうか・・・・・・」
「あ。」
「え!? 忘れてたんですか? 信じられない!」
「いや、忘れてないって、うん。まあ、アヤならきっと大丈夫だよ」
完全に忘れていた。下手したらアヤは施設崩壊に巻き込まれたかもしれない。
だがきっと大丈夫だろう。勝手な楽観論だけがミキの中にあった。
何をどうやっても「下手をするアヤ」という姿を想像することはできなかった。
- 613 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:34
- 「なーにが『忘れてないって』だよ。完全に忘れてたでしょ、ミキたん」
聞き慣れた声を聞いて、ミキとコンノは飛び上がった。
ほんの数十分ほどしか経っていないのに、なぜか数年振りに会ったような気がした。
アヤは数十分前と変わらず―――からからと笑っていた。
その笑顔は、無粋な放射線防護服越しにも、二人の心を柔らかくする力があった。
「アヤちゃん! 無事だったんだ! もしかしたら上りきれなかったのかと」
「まあね。あのままだったら危なかった。地下六階でルートを変えたんだよ」
アヤとカオリは行きと同じように、水道管を伝って地下六階まで上がった。
そこからはエレベーターで地上まで上ったのだという。
エリィが電気を付けてくれたおかげで、エレベーターも使えるようになっていた。
地上に戻ったアヤとカオリは、一端、車に戻って施設の様子を窺っていた。
- 614 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:34
- そこに轟音を立てて、真っ赤な何かが施設の中から飛び出してきた。
真っ赤な巨大な鳥。それが抱えていたのは巨大な亀のような化け物だった。
やがて亀は地中に潜って姿を消した。
そこでアヤはカオリを車に残して、施設の跡まで一人で戻ってきたのだという。
「しかしまあ、わけわかんないよ。ねえ、ミキたん。何があったの?」
「あたしもわかんないよ。もうわけわかんない」
「コンコンも?」
「あああ、マツウラさん・・・ごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・・」
「え? どうしたのよコンちゃん。なんで謝んの?」
「Nothingが・・・・・・Nothingが・・・・・・・」
コンノの言葉に、ミキははっと体を硬くして唇を噛んだ。
コンノは両手で深々と頭を抱えて、はらはらと涙をこぼしていた。
二人の反応から、アヤはNothingの運命をそれとなく察した。
アヤは黙って地下施設跡にできた巨大な穴を見つめている。
この下にNothingが―――
足を踏み出そうとして、止めた。
そんな行為に意味があるというのなら、ミキがとっくにやっているだろう。
- 615 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:35
- 「もしかしてあなたがイイダカオリさん? それともマツウラアヤさん?」
沈みこんだその場の雰囲気を振り払うかのような明るい声だった。
知らない人間からフルネームを呼ばれることには慣れていない。
特にGAMという非合法組織を立ち上げた時からは。
アヤはあからさまに警戒した姿勢を見せながら、声の方に振り返った。
驚いた。
そこに立っている少女は放射線防護服を一切着ていなかった。
それどころか、パーティードレスのような煌びやかな衣装をまとっている。
まるでこれから撮影が始まる映画女優のような姿だった。
「あら。その顔は・・・・・マツウラアヤさんかな?」
名前だけではなく顔も知られている。
情報がどこからか漏れていたということだろうか。
GAMがここに来るということが事前にどこかに流れていたのか。
- 616 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:35
- 「アヤちゃん。一応言っておくけど、その子は敵じゃないかもしれないよ。
あの時、あたしらを襲ったのは、あのでっかい亀の化け物の方なんだよね。
その子ともう一人の女の子が、あたしらが危ないところを助けてくれたんだよ」
「もう一人の女の子?」
「あの空を飛んでる赤い鳥いるじゃん。あれがそう」
アヤは上空を見上げた。何か言おうとしたが、言葉が出ない。
空には見たこともないような巨大な怪鳥が羽ばたいている。
あの子? 女の子? どう見ても鳥なんだけど?
さすがのアヤも、この状況は理解の範疇を超えているようだった。
「あたしもさあ、何が何だか全然わかんないんだけどさ。詳しいことはその子、
サユっていう子らしいんだけど、その子が全部説明してくれるってさ」
サユはコンクリートが散らばる荒れた地面にすとんと腰を下ろした。
美しい少女だった。
直視した者が呪われそうな、そんな神秘的な美しさを持った少女だった。
- 617 名前:【治療】 投稿日:2009/10/12(月) 23:35
- アヤは美しい女が嫌いではない。
アヤもサユの真正面に腰を下ろした。
突然、その場に突風が吹き荒れる。アヤは飛ばされないように石にしがみついた。
サユが座った後ろに、真っ赤な朱雀が舞い降りてきた。
身の丈5メートルはあろうかという怪鳥は、徐々に小さくなっていき、
人間ほどの大きさになったかと思うと、一人の小さな少女に姿を変えた。
「この子だよ、アヤちゃん。あたしらを助けてくれたのは」
「こんにちはー。コハルっていいまーす。よろしく!」
「ちょっと・・・・・・うーん。信じらんないね。参ったな・・・・・」
サユは手のひらをパタパタと上下に振ってコハルを座らせる。
サユ。コハル。アヤ。ミキ。コンノ。5人がぐるりと車座になった。
「あんた達が何者なのか。聞かせてくれるのかな?」
「はい」
サユはアヤの瞳を見つめる。
参ったなと言いながらも、アヤの瞳は困惑よりも好奇心が勝っていた。
好奇心とは真実を求める心。嘘は許してくれそうにない瞳だった。
サユは、そんなアヤの瞳から目を反らすことなく、長い長い物語の口火を切った。
「これから話すことは、決しておとぎ話ではありません」
- 618 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/12(月) 23:35
- ★
- 619 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/12(月) 23:35
- ★
- 620 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/12(月) 23:35
- ★
- 621 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:07
- 「私の名前はミチシ・ゲサユミ。そこにいる子はクスミ・コハル。
二人とも『ECO moni』という組織のメンバーです」
「ミチシゲさんは108代目のリーダーです!」
サユはコハルの方を見てフッと柔らかく表情を崩し、
手のひらでよしよしとコハルの頭を撫でる。
そんな仕草が滑稽に映らないほど、コハルという少女はまだ幼かった。
「108代目? ひゃくはちって言ったの? なにそれ。いつからある組織だよ」
「5000年以上前からあると聞いています」
「マジかよ・・・・・・・・・」
いきなりおとぎ話のような導入部を経て、サユは話を切り出した。
あまりの言いように、ミキは半信半疑でサユの話を受け止めた。
コンノも、この話は話半分くらいで聞くべきだろうと思っていた。
アヤだけが、サユの話す言葉をそのまま素直に聞き入れていた。
アヤといえども、嘘を嘘と見抜くことに絶対の自信があるわけではない。
だが実際にこのコハルという少女は、化け物じみた鳥に変化していたのだ。
彼女達の話には、真摯に耳を傾けなければならないと思っていた。
そこに多少の嘘が交じっていたとしても、それは別に構わない。
それに百倍する真実が秘められているだろうとアヤは確信していた。
- 622 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:07
- サユはそこで躊躇いがちに言葉を切った。
自分達のことを話す前に、一つ確認しておかなければならないことがある。
その返答によっては―――話す内容が変わるかもしれない。
「あなたたちGAMもウイルスを探しているの? 何のために? 目的は何ですか?」
「あんた達がさ、どこまであたし達のことを調べたのかは知らないけどさ・・・・・
あたしは『キャリア』ってやつが気に入らないんだよね。商売の邪魔になるしね。
だからキャリアを消したい。そしてウイルスが蔓延するこの街も正常に戻したい。
つまりウイルス患者を治す薬を作りたいんだよ。そのために元のウイルスを探してる」
アヤの言葉は嘘ではなかった。
勿論、ウイルスとその抗体を使ってこの世界を支配したいという野望はある。
だが今はそこまで話す必要はないだろう。
エコモニとかいう組織がどういった性質のものかもよくわからないのだ。
警戒しておくに越したことはない。
サユはアヤの答に一応納得したようだった。
「わかりました。それなら私達の組織と協力し合えるかもしれません」
「あんた達もウイルスを探しているということ?」
「そうですね。より正確に言うなら、ウイルスそのものと、それを投与した被験者です」
やっぱりそうだったか。アヤは心の中でつぶやいた。
予想していた通り、やはり重要なのは被験者の体なのだ。
SSがGAMを切り崩そうとしてきた真の理由が、今ここではっきりした。
カオリの体が狙いなのだ。
- 623 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:08
- コンノがサユの言葉に鋭く反応した。
「ウイルスを投与した被験者? どうしてそれを探しているんですか?
あのウイルスの効果をゼロにできる抗ウイルス抗体を作るには、
あの事故があったときの被験者の検体が必要ってことなんですか?」
サユはすぐには答えなかった。じっくりと何かを心の中で吟味している。
アヤはそんなサユの表情を注意深く観察していた。
彼女達にしても、話せないことが少なくないのだろう。
そしてそれはGAMにしても同じことだ。
何を聞くにしても、何を話すにしても、ここからの会話には細心の注意が必要とされる。
「はい・・・。あの事故の直前に、ウイルスを投与された人間が八人いました。
ウイルスの効果を完全に消すには、その八人の体の組織のサンプルが必要です」
八人という人数はコンノが調べたデータと一致する。カオリの話とも一致する。
つまり、このことに関してはサユは嘘を言っていないということだ。
このサユという女は思っていたよりも賢いようだ。
全て本当のことを話すわけではないのだろうが、
少なくとも、嘘を嘘で塗り固めていくタイプではないように思える。
要点さえつかめれば、かなり有意義な会話になるとアヤは判断した。
「で、なんであんた達はウイルスを探しているの?
あんた達の組織とウイルスはどういう関係にあるの?」
- 624 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:08
- サユは大きく一つため息を吐いた。
深呼吸と言ってもいいくらいの大きなため息だった。
胸の辺りまで伸びた艶やかな黒髪がはらりと揺れた。
造り物のように美しいシルエットを眺めながら、アヤは思いを巡らせていた。
この子もコハルとかいう子と同じように、巨大な鳥や亀に変化するのだろうか。
それはなかなかに想像しがたい情景だった。
サユという子には、そのままでも十分に人間離れした美しさがあった。
完璧な調和の美とでもいう造形の上に成り立っている彼女の姿が、
彼女以外の何かに変わってしまうところなんて、とても想像できなかった。
サユの唇が動く。その動きも、完璧な調和をいささかも乱すものではなかった。
「あのウイルスは・・・・・あれのことを我々は『SS』と呼んでいます。
エリも自分達の組織にSSと名付けていますが、そこから取ったのでしょう。
そのSSというウイルスは、元々は我々の組織が保管していたものです。
保管していたというか、あれを守ることが我々の組織の存在意義なのです。
あれを外に持ち出してはならない。あれを軽々しく発動させてはならない。
それが、5000年以上前から連綿と続く、我が組織の絶対的な掟なのです」
サユは懐から四本のろうそくを取り出した。
赤。白。黒。青。それぞれ四色の色をしたろうそくだった。
サユがそれを地面に立てると、コハルがマッチで火をつける。
その火は、ろうそくの胴体と同じく、それぞれ四色の色をしていた。
- 625 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:08
- サユは目の前にある白い炎を揺らしながら語る。
「カメイ家は北方。ミチシゲ家は西方。クスミ家は南方。ミツイ家は東方。
代々、四つの家柄が、それぞれの方向を守護してきたと伝えられています。
四家がそれぞれの方角を守護することによって、SSを封じてきたのです」
「ミチシゲってのがあんたのこと。クスミってのはこの子のことだよね?
じゃあ、もしかしてさっきのでかい亀の化け物っていうのは・・・・・」
「カメイ・エリ。それがあの亀の名前です。カメイ家の家督を継ぐものです」
「なるほど」
あの亀の化け物とサユ達の間には浅からぬ因縁があるように感じていた。
どうやら元々彼女たちは同じ組織に属していたようだ。
そして今は敵に分かれて戦っている―――
ということは。
「もしかしてそのカメイってのが」
「そうです。彼女が組織の掟に背き、SSを盗み出した。それが全ての始まりです」
「話の途中で悪いんだけどさ」
「はい?」
「あんた達、戦いの最中に土の属性やら月の属性やらって言ってなかったっけ?」
サユは「よく聞いていましたね」と言ってふふふと上品に笑った。
ミキは骨折のダメージで朦朧としながらも、
ここは絶対に目を逸らす時ではないと、彼女達の戦いの全てを目に焼き付けていた。
その時に気になっていたのが、その言葉だった。
彼女達の能力に何か関係があるのだろうか。
- 626 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:08
- 「我々四家の人間にはそれぞれ守護神がついています。守護獣とも言いますが。
北方の門を守るカメイ家には玄武。これは土の属性を持つ獣です。
本体は亀ですが、首の部分は大蛇です。両手の部分も蛇に変わることができます。
土や石を自由に操る能力があり、地中での戦いには絶対的な強さを示します」
なるほど。それでミキには、彼女たちの会話の一部が理解することができた。
それならば確かに地下七階であの化け物と戦うのは自殺行為だ。
逆に言えば、それ以外のところで戦えば、まだなんとかできるかもしれない。
「西方の門を守る私の守護神は白虎。属性は月です。月の満ち欠けに影響されます。
新月の時にはその力を発揮することができませんが、満月の夜になると力を
最大限に発揮でき、その時は他の三獣の力を遥かに凌駕すると伝えられています」
虎か。アヤは心の中で白い虎となったミチシゲの姿を想像した。
満月をバックにして低く吠える白い虎。
それはそれでミチシゲの美貌の延長線上に存在し得ると思われた。
「そしてこの子、南方の門を守るクスミ家のコハルの守護獣は朱雀。
先ほどみなさんもご覧になったと思いますが、深紅の怪鳥です。
属性は炎。空気の美しいところでなければその火を燃やすことはできません。
今回はまあ、酸素の缶を使ったわけですが、ドーピングみたいなものです。
コハルが本来の力を発揮すれば、その炎の力はあんなものでは済みません」
- 627 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:08
- 確か、サユはこの話を始める前に、こう前置きをした。
「これから話すことは、決しておとぎ話ではありません」
だがサユの話を聞いているコンノには、それがおとぎ話に聞こえてならなかった。
もし実際にその目で玄武やら朱雀やらを見ていなければ、
とてもではないが信じることはできなかっただろう。
その異常な形態や能力は、コンノの持つ科学的な知識の範疇にはなかった。
ウイルスや、キャリアの異常能力であれば理解は可能だ。
あれは人間の肉体の一部が異常に発達しているだけの話なのだ。
まだなんとか人間の生理学の範囲で理解することができた。
だがサユ達の一族は根本的に違う。とても同じ人間だとは思えなかった。
およそ5000年前から続くというその一族の存在を、
科学的知識で解析することは可能なのだろうか?
もしかしてそれを解析することがウイルスの解明につながるのでは?
コンノはウイルスと同じくらい、サユ達の一族に興味をひかれ始めていた。
一方、アヤの方もこの奇妙な話を受け入れ始めていた。
アヤの敏感な好奇心は、いたく刺激されていた。サユの話は面白い。面白すぎる。
この話の行きつく先は、きっと抗ウイルス抗体なんかよりも面白いに違いない。
とりあえずアヤは、サユが話すこの壮大な大法螺話に、
最後まで付き合ってやろうと思っていた。
- 628 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:08
- アヤは一つ気にかかったことをサユに訊いた。
「なるほど。あんた達とあの亀の化け物の関係はなんとなくわかった。
ところでもう一人、東方を守るっていうミツイ家の人間はどこにいるの?
今でもあんた達の味方なの? それともあの亀の化け物の味方についたの?」
「ミッツィーのことですか。ミツイ家の当代の人間はアイカと言います。
彼女はエリのように裏切ってはいませんよ。今でも我々の組織の一員です。
我々の組織を裏切ったのは、カメイエリただ一人だけですから」
ミツイのことを忘れていたわけではない。こちらはエリを逃してしまったが、
おそらく今頃ミッツィーはテラダの首を獲っていることだろう。
彼女もまた常人離れした強さを持った四家の一員なのだから。
「ミツイ家の守護神は青龍。属性は水。水のある場所では最強無敵です。
ご存知のように、この地球は半分以上が海に覆われています。
山間には川が流れていますし、人里には至るところに用水路や上下水道がある。
空には雲が流れていますし、この星ではどこにでも雨は降る。もしかしたら、
彼女こそが、SSを除けばこの星で最強の存在なのかもしれない―――」
- 629 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:09
- ☆
- 630 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:09
- ミツイが振りかざした青龍刀はマリィのところまで届かなかった。
それどころか、マリィの笑い声が巻き起こした音波を受けて、
ミツイの体は後方に大きく吹き飛んだ。
「キャハハハハ! またまたおいら、パワーアップしちゃったみたい。
ヒャハハハハ! ヒャハハハハハ! 死ね死ね死ね死ね死ねええええ」
マリィがパワーアップしたのではない。
いくらマリィの音波が強力であったとしても、
音の波が人間の体を吹き飛ばすまでの物理的な圧力になることはない。
ミツイは自らの力で後方にジャンプしていた。
マリィの笑い声を聞いた瞬間に、その声の異常性に勘付いていた。
正確にその声の正体に気付いたわけではない。
催眠術? あるいは聴覚破壊? その程度の推察でしかなかった。
だが人間は聴覚が破壊されるだけで、バランス感覚が著しく狂う。
耳が聞こえない状態では、全力で走ることすらままならなくなる。
この音を聞いてはならない。今、守るべきは自分の耳だ。
ミツイはすっと自分の小指で両耳を塞いだ。
- 631 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:09
- それでもマリィの笑い声は止まらない。むしろ暴力性を増していく。
「ヒャハハハハ! 耳栓かよ! 原始的だなおい! キャハハハハハハハ!
皆そうすんだよ。無意味なのになあ。おい、なめんなよそこの腐れ爬虫類。
マリィ・ストナッチ様の特殊能力を甘く見んなよぉぉぉゴルァアアアア!」
マリィの笑い声は空気を震わせ、大地を揺さぶり、四方の建物に反響した。
空気の振動は分厚い波となってミツイの体を包む。
足元から、頭上から、前後左右上下から波は襲いかかって来る。
耳を塞ぎ、鼓膜をガードしても無意味だった。
揺れ動く音の波は直接ミツイの肉体を打ちつけ、内側から強く揺さぶる。
ミツイの内臓に重低音のボディブローが突き刺さる。
胃がせり上がり、臓器ごと吐きだしそうな強烈な吐き気がミツイの喉元を上下した。
ミツイはそれでも必死に耳を塞ぎ続ける。
平衡感覚を失い、よろよろと車道を右に左に蛇行したが、耳からは手を離さない。
この手を離した瞬間、この音波に脳髄を潰されると確信していた。
酔っ払いのような怪しい足取りで、ミツイは歩道に乗り上げる。
「ヒャハハハハハ! 生まれたての小鹿かよ! 貧乏臭い顔した鹿だなおい!
もう死ぬか? もっとオイラを楽しませろよ! もっと! もっと! もっと!!」
どんなに簡単に見える仕事の時にも、ミツイはその土地の下調べを欠かさない。
今回も例外ではなかった。その几帳面な性格がミツイの命を救った。
よたよたとした足取りで、ミツイは歩道に倒れこむ。
その先には―――古ぼけた消火栓がぽつんと一つ立っていた。
- 632 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:09
- ミツイの体が消火栓にぶつかる。
マリィの笑い声にかぶさるようにして、消火栓が開く音がした。
数年間使われていなかった消火栓だが、水源は朽ち果てていなかった。
鋭く細い糸のような水流が吹き出し、やがてそれは徐々に太さを増していく。
ミツイはずぶ濡れになりながら吹き荒れる水流の向こう側に消えた。
「ヒャハハハハハ! なんだそれ。演芸会の水芸か? 芸が古いなおい。
面白れえ面白れえ。キャハハハハ! そうだな。お前は溺れ死ね。
その水全部飲んで死ね! しねしねしねしね溺れ死ねえええええええええ!」
不意に水流が形を変えた。
垂直方向に打ち上げられていた水流が、くるくると水平方向に回り始める。
幾何学模様のスクリーンセーバーのように渦を巻いた水流は、
縦に長い竜巻を形作り、さらに回転軸の角度を変えていく。
竜巻はぐにゃりと捻じ曲げられて横に長くなり、さらに複雑な回転を加える。
生き物のように複雑にぐねった水流は、やがて一つの球体のような形になった。
- 633 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:10
- 「あ・・・・・・なんだありゃ。おい。おい。ふざけんなよおおおおおお!
死ねよ! 死ねよ! 内臓ぶちまけて死ねよゴルァあああああああああ!」
マリィの死を呼ぶ叫び声は、ミツイの下まで届かない。
殺傷能力を秘めた音波は、剃刀のように鋭く流れる水球に、ことごとく流されていった。
上下左右前後。あらゆる方向をカバーした水流の盾は、マリィの攻撃を見事に受け流した。
そして水は色を変えていく。白から透明。透明から青。
青は明るさと鮮やかさを増していく。
一点の曇りもなく晴れ渡った空のような青の彼方から、ミツイの声が聞こえた。
「黒き土よ・・・赤き炎よ・・・白き月よ・・・青き水よ・・・・」
鮮やかな青の水球の中に、ミツイのシルエットがおぼろげに映った。
水球を形作る水流がぐにゃりとカーブするたびに、
水中で屈折したシルエットがゆらゆらと揺れる。
- 634 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:10
- ミツイは瞳を閉じて、拳を握った手を胸の前で交差させていた。
右手を前に。次の瞬間には左手を前に。そしてまた右手を前に。
目にも止まらぬ速さで、何度も何度も交差を繰り返す。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉を、ミツイは一息で一気に唱えた。
巨大な水球の向こう側で、クロスさせたミツイの手首が鮮烈な青い光を放つ。
「無限の闇の向こうから来たれ。無限の闇をまといて来たれ我が守護神よ。
今こそ、その力を解き放ちたまえ。いざ、開け! 青き東方の門!」
青き光がミツイの体を包み込み、ミツイの体をゆっくりと溶かす。
次の瞬間、ミツイの肉体は人間の輪郭を消し、異形のものと化していた。
異形のものは、その巨体を水球からはみ出させ、
青き水流の衣をまとってマリィの眼前に姿を晒した。
「な・・・・・・なんだこりゃ・・・・・」
だらしなく開いた口が動きを止める。マリィの笑い声が消えた。
- 635 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:10
- マリィの眼前に現れたのは巨大な青龍だった。
そこにはもはや幼き少女であるミツイの面影は欠片も残っていない。
長く伸びた髭は綱引きの綱くらいの太さがあった。
顔だけでもちょっとした軽自動車ほどの質量がある。
そこから伸びた、鱗に包まれた体躯は、30メートル近い長さがあった。
青龍はカッと天空を睨みながら、体を震わせて巨大な咆哮を上げた。
まるで雷がそばに落ちた時のような衝撃が、辺り一帯に響き渡った。
あまりの巨大な鳴き声に、マリィは思わず耳を塞いだ。
バカな。ふざけんなよ。あたしが声で負けるとでも思ってんのかよ。
なんだよこいつ。なんなんだよ。なんなんだよ。なんだっつーんだよ!
マリィは完全にパニック状態になっていた。
下顎がかくかくと震える。だが声が出てこない。体が動かない。
正常な運動を、肉体が忘れてしまっていた。
圧倒されていた。理屈ではない。
人は巨大な物体に対して、本能的に神秘的な思いを抱いてしまう。
それが見たこともない生物であれば尚更のことだった。
青龍の圧倒的な重量感を前に、マリィは精神的に制圧されていた。
- 636 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:11
- 「溺れ死ね?」
青龍の発した声は、幾分太かったが、ほぼミツイの声そのままだった。
マリィがはっと我に返る。
やはり目の前のこの化け物はあの女なのだ。
幻覚? CG? ハリボテ? それとも何かのトリック?
やや落ち着きを取り戻したマリィの頭脳が、くるくると回転を始める。
「この青龍に向かって溺れ死ねとは・・・・・笑わせてくれるわ」
青龍は太い腕を伸ばし、陸トカゲのような四つん這いの姿勢になっている。
息を吸い込むたびに胸がゆっくりと収縮する。
そんな些細な動きでさえ相手に圧迫感を与えるほど、青龍の存在感は圧倒的だった。
- 637 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:11
- だがマリィは怯まない。青龍の威圧感に真っ向から立ち向かった。
なるほど、確かにこれほど巨大な体を持つ敵は見たことがない。
龍とかいう生き物を見たのもこれが初めてだ。
一瞬だけとはいえ、うろたえてしまったことも認めよう。
だがしかし。だがしかし。だがしかし、だ。
マリィは知っていた。
この青龍をも上回るような、圧倒的な存在感を持った生き物を。
青き龍よりも遥かに小さな体に、悪魔のごとき威圧感を秘めた赤き悪魔の少女を。
マリィは知っていた。マリィは見たことがあった。
ゆえにマリィは怯まない。
再び頬を釣り上げ、唇を三日月のように曲げた。
「キャハッ!」
- 638 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:12
- どんな化け物であろうと、相手が生き物である限り、マリィは歌う。
声を限りに、高らかに笑い、歌う。
それだけがキャリアであるマリィの存在証明だった。
「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
喉を震わせ、空気を震わせ、相手の細胞に干渉して振動を伝える。
マリィの歌声は、鼓膜だけではなく、臓器や脳髄に直接干渉しようと襲いかかる。
激しく振動する音波は、空気中のあらゆる分子に干渉し、強制的な崩壊を迫る。
崩壊していく原子核からは―――ある種の放射線すら発せられた。
連鎖的な分子崩壊は、辺り一帯に電磁波の荒波を呼び起こす。
小さなビックバンとでもいうべき衝撃が、マリィと青龍の中間地点で弾けた。
だが青龍は動かない。
- 639 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:12
- 青龍を包む水球がふわりと膨らみ、その巨体を完全に包み込んだ。
ぐるぐると循環する水の流れは、限界を知ることなく加速していく。
水流のバリアは放射能で汚染された分子群を綺麗に洗い流していった。
水球の中で身を屈める青龍の下にマリィの声は届かない。
青龍は後足で力強く立ち上がり、くわっと口を開けて、
マリィにも負けないくらいの雄叫びを上げる。
気高き咆哮と共に、水飛沫は洪水のような激流となってマリィに襲いかかる。
鉄砲水と化した奔流が、マリィと共に立ち並ぶビル群をなぎ倒していくのと―――
消火栓の水が尽き、弾けて消えた水球の中心に、
電磁波の集中砲火が降り注ぐのが―――
ほぼ同時だった。
- 640 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:12
- ☆
- 641 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:13
- 「・・・・・・・痛ってえ・・・・・・・ッ・・ッ・・ッ・・・・」
ミツイは激しく咳き込みながら、唾液混じりの血を吐いた。
放射能汚染を心配する必要はなかった。
SSの守護を務める四家の血を引く者は、放射能に対して強い耐性があった。
常人ならたちまち致命傷となってしまうような高濃度の放射能に暴露しても、
何ら健康被害らしきものを受けない体質をしているのだ。
だがマリィの残した電磁波の爆撃は、それを抜きにしてもかなりの衝撃だった。
それは純粋な物理的打撃として、ミツイの体に大きな傷跡を残していった。
ミツイはビルの残骸に身を預け、二、三度深呼吸をして息を整えた。
息を吸うだけで胸に鋭い痛みが走る。肋骨が何本か折れているに違いない。
それでも寝ている暇はなかった。水浸しになった廃墟をよろよろと歩く。
- 642 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:14
- 歩きながらミツイはポンポンと自分の耳を叩いた。
音はちゃんと聞こえる。
どうやら耳は二つとも無事のようだ。タッチの差で押し切ったか。
もしあと数秒、消火栓の水が尽きるのが早かったらと思うとぞっとした。
まさかあそこまで強力な能力を持ったキャリアがいるとは思わなかった。
手加減はできなかった。手加減していたらこっちが死んでいただろう。
数年ぶりに青龍の能力を全面発動させてしまった。
ミツイは顔を上げる。予想通りの情景を目にして、思わず天を仰いだ。
ついさっきまでそこにあった八階建てのビルは――――
跡形もなく吹き飛ばされていた。
- 643 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:14
- 「やってもうたわ・・・・・・・・・・・くそ」
ミツイが倒した三つのビルは、テラダのアジトがある隣のビルだった。
皮肉なことにテラダが入っていたビルだけがポツンと一つそのままで残っている。
そこにはもう人の気配は感じられなかった。
当然だ。あれだけ派手に騒げばどんなバカでも異常事態に気付くだろう。
逃げ出したテラダの足取り追うのは、もう不可能だった。
「あーあ。ミチシゲさんに何て報告しよう・・・・・・・・・・」
せめてマリィの死体だけでも確認を、とミツイはビルの残骸に足を踏み入れた。
三つのビルの跡地を歩くだけで、体力をひどく消耗した。
思っている以上に傷が深いらしい。
- 644 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:14
- ミツイは膝をつき、地面を覆っている水の中に手を突っ込む。
青龍に変化するだけがミツイの能力ではない。
ミツイには、水を通じて、水が満ちている範囲の情報をつかむことが可能だった。
人の気配はない。血の臭いも、死体の臭いもしない―――
「クソ・・・逃がしてしもうたか・・・・・あのチビ・・・・・・・・」
マリィを仕留め損なったことを知った。そこがミツイの気力の限界だった。
浅い水たまりの中に両膝をついたままで、ゆっくりと前のめりに倒れ、
深く土下座するような姿勢でミツイは気を失った。
- 645 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:14
- ★
- 646 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:14
- ★
- 647 名前:【治療】 投稿日:2009/10/15(木) 23:15
- ★
- 648 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:07
- 「話を逸らして悪かったよ。四家っていうのが何なのかはわかった」
玄武。白虎。朱雀。青龍。昔の中国の伝説か何かだったかに、
そんな空想上の生き物が存在するということは聞いたことがある。
だが実際に巨大な亀や鳥の化け物を見たアヤにとっては、
もはやそれらは空想上の生物ではなかった。
「五千年以上前からっていう数字が正しいかどうかはどうでもいいさ。
とにかくあんたらが例のウイルスを守っていたってことは信じるよ」
あの施設でウイルスを使った実験をしていたのが、
テラダとカメイエリの二人だということは、カオリの耳がしっかりと聞いている。
そのカメイエリがエコモニとかいう組織を裏切ってウイルスを持ち出した―――
サユの話はカオリの情報とも一致する。
どういう目的で、どういう方法で守り続けていたかは知らないが、
彼女たちがあのウイルスをずっと守っていたことは嘘ではないだろう。
テラダ達の組織をずっと追ってきたアヤ達だったが、
どうやらそれ以上にウイルスの本質を知っている組織に行きあたったらしい。
「で、話を元に戻したいんだけどさ」
ミキとコンノは黙り込んでいる。コハルも大人しくしている。
いつの間にか言葉をやり取りしているのはアヤとサユだけになっていた。
- 649 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:07
- 「あのウイルスって・・・・なんなのさ?」
「ウイルスの・・・ことですか」
「あれがただのウイルスじゃないってことくらいは、誰でもわかるって。
ただの病原体とは思えない。あたしはてっきり未知のウイルスかと思ってたよ。
どこかの製薬会社がいじっているうちに突然変異を起こした新種のウイルス―――
そう思っていたんだけどね。でもあんたらの話を聞いていると、どうも違うらしい。
何千年も前からあるんでしょ? そしてあんたらはずっとそれを封じていた。
まさか、その正体も知らずに守っていたわけじゃないでしょ?」
ウイルスの正体。
本来はそこから話を始めるべきだったのかもしれない。
アヤ達はウイルスが何なのか全く知らないのだ。
偶然流行りだした病原体という程度にしか思っていなかった。
だがテラダ達の組織であるSSの動き。マキや麻取たちを動かしている政府の動き。
そしてエコモニとかいう組織の動き。
それらの動きは、明らかに何らかの意図を含んだものだった。
そこからアヤが導き出した結論は一つ。
このウイルスはただの病原体なんかじゃない。
明らかに誰かが何らかの意図を持って作りだしたもの。
あるいは誰かが何らかの意図をもってばらまいたもの。
そしてこの場合「誰か」というのは重要ではない。
その「何らかの意図」というのが何であるのかが重要なのだ―――
- 650 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:07
- アヤは自分の考えを全て、そのまま率直にサユに告げた。
ここで駆け引きするつもりはなかった。
こちらに「情報」という名の手持ちの札はない。
そういうときに、相手をおだてたり脅したりする奴らは二流三流。
そうやって情報をかすめ取ろうとしても、まともな情報は得られない。
偽りの言葉を使う人間は、相手からも偽りの言葉しか返してもらえないだろう。
アヤはそういう時は、自分が何をしたいのかを率直に相手に告げることにしていた。
自分が何を考え、何を必要とし、何を目的にしているのかを明らかにする。
アヤという人間が進むべき道が、相手の邪魔になるのかならないのか。
それを相手に判断してもらえばいい。判断する材料を与えればいい。
邪魔にならないのであれば、必ず協力し合える道が開けてくる。
そのためには自分を偽らず、詳らかに語ることだ。
詳らかに語ったとしても、弱みにならないだけの強さと賢さを誇示することだ。
その強さと賢さこそが、情報のない人間の唯一の取引条件となる。
アヤは自分の強さと賢さに対して絶対の自信を持っていた。
相手が亀の化け物だろうが空飛ぶ怪鳥だろうが、そんなことは関係ない。
人間の強さはそんなところで決まるものではない。
そう信じることができることこそが、アヤという人間の強さだった。
果たして―――アヤの意図はサユに正確に伝わったようだった。
- 651 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:07
- 「ふー。・・・・・マツウラさんは大変に頭が良いですね」
「頭が良いって言われるより『賢い』って言われる方が嬉しいかな」
サユは一瞬目を丸くし、表情を和らげてフフフと上品に微笑んだ。
「わかりました。あなたは賢い。あなたを信じて全て話しましょう」
「ミチシゲさん!」
コハルが血相を変えてミチシゲに噛みついた。
冗談ではない。ここまでだって流し過ぎだというくらい、
エコモニの情報を流しているのだ。これ以上は許されないだろう。
「いいのよ、コハル」
「でも!」
サユは、なおも不満そうな顔をしているコハルを宥めながら、アヤに語りかける。
「ありがとう、マツウラさん。あなたの話を聞いて、私も周囲の状況が把握できました。
どうやら事態は私達が思っていた以上に複雑なものになっているようですね。
もはや私達の組織だけでは、この事態に対応しきれないかもしれません」
本音だった。人が減った今のエコモニではとても対応できそうにない。
だからこそ、使える人間が必要だった。賢い人間の助けが必要だった。
「マツウラさん。あなたは信用できる。あなたの言葉には信念があり哲学がある。
約束を破るような人には見えません。だからわたしと一つ約束をしてくれませんか?
私はあなたに、あのSSというウイルスについて、知っていることを全て説明する。
そしてあなた達の組織は、私達の組織に協力してウイルスの回収を手伝う。
抗ウイルス抗体を作りたいというのなら、それにも私達は協力する。どうですか?」
- 652 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:07
- ☆
- 653 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:08
- 「参ったな、ホンマ。今度はなんやねんな」
テラダはビルの窓から、マリとミツイの戦いの一部始終を見つめていた。
アジトの窓には一応、防音加工を施していた。
だがあのマリの声だ。本気を出したマリの声だ。
防音ガラスなどなかったかのように、あの耳障り笑い声が届いてきた。
まあ、ガラスが割れなかっただけでも御の字だろう。
敵の襲撃であるのは明らかだったので、
すぐさまテラダは、必要な機材と書類を持たせてスタッフを逃がした。
だがテラダ本人は一人、部屋に残ってマリの戦いを見つめていた。
マリはアベに負けず劣らず気まぐれな性格をしている。
キャリア能力の特質を調べるために色々な検査をしたときも、
素直に指示に従わず、なかなか本気を出さなかった。
もしかしたら、今でもテラダはマリの本気を見たことがないのかもしれない。
まさかアベ以上の能力を持っているとも思えなかったが、
どの程度の力を持っているかは、きちんと把握しておきたい。
もしかしたらこれがその好機ではないか―――。
あの緊張感溢れた雰囲気。なんとなくだが、マリが本気で戦うような気がした。
「ヤグチのやつが本気を出す確率・・・・・50%くらいやろうか?」
コインの裏表と同じ確率。
そしてテラダが投げたコインは、テラダが望む方の面を見せた。
- 654 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:08
- ビルの周囲は暗い。
マリの相手が誰なのかはわからなかった。
だが遠目から見たそのシルエットからも、相手がゴトウでないことはわかった。
麻取の捜査員だろうが、UFAの老人の放った刺客だろうが、
ゴトウ以外にマリの手を焼かせるような難敵がいるとは思えなかった。
もしかしたらマリが本気になったのも、例の気まぐれの一つなのかもしれない。
そんな判断を下そうとしたテラダの目に、奇妙な噴水が映った。
どうやら戦いのいざこざの間に消火栓が壊れたらしい。
空に向かって、一本の水流が立ちあがった。
テラダたちの部屋がある六階にまで届こうかという勢いだった。
やがて水流は地球の重力と物理学的法則に逆らって、
まるでCGアートのように、空中でぐねぐねと蛇行を始めた。
やがて水流は直線から曲線を経て、一つの水球と化した。
マリの能力か? いや違う。マリも呆気にとられて見ている。
ではあの刺客の能力なのか? 何の能力だ? キャリアなのか?
テラダは机の引き出しからデジカメを取り出した。
マリと水流。両方がフレームインするようにして録画を始めた。
- 655 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:08
- デジカメの小さな画面を通じて、奇妙なものが映った。
標的が遠すぎてそれが何なのかよくわからない。
テラダはカメラの限界までズームした。
そこに映ったのは明らかに人間ではない『何か』だった。
なんだあれは。トカゲ? ワニ?
その生き物は、消火栓の水流に包まれていてはっきりとは見えない。
だが、とにかく刺客は人間ではない何かに変化していた。
テラダはマリが映るようにズームを元に戻す。
おかしい。違和感がある景色だ。何かがおかしい。縮尺か?
縮尺が明らかにおかしい。マリが小型化しているのか。いや違う。
街の風景を比較してみると、マリはいつものマリの大きさだった。
マリが例の特殊能力で小型化しているのではない―――
あのトカゲのような生き物が、常識では考えられないくらい巨大なのだ―――
「おいおい・・・・・まさかゴジラやないやろうな・・・・・」
笑えない冗談だった。
マリの体との比較からすれば、そのトカゲの化け物は
実在化したゴジラと言ってもおかしくないくらい巨大な体をしていた。
- 656 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:08
- マリの笑い声が再び響き始めた。
今やもう、テラダにはマリが本気になった理由が理解できた。
間違いなく今のマリは本気も本気、命がけの本気のはずだ。
本気を出さなければ―――あの化け物に踏みつぶされてしまうだろう。
それでもテラダはまだ落ち着きを失ってはいなかった。
確かにマリが殺られるようなことになればかなり拙い。
今のSSの戦闘力はアベとマリとカメイによるところが大きいのだ。
マリを失えば、単純にSSの戦闘力は三分の一減ることになるだろう。
だがテラダはマリが負けるとは思っていなかった。
相手がゴジラだろうがガメラだろうが関係ない。体の大きさは関係ないのだ。
マリの特殊能力―――その声の前では全ての生き物が無力化するはずだ。
その能力が通用しないのは、全身を霧状に変形できるアベくらいのものだろう。
きっとマリの笑い声があのゴジラもどきを悶絶させるはず―――
「マリがあっけなく圧勝する確率・・・・・・50%くらいやろうか?」
コインの裏表と同じ確率。
だがテラダが投げたコインは、テラダが望む方の面を見せることはなかった。
- 657 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:08
- マリの笑い声は際限なく大きさを増していった。
彼女が人間離れした声を出せることは、テラダもよく知っている。
だが、声というものはここまで音量を上げることができるものなのだろうか?
二重に加工した防音ガラスに深い亀裂が入る。信じられなかった。
単に音が大きいのではない。物理的な力が強いのではない。
それだけではない何かを感じた。
だが今の状況でそれを分析することは不可能だ。
テラダはガラスが割れそうになるのにも構わず、窓に張り付いてマリの姿を録画し続けた。
マリの体の周囲には、電流が弾けた時のような火花がいくつも散っていた。
テラダにはそれが何であるか理解できない。
目には見えない何かが荒れ狂っているとしか言いようがなかった。
テラダはレンズを巨大トカゲの方に向ける。
いつの間にか、巨大トカゲの体は球体になった水に包まれていた。
間違いない。あの水を操る能力はあの巨大トカゲが持っているものだ。
あの水の塊で―――マリの攻撃から身を守っているのだろうか?
マリの攻撃が通用しない? そんなバカな。
- 658 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:08
- 次の瞬間、トカゲを包んでいる水球がパンと弾けた。
無防備になったトカゲの体にマリの笑い声が届く。
だがそれよりも早く、トカゲはその口から物凄い勢いで水を吐き出した。
まるで巨大なダムの放流のようだった。
氾濫した大河のような水流は、あっという間にマリを流していった。
それだけではない。巨大な水流は、その凄まじい勢いそのままに、
なんと立ち並ぶビルまでもなぎ倒していった。
一つ。二つ。三つ。
三つまでビルを倒して、ようやく水流は止まった。
テラダはカメラを構えたままで、茫然としながら崩れ去ったビルの残骸を映していた。
ビルが崩れるほどの水流。その水流は間違いなくマリを直撃した。
マリは死んだのだろうか。
テラダは、窓から離れ、部屋に一つ残されたノートPCにかじりつく。
荒々しくキーボードを叩き、マウスを走らせ、周囲の地図を表示させた。
マリが死んだなら、そのディスプレイには青い光で「6」と映るだろう。
だがそこに映っていたのは「6」というオレンジの光だった。
マリはまだ生きている。だがあの攻撃を受けて無傷で済んだとは思えない。
テラダはノートPCを脇に抱えて、部屋から飛び出した。
- 659 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:09
- テラダがビルの外に出てみると、あのゴジラもどきはもうどこにもいなかった。
いざ姿を消されてみると、あれは夢ではなかったかと思えてしまう。
だがあれは間違いなくそこにいたのだ。
テラダはカメラを取り出し、録画した映像を再生してもう一度確認してみた。
凄まじい水流を吐き出す巨大トカゲ。
じっくりと見てみれば、その顔はトカゲというよりも龍のような横顔を思わせた。
「UFAの新兵器・・・・・まさかな」
テラダは根っからの科学者だった。専門は生化学、微生物学、そして分子生物学。
自分はその領域においては世界の最先端を行く研究者だと自負していた。
やろうと思えばクローン人間だって作り出せる。
キメラ動物を作ることだって不可能ではない。
だがあんな巨大な生き物を作り出せる知識や能力はなかった。
世界の誰だってあんなものを作り出せるはずがない。
科学では割り切れない何か。そんなものは今の世界では意外と多くない。
テラダが知っている非科学的な存在は一つしかなかった。
カメイエリ。
例のウイルスを持ってきたあの不思議な少女。
あの少女も科学的な概念を超えた「何か」を持っている少女だ。
この映像はまずカメイに見てもらうべきだろう。
テラダはカメラを懐に入れ、街を歩きながらノートPCを立ち上げる。
- 660 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:09
- ディスプレイにはやはりオレンジの光で「6」という数字が浮かんでいた。
テラダは慌てず騒がず、地図をどんどんズームアップさせていく。
どうやらマリはかなり先の方まで流されていったようだ。
だがまだ生きている。
その生命反応は、力強かった。怪我も意外と浅かったのかもしれない。
テラダは周囲に気を配りながら、マリの下へ向かった。
あの龍のような生き物はどこに消えたのだろうか?
おそらくはSSの襲撃が目的だったのだろうが、それは果たせたのだろうか?
テラダ達がアジトにしていたビルは幸運にも生き残っていたが、
それは後々、あのビルを捜索するために残したのだろうか?
その前にマリと対峙していたあの人間はどこに消えたのだろうか?
