サディ・ストナッチ
1 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/26(木) 23:00

サディ・ストナッチがやってくるよ


サディ・ストナッチがやってくるよ


サディ・ストナッチがやってくるよ


サディ・ストナッチがやってくるよ
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/26(木) 23:00
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/26(木) 23:00

「幸せになりたい」なんて一度も思ったことなかった

だって「幸せ」っていうのがどういうものなのか知らなかったから

想像することも―――できなかったから
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/26(木) 23:01
第一章  発生
5 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:01
少女は異物だった。

少女はまるで川を泳ぐ魚のように、極端に無駄の少ない動きで
すうっと滑らかに歩きながら施設の門をくぐった。
全ての光を弾くような、鮮やかな金髪をなびかせながら。

いや。
金色の髪は光を弾くのではなく、自ら光を発するかのごとく輝いていた。
まるで自己の内側から沸き起こる全ての光を拒絶するかのように。
全ての光を自分以外の人間に分け与えるかのように。

少女を受け入れる施設のスタッフは、彼女の写真を一見して、
どこにでもいるような不良少女の一つの典型例としか考えなかった。
その判断はある意味では当たりであり、ある意味では大きく外れていた。

だが、この世に生を受けた人間の中では分類不能な、
異物ばかりが集められたこの施設の中でも、
彼女が飛び抜けて異物であることを、施設の人間が思い知らされるまで―――
もう少し長い時間が必要だった。
6 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:01
少女の両脇を背の高い二人の男ががっしりと固めていた。
明らかに軍人と思われる二人の男は、制服の上からもそれとわかるような、
はっきりと突っ張った筋肉を、一分も緩めることなく施設の廊下を歩いていく。

外から見たときは地上5階程度の高さの大きさに感じた施設は、
近づいてみると意外とこじんまりとした建物で、
高さは3階程度しかないようだった。中規模の市役所程度の広さだろうか。

施設の内部は、作りが飛び抜けて新しく、清潔で、
廊下の幅も天井の高さも通常の建物の倍以上あったが、
磨き上げられた床や壁からは、豊かさやゆとりは全く感じられなかった。

おそらく極めて優秀な人間がデザインした建物なのだろう。
建設された目的が、そこに住む人間にとって好意的なものではないということを、
雄弁に訴えかけてくる、冷たい色と冷たい形をした建物だった。
7 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:02
「後藤さん、こっちです」
かけられた声に素直に反応し、後藤と呼ばれた少女はそっと振り向く。
三十を優に超えているであろう男達は、なぜか遥かに年下である自分に対して
ずっと敬語を使っていたが、なぜかそのことに不自然さは感じなかった。

軍人には筋肉と制服と敬語がよく似合う。
後藤は無意識のうちに、二人の男を「軍人」という記号で処理していた。

「壁」「扉」「廊下」「軍人」。皆全て同じ記号だった。
それ以上の意味を求めようとは思わなかった。
後藤は、自分には無関係だと判断したモノ対しては、極端に無関心だった。
自分に関係あると思われるモノに対しても―――
極端ではないが、やはり無関心だった。

物心ついた頃からそうだった。関心を持ってはいけないと思っていた。
本当は心ひかれるものであっても、そこに上手くアプローチできなかった。
いくつかの不器用なやり取りと理不尽な衝突を経て、
後藤は自分の心を、本来あるべき場所からすとんと遠くへ置くことを覚えた。
辛ければ辛いほどより遠い場所へ心を置いてきた。

そして今―――
遠く遠く離れたところに置いてきた心が今、どこにあるのか。
後藤にはもはやわからなくなっていた。
8 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:02
顔を向けた先にあったひび割れたガラス窓からは強烈な夕陽が差し込んできた。
ほんの一瞬、後藤の視線と太陽光線が軌道を一にする。
後藤の視界は全てオレンジの光で満たされ、
二人の軍人も溢れる光の中に埋もれて姿を完全に消した。

このまま―――何も見えなくなってしまえばいいのに。
世界の全てがオレンジ色の中に消えてしまえばいいのに。

そんな思いを込めて、後藤はゆっくりと視線を動かす。
もちろん、太陽光線もそんな後藤の動きとは無関係にゆっくりと角度を変えていた。
太陽が西へ傾いていくのに従って、普通の人の目には感じられないほどゆっくりと。
ゆっくりと、微かに。だが確実に太陽は動いていた。

後藤の目には全てが映っていた。全てを捕らえていた。
太陽のそのゆるやかな動きが。角度も。速さも。
その目は無意識でありながらも驚異的な正確さで太陽の動きを追った。
後藤の瞳には太陽の光が溢れ続ける。後藤が望むのなら永遠に―――。

だが永遠という概念はあっても、永遠という時間は存在しない。
一点の濁りもない瞳に鮮やかなオレンジを焼き付けながら、後藤は静かに歩みを進めた。
9 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:02
オレンジと黒でカラーリングされた「BIOHAZARD」のシールが貼ってある、
まるでプレハブの入り口みたいな薄っぺらな扉の前で、三人は立ち止まる。
後藤の右側にいた男がカードキーを差し込み、
見た目よりも頑丈な材質で作られていそうなその扉を開けた。

開いた扉の1メートルほど先にはもう一つの扉があった。
扉と扉の間は広いロッカー程度のスペースしかない。
男はカードキーを後藤に渡し、奥の扉を指差した。

「この扉をきちんと閉めてから、カードキーをあそこに差し込んでください。
 そうすれば向こう側の扉が開きます。その先は真っ直ぐ進んでください」

後藤は言われたとおりに一旦扉を閉め、カードキーを差し込み、奥にある扉を開いた。
何も考えずに向こう側へと進み、開いた扉を閉める。
ガチャリと意外と大きな音を立てて扉が閉まった。
自動的に鍵もかかる仕組みになっているらしい。
扉のこちら側にはカードキーを差し込む場所はなかった。

二人の男は後藤が扉の向こう側へ移動したことを確認すると、
そのまま来た道を戻り、後藤の視界から消えていった。
10 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:02
何度かドアノブをひねってみたが、全く手ごたえがなかった。
どうやらもう向こう側へは戻れないらしい。

だが戻ることができたとして、どうするつもりなのか?
今更家に戻ったとして、また昔のような生活に戻れるのか?
親も、姉弟もいなくなってしまったのに?

後藤は無駄な自問自答を止めた。
これまでの人生、いつだって消去法で選択肢を選んできた。
残された選択肢を拾わされるのが嫌いだった。惨めだったから。
だからいつだって自分の意思で消してきた。自分が自分であるために。
好きなものも、嫌いなものも、誰かに消されるのではなく、自分の意思で消した。

小さな頃からそんなことを繰り返しているうちに―――
後藤は周囲の環境に対して、どんどん疎遠になっていった。
自ら望んだわけではなかったが、生きるためにはそうせざるを得なかった。
「孤独」という言葉を知った頃にはもう、
後藤には、世間とのつながりと言えるものは、ほとんど残っていなかった。

そして今もまた一つ。
後藤は家族の記憶を過去に追いやり、廊下の先にあったエレベーターに乗り込んだ。
11 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:02
エレベーターの中には「開」と「閉」のボタンしかなかった。
「閉」のボタンを押すと扉が音もなく閉まり、エレベーターは下降を始めた。
高さは3階程度の建物だったが、地下は異様に深かった。

それほど長い時間動いていたわけではなかったのかもしれない。
だが箱の中には階数を示すランプがついておらず、
後藤は今自分がどれほど下層にいるのか見当がつかなかった。
待っても待ってもなかなかエレベーターは下降を止めなかった。

やがて慣性の力をほとんど感じさせないほど緩やかにエレベーターは止まった。
閉じたときと同じように、扉が音もなく開く。
その先には、上の階と同じような広い廊下があるだろうとぼんやりと想像していたが、
エレベーターの扉の前は廊下ではなく、直接部屋の中につながっていた。

近い。

3メートルほど先に、ニュースキャスターがゆったりと三人は座れそうな、
広くて奥行きの深い机があった。
エレベーターから3メートルという距離は、
実際の距離以上に、視覚的に近く見える距離だった。
12 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:02
「いよう」

机の奥には30代前半くらいに見える男が一人座っていた。
不健康に焼けた肌に、くっきりとしたアクの強い目鼻立ち。
襟足まで伸びたパサパサの髪は赤茶色に染め上げられていた。

ピシッとしたスーツを着込んでいたが、
そのスーツの生地の質感が高級であればあるほど、
彼のビジュアルは後藤の目には成金じみた下品な姿に映った。
そう、少なくとも彼は―――軍人には見えなかった。
それ以上に、堅気の人間にも見えなかったのだが。

「まあ座れや」

たった一言だけだったが、ひどく下品な物言いだった。
発した言葉の不自然に明るい語感や、だらしなく濁った語尾の伸び具合から、
彼がこれまで生きてきた世界の影の深さを窺い知ることができた。
後藤が暮らしてきた影と近いかもしれない。
少なくとも世間一般の平均的な世界よりは後藤に近いのだろう。
だが親近感は全く感じなかった。

後藤はカードキーを机に置くと、手首をしなやかにスナップさせて
キーを男の目の前まで勢いよく滑らせた。
きちんと手入れが行き届いていることを証明するかのように、
机の表面は氷のような滑らかさでキーを走らせた。
13 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:03
男は右の掌でぎこちなくカードキーを受け止めると、
後藤と目を合わせて「テラダや」とこれ以上ないくらい短い自己紹介をした。

余計なことは何も喋らないタイプの人間なのだろうか。
後藤は一瞬、そんな判断をしかけたがそれは誤りだった。

「あー、書類は全部こっちに送られてきてるで。後藤。後藤真希か。
 俺らもランダムに人間集めてるわけやないねん。一応こうやって調べとる。
 はーん。おう、なるほどな、おう。両親に姉に弟か。へー。全員死亡。
 なるほど。条件は満たされてるわけや・・・・・。おい、なにしてるねん。座れやそこに」

世の中には自分のことだけを喋りたがる人間もいれば、
自分のことだけは喋りたがらない人間もいる。
どうやらテラダは自分のこと以外はペラペラと喋るタイプの人間のようだった。

後藤は自分がこの施設に売られてきた理由が、
案外簡単に、今ここでわかるのではないかという思いを抱きながら、
安っぽいパイプ椅子に腰をかけた。

自分が自分であるために必要な情報に対しては、さすがに無関心になれなかった。
14 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:03
「健康状態、良好。ふーん。お前があの時の。ただ一人の生き残りか」

「精神状態、やや不安定。違法行為、なし。協調性、やや低。なるほどなるほど」

「学力、中の下。学習意欲、極めて低。向上心、極めて高。はあ? 矛盾しとるがな」

「身体能力、平均値より高。視力、並。聴力、並。・・・・・ふん。まるで身体測定やな」

テラダは目の前に座っている後藤の反応など一切気にせず、一人で喋り続けた。
後藤は眠たそうな顔で聞き流していたが、「生き残り」という言葉にだけは軽く反応した。
テラダはその反応を目ざとくとらえ、質問をかぶせた。

「なんで自分だけが生き残ったかわかるか?」

運が良かったから。周りの人間にはそう言われてきた。
どうやら世間では運が良いということと、運が悪いということはほぼ同義らしい。
後藤は家族を亡くしてから嫌というほどそのことを思い知らされてきた。

運が悪いから一人だけ生き残ったんだ―――。
後藤にはそうとしか思えなかった。
15 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:04
「まあ、そう睨むな」

テラダに言われて、初めて後藤は自分が感情を逆立てていることに気づいた。
後藤は気を取り直して、可能な限り感情を表に出さないように心がける。
心を遠くに。もっと遠くに。いつもやっているように。そう。

「なんでお前だけ生き残ったんか、それは誰にもわからん。誰もわからんはずや。
 わかったようなことを言うやつもいたかもしれん。でもそんなん全部嘘や。
 俺らにはそれがわかってる。少なくとも『訳がわからん』いうことはわかっとる。
 ははは。まあ、そんな顔すんなって。俺らにはお前が必要なんや。粗末には扱わん。
 いや、ある意味めっちゃ粗末に扱うかな。まあでも諦めろや。お前にはどうもできん」

一枚の契約書が後藤の目の前でひらひらと振られた。

「高い金を出して買ったわけやからな。お前を」

言いたいことをベラベラと一方的に喋りながら、
見事なまでにテラダは重要なことは何一つ喋らなかった。
質問する機会も与えられなかった。書類もはっきりとは見せられなかった。

後藤は舌打ちしたくなるような感情を冷たい仮面の下に隠した。
16 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:04
「おい」
テラダが一言つぶやくと、テラダの背後にある扉から、白衣を着た二人の男が現れた。
男の手には大きな懐中電灯のようなものが握られている。

「ほな後藤さん。軽い歓迎のしるしや」
後藤は二人の男に両腕を引っ張られ、椅子から無理矢理立ち上がらされた。
男が後藤の右袖をめくり上げ、二の腕に懐中電灯のようなものを押し付ける。

慣れた手つきだった。慣れすぎて倦んでいて、さらに倦むことにも慣れきった手つきだった。
男には一切の無駄な動きや感情がなかった。
ここまで慣れるために、この男は一体、何十人、何百人の人間に対して
こういう行為を繰り返してきたのだろうか。
この施設の背後に存在する闇の深さを、後藤は無意識のうちに感じ取り慄然とした。

抵抗する隙は全くなかった。
バチンと何かが弾けるような音がして、後藤の二の腕に一瞬浅い痛みが走った。
押し付けられた機械が離れた後に、後藤の肌には8という数字が残った。

「心配すんな。シールや。ホンマもんのタトゥーやないから安心せえ。
 けどな、洗ったくらいじゃ取れへんで。特殊な処理をせんと落ちひんようになっとる。
 契約書をなあ、守らへんやつが結構おるねん。脱走するやつとかな。
 これはそれを防ぐ一つの工夫や。ま、お前が契約を遂行したらちゃんと落としたるから」

後藤は自分の右腕を軽くさすってみた。
確かに肌に焼きついた数字は簡単には落ちそうもなかった。
17 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:04
テラダは言いたいことを言ってしまうと後藤の反応など気にすることなく部屋を出た。
どうやら入所に関する短いやり取りはこれで全て終わったらしい。
テラダが退席すると、後藤も左右を男に挟まれながら、部屋の外へ出された。

奥の廊下は、地上の設備と同様、非常にゆったりとしたスペースがとられていた。
三人が横に並んでも、窮屈さは全く感じなかった。
ただ、ひどく薄暗いと感じた。
廊下の照明は十分明るかったが、ここが地下深い場所であると意識するだけで、
何もかもが―――輝く電灯ですら―――薄暗さに包まれているように感じた。
廊下には当然窓もない。ただそれだけで息苦しかった。

5メートルほど歩いたところで、廊下の右側にマンションの入り口のような扉があった。
廊下の先には、同じような扉がずらっと並んでいる。
扉がいくつ並んでいるのかはよくわからない。
廊下の左側には消火栓などの機器があるのみで、扉や部屋はないようだった。

後藤が立ち止まった扉の上部には
「8」という数字が書かれた大きなパネルが貼ってあった。
後藤の右腕にあるのと同じ数字だった。

チラリと隣の扉を見ると、かすかに「7」と読める数字が見えた。
するとこの廊下には、全部8つの部屋があるということなのだろうか。
18 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:04
白衣を着た男が扉を開け、後藤に中に入るように促す。
中は十畳ほどのスペースがあり、部屋の左奥にはベッドが置いてあった。
右側には備え付けの机と、何も入っていない棚があった。
部屋の手前にはすりガラスの扉がある。どうやらユニットバスのようだ。

後藤が部屋に入ると扉が乱暴に閉められた。
カシャリという錠が降りる音が妙に軽くて安っぽく感じられた。
扉の鍵は電子キーになっているようで、見た目はとても軽そうだったが、
普通の人間の力ではとてもこじ開けられそうにない代物だった。

どれだけ平静な振る舞いを心がけていたとしても、
身の自由が奪われるという状況は、やはり耐え難いものがあった。

後藤はこれまでの人生でも、常に己の身を守ることを意識してきた。
隙を見せない行動が、生活の一部分となっていた。
仮面を被ることにも慣れていた。

だがそうした幼稚な自己防衛術は、本当に一人ぼっちになった瞬間、
かえって己の孤独感を煽るだけだった。
後藤は自分の意思で孤独を押さえ込もうとしたが―――難しかった。

どんなに強がってみても、彼女はまだまだ精神的に幼い、一人の少女でしかなかった。
19 名前:【発生】 投稿日:2009/03/26(木) 23:05
ベッドの上には大きなカバンが置いてあった。
カバンの中には、ご丁寧なことに着替えなどの身の回りの品が詰められていた。
後藤はカバンを床に降ろし、ベッドに身を横たえた。
部屋の中も―――電灯が点いているにも関わらず―――やはり薄暗く、息苦しかった。
クリーニングしたてのように見えるシーツに向かって、後藤は鼻を押し付ける。

シーツからどんな匂いも感じられず、さらさらとした触覚だけが伝わってきた。
瞳を閉じ、心も閉じると、シーツの触覚もやがてゆるやかに消えていった。
全ての感覚をゆるゆると遮断して眠りにつこうとしたが―――
その耳に、壁を蹴るような鈍い音が聞こえてきた。

隣の部屋からだ。ベッドの横からではない。部屋の手前から聞こえている―――?
後藤はベッドから立ち上がり、ユニットバスへ駆け寄り扉を開ける。
中はホテルのユニットバスのような清潔で無機質な空間ではなく、
なぜか部屋のどこよりも生活感に満ち溢れていた。

後藤はゴンゴンと音がするところに耳を寄せる。
明らかに人が叩いている音だった。
意外と薄い壁からは、その人間が拳を振り上げている気配すら感じることができた。
掌を壁に当ててトントンと叩き返すと、壁の向こうからかすかに―――
いや、はっきりと人の声が聞こえてきた。

「いよう、お隣さん! あんた新入り?」
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/26(木) 23:05
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/26(木) 23:05
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/26(木) 23:05
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/26(木) 23:27
きたあああああああああああああ
噂には聞いていました
楽しみにしてます
24 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:00
女の人だ―――それもあたしと同じくらいの歳の―――
隣から聞こえてくる声を耳にして、後藤の中で小さな緊張感が走る。
まるでクラス替えをしたばかりの教室に初めて入るときのような気持ちだった。

本当に小さな緊張感。でも確かにこの胸にある緊張感。
一歩踏み出せば消えてなくなるとわかっていても、決して無視できない、
素通りできない胸の高鳴りがあった。

部屋には鍵がかけられているので、隣の部屋へ行くことはできない。
顔を合わすことができない状況で初対面の人間に声をかけるというのは、
初めての教室に一歩を踏み出す時と、同じ種類の緊張感があった。

その先には過去の人生には存在しなかった何かがある。
自分の人生を微かに動かす何かがある。間違いなく。
その存在が確実に保障されている機会などそうそうあるものではない。

普段は周囲の環境に無関心な後藤の心にも、小さくない小波が立った。
25 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:00
後藤はすぐには声を返さなかった。
これまでの人生で身についた習性が、がっしりと後藤を捕らえてなかなか放さなかった。

隣の部屋に人がいる―――それくらい大したことじゃない。当然のことだ。
そうやって無理に無関心を装おうとした。
無関心な自分がニュートラルで正常な状態なんだと思おうとした。
だが結局一人ぼっちの後藤には、声をかけるという選択肢しかなかった。
それしかなかった。選ばざるを得なかった。

後藤は再び浮かんできた消去法的な思考を頭の中から追い払い、
自らの意思で隣の部屋へ声をかけた。
「うん・・・・・・・今日ここに来た」

不思議な感覚だった。
壁越しだったが、向こう側にいる人間の表情が、緩やかにほころんでいく気配を感じた。
気配は目に映るものよりも濃厚に、肌を通じて脳裏に伝わった。
その感覚が正しかったことを証明するように、温かみのある声が返ってきた。
その声は温かく、そして場を明るくするような独特の軽さがあった。

「やあ、ようこそ新入りさん。あたし市井。よろしく」
26 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:00
「あ、あたしは後藤」
「ゴトー? ゴトーさんはいくつ? 何歳?」
「え、えっとあの」
「おーう」

なにが『おーう』なんだか後藤にはよくわからなかった。だが楽しい声だった。
後藤と市井はお互い簡単な自己紹介をし合った。
市井は後藤の二つ年上だった。

二つ年上だ。年齢を意識すると、後藤の胸はまた一つトクンと高鳴った。
壁の向こうの見知らぬ隣人は、イチイという名前と二つ年上という年齢を得て、
ゆっくりと後藤の心の中に居場所を作っていった。
27 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:00
市井は一年と少し前からこの施設に入れられているらしい。
知っている範囲でなら施設のことも教えてあげるよと市井は言った。

「じゃあ、いちーちゃん、質問」
「あ? 市井ちゃん?」
市井の声が影を帯びる。
だが後藤はその影を振り払うように無理矢理明るく答えた。

「うん。いちーちゃん」
「お前、初対面なのに結構グイグイくるねー、人見知りしないタイプだなー」

決して人見知りしないタイプではなかった。
むしろ後藤はひどく人見知りするタイプだったのだが、
今は相手の顔が見えないということもあってか、
自分でも驚くほど素直に初対面の市井と気安く会話をすることができた。
28 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:01
「『いちーちゃん』じゃダメ? じゃあ、下の名前教えて」
「やだよ」
「なんでー」
「お前あれだろ。変なニックネームとかつけるタイプだろ」
「そんなことないって!」

市井は壁越しにくぐもった笑いを漏らした。
まるで共犯者に向けた笑いのような、親しみと皮肉を込めた笑いだった。
そして、後藤にちゃんと伝わるようにと意識した笑いだった。

後藤は後藤で、いつもとは違う距離感で会話をしている自分を意識していた。
二人は、お互いがこのそっけない会話を楽しんでいることを確信しながら話していた。

「そういうゴトーは下の名前なんていうんだよ」
「いちーちゃんが教えてくれたら教えてあげる」
「はいはい。もう『市井ちゃん』でいいよ」
「教えてよ」
「やだよ」

市井の返答はいちいち速い。何も考えていないようにも見える。
壁の向こう側から聞こえてくる言葉は一切飾りがなく、
剥き身のままの『うんざり』という気持ちがそのまま伝わってきた。
29 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:01
初対面の後藤を前にしながら、ほとんど素の自分を晒している市井を見て、
そっちこそ人見知りしないタイプじゃんかと後藤は思ったが、指摘するのは止めた。
そんな話よりも、もっと他に訊きたいことがたくさんあった。

「じゃあ、名前はいいや。それよりこの施設のこと教えてよ、いちーちゃん」
「いいよ。何から話そっか?」
市井の返答はやはり速くて、そして軽い。
もしかしたら本当に何も考えていないのかもしれない。
だがそんな軽さが今の後藤にはありがたかった。

「なんでもいいの?」
「あたしに答えられることなら」

この施設のことも、市井のことも、知りたいことがたくさんあった。
後藤から話したいことも山ほどあった。
これまでの自分のこと。これからの自分のこと。家族のこと。
聞かれたくないと思ったことは何度もあったが、聞いてほしいと思ったことは初めてだった。
だが後藤はとりあえず今、早急に訊かねばならないことを優先した。

「ご飯まだ?」
30 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:01
一瞬の間を置いて、市井が吹き出す音が聞こえてきた。
ゴツンと鈍い音がしたのは頭か腕をどこかにぶつけた音だろうか。
しばらくの間、ケラケラという軽い笑い声だけが響いた。
それは後藤に聞こえるようにと意識した先ほどの作為的な笑いではなく、
素の市井がそのままよく出ている笑いだった。

「ゴトー。お前さあ、緊張感ないやつだなー」
「・・・・・・・・たまに言われる」
自分ではいつも気を張っているつもりだったが、
他人の目には必ずしもそう映らないことはよく知っていた。

誤解されることには慣れているつもりだったが、自分の姿が見えない相手からも、
会話だけからズバリと指摘されたことには、軽くないショックを受けた。
31 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:01
「この状況わかってる? よりによってそんなことから訊く?」
「別にいいじゃん。大事なことじゃん」
「他にもっと訊きたいことがあると思うけどなあ・・・・・・・・」

後藤は質問の選択を誤ったことを悟ったが、後悔はしなかった。
なぜか市井に笑われることは不快ではなかった。
後藤は会話のペースを変えることなく、市井の口調を真似るように軽い会話を続けた。

「いいじゃんいいじゃん。ご飯って何時? ていうかこの部屋、時計あるの?」

後藤は扉から首だけを出して、改めて部屋の中を見回した。
ベッドが置いてあるのとは逆側の壁に安っぽい時計がかかっていた。
18時を少し回ったところだった。
昼食を取っていなかった後藤にとっては空腹感がじわじわと迫ってくる時間帯だった。
32 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:01
「7時、12時、19時だよ」
「へ?」
「へ? じゃねーよ。飯の時間だよ」
「あと一時間もあるのかあ・・・・・・・お腹減ったよぉ・・・・・・・」
「おめー、本当にどーしよーもねーな」

後藤の声の質が少しずつ変わってきたことに市井は気づいた。
最初の緊張感は消えて、気持ちが落ち着いてきたようだ。

それは悪いことではないのだが、ちょっと早すぎるような気もする。
こんな調子でこの子はこの先大丈夫なのだろうか。
市井は、壁の向こう側にいるゴトーとかいうとぼけた少女のビジュアルを想像していた。

トロイ。ちょっとトロイなこの子。きっとこういう子は垂れ目だ。垂れ目で細目で眠そうな目。
そんでもって下膨れで黒髪のおかっぱで小鼻で福耳で・・・・全体的にぽっちゃり系?
なんだそりゃ。
あんまりあたしの好みのルックスじゃなさそうだな・・・・・・
33 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:01
壁のこちら側にいる後藤の姿は、市井の想像とは遠くかけ離れていた。

目こそ垂れ目気味だったが、人並み以上に大きく、攻撃的だった。
頬から顎にかけてのラインはシャープで、髪は金髪のぼさぼさだった。
鼻はどっしりとした存在感があり、顔の全てのパーツを中央に引き寄せる強い力があった。

顔の各パーツがアンバランスなまでに大きく自己主張していたが―――
常識や調和を超越して―――後藤の顔には規格外の美しさが漂っていた。
どの角度から見ても美人というタイプの顔ではなかったが、
ある一瞬には悪魔的な美しさを発する、不安定で爆発的な美しさを秘めていた。

体のラインも、触れれば切れそうなほどの鋭さと、
女性的な曲線美という矛盾する要素を兼ね備えていた。

もっとも市井が、壁越しの会話だけから後藤の悪魔的な姿を想像するのは
不可能だったかもしれない。
34 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:02
後藤は後藤で、ぐうぐう鳴りそうな空腹をなんとかなだめながら、
隣の部屋にいる市井のビジュアルを心に思い描いていた。

この人、絶対お姉さん系だ。お水じゃなくてOL系のお姉さんだ。
髪はショートだ。ぴしっと揃えてて、きっと染めてる。おでこが広い。てかてかしてそう。
眉は細くてきりっとしてて。目はくりっとしてて優しい。
鼻はすっと通っていて、口は少しだけ、ほんのすこしだけ大きい。

そしてきっと、目はマジで、目だけマジで、他の部分では笑いながら、
口をひん曲げてニヤリと笑いながら言ってるんだ。憎たらしい顔で。
「ほんとーにどーしよーもねーな」って。

後藤の想像は奔放で自分勝手で思い込みに満ちたものだったが、
不思議なくらい、壁の向こう側にいる市井のビジュアルと一致していた。
35 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:02
後藤と市井はしばし沈黙して、互いに次の言葉を待った。
二人とも駆け引きをしているつもりはなかった。
顔の見えない相手に対して感じる話しやすさと話しにくさに、ただ戸惑っていた。

待つことに慣れているも、待たせることに慣れているのも、
施設に入って一年以上が経つ市井の方だった。
どちらにも慣れていない後藤は、ただ沈黙の時間に翻弄されるだけだった。

市井には選ぶ権利があった。
だが彼女は待つことも待たせることも選ばず、積極的に沈黙を破った。

「で?」
「で?」
「他に質問は? まさか次は『今日のおかずは何?』とか言うんじゃ・・・・」
「あ、先に言うなんてずるい」
「おいおい」

後藤の言葉は嘘だった。
本当は施設に関して他にいくらでも知りたいことがあった。
だが後藤はもう少し市井とこのくだらない会話を続けていたかった。
36 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:02
それでもさすがにご飯の話題をこれ以上引っ張ることはできない。
後藤は遠いものからではなく、近いものから尋ねていくことに決めた。

順番にたどっていこうと意識した後藤の心に最初に浮かんだのは、
この部屋に入る前に見た扉だった。

「番号が・・・・・あった」
「番号?」
「部屋に番号が。8番って書いてあった。いちーちゃんの部屋には7番って」
「あー、それか」
「部屋は8つあるってこと?」
「いや、違う」

後藤はこの廊下の並びに8つの部屋があると思っていた。
だが実は逆側にも同じような部屋が1つあり(それは当然『9番』だった)
全部で9つの部屋があるのだという。
そして1番から8番までの鍵のかけられた部屋には、一人ずつ女の子が入れられていた。

「でも一人も顔を合わせたことはないんだな」
「えー!? 一年もここにいるのに? 一人も? 一回も?」
「うん。一人も。一回も顔とか見たことないんだよ」
37 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:02
「じゃあ、一年いても、誰一人知り合いにはなってないんだ・・・・・・」
「一人だけよく話す子がいるよ。ていうか知り合いって言うなら全員知り合いかも」
「どういうこと?」
「みんな壁越しに話してんだよ。今のあたしとゴトーみたいにさ」

真横に8つ並んでいる部屋は、どれも仕切りの壁が非常に薄い部分があり、
そこを挟んでお互いに会話ができるのだという。
つまり7番の部屋にいる市井は、6番の部屋にいる女の子と、
今ゴトーとしているように、壁を挟んでよく会話するのだという。
「じゃあ、もしかして6番の女の子は・・・・・」
「6番はヤグチって子なんだけどね。5番のケイって子とよく話すらしいよ」

後藤は徐々にこの施設に入れられている人間のことが見えてきた。
この部屋のことも。ずらりと9個並んでいる部屋のことも。
だから市井がああやって、すぐに壁越しに話しかけてきたんだ、と。

「で、5番の部屋にいるそのケイさんは・・・・・・」
「あ、ケイは『さん』付けなんだ。あたしはいきなり『ちゃん』付けだったののにさー」
「はいはい。そのケイちゃんって子はつまり」
「4番にいるナツミって子と壁越しに話してるわけよ」

ここではそうやってお互いが壁越しにコミュニケーションしているらしい。
その結果として、7人はある程度の情報を共有していた。
ちなみに3番の部屋にはカオリ、2番の部屋にはアヤ、
そして1番の部屋にはユウコという名の女の子が入っているらしかった。
38 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:02
「あ、そうだ。いちーちゃんもさあ、タトゥーみたいなの入れられた?」
「うん。数字のやつだろ。あたし7番。ゴトーはやっぱ8番か?」
「うん。あたし8番」

施設にいる少女たちは皆同じように右腕に数字のシールタトゥーを入れられているらしい。
その数字は部屋の番号と対応していた。
ヤグチの右腕には6。ケイの右腕には5。そしてナツミの右腕には4というように。
ある種の管理番号になっているのだろうか。

「これ、やだなあ。落ちそうにないよ。本当にシールなのかなあ・・・・・・」
「落ちるよそれ」
「え?」

市井は後藤の疑問にあっさりと答えた。
入所した当時の市井は今とは違う番号だったらしい。
その後、今の7番に変更になったのだが、そのときに一度落としたことがあるという。
39 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:03
「数字入れたときの機械あるじゃん。あれと同じやつでこすると簡単に落ちたよ」
「へーえ。本当に落ちるんだあ。ちょっと安心した」
「それはみんな絶対気にするよねえ。でもこすったくらいじゃ絶対落ちないよ。
 あたしもそれまでは一年くらいずっとこすってたけど全然落ちなかったもん」

暗い部屋で一人ごしごしと右腕をさすっている市井の姿を想像して、後藤は少し笑った。

「あははは。あたしもいちーちゃんに言われなかったらずっとこすってたかも」
「だよねー。知らなかったらこすりたくなるよねー」

そういった施設のことや身の回りのことに関しても、
7人は壁越しに情報を共有するようにしているのだという。

「すごいなあ。なんかすごいよ」
まるで伝言ゲームのように情報をやりとりしている様を聞いて、
後藤は驚嘆の言葉を漏らさずにはいられなかった。
この閉じられた狭い空間が、にわかに広がっていくような感覚を味わった。
40 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:03
同じ境遇の人間が7人もいることに少し救われた気もした。
この無機質な施設には、もしかしたら思っていた以上に
複雑で有機的な人間関係がからみあっているのかもしれない。

後藤はしばし、この施設に連れてこられた経緯を忘れた。
施設そのものよりも、ここにいる女の子のことに興味をそそられた。
自分のこと以外にはあまり興味のない後藤だったが、
自分と同じ境遇にいる人間に対しては興味を抱かずにはいられなかった。

「それじゃ、いちーちゃん。今日はみんな大騒ぎなのかな」
「なんでよ」
場にそぐわぬ後藤の明るい声に、市井は不審な気持ちを隠さなかった。

「だって今日はさー、後藤が来たっていう一大イベントがあったわけじゃん」
「まあ、新しい子が入ったっていうのは確かにビッグニュースだけどさ・・・・・・」
「そうだよいちーちゃん! 早くお隣さんに伝えないと」
壁越しに7つの部屋に伝わっていく自分の情報を想像して、
後藤はどことなく落ち着かないような、そわそわした気分になった。
41 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:03
7人の少女は自分のことをどのように思うだろうか。
隣にいる市井のように、自分に好意をもってくれるだろうか。
後藤は既に市井が自分に好意を持ってくれていることを信じて疑わなかった。

そして好意を持って自分の情報を伝えてくれると確信していた。
たった数分前に初めて言葉を交わした相手に対して、
重すぎるほどの信頼を分け与えていた。

「ねえねえ、いちーちゃん、その7人ってさー」
7人が壁越しの伝言リレーで後藤を知ると同時に、後藤も7人のことを知るのだろう。
7人の情報と自分の情報を交換することで、新しい何かが芽生える気がした。
自分の中で何かが変わる気がした。
だがそんな子供じみた空想は他ならぬ市井によって砕かれた。

「なあ、そうはしゃぐなって、ゴトー」
「え?」
「お前、なんか勘違いしてない?」
42 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:03
後藤はぐっと言葉に詰まる。勘違いも何も、ここのことは何も知らないのだ。
やはり「知りたい」と思うことはいけないことなのだろうか。
ここでも自分は無関心であることを強いられなければならないのだろうか。

「なにが? 別に勘違いなんて」
「そろそろさー、現実も見ろよ。ここで生きてくの、大変なんだよ」

市井の声は相変わらず軽かったが、その言葉の意味は重かった。
後藤の前には灰色の現実が立ちふさがり、一気に後藤の心を暗くした。
7人について尋ねようとした言葉は全て意味を失くし、後藤の中から吹き飛んだ。

言葉を失くして空っぽになっってしまった心こそ―――
それこそまさに後藤にとっての現実なのかもしれなかったが、
今の後藤はそれを受け入れることはできなかった。
挑発されて沈黙するほど後藤はか弱い少女ではなかった。

「現実ってなに?」
「は?」
「意味がわからないよ。教えてよいちーちゃん」
「なにをよ」
「だから現実ってなに? いちーちゃんの言う現実ってなに?」
43 名前:【発生】 投稿日:2009/03/30(月) 23:03
市井は後藤の声のトーンが微妙に変わったことを察した。
察することは察したが、それに対してどう対応するか判断に迷った。
迷っていたのはほんの1、2秒のことだったが、その時間は市井にとって長く、
そして後藤にとってはさらに長く感じられた。

「毎日毎日、この施設であたしらが」

後藤が声のトーンを変えたように、市井も声のトーンを変えた。
いくら声のトーンを変えても、話の内容が変わるわけではないことを、
市井は痛いくらい身にしみて知っていたが、
それでもこの一言を言うために、何気ない感じを装うことはできなかった。

「受けてる扱いっていうのはさ」

現実を茶化して言うことは自分に対する裏切り行為のように思えた。
そしてそれは壁の向こうにいる、無垢な少女に対する裏切り行為にもなるだろう。
少し勇気のいる行動だった。言い方を一つ間違えば壁の向こうの少女は心を閉ざす。
だが言うべきなのだ。絶対に。勇気とはこういうときに使うべきだと市井は思う。

「一言で言えば」

市井はため息を交えないように気を遣いながら言葉を進める。
冗談交じりに言うような内容でもなかったが、悲惨な感じにもしたくなかった。
ただ事実だけを伝えて、あとは後藤に考えさせるしかないと思った。
結果として市井の言葉は、非常に機械的な響きを持って後藤の耳に届いた。

「人体実験だよ」
44 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/30(月) 23:03
45 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/30(月) 23:04
46 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/30(月) 23:04
47 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:51
「じんたいじっけん」という言葉が後藤の中でゆっくりと漢字に変換された。
決して記憶力が良くない後藤の頭にも、つい先ほど聞いた、
『条件は満たされてるわけや』『俺らにはお前が必要なんや』
『ある意味めっちゃ粗末に扱うかな』といったテラダの言葉が鮮やかに甦った。

後藤の頭はしばし思考停止に陥り、軽い混乱をきたした。

一連の部屋にいるという7人の少女は、
顔がない姿のまま後藤の心の中をふらふらと自由気侭に歩き回った。
その7人を手際よく縛り付けて鈍色の刃物で切り刻まんとするテラダの、
明るさと暗さが目まぐるしく入れ替わる極彩色の笑顔が、
「人体実験」という言葉と一体となって、後藤の未来に新たなイメージを示そうとした。

後藤は拒んだ。全力で拒んだ。
自分の心から目を背け、心に堅く蓋をした。

意志の力で心の平静を保とうと試みたが、
疑問と恐怖は押さえつけた横からぬるりと漏れ出してきて、
後藤の心に不快な染みを広げていった。

もはや晩御飯のことを考える余裕など消えていたが、
皮肉にもそのときに晩飯の配給を告げるノックの音が響いた。
壁の向こうの市井の部屋にも同じように晩飯が来たのだろうか。
壁越しに市井がさっと身を翻す気配がし、後藤はユニットバスの中に一人取り残された。
48 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:51
食事は19時10分前に届けられた。
後藤はその時まで気づかなかったのだが、
部屋の扉には、脛の高さの辺りに大きな郵便受けのようなものがあった。

運んできた職員は手馴れた感じで受け入れ口を開け、
食事の乗ったトレイを部屋の中へぐいと押し出した。

受け入れ口にも外からかける鍵がついているらしい。
係員は鍵を閉めると、キャスターを転がすような音をさせながら、
市井の部屋の方へと向かった。
こちらには一切説明もなく、一言も話しかけることはなかった。
後藤は呆然と立ちすくむ。これが食事ということなのだろうか。

やがて隣の部屋にも同じようにトレイを差し入れたような音がして、
キャスターのキーキーという音がさらに奥の方へと遠ざかっていった。
49 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:51
ベージュ色をしたプラスチックのトレイにはパンとパックの牛乳、サラダとパスタと、
肉厚のビーフステーキが乗っかっていた。

ステーキを見た瞬間、後藤の口の中には肉を咀嚼した感覚が侵入し、
後藤の意思とは無関係に口腔内を蹂躙した。
舌にからまる肉汁の質感が過去の記憶を呼び覚ます。
いや。それは「呼び覚ます」などというような生易しいものではなかった。

後藤の心と体と記憶は、完全に「あの時」と一致した。
あの時、あの店で、ステーキを食べていた自分と一致した。

ぐぱぅ ぐぱぅ ぐぱぅ

トイレに駆け込むことすらできなかった。何も考えることができなかった。
後藤はトレイの上に派手に吐瀉物を撒き散らした。
ゆらゆらと揺れながら倒れこんだ後藤は、吐瀉物の海に両肘をつき、
正座した状態で、前後に不規則な蠕動を繰り返した。

どこかで動物が鳴いている声が聞こえた。
縄張りを荒らされながら何一つ抵抗することもできない。そんな無力で悲痛な鳴き声だった。
それが自分のうめき声だと気づいたとき、後藤はゆっくりと気を失った。
50 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:51
51 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:52
「いよう。ステーキはお気に召さなかったようやな」

目が覚めたとき、後藤はベッドの上にいた。
汚れた服は取り替えられており、体も拭いたのか、酸っぱい匂いは残っていなかった。
ベッドの脇にはテラダと、看護士らしい少女が一人ついていた。
部屋の天井は高く、ベッドは部屋の中央に置かれている。
どうやらさっきまでいたのとは別の部屋に連れてこられたらしい。

テラダはそれ以外一言も発しない。
看護士も黙っている。場違いにニコニコ笑っているのが後藤の癇に障った。
起き上がろうか、このまま疲れて倒れた振りをしていようか。
少しの間迷った後藤だったが、空腹を訴えるようにお腹がぐぐーっと鳴った。

恥ずかしさを紛らわすように勢いよくベッドから起き上がり、二人を睨む。
看護士は相変わらずニコニコ笑っている。明らかに後藤より年下だ。
普通の笑顔なのに、なぜか底暗い悪意を感じた。

「じんたいじっけん」
嫌でもその言葉を思い出さざるを得ない。
52 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:52
「テラダさん、とりあえず後藤さんには食事をとってもらいましょう」
「そうやな。腹が減っとったら、進むもんも進まんわな」

「ほな後は頼むで」と言い残してテラダは部屋から出て行った。
看護士も「新しい食事持ってきますから」と言って消えていった。
後藤は上半身を起こして、部屋を見回した。
さっきまでいた部屋よりも一回り以上広い部屋だった。

部屋には窓一つない。きっとここも同じ地下なのだろう。
奥には棚が一つ置いてあったが、家具らしい家具はそれだけだった。
机がある方とは逆側の壁には小さな洗面所があった。
後藤はベッドから降り、裸足でとことこと洗面所に近寄り、蛇口をひねった。

顔を洗ってからタオルがないことに気づく。
構わずに後藤は着ていたTシャツで顔を拭いた。
白地のTシャツには真っ赤な糸で「8」という数字が大きく縫い付けられていた。
部屋の番号と同じ数字だ。右腕が少しうずいた。

「あらあら。お行儀の悪い」
部屋に戻ってきた看護師の両手には、食事の乗ったトレイがあった。
扉は足で開けたのだろうか。行儀の悪いのはそっちじゃんかと言いたくなる。

そんな後藤の怪訝な表情を颯爽と無視して、
笑顔で看護師がぐいっと後藤の鼻先につきつけたトレイには―――
さきほどと全く同じビーフステーキが乗っていた。
53 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:52
不意を突かれた後藤だったが、かろうじて嘔吐感に耐えた。
それにもう吐く物は何も残っていなかった―――胃液さえも。

「好き嫌いしちゃダメですよ」
看護士の顔には変わらず悪意に満ちた笑顔が張り付いていた。
思わず殴りたくなるような笑顔だった。
看護士は後藤と同じくらいの身長だったが、骨格は後藤よりずっとがっちりとしている。
軍人のような引き締まった筋肉をした肉体ではなかったが、重そうな腰だ。
殴り合いになったらなかなか手ごわいかもしれない。

「ちゃんと全部食べてくださいね。残さずに」
その目ははっきりと後藤に語りかけていた。「知ってますよ、あなたのこと」と。
「ぜーんぶ知ってますけど、それでも食べてくださいよ」と言っていた。
後藤は何か言い返そうとしたかったが、言葉が出てこなかった。

青白い顔をした後藤を部屋に残し、看護師は足取りも軽く部屋を出ていった。
トレイを床に叩きつけようと何度か腕を上下した後藤だったが、
結局そうはせずにトレイをベッド横の小机に置いた。

全部食べなさいよ、残さずに―――か。
おそらく偶然なのだろうが、看護士が口にしたのは、
あのとき後藤の母が口にした言葉と同じような言葉だった。

再び後藤の中に「あの時」の記憶が蘇ってきた。
54 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:52
55 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:53
後藤は両親と姉弟と食事をしていた。
ちょっとだけ高級なレストランだった。
おそらく本当に「高級」なのではなく、「高級そうな雰囲気」が売りの店なのだろうが、
そんなことにはおかまいなく、後藤はご機嫌だった。

目の前には、何でできているのかわからないけど、とても硬そうなお皿があった。
フォークで叩けばカキンカキンと甲高くて透明な音を立てそうなお皿だった。
普段の後藤なら間違いなくそうやってはしゃいでいただろう。
その皿に、ボリュームたっぷりのビーフステーキが乗っていなければ。

まるで漫画にでも出てきそうな、でたらめに肉厚なステーキだった。
後藤は持ち慣れないナイフとフォークを両手に、
生まれて初めて目にする本格的なステーキと必死で格闘していた。

家は決して裕福ではなかった。むしろ貧しいと言った方が正しかった。
周りの友達も似たような家庭環境だったから、
貧しさについてどうこう思うことはなかったが、自分の家が、ドラマや漫画に出てくるような
「特別なことをしなくてもそこそこ幸せになれる中流の家庭」ではないことは意識していた。

物心がついた頃から、何かを手に入れるためには
自分から積極的にアクションを起こさねばならないことを理解していた。
もっともそれは―――後藤にとって一番苦手なことだったが。
56 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:53
そういうわけで後藤はステーキを前にしても、じっとしていることはなかった。
食べることは苦手なことではなく、それどころか一番得意なことだったから。
「ちゃんと全部食べなさいよ。残さずにね」
母の言葉など耳に入らなかった。言われなくてもわかっている。

意外と堅い肉の歯ごたえに苦戦しながらも、
後藤はかなりのハイペースでステーキを胃袋に収めていった。
肉を口に入れるとき、自分の鼻息が掌にあたったのがおかしくて笑った。
必死になっている自分がちょっと可愛らしいなと思えた。
そんなことを考える自分が可笑しくてまた笑った。

こういった場所で食事をする機会なんて滅多になかったが、
その貴重な機会を楽しむようなゆとりはなかった。
食べられるときに食べられるだけ食べる。
食欲というよりも生命欲に近い衝動が後藤を内側から突き動かしていた。

獣のような本能でガツガツと動いていた後藤だったが、
獣のように―――周囲の変化を本能的に感じ取ることはできなかった。
決定的な変化を。

余ってるなら食べてあげようかな。
まだ自分の皿も片付いていないのに、後藤は隣にいる弟の皿に目をやった。
57 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:53
ぐぱぅ。

突然、弟の皿の上に大量の液体が降り注いだ。
弟が嘔吐したことを気遣うよりも先に、「あぁ、肉が」と思った。
弟よりも肉の方が大事だと思ったわけではないが。

それよりもこんな状況で嘔吐していることが信じられなかった。
しかも何の予兆もなく。
普通ならそうなる前に本人が不調を訴えたり、
両親や周囲の人間が不穏な空気を察して気遣ったりするものだろう。

おかあさん―――

返事はなかった。
母は焦点の合わぬ目を赤く血走らせながら自分の喉を掻き毟っていた。
ばりばりと音を立てて喉をえぐる母の爪は、尋常ではない深さまでめり込んでいた。
ふひゅー、ふひゅー、と喉から空気が漏れる音がした。
その音を追いかけるように、喉からはぴゅ―ぴゅ―と赤い液体が噴き出した。

姉は父が作った吐瀉物の海で溺れていた。
二人とも素人の人形遣いに操られている人形のように、カクカクとぎこちなく動いた。
大昔の喜劇役者のようなコミカルな動きだった。
まるでチャップリンの無声映画だ。
確かにその時後藤の耳には―――何も聞こえなかった。
58 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:54
後藤の耳に突然「音」が戻ってきた。
理由はわからないが、その直前まで後藤の耳は機能を失っていたようだった。

レストランのフロアには悲鳴とうめき声が広がった。
フロアのいたるところで客が食べたものを吐き散らかしていた。
食中毒?とチラリと思ったが、もがき苦しんでいる人間の中には、店員の姿もあった。
その場にいたほぼ全ての人間がのたうち回っていた。

後藤の鼻に突然「匂い」が戻ってきた。どうやら鼻の機能も失っていたようだ。
吐瀉物特有の酸っぱい匂いが鼻腔をあっという間に占領していく。
刺激的な匂いは鼻から喉を伝わり、後藤の胃を無遠慮にわしづかみにして揺さぶる。

食べたステーキを派手に吐いた。吐いても吐いても嘔吐感は消えなかった。
普通なら嘔吐後に感じる、排泄後のようなすっきりとした感じも全く湧いてこなかった。
何かが後藤の体内に引っかかりながら、激しく上下動しているように感じた。
泣きながら吐きながら後藤は母に助けを求めようとした。

だが母も父も誰も彼もが吐瀉物にまみれ、
人格を投げ捨ててそれぞれが獣のように床をのた打ち回っていた。
もはや誰が誰やらわからない状態だった。
59 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:54
唐突に、後藤の耳から再び音が消えた。

音が消えただけで、この地獄の悲惨さが半減した。
現実感が失せ、まるでTV画面の中のワンシーンのように見えた。
だが音はすぐに戻ってきた。今度は匂いが消えた。消えたと思ったらすぐに戻ってきた。
次は目から光が消えた。光が戻ったかと思うと、また音が消えた。
音が戻るとまた光が消えた。

そして光とともに―――皮膚の感覚が全て消えた。

後藤はその時、真のパニックに陥った。
目が見えない状況も、耳が聞こえない状況も、似たような状況なら経験はある。
真っ暗闇の中。異常に静かな空間。そんな場に身を置いたことならある。
だが皮膚感覚を失うというのは全く初めての経験だった。

突然、自分の全てが世界から切り離された。
底知れぬ恐怖心に、後藤は絶叫を上げたが、その声は後藤の耳に届かなかった。
自分の吐いた吐瀉物の匂いも全く匂わなかった。目も何も見えなかった。
ただ口の中に残るステーキの大雑把な味だけが残っていた。

やがてその味覚さえも後藤の中から消え―――
五感を失った後藤は完全にこの世界から姿を消した。
60 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:54
61 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:54
後藤は我に返った。
トレイには「あの時」とそっくりな、あつらえたかのようにそっくりなステーキが乗っている。
既に「人体実験」とやらは始まっているのかもしれない。
あの時と同じステーキがここにあるのが、ただの偶然とは考えられなかった。

施設の人間が、もしかしたら監視カメラで様子を見ているかもしれない。
薄気味の悪い笑顔。「ちゃんと全部食べてくださいね。残さずに」
だからなんだ。それくらいなんだ。レベルの低いいじめじゃんか。
後藤は自らの心から恐怖心を切り離すことに成功した。

いじめられるのには慣れていた。小さい頃から慣れていた。
地域や学校のリーダー的な存在の子に、後藤はいつも一番最初に目をつけられた。
ただ目立つからというただそれだけの理由で、意味もなくからまれた。
直接、暴力を振るわれることは希だったが、
言葉で罵られたり、でたらめな噂を流されたり、集団で無視されたりした。

だがそんなときも後藤は動じなかった。
何をされても、いつも全く反応せず、ただ無言で相手を見つめるだけだった。
周囲の環境を自分から切り離すことに慣れていた後藤には、
間接的な攻撃など無意味だった。
62 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:55
そんな時、目には何の感情も込めていなかったが、相手にはそう映らなかったらしい。
無言で見つ続けていれば、たいていの相手は苛立ち、冷静さを失い、逆上した。

後藤には何もなかった。大切なものも、壊されたくないものも、何もなかった。
誰かに嫌われることも怖くなかった。何の痛みも感じなかった。
後藤をいじめようとした人間は、どうにかして後藤に対して優越感を得ようと必死だったが、
それは全くの無駄な努力だった。

優越感も劣等感もない。
後藤は誰かの基準となるような人間ではなかった。

もう一度皿の上のステーキを見た。
後藤は思い出した。自分が後藤真希であることを。自分は自分だ。
自覚しているわけではない。意識しているわけではない。
ただ、誰の基準ともならない特別な人間だということは、小さな頃から感覚的に理解していた。

彼女は誰とも比較することはできない。
過去の彼女とも。未来の彼女とも。
後藤はプラスチック製のナイフとフォークを手荒く操り、肉厚のステーキに食らいついた。
63 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:55
64 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:55
「食っとる、食っとる。意外とあっさりいったやんけ」
「大丈夫です。後藤さんならきっと克服すると思っていました」
「まあな」

テラダは満足そうに頷き、監視カメラのモニターから目を離した。
急ぐことはない。まだ時間は十分にある。きっとあの女は使える。最高の素材や。

「で、例の件はどうしましょうか?」
「あん? ああ、あの件か・・・・・・」
看護師から別の話を振られたテラダは、急速に後藤から興味を失っていった。
テラダはいくつものプロジェクトを抱えていた。
だが同時進行で進んでいるプロジェクトは、全て一つの目的の下に集約されていた。

その計画の中心が誰になるのか。それはまだわからない。

後藤は確かに最高の素材であり、特別な少女の一人ではあったが―――
テラダにとっては唯一無二の存在というわけでもなかった。
65 名前:【発生】 投稿日:2009/04/02(木) 23:55
「ほな、この試験は引き続きお前に任す、いうことで、な。頼むわ」
数分後、話が終わって再びテラダがモニターに目を向けた時には、
既に後藤は出された食事を全て―――勿論例のステーキも―――平らげていた。

ぱち。ぱち。ぱち。「はーい。よくできましたー」
音のないモニターに向かって、テラダはゆるい表情でゆるい拍手を繰り返した。
看護士も同じようにゆるい笑顔でゆるい拍手をモニターに送った。

「これで第一関門突破ですね」
「まあな。最初ゲロった時はどうなることかとちょっと心配したけどな。
 まあ、これでもう精神的な拒絶反応が出ることはなくなるやろ」
「じゃあ次回からは―――」
「おう。本格的にな」

テラダは手にしていた7枚の書類を立てて机でトントンと軽く叩き、両端を揃えた。
そして看護師から渡された「後藤真希」と書かれた書類を新たにそこに加えた。

「これでいいですね」「ああ決まりや」「はい」「楽しみやな、おい」「はい。ウエヘヘヘ」
看護師と短い言葉をやりとりしながら、テラダは席を立った。
部屋を出る直前に、テラダはもう一度モニターに目を向けた。

「改めて入居おめでとう、後藤真希君。歓迎するで―――心の底から、な」
66 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/02(木) 23:55
67 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/02(木) 23:55
68 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/02(木) 23:55
69 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/03(金) 13:33
面白いです
いちごまが懐かしすぎてわくわくしました
70 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:04
朝食は7時10分前に届けられたらしい。おそらく。
後藤が目を覚ましたときには、壁にかかった安っぽい時計は9時を指していた。
地下にある部屋には、当然ながら窓はなく、朝陽が差し込むこともなかった。

部屋に明かりをつけても、ちっとも朝だという気分にならなかった。
後藤は洗面所に行って冷たい水でがしがしと顔を洗う。
洗面所には洗顔用具など何一つない。歯磨き用具だけが無愛想に立てかけてあった。
少し意識がしゃきっとしたが、相変わらず後藤の目に映る部屋は薄暗い。
朝の9時なのか夜の9時なのか判断がつかないくらいだった。

床に転がっている食事が一食分ということは、朝の9時なんだろう。
朝食に手を伸ばしながら、後藤は緩慢に判断を下した。
2時間放置されていた食事は、すっかり冷たくなっていた。
パンは堅く、冷えたスープは塩辛かったが、ほどよく空いていた腹にすんなりと収まった。

後藤は扉の下にある搬入口を開け、食器の乗ったトレイを乱暴に廊下に押し出した。
まるで犬小屋。それ以下か。とにかくここが一種の牢屋であることは間違いない。

ふうーっと一つ息を吐き出す。
ため息はどこへ行くでもなく、ゆっくりと後藤の周りを漂った。
堅く閉ざされた部屋の中ではため息の行方さえ限られていた。
後藤は息を深く吸い込んで、もう一つのため息で漂うため息を吹き消した。
71 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:04
部屋にはベッドの他に、机と椅子が一組あった。
椅子かあ・・・・・・。とりあえず後藤は座った。
机かあ・・・・・・。置くものなど何もなかった。
真新しいスチール製のデスクだったが、ひどく無愛想な机で、金属の匂いすらしなかった。

後藤はハッと身を起こし、自分の二の腕を鼻に押し当てる。
鼻腔にはうっすらと汗の匂いが伝わってきた。鼻は大丈夫のようだ。

あの時の後遺症だった。
今でも時々、自分の五感が不意に消えてしまうのではないかという不安が湧き上がった。
あれ以来、一度もそういった症状は出ていなかったのだが、
五感が消えたときの鮮明な記憶が、しばしばフラッシュバックしてきて後藤を苦しめた。

人体実験というのはそういったことを調べるのだろうか。
他の子らも自分と同じような経験をして、ここに連れてこられたのだろうか。
後藤はそんな連想から市井のことを思い出した。
彼女は今、部屋にいるだろうか。
72 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:04
後藤はユニットバスの方へ移動すると、洗面台の鏡の前に立った。
鏡はひび割れこそなかったが、微妙にくすんだ部分があり、
長く使い込まれた質感が染み付いていた。

廊下や壁の塗装の鮮度からすると、この施設は比較的新しい建物だと思われたが、
後藤が入れられた部屋は人が使い込んだ後がうっすらと残っていた。
トイレも、浴槽も、洗面台も。
後藤はこの部屋に住んでいた人間の暮らしを思う。
その人間が今どこで何をしているのか思う。

想像は悪い方へとしか広がっていかなかった。
一言でまとめるなら―――もう生きてはいないだろう、と感じた。
何の根拠もない想像だったが、
この施設が、この部屋が醸し出す空気がそう告げているような気がした。

後藤は天井から床まで壁をなめるように見渡す。
卒業生が学校の設備に記念の言葉を書き刻むように―――
何かが書かれていないかと期待したが、何も書かれてはいなかった。

「なにガサゴソやってんの?」
73 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:04
後藤はまるで素人俳優の演技のように「わっ!」と叫んで足を滑らせた。
浴槽のヘリにしたたかに腰を打ちつける。
狭い部屋の中でしばらくの間、後藤はじたばたと手足を泳がせた。

「おいおい、気をつけなよー。怪我したらシャレになんないし」
壁の向こうから聞こえる市井の声は相変わらず軽い。
もう何年も前からそうしているように、自然な口調で後藤に話しかけてきた。

「いちーちゃん、もしかして・・・・・・。あのさあ」
「ん? なに?」
「朝からずっとそこで待ってたの?」
まさかそんなわけないと思ったが、声をかけてくるタイミングがあまりにも良すぎた。
案の定、市井は後藤の疑問を軽く一蹴した。

「そんなわけないじゃん」
「でもー」
「洗面所使ってる音がしたからさ」

気が付かなかったが、蛇口から流れる水の音などは、
かなりはっきりと隣の部屋に伝わるようだ。壁は思ったより薄いらしい。
74 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:04
「そっちも洗面所なの?」
後藤は隣の部屋のレイアウトを想像しながら言った。
部屋の大きさは同じくらいだと思うが、中がどうなっているかはわからない。
きっと市井だってこっちの部屋の中のことはわからないだろう。
だが市井はあっさりと答えた。

「こっちもゴトーの部屋と同じだよ。こっち側は洗面所じゃない」
「え?」
言っている意味がよくわからない。
後藤は同じ部屋が8つ並んでいる様子を、上部から見た図で想像してみた。

「こっち側は玄関入ってすぐ横の空いてるスペースのところだよ。
 ゴトーの部屋にも同じような空間あるだろ? 多分これって下駄箱を置くスペースだと
 思うんだけど、ここの部屋には何も置いてないからさ、布団持ってくりゃ座りやすいんだよ」

確かに後藤の部屋にも同じような何もない空間があった。
するとこの並びの部屋は8つとも同じレイアウトなのだろうか。
75 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:05
「じゃあ、いちーちゃんは逆側の部屋の子とは洗面所越しに話してるわけ?」
「そうだよ。今のゴトーと同じような姿勢でね」
まるで見えているかのように言う。後藤は思わず姿勢を正して部屋を見回す。

まさか監視カメラがあるわけではないだろう。
いや、この施設の性質上、そういうものがあっても不思議ではない。
カメラはなくとも盗聴器くらいは仕掛けてありそうだ。
一旦意識しだすと、急に落ち着かなくなってくる。
そわそわした後藤を気遣うそぶりも見せずに、市井は話題を変える。

「昨日は大変だったみたいじゃん。晩飯の時、すげー騒ぎになってたよ」
市井の言葉には詮索しているような響きはなかったが、後藤には軽い負担となった。
食事を吐いたことを話せば、自分の過去のことも説明しなければならない。

話そうか。話すまいか。
気後れしていたことは確かだ。面倒と思ったのも確かだ。
だが、自分がそれほど迷っていないことにも気づいていた。

きっと本当は誰かにこの話を聞いてほしかったんだ。
きちんとした形で。自分の方から。最初から最後まで全部。うん。
76 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:05
これまで「あの時」のことを誰かに話したことはなかった。

警察や病院の関係者に聞かれても、堅く口を閉ざし、一言も話さなかった。
最初は被害者の一人という扱いだったが、
沈黙を続けているうちに徐々に捜査機関は後藤に対して苛立ちを隠さなくなった。
扱いは日に日に粗雑で横暴なものとなっていき、
気が付けば後藤は国の施設をあちこちたらい回しされるようになった。

近い肉親を全て失くし、天涯孤独の身となった後藤にとって他に選択肢はなかった。
ただ出された食事を口にし、眠たくなれば眠り、起きたい時に起きる生活。
それでも質問には何も答えなかった。意地を張っているわけではなかった。
後藤は心は深く傷つき、あの時の記憶を呼び覚ますことを、その時もまだ強く拒んでいた。

そんな生活もいつしか終わりが訪れる。
いくつかの検査を経て、後藤はこの施設に移ることを打診された。

一枚の書類にサインすることを要求された。
一生遊んで暮らせるだけの金額がそこには記されていた。
後藤に要求されるのは、施設の指示に従って研究に協力すること。ただそれだけだった。
書類を差し出した職員は、後藤の過去について何も尋ねなかった。

後藤は言われるがままに無気力でその書類にサインをした。
書類には「期限」や「研究内容」に関することが一行も書かれていなかったが、
後藤にはそこまで書類を精読する気力はなかった。
77 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:05
長い長い話になると思っていたが、いざ話してみると、10分とかからなかった。
今まで自分がこだわっていたことは何なのだろうか。
自分を苦しめていたことは何だったのだろうか。
話にしてみると10分にもならないような、くだらないことだったのだろうか。
市井は黙って聞いている。何も言おうとしない。やはりつまらない話だったのだろうか。

つまらない。くだらない。無意味だ。全部無意味だ。
どうしてあたしの人生はこんなにくだらなくて中身がないんだろうか。
この数年間、あたしは何をやってきたんだろう。何もやっていなんじゃないのか。
一つ自分の過去を話すごとに、後藤の心は暗く深い闇の中へと沈みこんでいった。

市井は後藤の言葉に自嘲の響きが混じっていることに気づいていたが、
慰めの言葉も、励ましの言葉も送らなかった。

今、後藤に送るべきなのはそんな言葉ではない。
そんな言葉をいくつ並べてみても、後藤の心を闇から引っ張り出すことはできない。
百の正論を述べたって、彼女の人生を肯定してあげることはできない。

市井決して聡明なタイプの少女ではなかったが、
そんな言葉が糞の役にも立たないということくらいは感覚的に知っていた。
78 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:05
「へー。じゃあ、ゴトーもやっぱり金が目的でここに来たんだ」
軽い口調だった。
昨日と同じような軽さだったが、今の後藤には全く違う意味を持って響いた。

市井の返答は後藤が思いもしないところから投げかけられた。
こう言われたらこう言い返そう。こう突っ込まれたらこう切り返そう。
そんな風に色々と想定していた姑息なシミュレーションは、一瞬にして意味を失った。
まず空白があり、次に驚きがあり、そして怒りが後藤を貫いた。

それがこの話を全部聞いた感想? 
あたしのこれまでの人生の結論がそれ? その一言なの? それしかないの?

「お金じゃないよ」
自分の声が震えているがわかったが、震えを押さえ込もうとは思わなかった。
むしろもっと強く相手に伝えるべきだと思った。
「そんなんじゃない」
ただ、絶対に泣かない。そう決めて後藤は壁の向こうに噛み付いた。

「あたしが聞いてほしいのはそんなことじゃない」
79 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:05
後藤の心に火がついたことが、壁越しにでもはっきりと市井には感じとることができた。

同情や憐憫に対するひねくれた反応ではなく、
理不尽な攻撃に対する純粋な怒り。正当な怒り。
怒る権利を手にした後藤は、しばらくの間、幼稚な言葉で市井の冷たい反応を非難した。

あたしは、あたしは、あたしは。あたしは!

後藤の言葉は、切れば火が吹き出そうなくらい熱かった。
いかにも泣き出しそうな声だったが、絶対に泣くもんかという強い意志も感じた。
だがほんのちょっと痛いところを突いたら、すぐにでも泣き出しそうだった。

市井はニヤニヤと笑いながら、泣き喚く後藤の声を聞いていた。
もう一言付け加えて、こっぴどく泣かしてやろうかなと思ったが、
そういうやり取りもありきたりでつまんないかなと思った。

ここで「ゴトーって意外と可愛いヤツだな」って言ったら、後藤はもっと怒るだろうか。
泣くだろうか。それとも黙りこくるだろうか。この子なら黙り込むような気がする。
文字通りぐうの音も出ないんじゃないか。あはははは。それ面白いかも。

だが市井は本心をそのまま言うほど純真な性格ではなかった。
80 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:05
「まあまあまあ。言いたいことはわかるんだけどさ」
「わかるわけないよ。わかんないからそんなこと言うんだよ」
市井は言葉に「優しさ」を込めた。後藤にはそれが「余裕」に感じられた。

いちーちゃんはあたしの気持ちがわからないんだ。
ちょっとばかし先にこの施設に来たからって、施設のことを知ってるからって。
余裕出して喋ってるんだ。
何もわかってないよ。施設のことをわかってたって、あたしのことは何もわかってない。
なにさ余裕出して。上から目線で喋って。学校の先生みたいにさ。
あたしよりも恵まれてるからって、優位に立ってるからって威張らないでよ!

後藤の言葉はあちこち乱雑に飛び散った。
あるものは市井に突き刺さり、あるものは後藤自身に突き刺さった。

それでも市井は後藤の非難を逃げずに防がずに全て受け止めた。
後藤よりも精神的に優位に立っていたからではない。
後藤よりもたくさん辛いことを知っているからだった。

「だからわかるって。ここにいる子らはさ、みんな金で売られてきたんだからさ」
81 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:06
「だからなんなのよ!」
ほんの一瞬だけ言葉に詰まった後、気を取り直して後藤は再び攻撃に出た。
だがそれはもう意味をなさない攻撃だった。

「だからって、だからって、あたしの気持ちがわかるわけないじゃん」
今度は後藤の言葉が理不尽な色を帯びてきた。
勿論、後藤はそれに気づいていたが、もう引っ込みがつかなくなっていた。

ずるい。いちーちゃんはずるい。
あたしに言わせるだけ言わせといて最後にそんなこと言うなんて。
最初からそう言ってよ。おかしいじゃん。
あたしバカじゃん。なによ。バカにして。あたしのことバカだって思ってんだ。
自分だけ悲劇のヒロインを気取ってるいけ好かないヤツだと思ってるんだ。

後藤は引っ込みがつかなくなった我が身の置き場所を探して戸惑っていた。
どこに隠せば。どうやって誤魔化せば。ダメだ。そんなことできない。したくない。
誰かを傷つけないとあたしが傷つく。もう嫌だ。そんなのは嫌だ。どっちも嫌。嫌。嫌。

だが市井は、後藤の心をどこか見えないところへ引っ込ませるつもりはなかった。
「あたし、一億」
やはり市井の言葉は軽くて少し安っぽい。
その軽い響きが堅く縮まった後藤の心をふわっと撫でた。

「あたしは一億でここに売られたよ。後藤はいくら? まさか一億以上じゃないよね?」
82 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:06
「三億」
無心で答えるというのはこういうことを言うのだろう。

「1+1は?」と聞かれたら、「なんで?」「うるさいよ」「あんた誰?」と思うより先に、
心の中に「2」という数字を無意識に思い浮かべてしまうように。
それと同じように、後藤は心に浮かべると同時に言葉を口にしていた。

「三億って書いてあった」

答えてから、その数字が書かれていた書類やら、
気難しそうな顔でその書類の内容を説明している職員の顔やら、
市井の言った「一億」という数字やらがリアルに頭に浮かんできた。

「うわ、『三億』だって。言うねー。あたしの三倍じゃん。ゴトー、感じわるー」
「へ? 人によって違うの?」
「『三億』だってさ。三億もらう子は口調までクールだねー。感じわるー」
「クールじゃないもん!]

いきなり会話が砕けたものになった。
いや、市井の口調は最初からずっと変わらない。
だが市井に影響されてか、後藤の口調もぐっと落ち着いたものになっていった。
83 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:06
「値段はみんな違うよ。まちまち。ここにはゴトー以外に7人の子がいるっていったじゃん」
「うん」
「最初に入った5人・・・・・じゃなかった4人の子は高かった。二億円くらいもらってる。
 その中でもナツミって子だけ三億もらったって言ってたけど。まあ大体みんな二億」

初めて聞く説明だったが、後藤より先に入っていた7人の子は、
バラバラに入ったのではなく、何人かまとめて入ったのだという。
最初に4人の子が入っていて、そこから後に市井を含む3人の子が加わったらしい。

「その後から入った3人はさ、あたしも含めてみんな一億ちょっとだね」
「本当に? それって本当にその値段なの?」
後藤は自分だけ高いということが気になった。全員同額なのが普通だろう。
ただ、その話もみんな壁越しに会話したのだろうから、
話の真偽についてはかなり怪しいのではないのか。
84 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:07
「それは本当。だってテラダが言ってたもん。テラダは知ってるでしょ?」
「うん。おっさんだけどチャラチャラしてる人でしょ?」
「あははは。そうそう。その人」

重要なことには口の堅そうに見えたテラダだったが、
市井曰く、基本的には喋り好きな人なので、
軽くおだてて話せばその程度のことは話してくれるのだという。

後藤はテラダから上手く話を引き出せなかったことが悔しかった。
もっとも後藤には、自分があの男をおだてるなんてことができるとは思えなかったが。

「後に入ったあたしらの方が安いんだよねー。理由はわかんないけどさ。
 だからゴトーはもっと安くて5000万くらいかと思ってたよ。マジで三億?」
「マジで。書類見てびびったもん。桁数、数えた」
「数える数える。あれは数えるよね。あたしだってびびって数えたもん」

後藤の声には金で売られたことに対する暗さがなくなっていた。
この施設にいる子はみんなこんな感じなのだろうか。
みんなその事実を受け止めて生活しているのだろうか。
みんなあたしと同じような境遇を抱えて―――
85 名前:【発生】 投稿日:2009/04/06(月) 23:07
「ねえ、いちいちゃん」
「なにさ三億」
くそぅ。変なニックネームをつける癖があるのはいちーちゃんの方じゃんか。
昨日言ってたこと、もう忘れてんじゃんか。

後藤はそんな市井のことが嫌いではなかった。
そんな軽いやり取りを好む市井のことが好きになっていた。
だけどやはり自分のことは「三億」ではなく「ごとー」と呼んで欲しかった。

「そんな三億にこだわらなくても・・・・・」
「こだわるさ! こんな壁越しじゃ、何も見えないし、伝わることも少ないじゃん。
 だからさ、『三億』っていう具体的な数字はインパクトがあるわけよ。だから」
「わかった、わかった、それはもうわかったから―――」
後藤は言葉の途中で会話に割り込む。
強引に止めなければそのまま延々と愚痴を聞かされそうな勢いだった。

「―――いちーちゃんがなんでここに来たかも教えてくれない?」
86 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/06(月) 23:07
87 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/06(月) 23:08
88 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/06(月) 23:08
89 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:43
「つまんない話だよ」
本当につまらなそうな口調で市井は自分の過去を語り始めた。
あえて自嘲的な響きを交えて後藤に話した。

市井は後藤に向かって、まるで鏡を見せるように、
自分の辛い過去を自嘲交じりに語る少女を演じてみせた。
同情されることも理解されることも拒絶したかたくなな語りは、
後藤が思っていたほど毅然としたものではなく、傍から見ているとひどく滑稽なものだった。

その姿が先ほどの自分の姿であることに気づかないほど後藤はバカではなかった。
一切口を挟まず、ただ黙って市井の話を聞いていた。

市井の話も10分ほどで終わった。
よくある感じの身の上話だった。お金が必要な理由も後藤と似たり寄ったりだった。
だがその短い話の背後には、きっと膨大な出来事や感情が詰まっているのだろう。
後藤の人生がそうであるように。

後藤は市井がそうしたように、身の上話そのものには触れないことにした。
ただ一つだけずっと気になっていたことを尋ねた。

「いちーちゃんってどうやってこの施設に入ったの?」
90 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:44
後藤はあの事件がきっかけでこの施設に来ることになった。
テラダを始めとする施設のスタッフも、
後藤があの事件の生き残りであることに強い興味を示した。
どうやらそれがここで行なわれている「研究」に関係しているように思われた。

その研究が何であるかはさっぱりわからなかったが、
ポンと億を超える金額を積むのだから、「誰でもいい」というわけではないだろう。
実際、最初の面談のときテラダは「条件は満たされてるわけや」という言葉を使った。

条件ってなんだろう?
いちーちゃんも、他の子たちも、その条件ってやつを満たしてるの?

「人体実験」という言葉を使った市井は、その条件を知っているのではないか。
研究の内容についても、ある程度の知識があるのではないか。
後藤は市井だけではなく、他の子たちにもそのことを聞いてみたかった。
もしかしたら、既に7人の中ではまとまった事実が共有されているのかもしれない。

後藤はその条件の内容が知りたかった。
自分の人生を縛り付けている鎖のようなものかもしれない。
ただ一人の生き残り。他の人とは違う。それがずっと重荷になっていた。
その鎖をほどくことができるのなら、人体実験の材料にされても構わないと思った。
91 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:44
「んー? バイト先で誘われた」
「バイト先? なんのバイト?」
「これ、誰にも言うなよ」
後藤は小さく吹きだした。この状況で誰に言えるというのだろうか。市井以外の誰に。

「笑ってんじゃねーよ。絶対言うなよ」
まるで子供だ。口を尖らせている市井の顔が、後藤には容易に想像することができた。
「言わない言わない」
「本当は違法なんだけどさ。投薬のバイトやってたんだよ」
「とーやく?」

聞き慣れない製薬会社の募集だったという。
本来なら市井の年齢では参加できないバイトだったのだが、
金が欲しい市井と、若年層のデータが欲しい製薬会社の利害が一致した。

少女と企業。双方共に同じ重さだけ抱えたハイリスクとハイリターン。
利害というものは常に法律の向こう側の方が一致しやすい。
92 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:45
そういったアンダーグラウンドのバイトに市井は頻繁に通っていたらしい。
「そこでさー、もっと割りの良いバイトがあるって聞いたもんだから」
身寄りのなかった市井は一億という条件を聞いて、思考能力が完全に麻痺した。
「ホントはヤバイ話だなあと思ったんだけどさ。思ったんだけど一億だよ?」

普通に暮らしていては、一生そんなお金を手にする機会はないだろう。
ヤバイと思ったのはほんの一瞬のことだったという。

市井が契約書にサインをすると、次の日にはもう銀行口座に一億が振り込まれていた。
その素早さに、ますますきな臭いものを感じたが、既に遅かった。
お金が振り込まれたとき以上の手際の良さで市井は拘束され、この施設に連れてこられた。

それが一年と少し前の話らしい。
93 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:45
「他の子もそんな感じなの?」
「かなあ。同じ日に入ったヤグチとケイも病院がらみで誘われたって聞いたけど」

さらに、市井たちよりも先に入所していた4人も似たような状況で誘われたらしい。
ある子は献血に参加した後に誘われ、ある子は健康診断の後に誘われた。
そして誘われた子は例外なく皆、東京で一人暮らしをしていた女の子だった。
やはり無条件で誘われたというわけではないらしい。
病院での検査で何かが引っかかった人間が選ばれているのだろうか。

「じゃあ、いちーちゃんが昨日言ってた人体実験っていうのはそういうこと?」
「まあね」
後藤は少しホッとした。
もっと深刻な、拷問のような状況を想像していたからだ。

地下深く太陽が届かない施設。厳重に鍵をかけられた部屋。
堅気には見えない施設の職員。何一つ説明されない状況。
そういったものが入り混じって、後藤の精神に重圧をかけていた。
その重圧も、どれくらいの重さなのか全く見当がつかない奇妙な重圧だった。
部屋に一人でいる時間がもっと長かったら―――正気を保てないかもしれない。
94 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:45
ずっと不安だった。
市井との言葉のやり取りは、そんな後藤の重荷を少し軽くしてくれた。
薬を飲まされたり血を抜かれたりするのはそれなりに苦痛だろうが、
それくらいならやっていけそうな気がした。

この施設に入るまでは、ここまで奇妙な状況に追い込まれるとは思っていなかった。
後藤も既に三億は受け取っていたが、もしかしたら騙されたのではないかと感じ始めていた。
だがどうやらそこまで深刻に考えることもなかったのかもしれない。

安心した後藤の口から軽口が漏れる。
「でもさ。ここって監獄みたいだね」
地下にある施設には窓が一つもない。部屋には外側から鍵をかけられている。
息が詰まりそうだった。こういった環境にもいずれ慣れていくのだろうか。

「なんでも環境が変わると検査結果に影響が出るから、
 基本的にはずっと部屋の中にいないとダメなんだってさ」
市井の話によると、外出はおろか部屋から出る自由すら認められていないらしい。

「ホントさ。監獄そのものだよ」
扉にかけられた電子キーよりも市井の言葉は強固だった。

「ゴトーも一年くらいここにいればわかる。自由がないとかそんなことじゃない。
 一年もいればきっとゴトーも―――『何か』を諦めなくちゃいけなくなる。
 今までの生活では当たり前すぎて気にもしなかった『何か』をね。」
95 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:45
96 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:46
壁の向こう側は見えない。壁のこちら側からは見えない。
壁の向こうは明るくも暗くもない。壁の向こうは広くも狭くもない。ただ見えないだけ。
だがしかし―――「向こう側」は確実に存在した。

そして
向こう側の向こう側も。
向こう側の向こう側の向こう側も。
向こう側の向こう側の向こう側の向こう側も
向こう側の向こう側の向こう側の向こう側の向こう側の・・・・・・


「サヤカの向こう側に新入りが来たらしいよ」
「マジで? いつ? いつ来たの?」

「一番手前の部屋に新しい子が入ったって」
「そういえばテラダのおっさんがそれっぽいこと言ってたわ」

「サヤカは今日も新入りと一日中話し込んでるらしいよ」

「でさあ、その子どんな子なの?」
「あはは。いつもボーっとしてる子だってさ」
「なにそれ。全然使えねー」

「自称3億だってさ。なまいきー」
「へー。でもそれじゃあ、意外と使える子なんじゃないの?」

「で、今日はどんな感じだったのよ?」
「相変わらずボーっとしてるってさ」
「なにそれ。つまんないの。なんか他にないの?」

「今日もボーっとしてたってさ。なんなのあの子」
「昨日テラダに聞いたら本当に三億だってさ。マジマジ」

「今日もボーっとしてるって言ってたけど」
「またそれかよ」

「で、新入りは今日もボーっとしてたって?」
「ボーっとしてたってさ」

「そう言うあんたはどうなのさ? ボーっとしてないの?」
「あたし? あたしは見たまんま」
「見えないーっつーの」


壁の向こう側は、いつも少しかしましい。
97 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:46
98 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:46
後藤が施設に入ってから数週間が過ぎた。
単調な生活に慣れるのにそれほど時間はかからなかった。

朝は7時に運ばれてくる朝食の配膳の音で目を覚ます。
午前中に後藤の身の回りで起こるのはただそれだけだった。
毎日、一時間ほど検査の時間があったが、後藤に順番が回ってくるのは夕方だった。

朝食が終わり、職員が食器の回収にやってくると同時に、一番奥にある1番の部屋の子
(ユウコという子らしい。市井は彼女のことを「ユウちゃん」と呼んだ)から検査が始まる。
午前中は三人が代わる代わる検査に呼ばれる。
検査は常に一人ずつであり、二人以上が同時に呼ばれることは一度もなかった。

12時に昼食が配られる。それが終わり、食器の回収とともに午後の検査が始まる。
午後は13時から4番の部屋の子(ナツミという子らしい)の検査が始まる。
一番最後の後藤に順番が回ってくるのは、いつも17時過ぎであり、
一時間程度の検査が終わると、もう夕食の時間が近かった。

19時に配られる夕食が終わると、21時にはもう消灯。
それ以後は電気も止められ、シャワーを浴びることもままならなかった。

単調な生活の中で、確かに後藤は、市井が言ったように『何か』を失いつつあった。
だが後藤がそれに気づくのは、もっと後のことになる。
99 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:46
「いちーちゃん。まだ起きてる?」
「眠い」

どちらかが提案したわけではない。
朝は後藤が弱い。昼は市井が昼寝をする習慣があった。
ごく自然な流れで、後藤と市井の間には「消灯後に話す」という約束事が出来上がっていた。
慣れればこの時間帯が一番話しやすかった。

「昼間寝てたんでしょ? なんでそんな眠いのよ」
「今日はちょっとヤグチと話し込んでたんだよ」
話を繰り返すうちに、後藤もヤグチという少女のことをかなり詳しく知ることになった。
かなりお喋りで押しの強い子らしい。
「向こうが全部喋ってくれるから疲れなくていいんだよ」と市井は言った。

二人がどれくらい気が合うのかというのは後藤にはわかりかねた。
勿論、後藤はヤグチと一度も会ったことがない。話したこともない。
モデル並の長身と抜群のスタイルを持っているらしい、ということくらいしか知らなかった。
相変わらず他の少女と会う機会はなかったし、市井以外とは話す機会もなかった。

一度テラダに言ってみたのだが、「それは無理」とすげなく却下されてしまった。
どうも後藤はテラダと相性が悪いみたいだった。
市井が言っていたように、フランクに話し合える相手だとは思えなかった。
100 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:47
後藤は今日の検査について市井と情報交換した。
さほど重要なことがあったわけではなかったが、市井は毎日必ず話を聞きたがった。
そして必ず後藤に、他の少女からの情報を伝えた。
その情報も大したものではなかったが、市井は一日も欠かさず後藤に伝えた。
どうやらそれがここで生きていく上で最も重要なルールらしい。

「ゴトーは相変わらずテラダと相性良くないみたいだねえ」
市井は市井でテラダと時に他愛もない話をするらしい。
勿論それはテラダから情報を引き出すための一つの努力だったのだが。

だが後藤はどうやっても市井のように上手く立ち振る舞えなかった。

「今日はね。服のことでちょっともめた」
「あー、服かー。一回は言いたくなるよねー」

施設に入ってからはずっと囚人服のようなものを着せられていた。
配られた服はTシャツとハーフパンツ。そしてワンピース。それだけだった。
ダボダボのワンピースはごわごわした生地で、どうも馴染めない。

ここに来るまで着ていた服は、クリーニングに出した後、二度と戻ってこなかった。
どれだけ抗議しても服は返してもらえなかった。
101 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:47
「別にあの服にこだわってるわけじゃないんだけどさー、もう古かったしさー、
 返してくれないなら返してくれないでもいいんだけどさー
 でもさー、この服は・・・・・・・ちょっとね」
「まー、確かに」

クククと市井が苦笑するのが聞こえた。
もしかしたら自分の胸元に視線を落としているのかもしれない。
ワンピースの胸元を指先でつまんだりなんかして。

壁越しの会話に慣れた後藤は、今では向こう側にいる市井の仕草について、
かなり微に入り細に入り想像を広げるようになっていた。
それがここでの唯一の娯楽と言ってもよかった。
だがその想像が正しいのだという自分勝手な確信は、日に日に濃くなっていった。

「もうちょっと人間らしいデザインであってもいいんじゃない?」
後藤が着ていたベージュのワンピースの胸元と背中には、
スポーツ選手のユニフォームのように赤字でデカデカと8という数字が書かれていた。
市井が着ている同じワンピースにも赤字で7という数字が書かれているらしい。

囚人番号なら右腕にあるシールだけで十分だと思うのだが、
その辺りのことはこの施設では徹底されていた。
102 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:47
「なんか自分が数字になったみたいな気になって・・・・・」
「おっと。ゴトーは詩人だねー」
「だって! ここまでしなくてもいいと思わない?」
「そのうち晩飯のハンバーグにもケチャップで8って書かれたりしてー」
「笑えないよそれ・・・・・・」

自分達が人間扱いされていないことは薄々気づいていた。
ただの実験材料。そうとしか見なされていないのは間違いないだろう。

だからといって服にまで数字を貼り付けるというのはどういう神経なのか。
もう少し人間らしい扱いをしても罰は当たらないだろう。
後藤にはそれが不服でならなかった。

「それさー、あたしらもこれまで何度かテラダに抗議してんだよね」
「やっぱり。でもダメだったんだ」
「向こうには向こうの理屈があるらしいんだけどさー、それがまた馬鹿馬鹿しい答でさ」
実験をスムースに進めるために。
数多くの複雑な試験を、ミスなく、滞りなく進めるために。
テラダが説明したのは、そんな子供だましの答だった。

「番号なんかなくても顔見りゃわかるっつーの」
市井の言葉の方が正論だったが、この施設ではその正論は通じなかった。
103 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:47
「でね。試験のときはこの服でいいから、私服みたいなのが欲しいって言ったの」
「ほー。ゴトーも少し妥協したわけだ。で、テラダは何て言った?」
「他の子はそんなこと望んでない。お前だけ特別扱いできないって・・・・・」
「ふーん。いつもの決め台詞だね」

市井の言う通りだった。
後藤が何かを要求する度に、テラダは「他の子は望んでいない」と言う。
「他の子も望んでますよ!」という言葉が喉まで出かかるのだが、そんなことは言えない。
壁越しに話していることを説明しなければならないからだ。

もしそんなことを話したら、今後はそういうことも許されなくなるかもしれない。
部屋の壁が改良されて話せなくなるかもしれない。
そういう危惧がある限り、こちらから手の内を晒すことは出来なかった。

「あれを言われると反論できないんだよね・・・・・・・」
「まー、『他の子に会わせろ!』って言えばいいんだけどさ。それは無理だからね」
施設の人間は入所している女の子同士が会うことを極度に嫌っていた。
それも「実験に影響を与えるから」ということらしい。
どんな些細なことであっても、会う可能性のある行為は許されなかった。

かといって遠く離れているわけではない。
壁一つ隔てた隣の部屋にいるのだ。
それが後藤にはたまらなくもどかしかった。
施設の人間はそのことをどう考えているのだろうか?
104 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:48
「でもさあ、それにしてもテラダってわかんねーこと言うやつだよね。
 普通の女の子だったらちゃんとした服くらい欲しがるのが当たり前じゃん。
 断りたいんならもっとそれらしい理由を考えて欲しいよね」
市井も当然ながらテラダの言う理由が嘘であることがわかっていた。

単に自由を与えたくないだけなんだ。
余計なことを考えさせる余地を与えるのが嫌なんだ。
そうやって反発を押さえつけることで「余計なこと」を考えない人間を作り上げたいんだ。

市井は既に自分の着たい服を着るという自由を諦めていた。

いいよいいよ。服くらいならまだ我慢できるし。いちいち怒るのもメンドクセーし。

そう考えるようになったこと自体、
テラダたちの思うままにコントロールされているということなのだろうか。
飼い慣らされているということなのだろうか。

不快だった。何もかもが不快だった。
何よりも、そういった不自由さを自分が金で買ったということが一番不快だった。
105 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:48
市井は堰を切ったようにテラダを批判し始める。
そのうち批判はテラダの容姿にすら及ぶ。
もはや話のきっかけが何であったかすら怪しくなってきた。

後藤はそんな市井と接しているのが辛かった。
後藤にとって市井は鏡に向きあった自分のような存在だった。
性格も、そしておそらく容姿も、まるっきり似ていない二人だったが、
人間という入れ物の一番底にある部分では通じ合っていると信じていた。

自分もここで暮らしているうちに、市井のように「諦める」ことに慣れるていくのだろうか。
そうはなりたくない。そして市井にもそうであって欲しくはなかった。
後藤は自分の右腕の「8」という数字を指でなぞりながら、市井を軽くいさめる。

「うーん。テラダさんも悪い人じゃないんだけど・・・・・」
「アハハハ。あいつのこと『悪い人じゃない』なんて言ってるのゴトーだけだっつーの」
確かに市井はかなり頻繁に施設やテラダのことを悪く言う。
しかもかなり辛らつな言葉で。
市井の隣にいるというヤグチもそうらしいし、他の子もいつも悪口で盛り上がっているという。
本当だろうか?

もしもそういったことが施設の人間に伝われば、ただでは済まないのでは?
106 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:48
「いちーちゃん。ちょっと。そこまで言ったらヤバイって」
「何がよ」
市井は後藤の心配もどこ吹く風といった按配だった。
平気でテラダのことをおちょくり続けた。

「あんまり酷いこと言ってたら・・・・・ばれたときヤバイんじゃないの?」
「はあ? なんでばれるんだよ? ゴトーがチクるってか?」
「チクったりなんかしないって!」

後藤は後藤で心配していることを市井に話した。
これだけ厳重に管理された施設なのだから、部屋に隠しカメラくらいはあるかもしれない。
消灯後で真っ暗だからといって油断はできない。
隠しマイクで部屋間の会話を録音していたりする可能性があるのではないか。

だが市井はそういった心配を一蹴した。
「ないない」
「え?」
「そういうことはないから大丈夫」
あまりにもあっさりと、そしてきっぱりと断言したので後藤は驚いた。

「なんでそんなことわかるの?」
107 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:48
市井は後藤の疑問にすぐには答えなかった。

「ごとーの部屋のベッドってさ、すっごいキイキイきしむだろ?」
「う、うん」
確かにそうだった。何度かテラダに訴えたのだが、新調される気配はない。
なぜ市井はそのことを知っているのだろうか。壁越しに音が聞こえたのか。
それともテラダからそういった話を引き出していたのか。

「そんでもって水道のさ、蛇口とシャワーの切り替えが甘いだろ?」
「えー! なんで知ってるの?」
それはテラダにも言っていなかった。
それほど不便でもないしまあいいかと思いながら今までずっと使ってきた。
音でわかることでもない。
市井はなぜそのことを知っているのだろうか?

