MIND
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:06
- アンリアル
いしよしっぽく
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:07
-
「おかえり」
「ひとみちゃん、いい加減仕事探して」
「え?」
家の主を出迎えた居候に、現実という冷水が浴びせかけられた。
しかし居候の吉澤ひとみは意にも介さず飄々とした態度を崩さなかった。
「あたしのことなら気にしないでよ。そのうちなんとかするから」
「ダメ。息詰まりそう。気がついたら首絞めてそう。犯罪者になる気ないのに」
「大げさだなぁ」
家の主である石川梨華はわりと真剣だった。
まったく通じない吉澤の神経はどこかおかしいに違いない。
こんな会話を、最近はほぼ毎日している。日々限界に近づいていた石川はヒステリックに叫んだ。
「だいたい無理があったのよ!ひとみちゃんが先生なんてぇ!」
「失礼な。試験は合格してるんだよ」
「半年もせずに辞めちゃったじゃない!」
仕事辞めたから実家に居づらい、住まわせてくれ。
そう言って吉澤が転がり込んできてから一ヶ月以上になる。
「日本の最高学府を出ておいて何もせずにごろごろしてるなんて・・・・」
「いやぁ、学歴なんて無意味だよね」
「無意味にしてるのひとみちゃんでしょ!」
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:07
-
「今日美貴ちゃんに会ったよ」
「あぁ、懐かしい。急に話変わったね。あいつ生きてるの?」
他に聞き方はないものだろうか。
「お店で偶然会ってね、愚痴聞いてもらっちゃった」
「このあたしのどこに文句があるのかさっぱり分からないけど、スッキリしたならよかったね」
どんな言葉も暖簾に腕押し、ぬかに釘。
嫌味も何も通じない。理解した上で鮮やかなまでにスルー。
「ダメ、このままじゃ私、いつかあなたの首絞めちゃう」
「君になら殺されてもいい」
妙に真剣な顔でそう言い放った一秒後に吉澤はいつものマヌケ面に戻り、
嬉しそうに携帯の画面を石川に向けた。
数日前からハマっているらしいゲームのランキング画面が映されている。
「見てみて、全国ランキング一位になったよ。かっけくね?」
「すごくかっこ悪い。そんな人と暮らしてるかと思うと泣きたくなる」
「えぇ!?」
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:08
-
本気で褒め称えてもらえると信じていた吉澤は不満をあらわにした。
やっとそれなりにダメージを与えることが出来て満足した石川は食卓についた。
吉澤の料理は美味い。上達しているし、レパートリーも増えてきた。
しかしそれはどれだけの期間こうしているかを表している。
極めてしまう前に仕事をして欲しい。そんなことを考えながら石川は黙々と食事をとっていた。
「ねぇ」
「・・・・なに?」
吉澤には満腹に近づけば石川の機嫌は直るものだと思い込んでいる節がある。
「犬飼っていい?ほら、せっかくペットOKなとこに住んでるんだし」
誰が世話をするのか。もちろん吉澤、つまり働く意思はないということか。
ついさっき、まさにその話をしたところなのに?
頬が痙攣するのを自覚して、石川は言った。
「首絞めるの、今日かもしれない」
「振り払うから大丈夫だよ。友達が写メ送ってきたんだよ、子犬生まれたって」
ペットなら間に合っている。自分より大きい超大型犬。
「可愛いでしょ。あ、梨華ちゃんの方が可愛いよ?そんでさ、明日貰いに行ってきていい?」
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:08
-
燃え上がる殺意にまったく気づかす吉澤は相変わらず携帯画面の子犬を眺めている。
石川は静かに箸を置き、流しに食器を置くとその場にあった包丁を手にした。
切っ先を見つめる石川に気づかず話し続けていた吉澤が振り向いて、やっと状況に気がついた。
「親犬見た感じそんなに大きくなんないから・・・・何してんの?」
首を絞めるのはよそう。確かに体格差があって不利だ。振り払われるのがオチだろう。
代わりに刃物に全てを託そう。目を瞑って手を伸ばし、刺さればそれもまた運命。
「さよなら、ひとみちゃん」
「ちょ、梨華ちゃん。目がマジ・・・・」
じりじりと距離をつめていく。
吉澤もじりじりと後ずさるが、室内である以上そこには必ず限界がある。
壁に張り付いた状態で二人は膠着状態に入った。
「落ち着け。あたしが死んだら誰が掃除すんの?誰が料理してくれんの?」
「大丈夫、私も逮捕されて社会的に死ぬからそんな人必要ないの」
「いやいやいやいや、諦めちゃダメだよ。この社会で生きていこうよ。一緒に、ね?」
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:09
-
♪〜♪〜♪〜
軽快なメロディが着信を告げた。石川はテーブルの上にあった携帯を一瞥したが、
すぐに吉澤に視線を戻した。そこに突破の可能性を見出した吉澤が珍しく声を張り上げた。
「電話!お電話鳴ってますよ!!」
「分かってるわよ」
「出なよ!ね?ね?大事な用事だったらどうすんの?ほら、そんなのはここに置いて」
現実と電波で繋がり、石川の頭に上った血が少し下がり、しかし包丁は手放さぬまま携帯を手にした。
「・・・・もしもし」
『あ、遅くにごめんね。よっちゃんそこに居る?』
「居るよ。もうすぐ居なくなるけど」
この世から。
しかし当然、こんな状況を知らないで掛けてきた藤本美貴には通じなかった。
『いや、意味分かんないし。あのさー、明日ヒマか聞いてみてくんない?』
「明日も明後日も明々後日もずーっとヒマよ」
聞くまでもない。
その次の日も、そのまた次の日も、廃人のようにごろごろしてるんだろう。
無価値。存在自体が無意味。やはりこの場で終わらせてやろうかしら。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:10
-
あぁ ひとみ ひとみ あなたはどうして生きてるの?