様々な疑問が浮かんでは消える。
だがそれを確認することはできなかった。
あのビルにも、もう二度と戻ることはできないだろう。
カメイやアベに早急に連絡を取る必要がある。
テラダは過去を振り返らない。過去を悔まない。
テラダの中に積み重なる過去の記憶は、感情ではなく事実認識だけだった。
そこにはノスタルジィなど残る余地もない。
今もテラダの頭には、次になすべきことだけが浮かんでいた。
五分ほど歩いただろうか。テラダの現在位置がオレンジの光点と重なる。
「この辺りか。おーい、ヤグチ。おったら返事せーよ!」
- 661 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:09
- 「テラダのおっさんか。あたしはここにいるよ」
反応は早かった。何もないところからマリの声がした。
だが見えなくともテラダは何も慌てない。マリの能力のことは理解している。
テラダは声のした場所に向かって面倒臭そうに言い返した。
「『おっさん』は余計や。はよ元の体に戻れや。ここからは離れた方がええ」
マリの姿が見えないのは、小型化しているからだろう。
案の定、声のした場所でするするするっとマリの体が巨大化してきた。
マリは水流が直撃した瞬間、可能な限りその体を小型化した。
蟻は地上十階のビルから落としても墜落死したりはしない。
マリは自分の体を小型化することによって、相手の攻撃の衝撃を最小限に抑えていた。
「なんだよ。見てたのかよ。助けてくれたらよかったのに」
マリの体は完全に元の大きさまで戻っていた。
全身ずぶ濡れだが、目立った怪我はないようだ。
あれだけの攻撃を受けて無傷とは奇跡のようだった。
だが奇跡ではない。幸運でもない。
マリの能力の一つと、極限状態での優れた判断がもたらした、必然的な結果だった。
- 662 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:09
- 「見てた見てた。なんやあのゴジラみたいな化け物は」
「知らねーよ。最初は中学生くらいのちっこい女だったんだけどよー。
あの消火栓の水流に当たったところであの化け物に変わったんだよ。
でも声は女のままだったぜ。あの女が龍にでも化けたんじゃねーの?」
「何しに来たんや、その女。なんか言うてたか?」
「あたしの名前を知ってたよ。マリィか?って訊かれたからさあ、
そうだよって答えたら『殺す』とかぬかしやがった。なんだあいつ」
なんだあいつ?と訊かれてもテラダに答えられるわけがなかった。
だが少なくともその女はマリの名前を知っていた。
おそらく、マリの武器が声であることも知っていて、対策を立てていたのだろう。
あの化け物の戦いぶりからは、そんなことが感じられた。
そこまでSSのことを知っている組織―――
テラダは一つしか思い当らなかった。
UFA。老人の操るあの組織以外に思い当るものはない。
ここのところ、ゴトウは動いていないという報告を受けていたが、
監視の目をかいくぐって動いていたのかもしれない。
SSを発動させることができるゴトウには、その程度のことは容易いだろう。
- 663 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:09
- 「UFAの手先かもしれへんなあ、多分やけど」
「マジで? あの化け物を作ったのもUFAってわけ?」
「うーん。わからんけどなあ。そこくらいしか思い当らんしなあ」
一人の科学者として、あの化け物の正体に興味が惹かれることは確かだが、
とにかく今はあの化け物の正体を詮索するときではない。
それよりも、二手に分かれたGAMを潰すために動いている、
カメイとアベの動きが気になる。
こちらにあれだけの刺客を放ってきたのだ。
アベやカメイにも同様の刺客が送られている可能性は高いだろう。
今はまず、アベとカメイに連絡を取って、今後の対応を検討するべきだろう。
「とにかく今は組織の体制を立て直すことが先決や。
ヤグチ、例の第二アジトの場所は覚えてるやろうな?」
「もちろん。こういうときのために用意した予備の施設だろ?」
「よし。俺はカメイと連絡を取ってそこに向かう。お前は―――」
「ナッチと合流してからそこに向かえばいいんだろ?」
「それで行こう」
テラダはポケットに入れていたハンカチをマリに投げる。
マリは受け取ったハンカチで丁寧に顔を拭いた。
テラダはマリとそこで分かれて、カメイの後を追おうとした。
だがそこで一端立ち止まる。
- 664 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:09
- 後ろを振り返ると、崩れたブロックに腰かけて髪を整えているマリの姿があった。
化粧がはがれると、マリはまるで別人のような顔になった。
「マリ・・・・・・お前さあ」
「ん? なんだよ」
「・・・・・・・いや、なんでもないわ」
「なんだよそれ。言いかけて止めんなよ。気になるだろ。言えよ」
「いや、化粧が落ちたら別人みたいやなあと」
「殺すぞ、お前」
「冗談やがな。じゃあな。また後でアジトで会おう」
テラダはもう振り返らなかった。
化粧のことなどどうでもうよかった。本当に訊きたいことは別にあった。
だがそれを本人に直接訊くことは躊躇われた。
(あの火花は何やったんやろうか・・・・・・・・)
ちらりと本気を見せたヤグチ。あの時散った火花は何だったのだろうか。
目には見えなかったが、何らかの物理的エネルギーがそこに満ちていたのを、
ガラス越しではあったがテラダは肌で感じていた。
(俺はもしかしたらあいつのことを甘く見ていたのかもしれん・・・・・)
テラダは懐に入れたデジカメを、服の上からギュッと握りしめた。
- 665 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:09
- ☆
- 666 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:10
- アヤは不敵な笑みを漏らさずにはいられなかった。
「ウイルスについて教えてほしい」というアヤの直球の質問に対し、
サユは見逃すことも打ち返すことも空振りすることもせずに、
「こちらに協力してほしい」と、これまた直球を投げ返してきた。
質問を質問で返されるのは好きではない。
だが貸し借りを作るのは嫌いではない。
相手が強く、賢く、美しいのであれば、なおさらだ。
それに今のところ、エコモニと利害が対立するところがあるとも思えない。
協力し合うことに関しては何の障害もなかった。
「わかった。あんたらはウイルスと被験者を回収する。
あたしらは抗ウイルス抗体を作ってこのウイルスを駆逐する。
それでお互いハッピーになれるってことでいいんだね?」
- 667 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:10
- ウイルスと抗ウイルス抗体の二つを操って世界を牛耳る。
その野望を捨てたつもりはない。
だがウイルスを扱うにせよ、抗体を作るにせよ、
ウイルスに関する情報が絶対に必要になってくる。
そしてそれを知っているのは、おそらくエコモニという組織だけなのだ。
ウイルス情報を確実に得る方法があるのなら、まずはそれを選ぶべきだろう。
こいつらと手を結ぶ。ウイルスの情報を手に入れる。
こいつらの手を借りて抗ウイルス抗体を作る。
そこまでは一直線だ。GAMとエコモニの利害は対立しない。
その後でウイルスそのものが必要となれば―――
それで利害が対立するというのなら―――その時にまた改めて考えればいい。
はてさて。このサユという子は最終的にあたしの敵になるのかね?
だがそれも悪くない。
美術品のように美しいサユの顔に見とれながら、
アヤは血まみれで殺し合う自分とサユの姿を想像していた。
- 668 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:10
- サユは、アヤの空想の中のサユよりも美しく笑った。
「はい。それでお互いハッピーです。抗体が作れれば私達もハッピーです。
私達としては、あのウイルスの蔓延を抑えられれば、それでいいんです」
サユは真っ直ぐにアヤの瞳を見つめていた。
アヤの瞳は嘘を言っているようには見えなかった。
だがその一番深いところに何が映っているのかは、
鋭いサユの視線をもってしても、うかがい知ることはできなかった。
面白い人ね。うちの組織に欲しいくらい。
油断するべきではないだろう。心を許すべきではないだろう。
だが少なくともウイルスを回収するまでは、アヤと上手くやれる気がした。
回収した後で、アヤがどう動くかはわからない。敵になるかもしれない。
だが少なくともその瞬間まで、このアヤという子は約束を守るだろう。
- 669 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:10
- サユは意を決して全てを明らかにすることにした。
本来であれば、秘密を話すことは組織の掟に逆らう行為だが、
組織としての最大の目的を違わなければ、全ての手段は正当化される。
「あのウイルスの通称は知ってますよね?」
「SS、でしょ」
アヤは答えながら考えた。
SSという名称も、製薬会社がつけたコード番号かと思っていた。
だが数千年前から守っているというこいつらも「SS」と呼んでいる。
その名前に何か深い意味があるのだろうか?
「そう、SSです。それはつい最近―――百年ほど前についた通称のようです。
大昔になんと呼ばれていたかを知っている人間は、もう誰もいません。
SSと呼ばれるようになってからは、みんながSSと呼ぶので、
昔の名前は忘れられたのかもしれません。でも昔の名前はどうでもいいです。
なぜSSと呼ばれるようになったのか。その理由は一つです。
SSという通称は、ある名称の頭文字をつなげたものなのです」
- 670 名前:【治療】 投稿日:2009/10/19(月) 23:10
- ミチシゲの言葉を受けて、コハルが落ち着きをなくして腰を浮かす。
本当にそこまで言ってしまうのだろうか。
それを話してしまうことは、エコモニの全てを明らかにしてしまうことに他ならない。
サユはなぜ、初対面のアヤという女にそこまで話してしまうのだろうか。
「ミチシゲさん」
「いいの。いいから」
コハルの言わんとすることはわかった。だが構わない。
短い言葉のやり取りの中で、サユはアヤという人間を少なからず理解していた。
このアヤという子は使える。全てを話せばこの子は必ず動く。
そして今は、あらゆる手段を動員してでも状況を動かすべき時だった。
秘密を守るために組織があるのではない。組織を守るために秘密があるのだ。
ならば組織のために必要であるのなら―――秘密を明らかにしても構わない。
「S.Sとは『Sun-Seed』の略なのです」
「サン・シード? ・・・・・・・・・・太陽の種?」
「そうです。太陽の種」
サン・シードという言葉を聞いた瞬間、コハルがすとんと腰を落とした。
その顔には全てを諦めたような、諦めきれないような、複雑な表情が浮かぶ。
どうやらとてつもなく大きなハードルを一つ、超えたらしい。
コンノとミキは固唾をのんでアヤとサユの話に聞き入っていた。
「SSとは太陽の娘。―――モーニング娘。を作りだすための種なのです」
- 671 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/19(月) 23:11
- ★
- 672 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/19(月) 23:11
- ★
- 673 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/19(月) 23:11
- ★
- 674 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:22
- ミチシゲは長い一人語りを始めた―――
あの施設に集められた被験者は全員女性でしたよね。それも若い女性。
それは偶然ではありません。数千年前から定められた決まりなのです。
太陽に捧げられるのは若い女であると定められていたのです。
エリはそれを知っていたからこそ、若い女性を集めたのでしょう。
『太陽に捧げる』というのは抽象的な表現ではありません。
本当にその言葉の通りなのです。太陽にその身を捧げるのです。
ほら、大昔の話によくあるじゃないですか。
海が荒れれば、海の神に生贄を捧げて、嵐を抑えようとする。
干ばつが続けば、大地の神に生贄を捧げて、天候の回復を祈願する。
あるいは絶大な権力を持つ為政者が死亡したとき、
そのお墓に、従者として「生きた人間」をそのまま埋葬する。
そういうことではないんです。
そういった代替行為ではないのです。
本当に「太陽そのもの」に身を捧げるのです。
- 675 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:22
- ガイア理論ってご存知ですか?
すごく大雑把にいえば「地球は一つの生命体である」という仮説のことです。
山とか海とか石とか土とか。
そういったもの全てをひっくるめて、一つの命と考える。
なかなか優れた仮説だと思いませんか? 良い線いってると思いますよ。
ごめんなさいね。話があっちこっちに飛んで。
でもSSを理解してもらうためには全て必要な話なんですよ。
もう少しの間だけ、我慢して聞いてくださいね。
私達エコモニは、このガイア理論が提唱される何千年も前から、
この星が生き物であるという事実を、理論ではなく感覚で理解していました。
別に自慢するわけじゃないですよ。
科学が発達する前の、自然と調和した暮らしをしていた原始的な人間社会では、
ごくごく当たり前のこととして受け入れられていた概念なのです。
「地球は一つの生命体である」
これはあなた達でも比較的すんなりと受け入れられる概念ではないでしょうか?
はい。そうですよね。わかってくれて嬉しいです。
では太陽はどうでしょうか?
- 676 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:22
- ガイア理論はある種の真実を言い当てていると私は思います。
ですがそれはほんの一部分だけでしかないのです。
地球は確かに生命に満ち溢れている。
では月はどうか? 火星は? 金星は? そして太陽は?
残念ながら今の科学では、こういった惑星や恒星や衛星を
生命体として解釈する論理は、まだ存在しないようですね。
月にしても「ただの石の塊」くらいにしか思っていないのでしょう。
太陽も「巨大なガス体の塊」程度の理解なのでしょうかね。
とても地球と同じレベルで理解されているようには見えません。
人間や動物や植物のようなものしか「生命」として認識できない。
あるいは水や空気や栄養素が存在しないと「生態系」として認識できない。
「命」という定義が包括する範囲がすっごく狭いんです。
それが今の科学の限界なのかもしれませんね。
残念なことです。
- 677 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:23
- 太陽は生きています。
『生物』という言い方が適当かどうかはわかりませんが、
それはあくまでも言葉の問題です。
人間側の理解の問題であり、解釈の問題です。
太陽は誕生したその瞬間からずっと生き続けています。
そしてやがていつか必ず死にます。
惑星や恒星には寿命がある。
このことは科学でも理解されているようですね。
でも太陽の寿命がどのくらいの長さなのか、
どの程度のスピードで死に行くのか、ということは知られていません。
案外、パンっと弾けて一瞬のうちに消えてしまうかもしれませんね。
勿論そうなってしまえば、地球に光は届かなくなります。
光エネルギー、熱エネルギー、その他の物理的なエネルギー。
太陽から降り注ぐそういったエネルギーが全て消えてしまうのです。
一瞬にして、地球は死の星になってしまうでしょうね。
- 678 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:23
- 我々四家の起源がどこにあるのかは知りません。
ですが我々四家は代々、太陽の寿命を見つめてきたと言い伝えられています。
いわゆる天文学者のはしりのような存在だったのかもしれませんね。
毎日毎日、何千年も太陽の動きを観察していたのです。
もう一度言いますが、太陽は生きています。
全ての生物がそうであるように、太陽もまた、
体調が悪くなったり、病気にかかったりするのです。
ほんのちょっと調子が崩れただけで、地球の気候は甚大な影響を受けます。
恐竜の絶滅につながった氷河期の到来も、
太陽の体調が変化したがために起こったことだと、解釈できるでしょう。
我々の一族は、そういった大惨事が起こらないように、
ずっと太陽を観測し続けてきたのです。
もしそういった兆候が見られるのなら―――迅速に対応できるようにと。
- 679 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:23
- では太陽に異常が見られた時にどう対応するか?
そのために受け継がれてきた我々の唯一の道具がSSなのです。
このウイルスがいつどのような形で我々の一族の手に渡ったかはわかりません。
ある言い伝えによれば神が手渡したとか。
ある言い伝えによれば隕石に付着していたとか。
ある言い伝えによればある人間から突然変異で生まれたとか。
諸説ありますが、どれも真実であるという証拠はありません。
なにせ文字も発明されていなかった数千年も前のことですからね。
真実が詳らかにされることは永遠にないでしょう。
とにかく、我々の手にSSが渡ったことだけは確かです。
そしてこれこそが、太陽の異常に対応できる、唯一のツールなのです。
人類が持つ、たった一つの最後の希望なのです。
- 680 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:23
- 太陽に異常が見られ、その力が著しい衰えを見せた時、その時がSSの出番です。
我々四家の一族は、世界中から適格者を探し出し、SSをその人間に投与します。
この「適格者」というものの条件の中に「若い女性」というのがあるのです。
え? いやいや。別に処女じゃなくてもいいらしいですよ。
どうやって適格者を探すかというと、弱毒化したウイルスを打って、
その反応を見て決めるのです。ワクチンなんかと似てますよね。
時間がないときには死者が多数でることも厭わずに、
感染力を強めたウイルスを世界中に大量散布して、
生き残った娘の中から適格者を選んだこともあったそうです。
通常のSSを投与すると、適性がない人間は即、死亡してしまいます。
ほら、歴史をひも解いてみると、人類の歴史の中で、
何度かそういう謎の流行病が蔓延したことがあったじゃないですか。
あれって我々の一族が裏で関わっていたらしいですよ。
悪いことしたなあと思いますが、太陽が消えてしまえば、
人類どころか地球そのものが死滅するわけですから、まあ、仕方ないですよね。
我々はそうやってかなり大雑把な方法で適格者を探していたわけですが、
エリは血液検査を行って、ある程度ウイルスの遺伝子に適合しそうな人間を
被験者として選んでいたみたいですね。
それがあの施設でSSを投与された八人、ということになるわけです。
- 681 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:23
- エリの話をする前に、通常のSSの使用法について説明しましょう。
すっごい簡単です。
被験者の静脈にSSを投与する。これだけです。特別なことは何もないです。
難しいのはSSに適性のある被験者を探すことなんですよね。
いつの時代も、適格者は地球上にごく僅かしかいないと言い伝えられています。
その適格者にSSを投与すると、体の感覚が異常に発達します。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。全てですね。
それだけではなく、骨や筋肉、肺、爪、脂肪組織に血液、リンパ液。
こういった体細胞の全てが異常に発達していくのです。
そしてやがてその人間は―――人間としての形が崩れていきます。
我々の一族はこの現象を「サディ・ストナッチ」と呼んでいます。
どうも投与者の耳にそんな歌声が聞こえるらしいんですよね。
このサディ・ストナッチが被験者を太陽に連れていく―――
そんな伝説が我々一族の間では語り継がれています。
実際は、SSを投与された被験者の体がガス化するみたいです。
体が空気みたいな気体になってしまうんですね。
ふわふわと体が拡散していって、無限の広さまで広がっていくのです。
こうやって被験者の体はガス化して空へ舞い上がっていくのです。
- 682 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:23
- ガス化するときには大量の放射能も発生するみたいです。
つまり被験者が「小さな太陽」のようなものになるんですね。
それが「サン・シード」という名前の由来になっているんだと思います。
まあそういうこともあって、SSを預かる我々四家の一族の肉体は、
放射能汚染に耐性がある体質を持っているみたいです。
そして「小さな太陽」となった被験者は、ガス化して太陽を包みます。
その被験者が「新たな太陽」とでも言うべき存在になるんです。
新たな、新鮮な小さな太陽を注がれた太陽は、活力を取り戻すというわけです。
この新たな太陽を生み出す力を持った娘のことを、
我々の一族は、朝日を呼ぶ娘、「モーニング娘。」と呼んでいます。
このモーニング娘。こそが、太陽の命運を保つ者なのです。
我々の一族はこうやって太陽の健康状態を一定に保ってきたのです。
記録が残っているこの五千年の間にも、五回ほどそういった行為を行っています。
その甲斐もあってか、その間はこの地球の気候は一定に保たれてきました。
もっともそんなことは人類の歴史には残っていないですけどね。
我々エコモニ一族の使命は理解してもらえましたかね?
我々は、この地球を守るために、SSを使用できる唯一の存在なのです。
- 683 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:24
- ここまで話せば、SSというものが、
ただのウイルスではないことが理解してもらえたかと思います。
あれを失うことは、人類の未来を失うことに他ならないのです。
あれを奪われることは、この地球の命運を握られてしまうことに他ならないのです。
ゆえに我々一族はいつの時代も様々な勢力から攻撃を受けてきました。
それを万全の態勢でもって弾き返すために生み出されたのが、
あの四匹の守護獣です。
あれを召喚することができるのは、四家の血を継ぐ者だけです。
どうやらあの守護獣もまた、SSの変異ウイルスを投与されて、
突然変異を起こした動物の一種のようですね。
我々四家の遺伝子には、そういった変異動物のDNAが組み込まれています。
長い歴史の中で生み出された、我々の最大の武器なのです。
そしてその武器を使うことが許されるのは、SSを守るときだけです。
いたずらにその力を誇示することは許されないのです。
我々に許されているのは―――掟を守ること、ただそれだけです。
一族の掟を守り、SSを守り、太陽を守護し、この地球を守る。
その掟を破ったのが―――カメイエリなのです。
- 684 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:24
- なぜエリが我々を裏切ったか、ですか?
ええ、それはわかっていますよ。
エリの考えていることは既にはっきりとしています。
私とエリはね、小さい頃からずっと一緒に修行してきた仲なんです。
四家の血を継ぐ者と言っても、生まれつき能力に恵まれているわけではありません。
昔の大名のように宗家の長男が継ぐという慣習があるわけでもないです。
それぞれの家系の子供たちが何人も一緒に修行をして、
その中から選抜されたものだけに、守護獣を操る秘伝が継承されるのです。
努力と才能と体質が必要とされるんです。
まあ、自分で言うのは口幅ったいんですが、私は優秀でした。
何十人もいた四家の一族の子供の中でも常にトップの成績を収めていました。
その頃の私はすっごい生意気でしたよ。嫌な子供だったと思います。
周りの子をみんな見下していましたからね。
「どうしてこんな簡単なことができないんだろう?」
出来の悪い子を見てはそんなことばかり思っていました。
私と同じレベルで修行できる子は、誰一人としていませんでした。
当時の私はいつもイライラしていたものです。
いつも一人ぼっちでした。
そんなときに仲良くなったのがエリだったんです。
- 685 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:24
- エリはねえ。劣等生でしたよ。
それはそれは、飛び抜けて成績の悪い子でした。
性格の方は、今とは全然違う性格でしたね。
ちょっと引っ込み思案でしたし、そんなに自信家でもありませんでした。
でも正義感だけは強かったですね。それはもう、強情といってもいいくらい。
強情なんですが、それが嫌味にならない子でした。
理想家なんですが、楽天家でもあり、楽観論者でもありました。
普通だったら落ちこぼれの理想論なんて誰も耳を傾けないんですが、
エリの言葉には不思議と周りの人間を温かくする力があったんです。
先生達もそんなエリの性格を見抜いていたんでしょうね。
どれだけ成績が落ち込んでも、エリを脱落させることはありませんでした。
普通だったら、落第生はどんどん修行から外されていくんです。
修行の邪魔になるだけですから。でもエリは最後まで外されなかった。
結果的に、一番優秀で先生の手のかからなかった私が、
エリの面倒を見ることが多かったんです。
- 686 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:24
- 最初はイライラしましたよ。
とにかく何をやらしても全然できない子でしたからね。
「それだけはやっちゃダメだよ」と言ったことを必ずやる子でした。
それはもう、わざとやってるの?というくらいでした。
でも彼女は全然へこたれない。
私にどれだけ罵詈雑言を浴びせられても、全然へこまない子でした。
まあ、落ち込むこともあることはあったんですが、
基本的にいつもニコニコしてましたね。
「太陽と北風」の童話に出てくる太陽のような子でしたよ。
しまいには叱ることがバカバカしく感じられるようになったものです。
エリは劣等生だったんですが、コンプレックスは全く持ってなかったですね。
いつも私と対等に話すんです。
これが私にとってはすごく新鮮なことでした。
私は小さな頃からいつもずば抜けた成績を上げていましたからね。
年上の子らや先生にも、私は一目置かれていましたしから、
みんな、腫れものに触るような感じで私に接していたんです。
でもエリは遠慮がなかったですね。
いつも私に対して、堂々と自分の理想論を語っていましたよ。
エコモニはかくあるべきだ、みたいな感じでね。
むしろ上から目線で私に熱く語りかけてくるんです。
面白い子だな、と思うようになりました。
- 687 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:24
- エリは亀のように歩みの遅い子でしたが、歩みを止めることはありませんでした。
修行でも、少しずつですが、進歩が見られるようになりました。
本当に、私がウサギであの子がカメ、という感じでしたね。
昔話のように、ウサギの私は修行をさぼっていたわけではなかったんですが、
いつの間にかエリがすぐ後ろまで迫ってきている感じでした。
驚きました。
本当にエリは、私と互角に近い位置まで上がってきたんです。
でも先生達は特に驚いた様子は見せなかったですね。
むしろ「ようやくモノになってきたか」という感じでした。
エリの素質を早くから見抜いていたんでしょうね。
エリは他の生徒達をごぼう抜きにして、あっという間にトップの位置まで上ってきました。
でもそうなってもエリの態度は全然変わらなかったですね。
成績が上がったことは素直に喜んでいました。
それはもう、ものすごく素直に喜んでいましたね。
あまりに素直すぎて、エリに抜かれた生徒達までもエリを祝福してしまうほどでした。
その景色は、落第生であっても皆に愛されていた頃のエリの姿と、
何も変わりませんでした。
- 688 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:24
- エリの態度が変わってきたのは、四家の宗主に選ばれた頃からでした。
結局厳しい修行を勝ち抜いて、後継ぎに選ばれたのは、
ミチシゲ家の私と、カメイ家のエリ、クスミ家のコハルとミツイ家のアイカでした。
宗主は五十年に一度変わります。
つまりこの四人がこの先五十年のエコモニを引っ張っていくことになるわけです。
エコモニという組織においては、最も重い決定でした。
私なんかも、選ばれて当たり前と思っていたのですが、
実際にその座についてみると、あまりに責任の重さに、胃が痛くなったものです。
私はその四人の中からリーダーに選ばれました。
SSを使うか否かの最終決定を下す立場です。
そしてそのSSの保管場所と封印の解き方を前のリーダーから教わりました。
その知識は四人で共有します。
エリはサブリーダーになりました。
私に何かがあったときに、次にSSを使う資格が生じる地位です。
こうやって我々四人は、次の五十年を守るために静かな暮らしを始めました。
基本的に、毎日ただ望遠鏡をのぞいて太陽を見つめる生活です。
エリはそんな退屈な生活に物足りなさを感じるようになったようです。
- 689 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:24
- エリの考えは修行時代から一貫していました。
ただ太陽を見守るだけではない。
自分達の力で太陽の力を制御するべきだ、というものでした。
落第生だったエリの壮大な理想論を、私達は笑って受け流したものです。
エリはそれが可能だと説いていました。
SSを投与された人間は、その時点で人格を失います。
人格を司る魂を失い、太陽に近い存在になるのです。
太陽に人格や魂は要りませんからね。
でもエリはそれが不満のようでした。なぜ人格を失わなければならないのかと。
ウイルスのDNAを組み替えて形質を転換すれば、改良できるはずだと。
モーニング娘。は太陽の生贄になることはなく、
娘。としての人格を持ったまま、太陽と一体化できるはずだと。
そうすれば―――
モーニング娘。が、自らの意志で太陽を操ることができるはずだと。
- 690 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:25
- ようやく話の終わりが見えてきましたかね。
そうです。
エリの最終目的はSSウイルスの改変なのです。
太陽という恒星を―――人類の思うがままに操ることなのです。
そんなことができる、『究極のモーニング娘。』を作り上げることなのです。
当然ながらエコモニがそんな暴挙を許すことはありません。
太陽は太陽。地球は地球。人間は人間です。
倫理的に許されるわけがない。超えてはいけない一線というものがあります。
エリは何度も組織と激論を戦わせましたが、結論が変わることはありませんでした。
数千年も前から続く掟は絶対なのです。エリの主張は受け入れられない。
ですがエリはこっそり実験を続けていたようです。
SSウイルスの改変実験自体は、過去にも何度か行われています。
モーニング娘。の適格者を探すためにSSを弱毒化したり、
守護獣を作るために動物に組み込んだりと、色々行われています。
エリはそういった資料を参考にして、試行錯誤していたようです。
ですがそれが組織のメンバーによって発見された―――。
掟に背いたエリに待っているのは死の制裁です。
エリはそれを受け入れなかった。
実験を見られたメンバーを殺し、SSを持ち出して逃げたのです。
我々はそれ以来ずっとエリのことを探していた―――
- 691 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:25
- エリを見つけることはそんなに難しいことではありませんでした。
我々は決して大きな組織ではありませんが、調査体制は充実しています。
それに、あのウイルスをいじれるような施設は数が限られていますからね。
そうやって見つけたのがこの施設です。
バックにいるのがヤマザキだということもつかみました。
え? テラダですか? あの男は傀儡ですよ。特に危険な男ではないです。
それよりも背後にいるヤマザキという男ですね。この男は危険です。
ヤマザキは過去の文献を漁り、エコモニ一族の存在に気付いたようです。
そしてSSというウイルスを産業化しようと目論んだ。
モーニング娘。を我がものにしようと動いていたんですね。
そこにエリが食いこんでいたのです。
エリはどうやらヤマザキの組織を巧妙に利用していたようです。
ヤマザキはまんまとしてやられたわけですね。
結果的に、ヤマザキは施設と人員と資金を提供するだけして、
SSという果実は一切、手にすることができなかったようです。
まあ、そんなこともあって、今はヤマザキの組織もエリを追っているんでしょう。
あなた達の話に出てきた「ゴトウマキ」という女も、
そのヤマザキという男の手先であることに間違いはないでしょう。
- 692 名前:【治療】 投稿日:2009/10/22(木) 23:25
- 我々の調べでは、エリはどうやらSSウイルスを七分割したようです。
七分割して七人に投与し、そこから七種類の血清を集める。
詳しい理論はよくわかりませんが、その七つの血清を再び一つに合成すると、
全く新しいSSが誕生し、その新生SSを適格者に投与すると、
エリの考える理想のモーニング娘。が具現化するようです。
我々はそれを阻止しなければならない。
もし理想のモーニング娘。が完成したのなら、
その時、太陽はエリの思うままに操られてしまうでしょう。
この地球という星の生殺与奪権がエリに握られてしまうのです。
干ばつを起こそうが、氷河期を起こそうが、全てエリの思うままです。
核兵器など比較にならないくらいの抑止力となるでしょう。
誰もエリに逆らうことはできない。
それこそ太陽がこの空で輝き続けている限り―――永遠に。
- 693 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/22(木) 23:25
- ★
- 694 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/22(木) 23:25
- ★
- 695 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/22(木) 23:25
- ★
- 696 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:08
- 気絶していたのはどれくらいの間だったのだろうか。
ミツイは水溜まりから顔を上げ、ごろりと仰向けになって息を整えた。
そのまま泥沼に沈みこむように眠り入ってしまいたかったが、
マリとテラダを逃がしてしまった以上、そんなことは許されない。
口の中がごわごわする。
頬と歯茎の間を舌で舐めまわし、ひっかかっていたモノをペッと吐きだした。
黒ずんだ血の塊がどろりと垂れる。その中から白い奥歯がのぞいていた。
口の中全体が痺れていた。上手く喋れるだろうか。
ミツイは奥歯が折れたあたりを舌でなぞりながら、携帯電話を取り出した。
まだミチシゲが地下で戦っている可能性もある。
つながらなければいいなと思っていたミツイだったが、
淡い期待を裏切るように、あっさりと電話はつながった。
「もしもし。ミッツィー? そっちの首尾はどう?」
悪い報告をするときは気が重い。
ミツイは言葉を選びながら現状を報告し始めた。
- 697 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:08
- 「テラダを逃がしてしまいました。すみません」
報告は重要なことから順番に告げる。失敗した時は特にそうだ。
謝罪と言い訳はその後でいい。ミツイは熱っぽい頭をふるふると振った。
喋る度に頬がひきつり、顎の奥がじんじんと痛んだ。
「いえ。例のマリとかいう女にやられました。はい。それは間違いないです。
ええ。キャリアでした。どうも声が異常発達してるようです。はい。
いえ。マリにも逃げられてしまいました・・・・・すみません。
え?・・・・・・・・・・はい。そうですか・・・・カメイさんも・・・
え? GAMと手を結んだ? はあ。わかりました・・・・・
いえ、マリの方もかなりの深手を負ったはずです。はい。はい。
ええ。こっちも青龍の能力を全開にしてぶっ放しましたから・・・・・。
はい。向こうもすぐには体制を立て直せないと思うんですが。はい。
え? フォースに? ・・・・・はい。わかりました。すぐ動きます。
大丈夫です。大した傷じゃないです。はい。ではまた。はい」
ミツイは泥だらけになった体をのっそりと起こした。
その動作だけで体中にに電撃のような衝撃が走る。
筋肉がズタズタに裂けるような痛みだった。
「くそっ。なんやねんな、あれ」
あのマリの見えない打撃の正体は何なのだろうか。
ただの衝撃波だとは思えない。体が芯から痺れ切っているのだ。
細胞の一つ一つを押し潰されたような、そんな痛みだった。
- 698 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:08
- 「があ! 気合じゃ、気合!」
それでもミツイは、微かに残っていた気力を掻き集めて立ちあがった。
ミチシゲの話では、あちら側もカメイのことを逃がしてしまったらしい。
手負いの組織となったSSが、次にどういった動きを見せるか予想できない。
こちらも動き出さないと。向こうよりも一歩でも早く。でもどう動く?
ミツイには次の一手が全く思い浮かばなかった。
だがエコモニのリーダーであるミチシゲの頭脳は、既に次の一手を構想していた。
ミチシゲの指示は「フォースに向かい、イシカワと接触しろ」だった。
青龍と化したミツイとも互角に戦えるだけの力があるマリィ。
おそらく、これまでイシカワの下に送り込んだ連絡員を殺したのはマリィだ。
あれだけの力があれば、連絡員四人をまとめて殺ることも容易いだろう。
そのマリィは今、深手を負っている可能性が高い。
イシカワの救助に向かうなら今しかないというのがミチシゲの判断だった。
だがミチシゲは「イシカワさんを救助して」とは言わなかった。
「接触して」としか言わなかった。
その辺りのことはイシカワと話をしてから、その場で判断しろということだ。
フォースにイシカワを残すことも一つの選択肢として考えているのだろう。
とにかく今は、フォースで何が起こったのかを調べる。それが新たな任務だ。
ミツイは頭を必死に働かせ、フォースへの道順を思い出しながら、
車の中に痛む体を押し込んだ。
- 699 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:08
- ☆
- 700 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:09
- 「え? はあ。はあ。え・・・・・マジでぇ!? なんでやねんなおい。
どうせぇっちゅーんですか・・・ちょっとヤグチさん! ちょっと!」
こちらの疑問に答えることなく唐突に切られた受話器を、カゴアイはじっと見つめた。
アホかあいつは。呆れてものが言えへんわ。自分勝手にもほどがある―――。
受話器を壁に叩きつけようとして止めた。
心に湧いてきたのは怒りではなく、果てのない徒労感だった。
うちはいったい何をやってるんや。ヤグチのおもちゃか。なんやねん。
ヤグチの電話は唐突だった。彼女から電話がかかってくること自体、珍しい。
内容も唐突だった。
「しばらく姿を消す。あとの処理は任せる。上手くやれ。お前の判断で全部」
要約すればそういうことだった。
唐突というより、何も中身がない話だった。何をどう処理しろというのか。
フォースの運営であれば何も問題はない。
それはヤグチが来る前からずっと関わってきたことだ。
だがヤグチのいう「あとの処理」とはそのことではないだろう。
イシカワの処分のことだ。
- 701 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:09
- カゴは知る由もなかったが、ヤグチは既にイシカワに興味を失っていた。
元々あれはカメイの指示で遂行した作戦だ。
イシカワの背後にどんな組織がいるのかなど、ヤグチには全く興味なかった。
カメイもコハルとの激闘の余韻で、細かい指示を与える暇がなかった。
カメイも、テラダも、そしてヤグチも。
SSのメンバーはそれぞれに傷つき、組織は小さくない打撃を受けていた。
もはやナカザワの命を殺った後のフォースにかまう余裕はなかった。
結果として―――フォースの存在は宙に浮いてしまった。
あとの処理を任されたカゴが戸惑うのも無理はなかった。
マリが消える。それはいい。消えてくれた方が嬉しいくらいだ。
だがなぜ消えたのか? どこに消えたのか? いつまで消えるのか?
そういったことは一切わからなかった。
またいつかひょいと現れないとも限らない。いや必ずまたここに現れるだろう。
だがそれはいつなのだ? それがわからなければ対策も立てられない。
どうすればいい? どうすればいいのだ?
- 702 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:09
- ☆
- 703 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:09
- 「え? 結局リカちゃんは無罪放免なの? なにそれ」
「無罪放免やない」
カゴは不機嫌な顔も露わに、ヨシザワにそう告げた。
ただ不機嫌なだけでなく、かなり疲れが溜まっているように、ヨシザワには見えた。
ここのところ、またマリィは姿を消している。
あらゆる雑事をこなしているのはカゴだ。そしてカゴは誰も信用しない。
全ての仕事を一人でこなそうとしている。疲れが溜まるのは当然だった。
今のフォースの最終決定権を握っているのはカゴだ。逆らうつもりはない。
だがイシカワの処分に関しては、マリィもカゴも首尾一貫していないように思える。
この二人は何を考えているんだ? リカちゃんをどうするつもりなんだ?
そう思いながらヨシザワは、自分がカゴとマリィを一組に考えていることに気付いた。
少し悲しかった。カゴは副支配人になってから変わってしまった気がする。
本当に今の彼女は誰も信用していないのだ。昔からの仲間も含めて。
ツジとカゴと自分の三人で、くだらないことで笑い合っていた頃には戻れないのだろうか。
彼女はもう、こちら側の人間ではないのだろうか―――
そして自分もまた、もうあの頃の自分ではないのだろうか―――
これが年をとるということなのだろうか。地位が上がるということなのだろうか。
- 704 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:09
- 「おいよっすぃー、うちの話、聞いてるか?」
「あ、ごめんごめん。で、なんだっけ?」
「あのなあ・・・・・とにかくイシカワをこのままにしておくわけにはいかんやろ。
事情を話してない従業員もストレスが溜まってきてるしな。このままではマズイわ。
それにあれ以来、怪しい動きもないやろ。マリィが派手にやりすぎたんやろうな」
確かに二度目の接触以降、イシカワに接触を図る動きはなかった。
六人もの連絡員を消したのだ。向こう側の組織もさすがに不穏な気配を察したのだろう。
「このままイシカワを監禁してても、あの変な組織の奴らはもう絶対来うへんわ。
ここはイシカワを少し泳がせた方がええと思うねん。尻尾を出すかもしれへんし。
そこでよっすぃーには引き続きイシカワの監視を任せるわ。この作戦でいくで。
事情を知ってるのはよっすぃーだけやからな。忙しいと思うけど、よろしく頼むわ」
バカバカしい。
なぜかヨシザワの心の中で、急激に無力感が広がっていった。
監禁。監視。作戦。謀略。駆け引き。騙し合い。まるでおままごとだ。
そんなことをして何になるんだろう? 誰が得をするのだろう?
目的も使命も欠いた行動に、ヨシザワは何の意味も見出せなかった。
大げさな言葉を使えば使うほど、空虚な絵空事に聞こえて仕方がなかった。
「フォースを守るために、な、頼むわよっすぃー」
カゴのお決まりの言葉も、いつものようにはヨシザワの胸に届かなかった。
- 705 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:09
- それでもヨシザワは、黙ってカゴの言葉に従うことにした。
今のフォースはかつてヨシザワが愛したフォースではなかったが、
それでもヨシザワがフォースを愛していることに変わりはなかった。
ただ一つ、昔と今とで違うのは、愛するために努力を要することだった。
ヨシザワはフォースを愛そうと努力した。
愛さなければならないという義務感に駆られながら、献身的に組織を愛した。
フォースという組織がどう変わろうとも、自分はこの組織を愛し、
守り続けなければならない。
この身を、心を、全てを捧げなければならない。誰よりも強く。
それが組織を守るために親友を殺した―――自分の義務だと信じていた。
「リカちゃん、無罪放免だってさ」
鍵のかかった扉を開き、自然さを装って、ヨシザワはニコリと笑った。
その笑顔を一つ作るためにも、少なくない努力を要したが、
そのことをリカはあっさりと見抜いた。
「よっすぃー、何があったの? よっすぃー、無理してる。無理に笑ってる」
- 706 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:10
- ヨシザワは膝から下がすとんと抜けたような気分になった。
単純なこと。あまりにも単純な言葉。
疲れているときに「どうしたの? 疲れているの?」と言ってもらえること。
無理をしているときに「どうしたの? 何があったの?」と言ってもらえること。
そんな単純なことが、ヨシザワの暗く沈んだ心にふっと明るい光を灯した。
笑顔がくしゃくしゃに歪んだ。叫びだしたくなった。
ああそうさ。無理してるよ。あたしは無理してる。
もう何をどうやったらいいか全然わかんないよ。
自分が何をなすべきなのか。何を愛すべきなのか。誰を信じるべきなのか。
あんたがそれを教えてくれるの? それがわかるっていうの?
だが口をついて出てきたのは全く違う言葉だった。
ヨシザワは自分が、感情のないロボットか何かになってしまった気がした。
「よくわかんないけどさ・・・・・リカちゃんを疑ってたマリィさんは消えた。
しばらく留守にするってさ。どうもリカちゃんに対する疑いは間違ってたみたい。
マリィさんが姿を消したのも、それを認めるのが気まずかったから・・・・かな?」
- 707 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:10
- そんな言葉は全部ウソだ。
誰が聞いても嘘とわかる幼稚な言い訳だった。
リカは自分に対する疑いが晴れていないことを確信した。
だがもうそれ以上何も言わなかった。黙って大人しくヨシザワの言葉に従った。
ヨシザワの下手な演技を、リカはある種の優しさをもって受け入れた。
「ありがとう。よっすぃー。じゃあ、今日からもうフォースで働いていいのかな」
「いや、いいよ。ずっとこの部屋にいて疲れたでしょ? 今日くらいは休みなよ」
「いいの。みんなと働いていたいの。だからお店に出るよ。準備してくるね」
リカは太陽のように明るい笑顔をヨシザワに向けた。
まるでヨシザワの心の闇を吹き飛ばそうとしているかのようだった。
ヨシザワはリカの好意を素直に受け取った。
イシカワの笑顔を真正面から受け止め、同じように笑顔を返した。
リカの笑顔には人の心を軽くする何かがあった。
ヨシザワの笑顔は、リカの笑顔に比べればずっと慎ましいものだったが―――
もうその笑顔を作るために努力は要さなかった。
リカは仕事の準備をするために、自宅へ戻った。
カゴにはリカの監視を命じられていたが、今はそんなことをする気にはなれなかった。
ヨシザワはリカの職場復帰をスムースに進めるために、一足先にフォースへと向かった。
- 708 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:10
- 以前はコハルと一緒に住んでいたリカだったが、
コハルがミッツィーのサポートに回ってからはずっと一人で暮らしていた。
ゆえに部屋のノブを回すのはイシカワ一人ということになる。
だが異常に発達したイシカワの目には、別人の指紋がべったりとついているのが見えた。
そしてその指紋は―――イシカワの知らない指紋ではなかった。
特徴のある付け方。それはリカが作ったある種のサインになっていた。
そのサインを記すことができるのは同じ組織の人間だけ。
そしてそれを解読できるのは、特殊な目を持つリカだけだ。
イシカワは周囲に目を配り、人気がないことを確認してから扉を開き、
部屋の中に体を滑りこませると、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で囁いた。
「ミッツィー、来てるの?」
ノブにぺたぺたと付いていたのは、組織の後輩の指紋に他ならなかった。
「緊急事態発生」指紋のサインはそう告げていた。
自分が軟禁されている間に―――事態が急展開したのだろうか?
- 709 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:10
- 「なんや、イシカワさん・・・・・解放されたんかいな・・・・・」
クローゼットの陰から小柄な少女が姿を現した。
忍者のような黒装束に身を包んでいる。
その黒の上からでもわかるほど、少女の体は泥と血にまみれ、
服がひどくぼろぼろになっていた。
「ちょっとミッツィー! どうしたのそれ!?」
「大丈夫大丈夫。イシカワさんこそ声がでかいですがな」
ちっとも大丈夫ではなかった。
イシカワは渋るミツイをベッドに座らせ、強引に服を脱がした。
一体どういう攻撃を受けたのだろうか?
ミツイの体には、いたるところに青いあざができていた。
イシカワは救急箱をひっくり返して、傷薬を取り出す。
そんなもんでは治りませんと毒づくミツイの体に、薬をベタベタと塗り付けた。
ひいひいとわめくミツイの体に、一通りの治療を施し終えるまでには、
ゆうに一時間以上の時間がかかった。
- 710 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:10
- 治療を受けながら、ミツイはイシカワに現状を報告した。
カメイとテラダの居場所を突き止めたこと。
カメイと接触している女が二人いて、そのうちの一人がマリィであること。
もう一人の女の正体は全くつかめていないこと。
イシカワと連絡が取れなくなり、送った連絡員も六人が消息を絶ったこと。
ミチシゲが、カメイとテラダを抹殺するという決断を下したこと。
ミチシゲとクスミがカメイの下に向かったが、逃したこと。
その場でGAMの人間と接触し、同盟関係を結んだこと。
ミツイはテラダの命を狙ったが、マリィに阻止されたこと。
「え? マリィさんが? あの人そんなに強いの? 油断したんじゃない?」
「言うこときついっすねイシカワさん。こっちも消火栓の水を使って
青龍としての能力を全開にしたんですけどね。結局痛み分けでしたわ」
イシカワは絶句した。同じ組織のものとして、青龍の圧倒的な強さは知っている。
その青龍と痛み分け? 互角に戦った? にわかには信じ難かった。
だが実際にマリィは姿を消した。ということは―――
- 711 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:10
- 「あたしが解放されたのはね、マリィさんが姿を消したからなのよ」
「やっぱりそうですか。マリィにもそれなりに深手を与えたみたいですね」
「でもね・・・・・あたしが監禁されたっていうことは、向こう側には
あたしがエコモニの組織の一員ってことがばれたのかもしれない」
「その可能性が高いですね。マリィはカメイとつながってます。
カメイが今のエコモニに探りを入れて、イシカワさんのことに気付いたのかも」
イシカワはカメイが裏切った後にエコモニに加わった新参メンバーだ。
カメイとイシカワは面識がない。
だが、今のエコモニの陣容を調べればすぐにわかることだ。
ミツイがカメイのことを調べてその一族を皆殺しにしたように、
カメイはカメイで何か裏で動いていたのかもしれない。
「それがね、マリィさんが消えた途端に疑いが晴れて無罪放免なの」
「それも変な話ですな。もしかしたらイシカワさん、泳がされてるのかも」
「でもここに来るまでに尾行はなかったよ。ちゃんと見て確認したもん」
「そうですか。イシカワさんの目で見たなら確かですわな・・・・・」
ミツイは今後について試案した。ミチシゲから具体的な指示はない。
ということは、情報を集めて、現場で最適な判断を下せということなのだ。
ここはミツイが判断するしかない。
- 712 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:10
- 「イシカワさん、やっぱり撤収しましょう」
「撤収?」
「一度疑われたっていうことはかなりマズイですよ。残るのは危険です」
「大丈夫よ。疑いはもう晴れたから。マリィさん以外は誰も疑ってないもん。
どうやらマリィさんは疑った理由を他の人には言ってなかったみたい。
そのマリィさんが消えたんだったら、今までのように上手くやれるよ」
「でもなあ。そのマリィが消えた今、フォースに残る意味はないんとちゃいます?」
「でも・・・・・・・わたし・・・・」
ここに残りたい。その言葉をイシカワは飲み込んだ。
確かにミツイの言うように、マリィが消えた以上、ここに残っていても仕方ない。
エコモニの最大の目的はSSの回収なのだ。それ以外の行動は許されない
それでもイシカワはここに残りたかった。ここで仕事を続けたかった。
自分を必要としてくれるのは―――フォースのような気がしていた。
「そういえばサユはGAMと手を結んだって言ってたわよね」
GAMは確かテラダが詳しく調査していた麻薬組織だ。
コハルからそんな情報を聞いた記憶がある。
リーダーのミチシゲは、なぜそんな組織と手を結んだのだろう?