市井は他にも後藤の部屋についていくつかの指摘をした。
それらは全て的を射たものだった。

さすがに後藤は少し不愉快な気持ちになってきた。
市井は隣の部屋から、覗き穴か何かを通して、この部屋を覗いているのだろうか?
108 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:48
「いちーちゃん・・・・・もしかして」
「覗いてないよ」
市井は先回りして答えた。
確かにちょっと覗いたくらいではわからないことも、いくつか市井は指摘していた。
市井は詳しすぎた。この部屋で暮らしていたことがあるとしか思えないくらいに。
もしかしたら答はもっと簡単なのかもしれない。

「あ。もしかして部屋を替わったの? 前はこの部屋で住んでたとか?」
「お見事。正解。気づくの遅いけどねー」
「一言多いよ!」

市井は四ヶ月ほど前まで、後藤の入っている8番の部屋に住んでいたのだという。
どうりで後藤の部屋について詳しいはずだった。

「引っ越す前はさ、あたしが8番でヤグチが7番でケイちゃんが6番だった」
番号が一つずつずれている。
右腕のシールタトゥーもそのときに8番から7番に変わったのだという。

ケイが今住んでいるという5番の部屋は空き部屋だったのだろうか?
それともナツミが住んでいたのだろうか?
109 名前:【発生】 投稿日:2009/04/09(木) 23:49
「じゃあ、ナツミが5番でカオリが4番で?」
「いーや違うよ。ナツミは昔から4番でカオリも3番。アヤっぺが2番でユウちゃんが1番」
「今と一緒じゃん」
「そうだよ。引っ越したのは、あたしとヤグチとケイちゃんの三人だけ」

市井が部屋を引っ越したのはわかった。
4ヶ月前まで後藤の部屋に住んでいたのはわかった。
だがそれが一体なんだというのだろうか?
あたしはいちーちゃんと何の話をしていたんだっけ?
後藤は必死で話を整理しようとしたが、その前に市井が説明を続けた。

「それまではね。5番の部屋には別の子が入ってたんだ」
「別の子!?」
それは初耳だった。もうすぐ入所してから一ヶ月ほどになる。
施設のことに関しては一通り聞いたと思っていたが、
そのことはこれまで一度も聞いたことがなかった。一種のタブーなのだろうか。

「アスカっていう子だったんだけどさ」
アスカは市井よりも先に、ナツミやカオリたちと同時期にこの施設に来た子らしい。
やはりアスカも二億ほどでここに売られてきたそうだ。
そんな細かい情報はさほど驚きではなかったが、市井の次の言葉を聞いた瞬間、
後藤の心臓は、灯り一つない暗いトイレの中に、ドクンと一つ大きな音を立てた。

「脱走したんだよ。ここからね」
110 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/09(木) 23:49
111 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/09(木) 23:49
112 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/09(木) 23:49
113 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:56
テラダは研究員に促され、顕微鏡を覗き込んだ。
96穴の培養プレートにはピンク色の培地が満たされている。
培養プレートの中にはヒトの癌細胞から単離精製された特殊な細胞が培養されていた。

プレートをスライドさせながら、テラダは一つ一つ細胞を確認する。
そのほとんどは普通の細胞だったが、僅かに凝集塊を形成している細胞もあった。
そのうちのいくつかに青くくすんだ部分があることを、テラダは見逃さなかった。
「なるほど。ついに上手いこといったみたいやな」
満足そうに頷きながらテラダは接眼レンズから目を離す。

「で、全部でいくつや」
「7つです。遺伝子を7つに分割することで毒性を抑えることができました」
「7種類か・・・・・。既に遺伝子解析は済んどるわけか」
「はい」
テラダは研究員から分厚いデータシートを受け取り、
四種類に色分けされた小さな波線に素早く目を走らせた。

「7つとも例のウイルス遺伝子が導入されていることは確かです」
コンピューターによる解析結果に嘘はない。
にわかには信じがたかったが、どうやら研究員の言うとおりの結果が出たようだ。
あっけない。結果が出るときというのは本当にあっけない。

この二年ほどずっと続けていた研究が、ついに一つの成果を挙げた瞬間だった。
114 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:56
「よっしゃ。7つ全部回収して拡大培養や。ここからは速いやろ」
「はい。おそらく来週には十分量の細胞が得られるかと」

研究室にいた人間全員にテラダの熱気が伝わる。
専門技術者である研究メンバーたちはこの成果の重要性をよく理解していた。
全てはここから始まる。

テラダはこの二年の試行錯誤に思いを馳せた。
条件を変えて行なった様々な試験は、これまでことごとく失敗に終わっていた。

このトライアルは大本の計画から間違っていたのではないかという辛らつな批判も受けた。
他国の施設に大きく遅れをとっているという指摘もあった。
倫理上絶対許されない試験だという、今更ながらな生温い意見すらあった。
計画の変更を指示されたことは一度や二度ではなかった。

だがテラダは己の信念を曲げることなく試験を続行した。
常識も法律も倫理も無視して、論理に従って一直線に成果のみを求めた。
それでも二年かかったのだ。
老人たちの言う通りにやっていたら、きっと何も成し遂げられなかっただろう。
115 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:57
テラダは奥歯を噛み締める。
もう老人たちにいいようにはさせない。

見返したる。目にもの見せたる。俺のやり方で世界をひっくり返したる。

そして同時にこの成果は老人どもに伝えるべきではないとも考えた。
まだ早い。
下手に成果を強調すれば、研究そのものを取り上げられかねない。

テラダは組織の中でも磐石な地位を築いているわけではない。
政治的な振る舞いには細心の注意が必要とされた。
だがそれにしても何にしても、まずは成果を挙げることだ。
誰にも知られることなく。そして速やかに。着実に。

「よーし。来週、拡大培養が終わり次第、投与や」
「は?」
「すぐ投与するで。みんな準備しとけよー」
「投与って・・・・・それはまた急ですね。マウスですか? ラットですか?」
「アホか。ヒトや。ヒトに打たんでどうするねん」

その場にいた研究員は全員絶句した。
116 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:57
「無理ですよ! まだ安全性もなにも確認してませんし・・・・・」
「アホか。確認しても意味ないわ。この細胞が『安全』なわけないやろ」
「そんな!」

明らかにセオリーを無視した試験スケジュールだった。
マウスなどの小型哺乳類での試験を経て、サルなどの大型哺乳類に移る。
そうやって安全な投与量などの検討を行なった後、
ヒトへ投与するというのが、ごく普通の試験スケジュールだった。

「そんな暇あるかい」
だがテラダはその案を一蹴した。一顧だにしなかった。
「ですが何か問題があったときは・・・・」
その言葉を聞き終わらないうちに、テラダは研究員の胸倉をつかみ強く壁に押し付けた。
目は血走っていたが、狂気はなかった。まだなかった。狂うのはもう少し先でいい。

「アホかお前は。これは普通の実験やないと何度言うたらわかるんや?
 問題も糞もないわ。お前は自分が何を培養してるかわかっとんのか?
 今まで俺らが何をやってきたと思うとるねん。『問題がなかった』とか言えんのかい!」

テラダの暴論に反論できる人間は一人もいなかった。
無理もない。彼らがこれまでの実験で奪ってきた人命は―――
三桁に届こうかという数字だった。
117 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:57
「来週投与や」
テラダの言葉の響きには反論を許さぬ強さがあった。
「薬効と動態のどちらを見るのですか? 同時というのはちょっと・・・・・」

決定を覆せぬと判断した研究員は別の問題を提起した。
一度ヒトに投与してしまったら、もう後戻りはきかない。
成功か失敗か、どちらに転んでも結果だけならわかるかもしれないが、
解析に必要なデータが全て取れないことは明らかだった。
この世には同じ人間などいないのだから。

「うーん。今、サルとかウマとかは飼ってへんねんな?」
「はあ。大型でいるのはイヌくらいですが・・・・・・」
「よっしゃ。イヌとヒトと同時に投与や。同じ量だけ打とう。動態はイヌで見よう。
 細胞さえ増やせば後追いでも試験はできる。それですぐにプロトコール作れ」
「わかりました」
巨大な組織というのは、一つの決定に時間がかかるが、一度決定するとその後は速い。
研究員たちはテラダの指令に従って一斉に動き出した。

いきなりヒトに投与するという倫理的な問題は忘れられた。
元々、あの少女たちはそのために集められてきた人間なのだ。使い捨てだ。
そう割り切ってしまうことに何の抵抗も感じなかった。
研究者というは人種は、基本的に研究の進展のことしか考えていない。

今は成果を挙げることだけを考えるべきだ。
テラダに感化された研究員たちは我を忘れて投与の準備に没頭した。
118 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:57
119 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:57
施設は外から見るとただの三階建ての建物でしかなかった。
確かに建物自体は新しいように見えたが、あっさりとした外見からは、
とても地下に最新鋭の施設が存在しているようには見えなかった。

ただし敷地はかなり広く、取り囲んでいるフェンスも高かった。
フェンスの上には鉄条網が巻かれてあり、物々しい雰囲気を醸し出している。
確かにそれは「収容所」もしくは「刑務所」のように見えなくもない。
表にある正門もそれに相応しい頑丈な作りをしていた。

一方、裏にある搬入口は意外なほどそっけない作りだった。
安全性よりも実用性を重んじた作りになっているのだろうか。
裏門から入るトラックは守衛の簡単なチェックのみで敷地内に入ることができた。
もっともその様子は監視カメラでしっかりと監視されていたのだが。

そして今、一台のトラックが裏門を通り、施設の横にゆっくりと止まった。
運転席のドアを開けて、一人の小柄な少女が降りてきた。
助手席側のドアからも同じくらい小柄な少女がゆっくりと降りてくる。
二人ともまだ明らかに十代と見える、幼い少女だった。

二人はトラックの荷台を開けて積荷のダンボール箱を下ろしにかかる。
「ご苦労さん。相変わらずボロ儲けしとんのか?」
二人の少女の背中に向かってテラダがねっとりと声をかけた。
120 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:57
少女達はテラダの扱いに慣れているのか、
声をかけられても全く反応することはなく、黙々と荷物を降ろし続けた。
粗末な作業着を着ていたが、動作はきびきびとして隙がない。
日常的に激しく体を動かす生活をしている人間の動きだった。
少女たちは、肉体労働者というよりも、アスリートに近い雰囲気をまとっていた。

14時の太陽は二人の背中に燦燦と照りつける。
降り注ぐ光線の強さは間違いなく9月のそれなのだが、妙に涼しかった。
ここのところ異常気象が続き、夏でも肌寒い日が多かった。

二人はほとんど汗を流すこともなく、短い作業を終えた。
助手席に腕を突っ込み伝票を掴み取ると、最小限の動きでそれを投げる。
厚いクリップに挟まった伝票は見事なコントロールでテラダの胸元に収まった。

「毎度」
「これで全部だから」
二人の少女はあくまでもそっけない。
だがテラダはそんな無愛想な少女たちが可愛くて仕方がなかった。
頬を緩めながら伝票にハンコを押すと、わざとらしい仕草でガンと一つトラックを蹴った。
121 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:58
「なにすんだよ!」
「ええトラック使っとるなあ。めっちゃ頑丈やん。これ高いんやろ?」
「あんたの知ったこっちゃないよ」

少女はテラダを罵りながら乾いた土に唾を吐く。
粘り気のない唾は、糸を引くことなくテラダの足元に鋭く突き刺さる。
だが見た目ほど怒っているわけではなかった。
こんなやり取りも商売の中ではいつものことであり、いちいち本気にしてはいられない。

「お前らさあ。もうちょっと謙虚になった方がええんとちゃうの?
 こういう違法な商売しとったら敵も多いんやろ?」

テラダは地面に置かれたダンボールを無造作に開ける。
中には真っ白な麻薬がびっしりと詰まっていた。
この施設では純粋に医療用の薬剤として使うが、勿論『娯楽用』として使用することも可能だ。

実際、この少女たちの組織は『娯楽用』として売りさばくことで莫大な利益を上げていた。
少女たちはまだまだ幼く、愛らしい顔をしていたが、見かけに騙されてはいけない。
彼女達はアンダーグラウンド社会では全くの無名の存在だったが、
そういった非合法社会では無名であることも立派な一つのステータスだった。
122 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:58
「あたしらは欲しい人に売ってるだけ。いらないんだったら黙ってろっつーの」
「その態度が傲慢やっちゅーねん」
「売り手市場だからね。ここと契約が切れても、あたしらは別に困らない」
少女はニヤリと笑う。目一杯突っ張った態度をしているが、
ちょっと油断するとすぐに愛らしく子供っぽい表情が漏れた。やはりまだ幼い。

「へっ。売り手市場ねえ。でも違法やんけ。俺が当局にチクったらどうすんねんな?」
勿論テラダは通報するつもりなどない。
こういった非合法な組織があるおかげで、老人たちの説教を聞くこともなく
自分の裁量で必要な試薬を全てまかなうことができる。
伝票さえ適当な名前に変えて処理しておけば、誰も後で確認することはできない。

こうした非合法組織とつながりがあったからこそ、
テラダの非人道的な試験がここまで進んだと言っても過言ではなかった。
潰すなんてバカなことはしない。
ただ単に可愛い女の子を二人、からかって楽しんでるだけの話だ。

「チクるねえ・・・・・。最近そういうこと言うヤツは多いけど・・・・」
そのときトラックの後ろの荷台から白い塊が舞い降りてきた。
白い塊は俊敏な動きで左右にステップを切りながら、テラダの前に現れて唸り声を上げた。
123 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:58
「Nothing! 下がれ!」
ナッシングと呼ばれた大型犬は、テラダから目を逸らさぬまま荒い息を立てる。
少女に首筋を何度か撫でられると、ようやく怒りを納めて少女の足元にまとわりついた。
薄汚れた服を着ている二人の少女とは対照的に
よく手入れされた艶やかな毛をふさふさとなびかせた、美しいイヌだった。

「そういうことを言うやつは、なぜか死体となって見つかるみたいよ」
「なるほど。なぜか動物に噛まれた跡がある死体となって―――というわけか?」
「ご明察」

麻薬密売といビッグビジネスには、様々な勢力が手を出している。
日本のヤクザは勿論、中国や北朝鮮、ロシア、アメリカ、南米。
ありとあらゆる国から流れてきた犯罪組織が常に縄張りを争っている。
その中で一定の在庫量を保っている彼女たちはなかなか侮れない存在だ。
イヌを使っているのは一つのデモンストレーションだろうが、
対敵能力に秀でた、武闘派の一面を持った組織であることは間違いないだろう。

そしてなにより彼女たちの売っている薬は格安で上質だ。
バックに誰もついていないというのもいい。
背後に大物が控えている組織と取り引きすれば、そういった情報は回りまわって
必ずやテラダの上役である老人たちに伝わってしまうだろう。

テラダと同じような理由で、無名の組織を必要としている勢力は多い。
少女たちの組織は、そういったニーズに見事に応えてくれる組織だった。
今は隙間産業的な存在だが、おそらく数年後には巨大な組織になっているだろう。
124 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:58
「じゃあ、さっさと中身の確認してよ」
「いや。まあ、信用してるから」
テラダは薬のパッケージを開けることなくひらひらと手を振った。
これまで一年以上取引のある相手だ。今更確認でもあるまい。

「信用してるから―――か。一番信用ならない言葉だね」
「お前なあ」
「確認して」
「はいはい」

テラダは薄ピンク色をした包みを丁寧にはがして指を突っ込み、白い粉を舌先に乗せた。
粉はまるで液体のように、すうっと速やかに舌に吸い込まれていった。
舌から流れ込んだ感覚は鼻の裏を抜けて、一気に脳髄まで達した。
悪くない。間違いなく上物だ。水増しもしていない。
これだけの質の物がこれだけの量あれば、あと三ヶ月は大丈夫だろう。

「上物や」
「じゃあ、金」
「身も蓋もない言い方するなあ」
彼女達は常に現金取引だった。取り扱っている物の性質上それは当然だろう。
テラダはカバンからレンガのような札束を取り出し、三つ少女に渡した。
125 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:58
彼女とテラダをつなぐ唯一のもの。それが金だった。
だがその金が二人をつなぐ瞬間、その瞬間が最も二人が離れている瞬間だった。
売り手と買い手。あちら側とこちら側。明確な一本の線。
テラダは彼女のことをとてつもなく遠くに感じた。

だがテラダはその決定的な「遠さ」が嫌いではなかった。
むしろ遠ければ遠いほど良い。
まあ、それが良質のビジネスっちゅうもんなんやろな。そう割り切っていた。
テラダはロマンチストである研究者の側面と、
リアリストであるビジネスマンの側面を併せ持った人物だった。

「確認してくれや」
「今、数えてる」
「信用してるから―――とは言うてくれへんわけや」

少女はテラダの言葉を無視して札束の端を指で弾く。
銀行員のような緻密さと素早さで札束の枚数を確認すると、ようやく少女は笑顔を見せた。
それはとびきり人工的な営業スマイルだったが、テラダはその笑顔が好きだった。
126 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:58
営業スマイルとは偽りの笑顔だ。
だが逆説的な考え方をするなら、人は自分を偽るとき、ほんの一瞬自分を晒すと言える。

どういう場合に偽るか。どういう方法で偽るか。どの程度偽るか。
そういうことを晒すということは、すなわち、ほんの一端ではあるが、
少女が今まで何を基準にしてどうやって生きていたかを晒すことに他ならなかった。

二人の少女の営業スマイルは、そういう意味では悪くなかった。
なかなか平坦ではない人生を、したたかに歩んできた微笑みだ。
見せるべきではないものは絶対に見せないという強い意志が窺える笑顔。
普通に義務教育を経てきた女には絶対にこんな笑顔はできない。

悪くない。
十代の半ばにも達していなさそうな、あどけない少女の完璧な営業スマイルに、
テラダはいたく満足した。
その笑顔はどんな契約書よりも雄弁に、彼女らの仕事が緻密であることを物語っていた。
取り引き相手として、不満も不足も全く感じなかった。
127 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:59
「毎度」
「毎度」

少女はテラダと最後の言葉を交し合うと、トラックに乗り込んだ。
真っ白なイヌも今度は荷台ではなく、助手席の方に飛び乗る。
助手席の少女の膝にちょこんと乗った白いイヌは、
さきほどの獰猛さなど微塵も感じさせず、どう見てもただの愛玩犬にしか見えなかった。

「見かけで判断したらアカンよなあ。ヒトもイヌも」
テラダは独り言をつぶやきながら、裏門へと走り去るトラックに手を振った。
さきほどの営業スマイルはどこへやら。
少女たちはテラダの見送りに対し、視線を向けることすらしなかった。

「現金なやつらやで」

乾いた砂埃を立てながらトラックが裏門から出て行くのを見送ると、
テラダは職員を呼んでダンボールの箱を運びにかかった。
128 名前:【発生】 投稿日:2009/04/13(月) 23:59
試薬管理室の扉をくぐるとき、一人の職員が小さな段差で蹴躓いた。
抱えていたダンボールが床に放り出され、中身が溢れる。
「おいおい、しっかり頼むでえ。これめっちゃ高い薬なんやから」
「す、すみません」

職員は床に散らばった袋を慌ててかき集める。
粉を小分けにしている袋は、それなりにしっかりしたものだったので、
幸いも中の粉が床にこぼれるということはなかった。
こういう部分の気遣いも細かい。細かいが大事なことだ。
やはり彼女らはいずれ大きな組織になっていくだろうとテラダは思った。

小分けにされた袋には、彼女たちの組織のブランドネームが押印してあった。
薄ピンク色の袋に黄色い文字で書かれているという、
麻薬には似合わぬ、かなりポップな装いだった。

ひとつながりになったロゴは、アルファベットでこう読めた。





『 G A M 』
129 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/13(月) 23:59
130 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/13(月) 23:59
131 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/13(月) 23:59
132 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:11
「だっそう・・・・・・・」
市井の言葉は、後藤にはひどく非現実的なものに思えた。
「ここから脱走? そんなことできるの?」

ほんの数週間の生活でも、ここの警備の厳重さは身にしみてよくわかった。
とにかく何をするにも人の動きに厳しい制限がかかる。
そして周囲は常に軍人らしき人間がいて、後藤の動きを注視している。
とても逃げ出す隙があるようには思えない。

それに逃げ出すことができたとしても、ここがどこなのか全然わからない。
後藤はこの施設が何県にあるのかすら知らなかった。
ここが実は海外の施設だったとしても―――そんなには驚かないだろう。

「昔は今ほど警備が厳重じゃなかった」
勿論、部屋には鍵がかけられていたし、外出も面会も通信も禁じられていた。
だが警備専任の人間など一人もいなかったし、
検査の間や、待ち時間の時などは比較的自由に施設内を歩けたのだという。

「その頃はさあ、みんなで脱走することばっか考えてたよ」
133 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:11
「いちーちゃんはその・・・・・アスカとも知り合いだったの?」
「うん。知り合いっていうか今みたいに壁越しに話してた」

直接話したことはないが、ケイとヤグチを通して市井はアスカと会話をしていた。
芯が強くて強情で頭の回転の速い子だったという。
そして―――正義感の強い子だった。

「アスカさあ、最後は『もうお金なんかいらない』って言ってたらしいよ」
この施設に入れられている子は誰だって現状に不満を抱いている。
誰だってここから自由になりたいと思っている。
だがアスカの抱えていた思いは誰よりも強かったのだという。

「この施設のやり方はおかしい。こんな人体実験間違ってるって」
アスカも最初は自分の意思でここに来たということを引きずっており、
批判が自己矛盾をはらんでいることを自覚していたのか、言葉も穏やかだった。
だがアスカの心は徐々に外側へと向かっていった。

彼女は何かを諦めるという選択肢を―――選ばなかった。
134 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:12
「ある夜さ、アスカは両隣のナツミとケイちゃんを通じてみんなに宣言したんだ。
 『バイバイ。あたしはここから出て行く』ってさ。次の日には本当に消えていたよ」

脱走したいというのは皆が常に考えていることだ。
だがその大部分は「そうなればいいな」という程度の願望でしかなかった。
具体的に計画を立てている子なんて一人もいなかった。アスカを除いては。

「他のみんなは? 一緒に行かなかったの?」
アスカは一人で消えたのだろうか。
誰にも脱走の経路や方法などを教えたりしなかったのだろうか。

「ゴトーだったら一緒に行く?」
「え?」
「一緒に逃げる?」
一も二もなく逃げる―――そう即答しようとして後藤は言葉に詰まった。
右腕のタトゥー。消えないタトゥー。それも重要だけど。でもそれよりも。
それよりもあたしは何のためにここに来た? それも自分の意思で。

ここから逃げるということは、当然それを全て失うことを意味するのだろう。
『もうお金なんかいらない』
後藤にはそんな格好良いことを言うことはできなかった。
135 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:12
「アスカが他の誰かを誘ったかどうかは知らない。少なくともヤグチはあたしを誘わなかった。
 あたしも連れて行ってとは言わなかった。そしてアスカが消えた後も、
 他の7人は施設に残ったままだった。あたしが知ってるのはそれだけ」

アスカが消えて空室になった5番の部屋にはケイがスライドして移った。
ケイがいた6番の部屋にはヤグチがスライドした。
そして当時、8番の部屋にいた市井が7番の部屋に移った。
ずっと住んでいたのだから、市井が後藤の部屋に詳しいのは当然のことだった。

「あー、そんで次の日の検査のときにさ、テラダが言ってたよ。
 『アホのアスカに逃げられたわ』ってさ。当然、預金は全額抑えたとも言ってたな。
 本当にそうしたかどうかは知らないけどさ」

アスカはここから逃げ切れたのだろうか。
一文無しになったアスカは今どこでどうやって暮らしているのだろうか。
そういった疑問がないではなかったが、
後藤はもうアスカのことに関してはあまり興味が沸かなかった。

「ふーん」
「あれ? なにそのリアクション。ゴトーはこういうの興味ないの?」
「あんまり。だって知らない人だし」
もうこの施設とは何の関係もない人間なんだ。
そう思うと今の自分とつながりがある人間だとは思えなかった。
136 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:12
「じゃあさ、もしあたしが脱走するって言ったら?」
「えー!?」
「ゴトーは一緒に来る?」
「・・・・・・・・」

即答はできなかった。
市井と二人でこの施設を出る。もらったお金を全て失って。市井と二人で生きていく。
それはとても魅力的な想像だったが、非現実的なことに思えた。
どこに住む? お金はどうする? 何をして暮らす? 答は一つも出なかった。

市井だけが逃げる。後藤は市井を失う。後藤はお金を得て一人で生きていく。
そちらの方がずっと現実的で容易な展開に思えた。お金があれば困らない。
これまでの人生、市井が横にいなかった時間の方が長い。
いなくてもどうってことはないさと思えるかもしれない。

どうってことはないさ。
そりゃそうだ。答はいつだって簡単だ。自分の思うように答えればいい。

後藤は一端しゃがみ込んでから勢いよくジャンプするように、
すっと息を大きく吸い込んでから答えた。

「一緒にいくよ」
137 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:12
「バカかお前」
「バカじゃないです」
市井の反応は後藤の予想通りだった。突き放されると確信していた。
この後、市井が全てを冗談で終わらせてしまうということも予想できた。
だが後藤はこの話を冗談にしたくなかったので、少し話の切り口を変えた。

「でもさ。やっぱり脱走って難しいよ。アスカってどうやって逃げたんだろうね」
「脱走の方法? それなら大丈夫。あたしが知ってるから」
「ええー!! どういうこと!?」

アスカは検査中の隙をついて、この施設の設備をこまめに調べていた。
そこから導き出した唯一の脱走経路を、壁越しに皆に伝えていた。
だから今では7人のメンバー全員がその経路を把握しているのだという。

「アスカがそれを使ったんだったら、もう使えないんじゃないの?」
「それがさあ、全然チェックされていないんだよ。そのルートが」

監視が厳しくなった今では、なかなかそこに近づくことができないのだが、
ごくたまに生じる僅かな隙を突いてそこを覗いてみると、
相変わらず逃走に使えそうな状態なのだという。
138 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:12
「あたしらは壁越しの会話で、よくそのルートについても喋るんだけどさ、
 この施設の人間は全然それに対応してないってわけよ。わかる?」
「へ?」
「へ? じゃねーよ。つまり施設の連中はこの部屋を盗聴したりはしてないってこと」
「あー、なるほど!」

長い話が元に戻った。そういえば盗撮とか盗聴がどうのという話をしていたのだ。
つまり市井の話したことから推測すると、
施設の人間は、実験対象のプライベートにはあまり興味がないようだ。

「あと、監視は厳しいけど逃げちゃえばそれまでみたいよ」
「嘘! こんなに厳しく監視してるのに? 追いかけて捕まえないの?」
「払ったお金を差し押さえてそれでお終いってテラダは言ってた。
 それまでにやった実験が全部チャラになるのは痛いんだろうけど、
 一応あたしらは自分の意思でここにいるってことになってるじゃん?
 だから出たくて出たってことなら、連れ戻したりの無茶は出来ないんじゃないの」

市井は一応「ま、テラダの言うことだからあまり信用しないように」と付け加えた。
確かにそうだ。テラダはなぜわざわざそんなことを言ったのだろうか?
施設の人間は何を考えているのだろうか?
色々な立場の人間の思惑が複雑にからみあっているのだろうか。

テラダはそういった情報をあえて市井たちに与えることで、
この施設の全体像をよりわかりにくく、見えにくくしているのではないか。
後藤にはそう思えて仕方がなかった。
139 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:13
「で、ゴトーは知りたい? 知っておきたい? その脱走経路を」
「いや、いい」

後藤は即答した。
市井の言葉が言い終わらないうちに、かぶせるようにして言い返した。
調子の良いときの市井のような、鋭い切り返しができた自分に少し満足した。
実際後藤はどっちでもよかった。知っていても。知らなくても。
どちらにせよ自分は当分の間ここで生きていくのだと決めた。

「そいつは意外な答だね」
市井の言葉は後藤を喜ばせた。
いつからだろうか。市井を驚かせることが後藤の喜びになっていた。
まだまだ驚かすことより驚かされることの方が多かったが、
それでも後藤は、最初の頃に比べれば市井とかなり対等に話せるようになっていた。

「つまんねーなー。こっそり嘘の経路教えてやろうと思ったのに」
「なにそれ。ひどーい」
「あははは。テラダの着替えが覗けるポイントとかあんだよねこれが」
「それも嘘でしょ」
「いやいやいや。それがですねゴトーさん・・・・・」

話題をこの上もなくくだらないものに切り替えた二人は、
朝食が届く時間まで他愛のないやりとりを続けた。
140 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:13
「細胞Gの精製が完了しました」
「よっしゃ」

研究員の持ってきた報告書に、テラダはざっと目を通した。
細かい記載が詰め込まれた報告書は20枚にも及んでいたが、
テラダが指を走らせて入念にチェックしたのは、ほんの2、3行だけだった。

「性能試験はどれも一度しかしていませんが、再現性の確認は・・・・」
「いらん」
予想された答えだ。研究員はやはりといった表情でため息をついた。
「では、すぐにでも投与を開始すると・・・・・」
「前に言うたやろ。同じこと言わすな」
「はい」

報告書には7種類の細胞のデータがまとめられていた。
細胞にはそれぞれAからGまで7つのアルファベットが振られていた。
この7つの細胞にテラダのこの二年間の研究が集約されていた。

だがテラダはその成果を慎重に検証することなく、
信じられない速さで次のステージへと進めようとしていた。
その無謀さがあったからこそ、ここまで来れたのだという信念がテラダを突き動かしていた。
141 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:13
「イヌは用意できたんかいな」
「は。それが一匹だけで」
「なんや。またブリーダーともめたんかいな」
「あれは全て受注生産ですから・・・・・すぐにというわけには」
「まあ、ええわ。どうせイヌへの投与はおまけ実験やからな」

テラダは緊急ミーティングの召集をかけた。集合は10分後。
横暴とも思える予定の入れ方だったが、文句を言う職員などここにはいない。
テラダは2年の月日をかけて、この施設の職員を少しずつ入れ替え、
自分の息のかかった人間を着実に増やしていった。

今では老人の息のかかった人間はほとんど残っていない。
勿論、僅かに残っている老人派の人間はミーティングには呼ばない。
重要なデータも渡さない。
投与予定の少女たちにも、可能な限り接触させない。

老人たちに不審を抱かれないように、慎重に事を運んできた。
ダミーの実験すら行なっている。
こういった工作はいずれ必ず破綻するのだろうが、まだもう少し隠しておけるだろう。

テラダは、破滅と成功を両皿に乗せた天秤を注意深く観察しながら、
己の信念に従ってプロジェクトを進行させていた。
142 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:13
「みんな、資料は行き渡ったか。まあ、だいたいのことはそこに書いてあるわ」

テラダはミーティングルームに集まった20人ほどを前に口を開いた。
皆の前には3枚綴りの簡単な資料が配られた。
今後進めていく投与試験のスケジュールがそこには書かれていた。
難しいことは何も書かれていない。
投与試験というのは基本的には試料を打つだけなのだ。

「そこに書いてる通り、1番から7番までに、それぞれ細胞AからGを投与する。
 8番にも細胞Gを投与する。つまり7番と8番は同じ細胞を打つわけやな。
 だたし投与量が違う。8番には7番の10倍量打つ。死ぬかもな。ははは」

テラダたち施設の人間は、少女たちを名前で呼ぶことは少なかった。
職員同士で会話するときはいつも、彼女たちのことを番号で呼んでいた。
市井のことは7番と。後藤のことは8番というように。
143 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:13
研究員から一つ質問が出た。
「その・・・・8番というのは例の子ですよね? そんな貴重なサンプルに、
 そんな高負荷な条件を課していいんですか? ちょっともったいないような・・・・」

部屋がざわつく。
ウイルスを乗せた7つの細胞の安全性は確認されていない。
投与した人間に何が起こるかは全く予想できない。
だが、常識で考えれば、投与量が多いほど影響が大きく出るだろう。
10倍量も打った8番が一番死ぬ確率が高いのではないか。
研究員はそういう意味のことを言った。

「まあな。でもな、8番やからこそ10倍打つ価値があるとも言えるやろ。
 これで上手いこといったら儲けモノやんけ。他の7人は用済みや。
 それに最悪、8番が死んでしもうても、そのときは4番がいるがな。
 あいつかって8番ほどではないけど使えるやろ。な?」

研究員はテラダの言った意味が理解できたわけではなかったが、口を閉じた。
どうせこのウイルスのことはテラダしか理解していないのだ。
結局は従うしかない。これまでずっとそうしてきたように。

ミーティングは僅か10分ほどで終わり、翌日の投与に向けての準備が開始された。
144 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:13
145 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:13
その日も、いつもと何ら変わりない一日のように思われた。

少なくとも後藤は、検査の時間が始まるまでいつもと違う雰囲気など感じなかった。
昨日までと全く同じ一日で、そしてそんな一日が明日以降もずっと続くと思っていた。
いや、思うと意識するまでもないことだった。
あまりにも当たり前のことだったから。

検査は途中までいつもと同じものだった。
検診をし、体温を測られ、尿を採られ、血を抜かれた。

この後、妙な錠剤を飲まされて(嚥下したことをくどいほど確認された)終わり。
それがいつものスケジュールだったが、その日は違った。
後藤は錠剤を飲まされることなく、廊下に出され、エレベーターに乗せられた。

後藤たちが住んでいる部屋は地下にある。
それが地下何階にあたるのかはわからないが、
後藤たちは壁越しの会話のときには、便宜上そのエリアを『地下3階』と呼んでいた。
そしていつも検査が行なわれる部屋は、その一つ上、つまり『地下2階』で行なわれる。
さらにその上にはテラダたち職員しか出入りできないエリアがあるのだという。
市井曰く、その『地下1階』というのは、職員同士の会話で何度か聴いたのだとか。

後藤は今まで行ったことのなかった、その地下1階のエリアに連れて行かされた。
146 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:14
ここもまだ地下だ。
地下一階かどうかはともかく、地下であることは間違いない。
後藤は直感でそう思った。

窓のない廊下。必要以上に綺麗な空気。本能が感じる圧迫感。
全ての感覚が、ここが地下であることを告げていた。

警備の厳しさは地下2階や3階ほどではないと感じた。
後藤たちを連れてくるということを念頭に置いていないエリアだからだろう。
そのエリアに自分が連れてこられたという意味を後藤は考える。
嫌な予感がした。

こじんまりとした部屋に入れられた。
扉は学校の教室の扉のような簡単な作りのものだった。やはり警備が甘い。
このエリアからなら脱走するのも意外と簡単かもしれない―――

後藤の思考は、目の前に現れた黒い塊によって中断させられた。
小さい。見た目以上に小さい。生まれたばかり?
小さな黒い塊は後藤を見るとちぎれんばかりに尻尾を振った。

机の上に置かれた銀色のケージの中には、一匹の小犬が入れられていた。
147 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:14
「よお、そいつが気に入ったんかい?」
テラダはいつも以上に上機嫌だった。
「これから毎日会うことになるで。ちゃんと挨拶しときや」

テラダはそう言いながら、ケージを開けて小犬を取り出した。
脇にいた看護士が小犬を押さえつける。
テラダは片手にバリカンを持っていた。鼻歌を歌いながら小犬の脇を剃っていく。

「ちょっと。なにしてんの? なんで毛を剃るの?」
「見えやすいようにやがな」

テラダは中途半端なところでバリカンを止めた。
小犬の脇には年賀状サイズほどの禿ができていた。
看護士がそこに、例の懐中電灯のような機械を押し付ける。
バチンという音がすると同時に、小犬がキャインと小さく吠えた。

看護士がゆっくりと装置を外すと、小犬の脇には0という数字が印されていた。
148 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:14
「これで準備はオーケーと」
続いてテラダはアルコール綿で小犬の脇を消毒した。
小犬は不安そうな顔つきで後藤を見つめる。
後藤にはテラダが何をしようとしているのか、全く理解できなかった。

ただ呆然と見つめるだけの後藤を前に、
テラダは小ぶりな注射器を持ち、プスリと勢いよく小犬に針を刺した。
白濁した液体がゆっくりと小犬の脇から入り込んでいく。
テラダは30秒ほどの時間をかけて、じっくりと投与を行なった。

投与が終わると、小犬は再びケージに戻された。
キャインキャインと吠える小犬に異常らしい異常は見られない。
これも試験の一つなのだろうか? なぜイヌに? なぜあたしの前で?
後藤の疑問に答えてくれる人は一人もいなかった。

「さて。次はお前の番やで」
テラダは別の注射器に、小犬の時と同じような白濁した液体を充填した。
149 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:14
「なあ、後藤。念の為に訊いておくけど、後悔せえへんよな?」
「なにが?」
「これ打ったら、もう後戻りできひんで」
テラダは手にもった注射器を後藤の目の前に差し出した。
いつになく真剣な目で後藤を見つめる。真顔なのが逆に気持ち悪い。

「今日はな、一応全員に訊いてるねん。この試験に賛同しますかってな」
後藤は唇を噛んでテラダを睨みつけた。
今更賛同しますかもないだろう。他に選択肢がなかったからここにいるのだ。
それにその薬は何? 何の薬? 訊けば答えてくれるの?
何を打たれるのかわかりもしないのに判断できるわけがない。

「お前は3億やったっけ? あれ返すって言うんやったら、この試験中止にしてもええで」
返せるわけなどない。元に戻れるわけなどない。この男はわかっていて言っている。
150 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:14
「金返してお家に帰るか? それともこれ打ってここに残るか? どっちにする?」

腹立たしいことに、テラダは真剣だった。
表情に笑みはない。
だがテラダが挑発していることは間違いなかった。
この男は冗談半分でこんなことを言っているのではない。
きっと彼は知っている。この試験に参加することで彼女達の人生が大きく変わることを。
知っていながら彼は彼女たちに打とうとしている。
しかも―――彼女達自身の意思でそうしたかのように思わせようとしている。

後藤にはそれがわかっていた。
わかっていながら、挑発に乗る以外の選択肢はなかった。
それしかないんじゃない。消去法じゃない。あたしが選ぶんだ。あたしの意思で。
後藤はいつものように自分から最悪の選択肢を選んだ。

「打ってください」

後藤は8という数字が刻まれた右の肩を、ぐいっと力強く突き出した。
151 名前:【発生】 投稿日:2009/04/16(木) 23:15
第一章  発生  了
152 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/16(木) 23:15
153 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/16(木) 23:15
154 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/16(木) 23:15
155 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/20(月) 23:26

自分にとって一番大切なものが

目の前で壊されようとしているとき

そんなとき―――そんなとき、あたしに何ができるっていうんだろう?
156 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/20(月) 23:27
第二章  感染
157 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:27
投与が終わると後藤はエレベーターに乗せられた。
地下三階から地下二階や地下一階に移動するときに使うエレベーターは、
後藤が初めてこの施設に来たときに使ったのとは別のエレベーターだった。
この施設には少なくとも二つのエレベーターがあるらしい。
だが地上へとつながっているエレベーターに乗ったのは最初の一回だけだった。

後藤と看護士と犬とテラダは同じエレベーターに乗った。
テラダはニヤニヤと笑いながら「仲良くせえよ」と後藤と犬に言った。
テラダと犬は地下二階で降りた。犬の飼育施設は地下二階にあるらしい。
後藤は付き添いの看護士と共に地下三階まで降り、自室に戻った。

後藤は夕食を食べ終わると、右肩についていた小さな正方形のバンドエイドをはがした。
注射の跡は赤い点となって微かに残っていたが、それだけだった。痛みも違和感もなかった。
これまでに何度もしてきた採血の注射の方がずっと痛かった。

洗面所で顔を洗い、歯を磨く。
今日一日はシャワーも浴びるなと指示されている。
タオルで顔を拭き終わると、もうやることは何も残っていなかった。

後藤は洗面所の床に転がり、ゴンゴンと後頭部を壁に打ち付ける。
いつもよりもかなり早い時間帯だったが、
市井は待っていましたとばかりに即座に応答した。

「いようゴトー。今日は一階に行ったか? 一階に」
158 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:27
「うん。初めて行くところだった。なんか病院っぽくなかった」
二階にある検査室は近代的な診療設備が整っていた。
いつもの診察はそこで行なわれる。
何も知らない人が見れば、きっと普通の病院のようにしか見えないだろう。
だが後藤が連れて行かれた地下一階にはそういう設備はほとんどなかった。

「だよな。二階の施設とは雰囲気違ったよね」
「いちーちゃんも連れて行かれたんだ」
「うん。今日はみんな一階に連れてかれたって」

市井の話では、全員が地下一階に連れて行かれ、後藤と同じような診察を受け、
そして全員に何らかの薬品が注射されたらしい。
怪しげな薬品を投与されることはこれまでも何度かあったが、
わざわざ地下一階まで連れて行って投与されたのは初めてだという。

「賛同しますか?ってふざけてるよね。そんなこと言われたって賛同するしかないじゃん」
テラダの言ったとおり、投与前には全員にその質問をしたらしい。
そんな念押しが行なわれたのも初めてのことだった。
159 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:27
「ふーん。みんな同じようなことしたんだ」
「うん。みんなに確認したけど、みんな同じことやったって」

それはある意味いつもの通りだった。
これまでも、毎日の検査は基本的に8人とも同じ検査が行なわれていた。
体の不調を訴えたりしない限り、一人だけ別の検査を受けるということはなかった。
薬の効果を見るために、あらゆる条件を同じにしなければならないからだ。
後藤は自分が受けた検査のことを思い出しながら市井に尋ねた。

「じゃあ、いちーちゃんの時にもイヌいた? すっごいちっちゃくて可愛いかったよねアレ」
「え? なに? なにが可愛かったって?」
「イヌ。小犬」
「はあ? なにそれ? 何の話?」

市井は犬の存在を知らされていなかった。
生まれたばかりのように見える小さな黒い小犬。
テラダがバリカンで毛を剃ってそこに0のシールタトゥーを入れたこと。
そして後藤と同じ薬品を投与されていたこと。

市井は相槌を入れることもなく黙って後藤の話を聞いている。
後藤は市井の沈黙に吸い寄せられるように次々と言葉を放ち、
検査室で会った犬のことを詳しく説明した。
160 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:28
「初耳」
市井の短い言葉には、たかが小犬のこととは思えぬ緊張感があった。

「その時テラダは何て言った?」
詰問するような市井のきつい口調に後藤はすこしたじろいだ。
あんな小さな犬のことがそんなに深刻な話なのだろうか。

「いや、別に何も・・・・・・・」
「『別に何も』って犬がいるのに何も説明なかったの? そんなわけないっしょ」
後藤は市井の機嫌がどんどん悪くなっていくのを感じた。
自分のせいなのだろうか。犬の話なんてしなければよかった。少しそう思った。

「だって! 本当に何もなかったもん」
「思い出せよ。一言くらいあんだろ? 犬の種類とか年齢とかは?」
「知らないよ。だってなんも言わなかったもん」
「お前、その犬撫でたりしなかったの? 近づかなかったの?」
「そんな近くでは・・・・・」
「あのテラダがその状況で何も言わないかね。軽口の一つもなかったの?」
市井の追及は執拗だった。壁越しに熱い吐息を感じた。少し鬱陶しかった。

この施設で生きていくには、ほんの少しの変化も見逃してはならない。
自分の体に何が投与されたのか全くわからないのだ。
身寄りのない少女達には最低限の安全すら保障されていない。
だからこそ、ほんの些細な違いが今後の生活を大きく変える可能性がある―――。
市井はそんな強迫観念に突き動かされながら後藤に激しく迫った。

「なあ、もうちょっとちゃんと思い出してみ? なんかあったでしょ?」
161 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:28
後藤は市井の持つ神経質な一面に驚かされながらも、
必死でテラダとの会話を思い出そうとしていた。
犬を見つけたとき。ケージに近づいたとき。テラダが現れたとき。

「あ、そういえば。『これから毎日会うことになる』って言ってた」
「毎日会う? 犬と会うってこと?」
「多分そういうことだと思う」

市井はなおも他に情報がないかと後藤を追及したが、
後藤はそれ以上のことを思い出すことはできなかった。
162 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:28
「もう勘弁してよいちーちゃん。明日またテラダに訊いてみるからさ」
「うーん。そうか。明日訊こうと思えば訊けるか」
まだ少し物足りなさそうだったが、とにかく市井は後藤を解放した。
すかさず後藤は話題を変える。

「それよりさ、なんで一階なんだろうね。あれって特別な試験なのかな? ヤバイのかな?」
「みんなわかんないって」
「いやだから特別なのかなって。これまでの試験と違ってたりしてさ」
「さあ。わかんね」
「ちょっと」
「なに?」
「もう・・・・・いちーちゃんのバカ」
「はあ? なんて? よく聞こえないんだけど」

こちらのことは何度もしつこく訊いておきながら、
こちらが質問したことにはさらっと「わかんない」の一言で答える。

後藤は市井に聞こえないくらいの小さな声で、もう一度「バカ」とつぶやいた。
163 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:28
164 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:29
翌日からの検査は再び地下二階で行なわれた。
テラダは姿を表さなかったので、後藤は犬のことを質問する機会がなかった。
職員や看護士に訊いても、試験に関することは一切答えてもらえなかった。

ただテラダの言った通り、それから毎日例の小犬と顔を会わすことになった。
付き添いの看護士が、銀のケージを抱えて後藤と共に検査に回った。
小犬はいつも元気よくケージの中を走り回り、
しばしばケージを抱えている看護士を立ち往生させた。

そんなとき後藤はプラスチックのケージ越しに小犬の鼻をつんつんとつついた。
するとなぜかその小犬はひどく大人しくなり、
すとんと座ってじっと後藤の目をみつめるのだった。

後藤はそのイヌに勝手に「ゼロ」という名前をつけて可愛がった。
検査のためにケージから出すときは率先してイヌを抱きかかえた。
さすがに看護士は嫌な顔をしたが、検査の進行を妨げない限り文句は言わなかった。

後藤はゼロと一緒に体重を量り、血を抜かれ、心電図を取られ、眼球を覗かれた。
やがて最初の投与から一週間が経過し―――再び後藤とゼロは地下一階に連れて行かれた。

地下一階での投与は最初の一回だけではなかった。
165 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:29
「いよう。久しぶり。二人とも元気にしとったか?」
これで顔が赤かったら酔っ払いに見えるかもしれない。
テラダは一週間前と同じように、かなりの上機嫌だった。

「おうおう。大きくなったなあお前。成長早いわ」
テラダに撫でられたゼロは、くるりと踵を返して、とてとてと後藤の背後に移動した。
この一週間でこの小犬はすっかり後藤に懐いていた。

「なんや俺も嫌われたもんやなー。やっぱり別嬪さんの方が好きなんか。
 そんな小さいナリしてるのにスケベなやつやなあ。やっぱり雄なんやなあお前は」
テラダは下品な冗談を言いながらアルコール綿の入った瓶と注射器を並べた。
椅子に腰掛け、後藤の顔を見上げる。

「ま、座れや。今日は二回目の投与や。やり方は一回目のときと同じやから」
看護士が二人がかりでゼロを押さえつける。
ゼロがじたばたする間もないほど、テラダは素早く注射針をゼロの脇腹に突き立てた。
そこそこの容量の液体が、ゆっくりとゼロの中にしみこんでいく。

後藤は複雑な思いでその光景を見つめていた。
市井にしつこく念押しされていなくても―――きっと自然に質問していただろう。

「ねえ。なんでこの犬にも注射するの? これってあたしと同じ薬?」
166 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:29
「まあな。これは一種の動物実験や。薬効試験ではよくやることやねん」
テラダの口調は軽やかだった。
この犬のことに関してなら、かなりの突っ込んだことでも答えてくれそうだった。
それはつまり、この犬がさほど重要な情報ではないことを意味するのだろう。
だがテラダにとって重要ではなくても、後藤にとっては重要な情報だった。

「あたしと同じ薬を打ってるの?」
「そうや。条件はほぼ同じ。ま、薬剤の投与量は体重に比例するから、
 このイヌの方が投与量は少ないけどな。お前もちょっとダイエットした方がええんとちゃう?」

後藤はテラダの軽口を無視した。
「他の子たちも同じものを打ってるの?」
「他の子って?」テラダはしれっと答える。
まるでこの施設には後藤以外の少女はいないような口ぶりだった。

「他にも女の子がいるじゃん。みんな同じ実験してるの?」
「さあな。同じといえば同じやけど、違うといえば違う・・・・・・・・」

やはり試験の本質に関わることについてはテラダの口は堅かった。
他の少女についてあまり語りたがらないのもいつものことだった。
ここは犬の方から話を広げていく方が良いと後藤は判断した。

「他の女の子もさあ、同じように犬とワンセットで試験してるの?」
「イヌだけに『ワン』セットってか? さあ、腕出せや。お前にも打つで」
167 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:29
後藤は袖を捲くり上げ、右肩をテラダに突き出した。
「ねえ。教えてよ。他にもこういう小犬がいるの?」

テラダは針を後藤の肌に手際よく押し刺した。
目を細めながらゆっくりと薬液を後藤の静脈へと流し込んでいく。
目がうっとりとしているように見えるのは後藤の気のせいだろうか。
犬に打った量の倍ほどの液体が後藤の体内にするりするりと注がれていく。

「お前、イヌが好っきゃなあ」
「可愛いじゃんこの子。ねえ他にもこんな小犬いるの?」
「おらん」
「え?」
「動物試験用のイヌってなあ、結構貴重品やねん。今ここにおるんはこいつ一匹だけや」

テラダは刺したときと同じように手早く針を抜いた。
針を抜くと同時に脱脂綿を押し付けて簡単な止血を行なう。
後藤の肩には、脱脂綿についたアルコールのひんやりとした感覚が残った。

「じゃあ、犬付きなのはあたしだけ? 結構ラッキーだね、あたしって」
「あはははは。ラッキーか。はははは。確かにお前はラッキーガールかもな」
ラッキーという言葉がツボに入ったのか、テラダは弾けるように爆笑した。
普段はどれだけ笑っても演技にしか見えないテラダの表情は
だらしなくゆるみきっていて、後藤の目には心から笑っているように見えた。
168 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:29
投与が終わると、次は毎日行なっている検診が始まった。
いつもは地下二階で行なっている作業だが、
改めて二階に移動することはなく、そのまま一階で検診が行なわれた。
テラダもそのまま同席して後藤の診察をじっと見ていた。

後藤はゼロの血が抜かれている間、ずっとゼロの背中をさすり続けていた。
両腕で抱え上げたゼロの体躯は、一週間前よりもかなり大きくなっているように感じられた。
ゼロは後藤の胸に鼻を押し付けてじっと採血が終わるのを待っていた。

「なんや。あれってお前の仕事とちゃうんか」
テラダはゼロを抑える後藤を指差しながら、脇にいる看護師に語りかけた。
「まあ、この方が早く採血が終わりますし。ウエヘヘヘ」
「へえ。こいつらえらい仲良しになったもんやな」

看護師の言葉通り、採血はあっさりと終わった。
押さえていた両手を放すと、ゼロは床に降り立ち、後藤の足元にじゃれついた。
後藤は照れ笑いを隠しながら、じゃれつく小犬に足をからめたり、
小刻みな蹴りを入れたりしてゼロの相手をした。

看護士が間合いを見計らって、ゼロを抱え上げてケージに入れる。
この日の検査は一通り終了した。
169 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:30
「仲良過ぎやな。どうしてん後藤」
「どうだっていいじゃん」
「お前ってそんな誰とでもすぐ仲良くなるタイプやったっけ?」

あんたにあたしのことがわかんのかよ。

この一ヶ月ほどの間に後藤とテラダが会話をしたのは数回だけだ。
それももっぱらテラダが興味を持つのは後藤の体から得られるデータだけ。
人間そのものに興味があるようには見えなかった。

体温や体重や血液のデータから一体何がわかるというのだろうか。
人間の何がわかるというのだろう。

だがそういったことを言えば、間違いなくテラダは「わかる」と答えるだろう。
彼はいつも自分の判断に対して自信過剰であり、管理対象である彼女達に対しても
彼だけが持つある種の独特なイメージを押し付けていた。
テラダにとっての後藤は、どうやらクールで一匹狼的なキャラクターらしい。

後藤はテラダの考え方をムキになって否定する気はなかった。
彼が自分に対してどういうイメージを持っていようが構わない。
気にしたくなかったが、わかったような口をきくテラダが、ただただ鬱陶しかった。
170 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:30
「仲良くなるよ。誰とだって。この施設にいる子とだって多分すぐ仲良くなれるよ」
「またその話かいな。他の子と会わすんは無理やっちゅーねん」
「わかってるよ。だからこの子と仲良くしてるんじゃん」
「なるほど。そいつが唯一の友達ってわけか」

ともだち。

それはなぜかとても遠い星の言葉のように聞こえた。
勿論後藤にも何人かの友達がいる。いた。
だがそれは全て施設に入る前、さらに「あの時」よりも前のことであり、
今の後藤にとっては数百年前のことのように感じられた。

今の自分とあの頃の自分が同じ時間軸の上にあることすら信じがたい。
過去の自分と今の自分。二人は本当に同じ人間なのだろうか?
二人の自分の間にはとても大きな断絶があるように思えた。

その二つを結ぶことは、傍から見ればとても簡単なことなのかもしれない。
とても自然なことなのかもしれないし、誰もが皆そうやっているのかもしれない。

だがそうやって過去と今を結ぶことは、後藤にとっては昔の自分を否定することであり、
そして同時に今の自分を否定することのように感じられた。
171 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:30
ともだち。

後藤は壁の向こう側にいる一人の女の子のことを思い浮かべる。
あの子はともだちと言っていいのだろうか。

一度も会ったことがない隣人。
深刻な話をしたり、飛び抜けてバカな話をしたりする隣人。
ちょっと自分勝手なところもあるけれど、とても付き合いの良い、面倒見のよい隣人。
二つ年上の女の子。

彼女なら後藤の過去と今とをつないでくれるような気がした。
二人の自分を受け入れて、肯定してくれる気がした。
いつものように、さらっとした軽い口調で。ちょっといい加減で適当な口調で。
後藤にはそんな口調で話す彼女の姿を簡単に思い浮かべることができた。
―――過去にいた、どんな友達よりも簡単に。

ともだち。

それは案外今の後藤にも近い言葉なのかもしれない。
信じていいのかもしれない。
そう感じさせてくれるのが本当の意味でのともだちなのかもしれない。
172 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:30
「ともだちなら他にもいるよ」
「ん? まあ、そらそうやろな。唯一っていうのはちょっと失礼な言い方やったかな」
「この子もともだちだよ。あたしと同じだもん。同じ試験をしてるんでしょ?」
「同じ・・・・・ねえ」

テラダはゼロの入ったケージを持ち上げた。
短い期間の間も成長を続けているゼロにとって、そのケージは小さくなりつつあった。
窮屈そうにケージの中をうろうろしながら後藤と視線を合わせる。

「厳密に言えば同じではない」
「なんで? ていうかなんで犬にも打つの? あたしだけじゃダメなの?
 打つのは人間だけで十分じゃん。こんな小犬に注射したら可哀想じゃん」
後藤はテラダが抱えるケージに近づき、ゼロに向かってワゥワゥと吠えかける。
ゼロも後藤に応えるようにワゥワゥと吠え返した。

そんな後藤をテラダは邪険に突き返す。
普段は気持ち悪いくらい紳士的なテラダにしては珍しい乱暴な手つきだった。
173 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:30
「犬には犬にしかできひんことがある。ていうかあんまり仲良くせんほうがええって」
「なんでよ! 仲良くしろっていったのはそっちじゃん」
「言葉の綾や。そんなべったりすんな。お前ら仲良すぎるねん」
「いいじゃんいいじゃん。仲良くしてなにが悪いのよー」

テラダはもう一度「犬にしかできひん試験があるねん」と言った。
さらに重ねて「人間ではできひん試験をやってもらわなアカンねん」と言った。
怒っているわけではなかった。だが間違いなく不機嫌になっていた。
誰に対して怒っているのだろう? 後藤に対してではないような気がした。
何に対して怒っているのだろう? 一体何に?
後藤は見たことのないテラダの一面を見た気がした。

「意味わかんない」

確かにテラダはよくわからないところのある男だったが、
それでも少なくとも質問をすれば意味のある言葉を返してくれた。
たとえそれが「答えられない」という言葉であったとしても。
174 名前:【感染】 投稿日:2009/04/20(月) 23:30
「投与は週一回。あと4回打つからそのつもりで」
テラダは後藤と目を合わせずにそう言って部屋を出ようとした。
後藤に背中を向けたまま、テラダは部屋の入り口に立ち尽くした。

言おうか、言うまいか。そんな逡巡が揺れるテラダの背中から窺えた。
何をするにも手際よく、時間を惜しむようにエネルギッシュに動く、
普段のテラダからはあまり考えられない行動だった。
おそらくは後藤には言う必要のない事だったのだろうが、結局テラダはその言葉を口にした。

「投与が終わったら三ヶ月ほど様子を見る。そして試験が終わったらこの犬はバラす」

その言葉の響きは「じんたいじっけん」と言ったときの市井の口調と少し似ていた。
冷たさも温かみもない、無味無臭の人工的な口調だった。
後藤は一瞬「バラす」の意味がわかりかねた。バラす。もしかして。もしかして。

「解剖して全部の臓器をチェックせなアカンからな。さすがにヒトではできん試験や」
175 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/20(月) 23:31
176 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/20(月) 23:31
177 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/20(月) 23:31
178 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 00:47
今では貴重な「いちごま」が読めて嬉しいです。続き待ってます!
179 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:13
「泣いてんのかよ。ゴトー」

こういう場合、黙って見て見ぬ振りをしてくれるのが思いやりなのだろうか。
それとも思いっ切り泣かせてくれるのが、とことん付き合ってくれるのが思いやりなのだろうか。
他人に優しくされた経験が極端に少ない後藤にはよくわからなかった。

市井にはテラダから聞いた話を全て話した。
なぜ犬が一匹しかいないのか―――試験用の動物は貴重だから。
後藤と同じ薬を投与したのか―――同じ薬を投与した。
何のために犬に薬を打つのか―――最終的に解剖して全臓器を調べるために。
情報としては過不足なかった。

だが情報以上のもの、言葉以上のものは市井に伝えることはできない。
実際にゼロを見たことがない市井に、今の気持ちを伝えるのは不可能だった。

あんなに小さいんだよ。あんなに可愛いんだよ。
後藤にね、すっごいなついてるんだよ。
そしてね。抱っこするととても暖かいんだよ。
あんなに小さいのにね。とてもとても暖かいんだよ。

後藤はゼロを抱いたときのぬくもりを思い出す。
死んでしまったらあのぬくもりも消えてしまうのだろう。
きっと「あの時」のように、死とは冷たくて硬くて生臭いものなのだろう。
後藤には体温を失ったゼロの冷たさがリアルに想像できてしまった。
180 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:13
「三ヶ月って言ったよな。最後の投与から三ヶ月間様子を見るって」
一度話しただけだが、市井は話の細かいところまでよく覚えていた。

「それまでにやるしかねーな。やるしかねーじゃん、ゴトー」
市井の言ってる意味がよくわからなかった。
だが後藤のために何かを犠牲にしてくれるという覚悟は伝わった。
声に張りがあった。いつもの軽い市井とは少し違っていた。

「お前、ここから逃げろよ。その犬連れてさ」

その言葉を聞いた瞬間、後藤の心の中を覆い尽くしていた霧が晴れた。
自分が何を感じていたのか。自分が何をしたかったのか。
自分では言葉にできなかった思いを、市井が言葉にしてくれた。
後藤にはそんな風に感じられた。

自分から「逃げる」という選択肢を思いつくことはできなかっただろう。
誰かに背中を押してもらわなければ、その発想に行き着くことはできなかった。
あの犬のために何億ものお金を棒に振る。
たった二週間ほど一緒にいた犬のために全てを捨てる。

くだらない。なんてバカらしいことなんだろう。
でもあたしはきっと心の底でそんなことを夢見ていたんだ。
181 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:13
「できないよ・・・・・そんなことできるわけないじゃん」
「嘘つけ」
「そんなことしない。あたしはここに残るしかないもん・・・・・・」
「逃げたいならいつでも例のルートを教えてやるよ」

それが市井流の励まし方だったのだろうか。
後藤は心の中に「逃げる」という選択肢ができた途端、
胃の奥にずんと沈んでいた重いものが消えたような気がした。
いや、完全に消えてはいないのかもしれないが、それでもかなり軽くなったことは確かだった。

市井の言うようにまだ三ヶ月もある。その間にじっくりと考えればいいのかもしれない。
ゼロと一緒に逃げる。
それは夢のような話だけど―――別に夢で構わないじゃない。夢に逃げたっていいじゃない。
夢に逃げることもできないのなら、あたしは一体どこに逃げればいいの?

後藤のそんな開き直りにも似た思いを、市井は正確に見抜いていた。

「あんまりさあ、こういうこと言いたくないけど・・・・・」
市井は口を濁した。後藤は何も言わず次の言葉を待った。
「ゴトーには諦めてほしくないんだよね。何一つ諦めてほしくない」
182 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:13
以前、市井に言われた言葉を思い出した。
『一年もいればきっとゴトーも―――「何か」を諦めなくちゃいけなくなる』

あたしは今、何かを諦めようとしているのだろうか?
ゼロの命を?
あたしが望むものを? お金? ともだち? じんせい?
あたしは全てと引き換えにしてもゼロの命を望まなければならないのだろうか?
ほんの少し触れ合っただけの小犬の命を。

「ゴトーの考えてることはわかるよ。あたしが勝手なことを言ってるのもわかる。
 でもゴトーには諦めてほしくない。あたしみたいになってほしくないな」
「あたしみたいに? いちーちゃんは何かを諦めたの?」

市井は黙っている。質問に答えようとしない。
言葉に詰まっているようには見えなかった。
言葉を探しているようにも見えなかった。
絶望しているようにも見えなかった。

この過酷な施設の中で飄々と生きている市井が―――
何かを諦めているようには見えなかった。
183 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:13
184 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:14
めきぃ ごきゅぃ ぎぎぎぎるぎぎぎぎぎぎゅ

にににににににににんいにぃ


少女の細胞は収縮していた。収縮と膨張を繰り返した。
やがて細胞の収縮は組織の収縮につながり、組織の収縮は器官の収縮につながった。

だが神経細胞を流れる微弱な電流は少女に痛みを伝えることはなかった。
違和感すら伝えることはなかった。
日に焼けた古い皮膚をはがすような―――微かな快感と達成感があった。
少女の体内で静かに増殖を続けるウイルスは、
床に大の字で寝そべるようにして、自由気侭にのんびりとその手足を広げていった。

まだその手は少女の全てをとらえてはいない。
まだ今は。

少女の全てを操るには至っていない。
まだ今は。

少女は自らの体内に巣食う異物の存在を本能で察し、排斥せんと唸り声を上げた。
戦いが始まる。
どちらかが勝者となるかはわからない。誰もわからない。ただわかることは一つ。
戦場は彼女の体の中だった。全ての組織。全ての細胞。すべての分子が戦場だった。
唸り声は全ての細胞内で共鳴しながら少女の全身を揺らした。



きえ

けけけけけええええええええくあああああああああああああああああ
185 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:14
186 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:14
後藤の問いかけに市井は答えない。答える意思も拒否する意思も感じなかった。
「あたしにはいちーちゃんが何かを諦めているようには見えない」
自信があった。市井は嘘をついている。

いちーちゃんにはきっとお金よりもずっと大切なものがある。
そしてそれを諦めたりなんかしていない。
諦めたいなんて思っていない。だからこそ―――あたしにそんなことを言うんだ。
本当にここから逃げ出したいのはいちーちゃんの方じゃないの?

後藤は耳を澄ました。市井の呼吸の音、心臓の音すら聞き逃すまいと思った。

空気が変わった。
壁の向こうにうずくまっている市井の気配が変わる気がした。
後藤は期待した。良いものだろうと、悪いものだろうと、後藤は答が欲しかった。
だが壁の向こう側で起こった変化は、後藤が望んだような変化ではなかった。

「おい、ゴトー。なんか聞こえね?」
187 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:14
け きえ 

けええ けくわああああああ



きゃはははははははははははあはあああああきゃあ





ははははは ハハ はははははははひゃははははっはへへへへへへ


 
188 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:15
奇妙な音は後藤の耳も微かに聞こえてきた。音は徐々に大きくなっていく。
「なにこの音?」
「どこから聞こえる? こっち? そっち?」
不思議な音だった。右から聞こえるようでもあり、左から聞こえるようでもあった。
音は上下左右に跳ね回り、四方から包み込むように走り回っていた。


音が止んだ。


一呼吸置いて絶叫が響いた。
189 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:15
神経細胞に硫酸を流し込んだような悲鳴だった。
人としての人格が剥げ落ち、ただ一個の叫ぶ物質と化したような太い叫びだった。
悲しみも痛みも苦しみも感じない原始的な声だった。
それが人の叫び声だと認識するまで少しの時間がかかったほどだった。

耳を澄ますまでもなく、大きな悲鳴は後藤の耳を貫いていく。
悲鳴は途切れない。波のようにうねりながら限界を知らぬように大きさを増していく。
声が大きさを増すごとに、声の正体がわからぬ後藤の心は落ち着きをなくした。
大きな声というものは、ただそれだけで人の心を不安にさせる原始的な力があった。


げひぁあぁぁぁぁあああああああ


今度の悲鳴は上下左右からではなく、明らかに一方向から飛んできていた。
「隣だ!」
市井は壁から離れて部屋の反対側へとダッシュしていった。
無我夢中で壁を叩きながら隣の部屋へ呼びかける。
「おいヤグ! ヤグチ! おい! どうしたんだよお!」
190 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:15
後藤は壁越しにただ聞いていることしかできなかった。
市井の声はかすれていて壁越しにははっきりと聞こえない。
ヤグチの絶叫は絶えることなく地下三階のフロアを揺るがし続けていた。
断末魔のような悲鳴は後藤の心とシンクロして後藤の意識を押さえ込んでいった。

潰れる。このままじゃ潰される。あたしの心が壊れる。

それでも後藤は何もすることができなかった。
二つ隣の部屋にいるヤグチを助けることはできない。
それは隣にいる市井にだってできない。誰にもできない。救えない。
後藤は誰も救えない。そして誰も後藤を救えない。

「あきらめる?」
後藤の心の中で誰かが言った。顔のない誰かが。嬉しそうに、楽しそうに言った。
消えろ。いや、勝手に消えるな。あたしが消す。消える前にお前を消す。
トイレから駆け出した後藤は机の下にあった椅子を引き出し、
両手で持って扉まで勢いよくダッシュした。力の加減はしなかった。することを忘れていた。

ゴキィン。椅子を持ち上げ金属製の扉を力任せに殴った。
汗で滑った掌から椅子がすっぽ抜ける。
壁で跳ね返った椅子は後藤の鼻梁をしたたかに打った。
血が滲んだ。構わず椅子を拾い上げると今度は水平に扉を殴った。
衝撃が腕を伝って脳髄まで響く。指の皮膚が椅子に挟まって裂けた。肩が震え上腕が痺れた。
それでも握り締めた手はもう放さなかった。痛みを忘れて殴った。殴って殴って殴りまくった。

もう市井の声もヤグチの声も聞こえなかった。
191 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:15
警報が鳴り響いてから職員が来るまで1分とかからなかった。
後藤の部屋には3人の屈強な男がなだれ込んで来て、あっという間に後藤を取り押さえた。
そのときにはもう後藤は冷静さを取り戻していた。冷静さ以外何もない抜け殻だった。
一切抵抗せずに、されるがままに押さえ込まれた。

暴れたくて暴れたわけではない。
職員を呼んでヤグチのことをどうにかしてあげて欲しかった。
あの悲鳴を止めて欲しかった。
今それができるのは、きっとこの施設の職員だけだろうから。

隣の市井の部屋にも職員が入っていく気配がした。
市井が職員に食って掛かっているような声が聞こえてくる。
そういえばこの部屋と市井の部屋の扉が同時に開いたのは初めてのことかもしれない。

その先のヤグチの部屋のことはよくわからない。
絶叫はまだ続いていた。悲鳴はやがて泣き声に変わっていった。
泣き声は唐突に後藤の耳から消えていったが、
それはヤグチが泣き止んだからではなく―――
後藤の静脈に打たれた鎮静剤が、後藤の意識をごっそりと刈り取っていったからだった。
192 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:15
193 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:16
後藤は地下2階の検査室で目を覚ました。
初日にステーキを吐いたときに連れてこられた部屋だった。
照明の落ちた部屋は暗い。かろうじて足元が見える程度の明るさだった。
周りには誰もいないようだ。みんなヤグチにかかりきりなのだろうか。

後藤は入り口のノブに手をかけたが、厳重にロックされた閂が下りており、
内側から扉を開けることはできなかった。
当然だ。この施設内を一人で自由に行動できるわけがない。
一人にされているということはすなわち、自由を奪われているということだ。

地下3階のフロアはメンバーの居住スペースが大部分を占めている。
検査室と呼べるような部屋は、おそらくこの部屋だけだろう。
後藤は天井を見上げる。
ヤグチはどこにいるのだろう。おそらく地下一階に連れて行かれたのだろう。
すると市井も1階か。それとも2階か。彼女はどこにいるのだろう。

部屋は静かだった。
暗赤色をした間接照明が風もないのにゆらゆらと揺れている。

静かだった。
後藤一人しかいないのだから静かなのは当たり前なのだが、
壁も床も天井も、そしてベッドや水道の蛇口も、全てが止まって見えた。
何も吸い込まなかったし、何も弾き返さなかった。
後藤は自分の身の回りに存在するものを確かめるようにそっと手を触れた。

ヒンヤリと冷たい蛇口も後藤の心を落ち着かせることはできなかった。
ただ突っ立っているだけの後藤の呼吸は少しずつ乱れていく。
194 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:16
静かな部屋には先ほどと全く同じヤグチの絶叫がこだましていた。

幻聴であることはわかっていた。
だが幻聴であるがゆえに絶叫は後藤の心にへばりついて剥がれなかった。
幻聴であるがゆえに、その声は大きくも小さくもなかった。
ただはっきりとした「声」として後藤の肉体と精神を締め付けていった。

意識すればするほどその声は密度を高め、濡れた髪の毛のように後藤の体にからみついた。
やがて絶叫の主はヤグチから市井に替わり、テラダに替わり、そして後藤に替わった。
声はどこからともなく聞こえてきていつまでも絶えることはない。
黒く赤い照明に乗って、声はゆらゆらと部屋の中を飛び回った。

後藤は悲鳴から逃れようとした。遠くに離れようとした。
右から聞こえてくるなら左へ逃げ、左から聞こえてくるなら右へ逃げようとした。
だが悲鳴は右から聞こえてくるのでもなく、左から聞こえてくるのでもなかった。

後藤は耳を澄ました。声ははっきりと聞こえる。幻聴なのにはっきりと。
声は内側から聞こえてきていた。後藤の心の内側から。後藤の過去の記憶から。
狂犬病にかかった犬のよだれのように、不自然な勢いでだらだらと垂れ出していた。
あふれてもあふれても止まることなくあとからあとから滴り落ちてきた。

後藤がたてた悲鳴はもはや幻聴ではなかった。
195 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:16
196 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:16
後藤が漠然と思い浮かべていたように、ヤグチは一階の処置室に連れて行かれていた。
そして市井は二階の検査室に連れて行かれていた。
後藤と時を同じくして鎮静剤を打たれていたヤグチと市井は、
それぞれの部屋で後藤とほぼ同時に目を覚ましていた。

後藤と市井とヤグチ。
三人の少女はそれぞれの部屋で一人きり一睡もできぬまま赤黒い闇に包まれていた。
自分の体が自分のものではないような。
自分の心が自分のものではないような。
そんな感覚に苛まれながら。そんな感覚に恐怖を感じながら。

自分の体に流れる血に恐怖しながら、一時も気を抜くことなく朝まで必死に何かと戦っていた。
勝利することも敗北することもできないままただ時間だけが流れていった。
張り詰めた緊張の糸は切れることも緩むこともなく、
限界を試すかのようにギリギリと一方的に張力を増していった。
「不安」は立体的なフォルムを形成して三人の心を縦に横に揺さぶり続けた。

永遠にも思えた時間が終わり朝が来たとき、唐突に「それ」は去っていった。
ヤグチの体からも。市井と後藤の心からも。嵐は去っていった。

箍が外れたようにだらしなく開いた矢口の口からはキャハハハハハハハという無機質な笑いが漏れた。
197 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:16
198 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:17
「6番に異常発生です。細胞収縮。喉頭部に腫瘍形成」
「腫瘍? 組織学検査は?」
「結果出ました。良性です」
事務的な言葉の伝達にも熱がこもる。
検査室いるのはいつもと同じ人数だったが、いつも以上の熱気が充満していた。

「峠は越えたんかなあ・・・・・・」
テラダは看護師が持ってきたデータを冷めた目で見つめていた。
最終的な判断はまだ下さない。あまりにもデータが少なかった。

「2番の数値も上限値を超えています」
「どこや」
「全身です。脂肪細胞の一部に炎症性細胞の浸潤が見られます」
「他は」
「1番と3番にも炎症性パラメーターに上昇傾向が・・・・・・」

次々と新たなデータがテラダの机の上に積まれていく。
無機質に見える数値の動きは、生理学的観点から見れば、
異常極まりない無軌道な振る舞いと言うよりなかった。
彼女らの体内に存在するあらゆるファクターが生理的なレールから逸脱している。

そこに弾き出された症状は、過去に蓄積されたどのデータにも当てはまらない。
明らかに新型ウイルス投与の副作用だと思われた。
だがテラダには動揺はない。これくらいは想定の範囲内だった。
199 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:17
「投与続行や」
研究者達は息を飲んだ。反論する人間は一人もいない。
一人の少女がテラダの前に進み出た。
初日に後藤が嘔吐したときに対応した看護士だった。
30代前半から40代前半くらいが占める施設職員の中でも一際若い職員だ。

「投与はあと4回ですよね?」
「そうや。このままいく。それでええんやろ?」
「もちろん」
少女は満足そうに微笑んだ。
テラダのどこか陰のあるな笑いとは対照的な、太陽のような無垢な微笑みだった。

「でもこのまま行ったら何人か死んじゃいそうですね」
「ははははは。間違いなく死ぬやろな」
笑い事ではなかった。このままバタバタと死んでいけば試験を続けることは難しくなる。
重要な人的資産を無駄に浪費したことを、老人達は決して許さないだろう。
このまま行けば、テラダは今の地位を失うだけではなく命の危険すらあった。

だが打ってしまったウイルスを元に戻すことはできない。
戻ることができないのなら進むしかない。もはや投与計画を中断することはできなかった。
200 名前:【感染】 投稿日:2009/04/23(木) 23:17
「ヤバクないですか? ウイルスは増やせても人間は増やせないでしょ?」
少女は小首をかしげながら、愛らしい仕草とはかけ離れた内容のことをサラリと言った。

「そうそう。そこでや」
テラダは分厚いファイルから、「極秘」と表書きされた一枚の封筒を取り出した。
ばさばさと乱暴に中身を机の上にぶちまける。
極秘と書かれてはいるが、中身は大したものではなかった。ただの履歴書だった。

履歴書にはごくごく常識的なプロフィールしか書かれていない。
個人情報と呼べるものは名前と生年月日くらいだった。
「なんですかこれ?」履歴書は4枚あった。
少女は4枚の履歴書に貼られた4つの顔写真を代わる代わる見つめた。

小学生くらいに見える女の子が二人。二人とも髪型が同じせいか双子のように見える。
だが履歴書に書かれている苗字は違っていた。姉妹ではないようだ。
もう二人は中学生とも高校生とも見えるくらいの女の子だった。
髪の短いボーイッシュな女の子と、髪の長い根暗そうな女の子。こちらは対照的な二人だ。
合わせて4人分の履歴書がそこにあった。

「増やすんや。投与する人間を、な」
テラダは嬉しそうに笑った。新しいおもちゃを手にしたときの幼児のような笑顔だった。

「追加メンバーや。来月からメンバーを4人増やす」
201 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/23(木) 23:17
202 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/23(木) 23:17
203 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/23(木) 23:17
204 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:36
一週間が経ち、3回目の投与の日がやってきた。

ヤグチは、絶叫した日から数えて4日目に部屋に戻されていた。
壁越しに話した市井によると、泣き叫んでいたときの記憶は全く残っていないらしい。
痛みも苦しみも一切覚えていなかった。
それはヤグチにとって幸せなことだったのだろうか。
幸せなことだったんだ。それで良かったんだと後藤は思い込もうとした。

ヤグチが部屋にいない間、市井は「向こう側」とコンタクトすることができなかった。
久しぶりに仕入れた情報によると、向こう側でも何人かが、
ヤグチ同様に副作用と思われる異常が発生し、集中治療室に入れられたらしい。

「とりあえず今は8人とも部屋に揃ってるみたいだけどね・・・・・・」
市井の声はいつになく暗かった。
市井自身もこの二、三日は体の不調を訴えていた。
訴えてはみたが、テラダたちは特に何も処置してくれなかったという。

「はあ。今日も最悪だよ。もう最悪」
「また痺れるの?」
「うん。今日は全身。体中の肌がピリピリ痺れる・・・・・・・・」
205 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:36
今日の市井は特に辛そうだった。
服が擦れるだけでも肌が過敏に反応してしまうらしい。
「今日はマジやばい。痛い。触れただけで痛いんだよ」
市井の声は確かに苦しそうだった。後藤にはその痛みを想像する手立てもない。

「肌荒れみたいになってるの?」
「ん。いや。見た目は大丈夫。お肌つるつる」
壁越しに頬を擦る気配がした。本当につるつるしているように感じられた。
「おおー。つるつるなんだ」
「つるつる。後藤は?」
「つるつる」
「ばーか。マネすんじゃねーよ」
冗談交じりに話す軽妙な言葉も、今日はどこか暗い陰を感じさせた。

「つるつる。ピリピリはしない」
「そっか・・・・・・」

それから市井は、向こう側にいるメンバーに出ている症状について、ぽつぽつと語り出した。
爪がボロボロになった子。耳鳴りに苦しめられている子。
喉の痛みが止まない子。突然呼吸困難に陥ってしまった子。
この一週間で半分以上の子がそういった体の不調を訴えていた。

症状が深刻な子は命の危険すらあるような状態だった。
206 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:36
「今日は投与しないよね・・・・・・きっと」
投与して症状が良くなるとは思えなかった。さらに悪化する可能性の方が高い。

「さあ? テラダの考えることはわかんないね・・・・・。あ、来た来た」
市井は壁際からさっと身を翻した。
廊下の奥の方から職員が歩いてくる気配がする。
後藤は時計を見上げた。そろそろ市井の診察の時間だった。

扉が開く。市井は職員に連れられて廊下に出たようだ。
ザッザッザッと床を刻む足音が聞こえる。
市井の足取りはいつもより少し重いように感じられた。
ほんの少しの違いだったが、後藤にとっては決定的な違いとして感じられた。

後藤は壁の向こう側の市井の姿をイメージする。
毎日繰り返し積み重ねた市井のイメージは、今や後藤の中では
はっきりとした像として認識できるまでになっていた。
だが今日感じられた気配からは、いつもと全く違うイメージが沸きあがってきた。

いつもよりも少しやつれた市井の顔は、後藤の脳裏に焼きついてなかなか消えなかった。
207 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:36
208 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:37
「よう後藤。お疲れさん。お前で最後やな、今日の投与も」
「え? 投与? なにを?」
「アホかお前。先週打った時、あと4回打つって言うたやろが」

テラダはそう言うとケージの中から小犬を取り出した。
右手には既に薬液が装填された注射器が握られている。
「ちょっ! ちょっとちょっと待ってよ!」
後藤は両手でテラダの右肩につかみかかる。
抑えていた腕が外れ、自由になったゼロは診察台から駆け下りた。

「おい・・・・なにすんねん。今更嫌とか言うなや。最初に確認したやんけ」
「ちょっと待ってよ! その薬って副作用とかあるんじゃないの? だって先週の」
「あるで」

テラダはあっさりと事実を認めた。
あまりにもあっけなかったので、後藤は次に言うべき言葉を見失ってしまった。
「あるで・・・・・って」
「だからあるって。あるもんはあるがな。今んとこ、結構きつい副作用が出てるみたいやわ」
209 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:37
「結構きついって・・・・先週のアレのことでしょ? だったらもう中止してよ!」
後藤は先週の投与の後にヤグチが苦しんでいたことを説明した。
あれだけ異常な事態が起こったのだから投与は中止するべきではないのか。

テラダは普段と変わらぬ表情でうんうんと頷く。
「そうそう。お前もなんや騒いでたみたいやな。でもお前には異常ないんやろ?」
「ないけど・・・・・。でもそういう問題じゃないでしょ?」
「確かにそういう問題やないわな」
「でしょ?」
「たとえお前に副作用が出ていたとしても、投与は中止せえへん」

テラダの目は笑っていない。
今度こそ後藤ははっきりと言葉を失った。

「わしらも遊びでこの実験やってるわけやない。たとえ副作用が出ても実験は最後まで続ける。
 そういうことも含めての契約やからな。お前らにはもう―――諦めてもらうしかないわ」
「諦めるって・・・・・・・何を?」

いまさら何を言うてんねん―――という顔をしてテラダはさらっと言った。
「自分の意思で何かを選択するってことをや」
210 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:37
テラダはゼロの体を抱え上げ、先週と同じように薬液を投与していった。

「ま、そういうわけで、これからは少し騒がしくなるかもしれへんで」
「騒がしく? なんで?」
「お前らが住んでる部屋な、元々人が住むために作った部屋とちゃうねん。
 実験するための設備をとっぱらって無理矢理人が住めるように改造した部屋やからな。
 だからあそこの壁は普通のマンションみたいな防音効果がほとんどないわけや。
 だからまあ、先週のように誰かがギャアギャア騒いだら―――丸聞こえやろうな」

テラダはぺらぺらと喋りながらも、てきぱきと手を動かし、ゼロへの投与を終えた。
流れるような作業で後藤の袖を捲くり上げ、アルコール綿で上腕部を消毒する。
針を突き刺し、薬液を後藤の静脈へと半分ほど流し込んだところで―――
テラダを呼ぶコールが部屋に流れた。

テラダは顎をしゃくりあげ、投与を補佐していた職員に電話を取るように促す。
職員は取り上げた内線電話をテラダの耳にすっと押し付けた。
受話器からは小さくない声が漏れてくる。
後藤の耳にも聞き取れるほどの大きさの声が―――。
211 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:37
『7番に異常発生です。全身に痛みを訴えています』
「なんや。それだけかい。他に症状は」
『ありません。やはり肌が異常に過敏になっているようです』
「なんやねん。昨日と一緒やんけ。そんなんで呼ぶなよ。テキトーに処理しとけや」
まだ注射器には四分の一ほど薬液が残っている。
テラダは電話にも焦ることなく一定のペースでシリンジを押し続ける。

『昨日とは比較になりません。急激な発作です。尋常じゃない痛みのようです』
「鎮痛剤は」
『打ちましたが効果ありません。このままではショック状態に・・・・・・・』
「しゃあないなあ。じゃあ、GAM打っとけ」
『え? GAMですか? 本当にいいんですか?』
「しゃあないやろ!」
『はい・・・で、容量は』
「尋常じゃない痛みなんやろ。ギリや。20単位打て」
『了解しました』

二人の会話が終わるのと同時に後藤への投与も終わった。
この施設で7番といえば市井のこととしか考えられない。

「ねえ。またなんかあったの? 副作用? ヤバイの? 大丈夫?」
「大丈夫? ふっふっふ。ははは。あはははははは」
おもしろいこと訊くなあ、後藤は。そう言ってテラダは笑った。
「笑ってる場合じゃないでしょ!」
それでもテラダの笑いは止まらなかった。
212 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:37
「大丈夫かなんて、そんなこと誰にもわからんわ」
この施設においてテラダの発する言葉は、全て誰かに何かを説明する言葉だった。
テラダはここの主であり、ある意味全能神のような存在だった。
彼は常に説明する側の人間であり、説明を欲する側の人間ではなかった。

だが今のテラダは、誰かに説明を欲しているように見えた。
答が出ない問いに対して、冷静になるのではなく、客観的になるのではなく、
ただがむしゃらに体当たりを繰り返しているテラダがそこにいた。

「わからんから実験しとるんやんけ」

彼は答えの出ない問いを続けていた。答を探すことを諦めてはいなかった。
「答えなんてないのさ」などと悟り切ってはいなかった。
それは彼が神ではないということの証明なのかもしれない。
神の代理人になる気すらないということなのだろう。

「あんた、人のことなんだと思ってるの?」
後藤にはそんなテラダがこの上もなく傲慢な存在に思えた。
神を模すのでもなく、人に徹するのでもない。
都合の良いときだけ神様の振りをするインチキ宗教の教祖にしか見えなかった。

「あんた、一体何がしたいの?」
213 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:37
「俺は俺のやりたいことをやる。おい。ええか。忘れんなや後藤」

テラダは真正面から後藤を見つめた。
これまで何度もそうしてきていたはずなのに、目を合わせたのは初めてのような気がした。
テラダの視線はある種の暴力だった。そしてテラダの言葉もある種の暴力だった。
他人を動かすことができるのは、思想でも哲学でも愛情でもお金でもなく、
暴力だと信じきっているものの目だった。

後藤は今、自分が殴られていないことが不思議でならなかった。
目には見えないが、確かに後藤とテラダの間には暴力が介在していた。
テラダの表情が斜めにゆがむ。

殴られた方だけではなく、殴った方も痛いんだ。
そんなことを言う人がいるが、あれは嘘だ。
暴力とは決して双方向性のエネルギーではない。一方通行なのだ。
214 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:38
後藤の肉体には今、テラダから押し付けられた暴力が静かに堆積していた。
それは決して後藤以外の人間に痛みを与えることはない。
後藤はただ黙って痛みに耐えた。

「忘れんな。これはお前が選んだ道や。途中で降りることは許されへん。
 どうしても辞めたいっていうなら、痛みから解放されたいっていうんやったら―――」

あたしは痛みから解放されたいのか。違う。違うと断言できる。痛みなんて怖くない。
あたしは自分で選択することを諦めたくないのか。自分で選びたいのか。それも違う。
あたしは自分の人生が、決してそういうタイプの人生ではないことを知っている―――

「殺せ。俺を殺せ。そして―――お前に関係するの全ての人間を殺すことや」
コロセ コロセ コロセ コロセ コロセ コロセ コロセ コロセコロセコロセコロセコロセ
意味をなさない三つのカタカナが後藤の頭の中をグルグルと回る。
殺せ。関係する犬もな。そう言ってテラダはゼロをぐいと押し付けた。

「それが『自由』っていうもんやろ?」
215 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:38
216 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:38
その夜、市井は部屋に戻ってこなかった。
その次の夜も市井は部屋に戻ってこなかった。
その次の夜、市井が部屋に帰ってきた気配がしたが、夜明けまで待っていても
市井は後藤の呼びかけに答えることはなかった。
後藤がこの施設に来てからおよそ半年―――初めての一人ぼっちの夜だった。

後藤は市井が言った言葉やテラダが言った言葉について考えていた。

「ゴトーも一年くらいここにいればわかる。自由がないとかそんなことじゃない。
 一年もいればきっとゴトーも―――『何か』を諦めなくちゃいけなくなるよ。
 今までの生活では当たり前すぎて気にもしなかった『何か』をね。諦めるんだきっと」

果たしてそうなのだろうか?
たとえこの施設に来ていなかったとしても、やはり自分は諦めていたのではないのか?
諦めていたからこそ、この施設に流れ着いたのではないのか?
諦めたのは何だ。何を諦めた。自由か? 自由に選ぶ意思か? 本当にそうなのか?

「それが『自由』っていうもんやろ?」

あたしはテラダを殺せるだろうか。あたしはゼロを殺せるだろうか。
あたしに関係する全てを殺すことができるんだろうか。
果たしてそれが本当の自由なんだろうか。
それが本当の自由というのなら―――あたしはいちーちゃんも殺さなければならないの?
217 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:38
その次の夜だった。
「・・・・・・たぁい」
それはヤグチの絶叫のように不明瞭な声ではなかった。
何を言っているのかはわからなかったが、誰の声であるのかは一瞬でわかった。

「いちーちゃん? どうしたの?」
後藤は壁に耳をグイグイと押し付ける。このまま壁が倒れればいいのにと思う。
人の力で倒せるような代物ではないが、誰かを殺すことよりはずっと簡単な気がした。

「いいいいいいいたあい。いたい!いたいあ!たいたいた!いあたああぁ!いいたいいたい!」

市井の声はどんどんオクターブを上げながら金切り声となっていった。
誰かと意思疎通するために発してる言葉とは思えなかった。
「いちーちゃん! 大丈夫!? どうしたの? どこが痛いの!?」
後藤は拳で思いっ切り壁を叩いた。骨が折れても構わないと思った。
だが後藤の皮膚は壁も拳もそして後藤の心も、何も壊さなかった。

何もかも壊れてしまえ。それで全てがリセットされるのなら。全部壊れてしまえ。

後藤は強く願ったが非力な後藤の拳は何も壊すことができなかった。
たった一つ。後藤が強く思った願いだけが叶えられることなく脆くも壊れた。
「くそ! くそ! ちくしょう・・・・・・・ちくしょう・・・・・・チクしょう!」
218 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:38
219 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:39
痛い痛いと騒いでいた市井は、職員によって別室に連れて行かれたが、
次の日の朝にはもう部屋に戻ってきていた。
早い回復を喜ぶべきなのだろうが、なぜか後藤は素直に喜べなかった。
前回に比べてあまりにも治療が早すぎる。何か嫌な予感がした。

「一本注射打たれただけだったよ」
後藤の心配をよそに、市井の声には生気が満ちていた。
「なんかよくわかんない変な注射だったけどさー、2回とも同じやつだった」
「そりゃそうだよいちーちゃん。同じ症状なんだから同じ注射打つって」
「まー、それもそうか。あはははは」

痛みが消えるということは、精神的なゆとりという面でも大きな影響があるのだろうか。
市井は元気だった。
後藤には、いつもの市井よりも少しテンションが高いくらいに感じられた。

「それがさあ。粉薬溶かすところ見たんだけど袋がピンクでさ。薬っぽくないんだ」
「その溶かした薬を注射したの?」
「うん。注射打ったら一発で痛みが消えた。もうびっくりするくらいあっという間」
「ふーん。痛み止めなのかなあ・・・・・・」
220 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:39
後藤はその薬のことがどうも気になった。
昨日のテラダの電話のやり取りのことが頭にあった。

「それってなんだか危ない薬なんじゃないの?」
「さあ、袋には『GAM』って書いてあったけど。何かはわかんないよ」
「ぎゃむ?」
「さあ? ジー・エー・エム。これでなんて読むのかね」

確かテラダはギャムと言った気がする。機会があればテラダに訊いてみよう。
もし変な薬でないのなら、きちんと答えてくれるだろう。
投与はあと3回。つまり最低でも3回はテラダに会う機会があると考えていいだろう。

「ごとーは本当に何もないの? 体、大丈夫?」
「え、うん。本当になんともない」
「元気だねえ」

異常というほどのことは何もなかった。
ただ、市井ほどではないが、後藤も自分の肌がやや敏感になっているような気がした。
敏感という言い方は正確ではない。だが他に後藤は言葉を知らなかった。
痛みはない。肌に触れるもの全ての輪郭がはっきりと感じられるだけだった。
まるで自分の肌が目になってしまったような、そんな変な感覚だった。
221 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:39
222 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:39
「中間報告は以上です」
研究員による副作用の症状報告が終了した。
最初に懸念されていたように、全ての細胞で副作用が確認された。

細胞Aを投与したナカザワユウコは爪の角質層に異常が見られた。
文字通り生爪を剥がすような痛みを感じるらしい。1番の部屋は地獄と化していた。

細胞Bを投与したイシグロアヤは全身の脂肪細胞に炎症が見られた。
症状が全身に及んでいるだけに、衰弱が酷い。別室へ移動させるべきか。

細胞Cを投与したイイダカオリは耳鳴りが酷いらしい。だが症状としては軽い方だ。

細胞Dを投与したアベナツミは今のところ異常なし。血圧が高いのがやや気がかり。

細胞Eを投与したヤスダケイは呼吸器系の異常が見られる。
時に呼吸困難を起こし、危篤状態に陥る。最も注意が必要な個体だろう。

細胞Fを投与したヤグチマリは声帯に腫瘍ができていた。今週中に外科的処置が必要だろう。

細胞Gを投与したイチイサヤカは全身の皮膚に過敏症が見られる。
現在は強度の麻薬投与で誤魔化しているが根本治療は難しそうだった。
そして―――その細胞Gをイチイサヤカの10倍量投与したゴトウマキには―――
副作用のようなものは全く確認されなかった。
223 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:39
「つまり4番と8番だけ異常らしい異常がないと」
「はい」
「おいおい・・・・・ある意味予想通りの結果やんけ・・・・・」

さらに別の研究員から細胞個々の副作用について報告が行なわれた。
だがテラダはもうそちらの情報にはあまり興味がないようだった。

「細胞種よりも投与対象の資質が大きい、ということか?」
テラダは会議室の一番奥に座っている一人の少女に向かって訊いた。
少女はいつものようにニコニコと笑っている。何も考えていないようにも見える。

「そうでしょうね。細胞Gの様子から見ると」
「イチイは副作用が出てるが、10倍量打ったゴトウには全然出てへん」
「まだ答を出すのは早いですが・・・・・・・・・・」
「いや、いけるかもしれん。ウイルス混合試験を開始するべきやろ
 細胞のカクテルを作って4番か8番に投与してみて・・・・・」
「それは危険です。ウイルスを8つに分割して毒性を薄めた意味がなくなります」
「そうか・・・・・・・・」
「8つのウイルスを統合するのは一番最後でいいでしょう」

少女はただの研究員ではないようだ。
どうやら施設のオブザーバー的な立場で発言しているようだった。
他の研究員は勿論、テラダもその少女には気を遣っている様子があった。
224 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:40
少女は笑顔を絶やさずに言葉を続けた。
「カクテルと作るというのも魅力的なんですけどね」
「そやろ。最終的には全てのウイルスを一つの個体に投与せなアカンからな」
「でもそれだと毒性が・・・・・・・」
「これか。悩ましいところやな」

テラダは過去に行なわれた試験のデータを少女に示した。
現在使用しているウイルスの原型となるウイルスのデータだった。
動物試験の結果、投与した個体は全て死亡していた。
毒性の数値は飛びぬけている。
テラダはその後、様々な試行錯誤を経て、ウイルスを8分割することによって
毒性を抑えることに成功していた。
ただし目的とするウイルスの効果がどう現れるかは全く予想できない。

「まあええわ。カクテルの準備だけはしとこうや」
「はい」
「で、あっちの方はどうなっとる?」
テラダは別に研究員に話を振った。
指名された研究員はすっと立ち上がり一礼をする。どことなく表情がゆるんでいる。

「受け入れ準備は終了しました」
「おお! マジか! 早かったやんけ」テラダの頬も緩む。
この試験が予定通りに進むことなど一度もなかった。
時には良い意味で予定が狂うこともある。
テラダは研究員から書類を受け取ると、一つの決断を下した。

「よっしゃ。来週やな。4人の新メンバーを施設に入れる」
225 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:40
会議室の机の上に4人の最新データを記した書類が回される。
書類を確認したテラダと少女は深く頷いた。

「予定よりかなり早く入ったな。どや。使えそうか」
「はい。ですが今日明日中に試験開始というのはちょっと・・・・・・」
「まあな。予備試験せなアカンしな」
「まずは予備試験の結果を見てからということで」
「おう」
「来月くらいから使えますかね」
「ああ。新しいプロトコールが必要や」

各人がそれぞれ意見を出し合い、徐々に投与計画がブラッシュアップされていく。
だが追加の4人に細胞を投与するにはまだ時間がかかる。
基本的な検査をして投与前のデータを取得しておかなければならない。
投与前のデータがなければ投与後のデータと比較することもできない。
いくらテラダでもこの手順を省くことはできなかった。

結局、今の段階では完全な予定を組むことはできなかった。
現在行なわれている試験の副作用の強さを見ながら、
今後の予定を計画するということで会議は終了した。
226 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:40
「ほな、4人が入る部屋の準備は頼むで」
「はい」

会議室に集まっていた研究員たちはそれぞれ自分達の持ち場に戻っていく。
最後まで残っていたのはテラダと一人の少女だけだった。
二人は新たな試験に関して二人だけの簡単な打ち合わせを行なう。
まだ他の研究員には聞かせたくない予定などもそこには含まれていた。

「ウイルスのカクテルが難しいなら・・・・・・・・・・・・」
「なるほど。それなら血清を・・・・・・・・・・・」
「あくまでもパイロット試験として・・・・・・・・・・・」
「それならさらに追加メンバーが・・・・・・・・・・・・・・・・」
「試験期間の短縮も考慮して・・・・・・・・・」

試験手技に関する科学技術的な知識はテラダの方が上だったが
ウイルスに対する知識は少女の方がかなり詳しかった。
試験の見通しを立てるには少女の知識が欠かせなかった。

テラダは少女とのやり取りに満足し、最後の打ち合わせを終了した。
227 名前:【感染】 投稿日:2009/04/27(月) 23:40
「ちょっと危険な試験ですね」
「危険? ああ。危険かもな」

二人が共有している『危険』とは普通の意味での危険ではなかった。
最優先する事項が一般的な常識からかけ離れていた。
ゆえに最優先事項を阻む障害物も、常識からはかけ離れている。
試験を進めるためには、そういった危険を避けて通ることはできない。

「死ぬやろうな」
「ええ。しかも確実に。ウエヘヘヘヘ」
「ほぼ全員がな」

二人の中では結論は出ていた。最終目的よりも優先されるものなど何もない。
たとえそれが人命であっても。一般的な常識では受け入れがたい事項であっても。
試験の成功に優先されるものではなかった。

「何人死んでもかまわへん。まあ、一人生き残ったら御の字やな」
「少なくとも新メンバーの4人は―――」
「あのウイルスを投与したら―――」
「確実に」
「死ぬ」
228 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/27(月) 23:40
229 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/27(月) 23:40
230 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/27(月) 23:40
231 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:34
後藤はベッドの上に横たわっていた。
瞳は閉じているが、眠りについてはいない。意識ははっきりとしていた。
後藤の肌には薄手の寝巻きがしっとりとまとわりついていた。
生地の繊維が川の流れのようにするすると肌に触れる。
繊維の一本一本の太さまで感じ取ることができた。

不思議な感覚だった。
繊維と肌の間を行き来する温度の流れすら感知することができた。
肌の上を流れる汗の一粒一粒も感知することができた。

汗は流れるそばから蒸発していき、後藤の体温を奪っていく。
温度というものを、あいまいな感覚ではなく、一つの熱エネルギーとして感知できた。
後藤の中では完全にデジタルな情報として処理されていた。

今まで見えなかったものが見える感覚を味わった。
それは「あの時」、全ての感覚を失ったときと真逆の感覚だった。

「あの時」、世界の全てから切り離され、後藤は完全無欠な孤独を味わった。
世界には自分ひとりしかいなかった。世界は自分の中にあった。だが今は違う。
世界の全ては後藤とつながっていた。肌を通してつながっていた。
少なくとも―――この部屋の中にある全ての情報は後藤とつながっていた。
232 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:34
後藤は目を開き、上体を起こしてベッドに腰掛ける。
こんな狭い部屋の中なのに、数え切れないほどの情報が後藤の中に流れ込んでいた。
そう。普通なら絶対に数え切れない。人間の脳で処理し切れるわけがない。
だが今の後藤はそういった無限に近い情報をほぼ完全に把握することができた。
その感覚が後藤自身にも信じられなかった。

あたしはとうとう―――頭がおかしくなっちゃったの?

後藤は着ていた服を脱ぐ。下着がするりと床に落ちる。
一糸まとわぬ姿となった後藤は、ベッドから立ち上がり暗闇が支配する部屋に身をゆだねた。
後藤の肌には無数の埃が舞い落ちる。埃のなかにはダニや雑菌やウイルスも混じっていた。
不潔さは感じなかった。ただただその数の多さに圧倒された。
そしてその数や種類を把握している自分の感覚の鋭敏さに驚かされた。

本当に把握しているのだろうか?
後藤は肌に触れては離れていく埃の数を数え始めた。
頭で数えるのではない。肌の細胞が同時に一斉にカウントを始めるような感覚。
まるで全ての表皮細胞に脳が宿ったような感覚だった。

全身のカウンターは止まることなく凄まじい勢いで回転を続ける。
埃の数を10万個まで数えたところで朝がやってきた。
233 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:34
234 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:34
「異常はありませんね?」
「・・・・・・・・・・・ない」

後藤は午後の診察で体の不調を訴えることはしなかった。
自分の肌が何らかの変調をきたしていることは確実だったが、
それを施設の人間に告げるのは躊躇われた。
何よりも、その異常な感覚を上手く表現できる言葉がみつからなかった。

後藤の肌は診察の間も相変わらず鋭敏な感覚をしたままだった。
市井が言っていたような敏感肌というのとは少し違う。
痛みはなかった。不快感も異物感もなかった。負担に感じることはなかった。

少しずつではあるが、後藤はその不思議な感覚を自分のものとして受け入れつつあった。

ただ、市井のことが少し気になった。
この異常は明らかに投与された試薬のせいだろう。
そして市井に起こった異常も同じく試薬のせいだとしか考えられない。
自分がこの症状について詳しい情報を与えることが、
もしかしたら市井の治療に役立つかもしれない。

後藤は市井の症状が詳しく知りたかった。
だがそれを施設の職員に聞くことはできない。もどかしかった。
235 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:35
後藤は勝手にケージを開けてゼロを抱き上げた。
いつものことなので職員はもう何も文句は言わくなっていた。
後藤の膝に座ったゼロを、職員は丁寧に診察していく。

「ねえ。この子は大丈夫なの?」
「はい?」
「異常とかない? 元気?」
「ええ元気ですよ。食欲もいつも通りですし、毛並みも姿勢も異常はありません」

確かにゼロは元気だった。いつも以上に生き生きしているように感じた。
後藤はゼロの首筋を撫でる。
毛並みに異常がない? あれ? 本当に?

「この子・・・・・お風呂とか入れてあげないの?」
「え?」
「汚れてる。すっごい毛に脂がついてる・・・・・・。肌もざらざらしてるし」

職員は怪訝な顔をした。
見た目にはゼロの毛はつやつやとしているし、肌も綺麗だ。
とても異常があるようには見えなかった。
236 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:35
「大丈夫ですよ。気のせいじゃないですか」
「え。でも」
「それに試験動物はお風呂に入れたりできないんですよ」
「そうなの・・・・・」

後藤はもう一度ゼロの毛をゆっくりと撫でた。
大丈夫だ。汚れてはいるが、それほど異常があるわけではない。

汚れてる? なんであたしはそう思うんだろう?

後藤は今度は意識して「目で」ゼロの姿を見つめた。
確かに毛並みはつやつやとしており、とても綺麗だ。
だが後藤の手を通じて入ってくる情報は、目から得られる情報とは違っていた。
そうしている間にも、後藤の頭や肩には無数の埃が降りてきていた。

なぜだろう? なぜあたしはこんな感覚がするんだろう?
237 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:35
舞い落ちる埃の数をぼんやりと数えた。
この部屋に漂っている埃の数は、自室に比べると極端に少なかった。
ダニやウイルスなどは、ほとんど存在していなかった。

「この部屋は空気が綺麗だね」
「え? そんなこと言う子は初めてだな。この施設はどこも空調が完備してるけど?」
「そんなんじゃなくって。自分の部屋に比べたら埃の数が全然違うから・・・・・・・」
「えー? どうしてそんなことわかるの?」
「いや、なんとなく・・・・・・」

後藤は言葉を濁したが、埃という言葉に反応した職員は、
この検査室の空調のことについてとうとうと語り出した。
その日検査が行なわれた部屋は「クラス1万」と呼ばれる部屋だった。
人の出入りの際にはエアシャワーで埃を落とし、室内を清潔に保つ。

「1万」というのは埃の数で、室内の埃の数がおよそ1万以下のグレードを指すのだという。
後藤たちが住んでいる部屋に比べると、確かに埃の数が圧倒的に少ない。
「1万」という具体的な数字を耳にした後藤は今度はしっかりと意識して埃の数を数えた。
肌に触れる埃だけではなく、部屋の隅々まで意識を集中して、
空気を伝わって運動している埃の数を把握しようと努めた。

そんなことをするのは生まれて初めてのことだったが、
まるでそれが生来備わっている機能であるかのように、簡単に数えることができた。

確かに部屋の中には8000個ほどの埃しかなかった。
238 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:35
239 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:35
4回目の投与の日まで市井は元気だった。
毎晩朝まで後藤ととりとめのない話をし、朝が来ても延々と市井は喋り続けた。

「なんだよゴトー。もう寝るのかよ」
「えー、ていうかもう朝ご飯来たじゃん。食べようよ」
「こっち持ってこいよ。一緒に食べよう!」
「え・・・・うん」

市井は食器をカシャカシャといわせながらくだらない話を続けた。
「でさー、ヤグチが言うには日に日に体が縮んでいくってさー。毎日毎日だってよ」
「はあ」
「ありえる? いくら薬の副作用だからってさー、体が縮むわけないじゃんないじゃん」
「うん・・・・・・」
「ふふふふ。あははははは。ねえ全く。あははははは」

同じ話だった。市井は一晩中ぐるぐると同じ話を繰り返した。
どこにこんなエネルギーがあるんだろう?というくらい市井はエネルギッシュだった。
いつものちょっとシニカルな口調は陰をひそめ、やたらめったら陽気だった。
後藤は壁の向こう側にいる市井に、いつもとは違う気配を感じた。
これまでの後藤ならば「元気だなあ」で終わりだったが、鋭敏さを増した後藤の肌は
壁越しであっても市井の変化をしっかりと感じ取ることができた。

いちーちゃん、どうしちゃったんだろう?

まるで市井という入れ物の中に得体の知れない怪物が潜んでいるような感触がした。
これも薬の影響なのだろうか? 市井の中で何がが変化しているのだろうか?
240 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:36
「はあ、はあ、はあ・・・・・ふうー」
「どうしたのいちーちゃん? 大丈夫?」
「うん。ちょっと息切れ」
一晩中喋り続けていたからだろうか。市井の息は荒い。
だが疲れたそぶりは全く見せない。無理に元気よくしている様子もなかった。
疲れているはずなのに全く疲れていない。何か不自然な気がした。

本当に、市井はよく笑い、よく喋った。
後藤を壁の向こうへとぐいぐいと引き寄せる巨大な力があった。
怖いくらい魅力的だった。壁越しであってもぞっとするくらいに。

市井という人間の魅力は、まるで通り雨が上がった後の夏の青空のように、
明るく強く、抜けるように透き通っており、無限のエネルギーに満ちているように思えた。
そう。まるで燃え尽きる前のロウソクのように―――

やだあたし何考えてんのよ。
後藤は自分の直感を安直な想像だと恥じて頭の中から追い払った。
市井が元気ならそれでいい。何も問題はないはずだ。
241 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:36
「いちーちゃん・・・・・ホント大丈夫? 肌の方も大丈夫なの?」
「あーそれもう大丈夫みたい。あの薬よく効くわ」
「あの薬?」
「うん。GAM。あれ毎日打ってもらってる。打たないと痛くって眠れないんだよ」

毎日。いくら鎮痛剤といっても毎日打っていいものなのだろうか。
少し気になったが、医学知識のない後藤にはなんとも判断がつかなかった。

「そうかあ。効くんだあ。よかったね」
「じゃ、そろそろあっち行くわ。ありがとねゴトー」

市井は壁から離れていったが、後藤はその後も壁に耳をつけて市井の気配を窺った。
どうやら市井は逆側の壁へと移動して、今度はヤグチと話し込んでいるようだった。
いちーちゃん寝ないのかな? 寝なくても大丈夫なのかな?
ここ数日、市井は夜は後藤と話し、昼はヤグチと話している。一睡もしていないのではないか。
やはり市井の身に何か異変が起こっているとしか考えられなかった。

後藤はそのとき、テラダに対して一つの嘘をつくことを決めた。
242 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:36
243 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:36
「どや」
「7番には今日もGAMを20単位打ちました」
「おいおい。ここんとこ毎日やんけ。限界量超えてるんとちゃうか?」
「はい。最近は効き目の方も鈍ってきていまして・・・・・」
連日研究員から上がってくる報告書にテラダは目を通していた。
彼自身は他にも仕事があるので、彼女たちと接するのは投与の時だけだ。

「使いすぎたかー。麻薬はすぐに耐性ができてまうからなあ。しゃあないか」
「7番ですがやや躁状態傾向が見られます。禁断症状の兆候も現れつつあります」
「そら、それだけ打ったら精神面にも影響出てくるわな」
「投与量を下げますか? あるいはもう少し軽い鎮痛剤に切り替えますか?」
テラダは人差し指をこめかみに押し付けて渋い顔をする。
だが別に難しい選択を迫られているわけではない。既に結論は出ているのだ。

「いやアカン。今は痛みを抑えるんが先決や。最悪、7番の精神はどうなってもええ」
「どうなっても?」
「最悪廃人になっても心臓が動いてたらええわ」
「ですが」
「心臓さえ動いてたらデータは取れるがな」
「では禁断症状が強くなってきても・・・・・・」
「打ったれ打ったれ。7番が欲しがるだけ打ったったらええがな」

研究員は無言で頷くと、持っていた書類にテラダの下した最終判断を記した。
244 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:36
245 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:36
4回目の投与の日。
後藤はすんなりと研究員の後について行くことはせず、体調の不良を訴えた。
アクションを起こすならテラダが現れる投与の日しかないと考えていた。

「痛いの。全身の肌がピリピリする。動きたくない」

後藤は市井から聞いた症状を、可能な限り正確に再現して研究員に訴えた。
もちろん痛みなど全くなかった。
すぐにばれる嘘かもしれない。ばれたらただでは済まないかもしれない。
だが市井に何が起こっているのかを知りたいという気持ちが勝った。

投与が中止になるかどうかは賭けだと思った。

だが後藤は中止にならない方に賭けて、ぎこちない演技を続けた。
研究員としばらくの間、押し問答を続けていたが、
結局後藤はいつもの投与の時ように地下一階に連れて行かれた。
246 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:36
「なんや。痛いんかいな」
テラダは極めて不機嫌だった。
だが後藤はそれを好都合だと思った。
嘘をついている時は、優しく接されるよりも喧嘩腰の方がありがたい。

「だから何回も痛いって言ってるじゃん。ちょっと離してよ。持たれると痛いんだって!」
後藤は腕をつかんでいた研究員を乱暴に振りほどいた。
険悪な雰囲気が流れる。だがこれも後藤には好都合だった。
そちらが怒りを前面に押し出してくれるなら、こちらも無理なく怒りで対抗することができる。

後藤はテラダに向かって自分の症状を説明した。
市井が言っていた症状そのままだった。
テラダは難しい顔をしながら後藤の話を聞いている。信用しているのかどうかはわからない。
ぎこちない言葉の運びだったが、後藤は怒りにまかせた勢いで押し切った。

下手な演技でも押し通すことができたような気がした。
痛いというのは嘘だったが、テラダに対して怒りを抱いているのは嘘ではなかった。
後藤は火が出るような瞳でテラダを睨みつける。
徐々に自分でも演技をしているということを忘れていった。

「なんとかしてよ!」

その言葉に多くの意味を込めた。その大部分は嘘ではなかった。
247 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:37
「しゃあないな」
テラダは後藤の瞳の奥にある真偽を探ることはなかった。
試験を進めるにおいて、被験者が嘘をつくということは考慮していなかった。
嘘をつかないと信じていたわけではない。嘘を見抜く自信があったわけでもない。
テラダが信用するのはデータだけだった。

「そういう症状やったら、あれ使わんと難しいかもしれんな」
彼にとって被験者とは人間ではなく、ただデータを排出するだけの素材でしかなかった。
嘘をつこうがつくまいが、そんなことはテラダには関係なかった。

「おい。GAM持ってこい! とりあえず10単位や」

テラダは不機嫌そうに叫んだ。
後藤が文句を言ったことが不機嫌の理由ではない。後藤に対する感情などない。何一つない。
順調に進んでいたプロジェクトにアクシデントが起こったことが、ただただ不愉快だった。
そしてそれは後藤の責任ではない。たとえ後藤が嘘をついていたとしても、だ。

テラダは世界を支配する運命を信じている。
運命。人はそれを時に真理と呼んだり、偶然と呼んだり、物理法則と呼んだりする。
そのどれもが、無限と言ってもいいくらいの多くの要素要因がからみあっている。
ゆえに人間は運命の真実に到達することはできない。永遠に。
そう、永遠に、人は他人を支配することなどできない。運命を支配することなどできない。
神になることなど―――できはしない。

少し前までテラダはそう信じていた。

このウイルスを手に入れるまでは。
248 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:37
テラダは今回のアクシデントもあるべき一つの運命として受け入れた。
不愉快なのはその運命を自分の力では変えることができないからだ。
だがこの試験が終わればそんなことはなくなるだろう。
この世界を支配できるのは―――

「用意できました」

研究員がアンプルと注射器と予備の袋を持ってきた。
後藤は予備の袋にチラリと目を向ける。
そこには薄ピンク色の袋に黄色い文字で『GAM』と書かれていた。
テラダはかちゃかちゃと音を立てながら薬液を注射器に充填していく。

これか。いちーちゃんが打たれた薬がこれか。

後藤はテラダと言葉を使った駆け引きをするつもりはなかった。
自分が薬に関する情報を巧妙に引き出せるなんてとても思えなかった。
じゃあ諦めるの? 諦める? 何を?