心の中で石川は歌うようにつぶやいた。
吉澤は電話中の石川の右手に握られた包丁から一本一本指を広げていく。
握り返したところで握力の差は歴然で、吉澤の作業は実にスムーズに進んでいった。
『ちょっと頼みあるから付き合えって言ってみて』
「・・・・分かった、ちょっと待ってね」
石川の手から奪った包丁を丁寧に洗い、元の場所に戻した吉澤は満足げな笑みを浮かべていた。
もう触らせないとばかりに流しの前に立ちふさがり、石川に対峙した。
面白いほど考えていることが丸分かりなことに呆れた石川には包丁を触る気などさらさらなかった。
「美貴ちゃんが明日出てきてほしいって」
「明日?明日はダメだよ、子犬貰いに行かなきゃ」
「いりません」
あっさりと切り捨て、藤本に返答をした。
「大丈夫だって」
『ありがと、助かる。場所とか時間とかメールすんね』
「うん、こき使ってやって」
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:10
-
「というわけで」
「なんでしょう?」
「ひとみちゃんは明日、美貴ちゃんのものになります」
「マジ?勝負ぱんつ用意しないと」
「・・・・好きにして」
あっさりと終わらされると吉澤が不満をあらわにした。
もっと構ってくれと吠える吉澤に石川はしばし考えて言った。
ペットだと割り切ってしまえば、苛立つこともないかもしれない
「尻尾があったら可愛がるのになぁ」
「尻尾かぁ・・・整形とかで付けれるかな?ちょっとずつ皮膚伸ばして・・・・」
石川は想像した。吉澤からひょろりと伸びる、生白い尻尾・・・・気持ち悪い。
「ふさふさじゃなきゃイヤ」
「えぇ?無理だよ、あたしそんなに毛深くないもん」
ふさふさの尻尾があれば石川の機嫌もなおるだろうに。
しかし吉澤にふさふさの尻尾をつけることは出来ない。ならば。
「よし分かった。犬飼おう」
「いらないって言ったでしょ」
「・・・・けち」
「出てって」
「ごめんなさい」
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:11
-
***
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:11
-
翌日の昼過ぎ、吉澤は藤本との待ち合わせ場所に向かった。藤本とは中学まで同じだった。
別々の高校になってもたまに会うことはあったが、吉澤が大学を出てからは一度も会っていない。
その場所に着くとすでに来ていた藤本に気軽に声をかけた。
「よ。久しぶり」
「久しぶりぃ。あれ、よっちゃん、ちょっと疲れてない?」
「昨日いろいろありまして」
「あぁ、ご馳走様です」
ニヤつく藤本の様子から何を想像しているのかは察しがつく。
違う、と大きな声で叫びたい気持ちでいっぱいになった吉澤だが、その言葉はぐっと飲み込んだ。
説明したら呆れられる。ついでに説教でもされては堪らない。
「んで、何の用?」
「梨華ちゃんに聞いたんだけど、よっちゃんって高校の先生だったんだって?」
「4ヶ月で辞めたけどね」
「そんで梨華ちゃんとこに転がり込んできて仕事も探さずゴロゴロしてる、と」
「あー、あれ。家政婦してんの。そう、職業家事手伝い」
「梨華ちゃんは居候って呼んでたけど、暇ならちょっとバイトしてみる気ない?」
「なにそれ、梨華ちゃんの命令?」
「違うよ、美貴のお願い。」
引き受けるかどうかは分からない、と前置きした後に吉澤が仕事内容を尋ねた。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:12
-
「高校生の家庭教師頼みたいんだ」
「それって・・・美貴の親戚とか?」
「ううん。仕事関係の人なんだけど、ちょうど探してるらしくて」
「あー、せっかくだけど、そんな気ない・・・・かな」
吉澤はつまらなそうに短く整えられた爪を見ていた。
「悪いけどあんま関わりたくないんだよね・・・」
意味ありげな吉澤の答えに藤本は反応しなかった。
どうやら吉澤の意思を尊重するつもりはないらしい。
「まぁそう言わずにお願い。今日は美貴に付き合う約束でしょ?」
「その約束したのあたしじゃなくね?」
「よっちゃんがバイトしたら梨華ちゃん喜ぶよ」
そういえば最近あまり喜んでもらえてないような気がする。
料理の腕も格段に上がっているのに、あまり喜ばないし、褒めてもくれない。
それどころか、うまく出来れば出来るほど哀しそうにため息をつく。
そんな石川が喜ぶというのなら、リハビリ感覚で少しぐらいやってみてもいいかもしれない。
毎日顔を合わせるのは御免だが、まあ短期間で隔週くらいならいいか。
「んじゃあ、まぁ、うん。ちょっとなら」
「OK。さぁ乗って」
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:12
-
少しだけ話に前向きになった吉澤が連れて行かれたのは、閑静な住宅街だった。
表札の横にウチは幸せですと書いてありそうな邸宅の前で、藤本は車を止めた。
「ここ。お母さんがいると思うから、うまくやってね。話はついてるから名乗るだけでいいよ」
「へ?美貴は一緒じゃないの?」
「ミキ仕事あるから。済んだら連絡して。あ、番号教えてなかったよね」
藤本が送ってきた番号を登録し、車を降りた吉澤にふとした疑問が生まれた。
ドアを閉めてから振り返り、窓を開けろと合図して尋ねた。
「そういや美貴の仕事ってなに?」
こんな時間に出勤するのか抜けてきているのかよく分からない。
藤本は懐から手帳を取り出すと、開いて吉澤に見せた。
「刑事」
「・・・・は?」
「あとよろしく。んじゃ」
吉澤にとってその答えは意外だったが、この乗りかかった船からは途中下船できないようなので、
とりあえず腹をくくった吉澤はインターホンを押してみた。
よくあるのんびりしたメロディが単音で奏でられた後、スピーカーから応答があった。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:13
-
『はい。清水でございます』
「えっと、あの、私、吉澤と申しますが・・・・」
『あぁ、伺っております。今行きますね』
どうやら藤本の仕事は正確らしい。
話はすべて通っているようですぐに応接間に通され、お茶を飲みながらお母さんと話し始めた。
「えっと、それで、あのですね、実は私、あまり事情が飲み込めておりませんで」
「まぁ、そうなんですか?ではご説明しないと・・・・ウチの娘が―――」
奥様特有の止まらない喋りに圧倒されながら、吉澤は頭の中で話を整理していた。
娘の名前は佐紀というらしい。お父さんは議員で、
お母さんは何かの教育団体の代表を務めているらしい。
そして藤本の紹介ではなく、間に家庭教師の派遣業者が入っているらしい。
もちろんその業者に吉澤を推薦させたのは藤本だろうが。
あと、お母さんは最近料理教室に通っているらしい。お父さんは最近ゴルフで腰を痛めたらしい。
一向に娘の話が進まない。
いったい何の科目をどの程度教えればいいのか、吉澤はその一点だけが聞きたいと思った。
しかし奥様のトークは止まらない。娘のことではなく、今度は吉澤のことが中心になっていった。
「大学生の本分は勉学でしょう?片手間に見てもらうのもなんですからねぇ」
「はぁ。」
「その点先生は教員の資格をお持ちで、これが本業とお伺いしましたのでねぇ」
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:13
-
ものは言いようだな、と吉澤はぼんやり思った。
確かに資格は持っている。それで教職に就いていないのはすぐに辞めたからだが、
言わなければ資格を持った家庭教師として評価される。
これ以外に仕事もしていないし、学校にも通っていない。本業と言えなくもない。
藤本が吹き込んだのなら、いい根性をしている。
その時、玄関からドアが開く音がした。
「・・・・ただいま」
「おかえり、佐紀ちゃん。家庭教師の先生がお見えよ。ちょっといらっしゃいな」
部屋に入ってくると、佐紀と呼ばれた少女は無言で吉澤を値踏みするように眺めていた。
吉澤はすこし戸惑いながらも軽く挨拶を試みた。
「あ、ども。吉澤、です」
「・・・・・ママ、今度は何の家庭教師?」
佐紀は母をちらりと見遣ると冷たく聞いた。いい質問だと吉澤は思った。
吉澤へのヨイショと両親の近況を聞かされている途中だったため、まだ分からないのだ。
「数学よ。先生ねぇ、どこの大学出てらっしゃると思う?あの―――」
「興味ない」