- 713 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:11
- 「はい。どうもGAMというのもSSを探してる組織みたいなんですね。
うちの組織もここ一連のごたごたでかなり兵隊が減ったんですわ。
今は猫の手も借りたい状況なんです。だからおそらくミチシゲさんは、
GAMのやつらを上手く利用しようとしてるんとちゃいますか?」
ミツイは詳しい説明を加えた。
イシカワ救出のために向けた兵隊がマリィに殺られたこと。
カメイと接触した謎の少女の調査に向けた兵隊も全て姿を消したこと。
今のエコモニには軍事行動に従事できる兵隊がほとんど残っていなかった。
「わかった。だったらあたしがフォースに残る意味もあると思う」
「え? もしかしてイシカワさんがフォースを取り込むってことですか」
「うん。フォースには飛び切り強いキャリアが二人いる」
「でもなあ。取り込むっていってもそんな簡単には・・・・・」
「今、あたしがここでフォースを離れたら、二度と戻ってこれない。
マリィさんの疑いを認めることになるからね。だからここに残るよ。
あたしはここに残って、フォースを裏から動かす」
ミツイはイシカワの意見を聞き流しながら、じっくりと自分の考えを練った。
マリィはイシカワに対して疑いの目を向けていた。
そのイシカワがフォースに残り続けているなら、イシカワを狙って、
いつかまたマリィがフォースに戻って来るかもしれない。
イシカワを囮にして、マリィを引き寄せる。そんな戦略も可能かもしれない。
- 714 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:11
- 「わかりました。とりあえずその線で動きましょうか」
イシカワがフォースを裏から動かせるなんて思わない。
彼女にそこまでの実行力も実務能力もないだろう。
だがイシカワは純粋な戦闘要員でもない。
その目の力は確かに驚異的だが、戦場での戦闘には直接役立つことはないのだ。
エコモニに戻ってきても大した戦力にはならない。
ならばここに残していても、さほど大きな影響はないだろう。
ミツイは予備の携帯電話を取り出してイシカワに渡した。
「とりあえず毎日の定期連絡はこれまで通りにお願いします。
もしそれが途切れたら、こっちとしては緊急事態発生と判断しますから」
「わかった。ちゃんと毎日連絡送るから」
話はそれで終わった。
ミツイは最後に、イシカワの言う「飛び切り強いキャリア」というのが、
副支配人のカゴアイと、トップファイターのヨシザワヨトミであることを確認した。
とりあえず今のフォースに関しては、その二人の名前を押さえておけば十分だろう。
ミツイはイシカワとの会談を終えると、
足音も立てずに二階の窓から姿を消した。
- 715 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:11
- ☆
- 716 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:11
- 「仕切り直しやな!」
テラダは受話器を置くと大声でがなりたてた。
部屋の中では研究員がいそいそと機材を運び込んでいる。
緊急事態のために用意していた、予備のアジトの中だった。
襲撃の直前にマリィが気付いて対応してくれたおかげで、
人的な被害は避けることができたのだが、機材の大半はやられた。
また一からアジトを立ち上げなければならないだろう。
研究員は休む間もなく部屋の中を右へ左へと動きまわっていた。
働きもせずにのんびりとそれを見つめているのは、テラダとマリィの二人だけだった。
「なんだよ今の。カメイからの連絡か?」
ヤグチはアベと連絡を取り、テラダよりも先にこのアジトに到着していた。
テラダはそれに遅れること数時間。たった一人でアジトにやってきた。
カメイとは会うことができなかったらしい。
だが今ここにかかってきた電話は、どうもカメイからのようだった。
「ああ。こっちと同じように、あっちにも邪魔が入ったみたいや。
失敗したってよ。イイダの身柄は抑え損なったって言うてたわ」
- 717 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:11
- ざまあねえな。
ヤグチは心の中でカメイのことを嘲笑った。
どだい、キャリアでも何でもないただの小娘に、作戦が遂行できるとは思わなかった。
素直に自分かアベかどちらかに任せていればすぐに済んだ仕事なのだ。
これでカメイも少しはしおらしくなるだろう―――
ヤグチは作戦の失敗のことなど忘れて、一人ご機嫌な様子だった。
「で、アベはどうした、アベは」
「ああ、なんか今はちょっと遊んでるってさ」
「遊んでるっておい・・・・・こっちは緊急事態なんやぞ」
「知らねーよ。ナッチはいっつもあんな感じじゃんかよ」
「まあ、そうやけど・・・・・・・・・」
「それが終わったらこっちに来るっていってたよ」
「いつや。それはいつやねん」
「知らねーよ。訊いたって答えないし、答えたってそんなのあてになんねーよ」
「やっぱりアベを動かせるのはカメイだけか・・・・・・」
「チェッ!」
ヤグチは聞えよがしに舌うちした。
カメイカメイカメイ。アベアベアベ。テラダはそればっかりだ。
二人とも使えない人間なのになぜそこまで頼るんだ?
ここにもっと頼りがいのある人間がいるだろ?
ヤグチの独りよがりな思いがテラダに通じることはない。
- 718 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:11
- ヤグチは苛立ちを隠さずにがなり立てた。
「でさあ! 次はどうすんだよ次は! いつになったらSSは完成すんだよ!」
そんなヤグチの態度を見ても、テラダは不快感を示すことなく、
逆にニヤニヤと笑いながらノートPCを立ち上げた。
「そうイライラすんなヤグチ。そんな簡単には完成せえへんわな」
テラダは落ち着いていた。すんなりと最後まで上手くいく研究などありえない。
いくつもの研究に従事してきたテラダは、研究が行き詰ることには慣れていた。
そういうときは焦っても仕方がない。
ただ現状をしっかりと把握して認識することが大事なのだ。
それができない人間は―――同じ過ちを繰り返す。
「研究を進めるためには、同じことを繰り返すことも大事やで。
それが嫌なやつは研究にむいてへん。何をやっても上手くいかへんわ」
「同じことを繰り返す? 嫌だよそんなの。おめーはそれでいいのかよ」
- 719 名前:【治療】 投稿日:2009/10/26(月) 23:11
- ヤグチは完全に気持ちが切れていたが、テラダには焦りは全くなかった。
相手が邪魔してきたということも、考えようによっては悪いことではない。
自分達がそれだけ真実に近づいているということなのだ。
相手が邪魔をするというのなら、何度でもそこにトライしていけばいい。
先の見えない戦いにおいては、守る側よりも攻める側の方が圧倒的に有利なのだ。
テラダは再び東京の地図をディスプレイに浮かび上がらせた。
「ええんやええんや。俺はしつこい性格やからな」
例の施設の近くをズームさせる。
オレンジに光った「3」という数字が、その場で動かずいることを確認し、
テラダは長い舌をペロリと伸ばして上唇を舐めた。
「何度でも、何度でも食い付いたるがな」
- 720 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/26(月) 23:12
- ★
- 721 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/26(月) 23:12
- ★
- 722 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/26(月) 23:12
- ★
- 723 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:07
- ミチシゲの長い長い一人語りが終わった。
いつの間にか日はとっぷりと暮れていた。
四色の蝋燭が照らし出す四色の光が、五人の顔に濃い陰影を作り上げる。
頬を切るような風が右から左から吹き付けていたが、誰もが寒さを忘れていた。
「もう一度言いますが、これはおとぎ話ではありません」
信じる信じないはそちらの自由ですけどね、と言ってミチシゲは肩をすくめた。
ミキは途中から話についていけなくなっていた。
何がどうからみあっているのか、イマイチよくわからない。
ミチシゲの話は、筋が通っているようにも聞こえるし、
一から十まで全部デタラメを言っているようにも聞こえた。
コンノは一応最後までミチシゲの話を理解した。
だがそれが真実かどうかは判断できなかった。
あまりにもスケールが大きすぎる。
どこをとっかかりにして、どこから分析していくのか、全く見当がつかなかった。
太陽を操る? そんなことが可能なの? 理論的に、物理的に、そして生物学的に。
- 724 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:07
- ミキは優秀な頭脳を持っていたが、論理的思考は苦手だった。
いつも直感と直感をつなげて行動原理を構築していた。
だがこの話は直感で判断できるような種類の話ではなかった。
コンノはある意味テラダと同じ種類の人間だった。
極めて論理的な思考をする典型的な科学者だったが、
同時に、典型的な科学者が皆そうであるように、
コンノもまた飛び切りのロマンチストだった。
この話を信じたい。意外にもコンノはそう思い始めていた。
この話を真実と仮定して、そこから新しい理論を構築していく。
それはコンノにとっては飛び切り魅力的な命題だった。
ミキは戸惑い、コンノは夢中になろうとしてた。
ただ一人、この場ではアヤだけがリアリストだった。
アヤはこの話が嘘でも構わないと思っていた。
全部が真実である必要はない。ごく一部でもそこに真実が含まれていればいい。
だからアヤは、ミチシゲに対してたった一つの小さな真実を求めた。
「ねえ、サユちゃん。今日ってばすっごい綺麗な三日月が出てるね」
- 725 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:08
- 見上げた空には満点の星。
澄んだ闇夜に浮かぶ三日月は、一点の曇りもなく青白い光を放っている。
「それが条件ですか?」
サユは一瞬にしてアヤの望むことを察した。
理解の速さ。言葉の省略のし具合。全てがサユの聡明さを物語っていた。
アヤは賢い子が好きだった。賢過ぎて嫌われるくらいの子が好きだった。
なんとなくサユが―――昔の自分に少し似ている気がした。
「いや。それが協力する条件だなんておこがましいことは言わないよ。
ただね。あたしは美しいものが好きなんだ。綺麗なものが好きなんだ。
だから、もしサユちゃんがそれを見せてくれるっていうなら、
あたしはサユちゃんのことを誰よりも信用できると思うんだ」
「うふふふふ。おこがましくはないですけど・・・・・」
サユは手のひらで口を押さえながら笑った。
「それってある意味『それが協力する条件だ』って言うのより、
ハードルを上げてることになりますよ、マツウラさん」
- 726 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:08
- 禅問答のような会話が続く。
ミキもコンノもコハルも二人の会話を黙って聞いていた。
しばしの間、アヤとサユの視線がからまる。
あくまでも二人の笑顔は柔らかいが、そこには一分の隙もない。
まるで二人がナイフを持って、お互い切り合っているかのような殺気が漂っていた。
天才的な美しさゆえに人を引き付けてやまないアヤ。
天才的であるがゆえにNothingを求めて全てを捨てたアヤ。
天才的な美しさゆえに人から孤立し続けてきたサユ。
天才的であるがゆえに掟に従い全てを守り続けるサユ。
正反対の人生を歩んできたように見えるのは、単なる表層的な結果に過ぎない。
アヤとサユは「天才的」というただ一点で電撃的につながっていた。
それは苛烈な殺し合いの最中に、ナイフの突端とナイフの突端が
ピタリと一点で接したような、奇跡的な邂逅だった。
火花が散って、一瞬で消えた。
サユは靴を脱いで立ち上がる。両足を肩幅よりもやや広く開けた。
降り注ぐ月の光が黒髪を伝ってサユの四肢に下りてくる。
アヤは瞬きもせずに、サユの滑らかな所作を見つめていた。
- 727 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:08
- 「黒き土よ・・・赤き炎よ・・・白き月よ・・・青き水よ・・・・」
サユは瞳を閉じて、拳を握った手を胸の前で交差させた。
右手を前に。次の瞬間には左手を前に。そしてまた右手を前に。
何度も何度も交差を繰り返す。何百万回と修行して身に付けた動作だった。
「一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 杼 穣 溝 澗
正 載 極 恒河沙 阿僧祇 那由他 不可思議 無量大数・・・・」
それだけの言葉を、サユは一息で一気に唱えた。
両腕をクロスさせた手首の接点が、強烈な白い光を放つ。
「無限の闇の向こうから来たれ。無限の闇をまといて来たれ、我が守護神よ。
今こそ、その力を解き放ちたまえ。いざ、開け! 白き西方の門!」
白き光がサユの体を包み込み、サユの輪郭をゆっくりと溶かす。
次の瞬間、サユの肉体は人間の輪郭を消し、異形のものと化していた。
- 728 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:08
- ド ル ル ゥ ゥ ゥ ゥ ゥ
月の光を浴びてむくりと立ち上がったのは巨大な白い虎だった。
一つ吠えただけで、その声は大地を揺らした。
まるでロックコンサートの巨大スピーカーのように、空気を震わせた。
アヤ達の体もそれに呼応して、スピーカーのように震えた。
白虎は、樹齢百年の大木を思わせる、威厳に満ちた存在感を放っていた。
体中に、太く分厚い重層的なエネルギーが満ちている。
後ろ足で立ち上がれば、身の丈は十メートルを超えるだろうか。
その巨大さは非動物的だった。非生物的だった。
まるで昔の映画の合成シーンのように、現実感に欠ける景色だった。
ボ ウ ウ ウ ウ ゥ ゥ ゥ
白虎の唸り声はまるで爆撃のようだった。
それだけで周囲の人間を金縛りにしてしまうような威力があった。
魔獣と化したサユは上体をくねらせ、口を開き、牙をむく。
ネコ科特有のしなやかな体の動きに合わせて、
白と黒が交差した体毛が、小川のせせらぎのように波打った。
「すごい。すごいすごい」
アヤは恍惚としたまなざしで、伝説の守護獣を鑑賞していた。
- 729 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:08
- ☆
- 730 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:08
- 「これで少なくとも話の一部は信じてもらえましたかね」
変身を解いたサユは、とびきり美しいということを除けば、
どこからどう見ても、か弱そうな普通の少女だった。
「少なくともあんた達が、必死でウイルスを消そうとしてることはわかったよ」
きっと守護獣に変化できるということは、彼女達にとっては大きな秘密の一つに違いない。
それをペラペラと喋るだけではなく、実際にアヤの目の前で示してみせた。
それだけで彼女達の覚悟が尋常なものではないことが理解できた。
遊びじゃない。金勘定でもない。彼女たちは自らの信念に命をかけている。
もしかしたら―――話の流れによってはアヤ達を皆殺しにする覚悟なのかもしれない。
「ウイルスを追っている理由は何でもいい。あたしらにとっちゃ重要じゃない。
だからあんた達の話が本当なのか嘘なのか・・・・・どっちでもいいんだよ。
大切なのはあんたらがどこまで本気なのかってこと。どこまであたしらの力を信じ、
どこまで本気であたしらと一緒に動こうとしているのかってこと。それが全てさ。
それだけが、あたしが取り引き相手に求める―――たった一つの『信義』なんだよ」
アヤは立ちあがった。
サユは自分達の持つ重要な情報を晒して、アヤ達に協力を求めた。
信義に対しては、信義でもって応えるべきだろう。
アヤは自分が持っているたった一つの札を晒すことにした。
「ちょっと待ってて。カオリをここに連れてくるから」
- 731 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:08
- カオリはあの施設でウイルスを投与された八人のうちの一人だ。
つまりサユたちが探し求めている七人のうちの一人ということになる。
だからアヤとしては、最初はその切り札を晒すつもりはなかった。
車に隠したままで話を終え、取引条件として温存しておくつもりだった。
アヤの気を変えたのは白虎の神々しい美しさだった。
そのシルエットもさるものながら、真に美しいと思ったのはその意志だった。
白虎の目に宿った、己の信念に殉じるという強い意志。
アヤはその意志の強さを信じてみようと思った。
アヤは天才だ。己の生き方を貫き通してきたという自負もある。
だが残念ながら、それに殉じても構わないと思えるような信念など、
いまだかつて一度も持ったことはなかった。
サユの掲げる『信念』とは何なのだろうか。
行きつく先を見てみたい。彼女が信じるものを見てみたい。その先を見たい。
アヤはエコモニという組織と、とことんまで付き合っていこうと思った。
やると言ったらやる。とことんやると言えば、とことんやる。
たとえ行きつく先が―――地獄だとしても。
それがマツウラアヤだ。
アヤは車のドアを開き、カオリに向かって手招きする。
カオリの不安そうな瞳と躊躇いがちな仕草が全てを物語っていた。
その異常な聴覚を使って―――サユの話を全て聞いていたということを。
- 732 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:09
- アヤは、車から連れてきたカオリをサユに紹介しようとしたが、
それを遮るようにして、携帯電話の着信音が流れた。
サユは目で非礼を詫びてから着信ボタンを押す。
「はい。どうしたのミッツィー。え? 逃がした? 情報が漏れてたの?
マリ? 例のフォースの? キャリアかなんかだったの? ええ。うん。
で、そのマリは? 捕らえたの? 殺したの?・・・・・・・・はあ。
いいわ。こっちもね。エリにまんまと逃げられちゃったのよ。うん。
それでね、今は例のGAMっていう組織の人たちと一緒なのよ。うん。
今後はこの人たちと協力していくことになると思う・・・・・・。」
サユはそこまで言って、アヤの方にちらりと視線を向けた。
アヤは大きく頷く。協力することに異論はなかった。
「で、テラダとマリはどうなったの? すんなりと逃げられちゃったわけ?
え? 本当に。うん。じゃあマリは当分動けないかもしれないのね。
いいわ。わかった。じゃあミッツィーはこれからフォースの方に向かって。
マリが姿を消してるうちになんとかイシカワさんと接触してちょうだい。
うん。こっちはこっちで動くから、あとで合流しましょう。じゃあね」
サユは携帯を切って、改めてアヤと向き合った。
その場に茫然と立ち尽くしているカオリに、座るよう促す。
カオリはお化けでも見るような目で、サユを見つめたまま微動だにしなかった。
- 733 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:09
- 「マツウラさん。この人がイイダカオリさんですね。もう説明したんですか?」
「・・・・・まあ、あんた達の話は、全部カオリに伝わってるよ。
それより今の電話、例のミツイ家の青龍の子からだったのかな?」
Eco moniという組織の壮大な歴史とその役割について聞いたカオリは、
まだショックから立ち直っていなかった。
無理もない。彼女は実際にそのSun-Seedをその身に打ちこまれたのだ。
アヤやミキ達とは比べ物にならないくらい大きな衝撃を受けていた。
アヤはそんなカオリの手を引いて、無理矢理その場に座らせた。
「はい。ミツイアイカからです。彼女にはテラダの暗殺を命じていたのですが、
どうやらその前に、マリという女に阻止されてしまったらしいです。
マリというのはエリやテラダとつるんでいる、SSのメンバーの一人です」
アヤが頷いた。マリという女なら知っている。クラブ・フォースのオーナーだ。
アヤ達の周辺を探っていた男が出入りしていた店がフォースだった。
GAMを狙っていた組織の裏にはマリがいて、さらにその奥にはテラダとカメイがいる。
やはり全ては一つの線でつながっていたということだ。
- 734 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:09
- 「今、フォースにはイシカワという、我々のメンバーの一人が潜入しています。
どうやらマリからマークされていたようで、なかなか接触できなかったのですが、
ミッツィーの攻撃でマリがかなりの手傷を負ったようなのです。今がチャンスです。
ミッツィーにはイシカワさんと接触して、フォースの情報を探ってきてもらいます」
どうやらクラブ・フォースはSSの下部組織の一つのようだ。
そこに潜入している人間から情報を得れば、
何かSSの動きについてわかることがあるかもしれない。
サユはそこまで説明してから、改めてカオリの方を向いて頭を下げた。
「どうも始めまして。Eco Moniのリーダー、ミチシゲサユミです」
品性の感じられる礼の仕方だった。
つられてカオリも反射的に丁寧な礼を返す。
「イイダさん。アヤさんから話は全て聞いたそうですね。
では単刀直入にお願いします。あなたの血を、私達に分けてくれませんか?」
- 735 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:09
- カオリは何も答えない。
目をカッと見開いたまま、何かを一心不乱に考えていた。
サユは少しおどけた表情を作ってアヤの方に向けてみせた。
「もう一回、変身して見せた方がいいんですかね?」
「いや、その必要はないよ」
アヤはそう答えたが、それ以上何もしようとはしなかった。
カオリに語りかけることもなかったし、サユ達に説明を加えることもなかった。
沈黙の時間が流れた。
アヤもミキもコンノも、カオリに対して何も求めなかった。
そこにあるのは信頼? 計算? 楽観? 覚悟? 哀願? 諦観?
いや、そのいずれでもなかった。
人間は、サイコロを振って目を出すように、決断することはできない。
決意に込めるべきは偶然でも願望でも委任でもない。
決断者の意志だ。
アヤやミキやコンノは、ただ黙ってカオリの決断を待った。
そこには沈黙しかなかったが、それは別に特別な行為ではない。
ただカオリのことを、一人の人間として正当に扱っているに過ぎなかった。
- 736 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:10
- 「使って頂戴。あたしの血」
カオリは動くことを選択した。
前に進むのか後ろに退くのか、未来は誰にもわからない。
それでもカオリは動くことを選んだ。
そしてカオリは、あの施設であったこと全てを、サユに向かって語った。
「そうですか・・・・・そんなことがあったんですか。
七分割したウイルスを七人に投与したことは知っていましたが、
残りの一人には十倍量のウイルスを投与したとは知りませんでした。
その十倍量のウイルスを投与されたのがゴトウマキさんなんですね?」
「うん。テラダ達の会話から、はっきりとそういったことを聞いたよ。
投与された八人のうち、あたしを含めた六人は副作用がきつかった。
でもアベナツミっていう子と、そのゴトウマキって子には
全然異常が出なかったって。テラダ達はそんなことも話していた」
カオリはその異常な聴覚で、施設内で交わされた会話のほぼ全てを聞いていた。
当時はどうということはないと思っていたような情報も、
サユの前に話してみると、また違った意味を持ってくるように思われた。
- 737 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:10
- 「なるほど・・・・・・ではそのアベナツミというのは4番ですね。
あの事故の後で行方不明になっている子のうちの一人ですか・・・・・
もしかしたらその子が、エリが究極のモーニング娘。の『適格者』として
キープしてる切り札なのかもしれません。同様に、ゴトウマキというのが、
ヤマザキが『適格者』としてキープしている切り札なのかもしれませんね」
「つまりカメイとテラダは、ウイルスを分割してSSをコントロールすると同時に、
七人の被験者にウイルスを投与して、SSの適格者も探そうとしていた、と?」
「でしょうね。まさに一石二鳥の計画です」
アヤはサユの言ったことをじっくりと吟味していた。
そしてアヤは、サユがなぜ秘密を晒してまで、GAMに協力を求めたのか理解した。
事態は予想以上に進行している。
このままではカメイが究極のモーニング娘。とやらを完成させて、
太陽をコントロールできるようになるのも時間の問題かもしれない。
万が一それが阻止されたとしても――――
次に可能性が高いのは、そのヤマザキとやらがゴトウマキを使って、
カメイと同じように太陽をコントロールするという事態だろう。
どちらに転んでも、この地球にとっては最悪の事態だとしか思えなかった。
もはやアヤの頭からは商売っ気は消えていた。
これはもう完全に他人事ではない。
自分以外の誰かが、世界を制圧することなど許せなかった。
自分が誰かの言いなりになるしかないなどという事態は耐え難かった。
- 738 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:10
- ずっと話を聞いていたミキだが、もう我慢できなかった。
「でさあ! そのカメイってのは七つのウイルスをどこまで集めてんのさ?
まだ全部揃ってないんだろ? 少なくともカオリはここにいるしさ。
要するに、カメイがまだ揃えていないウイルスをあたしらが抑えればいい。
そしたら放っておいてもカメイの方からこっちにやってくるだろ?」
ミキはアヤほど観念的な話が好きではなかった。
物事を最短距離で、直線的に思考することを好んだ。
アヤと出会ってから、特にその傾向が強まっていた。
アヤとの差別化という意味で、ミキは無意識のうちに、
そういったアヤとは違う気質を強く押し出すようになっていた。
「現状を整理する必要があると思います」
そんなミキを見て、コンノも自分の役割を思い出した。
当たり前のことを、当たり前として流してしまわない。
きっちりと細かいところまで突き詰めて考える。
それがアヤともミキとも違う、GAMにおけるコンノの存在意義だった。
「カメイとテラダのグループが保持している検体。
そしてエコモニとGAMが保持している検体。
行方がまだわかっていない検体。三つに分類してみましょう」
- 739 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:10
- 「コンノさん、良い提案ですね。確かにここで一度情報を整理して、
Eco MoniとGAMの間で情報を共有しておいたほうがいいと思います」
コンノが防護服のポケットから新聞紙ほどの紙を取り出して広げた。
この施設の地図だった。裏側は白紙なので記録に使える。
「まずはエリとテラダが抑えている検体。いくつありますかね?
我々の調べでは、マリがフォースのナカザワを殺して、
その血を手に入れたということしかわかっていないのですが」
サユはそれ以上多くを語らなかった。
施設の中のことに関してはあまり情報がなかった。
施設に潜入させたイシカワも、残念ながらほとんど情報を持ち帰ってこなかった。
本来ならサユだけでなく、他の誰にもわからない情報だ。
だがこの場には、カオリがいた。施設内で起こったことを、唯一把握している人物だ。
「さっき話に出たアベナツミだけどさ。テラダと一緒に行動してるよ。
施設から逃げるときに、カメイがアベの体を拾っていったのが聞こえた」
その時、カオリはミキの背中で気を失っていた。
だが意識を失いながらも、テラダとエリの会話を耳が勝手に覚えていた。
- 740 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:10
- 「そしてあの事故のときイチイサヤカとイシグロアヤを殺したのはアベだよ。
イチイとは言い争う声がした。イシグロを殺したところはミキちゃんも見たよね?」
ミキは皆に向かって頷いてみせた。
あの時の記憶は消そうと思っても消せない。
あの赤い霧。あれはなんだったのだろう。あれもウイルスの影響なのだろうか?
「ではエリの下には、1番のナカザワ、2番のイシグロ、4番のアベ、6番のヤグチ、
そして7番のイチイの血が集められている可能性があるわけですね」
エリの意見に、アヤが付け加えた。
「さっきまであたしらはあの施設にいたわけだけどさ、あの中には2番の死体と
5番の死体と7番の死体が残っていたよ。ということは、当然あの亀の化け物も
2、5、7番の血液や骨といった細胞を入手したと考えるべきだろうね」
「あ、そうえいば」
ミキが気がついて訊いた。もしかしたらサユは知っているかもしれない。
「あたしらはなんでこの死体が放置されたままなんだろう?って思ったんだよね。
重要なサンプルなら国の施設に移されて厳重に管理されそうなものじゃん?
そしたらまさにその時にあの亀の化け物が現れて、あたしらに言ったんだよね
『その死体は、国の偉いさんなんかには動かせない』ってさ。これどういう意味?」
- 741 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:11
- サユは少し小首を傾げた。
「うーん。これは推測ですが・・・・・SSを適格者に投与すると、
太陽化が始まり、大量の放射線や太陽光線が出ると言い伝えられています。
おそらく七分割されたウイルスの場合も、そういった放射能が多量に出たのでしょう。
そうすると下手に動かすことはできませんからね。国はSSのことは知りません。
ただ単に臭いものには蓋ということでコンクリート漬けにしたのではないでしょうか。
もしかしたら、そこにヤマザキの意向が反映されているかもしれません」
その場にいた全員が一斉にカオリの方を見た。
カオリはきょとんとしている。ちょっと間が空いてからその意味を察した。
「あたしはなんともないけどなあ・・・電波とか出てるように見える?」
誰もが首を横に振った。
施設に集められた被験者の間でも、適合性にかなりの差があったのだろうか。
「とにかく、今の段階でエリが手に入れた可能性が高いウイルス検体は
1、2、4、5、6、7番ということに・・・・・・なりますね・・・・・」
サユの背中を寒気が襲った。
ほぼ全て揃っているではないか。
事態はやはり思っていた以上に深刻なところまで進行しているのだ。
- 742 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:11
- その場にいた全員が、再び一斉にカオリの方を見た。
カオリも今度はその意味を正確に理解していた。
カメイエリ達が唯一揃えていないウイルス検体は3番―――
イイダカオリその人に他ならなかった。
「まさに間一髪、だったわけですね」
サユは天を仰いで、安堵のため息を吐きだした。
もしここでエリにカオリを奪われていたら、全てが終わっていた。
そして、Eco Moniの情報を晒してGAMに協力を仰いだ判断が、
間違っていなかったことを改めて確信した。
今この世界で何よりも重要なのはカオリの身柄を押さえることだ。
それさえ押さえていれば、こちらから色々な策を練ることも可能だろう。
- 743 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:11
- コンノはコンノで全く違うことを考えていた。
「こっちが持っているウイルス検体は、2番、3番、5番、7番ですね。
そのマリと戦ったっていうミツイさんですが、戦ったときに
マリの血とか付着していればいいんですけどね。それなら6番が手に入ります。
我々に足りないのは1番と4番ですか。これって全部回収するんですよね?」
「勿論です。分割されたとはいえ、元は全てSSから作られたものです。
我々には7つ全てを取り返す義務があります。全て回収しなければなりません」
ミキは立ちあがって、尻についた砂をパラパラと払った。話は終わりだ。
これだけの情報が集まったのなら、アヤには既に、
次にGAMが進むべき道が見えていることだろう。
「で、アヤちゃんどうする? どこから手を付ける?」
「そうねえ・・・・・とりあえず・・・・・・」
アヤも立ちあがって首を左右にひねる。
防護服の内側で、首の関節がポキポキと鳴った。
「家に帰りますか。落ち着いて茶でも飲めば、妙案の一つも浮かぶでしょう」
- 744 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:11
- 「その前に」
アヤはその場から少し離れると、拳銃を取り出し、空に向けて撃った。
ターン ターン ターン ターン ターン ターン・・・・・・・・
ターン ターン ターン ターン・・・・・・・・
きっちり十発撃った。サユやコハルは訳が分からないといった表情を見せる。
だがミキとコンノは、それが誰に向けたテンカウントであるのかを察した。
アヤはミキやコンノに、具体的なことは何も尋ねなかった。何も確認しなかった。
それでもアヤは、あの白い芸術品がもう二度と帰ってこないことを理解していた。
アヤはミキ達に背中を向けている。その表情は窺えない。
だがその肩がいつもよりも大きく上下しているように見えた。
アヤは泣いているわけではなかった
アヤは涙を流さない。カメイに対する怒りも憤りも抱かない。
悲しみも、喪失感も、悔いも。未練も、アヤの心には何もなかった。
それが彼女に対する最大の餞であるとアヤは考えていた。
アヤの心には、彼女が残したものはもう何も残っていない。
ない。何もない。真の意味で、ない。
ただ一つだけ、アヤの心の中には、一際大きな「Nothing」だけが残っていた。
- 745 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:11
- ☆
- 746 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:11
- 行きはアヤ、ミキ、コンノ、カオリの四人で乗ったランドクルーザーだったが、
帰りはそこにサユとコハルが加わった。
本来ならアジトに余所の人間を入れることなど絶対にないのだが、
今は組織のルールがどうとか言っている場合ではなかった。
「そんじゃ、道すがら、今後のことでも話しますか」
「そうですね」
ミキはカメイを倒す方法についてコハルと議論した。
コンノは手に入れたウイルス断片から、抗ウイルス抗体を作る手法を考察してみせた。
カオリがサユに、ウイルスの成分について詳しく尋ねる。
考えることは山ほどある。話は一向に尽きなかった。
だが加熱していく議論をよそに、サユの頭の一部は恐ろしいほどに冷めきっていた。
氷のような冷徹な歓喜がサユの頭脳を震わせていた。
上手くいった―――。
サユはコハルにだけわかるようにそっとほほ笑む。
コハルもそれを受けて、サユにだけわかるようにそっとほほ笑んだ。
- 747 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:12
- サユは静かに歓喜していた。
Eco Moniの歴史という壮大な真実の物語の中に忍び込ませた、一つの嘘。
ミキもコンノもカオリもそれに気付いていない。
アヤですら、その嘘を論理的に看破することは不可能だろう。
なぜなら、アヤにはその嘘を見破る必要がないからだ。
必然性がないからだ。
それが嘘であっても真実であっても、アヤの行動に変わりはない。
アヤは何も知らない。知らないままでいい。
アヤ達には、その嘘のレールの上を、ひた走りに走ってもらおう。
命尽きるまで。
アヤがふとサユと視線を合わせる。
サユは視線を反らすことなく、心を開いて会心のほほ笑みを向けた。
唐突な笑みに、アヤは意表を突かれたような戸惑いの表情を見せる。
それには構わず、サユは吐息の届く距離までアヤに近づき、
そっと唇をアヤの耳元に寄せた。
太陽のようなほほ笑みを湛えたままで告げたその言葉は、偽りではなかった。
「全てはこの地球のために―――」
- 748 名前:【治療】 投稿日:2009/10/29(木) 23:12
- 第七章 治療 了
- 749 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/29(木) 23:12
- ★
- 750 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/29(木) 23:12
- ★
- 751 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/29(木) 23:12
- ★
- 752 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/02(月) 23:06
- 順番って大切だと思う。優先順位って大切だと思う。
死んでしまえば、何もできなくなるから。
人生は有限だから。
有限という言葉は私をひどく落ち着いた気持ちにさせる。
たとえ時間が無限に存在するとしても、私は永遠に生きたいとは思わない。
だから順番は、とても大切。
- 753 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/02(月) 23:06
- 第八章 寛解
- 754 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:06
- アヤやミキ達が例の施設に向かった後、GAMのアジトに残されたのは、
JJやLLやマコなどを含めて15人ほどだった。
責任者としてアジトの管理を一任されたのは、JJでもなくLLでもなく、
古くからGAMに所属していた一人の男だった。
戦闘能力においてはJJやLLの足元にも及ばない。
ただ、集団を取りまとめる力に秀でている、というだけの男だった。
だがJJにもLLにも特に不満はなかった。
好きになれない男ではあったが、だからこそ楽しめることもある。
JJとLLは今日の晩飯をどちらが奢るかで、一つの賭けをした。
JJはタカハシに賭け、LLはニイガキに賭けた。
どちらがこの男を殺すかということについて―――
どちらがたくさん殺すかということについては、
両者とも意見が一致したので賭けが成立しなかった。
「ねえ、LL。ナッチさん、ニイガキさんの方がたくさん殺したら、
ご褒美にタカハシさんを殺してあげるって言ったらしいケド」
「あの人、いかにもそういう遊びが好きそうネー」
「本当に殺ると思う?」
「ニイガキさんが勝ったらネ。まあ、勝てるわけないと思うケド」
その点に関してはJJも異論はなかった。
- 755 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:07
- LLとJJは連れだってアジトの外に出た。
庭にはマコが転がっていた。相変わらず子犬の世話をしている。
世話というよりも、ただじゃれあっているようにしか見えなかったが。
マコは外に出ていく二人に向かって笑顔で手を振った。
JJとLLはいつも二人で行動しているので、特に怪しまれることはなかった。
アヤ達が施設に向かった後に、LLはすぐにタカハシにメールを送った。
襲撃時刻はアヤ達が出発してから一時間後に設定した。
もうそろそろその時間になる頃だ。
ナッチからは「JJとLLは手を出すな」と固く指示されている。
あくまでもGAMを攻撃するのはタカハシとニイガキだけであると。
だがこちらは一応GAMのメンバーなのだ。
この襲撃が終われば、もう二度とGAMには戻れないだろう。
襲撃には完璧を期したい。討ち漏らすようなことがあってはならない。
LLはナッチにかけあって、アジトから逃走しようとするメンバーに関しては、
LLやJJが直接殺しても構わないという許可をもらった。
「いくら今のGAMが小さくなったって言ってもネー」
「あの二人だけで壊滅させるのは無理だよネー」
「じゃ、JJはそっち」
「オッケー。じゃ、また後で」
襲撃の計画はLLが立案した。このアジトの防御網を作ったのは他ならぬLLだ。
その防御網を破る計画を立てることは簡単だった。
この計画通りやれば、あの頼りない二人の麻取でもなんとかなるだろう。
- 756 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:07
- JJとLLはアジトを出たところで西と東に分かれた。
それぞれアジトからは距離を取り、狙撃の態勢を整える。
襲撃を受けたときのGAMのマニュアルのことは知り尽くしていた。
全滅を避けるために、必ずメンバーの一部は逃走を図る。
そのルートを設定したのもLLだった。
つまりターゲットがどう動くのか、あらかじめわかっているのだ。
逃げてきたメンバーを射殺することなど、簡単な仕事だった。
一応、LLは不測の事態が起こったときのことも念頭においている。
二人の麻取がLLの計画通り動く保証はない。
その時にはアジトごとGAMを吹き飛ばすつもりだった。
アジトの武器弾薬庫には起爆装置を取り付けてある。
LLの計画にぬかりはなかった。
つまり何がどう転んでも、一つだけは絶対に動かない事実がある。
今日でこのアジトはお終いだ。
GAMという組織はアヤ達数人の幹部を残して全滅する。
それはつまり―――今このアジトにいる人間が全員死亡することを意味していた。
- 757 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:07
- ☆
- 758 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:07
- タカハシとニイガキは時間ぴったりにやってきた。
さすがに緊張した面持ちをしている。
二人とも大きなサングラスをしていたが、これがまた驚くほど似合っていなかった。
「中の様子はどうや」
「特に問題ないネ。予定通りでオッケーよ」
「裏はどう?」
「JJが固めてますヨ。ニイガキさんはそっちの方から回ってくださいネ」
ニイガキは腰から拳銃を引き抜き、早くも安全装置を外した。
両手に小ぶりなハンドガンを持つのが彼女のスタイルらしい。
一方タカハシはというと、戦場で使うようなアサトライフルを持っていた。
LLは心の中でニイガキに向かって十字を切った。
武器の選定からして、ニイガキではタカハシに勝てそうもなかった。
「何人や。中にいるんは何人や」
タカハシの口調には、いつもの人を弄ぶような余裕は全くなかった。
無理もない。タカハシ本人も、ナッチから直接言われていた。
「ニイガキよりも殺した人数が少なかったら、罰として殺すからねー」と。
殺伐とした空気をまとっているタカハシに向かって、
LLはあえてちくちくと刺激するような言葉で告げた。
「十三人ネ。2では割れない数字だから―――引き分けはないヨ」
タカハシは口の中で絡まっていた痰を吐き捨てた。
- 759 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:07
- タカハシとニイガキは二手に分かれてアジトの敷地内へと入っていった。
警報装置の類は全てLLが事前に切っていた。
近代兵器を用いた襲撃というものは、攻撃側の方が圧倒的に有利だ。
たとえ攻撃側の人数の方がずっと少なかったとしても、
防御側の警備システムが破綻していたなら、まず守りきることは不可能だ。
LLの襲撃計画は、そういう意味では基本に忠実だった。
そして麻取という公的機関で鍛えられたタカハシとニイガキの行動も、
非常に基本に忠実な動きだった。
戦争がセオリー通りに進むということは滅多にない。
だがセオリー通りに進むのなら―――それに勝る戦略などありはしない。
GAMの守備部隊は文字通り手も足も出なかった。
最初に火を吹いたのはタカハシのアサトライフルだった。
フルオートに設定された銃身からは、惜しみなく弾丸が放たれた。
短期決着。巧遅より拙速。質より量。それがタカハシの戦略の全てだった。
十三人いるのなら七人殺せば勝ち。簡単な計算だった。
タカハシは、LLの立てた細かい戦略を一切無視して、アジトに飛び込む。
その時点でタカハシはGAMのメンバー二人を射殺していた。
残り五人。あと五人殺す。
- 760 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:08
- 「あーあ。やっぱりタカハシさんはいい加減ネー」
JJが待ち構える逃走ルートに三人のメンバーが姿を現した。
やり方が荒っぽいにもほどがある。
稚拙なタカハシの襲撃では、どれだけのメンバーを逃がしてしまうかわからない。
JJは自販機のボタンを押すように、素っ気なく引き金を絞った。
先頭を走るメンバーの頭が吹っ飛ぶ。
後ろに続いていた二人が慌てて身を伏せた。
「バッカねー。伏せたって全部丸見えヨー」
だがJJが再び標準を合わせるより先に、二人の背中が血を吹いた。
「え?」
JJがスコープを覗き込むと、そこには二丁の拳銃を構えたニイガキの姿があった。
ニイガキはさらに逃走ルートに顔を出したメンバーの一人を撃ち殺した。
JJは得心した。LLに計画を示されたときから、ニイガキはこれを狙っていたのだ。
タカハシが滅茶苦茶に撃ちながら突撃することも、
それによって逃走ルートに駆けこむ人間が多く出ることも、全て予想していたのだ。
「ふーん。ニイガキさんはニイガキさんなりに、頭を使ってるのネー」
三人を射殺したニイガキは、死体を乗り越え体育館の敷地内に入っていった。
あと四人殺せばニイガキの勝ちだ。
- 761 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:08
- タカハシの放ったアサトライフルの銃声は敷地内に響き渡った。
GAMのメンバーはすぐさま防御態勢を築く。
だが破綻はすぐに明らかになった。
JJとLLがいないのだ。
暗殺部隊の要である二人は、防戦反攻においても不可欠な存在だった。
その二人が一向に姿を現さない。既に撃たれたのか? アジト内に動揺が走った。
無線機を使って盛んに交信が行われた。
「JJは? LLは?」「いない。こっちにもいない」
「相手は何人だ?」「正面から来るのは一人だ」「裏にも一人!」「二手に分かれろ」
「逃走ルートが塞がれた」「第二ルートを使え」「撃たれた! 第二ルートもダメだ」
交信の内容は、片耳にイヤホンを突っ込んでいたマコの耳にも届いていた。
(JJとLLがいない? まさか・・・・・もしかして・・・・・)
マコは五匹の子犬をまとめて抱え上げると脱兎のごとく駆け出した。
撃ち合いには慣れていたが、肌が感じる強烈な危機感は、かつてないほどだった。
アヤやミキが留守のとき。JJとLLが不在のとき。
そこを狙ったかのような襲撃―――
命のやり取りに「偶然」などというあやふやな概念を当てはめてはならない。
マコは、この襲撃が裏切り者によって仕組まれたものだと、即座に判断した。
- 762 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:08
- マコは五匹の子犬を、今にも崩れそうなボロボロの物置に投げ込んだ。
キュウキュウと泣きわめく子犬達に向かって人差し指を立てる。
「シーッ! 静かに! ここでじっとしてるんだよ!」
マコは子犬に向かって何度も「シット・ダウン」の命令を出した。
まだ生後まもない子犬だが、アヤの方針もあって基本的な躾は施してあった。
マコは物置の陰からライフルを取り出した。
動くかどうか怪しいくらいの年代ものの銃だった。
だがマコはどうしても武器弾薬庫までランチャーを取りに行く気にならなかった。
二つの逃走ルートまで狙われているなど、通常ではあり得ない事態だ。
裏切り者がいる。GAMのやり方を知り尽くしている人間が敵サイドにいる。
それはもはやマコの中では推測を超えた一つの確信となっていた。
何をするにしても、その事実を踏まえて行動すべき時だった。
もしマコがその裏切り者だったなら―――
必ず武器弾薬庫になんらかの仕掛けを施しているだろう。
じっくり計略を練った相手に、正攻法で立ち向かっても勝ち目はない。
今は相手の裏をかいて動かなければならない。
マコは襲撃者の姿を探すことはせずに、あえて藪の中に身を隠した。
- 763 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:08
- LLが待ち構える方の逃走ルートには二人のメンバーが姿を現した。
全てがLLの作ったルールの通りに進んでいた。
LLは何の感情も込めずに、空き缶を撃つようにその二人を射殺した。
これでしばらくはこちら側は静かになるだろう。
LLは無線機を使ってJJに連絡を取った。
JJの方では一人射殺したらしい。
ということは十三人のうち、JJとLLで三人殺したことになる。
残りは十人か。
もしもタカハシが五人、ニイガキが五人殺したらどうなるのだろう?
