ぞわぞわの日
- 1 名前:さるぶん 投稿日:2009/03/25(水) 09:56
- ハロプロ(OG・エッグ含む)のお話です。
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 09:57
-
「ぞわぞわの日」
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 09:58
-
信号が変わった。
歩き出した人々は、交差点の真ん中ですれ違いながら、それぞれ
の方向へ消えていく。
この時間、この街は、ふたたび信号が変わるまでのあいだ、それを
途切れさせないだけの人口を抱えていた。
駅のターミナルが仕事帰りのビジネスマンを吐き出し、繁華街のネオ
ンがそれを受け入れた。
車はヘッドライトで横殴りにした若者を、それとは逆の方向へと見送
った。
信号が変わった。
誰もいないはずの場所に、少女が立っていた。
暫くのあいだ、渡り損ねた人々は、赤、青、赤、青といつものように
脈流が変わっていく、ありふれた交差点の風景として目の前のできご
とを眺めていた。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 09:59
-
ドライバーたちは、突如現れた少女を避けるようにしてハンドルを切
っていたが、それは歩道から見たとき、わずかな違いでしかなかった。
誰かが声を上げたのか、クラクションだったのか。
少女の存在に、人々が気づき始めた。
ぼんやりと、そこには幽霊が浮かび上がっているのだと、誰もが思っ
た。
三たび、信号が変わった。
折からの電車の到着で、先ほどよりも大きな雑踏がそこへなだれ込
んでいた。
往来の中で、人々は、その影が実在する少女らしいことを悟って胸を
なでおろした。
次の瞬間だった。
誰かが叫んだ。
――血だ!
まず、誰かが倒れ込み、それを見て叫んだものの中から、また新た
な昏倒者が出た。
人々は、叫び、佇み、震えていた。
その中で、少女は、ひとり微笑んでいた。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 09:59
-
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:00
-
【あさひ駅前でこん倒者多数 〜通り魔?集団ヒステリー?】
夕べ午後7時ごろ、あさひ駅前のスクランブル交差点で、複数の
通行人が突如として倒れ、意識を失った。
県警の発表によると、13日午後7時ごろ、帰宅時のラッシュにあっ
た通行人のうち10数名が、胸に手を当てながら「血だ」と叫んで倒れ
た。
被害者の多くは意識を失い、病院へと搬送されたが、うち1人は
意識が戻っておらず、すぐさま通り魔事件の線で捜査が開始された。
怪我人は1人もおらず、鑑識の結果、現場には血痕らしきものが
見当たらなかった。
ほかにも「血をかけられた」など奇妙な証言があったが、犯人の
目撃情報はなく、何らかの集団ヒステリーではないかとも疑っている
という。
加えて、事件当時、現場には不審な少女がいた。
信号が赤であったにも関わらず、少女はスクランブル交差点の真ん
中に佇んでおり、信号が変わっても動き出す気配がなかった。
健康に被害のなかった複数の通行人によると、少女にはいくつかの
特徴がある。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:00
-
年齢は15〜6歳、透き通るように色が白く、身長は160センチ程度、
白のワンピースに黒髪、大きな目と口元にほくろがあったというが、
この騒ぎの中で行方が分からなくなった。
県警は、この少女が何か知っているとみて、重要参考人として行方
を追っている。
――14日付 あさひ日報社会面
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:00
-
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:01
-
「勘弁してくださいよ」
吉澤はデスクに噛み付いた。
「いま追ってる中国人窃盗団の件、あと少しで、尻尾が掴めそうなん
です」
書類をいじっていた手を止めると、部長刑事は、中指でメガネを鼻先
へ落とした。
「お前、夕べどこにいた」
「プライベートの詮索ですか」
「ちがう。ニュースは見てないのか」
「見ましたよ、駅前で起きたこん倒事件のことでしょう」
「なんだ。知ってるのか」
部長刑事は、デスクの端にあった新聞を手に取ろうとして、止めた。
「どこにいたって、ケータイでチェックぐらいしてます。それより、こっち
をやらせてください」
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:01
- 吉澤は、その紙面をどけると、下から現れたファイルを叩いた。
表紙には、【市内全域、および管轄区外における連続凶悪窃盗放火
事件】とあった。
「…しかしだな。倒れた市民の中には若い女性もいる。おまけに奴さん
たち、どれも精神的に参ってるって話だ。そんなとこへ鼻息の荒い男ど
もが乗り込んでいってみろ、後で大目玉食らうのは俺なんだぞ」
「そんなの、ほかの誰かにやらせれば…」
そういって刑事部屋を見渡して、口をつぐんだ。
自分のほかに、女がいなかったからだ。
「吉澤…。少しは自分がここにいることの意味を考えろ」
吉澤は、一瞬、押し黙ったが、資料を開くと、すぐにメモを取った。
「わかってますよ」
手帳をしまい、ひらひらと手をふると、部屋を後にした。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:02
-
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:02
- 被害者の搬送先は、どれも市営病院だった。
駅からすぐの場所で、病室をいくつかはしごしてまわったが、めぼし
い証言は得られなかった。
面会を拒否されることさえあった。
重たいリノリウムの床を歩いて外へ出ると、吉澤は新鮮な空気を吸
った。
その脳裏には、事件の印象が新聞やニュースサイトで読んだ文面の
まま、どこか不可解なものとして残っていた。
このところの吉澤にとって、捜査に出ているあいだ、一ミリもインクを
減らさないことは日常だったが、足を向けた先は署とは反対のほうだっ
た。
5分ほど歩くと、駅前の交差点が見えてくる。
夕べ、事件があった場所だ。
土曜の午前。
いまやすっかり日常を取り戻していて、多くの買い物客がいる。
アスファルトのどこにも、血痕らしきものは見当たらなかった。
場所が場所だけに、警察以外のものに消された可能性もなかった。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:02
- 吉澤は、一角にあるコンビニへ入った。
資料によると、昨晩、ここのアルバイト店員が事件の一部始終を目撃
していたのだという。
今朝、早くに110番があって、捜査資料にもメモ書きが挟まれていた
だけだった。
「店長さんはどちらに」
手帳をひらくと、応対した40がらみの男が、私ですといった。
「いやぁ、参りましたね。通報したのも私なんですが、肝心のバイトの
子が来てないんですよ」
そういって、薄い頭をなでた。
「そろそろ来ると思いますから、奥で待っていてください」
お茶を出すともいったが、吉澤は辞退した。
店の中から、夕べの事件がどう見えたのか、確認しておきたかった
からだ。
出入り口のスポーツ誌のところへ立って外を見ると、おおむね視界は
良好だった。
ちょうど信号が変わるところで、横断歩道の白いラインが、こちらへ向
かってまっすぐに伸びている。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:03
- ラインさえ描き変えれば、交差点が専用の駐車場にみえたはずだ。
1つだけ、街路樹が気になったが、葉は落ちていた。
しかし、それさえ掃き清められていて、商売上、ここはうってつけの場
所といえそうだった。
「来ましたよ」
客の対応をしながら、店長が指さした。
背の高い少女が、歩道を渡って、こちらへ歩いてくる。
「おはようございます」
「おはよう、エリカちゃん。…悪いね、急に入ってもらっちゃって」
「いえ、どうせ今日は、警察へいかなきゃと思ってましたから」
――梅田エリカ。
市内の高校に通う17歳。
資料には、それだけしかなかった。
「刑事さんはまだですか?」
「いらっしゃってるよ」
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:03
- 「え?」
エリカは店内を見渡したが、ほかにスーツの人間がいないと分かる
と、吉澤の顔をまじまじとみた。
「刑事さんって女のひと…ですか?」
最後のところだけ、吉澤に言っていた。
「男にまちがわれたことは、一度もない」
「…ごめんなさい」
エリカはうつむいてしまったが、それでもチラチラと見てきた。
「まぁ、それより用事を済ませてしまいなさい。刑事さんも、お忙しいん
だから」
「はい」
エリカは一旦バックヤードへ引っ込むと、荷物だけ置いてきた。
店長は終始にこやかだったが、すれちがいざま、エリカに「30分まで
だったら大目に見てあげる」といっているのを、吉澤は聞いてしまった。
彼は抜け目ない人物なのだ。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:05
-
客の目を考えて、吉澤は、エリカを連れ出すことにした。
「梅田です」
改めて警察手帳をみせた吉澤に、エリカは頭を下げた。
彼女は若者――あるいは、若者気分の人間しか入らないようなファ
ッションビルの服で上から下まで揃えていたが、濃紺のスーツという
ありふれた格好の吉澤と並んでも、とくに違和感はなかった。
「アルバイトは何時から何時まで?」
「5時から、7時までです」
「たったの2時間?」
「はい」
ウチのお父さん、きびしいから…といって、エリカは苦笑した。
「それでも許してくれたんだから、優しいじゃない」
「…えぇ、まあ」
吉澤は、歯切れの悪いようすに眉をひそめたが、先を続けた。
「事件には、どうやって気づいた?」
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:05
-
「ちょうど、レジのお金を数えてるときでした。引継ぎのために、おなじ
シフトの人といっしょに作業するんですけど、一つ目が終わって、二つ
目のレジに取り掛かろうとしたところで、あれ?…って」
コンビニは一般に、入り口から壁伝いに客を流していくシステムを取
る。
そのため、二つあるレジのうち、奥の方しか使わないのが基本だ。
エリカとシフトの相方は、慣例どおり、まずそちらから精算を終えると、
もう1台のレジに取り掛かろうとした――つまり、道路の方へ顔を向け
た。
見慣れたはずの風景に、ちょっとした違和感があった。
「…なんか、ざわついてるっていうか、もちろん、人はいつも多い時間
なんですけど、雰囲気がちがったっていうか」
違和感の正体は、すぐに判明した。
車が行き交う中、少女がスクランブル交差点の真ん中に立っており、
それを人々が指さしていたからだ。
「あっ、危ないっって思いましたけど、車に轢かれるとか、そういうのは
大丈夫そうだったので、なんか、余計なことを――もう肌寒いのにノー
スリーブ一枚で大丈夫かな?とか考えてました」
それから、しばらくは目を離していたという。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:06
-
「さっきもいいましたけど、ウチ、お父さんがきびしいんで、門限までに
帰らなきゃって焦ってたんです」
このとき、予定外のことが起きていた。
レジの精算が合わなかったのだ。
額がわずかだったため、無くしただけだろうと思い、店内を探してい
た。
このせいで、退勤時間を過ぎてしまった。
「つまり、7時すぎってこと?」
「はい」
事件があったのが、7時05分ごろだから、この証言は正しい。
「そしたら、キャーッ!って悲鳴が聞こえて、慌てて顔を上げると、ひと
が沢山倒れてました」
「ほかに不審な点はなかった?ワンピースの子以外で」
エリカは、思い出すように首をひねった。
「いえ、とくに…」
「現場に居合わせたひとの多くが、血が流れた、血をかけられたと証言
してるんだけど」
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:06
-
「え…それは」
エリカの眉が、不安げに寄った。
「ニュース、知らないの?」
「…知ってますよ、もちろん」
「じゃあ、ほかになにか知ってるの?」
「…いえ、べつに、あの」
今度は、目が泳いでいる。
「あのコンビニからなら、そう離れていないよね。きっと、なにか目撃し
てるはずなんだ。思い出せない?」
吉澤は、続けざまに質問しようとして、止めた。
病院の聞き込みでも、皆、いまのエリカとおなじ表情をしていたから
だ。
「ごめん。辛いことを思い出させちゃったね」
「いえ…あ…はい」
これ以上つづけると、仕事に支障がでると判断し、吉澤は、そのまま
エリカを戻した。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:06
- 結局のところ、またインクは減らなかった。
帰り際、申し訳程度だが、吉澤は、缶コーヒーを買っていくことにした。
レジを打ちながら、店長がいう。
「…いや、私も夕べ、エリカちゃんからいろいろ聞いてましたから、代わ
りにお話すればよかったですね」
このことばに、きびすを返していた吉澤が振り向いた。
「夕べ?…」
釣りを受け取った手が、そのまま止まっている。
「彼女から話を聞いたのは、夕べなんですね」
「ええ。シフトの交代のときには、なるべく顔を出すようにしてしてますか
ら」
「では、なぜ今朝まで通報なさらなかったんですか」
「…いや、それは」
「なにか、ご存知なんですね」
吉澤はカウンターに身を乗り出していた。
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:06
-
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:07
- レジでの取調べは、あっという間に決着がついた。
吉澤はかつて交番勤務のさい、この駅前に配置されていたのだが、
そのころから彼の噂は聞いていた。
彼は駅の反対側にも店を構えていて、そちらとこちらの両方で、深夜
の労働、たむろし、酒の販売など、未成年がらみで多くの問題を抱えて
いた。
しかしスクールゾーンともなっている駅前での声かけや、歩道の清掃
――たとえば、街路樹の落ち葉の掃き集め――など地域貢献をする男
としても知られていたため、大目に見られてきたのだった。
その辺りをつついてやると、すぐに白状した。
「エリカちゃんに、どうしてもって頼まれたんですよ」
夕べ、彼は時間が取れたため、いつものように店へ顔を出したという。
すると、入れ違いざまに、エリカが店の上っ張りをつけたまま、飛び出
していった。
「それは事件の前ですか?それとも後?」
「前です」
答えたのは、店長ではなかった。
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:07
- エリカが出てきたのだ。
「バレちゃったんですね」
そういって、店長を一瞬、にらみつけた。
「どういうことなの」
詰め寄る吉澤を、エリカは、バックヤードへ引き入れた。
「さっき言い忘れてたことがありました」
「血のこと?」
「そうです。ていうか、私、犯人を知ってます」
「誰?」
「白いワンピースの女の子です」
「やっぱり…。飛び出していったことと関係は?」
「あります。ともだちが、犯人のそばにいましたから」
「…でも、飛び出したのは事件の前だって」
言ってから、吉澤は思案した。
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:07
-
「――つまり、あなたは、事件が起こる前に、その子が怪しいと分かっ
ていた?」
「はい。変な液体を持っていましたから」
「それが血だった?」
「いえ、ちがいます」
「血じゃない?じゃあ何?」
「ピンク色の…なにかです」
「ピンク!?」
吉澤の思考は混乱した。
ひとびとは口々に、血だ、血だと叫んでいたが、赤かったという証言
は出ていない。
血液とは、本物より、ドラマや映画に出てくる血糊の方が見慣れてい
る、そんなひとも少なくないはずだ。
それは薄いものから黒っぽいものまでさまざまだ。
現場は混乱しており、当時すでに暗くなっていたことを考えると、当事
者たちが、ピンク色の液体を血液と混同した可能性は十分にある。
「それを、彼女はどうしたの」
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:07
-
「かけたんです。通行人に」
吉澤は、当時の現場をイメージしてみた――。
まず、少女が佇んでいる。
夜のスクランブル交差点に、四方から車のヘッドライトにショウアップ
された状態で、中央に。
不気味な存在感だ。
ひとびとの脳裏にはそうしたイメージが焼き付いていて、血液と酷似
した液体をかけられ、パニックを起こす。
――卒倒。
ありえない話ではなかった。
「…彼女にしてみれば、ちょっとしたイタズラのつもりだったんだと思い
ます」
軽い調子で言って、エリカはロッカーを開けた。
上っ張りをかぶり、鏡に向き合う。
そのようすを見ながら、吉澤はつづけた。
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:08
-
「でも、おかしい。犯人は交差点の真ん中にいた。そして、あなたが店
を出たのが事件の直前。もし、ともだちが犯人のそばにいたのなら、
通行人がそう証言してるはず…」
「それは…まちがいだったんです…実際には…遠くにいて…それで…
遠近…そう、遠近感がつかめなくて…」
エリカは考え考え話しているようだった。
「ともだちは、向かいの歩道にいたってこと?」
「…はい」
「それも、おかしい。さっき店の中から確認したんだけど、店に対して
歩道は確かに直角だった――でも、ともだちが向かいにいると勘違い
するほど、この交差点は小さくない」
鏡越しに、吉澤はなにも言わなくなったエリカを覗き込んだ。
「そのともだちに会わせてくれない?」
「…それはっ」
勢いよくふりかえると、すがるようにエリカは首をふった。
「入院してるとか…」
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:08
- 「いえ、家にいます。入院するほどの大事じゃないからって」
「じゃあ、そのともだちの名前と、それから住所を教えてもらえない
かな。ご家族の方はいらっしゃるんでしょう。折を見て、お見舞いにも
行きたいし」
「…ダメです」
吉澤が一歩、前へ詰めると、エリカは2歩後ずさる。
「まだ、なにか秘密があるの?」
「…いえ、その」
ロッカーの中に追い込まれたように、エリカは小さくなっている。
バックヤードの入り口に店長が顔を出した。
時計を見ると、30分が過ぎていた。
彼の舌打ちが聞こえる。
それ以外、あたりは静寂に包まれていた。
「マイミ」
「…え?」
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 10:09
- 「ヤジママイミ」
そう言ったきり、エリカは黙り込んでしまった。
強く、床の一点を見つめたまま動かない。
吉澤は、その場を立ち去るしかなかった。
惜しむようにゆっくりと歩き、店のガラス戸を押して振り返ると、エリカ
はレジにいた。
こちらを見てなにか言いたげにしていたが、きつく口を結ぶと、彼女は
客の応対に入った。
- 29 名前:さるぶん 投稿日:2009/03/25(水) 10:11
- 更新は週一をめざしてますが、まったく保障できない状態です
それでも読んでいただければと思います
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/25(水) 16:18
- 面白そう
更新待ってます
- 31 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/26(木) 00:20
- こちらも期待してます
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:04
-
署にもどると吉澤は、すぐさまコンピュータに当たった。
補導の前歴者リストを調べるためだった。
当該ページを呼び出し、「ヤジママイミ」と打ち込んだところで、ふと手
が止まった。
斜め前の部長のデスクに、例の資料があったからだ。
エリカから聞き出した情報はたしかに重要なものだったが、それは、
こん倒事件のものだ。
放火事件の方は、首謀者と目される中国人窃盗団に対し、なんども
捜査の手が迫っていたが、いつもあと少しのところで取り逃がしていた。
目を離せずにいると、部長が入ってきた。
新しいファイルを手にして、強行犯係を数名、連れていた。
吉澤は慌ててコンピュータに視線をもどしたが、横目でそちらを伺って
いる。
「なにを調べてるんだ」
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:05
- 近づいてきて、部長が言った。
「補導暦です。こん倒事件で、新証言が出たので」
新しいファイルはデスクに置いてあり、部長は、吉澤から見ると、ちょ
うどそれとの間に立っていた。
「そうか」
それだけ言って、デスクへ戻った。
「連続放火事件の新しい資料だ。いま、こっちで調べてる」
なにも聞いていないのに、言った。
「こっち」の部分に、強い意味が込められていた。
吉澤は、検索ボタンをクリックした。
- 34 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:05
-
- 35 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:06
- 結果はゼロ。
ヤジママイミという名の人物は補導者リストの中には見当たらず、念
のために成人の方にも当たってみたが、やはりダメだった。
部屋の奥から、部長たちの会話から漏れ聞こえている。
放火事件の方は、それらしき集団に出くわした警官が負傷したケー
スもいくつか報告されており、その多くが未解決、また警官も復帰でき
ていない。
すでに吉澤が知っていたものと合わせると、そうなった。
この事件の主体は、件数でいえば窃盗や放火だったが、強行犯係
が絡んでいくのは、そうした理由からだった。
はじめ吉澤は、その一員としてこの事件に関わったが、刑事が被害
者になったことで風向きが変わった。
上から、吉澤を外せとの達しが来たのだ。
警察学校時代の吉澤の成績は全般として優秀で、ここに配属された
のも、そのためだった。
それは誇ってもいい。
しかし、この世界でやっていくには、神経が細すぎたのだ。
警察学校にも、女は少なかったが、それは本物の世界ではなかった。
- 36 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:06
- 警察手帳を手にしたあの日から、自慢だった吉澤の体力は見る見る
うちに落ちていき、いまだ窃盗犯係にまわされないのが幸運といえた
ほどだった。
それもこれも女だから――とその理由を直接に言わないのは、周囲
のやさしさなのだと、そう思うしかなかった。
吉澤は、立ち上がった。
――現場百遍。
手始めに、駅前のコンビニへいき、エリカに話を聞いた。
これは何度もくり返したが、予想通り、当たらなかった。
次に、彼女のシフトを調べた。
店長に睨みを利かせて、内緒にしてくれと言付けた。
ほかの業務の合間を縫って、彼女の働いている時間とその前後を監
視するようになった。
エリカは、いつも1人でやってきた。
服装にはマメな性格で、いつもちがった格好をしていた。
出退勤は、定刻どおり。
- 37 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:06
- 勤務中、客の中に、特別親しくしている人物はいないようだった。
このあいだ、新聞社の知り合いに、「ヤジママイミ」という名の人物に
心当たりがないかと当たってもみた。
これもダメだった。
また、エリカの学校におなじ名前の生徒がいないか問い合わせると
いう方法もあったが、近頃、学校のまわりでは不審者が目撃されてお
り、プライバシー保護の観点から反発に遭うことが分かりきっていた。
そうして、2週間が過ぎたころ。
コンビニの向かいの歩道に、一人の少女が立っていた。
はじめ、それを何気なく見ていた吉澤だったが、彼女の取った行動に
目を丸くした。
信号の変わるのを待ち、おもむろに交差点の真ん中へやってくると、
立ち止まって、瞑想をはじめたのだ。
そんなことをしているのは、彼女だけだった。
ここから見ても、そうと分かるぐらい色が白く、年の頃は15〜6。
吉澤はケータイを取り出し、できるだけ近づいてシャッターを押した。
彼女が歩道を渡りきるのを待って、横に立った。
喉元にほくろがあった。
- 38 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:07
- これは事件当時、あたりが暗かったこと、騒動のただ中であったこと
を考慮すれば、口元にあったと判断されても不思議はない。
エリカの証言による”ピンク色のなにか”こそ所持していなかったが、
日々変わるであろう服装をのぞいて、身長も、髪の色も、なにもかもが
資料にある少女の特徴と一致していた。
少女は交差点を見渡している。
はしこく首を振るというより、用心深く、周囲の一人一人を観察するよ
うにして。
信号が変わると、少女は元の方向へ帰っていった。
吉澤は、後を追けながら、ケータイを操作する。
監視を始めてからこっち、事件のあった時刻を基準として、数時間ご
とに交差点のようすを撮影していたのだ。
犯人は現場に戻ってくるという、捜査の鉄則に従ってのことだった。
それは当たり、だった。
毎日ではなかったが、少女は写っていた。
いずれも、今しがたまでの行動をくりかえしているとしか思えないよう
な写り方だった。
あたりを見ると、住宅地のほうへ入っていた。
- 39 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:07
- 吉澤はケータイをたたみ、少女の肩へ手を伸ばした。
それは交番勤務時代、なんどか職務質問をかけたときのやり方だっ
た。
しかし、実際の手は宙をかいた。
ホシを見つけたら、根城を突き止めることもまた、鉄則だったからだ。
少女は一軒の家に入った。
表札には名前がなく、代わりに「アトリエ ドロワーズ」と書かれた小さ
な看板が下ろされていた。
吉澤は、またぞろケータイを取り出すと、物陰に潜んだ。
まず署に電話を掛け、生活安全課につないでもらって、一か八かで
「ドロワーズ」というアトリエについて調べてもらった。
ある程度は分かったが、30前後、子なし若夫婦の世帯であるという、
いたって普通のことだけ。
いまの少女が何者かまではわからなかった。
署ではダメだと思った。
警察というのは、個別のケースまで覚えていない。
責任感があるがゆえ、広く浅くがモットーだった。
- 40 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:08
- もう一度、メモリーをたぐる。
『もしもし?』
甘ったるい声が出た。
「調べてもらいたいことがあるんだ」
『ちょっと、何よいきなり』
「いいから。『ドロワーズ』ってアトリエについ…」
『よくない!!』
大声がして、吉澤は受話口をはなした。
『最近、どうしてたのよ、全然連絡つかないし』
「いいから、お願い。訳は追って話すから、そのアトリエに家出少女
みたいな子が出入りしてないか。生活欄の担当なんだから、そういう
情報だって入ってるんじゃない」
『…わかったわよ、ちょっと待ってて』
保留にこそされなかったが、不服そうな声だった。
吉澤は、画面の【梨華】という文字を、恨めしそうに見つめる。