長い自問自答の末に後藤が出した結論は、自分の体を使うという選択だった。
249 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:37
「ほなこれ打つで。これ打てば痛みも和らぐはずや」
後藤は袖を捲くり上げ、白い肌を露出させる。産毛が逆立っていた。
テラダが注射器の針を上に向ける。薬液を押し出し、注射器の中の空気を抜いた。その時。
針に入っていた薬液が宙を舞った。ほんの数滴だったが、その滴は後藤の肌を濡らした。

なにこれ。

後藤の肌が過剰に反応した。
その液体は後藤がこれまで触れたことのない物質だった。
水面に投げた石が波紋を広げていくように、後藤の腕を鳥肌が走った。
ここ数週間、異常なまでに発達していた後藤の皮膚感覚はあっという間に麻痺していった。
麻痺した次は、ほのかな陶酔感が伝わってきた。脳が痺れる。

だめ。これはだめ。だめええええええええええええええええええ。

後藤は針を突き立てようとしたテラダの手を乱暴に払った。
壁にぶつかったアンプルは粉々に砕け、注射器は床を転がった。
「ちょっと! なによこれ!」
「おいおい。なにってただの鎮痛剤やがな」

鎮痛剤ならこれまでも何度か打っている。体が感覚を覚えている。
だがGAMは明らかにその感覚と違っていた。あまりにもかけ離れていた。
後藤はテラダの説明よりも自分の感覚を信じた。
これは劇薬だ。打たれたらきっとただでは済まない。
250 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:37
後藤とテラダは、お互いに瞳の奥を探りながら無言でにらみ合った。
異様な雰囲気を感じ取ったゼロがけたたましく吠え立てる。
無言を続ける後藤の肩に埃が舞い落ちる。
無意識のうちに埃の数をカウントしていた。部屋に漂う埃の気配。その数およそ1000。
地下三階の診察室よりもはるかに清潔な部屋だった。

なんなの? 異常だ。綺麗すぎる。この部屋はなんでこんなに綺麗なの?
ていうか―――あたしはなんで埃の数なんて数えているの?

「情緒不安定やな」
テラダは研究員から予備の袋を受け取った。
「まさか注射が嫌になったってことはないやろな?」
後藤はぶんぶんと首を横に振った。
昨日の採血の時も注射針を刺されたが、肌は過剰な反応を示さなかった。

「いい。痛いのは我慢する。なんかその薬は嫌だ。生理的に嫌。打たれたくない」
テラダは何も言わずに予備の袋を下げさせ、
その代わりに別の薬液が入った注射器を受け取った。
怒りも苛立ちもなく、ただ無表情だった。何も言わないのが逆に不気味だった。

「投与は続けるで。4回目や。これは契約やからな。それは―――」
「それはわかってる」
251 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:37
テラダはまずゼロの方から投与を始めた。
相変わらずゼロの毛は脂がついていて後藤には不潔なように感じられた。
以前は全く感じなかった感覚を後藤は感じるようになっていた。

「ねえ」
「今度はなんやねん」
「この部屋ってさあ、いつも検査してる部屋より綺麗だね」
「そうか? 結構モノが多いし、散らかってるやんけ」
「そういう意味じゃなくてさあ・・・・・・埃が少ないっていうか。ここもクラス1万?」

テラダはさすがに怪訝な顔をした。
後藤がクラス1万という言葉を知っていたことが意外なようだった。
横にいた研究員が、先週後藤とした会話についてテラダに報告する。
ようやく意味が理解できたテラダはくしゃっと表情を崩した。いつものテラダの顔だった。
過剰な緊張と緩和があった後だからかもしれない。テラダはほんの少し隙を見せた。

「ほう。珍しいことを訊くやつなやお前は。ここはクラス1000のクリーンルームや」
「埃の数が1000個以下ってこと?」
「そうや。かなりグレードの高い部屋や。けどまだ奥にはクラス100のエリアとかもあるで」
「クラス100!? そんなの必要あるの? 何のためにあるの?」
「ああ。人のためっていうかウイルスとか細胞を調製したりするのに必要やねんな」
「ウイルス?」

一瞬、テラダの頭がピクリと動いた。表情は全く変わらなかった。能面のようだった。
テラダの強い意志によって変化を拒んでいるように見えた。
隙を見せないぞという強い意志が、かえってテラダの無表情を不自然なものにしていた。
252 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:38
「はい、終わりや。おい後藤。こいつをケージにしまってやれや」
「う、うん」
「さあ、次はお前や。手ぇ出せやほら」

早口で畳み掛けるテラダの声には有無を言わさぬ強い響きがあった。
もはや何を訊いても答えてくれそうになかった。
後藤の右腕に注射針が差し込まれる。
先ほどの鎮痛剤を浴びたときのような異常な感覚はなかった。
後藤の肌は、ただ注射針の金属分子の均等な並びしか味わうことはなかった。

もしこの薬液を直接肌で触れたら―――どうなるんだろう?

後藤はそんな疑問を抱いたが、自ら進んでそうしようとは思わなかった。
いずれにせよ、既に薬液は3回も打たれているのだ。後戻りはできない。

テラダが無言のまま薬液を押し切り、4回目の投与が終了した。
投与が終わればもう何もやることは残っていないので―――そのまま部屋に戻された。
253 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:38
部屋に戻ると待っていましたとばかりに市井が喋りかけてきた。
相変わらず市井のテンションは不自然なまでに高かった。
後藤はあの液体が肌に触れたときの異常な感覚を思い出していた。
ぞっとするような生理的拒絶感。だがなぜか不快ではなく、むしろ甘美な味がした。
もっと味わっていたいような―――何度も繰り返し味わいたいような。
そんな危険な味がした。

だがそのことを市井に伝えることはできなかった。

壁越しにカシャカシャと変な音が聞こえてきた。食器の音とも違う。なんだこれ?
「いちーちゃん、なにしてるの?」
「ああ、ちょっとね」
「ちょっと何さ?」
「いいじゃん別に」
「だから何?」
「なんでもない」

大して知りたいわけではなかったが、市井が頑なに答えないのが少し気になった。
これまでの会話でお互い隠し事をするようなことはなかった。
相手の姿が見えないのだ。隠すも何もなかった。
254 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:38
「教えてよー、何やってんのさ」
「教えなーい。えへへへへ」
「酔っ払ってるの?」
「はーい。ラリってまーす」
「ちょっとお。変な冗談言わないでよ。ね、何してるの?」
「だから教えないって。ゴトーに教えたら、ゴトーもクセになっちゃうからさ」

クセになっちゃう?
その言葉を聞いて、後藤の頭にハッと閃くものがあった。

「いちーちゃん、あのね」
「はいはいなんですか」
「今日ね。あたしもGAM打ってもらった」
「え」

嘘だった。テラダに嘘をつくときの1000倍胸がドキドキした。
口が渇き、舌がからまった。市井との会話にに不自然な間が空く。

「・・・・・・・・・マジで?」
「マジで。すっごい効くねあれ」
「だろ? すっげえ『効く』だろ? もうびっくりしちゃうちゃうちゃうくらいに」
相変わらず市井のテンションはおかしい。後藤の疑念は確信に変わりつつあった。
255 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:38
「いちーちゃん・・・・・・」
「うん?」
「もしかして、今、GAM打ってる?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「ヤバイよ。あたし、GAMってのはかなりヤバイ薬のような気がする・・・・・」

壁越しに聞こえた音はどこか聞き覚えがある音だった。
覚えているのも当然だった。
今日、目の前でテラダがGAMをアンプルから注射器に入れている時にした音によく似ていた。
一度そうだと連想してしまうと、もうその音にしか聞こえなかった。
注射器を自分の腕に突き立てている市井。悪夢のようなイメージだった。

「ラリってる・・・・・わけじゃないよ・・・・・」
「そうだよね。お薬だもんね。でもね。あの薬は」
「だって痛いんだもん! すっごい痛いんだもん! 打つしかないじゃん!」
市井の声は泣いていた。

「わかるよ。あたしもその痛みはわかるけど・・」
「嘘ついてんじゃねーよ!」

言葉で心をえぐられた。
256 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:38
「全部嘘だろ? 痛くなんてないんだろ? GAMなんか打ってないんだろ?」

心が止まった。

「わかんだよ全部。わかんだよ全部。ゴトーのことは全部」
「・・・・・・・・・・・」
「な、黙ってんじゃねーよ。何か言えよゴトー。『嘘じゃない』って言ってみろよ。
 どんな痛みなのか説明してくれよ。GAM打ったらどんな気持ちになるか言ってくれよ。
 『いちーちゃん助けて』って『この痛みをなんとかして』ってあたしに言ってみなよ。
 言ってくれよ。頼むからゴトー。嘘じゃないって言ってくれよ。痛いんだろ? な? な?」

テラダを欺くことはできても、市井を欺くことはできなかった。
市井のことなら壁越しにであっても、どんなことでも理解できる。それは傲慢だった。
後藤が市井を理解しているように、市井も後藤を理解していた。後藤の嘘を見抜いていた。

後藤は何も答えることができなかった。何かを言えばそれは全て嘘になる。
もう市井に対しては一つの嘘もつきなくなかった。
そうしたら最後、二度と市井とは話せなくなるような気がした。
257 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:39
「ちっくしょう。打ちたいんだよ。打って何が悪いんだよ。痛みが消えるんだよ。
 気持ちが落ち着くんだよ。不安が消えるんだよ。それの何が悪いんだ? なあゴトー」

朝が来るまで市井は泣き喚きながら後藤を責め立てた。
もはやなぜ泣いているのかすらよくわからなかった。言葉も支離滅裂だった。
市井の精神は、明らかに変調をきたしていた。
理由もなにもないまま、ただ後藤を罵り続けていた。
泣きながら汚い言葉で後藤と自分を罵った。

それでも後藤は壁から離れることはできなかった。耳を塞ぐこともできなかった。
後藤の耳には市井の涙声が溢れた。
後藤も、市井と涙の量を競い合うかのように、声を殺して大粒の涙を流しながら、
市井の泣き声をじっと聞いていた。

後藤にできるのは、今自分が壁を隔てて市井のそばににいるんだということを
市井に感じてもらうことだけだった。
あたしは離れないよ。いちーちゃんがそこにいる限りあたしもここにいるから。
言葉には出さなかったが、その気持ちは嘘ではなかった。
258 名前:【感染】 投稿日:2009/05/01(金) 23:39

それからまた一週間が経ち―――



5回目の投与の日がやってきたが、その頃にはもう、市井は昔の市井ではなかった。
259 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/01(金) 23:39
260 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/01(金) 23:39
261 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/01(金) 23:39
262 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:28
「いちーちゃん。今日は例の投与の日だね」
「・・・・・・・・・・・・・」
「あと二回で終わりだよ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ねえ、いちーちゃん。投与が終わったら、あたしたちどうなるのかなあ?」

後藤は壁に向かって一方的に喋り続けた。
ここのところ、市井の方から返事が返ってくる回数が激減していた。
たまに思い出したように「薬・・・・・・」といううめき声が聞こえるくらいだった。
あるいは「GAMくれよ! 打ってくれよ!」という叫びがするだけだった。
そして時折市井は幻覚に襲われ、いるはずのない敵に向かって殴りかかっていた。
後藤と市井の間にはコミュニケーションが成立しなくなっていた。

そしてその頃にはもう、後藤にもぼんやりと理解することができていた。

なぜ市井の痛みが消えたのか。
なぜ市井はうなされたように薬を求めるのか。
なぜ薬が切れた市井は痛みではなく幻覚に襲われるのか。
市井に打たれたGAMというのがどういう種類の薬だったのか。

肌が教えた感覚は間違っていなかったのだろう。
GAMは劇薬だ。そしておそらく、一種の麻薬だ。
後藤はそう確信していた。
263 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:28
「いちーちゃん。もうお昼だよ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ねえ、いちーちゃん。ヤグっちゃんの方に行かなくていいの?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ねえ、いちーちゃん。あっちの部屋の子たちがどうしてるか聞いてきてよ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「聞きたいなあ。ケイちゃんやカオリやユウちゃんがどうしてるか」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ねえ、いちーちゃん」

後藤の耳に聞こえてくるのは市井の荒い呼吸音だけだった。
沈黙を続けていた市井だったが、存在感は今もなお全く薄れていなかった。
衰弱しているようには感じられない。
むしろ市井の胸はいつも以上に力強く脈打っているように感じられた。

ドクン ドクン ドクン。

市井の鼓動は速い。呼吸のピッチも短い。
まるで生き急いでいるかのように。全力で結末に向かっているように。

後藤には二人を隔てる壁がいつも以上に分厚く感じられた。
市井はすぐそばにいるのに、急速に遠くへと離れていきつつある気がした。
一言でいい。市井に何か言ってほしかった。
264 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:28
ここ数日の市井は固く心を閉ざしていた。
一日のうち、ほんの一度か二度だけ会話が成立することもあったが、
その頻度も日を追うごとに少なくなっていった。

ただ、気が付くと市井はいつも壁の向こう側にいた。
いつもの時間になると、必ず後藤の待っている壁の横まで来てくれた。
自分はまだ市井に必要とされている―――かろうじてそう信じることができた。
それだけが今の後藤の支えだった。

「ねえ、いちーちゃん。投与が終わったらゼロは・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ねえ、いちーちゃん。あたしが逃げたいって言ったら教えてくれる?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「例の逃走経路。アスカが通って行ったっていう」
「・・・・・・・・・・・・・」
「いちーちゃんも一緒に・・・・・・・・・ねえ」
「・・・・・・・・・・・・」
「ねえ、いちーちゃん。なんとか言ってよ・・・・・・」

暗くて狭い地下の世界で、後藤の心を照らしてくれていたのは市井とゼロだった。
もし二人がいなかったら、自分はどうなっていただろうか。
そしてもし二人がいなくなってしまったら、自分はどうなってしまうのだろうか。
考えたくもない。想像したくもない。
だが少しでも気をゆるめれば、最悪の想像が後藤を不安の沼に引き摺り込もうとした。

後藤はいまだかつて味わったことのない恐怖に直面しつつあった。
265 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:29
266 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:29
5回目の投与のために、後藤はいつものように地下一階の部屋につれていかれた。
そして検査室の扉を開けた瞬間、息を飲んだ。
試薬棚のガラスケースが割れ、床には無数の書類やファイルが散らばっていた。
嵐が通り過ぎた後のように、部屋の中がメチャクチャになっていた。

「よう。ちょっと散らかってるけどな。全員の投与が終わったら片付けるわ」
テラダの口調はいつものように陽気だったが、
その顔から完全に陰りを隠すことはできていなかった。
狼狽するテラダを見るのは初めてではなかったが、その度合いはいつにも増して強かった。

よく見るとリノリウム張りの床には黒い染みがあった。
その色は、絵の具では作れないような濃い赤だった。

「・・・・・・・・・・・暴れたの?」
「あーあ。もう完全にアウトやで。クラス1000の部屋としてはもう使えへんなあ」
「暴れたの? 誰が? なんで?」
「まあ、でも投与くらいなら問題なくできるわ。さ、腕まくれや後藤」
「誰が暴れたのぉ!」

取り乱した後藤の両肩を、二人の研究員ががしっと押さえた。
後藤は腹の底から叫んだ。地鳴りのようなうめきを上げた。
自分を包んでいる世界の全てをぶち壊そうとした。
267 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:29
「ちょっと黙れや」
テラダは後藤の顎をつかんだ。五本の指を突き立てて後藤の頬に食い込ませる。
二人の目と目が5cmほどの距離まで接近した。
テラダがかけていた薄いサングラスのフレームが後藤の鼻っ柱に触れる。

「な。黙れや」
テラダの人差し指は後藤の顎を滑り、頬骨を通過して眼下にめり込んだ。
テラダの指は冷たかった。ほとんど汗をかいていなかった。
後藤の肌が感じるテラダの指は硬く冷たく、ほとんど血が流れていないようだった。
テラダが指に渾身の力を込めていることは伝わったが、痛みは感じなかった。

非力だ。この男は非力だ。この程度の力しかないんだ。

テラダが暴力を振るうことに慣れていないことはすぐにわかった。
一種のポーズだ。これも何かのデモンストレーションなのだろう。
ひ弱な男の過剰な示威行為はかすかに哀れみを誘った。

後藤は吐きつけようとした唾を飲み込み、黙って椅子に腰を下ろした。
268 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:29
「誰が暴れたってか?」
後藤が落ち着く振りをすると、テラダも同じように落ち着いた振りをした。
後藤は相手を出し抜くために。テラダは相手より優位に立つために。
二人とも陳腐な演技を続けた。

「一人や二人やない。投与したほとんど全員がご乱心や」
テラダの答えは後藤が予想していなかったものだった。
後藤の心には市井のことしかなかった。
だが「ほとんど全員」ということは、市井もきっとここで暴れたのだろう。

「ふん。大人しいんはお前くらいやで。全然副作用とか出てへんしな。
 お前あれやろ。肌が痛いとか言ってたんも嘘やろ。血液検査は嘘をつかへん。
 お前の体にはなーんも異常がなかったからな。調べたらすぐわかるんやで」

嘘がばれようがそんなことはもうどうでもよかった。
ただ後藤の中で曖昧だった問題に、一つはっきりとした結論が出た。
床に染み付いた黒い血痕が後藤に最後の決断を促した。

テラダは―――この施設は―――あたしの敵だ。

もう迷いはなかった。金のことなどどうでもいい。
後藤は最後の投与が終わったら、この施設から逃げ出すと心に決めた。
269 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:30
決心すると、不思議とそれ以上抵抗しようという気は起こらなかった。
いずれ逃げ出すのだ。今は好きなようにさせておけばいい。

後藤は神妙な表情を作り、静かに5回目の投与を受け入れた。
同じように投与を受けたゼロがケージに戻される。
この犬がどこで飼育されているのかはわからないが、
ここから出るときは、絶対に見つけ出して一緒に出よう。

この施設から逃げることは、自分が下した決断に対するけじめだ。自分の問題だ。
だがゼロを逃がすことは、この施設に対する一種の報復だった。
どんな形でもいいから、この施設のやっていることに対して、
毅然とした「ノー」という反応を示すべきだと思った。

非力な自分にだってできるはずだ。いや。できるできないの問題じゃない。
あたしはやる。あたしがやりたいからやる。それで十分。
死んだって構わない。これは生き死にの問題ではない。
そう。生き死になんていう大げさな問題じゃない。

これはただの―――ただの好みの問題だ。

投与を含む検査は短時間で終了した。
このまま部屋に戻るというのがいつものパターンなのだが―――
その日はなぜか自室に戻るまで、地下一階の部屋で30分ほど待たされた。
270 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:30
271 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:30
後藤が部屋に戻るのと行き違いに、例の少女が部屋に入ってきた。
少女はテラダに向かってにっこりと微笑みかける。

「例の4人は部屋に入れたか?」
「はい。バラバラに。今終わりました」
「よしよし。他のメンバーとは鉢合わせせんように気を遣えよ」
「もちろん」

テラダは床に散らばったファイルを拾い上げる。
ファイルからこぼれ落ちた書類が山のように重なり合っていた。
散らかった部屋を片付けるのは容易ではなさそうだった。

「投与予定はあと一回やねんなあ」
「はい。ウイルスの状態からすれば6回の投与で効果が発現するはずです」
「でも計算通りにいかへんかもしれんやん?」
「まあプラスマイナス1回分くらいの誤差はあるかもしれませんから、
 効果がなければもう1回くらい追加投与を行なってもいいかもしれません」
272 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:30
「楽しみやなあ。一発で上手くいったらええけどな」
「そうはいかないでしょう。ある程度の試行錯誤は必要かもしれません」
「まあな。先が見えへんからこそ面白い・・・・・と」
「ある程度の症状は出ているじゃないですか」

少女はそう言いながら1番から8番までナンバリングされたファイルをテラダに手渡した。
ファイルには各人に現れた症状が詳細に記載されている。

「それがなあ。結構ヤバイんや。もう死にかけてるやつもおるしな」
「2番とか危ないですね。あと5番も」
「6回目の投与が終わったら用済みってわけにもいかへんしなあ」
「カクテルを作りましょう」
「え? でもあれは・・・・・・・」
「被験者が死んじゃってからでは遅いじゃないですか」

少女は今度は別のファイルを4つ取り出した。
そこには9番から12番までナンバリングされている。
「追加メンバーも入りましたし。6回目の投与直後にカクテル作成を開始しましょうよ」
「そやな。6回目の投与の次の日くらいから追加メンバーも使えるやろう」
「では」
「決定や」
273 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:30
274 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:31
暗い部屋に一人の少女がいた。

明かりがついていても部屋の中は暗い。


狭い部屋に一人の少女がいた。

瞳を閉じても少女を包む世界は狭い。


寂しい部屋に一人の少女がいた。

壁に話しかけても返ってくる声はない。


恐ろしい部屋に一人の少女がいた。

彼女を救うものは何一つない。
275 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:31
276 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:31
少女は腕に9というシールタトゥーを刻まれていた。
長い黒髪に包まれた頬にはどことなく陰りのようなものが見える。

少女は「9」と書かれた部屋に入れられた。
後藤の入っている「8」の部屋の向かい側になる。両隣に部屋はない。
少女は一人床に座り込み、数珠を片手に不思議な呪文を唱えていた。

どれくらいの時間そうしていたのだろうか。
少女は両手の印を解き、数珠をそっと胸のポケットにしまいこんだ。

―――あたしがやらなくちゃ。

少女は自分の心に言い聞かせる。
施設の大まかな俯瞰図は頭に入っている。下調べは十分なはずだ。
たとえ監視の目が厳しくても、隠密に行動する訓練は積んで来た。

―――ここにはあたし一人しかいないんだから。

少女はもう一度自分に言い聞かせる。
潜入工作員として立候補したのは他ならぬ自分だ。
怯んでいるようでは他のメンバーに笑われてしまう。
石川家の名にかけて、なんとしても指令を遂行せねばならない。

―――あたしが『あの子』から『あれ』を取り戻さないと・・・・・・。
277 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:31
少女は腕に10というシールタトゥーを刻まれていた。
髪は短く、どことなく少年を思わせる横顔だったが、彼女はれっきとした女だった。

少女は後藤たちが「地下3階」と呼ぶエリアの検査室に入れられていた。
そこは後藤が初日にステーキを吐いた後に連れてこられた部屋でもある。

―――やっべー。なんかこれマジやっべー。

少女は部屋を行ったり来たりしながら壁を叩いたり、ドアを開けようとしたりする。
だがドアには厳重に鍵がかけられており、外に出ることはできない。
少女は人並み外れて大きなひとみをくりくりと動かした。
ひとみが大きいから「ひとみ」。両親がそう名づけたくなるほど大きなひとみだった。

―――出れねーじゃん。つーか腹減った。トイレどこ? マジやべーんじゃねーの?

少女はパニックになった振りをしながら真のパニックを回避しようとしていた。
自分がどれほど深刻な状況に陥っているのかはうっすらと理解していた。
それと真っ向から向き合わないというのが、彼女なりの自己防衛術だった。

―――さてと。どうしよう・・・・・しばらく死んだ振りでもしてるかな・・・・・
278 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:31
少女は腕に11というシールタトゥーを刻まれていた。
べろべろとタトゥーを舐めまわしてみたが、数字が消える様子はなかった。
次に彼女は尖った八重歯でがりがりと齧ってみた。
自分の肌が痛いだけだった。

―――消えなーい。ていうかなんで11なの?

だが少女はタトゥーのことをさほど深刻に考えていたわけではなかった。
ただ自分の苗字がツジなので、22だったら強引にツジとも読めたのになーと思った。
タトゥーをつけられた意味については何も考えなかった。
考えることは苦手だった。

―――せまーい。なんもないじゃーん。つまんなーい。

彼女は後藤らが地下二階と呼ぶエリアの一室に入れられていた。
それまでは職員の仮眠室として使われていた部屋は四畳半ほどのスペースしかなかった。
小柄な彼女の体であっても、部屋はかなり狭いと感じられた。

―――なんだよ。『あなたの人生変わります』とか言ってたのにさ。嘘じゃん。

施設職員の勧誘の言葉は嘘ではなかった。
彼女の人生は既に後戻りが利かないところまで大きく変化していた。
279 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:32
少女は腕に12というシールタトゥーを刻まれていた。
拭っても拭っても消えないタトゥーが、自分の人生につけられた消えない傷のような気がした。

―――ええわ。消えへんのやったら消えへんでええわ。

少女は後藤らが地下一階と呼ぶエリアの一室に入れられていた。
彼女は施設に連れてこられたとき、自分はかなり高い確率でここで死ぬだろうと思っていた。
死ぬことは怖くなかった。表の世界でだらだらと貧乏しながら暮らすよりはずっといい。
自分の命なんてどうでもよかった。大切にする意味なんてないと思っていた。

―――金や。金があったらなんとでもなるわ。

彼女は天涯孤独の身だった。裕福な暮らしとは無縁だった。
小さい頃から何度も親が替わった。苗字が変わる度に暮らしは貧しくなった。
今の苗字―――「カゴ」という名前になってから特に生活が厳しくなった。
いつしか彼女は「このままずっと貧乏してたら自分は二十歳まで生きられない」という
おかしな強迫観念に囚われるようになった。

―――どうせ死ぬんや。めちゃくちゃやったる。好きなように生きたる。そのためにはまず金や。

彼女は口座に振り込まれた1億円を実際に手にする日までは、
どんな手段を使ってでも生き延びてみせると心に誓った。
少女は自分の人生に対して全く執着を示さないと同時に、金に対しては驚くほどの執着を示した。

それが人として生きていく上で、どれほど大きな矛盾であるかということに、
幼い彼女は全く気づいていない。
280 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:32
281 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:32
5回目の投与が終わってからの数日。
市井の禁断症状はピークに達した。市井はそれまでの沈黙を破り、狂ったように叫び出した。
だが、どれだけ泣いて喚いて部屋中を暴れまわっても、
なぜか施設の人間はもう市井にGAMを与えることはなかった。

「薬だよ・・・・・薬くれよ! おい! うおおおうおーい!」
「いちーちゃん・・・・・」
「おいゴトーお前だろ! お前が薬隠したんだろ!! だせおおおおおお!」
もはや明るく軽い市井の声はどこにもなかった。
強くて優しい市井の姿はどこにもなかった。

「隠してないよ! いちーちゃん、しっかりしてよ」
「うっせえバカ! おめーは痛くないんだろ! GAMなんていらないだろ! よこせよ! 出せ!」
「いちーちゃんお願い。お願いだから」
後藤は泣きながら市井をなだめた。何をお願いしているのか自分でもわからなかった。

「なあ、ゴトー。頼むよ。頼むからあたしの言うこと聞いてよ」
「なんでも聞くから! 薬以外のことならなんでも!」
「じゃあ死ねよ」
282 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:32


「死んでくれよ」


 
283 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:32
「あたしはもう死ぬ。もうダメ。わかんだよ。自分でわかるんだよ」
しわがれた市井の声はまるで老婆のようだった。

「もうあたしは死んでんだよ。もうイチイサヤカじゃないんだよ」
後藤はそのとき初めて市井の下の名前がサヤカであることを知った。

「嫌なんだよ。自分が自分じゃなくなるのが嫌なんだよ」
確かにそこにいたのは市井でなかった。後藤の好きな市井ではなかった。

「誰にも見られたくないんだよ。特にゴトーには見られたくないんだよ」
だが市井はこの一週間ずっと後藤のそばにいた。決して離れようとしなかった。

「だからゴトー。あたしを見るな。あたしに近づくな。だからゴトー。頼むから死んでくれよ」
後藤は耳を塞いだ。泣きながらトイレから飛び出た。できる限り市井から遠く離れた。

「それが嫌だっていうなら」
だから市井の言葉は後藤には届かなかった。

「あたしを殺してくれ」
284 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:33
285 名前:【感染】 投稿日:2009/05/04(月) 23:33
そして6回目の―――最後の投与の日がやってきた。
286 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/04(月) 23:33
287 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/04(月) 23:33
288 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/04(月) 23:33
289 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:12
丘の上に三人の少女が身を潜めていた。
見下ろす先には彼女達が標的としている「施設」が無愛想に横たわっていた。
いくつものサーチライトが施設を下から照らし上げる。
どこにでもあるような灰色の壁面からは、内部で行なわれているであろう
おぞましい研究の実態は微塵も感じられなかった。

冷たい雨が三人の着ている黒いレインコートを濡らす。
レインコートの肩には注視しなければ見えないような薄い紺で「ECO moni」と書かれていた。
雪に変わらないのが不思議なくらい冷たい雨は、三人の体温を容赦なく奪っていく。
だが施設に接近できるのは今しかない。
雨。風。夜。そういった状況が重なった今しかチャンスはなかった。

三人は眠っているハムスターのように身を寄せ合いながら前進を続ける。
施設を囲む鉄条網の下まできたところで、
一人の少女が「へっくちゅ」と小さなくしゃみをして鼻をすすった。

「ちょっと汚ーい」
「ミチシゲさーん、こっち飛ばさないでくださいよ」
「ミッツィーもコハルもそんなの気にしないの。しょうがないでしょ寒いんだから」

くしゃみを飛ばした少女は他の少女の抗議など取り合わず、腕にしている時計に目をやった。
時計には発信機の探知装置がついていた。赤い点滅がちかちかと光る。
「どうやら計器はちゃんと動いていたようね」
290 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:12
「ほなイシカワさん、潜入に成功してたってことですか?」
「うん。多分ね」
「大丈夫かなあ。あの人ホントに頼りないからなあ」
「ホントホント」

三人はひとしきり「イシカワさん」の悪口で盛り上がった。
冷えた体が少し温まったような気がした。
悪口には言った人間にも言われた人間にも心を熱くする何かがある。
たとえ対象となる人間がその場にいなかったとしても。

とにかく彼女たちは今の状況にウンザリしていた。
異常―――なし。連絡―――なし。予定―――なし。とにかく何もなし。
彼女たちにできるのはただ待機することだけだった。
だが、じっと静止するということは、人生を生きることと対極に位置する概念だ。
肉体を統べる生理がそれを続けることを拒んでいた。ますます体が冷えていく。

少女はぶるぶるっと体を震わせながらイシカワの悪口を打ち切った。
「でもしゃあないですよ。『あの人』に面が割れてへんのはイシカワさんだけやから」
「あの裏切り者が・・・・・・」
「まあまあ」
291 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:12
「今日のところは探知機で確認できただけでもよしとしましょうよ」
「まあね」

これまでも何度か探知を試みていたが、全て失敗に終わっていた。
もしかしたらイシカワは潜入に失敗したのかもしれない―――
そんな空気が組織の中に満ちていた。
そこで今晩は施設に接近してみたところ、ようやく探知に成功することができた。
探知機はそれなりに精度の高いものを使用している。ということは・・・・・・・

「どうやらイシカワさんはかなり地下に入れられているみたいね」
「地下!?」
「そんな驚くことちゃうやろ」
「えー、だってー」
探知機の反応は、至近距離にいる割にはかなり弱かった。
水平方向に離れていないのであれば、垂直方向に離れていると解釈するしかない。
地下の階層を幾重にも包むコンクリートがあれば、電波の反応も弱まるだろう。

「とにかく、これで『あの子』に近づいたことは間違いないと思うの」
少女はそう言うと目を閉じて眉間の前で両掌を合わせた。
何かを念じるようにじっと意識を集中させる。

「二人とも感じない?」
292 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:13
そう言われた二人の少女は同じように両手を合わせて目を閉じた。
「確かに・・・・・・感じますわ」
「ここにいるみたいですね!」

ミチシゲは二人の返答に満足すると、目を開いて施設を睨んだ。
外から見た感じではかなり小さい建物だ。
とても『あの子』がやろうとしている実験ができるようには見えない。
おそらく地下深くに最新鋭の設備が埋められているのだろう。

「じゃあ、とりあえず一旦、前線基地に戻ろうか」

ターゲットを捕らえるのはまだ早い。ただ潜入すればいいというわけでない。
相手もそれなりの備えはしているだろう。扱っているモノがモノだ。
ミチシゲは施設から500メートルほど離れた前線基地に一時撤退することを決めた。
そこからでも簡単な監視くらいは可能だ。

二人の少女にも異論はなく、その場を立ち去るという判断に賛成した。
293 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:14
「やることはやったわけですからね」
「そうそう」
「今日のところはこれでよしと」
少女たちは施設を振り返りながら口々にそう言った。

探知機の作動を確認できたことに今日は満足すべきだろう。
そして『あの子』の存在を施設の中に感じられたことも大きな収穫だ。
彼女達三人は近くに『あの子』がいれば感じ取れる能力を持っていた。
そう、彼女達は―――普通の人間ではなかった。

「でも次に来るときは手ぶらでは帰らないから」

ミチシゲは施設を振り向きながらそう吐き捨てた。
それを聞いた二人の少女も不敵な笑みを浮かべる。
少なくともこの時点では彼女たちには確たる勝算があった。
なぜなら―――彼女達の標的は、たった一人の少女だけだったから。

「次に会うときは―――必ず『あれ』を返してもらうから」

強さを増した雨が地面から勢いよく跳ね返る。
跳ね返った雨粒が煙のように霞んで足元から夜闇を包んでいった。
三人の少女たちは水溜りの上を足音も立てずに歩きながら、夜の闇に消えていった。
294 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:14
295 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:15
運命の朝が来た。

だが一日の始まりはいつもの一日と何ら変わらなかった。
人間が何をしようが、生きようが死のうが、いつだって太陽は東から昇る。
もっともその日の朝は前日から降り続いている雨がまだ上がっていなかったが、
それも地下にいる後藤たちには関係のないことだった。

6回目の、最後の投与もいつもと同じように始まり、同じように終わった。
部屋は5回目の投与のときよりもさらにグチャグチャになっていた。
だが後藤はもう誰が暴れたのかを問い質す気にはなれなかった。

結局市井から例の逃走ルートを聞くことはできなかった。
それでも「この施設から逃げる」という後藤の決断はいささかも揺らいではいなかった。
「死んでくれよ」と言った市井の声がまだ耳に残っていた。
このままここにいたら、自分も市井もきっと元には戻れなくなるだろう。
後藤は部屋に戻ったらもう一度市井と話したいと思った。

「ゴトーには見られたくない」だって?
バカ。いちーちゃんのバカ。あたしたちはまだ一度も会ったことないじゃんか。
嫌いになったりするわけないじゃんか。

市井がどんな市井であっても、後藤はそれを受け入れる覚悟はできていた。
296 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:15
「これで終わりや」
テラダがそう言うところまではこれまでと同じだった。
だが「このまま一時間待て」と言われて部屋で待機させられるところは
過去の5回の投与のときと大きく違っていた。

「なんで?」
当然ながら後藤の疑問にテラダが答えることはなかった。
ただ一時間待たされ、それから後藤はいつもよりも多めに採血された。
ゼロも同じように採血された。
テラダは赤黒い血の入った二本の太い注射器を大事そうに抱えながら部屋から消えた。

その一時間が何を意味するのかはわからなかったが、
採血自体は毎週のように行なっているので、特に疑問に思うこともなかった。
それよりも後藤はゼロのことが気になった。
投与が終われば会うこともなくなるのだろうか。せめて居場所だけでも知っておきたい。

「ねえ。明日からこの子どうするの?」
「この犬ですか? 今後も当分の間は後藤さんと一緒に検査ですよ」
珍しく看護士がきっぱりと後藤の質問に答えた。
やや肩透かしを食らった後藤だったが、はっきりとした答をもらった以上、
そのまま黙って受け入れるしかなかった。
297 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:15
298 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:15
テラダは持っていた血液を研究員に渡した。
「血清取ってくれや。大至急な」
「はい」

大至急といっても実験手順はいつもと変わらない。実験にかかる時間も変わらない。
それがわかっていても、テラダは「大至急」と言わずにはいられなかった。
もしこの実験が成功すれば一気にこのプロジェクトが片付く可能性があった。
成功率が低いとわかっていても興奮を抑えることは難しかった。

はやる気持ちを抑えるようにして、テラダは別の研究員に状況確認を行なう。
「おい、GAMは入ったか。GAMは」
「いえ。まだですが、今日の夜に届けるという連絡が入りました」

通常では考えられないほどの量を市井に打ち続けていたGAMは、
とうの昔にストックが切れていた。
その影響もあってか、GAMが切れた市井の状態はかなり悪化していた。
今、一番の懸念材料になっているのはそこだった。

「今晩か。まあ、あいつらがそういうんやったら間違いなく届くやろ」
テラダは納得して椅子に腰掛けた。
受話器に手を伸ばして各方面に電話をかける。
決して安くはないGAMの費用を捻出するための、新たな工作が必要だった。
テラダは高笑いと猫なで声を駆使して、しばしの間、偽装工作に没頭した。
299 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:15
300 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:15
一台のトラックが幌をなびかせながら雨の高速道路を走り続けている。
荷台には『GAM』と書かれた山積みの小袋と一匹の犬が乗っていた。
まだ夜には早いというのに、重い雨雲が広がる空には一条の光も漏れてこない。
運転席の少女は車のスモールライトを点灯した。

「ねー、アヤちゃん。次はどこ?」
「んー? 次は例のテラダの施設のところだよ、ミキたん」
彼女達はお得意様のリストを何かに記録するということはしない。
万が一の時のことを考えて、仕事に関する記録は一切つけないことにしていた。
記録するのはあくまでも金の出入りだけ。伝票の数字だけ。
それが麻薬を扱う彼女たちの自分ルールだった。

『アヤちゃん』と呼ばれた方の少女が、薬を納める相手の場所と日時を全て記憶し、
一方、『ミキたん』と呼ばれた少女は、薬を仕入れるルートの方を記憶する。
お互いがお互いの記憶を頼りにしながら、二人の少女はこの仕事を遂行していた。

「20時までにつけばいいから」
「楽勝」
ステアリングを握るミキは楽しそうに答えた。
無免許で乗り回している彼女だったが、ハンドル捌きは軽快だった。
301 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:16
「テラダのところに20袋で、その次は―――」
「え!? 20も? 多くね?」ミキの声が裏返る。

アヤは空に広がる雨雲のように表情を暗くして、ミキの問いに答えた。
「多いね。いつもの倍の量だよ」

彼女たちは基本的に一定量での取り引きしかしない。
扱いが増えれば増えるほど売上が上がっていい、というほど問題は単純ではない。
世の中には需要と供給のバランスというものがある。
非合法な商品を扱っているなら、なおさらそこに注意を払わなければならない。
それを無視した取り引きを続けて潰れた組織は、彼女たちが知るだけでも片手に余る。

「ヤバクね?」
「あそこは難しい。表向きは医療施設だからね。一応医療用にしか使ってないらしいけど」
「バカな! アヤちゃんはそんな言い分を信じてるわけ? そんなのありえないって。
 ついこないだも10収めたばっかりじゃん。普通に使ってたら使い切るわけないよ」
「普通に使ってたらね」
「だろ? テラダのおやじが裏で売りさばいてるに決まってんだよ」
302 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:16
アヤはさらに眉間に皺を寄せて考え込む。
ただ医療用に使っているだけなら、取り引き量が増えても特に問題はない。
彼女たちの仕事の支障になるようなことは全くないからだ。
だがテラダが薬を裏で流しているのなら話は別だ。

テラダが「客」を囲い込むような事態になれば、他の組織を大いに刺激することになる。
そうなればテラダに薬を回している自分たちにも火の粉が飛んでくるだろう。
目先の金に振り回されてはならない。状況を冷静に見極める必要があった。
考えるのは主にアヤの仕事。そして実行するのは主にミキの仕事だった。

「ねえアヤちゃん。ちょっと探ってみよっか」
「テラダの施設を? あそこ結構固そうだけどねー」
「ううん。意外とちょろいって。最初の契約のときにちゃんと調べたし」
「ふふん。さすがミキたん」

たった二人で非合法組織をここまで大きくしたアヤとミキ。
警備の厳しい施設に忍び込んだことも一度や二度ではなかった。
それに今回は金目のものを盗む必要はない。
テラダのオフィスを一通り調べれば、それで十分だろう。
もしテラダが何らかの裏取引をしていれば、その痕跡が残っている可能性は高い。

ミキは以前に調べたという内容をアヤに伝えた。
アヤは的確に要点を理解し、侵入の手順をいくつか提案した。
「じゃ、いざというときはそこをポイントにしよっか」
「うん。とりあえずはね。そこが侵入口兼脱出口だね」
彼女らにとってはそんなことは日常茶飯事であり、造作もないことだった。
303 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:16
いつの間にか完全に夜の帳が下りていた。
ミキはヘッドライトを点けて雨の中を進む。アクセルは深く力強く踏み込む。
視界が悪くなってもミキの運転するトラックのスピードはいささかも落ちなかった。
一見、乱暴な運転のようだが、ミキなりの合理性の下での運転だった。

彼女は車の潜在能力を100%使い切って運転するのが好きだった。
無駄のない操作に無駄のない運転。燃費を考えて効率よく走る―――
そんな運転は大嫌いだった。
走るために作られたのなら、走るための能力を最大限に使って運転するべきだ。
車の運転だけではない。
ミキの生き方というのは、全てそういった考えがベースになっていた。

高速を降りて下道を走るときにもミキの運転スタイルは変わらない。
横Gを楽しむかのようにハンドルを切る。
ミキの豪快な運転に慣れたアヤはそんな状態でも軽くまどろんでいた。

ワイパーが揺れるフロントガラスの向こう側にテラダの施設が見えてくる。
「もうすぐ着くけど」とミキが言おうとした時、アヤはかっと目を見開いた。
先ほどまでの眠そうな表情はもう微塵も残っていない。
「どうしたの、アヤちゃん」
緊迫した空気を感じたミキは少し車のスピードを落とす。

アヤの動物的な本能が告げていた。
生きていくために必要な、最も原始的な本能がアヤに危険を知らせていた。
アヤのそういった危険に対する肌感覚は、理屈を超えた超常的な力があった。

「変。何かおかしい。あの施設で―――何かが起こってる」
304 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:16
305 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:16
施設にある最大の培養槽の前に、9本の試験管が並んでいた。
試験管の中に入っているのは8人と1匹の被験者の血液から精製した血清だった。

「とりあえずこれはいらんやろ」
テラダはそう言ってイヌから採取した血清を脇に退ける。
「そうですね。8人の血清で十分だと思います」
横には少女が一人いた。他には誰もいない。研究室には二人きりだった。

「8人がウイルスに感染してるのは間違いないやろうが・・・・・・どう思う?」
「間違いないですね」
それは血液のデータから明らかだった。
8人の血液の中にはかなり高純度のIgG―――つまり抗体が産生されていた。
ウイルスに感染しているからこそ、抗体が作られたのだ。
そのシンプルな結論を覆すデータは今のところ一つも出ていなかった。

「ウイルスのカクテルを作るのに血清を使うっていうのは面白いアイデアやが、
 問題はこの抗体がどんな挙動を示すかやなあ。下手したら邪魔するかもしれん」
「ものは試しです。やってみないとわかんないですよ」
306 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:17
8種のウイルスを合成すると毒性が高い。
ゆえに血液中にある、ウイルスの作用を抑える抗体の性質を利用して、
ウイルスの活性を抑えるというのが少女のアイデアだった
8人の血清からとれた成分を使って8種ウイルスを合成すれば上手くいくかもしれない。

勿論それはどんな科学的なセオリーにも基づいていなかった。
机上の空論で終わる可能性も高い。

「もったいぶらずにちゃちゃっとやっちゃいましょう」
言うや否や少女はがさつな手つきで8本の試験管を取り上げ、
中に入っていた8人の血清を次々とガラスのビーカー内に混合させていった。

「おいおい。そんな適当でええんかいな」
「混ぜりゃーいいんですよこんなの。それより細胞の準備はいいですか?」
「おう。もう培養槽に入ってるがな」

二人の背後にある巨大な培養槽にはヒトの癌細胞が入れられていた。
ウイルスはそれ単独では増えない。
細胞内にウイルスを入れて、細胞の中で増やさなければならなかった。
その時に同時に8つのウイルスを合成させるという手はずだった。

―――だが。
307 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:17
「熱! なんか熱い!」
少女は試験管を試験管立てに入れて手を離した。
ビーカーのガラス壁が熱気で曇る。液面からは湯気がもわもわと出てきた。

「おいおいマジか! ありえへんやろ!」
血清が熱を持つなど考えられなかった。一体どこにそんなエネルギーが。
だがビーカーはますます熱を高めていった。
200℃を超える耐熱性を持っているはずのビーカーに亀裂が走る。
テラダはあわてて氷のはいった発泡スチロールボックスを手に取った。
少女は雑巾で試験管を包み、テラダの持っている氷の山にビーカーを突っ込んだ。
そのとき―――

ビーカーは甲高い音を立てて破裂した。

少女の手から離れたビーカーは、ゆっくりと宙を舞い、
その内容物を巨大な培養槽の中にぶちまけた。
培養槽の中に入っていた透明なピンクの培地の中に、一筋の黒い濁りが走る。

「おい! 大丈夫か!」
「はい・・・・・いてて」
少女は火傷をした指先を氷の中に突っ込んだ。
テラダは割れたビーカーを拾い上げる。
信じられないほどの高熱にさらされたビーカーはぐにゃりと歪んでいた。
308 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:17
「なんやねんこれ。こんなウイルスがあるんかいな・・・・・・」
「あ、あれ・・・・・・」
「あん? なんや?」

少女は巨大な培養槽を指差す。
培養槽の中にはいくつもの渦がゆっくりと旋回していた。
培地は透明なピンクから濁った黄色へと色を変えていく。

「なんや? コンタミか? アホな。そんな速く培地が汚れるわけが・・・・・」
培地が細菌などに汚染されることをコンタミネーションと言う。
コンタミした培地は酸性にシフトし、色が赤系統から黄系統に変わる。
だがそういった変化は少なくとも1日単位の長さで起こる現象であり、
数秒で起こるはずがなかった。
309 名前:【感染】 投稿日:2009/05/07(木) 23:18
だがテラダの目の前にある培地は確かに真っ黄色に染まり、
不純物が生成していることを証明するように、酷く濁っていた。
濁りを増した液体は渦を巻いてゆっくりと培養槽の中を循環していた。
そして培養槽のガラス壁が急速に曇っていく。

「おい! もしかして! おい!」
テラダは完全に落ち着きを失っていた。
次々と目前で起こる非科学的な現象に、脳の処理が追いついていなかった。
パニックに陥ったテラダは、その場を離れることなく、逆に培養槽に近づこうとした。

「危ない!」と少女がテラダを引き止めようとしたのと―――
ほぼ時を同じくして―――

培養槽が爆発した。
310 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/07(木) 23:18
311 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/07(木) 23:18
312 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/07(木) 23:18
313 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/08(金) 05:16
続々と新メンバーきたー
314 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:18
サディ・ストナッチがやってくるよ


サディ・ストナッチがやってくるよ


サディ・ストナッチがやってくるよ


サディ・ストナッチがやってくるよ
315 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:18
零――――




サディ・ストナッチがやってくるよ

一  十  百  千  万  億  兆  京  垓  杼  穣  溝  澗

サディ・ストナッチがやってくるよ

正  載  極  恒河沙  阿僧祇  那由他  不可思議  無量大数

サディ・ストナッチがやってくるよ

闇の向こうから

サディ・ストナッチがやってくるよ

無限の闇の中から

サディ・ストナッチがやってくるよ
316 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:18
闇の向こうから

サディ・ストナッチがやってくるよ

分  厘  毛  糸  忽  微  繊  沙  塵  埃  渺  漠  模糊  逡巡

サディ・ストナッチがやってくるよ

須臾  瞬息  弾指  刹那  六徳  虚空  清浄  阿頼耶  阿摩羅  涅槃寂静

サディ・ストナッチがやってくるよ

無限の闇をまといながら

サディ・ストナッチがやってくるよ

無限の闇を引き裂きながら

サディ・ストナッチがやってくるよ

無限の闇と共に

サディ・ストナッチがやってくるよ




―――零
317 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:19
318 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:19
後藤たちが「地下一階」と読んでいるエリアでテラダたちが実験を行なっている時、
「地下二階」の研究室では別の緊急事態の対応に追われていた。

「おい! まずいぞ! 5番が倒れたそうだ!」
「またかよ」
「やばい。今回はやばい。呼吸が停止したそうだ。誰か早く行け!」
「なに!」

地下三階から連絡を受けた職員は、大慌てで応援を送る。
対応を協議するためにテラダに連絡しようとするが、
なぜか地下一階の館内連絡電話が不通になっていた。

「こんなときに故障かよ」
職員は受話器に罵りながら一階へと向かおうとした。
「5番、どうします?」
どうやらケイの容態は一刻を争う様子だ。
「とりあえず上にあげろ! 集中治療室に入れておけ!」

施設の職員達は人が死ぬことにある程度は慣れていた。
だからこそ、今の事態がそれに極めて近いことも敏感に感じていた。
手当てをすべき医者も今は上の階にいる。
電話が壊れた以上、走っていって連絡するしかない。
そう判断した職員はエレベーターに向かうが―――

エレベーターは止まったまま動かなかった。
「バカな!」何度ボタンを押しても、エレベータは全く動かない。
職員はすぐさまエレベーター横の緊急電話で事務室と連絡をとった。
319 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:19
320 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:19
テラダが試験を行なっていたのは、いつも例の薬を投与していた階だった。

後藤たちが「地下一階」と呼んでいたフロアは、実は地下5階だった。
つまり、その二階下にある後藤たちが暮らしている部屋は、地下7階になる。
地下1階に管理室がある他は、地下2階から4階までは何もない空白のフロアだった。

今その管理室には警報が鳴り響き、黄色いランプが回転していた。
「どうした? 5階フロアか?」
「火災報知機が反応してます。なんだこれ? すごい煙だ・・・・・・・」
管理室にあるモニター画面には、もうもうと煙が立ち込めている廊下が映し出されていた。

「5階? まずいだろ、あそこは確か・・・・・・・」
「危険物質管理区域です」
321 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:20
管理室の室長は躊躇わなかった。
すぐさま5階エリアを遮断すべく指示を送る。
室長の的確な判断の下、5階から他のエリアにつながる通路が全て封鎖されていく。
階段も。エレベーターも。通気孔を除く全ての経路が遮断された。

地下6階から「緊急事態だからエレベーターを動かせ!」と言ってきたが拒否する。
今は事態を把握することと、被害を広げないことが重要だった。

「シャッター! 全部降りたか!」指示は間違っていなかった。これで5階は封鎖されたはず。
「信じられない・・・・・・・・」だが事態は管理室の予測を遥かに上回る速度で悪化していった。
「どうした! なにがあった!」ただの火災ではないことは明らかだった。
「け、煙が・・・・・・そんな・・・・・・・」職員は震える手でモニターを指差す。

モニターには常識では考えられない事態が映し出されていた。
322 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:20
323 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:20
「畜生! 階段も使えないのかよ」

地下6階の踊り場には数人の職員がたむろしていた。
地下6階の治療室に入れたケイは、人工呼吸器を使うことで何とか生き長らえている。
だがこのままでは明日まで、いやあと数時間も持たないかもしれない。
なんとか地下5階に行ってテラダの指示を仰ぎ、医者を連れてこなければならない。
だが地下5階へとつながる階段の踊り場には銀色のシャッターが下りていた。
防災用のシャッターだ。何人いようが、人の手で開けられるような代物ではない。

地下6階エリアの管理室ではバイオハザードの赤いランプが点いている。
この施設が始まって以来、初めての事態だった。
地下5階で何かが起こっている。
それもおそらく―――限りなく『最悪』に近い何かが。

一人の職員がこちらに向かってきた。青白い顔をしてその場にいた全員に報せる。
「5番の心肺が停止しました」
その場にいた何人かはうつむき、何人かは天を仰いだ。
言葉を発するものは誰もいない。だがその沈黙を破って耳障りな金属音が鳴った。

キリキリ―――  キィキィ――― キキィ

「なんだ?」「嫌な音だな」「おい、シャッターだ」「シャッターが鳴ってる?」
信じがたい光景がそこに展開された。あまりの非現実さに職員は言葉を失った。
まるで板チョコの銀紙をはがずように―――易々と防火シャッターがめくれていった。
324 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:20
325 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:20
サディ・ストナッチがやってくるよ




サディ・ストナッチがやってくるよ




サディ・ストナッチがやってくるよ




サディ・ストナッチがやってくるよ




サディ・ストナッチがやってくるよ
326 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:21
めくれたシャッターの向こう側からは「真っ赤な煙」が襲い掛かってきた。
たちまち廊下には赤い煙が走っていく。
その煙の存在が、職員たちに常識的な解釈を可能にした。
職員たちはかろうじて正気を取り戻した。

「か、火事か?」「そうだ!」「消火器もってこい!」「バカ!逃げろ!」
「消火だろ!」「無理だ!」「シャッターが溶けるほどだぞ!」「下がれ!」

それは炎の赤ではなかった。
煙自体が赤かった。
よく見れば普通の煙ではないことは明らかだった。

たとえ火災だったとしても、ただの熱煙が防火シャッターを溶かすわけがない。
基本的な科学知識があればそんなことは自明であるはずだったが、
その場にいた全ての研究員は火事だと信じて疑わなかった。
パニックに陥った研究者たちは自分たちの常識で判断できる解釈にすがった。

もっともそれが火災ではないと気付いていたとしても―――
的確な処置をできる人間など誰一人いなかったが―――
327 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:21
サディ・ストナッチがやってくるよ




サディ・ストナッチがやってくるよ




サディ・ストナッチがやってくるよ




サディ・ストナッチがやってくるよ




サディ・ストナッチがやってくるよ
328 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:21
6階の集中治療室に連れ込まれていたケイはベッドの上に横たわっていた。
既に彼女の心肺は停止していた。
既に脳波も反応を失っていた。
既に全ての細胞は活動を終えていた。

だから彼女は知らない。なぜ自分の呼吸が止まっているのか。
だから彼女は知らない。いつしか自分の体を赤い煙が包んでいたことを。
だから彼女は知らない。その赤い煙に含まれているウイルスが何なのかを。
だから彼女は知らない。集中治療室の奥の扉の向こうに霊安室があることを。
だから彼女は知らない。その霊安室のさらに奥には冷蔵室があることを。
だから彼女は知らない。その冷蔵室には一体の遺体が厳重に保管されていたことを。
だから彼女はシラナイ。だからカノジョハシラナイ。ダカラカノジョハシラナイ。
シラナイ・・・・・・・・・シラナイ・・・・・・・・シラナイ・・・・・・シラシ
ラシ・・・ラシラシラナナナナナナナナナナナナナナナナナイナイナイイナイイイイイイイ

やがて赤い煙はケイの体を包み、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
ケイがこの施設にいた期間は約2年。煙に触れたのはたった数秒。
ほんの一瞬だけの邂逅だった。

そして煙は地下7階のエリアへと向かっていく。
329 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:21
サディ・ストナッチがやってくるよ





サディ・ストナッチがやってくるよ




サディ・ストナッチがやってくるよ



サディ・ストナッチがやってくるよ


サディ・ストナッチがやってくるよ

サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ
330 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:21
331 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:21
後藤の肌は敏感に異常を察していた。
「何か」が上からやってくる。
埃よりも細菌よりも小さな「何か」が。それも恐ろしいほど大量に。驚くほどの速さで。
後藤が部屋の扉の前に飛びついたときには、既に「何か」は地下7階のフロアに満ちていた。

地下7階に位置する全ての部屋の中に―――
扉のほんの僅かな隙間から―――
真っ赤な「何か」がしみこんでくる。
赤い煙が後藤に触れる。どくん。どくん。どくん。文字通り血が騒いだ。

なにこれ。なにこれ。なにこれ。

後藤は恐慌に陥った。逃げようにも逃げ場所などない。相手は埃よりも微小なのだ。
そして何よりも後藤を戸惑わせたのは―――
赤い霧に含まれた微小な「何か」が得体の知れないものではなく―――
どこかで触れたことがあるような気がしたことだった。

あたしは知っている―――これが何か知っている
そして間違いなくそれは―――この施設の中で覚えた感覚だ―――

後藤の血がふつふつと粟立った。思わず自分の血管を凝視する。
まさか。あれか。あれなのか。でもあれだとしても。なぜあれがここに。霧のように舞って。
6度に渡って打たれた「あれ」。この奇妙な感覚は「あれ」以外に思いつかなかった。
332 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:22
サディ・ストナッチがやってくるよ
  サディ・ストナッチがやってくるよ
  サディ・ストナッチがやってく     るよ
    サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやってくるよ
    サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやって
  サディ・ストナッチがやってくるよ
  サディ・ストナッチがやって     くるよ               くるよ
サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやって
  サディ・ストナッチがやってく     るよ
  サディ・ストナッチがやってくるよ                         くるよ
    サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやってくるよ
    サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやって
  サディ・ストナッチがやってくるよ                         くるよ
  サディ・ストナッチがやって     くるよ
サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやって
  サディ・ストナッチがやってくるよ                    くるよ
  サディ・ストナッチがやってく     るよ
    サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやってくるよ
    サディ・ストナッチがやってくるよサディ・ストナッチがやって
  サディ・ストナッチがやって     くるよ
  サディ・ストナッチがやってくるよ
サディ・ストナッチがやってくるよ                  くるよ
333 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:22
334 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:22
ユウコの肌に赤い霧が触れた瞬間

彼女の中で何かが弾けた

彼女は何かから解放され

彼女はその場で戸惑った

彼女は世界から突き放され

何もできずにただ戸惑っていた

戸惑っていることに気付いていなかった
335 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:22
アヤの肌に赤い霧が触れた瞬間

彼女の中で何かが弾けた

彼女は何かから解放され

わき目も振らず逃げ出した

巨大な壁にぶつかって

彼女の頭はぐしゃっと潰れた

そして彼女は心から笑った
336 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:22
カオリの肌に赤い霧が触れた瞬間

彼女の中で何かが弾けた

弾けた破片が彼女の心をいたく傷つけた

彼女は何からも解放されることなく

彼女は何かに縛られ続けた

縛っているものが何なのか彼女には見えない

縛っているのが誰なのか彼女にはわからない
337 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:22
ナツミの肌に赤い霧が触れた瞬間

彼女の中で何かが弾けた

彼女は自分が生まれた意味を知った

彼女は自分が何を成すべきか知った

まず彼女は自分を捨て自分を殺し

そして新たに自分を再生し自分を肥大化させた

彼女の自我と魂と肉体は宇宙のように際限なく膨らんだ
338 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:22
マリの肌に赤い霧が触れた瞬間

彼女の中で何かが弾けた

彼女は自分を包む世界を壊した

自分を包む世界を自分で作ろうとした

世界を大きく作ろうとすればするほど

彼女自身の小ささが際立っていった

自我と魂に反比例するように彼女の肉体は際限なく縮んだ
339 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:23
サヤカの肌に赤い霧が触れた瞬間

彼女の中で何かが弾けた

何が弾けたのか彼女にはわからなかった

何を失ったのか彼女にはわからなかった

ただ何かが砕けたことだけははっきりと理解できた

それがもう二度と戻らないことも

戻ることを自分が望んでいないことも
340 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:23
341 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:24
後藤の耳に轟音が響いた。
我に返った後藤は部屋に充満する赤い霧をかき分け、トイレに向かう。
何かを破壊しているような激しい音は、市井の部屋の向こう側から聞こえてきた。

「いちーちゃん! 大丈夫!? ねえ! なにがあったの!」

後藤は激しく壁を叩き、市井に向かって強く叫んだ。
バリバリという音はまだ遠いような気がする。
だがそれはこちら側に近づいてきているような気がする。
まるで部屋そのものを破壊しているような音だった。
音の大きさは半端なものではなかったが、施設の職員がやってくる気配もない。

音は一歩、また一歩とこちらに近づいてきていた。
もはや気のせいではない。
確実に「何か」がこちらにやってきている。
342 名前:【感染】 投稿日:2009/05/11(月) 23:24
やってくる? そんなバカな! 壁があるのにどうやって? 廊下を歩いてる?

だが廊下には人の気配などなかった。物音もしていない。
巨大な破壊音は確実に部屋の中から響いてきていた。
音は一つではなかった。まるで室内でハリケーンが暴れているかのように、
部屋中をメチャクチャにかき回しているような音がしていた。

やがてその音は一つのハードルを越えて―――
市井の部屋の中に入ってくる気配がした。

信じられないほど巨大な「何か」がうごめいている気配だった。
生理的な恐怖に後藤の産毛が逆立つ。肌が粟立ち、歯の根が合わなかった。
恐怖に捻られ絞られた後藤の体から、こぽこぽと音を立てて悲鳴がこぼれた。

「逃げて・・・・・・・・  い  い ちーちゃん逃 げ  てぇ!」
343 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/11(月) 23:24
344 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/11(月) 23:24
345 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/11(月) 23:24
346 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:12
「今日のところは帰ってくれ。取り引きは中止だ。詳細はまた後で連絡する」
施設の職員は早口でそう吐き捨てると館内に戻っていった。
アヤとミキの目の前で鉄条網のゲートが閉じられる。
普段は見かけない警備員が、視界にいるだけでも3人、裏門の周りを警護していた。

(どうする?)
ミキは言葉に出さず、目で問い掛けた。
もっとも、アヤから返ってきそうな返事は見当がつく。
このまま引き返すバカはいない。施設には危険な匂いが濃厚に漂っている。
彼女らにとっての「危険な匂い」とは「ビジネスチャンス」とほぼ同義だった。
そしてアヤはバカではない。ならば返ってくる答えは一つ。

アヤは無言で親指を立て、背後に停めてあるトラックを指す。そして掌を広げた。
意味を理解したミキはトラックの鍵をアヤの手のひらに落とす。
そしてアヤがトラックの運転席に、ミキが助手席に乗り込んだ。
アヤはキーを指し込み、エンジンをかけて大きくふかす。

「とりあえずあたしはこいつを適当なところへ置いてくるから」
「了解」

ミキは膝に乗せた白い犬の首筋を撫で、一言二言つぶやく。
窓を開けると「GO! Noting!」と叫んで犬の背中を押した。
犬は勢いよく飛び出し、警備員の方へと駆け出す。
アヤとミキはその様子を横目でじっと見つめていた。
警備員が慌しげにNotingの相手をしているのが見えた。

「じゃ、1時間後に例のポイントで」
ミキはそう言い残すとトラックから飛び出し、警備員の死角へと身を投げ出していった。
347 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:13
348 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:13
「ミチシゲさん! 異常事態発生です!」

狭い前線基地での生活が続き、疲労が溜まっていたミチシゲの反応は鈍かった。
「異常? なによもう。『あの子』が裸でラジオ体操でもしてるの?」
眠かった。あまり真面目に反応する気にはなれなかった。
第一、施設までは数百メートルも離れているのだ。
そんなはっきりとした異常が確認されるはずがないという思い込みがあった。

(コハルはいつも張り切り過ぎなんだから・・・・・もう)
だがもう一人のメンバーの一言で、狭い前線基地の内部は沸騰した。
「ヤバイですミチシゲさん。放射線が出てます。α線にβ線。うわ。X線とγ線も」
「え!?」
「正常値の1000倍を超えてます」

ミチシゲは耳を疑った。
確かに『あの子』が持ち去った『あれ』が正常に作用すれはそうなる可能性がある。
だがその可能性はあまりにも低く、非現実的な確率だと思っていた。
彼女たちが想定していた非常事態とは、ウイルスの大量程度のことだった。

勿論ウイルスが漏れれば重大な事態になる。最悪の事態と言ってもいい。
だが放射線が出ているとなれば、それを上回る惨劇が起こる可能性があった。
いや、惨劇という言葉では足りない。そんな感情的な言葉では言い表せない。
この世界の「ルール」が書き換えられてしまう可能性があった。
349 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:13
「行くよ。コハルそれ消して。ミッツィーは車出して。急いで。急いで!!」
一刻の猶予もなかった。言葉を発する時間すら惜しかった。
施設一帯が放射能汚染している可能性が高かったが、被爆を恐れることはなかった。
彼女たちは―――普通の人間ではなかった。

ミチシゲは肩と背に「ECO moni」と書かれた革ジャンを羽織った。
武器は何も持たない。彼女たちの肉体そのものが必殺の武器だった。
ミチシゲは雑念を消した。これは戦争だ。あそこは戦場だ。余計な感情は要らない。
今は『あの子』に対する思いも消そう。イシカワさんに対する思いも消そう。
誰が死んでも誰を殺しても誰が殺されても、動じてはならない。死ぬなら死ね。

自分の意思は要らない。自分の命も要らない。人形になれ。機械になれ。
僕になれ。この地球を統べるルールの忠実な僕となれ。
それが億千万年前から綿々と続く「ECO moni」のメンバーの任務なのだ。

戦場では任務に忠実な兵士のみが生き残るのだ。
それも―――勝利する側の兵士のみが。

「準備できましたミチシゲさん」
次の瞬間、その場にいた三人は、生ける近代兵器と化して部屋から飛び出した。
350 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:13
351 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:13
「やっべー、これぜってーやっべーよ」
少女は赤い霧の中を進んでいた。
扉の隙間から忍び込んできた赤い霧は、まるでチョコレートのように扉を溶かした。
霧が触れた瞬間、「あ、死んだ。死んだわこれ。さよならおかーちゃん」と思った少女だったが、
なぜか少女の肉体は、扉のように溶けることはなかった。

とてつもなく嫌な感じがした。
赤い霧は体にべっとりとまとわりついていた。なんだか体中の筋肉がむずむずする。
自分の体が自分の体ではなくなってしまったような、そんな変な感覚がした。

とにかくここから逃げ出すしかない。
一億円という契約で新薬の投与実験の被験者となることを決めた彼女だったが、
こんな気持ちの悪い場所にとても長居する気にはなれなかった。
責任者に文句を言って部屋を換えてもらうとしよう。

少女は階段を上って一つ上の階に上がる。ここは一体地下何階なのだろうか?
フロアのあちこちで人が倒れていた。
「もしもーし。だいじょうぶですかー」と声をかけてみたが、誰からも返事はなかった。
何か事故でも起こったのだろうか。ただの事故ではないような気がした。

「とにかく誰かいないのかよー!」
「おるで」

すぐ後ろで声がした。
352 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:14
「うひぁぁっん!」
少女は奇妙な悲鳴を上げて飛び上がった。
背後には双子のようによく似た二人の小柄な少女がいた。小学生だろうか?

「なんやその声。お前、女なんか。男かと思うたで」
「変な声あげんなよ。おめー、びびってんのかよ」
この異常な状況の中でも、二人の少女は小憎たらしいくらい落ち着き払っていた。
まったく恐がる素振りを見せず、堂々としている。
ふと見ると彼女らの肩には「11」という数字と「12」という数字があった。

「あ・・・それ・・・・・」
少女はその数字を指差し、そして自分もTシャツの肩をめくって「10」という数字を見せた。
「なんや。ねーちゃんも新薬の投与試験の参加者かいな」
「おー、同類だー」

小柄な二人の少女はそれぞれ「ツジ」「カゴ」と名乗った。
やはり彼女らも今回の新薬の投与試験の参加者であり、
この異常事態の発生に乗じて施設から逃げようとしていた。
「逃げるって・・・・・どうやって?」
「知らんがな。だから今こうやって探してるんやん」
「一緒に来る?・・・・・・・えーっと」
「ヨシザワ。あたしはヨシザワ。じゃあこれから一緒に・・・・・・・・・」

一緒に出口を探そうぜと言おうとした瞬間、ヨシザワは後ろから肩をつかまれた。
353 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:14
「うひぁぁっん!」
ヨシザワは奇妙な悲鳴を上げて飛び上がった。
背後には般若のような顔をした女が立っていた。
その表情は土気色をしている。すっぴんか? かなりきつい顔だ。30代か?

女は三人の肩にある番号をまじまじと見つめて「追加メンバーか・・・・」とつぶやいた。
そして呆然と見つめている三人に向かって、自分の肩を突き出して見せた。
彼女の肩には、三人と同じようにシールタトゥーで「1」と書かれていた。
それ以上の説明は不要だった。
おそらく彼女はヨシザワらが来る前から、ここにいる被験者なのだろう。

ではこの異常事態のことについても何か知っているのだろうか?

「こっちや。ついて来い」
彼女はそれだけ言うとずんずんと前に進んでいった。
倒れている職員などお構いなしに蹴飛ばし踏み越えていく。

「ちょっと待てや! なんやねん。なんやねんこれは!」
「そうだよ! ちょっと説明してよ! なんでこうなってんだよ!」
ツジとカゴは物怖じすることなく1番の女に問い掛けた。
明らかに年上と見える相手に対する言葉遣いではなかったが、
説明なら確かにしてほしいと思ったので、ヨシザワも何も言わず黙って聞いていた。
354 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:14
女の返事は簡潔だった。
「うるさい。黙れ。付いて来い」

あまりにもそっけない返事に、ヨシザワも少しむっとした。
他に言いようがないのだろうか。
案の定、二人の小学生?は女の返事に納得しなかった。
「なんやねんそれ! 人が倒れてるんやで! 一人や二人やないんやで!」
「そうだよ! 放っておくのはよくないよ! 救急車呼ばないと!」

女は無視して先へと進んでいく。仕方なくヨシザワもついていく。今はそうするしかなかった。
二人の小学生は癇癪を起こしたように騒ぎまくっていた。騒々しいことこの上ない。
「無視すんなよババア!」「そうだよババア!」「どこ行くんよババア!」「何か言えやコラ!」
女は振り向きざまに二人の少女の頬を張った。乾いた音がフロアに響く。
気持ちが良いくらい手加減のない一撃だった。

ツジとカゴは今度は火がついたように泣き出した。これまた騒々しいことこの上ない。
「ババアやない。ナカザワや」
女はそう言うと、今度はヨシザワの方を向いて言った。
「あたしはこの施設に2年ほどおる。ここのことはあんたらよりはずっと知ってる。
 けど見ての通り非常事態や。説明する時間はない。ここで死にたないんやったら―――」

ナカザワの説明は相変わらず素っ気無かったが、彼女が言いたいことは伝わった。
地獄で仏かも。仏じゃなくて鬼かもしれないが―――少なくとも敵ではなさそうだ。
そう判断したヨシザワは、次のナカザワの言葉に従うことにした。

「そのガキ二人連れて、あたしと一緒に来い」
355 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:14
356 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:15
凄まじい圧迫感があった。
後藤は壁の向こうにいる「巨大な何か」の存在感に押しつぶされそうだった。
「巨大な何か」は確実に後藤の方へと向かってきていた。
どこの部屋から来たのかはわからない。
だがきっとその「巨大な何か」はいくつもの部屋の壁を突き破ってここまで来たのだ。

何のために?

後藤にはわからなかった。だが本能的に命の危険を感じた。
「巨大な何か」からは、消しがたい死の匂いがした。
それでも壁から離れることはできなかった。危険から遠ざかることはできなかった。
なぜなら壁の向こう側には―――確実に―――市井が座っていたから。

何のために?

後藤にはわからなかった。
後藤は傷ついたCDのように繰り返し繰り返し同じ言葉を叫んだ
「逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて!」
壁越しに凄まじい衝撃が伝わり、後藤は吹っ飛ばされた。
狭いトイレのあちこちに体をぶつけた。

壁の向こうで市井がうめく声が聞こえた。
357 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:15
「どけ」

市井の声ではなかった。



「どかねえ」

市井の声だった。



「通せ」

市井の声ではなかった。



「通さね」

市井の声だった。
358 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:15
強烈な打撃が市井の腹部にめり込んだ。
柔らかな打撃音が後藤の耳を通して脳髄に響いた。
痛い。痛いよ。後藤は泣きながら壁を叩いた。
壁に隔てられていても、市井が「巨大な何か」にいたぶられていることがはっきりと分かった。
体から血の気が引いていく。

強烈な打撃が市井の胸部にめり込んだ。
何本かの骨が砕ける音が後藤の耳を通して心に響いた。
痛い。痛いよおおおお。後藤は自分の骨が砕けた気がした。
いっそ本当に砕けてくれた方がよかった。自分の骨が砕けた方が楽だった。
噛み締めた後藤の唇から血が漏れた。

打撃は何度も何度も繰り返し市井の体を打った。
一撃ごとに市井の反応が弱っていくことがわかった。
消える。何かが消えてしまう。あたしにとって大切な何かが。消しちゃいけない何かが。

後藤は泣き叫びながら壁を叩き続けたが、それ以上何もすることはできなかった。
血の気を失った後藤の体は氷のように冷たくなっていった。
もういいよ。どいて。どいていちーちゃん。そこをどいて・・・・・・・・・

「どけ」
「どかね」

それでも市井の声は弱まることはなかった。
359 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:15
一方的な攻撃は長く続かなかった。
後藤は肌をなでる空気の質感が変わったことを感じた。
変わったというよりも、元に戻っていく感じだった。

周りを見渡すと、先ほどまでは部屋を包んでいた赤い霧が、すーっと消えていった。
やがてその霧は、来たときと同じように急速に部屋から去っていった。
ガタンと大きな音が扉の方から聞こえた。
固く鍵が掛けられていたはずの扉は、まるで日に当たったアイスクリームのように
べっとりと溶けていた。

扉が倒れた向こう側には見慣れた廊下が広がっていた。
「いちーちゃん!!」
後藤は廊下に向かって一目散に駆け出した。
隣の市井の部屋の扉も、同じようにぐにゃりと溶けている。
後藤は壊れかかっていた扉を蹴倒し、市井の部屋に飛び込んでいった。

市井の部屋の間取りは後藤の部屋と全く同じだった。
迷わなかった。
そこにいると信じて疑わなかった場所に、一つの人間らしき塊があった。
後藤は市井の下に駆け寄り、跪いた。血まみれで倒れている少女を抱え上げる。

市井の体は、ほとんど骨と皮しかなかった。
強く抱きしめたら壊れてしまいそうなくらい―――細くて軽くて脆かった。
360 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:15
361 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:16
小柄な少女は「巨大な何か」のポケットに収まっていた。

少女は「小柄」という言葉では足りないくらい、小さかった。
赤い霧に包まれた途端に少女の体は20cmほどのサイズに縮んだ。
パニックに陥る暇もなく、次の瞬間には壁がぶち破られた。

「巨大な何か」が壁を破って隣の部屋から入ってきたときは、死を覚悟した。
だが少女の異常に小柄な体が幸いした。
「死にたくない―――」
その一心で少女はロッカーの中に身を隠した。
「巨大な何か」は、しばらくの間、何かを探すように部屋で大暴れし、
来たときと同じように壁をぶち破って、隣の部屋へと去っていった。

「サヤカの部屋だ―――」
と少女が感じている間にも、「巨大な何か」は隣の部屋で暴れていた。
なにやら押し問答のような声が聞こえてくる。サヤカの声も聞こえる。
何か異常な事態が起こっていることは間違いないが、それが何なのか見当もつかない。

やがて「巨大な何か」は逃げるように隣の部屋から戻ってきた。
ロッカーから出ていた少女は「巨大な何か」と目が合った。
見つかった―――終わった―――殺される―――
だが「巨大な何か」は少女を見つけると、天使のように微笑んで、少女をポケットに入れた。

やがて赤い霧が晴れると同時に―――
「巨大な何か」は施設から去っていった。
362 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:16
363 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:16
イシカワは施設の地下6階で迷子になっていた。
先ほどから濃厚な赤い霧がフロアを包んでいた。
霧は容赦なくイシカワの目に入り込んで来た。目がかゆい。まるで花粉症だ。

イシカワはそこここに倒れている研究員の首筋に手をやった。
脈が止まっている。外傷はない。毒?
イシカワも赤い霧をかなり吸っていたが、体に異常はなかった。毒ではないのか?
だがこの施設に緊急事態が勃発したことは間違いない。
イシカワは緑の数珠をぐっと握り締める。たった一つ持ち込んだ私物だ。
数珠は発信機となっており、「ECO moni」のメンバーにつながっていた。

イシカワは必死で緊急事態発生の電波を送り続けた。
フロアには生存者の姿はない。人気が全くない。
どうやら「あの子」を捕らえるのは次の機会になりそうだ。
とにかく今はまずここから出ることが先決―――

それにしてもここはどこなんだろう?
方向音痴なイシカワは自分の位置がよくわかっていなかった。
ここ何階? 脱出しなくちゃ。とにかく脱出しなくちゃ。
必死になっていたイシカワは視野が狭まっていた。背後の気配になど気付かなかった。

そんなイシカワの背後から一本の手が伸びて―――イシカワの肩を―――

「うひぁぁっん!」
イシカワは奇妙な悲鳴を上げて飛び上がった。
364 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:16
365 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:17
「いちーちゃん」
意識したわけではなかったが、後藤の声はこれ以上ないくらい優しい声になった。
頬はこけ、髪は抜け落ちていたが、後藤にとってそこにいる骸骨のような少女は、
市井以外の何者でもなかった。
歯もぼろぼろで、唇は擦り切れていたが、それでも市井は市井でしかなかった。

「あたし市井。よろしく」
そう言ったときの市井そのものだった

「おめー、本当にどーしよーもねーな」
そう笑ったときの市井そのものだった。

「ゴトーには諦めてほしくないんだよね。何一つ諦めてほしくない」
そう諭したときの市井そのものだった。

「わかんだよ全部。ゴトーのことは全部」
そう叫んだときの市井そのものだった。

「死んでくれよ」
そうつぶやいたときの市井そのものだった。

後藤は目を閉じていた。目で市井を見るのではなく、肌で市井を感じていた。
肌を通して感じる市井の感触を、何一つ逃すまいと思った。
何一つ忘れまいと思った。
366 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:17
その時、同じように市井も肌で後藤を感じていた。
長く市井を苦しめていた、神経が引きちぎられるような肌の痛みは消えていた。
市井の肌は後藤の肌と同じように、異常なまでの高感度を持つようになっていた。

後藤の肌と市井の肌が重なる。
後藤の細胞と市井の細胞が重なる。
後藤の感覚と市井の感覚が重なる。
二人は言葉をかわすことなく、時間が経つのを忘れて肌と肌で会話を重ねた。

やがてその時間も終わろうとしていた。
市井の肌からはゆっくりと体温が失われていった。
後藤にも、そして勿論市井にもそのことがわかっていた。
残された時間はあまりない。

「あ・・・・あのさあ」
開いた市井の口からどくどくと血が流れた。
後藤はすっと唇を重ねた。市井の口から流れる血を吸い取る。
市井の血と後藤の血が交わる。

市井はまず驚き、そして呆れ、最後は諦めて、なすがままに後藤に身を任せた。
お互いの唇は肌ほど敏感ではなかった。後藤は黙って唇を離す。
市井の熱い血が自分の体の冷たさを消していくような気がした。

「ふん。このスケベ」
市井はそう言って笑った。触れれば崩れてしまいそうなほど微かな笑みだった。
367 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:18
「いちーちゃん・・・・・・いちーちゃん。なんで?」
「なにが?」
「なんで? どうして? なにがあったの?」
「さあ。なんか・・・・・いきなり来て・・・・・・タコ殴り・・・。痛いったら・・・・・・」

市井の言葉は途切れ途切れだった。
切れた唇は腫れ上がり、熱を持った顔はパンパンに膨らんでいた。
一言喋るのもつらそうだったが、後藤は「喋らないで」とは言えなかった。

「なんで逃げなかったの?」
市井は答えなかった。答えるつもりはなかった。
あの「巨大な何か」は隣の部屋から壁をぶち破って入ってきた。
もしも市井が逃げなかったら―――「巨大な何か」は後藤の部屋へと入っていっただろう。
そしてきっと市井の代わりに後藤を―――

だがそんなことを後藤に言うつもりはなかった。
この期に及んでも、市井は本当のことを言うほど素直にはなれなかった。
最後の最後までひねくれた市井のままだった。
368 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:18
「それよかさあ・・・・・」
「?」

言葉が途切れる。
市井には喋ることも重労働になっていた―――数日前から。
市井は後藤の瞳をじっと見つめた。
視線の強さで思いが伝わるのなら、全ての思いが伝わるほどに―――強く見つめた。

「ごとー。おめー逃げろよ。あの犬・・・・・連れてよ」
「いちーちゃんも一緒に行こう」
後藤は即座に答えた。市井を抱え上げようとした。
布団よりも軽そうに見えた市井だったが、後藤に持ち上げることはできなかった。
―――市井がそれを拒んだから。

「なんで?」
「あたし・・・・・行けない」
市井の言わんとする意味はすぐにわかった。市井の体は限界を超えている。
だがその言葉に素直に従うことはできなかった。
369 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:19
「いちーちゃん、バカだよ」
「バカだよ」
「バカ。バカバカバカ」
「だからバカだってさ」
「呆れちゃう」
「自分でも呆れてるって」
「バカ」

市井の体はボロボロだった。
そうなる前に逃げ出してしまえば良かったのに。
それは後藤にとっては一番簡単な選択肢のように思えた。自分ならそうしただろう。
市井がそれを選ばなかった理由がどうしてもわからなかった。
だから訊いた。市井から正しい答が返ってくることは期待していなかった。

「なんで? なんで市井ちゃん逃げなかったの?」
どうせこの人は素直に答えてくれないだろう。
一番大切なことは言わない人だ。一番言って欲しいことは言ってくれない人だ。
後藤にとっての市井とはそんな人間だった。

「意地だよ」
370 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:19
「意地だよ、意地」

ああ。この人はやっぱりバカだ。
市井は後藤の理解を遥かに超えてバカだった。
後藤は涙を流しながら笑った。

「だってここから逃げないって決めたんだもん。あたしが決めたんだ。
 自分が決めたんだ。だったら後はもう意地だよ。それしかないって」
「いちーちゃん・・・・・・・・・・」
「やっぱりバカ?」
「うん」

後藤はもう一度ぎゅっと市井を抱きしめた。
それは何を言われても放さないという強い意思表示のつもりだった。
市井は後藤の意を汲んだ。
最後に何を言うべきか―――言葉を探した。
371 名前:【感染】 投稿日:2009/05/14(木) 23:19
やはり後藤が一番期待していない言葉を投げかけるべきだろう。
市井紗耶香が一番言いそうにない言葉にするべきだ。
それが二人の別れに最も相応しい言葉のような気がした。

うん。そうだ。そうすればきっとずっとごとーの心に残るだろう。
あたしが死んだとしても。

「いいよ、ごとー」
「うん?」
「もう逃げろなんて言わない」
「うん」
「ずっとここにいて」
「うん」
「ずーっとここであたしを抱きしめていて。死ぬまでずっと」

後藤は市井の言葉に従った。
初めて会ったときから死ぬときまで、ずっと市井のことを抱きしめていた。
ひと時も、一瞬も離さずにずっと。
372 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/14(木) 23:19
373 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/14(木) 23:20
374 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/14(木) 23:20
375 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:33
施設の中には生きた人間の気配がなかった。
先ほどまでは何人もいた警備員も、一人も見当たらなかった。
一階の廊下ではあちこちで人が倒れている。確認するまでもない。皆死んでいる。
明らかに異常事態が勃発している。

だがアヤの危険センサーは不思議と何の反応も示さなかった。
これだけ異常な状況なのに、なぜ危険を感じないのだろう?
トラックを近場に隠してきた間に何があったのだろう?
ミキは無事だろうか?
例のポイントまで戻ってこれるだろうか?

周りに人がいないことを確認すると、アヤは上着の内ポケットから小瓶を取り出し、
シュッと一息吹きかけた。微かな甘い香りが辺りを漂う。
唇をすぼめ、ふうっと息を吐き、香りを撒き散らした。

まだ約束の時間までは10分ほどある。
待ち合わせたポイントはこの施設の地下一階にあった。
そこに行くためにはあの踊り場を通って階段を下りなければならない。
確かに危険な匂いはしない。その感覚を頼りにここまで生き延びてきた。
だが―――その感覚だけに頼るのが、いかに危険なことかも知っているつもりだった。

アヤは今、自分が過去に経験したことのない状況に置かれていると判断した。
つまり過去の経験や感覚はあてにならない。
ミキが危険を冒している今、自分は危険を冒すべきではない。
アヤはあと5分待って、ミキがここまで戻ってこなければ引き換えそうと決心した。
376 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:33
280秒まで数えたところでよく知った気配がこちらに上がってきた。
気配は一切迷うことなく、一直線にアヤの方に向かってくる。
人間の気配ではない。人間の歩調ではない。

アヤは周囲に巡らせた危険センサーのレベルを一つ落とした。
駆け寄ってくる白い犬を抱き寄せる。この香水の匂いに釣られてくる犬は一匹しかいない。
「よしよし。Nothing。ミキたんはどこかな?」

Nothingはアヤの指をぺロリと舐めると、くるりと反転して階段の方へ向かった。
付いて来いという合図だ。ということはあっちはそれなりに安全なのか。
アヤは自分の感覚が正しかったことを知った。
Nothingは周囲にさほど注意を払うでもなく駆けていく。

ということは、この異常事態は既に終わったということ?

転がる死体をかき分けながらアヤはそう解釈した。
何が原因でこうなったかはわからないが、その原因はもう消えたのだろう。
そうすれば自分の中の危険センサーが反応しないというのも頷ける。
その解釈は小さな意味では正解だったが、大きな意味では誤りだった。

これは何かの終わりではなく―――大いなる始まりだった。
377 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:33
地下一階に下りたすぐのところにミキはいた。
髪がべっとりと濡れている。頬を伝う液体は赤い。だが血ではないようだ。
ミキは一人の少女に肩を貸していた。
少女は一人では歩けないようだ。というより意識があるかどうかも怪しい。怪我人か?