あのナッチという女が「引き分け」という裁定を下すところは想像できなかった。
建物の中ではガガガガガガと派手な音が続いている。
タカハシのアサトライフルの音だ。
あんなに無駄弾を撃っているようでは効率良い仕事はできないだろう。
一方、ニイガキの方のハンドガンの銃声はというと、ほとんど聞こえない。
もしかしたら大番狂わせもあるカナ?
LLは全く他人事のように、そんなことを考えていた。
- 764 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:08
- 人を殺すなんていうの、大して難しい仕事ではない。
殺すことに対して罪の意識を感じることもない。
今の関東で麻薬取締官などという仕事を何年もしていれば、
両手両足でも数えきれないくらいの人間を殺すことになるのだ。
稲刈りをするときに罪の意識を感じる農家もいないだろう。それと同じことだ。
ニイガキは左手に持った銃で窓ガラスの向こう側にいた人間を射抜く。
四人目。
倒れた死体の向こう側に向かってさらに銃弾を重ねる。
死体の陰で隙を窺っていた人間が血を噴いて倒れた。
五人目。
ニイガキは多くの能力でタカハシよりも劣っていた。
だがたった一つだけ―――タカハシよりも優れた資質を備えていた。
六人目。七人目。
ニイガキが最後に殺した七人目の男はアジトのリーダーのようだった。
タカハシが無防備に広げた弾幕を避けて、
物陰から飛び出てきた男の眉間を撃ち抜くのは、稲を刈るよりも簡単な仕事だった。
待つこと。待ち続けること。待ち忍ぶこと。
その一点においては、ニイガキの資質はタカハシを大きく上回っていた。
銃声が止んだ。
- 765 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:08
- マコはじっと戦況を見つめている。
襲撃を受けてからほんの十数分。
たったそれだけの間に、組織のメンバーはことごとく射殺されていった。
驚くべきことに、襲撃してきたのはあのタカハシアイだった。
(アイちゃん・・・・・やっぱりそうか・・・・・・)
マコは撃たれいく仲間達をサポートしようなどとは思わなかった。
感情に流されて動くべきではない。
まずはしっかりと情報を収集し、相手の動きを分析する。
そうやって行動することを、マコはアヤから徹底的に叩きこまれていた。
タカハシが突撃銃で弾幕を張り、こちらをいぶり出す。
そしてもう一人の人間が、いぶり出された人間を狙撃する。
どうやらそれがタカハシ達の攻撃パターンのようだった。
(襲撃者はアイちゃんを入れて二人かな・・・・・・・)
だが二つの逃走ルートに向かったメンバーからは
無線を通じて「撃たれた」という報告が入っている。
それも加えると、最低四人はいるということか。
- 766 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:08
- やがて銃声が止んだ。
どうやらマコ以外のメンバーは皆やられてしまったようだ。
マコには二つの選択肢があった。
今、ここから狙撃する。
タカハシともう一人の女は、今は無防備にその姿を晒している。
こちらの気配には気付いていないようだ。
二人同時に撃つのは無理だが、タカハシ一人なら殺れるかもしれない。
だが一つ問題があった。このライフルの信頼性だ。
マコは狙撃もさほど苦手ではなかったので、これくらいの距離なら問題なかったが、
この古い銃が照準通りに着弾してくれるという保証はない。
むしろその可能性はかなり低いように思われた。
もう一つ。マコには逃げ出すという選択肢があった。
普通であれば、こちらの方がずっと現実的な選択だ。GAMのセオリーでもある。
だが今は二つの逃走ルートは塞がれている。
逃げて死ぬか、打って出て死ぬか。
どっち? どっち? どっちが正解?
正解でも不正解でも、その先に待っているのは「死」のような気がした。
マコは決断を下せないまま、藪の中で一人身悶えていた。
- 767 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:09
- タカハシの眼は血走っていた。
冗談のように見開かれた目はじっとニイガキの姿を見据えている。
結局、タカハシが殺せたのは、最初の二人だけだった。
一方、ニイガキが殺したのは七人。ニイガキの圧勝だった。
無言のまま、二人はどれくらいの間、見つめあっていたのだろうか。
沈黙を破ったのは、勝者でも敗者でもないただの傍観者だった。
「タカハシさん、二人! ニイガキさん、七人!」
「ニイガキさん、七人殺したカ? 過半数いったネ。じゃあゲームは終わりー」
「え? でもLLは二人しか殺ってないんだよネ?」
「うん。JJは一人だっけ? あれ・・・・・?」
「数が合わないネ」
タカハシの唇からうめき声が漏れた。
「数が合わない・・・・・? まだ生き残りがいるってこと?」
新しい弾倉を銃身に詰め、噛みつかんばかりの目をLLに向けた。
今にもLLに銃口を向けそうな雰囲気だ。
「あー、いたとしても一人ネ。ニイガキさんの勝ちは・・・・」
「うるさぁぁぁい!」
- 768 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:09
- 「まだや! まだ終わってない!」
タカハシは現実を許容できないままでいた。
あり得ない。自分が戦闘でニイガキに後れをとるなどあり得ない。
実際、最初に二人殺したのは自分ではないか。
その後も勇猛果敢にアジトに突っ込んでいったのは自分ではないか。
ニイガキは何をしていた?
ただじっとあたしの陰に隠れていただけやんか。
あたしが蹴散らした敵の逃げ道に出てきて、こそこそと殺しただけやんか。
一切リスクを負うことなく、あたしのおこぼれにあずかっただけやんか。
乞食みたいに待ってただけやんか! それだけやんか!
なんにもしてへんやないか!
卑怯だ。タカハシはそうとしか考えられなかった。
タカハシにとっては、自分に利しない行為の全てが『卑怯』だった。
それがタカハシという女の『卑怯』という定義だった。
- 769 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:09
- もはやナッチの言う「賭け」などどうでもよかった。
ニイガキより数が少なければ殺されるという事実も忘れていた。
ただひたすら、ニイガキよりも劣っているという事実から逃れたかった。
受け入れられない。そんなことはとても受け入れられない。
タカハシは見えない何かを求めるように、血走った眼で周囲を見やった。
何もない。タカハシを救ってくれるものは何一つない。
ないなら作り出すまでだ―――
そこまで思いつめたタカハシの耳に、微かに声が聞こえたような気がした。
「なんか聞こえる。声がする」
空耳か? 現実逃避が生み出した妄想か? いや違う。確かに聞こえる。
その声は―――ボロボロの物置から聞こえてきた。
タカハシは夢遊病者のようにゆらゆらとその物置に向かって歩みだす。
銃を構えて銃口を物置に向ける。
何でもいいから撃って撃って撃ちまくりたい気分だった。
タカハシは乱暴に引き金を引いた。
- 770 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:09
- マコは藪の中で息を潜めたままだった。
タカハシは仲間の女と向き合ったままだった。何か様子が変だ。
そこに新たに二人の女が現れた。JJとLLだ。
なぜかマコの中には驚きの感情が湧かなかった。
やはり―――
彼女たちには、いつかどこかで裏切られるような予感がずっとあった。
おそらくアヤやミキもそれを感じていたのではないだろうか。
だがなぜこのタイミングで?
ここでGAMを裏切って、彼女たちに何のメリットがあるのだろうか?
GAMという取り引き先を失えば、タカハシの「副業」も潰れる。
そしてJJやLLが生きていく場所も失われるような気がした。
「うるさぁぁぁい!」
タカハシが吠えた。何やら癇癪を起したようだ。何があった?
タカハシはふらふらと歩き出すと、物置の方へ銃口を向けた。
うるさい? なにが? もしかして―――仔犬の鳴き声がした?
突撃銃の連射がボロボロの物置を削り飛ばしていく。
マコの耳に、あの子犬たちの悲鳴が聞こえたような気がした。
動け。走れ。撃て。いや、ダメだ。動くな。
―――感情に動かされてはならない。
- 771 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:09
- 感情に動かされてはならない。
感情に動かされてはならない。
感情に動かされてはならない。
たとえ子犬が全員射殺されようとも、自分は生き延びなければならない。
生き延びて、この事態をアヤに報告しなければならない。
それがこの場における最良の選択肢であることに疑いはない。
並はずれて優柔不断な自分にだって、それはよくわかっている。
それでもマコの体はマコの脳に逆らった。
マコの心はマコの理性に逆らった。
マコは藪から飛び出してタカハシに銃口を向けた。
銃が新しいとか古いとか、そんなことは関係ない。一発で仕留める。
誰にもあの子たちを傷つける権利なんてない―――
だがマコが引き金を引くよりも早く、
炎のような激痛がマコの太腿をぐちゃぐちゃに掻き乱していった。
完成したジグソーパズルをばらすように、
右足の先が消えてなくなった感触がした。
ぐるりと体をねじらせながら仰向けに倒れたとき―――
自分が撃たれたのだと気付いた。
- 772 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:09
- ☆
- 773 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:10
- 「アハッ。危なかったネー、タカハシさん」
マコの足を狙撃したのはJJだった。
「ナイス、JJ。やっぱり一人、生き残りがいたのネ」
LLがちらりとJJに含みのある視線を向けた。
頭や胸ではなく、足を撃った意味。
プロの殺し屋にとって「すぐに殺さない」ということには意味があった。
もっとも今のタカハシには、そんな繊細な判断を考慮する余裕はなかった。
「なんで撃ったあ!」
「なんでって・・・・タカハシさん、撃たれそうだったんですヨ」
「お前、ナッチに言われてたやろ。手出しするなって」
「まあ、そうですケド」
「お前が撃たんかったらあたしが撃ってた。あたしが殺してた」
「あはははは。そんなの絶対無理だあ」
「笑うな!」
いつもはタカハシの戯言にも陽気に付き合うJJだったが、
さすがにその言いようには、ムッとした。
- 774 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:10
- 「まあまあ、タカハシさん。別にいいですヨ。あいつまだ死んでないですし。
なんだったらタカハシさんが止めを刺して、殺した数に入れてもいいですヨ。
まあ、それを入れてもニイガキさん七人でタカハシさんは三人ですケド・・・」
そんなLLの取りなしも、タカハシは一切聞き入れなかった。
一度導火線に火のついたタカハシの感情は、何によっても堰き止められることはなかった。
「無効や」
「は? 何が?」
「この勝負は無効や。JJに邪魔されたんや。無効に決まってるやろ」
タカハシはそういって唾を一つ地面に吐きつけた。
こういう時、笑えばいいのか呆れればいいのか、JJにはわからなかった。
ただ一つはっきりしていることは、タカハシがこのことを、
あることないこと付け加えながら、ナッチに伝えるだろうということだった。
下手をすればJJが悪者にされてしまうかもしれない。
だがJJは慌てない。ナッチには嘘は通用しないのだ。
タカハシとJJ。どっちが真実を言っているか、ナッチには確実にわかる。
それよりも今は―――
「タカハシさん、それよりもいいんですカ? なんか声がしたんですよネ?
だからあの物置を撃ったんでショ? 確認しなくていいんですカ?」
- 775 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:10
- 「そうや。確かにあそこから声みたいなもんが・・・・・・」
タカハシはみるみるうちに平静さを取り戻していった。
目つきも口ぶりもいつもの落ち着きが戻って来ていた。
どうやらタカハシの中ではこの勝負は「無効」ということで落ち着いたらしい。
だがニイガキに対する敵愾心のこもった視線はそのままだった
まるで世界中の罪悪の全ての原因がニイガキにある、とでも言いたそうな視線だった。
そのことに関して、ニイガキは何も言わなかった。
タカハシに勝ったことも、その結果ナッチに認めてもらえるであろうことも、
ニイガキに対して何の快感ももたらさなかった。
そこにあったのは虚しさだけだった。
ニイガキが望む、タカハシに対する勝利とは、こんなちっぽけな勝利ではなかった。
ではいったいどうすればちっぽけではない勝利がつかめるのか?
ニイガキにはそれがわからない。ゴールがどこにあるのかがわからなかった。
それを知っているのは、自分と一心同体であるナッチではなく、
どことなく自分に対して素っ気ない態度をとるマキの方ではないのか―――
なぜかそんな気がした。
- 776 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/02(月) 23:10
- 「あ! あのボケもおらん! 倉庫に行ったんか!」
タカハシはぎゃあぎゃあと叫びながら倉庫の方へ駆け出した。
JJが足を撃ち抜いた相手はいつの間にか消えていた。
その浮浪者じみた格好をした女がマコであることには、
既にタカハシもJJもLLも気付いていた。
そのマコが姿を消している。だがJJもLLも慌てなかった。
JJがあえてマコの足を撃ったのはこれが狙いだった。
確かにタカハシの言うように、あの倉庫からは物音がした。
隠れている人間がいるとは思えないが、マコが何か仕掛けを施した可能性はある。
JJはマコを泳がして、それを確認するつもりだった。
あの足の傷ではそう遠くへは行けない。
おそらくマコは、タカハシの言うように倉庫の中へ行ったのだろう。
その予測を裏付けるように、倉庫に向かって赤い血痕が残っていた。
タカハシの後を追って、JJとLLと、そしてニイガキも倉庫へ向かった。
- 777 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/02(月) 23:10
- ★
- 778 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/02(月) 23:10
- ★
- 779 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/02(月) 23:11
- ★
- 780 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:08
- アサトライフルの着弾を受けた倉庫は、きな臭い香りが漂っていた。
古い木造の倉庫だ。火の手が上がらないとも限らない。
そう思って様子を見に来たマコだったが、どうやらいらぬ心配のようだった。
ホッとした瞬間、足の傷に電流のような痛みが走った。
(ああ・・・・これまでか・・・・・・・・くそ)
狙撃を受けた右足は、痛み以外の感覚がほとんどなくなっていた。
タオルできつく縛って止血を施したが、
そのタオルの下から、どくどくと止めどなく血が溢れてくる。
動かそうと思っても全く動かない。
自分の足ではなく、まるで棒か何かがくっついているような感覚だった。
- 781 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:08
- マコはポケットからメモ帳を取り出し、
今回のことをアヤに伝えるべく、要点をざっと書きとめた。
タカハシが裏切ったこと、JJとLLが裏切ったこと。
書くことはそれだけでいい。
ものの2、3秒で書きとめて、紙を倉庫の扉に挟んだ。
これから自分がどうなるかはわからない。
タカハシに逮捕されるのか。あるいはこのまま殺されるのか。
いつものように楽観的な予測を立てることはできなかった。
JJとLLの姿を見た以上―――ただで済むとは思えなかった。
マコは倉庫の奥を覗き込んだ。
暗闇にキラリと光るいくつかの瞳があった。
子犬たちはマコの命令がない限りは動かない。
マコは最後の力を振り絞って、五匹の子犬に命令を下した。
「逃げろ・・・・・・走れ!」
- 782 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:08
- あの子たちはただの子犬ではない。Nothingの子供なのだ。組織の一員なのだ。
むざむざ麻取の取り調べを受けさせるわけにはいかない。
押収させるわけにはいかないのだ。
自分ができる最後の仕事として、なんとしてもこの子らを逃がさなければならない。
子犬達は命令に忠実に駆け出した。マコの下に向かって。
マコは屈もうとして、力なく地面に倒れた。
右足には感覚がない。左足にももう力が入らなかった。
「違う違う。こっち来んな。あっち行け。走れ。行けよ!」
マコは痛む足を押さえながら必死で手を振った。
何を思ったか、五匹の子犬は連れだって再び狭い倉庫の中に入っていった。
どうやら倉庫の中へ戻れという命令だと勘違いしたらしい。
そして子犬達は倉庫の中に積まれている毛布の中へ飛び込んでいった。
「違うよ・・・・頼むからわかってくれよ!」
子犬たちにはまだ「こっちに来い」「倉庫に戻れ」という命令しか仕込んでいなかった。
「ここから離れろ」という命令など教えていないのだ。マコは唇を噛んだ。
「だから! 逃げろって言ってるじゃんかあ!!」
「逃げろ? 誰に言ってるんだよマコ?」
- 783 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:08
- マコは後ろから銃口で頭を突かれた。
タカハシとしてはそれほど力を込めたわけではなかったが、
重く、固い銃口はマコの後頭部に痛烈な衝撃を与えた。
「があっ」
マコの脳裏に火花が散った。目がちかちかして焦点が合わない。
失神しないのが不思議なくらいの痛みだった。
「なんだここ。武器でも隠してんのか?」
「いや。違うよタカハシさん。ここはまあ、犬小屋みたいなもんネ」
LLは注意深く倉庫の中を見渡した。変わったところはない。
なぜマコがここまで這って来たのかよくわからない。
まさかあの子犬をかばっているわけではないだろう。
何かがここにあるはずだ。
その時、後ろからJJの野太い声がした。
「あった! なんかメッセージみたいなものがあったヨ!」
- 784 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:08
- 「なるほどネ」
JJから小さなメモのようなものを受け取ったLLは納得した。
その紙にはタカハシとLLとJJが裏切ったことが記されている。
身体検査で発覚することを恐れて、そのメモをここに隠しに来たのだろう。
LLはマコの見ている目の前で、その紙を燃やした。
そしてそのまま―――燃え盛るメモを木造の倉庫に投げつけた。
火は何度も消えそうになりながらも、小さな火種をそこに残した。
LLはこのアジトに一片の証拠も残すつもりはなかった。
「痛い! なんじゃコラ!!」
タカハシの鋭い悲鳴がした。JJは倉庫の中の明かりをつける。
一匹の子犬がタカハシの向こう脛に思いっきり噛みついていた。
タカハシはその子犬を容赦なく銃床で殴りつけた。
よく見ればそれは、まだ生まれたてのようにも見える、本当に小さな犬だった。
タカハシに本気で殴られたその犬は、
首があらぬ方向にねじ曲がり、ぶるぶると短く痙攣して息絶えた。
- 785 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:08
- 「タカハシさん、大人げないネー。ただの子犬じゃーん」
「子犬? おいJJ。なんだよこの犬」
「組織で飼ってる犬ですヨ」
「前にマコが世話してたあの子犬か? ナッシングってやつの子犬か」
「その子犬ですヨ。4、5匹いるんですけど、全部ここで飼ってるんデス」
Nothingという白い犬の記憶が蘇ると同時に、タカハシの舌に苦い味が広がった。
白い犬の姿が屈辱の記憶と重なった。
自分がアヤにぶちのめされた―――許しがたい記憶に。
殺す。こいつらも全部殺す。殺してこの世から消し去る。
自分の中に芽生えた殺意に気付くと同時に、タカハシは酷薄な笑みを浮かべた。
「組織で飼ってるっていうことは、組織の一員だよな?」
「はあ?」
「それじゃ、ちゃんと数に入れないとね」
そう言うや否や、タカハシはいきなり天井に向けてライフルを撃った。
古い倉庫が震えるような轟音がした。
驚いた子犬たちが毛布の中から飛び出してくる。
タカハシはそのうちの一匹にライフルを向け、瞬く間にハチの巣にした。
「これで二匹。併せて四人。あと三匹殺せばええんやろ?」
- 786 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:09
- ニイガキより下だったということがまだ気に入らないらしい。
タカハシの中では勝つまでゲームが続くのだろう。
蛭のように粘着質なタカハシの精神の一端に触れたLLは、少し嫌な顔をした。
「さあ、出て来いや! あと何匹おるんや!」
JJは我関せずといった感じで倉庫から離れていった。
ほんの少し逡巡したが、ニイガキもそれに続いて倉庫から離れることにした。
GAMを壊滅させるという任務は完了したのだ。
今更子犬を数匹殺したところで何になるのだろうか。
タカハシを止めようなどとは思わなかった。
付き合いが長いニイガキには、タカハシの性格が手に取るようにわかる。
いや、理解できないということがわかっているという方が正確な表現だろうか。
どちらにしてもタカハシはニイガキの意見など聞き入れないだろうし、
結局のところ、子犬を殺さない限り癇癪が収まることもないだろう。
哀れだった。
そしてニイガキは、これ以上タカハシの醜態を見つめてはいたくなかった。
- 787 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:09
- JJとニイガキは、タカハシに何も言うことなく倉庫から出ていった。
LLだけが、駄々をこねる子供のように暴れているタカハシを見守っていた。
とりあえず、タカハシの気が済むまで付き合ってやるつもりだった。
このままタカハシが壊れてしまっても困る。
現場の処理をきちんと終わらせてしまうまでが、LLの仕事だった。
どうやらその「最後の処理」は襲撃そのものよりもやっかいなようだ。
パチパチと音がして倉庫に火が広がり始めている。
あまりここで時間を取るわけにもいかなかった。
それでもタカハシのヒステリーは収まらない。
いい加減に止めようかと言葉を探しているうちに―――先に言われてしまった。
死にかけている、その女に。
「やめろ・・・・・なんで子犬なんて撃つんだよ・・・・やめろよ・・・」
- 788 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:09
- 「フン。なんやマコ。まだ生きてたんか。忘れてたわ」
「薬も。金も。持っていきたけっちゃ・・・持って行えお・・・・でも・・でも」
もう舌が回らなかった。口の中がカラカラに乾いている。
さっきまでは燃えるように熱かった体が、今は凍えるように寒い。
それでもマコは最後の力を振り絞ってタカハシを止めようとした。
「子犬を殺すなんて・・・・あんまりだろ・・・・・」
「あーあーあー。聞こえないー。なんて言ったん? もう一回言って?」
「だから、犬は、」
「犬ってこれのこと?」
タカハシは銃の先で一匹の子犬の首根っこを押さえつけた。
地面に張り付けられた子犬は、身の自由を失ってじたばたと悶えた。
圧倒的弱者を無慈悲に支配する快感に、タカハシは酔った。
- 789 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:09
- 「や、め、て」
「はあ? 聞こえないけど。ちゃんと言ってよ」
「は、な、せ」
「じゃあ離してあげようか?」
ターンと乾いた銃声が響いた。子犬の頭部が花火のように弾けた。
首から上が吹き飛んだ子犬の死骸から、タカハシは銃口を離した。
「これで三匹。併せて五人」
「や、め、て」マコは立ちあがった。
撃たれた右脚はもはや完全な棒きれと化していた。意識も朦朧としている。
だがマコはそれでも一歩を踏み出した。
倉庫の中に入った瞬間、視界がぐにゃりと曲がった。幻覚だ。これは幻覚。
こらえきれない吐き気に負けそうになり、マコは呻いた。
- 790 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:09
- 屋根が。屋根が。落ちてくるよ屋根が。
いつも見る悪夢だった。
屋根が落ちてくる夢。屋根に押し潰される夢。突き刺さる柱。
目の前で両親がくちゃりと押し潰される夢。砕ける骨と流れる血。
足が震えた。足が動かなかった。
もう一歩内側に足を踏み出せば、自分の精神は壊れる。
いつもそう思っていた。だから踏み出せなかった。
しょうがないよ。トラウマだもん。
性格じゃないよ。精神的な病気なんだもん。無理に入ることないよ。
屋根の下に入ることができないなら、外で暮らせばいいよ。
屋根の中は暖かそうだね。みんな楽しそうだね。盛り上がっているよね。
でも自分はその喧騒の中には、もう入れないんだよ。しょうがないよね。
だってしょうがないよ。今だって足を怪我してるんだ。歩けないよ。
このままずっと外にいたって、誰も責めたりしないよ。
だって、だって、だって、ちゃんとした理由があるんだもん。
あたしには無理だよ。できないよ。
できなくてもしょうがないよ―――
- 791 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:09
- マコの白昼夢を一発の銃声が打ち砕いた。
「これで四匹。併せて六人」
火の粉がゆらゆらと舞い降りてくる。
古びた倉庫には既に小さくない火の手が上がっていた。
だがタカハシは外に出ようとはしない。
立ちあがったマコを阿修羅のような形相で睨みつけている。
「どうした、マコ。悔しいんか。何もできない自分が、情けないんか」
それはまるでタカハシ自身に叩きつけているような言葉だった。
実際、タカハシの体にはどうしようもない怒りと無力感が溢れていた。
こんな子犬を撃ち殺してなんになる。
ありのままをナッチに報告しても、せせら笑われるのが関の山だろう。
あまりの恥ずかしさと情けなさに、体中の血が沸騰していた。
それでも自分の中で猛狂う感情を抑えることができない。
鏡に映し出された自分の像のように、
無力感を湛えたまま立ちすくんでいるマコを見て、
タカハシはどうしようもない苛立ちを感じずにはいられなかった。
「悔しいんやったら、かかってきたらどうなんじゃ!」
- 792 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:09
- マコの頭の中から一切の言葉が消えた。
怒り。悲しみ。憤り。無力感。やけくそ。虚無。発狂。
自分の感情にそんな言葉を当てはめることをやめた。
言葉を探すことをやめた。理由を探すことをやめた。言い訳をするのをやめた。
扉にあずけていた両腕に力を込め、左足をむんずと踏み込み、
思いっきり倉庫の中へと身を躍らせた。
もちろん、銃などない。ナイフのような武器もない。素手だ。
勝ち目があるとかないとか、後先のことは全く考えていなかった。
マコは踊るようにタカハシの体につかみかかった。
だが―――その手がタカハシの体に触れることはなかった。
感情を全面に吹き出しながらも、タカハシは最後の最後では冷静だった。
無我夢中になっているようで、どこか熱くなりきれない自分がいた。
狙いもきっちり定めたし、引き金を引けばどうなるかもわかっていた。
そういう意味ではタカハシは極めて冷静に―――マコを撃った。
死ねよ。
そんな意志すらどこか冷たかった。
冷え切った感情を込めた弾丸が三発までマコの腹部を撃ち抜いたところで―――
タカハシのライフルの弾が切れた。
- 793 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:10
- 弾はマコの腸管をずたずたに引き裂いて、腰の辺りから抜けていった。
タカハシはまるで撃たれたのが自分であるかのように立ちすくんだ。
本当にマコを撃ち殺してしまったことが、なぜか自分には意外に感じられた。
落ちつけ。タカハシは頭を振る。一人の浮浪者を撃ち殺しただけだ。
自分にそう言い聞かせながら、マコに向かってペッと唾を吐いた。
「もういいでショ、タカハシさん。これでタカハシさんも七人殺った。
ナッチさんにもそう報告するヨ。ニイガキさんと同じでいいでショ」
タカハシはキッとLLをにらみ返した。
LLは、これ以上はもう相手してられないよ、といった感じで倉庫を後にした。
最後の一人も殺ったし、これで任務は完了だ。
どうやら体育館の方にはJJが火をつけたらしい。
そちらの方からも火の手が上がっていた。
これ以上、ここに長居をする必要はない。
タカハシだってバカではないのだから、それくらいはわかるだろう。
それでもナッチのところへ報告に行くのを嫌がるようなら―――
タカハシを殺せ。
LLはナッチからそういう指令を受けていた。
- 794 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:10
- 果たして、タカハシは大人しくLLの後に付いてきた。
まだ短い付き合いだが、LLは既にタカハシの複雑な性格をつかみつつあった。
自分勝手で、楽天家で、マイペース。
そんな言葉ではくくれないほど、タカハシの性格はややこしかった。
だが基本的にタカハシはバカではない。突き抜けたバカにはなりきれない。
最後の部分で、何に従うべきなのか、誰に従うべきなのか。
そういったところに非常に敏感で、理に聡いところがあった。
今の場合はナッチだ。タカハシは彼女から逃れることはできない
たとえこの場でLLの手から逃れたとしても、
ナッチの意志一つでタカハシの心臓は簡単に弾け飛ぶ。
結局のところ、タカハシはナッチに従わざるを得ないのだ。
その制限の中で、タカハシは自分のやりたいことをやっていかなければならない。
それがわからないほどタカハシは愚かではなかった。
子犬を撃ち殺してまで数字の帳尻を合わせたのもその一つだろう。
とにかく帳尻さえ合わせれば、ナッチも無理は言わないだろうという計算だ。
その計算は子供じみているように見えて、その実したたかであるとLLには思えた。
ナッチもタカハシに負けず劣らずややこしい性格をしている。
きっとナッチはタカハシもニイガキも殺さないだろう。
おそらくこの均衡した関係はもう少し続く―――LLはそう見ていた。
- 795 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:10
- ☆
- 796 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:10
- 「おーいLL。そっちは終わったのカ? あっちはもう火をつけてきたヨ」
「JJ、御苦労さん。ニイガキさんは?」
「ん。先に帰ってるってサ。なんか素っ気なかったヨー」
「まあ、仕事は終わったんだからいいジャン」
おそらくニイガキはタカハシと顔を合わせたくなかったのだろう。
タカハシも、その場にニイガキがいないと知って、ホッとした様子を見せた。
結果がどう転ぶかはわからないが、とにかくこのゲームは終わりだ。
だがナッチが何の気なしに仕掛けたこのゲームは―――
タカハシ達の組織に微妙な歪みを与えていた。
(まさかタカハシさんとニイガキさんがこういう関係だったとはネ・・・・・)
ただの麻取の同僚としか聞いていなかったが、
このタカハシとニイガキの関係はそんな単純なものではないように思われた。
いがみ合っているかというとそれも違う。
信頼し合っている部分もないわけではなさそうだ。
とにかく、今後この四人で行動する時にはそれなりの注意が必要かもしれない。
タカハシをリーダー、ニイガキをサブリーダーとした、
単純な組織を思い描いていたLLだったが、思いを改める必要がありそうだ。
- 797 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:10
- タカハシは、行きはニイガキの車に乗って来ていた。
だが帰りの車はJJとLLとタカハシの三人で乗ることになった。
ニイガキ抜きで話をするのは―――ずいぶん久しぶりのような気がした。
話は自然とニイガキに関するものになった。
「なあ。ガキさんってナッチさんから好かれてるんかなあ」
「みたいですネ」
タカハシの気の回し過ぎと笑うことはできなかった。
確かにナッチはこの四人の中では特にニイガキに目をかけているように思えた。
今回のゲームのことだって、最初に知らされたのはニイガキなのだ。
「なんとかならんかなあ・・・・・・・」
タカハシのつぶやきは色々な意味に解釈することができた。
ナッチの前では嘘はつけない。
ということは、今ではナッチの前では勿論、ニイガキの前でも嘘はつけない。
ニイガキを取りこんで、四人で麻薬組織を立ち上げる―――
その計画は、もはや有名無実なものとなっていた。
このまま永遠にナッチに振り回され続けなければならないのだろうか?
- 798 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:10
- 「ナッチさんって一人で行動してると思ウ?」
JJはずっと疑問に思っていた。
ナッチという人間は本当に自由気ままだ。
どことなく、JJ自身と似た気質を持っているように感じられた。
JJ自身がそうだからわかる。ナッチは組織のリーダーが務まる人間ではない。
「ん? つまりナッチの裏には誰かがいるってことカ?」
「ウン。絶対そうだと思ウ」
「アホか。あのナッチが人の命令に従うわけないやろ」
「それを探ってもらえばいいと思うノ」
「誰に」
「ニイガキさんしかいないでショ」
タカハシはJJの言った意味をじっくりと考えた。
上手くいくとは思えなかったが、何もしないよりはましなようにも思えた。
問題はそれをどうやってやるかということだ。ナッチに嘘は通用しない。
JJはタカハシの疑問に先回りして答えた。
「嘘をつく必要はないヨ。ストレートに訊けばいい。ナッチさんの組織が知りたいってネ」
「あいつがそれをすんなりと教えると思うか?」
- 799 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:10
- 「ふふふ。わかってないなあ、タカハシさん」
「あ? 喧嘩売ってんのか?」
JJは大げさな身振りを交えて「まあまあ落ち着いて」とタカハシを諭す。
タカハシは不満そうな顔をしながらも、笑いを浮かべる。
いつもの二人の会話のペースだった。
どうやらタカハシもあのゲームの混乱が収まってきたようだ。
「大事なのはネ。ニイガキさんがナッチさんの裏側を知りたがっているってことを
ナッチさんにわからせることなのヨ。ナッチさんはニイガキさんを放置すると思う?」
「思わん。下手したら殺すで」
「殺すと思う? 本当に?」
「うーん」
殺さないかもしれない。
ナッチはニイガキをいたぶることに快感を見出しているように見える。
今回のゲームだって、タカハシを殺すことが目的ではないだろう。
きっとニイガキを精神的にいたぶることが目的なのだ。
そのナッチがニイガキから探りを入れられたら―――どういう反応を示すだろうか?
LLの意見は単純だった。
「殺さないネ。ニイガキさんが知りたいと言うのなら、ナッチさんは教えるかも。
もしかしたら嘘を教えるかもね。そしてニイガキさんを振り回して遊ぶでショ」
- 800 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:11
- 「嘘の情報やったら意味ないやんか」
「意味あるヨ。ナッチさんが何を考えているかの材料がわかるヨ」
「材料ねえ・・・・・・」
「それに嘘とわかっていればこっちも対応できるヨ。一番大事なことはね、
先手を打つことなのヨ。ナッチさんの指令に振り回されたくないでショ?
それよりもこっちからナッチさんの動きをコントロールしたいんですヨ。
ニイガキさんにはそれができると思うヨ。本人がそれを意識しなければネ」
「つまり・・・・ガキさんにはこっちの意図を教えないわけか」
「勿論。知ってしまったらナッチさんに見抜かれちゃうヨ」
徐々にタカハシにもこの無謀な計画が上手くいくような気がしてきた。
いや、いきなりこれで全てが解決すると思うほどタカハシもバカではない。
だがニイガキを餌にしてナッチを刺激するのなら、
少なくともタカハシ自身にとばっちりが来る可能性は低い。
元々、ナッチはタカハシやJJLLにはさして興味がなさそうなのだ。
遊びたいというのなら、ニイガキというおもちゃで思う存分遊ばせてやればいい。
それにしても先の長い話だ。
JJやLLはこういった気の長い話をすることが全く苦痛ではないようだったが、
タカハシはあまり好きではなかった。
「いつまでかかることやらねえ・・・・・・面倒臭い」
- 801 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:11
- ため息をついたタカハシに向かって、LLがいつになく真剣な表情で訊いた。
「で、タカハシさんは最終的にナッチさんをどうしたいのカ?」
タカハシは目をつぶったまま答えない。
聞こえない振りをしているようでもない。
LLがナッチにチクるとでも思っているのだろうか。
本心を答えないつもりなのだろか。
タカハシは返答に困った人間が最も言いそうなことを言った。
「で、そう言うLLはどうしたいのさ」
LLはその答えを予測していたわけではなかったが、
「どうしたいか」ということは常々考えていたことだったので、
比較的すんなりと答えることができた。
「まずはナッチさんのやろうとしていることが知りたいですネ。
今はナッチさんは遊んでるように見えるけど、絶対にそうじゃナイ。
あの人にはきっと大きな目的があるネ。LLはそれが知りたいんデス。
そしてそれに共感できるのなら―――ナッチさんの下についてもいいネ」
JJが付け加えた。
「LLがそう言うなら、JJもそうしようかナ」
- 802 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:11
- 実際に拳を交えてナッチと戦ったJJとLLは、誰よりもナッチの恐ろしさを知っていた。
敵に回して勝てる相手ではない。
逃げるか、従うか。あるいは殺されるか。
今の段階では、そのいずれしかないだろうと考えていた。
そして同時に絶対的な力を持つナッチに魅力を感じ始めていた。
きっとナッチには、その絶対的な力に見合うだけの巨大な目的があるはずだ。
それはきっとタカハシと新しい麻薬組織を立ち上げるなんていうことよりも、
魅力的なプロジェクトに違いない。LLはそう確信していた。
「共感できなかったら?」
タカハシもそういったLLの心の動きに気付いていた。
JJとLLはGAMを裏切った。
ならば二人が自分のことを裏切るということも、当然ながら考えておかねばならない。
こいつら二人が、どういった基準に従って動くのか。
タカハシはそれを見極めたいと思った。
「そのときは待つしかないネ」
「待つ? 共感できるようになるまで?」
「いや。ナッチさんの弱点がわかるようになるまで」
「そんなのわかるかよ。簡単にわかるなら苦労はしないっつーの」
「ナッチさんの目的を探れば、ナッチさんの裏が見える。
裏が見えればナッチさんの正体がわかる。無敵な人間なんていないヨ」
- 803 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:11
- 「じゃあ、あたしもそれに乗った。ついでにJJの案にも乗った」
タカハシは誰かに従う気など毛頭なかった。
JJとLLがナッチに共感しようがどうでもいい
それでもナッチの正体が何であるかは調べなければならない。
まだ当分の間、この中国人二人には利用価値があるということだ。
「じゃ、ニイガキさんにはタカハシさんから言ってネ」
「なんであたしが」
「一番親しいじゃないですカ」
「冗談。あんなのただの同僚だよ。友達でもなんでもないね」
「またまたあ。すーっごい仲良しじゃないですカ」
「お前なあ。喧嘩売ってんのか」
またJJとタカハシが、やいのやいの言い争いを始めた。
なんだかんだ言って、この二人も結構仲が良い。
これでタカハシがもう少し野心が薄い人間であれば、
三人で上手くやっていけるのにとLLは思った。
ナッチとタカハシは相容れない。
いずれどちらかを殺すことになるだろう。
それがタカハシの方であれば随分楽なのだが―――
いつだって世の中はそう単純には進まないことを、
世知に長けたLLはよく知っていた。
- 804 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:11
- ☆
- 805 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:11
- 倉庫に付いた火は既に屋根にまで移っていた。
マコは血まみれで仰向けに倒れたまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
火はゆっくりと、確実に広がっていく。
屋根が落ちてくるのも時間の問題のように思えた。
(ごめんね。アヤさん。ミキちゃん。コンちゃん。守れなかったよ)
一人の兵隊も、一匹の子犬も守れなかったという意識がマコを苦しめた。
自分は一体ここで何をしていたのだろうか。
何も守れず、そして何も伝えることもできず、ボロ布のように殺された。
ただそれだけの人生だったのだろうか。
薄汚れた浮浪者にはそれが似合いの人生だったのかもしれない。
撃たれた腹からはどんどん血が流れていく。
血と一緒にもっと大事な何かが流れていくような気がした。
それがマコの体の中に戻ることは、もう永遠にないのだろう。
もう声も涙も出なかった。指一本動かすことができなかった。
自分は死ぬのだ。その厳然たる事実が、ただひたすら寂しかった。
自分が生きてきた意味が消える。無為なままで消える。
それが自分でも意外なくらいに寂しかった。
(後悔するくらいなら、もっとちゃんと生きてればよかったよ・・・・・)
- 806 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:11
- 不意に頬に冷たい感触が触れた。
冷たくて、暖かい。どこかざらざらとした感触だった。
もう動かないと思っていた顔が動いた。横を向いた。そこには一匹の子犬がいた。
(あ・・・・・まだ・・・・いたんだ・・・・・)
タカハシが撃ち漏らした最後の一匹だった。
黒い毛をした四匹の子犬は全てタカハシに殺されてしまった。
Nothingの白い毛を受け継いだ、最後の一匹がそこにいた。
子犬はマコの顔の横にペタンと腰を落ち着かせた。
その上に、はらはらと火の粉が降り注いでくる。
熱いのだろう。子犬は時々火の粉に触れてビクッと震えた。
それでもマコの横に腰を下ろしたまま、動こうとしなかった。
「バ・・・カ・・・あっち・・・・・行け・・・・よ」
そうやって声に出すだけで重労働だった。
寿命が縮むよ。そう思ってマコは笑った。何が寿命だ。どうせ今すぐ終わるのに。
白い子犬は動かない。マコがいくら命じても、つんと澄ましたままだった。
まるで母親のように―――どこかマコを小馬鹿にしたような感じがあった。
- 807 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/05(木) 23:12
- 「バカ・・・・・・いけ・・・よ」
動かないと思っていた右腕が動いた。
どこにそんな力が残っていたのだろうと自分でも驚いた。
だがこれだけは死んでもやらなければならない。
マコは必死で右腕を動かして、子犬に立ち去るように命じた。
それでも子犬は動かない。
そういえばこの白い犬は、訓練のときもちっとも言うことを聞かない子だった。
極端に人見知りで臆病で、それでいて自分勝手で自由気ままで、
いつもマコを見下しているという、母親の性格をそっくりそのまま受け継いでいた。
「たのむ・・・・よ・・・・・たのむ・・・って・・・・・」
子犬は事態を全く把握していない。今や倉庫は完全に火の手に包まれていた。
ガラガラと音を立てて柱が崩れていく。
入り口はすぐそこにあるのだ。扉は開いたままになっているのだ。
だがマコの願いは届かない。子犬は全く動かない。
いつまでも、いつまでもマコのほっぺたを美味しそうに舐めていた。
天井が―――轟音を立てて崩れ落ちた。
- 808 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/05(木) 23:12
- ★
- 809 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/05(木) 23:12
- ★
- 810 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/05(木) 23:12
- ★
- 811 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:08
- ランドクルーザーの中は騒がしい声が行きかっていた。
いつの間にやら意気投合したミキとコハルがぎゃあぎゃあと騒ぐ。
サユはサユでアヤとのお喋りに夢中になっていた。
サユとアヤの頭の回転は速い。
二人の会話を前にして、コンノはただ相槌を交えるだけで精一杯だった。
施設で戦っていたときの悲壮感は、もうそこにはない。
その日その日を生き延びることしか考えていない人間にとって、
気持ちの切り替えの早さは必然必須の気質だった。
死線をくぐり抜けたあとにやってくるのは、極端な躁状態だった。
とても六人しかいないとは思えないほど車内は賑やかだった。
まるでライブハウスの真っ只中にいるような喧騒だった。
誰もが喋りたいことを喋り、相手の返しを待ちきれずに再び喋り出す。
加速していく会話に誰もが酔いしれていた。
根はお喋り好きなカオリも、その会話の嵐の中に全面参戦していた。
それでもやはり、彼女の耳は特別だった。
交錯する六つの声色の中に混ざり込んだ、微かな一つのノイズを拾い上げた。
「待って。銃声がする」
- 812 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:08
- カオリほどではないが、他の五人の耳もまた特別だった。
戦場において有用な情報を、瞬間的に取捨選択できるだけの耳を持っていた。
ゆえに、カオリが言ったたった一つの単語に五人は鋭く反応する。
遠慮なく言い合っていた先ほどまでの解放感は、もうそこにはない。
その日その日を生き延びることしか考えていない人間にとって、
気持ちの切り替えの早さは必然必須の気質だった。
くだらない会話のあとにやってきたのは、研ぎ澄まされた緊張感だった。
「近く? 遠く?」
サユ達には既にカオリの能力のことは説明している。今更隠すまでもない。
アヤはカオリの耳から最大限の情報を聞き出そうと努めた。
じっと耳を澄ませるカオリの表情は暗い。
何が起こっているのか、ある程度理解しているようだった。
「遠い・・・・・たぶん・・・・あの体育館からだ・・・・・」
ミキが床までアクセルを踏み抜いた。
ランドクルーザーのポテンシャルが限界以上まで引き出される。
エンジンが焦げるような、きな臭い匂いが流れた。
- 813 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:08
- 「カオリ、他に何か聞こえる? 人の声は?」
「まだ遠い・・・・・かろうじて銃声だけ聞こえるけど・・・・止まった」
「止まった? 銃声が止まったの?」
「何も聞こえない・・・・・・」
「何も? アジトから何も聞こえないの? 誰もいないの?」
「アジトから立ち去っていく足音が一つ・・・・それに続いて三つ。四人いる」
「アジトの中は?」
「人がいるような物音は一切しない」
また一つ、タガが外れたようにエンジン音のトーンが上がった。
タコメーターの針はレッドゾーンに張り付いたままプルプルと小刻みに震える。
エンジンだけではなく車体からも軋みのようなものが感じられるようになった。
明らかに車の耐久性の限界を超えている。サユは困惑した視線をアヤに送った。
「大丈夫。運転はミキたんに任せていればいい。だよね?」
「うん。体育館まではもつ。もたせる」
「でも車で四人を追うのは無理か・・・・・」
「大丈夫。まだ臭いが残ってるはず。あそこに戻れば別の車もあるし」
「オッケー。着いたらすぐにあたしとミキたんは『お客さん』を追うよ。
コンちゃんとカオリはアジトの現状確認と負傷者の手当てを頼むわ」
アジトが何者かから襲撃を受けたことをアヤは疑っていなかった。
もしかしてあの漆黒の少女―――マキが再び仕掛けてきたのだろうか?