『もしもし』
- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:08
- 「うん?」
『いま調べてるけどさ、なんで家出少女なの。その家の子かもしれない
じゃない。それに家出って、生活安全課の担当だし…』
吉澤は、これまで起こったことのあらましを、かいつまんで聞かせた。
その間も、梨華の調べものの手は止まっていなかったようで、電話の
向こうでは、キーボードを打つ音、なにか資料をめくる音、そして同僚な
のだろう、頼みごとをする声がした。
「家に入っていくとき、合鍵を使ってた。そんなものを渡す相手って、
ある程度、深いつながりでしょ。だから名のあるアトリエなら、何かしら
の記事になってるんじゃないかと思った」
『その子が、ほら…このあいだ聞いてきた「ヤジママイミ」っていう可能
性はないの?』
それは低いだろうと、吉澤は答えた。
エリカがシフトに入っていない日も、少女はケータイに写っていたから
だ。
「ヤジママイミ」について、エリカはなにか隠し立てをしており、普通に
考えれば、それは事件とつながりのある人物、または情報のはずだ。
エリカ――つまり協力者の側からすれば、そんな人物が現場に顔を
出すのを、放っておくはずはない。
犯人は現場に戻ってくる。
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:08
- この鉄則を、素人が知っている――つまり、警察の手の内が読まれ
ている可能性だって、十分にあるのだから。
結果が出た。
『おもしろいことが分かったよ。そのアトリエでは、年に数回、市内の
小学生の課外授業に協力していて、美術を教えているらしいの。もしか
したら、それがきっかけで通うようになったのかも』
少女は15〜6歳。
逆算すると、4〜5年以上前ということになる。
参加者名簿はないかと聞くと、さすがにそれはムリとのことだった。
結局、素性は分からず仕舞いだった。
「ありがと。また」
『うん…って、ちょっと待って!まだ終わってないよ』
「なに」
『さっきの、「家出は生活安全課の仕事」…って話』
「それが?」
『だから、その…飛ばされたんじゃないか…って、それで落ち込んでて
電話がなかったんじゃないか…って』
- 43 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:09
- 吉澤は、これを聞いて苦笑した。
「ない、ない」
笑いをこらえるのに必死だった。
『なによーっ、笑わなくたって!』
声を周囲に漏らさないよう、吉澤は電柱と壁のすき間に向き直った。
「だって、あんまり深刻そうだから」
『それはお互いさま』
そういって、ひとしきり笑うと、二人は声を正した。
「じゃあ切るよ。あの話は、またいつか」
『うん。いつか。それより体に気をつけてね。みんなの刑事さんなんだ
から』
「わかってるって」
『ううん、わかってない――。ひとみちゃん、いつも深刻そうな顔して、
眉間にしわ寄せてる。いまだって、そうでしょう』
突き刺すように、梨華は言った。
吉澤は、それで自分がその通りであることに気づき、破顔した。
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:09
- 「かなわないな」
今度こそ、本当に切った。
結局、少女のことは分からず仕舞いだった。
少なくとも、いま目の前にある選択肢で最善のものといえば、この家
を張り込むことぐらいだった。
まずは、一旦、署に戻ろう。
吉澤は深呼吸をし、そっと物陰を出ようとした。
そのときだった。
「このひとです!」
声のしたほうを振り返る。
1人の少女がこちらを指さしていて、その脇を、数人の制服警官が駆
けてくる。
吉澤は、あっという間に取り押さえられてしまった。
「おとなしくしろ!」
抵抗するが、成人男性が寄ってたかっては勝ち目がない。
吉澤は地面に組み伏せられた。
- 45 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:10
- 「間違いないかい」
警官は少女を呼んで、顔を確認させた。
「はい、まちがいありません。駅前から、ずっと後をつけてましたから」
痛みに顔をしかめながら、ようやく顔を上げる。
すると、自分が追ってきたのとは、また別の少女だった。
「まちがいなく、このひとがストーカーです」
「ストーカー!?」
吉澤は声を上げ、反射的に警察手帳を出そうとした。
だが、それを抵抗と受け取られてしまい、余計きつく腕を締め上げら
れる。
しばらくのあいだ、そのまま押し問答があった。
さわぎを聞きつけた近隣住民が、次々と顔を出す。
そして。
「花音!」
ドロワーズの窓から、例の少女が顔を出した。
- 46 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/01(水) 09:10
- 「憂佳!」
そう呼ばれた少女は、いったん引っ込んだ。
そして、すぐに玄関から駆けてきて、花音と呼ばれた少女に向き合
った。
「このひと、ストーカーじゃない。刑事さんだよ」
「…え!?」
その場にいた全員が、声をあげた。
むろん、吉澤でさえも。
- 47 名前:さるぶん 投稿日:2009/04/01(水) 09:22
- 更新です。
>>30
あと数回分は書きあがってるんですよ
そのあいだだけは定期的に更新できそうです
>>31
ほいくの読者の方ですね
あちらとは雰囲気を変えたつもりで書いてます
あちらも更新できればと思います
- 48 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:45
-
灯りのないシャンゼリゼ通り。
そこを往く、3つの人影があった。
「やっぱり、昼間がよかったな。凱旋門が、なーんにも見えないぜ」
青いリボンを、胸の前で揺らして少女がいった。
「はてはて?…夜更かしは、お肌に悪いですぅ」
黄色いリボンの少女が、それに続いた。
「じゃあ、明日、また来ようよ」
ピンクのリボンを撫でながら、最後の少女が言った。
あたりには車も人もなく、甲高い声が響いている。
「ダメだって」
青が、ふり返る。
「スペインでの仕事が控えてるって、マネージャーから聞いたろ」
通せんぼするように、仁王立ちしていた。
- 49 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:46
- 「えー、でもでも!」
ピンクが追い越して、ふり返る。
「あたし歌なんかより、敵をやっつける方が、たーのしいもん!」
そういって、「オー!シャンゼリゼ」を歌ってみせる。
暗闇の凱旋門を仰ぎ見て、ア・カペラで、身ぶり手ぶりまでつけて。
鼻を鳴らして青が言った。
「おまえは音痴なところがあるからな」
「それをいったら、サーヤの火の玉なんか、ぜんっぜん当たらないじゃ
ん!」
「うっ、うう、うるさい!」
あかんべーをしてかけ出すピンク。
それを追いかける青。
「はてはて?…オンチはどっち?あっちこっちそっち ですぅ」
- 50 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:46
-
- 51 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:47
- 「でもさぁ」
ピンク――小春が言った。
「凱旋門って、英雄ナポレオンを記念して造られたんでしょ? それより、
よっぽどあたしたちのほうが、この国を守ってる英雄だよね」
「まぁな」
サーヤがうなづいた。
「あー、みんなに言いたいよぅ!」
日本のサムライここにありーっ!小春はそう叫んで、サーヤにたしな
められた。
「ウチらの仕事は極秘任務。いくら言いたくたって、ちゃんと我慢しろよ」
「サムライ ためらい 言えないガールズですぅ」
「わーかってるってばぁ」
そう言う小春だが、指先は宙をなでている。
その先にあった並木が、動きにあわせてサワサワと揺れた。
「マロニエさん、くすぐったそうですぅ」
- 52 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:47
- 「いや、お前は分かってない」
サーヤは立ち止まり、肩を怒らせた。
「こないだだって、うっかり精神開放して、空港のおっさんに止められて
たじゃないか」
「それは、さぁ…?」
小春は口を尖らせた。
マロニエを指先でかきまぜながら、器用に、逆の手で自分の髪をもて
あそんでいる。
「トロ子が助けに入らなかったら、どうなってたことか…。とにかくお前は
新米なんだから、油断しちゃダメだぞ?」
そういって歩き出すサーヤの背中に、「はーい」といって、小春は舌を
出した。
- 53 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:47
-
- 54 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:47
- 「来たか?」
突如、サーヤが立ち止まった。
「みたいですぅ」
キッカがケータイを取り出した。
「この前に3度現れたのは、いずれも、この近く。こんな場所で行動を
起こすなんて、よほど自信があると見たですぅ」
「わーい!」
小春の足元から風が舞い上がった。
その勢いは強く、身をそらせたサーヤが、抑えろ!とさけぶ。
しかし小春の意識はすでに暗闇へと向けられていて、辺りのチリが
集まってできた渦が、歪な形を成していた。
「…エネルギー、開放しすぎですぅ」
「嫌な予感がするぜ」
サーヤが手のひらを返すと、中空から青白い炎が生まれた。
- 55 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:48
- 腕にまとわりつき、それは赤く変色していく。
三人はそれぞれに暗闇をさぐった。
小春は西を、残りは南だった。
「そこだぁっ!」
飛び上がったのは小春だ。
右手を振り上げると、街路樹めがけて振り下ろす。
暗闇を四角く切り取ったような質量が樹木へ叩きつけられると、すさ
まじい音を立ててひしゃげたその陰から、何者かがまろび出た。
「みーつけた!」
それを追いかけて、自ら巻き上げた塵芥の軌跡を抜け出した小春は、
直角に突進する。
まるで鬼ごっこをするときのように、進む方向を指したまま、笑顔にな
って。
「くらえーっ!」
叩きつけられる闇のハンマーが、次々と石畳を破壊していく。
「バカ!街をぶっ壊すな!」
- 56 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:48
- それでも影は、瓦礫と粉塵のあいだを縫うように移動していく。
サーヤは、その先へ左手を指し向けた。
「今日は、はずさないぜ!」
じりじりと角度を変えて目測をとり、振りかぶった右手から炎の弾を
放った。
それは弧を描きながら目標の軌道を先回りしていく。
小春のハンマーに気を取られていた影は、まるで吸い寄せられるよ
うにして落下地点へ入ると、一瞬で炎に包まれた。
「やりぃ!」
ガッツポーズをするが、サーヤは、すぐさまふり返った。
――敵さんは、まだいるですっ。
キッカの思念が、頭に飛び込んできたからだ。
――4時から10時の方向、やはり並木に隠れてるですぅ。
言うがはやいか、いくつもの影が現れ、向かってきた。
サーヤは思念を送り返す。
- 57 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:48
- ――トロ子、一網打尽にするぞ!
――はいですぅ!
力を込め、火力を上げると、腕の炎が青く変色した。
そして痙攣させた手のひらから細切れにした炎を放つと、路面に落ち
たそれを連続で蹴り出した。
無闇やたらに決められたかに見えるそれらの弾道は、キッカの思念
波によってコントロールされ、すべての影に直撃した。
臓腑をひねり上げたような悲鳴のあと、焦げた臭いに包まれながら、
それらは燃え尽きた。
「ずるいよサーヤばっかり!」
小春は口をとがらせて戻ってくる。
「…しかも、下、歩きづらいし」
「おまえが壊したんだろ!」
シャンゼリゼ通りが、穴だらけになっていた。
「はてはて?…これは何て言い訳するです?工事中の爆発?小型隕
石の落下衝突?」
「はぁ…また始末書かよ」
- 58 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:49
- 「いいじゃん。字を書くだけなんだし」
「はぁ?書くのはウチ!おまえじゃない!…ったく、リーダーもつらいぜ」
サーヤが頭を抱え、小春が高笑いをしていた、そのときだった。
音を立てて、後方からなにかが飛んできた。
とっさに身を翻した小春だったが、胸の辺りを掠めて、それは地面に
突き刺さった。
変形した、車のボンネットだった。
「はてはて?…まだ、生きてたですっ?」
キッカが指さした方向には、はじめに倒したはずの敵が、黒焦げにな
って立っていた。
フギギギィィィィィ…と、骨の擦れるような音で唸っている。
「ちっ…火力が弱かったみたいだな」
サーヤが中空からふたたび炎を呼び出すが、先に出たのは小春だっ
た。
「…許さない。お気に入りだったのに」
胸のリボンを大切そうに撫でていて、それが真ん中のあたりで斜めに
裂けていた。
「ぜーったいに許さないんだからっ!!!」
- 59 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:49
- 噛み付くようにさけぶと、見えない威力が、敵をはるか遠くへ吹き飛ば
した。
小春は飛び上がり、それを追いかけていく。
「待て!そっちは…」
「封鎖してない区域ですぅ!」
二人は顔を見合わせ、シャンゼリゼ通りを抜け出した。
現れた人ごみの中を、走って抜けていく。
「…嫌な予感が当たっちまったぜ…。トロ子!あいつらどっちへ行った」
「通りをいくつも越えたところ、セーヌ川に沿って東へ移動してますぅ!」
「こうなったら飛ぶしかない」
二人は目の前にあらわれた分かれ道から、人通りのないものを選ん
で飛び込むと、居並ぶ建物のはるか高くまで一気に飛び上がった。
セーヌの流れを視認し、それを右手に注意深くさがしていくと、通りの
1つからしきりに爆煙が上がっていることに気づく。
「お前は先回りしろ!」
「はいですぅ!」
サーヤは1人、煙の中へ降りていった。
- 60 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:49
- そこはパリの中心地、シテ島に近いあたりで、放射状に伸びた街路
のせいで入り組んだ地形をしていた。
爆音は、その中を、行ったり来たりしている。
視界を塞がれたまま、叩き壊された凸凹の道を進んでいくと、車の
ヘッドライトが浮かび上がらせた白い円錐の中を、二つの影が通り過ぎ
た。
「やめるんだ、小春!」
鳴りっぱなしのクラクションが、その声を邪魔する。
代わりに、小春の甲高い嬌声が、右かと思えば、次は左から、と聞こ
えてくる。
サーヤは最初、それを無闇に追いかけまわしていたが、止めにする
と、温度を最小に絞った炎を全力で地面に打ちつけ始めた。
あたりの煙が吹き飛ばされ、視界が確保されていく。
が、すぐに次の破壊が起こるので埒が明かない。
立ち往生していると、爆音が止んだ。
煙のはるか向こうで、小春が、なにか叫んでいるのが聞こえる。
「いや、ちがう――これは」
悲鳴だった。
「小春ーっ!」
- 61 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:50
- サーヤは飛び上がった。
上空から耳を澄ますと、シテ島の方からと分かる。
――小春ちゃんがあぶないですぅ!
キッカの思念波だった。
――トロ子!?もう終わったのか?
――はい…で…す…あた…り…市民…んは…1人…残…ず…非難…
が…了…した…すぅ…
思念派が弱くなった。
キッカの消耗が激しい証拠だった。
――お前はそこで休んでろ!
サーヤは急滑降で島へ降り立つと、炎を呼び出しながら、キッカのナ
ビに従って進んでいく。
――今…の敵…んは…生半可…火…力で…は倒せ…い…す…
――わかってるって。
――それ…に…、ちゃ…と当て…られ…です…か?…
――心配するな!接近戦に持ち込んで、焼き潰してやる!
- 62 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:50
- ナビは途切れ途切れのものだったが、道の先には、点々と破壊の跡
が続いている。
路地の出口に差し掛かると、ノートルダム寺院の前広場が見えてき
た。
小春がいた。
倒れ込み、襲い掛かる敵に、なす術がない。
「逃げろーっ!」
サーヤは駆けながら、特大の炎を放とうとしていた。
――ムリ…で…ぅ…!
――どうして!
――小春…ゃんの…エ…ルギ…は…ゼロ…で…ぅ…!
――そんな!…じゃあ、どうするんだ!もう戻せないぞ、これ!
炎は大きく、そして青白く、ほぼ無色透明になるまでエネルギーが
高まっていた。
「ええいっ!――もう、どうにでもなれっ!」
- 63 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/08(水) 09:51
- サーヤは、それを天高くへ放り投げると、持てる力のすべてを集中さ
せて、いままさに振り下ろされんとする敵の毒牙の下から小春をさらい、
飛び去った。
パリの空に青い月が浮かんだ。
次の瞬間、落下したそれはシテ島とそこを貫く南北の通りに沿った町
並みのすべてを焼き尽くした。
石畳をも消失させるほどの威力だった。
この夜、パリの街からいくつもの世界遺産が消え、セーヌ川には2つ
の支流が増えた。
- 64 名前:さるぶん 投稿日:2009/04/08(水) 09:52
- 更新です。
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:43
-
小春は、成田空港に降り立った。
目深に帽子をかぶり、カートを引きずってゲートを出ると、すぐのところ
に報道陣が待ちかまえていた。
「…げ」
「嗅ぎつけたのね。コンサートが中止になったのを」
マネージャーが匿うようにして前に出た。
――小春ちゃん、元気ですか?
幾つものマイクとレンズが向けられる。
――今回のフランスでのコンサート、キャンセルは体調不良が原因と
聞きましたが?
――それとも、サーヤとケンカでもしましたか?
――キッカの占いによると、今回のツアーには悪い相が出ていたそう
ですね?
――パリの爆破事件と、やはり何か関係があるんですか?
人々が押し寄せてくる。
- 66 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:43
- 中には、海外のメディアも含まれていた。
小春とキッカ、サーヤの3人からなるユニット Milky Wayは、いま世界
中のアイドルだった。
とくに、その音楽面での評価は高く、イギリスの大手音楽系ポータル
サイトは彼女らの3rdアルバム発売に合わせて、次のような記事を
トップに載せた。
- 67 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:44
-
【新しい時代の音楽】
わが国の評論家たちは、いつも耳を塞いでいた。
自らの音楽が、つねにアメリカのものに引けを取っている事実を忘れ
たくて、その時代、その時代の新しい要素を遠ざけてきたのだ。
クラシックが死にかけたらポップスを、ポップスが死にかけたらロック
を、まるでフットボールの臆病者がでオフサイドを恐れるようにして、
新しい音に耳を塞いできた。
ロックが死にかけて、ヒップホップが生まれたときだってそうだった。
地元(ユーロ)から生まれたビートに希望の光を見出したこともあった
が、結局はどっちつかずに終わってしまった。
テノールだって悪くはない。
しかし、これからはMilky Wayの時代だ。
この日本のユニットには国境がない。音楽的な死角がないのだ。
それも――まったく。
- 68 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:44
- 追伸:Milky Wayのフロントメンバー 久住小春は、
わが国最大のアイドル、ポール・マッカートニーによく似ている
Jack"spicy"Robinson
- 69 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:44
- むろん――。
新しいものには、つねに批判がつきまとう。
あるアメリカ人はいった。
――こんな音、スタジアムで流してみろよ、ホットドッグが冷めちまう
ぜ!
あるフランス人はいった。
――シニフィエとしての歌詞において示される、同時代的感性として
のシニフィアンが不明瞭であり、ソーカル事件によって明らかになった
クリシェの不用意な手付きが、ここで反芻されてしまっている
また、ある日本人はいう。
――3人のキャラが立ちすぎてて、逆にキモチ悪り
これらの点から、それぞれの文化において、Milky Wayが必ずしも馴
染んでいるわけではないことは明らかだった。
しかし、それでも、YouTubeでの動画再生回数、各地で開かれたコン
サートの動員数といったものを見れば、その勢いも、また明らかなもの
だった。
「――いいよ、これぐらい」
小春は前に出ると、押しかけた人々に向けて、手をふった。
- 70 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:45
- それは愛想ではなく、力の行使だった。
こちらへと向けられたマイクも、それを持つ者の動きも、すべてが静
止していたのだ。
マネージャーが怒鳴った。
「あれほど力は使うなと言っておいたでしょう!」
「だって…」
小春は反論を試みるが、まったく取り合ってもらえない。
「いいわけは聞きたくない。それに体力だって回復してないの。次の
仕事に差し支えたら、どうするの」
「でも、あたしピンピンしてるよ!」
揉めていると、人々が動きだした。
「えっ…まだ効果が」
呆然とする小春。
彼らは、最初、自分たちの身に何が起きたのか計りかねているよう
すだったが、それでも、あたりが静けさに包まれたのは一瞬で、すぐさ
まパパラッチのシャッター音がスコールのように沸きあがった。
「…カ、カゼかな」
- 71 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:45
- マネージャーから一瞥を受けた小春は苦笑いになり、力なく手を引か
れると、その場をあとにした。
- 72 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:45
-
- 73 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:46
-
――数時間後。
小春は、ソファに寝かされていた。
「――じゃあ、そのときの記憶はないんですね」
さきほどから、うなり声ばかり上げている。
「――敵を追いかけて、封鎖区域を抜け出した。その後です」
頭の後ろには小さなイスがあって、そこへ女性が腰掛けている。
白衣の胸には【紺野】と書かれたバッヂがあって、それが間接照明
にうっすらと浮かび上がっていた。
「――サーヤが助けにくるまでのおよそ5分、そのあいだに何があった
のですか」
「…うーん」
小春は、寝返りを打つようにして、姿勢を変えた。
「なにか、おぼえているのですね?」
答えはない。
- 74 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:46
- 紺野は、ひざ掛けのストールにカルテを置き、そこへ丸文字でなにか
書き付けていたが、一呼吸して、
「…お茶にしましょうか」
と、照明を上げた。
となりの部屋へ紺野が消えてしまうと、遅れて、乳白色の光が、じわ
じわと部屋じゅうに広がる。
大きくも、小さくもない部屋だった。
先ほど後にした空港から、車で数時間。
あさひ市内へ入ると、ハイウェイによって分断された街区の北側に、
長閑な田園風景が広がっている。
そこを更に北へ進むと、山の上に、大きな敷地が見えてくる。
――ゼティマ製薬株式会社(Zetima Pharm.Ltd)
セキュリティのために自動認証をおこなうゲートをパスすると、右手に
工場、左手にいくつものビルが建ち並んでいる。
世界第2位のシェアを誇る多国籍企業であるゼティマは、地球上の
あらゆる場所に関連施設を持っていたが、この本社には特別な意味が
あった。
- 75 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:46
- 併設された施設では、日夜、各地より集められた精鋭が、新薬の研
究・開発に取り組んでいたからだ。
その中の一室に、小春はいた。
統一的なトーンを持たされたほかのインテリアといっしょに、ソファは主
役のようにして、または脇役のようにして置かれていた。
上体を起こすと、小春は、大きく伸びをした。
「…ふわぁぁっ!…あたしこれ苦手だなぁ」
目をこすりながら待っていると、しばらくして、紺野が戻ってきた。
「小春ちゃんには、すこし情緒不安定なところがあります」
湯気のあがったカップを、ソファ脇のテーブルへ置いた。
「能力の行使には、それを支える精神の失調というリスクがつねにつき
まといます。ですから、セラピーは大事なんですよ。それに…」
先ほど座っていたイスを、今度は横につけると、そこへ腰掛けた。
「今回の戦闘について、データを読ませてもらいました。イレギュラーな
行動をとって、2人を困らせたそうですね」
口調こそ柔らかだったが、目には咎める感じがあった。
「それは…」
- 76 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:47
- カップに口をつけたまま、小春は上目づかいになった。
「あの衣装、自分たちでデザインしたツアー用のやつで、すごくお気に
入りだったのに…。それを、あいつが…」
「――つまり」
紺野は言う。
「敵が予想外の行動をしたと、そういうことですか?」
小春はうなづく。
「それだって、想定済みです。マニュアルにないことが起こったらリーダ
ーの指示を仰ぐ――新人として、そう聞かされていたはずです」
小春は反論をくわだてるが、口を動かしただけだった。
あとは、おもしろくなさそうに、そっぽを向いてしまう。
「何回目ですか?命令違反をするのは」
紺野は回答を待ったが、ソファの向こうからは、紅茶をすする音しかし
ない。
「聞いてるんですか? それに…」
席を立つと、部屋の隅へ向かう。
- 77 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:47
- 「今回の敵は、予想されたデータより、はるかに強い値を示していまし
た」
ガラス棚から、1つのビンを取り出す。
「このところ、Milky Wayは戦闘が続いていましたし、肉体の消耗という
ことで言えば、コンサートも立て込んでました。ですから、サーヤには、
いつもより多めに渡しておいたんです」
それをテーブルへ置いた。
ラベルには、【ミルフィ HP-05】とあった。
「小春ちゃんが暴走したせいで、サーヤもキッカも、予想外のエネルギ
ーを使ってしまったと、報告書にはあります。ですから、今回は、これの
おかげだった――つまり」
ソファの反対側へまわると、腰を折って、言った。
「不幸中の幸いなんです!」
小春は、いきなり目の前に顔があらわれて驚いたようすだったが、そ
れも束の間、ゆっくりと人さし指を持ち上げると、紺野の頬をつついた。
ぷふっ!…と空気が抜ける音がして、小春は、ケタケタ笑った。
「ま、まじめな話をしてるんです!」
「だって」
- 78 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:47
- 腹を抱える小春。
「怒った紺野さん、フグみたいで、かわいいんですもん!」
紺野は、ため息をつき、肩を落とした。
「…とりあえず、これを一錠、飲んでおいてください」
そういって、ビンのふたを開けた。
「紅茶で飲みくだしても、かまいません。小春ちゃんも、今回の戦闘で
かなり疲弊していましたからね」
小春は言われたとおり、一錠だけ飲むと、思い出したように、そうだ!