「ミキたん」
「アヤちゃん。お願い」
アヤはミキとは逆側に周り、少女の肩を支える。彼女達二人よりも背の高い少女だった。
二人で抱え上げるようにしてその少女を一階のフロアまで連れて行った。
アヤは少女の長く黒い髪を掻き分けてみた。よく見るとずっと年上のようだ。

「誰これ?」
「あたしの命の恩人・・・・・・・・かな?」
「何があったの?」
「話は後。とにかく出よう。ここはヤバイ」
「オーケー」
よく見るとミキもかなり体力を消耗しているようだ。
人一倍タフなミキが短時間でここまで疲労しているとはただ事ではない。

外からはヘリが飛ぶ音が聞こえてきた。何機か施設の上空を飛んでいるようだ。
とにかく一刻も早くここから離れた方がよさそうだ。
「いくよ。ミキたん」
アヤは一人でその少女を負ぶった。

はらりと垂れた黒髪の下にあった少女の肩には「3」という数字が掘られていた。
378 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:34
轟音を立てて3機のヘリコプターが旋回していた。
3機のヘリはサーチライトで闇を照らしながら施設の上空を旋回する。
そのうち1機は普通のヘリではない。重火器を携えた軍事用のヘリだった。
そのヘリには一人の老人が乗っていた。

「テラダめ・・・・・やはり私に隠れてこんなことを・・・・・・・・」
老人は苦渋に満ちた表情でヘリの計器を見つめていた。
そこには周囲の放射線量を測る機器が備え付けられていた。
数値は通常値からかけ離れた高値を示している。

老人は異常が発覚した直後に連絡を受けた。
それまでテラダに抑えられていたデータが全て老人の下に届けられた。
老人は今や―――テラダが行なったことをほぼ全て把握していた。
8人の少女に、8つのウイルスが投与されてことも含めて。

「もういい。打て」老人は操縦士に向かって無愛想に命令した。
「は?」操縦士は思わず聞き返す。
「打て」と言われて打てるものは、このヘリには一つしか積んでいない。
だがこの状況で使えっていいとはとても思えない代物だった。

老人は澄ました顔で座席に座っている。
その顔からは一切の感情を汲み取ることができない。
重大な決断を下した後のようにはとても見えなかった。
379 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:34
「しかし・・・・・放射能汚染が」
「どうせこの一体は封鎖せねばならん。同じことだ」
「ですが」

ばかもんが。老人は心の中で吐き捨てた。
だが操縦士がそう言うのも無理はない。
この状況をある程度理解できているのは老人一人だけなのだ。
誰が、何を使って、何をして、何が起こったのか。
老人はかなり正確に事実を把握していた。

今、最も懸念しなければならないのは放射線などではない。
あんなものはちょっとした副産物でしかない。ことはもっと重大なのだ。
元を断たなければならない。「あのウイルス」を燃やし尽くさねばならないのだ。
そうしなければ、冗談ではなくこの星が滅びるかもしれない。
この星の「ルール」が変わってしまうかもしれない。
それには8人全員捕らえるか、8人全員を焼き尽くすしかない。

「いいから打て。元を断たねばならんのだ。打たんのなら私が打つ」
「は」
操縦士はもうそれ以上反論しなかった。
命じられるままにパネルに手を伸ばし、意を決してボタンを押した。

―――1対のミサイルが施設に向かって飛んでいく。
380 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:34
381 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:34
一足遅かったか。
ミチシゲとコハルとミツイが施設に到着する寸前に、ミサイルが施設に着弾した。
目の前で施設が粉微塵に爆発する。ミサイルの威力は凄まじかった。

いや。一足遅くてよかったのかもしれない。
もしもう少し早く着いていたならば―――
あの施設の中に入っていたならば―――
きっと施設もろともミサイルに吹っ飛ばされていただろう。

今、ミチシゲの目の前には瓦礫の山となった「元施設」が煙を上げていた。
何が起こったのだろう。
実験の失敗か。仲間割れか。あるいは第三勢力の介入か。

「どうコハル?」
「ウイルス反応ありでーす。でも不活性状態ですね」
コハルは人差し指ほどの小さな試験管にピンクの液体を入れて振っていた。
「え? 不活化してるの?」
「生活反応なしです。死んでるみたいですね・・・・・・・」
382 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:35
ヘリはまだ上空を飛んでいる。降りてくる気配はない。だが。
「ミチシゲさん。どうやらトラックが何台か近づいてきてるみたいです」
「オッケー、ミッツィー。撤収の準備」
「え? イシカワさんは?」
「こーんな状態で生きてるわけないじゃん」
ミチシゲは両手を広げて辺り一体に残った破壊の跡を示した。

確かに施設はもはや原型を留めていなかった。
これだけの爆撃を受けて生存者がいるとも思えない。
目につくのは死体ばかり。
そしてその死体からは既にいくつかサンプルを採取していた。
とりあえずこれ以上ここでやることはない。

「可哀想なイシカワさん・・・・・・なんまいだなんまいだ」
そう言うコハルはさほど悲壮な顔はしていなかった。
コハルはまだ幼い。悲壮な顔ができるほど大人ではない。
真剣な顔をしようとすればするほどなぜかコミカルな印象が残った。

その時、コハルの足元の瓦礫がぐらぐらと動いた。
「わ!」
砂埃を立てて一本の腕がにゅーっと這い出てきた。
「勝手に・・・殺さないで・・・・・・」
383 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:35
「イシカワさんの声だ!!!」
コハルが歓声を上げた。
ダッシュで駆け寄り倒れているコンクリートの塊を持ち上げる。
ミッツィーちょっと手伝って―――とコハルが言うよりも早くミツイの方が叫んだ。
「トラック来ます! 撤収急いで!」

ミチシゲはコハルの下へ駆け寄ると、二人がかりでイシカワを引き上げようとした。
重い。予想した以上に重い。まるで二人分の体重だ。
どこかに何かが引っかかっているのだろうか?
常人を超える力を持ったミチシゲとコハルだったが、なかなか引き上げることができない。

「イシカワさん、ちょっとダイエットした方がいいんじゃないですか?」
ぶつくさと文句を言いながら、ミチシゲはなんとかイシカワを引きずり出した。
よく見るとイシカワの右腕には―――奇妙な「何か」がぶらさがっていた。
「なにこれ?」
「これが重かったの?」

二人はその「何か」も一緒に引き上げた。
それが何であるか、その場で確認しようと覗き込んだ二人だったが―――。

「トラック5台! 銃火器装備兵50! 即時撤収!」
ミツイの声に従って、ECO moniのメンバーは施設跡から全力で撤退した。
384 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:35
385 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:35
老人は施設の中庭部分に臨時に設置したプレハブの中で報告を待った。
放射線防護服に包まれた体は思うように動かせない。
貧乏ゆすりをすることすらままならないまま部下の報告を受けた。

「T氏、行方不明」
「1番、行方不明」
「2番、死亡確認」
「3番、行方不明」
「4番、行方不明」
「5番、死亡確認」
「6番、行方不明」

バカもんが。老人の脳髄は沸騰し、怒りは臨界点を超えていた。
たった一人逃しただけでも、この後始末は大失敗なのだ。
それが死亡を確認できたのがたった2人だと? 考えられない。不手際にもほどがある。

だが老人は次の瞬間には冷静さを取り戻していた。
方針を変更する必要がある。全員殺すのが無理ならば―――
そしてその思いは、次の報告を受けたときに確固たる思いに変貌した。

「7番、死亡確認」
「8番、生存確認」
386 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:35
「9番から12番は?」
「は?」
「追加メンバーがいたはずだ」
「報告書にはありませんでしたが・・・・・・」

老人は舌打ちした。
確かにテラダが上げた正式な報告書には記載されていなかった。これも隠匿していたのか。
老人は独自のルートで追加メンバーの情報を入手していたが、
それをこの場で振りかざすのは止めた。かえって問題をややこしくするだけだと判断した。

それに、それらしい少女の死体が見つからないということは―――
おそらく9番から12番の少女も逃走したということなのだろう。
もしかしたら他の1番や3番と行動を共にしているかもしれない。その可能性は高いだろう。

「いい。私の勘違いだ。それで・・・・・・その8番とやらの状態は?」
「それが・・・・・・その・・・・・・」
「何か問題が?」
「ええ・・・・・その8番ですが地下室から一歩も動きませんで」

8番は7番の部屋にいるらしい。
7番の死体を抱えたまま全く動かず、作業員もどうすることもできないということだった。
どういうことだ? ここは自分の目で確認するべきかもしれない。
老人は椅子から立ち上がり、重い防護服を引きずるようにして部屋から出た。
387 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:36
後藤はずっと市井を抱きしめていた。
死ぬまでずっと抱きしめているつもりだった。
だからもう殺されても構わないと思った。自分の心は既に死んでいると思っていた。

地上で爆音が響いていることも気にならなかった。
その後で変な服を着た人間が部屋に下りてきたことも気にならなかった。
手招きで「こっちへ来い」と言っていたが無視した。
乱暴に連れて行かれるかとも思ったが、何もされなかった。
まるで腫れ物に触るように、後藤の周りを遠巻きにして包囲しているだけだった。

市井が死んだことはわかっていた。

呼吸が止まる瞬間。心臓が止まる瞬間。市井の体からは何かが抜け出ていった。
後藤はそれをつなぎ止めることはできなかった。だが無力さは感じなかった。
市井の体はゆっくりと体温を失っていった。
後藤の体もそれに従って冷えていく。
これが死だ。

このまま一緒に冷たくなるのも悪くない。
388 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:36
ふと後藤の太腿に冷たい感触が撫でた。
市井の冷たさとは全く違う種類の冷たさだった。

「ゼロ・・・・・・・・・」

小さな子犬が後藤の太腿をペロペロと舐めていた。
ゼロは目尻を下げ、悲しそうな表情でクーンと鳴いた。
自分の額を後藤の腰の辺りに何度も何度もこすりつける。

後藤は右手を市井から離し、半身になった。
すかさずゼロがその隙間に飛び込んでくる。
後藤の胸に飛び込んだゼロは、後藤と市井の間に滑り込んでもぞもぞと動いた。
389 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:36
ゼロは市井の顔をペロペロと舐める。市井は動かない。もう動くことはできない。

温かかった。
ゼロの体温がどうしようもないくらい温かかった。

ゼロに触れた後藤の肌は再び体温を取り戻していった。
温かな感触は後藤の胸から首を伝わり、そして顔を、心を温かくした。
後藤の中で何かが崩れた。
一人ぼっちだった頃の後藤を支えていた、とても冷たい何かが崩れた。

ごめんねいちーちゃん。ごめんねいちーちゃん。
あたしはもう―――
いちーちゃんのことを温めてあげることはできないよ―――

後藤は声を上げて泣いた。
390 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:37
391 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:37
「お前が唯一の生き残りか」
聞き覚えのない声だった。
だが聞き覚えのある台詞だった。
唯一の生き残り―――そういえば昔、そんなことを言われたこともあった。
またあたし一人だけ残ったのか。あたし一人だけ。

後藤は声が聞こえた方に顔を上げた。
まるで宇宙服のようなものを来た人間が立っていた。
フルフェイスのヘルメットに包まれている顔はよく見えない。
だが声の感じからするとかなりの老人のように思われた。

「お前は8番だな?」
後藤は答えない。答える義務もない。右肩の番号を左手で隠した。

「そこにいるのは7番の・・・・・・遺体だな?」
後藤は答えない。市井の体をぎゅっと抱きしめた。誰にも渡したくなかった。

何も答えなかった。ただ頑なな視線だけを返した。
敵だ。この男は敵だ。この施設は敵だ。全員敵だ。
あたしはもう―――あたし以外の誰にも心を許さない。
392 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:37
後藤の強い意志を秘めた沈黙に、老人は苦笑した。
この7番と8番がどういう関係にあったのかはすぐに察した。

おそらくこの狭い施設で知り合った唯一の友人だったのだろう。
その友人の死を受け入れることができずにいるのだろう。
誰かにその責任を押し付けたいのだ。
誰でもいい。非難したいのだ。
悲しみと怒りの持って行き場が欲しいだけなのだ。

老人はもはや後藤を殺そうという気はなかった。
テラダの資料は全て読んだ。
7番と8番が同じウイルスを打たれたことはわかっている。
ならば7番と8番。二つの死体はいらない。7番の死体があれば十分だ。

それに―――この8番がウイルスの影響がほとんどないというのも興味深かった。

老人は既に方針を決めていた。
この8番は使える。少なくとも今の時点では危険な存在ではない―――
上手く手なずけることさえできるのなら。
393 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:37
「7番がなぜ死んだのか知りたくはないかね?」
後藤の反応は小さくなかった。
老人は自分の言葉が後藤に与えた効果に満足した。

彼女は私たちの仕事そのものに興味があるわけではないのだ。
自分の身に何が起こったか。7番の身に何が起こったのか。きっとそれが全てなのだ。

「投与された薬の副作用ではない―――明らかにそうだろう?」

7番の死体には手ひどい暴行の跡がはっきりと残っていた。
そしてこの部屋。
被験者が住んでいた部屋はまるで台風一過のようにメチャクチャになっている。
人の手では絶対に壊せないような壁が、まるでフスマのように易々と破られている。
常識を超えた物理的な力。そういった力が働いたことは明らかだった。

老人には思い当たることが一つあった。
テラダはきっと、あのウイルスの使い方を誤ったのだ―――
394 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:38
「7番は『巨大な何か』に押しつぶされた―――違うかね?」
後藤の目がカッと見開いた。老人を見つめ、黙って頷く。
「君はそれを見たのかね?」
後藤は目を逸らさないまま小さく顎を左右に振った。
「そうか。見ていないのか。残念だなそれは」

本当はそれほど残念ではなかった。そんな些細な情報はどうでもいい。
それよりも後藤とコミュニケーションができたことに老人は満足した。
意思疎通さえなんとかなれば、あとはどうとでも料理できる。

そんな老人の心のうちなど知らない後藤は、老人に向かって口を開いた。
「声なら聞いた」
「声? 喋ったのか? その声、もう一度聞けばわかるかね?」
「わかる」

老人は溢れてくる笑みを殺した。無表情を装うことには慣れている。
慣れているというよりも―――装うことそのものが老人の人生だった。
後藤がその気になっていることはわかった。
だが老人は後藤の強い意志を引き出すために、ダメ押しの質問をした。

「覚えているかい?」
後藤は黙って頷いた。
だがその無言の返答は、老人の期待したものよりもずっと力強かった。
395 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:38
「私たちはこれからその『巨大な何か』を探すことになる。手がかりもある」
老人は後藤に手の内をさらした。勿論全てではない。
全てではないが、嘘もつかなかった。そんなことをする必要はない。

テラダが消えたこと。
試験に関わった研究員がほぼ全員死亡していること。
被験者2番と5番が死亡していたこと―――それに加えて7番も。
そしてそれ以外の被験者が行方不明になっていること。

それだけの情報で十分だった。
後藤という人間を動かすにはこれで十分だった。

「協力しろと強制する気はない。だがもし君にその気があるというのなら―――」

勿論、後藤にその気があることはわかっていた。
こういう言葉は相手がその気になってから話すべきことなのだ。
老人はその長い人生の中で、常にそうやって人間を動かしてきた。

「私達の組織と一緒に、その『巨大な何か』を追わないか?」
396 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:38
397 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:39
後藤は老人と一緒にヘリに乗った。
市井の遺体をそのままにしておくわけにもいかず、
仕方なく後藤は黙って遺体を老人の配下のものに委ねた。

後藤の膝の上にはゼロが乗っている。
ヘリは後藤が思っているよりもずっと速い速度で上昇した。
潰れた施設の跡があっという間に小さくなっていく。
老人の話では汚染されたあの地域は誰も入れないように封鎖するのだという。

おそらくこの周囲5キロくらいは、あと数年、誰も近づけないだろう―――

老人の予測は甘かった。被害は予想以上の速さで広範囲に広がっていた。
ウイルスは風に乗り、施設の周囲のみならず関東全域に飛散した。
夥しい数の死体が積み上がり、関東全域は完全に麻痺した。
首都機能は東海地区に移され、関東地方は半ば無法地帯と化した。

後藤はその間も、老人たちの組織―――UFAで訓練を受けていた。
398 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:39
399 名前:【感染】 投稿日:2009/05/18(月) 23:39





そして気が付けば―――3年の月日が流れていた。



 
400 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/18(月) 23:40
401 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/18(月) 23:40
402 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/18(月) 23:40
403 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/18(月) 23:40
第二章  感染  了
404 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/18(月) 23:43
リアルタイムで更新に遭遇しました
3章楽しみです
405 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/21(木) 23:46
あたしの心を理解してくれる人なんて誰もいない

理解してくれる人がいるなんて一度も思ったことはない

だからあたしは―――誰のことも信じない
406 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/21(木) 23:46
第三章  潜伏
407 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:48
関東地方からは夜が消えた。
朝も、昼も、そして夕方も消えた。
全ての時間は消え、全ての時間は等価値となった。

法律という鎖は限りなく拘束力を弱め、その結果人々は何かに従って生きることを止めた。
今が朝なのか、夜なのか、そんなことを気にする人間はいなくなった。
朝だろうが夜だろうが、気を緩めた人間は全てを失った。食料も。財産も。命も。
全ての階級は消え、全ての人間も等価値となったが、同時に安定と平静も失った。
安定とは秩序であり、秩序とは階級である。
人々は失って初めてそのことに気付いた。

ある人々は支配されることを望み、それよりもずっと少数の何人かは支配することを望んだ。
両者は互いの望みを受け入れることで安定と平静を手に入れた。

だが当然、その安定はかつて手にしていたものとは全く違う種類のものだった。
ではどうすればいい? 世界のあるべき姿とはどのようなものなのか?
そんなことを考える人間はもはや関東にはいない。

そんな殺伐とした街に痛いほど冷たい空気が押し包んでいる。
東京は冬だった。
408 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:48
3年の月日が流れるうちに人々はウイルスと共存するようになった。
死者の数は膨大だったが、それでも人口の2割にも満たなかった。
死体は速やかに焼却され、関東の空を赤く焦がした。
焼いても焼いても尽きぬ死体。衛生状態は極めて悪化した。

それでもウイルスは人類を死滅させることはなく、
人類もウイルスを死滅させることはできなかった。
まるで天の配剤であるかのように、ウイルスは絶妙なバランスで人類と共存した。
もちろん、人類が全く望まないような形で。

確かにウイルスに罹患した人間の多くは死亡したが、それはごく初期だけだった。
徐々に死亡率は低下し、ある一定の数値で留まった。
ウイルスに感染しても死亡しない人間は増えていき―――
その大部分は、治癒後に体の一部の器官の機能を失った。

だがごく少数の人間は逆に一部の器官の機能が異常発達した。
異常な能力を持った人間は「キャリア」と呼ばれ、
ある地域では神のように崇拝され、ある地域では悪魔のように忌み嫌われ、
そして―――ある組織からは抹殺の対象とされた。

雪がちらついてきた。
東京は冬だった。ある意味この3年間―――ずっと冬だった。
409 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:49
その後の関東はいくつかの大組織によって均衡が保たれていたが、
その中で東京は例外的に支配することもされることも望まない勢力が多かった。
彼ら彼女らはただその瞬間を享楽的に過ごすことを望んだ。
生も死も全て含めて。

街のそこかしこで。朝も夜もなく。支配も拘束もなく。
ただ飲んで踊って騒いで、時には殺し殺され。
一つしかない命を散らせて、道に転がる石ころと等価値な存在と成り果てた。
東京は、1と0が等価値なデジタルな街となった。

人々はただ、酒とドラッグとセックスのある場所に集まり、
0と等価値な時間を過ごした。
酒とドラッグとセックス―――それに付け加えてギャンブル。

その4つが楽しめる、今東京で一番ホットだという噂の店に二人はやってきていた。
アヤとミキ。
この東京で、最も巨大で最も無名な麻薬密売組織のヘッド。
二十歳にも満たない小柄でスレンダーな二人の美女。
目的は酒でもドラッグでもセックスでもギャンブルでもなく―――ビジネスだった。
410 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:49
噂の店は、高層ビルの20階から24階にかけてぶち抜きの階段でつながっていた。
ドラッグバーは地下にあるというのが相場だったが、ここは違うらしい。

吹き抜けの階段。あえぎ声と共に飛び交う酒と薬と札束。
ギラギラとした下品な照明が照らしているわりには、妙にそこかしこが暗い部屋。
それら全てが入り混じって、独特の淫靡な雰囲気を醸し出していた。

「悪くない雰囲気」
アヤはピシッと伸ばした人差し指と中指で、
男娼の売込みを軽くさばきつつ人ごみの中を進む。
今の東京で、ここまで人が集まる場所はなかなかない。
多くの人間が密集すれば、ウイルス感染のリスクが飛躍的に高まるからだ。

だが、今や関東生活のスタンダードアイテムと化した防塵マスクをしている人間はいない。
それだけ頭のねじがぶっ飛んでる連中ばかりが集まっているということなのだろう。
確かにアヤの言う通り、悪くない雰囲気だった。
麻薬を売りさばく場としては最高の場所になるだろう。
411 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:49
アヤとミキもマスクはしていなかった。
マスクをしていない理由は、二人でそれぞれ違っていたのだが―――。

アヤは久しぶりに背中がゾクゾクしているのを感じた。
まるで銃弾の雨の中を突っ切っているときのようなこの感覚。
イカれた人間が集まった、イカれた場所。
自分の生きる場所は、まさにこういう場所なのだとアヤは思う。

きっと自分は誰にも負けない。誰にも劣らない。
それを実感できるのはこういうクレイジーな場所しかない。
1と0しかない場所。それ以外の価値観を一切受け付けない場所。
素敵だった。床に転がるジャンキーどもの頬に、軽く口づけしてあげたい気分だった。

自分がウイルスに感染するなどということは微塵も考えなかった。
アヤは過去に一度、高濃度のウイルスに暴露したことがある。
既にウイルスに対する免疫はできているだろうと考えていた。
412 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:49
「人、多すぎ!」
アヤの後ろに続くミキは我慢できずに悲鳴を上げた。

クラブ『フォース』。
今、東京で一番デカイ箱だという噂はガセではなかった。
20階から24階まで途切れることなく人の波が続く。
多くの人間が吐き出す息。噴き出す汗。むせ返るような化粧品の匂い。
全てがミキの神経を苛立たせた。

だいたい、アヤの目的は何なのだろうか?
それがいま一つ理解できないこともミキの苛立ちの原因の一つだった。
ドラッグを売りさばくルートを作るなら、店の中に入る必要はない。
裏側に回って、場を仕切っている人間に筋を通すべきだ。

まず一番最初に重要なのは、仲介してくれる人間が信頼の置ける人間かどうかであり、
客筋がどうかというのはその次の問題だ。
413 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:49
もはや「GAM」は自転車操業をしている小さな組織ではないのだ。
アヤとミキの二人だけで組織を動かしていた時代はとうの昔に終わった。
今や数十人が働くそれなりに大きな組織だ。
今更こんなところに、わざわざ二人で顔を出す必要はないだろう。

頭が痛い。匂いが鼻につく。匂いが。人の何倍も。何百倍も―――何千倍も―――

ミキは「キャリア」だった。
当然ながらマスクなどする必要はなかった。

「ふん。鼻がかゆいってか?」
ぶつくさと文句を言うミキを、アヤが鼻で笑う。明らかに嘲りを含んだ笑みだった。
ミキは一切反論できず口を塞いだ。
アヤを怒らせることなど別に怖くなかったが、このことに関しては喧嘩したくなかった。

アヤは―――「キャリア」の存在を嫌っていた。
414 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:49
生まれつき特異な感性を持って生まれたアヤは、天才を愛した。
努力で身に付けるような後天的な才能には一切価値を見出さなかった。
賢いこと。強いこと。美しいこと。全ては生まれ持った資質が決めること。
アヤはそういった資質に関しては間違いなく天才だった。

アヤにとっては、天才であることだけが自分の存在証明であり、
同じ天才である人種のみが、自分と触れる資格があると思っていた。

かつてミキも天才だった。アヤが認めるような先天的なきらめきを持っていた。
人並みはずれて強く、美しく―――そしてずる賢かった。
アヤとミキはその天性の感覚を生かし、たった二人で組織を大きくしていった。
誰にも知られることなく。ひっそりと。

アヤにとって「知名度」など何の意味もなかった。
ただの凡人ども何万人に崇められようが、恐れられようが、そんなことは不愉快でしかない。
億万の凡人の嫉妬心が、たった一人の天才の活動を最も制限するのだということを、
生まれついての天才であるアヤは熟知していた。

だからアヤにとっての成功とは、同じ天才であり、たった一人の友人でもあるミキと共に
何かを分かち合えること。それだけで十分だった。

ミキがキャリアとなる前までは。
415 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:50
ミキはテラダの施設に潜入したときにウイルスに感染した。
東京を破壊し尽くした忌まわしいウイルスの発生源であるあの施設で。
その後、ウイルスの影響なのか、嗅覚が異常に発達した。

最初はなかなかそれに気づかなかった。
逆に鼻が利かなくなっているような感覚がしていた。
人の気配を敏感に察することに関してはアヤ以上の感覚を有していたミキだったが、
その頃は、何度か信じられないような失敗をした。

「ミキたん、最近、鼻が鈍ってるんじゃないの?」

アヤは他人の失敗に厳しい。無二のパートナーであるミキも例外ではない。
ミキは焦った。そんなはずはない。鼻になら自信はある。
だが確かにいつものような匂いがしてこなかった。

それまで意識せずに読んでいた平仮名が急に読めなくなったような、
計算することなく暗記していた九九を忘れてしまったような、
そんなもどかしい気持ちでいっぱいだった。

そこで試しにミキは入荷した薬を直に嗅いでみた。
意識的にそんなことをしたのは数年振りのことだった。
416 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:50
「嗅ぐんだ」と強く意識した途端、ミキの世界は一変した。
見たこともない摩訶不思議な数式が雪崩のように瞼の上から落ちてきた。
呪術のような数式の奔流が去った後に鼻腔に残ったのは、焼きつくような痛みだった。
痛みは鼻の奥から目の裏や歯茎の奥に広がり、顔面を内部から焼いた。
ミキは陸に釣り上げられた魚のように激しく地面を跳ね、のた打ち回った。

ミキは「匂い」にダイレクトに触れた。
神経を包んでいたクッションが全て消えたような感覚だった。

薬の匂いだけではない。
その場にあった食べ物。飲み物。食器。自分の汗。タバコ。カーペット。そして空気までも。
全ての匂いが混然となってミキの嗅覚を襲った。
金属やガラスやプラスチックにも匂いがあることを、ミキはその時初めて知った。

ミキの神経のキャパシティが限界を超えようとしたところで、
匂いは引き潮のようになだらかに去っていった。神経がゆっくりと冷えていく。

鼻腔を転換点にして、ミキの世界はくるりと一回転した。
ミキがかつて「匂い」として認識していた感覚は全て消えた。
記憶や感情と一体となっていたアナログな匂いの認識は全て消え、
それに変わって匂いに関するデジタルな情報が脳に刷り込まれていった。

同じものを嗅いでも、もう昔のような匂いは感じなかった。
かつての嗅覚は味覚に近い感覚だったが、新しい嗅覚は視覚に近い感覚だった。
以前の何倍もクリアに匂いを感じることができた。
新しい嗅覚とかつての嗅覚とは、ソロバンとパソコンほどの差があった。
417 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:51
アヤに全てを話したのは失敗だったかもしれない。

こんな突拍子もない話をアヤが信じるわけがない―――とは思わなかった。
アヤはどんな種類の真実だって受け入れる子だった。
ありとあらゆる情報を拒むことなく飲み込み、自分の血肉とした。
アヤの中には真実とか虚偽とかいう区別はないのかもしれない。
言葉で表現しうる全ての世界を受け入れ、舌で転がして遊ぶだけの度量を持った子だった。

だから―――話した。
理解してほしいからではない。救ってほしいからでもない。
一緒に笑って、この異常事態を笑い飛ばして欲しかったから話した。

彼女達二人の間には「理解」なんていう生温いものは存在しなかった。
ただお互いが「使えるヤツか」。それが全て。
少なくともミキの方はそう思っていた。
だからこの嗅覚の異常のことも笑えるネタの一つくらいにしか考えていなかった。

笑えるネタを持っている。
この世の中でそんなやつほど「使えるヤツ」もいないだろうから。
418 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:51
だがアヤの反応は冷たかった。
ミキという人間の本質と全く関係ないところから得た能力を、アヤは全く評価しなかった。
笑いのネタにすら値しなかった。

その後、関東には「キャリア」と呼ばれる、ミキと同じように異常な感覚を持った人間が
ちらほらと現れるようになった。
アヤはそのキャリア達全員を敵視した。その存在を全否定した。
「キャリア」が彼女達の商売に関わってくれば、あらゆる利害関係を無視し、
有無を言わさず敵対した。

「キャリアなんて、ウイルスから得た能力がなかったらただのクズじゃん」

アヤはよくそういう意味のことを言った。
まるで天与の才能のように能力を誇示するキャリアを、蛇蝎のごとく嫌った。
そういった人間がからんでいる組織はことごとく潰しにかかった。
そのためにGAMという組織の知名度が上がってしまうことも厭わなかった。
彼女にとって、何にも増して優先順位が高いのは、自分の天才性を固持することだった。

それでもキャリアであるミキとの関係は解消しようとはしなかった。
「まあ、ミキたんはキャリアじゃなくっても鼻が利く子だから」
だからあんたはあたしの傍に置いてやるよ、と言わんばかりの口ぶりだった。
ミキは不快感を覚えながらも、アヤの言葉を受け入れた。
ミキだってこんな異常な能力は消すことができるのなら、消してしまいたかった。

そして―――アヤに嫌われなくてホッとした自分が、自分でも大嫌いだった。
419 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:51
「24階のステージに行くよ。ほら。ボーっとしないの」
アヤは馴れ馴れしい仕草でミキの手を引く。
先ほどの嘲笑など微塵も感じさせない幼い笑顔を浮かべながら。

「ステージ?」
アヤの気分屋な性格には慣れている。
今更どうこう言うつもりはないが、ステージという言葉は聞き流せなかった。
まさかアヤは例のショーを観に行くのだろうか。
それこそドラッグビジネスとは全く関係がない。自分はからかわれてるだろうか?
それとも―――もしかしてアヤは―――。

「ねえ、アヤちゃん。うちら遊びに来たわけじゃないよね」
ミキはやや語気を強めて言った。
キャリアがなんだっていうんだ。そんなものは負い目ではない。下手には出たくない。

ミキの数歩前を行くアヤは、通りすがりのウェイターの手からカクテルグラスを奪い取る。
狼狽するウエイターに飛び切りの笑顔と一枚の万札を振りまく。
420 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:51
「何言ってるのよ、ミキたん」

アヤはくるりと振り返る。
グラスは唐突にミキの鼻先に突きつけられる。

アヤの指の匂いを微かに乗せたカクテルの澄んだ香りは、
ミキの鼻腔にへばりついた雑多で猥雑な匂いを、
車のワイパーのように右から左へと軽快に拭き去っていった。

嫌いになれない。たとえアヤがあたしのことを嫌いになったとしても。
あたしはきっとアヤのことを嫌いになれない―――ミキはそう思った。

そしてアヤの笑顔と言葉は、同じようにミキの心を綺麗に洗い流していった。
「もちろん、遊びに来たに決まってるじゃない」
421 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:51
からかうことも、からかわれることも嫌いではなかった。
勿論それは相手がアヤであるときに限ってのことだが。

アヤが遊びに来たというなら、それはそれで構わない。
ミキはアヤから受け取ったカクテルを一口だけ含むと、グラスを床に投げ捨てた。
嗅覚が変わってから、味覚も微妙に変わっていた。
料理や酒を味わうよりも先に、匂いでそれが何であるのかわかってしまう。
ミキは匂いと一緒にカクテルを味わった。悪くない。安くない酒だった。

「ふーん。じゃ、付き合うよ」
ミキはそれだけ言って、24階へと向かうアヤの後ろに続いた。
ふわりと揺れるアヤの栗色の髪。後姿でわかった。アヤの機嫌は良い。
もうアヤの頭の中にはミキがキャリアであることなんて消えているだろう。

都合の良いときだけ忘れて、都合の良いときだけ思い出す。
それはアヤだけに許された特権だった。
ミキはそんなアヤを可愛いと思ったし、好きだった。
自分がキャリアであろうがなかろうが、これから先もアヤと上手くやっていけると信じていた。

そうさ。あたしたち二人は上手くやっていける。それは願望じゃなくて事実。
あたしはそれを証明できる。たった一つの言葉で証明できる。

あたしたちが上手くやっていける理由はたった一つ。
なぜなら―――なぜならあたしは天才だから。
422 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:51
24階は一間しかなかった。だだっ広いスペースに10メートル四方ほどのリングがあった。
酔っ払いやジャンキーや紳士淑女やヤクザやどこの国かもよくわからない外国人たちが
リングをぐるりと取り囲んでいる。
リングにはボクシングやプロレスの時のようなロープは張っていない。
だがロープがないというだけで、あとはほぼ同じようなリングだった。

観客は皆、手に小さな紙片のようなものを握り締めている。
彼ら彼女らは賭けているのだ。
これからこのリングで戦う二人が、何分以内に相手をぶちのめすかということを。
リングの奥には大きなデジタル時計が掲げられている。これで試合時間を表示するようだ。

アヤは、リングから少し離れたところにあった軽食が乗った机を引き寄せる。
なんの躊躇もなく乗っていた食事を払いのける。
派手な音を立てて食器が床に落ちた。だがアヤは全く気にかける素振りは見せない。
その堂々とした振る舞いに、逆に店の人間が滑稽なまでにオロオロとしている。

青白い顔をしたウエイターが部屋の奥へ走っていった。
上司にでも相談しに行くのだろうか。バカだなあいつ。ミキは吐き捨てる。
上客のたわいもない狼藉を一つ一つ諌めていたら、こんな店はやっていけない。
アヤはそれがわかっているからこそ、こんなにも堂々としているのだ。
423 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:52
「アヤちゃん。賭けないの?」
アヤは机に腰掛けたままじっとリングを見つめていた。
微かな鼻歌。ご機嫌な横顔。券を買う意思はないように見えた。

「次のファイトはね。見てるだけ。賭けないよ」
「えぇー、なんで? なんで賭けないの?」

こういう時、アヤは絶対に「見ていればわかるよ」とは言わない。
アヤは質問されることを好んだ。そしてそれ以上に答えることを好んだ。
自分は質問される側の人間であり、質問する側の人間ではないのだという強い矜持が、
アヤを決して黙らせなかった。

知っていることを話すことは、選ばれた人間のみに許された行為だった。
アヤはそんな些細なことからも快感を得ることができた。
自己満足ではない。うぬぼれでもない。
ただ単に、アヤが人よりも優れているからというだけの理由だった。

劣った人間をあやすのは楽しい。
そんなときアヤは、とても優しい気持ちになることができた。
424 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:52
「次、すげえ子が出てくるよ。あちこちで噂になってる。あたしその子を見に来たんだ」
「すげえ子? なにそれ。子供なの?」
「子供っていうか女の子だね。あたしらと同じくらいの年の」
「げ。マジかよ」

遊びで殴り合うわけではない。少なくない額の金がかかっているのだ。
リングに上がる者は、文字通り命を賭けて戦うことになる。
そんな場に自分達と同じくらい若い女の子がいるとは考えらなかった。

ミキは「その子もキャリアなのかな?」という言葉を、重い唾と一緒に飲み込んだ。
フロアの照明がゆっくりと消えていく。

それと同時に観客から爆発的な歓声が沸きあがる。凄まじい声だった。
酒でも飲みながら冷やかし半分に観戦しているものとばかり思っていたミキは、
場内のテンションの高さに圧倒された。
歓声は音の波となってミキの胸に圧力を加える。
425 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:52
「けっ」
ミキは不愉快だった。
見世物のバトルでこれだけ盛り上がることが大いに気に入らなかった。

そうだ。こんなものは見世物だ。どうせ偽物の、お遊びの戦いなんでしょ?
何をそんなに熱くなってんだか。バッカじゃないの。

今の東京では命のやり取りなど日常茶飯事だった。
死体なんて珍しくもなんともなかった。
殺人事件? そんな言葉は死語だった。殺人は事件でもなんでもない。
ミキのような仕事をしている人間にとっては、生きていくために必要な、
ある種のルーチンワークと言ってもいいくらいだった。

そんな修羅場で3年間生き延び、組織を大きくしてきたミキにとって、
こんなリング上での戦いなんて「リアルファイト」だとはとても感じられなかった。
426 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:52

アヤは本気でこんなお遊びを見ようと思っているのだろうか?
そのためにわざわざここまで来たのか?
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
こういう時にアヤが何を考えているかってのは、いつだってよくわからない。
そして全てが終わった後で「そういうことだったのか」と納得させられることが多かった。

とりあえず今の時点でただ一つはっきりとわかっていることは、アヤが天才だっていうことだ。
特別に賢いな人間だっていうことだ。
アヤが見たいというのなら、見たいと思うだけのものがそこにあるのだろう。
そういったものを見つけてくる才覚はずば抜けていた。
今回もきっと見終わった後で「なるほど」と思うことになるのだろう。

奥にあるカーテンが揺れた。
ステージの裾からカマキリのような目をした女が出てくる。
この女か? だがミキの直感は違うと告げた。この女じゃない。

案の定、アヤの表情の変化は乏しい。
アヤは決してポーカーフェイスではない。
お目当ての女の子が出てくればすぐにわかるだろう。
427 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:52
ステージの逆側のカーテンが揺れる。
それと同時に観客席が沸騰した。ミキは思わず耳を塞いだ。
仕事柄、バカみたいに大音量で音楽を流している店に出入りすることもある。
爆音にはそれなりに免疫があるつもりだったが、耳を塞がずにはいられなかった。

圧力が違う。人工的な音で構成された音楽ではない。肉声なのだ。
人々の思いを乗せた肉声は、重く、分厚く、そして体の芯まで貫く鋭さがあった。
尋常じゃない。人々の熱狂の度合いは尋常じゃなかった。タガが外れている。

カーテンの下から一人の少女がゆっくりと姿を現す。

この歓声が聞けただけでもここに来た価値があったかもしれない。
そんなことを思いながらミキは隣に座っているアヤの方を向いた。
「アヤちゃん。これだけクレイジーな箱だったらさあ、モノはいくらでも捌けそうじゃん」
ミキの興味は観客の熱狂が向かう先ではなく、熱狂そのものだった。

何に熱狂していようが、それは何でも構わない。そんなことに興味はない。
ただガンガン騒いでジャンジャン薬を打ってくれればそれでいい。
それがミキの論理だった。

アヤはミキの言葉にふるふると首を横に振った。
428 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/21(木) 23:53
「まあまあ、ミキたん。そういう話はまだいいよ。それよりも―――」
アヤはビジネスに対してはあくまでも冷静だった。
それ以外のものに対しては―――必ずしも冷静ではなかったが。

「それよりも今日のところはあの子に楽しませてもらおうよ」
アヤはリングの上に上がった一人の少女を指差した。

そこには天才的に美しい少女が立っていた。ミキの背中に稲妻が走る。
短く切りそろえられた艶やかな髪。雪のように白い肌。
細く高く通った鼻筋。つぶらな瞳に薄くかかった睫毛。
まるで作り物のようだ。いや、違う。人間が作り出せるレベルを超えていた。
作ろうと思って作り出せる限界を、軽々と超えた美しさがそこにあった。

そう。ゆえに天才的。その美しさは天与のものとしか思えない。
決して、努力や技術で得られるようなレベルの美しさではなかった。

ミキは―――『天才的』という言葉でしかその少女の美しさを表現できないと思った。
429 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/21(木) 23:53
430 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/21(木) 23:53
431 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/21(木) 23:53
432 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:36
ゴングが鳴る。
「3:00」と表示されていたデジタル時計の数字が減っていく。
後で知ったことだが、観客たちは1ラウンドごとに予想するのではなく、
30秒刻みでKOタイムを予想して賭けているのだという。

カマキリ女はブルーのレスリングスーツを着ていた。
つなぎのタンクトップ姿が、夜の盛り場の雰囲気に似合わず、どこか滑稽だった。

だが細身の体躯から発せられる殺気は半端なものではなかった。
「殺してやる」という単純で幼稚な気持ちの高ぶりではない。
殺意とはそんな単純なものではないのだ。そして機械的な作業意思でもない。
自らの意思で人を殺すということは、不可解で理不尽な「何か」と向き合うことに他ならない。

カマキリ女の体は、そんな「何か」にどっぷりと首まで浸かっているように見えた。
その体には、どこか妖気すら感じさせる人間離れしたオーラを漂わせていた。

「キャリアだあいつ」
ミキの独り言にアヤも頷く。彼女達二人は何度かキャリアと一戦交わしたことがある。
その強さも恐ろしさも気味悪さもよく知っている。
カマキリ女は典型的なキャリアの雰囲気をまとっていた。
433 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:36
一方の天才的美少女はよれよれのTシャツに洗いざらしのジーンズ。
そしてボロボロの革ジャンに袖を通していた。
安っぽいコーディネート。普段着というにも無防備な格好だった。

試合が始まったというのに、まだどこか暢気な表情をしている。
パッと見た感じではキャリアには見えなかった。
だがミキは、そんな少女の姿勢に対してちょっとした好感を抱いた。

いいよいいよ。これこそフリーファイトじゃんか。
カマキリ女みたいな、いかにも「これから戦いますよ」という服装はダサい。
そこらに買い物でも行くんですよという姿で戦う方が―――断然格好良い。

それによく見てみると、天才的美少女の方も、
戦う準備が皆無というわけでもないようだった。
434 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:36
「あはは。なにあの子の格好。靴だけじゃん」
さすがにアヤはよく見ている。ミキもそこには気が付いていた。

天才的美少女の服装は全体的に冴えないものだったが、靴だけはしっかりとしていた。
バスケットシューズか? それもそこそこ年季が入っている。履き慣れた感じだ。
がっちりと衝撃を受け止めてくれそうな重厚な靴底だったが、決して重そうに見えない。
きっと羽のように軽いのだろう。安物ではない。もしかしたら特注かもしれない。

どちらにしろ―――その靴は相手を蹴るには不適当な靴に見えた。
フットワークを駆使して速いパンチで勝負?
ミキには天才的美少女のファイトスタイルが想像できなかった。
どうも背中の筋肉のつきが甘い。あれでは重いパンチは打てないだろう。

デジタル時計が「2:00」を指す。
会場からは一斉にブーイングが沸き起こった。大多数の観客が券を投げ捨てている。
どうやら全てのブーイングは天才的美少女の方に向けられているようだ。
ミキは驚いた。こいつらは1分以内のKOに賭けていたのか。

カマキリ女の足の運びには隙がない。とても1分以内にどうこうできる相手ではない。
こう着状態はもう少し続くかもしれない。
ミキがそう思った瞬間―――
カマキリ女の方が、水面を滑るアメンボのようにカクカクッと動いた。
435 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:36
カマキリ女のジャブは速かった。拳は握っていない。貫手だ。
鞭のように腕をしならせながら美少女の顔面を追う。
流れるような動作ではない。むしろぎこちない。非常に不連続的な体の動きだった。
だが安物のロボットのようなギクシャクとした動きは、予測が難しい動きでもあった。

一方、美少女の動体視力もなかなかのものだった。
悪くはない。だがずば抜けてもいなかった。一瞬反応が遅れる時がある。

それでも反応した後の体の動きは鋭かった。速さでは相手に負けていない。
カマキリ女の繰り出す手刀を何度か受けながらも、
ギリギリのところで急所だけは外していた。

そして時間の経過と共に、美少女は確実に手刀をかわすようになった。
間合いを見切ったか。もうカマキリ女の攻撃は全く当たらない。かすりもしない。
ミキは空気の流れが変わったことを感じた。
ここで試合が動くという確信があった。

こういった素手の戦いの中では、肉体的な動きよりも、
空気の流れみたいなものの方が重要な時がある。
それを感じ取れる者だけが―――こういった戦いで生き延びることができる。
436 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:36
案の定、美少女は空気の流れを敏感に察知していた。

バックステップを続けていた美少女がかすかに腰を落とし、前傾姿勢をとる。
緩急をつけた見事な動きだった。
「クンッ」というギアチェンジの音が美少女の体の内側から聞こえるようだった。
しなやかな一歩を確実に受け止めたバスケットシューズが、
カマキリ女の間合いの内側へと力強く踏み込まれる。

今度は美少女の攻撃か―――と思った瞬間、カマキリ女の手が伸びた。
そう。文字通り「伸びた」のだ。肘から先が2倍ほどの長さに。
一度はかわした手刀が、ブーメランのように不自然な角度で戻ってくる。
美少女の首筋に強烈な一撃がめり込んだ。

この勢い。この重さ。この切れ味。
ミキの脳裏には美少女の首が飛ぶ映像がイメージされた。
経験が教えていた。間違いなくそうなる。常識で考えれば。
だが次の瞬間にリングの上で起こったことは、常識では理解しがたいことだった。
437 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:36
確かに次の瞬間、リングの上では体の一部が吹き飛んでいた。
だがそれは美少女の頭部ではなく―――カマキリ女の手首から先だった。

やはりカマキリ女はキャリアだった。
己の体の一部が吹き飛ばされようが、ほとんど精神的なショックを受けていなかった。
むしろ、手首を吹き飛ばした相手が、その戦果に満足しているようであれば、
その隙を突いて攻撃を仕掛ける。そういったしたたかさすら感じた。

手首の欠けた右腕を、今度は美少女のこめかみ目掛けてぶち込んだ。
だが美少女はそれにも冷静に対応した。
今度はしっかりと両手でカマキリ女の攻撃を受け止め、
くるりと身を翻し、相手の腕を極めた。

「ギブアップ」などという言葉は誰も期待していなかった。美少女も。観客も。
きっとこの東京で死語になった言葉の一つだろう。
438 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:37
美少女は体重を乗せて勢いよく肘をへし折ると、
リングにかがみ込んだカマキリ女の延髄を、思いっ切り踵で踏みつけた。
グキン。という鈍い音がした。
それなりに強烈な一撃だったが、ミキの目にはかなり手加減しているように映った。

カマキリ女の筋肉はピクピクと小刻みに痙攣していた。
その動きは明らかに生理的な反射運動であり、もはやその筋肉は、
カマキリ女の自由意思で動かされているのではなかった。

死んだ振りをしているようにも見えなかった。
口の端からこぼれた唾液がぷくぷくと泡を作っていく。女は完全に失神していた。

美少女が面倒臭そうに右手を突き上げ、勝利を宣言したとき、
巨大なデジタル時計は「1:42」を指したところで止まった。
リングアナがかすれた声で試合終了を告げる。

「Winner!! ヨシザワ・ヒトミ!!」
439 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:37
「どうよ? ミキたん?」
歓声はまだ鳴り止んでいなかった。すぐ隣にいるアヤの声すら聞き取りにくい。

ミキは「アヤちゃんはどう思う?」という言葉を飲み込んだ。
アヤは質問を質問で返されることを嫌う。

「うーん。あのカマキリみたいな女の方。あれはやっぱりキャリアだったね」
ミキは当たり前のことを言って、考える時間を稼いだ。
「だけどさあ、あの勝った方。あっちの子はさあ・・・・・・」

考えてから喋るのは苦手だった。喋りながら考える方が性に合っている。
理屈に言葉を合わせるのではなく、自分の感情に後から理屈を合わせる。
ミキはそんな帳尻合わせが好きだった。
440 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:37
ぼそぼそとつぶやくミキに向かって、アヤは眉をひそめて顎を突き出し、
「聞こえないよ?」という表情を作る。
試合が終わったというのに、観客のざわめきはなかなか納まりそうになかった。
ミキはアヤの耳元に唇を寄せた。

アヤのきめ細かな肌がミキの目に映る。

なぜだろう。
喋る姿勢が変わると喋る内容まで変わるような気がする。
相手の目を見て話すときと、見ないで話すときでは、
ニュアンスが微妙に異なってしまうように―――。
こうやって唇を相手の耳に寄せて話すと、なぜか艶かしい会話をしたくなる。
ミキはさっきまで熟考していたことは忘れ、ただの思い付きをアヤに話した。

「とりあえず、あの子の匂いは覚えた」
アヤは目を閉じ、天を仰ぎ、声を出さずに口の端だけで笑った。
441 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:37
アヤはミキの返事に満足した。
勿論、アヤが期待していたのはそんな返事ではない。
一番確認したかったのは、あの「ヨシザワヒトミ」がキャリアかどうかだった。

自分なりの推論はある。おそらくヨシザワはキャリアだろう。
はっきりとした根拠は一つも見つけられなかったが、感覚的にそう判断した。

これまでも様々な噂がアヤの耳に入ってきていた。
曰く「ヨシザワはキャリアだ」。曰く「ヨシザワはキャリアじゃない」
曰く「ヨシザワはキャリアハンターだ」。曰く「ヨシザワの強さは偽物だ」
中には「ヨシザワは国が造ったアンドロイドだ」というものまであった。

こういった毀誉褒貶が入り混じった噂が流れることはよくあることだ。
アヤはそういった雑多な情報の中から真実を拾い上げることが得意だった。
だが今回だけはそういった推測が立たなかった。
そこで実際に見てみることにしたのだが、なるほど実物を見てみてよくわかった。

ヨシザワの強さは解析不能なところがある。
キャリアかどうかですらよくわからない。
生き死にの戦いの中ですら、その能力を隠そうとしている。強さの底が見えなかった。
442 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:37
そしてヨシザワには華がある。これは意外な発見だった。
無茶苦茶な噂が立つ理由はそこにあったのか。アヤは納得した。
勿論彼女はアンドロイドなんかではない。生身の人間だ。
でもそう言いたくなる気持ちがわかった。
美しい。ただひたすら美しいのだ。ヨシザワの佇まいは不自然なまでに美しかった。

ヨシザワには人の興味をひきつけて止まない美があった。

彼女を見た人間は、例外なく2つのタイプに分かれるのだろう。
彼女を崇拝したくなる人間と、貶めたくなる人間とに。
同じように天与の美しさを持って生まれたアヤにはそれがよくわかった。
人は超常的な美に出会うと、ただ無条件にひれ伏してしまう。それが大部分の人間だ。

だが中には、その美を徹底的に汚したくなる人間もいる。少数ながら確実に存在する。
美しいものを汚すことは、美しくあることよりもずっと簡単だ。
何の苦労もせずに、奇跡的な美を汚すという行為は、
凡人にとってはたまらない快感が得られるのだろう。快楽殺人と同じ理屈かもしれない。

いずれにせよヨシザワには、見た人間を無関心ではいられなくするような魅力があった。
そしてアヤ自身もそうであることに、いささか驚きを覚えていた。
こんな感覚は久しぶりだった。
初めてミキに会った時以来かもしれない。
443 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:37
アヤは瞳を開いて、ミキと視線を合わせた。
ミキはおそらく、アヤが訊きたいことが何であるか理解しているだろう。
その答が簡単に出せないこともわかっているのだろう。

その上で「あの子の匂いは覚えた」、か。
悪くない。この切り返しは悪くなかった。やっぱりこの子は頭の回転が速い。
予想外のところからパンチが飛んでくる。
予想外の返事だったが、全く興味がない話題というわけでもない。
その辺りの加減がなんとも心憎い。

「どんな匂い?」
「え? 意外とおっさんクサイねあの子」
「うそお!」
「少なくとも、レモンとかミントの匂いはしないから」
「バーカ」

二人は肩を叩き合いながらケラケラと笑った。
それが一段落すると、アヤは机から下りて背伸びをした。
頃合だ。見るべきものは見た。目的は果たした。長居する必要はない。
444 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:38
「アヤちゃんがどういうつもりか知らないけどさ」
「うん?」
「あの子のことだったら、半径100メートル以内にいたらわかるから」
「外でも?」
「屋外でも、クソ貯めみたいなところでも。あの子の匂いなら、わかる」

アヤはミキの言葉に満足した。やはりこの子は賢い。
パートナーとして選んだのは間違いではなかった。
キャリアっていうのがちょっと気に入らないけど―――
ミキだってなりたくてキャリアになったのではないのだから、それは仕方ない。

「ミキたん、あの子きっとキャリアだね」
「微妙だけどね。何の能力を持っているのか全然見せなかったし」
キャリアは全能の存在ではない。あくまでも体の一部が発達しているだけなのだ。
だがヨシザワの動きからは、どこが異常発達しているのかは見えなかった。

「隠してるんだね。カマキリ女とは違って」
「あー、あのカマキリ女はきっと靭帯だね。靭帯が異常に伸びてた」
「うん。で、ミキたんなら勝てた?」
「どっちに?」
445 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:38
カマキリ女にならミキは確実に勝てるだろう。
ミキはキャリアとしての能力がなかったとしても、桁外れの戦闘能力を持っている。
だからこそアヤはミキと行動を共にしているのだ。

「もちろん、あの美少女の方に」
アヤにはミキとあの美少女が戦うところが上手く想像できなかった。

ミキは悪戯っ子のような微笑を浮かべてアヤに言った。
「アヤちゃんなら勝てる?」

アヤはむっとした。質問を質問で返されるのは好きではない。
それは自分の頭を使わない馬鹿がやることだ。馬鹿は嫌いだ。
だがミキがそれをわかった上で、あえてそうしているのがわかった。
ミキはアヤを怒らせることを全く恐れない。

それが愉快なときもあれば不愉快なときもあった。
446 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:38
今は愉快でも不愉快でもなく、ただ言いたいことが一つ見つかっただけだった。
「あの子さ。あのヨシザワって子―――」
ミキはこちらを向かない。だが耳を傾けているのはわかる。
目と目を合わさないのであれば、この言葉はすごく言いやすい。
「―――ちょっとミキたんと似てるね」

予想していない答だったのだろう。ミキは声を出して底抜けに明るく笑った。
笑うことで会話の間を空けようとしていた。
彼女が何も考えていないときによくする仕草だった。

アヤはミキの仕草を無視して言葉をつないだ。
「あの子はきっとキャリアじゃなくても強い。そんなことと無関係に強い。
 その上でキャリアとしての能力も持っている。その能力に溺れていない。
 賢いよ。強くて賢い―――それも天才的に、ね」

知らない人間を誉める言葉ならすらすらと出てきた。
よく考えたらこの言葉はそのままミキを誉める言葉にもなるのだが、
そんなことはミキには面と向かって言うことはできない。

言ってしまえば、二人の関係のタガが緩んでしまうだろう。
447 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:38
「あの子は強いね。あんまり敵に回したくない」
それはそのままミキを評した言葉であり、
滅多に言うことのない、アヤにとっての最上級の評価だった。

ミキはアヤの答を素っ気無く聞き流し、アヤよりも先に階段を降りていった。
話に乗ってこないのは予想していた。
きっとミキは言われなくても気付いている。自分とヨシザワに似たところがあることに。
そしてそれと同時に全然似ていない部分があることにも―――。

似ている部分を評することは、似ていない部分をクローズアップすることにもつながる。
きっとそれはミキにとって耐え難いことだったのだろう。

負けず嫌いだからね、この子は。
いや。いや―――違う。この感じはちょっと違う。もしかして。

惚れたのかな?
448 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:38
アヤはミキが初めてヨシザワを見たときのことを思い出した。
まるで雷に打たれたかのように痺れていたミキ。
頬が上気して見えたのはアヤの気のせいではないだろう。
ミキはある意味とてもわかりやすい子だ。

嫉妬は感じない。そんな陰湿で下等な感情はアヤとは無縁だった。
アヤとヨシザワ。どちらが上か。もし決める必要があるというなら、決めればいい。
極上の美少女と自分がサシで向かい合う図を想像して、アヤの心臓は高鳴った。
悪くない。釣り合いは取れているだろう。

アヤは天才が好きだった。
自分より劣る人間よりも、勝る人間の方が好きだった。
それは「尊敬する」とか「憧れる」とか「惚れる」という感情とは違う。

生まれつき天才だったアヤは、自分以下の凡人を見ることには飽き飽きしていた。
だからごくたまに自分以上の人間に遭遇すると、妙に興奮した。
その相手を尊敬するのではない。立ち向かうのだ。打ちのめすのだ。
相手が強ければ強いほど、賢ければ賢いほど、そして美しければ美しいほど興奮した。

そういう相手と戦うときは、常に一対一だった。
「あたしとあんた、どっちが上?」
その瞬間が、生きていて一番充実感を覚えるときだった。
449 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:38
ミキはカツカツと勢いよく階段を降りていく。
階段の下からは人の発する熱気がむわっと湧き上がって来ていた。
酒の臭い。薬の臭い。汗の臭い。男女が発する性的な臭い。

アヤはこういった猥雑な臭いが嫌いではなかった。
整理よりは乱雑。秩序よりは混乱。清廉よりは汚濁を望んだ。
この世界は全能の神が統べる世界ではないのだ。
そんな世界は疲れてしまう。
馬鹿な人間が右往左往している世界には、これくらいの汚さが似つかわしい。

先を行くミキが、階段の最後を5段飛ばしくらいで飛び降りた。
両足を揃えて見事に着地。荒い鼻息を一つ。まるで子供。バーカ。バカ。

きっと一秒でも速くこの会場から抜け出たいのだろう。
キャリアとなる前は、ミキもこういった雰囲気が好きだったが、
嗅覚が異常に発達した今では、その場にいるだけで頭がくらくらするのだという。
450 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:39
それでも3年経ってある程度慣れた今では、立派な一つの武器となっていた。
アヤ自身、ミキのキャリアとしての能力に頼っている部分があることは、
自覚しなければならないだろうと思っていた。
それでもアヤは、どうしてもキャリアの能力が好きになれなかった。

あたしは負けないよ。
ミキにも。ヨシザワヒトミにも。キャリアであろうがなかろうが。

どんな能力にもあたしは負けない。
なぜならあたしは―――天才だから。きとこの世に生まれた誰よりも。

アヤは階段の最後を6段飛ばしで飛び降りる。
着地の姿勢はきっとミキよりも美しかった、とアヤは思った。
451 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:39
452 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:39
「すっげー」
颯爽と会場を去っていく二人の美少女の背中を見送りながら、ツジノゾミはつぶやいた。
目を奪われるとはこういうことを言うのだろう。
階段から降りてきた時点で、二人はその場の注目の的となっていた。
なにしろ美しい。顔が、体が、雰囲気が、すべてが切れるように美しかった。

そして最後は派手に階段からジャンプ。
二人は顔を突き合わせて大声で笑いながら店を出て行った。
その場に残された人間はただ呆然として二人を見送ることしかできない。
止まった時間が動き出すまで、少しの間が必要なほどだった。

ツジはこの店がオープンしたときから働いている。
これまでの2年間、色々な客を見てきた。
確かに飛びぬけた美女も何人か見てきたが、たいてい壮年のパトロンがついていた。
そういった女達は、どんなに美しいように見えても、
どこか下品で疲弊した感じがにじんでいた。

無理もない。ここは普通の店ではないのだ。
酒。薬。売買春。そしてギャンブル。
人影に紛れて怪しげな取り引きをしている人間も多い。
怪しげな人間が山ほど集まるのだ。というか怪しげな人間しかやってこない店だ。
喧嘩やトラブルは日常茶飯事。発砲や刃傷沙汰だって珍しくなかった。

普通の女が自由に歩ける店ではなかった。
453 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:39
だがあの少女二人は最初から最後まで女二人だけで行動していた。
擦り寄ってくる胡散臭げな男どもを軽くあしらい、気に入らないものがあれば跳ね除け、
誰に気を遣うでもなく自由気侭に店内をうろうろしていた。

ツジは「さらわれちゃうんじゃないかな?」とドキドキしながら
二人を見守っていたのだが、二人はどんな時も一切隙を見せなかった。
こういう場所での立ち居振る舞いに慣れた感じが、ありありと窺えた。

「あれはタダモンやないな」ツジの後ろから小柄な少女が声をかけてきた。
小柄といってもツジとほぼ同じくらいの背格好だ。
二人とも小学生にも見えるくらい小柄だった。

あの二人の美少女以上に、こんな怪しげな店でうろうろするのは不似合いな
ちびっ子二人組だったが、この店でこの二人に喧嘩を売る人間などいなかった。

彼女達二人、ツジ・ノゾミとカゴ・アイは―――
クラブ『フォース』の用心棒として、ある意味ヨシザワ以上に有名な存在だった。
そして勿論二人は―――キャリアだった。
454 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:40
「あいぼん。ずっと見てたの?」
ツジはカゴのことを『あいぼん』と呼んだ。それはカゴにぴったりの愛称だった。
丸顔で愛嬌のあるカゴは、『あいぼん』という語感そのままの愛らしい少女だった。

「そらあんだけ目立つもん。気付かん方がおかしいで、のん」
カゴはツジのことを『のん』と呼んだ。
こちらも、どこかのんびりとしたツジの雰囲気とぴったりの愛称だった。

同じ歳の二人はクラブ『フォース』創設以来のメンバーであり、気安い仲だった。
同じく創設メンバーであるヨシザワとも親しい仲であり、
二人はヨシザワのことを「ヨッスィー」と呼んでいた。
455 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:40
ヨシザワが客を呼び、ツジとカゴが客を守る。それが各々の役割分担だった。

20階から24階までのエリアを二等分して、
それぞれ巡回して警備にあたるのが二人の仕事だった。
出口のある20階から22階がツジの警備エリアで、
リングのある24階と23階がカゴのエリアだった。

「あれ?」
遅まきながらツジが反応した。
リングでのフリーファイトが終わっても、店が終わったわけではない。
確かにメインイベントが終わって帰る客も多かったが、店はあと1時間は開いている。
警備の仕事が終わる時間ではない。

「あいぼん、何しに来たの?」

相変わらずツジは反応が遅いなあとカゴは思った。
彼女はいつも少しボーっとしたところがある。
警備の仕事でもそれが原因でしばしばミスをすることがあった。
フォローに回らされるこっちとしては堪らない。
456 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:40
「来いや、のん。ナカザワさんが呼んでるで」
「ゲー、マジ? 行きたくねーよ」
ナカザワというのは、ナカザワ・ユウコというこのクラブのオーナーのことだ。
ツジとカゴにとっては鬼のように恐いオーナーだった。勿論逆らったりはできない。

「何アホなこと言うてるねん」
「あいぼん、代わりに行ってきてよ。のん今忙しいから」
全然忙しそうに見えない。あの二人に見とれていたのは誰だ。
すぐにばれる嘘をつくのがツジのクセだった。

嘘を誤魔化すために別の嘘を重ねていき、最後にまとめて全部破綻する。
ツジがいつもそんなバカなことを繰り返していることは、
カゴは勿論、ナカザワやクラブの人間なら誰でも知っていることだ。
ちなみにカゴは絶対にばれない嘘をつくのが得意だった。

「代わりなんて無理。だってうちもナカザワさんに呼ばれてるもん」
「えー。二人とも行っていいの? 警備どうすんの?」
「警備なんてちょっとくらいやらんでも一緒やろ」

確かに昔はトラブルが多かった。ツジとカゴの出番も多かった。
だが今ではカゴとツジというキャリアが二人がいることは、常連には十分知れ渡っている。
ここで大暴れする愚を犯す人間は、最近ではほとんどいなくなっていた。
457 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:40
「へー、行かへんのや。まあ、それならそれでええけど」
カゴはあっさりと引き下がった。あっさりとし過ぎているくらいだった。
ツジは少し不安になった。おかしい。これはおかしい。

ナカザーの呼び出しを無視していいわけがない。
そんなことをしたら、後で怒りが倍になって返ってくることはわかりきっているのだ。
それなのにカゴは「ほなまたな」と言いながらツジを置いていこうとする。
鼻歌でも歌い出しそうなくらいご機嫌な様子だった。気に入らない。

カゴがこういう意地悪をするときは決まっている。
ツジが知らない何かを知っているのだ。出し惜しみしているのだ。
ツジの方から「ねーねーあいぼん、教えてよー」と言い出すのを待っているのだ。

だれが言うかボケ。

と心の中で一つ毒付いてから、ツジはカゴに抱きついた。
「ねーねーあいぼん、何があったの? ねーねー教えてよー」
458 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/25(月) 23:40
どさくさに紛れて右腕でカゴの首を締める。
丸太のような二の腕がカゴの頚動脈をがっちりとロックした。
勿論本気では締めない。ツジにとってはいつもの軽いじゃれつきのつもりだった。

だが「これくらいは許されるよねー」というツジの許容範囲はアメリカ大陸のように広く、
いつだって、千葉県くらいしかないカゴの許容範囲を遥かに超えているのだった。

「死ぬー、死ぬー、離さんかい!」
「じゃあ、教えて」
「言うから離せや! 言うもんも言われへんわ!」
「じゃあ、教えて」

ツジは大人しく腕を離した。ナカザーの呼び出しの理由とはなんだろう?
ケーキ盗み食いしたことかなあ。警備をサボって控え室で寝てたことかなあ。
ナカザーさんの携帯を勝手にいじったことかなあ。
それともヤクザを半殺しにしたことかなあ。

ツジの思考回路は単純だった。
彼女の頭の中には、ナカザーの呼び出し=叱られる、という図式しかなかった。
だが怒られるような原因として思いつくものはどれも他愛ものであり、
警備中にわざわざ呼び出されるようなものとは思えなかった。
その予感は正しかった。カゴが告げた理由は、決して他愛のないものではなかった。

「あんな。さっきヨッスィーが撃たれてん」
459 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/25(月) 23:40
460 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/25(月) 23:41
461 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/25(月) 23:41
462 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:25
「は?」
「だからー、さっきヨッスィーが撃たれたんやって。拳銃で」
カゴは指で拳銃を作って、ツジに向かってバーンと撃つマネをした。

「またまたあ。冗談きついって」
「いや、マジで。だから急いだ方がええんとちゃう?」
カゴは真顔だった。
ツジは5秒ほどじっとその顔を凝視する。どうやら冗談ではないらしい。

「バカア!! 先に言えよ!」
そう言うや否や、ツジは猛然とダッシュで階段を駆け上った。
ナカザワの居室は25階にある。きっとヨシザワもそこにいるのだろう。

ツジは客を突き飛ばしながら走り続けた。
20階から21階。21階から22階。息が切れた。足が重い。
22階から23階。カゴが追ってくる気配がない。薄情者。あんなヤツもう友達じゃねえ。
23階から24階。気のせいかリングの上に血痕があるように見えた。
24階から25階。心臓が爆発しそうだった。

「おう。お疲れ、のんちゃん。本気出したら結構速いやん」
カゴは先に着いていた。どうやらエレベーターを使ったらしい。素で忘れてた。
面白すぎる冗談だったが、今は笑う気がしなかった。
463 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:25
ツジは重々しい扉の前に立った。この先にナカザワの部屋がある。
重厚な金属でできた扉は、厳重な防音が施された特注の扉だった。
この先にはクラブの喧騒とは無縁の無音の世界がある。
ナカザワはプライベートな時間ではそんな静寂を好んだ。
ツジは力を込めて重い扉を開いた。

部屋の中に入った途端、血まみれになって床に転がっている女が目に入った。
心臓が止まりそうになる。実際、1秒くらい止まっていたかもしれない。
だが床に転がっているのはヨシザワではなかった。

「これ・・・・・・さっきヨッスィーと戦ってた?」
「おう」
ツジの問いかけにナカザワが答える。
ナカザワは硬そうなソファに腰掛けていた。身なりは派手だったが部屋は地味だった。
右手で何か黒い塊をカチャカチャとさせて遊んでいる。

床に這いつくばっているのはあのカマキリ女だった。
右腕の肘から先が欠けている。もう既に息絶えているようだった。
カマキリ女の死体の横には一人の男が正座していた。
ツジも知っている男だ。半年くらい前からフォースで働いている男だった。
確かヨシザワの身の回りの世話をしていたはずだ。

「どうしたの? ヨッスィーは? ヨッスィーは?」
「さっきからここにいるんだけど」
ヨシザワはツジのすぐ横にいた。肩から胸の辺りにかけて包帯をしている。
「ヨッスィー!!」
464 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:25
「いててててててて! ったいって!」
ツジに抱きつかれたヨシザワが叫ぶ。
カゴが後ろからツジの頭をパコーンとはたいた。
「ヨッスィーは怪我人なんや。無茶すんなボケ」

「ヨッスィー、大丈夫だったの? 怪我ない?」
「いや、だからすっごい怪我してるんだって。ここと、ここ。超痛いから」
ヨシザワは自分の右肩と脇腹を押さえた。さっきツジが思いっ切り抱きついた場所だった。
弾は貫通してるけどな―――とナカザワが付け加えた。

「ヨッスィーのドジ! どこの誰に撃たれたんだよ!」
「ドジねえ・・・・・撃たれた怪我人にそんなこと言うかなあ・・・・・
 まあ、ドジと言えばドジかなあ・・・・・・撃たれたのはそいつにだよ」

ヨシザワは床に正座している男に向かって顎をしゃくった。
男は蒼白な顔をしてブルブルと震えている。
フォースに勤めて半年。この後何が起こるかは十分わかっているのだろう。
465 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:25
「裏切られたっちゅうわけや」
ナカザワが撃たれたときの様子をツジとカゴに説明した。
ファイトが終わると戦った二人はとりあえず医務室に連れて行かれる。
医者は一人しかいない。ということでヨシザワもカマキリ女も同じ部屋に入った。

瀕死と思われたカマキリ女がいきなり立ち上がり、ヨシザワに抱きついた。
勿論、ヨシザワは油断などしていなかった。
体の自由を奪われながらも、相手の首をつかみ、ねじ切るように頚骨をへし折った。
絶命した―――と思われたカマキリ女だったが、抱きついた手を離さなかった。

その時、ヨシザワの付き人をしていた男が至近距離から発砲した―――
ということらしかった。
どうやらカマキリ女とその男はグルだったようだ。
半年前からの計画だったのか、それともつい最近裏切ったのか。
ともかく、二人がかりでヨシザワの命を狙っていたことは間違いない。

東京随一のクラブであるフォースの象徴的存在のヨシザワ。
これまでも、都内で対抗する組織からしばしば命を狙われていた。
466 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:25
「どこの組織や、とは訊かん」
ナカザワはソファから立ち上がった。右手に握っている黒い塊は拳銃だった。
安全装置を外して照準を男の頭に向ける。
「お前も半年ここにいたんや。それはわかるやろ」

そこでヨシザワの長い手がすっと拳銃に伸びる。
掌で拳銃をぐいっと押しやった。

「おい」
ナカザワの顔色が変わる。般若のような形相だ。
「まさか、こいつを助けてやれとか言うんやないやろうな」
半年ずっと傍にいた男だ。情をかけてやりたくなったのだろうか。

「まさか」
そう言いながらもヨシザワは、ナカザワの拳銃を取り上げ、安全装置を下ろした。
正座していた男が泣きそうな顔でヨシザワを見上げる。
467 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:26
「なにしてるねんヨッスィー。フォースの掟、忘れたわけやないやろうな」
「裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を」
ヨシザワはよどみなく答えた。ツジとカゴも頷く。
忘れるはずもない。3年前に3人で組織を立ち上げたときに作った掟だ。

「そうや。問答無用や」
裏切り者は絶対に許さない。たとえどんな理由があったとしても。
「喧嘩を売られたのはあたしだ」
ヨシザワは渾身の力で拳銃を握りしめた。ギチンという音がしてグリップが割れる。
鋼鉄の塊はヨシザワの手によって真っ二つに引きちぎられた。

二つの塊を投げ捨てると、ヨシザワは右手の指先に力を込めた。

「ケリはあたしがつける」
ヨシザワの手刀が男の眉間に飛んだ。
468 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:26
469 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:26
男は数秒間ピクピクと痙攣していたが、やがて静かに事切れた。
ヨシザワの表情は全く変わらない。
指先についた血をTシャツの裾でごしごしと拭う。
まるで泥遊びをした後の子供ような、邪気のない仕草だった。

「クールやな」
さすがのナカザワも少し毒気を抜かれた感じがした。
男はこの半年間、ヨシザワの身の回りの世話をしていたのだ。
それなりの思い入れがあったとしても不思議ではない。
だからこそ、ナカザワはあえて自分で男のことを始末しようとしたのだ。

「クールじゃないって」
「いや、クールなのは悪いことやない。特にこういう時は・・・・・」
「だから! クールじゃないって言ってんじゃん!」
ヨシザワは唾を飛ばし声を荒げる。抑え付けていた何かが弾け飛んだようだった。

ヨシザワがこの東京で生きていくには、この組織に属さねばならないし、
この組織に属している以上は、組織の掟に従わなければならない。
クールであるとかないとかとは、全く関係ない問題だった。
470 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:26
ただの肉の塊になった男の体を、ヨシザワはじっと見つめる。

優しい子だった。真面目な子だった。
いや。考えるな。何も考える必要はない。あたしは組織の掟に従っただけだ。

ヨシザワは自分に言い聞かせる。これでいいんだ。
この子はあたしを殺そうとした。だから殺した。理屈としては筋が通っている。

だが、どこか自分の生理に受け付けないものも感じていた。
自分が組織に必要とされていることは、誇らしい。
組織を大きくすること、その中で自分が中心的な役割を果たすこと。
それはヨシザワの生きがいの一つと言ってもよかった。

だけど。だけど―――
自分は―――自分を必要としてくれる人たちのために、どこまで尽くせばいいんだろう?
この子が殺そうとしたのはあたしが悪いから? 組織が悪いから?
この子が殺したかったのはあたし個人? それとも組織の中のあたし?

一体あたしの、どこからどこまでが「あたし」なんだろう?
471 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:26
組織に忠義を尽くせば尽くすほど自分という人間が霞んでいく。
ヨシザワはどこか理不尽なものを感じずにはいられなかった。
不条理さを感じずにはいられなかった。
そのやるせない感情は―――どこにもぶつける場所がなかった。

「そう怒るな。あたしはクールな子を必要としているんや」
ナカザワはヨシザワの内面を見抜いたかのようなことを言う。
「あたしには―――クールで非情で律儀で義理堅くて几帳面で面倒見がよくて
 頭が良くて腕っ節が強くて―――そしてとびっきり可愛い子が必要なんや。な?」

ナカザワがいつも言うお決まりの冗談だったが、その時はヨシザワは笑えなかった。

おどけた表情をするナカザワの表情を、ヨシザワはじっと見つめる。
わざとらしい表情の中にも、ヨシザワに対する思いやりはしっかりと感じられた。

ナカザワのことは好きだった。ツジのこともカゴのことも好きだった。
組織のためじゃない。好きな人のためだ。好きな人と一緒にいるために。
ヨシザワはそう自分に言い聞かせて納得しようと試みた。
472 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:27
473 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:27
「うわ。きったねー。そっちあいぼんが片付けてよ」
「なんでやねん。そっちはお前がやるって自分で言うたんやろうが」
「ちょっと! 垂れてる垂れてる」
「知らんがな。ほら、そっち持って」
「うげー・・・・・・・」

死体の処理はツジとカゴに命じられた。
裏切り者の男はツジが、カマキリ女はカゴが処理することになった。
用心棒という仕事柄、死体の処理を任されるのはいつもこの二人だった。

「やってらんねー」
「文句があるならナカザーさんに言えや」
「言えるかよ! 今すっげー機嫌悪いじゃん」

裏切り者が出た後は、色々な意味で内部の締め付けがきつくなる。
その上で始末した人員の補充も考えなければならない。
きっとナカザワの神経はピリピリと張り詰めていることだろう。

「しかしあれやな。ヨッスィーも本気で怒らすと恐いな。マジでびびったわ」
カゴは二つに割れた拳銃を拾い上げる。素手で割るなんてとても人間業とは思えなかった。
「うん。あんなの久しぶりに見た」
ツジはそれを受けて複雑な思いを込めたため息をついた。
474 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:27
ヨシザワは組織の中心的なメンバーだった。

組織の長であるナカザワは、末端の構成員のことまではタッチしない。
そういうわけで、実質的にメンバーを仕切っているのはヨシザワだった。
組織のメンバーにとってヨシザワは、ナカザワよりも身近な存在であり、
面倒見の良い姉貴分といった感じだった。

組織のリーダーとしての自覚を持っているからなのか、
特に最近のヨシザワは、自制的な行動をすることが多かった。
普通に叱るくらいはよくあったが、我を忘れて本気で怒ることなどまずなかった。

「ヨッスィーも昔は結構アホアホやったんやけどな。変わったなあ」
「今でもアホだよ。隠してるだけだって」
「隠すようになったってことは、もうアホやないってことやん」
「なにそれ。意味わかんない」

二人は無駄話を続けながらも、二つの死体をビニールシートでくるんだ。
「ねー、これ、どこの組織がやったと思う?」
「そんなんわかるわけないやろ」
「でもさあ、あの二人とか怪しくない?」
「あの二人? ああ、さっきのあの二人のことかいな」
475 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:27
カゴは、階段からひらりと舞い降りた二人の美少女のことを思い出した。
確かにあいつらは只者ではなかった。あの顔は覚えておく必要があるかもしれない。
だが―――
「そんなんわからんわ。怪しい人間やったら他にも山ほど来てるからな」
フォースはそういう店だった。疑わしい人間などいくらでもいる。

二人は死体を大型ダストシュートに押し込んだ。
あとはそれ専任の業者が処理してくれる。
ホッと一息ついたカゴが時計を見上げると、もうとっくに店が終わっている時間だった。

「残業代は出えへんのやろなぁ」
「うわ。もうこんな時間じゃん。もー、ナカザーさん、人使いが荒いー」
「ま、しゃあないわな。あんなババアでも一応―――」
「のんたちの命の恩人だからねぇ」

ツジは三年前のあの日のことを思い出していた。
金欲しさに応募した新薬実験の被験者のアルバイト。刑務所のような施設。そこでの事故。
全て昨日のことのようにはっきりと覚えていた。
そしてその日は―――ナカザワやヨシザワやカゴと初めて出会った日でもあった。
476 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:27
477 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:27
実はあの時、ツジは施設に起こっていた異変に全く気が付いていなかった。
ベッドに潜って、既にスースーと寝息を立てていた。
部屋に忍び込んできた赤い霧のことなど全く知らなかった。

いきなり部屋の電気を点けられて軽くパニックになった。
布団をガバッと頭からかぶって「もう5分だけ・・・・・」などと寝ぼけたことを言った。
その上からいきなり重たい塊が飛び乗ってきた。
背中に強い衝撃を受けたツジは、一瞬呼吸が止まり、本当にパニックに陥った。

「なんや。子供か。ここの職員と違うんかいな」
背中に乗っかっていた重たい塊がそう呟いた。
その声も十分すぎるほど子供だったが、ツジはそこまで気が回らなかった。
「なにすんだよ!!」
背中に乗っていた子を振り払い、振り向きざまにキッとにらみつけた。
ツジと同じくらいの年恰好をした少女がそこに立っていた。

少女はツジの肩にちらりと目をやる。そこには11というタトゥーがあった。
「ふうん。おめーもバイトなんか? うちと同じやな」
そう言って少女がめくり上げたTシャツの下の右肩には12というタトゥーがあった。
478 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:27
「え?」
ツジは目を丸くした。他に被験者がいるという情報は知らなかった。
実はテラダはそのことをきちんと説明していたのだが、
あまり興味がなかったツジは、テラダの話を聞き流していた。

「えー! ええぇー! へー」
なんやこいつ頭にぶい子なんか。残念な子か。
まともな言葉を返すことができないツジを見て、カゴはそう思った。

「廊下見てみろや。えらいことになってるで」
「え? えらいこと? 廊下? でも部屋には鍵がかかってるじゃん」
「アホ。扉なんか全部壊れてるわ。だからうちもこの部屋に入ってこれたんやん」
「え? なんで?」
「わからん。なんかヤバイことになってる感じや。これはマジでヤバイできっと」
479 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:28
ツジのいた部屋の扉もチョコレートのように溶けていた。
部屋には真っ赤な煙のようなものが充満している。
いくら世間知らずなツジでも、これが並ならぬ事態であることは理解できた。
カゴは既にツジに対して興味を失ったようで、ツジを放ったまま廊下へ出て行った。

開け放たれた扉が妙に寒々しい。
扉の向こう側から闇が盗み入って来るような感じがした。
先ほどまでずっと一人だったのに、ずっと閉じ込められていたのに、
それなのに、同じように一人でいる今の方が、なぜか100倍寂しい気持ちがした。

「ちょっと! 待って! 待ってったらああああ!」
ツジはカゴを追いかけて着の身着のまま部屋を飛び出した。
480 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:28
カゴに言ったように廊下は異様な雰囲気だった。
あちこちに人が倒れていた。ゆすってもピクリとも動かない。どう見ても死んでいる。
そして部屋の中と同じように真っ赤な霧が立ち込めていた。

「毒ガス?」
どうしてもそんな連想をしてしまうが、ツジとカゴの体には何の異常もなかった。
フロアはかなり広かったが、どれだけ歩いても、生きている人間は会えなかった。
極限状態ということで神経が麻痺していたのだろうか。
死体がゴロゴロしていても恐怖は感じなかった。
この広いフロアで生きているのが自分達だけなんだと思うと、妙にテンションが上がった。

「あっちや」
カゴがツジを先導する。いつの間にかそういう形になっていた。
それが少し気に入らない。ツジはカゴの前に出ようとする。だがカゴの手に阻まれた。
「待て。人の気配や」

ツジがそれを確認するまでもなく、人の声が聞こえてきた。
「とにかく誰かいないのかよー!」
481 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:28
その人はカゴのすぐ前にいた。思っていた以上に近い距離だった。
死角になっていて、お互いそこまで接近するまで気が付かなかったようだ。
その問い掛けに対して、カゴが「おるで」と間髪入れず答えると、
相手は「うひぁぁっん!」と奇妙な悲鳴を上げて飛び上がった。

「なんや。お前、女なんか。男かと思うたで」
確かにカゴの言うように、パッと見た感じは男に見えるような、
ボーイッシュなビジュアルをした女だった。
「変な声あげんなよ。おめー、びびってんのかよ」
ツジがからかうと、女は少しおびえた目でツジとカゴを交互に見た。

「あ・・・それ・・・・・」
女は二人の肩を指差し、そして自分もTシャツの肩をめくって「10」という数字を見せた。
「なんや。ねーちゃんも新薬の投与試験の参加者かいな」
「おー、同類だー」
ツジの肩には11、カゴの肩には12という数字が刻まれていた。
同じ被験者ということで一気に親近感が湧いた。カゴは一緒に逃げようと誘った。

「逃げるって・・・・・どうやって?」
「知らんがな。だから今こうやって探してるんやん」
「一緒に来る?・・・・・・・えーっと」
「ヨシザワ。あたしはヨシザワ。じゃあこれから一緒に・・・・・・・・・」

そこまで言った瞬間、ヨシザワの後ろからにゅうーっと腕が伸びてきた。
482 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:28
「うひぁぁっん!」
見知らぬ腕に肩をつかまれたヨシザワは、奇妙な悲鳴を上げて飛び上がった。
背後には般若のような顔をした女が立っていた。すっぴんだときつい顔だ。30代か?

女は三人の肩にある番号をまじまじと見つめて「追加メンバーか・・・・」とつぶやいた。
そして呆然と見つめている三人に向かって、自分の肩を突き出して見せた。
彼女の肩には、三人と同じようにシールタトゥーで「1」と書かれていた。

「こっちや。ついて来い」
女はそれだけ言うとずんずんと前に進んでいった。
「ちょっと待てや! なんやねん。なんやねんこれは!」
「そうだよ! ちょっと説明してよ! なんでこうなってんだよ!」

訳が分からなかった。女が誰なのか。施設で何が起こっているのか。
納得できる説明が聞けるまで、相手の言いなりになるつもりはなかった。
だが女の返事は、とてもツジの要望を満たすようなものではなかった。

「うるさい。黙れ。付いて来い」
483 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:28
喧嘩腰のその言葉にツジとカゴは切れた。
「なんやねんそれ! 人が倒れてるんやで! 一人や二人やないんやで!」
「そうだよ! 放っておくのはよくないよ! 救急車呼ばないと!」
女は無視して先に進もうとする。あくまでも相手する気はないらしい。上等だ。
「無視すんなよババア!」「そうだよババア!」「どこ行くんよババア!」「何か言えやコラ!」

いきなり殴られた。ツジとカゴは壁際まで吹っ飛ばされた。

「ババアやない。ナカザワや」
ツジとカゴは火がついたように泣いた。号泣した。
殴られたのが痛かったからではない。その痛さが二人を現実に戻したからだった。

信じられないくらい高額な怪しいバイト。刑務所のような異常な施設。
そして突然起こった原因不明の事故。山のように転がっている死体。
そして―――何がなんだか全くわからない赤い霧。

恐かった。これまで自分が生きてきた世界が足元から崩れていくような感覚があった。
その後に現れてきたのは、これまで信じてきた常識が一切通用しない世界だった。
自分が何をすればいいのか。どう生きていけばいいのか。
一寸先ですら全く見えなかった。泣くしかなかった。
484 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:28
それでもナカザワはツジとカゴを見捨てなかった。
ぐずるカゴをナカザワが背負い、ツジはヨシザワに背負わせた。
半ば拉致されるかのような強引さで、ツジとカゴは連れて行かれた。

拒否しようと思えばできた。
見ず知らずの人間に連れられていくよりは、
大人しく施設に残って救助を待つ方が、むしろ常識的な判断だったかもしれない。
だがあの極限状態で常識的な判断を下すことなどできなかった。

結局、この時の判断が運命の分かれ道となった。

後で知ったことだが、かなり昔にこの施設から脱走を試みた人間がいたらしい。
ナカザワはその人間から、施設からの逃走ルートを聞いて知っていたということだった。
とにかく1秒でも速くこの赤い霧から離れるべきだというのが、その時のナカザワの判断だった。
4人はナカザワが示したルートに沿って地上まで這い出てきた。

その時―――赤い霧が4人を追い越すようにして施設から出て行った。
あれが一体何だったのか。それは今でもよくわからない。
485 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:29
4人は施設の中庭に出る。上空にはヘリが飛んでいた。
「きっと救助隊だよ!」ツジは無邪気に叫んだ。
これで助かる。心からそう思った。

安心感が体に満ちると、急に体から力が抜けた。
ツジは地面にへたり込む。カゴやヨシザワも同じように地面に倒れこんでいた。
だがナカザワだけは鋭い視線を上空へ送っていた。

これも後で知ったことだが―――
2年以上も施設にいたナカザワは、施設の背後にいる人間のことを全く信用していなかった。

この怪しい試験の裏には、決して表沙汰にはできない黒い影が存在している。
ナカザワはずっとそう考えていたらしい。
その疑心暗鬼の心が4人の命を救った。本当にタッチの差で。
486 名前:【潜伏】 投稿日:2009/05/28(木) 23:29
「立て! 逃げろ!」
ナカザワが叫んだとき、3人は即座に反応できなかった。
ナカザワは容赦なく3人を蹴り上げた。半端ない痛さだった。反射的に立ち上がる。

「上見ろ! 撃ってくる!   は  し  れ ! !」

ナカザワはそれ以上、3人にはかまわなかった。先頭を切って全速力で駆け出した。
次に反応したのはカゴだった。上空を見ろと言われてもヘリしかいない。
そこには―――煙を放ちながら接近する1対のミサイルが飛んでいた。
「ヤバイ! みしぁ絵輪v@twvめ3うw」

―――――

―――



その後のことはよく覚えていない。
気が付くとツジは―――カゴと一緒に、やたらと硬いベッドの上にいた。
487 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/28(木) 23:29
488 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/28(木) 23:29
489 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/28(木) 23:29
490 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:03
ツジにもカゴにも大きな怪我はなかった。ただ意識を失っていただけだった。
あの時、もしもナカザワが「はしれ!」と言ってくれなかったら、
二人は間違いなく死んでいただろう。
だが二人が本当の意味でナカザワに感謝するようになったのは、その後だった。

あの時、施設の人間からの救助を待たなかったのは正解だった。

どういう事故があったのかはよくわからないが、
施設の中に流れていたのはウイルスだけではなかったらしい。
かなりの濃度の放射能が流れており、施設はすぐさま封鎖された。
そこにあった死体や、瀕死の生存者も全て「始末」された―――と風の噂で聞いた。

もしあの時、あの場所でグズグズしていた、ツジたちも始末されていたかもしれない。
それは単なる噂だと笑い飛ばすことのできない噂だった。

国の対応は異常に速かった。
施設周辺だけではなく、関東一円に非常事態宣言が出された。
ウイルス罹患者はほとんど治療されることなく、死を待って焼却された。
ごく一部の人間はウイルス感染後も生き残り、
体のごく一部が異常に発達した「キャリア」となったが―――

彼ら彼女らを待ったものは、やはり「死」だった。
491 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:04
ウイルスに汚染された関東はほぼ無法状態と化した。
内部と外部は高い塀で遮断された。
中の情報は外に伝わらず―――外の情報は中に伝わらなかった。
おそらく外の人間は「キャリア」の存在すら知らないだろう。

表向き、政府は「ウイルスに感染した患者の治療活動を行なう」としていたが、
実際には内部で行なわれていたのは―――「キャリア狩り」だった。
キャリアを狩っているのが本当に政府なのかどうかは誰にもわからない。
だが、どこかの勢力がキャリア狩り行なっていることは間違いなかった。
そしてそれが政府直轄機関だという噂は根深かった。

キャリアと化していたツジとカゴも何度か狙われた。
さすがにおおっぴらには殺人行為を行なえないためか、
狩りの実働部隊は少人数であるらしい。
キャリア狩りはゆっくりと人知れず行なわれていた。

狩りをしているのが政府ではないとしても、
政府がそんなキャリア狩りを歓迎している様子があるのは確かだ。
殺人行為を黙認するために、治安維持活動を緩めている向きすらあった。
少なくともキャリアを殺しつくすまで―――本気で治安を回復する気はないようだった。
そんな無法地帯の関東は、自由と奔放を愛するツジとカゴにとっては天国であり、
そして同時にキャリアである二人にとって地獄でもあった。

まだ幼い彼女達がこの3年間、曲りなりにも生きてこられたのは、
キャリアとしての能力と、ナカザワの助力があったからに他ならなかった。
492 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:04
ツジとカゴは、施設から脱走してからは、
ごく自然にナカザワとヨシザワと行動を共にすることになった。
混乱と混沌が吹き荒れ、交通が麻痺し、物流が途絶えた関東で生きていくためには、
知恵と勇気と行動力が必要だったが、4人はお互いに能力を補完し合いながら、
なんとかその狂乱の時代を生き抜いていった。

ナカザワも勿論―――キャリアだった。
彼女はある時はキャリアであることを隠して行動し、
またある時はおおっぴらに晒しながら行動した。
キャリアであることを最大限に生かしながら、彼女は組織を構成し、勢力を増していった。
3年の月日が流れた今、クラブ「フォース」は関東でも有数の組織となっていた。

そんなわけで今でもツジはナカザワに頭が上がらない。

命令口調が癇に障ることもあったが、3年も一緒にいれば慣れる。
説教じみたことを言うことも多いが、それにも慣れた。
今では何を言われても右から左である。
フォースはツジにとって居心地の良い職場だった。

もっとも―――残業代抜きで夜遅くまで働かされるのは勘弁して欲しかったが。
493 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:04
494 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:04
ヨシザワが撃たれてから一週間が経った。
今ではもう傷も癒えたらしく、ヨシザワはトレーニングを再開していた。
手伝うのはツジとカゴだった。
キャリア以外の人間に、ヨシザワのトレーニングの相手は務まらなかった。

四角いリングの上でステップを踏みながら、ヨシザワは小刻みにジャブを繰り出す。
拳は全て測ったようにツジの鼻の下にヒットする。
ツジは顔色一つ変えずにヨシザワのハードパンチを受け止める。微動だにしない。
そのまま3分間、ヨシザワは息もつかずにパンチを連打し続けた。
ヨシザワの筋肉は人間の生理に反し、一切チアノーゼに陥ることなく無酸素運動を続ける。

「3分!」
リングサイドで見ていたカゴがストップウォッチを止めた。
それと同時にヨシザワも動きを止め、大きく息を吐き出す。やや呼吸が荒い。
ツジは物足りなさそうな表情を浮かべて、つま先でちょこんとヨシザワを蹴った。

「鈍ってるよ。パンチ」
「うっせーバカ」
「動きもなんか遅い」
「知らね」
「まだ治ってないの?」
そんなはずはなかった。ヨシザワの回復力の速さは人間離れしている。
495 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:05
「いろいろあんだよ」
そうつぶやくヨシザワの息はまだ乱れていた。
予想以上に疲労の色が濃い。明らかにいつものヨシザワではなかった。
普段なら、ツジの軽口など、くだらないジョークを交えて切り替えしているだろう。

不満そうに口をとがらせるツジを制して、カゴがフォローを入れる。
「ヨッスィー、忙しすぎるねん。まだ怪我治ったばっかりやのに。
 ここんところ、ろくに寝てないんとちゃうか?」

怪我をしている間も、ヨシザワの仕事量は一向に減らなかった。
組織の中にはヨシザワでなければこなせない仕事も多い。
そして、これまでヨシザワの仕事をサポートしていた男は―――裏切り者として処分された。
ヨシザワの双肩にかかる負担はこれまで以上のものになっていた。

「しゃーねーだろ! 体は一つしかねーんだから!」
声は大きかったが、力はなかった。
これも自分で蒔いた種だ。自分の仕事は自分でやるしかない。
誰かのせいにはしたくなかった。たとえ自分を殺そうとした人間であっても。
だがそう思っていても、体力の限界は容赦なくヨシザワの気力を奪っていた。

「そういうと思いまして」
「我々、やっちゃいました」
投げやりな態度のヨシザワを見て、ツジとカゴは悪魔のように微笑んだ。
そうなのだ。
人間の苦境に手を差し伸べるのは、いつだって神ではなく悪魔なのだ。
496 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:05
「はあ? やっちゃった? なにを?」
意味がわからないヨシザワは怪訝な表情を浮かべる。
この二人が何かを企んだときは、ろくなことが起きない。
たいてい全てをハチャメチャな状態にしてしまう。まさに悪魔の所業だった。
そしてその後片付けをするのは、いつだってヨシザワの仕事なのだ。

このクソ忙しい最中、また余計な仕事が増えるんじゃないか―――
二人の微笑を前にして、ヨシザワの顔が引きつった。

その時、フロアにフォースの従業員が一人入ってきた。
「カゴさーん、お客ですよー」
「誰?」
「なんでもチラシを見て面接に来たとかで」

その言葉を聞いてカゴとツジが顔を見合わせ、勢い良くハイタッチを交わした。
二人は同時に「よっしゃー!」と叫んで、バタバタと駆け出した。
「どこどこ?」「あっちの部屋に待たせてますが」「よっしゃー」「面接や面接や」
従業員と一緒に二人は風のようにフロアから去っていった。

「め・・・・面接?」
一人取り残されたヨシザワの顔が―――さらにピクピクと引きつった。
497 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:05
498 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:05
「誰がそんなことせえと言うた」
ナカザワは不機嫌だった。
だがツジとカゴは怯まない。最近のナカザワはたいてい不機嫌なのだ。
いちいち気にしていたら会話などできない。

「別にええやないですか。どうせ探さなアカンのですから」
「そうそう。一人減ったんだから一人増やすのは当然じゃん」
二人の後ろには見知らぬ少女が二人控えていた。
ツジとカゴが言うところの「面接」を受けていた少女だった。

ツジとカゴは勝手にヨシザワの付き人を募集し、勝手に採用しようとしていた。
「じゃあ、明日から来てもらうから」という段になってナカザワからストップがかかった。
従業員の一人が律儀にもナカザワに報告したらしい。
ナカザワとしては、どこの馬の骨ともわからない人間を、
簡単に組織の中に入れるわけにはいかなかった。

「アカンな。認めるわけにはいかん。そいつらには帰ってもらえ」
どこか困惑げな空気を漂わせた声だった。
いつものナカザワよりは弱気であることを、カゴは微妙なニュアンスから感じた。
499 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:05
「今のままやったらヨッスィーが壊れてしまう」
「それやったら他の従業員を回せばええことや」
「一人回したら一人欠ける。二人回したら二人欠ける」
「・・・・・わかった。もうええ。もうなにも言うな」

二人は遊びで「面接」をやったわけではない。
それはナカザワにもわかっていた。
締め付けるだけでは人はついてこないし、組織は機能しない。それもわかっていた。

最終的にはカゴの提案を採用しなければならないだろう。
だが要求の丸呑みはダメだ。どこかで線を引かなければならない。
カゴのためにも。ナカザワのためにも。そして組織のためにも。
ナカザワとカゴは「お友達」ではないのだ。

気を緩めることなく、ナカザワは硬い声で配下に命じた。
「ヨシザワを呼んでこい」
従業員が再びヨシザワのいる部屋へと走る。
500 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:05
その間、ナカザワはツジとカゴが連れてきた二人の少女を見つめた。

ヨシザワと同じくらいの年齢の少女が一人。どこか暗い表情を浮かべている。
そしてツジやカゴと同じかやや年下に見える女の子が一人。
こっちの少女は何が楽しいのか、意味もなくニコニコとしている。
どちらもハッとするくらい美しい少女だった。

美人やな。素直そうな子やなあ。
見た目で落とされるようなタイプの顔やないなあ。

ナカザワは心の中でため息をついた。
ツジやカゴに人を見る目があるとは思えない。きっとビジュアルで選んだのだろう。
だがナカザワの目から見れば、二人ともどことなく落ち着きがないように見えた。

落ち着きがないのは別にいい。
だが、その落ち着きのなさがどこから来ているのかは見極めねばならないだろう。
生来のものなのか。何かを企んでいるからなのか。
慎重に確認する必要があった。
501 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:06
「イシカワリカです」
年上の暗い少女がそう言った。
「クスミコハルです」
年下の明るい少女がそう言った。

二人の少女は代わる代わる簡単な自己紹介をした。
話を聞いてみると、二人はお互い知り合いで、一緒に住んでいるらしい。
できれば二人一緒の職場で働きたいと思って、応募したとのことだった。
こんな年端もいかない少女が、この関東で二人だけで暮らしている。
ナカザワはそのことに強い違和感を覚えた。

「なんでや。なんでこんな街におるねん。外に逃げへんのかいな」
クスミはチラチラとイシカワの方を見遣る。
どうやら年上のイシカワの方が会話のイニシアチブを握っているようだ。
だがイシカワは黙って答えない。ただ困惑しているだけだった。

その様子からナカザワには一つだけわかったことがあった。
この子は嘘を用意していない。
何かを隠していることは確かだが、何も隠していないことを装う人間よりは好感が持てた。

「女二人で生きていける街やないやろ。今まで何しててん」
それでも最低限のことは聞いておかねばならない。
もし答えないようだったら、ここで雇うことはできないだろう。
502 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:06
それでもイシカワはおろおろとするばかりで答えようとはしない。
こんな頼りない女が、3年もこの関東で生きてきたとはとても思えなかった。

「なあ。どんな事情を抱えてるのかは知らんけど、話してみーや。
 お前らが事情を話さへんのやったら、あたしらとしては
 そっちがあたしらのことを信用てへんと判断するしかないわな。
 そっちが信用せえへんのやったら、うちらもあんたらを信用できひん。
 信用できひん人間は雇えへん。な? 言うてること、わかるやろ?」

その時ヨシザワが部屋に入ってきた。
外はまだ雪がちらつくほどの寒さだが、部屋の中は暖房が効いていて暑い。
ヨシザワは上半身にはTシャツ一枚しか着ていなかった。
シャワーを浴びた直後なのだろうか。髪がしっとりと湿っている。

「うぃーす。その子らが今度、新しく来る子?」

そう言いながらもヨシザワは二人の方に見向きもしない。
ナカザワの隣に腰掛けて、面倒臭そうにクシャクシャと短い髪を掻き毟った。
半袖のシャツから伸びた白い腕には「10」というシールタトゥーが光っていた。

その数字を見てイシカワは目を剥き息を飲む。
「あ・・・・・・・」思わず声が漏れた。
503 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:06
ヨシザワは声のした方に目を向ける。ヨシザワとイシカワの視線が重なる。
一本の棒のように真っ直ぐ伸びた二人の視線は、二人の丁度真ん中あたりでぶつかった。
ヨシザワの瞳にはヨシザワを見つめるイシカワの瞳が見えた。
イシカワの瞳にはイシカワを見つめるヨシザワの瞳が見えた。

二人の視線は分厚く、力強かった。
お互いの瞳に映ったのは、お互いの姿ではなかった。
ただ「見られている」ということを認識するだけで精一杯だった。
それ以外には何も見えなかった。鋭い視線はなかなか緩まない。

「なに見つめあってるねん」というカゴの一言で、ようやく場の空気が緩んだ。

ヨシザワは不審な表情を浮かべてイシカワを問い詰めた。
「あたしの顔になんかついてる?」
彼女の態度は初対面の者に対するものとしては、あまりにも不自然だ。
どこかで会ったことがあるのだろうか?

だがヨシザワがどれだけ記憶の中をまさぐっても、
この長い黒髪に包まれた、どこか幸薄そうな美少女の姿は思い当たらなかった。
504 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:06
「その右肩の10っていう数字・・・・・・タトゥーですよね・・・・・」
意を決したようにイシカワが喋る。
暗い表情と暗鬱な雰囲気に似合わぬ甲高い声だった。

イシカワがタトゥーのことを指摘した瞬間、場の空気が凍った。

ヨシザワはハッとなって肩を押さえる。
施設で付けられたこのシールタトゥーはどうやっても落ちなかった。
勿論ナカザワやツジやカゴの肩にもついたままだ。

彼女達は普段はこのタトゥーを隠しながら暮らしていた。
今の混乱を招いたのは、間違いなくあの施設の事故だ。
だからあの施設にいたという証はなるべく他人に見せたくなかった。
あの施設の生き残りだということが知れれば、どんな事態になるのか想像もつかない。

ツジとカゴは音も立てずに立ち上がり、イシカワとクスミの背後に回る。
カゴは右の視野に二人の姿を納め、左の視野でナカザワの姿を捉えた。
指示があればいつでも襲いかかれるよう、体勢を整える。
逆側ではツジが同じように体勢を整えていた。

二人に逃げ場はない。殺ろうと思えばすぐにでも殺れる。
505 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:06
ナカザワの声はまだ落ち着いていた。くぐり抜けてきた修羅場の数が違う。
いつかこういう事態が起こる日も来るだろうと思っていた。
準備がないわけではない。

「イシカワって言ったっけ。お前、めっちゃ目がええな。
 そこから数字を読んで、しかもタトゥーやと指摘できるなんて。なかなかできひんで」

確かにイシカワが座っているところからヨシザワまでは少し距離があった。
タトゥーもそんなに大きなものではない。
それなのにズバリと指摘したということは―――
この女はあらかじめこのことを知っていた?

ナカザワは一瞬のうちにそこまで判断した。
だがイシカワの狙いが何であるのかが、まだ理解できなかった。

なぜ余計なことを喋る? あたしたちに何を伝えたいんだ?
この女はあたしたち4人を敵に回して勝つ自信があるのか?
一体何者だこの女?
506 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:06
「同じです。あたしのタトゥーと全く同じです」

イシカワはそう言って右袖をまくりあげた。肩には「9」という数字があった。
今度はナカザワが目を剥き、息を飲む番だった。

同じと言われても簡単には判断できない。
確かになるほどイシカワの肩にあるのは「9」という数字のように見える。
だがそれがヨシザワと同じであると、どうやって判断するればいいのか?
ナカザワの肩には1というタトゥーがあるが、ヨシザワのと比べたことなどない。
際立った特徴があるとも思えない。ただの数字だ。

イシカワがここまで簡単に断言する理由がわからなかった。「全く同じ」だと?
やはりこの女は―――何かを知っている? 何を知っているんだ?
施設の関係者なのか? テラダと関係がある人間なのか?

ナカザワは目でツジとカゴの動きを制する。
まだだ。まだ簡単には殺せない。もう少し話を聞いてからでも遅くない―――
そう考えている時点で、既にイシカワの術中にはまっているのだろうか?