もしそうだとすれば、彼女のことを追えるのは自分しかいないとアヤは思った。
- 814 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:08
- 襲撃者が誰なのか。
アヤは考えてもわからないことを考えるのは止めた。無駄なことなしない。
「サユちゃん。コハル。二人はカオリの身柄を守ってほしい。
言うまでもないけど、今はカオリの体が一番大事なんだ。頼んだよ」
サユはアヤの言葉に少なからず驚いた。
お互い、初めて会ってからまだ数時間しか経っていない間柄だ。
それなのにアヤは、組織において一番大事なものを託そうとしている。
これがアヤという女の信義の尽くし方なのだろうか。
アヤなりの人の動かし方なのだろうか。どちらにしても胆の太い女だ。
「わかりました。カオリさんのことは任せてください」
「待って。別の音が聞こえる」
「今度はなに?」
「燃えてる・・・・・・・」
「え?」
「倉庫が・・・・体育館が・・・・・全部燃えてる」
「クソが!」
ミキはドアの窓ガラスを拳で叩いた。
考えうる最悪のケースだった。生存者が残っている可能性は限りなく低い。
そして何より―――全てを燃やされては臭いが残らない。
ミキの嗅覚をもってしても襲撃者を追跡することは困難になる。
アヤは窓を下げて身を乗り出した。
張り手のような風圧がアヤの前髪をかきあげていく。
ほんの目と鼻の先に、体育館から上がっているらしい煙が見えた。
- 815 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:08
- ミキは燃え盛る体育館から遠からず近からずといった場所に車を止めた。
そこまでが車の限界だったのだろう。エンジンは異音をたてて止まった。
六人は弾かれたように車の外に飛び出す。
外に出るや否や、むっとした熱気が六人の頬をなでた。
火の手は既に、とても消し止められそうにないほど広がっていた。
ミキは顔をしかめた。
目で問いかけるアヤに向かって左右に首を振る。
周辺一帯には木材が燃える臭いや、化学繊維が溶けた臭いが充満していた。
とてもではないが、ここから人間の臭いをすくい上げるのは不可能だ。
ミキの能力の限界を超えていた。
だがオリジナルキャリアであるカオリの能力は、そんな限界など関係なかった。
バチバチと火が弾ける音、ゴキゴキと柱が折れる音、
建物が崩れていく音、炎に煽られて舞い上がる上昇気流の音、
そんな雑多な音に混じって聞こえる、ほんの小さな心音を聞き逃さなかった。
「あっち! あの倉庫! あそこに生存者がいる!」
一番足が速かったのはミキだった。先頭を切って倉庫まで駆け出す。
倉庫の扉は開いたままになっていた。中に誰かが倒れているように見える。
あれは―――あれは―――あのシルエットは―――
その中に飛び込まんとした瞬間、倉庫は轟音を立てて崩れ落ちた。
- 816 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:10
- ミキは首根っこをつかまれて、強引に後ろに引き倒された。
「危ないって、ミキたん!」
倒れた木材の破片が火の粉をまといながらくるくると宙を泳いだ。
舞い上がる砂埃が、倉庫の姿をすっぽりと覆っていく。
ミキはアヤの手を振りほどこうともがいた。
「中にマコがいた! 見たんだ! まだ生きてる!!」
「危ないって!!」
崩れてもなお、木造の倉庫は勢いが衰えることなく燃え続けている。
あまりの熱気に、近づくことすらままならなかった。
「おおおい! 見捨てんのかよ!」
「うるせえ!」
「はなせよ! コラ!」
「死ぬ気かよ!」
唇が触れそうな距離で二人は罵り合う。
見捨てることができないことも、助けに行けば確実に死ぬことも、
二人はよく理解していた。それでも止まらない。二人の間で何かが壊れそうになる。
その二人の頭上を通って、一匹の赤い鳥が倉庫に向かった。
「あの中ですね?」
通り過ぎる時に聞こえたのはコハルの声だった。
真っ赤な鳥は、倉庫を包む炎の中を、涼しげに羽ばたいていった。
- 817 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:10
- コハルの守護獣である朱雀は、大量の酸素の下で発動する。
そしてまた、大量の炎によっても発動させることが可能だった。
燃え盛る地獄の釜のような業火も、コハルにとっては一つの食糧源でしかない。
崩れた倉庫の中に飛び込んだ朱雀は、赤い羽を大きくはばたかせた。
倉庫を包む炎がその羽の中に吸い込まれていく。
鉄をも溶かす炎熱は、残らず全て朱雀の体の中に取り込まれていった。
コハルが羽を一つはためかせると、ぶすぶすと燻っている煙も吹き飛ばされた。
積み重なっていた鉄柱や材木ですら、軽やかに吹き飛ばされていく。
あっという間の出来事だった。
茫然と立ち尽くすアヤとミキの前で、倉庫の火は瞬く間に消し止められた。
全ての力を使い尽くすと、朱雀はゆっくりと少女の姿に戻っていった。
コハルは左右を素早く見渡し、倉庫の跡地に残ったものをどけていく。
ある一点で何かを見つけたコハルは、その場にしゃがみこんだ。
「この人ですか?」
呆然と立ち尽くしていたアヤとミキが、先を争うように駆け出した。
- 818 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:10
- マコはうつぶせになったまま死んでいた。
崩れ落ちた木材の直撃を受けたらしく、首があらぬ方向に折れ曲がっていた。
ミキはそれを丁寧に元の位置に戻してやった。
完全に骨が折れているのだろう。
ぐらぐらと力なく揺れ動く首は、なかなか元の位置に収まらなかった。
「あたしがやります」
キッと睨みつけるミキを制して、コンノがマコの体を抱き起した。
ミキの目にもコンノの目にも涙はない。
いつか自分にも仲間にもこういう時が訪れる。必ずその日がやって来る。
そういった覚悟を決めたものだけが最前線で戦う資格があるのだ。
同じ組織の一員として、仲間としての資格があるのだ。
コンノもマコも、そう信じて今までやってきた。だから仲間なのだ。
だから―――マコのために涙を流すなんてことはしない。
だが二人とも、激しく揺れ動く手の震えを、なかなか止めることはできなかった。
抱きかかえるマコの体も、それに合わせて小刻みに揺れた。
「それ・・・・・・ちょっといいかな」
アヤがマコの腹のあたりに手を伸ばす。
銃撃を受けたらしく、べったりと黒く血の跡が残っていた。
だがそこが不自然に膨らんでいる。
アヤはナイフで服を破り、左右に広げた。
中から、真っ白な小さな塊がこぼれおちてきた。
- 819 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:11
- 「あ・・・・・・・・」
真っ白な小さな子犬だった。
その毛はNothingのそれと同じくらい鮮やかな白だった。
燃え盛る小屋の中にいながらにして、煤一つついていなかった。
アヤが二、三度もむと、子犬はパチリと目を開けた。
子犬は小さな鼻音をたててアヤに甘えた。
アヤはもう一度マコの顔を見る。割れた額からは骨が覗いていた。
顔中真っ黒な煤だらけだし、黒く固まった血もへばりついている。
だがその顔はどことなく満足気な表情に見えなくもなかった。
「バッカやろうが・・・・・・・・・」
アヤはそう呻いて天を仰いだ。崩れ落ちた倉庫にはもう天井はない。
そこにはただ、澄んだ青空が広がっているだけだった。
「おまえ天井のあるところはダメなんじゃなかったのかよ・・・・・」
アヤはそれでも涙は流さなかった。ミキも涙を流さなかった。
だがコンノは我慢することができなかった。
滝のように溢れてくる涙を抑えることができなかった。
それでもいい。もう涙を我慢する必要はない。
マコにはもう戦う資格はない。もうその必要はない。静かに休めばいい。
もうマコは戦士ではない。組織の人間ではない。
ただの―――ただのあたしの友達。
コンノはそう思ってただひたすらに泣いた。
- 820 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:11
- ☆
- 821 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:11
- アヤはコンノが泣きやむまでずっとそばに立っていた。
その間にミキやコハルは体育館の方に向かっていたらしい。
どのくらい泣き続けていたのだろうか。
ようやくコンノが泣きやんで顔を上げると、そこには全員が揃っていた。
「どうだった、ミキたん」
「一応この辺りを調べてみた。マコを入れて十三人も殺られてたよ」
「てことは残りの二人はうまいこと逃げてくれたってことかな?」
「・・・・・いや」
ミキは渋い表情を作った。
普通に考えればアヤの言う通りだ。GAMは常に全滅を避ける戦略を取る。
だが今回は違っていた。アジトからの逃走ルートが二つとも潰されている。
そこにはいくつか死体が倒れていた。上手く逃げおおせたとは思えない。
そして何よりその逃げ出したらしい二人が―――
「JJとLLなんだよ。死体が見つかっていないその二人ってのが」
「バカな」
最強の戦闘能力を持つJJとLLの役割は、先頭に立って戦うことだ。
その二人だけが逃げるなどあり得ない。
他のメンバーが逃げるまで、時間を稼ぐのが二人の役目なのだ。
その二人がいない―――ということは―――
- 822 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:11
- 「やられたか」
「多分ね」
最悪のタイミングで最悪のメンバーに裏切られた。
だがそれは裏を返せば、GAMと敵対する勢力からすれば、
最高のタイミングで最高のメンバーを裏切らせたことになる。
どうやら相手もそれなりに頭が切れるようだ。
その相手がマキなのかテラダなのかはわからない。
だがGAMは駐車場でのマキの襲撃で片羽をもぎとられ、
そして今、再度の襲撃を受けてもう片方の羽ももぎ取られてしまった。
状況はまた一歩、最悪の方へと進んだようだ。
精神的にタフなことではちょっとした自信のあるミキだったが、
今回のダメージはさすがに大きかった。
これからどうすればいいのだろうか。今は何をすべきなのだろうか。
ミキはこれまでと同じように、目の前の問題から片付けることにした。
「コンちゃん、もういいかな」
「え?」
「マコのこと。きちんと埋葬してやろうよ」
「はい・・・・・・」
ミキはマコを抱え上げようと、その場に屈んだ。
ミキの鼻がマコの体に近づく。そこで何か妙な臭いがした。
- 823 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:11
- 「ん? なんだこれ?」
「どうしたミキたん」
「なんか・・・・・臭う・・・・・マコの服から」
服からは強烈なマコの血の臭いがした。
ともすればその血の臭いにかき消されそうになるが、
その中に微かにマコの臭いとは違う、生臭い臭いがした。
ミキは必死にその臭いを嗅ぎ分けようと鼻を近づける。
鋭敏なミキの嗅覚はついにその一点を嗅ぎ分けた。
唾の臭いだ。ついさっき付いたばかりの臭いだ。
ほんの少し前に、誰かがマコの服に唾を飛ばしたのだ。
そしてその臭いは―――GAMのメンバーの臭いではなかった。
「あ」
ミキは雷に打たれたようにコンノに飛び掛かった。
両手で胸倉をつかみ、乱暴に左右に引いた。胸のボタンが飛び散る。
ミキはコンノの懐に右手を突っ込み、激しくまさぐった。
- 824 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:11
- 「コンちゃん、なにこれ」
ミキはコンノの懐から一枚の紙片を取り出した。興奮を抑えることができない。
「同じ臭いだ。この紙と同じ臭いがマコから臭う。ついさっき付いた臭いだ。
きっとマコが殺される直前に―――誰かがマコに唾を吐いた。
その唾と同じ臭いがこの紙から臭う。間違いない。こいつだ。この臭いだ」
ミキは鼻から紙片を離してくるりと裏返した。名刺だった。
コンノの答えを待つことなく、ミキはそこに印刷されていた名前を読み上げた。
「タカハシアイ」
今度はコンノとアヤが雷に打たれたように体を震わせた。
コンノは生前にマコから相談されていたことを思い出していた。
そう言えばマコは、JJとタカハシが親密すぎることを気にしていた。
マキの襲撃を受けて組織が散り散りになっていたときも、
JJとLLはタカハシと行動を共にしていたらしい。
もしかしたらその時に―――三人は新たな関係を築いていたのだろうか。
アヤはアヤでタカハシの生意気そうな顔を思い出していた。
しきりにマキとGAMをぶつけようとしていたタカハシ。
その裏をかくつもりで施設の方に向かったのだが、それが裏目に出たのか。
タカハシがマキとどういう関係にあるのかということばかり気にしていたが、
真に注意すべきは―――JJやLLとの関係だったのだ。
- 825 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:12
- 「・・・・・やられたね。完全にしてやられたよ。
タカハシがJJとLLと組んでうちを潰そうとしてるとはね。
マキを動かすことも、タカハシの手段の一つでしかなかったってことだね」
それまでずっと黙って話を聞いていたサユが口を挟んだ。
「すみません。そのタカハシさんっていうのは誰なんですか?
マキさんはゴトウマキのことですよね? どういう関係なんですか?」
アヤは順を追って一つ一つサユに説明した。
タカハシアイというのが麻薬取締官であり、マキの部下にあたること。
GAMがずっと以前からタカハシを通じて麻薬を仕入れていたこと。
そのときの担当がマコであり、JJもタカハシと顔見知りだったこと。
そのタカハシがしきりにGAMにマキを殺させようと持ちかけていたこと。
そして今回の襲撃は、JJとLLがGAMを裏切り、
タカハシと組んで行ったものであるということ―――
- 826 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:12
- サユはタカハシという人物についていくつか質問した。
「そのタカハシアイっていう麻取はキャリアなんですか?」
「いや。キャリアじゃない。普通の人間。あたし、直接やり合ったことあるよ。
そんなに大して強くなかった。あの時素直にぶち殺してやりゃあよかったね」
「タカハシは、マキのバックにいるヤマザキとも関わりがある人間なんですか?」
「おそらく何の関係もないと思う。マキはいつも一人で動いているからね」
「ではテラダやエリとも関係がない?」
「テラダの組織のことについては一通り知っているみたいだったよ。
テラダがウイルスを追っているってことも、タカハシは知っていたっぽい。
でもそれ以上は関係ないと思う。うちがウイルス抗体を作るって言ったら
『うちでさばかせて』って言ってた。テラダの一味ならそうは言わないだろ」
「そのタカハシアイさんがGAMを裏切るという予兆はあったんですか?」
「あるといえばある。腐るほどある。いつ裏切られてもおかしくなかった。
元々、こっちは麻薬密売組織で、あっちは麻薬取締官だからね」
「タカハシさんの目的は? 金? ウイルス? アヤさんの命?」
「金だろ。あとはでかい組織のトップになりたいとかそういう俗っぽいことだと思う。
あんたたちやテラダのように、ウイルスに命をかけているとは思えない」
- 827 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:12
- サユの頭はまだ混乱しているようだった。
上手く整理している最中なのだろう。
「とにかく、そのタカハシさんとマキさんは無関係と考えていいんですね?」
「いいと思う。同じ麻取っていうだけで、共通点はほとんどない人間だよ」
アヤはアヤで、サユに説明することで自分の考えを整理していた。
自分が何をすべきなのか。一番にすべきことは何なのか。
アヤはこれまでも多くの人間を殺してきた。多くの組織を潰してきた。
恨みなら山ほど買っている。多すぎてわからないほどだ。
だが逆にこちらが恨みを持つということには慣れていなかった。
実際、今ほど色々な相手に借りを作っている状況というのは初めてのことだった。
ミキをぶちのめし、駐車場でGAMの半分以上をふっ飛ばしたマキ。
マコを殺し、この体育館でGAMの残りメンバーをことごとく殺したタカハシ。
そしてミキとコンノの骨を砕き、Nothingを殺したカメイ。
やられたままでいるわけにはいかない。
こいつら全てに借りを返さなければ、新たに組織を立ち上げることなどできはしない。
それはアヤのプライドの問題だった。
誰に一番先に借りを返すか。
アヤはミキが抱えているマコの頬をそっと撫でた。
「とりあえずマコを埋めてやろう。他のメンバーも、できるかぎりみんな」
- 828 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:12
- ☆
- 829 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:12
- マコの墓穴は親友であるコンノが掘った。
だがさすがに十三人のメンバー全員の墓穴を掘るのは無理だった。
アヤはメンバーの死体を一か所に集めて、火をつけた。
マコの墓を整え、燃やし終わったメンバーの骨を埋めた頃には、もう夜が明けていた。
埋葬が一通り終わると、アヤはサユに向かって両手を広げてみせた。
「と、いうわけで、これで全部さ。あたしとミキたんとコンちゃんとカオリ。
これであたしたちの組織GAMのメンバーは全員。この四人で全部ってわけ」
サユはアヤに向けて首を振ってみせた。
「いいえ。人数は重要ではありません。うちの組織だって、戦いに使える人間は
あたしとコハルとミツイ。この三人くらいのものですからね。ただし組織には
雑用や連絡を担当してくれる人間も必要です。そういう人間なら何人もいます。
うちの組織をそのまま使うことにしましょうよ。あなた達四人が、うちの組織に
合流するという形をとるのが一番手っ取り早いと思いますけど、どうですか?」
サユはさらに説明を加えた。
ECO moniはとある神社にアジトを構えていること。
そこならば少なくとも普通の人間であれば弾き返せる程度の結界が張られていること。
アジトには連絡要員が務まりそうな人間が十人ほど控えていること。
その提案は、アヤを納得させるには十分な内容だった。
- 830 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:12
- 「あたしに異論はないよ。どうせどっかに身を置かないといけないわけだしね。
ところでそこにはウイルスの研究をできる設備とかはないのかな?
例の施設で手に入れた被験者の組織の解析とかができると嬉しいんだけど」
「もちろん可能です。そのあたりのことはうちではミッツィーが一番詳しいですね」
「じゃあそのミッツィーってのと、うちのコンちゃんと組ませてくれるかな」
そこでカオリがおずおずと手を上げた。
「あたしもやりたい。ウイルスが何であるのか知りたい。知る権利があると思う」
「わかった。じゃあそのミッツィーとコンちゃんとカオリで解析する。これでどう?」
「問題ないです。ではミツイにはこちらから連絡しておきましょう」
ウイルスの解析の話が出た途端、コンノの顔にも生気が戻った。
マコを殺られた借りは必ず返さなければならない。
だが一研究者である自分に、あのタカハシアイを殺せるとは思えなかった。
それにJJとLL。彼女達二人の能力は半端なものではない。
タカハシとJJとLL。三人まとめて殺せる人間など、この世界にもそうはいないだろう。
その仕事はアヤとミキに任せておけばいい。彼女達ならきっと上手くやる。必ずやる。
自分は自分の仕事をするべきだ。
ウイルス抗体を作成すること―――今はそれに専心することにしよう。
それでいいよね。
コンノは心の中で、たった一人の親友にそう伝えかけた。
- 831 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:12
- 「じゃ、そういうことで、コンちゃんにも異論はないよね?」
「はい」
「あの例の亀の化け物のことはサユちゃんに任せていいのかな?」
「はい。それでは私とコハルでエリのことを追うことにしましょう。
そちらにはマキさんとヤマザキのことを任せていいですか?」
アヤは少し間を置いた。
サユの言いたいことはわかる。
サディ・ストナッチとかを呼べるというマキのことは確かに気になる。
カメイとテラダが抑えているアベナツミの次にやっかいな存在だろう。
だがGAMには、マキの始末よりも先にやるべきことがある。
「悪いけど、先にタカハシ達の件を片付けていいかな。
裏切り者を生かしておくほど、あたしは優しい性格してないもんでね」
サユはその返答を予想していたようだ。意外そうな表情は全く見せない。
「いいでしょう。私はエリを追う。マツウラさんはタカハシを追う。
お互い、裏切り者を片付けるってことですね。それでいきましょう」
話はまとまったようだ。アヤは早速ECO moniのアジトに移動することにした。
- 832 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/09(月) 23:13
- 「オッケー! じゃあ、それで決まりだ。みんな異論はないよね?」
「あるよ」
ミキの低い唸り声に、アヤは鼻白んだ。ミキの名前は出さなかったが、
当然、ミキにはアヤと一緒にタカハシの始末を手伝ってもらうつもりだった。
わざわざ言わなくても、それがわからないミキではないだろう。
だがアヤの思いとは全く関係なく、ミキは真っ白な子犬を抱え上げた。
「GAMの残りが四人だって? 何言ってんだよアヤちゃん。五人の間違いだろ?」
Nothingにできることが、この子犬にできないはずがない。
ミキの目がそう言っていた。
アヤはその白い子犬の目を真っ直ぐに見つめる。
Nothingと違って、どこか頼りない目をしていた。精神的に弱そうな子犬だ。
こいつを戦力になるまで育てるのは容易いことではないだろう。
だがその瞳の中に、アヤは一筋の光を見た。
ミキもそれに気付いていたのだろう。自信満々な表情でアヤに宣言した。
「こいつも連れていく。こいつは立派な―――GAMの第五のメンバーだ」
- 833 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/09(月) 23:13
- ★
- 834 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/09(月) 23:13
- ★
- 835 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/09(月) 23:13
- ★
- 836 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:01
- 「引き分けぇ?」
予想していた通り、ナッチの機嫌はすこぶる悪かった。
LLからの報告を受けて露骨に顔をしかめる。
誰も傷つかずに済むという展開を、この女が喜ぶはずがなかった。
JJとLLは素知らぬ顔で視線を外す。
この女がいじりたがっているのはタカハシとニイガキだ。
余計な言葉を挟んでとばっちりを食うようなことは避けたい。
ナッチは床に落とした料理を拾い上げるように、タカハシの前髪をつまんだ。
ペッと吐きつけた唾が、タカハシの眉間に当たり、両目の縁を濡らした。
タカハシの目がみるみるうちに赤く充血していく。
たまらず瞬きすると、タカハシの瞼はピッタリとひっついたままになった。
どれだけ開けようとしても全く目が開かない。
「ちょっとあんたたち。まさか何か仕組んだんじゃないでしょうね?」
ナッチはいきなりタカハシのみぞおちを膝で蹴り上げる。
タカハシが腹を抱えてうずくまろうとする。だがそれも許さない。
髪をつかんで強引に引き上げた。
足払いをかけてタカハシの姿勢を崩すと、股間を思いっきり蹴り上げた。
「あ、動いちゃダメだよ。動いたら殺すから」
- 837 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:01
- 棒きれのように立ち尽くしたタカハシの股間を、ナッチは何度も何度も蹴り上げた。
足の甲ではなく、つま先で刺すように蹴り上げる。
尖ったナッチの靴先が、何度も何度もタカハシの股間にめり込んだ。
「あー、むかつくなー」
ナッチは何の感情も込めることなく、今度はタカハシの右目に拳をめり込ませた。
見るからに面倒臭いといった仕草で繰り出されたパンチだったが、
細い木材だったらボキリと折れていそうなほど強烈な一撃だった。
タカハシの体が左に大きく揺れる。
「だから動くなって。次動いたら本当に殺す」
ナッチはいつもよりも少し低い声でつぶやくと、
タカハシの胸倉に手を突っ込んで、乳首をねじり上げる。
タカハシが乳首に力を込めた瞬間、今度は耳をつかんで無造作に引きちぎった。
だが―――タカハシの耳からは一滴の血も出てこなかった。
驚くべきことに、耳を毟られたタカハシは、痛みすら感じていなかった。
「ほんっと、むかつくわー」
今度は懐からナイフを取り出し、さくっとタカハシの頬に突き立てた。
ナイフは頬肉を貫通し、奥歯に当たってカツンと高い音をたてた。
ナッチはそのままナイフをびーっと真横に引く。
ファスナーのように綺麗に肉が裂けた。
それでもタカハシの頬からは一滴の血も流れない。
裂けた赤い頬肉がびらびらと揺れるだけだった。
- 838 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:01
- 「で、LL。どういうことよ?」
「えー、ですから、ニイガキさんが七人、タカハシさんも七人殺しまシタ。
ですから二人とも同じ数ですネ。引き分けというのはそういう意味デス」
「嘘じゃないよね?」
「嘘じゃないデス」
ナッチはLLの血の流れを測る。
嘘だとすれば、血の流れがすぐにそうだと教えてくれるが、
LLの血の流れは正確なリズムを刻み、全く乱れを見せていなかった。
心拍数も全く乱れていない。LLの肉体と精神は平常となんら変わらなかった。
それにしてもこの光景を前にして全く乱れないとは、この女もなかなか根性が座っている。
「八百長じゃないよね? 帳尻合わせじゃないよね?」
「帳尻は合わせましたケド、八百長ではないデース」
LLは澄ました顔でしれっと言った。表情はもちろん、汗も心拍数も乱れない。
ナッチはくっくっくとくぐもるような笑い声を洩らした。
やがて笑い声は大きくなっていき、最後には大爆笑となった。
すっかり上機嫌になったナッチは、持っていた耳をタカハシにぎゅううと押しつけた。
千切れたはずの耳は、接着剤でつけたかのようにピタリとくっついた。
いつの間にか、ナイフで切られたはずの頬も、綺麗に元に戻っていた。
最後にナッチがぴしゃりと平手でタカハシの顔面を叩くと、
タカハシの目がパチリと開いた。
- 839 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:01
- 「まあ、いいよ。あんた達の命はもう少しあたしが預かっておくから」
ナッチは椅子に深く腰かける。四人の緊張感が一気にほぐれた。
それでもまだタカハシは足を肩幅に開いたまま微動だにしなかった。
硬直した表情からは、はっきりとした怯えの色が見える。
それを確認して、ナッチはニヤニヤと下品に笑った。
「わかってるね。あんた達の命はあたしが握ってる。
あんた達には勝手に生きる権利はない。勝手に血を流す権利もない。
勝手に死ぬ権利すらない。それを決めるのは、このあたしなんだから」
言うまでもなく、四人の体にはナッチの特殊な血が流れていた。
耳を千切られようと、ナイフで切られようと、
ナッチが命じさえすれば一滴の血も流すことはできない。
だがLLもJJも動じない。それは既にわかっていたことだ。
一度わかってしまえば、必要以上に恐怖を感じることはない。
割り切ってしまえばどうということはないのだ。
彼女達二人は恐るべき速さでこの異常な状態に順応していた。
JJは暢気な声でナッチに尋ねる。
「で、ナッチさん。次の命令はなんですカ?」
- 840 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:01
- 「次の命令ねえ。特にないんだよねえ。本当だったらJJかLLに
今回の敗者の首でも千切ってもらおうかと思ってたんだけどさあ」
「おー、それはラッキーでしタ」
「嫌だっての?」
「力仕事は面倒デス。ナイフとかでスマートにやるのがいいですネ」
「はっ。味気ない答だねえ」
JJがナッチと他愛もないことを話している間に、
LLはつんつんと肘でニイガキの腹を突いた。
ここに来る前に、既にタカハシから話が伝わっているはずだ。
ナッチに質問するのは、四人が揃っている今の方がタイミングがいいだろう。
ニイガキはやや言い淀むような素振りを見せながらも、
結局はそのままズバリとナッチに尋ねた。
「あのー、ナッチさん」
「今度は何よ」
「ナッチさんはどこかの組織に属しているんですか?
ナッチさんがやろうとしていることについて教えてほしいです」
JJの判断はやはり正しかった。
裏も表も考えることなく、真正面からこんな質問ができるのは
ニイガキしかいないだろう。計算高いJJやLLでは絶対に無理だ。
- 841 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:01
- 案の定、ナッチはさほど機嫌を損なわなかった。
「知りたい? 知りたい? ガキさんそれ知りたい?」
「はあ。このまま何も知らないというのも不安でして」
LLは少しヒヤリとした。
ここから先は少し込み合った話になるかもしれない。
もしタカハシやJJに話を振られると困る。
彼女達は嘘を交えずに、ナッチから情報を引き出すことはできないだろう。
だがそれは杞憂だった。ナッチは三人を無視してニイガキ一人に対して話を続ける。
「いいよ。じゃあ今度、カメちゃんに会わせてあげる」
「カメちゃん?」
「うん。あたしの仲間。きっとガキさんも気に入ると思うよ」
「はあ。それでナッチさんはカメちゃんさんと何をするんですか?」
ワオ。LLの心臓が飛び上がりそうになった。
無遠慮にもほどがある。大丈夫か? 殺されたりしないのか?
だがそれでもナッチは怒らなかった。
何を言えば怒るのか。何を言ったら怒らないのか。予測が難しい女だった。
「カメちゃんに会えばわかるよ。近いうちに呼ぶから。楽しみにしてなさい」
- 842 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:01
- ☆
- 843 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:02
- GAMの生き残りの五人―――
より正確に言うなら四人と一匹―――はECO moniの本部に移動した。
いかにも何かが潜んでいそうな、禍々しい空気が漂う神社だった。
つまりはいかにも怪しげな人間が潜伏していそうな場所であり、
地下組織のアジトとするには、露骨すぎて逆に難しいような場所でもあった。
「いかにもだなあ」というミキのつぶやきは、そういう意味を込めたものだった。
だがミチシゲはそれを全てわかった上で「大丈夫ですよ」と答えた。
「この神社の四方には、黒白赤青の四つの結界が張り巡らされています。
普通の人間は近づけないんです。警察や麻薬取締官であったとしてもね」
「結界ねえ。全然そんな感じしないんですけど」
「それは私とコハルが一緒にいるからですよ」
「えー。じゃあ、あたしらは一人じゃここを出入りできないのかよ」
「そうですが・・・・それも面倒ですね。あとでお祓いをしておきましょう」
お祓いというのが何であるのか説明しながらミチシゲは五人を神社に引き入れた。
なんでもECO moniの組織の一員になったときに行う、簡単な儀式らしい。
そんなことを話しながら建物に向かって鬱蒼とした森を抜ける。
歩いても一分もかからないうちに抜けてしまう小さな森だったが、
驚くほど暗く、深い色を湛えていた。
「何かが化けて出そうな森ですね」
コンノが珍しく非科学的なことを言ったが、
それはおそらく、この森を見た全ての人間が思うことだろう。
- 844 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:02
- 神社は思った以上に大きかった。そしてかなり古い。
建物のあちらこちらに蔦のようなものが巻きついていた。
広い境内の真ん中に、小さな少女が一人、ちょこんと座っていた。
「おかえりなさい、ミチシゲさん。その人らがGAMの人ですか?」
「ただいまミッツィー。そうよ。ちょっとお祓いするから準備して」
「え!? お祓いですか?」
「そうよ。だからコハルと二人で準備して」
「はあ。わかりました。ちょっと待ってください」
ミツイはミチシゲの言葉に少なからず驚いた。
どうやらミチシゲはこのGAMという組織をただ利用するだけではなく、
一つの駒としてECO moniの中に取り込もうとしている。
こと組織のことに関しては、ミチシゲはいつも極端に保守的な判断を好む。
部外者にお祓いを施すなど異例の事態だった。
コハルと二人で準備を進めながら、ミツイはちらちらとGAMの面々を覗き見た。
キャリアっぽいのが二人。そのうちの一人がイイダカオリなのだろうか。
あとはまるっきり普通の女の子みたいなのが一人。
そしてもう一人は―――真っ白な服を着た、何やら得体のしれない女だった。
そしてもう一匹。見慣れない子犬がコハルの足元にじゃれついてきた。
コハルも準備をさぼって子犬と遊んでいる。これもGAMが連れてきたのか?
「なんじゃこりゃ。ミチシゲさーん。なんですかこいつ?」
- 845 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:02
- ☆
- 846 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:02
- お祓いの儀式は数分で簡単に終わった。
GAMの人間の目には、砂利で作った子供だましの梵字の上で、
ただミチシゲが木の枝を振っているだけにしか見えなかったが、
これで結界が張られたECO moniの施設にも、自由に出入りすることができるらしい。
そしてミチシゲは改めて、神社にいたECO moniのメンバーにGAMのメンバーを紹介した。
さらにその場にいた全員に向かって、現在の状況について説明する。
カメイエリの下に六つのウイルス被験者の検体が集まっていること。
そして残りの一つが、そこにいるイイダカオリであることを説明すると、
ECO moniのメンバー達の中から大きなどよめきが起こった。
「お祓いまで施して、あえて部外者をここに引き入れたのはそういう理由なの。
事態はもう、のっぴきならない状況まで進んでしまっているの。
エリに最後のウイルスを渡してしまえば全てが終わる。その前に手を打つのよ」
「でも手を打つといってもどうやって?」
「GAMの人たちが例の施設から被験者の組織をいくつか採取してきたの」
アヤの手元には2番、3番、5番、7番のウイルス断片がある。
さらにミツイの衣服には6番のマリの血が付着していた。合わせて五つ。
「本当なら七つ全部欲しいところだけど、五つでもある程度の解析はできるはずよ。
分割ウイルスの研究をここで進めましょう。抗ウイルス抗体の作成を目指すの。
ウイルスの機能を不活性化できる抗体が完成すれば、エリの野望は阻止できる。
最悪、七つのウイルスをエリに揃えられても、対抗することができるかもしれない」
- 847 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:02
- 誰もが理解していた。
ミチシゲの考えは、今のところは願望でしかない。希望でしかない。
五つの断片だけで完全な抗体を作成するなんて、常識で考えれば不可能だ。
だが一つのとっかかりとなることも確かだ。
かすかな希望でしかないが、何の希望もないよりはましな状況とも言える。
四の五の言わず、今は解析を進めるしかないだろう。
「ウイルスの解析と抗体作成の検討はミッツィーに任せるわ。お願いね」
「まあ・・・・・何人かつけてもらえれば。解析はなんとか」
「じゃあ何人かサポートをつけましょう。それと・・・・・」
そこでミチシゲはGAMの面々の方に顔を向けた。
初めて来た場所で、初めて会う人間数人に囲まれている。
GAMのメンバーはやや緊張した面持ちでミチシゲの話を聞いていた。
ミチシゲの視線を受けてアヤが答える。
「わかってる。さっき言ったように、うちからはコンノとカオリを出すよ」
「了解しました。で、アヤさんとミキさんはこれからすぐに?」
「うん。遊んでる暇はない。あたしとミキたんはすぐに麻取の動きを探ってくる」
「わかりました。私も外に出てエリ達の動きを探るとしましょう。
ここの守りはコハルに任せます。いざとなればミッツィーも動けますし」
あの守護獣とやらを扱える人間が二人もいれば十分だろう。
マキが来てもエリが来ても、カオリを守り抜くことができるはずだ。
ミチシゲの敷いた布陣は、現時点では考えうる限りベストであるように思われた。
だがアヤは、苦笑いをしながら一つリクエストを加えた。
「もう一つ。こっちからお願いしていいかな」
- 848 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:02
- アヤが人だかりの外側に向けて指を差すと、ミチシゲも苦笑いを浮かべた。
その先には、ものすごい回転率でコハルの顔をべろべろと舐めている子犬の姿があった。
人だかりの中にも、くすくすと笑い声が漏れる。
固く引き締まっていた場の空気が、やや和んだ。
「オッケーです! コハルに任せてください!」
「あっそう。物分かりが良くてアヤ姉さんは嬉しいよ」
アヤは既に、このコハルという少女の性格はおよそのところ把握していた。
別にアヤでなくとも、誰でもすぐに把握できただろう。
明るく、元気で、単純で、能天気。気ままで自分勝手な部分はあるが、表裏がない。
コハルは見たまんまの、非常にわかりやすい性格をしていた。
彼女にならこの子犬のことを任せても構わないだろう。
「この子の世話ですよね?」
「そう。しっかり仕込んでほしいの」
「仕込む?」
「戦えるように。その子の母親がそうだったように」
「戦う? 誰と?」
「カメイエリ」
笑い声が消える。一度は和んだ空気が、またきゅっと強く引きしまった。
コハルはあんぐりと口を開けたまま唖然としていた。
まるで演技の下手な女優のような感情表現だった。
だが勿論それは演技ではない。コハルは本気で驚き、呆れていた。
- 849 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:02
- 「無理ですよお! マツウラさんだってカメイさんのことは見たでしょ?
こんな小っちゃな子があの化け物相手に戦えるわけないじゃーん!」
「無理じゃないよ」
アヤはニコニコと笑っていた。
だからコハルは、それをアヤ一流のきつい冗談だと受け止めた。
「だからー、ちゃんと世話しますから。でも戦うのとかは無理ですからね?」
「無理じゃないよ」
アヤはまだニコニコと笑っている。
怒り出しそうな気配はない。説明する気も、議論する気もないようだ。
「ぜったいむーりーですって! あたしだって一人でカメイさんと戦うのきついんですよ?
色々と状況を整えて、初めてなんとか戦えるかなーってくらい強いんですよ、あの人は」
「知ってる知ってる。カメイってアホみたいに強いよね。でも無理じゃないと思うんだな」
「マツウラさんしつこいー! 無理って言ってるじゃん! いい加減にしてくださいよ!」
先に怒り出したのはコハルの方だった。
それでもアヤは怒らない。諭さない。ただ楽しそうにニコニコと笑っている。
「無理じゃないよ。だからお願いね、コハルちゃん」
「無理無理無理! だいたい、戦えるようにって、何をどう教えるんですか!」
「そこはほら。コハルちゃんのセンスに任せるよ」
「丸投げ!?」
「へー、コハルちゃんも『丸投げ』なんて言葉知ってるんだ。意外と賢いね」
コハルは再びあんぐりと口を開けて黙り込んだ。
- 850 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:02
- 「というのがこっちのお願いなんだけど。まあ、コハルちゃんも最初に
『オッケーです!』って言ってくれたし、それでいいよね、サユちゃん?」
「あたしそんなこと言ってなーい!」
「最初に言ったじゃん。『コハルに任せてください!』って」
「そんなあ!」
「ま、サユちゃんがダメだって言ったらこっちも諦めるけどね」
この人には敵わないな。
ミチシゲは、驚くほどアヤの言葉に対して素直になっている自分に気がついた。
アヤの考えていることはよくわからない。
この普通の子犬がエリに立ち向かえるとも思えない。
だがアヤがそう言うと、何か特別な意味があるように思えてくるのだ。
そして実際、何か意味するところがあるのだろう。
その意味するところを確認してみたい。アヤの慧眼に唸らされてみたい。
アヤの口振りにはそう思わせるだけの、抗しがたい魅力があった。
「ダメだなんて言いませんよ。その子の軍事教練はコハルに任せましょう」
「そんなあ。ミチシゲさんまで真顔で・・・・・・冗談でしょ?」
「いいえ。これはECO moniの長としての正式命令です」
「ええー!」
「逆らえば殺します」
ミチシゲはシリアスな表情を作り、厳かな口調でそう告げた。
わざとらしい言い方だった。人の輪の中に再び笑いが弾ける。
その中でコハルだけが憮然とした表情で子犬の額をつついていた。
- 851 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:03
- ☆
- 852 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:03
- 翌日からさっそくアヤとミキは動き出した。
追う相手は地下組織の人間ではない。麻薬取締官という公的な立場の人間だ。
動きをつかむのはそう難しいことではないと考えていた。
タカハシの顔はアヤが知っているし、ミキは臭いを覚えている。
まずはタカハシの動きから探ることにした。
一人の動きがつかめれば、そこから芋づる式に他の三人の行方もわかるはず。
二人にとってはそう難しい仕事ではないように見えた。
だが麻取の本部にタカハシの姿はなかった。
アヤは独自の情報網を駆使して麻取本部に探りを入れたが、
タカハシの動きはつかめなかった。
少なくとも、タカハシが麻取を辞めていないことだけはわかった。
タカハシはまだまだ麻取としての立場を有効に使うつもりなのだろう。
そうやって細かい情報網を整備し、麻取本部の内部の様子が
手に取るようにわかる体制を敷いたところで、一週間が経過した。
タカハシの写真と履歴書も手に入れた。
とにかく調べられることは全部調べ、文字通りタカハシのことを丸裸にした。
だがそれでもタカハシの動きは全くつかめなかった。
- 853 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:03
- 「麻取は単独で捜査することもあるってのは知ってたけどさ、
一週間も本部に帰還しないで捜査をするもんなのかな?」
ミキはタカハシの顔写真を指で弾いた。
写真のタカハシは澄ましたよそいきの顔をしている。ミキの嫌いなタイプの顔だった。
「何言ってんのよ、ミキたん。潜伏捜査するときだったら
一週間どころか半年やそこらは戻らないって言うじゃんか」
「でもさあ、それはきちんとした捜査体制があってのことだろ?
タカハシは多分そんなきちんとした捜査をしてないと思うけどなあ。
きっとうちを潰した裏組織があって、そっちに顔出してんじゃないの」
「かもね」
「だったら週に一回くらいはこっちに戻ってきそうなもんじゃん」
「うーん・・・・・まあ、麻取は自由裁量の幅が大きい仕事だからね」
そう言いながらも、アヤはミキの意見にも一理あると考えていた。
どうやらタカハシは上司には全く連絡を入れていないらしい。
探りを入れたところ、タカハシは「ニイガキリサ」という同僚とともに行動していた。
ここのところ、二人して頻繁に姿を消していたという。
表向きの理由は―――GAMの捜査だった。
だがそのGAMに麻薬を横流ししていたのは、当のタカハシなのだ。
まともに捜査したらその部分が必ず明るみに出る。
つまりタカハシは―――GAMごとこの一件を潰すつもりなのだろう。
そんなことが一介の捜査官にできるわけがない。
そこでタカハシはJJとLLを引き抜いた、というのが事の真相だろうか。
GAMが潰れた後にはJJとLLが後釜に座る。
タカハシは何事もなかったかのように横流しを続けるのだろう。
- 854 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:03
- だがそれはタカハシが麻取としての仕事を続けるというのが前提だ。
辞めるつもりなら、端からGAMを潰そうとはしないだろう。
それなのにタカハシは麻取本部に全く顔を出さない。
タカハシの行動にはどこかちぐはぐとしたものを感じた。
「もしかしたら、あたしらが知らない何かがからんでるのかもしれない」
「え? アヤちゃん、それってLLとかJJのことじゃなくて?」
「あいつら、ああ見えて全然バカじゃない」
「知ってる。特にLLはね」
「あたしらがすぐに裏切りに気付くことも、当然わかっていたはず」
「わかってただろうね」
JJとLL以外の全てのメンバーの死体が転がっていたのだ。
そして戦闘の要であるはずのJJとLLの姿が消えている。
この状況を見れば、誰だってまずJJとLLの裏切りを考えるだろう。
「わかっていながら、何も手を打っていないはずがないよね?」
「つまり―――警戒すべきはタカハシではなくLL?」
「ミキたんもそう思う?」
「でもLLのことならうちらだって知らないわけじゃない」
「そうね。LLの動きなら読むことができると思う」
「あいつなら真正面から来そうだなあ。今の感じはそうじゃないってこと?」
「違うね。もしかしたらタカハシやLLの後ろにまだ誰かいるのかも」
タカハシの裏にいそうな人間―――
ミキの脳裏に真っ先に浮かんだのはあの漆黒の少女だった。
- 855 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:03
- 「マキ?」
「微妙」
アヤは口を濁した。マキは立体駐車場で戦った時も、たった一人で仕掛けてきた。
あの女にはそんな行動がピッタリとくる。
誰かを使ったり、裏切り者を作ったりして、裏で手を引くようなタイプには見えない。
タカハシとの関係も微妙だ。あの二人の間に信頼関係があるとは思えない。
そして何より―――目の前の建物の中にはマキ本人がいた。
マキはこの一週間も普通に麻取本部に出勤し、普通に仕事をこなしていた。
タカハシとは完全に別行動をとっているように見える。
携帯電話も盗聴したが、暗号を使って連絡を取っている様子もなかった。
「どっちにしても今のあたしらの敵は、カオリを狙っているカメイと、
どうやらGAMっていう薬に特別な恨みを持っているらしいマキ。
そしてあたしらを裏切ってマコを殺ってくれたタカハシ。この三つだ。
どこで誰がつながっていようが関係ない。順番に一つずつ潰していくだけ」
「で、その順番ってやつだけど、一番はタカハシでいいわけ?」
「順番って大切だと思う。優先順位って大切だと思う」
「だよね」
「ミキたんも知ってるでしょ。あたしは綺麗なものが好きなの」
「そして好きなものは最後にとっておく主義」
「よくご存じで」
「じゃ、マキちゃんと遊ぶのは最後ね」
「当然」
「オッケー。じゃあまずは一番小汚い女から始末するとしますか」
ミキにも異論はなかった。
二人は目の前にいるマキには目もくれず、タカハシの行方を追い続けた。
- 856 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:03
- ☆
- 857 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:03
- アヤとミキがタカハシの追跡に手間取っている一方、
ミツイやコンノが進めていた被験者の組織の解析は予想以上に順調に進んでいた。
元々、ECO moniには完全な形をしたウイルスが残されていた。
カメイも全てを盗み出したわけではない。
万が一の場合に備えて、ウイルスはいくつかに分けて保存されていた。
コンノ達が手に入れた分割ウイルスは、2番、3番、5番、6番、7番。
その五つの断片と、元の完全ウイルスを照らし合わせれば、
残りの二つの断片の配列を予想することも、不可能ではなかった。
「やるなあ。カメイさん。これマジですごいわ」
お互いの立場も忘れて、ミツイはカメイの研究成果を手放しで褒め称えた。
実際、ウイルスは「ここしかない」というような絶妙な位置で七分割されていた。
生理学的活性を失うことなく、毒性だけが極端に弱められている。
これならば比較的適性が低い人間に投与しても、死に至ることはないかもしれない。
そして生き残った人間は、SSの力のみを手に入れることができる。
今、関東に現れている「キャリア」というのはそういった存在なのだろう。
ミツイとコンノは確実に七分割ウイルスの実態に迫りつつあった。
- 858 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:04
- だがミツイ達はともかく、カオリの最終目的はウイルスの正体を探ることではない。
自らの体内に巣食っているこの悪魔のウイルスを完全に駆逐することだ。
そのためにはこのウイルスを不活化する抗ウイルス抗体の作成が必須だ。
だがそちらの方の研究は遅々として進んでいなかった。
「どうして? ねえコンちゃん、なんで上手くいかないの?」
「ウイルスが七分割されたことによって立体構造が不安定になっているみたいです。
常に変異を起こしながら増殖を続けているんです。一種類の抗体じゃ抑えきれない・・・」
「じゃあ無理なの!? そんなんだったら抗体なんて絶対できないじゃない!」
「いいえ。科学に『絶対』はないです」
「じゃあ絶対に成功するの?」
「さあ。科学に『絶対』はないですから」
真顔でそう言うコンノを、カオリはキッと睨みつけると、
持っていたノートを壁に思いっきり投げつけ、物凄い勢いで部屋の外に出ていった。
だがコンノはカオリの行動には大した反応を示さず、淡々と実験を続ける。
「コンノさあん。そんな言い方したらイイダさんかて怒りますって」
「気にしないでミッツィー。GAMではいつもあんな感じだから」
「イイダさんが?」
「いえ、私が」
「それはそれは・・・・・」
ご愁傷さま。
カオリに投げかけるべき言葉を、ミツイはグッと飲み込んだ。
- 859 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:04
- ☆
- 860 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:04
- 「それ、いけっ! 取ってこーい!」
コハルが投げたボールが神社を囲む木々の間を抜けていく。
だが白い子犬はボールに見向きもせずに、派手なポーズをとっているコハルに向かって、
フリフリとご機嫌で尻尾を振り続けていた。
「ダメじゃないか、ジョセフィーヌ」
コハルはつま先でつんつんと子犬の顎を突く。
すかさず子犬がコハルの靴に噛みついてきた。
ガリガリと噛みついたままでなかなか離そうとしない。
「おーい。あたしの靴がそんなに美味しいかい、シャルロット?」
コハルは思いつく限りの名前で子犬に向かって話しかけていた。
だがどの名前もお気に召さないらしい。
どうやって話しかけても、子犬は全くコハルの言うことをきかなかった。
靴に飽きたらしい子犬は、今度は自分の尻尾を追いかけてぐるぐると回り出した。
この小さな体の一体どこにこんなエネルギーがあるのだろう?