と言った。
「どうも、小春、カゼみたいなんですよ。だから、薬をください」
それから小春は、空港での顛末について、うまく時間を止められなか
ったのは、そのせいなのだ――と紺野に対してというより、自分に言い
聞かせるようにして言った。
「カゼ薬は、ここにくるまでに買おうと思ったんですけど、マネージャー
さんにから、『うちはふつうの薬も作ってるんだから、会社へいけばいく
らでもあるわよ』…って止められちゃって」
酷いですよね、大事なタレントに対して――と小春は、鼻をすすって
みせる。
- 79 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:48
- 「それは、かまいませんけど。この部屋にはおいてないので、あとで
頼んでおいてあげます」
「えーっ! いまがいいです!だって小春、カゼ引いてるんですよ?」
「…そんなふうには、見えませんけど」
小春の鼻は、すすっても、すすっても、乾いた音しかしない。
ただ風ばかりが抜けていたのだ。
「でもっ、でもーっ!」
押しがあまりに強いので、紺野は根負けしてしまう。
そして、どこかへ一本電話を掛けると、薬を取りに行くといって部屋を
出ていった。
ドアが閉まると、小春はにんまり笑って、立ち上がる。
しきりにすすっていた鼻は、ぴたりと止んでいた。
ガラス棚へ近づくと、ポケットから鍵をとり出し、それを使って棚を開け
ると、紺野が去り際に戻したビンから数錠を抜き取って、ポケットへ入れ
た。
- 80 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:48
- ほかにも型番のちがうビンをいくつか漁ると、そこからも数錠抜き出し
て、鍵といっしょにポケットへ入れた。
紺野が風邪薬を持ってもどってくるころには、何事もなかったかのよう
にソファで鼻をすすっていた。
「小春ちゃんの体質を考えると、ひとより大目に飲んだほうがいいかも
しれないです」
「はーい!」
小春はカゼ薬を受け取ると、軽い足取りで部屋を出ていこうとした。
「ちょっと、待ってください」
ふり向いて、首をかしげる。
「マネジメント部がいっていました。もし、こんど命令違反をしたら…。
小春ちゃんはメンバーから外されてしまうかもしれません。このことを
分かってるんですか?」
「だいじょうぶですって!」
小春は、ろくに顔も見ずにうなづくと、部屋を出ていってしまう。
紺野はデスクに向かったが、しばらくのあいだ、ため息ばかりついて
いた。
- 81 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:49
-
- 82 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:49
-
ラボを出た小春は、ドアに身をあずけた。
「危ない危ない…」
ひとりごちていると、後ろで、なにが?という声がする。
ふり返ると、主任研究員の保田が立っていた。
「な、なんでいるんですか!?」
コーヒーカップを2つ持って、ロビーへ向かう途中だった。
「なによ、あたしがいちゃいけない?」
「…いえ、全然、全然」
小春は無意識のうちに、ポケットをおさえていたが、保田の目線は
べつのほうを向いていた。
「それより、あんたもどう?」
カップの片方を持ち上げて、歩き出す保田。
後をついていくと、談笑用のスペースにいた女性が手をあげた。
「おー小春ちゃん、元気?」
「当たり前じゃない、矢口。 元気がない小春は、小春じゃないわ」
- 83 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:50
- 保田は、あんたのぶんはなしね――といって、コーヒーを空いてい
る席へおいた。
矢口は、ひどーい!と騒いでいるが、小春はおよび腰になっていた。
「コーヒー嫌いだった?」
「…ええ、まぁ」
小春はうなづくと、ごめんなさい!と言って、そのままロビーを出てい
ってしまう。
2人が顔を見合わせていると、しばらくして、紺野がやってきた。
最初、2人の姿を見止めて出て行こうとしたが、すぐに引き返してくる。
「あんたも、甘党だったわね」
紺野はコーヒーと、新たに砂糖が置かれた席に座ったが、口は付けな
かった。
「…最近、研究に行き詰っています」
思いつめたように、じっと手の甲をみている。
「そう? あんたのミルフィ、すごい効き目だっていうじゃない。ミラクルエ
ースの活躍も、そのおかげでしょ」
保田はカップを傾けた。
- 84 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:50
- 「でも、私は少し手を加えただけですし、小春ちゃんの場合、データが
あまりにも不揃いで、けっして誇れたものではありません…」
「そういえば、こんこんの担当のあとの2人、北原と吉川って、いまだに
ファーストをつかってるんだっけ」
「…はい。保田さんが開発したものです」
「よしてよ。基本をつくったのは、あたしじゃないわ」
紺野が顔を上げる。
「話にはうかがったことがあります。いまは、もう研究の道を断念された
とか」
「そうね」
保田は遠い目をする。
「あの子は…天才だったのよ」
紺野はつづきを促したいような目で保田を見ていたが、矢口が明るい
声でさえぎった。
「そういえばさ、羊がまた見つかったんだって?」
紺野は、まじまじとその顔を見る。
そして、コーヒーに目を落とし、口をつけてから言った。
- 85 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:50
- 「ええ。でも、狼になる寸前で、消息もつかめてないとか」
「駅前の事件ね。あれは狩人が放っておかないわよ」
「そうそう。新人で、血の気の多い子が入ったって。松浦が愚痴ってた」
「みんな、大変なのね。つまり――」
カップを乾して保田はいった。
「オツカンナってことよ」
保田は得意げな顔をしていたが、2人をみると白い目をしている。
「…あれ、決まらなかった?」
「こんこん、このひと本当にミルフィ作ったひと?」
矢口が茶化すと、紺野は苦笑いした。
そしてコーヒーのお礼を言うと、研究のつづきがありますからと言い
置いて、ロビーを出て行った。
「…こんこん。だいぶ小春ちゃんに入れあげてるみたいだね」
「そうね」
- 86 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:51
- 立ち上がると、保田は自販機脇のダストシュートへ、空いたカップを
押し込んだ。
「…圭ちゃんも、まだ?」
振り向きもせず、矢口は言った。
「なに言ってるの。もう10年も前のことじゃない…」
保田はロビーを後にした。
矢口はそこにいて物思いに耽った。
紺野が残していったコーヒーが冷めるまで、しばらくそうしていた。
- 87 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:51
- 小春は東京にいた。
ツアーのドタキャンで心配や批判の声が上がったのに対し、顔見せ
と説明責任を果たすためのメディア露出が目的だった。
生放送を終え、テレビ局を出ると、すぐさまファンに囲まれたが、体調
を気づかう温かいことばに、おもわず顔がほころんだ。
サインをしたり握手をしたりして、その中をすり抜けていこうとするが、
いかんせん数が多すぎる。
小春は空港での一幕を思い出したりしながら、これでは埒が明かな
いと思い、一旦、局の中へ引き返した。
タレントクロークを はや足で抜けつつ、電話を掛ける。
マネージャーに、裏口へまわって、そちらからタクシーを拾うことにし
たと伝えるためだった。
通話がはじまると、乗る予定だった車を、正面からまわしてもらうの
はどうかと提案されたが、小春は却下した。
ファンに追われては困るからだ――そう理由をつけた。
- 88 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:52
- 見知った顔に挨拶し、建物をやや息の上がった頃合で抜け出すと、
案の定、裏口には誰もいなかった。
テレビ局というのは、つねに、どこかしらにタクシーが止まっているも
ので、そのひとつに目をつけると、歩み寄ろうとした。
「小春ちゃんですよね」
物陰から、少女が現れた。
おどろいて、思わず後ずさる。
業界の人間かと思い、まじまじと見やるが、顔すら見たことがない。
「あぁ、やっぱりカワイイなぁ。さっき、ファンのひとたちと握手してはった
でしょう」
(…どうしたの?)
電話が生きていた。
「…な、なんでもない。ファンの子みたい」
小春は気持ち悪くなって、そのタクシーを捨てた。
- 89 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:52
- (裏口にもいたの?)
「…けっこう急いできたのに」
なんで追いつかれたんだろう。
ビルの中をまっすぐに突っ切ってきたから、ファンが正面からまわって
きたのだとしたら、追いつけっこないはずだった。
それとも、初めからここで待っていた?
小春は、逃げるように歩き出すが、すぐに追われてしまう。
「…ねぇ、小春ちゃん、これから、どこに行かはるんです」
耳からケータイを離さないようにしながら、何度も首を振るが、あたり
にはタクシーが一台も見当たらない。
「…ひょっとして、空港やないですか」
どうして一台もないんだ。
どうして逃げられないんだ。
空港にさえたどり着けば、あとはこっちのものなのに。
そこまで思って、小春は、ふと足を止めた。
「…うちもね、滋賀から出てくるとき、飛行機に乗ろうと思ったんですけ
ど、さすがに高校生の小遣いではムリでした、あはは」
- 90 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:52
- ニタニタと笑う少女の顔を見る。
「…どうして空港にいくって、わかったの」
「あ、やっぱりそうでした?」
少女は、無邪気に笑ってみせる。
(…小春、大丈夫なの?今日はもう仕事もないんだし、不安なら局の
中で待ってなさい。いまからでも迎えにいってあげるから)
「誰にも言ってないのに。マネージャーにも…」
(…聞いてるの?小春。あなた本当に疲れてるのね。さっきも言った
けど、この先、一ヶ月間、あなたはZetimaの研究室で集中療養するの。
だから…)
「外国に行かはるんですよね」
これも当たっていた。
(…あなたは、ゆっくり休んでいいの。…いえ、ちがうわね。むしろ、
どこかへ行ってもらっては困るわ。この間の”狩り”だって、だいぶ無理
したそうじゃない)
「おともだちと。3人で…いや、ちがうなぁ。おともだちを、後から追いか
けて行かはるんです。ゆき先は、スペインやと思います」
その通りだった。
- 91 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/15(水) 12:53
- (…このあいだの空港でのことだって、そうじゃない。 あなた今はもう、
ほとんど力が残ってないんじゃないの?…だから、黙って事務所の車に
乗ればいいの。そして私たちの待つ…)
ケータイを持つ手から、力が抜けた。
「どこで聞いたの…」
「聞いてませんよ。見えるんです」
「なにが…」
「未来が」
少女は言った。
「うちと小春ちゃんは、おともだちになるんです――」
- 92 名前:さるぶん 投稿日:2009/04/15(水) 12:53
- 更新です。
- 93 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/17(金) 19:07
- ちょっと背景が分かってきてますます先が楽しみです
最後に初登場の人にびびってます…
- 94 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:41
-
舞美とウチが出合ったのは、中学1年のとき。
――すごく足の速い子がいるらしい。
入学より前、まだ舞美について名前さえ知らなかったころに、ウチら
の学区の多くでは、そういう噂が立っていた。
中学というのは、昨日までべつべつの学校に通っていた子が集まっ
てくる場所だから、顔も見たことない誰かについて知っているというの
はすごいことで、舞美は、ちょっとした有名人だった。
はじめてのホームルームのとき。
”足がはやい”という話から、ウチは舞美について、背が高いとか、
色黒だとか、あるいは活発そうだとか、マッチョだとか、そういうベタな
イメージを持っていたから、すぐとなりの席に座っている、ひょろひょろ
っとした女の子が、噂の本人だなんて、最初は信じられなかった。
リトルリーグで男子に混じって野球をやっていたから、たしかに色黒
ではあったんだけど、生まれつきじゃなかった。
1学期も半ばをすぎたころ、部活動に入らなかった舞美は、だんだん
と色白になり、美しくなっていった。
- 95 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:42
- それがどのくらいかというと、舞美目当ての男子が、隣のクラスから
冷やかしにくるほどで、舞美は、そのことに気づいてないみたいだった。
ちょっと変わった子――。
それが舞美についての、そのころの印象だった。
ウチのクラスでは、中心に1つのグループがあって、舞美はいつも
そこにいた。
これはウチが高校生になって、いろんな経験をして、そこで初めて
分かったことなんだけど、入学したてのころ、そういうグループのメンバ
ーというのはコロコロ変わってしまうものだった。
中心にいる子は、テレビで覚えたギャグをやったり、そういう子にツッ
コミを入れたり、あるいは逆にツッコまれたりしながら、毎日、メンバー
を外れないよう、必死になってふざけていたんだけど、舞美だけはちが
っていた。
口数が少ないし、いつも微笑んでいるだけなのに、その輪から外れた
ことがなかった。
最初、ウチはそれが不思議でならなかった。
美人だから、それでチヤホヤされるのかなとも思ったけど、ウチが思う
に、そのころの舞美は、クラスで一番の美人じゃなかった。
これも今だから分かることなんだけど、中一の男子にとっての”美人”
とか”好きな子”は、”顔がキレイ”とかそういうのじゃなくて、”マセてる”
とか”胸が大きい”とか、そういう、もっとちがう基準で決まるものだった。
- 96 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:42
- どちらにも当てはまらない舞美は、だから、やっぱりクラスの一番じゃ
なかったんだと思う。
もちろん、足が速いことで有名だったから、入学したてのころなら納得
がいったんだ。
最初はみんな面白半分で足の速さを話題にしていたし、体育の授業
でも、それは証明されたことだったから。
でも、思っていたほど、舞美の足は速いわけじゃなかった。
クラスの女子ではダントツに一番だったけど、学年ではギリギリという
感じで、もちろん上には数人の男子がいた。
ウチは、たまたま調子が悪かっただけかなと思っていたのだけど、噂
については、誰もが違和感をもっていたみたい。
二学期になって、クラスの人間関係がようやく馴染んできたころ、舞美
の運動神経について、改めて話題になったことがあった。
――矢島はさぁ、手加減してるんだよ。
言い出したのは、おなじ小学校から来た子だった。
――小学校のころ、リトルリーグで一試合に7回もランニングホームラン
やってんだぜ。そんときは、もっと絶対に速かったよ。
そして続けざまに、体育の授業で手を抜くのは小学校のころからなん
だと言った。
- 97 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:43
- ――うっそ、ひでーな。なんか、舐められてるって感じ?
応えたのは、陸上部のエースだったという子で、中学に入って最初の
スポーツテストで舞美に惨敗していた。
それでも、どこか言い方に茶化す感じがあったから、本気で怒っている
わけじゃないんだけど、小学校が別だったせいか、舞美はすごくシリアス
に捉えてしまったみたい。
――そんなんじゃないよ…。
すごく申し訳なさそうに言って、あとは黙ってしまった。
――なんだよ、それじゃ、オレがいじめてるみたいじゃんか!
却って言った子のほうが慌ててしまって、これだから女子は困るんだよ
なぁといって、あとは他の子たちと言い合いがはじまった。
こういうふうにして、舞美はいったん話題の中心になったかと思うと、
すぐに外れてしまい、でも愛想がいいから、隅のほうでいつも微笑んで
いるという、どうしてクラスの中心にいるのか、よく分からないタイプの子
だった。
そういうこともあって、ウチは一学期のあいだ中、ずっと席が前後だった
にも関わらず、舞美に対して、距離を掴みかねていた。
それが一変するできごとが起きたのは、三年生の夏。
- 98 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:43
-
- 99 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:43
- 舞美は、すっかり成長していた。
背が伸び、受け答えや、体つきにも女らしさが出てきて、学校で一番
の美人になっていた。
それは誰もが認めるところで、冷やかしにくる生徒は、隣のクラスだけ
じゃなくて、学校全体からに変わっていたし、中には女子もいた。
このころ、ウチらはクラス替えを2度経験していたから、自分たちの
学年にどんな子がいるのか、すっかり分かるようになっていたし、入学
の前からあった噂とか、そういう色んなことが混ざって、評判を呼んでい
たんだと思う。
これは学区というものがない高校ではありえないことだから、ウチらの
学年は、みんなで”矢島舞美”というキャラクターを扱いかねていたんだ
と思う。
あの後、不思議とウチは、舞美とおなじクラス、おなじ班になり続けて
いたのに、3年生の一学期、はじめて席が離れてしまった。
ことあるごとに交わしていた2人の小さな会話が、そこでぷつりと途切
れた。
ウチは寂しさを感じたけど、舞美は、相変わらずクラスの中心にいて、
微笑んでいた。
それを、やっぱり相変わらずクラスの端っこから見ていたウチは、ふと、
舞美がいじめを受けてるんじゃないかと思った。
- 100 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:43
- べつに上ばきを隠されるとか、シカトされるとか、メールで悪口が出回
るとか、そういうことじゃない。
いつものように輪があって、いつものように舞美がいる。
ただ、それだけなのに。
最初、そういったテーマを扱ったテレビか漫画、それともケータイ小説
かなにかを読んだせいで、考えすぎてしまったんだと思った。
でも、よく観察すると、そうじゃなかった。
舞美たちのグループの会話は、いつも同じようにはじまる。
まず、誰かが話題を見つけてきて、それに便乗する子があらわれる。
すると、またべつの誰かが話題を膨らませて、場を盛り上げていき、
このあたりで、話を大げさにして、ギャグを言ったりする子があらわれる。
このあと、いつも、決まって舞美が笑われていた。
それは、ふつうの子が笑われるようす――例えば、アニメオタクの子
が、「おまえキモイよ!」といって笑われるのとは訳がちがう。
だって、それは、あくまでネタフリで、その後、オタクの子は誰にも
わからないようなアニメの知識を早口で並べ立てて笑いを取るというの
が、いつものパターンだったから。
- 101 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:44
- 「キモイ」というのは一見すると悪口だけど、ことばの意味を抜きにし
て、コミュニケーションのきっかけに使うもの。
ウチのクラスでは、少なくともそうだった。
「キモイ」という”キャラ”だから、本当に相手のことが嫌いならスルー
するのがいちばん。
みんな、そう思ってたから、ネタフリとしての「キモイ」が受け入れられ
ていたんだと思う。
これは、ほかにもいくつかあって、モテ自慢をする男子だったり、アイ
ドルみたいなブリっコをする女子だったりするんだけど、舞美にはこれと
いってキャラがない。
だから、なんで笑われているのかが、分からなかった。
ほかのオタクやイケメンの子たちは、”笑われている”というより”笑わ
せてる”という感じなのに、舞美は、ただ笑われていただけ。
ほかの子は自分の”言ったこと”で笑われていたけど、舞美は”存在”
で笑われている――。
ウチには、そう思えてならなかった。
なんにもできないまま、ウチはただクラスの端っこから、それを見てい
るだけ。
舞美は、ただ微笑んでいる。
- 102 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:44
- ウチは、ほんの少しだけ舞美の笑顔に陰を感じるようになっていた。
- 103 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:44
-
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:45
- それから2週間後。
学校は、夏休みに入っていた。
駅前のビルで買い物をした帰り、ウチは友達と別れたあと、1人で家
に向かっていた。
いつもなら、別れ際、「帰ったらメールするね」のひと言が、どちらから
ともなくあったのに、その日はちがった。
舞美についてのことがあって以来、その子とは、うまくいっていなかっ
たんだ。
理由は、進路のこととか色々あったけど、よく分からない。
ケータイを開き、文面だけつくりながら歩いてみると、持ち上げた手が
とても重たく感じた。
駅前の交差点を抜け、住宅地へ抜けるほそい路地へ入っていく。
前を、舞美が歩いていた。
大人と一緒にいて、どう見ても、親子には見えなかった。
顔や、しぐさ、雰囲気、どれもが似ていなかった。
…なーんだ。
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:45
- 2人を見て、最初に思ったことが、それだった。
恋人なんだ――と。
舞美がいじめられているだなんて、ただの勘違いで、ウチが持ってい
た違和感は、たんに、ほかの子よりも一歩先に大人になってしまった
子だけが持つ余裕、みたいなものだったんだ。
そう思うと、感情はあやふやになっていき、いまとなっては、もう相手
が男性だったのか、女性だったのかすら分からなくなってしまっていた。
――いやっ…。
手を引かれそうになって、舞美が退いた。
詰め寄っていく相手に対して、半身になって構えている。
どう見ても、親しげな雰囲気とはいえそうになかった。
――放してください!
しつこく迫られた舞美は、かなり取り乱していて、ウチはただならぬ
ものを感じた。
(…助けなきゃ)
そう思って足を踏み出すと、また一歩迫られて体勢を崩した舞美の
姿が すっ…と、その場から消えた。
次の瞬間、舞美は目と鼻の先にいた。
- 106 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:45
- ウチとおなじ駆け足で、元いた場所から遠ざかるようにして。
いくら噂になるにしても、足が速すぎると思った。
「あっ…!」
お互いによけきれず、ウチらは、その場へもつれ合いながら倒れこん
だ。
(…逃げなきゃ)
どこかに体中をぶつける痛みなんかそっちのけで、咄嗟に、そう思っ
ていた。
舞美はいま追われているんだから――と。
立ち上がろうとして、ようやく視界がはっきりしてから、気がついた。
あたりが真っ暗だということに。
どう考えても、繁華街の路地じゃない。
ウチは舞美の下敷きになっていて、そして、歯が痛かった。
お互いに無言のまま、光のあるところへ出ていくと、唇が切れている
ことに気づく。
ぶつかった拍子に、口をぶつけていたらしい。
- 107 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:46
- 「「大丈夫…?」」
同時に、ことばが出た。
お互いに、唇から血を出していた。
ウチは、慌ててハンカチを取り出し、舞美の唇を拭おうとした。
舞美はひとつ肩を震わせると、瞬きする間に、まだ拭いてもいないの
に血が乾いていた。
「…え?」
ウチは、ようやく自分の脳みそが混乱していることに気づきはじめた。
「…あ、あの」
向こうには、いまいる袋小路のような場所の出口があって、舞美は、
そちらとウチとを交互に見てから、うつむいてしまった。
「…私…その…」
そのまま舞美は、確かに、そこに座っているはずなのに、体全体が
光でも点滅するようにして、消えたり現れたり細かく繰り返していた。
なんて声をかけていいか分からなくて、しばらく2人して黙っていたん
だけど、舞美のようすが落ち着いたところで、どちらともなく立ち上がっ
て、そこを出た。
- 108 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:46
- 見ると、駅の反対側にいて、とりあえず避難の意味もあって、手近の
カラオケボックスに入って落ち着くことにした。
飲み物が運ばれてくるのを待って、ウチから口を開いた。
「さっきのひと…だれ? どう見ても、ともだちって感じじゃなかったけど」
舞美はなにも言わず、首を横に振った。
こうしてみると、何度か会話したことがある仲なのに、まるで初めて
会ったみたいな感じだった。
「それと、さっき何が起こったの? 意識が飛んだっていうか、気がつい
たら駅の反対がわにいたんだけど」
また何もいわない。
それどころか、さっきの点滅が、ぶり返し始めていた。
「あの、ムリしていわなくても、いいけど…」
ウチが口ごもってしまうと、しばらくして、ようやく舞美が口を開いた。
「エリカちゃん…。このこと誰にも言わないでくれる?」
舞美は、まだそのときよそよそしかった2人の関係を、そのまま表し
たような呼び方をすると、心の中を探るようにしてウチのことを見た。
うん、とうなづくと、ゆっくり語しはじめる。
- 109 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:46
- 「私には超能力があるの」
それは――”飛ぶ”能力だという。
幼いころ、活発な子どもだった舞美は、男の子に混じってリトルリーグ
で野球をしていた。
小学校の低学年には、まだ性別も何もないから、男の子に勝るとも
劣らない活躍をしていたのだけれど、高学年にもなると、男の子の力
のほうが強くなってくる。
それでも、多くの子は舞美と変わらない体格だったけど、飛びぬけた
子というのが出てきて、舞美は、いつしか活躍の場を奪われていった。
「すごく悔しかったし、パパやママにいいところを見せたいっていうのも、
あったと思う」
最初は、そういう小さなきっかけだった。
「はじめて”飛んだ”ときのことは、よく覚えてる。7回の裏で、リトルリー
グだから、それが最終回だった。2アウト。塁に出てるのは、ファースト
の私だけだった」
絶対に、盗塁を決めなければならない。
そのプレッシャーが舞美を”飛ばせた”。
「スタートは悪くなかった。でも、だんだん足がもつれてきて、あっ、これ
じゃ間に合わない――そう思った。気づけば、転んだような、地面がなく
なったような感じがして、夢中で腕を伸ばしてた」
- 110 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:47
- 触れたものは、2塁ベース。
ヒットが続いて、試合は見事、舞美チームの勝利となった。
「後になって、あんな余裕があったのにヘッドスライディングするなんて
すごいぞ、お前の気合が、チーム全体に伝わったんだ――なんて監督
に言われて、すごく戸惑っちゃったな」
そのときの感覚は、舞美の中に快感として残った。
6年生になって、最後の試合。
レギュラーとして出場した舞美は、例の”一試合に7回のランニング
ホームラン”という記録を打ち立てた。
「いまになって思えば、やりすぎなんだけど、もうあのころは夢中で。
一度でも多くホームベースを踏むことしか考えてなかった」
舞美のチームが所属していたのは、リーグとしては小さいものだった
けど、我が子の晴れ姿を記録に残そうとカメラを回しているひとがいて、
このようすはしっかりとビデオに残った。
これを見て、子どもたちは大騒ぎしたのに、大人たちは取り合わなか
った。
「私の”飛ぶ”力は、まだでき上がっていなかった。飛べる距離は、ほん
のちょっとだった」
それは、つまり”飛ぶ前”と”飛んだ後”のつなぎ目、その”空白”の
ようなものが、ほんの小さなものでしかなかったということを意味して
いて、見ようによっては、ビデオカメラの故障か何かにも見えた。
- 111 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:47
- 実際、そのビデオを持っていたひとはカメラを修理に出すといって遮
ってしまい、そうなると、子どもたちにはなす術がなかった。
舞美はビデオテープといっしょに”超能力者のような”という表現を
小学校へ置き去りにしたまま、”とんでもなく足が速い子”として中学へ
上がったきた。
もう”飛ぶ”ことはないだろうなと思っていた。
”一試合に7回のランニングホームラン”を達成する前から、舞美は試
合中に何度も”飛んで”いた。
”飛ぶ”ことは、最初、無意識だった。
なんどもくり返すうちに、ヒーローにもなっていったけど、段々、まわり
の子たちが、気味悪がるようになっていった。
”飛ぶ”ことには、距離の問題だけじゃなくて、時間の問題もあるんだ
と舞美はいう。
「”飛んで”いるときは、意識もいっしょになって飛んでるんだけど、その
せいか、あの頃は、まだコントロールができなかったの」