だがそれでもナカザワは動くことができなかった。
507 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:06
「わかるんです。同じタトゥーだってことが。だってあたし目が良いから」
ナカザワの疑問を感じたのか、イシカワは先回りして答えた。
先ほどまでの暗くて自信なさげな表情は消えていた。
今のイシカワは何かを吹っ切ったような、凛とした空気を漂わせている。

クスリと笑ってイシカワが言う。なかなか魅力的な微笑みだった。
「ナカザワさん、結構化粧が濃いですね」
機先を制されたナカザワが言葉に詰まる。
その間にもイシカワは畳み掛けるように、ナカザワの使っている化粧品を指摘した。
メーカーからブランドから製品番号から、何から何まで一致していた。

驚く間も与えずイシカワは告白する。
「見えるんです全部。化粧品の粒子まで全て。あたしキャリアだから」
イシカワはまくりあげていた袖を下ろした。
その動きにツジとカゴが敏感に反応する。今にも飛び掛りそうだった。

「待て」
ナカザワの言葉だけが部屋の中に響く。
イシカワはその言葉の意味をわかりかねているようだった。
自分に敵意が向けられているなんて、全く信じていないような無防備さだった。
だがイシカワが無防備であればあるほどナカザワの警戒レベルは上昇していく。

今やそれはレッドゾーンを突っ切っていた。
508 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:07
「あんたもあそこにいたんだ」
ヨシザワの声の無防備さもなかなかのものだった。
完全に戦闘モードに入っているナカザワとは違い、
まるで昔からの友達に話しかけるような気安さで話しかけた。

「へー、9番なんだ。じゃあやっぱりナカザワさんが言ってたことは正しかったんだ」
「正しいってどういうこと?」
「ていうかあんたさ、あの施設についてどれくらい知ってるの?」
「なんにも知らない。投薬のバイトに行ったらこれを貼られたの。そして事故があった。
 あの事故が何だったのか全然わかんない。あなたは知っているの?」
「全然しらない」

1秒ほど見詰め合ったヨシザワとイシカワは、どちらからともなくプッと噴き出した。
にらめっこの直後のような、感情の反動が二人を襲う。
笑う意思など全くないのに、どうしようもないほど笑いがこみ上げてくる。
抗うことはできなかった。

「うふふふふふふ」
「あははははははは」
「やだあ、全然知らないんだ。うふふふ」
「あはははは。知らないっつーの。ていうかおめー誰だよ。はははは」
「ふふふ。だからイシカワリカだって」

二人はツボにはまったかのように笑い転げている。
その場にいたナカザワたちはあっけに取られていた。
509 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:07
10秒ほど笑った後で気を取り直したイシカワは、
真面目な表情を作ってからナカザワに自分のことを説明した。

事故直後に施設に爆撃があったこと。
その爆撃のドサクサに紛れて逃げ出したこと。
何をどうやってもタトゥーを消すことができなかったこと。
タトゥーがあるために、あの事故のときに施設内にいた人間として、
自分が当局から指名手配されているのではないかと疑っていること。
だから検閲所を通って関東から出ることもできずに、
キャリアとしての能力を駆使して今まで関東で生き延びてきたこと。

キャリアが検閲所でのチェックをパスするのはまず不可能だった。
そして検閲所を裏から抜けるためには、賄賂として莫大な裏金が必要になる。
そのことは関東に住む人間なら誰でも知っていることだった。
そんなわけでイシカワはこの3年間ずっと関東で暮らしていたのだという。

長い話が終わる頃にはツジとカゴもすっかり警戒を解いていた。
一言も挟まずにじっと話を聞いていたナカザワは、話が終わると一つ質問をした。

「その子はなんや。誰やねん」

イシカワの隣にいた少女はニコリと微笑んだ。
「クスミコハルです」彼女はそれ以上のことは言わなかった。
510 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:07
イシカワは人差し指を顎に当てて、少し考えるような仕草をする。
だが最初の時のような困惑はもうなかった。
どう隠せばいいのかではなく、どう話せばいいのかを迷っているようだった。

「この子はあたしの家族みたいなもんなんですよ。施設とは全然関係ない子です。
 施設から逃げた直後に知り合って。この3年間、ずっと一緒に暮らしてきたんです。
 この子もあの事故の後の関東暴動で身寄りがいなくなっちゃったんです。
 一緒に雇ってくれませんか?」

最後の一言でナカザワはハッとなった。そういえばこれは雇用の面接だった。
あまりの話の急展開にそのことを完全に忘れていた。

もう既にナカザワはイシカワを雇うことに決めていた。
勿論、完全に信用したわけではない。
だがこの女が施設にいたということはまず間違いないだろう。
そんな女を「不採用です」の一言で手放すなんてことは考えられなかった。

とりあえずは手元に置いておきたい。
おいおいわかってくることもあるだろう。
511 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:07
「どうやヨッスィー。あんたの新しいマネージャー、この子でええか?」
「別に何でもいいっすよ」
ヨシザワはどんなことに対してもあまりこだわらない。
どちらかというとナカザワの判断に流されるタイプだった。

だがイシカワに対してはまんざらでもないようにも見えた。
少なくともヨシザワは初対面の女と一緒にケラケラ笑うような女ではない。
それなりに気が合うと感じた部分もあるのかもしれない。

面倒臭さそうな態度をしていたが、ヨシザワがそういう態度をとる時は、
案外内心では喜んでいることが多いことを、ナカザワはよく知っていた。
これも一種の一種の照れ隠しだ。

「ほな決まりや。ただし一人だけや」
「えー!」
「えー!」
「えー!」

三人が声を揃える。三人とはイシカワとクスミと―――ヨシザワだった。
なんやねん。そっちの子も気に入ってたんか。節操ないのう。
ナカザワは、ヨシザワに対する自分の判断が、半分しか当たっていなかったことを知った。
512 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:07
「うるさい! こっちにはこっちの事情があるんや。一人分しか金は出せん。
 イシカワ採用。そっちの子供は不採用。うるさい! 文句言うなボケェ。
 こっちも慈善事業でやっとるわけやない。ビジネスや。割の合わんことはせん」

話はそれで終わりだった。ナカザワは一度下した決断を覆すことはない。
イシカワに一枚の紙切れを渡して「明日から来い」とだけ言い残して部屋を去った。

紙には古ぼけた建物の写真が載せられていた。
写真の下には地図と住所が書いてある。
一番下にはナカザワの直筆のサインが書かれていた。

「ごめんねえ。コハルちゃん。雇うの無理だって」
「なんやねんその声。キショイねんヨッスィー」
「だって可哀想じゃんかー」
「だいたい子供には無理な仕事やと思うで」
「面接で合格とか言ったの誰だよ」
「うっさいボケ」
513 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:07
くだらない言い合いをするヨシザワとカゴをよそに、クスミはぷうと頬を膨らませた。
「でも一人雇えただけでもよかったじゃん!」
ツジがそう言ってヨシザワの背中にのしかかる。
本当は新顔のイシカワとやらの背中に乗ってみたかったが、
さすがに恥ずかしくてできなかった。

「じゃ、明日から来ます。そのときにまた色々教えてください」
「え? 今日はもう帰るの?」
「すみません・・・・・これからの準備もあるので・・・・・」

ナカザワが渡した紙は、フォースからほど近い場所にあるマンションの入居書類だった。
どうやらここから通えということらしい。
部屋の間取りは、どう見ても二人以上で暮らせる広さがあるものだった。
ナカザワなりにクスミのことにも気を使ってくれたらしい。
さっそく今日のうちに、ここに入ろうとイシカワは思った。

その方が―――「こちら側」にとっても何かと都合がいい。

「ふうん。じゃあまた明日」
部屋を出て行く石川に向かって、ヨシザワは少し残念そうに手を振った。
514 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:08
515 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/02(火) 23:08
フォースの建物を出て数分歩いてから、イシカワは後ろを振り向いた。
すっと目を細める。
キャリアとなって視力が異常なまでに高まっていたイシカワは、
こうやれば数キロ先のものまで見えるようになっていた。

「ふう。どうやら監視はついてないようね・・・・・」
「信用されたってことかなあ!」
「さあ・・・・・むしろ警戒が強まったような・・・・・」
「そうかなあ?」
「施設の話は・・・・・しなかった方がよかったんじゃ・・・・・」
「そんなことないですって! そんな自信なさそうにしてどうするんですか!
 ECO moni本部にも良い報告ができるように、頑張ってくださいよ、イシカワさん!」

クスミは明るく答える。
自分が雇われなかったことは、もう何とも思っていないようだった。切り替えが早い。
「ホントに、イシカワさんにかかっているんですからね―――」
クスミは邪気のない顔で笑う。本当に邪気がないことをイシカワは知っていた。
だから恐い。底が見えない。この子は恐い。

「あのナカザワって人を殺せるかどうかは、ね」
516 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/02(火) 23:08
517 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/02(火) 23:08
518 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/02(火) 23:08
519 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:51
次の日からイシカワはフォースで働くことになった。
仕事の内容はツジとカゴが教えてくれた。
二人は自分の仕事がない時はイシカワにまとわりつき、うるさいくらい喋りかけてきた。
そんな二人にどう接すればいいのか。イシカワは二人との距離を計りかねていた。

「ねえ、カゴさん。自分の仕事はいいんですか?」
「あいぼんでいいよ」
「え? あいぼん?」
「カゴアイだからあいぼん。みんなそう呼んでるし。それと敬語はなし! 話しにくいじゃん!」
「なあ、のん」
「なに?」
「それ、あたしの台詞やん!」
「えへへへへ」

ツジとカゴは万事この調子だった。
彼女たち二人はイシカワのことを「リカちゃん」と呼んだ。遠慮など微塵もない。
他人との間合いを計ることなく、いきなり懐に飛び込んでくる二人のやり方に、
イシカワは大きな戸惑いを覚えた。初めて見るタイプの人間だった。

それでもイシカワは自分の使命を忘れてはいなかった。
「ねえ、あいぼんとのんちゃんもあの施設にいたの?」
声が少し震えた。他人を謀るのは好きではない。何度やっても慣れなかった。
だがツジとカゴはイシカワの微妙な変化になど全く気付かない。
520 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:51
「うん。いたって言ってもホント一週間くらいだよ」
「じゃあ、あたしと同時期に入ったんだ」
「そうそう。ナカザーさんがそう言ってた」
「え?」

その当時、ナカザワはかなりの情報を持っていたらしい。
施設の3期メンバーとしてゴトーという少女が入った後に、
4人の少女が4期メンバーとして追加されていたことも知っていた。
そのうちの3人がヨシザワ、ツジ、カゴであることは施設から脱出する時に知った。

だが残りの1人がどうなったかは全くわからないままだった。
もしかしたら爆撃に巻き込まれて死んだのではないかと思っていたらしい。

「だからリカちゃんがタトゥーを見せたときは納得したんじゃない?」
521 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:51
イシカワは昨日のヨシザワとの会話を思い出す
あの時確か彼女は「ナカザワさんが言ってたことは正しかったんだ」と言った。
それはつまりそういうことだったのだろう。
上手く納得してもらえたのだろうか。

「つまりあたしら4人は同期みたいなもんやん」
それはカゴが3人でいるときによく言うことだった。そこに今、イシカワが加わった。
ホッとしたのもつかの間。イシカワの耳に痛い質問が飛んできた。

「で、リカちゃんもキャリアなんやって?」

キャリアであることを隠すつもりはなかった。
使える人間だと思われなければここで働くことはできなかっただろう。
だがどんな能力を持っているのかは、なるべく言いたくなかった。
522 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:51
言葉に詰まっているイシカワを助けるように、ヨシザワが部屋に入ってきた。
イシカワとカゴの会話が途切れる。

「あー、あー、あの、イシカワサン」
「なんやねんヨッスィー、照れてんのかいな」
「うっさいな」
指摘するまでもない。
言葉が丁寧な割には態度がよそよそしい。
本人は隠しているつもりかもしれないが、付き合いの長いカゴやツジが見れば、
一目で「照れているんだ」とわかる態度だった。

「リカちゃんでいいって」
「なんだよのんまで。関係ねーだろ」
「ほらほら。言うてみろや。『リカちゃーん』って。あははははははは」
「『りかちゅわーん、あいちてるー』。きゃははははは」

ヨシザワの蹴りが飛ぶ。
さっと間合い十分でかわしたカゴの鼻面にヨシザワのスリッパが見事命中した。
返す刀で、ケラケラと笑っていたツジの頭をはたく。ぱーんと軽くて良い音がした。
動きは速かったが、イシカワの目にはとても面倒臭そうにしているように見えた。
怒らせてしまったのかとハラハラする。
523 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:51
だが殴ったヨシザワも、殴られたツジとカゴもそれ以上騒ぐことはなかった。
この程度のじゃれ合いは、いつものことなのだろうか。

「書類見たけどさあ、タメ年なんだよね、あたしらって」
「え、あ、はい」
面接のときに出した書類のことを言っているのだろう。
嘘をつくこともないので、生年月日などはそのまま書いた。
「じゃあもう『リカちゃん』でいいよね。あたしのことは『よっすぃー』でいいから」

ツジとカゴがひゅーひゅーと喚きたてる。
満面の笑みとはこのことを言うのだろうか。
二人とも見るからに頭が悪そうな表情をしていた。
そんな二人のにやけ面を見てヨシザワは、仏頂面で「うっせぇバーカ」とつぶやいた。

イシカワは顔を赤くして頷いた。感じたことがそのまま顔に出てしまう。
彼女はヨシザワのように照れ隠しが上手ではなかった。
524 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:51
「あー、で、こっちが本題なんだけど」
「はい」
「来週、クラブでのファイトが決まったからさ、準備始めてほしいんだけど―――」

イシカワが反応するより先にツジとカゴが二人同時に大きな声をあげた。
「えー! マジかよ!!」
「はあ!? なに言うてるねん!!」

二人が驚くのには理由があった。ヨシザワの怪我は確かに治った。医学的な意味では。
だが彼女の体調はまだ本調子には程遠かった。
命のやり取りをするような激しい戦闘に耐えうるまでは回復していない。
今、ファイトなどをやれば痛い目に遭うのは間違いないと思えた。

だがなぜかヨシザワはそんな二人の反応を楽しむ余裕があった。
さっきまでの仏頂面はどこにもない。
「大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃねーよ。バカ言ってんじゃねーよ」

ツジよりはカゴの方が若干冷静だった。
「もしかして相手すっごい弱いん? 相手と話ができてるとか?」
525 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:52
フォースでのファイトに参加すればそれだけでちょっとした「ハク」が付く。
そういうわけで負けを承知で参加を申し込んでくる人間も多かった。
金にがめついナカザワは、そんなときは相手にあらかじめ話をつけ、
わざと「派手に戦ったけど惜しくも破れた」という筋書きでファイトを作ることがあった。
八百長である。勿論その分、相手には通常の数倍の参加料を吹っかけた。

「ああ、相手ね。すげえ強そう。マジで強そう。マジで自信満々だった。
 ナカザワさんが話を持ちかけたけど、軽く蹴られたよ。ありゃキャリアかもね」

ヨシザワはそう言ってケラケラと笑う。完全に他人事だった。
さすがにツジもヨシザワが何かを隠していることに気付いた。
おかしい。なにかがおかしい。でもそれがなんであるか全然わからない。
ガリガリと人差し指の爪を噛む。ツジが思考の迷路にはまったときのクセだった。

カゴには一つ思い当たることがあった。
「まさか・・・・・あたしに戦えと言うんやないやろな」
526 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:52
カゴとツジも過去に何度かリングに上がったことがあった。

だが人間には向き不向きがある。
普段は人並み以上に図太い性格をしているが、そのくせ過度の緊張症のカゴ。
人の指示は聞かないくせに、いざ一人で自由にやれと言われれば何もできないツジ。
二人は大金を賭けた客の前でファイトをするには、あまりにも不向きな性格だった。

「あはははは。まさかー。あいぼんに戦えなんて言わないって」
ヨシザワは豪快に笑って否定した。
そのままツジの傍らまで歩き、ぽんとツジの肩に手を置いた。
ヨシザワは、ツジとカゴのような下品な笑顔は浮かべない。
あくまでも天使の羽のように、ふわりと上品に微笑んだ。

「そういうわけで、頼んだよ、のん」
ツジの頬がひくひくと痙攣している。どうやら笑おうとしているらしい。
情けない瞳をカゴに向ける。カゴはその視線を右から左へと受け流した。

勿論、カゴはツジのことを友達と思っていたが、
それはあくまでも自分の身に災いが降りかかってこない範囲でのことだった。
彼女にとって、我が身よりも大切なものなど何もない。
527 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:52
「あのー、じゃあ、のんちゃんが戦うってことですか?」
事情をよく理解していないイシカワが軽いノリで尋ねる。
ヨシザワが「そういうことっすねー」とこれまた軽いノリで返した。

それまで3人の会話に対して所在なげな態度しか取れなかったイシカワは、
自分が参加できる会話のとっかかりを見つけたことに気を良くし、
いきなり、唐突に、脈絡もなく、弾けるようにテンションを上げた。
「じゃあのんちゃん! 頑張ってね! 絶対勝ってね!」

花が咲くようにイシカワの表情がパッと明るくなる。
がしがしと無遠慮にツジの肩を揉んだ。
そんなイシカワを、ツジは鬱陶しそうな顔で見つめる。

なんだこいつ。大人しそうな顔してこんなにうざいヤツなのかよ。

そう思ったツジだったが、何も言い返すことができなかった。
それよりもファイトに出なければならないという現実が重くのしかかる。
言葉が出ない。文字通りぐうの音も出なかった。
528 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:52
529 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:52
「交渉は一応上手くいきました」
「一応上手くいった? 一応? ふん。なにがやねん」

成果を報告する女に向けられた言葉は刺々しかったが、男の機嫌は悪くなかった。
含み笑いをもらしながら、右手に持ったマウスをカチカチといじる。
PCのディスプレイには拡大された東京都区内の地図があった。
いくつかの光点がチカチカと輝いている。
そのうちの一つは一際大きな橙色の輝きを放っていた。

「フォースでのファイトは来週ということになりそうです」
「どや。ナカザワには焦りみたいなもんがあったか?」
「いえ全然」
「ほう。あの程度のことは日常茶飯事ってわけや」

女は「あの程度のこと」の内容を思い出す。
ファイターを使うのではなく、マネージャーを取り込むという発想は悪くなかった。
そして至近距離からの狙撃。暗殺計画は全て予定通りに進行した。
ヨシザワの命を奪えなかったこと以外は―――

だが失敗を報告したときの男の―――テラダの反応は不思議と悪くなかった。
530 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:52
むしろテラダは失敗を楽しんでいるようにすら見えた。
3年かけて追い続けた獲物だ。失敗して楽しいわけはないはずだ。
だが彼にはまだ獲物の抵抗を楽しむ余裕があるようだった。

余裕というよりも、それが彼の生き方そのものなのかもしれない。
どれほど重大なミッションの最中にあっても遊び心を忘れない。
この3年の付き合いでこの男の性格についてはよくわかっているつもりだ。

「ほな。ヨシザワのダメージは大したことなかったちゅうわけや」
「いえ。まだ完治していないようです。来週のファイトには11番が出てくるそうです」
「11番?」
「二人いたチビの・・・・・・・・頭の悪そうな方です」
「二人ともアホやったやんけ」
「その・・・・・デブじゃない方です」
「二人ともデブやったやんけ」
「・・・・・・・八重歯の方です。禿げてない方の」
「あっはっは。あのガキか。そりゃ良えわ」

テラダは快活に笑う。だが良いわけはない。計画は大幅に変更しなければならないだろう。
変更というよりも―――こうなった以上、全て一から練り直さなければならない。
531 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:53
「搦め手が必要やな」
「同感です」
フォースのことについては入念に調査している。
彼らの標的はナカザワだった。ナカザワの命が欲しい。
だが組織のトップにいるナカザワは当然ながらガードが固い。異常に固い。

そこで彼らはフォースの中核を担っているヨシザワに目をつけた。
ナカザワがフォースの頭脳なら、ヨシザワはフォースの心臓と言える。
ここを潰せばフォースは一気に弱体化する。
そこで彼らは、ヨシザワ暗殺をナカザワ確保の前段階として計画していた。
だが相手がツジとなれば話は難しくなる。

おそらくヨシザワよりもツジの方が殺すのは簡単だろう。
だが簡単に殺ってしまっては拙い。
ツジやカゴがヨシザワにとって特別な友人であることは間違いない。
そのツジを殺してしまえば、必ずやヨシザワは報復に打って出るだろう。
こちらのことを深く調査されるような事態にもしたくない。

それに屈指の戦闘能力を持つヨシザワは、秘密裏に暗殺したい対象であり、
正面切って事を構えるのは可能な限り避けたかった。
532 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:53
「ちょっとやり方を変えんとイカンなあ」
「はあ」
「はてさて。どうしたもんかいのう・・・・・・・」
テラダはノートPCのディスプレイを閉じた。

シャッとカーテンを開くと薄暗い部屋の中に日が差し込む。
部屋の中には4、5人の人間が座っていた。
テラダの組織は「施設」にいたころの10分の1ほどの規模になっていた。
だが彼には失望はない。焦燥もない。

彼は理解していた。
この戦いを制するにおいて最も重要なのは「情報」だと。
今、この世界で最も多くの情報を持っているのは間違いなくテラダだった。
焦ることは何もなかった。

それにこちらには―――とっておきの「切り札」がある。
533 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:53
テラダは何も恐れていなかった。
ツジやヨシザワのことも。ナカザワのことも。
ウイルス投与者の中で、唯一まだ行方を突き止めていないイイダのことも。
そして―――老人たちのことも。

「よし。こっちもリスクを犯す必要があるやろな」
「リスクを犯す?」
「こっちもオリジナルキャリアを使う」
「!」

巷に溢れているキャリア。それを狩っているのはテラダたちではない。
逆にテラダたちはウイルスを広め、キャリアを増やすことに専心していた。

キャリアを増やし―――キャリアを目立たなくさせるために。
テラダたちが追い求めるオリジナルキャリアを隠すために。
老人たちから隠すために。
534 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:53
キャリアは確かに強い能力の持ち主だ。
だがオリジナルキャリアに比べればその力は数段劣る。

オリジナルキャリア―――
テラダたちは、施設でウイルスを投与した8人―――
ナカザワ、イシグロ、イイダ、アベ、ヤスダ、ヤグチ、イチイ、ゴトウをそう呼んでいた。

「使うってまさか・・・・・サディ・ストナッチを?」
「アホか! そんなわけないやろ。本末転倒やろが」
テラダのプロジェクトはまだ半分も進行していない。
今はまだ切り札を使うような時ではなかった。

「では」
「おう。俺らが押さえてるオリジナルと言うたらあと一人しかおらんやろ」

テラダの中には既に新しい計画が組み立てられていた。
これは面白くなりそうだ。単にヨシザワを殺すよりも―――数倍楽しめそうだ。
施設に居た頃と寸分変わらぬ、溶けるような笑みを浮かべながらテラダは言った。

「ヤグチを呼べ」
535 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:53
536 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:53
イシカワはエレベーターに乗り込み、14のボタンを押した。
ヨシザワと二人しかいない狭い空間はゆっくりと下降を始める。
二人の間に会話はない。気まずい空気が流れる。
ツジやカゴがいるときとは違って、ヨシザワの態度もどことなくよそよそしかった。

ツジは早速トレーニングに入ることになった。
スパーリングバートナーにはカゴが指名された。
その間のクラブの警備は他の人間が担当しろというナカザワの指示だった。
フォースの陣容は一週間後のファイト開催に向けて一新された。
イシカワはヨシザワとともに裏方に回り、ファイトの準備を担当することになった。

14階でエレベーターが止まり、ドアが開く。乗り込んでくる人間はは一人もいない。
そして降りる人間も一人もいなかった。
ヨシザワは降りようとするイシカワを押しとどめ、「閉」のボタンを押した。

「え? あの・・・・・レストランは14階って聞いたんですけど」
「だからさあ。敬語はやめてくんない?」
「はい」
「一応さ、同期ってことになってるじゃん。ナカザワさんの話では」

ヨシザワはそう言って笑いながら、自分の右肩をとんとんと叩いた。
537 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:53
「はい・・・・うん・・・・あの」
「行くよ」
エレベーターが1階に着くとヨシザワはすたすたと歩き出した。
ビルの受付にいる従業員に向かって「おーい、出るよ」と声をかける。
何人かの従業員がバタバタと動き出す。ビルのシャッターが開いた。
イシカワは慌ててヨシザワの後に続く。

「どうぞ」
従業員は厚手のコートをヨシザワに手渡す。
「これも」
ヨシザワはわざと意地悪そうな顔を作って、従業員の着ていたコートの襟をつかんだ。
従業員はヨシザワの背後にいるイシカワを目ざとく見つけた。
苦笑を浮かべながらコートを脱いでヨシザワに渡す。

「かなわないなあ。ヨシザワさんには」
「あとできちんと返すから」
「嫌だなあ。ヨシザワさんの匂いがついちゃうなあ、このコート」
「バカ。あの子に貸すんだよ」
「だからですよ」

ヨシザワは受け取ったコートをイシカワに投げて渡すと、ビルの外に出た。
外には粉雪がちらついている。吐く息が白く曇った。
「今日は外で食べたい気分なんだ。ちょっと付き合ってよ」
イシカワは不必要なまでに緊張しながらヨシザワのリクエストにがくがくと頷いた。
538 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:54
東京は冬だった。
施設の事故の影響なのかは誰にもわからない。
だが東京はあの事故以降、急激に温度が下がり始め、この1年ほどはずっと冬だった。
ヨシザワは上空を見上げる。この1年ほどは太陽も見ていないような気がした。

ビルの前の階段を慎重に下りて、後ろを振り向きイシカワに声をかける。
「そこ、滑りやすいから―――」
気をつけて。と言おうとしたらイシカワが丁度派手にすっ転んでいるところだった。
でん。でん。でん。とイシカワはお尻で3段ほど階段を下りた。

どういう運動神経をしていたらそうなるのだろうか。
階段から落ちたイシカワは、クルリと回転してカエルのような腹ばいの体勢になっていた。
ご丁寧なことに、自分の右ひざが自分のみぞおちにめり込んでいた。
手は? 右手はどこにあるんだ?
とにかくなんとも形容しがたいアクロバティックな体勢だった。

「大丈夫?」
そんなわけねーよな。と心のなかでつぶやきながらヨシザワは手を差し伸べた。
足が変な方向に曲がっている。骨が折れてなければいいが。
539 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:54
「だ、だ、大丈夫!」
イシカワは、まるでそうすれば転んだ事実を帳消しにできると思っているかのように、
勢いよく立ち上がった。
だが勢いが良すぎた。再びイシカワは片足を滑らせて体勢を崩す。
今度はヨシザワが両手でがっちりと受け止めた。

「リカちゃん慌てすぎ・・・・・・・ホント大丈夫? 怪我ない?」
「怪我ないよ! 転んだけど平気!」
「膝、大丈夫? 歩ける?」
「うん。歩けるよ。転んだだけだもん。えへへへ」
「ごめんね。普通に中で食べればよかったね」
「いいよ! ご飯行こう! おなかへった!」

妙にテンションが高い。照れ隠しなのだろうか。ちょっと違う気もする。
どうもこのイシカワという子の性格がイマイチよくわからない。
大人しそうに見えるのだが、変なところで急にテンションが上がったりする。
落ち着きがないし、感情の浮き沈みが激しい。

よくこんなんであんな小さな子を連れて3年も生き延びてこれたなー。

鼻血を出した鼻にティッシュを突っ込んでいるイシカワを見ながら、
ヨシザワは呆れたようなため息を一つついた。
540 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:54
イシカワは右肘を派手に擦り剥いていた。
傷口が真っ赤に染まっている。見ているだけで痛くなってきそうな傷だった。

ヨシザワは大きめのハンカチを取り出してイシカワの腕に巻きつけた。
さすがに消毒液などは持ち歩いていないが、危険が多い仕事柄、
常に最低限の傷の手当ができるだけの用意はしてあった。

「ごめんね。借りたコート汚しちゃった」
ベージュのダウンジャケットにはべっとりと黒いシミがついていた。
洗ってももう取れそうにない。
イシカワはコートを抱えたままだった。着ようとしたときに足を滑らしたらしい。
ヨシザワはそのコートを取り上げて、イシカワの肩にかぶせた。

「気にすんなよ。っていうかあたしのコートじゃないけど」
「だよね」
「これも一つのワンポイントだよ。っていうかあたしのコートじゃないけど」
「だよね」
「いいのいいの。どうせ安物だから。っていうか―――
「ヨッスィーのコートじゃないけど」
「だよね」

二人は顔を合わせてクスクスと笑った。
541 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:54
二人は狭い路地を抜けてゴミゴミとした中通に入った。
ヨシザワの行きつけの店は、看板も何もない廃墟のようなビルの一角にあった。
薄汚れた入り口からはとても想像できないくらい、店内は広かった。
しかしだだっ広い店内には一人も客がいない。妙に落ち着かない雰囲気の店だった。

「オヤジ、いつものスペサルラーメン2つ」

とても繁盛しているような雰囲気の店ではなかったが、出されたラーメンは
この3年間で食べたどんな料理よりも美味しかった。
最後の一滴までスープを飲み干してからイシカワは小声で尋ねた。
「スペサル?」

ヨシザワも負けないくらい小声で返す。
「そう。ここってメニューもなくてさ。一見さんお断り」
「スペシャルじゃなくて?」
「スペシャルもあるよ。それより美味しい最高のラーメンが―――」
ヨシザワはまるで正義の味方が決め台詞を言うときのようにたっぷりと間を置いて言った。
「スペサルラーメン」

イシカワもこういう会話は嫌いではなかった。
殺したり殺されたり。ウイルスがどうたらだったり。
この世界を救うとか、地球環境がどうたらだったり。そんな話より100倍楽しいと思った。
542 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:54
「じゃあ、知る人ぞ知る裏メニューなの?」
「そうだよ。オヤジと親しいあたし以外は知らないんじゃないかな?」
「わあ」
「へへへ。マジでマジで」

店には二人きりしかいないのに、ヨシザワはイシカワにしか聞こえないようにと、
唇を耳のそばまで近づけてこそこそと囁いた。
ただの会話のはずなのに、なぜかちょっとした背徳感がイシカワの心に満ちた。
悪くない感覚だった。

「ごちそうさま。ありがとね、ヨッスィー」
「スペサルのことは内緒ね、特にツジとカゴには」
「え、いいの?」
「いいのいいの。あいつらに教えたら毎日食べに来そうだもん」

こんな会話の方が良い。こんな会話の方がずっと意味があるような気がした。
秘密なんていうものは、くだらないものの方が価値が高い。
仕事仲間ではなく―――仲の良い友達と共有するのなら。

お互いの負担にならない秘密ほど素晴らしいものはなかった。
きっとその輝きは増えることも減ることもないだろう。

イシカワはヨシザワと心の距離が少し縮んだように感じた。
もう「ヨッスィー」と呼ぶことに抵抗はなかった。
543 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:54
544 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:54
雲が空一面を覆っている。
雲は西から東へ流れることはなかったし、東から西へと流れることもなかった。
ただずっとそこに居座り続け、太陽からの光を遮っていた。

ツジは肩をすくめながら動かない雲を見つめていた。
腰掛けているコンクリートから、尻を伝わって冷たい感触が上ってくる。
そこに太陽がないというだけで、どうも気持ちが高ぶってこない。
当たり前のものが、当たり前にそこにある暮らしが懐かしかった。

トレーニングはサボっていた。
抜け出したことがカゴにばれれば口うるさく言われるだろうが、
ナカザワの耳まで届くことはないだろう。
そうなればカゴも一緒に説教を受けることは確実だからだ。

ツジは基本的なトレーニングが嫌いだった。
ファイトは好きだ。相手をぶっ飛ばすときには突き抜けるような快感がある。
殴るのも蹴るのも噛み付くのも好きだった。
だが、それだけだった。試合が終わった後には何とも言えない後味の悪さだけが残った。
なぜそんな気持ちになるのかはわからない。

その理由を考えたことがなかったし、考えることは嫌いだった。
545 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:55
「あーあ。どうせならヤラセの試合組んでくれればいいのに」
勝手に独り言が口から出てきた。
うじうじしているときに出るツジのクセだった。

ツジは別に試合がしたくないわけではない。
ファイトをすればかなりの額の金がもらえるし、勝てばさらに数倍の金がもらえた。
ヤラセの試合になれば、その分、金はナカザワに流れるから
ツジがもらえる額は少なくなるが、安心してファイトに臨むことができる。

だが相手が超有名な不敗のファイターヨシザワならともかく、
そこまで有名ではないツジの場合、そんなヤラセの相手を探すのは難しかった。

金は欲しい。欲しいというのなら、これ以上欲しいものはないというくらい欲しかった。
ツジはこの関東から出たかった。出たくて仕方なかった。
施設のタトゥーが残っているツジは、まともに検閲所を通ることはできない。
それはイシカワが危惧していたとおりだ。おそらくチェックで捕まるだろう。
その後のことは誰も何も保障してくれない。また人体実験行きになる可能性が高い。

そんなツジが関東から出るには莫大な裏金が必要だった。
546 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:55
金。金。金。
普段はあまり意識しないのだが、こういう状況になれば意識せざるをえない。

「アホだよ。よっすぃーは」
ヨシザワはこれまでに稼いだ莫大な金を組織拡大のためにつぎ込んでいるらしい。
どうもヨシザワはこの関東から出て行く気はないように見える。
それどころかこの関東の混沌を楽しんでいる節すらあった。

ツジにはそんな神経が理解できなかった。
混沌とか殺伐だって嫌いじゃないが、そんな刺激はいつだって一時だけのものだ。
ツジは心の底では平々凡々とした安寧な暮らしを欲していた。
この関東にいる限り、そんな暮らしは絶対に手に入らない。

「おい。おめーがツジか?」

いきなり声をかけられたツジは驚いて腰を上げた。
気を抜いていたとはいえ、組織の警護を生業にしているツジが、
背後にいる人の気配に気付かないなんて、普通なら絶対にありえなかった。
誰だ? こいつ? 何者? 敵?
547 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/04(木) 23:55
「今度ファイトするのってお前だろ? そこで相談があんだけどさー。
 良い話があんだよね。美味しい話。ちょっと乗ってみない?」

話しかけてきたのは小柄な少女だった。
ツジもたいてい背が低いが、それよりもさらに少し低い。
背は低いが、少女は明らかにツジよりも年上だった。
メイクがかなり濃い。ナカザワとはま違ったケバケバしさがある。
だがその派手なメイクが、毒々しい少女の雰囲気によく似合っていた。

「誰だよてめー」
次のファイトに出るのがツジということはまだ発表されていないはずだ。
知っているのはフォースの上層部と、対戦相手だけだ。ツジは警戒を強めた。

「おいらか? おいらマリって呼ばれてる。本当の名前は―――」
マリはケラケラと耳障りな笑い声を上げた。
ツジの悪魔のような笑顔と言われることがあったが、マリの笑顔には敵わないだろう。

「マリィ・ストナッチ」
548 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/04(木) 23:55
549 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/04(木) 23:55
550 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/04(木) 23:55
551 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/05(金) 02:08
もしかして歴代娘。オールキャストでしょうか
俄然わくわくしてきました
次の更新も楽しみに待ってます
552 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/05(金) 18:36
毎回の更新がとても楽しみです。
ぐっと引き込まれるストーリー、自分が一番好きだった頃のメンバー、あの頃の彼女らを思い出しながら
読みながら自分もわくわくしています。
553 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/06(土) 09:30
敢えて言おう
名作の予感
554 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:09
無駄に広いラーメン屋に三人目の客が入ってきた。
山ほどある空席の間を縫って、男は真っ直ぐヨシザワの方に向かってくる。
ヨシザワは男の姿を確認すると露骨に嫌な顔をした。
席はガラガラに空いているのに、男はわざわざヨシザワの隣に座った。

「いよう。ヨシザワの旦那。景気はどうよ?」
「ダンナじゃねーよ」
「へへっ。つれねーな。お? 可愛い子連れてるじゃん」
「やめろよ」

男と目が合ったイシカワが硬直する。無意識にヨシザワの方へ体を寄せた。
怖がるのも無理はない。男の耳には数え切れないほどのピアスがぶら下がっており、
頬には暴走族のチーム名のような漢字の羅列が刺青されていた。
見るからにマトモな人間ではない。

男は一目見てイシカワのことを気に入ったようだ。
席を立つと逆側に回り、馴れ馴れしく擦り寄ってイシカワの長い黒髪に触れる。

「ねえ、彼女、この後ヒマ?」
「やめろって言ってんだろ」
「なに? この子ダンナの彼女?」
「だからダンナじゃねーって」
「話してるだけじゃん。あ? あ? 邪魔すんの? あ?」
「うるせーな。嫌がってんだろ」
555 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:10
男はヨシザワの言葉を堂々と無視し、
ポケットから銀色のアクセサリーのようなものを取り出す。
カチャリ。ひんやりとした乾いた音がした。
「ひっ」
イシカワは反射的に男から離れようとしたが、もう遅かった。
男の腕とイシカワの腕は銀の手錠でつながれていた。

「あはははははははは。つーかまえた、つかまえた」
男の目は完全に飛んでいた。異常に長い舌が顎の辺りまで伸びる。
粘度の高そうな一筋の唾液がゆっくりとテーブルに落ちた。

「てめえ・・・・・ラリってんのかよ」
「ふひ。ダンナも飛ぶ?」
「ざけんな! 出禁にすんぞ!」
「出禁? へえ」
男はフォースに出入りしている麻薬密売人だった。密売人と言っても末端も末端。
背後関係などないに等しい一匹狼的な売人だった。

「ざけんなよヨシザワ。おっ。おっ。おっ。おっ」男の声色が変わった。
手錠がかかっていない方の手をイシカワの顎にからめた。イシカワは声も出ない。
「おっ。おっ。おっ。おれはおめーの下っ端じゃねーぞ、コラ!」
556 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:10
「上等だよ」
席から立ち上がったヨシザワだったが、イシカワを盾にする男の動きの方が速かった。
男の腕は、イシカワの顎から喉を伝って、首筋にからまる。
きゅっと締めるとイシカワは「くぅ」と息を漏らし、金魚のように口を開けた。

「上玉だよねーこの子。高く売れるよ。ははははは」
男はヨシザワの反応を楽しむようにイシカワの唇を指でなぞる。
「売るのは勿体無いか。飼っちゃおうかなーおれんちで」
二本の指を突っ込み、強引にイシカワの口をこじ開けた。
ねっとりとした手つきでイシカワの舌を弄ぶ。男の目には恍惚の光が宿った。

男は体と片腕で器用にイシカワを押さえながら、ポケットから小さな紙包みを取り出した。
「ふひ。今丁度とびきり上物持ってんだよね」
男は慣れた指使いで紙包みを開いた。イシカワの目に白い粉薬のようなものが映る。
そこにある「上物」の粉がなんであるのか。フォースで働くヨシザワにはよくわかっていた。

「よせ」
「吸う? 彼女?」
557 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:10
ヨシザワは金縛りにかかったかのように動けなかった。
薬を持っている手はイシカワの手と手錠でつながっている。
丁度男の体はイシカワの体に重なり、隠れる形になっていた。
下手に攻撃すればイシカワも一緒に吹っ飛ぶ。
かといって加減して攻撃すれば、それこそどう反撃されるかわからない。

男はヨシザワから目を逸らさない。
イシカワをいたぶっているのではない。男はヨシザワをいたぶっていた。

「やめろって」
ヨシザワの声が震えを増す度に、怯えを増す度に、
男の脳髄はとろけるような快楽の波に沈んでいった。

「さ、彼女、遠慮なくどーぞどーぞ」
男が紙包みをイシカワの鼻面に突きつけようとした瞬間―――
ヨシザワの耳元を「ヒュ ン」という音が通過していった。
558 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:10
ヨシザワの耳に焼けるような痛みが走った。
その痛みを追い越すように「ガウ ン」という重い銃声が店内に響き渡り―――
男の頭蓋骨がザクロのように割れた。衝撃で男の体が吹っ飛ぶ。

轟音は一度では終わらなかった。
間を置かずに耳をつんざく轟音が二度三度と店内を駆け抜ける。
その雷鳴のような銃声は―――まるで濡れた画用紙を破くように
鮮やかに店内の空間を引き裂いていった。

衝撃で一瞬浮き上がった男の胸に、腹に、数発の弾丸がめり込んだ。
男の体はいくつもの黒い穴を空けながら背後に倒れる。
手錠でつながった手に引きずられるようにしてイシカワも倒れた。

銃声を聴いた瞬間、反射的に床に伏せていたヨシザワはゆっくり5つ数えた。
もう銃声はしない。顔を上げて視線を走らせる。
確認するまでもなく、男は死んでいた。即死だろう。
イシカワは―――イシカワの肩は真っ赤に染まっていた。

流れ弾が―――考えるよりも早くヨシザワはイシカワに駆け寄った。
服の下からじんわりと赤い血がにじみ出てくる。イシカワの顔は紙のように真っ白だ。
すぐに医者を――― 手当てを―――
そう言おうとして振り返ったヨシザワの目の前に一人の少女が立っていた。

黒い少女が立っていた。
559 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:10
まず目に入ったのは少女の黒い髪だった。
肩まで伸びた艶やかな髪はこの世のものとは思えないほど黒かった。
黒いことに何か意味でもあるのではないか。なにか必然性があるのではないか。
見た人間にそう思わせるほどの不思議な黒さを秘めた髪だった。

瞳も黒だった
まるでその空間だけぽっかりと穴があいているようだった。
穴の向こう側には何もなかった。深い虚無が佇んでいた。

少女は黒の革のロングコートを着ていた。
下は同じく黒の革のパンツだった。
引き締まった腰からすらりと伸びた足は、非現実的なほど完璧なバランスを保持しており、
見ていたヨシザワを足フェチに変えてしまいそうなほど美しかった。

足だけではない。
腰を見れば腰の、指を見れば指の、鎖骨を見れば鎖骨の、首を見れば首の。
それぞれの部分の虜になってしまいそうなほど、全てが美しく、エロティックだった。
人間が考えうるフェティシズムを、全て満たすようなパーツの集合体がそこに立っていた。

それでいてアンドロイドのような非人間的な無機質感はなかった。
匂ってきそうなほど濃い女の香りがした。雌の匂いがした。
女らしさと美しさは完全に一致する概念なのだという実証例のような女だった。
女の手には黒く艶光りする拳銃が握り締められていたが―――
それすら女らしく、美しく見えた。
560 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:11
黒い少女はつかつかと歩み寄ると、男の死体をぽーんと蹴り上げた。
取り出した携帯電話で男の顔を撮影する。画像をどこかにメールしているようだ。
それが終わると、おもむろに電話をかけ始めた。
相手が出るまでの間、少女は怪我をしているイシカワにチラリと一瞥をくれた。

「こちらマキ。標的413号をD確保。メール送信済み。軽傷一名。以上」
以上と言い終わるよりも早く、マキは携帯を折り畳んで腰のポケットに入れた。
ぐるりと店内を見渡し、何もないことを確認すると近くの椅子に座った。

「店の人は?」
愛想の欠片もない言葉だったが、独り言ではないようだ。仕方なくヨシザワが答える。
「オヤジは奥に居る。揉め事があっても出てこないよ。ラーメンしか作らない人だから」
「ラーメン? メニューは?」
「ない。ここは一見さんは相手にしない店だから」

しばらく相手をしていたヨシザワだが、段々イラついてきた。まるで尋問だ。
「あのさあ、こっち怪我人いるんだけど」
「医者は呼んだ。ここに来るまで、まだあと30分はかかる」
マキは再びイシカワの方に目を向ける。イシカワの肩は赤く染まっている。
ヨシザワの応急処置によって、腕はタオルで釣られて固定されていた。

そして弾丸がかすめていったヨシザワの耳からは、
まるで真っ赤なイヤリングのような一筋の血が流れていた。
561 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:11
「あんた看護婦?」
「まさか。それより手伝ってよ」
「手当てならそれで十分」
「ちげーよ。鍵だよ鍵。鍵探すの手伝ってよ」
「鍵?」

イシカワと男の手とは、まだ手錠でつながっていた。
ヨシザワは男の体を必死にまさぐって、手錠の鍵を探していた。

「あんたさあ、探すのは得意だろ」
「え? なんで?」
「探すのが仕事みたいなもんだろ。麻取ってのはさ」
「へえ」
ようやくマキの表情が少し変化した。

電話でのやり取りを聞いて、ヨシザワはすぐに少女が麻薬取締官であると察した。
ヨシザワも仕事柄、そういった人間から尋問や立ち入り検査を受けることがある。
話し方や言葉使いなどからピンと来た。まず間違いないだろう。

それにしても―――だ。
「多分これだね」
マキが男のピアスからほんの一瞬で鍵を見つけたときは、さすがに少し驚いた。
562 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:11
「じゃ、お礼にラーメンでもおごってよ」
見かけによらず厚かましい少女だった。
少女を見たときに最初に感じた「黒」という印象はもう消えていた。
拳銃を仕舞い、椅子に腰掛けてほころぶように崩したその表情は、
柔らかく、明るい茶色のような笑顔だった。

そんな明るさもヨシザワにとっては少し不快だった。
厚かましい。今さっき初めて会ったばかりだ。お互いまだ素性もよく知らないのに。

厚かましいというよりも、このマキという少女は、
人と人との距離感をあまり意識していないように感じられた。
それよりなにより―――。

「これ、あんたに撃たれたんだと思うんだけど」
命に別状はないが、浅い傷ではない。イシカワはまだ軽いショック状態のようだった。
「大丈夫? リカちゃん」
「うん・・・・・よっすぃー。たぶん・・・・・大丈夫」
問い掛けにはきちんと答えるものの、表情には生気がない。
563 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:11
「リカちゃんっていうんだ」
マキは立ち上がってイシカワに近づく。

「で、あんたがヨッスィー」
マキは怪訝な顔をするヨシザワをゆっくりと押しのけた。イシカワの頬に手を当てる。

すべすべとしたイシカワの頬の上をマキの掌が滑る。
皮膚と皮膚のこすれる柔らかい感触がイシカワの頬に伝わった。
その瞬間、イシカワの体にピリッと電流のようなものが流れた。

「うん。大丈夫だよ。弾はかすっただけ。命に別状はないって」
「それってさあ。撃った方が言う言葉じゃないと思うけど」

謝罪の言葉が欲しいわけではない。
マキがイシカワを救うために撃ったことは、ヨシザワもよくわかっている。
だが全く悪びれることなく話している少女を見ると、何か納得できない気持ちになった。
564 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:11
「で、ラーメンは?」
マキはあくまでもおごってもらうつもりのようだった。しつこい性格なのだろうか。
それにしても死体や怪我人の横で食べようなんて良い根性をしている。
「あたしはあんたの名前も知らない」
「あたしは知ってる」
「は?」
「クラブフォースの看板ファイター、ヨシザワヒトミ」

無防備な背中をつるりと撫でられたような冷たい感覚がヨシザワの中に走る。
自分の全く知らない人間が、自分の名前を知っている。
それはおぞましくもあったが、少しくすぐったいような快感でもあった。
だが相手が麻取となると、そんな無邪気なことも言っていられない。

「マキ、でいいのかな。あんたの名前」
「覚えなくていいよ」
「あたしは―――名前も知らないヤツにおごってやれるほどクールじゃない」
「格好良いね。じゃあ、おごってくれたら忘れていいよ」
「忘れない方がいいかもしれない」
「撃たれた恨み?」
「いんや」

もうイシカワが撃たれたことはそんなに気にしていなかった。
銃撃、負傷、殺し合い。今の関東ではよくあることだ。
感謝、謝罪、思いやり。今の関東では消えてしまった概念だ。
565 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:12
「フォースをマークしてる麻取の名前なら覚えておかないとね」
「後ろめたい部分があるんだ」
「やり合う可能性が―――ないわけじゃない」
脅しではなかった。麻取相手にびびっていてはあの商売はできない。
やり合う必要があるならどんな組織ともやり合う。その姿勢を崩すつもりはなかった。

「へえ。やり合う、ね」
「必要があるなら、ね」
「あたしは―――名前も知らないヤツを殺してやれるほどクールじゃないってか?」
「クールじゃなくても人は殺せる」
「同感だね」

笑いながらする会話ではないはずだったが、マキはなぜかとても嬉しそうだった。
余裕か。それともハッタリか。ヨシザワはマキの真意を計りかねる。
この人懐っこさはマキ生来のものなのだろうか。それとも駆け引きの一つなのか。

楽天的な性格をしているヨシザワは、マキの笑顔をそのまま受け取ることにした。
少なくともフォースは麻薬の取引に直接関与はしていない。取り引きの場を提供するだけだ。
そんなことは調べればすぐにわかることだろう。
これは捜査じゃなくて軽い雑談―――ヨシザワはそう思っていた。この時点ではまだ。
566 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:12
「おごってくれたら忘れていいよって言ったけど―――」
表の方が少し騒がしい。白衣を着た何人かの男が店に入ってきた。
「それはナシになりそうだね。残念ながら」
マキはそう言って席を立った。

ストレッチャーを引きずった白衣の男たちにマキは指示を出す。
先に死体を担ぎ出そうとした男たちを蹴飛ばし、怪我人のイシカワの手当てを優先させる。
ヨシザワができることは何も無かった。
連絡先を尋ねられたので、イシカワの住所とフォースの住所を教える。

男たちはイシカワが着ている服をびりびりと破く。
肩を露出させて傷口の消毒にあたる。

その時、ヨシザワの神経がざわっと逆立った。
何かが横にいる―――獰猛な野獣のような何かが―――
567 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:12
ヨシザワの横にはマキがいた。
真っ黒な髪、真っ黒な瞳をした黒一色の少女がそこにいた。
イシカワの肩に彫られた「9」というタトゥーを映した黒い瞳は、
修羅場慣れしたヨシザワの神経を逆立てるほどに、深い闇を湛えていた。

「また次の機会に」
真っ黒な背中を陽炎のように揺らしながら、マキは暗い街頭へと消えていった。

ヨシザワはマキに対する自分の認識の甘さを思い知らされた。
そして、確実に訪れるであろう「次の機会」は、自分かマキか、
どちらかの生死に直結したものになろうだろう―――ぼんやりとそう考えていた。
568 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:12
569 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:12
イシカワの怪我は思ったよりも軽傷だった。
一応、潰れかけた病院らしき建物で、医者らしき者の診断を受けたが、
ただヨシザワの応急処置の手際の良さをほめられただけで、
それ以上の手当は受けなかった。

「送っていくよ」
ヨシザワはイシカワの手を取り、慎重にエスコートした。
呼び出したフォースの従業員に借りていた上着を返す。
上着には黒い血痕がベッタリと付いていたが、従業員は何も言わなかった。
軽口一つ言うことなく、神妙な顔で車の鍵をヨシザワに渡した。

空はいつものようにどんよりと曇っている。
まだ日が沈むには早い時間だったが、街の雰囲気は暗かった。
ヨシザワは丁寧なギア操作で車を走らせる。
あちこちに瓦礫の転がったデコボコ道の上を、車は滑らかに走っていった。

「寮でいいんだよね?」
「うん」
イシカワは昨日のうちに、ナカザワから紹介された寮に入っていた。
引越しの手続きや準備などは全てクスミに任せていた。
クスミ一人なら頼りないが、きっと組織の人間が上手くやってくれているだろう。
570 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:13
二人はほとんど会話を交わさないまま寮についた。
寮は小さなホテルを簡単に改装したものらしい。
1階はロビーのような広いスペースになっていた。

二人が寮の扉を開けると、その広いスペースで15人ほどの子供が騒いでいた。
「なにこれ?」イシカワは驚いた。
昨日、実際にここに来たのは深夜になってからだ。
その時も、朝一番でフォースに出勤した時も、こんな子供の姿はなかった。

子供たちに混ざって遊んでいたクスミが、イシカワを見つけて駆け寄ってきた。
「おかえりイシカワさん! 早かったねー!」
「うん。ちょっと怪我して」
そこで初めてクスミはイシカワの怪我に気づいたらしい。
イシカワにだけわかる意味を含ませて、目で「失敗したの?」と問いかける。

それに対してイシカワも、クスミにだけわかる意味を含ませて、
「ううん。これはそれとは全然関係ない怪我」と目で答えた。
そんな二人を、大勢の子供たちが興味津々の面持ちで眺めていた。
571 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:13
「この子たち・・・・・・は?」
「みんなコハルの友達!」
クスミは両手を上げて元気よく答えた。
そうしていると、クスミも本当に幼い普通の子供にしか見えなかった。

「コハルちゃんこのヒトだれ?」「コハルちゃんのお母さん?」
「これがリカちゃん?」「怪我してるのこのヒト?」「コハルちゃんもう帰るの?」

山ほどの質問を同時に投げかけてくる子供たちを、ヨシザワが制した。
「だー! うるさーい! ちょっと黙って!」
嘘みたいにピタッとざわめきが止んだ。
小学生くらいの年代の子供たちにしては珍しいほど素直で素早い反応だった。

「このヒトはね、コハルちゃんのお姉さんだから。今はね、怪我してるのこのヒト。
 だから今からちょっとお休みするからね。コハルちゃんも部屋に戻るから。いい?」
子供たちは合唱するように声をそろえて「はーい」と答えた。
572 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:13
573 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:13
「実はここ、フォースの従業員寮じゃないんだよ」
クスミの淹れたでたらめに濃いコーヒーに顔をしかめながら、ヨシザワが言った。

たっぷり3秒は顔をしかめていたヨシザワだったが、そのうち
苦さの奥にあるコーヒー本来の持つ味わいが、じんわりと広がってくるのを感じた。
文句を言おうとして軽く掲げたコーヒーカップを下ろす。
「これ結構いけるね」
「飲みすぎるとクセになっちゃうわよ」
今度はイシカワが顔をしかめる。
きっとイシカワの方は、既にクセなってしまっているのだろう。

「クセになればいいじゃん! そしたらヨシザワさん、毎日来るかも!」
「ちょっとコハル。よしなさいって」
「だってー。一人じゃつまんないんだもーん」

「一人じゃねーだろ。いっぱい友達できたろ、コハル?」
ヨシザワの言う通りだった。
下のロビーで遊んでいるコハルは、もうそこに何年も前からいるように馴染んでいた。
574 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:13
「あの子達は? ここって小学校・・・・・ではないよね?」
「あー、孤児院みたいなもんなんだ、ここ」

例の事件では数え切れないほどの人間が死んだ。
当然ながら孤児も多く生まれた。
だがそのほとんどは政府の保護の下に関東圏外に出されたはず―――
それがイシカワの持っている知識だった。

「うん。ほとんどの子は関東から出て行った」
「じゃ、ここにいる子は・・・・・・」
「検閲ではねられた子なんだ」
「え? じゃああの子たちもキャリアなの?」
「いや、違う。そうじゃない」

ウイルスに感染しなかった子たちは、何の問題もなく関東から出られた。
キャリアになった子は皆その後「行方不明」ということになった。
そして感染しながらもキャリアにならずに生き延びた子は―――無視された。
関東の壁を越えることは許されず、死を待って焼却された。
575 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:13
「ひどい」
「要するにまだこのウイルスを根絶する方法がないってわけ」

政府が選んだのは消極的な死刑処分だった。
絶対にウイルスを全国に広めるわけにはいかない。
だからウイル感染者は可能な限り焼却処分したいが―――それは人道的に許されない。

「だから隔離されたんだよ。この無法地帯にね」
封鎖された関東に正義などなかった。
確かに一部地域には警察や軍が逗留していたが、中に住んでいる人間から見れば、
それは諸外国に対して「我々はきちんと対処しています」ということを
アピールするためのアリバイ工作でしかなかった。

「つまり政府はじっと待っているんだよね。この子らが死ぬのを。殺されるのを」
「そんな・・・・・・」
576 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:14
「だからここは内緒なんだよ。フォースのみんなにもね」
「え? でも私にはこんな簡単に・・・・・」
「あたしもびっくりしたよ。でもナカザワさんはいつも決断が早いからね。
 リカちゃんが働いてる間にさ、コハルに何かあったら困るじゃん。
 そういう不安を取り払うために二人をここに入れたんじゃないかな」

実際、フォースの中で孤児院に関わっているのは、ナカザワとヨシザワの二人だけだ。
ツジやカゴですらここのことは何も知らなかった

元々はヨシザワが個人的なお金を使って小規模で始めた孤児院だった。
それを知ったナカザワが組織を使ってバックアップしてくれることになった。
そういう経緯があったので、この孤児院はフォースの直轄組織というよりは、
ヨシザワの個人的な組織に近いのだという。
今も運営費用の大部分はヨシザワのファイトマネーで賄われていた。

「じゃ、ヨシザワさんがここのオーナーなんだ!」
「まーな。尊敬しろよ、コハル」
「はーい」
「なにその気の抜けた返事」

クスミは誰とでも親しくなれる性格だったが、特にヨシザワとはすぐに馴染めたようだ。
じゃれあう二人を見ながら、イシカワは複雑な気持ちになった。
577 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:14
「じゃ、あたしそろそろ帰るから」
「えー! 泊まっていってくださいよー!」
コハルはあくまでも無邪気だ。
その無邪気さが演技したものではないことを、イシカワはよく知っていた。

「あのなあ、コハル。リカちゃんは怪我してるの」
「うん」
「今日はちゃんと看病してあげな」
「はーい」

イシカワは心の中で苦笑した。クスミが看病なんてしてくれるわけがない。
逆にこの後、怪我した理由を問い詰められ、叱責されることだろう。
マキのことは話すべきだろうか。まだそこまで必要はないかもしれない―――。
今はフォースのことに力を集中させるべきだろう。

「じゃ、リカちゃん。明日からは休んでいいから」
「え! 大丈夫! 働けるよ!」
それは困る。働くために来たのだ。
仕事ができなければ自分がここにいる意味がない。
だがヨシザワはイシカワの懇願をかたくなに拒んだ。
578 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:14
「その怪我じゃ仕事無理でしょ」
「じゃコハルが行くー」
「もっと無理」

冷たくもなく、温かくもない言葉だった。
ヨシザワはクスミのような子供の扱いに慣れているようだった。
この孤児院で、そういった子供の相手をよくしていることが窺える応対の仕方だった。

「大丈夫です、あたし、ちゃんと仕事しますから」
「ダメダメ。ナカザワさんにはあたしから上手く言っておくから。安心して」
「でも」
「安静にしてな。治ったらまた出てきたらいいから」
「はい・・・・・・・」

やはりヨシザワの意思は固かった。
きちんと休んで傷を治すようにと、何度もイシカワに念押しをしてから、
ヨシザワは部屋を出て行った。
579 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:14
「で、イシカワさん。怪我大丈夫ですか」
クスミの目は既に仕事モードになっていた。怖い目つきではない。
ぼうっとした少し焦点の合わない目。それが真剣なときのクスミの目だった。

「うん。麻薬中毒者がでたらめに撃った弾がかすっただけだから」
「なーんだ。そんなことか。で、その中毒者は?」
「麻取の人に撃ち殺された」
「まとり?」
「麻薬取締官」
「えー! 関東にもそんなヒトがいるんだ!」

クスミが驚くのも無理もない。
無法地帯と化した関東には警察や麻取のような人間はほとんどいなかった。

いないことはないが、その大部分は有名無実な存在であり、
手帳をちらつかせて非合法組織から小銭をくすねるような小悪党ばかりで、
真面目に捜査をしている人間はほとんどいなかった。
580 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:14
マキ。不思議な少女だった。
イシカワは勿論、マキが右肩のタトゥーに向けていた熱い視線を感じていた。

近いうちにまた、間違いなく彼女と会うことになるだろうという確信があった。
それが自分の運命を大きく変えるかもしれないということも。
そう、イシカワはマキに対して―――ヨシザワと同じような思いを抱いていた。

「ま、とにかく早くその傷を治すことですよ」
どうやらクスミの機嫌はそれほど悪くないらしい。
思った以上に追求が厳しくなかったことにイシカワはホッとした。

確かにクスミの言うように、怪我を治さなければ何も始まらない。
ヨシザワのこと、ツジとカゴのこと。そしてナカザワのこと。
気になることはたくさんあるし、やらなければならないこともたくさんある。
自分が働かなければクスミが動くことになる。

それは避けたいという気持ちが―――なぜか強く働いていた。
581 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/08(月) 23:14
「じゃあ、今日はもう寝るね・・・・・・」
「もう寝るの?」
「ご飯はいらないから。悪いけどコハルが一人で食べといて」
「はーい」
事務的な会話はそれで終わりだった。
クスミの目も、普段のような無邪気なものに戻った。

イシカワは、とにかく一人になって、色々なことをじっくりと考えたかった。
だがベッドに入るや否や、猛烈な睡魔が襲ってきた。
今日一日、過度の緊張が続いた結果、イシカワの神経はかなり疲労していた。
疲労に何一つ抗うことなく、イシカワは眠りを受け入れた。

眠り、起き、そしてまた眠り、そして起き―――

何日かしてイシカワは完全に回復し、フォースにも復帰した。
それから何事もない平穏な日が何日が続き―――

ツジのファイトの日がやってきた。
582 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/08(月) 23:14
583 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/08(月) 23:15
584 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/08(月) 23:15
585 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:03
ツジの様子は明らかにおかしかった。
フロアが揺れるような大歓声にも全く動じない。
落ち着き払いすぎている。過去のファイトのときのツジとは全く様子が違った。
だが不幸にもそれに気づく人間はいなかった。

ヨシザワはツジに代わってカゴと一緒にクラブの警備に当たっていたし、
ナカザワは昔からファイト自体をほとんど見なかった。
フォースの関係者でツジを間近に見ていたのは、セコンドについたイシカワだけだった。
イシカワにはツジの異変が見抜けなかった。

「のんちゃん落ち着いて」
「わかったわかった」
「落ち着いて。相手をよく見ていくのよ」
「わかったって」
「落ち着きさえすれば絶対のんちゃんが勝つから」
「あー、もー、うるさいなー」
「うるさいってなによ! イライラしないでよもう! 落ち着いてってばあ!」
「あのさあ。リカちゃんが落ち着きなよ」

確かにイシカワは少しテンパっていた。
ヨシザワからは「とにかくツジを落ち着かせてくれ」と言われていたし、
ナカザワからは「とにかくツジは殺すな。危なかったらすぐにタオルや」と言われていた。
ちなみにカゴは「のんの死に様をこの目で見れんで残念やわー」と嘯いていた。

そんな三人の言葉がイシカワの頭の中をグルグルと回っていた。
586 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:03
ゴングが鳴った。
1ラウンドは3分。それを5ラウンド。客はどちらが何分でKOするかを賭ける。
今回のオッズはツジ勝ちの方の買いが多かった。
過去のファイトでは何度か不覚を取っているツジだが、
やはりクラブフォースの用心棒としての知名度は高い。

ツジ乗りが6割。相手乗りが3割。
フルラウンドを戦ってのドローが1割といったところだった。
本命のツジに乗っても、30秒刻みで予想するKOタイムを当てれば数倍の配当がつく。
早期決着に賭けたらしい客からは早くも悲鳴じみた罵声が飛んでいた。

ツジがキャリアだということは知っていたが、
具体的にどういう力を使ってどういう戦いをするのかは知らない。
イシカワは興味深い面持ちでツジの戦いを眺めていた。

お互い軽いジャブを差し合いながら1分が経過した。
まだどちらも本格的に仕掛けてはいない。
2分が経過した。煮え切らない戦い振りに観客席からブーイングが飛ぶ。
その声に後押しされるように相手が動いた。
相手の右腕が風のようにうなり、ツジの顎を捉える―――その瞬間。

「あ!」
イシカワは思わず叫んでいた。
587 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:03
相手の右ストレートがツジの顎を捉えたのと、
ツジの右フックが相手のこめかみを捉えたのがほぼ同時―――のように見えた。
イシカワを除く、全ての観客の目には。

同時に倒れる二人。
観客の絶叫は頂点に達した。猛烈な声援が沸き起こるが、二人ともピクリとも動かない。
そのまま10カウントが流れ、試合終了を告げるゴングが打ち鳴らされた。
ダブルノックアウト―――誰も予想していなかった結末だった。

やるせない観客のため息が渦巻く中、気絶した二人は担架で運び出され、
ファイトの幕は閉じられた。外れ券が吹雪のようにフロアを舞う。
イシカワはすぐさま電話でナカザワに連絡を取った。
「大変です」
「何がや」
「その・・・・・あの・・・・・・」
「はっきり言えや」

イシカワは自分の『目』に絶対の自信を持っていた。
だから間違いないと確信を持って言える。

この試合は八百長だ。
588 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:03
589 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:03
ナカザワがフロアに下りてきたとき、ツジの意識は既に戻っていた。
「やーやー、派手にやられちゃったよー」と笑いながら言うツジに、
従業員の一人が「ツジさんダブルノックアウトですよ」と深刻な顔で説明している。

ツジの言葉はかなり白々しかった。だが負けた照れ隠しだと見えなくもない。
事実、ナカザワはツジの言葉をそのように受け取ったようだった。
「アホが。笑って誤魔化すな」と言っただけで、それ以上ツジを追求しなかった。
ダブルノックダウンという結果にも「初めてのケースやな」としか言わなかった。

だが大慌てで控え室に入ってきた従業員がナカザワに耳打ちすると、
それまで比較的穏やかだったナカザワの表情が一変した。

「なに? 買ってた客がおる?」

部屋の中が急に慌しくなる。何人ものスタッフが入れ違いでナカザワに指示を仰ぎにきた。
イシカワの胃腸がずいとせり下がった。代わりに何かが喉下まで上がってくる。
ジェットコースターで急降下したときのような感覚だった。
何か良くないことが起こる―――そんな予感がした。
590 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:04
賭けの対象は基本的には、どちらかの勝ちか引き分けの3択だ。
だが引き分けの中には「相討ち」という項目もあった。
これは一種の宝くじみたいなもので、配当も流動算出ではなく固定値として売り出されていた。
そんなものを買う客が滅多にいないからだ。
だが今回は一人だけその「相討ち」を買った客がいるのだという。

―――100倍。

―――2000万円。

算出された払い戻し金を聞いてイシカワはめまいがした。
今日の総売上金のほぼ5倍に匹敵する額だった。
全額払い戻せば、この数ヶ月でフォースが上げた利益が全て吹き飛ぶ。

ただ一人買ったという客は、限度額の20万円いっぱいまで
その「宝くじ」を買っていたことになる。

今の関東で20万円といえば一財産だ。
あり得ない。常識で考えればそんな買い方をするわけがない。
その客とツジが共謀していることは、もう間違いないとイシカワは思った。
591 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:04
パンチが交錯するあの瞬間、間違いなく二人はパンチスピードを調整していた。
決して偶然なんかではない。
あのタイミングを合わせるために、どれくらいの時間をかけて練習したのか、
特殊な視力を持つイシカワにははっきりと推測することができた。

ナカザワに報告すべきか。黙っているべきか。

イシカワは寸でのところで言葉を飲み込んだ。
確信は揺るがない。だが具体的な証拠は何もないのだ。
新米の自分が証拠もなしにそんなことを主張しても、誰も信用しないだろう。

「現金で全額払うてやれ。あ? アホか。分割とかできるわけないやろうが。
 店の信用にかかわるわ! ええんじゃ! 金庫から全額かき集めて来いや!」

ナカザワの決断によって店内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
592 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:04
イシカワはイシカワで行動を起こそうとしていたが、
その動きはナカザワの一言によって遮られた。

「おい、カゴ!」
「へい」
「その客のこと調べろ。一から全部や」
「へい」
「わかってるやろな」
「へい。手は出しません。深入りもしません」

カゴはこの手の仕事に慣れているようだった。
ナカザワもそれ以上細かい指示は出さなかった。

「よっしゃ。こっちは金を用意する。その間にそっちも準備せえ」
「へい」
「もし相手がこのファイトに何か仕組んどったとしたら―――」
「戦争ですか」
「当然や。なめられたままやったら組織の沽券に関わる。相手全員ぶっ殺したるわ」

だがその客は、その日のうちには現金の払い戻しにやって来なかった。
やって来たのはほとぼりも冷めた、ファイトの3日後のことだった。
593 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:04
594 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:04
40代前半くらいの痩せた男だった。
メガネをかけたその顔は、どことなく神経質な印象を抱かせた。
男は、明らかに軍人とわかる二人のボディガードを引き連れていた。
全くの「素人」というわけではないようだが、それほどの迫力もない男だった。

男は10分ほど時間をかけてじっくりと札束の枚数を確認した。
手には小型の受信機のようなものがあった。
その装置を、札束だけではなくトランクにもピタリと当てて調べている。
発信装置による追跡を警戒しているのだろうか。用心深い男だった。

「では確かに」
男はサインした領収書をナカザワに渡し、愛想の一つも言わないまま去って行った。

ナカザワは男の挙動を注意深く観察していた。
もっともらしい仕草をしていたが、どうも素人っぽい。
パッと見た感じ、その筋の人間には見えなかった。
ヤクザというよりも、まるでどこかの研究所の研究員といった趣だった。

「なあ、ヨッスィー。どう思う?」
「まあ、十中八九、誰かさんの代理人でしょうね、あれは」
「うん。うちもそう思うわ」
「あれはうちの客層じゃないっしょ。スマート過ぎる。逆に怪しいっすよ」
595 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:04
「なあ、よっすぃー。うちら、してやられたんやろか?」
「まー、2000万はそんなに惜しくないですけど」
「惜しくない? 金庫はすっからかんになったんやで? 完全にオケラや。
 今、何かの支払い請求が来たらこの店潰れるわ。組織もなくなってまうで?」

フォースはこのビルに店を出すときに、あちこちに相当額の借金をしていた。
もちろん利子はしっかりついている。かなりの高利だ。
今のところ店は繁盛しているが、月々の支払いは結構きつい。

「金は入るときもあれば、出るときもあるでしょ」
金がなくても人がいれば組織は死なない。ヨシザワはそう考えていた。
「へっ。クールやな」
ヨシザワはぷいと横を向いた。クールと言われるのは好きではない。

それよりも気になっていることがあった。
もしこれがどこかの組織の策略だとしたら、これで終わりということはないだろう。
おそらく第二波、第三波が押し寄せてくる。

あの男の背後にいる人間の狙いはきっと金なんかじゃない―――
妙にはっきりとした確信がヨシザワの中にあった。
596 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:05
「で、ツジはなにしとるねん?」
「まだ寝てます」
「この非常時に・・・・・・当事者が何やってるねん」
「なんでも顎がまだ痛いとか」
「はあ? それも変な話やな」
ツジの顎はグラスジョーではない。顔面への打撃には人並みはずれて強かった。

「まあ、いつものサボリ癖でしょ」
「だとええんやけどな」
「は?」
「いやなんでもない」

ナカザワはナカザワで気になることがあった。ツジのことだった。
もしもこれが誰かの策略だとしたら―――
あのダブルノックダウンは―――もしかしたら―――

ナカザワはそこで嫌な想像を断ち切った。
597 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:05
598 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:05
「あの男やな」
「二人もボディガードがいるよ」
イシカワは人差し指と中指を突きたてた。
カゴにはそれが場違いなピースサインに見えて仕方なかった。
このイシカワという女は、非常時にもどこか暢気な空気を漂わせている。

「ま、護衛くらいはあり得る話や」
カゴとイシカワは物陰から男の姿を追っていた。
男達は車のトランクに現金を詰め込んでいる。
ここからはカゴはバイクで単身、あの車を追う予定にしていた。

「ねえ、あいぼん・・・・・・・」
「なんやリカちゃん」
「のんちゃんのことなんだけど・・・・・・」

イシカワは迷った末に、自分の見たこと思ったことをカゴに話した。
ナカザワに話す気にはなれなかった。それはまだ早い。
ここはツジと一番親しいカゴに話すしかないと思った。

カゴは車から目を離すことなく、じっとイシカワの話を聞いていた。
599 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:05
「それ、よっすぃーやナカザワさんにも言うたんか」
「ううん。まだ誰にも言ってない」
「言うな。誰にも絶対言わんとってや」
「でも」
「アカン。下手したら組織が割れる」
「でも!」
「うちが確認するから。確認するまで動くな。ええな?」

カゴの幼い横顔がキュッと引き締まる。
いつもの斜に構えたような皮肉交じりの表情ではなかった。
イシカワはカゴが重大な何かを決断したことを察した。

その「何か」が何であったのかは―――最後までわからなかったのだが。
本当に最後の最後まで。

視界の端で車が動き出した。
カゴは薄黄色のゴーグルをかけ、バイクにまたがる。
「ほな、行ってくるわ」
「気をつけて」というイシカワの言葉を背中で聞きながら、カゴはバイクを走らせた。
600 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:05
ツジはベッドに潜り込んで惰眠をむさぼっていた。
顎が痛いというのは勿論嘘だ。
ウイルスに感染したツジは歯が異常に発達していた。
歯だけでなく、噛む力も異常に発達しており、鋼鉄であろうと噛み砕くことができた。

噛む力の源となる顎も当然ながら強化されていた。
グラスジョーどころか、ダイヤモンドジョーと言ってもいいくらいに。
並の人間が叩けば、逆に拳が砕けるほどの硬さだ。
ツジはその歯の力、咬力によって―――多くの敵を葬り去ってきた。

「入るよ、のんちゃん」
安らかな眠りはイシカワの声によって遮られた。
その声を聞いてひどく不愉快な気分になった。
ツジは寝起きが悪い。だが不愉快になった理由はそれだけではなかった。
イシカワのこと。クラブのこと。ファイトのこと。全てが気に入らなかった。
周り全てが敵に見えた。

イシカワはそんなツジの心をいま一つ理解できていなかった。
常人離れした視力を持つイシカワだったが、心の中までは覗けない。
いや。もし覗けたとしても、気付けなかっただろう。
イシカワはただ、自分が抱えている問題を処理することで精一杯だった。
601 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:05
この時イシカワは、ツジが八百長に関与したことを完全に確信していた。
全ての状況証拠がツジが黒だと告げている。
イシカワは自分の判断に揺ぎ無い自信を持っていた。
だが、幸か不幸か―――その状況証拠はイシカワの目にしか見えなかった。

イシカワはカゴの言葉を思い出す。
「下手したら組織が割れる」
わかった。言わない。よっすぃーにもナカザワさんにも言わない。
でもね。でもこのまま放っておくことなんてできないよ。

「のんちゃん。顎が痛いなんて嘘でしょ」

ツジはカチンと来た。元々あれはヨシザワの仕事なのだ。
どうして自分がやらなければいけないのか? カゴではなく、この自分が。
やる筋合いのないファイトで、体を張った。命を賭けた。
そんな自分にかけられた言葉が「嘘でしょ」だって?
つい最近入ったばかりの新入りにそんなことを言われる筋合いはない。

まだ十分に残っていた眠気は一瞬にして吹き飛んだ。
602 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:05
布団を跳ね除けてツジは上体を起こした。
「嘘だよね? あたし見たもん。あたしのこの目は―――」
「うるせえ!!」

ツジは絶叫した。心の中でぶちぶちと何かが千切れる音がした。
自分と何かをつないでいるたくさんの糸が、一斉に切れたような気がした。
「うるせえ! うるせえ! うるせえ!」
何も考えずにただ自分の感情をイシカワに叩き付けた。

ツジはこの女が嫌いだった。たった数週間前にこの組織にやってきたこの女が。

そのくせにやけにヨシザワと親しげに喋るこの女が嫌いだった。
自己中心的で、空気が読めなくて、ウザくて、ぶりっ子で、
怒られたら落ち込んだ振りをして人の気を引いたりする―――
自分と少し似ている、この女が。世界で一番嫌いだった。

イシカワは怯まない。逆切れされることには慣れていた。
そんなことならクスミとの暮らしで何度も経験していた。
逆切れしている人間の方が、実は精神的に追い込まれているのだということも、
経験的にわかっていた。
603 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:06
「のんちゃん、相手と組んでたね。あの試合、八百長だったんだよね」
「八百長くらいなんだよ。よっすぃーだってよくやってんじゃん!」
言ってからハッと口を閉じた。だがもう遅い。

「のんちゃん!」
「うっせえ!! 証拠あんのかよ!」
イシカワは言葉に詰まる。確かに証拠はない。
カゴの言う通り、もう少し待つべきだったのかもしれない。
だがイシカワは賭けてみたかった。ツジの心の中にある良心に賭けてみたかった。

「ねえ、のんちゃん、お願いだから落ち着いて」
「またそれかよ! うっせーんだよおめーは!」
「このままじゃ、このお店、潰れちゃうよ? それでもいいの?」
「うっせー! てめーの店かよ!」

ツジは枕を投げつける。イシカワは微動だにせず、枕を顔面で受け止めた。
その反応にムカッときたツジは、反射的に手に取ったものをイシカワに投げた。
渾身の力で投げた目覚まし時計はイシカワの額を直撃して鈍い音を立てた。

あまりの衝撃に眩暈がしたイシカワは、部屋の壁にもたれかかる。
壁をずりずりと伝わって、床に落ちようとしたとき―――
イシカワの体をツジが受け止めた。
604 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:06
「リカちゃんのバカァ! なんでよけないんだよ!」
「・・・・・バカはのんちゃんだよ」
「バカバカバカバカバカバカバカバカァ!!」
うひぃーんと、聞いたこともないような声を上げて、ツジは泣いた。

いつまでも、いつまでもツジは泣き続けた。嵐はなかなか去らなかった。
すごいエネルギーだなあ。まだ泣いてる。すごいパワーだよ。
イシカワは泣き続けるツジを見て、場の状況を忘れて妙に感心した。

ツジはツジで感情の抑えが利かなくなっていた。
自分が間違いを犯したことはわかっていた。
どこかで引き返す必要があることもわかっていた。
ただ、一番言われたくない人間に言われたために―――意地を張っていた。
だがその意地も消えた。意地よりも重い思いがあった。それに気付いた。
どうしようもないくらい、フォースのことが好きだということに。

「のんちゃん。お金返そう。返してナカザワさんに謝ろう」
イシカワは優しくツジに言い聞かせた。
もうツジのことを責める気はなかった。
605 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:06
とにかく、お金さえ返せばナカザワも命までは取ろうとは言わないだろう。
まだ間に合う。今ならまだ引き返すことができる。
フォースはまだ潰れていないのだ。金さえ返せばなんとかなるに違いない。

「ぶひらよ。れったいぶひらよ」
鼻声で何を言っているのかわからない。だが「無理だよ」と言っているようだ。

確かに2000万もの大金を右から左へ動かすのは容易ではない。
少なくともイシカワにはそんなつてはない。
ということは、ナカザワやヨシザワに知られる前に―――
なんとしてもあの男から金を取り返さなければならない。

それにはやはり、カゴの協力が必要だろう。
三人が力を合わせれば―――何とかなるかもしれない。
いや、絶対に何とかしなければならない。
泣きじゃくっているこのおバカさんを助けるためにも。

いつの間にかイシカワの心は落ち着いていた。
難局であることは確かだが、やるべきことははっきりしたのだ。
ツジのことを疑っていたときよりも、気持ちはすっきりとしていた。
606 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:06
「のんちゃん」
「はひ」
「全部教えて。今回の件のこと。最初から全部」
「うん」

ツジはもう抵抗しなかった。
イシカワの言葉を聞き入れて、素直に全てを話した。
マリという相手陣営の女のこと。八百長を持ちかけられたこと。
配当の2000万円は山分けする約束になっていること。
ツジの取り分は後日、ツジの方から取りに行くことになっていること―――。

とりあえず最低限、必要な情報は揃ったとイシカワは思った。
ここからは自分たちだけで動かなければならない。組織の力は使えない。
そしておそらく―――ヨシザワの力も。

イシカワは腹を決めた。この難局は三人で乗り切る。他の誰の力も借りない。
きっとお金は取り戻してみせる。
イシカワはまだグズグズと泣いているツジをぎゅっと抱きしめた。
607 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:06
608 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:06
廃墟となったビル群の一角で男は車を止めた。
この関東では廃墟など珍しくともなんともない。
人気のない場所を探すことは造作もなかった。

男はテラダの施設で働いていた研究員だった。
二人のボディガードも勿論、施設に勤めていた警備員だ。
三人は迷うことなく真っ直ぐにビルに入り、コンクリートの階段を駆け上がった。
二階の部屋の中央には灰皿らしきものがあった。
暗い部屋の中を、一本のタバコの火がかすかに照らし出している。

「お疲れ」
その微かな光の向こうには、小柄な少女が座っていた。
「金です」
男はケースを開けて少女に中身を見せる。
少女は札束を見てヒャハハハハハと耳障りな笑い声を立てた。

「上手いこといったみたいだね」
609 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/11(木) 23:06
「そうでもないで」
四人がバッと声のした方へ振り返る。
そこには薄黄色のゴーグルをした小柄な少女が立っていた。

だが四人はその少女を見ても全く動じることはなく、平然としていた。
「どういう意味?」
少女は短くなったタバコの火をぐりぐりともみ消した。
灰が交じった煙が宙を舞う。ただでさえ暗い部屋が一層暗くなった。

ゴーグルの少女―――カゴは部屋の中央へと歩み出た。
足音一つ立てず歩くカゴの周りで、澱んだ空気がゆらゆらと揺れた。
まるで何十年も前から、この空間に澱んでいたかのような、薄汚れた空気だった。
カゴは何かを警戒する素振りは全く見せていなかった。あくまでも自然体だ。
二人のボディガードが道を開けた。カゴは少女の正面に立つ。

ニヤリと笑って、カゴはポケットからライターを取り出した。
少女が新しくくわえたタバコに恭しく火を付ける。

「ヤバイですよ、ヤグチさん。どうもね。マズイことになりましたわ。
 ツジに八百長やらしたことに―――気付いたヤツがおるみたいなんですわ」
610 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/11(木) 23:07
611 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/11(木) 23:07
612 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/11(木) 23:07
613 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/12(金) 11:33
うえー?どうなってんの!?
続きが毎回楽しみすぎます。
終わりが想像つかない…
こんな面白い作品書ける作者さんを
尊敬します!
614 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:03
「ヤグチっていうなよ。マリィだっつってんだろ」
「はいはい。わかりましたがな、マリィ・ストナッチさん」
「おい。おちょくってんじゃねーぞ、てめー」

この名前を小馬鹿にされるのが一番腹が立つ。
ヤグチの甲高い声が微かに擦れた。大いに気分を害した証拠だ。
そばにいた三人の男が身の危険を感じてじわりと後ずさる。
怒ったヤグチと同じ場所には立っていたくない。たとえ1秒であっても。
ヤグチの攻撃の「巻き添え」を食らったら命が危ない。

だが当のカゴは全く動じていなかった。気安い調子で言葉を続ける。
「前にちょっと話したイシカワって新人ですわ」
「マジかよ。目ざといやつがいたもんだな」
ヤグチは怒りを忘れて、心の底から感心していた。
準備は入念にしてきた。そう簡単に事が露見するとは予想していなかった。

もっともカゴは、イシカワがキャリアであることはヤグチに教えていない。
「あの女だれだ」と聞かれたので「新入りのイシカワ」と答えただけだ。
尋ねられた以上の情報を与えるほどカゴはバカではなかった。

いつどんなことが切り札にならないとも限らない。
ヤグチのような油断ならない相手には隙を見せたくなかった。
615 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:03
ヤグチの手際はよかった。
テラダの命令を受けて即座に行動を開始した。
ツジをそそのかすのは簡単だった。簡単すぎてあくびが出るほどだった。
最初こそ組織への愛着を示したツジだったが、報酬金額を言うとコロッと転んだ。
無邪気な喜びように、逆にヤグチが毒気を抜かれるほどだった。

もっともツジが関東から出たがっていることは調査済みだった。
ツジの性格に関しては入念に調査していた。その心の動きを予想することは簡単だ。
だからヤグチは、関東脱出が可能になる金額を報酬として約束する一方で、
「八百長なんてナカザワやヨシザワも時々やってることじゃん」と、
罪悪感を感じさせないように、ツジにフォローを入れることも忘れなかった。

ツジはヤグチの掌の上で良いように転がされた。

次にヤグチが標的にしたのはカゴだった。
ツジとカゴの二人を落とせば、ナカザワの命を奪うのは難しいことではない。
二人の能力はずば抜けている。まさにフォースの両輪。右腕と左腕なのだ。
潜在能力をフルに引き出してやれば、ヨシザワの能力をも軽く凌駕するだろう。
上手くやれば4人全員が共倒れということになるかもしれない。

要は「バカとハサミは使いよう」。
収集した情報からヤグチはそう判断して一つの作戦を立てた。
616 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:03
カゴはツジの数倍手ごわかった。
ヤグチとしても、カゴについては少々見くびっていたと認めざるを得ない。

手ごわいといっても、カゴが賢いというわけではない。
ただ、カゴの心の動きは複雑怪奇で、予測しがたいものがあった。
子供のように無邪気にはしゃいでいるかと思えば、次の瞬間には暗く塞ぎ込んでいる。
感情の起伏の激しさは、カゴもツジも同じくらいだったが、
カゴの心はツジの数倍繊細で、なおかつ屈折しており、非常に扱いにくかった。

だがカゴに関してはテラダが持っていた施設の資料が役に立った。
カゴの生い立ちや性格を知ったヤグチはそこから攻めることにした。

組織から認められたいと思っていること、組織に物足りなさを感じていること。
愛情に飢えていること、愛されていないと不安になること。
自己顕示欲。自己憐憫。欲求不満。嫉妬。自己正当化。自己陶酔。
そういった負の感情がカゴの心の中で万華鏡のようにくるくると形を変えながら回っていた。
決して一つの形として安定することはなかった。

このガキは上手くやれば絶対に転ぶ。
こいつは周りにどんなに愛されていても―――愛情を感じることができない人間だ。

ヤグチは見抜いていた。カゴには人として最も大切なものが欠落していることに。
ヤグチは決して焦らずに機を窺った。
冷静に観察し、詳細に分析し、そして粘着質に迫った。
617 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:03
ヤグチはまずツジを落とし、その事実を餌にしてカゴを釣ることにした。
この判断は正解だった。

カゴは無関心を装いながらも、ツジに対して並々ならぬ思いを抱いていた。
最初ヤグチはそれを「友情」や「ライバル意識」に近いものだとと思っていたが、
そう単純なものではなかった。むしろ親近憎悪に近いものがあった。

カゴは、ヤグチが見抜いたように、愛情を感じられない女だった。
周りにどれだけ愛されていたとしても「自分は愛されていないんだ」と感じる女だった。
隣の芝生は青い。カゴにとってのツジは、まさに隣の芝生だった。
周囲がカゴに対して99%の関心を抱いていたとしても、残りの1%がツジに向かった瞬間、
カゴは自分が無価値な人間になったと感じてしまう人間だった。

彼女の精神に、安住の地はなかった。常に周りの視線におびえていた。
だが自分の中の「寂しさ」を認めることはなかった。誰かを頼ることもなかった。
「弱さ」を認めること、「敗北」を認めることは、彼女にとっては受け入れがたかった。

みんなから愛され続けるためには―――あたしは勝ち続けなければならない。

カゴは常に飢えていた。そして常に何かに怯えていた。
その飢えは決して消えない永遠であり、その怯えは決して実在しない幻想だった。
ただの一瞬でも、カゴの心が安らぎを得ることなかった。
618 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:04
ヤグチはそれを巧妙に利用し、ツジに対する対抗意識を煽った。
バカなツジを影から操る利口な自分―――それがヤグチがカゴに与えた役割だった。
「笑えるだろ? ツジってバカだよなー」

やはりカゴは組織そのものへのこだわりはあまり見せなかった。
ただ単純に自分が必要としているものを与えてくれる人間になびいた。
そして自分を賢く見せるために必死になっていた。
見た目以上に―――精神的にガキだった。

ヤグチはそんなカゴの心を壊すような野暮なマネはしなかった。
むしろカゴの心の中に、美しく脆いガラスの城を築くように接した。
強烈に飢えていたカゴの心は、ヤグチの言葉を栄養分にして癌細胞のように歪に膨らんだ。
想定していたよりもずっと巨大な城が築き上がったとき、ヤグチの心は歓喜に震えた。
あまりにも美しく、あまりにも脆弱な城だった。

きっとこの偽りの城は美しく崩れ去っていく。
あたしが指一本触れただけで、砂の城のように儚く―――

ヤグチの口からはごく自然に裏切りを促す言葉が出た。
もうカゴは決して扱いにくい子ではなかった。
619 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:04
カゴは裏切りの見返りとしてある報酬を要求した。
その要求を聞いたとき、ヤグチは驚き、そして心から喜んだ。
一瞬、自分の立場も忘れて、ヤグチは組織の利害を超えた感情をカゴに抱いた。

このガキはもしかしたら案外おいらに似ているのかも―――

その時カゴに対して抱いた感情が「愛情」だったとしてもヤグチは驚かない。
愛情と憎悪。信頼と裏切り。敬意と蔑視。
そういった本来対極に位置する感情も、ヤグチにとってはほとんど同じだった。
極限の信頼と極限の裏切り。それはまさしく裏と表。
極限の信頼があってこその極限の裏切り。極限の愛情があってこその極限の憎悪。

ヤグチが重きを置いているのはその感情の種類ではなく、高ぶりだった。
中途半端な感情は好きじゃない。中途半端な生き方は好きじゃない。
そんな人間は裏切り者以下の価値しかないと思っていた。
カゴは違う。明らかに普通の人間ではない。
突き抜けた衝動に溺れているカゴを見て、ヤグチは極限の敬意と蔑みの感情を抱いた。

とにかくカゴの出した条件に異存はなく、二人の利害は一致した。

カゴは自らの意思で転んだ―――とヤグチは思う。
620 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:04
「で? そのイシカワはどうすると思う?」
「口止めしといたから大丈夫やと思いますわ。基本的にビビリやから。ただ」
「ただ?」
「イシカワよりツジの方が心配や。あれ以来ずっと落ち込んだままやし」

カゴはあのファイト以降、入念にツジを観察していた。
どうもツジは、八百長をした結果、多額の支払いが生じたせいで
フォースが傾きかけていることに強い罪悪感を感じているようだ。

ツジは自分とは違う。基本的に甘い。甘ちゃんや。
本質的に、悪に徹しきれない人間なんやあいつは。
自分が悪であると自覚できる強さを持っていない人間なんや。反吐が出るわ。
あいつにナカザワさんを殺ることなんて、できるわけあらへん。絶対無理や。
下手したら金持ってナカザワさんとこに謝りに行きかねへんで―――

カゴはツジの性格をよく知っていた。
元々、ツジと二人でナカザワを殺すなんてできないと思っていた。
だからヤグチには、自分が裏切ったことはツジには最後まで言わないようにしてもらった。
リスクを最小限に抑えるためにそうしたのだが、それが功を奏したかもしれない。
上手く立ち回れば―――自分は裏切り者の汚名をかぶる必要がなくなる。

ヤグチの計画に変更を迫るには今しかない。
621 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:04
「マリィさん、ツジが金取りに来るのいつでしたっけ?」
「一週間後。ここで会う約束になってる」
「わかりました。それまでにこっちは何とかしますわ」
「どうすんだよ。そのイシカワってのを殺んのか?」
「いや」

イシカワもヨシザワも殺したくはない。組織の貴重な戦力だ。
カゴは今あるフォースという組織を壊す気はなかった。被害は最小限に止めたい。
何より、イシカワはずば抜けて「目」がいい。これは使える。
上手くやれば―――
そうだ。あたしは賢い。だれよりも賢いはず。これは絶対に上手くいく―――

「マリィさんにも動いてほしいんですけど」
「あん? 面倒くせーよ。おいらはあんまり前面に立って動きたくねーし」
「一人だけ。一人だけでいいから殺ってくれませんか?」
「あー? まー、一人くらいならな。そうだ。ナカザワだったら殺ってもいいな」

ヤグチの言葉を聞いた瞬間、放射状に広がっていたカゴの思考は一本の線でつながった。
622 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:04
623 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:05
フォースに帰還したカゴを待っていたのはイシカワとツジだった。
泣きはらしたのか、腫れぼったい瞼をしているツジを見て、
「ああ、やっぱりそういうことか」とカゴは思った。
だが失望はない。何もかも予想通りだ。
それに今後の計画のことを考えると、そちらの方が好都合なのかもしれない。

「リカちゃん。ツジが白状したんか」
「うん。でもね」
「ええから。こっちでも色々と調べた。全部わかっとるから」
カゴは皆まで言わせなかった。イシカワから欲しい情報は一つだけだ。

「で、それ、リカちゃん以外の人間にも話したん?」
「ううん。知っているのは、ここにいる三人だけ」
カゴはイシカワの返事に満足した。
自分の人を見る目は―――やはり確かだった。きっとこれからの計画も上手く行くだろう。
これから忙しくなる。準備も色々と必要だった。

「リカちゃん」
「はい」
「うちら3人で取り返すで、あの金。おいコラ。ツジもそれでええな」
イシカワとツジは真剣な表情で深く頷いた。
624 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:05
カゴはヤグチを通じて早速各所に働きかけを始めた。
まずは資金不足に陥った組織そのものに揺さぶりをかける。

ヤグチの組織はかなり潤沢な資金を持っていた。
裏から手を回し、フォースの持っていた借金をすくい上げる。
ヤグチの組織が「資金返済期限」という
フォースの生殺与奪権を手に入れるまで二日とかからなかった。

その権利を行使し、正面からフォースに資金返済を迫った。
信用商売をしていたフォースの、契約書の盲点を突いた要求だった。
最終期限は5日後。
ツジが取り分の金を受け取りに行く翌日に設定した。

フォースの混乱は尋常ではなかった。
全てのメンバーが戦場の戦士さながらに死に物狂いで動き回っていた。
可能な限りの資金をかき集めようとしていたが、必要金額に届かないのは明らかだった。

カゴの計画通りに―――その日はやってきた。
625 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:05
626 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:05
「ほな行ってくるわ」
カゴはバイクの後部座席にツジを座らせるとアクセルをふかした。
イシカワは二人には付いていかない。

「あとのことは頼むで」
「うん」
フォースのメンバーは、今もなお資金の回収に奔走している。
カゴやツジも例外ではない。イシカワと組んで3人で資金回収に当たる命令を受けていた。
三人ともサボるわけにはいかない。不審な動きをナカザワに悟られてはマズイ。

というわけで、ツジとカゴが金の受け取りに行き、イシカワはアリバイ工作の担当となった。
イシカワには他にも一つやってもらうことがあった。重要なことだ。
それをきちんと頼んでおくこともカゴは忘れない。

今日はツジが1000万円の金を受け取る日。
この瞬間が相手と接触できる最後のチャンスだった。
ツジとカゴの二人で相手を叩きのめして2000万円全額を回収する―――
それがカゴの立てた荒っぽい計画だった。

ツジの顔は蒼白だった。カゴの顔は紅潮している。耳まで赤い。
イシカワには二人を信じる以外にできることはなかった。
去り行くバイクに手を振り、イシカワは自分の仕事に戻った。
627 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:05
バイクはあっという間に例の廃墟に到着した。
特にツジにとっては極めて短い時間で到着したように思われた。
行きたくない場所ほど早く着く。嫌なことほど早くやってくる。

「おい。わかってるやろうな」
「うん・・・・・・」

カゴはツジと目を合わさない。この一週間はろくに口も利いてなかった。
イシカワはうるさいくらい話しかけてきて、それなりに気を遣ってくれたが、
カゴはあれ以来、事務的なこと以外は話しかけてこなかった。
ツジはそれが恐かった。
悪いのが自分だとわかっていても、カゴに自分を慰めてほしかった。励ましてほしかった。

カゴは勿論、そんなツジの心の動きなどお見通しだった。
だが無視する。今は無視することが必要だった。
カゴには、ヤグチのように人の心の振り幅を使って遊ぶような趣味はなかった。

「忘れ物やぞコラ」
カゴは背後からツジを蹴る。革の手袋をはめた手で、一本のナイフを渡した。
キャリアであるツジとカゴは普段から拳銃は使わない。
だが今回の相手にはできるだけキャリアとしての能力を晒したくない―――
だからナイフを使おう、というのがカゴの言い分だった。
勿論これはツジと二人だけの話。イシカワには内緒だった。

ツジは泣きそうな顔でナイフを受け取った。
628 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:05
この期に及んで覚悟の定まっていないツジに、カゴはいらつきを覚えた。

アホやこいつ。ホンマもんのアホや。
こいつはきっとまだ自分の責任を自覚してないんやろな。
ぜーんぶ他の誰かがやったことやと思ってるんかもしれへん。
なんで自分がこんなことをせなアカンのか―――本気でわかってへんのかもしれんな。

だがここで逃げ出されても困る。きっちり仕事をしてもらう必要があった。
「ちゃんとうちが裏からサポートするから」
「うん・・・・・・」
「しゃんとせえや」
「でも・・・・」
「はよ行ってこい。ここでうろうろしてたら見つかるかもしれへんやろ」

ツジはようやく重い足取りで廃墟のビルの中へと入っていった。
最後まで見届けてからカゴは携帯電話を取り出す。

「カゴです。今、ツジが行きましたから―――はい、はい。オーケーです。
 とにかくナイフで刺されるようなドジだけは絶対やめてくださいよ。
 はい。はい。ええ。じゃ、後は打ち合わせ通りよろしく頼みますわ―――」
629 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:06
暗い部屋の中には、タバコの火の明かりが一つ揺れていた。
机の上には大きなバッグが2つある。
一つはマリィの取り分。一つはツジの取り分。二人の取り分は同額。
その金額をここできちんと確認して分ける約束になっていた。

ヤグチは深々とソファに腰掛けている。隣に一人分のスペースが空いていた。
「来たかツジ。まあ座れよ」
ツジの胸の中で、心臓が暴力的な拍動を繰り返していた。
まるで心臓が3倍くらいの大きさになったように感じた。
口の中がカラカラに乾く。何度も飲み込もうとしたが、全く唾が湧いてこなかった。

カゴの指示を思い出す。
「ええな。最初が最大のチャンスや。そのマリィとかいうやつから片付けろ。
 集団と戦うときは頭から叩くんが鉄則や。残りの雑魚はうちが殺るから。
 とにかくお前はマリィを刺すことだけを考えるんや。チャンスは一度やぞ」

ツジはヤグチのすぐ傍まで近づく。椅子に座るそぶりは見せない。
ガチガチに緊張しているツジを見てヤグチは笑いを噛み殺した。
何かをやろうという魂胆がミエミエだった。
愉快でならなかった。
笑いを堪えることができなかった―――それはヤグチにとっては一番難しい行為だった。
ついにヤグチは声に出して笑ってしまった。

「ヘヒャハハハハ! どうしたツジ? なに緊張してんだお前?」
630 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:06
ヤグチの甲高い笑い声には人を不愉快にさせる何かがあった。
一度に二つのことを考えられない辻の脳味噌からは緊張感が消え、
ヤグチに対する言いようのない不快感が湧き上がって来た。

怒りに身を任せ、懐からナイフを取り出す。武器の扱いには慣れていた。
ジャケットを脱ぐようなごく自然な動作でナイフを突き立てることができた―――と思った。

ナイフを持っていた親指に衝撃が走る。
その後から「ビーン」という振動音が耳に届いた。
ソファに座ったままのヤグチに蹴り上げられたナイフが、天井に刺さっていた。
「上等だよ」
立ち上がった勢いを利用して、ヤグチはライターを握り締めた拳をツジの頬に叩きつける。
だがそこはツジの体の中で一番硬い部分だった。
「がっ」
一度戦闘態勢に入ったツジは怯まなかった。
臆することなくヤグチに突進する―――だがそれはヤグチのシナリオ通りの動きだった。
ツジの攻撃パターンはカゴ経由情報で完全に把握している。

ヤグチはまるで回転ドアのようにクルリと回転した。
無駄のない最小限のアクションでヤグチは体を入れ替える。
ツジの腰を後ろから思いっ切り蹴ると、ツジはソファごと向こう側に倒れこんだ。

「撃てぇ!! ハチの巣にしてやんなコラァ!」
631 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:06
部屋にいた三人の男達は懐から拳銃を取り出す。
ソファを四方から取り囲むような位置に素早く移動するが―――
三人は見えない糸で引っ張られたかのように、急に体をくねらせ、
空中に浮き上がり、ありえない姿勢を強いられながら地面に叩きつけられた。

見えない糸―――ではない。
暗い部屋ではほとんど見えなかったが、よく見えると黒い糸が男達に大量にまきついていた。
三つの拳銃が床に転がる。その拳銃にもスルスルと黒い糸がまきついた。
糸はまるで生き物のように自らの意思を持って動いているようだった。

「誰だ」
ソファに半分の注意を残しながらヤグチが叫ぶ。
それは勿論演技であり、糸の持ち主が誰かはわかっていた。
もっともその持ち主―――カゴの能力を見るのは初めてだったので、若干動揺していたが。

カゴは姿を現さない。
だが糸の動きから、それを操る人間の位置がどこなのかヤグチにはわかった。
(カゴも案外甘いねえ)

ヤグチは鳥のように飛翔して暗闇の一角に身を投げる。
632 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:06
ヤグチの膝がカゴの脳天に突き刺さる―――
(おっと本気で倒しちゃったらまずいよね)
ヤグチは咄嗟に狙いを脳天から肩に切り替えた。だがそれは無意味な行為だった。

カゴの頭から離れた大量の髪の毛がヤグチの膝にからみつく。
(これが・・・・・・カゴの能力?)
大量の髪の毛は強靭なピアノ線のように硬く、ヤグチの力を持ってしても断ち切れなかった。
ヤグチは髪の毛に捕らえられたまま、床に叩きつけられる。
出来の悪いCGのようなギクシャクした動きで髪の毛は伸び縮みを繰り返した。
その中の一束がヤグチの喉にからみつく。

(おい・・・ちょっと・・・・・冗談だろ・・・・・・・・おいおい・・・・・)
ミリミリと骨を締め付ける音が聞こえてくる。
本気を出そうか出すまいか。迷っているうちにヤグチの意識はゆっくりと暗闇に落ちていった。

廃墟の一室にはヤグチを含めて4人の人間が倒れていた。
他には誰もいない。
カゴが能力を解いて髪の毛を元に戻していると、ソファの陰からもぞもぞとツジが這い出てきた。

「すんげえ・・・・・あいぼん、相変わらずすげーよ・・・・」
633 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:06
「どアホうが」
「でもキャリアの能力は使っちゃいけないんじゃなかったっけ?」

それはツジに能力を使わせないための方便だ。
ツジが本気で能力を使えば、この4人を噛み殺してしまいかねない。
カゴはツジの疑問を無視することにした。
どうせこいつは物事を真剣に考えたりすることはしないのだ。
無視していればいずれ忘れてしまうだろう。

「おい、それよりそのカバンや。ホンマに金が入ってるんやろな」
「うん。ちょっと待って」
ツジがカバンを開けてみると二つのカバンには札束がぎっしり詰まっていた。
見ただけではなんとも言えないが、確かに2000万くらいありそうだ。

「ほな、お前はちょっとその金数えてくれや。ホンマに2000万あるか一応確認や」
「オッケー。あいぼんは?」
「うちはこの死体を始末してくるわ」
カゴは再び能力を解放し、髪の毛をずるずると伸ばす。
髪の毛は、見る見るうちに床に転がる4人の人間にからみついていった。

「それみんな死んでんの?」
「当たり前やろ。生かしておくわけないやんけ」
「一人で大丈夫?」
「うっさいボケ。お前こそ数え間違えんなよ」
634 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:07
カゴは4人の体をずるずると引きずりながら部屋から出た。
携帯電話を取り出し、イシカワの番号を検索してプッシュする。
イシカワは1回のコールで電話に出た。

「あいぼん! どうだった?」
「なんとか金は回収できたわ」
「よかった・・・・・・」
「まだ半分や。これから金を返しに行かなアカン。わかってるな?」
「うん」

ただ金を返せばいいというものではない。
カゴはツジとイシカワと相談し、全てナカザワに打ち明けることにしていた。
隠して金だけ返すことも考えたが、それはできない。
ただ2000万円だけを渡しても、ナカザワの疑心暗鬼を呼ぶだけだ。

ただし、このことはナカザワ以外には知られてはならない、というのがカゴの主張だった。
裏切り者には死を、という組織のルールがある以上、ことは穏便に済まさねばならない。
この三人とナカザワの心の中だけに止めておく必要がある。

あとはナカザワの判断に委ねるしかないが、金を返して土下座の一つでもすれば
まあ命までは取らないだろうというのが、三人の一致した考えだった。
635 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:07
「そういうわけで今晩が最後のチャンスや」
「うん」
「わかってるな、リカちゃん。頼むでホンマ」
「わかってる。あいぼんも体を張って頑張ったもんね。あたしも頑張るよ」

イシカワには組織の人間を分散させるように動いてもらっていた。
特にヨシザワをナカザワの居室から遠ざけるために。

カゴはツジと二人で金を返しにいくことにしていた。
ナカザワと話しているときは誰にも邪魔されたくない。
ほんの一時間ほどでいいから、ナカザワに一人になってもらう時間を作る必要がある。
イシカワはそのために色々と準備をしていた。

「大丈夫。今晩で全部終わるから。こんなことでフォースは潰れたりせえへんから」
カゴの言ったことは嘘ではなかった。事実その後の展開はカゴの言う通りとなった。
「うん! これでみんなハッピーになれるよね? そうだよね?」

だがその後の展開は―――イシカワの言う通りにはならなかった。
636 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:07
カゴは携帯を切ると、まだ床に寝ている4人の体をこつこつと蹴った。
「マリィさん、もう死んだ振りせんでもええですよ」
ツジが札束を数えている部屋からはかなり離れた廊下だった。
ここなら何を話していてもツジには聞こえないだろう。

ヤグチはむくりと起き上がる。気を失っていたのは数分だろうか。不覚だった。
「カゴ・・・・てめえ・・・・・・」
「打ち合わせ通り上手いこといきましたねえ」
確かに死んだ振りをするという打ち合わせはした。
だが本気で締め落とされるなんていう話は聞いていない。

殺そうと思えばいつでも殺せる。カゴはヤグチに対して態度で示したつもりだった。
「おっとそこまで。ここで内輪揉めしてる暇はないんですわ」
カゴは自分が主導権を取れたことに満足した。
唇を震わせるヤグチを無視して今晩の段取りをとうとうと説明した。

勿論、カゴはヤグチの自尊心を踏みにじったことに気付いていた。自覚していた。
だがカゴは自分がヤグチに踊らされていることにまだ気付いていない―――
637 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/16(火) 23:07
「そんじゃ、ヤグチさん、そういうことでお願いします」
自分が言いたいことだけ言って、カゴは会話を打ち切った。
すたすたと数歩行ったところで、再び振り向き一言付け加える。

「あ、くれぐれもツジのナイフを回収するの、忘れんように。お願いしますよ」
絶対に忘れるはずのないことを、わざわざ忘れるなと念押しする。
言葉は丁寧だったが、明らかに格下の人間に指示する口調だった。
ヤグチの脳髄が怒りに焼かれる。

怒りにまかせてカゴに襲い掛かるほどヤグチは愚かではなかった。
だがその怒りを忘れて許してしまうほど愚かでもなかった。

「上等だよ」
ヤグチの声がかすれる。
その声を聞いて、横にいた3人の男達は震え上がった。

「てめえには―――いつか必ずナカザワ以上の死に様を与えてやるよ」
638 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/16(火) 23:07
639 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/16(火) 23:08
640 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/16(火) 23:08
641 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:02
そして運命の夜がやってきた。

雪こそ降っていなかったものの、痺れるほど寒い夜だった。
「北海道ではさ、寒いことを『しばれる』って言うんだってさ」
ヨシザワが言うように、まさに何かにしばられているような寒さだった。
相変わらず雲が覆っているからだろうか。空には一つの星も見えなかった。

ヨシザワはフォースが入っているビルの玄関前にいた。
深夜だというのに他のメンバーは全て出払っている。
本来なら店を営業している時間なのだが、今晩は資金集めに奔走していた。
それを思うとこれくらいの寒さで文句を言う気にはなれない。

ビルの玄関前にはヨシザワとイシカワがいた。一応警備要員ということになっている。
裏の出入り口はツジとカゴが警備に当たっている。
資金集めが苦手な4人が残された、という形になっていた。

「リカちゃん、ここに来てどれくらい経つんだっけ?」
「えっと。まだ一ヶ月くらいかな」
「まだそんなもんなんだ」
642 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:03
言われてみると確かにそうだ。
まだたった一ヶ月しかここにいない。
それだというのにこの親近感は何なのだろうか。
いまやフォースという組織はイシカワとは切っても切れないような存在になっていた。

イシカワの最終目的はここのメンバーとなることではない。
秘密裏にフォースのメンバーを調べ上げることだ。
それなのに―――この組織にどんどん惹かれていく自分がいた。
この組織を潰したくない。今では心からそう思っていた。

「大丈夫だよ、ヨッスィー」
「うん?」
「絶対大丈夫。きっとお金はなんとかなるから」
「ふふふ。リカちゃんはポジティブだね」
ヨシザワはうつむきながら寂しく笑った。

ここのところのヨシザワはずっとこんな調子だった。
組織が壊滅するかもしれないというのに、妙に落ち着き払っている。
どこか冷めた目でこの危機を俯瞰的に見ているように感じられた。
そんなヨシザワを見ていると、イシカワはこれまでずっと
「自分が訊くべきことではない」と思っていたことを訊きたくなった。
あまりにも、あまりにもヨシザワの笑顔が自然体だったから。

「ねえヨッスィー。ヨッスィーは組織が潰れちゃってもいいの?」
643 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:03
聞きようによってはかなり不躾な質問だったが、
それでもヨシザワの落ち着いた表情は微塵も揺るがなかった。

「フォースは好きだよ」
「だったらなんで」
なんでそんなにクールなの?とはさすがに言えなかった。
フォースに対する愛情が、たった一ヶ月しかいない自分よりも遥かに強いことはわかっていた。
単に表現するかしないかの違いなのだろうか。

「なんで『好きだ〜!!』ってみんなの前で言わないの?」
照れくさいので少し冗談っぽく言った。でも真意は伝わったと思う。
もし自分がヨシザワの立場だったら、先頭に立って戦うだろう。
たとえお金が集まらなかったとしても、最後の最後まで諦めずに走り回るだろう。
好きなものに対しては、常にそういう態度であるべきだとイシカワは思う。

熱く語るイシカワを見て、ヨシザワはちょっと困った顔をした。
話したくないのかな、と思ったが、そういうわけでもないらしい。
「そうか。みんなそういう目で見てたのかなー、あたしのことを」
うつむいてポツリと言葉をこぼした。

確かにここ数日、メンバーの人間は少し怪訝な目でヨシザワのことを見ていた。
いつものような絶対的な尊敬を込めた目ではなかった。
644 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:03
「みんな昔っからずーっと一緒にいたメンバーだから、
 言わなくてもわかると思ってたんだけどな。ダメだなあたし」

確かにヨシザワは言葉で人を引っ張るタイプの人間ではない。
どちらかというと行動でぐいぐいと引っ張るタイプだ。
付き合いが長くないイシカワにもそれはよくわかった。

「フォースは好きだけどさ。あたしが好きなのはフォースの入れ物じゃないんだよ」

巨大な高層ビル。華やかなクラブ。看板ファイターとしての名声。観客の歓声。
そして巨額の利益。だがそんなものはどうだっていいものなんだとヨシザワは言う。
そんなものはフォースの外側を包んでいる、ただの入れ物でしかないと。