これ以上ないほどきっぱり言って、佐紀は吉澤に視線を戻した。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:14
-
「今日から?」
「あ、えっと、どうなんでしょうか?」
吉澤が母親に確認すると、できれば今日からでと言うので、
吉澤は立ち上がり佐紀の部屋まで付いていった。
部屋に入った瞬間、佐紀が小さく息を吐いた。
「ふぅ」
荷物を降ろすとそこでスイッチが切れたかのように佐紀は微笑んで、
吉澤に座るよう勧めた。
「ごめんね、先生。私反抗期だから」
「なるほど」
自分で言うのも珍しい。
佐紀はカバンからノートと問題集を取り出してパラパラと眺め始めた。
「勉強・・・数学だっけ。先生どれくらい出来るの?」
「ん〜、受験に困らない程度には」
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:14
-
「私受験するつもりないからそれがどのくらいか分かんない」
「進路は決めてるの?」
「うん。音大受けるの、バイオリンで」
話しながら佐紀の視線がわずかに動いたのに気づき、
吉澤がその視線の先をたどると、特徴のあるケースが置かれていた。
使い込まれているようで、キレイさは保たれたケースだった。
「プロとか目指すの?」
「まさか!そんなの一握りですよ・・・コンクールは入賞できたけど」
「へぇ、すごいじゃん」
「いえ、きっと無理です」
吉澤は音楽が好きだった。特にコレ、というのではなく、すべての調べが好きだった。
同様に音楽を愛する佐紀に吉澤は親近感を持った。
「ママに聞かされませんでした?自慢したがりなんですけどね」
あのまま佐紀が帰ってこなければ今頃コンクールの模様を聞かされていただろう。
バイオリンの話なら聞かされても苦ではなかっただろうにと思いながら吉澤は苦笑した。
結局聞かされたのは両親の近況だった。
「先生っていい大学出てるんでしょ?それで家庭教師やってるんですか?」
「あはは、変かな?」
「まぁ、ちょっとだけ」
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:15
-
「キミのお母さんは自慢したがりだって言ってたけど、うちの母親もそんな感じでね」
佐紀の疑問に応えて、吉澤は自分の話をした。
母親の話にしたのは、佐紀の話にわずかな引っかかりを感じたからだった。
「見栄っ張りなんだ。私立の幼稚園入れられて、周りお嬢様ばっかで、
その中にあたしが居るのがあの人の自慢。高校から別のとこ入ったんだけど、
なんで認めてくれたかっつーと偏差値が高かったから。大学もそんな感じ。偏差値で選んだだけ」
なんとも夢のない話だが、自分で夢を持っている佐紀になら話しても問題はないだろう。
「だからキミがうらやましいな。なりたい自分をかなえる進路だ。
あたしは大学でなんとなく教職とっただけだから」
「・・・・母親なんて」
「うん。似たようなものなのかもしれないね」
佐紀が何か言いたそうにしているのを見て、吉澤はそれをしばらく待っていたが、
一向に続きが出てこないので、無駄話はそこで終えることにした。
「ま、お勉強ができただけのつまらない人間だと思っといて。問題集見せて。どこやってるの?」
授業内容と理解度を確認し、少しの雑談を交えながら、吉澤の一回目の仕事は終了した。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:15
-
清水邸を出て、吉澤は藤本の携帯に電話をかけた。
「終わったー。疲れたー。あとー、・・・・なんだっけ?」
『ご苦労様。そっち向かうからどっか入っててよ』
「無理。お小遣い少ないから」
『子供か』
石川から、生きてることが無駄なのだからせめて金の無駄遣いだけでも止めろと言われている。
小遣いと言ってももともと吉澤の金だ。誠意を見せるつもりで通帳を石川に預けた。
その中から少しずつ渡されて、それが吉澤の煙草代になっている。
『・・・分かった。ミキが払うから適当に待ってて』
言われたとおりに吉澤はカフェを探し、一番奥の壁際の席に座った。
店の名前とだいたいの場所を藤本にメールして煙草を吸い始めた。
適当に注文して、出てきたものを口にしているうちに藤本がやってきて、呆れ顔で言った。
「オマエは遠慮というものを知れ」
「はい?」
「時間つぶしならフツー飲み物でしょ・・・・なんでがっつり食事してんの?」
テーブルに並べられたフルコースのような皿を見て藤本がため息をついた。
吉澤は意に介さず箸を置くとケースから錠剤を取り出し、ジュースで流し込んだ。
一息ついて、煙草に火をつけると藤本を見上げた。
「腹が減ったからに決まってんじゃん。美貴は他の理由で食事するの?」
「うあ、ムカつく」
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:16
-
「ま、今仕事中だし経費でなんとかするわ」
「それも税金でしょ?そういう発想、一国民としては許せないなぁ」
「誰のせいだ。せめて働いて税金納めてから言え。もういいからさぁ、それよりあの子どうだった?」
「あぁ・・・、あの高校生ね。別に。それなりに成績もいいみたいだし、音大受けるみたいだし、
家庭教師なんか探す必要ないんじゃないかな。あと、警察に紹介されるのもワケ分かんないし?」
吉澤が探るような視線を送ると、藤本は向かいに腰を下ろした。
内緒話をするように顔を近づけられたので、吉澤は煙を吹きかけた。
頭を叩かれいい音が響き、藤本はコーヒーを注文してから、今度は適度に距離をとって話し始めた。
「なんか難しい子でさぁ、ぶっちゃけ代わりに話聞いてきて欲しいのよ」
「そう?あんなもんでしょ。思春期だし」
「ミキはそうゆうのに免疫ないの。配属されてすぐにヤクザへの対処なら習ったけど、
高校生相手にどうしたらいいかは教えてもらってないの」
「それって・・・・梨華ちゃんの?」
「決まってんじゃん」
石川の祖父は特殊な団体のトップだった。なんとなく触れづらい職業で、
昔から分かっていることなので吉澤も確認しただけでそれ以上は聞かなかった。
「それより高校生。フツーにムカついちゃった。そこでよっちゃんの出番なわけよ」
「なんでだよ」
「だって先生やってたんでしょ?絶対ミキよりは上手くやれると思うんだよね」
「上手くやれるなら辞めてねーっつーの」
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:16
-
自嘲するように言った吉澤をからかうこともなく、藤本は真面目な調子で続けた。
「いいから話聞いてきて。そんでミキに教えて。別でバイト代出すからさぁ」
「なに?っつーか何の事件なの?」
万引きかチャリ泥棒かいじめか、そんなもんで警察が大真面目に何をやっているのか。
吉澤の疑問に、藤本は声を潜め、辺りの様子を伺いながら囁くように答えた。
「・・・・殺人」
「ぶはっ!」
むせる吉澤をよそに藤本はバッグから手帳を取り出した。
「被害者は山田太郎、29歳。無職」
「どこの偽名だ」
「ホントだよ。本名、山田太郎。免許証あったから間違いない」
かわいそうに。投げやりな親の元に生まれたに違いない。
ありそうでなさそうな名前だ。意表をついたのなら楽しい親かもしれない。
とりあえず吉澤は彼が生まれ変わったらもっといい名前をつけられるように祈ることにした。
「もしかして家族に花子さんいる?」
「あ、奥さんが」
「うそっ!?」
「嘘」
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:17
-
からかわれた怒りよりもがっかりした気持ちのほうが大きかったのは内緒だ。
にやりと笑った藤本はさらに資料を見ながら話し続ける。
「一緒に見つかった携帯の発信履歴にある女子高生の名前があった」
吉澤は煙草を取り出し、トントンとフィルターを叩きつけながら確認した。
「それがあの家の子?」
「そう。死の直前に電話をかけてる」
吉澤は十字架の彫りこまれた愛用のオイルライターを擦るが火がつかず、
マッチを探しに立ち上がろうとした。話の腰を無視した行動に苛立ちながら、
藤本はカバンからライターを取り出すと吉澤に投げた。
「まだ高校生だし、犯人とも限らないけど何か知ってるんじゃないかなぁと思って」
「ふーん。誰がやったんだろうねぇ」
フーっと紫煙を吐き出しながら興味なさげに吉澤が言った。
「分かんない。だから調べてるってか調べなきゃならないんだけど、話にならない」