消えて、次に出てくるまでに、ほとんど時間が掛からないときもあれば、
10秒近くいなくなることもあった。
「まわりからすれば、気持ち悪くて当然だよね…」
- 112 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:47
- そういって舞美はうつむいてしまうけど、ウチは、レギュラーを奪われ
た子の腹いせというのもあったんじゃないかと思った。
そして、いつしか舞美は”飛ぶ”こと――走ること自体に、恐怖を覚え
るようになっていた。
野球を辞めようとも思った。
けど、舞美が抜けた試合は勝てないことが分かって、みんなは舞美の
能力をしらないまま、強く引き止めた。
仕方なくチームに残った舞美は、必死で”飛ぶ”ことに慣れていった。
間隔を一定させて、少しずつ”飛ぶ”ことで、ふつうに走っているように
見せかける技を覚えた。
大人から怪しまれることなく、”一試合に7回ランニングホームラン”の
偉業を達成できたのは、そういった努力があったからだった。
そして、これを最後に”飛ぶ”力は封印しよう、そう思った。
以前から、学校の体育では能力を使っていなかったけれど、それでも
中学校に上がってすぐのスポーツテストでは、使わざるを得なかった。
「噂が先行して、すごいことになってたでしょ。だから下手に振る舞って、
あのビデオテープのことを掘り返されたらどうしよう…。そう思って一度
だけ飛ぼうと決めたの」
遅すぎず、速すぎず。
- 113 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:48
- 期待に応えつつ、裏切りもしない。
これ一度だけ見れば、あとは放っておいて貰える、そんな記録を狙っ
て舞美は”飛んだ”。
「…あのときは、気を失いそうだった」
”走る”ことからくる極度の緊張で、音も聞こえない、物もうまく見えな
いほどになっていた。
結果、顔見知りから小学校の体育でも手加減をしていたと、少しだけ
過去を掘り返されたりはしたものの、ビデオテープのことは誰も口にし
なかった。
舞美は”ふつうに足の速い子”を、うまく演じ抜いたんだ。
けれど、そうでないことを知っている、同じ小学校出身の子には奇妙
な目で見られ、そうでない子からは、ふつうに憧れの目で見られるとい
うふうにして、舞美は矛盾した立場におかれるようになった。
その狭間で、揺れるようになった。
「私の本当の姿を知ってる子のほうに付けば、この能力がバレちゃうと
思ったし、そうじゃない子のほうに付けば、こんどは自分に嘘をついてる
ような気がして…」
いつしか舞美は、ただクラスに存在するだけで、極度の緊張を強いら
れるようになっていた。
笑顔を浮かべているのが、精一杯というふうになっていた。
- 114 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:48
- 「それからなの…。みんなとおしゃべりしてるときに”飛ん”じゃって、
気づけば体育館の裏でうずくまってたとか、家の庭で倒れていたりとか、
そういうのが頻繁に起こるようになってた」
いま体が点滅しているのも、打ち明け話をする緊張のせいなのだと
思う――そう、舞美はいう。
「じゃあ、ウチが思ってたのは…」
最初、いじめのことについて、言おうかどうか迷ったけど、勇気を出し
て話すと、舞美は表情だけ笑ってくれた。
「うん…。みんな私が、何もしてないのに汗だくになってたり、息を上げ
たり、そうかと思えば青白くなって、吐き気をガマンしてたりするのを、
不思議がっていたんだと思う。だから、いじめじゃないの。でも…」
笑顔は、すぐに曇ってしまう。
「みんなにとっては、意味の分からない違和感だから、それが余計に、
気持ち悪かったんだと思う」
口の端が、きつく結ばれていた。
ウチは舞美に対して…ううん、舞美を取り巻く環境に対してこれまで
覚えていた違和感のパズルが、すべて線でつながったのを感じた。
ウチだって、いつも舞美を見ていたわけじゃない。
- 115 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:48
- ともだちと話すことだってあるし、そこで舞美ばかり見て、よそ見して
いたら、それこそ”ノリが悪い”とか”空気が読めない”とか言って悪口
を言われてしまうかもしれない。
だから、本当は、もっとずっと舞美を見ていたかったというときも、目を
逸らすことはよくあった。
舞美の存在感、あのグループにおける違和感というものに気づいて
いたウチも、その正体をはっきりと見破れなかったのは、舞美の能力を
知らなかったこと以外に、そんな理由があったんだと思う。
でも、正体を見破るとまではいかなくても、はっきりとした違和感を
知ることができたのは、クラスの隅っこから客観的に見ていたからこそ。
もしクラスの中心にいたら、それは無理なはずだった。
あのグループには、お笑いに詳しい子とか、ギャグセンスのある子と
かが沢山いたから、「キモイ」とか「ぶりっこ」とか、そういう”よくある
気持ち悪さ”なら笑いに変えることができた。
なぜなら、”理由の分かる気持ち悪さ”だったから。
それは、いつか、どこかで見たことがある”違和感”だったから、どこ
かで誰かがやっていたこと――簡単にいえば、テレビで見たお笑い芸人
のマネさえしていれば、うまく処理することができた。
でも、舞美の場合はちがった。
誰もその”キャラ”の対処法を知らなかった。
- 116 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:49
- 「私、一生懸命勉強したんだよ。テレビとか、ほかの子の様子とか見て
研究して、必死で”意味の分かる”振る舞いをしようした」
でも、舞美にとって、解決方法は見当も付かないものだった。
家族に打ち明けたこともあったけど、鼻で笑われてしまった。
「テレビにかじり付いて、毎日、必死になってお笑い番組を見てたんだ
もん、私の言うことが一生懸命考えた冗談にでも聞こえたんだろうね」
笑い声はもちろん、笑顔さえ出ていなかったはずなのに――。
舞美は、そういって悲しむけど、ウチは、それを否定した。
もしかしたら舞美の家族も、そのキャラを扱いかねていただけなのか
もしれない――そう思ったから。
伝えると、舞美は、ようやくちゃんと笑ってくれた。
「ありがとう…。そういってもらえて、うれしい。私、家族まで嫌いになり
そうな自分が嫌だった。すごくダメな人間に思えて…辛かったの」
舞美は涙ぐんでいた。
ウチは、その手を握った。
気がつくと、点滅が止んでいた。
「舞美の体、ちゃんとここにあるよ」
- 117 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/22(水) 10:49
- 「…うん。家族に打ち明けたときも、あんなふうだったの。それなのに、
いまは…」
舞美は、安堵したように、深く息を吐いた。
ウチは、ぴったりと舞美に寄り添うようにして座り直すと、力なく倒れ
てきたおでこを肩で受け止めた。
「エリがいてくれれば、私、それでいい…」
伏しめがちな睫毛は、透明なしずくに濡れて光っていた。
ウチはその重さを感じながら、この先、なにがあっても舞美を守るん
だと心に誓った。
- 118 名前:さるぶん 投稿日:2009/04/22(水) 10:53
- 更新です。
>>93
視点がポンポン飛んじゃって読みづらいだろうに、
ついてきてくれて、おまけにレスまで…うれしいです
- 119 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:52
-
夏休みも、残すところ、あと2週間。
ウチらは、あれ以来、毎日会うようになっていた。
舞美を襲った相手が誰か分からない以上、迂闊に外を出歩くのは危
険なことだった。
舞美によると、相手はいきなり現れて、名前を確かめると、例のビデ
オテープを見せて、どこかへ連れて行こうとした。
そのとき、なにかいろいろ言われたらしいが、舞美は、パニックに陥っ
ていて、ほとんど覚えていないのだという。
一応、近くの警察署へ被害届けを出してみたけれど、”飛ぶ”能力に
ついては舞美が伏せたいと言ったので、普通の暴行事件として扱われ
てしまった。
手ごたえといえば、ウチが母親から登録させられていた警察のメール
サービスに、そのことを注意するようにとの文章が載ったぐらいだった。
ウチらはいつも、舞美の家で会った。
外に出られない以上、ほかに選択肢はなかった。
- 120 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:52
- 舞美のお母さんは、あなたがお友だちを連れてくるなんて、小学校4
年生のとき以来ねといって、やけに具体的な数字を出していた。
「やっぱり、お母さん、舞美のこと気にかけてるんだよ」
そう言って、ウチもいっしょに話してあげようか?と提案すると、
「…ごめん。いまはダメなの。また否定されたらと思うと」
といって黙ってしまったので、それ以上、無理強いはできなかった。
ウチらは、舞美の部屋へ一日中こもりきりになって、お互いのことを
話したり、高校はおなじところへ行こうねといって勉強に励んだりした。
舞美がそう望むから、泊まれるときには泊まっていったし、家に帰って
からもメールでのやり取りが続いた。
ふつうのカップルだったら、さすがにウザイんじゃないかってくらい、
ざっと一日に100通以上は打っていたし、通話も欠かさなかった。
2年半ものあいだ、おなじ教室で過ごしながら、他人行儀なままでい
た過去の分を取り戻そうと、ウチらは必死になっていたんだと思う。
もちろん、2学期以降のクラスでのことも、話し合った。
舞美は、ほとんど対人恐怖症のようになっていたから、自分から何か
新しいことをするのに、異常なほど臆病になっていた。
そこで、ウチがグループに加わってみようということになった。
- 121 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:53
- 髪を染めて、小物だとかの趣味も思い切ってギャルっぽく派手にして
みて、夏休みのあいだに親しくなったと、そこだけ本当のことを混ぜたり
しながら、キャラチェンジしてみようかと。
すると、舞美は、それさえも怖いといって、なかなか首を縦に振らなか
った。
でも、とりあえず、ものは試しだからといって、翌日、変身して家へいく
と、舞美はすごくよろこんでくれた。
「いいな…。私もエリみたいに変われたらいいのに…」
舞美は生まれてこのかた、一度も髪型を変えたことがなくて、中2の
とき、前髪の感じをすこし変えたのが精一杯だったという。
「大丈夫。舞美はいまでもカワイイよ」
「ありがと、エリ…」
ウチらはそうやって、甘くて濃密な2週間を過ごした。
- 122 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:53
-
- 123 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:54
-
2学期がはじまった。
舞美は、ウチのクラスでの振る舞いについて、「いまが変わってしまう
のが怖い」といって止めたけど、ウチにとっては、何もしないまま何かが
終わってしまうことが一番怖かった。
それでも、修学旅行を直前に控えて、もう、あとは卒業と受験だけだと
いう雰囲気のクラスでは、ウチが何をしても人間関係は変わらなかった。
ウチがイメチェンしたことだけ、みんなすぐに気づいたみたいで、それは
それでうれしかったのだけど、そのまま何もできず、中心のグループに
入っていけなかったウチは、舞美を、むしろ動揺させてしまったみたいだ
った。
それからというもの、舞美はことあるごとにウチのほうをチラチラと見る
ようになっていた。
そのことをからかわれて、たまにウチも仲間に入ることもあったんだけ
ど、舞美が、やっぱり居心地悪そうにしていたから、クラスの隅っこで
観察していたときの経験を、存分に活かすことができないでいた。
けっきょく、ウチらは夏休みのあいだに築き上げた信頼関係を隠し通す
ことができず、ことあるごとに目配せをしたり、行動をともにするようにな
っていた。
- 124 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:54
- この関係が、もし一学期にはじまっていたら、ウチらはレズなんじゃな
いかと噂を立てられて、大変だったと思う。
実際、高校に進学したとき、そういう噂が立っていた。
そこでも、やっぱり主役は舞美だったのだけれど、ウチもちょっとした
有名人になっていた。
舞美の置かれた状況を考えると、これはうれしいこととは言えなかった
けど、ウチはどこか舞い上がっていたのも、また事実だった。
そのツケが、あとで回ってくるのだとも知らずに。
- 125 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:54
-
- 126 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:54
-
ウチの”高校デビュー”は絵に描いたようなものだった。
中学のとき、舞美のまわりを観察していたお陰で、どうやって振る
舞えばクラスの中心に居られるかが分かっていたから、あとは、それ
を実行するだけだった。
中学のころの余計なイメージもないし、舞美という男子に人気のある
子とも仲がよかったし、それより何より、レズなんだという噂が先行し
たせいで、暗いイメージを持たれていたらしく、ふつうに振る舞っている
だけで、女子から、明るい子、話しやすい子と言われた。
クラスの中が安定するころには、むしろ、舞美のほうが目立たなくな
っていたぐらいで、それは、2人にとって、とても良いことのはずだった。
新しい環境は、想像していた通り、舞美にとって大きなプレッシャー
となった。
中学のころと同じように、グループの端っこにいるだけだったけど、
舞美は、ことあるごとにウチに頼るようになっていた。
ウチはつい調子にのって、あれこれとバカをやって、みんなを笑わせ
るんだけど、グループのみんなも、その外側にいる、ほかのみんなに
対していい顔を見せたいから、あちこちに話を振ったりする。
当然、端っことはいっても、クラスの中心にいる舞美にも、その矛先
は向いていた。
- 127 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:55
- 舞美には、そういうテクニックはまったくないから、いつも、このネタフ
リを活かすことができないでいた。
それを、ウチがいつもフォローしていて、そのたびに、舞美はウチが
スベろうが何をしようが笑ってくれた。
みんなは、ウチの”言ったこと”で笑っていたけど、舞美だけはウチが
”したこと”で笑ってくれていたんだ。
”飛んで”しまうようなことも、いっさい起こらなくなった。
2人の赤い糸は決して解けない――そう思えていたんだ。
- 128 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:55
-
- 129 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:55
-
ある日、クラスの男子から呼び出された。
狙ってのことなのか、どうか、その場所が、時々、舞美と2人きりに
なりたいときに使う屋上の一角だったものだから、ウチはまるで秘密の
場所を侵されたみたいな気分で、すこし頭に来ていた。
「梅さんってさ、超おもしろいよな」
ウチは、そうやってあだ名をつけられるまでになっていて、男子から
気安く話しかけられていた。
「そうかな? みんなのネタフリに応えてるだけだよ」
心の中で、あんたのフリ方はサイアクだけどね――とウチは毒づいて
いた。
「おもしろい子って、オレ好きなんだよね」
「へぇ、そうなんだ」
ウチはペンキの剥げかけた手すりに掴まって、ずっと向こうにある海
を眺めていた。
いつか舞美と行けたらいいなぁ……なんて思いながら。
「そう――カワイくても、つまんない子だったりすると、ダメだな」
ウチはそのことばに嫌なものを感じた。
- 130 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:56
- 「つまんない子って、例えば?」
”ネタフリ”を仕掛けてみる。
「えー? お笑い番組すら見てないっつーか、ひとを笑わせる気がないっ
つーか?」
「もっと具体的に言ってよ」
「つまりさ、分かりきったような、簡単なネタフリにも応えられないやつの
ことだよ。いつもヘラヘラ笑ってばかりで、自分さえ楽しけりゃいいなんて
思ってる。まわりを楽します気なんて、これっぽっちもないのさ」
そのまま男子は、自分は笑いの絶えない家庭が理想なんだ、お互い
に笑わせ合うような関係がいいんだといって、聞いてもいないことを、
ベラベラと気持ちよさそうにしゃべった。
ウチは手すりを握る手に力が入るのを、抑えられなかった。
明らかに、舞美があてこすられていたからだ。
――あんな女より、オレといっしょのほうが、楽しいぜ。
そういうことばを、心のいちばん無防備な場所に、泥水で書きつけられ
たような気になった。
手すりから手を離すと、剥げかけていたペンキが、サビといっしょに、
ぼろぼろとこぼれ落ちた。
「ごめん。ウチにはずっと好きなひとがいるから」
- 131 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:56
- ”ネタフリ”に応えてくれたお礼に、嘘だけはつかないであげた。
そのままリアクションも待たずに、屋上を出た。
スカートの裾も気にせず、階段を駆け下りていると、無性に、舞美に
会いたくなった。
何も言わず、10時間でも、20時間でも、ただ見つめあっていたかった。
- 132 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:57
-
- 133 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:57
-
翌週のこと。
学校へいくと、クラスの雰囲気がガラっと変わっていることに気づいた。
いつものように舞美と並んで席へ向かうと、みんなの目がケータイと
ウチらとを何度も往復していることに気づく。
週末に舞美の家に泊まりにいっていて、金曜日に嫌な話を聞かされて
もいたウチは、ろくにメールのチェックをしていなかった。
慌ててケータイを開くと、舞美が小さく悲鳴を上げた。
「どうしたの?」
「…これ」
見ると、一通のメールが、開かれていた。
- 134 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:57
-
【○○高校1年4組 矢島舞美 衝撃の過去!】
矢島さんって 美人で 物静かですよね
でも それは中学のときから ずっとなんです
なぜかというと 彼女 中1の夏休みに見知らぬ男にレイプされて
自殺しようとしたことがあるからなんです
その子どもは どうしたかというと なんと同じ組の 梅田エリカさん
といっしょに育ててるんです
梅田さんは 週末ごとに矢島さんの家に泊まりにいっていて
そこで毎晩 見知らぬ男とのあいだにできた子供の前でセッ○ス
してるんですって
そう 今年の春 入学式のころ噂になったように 2人は 本当にレズ
なんです
おまけに 梅田さんが高校へ入ってからキャラチェンしたのは 毎日
屋上で クスリをキメてるかららしいですよ
矢島さんは いろいろとバレないように大人しくしているんですが
梅田さんのほうがバカだから 調子に乗っちゃって クラスで目立っ
て矢島さんを困らせています――
- 135 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:58
- まるで、下らないケータイ小説のような内容だった。
発信元は、たぶん使い捨てのメアドだと思う。
おなじものはウチのケータイにも届いていて、メール友達が多いウチ
よりも、舞美のほうが、先にたどり着いてしまったんだ。
多分、クラスメイトどころか、よそのクラスの生徒の元にも、おなじもの
が届いてるんだろうと思う。
ウチは怒るというより、悲しくて仕方なかった。
レイプだのセックスだのというところは、どうでもよかった。
最後の一文が、ウチには耐えられなかった。
――梅田さんのほうがバカだから 調子に乗っちゃって クラスで目立っ
て矢島さんを困らせています
それで、これを書いたのが誰かなんて、すぐに分かったのに、ウチの
頭の中は、先週末のことでいっぱいになっていた。
男子から告白を受けたその日、すぐに教室へ戻って、舞美に泊まりた
いと耳打ちした。
いつもは土日だけだったけど、どうしても、その日は金曜日から泊まり
たかったんだ。
ウチのようすがおかしかったことに、舞美はそのとき気づいてたみたい
で、先にお風呂をもらって、ベッドで寝ころがっていたウチに聞いてきた。
- 136 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:58
- 「ねぇ、エリ…。今日、学校でなにかあった?」
ウチはむしゃくしゃしていたから、昼間あったことを告げた。
「へぇ…そんなことがあったんだ」
舞美は嫌がるというのでもなく、素直に聞いていた。
少しだけ嫉妬して欲しい気もしたけど、そういうの、舞美には似合わな
いのかなとも思った。
「おまけにね、下駄箱でも、そいつといっしょになったの」
「私が、職員室に日誌を届けにいってたときのこと?」
「そう。でね、ウチは何事もなかったかのように、振る舞ってたわけ。そし
たら、そいつ、わざわざ話をぶり返してきて、『やっぱ男のオレじゃダメか
…』って言うの」
嫌味だと思わない?というと、舞美は、やっぱり普通に聞いていて、
「えー、それだけ思われてるってことだよ」
と言っている。
ウチは、それで火がついてしまった。
「ウチら、入学式のころ、レズだって噂されてたじゃない?」
「うん」
- 137 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:58
- 「どう思った?」
「どう…って」
「ウチは舞美とだったら、ぜんぜんいいよ」
何がいいのか――具体的には、なにをするのがいいか、それは はっ
きり言わないでおいた。
「私だって、エリとならうれしいよ」
それで舞美の手を引いて、ベッドの上に座らせた。
布団の中にもぐりこんで、髪を、お互いにいたずらしてみたりして。
そして、舞美のお家のお風呂に入ったんだから、それは当たり前の
ことなんだけど、お互いの髪からおなじシャンプーの匂いがすることが
無性にうれしくなって、私はキスしたい衝動を抑えられなくなった。
マクラと布団とウチと舞美、その4つによって区切られた空間が、2人
の吐息を響かせて、すこしずつ小さくなっていく。
ウチは舞美の唇だけ見ていた。
布団の中でぶつかった手が、強張っているのが分かった。
あと少し…というところで、舞美が嫌った。
「…ごめん。私、まだ、そういうの…ダメみたい」
- 138 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:59
- ウチには、その表情が、いつかのカラオケボックスで見たものと同じ
ように思えてならなかった。
「や、やだなぁ…舞美ったら。冗談だよ、冗談」
だって、ウチら女の子どうしだもんね――。
そういいながら、ウチは頭の中で、中学一年生のときの舞美の姿を
蘇らせた。
陸上部のエースだった子が、「矢島は手加減している、それはズルい」
と言ったとき、舞美は、その冗談を真に受けてしまった。
「ごめん…私、冗談とか、そういうの、まだ分からなくって…」
――冗談だという冗談。
ウチは、そう聞いて欲しかった。
布団の中で、ヒザが震えているのを感じる。
それは、なにも自分だけじゃない。
舞美のヒザも震えていたんだ。
- 139 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:59
-
- 140 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 11:59
-
舞美は、中学のころと何も変わっていない。
そのことを、ウチは痛感させられていた。
ウチが下手に関わらなければ、いまごろ舞美は、クラスの中心で男子
にチヤホヤされながら、平和に過ごしていられたんじゃないか。
女子にプレッシャーを掛けられたりしても、どこかへすっと”飛んで”しま
う能力によって、その歪な存在感から周囲をシャットアウトしてしまう――。
そんな生活に慣れてしまっていたのかもしれない。
笑顔はないけれど、涙を流すこともない。
そんな、ある意味で、平穏無事な生活が送れたんじゃないか。
そう思うと、ウチは、これまで自分がやってきたことが、すべて間違い
だったような気がしてならなかった。
あのメールのほとんどは、誰も読まないようなケータイ小説だったけど、
最後の一文だけはちがった。
【これは私が実際に体験した話です】
そんな、よくある宣伝文句が、頭の中に浮かんでいた。
バカなウチは、舞美相手に、ことあるごとに性的な話題を選ぶように
なっていた。
- 141 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 12:00
- 男子がアダルトビデオの話をしていたら、食いついて、舞美にネタフリ
までして、ただでさえ噂がこじれていたところへ、余計、まわりを引かせ
てしまうこともあった。
ある日の学校の帰り。
ウチは、場所も、タイミングも、まったく考えず、舞美にキスを迫った。
最初は、不意打ちだったから、舞美も避けきれなかった。
あの日、繁華街から”飛んだ”――その先の路地裏でしたときように、
ただ”ぶつけただけ”のようなキスだった。
「…ちょっと、エリ?」
ウチは、もっとちゃんと欲しくなった。
「やめて、エリ…ひどいよ!」
舞美がいやいやをしても、何もかまわなかった。
「やだよ!――ウチ、舞美のこと絶対に離さないって決めたんだから!」
ウチは舞美の細い腕を掴むと、その場で、押しては引いてのやり取り
をくり返した。
正気なんか、まったくなくしていて、ウチは舞美の体が、異常なほど
震えていることなんか、気にも止めなかった。
背が高いぶんだけ、ウチのほうに分があった。
「…やだ、やめて」
- 142 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/29(水) 12:00
- 唇が、いま一度、重なりそうになった――その瞬間だった。
舞美の姿が、目の前から消えていた。
さっきまで、舞美の熱い腕を掴んでいた手は、空を掴んだあと、行き
場を失った。
ウチは、まるで息継ぎを失った魚のように、いつまでも――いつまで
も、その場で喘いでいた。
- 143 名前:さるぶん 投稿日:2009/04/29(水) 12:01
- 更新です。
- 144 名前:名無し飼育さん 投稿日:2009/04/30(木) 00:33
- あっちが四コマ漫画だとしたら、こっちは特撮みたいだ。
と思っていたのですが、今回はドラマのような感じがしました。
文章に重みがあるような気がして読んでいてすごくたのしかったです。
- 145 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:22
-
ウチと舞美の関係は、大きく変わった。
みんなには一層親しくなったと思われていたみたいだけど、実際は、
悪化していたんだ。
次の日、学校へ行って、ウチがまずしたことといえば、メールにあっ
たレズという噂を認めたこと。
舞美は、相変わらずいつものように微笑んでいたけど、机の下では
足が震えていた。
それ以降、ウチらは、おおっぴらに”恋人として”振る舞うようになった。
あの男がバラまいたメールの影響は大きくて、どこへ行っても後ろ指
をさされるようになっていたから、舞美の精神はいっそう不安定になって
いた。
たぶん舞美は、何もしなくても、ウチから離れられずにいたはずなん
だ。
中学校のころの経験や、ことあるごとに、ウチとクラスでどう振る舞う
かについて話し合いを持ってきたんだから、舞美だって、この場を切り
抜けるには、こうするしかないと分かっていたはずだった。
もちろん、意思を確認したわけじゃないから、ウチの思い込みに過ぎ
なかったかもしれない。
- 146 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:23
- 実際のところ、舞美は緊張によって”飛んで”しまうという発作がぶり
返すようになっていた。
ウチはウチで”レズビアン”というキャラを演出することに苦しんでい
た。
一口に”同性愛者”といっても色々だ。
いくらでもテレビに見本がある”オカマ”や”おネエ”とはちがって、
”レズビアン”というキャラが、一体どう演出すればいいものなのか、
ウチは見当をつけられずにいたから、こうして舞美が”理由のない違和
感”のバリアーをまわりに対して張ってくれていたことは救いになった。
例のメールを送った犯人の男子も、ウチらの関係性を壊そうとして、
ウチを必死になって異性愛者として扱おうとしたけど、その度に舞美が
救ってくれた。
なにも言わず、ただ微笑んでいるだけの舞美が、確かにいま辛いの
だと分かるのはウチだけだったから、”飛んで”しまったり、また”飛び”
そうになったりする度に、ウチは舞美を構っていた。
お互いにギクシャクしていたから、”大丈夫”とかせいぜいそれ位の
ことしか言えなかったし、舞美も無言でうなづくのが精一杯だったんだ
けど、まわりには美しい光景に見えたんだと思う。
このころの舞美は、元より持っていた運動神経をすっかり失っていて、