「あたしがいてさ、ナカザワさんやのんやあいぼんがいてさ、他のメンバーのみんながいてさ」
そこでヨシザワは少し言葉を切った。
「リカちゃんがいてさ、そういうフォースの中のみんなのことが好きなんだよ」
『他のメンバー』の中にイシカワリカという名前は含まれないらしい。
イシカワはその意味をしばし考える。勿論答は出せなかった。
645 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:03
フォースのことを語るヨシザワの顔には、凛とした強さがにじみ出ていた。
雪のように真っ白な頬は、向こうが透けて見えそうなほど透き通っていた。

こういうことを言うのはとても照れくさいことなのだろうが、
ヨシザワはそんな素振りは見せない。
まるで照れないことが真の愛情の証明だと信じているかのようだった。

「この店が潰れたら潰れたでまたみんなでやり直せばいいじゃん」
「そんな・・・・・これだけ立派なお店なのに・・・・・・」
「大事なのはお店じゃなくて人だよ」
「うん」
「人さえしっかりしていれば、何度だってやりなおせる」

ヨシザワの言うことは理想だ。綺麗事だ。
世の中が、そんな理想通りにいかないことをイシカワはよく知っていた。
きっとフォースが無くなれば、メンバーは散り散りになるだろう。それが常識的な考えだ。
ヨシザワはさばさばした面がある一方で、妙に世慣れしていないところがある。
646 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:03
そんなヨシザワの純粋な面を大切にしてあげたいとイシカワは思った。
世界がヨシザワの理想通りではなかったとしても、
ヨシザワには理想の美しい世界だけを見続けてもらいたい。

それはイシカワの思い上がりであって、ヨシザワの実像を反映していないかもしれないが、
イシカワにとっては―――ヨシザワこそが理想の世界の一部分であった。
彼女がいない世界が、理想の世界であるとはとても思えなかった。
そんな理想世界の象徴としてのヨシザワは、イシカワの中で不変な存在だった。
変わってほしくない。傷ついてほしくない。そして汚れてほしくなかった。

イシカワにそう思わせるほど、ヨシザワの横顔は現実離れした美しさを誇っていた。

ヨシザワが言えば「綺麗事」は文字通り「綺麗な言葉」となるように思えた。
そうなってほしい。そうであってほしい。そのためにはやはりフォースは必要だ。
こんなことを言いながらも、きっとヨシザワは内心では
ギリギリのところでフォースが助かることを望んでいるに違いない。

イシカワは時計に目を落とて時間を確認すると、ビルを見上げて心の中でつぶやいた。
(あいぼん・・・・・あとは頼んだよ・・・・・・・・・・・)
647 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:04
648 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:04
ナカザワはさすがに「オリジナルキャリア」だった。
異変が起こってから気付くのではなく、異変が起こる前に気付いた。
ベッドから起き上がり、身づくろいをすることもなく視線を部屋中に走らせる。

「誰や」

侵入者がいることは微塵も疑っていなかった。
ビルの正面ではヨシザワとイシカワが警護にあたっている。裏面にはツジとカゴだ。
4人のキャリアの目を盗んでここまで来た人間。只者ではない。

そんな「只者ではない誰か」が自分の命を狙っていないと考えるほど、
ナカザワは楽天家ではなかった。
それどころか、この事態が例の相討ちファイトの大当たりから、
急にやってきた借金返済の要求までの一連の騒動の終着点であることに、薄々感づいていた。

気配はする。確実に人の気配がする。
だがナカザワの問い掛けに答える人間はいない。襲い掛かってくる気配もない。
部屋の空気は凍ったまま時を止め、前にも後ろにも流れなかった。
649 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:04
「ふん。回りくどいことをするもんやな。うちの命が欲しいんやったら、最初からこうせえや!」

ナカザワの一言を受けて空気の流れが変わった。
絨毯の上に人の気配が現れる。
不思議な光景だった。
最初は蟻ほどの小さな塊がするすると大きくなり、鼠ほどになり、猫ほどの大きさになり、
最後は小柄な子供ほどの大きさになった。

「キャハハハハ。回りくどい? なんだユウちゃん気付いていたの?」
「誰やお前」
ナカザワは『ユウちゃん』と呼ばれて出鼻をくじかれた。
そんなことを言うやつはこの関東にはいないはずだ。
いや、いる。かつていた。あの「施設」に入っていた人間たちの中にいた。
でもまさか―――

小柄な少女は、足首の高さまで全身をすっぽりと覆うようなマントを着ていた。
そのマントをまくりあげ、右肩をさらしてナカザワに見せた。
ナカザワは腕を伸ばして部屋の明かりを点ける。
少女が示したタトゥーは―――「6」という数字のように見えた。
650 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:04
「6・・・・・ヤグチかお前」
「そうだよ。ご無沙汰ユウちゃん。キャハハハハ」

6番のヤグチは1番のナカザワとは5つ離れた部屋にいた。
直接話したことは一度もない。
伝え聞いたところによると長身のスレンダー美女ということだったが・・・・・

「おいおい。お前そんなチビやったんか」
ヤグチの甲高い笑い声がピタリと止まった。
「薬で縮んだんだよ」
ナカザワは、冗談ともとれるような言い方で言ったが、
ヤグチの切り替えしには冗談めいたニュアンスは一切含まれていなかった。
短い言葉に含まれた負の感情は、ナカザワの耳を鋭く突き刺した。

こいつは敵だ。間違いなく敵だ。ナカザワの経験がそう告げていた。
しかもこれ以上ないくらい厄介な敵だ。対処を誤れば命はないだろう。

「で、こんな夜更けに何しに来たんや? 旧交を温めに来ました、とかやないんやろ?
 もしかして―――ナカザワさんを殺しに来ました、とか?」
「うふふふふ。さすがオリジナルキャリアだね。話が早いよ」
651 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:04
「オリジナルキャリア?」
「あの薬を打たれた8人のことだよ。知らない? その後の8人がどうなったか」

あの事件の時、一番に脱走を始めたナカザワは、他のメンバーのことは知らなかった。
途中で合流したヨシザワ、ツジ、カゴのことくらいしか知らない。
イシカワのことも後で話は聞いた。
だが他の7人がどうなったかということは全く知らなかった。考えたこともなかった。

「教えてほしい?」
「興味はあるけどな」
「キャハハハハ! じゃあ教えてあげるよ」
ナカザワは意外な思いがした。
ヤグチの顔は、顔だけ見たら絶対に教えてくれなさそうな顔だったからだ。
だがナカザワの観察は正確だった。

「ユウちゃんが―――代わりに命をくれるっていうならね」
652 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:04
先に動いたのはナカザワだった。
もうヤグチを殺すことに躊躇いは感じなかった。戦場での躊躇いは死に直結する。
知りたい情報があることは確かだったが、ヤグチから引き出せるとは思わなかった。
情報よりも大切なものがある。一つしかないもの。それは自分の命。

ヤグチはマントを翻しながら飛び上がった。目を見張る跳躍力だった。
ふわりとマントを脱ぎ捨てるとナカザワに向かって投げかける。視野が奪われた。

ナカザワはキャリアとしての能力を発動する。
両手から伸びた10本の爪が、日本刀のように鈍い光を放ちながらグィンと伸びる。
マントはたちまち細切れに刻まれる。
切れ端の布吹雪の向こう側からヤグチが拳銃を構えるのが見えた。

両手に携えられた二丁の拳銃は正確にナカザワの体の中心線を狙っていた。
眉間。喉。心臓。腹。股間。弾丸は轟音を立てながら次々と襲い掛かってくる。
ナカザワは10本の爪を風車のように旋回させて弾丸を弾く。

防戦一方。
だが次の瞬間、ナカザワの右足が飛んだ。
就寝用の厚い靴下から伸びた5本の爪がヤグチを襲う。
右に動いてかわすヤグチ。
だが爪は鉤のように鋭く折れ曲がって、逃れようとするヤグチの胸に迫った。
653 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:04
ヤグチは咄嗟に2丁の拳銃でナカザワの爪を受け止めようとした。
だが5本の爪は黒い拳銃を豆腐のようにさっくりと切り分けてヤグチの皮をえぐる。

ヤグチの両手から細切れにされた拳銃の残骸が零れ落ちる。
爪でえぐられた胸の傷は思った以上に深かった。
破れた服の下から、まるで酔っ払いの立小便のように血がどばどばと垂れ流れる。
あわてて両手で胸の筋肉を押さえつけるヤグチ。
両手はふさがったが、緊急的な手当てでなんとか血は止まったようだった。

「そこまでやな。ヤグチ」

ナカザワは1m近く伸びていた爪を元の長さまで戻した。
ヤグチとの間合いは詰めない。まだ油断はできない。断じてできない。
何よりも、キャリアであるはずのヤグチの能力をまだ見ていない。

ヤグチの能力に興味はない。
能力を発揮させる前に倒すのが対キャリア戦の鉄則だ。
ヤグチがまだ生きている以上、その能力を警戒するのは当然のことだった。

「お前か。うちのツジとカゴにちょっかいを出してたんは」
654 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:05
一瞬、虚を突かれたような表情をしたあと、ヤグチは弾けるように爆笑した。
笑うたびに、押さえた指の隙間から鮮血がポタポタと漏れた。

「キャハハハハハ! そこまでバレてたの! まさかねえ。うん。
 ツジはともかく、カゴのことまでバレてるとは思わなかったよ。キャハハアッハ!」
ヤグチの笑いにはまだ余裕があった。ナカザワは20本の爪に力を込める。

「何年あいつらと付き合ってると思ってるねん。変なことしてたらすぐにわかるわ」
「へえ。じゃあどうして止めなかったのさ」
「あたしは―――みんなのことを信じてる―――から」
その言葉を聞いて、ヤグチは再び発作に囚われたようにけたたましい笑い声をあげた。
「きゃははははは! 信じてるって! ひゃははは!ひゃはははは!」

信じているとは便利な言葉だ。
その言葉を使うだけで、後は何もしないで済む。
ただじっと相手が好きに動くのを見ているだけでいい。
信じる。それはヤグチにとっては、おままごとのようなお遊び行為でしかなかった。
ヤグチが一番嫌いな言葉だった。

「信じてるって! 信じテルッテ! SHINJIテルッテ! シンジテルッケェ! ヒンヒエロウッゲエェ!」

色々あったけど、この勝負はあたしの勝ちだ―――あらゆる意味で。
ナカザワの言葉を聞いてヤグチは確信した。
655 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:05
「ひゃははは! はは! はははha!hahaha! hharahaeyaafararaca wr!!!!」
ヤグチの笑い声が変化した。
かすれた声がナカザワの耳に突き刺さる。

「hohohohohohahahaahahhahahahahihii!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

音は津波のように部屋の中を駆け抜けていった。
壁や床や天井にに跳ね返った音はまたヤグチの下へと帰る。
声と声がぶつかり、けたたましく反響した。
ハウリングのような音のふくらみが部屋の中にいくつも湧き上がる。

「kyahahahahahhaha!! キャハハハハハハヒャハヒャハハハハ! ヒャハ! kakakakakakhoaha!!」

ヤグチの胸は風船のようにまあるく膨らんだ。
傷口からは水芸のような血流が迸る。
貧血を起こした顔は紙のように白くなり、瞳の奥からは生気が消えた。
だがヤグチの笑い声は止まらなかった。

「ヒャーハッハッハハ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

ナカザワは異常に気付いていた。
10本の足の爪を蹴ってヤグチとの間合いを詰めようとする。
耳が痺れて感覚がない。こいつの能力は声だ。喉が異常に発達してる。この声はヤバイ。
ナカザワは両手で耳を塞いで突進する。
だがナカザワはヤグチの下にたどり着くことはできなかった。

「キャハハハハハハハhahahaha! キャハハハh!! キャエウフゥキュフフゥェェキエェェアハハハハァァ!!!」

信じがたいことに、ヤグチの喉から発せられる声は、
物理的な波となってナカザワの体を押し戻した。
656 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:05
ナカザワは動きを止めた。
止まりたくて止まったのではない。動こうにも動けなかった。
唇を動かすことすらままならない。声を出すこともできなかった。
ヤグチの声は、部屋の中を反響し、前から後ろから上から下からナカザワに圧力を加えた。

その圧力に最初に耐えられなかったのは目だった。
小刻みに震えていた目は閉じることもままならないまま乾き、ピシっと音を立てて裂けた。
ナカザワの視界は血で覆われていく。
流れる血は赤かったが、ナカザワの視界は黒く染まっていった。

次に圧力に耐えられなかったのは腹だった。
ずんずんずんとボディブローのように繰り出される重低音に、ナカザワの臓器は悲鳴を上げた。
内部からかき回される山のような鈍痛に、ナカザワは血まみれの絶叫をあげた。
そして次は脳だった。
頭蓋骨の中で反響した音圧はナカザワの脳の機能を麻痺させるのに十分だった。

もはやナカザワは生ける屍のように、部屋の中央に立ち尽くすだけだった。
そして手袋をはめたヤグチの手に握られたナイフが―――
ナカザワを生ける屍から、ただの屍に変えた。
657 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:05
658 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:05
カゴが腕時計に目をやる。「そろそろ時間やな」
カゴは持っていた大きなボストンバッグをツジに渡した。
「この中に全部入ってるから」
受け取ったツジが少し変な顔をする。2000万円が入っているにしては軽いカバンだった。
だがカゴは「ナカザワさんに渡したらわかるから」としか言わなかった。

「あいぼんは一緒に来てくれないの?」
イシカワと打ち合わせしたときは、確かツジとカゴの二人で行くはずだった。
組織が裏切ったツジが一人で話すよりも、横で誰かフォローする人間がいた方がいい。
それがイシカワの意見であり、カゴも賛成していたはずだ。

「やっぱりな。こういうことは一人でけじめをつけんとイカンと思うねん。
 ナカザワさんも絶対そう思うって。あの人は筋を通すとか通さんとかうるさいから」

カゴの言うことにも一理ある。確かにナカザワはそういう性格だ。
仕方なくツジは一人でナカザワの部屋に向かうことにした。
659 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:05
ツジがナカザワの部屋に向かうのを確認すると、
カゴは時計を見ながら慎重に計算をしていた。

この場所からナカザワの部屋までの距離。
イシカワとヨシザワがいる場所からここまでの距離。
そしてヤグチが「じゃあ、この時間にナカザワを殺すことにするから」と言った時間。

何度もシュミレーションしてみた。
だが予想通りツジが歩くとは限らない。予想通りイシカワとヨシザワが走ってくるとは限らない。
それよりなにより、あのヤグチが自分の思い通りに動いてくれるとは思えない―――
結局、最後のところは運不運の世界なのかもしれない。
カゴは自分の運の強さなんて信じてはいなかったが、
ただ「破滅なんて恐れない」という強い意志の力で自分の運命を打破しようとした。

結果としてその意思は貫き通された。
運命を変えることはそんなに難しいことではない。
自分の人生を悪い方向へと変えるときは特に。

破滅なんて恐れない―――
それはカゴにとっては、破滅に打ち勝つことではなく、破滅を受け入れることを意味していた。

カゴは意を決してメール送信のボタンを押した。
660 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:06
661 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:06
イシカワの携帯のメール着信音が鳴った。
その着信音の音の意味はヨシザワにもすぐさま伝わった。
組織に共通の「緊急事態発生用の着信音」だった。

「あいぼんから!」
「場所は!」
「20階!」

必要な言葉を交し合ったときには既に二人はエレベーターの中にいた。
高速エレベーターは一瞬で二人を20階まで連れて行った。
20階のフロアは広い。だがそのフロアには人影はなかった。
イシカワは目を凝らす。「ここじゃない」

「ナカザワさんの部屋だ」ヨシザワが素早く判断を下す。
もし今この場所で組織にとって「最悪の事態」が起こったとすれば、
それはナカザワの命にかかわることだとしか考えられない。

ナカザワの部屋につながるエレベーターは警備上の問題もあって、夜間は止めてある。
二人は階段のある方へと走り出した。
走るイシカワの視界の隅で微かに動くものがあった。

「待ってよっすぃー! あそこ!」
662 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:06
そこには血まみれのカゴが倒れていた。
後頭部を鈍器のようなもので殴られたようだ。
頭部からの出血は派手だったが、傷そのものはそんなに深くなさそうだ。
パッと見てそう判断したヨシザワはカゴに言う。

「傷は浅い。大丈夫だ。何があった? ナカザワさんか?」

カゴはそれには答えず、ヨシザワの隣にいるイシカワの方を見た。
カゴの目には涙がたまっている。
その言葉がカゴの口から漏れたとき、イシカワも泣きたくなった。

「やられた・・・・・・ツジに裏切られた・・・・・・・」
「はあ? どういうこと?」
ヨシザワにはカゴの言っている意味が全く理解できなかった。
だがイシカワにはうっすらと理解できた。
そんなことは理解したくなかったが―――おそらくそれが真実なのだ。

「ツジに後ろからやられた・・・・・・・リカちゃん、ナカザワさんが危ない。
 ツジがナイフ持ってナカザワさんのとこに向かった。ヤバイ。ヤバイ!
 ナカザワさんを殺るつもりや。あいつは最初っからこれが狙いやったんや!!」
663 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:06
カゴが何を言っているのかはわからない。
だがヨシザワは、カゴとイシカワが何か秘密を共有していることは、
会話の雰囲気から理解することができた。

とにかくナカザワが危ないという。そしてカゴの怪我は軽い。
では今は何はともかくナカザワの下へ向かうべきだ。
話は後でもできる。

「リカちゃん! あたしは上に行く! あいぼんをお願い!」
「う、うん」
イシカワも瞬時にヨシザワの決断を理解した。
ヨシザワは風のようにフロアを駆け抜けていった。

「リカちゃん、肩貸して」
ヨシザワのの後姿を見送るイシカワの後ろで、
カゴは腕時計をチラチラ見ながら立ち上がった。

「うちも寝てるわけにはいかん。ナカザワさんの部屋に行くで」
664 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/18(木) 23:06
ヨシザワは間接照明が僅かに照らす暗闇の階段を、飛ぶように駆け上がっていった。
頭の中ではカゴの言った言葉がグルグルと回っている。
「ツジに裏切られた・・・・」「ツジに裏切られた・・・・」「ツジに裏切られた・・・・」

バカな。悪い冗談だ。昨日今日の仲ではない。ツジが裏切るなんてありえない。

ヨシザワのツジへの思いはいささかも揺るがなかった。
だがカゴが嘘をついているようにも見えなかった。
何か二人の間で思い違いがあったのかもしれない。
わかってしまえば笑ってしまうようなくだらない何かが。

そうさそうさ。きっとツジとカゴがいつもみたいにバカかましたんだよ。
そんでもってあたしがその尻拭いをさせられるってわけだ。
それにしても頭をかち割ったりするかねー、まったくもう。
組織が終わるかどうかっていう時にさあ。
なんとも締りのない話だよねー。
ま、それもツジとカゴらしいっちゃーらしいなー。

ヨシザワのそんな甘い思いは、ナカザワの部屋の扉を開けた瞬間に吹き飛んだ。

ツジがしゃがみ込んでいるその向こう側でナカザワが倒れていた。
ベージュの絨毯を大量の血で真っ赤に染め上げながら―――
その胸の中央に、大きなナイフを付きたてたままで―――
665 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/18(木) 23:06
666 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/18(木) 23:07
667 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/18(木) 23:07
668 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:18
死体なら見慣れている。
一目見ただけで、ヨシザワはもうナカザワが息をしていないことがわかった。
悲しみや驚きといった感情よりも先に、ヨシザワはその冷徹な事実を理解した。

次にヨシザワが感じたことも、悲しみや驚きではなかった。
「殺人者がまだこの部屋にいる可能性」についてだった。

25階から20階まで、行き来できる階段は一つしかない。
20階から1階まで、行き来できるエレベーターは、夜間の間は一基しかない。
しかもそのエレベーターはヨシザワが上がった後に緊急停止させた。
今、このフロアから外に出て行くことは誰もできない。

ヨシザワは最大限の注意を払いながら、ナカザワに近づいた。
そっと首筋に手を置く。当然ながら脈はない。だがまだ微かな温もりが残っている。
そしてカーペットに広がる大量の血。まだ乾ききっていない。死後数分といったところか。
死因は胸のナイフによる刺殺で間違いない。
死んだ後にナイフを突き刺したとしたら、こんなに大量の血は流れない。

ヨシザワはそこまで判断してから、初めて携帯でメンバーに非常召集をかけた。
669 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:18
670 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:18
「さあ、最初から説明してもらおうか」
ヨシザワの言葉はどこか芝居がかった大げさなものだった。
だがそれはヨシザワなりの精一杯の自己防衛だった。

ナカザワの死のショックはまだ抜けていなかった。
だがこんな時こそ自分が冷静にならなければいけない。それはわかっていた。
冷静になるには、まず冷静な振りをすることから。
そうやって無理にでも自分を偽らないと、何かがあふれ出てきてしまうだろう。
冷静な振りをすることで、ヨシザワはなんとか自分の意識を集中させることができた。

部屋の中には、ヨシザワとイシカワとツジとカゴだけがいた。
他のメンバーは、ビルの中をしらみつぶしに捜索にあたっているが、
犯人らしき不審者は影も形も見当たらなかった。

おそらく犯人はもう、この建物から逃げ失せたのだろう。
それとも―――
671 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:18
ツジは最初から順を追って説明した。
説明することで、襲い掛かって来るパニックから逃れようと必死だった。
我を忘れて、甲高い声でただひたすら喋り倒した。

自分が一度は組織を裏切って、八百長のファイトをしたこと。
でも組織を潰すつもりなんてなかったこと。
八百長を組んだ相手から、失った2000万円を取り戻したこと。
そして今晩、その金をナカザワに返すつもりだったこと。

一度イシカワに説明したことだったので、ツジは比較的簡単に説明することができた。
その間、イシカワは暗い表情をしたまま、カゴは口をへの字に結んだまま、
二人とも一切言葉を差し挟まなかった。

「で、これがその2000万円が入ってるカバンかよ」
ヨシザワは忌々しげにジッパーを開けて、カバンをさかさまにした。
中にはいくつかの書類と、10個ほどの札束が入っていた。
数えてみると札束は全部で丁度1000万円あった。

「半分しか入ってねえな」
672 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:18
「あいぼん! 話が違うじゃん!」
「なにがやねん」
「だって、ここに2000万入ってるって!」
「知らんがな。だいたい金はお前が管理してたんやろうが」
「うそだ! お金はあいぼんが持っていた! ね、リカちゃん?」

イシカワは黙って首を左右に振った。
どちらがお金を管理しているか、イシカワは知らなかった。
それはツジとカゴの二人に任せていた。

「これ、ここの権利書だよ。それにね、あの孤児院の土地の権利書もある」
「し・・・・・知らないもん・・・・のん、そんなの知らない」
「そしてこれ」
ヨシザワがパスポートのようなものをツジに見せた。
ツジが信じがたい表情でそれを見つめる。
この三年間、ツジがずっと夢見ていたものがそこにあった。

「そんな・・・・・・・・」
「これ、偽造書だよ。関東検閲所の偽造通行書」
673 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:19
ツジが1000万円の金を費やしてでも手に入れたいと思っていた、
夢のパスポートがそこにはあった。
偽造書に貼っている写真の中のツジは、会心の笑顔を見せていた。
天使のような笑顔だった。
ナカザワの死体が転がっているその部屋には―――あまりにも不似合いな笑顔だった。

「裏切り者・・・・・・」

うめくようにカゴが言った。
暗い洞窟の底から聞こえてくるような声だった。
ツジはぱくぱくと金魚のように口で呼吸をする。
言葉が一つも出てこない。
いや、喋るどころか、息をすることもままならない。心臓が止まりそうだった。

「お前、1000万円で偽造書を買ったんやろ」

カゴに飛びかかろうとしたツジをヨシザワが抑えた。
後ろから抱えて羽交い絞めにする。
674 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:19
「それを知らないうちとリカちゃんを騙して、お金をナカザワさんに返す振りをして、
 ナカザワさんを・・・・・殺した」

ずっと言葉が出なかったツジだったが、さすがにそこで「殺してねえよ!」と叫んだ。
さらにわけのわからないことを喚く。完全にパニック状態に陥っていた。
ヨシザワが力ずくでツジの口を塞ぎ、黙らせる。

「そしてこの店の権利とよっすぃーの孤児院の土地を売ろうとした!
 売ってその金で関東からずらかろうとした! そうやろうが!」

カゴの言葉は止まらない。
「よっすぃーとリカちゃんが上がってくるまで、誰もうちの前を通らなかった」

カゴが倒れていた所を通過しない限り、ナカザワの部屋から下に降りることはできない。
高層ビルということもあって窓は開けることはできない。屋上への出口もない。
つまりナカザワを殺すことができたのは―――ツジしかいなかった。
675 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:19
「お前しかおらんのじゃ!」
「のんじゃないよ。のんじゃない! のんがやったんじゃない!」

ヨシザワは手を離し、ツジと向き合った。
このままカゴとツジを話させていても埒が明かない。必要なことはまだ訊いてないのだ。
いくつか質問する必要がある。
冷静になったつもりのヨシザワだったが、その質問は完全に尋問口調になっていた。

「じゃ、ナカザワさんを殺したのは誰だよ」
「知らない。のん知らない」
「じゃ、この偽造書を造ったのは誰だよ」
「知らない。のん知らない」
「じゃ、あいぼんを後ろから殴ったのは誰だよ」
「はあ? なにそれ?」

カゴが弾かれたように叫ぶ。
「とぼけんな! 一緒に行こうって言ってたのにお前がいきなり殴ったんやろうが!!」
676 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:19
ツジの心をひんやりとしたものが撫でた。
おかげでパニックになった頭を少し落ち着かせることができた。
ツジはバカだ。利口ではない。だがバカなツジでも自分がやったことだけはわかる。

のんはあいぼんのことなんて殴ってない。

何がなんだかよくわからないが、一つだけはっきりとわかった。
今回の件―――カゴが嘘をついている。

「殴ってないよ」
ツジのヒステリーは収まった。声のトーンが低くなる。声に迫力がこもった。
「証拠あんの? あいぼん、嘘ついてるでしょ」

だがカゴはツジの逆襲に対して一歩も引かなかった。
「裏切り者に嘘つき呼ばわりされたないな」
「裏切ってない」
「裏切ったやろうが。しかも二回も」
「裏切ってないもん!」
「許さん。うちは絶対お前を許さん」
677 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:19
ヨシザワはあえて二人を自由に喋らせた。
だがどちらかが嘘をついているようにも見えなかった。
もし嘘をついていたとしても―――見抜く自信はなかった。

だがナカザワ亡き後、この組織の最高責任者はヨシザワだ。
裏切り者がいるのなら制裁を加えなければならない。
たとえそれが―――施設から付き合いのある、親友の一人だったとしても。

「リカちゃん・・・・・・のんに説明してあげて・・・・・・・」
ヨシザワは気乗りしない感じで言葉を発した。
なるべくなら決定的な瞬間は先送りにしたかった。

ヨシザワからバトンを受け継いだイシカワも思いは同じだった。
これから言う言葉は、ある意味死刑宣告に近いものだったから。
とても言う気にはなれなかった。
だがいつまでも黙っているわけにはいかない。
実際に―――ナカザワは殺されてしまったのだから。

「のんちゃん。ナカザワさんに刺さっていたナイフには指紋がついていた」
678 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:19
ツジはぽかんとした表情を浮かべる。
「はあ? なにそれ。そんなの調べられるわけないじゃん」
関東では警察機関など死に絶えたも同然だった。
それにフォースのような組織が警察に頼るわけにもいかない。メンツが潰れる。

「ごめんね。のんちゃん。あたしには―――見えるの。見えてしまうの」

イシカワの驚異的な視力はナイフについた指紋を識別できるほどだった。
ナカザワに刺さったナイフには、しっかりとツジの指紋がついていた。

さらにナイフの柄の部分にはうっすらと血と髪の毛が付着していた。
これはカゴの髪の毛だということがわかった。
特別な毛をしているカゴの毛は容易に他の人間と区別することができた。

カゴが後頭部を殴られたときに―――ついた髪の毛だと思われた。
679 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:20
「そんなのあいぼんが自分で付けたに決まってる!」
「なんであいぼんがそんなことするんだよ」
「ナカザワさんを殺してのんに罪をなすりつけるためだよ!」
「じゃ、ナイフの指紋は?」
「そんなの、のんが使ったナイフを盗めばいい!!」

ツジの言っていることはその場しのぎの適当なことばかりだった。
確かに筋が通っているように見えなくもない。だが。
だが全ての状況がツジの言葉を否定していた。

「無理なんだよ」
ヨシザワの声はいつの間にか外の空気よりも冷たいものになっていた。

「あいぼんにはナカザワさんは殺せない。無理なんだ」
680 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:20
ツジが部屋に入ったときには既にナカザワは死んでいた。
これはツジが証言している。
そのナカザワが死んだのはほんの数分前と思われた。
血の乾き具合からヨシザワがそう判断した。

つまり、カゴはツジが部屋に入る数分前までにナカザワを殺さなくてはならない。
だがそれはツジと一緒にいたカゴには不可能なことだった。
皮肉なことに―――ツジがカゴのアリバイを立証していたのだった。

「し・・・・知らない誰かが侵入してきてやったんだよ」
「そう思えたらどれだけいいか・・・・・・」
ある意味不謹慎な言葉だったが、ヨシザワの本音でもあった。
第三者が犯人だったらどれだけいいだろうか。だがそれも不可能だ。

ナカザワ殺害後にすぐエレベーターは止められた。外に出ることは出来ない。
人が隠れられるようなところは全て探した。

全ての状況が、ナカザワを殺したのはツジだと告げていた。
681 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:20
「もうお前と話すことはない」
カゴが最後通牒をつきつけた。
それに対してツジは「話さなくてもいいよ」とは切り返せない。
なぜならこの組織の掟は―――

「裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を」

ぼそりとつぶやいたのはヨシザワだった。

八百長をして組織の金を抜いたこと。
その金で偽造書類を買ったこと。
フォースの権利を売ろうとしたこと。
孤児院の土地を売ろうとしたこと。
そんなことより何より―――ナカザワを殺したこと。

普段は極めてクールな判断を下すヨシザワも、さすがに興奮を抑え切れなかった。
682 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:20
「裏切り者には死を。言葉でも感情でもなく死を」
もう一度ヨシザワがつぶやく。今度ははっきりとツジに向けて放たれた言葉だった。
ツジはがじがじと自分の指の爪をかじっていた。
ヨシザワの言葉を聞いているのかどうかもよくわからない。

「そんなルールはどうでもいいんだよ」
場の空気が弛緩する。ヨシザワは本当にどうでもいいように見えた。

カゴも唾を飲み込む。体が動かなかった。
さばさばした性格に見えるヨシザワだが、普段は決して自然体の人間なんかではない。
常に周りに気を配り、周囲と自分とのバランスを計っている。
決して自分本位の言葉を吐いたりすることがない人間だった。

「金がなんてさ。借金がなんてさ。どーだっていいんだよ」

カゴはそれをよく知っていた。ヨシザワが本当の意味で自分本位になったときは恐い。
ちょっとぶっきらぼうで、投げやりに見えるとき。
そんなときのヨシザワは、激怒したナカザワよりもずっと恐かった。

「組織が潰れちまうっていうなら、別にそれでもよかったんだ」

誰もヨシザワの言葉を止めることはできない。
三人とも魅入られたように、ヨシザワの次の言葉を待つだけの存在になった。
ヨシザワは本当にどうでもいいように見えた。
場合によっては、自分の命さえどうでもいい。そんな風に言っているように見えた。
683 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:20
「そんなことよりも大切なものって・・・・・あるじゃん」
そこで言葉を切る。沈黙が流れる。
ヨシザワはその大切なものが何であるのか、具体的に言うことはなかった。
ヨシザワの頭に浮かんだ「大切なもの」。ツジの頭に浮かんだ「大切なもの」
そして―――カゴの頭に浮かんだ「大切なもの」。
それが同じものだったのかどうかは、それは誰にもわからない。永遠に。

「大切なものには順番があってさ。間違えちゃいけない順番ってあると思うんだ」

ツジの頭は真っ白になった。
噛み締めた爪の下では血が滲んでいた。
爪の先を全て噛み砕いてしまっても、ツジの口は止まることなく破れた肉を噛み続けた。

自分が本当の意味で取り返しのつかない過ちを犯したと、初めて気付いた。

ナカザワを殺したのは自分ではない。
だが自分は確実に、ヨシザワの心の中の何かを裏切ったのだ。
大好きな親友が大切にしていた何かを。
自分は明らかに―――何が大切であるかという順番を間違えたのだ。
684 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:20
ヨシザワは立ちあがった。
まるで腰から足が引き抜かれそうな、ぎこちない立ち上がり方だった。
そこに込められた意思がなんであるのか。
付き合いの長いツジとカゴには容易に理解できた。

「のん、最後になんか言いたいことあるか」
それは組織のルールに反する行為だったが、カゴもイシカワも何も言わなかった。
反論も擁護もできなかった。
最後にそれができるとすれば、ツジ自身の言葉しかないと思った。

ツジは爪を噛むのを止めた。
「ない」
ツジの言葉は覚悟に満ちたものだった。そこには希望も諦観もなかった。

「のんは確かに組織を裏切った」
685 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:21
カゴは耳を疑った。とてもツジの口から出た言葉だとは思えなかった。
最後にもう一度―――ツジは自分のことを罵るだろうと予想していた。
仕掛けた罠は十分なものだったが、完璧ではない。
必要とあらば喋って喋って喋り倒して、ツジを言い負かす必要があると思っていた。

「3年つきあったよしみだ。下でやろう」
「下?」
「リングの上でやろう。お前が勝ったら命は助けてやる」
「・・・・・・・いやだ」
ツジはヨシザワの提案を断固拒否した。

この期に及んで自分に気を遣おうとするヨシザワの心が疎ましかった。
自分が望んでいるのは華々しい最後なんかではない。
やるなら一思いにやってほしかった。

本当は逃げ出したかった。泣き喚きたかった。許しを乞いたかった。
何か一本の線が切れたら、そういった感情に全身が支配されそうだった。
686 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:21
ヨシザワがゆっくりと拳を握り締める。

ツジはヨシザワの目を見た。
彼女の瞳の中にあるのは怒りでも蔑みでもなく、強い痛みだった。

痛いんだ。痛いんだよっすぃー。あたしを殺すから。あたしを殺さないといけないから。

その瞬間、膨らみきったツジの恐怖心が、最後の一線を切った。
ツジは後ろを向いて走り出し、部屋の扉を開けた。
廊下に駆け出ようとしたツジは、外で待機していたメンバーに取り押さえられる。
一人。二人。三人。四人。次々とメンバーがツジを押さえにかかった。

死にたくない。
そのたった一つの生存本能は、ツジの肉体を想像以上に強く突き動かした。
獣のように叫びながら、飛び掛ってくる男どもを片っ端から殴った。

逃げろ 逃げろ 逃げろ 逃げろ 逃げろ 逃げろ 逃げろ 逃げろ 逃げろ

殺せ殺せ殺せ 殺される前に殺せ 殺せ殺せ殺せ 殺される前に殺せ

死ね死ね死ね お前が死ね お前が死ね 死ね死ね死ね。お前が死ね。
687 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:21
「うわあああああああああああああ。グアアア ア  ア  ア !!」

ツジの顎が外れ、口腔の奥からサーベルタイガーのような牙が姿を現した。
上唇と下唇が極限まで広がる。
その中に見えるツジの喉のマグマのような赤さは、部屋の景色すら変えた。

あまりにも巨大な牙だった。牙が交差する度にツジの体はバランスを崩す。
ツジの首から下のパーツは、もはや巨大な牙の付属品と化していた。

「アガガガガ!! グルゥゥゥゥ!」

心と体のリミッターを外したツジは、一匹の魔獣となって、
戸惑い怯んでいるメンバーたちを次々とその牙にかけていった。
ツジが顔を上下左右に振るたびに、肉が裂ける鈍い音が響き、
横殴りの雨のような血しぶきが音をたてて部屋の壁を赤く塗り替えていく。

石斧のような牙が、メンバーを7人まで突き刺したところで、
ツジの顔に黒く硬い髪の毛が蒔き付いてきた。
688 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:21
「ガフウウ! ゴガルウウウウ!!」
ツジの巨大な牙は、鋼鉄の強度を誇るカゴの髪の毛すらも、いとも簡単に断ち切った。
だがカゴの髪の毛は切られても切られても止め処なく次々と伸び続ける。
泉のように湧き出てくる黒髪は、一陣の波となってツジに襲い掛かった。

カゴの髪の毛は「量」でツジの牙を圧倒した。
真正面からツジの牙をねじ伏せ、ツジの手足を強引に縛り上げた。
それでもなおカゴの喉元目掛けて襲い掛かるツジの牙が眼前に来た瞬間、
しなやかに踊った髪の毛はツジの膝の裏をすくい上げた。
ツジの体は芋虫のように床に転がった。
その一瞬の隙を見逃すことなく、カゴは髪の毛でツジの体を簀巻きにした。
首をがっちりと固定してしまうと、それ以上ツジは抵抗することはできなくなった。

周りのメンバーが一斉に拳銃をツジの頭に向ける。
「撃てぇ! 撃ったれやコラァ!」
「待て」
血みどろになって倒れているメンバーの死体を乗り越え、ヨシザワがツジの眼前に躍り出た。
なおも暴れているツジの体をヨシザワは思いっ切り蹴った。
ツジの体が仰向けになる。鋭い牙が何度かヨシザワの脛の辺りを往復した。
ズボンごと脛の肉が切られ、赤い血が噴き出したが、ヨシザワは怯まなかった。

「ケリはあたしがつける」
その言葉にはもう躊躇いはなかった。その目にはもう迷いや痛みはなかった。
689 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:21



ヨシザワの手刀がツジの眉間に飛んだ。



 
690 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/24(水) 23:22
その後の始末は―――
いつもはツジとカゴの仕事だったが、手伝うと申し出た他のメンバーを追い払い、
カゴが一人で処理した。





気が付くともう夜は明けていた。
691 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/24(水) 23:22
692 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/24(水) 23:22
693 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/24(水) 23:22
694 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:07
結局、フォースは借金返済のための金を全額用意することができなかった。
このまま組織は解散に追い込まれてしまうと誰もが思ったが、
突然、当日になって向こう側から組織を丸ごと買い受けたいという提案が出された。
人員などは全てそのままで、今の仕事を続けながら返済を続ければいいという。

「それってどういうこと? じゃあどうしてあんなに急に借金を返せって?」

イシカワの疑問はすぐに晴れた。
今の仕事を続ける代わりに、向こうから一つ『条件』が出されたというのだ。
「つまりはまあ、その条件っていうのをこっちの飲ませるために、
 いきなり金を用意せえとか揺さぶりをかけてきたんやろうな」

カゴは冷めた口調でそう分析してみせた。
ナカザワを失い、さらに新たな買収相手を前に、組織は動揺していた。
その動揺を豪腕で押さえ込んだのは他ならぬカゴだった。

ヨシザワはあの後「あとはあいぼんに任せる」と言って寝室に篭った。
その気持ちを慮ってか、誰もヨシザワの寝室には近づかなかった。
もしカゴがその提案を蹴って組織を解体したとしても―――
ヨシザワは一切文句を言わなかっただろう。
695 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:08
だがカゴはその提案を受け入れた。
組織の存続を望むメンバー達も、カゴの決断に異論はなかった。

こうしてクラブ『フォース』は、新しい支配人の手に落ちることとなった。

新しい支配人はマリという小柄な女だった。
なかなか口うるさそうな支配人だったが、
彼女を据えることが組織存続の条件なのだから仕方ない。
そして体調不良のまま寝込んでしまったヨシザワに変わって、
カゴがマリに次ぐナンバー2の位置についた。

それに関しても、文句を言うメンバーは誰もいなかった。
フォースという組織の最大の危機を乗り切るにあたって、
ギリギリの交渉を上手くまとめたのはカゴ―――

メンバー達の間ではそういった共通認識が持たれるようになった。
カゴがヨシザワに変わって実務上のナンバー1になることは
極めて自然な流れのように思われた―――。
696 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:08
「なかなか座り心地のいい椅子じゃん」
ナカザワがいた部屋に収まると、ヤグチは満足気な声を上げた。
その椅子をカゴはゆさゆさと揺する。
「ちょっとヤグチさん。あのときうちの出した条件は、
 この店のナンバー1にしてくれるってことやったんやけど」

カゴが裏切りの見返りに要求したのはこの店の権利だった。
だが今、その地位にはヤグチが納まっている。
たとえナンバー2の位置に収まったとしても、カゴは納得できなかった。

「ヤグチって言うなよボケ」
「ヤグチさんでもマリィさんでもなんでもええやん!」
「うっせーなー。相変わらず口の減らないガキだな・・・・・」
「だって約束したやん!」

そんなやり取りを交わしてはいるが、マリの機嫌は悪くない。
最大の目的はナカザワを殺ること。それがマリに与えられた使命だった。
だがマリはその目的を達成するだけではなく、フォースという巨大組織を手中に収めた。
それも力で強引に奪うのではなく、組織のメンバーごと丸々頂いたのだ。
機嫌が悪いはずがなかった。カゴの抗議も軽く受け流すことができた。
697 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:08
「まあまあ、気にすんなって。この席はそのうちちゃんと譲ってやるからよ。
 今はまだナカザワが死んだばっかりだろ? その直後にお前がトップになったら
 誰だって『あれ?』って思うじゃんか。ワンクッション置いた方がいいんだって」

虫の良い理屈だったが、一理ないこともない。
確かに次のトップは誰もがヨシザワが着くものと思っているだろう。
いきなりカゴがトップに立つのは不自然過ぎるかもしれない。

外部からきたヤグチがオーナーの座に着くことに抵抗があるかもしれないが、
それも条件だから仕方ないと割り切ることができるだろう。
そしてその後で、カゴがヤグチからその座を譲り受けても、
「組織のことを知らない人間がやった人事」と見せかけることができるだろう。

「まあ、ええか」
大きな息を一つ吐き出し、とりあえずカゴは納得した。
ヤグチは店のことは何も知らないのだ。自分が勝手に店を仕切ればいい。
ならば実質的なナンバー1であることに間違いはない。
698 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:08
「それにしてもマリィさん、よくばれなかったですね」
「まあな。あれは慣れてるから」

カゴの髪の毛をつけたツジのナイフでナカザワを殺した後、ヤグチは体を小型化させた。
施設であの薬を投与された後に身についた能力の一つだった。
キャリアの能力とはまた違った力だった。

ヤグチは小型した後、机の引き出しの中の小物入れの中に隠れていた。
誰もそこに人間が隠れているなんて思わない。
部屋から人が去った後、ヤグチはカゴのポケットに収まって部屋の外に出た。

「それにしてもよぉ。ヨシザワのやつはまだ寝込んでるのかよ?」
「はあ。どうもツジを殺ったことが堪えているようで」
「チッ。案外精神的に脆いやつだなー。ちょっと行って呼んで来いよ」
「え? 呼ぶって今からですか?」
「ああ。新しい支配人としてビシッと言っておかないとな。ビシッと」

子供のような支配人は、威厳を出そうとすればするほど滑稽に見えた。
だがこれはこれでいいのだとカゴは思う。
本当に威厳に満ちた支配人では困るのだ。
カゴは文句を飲み込んでヨシザワの寝室に向かった。
699 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:08
鍵は開いていた。
もしかしたら一緒にいるかも、と思ったら案の定、そこにはイシカワがいた。
あれ以来、どうもこの二人は一緒にいる機会が増えたような気がする。

ベッドに腰掛けたヨシザワの頬はざっくりとこけ細っている。
どうやらあれからほとんど何も食べていないらしい。
その横ではイシカワが献身的にヨシザワの世話をしていた。

悲劇のヒロインの座に浸っている二人に、カゴは激しい憤りを感じた。

殺るか。殺られれるか。それがここ関東のルールとちゃうんかい。
フォースというぬるま湯に浸かって楽ばっかりしてきやがって。
うちは体を張った。人生を賭けた。殺られれることを覚悟して殺った。
お前らはなんや。他人に言われたことにハイハイ言うて従ってるだけやないかい。

今日からは自分がここを仕切る。
マグマのような熱い意志がカゴの心から噴き出した。
だがその意思がヤグチの言うところの「砂の城」のような脆さを持った意思であることに、
当然ながらカゴ自身は気付いていない。
700 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:08
「おいヨッスィー」
返事がないことは予想していた。
もっとも顔すらこちらに向けないとは思わなかったが。

怒りのオーラを発散させながらベッドに近づく。
制止しようとしたイシカワを両手で突き飛ばした。
カゴは足の裏に渾身の力を込めてヨシザワの肩を蹴った。
すっかり軽くなったヨシザワの体はあっけなくベッドの向こう側に落ちた。

「いつまでそうしてるねん」
起き上がったヨシザワの目には怒りの光があった。唇が震えている。
抜け殻になったように見えていたが、まだ心が死んだわけではないらしい。
カゴはその光を頼りに、ヨシザワの心に火をつけようと試みた。

「ツジのことはもう忘れろ。あんなカスみたいなやつのことは忘れてしまえ」
「カスじゃねえよ」
まだヨシザワの目はふらふらとして焦点が合っていない。まだ足りない。
だがもう少しだ。もう少しでヨシザワの心の一番深いところに手が届く。
そこでイシカワが間に入ろうとする。
701 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:09
「邪魔すんな」
カゴは再びイシカワを殴り飛ばす。今度は一切手加減しなかった。
イシカワは大きな音をたてて壁に激突する。
寝てろ。カゴはそう思った。今この瞬間だけは邪魔させてはならない。
自分とヨシザワ。どちらかが倒れるまで言葉をぶつけ合うだけだ。

「カスや。カスや言うたら人間のカスなんや」
「お前に何がわかんだよ!」
「わかる」
「なにがわかるんだよ・・・・あたしがどんな思いで・・・」
「よっすぃーが殺らんかったら、うちが殺ってた」

突然だった。
何の予兆もなく、カゴの両目からぶわっと勢いよく涙が溢れた。
分厚い涙の滝はあっという間にカゴの頬をつたい、顎から床へと滴り落ちた。
怒る必要があればいつでも怒れる。泣く必要があればいつでも泣ける。
それはカゴが生きるために身に付けた能力の一つだった。

「うちはナカザワさんが好きやった」
涙はなおも物凄い勢いで流れていたが、カゴの声は全く震えていなかった。
702 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:09
「うちはナカザワさんが好きやった」
カゴはもう一度同じことを言い、その言葉がヨシザワの心に広がるのを待った。

ヨシザワの心は荒んでいても、枯れてはいない。
だからきっとこの言葉はヨシザワの心に届く。届かざるを得ない。拒絶できない。
そこがヨシザワの弱さだ。限界なのだ。
カゴはじっくりと待ってから言葉を続けた。

「確かに怖いし口うるさいし我侭なところもあったけど、あの人はいつも
 みんなのことを考えていてくれた。みんなのために嫌われ役になれる人やった。
 あの人はうちらの母親やったんや。教師やったんや。そして命の恩人やった」

言葉はすらすらとよどみなく出てきた。
本心だからではない。

カゴは正論が嫌いだった。正義が嫌いだった。綺麗事が嫌いだった。
だから正論を振りかざすナカザワのことも好きではなかった。
綺麗事を言うヨシザワのことも好きになれなかった。
703 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:09
「何も知らないあたしに、ナカザワさんは真っ直ぐ生きることを教えてくれた。
 どう生きればいいのか、何を信じればいいのか、それを教えてくれたんや。
 あたしは、そんなナカザワさんのことが―――大好きやった」

自分が一番嫌っていたことを熱く語れば、
それがすなわちナカザワの美点を語ることになる。
思いが思いを呼び、言葉が言葉を呼んだ。いくらでも語れる気がした。
本心ではなかったが―――全くの嘘ではなかった。
ずっとずっと大声で叫びたいと思っていたことでもあった。

別に理解されなくてもいい。
きっと自分を理解してくれる人なんて、この世に一人もいないだろう。

生まれてこの方、自分の味方になってくれる人間なんて一人もいなかった。
親?ふざけんな。ナカザワ?うざいだけや。フォース?窮屈なだけや。
誰もあたしのことを守ってはくれない。誰も愛してはくれない。
あたしはそんなことは期待しないし、期待されたくもない―――。

カゴの目から流れる涙は、決して演技したものではなかった。
704 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:09
「なあ、よっすぃー」
カゴは涙を拭った。もう泣く必要はないだろう。
もしかしたら、自分はこれでもう二度と―――泣くことはないかもしれない。
たとえそうなったとしても、自分が大切な何かを失ったなんて思わない。

カゴは自分が得たものがどれほど大切なものなのか理解できるほど大人ではなかった。
何が大切なのか理解できていないがゆえに、
大切なものを失うことを恐れるようなことはなかった。
そして実際に失ってしまったとしても―――それに気づくことができなかった。

もう止まらない。もうカゴの言葉は止まらない。
一歩も躊躇うことなく、カゴはヨシザワの心の中に力強く踏み込んだ。

「なあ、ヨッスィー。お前はツジを殺した自分が自分で許せへんみたいやけど、
 それってツジに殺されたナカザワさんのことを見捨てるっていうことなんやで?」
705 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:09
ヨシザワは反論することなく素直にカゴの言葉を聞いているように見えた。
まだグズグズ言うようなら、もう一発くらい殴ってやろうと思っていたが、
どうやらその必要はないようだ。

ヨシザワはゆっくりと起き上がってベッドの上に両手をついた。
うつむいたまましばらくの間じっとしていたが、
やがて髪を軽くかき上げると、床に落ちていた毛布と枕を拾い上げる。
それをベッドの上に戻すと、やや躊躇いを見せながらも、しゃんと背筋を伸ばした。

ヨシザワの瞳には再び力が戻ってきていた。
だがその瞳に宿っているのは、以前のような澄んだ純粋な輝きではなかった。
綺麗なものだけを見つめてきた瞳ではなかった。

瞳の奥にあるどこか暗い影。黒い力。
それを見てカゴは満足した。
ヨシザワの心がある一線を超えたような気がした。
もうヨシザワは以前のヨシザワに戻れないだろう。だがそれでいい。
以前のヨシザワよりも、今のヨシザワの方が、もっとずっとカゴの好みだった。
706 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:10
707 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:10
「ヨシザワです」

カゴに激しく煽られて、なんとか起き上がったヨシザワだったが、
それでもマリィと初対面の挨拶をするのは、彼女にとってかなり気の重い作業だった。

案の定、出てくる言葉はどこか棘を感じさせるものになってしまう。
どうしてもマリィのことをオーナーとして見ることができなかった。
ナカザワ以外の人間があの椅子に座っているのを見るのは、かなりの抵抗があった。

だがマリィという小柄な女は、陽気でお喋りでサバサバとした性格で、
ヨシザワが思っていたよりもずっと話せそうな感じの女だった。
そしてなにより、傷ついたヨシザワの心をいたわるような、細かい気遣いを感じた。

上手くやろうと思えば上手くやれる相手かもしれない―――

それがマリィに対する、ヨシザワの第一印象だった。
708 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:10
「いいよいいよ。復帰はゆっくりで。それまでやっかいな仕事は全部カゴにやらせるからさ」
「ひでー、うちは雑用係扱いですか?」
「おいおいナンバー2だろ? 二人分くらい働けよ。キャハハハハ」
「よっすぃーもちゃんと働かさないと。ますます人間が腐ってまいますわ」
「あー、まー、ヨシザワにはしばらくアレだ。孤児院の方でも頼むわ」

自分が寝ている間に、カゴとはすっかり仲良くなったらしい。
なんだか自分が置き去りにされた気がした。
ツジやナカザワのことをいまだに引きずっている自分はダメな人間なのだろうか―――
ヨシザワは周りの人間に気付かれないように、そっとうつむいて静かなため息をもらした。

やっていくしかない。これでやっていくしかない。
ツジとナカザワのことを忘れるわけにはいかないが、前を向いて進んでいくしかない。

そうだ。孤児院のこともある。
自分がまた稼がなければ―――あそこもどこかに買われてしまうかもしれない。
709 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:10
「もう大丈夫です」
その言葉からは棘は消えていたと思う。凛とした声で言えたと思う。
ヨシザワは「もっと強くあれ」と自分に言い聞かせた。
誰にも負けちゃいけない。何よりも、自分に負けちゃいけない。

元々この声は素の声ではない。
組織のみんなを引き締めるために、意識して出している声だ。
「明日からはもう、雑用でも店番でも警備でもファイトでも。なんでもやりますよ」
その言葉に嘘はなかった。とにかく今は何も考えずにがむしゃらに働きたい。
体を動かしている間は何も考えなくてすむ。

ヤグチは目を細めて満足そうに頷いた。
「よし。わかった。頑張れよ、よっすぃー」

初対面の人間に「よっすぃー」と呼ばれることには抵抗があった。
だがこれもいずれ慣れていくのだろう。

なんだってそうだ。
人間はいつだって、どういうことに対してだって、いずれ慣れてしまう。
それはきっと「忘れる」ということとはまた別次元の話なんだ―――。
710 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:10
「とにかくさあ、元気が戻ったっていうなら、あたしのために一生懸命働いてくれよ。
 死ぬ気で働けよな。それがクラブのためになるし、みんなのためにもなるんだよ。
 そうすればきっと―――死んだナカザワさんだって喜んでくれると思うんだ」

ヨシザワは大きく頷く。
当然だ。マリィの言う通りだと思う。
それがナカザワに対する何よりの餞となるだろう。

「あたしは何も心配していないから」
そう言ってヤグチは隣にいるカゴに顔を向け、ニヤリと笑った。
カゴやツジを軽く凌駕するような、飛び切りの―――悪魔のような微笑みだった。

そうなのだ。
人間の苦境に手を差し伸べるのは、いつだって神ではなく悪魔なのだ。
小さな悪魔はキャハハハハと下品に笑いながらヨシザワに言った。

「あたしは―――みんなのことを信じてるから、さ」
711 名前:【潜伏】 投稿日:2009/06/25(木) 23:11
第三章  潜伏  了
712 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/25(木) 23:11
713 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/25(木) 23:11
714 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/25(木) 23:11
715 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/26(金) 18:51
今回の更新うわあああああああああってなりました
凄い展開ですね
いつもドキドキしながら追ってます
716 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/29(月) 23:14
717 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/29(月) 23:15
黒い犬が 白い犬を 追いかけて

白い犬が 黒い犬を 追いかける

黒い犬は 白い犬に 噛み付き

白い犬は 黒い犬に 噛み付く

狩られているのは さて どっち?
718 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/29(月) 23:15
第四章  発症
719 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:16
昨晩からずっと、止むことを忘れてしまったのように激しい雨が降り続いていた。

雨は中空を濡らし、街を濡らし、地面を濡らす。
水煙のような雨の一団は、上から横からあらゆるものを濡らしていく。
そして今、雨の滴は一人の浮浪者のほつれた髪の分かれ目に従って、
滝のように滴り落ちていく。

浮浪者は傘も差さず、物陰に入ることもなく、ただ濡れるがままになっている。
かつては異常な数の人間で溢れかえっていた東京の歓楽街は、
今は一人の人間の姿もなく、「生」の気配を全く感じさせなかった。

アルプスに登山にでも行くような大きなリュックを背負った浮浪者は、
かつて「信号機」と呼ばれていた巨大な鉄の棒の傍らに座り込んでいる。
浮浪者は死に絶えた街に完全に溶け込み、陶器の置物のように動かない。
くるぶしまで水嵩を増した濁流が右から左へと流れていく。

浮浪者はただ成されるがままに雨の通り道の一部と化していた。
720 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:16
一人の男が浮浪者の下へと近づいてくる。
バシャバシャと立てる足音は、それ以上に強く降り注ぐ雨音にかき消されていく。
その雨音に負けないくらいの強い口調で男はがなり立てる。

「おいマコ! この雨だ。中に入れ! 取り引きはその後だ!」
マコと呼ばれた浮浪者は、雨と垢でベトベトになった顔を崩して朗らかに笑った。
「いいっす。ここでいいっすダンナ。これ、いつものやつです」
リュックの一番上からビニールの包みを取り出す。
英和辞典ほど大きさの包みは、見た目以上にずっしりと重かった。

男は唾を吐くと同時に舌打ちをするという、
無駄に高度な技術を披露しながら包みを受け取った。

ビニールで完全防水されたピンクの包みには「GAM」と書いてある。
男はそれを確認すると、包みを右の懐にしまい込み、代わりに左の懐から取り出した。

代金―――ではなく、銀色にテカテカと輝く安っぽい拳銃を。
721 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:16
「ダンナ、何のマネっすか」
横殴りの強い雨は上下する浮浪者の唇の間にも容赦なく入り込んでいく。
雨は弱まるどころか、ますますその勢いを増していく。
真っ黒の雲に覆われた空が、一瞬だけ稲光で白くなった。

「出せよ、全部」
男は決して銃口をマコに近づけすぎることはしない。
適正な距離を保ちながら、相手の動きを体の正面に据えて、慎重に牽制する。

もっともマコの体には、反撃を開始するような能動的な気配は全くなかった。
3年間の浮浪者生活の中でマコが身に付けた、たった一つのスキル―――
それがこの怠惰で無防備な雰囲気だった。

「へへへ。出せって言われてもねえ。ダンナも案外面倒臭がりですね。
 薬や金が欲しいならあっしを殺してから探せばいいじゃないですか」
「黙れ。薬を出せば殺しはしねえ。とりあえず持っているだけ出せや」
「殺さない? へえ」

無法地帯と化した関東では人を殺すことに意味などない。
ただの感情表現の一つに過ぎないし、もっと言えば生理現象に近かった。
だから逆に「殺さない」という行為には深い意味が含まれることが多いと言えた。

「つまりダンナの目的は薬だけじゃないと?」
722 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:16
苦虫を噛み潰していたような男の表情がすっと消えた。
そこで初めてマコの顔を、人間の顔を見るような目で見た。
ただの小汚い売人だと思っていた浮浪者だが、どうやら単なるバカではないようだ。

「話が早くていい」
男は頭を切り替えた。必要とあらば腕の一本でも撃ち抜くつもりだったが、
この様子では案外あっさりとカタがつくかもしれない。
相手の命は惜しくないが、一発の銃弾は惜しかった。
それでも男は銃口を降ろすような愚は犯さない。
こちらのペースを通し、相手のペースは許さない。それがこの地での基本的な生き方だった。

「てめえの頭の居所はどこだ?」
「頭? はて?」
「とぼけんなよ。GAMの頭のことだよ。死にたくないならアジトの場所を教えな。
 これから俺がてめえの頭のところまで挨拶に行ってやるからよ―――」

雨の音が一瞬止んだようにマコには感じられた。
雨だけではない。その瞬間、マコの耳から全ての音が消えた―――気がした。

そして次の瞬間、一発の銃声が鳴り響き―――
マコの目の前でパッと血しぶきの花火が咲いた。
派手な水音を立てて男の肉体が地面に倒れ落ちる。
723 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:17
「その必要はねえよ」
フジモトミキは順番を間違えることはなかった。
まず男の頭を撃ち、息の根を止めてから姿を現し、そして言葉を投げかけた。

「こっちから出向いてやったからよ。光栄に思えよカス野郎が」

死んだ男のように、拳銃を構えてからグダグダと喋るやつは二流だ。
拳銃はあくまでも銃弾を撃つために存在する。相手の命を奪うために存在する。
そのためにのみ使われるべきだとミキは思う。

それに相手を脅して情報をつかもうとするやつなんて三流だ。
必要な情報は集めるまでもなく自然と集まってくる―――あくまでも相手の意思で。
それが真の一流というものだ。
毎日のように、アヤの下に裏切り者のタレこみが流れてくるように。

そんなミキの思索とは無関係に、アスファルトを流れる水はますます勢いを増していく。
男の死体をも流していきそうな勢いだった。
ミキは慌てて男の肩を踏みつける。
「おい、マコ。さっさとこいつの持ち物調べろ」
「はーい」
724 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:17
ミキは雨が好きだ。特に、空が荒れ狂ったような激しい雨が好きだった。
雨粒はミキの嫌いなものを全て流してくれる。
街の臭い。人の臭い。欲望の臭い。雨粒は全ての臭いを流してくれた。

雨粒はミキの嗅覚を奪う。雨音は聴覚を怪しくする。雨風は視野を狭くする。
それでもミキは今日までずっとこの危険な街で生き抜いてきた。
雨はいつだってミキの味方だった。

その時―――。

ミキの頭のすぐ横にあった信号機の支柱が火花を上げる。
同時に銃弾が金属を掠めたときのキーンという嫌な破砕音が聞こえてきた。
「伏せろ! マコ!」

薄汚れた浮浪者は一瞬の躊躇も見せずに車道の濁流に身を投げた。
バシャバシャと水の上を回転しながら脇に止めてあったミニバンの陰にたどりつく。
ミニバンのドアが開いて7、8人の男達が躍り出てきた。
防弾チョッキで上半身を膨れさせた男達に向かってミキが命ずる。

「散れ! 囲め! 皆殺しだ!」
725 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:17
走り出すミキの足元で兆弾の水しぶきが舞う。
先ほどの銃弾といい、とてもこの雨の中とは思えない正確な狙撃だった。
裏切り者のあぶり出しのために、万全の準備をしてきたGAMだったが、
もしかしたら裏をかかれたのかもしれない。
そう思わせるほど、相手の戦闘配備も万端ぬかりないものだった。

自動小銃を思わせる銃弾の雨がミキの配下の男達をなぎ倒していく。
ミニバンはあっというまにハチの巣になり炎上した。
「マコ!」
ミキは反射的に足を止めてしまう。
踏ん張ろうとした足が、流されてきたビニール袋で滑り、ミキは体勢を崩す。
こめかみ辺りにかすかな熱を感じた。

狙われている―――

そう意識した瞬間、ミキは崩れた体勢を立て直すことを放棄し、
重力に引っ張られるままに地面に身を伏せた。
仰向けに倒れたミキの鼻先を銃弾がかすめていく。

その時、視界で動いたかすかな揺らめきをミキは見逃さなかった。
「あそこだ! 撃てマコ!」
726 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:18
ミキの指示を受けてマコが立ち上がる。
車道の濁流はくるびしほどの高さしかなかったが、濁流と一体となった浮浪者は、
まるで潜水状態から浮上したかのように、突然そこに姿を現した。
ボロ布のような服も、そこからしたたる茶色い水も、見事なまでに薄汚れた街と一体化していた。

右肩にはランチャーが乗せられている。
ミキは既にマコの背後をサポートできる位置に移動していた。
マコは指示しない限り働かない。自分では何もできないだたの浮浪者だ。
だが一度指示を出せば、必ずその指示に従って、まるで機械のように正確に動く。

ランチャーが着弾した地点は、ミキが指差した「あそこ」と寸分狂いなかった。
廃ビルの一角が紙のように軽く吹っ飛ぶ。燃え上がる暇すらなかった。

ビルの中からもわもわと砂煙が巻き起こる。
一向に衰えぬ雨の中に、煙は縦横無尽に手足を広げていく。
その煙に紛れて数人の人影が移動するのが見えた。
ミキは水平に構えた銃の照準をその一つに合わせて引き金を絞る。

「死ねよ」
ミキが言ったときには、既に銃弾はその頭部を打ち抜いていた。
727 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:18
半分に減ったミキの配下は、それでも包囲網を緩めることはなかった。
確実に網を狭め、その中にマコがランチャーを浴びせ続けた。
たった一つ、あえて緩めた網の中から逃げ出すことができたのは―――
どうやら一人だけのようだ。

ミキは人の気配からそれを察した。雨で鼻が利かなくてもそれくらいはわかる。
一人くらいならどうということはないだろう。サポートに行くまでもない。
最後の仕上げは―――アヤに任せておけばいい。

ミキはずぶ濡れになったコートの端を絞った。
服を全部脱いでから絞ろうかと思ったが―――馬鹿馬鹿しくてやめた。
目の前では一仕事終えたマコがランチャーを解体してリュックに詰めていた。
流れ続ける濁流の上に、ぺたんと腰を下ろしたままで。

「おめー、そんなんで風邪ひかねーのかよ」と言おうとして―――それもやめた。
ミキが知る限り、この三年間マコが体調を崩したという話は聞いたことがない。
馬鹿は風邪をひかない。
昔から言い継がれていることは、たいていの場合よく当たる。

むしろ雨にさらされているランチャーの部品の心配をするべきかもしれないと、
ミキは思った。
728 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:18
729 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:19
男は気配を消すことも忘れて死に物狂いで走っていた。
どうやら部下たちは全て殺されてしまったらしい。信じられなかったが事実のようだ。

「小娘二人が仕切っている弱小組織」
確かあの中国人はGAMのことをそう言った。
調べてみたところ、確かに似たような情報しか引っかかってこない。事実だと思った。
男の組織は決して小さい組織ではなかった。戦闘力も低くはない。
小娘どもをぶち殺して、縄張りごと組織を頂く。美味しい仕事だと思った。

だがそこに現れたのは軍隊のように訓練された屈強な武装集団だった。
優勢だったのは最初だけで、時間とともに男の組織は撤退を余儀なくされた。
逃げ切った―――と思うたびに、そこにはランチャーの弾が飛んできた。
気が付くと男は一人だけになっていた。

男はそれでも諦めずに走る。
諦めが悪いというのも、この関東で長生きするために必要な素養だった。
もっとも男は自分の意思で走っていたというよりは―――
アヤに走らされていたと言った方が正確だったのかもしれないが。

男はアヤのことを甘く見ていた。本当にただの小娘だと思っていた。
だから、走り行く道のまん前にアヤが立ちふさがったときも―――
この抗争とは関係ない、ただの通りすがりの娘だと思ったくらいだった。
730 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:19
男の前に立ちふさがったのは、日傘のような真っ白な傘を差した少女だった。

傘の陰に隠れて、少女の顔は見えない。
だが白いワンピースから覗いたシルエットは明らかに若い女のそれだった。
少女の横には大きな犬がちょこんと座っている。
傘から滴りおちた雨粒がその犬の真っ白な毛を濡らしていたが、
犬は少女の横に座ったまま微動だにしなかった。

少女は傘を上げて、細くしなやかな腕を伸ばす。
「ばあん」
マツウラアヤは人差し指で作った銃を男に向けて撃った。

「なんだてめえは。どけよ」
男は全く余裕がなかった。これほど美しい少女が、たった一人でこの街を
うろついているという不自然な状況にも、全く頭が回っていないようだった。

男はアヤの差している真っ白な傘を邪険になぎ払おうとする。
アヤはすっと傘を引いてそれをかわすと、くるくると傘を回して雨粒を飛ばした。
散弾のような雨粒が男の顔を直撃する。
文字通り冷や水を浴びせられた男は、さすがに足を止めた。
そして―――初めてアヤの顔をじっと見つめた。
731 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:19
男の視線を受けて、アヤは顔の筋肉を全く動かすことなく笑顔を作った。
雨にも、風にも、時間の流れにも流されないような、静かな笑顔だった。
アヤ以外の全てが男の視界から吹き飛ぶ。

がたがた がたがた がたがた

男の耳からは先ほどまでの銃撃戦の喧騒が消え、
ただ、ざあざあざあざあと降り続ける雨の音だけが聞こえてきた。
自分がずぶ濡れであることに初めて気がついた。アヤによって気付かされた。
男の濡れた体が、芯から凍えていく。歯の根が噛み合わない。

がたがた がたがた がたがた

男の体は、男の意思と関係なく震えた。
自らの腕で両肩を押さえようとするが、体の震えを止めることはできない。
男の意思に逆らうように、筋肉が跳ねるように震え続ける。
男の体の所有者は、もはや男自身ではなく、アヤだった。
732 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:19
男は自分の生存本能に従って、銃をアヤに向けた。
拳銃があれば、言葉を交わす必要はない。ただ引き金を引けばいい。
アヤを理解するよりもアヤを消すことを望んだ。この男もまた一流だった。
この年端もいかぬ少女が、自分の命を奪おうとしていることを微塵も疑わなかった。

かっち かっち かっち かっち

男が引き金を引くたびに、撃鉄が虚しい音を立てた。
銃撃の反動を予測して硬く固めた体が、滑稽な動きを繰り返す。
既に男の拳銃は全弾を撃ち尽くしていた。

かっち かっち かっち かっち

それでも男は引き金を引くのを止めない。
照準をアヤの額に据えたまま、狂ったように同じ動作を繰り返した。
逃げるという選択肢はなかった。腰から下は麻痺したように動かなかった。

アヤの目はしっかりと男の現状を把握していた。
アヤは天才だった。殺しの天才だった。拳銃の天才であり、ナイフの天才だった。
毒物や火薬の知識も誰よりも詳しかったし、体術や武術にも天才的な才能を発揮した。
「殺す」という単純作業にかけては―――ミキですら足元にも及ばなかった。
733 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:20
アヤはもう一度、人差し指で拳銃を作った。アヤの指が銀色にキラリと光る。
「ばあーん」
ただ一本の指の動きに男はビクッと反応し、持っていた拳銃を取り落とす。
金縛りがとけたように、男はぎこちなく全身を動かす。

「おじさんはキャリアじゃないんだね」
アヤは楽しそうに白い長靴をじゃぶじゃぶといわせた。
白い傘。白い長靴。そしてアヤは真っ白なワンピースを着ていた。
Aのラインに包まれたアヤの体は、雨粒すら弾き返せそうなくらい、眩しく輝いている。

「弾が切れたら何もできないって・・・・・・ちょっとがっかりかな」
それでもアヤは失望したような表情は浮かべない。むしろ楽しそうだった。
ごく自然な動作で腕を伸ばし、男の首筋に触れる。
まるで口付けでも交わそうとするような優美な仕草だった。
目と目が合う。冷え切った男の首筋が、火に触れたような激しい熱を帯びた。

アヤはそれで用は済んだとばかりに、くるりと振り向いて男から離れていった。
「あああ!」男は声にならぬ声を上げて、腰の後ろからナイフを引き抜く。
「誰だてめえは! なんなんだてめえは! 俺になんの用だ!」

すたすたと歩き行くアヤは、振り向くことなく背中で男の問いに答えた。
「そういうことは生きているうちに言いなよ」

男は首筋から噴水のような血を噴き出し、長い長い断末魔を上げた。
734 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:20
735 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:20
GAMのアジトは野戦病院の様相を呈していた。
医師役となって負傷者の治療に走り回っているのはコンノという女だった。
普段は薬の調製を担当している人間だったが、非常時には治療に回ることになっていた。

被害は予想していた以上に大きかった。
アヤとミキは貴重な兵隊を3人失った。残り7人のうち3人が重傷。しばらくは動かせない。
1年近くかけて鍛えに鍛えた精鋭を失うのは痛い。
おまけにあの裏切り者が担当していたルートはもう二度と使えない。
相手の組織を叩き潰したとはいえ、こちらが得たものは何もなかった。

ミキの肩にのしかかった徒労感は並大抵のものではなかった。
ついつい愚痴りたくなるのだが、アヤを相手にそんなことはできなかった。
ミキは負傷者が横たわる大広間から出て、廊下を突き当たりまで進むと、
カーテンをしゃっとかきわけて、奥にある部屋に入っていった。

「もう最悪だよ、カオリ」

部屋の奥にあるベッドには髪の長い女が腰掛けていた。
736 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:20
カオリは三年前にこの組織に加わった。
それまでは麻薬とは縁もゆかりもない女だった。もっとも普通の女は皆そうだが。
そんなカオリは組織にすんなりと溶け込むことはなかった。
自分の世界に閉じこもったまま、この三年間、部屋からほとんど出ようとしない。
いつも超然とした態度で組織の人間と接していた。

カオリは気難しい女だった。だがミキやアヤとは妙に気が合う部分もあった。
二人よりもずっと年上のカオリだったが、
アヤもミキも年の差を意識することなく接することができた。

ミキはいつしかアヤには言えないようなことはカオリに相談するようになった。
勿論―――アヤはミキに言えないようなことをカオリに相談することはなかったが。
アヤはいつだって誰かに頼るということをしない女だった。

ミキは今回の顛末を一通りカオリに愚痴った。
カオリは「あらあら」と適当な相槌を打ち、いつものように超然としていたが、
それでも話を聞いてくれたことで、ミキの心は幾分か晴れた。

愚痴を聞いてもらう。一昔前はアヤに対してやっていたことだ。
いつの間にかミキの中には、アヤには言えないようなことが増えていた。
そのことにミキは気付かない。気付かない振りをしている。
そのことにアヤは気付いている。そして気付かない振りをしている。

アヤとミキの関係は、表面上は三年前から何も変わっていなかった。
737 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:21
「でもアヤヤはちょっと喜んでたよ」
「え?」
カオリの返答はミキにとってはかなり意外なものだった。
今回の抗争では、損害に見合うだけの見返りがあったとは思えない。
アヤはそういう計算には一際シビアなところがある。
計算があって、その次に初めて感情が出てくる子だ。
戦いに勝ったことを単純に喜ぶとは思えない。

「カオリの気のせいじゃないのー」
「そんなことないよ。実際ウキウキだったし」
「ウキウキ? まっさかー」
「ちょっとアヤヤのところに行ってきなよ。なんか話したそうだったし」
「あっそ。話したいんなら、カオリに話せばよかったのにね」

ぶつくさと文句を言いながらも、ミキはカオリの言葉に従うことにした。
普段は他人から指図されることが嫌いなミキだったが、
なぜかカオリの言うことには比較的素直に頷くことができた。

なぜだろう。カオリが命の恩人だから?

他人に恩を売られるのは嫌いだった。
だがカオリのように全く恩に売らない女もあまり好きではなかった。
ミキはあくまでも対等な人間関係が好きだった。
そういう意味では、カオリはミキにとって不思議な女だった。
738 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:21
カオリは時々妙に鋭いときがある。
いつもボーっとしているようにしか見えないが、感性は鋭い。
他の人には見えないようなものが見えるようなところがあり、
驚かされることが度々あった。

そしてカオリが言ったように、アヤは実際かなり気分が高揚していた。

計算高い女だが、こういう時に自分を偽る女ではない。
基本的に自分の感情に対して素直な女だった。
細かい駆け引きも、大掛かりな策謀も、全て自分の感情に従って動く。
他人に合わせるということは絶対にしない女だった。
そんなアヤがご機嫌だということは、間違いなく何か良いことがあったのだろう。

「ねー、アヤちゃん。あんまり言いたくないけど、3人死んでんだよね」
ミキは言葉に棘を込めた。だがアヤは全くへこたれていなかった。
「ははっ。まさか自動小銃とはねー。もう、最近の東京は物騒なんだから」

3人の死もあまり痛く感じていないようだった。それが何より意外だった。
損得勘定には細かい女なのだ。兵隊が3人死んだことが痛くないわけがない。
それ以上の見返りとして考えられるもの。ミキには思い当たらなかった。

「アヤちゃん、なんかあったの?」
739 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:21
「最近、この辺りでやたら縄張り広げてるやつらがいるでしょ」
「うん」

3年経って東京の裏世界もかなり落ち着いてきた。
本来なら、それぞれの組織の棲み分けも終わったと考えたいところだ。
だがここ数ヶ月、怪しい動きをしている組織がある。
やたらあちこちの組織の縄張りに手足を伸ばしている組織がある。
それはこの界隈の人間が皆感じていることだった。

「どうやらその組織のことがちょっと見えてきたみたいなんだ」

アヤの下には雑多な情報が集まる。
定期的に金で買っている情報もあれば、街の噂レベルのクズ情報もある。
もしアヤに本気で知りたいと思うことがあったとすれば、
それを知るまでには、そう多くの時間はかからないはずだ。

「そいつらがうちにもコナかけてきたみたいなんだよね」

アヤの目はきらきらと輝いていた。
そうか。戦争か。それもとびきり大きな戦争を吹っかける気だ。
ようやく話が見えてきたことで、ミキのテンションも上がってきた。
戦争は望むところだ。
それならば兵隊が3人死のうが30人死のうが関係ない。

ミキはぐいと膝を乗り出した。
740 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:21
「で、アヤちゃん。それが今日のやつらとつながるってわけ?」
ミキにもおぼろげながら一つのラインが見えてきた。
今日やりあったやつらの背後に大きな組織があるのだろう。
きっとアヤはそのつながりを見つけたに違いない。

「さすがミキたん。わかってるね」
「それくらいはね」

ミキは必要以上の言葉は使わない。今はアヤが喋るべき時だ。
無言のまま、目でアヤに話の先を促す。

「あいつらの持ち物を徹底的にチェックした」
まさかアヤ自らが行なったとは思わなかった。だがやるときはやる女だ。
「あいつらが持っていたバッジがね、今あちこちで噂になってる組織とつながった」
バッジ。確かにそういったもので組織名を売っている組織もある。
バッジや代紋を使って構成員の数を誇っている組織は少なくない。

「これがそう。ミキたんもよく覚えていてね」
アヤはそう言ってポケットから小さなカフスボタンのようなものを取り出した。
そのバッジには、蛇がからまるようなおどろおどろしい字体で、
二文字のアルファベットが刻まれていた。
741 名前:【発症】 投稿日:2009/06/29(月) 23:21


S.S


「エス・エス・・・・・・かな?」
「そう。なんかのイニシャルみたいだね」

たった二つのアルファベットとはいえ、無視できない情報だった。
情報というものは、最初の一つ目を探り当てるまでが難しい。
だが、一つでもとっかかりとなる言葉が見つかれば、
あとはその言葉から芋ずる式に色々なことがわかっていく。

アヤの目にはきっと、この言葉の先にいる組織の輪郭が見えているのだろう。
その顔には充実感が満ち溢れていた。獲物を前にした猟犬の顔だ。

アヤはさらに簡単な言葉でミキに説明を加えていく。
さして苦労することなく、ミキは話の流れを理解することができた。

アヤは常に簡単な言葉で組織を動かしていた。
強い意志を込めた言葉というのはいつだって美しく心に響く。
長い言葉は必要ない。小難しい言葉も、綺麗な言葉も必要ない。
人の心を動かすために必要なのは、強い意思が込められた言葉なのだ。
ミキは陶酔と興奮に浸りながら、話の締めとなるアヤの短い言葉を聞いた。

「潰すよ。こいつらを」
742 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/29(月) 23:22
743 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/29(月) 23:22
744 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/29(月) 23:22
745 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:04
雨が上がった後に残ったのは、街の排泄物とでもいうべきゴミの山だった。
泥まみれになった家具や電化製品や空き缶などが、死体のように道端に転がっている。
この街では人だけではなくゴミまでも生気がない。
そこから漂ってくる生活臭は、極めて希薄だった。

地下鉄の駅へと続く階段の前。
マコはぺたんと地面に座り込んで、約束した相手が来るのをじっと待っていた。
だが待ち合わせに現れたのは、いつもの男ではなかった。

「あれ? コンコンじゃん。こんなとこで会うなんて奇遇だねー」
「いやいやいや。偶然なわけないじゃん、マコ」

そうマコを諭しながらも、きょろきょろと辺りを見回すコンノ。
いかにも素人っぽい仕草だった。
本来ならこういった危険地帯での取り引きはコンノの仕事ではない。
だが先日の抗争で兵隊を失ったGAMは臨時の人員体制をひいている。

普段は薬の精製と調合を担当しているコンノは、
マコとの取り引き役の仕事に回されていた。
746 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:04
「じゃ、いつもの人は?」
「昨日死んだ」
「あちゃー。四人目か」
「五人目。十人いた新兵だけど生き残ったのは結局五人」

感染症にかかった男に生き延びる可能性はなかった。
ただ苦痛を感じるだけの存在に成り果てた男に、安楽死の注射をしたのはコンノだった。
薬剤師としての知識しか持ち合わせていないコンノに、治療らしい治療はできない。
アヤの組織に拾われてから三年。コンノはかなりの数の死に立ち会ってきた。
人の死に対して、もはやさしたる感慨は湧かない。

「で、薬は?」
「あれ? コンちゃんは話を聞いてないの?」
「え? なにそれ。引き継ぎする暇もなかったんだけど」

GAMはフリーの売人を通じて薬を市場にばらまく。
だがマコはフリーの売人ではない。一応GAMの準構成員ということになっている。
薬を市場に売るだけではなく、市場から薬を仕入れるのもマコの仕事だった。
今日は仕入れた薬を本部に引き渡す約束になっていた。

「本当は先週に10キロ仕入れるはずだったんだけどさ、
 なんか向こうの都合で急に日程が変更になったんだよ。
 今日、これからここに直接持ってくるって約束になってんだよ。
 もうそろそろ来るんじゃないかなあ?」
747 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:04
マコの待ち人はなかなかやってこなかった。
空を見上げれば、黒い雲が凄まじい速さで風に流されていく。
はっきりとしない天気だった。また一雨くるかもしれない。

「ねえ、マコ。やっぱり店の中とかは入りたくない?」
「ごめんねコンコン。寒いなら中に入っててもいいよ。来たら呼びに行くし」
「ううん。ここでいいよ。せっかくだから一緒に待ってるよ」

マコは屋根のあるところに入ることを極端に嫌った。
だから屋内には一歩も入れない。GAMの会合にも顔を出せない。
組織の中でも一番の古株にあたるマコが、
いまだに準構成員という扱いになっているのはそういう理由があるためだった。

昔はそうではなかった。少なくとも三年前のマコは普通の少女だった。
組織に入る前からマコと友人だったコンノは、
マコが屋根のあるところに入れなくなった理由を知っている。

だからそれ以上何も言わず、ただ冷たい風に吹かれながら、
マコと一緒に待ち人がやってくるのを待った。
748 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:04
749 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:05
やってきたのはマコやコンノと同年代の女だった。
手にはボストンバッグを抱えている。
芸能人のような、ピシッとした隙のない着こなしをした、垢抜けた女だった。

「垢抜けた」と言っても、それは服装にあまり頓着しないコンノ自身と比べてのことだ。
アヤやミキと比べるとどことなくもっさりとした雰囲気がある。
だがアヤやミキと比べれば、どんな女だってくすんで見えるのだから、
やはりその女には「垢抜けた」という評価が妥当なのかもしれない。

女はバッグを地面に落とすと、髪をふわっとかき上げた。
他人の目を意識した仕草のように見えた。
数年前の東京ならどこにでもいたようなお洒落さんだが、
廃墟と化したこの街ではとっくに死に絶えたタイプの女だった。

「マコ。この子誰? 新人さん?」
女の声質は少し低かった。作ったような声色だった。
「新人じゃないよ、アイちゃん。この人はあたしの組織の上役のコンノさん」
750 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:05
タカハシアイと名乗った女は、懐から名刺を取り出し、コンノに渡した。
まるでトランプを切るカジノのディーラーのような手つきだった。
名刺からは微かに香水の臭いがする。
ディーラーじゃない。一昔前のキャバクラだこれは。コンノは絶句した。

名刺なんてものを見たのも三年振りのことだった。
こんな廃墟の街で名刺を持ち歩いているという神経が理解できない。
女は当然のようにコンノにも名刺を要求したが、そんなものを持っているわけがない。
この女と話していると、まるであの事故が起きた前の時代に
にタイムスリップしたような気分になった。

「いや、名刺なんて持ってないし」
「あっそう」
タカハシの名刺には名前と携帯番号が書かれていた。
こんなものを初対面の人間にばら撒いて大丈夫なのだろうか?
コンノはタカハシから、麻薬中毒者などから感じるのとはまた違った気味悪さを感じた。

「寒いなあ。中に入らない?」
「ごめんねアイちゃん。取り引きはすぐに終わるからさ」
「まあいいや。はい、これいつもの」

タカハシはカバンのジッパーを引き開けた。
中には真っ白な粉が入った袋がぎっしりと詰まっている。
751 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:05
「じゃ、コンちゃん、確認して」
「うん」
コンノは包みの一つを破って中に指を入れる。
マコは基本的に薬のことにはタッチしない。薬の確認は組織の人間の仕事だった。

「なーんや。人が変わってもやることは同じか」
「同じだよ。それが何?」
「マコもだらしないなあ。薬の良し悪しくらいわかるようになりーや。
 そんなんやからいつまで経ってもチンケな売人をやってなあかんのやろ?
 もっとこう、ドカーンとでかいことやろうとか思わんの? なあ? なあ?」

薬は上物だった。いつもと変わらぬ質が維持されていた。
マコのルートから仕入れたブツは、組織の中でもトップクラスの上物だったから、
どこからどうやって仕入れてくるのか、コンノにも少なからぬ興味があった。

だが、まさかタカハシのような人間が取り引き相手だとは思わなかった。
コンノは薬を確かめる振りをして、上目遣いでタカハシの表情を盗み見る。
どこか作り物めいた安っぽさを感じさせる顔だった。

コンノはタカハシに対してあまり良い印象を持たなかった。
この女は、付き合いはそれなりに長いはずなのに、マコの性格すら把握していない。
マコは一発当てるような山っけは全くない人間なのだ。
そんな基本的なところも見えない人間を、容易く信用する気にはなれなかった。
752 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:05
「どーお、コンノさん? うちの薬の質は?」
「はあ。いつもと全く同じですね」

同じものを同じペースでコンスタントに提供する。
それがビジネスの基本中の基本だった。
だからコンノはその言葉を最高の誉め言葉として言ったつもりだったが、
タカハシはそうは受け取らなかったようだった。

顔中の皺がタカハシの顔の中心に集まる。
いかにも「私は気分を害しましたよ」という表情を作って、露骨にコンノに示した。
「もっと気を遣えよバカ」とでも言いたいのだろうか。

だがそれを言葉に出して言うことはなく、
それどころか次の瞬間には、タカハシはパッと明るい笑顔を作った。
どうやら今度は「私は批判的な言葉にも鷹揚に対応できる大人なんですよ」
ということをコンノに対してアピールしているようだった。

コンノは人並みはずれて洞察力が優れているわけではない。
だがタカハシの表情の作り方は、あまりにもわかりやすいものだった。
753 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:05
タカハシは、どことなく暑苦しさを感じさせる笑顔を崩さない。
「うちとしては毎回最上級のブツを用意してるつもりだけどねえ・・・・・・・・」

だから毎回同じだって言ってんじゃん。という言葉をコンノは飲み込む。
この手のタイプの人間は人の話を聞かない。自分の聞きたい言葉しか聞かないのだ。
まるで芸能界のスターみたいなパーソナリティをしている人間だな。
コンノがそう思っていたら、高橋は本当にスターみたいなことを言った。

「ねえ、マコ。この人ちょっと変だね。この人はあたしのこと知らないの?」

マコは少し話しづらそうだった。いつも陽気なマコですらこうなるのか。
このタカハシという女が、扱いづらい女であることは間違いないようだ。

「うん。話してない。アイちゃん、いっつも余計なことは話すなって言うじゃん。
 だから組織の人間にはアイちゃんの職業とかそういうことは言ってないんだよ。
 うん。コンちゃんにも全然話してないし、当然コンちゃんは知らないんだよ」
754 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:05
「はあ? そんなのは臨機応変でいいんだよ」
タカハシは慈悲に満ちた笑顔で言った。慈悲の欠片も感じられない口調だったが。
臨機応変。
きっとこのタカハシという女は、その言葉を自分の都合のためにだけ使うのだろう。

だがコンノはそういう女が嫌いではなかった。
この関東ではそんな人間ばかりが長生きしている。接する機会も多い。扱いには慣れていた。
自分の都合の良いことしか話したがらないというのなら―――
彼女にとって一番都合に良いことを話してもらえばいい。気の済むまで。

「職業? 何か特別な職業でも?」
「まあね。全然大したことないんだけどさ」
「でもきっと喋っちゃいけないことなんでしょ? 教えてくれていいの?」
「コンちゃんの組織とは大きな取り引きが続いてるからさ。教えておいてもいいかな」

案の定、タカハシの機嫌は急に良くなった。
いつの間にやらコンノのこともコンちゃん呼ばわりするほどだ。
755 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:06
「麻薬取締官」
タカハシは名刺を取り出したときと同じような鮮やかな手つきで、
黒い革の手帳を取り出した。

「えー! タカハシさんって麻取なんですか!」
コンノは大げさに驚いてみせる。我ながら白々しい演技だと思った。
だがタカハシのようなタイプの人間には、大げさなくらいのリアクションで丁度良い。
「やだ。そんなに大げさに驚かなくてもいいじゃん」
「でも!」
「気にしない気にしない。コンちゃんもマコと同じように『愛ちゃん』って呼んでいいよ」

上機嫌になったタカハシは、コンノが知りたいと思ったことをベラベラと喋ってくれた。
旧東京都区内で押収された麻薬を管理する仕事をしていること。
例の事故以降、麻取の数が激減し、取り締まり組織の機能が麻痺していること。
そしてタカハシは自らの地位を利用して押収した麻薬の一部を横流ししている―――。

コンノにもようやくマコとタカハシのつながりが見えた。
そしてタカハシが常に尊大な態度を見せている根拠も理解できた。
「逮捕しようと思えばいつでもできるよ?」ということが言いたいらしい。

コンノは安堵した。もうタカハシは怖くない。怖いのは司法機関ではないのだ。
本当に怖いのは正体が見えない人間なのだ。
756 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:06
だがタカハシは自分からペラペラと裏も表も全て喋ってくれた。
こんなに扱いやすい人間はいない。しかも現職の麻取ときた。利用価値大だ。
コンノは脳内のにある人物分類フォルダーの、
「鴨ネギ」のフォルダーの中にタカハシの名前を収めた。

「じゃあ、アイちゃん。これ。お近づきのしるし」
「ん。あんがと」
タカハシはコンノが差し出した数枚の札をすんなりと受け取った。
コンノの顔からは会心の笑顔がこぼれる。
タカハシに比べると幾分控えめだったが、含むものの多い笑顔だった。

笑顔で握手する二人の足元ではマコが麻薬をバッグから取り出していた。
小分けにされた袋が6つほどあった。マコは不器用な手つきでリュックに押し込んでいく。

タカハシがマコを見下ろして笑う。まるで召使を見るような表情だった。
「どうよ? 最近の景気は? ちゃんと全部さばけてる?」
マコの顔色が曇る。彼女はさらっと嘘がつける人間ではない。
「最近はあんまり・・・・・他の組織もあちこち出張ってきてるし・・・・・」
757 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:06
タカハシは確認するようにコンノの方に顔を向ける。
コンノはゆっくりと頷いた。
「うちはずっと名前を売らずにやってきたんだけどね・・・・最近はそうもいかない。
 なんだかんだでうちの組織も大きくなった。今じゃ東京で一、二の組織じゃないかな。
 もう『GAM』って名前はそこそこ浸透してるし、大きい組織だから標的にされやすい」

特にここ半年くらいの他組織の攻勢は凄まじいものがあった。
一度標的にされると勢力が落ちるのは早い。それが非合法組織の常だった。
密かに東京最強を誇っていたGAMの攻撃部隊も、今では後手に回ることが多い。

タカハシは胸のポケットからタバコを取り出してくわえた。
風で消えないように、両手で包みながらライターで火をつける姿が妙に様になっている。
澄ました顔は、よく見れば非常に整っている。間違いなく「美人」に属する顔だ。
コンノはこのとき初めてタカハシのことを少し格好良いと思った。

「麻薬は何だかんだ言っても外国の組織が強いからね」
タカハシは当たり前すぎることを言った。この世界にいれば誰でも知っていることだ。
「日本の組織が生き残ろうとすれば、別の薬に手を出した方がいいのかも」
「別の薬?」
「夢の薬」
758 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:06
タカハシは煙を吐き出しながら「はっはっは」と快活に笑った。
美しかった顔が下品に崩れる。

うつむきニヤニヤと笑いながら「夢の薬。夢の薬」とうわごとのように繰り返す。
真剣な話なのか冗談なのか全く見当がつかない。
当惑したコンノはちらりとマコの方に視線を走らせる。
マコは無言で深いため息をつくだけだった。マコにも理解不能ということらしい。

コンノは鴨ネギフォルダーからタカハシの名前を取り出さざるを得なかった。
あのマコですらとっつきにくさを感じている女だ。
きっと何年つきあっても、この女の思考回路は理解できないのだろう。
理解できると思って甘く見ていたら痛い目に遭うに違いない―――
そんな妙な確信を抱かせるような、危険なタカハシの笑顔だった。

「あはは。そういうことをやってる組織があるって噂があるんだよ。知らない?」
「知らない。初めて聞いた」
あるいはアヤならば知っているのだろうか。
末端の麻取が知っているレベルの噂であれば、アヤが知っている可能性は高い。
759 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:06
「抗ウイルス抗体」
名刺以上の鋭さで放たれたタカハシの一言に、コンノは痺れた。
薬剤師の資格を持っているコンノにはその一言で十分だった。
たとえ冗談であったとしても、感覚が麻痺させられるだけの破壊力がある言葉だった。

「む・・・無理だよ。日本のトップレベルの医学者が束になっても作れないんだから」
この関東に蔓延するウイルス。これを中和する抗体が作れればノーベル賞ものだろう。
たかが麻薬組織にそんな大それたことができるとは思えなかった。
人々の願望が作り上げた都市伝説のようなものだろう。

「だからあくまでも噂だよ」
「本気にしてるの? 本職の麻取がそんな怪しい噂を?」

タカハシはふらふらと体を揺らしながら笑う。どこまで本気なのかよくわからない。
コンノは、このタカハシという人間を怒らせてみたくなった。
もう少し突っ込んで話し込めば、何かわかるかもしれないし、
本気で怒れば、タカハシの人間性がよりよく見えるかもしれない。

だがタカハシは怒るどころか、ぬけぬけと右手をコンノに差し出した。
情報量を払えということらしい。
760 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:06
コンノは冷静であることに関してはちょっとした自信がある。
冷静でいることはそんなに難しいことではない。簡単なコツがある。
自分の意見や信念や嗜好に絶対的な自信を持たないことだ。

自分の肉体を動かす意思。取捨選択の判断を下す頭脳。好き嫌いという感情。
そういった軸を一つにまとめないことだ。
自分の中にいくつもの軸を持っていることが大事なのだ。
そしてそれらの軸は、お互いできるだけ離れたところに置いていた方がいい。

一つの軸がへし折られたら、別の軸に移ってそこから物事を見ればいい。
そうすれば状況を俯瞰的に見ることができる。
客観的な判断を下すことができる。
少なくともコンノはそう思っていた。

だからその時も、特に興奮はしなかった。
ただ「タカハシはあたしが挑発したことに気付いた」とか、
「だから逆にあたしを挑発し返そうとして金を要求しているんだ」
といった分析結果だけがコンノの頭の中にはあった。
761 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:07
コンノは「挑発されて怒り心頭だが、なんとか平静を装っている表情」を作った。
平静を装っている演技はかなり甘めに設定した。
タカハシに気付いてもらわなければ意味がない。
結果としてコンノの表情は、ほぼ「怒っている」に近いものとなった。

そしてコンノは黙って数枚の札をタカハシに握らせた。
できるだけ自分がプライドの高い女であるように見せかけた。
こちらのプライドが高ければ高いほど、それを屈服させるタカハシの自尊心は
いたく満足させられることだろう。

「やたらとキャリアを増やしてる組織があるんよ」
それはコンノも聞いたことがあった。
だが、キャリアを狩っている集団があるという噂も、
キャリアを増やしている集団があるという噂も、あくまでも噂でしかない。

「キャリアを増やしているってことは―――ウイルスを持っているっていうことじゃない?」
コンノは頬を張られたようなショックを受けた。そこには考えが至っていなかった。
ウイルスの発生源となった施設は閉鎖されている。
残っていたウイルス細胞は全て焼却されたというのが政府の発表だった。

「まさか政府の発表を鵜呑みにしてるわけやないよね?」
コンノの心中を見抜いたかのようにタカハシが言う。勿論鵜呑みにはできない。
政府ほど信用できない存在はないというのが、この街の常識だ。
762 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:07
「例の施設が閉鎖される前に、ウイルスを持ち出した人間がいた。そういう噂があるんよ。
 噂っていうか、国の研究者の間では結構有名な話なんよ。信憑性はかなり高いと思うで。
 まあ、その噂が正しいと仮定するやん。その後の可能性は二つ考えられる。
 まず一つ目。そのウイルスを持ち出したヤツは頭がおかしい。純粋な犯罪者気質の人間。
 そんでウイルスをそこらじゅうにばらまこうとしている。愉快犯タイプなわけやね。
 キャリアが増えたのは、その副産物と考えれば、話はすっごいわかりやすい」

コンノはタカハシの言葉を慎重に吟味する。
確認すべき情報は「国の研究者の間の噂」だ。
これに関してはアヤの力を借りて、必ず確認しなければならない。

「二つ目」
高橋は右手の指でピースサインを作った。芝居がかった仕草だ。
自信過剰な性格に多いタイプだ。
コンノの組織のトップであるアヤやミキはあまりこういうことはしない。
勿論、彼女達もタカハシに負けないくらい、いつも自信に溢れている。
だがそれは自分達の能力を正当に評価した結果であって、決して「過剰」ではなかった。

「ウイルスを持ち出したヤツは頭がいい。ずば抜けて賢くて目端が利くタイプの人間。
 ウイルスをばらまいても金にならんけど、ウイルスを抑える薬を開発すれば金になる。
 もっと言えば、ウイルスとその治療薬の両方を手にすることが出来れば―――
 この国そのものを、そして世界を牛耳れるかもしれない」
763 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:07
コンノはタカハシの話を鵜呑みにするほど愚かではなかった。
だが完全に無視するほど愚かでもなかった。
補完すべきところは人に聞くのではなく、自分で調べればいい。
だがタカハシに聞いておくべきことが一つだけあった。

「教えてほしいことが一つある」
タカハシはもう一度掌をコンノに向けた。コンノはそれをパーンと叩き返す。
金は必要なだけ払った。それに見合うだけの情報はまだもらっていない。
対価に対してシビアではない人間にビジネスをする資格はない。

「アイちゃんの話には具体的な情報が何一つないじゃんか」
コンノは話すときに人差し指を立てたりはしなかった。
芝居がかった仕草をするほど自信過剰な性格ではない。

タカハシの顔が醜くゆがむ。
コンノにはもうタカハシを挑発しようという気持ちはなかったが、
十分にタカハシのことを刺激したようだった。

「あたしが知りたいのは本当にそんなことをしている組織があるのかってこと。
 本当に抗ウイルス抗体なんていう夢の薬を作ろうとしているのかってこと」
「だからそれは噂だって言ったじゃん」
「噂が広まったってことはそれなりに信憑性があるんでしょ?
 本当にそうかもしれないって思われるような組織があるんでしょ?」
764 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:07
この場合、本当に抗ウイルス抗体を作っているかは重要ではない。
むしろ「ウイルスを持ち出した」というのが事実かどうかが大事だ。
そして―――そんなことをしていたとしても不思議ではないと思われるような、
怪しい組織が存在しているということが重要なのだ。

そんな組織があるとすれば、知っておいて損はない。
たとえウイルスを持っていなかったとしても。
それを考えれば、タカハシに握らせた万札など安いものだった。

「あるんよ。そういう組織が」
「なるほど。それは確実なわけね」
「まあね。今、あたしの上役がずっとその組織を追ってるらしいんよ」

タカハシは半ばまで吸ったタバコをピッと投げ捨てた。
これで長かった話を打ち切りにしたいという意思表示らしい。
話を終わらせるということに関しては、コンノも異議はなかった。
765 名前:【発症】 投稿日:2009/07/02(木) 23:07
「そうか。じゃあ一つだけ教えて」

その組織の規模は? 活動範囲は? 麻薬も扱ってるのか?
戦闘力は? 武装の度合いは? キャリアの数は? 
他組織とのつながりは? 背後関係は? トップにいるのは?