「あはは」
「笑い事じゃないっての。ダメだわ、最近の若者は不可解。この一言に尽きるね」
「美貴だってわりと若いよ?」
「わりとって・・・・気遣うならもっとしっかり遣え」
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:17
-
「まぁそんなわけで家庭教師頑張って。うまく話聞いて報告してね」
「何聞くんだよ?君、殺してないよねって聞けばいいの?」
「事件に関することならなんでも。とにかくさぁ、警察じゃ何にも聞けなかったのよ」
「なんで?」
「黙秘権だってさ。十年早いっつーの!親父さんの圧力もあるし」
怒りもついでに思い出したようで、藤本はテーブルを強く叩いた。
ちらちらと視線を集め始めたので吉澤が笑顔を振りまいてなんでもないとアピールしていた。
「議員さんがさぁ、上に言ってんのよ。証拠もなく娘を疑って傷つけられちゃ困るって。
おかげで10分もしないうちに連れて帰られて・・・・あの子名前しか答えてないからね」
「お疲れさん」
「もっと言って。ったく・・・とにかく、よっちゃんはあんま気にしなくていいよ。
もしそんな話聞けそうだったら聞いて教えて欲しい。あとはフツーに勉強してて」
「それでいいの?」
「あからさまにされるとミキの首がヤバい」
「・・・・あっそ」
なら黙ってサラリーマン刑事してればいいのに、と吉澤は思ったが口にはしなかった。
店を出ると藤本の車に乗って、石川のマンションまで送られた。
車内で無線をいじろうとしてグーで殴られたが、それ以外には特になにもなく無事にたどり着き、
署に戻る藤本を見送ってから吉澤は中に入った。
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:18
-
***
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:18
-
「ただいまぁ〜」
「おかえり」
石川が帰宅すると、久しぶりにジャージ姿ではない吉澤に迎えられた。
珍しくまだ準備中のようで、レトルト食品を温めているところだった。
「ごめんね、手抜き。ちょっと忙しくて」
忙しい。そんな言葉を吉澤から聞けるだなんて。
石川の胸に熱いものがこみ上げる。
「いいよ。美貴ちゃん何の用事だったの?」
「ん。なんか家庭教師の口紹介された」
家庭教師。バイトだ。吉澤がやっと働くのだ。レトルト食品なんか放って、出かけようか。
石川はもう胸がいっぱいで食事どころではない。
「六時から八時までなんだけど、晩飯は作っとくから自分で温めてくれる?」
「ひとみちゃん。ケーキ買いに行こうか」
「え、なんで?」
「だって!ひとみちゃんがやっと仕事するんだよ?お祝いしないと!」
「就職じゃないんだから祝いなんていらないよ。週一回だし」
「・・・・え?」
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:18
-
はしゃぎ始めていた石川の動きが止まった。
「ねぇ、それ以外の日は・・・?」
「今までどおりだよ。家事をしてゲームしてごろごろして梨華ちゃんの帰りを待ってます」
「なによそれっ!そんなに変わらないじゃない!」
「あ、さっきまで喜んでたくせに。カテキョーだよ?そんなもんだって」
湯気の立つ皿を並べ終えると、吉澤は換気扇の下で煙草に火をつけた。
大きく煙を吐き出す吉澤を眺めながら石川は小さくため息をついた。
「・・・そーだよね、贅沢言っちゃダメよね」
「そうそう。徐々にいこうよ」
「本人が開き直ってるとムカつく」
吉澤はにやにやとして何も答えない。
石川が少し俯いて考えてから言った。
「でも・・・うん。いいよね、それだけでも。ひとみちゃんそのときはご飯作らなくていいよ」
「ん?」
「お仕事のあとはぁ、外食しよ」
「お、マジ?いいねぇ」
前進を認め、久しぶりに文句のない日になるはずだった。
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:19
-
「ちょっと!これ誰!?」
「は?いや、美貴じゃん」
風呂上りの吉澤に突きつけられたのは携帯の画面だった。藤本美貴と登録された電話帳。
頭の中が風呂上りの一杯で埋め尽くされている吉澤には何をエキサイトしているのか分からず、
ビールを取り出して、一口飲んでから気付いた。
「・・・ちょ、待って。梨華ちゃんいつもあたしの携帯チェックしてたの?」
「してないわよっ!たまたまよ!」
「たまたまって、そんなたまたまでたまたまそんな切れるもん見つけるわけないじゃん」
「見つけたのっ!」
そんなムチャな、と思いながら吉澤は飛んでくるクッションやリモコンを避けつづける。
「何よっ!人の家に寄生しといてどこの誰と遊んでんのよっ!」
「いやいや、美貴だって!それ絶対美貴だから!」
「嘘つきっ!私の友達で偽装しないでよっ!私の携帯に入ってる番号と違うじゃない!」
「はぁ!?」
暴れまわる石川を負傷しながらも吉澤は必死で押さえ込んだ。
石川は完全にキッチンの包丁に目標を定めている。
「どいてよっ!」
「いや、待ってよ。本当に誤解だから、掛けてみてよ」
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:19
-
その言葉を待っていたとばかりに石川の目が光った。
暴れまわるのをやめ、吉澤の携帯の発信ボタンに手を掛けた。
「言ったわね?掛けるわよ。別れてもらうからねっ!」
「どんなノリ?・・・・美貴なんだってば」
吉澤には石川の脳内で繰り広げられている昼ドラに付き合う気はなかった。
掛ければ分かる、さっさと掛けてくれ、そう願うばかりだった。
何にビビッて躊躇っているのか石川はなおも吉澤を喚きたてた。
「なんか合図があるんじゃないでしょうね!?メールしてからじゃないと出ないとか・・・」
「何が楽しくて美貴なんかにそんな合図すんだよ・・・ないって。早くかけてよ」
携帯を耳に当てて石川が大人しくなったのを確認すると、
吉澤はビールを飲みながら散らかった部屋を片付け始めた。
石川のイライラは2コールで早くも限界を迎えかけていた。
出ないじゃないのっ、と叫ぼうとした瞬間、電話の向こうから応答があった。
『はい』
「あっ、れ?その鼻にかかった疲れきったホステスみたいな声は・・・美貴ちゃん?」
『その甲高いアニメ声優みたいな声は梨華ちゃん?って突然何の喧嘩売ってくれてんの?ホステス?』
「え、あれ?」
『あのさ、これ仕事用の携帯だから。用事ならミキの携帯に連絡して。じゃね』
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:20
-
「・・・・ね?」
吉澤は勝ち誇るような言い方は避けた。ただの確認という調子を心がけた。
石川の神経を逆撫でるだけなので、これ以上何も言わずに寝るつもりだった。
しかし石川は吉澤がスイッチを入れるまでもなく暴れだした。
「なによっ!?からかってたの!?」
「あの・・・あたし最初から美貴だって言ってましたケド」
せっかく戻したクッションがまた飛んでくる。
だんだん疲れてきた吉澤がその一つを拾って投げ返すと石川の顔面にヒットした。
今度こそまた包丁かと思い慌てて身構えるが、石川はそのままソファに倒れこんだ。
「・・・梨華ちゃん?」
返事はない。倒れるわけがないと思いながらも起き上がらない石川を覗き込んだ。
目を閉じてピクリとも動かない。
「え、うそ?梨華ちゃん?」
心配になってきて、抱き起こそうと手を伸ばすと石川が急に目を開いた。
驚いて固まった瞬間、クッションが吉澤の顔に押し付けられた。
何かを断られた人のようでみじめな気持ちになった吉澤が呟いた。
「痛い」
「・・・・・出てって」
「結局それですか?」
- 29 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/24(水) 23:20
-
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/25(木) 01:32
- 面白い
これは続きに期待大
- 31 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/25(木) 22:55
- いい感じ。
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/26(金) 01:23
- 面白いです!