体育も見学するようなありさまだったから、細い体格もあって、儚げな
印象ばかり振りまいていた。
- 147 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:24
- それでも”飛んで”しまったあと気丈に振る舞っていて、ウチにさえ、
その事実を気づかせないこともあったから、意思の強さを感じさせた。
ウチも、それに甘えてしまっていた。
このナイフのような腕でお互いを支え合うという、耐え難い関係性が
いつまで続くのか、ウチはすぐにでも弱音を吐きそうなくらいだった。
- 148 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:24
-
- 149 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:24
-
ある日のこと。
下校のとき、門のところで声を掛けられた。
「矢島舞美さんって、あんた?」
同い年くらいの女の子が、門に寄りかかっていた。
「はい…」
舞美は応えながら、ウチの手を握った。
それを見て、女の子が言う。
「レズって、本当だったんだ。…じゃあ、あんたが、梅田エリカさん?」
「そうだよ」
一歩前へ出て、しげしげとウチを観察する。
ウチも強めに見返してやると、女の子は、舞美とは正反対の垢抜け
た感じの美人だった。
「あたし、夏焼雅っていうの。この子は…」
そういって隣を見ると、誰もいなかった。
雅は門のところへ戻ると、べつの子を引っ張ってきた。
- 150 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:24
- 「菅谷梨沙子。ウチが中3で、この子が中1ね。よろしく」
そういって握手を求めてきた。
ウチは梨沙子ちゃんが、雅の影に隠れて怯えているのが気になった
けど、警戒しながら、それに応えた。
その代わり、舞美へ手を伸ばす隙は与えない。
「なんの用」
「ちょっと…。そんなに高いところから、怖い顔しないでよ。いい話を持
ってきたんだから」
「いい話?」
「そうだよ。あんたたち、クラスでいじめられてるでしょう」
「なに、いきなり失礼じゃない?」
「いいから。あのメール、ウチも読んだんだよ。本当にレズなのかどう
かはともかく、クラスの人間関係で悩んでるでしょ?」
ウチは核心を言い当てられ、驚いていた。
でも、慣れっこになっていたポーカーフェイスが、すっと顔を出す。
「どう?」
- 151 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:25
- 雅が質問をぶつけたのはウチだったのに、そう聞いたのは、梨沙子
ちゃんにだった。
わけが分からずにいると、
「…おどろいてる。きもちわるいと思ってる」
梨沙子ちゃんは、雅の影から、そうつぶやいた。
「この子ね、ひとの心がわかるの。テレパス。知ってるでしょ?」
ウチは思わず、舞美を見た。
舞美も、こちらを見ていた。
握る手に、ぐっと力が入った。
「ウソ。証拠は?」
「いまのが、そうだよ。どうせ当たってるんでしょ?」
「そんなの、どうとだって言えるじゃない」
突っぱねると、雅は息を吐いた。
「…ふぅ。やっぱダメか。まぁ、分かってたんだけどね。この子の能力っ
て中途半端なの」
雅が説明した。
- 152 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:25
- ふつうテレパスというのは、頭の中で考えてることが、みんな筒抜け
になって伝わってくるものだけど、梨沙子ちゃんの場合、誰がどんな
感情を抱いてるか、その点だけが伝わってくる。
どんな理由で起きた感情なのか、具体的になにが好きで、嫌いなの
か、そういった点が、この子には分からないのだと。
「…あ、人間関係に悩んでるってのは、この子に”感じ”させてたとか、
そんなんじゃないから。ただの勘ってやつ。だって、そっちの舞美ちゃ
ん、ウチらと同じ臭いがするからね」
そういって不敵に笑う。
「臭い…?」
「そう。だって能力者なんでしょ?」
舞美が身を固くしたのが分かった。
「そしたら、レズがどうの以前に、そういう悩みである可能性が高い。
ウチも学校のクラスで能力見せちゃったことがあって、扱いに戸惑われ
たことがあったから、そう思ったの。
だからね、ウチもできれば脅しとかかけずに信じてもらいたくて、いろ
いろ作戦を考えてみたんだけど…。よくわかんなくてさ。まぁ、ダメもと
でやってみようって。そしたら…」
雅は、お手上げになった。
ふとまわりを見ると、生徒たちが沢山集まってきていた。
- 153 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:26
- 「あれ…。話題の美人カップルが、不良少女にからまれてる――って
感じ?」
そういって笑う雅に、ウチは場所を移そうと提案した。
「じゃあ、こっちに決めさせて」
そういって、雅は先に行ってしまう。
梨沙子ちゃんが、後を追っていく。
ウチは舞美を見た。
無言のまま、うなづいている。
ウチも舞美も、なにか現状を打破するきっかけを探していたのかもし
れない。
しばらく歩くと、雅が立ち止まったのは、町外れの廃工場だった。
「来て」
なにか大きな鉄の箱の上に登っていく。
ついていくと、水槽のような装置がついていて、いっぱいの水が溜
まっていた。
「いつもは、学校のプールでやってるんだけど…」
そういって手をかざすと、青白い炎が起こった。
- 154 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:26
- 渦を巻いた空気が、雅の手のひらへ吸い込まれていくような感じが
あって、炎は、明らかにそこから出ていた。
見る見るうちに、水が沸騰していく。
「どう? ウチらが能力者だって、信じた?」
雅が放火をやめると、ウチらは頷かずにいられなかった。
「…で、なにが目的なの」
「その前に、聞かせてよ。そっちの舞美ちゃんが能力者っていうのは
知ってる。でも、あんたはなに? 能力者? ただの一般人?」
ウチは”一般人”の言い方に、吐き捨てるような感じをおぼえた。
「どうして?」
「どうしてって、それで”おあいこ”でしょ。ウチの念力放火と、梨沙子
の精神感応。こっちは手のうちを明かしたんだから、そっちだって」
雅は、ふつうに疑問をぶつけている――という感じだった。
ウチは、この2人が、あの日、舞美を襲ったやつの仲間なんじゃな
いかと疑っていたから、その無防備な感じが不思議だった。
舞美もおなじことを考えていたみたい。
「エリ…この子たち」
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:26
- 敵じゃないかも――。
そう言っているように思えた。
「…安心してる。でも、すこし怖がってる」
梨沙子ちゃんが言った。
「あれ? もう半分、味方についてくれちゃったんだ。なら、話がはやい
ね」
雅はポケットからなにか取り出した。
「…これを見れば、半分どころじゃ済まなくなるよ」
手にはビデオカメラが握られていて、ディスプレイが回転すると、こち
らへ向けられた。
再生がはじまると、そこには青空と、どこかの広場が映っていた。
点々とひとが散っていて、画面の外側から、歓声が聞こえる。
映像が切り変わると、ひとりの子どもが映し出された。
小高く土が盛られた場所へ、ユニフォームと帽子を身につけて立って
いて、どうやら野球のピッチャーのようだった。
しばらくすると、左端から、ぶかぶかのヘルメットを被ったべつの子ど
もがフレームインしてきた。
- 156 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:27
- よく日に焼けていて、細身で、小柄な体格だった。
「これ、あたしだよ!」
おどろきの声をあげたのは舞美。
映像は、そのあと、ピッチャーが投げた球を、舞美が2度スイングした
ようすが映し出された。
1度はファウル、もう1度は空振りで、2球のボールをはさんでからの、
第5球。
軽快な金属バットのヒット音が響くと、舞美が走り出した。
バットを投げ捨てて、ぐんぐん加速していくと、1塁ベースを超えたあた
りから、舞美の体が、ぱっ、ぱっ、と点滅しはじめる。
そして、なん度かバウンドしたボールを外野手がキャッチし、投げ返す
フォームに入ったころには、もう3塁ベースをまわっていた。
「舞美ちゃんの能力は、テレポーテーション。これを見る限り、そういうこ
とになるね」
雅は、そういって映像を停止させた。
「…どうして」
「手に入れた方法のこと?…それは秘密」
舞美を見ると、信じられないようすでいた。
- 157 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:27
- 映像に見入っていたとき放していた手を、いままたウチに強く結びつ
けている。
「あんた、あいつの仲間なの」
「あいつって? Zetimaの狩人? それとも、リゾナントの連中?」
「わかんない。去年の夏、舞美を襲ったやつだよ。どこかへ連れ去ろう
とした」
「なら、どのみち、Zetimaの連中だね。…まったく。あんなやつらと、い
っしょにしないで」
雅が、うんざりといったようすで言った。
「ウチらは、あの組織とは関係ない。むしろ、関わり合いたくないぐらい
だよ」
「…Zetima」
舞美がつぶやいた。
「記憶にあるの?」
「うん…。あのとき、そんなことを言ってたような気がする」
事件のことは、なるべく口にしないよう心がけていた。
すこしでも思い出すと辛いだろうと思ったし、不思議と、あいつが現れ
る気配がなかったから、これまではそれでよかったんだ。
- 158 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:28
- 「捕まらなくて正解だね。あそこへ連れて行かれたら、クスリ漬けにされ
て、廃人にされる」
「…廃人って。Zetimaって、かぜ薬とか造ってる会社でしょ?」
「そうだよ。でも、それは表の顔。裏では能力者を捕まえて、実験台に
したり洗脳したり、いろいろやってる酷い組織」
雅は、あんたたちだって、そんな目に遭いたくないでしょ? という。
「だから、手を組もうって言ってるの。あそこの狩人は、能力者のすべ
てを捕獲しようとしてる。狼になると厄介だから、その前に…って、力づ
くでかかってくるよ」
ウチは狼だの狩人だの製薬会社の裏の顔だのと、意味の分からな
いフレーズに頭が混乱しかけていた。
雅にペースを握られまいとして、舞美へ話を振る。
「ほかに思い出せることはないの」
「うん…うっすらとだけど…記憶に…残ってるような…」
舞美によると、あのとき襲ってきたやつは、なんとかって組織の人間
だけど、自分はちがうんだ…だから信じて欲しい――と言っていた気が
するという。
「それはリゾナントのやつだよ。少なくとも、あんたたちを狼にする気だ
けはなかったみたいだね」
- 159 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:29
- だって、あそこには、基本的に羊しかいられないから――と。
「ほかには?」
「うん…。たしか…自分は、あなたに危害を加えるつけるはない。ただ、
いっしょに来て欲しいところがあるんだ――って」
「そう、そう。あいつらは、そうやっていつも油断させておいて…」
「ちょっと黙ってて!」
ウチは舞美に向き直った。
「あのひとは、自分はいま能力者を匿う組織に属しているけど、そこは
危険だから、近い将来、新しい組織をつくるつもりなんだ。そこは誰も
傷つけられることのない、能力者たちの楽園にするつもりなんだ――っ
て」
それで舞美は、”傷つけられる”とか”楽園”とかいう、両極端で日常
に不釣合いなことばを聞いて怖くなったんだという。
「…そうだ。私、Zetimaって、あのとき聞いたんだと思う。だって、さっき
のエリと同じように、”ただの製薬会社ですよね”って、聞き返した記憶
があるの」
舞美は、記憶がはっきりと戻りつつあるみたいだった。
ウチの目をじっと見ているけど、その奥に、あの日の記憶を見ている
ような感じがあった。
- 160 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:29
- 「聞き返して、どうしたの?」
相手は、舞美がZetimaを――その裏の顔を知らないことに驚いた。
「資料によれば、”ぞわぞわの日”のころ、キミは小学校低学年だった。
あれから数年、能力が出てからも暫く経ってるのに、まだ組織は接触
してないのか――って」
舞美が言うのを聞いて、雅もおどろいた。
「それは確かに珍しいね」
この場合、組織といったら、Zetima本部のことだという。
「ウチの場合、すぐ感づかれたよ。あいつら”狼を追う狩人”なんて名乗
っておきながら、自分たちの方がよっぽど飢えた獣だってことに気づい
てない」
そう言って雅は、足元にあった鉄くずを、水槽へ蹴飛ばした。
焼けるような音とともに、底の方へ沈んでいく。
「Zetimaの正体は、能力者たちを集めて研究をするところ。そう教えら
れて、私、すごくおどろいた――」
でも、相手は、その研究の実験台に、これまで多くの能力者たちが
使われ、犠牲になってきたことを打ち明けた。
- 161 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:30
- 「そうやって仲間を失ったこともある。だから、自分は能力者を救いたい
んだ。そのための新しい組織をつくりたい。キミには、その設立メンバー
に加わってもらいたい」
舞美に接触してきた理由だった。
相手は、舞美が能力を行使しているところを映したビデオテープを持
っていた。
「でも、そのひと。キミが誘いに乗らなくても、このテープで脅すつもりは
ない。ただ能力者を守りたいだけなんだ…。そういってた」
でも、結果、舞美は強引に迫られた。
「あのひと。すごく焦ってるみたいだった。私、すごく怖くなって、逃げ
ようとしたの。…そしたら、そのひとの目を見ているうちに動けなくなっ
て」
雅は、超能力の一種だろうという。
「肉体を直接あやつることはできないけど、相手の精神に働きかけて、
間接的に動かすことならできる――そういう能力者がいるって話は聞い
たことがあるよ」
「じゃあ、どうして舞美は”飛べた”の?」
「ウチもよく分からないけど、テレパスといっても、梨沙子みたいに全能
じゃない場合もある。きっと舞美ちゃんと、その襲ってきた相手との波長
が合わなかったんだと思う」
その結果、舞美は恐怖心から”飛んで”、相手の影響下を抜け出した。
- 162 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:30
- そのときのことを思い出して、ウチはいつのまにか唇を抑えていたけど、
舞美もおなじ行動を取っていた。
ふたりで顔を見合わせていると、梨沙子ちゃんが声をあげた。
「…やさしい感じ」
「だって。お2人さん、ヒューヒューだよ」
雅に茶化される。
「――話をもどそう。あんたたち2人は、お互いを必要としてる。そして、
このビデオテープを悪用しないといってるリゾナントっていうのは、あく
までZetimaの一部、外部組織でしかない。上位組織に当たるところが
沢山あるんだよ。つまり…」
そちらへビデオテープが渡ってしまえば、あんたたちはすぐにまた追
われる身になるんだ――と。
「そこで手を組まないかって、言ってるの」
「なにを――」
ウチは意を決して言った。
「なにをすれば、いいの」
「仕事だよ。お金を稼ぐの」
「なんのために」
- 163 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:31
- 「決まってるじゃん。Zetimaは能力者を救うなんて言ってるけど、信じら
れたものじゃない。リゾナントも怪しい。かといって、世間はもっと厳しい
よ。能力なんて、持っていると知れただけで迫害される。だから、自分
たちの力でやっていくの」
雅は得意げにいうけど、それでは”飼育”がやっていることと変わらな
い。
「ちがうよ。同じじゃない。組織化しなければいいの。組織化するから、
上司だ部下だ、先輩だ後輩だ、親だ子どもだっていって面倒なことにな
る」
だから、一時だけの協力関係を築かないかと、雅はいう。
「いまウチがやってる仕事はね。家を燃やすこと。といっても、誰かを傷
つけたりしないよ。廃屋や廃ビルなんかを燃やして、代金を貰うの」
雅が言うには、土地と建物は持っているけど、相続かなにかで受け
継いだだけで、撤去費を出す余裕がない家というのが世間には少なく
ないらしく、それを能力で燃やす手伝いをするのだという。
「ウワモノ付きじゃ売れない土地も、それで条件が整う。あとは不動産
屋に任せるなり、自分たちで使うなりすればいい。その手間賃をもらうっ
てわけ」
中には火災保険に入っている建物もあって、この場合、額が上乗せ
される。
「1物件につき、十数万円。どう? 悪い話じゃないでしょう」
- 164 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:31
- さっきから雅は親指の先をべつの指の腹ではじいて炎を出し、それ
を消しては点け、消しては点け、とやっている。
この話――。
ウチにはよく分からないけど、法の網目を突いた”うまい話”のように
聞こえる。
おまけに超能力という、警察が想定していない”凶器”を使っているか
ら、足が付かないという利点もあった。
「…エリ」
舞美は、心配そうに腕を掴んでいる。
誘いに乗っちゃダメ――。
暗に、そう言っていた。
「ウチらは…、それにどう絡めばいいの」
「いまの仕事を、ウチは2年近く続けてる。だからね、そろそろ手を広げ
ようかと思うの」
指を強くはじくと、爪の先の炎が大きくなった。
「近頃、この辺りに中国人窃盗団が出没してるの、知ってる? ウチに
はあいつらとコネクションがあって、そこでもう少し大きな仕事が開拓で
きそうなの。でも…」
- 165 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:32
- 指先の炎を、ゆらゆらと瞬かせると、それを水槽へ放り投げた。
「あいつらには常に警察の追っ手がついてまわってる…。だから”足”
が必要なの」
そういって舞美を見た。
「ウチの放火能力、梨沙子のテレパス、舞美ちゃんの瞬間移動…。
これだけのものがあれば、色んなことができると思わない?」
そして、もし強力してくれたら、ビデオテープを返してあげる――そう
雅はいう。
「断ったら…?」
「そのときは…、こうする」
雅は、水槽に浮かんでいた炎の玉へ向けて手をかざすと、それを
ねじ込むようにして手を動かした。
炎の玉が、じゅ…と音を立てて消える。
ウチは考えた――。
あのビデオテープは、舞美が能力者であるという決定的な証拠だ。
もちろん、仮に、世間に公表しても、あまり相手にされないかも知れ
ないし、お金を掛けてつくったニセモノだろうということになるかもしれな
い。
- 166 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/06(水) 09:32
- でも、それが、もしあいつらの目に触れたら、またなにか接触してくる
可能性が高かった。
いまの舞美の精神状態では、どうなってしまうか分からないし、もし
万全な状態でも、それは変わらなかった。
「考えさせて」
駆け引きじゃなく、正直な気持ちだった。
「梨沙子、これは嘘?それとも本気?」
梨沙子ちゃんは首をふる。
嘘と本気は、感情に含まれるんだろうか? それとも論理?
「じゃあ、またくるね」
雅たちは、あっけなく去っていった。
しばらくの間、ウチらは黙って水槽の底をみていた。
- 167 名前:さるぶん 投稿日:2009/05/06(水) 09:40
- 更新です。
>>144
>ドラマのような感じが〜文章に重みがあるような
ケータイ小説的なものって軽いと言われることが多いですけど、
工夫次第でどうとでもなると思うんですよね
梅さんの一人称を使ったのも、それを意識したからです
>読んでいてすごくたのしかったです。
でも、こう言ってもらえるのも、すごくやりがいを感じます
- 168 名前:三拍子 投稿日:2009/05/08(金) 20:49
-
こ、これは‥‥‥!
面白いです!最高です!!
梅さんが良いなぁ。
これからどうなるのか非常に気になります!!
- 169 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:27
-
あれから雅たちは、頻繁に顔を出すようになっていた。
一度なんか、休み時間の教室にまで入り込んできた。
そのとき、例のメールを送った男子が、ちょうどウチに突っかかって
きていて、梨沙子ちゃんに気を探らせると、雅は、そいつのことを指さ
してメールの犯人はお前だろうと指摘した。
「…大っきらいと、大好きがまざってる。…でも、全体的には、まっ黒な
感じ」
梨沙子ちゃんがそう言ったのを、みんな口を明けて見ていたけど、
誰にも聞かれてないのに、そいつは、”オレ、レズの女なんか好きじゃ
ねーし”と言ったものだから、決着はついていた。
それからというもの、そいつはクラスで浮いてしまうようになっていて、
ウチはいい気味だと思った。
けど、舞美はちがっていたんだ。
「…エリ。かわいそうだよ」
そういって、一通のメールを見せてくる。
そのメールの中で男子は、前に自分が書いたウチらを誹謗中傷する
目的のメールで、中学のときに舞美をレイプした男になっていた。
- 170 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:28
- その後、思いつく限りの犯罪をやって少年院入りし、家庭裁判所の
判事を親のコネで買収しようとして、失敗している。
高校入学の直前にようやく出所してきたけれども、自分が舞美に
生ませ、ウチがいっしょになって育てた男の子に復讐された――つまり、
男どうしのセックスを覚えさせられ、ゲイに目覚めたことになっていた。
誰が書いたのが、わからない。
ウチにも文才があったら、これくらい書いてやりたいと思うようなスカ
ッとする内容だったけど、舞美は気に病んでしまっていた。
「これくらい当然だよ」
「でも…」
そんなふうに言って。
やさし過ぎるんだ、舞美は。
雅たちのことにしたって、
「ねぇ、あの子たちのこと。助けてあげられないかな」
「助ける? …脅されてるのは、ウチらなんだよ?」
「そうだけど、それだけじゃない、そんな気がして…」
舞美は、誰にも気づいてもらえない悩みを自分が抱えていたから、そ
のときのことを思い出してしまうんだと言った。
- 171 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:28
- 「私には、エリがいる…。でも、あの子たちはちがう…。そんな気がして
ならないの」
舞美は、いま、さりげなく言った。
”私には、エリがいる…”
昔だったら、素直に喜べたところだけど、いまは少しちがう。
みんなの前でラブラブを装うことに慣れてしまっていたし、ここは教室
の中だった。
すぐ隣には、クラスメイトがたくさんいる。
舞美が言ったことに、うんうんと頷いている子もいた。
ウチは、舞美のそういう態度が、本気なのかどうか、わからなくなって
しまっていた。
いっそ梨沙子ちゃんに、助けてもらいたい。
そんな気分にもなったけど、あの廃工場で、梨沙子ちゃんが見詰め
合うウチらの心を読んで言った、
『…やさしい感じ』
ということばまで、ウチらの偽りのこころを映しているように思えた。
心の底まで――。
- 172 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:29
- ウチらは心の底まで”キャラ”を演じることに慣れてしまったのかも
しれない。
そう思えてならなかった。
- 173 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:29
-
- 174 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:29
-
雅たちは、どこまで本気なのか。
たまにやって来たかと思うと、決心は付いたかと聞いて、またふらっ
と帰っていく。
そんな日が続いた。
ウチはアルバイトを始めていた。
駅の北口に、窃盗団の中国人や、雅の知り合いの子たちが溜まり
場にするコンビニがあって、そこのオーナーが南口にも店を構えていた。
この前いっていた計画がうまく進んでいかないから、それまでのアイ
ドリングとして、ここで働いて欲しい――そう言われていた。
詳しくは聞かされなかったけど、計画に関わりがあることらしかった。
キスの一件があってから、ウチは舞美の家に泊まりにいっていない。
メールは相変わらずたくさん打っていたけど、日常の会話と同じで、
打ち込みながら、どこまでが本音で、どこまでがお芝居なのかが分か
らない。
――舞美以外に、ぜったいハートは使わないからね。
ウチはふざけて色んな子にメールを打つから、そんな約束をしたこと
があったんだけど、最後にそのマークを使ったのは、ずいぶん前のこと
だった。
- 175 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:30
- ある日のこと。
レジを打っていると、雅が店にやってきた。
「――ねぇ、あの計画。乗る気になった?」
肩で息をしていた。
「そんな急にいわれても。詳細だって、聞かされてないし…」
ウチはお客さんの相手をしていたので、軽くあしらおうとした。
すると、雅が大声で怒鳴り散らす。
「そんなこという権利、あんたにはないんだよ!」
カウンターについたほうの反対の手では、あの炎を指先で弾くクセが
出ていた。
お客さんは、それを見たのか、品物も持たず、恐れをなすようにして
出て行ってしまった。
入れちがいに、舞美が入ってくる。
舞美は、いつも決まった時間に、ウチがバイトを終えるタイミングで、
店へ買い物にくるようになっていた。
バイトをはじめると言ったとき、ウチは、もちろん雅に頼まれたことだ
からと告げたけど、こうも言っていた。
- 176 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:30
- 「ここのところ、舞美、ずっと家に篭ってるでしょ。だから遠いところへ
旅行に連れて行ってあげたいなと思って。そのための貯金だよ」
あの日、屋上から見た海の景色。
あるいは、もっと遠くまで――。
そんなことしてくれなくていいよ。
エリが泊まりに来てくれれば、それでいい…。
そう言って欲しかったけど、ムリだった。
「そうだね…。でも、私、エリに頼ってばっかりじゃダメな子になっちゃう」
ウチらは2人で話し合って、いまのところビデオが悪用される心配
はないだろうという結論に達していたから、このリハビリめいた習慣を
舞美が言い出したとき、ウチには止める理由がなかった。
「どっちなの、やるの? やらないの?」
選ぶ権利はないと怒鳴っておきながら、また聞いてくる。
雅はパニックに陥っているようだった。
そのことは舞美も感じたようで、
「梨沙子ちゃん、怖がってるよ」
雅は梨沙子ちゃんではなくて、舞美をちらっと見て言った。
- 177 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:31
- 「いいの!この子は、自分一人じゃなんにもできない子なんだから!」
ウチは、まるっきり舞美のことを言われているような気がした。
いまの舞美に出来ることといったら、せいぜいが、この店へきて弁当
やお菓子を買っていくことぐらい。
この習慣がはじまるまで、舞美は一年近く、ウチがいないところでは
ろくに外を出歩いたことすらなかったんだ。
それって、まるで――
子どもの使いみたいじゃないか。
「…でも、だからって、あなたが全て決めていいわけじゃない」
雅の威勢がすごくて、舞美は一瞬、しり込みしてしまったが、いまは
ちがった。
じっと、雅だけを見て、強く、宣言するように言う。
その表情を見て、ウチは胸が苦しくなった。
この2人は、ウチらの映し鏡なんだ――。
怒りの炎を暴走させる雅。
それに従って、怯えながら世の中の感情を掬い取ろうとする梨沙子
ちゃん。
- 178 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:32
- ウチは傷つけようとするものから舞美を遠ざけようとして、がむしゃら
になって振る舞った。
舞美は、ただそれに従った。
雅は、もういい!と、最後に一度だけ怒鳴り散らして、去っていった。
2人だけになると、舞美は、前とおなじことを言う。
「やっぱり、私…。あの子たちを、助けてあげたい」
ウチもおなじことを思っていた。
でも――。
ウチらの”赤い糸”は、ちゃんと結ばれているんだろうか。
おなじことを思っているのに。
おなじ結び目を形づくっているのに。
その結ばれ方は、まちがっているんじゃないか。
ウチには、なにも信じるものがなかった。
- 179 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:32
-
- 180 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:32
-
次の日。
臨時のシフトが入っていて、7時に明ける予定だった。
――今日は いつもの ナシだね。
店へ出る前に、そんな短いメールを、舞美に宛てて打った。
季節は秋。
夜の7時といえば、もう真っ暗になっている時間だった。
さすがに、駅前とはいえ、こんな時間に舞美を出歩かせるわけには
いかない。
――心配ばっかりされて ウザい?