遊んでいる時の子犬の動きは、いつも元気なコハルですら呆れるほど元気一杯だった。
- 861 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/13(金) 00:04
- なんでもこの子犬の母親はナッシングとかいう名前だったらしい。
「変な名前」
ミキの前でそう言うとスパコーンと頭を叩かれた。
いつものように軽くやり返そうとしたコハルだったが、
いつになくシリアスな表情をしているミキを前にして何も言えなくなってしまった。
どうもあの母犬のことはあまりごにょごにょと言わない方がいいらしい。
コハルはコハルなりにミキの表情からそういったことを感じていた。
単純な性格とはいえ、それくらいの空気は読める子だった。
子犬はウウウウと唸りながら、鋭い視線をコハルに向けてくる。
明らかに反抗的な視線だったが、愛らしい姿もあって、どこか間の抜けた顔に見えた。
訓練は全然進んでいなかったが、コハルのやる気はそれと反比例して急激に上昇していた。
母親の仇をとらせてやりたいというアヤの気持ちも、全くわからないではない。
無理じゃないというのなら、やってやろうじゃないか。
負けん気では誰にも負けない。
勝つまでやる。成功するまでやる。それがコハルの性格だった。
だからこの子も同じように強い子に育てよう。コハルは腹に力を込めて叫んだ。
「やるぞお! 最後まで付いて来いよ、マルガリータ!」
- 862 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/13(金) 00:04
- ★
- 863 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/13(金) 00:04
- ★
- 864 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/13(金) 00:04
- ★
- 865 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:25
- テラダ達の待つ第二アジトに到着した時、カメイは既に元の少女の姿に戻っていた。
わざわざ守護獣の姿をひけらかすようなことはしない。
あくまでも可憐な身なりのままで施設での出来事を報告した。
「なんやねん。むざむざあっちに被験者の組織を取られてしもたんかいな」
「ウエヘヘヘヘ。でもこっちも5番の被験者の組織を手に入れてきましたよ」
「マジか!」
不満そうな表情をしていたテラダの顔つきが一変する。
これでテラダ達の下には1、2、4、5、6、7番のウイルス断片が揃った。
「盲点でしたねえ。まさか、まだあの施設に残っていたとは思いませんでしたよ」
「ずっとUFA関連の施設とか国の研究機関とかを探ってたからなあ。
ないわけやで。死体はあの施設ごとコンクリート漬けにされてたんやから」
テラダ達が三年以上かけて探していたものを、イイダたちはあっけなく見つけた。
テラダには、とてもあのイイダにそんなことができるとは思えなかった。
おそらくイイダの後ろに恐ろしく頭の切れる人間がついている。
GAM―――侮れない組織だ。
- 866 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:25
- 「これで残るは3番のイイダだけやな。ほな早速そっちに取りかかろうか」
「そうしたいのは山々なんですけどねぇ・・・・・・」
「なんや。なんか不都合でもあるんか」
文字通り地下に潜ってこのアジトまでやってきたカメイだったが、
施設からこの第二アジトまで戻って来るのは、そう簡単ではなかった。
ミチシゲとクスミは二人だけでやってきたわけではなかった。
ECO moniのバックアップ部隊が遠巻きに施設を囲んでいたのだ。
部隊は、施設から離れ行くカメイのことを、執拗に尾行してきた。
最終的にはなんとか振りきったカメイだったが、
アジトがこの近辺にあるということは突き止められてしまっただろう。
今はきっとミチシゲが先頭に立ってこの辺りの調査を進めているに違いない。
今すぐ行動を開始すれば、すぐさまその動きをつかまれてしまう可能性が高かった。
「なるほど。しばらくはこの建物から出ん方が無難かもしれんか」
「ええ。ヤグチさんかアベさんに動いてもらうしか・・・・・」
「あ。そういえばな、ヤグチが何か変な敵と戦っててん。ちょっと見てもらえるか?」
テラダはおもむろにビデオカメラを取り出し、撮影した映像をカメイに見せた。
- 867 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:26
- 「こいつにアジトを潰されてん。なんやこいつ? お前わかるか?」
「青龍・・・・・しかもほぼ完全体に・・・・・・」
「セイリュウ? 完全体?」
「これもECO moniの一派です。ヤグチさんまで巻き込まれてしまいましたか・・・・・
しかもヤグチさんの血が思いっきりミッツィーにかかってる。ヘマしましたねあの人」
「ミッツィー?」
「ECO moniに6番のウイルス断片を渡してしまったんですよ。わざわざこちらからね」
映像の中ではヤグチの血がミツイの衣服に飛んでいた。
あのミツイのことだ。きっと服に着いた血からウイルスDNAを採取することだろう。
だが刺々しい言葉とは裏腹に、カメイはまだ鷹揚な態度を崩していなかった。
ヤグチが使えない人間であるということは、カメイの中では折り込み済みのようだ。
危機感を抱いているのは、むしろテラダの方だった。
「なんかようわからん話やけど、ヤバイやんけ。ECO moniにかなり食いつかれとるやん。
お前の話からすると、あっちにもかなりのウイルスが揃ったことになるやんけ。
2番やろ、そんで3、5、6、7番。おいおい。あっちもあと二つで揃ってまうがな」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫ちゃうやろ。万が一ってことが・・・・・」
「ないです」
「なんでやねん」
カメイはテラダの心配を一蹴した。
確かにECO moniの組織力を少々甘く見ていたかもしれない。
だがたとえ向こうが7つのウイルス断片を集めたとしても、慌てることはないのだ。
最後の切り札はこちらにある。
- 868 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:26
- ECO moniは元々、完全なウイルスを保持している。
だからウイルス断片を全て揃えることに、さしたる意味はない。
問題はそのウイルス断片の、被験者の組織の、「使い方」なのだ。
ECO moniが7つの断片を揃えても、それが即、ECO moniの勝利を意味するわけではない。
ECO moniの最終目的は、カメイの計画を潰すことだ。
すなわち、このウイルスを完全に不活化して、初めてECO moniの勝利と言えるだろう。
だが7分割して不安定化したウイルス断片を不活化する抗体を作ることは、容易ではない。
抗ウイルス抗体を作るためには、7つのウイルスを一度再合成して安定化する必要がある。
そしてその再合成を可能とするのは―――『完全な適合者』の血だけなのだ。
完全な適合者の血がないかぎり、全てのウイルス断片が揃った瞬間、
ウイルスの毒性に耐え切れずに、あらゆるタンパク質や遺伝子が崩壊してしまう。
すなわち―――完全な抗体を作ることは不可能だ。
サユはそこまでつかんでいるだろうか?
あそこにはミッツィーがいる。彼女ならそこまで突き止めるかもしれない。
だが突き止めたとしても、あっちには『完全な適合者』はいないのだ。
オリジナルキャリアであるイイダの血であっても十分ではない。
おそらくそれを可能にするのは―――
アベナツミの血しかない。
- 869 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:26
- 「なるほど。で、ゴトウマキはどうやねん」
テラダはもう一人の適合者候補の存在を忘れてはいなかった。
彼女がSSを発動したときの衝撃は、まだ生々しいままでテラダの心に残っている。
「確かにゴトウさんの血を使っても抗体を作成できる可能性はありますね。
でもイイダさんを抱えているGAMは麻薬組織です。麻取とは敵対しています。
彼女たちがゴトウさんの血を手に入れようと動く可能性は低いですね。
なぜなら彼女たちは既に、7番のイチイさんの組織を手に入れています。
同じ7番を投与したゴトウさんのことを、あえて追おうとは思わないでしょう」
「それもそうか・・・・・」
「彼女達が、今の状況でウイルス断片を完全に不活化することはできないでしょう。
それでもこの計画を潰すことを考えるなら、彼女達が狙うのはウイルスではなく―――」
「俺とお前の命か」
「その通り」
そういった状況の中で、ECO moniにマークされているカメイが動くのは得策ではない。
ミツイと一戦交えて、その存在を明らかにしてしまったヤグチも使いづらい。
今この時点で、最も使い易い駒は、このアジトに不在の一人の女だった。
「アベを使うか・・・・・・・」
- 870 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:26
- アベはまだこの第二アジトに姿を見せていなかった。
なんとかヤグチとは連絡が取れたようだが、こちらに来ようとはしない。
それどころか「ちょっと亀ちゃんこっちまで遊びに来てよ」とのたまう始末だった。
そんな面倒臭がりの性格が、この状況では吉と出たか。
こうなった以上は、アベがこのアジトにいない方がなにかと動きやすい。
「ですが・・・・アベさんはこの世に二人しかいない『完全な適格者』の一人です。
あの人がむざむざやられるとは思いませんが、ECO moniには近づけたくない。
万が一、拘束されるような事態になっては、こちらの計画は完全に瓦解します」
「そうやな。絶対に近づけたくないわな。難しいところや」
「アベさんは今、麻取の人間を何人か飼っています」
「おお。タカハシとニイガキやったっけ? なんかそんな話も聞いたな」
「それを使うとしましょう」
「よっしゃ。イイダの居場所ならつかんでるで」
PCの画面を切り替えるまでもなく、カメイはミチシゲ達の居場所がわかっていた。
あの神社だ。案の定、地図上のその地点がオレンジに輝いている。
3番という光がはっきりと見えた。
今は9番はいないようだった。まだフォースに釘付けになっているのだろうか。
「しかしなあ。麻取が二人いたくらいでイイダの体を持ってこれるかなあ。
そのセイリュウっていうのはあのヤグチをも軽く吹っ飛ばしたんやで。
あいつがイイダを守っているんやったら、結構きついと思うで」
「心配することはないでしょう。拉致する必要も、殺す必要もないんです。
血の一滴があれば十分ですから、麻取としての捜査能力があれば十分でしょう」
その一滴を手にするためならば―――何千人の血が流れても構わない。
能天気な笑顔の下で、カメイはそういった思いを新たにしていた。
- 871 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:26
- ☆
- 872 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:26
- どうやらついに動き出したみたいね。
淡々と続いていたマキの日常は、ある日突然終わりを告げた。
GAMを追うことを目的に、タカハシとニイガキと組んで以来、
彼女達二人はマキに対してこまめに連絡を入れていた。
その大部分がどうでもいいような情報であり、
彼女達が重要な捜査情報をマキに隠していたことには、とうに気付いていた。
それでもあえて彼女達二人を泳がせていたが、どうも様子がおかしい。
まず、彼女達二人は全く麻取本部に姿を見せなくなった。
連絡も全て電話やメールを通じてであり、直接会う機会が激減した。
そしてある日を境にして、彼女達二人は、マキと全く連絡を取ろうとしなくなった。
それどころか、明らかにマキの手の内から逃れようとする動きを見せた。
マキの対応は早かった。
ターゲットをタカハシに絞り、徹底的な追跡調査を始めた。
尾行をまこうとする行動を、タカハシは異常なまでに繰り返していた。
その行為は明らかにマキの尾行を想定しているように見えた。
タカハシが、マキに隠れて何かをしようとしていることは間違いないようだった。
それも「できれば知られたくない」というようなレベルではなく、
「何が何でもマキだけには知られてはならない」というレベルのように見えた。
まるで「尾行されたら殺すよ」と誰かに脅されているかのように―――
勿論、能力を全開にしたマキが、タカハシの姿を見失うことはなかった。
- 873 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:27
- やがてタカハシは一人の女と合流した。
その女も、背後の尾行には過敏なまでに対応していた。
その対応のきめ細かさは、タカハシの比ではなかった。
タカハシよりもその女の方が、より深い地下世界に浸っている人間のように見えた。
マキはその女の顔に見覚えがあった。
確かあの女は―――GAMに出入りしていたJJとかいう女だ。
GAMでは暗殺業務に携わっていたように記憶している。
なるほど確かにいくつもの死線を乗り越えてきた雰囲気がある。
タカハシ以上に油断ならない女かもしれない。
そしてタカハシとJJは、さらに二人の女と合流した。
一人はニイガキ。そしてもう一人は―――これもGAMの一員である、LLという女だった。
タカハシとニイガキはいつの間にかGAMのメンバーを取り込んでいたようだ。
それともタカハシとニイガキの方が取り込まれてしまったのだろうか。
マキの目には、どうも後者であるように見えて仕方なかった。
LLという女もJJと同様、明らかに只者ではない。
マキがGAMの人員を調査したとき、もし直接戦うとすれば、
アヤやミキ以上に最も手ごわい相手になると思ったのが、このJJとLLだった。
その二人が、大人しくタカハシやニイガキに従っているとは思えなかった。
- 874 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:27
- 「大丈夫、アイちゃん? マキさんにつけられなかったでしょうね?」
「そんなん知らんわ。知りたいんやったらマキさんに訊いてや」
ニイガキの問い掛けに、アイはぶすっと答えた。
そんなことは格下の人間から改めて言われるまでもないことだ。
今回の仕事を命じられた時、ナッチからは「マキに尾行されたら殺すから」と言われている。
よくわからないが、これから行く場所にはマキを連れてきてはマズイらしい。
タカハシは、持ちうる限りの技術を全て駆使して、尾行をまいた。
マキといえども、ついてこられるわけがない。タカハシはそう確信していた。
「大丈夫ネ。途中からはJJも一緒だったカラ。人の気配、全然ゼロね」
「犬の気配は? あの人、いつも黒い犬を連れてるから」
「オー。犬をまくのは人の三倍大変。でも大丈夫。JJはそういうの得意中の得意!」
威張るだけのことはある。JJの尾行回避技術は並のものではなかった。
マキは能力を使えば気配を完全に消せるが、ゼロの行動には限界がある。
マキは仕方なく、ゼロを途中で帰した。こんなことは初めてだった。
JJという女はそれくらい非凡なものを持っていた。
キャリアではない女で、ここまでの能力を持っている女を見たのは初めて―――
いや、二人目だった。アヤがいる。そしてLLを入れれば三人か。
それはともかく、JJはフィジカルな能力に関してはアヤ以上のものを持っていた。
- 875 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:27
- 「そっちこそどうなんよ。尾行されてるんじゃないでしょうね?」
「大丈夫ネー。こっちはLLがちゃんと対応しましたカラ」
「本当に? 尾行をまくのとかって繊細な行動が要求されるからねえ」
「オー。タカハシさん、結構きついこと言う人ネ」
「ガキさんやLLは大雑把に見えるからなあ」
ニイガキはともかく、LLの対応は細かかった。
そしてなにより、LLは人の気配に敏感だった。
通常であれば、周囲数十メートルに人間がいれば、即座に感じることができた。
「ま、お互い責任をなすりつけ合うのはやめようよ」
ニイガキがタカハシとLLの間をとりもつ。
マキに尾行されないことが、今日の最大の目的ではない。
ナッチからは「ある人物の血」を取ってくることを命じられている。
その血に何の意味があるのかは知らない。教えてもらえなかった。
だが彼女たちには、その命令に従う以外の選択肢はなかった。
「そうですネ。遊んでないでそろそろ行きましょう。少なくとも今は、
この周囲百メートルくらいには、人の気配も犬の気配も全くないデース」
「そうやね。人の気配は全くないわ」
そのタカハシの3メートルほど後ろの物陰に、マキは立っていた。
- 876 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:27
- 四人はそこから車で移動を始めた。
車を尾行することは、人間を尾行することよりずっと楽だった。
人間は気配を消そうと思えば、かなりのところまで気配を消せる。
だがこの世には車の気配を消すことができる人間などいなかった。
マキの能力をもってすれば、数百メートル離れていても、車の気配をつかむことができた。
やがて四人を乗せた車が止まり、四人が車から降りる気配がした。
マキはそこから2ブロックほど離れた地点に車を止め、尾行を再開する。
慌てて四人の姿を追う必要はなかった。
四人は巨大な建物の周りを、ただグルグルと回るだけだった。
侵入ではなく、偵察が目的なのだろうか。四人はただそこを見つめるだけだった。
「ねえ、LL。ここらあたりだよねえ」
「ハイ。確かに地図ではここになっていマス」
「おっかしいなあ。こんなに大きな神社だったらすぐわかるはずだけどなあ」
「ナッチさんが何か勘違いしてたってことはないよねえ・・・・・」
「じゃあ、ガキさんが電話して確認してくれる?」
「え? あたしが?」
「ニイガキさんが電話するのが一番良いと思いマス」
四人の会話を盗み聞きしながら、マキは不思議な思いにとらわれた。
どうやら四人は大きな神社を探しているらしい。
だが―――彼女達の目の前には大きな赤い鳥居がでんと構えている。
誰がどう見てもあれが目的の神社だろう。
だが彼女たちにはそれが全く目に入っていないらしい。
ニイガキは本当に携帯電話をかけ始めた。
- 877 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:27
- マキは捜査用のイヤホンを耳に突っ込み、ニイガキの電話を盗聴し始めた。
盗聴の準備が整うと同時に、コールが切れて電話がつながった。
相手はニイガキ達が言うところの「ナッチさん」という人物らしい。
「もしもしニイガキですけど。ナッチさんですか?」
「なんだ。ガキさんか。もうカオリの血は取ってきた?」
「いえあの。この地図の通り来たんですけど、神社が見当たらないんですよ」
「えー、うそお。なにその変な言い訳。失敗したんだ?」
「いえいえいえ。違いますって。嘘つかないですって。本当にないんですよ」
「おっかしいなー。そんなこと言われても、あたしもその神社って行ったことないしさー」
ナッチはその地図をカメイから送ってもらっていた。
カメイの方は身動きが取れない状況らしく、
会いたいというナッチの要求はすげなく却下されていた。
というわけで、タカハシやニイガキとカメイを引き会わすことはできなかった。
会うどころか、カメイは携帯を通じての接触すらもなるべく避けるようにと言ってきた。
この地図に関しても細かいことはあまり聞くことができなかった。
ナッチは、そこにイイダがいるとしか聞いていなかった。
もっと細かいところまで確認しておくべきだったかもしれない―――
- 878 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:28
- 「はあ」
「本当にないの?」
「はい。地図は合ってると思うんです。周囲の記載に間違いはないです」
ニイガキは右手に携帯電話を、左手に地図を持ちながら周囲を見回す。
確かに地図に書いてある通りの地形だった。
この地図自体が間違っているとは思えない。ただ神社だけがないのだ。
「おかしいねえ。じゃあちょっとこっちで確認してみるよ」
「すみません」
マキの耳にも、ニイガキが嘘を言っているようには聞こえなかった。
とぼけているようにも聞こえなかった。
だがその神社は、ニイガキの目の前にあるのだ。
おかしい。なにかがおかしい。
それに「ナッチさん」という人間と「カメちゃん」という人間が誰なのかも気になる。
どちらもマキが耳にしたことのない名前だった。
GAMと何らかの関係がある人間なのか。
それともGAMと対立関係にある組織の人間なのだろうか。
- 879 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:28
- しばらくすると、ニイガキの携帯に着信が返ってきた。
すかさずマキはイヤホンを耳に突っ込む。電話はやはり「ナッチさん」からだった。
「ガキさん?」
「はい」
「神社が見つからない理由がわかったよ」
「本当ですか? で、その神社はどこにあるんですか?」
「今日はちょっと無理」
「え?」
「もういいよ。今日はこっちに戻ってきてくれるかな。それから説明するから」
「電話じゃ無理ですか?」
「無理っていうか意味がない。とにかくこっちに戻って。お祓いするから。アハハハハ」
「お、おはらい・・・・お祓いをするんですか? なんで?」
「アハハハハ。すぐ戻ってきて。じゃあよろしく」
ナッチの高笑いを残して電話は切れた。
ニイガキは訳がわからないといった顔をしていたが、
訳がわからないのはマキも一緒だった。
ニイガキは電話の内容を他の三人に説明していた。
勿論その三人にも、ナッチの言っていることは理解できなかった。
「はあ? おはらい? ガキさんそれ聞き間違いじゃないの?」
「そんなことないよ。確かにそう言ってた」
「どっちでもいいですヨ。ナッチさんのところに戻りまショウ。命令は絶対ですシ」
「イイダさんの血を取るのは次の機会っていうことだネ」
- 880 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:28
- 四人は本当に車に乗って帰っていった。
目の前に立派な神社がそびえ立っているにも関わらず。
だがマキは四人の車を追うことはしなかった。
このまま見逃せば、再び足取りを追うのが難しくなることはわかっていた。
だが動けなかった。
ナッチさん。カメちゃん。それが誰なのかは知らない。
だがそれ以上に「イイダさん」という名前を聞き逃すことはできなかった。
四人の目的は「イイダさんの血を取る」ことだったようだ。
つまりこの神社にカオリがいるということなのだろう。
そして四人はイイダの血を集めている。
ということは、あの四人がつながっているのはGAMではなく、
テラダたちの組織ということになるのだろうか。
にわかには信じ難かったが、被験者の血を集めている組織が他にあるとは思えなかった。
ナカザワを先に持っていかれて以来、姿を消していたテラダ。
そのテラダが今、タカハシとニイガキを通じて、マキの前に再び姿を現そうとしていた。
だが今はそれよりこの神社だ。なぜあの四人にはこの神社が見えなかったのだろう?
マキはほとんど何も考えることなく、神社の塀によじ登った。
この中にイイダカオリがいる可能性がある。調査してみる価値はあると思った。
神社の敷地内に足を踏み入れた瞬間―――
マキは言いようのない「懐かしさ」のようなものを感じた。
- 881 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:28
- ☆
- 882 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:28
- 「なるほど。だんだんわかってきたでえー」
ミツイの機嫌は上々だった。
だがそれはミツイの実験が成果を上げたからではない。
おそらくミツイのアプローチではウイルスの実態に迫ることはできなかっただろう。
ウイルスの実態を明らかにしていったのは、コンノの実験の方の成果だった。
ミツイは最もオーソドックスな手法でウイルスを解析していった。
学問に、そして科学に近道などない。抜け道などない。
何もトリッキーな手法を用いることはないのだ。
一番ありふれた手法を用いることこそが、解析の王道と言えるだろう。
ミツイはそういった科学的な合理性に従って、テンポよく解析を進めていった。
一方、コンノの方の解析は遅々として進んでいなかった。
コンノは一見、何の関係もないような実験にひどくこだわった。
まるであえて遠回りをしているように、ミツイには見えた。
外堀を埋めているばかりで、一向に本丸の方に攻め入らない―――
それがコンノという科学者に対する、ミツイの評価だった。
だがオーソドックスな戦略に沿って解析を行っても、
一向に成果は上がらなかった。
ミツイはいつまでも同じ場所をグルグルと回っていた。
戦略のどこに問題があるのか。
それすらミツイにはわからなかった。
- 883 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:28
- コンノの方は、最初からこの解析が難しいということを理解していた。
いきなり抗体を作ろうとしても難しい。
それは世の研究者が何度となく繰り返して失敗してきたはずだ。
コンノはまず、ウイルスを七分割したカメイの思考をたどることに専念した。
今、コンノたちが世界の研究者に先んじて知っていることといえば、
カメイがウイルスを七分割したということだけだ。
そのアドバンテージを最大限に生かすべきだと考えた。
カメイが何を考え、どういう経路をたどって実験を進めたのかを推測しようと試みた。
カメイはなぜウイルスを七分割にしたのだろう?
それはウイルスの毒性を下げるためだ。
ではなぜ六分割ではなく七分割なのだ? 八分割ではなく七分割なのだ?
なぜ分割することに思いが至ったのだ?
何を基準にして分割する場所を決めたのだ?
カメイの目的はわかっている。
太陽化しても自我を失わない「究極のモーニング娘。」を作ることだ。
ではなぜ七分割すると自我が失われないのか?
ウイルスが消してしまうという、投与者の「自我」とは何なのか? 何を意味するのか?
最後は科学を超えて哲学的な命題にまで踏み込んだ。
もはや抗体など、どうでもよかった。
コンノはこの太陽化ウイルスそのものにのめり込んでいった。
- 884 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:29
- 皮肉にも、遠回りに見えたコンノアプローチの方が、次々と成果を上げていった。
絶妙な場所でウイルスを七分割することによって、確かにウイルスの毒性は激減していた。
七つのウイルス断片は、それぞれ人間の違った場所を活性化するようだ。
その中でも、特にウイルスに対して適応性が高い人間が、
SSを発動することができるようになるらしい。
だがそれはあくまでも「七分の一」の力でしかないようだった。
ウイルスの持つ力を完全に引き出すことはできないし、太陽になることもできない。
七つに分けたウイルスを、再び一つに合成することが必要だった。
それぞれ人間の体のなかで増殖したウイルス断片を、再び一人の体の中で合成する。
そうすればウイルスの能力が100%引き出され、太陽化が始まる。
そしてその時、既にウイルスの七分の一は、適格者の人格によって制御されている。
どうやらここのあたりに成功のポイントがあるらしい。
再び一人の人間の体内で合成することができたなら、
七分割したウイルスと同様に、その人間の自我によってウイルスを制御できるようだ。
つまり―――人格を持ったまま太陽化することが可能と言うわけだ。
ここまで突き止めたコンノは、ミツイと議論を深めた。
抗体を作るにはどうすればいいのか。
道はかなり明らかになってきたような気がした。
- 885 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:29
- 「やっぱりウイルス断片が変異を繰り返すことが問題だと思うの」
「そうですね。ウイルスが変異しなければ、抗体で抑えることができる」
「変異させないためには、ウイルスを安定化することが必要だよね」
「そこで話が元に戻ってしまうんですよねえ」
「七分割されたウイルス断片を元通りに合成する必要がある」
「議論が同じところをグルグル回ってますなあ」
それは何度も話したことだった。
元のウイルスならECO moniも持っている。
だがそれは毒性が強すぎて抗体が作れないのだ。
毒性を弱めるために分割したのだ。それを合成しては―――また毒性が高まってしまう。
「そうでもないよ。確かに元のウイルスは毒性が高くて使えないけど、
七分割したウイルスを七つ集めれば、毒性が低いままで合成できるはず。
そうじゃないと、カメイが考えている『究極のモーニング娘。』は完成しないでしょ?」
「いや、そこで重要なのが『完全な適格者』なんですわ。適格者がいれば毒性は関係ない。
七分割したウイルスを合成したときに毒性が出ても、適格者なら死ぬことはないですから」
「え? じゃあ逆に考えれば・・・・・・もしかして・・・・・」
コンノの中で何かが弾けた。
かつてカメイがたどった思考の道を―――上手くたどることができたような気がした。
「適格者がいれば抗体も作れるってことじゃない?」
- 886 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:29
- 「あ。それはあり得るかもしれませんね。考えもしなかったですけど・・・・」
ミツイにとって『適格者』とはこの世界の救世主だった。
もしくはカメイが作ろうとしている、この世界の破壊者だった。
究極の善であり、使い方によっては究極の悪にもなりうる存在。
それを抗体作成の材料に利用するなんて、そんなことには思いが至らなかった。
「確かに適格者の血を使えば・・・・・・抗体が作れるかもしれない・・・・。
まあ、どっちにしても七分割したウイルス断片を全部揃えなアカンと思いますけど。
元のウイルスで抗体を作っても七分割したウイルスの活性は抑えられないですから。
七分割したウイルスを個々に使って七つの抗体を作る。これならいけるか・・・・」
ほんの少しではあるが、可能性が出てきた。コンノはそこに光を見出した。
その『完全な適格者』がいれば抗体は作れそうだ。
適格者の血を使った培地で培養すれば、
毒性が弱いままで分割ウイルスを安定化できる可能性が高い。
つまりは、毒性が弱いままで分割ウイルスを制御しようとしているという、
カメイの計画の、まるっきり逆のことをやればいいのだ―――
コンノとミツイの間で一つの希望が開いたとき、
研究室の警報音が鳴り渡り、それに続いて連絡員の怒声が響いた。
「不審者です! 大至急・・・・・・・・」
そこまで放送が流れた時、既にミツイはカオリの下へと駆け出していた。
- 887 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:30
- ☆
- 888 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:30
- 眠っていたカオリの耳に、ニイガキ達四人の会話が届いていた。
すぐさまECO moniの連絡員にそれを報せる。まず一番にコハルが飛んできた。
「怪しい人がうろついていたって本当ですか?」
「うん。四人いた。ずっとこの神社を探していたよ。地図も持ってるみたいだった」
「地図・・・・・明らかに怪しいですね」
「で、『ナッチさん』ていう人と電話で話してた」
「ナッチさん? 誰ですかそれ?」
研究の途中だったミツイもやってきた。
緊急事態とあれば、研究よりもカオリの保護が優先される。
ミツイはその場でミチシゲにも連絡を回した。
「よくわかんないけど、その会話の中で『お祓いするから』って・・・・」
「お祓い!」「マジっすか!」
「そこまでECO moniのことを知っているのって・・・・・」
「カメイさんしかいないですね。すぐにその四人を追いましょう」
「待って!」
走りだそうとするコハルをカオリが呼び止める。
四人は既に車で走り出している。今から追いかけるのは無理だろう。
そしてそれよりなにより―――
「一人、塀をよじ登って、神社に入ってくる人間がいる」
- 889 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:30
- 「え? まさか。うちの人間じゃないんですか?」
「いや、違う。この足音・・・・・ECO moniのメンバーじゃない」
「無理ですよ。お祓いしてない人間がこの神社に入ってくるなんて・・・・」
「お祓いを受けている人間・・・・・・まさかカメイさん本人が!」
ECO moniのメンバーとGAMの人間以外でお祓いを受けている人間は、
かつてメンバーだったカメイエリ以外、思い当らなかった。
その四人の人間というのは陽動作戦だったのかもしれない。本命はこっちの一人だ。
コハルとミツイの顔色が変わった。
相手がカメイエリということになれば―――命を賭ける必要がある。
コハルは圧縮酸素の入った缶を持つ。覚悟は既にできていた。
「行くよミッツィー!」
ミツイはミネラルウォーターの入ったボトルを持つ。
「オッケーです!」
二人が今まさに守護獣を呼び起こさんとした時、再びカオリから待ったがかかった。
「待って。足音が消えた」
- 890 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/16(月) 23:30
- コハルは一瞬、カオリの言っていることが理解できなかった。
「は? 立ち止まったってことですか?」
「それだけじゃない。人の気配そのものが消えた」
「まあ、カメイさんも気配くらいは消すでしょう・・・・・・」
ミツイもまだカオリの言わんとしていることが理解できない。
いかに不気味な状況かということが把握できていなかった。
無理もない。
カオリのような特別な聴覚を持っていない限り、この状況を理解することは不可能だった。
「だから聞こえないの! 全然聞こえないの。さっきまではっきりと聞こえてたのに!!」
「だから何がですか!」「何のことですか!?」
「心音も。呼吸音も。体液の流れる音も。なにもかも全然聞こえない―――」
「そんなアホな」「ありえないでしょ」
カオリの耳の能力は、一緒に暮らした数日で嫌というほど思い知らされている。
心音が聞こえないというのは尋常な事態ではない。
ミツイは息を殺し、慎重に辺りを窺いながら、障子を開いた。
庭の数歩先からは鬱蒼と覆い茂った森が広がっている。
その暗い森の間から―――真黒な霧が漂ってきた。
- 891 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/16(月) 23:30
- ★
- 892 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/16(月) 23:30
- ★
- 893 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/16(月) 23:30
- ★
- 894 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:18
- この言いようのない心地よさは何なのだろう。
神社の森を行くマキの胸には、生まれ故郷に帰ってきたときのような懐かしさが満ちた。
それは両親がともに東京で生まれ育ったマキにとっては極めて新鮮な感情だった。
いつものように強く意識することなく、極めて自然な状態で能力を全開にした。
マキの体温が消え、足音が消え、気配が消え―――
やがて心音を含む全ての生命活動が、緩やかに吹く風の中に溶けて消えた。
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
もう二度とあの力は使わないと決めたのに。
あれほど嫌っていた力なのに。
脳裏に繰り返される歌声を、マキは何の抵抗もなく聞き入れていた。
マキという存在はこの世界からの干渉を一切立ち切り、
何人も触れることはできない黒い霧と化した。
- 895 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:18
- 黒い霧は瞬く間に、神社を取り囲んでいる森の間に満ちていった。
マキはその存在を最大限に広げて神社を包んだ。
懐かしい。
その感情はもはや止めることができないほど大きくなっていた。
帰るべきところへ帰ってきた。そんな達成感すらあった。
マキはこの神社を守護している結界の存在にも気付いた。
おそらくこの結界があったがために、タカハシ達はここにたどり着けなかったのだろう。
だがその結界もマキの前では全くの無力だった。
マキに流れる全ての血が、DNAが、その結界を心地よく受け止めていた。
まるで揺り籠を揺らす子守唄のように、結界はマキの心を優しく洗った。
ここでは「能力」を使うことが特別なことではないように感じられた。
ここでは能力を使った状態の方が自然な状態のように感じられた。
マキは息を吸うように、全く意識することなく、自らの体を解き放っていた。
ただただ、その状態が心地よかった。
マキは神社を守護すると同時に、神社によって守護されている自分に気付いた。
この神社がなんであるのかはわからない。だが敵ではない。決して敵ではない。
むしろこの神社には、自分がずっと求めていた物があるような気がした。
マキは興味の赴くままに、神社の内部へと手を伸ばしていった。
- 896 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:18
- 森の中から染み出てきた黒い霧は、巨大な蛸のようにその足を伸ばしてきた。
コハルとミツイは反射的にその霧をかわした。
ただの霧ではない。ただ色が黒いだけではないのだ。
二人の危機感を極限まで煽るような不気味な圧迫感が、そこにはあった。
霧は神社の内部まで入ろうとしている。その触手がカオリの方にも伸びた。
二人は同時に動いた。同時に構え、同時に唱えた。
今できる最大限のこと―――守護獣を発動することに迷いはなかった。
詠唱を終えると同時に、青き光がコハルの体を包み込み、
赤き光がコハルの体を包み込む。光はゆっくりと二人の輪郭を溶かす。
朱雀と化したコハルは天高く舞い上がり、上空からその翼をはためかせて、
黒い霧を吹き飛ばそうとした。
青龍と化したミツイは鱗の隙間から水蒸気を発し、青い霧を発生させる。
青い霧はカオリの周囲を取り囲み、敵からの攻撃をガードした。
だがそんな二人の奮闘は―――全く意味がなかった。
- 897 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:18
- 朱雀の作りだした突風は黒い霧の中を素通りしていった。
ただ森の木々だけが折れんばかりに揺らめいただけだった。
黒い霧は粒子の一粒一粒が意志を持っているかのように、その場に留まった。
一方、黒い霧は着実に神社の建物の中にも浸潤していった。
ミツイが喉を震わせて唸り声を上げる。
建物の中から飛び出してきたECO moniのメンバーが、
カオリを連れて奥の部屋へと駆け出そうとする。
だがその行く手にも―――黒い触手が確実に追ってきた。
巨大な守護獣と化したコハルとミツイは建物の中には入れない。
二人は後手に回ったことに気付いた。
だがこの霧が神社中を覆っている以上、下手に動くことができない。
二人はただ―――カオリの無事を祈ることしかできなかった。
そのカオリは廊下をバタバタと走っていた。
だが黒い霧の動きの方が明らかに速い。喉元に黒い霧が迫った。
カオリの白い素肌に触れようとしたその時―――奥の襖が開いた。
- 898 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:18
- 「はじめまして、サディ・ストナッチ。探し物は何かしら?」
そこには黒の蝋燭を持ったサユが立っていた。
カオリはサユの背後に回る。
そのカオリを追って黒い霧がサユの眼前に迫った瞬間―――
サユはフッと蝋燭に息を吹きかけた。黒い光が爆発的に発散する。
吐息に乗って、黒い炎がまるで火炎放射器のように広がった。
廊下の板間に、ECO moniのメンバーに、黒い炎が噴きかかった。
だが板間が燃えることはなかったし、メンバーが火傷することもなかった。
黒い炎は、ただ黒い霧のみを綺麗に吹き飛ばしていった。
舞い上がった黒い霧はくるくると竜巻状にらせんを描き、
やがて一人の美しい少女の形となった。
黒い髪。黒い瞳。そして黒一色の服装。
少女は霧に負けず劣らず黒い少女だった。
少女がはっきりとその姿を現した途端―――黒い霧は一斉に晴れ上がっていった。
- 899 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:18
- ☆
- 900 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:18
- 「二人は守護獣の力に頼りすぎです」
神社の中で一番広い座敷の中央で、コハルとミツイが正座していた。
サユの叱責に対して、二人は返す言葉がなかった。
確かにお粗末な警護だった。
あの黒い少女―――マキがもしカオリに対して殺意を抱いていたら、
コハルとミツイの二人ではとても守り切れなかっただろう。
「二人にはこれから一年間、守護獣を召喚することを禁じます」
「えええ!」「そんなあ!」
「お黙り。ダメと言ったらダメです。これも修行の一つと思いなさい」
「修行? 今は非常事態なんですよ!」「今、召喚しないでいつするんですか!」
「今が非常事態? そんな意識だからダメなんです。意識が低すぎます。
我々の組織は常に非常事態と向き合っているの。ウイルスがある限りずっとね。
エリの件が片付いたあとも、ずっと非常事態は続くのよ。そのための修行です」
マキはそんなやり取りを退屈そうに眺めていた。
座敷にはECO moniのメンバーが全員揃っていた。カオリもいる。
皆が皆、サユ達の話を聞きながらも、マキに興味深い視線を投げかけていた。
マキはその視線を感じながらも、不思議と不快にはならなかった。
まるで我が家に帰ってきたような心地よさすら感じた。
先ほどからずっと感じているこの心地よさは一体何なのだろうか?
- 901 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:19
- 「ゴトウさん。ゴトウマキさんですね。あの施設の八人目の被験者。
今はUFAのヤマザキと組んで他の被験者を探している、特別麻薬捜査官」
「詳しいね。あたしより詳しいじゃん」
「わたしはミチシゲサユミといいます」
「あっそう」
皮肉ではない。マキは心底、ミチシゲの言葉に感服していた。
ヤマザキというのはあの老人の名前だろうか。
そんなことまで調べられていたとは驚きだ。
マキの方はこの神社に陣取る組織については全く知らない。
「あら。知らないんですか? ヤマザキさんからはSSの話は出なかった?」
「調べてるけどまだよくわからんって。そんな感じで誤魔化されたよ」
「あのとぼけたジジイの言いそうなことですね」
サユはじっくりとこの黒い少女のことを観察していた。
嘘を言っているようには見えない。
細かい駆け引きができるような性格にも見えない。
アヤやミキに比べればずっとわかり易そうな人間に見えた。
だが油断はできない。
わかりやすそうな性格に見える一方で、
この少女はとても扱いにくそうな性格をしている印象も受けた。
その二つの印象は矛盾しない。
いざとなれば三匹の守護獣を駆使してでも―――殺さねばならないかもしれない。
- 902 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:19
- 「ゴトウさんの狙いはカオリさんの命。もしくはその血や肉などの組織。
ウイルス被験者の組織を七つ揃えればウイルスの働きを抑えられる。
ヤマザキからはそう説明されて、命令されたのではないですか?」
「まあ、そんなところかな・・・・・・」
機先を制されて、マキの戦意はほとんどゼロに近くなっていた。
冷静に考えてみれば、マキにはカオリを殺す理由などないのだ。
もし友好的に話し合いが進むのであれば、血だけ持って帰ればいい。
マキの敵は、あくまでもGAMであり、テラダであり、カメイエリだ。
「でもヤマザキからは、今回の件に関してそれ以上は何の説明も受けていない。
このウイルスが何であるかも知らないし、テラダやエリの目的も知らない。
ゴトウさんはそれでも、これからもずっと盲目的にヤマザキに従うのですか?」
ミチシゲの言葉は攻撃的だった。
逃げずに立ち向かうとすれば、マキも態度を決めなければならない。
守勢に回るのか。それともサユ以上に攻撃的な言葉を繰り出していくのか。
だが今のマキには攻めるにしても守るにしても材料がなかった。
何も知らないのだ。何も知らずに戦っていたのだ。
自分が―――何も考えずにヤマザキの命令に従っていたことに気付いた。
- 903 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:19
- 「ウイルスが何であるか・・・? それどういう意味だよ・・・・・」
とりあえずマキはそれを言うだけで精一杯だった。
自分はこれまで、ただひたすらにGAMとウイルスのことを追っていた。
ヤマザキとは、単に利害が一致しているから協力しているだけだと思っていた。
だが―――ヤマザキが本当のことを言っているという保証などないのだ。
そんな当り前のことを忘れて、自分の頭で考えて判断することを止めていた。
ミチシゲの鋭い指摘を受けて、マキはその事実と直面せざるを得なかった。
「とりあえず私の話を聞いてくれませんか? そこにおられるイイダさんは、
あなたと同じく、例の施設でウイルスの投与を受けた被験者の一人です。
私の話を聞いた結果、カオリさんは私達に協力してくれることになりました。
テラダの組織ではなく、ヤマザキの組織でもなく、この私達の組織に、です」
マキは口をつぐんだ。
聞きたいことなら山ほどある。
この神社は何なのか。あの結界は何なのか。守護獣というのは何なのか。
そしてこのウイルスとは、サディ・ストナッチとは何なのか。
全ての答えがこのミチシゲサユミという少女の話の中にあるのだろうか。
少なくともこの少女の話を聞けば、判断材料が一つ増えるかもしれない―――
マキは黙ったまま、語り始めたサユの話に耳を傾けた。
- 904 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:19
- ☆
- 905 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:19
- 「チェッ。意外としつこいなあ」
カメイとテラダが潜むアジトの周囲には、ECO moniの偵察員がうろついていた。
ここに移ってから一日と間を空けずに巡回している。
時々、サユが近くまで来ているような気配も感じた。
しばらくはこの辺りに張り付く覚悟のように見えた。
神社に結界が張られていることを忘れていたのは不覚だった。
結界がある以上、普通の人間では神社に潜入することはできない。
ウイルス投与者であるナッチであればお祓いなしで潜入できるかもしれないが、
今の状況で適格者であるナッチを動かすことはできない。
カメイは連絡員を使って、お祓いの方法をナッチに伝達することにした。
お祓いの儀式そのものは簡単なものだ。
直接教えなくてもなんとかなるだろう。
だが結界が張られている以上、向こうの備えも万全と思わなければならない。
テラダの言うように、守護獣がうろうろしているようならば、
イイダの血を採ってくることすら容易ではないかもしれない。
陽動作戦が必要かもしれない―――カメイは一つの案を実行に移すことにした。
- 906 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:19
- ☆
- 907 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:20
- カメイから教えてもらったお祓いの儀式は滑稽なほど安っぽいものだった。
変な言葉を唱えながら、榊の枝でパタパタとはたくだけなのだ。
JJでなくとも、文句の一つも言いたくなるだろう。
「ナッチさーん。ホントにこれでいいノ? これでお祓いお終いナノ?」
「知らないよー。カメちゃんはこっちに来れないって言うしさー」
LLはLLで全く別のことを考えていた。
「イイダさんを匿っているのは、ナッチさんと同じような力を持ってるカラ?」
「え? 同じ力? そんなの持ってるわけないじゃん」
「でも、お祓いが必要。お祓いがないと侵入できない神社。普通じゃないデス」
「あー、なんかテラダのおっさんは守護獣ってのがいるとか言ってたよ」
「シュゴジュウ?」
「ビデオあるよ。あはははは。これ結構面白いから。みんなで見ようか」
部屋の端の置いてあったテレビの向きを変え、ナッチはスイッチを入れた。
ナッチはいつになくご機嫌で陽気だったが、
ビデオを見た四人は、画面に映っている青龍の姿を見て蒼白になった。
ナッチの説明によると、青龍の相手をしているのが
ナッチの組織の一員でもある、ヤグチというキャリアの女らしい。
ヤグチという女のキャリア能力も半端なものではなかった。
だが青龍という化け物は―――その能力ごとヤグチのことを吹き飛ばした。
その余波で三つほどのビルが倒壊を起こしていた。
- 908 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:20
- 「な・・・・なにこれ・・・・・・」
麻薬捜査官として多くのキャリア犯罪者に接してきたタカハシも、
こんな奇妙で巨大な生き物を目にしたことはなかった。
身の丈が優に十メートルは超えている、巨大なワニのような化け物だった。
「あははは。だからそれが青龍。カメちゃんが言うには水を操る守護獣だってさ。
あともう一匹、朱雀っていう火を操る鳥の化け物みたいなのもいるかもって。
こんな化け物にあんたらが勝てるわけないからさー。正面から行ってもダメだね。
見つからないようにこそっと忍びこんでカオリの血を盗む。これしかないねー」
ナッチはもはや「命令に逆らえば殺す」とは言わなかった。
四人の血は既にナッチの血と濃く交り合っている。
精神の深い根に張り付いたナッチの意識に、四人が逆らうことはなかった。
むしろ積極的にナッチに従おうとする素振りすら見せた。
「どう、LL? これに勝てると思うカ?」
「うーん。成り行き任せでは勝てないネ。確実に勝つためには色々と準備が必要」
「ちょっとちょっとちょっと! LLってばナッチさんの話聞いてないの?」
「どうしたニイガキさん。何をそんなに慌てているのカ?」
「準備ってなによ!? こんな怪獣みたいなのに勝てるわけないじゃーん!」
「そうカナ?」
LLは、自分達は幸運だと思った。もしあの神社に結界がなく、あのまま忍び込んで
この青龍という化け物とはち合わせていたら、まず間違いなく全滅していただろう。
だが今はこのビデオがある。正体がわからない謎の存在ではない。
しっかり分析すれば、最低限の戦略は立てられるだろう。
- 909 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:20
- LLにはニイガキとタカハシのような先入観はなかった。
相手が巨大な体を持っていようが、特殊な能力を持っていようが、
敵と相対するときにチェックする部分は同じだ。
「結局、この化け物はヤグチさんの命を取ることができなかったんですよネ?