続きが気になります。
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/27(土) 14:01
- >>30-32
ありがとうございます
頑張ります
- 34 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:01
-
「明日バイトよね?」
「お、そーだっけ?」
「・・・・忘れてたの?」
石川は心底あきれた顔でため息をついた。
こんな吉澤が短期間とはいえ、自分の母校で教鞭をとっていたことが信じられない。
4ヶ月で辞めたといっても、4ヶ月続いたことが信じられない。
「それがどうかしたの?」
尋ねる吉澤はソファに寝転んでテレビを見ている。
テレビを見ながら雑誌を広げ、片耳には音楽プレーヤーのヘッドフォンが当てられている。
右手には携帯を握り、敷くように新聞を広げ、結局なにをしているのかまったく分からない。
「ひとみちゃん、今何してるの?」
「梨華ちゃんと喋ってる」
何かを投げつけようかと思ったが、手元にはグラスしかなかった。
石川はいろいろと諦めて、話を戻した。
「明日ご飯どこ行く?」
「あ〜お出かけかぁ・・・・任せる」
- 35 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:02
-
それだけ言って吉澤は視線を落とした。
携帯を見ているのか、雑誌を見ているのか、音楽を選んでいるのか、ニュースを聞いているのか、
とにかくどれかに戻ったらしい。
「任せるってなによぉ〜たまにはリードしてよ」
「えぇ〜?あー・・・う〜ん・・・」
石川は考え込む吉澤を冷ややかな目で見ていた。
本気が感じられない。唸っているのに雑誌のページが次々にめくられていく。
考えて唸っているというより、雑誌を見て考えているようだった。
「あ。美貴に聞いとく」
何を投げつけてやろうかと石川が辺りを見回し始めたとき、吉澤が閃いたように言って、
石川は探すのをやめて問い返した。
「美貴ちゃん?」
「うん。明日終わってからちょっと話すから、そん時にオススメとか聞いてみる」
藤本にグルメなイメージなど特になかったが、聞いてみるというのだからそれでいいだろう。
石川はとにかく吉澤に行動してもらいたかった。
バイトを始めて何か変わると思っていたのに、何も変わらなかったからだ。
- 36 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:03
-
「お願いだからバイトの日にちと時間くらい覚えておいて」
石川がため息混じりにそう言うと、吉澤はきょとんとした顔で石川を見て言った。
「覚えてるよ?」
「ついさっき忘れてたじゃない」
「へ?」
ボーっと過ごしている間にIQは下がるものなのだろうか。
頭は使わないとボケると言うし、石川は真剣に心配していた。
こんな人ではなかったはずなのに。顔と頭だけはよかったはずなのに。
悩む石川に吉澤はきっぱりと言い放った。
「失礼な。ただ今日が何日か分からなかっただけだよ」
「余計悪いわよっ!」
日付の感覚が完全に失せている。引きこもりのせいだ。
こんな人では・・・なかったはずなのに。
「ひとみちゃん、頭が鈍くなってる」
「あはは、大丈夫だって。ちょっとくらい鈍っても梨華ちゃんには負けないから」
「出てって」
「・・・勘弁してください」
- 37 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:03
-
***
- 38 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:03
-
吉澤の二度目の仕事の日がやってきた。
今日は藤本に送ってもらうのではなく、電車で行くことにした。
久しぶりに乗る電車と駅の人ごみにげんなりして、
もうすでに体力は半分ほどになった状態で駅から程近い清水邸に着くと、
吉澤は母親に迎えられた。
「申し訳ありません、佐紀はまだ帰っていなくて。どうやら電車が遅れているみたいで」
「あぁ・・・そういえばそんなアナウンスしてましたね」
吉澤は駅で聞いた内容を思い出しながら答えた。事故かなんかで三十分、だったか。
応接間に通され、佐紀を待つことになった吉澤に謝ってばかりの母親に違う話題を提供したくて、
前回佐紀に教わった話題を持ち出すことにした。自慢の娘の話をさせよう。
「あ。あれ賞状ですか?」
「えぇ、佐紀がバイオリンコンクールで入賞したときのものですわ」
さほど興味があるわけではなく、とりあえず謝るのをやめた母親にホッとして、
吉澤は出されたコーヒーに口をつけた。
「子供の頃からずっと習ってましてねぇ」
「へぇ」
「あの子のためにいろいろな習い事をさせておりますけど、バイオリンだけは特別みたいで」
- 39 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:04
-
「きっと大好きなんでしょうね」
「えぇ。でもそろそろ受験勉強に支障が出ないか心配してたんです」
「支障、ですか?」
音大を受けると言った佐紀が、吉澤の頭に浮かんだ。
受ける、と言ったのか、受けたい、と言ったのか。
あやふやになった記憶はどうにもならない。
「成績も悪くありませんし、出来れば上の大学を目指してもらいたくて」
「そうなんですか」
「そのためには二年生からでも。ほら、やっぱりスタートは早い方がよろしいでしょう?」
音大を受けるというなら、バイオリンに心血を注ぐべきだが、
受験勉強をするというなら、早く始めたほうが後々いいのかもしれない。
母親の話しぶりからは、前者の様子は感じ取れなかった。
「すみません。あたしにはちょっと、分かりかねます」
「あらあら、先生はずっとお勉強なさってたんじゃないですか?」
「えぇ。ですから、スタートですとか、時期といったものは分かりかねます」
「まぁまぁ、さすがですわねぇ」
半分本当で、半分嘘だった。
- 40 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:05
-
「子供の頃はプロになるなんて言ってましたけど。でもあの子も分かってるんでしょうね、
コンクールが終わってから、最近は弾いてないんですよ。お勉強に専念してくれてるみたいで」
「・・・そう、ですか」
わけが分からず吉澤が話に再び困りだした頃、やっと佐紀が帰宅した。
「・・・・ただいま」
「おかえり、佐紀ちゃん。先生がお見えよ」
「あぁ・・・お待たせしてすいません。どうぞ」
疲れたような声に感じたが、母親は何も言わなかった。
いつものことなのだろうと判断して頭を下げると、吉澤は佐紀の部屋に向かった。
「・・・・待ちましたか?」
「うん。大変だったね、事故でしょ?」
「別に私が事故にあったわけじゃありませんし」
今日は部屋でも反抗期だろうか。
随分と冷めた物言いに吉澤は苦笑した。
「お勉強の時間が短くなってラッキー?」
「いいえ。そんなに嫌いじゃありませんから」
どうも無駄話には付き合ってくれそうにないと思い、吉澤は問題集を開いた。
- 41 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:05
-
「あ、新しいとこに入ったんですけど」
「どれ?・・・三角関数か。大事だからゆっくりやろうか」
宿題に出たというプリントを眺め、佐紀は問題なく進めていく。
手持ち無沙汰に首を回すと、大きめの本棚が目に入った。
「本棚見てもいい?」
「どうぞ」
「どうも。詰まったら声掛けて」
気になる本は手に取りながら、吉澤は本棚を眺めていた。
視界の隅にちらちらと吉澤の様子を伺うようにしている佐紀が映った。
「・・・多趣味なんだね」
「え?」
「本の種類がね、いろいろあるなぁと思って」
「あぁ、パパのも混ざってるんです。私は全部読んだわけじゃないですけど」
「じゃあ多趣味なのはお父さんの方かな。バイオリンは誰の影響?」
あまり気にしなくていいと言われたものの、藤本の頼みがある。
さりげなく話せる機会を伺っていた吉澤は佐紀の注意が向いているうちに尋ねた。
「・・・・子供の頃、パパの知り合いの家でプロの演奏を聞いて」
「へぇ。セレブだねぇ」
「友達のお母さんなんです」
- 42 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:06
-
帰ったばかりの頃よりは話せそうな手応えを感じて、
吉澤は佐紀の隣に腰掛けた。
「お母さん、キミが音大行きたいの知らないんだね」
途端に佐紀の目が冷たく細められた。
「・・・・先生、言ったの?」
「いや、言ってないよ。進路相談までは頼まれてないから」
吉澤の軽口に佐紀は少しだけ気を許したように笑った。
「事務的なんですね」
「気に障ったなら謝るよ」
「いえ、大丈夫。そうですね、パパもママも知りません」
佐紀はペンを置いてちらりと視線を走らせた。
分かりやすい子だと吉澤は思った。
「すっごい余計なお世話じゃなければあたしからお母さんにチラッと言ってあげるけど」
「ありがたいけど、残念。余計なお世話です」
「了解」
視線の先のケースは先週から動かされた形跡がない。
母親の、最近は弾いていないという言葉が頭に浮かんだ。
- 43 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:06
-
吉澤は軽い口調で聞いてみた。
「最近弾いてないんだって?どうしたの?」
「飽きちゃったのかもしれません」
「バイオリンに?」
佐紀は何も答えず小さく首を傾げた。
本人は目指していないと言っていたが、子供の頃はプロになりたかった、
そんなものに簡単に飽きたりするものだろうか。
プロを目指すというならそれこそ弾かない日はなかったくらいではないのだろうか。
吉澤は考えたが、状況が違いすぎてよく分からなかった。