そんな、ふざけた文章を、こっそり忍ばせることができたら、ウチらの
関係はどれだけ楽になるだろう。
そんなことを思いながら、退勤時間を迎えようとしていた。
「…あれ、おかしいわね」
おなじシフトのおばさんが、床にはいつくばった。
レジの清算が合わないんだという。
- 181 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:33
- ウチは当然のこととして、ヒザを着いた。
引継ぎが終わらないと帰れないのは分かっていたし、おばさんは、
ウチとおなじく臨時のシフトで、お家では、彼女のつくる夕食を家族が
いまかいまかと待ち望んでいるいるはずだった。
だから、次のシフトのひとが気を利かせて、すこし早めに交代してくれ
ると言っていた。
店長にバレると怒られるけど、うまくやっておきますよ。
そう言って、退勤を管理するためのバーコードがついた名札を受け取
ってもいた。
「…あった!」
おばさんが頭を上げた。
ウチも、よかったですね!といいながら、顔を上げた。
すると、ちょうど目線の先に、交差点の向こうにいる舞美が目に入っ
た。
「…なんで!?」
思わず、声をあげた。
店を飛び出すと、おばさんが後ろでなにか言っていたし、出入り口で
店長とぶつかりそうになったけど、構わなかった。
- 182 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:33
- 交差点は帰宅のラッシュが起きていて、人で溢れていた。
――どうして、来たりしたの。
ウチは舞美を責めたい気持ちがあった反面、約束を破ってまで来て
くれたことが、うれしくもあった。
こんな人ごみの中、舞美をきちんと見つけられたのも、ずっと舞美の
ことを考えていたからだ。
そう思っていると、信号が変わった。
人が一斉に動き出すと、ウチは舞美を見失っていた。
おかしい。
そんなわけがない。
確かに、舞美が見えたのに。
ウチは行き違いになってしまっただけだと思い、引き返した。
すっかり反対側へ渡ってしまっていたので、信号が変わりそうだと分
かると、息を上げながら駆け足になる。
交差点の真ん中に、女の子が立っていた。
誰もが思い思いの方向へ歩いているのに、彼女だけは立ち止まって、
すれちがう人のほうへ手を差し伸べては、気味悪がられていた。
- 183 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:34
- もう寒い季節なのに、ワンピース1枚で、寒くないのかな。
そんなことを思いながら、とおり過ぎようとしたとき、目の端に、ちらっ
とピンク色の光が見えた。
なんだろうと思い、首だけふり返ると、女の子の前に誰か跪いている。
女の子は、その人の胸の辺りから引いてきた手に、どくどくと脈打つ、
ピンク色の光る玉のようなものを乗せていて、にっ…と笑うと、それを握り
つぶした。
ウチは思わず立ち止まっていた。
ぐしゃっ…という音が、聞こえたような気がした。
玉が消えたあと、ピンク色の液体のようなものが辺りへと撒き散らされ
て、女の子の白いワンピースがそれにまみれた。
遅れて、跪いたひとが倒れ込んだ。
ふと見ると周りには誰もいなくて、信号が変わってしまったことに気づ
く。
ウチは急いで渡りきると、しばらく呆気に取られていたけど、ピンク色の
光はいつの間にか見えなくなっていた。
女の子が中央に取り残されているのは確かだったけど、倒れこんだ
はずのひとも車の往来で見えなくなっていた。
呆然としたまま店へ戻ると、やはり舞美はいなかった。
ウチは、それでどっと疲れを感じた。
舞美の、それも幻に振り回されている。
- 184 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/13(水) 09:35
- ピンク色の光も、疲れが見せた幻覚だったんだ。
そう思うと、自分が心底、嫌になった。
中へ入ろうとして、ドアを押したとき、後ろのほうで悲鳴が上がった。
ふり返ると、あちこちで、いま見たピンク色の光が舞っている。
駆け出す人、倒れこむ人。
それを見て、ウチは動悸をおぼえた。
それから2週間後。
舞美が何者かによって拉致された。
- 185 名前:さるぶん 投稿日:2009/05/13(水) 09:41
- 更新です。
>>168
梅さんのキャラ造形は、見た目のカッコよさを重視しました。
舞美のほうも見た目の儚さ・線の細さを活かしてます。
逆にいえば、舞美を筋肉キャラから開放するには
超能力でも使わないとむずかしかったということなんですが…w
- 186 名前:名無し飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 11:09
- それぞれの間の空白に何があったのか気になります…
- 187 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:43
-
”ドロワーズ”は普通の住宅を半分だけ改装して、アトリエにしたもの
だった。
「おじゃまします」
上がりこむと、吉澤は住居のほうへ通された。
途中、ちらとアトリエが見え、描きかけのものも含めて、さまざまな
絵画が置かれていた。
憂佳は勝手知ったるようすで台所へ入ると、しばらくしてお茶と菓子
を持って出てきた。
吉澤は花音という、さきほど自分をストーカー扱いした少女と並んで、
リビングのソファに腰掛けていた。
お茶に口をつけながら、どこから切り出していいものかと思案する。
あの後、憂佳は自分が吉澤のことを刑事だと言い当てたことに対して、
咄嗟にしまったという顔をしていたが、吉澤は吉澤でおどろいていた。
なぜ刑事だとバレたのか。
エリカに初めて会ったとき、刑事だとわかってもらえなかったように、
見た目からそうとは分からないはずだった。
- 188 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:44
- あれは当てずっぽうだったのか。
そもそもの話、この少女は通り魔事件の犯人なのか。
それらのすべてを、はっきりさせたかった。
吉澤のストーカー疑惑は、花音に対して憂佳が働きかけたことで晴
れて、制服警官は去った。
だが続けざまに身分を明かし、それら諸々の質問を口にしかけたとこ
ろで吉澤は躊躇った。
近所から、好奇の目線が向けられていたからだ。
そこで、憂佳に中へ引き入れられ、いまこうしている。
斜に置かれたソファへ腰掛けて、彼女は言った。
「中学三年生の前田憂佳といいます。このアトリエに住み込んで絵の
勉強をしています」
やはり、ここは彼女の自宅じゃなかった。
加えて、わが家のように振る舞っているからには、ある程度、長く住
んでいるはずだということも分かる。
「じゃあ、あなたの家――実家はどこ?」
- 189 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:44
- 「きたの馬引町です」
”きた”とは北区のことで、ここ南区を”みなみ”というように、地元の
人間にとっては一般的な通称である。
”馬引”は高速道路と線路を越えた向こう側にある町の名だ。
「学校は? 住み込みっていったって、学区までは移れないでしょう」
この市の学区で南北に跨ったものはほとんどなく、駅周辺のごく狭
い一帯に限られていた。
この辺りは、そこから少し西側へ奥まったところにあったから例外に
当てはまらない。
「学校へは行ってません」
「行ってない?」
吉澤はどうしてだとか、ご両親は心配しないのかとか、ありきたりな
質問をぶつけようかと思ったが、憂佳はしゃべり続けた。
「そもそも行く気はありません。両親も、最初は行くようにと言っていま
したが、説得すると分かってくれたようです」
「…説得? ご両親を? 義務教育を否定するのに、どんな理由がある
っていうの」
- 190 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:44
- すると吉澤のことを、先ほどからずっと睨んでいた花音が、ようやく
口を開いた。
「あなた。憂佳のこと、通り魔事件の犯人だって疑ってるんですよね」
直球な質問だった。
「ニュースで聞いた犯人の特徴が、憂佳と似てるから、それで後を追け
てたんでしょう」
「花音…!」
「いいよ憂佳。この際だから、ぜんぶ喋っちゃえば。”あのこと”とか」
「あのこと?」
「そうです。でも聞きたいんだったら、憂佳に聞いてください」
花音はそう言って、よそを向いてしまう。
吉澤は少し間を置き、期待を込めた上で、憂佳を見た。
「…わかりました。お話します。けど、それには条件があります」
憂佳は言う。
- 191 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:45
- 事件に関して、自分に分かることはすべて話す。
その代わり自分たちのことは、金輪際、放っておいて欲しいのだとい
う。
「どうして? なにかやましいことがあるの」
「いえ、そんなものはありません。でも私たちは特殊だから、他人という
ものが信頼できないんです」
もっとも、吉澤は例外だがと、憂佳は言う。
「なぜ?」
「こういうと取引にはなりませんけど、あなたが――いえ、あなたなら
きっと、こちらの言うことに従ってくれると思うからです」
「どうして、そう思うの?」
「あなたが考えてることから、そう推理したんです」
「考えてる? どうして分かるの? 心でも読んだ?」
「――はい」
- 192 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:45
- 憂佳は言う。
自分はテレパスで、予備知識なしに吉澤が刑事だとわかったのも
そのせいなのだと。
「ちょっと待って。テレパスって、あのテレパス?」
吉澤は呆気に取られた顔をしていた。
取り繕うようにして、口だけ動かしている。
「知りませんか? 私がさっき読んだ限りでは、刑事さん、超能力者の
知り合いがいると思いますけど」
憂佳は憂佳で、吉澤と似た表情をしている。
ただし、こちらは落ち着き払っていた。
「いない。超能力者なんて、そんな…」
「まだ信じられない? じゃあ刑事だって、憂佳があなたのことを当てた
のはなぜですか」
花音が視線をぶつけてくる。
憂佳によれば、先ほど、電話を掛けていた相手と共通の知り合いに
特殊な能力を持った人間がいるはずだと言う。
- 193 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:45
- 「あなたたち、私をからかってるの」
「そんなこと…。第一する理由がありません」
「信じる気がないなら帰ってくれてもいいんですよ」
花音は目の高さなど関係なく、吉澤を見下すようにしている。
吉澤はもう一口、お茶を飲んだ。
引いてはいけないと、刑事の本能が警告していた。
「あなたたち、事件について何か知っているふうだったけど」
花音はそれを聞いて、ようやくお茶に口をつけた。
「私の場合、心を読むといっても、ふつうの人が考えるテレパスとは
ちがいます」
憂佳の能力は、とても限定的なものなのだという。
他人が考えていること、感じていることが、そのまま伝わってくると
いう一般のテレパスとはちがい、バイアスが掛かった状態で思考が
伝わってくる。
”誰が何を考えているのか”ではなくて、”自分から見てどの方向、
どれくらいの距離に、どんな形の思考が存在しているのか”
- 194 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:46
- それだけが分かるのだという。
「人間の考えてることが地図のようになっているんです。その地図の上
には、いろんな客観的事実――例えば、『予定よりはやくメールの返信
がきた』とか、『彼氏の浮気の証拠をみつけた』、『昨日の夜、兄が死ん
だ』とか、そういうのがいくつも載っています」
最初、地図は真っ白だ。
書き込まれる前の情報も、まずは当てもなく流れていて、それが放っ
ておくと頭の中へ自然と入ってくる。
必要なら読み解いてみて、印象が強かったもの、覚えておこうと思っ
たものだけが発信場所を特定され、地図の上へ記録されていく。
「これを私はタギングと呼んでいます」
”タグ”は英語で”目印”。
よって”タギング”とは”目印をつける”という意味だ。
憂佳には、そのタグが一体、誰のものなのかまでは分からない。
『予定よりはやくメールの返信がきた』というタグの持ち主は、果たし
てそのことを喜んでいるのか、悲しんでいるのか。
- 195 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:46
- それを確認するためには、本人の表情を見たり、問いただしたりしな
ければいけないが、それは難しい。
「タグはあくまで、ある場所、ある瞬間に、ある情報を地図の上へ写し
取ったものに過ぎません。人ごみで付けられたタグの持ち主は、次の
瞬間、雑踏の中へと消えてしまいます」
例えば、こうだ。
00時00分00秒、交差点Aに設置されたゴミ箱の前に、Bという場所
があったとき、そこに人物Cが立っている。
この彼が考えていることは、憂佳によって読み取られることでタグC
となり、それが取り付けられる地図Dは、その時点では最新のものと
いえるわけだが、次の瞬間――つまり00時00分01秒には、もう過去
のものとなってしまう。
よって、そこが雑踏だった場合、タグCが付けられた場所B、つまり
ゴミ箱の前には、すでに別人が存在しており、それはタグCとは異な
るタグEの持ち主になるかもしれない人物だ。
タグの持ち主を確認しようと、それが付けられた方向へ目を向けて
みても、すでにそこには別人が存在しているのであって、結果、タグC
だけが過去のものとして残される。
こうしてタグとは、持ち主の感情にまつわる、およそすべての個人情
報が抜け落ちてしまうものなのだ。
- 196 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:46
- 男女はおろか、固有名詞さえも例外ではなくて、吉澤についても、
名前が分からず、考えている内容から、刑事だとわかっただけ。
これでさえ、ほかにひとがいたら特定することはむずかしく、ただ近く
に刑事がいることだけが特定されて終わったはずだ――。
憂佳が話し終えると、吉澤は唸った。
あまりに日常からかけ離れた話に、頭が回らずにいたのだ。
そして同時に、話を聞きながら、そのようすが何かに似ているとも思っ
ていた。
吉澤の思考を読み取ったかのように、憂佳が言った。
「これはインターネットの掲示板と同じなんです」
ネットの掲示板も、ある瞬間、ある場所――つまり特定のIPないし
固有のアドレスを持ったパソコンから、何らかの情報が書き込まれるが、
それが、「ゆうか14才、彼氏募集中でーす」という内容だったとしても、
相手が本当に女であるという証拠はない。
確定的な情報もあるが、基本はタグと同じ、匿名的なものだ。
憂佳は言う。
- 197 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:46
- 「さっき、ここを張り込んでいたとき、どこかへ電話してましたよね。相手
は新聞社に勤めてるはずです。でも、名前までは分かりません」
そして憂佳は、ミステリの喩えを出して、凶器とトリック、動機、そして
犯人までが明らかになったのに、殺されたのが、実は存在しない人物
だったと分かったような、そんなとても味気ないものなのだという。
「確かに…。テレビや小説でみるものとは全然ちがう」
吉澤は自分に言い聞かせるようにしていた。
花音が言う。
「信じた?」
「分からない。よく出来たつくり話にしか――ううん、そう思いたい自分
がいるとしか、いまは言えない」
吉澤の目を覗き込むと、花音が続ける。
「やっぱり、刑事さんには能力者のともだちがいるんだと思います。だっ
て普通、みんなテレパスって聞いただけで笑い飛ばすのに、刑事さん、
その能力がスティーブン・キングの小説よりずっと奇抜だって聞いても、
表情1つ変えなかった」
「そんなことない。驚きすぎて、顔に出なかっただけ」
- 198 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:47
- 事実――吉澤はさいぜんから、憂佳に思考を読み取られないよう、
細心の注意を払っていた。
なぜそうするのか、自分でもよく分からないままに。
能力者の知り合いなんか自分にはいない。
口ではそう言いながら、そのことを疑ってすらいた。
それは、心当たりが無くはないというのが、実際だったからだ。
「私は能力について、何人かのひとに話したことがあります。でも花音
以外に、まともに取り合ってくれたひとは1人もいませんでした」
吉澤の反応が特殊だと、憂佳まで言う。
「だから話そうと思ったんだ?」
「そうだよ。どうしてかは、私の口からは言えないけど」
「それも読んだの?」
「はい。でも、不可抗力でした。まさか花音があなたをストーカー扱い
するなんて思ってもみませんでしたから、慌てていたんです。一応言
っておきますけど、いまは読んでません。コントロールできるようにな
りましたから」
- 199 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:47
- 吉澤は一旦、尻を浮かせると、座り直した。
いろいろ聞きたいことがあったが、ここは自分の心の問題よりも、
刑事としての職務を優先させるべきと思ったのだ。
過去と向き合うことから、自分は逃げているのかもしれない。
そんな気持ちに蓋をしてまでして。
「能力を使って、どうやって私が刑事だとわかったのか、具体的に教え
てもらえない?」
「はい。刑事さんの場合、頭の中で事件のことを考えていて、おまけに
ご自分に関連させていたので推理できたんです」
――いる…ここに…人物が…疑わしい…犯人として…事件の…起きた
…交差点で…通り魔…
――掛けるか?…職質…それとも…アプローチ…なにか…べつの…
活かす…点を…同性という…
この辺りの思考から、近くに女性の刑事ないし警官がいると、憂佳は
交差点に入ってきたときすでに分かっていた。
「事件」や「犯人」だけでは一般人の可能性もあるが、「職質」となると
べつであり、ましてや、わざわざ「同性という点を活かす」なんて男性は
ふつう考えない。
- 200 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:47
- 性別が特定できたのは、そのためだった。
むろん、これらは、どこから発されているのか分からない。
一連の思考を発していたのが吉澤だと思ったのは、信号で横に並ん
だときだった。
「私の容姿を一通り確認してから、ノドもとのほくろが、どうして口元に
ついていないのかって、刑事さん、そう考えてましたよね。それで事件
と私を結びつけてるんだなって」
決定打となったのは、住宅街へ入ってからのあれこれの思考だ。
憂佳のテレパスの範囲は10メートル四方がせいぜいで、沿道に建ち
並ぶ家の中をのぞけば、あのとき吉澤以外、誰もテリトリーにいなかっ
た。
花音に気づけなかったのもそのせいだと、憂佳は言う。
「なるほど。すごい能力を持ってるみたいね。あなたは犯人なの?」
ここまでの話を聞いて、吉澤は前置きは要らないと思うようになってい
た。
「ちがいます。特徴が似ているというのは、私もニュースを見ておどろき
ました。でも、それは文章の上だけでのことです」
- 201 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:48
- 憂佳は、自分がテレパスを使うときにも、そのような勘違いがよく起こ
るのだと言う。
それは先ほど説明されたことからも明らかだった。
タグの付けられた地図は、刻々と変わっていく時間のすべてに対応し
たアップデートが不可能なものだ。
タグの持ち主を確認するまでにタイムロスがあることも手伝って、予想
が大きく外れることが日常的であり、事件の犯人についても、「ほくろ」
「黒髪」「色白の肌」といった情報だけでは、間違えても不思議はない。
しかし、
「こんなこともありました」
憂佳は続ける。
出所を、偶然にも特定できたときの話だ。
「ある場所に、誰かを労わったり称えたりすることばが束になって存在し
ていて、本人の口を確かめると、バカとかアホとかいってたんです。すご
く口下手なひとなんですね」
吉澤は咳払いした。
- 202 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:48
- 梨華に対する自分の態度を思っていたからだ。
「ネットの掲示板とかも、似たようなものだと思います。けなしてるひと
ほど、話題にしてる人のことが好きなんです。だって――」
どれだけ悪口を口にしても、そのひとのことが本当に嫌いなら、心の
中でそう思ったりしないし、憂佳の経験上、そういうとき、ひとは無関心
になることのほうが多いのだという。
「私は、そういうひとが『好き』と『嫌い』、どちらの感情を抱いているの
かが分かりません。けれど――いえ、そうだからこそ、きっと、言えば
いうほどに本音が強いんだなって、好きという気持ちをたくさんの悪口
で隠そうとしてるんだなって、私は判断します」
本音の大きさ――つまり”好き”の大きさが直接に特定できなくても、
口にしている悪口が10なら、そのひとは”10の好き”を抱いているの
だろうと考える。
それが憂佳のやり方なのだという。
だから、インターネットの悪口も、ヒット数が大きいほど、そのひとが
愛されているのだと判断する。
「そういうのを、ツンデレっていうんだと思います」
そう言って笑うと、憂佳は表情を戻した。
- 203 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:48
- 「犯人は、私より、もっと年上っぽかったです」
「顔を見たの?」
「はい。似顔絵も描きました」
吉澤が目を丸くしていると、憂佳は奥へ引っ込み、一冊のスケッチ
ブックを持ってきた。
表紙にはナンバリングがされていて、すでに何冊か消費しているらし
いことが分かる。
「これです」
あるページを開くと、女性と思われる顔が出てきた。
絵はまだデッサンの段階で、白黒。
髪が長くて、頬がやわらかそうに膨らんでいる。
口元にほくろがあって、大きな目が、やや離れて並んでいる。
罪を犯すタイプの人間には見えない。
それが吉澤の素直な印象だった。
- 204 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:48
- 「どうして、これを…」
「事件のあった日、交差点で絵を描いていたんです」
吉澤は、どうして、ここで絵が出てくるのかが分からなかった。
「私は、最初、この能力をうまく扱えませんでした。だから、トレーニン
グとして絵を描いてみることにしたんです」
先に出た例のように、人間のこころとは複雑なものだ。
一見して、そうとは分からないような形で、本音と建前がズレている
ことがある。
むしろ実際は、そうであることが多く、その中でひとは誰もが生きて
いく。
しかし、誰もにとってそうであるのとはちがい、憂佳には能力のせい
で、本来なら隠れているはずの他人の本音が敏感に感じられてしまう
ところがあった。
他人とのコミュニケーションに大きな弊害があった。
その2つ――つまり本音と建前を結び付けるのに、絵を描くことが有
効だったのだ。
- 205 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:49
- 人間の顔は、感情であり記号である。
口の端を上げて、眼が細まっていれば、ふつうは”笑顔”ということに
なるが、内心は怒り心頭しているかもしれない。
感情は、分かってもらえない可能性を孕んでいる。
「世の中って、そういうものです」
憂佳は、その冷めたような台詞とは裏腹に、カワイらしい、幼さを滲ま
せた声でまっすぐに言った。
「だから私は感情を忘れて、まず人間の顔を記号としてみるところから
はじめました」
憂佳の能力は、他人を”感情という曖昧なもの”ではなく”事実という
具体的なもの”として感知する。
ここでいう”感情という曖昧なもの”とは表現される前のなにかであり、
それがつまり”本音”だ。
”事実という具体的なもの”、表現されたものとは、この場合”表情や
しぐさ”になる。
- 206 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:49
- 「記号としての”笑顔”があって、その読み解きかたはルールとして決
まっていますから、記号を完璧に扱えるようになれば、中の感情も読み
解けるんじゃないかと思いました。いえ、漠然とそう考えて始めたんだ
と思います」
それが小学生のころ。
花音と出会ったのもそのころだった。
「刑事さんは、さっき小学生ぐらいの子どもたちと、あと絵の教室につい
て考えていましたよね。固有名詞がわからないので、たぶんですけど、
このアトリエの特別教室のことだと思います」
花音と憂佳は、ともに学校行事として、ここへ来ていた。
「花音は――いまでもそうですけど、お面みたいな、感情を顔に出さな
い子でした」
「お面はひどい」
花音は言う。
「はじめて私たちが会ったとき、まだ小学生でしたから、ひとの顔の持
ってる記号性とか、そういうのは分かりませんでした。でも、花音の顔
を描くうちに、そういうことに、すごく興味が湧いてきたんです」
- 207 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:49
- そのとき、特別教室の先生――つまり、このアトリエのあるじから、
なるべく知らない子とペアを組んで、お互いの絵を描きなさいと言われ
た。
憂佳は、たまたまそばにいた花音を選んだ。
「まわりが、動かないでとかお互いに注意しあっていたのに、花音は
表情ひとつ変えませんでした」
「それは、お互いさまでしょ」
「うん。そうだけど…」
憂佳は、このころ親とうまくいっていなかった。
テレパスの能力がすでにして現れていて、人との付き合い自体が
辛くなっていた。
言ってることややっていること、そうした表現されたものに対して相手
が思ってること、感じていること、そのあいだにズレが存在している状態
に我慢がならなかった。
「同い年ぐらいの子は、かえってよかったんです。幼稚だけど、元々、
考えてることに記号なんてありません。ただ感情があるだけですから」
でも大人はちがう。
- 208 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:49
- 風邪を引くなといいながら、自分たちも風邪を引いている。
建前を振りかざし、お前のためを思って注意するんだというから、なら
ば、まず自分が風邪を引かないようにして、それから注意すればいい。
そうじゃないなら、注意されるだけ迷惑だ。
建前なんてものは、要らない。
憂佳は、そう考えるようになってしまっていた。
「でも、実際は逆だったんです。建前があるから、本音が分かるんです」
絵も同じだ。
”なにも考えていない顔”という記号が基準としてあるから、それとの
比較によって、”目が細まり、口の端が上がっている顔”というのが笑っ
ている、楽しんでいるという感情を表しているのだとわかる。
頬が上がっている程度で、どれだけ相手が楽しいのかが分かる。
建前が存在しているからこそ、このひとは本音で話してるんだなとい
う比較ができる。
悪口が本音を映しているというのも、これと似ていた。
そのことに気づいたとき、憂佳はまだ中学1年生だった。
- 209 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:50
- はい、そうですかと割り切れる年では、決してない。
どうせ届かないことばだと知りながら、それでも”建前”を口にするの
が大人なんだ――そうは思いたくなかった。
その建前の大切さ、つまり、そのとき憂佳の心のキャンバスに描か
れていた”何か”には、まだ色が付いていなかった。
白黒の、とても味気ないものだった。
「それで、私は家を出ました」
いわゆる”プチ家出”というやつで、それでも親にはちゃんと毎日電話
を入れて安否の確認を取らせた。
そのとき、駅前の路上で途方に暮れていたのを見つけて、拾ってくれ
たのがアトリエのあるじ、飯田夫妻だった。
「私は相手の心を読んで、2人が、子どもを亡くしたばかりだったと知り
ました」
でも憂佳は、その優しさを、上から目線の押し付けがましい同情だと
感じてしまった。
「後になってみると、本当にいい人たちでした…」
- 210 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:51
- 憂佳が妻の圭織から教えてもらったことは、絵の描き方だけだった。
最初は、特別教室に来ていた憂佳を覚えていたことで、思わず声を
掛けてしまったが、いざ家へ上げてみると、どう対処していいか分から
ない。
子どもを亡くしたばかりで、憂佳にその面影を重ねることが、罪深い
とすら感じていた。
それで、お互いの手慰みといった感じで始めようと提案されたのが
絵のレクチャーだった。
憂佳は能力のことも聞かれなかったから、一方的に私が読み解いた