聞きたいことは山ほどあったが、タカハシが知っているとは思えなかった。
聞くのは一つだけでいい。アヤに伝える情報は一つでいい。
きっとアヤはそこからGAMが進むべき道筋を見出すことができるだろう。
コンノは組織の長であるアヤとミキに対して全幅の信頼を置いていた。
だから質問は一つでいい。

「その組織の名前は?」

タカハシはぼそぼそと聞こえにくい声で答えた。

「S.S」

そこにはもう自信過剰な素振りは一切なかった。
マコの頭をぽんぽんと二つ叩いてから、
タカハシはとぼとぼと街の暗がりへと消えていった。
766 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/02(木) 23:08
767 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/02(木) 23:08
768 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/02(木) 23:08
769 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:09
コンノがタカハシと会っていた頃、ミキもまた別の取り引きの現場にいた。
これも部下が何人か死んだことによる一時的な人員配置変更の結果だったが、
ミキは取り引きに回されることに不満は感じなかった。

元々、上の立場にいて指示だけ出すという姿勢は好きではない。
胡散臭い現場に出向いて、ヒリヒリとした感覚を味わうのが好きだった。
そこがアヤとの違いかもしれないとミキは自己分析する。
アヤは人の上に立つために生まれてきたような人間だった。

自分は少し違う。
考えることも、指示を出すことも嫌いではなかったが、
やはり物事の中心にはいつでも「自分」を据えておきたい。
自分が動きたい。自分が動いてこそ、世界が回り出すのだ。

アヤはそうではない。
自分が動くのも嫌いではないが、それ以上に人を動かすことを好む。
世界がくるくると回っているとき、必ずしも回っているのが自分である必要はない。
それを回しているのが自分だという実感が得られれば、
それで十分満足できるタイプの人間だった。

ならばミキは、アヤに満足を与えてあげようと思う。
アヤの望むように世界を回してやろうと思う。回ってあげようと思う。
それができるのは世界で自分一人だけなのだとミキは信じていた。
770 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:10
「アリガト、フジモトさん。お金枚数どおりネ」
「おう。こっちも確認する。おい、JJ」
「あい」

GAMは中国系のマフィアとも取り引きを行なっていた。
彼らは日本人以上に信義を重視する。そして何よりも地縁血縁を重視する。
日本系の組織が、中国系の組織の取り引きの中枢に入り込むのは容易ではなかった。

GAMが彼らと大きな取り引きができるようになったのは、
二人の中国人構成員の力によるところが大きい。

JJと呼ばれた団子鼻の大女が袋に入った麻薬を舐める。
その横ではパッと花が咲いたような鮮やかな笑顔をした小女が袋の枚数を数えていた。
いかにも中国人というような大陸系の顔をしたその小女はLLと呼ばれていた。
JJとLLの二人の中国人は、一年前にGAMに加わった構成員だった。

「問題ないネ」
JJは眠たそうな顔で指についた薬を舐めている。
だがその目が決して眠っていないことをミキは知っている。
必要とあらばその眠たい目のまま相手の首をへし折ることも躊躇わないだろう。

立ち上がったJJはミキよりもかなり背が高い。肩幅も広いし腰も重そうだ。
ボディガードとしても申し分のない貫禄を持った女だった。
771 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:10
「こっちも約束通りの数でーす」
LLはにこやかや笑顔でミキにOKサインを出した。
こっちの女はJJのような影は微塵もない。天真爛漫な笑顔だ。

にわかには信じがたいことだが、LLは全く裏表のない人間だった。
ミキが命じれば、LLはその天真爛漫な笑顔のままに人を殺す。
「おー」とか「あー」とか楽しそうな声を上げながら。

彼女は普通の人間の数倍豊かな感性と表情を持っていたが、
その反面「罪悪感」や「倫理観」というものがすっぽりと抜け落ちていた。
本当に裏表がない人間なのだ。人を殺すときでさえも―――。

JJとLLの二人はミキと行動することが多かった。
彼女達二人は諸刃の剣であり、非常に扱いにくい存在であり、
抑えが利くのはアヤとミキの二人くらいだった。

ミキはこういう壊れた人間が嫌いではない。
真面目なだけが取り得のコンノやマコよりもずっと信頼していた。
勿論その信頼とは彼女らの「能力」に対してであり、
人と人とのつながりという意味での「信義」は感じていなかった。

きっとこいつらは裏切るときはあっけなく裏切るだろう。
眠たそうな顔で。あるいは今と同じような天真爛漫な笑顔で。
ミキにはそれがよくわかっていた―――自分と似たタイプの人間だったから。
772 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:10
ミキは取引相手の中国人と握手した。
麻薬の質自体はさほど良くない。
マコが麻取から引っ張ってくるブツに比べればその品質は数段落ちた。
だが中国産のブツは何より安価であることが大きい。

上質なブツと安価なブツ。
両方の麻薬を揃えておくということがGAMの方針だった。
この中国人たちとの取り引きも、おそらくこの先ずっと続いていくだろう。
それゆえに、取り引きそのものと同じくらい、取り引きを通じて
信頼関係を築いていくことも重要な仕事だった。

幸運なことに相手側も同じように感じているらしい。
普段は訊かないようなことをさらっと訊いてきた。
「・・・・・ミキさん。最近景気はどうですカ?」
「景気? まあ、最近組織の周りがなにかと騒がしいかな・・・・・
 もうちょっと落ち着いてビジネスできればいいんだけどね」

景気と聞かれてもお金そのものについて話す必要はない。
金は目の前にある札束の枚数が全てだ。相手もそれ以上は期待していないはずだ。
向こうはGAMの組織そのものについて何か言いたいことがあるように見えた。
773 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:10
「騒がしいですカ。GAMも随分有名になったからネ」
「まあね。うちらはそういうのを望んでないんだけどさ。なかなかそうもいかない」
「最近もネ、あなたたちのことを調べてるヤツらがいたヨ」

中国男はなかなか有益な情報をもたらしてくれた。
どうやらそのGAMを調べていた男というのが、
先日裏切ったマコルートの売人の背後にいた男だったようだ。
中国男はその裏切り者の男にも会ったことがあるという。

「背後関係も何もないチンピラだと思ってたんだけどな・・・・・」
尋問せずにあっさりと殺してしまったのは失敗だったかもしれない。
バックにSSという組織がついているのなら尚更だ。

「うちの若いのが、その男がうろついてるの見たことあるネ。
 先月の頭くらいから、怪しい店に毎晩のように出入りしていたらしいヨ」

中国男は雄弁だった。どうやらこれはかなり大きな借りになりそうだ。
この手の借りは金では返せない。情報には情報。
いずれ何らかの有益な情報をこの中国組織に与える必要があるだろう。
774 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:10
アヤもミキも借りを作ることは嫌いではなかった。
借りというものを負い目に感じる必要はない。
借りたものは返せばいいのだ。必要とあらば利子を付けても構わない。

借りて、返す。その結果は必ずしもプラスマイナスゼロではない。
そういう貸し借りが流れることで、人間関係が一つ強まると、アヤは考えていた。
それが経済活動というものの基本なのだと。

中国男が貸してくれるというのなら、喜んで借りておけばいい。
そういった取引をすることが、結局は相手側のためにもなるのだということを、
生粋の商売人気質であるミキは肌で知っていた。
だから何ら遠慮することなく、ミキは中国男に質問した。

「で、その店の名前は?」

男も情報料を要求するような野暮な真似はしない。
商売ということにかけては、中国人は日本人の数倍したたかだ。
短い付き合いの中でも、アヤとミキが筋を通す人間だと認識したようだった。
いずれ数倍になって返ってくるということを確信しているのだろう。
もったいぶることなくあっさりと店の名前を口にした。

「クラブ・フォース」
775 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:10
776 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:11
アヤ。ミキ。コンノ。JJ。LL。売人や兵士などの実働部隊。そして事務の者まで。
その夜の会合にはGAMの構成員がほぼ全て集まっていた。
その数およそ50人。
マコのような準構成員や地方の連絡員などを入れればGAMの人員は100を超えるだろう。
それでも数の上ではGAMは決して巨大な組織ではない。

だがGAMは今では関東でも有数の組織となっていることは間違いなかった。
少数精鋭。言葉にするのは簡単だが、今の関東でそれを実行するのは容易ではない。
GAMの成功はの全ては、リーダーであるアヤの能力によるところが大きい。
ミキとたった二人で組織を立ち上げてから三年余。
アヤが重要な判断を誤ったことは一度もなかった。

「次のターゲットが決まった」

アヤが末端の人間の前で喋ることは珍しい。
よほどのことがない限り、そういった大げさなことをすることを好まない人間だった。
今度の戦争が大きなものになるという意識が、全員の間で共有される。
777 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:11
現時点でわかっていることがアヤの口から述べられる。
最近この辺りで勢力を拡大している組織があること。
その組織が「例のウイルス」を持っている可能性が高いこと。
だがそのウイルスを何に使おうとしているかはまだ不明なこと。
そして―――その組織が先日の抗争相手の背後にいるということ。

アヤはそこまで喋り、言葉を切る。
言葉を止めたアヤの下に皆の注目が集まるまで、少しの間を置いた。

「その組織の名前は『S.S』。みんな覚えておいてほしい」

ミキの中で急激に緊張感が高まった。
その名前を皆の前で言うということは、全面戦争開始の宣言に等しい。
アヤは持っている情報をほぼ全て皆に伝えている。
もうここまで来ては後戻りはできないだろう。

アヤは冷静な口調で今後の計画について語り出す。
つい最近変更されたばかりの人員配置が再びシャッフルされる。
コンノは元の配置に戻されたが、JJとLLはミキの護衛から仕入れの方に回された。
そしてミキには新たな指令が下った。

「ミキ。あんたはマコと一緒に探りを入れてきて―――クラブ・フォースにね」
778 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:11
会合は30分ほどで終わった。
構成員は散り散りになりそれぞれの仕事に向かう。
マコを呼び出しに行こうと思ったミキに、アヤから声がかかった。

「ミキたん。軽く飲まない?」
「これから?」
「うん。カオリの部屋で」

それも悪くない。アヤは他にもまだ情報を持っているかもしれない。
特にクラブ・フォースのことに関して何かあれば、是非聞いておきたい。
だがアヤはそれとは別の話がしたいようだった。

「そうそう。コンコンも呼んできてよ」
「え? コンちゃんも?」
コンノは優秀な人材だ。GAMにおいては代替不能な人間と言ってもいい。
だがそれでもアヤがコンノを飲みに誘うというのは珍しかった。
何かそっち系の―――薬物系の話をするのだろうか?

ミキの予想は的中した。
結局その夜は最後までクラブ・フォースの話題が出ることはなかった。
779 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:11
780 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:11
「カオリは抗ウイルス抗体って作れると思う?」
「できる」

カオリはアヤの質問に即答した。
手にはカクテルグラスが揺れていたが、まだ酔っているようには見えない。
怖いくらいに思いつめた、真剣な表情だった。

「コンちゃんはどう思う?」
コンノはビールが入ったグラスをじっと見つめたままなかなか答えない。
唐突にグビグビとビールを飲み干すと、どこか不安そうな顔で語り出した。

「可能性があるか?という話なら、可能性はゼロではないと思います。
 でも実際に作るとなれば、少なくともウイルスそのものが必要でしょう。
 そしてできればウイルスに感染した人間もほしい。設備や試薬も必要です。
 そんなに大掛かりな設備はいらないです。あっても意味ないですから。
 どんなに人員とお金をかけても―――作れる可能性は極めて低いです」

どんな質問に対しても自分の答えられる範囲で答える。
それも自分の意思や好みではなく、客観的な事実を語ろうとする。
それがコンノのスタイルだった。
781 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:11
「でさあ、もし作れたとしてさあ、それを打ったらみんな完璧に治るの?」
ミキのグラスはビールがなみなみと入ったままだった。
冷えたグラスの外側にまとわりついた水滴が、次々と落ちていく。
ミキの心の内とは無関係にビールはどんどんぬるくなっていくが、
ミキはこんな話をしながら飲む気にはとてもなれなかった。

「治ると思います。そして一回治ったら、その後どれだけウイルスに感染しても
 体内で全て殺されて無毒化されますから、症状は一切出なくなるはずです。
 おそらく―――ウイルスによってキャリア化することもなくなると思います」

コンノの返答に、ミキはひやりとしたものを感じた。
自分が一番聞きたかったことに、ほんの少し触れたからだった。
勿論それは、アヤにとっても一番聞きたいことだった。
アヤはミキのように回りくどい訊き方はしなかった。

「じゃあ、コンコン。その抗ウイルス抗体をキャリアに打ったら、
 その人間はキャリアとしての特殊能力を失うのかな?」
782 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:11
そんなことは誰にもわからない。
だがコンノの頭の中には「わかりません」という言葉はなかった。
これでも化学者の端くれだ。絶対に言えない言葉というものがある。

科学者というのは何かを断定することを極端に嫌う。
どんな場合にあっても可能性というものを過小評価することはない。
科学には100%とか0%とかいう数字が出てくることはほとんどないのだ。
ゆえに、どんな可能性であっても考慮する必要があった。
それがたとえ0.00000000000001%の可能性であってもだ。

世の中の全てを理解することは不可能だ。
わからないことだらけだからこそ、理解しようと研究を続ける。
それが科学というものだ。

その一方で科学者という人種は、どんなに難しい質問をされたときであっても、
「わかりません」と答えることを極端に嫌う。
その言葉を言った途端に、科学者としての資格を失うと考えているのかもしれない。

わからないから研究している。
だからこそ研究している範囲でわかることを述べるべきなのだ。
「わかりません」と言うことは、何も研究していないことを意味する。
自分の頭で何も考えていないことを意味する。それは研究者としての死だった。

ゆえに、どんな難解な質問であっても、そこから逃げることはしない。
些細なことであっても、事実に基づいて自分の意見を構築する。
それが科学者というものなのだ。
783 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:12
「例えば・・・・・病気で失明した人は、通常、病気が治っても目は見えないままです。
 これは失明というのが病気による「結果」だからです。
 一方、病気で高熱を発した人は、病気が治れば熱も元通りに戻ります。
 これは発熱というのが病気が呈する「症状」の一つだからです。
 ですからキャリアがウイルス感染症の結果と考えれば能力は消えないと思います。
 ですがウイルス感染症の症状の一つであるのならば、能力が消える可能性がある」

コンノはぐるりと首を回し、三人の表情を確認した。
どうやら三人とも話したことが理解できているようだ。

「つまりウイルス感染による病状が今もなお続行しているのか、
 キャリアの中で、今でもウイルスが生き続けているのか。
 重要なのはそこになると思います。もしもまだウイルスが生きているのなら、
 そのウイルスを殺せば、キャリアとしての能力が消える可能性は高いです」

ミキの肌に悪寒が走った。
自分の体の中でまだウイルスが生きている。
それはかなりの不快感を伴う想像だった。

だがミキはまだウイルスが体内で生きている方に賭けたいと思った。
この異常な能力が、人として獲得した後天的な能力とは信じがたい。
ウイルスの能力と考えた方が、まだ理解しやすいような気がした。
784 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:12
「で、あたしの中でさあ、今でもウイルスが生きてるかどうかってことは
 コンちゃんが調べればパパッとわかることなの?」
「それは難しいです。私はあのウイルスがどういうものか全然知りませんから。
 でも元のウイルスを入手できたら、確認することができるかもしれません」

「カオリもそう思う」
ずっと黙って話していたカオリが切り出した。
カオリはGAMに入ってからはコンノの手伝いをすることが多かった。
この三年の間に、薬やウイルスに関する知識もかなり蓄積されていた。
カオリはミキの方を向く。

「ミキちゃんに確認したいんだけどさ、ミキちゃんは普通の人に戻りたいんだよね?
 キャリアとしての特殊能力は捨てたいんだよね?」
「もちろん」
「あたしも―――あたしも同じ意見だな」
「!?」

カオリの右肩には醜いアザがついていた。
アザの上にはくっきりと「3」という数字が見えている。
これまでにカオリは、このタトゥーを消そうと何度もかなりの無茶をした。
ナイフで皮膚をえぐったり、炎であぶったりしたこともあった。

だがタトゥーは消えない。
カオリがいくら施設の記憶を消そうと思っても、
肩に残ったタトゥーが忘れるということを許さなかった。
785 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:12
「まさか、ね」
アヤは驚きを隠せなかった。
カオリはこの三年間、ひたすら息を潜めるだけで、積極的に動こうとはしなかった。
アヤやミキの活動をサポートしようとはしなかった。
だからずっと思っていた。カオリはもう抜け殻のようになってしまっていたのだと。

「まさか―――カオリもキャリアだったとはね」
アヤの言葉に今度はミキとコンノが驚いた。
これまでカオリが何か特別な能力を披露したことはない。
GAMという非合法組織の内部にいて、三年もの長きに渡って
その能力を隠し切っていたのだとすれば、並の精神力ではない。

ミキはそういった精神力の持ち主に共通点があることを知っていた。
そういった人間は何か「絶対的な目的」を持っている。
自らの命を投げ打ってでも果たさねばならぬ―――何かがある。
カオリが成し遂げたい何か。それは施設の事故と無関係だとは思えなかった。

「ごめんね。ずっと隠してて。誰にも言いたくなかったんだ」

いや。気付かなかったこっちが鈍かったんだ―――。
ミキは初めてカオリと会った時のことを思い出した。
786 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:12
787 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:12
あの施設で事故があった日、アヤと分かれたミキは即座に施設に侵入した。
内部で起こった事故に対応するために施設の人間は動き回っており、
外部から侵入してくる人間に対しては、完全に無防備だった。

易々と侵入したミキはエレベーターには見向きもせず、
水道管が収められている配管鋼のわずかなスペースに身を滑り込ませた。
そのまま管を伝って地下へと降りていく。

恐怖は感じなかった。
人は死の危険に対して恐怖するのではない。未知のものに恐怖するのだ。
ミキにとって死の危険は決して未知のものではなかった。

最初に廊下に出たとき、ミキは照明が落ちていると思った。
なにか廊下が赤い光に照らされているように感じた。間接照明だろうか。
だがそれは赤い光ではなかった。血のように赤い―――霧のようなものだった。

見慣れない霧だったが、廊下には嗅ぎ慣れた臭いも漂っていた。
死体の臭いだ。勿論ミキはそんなものに恐怖は感じない。
逆にある種の手応えを感じた。確かにこの施設では何かが起こっている。
尋常ではない―――何かが。
788 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:12
廊下を歩いていると、右側の部屋から巨大な音が響いた。
反射的にミキは床に伏せる。身の危険を感じるほどの大きな音だった。
まるで―――壁が壊された時のような音だ。

次に人間の悲鳴が聞こえた。悲鳴というよりもそれは断末魔のように聞こえた。
ミキは廊下に並んでいる部屋に目を向ける。
あちこちの扉が壊れて、だらしなく開いていた。

その壊れ方がまた普通ではない。
ブルドーザーで壊したような跡ならば、まだ理解できる。
だがミキの目の前で倒れている扉は、まるでチョコレートのようにベッタリと溶けていた。
これだけの頑丈な金属を溶かすためには一体どれだけの高温が必要になるのだろうか―――

ミキは断末魔が聞こえた部屋に向かう。
扉の横には「2」という数字が書いてあった。部屋番号だろうか。
ミキは溶けかかっている扉を派手に蹴破った。こそこそするつもりはなかった。
中に人がいるのなら聞きたいことが山ほどあった。
たとえ中にいる人間が人殺しであっても、そんなことはミキには関係ない。

ミキは自分の戦闘能力に自信を持っていた。
この狭いスペースで戦うなら、どんな相手であろうが互角以上には戦える―――

だがそんな単純な計算は、数分後に軽く吹き飛ぶこととなる。
789 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:13
部屋の真ん中には死体が転がっていた。ミキは咄嗟に死体の特徴を確認する。
若い女だ。右肩に「2」という大きな数字が見える。タトゥーのようだ。
女が着ている地味な服にも「2」という数字があった。
死体は水死体のようにだらしなく膨らみ、体の輪郭がはっきりしないほどだった。
まるで全ての細胞がチョコレートのように溶けたみたいだった。

銃殺、刺殺、撲殺、絞殺、轢殺、焼殺、溺殺、毒殺。爆殺。
色々な殺され方をした死体を見てきたミキだったが、これは初めてみるタイプの死体だった。
あえて言えば毒殺に近いだろうか?
まるで大量の硫酸をかけられた後のような感じがした。それも体の内側から―――

ミキは背後に気配を感じた。
一瞬「あれ?」とミキは戸惑う。
部屋の中に入ったときには人の気配が全くしなかった。
そして入り口の扉の方にはずっと注意を向けていたが、人が入ってきた気配はない。
この気配は一体いつの間に部屋に入ってきたのだろうか?

背後の人間が飛び掛ってくる気配がした。
サッと振り返り、ミキはその人間の両手を捉えた。背の高い女だった。
ミキが何か言う前に―――そいつが大声で叫んだ。

「危ない! 伏せて!」
790 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:13
ミキは一切油断はしていなかった。四方に注意を払っていた。
部屋の中には相変わらず人の気配がしない。
後ろから何かが襲ってくるとは思えなかった。
だが危険な仕事を続けていたミキは、悪意のない声で「伏せて!」と言われると
ついつい条件反射的に伏せてしまうクセがあった。

同時に背の高い女もミキの手を強く引き、床に引き釣り倒した。
二人はからまりながら床を転がる。
その上をさっと何かが通り、ミキの髪の毛をかすっていった。

バカな。これだけ近くて気配を感じないわけがない。
人じゃない。動物でもない。何か―――機械的なトラップ?

ミキは起き上がりざまに攻撃された方を見た。
ぶち破られた部屋の壁の前に「それ」は立っていた。
いや、立っているのか座っているのか走っているのか。
それすらミキにはよくわからなかった。

とにかく赤くて、巨大で、希薄な霧のような「何か」がそこに漂っていた。
霧は濃度を濃くしたり薄くしたりしながら徐々に人の顔のような形になった。
その顔は―――まあるいほっぺをより赤らめながら、にっこりと笑った。
間違いなくミキの人生において未知のもの―――

ミキは体の奥から突き上げてくる恐怖感に耐えられずに絶叫した。
791 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:13
ミキは背の高い女に引きずられながら部屋の外に出た。
部屋の外にも赤い霧は漂っていた。
ミキにはその霧があの部屋に漂っていた笑顔に見えて仕方なかった。

すっかり取り乱したミキは、大きく息を吐き出しながら手足をメチャクチャに振った。
ミキを抱えていた背の高い女はバランスを崩して倒れる。
まだパニックに陥っているミキに向かって、女は平手打ちを放った。

「落ち着いて。一緒にここから出よう。道ならあたしが知っている」
ミキは胸を上下させながら何とか息を整えた。
修羅場なら何度もくぐり抜けてきている。
どんなにショックを受けても、精神的な回復の速さには自信があるつもりだった。

だがいくら精神的にタフなミキでも―――
その少女の肩越しに、にっこりと笑う赤い霧を見た瞬間は―――
再び絶叫せずにはいられなかった。
792 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:13
赤い霧はゆっくりと人の形を作り始める。
その巨大な拳がうなりをあげて飛んできた。

「危ない!」
今度はミキが叫ぶ番だった。
背の高い女は咄嗟にミキの上に覆いかぶさった。
まるで―――身を挺してミキのことをかばっているような動きだった。

赤い拳は二人を掠めていく。
勢いよく身を倒した少女は、壁に強く頭を打ち付けた。
うめき声をあげる少女からはゆっくりと体の力が抜けていった。

と、その時―――
急激に赤い霧が晴れて行った。霧は急速に廊下の奥へと流れていく。
ミキの目の前にあった忌々しい笑顔も、徐々に密度を薄め、風のように去っていく。
ミキの前には気絶した一人の少女だけが残された。
黒い髪に白い肌。少女の肩には「3」という数字が記されていた―――
793 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:13
794 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:13
その後、アヤの力を借りて施設から出たミキは、背の高い少女の看病に当たった。
翌日、目を覚ました少女は「カオリ」とだけ名乗り、身元は明らかにしなかった。
それから三年の月日が流れたが―――彼女がキャリアらしい能力を見せたことはない。
だがあの施設のど真ん中にいたのだ。
これまでそういったことを疑わなかったのはアヤやミキの不覚と言うべきだろう。

「どういう能力かは、教えてくれないのかな」
アヤは慎重に言葉を選んで言った。だがカオリは特に言葉は選ばなかった。
「耳。あたしは耳が異常に発達した。悪いけど、これまで組織の中で交わされた会話は、
 全部あたしに聞かれていたと思ってくれていいよ」

アヤは思わず天を仰いだ。
キャリアの能力がどれほどのものかはよく知っている。
耳がよくなったというのなら、半径数キロくらいの会話が聞けたとしても驚かない。

カオリのことを殺すか。生かすか。アヤは迷わなかった。
確かにキャリアは大嫌いだが、カオリはキャリアの能力を消したがっている。
ならばその耳、有効に活用させてもらおう。

「じゃあ、あの施設の事故の時には既に耳が?」
「うん。色々なことを聞いた。その意味がわかるようになったのは最近だけど」
795 名前:【発症】 投稿日:2009/07/06(月) 23:13
カオリとコンノを組ませたのはやはり正解だった。
この二人が組めば何とかなるかもしれない。
抗体を作るのが無理でも、ウイルスの正体に迫ることができるかもしれない。
新たな情報を得たアヤの頭脳はフル回転を始めた。

「じゃあ、カオリは、SSの正体についても見当がついてるの?」
「うん。確かにあの事故のとき、ウイルスを持ち出した人間がいた」

この夜何度目かの驚きが走った。
何度驚いても感覚が麻痺することはない。
ミキやコンノの目も輝きを増しているように見えた。

「あのパニックの中でもあたしには施設の人間の話していることが全部聞こえた。
 あの赤い霧の正体が何なのか、それがわかる人間は施設にも一人もいなかった。
 あれはやっぱり計画されたものじゃなくて、突発的な事故だったんだと思う。
 でもその事故の中でも比較的冷静に行動してる人間がいた。二人いた」

アヤとミキは、カオリのように施設で投薬バイトをしていたわけではない。
だからカオリの話にも、いまいち付いていけない部分があった。
だがそれでもカオリが次に言った二人の人物の名前だけは忘れまいと思った。

「ウイルスを持ち出したのはテラダ。そして部下のカメイ・エリ。
 きっとこの二人が―――S.Sという組織の裏にいるんだと思う」
796 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/06(月) 23:14
797 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/06(月) 23:14
798 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/06(月) 23:14
799 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:19
アヤは随分と長い間黙っていた。

アヤが瞳を閉じると部屋の中が少し暗くなったように感じる。
アヤが沈黙していると世界の全てが沈黙しているように感じられる。
アヤが動きを止めると他の人間も動いてはいけないような気にさせられる。

ミキはそんな不自由な時間が嫌いではなかった。
確かにアヤは美しい。「完璧」という言葉を使ってもいいくらいに。

だがきっとその美しさにも寿命があるのだ。
アヤの美しさは、瓶に詰められたウイスキーのように、
時を経れば味わいが深くなるという種類のものではない。
おそらくは今この瞬間にしか味わえないもの―――
ならば今はただ全身でこの不自由な時間を味わっていようとミキは思う。

「方針は決まった」
アヤは瞳を開き、沈黙を破る。その言葉とともに全てが動き始める。
だがミキの心は自由にはならない。ずっとアヤに捕らえられたままだった。
アヤの美しさは、見ている者にヒリヒリとした痛みを与えるほどだった。

それでもミキは食い入るようにアヤを見つめ、その言葉に耳を傾ける。
800 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:19
「SSの正体を突き止める。テラダを殺す。ウイルスを奪う」
俳句でも吟じるように、軽い抑揚をつけてアヤは言った。
アヤがそう言うと、何かとても簡単なことのように聞こえる。

「抗体を作る。それが完成したら―――新しいビジネスを立ち上げる」

そこで言葉を切り、アヤはグラスに手を伸ばした。
その後のことは言わなくてもわかる。
ウイルスと抗体の2つを手に入れれば間違いなく関東を支配できる。
ビジネスという経済的な枠を超えて、政治的に支配することも可能かもしれない。

アヤの話はそれで終わった。
コンノはアヤの手際の良さに感心した。アヤの説明はいつだって滞りない。
彼女の仕事は情報を集めることと、組織としての方針を示すことだ。
それが一番難しいことなのだが、アヤはいつだって簡単に決断を下す。
コンノが知る限り、アヤが方針を誤ったことは一度もなかった。

彼女は決断力があるのではない。実行力があるのだ。
どんな決断だってそれが正しいものとなるように、ただひたすら実力行使を重ねていく。
未来とは決断が作り上げる歴史はなく、実行が作り上げる歴史だということを、
アヤはよく知っていた。

コンノは黙って自分のグラスを見つめていた。
今日が何かのターニングポイントとなる日かもしれない。
この日を忘れないでおこうと、強くそう思った。
801 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:19
「あたしも協力させてもらっていいかな」
カオリは手にしたグラスを軽く持ち上げ、アヤの方に向けた。
膿んだ右肩からじくじく体液がにじみ出ている。
何度もえぐった肩の肉は歪んだ形に盛り上がっている。
それでも「3」という数字は誰が見てもわかるほどくっきりと浮かんでいた。

テラダを殺す。

たった二人の友達。
地獄のような施設で、ただ二人、壁越しに会話を楽しんでいた友達―――
イシグロアヤとアベナツミを奪ったテラダ。
被験者の命をおもちゃのように扱ったテラダ。

テラダを殺す。

カオリはこの三年間ずっと待っていた。その機会が訪れるのをずっと。
身を屈め、心を閉じ、ずっと闇の奥底に潜んでいた。
たった一つの武器である耳を傾け、ありとあらゆる言葉を聞き集めた。
そして今、カオリが一番聞きたかった言葉がここにあった。

「テラダを殺す」

その言葉を発したアヤに対して、命を捧げてもいいと思った。
アヤは目顔でミキとコンノを促す。
二人はすっと手に持ったグラスを掲げた。
見えない力で引き寄せられた4つのグラスは、カチリと澄んだ音を立てた。
802 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:19
803 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:19
「じゃあ、あのとき、2番の部屋で死んでたのがイシグロアヤだったんだ」
「多分そう。直接会ったことはないけど、肩に2番のタトゥーがあったからね」

カオリはグラスを傾けながら、三人に施設のことについて説明を始めた。
あの日、テラダとカメイは8人から集めた血清を混ぜていた。
なぜそんなことをしたのか、科学的な知識のないカオリにはわからない。
コンノに話を振る。だがコンノも意味がわからないと答えるしかなかった。

他人の血清を混ぜてどうなるというのだろうか。
A型とB型の血液を混ぜるようなものだ。
そんなことをしても凝固して終わり、もしくは何も起こらない。
科学的な意味においては、それが常識的な考えだろう。

「そのとき、混ぜた血清からすごい熱が出たみたい。
 テラダが熱い熱いって言ってるのが聞こえた」

その時既にキャリアとしての能力に芽生えていたカオリの耳には、
テラダとカメイの会話がかなり正確に聞こえていた。

「そしてそれが爆発した。それがあの日の事故の始まりだった」
804 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:20
805 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:20
爆発が起こると同時に施設内に真っ赤な霧が立ち込めた。
霧は触れた人間を次々と殺していき、立ちふさがる壁をチョコレートのように溶かした。
カオリの部屋の扉も例外ではなかった。
のっそりと侵入してきた赤い霧を無視して、カオリは廊下に飛び出た。

テラダとカメイが激しく言い合う声が聞こえてきた。
どうやら二人は元のウイルスだけを持って、施設から逃げ出そうとしている。
彼ら二人は本来の実験目的からかなり外れた実験をしていたようだ。
「上にばれたらマズイ」というようなことが聞こえた。
その時初めてカオリの中で怒りが弾けた。

あたしたちはテラダの個人的な実験のおもちゃにされたの?

これまでの試験も、新薬開発につながるというのなら我慢できた。
過酷な試験も、激しい副作用も、これが新しい薬の開発につながり、
病気で苦しむ人達のためになるのだと思えばこそ、耐えることもできた。

だがテラダの狙いは明らかにそれとは違っていた。
「世界を支配する」だのなんだの訳のわからないことを言っている。
何を言っているんだろうか? 何がしたいのだろうか?
彼らの目的について問い詰めるために、カオリは二人の後を追おうとした。
806 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:20
だが上の階に上がる前に、凄まじい轟音が響いた。
カオリは廊下を引き返して、音のした部屋に向かう。
7番の部屋だった。確かここは―――イチイサヤカの部屋?
部屋の中で二人の人間が言い合っている声が聞こえた。

「どけ」
「どかねえ」
「通せ」
「通さね」

どちらも聞き覚えのない声だった。
これが―――イチイの声なのだろうか? もう一人は誰?
行くべきか、引き返すべきか、カオリが迷っているうちに、
大きな音を立てて巨大な何かがイチイの部屋を去っていく。

隣の部屋は確かヤグチの部屋だ。そこで音が消えた。
確かに人の気配がヤグチの部屋に入っていったはずなのに、
そこからは全く音がしなくなった。

おかしい。
今のカオリはどんな些細な音であっても聞き取ることができた。
なのにヤグチの部屋からはどんな種類の音も聞こえなかった。
カオリは反射的にヤグチの部屋に飛び込んだ。
807 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:20
ヤグチの部屋の中には、大きな穴が開いていた。
イチイの部屋につながる壁と、ヤスダケイの部屋につながる壁だ。

両方の壁に穴が開いていた。
部屋の中には誰も居ない。何の音も聞こえない。素通りしたのか?
カオリは壁の穴をくぐってヤスダケイの部屋に侵入する。
ヤスダの部屋もヤグチの部屋と同じだった。両側の壁に穴が開いている。

カオリは何かに導かれるように、ヤスダの隣のアベナツミの部屋に侵入した。
穴の向こうにも真っ赤な霧が充満していた。
だがその濃度は明らかに濃かった。

アベの部屋にも他の部屋と同じく、両側の壁に穴が開いていた。
穴の向こうはカオリの部屋だ。カオリは駆け出す。
予想していたように、カオリの部屋にも穴があり、イシグロアヤの部屋に通じていた。

そのイシグロの部屋から―――闇を切り裂くような悲鳴が聞こえてきた。
カオリは何も考えられないまま、穴から隣の部屋を覗く。
部屋の中には赤い霧が流れていた。まるで生き物のようにうごめいていた。

部屋の中央で誰かが一人倒れていた。
その傍らには人間の形をした真っ赤な何かが立っていたが、その形はやがて崩れ、
真っ赤な霧の中に混ざって消えた。
808 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:20
そのとき、イシグロの部屋の扉が豪快にぶち破られた。
カオリは咄嗟に身を隠す。半身になって片目だけで隣の部屋を窺った。
ごうごうと嵐のように空気が流れる音がする。自分の呼吸音だった。

壊れた扉の向こうから一人の少女が入ってきた。
誰だろう? 8人いる被験者のうちの一人だろうか?
他の被験者の顔を一度も見たことがないカオリには判断がつかなかった。

少女は部屋の中央で倒れている子の下へと歩み寄る。
何かを調べているようだ。施設の関係者なのだろうか?
だがそのシルエットは過去に会ったどの関係者とも一致しなかった。
間違いなく、この施設では初めて見る人間だ。

その時、部屋の中の赤い霧は再び密度を高め―――人の形のようなものを形成し始めた。
霧の一部が部屋の中にいた一人の女に向かって襲い掛かろうとするのが見えた。

「危ない! 伏せて!」
カオリは反射的にその女に向かって飛び掛っていた。
809 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:20
810 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:21
「じゃあ、あのときカオリは壁の穴からあの部屋に入ってきたのかー」
ミキは納得したという顔でカオリの話を聞いていた。
どうりで全く注意してなかったところから人が出てきたわけだ。
まさか部屋の壁が破壊されていたとは思わなかった。

「で、その赤い霧の正体は? どうして他の人間は死んだのに、
 カオリやミキたんには何の影響もなかったわけ?」
アヤの質問に対して、カオリはただ首を横に振るだけだった。

「それはわからない。ただ、テラダたちは『ある資質』を持った子を集めていた」
「ある資質?」
「うん。あの施設にいた8人の子。それにあの事故の直前に追加された4人。
 この12人は間違いなくそういう資質を持った子だったと思う。
 そういう子にウイルスを投与していた。だからそういう資質を持った子は
 あのウイルスから発生した赤い霧には耐性があったのかもしれない」

コンノがカオリの言葉を引き継いだ。
「ありえる話ですね。キャリアになるかならないかの違いも、遺伝的な要因が強いと
 聞いたことがあります。フジモトさんもそういう資質を持っていたのかもしれません」
811 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:21
「遺伝的な要因ねえ・・・・・」
アヤは渋い顔をした。

天才を愛するアヤだったが、科学者気質ではない彼女は、その天与の才能が、
遺伝子というただの物質から発生するという考えはあまり好きではなかった。
天才性とはもっと不可思議で分析不能なものであるべきだとアヤは思う。
科学論よりは、まだ宗教論の方がフィットする。
アヤは科学者ではなく―――むしろロマンチストだった。

そんなアヤの気質を知りぬいているミキは、
アヤの機嫌が一層悪くなる前に、先回りして話を進める。

「つまりその資質が何なのかってことを探ればいいんでしょ。
 テラダが何を基準にして人間を集めて、何の試験をやっていたか。
 それがわかればウイルスの本質にも近づけるし、抗体作成にも役立つ」
ミキは必死で話を広げようとした。ここでアヤに興味を失われては困る。

だがアヤはアヤで、ミキとは全く違うことを考えていた。
「その施設って今も閉鎖されたままなの?」
812 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:21
コンノがすらすらと答えた。
「はい。確か当時、あの事故では大量の放射能が漏れたという報道がありました。
 あくまでも政府発表ですから真偽のほどは怪しいと思いますけど・・・・・
 その後、その施設は即座に閉鎖されてコンクリートで塗り固められたとか。
 今でもそのままになっていて、付近には近づけないようになっているはずです」

コンノは対キャリア対策の資料を集めていた時期があった。
ウイルス関係の情報についてはこのメンバーの中で一番詳しいだろう。

アヤはこくこくこくと三度頷いた。
肩ごと上下するような大きな動作だった。
動作が大きくなるのはアヤが酔ってきた証拠だ。
酔うと彼女のあらゆるものが大きくなる。
目も。開いた口も。態度も。存在感も。そしてその美しさも。

「放射能汚染か。嘘にしてはよく出来ている。役人が即興で考えたとは思えない。
 案外、放射能が漏れたっていうのは本当かもしれない。でもその方があたしたちに
 とっても都合がいい。施設が当時のままの状態で残っている可能性が高いからね」
813 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:21
アヤは一旦目を閉じてからパッと目を見開いた。
アヤの好きな仕草だった。それだけで周りの目を引き寄せることができる。

「情報を集めよう」

どんな戦いでも情報を重視するのがアヤのスタイルだった。
天才とは、何もないところから何かを生み出す手品師のことを言うのではない。
手品にだってタネはある。今はタネを仕込む時期なのだ。

「ミキたんはさっき言ったようにフォースを探って。
 あそこは何人かのキャリアが仕切ってる店だっていう話だから、
 そのキャリアについて特に詳しく探ってほしい」

ミキは頷いた。キャリアが仕切っているというのは初耳だ。
そういえばあそこには「ヨシザワヒトミ」というファイターがいた。
あれもキャリアなのかどうか、今回ははっきりさせる必要があるだろう。
迷いは消えた。覚悟さえ決めればそう難しい仕事ではない。

いざとなれば―――直接拳を交えればいい。
814 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:21
「カオリはあの施設にいた残りのメンバーについて探ってほしい。
 そのウイルスを投与されたっていう8人のメンバーについて。
 生き残りがいるのか。いないのか。うちの若いの使っていいから調べてみて」

アヤはそう言って何人かの若手メンバーの連絡先を渡す。
カオリにはそういった仕事の経験はないのだろうが、
彼女にはキャリアとしての特殊な「耳」がある。
組織の力と合わせれば、かなりの情報が手に入るかもしれない。

「コンコンはあの施設が今、どういう状態なのかを探って。
 あたしの勘じゃ、そこにはきっと何かが残ってると思う」

アヤはそこで言葉を切った。アヤが「勘」という言葉を持ち出すのは珍しい。
それでも一旦アヤの口から出れば、その言葉はどんな理屈よりも正しいように思えた。

「必要とあれば、あたしはその施設に行ってみようと思う」

アヤの言葉は、いつだって事態を次の展開へと導く強力な推進力となる。
この時も例外ではなかった。
815 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:21
816 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:21
翌日からカオリは組織の若手と連れ立って情報収集に出ることになった。
あの事故の後からずっと部屋に引きこもっていたカオリだ。
外出するのは実に三年ぶりのこととなる。

そういえばこの三年間、あたしもアヤも、カオリに向かって
「たまには外に出てみれば?」って一度も言わなかったかもしれない。

ミキはよたよたと歩くカオリと一緒に表に出ながらそう思った。
そんな自分やアヤは薄情な人間なのだろうか?
もっとカオリを励まして、外の世界へと興味を向けさせるべきだったのだろうか?
それが世間で言うところの「友情」とか「思いやり」というものなのだろうか?
違うと思う。それは違うとミキは思う。

あたしはカオリが好きだ。そして多分アヤもカオリのことが好き。
それで十分じゃんか。
カオリが自分で歩きたいと言ったなら、その時に手を貸してやればいい。
嫌いになるまで、気の済むまで貸してやればいいんだ。

別に友情じゃなくても、思いやりじゃなくても、それで十分だとミキは思った。
817 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:22
「ミキちゃん、なにボーっとしてんの?」
声をかけられて少しうろたえた。カオリのことを気にしすぎていたようだ。
「おせーよ、マコ。このバカやろうが」
「ひっでー。時間通りだよー。ていうかまだ5分前だよ」

浮浪者のマコは、2つ年上で上役のミキにも気安い口を利いた。
ミキはあまりそういうことは気にしない。
気にしないのだが、なぜかマコはアヤに対してはしっかりとした敬語で話す。
ミキはそれが癪に障る。
ボコボコに殴ってやろうかと思う。思うだけで実際に殴ったりはしないが。

「行くよ。クラブ・フォースへ」
ミキは犬舎に足を向ける。Nothingも連れて行くつもりだった。
「コンちゃんはー?」
「あのなあお前。友達の家に遊びに来たんじゃないんだから」
「でもせっかく来たんだし挨拶くらいはさー。コンちゃん何してんの?」
「部屋でパソコンとにらめっこしてる」

コンノは実際に足を動かして情報を集めたりはしない。
いつもネットを使ってあちこちに侵入するのがコンノのやり方だった。
アヤやミキはパソコンのことなどさっぱりわからないし興味もないのだが、
コンノはそっち方面のスキルにも秀でているらしかった。
818 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:22
「パソコンかあ」
マコが間の抜けた声で言うと、パソコンも、こんにゃくか何かのような、
違う物体のように思えてくるから不思議だ。
このペースは明らかにミキのペースとは違う。
だがいきり立っても仕方がない。

マコとは何度も仕事をしてきたし、その度に何度も説教をしたりしたが、
結局、ミキがマコのペースに合わせるしかなかった。
それでもアヤは、ミキとマコをコンビで仕事させることを好んだ。

なんで? ミキはアヤに何度もそう訊いた。
「でもミキたんってマコのこと好きでしょ? にゃはは」
そう言って笑うアヤの顔は、絞め殺してやりたいほど憎たらしかった。
アヤはよく見ている。確かにミキはマコのことが嫌いではなかった。

バカでグズでノロマで頭の回転が遅くて機転が利かなくて指示したことしか出来なくて
嘘もつけなくて怖がりで泣き虫でビビリでヘタレで明らかにこの仕事には向いてないけれど、
不思議とそういうことが欠点に見えない子だった。

ミキはNothingをつないでいる鎖を外した。
「で、あっちの仕事の引き継ぎは終わったのかよ」
「うん。さっきJJとLLに会ってきたから」
少なくとも与えられた仕事は最善の手順でもってきっちりとこなす。
その点に関しては、ミキもマコのことを認めていた。
819 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:22
フォースが入っているビルまではかなり距離がある。
だがオープンカーでもない限り、屋根を恐れるマコは車に乗れない。
しかもフォースの場所を知っているのはミキだけで、マコは知らない。

結局、数キロの道のりを、二人と一匹はとぼとぼと歩くことになった。
外は寒い。雪が降ってもおかしくないくらい寒かった。
風も強い。耳が切れそうに痛い。体感温度は氷点下を軽く下回っていた。
ブーツの先は痺れて感覚がない。息を吸うと鼻の奥がツンとした。

車で行けば20分の距離なのだ。それなのになぜ歩きで・・・・・
「でもミキたんってマコのこと好きでしょ? にゃはは」
ミキは再びアヤのことを絞め殺してやりたくなった。
ちくしょう。あのばかたれが。いったいだれのおかげでこのそしきが

「あれ? ミキちゃんなにブツブツ言ってんの?」
マコの鼻と頬は、まるでピエロのように真っ赤だった。
ふごふごと鼻を鳴らしながら、にこにこと笑っている。

ミキが無視すると、今度は歩きながらNothingとじゃれあい出した。
Nothingは心を許した人間に対してはかなり人懐っこい犬だ。そして賢い。
どうもマコという人間を格下に見ているきらいがある。
一緒にじゃれているというより、遊んでやっているという態度に見えた。
マコはそんなことは一切気にせず奇声を上げている。元気だった。

バカな子っていうのは、どうしていつもこう元気なんだろう?
820 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:22
文句を言う気にはなれなかった。
マコは純粋な子だ。そしてその純粋さは無知ゆえのものではない。
この世のあらゆる悲しみや矛盾を知り、その上でなお純粋な部分を捨てきれずに、
後生大事に持っているような子だった。

そんな純粋な子を馬鹿にするのは、鏡に向かって唾を吐くのに等しい。
言葉は全て自分の心に跳ね返ってくる。傷つくのはマコではなく自分だ。
だからミキはただ黙って歩き続けた。

マコは決して語らない。だがミキは知っている。コンノから聞いて知っている。
マコがなぜ屋根のある場所に入ることができないのかを。
ある出来事がずっとトラウマになっていることを―――。

あの事故の直後、マコの両親はウイルスに感染した。
高熱を発し、動けなくなった両親は、あちこちの病院をたらい回しにされた。
その時はまだ国の救援体制も整っていなかった。情報も錯綜していた。
ウイルスに感染した人間はとりあえず隔離されることとなった。
その場しのぎのお粗末な対応だった。

マコも両親と一緒に―――仮設の粗末な診療所に押し込められた。
821 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:22
二階建てのプレハブは明らかに収容人数を超えていた。
だがウイルス感染者は次々と収容所に送られてくる。
息も絶え絶えの感染者はプレハブに押し込まれ、治療を受けることなく放置された。

ウイルス感染を恐れたのだろうか。両親はマコに「ここには入るな」と言った。
それでもマコは寂しさから時々は両親の布団に忍び込んで一緒に眠ったりした。
幸運にも、絵に書いたような健康優良児のマコはウイルスに感染することはなかった。
それでも両親は何度もマコに「来るな」と言った。「外で寝ろ」と言った。
マコはその意味を取り違えていた。

嵐の夜だった。
収容人数をはるかに超えていたプレハブの2階は―――
ある日突然、何の前触れもなく崩れ落ちた。
2階にあった両親の寝所で寝ていたマコは押しつぶされた柱に挟まって、
激しい痛みに苛まれながら、朝までじっと見ていた。
目の前に広がる惨劇を見ていた。

屋根に押しつぶされた―――自分の両親の姿を。
822 名前:【発症】 投稿日:2009/07/09(木) 23:22
ようやくフォースの入っているビルまでたどり着いたときには、
ミキの鼻と頬も、マコのように真っ赤になっていた。
ちくしょう。これじゃまるで。いなかもののおのぼりさんみたいじゃないか。

ビルのガラスに映った自分の姿に向かってミキは毒づいた。
隣にはマコが映っている。まるで妹みたいな顔をして横に立っていた。
なんだか無性にこの妹分の親知らずを四本とも抜いてやりたくなった。
ゴリゴリゴリと麻酔抜きで。

「ミキちゃーん。何考えてるの?」
「え? なんで?」
「すっごいニヤニヤしてるから」
どんな残虐な行為も躊躇わず実行できるミキだったが、
このときはさすがに軽い自己嫌悪に陥った。

ビルの前でミキとマコは別行動に移ることにした。
ミキはクラブの中を探り、マコは周囲の聞き込みをすることに決める。
まずはあの裏切り者の男の足取りをつかむことが先決だ。
中国男の情報を疑うわけではないが、鵜呑みにするのは馬鹿のすることだ。

マコに細かな指示を与えてNothingと共に送り出すと、
ミキはビルの中に足を踏み入れた。
823 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/09(木) 23:23
824 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/09(木) 23:23
825 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/09(木) 23:23
826 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:21
一応、店は開いているものの、まだ外が明るい時間だ。
店の中でたむろしている客の姿はまばらだった。

ミキはまず化粧室に入って身だしなみを整えた。
相手に舐めた態度を取らせないためにも、見てくれを整えることは大切なことだ。
まずは誰よりも美しく。それが会話を交わす上で一つの先制パンチになる。

ミキは鏡に向き合っていてあることに気付いた。
「ん・・・・・・・?」

洗面所がびしゃびしゃと濡れていた。
軽く覗いてみると、化粧室も微妙に汚れているように見えた。
以前ここに来たときは、いかにも一分の隙もない高級クラブという印象があった。
客質に関しては、高いのも低いのも含めて色々と混ざり合っていたが、
それを収める箱は最上級のレベルにあると思ったものだ。

だが今はそういった雰囲気が感じられない気がした。
些細なことだと見逃すことはできない。
客商売というものはこういう些細なことから崩れていくことが多い。
ミキは薬を納める箱の経営状態には敏感だった。

まずはこの角度からフォースをチェックしていくべきかもしれない。
827 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:21
店内はまだ空いていた。つまり店員は暇な状態だと言える。
こういうときに、どういう態度を取っているかで店員の質が分かる。

高級店の店員は、いついかなるときでも隙を見せない。
いつでも即座に最高のサービスを提供できる準備をしているものだ。
大げさに言うなら、サービスをするのが仕事ではなく、
その準備を常にしておくことこそがサービス業の仕事なのだ。
そういった義務感と緊張感に溢れているのが、良い店の良い店員だと言える。

だがクラブ・フォースの店員は違った。明らかにだらけている。
パッと見た感じは服装も締まっている。笑顔も完璧だし、仕事もそつがない。
だが注意深く見たミキの目には、客が少ないのをいいことに、
店員が労力を惜しんでいることがはっきりと見てとれた。
以前この店に来たときには見られなかった光景だ。

ミキは以前に比べてこの店のグレードが落ちていることを確信した。
グレードが落ちる原因は2つしかない。
人か、金か。必ずどちらかがからんでいる。

ミキはグラスを取るついでに店員に声をかけた。
828 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:21
「ねえ!」
「はい、なんでしょうか」
店員の丁寧な受け答えは100点に近い。教育はよく行き届いている。
ある種の緊張感は感じられないが、高級店独特のプライドの高さは感じる。
金ではなく、上に立つ人間に問題があるのかもしれない。

「アポは取ってないんだけどさ。ナカザワさんと話できるかな・・・・・」

クラブ・フォースの支配人であるナカザワとは一度だけ会ったことがある。
この店で薬をさばくと決めたときに、アヤと二人で挨拶に行った。
勿論、こちらの身分は完全には明らかにしなかった。
あくまでもチンケな売人を装った。自分を必要以上に大きく見せる必要はない。
むしろ可能な限り小さく見せるべきだ。それがGAMの考え方だった。
だから「GAM」という名前もあえて出さなかった。

ナカザワはかなりの威圧感を持った人物だった。
さすがに東京最大のクラブという看板を背負っているだけのことはある。
知名度という諸刃の剣を捨てたアヤやミキと違って、
ナカザワは、世間からのありとあらゆるプレッシャーを全て受けて立つという、
ある種の覚悟を決めた人間の顔をしていた。

逃げ場を捨てた人間は強い。
看板の重さは伊達ではないのだろう。
ミキは「この相手は敵に回したらかなり手ごわい」という感触を受けた。
829 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:21
ナカザワは「ここで商売をしたい」というアヤの願いをあっさりと受け入れた。
まるでアヤとミキのことをあらかじめ知っていたかのようだった。

もしかしたら知っていたのかもしれない。
ミキは気付いていた。そしてアヤも気付いていた。
以前、アヤと二人で店をうろついていたとき、常に二つの視線が見つめていたことを。
あの二人のおちびさんはおそらく店の用心棒か何かだろう。
早速チェックを入れられていたということか。

なかなか目端の利く用心棒がいるみたいじゃんか。

ナカザワとの会談が終わった後でアヤは笑った。
ミキも同感だった。そういう用心棒がいるなら、それはそれで心強い。
こちらがルールを守っている限り、安心して取り引きができるのという、
一つの保証と考えることが可能だからだ。

そんなところからも、このフォースというクラブの隙の無さが窺えた。
830 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:21
この時はそれだけで終わった。
だからナカザワは、チンケな売人であるミキのことなど覚えていないかもしれない。
そうでなくても、クラブの支配人ともなれば軽々しくは動けない。
アポも取らずにいきなり押しかけても、おそらく会うことはできないだろう。

会えないなら会えないで構わない。会えるなら軽く挨拶でもしていけばいい。
ただミキは、あの強烈に厳しそうな支配人の名前を出すことで、
店員がどういう反応をするのかを見たかっただけだった。

だが店員の返答は、ミキが予想していなかったものだった。

「いや、申し訳ありません。当店の支配人は先月、代替わり致しまして。
 現在の支配人はマリィという人間になっております」
「先月? 正確にはいつ?」
「先月の月初めでございます」

先月の月初め。いきなり重い情報がヒットした。
例の裏切り者の男が初めてこのクラブで目撃されたのも―――その時期だった。

何かある。だが突っ込んで話をするのは躊躇われた。
深入りすれば逆にこちらの存在を悟られかねない。まだその時期ではない。
もう少し外堀を埋めてから再びこの店に来るべきかもしれない。
「じゃあいいや。悪いね」
ミキは話を打ち切って店を出た。
831 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:22
ミキはフォースから出るとぶらぶらと当てもなく歩き出した。

マコとは特に待ち合わせの場所を決めていなかった。
今日は雨も降っていないし、マコにはそんなに遠くには行くなと言ってある。
慣れ親しんだマコの臭いだったら、この辺りを歩いているうちに、
すぐにでも探り当てられるだろう。

ミキは心もち鼻をひくつかせながら北の方へ向かった。
そちらから流れくる風に、わずかにマコの臭いがした。
歩いていくうちにマコの臭いとNothingの臭いが徐々に強くなってくる。
その場所の100メートルほど手前で、ミキはマコの居場所を特定できた。

「バカかあいつ・・・・・・なんで『あの場所』で待ってるんだよ」

あの場所とは、ミキも何度か待ち合わせに使ったことのある店だった。
確か気難しそうなおっさんがやっているラーメン屋だったはずだ。
知る人ぞ知るという店であり、一見さんお断りの店なので邪魔も入りにくい。
麻薬密売人という身分の人間には、なかなか使い勝手の良い店だった。

麻薬取締官が、店内で売人を射殺するという事件が起こるまでは―――。
832 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:22
マコはやはり、その店が入っているビルのまん前に座り込んでいた。
Nothingの姿は見えない。
いや、あの犬の心配をする必要はない。マコの10倍は賢い犬だ。
とにかく今はこのボンクラに説教をしなければなるまい。
ミキは頭を漫才の突っ込みのように、マコの頭をスパコーンと叩いた。

「いってー。なにすんだよミキちゃん」
「なにすんだよじゃねーよバカ。おめーはこの店のこと知らないのかよ」
「知ってるよ。こないだピアス君が撃たれた店でしょ」
マコはえっへんと偉そうに胸をそらしながら答えた。
さすがにそういう情報はしっかりとつかんでいる。

「あのなあ。つまりここは麻取のシマ内ってわけだよ。わかる?」
「ミキちゃん」
「なにさ」
マコはいつになく真面目な表情だった。ミキは悪い予感がした。
マコがこういう真面目な表情をしたときはろくなことを言わない。
バカが真剣になったときほど怖いものはないのだ。

「ミキちゃんはあたしのこと馬鹿にしすぎです」
なぜか最後の「です」に力を込める。
(そんな言い方するからバカっぽく見えるんだよ・・・・・。)
ミキは心底うんざりしながら言葉を返した。

「これでも足りないくらいなんですけど」
それはミキの本心だった。
833 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:22
「あたしだってここが麻取のシマ内だってことくらいわかるよ!」
「わかってんのかよ」
「わかるよ。だって今さっきも店に入って行ったもん」

ミキの鼻から勢いよく鼻水が飛び出した。
鼻くそ交じりの黄色い液体がマコの襟元を直撃する。
「あ、あのなあ・・・・・」
「ちょっとお! これ一張羅なんですけど!」
「浮浪者が一張羅とか言うなよ!」
マコが着ているのは、どうみてもボロにしか見えない代物だった。

「とにかくその鼻、拭きなよ・・・・・・」
マコは悲しそうな顔をしながら、リュックのポケットからティッシュを取り出した。
「おい・・・・その目はやめろ。あたしに同情するんじゃねーよ」
そう言いながらもミキはティッシュを受け取り鼻をすする。
すすってから気付いた。今はマコと漫才やってる場合ではない。

「おい、とにかく行くぞ。麻取と鉢合わせとかシャレになんねー」
「えー、もうちょっと待ってようよー」
「バカか。お前はリアルバカか。なんであたしらが麻取を待たなきゃなんねーんだよ」
「店の中にさ、ナッシングがいるんだよ」
「は?」
「なんか麻取のお姉さんに連れられて一緒に入っていった」
834 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:22
ミキは開きっぱなしになっている店の扉の奥の空気を探った。
確かにNothingの臭いがそこから漂ってくる。
他にもう一匹、犬らしき動物の臭いがした。
犬? 一体どういうことだろうか。

さらに人間の臭いが二つ。一つは知っている臭いだった。店のおやじの臭いだ。
残る一つがその麻取の臭いというわけか。
ミキがこれまでに嗅いだことのない臭いだった。
そこには微かに化粧品のような臭いが混じっていた。なるほど女の臭いだった。

「おいマコ。今お前おねーさんって言ったな」
「うん。綺麗なお姉さん。最近噂でよく聞く麻取だよ。その筋では結構有名人。
 ピアス君を撃ち抜いたのもその人らしいよ。なんか真っ黒な犬を連れてた」
「犬?」
「多分麻薬犬じゃないのかな。ナッシングと同じくらいの大きさの犬だった」

その犬の臭いだったのか。
Nothingと同じくらいの大きさだとするとかなりの大型犬だ。
麻取が普段連れている麻薬捜査犬とはまた違う犬種かもしれない。
835 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:22
ミキはじっと扉を見つめる。
だがミキに感じ取ることができるのは臭いだけだった。
臭いだけではNothingの状態まではわからない。
大きな異常もなく生きている―――わかるのはそれだけだった。

ミキはペッと唾を吐くと、ポケットから手を出して両手の指を伸縮させた。
凍えた指のままでは引き金を絞ることはできない。
じっくりと伸縮を繰り返して慎重に指先を温めた。

Nothingをこのまま置いて行くという選択肢はありえなかった。
あの犬はただの犬ではない。
ミキとアヤにとっては特別な犬だ。

そう。場所は覚えていないが、確か霧の深い夜だった。
今日と同じように、凍えそうな寒い夜のことだ。
アヤと出会ったのも、思えばあの犬を見つけたことがきっかけだった。

836 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:22
ダンボール箱に入れて捨てられていた5匹の犬。4匹は既に息絶えていた。
残された1匹に伸ばそうとしたミキの手が、もう一つの手に触れた。
ミキの手よりも、白くてしなやかな手だった。

「この子をどうするつもりなの?」
しなやかな手の持ち主はそう言った。恐ろしく美しい少女だった。
ミキは「お人形さんのような」というお決まりの形容詞が、
決して言い過ぎにならない人間が存在することを初めて知った。

突然。それは突然の衝動だった。
ミキはこの美しい少女を手ひどく傷つけてやりたいという衝動にかられた。
美しさに嫉妬したのではない。美しさを汚そうとしたのではない。
傷つければ傷つけるほど、その少女がより美しさを増すような気がしたから。
だから心にもないことを言った。
思っていることと正反対のことを言った。

「殺してあげるんだ」
口に出してみると、それはそれで一つの素敵な考えだと思えた。
「だって可哀想じゃん。一匹だけ取り残されてさ。一匹だけじゃ意味がない。
 だから殺してあげるんだ。送ってあげるんだ。兄弟と一緒のところにね」
837 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:23
「素敵な考えね」
少女は平坦な声でそう言った。強がっている様子は一切なかった。
むしろ皮肉な響きが込められているように感じた。

ミキは突然、自分がとんでもなく陳腐なことを言ったことに気付いた。
それは、自分のことを特別な存在だと思っていたミキにとって、耐え難い屈辱だった。
だから言葉を重ねた。
結果的にはその言葉がアヤとミキをつなげることになった。

「素敵だと思う? 本当に?」
「うん。素敵だと思う。一人ぼっちは悲しいもん」
「じゃあ今からあたしが自分の家族を皆殺しにするって言ったらどうする?」
「え?」
その少女の目がきらめきを増したように見えた。

ミキは何かに取り憑かれたかのようにしゃべり続ける。
「あたしはたった一人になるんだ。だったらあんたは―――」
「あなたを殺してあげる」

そのとき小さな犬がぶるぶると震えた。
その少女―――アヤは小さな白い犬を抱きかかえた。
温めるようにぎゅっと強く抱きしめる。

「でも、一人ぼっちじゃないのなら―――殺す必要はないよね?」

見知らぬ二人がつながるには、その言葉だけで十分だった。
838 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:23
ミキには皆殺しにするような家族は一人もいなかった。
アヤには裕福な家庭と、山ほどたくさんの友人がいた。
だからミキは、アヤがその犬に「Nothing」と名づけたときは、きつい皮肉だと感じた。

だがアヤはただの一度もミキのことを蔑んだ目で見なかった。
ミキの美しさと暴力性と頭の回転の速さを認め、あくまでも対等に付き合った。
麻薬密売という闇のビジネスを始めるときもそうだった。
役割分担はいつもフィフティ・フィフティであり、利益も危険も全て二人で分け合った。

なぜアヤが麻薬ビジネスなんていうものを始めたのか、ミキは知らなかった。
ミキはアヤの家庭事情について尋ねたことは一度もなかった。
アヤもミキの家庭事情については一切尋ねなかったからだ。
ビジネスはたった三人で始めた。アヤとミキと、そしてNothingと。

アヤはミキと同じようにNothingのことを愛した。
ミキを愛撫するようにNothingを愛撫し、
Nothingを信頼するようにミキのことを信頼した。
無償の愛を注ぐこともあったが、ルールを破ったときは烈火のごとく怒った。

アヤはNothingを通じてミキを愛し、ミキはNothingを通じてアヤという女を知った。
839 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:23
ミキはゆっくりとアヤのことを理解していった。
初見でその人間の本質をおよそ見抜いてしまうミキにしては珍しいことだった。
それだけアヤは複雑な人間だった。
複雑なように見えて時に単純で、単純なように見えて時に複雑な女だった。

それでもミキは、月日を重ねるうちに、
アヤが「Nothing」という名前をつけた理由がわかったような気がした。
麻薬ビジネスを始めた理由がわかったような気がした。
アヤが天才を愛する理由ももわかった気がした。

家庭。財産。友人。才能。美貌。全てに恵まれたアヤには「Nothing」が必要だった。
全てを無に返して一から作り上げる。ただ一人、自分だけの才覚で。
アヤほどではないが、生まれ持った才能に恵まれていたミキには、
その気持ちがわかる気がした。

与えられたものに価値を見出すのはいい。才覚とは自分の全てだ。
だがそこで終わっていては何の意味もない。この世に生まれた意味がない。

アヤは常に何かを勝ち取っていかなければいけない人間なのだろう。
そうし続けていないと、生きているという実感が湧かないのだろう。
840 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:23
「Nothing」という名前は、この先ずっと生きていく限り、
安住の地に甘んじることなく戦い続けていくという、
アヤなりの宣戦布告だったのではないだろうか。
ミキにはそれがわかる。天才だから。だから一緒に戦うこともできる。

アヤが天才を愛するのも、そういう理由からかもしれない。
理解を欲するのではない。仲間が欲しいのではない。
ただこの世界には、自分以外の人間もいるという確固とした事実が欲しいのだ。
自分と同じ、たった一人のNothingがいるという事実が欲しいのだ。
自分の存在意義を映し出す―――鏡が必要なのだ。

「でも、一人ぼっちじゃないのなら―――殺す必要はないよね?」

だからアヤは今もミキやNothingと一緒に戦い続けている。
裕福な家庭を捨てて。教養ある友人たちに背を向けて。
約束された豊かさを全て投げ打って。

アヤはひたすら戦い続けている。
アヤが生きている限り、この戦いが終わることは永遠にない。

841 名前:【発症】 投稿日:2009/07/13(月) 23:23
アヤとミキはNothingを通じてつながっている。
だからNothingのことは決して見捨てることはできない。
それはミキにとってはアヤを見捨てることだったし、
きっとアヤにとってはミキを見捨てることになるだろう。

マコは相変わらず緊張感のない顔をしている。
それにアヤに鍛えられたNothingの戦闘能力はかなりのものだ。
どうやら無理矢理連れ去られたというわけではないようだ。

一体何があったのだろう?
Nothingは知らない相手にのこのこ付いて行くほどバカではないが、
相手が麻薬犬を連れた腕利きの麻取というのも気になる。

まあ、うだうだ考えていても仕方ない。
ミキは最悪のケースも想定しながら、覚悟を決めた。
拳銃を取り出し、オートマチックの弾倉を引き抜く。

そこに8発の銃弾が入っていることを確認すると、
「ここで待ってろ」とマコに言い残してミキはビルの中へと入っていった。
842 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/13(月) 23:24
843 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/13(月) 23:24
844 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/13(月) 23:24
845 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:56
ラーメン屋の入り口は狭い。ビルの地下にある店へと続く階段も狭い。
ミキは足音を殺し、鼻をひくつかせながら階段を下りた。
店の奥に厨房の臭いとオヤジの臭い。
そして店の中央テーブル辺りから一人の人間の臭いがする。
テーブルの上には二つのラーメン。連れがいるのか?

目で見て確認しなくても、臭いだけでミキはかなり正確に店内の空間配置を把握していた。
麻取の女がラーメンをすすっていることすらわかった。
鶏ガラベースのスープが女の喉を通っていくのも、手に取るように感じることができた。

驚くべきことにNothingはその人間のすぐ横にいる。
混ざるように絡み合っている二つの獣の臭い。
どうやら麻取が連れている麻薬犬と二匹でじゃれあっているようだ。
二匹の犬からは血の臭いや唾液の臭いはしない。
本気で噛み合っているのであれば、必ずそういった臭いがするはずだった。

ミキはやや面食らった。
Nothingはアヤからしっかりとした訓練を受けている犬だ。
初対面の相手に気を許すことなどまずない。
マコだってそこそこ仲良くなるまで3回くらい噛まれたはずだ。
それにプライドが高い。これも飼い主譲りの特性だ。
並の犬に簡単に気を許すとは思えなかった。

ミキは部屋の中央にいる麻取が臨戦態勢を取っていないことを察すると、
拳銃を持った右腕をコートのポケットに突っ込んで、店の中に入った。
846 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:57
麻取の女は、両手で丼を掲げて最後のスープを飲み干そうとしているところだった。

隙だらけじゃねーか・・・・・

両手がふさがっている今なら簡単に撃ち取ることができる。
無意識のうちに拳銃の引き金にかけた指に力がこもる。
音を立てるようなへまはしなかったはずだ。
だがそのアクションに敏感に反応した気配がした。

真っ黒な犬がこちらを向いていた。確かに大きい。
Nothingもかなり大型の犬だが、それよりも一回り大きかった。
強靭な前脚がしっかりと床をつかんでいる。すぐにでも飛びかかれる体勢だった。

こいつは麻薬犬っていうより純粋な警察犬だな。
いや、それよりも―――軍用犬に近いかもしれない。

ミキは敵が一人ではないことを理解した。
この犬が軍用犬ならば、訓練された兵士数人分の戦闘能力があるはずだ。
下手をすればキャリア以上に手ごわい相手になるかもしれない。
847 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:57
その黒い犬とミキの立ち位置をつなぐ動線の間に、白い犬が割り込んできた。
Nothingだ。怪我はない。精神状態も落ち着いている。
いつものNothingのようだった。

ミキはつかつかと歩み寄り、真っ白な毛をさらりと撫でた。
黒い犬はまだミキに対する警戒を解いていない。
ミキの方もポケットの中にある拳銃を手放す気はなかった。

ピリピリとした緊張感を弾き飛ばすように「ドン!」という強い音が響いた。

麻取の女が丼をテーブルに置いた音だった。ミキと目が合う。
確かにマコの言うように綺麗な女だった。
真っ黒なコートに真っ黒なシャツ。そして真っ黒な髪と真っ黒な瞳をしていた。
まるであの黒い犬と色調を合わせているような佇まいだった。
肌は抜けるように白く、黒と白のモノトーンの色彩の中で、
ワンポイントになっているように唇だけがピンクに光っていた。

ミキは美しい女を見たときのクセで、咄嗟にその女が使っている化粧品を匂った。
不思議な香りだった。
化粧品ならほぼ全ての臭いを把握しているという自負があるミキだったが、
その女が肌に塗っていたものからは、これまで嗅いだことのない香りがした。

しかもその女は顔や首筋だけではなく、全身にそれを塗っているようだった。
胸や腰や手足からも同じ香りがした。
これは・・・・・化粧品じゃないのか?
ミキは純粋に一人の女として、この女に強い興味を抱いた。
848 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:57
女は空になった丼を横に置き、もう一つの丼を手前に引き寄せた。
てんこ盛りになったもやしの山に勢いよく箸を突っ込む。
一人で二杯食べるつもりなのだろうか。

ミキはNothingの首筋をつかんでぐいと引き寄せる。
とにかく関わり合いにならない方がいい。今すぐ退散するべきだ。
ミキは目でNothingに「行くぞ」と合図した。
そしてそのまますっと体を反転させて店を出ようとしたその時―――

「なんか用?」

女が丼から顔を上げた。
すっかり伸びきった麺を箸でつまんで遊んでいる。

バカかこいつは。二杯いきなり注文するやつがあるか。
二杯食うなら一杯目を食い終わってから次のを注文しろよ。

いつもは思ったことがすぐに口に出るミキだったが、
そのときは表情にすら出さなかった。
849 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:57
「用って・・・・・それはこっちの台詞だよ」
「は? 別に用とかないけど?」
「うちの犬、勝手に連れて行かないでくれるかな」

女は二杯目のラーメンを食べることを諦めたようだ。
丼に箸を突き立てて脇にどけた。行儀の悪い女だ。

「それ、あんたの犬なの? 店の前に髪の短い女の子がいたけどさ、
 その子にその犬のこと聞いたら『うちのいぬー!』って言ってたよ」

マコのバカが。いつからNothingはあいつの犬になったんだ。
確かにNothingは組織全員で飼っているようなものだが・・・・・
この件が片付いたら、もう一発殴ってやろうとミキは思った。

「可愛い犬だね。うちのゼロもすっごい気に入ったみたいだからさ。
 一緒にラーメンでも食べない?って誘ってみたんだけど、
 その子は『店の前で待ってますからどうぞどうぞ』って言ったからさ」
850 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:57
殺気が薄まる気配がした。
ゼロと呼ばれた黒い犬は、ミキの存在など忘れてしまったかのように、
とことこと黒い女の下へ向かい、椅子の横にぺたんと座った。
体の横の毛が一部刈り取られて禿げている。
そこには「0」という記号が書かれていた。

攻守交替というわけではないのだろうが、今度はその女から強い殺気が上がってきた。
女はたった一つのアクションで椅子から立ち上がった。
肉体の動きに全く無駄がない。まるで瞬間移動したかのような動きだった。
ミキは不覚にもその体の動きを追うことができなかった。

「ジーン・アレンジング・メディシン」

女はミキの目を真っ直ぐに見て言った。
ミキは引き金を引くことはできなかった。
一直線に伸びた女の手にはフルオートマチックのハンドガンが握られていた。
銃口はピタリとミキのこめかみに向けられている。

女はただ立ち上がっただけではなかった。
たった一つのアクションで、椅子から立ち上がり、ミキの方に目を向け、
言葉を発し、そして銃を抜いていた。

ミキはその四つの動きのうち、一つしか捉えることができなかった。
851 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:57
「3年前から出回ってる変種の麻薬。神経系に作用するだけではなく、
 使用者の遺伝子にまで作用して中枢神経系に慢性的な麻痺を起こさせる。
 まさに神の摂理に逆らう悪魔の麻薬、ジーン・アレンジング・メディシン。
 略して―――G・A・M」

ミキの口がカラカラに乾く。
GAMの名の由来を知っている人間に会ったのは二人目だ。
4年前。地下組織のつてを伝って見つけた怪しい化学合成会社。
ちっぽけな製薬会社のこれまたちっぽけは下請け会社だった。
得意げに自分が開発した医療用麻薬の効能をとうとうと述べていた科学者は、
ミキ自身が拳銃でその脳髄を弾いた。工場は火をつけて燃やした。

盗んだ製造法を下にして、ミキは既存の麻薬からGAMを合成する実験を繰り返した。
合成はさほど難しくなかったが、大量生産にこぎつけるまで一ヶ月ほどかかった。
密造を始めてから数ヶ月。GAMの売上は凄まじい勢いで伸びていった。

このことは誰にも言ったことがない。アヤすらも知らないはずだ。
冗談交じりに「グレート・アヤ・ミキの略だよ」と言ったミキの言葉を真に受けて、
アヤは何も訊かずにGAMという名前を受け入れた。
いつしか薬のブランドネームは組織そのものの名前となった。

この女はそれを知っている。
アヤに対しても感じたことのないような恐怖を、ミキはこの女から感じた。
852 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:58
「知っているか?と訊いても『知っています』とは答えないんだろうね」
それはそうだ。そんなことを言うやつはこの街にはいない。
麻取に組織の情報を流せば、そこに待っているのは確実な死だ。

だからミキは理解できなかった。
ぺらぺらと重要な情報を喋り、こちらが答えられない質問をする。
この捜査のやり方は普通ではない。普通の麻薬取締官のやり方ではない。
一体何が目的なのか皆目見当がつかなかった。

「覚えておけ」
女は右足でミキの腰を蹴りつけた。
ポケットの中で握り締めていた拳銃が弾き飛ばされる。
ミキの視界の端で、白い塊が動くのが見えた。
だがそれと同時に黒い塊が押し寄せ―――
白い塊と黒い塊は荒い息を立てながら揉み合いを始めた。

動こうとしたミキの顔を、女は押し付けた銃口でぐいと強引に引き上げる。
ミキの神経に流れたのは、痛みではなく、炎のような屈辱感だった。

「お前らが、クラブ・フォースで薬を扱おうが、そんなことはどうでもいい。
 だが、GAMに関わる人間がいたなら―――あたしが全て殺す」
853 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:58
女は目でミキを制しながら拳銃を収めた。
「ゼロ! もういい。放してやんな」
黒い塊はさっと白い塊から放れた。
Nothingの顎の辺りからはポタポタと赤い滴が垂れ流れている。

「てめえ・・・・・なんのつもりだよ・・・・・」
「今日は警告だけだから」
「な・・・・・」
「命まで取ろうとは言わない」

こんな屈辱を受けたのは久しぶりだった。
これまでの人生でも、ここまでの屈辱を受けたことは数えるくらしかない。
その相手は全てブチ殺してきた。ミキは例外を作るつもりはなかった。

「お前らがフォースで薬をさばいてることはわかってんだよ」
お前ら? ということは少なくともマコかミキかのどちらかの面が割れているのか。
この街の麻取にそこまでの捜査能力があるとは思わなかった。
それにしても売人の面が割れるというのは普通のことではない。

どこかに裏切り者が出たのだろうか?
それともクラブの支配人が変わったということと関係しているのだろうか?
854 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:58
「お前らにも横のつながりはあるんだろ? だったら伝えておきな。
 GAMはあたしが必ずぶっ潰す。GAMを売りさばいているやつらは―――
 ただの一人も生かしてはおかない」

認めたくない。認めたくはないが、どうやら命拾いしたようだ。
フォースではGAMは売りさばいていない。普通の麻薬だけだ。
関東で一番有名な店で派手に売りさばけば、あっという間に知名度が上がってしまう。
GAMというとっておきの薬は、あくまでも小さなルートでしかさばいていなかった。
この女はまだそこまではつかんでいないらしい。
どうやらミキのことも、小さな組織の売人だと思っているようだ。

だがこの女はGAMのことをあまりにも知りすぎている。
生かしてはおけない。
ミキはこの黒い女の臭いをしっかりと記憶した。

女はミキの肩を馴れ馴れしくつかんだ。
吐息を吐くようにミキの耳元でふうっとつぶやく。
「じゃ、あんたが払っておいて。ラーメン代二杯分」
挑発されているとわかっていても、ミキはもうそれ以上我慢できなかった。
855 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:58
肩にかかった手を振り払うと同時に、ミキは右の拳を女の顎目掛けて放った。
逆上していたが、それで攻撃が狂うほど素人ではない。
だがミキのパンチは軽くかわされた。
続けざまにパンチを浴びせるが、ミキの攻撃は一つも当たらない。
女の防御は固かった。攻撃をかわすのが異常に速い。

動きが読まれてる?

女の反射神経は並ではなかった。それ以上に読みが鋭かった。
ミキがどんなトリッキーな攻撃を仕掛けても、攻撃とほぼ同時に対応してみせた。
まるで二人はペアを組んでダンスをしているかのようだった。
ミキが仕掛ける。女が対応する。その動きが常に同時なのだ。
練習して合わせたとしても、ここまで一致することはないだろう。

気持ちが悪かった。あまりにも同時なのだ。
ミキが女を動かしているような、女にミキが動かされているような。
なんだかミキは女と一体になって動いているような気がしてきた。

錯覚なのだろうか。
ミキの攻撃は全て女の動きによって導かれているような気すらしてきた。
まるで女が体をかわしたあとのスペースに向かって攻撃しているように感じられた。

ミキの攻撃のテンポが乱れる。
先の先の先の先を読んでいるうちに、自分がどう動くかわからなくなってきた。
自分より強い相手と殴りあったことは何度もあったが、
こんな奇妙な感覚を刷り込まれたのは初めての経験だった。
856 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:58
最後にミキはくるりと宙を舞った。
柔道か何かの技だった。ミキは綺麗に投げ飛ばされ、床に叩きつけられた。
背中から落ちたミキはうめくこともできなかった。呼吸ができないのだ。
冷静さを取り戻すまで、たっぷり一分はかかった。
一分間、ミキは無防備だった。女が殺そうと思えば、二十回は殺せただろう。

「なんで・・・・・なんでGAMなんだよ・・・・・」
息を整えながらミキは訊いた。
それだけは訊いておかなければならない。このまま手ぶらでアジトには帰れない。

GAMは確かに高級品だ。希少価値もあるし、かなりの高額で出回っている。
だが希少価値があるということは、出回っている量が少ないということだ。
知名度もまだ低い。売人の中でも知らない人間の方が多いのだ。
アヤは扱っている商品が、麻取のターゲットとならないように常に気を配っていた。
それが今までは奏功していたのだ。急に標的にされた理由がわからなかった。

そんなに難しい質問だとは思わなかった。
だがその女は初めて大きな動揺を見せた。
「別に・・・・・麻薬だから取り締まってるだけだよ」

嘘だ。行動の意図を一切見せなかった女が見せた唯一の隙だと思った。
挑発するならここからしかない。傷口をえぐるようにミキは叫ぶ。
857 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:58
「GAMなんて滅多に見たことねえよ。マイナーなドラッグなんだよ!
 麻取ってのはそんな薬を追っかけるほど暇してんのかよ!」

Nothingがペロペロとミキの頬を舐める。ミキの顔に痛みが流れる。
頬に擦り傷ができていた。舐められて初めて気づいた。

そのNothingの顎にも鋭い牙による傷跡があった。
許さねえ。女の子の顔に傷つけるなんて絶対許さねえ。
ミキは怒りと闘争本能をガソリンにして再び動き出した。

「暇じゃないよ。GAMは悪質だから追っかけてるだけ」
女はミキが持っていた拳銃を拾い上げると、弾倉を抜き取った。
空になった拳銃をミキに向けて放り投げる。

ミキは床にあぐらをかいたままで銃を受け取った。
悪質なドラッグなんていくらでもある。というか全てのドラッグがそうだ。
悪質ではないドラッグがあるならこっちが教えて欲しいくらいだ。

女の言い分が正しいとは思えなかった。
とても麻取の言うこととは思えなかった。何か変だ。何かひっかかるものがある。
ここをもう少し突けば、何かボロを出すかもしれない。
「悪質ねえ・・・・・GAMは医療用の薬って聞いたことが―――」
858 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:58
言い終わらぬうちに、ミキは胸倉を蹴っ飛ばされた。
女のつま先が錐のように鋭く胸に突き刺さる。
衝撃が胸の一番深い場所で弾け、あばらが数本折れた音がした。
先ほどのやり取りで見せた優美な体の流れとは全く違った、荒々しい攻撃だった。
受身を取ることもできないまま、ミキは床にしたたかに後頭部を打ちつけた。

「医療用って言うな」
女は床に仰向けに倒れたミキの胸を力強く踏みつけた。
折れたあばらがギリギリと嫌な音を立てる。
ミキは荒々しく呼吸しながら血を吐いた。無意識のうちに罵りの言葉も吐いていた。
「がはあっ、はぁっ! うるせえボケが! 医療用っつたらいりょ―――」

女は拳銃を引き抜くと同時に撃った。
フルオートマチックのハンドガンが火を吹いた。
ガガガガガガガガガガと雷音と共に、全弾があっという間に撃ちつくされた。
焦げ臭い火薬の臭いが流れる。ミキの顔の横には大きな窪みができていた。

「医療用って言ぅな」
女は普通の顔ではなかった。割れた般若の面ような形相をしていた。
人間の顔というものはここまで歪めることができるものなのだろうか。
「ま、やくは、まやく、だ」
醜く歪んだ口をさらに捻じ曲げ、喋りにくそうに女は言った。
859 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:59
860 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:59
ミキは店の床で転がっていた。
黒い女はとっくに店から出ていた。黒い犬と一緒に。
ここのオヤジはラーメンしか作らない男だ。
悲鳴が上がろうが銃声が上がろうが、様子を見に来たりはしないだろう。

マコのバカやろうが。

やはりこの店に入ったのは間違いだった。最悪の選択だった。
痛いのは折れたあばらではない。そんなものは唾でも付けていれば治る。
最悪なのはあの女に顔を覚えられたことだ。
あれはただの麻取ではない。間違いなくキャリアだ。
ミキはそれを確信していた。あの体の動き。常人にできる動きではない。

しかもGAMを目の敵にしていると来た。
最悪だ。最悪の三乗だ。
これではフォースでSSの動きを張るどころではない。

ミキは時計を見た。店に入ってからもう二時間がたっていた。
夜も更けてきた。フォースの客もかなり集まってきている頃だろう。
あの女はフォースに向かったのだろうか?
追跡するべきか? 逃げるべきか? 襲うべきか?

ミキの頭の中では三つの選択肢がグルグルと回っていた。
861 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:59
壁に寄りかかるようにしてミキは階段を上った。
外に出ると、日はもう暮れていて、街灯のない街は夜の闇にすっぽりと包まれていた。
その闇の向こうに懐かしい臭いが漂っていた。
ミキはその臭いのする方向に向かって、弾の入っていない拳銃を投げた。

「いってー。なんだこれ? わ! 銃だ!」
何の一人芝居だ。ミキはNothingの腰のあたりをポンポンと叩いた。
Nothingは勢いよくマコのところへと飛び掛って行った。

「おー! おかえりナッシング! ミキちゃんは?」
「あたしならここにいるよ」
「あー、そこかー。もう暗くて全然見えないよ。これからどうする?」

ミキはぜいぜいと息を吐いた。
上に上がったらとりあえずマコのボケを一発殴ってやろうと思ったが、
間抜けな声を聞いているうちに、その気もなぜか失せていった。
会話する気も起こらなかったが、これだけは訊いておかなければならない。

「あの女はどこへ言った?」
862 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:59
「ミキちゃん、怪我してるの?」
ミキの声は擦れていた。息も荒い。さすがのマコも気が付いた。

「こんなん、怪我のうちに入らねーよ」
まんざら強がりというわけでもなかった。
肋骨が折れたからといって、治療するようなことはほとんどない。
ギブスで固定できる場所ではないのだ。治したければベッドで大人しくしているしかない。

「マコ、あの女、何者だよ。知ってること全部話せよ」
「え? あの人はマキっていうらしいよ。名前くらいしか知らない・・・・・・」
「お前さっき有名って言っただろ」
「うん。凄腕だっていうのは有名。麻取って普段は一人で動いてるけどさ、
 ガサ入れとか逮捕とかそういうのは集団でやるじゃん。でもあの人は違うらしい。
 でっかい組織を潰すときも一人で動くって聞いた。あの黒い犬と組んで一人で動くって」

確かにあれだけの戦闘能力があれば一人でも動けるだろう。
集団で動くようなタイプの人間にも見えなかった。
ならばまだGAMの情報も、あの女一人で留まっているかもしれない。
殺るなら―――早い方がいいだろう。
863 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:59
「マコ。お前は一旦帰れ。アヤのところに戻るんだ」
「ミキちゃんはどうするの?」
「あたしはもう一度フォースに戻る」

ミキは店内で起こった一部始終をマコに伝えた。
フォースであったこと。そしてラーメン屋であったこと。全て伝えた。
「げ。かなりヤバイ状況じゃん。ミキちゃんも一旦戻った方が・・・・・」
「そんな暇はない。いいか。あたしが言ったことを全部アヤに伝えるんだ。
 アヤならわかってくれる。そしてどうすればいいかも教えてくれる。
 あとはアヤの指示に従って動けばいい。わかったか?」
「うん」

アヤは四方に広がる闇に向かって鼻をひくつかせた。
あの女の臭いはもうしない。
黒い犬―――たしかゼロと言った―――の臭いもしなかった。
だが相手が麻取である以上、油断はできない。

「いいかマコ。尾行には気をつけろ。後を付けられたら終わりだ。
 ちょっとでも怪しいと感じたら、絶対にGAMの本部には近づくな」
「うん」

マコはそれ以上何も言わなかった。
浮浪者をしているマコは、尾行の仕事につくことも多かった。
尾行を巻くことには慣れている。注意していればまず大丈夫だろう。
864 名前:【発症】 投稿日:2009/07/16(木) 23:59
「お前の方はどうだよ。何か分かったことあったか?」
「フォースのオーナーが替わったってことはかなり噂になってる。
 それ以来、フォースの客質も微妙に変わってるみたいだね・・・・・
 新しいオーナーを見たっていう人は一人も見つけられなかったよ。
 例の男はオーナーが替わってから出入りするようになったみたい。
 何人かの話から、男がフォースに出入りしていたことを確認できたよ」
「よし。それもまとめてアヤに伝えてくれ」
「ナッシングは?」
「フォースには犬は入れない。お前が連れて帰れ」
「わかった」
「その銃よこせ。弾倉のストックもあるだけ出せ」
「うん」

答えるや否や、マコはすぐにリュックから予備の弾倉を取り出した。
全部ミキに渡して一つ頷くと、Nothingを連れて歩き出した。
普段はトロイところもあるが、命令を受けたときのマコは行動が速い。

闇に消えていくマコの背中を見送り、ミキは弾倉を拳銃に押し込んだ。
あの女―――マキはフォースに来ているだろうか。
再び会うことはあるだろうか。

もし会うことがあれば、今度は好きにはさせない。
あのときあたしを殺さなかったことを―――後悔させてやろう。
ミキは固く決心すると、フォースに向かって足を踏み出した。
865 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/16(木) 23:59
866 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/16(木) 23:59
867 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/16(木) 23:59
868 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:09
暗がりにぼうっと幽霊のように浮き上がるビルがある。
電力の供給が極端に制限されているこの関東で、
午前零時を過ぎても照明を使っているのは、自家発電できる財力を持つ巨大組織だけだ。
光は力。悪しき力。好き好んで真夜中の光に吸い込まれていく人間は少ない。

ミキは痛む体を押さえながら一歩一歩進む。歩みは遅いが迷いはなかった。
誘蛾灯のようにパチパチと火花を散らしている光の中へミキは吸い込まれていった。

ビルの20階から24階にクラブ・フォースが入っていた。
ミキは一階からエレベーターに乗り込み、フォースのフロアを目指す。
エレベーターは不快な揺らぎを全く感じさせることなく上昇した。
箱の中に詰まっていた人間達が20階のフロアに吐き出される。
そこには雑多な人間と華やかな喧騒が満ち溢れていた。

「なるほど・・・・・ね」
ミキは痛む胸を押さえながら、20階のフロアに足を踏み入れる。
客の数は相変わらず多い。ナカザワが支配人をしていたときと遜色ないだろう。
怪しげな人間がうろうろしているところも同じだ。
パッと見た感じでは店の雰囲気が変わったようには見えないかもしれない。

だがこういった店を見慣れたミキの目には、以前と違う店のように見えた。
869 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:10
まず、顔見知りの売人の姿が全く見えない。
「お前らがフォースで薬をさばいてることはわかってんだよ」
確かマキはそんなことを言っていた。既に店に手を入れているのだろうか。
それにしても一人もいないというのはおかしい。
麻取の恫喝などにびびっていては麻薬の売人は務まらない。

さらに店内では下品な半端者が幅を利かせていた。
ヤクザの中でも下っ端の下っ端だ。高級クラブに似合う顔ではない。
ミキは20階から21階に上がり、今度は21階のフロアをぐるりと見渡す。
ここも20階と同じだ。どうも下種な連中が大きな顔をしているように見える。

連中は馴れ馴れしく店の人間と言葉を交わしている。
ここが自分達の決まりの店だとでもアピールしたいのだろうか。
まさに我が物顔でフロアを占領している。全ての振る舞いが下品に映った。

そこでミキは気が付いた。
ナカザワがオーナーだった頃は、確か二人の用心棒がいたはずだ。
見た目は小学生のようなちびっ子二人組みだったが、
なかなか隙のない動きでフロア中に目を光らせていた。
その二人がいない。
オーナーと一緒に用心棒も替わってしまったのだろうか。

それがこのクラブの弛緩した空気と関係しているのかもしれない。
とにかくミキは情報を集めることにした。
870 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:10
店員の口は堅かった。さすがに店の内情を喋るようなことはしない。
ミキは脅したり媚びたりと、使いうる全ての駆け引きを駆使して
店員に揺さぶりをかけたが、ナカザワの話を引き出すことはできなかった。

ミキはターゲットを変えた。
店を我が物顔で歩き回っている下種なヤクザに話しかける。
男はミキの美貌に一発で参ったようだった。
ミキの関心を買おうとして必死で話しかけてくる。手玉に取るのは容易だった。

「ほう。ミキはナカザワに世話になっていたのか」
ヤクザ男はミキに対しても馴れ馴れしい。口の利き方も鷹揚でだらしない。
大物ぶろうとしているのだろうが、その口ぶりに風格が追いついていない。
ミキはともかく、ナカザワを呼び捨てにできるような格には見えなかった。

「これはここだけの話なんだけどよう」
男はミキの耳元に唇を寄せる。わざとらしい仕草だ。色気の欠片もなかった。
それでもミキは、体を男の胸にもたれかけた。
「聞かせて。ここだけの話って大好き」

媚びることに嫌悪感は感じない。一つのルーティンワークだ。
この世界で生きていれば、こんな媚態は息を吸うように簡単にできるようになる。
871 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:10
「ナカザワってのは殺されたんだよ。しかも身内にな。
 ここには有名なボディガードが二人いただろ? 
 その一人のツジってのが組織を裏切ってナカザワを殺っちまったらしい」

なるほど。店員の口が妙に堅かった理由がわかった。
身内の諍いとあれば、店内でペラペラと喋るわけにはいかないだろう。

「そのツジってのはヨシザワに始末されたらしいがな。ヨシザワは知ってるか?」
ミキは無垢な表情を作って頷く。ヨシザワはここのトップファイターだ。
知らない振りをする必要はないだろう。

「それでこの店に出資してた組織からマリィって女が来たらしい。
 今じゃこの店を仕切ってるのはそのマリィってヤツなわけだ。
 もっともそのマリィってのはどうも名前だけのオーナーらしくて―――」

男はグラスを片手に、回転よく喋っていく。
喋っているうちに自分の話の方に夢中になっていくタイプだ。
ミキの反応にもあまり注意を向けていない。
派手な見てくれほどは、女を口説き慣れていない人間なのだろう。

「もう一人のボディガードだったカゴってやつが、
 今のフォースの実質的な支配人だっていう話だぜ」
872 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:10
ナカザワ。ツジ。ヨシザワ。カゴ。そしてマリィ。
フォースの人間関係がうっすらと描けるようになってきた。
その中の誰に接触するべきか。ヨシザワの姿を探してみようか。
今日はファイトが行なわれる日ではないが、会うことくらいはできるかもしれない。
ミキはさらに言い寄る男を軽くあしらい、さらに上のフロアへと足を向けた。

ヤクザ男はしつこかった。

どうも今この瞬間にミキを口説き落とさないと気が済まないようだ。
爛々と輝く目は、完全にミキのことを獲物として見ていた。
自信過剰な目だった。勢いだけでこの世界を駆け上がってきた口か。
男は、自分が獲物として見られていることもありうるのだということを、
全く想定していないに違いない。

ミキはそれとなくフロアにいる従業員の反応を窺う。
店員達はものの見事に見て見ぬ振りをしていた。
新しいボディーガードらしき男にいたっては、ヤクザ男に向かってウインクして見せた。
「よろしくやっちゃってください」ということらしい。

あっそう。店員の反応を見てミキのスイッチが切り替わった。
どうやらこの店のグレードダウンがはっきりとしたようだ。
「よろしくやっちゃっていい」店ならば遠慮はしない。
ミキは「しょうがないなあ」という顔を作って、人気の少ない階段の踊り場に誘った。
案の定、単細胞のヤクザ男は、いきり立ってミキに付いて来た。
873 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:10
男に考える時間は与えなかった。
これから叩きのめす相手に、交わす言葉もないだろう。
ミキは振り向きざまに手刀を男の首筋に叩きつける。
鈍い音がして小指が痺れた。この手応え。この瞬間のためにあたしは生きている。

最初から決めていた。胸を蹴る。あばらを折る。あいつがあたしにしたように。
膝をついた男の胸を、ミキは思いっ切り蹴った。
靴先が男の胸に突き刺さり、あばらを何本か折った手応えを確かに感じた。

男は一発で戦意を喪失していたが、それでも何度も何度も男の胸を蹴った。
ミキは「ふるごお」と言葉にならない鼻息を吐きながら、狂ったように蹴り続けた。
蹴るたびに猛っていく獣性を抑えることができなかった。
普段は心の中に鎖につないでいる「何か」を解き放つことは大きな快感だった。

ミキはマキのことを思い出していた。胸の傷がキリキリと痛んだ。
たとえヤクザ男の肋骨を何本へし折ったとしても、この痛みが消えることはないだろう。
ミキはようやく攻撃を止めた。息が乱れている。この程度のことで。
虚しかった。喧嘩の仕方も知らないチンピラ相手にむきになっている自分が虚しかった。

今ここで、あの黒い髪をした麻薬取締官に会いたいと、心の底からそう思った。
874 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:10
875 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:10
ヨシザワに会うことはできなかったが、カゴに会うことはできた。
ミキはフォースに出入りする麻薬組織の売人という立場で、カゴに挨拶することにした。
カゴは店の用心棒をしていたときとは違う、質の高い服を着ていた。
背伸びしたコーディネートが微妙に似合っていない。ミキは苦笑した。

やはりというか、カゴはミキのことを覚えていた。

「お前とアヤは見た目が派手やったからな。店中のみんなが覚えてるわ」
それは言いすぎだと思うが、やはり自分達はマークされていたのだろう。
「店に売人の姿が見えないんですけど。なんかルールが変わったんでしょうか」
ミキは支配人が替わったことを言外に含ませて言った。

「ああ、それな。ちょっと前に麻取に店を突かれてんな。それで変えたんや。
 丁度ええ機会や。ちょっと今から新しい売買のやり方について説明するわ」

カゴはだらだらと説明を始めた。なんともくだらない話だった。
ミキはその説明を右から左へと聞き流していた。
たった一度麻取に食いつかれたくらいで、なぜシステムを変える必要があるのだろう?
そんなもの、数週間くらいじっと息を潜めていれば、ほとぼりが冷める。
麻取だって暇じゃないし、仕事のノルマというものがある。
放っておけば、そのうち違う仕事の方へと移っていくものだ。

そんなことは麻薬ビジネスをやっている人間にとっては常識中の常識だった。
876 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:11
ミキは説明を続けるカゴの様子をじっと見ていた。
小さい。体だけではなく人間としての器が小さいと感じた。
以前のオーナーだったナカザワとは比べるべくもない。
とても巨大組織のトップが務まるような器量だとは思えなかった。

この店も長くないな。

これまでもミキは、隆盛を極めた店が没落していく様を何度も見てきた。
そういった店は、どれだけ外見を整えていても、誤魔化しきれない綻びが見えるものだ。
店員の質が落ちる。客の質が落ちる。そして死肉に群がるハイエナのように、
訳のわからない怪しげな人間が、既存の利権に群がってくる。
クラブ・フォースも見事にそれらの前例に倣っているように見えた。

フォースにとってのハイエナが、マリィって女になるわけか。

今のフォースの最重要人物はカゴでもヨシザワでもない。マリィという女だ。
一向に終わる気配のない説明をぐだぐだと続けるカゴをよそに、
ミキは頭の中でアヤに報告する内容を整理していた。
877 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:11
878 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:11
「かなり情報が集まってきたようだね。ここらで一旦、整理しておこうよ」
アヤはガラガラと音を立てながらキャスター付きのホワイトボードを引っ張ってきた。
黒のマジックで「最終目的・ウイルスの入手」と書く。
さらにその下に「当面の目的・テラダおよびSSの所在確認」と付け加えた。

部屋にはミキとコンノとカオリがいた。アヤが認める、際立った能力を持った三人だ。
このメンバーが現時点でのGAMの幹部級と言えるだろう。
アヤからマジックを受け取ったカオリが、ホワイトボードに八人の名前を書いた。

ナカザワ・ユウコ
イシグロ・アヤ
イイダ・カオリ
アベ・ナツミ
ヤスダ・ケイ
ヤグチ・マリ
イチイ・サヤカ
ゴトウ・マキ

カオリから説明が加えられる。
この八人が、あの施設でウイルスを投与されたメンバーなのだという。
他にも四人の追加メンバーがいたらしいが、その四人に投与する前に
例の事故が起こったので、その四人にはウイルスは投与されていないらしい。
四人の追加メンバーの名前は、今のところ不明。当然ながら所在も不明。

「あたしは、現時点ではこの八人の名前が一番重要な情報だと思う」
アヤの意見に、他の三人も異議はなかった。
879 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:11
次にコンノが報告を始めた。
「例の事故の後も、この八人の名前は一切公表されていません。
 被験者の人数が八人だったということは公表されていますが、
 当時の報道では、事故で全員死亡したという政府発表が出されていました。
 もっとも―――それが虚偽の報道だったということは言うまでもありません」

コンノはチラリとカオリの方に目を向ける。
確かに政府は真実を隠匿している。
カオリが今ここで生きていることが、なによりの証だ。

「それ以上のことはわかりません。政府のデータにアクセスするのは不可能でした。
 そこで次は製薬会社の方を探りました。データは全て三年前に消去されています。
 ただし、ここからある場所にデータが転送されている形跡が残っていました。
 ある場所―――大学病院です。あの事故で出た負傷者の治療に当たった病院です。
 大学病院から製薬会社へデータを転送していた形跡も発見することができました」

確認するようにカオリが言った。
「つまり、あたしの他にも生存者がいて、その病院で治療を受けたってわけね」
880 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:11
「その通りです。そして大学病院というのは色々な人間が出入りする場所です。
 製薬会社のように企業人だけが出入りする場所ではありません。
 医療関係者だけではなく、大学職員、業者、学生や留学生などの研究員も出入りします。
 医師や看護士にしても雇用体系は一様ではありません。研修生もたくさんいますし、
 アルバイトやパートタイマーも少なくないのです。人の入れ替わりが激しいんです。
 データの管理が徹底されていない部分もあります。そこから一つのデータを拾いました」

コンノはプリントアウトした白い紙を一枚、テーブルの上に広げた。
四つの頭がテーブルの上に集まる。
その紙には見慣れないフォントで九行の文字が記されていた。

「T氏、行方不明」
「1番、行方不明」
「2番、死亡確認」
「3番、行方不明」
「4番、行方不明」
「5番、死亡確認」
「6番、行方不明」
「7番、死亡確認」
「8番、生存確認」

これだけでは何のことだか全くわからない。
もしここにカオリがいなかったら、おそらく何の手がかかりにもならなかっただろう。
だがここにはカオリがいる。数少ない、あの施設の生き残りがいる。

三人は言葉を促すようにカオリの方を見つめる。
カオリは深く頷いた。
881 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:11
「T氏っていうのはテラダのことかもしれない。施設長をしていたテラダ」
その話は既に聞いていた。アヤとミキもテラダとは面識がある。
アヤとミキの数多い取引相手の中でも、なかなか印象に残る男だった。
下手なヤクザよりも、一癖も二癖もありそうな男だった。

与えられた仕事を逸脱し、常識では考えられない実験をしていたテラダ。
事故があったときに施設からウイルスを持ち出して逃走したというテラダ。
国や施設の関係者がテラダを追っていることは間違いないだろう。

「1番から8番っていうのは被験者につけられていた番号で間違いないね。
 あたしらは施設の人間からは番号で呼ばれていたから。あたしは3番だった」
カオリは紙を持って立ち上がり、ホワイトボードに新しい文字を書き加えた。

1番 ナカザワ・ユウコ  行方不明
2番 イシグロ・アヤ    死亡確認
3番 イイダ・カオリ     行方不明
4番 アベ・ナツミ     行方不明
5番 ヤスダ・ケイ       死亡確認
6番 ヤグチ・マリ      行方不明
7番 イチイ・サヤカ    死亡確認
8番 ゴトウ・マキ      生存確認