そういう時期もあるのだろうか。
「プリント見せて。答え見るから」
藤本の指示はアバウトすぎると思った。
具体的に何を聞けばいいか分からない吉澤は仕事に戻るしかなかった。
新聞、雑誌、ニュースとざっと目を通して事件のことは調べたが、
詳しいことは報道されていない。どこで、どうやって。分かったのはそれだけだった。
まさか本当に“キミ殺してないよね”などと聞くわけにはいかない。
言われるまでもなく、吉澤にできるのは家庭教師のお勉強だけのようだった。
- 44 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:06
-
「予習しようか。次のページ見せて」
式の流れにも計算にも問題はなかった。暗算で確かめてもミスはない。
分からないところもなさそうなので、少し先までやっておくことにした。
応用問題をざっと説明して、吉澤は佐紀が問題集を解くあいだ、
また立ち上がり本棚を眺めていた。
「先生って何の先生の資格持ってるの?」
「理科だよ。生物」
「そうですか。文系じゃないんだ」
吉澤は世界のジョークという本を取ってパラパラと眺めていた。
本を広げたまま吉澤が佐紀を見て言った。
「キミは?受験するとしたら理系?文系?」
「・・・文系じゃないかな。文学部とか・・・そういうの受けると思う」
「なら数学はこれぐらいできれば大丈夫だね」
「そう、ですか」
歯切れの悪い返事を聞きながら、吉澤は興味なさげに視線を手元の本に戻した。
佐紀はまた問題集を解き始めたようだ。カリカリとペンの音が聞こえる。
本を戻してまた見回すが、文学部というわりには本棚に純文学作品は並んでいない。
父親の部屋にでもあるのだろうか。
- 45 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:07
-
その中の一つ、読みかけだろうか。チェックの読書カバーが掛けられた本に目が留まった。
並んだ本の上に置かれている。手を伸ばそうとしたとき、佐紀に声を掛けられた。
「先生、催眠術って信じてますか?」
「・・・・信じるも何も、思い込みだよね。人によっては当然かかるんじゃない?」
吉澤は伸ばしかけた手を引っ込め、別の雑誌を手に取った。
「催眠術で殺人鬼になったっていうジュニア小説があるんです。馬鹿げてますよね?」
「そうだね、心理学は専門じゃないけど・・・・そんな催眠は掛けられないって言われてるね」
そんなことを聞いたことがある。ホントのところはどうだか分からない。
吉澤が実験したわけではない。
「強い強迫観念に襲われるって、思い込みですよね?
狙われてるって思い込んで、人を殺すっていうならアリでしょ?」
「それはねぇ、思い込んでるのは“狙われてる”って部分でしょ?」
「どう違うんですか?」
「催眠術で“あなたは命を狙われてる”って吹き込んだら、
きっとその人は警戒心むき出しの人になると思うよ。かかりやすければね」
結局殺したのはその人の意思だ。狙われたからといってどういう行動をとるかは分からない。
狙われてると吹き込んだところで殺人犯にはできないだろう。
「操って殺すんじゃなくて、“動機”を仕込むって話になるんじゃないかな?
その小説の顛末はどうなってるの?」
吉澤は手にしていたファンシューティングとかいう雑誌を棚に戻し、佐紀を振り返った。
- 46 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:07
-
佐紀は微笑んでいた。
「ジュニア小説だって言ったでしょ?主人公がキスをしたら正気に戻りました」
「なるほど・・・馬鹿げてる」
吉澤は本棚を離れ佐紀の方へ行き、机の横に置かれている椅子に腰掛けた。
佐紀は変わらず話を続けている。
「催眠状態でも倫理観は働くからってことですよね?」
「あぁ・・・・そうなのかな。あたしはあんま知らないけど」
「私も知りませんよ。雑談だからいいじゃないですか」
吉澤はあまり詳しく話したくなかった。
理由は分からないが、早く終わらせてしまいたいと思っていた。
「子供って残酷ですよね」
「ん〜、大雑把な言い方だと思うけど。まぁ、そうかな」
「これって子供には倫理観なんてない、もしくは希薄ってことだと思うんです」
意図が見えず、吉澤は佐紀の様子を見ていた。
視線は伏せられ、独り言のような調子で語りかけられる。
「子供なら殺人鬼にでもできそうじゃないですか?」
「その小説は」
- 47 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:07
-
こだわるように強い口調で吉澤が言った。
「子供のころに仕込まれたって設定なのかな?少なくとも・・・10代のうちに」
「そうです」
吉澤はくるくるとペンを回しながらぼんやりとした表情で話を聞いていた。
背もたれにだらりともたれかかり、斜め上を見上げ、何もない天井を見ながら静かに言った。
「子供に仕込むって発想はよくないな。テロリストなら実際にやってる手口だ。
そんなのを子供向けの題材に選ぶのは適切じゃないと思うよ」
佐紀はほがらかな笑みを浮かべて、言った。
「私もそう思います。馬鹿げてるなぁと思ってました」
その表情からは下を向いてぼそぼそと重ねていたときの色は消えていた。
吉澤は背もたれから体を離し、前のめりになって佐紀に負けないような笑顔を浮かべながら言った。
「その本、読んでみたいな。ある?」
「いえ、その本は友達が持っていたので私は持ってないんです」
「そう、じゃあ探すからタイトルと作者教えてもらえる?」
「う〜ん、タイトルも作者もちょっと思い出せません。主人公は男の子だったような気がします」
佐紀の返事は具体的ではない。
すこしずつ、吉澤の顔から貼り付けた笑顔が剥がれていった。
- 48 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:08
-
「表紙の色は?厚さは?何ページくらいあった?」
「・・・そんなこと聞いて探せますか?」
「一つ思い出せばタイトルも思い出すかもしれないじゃん」
吉澤はせわしなく動く佐紀の目の動きに不快感を覚えていた。
ぎこちなく握られた手も目障りだった。
「・・・・そんなに分厚くはなかった気がします。200ページくらい。
表紙の色はカバーで見えませんでした」
「そうか。そのカバーはチェックの?」
佐紀が目を見開いて吉澤を見た。
罰が悪そうに視線をノートに戻すと、そうです、と呟くように言った。
「どうして分かったんですか?」
「そこにカバー掛けた本があったから」
「あれはバイオリンの本です」
「バイオリン飽きたわけじゃなさそうだね」
「ちょっと前に読んでたんです。とにかく、あれは違います」
「うん。そういう意味で訊いたんじゃないんだけどね」
吉澤はカバーの中身がその本だとは思っていない。そんな本はないのだと思っていた。
ないものをイメージするとき、記憶の中から構築する以上、
浮かんでいるイメージは佐紀の身近なものである可能性が高いと思っただけだった。
自分のカバーを掛けていたなら中の表紙を見ていないわけがない。吉澤はため息をついた。
- 49 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:08
-
ため息に急かされるように焦りを滲ませた声で佐紀が言った。
「友達が持ってるんです。私は何も覚えてません」
「そう。残念だな、それじゃ探せそうもない」
佐紀が小さく深呼吸したのが分かった。
吉澤は、関わりたくないなぁ、とぼんやり考えていた。
あくまで信じている体を装って、吉澤はその話を終わらせることにした。
「あ、今度その友達に聞いてみてくれる?」
「はい。聞いてみます・・・先生も本好きなんですね」
「うん。ただ、子供向けの小説はさすがに読んでないから分からないけどね」
「そうですか」
「そうだよぉ」
カリカリと佐紀はペンを走らせていた。
もう焦りなど微塵も浮かんでいない表情にだけは感心して、すこしだけ哀れに思えた。
「そこ、間違ってるよ」
簡単な計算ミスを指摘すると、佐紀の表情がまた曇った。
何か隠しているんだろう。そんな本はないということ以外に、何かを。
何を隠してきたんだろう。立派な邸宅に住み、両親に見守られて、
何がこの子を追い詰めてるんだろう。少しだけ気になって、同時に関わりたくないと強く思った。
- 50 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:09
-
藤本には事件に関することを聞いて来いと言われているだけだ。
家庭の事情や佐紀自身のことを聞く必要はないと自分に言い聞かし、
吉澤は佐紀のノートに書かれる文字を眺めながら話し始めた。
「キミは?本読むの好き?それとも、どこかに出かける方が好き?」
「どっちも好きですけど、出かける方が好きかな」
嘘をつくと他の話題に変えたくなる。
誘導という意味ではありがたかったが、どうしようもない気だるさに襲われた。
藤本に聞いたのは、被害者の携帯にこの子の番号が登録されていたことだけだ。
何か、ある。何が、ある?結びつけずにはいられなかった。
「そう。駅前とか行く?あたし高校の頃よく行ってたんだけど」
「習い事が多いからほとんど学校と家の往復ですけど、たまになら行きます」
「駅前ってたまに事件起きてるよね」
シャーペンの芯が折れ、佐紀の手が止まった。
駅前のホテルを思い浮かべているのだろうか。
吉澤はその様子だけ確認して、安心させるように言った。
「友達がひったくりにあったことあるんだ。気をつけなよ」
「ひったくりですか・・・怖いですね」
ホッとしたようにまた動き出した手を見て、吉澤は目を細めた。
- 51 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:09
-
目眩がする。
この子は何か知っている。自分が聞くのか。どうして?