だけですけどと言う。
「そのまま能力を扱いこなせるように、ここでアトリエの仕事を手伝い
ながら訓練していました。街頭へ立って絵を描いていたのも、そのリハ
ビリの一環です」
正確には、あそこへ立って書くのではなくて、記憶して、ここへイメー
ジを持ち帰るのだという。
あそこへ立っていると、余計なことが流れて来すぎるからと。
「…憂佳。そこまで話しちゃっていいの?」
花音が心配そうに言った。
- 211 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:51
- 話せと促したのは花音だったはずだが、あのときの強気な様子はす
っかり影を潜めていた。
「大丈夫だよ。もう、平気なの」
しばし、2人の時間が流れた。
そこに信頼関係のようなものを、吉澤は感じなくもなかった。
先ほど憂佳が言ったこと――つまり、”悪口とは、言った分だけ相手
を思っていることの証拠である”とか、”建前は通らないと分かっていて
も口にしなければならない”いった考えは、
こうした彼女自身の経験の中から出てきた宝石のようなものなのだと
いうことを思い知った。
圧倒され、ため息さえついた。
能力を持たないものには、想像の付かない人生なのだろうと。
ひとの人生は、どれもがほんの数十分のあいだに語り尽くすことなど
できないものだ。
たとえ短くとも、それは同じで、しかし、語ることのむずかしさは同じで
はない。
憂佳のような人生こそ、不平等の最たるものだと思えた。
- 212 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:52
- だが、それと同時に、吉澤はなぜ憂佳が自分に対してここまで話して
くれるのかと疑問に思ってもいた。
しかし職務がある。
いつ相手の気が変わってしまわないともしれない以上、先をうながさ
なければならなかった。
「この女性――」
吉澤はスケッチブックに触れた。
「このひとが事件のとき、なにをしていたか分かる?」
「はい――いえ、正確には、私がいたのは、事件の少し前までです」
「それでもいい。なにか異変はなかった? あの交差点に」
「ありました。大きなちがいが」
絵を描くため、あそこに立つとき、憂佳はいつも決まって思考を開放
させておくのだという。
「そうやって、まず”強いことば”を探すんです。それが”基準”になりま
すから」
先ほど言った、”建前があるから感情がわかる”という話だ。
- 213 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:52
- 憂佳が描こうとするのは”本当の顔”で、そのためにまず”建前の顔”
を探す。
はじめて花音をうまく描けたときも、無意識にそうしていたのだと憂佳
はいう。
「それまで、なんど描いても、うまく行きませんでした。無表情なところ
をキャンバスへ丁寧に写し取っても、そうならないんです。いえ、むしろ
絵の中の無表情な花音は、私が見たままの花音でした。私は描けな
かった花音こそ、本当の花音だと思いました」
花音には能力がない。
出会ったばかりのころ、憂佳は自らが能力者であることを伝えていな
かったし、能力の扱いについて、いまよりも無作法なところがあった。
それで、平然と心を読んだ。
絵を描くために座っているから、思考を特定するのは簡単で、花音は
憂佳と正反対のことを考えるタイプだった。
憂佳はまわりの大人たちの語る建前に辟易としていたが、それに対
して花音は大人たちが、自分に何も語ってくれないことに不満を持って
いた。
「小さい頃から、花音はなんでもできるいい子だと思われていました。
だから大人たちは花音になにも言わないで来たんです」
- 214 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:52
- 大人たちからチヤホヤされながらも、花音は孤独を感じてきた。
だから、建前でもいい。
思っていることを、とにかく口に出して欲しいと、彼女は願うようになっ
た。
「そんなひとが、この世に存在するなんて信じられませんでした。きっ
と刑事さんが私の能力に驚いてるように、花音のようなタイプは私に
とって驚きでした」
花音はなんでもできる自分に嫌気が差していた。
だから絵を、あえてヘタクソに描いた。
「私の姿を、私が嫌いだと思うように描くんです。下がったまゆ毛に、
喉もとのほくろ、それに膨らんだほっぺたとか、私の気にしているところ
を、花音は強調して描いていました」
その醜さといったらなく、その意味でやはり、それは”うまい絵”だった
という。
「だから、私は仕返しをしました」
まず描いたのは花音の顔で、これはあまり上手な絵ではなかった。
しかし、状況からいって似ていなくともまちがえようがなかった。
- 215 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:52
- 次にしたのは、そこへ”ふきだし”をつけること。
そして、このようにセリフを書き込んだのだ。
――自分こそ、思ってることをぶつけないんだね。
憂佳がカンバスを向けると、花音は固まった。
憂佳のそれとはちがい、細く切れ長な目を、これ以上ないほど大きく
見開いていた。
「花音は絵を描きながら、私のことを酷いやり方でバカにしていました。
でも、同時に褒めてくれてもいたんです」
垂れ下がったまゆ毛を描きながら、「自分に似ている」「見るひとを、
どこか落ち着かせる」とか、喉もとのほくろを描きながら、「大人びてい
る」と考えていた。
憂佳は最初、その絵があまりに自分の嫌なところをズバズバとつい
てきたから、相手もまた能力者なのではないかと疑っていたが、その
ことで考えが変わった。
「はじめて憂佳を見たときから、この子は男子にチヤホヤされるタイプ
で、どうせ悩みなんて持ってないんだろうなと思っていました」
その花音の予想は、大きく外れる。
- 216 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:53
- このときまで2人は口を利いたことがなく、顔を合わせたのさえほと
んど初めてだったのだが、それ以来、いっしょにいることが多くなった。
花音ははじめこそ警戒し、憂佳の能力について、口では気持ち悪い、
気持ち悪いと言っていたが、決して離れていこうとはしなかった。
「私は元々、あまり自分の意見を言えるタイプじゃなかったんです。そ
れが憂佳と出会って変わりました」
憂佳はその能力を誇ったりしなかったから、花音は遠慮なくバカに
することができた。
「心を読まれてるんだもん、こっちだって仕返ししたいです」
人でなしとかマナー違反とか、その能力がなかったら、いじめてやる
んだからとか、散々なことを花音は言った。
しかし、その裏にも、やはり愛情が読めたと憂佳は言う。
そうするうちに花音の性格は変わっていった。
「おしゃべりになったせいで勉強がおろそかになるのは嫌だったので、
おかげで前よりもっと”いい子”になっちゃいましたけど」
こうして持ちつ持たれつの関係ができ、憂佳は能力と向き合うことが
できるようになった。
- 217 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:53
- このアトリエに転がり込んだのと、それはほぼ同時期のできごとだっ
た。
「花音と出会って、私の絵はどんどんうまくなっていきました」
それとはまた別の日、アトリエの特別授業として花音は自画像を描い
た。
それは憂佳によれば上手くなく、あまり似てもいなかった。
花音は憂佳の垂れ下がったまゆ毛に対し好印象を覚えていたのだっ
たが、自画像のそれは、天を突くように釣りあがっていた。
「心の中の不満が、絵に出ていたんだと思います。そのせいで、ほか
のパーツも引っ張られて、花音とは似ても似つかないものになっていま
した」
初対面の日、憂佳が描いた花音の絵は、彼女から読み取った心の
声を反映させて描いたものだったが、それは花音の顔というより憂佳の
自画像のようになっていた。
それと花音の自画像と、この2つを掛け合わせながら修整していくと、
絵は見違えるようによくなった。
こうして憂佳は絵の描きかたを覚えていった。
- 218 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:53
- 「交差点に立って絵を描くときもおなじです。まず、心の声を聞き取って、
そこから想像を膨らませて一枚の絵を描きます」
この人物をAだとしよう。
心の声から想像を膨らませて描いたこの絵が、Aの持っている”仮の
顔B”となる。
「次に、見たままの、もう一枚の絵を描くために、本人を特定します」
これ成功すると、Aの持つ”仮の顔C”ができあがる。
花音の例でいうと、憂佳が描いた肖像画と、花音の描いた自画像が
2つながらに出揃った状態だ。
続けて、それらに対して行ったように、Aの持つ2つの仮の顔B・Cも
掛け合わせなければいけない。
そもそもの話、この2枚が同じだった場合、なにも問題はないのだ。
そのひとの顔として、それは唯一無二のものだから、本音と建前が
揃っていることになる。
しかし、そんな人物に憂佳は出会ったことがないし、それは吉澤にも
頷ける話だった。
- 219 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:53
- 多かれ少なかれ似ていないところがある、この2枚の絵は、掛け合
わせることによって、第3の絵として仕上げていく。
「それが、そのひとの”本当の顔”になります」
交差点には、雑念が多いから、憂佳は情報を仕入れたあと、ラフを
描いてしまってから、アトリエへ持ち帰って丁寧に仕上げるのだという。
この”容疑者の少女の絵”も、そのようにして描かれたものだった。
吉澤は、もう一度、それを検分する。
顔の印象としては、おっとりして、どこか愚鈍そうな印象のある憂佳と、
委員長タイプと呼ぶに相応しい花音、この2人でいえば前者にこそ似て
いた。
しかし、実際に話を聞いてみると、決して憂佳は”グズ”などではなく、
この容疑者の少女とて、そこは分からないのだった。
先ほどと同様、吉澤には、この少女が罪を犯すような人物には見え
なかったのだが、現状としては、話を聞いてますます分からなくなった
というのが本音だった。
「でも、容疑者の顔は、いつ見たの? あなたは事件の少し前までしか
あそこいなかったって言ったよね」
- 220 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:54
- ”本当の顔”を描くためには、心の声と実際の姿、その2つを掛け合わ
せたものでなければいけない。
「はい。ですから、あとで読みにいったんです」
あの日、あの交差点は、会社帰りや部活帰りの学生が多く通りかか
った場所だ。
事件現場に居合わせており、かつ、その記憶を留めている人物がい
るはずだと踏んで、それを探し出そうとしたのだ。
「思っていた以上に、多くの情報が流れていました」
憂佳は少女を”間接的に見て”、そして絵を描いた。
吉澤がエリカを張り込んでいるあいだ、交差点に足しげく通っていた
のはその為だったのだ。
「これが元になった2枚の絵です」
憂佳はスケッチブックをめくると、前へ戻してみせた。
見開きのページの左右に、まったくちがった顔が2つ、こちらを向いて
並んでいた。
- 221 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:54
- それらは”本当の顔”と比べたとき、ベースとなるはずの顔の作りすら
歪んでしまっており、天使と悪魔のように異なる特徴を持っていた。
「事件のあった日、交差点には、聞いたことのないことばが溢れていま
した」
憂佳はスケッチブックの空いたページを破り出して、そこへ文字を書き
付けていく。
――【強襲(おそ)う】【死守(まも)る】【強盗(うば)う】【焼滅(さば)く】
【接触(き)く】【握潰(あいす)る】【飼育(か)う】【検索(と)ぶ】
「漢字と読みは、あくまで私たちの解釈です。簡単には捉えられない、
そんな思考ばかりでしたから」
――でも、だからこそ。
憂佳は言う。
「私以外に、能力を持った人間がたくさんいる。そう思いました」
事件の直前。
午後7時、ちょうどになったころ。
まずは、【検索(と)ぶ】が現れた。
- 222 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:54
- それから、しばらくして、
【握潰(あいす)る】
この思念が強くなった。
「私が思うに、これが容疑者の女性です」
吉澤はスケッチブックの絵と、その文字とを見比べた。
「天使と悪魔」の2つの顔に、”愛しつつ、握り潰す”という思考。
穏やかとはいえないものだった。
これらはともに、憂佳によって混ざり合わされて、あの”本当の顔”
――吉澤の直感に従えば、犯罪など起こしそうに見えない少女の顔に
まとめ上げられた。
「ほかの感じ慣れない思考がいっせいに動き出したのは、その後でし
た」
最初に交差点へ入ったのは、【強襲(おそ)う】。
「これは凄くありきたりの感じで、次の【強盗(うば)う】も同じです」
しかし続いた【焼滅(さば)く】が、際立った存在感を放っていた。
- 223 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:55
- 次の【死守(まも)る】、そして【接触(き)く】も”本質”だったと憂佳は
言う。
「【握潰(あいす)る】が一旦、消えたと思うと、【飼育(か)う】の思念が
すばやく動きました」
そして、その2つがぶつかり合うと、なにか只ならぬことが起きている
と感じた憂佳は怖くなり、その場を立ち去った。
「分かるのは、ここまでです」
立ち上がって憂佳は言う。
「刑事さん。私たちは市民としての義務は果たしました。あとは放って
おいてください」
もちろん、飯田夫妻のことも――。
憂佳は、強く言い添えると、吉澤に立つよう目顔でうながした。
そのとき、遠くでなにか物音がする。
「…圭織さんが帰ってきた!」
憂佳は慌てて吉澤の手を引くと、玄関へと向かった。
- 224 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/03(金) 22:55
- 「アトリエの玄関はべつにあります。いまのうちに、はやく」
入ってきたほうとは逆の方角にもう1つの玄関があって、吉澤は押さ
れるようにして外へ出た。
憂佳は、すぐに奥へ引っ込んでしまうが、遅れて花音が出てきた。
何か言おうとして、すぐに彼女も引っ込んでしまう。
吉澤はわけが分からなくなり、悪態をつこうとして止めた。
むろん、頭の中でさえ。
手には、いつのまにかスケッチブックを握っていた。
- 225 名前:さるぶん 投稿日:2009/07/03(金) 22:58
- 更新です。
長いあいだお待たせてしまったので、
2本ぶんまとめて載せてみました。
執筆に時間がかかったのは、
あちこちに変更点が出て手直ししていたからです。
予告どおりに水曜日とも思ったのですが、
今回だけは例外ということで書き上げてすぐ投稿しました。
>>186
まだまだ焦らしますよw
- 226 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:55
-
テレビ局から遠ざかるようにして、小春は懸命に走っていた。
怖くて仕方がなかったのだ。
――未来が見える。
――うちと小春ちゃんは、おともだちになるんです。
そう不気味に告げた、あの少女のことが。
走っているせいか、それとも相手の電波状況なのか、先ほどまで
マネージャーと繋がっていたケータイが途切れた。
躓かないために足元と、それから進行方向とを交互に見やる合間、
合間に、元いたほうを振り返ってみるが、少女はゆっくりとしたスピード
で追いかけてくる。
それを見てヒールのかかとがもつれ、ケータイを取り落とした。
かまわず走りつづけると、出たのが正面玄関だった。
遠くにファンの群れがあり、一瞬、小春は助けを求めようかとも思った
が、マネージャーに捕まってしまうことになると思い、右へ折れた。
――あまり かかとの高い靴は履かないように。今日のテレビ出演には
謝罪の意味もあるのだから。
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:56
- マネージャーからそう言い付けられていたのが幸いして、決して悪く
ない速度で走ることができた。
しかし、この辺りはこれまで収録や生放送で訪れる以外、用のなか
った町であり、小春には土地勘がなかった。
にも関わらず、ケータイの地図機能は使えず、かといって人目を気に
して能力で飛び去ることもできなかった。
右か、左か、直進か。
選択肢の中に”戻る”がなかったことが災いした。
何度目かの角を曲がったところで、少女と鉢合わせた。
「どうして逃げはるんです? うちら、おともだちになる運命やのに」
少女は不思議さと、それから、ほんの少しの悲しみをない交ぜにした
表情で立っていた。
夕闇に浮かぶ街灯の下に、あたかも狙いを定めたかのように静止し
て。
「ともだちって、意味わかんないよ!」
小春はさけんだ。
- 228 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:56
- 頭では理解していたのだ。
予知という能力があることは何度もZetimaで聞いていたし、信じても
いた。
この少女は明らかにそれを持っていた。
しかし、それは初めて目の当たりにするものだったから、いまは恐怖
の方が勝っていたのだ。
「どうして? なんで小春がともだちにならなくちゃいけないの!」
「見えるからですよ」
「なにが?」
「未来がです」
「証拠は?」
「ありませんよ。だって見えるんですもん」
小春の息は上がっていたが、少女は平常だった。
荷物とて、小春のほうが少ないぐらいで、少女は旅行鞄のようなもの
を脇へ下げていた。
- 229 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:56
- 右手にはケータイを持っている。
「これ、落としはりましたよ」
よく見ると、小春のものだった。
「…あ、どうも」
差し出されたそれを、小春は警戒しながら受け取った。
それで少女は、また、あのニタニタした笑いを浮かべ始める。
「悪いひとじゃ、ないみたい…」
「やっと分かってくれはりました?」
「少しだけ…だよ」
小春はケータイを握りしめ、胸に当てている。
「じゃあ、おともだちになってくれるんですね」
- 230 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:58
- 「だからっ! なんでそうなるの」
「だって、そういう運命なんですもん。いまだって、うちのこと名前も知ら
ないのに、ちょっと受け入れてくれてはってるでしょう」
「それは…アイドルだもん、ファンの子みんなにそうするよ。名前なんて、
知らないのが当たり前じゃん」
「まぁ、確かにうちは小春ちゃんのファンですけど…。でも、どっちかっ
ていうと、Milky Way全体のファンっていうか、歌手として見たらサーヤ
とキッカのファンっていうか…」
少女はモジモジする。
「じゃあ、どうして小春のところにくるの!?」
「分からへんひとやなぁ…。言ったでしょう、運命やって」
少女はあきれたように言うが、でも、どこか弾んだような足取りで小春
の脇へ立った。
「ね、おともだち決定です!」
そして、にへへ…と笑う。
よく見ると、歯には矯正器具が嵌めてあって、それが少し気持ち悪い
なと小春は思った。
- 231 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:58
- 「うち、光井愛佳っていいます。ミッツィーって呼んでください」
小春はなにも言えなかった。
- 232 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:59
-
- 233 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:59
-
数分後、2人はタクシーに揺られていた。
空港へ向かうための利用だった。
「スペインへは何をしにいかはるんです?」
背もたれに深く身を預けながら、愛佳は小春のほうを見ていた。
相変わらず、ニタニタしている。
一方の小春はというと、どこか落ち着かないようすでいた。
背もたれを使うというより、身体を窓のほうへ乗り出して流れる景色
を見ている。
「あれ、小春ちゃん引いてはります?」
「…べつに」
「そうですか? ほんまに? まだ、突然おしかけてきたうちのこと、頭の
おかしい子やと思ってはるでしょ」
愛佳は、先ほどから、もう10っぺんは同じ質問をくりかえしている。
少しヤケ気味に小春は言った。
- 234 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:59
- 「思ってないってば!しつこいな!」
「そうですか。なら、いいですけど」
愛佳は満足そうな顔だった。
そのようすを、運転手がバックミラー越しに見ている。
夜の7時に人気のない路上で呼び止められたのが、まさか少女2人
組によってであり、おまけに空港まで行ってくれと告げられたのだ。
訝しがるのも当然だった。
そんな視線をよそに、愛佳は1人でしゃべり続ける。
自分の好きなことや、気になっていること。
その中でも、とくに小春やMilky Wayのこと。
どの曲が好きで、どの番組が印象に残っているかなど、おしゃべりと
いうより緩慢な1人ごととして話していた。
それでも、小春がなかなか食いついてこないので、
――アイカ・ミッツィーの当たらへん話〜っ!
- 235 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 20:59
- といって、自分が予知能力を使って何かを言い当てようとしたものの、
見事に外してしまったという内容の、くだらない笑い話をいくつか披露し
た。
それを密かに聞いていた運転手が思わず何度か吹き出してしまった
のだが、小春は意地でも笑ってやるものかと思っていた。
「そんでね、大変やったんですよ、もう。なかなか当たらへんもんやから、
みんなに、『オオカミ少女や、オオカミ少女や』言われて、よくいじめられ
てました」
愛佳がそれを言うようすは、およそさり気ないものだったが、聞いてい
た小春は声をあげた。
「…オオカミ少女!?」
「はい。そうですけど、どないしはりました?」
小春は先ほどまで、窓の外をつまらなさそうに見ていたのだが、打っ
て変わって愛佳の目を覗きこむようにしている。
「…ううん。なんでもない」
曖昧に笑うと、背もたれに戻った。
もう窓の外は見ていなかった。
30分後、タクシーは空港へ到着した。
- 236 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 21:00
-
- 237 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 21:00
-
カウンターで尋ねると、深夜便でスペインへ行くには、乗換えが必要
だった。
21時発のエールフランスでパリのド・ゴール空港へいき、翌朝、9時
の便でマドリードへ。
これが最短だった。
「うちね、小春ちゃんの曲で、めっちゃ好きなやつがあるんですよ」
愛佳はまだ喋っている。
2人はラウンジのソファに腰掛けていたが、小春はろくに話を聞いてい
なかった。
ケータイをいじろうかとすら思っていて、しかし、相手がしゃべっている
以上、マナー違反なのではないか――そうも思っていた。
飛行機の到着まで、あと一時間半。
i‐podも出してみて、結局は聴かずにおいた。
「それはね、Milky Wayの『アナタボシ』なんです。どんなとこが好きかっ
ていうと、歌詞なんです」
- 238 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 21:01
- 愛佳は諳んじてみせた。
――1、2の3で(イチニのサンで) ワープするから
私の この思い かなえてね
今すぐそこに 辿りつくのよ 何千億光年の
まだ遥か 彼方☆(カタナボシ)♪
「このね、もう詞が、めっちゃ好きなんですよ」
髪をいじっていた小春が、手を止めて訊いた。
「どうして?」
「気になります?」
小春がやっと食いついてきたので、愛佳はニタニタ笑いを浮かべた。
「べつに…」
小春は拗ねたように言って、また髪をいじりはじめたが、愛佳はしゃ
べり続ける。
「この詞ってね、冷静に考えると矛盾してるんですよ。だって『ワープ
する』って言うてる――つまり、『アナタボシ』まで飛んでいくよって
自分から言うてるのに、『まだ遥か 彼方☆(カナタボシ)』って言うてる
んですよ?
- 239 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 21:01
- ワープしたんやったら、ふつうはすぐ隣におらなおかしいのに。これ
ってありえへんくないですか?」
愛佳はそういって、両手を上げてみせた。
「もちろん、ふつうの子は超能力なんか持ってへんし、もちろんワープ
なんて出来ません。せやから、そういう意味でなんかなとも思ったん
です。”もし自分がワープできたら…”って、そういう意味なんかなって」
その場合、この表現は納得できるのだという。
「でも、その場合かて、もっと別の言い方があると思いませんか?
例えば、『1、2の3でワープするから♪』の『するから』を『できたら』に
するとか」
だから愛佳は、この子は、実際にワープができるのだという。
「けど、同時に、それだけではあかんとも思ってるんです。足りひんと
思ってるんですよ、勇気が。急に超能力でパッて飛んでいって、気持
ち悪がられたらどうしようって、そんなマイナスなことばっか考えては、
会いに行かれへんくなってるんです」
言いながら、愛佳は自分の胸に手を当てた。
「この子はね、分かってもらいたがってるんですよ。せっかく『アナタボ
シ』まで飛んでいくんやから、受け入れてもらわれな、優しく話かけて
もらわれな悲しすぎるって」
- 240 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 21:01
- だから、『私の この思い かなえてね』というのは、そういう意味なの
だと。
つまり――『ワープする』勇気が持てたら、そのときは『アナタ』の
もとへ飛んでいくから、そのときは私を受け入れて欲しいと、そのよう
に願っているのだと。
「実際には、この子は勇気を持たれへんから、『今すぐそこに辿りつく
のよ』っていって気合も入れなあかんことになってるし、だから『アナタ
ボシ』がまだ『何千億光年』も『彼方』にあるように感じてしまうんです」
愛佳は小春のほうを向き直って、
「そんな気持ちで、これは書かはったんですか?」
と言った。
小春は首をかしげながら、
「よくおぼえてないよ」
「でも、これって、Milky Wayのみなさんで作詞しはったんですよね」
小春はうなづく。
Milky Wayの歌詞は、その全てを、3人が共同で書いている。
- 241 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 21:02
- 例外的に1人で1曲ずつ担当したこともあるが、あくまで基本は守ら
れてきた。
「アナタボシ」はチームがまとまり始めた頃のもので、アイドルとして
の人気が加速度的に高まっていたころの作品でもあった。
小春たちがこれを書いたのは、タイトなスケジュールの中、ホテルの
一室に缶詰にされていたとき。
当時、3人はアイドルをすること自体に不満を覚えていたのだが、
研究室で紺野が言ったように、能力の行使には術者の精神の安定が
不可欠であるからして、アイドルとして以上に、狩人としての鍛錬にも
なるといわれた。
それで渋々、納得することにした3人だったが、結果として、これを
完成させることは、Milky Wayに大きな変化をもたらすこととなった。
それまでチームとして1度も狩りに成功したことがなかったという、
悲惨で目も当てられなかった状態から、Zetimaのエースとしての地位
を確立するにまでなっていたのだ。
「あのころは、ほんと必死だったんだ。仕事が忙しくて、とりあえず出て
きたことばを、そのまんま書き出して、あとはプロのひとにまとめてもら
うって感じだったから…」
「それで、むちゃくちゃな感じになったんですね」
- 242 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 21:02
- 愛佳は深くうなづいている。
「…ていうか、むちゃくちゃなのに、どこがいいの」
小春は心外だという表情で言った。
それは自分の作品をそのように評されたとき、誰もがそうするはずの
反応だった。
しかし、愛佳は、意外なことを言った。
「いいえ、むちゃくちゃなんは、むしろ好きなとこなんですよ。うち、能力
があるって分かってからは、小春ちゃんとおともだちになるんや〜!って
いって、教室の隅っことかで、もう四六時中にやけてたんですね。
けど、いきなり会いに行って、信じてもらわれへんかったらどうしよう?