詰めが甘いデス。ほら、これ。変身を解いたらこんな小さな女の子でショ?
きっとまだこの力を使いこなせてないネ。よく見ると無駄な動きも多いデス。
どれだけ凄い力でも、それを使う人間が未熟ならば付け入る隙はありマス」
タカハシとニイガキの目つきが変わった。
怪獣の存在にただ驚き逃げ惑うエキストラの目から、
犯罪者を追い詰める捜査官の目つきに変わった。
確かにLLの言う通りかもしれない。
派手な見てくれに騙されずに冷静に見れば、戦略の立てようはあるかもしれない。
「なんか面白そうだなー、ナッチも行きたいなー、こいつと遊びたいよー」
「ダメですよ。ナッチさんは最後の切り札なんですから」
「ガキさんも上手いことおだてるねー」
半分は本気だったが、カメイからは動くことを止められていた。
お祓いの指示と一緒に「ナッチさんは絶対に神社に近づけないで」という命令を受けていた。
とにかくLLができるというのなら、今回はLLの戦略に任せるのがいいだろう。
そこでナッチの携帯が鳴った。
「カメちゃんからじゃん」
ナッチは携帯の着信を確認してから通話をオンにした。
- 910 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:20
- 「はいはいナッチだよ。うん。え? いつ神社に行くかって?
いつでもいいよ。なんなら今からだっていいくらい」
「ちょーっと待ったー! ナッチさん、ちょっと待ってくだサイ。
どう考えても準備に三日はかかりマス。でないとこのセイリュウには勝てないヨ」
LLが強引にナッチの会話に割り込んだ。
ナッチという女は放っておくと何を言い出すかわからない。
10秒前にした会話の内容すら反古にされかねなかった。
「え? うんなんでもない。こっちの話。なんか襲撃の準備に三日かかるってさー。
あ、そっちもその方がいいって? わかった。じゃあ三日後に襲撃の予定で。
時間? そんなの合わす必要あるの? 陽動? わかった。じゃあ三日後の正午で。
え? わかってるって。しつこいなー。あたしは動かないから。大丈夫。じゃあね」
ナッチは電話を切ると同時にLLに視線を向けた。
「で、準備っていうのは? どうするの? こっちで用意するものある?」
まだビデオを観終わってから五分も経っていなかったが、
LLは調達してほしい武器のリストをすらすらと挙げていった。
「そうですね。まず火炎放射器を用意してくだサイ。それと火炎瓶と―――」
- 911 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:20
- ☆
- 912 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:20
- ミチシゲの話は、マキにとってはまさにおとぎ話でしかなかった。
あたしが適格者? 太陽になる? 究極のモーニング娘。?
何が何だかさっぱりわからなかった。
いや、頭でわかっていたが―――心がわかろうとしなかった。
マキの精神は、自分の与り知らぬところで、
自分の人生が動かされていることに対して、強い拒絶反応を示した。
いつだって自分で選んできた。
施設に入るということも、ウイルスを投与されるということですら、自分で決めた。
それが間違いであったとしても、自分で決めたことだ。それが自分の人生だ。
自分が選んだことに対する決着は自分でつける。
テラダを殺すと決めたのも自分だし、SSをぶっ潰すと決めたのも自分だ。
だがマキは―――適格者に選ばれるなどと決めた覚えはなかった。
「信用できない。それが本当の話だとは信じられない」
嘘だった。心の底では、十中八九、この話は本当だと思っていた。
だが、ささくれ立った心を落ち着かせるには、いくつかの段階を踏む必要があった。
「あんた達が正義だって、一体どこの誰が証明してくれるんだよ?」
- 913 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:21
- 「正義などと言うつもりはありません」
サユはマキの問い掛けに真正面から答えた。
ここで言葉を濁すつもりはなかった。
もしこの少女が真の適格者であるのならば、彼女こそが、サユの信仰の根幹なのだ。
エリのように、太陽をコントロールしようなどと、おこがましいことを考えるつもりはない。
ただあるがままに己の信念を伝え、ただあるがままに受け止めてもらうしかない。
これは運命なのだ。
マキという一個人がその運命に戸惑っていることは理解できる。
だが地球の命運を一個人の感情に委ねることはできない。
もしマキがエリの思想を正義と信じるのなら、その時は真っ向から斬り伏せるのみだ。
全てはこの地球のために。この地球の平安のために。
そのためにならどれだけの命が消えようとも構わない。
手段は選ばない。どれだけ自分の手を汚そうとも構わない。
その覚悟ならある。そのためにサユはこれまでの人生を歩んできた。
そしてそのためにサユはこれからの人生も歩んでいく。
それこそが―――ECO moniの108代目の長の座を授かった、ミチシゲサユミの覚悟だった。
- 914 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:21
- 「私達の信念に同調してください、などと偉そうなことは言いません」
今は太陽に異常など見られない。モーニング娘。が生まれる時ではないのだ。
マキは生まれる時を間違えた、不遇の適格者だ。
ECO moniでは今は、誰かが新しい太陽となることは望んでいない。
むしろモーニング娘。を消滅させるために―――協力してほしいのだ。
「ただ、協力し合える部分があれば協力したいと思うのです。
私達の目的は、あなたのことを縛り付けることではありません。
ただ、この関東に散らばるウイルスを駆逐したいのです。治療したいのです。
その一点でのみ、私達は利害が一致するのではありませんか?」
「あたしに何ができるっての?」
「その血を分けてください。あなたの血を使って、私達は抗ウイルス抗体を作ります。
それで少なくとも、7種類のウイルスのうち、5種類の抗体が作れるはずです。
単純計算で、ウイルスに苦しむ人の7人のうち5人が救われることになります」
マキの心がぐらりと揺らいだ。
これまで誰もマキの前に確かな道のりを示してくれる人間はいなかった。
あの老人だって、自分の都合でしかマキを助けてはくれない。
「そのさ。ヤマザキってのはウイルスを集めてどうするつもりなんだろう・・・・?」
「目的はエリと同じはずです。『究極のモーニング娘。』を作りだし、太陽を操る」
「だからその・・・・あたしを適格者としてキープしている?」
「いいえ。おそらくヤマザキはあなたが適格者であることを知らない。
アベナツミこそが唯一の適格者だと思っているのかもしれません」
- 915 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:21
- 「急いで結論を出すことはないと思う」
皆が一斉に声のした方を向いた。視線の先にいたのはカオリだった。
右肩には「3」のタトゥーが掘られている。マキの「8」と同じ字体だった。
「そんなのすぐに決められない。一日や二日は考える時間があってもいいと思う。
あたし、その子と話したいことがたくさんある。それにきっとその子も、
あたしと話したいことがあるんじゃないかな。どうかな、きっとそうでしょ?」
マキは深く頷く。
自分でも驚くくらい素直に頷くことができた。
このカオリという少女は、初めて会ったとは思えなかった。
ただ一緒にあの施設にいたというだけで、マキの心を動かす何かがあった。
大人しそうに見えるこのカオリという女のどこにこんな積極性が潜んでいたのだろう。
カオリはサユの返事を聞かないまま、マキの手を取って強引に部屋の外に連れ出した。
コンノが立ち上がり、カオリとマキの後を追う。
サユは何も言わなかった。
それどころか、後を追おうとするコハルとミツイの動きを制した。
「私達ができることは全部やりました。あとはイイダさんに任せましょう」
- 916 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:21
- ☆
- 917 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:21
- マキは何も喋らなかった。ただカオリの方だけが一方的に喋り倒していた。
話の内容は主に施設での生活のことだった。
番号を入れられた地味な服。味もそっけもない食事。単調な検査の毎日。
壁越しに話していたイシグロやアベの話。
ウイルスを投与された日から異常な耳鳴りに苦しめられていたこと。
そしていつしか聴覚が異常に発達し、施設内の会話が全て聞こえていたこと―――
「ゴトーはサヤカのことが好きだったんだね」
他の人間にそんなことを言われたなら、即座に強く反発していただろう。
だがカオリの言う「ゴトー」は、イチイが言ったときのような優しさが感じられた。
「全部聞こえてたって・・・・・・もしかして」
マキはようやく重い口を開いた。
キャリアがいうところの「異常」の程度がどれほど突き抜けたものなのか。
マキは痛いくらいにそれを知っていた。
「ごめんね。あの頃のゴトーとサヤカの会話も、全部聞こえてたんだ。
サヤカが苦しんでたことも、ごとーが苦しんでたことも知ってた。
でもあたしは―――何もできなかった。ごめんね。ただ聞いていただけなんだ」
- 918 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:21
- なおもカオリは「ごめんね。ごめんね」と繰り返しながら涙を流した。
何を泣くことがあるのだろうか。苦しめられたのはカオリのせいではないのに。
あれは全て―――テラダとカメイが行った実験だったのに。
「カオリは悪くないよ」
全ての会話が聞かれていたということにも、嫌悪感はなかった。
カオリだって興味本位で盗み聞きしていたわけではないだろう。
あの地獄の苦しみを味わっていたのは、自分一人ではなかったということだ。
きっとカオリには、ゴトウやイチイだけではなく、
ウイルスを投与された人間全員の苦しみの声が届いていたのだろう。
聞きたくないと耳を閉じても、こじ開けるようにして入ってくる苦悶の声。
暗い部屋の中で一人、それを聞き続けなければならないという状況。
それは―――どれくらい辛いことなのだろうか。
マキは想像しようと試みた。想像することすら辛いことだった。
カオリの涙は、きっとマキに対しての弁解の涙ではないのだろう。
自分の人生に決定的に介入してきた―――
悪魔のような出来事に対しての、ささやかな抗議なのかもしれない。
ささやかすぎる。それだけが抗議だなんてささやかすぎる。
マキは、テラダやカメイに対して、それだけで終わらせる気はなかった。
- 919 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/19(木) 23:22
- 「ねえ、カオリ。あたし、決めたよ」
まるで十年来の友人に対してのような気安い口を利いた。
そしてマキはまだ震えているカオリの肩をそっと撫でる。
そこにある忌まわしいタトゥーも、今はマキとカオリをつなぐ一つの絆だった。
「あたし、当分の間、サユっていう子に協力してみようと思う」
サユの話を信じたわけではない。
彼女の表情の奥には、何かどす黒いものが渦巻いているように見えた。
きっとまだ、その胸の内には秘密にしていることがあるのだろう。
だが構わない。騙すなら騙せばいい。あたしを利用するなら利用すればいい。
マキはサユを信じるのではなく、カオリを信じてみようと思った。
カオリがサユについていくというのなら、しばらくの間それを支えてあげよう。
あたしはカオリの人生に介入しようとしているのかもしれない。
思いっきり干渉しようとしているのかもしれない。
それはマキのルールに反することだった。
だがカオリの願いには、マキのルールを捻じ曲げるだけの強い思いがこもっていた。
「きっとあたしにはできない・・・・・だからお願い。テラダを殺して」
マキの心は決まっていた。カオリの細い体をぎゅっと抱きしめる。
あえて返事はしなくても、カオリにはマキの答えが伝わったはずだ。
マキは返事の代わりに、自分の右肩に掘られた「8」のタトゥーをぐっと掴んだ。
- 920 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/19(木) 23:22
- ★
- 921 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/19(木) 23:22
- ★
- 922 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/19(木) 23:22
- ★
- 923 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:06
- その日のうちに、マキは自分の血をECO moniに渡した。
どうやらこの血を使って分割ウイルスの抗体を作成するらしい。
神社の中には、まるであの施設のような最新鋭の設備が整っていた。
「うーん。これだけじゃ足りないかもしれませんなあ。すんませんけど、
追加で採血すると思いますんで、もう二、三日ここらでぶらつていてください」
実験を担当するのはミツイという、いかにも小利口そうな少女だった。
隣には頬のふっくらとした可愛らしい少女がついていた。
この少女もミツイと一緒に実験を担当するのだろうか?
だが少女はマキのところに近づいてくると「話がしたい」と言った。
少女はコンノと名乗った。カオリが慌ててマキとコンノの間に入ってくる。
「ちょっと待ってコンちゃん。この人にはこの人の事情が」
「大丈夫ですよイイダさん。おおよそのことはわかってますから」
「でも・・・」
「このままアヤさん達が帰ってきたらマズイでしょ?」
コンノの言う通りだった。
アヤとミキはGAMを襲撃したマキのことを敵視している。
このままこの神社で大人しく呉越同舟というわけにはいかないだろう。
それをとりなすことができるとすれば―――それはやはりコンノしかいないだろう。
- 924 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:07
- (アヤ? そういえばGAMのリーダーがそんな名前だった・・・・・・)
マキはカオリがGAMと行動を共にしていたことを思い出していた。
サユの話に動転するあまり、そんな基本的なことすら忘れていた。
目の前にいる少女にも見覚えがある。
GAMのメンバーについて詳しく調べていたときにコンノという名前があった。
ミキと共にGAMの精製を担当している薬剤師ではなかったか。
「ゴトウさん。GAMのことについてはどれくらい調べてますか?」
「だいたい知ってるよ。アヤ。ミキ。そしてコンノ。あんたのこともね」
「ゴトウさんの目的は・・・・・・・・・」
「GAMの殲滅」
「やはりそうですか。ではわたしのことも殺しますか?」
勿論そのつもりだった。だがこうやって面と向かって言われると答えにくい。
今ここで銃を抜くほどマキも先の見えない女ではない。
マキはくだらない冗談で話を逸らせた。
「GAMはここで何をしてんの? まさかECO moniに薬をさばいてるとか?」
「いいえ。うちはウイルス抗体作成を手伝っています」
「麻薬組織がウイルスの治療? なにそれ。新手のボランティア活動?」
どうしてもマキの言葉は刺々しくなる。
だがコンノは声を荒げることもなく、淡々と説明を続けた。
- 925 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:07
- 「いいえ。ビジネスです」
「は! 苦しんでる人からお金をむしり取るってか! さすがだね」
コンノはマキを挑発したいわけではない。ただ、綺麗事を言うつもりはなかった。
GAMにはGAMの理屈がある。
同意してもらえるはずもないだろうが、正しく理解してほしいとは思った。
「誰だって、お金をもらわなければ食べていけません」
「金のためなら麻薬でも売るのかよ」
「もしこのウイルス抗体が完成すれば―――うちは麻薬からは手を引きます」
嘘ではなかった。アヤとは既にそういう話を始めている。
アヤにも、いつまでも裏の世界でうろうろしているつもりはなかった。
いつかは表舞台に躍り出て、表のビジネスの世界で頂点を目指す。
ウイルス抗体はその大きな足掛かりとなるだろうと、彼女は考えていた。
「だからってGAMがこれまでにばら撒いた麻薬が消えてなくなるわけじゃない」
「でも、少なくとも未来の麻薬は減ります」
「ふざけんなよ。あんたらが辞める前に、あたしが潰してやるよ」
「その必要はないです。ゴトウさんが潰す前に、あたし達が自分から辞めます」
マキは戸惑った。
この少女は何を言っているのだろう。そして自分は何を言っているのだろう。
- 926 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:07
- 「過去のことを許してくれとは言いません。麻薬は麻薬、罪は罪です」
「当然だよ」
「でもこの件が落ち着くまでは、休戦してくれませんか?」
「休戦?」
コンノの独断だった。アヤやミキの意見は聞いていない。聞けるはずもない。
だが今の状況では、抗体作成にはマキの協力が不可欠だ。
たとえ水と油でも。猫と鼠でも。今は二つを交り合わせる必要があった。
「アヤさんもミキさんも、いずれゴトウさんと決着をつけるつもりです。
でも今じゃなくてもいい。待ってください。一年も二年も待たせません。
ほんの数ヶ月。テラダとカメイを片付けるまでの間は、手を結びませんか?」
「・・・・・・あたしが『いいよ』とでも言うと思うの?」
「あたしはGAMのリーダーではありません。返事はアヤさんにお願いします。
ただ、知っていてほしい。あたし達だっていつまでも麻薬を売るつもりはない。
本気でこの関東にはびこるウイルスを一掃したいと思ってるんです。
あたし達にはそれができる。もしそれが罪滅ぼしになると思ってもらえるなら、
その仕事が終わるまではゴトウさんに待ってほしいんです。決着は必ずつけますから」
確かアヤは言っていた。
まずはタカハシやJJ、LLを殺ってマコの仇を討つ。
次にカメイやテラダを殺ってNothingの仇を討つ。
マキの相手をするのは最後だと言っていた。
その順番通りに進むのなら、抗体作成およびSSの壊滅というECO moniの使命とも、
GAMやマキの利害が対立することはないだろう。
- 927 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:07
- 「アヤとミキは・・・・・・どこにいるんだ? ここにはいないの?」
GAMの幹部にGAMのリーダーの居場所を尋ねる。
あたしはなんてバカなことをやっているんだろう。
マキはコンノの会話にすっかりペースを乱され、冷静さを失っていた。
「二人は今は裏切り者の処分に取りかかっています」
「裏切り者?」
「ゴトウさんもよく知ってるでしょう。麻取のタカハシアイですよ」
「そっか・・・・・結局あいつはGAMを裏切ったんだ・・・・・・・・」
「後輩を助けに行きますか?」
「冗談。別に仲間でもなんでもないし。殺り合いたいなら勝手にやればいい」
「やっぱりそうでしたか・・・・・」
アヤのにらんだ通り、やはりマキとタカハシは協力してなかったのだ。
マキが助けないとすれば、タカハシを殺るのはさして難しくないだろう。
遠からずアヤとミキは帰ってくる。マキと鉢合わせするのも時間の問題だろう。
それまでに、マキには答えを出しておいてもらわなければならない。
「とにかく私からお願いしておきます。まずはウイルスを撲滅させましょう」
「自分勝手なお願いだね」
「ゴトウさんの願いは―――GAMの完全壊滅?」
「そうだよ」
マキの意志は固そうだった。とてもコンノでは説得できそうにない。
こんなときにアヤなら何て言うだろうか?
- 928 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:07
- 「GAMの残りメンバーは四人」
「え?」
「アヤさん、ミキさん、あたし、そしてイイダさん。これで全部です」
「またまた。そんなの嘘でしょ?」
本当は嘘だった。コンノはあえてあの子犬はカウントしなかった。
マキには何の関係もない子犬だ。あえて教えることはない。
「嘘じゃないです。あのときの立体駐車場でのゴトウさんの襲撃。
それにタカハシとJJ、LLの裏切り。こういった事態が続きました。
今ではこの神社にお世話になっている四人が、GAMの全メンバーです」
「たった四人・・・・・・・」
JJとLLと言えばGAMの殺し屋集団の一員だ。
ついさっきまでタカハシとニイガキと行動を共にしていた。
神社の周囲をうろついていたのはGAMが狙いだったのだろう。
どうやらコンノが言っていることは嘘ではないらしい。
「もう麻薬は作らないって言ったのはそういう意味もあります」
「だからって・・・・」
「そう。だからといってゴトウさんに何かを強制するつもりはないです
あとはゴトウさんの考えに任せます。返事はアヤさんにしてください」
「・・・・・・・・・・・・」
いくら言葉を重ねても、マキの視線は冷たいままだった。
コンノは唇を噛んだ。やはりアヤのように上手くはいかない。
説得できたという手応えは得られなかった。
マキは氷のような表情を崩すことなく、コンノの前から姿を消した。
- 929 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:07
- ☆
- 930 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:08
- マキはその夜は神社に泊まることにした。
広い部屋に敷かれた布団は、ふかふかで心地よかったが、眠れる気はしなかった。
体は疲れているのに、気ばかりが妙に張っていた。
意識しているわけではないのに、勝手に皮膚の受容器官が高ぶっていく。
マキはいつも以上の鋭敏さでもって神社の敷地内の状況を把握していった。
神社の塀には結界が張られている。一分の隙もなかった。
神社を囲む森には512本の木が生えていた。
リスやネズミのような小動物が52匹ほど。虫の数は二千まで数えて止めた。
神社の裏には小さな犬小屋と大きな水槽があった。
水槽の中にはたくさんの魚がいるらしいが、水の中まではよくわからない。
犬小屋には小さな犬が一匹ぐっすりと眠っていた。番犬ではないらしい。
神社の中には18人ほどの人間が寝泊まりしていた。
そのうち完全に寝入っているのは10人ほどだろうか。
あの変な鳥に変化したコハルとかいう少女は屋根の上に一人ポツンと立っていた。
きっと寝ずの番ということなのだろう。コハルの闘気は結界と同化していた。
マキはECO moniの人間には特に敵意は感じなかった。
むしろ親しみというか、懐かしみのような感情を抱いた。
その感情こそが、何よりも自分が「適格者」であるということを
裏付けているような気がしてならなかった。
自分はここで守護獣とやらに守られて暮らすべきなのだろうか?
- 931 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:08
- ECO moniに敵意を感じない一方で、GAMに対する思いは複雑だった。
ここに来るまでは迷いはなかった。一直線に進んできた。
ただイチイの仇を取るというその思いだけでGAMを追ってきた。
だがあれから三年以上が経っている。マキも少しは冷静に考えることができた。
イチイの精神と肉体を壊したのは確かにGAMだ。あの麻薬だ。
だがイチイがGAMを使うことになったのは、あのウイルスのせいだ。あの痛みのせいだ。
あれと同じウイルスが蔓延している限り、再びイチイのような悲劇が起こるだろう。
それはどうにも我慢ができなかった。それだけはなんとしても防ぎたい。
ではGAMと手を結ぶべきなのか? GAMに協力すべきなのか?
どうしてもマキにはそれができなかった。
自分のたった一人の親友を壊した悪魔と手を結ぶ。
そんなことができるとは思えなかった。
理屈を優先しても、感情を優先しても、マキの心は解放されなかった。
自由になれなかった。マキはずっと縛られたままだった。
何事にも干渉しなくても、介入しなくても、
マキは自分を取り巻く相関関係の糸から逃れることはできていなかった。
あたしが未熟だから?
もっと大人になって、成熟すれば、割り切ることができるの?
あたしはだれのために、なにをなすべきなの?
- 932 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:08
- すっと襖が開いた。カオリが部屋に入ってきた。
「眠れないの?」
マキが起きていることを確信している口振りだった。
きっと呼吸音で寝ているかどうかを判断できるのだろう。
カオリはマキの許可も取らずに、勝手に布団の中に忍び込んできた。
マキの手に何か円筒状のものが触れた。注射器だった。
注射器のシリンジはほのかに暖かい。
まだ採取して間もない血液が詰まっている証拠だった。
「これ、あたしの血。よかったら持って行って」
「え・・・・・・」
昼間のサユの話によれば、今、最も重要なのはカオリの血だ。
これがテラダに渡れば『究極のモーニング娘。』が完成してしまう可能性が高い。
ECO moniという組織が全力を挙げて死守しているものなのだ。
そんな大事なものを自分に渡す意味がよくわからなかった。
「だって、ゴトーも集めてるんでしょ? 被験者の血を」
「でも・・・・・ヤマザキのやってることはテラダと同じだって言うし」
「でもヤマザキとゴトーは違う。そうでしょ?」
- 933 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:08
- 「正直に言うね」
わざわざそんな前置きをしなくてもいいのにとマキは思った。
カオリはこれまで全て正直に己の感情を晒している。
マキにはとても真似できないくらいに、素直に生きている。
そんな一途な生き方をしているカオリが、マキにはとても眩しかった。
「あたしはね。ゴトウマキでもアベナツミでもどっちでもいいんだ」
「え?」
「ごめんね。こんなこと言って」
「ううん。別にいいよ。でもどういう意味?」
「このウイルスがなくなればいいなあって。苦しむ人がいなくなればいいなあって」
それはウイルスに苦しむ人間の声を耳にし続けていたカオリの痛切な願いだった。
もしかしたら、今だってその耳には人々の苦悶の声が聞こえているのかもしれない―――
「抗体ができるのなら、ゴトーの血でもナツミの血でもどっちでもいいんだ」
「うん」
「で、『究極のモーニング娘。』なんてのは完成しなくてもいい」
「うん」
「太陽は太陽として自然にあるべきじゃない?」
「うん」
「だからこの血はそのために使ってほしい」
それはミツイやコンノが進めているはず―――
だがカオリはあえて自分の血をマキに託した。
- 934 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:08
- 「はい、これも」
「え? なに?」
カオリは試験管のようなものをマキに渡した。
キャップのついた試験管の中にも血が入っていた。それが四本。
試験管には「2」「5」「6」「7」というシールが貼ってあった。
「これってもしかして・・・・・・」
「ウイルス投与者の血液サンプル」
「どうしてこれをあたしに?」
「ゴトーにはこれを持つ権利がある。使う権利がある。そして使わない権利もある。
とにかくゴトーには選ぶ権利がある。あの施設でウイルスを投与されたゴトーには」
マキの気持ちは落ち着かなかった。カオリの意図が全く読めない。
サンプルを手に入れた以上、もうマキにはここにいる理由はない。
カオリは遠まわしにここから出ていけと言っているのだろうか?
「これであなたは自由。ECO moniにもGAMにも縛られることはないよ」
「自由・・・・・・」
「あたしの望みは一つ。それはもう言ったね」
「うん。あたしの望みも一緒だよ」
「ありがとう。これでいいんだよ。あたし、ゴトーに会えてよかった」
「やだ。遺言みたいな言い方しないでよ」
「ふふふふふ。ごめんね」
最後におやすみなさいと言うと、カオリは布団から出ていった。
カオリの残したいくつかの優しい言葉は、いつまでもマキの耳から離れなかった。
- 935 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:08
- ☆
- 936 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:09
- とりあえずマキは結論を先延ばしにすることにした。
GAMを全滅させる。その思いに変わりはない。
といってウイルス抗体の作成に全力を上げているコンノを殺す気にはなれなかった。
そしてなにより、カオリのことを殺すことはできない。それは絶対にできないだろう。
イチイに対する自分の思いが薄れたとは思わなかった。
実際にアヤやミキと対峙すれば、その時に何か思うところも出てくるだろう。
その二人だけは生かしておくつもりはなかった。
二人を殺す。これは理屈ではない。一つのけじめだ。
もはや避けて通ることはできない。
だがまず先にテラダを殺し、ウイルスを撲滅させる抗体を完成させる。
その後でアヤやミキと決着をつける。
そんなコンノの提案も悪くないと思い始めていた。
イチイだってウイルスにやられてからGAMにやられたのだ。
同じ順番で事を運ぶのは、それはそれで一つの運命のようにも感じられた。
- 937 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:09
- 神社にいる間、何度かUFAの老人から連絡が入った。
だがマキはそれらを全て無視した。
おそらく自分は、もう二度とUFAの意図の下で動くことはないだろう。
サユやカオリから詳しい話を聞いた後では、
あの老人に対して果たすべき義理はもう残っていなかった。
何一つ説明もせずに、何が被験者を殺せだ。何が被験者の組織を集めろだ。
彼女たちは―――イチイの死に何ら関与していなかったじゃないか。
むしろ騙されていいように利用されていたという思いが強くなっていた。
同類だ。老人もテラダもみんな同じだ。
老人があくまでも『究極のモーニング娘。』作成を目論むのであれば、
真っ先に自分がそれを阻止してやろう。
あたし達の体を良いように利用しようとした人間など、絶対に許さない。
そのためになら、ECO moniにm喜んで協力しよう。
GAMとの決着を先延ばしにすることも厭わない。
少しずつ、少しずつではあるが、マキはそういった思考を積み重ねていった。
神社での生活の中で、マキは自分の進む道を固めていった。
- 938 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:09
- アヤとミキはなかなか神社に帰ってこなかった。
まだタカハシの行方をつかめていないのだろうか。
そういえばJJやLLと行動していたタカハシとニイガキの動きも気になる。
一方、ミチシゲの方も外出していて不在だった。
彼女はカメイとテラダの行方を追っていた。
どうも潜伏先はかなり絞られてきたらしい。
今日は、そのカメイの姿が確認されようだと言って、
かなりの数の部下を引き連れてその地域の巡回に向かっていた。
ECO moniのメンバーはミチシゲの統率のもと、実によく働いていた。
ミツイとコンノは抗体の作成。カオリはそのサポート。
そして庭では―――コハルが白い子犬とじゃれ合っていた。
「コハルちゃんはいいねえ。みんなが仕事してるのに一人で遊んでて」
「ちょっとゴトウさん、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ! 仕事ですこれは」
「仕事? なんの仕事?」
「コハル流、スーパー軍事教練、レッスン4」
「はあ?」
コハルは「フォウ」と言って四本の指を突き立てて胸を張る。
だがマキの目には、ただ子犬とプロレスごっこをしているようにしか見えなかった。
- 939 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:09
- 「この犬を、きちんとした一人前の軍用犬にするんです」
「へー。軍用犬ねえ」
そういえばゼロとは途中で別れたままだった。
あの時、ゼロには麻取本部に帰っていろと命令した。
まさかここまでこの神社に長居することになるとは思っていなかった。
ゼロも随分と寂しい思いをしているだろうが、
ここから麻取本部まではかなりの距離があるので、呼び寄せることはできない。
マキはポケットに入れた拳銃から一発だけ弾を抜き取って投げた。
子犬はそれに鋭く反応し、地面に転がった弾の周りをぐるぐると回った。
次にマキが拳銃の安全装置を外すと、子犬はバッと地面に伏せた。
鋭い眼光だけなら、もう十分に一人前の軍用犬と言えるかもしれない。
「おや。なかなか反応いいじゃない」
「そりゃー、コハルの仕込みがいいですから」
そう言いながらもコハルは驚いた。この子犬がこんな素早い反応を示すとは。
何回仕込んでもコハルの命令にはなかなか従わない犬なのだ。
マキの手際の良さには、素直に感心した。
「ゴトウさんも犬、飼ってるんですか?」
- 940 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:09
- 「まあね。この子より、ちょっと大きい子を飼ってるよ」
「えー! もしかして軍用犬ですか?」
「うん。あたしが鍛えたわけじゃないけどね」
マキは地面に落ちた銃弾を拾い上げた。
その手で子犬の頭をくしゃくしゃと撫でる。
子犬は何とも言えない愛嬌のある顔をしていた。
真っ白な毛をしていることを除けば、施設にいたころのゼロとどこか似ていた。
「いいなあ! いいなあ! 今度連れてきてくださいよ」
「そうだね。この子のいい遊び相手になるかも」
「なるなる! 絶対連れてきてくださいよ!」
「わかったわかった。わかったから! そんなくっつかないの」
「いひひひひひ」
コハルは元気な子だった。子犬と同じくらい無邪気な子だった。
彼女に接している時はマキも憂鬱な自分の運命を忘れることができた。
だがいくらマキが忘れようとしても―――運命の方がマキを逃さなかった。
森の向こう側で四人の人間が蠢く気配がした。
マキの表情ががらりと変わる。コハルもその意味を敏感に察する。
「コハルちゃん。お客さんが来たみたい」
「がってん承知の了解です!」
コハルはその場をマキに任せ、子犬を抱え上げて、カオリのいる部屋へと走った。
- 941 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:10
- ☆
- 942 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:10
- 準備は万端だった。
ナッチはLLのリクエストに完璧に応えて、武器を準備してくれた。
もっともその作業のほとんどはニイガキが代行したものだったが―――
とにかく資金と業者を用意してくれたのはナッチだ。
四人は準備を整え、再びイイダカオリが潜伏している神社へと向かった。
襲撃する一時間前に、陽動作戦としてカメイが動く手はずになっている。
今頃カメイはECO moniの偵察部隊の鼻先をうろついているはずだ。
上手くいけば、ECO moniの人員をいくらか分断することができるだろう。
ニイガキは携帯でナッチと頻繁に連絡を取っていた。
ナッチはナッチでカメイと連絡を取っている。
ベストのタイミングを図りながらタカハシ達は襲撃に備えていた。
「はい。はい。了解しました。これから動きます」
ニイガキは携帯を切ると三人に向けて指で合図した。
どうやらカメイの方にECO moniの部隊が引き寄せられたようだ。
イヤホンを耳にしたJJとLLが、手はず通り二手に分かれて神社の側面に回る。
ニイガキとタカハシはその場に残った。
四人が同時に動くようなことはしない。
ニイガキは連絡役とタカハシのサポート。JJとLLがメインの襲撃部隊。
タカハシは、JJとLLから少し遅れて神社に入る。
JJとLLが暴れている最中に、タカハシがイイダを狙うという計画だった。
タカハシがダメならニイガキが狙う。三段階の構えで襲撃に臨んだ。
JJとLLが火炎放射器を構える。
- 943 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:10
- ☆
- 944 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:10
- マキは皮膚の感覚受容体を最大限に広げた。
信じられないくらいクリアな立体映像がマキの脳裏に描かれた。
なにこれ。すごい。
森に満ちた神気が、張り巡らされた結界が、マキの能力をいつも以上に高めていた。
これまで感じたことのないような鋭敏な感覚がマキを貫いた。
マキの体内を神経伝達物質が駆け巡る。
迸る電気信号は小さな雷となってマキの皮膚から放電されていった。
見える。全てが見える。
西側から侵入してきたのがJJ。東側から来たのがLL。
二人はともに火炎放射器で森の木々に火を放っている。
ダイレクトに襲撃するのではなく、まずこの神社の結界から崩そうとしている。
JJ達の動きには計画的なものが感じられた。
やはり四人の狙いはGAMではなくECO moniだ―――マキは確信した。
派手に動いているLLとJJの背後にはニイガキとタカハシが控えていた。
二人が狙っているのはカオリである可能性が高い。
だがマキは動かない。カオリはコハルとミツイが守ってくれるはず。
たとえ重火器を持っていようが、ニイガキやタカハシは怖くない。
今マキがすべきことは―――JJとLLを討つことだった。
マキはJJとLLの動きに細心の注意を払った。
- 945 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:10
- 「燃えてる燃えてる! ヤバイよみっつぃー!」
コハルは窓から顔をのぞかせた。森の西側と東側から火の手が上がっている。
結界に守られた森が燃えるなんて、普通では考えられない。
カメイによってお祓いを施された人間が来たとしか思えなかった。
抗体の作成を進めていた研究室は、ちょっとしたパニックに陥っていた。
研究室が燃えてしまってはこれまでの努力が水泡に帰す。
それどころか被験者のサンプルが失われれば、
抗体を作ることは永遠に不可能になってしまうだろう。
そこにいた全員が、大わらわでサンプルやデータの持ち出しの準備にかかっていた。
「敵は? まだ見えへんのか?」
「全然こないよ。庭にいるゴトウさんも動かない」
「ゴトウさんも? あの人の能力があったら敵の動きは即座にわかるやろ」
「でも動かないよ。どうしたんだろう?」
「コハルはイイダさんの護衛を頼むわ。うちちょっと行ってくる」
「ミッツィーどうすんの?」
「とにかくあの火を消してくる。ええな。お前は動くな。イイダさんを守るんや」
ミツイは研究室撤収の準備はコンノに一任した。
そしてそのまま神社の裏側にある巨大な水槽の方へと向かう。
森についた火は、熱気が神社のそばまで伝わってくるほどに大きくなっていた。
- 946 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:10
- 巨大な水槽の横には小ぶりなタンクとポンプがついていた。
水槽の中の大量の水は、このタンクによって恒常的に入れ替えられている。
その水を地下水から引き上げているポンプは、
見た目は小さいが、かなり強力なものだった。
ミツイはポンプについている配管の一部を取り外す。
(あー、そういや守護獣は使ったらアカンとか言われてたなー・・・・・)
ミチシゲの言葉は冗談ではなかった。
あの後、本当にミツイとコハルの体には簡単な封印が施された。
ミチシゲの許可がなければ守護獣を召喚することはできない。
だがミツイが持っている水を操る力までは封印されていなかった。
今は―――その力を使うべきときだ。
ミツイはポンプのスイッチを入れた。
凄まじい勢いで水があふれ出てくる。ミツイはそれを頭から浴びる。
全身で水を吸収しながら、同時に体中の発汗細胞を機動させた。
ミツイ自身が小さなポンプと化した。
その体からスプリンクラーのように水が弾き飛び―――
やがて真っ白な濃霧が発生して森の方へと流れていった。
- 947 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/23(月) 23:11
- ミツイが発生させた人工的な霧は、驚くべき速さで森を包んだ。
森の温度が急激に下がっていく。
放たれた火の勢いもそれにつれて小さなものになっていった。
それを見て―――LLは会心の笑みを漏らした。
無線でJJに連絡を送る。
「ここまでは予定通りですネ。じゃ、そろそろ本番と行きましょうカ?」
火を放ったのはあくまでも青龍の動きを封じるためだった。
ビデオを見て研究したLLは、青龍が大量の水を必要とすることを見抜いた。
水が切れればあの化け物もただの少女に戻る。
まずは大量の水を使わせることだ。それが一つのアドバンテージとなる。
おそらく青龍は消火を続ける。JJとLLの標的は朱雀とかいうやつだ。
だが火を操るという朱雀も、この濃霧の中では力を発揮できないかもしれない。
全てはLLの思惑通りに進んでいる。なんとかして素の殺し合いに持ち込むのだ。
それができれば、そこから先はJJとLLのフィールドだ。
誰に後れを取ることもない。
LLはカチリと頭を戦闘モードに切り替えた。ここから先は余計なことは考えない。
イイダのことも、タカハシのことも、ニイガキのことも忘れた。
ただ目の前の敵を殺すことだけに集中する。小細工は抜きだ。
LLが森を抜けると同時に、向こう側の森からJJが出てきたのが見えた。
そしてLLとJJを結ぶ直線の上に―――人影が一つ見えた。
手に銀のナイフを持った、真っ黒な少女だった。
- 948 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/23(月) 23:11
- ★
- 949 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/23(月) 23:11
- ★
- 950 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/23(月) 23:11
- ★
- 951 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:04
- 神社の様子を映し出している監視カメラのモニターを、コハルは見ていた。
傍らにはカオリが寄り添っている。
二人の周りはECO moniのメンバー数人が固めていた。
神社に侵入してきたのは二人。他には誰もいなかった。
結界を破って侵入してきたということから考えて、
あの二人がカメイの放った刺客であることは間違いないだろう。
ECO moniの力を誰よりも知るカメイだ。ただの刺客だとは思えなかった。
コハルは携帯に向かってがなり立てる。
「ミッツィー! 火はまだ消えないの? 早くゴトウさんのサポートに回って!」
「もう終わった・・・・・・すぐ・・・向かうわ・・・・・・」
ミツイの声はどこか苦しそうだった。消火のためにかなり体力を消耗したようだ。
だが泣き言を言っているときではない。
今こそまさに「非常事態」であり、その非常事態こそECO moniの日常なのだ。
少なくともミチシゲはそう言った。それに立ち向かうことが『覚悟』なのだと。
ここで働けないようなら、ミツイにもコハルにもこの組織における存在価値はない。
コハルは腹を据えて、モニターに映るマキの姿を見守った。
- 952 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:04
- JJは辺りの様子を窺った。
庭に立っているのは一人の少女。それ以外に人の気配はしなかった。
残りの人間はイイダカオリの護衛に回っているのだろうか。良い判断だ。
するとこの女がカメイの言うところの「朱雀」なのだろうか?
ならば相手が変身する前に決着をつける必要があった。
JJは慎重に間合いを詰める。女まで十メートルほどの距離で止まった。
女は銀色のナイフを持っていた。JJに背を向け、LLの方を向いている。
その姿勢は「棒立ち」という表現がぴったりだった。
こちらの攻撃を誘っているのだろうか?
だが最初に一歩を踏みこんだのは、JJでもLLでもなかった。
黒いジャケットをまとった女の背中が急に大きくなる。
次の瞬間にはJJの鼻先までナイフが伸びていた。
何も考えることができなかった。視界一面に銀の稲妻が走る。
それがナイフだったということに、背後に倒れこんでから気付いた。
JJは反射的にバックステップを踏んでいた。だが間に合わなかったようだ。
JJの愛らしい鼻は、銀のナイフでざっくりと抉られていた。
鼻の肉が不安定な状態でゆらゆら揺れているような気がした。
痛みはない。ただ驚きがあった。この動きの速さは何だ。人間業ではない。
女の背後からLLの拳が飛んできた。
- 953 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:04
- 庭にたった一人しかいないことを確認した時、
LLもまた、JJと同じようにこの女が「朱雀」なのだろうと思った。
カメイから得た情報によると真っ赤な火の剣を操るらしい。
あの銀のナイフが燃え上がるのだろうか?
それとも青龍のように、飛び道具的な能力を使ってくるのだろうか?