ノートと時計をかわるがわるに見て、時間が過ぎるのを待っていた。
家庭教師は90分。その後藤本と話して8時、終われば石川と食事だ。
佐紀のミスは目に見えて増えていた。
緊張させたくない。追い詰めるつもりなんてない。
分かりやすい子だ。藤本が聞けばいい。関わりたくない。
聞いて来いと言われた。
訊ける。聞けない。聞きたくない。
吉澤も佐紀も静かに考えていた。水面下での葛藤はその姿を現すことはなかった。
「・・・時間だね。ここで終わろうか」
「はい」
「じゃあ、また来週」
「あ、先生」
佐紀が何かを言いかけて、吉澤が真っ直ぐに見返すと目を伏せて黙り込んだ。
「なんでもないです。ごめんなさい、さようなら」
「うん。謝ることないよ。それじゃ」
吉澤はホッとして立ち上がり、清水邸を出て行った。
- 52 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:09
-
***
- 53 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:10
-
住宅街の近くにあるバス停のベンチに吉澤は腰掛けていた。
黒のセダンが近づいてきて、吉澤の前で止まった。
助手席の窓を開けて身を乗り出して声を掛けられる。
「なにしてんの?」
「美貴を待ってる」
「ここで待つな。約束が違うでしょうが」
藤本は10分ほど前に吉澤から終わったと聞いて先週と同じカフェに向かっているところだった。
吉澤は煙草を吸いながら藤本にひらひらと手を振った。
「あぁ・・・先に行ってて。あと20分くらいしたら行くから」
「馬鹿か。さっさと乗って」
何故呼び出した張本人を素通りして待ち合わせに向かわなければならないのか。
待ち合わせ場所にどんな執念があるというのか。
藤本の本気で怒っているようなトーンに負けて、吉澤はのろのろと立ち上がると車に乗り込んだ。
ふと、少しめくれた吉澤の袖下が藤本の目に入った。
「その傷どうしたの?」
「あぁ、梨華ちゃんに引っかかれた・・・・お前が仕事用の番号なんか教えるからだ」
「こないだのなんだったの?結局あれから連絡なかったんだけど」
「・・・仕事用の番号なんか教えるからだ」
- 54 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:10
-
拗ねたように外を見る吉澤から目を逸らし、藤本はしばし考えてから言った。
「仕事用の・・・・あぁ、こっちの番号教えようか?」
藤本は懐から吉澤が見たのとは違う携帯電話を取り出した。
吉澤の顔が引きつる。腕に残る傷を押さえて震えながら言った。
「・・・いらない。知りたくない。あたしの携帯に変化を与えないで」
「なにがあったの?大丈夫?ドメスティックバイオレンス?」
「いや・・・・昼ドラチックバイオレンス?」
「あ?」
サイドミラーに吉澤のにやけた口元が映っていた。
いつのまにか震えも止まっている。
「よっちゃん、からかってんでしょ?」
「あはは、バレた?」
「・・・逮捕するぞ」
「悪いけど捕まるときはミニスカポリスに、って心に決めてるから」
「お前はおっさんか」
- 55 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:11
-
そんなことは聞き流し、吉澤は窓の外を眺めたまま藤本に尋ねた。
「もーちょいさ、詳しく聞いていい?」
「は?なにを?」
「・・・・その、聞いて来いって言ってた事件」
「お、よっちゃん覚えてたんだ。偉いじゃん」
「・・・・忘れていい?」
思いのほか真面目なトーンで返す吉澤に藤本は目を見開いた。
いつもならあらゆることに冗談で返すのは吉澤の方なのに。
調子狂うなぁ、と呟きながら藤本は話しだした。
「被害者とあの子のことは言ったよね?」
「それしか聞いてない。場所と時間はニュース調べた。状況も報道されてる範囲なら知ってる」
「・・・そっか。えっと、被害者が取ってた駅前のホテルでなんだけど、午後8時前後、
今ぐらいの時間だね。それぐらいに死んでる。発見されたのは翌日の午前9時。
ホテルの従業員が発見して即通報。死因は毒物による中毒死。自殺と他殺の両面から捜査中」
「ふーん。自殺かもしれないの?」
吉澤が無線に触ろうとしたので後続がいないことを確認して急ブレーキを踏むと、
吉澤は面白いほど見事に頭をぶつけていた。
「今捜査中。遺書は見つかってないしね」
「・・・・誰かがいた形跡はないの?」
「女子高生と一緒に入っていくのを目撃してる人がいる」
- 56 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:11
-
吉澤はぶつけた頭を押さえながら煙草を咥えて、車のシガーライターを押し込んだ。
「出るとこは見てないらしいんだけど、制服の特徴があの子の通ってる学校のによく似てる」
「それって証拠にはなんねーの?」
火のついていない煙草が吉澤の喋りに合わせて大きく揺れた。
「・・・・清水佐紀には完璧なアリバイがあるから」
「どんなぁ?」
十分に熱されたシガーライターを煙草に押し付けながら吉澤は続きを促した。
「被害者はもともと北海道の人間で、こっちには用事で来ただけ。
飛行機の搭乗記録が残ってる。こっちに着いたのは事件があった日の朝。
その日、清水佐紀は朝からバイオリンコンクールに出場してる。
夜には入賞者と審査員が集まっての食事会があった。写真もあるし、証言もとれてる」
「・・・・ならあの子は何もやってない」
「でもあの子の番号が発信履歴に残ってた」
通報を受けて藤本も現場に向かった。はっきりと覚えている。画面に映った清水佐紀の文字。
「その場で掛けたらあの子がすぐに出て、どちらさまですかって。
警察だって言ったらすぐに親父さんに代わられて・・・それからはほとんど話せてない」
「なんでその携帯にあの子の番号が入ってたの?」
「・・・・“娘は知らないと言ってる。それを調べるのは警察の仕事だろう”って親父さんが」
藤本はどうしようもないという風に肩をすくめた。
- 57 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:12
-
そんな藤本を吉澤は鼻で笑った。
「フッ、なるほど。確かにお前らの仕事だ」
「・・・今はよっちゃんに頼んでるからよっちゃんの仕事だけどね」
「そーだったねぇ・・・」
番号が登録されていたなら知り合いだろう。
北海道からその日にやってきた男。出会うことはできないはず。
ならどうして?本人は口を閉ざす。
吉澤はぼんやりとわずかに開けた窓から外に流れていく煙を見ていた。
「何か事件に関係ありそうなこと言ってた?」
「別に何も」
藤本の問いに即答し、吉澤は窓を開けて火のついた煙草を放り投げた。
すぐに藤本に叩かれて、痛む頭を押さえた。
「よっちゃんもう帰るよね?送るわ。あそこ曲がればいいんだっけ?」