とか、おまけに警察に逮捕されたらどうしよう、とか思って。そんで、ず
っと二の足を踏んでたんです」
愛佳は、そのときの心境が、この歌詞に重なったのだという。
「うちと小春ちゃんが、おともだちになることは分かってる。なら、行った
らええのに、行かれへんくってウジウジしてる。そういう自分の矛盾した
とこを『アナタボシ』の歌詞が代弁してくれてるって、そう思ったんです」
だから、いっつもこの曲を口ずさんで、寂しいのを紛らわしてたんです
よ――と。
- 243 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 21:03
- 小春は、愛佳の顔をまじまじと見た。
「いつから…?」
「なにがです?」
「小春と、その、ともだちになる…っていうか、こうなることが、いつから
分かってたの」
「忘れちゃいました。でも、ずーっと昔です。小春ちゃんをテレビで見た
ときには、もう知ってました」
小春が芸能界デビューしたのは5年前。
それからずっと、自分は小春のことを思っていたのだと愛佳は言って
いる。
その顔をみて、小春は相変わらず矯正器具が気持ち悪いなと思った
が、ただヘラヘラしているだけの子じゃないんだと、そうも思った。
「あ…、そこに入ってるんじゃないですか」
愛佳は小春からi‐podを取り上げると、カリカリ音をさせて、お目当
ての曲を見つけた。
そして再生ボタンを押すと、イヤフォンの耳を1つずつ自分と小春に
突っ込んで目を閉じた。
- 244 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/14(火) 21:03
- 小春は一瞬、不愉快そうな顔をしたが、自分も目を瞑ると、愛佳と
並んでソファの背もたれに落ち着いた。
それから2人は、リピートをかけて、3度おなじ曲を聴いた。
- 245 名前:さるぶん 投稿日:2009/07/14(火) 21:06
- 更新です
光井の滋賀弁は大丈夫だったでしょうか
なんとなく一般の関西弁との違いはなさそうだと思い
気にせず書いてしまいました
もしおかしな点があったら、ご指摘ねがいます
- 246 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/20(月) 22:14
- 興味深い解釈ですね…
しかもあの人もいるので意味深でもありますね
- 247 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:36
-
李 純(リー・チュン)が生まれたのは、中国の湖南省だった。
古くから農業が盛んな場所で、60年代の文化大革命以来、経済的
に賑わうようになったが、そればかりか、省都である長沙(ちょうさ)
は、いまや中国国内では理想的な都市の1つとして数えられるように
なっていた。
但し、環境のことなど問題も多く、工業都市である長沙は、経済圏
として、そこへ出稼ぎにやってくる農民や、ときには子供たちでさえも
労働力として供給する地級市(ちきゅうし/行政区画の名前)を周囲
にいくつも抱えていた。
李 純の住んでいた街は、その長沙から少し離れたところにある岳
陽(がくよう)で、決して裕福ではなかったが、とりたてて貧しくも無い
家庭に育った。
その李(リー)家は、中国の発展にあわせて、少しずつだが確実に
暮らしをよくしてきた。
我慢をすればしただけ裕福になれるという確信があったから、両親
や祖父母がともに倹約家だった。
純(チュン)が小学校6年生のころ、少しずつだがインターネットが
普及しはじめて、学校のクラスの何人かは自分の家に回線を引いて
いた。
- 248 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:36
- 中学生になると、それがぐっと増えて、高校生になるまでケータイ
すら買ってもらえずにいた純は、それがうらやましくて仕方なかった。
親に何度もねだったが、買ってもらえず、それはネットも同じこと。
そんなある日、ともだちの一人から遊ぼうと誘われた。
「あんたんち、ネットがないんでしょ。うちに来てやってもいいわよ」
正直、ほとんど口を利いたこともないような子だったが、ネットがで
きるというのは大変な魅力だった。
いつも遊んでいる子たちが学習塾の日で、一人寂しく下校するつも
りだった純は、素直についていくことにした。
といっても、迎えの車が来ていたから、校門を出てすぐのところで、
それに乗るだけだったのだが。
「あんたってジュンジュンって呼ばれてるじゃない?」
道すがら、彼女はそう切り出した。
「それより、ジャネットって名前のほうが似合うと思うのよね。だってほ
ら、あたしもティファニーって言うし」
そういって髪をひとつかき上げた。
純は確かに友だちからジュンジュン(純 純)と呼ばれていたが、それ
はあくまであだ名に過ぎない。
- 249 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:36
- もちろん彼女がティファニーというのもあだ名だったが、そのころ
純の地元では、香港のスターたちがそうであるように、英語の名前を
持つというのが密かなブームになっていた。
ジャッキー・チェンとか、ビビアン・スーとか。
ただし、それはふざけて付けるだけで、長沙など大都市の学校では
ようすがちがったが、岳陽のような地域では、「純 純」のように名前を
2つ重ねるとか、小(シャオ)をつけてかわいらしくするという、昔ながら
の方法が好まれていた。
ティファニーは――いまとなっては、純はもう彼女の本当の名前を
覚えていない――それを本当に普段から使って、みんなにそう呼ばせ
ていたのだ。
別にいじめっ子とか、金持ちであることを鼻に掛けるタイプではない。
ケータイも昔から持っていて、一番高い機種を使っていたが、なぜか
ほとんど開いているところを見たことがなかった。
「あんたってテレビとかに詳しいんだから、ネットがあればもっといいと
思うのよね」
ティファニーは言う。
確かに、その通りだった。
純――ジュンジュンは、テレビっ子だった。
- 250 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:37
- テレビは無料だったし、ケータイもネットもなしで友だちとの会話につ
いていくには、そうするしかなかったのだ。
誰よりも芸能人の話に詳しかったし、香港のスターのマネをして英名
を持つのが都会で流行っていること、しかも、それが昔、いちど流行っ
たもののリバイバルであることまで知っていて、みんなに真っ先に話し
て聞かせたのはジュンジュンだった。
彼女自身、人見知りする性格だったが、そのせいで交友関係に不自
由したことはなかった。
ティファニーの家に着くと、ジュンジュンは何も言えなくなってしまう。
豪華な家具や電化製品が並んでいて、それがいまならばイタリア製、
そして日本製だと分かる。
ティファニーは台湾製のパソコンの前に歩いて行って、備え付けの
イスにジュンジュンを座らせた。
「やり方ぐらい、わかるでしょ」
ジュンジュンは相変わらず何も言えずにいたが、それは豪華な暮ら
しに圧倒されていたからじゃない。
確かに、それこそ香港の大スターの家のような暮らしに驚いてはいた
が、ジュンジュンが何も言えなかったのは、ここにくるまで、誰ひとりとし
て家にいなかったからだ。
- 251 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:37
- ジュンジュンはパソコンのやり方などまったくわからなかったが、それ
で聞くことを躊躇ってしまった。
適当にあちこち操作してフリーズさせてしまったり、ティファニーから
そんなことも分からないのかと嫌味を言われたりした。
それでも生まれてはじめてのインターネットは楽しく、ティファニーが
ブックマークしていたセレブたちの情報サイトや、音楽を違法だがダウ
ンロードできるサイトを見て楽しんだ。
その日は結局、ティファニーの家族と会うこともなく、せっかくだから
夕飯を食べていけという誘いも受けたが、断ってしまった。
中国では食事を断るのがとても失礼なことに当たるが、ジュンジュ
ンには初めての経験だったし、それがティファニーと家政婦の3人で
のものだったということのもある。
ただ、それからちょくちょく遊びにくるようにはなった。
決して、二人は仲良くなったわけじゃないし、学校でのジュンジュン
は相変わらず元からの連れといっしょに過ごしていた。
ウェブサイトを覗くのは楽しかったが、借りばかり作っているような
気がして、返すもののない自分が惨めに思えてしまったというのもあ
る。
適当に理由をつけてみたり、お持たせを使ったり、あれこれ理由を
つけて、家にいく目的がネットをしたいだけだと悟られないように工夫
した。
- 252 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:37
- もっとも、たまに「ジャネット」と呼んでくるのを止めさせることもそれ
なりに大変だったが。
- 253 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:38
-
- 254 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:38
-
ある日、最近、ティファニーが買ったという、おしゃれな服やアクセ
サリーについて会話していたときのことだった。
「日本製なの。雑誌を見て、通販サイトを知ったの」
海外からでも買えるところをさがすのは大変だったんだからと言い
ながら、ティファニーは雑誌を取り出し、開いて見せた。
それはファッション誌で、漢字に混じってよく分からない文字で書か
れた文章に囲まれて、かわいい服を着たかわいい女の子たちが写っ
ていた。
ティファニーが着ているものも、それらよく似たデザインやコーディ
ネートだったのだ。
「いいなぁ。私も欲しいな」
そう言ったのはジュンジュンの連れ。
一人で来るのが気重だったので、頼み込んで付いて来てもらった
のだ。
彼女が目を輝かせている横で、ジュンジュンも羨ましく思っていた。
だが口には出さない。
- 255 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:39
- 幼いころから、なんでも欲しいものを我慢するクセが付いてしまって
いたからだ。
「あんたには似合わないかもね。それとあんたも」
ティファニーはこともなく二人に宣告する。
ジュンジュンはこの時点で、身長が166センチほどあった。
決して華奢なタイプではないし、連れは太っていた。
一方のティファニーはというと平均的な身長で、そんな名前を使って
いるだけのことはあって確かにスタイルもよく、それらの服を完璧に
着こなしていた。
「日本のモデルって、中国や台湾ともちがうよね」
そう連れが言って、ティファニーが、「アメリカやフランスともちがう」
と同意する。
それから二人はおしゃれのこと、それからセレブたちの話に花を
咲かせていたが、そのあいだ、ジュンジュンはその雑誌に釘付けに
なっていた。
この日をきっかけに、ティファニーは変わった。
ジュンジュンが連れを呼ぶものだから、どんどん交友関係が広が
っていき、彼女の家が溜まり場のようになっていった。
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:40
- 当然、学校でも明るく振舞うようになり、逆にジュンジュンは喋らな
くなっていった。
1つは雑誌で見た日本のモデルのような格好が似合わないと突き
つけられたせいだ。
このころのジュンジュンはアメリカの雑誌など読んだことはなかった
が、少なくとも同年代の少女が読むような中国の雑誌のモデルは、
みんな背が高かった。
もちろん華奢だったが、自分も痩せたらあんなふうになれるのかな
と思っていた。
ところが日本の雑誌では、背の低い子がモデルをしていて、ジュン
ジュンにとっては、そちらのほうが魅力的に映った。
ジュンジュンは価値観を大きく変えられた上に、そこで見つけた理想
が、以前から抱いていた理想とはちがい、手に入れることができない
ものだという現実を突きつけられたのだ。
ジュンジュンは塞ぎ込み、日本のモデルのようなティファニーが羨ま
しく思えた。
しかし、それは口にすることができなかった。
だから、余計に思いが募り、ティファニーを遠くに感じるようになった。
おまけに、ジュンジュンの連れに対して、ティファニーは、ジェニファー
やティモシーといった英名をつけていき、友人たちがそれを受け入れた
のだ。
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:41
- ジュンジュンにもジャネットという名があったが、これまで頑なに拒否
していたせいで、誰も使ってくれなかった。
学校のクラスで浮いていたティファニーを、クラスに溶け込ませたの
は自分だったと、ジュンジュンは思う。
それなのに今度はティファニーのほうから離れていくような気がする。
もともとティファニーが声をかけてきたのは、ネットやケータイについ
て羨ましがるようすを、いつもジュンジュンが見せていたからで、それを
知ってアクションを起こしたのはティファニーのほうだったのだ。
もともとが、そういう子だった。
だからティファニーの笑顔は素敵だった。
一方、教室の窓に映るジュンジュンの顔は、いつも覇気が無かった。
得意の芸能人の話題を話すときだって、淡々と話して、感心される
だけ。
ティファニーはその笑顔でみんなを楽しませていた。
ジュンジュンは、自分が持っていないものすべてをティファニーが持っ
ているように思えた。
それからと言うもの、このグループは行動を共にし続けていたが、
ジュンジュンの持っていた知識など、インターネットを知ってしまえば、
そこにすべて書いてあるものに過ぎない。
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:41
- テレビにかじり付いて、懸命に覚える必要なんてないのだ。
だからジュンジュンはグループの中で発言することが少なくなってい
った。
高校生になり、ティファニーは私立の学校へ入り、ジュンジュンは元
の連れとおなじ公立の学校へ進学したが、そこではもうお互い友だち
ではなかった。
高校二年生の春。
ジュンジュンの家にインターネットが来た。
市の役所で働いている従兄弟の紹介で、格安で工事してくれる業者
が見つかったのだと、父が自慢していた。
当時、岳陽の回線はまだ定額制ではなかったので、親からきびしく
使う時間を制限されていたが、ジュンジュンは暇さえあればパソコン
の前に座っていた。
ウィンドウをいくつも出して、見たいページを同時に立ち上げてから
回線を切れば、ほとんどお金をかけずに沢山のページを見ることがで
きたからだ。
このころ、ジュンジュンは日本のカルチャーの虜になっていた。
もともと好きだったマンガやアニメの中から日本語を学び、ティファ
ニーの家で知ったファッション誌の最新号を電車で長沙まで買いに
行った。
- 259 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:42
- 通販で買った日本製のかわいい服を、着れもしないのに持ってい
た。
このころ日本で花開いたネットアイドルもそうで、いくつもブックマー
クをつけては、毎日欠かさず日記をチェックしていた。
その中に、ジュンジュンがもっとも気に入っているものがあった。
最初に知ったのは中国語のサイトで、日本のネットアイドルを紹介
する中の1つだった。
次にそこへ飛び、日本語もろくに分からないまま、漢字の部分だけ
を辿って読んだ。
例のファッション誌の格好とは少しちがっていたが、似たようなファッ
ションをしているアイドルたちとはちがって、日記には漢字を多く使っ
ていた。
もっと漢字が多い子もいたが、大抵はかわいくなかった。
ひらがなだけの子もいたが、大抵は個性がなかった。
もっと派手な子もいたが、大抵は興味がなかった。
そのネットアイドルは空ろな表情をしていた。
教室の窓に映った自分のように、覇気を帯びていなかった。
後で知った「ゴスロリ少女」というのに、とても近い雰囲気を持ってい
た。
- 260 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/24(月) 19:43
- その日記では、「私がいちばんカワイイ」と、何度も語られていた。
その日記の名は、「サユの小部屋」といった。
- 261 名前:さるぶん 投稿日:2010/05/24(月) 19:46
- 更新です
こちらも1年ぶりになってしまいました
絶対に放置はしませんよ
>>246
>しかもあの人もいるので意味深でもありますね
あの人って誰でしたっけ(汗
素で分からないんですけど…
- 262 名前:さるぶん 投稿日:2010/06/15(火) 10:57
- ごめんなさい
投稿する順番をまちがえてました
>>244 こはみつ@空港のシーン(i‐Podを聴いている)
と
>>247 JJ@中国のシーン(さゆのブログを発見するまで)
のあいだに、次のシーンが入ります
- 263 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 10:57
-
「じゃあね」
小春が立ち上がった。
肩にかばんをかけ、残りの手でバイバイしている。
「なんでですか?」
「お別れだよ。小春はスペインへ行かなきゃ。サーヤとキッカが待ってる」
「ええ、そうですよ」
「なにが?」
「…はい?」
お見合いをすると、2人はしばらく考え込んでしまった。
「えっと…。小春は仕事にいかなきゃならない。海外だよ。スペインで
仲間が待ってる。そっちは…その…」
小春は言いにくそうにしてから、顔を赤らめた。
「ミッツィーは、この後どうするの」
- 264 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 10:57
- 「あっ! はじめてそう呼んでくれはりましたね、めっちゃうれしいです!
もちろん、うちもいっしょに行きますよ」
「なんで?」
「だって、そのために来たんですもん」
愛佳は嫌な予感がしたのだという。
海外で小春が大きな事件や事故のようなものに巻き込まれる、そん
な予感がしたのだと言う。
「能力なの?」
「いえ、ただの勘です」
「勘と能力って、どうちがうの?」
「さぁ」
「さぁ…って」
小春は眉をひそめた。
「本当に能力者なの?」
- 265 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 10:58
- 「本当ですよ……ていうか、えー! いまさらですか?」
愛佳は立ち上がった。
「ほんまですって。信じてくださいよ」
小春は若干、引き気味になっていて、先ほど”ミッツィー”と親しげに
呼んだことを、はやくも後悔していた。
「そもそも、チケットとパスポートは持ってるの?」
小春が鞄からそれらを取り出すと、愛佳は、あっ!と声を上げた。
「チケット代は貯めて来たんですけど、うちパスポート持ってへんのでし
た…あはは」
それを見て小春が言う。
「あははっ、じゃない!」
体側に置いた拳を、2つとも小刻みに震わせていた。
「もうね、あのね、さっきからずーっと我慢してたんだけど、言っちゃう。
小春、言っちゃうもん。あんたバカじゃない?」
そう言って、盛大に地団太を踏んでいる。
- 266 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 10:58
- このようすをサーヤやキッカ、あるいはZetimaのメンバーのうち、紺野
をはじめとする小春の担当者たちが見たのなら、さぞかし喜んだはず
だ。
彼らこそ、日ごろマイペースな小春に地団太を踏まされ続けてきたの
だから。
「ふんだっ!」
小春は腕組みをすると、そっぽを向いてしまう。
「えへへ…。確かにアホとかキモイとかノロマとかブスとか、そういうの
はよく学校で言われてました。なんで死なへんの? とか、はぁ? 生ま
れてきた意味がわからんし…とも、よく言われてましたけど」
小春は、あわてて向き直る。
「そ、そこまでは言ってないよ!」
「分かってます。分かってますって。小春ちゃんは、愛佳のおともだち
ですから、そんなこと絶対に言わへんって、うちがいちばん分かってま
す」
愛佳は真顔だった。
「ならいいけど…」
小春は生まれてはじめて”自分のペースを乱される”という経験をし
ていた。
- 267 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 10:58
- Zetimaのエースとして、社内や研究所で特別扱いを受け続けてきた。
その小春が、目の前の素性のよく分からない少女に、どう対応してい
いか分からずにいたのだ。
「それより、どうするの。パスポートがないと外国へはいけないよ。いくら
小春の能力でも、それはムリ」
「能力って? 小春ちゃんも、なんかできるんですか?」
「うん。例えば…」
小春はそう言って愛佳の足元にある鞄を、手を使わずに持ち上げて
みせる。
「ほんまや、すごいっ!」
しかし3秒と持たず落ちてしまう。
「なんかしょぼいですね」
「しょぼいって言うな! 疲れてるだけだもん!」
小春は以前にも似たような経験をしていて、それも空港でのできごと
だった。
- 268 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 10:59
- コンサートがキャンセルになったことを怪しんで駆けつけたマスコミ
をかわそうとして彼らの時間を止めたのだったが、結果として、予想し
た時間の半分ももたなかった。
いまだって鞄を腰の辺りまで上げるつもりだったのだが、膝までしか
いかなかった。
小春は慌ててポケットから錠剤を取り出すと、それを飲み込もうとす
る。
紺野のラボから盗んできた”ミルフィHP-05”だった。
「まぁ、いいです。まさか小春ちゃんが、うちと同類やったなんて。あぁ
…おともだちになるって言うのは、やっぱ運命やったんですね」
感激して胸に手を当てている愛佳をよそに、小春は錠剤をなかなか
飲みこめずにいた。
「風邪ですか」
「ひがうよ」
小春は何とか飲み込もうとするが、すぐに、おえーっと反発があって
吐き出してしまう。
- 269 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 10:59
- それで今度は、財布から小銭を取り出すと、すぐそばの自販機で
お茶を買った。
「小春ちゃんって、クスリそのまま飲まれへんのですか?」
馬鹿にしたような言い方をする愛佳。
「さっきから、何かちょいちょい幻滅するんですけど…」
「うるさいなぁ」
口をとがらせて、ボタンを連打する小春。
「これで疲れが取れたら、またすぐにすごい力が使えるんだから」
そして、そうすれば早く効果が出るとでもいうように、必要以上の量を
飲んだ。
「いいですよ。小春ちゃんが魔法使いなんは、よーく分かりましたから」
愛佳は、小春が出ていた魔女っ子ものの連続ドラマ「きらりん☆うぃっ
ちーず!」のあらすじを、いくつか諳んじてみせた。
「あのゲームになった回の話が、めっちゃ好きなんですよ。囚われのお
姫さまを、小春ちゃんがナイトに変身して助けにいくところ」
- 270 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 10:59
- それにはサーヤとキッカも、それぞれ戦士と魔法使いで出ていた。
「さしずめ、うちが使い魔のなーさんですね。…まぁ、その回は、なー
さん、お休みでしたけど。っていうか魔女なのにナイトとか訳わからん
くねー? って感じですよねー」
ひとり上機嫌の愛佳を尻目に、小春は、ようやく胃袋に入ったばか
りのミルフィを過信して、なんども念動力に挑戦していた。
「あれ…? あれっ? 動かない!」
いくらやっても鞄は微動だにしない。
いま飲み干したペットボトルなど軽いもので試してみたが、結果は
おなじだった。
小春は信じられない様子で、自分の手を見ている。
「それよりどうしましょう…。うちパスポートがなかったら飛行機に乗ら
れへん。そしたら小春ちゃんと、いっしょに行かれへんくなる…」
愛佳が振り返ったほうには、手続きをする人たちの列が見えた。
搭乗時間が迫っていたのだ。
「小春ちゃん。魔法で係りの人とか、消したりでけへんのですか?」
- 271 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 11:00
- 愛佳が指さしたほうを見ると、男性職員が立っていた。
それは搭乗ゲートの前で、さらに手前には手荷物検査のエリアも
あった。
「うん。まぁ、どこかに瞬間移動させるくらいなら、できるけど」
「それや!」
愛佳は声を上げる。
「それがええですよ」
職員がいなくなっている隙にゲートを突破しようという、これはそう
いう作戦なのだが、小春は能力を中止すると、乗り気でない様子にな
った。
「そんなことをしたら空港がパニックになっちゃう。飛行機だって飛ばな
くなるよ」
これは正しかった。
飛行機は内部の密閉された空間に、長時間、不特定多数の人間を
閉じ込めて運ぶ乗り物だ。
そのため空港は、安全に対して細心の注意を払っており、少しでも
手続きに不備があろうものなら、原因を突き止め、取り除いてしまうま
では飛ばさないというのがルールだった。
- 272 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 11:02
- 「なら、飛行機の中まで、うちを飛ばしてください。そうすれば検査を
受けなくて済みます」
「ダメだよ。それじゃ危ない。小春、コントロールには自信があるけど、
イメージがわかないもん」
この場合、小春には正確な座標が必要だった。
例えるなら、郵便だ。
送り先と受け手、2つの住所が揃っていなければそれは届かない
ように、小春の瞬間移動にも、正確な座標が把握されている必要が
あった。
飛行機はそろそろ所定の位置に移動してくるはずだから、それ自体
の位置ならば把握できる。
しかし、機内のようすまでは把握できなかった。
愛佳を正確に飛ばすためには、飛行機を窓ガラスごしに狙って、そ
れで十分というわけにはいかないのだ。
結果として、飛ばしてみたはいいが、無機物のある座標に飛ばして
しまい愛佳がエンジンかなにかと合成。死んでしまいましたとさ――な
んてオチになりかねない。
- 273 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 11:02
- 「じゃあ、どうするんです?」
「わかんないよ」
急かすようにアナウンスが流れて、2人は立ち上がる。
とりあえずチケットだけ買って、パスポートについては場面で決めるし
かないということになった。
まずは愛佳の当日券を買う。
「20万!?」
発券機の前で愛佳が固まった。
「なんで!? 10万円あればいけるって聞いたのに…」
財布には10万しか入っておらず、ディスプレイはその倍の額を示し
ていた。
「たぶん、それって割引チケットのことだね。よくは分からないけど、
マネージャーが話してるの聞いたことがある。当日券は高いんだって」
小春はMilky Wayの仕事のとき、自分が起こした問題から飛行機に
乗り遅れることが多かったため、当日券を買うことが多かった。
- 274 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 11:02
- 「いいよ、小春が出すから」
財布を開くと、カードを出してくる。
アイドルとして、狩人として、小春はマネージャーから不自由のない
だけの額を持たされていたから、チケットは無事、購入することができた。
チケットを受け取り、手荷物検査へと向かう。
「どうします?」
「わかんないよ」
1人、また1人と検査をパスしては、ゲートへ向かう。
列の前が、少しずつ減っていく。
「そうや、うちだけ飛ばせばいいんですよ」
愛佳が言う。
密やかだが、高い調子の声だった。
「それはダメだって言ったじゃん。ヘタすりゃ死んじゃうかもしれないん
だよ」
「そうじゃなくって、ゲートの先に飛ばしてくれればいいんですよ」
愛佳は職員が立っている場所の奥のほう、機体へとつながる通路の
あたりを指さした。
- 275 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 11:02
- 「なにも飛行機の中を狙わんでもいいんですよ。ゲートさえ抜けたら、
それでいいんですから」
「でも、バレちゃうよ」
「大丈夫ですって」
「もうっ、いつもなら時間が止められるのにっ!」
問答をくりかえすうちに、人の密集度が上がっていく。
ついぞ、あと3人というところまで来た。
「ええいっ、知らないからっ!」
係員がよそを見ている隙に、小春は”押した”。
愛佳はバランスを失って、一瞬、わっと悲鳴を上げたが、その声は
すぐに掻き消えた。
残りの声が、水あめの尾を引いたやつのようにして聞こえてきたの
は、ずいぶんと遠くからだった。
――あ、大丈夫です! すいません! ちょっと転んだだけやったんで、
気にせんといてください!
ゲートの向こうからしているのは、まちがいなく愛佳の声だった。
「やった!」
小春は大きくガッツポーズをするが、斜め後ろにいた男性と目が合
ってしまう。
- 276 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/06/15(火) 11:03
- 男性はこちらをガン見していたので、小春は何事もなかったかの
ようにサングラスをはめると、自分の手を見た。
「なんで出来たんだろ…」
チェックをスルーして、愛佳に合流する。
「やったじゃないですか。小春ちゃんってば、調子悪いとか言ってた
くせに完璧じゃないですか」
「まあね…」
「この調子で、向こうに着いてからもお願いしますよ」
「うん。まかせといて」
小春は釈然としないようすで席へ着いた。
- 277 名前:さるぶん 投稿日:2010/06/15(火) 11:04
- 更新です
うっかりしてました
以後、気をつけます
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