LLは大胆に一歩一歩女に接近していく。
どちらにしても能力者相手に拳銃を使うのは適当ではない。
何よりも信頼している、自分の拳で戦う。
相手が人間ならば、誰にも負けるつもりはなかった。
相手が―――ただの人間ならば。
女の目つきは妙に茫洋としていた。焦点がどこにも合っていない。
LLを見るでもなく、森を見るでもない。
まるで幽霊のようにつかみどころのない女だった。
ただ、確固たる殺気は、間違いなくその身に充満させていた。
その黒い幽霊は―――突如としてLLから遠ざかり、JJの顔を抉った。
飛び散る血飛沫が戦いの幕開けを告げるゴングだった。
LLは「はあっ!」と気魄を焚きつけ、渾身の一歩を踏み出す。
その一歩は、相手との距離を詰めると同時に、裂帛の一撃の踏み込みとなっていた。
ナイフを持つ相手の右手を、確かにとらえたと思った。
だが次の瞬間、吹き飛ばされていたのはLLの方だった。
- 954 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:04
- JJの目には、女の背後から伸びるLLの拳の軌道が、はっきりと見えた。
こういう命のやり取りの時は、妙に時間が遅く流れるものだ。
まるでコマ送りのスロー再生のように、筋肉の細かい動きが見えたりする。
LLが狙ったのは相手の顔や腹といった急所ではなかった。
実戦において、相手と自分の力が釣り合っている場合は、
そういった急所に致命的な一撃が入ることはほとんどない。
むしろ相手の動きを止めたり、武器を封じたりすることが有効な攻撃となる。
LLの狙いは相手の武器だった。
ナイフを持つ右手に向けて必殺の正拳突きを放つ。
LLの意志が込められた筋肉の動きが、JJにははっきりと見えた。
JJは相手のナイフが弾き飛ばされたという前提で、次の動きの予備動作に入る。
女がLLの一撃をかわせるとは思えなかった。
その女の筋肉は、動きらしい動きを全く見せなかった。
だが―――LLと女が衝突した瞬間、LLは数メートル先まで吹っ飛ばされていた。
なんとういう動作の速さだ。
LLが吹っ飛ばされた後で、JJは女の筋肉の動きがなんとか理解できた。
筋肉の動きと体の動き。信じがたいことだったが、その二つがほぼ同時だった。
女はまるで―――瞬間移動するかのように動いていた。
- 955 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:04
- LLが触れたのは女の指ではなく、ナイフの柄だった。
そこに触れた瞬間、稲妻のような電流が体を突き抜けた。
数万ボルトの電流がショートを起こした時のように、LLは吹っ飛ばされた。
地面に転がってもなお、体を貫く痺れは消えなかった。
膨大な電撃照射を受けて、LLの身体感覚を制御する神経回路が麻痺する。
体の感覚が一瞬にして消えた。完全に消えた。
それは麻痺というような生易しいものではなかった。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚。全ての感覚が消失していた。
不思議な感覚だった。まるで無重力状態の中を漂っているようだった。
この感覚。この戦い方。どこか似ている。誰かに似ている。
LLは必死に感覚を取り戻そうとしながら、過去の記憶を探っていた。
さほど時間はかからなかった。あの赤い女。赤い霧の女。
ナッチと戦ったときの感覚ととても似ていた。
いや、似ているというのは正確ではない。真逆だった。
ナッチの血のように、相手の全てに干渉するような傍若無人さはない。
むしろ逆に、相手の全てを弾き飛ばすような、拒絶するような、
氷のような冷たさがあった。
こいつは生まれながらの殺し屋だ―――JJのような。
- 956 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:05
- LLを吹き飛ばし、女が態勢を整えたときには、既にJJは立ちあがっていた。
鼻筋から唇をつたう血の流れが、肌にべとついて少し鬱陶しかった。
だがそんなことをのんびりと考え続ける暇は与えられなかった。
銀のナイフが唸りを上げて襲いかかってくる。
フザケンナ
JJの筋肉は人間の生理機能を超えた速度で動いた。
動かしていたのは「怒り」という感情だった。
人間の身体機能には通常、固くロックがかけられ、限界を超えた動きを抑制している。
理性や知性ではその鍵を外すことはできない。
それを可能にするのは度を超えた「怒り」か「恐怖」かのどちらかだ。
JJは物心ついた頃から使い続けているナイフで、女の攻撃を受け止めた。
他の何であるならともかく、ナイフで負けるとは思わなかった。
ましてやこちらはLLと二人。二対一の状況なのだ。
青龍のような化け物に負けるのなら仕方がない。
だがこの状況で相手に後れを取ることは、JJのプライドが許さなかった。
あまりの怒りに呼吸も乱れた。めまいもする。
だが、それらを制御しようという意志はもう働かない。
JJは精神的な面でも既にロックが外れていた。
一匹の野獣と化したJJは、言葉にならぬ声を上げてナイフをふるい続けた。
- 957 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:05
- 電流は蛇のようにのたうち回り、LLの神経回路を焼きつくそうとした。
LLの体の内部情報を全てデリートしようと動きまわっていた。
だがその時、LLの体の中で血が騒ぎ出した。
ナッチの意志がこもった血が、LLの体内に常ならぬ流れを作りだす。
「ガ、ギギギィ・・・ガガガガガガガガァ!!!!」
細胞の一つ一つまで体がバラバラになりそうな衝撃だった。
実際、LLの体内では全てが一度、バラバラになったのかもしれない。
LLの血が、神経が、LLという個体の意志を無視して激しく動いた。
時間にすればほんの一瞬。ゼロに限りなく近い時間だった。
突然、神経電流と血流のエネルギーが中和された。
プラスとマイナスが交わった当然の帰結というように、ごく自然に。
LLの体から痺れと痛みが消え、ゼロに帰した。
これもナッチの血を浴びた効果なのだろうか。
LLの体は、力づくで相手の攻撃のダメージを押さえこんでしまった。
体の一番奥の部分で、とんでもない負荷を抱えてしまった気もする。
だがこれでもう、相手の電流による攻撃は無力化できるだろう。
LLは立ちあがってJJのサポートに回ることにした。
それにしても電流による攻撃? 聞いていた話とは違う。
相手は「朱雀」ではないのだろうか? 朱雀は別の場所にいるのか?
だが相変わらず庭には三人の気配しかしない。
とにかく今は―――この女を倒すより道はない。
- 958 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:05
- JJの体には無数の切り傷が刻まれていた。
こちらから攻撃を仕掛けるどころの話ではない。
JJはただただ、致命傷を受けないように最低限の守りをするだけで精一杯だった。
女のナイフ捌きの巧みさは素人のそれではなかった。
ナイフの技術でここまで圧倒されるというのは、JJにとって初めての経験だった。
JJのスタイルが野生と本能ならば、女のスタイルは論理と戦略だった。
女の戦い方は、明らかに、人を殺すための訓練を受けてきた人間のそれだった。
人を殺すために動き、それ以外の動きを一切排除した、精密機械のような動きだった。
銀のナイフがJJの肉をえぐる度に、鋭い痛みが流れた。
そのナイフは、痛み以外の全てを弾き飛ばす。
いや、痛みすら感じなかった。えぐられた後には何も残らなかった。
ナイフが通り過ぎるたびに、JJの体には虚空のスペースが広がっていった。
一つ傷が増えるたびに、JJという存在の欠片が一つ消えていく。
相手の全てを消し去ろうとしているようなナイフだった。
えぐった後に、体内に潜り込んできて、相手の全てを支配しようとする、
ナッチの赤いナイフとは対極にあるようなナイフだった。
干渉して介入して支配する。そこにあるのは強い欲望。
ナッチという女の精神に関しては、JJも少なからず理解できる部分があった。
だがこの黒い女の戦いは、JJの想像の全く及ばぬ世界にあった。
ナンダコノオンナハ? ナンノタメニタタカッテイルンダコイツハ?
- 959 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:05
- JJは明らかに追い詰められていた。
背後から見ているLLにも、相手の女の筋肉の動きが全くつかめなかった。
その挙動はまるで陽炎。予備動作というものが全くないのだ。
相手の動きから、次の動きを予測するということが全くできなかった。
予測できないのなら、こちらも最強最速の攻撃で迎え撃つしかない。
JJだっておそらくそう考えているだろう。
だが相手の速さというのも尋常ではなかった。
特に反応の速さが凄まじい。こちらが捨て身になることを許さないほどの速さだった。
一直線の戦いでは勝てない。LLは戦いを複雑化させるしかないと思った。
LLは背後から女の足目掛けて鋭い下段蹴りを繰り出す。
女はJJと正対したまま、ひょいと足を上げてLLの蹴りを踵で受け止めた。
蹴りを受け止めた力を利用して飛び上がり、JJの横に回り込む。
着地と同時に払ったナイフがJJの脇腹を切り裂いた。
JJは右から、LLは左から反撃に出た。
どんなに強い人間であっても、視界は一つしかないはずだ。
だがこの女はまるで360度全てが見えているかのような対応を見せた。
JJのナイフを銀のナイフで受け止め、LLの突きを肩口でスウェーしてみせる。
反応の素早さが完璧なら、動作の無駄の無さも完璧だった。
LLが、いくらJJとの複雑なコンビネーションを見せても―――止められない。
傷を負わせるどころか、相手の動きを足止めすることすら叶わなかった。
- 960 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:05
- LLが立ちあがった瞬間、JJも二人で戦うことを意識したスタイルに切り替えた。
これまで何度となく二人でコンビを組んで闘ってきた。
二人で組んで倒せなかった敵などいない。
LLの打撃によって相手の体力を確実に奪っていき、
JJのナイフが相手の行動範囲を確実に狭めていく。
竜巻のような二つの動きの行きつく先は、いつだって確実な相手の「死」だった。
だが目の前にいるこの女は、二つのハリケーンを前にしても全く動じなかった。
女の動きには全て意味があった。何よりもそれがJJには信じられなかった。
JJやLLは本能で動く。単調な繰り返しの鍛錬によって刷り込まれた動きは、
一種の条件反射となり、人間の思考よりもはるかに素早い肉体の動きを可能にする。
武術の達人の動きというのは、どれも皆そういった種類のものだ。
だがこの女の動きは明らかに違った。
一つ一つの動きが論理的であり、深い思考の上に組み立てられたものだった。
まるで難解な数学の証明問題を解くように、女は二人の攻撃を鮮やかに解いてみせた。
本能ではない。条件反射ではない。経験や勘でもない。電卓による計算とも違う。
女の思考の深さや緻密さは非常に人間的であり、時には―――哲学的ですらあった。
女はその場でJJやLLの攻撃を分析し、その場で最適の反応を編み出してみせるのだ。
あり得ない。信じられない。理解の範疇を超えている。
この一秒にも満たない技のやり取りの最中に、なぜそこまで思考することができる?
女の中で流れている時間の速さは―――人間のものとは思えなかった。
JJの精神をかろうじてつなぎとめていた最後のロックが外れた。
堅牢な鍵を外したのは、怒りではなく―――恐怖だった。
- 961 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:05
- JJの動きが大きくその質を変えた。
肉体の限界を凌駕したような、荒々しくも無駄の多い動きになっていく。
LLにはJJの心の動きが手に取るようにわかった。
JJの肉体を突き動かしているのは恐怖だ。
死の恐怖ではない。未知なるものに対する恐怖だ。
銀のナイフがLLの太ももをバターのように切り裂いていった。
神経とともに動脈がぶつりと断たれた。もうこの足は二度と使えない。
油断したわけではない。切られることはわかっていた。だが避けられない。
まるで詰将棋のように、女は理路整然とした攻撃でもってLLを追い詰めていた。
どのように逃げてもLLの右足が斬られるという結論は変わらない。
右にかわそうが、左に回ろうが、切られるのが遅いか早いかの違いでしかなかった。
自分とJJの命に王手がかかるまで、あと何手だろうか。
それまでに自分は、あと何回攻撃することができるだろうか。
LLは必死に頭を巡らせるが、計算は追い付かなかった。
LLの頭の回転が遅いわけではない。相手の女の計算速度が並外れて速過ぎるのだ。
思った以上に足の踏ん張りが利かなかった。LLの体が右に傾いだ。
それもまた、女の計算通りだったのだろうか。
銀のナイフが流れ星のように瞬き、LLの喉元を流れていった。
ほうき星の尾が銀色から濃い赤へとさらさらと変わっていく。
どうやらチェックメイトの時が来たようだ。命を捨てるなら今しかない。
LLは意識を失う直前に、残った全ての力を掻き集めて右の拳に込めた。
- 962 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:06
- JJは完全に恐怖に囚われていた。
死ぬことは怖くなかったはずだった。
だがこの女のことを理解できないまま―――ゴミのように殺されることが怖かった。
死ぬときも自分は自分でありたい。
自分が自分でなくなるのなら、これまで生きてきた自分は何だったのだ?
無駄か? 無意味か? 空っぽなのか?
女のナイフは、JJが生きてきた意義を全てかき消そうとしていた。
それこそが死の恐怖であると―――JJは初めて気付いた。
自分は、自分は、死を恐れているのかと。
死ぬということがどういうことなのか、銀のナイフによって初めて教えられた。
これまで自分が想像していた「死」などは、ちっともリアルではなかった。
銀のナイフがJJの眼前に迫る。くるりとターンしたナイフはLLの腿を抉った。
かなりの深手だ。LLの態勢が崩れる。そのLLの喉元を、ナイフが流れた。
もうLLは助からないだろう。死か。これが死か。
これまでJJが見てきたどの死よりもリアルな死が目の前にあった。
だがLLの命が消えようとした瞬間、
ほんの一瞬だけだが、JJの中で怒りが恐怖を凌駕した。
このままでは死なない。死ねない。冥土の土産に腕の一本でももらっていく。
いや、腕なんかいらない。JJがJJであることを、この女の体に刻む。
一生消えないような―――深い刻印を残す。
JJはあえて銀のナイフに胸をぶつけるようにして、
女の体に体当たりをぶちかました。
- 963 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:06
- ☆
- 964 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:06
- 「おいおい。ちっとも分散してねーじゃんかよ」
神社の構造についてはカメイから情報をもらっていた。
タカハシは監視カメラを巧妙に避けながらイイダのいる部屋までたどり着いた。
だがそこから先に進むのは容易ではないようだ。
襖の隙間から覗き見てみたが、部屋の中には十人以上の人間がいた。
真ん中にいる大柄な女がイイダカオリだろう。もらった顔写真と同じ顔だった。
これなら殺すだけの方が簡単かもしれない。狙撃すれば終わりだ。
だが殺すだけではダメなのだ。イイダの血を取ってこなければならない。
しかもこのままぐずぐずしていればニイガキがやってくるだろう。
それがLLの計画だったが、ニイガキの手伝いなど足手まといもいいところだ。
ここはあたしの仕事。あたしがビシッときめる。
タカハシは懐から催涙ガスを取り出すと、ピンを抜いて部屋の中に投げ入れた。
手榴弾とでも思ったのだろうか。
部屋の中の人間は、転がる缶を見た瞬間、バッとイイダの体に覆いかぶさった。
それはタカハシの予想外の動きだった。
まさか自分の命を盾にしてでもイイダの体を守ろうとするとは思わなかった。
部屋の中にガスが充満していく。
それでもタカハシは部屋に踏み込むことはなく、じっとガスが晴れるまで待った。
ガスが晴れるか晴れないかという時―――その時が相手の気の緩む瞬間だ。
- 965 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:06
- ニイガキはじっと三人からの連絡を待っていた。
だがJJとLLは勿論のこと、タカハシからも何の連絡もなかった。
LLからは二十分連絡がなければ次の行動に入れと言われている。
まだ十分しか経っていない。
だが神社は静かだ。静かすぎる。悲鳴の一つも聞こえないのだ。
それにいつの間にか発生した霧によって放った火も消されようとしていた。
霧―――。またしても霧?
ニイガキはその白い霧からナッチの赤い霧を連想した。不吉な連想だった。
この霧が偶然発生したとは思えなかった。
相手にはナッチと同じような力を持っている人間がいるのだろうか。
ここは―――ここは一つ、臨機応変に動くときではないのか?
十分くらい、十分くらい早いのがなんだよ。関係ないよ。
ニイガキは携帯の電源を切り、持ち場を離れて動き出した。
タカハシが使ったルートをそのままたどって神社の中へと入っていく。
建物の中からは何やら催涙ガスのようなものが流れてきた。
ニイガキは防護マスクを装着して建物の中に入った。
- 966 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:06
- 研究室では一時のパニックが収まっていた。
小分けにした資材の一部は既に搬出が終わろうとしている。
一息ついたコンノがモニターを見ると、庭でJJとLLと戦っているマキは、
戦いをかなり優位に進めているようだった。
ダンスのような優美な動きには、どこか余裕のようなものすら感じられる。
マキは、JJとLLのことを完全に子供扱いにしていた。
JJとLLの暗殺者としての実力をよく知っているコンノにとっては、
マキの戦いぶりはまさに悪魔の所業のように感じられた。
これならばミツイのヘルプも必要ないだろう。
それよりも、タカハシの姿が見えないのが気になった。
マキの話ではJJとLLは二人の麻取と行動しているという。
その一人がタカハシだ。
アヤさんとミキちゃんがいない今、あいつに借りを返すのはあたししかいない。
銃をとるのは得意ではない。だが相手がマコを殺した人間とあれば話は別だ。
言い訳など一つも聞かない。尋問も拷問もしない。それは二流のやること。
ただ一つ、相手には死あるのみだ。
もう一度コンノは神社の監視カメラのモニターに目をやる。
やはりタカハシの姿はなかったが、イイダが避難した部屋の一角から煙が漏れていた。
来た。きっとあいつだ。
コンノは研究室に置いてある武器の中で一番大きなマシンガンを取ると、
煙の出た方へ向って駆け出した。
- 967 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:06
- 「手榴弾!?」
部屋にいた誰もがそう思った。コハルも例外ではなかった。
咄嗟にカオリの前に立ちふさがる。
だが転がった缶は爆発することなく、白い煙を上げ始めた。
それが催涙ガスとわかるまで時間はかからなかった。
コハルはハンカチで鼻と口を覆う。
種々のガスに対する耐性を高める訓練は、幼い頃からしっかりと受けている。
他のメンバーはともかく、コハルやミツイに対しては、こんなガスは無力だった。
それでもコハルは咳き込む真似をしながら、床に伏せた。
相手は必ず隙を狙ってこの部屋に飛び込んでくるはずだ。
その瞬間に剣で切り伏せる。コハルはその瞬間を待った。
だが相手はなかなか姿を現さない。なぜだ。このガスは何のためなのだ。
コハルは必死で考える。だがわからなかった。
ガスがもうすぐ晴れる―――コハルの心に一瞬のエアポケットが生じた。
ガスが晴れようとしたその時、自動小銃の射撃音が部屋にこだました。
コハルが真っ赤な剣を取り出して斬りかかったその先には―――
片手に火炎瓶を持ったタカハシの姿があった。
- 968 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:06
- コハルが手にしていた炎の剣は、タカハシの持っていた火炎瓶を両断した。
火炎瓶は青龍を相手にしたときを想定した武器の一つだった。
銃や砲弾のような物理的な攻撃ではなく、ガスや炎などを使った攻撃が有効。
それがビデオを解析したLLの判断だった。
紅蓮の炎がコハルを包む。タカハシはその脇を通り抜けた。
火炎瓶の炎は通常以上の速さでコハルの体に巻きついていった。
炎はコハルにとっては脅威ではない。それどころか食事のようなものだ。
炎を飲み込むことによって、コハルは朱雀を召喚することができる。
だがこのときはそれが災いした。
コハルの体と激しく相互作用を起こした炎は、強くコハルの体に巻きついた。
それでもミチシゲによって封印を施された体は炎を飲み込むことができない。
ただ強く勢いを増しながら、コハルの力を無駄にパワーアップさせるだけだった。
炎はなかなか消えない。コハルの視界が炎によって遮られた。
タカハシの自動小銃がカオリを守るECO moniの面々をなぎ倒していく。
カオリを守るECO moniのメンバー達は銃を構える前に撃ち殺されていく。
タカハシは立ちはだかる人間を皆殺しにしていった。
死ねや。死ねや。お前らみんな死ねや。
- 969 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:07
- タカハシはトリガーにかける指に力を込めた。
フルオートに設定されている小銃からは無尽蔵の弾丸が放たれる。
血が飛び、肉が裂け、人間がただのパーツとなって散らばっていく。
自動小銃の威力は凄まじかった。
タカハシの目の前では、人間が次々とミンチと化していった。
死ね死ね死ね。あたしの意志で死ね。あたしが死ねと言ったら死ね。
全ての鬱憤を吹き飛ばすかのようにタカハシは銃を撃った。
自分を縛り付けている全ての鎖ごと吹き飛ばしたかった。
アヤに半殺しにされたこと。ナッチに小馬鹿にされたこと。マキに無視されたこと。
全て受け入れがたかった。許しがたかった。
目の前でミンチになっていく人間の顔が、アヤやナッチやマキに見えた。
あははははははは! あははははは!
タカハシは笑いながらECO moniのメンバーを皆殺しにしていく。
こんなに簡単なことなのだ。人を殺すのはこんなに簡単なことなのだ。
難しく考えることはない。あたしが一番だ。あたしは無敵だ。誰にも傅かない。
あたしは特別な人間なんだ。GAM? ウイルス? キャリア? 青龍?
関係ない。この世界はあたしのものだ。あたしはあたしのためにだけ―――
タカハシは最後に一人残ったカオリの眉間に向けて銃口を向ける。
だが次の瞬間、銃弾に払われてハチの巣になっていたのは―――
タカハシだった。
- 970 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:07
- コンノが部屋に入った瞬間、部屋の中がばっと急激に明るくなった。
それが火炎瓶の炎によるものだと気付いたのは、
部屋の中にいる女が、鬼のように自動小銃を撃ちだしてからだった。
炎に包まれているのはコハルだった。
コハルはたたらを踏んで壁にぶつかる。
いつもは炎と気まぐれに戯れているコハルが、
なぜか今は、燃え盛る炎を御しきれていないようだった。
自動小銃の射撃によってECO moniのメンバーが一掃されていく。
銃を持つコンノの手が震えた。
コンノには実戦経験はほとんどない。
戦うどころか、雷のような銃声を聞いただけで、足がすくんでしまう。
だが銃を撃つ女の横顔を見て、コンノの意識は劇的に覚醒した。
タ カ ハ シ ア イ
見間違うはずはなかった。うざい女。面倒臭い女。ややこしい女。格好つけの女。
そしてマコを―――コンノのたった一人の友人を殺した女。
コンノは肩に下げていたマシンガンを持ち上げた。
ずしりと重かった。だがこんなものは一人の命とは比べ物にならないくらいに軽い。
ろくに狙いもつけないまま、コンノはマシンガンをぶっ放した。
時間が止まった。凄まじい銃声がコンノの世界から全ての音と色を奪い取った。
夢を見ているようだった。全てが終わるまで、十秒とかからなかった。
タカハシアイだった生き物は、まるでブロック崩しのように、
一秒ごとに小刻みに弾けていった。
- 971 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:07
- まるで夢を見ているようだった。
ニイガキがタカハシのサポートにたどり着いたとき、
まさにその時、タカハシがイイダに銃口を向けたときだった。
部屋の中には十人以上の死体が転がっている。
どうやら首尾よくいったらしい―――と思った瞬間だった。
ニイガキの見ている前でタカハシが消えていった。
タカハシアイだった生き物は、まるでブロック崩しのように、
一秒ごとに小刻みに弾けていった。
嵐のように吹きぬけていった銃弾が、タカハシの体をさらっていく。
強力なマシンガンの銃弾は、原形をとどめないところまで、
タカハシの体を吹き飛ばしていった。
「うあああああああああああ」
叫んでいたのはマシンガンを撃っていた女だった。
頬が下膨れの、やけに頭のでかい女だった。
女はタカハシがミンチになった後も、取り憑かれたようにマシンガンを撃ち続けていた。
弾が切れた後も、唾を垂らしながら、狂ったようにマシンガンを振り回している。
それを見ながらニイガキは「狂いたいのはこっちだよ」と妙に冷静に思った。
- 972 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/26(木) 23:07
- 実際にニイガキは冷静だったのかもしれない。
そして狂っていたのかもしれない。どっちにしても同じことだった。
ニイガキは叫んでいる女に銃を向けたが、
その間を、火だるまになっている人間が悠然と歩いていった。
火だるまになりながらもその人間は生きていた。
すたすたと歩いて、燃え盛る炎もそのままに、コンノを落ち着かせた。
「コンノさん、しっかりして。大丈夫です。もう終わりましたから」
炎に触れているコンノは、熱そうなそぶりも見せない。なんだこれは。なんなのだ。
なんだ。やっぱり狂ってるんじゃんか。
タカハシを殺したあの女も。火だるまになっているあの女も。
それを冷静に見つめているあたしも―――みんな狂ってる。世界は全て狂ってる。
狂ったまま生きて、狂ったまま死んでいくんだ。タカハシみたいに。みんな狂ってる。
みんなみんなんなんななななんななん狂ってる狂ってる狂ってる狂ってるよよよよよよよよ
だがニイガキに流れるナッチの血が、狂気に逃避することを許さなかった。
タカハシの死と作戦の失敗という、二つの現実を直視することをニイガキの精神に強いた。
ナッチにこの状況を報告することを強いた。
血が―――脳髄を逆流する。
ニイガキはタカハシの死にざまを脳裏に焼き付けたまま、
夢遊病者のようにふらふらと神社の外へ出ていった。
- 973 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/26(木) 23:07
- ★
- 974 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/26(木) 23:07
- ★
- 975 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/26(木) 23:07
- ★
- 976 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:09
- なんとか森の火を消し止めたミツイがふらふらと庭の方に出てきたまさにその時、
マキとJJとLLの戦いに終止符が打たれるところだった。
マキは無傷のように見えた。
その一方で、マキに襲いかかる二人の女はかなり深手を負っているように見えた。
一人の女は足をやられているらしい。
態勢を崩したところを、マキのナイフによって喉を切り裂かれた。
終わったな。
ミツイは一目見てそう思ったが、マキはまだ終わったとは思っていなかった。
LLが最後に捨て身の攻撃に出ることはわかっていた。
それと呼応するように、JJがナイフ目掛けて飛び込んでくることもわかっていた。
最後の最後まで、マキの感覚受容体の感度は衰えなかった。
戦いを見つめているミツイの体力の消費具合までもが、はっきりと知覚できていた。
マキは、極限まで広げていた受容体の感覚範囲を反転させ、極限まで絞り込む。
全てのエネルギーを銀のナイフに込めた。
神社の生気を吸い込んだナイフは、銀のオーラをまとって、
マキの背丈ほどの長さまで伸びたように見えた。
マキはほんの少し身を屈めて、そのナイフをぐるりと一周させた。
- 977 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:09
- JJは自分の胸にあの銀のナイフを突き刺させて、マキの動きを封じるつもりだった。
人間は、心臓を刺されたからといって、即座に動きが止まるわけではない。
命を捨てたその一瞬に全てを賭けるつもりだったが―――その願いは叶わなかった。
JJが最後に見たのは、急激に伸びあがる銀のナイフの姿だった。
ナイフというよりも剣のようになったそれを、女は無造作に振り回した。
銀の剣が、JJの股ぐらからぐいっと浮き上がってくる。
JJが何かを思うより速く―――
剣は、JJの股ぐらから入り、背骨を縦に二つに裂いて、頭頂部までを一刀両断にした。
JJの体がゆっくりと左右に分かれて倒れる。
JJの頭頂部を通過した剣は、そのまま円軌道を描いて、LLの頭に着地する。
その刃が、JJの時とは真逆に、頭頂部から股ぐらまでを一刀両断にする。
LLが伸ばした最後の拳はマキの胸まで届かなかった。
LLの体もまた、JJと同じように左右に二つに分かれていく。
伸ばした拳は虚空をさまよったまま、庭の砂利の上にぽとりと落ちた。
二人の体が飛ばした血飛沫が、シャワーのようにマキの身に降り注ぐ。
だがマキの肌は、その血飛沫すら受け止めることを拒絶し、冷たく弾き飛ばした。
いつの間にか白銀のオーラが、ナイフだけではなくマキの全身を包んでいた。
マキは元の長さに戻ったナイフを腰に収める。
感覚受容体の感度を抑えると、体を包んでいた銀のオーラも消えた。
マキの表情はいつもと何ら変わらない。
二人の刺客を切り倒したマキの呼吸は―――全く乱れていなかった。
- 978 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:10
- 「ゴトウさん・・・・・・終わりましたか?」
「うん」
「こいつらは?」
「GAMにいた殺し屋だね。名前はJJとLLだったと思う」
ミツイもその名前はアヤ達から聞いていた。
アヤ達が例の施設に向かっていた間にGAMを裏切った連中だ。
やはり襲撃をかけてきたのはその連中だったらしい。
「ある意味ではミッツィーやコハルよりも怖い連中かもね」
二人のことを説明するアヤの言葉は、まんざら冗談でもなかったようだ。
マキと戦う二人の姿はミツイもしっかりと見ていた。
あの身のこなし。あの戦いっぷり。まさに殺しを生業とする人間の動きだった。
ミツイは守護獣なしでこの二人に勝つ自信はなかった。コハルにだって難しいだろう。
そんな二人を相手にして、息を乱すこともなく片付けてみせたマキの戦いぶりに、
ミツイは危険な匂いを感じずにはいられなかった。
やはりマキはただのキャリアではない。間違いなく適格者の一人だ。
最後に見せた白銀のオーラは、単なるウイルスの力ではない。
それらを遥かに超えた、真のモーニング娘。の力の一端を垣間見せたような気がした。
今ここで殺すべきではないか?
ミツイの心にはそんな疑問が渦巻いていた。
このままゴトウマキという女を放置するということは―――
結局、カメイがやろうとしていることと同じではないのだろうか?
- 979 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:10
- 「で、あんた何しに来たの? カオリは?」
ヘルプに来た、という言葉をミツイは飲み込んだ。
この人にヘルプなど必要ない。きっと誰の力も頼りにすることはないのだろう。
「イイダさんやったらコハルがガードしてますんで・・・・・」
「あっそう」
マキはただ能面のような表情をしてぼんやりと空を見上げていた。
さわさわと風が流れて庭の草木を揺する。血の匂いがつんと鼻を突いた。
それでもマキは、自分が斬り捨てた死体には見向きもしない。
ミツイにはマキの考えていることがわからなかった。
注意深く周囲の様子を探っているようには、とても見えなかった。
「タカハシとニイガキが神社の中に侵入してるようだけど?」
「え!」
「ガスだ。タカハシが催涙ガスを使ったみたいだね・・・・・」
「ガ・・・・ガスが!?」
ミツイも四家の一員として血のにじむような訓練を受けてきた。
そんじょそこらの軍人や特殊工作員などには見劣りしないつもりだ。
だがマキの能力は、そういったミツイの自信を軽々と乗り越えてみせた。
どうやらマキは、庭に居ながらにして、建物の中の様子が手に取るように見えるようだ。
これが適格者の持つ真の力というものなのだろうか―――
- 980 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:10
- ミツイはじっとマキの次の言葉を待った。
だがマキはそれ以上ミツイとコミュニケーションすることなく、神社に足を向ける。
腰にぶらさげていた銀のナイフがゆらりと揺れた。音もなくマキが動き出す。
走っているようには見えないのに、マキの動きは驚くほど俊敏だった。
ミツイは全力疾走してかろうじてマキの後に続くことができた。
こんなことは、地獄のように厳しかったECO moniでの訓練でもなかったことだ。
ミツイは、マキが自分の能力をどのように使っているのか、全く想像できなかった。
マキの後姿には力みのようなものが全く感じられない。
まるで呼吸をするようにごく自然に、能力を駆使しているように見受けられた。
ミツイはそんなマキの後姿を見つめながら思った。
今の自分はきっとあの人に勝つことはできない。
もし戦ったならば、おそらく真っ向から斬り伏せられる。
だがいつか必ず―――自分はあの銀のナイフとゴトウのことを超えてみせる。
生まれるはずのなかった、時代に選ばれなかった、この不遇の適格者を葬ってみせる。
守護獣がいるとかいないとかは関係ない。
守護獣をも含めた、自分の全存在を賭けてこの女を討ち倒す。
それこそがECO moniの一員としての、四家の末裔としての、自分の『覚悟』だ。
意味もなく血をたぎらせているミツイの耳に―――自動小銃の掃射音が聞こえた。
- 981 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:10
- ☆
- 982 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:10
- マキが部屋に足を踏み入れた時、既にそこにはタカハシの姿もニイガキの姿もなかった。
タカハシの体は、コンノのマシンガンが放った銃弾によって、細切れになっていた。
床に転がっているいくつかの肉片から、生前のタカハシを思い出すことは難しかった。
だがそんなことはマキにとってはどうでもいいことだった。
タカハシは、マキの心に何も残さなかった。
だがコンノの心には大きな傷が残ったようだ。
タカハシが死んでもなお、コンノは部屋の中で髪を振り乱して号泣していた。
それを必死で抑えているのはコハルらしい。
マキと共に駆け付けたミツイも、コハルと一緒になってコンノを宥める。
部屋の中にいるのは、マキとカオリを含めた五人だけだった。
他のECO moniのメンバーはことごとく撃ち殺されたらしい。
カオリの前には、十を超える死体が転がっていた。
死体は皆、カオリを守るようにして、前のめりに倒れていた。
カオリは、自分を守りながら死んでいった屍の山を前にして茫然としている。
マキはカオリに駆け寄り、怪我がないか確認する。
軽いショック症状が出ているようだが、その体は奇跡的に無傷だった。
ニイガキの気配は既に神社の中にはなかった。
マキがここに来る前に撤収してしまったようだ。
四人の襲撃者のうち三人を殺し、一人を逃してしまった。
それがこのECO moniという組織にとって成功だったのか失敗だったのか―――
マキにはよくわからなかった。
- 983 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:10
- とにかく、カオリは無傷だった。一滴の血も流れていなかった。
ということは、ニイガキはカオリの血を持ち帰ることはできなかったということだ。
ニイガキの背後にカメイがいることは確実だ。
カメイでなければ、この神社の結界を破ることはできないという話だった。
タカハシ・ニイガキ・JJ・LL。この四人が一つのグループになり、
カメイの命を受けて、GAMのカオリの血を狙っていたのだろう。
問題はニイガキがどこでカメイと結びついたかということだ。
もしかしたらタカハシとニイガキは、マキよりも早く、
テラダ達の組織を探り当ててしまったのかもしれない。
タカハシはともかく、ニイガキはこの件に巻き込むつもりはなかったのだが―――
もはやこうなった以上、ニイガキのことも生かしておくわけにはいかない。
マキの中で、殺すべき人間がまた一人増えた。
だがマキの心の中には、何の感慨もなかった。
マキは誰にも干渉しない。誰にも介入しない。ただ邪魔なものを排除するだけだ。
邪魔なものを全て取り除いた後、そこには何が残るのだろうか。
案外、自分以外の何も残らないのかもしれない。だがマキはそれでもよかった。
生きる目的、生きていく上での目標。そんなものは一つも必要なかった。
マキはただ、周りからの干渉を受けずに、一人で生きていくことを望んでいた。
そのためにも、自分に干渉しようとする全てのものを排除する。
ウイルス。キャリア。GAM。老人。そして施設の記憶―――
全て自分の中から排除する。マキの意志は強固だった。
- 984 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:10
- コンノは少しずつ冷静さを取り戻していった。
人を殺したのはこれが初めてではない。これまでにも何人も殺してきた。
殺されたメンバーの仇を討ったのも、初めてではない。
だがコンノにとって、マコの存在は他の誰とも比べることができないほど大きかった。
ただ一人、この関東が壊滅する前からの親友だった。
コンノにとってマコは、壊滅前の関東の記憶をつなぐ、唯一の線だった。
幸せな生活をしていたころの、あの頃の記憶と。
そして無法地帯で生き抜いていくのも、常にマコと一緒だった。
いつも一緒だったし、空気のように、そこにいるのが当たり前だと思っていた。
コンノにとってマコを奪われるということは、人生の糸を切られることに等しかった。
それでもコンノはGAMの幹部という立場上、平静を装い、組織のために動いてきた。
それが理屈として正しいと思ったから。コンノは理性で感情を抑え込んだ。
その抑えが今、外れた。タカハシを撃ち殺すことによって外れた。
コンノの心は、その時初めて解き放たれて、自由になった。
マコの記憶からも、タカハシへの恨みからも解き放たれたのだった。
自由という空間は何もなかった。友人も敵も、何もなかった。
突然、心の中に現れた広大な空間を前にして、コンノは戸惑い、恐れおののいた。
空白を埋めてくれたのは、コハルの言葉であり、ミツイの言葉だった。
二人の介抱がなかったらコンノは本当に発狂していたかもしれない。
コンノはようやく、指にからみついていたマシンガンを手放した。
- 985 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:11
- ☆
- 986 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:11
- どこをどう通って帰ってきたのか、ニイガキには記憶になかった。
歩いて帰れる距離ではなかったが、車を運転した覚えも全くなかった。
だがニイガキは、気がつけばナッチの下へと帰還していた。
まるで動脈から送られた血液が、体を巡った後に、静脈から心臓へと戻ってくるように。
ナッチは一人で戻ってきたニイガキを見てにっこりとほほ笑んだ。
何も訊かなかったし、何も責めなかった。
ただしっかりとニイガキを抱きしめて、髪をゆっくりと撫でた。
次の瞬間、ニイガキは髪を全て引き抜かれるかもしれないと思った。
あるいは指を突っ込まれ、眼球をえぐり出されるかもしれないと思った。
ナッチがやりそうなことが次から次へと浮かんできたが、
それと同時に、ナッチは自分の予想を裏切るようなことをするだろうとも思っていた。
自分の予想が外れるだろうというニイガキの予想は当たった。
ナッチはニイガキの顎を引き寄せ、力強く口付けた。
キスされるのは初めてのことではなかったが、ナッチの口付けはいつになく激しかった。
ニイガキは文字通り唇を奪われた。ニイガキの唇がナッチの口に含まれる。
ナッチはニイガキの厚い唇を一通り蹂躙すると、次は舌を捕らえた。
二つの舌が、太極図の陰と陽のように絡まり合う。
ナッチは、スイカでもかじるように、ニイガキの舌をざっくりと噛んだ。
ニイガキは喉を反らして痛みに耐える。
流れ出た血が激しい勢いでナッチの口腔に流れ込んでいった。
- 987 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:11
- ナッチはニイガキの血を吸いこむ。
吸い込みながら、新たな血をニイガキの血管に送り込む。
ナッチの血はニイガキの血管を通り、脳髄にまで達する。
ニイガキの脳に蓄積されていた情報が、血液細胞を通じてナッチに送られる。
ニイガキの記憶がナッチの脳へと流れ込んでいく。
ナッチの脳裏にはニイガキが見た情景が映し出される。
神社の青い森。放たれる真っ赤な炎。タカハシがまき散らした白いガス。
タカハシの前に立ちふさがった、一人の少女。飛び散る火炎瓶の欠片。
そしてタカハシの一掃射撃が始まり、唐突に終わる。
ニイガキの記憶に映ったタカハシが、粉々に砕けていく。
ニイガキの脳細胞は、悲鳴を上げることなく、ただじっと麻痺していた。
その目に一人の少女の姿が映る。
タカハシを撃ち殺した女。下膨れの、頭のでかい女。
その女は狂ったように泣き騒ぎながらマシンガンをぶっ放していた。
ニイガキの心には、その女に対する殺意は湧いていなかった。
ただ惰性で、ニイガキは銃をその女に向け、狙撃が不可能とみるや、
何も考えることなく、その場を離れてナッチの下へと戻ることを選んだ。
- 988 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:11
- 長い口付けが終わった。
ナッチに噛みつかれた傷は綺麗に治っていた。
ニイガキは荒々しく息を吸い込んだ。胸が焼けるように痛む。
口付けをしているときは、呼吸をすることも忘れていた。
「あの女を殺してやろうとは思わなかったの?」
ナッチが言っているのが、あの下膨れの女だということはすぐにわかった。
確かにあの時、火だるまになった人間に邪魔されたのだが、
撃とうと思えば、二人まとめて撃ち殺すことができただろう。
だがあの女に対しては、不思議なくらい殺意というものが湧かなかった。
「ガキさんはタカハシを超えたいんじゃなかったの?」
超えたいと思っていた。タカハシより強くなりたいと思っていた。
そのタカハシはもういない。永遠にニイガキの前に姿を現すことはない。
悲しいような気もするが、ちっとも悲しくないような気もする。
自分はまだ心が麻痺しているのだろうか?
「いいよいいよ。ガキさんはそのままでいいから。そのままのガキさんがいいな」
ナッチの言っている意味はよくわからなかった。
ずっとナッチのおもちゃでいろということなのだろうか。
それも―――楽でいいのかもしれない。
- 989 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:11
- ニイガキはナッチに促されて、その夜のうちに辞表を書いた。
今更なにをという思いも浮かんだが、これも一つのけじめなのかもしれない。
辞表は書いてすぐに郵便で麻薬取締本部に送った。
これでもうニイガキとタカハシを結びつけるものは何もない。
加えて言うなら、マキとのつながりも消えた。
自分はこれからどうすればいいのだろうか?
どこに向かえばいいのだろうか?
それは麻取だった頃も、常に自問自答してきたことだったが、
今のニイガキはそれを考えることが非常に億劫に思えた。
タカハシという一つの座標軸を見失って、ニイガキは彷徨していた。
ナッチはニイガキを導く新たな道標となってくれるのだろうか?
それはわからない。だが今のニイガキにはもうナッチしか残っていなかった。
そして勿論ナッチも―――そのことを十二分に理解していた。
ナッチは我が子をあやすように、優しくニイガキの頭を撫でる。
ナッチの中で、ニイガキという一人の人間が、
有象無象のガラクタから、お気に入りのおもちゃに昇格した瞬間だった。
「ガキさんの心は傷ついたんだね。大丈夫。ナッチが治してあげるから」
自分の意志で動くことを忘れてしまったニイガキの体を、
ナッチは壊れたおもちゃをいじる少年のように、乱暴に揉みしだいた。
- 990 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:11
- ☆
- 991 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:11
- どうやらカメイとテラダが見せた動きは、一つの陽動作戦だったようだ。
その姿を必死に追ったミチシゲだったが、最後まで手掛かりをつかむことはできなかった。
これはダメだということが分かった時点で、神社に連絡を入れる。
そこでミチシゲは神社が襲撃を受けたことを知った。
カオリは無事だったらしいが、警護に当たったメンバーはほぼ全滅したらしい。
ECO moniの人員を分断するというカメイの作戦にまんまとはまってしまったようだ。
ミチシゲは歯噛みしながら神社へと戻った。
神社の森からはところどころから焦げ臭いにおいが漂ってくる。
この神聖な森に火を放たれるということも前代未聞だった。
敵はやはりお祓いを受けて結界を破ってきたようだ。
この神社の存在を知るのはカメイエリくらいしかいない。
もはや向こう側は完全にこちらの動きを把握していると考えていいだろう。
本拠地を移すべきか。ここに留まるべきか。ミチシゲはあまり迷わなかった。
元々、カメイをおびき出すためにここに本拠地を据えたのだ。
襲撃されることは前々から計算に入っている。
今更ここを動くつもりはなかった。
- 992 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:12
- 「なるほど。それで四人のうち三人は返り討ちにしたということですね」
ミチシゲは、コハルとミツイの報告を受けて少し落ち着いた。
襲撃を誘っておきながらカオリを奪われては目も当てられない。
だがどうやらコハルとミツイはカオリを守り切ったようだ。
血の一滴も流させなかったという報告だった。
本拠地をここから動かさないというミチシゲの決意はさらに固くなった。
「はい。JJとLLとかいうGAMの殺し屋二人はゴトウさんが斬り伏せました。
死体はまだ庭に転がってます。ミチシゲさんに確認してもらったら、
コハルに言って庭で焼かせるつもりです。もう一人のタカハシとかいう麻取は
コンノさんが射殺しました。重火器で一掃したので死体は残ってません。
その・・・・・肉片のようなものはまだ部屋に転がっていますが。
その部屋にはうちのメンバーの死体も残ってます。犠牲は十二人でした」
ミチシゲは片手で額を抑えた。こちらの犠牲者が思っていたよりも多い。
相手の力をやや見くびっていたか。逃走した残りの一人の行方も気になる。
「それで? 逃げたっていうもう一人の麻取は?」
「それは・・・誰も姿を見てません。ゴトウさんが気配でそれだとわかったとか」
ミツイはそう言ってマキの方に視線を向けた。
マキは壁にもたれかかったまま、退屈そうに二人の話を聞いていた。
- 993 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:12
- 「どうですか、ゴトウさん?」
「なにが?」
「ニイガキとかいう麻取のことです。何か気付いたことはありましたか?」
「別に・・・・・・」
「そのニイガキとかいうのはキャリアじゃないんですよね?」
「そう。ごく普通の人間」
「それなのにまんまと逃げられた・・・・・・・」
「最初から戦う気があまりないようにも見えたけどね」
「戦う気がない? どういうことですか?」
「さあ。気配でそう感じただけだから。それ以上はなんとも」
普通の人間に十二人も殺られたのか。情けない。
人員はなんとか補充することができるだろう。
だが元からいたメンバーよりも質が落ちることは否めない。
エリはここまで見透かしてこの計画を立てたのだろうか。
昔はそんな回りくどい作戦を立てる子ではなかったのだが―――
「そのニイガキの足取りがつかめればエリの行方もわかるのですが」
「そう? それじゃ一旦、麻取本部に戻ろうか?」
「そうしてもらえますか? ゴトウさんにはぜひそのニイガキという――――」
「ちょっと待ってください」
コンノがミチシゲにストップをかけた。
どうやらもうすっかりといつもの沈着冷静なコンノに戻っているようだ。
- 994 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:12
- 「タカハシとニイガキの動きはずっとアヤさんとミキさんが追っていました。
それでもその二人は姿を現さなかったんです。麻取本部にいるとは思えない。
ここはアヤさんとミキさんの報告を待ってから動くべきだと思うんです」
アヤとミキか―――
そういえばその二人はなかなかこの神社に姿を現さない。
マキは、コンノが密かにこの二人と連絡を取っているのだと思っていた。
自分がここにいる限り、二人はここに戻ってくることはないのだろう。
ずっとそう思っていた。
向こうが来ないというのなら、ここにいても仕方がない。
ゼロのことを放ったらかしにしていることも気になる。
やはり一度は本部に戻るべきなのかもしれない。
マキと同じようなことをミチシゲも考えたのだろう。コンノに尋ねた。
「それで、そのアヤさんとミキさんはいつ帰ってくるのですか?」
「タカハシ達の襲撃を受けたことは連絡しました。すぐ戻ってくるはずです」
- 995 名前:【寛解】 投稿日:2009/11/28(土) 23:12
- マキは時計を見る。襲撃を受けてから、既に二時間ほどが経過していた。
戻る気があるのなら、もう戻ってきても良い時間だ。
マキは感覚受容器の感度をグッと上げた。
神社の周囲数百メートルをスキャンする。だが周囲に人の気配はなかった。
どうやらアヤとミキは当分の間、ここには帰ってこない腹積もりのようだ。
マキはミチシゲに、麻取本部に一旦戻ることを告げて、立ち上がった。
襖に手をかけて、さっと引く。その直前まで、全く人の気配はなかった。
マキの感覚受容体は何の情報も察知しなかった。
だがその襖の向こう側には―――真っ白なスーツを着た女が立っていた。
「やあ、マキちゃん、久しぶり。ゼロ君は一緒じゃないのかな?」
見覚えのあるその純白の少女は、マキの姿を見て百合のようなほほ笑みを浮かべた。
「今日は『もう帰って眠りたい気分でさ』なーんて言わないよね?」
- 996 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:12
- 第八章 寛解 了
- 997 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:14
- ★
- 998 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:14
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- 999 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/28(土) 23:14
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- 1000 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2009/11/28(土) 23:14
- サディ・ストナッチ・ザ・ブラック
ttp://m-seek.net/test/read.cgi/water/1259417619/
- 1001 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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