ホワイトボードの一覧を見ながらコンノが言う。
「これが三年前の事故直後に、施設側が把握していた情報と考えていいと思います」
882 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:12
「施設のことに関してわかったことはこれくらいかな・・・・・・」
アヤの言葉にコンノとカオリが頷く。
現時点でわかったことはこれくらいだ。
八人の被験者に共通するという「ある資質」に関してはまだ不明だった。

次はミキが喋る番だった。
「その1番のナカザワってのがおそらくフォースの前のオーナーだね。
 アヤちゃんも一回会ったから覚えてると思う。年齢的にも一致する」
被験者の八人のおおよその年齢はカオリが知っていた。
会ったことはないが、部屋の壁越しに色々話して知っていたのだという。

コンノが意地悪な質問をした。
「ただの同姓っていう可能性はないですか?」
ミキはその質問には直接答えなかった。
「で、今のフォースのオーナーがマリィっていう名前らしい。
 もしかしたら6番のマリっていうのが、そいつなのかもしれない」

コンノは同じように意地悪な質問をした。
「ただの同名っていう可能性はないですか?」
ミキが面倒臭そうに答えた。
「またその質問? 可能性可能性って、コンちゃんってさあ、いつもそればっかりだね。
 可能性っていうならどんな可能性でもあるよ。カオリが嘘をついていてこの八人の名前が
 全部デタラメだっていう可能性だってあるし、可能性だけでいえば明日になったら突然
 この街からウイルスが綺麗さっぱり消えていて、東京は復興し、マコは総理大臣になって
 コンちゃんがハリウッドスターと結婚している可能性だって―――ゼロじゃねーだろ?」

コンノは真顔で答えた。
「ゼロではないです」
883 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:12
コンノは単なる意地悪でそういったことを言っているのではなかった。
組織には必ずブレーキ役となる人間が必要だ。
重箱の隅を突くようにして、あらゆる可能性を考慮することが、
この組織におけるコンノの役割だった。

だがそんなコンノの質問よりも、アヤの質問の方が数倍意地が悪かった。
「で、例のラーメン屋でミキたんをボッコボコにした麻取の名前は―――マキだっけ?」

ミキはむすっとした顔をして何も答えなかった。
どうせマコの方から報告が行っているのだ。わざわざ恥の上塗りをすることはない。
アヤもそれ以上ミキをからかうことはしなかった。
「それに関してはマコから報告をもらった」
会議で最後に報告を始めるのはアヤの特権だった。
それはすなわち、アヤが話し出せば、他の人間からの報告は終了したことを意味する。

「そのマキっていう麻取に関してはこっちで情報を集めている。
 まだ集め始めたところだから何とも言えない―――と言いたいところだけど・・・」

アヤはそこで言葉を切った。
情報を集めることに関しては誰よりも抜きん出た能力を持っているアヤだ。
既にかなりの情報をつかんだのかもしれない。

「このマキって麻取。普通じゃない」
884 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:12
「まずキャリアっていうことは間違いないだろう。複数の情報があった。
 具体的な能力は一切不明。だけどただのキャリアじゃない。
 どうやら国の機関で専門的な訓練を受けているらしいんだ。
 それも、麻取としての訓練というより、軍事的な訓練に近いものを。
 実際、マキに半殺しにされた元軍人ってのから話を聞いたんだけどさ。
 素手の戦いにおいても特殊工作員レベルの戦闘能力があったらしい。
 もしかしたらこの女が追っているものは―――ただの麻薬じゃないかもしれない」

そこでアヤはミキの方に顔を向けた。喋れということらしい。
ミキも既に冷静さを取り戻している。
恥を晒すということと、情報を提示するということは、また別次元の話だ。

「確かにあいつは、ただキャリアの能力を振り回すだけっていうタイプじゃなかった。
 実際、あたしの攻撃はあいつには全く当たらなかった。かすりもしなかったよ。
 あいつの攻撃を防ぐこともできなかった。
 それどころか、あいつの体さばきについていくのすら難しかったよ」

ミキは唇を閉じた。言おうか、言うまいか少し迷った。
予断を与えるようなことは言いたくない。
だがアヤは情報を受け取ったからといって、それを鵜呑みにすることはないだろう。

「何より悔しかったのはね、あいつが何をしていたのか全くわからなかったことなんだ」
アヤはその言葉に食いついた。
「ん? どういうこと? キャリアとしての能力って話?」
「うん」
885 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:12
「マキはおそらく、戦うときにキャリアとしての能力を隠してなかったと思う。
 少ししか話さなかったんだけどさ、何かあたしの言葉はあいつを怒らせたらしい。
 あいつ、本気で怒ってたよ。顔が歪んでた。クールに見えるけどクールじゃない。
 軍人タイプじゃないんだ。すぐに駄々をこねる子供みたいな性格かもしれない。
 あのときも本気で怒って、本気で襲い掛かってきやがった。多分、能力全開でね。
 でもあたしはそれが一体どういう能力なのか、さっぱりわかんなかったんだよ」

上手く説明できた自信はない。だがアヤにはこれくらいの情報でも十分だろう。
「本気で怒らせた?」
「うん。あの麻取、GAMを目の敵にしてたね。薬に恨みでもあるんじゃないの」
「ふふん。恨みねえ。恨みなら山ほど買ってるからねえ」
「まったくだよ。思い当たることがありすぎてわかんねえ」

アヤはきらきらと目を光らせる。
あれだけの戦闘能力を持つミキに何もさせずに叩きのめしてみせたという麻取。
国から軍事訓練を受けているという噂の、謎のキャリア。
興味を覚えずにはいられなかった。
「そのマキって子が8番のゴトウマキってことは考えられるねえ」

コンノが真顔で答えた。
「可能性はゼロじゃないと思います」

我慢できなくなったミキは、コンノの脇腹の肉を思いっ切りつねった。
886 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:12
「欲しい情報がいくつかある」
アヤは今後の方針を固めていくことにした。
情報収集の初期に、有益な情報がいくつも集まってくることは、よくあることだ。
だがそのペースは必ず一回落ちる。情報が全く入ってこない時期がやってくる。
そこで方針を誤れば解決策を見出すことは困難になる。
つかんだ情報がホットなうちに、新しい方針を打ち出しておくことが重要なのだ。

「あの裏切り者の男がフォースに出入りしていたことはマコが確認した。
 SSとフォースに何らかのつながりがあることは間違いない。
 そのつながりは―――ナカザワが死んでマリィがやってきてからだ。
 このマリィという女を徹底的に調べる必要がある。でもね、ミキ」 
「なに?」
「マリィって女を調べるのは簡単なことじゃないと思う」

相変わらずアヤは鋭い。実はミキも同じことを感じていた。
あの後も店でマリィに会うことはできなかった。
カゴに問いかけてみても、色よい感触は得られなかった。
どうもマリィは、もう店にはほとんど顔を出していないらしい。

既にマリィは警戒態勢に入っている―――それが現場でミキが得た感触だった。

マリィがSSのメンバーであるとすれば、
足取りをつかまれるようなヘマは絶対にしないだろう。
逆に言えば、簡単に足取りをつかめるようであれば、その線は薄いということだ。
887 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:12
「そのカゴってのを張ろう。ナカザワが裏切られたっていうタイミングが気になる。
 どうもその時期にフォースは資金面で窮境に陥っていたみたいなんだ。
 そこでナカザワが殺された。直後にマリィがやってきた。タイミングが良すぎる」

つまり―――カゴがその件にからんでいた可能性があるということか。
今のところフォースでマリィとつながりがありそうなのはカゴだけだ。
ここを突破口にするのは悪い判断ではないだろう。

それとツジがなぜナカザワを裏切ったのかも気になる。
その資金面の問題とやらに、何か関係があるのかもしれない。
ヨシザワとカゴの関係や、当時のヨシザワとツジの関係もまだよく見えない。
マリィの線が薄くても、他に調べたいことはいくらでもあった。
調べることがたくさんあるのは悪いことではないが、一人ではちょっとしんどいか。

「わかった。カゴを張るよ。でもフォースの中ではマコとNothingは使えない」
「LLをつけてやる。今は人が足りない。二人でなんとかして」
「了解」

LLはああ見えてかなり腕が立つ。殺しの技術も高い。頭も悪くない。
フォースの中には中国系のマフィアもうろついているし、いくらでも使い道はあるだろう。
少なくともマコと仕事するよりは楽ができそうな気がした。
888 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:13
「コンちゃん」
「はい」
「コンちゃんには政府のデータベースにアクセスしてほしい」

げ。
コンノは唇をひん曲げて絶句した。

一応、今回の情報を集めるときにも、政府のデータベースにアクセスはしてみた。
だがそれは形だけのことだ。本気であそこに不正アクセスできるとは思っていない。
文字通りあそこは「国の威信をかけて」データにプロテクトがかけられている。
不正アクセスの手腕に関しては世界でも五本の指に入る自信があったコンノだが、
あそこだけは侵入できる気がしなかった。

だがコンノは―――彼女の性格上「絶対無理です」と言うことはできなかった。

勿論、アヤはそんなコンノの性格を見抜いていた。
「アクセスできる可能性は―――ゼロじゃないよね?」
889 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:13
コンノは諦めた。アヤの押しの強さは普通ではない。
いつも議論では負けないのだが、終わってみればなぜかアヤの要求が通っている。
それにアヤは他人に対して過剰に期待することはない。
できないことをやれと言うような、非効率的なことは言わない人間なのだ。
そんなアヤに「やれ」と言われると―――なんだかコンノにもできるような気がしてきた。

「ゼロじゃないです」
「よし。集めて欲しいのは被験者のデータ。それに施設のデータ。
 そして試験のデータ。被験者の資質。事故の損害状況。事故後の対応。
 それに―――テラダの経歴。カメイってやつの経歴。ウイルスの出所。
 試験をしていた製薬会社の沿革。施設設立の背景。国と製薬会社の関係。
 あと、テラダをあの施設に送り込んだ人間が誰なのかも突き止めて欲しい」

アヤの指示は細かかった。言われたことを書き留めることは許されない。
コンノはアヤの指示をしっかりと脳裏に刻み込んだ。

「それと―――この生存者のゴトウマキっていうのがどうなったかも」
それでようやくコンノに対するアヤの長い指示が終わった。
つまり「この事故に関する全て」を調べろということらしい。
890 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:13
コンノに対する指示に比べると、カオリに対する指示はずっと短かった。
短くて、シンプルで、わかりやすかったが、
ある意味、政府のデータベースに不正アクセスするよりも難しい指示だった。

「カオリはこのアベナツミっていうのを探して欲しい」

アベナツミ。
死亡したと記録されたメンバーを除けば、唯一ここに出てこなかった名前だ。
記録には行方不明とだけある。手がかりは名前だけ。
それだけを頼りに、この関東で一人の人間を見つけ出すのは不可能に思えた。
だが当のカオリはそんなことには全く頓着していないようだった。
「わかった。探してみるよ」

おいおいマジかよと思いながら二人のやりとりを見ていたミキだったが、
なるほどこの仕事ができるのはカオリしかいないかもしれないと思った。

きっとカオリには、コンノのように多くの指示を与えてもダメなのだ。
それよりも一つ、とびきり深い指示を与えるのがいいのかもしれない。
きっとカオリは、ただそれだけに没頭して徹底的にやり切るに違いない。

アヤもそれ以上、何も指示を付け加えなかった。
891 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:13
「じゃあ、これで会議は終わりね」

アヤがポーンと両手を打った。
これで解散となったわけだが、コンノにはどうしても一つ知りたいことがあった。
ミキやカオリが訊くことはないだろう。
この質問をするのは自分の仕事だと思った。

「それで、マツウラさんはどうするんですか?」

彼女は指示だけ与えて椅子でふんぞり返っているタイプではない。
いつも陰で一人で動いているのだ―――もしかしたら誰よりも激しく。
それが趣味と実益を兼ねた、アヤの娯楽の一つでもある。
ミキやカオリは気付いていないかもしれないが、コンノは密かに気付いていた。

今回のタスクは過去のどれに比べても重要で重大な仕事だ。
アヤ本人も必ず動くに違いない。

日々の業務はマコやJJが中心になってやれば問題はないだろう。
だがSSの調査に関して、必要な仕事は全て割り振られたような気がする。
コンノにはアヤの行動が予測できなかった。
892 名前:【発症】 投稿日:2009/07/20(月) 23:13
「そうねー。適当に時間を見つけて、挨拶に行ってくるよ」
「挨拶? フォースの新しいオーナーにですか?」
「いやいやいや」

アヤは椅子から立ち上がってミキの背後に回った。
すっと後ろから抱きつき、両手をミキの体にからめる。

「うちの可愛いメンバーに、ご丁寧な挨拶をしてもらったんだからさ」

つんつんとミキの胸を突く。ミキは痛みに顔をしかめた。
折れた肋骨は簡単には治らない。
少なくとも一ヶ月ほどの間はフルパワーで戦うのは無理だろう。
そんなミキの頭を優しく撫でると、アヤはにゃははと陽気に笑った。

「こっちもちゃんと挨拶を返してこなくちゃね」
893 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/20(月) 23:14
894 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/20(月) 23:14
895 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/20(月) 23:14
896 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:32
次の日からミキとLLはフォースのカゴを追い始めた。
コンノはパソコンの前に張り付き、カオリはアベナツミの消息を追って街に出た。

SSに対する調査が本格化していったが、それとは別に、
通常の業務も消化しなければ、GAMという麻薬密売組織は回っていかない。
そんなわけで、マコはアヤからの指令を受けて、
JJと一緒にいつもの麻取との取り引きに向かうことになった。

「なんや、マコ。また新顔連れてきたんかいな」
「うん。最近みんな忙しいみたいでね」
マコはタカハシにJJのことを紹介した。
中国人のJJがカタコトの日本語で挨拶すると、なぜかタカハシは爆笑した。

「あはははは。なにその子。もしかしてその子がGAMの頭とか?」
タカハシとしては面白い冗談のつもりで言ったらしい。
だがGAMの頭か?とからかわれたJJは、ご満悦の表情で切り替えした。
「そうでーす。タブンあと一年もしらあたしがGAMのヘッドねー」

ギャハハハハ、とひっくり返りそうなくらい胸を反らしてタカハシが笑った。
JJも一緒になって、「うは。うははははは!」と笑う。
マコはタカハシと話が合いそうな人間を初めて見た気がした。
897 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:32
GAMのリーダーが誰であるかは教えていない。
リーダーの名前は非合法組織においてはトップシークレット中のトップシークレットに属する。
取引を始めた当初は、タカハシも何度か質問してきたが、
マコが絶対答えないと知ってからは訊くことはなくなった。
こうやってたまに冗談に使うくらいだ。

だがJJはそういったところで細かい気を遣える人間ではない。
今にも「マツウラさんが―――」とか、「フジモトさんが―――」とか
言い出しはしないかと、マコはハラハラしながらタカハシとJJの会話を聞いていた。

「オッケー。では取り引き始めまショウ」
JJはマコが思っているよりもずっとしっかりとした女だった。
初対面のタカハシに対しても、気後れすることなくビジネスをこなしていく。

JJはタカハシが麻取であることは知らない。
麻取と直接取引しているということは組織の中でもトップしか知らない情報だった。
その中でもタカハシの顔と名前を知っているのは直接取引を行なうマコとコンノだけだ。
アヤやミキであってもタカハシの顔は知らなかった。
898 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:32
こちらがトップの名前を教えないように、向こうも向こうで色々と保険をかけていた。
しばしば担当者を変えて、麻薬の保管所を相手に悟られないように注意を払っていた。
タカハシは三人目の担当者になる。

こちらがタカハシを殺すなどの反抗的な動きを見せれば、
前任者の二人の麻取が中心になって、GAMを潰しにかかるという無言のブラフだ。
GAMとタカハシ。お互いがお互いに相手の裏切りを想定して保険をかけていた。

タカハシはJJに対してかなりフランクに接した。
コンノの時のように麻取の肩書きをちらつかせることはしなかった。
威張るのが好きなタカハシにしては珍しいことだった。
あれはあくまでも気に入らない相手を黙らせるための行為のようだ。
つまり―――JJのことはそれなりに気に入ったらしい。

JJは時にタカハシにもたれかかりながら自然な会話を続けている。変な女だ。
尊大な振る舞いをすることが多いのだが、なぜかそこに愛嬌がある。
高飛車のように見えるのだが、妙に子分気質なところがある女だった。
899 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:32
タカハシはJJのそういったところに、いたく保護欲をそそられたらしい。
まるで母親のような態度でJJに接していた。

あたしは実は麻薬取締官でねえ、などとのんびりと話しかける。
JJは丸い目をより一層丸くしてタカハシの顔を見た。
そして共犯者同士が秘密を共有するときのような含みある笑顔を見せる。
そんな幼稚なリアクションも、タカハシの望むものとピッタリと一致していた。
困ったことがあったらいつでも電話してきなと言ってタカハシは名刺を渡す。
JJは恭しく名刺を受取り、胸のポケットに入れた。

「ええ子やん。これからずっとこの子が担当になるん?」
「うーん。わかんない。今はちょっとイレギュラーな体制だし・・・・・」
「イレギュラー? 何か新しいこと始めてるん?」

麻薬を流している人間は皆、多かれ少なかれ金の臭いに敏感だ。
少しでも隙を見せれば、ぐいぐいと利権に食い込んでくる。
普通ならタカハシには絶対に話さない種類の話なのだが、今回は違った。
このタカハシからもSSの情報を集めてくるようにアヤに指示されている。

マコはGAMがSSを追っていることを素直に話した。
900 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:33
タカハシの反応は鋭かった。
ギラギラと脂ぎった視線をマコに向ける。
上玉のカモをどうやって料理しようかと思案しているようにも見えた。

「うは。マジで夢の薬を追いかけてるってわけ?」
「うん。そのためにもウイルスを持ってるらしいSSの情報がほしいんだ」
マコは細かい駆け引きは苦手だったので、単刀直入に言った。
こうやって駆け引き抜きで「情報がほしい」と懇願されるとちょっと困る。
苦笑しながらタカハシはタバコを取り出し、ゆっくりと火をつけた。
ニヤニヤと笑いながらプハーと盛大に煙を吐き出す。

「ごめんアイちゃん。これ、少ないけど」
沈黙に耐えかねたマコは、分厚い封筒をタカハシに渡した。
タカハシは封筒を受け取ると、無造作に包みを開けて枚数を数える。
そして口の端にくわえたタバコを落とさないようにしながら言った。

「教えてもいいけどさ、もう一個条件がある」
「なに?」
「もしそっちでウイルス抗体が作れたらさ、うちでさばかせてよ」

マコはこくりと頷いた。予想の範囲内の条件だった。
901 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:33
指令を受けたとき、マコはアヤからこうも言われていた。
「情報を金で買えれば一番いいけど、向こうは金は受け取らないんじゃないかな。
 その代わりにウイルス抗体をさばかせてほしいって要求してくるかもしれない。
 その条件なら飲んでもいい。どうせどこかにさばいてもらわなきゃいけないんだし」

アヤの言う通りの展開だった。
もっとも金の方もしっかりと受け取られてしまったが。

「SSのことについてはねえ。怪しい噂ならいくらでもあるんだけど、
 いざ詳細ということになると、麻取の間でも知ってるやつは誰もおらんのよ」
くわえたタバコをポトリと落とし、タカハシは踵で踏みにじって火を消した。
回りくどい言い方を好むタカハシのやり方を知っているマコは黙って聞いていたが、
そんなことなど露も知らないJJがタカハシに噛み付いた。

「ひっどーい。知らないんならタカハシさん、お金返してくださいヨ!」
JJはタカハシの言葉を真に受けて、かなりイライラした様子を見せた。
それは模範解答と言ってもいいくらい、タカハシが望んでいた通りのリアクションだった。

「まあまあ。待てやJJ。話はこれから」
タカハシは満足げな顔をしてJJの肩をもんだ。
JJはそれでも不満そうな顔をしていたが、それもまたタカハシの望む展開だった。
902 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:33
タカハシはどんな話をするときも、自分のことしか考えない女だった。
聴き手の都合など全く考えない。むしろいらつかせることを好む。
そうやって聴き手の心をささくれ立たせるような言葉をばらまくことによって、
話が盛り上がるのだと信じているところがあった。
そうすることでしか聴き手の興味をひきつけることができない女だった。

そんなタカハシにとっては、黙って大人しく聞いているマコよりは、
むきになって突っかかってくるJJの方が良い「お客さん」だった。

「麻取の中には誰もおらんって言ったけど・・・・・一人おるんよ。
 今はこの人が単独でSSを追ってるんやけど、この人は麻取と言っても
 普通の麻取じゃないというか・・・なんかややこしい立場の人間なんよ」

普通の麻取じゃない。
それはつい最近、GAMの人間からも聞いた言葉だ。
その言葉からマコが連想できるのは一人しかいなかった。

「それって最近あちこちで噂になってる・・・・・マキって女の人のこと?」
とっておきの情報を先取りされたタカハシは渋い表情をした。
やはりマコの連想は正しかったようだ。
903 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:33
「そうや。マキさんはあたしの上役でもあるんやけど、いつも単独行動してる。
 組織の中の肩書きなんか、全然関係ない感じで自由に動いてる人なんよ。
 どうもかなり上の方から直接指令を受けて動いてるみたいや」
「かなり上? 麻薬取締本部の部長とか?」
「たぶん、もっと上」
「警視庁の捜査本部長クラス?」
「もっと上」
「え? 公安関係?」
「もっと上」
「まさか内閣調査室?」
「もっと上」
「ちょっとアイちゃん・・・・・・」

マコはタカハシの目をじっと見る。いつもの挑発的な光はなかった。
どうやら冗談を言ってるのではないらしい。

「それより上って・・・・・・・」
「とにかくマキさんはただの麻取やないってことや。麻取の間では、
 マキさんは麻薬やのうて、ウイルスの方を追っているっていう噂もあるんよ。
 ウイルスを持って逃げたっていうSSを単独で追ってるんやからな・・・・・」
「つまりそのマキって人だけがSSの情報を持ってる?」
「その通り」
904 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:33
ずっと難しい顔をして話を聞いていたJJが、おもむろに掌を差し出した。
「やっぱりタカハシさん、SSの情報全然ない。お金返してくだサイ」
「まあまあまあ。そこで一つ取り引きをしよう」
タカハシは差し出されたJJの手を柔らかく押し返した。

「単独で動いているマキさんの動きは誰も知らない。いつどこで何をしているのか。
 それがわかるのは同じ麻取であるあたしらくらいのもんや。
 マキさんの仕事の内容までは無理やけど、スケジュールくらいなら調べられるわ。
 そっちかってマキさんの動きをつかみたいんやろ?
 SSの情報の代わりにそっちの情報を買う気はない?」

マコがうーんうーんと唸りながら考えている間に、JJがきっぱりと答えた。

「買いますそれ」
「毎度」

JJはふーっと大きな鼻息を吐いた。
これで一つ大きな仕事を成し遂げたんだと言わんばかりの誇らしげな顔だった。
タカハシが右手を出す。JJも右手を出し、タカハシの手を力強く握りしめた。
905 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:33
SSの話はそれで終わった。
JJは先ほど取り引きした麻薬をカバンに移し始める。

マコの中で不安な気持ちが膨らんでいった。
これで良かったのだろうか。なんだかタカハシに上手く丸め込まれた気がする。
こんなことでアヤに上手く報告できるだろうか。
報告はJJの方からしてもらった方がいいかもしれない。

麻薬を詰め終わり、帰途につこうと立ち上がったJJの頭を、
タカハシが手に持った封筒でポンポンと叩いた。マコが渡した封筒だった。
分厚い封筒からは一枚の札も抜かれていなかった。

「これで美味しいもんでも食べ」

JJの目が大きく見開かれる。
「ワオ! ありがとごさいマース! タカハシさん、良い人!」
マコは慌てて横からその封筒を奪い取った。
冗談じゃない。これはJJのために持ってきたお金ではない。
906 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:34
「ダメだよJJ。これはGAMのお金なんだし・・・・・・」
「アホかマコ。GAMからあたしがもらった。それをJJにあげた。そういうことやろ?」
「そうですそうです! だからそれはJJのお金!」
お金大好き人間のJJは、裏も表も何も考えずに、ただ純粋に喜んでいた。

「でも・・・・・」
「あー、もういちいちうるさいなあ。マコには関係ない金や。黙ってたらええねん」

まさかタカハシにそんな気前の良い所があるとは思わなかった。
無料より高いものはない。マコには絶対に受け取ってはいけないお金のように思えた。
これがタカハシに対する高い借りにならないとも限らない。

JJはぴょんぴょんと飛び跳ねながら喜んでいた。まるで子供だ。
その姿を見ていたら、とても殺しのプロフェッショナルとは思えなかった。
マコは唇の端をぎゅっと噛んだ。何か大きな失敗してしまったかもしれない―――。

「JJはすっごい現金なやつだからその辺には十分気をつけろよ」

かつてミキから受けた警告を、マコは暗澹たる気持ちで思い出していた。
907 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:34
そんな三人のやり取りを、ビルの陰から窺う黒い人影があった。
三人はそれに気付いていない。見られていることに気付いていない。

タカハシも。マコも。JJも。三人は素人ではない。犯罪のプロだ。
決してそんな隙を許すような場所で取り引きをしたりしない。
ビルは三人から極めて近い距離にあった。
人間がそこにいれば、気配を感じないはずはない。
だからこそ三人は気を許して内輪の話を続けていたのだ。

だが誰もその気配に気づかなかった。
犯罪捜査のプロであり、尾行には慣れている麻取のタカハシも。
浮浪者としてありとあらゆる場所で取り引きをしてきたマコも。
音も立てず標的に近づき指令を遂行するプロの殺し屋のJJも。

誰も気付かなかった。
その黒い女が―――物陰から三人の話をじっと聞いていたことに。
908 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:34
909 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:34
廃墟と化した東京には、ビルの残骸だけではなく、
様々な建築物が人の手を入れられることなく朽ち果てつつあった。
マンション、学校、図書館、博物館、動物園、遊園地・・・・・
そして―――神社仏閣。

だがその中に一つ、やけに生気を放っている神社が一つあった。
普通の人間の目には、何も特別なものは見えなかっただろう。
張り巡らされた結界も、妖気を遮る鳥居も、精力を込められた神木も。
何も見えはしなかっただろう。
だがしかし―――その神社には確かにある種の神気が満ちていた。

広い境内には青々とした草木が溢れていた。
水を吸い、根を張り、枝を伸ばしていくその力強さは、
暴力的といってもいいくらいの獰猛な勢いがあった。
全く手入れされていない草木は、好き勝手に手足を伸ばし、
神社にべったりと張り付いて建物全体を包み込んでいた。
まるで邪悪なものから―――この神社を守っているかのように。

その神社の一室に駆け込んでくる一つの人影があった。
910 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:34
「ミツイアイカ、ただいま戻りました」
「おかえり。今丁度イシカワさんとコハルも戻ってきたところだから」
部屋にはミツイも含めて四人の少女が座っていた。

ミツイと名乗ったのは小柄な少女だった。
尖った顎と鋭い目つき。細い眉。
だがなぜか顔全体としては、ほんわかした雰囲気を漂わせている少女だった。

「あ、ホンマですか。またなんかドジ踏んだんですか、あの二人?」
部屋は板間で二十畳ほどの広さがあった。
だが今その部屋には四人の人間しかいない。
ぼそっとつぶやいたミツイだったが、清廉な空気の中、声がよく通った。

強気な声がミツイに返ってきた。甲高い声が板間に響く。
「『二人』って言わないでくれる? ドジ踏んだのはイシカワさん一人なんだから」
部屋の中には、火のついた四本の蝋燭が立っていた。
普通の蝋燭は白い色をしているが、そこに立って部屋の中を照らし出していたのは、
黒と赤と白と青の蝋燭だった。
燃えている炎も、どことなく黒いような、青いような光を放っている。

部屋の奥の壁には「ECO Moni」と書かれた旗が掲げられていた。
911 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:34
「で、ミチシゲさん、どっちから報告します?」
ミツイは旗の下で正座をしている黒髪の少女に語りかけた。
日本人形のような美しさをした少女だった。
肌が抜けるように白く、唇は燃えるように赤い。
その唇が動くたびに、呼応するように大きな睫毛がゆさゆさと揺れた。

「良い報告は後がいいな。悪い報告から聞くことにしましょう」

ミツイはニヤリと笑って「ではそちらからどうぞ」と言った。
ミチシゲを間に挟んで、ミツイとは逆側に二人の少女が座っていた。
どちらも話しにくそうにしている。
「ではイシカワさんからお願いします」とミチシゲに言われ、
色黒の女がもぞもぞと喋り出した。

「えーっと、ナカザワユウコの死体の行方は不明です。葬儀も埋葬もされてません。
 どうやらマリィという女が持ち帰ったようです。・・・・・・・・・以上」
イシカワの報告はそれだけだった。

「まるで子供の報告やな」
呆れながら言ったミツイの言葉は、報告した当のイシカワを含む、
四人の気持ちをそのまま代弁していた。
912 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:35
ミチシゲも落胆した表情を隠せなかった。一応、隣の少女にも確認を取る。
「で、コハル。付け加えることはある?」

コハルと呼ばれた少女は頬を膨らませている。ご機嫌斜めの様子だ。
「ナカザワを先に殺られたのは確かにこっちの油断でした・・・・・
 まさか内部の者を利用して同士討ちを仕掛けるとは思いませんでした」

言い訳じみた言葉にミツイが噛みつく。
ミツイには山ほど言いたいことがあるようだった。

「あのなあ、そのためにイシカワさんをフォース内部に潜入させたんやろ?
 キャリアであることや施設にいた事実までわざわざ暴露してさあ!
 そこまで準備しといて先に持っていかれるってどういうことやねん。
 殺されたんはまあええわ。よくないけどまあ置いとくわ。あり得ることや。
 でもなあ、その後で死体まで持っていかれるってどういうことやねん!
 お前ら、自分がなんのために派遣されてるかわかってんのか? ああ!?」

イシカワもコハルも一言も言い返せなかった。
913 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:35
「みっつぃー、ちょっと黙るの」
「はあ」
「確かに重要な手がかりだったナカザワを持っていかれたのは痛い。
 でもね。あたし達の最終目的はナカザワじゃないでしょ?
 あくまでもS.Sをあるべき場所に戻すこと。それを忘れないで」

三人は深く頷いた。ミチシゲの言う通りだ。
この美しい地球を守るために、ECO Moniという組織がするべきことは一つ。
そのたった一つの目的のために四人は動いていた。
何よりもその目的が優先される―――四人の命よりも。
目先の感情に流されて同輩を罵倒した自分をミツイは恥じた。

「すみません」
「わかったらそれでいいわ。で、イシカワさん、その後のフォースの動きは?」
「マリィは全く姿を見せなくなりました。所在も不明です・・・・・」
「そう。ナカザワの死体を持ち出したっていうそのマリィが怪しいと思ったんだけど、
 その後、全く姿を見せないとなるとますます怪しいわね」
「はい。例の八人の被験者の中にもマリという名前がありましたし・・・・・」

彼女たちの組織も既に八人の名前を入手していた。
『ある情報提供者』からの情報によって。
914 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:35
「もしかしたらマリィがナカザワの代わりになるかもしれないってこと?」
「はい。このままフォースの調査を続ける価値はあると思います」

ミチシゲは長い間ずっと考えていた。他の三人はただ息を潜めている。
蝋燭がジリジリと音を立てて短くなっていく。
黒と赤と青と白の炎が混じりあい、暗い部屋の中をゆらゆらと照らした。

「わかった。イシカワさんはフォースでの調査を続行してください」
「はい」
「じゃ、次、ミッツィー」
イシカワとコハルは正座したままお辞儀をして数歩下がった。
替わりにミツイがぐいと前に出る。

「良い報告を聞かせてくれるんでしょうね」
「勿論」
彼女の口から出たのは確かに良い報告だった。
ミチシゲにとって、そしてECO Moniという組織にとっては。

「カメイ一族を皆殺しにしてきました」
915 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:35
ミチシゲはミツイの報告を受けても眉一つ動かさなかった。
それどころか「それで?」とさらなる報告を促す表情を作った。
勿論、ミツイの「良い報告」とはこれで終わりではなかった。

「残念ながら裏切り者のカメイエリ本人は里には帰ってきていませんでした。
 ですが連絡は取り合っていたようです。通信の形跡を発見しました。
 東京です。ヤツは東京にいる。ようやく―――カメイエリの所在をつかみました」

「そう。エリの居場所がわかったの」
ミチシゲは笑った。白い炎のような妖艶な笑顔だった。
薄闇の中をジリジリと蝋燭が揺れる。
それに合わせて陰影の深いミチシゲの笑顔も揺れた。

コハルが立ち上がった。
「殺りましょう! 今すぐに! コハルが行きます!」
「待てやコハル」
「なんで止めんだよ! 裏切り者は皆殺し! 一族郎党まとめて皆殺しの掟でしょ!」
「落ち着けや」
916 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:35
「ミッツィー。他にもなにかあるの?」
「はい。カメイさんがS.Sを持っているのは間違いないと思います。
 ただし、今も例の男―――テラダと行動を共にしているようなんです。
 どちらがS.Sを持っているのか。あるいは二人とも持っているのか。
 あるいは最悪の場合、S.Sは既に――――」
「最悪のケースを考えるのはよしましょう」
「はあ」

ミチシゲはミツイをなだめた。
組織の長としては、常に最悪のケースを考えておくべきなのかもしれない。
だがこの場合はその必要はない。
なぜならば、最悪の場合―――その時はこの星が消えてなくなる。
最悪のケースのその次はないのだ。対応策など考えても無意味だった。

「つまり、エリだけじゃなくて、そのテラダも見つけないとダメってことね」
「はい。まずはカメイさんを見つける。そして何日か泳がせてテラダを見つける。
 おそらくまた研究所みたいなところでやってると思いますんで、そこも破壊する。
 カメイさんとテラダと研究所。この三つを同時に叩かないとダメだと思います」
917 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:36
「その仕事はミッツィー一人じゃきついね」
「はい」
「わかった。イシカワさんはそのままフォースでマリィを調べて。
 コハルはイシカワさんから離れてミッツィーのサポートに回る。
 ミッツィーはまずエリの居場所を確実に押さえて欲しい。
 エリがテラダと接触するようなら、コハルがテラダを追う。いい?」
「はい」
「はい」
「はい」
「解散」

ミチシゲが解散を告げると同時に四本の蝋燭から火が消えた。
三人は各々の仕事へと向かう。

部屋に残されたミチシゲは暗がりの中で両手を合わせ、思念を集中させた。
ミチシゲは神も仏も信じてはいない。
ただこの地球という星、地球に命のエネルギーを与える太陽、そして大宇宙。
そういった実在する巨大なものがミチシゲの信仰の対象だった。

だが信仰を込めたミチシゲの祈りは雑念に邪魔された。
湧き上がってくるのは幼い頃に一緒に遊んだカメイエリの顔だった。
ずっと一緒だと思っていた。一緒に信仰に生涯を捧げるものだと思っていた。
許さない。裏切り者は絶対に許さない。死をもって贖ってもらおう。

いつしかミチシゲの祈りは、カメイに向けた呪詛の言葉へと変わっていた。
918 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:36
919 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:36
「あーあ。また大事な仕事から外されちゃった」

イシカワは独り言を言いながら神社の裏側に回った。
そこには組織が管理している大きな水槽がある。
身の丈を超えるような巨大な水槽の中には色とりどりの魚が泳いでいた。
各地の調査で採取したサンプルを飼っておいたり、
生態系に関する実験を行ったりするための水槽だった。

イシカワは辛いことがあるとここに来る。
ひらひらと泳いでいる魚を見ていると心が落ち着いた。

「マリィが怪しいです」なんていうのは失敗を取り繕う言葉でしかなかった。
ナカザワは、部下のツジによって金目当てで殺されたのだ。
マリィが来たのはその後だ。イシカワにはマリィが特に怪しいとは思えなかった。
マリなんて名前はどこにでもある。きっと被験者と同名の他人だろう。

エリの消息がつかめたのだ。本来ならそっちに全精力を向けるべきだろう。
エリさえ捕らえれば、この仕事の90%くらいは終わったも同然なのだ。
だがイシカワはそこから外された。きっと信頼されていないのだ。
920 名前:【発症】 投稿日:2009/07/23(木) 23:37
イシカワは水槽の横につけられたボタンを押して、水中に餌を落とす。
水槽の中で泳ぐ生き物たちが、わっと餌に群がってきた。
「あたしを必要としてくれるのは、この子たちだけなのかなー」
ガラスにおでこを押し付けて、イシカワはため息を一つついた。

イシカワはECO moniという組織の中では新参メンバーだった。
ミチシゲやクスミやミツイたちは違う。
彼女達は、組織の中枢を担うべく、生まれた瞬間から英才教育を受けてきた人間だ。
家系が違うのだ。血筋が違うのだ。彼女らは真のエリートメンバーだった。

そんな彼女らに比べると、なんだか自分がとってもちっぽけな存在に思えてきた。

その時、真っ黒で一際巨大な「奇妙な生き物」がイシカワに目を向けた。
三年前のあの施設での事故の時に、イシカワが拾ってきた生き物だった。
奇妙な生き物はパクパクとえら呼吸しながら、水槽のガラスに寄って来た。

パクパクと動くその口は「イシカワ、シッカリシロ」と励ましているように見えた。
921 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/23(木) 23:37
922 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/23(木) 23:37
923 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/23(木) 23:37
924 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:03
マコやJJと口約束を交わしてから数週間。
タカハシはつかみうる限りのマキの予定を、律儀にJJに送っていた。

JJという女はマコと違ってなかなか見所のある女だった。
ただの冗談かもしれないが、GAMのトップにつくという野心があるところもいい。
なんなら自分が後見人になってやってもいいとすら思った。

タカハシはずっとGAMのやり方に不満を持っていた。
いくら上質のヤクを仕入れ続けても、相手をするのは末端の売人だけ。
何度か申し入れたが、GAMのトップと会うことは許されなかった。

それでは五分五分の取り引きとはいえない。
こちらだけ顔を晒しているのはアンフェアだと思った。
だからタカハシは何度か「担当を替える」とマコに提案した。
勿論、一人で仕事をしているタカハシに、役割を替わってくれる人間などいない。
タカハシは科学捜査員の知り合いから仕込んだ特殊メイクを駆使して、
二度ほど別人の振りをしてマコに接した。

メイクが上手くいったのか、マコが一際鈍かったのか、変装がばれることはなかった。
今ではGAMの連中は、こちらが少なくとも三人以上の
人員がいる組織だと思っているだろう。
925 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:03
だがタカハシはそんなやり取りにも若干疲れていた。
ずっと一匹狼でやってきたが、仕事が大きくなれば全てを一人でこなすのは難しい。
そろそろ人を集めて本格的な組織を作る時期にきているのかもしれない。

あのJJとかいう女を引き抜くにはどれくらいの金が必要だろうか―――。
タカハシは既にJJのことを自分の手下のように見なしていた。

JJはマコと違って口の軽い女だった。
さすがに組織のトップについて喋ることはなかったが、
GAMの内情についてはぽろぽろと話が漏れてきた。
驚くべきことに、GAMはタカハシが思っていたよりもかなり大きな組織だった。
これまでよほど上手くその存在を隠していたのだろう。
麻取の中にもGAMの内情を正確に把握している人間はいなかった。

JJはLLという中国人の女と一緒にGAMに入ったらしい。
どうやら殺しなどの荒っぽい仕事を任されているようだ。
殺し役は同僚からも冷たい目で見られる。
そしてきつい仕事の割には実入りの少ない仕事だ。

どうもJJとLLは―――GAMでの今の地位に満足していないらしい。
926 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:03
ますます素晴らしい展開じゃないか。タカハシはほくそ笑んだ。
チャンスがあればJJとLLをそそのかしてGAMを乗っ取らせる。
組織ごと丸々頂く。麻取の看板を持っている自分にはそれが可能だと思った。

あいつらが夢の薬なんかにうつつをぬかしている隙に―――
麻薬組織の方はあたしがごっそり頂くとしよう。

タカハシはGAMごときの麻薬組織が、
ウイルス抗体などを作れるわけがないと思っていた。
なまなかな知識や設備ではどうにもならないことを、
麻薬という化学物質のスペシャリストであるタカハシは知っていた。

いずれGAMの連中は抗体作成の方に力を取られていくことになるだろう。
隙はいくらでも見えてくるはずだ。
そういう意味でも、JJとこまめに連絡を取り合うことは意味があることだと考えていた。
927 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:03
「待ってくださいよ、マキさん」
タカハシは発車しようとする黒いスポーツカーの後部座席に滑り込んだ。
マキは扉が閉まるのも待たずに、仏頂面でギアを入れた。
タイヤが派手にホイールスピンしながら車を斜め前へと進めていく。

乱暴な運転にはもう慣れた。
タカハシはこの数週間、マキにぴったりと張り付いていた。
本来なら、GAMの連中にそこまでしてやる義理はない。
だがマキの予定を追ううちに、タカハシ自身もマキに強い興味をひかれるようになった。

いつものマキならそんな行為を絶対に許さない。
常に一人で動くのがマキのルールだった。
マキに興味を持ち、仕事のサポートに当たりたいと
立候補した人間も何人かいたが、マキによって全て黙殺されていた。
タカハシの同僚にも、そういったおせっかいな真似をして大怪我をしたヤツがいた。
だがここ数日は、なぜかマキはタカハシが付いて来ることを拒否しなかった。

拒否しなかったが歓迎もしなかった。
タカハシはいまだにマキがどこに住んでいるかも知らないし、経歴も知らない。
それどころかマキの年齢や苗字も知らなかった。
何度聞いてもマキは自分のことに対する質問には一切答えなかった。

タカハシは狭い後部座席に無理矢理体を納めた。
助手席に座ることはできない。そこは巨大な黒い犬の指定席だった。
この犬のことについても何も教えてくれなかった。
知っているのは「ゼロ」という名前だけだった。
928 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:04
マキは無人の料金所を時速100kmで駆け抜けて高速道路に入った。
料金所のゲートのギリギリのところを車体が掠めていく。
助手席に座るタカハシは思わず身をすくめた。

ここ数日、マキの運転する車に乗っているが、こんなことの繰り返しだった。
マキは常に100kmを超えるスピードで車を動かす。
直線で100kmなら驚かない。カーブで100kmでもさほど驚かない。
だがマキはどんな細い道であろうが、見渡しの利かない交差点だろうが、
おかまいなく100km以上のスピードで突っ走った。

マキは何も見ていない。何の確認もしていない。
明らかにドアミラーもバックミラーも見ずに、ただ前だけを見ていた。
時には―――前すら見ていないこともあった。

「死ぬ」と何度か思ったタカハシだったが、それを何度か繰り返すうちに
麻取の間で流れている「マキはキャリアだ」という噂を思い出した。
なるほどこれは何らかの能力を駆使しているのかもしれない。
そう思うようになってからは、タカハシもなんとか落ち着いた気持ちで
マキの車に同乗できるようになった。

それにしてもマキの運転スタイルは異常だとしか思えなかった。
照明の落ちた真っ暗闇の深夜の高速道路を、ライトも付けずに走っている。
タカハシがいくら目を凝らしても、フロントガラスの向こうに側には、
真っ黒な闇以外は何も見えなかった。
929 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:04
「マキさんって夜目が利くん?」
「別に」
「でもあたしには何も見えへんけど?」

タカハシがフロントガラスの前方を指差す。それを見てマキも少し笑った。
ガラスの向こう側には東京の街灯りがうっすらと見えるのみ。
道が右に曲がっているのか左に曲がっているのかすら全く見えなかった。

「あたしにも見えないよ」
「冗談ですよね?」
「いや、全然」
マキの顔からすっと表情が消える。タカハシは言葉に詰まった。

いつもは自分のペースで話すタカハシも、マキが相手だと勝手が違った。
笑ってほしいところでは笑ってもらえず、
笑ってもらいたくないところで笑われてしまう。

そのギャップで戸惑うのは、いつもならタカハシの話相手の方なのだが、
今回に限っては、戸惑っているのは明らかにタカハシの方だった。
930 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:04
「ライトくらい点けたらいいじゃないですか」
「面倒」
「いや、そこのスイッチ一ひねりで・・・・」
「面倒」
「じゃあ、あたしが」

タカハシがぐいと身を乗り出したところで、車のスピードが急に落ちた。
前のめりになったタカハシはしたたかに頭を打ち付ける。
マキは車を左側に寄せた。どうやらサービスエリアに入ろうとしているらしい。
だがマキはサービスエリアの駐車場には侵入せず、かなり手前で車を止めた。

「静かにしてね」

それだけ言い残し、マキは車を降りる。
ゼロもマキを追って車からふわりと飛び降りた。
タカハシは痛む頭を抑えながら、あわてて扉を開ける。

マキとゼロは、どうやらサービスエリアの建物まで歩いていくつもりのようだった。
931 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:04
タカハシも素人ではない。
マキが目指す建物から、わずかに漏れる光と人の気配を感じた。
そういえばサービスエリアを根城にしているマフィアがいると聞いたことがある。
同僚の何人かがチームを組んで摘発を目指していたはずだ。

「あ」

タカハシはそのプロジェクトの詳細を思い出した。
もしそれがマキの目指すものであるとすれば、かなりヤバイ。
相手は20人を超える武装集団だったはずだ。
いくらキャリアだとはいえ、拳銃一丁しか持っていないマキが
一人で太刀打ちできる相手だとは思えなかった。

タカハシは知らなかった。一度も見たことがなかった。

キャリアというものが―――本気を出して戦えばどうなるかということを。
932 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:04
まず最初の驚きは、マキとゼロの気配を見失ったことだった。
いくら真っ暗闇とはいえ、数メートル先にいた人間だ。
普段から暗闇での捜査に慣れているタカハシが見失うはずがなかった。

次の驚きは、予想以上に速く、そして遠くから銃声がしたことだった。
銃声には聞き覚えがあった。タカハシも持っている同じ官製拳銃だ。
マキが撃ったに違いない。

だが銃声は数十メートル先から聞こえてきた。
バカな。マキはついさっきまでここにいたのだ。移動速度が速すぎる。
全力疾走で走っても、あれほど速くは動けないはずだ。
それに、全力疾走すれば必ず足音がする。服のこすれる音がする。
強く、人の動く気配がするはずなのだ。

だがマキからはそういった気配を全く感じることができなかった。
933 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:04
タカハシが慎重に気配を消しながら建物に辿りついた時には、
既に数十発の銃声が飛び交っていた。
そのうち、マキの銃声は確認できただけで20ほど。
相手の銃声に比べれば圧倒的に少ない。予備の弾丸もそう多くは持っていないはずだ。

タカハシはマキのサポートに回ろうとした。
だが、どうしてもマキの気配がつかめない。
マキの現在位置がわからなければ、サポートすることもおぼつかない。
タカハシはマキの気配を探り当てることを断念し、一人一人相手を消していくことにした。

微かに人が動く気配。
タカハシは銃を向ける。そこにはうめき声を上げながら血まみれで横たわる男がいた。
また一つ気配。そこにも瀕死の男が転がっていた。喉下を食いちぎられた跡がある
また一つ。また一つ。タカハシが八つまで死傷者を数えたところで、建物に明かりがついた。

自販機にもたれかかるようにしてマキが立っていた。
走り寄るタカハシを無視して、マキは携帯から電話をかける。

「こちらマキ。標的553号をD確保。メール送信済み。
 553号の他、D確保15名。重傷者12名。以上」

マキの足元には、麻取が「553号」と呼ぶ重要指名手配犯の死体が転がっていた。
934 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:05
マキはちらりと腕時計に目を落とした。
夜光塗料はおろか、光を反射するガラスも使われておらず、機械音も一切しない。
捜査官御用達の特注時計だった。

「増援がここに来るまで30分はかかると思う」
タカハシはただ無言でかくかくと首を縦に振ることしかできなかった。
「なあ、タカハシ」
一週間ほどずっと一緒にいたが、名前を呼ばれたのは初めてのような気がした。
「腕に自信ある?」

何を訊かれているのか、意味がよくわからなかった。
この銃撃戦を見せられた後で、一体何を言えばいいのだろうか。
確かに腕に自信はあるが、たった一人で、たった数十分で、
これだけの武装集団を制圧できる自信はなかった。

「あたしの今日の標的は553号だけだったからさ。
 今晩はそれ以上は暴れたくない気分なんだよね」

マキは面倒臭そうにそう言った。
足元に転がっている大物指名手配犯のことすら、あまり興味なさそうな様子だった。
935 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:05
「ここの・・・・・後始末をしろってことですか?」
「後始末? いや、違う・・・・・いや、そういうことかもしれないか」
マキの言っていることはわかりにくかった。
何かマキの中でだけ完結している世界があるようだった。

「とにかくあたしは今日のところはもう帰って眠りたい気分でさ。
 面倒なんだよ。でもゼロはまだもっと遊びたいみたいなんだよね」

そういえばあの黒い犬の姿が見えない。
軍用犬という噂もあるあの犬の力はタカハシもよく知っている。
この一週間ほどの間で売人を三人は噛み殺しているはずだ。
今日ここで噛み殺したのだって―――きっと一人や二人ではないだろう。

「嫌じゃなかったら、一緒に遊んでやってくれる?」

嫌じゃなかったらと言いつつ、マキの言葉には有無を言わせない強さがあった。
タカハシの体に悪寒が走った。ゼロと戦えということなのだろうか?
マキの動きを探っていることが露見した? GAMから情報がもれたのか?
ここまで連れてこられたのは罠だったのか?

「じゃ、後はお願いね。逮捕できたら、タカハシの好きにしていいよ」

マキは謎の言葉を残して暗闇に消えた。

「逮捕できるんならね―――」
936 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:05
我に返ったタカハシはぐるりと辺りを見回した。
犬の気配はしない。全くしなかった。今ここで照明を落とされたら確実に殺られる。
タカハシは急いで電灯のスイッチがある場所を確保した。

そのとき、奥の方から不意に犬の気配がした。殺気はない。
とことことゼロが歩み寄ってきた。タカハシは銃を構える。
ちらっとゼロが嫌がるような顔をした。その目が「落ち着けよ」と言っているようだった。
それでもタカハシは銃を下ろせなかった。襲ってこない保障はない。

ゼロが吠えた。獰猛な声ではなかった。まるで同胞に呼びかけるような、遠吠えだった。
狭い室内にゼロの咆哮がこだまする。
遠吠えは突然止まった。

タカハシの背後から誰かが近づいてくる気配がした。
犬じゃない。はっきりとした人の気配だった。
いや。犬もいる。一人の人間と一匹の犬が近づいてくる気配だった。

さっきまでは微塵も感じなかった気配だ。
どこに隠れていたのだろうか? マキは気付いていたのだろうか?
逮捕できたら? 好きにしていい? この組織の残党なのか?

タカハシの前に現れたのは真っ白なスーツを着た美しい女だった。
937 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:05
「あらら。マキちゃんに振られちゃった」
女は太陽のような微笑をたたえながらそう言った。
その体の陰から白い犬が現れた。ゼロより一回り小さい。
長く伸びた白毛は艶やかな光沢を放っている。
金と手間かけて手入れされていることが一目でわかる身なりだった。

女は白い毛を柔らかな手つきで撫でる。
「まったくもう。『もう帰って眠りたい気分』だって? 失礼だよねえ。
 せっかく会えると思って一張羅を着込んできたのにさあ。バッカみたいじゃん」
女はピシッと立った白いスーツの襟をつかんでひらひらさせた。

マキとの話を聞いていたのか。だがあの時は人の気配など全く感じなかった。
小声で言ったマキの言葉が聞こえる距離にいたとは思えない。
「誰や、お前。何者や」
声の震えはなんとか抑えることができた。
だが女はタカハシが感じている恐怖心を敏感に察知していた。

「やあねえ。そんなに怖がらなくてもいいよ。『タカハシ』さんっていうの?
 マキちゃんがそう呼んでたけど、マキちゃんの部下なのかな?」
「質問に答えろ!!」

怒鳴り散らすタカハシの声に、白い犬がビクンと反応した。
毛足の長い犬だ。その下にある体躯は、女性的な優美さを感じさせる。
精悍な顔つきと体格をしたゼロとは全く違うタイプの犬だった。
938 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:05
「おお怖い。あのお姉ちゃん、怖いですねー。ほらNothing、ちょっと遊んでおいで。
 あの子、ゼロっていうんだって。ゼロ君はNothingと遊んでほしいみたいだよ?
 あたしはあの怖いお姉さんと、これからちょっと遊んでくるからさ、
 あんとはあっちに行ってゼロ君のことを可愛がってあげなさい」

白いスーツの女はそう言うと、白い犬のお尻をポンと叩いた。
白い犬の動きは速かった。警戒していたにも関わらず、
タカハシはその犬が耳元を飛び越えていくのに対して、全く反応できなかった。
背後で二匹の犬が揉み合う気配がする。
だがタカハシが振り向いたときには、既に二匹の犬は暗がりへと転がり落ちていた。

「さて。これだけは確認しておきたいんだけど、
 タカハシさんはマキちゃんの後輩なんだよね?」
「質問しているのはこっちだ。答えろ。お前は誰だ!」
「おお怖。『質問しているのはこっちだ』か。いかにも麻取が言いそうな台詞だねえ」

タカハシは銃を女に向けたまま、胸から手帳を取り出した。
「麻薬取締官、タカハシアイだ。質問に答えろ。氏名と職業は? 返答如何によっては―――」
「逮捕する?」
「その通り」
939 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:05
「あたしはアヤ。職業は麻薬密売」
アヤは優等生が教師の質問に答えるときのように、はきはきとした口調で言った。
落ち着きを取り戻したタカハシはニヤリと笑う。
こういう会話なら嫌いじゃない。もう白い女からは不気味さは感じなかった。

「そんなことを言っても、自首したことにはならんで?」
「自首? なんで?」
「証拠が山ほどあるからね。この建物はそのまんま麻薬精製工場になっとる」

灯りが照らし出していた。
机には麻薬精製の過程で用いられている機器がごろごろ転がっている。
注射器もそこここに散見された。白い粉が入ったパッケージも山ほどある。
ここが巨大麻薬組織のアジトの一つであることは間違いないだろう。
アヤもきっとその一味に違いない。

「あら。あたしここの組織の人間じゃないわよ」
「捕まった売人はな、みんなそう言うんよ」
「あたしまだ捕まってないけど?」
「動くな」

タカハシは拳銃をアヤに向けたまま、ゆっくりと近づいた。
アヤの動きを封じたまま、アヤの右手首に手錠を下ろす。
アヤは全く抵抗する素振りを見せなかった。
940 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:05
「はい、これで逮捕やろ?」
「まだ手錠の片側がつながれていないけど?」
ふん、と鼻息を一つしてタカハシは手錠を壁に走るパイプにつないだ。
自分の手に手錠をかけるような真似はしない。
相手が暴れたりすると、やっかいなことになってしまう。

「これでタカハシさんの用事は一通り済んだのかな?」
この期に及んでもアヤは余裕たっぷりだった。
不安を感じたタカハシは手錠の鍵の具合を確認する。
確かにつながっていた。これでもう、人間の力でこじあけることはできない。
掌ににじむ汗を拭きながら、何度も、何度も確認した。

「そんな怖がらなくってもいいから」
「怖がってるわけないやろ」
「嘘。あたしのこと、怖がってる」
「怖がってないわ」
「麻取にもピンからキリまでいるけどさ、タカハシさんってすごく優秀な麻取なんだね。
 さっきまであたしの気配を感じられなかったこと、すごく怖がってる」

タカハシの心臓が大きな音を立て始めた。
心臓をこじ開けられ、中を覗かれたような思いがした。

「優秀で良かったよ。うちのパートナーもなかなか優秀な子だからさー。
 優秀な後輩が相手じゃないと、釣り合いがとれないと思うんだよね」
941 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:06
「何を訳のわからんことを言うてるんや。もう黙れ。もうすぐうちの増援が来る。
 そんでここに転がってる死体を始末したら終わり。お前の相手はその後でや」
「さっきマキちゃんは30分かかるって言ってたね。あと20分くらいかな?」

またタカハシの心臓が大きな音を立てた。
やはりこの女はマキとの会話を聞いている。
どこで? どこで聞いていた? まさかすぐそこで? 
バカな。そんな近くにいたなら気配を感じないわけがない―――

「20分も一人ぼっちで大丈夫かなー? アイちゃん怖くないでちゅか?」

タカハシの中で一本の線が切れた。
握り締めた銃のグリップで思いっ切りアヤのこめかみを殴る―――
殴ったと思った。吐息がかかるほどの距離だ。狙いを外すわけがない。
だが次の瞬間、タカハシはくるりと宙を待っていた。

タカハシが知る由もなかったが―――
その技はミキがマキにかけられたのと同じ柔道技だった。
942 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:06
「ぐう」
タカハシは首から落ちた。脳髄が痺れる。
受身が取れなかった。取らせてもらえなかった。
さっとタカハシの胸に蹴りを入れようとして、アヤは思いとどまった。
「全部人まねっていうのも芸がないか」

アヤは仰向けに倒れたタカハシの上に膝立ちになった。
タカハシの右手を、左手で抱え込む。肘を極めた。
両膝でタカハシの胸と喉を押さえ込んだ。これでもうタカハシは動けない。

下敷きになったタカハシの左手は、自分の体が邪魔になってアヤのところまでは届かない。
タカハシは唯一自由の利く足を動かして、何度か蹴りを繰り出そうとしたが、
反動をつけようと腰を動かすたびに、その動きはアヤの膝によって押しつぶされた。

蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のように、タカハシは身動きが取れなくなった。

アヤの動きは、俊敏で滑らかで無駄がなかった。
とても片腕を手錠で固定されているとは思えなかった。
943 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:06
アヤは、タカハシが動けないことを理解できるまで待った。
それは必要な時間だった。
アヤはタカハシと目を合わせる。それも必要な行為だった。
極めた肘が、タカハシからはっきりと見える位置に持ってくる。
全て必要な行動だった。

アヤは右手の指で、とんとんとんとタカハシのおでこをつついた。
「じゃ、行くよ」
タカハシの肘を極めたまま、アヤは全体重を後方に傾ける。
ビキビキッと音がしてタカハシの肘がありえない方向に曲がった。
タカハシが生まれてこの方、見たことがない角度だった。

「あ、があっ、ああ!!」
襲ってきたのは痛みではなく恐怖だった。
自分の肘が逆側に曲がっている。
その景色を見ただけで恐怖が背中から口元にせり上がってきた。
自分の肉体が破壊されている。それは視覚から飛び込んできた原始的な恐怖だった。
信じられない速さで冷や汗が吹き出る。滝のように流れていく。

「折れたと思った? でもこれって実は折れてないんだよ。
 脱臼しただけなんだ。人間の体の仕組みって面白いよねえ」

アヤはそういって抱えた腕をブルブルと振った。
今度は恐怖ではなく鋭い痛みがタカハシの中に突き抜ける。
次の瞬間、タカハシの目に見えたのは、元通りになっている自分の右腕だった。
944 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:06
「良かったねえ。アイちゃん。元通りになったよ。良かったねえ」
からかわれていることに気付かなかった。
それ位、タカハシは本心から自分の腕が元に戻ったことを喜んだ。
自分の五体が正常に機能していることが、これほどありがたいことだとは思わなかった。

だが、平安の時間は長く続かなかった。
次の瞬間、またアヤの指がとんとんとんとタカハシのおでこを叩いた。
「行くよ」
またしてもビキっと音がしてタカハシの肘が外れた。
肘から先が、壊れたオモチャのように力なくぷらぷらと動いていた。

「ああああああああああああああああああああああああああ!!」
「あーあ。壊れちゃったねえ。困ったねえ」
「いやああああ! いやあああ! あああああああああああ!」
「にゃはははは。でも大丈夫」

アヤは再び抱えた腕をぐりぐりと動かした。
焼けるような痛みがタカハシの体を突き抜ける。
痛いのは肘のはずなのに、タカハシは全身で痛みを感じた。
歯の奥までもが、虫歯を削られた時のようにズキズキと激しく痛んだ。

次の瞬間、タカハシの肘は元通りになっていた。
945 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:06
「良かったねえ。アイちゃん。元通りになったよ。良かったねえ」
からかわれていることに気付いた。
そしてタカハシはこれから何が起こるのか、想像できた。想像できてしまった。
そのタカハシの想像と寸分狂うことなく、アヤはとんとんとんとタカハシのおでこを叩く。

「行くよ」
アヤがその言葉を発するより速く、タカハシの腕が逆側に曲がるより速く、
おでこを叩かれた瞬間、タカハシの体に激しい恐怖と痛みと嫌悪感が走った。
刷り込まれた生理的な反応に、タカハシは抗うことができなかった。

もう声も出なかった。
冷や汗が止まらない。シャワーを浴びた後のように全身ずぶ濡れになった。
それでも体温が下がらない。体が激しく熱を持っていた。
はあっ。はあっ。はあっ。はあっ。はあっ。呼吸のペースが異常に速くなる。
自分の意思を超えた何かに無理矢理呼吸させられているようだった。

「アイちゃん、アイちゃん、こっち見て」
見る勇気はなかった。固く固く目を閉じた。
だが「見ないならこうしちゃうよー」と言ってアヤはさらに肘を逆側に極めた。
耐えようのない痛みが間断なく神経を往復していく。
アヤの言葉の恐怖に耐え切れずに開いたタカハシの目には、自分の右腕が映った。

妙な景色だった。親指と小指の位置が逆だった。手の甲と掌が逆だった。
よく見るとタカハシの右手は肘から先がくるりと一周回っていた。

もう出ないと思った悲鳴が絞り上げられた。
946 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:06
「にゃははは。ごめんごめん。治そうと思ったんだけど逆に回しちゃった」
アヤは悪びれずに笑いながらそう言った。
精魂尽き果てたタカハシはガクリと気を失った。
だがアヤが再び肘をぐりぐりと回すと、鋭い痛みに、意識を引き戻された。

「はい、元通り」
アヤの言う通り、タカハシの肘はひどく腫れていることを除けば、元に戻っていた。
だがその景色は、今のタカハシにとっては再び訪れる、確実に訪れる、
恐怖の予兆に他ならなかった。
タカハシは既に知ってしまっていた。その恐怖がどれほどのものなのか。
どれほどの痛みを心に与えるものなのか。心と体で記憶してしまっていた。

アヤの指がおでこに近づく。
それだけでタカハシは「ひいいいいやあああ」と滑稽な声を上げた。
壊れた機械のように体を異常にバタつかせた。
アヤは緩めない。全く同じようにタカハシのおでこを叩いた。

とんとんとん
「行くよ」

タカハシは赤子のような泣き声を上げた。

それでもアヤは緩めない。一向に緩めない。
947 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:07
とんとんとん
「行くよ」


とんとんとん
「行くよ」


とんとんとん
「行くよ」


とんとんとん
「行くよ」


とんとんとん
「行くよ」


とんとんとん
「行くよ」


・・・・・・
・・・・・


・・・・
・・・
948 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:07
それを何度繰り返しただろうか。
自らの意思を失い、だらしなく開いたタカハシの口からは、
もう悲鳴はおろか、唾液すらも出なくなっていた。

太腿ほどの太さまで腫れ上がったタカハシの右腕を、アヤはようやく放した。
タカハシの顔にはもう、一滴の冷や汗も出ていなかった。
干からびて一気に十歳くらい老け込んだような顔になっていた。

アヤはタカハシの胸のポケットをまさぐり、手錠の鍵を取り出す。
手錠を外して立ち上がると、大きな声で叫んだ。
「Nothing! 帰るよ! 戻っておいで!」

麻取の増援が来るまでは、もうそんなに時間はないだろう。
これ以上ここで遊んでいるわけにはいかない。
すぐにでも撤収するべきだと思った。

だが反応がない。アヤは辛抱強く待った。
数分すると、白い犬がひょこひょこと歩きながら戻ってきた。
どことなく元気がない。だが怪我はしていないようだった。
949 名前:【発症】 投稿日:2009/07/26(日) 23:07
「お? 無傷で完勝かい、Nothing?」
だがNothingは力なくクーンと鼻を鳴らすだけだった。

「なんだよ。情けないなー、おい。逃げられちゃったの?」
アヤは白い毛を撫でながら周囲の気配を探る。
あの黒い犬の気配はものの見事に消えていた。
Nothingの牙からも血の臭いはしない。どうやら逃げられたようだ。

だがあまり強くは言えない。こちらも本命のマキは逃がしたのだ。
犬も飼い主もそろってヘマをしたということか。

「ま、いいか。とりあえずミキたんの借りは返した・・・・・半分くらいはね」
できればあのマキという女を締め上げてSSの情報を入手したかった。
逃げられたのは痛い。だがこちらには有力な情報提供者がいる。
マキの居場所に関してはいつでも知ることができるだろう。

アヤは知らなかった。

丸太のように腕を腫らして失神しているこの女が―――
その有力な情報提供者だということを。
GAMが最も大切にしている麻薬の売り手であることを。
そしてGAMのことを―――密かに乗っ取ろうとしている女であることを。
950 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/26(日) 23:07
951 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/26(日) 23:07
952 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/26(日) 23:07
953 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:02
中国は日本では考えられないほど貧富の差が激しい国だ。

だがその貧富にはあまり関係なく、中国人は極端に二つのタイプに分かれる。
文字通り寝食を忘れて信じられないくらい働く人間と、全く働かない人間。
日本人はその中間の人間が圧倒的に多いのだが、
中国には不思議とその中間層というのがあまり存在しない。

そしてLLは完全に前者のタイプだった。
上から命令されなくとも、朝から晩まで何かに取り憑かれたかのように働いた。
それでいて疲れたような表情は全く見せない。バイタリティの塊だった。

適度にさぼりながら要領良く仕事をこなし―――
それでいて「あー、疲れた」などと口癖のように言う、
典型的な自堕落日本人であるフジモトとは正反対のタイプだった。

「フジモトさん、今日はBとJとSの組織の人間が来てたネ」
「へー。ふーん。それで?」
「Jの人間がイシカワさんをナンパしてたヨ」
「で?」
「軽く無視されてたネ」
「いつものパターンだね。了解。ご苦労さん」
954 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:02
LLは既にフォースの全従業員の名前を把握していた。
さらにフォース出入りしている、様々なジャンルの非合法組織を調べ上げ、
それらの組織にアルファベットをつけてファイルに管理していた。

そして毎晩毎晩、フォースに出向いては各組織の動向を入念に調べている。
SSに関係ありそうとかなさそうとかを吟味することなく、
全ての情報を片っ端から収集していた。
本当によく働く女だった。働きすぎて、ミキのやる仕事がなかった。

最初は「こいつは楽でいいや」と思っていたミキだったが、
さすがに最近は暇をもてあますようになっていた。

カゴは特に怪しい動きは見せなかった。フォースの営業の方も順調なようだ。
フジモトはフォースの破綻は遠くないと思っていたが、
相変わらず東京一、人が集まる店であり、水面下では多くの取り引きが行なわれ、
ヨシザワがファイトに出るときは賭博券が飛ぶように売れた。

忙しいのも好きじゃないけど、暇なのはもっと好きじゃない―――
955 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:02
ミキは何かが起こるのをじっと待つタイプではなかった。
常に激しい流れの中に身を任すことを好んだ。
かといってアヤのような策士タイプでもない。
自分から積極的に流れを作り出すタイプではないのだ。
頭が切れるミキだったが、ちまちまと策を弄するのは好きではなかった。

作戦? そんなものは「秀才」が立てるものだ。
天才である自分にはそんな回りくどい方法は似合わない。
もっと楽して簡単に成功する方法があるはずだ―――ミキはそう思っていた。

ミキは待つことが嫌いだった。そして我慢することが嫌いだった。
彼女にとって楽をすることは罪悪ではなかった。
いつだって自分の欲望に忠実に動いた。

理性? なにそれ。

世間では理性的に行動することが、合理的に行動することが正しいと考えられている。
だがミキはそんな世間的な常識とはかけ離れた思想を持っていた。
ミキが持っている行動規範はたった一つ。
956 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:02
あたしはやりたいことをやる。あたしが一番やりたいことをやる。

それがたった一つのミキのルールだった。
何にも縛られることのない行動規範だった。

まず細かく計算して、作戦を立ててから行動する。
それが秀才なのかもしれない。
そしてその方法が最も合理的なのかもしれない。秀才にとっては。

だがミキは逆だった。まず自分のやりたいことをやる。
理屈はあとからこじつける。それがミキのやりかただった。
そしてそれは―――案外上手く行くことが多かった。

世の中の出来事に自分を合わせるのではない。
自分の好みに合うように世の中を作り上げていくのだ。
それが天才のやり方なんだ―――ミキはそう思っていた。
957 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:02
ミキはふわわと一つ大きなあくびをした。
LLのおかげでここ数日はゆっくりと体を休めることができた。
そろそろ―――あたしも動き出すとしよう。
さて。ところで今あたしが一番やりたいことってなんだ?

ミキの頭に浮かんだのは、リングの上に立つ天才的美少女の姿だった。

会いたい。もう一度あの子に会ってみたい。
会ってどうする? 抱きしめてキスでもするか?
ギャハハハハハハハハハ。バカかあたしは。

ここ数日、フォースの中にはヨシザワの臭いはなかった。
LLが調べたところによると、来週までずっと外の仕事が入っているのだという。
イシカワとかいうもっさりとした女と車に乗り込んでいくのを何度か見た。
ヨシザワはリングの外ではどんな顔をするのだろう?
どんな話をしているのだろう? どんな服を着て、どんなメイクをして―――

ギャハハハハハハ。バカかあたしは。何を考えてんだ。

だが一度ミキの脳裏に登場した天才的美少女は、なかなか消えてはくれなかった。
あいつは――― あいつは一体―――
958 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:03




あいつは一体、何者なんだ?



  
959 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:03
なぜあんなに強い? なぜ自分の強さを隠す? なのになぜリングに上がる?
なぜツジを殺した? 何を思いながら殺した? 殺すのが好きなのか?
殺したあとで泣いた? 笑った? なんのために戦う? 誰のために戦う?
何を支えにして戦っている? なぜ―――なぜあんなにも強い?

知りたい。
衝動は突然やってきて、突然去っていく。
だが欲望はじわりじわりと湧いてきて、それが叶うまでいつまでたっても去らない。
知りたい。あいつの中身が知りたい。あいつの強さが知りたい。
それは衝動のように突然やってきて、欲望のようになかなか去らなかった。

ミキはすくっと立ち上がった。
一度心を決めたらもう揺るがない。あとは行動あるのみだった。
友達になるわけじゃない。ぺちゃくちゃお喋りするわけじゃない。
そんなことよりもっと簡単に分かり合える方法がある。

命のやり取りをすること―――ミキはそれしか方法を知らなかった。

「おい、LL! ちょっと来い!」
960 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:03
ミキは自分とヨシザワがリングで向き合ってる様を想像した。
それだけでゾクゾクとするような快感があった。
こいつは最高の―――退屈しのぎだ。

あたしはやりたいことをやる。あたしが一番やりたいことをやる。

もう誰もミキの欲望を押し止めることはできなかった。ミキ本人にも。
「はーい。なんですカ、フジモトさん」
「おいLL、次のヨシザワのファイトの相手は決まってんのか?」
「はいー。ヨシザワさん、すごい人気ネ。来年まで相手が埋まってるヨ」

ミキは派手に舌打ちした。どうしてもやりたい。どうしてもやり合いたい。
来年までなんて待てるわけがなかった。ミキは待つことが嫌いだった。

「どしたのフジモトさん?」
「やるんだよ。あたしがヨシザワとやる」
「おー、それアヤさんの指示か?」

ミキは聞こえるか聞こえないかくらいの舌打ちをした。
LLがいる以上、遊びでできることではない。
961 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:03
「いや、カゴは動かねーしよー、待っててもしょうがねーじゃん」
事態が動かないのであれば、こちらから動かせばいいのだ。
どうせ相手は叩けば埃の出る体だ。突けば必ず何らかの反応を示すはずだろう。

アヤからはあまり派手なことはするなと言われているが、
どこまでが「派手」なのか、判断するのは現場の責任者であるミキ本人だ。
そう、これはあたしの仕事。あたしが判断して何が悪い。
ミキは機械的に一つの決断を下した。

「だからあたしがヨシザワと戦うんだよ」
「え? なんでですかー?」
ヨシザワとファイトをして、それで何かがわかるわけではない。
だが不敗のヨシザワを倒せば、フォースに大きな動揺が走るのではないか?
ミキは必死で考える。考えながら喋る。これまでもずっとそうやってきた。

「フォースに揺さぶりをかける。ヨシザワが敗れれば、必ず組織は揺らぐ。
 カゴにはその動揺を押さえ込めるだけの器量はない。となれば―――」
「裏にいるSSから誰かサポートに来る――――ということカ?」

ミキはにっこりと笑った。上出来だ。これでいい。たまらない一つの快感があった。
自分の欲望に合わせて世界が回る。あたしが回す。これがあたしのやり方だ。
これからもずっとこのやり方であたしは上手くやっていく―――
ミキはそう信じていた。
962 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:03
「フジモトさん、頭いいねー」
「当たり前だっつーの」

このアイデアは使える。ミキの直感がそう告げていた。
自分がヨシザワに敗れる可能性については一切考慮しなかった。
明日地球が爆発したらどうしようと心配する人間なんていないように。

「次のファイトの相手は誰かわかるか?」
「もちろんネー。次は最強の挑戦者とか呼ばれてる人よ。普段は挑戦者が逃げた場合の
 リザーバーを置くらしいけどねー。今回は置いてないらしいヨ。こいつは絶対逃げない。
 フォースの人間もそう考えているネ。だから無駄金になる補欠はおかないってヨ」

ファイトの細かいシステムについては初めて知った。
リザーバー(補欠)なんていうシステムがあったのか。それは好都合だ。

「わかった。じゃあ二つ仕事をやってくれ」
「はいはいオーケーわかりました。なんでしょ?」
「一つ。あたしをそのリザーバー枠に押し込んでちょうだい。できるだろ?」
「もちろんそんなの簡単ネ。店の人みんなトモダチ。係のイシカワさんもトモダチね」
「はー、トモダチねえ・・・・・・・」
963 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:04
いつの間に。ミキはあきれ返った。
LLは働き者なのは良いのだが、人当たりが良すぎるのが欠点だ。
この仕事は顔を覚えられて良い思いをすることは何もない。
隠密に動くのがセオリーなのだが、LLはそういったことができないタイプだった。

「まあいいや。もう一つ。その最強の挑戦者ってのが当日会場に来れないようにしてほしい」
「来れないように・・・・・・ってどういう意味ですカー?」
「あたしはヨシザワとファイトしたいわけ。だからそいつが邪魔なわけ」
「おー、なーるほど」
LLは右手で作った拳を、左の掌の上でポンと叩いた。
昔の漫画でよく見るような仕草だ。実際にやる人間をミキは初めて見た。

「あの・・・だからさ、手段はなんでもいいからさ、来れないようにしてほしいわけよ」
「だったら簡単ね。当日殺せばいいヨ」
「えっ」
「殺せばその男、会場に来れない。でしょ? 殺しちゃいけない理由があるカ?」
「いや、ないけど。でも最強の挑戦者なんだろ? どうせバリバリのキャリアだろ?」
「アハハハハハハハハ」

LLは陽気に笑った。
劇団員が「喜怒哀楽の、喜!」とか言って演技の練習をしているような笑いだった。
964 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:04
「もちろんキャリアね。それがなに?」
「それがなにって・・・・・・強いんだろ? 只者じゃないんだろ?」
「めっちゃ強いよー。これまでの挑戦者がカマキリならそいつはカブトムシね」
LLはよくわからない喩え方をした。
どっちがどれだけ強いんだ? 中国ではカブトムシが最強なのか? 基準は何だ、基準は。

「ふーん。カブトムシねえ。じゃあ、あたしは何?」
「フジモトさん? よくわからないけどスズメバチかなー?」
ますますもってよくわからない。
スズメバチってカマキリより強いのかよ。カブトムシより強いのかよ。
誉められているのか、貶されているのか、ミキにはよくわからなかかった。

この仕事をLLに任せて本当に大丈夫だろうか?
LLは暗殺現場では単独で行動することが多かった。
セットで動くときのパートナーはいつもJJだ。
ミキはLLの戦闘能力がどれほどのものか、実際にはあまりよく知らない。

「じゃ、LLは何なんだよ。カブトムシに勝てんのかよ」
LLはカラっと晴れた青空のような笑顔で、ミキの心配を吹き飛ばした。

「アハハハハハ。大丈夫。LLは虎ね。カブトムシじゃ、虎には勝てナイ」
965 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:04
966 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:04
確かに男は強かった。
カブトムシという喩えが適当かどうかはわからないが、間違いなく強かった。
少なくとも北関東においては王者として君臨しているキャリアだった。
もちろん彼は―――ヨシザワなどという女に負けるとは思ってはいなかった。
彼が所属する組織の東京進出において、まずはこのフォースという
東京一という噂の店を制圧するつもりだった。

不幸だったと言わざるを得ない。

もし彼がヨシザワと戦い、たとえ敗れたとしても、
それは決して不幸だったとは言えないだろう。
男として戦い、キャリアとして戦い、ファイターとして戦い、
勝利も敗北も、彼自身への正当な評価として受け取ることができただろう。

だから男は不幸だったと言わざるを得ない。

彼はただ、たまたまフジモトが思いついたときに、
たまたまヨシザワに挑戦する人間に決まっていた、というだけにすぎない。
何の関係もない男だった。ミキとも。GAMとも。SSとも。
そして『虎』と呼ばれる中国から来た暗殺者とも。
何の関係もない男だった。

不幸だったと言わざるを得ない。
967 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:04
LLは真正面から男に向かっていった。
真っ赤なチャイナドレスを着た可憐な少女。
くっきりと浮かび上がったボディラインは、銃器を隠しているようにも見えなかった。
男も、その周りにいた人間も、誰もLLに注意は払わなかった。

LLはキャリアではない。超能力者でもない。軍事訓練を受けたわけでもない。
ただ、拳法の修行だけは一通り積んでいた。十年と少しばかり。

十年と少しばかり―――文字通り寝食を忘れて、一日24時間。
信じられないくらい修行に打ち込んでいた。
彼女の細胞と血管には想像を絶する修行の成果が濃密に詰まっていた。
流した汗は裏切らない。
絶え間ない単純作業の繰り返しは、時として科学をも超えて超常的な力を発揮する。
そういう意味では―――LLは超能力者だったのかもしれない。

男にはLLの放った単純な正拳突きが見えなかった。

もしかしたら男は幸運だったのかもしれない。
少なくとも痛みを感じることはなかった。
LLの拳は男に痛みを感じさせる間もなく、光の速さで突き抜けていき―――
男の頭部を水風船のように弾き飛ばした。
968 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:04
969 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:04
ミキがリングに上がった瞬間、凄まじい罵声が飛び交った。

フォースではファイトに関する賭博券は、ファイトが中止にならない限り、
払い戻しが一切利かない。
つまり賭けはリザーバーも含めての賭けということになる。
実際これまでも、何らかのトラブルでリザーバーがファイトに出るという事態は何度かあった。
ごく希ではあるが、初めての事態ではなかった。

だが酔っ払った客にはそんな理屈など関係ない。
見たこともない華奢な少女が、不敗のファイターのヨシザワと戦えるとは思えなかった。
男に賭けていた客は、早くも賭け券を破り捨てているようだった。

バカだねー

ミキはそんな客を見下していた。客の表情をじっくりと眺める余裕があった。
だがお互いリング中央に歩み寄り、目と目が合った瞬間、
ミキの心の中から楽観的な気分が吹き飛んだ。
頭の中で真っ赤な警報ランプが鳴り響く。最上級の危険信号だった。

こいつは―――やっぱりこいつは並じゃねえ。
970 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:04
こいつは並じゃねえ。

ミキがそう思っていたとき、ヨシザワも全く同じ事を考えていた。

今回のファイトが始まる前に、周りが最強の挑戦者と騒ぎ立てていたときも、
ヨシザワの心はいたって平静だった。
フォースでのファイトはスポーツじゃない。殺し合いだ。同じ相手と再戦することはない。
だからファイトに最強もクソもありはしない。

ファイトは10進法ではなく2進法なのだ。
10進法のように、9つの数字が積み重なっていくことはない。

ファイトは勝利という1と敗北という0の二択でしかないのだ。
たとえ勝利しても、積み重なって桁数が増えていっても、
2進法はどこまでいっても1と0の二つの数字しかない。

ゼロかイチか。勝者か敗者か。死者か生者か。
どこまで行っても単調な二択の繰り返しでしかない。それが永遠に続くのだ。
だから比較対象は過去でも未来でもなく、今この瞬間にしかない。
だからヨシザワはいつだって、リングの上に立っている二人が最強だと思っていた。
971 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:05
だが今、目の前にいるこのリザーバーは、過去に対戦したどの相手とも違っていた。
どうしても過去の対戦者と比較してしまう。
比較して、共通点を探そうとしてしまう。
共通点が一つでもあれば、そこからこの女の一部が類推できるだろう。
だがこのフジモトミキという女は、過去のどの対戦者とも共通点らしきものがなかった。

それでもヨシザワは一つだけ理解できた。
なぜ共通点が見えないのか。
それはこの女が強いからだ。それも飛び抜けて強いからだ。
ただ強いというそれだけで、他の全ての印象を吹き飛ばしてしまうくらい、強いからだ。

それでも不思議とヨシザワは自分が負けるとは思わなかった。
この女は、強いと同時にとんでもなく弱い。
そんな矛盾した思いがヨシザワの中にあった。

その弱さがなんであるのか。それは今はわからない。
だが戦えばわかる。このリングの上で、一緒に濃密な時間を過ごせばわかる。
命のやり取りだ。見知らぬ二人が理解しあうには、これ以上濃密な空間はない。
972 名前:【発症】 投稿日:2009/07/30(木) 23:05
なぜだろう。
ヨシザワは相手に対して、倒してやる。殺してやる。とは思わなかった。
ただこの女に対して「あんたの弱さを教えてやるよ」という気持ちになった。
勿論そんなことは100回近いここでのファイトにおいて初めて思ったことだった。

ヨシザワは自分の強さに自信を持っている。
だがそれと同じくらい、自分が弱い人間であることも知っている。
自分も。カゴも。イシカワも。ナカザワも―――そしてツジも。
みんな弱い人間だ。人間はみんな弱いんだ。
その弱さがたまらなく悲しかった。

きっとこのフジモトという女は―――それを知らない。自分の弱さを知らない。
だから教えたい。だから伝えたい。お前がどれほど弱い人間かということを。
そのためにはまずこのフジモトという女の弱さを知らなければならない。

相手のことを知りたい―――もっと深く、もっと深く。
皮肉にも、ヨシザワとミキは、全く同じことを思っていた。

ゴングが鳴った。
973 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/30(木) 23:05
974 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/30(木) 23:05
975 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/30(木) 23:05
976 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:02
ゴングが鳴った。
その瞬間、ミキの脳内から警報ランプが消えた。
ここから先は命のやり取りだ。今更警報でもあるまい。

同時にミキの耳からは観客の罵声も消えた。
折れた肋骨の痛みすら消えた。
ただひたすらヨシザワの動きだけに視線を集中する。
こちらから動くつもりはなかった。
こういう戦いでは、最初に動く方が絶対的に不利だ。

こう着状態が続けば、必ず客からブーイングが飛ぶに違いない。
自分はそんなブーイングなど全く気にする必要はない。
だがここの看板ファイターであるヨシザワは、動く必要に迫られるだろう。

その瞬間が最大のチャンスだ。
そして案外それが―――最後のチャンスかもしれないと思った。
二度も三度もチャンスを与えてくれるような甘い相手ではないだろう。

ミキは冷静だった。そして集中していた。
LLの横に、嗅ぎ慣れた臭いが漂っていることにも気付かないくらいに―――
977 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:02
1分が経った。
客からブーイングが沸き起こる。

2分が経った。
客のブーイングが地鳴りのように響き始める。

だがヨシザワは動かなかった。自分から動くつもりはなかった。
相手は明らかにその瞬間を待っている。
ヨシザワは冷静に相手の動きを観察していた。

たかが客のブーイングに乗せられて動くほどヨシザワは甘くなかった。
3分が経った。相手のフジモトがちょっと意外な表情を見せた。
それを見てヨシザワはニヤリと笑った。

焦るなよ。じっくり楽しもうぜ。この濃密な時間をさ。
ヨシザワはガードを上下させながら、目でフジモトに話しかけた。
お前だってこの瞬間のために生きているんだろう?
飯食ったり。息吸ったり。金稼いだり。男とセックスしたり。そんなの全部おまけだろ?

自分より、ほんの少し強い相手をぶちのめすために。相手の全てを否定するために。
そのために生きているんだろう? 他のことなんておまけみたいなもんだろう?

ガードの向こうでフジモトがフッと笑ったような気がした。
次の瞬間、嵐のようなラッシュが襲い掛かってきた。
978 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:02
3分経ってもヨシザワは動かなかった。
ミキにはそれが意外なことに思われた。

客のブーイングは頂点に達しようとしている。
このまま時間が過ぎれば、フォースにとって美味しいオッズも成立しなくなるだろう。
ヨシザワは一体、何を考えているんだ?

次の瞬間、ヨシザワのガードがすっと下がった。
ニヤリと笑った目が告げていた。焦るなよと。楽しもうぜと。
ヨシザワのガードがまた上がる。そして下がる。そして上がる。遊んでいた。一人で。

ヨシザワの目は雄弁だった。
お前だってこの瞬間のために生きているんだろう?
自分より、ほんの少し強い相手をぶちのめすために。相手の全てを否定するために。
そのために生きているんだろう? 他のことなんておまけみたいなもんだろう?
そうやってしきりにミキに訴えかけてきた。

あー。うるせえ。

ミキはお喋りなヤツが嫌いだった。
何より嫌いなのは、わかった風な顔をしてズバリと図星を指すヤツだった。
そんなやつは残らず全て叩きのめしていた。例外はない。

ミキはふっと一つ息を吐くと、猛然とヨシザワに襲い掛かった。
979 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:02
こういう戦いでは先に動いた方が絶対的に不利だ。
ヨシザワは落ち着いてフジモトの攻撃を迎撃した。

フジモトのパンチの軌道がはっきりと見えた。
全力を出す必要はない。キャリアとしての能力を出す必要はない。
80%くらいの力で十分かな―――と思って出したヨシザワのパンチは、
ものの見事にフジモトの顎を捕らえた。

あれ?

びっくりするくらい手応えがなかった。
ヨシザワのパンチに逆らうことなく、フジモトはくるりと体を回転させていた。
勢いをつけて回った体の向こうから、鋭いバックハンドブローが飛んでくる。

しくった

フジモトの手の甲が見事にヨシザワの額を捕らえた。
捕らえたというよりも―――ヨシザワが自分からしゃがみ、
フジモトのバックハンドブローを額で受け止めたと言った方が正確だろう。

額は顔の中でも一番固く、ダメージが残りにくい部分だ。
あわよくば頭突きでフジモトの拳を砕こうと思った。
だが痛がる素振りも見せずに、フジモトは次の攻撃を仕掛けてきた。
980 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:02
バックハンドブローを額でブロックされた瞬間、ミキの体に激痛が流れた。
だが痛みは顔に出さない。それは戦いの基本中の基本だ。

今度は左手でヨシザワの目を狙った。
本来なら貫手で打つべきところだったが―――額でブロックされたことが頭に残っていた。
同じように体の固い部分でブロックされたら指が折れる。

ミキは掌底でヨシザワの顔面を捉えにいった。
貫手ほど殺傷力はないが、掌底の方が打撃面積が広い分、攻撃が当たりやすい。
かすっただけでも攻撃が当たればこちらのリズムになってくる。
ミキは右から左から掌底を乱れ打ち、ヨシザワに後退を強いた。

当たらない。全く当たらない。だがこれは撒餌だった。
上からの攻撃に目を慣らしておいて、ミキは突然回し蹴りを放った。
蹴る瞬間、以前ここでカマキリ女と戦ったときのヨシザワの映像が浮かんだ。
あのとき、カマキリ女の攻撃がヨシザワをとらえたと思った瞬間、
吹っ飛んでいたのはカマキリ女の腕の方だった。

一瞬、ミキの足が伸びなかった。
それが命取りになったのか、あるいは命を取り留めたのか。
それはミキには分からない。
だが次の瞬間、マットにはいつくばっていたのはミキの方だった。
981 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:03
フジモトの蹴りは予想していない角度から飛んできた。

パンチで目を上からの攻撃に慣れさせて、蹴りを飛ばす。
そんなのは基本中の基本のパターンだった。ミエミエだった。
だからヨシザワは余裕を持って受け止めることができると思っていた。

だがフジモトの蹴りは突然、ヨシザワの視界から消えた。
かわしきれない。そう感じた瞬間、ヨシザワの筋肉が反応した。
全ての筋肉が一つの方向に向かって収斂した。
一点に集中したパワーがヨシザワの膝に宿る。
まるで体当たりのような捨て身の飛び膝蹴りがフジモトの胸元を掠めた。
フジモトは瞬間的に胸を反らしていた。手応えはまるでなかった。

外した―――。

そう思い、体勢を立て直したヨシザワだったが、振り向くとフジモトはマットに沈んでいた。
バカな。ほんの少しかすっただけだ。ダメージがあるわけがない。
死んだ振り―――?
おいおい、つまんないことしてこっちをがっかりさせるなよ。

ヨシザワはフジモトが立ち上がってくると確信していた。
実際、フジモトはよろよろと立ち上がろうとしていた。
だが次の瞬間、挑戦者側のコーナーから白いタオルが投げ入れられ―――

ヨシザワの勝利を告げるゴングが打ち鳴らされた。
982 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:03
ヨシザワの飛び膝蹴りはかわしたと思った。だがかすかに胸をかすめていた。
折れた肋骨はまだ完全に治っていない。
普段なら感じない痛みに戸惑いながら、ミキはマットに膝をついた。

違う。スリップダウンだ。こんなもの効いちゃいない―――

だが立ち上がったミキの足元に、バサッと白いタオルが投げ入れられた。
そしてヨシザワの勝利を告げるゴング―――

バカな! 降参なんてするかよ! だれが勝手なマネを? LLか?

振り向いたミキの視線の先には、氷のような冷たい眼差しをしたアヤが立っていた。
その横ではLLが申し訳なさそうな顔をしている。
全部アヤに報告していたのか―――

力が抜けたミキは、がっくりとマットに膝をついた。
LLとアヤが近づいてくる。アヤは氷のような冷たい声で言った。

「帰るよ。話はその後でね」
983 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:03
984 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:03
アヤはGAMの構成員が運転する車の後部座席に陣取った。
隣の席にはミキが座る。
LLはフォースの監視のために残してきた。

帰途につく間、アヤはミキに何も言わなかった。
ミキはずっとふてくされたままだ。自暴自棄になっているらしい。
言い訳をしないところも、そして申し訳なさそうな顔を全くしないところも、
ミキらしいといえばミキらしかった。

アヤはLLから逐一報告を受けていた。
だからこの件については、LLが男を殺す前から知っていたし、
止めようと思えばいつでも止めることができた。

派手なことはしたくない。それは何度も言ってきかせたはずだ。
不敗のヨシザワに勝ってしまうようなことになれば、
ミキはこの世界で一躍脚光を浴びてしまうだろう。
それがわからないミキではないだろう。判断を誤ったのはなぜ?

もしかして?
985 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:03
アヤは一度LLに聞いてみた。この子はなかなか頭が切れる。
「え? フジモトさんがヨシザワを好き? ないない。そんなことないネー。
 フジモトさん、ただ退屈してるだけよ。ヨシザワさんと遊ぶ。
 これフジモトさんにとっての最高の暇潰しネ。マツウラさんもわかるでしょ?」

なるほど。その通りかもしれない。
ミキは黙って鎖につながれているような子ではない。
それなら一度だけ。一度だけ好きなように遊ばせてやろう。

一度痛い目に遭えば少しは大人しくなるだろう。
きっとミキにとってきついお灸になるに違いない―――
アヤは、怪我が癒えていないミキがあのヨシザワに勝てるとは思っていなかった。

案の定、ミキは敗れた。だが収穫がなかったわけではない。
あの飛び膝蹴りを出した瞬間、あの一瞬だけヨシザワはキャリアとしての能力を使った。
一度見れば十分だった。
アヤにはもうヨシザワの能力がなんであるのか、おおよその見当がついていた―――

もし次にGAMがヨシザワとやり合うような事態になれば、相手をするのは自分だ。
アヤにはヨシザワを完膚なきまでにたたきのめす自信があった。
986 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:03
「とりあえず、フォースの線は一旦中断ね」

ミキはそこで初めてひどく傷ついた顔をした。
自分がヨシザワに敗れたのだということを再認識させられたのだろう。
確かにミキは怪我をしていた。だが負けは負けだ。
そんな言い訳をすることはミキ自身も許さないだろう。

「いやでもアヤちゃん」
「ミキたんが悪いんじゃないよ。収穫もないわけじゃなかったし」
「同情はいらねーんだよ。変なフォローしないでよアヤちゃん」
「コンコンがアクセスに成功した」

アヤは話をガラリと一変させた。
そしてそこで一旦沈黙した。重い空気が車中に満ちる。

どこにアクセスしたのか。なにが起こったのか。
そこまで言う必要はないよね? ちょっと考えればわかるよね?
アヤは無言でそう言った。そうすればミキの頭が冷めるとわかっていた。
987 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:03
ミキの頭が冷えたのを見計らって、アヤが言った。

「本部に集められるだけ人を集めた。コンコンもカオリもいる。支部にはJJを回した。
 マコのところにはNothingを回した。それ以外のメンバーは皆本部で待っているんだ。
 もう一回、人員の再編が必要なわけよ。わかるでしょ?」
「わかった。もう勝手なことはしない」

未練はまだたっぷり残っていたが、とりあえずミキはそう答えた。
本来の目的を忘れるほど、ミキは愚かではない。
確かにファイトでは負けた。だがあれは本来の仕事ではない。
仕事は仕事。遊びは遊び。そう割り切ることができた。

勿論、遊びであっても借りは借りだ。
いつかヨシザワにはきっちり利子をつけて返さなければならないだろう。
なによりも―――ミキは何一つ理解できていなかった。

なぜヨシザワが戦うのか。なぜヨシザワはあんなにも強いのか。
そしてなぜ、自分がこんなにもヨシザワに興味をひかれるのか―――
988 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:03
989 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:04
GAMの本部には言い様のない緊張感が流れていた。
会議室には40人ほどの人間がいるだろうか。
LLやマコとJJ以外の主要メンバーが全て揃っていた。
アヤとミキがそこに顔を出すことで、緊張感はさらに高まる。

しばらくの間、本部を空けていたミキは驚いた。
武器弾薬の類が部屋中に溢れている。
まるでこれから戦争に行くかのようだ。

いや、実際これから戦争に行くのだろう。

アヤがこれだけの準備をしているということは、
これだけの準備が必要な相手と戦うことが決定したということだ。

これってあのヨシザワと戦うのとどっちがシビアな戦いなんだろう―――
ミキはこの期に及んでもまだそんなことを考えていた。
990 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:04
「コンコン。説明して」

アヤに促され、コンノが立ち上がった。
「はい。なんとか政府のサイトへのアクセスに成功しました・・・・・・。
 詳細を話すだけでたっぷり2時間は・・・・ですが今はそれは省略します」

コンノの目の下にははっきりとした隈ができていた。
一日や二日の徹夜では音を上げないコンノにしては極めて珍しいことだった。

まあ、ちょっとくらいなら苦労談とかも聞いてあげてもいいかな、
とミキに思わせるほど、コンノはぐったりとやつれていた。
生真面目なコンノのことだ。きっと不眠不休でやったのだろう。ご苦労なことだ。

「結論から言います。あの施設は当時のままの状態で封鎖されてます。
 信じがたいことですが、どうやらウイルスに汚染されて持ち出せなかったようです。
 パソコンも、書類も、実験施設も。そして―――あの事故で死んだ使者もそのまま」

会議室にざわざわと動揺した声が広がる。
三年もの間、死体が放置されているなんて常識では考えられなかった。
991 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:04
「あそこに放射能が出たも事実でした。今でも防護服なしで近づくことはできません。
 ですが―――逆に言えば、防護服があれば近づけるということです。
 今もあの地域一帯は封鎖されていて厳しい検問態勢が引かれていますが、
 そこさえくぐりぬければ、施設そのものの警備はほとんどなされていません。
 何と言っても―――そこは人間が住むことのできない死の世界ですから」

検問は厳しいが、封鎖地帯は広い。
検問が全ての地域をカバーしているとは言い難い。
場所を選べば突破することは難しくはない、というのが他のメンバーの調査結果だった。

「ウイルスそのものに関しては、国もほとんど情報を持っていませんでした。
 やはりテラダという男が―――ほとんどの情報をにぎっているようです。
 そのテラダという男を施設長に推薦したのはヤマザキという男でした。
 こちらの男の背景については現在調査中ですが、例の薬の投与試験に関与していた
 製薬会社は、このヤマサキという男の息のかかった会社と考えて間違いありません」

コンノは言い淀むことなく報告を終えた。
アヤのリクエストにほぼ完璧に応えた報告だった。
992 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:04
アヤが満足そうに言った。
「つまり試験結果なんかの情報は、全てあの施設に封じられているわけね」

コンノが力強く頷いた。
「はい。施設の外面は、事故直後に爆撃を受けて全壊したようですが、
 試験施設は全て地下にありました。おそらくは地下は無傷だと思われます」

会議室のディスプレイに施設の画像が映し出される。
その下にはテラダと思われる中年の男の写真と、
一人の少女の写真が添えられていた。

コンノが少女について説明を付け加える。
「このカメイという研究員はテラダの個人的な推薦で入所しています。
 そして例のウイルスというのは―――このカメイが入所した後から
 様々な試験が開始されていることがわかりました。つまり―――
 あのウイルスと、カメイという女は何らかの関係が強い可能性があります」
993 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:04
ミキがスパッと言った。
「コンちゃんは相変わらず回りくどい言い方するなあ。
 要するにそのカメイってのがウイルスを持ち込んだんだろ?」
「可能性はゼロではないです」
「はいはい」

アヤがニヤリと笑った。
「どう? ミキちゃん。もうフォースでヨシザワと遊んでる場合じゃないでしょ」
「はいはい。その通りでございますよ」

フォース。マリィ。SS。アベナツミ。施設。政府。
考えうる範囲で、ありとあらゆる範囲に網を張ったGAMだったが、
最終的なターゲットがここで一つに絞られた。
アヤがそれを明確な言葉で全メンバーに告げる。
それを合図にGAMの行動は次のステージへと移された。

「よし。ターゲットは施設だ。次は施設に殴り込みをかける」

アヤの言葉はその場を沸騰させるには十分なものだった。
メンバーは手に手に武器を持ち、待ちきれないといった表情でアヤの次の言葉を待つ。
いつ仕掛けるのか。何人で仕掛けるのか。どう仕掛けるのか。
全てはアヤの判断にかかっていた。
994 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:04
その場にいた全員が、次の展開をにらんで夢中になっていた。
アヤですら、恍惚とした感情とは無縁ではなかった。
だが気持ちの高ぶりが油断になっていたわけではない。
アヤはあくまでもいつものアヤだった。

だがアヤはそのとき、気付いていなかった。

カオリも、コンノも、その他のメンバーも全て。

気付いていなかった。

GAMの本部である建物を、一人の女が見つめていたことを。
揺れることも漂うこともなく、ただ壁の隙間の黒く張り付いた闇の中に、
GAMのメンバーを見つめる一人の女がいたことに。

誰も気づかなかった。
995 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:04
黒い影は、音も立てずに移動を始めた。

驚くべきことに、その女が移動することによって、何も動かなかった。
空気も塵も芥も。分子や原子でさえも。何一つ動かなかった。
彼女が発する熱も呼気も全て、流れ行く風の中に中和されてなだらかに消えた。
だから誰もその気配を察することができなかった。

そのとき、地球の大気が気まぐれに風の向きを変えなければ―――
きっとミキですら気付くことはできなかっただろう。

ほんの一つの粒子だった。
ほんの一つの臭い粒子を、ミキの敏感な鼻を捕らえた。
ミキの中で警報ランプが鳴り響く。ランプの色は、赤ではなく黒だった。

覚えのある臭いだった。忘れようと思っても忘れられない臭いだった。
ミキは銃を握り締めると、頭を下げて床にダイブした。

「伏せろ! 敵襲だ!!」
996 名前:【発症】 投稿日:2009/08/02(日) 23:07
第四章  発症  了
997 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:07
998 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:07
999 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/08/02(日) 23:07
1000 名前:誉ヲタ ◆buK1GCRkrc 投稿日:2009/08/02(日) 23:07
サディ・ストナッチ・ザ・レッド
ttp://m-seek.net/test/read.cgi/water/1249221991/
1001 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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