「あ、今日は家じゃないんだ」
「そうなの?」
「うん。梨華ちゃんと外でお食事だから」
バス停で拾ってから初めて、吉澤が素直に笑った。
楽しみにしているのがよく分かる、子供のような笑顔だった。
昔から知っている吉澤に似合うのは、こういう笑顔だと藤本は思った。
無気力な面もなかったわけではないが、それ以上に素直な奴だった。
- 58 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:12
-
「あ、そうだ。美貴さぁ、なんかおススメの飯屋とかない?」
「デートの場所選び?」
「いやぁ、そんなんじゃないけどぉ」
「あっそ。じゃ、ミキも行く。連れてってあげるよ」
「へ?」
吉澤が間の抜けた声を出して固まった。
藤本は底意地の悪そうな目つきで吉澤をからかうように見る。
「なに?デートじゃないんでしょ?お腹空いたからミキも行く」
「・・・・空気を読め、ばか」
「うるさい、ド馬鹿。梨華ちゃんどこにいるの?」
露骨に嫌そうな顔をする吉澤をよそに、藤本は石川に電話して迎えに行くと告げた。
石川も石川で、藤本が一緒に行くと言っても平然と場所を伝えて電話を切った。
吉澤だけが不満そうに口を尖らせている。
「梨華ちゃんは気にしてないよ。デートだと思ってんのよっちゃんだけだって」
「思ってねーよ・・・・もう」
「んふふ、ばぁか」
先ほどより柔らかな口調で藤本は微笑んで、石川を迎えに車を走らせた。
しばらく走るうちに拗ねているのに飽きたのか、吉澤が小さな声で藤本に尋ねた。
「・・・・どこ行くの?」
「韓国料理。おいしいよ」
- 59 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:13
-
- 60 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:13
-
「「うっわぁ・・・・」」
藤本の店選びのセンスや味覚に問題はなかったが、運もなかった。
やたらとゴージャスかつダンディーでありながら時代錯誤感を否めない男性が入店してきて、
吉澤と藤本は引きつった声でハモった。
そんな二人の横で何かに気付いた石川が立ち上がった。
「ごめん、二人とも。私ちょっと挨拶してくる」
「え?」
「おじいちゃんのところの若頭だから・・・あっちから来たらイヤでしょ?」
「うん、ちょ―――」
超イヤです、と素直に答えかけた吉澤の顔に藤本のおしぼりが飛んだ。
石川はさっさと席を立つと店の奥へ入っていった。
ずれ落ちるおしぼりの下から吉澤が非難の声を上げた。
「なにすんだよぉ」
「バカじゃねーの?」
「・・・もー美貴帰れよぉ、お邪魔虫ぃ」
子供のようにブツブツと文句を重ねている。藤本が呆れながら言った。
「よっちゃんさぁ、梨華ちゃんのことになると急にバカみたいになるよね」
「その前からずっとバカ扱いされてますけど」
「気もせいだって。ぶっちゃけどこにそんな惚れてんの?ミキ全然分かんないんだけど」
「あはは」
「いや、真面目に聞いてんだよ?」
- 61 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:13
-
馬鹿笑いをやめた吉澤は不意に目を細め、小さな声で言った。
「梨華ちゃんがいなかったらあたしは死んでたかもしれない」
「はぁ?」
「・・・・というのは冗談だけど、見て分からないかな。可愛いでしょ?そんだけ」
石川という人はそれなりに面倒な人間だと藤本は思っていた。
可愛いから、というだけで何年も想い続けれるものだろうか。
藤本は疑わしげに重ねて訊いた。
「それだけぇ?」
吉澤は何も答えずニヤニヤしながら煙草を咥えた。
目を細めたまま十字架のついたライターを見つめ、開けたり閉めたりを繰り返していた。
不意に、吉澤の目の前に細身のライターが差し出され、火がつけられた。
「はい」
「ん」
ライターから伸びてきた手を目で辿ると、戻ってきた石川が差し出したものだった。
吉澤が当然のように煙草を寄せ、軽く吸って火をつけると煙を藤本に吐きかけたので、
とりあえずグーで行っておいた。
「またオイル足すの忘れたんでしょ?」
藤本には石川を待っていたように見えたが、吉澤はそうそう、と頷いている。
ライターをバッグにしまう石川を見て、藤本はフッと笑みを零した。
- 62 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:14
-
料理が運ばれてきて、食事が始まった。
空腹が満たされてきたころ、藤本が石川に興味本位で尋ねた。
「そういやさっきさぁ、何喋ってきたの?」
「ん〜、お仕事の人がホテルで亡くなったとかって話」
「え!?それ、なんて人!?」
「美貴ちゃんどうしたの?えっとぉ・・・なんだっけ、偽名みたいな・・・・」
石川が思い出そうと頭を抱えた。
石川は普段、祖父の仕事に関しては意識的に覚えないようにしている。
急に思い出そうとしてもそれは難しかった。
吉澤がそんな石川に助け舟をだした。
「ジョン・スミス?」
「なんで外人?違うよ・・・」
石川は呆れたように言って、また頭を抱える。
もう少しで浮かびそうだったのに、その名前はまた深く沈んでいった。
その様子を見ていた藤本が吉澤を睨みつけた。
「よっちゃん黙ってて。それって・・・山田太郎?」
「あ、そう。そんな名前!」
「マジッ!?組のお客さんだったの!?」
興奮する藤本を見て吉澤は肩をすくめた。
- 63 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:14
-
「ミキ、それの担当なんだよね」
「ヤクザの客を高校生が殺すかな?」
面白くなさそうに吉澤が呟いた。
急に冷めた吉澤に藤本がムッとして言い返した。
「だから犯人じゃないかもって言ったじゃん」
「ちょっと、何の話?」
「よっちゃんのバイトの子、その人の知り合いなんだ」
「・・・そうと決まったわけじゃないけどね」
「ちょっと、ひとみちゃん」
とことん藤本の盛り上がりに水を注す吉澤を石川が小さく嗜めた。
黙って食事に戻った吉澤を見て、藤本は満足したように頷いた。
もう余計なことは言われない。
藤本は思う存分一人で盛り上がって立ち上がった。
「ごめん。ミキ先帰るわ。お金は・・・」
「あ、いいよ。若頭が払うって」
「マジ?・・・・ご馳走様ですって挨拶してくるわ」
それだけ言うと藤本はさっさと奥へ入っていった。
五分もせずに出てくると、吉澤と石川の座るテーブルに軽く手を振って店を出て行った。
- 64 名前:MIND 投稿日:2008/09/27(土) 14:14
-
「美貴ちゃん仕事かなぁ?」
「ん〜?知らない。じいちゃんあの辺のホテルと繋がってんの?」
子供の頃、何度か会ったことがあった。
何も知らなくても感じることができそうな威厳のある姿を吉澤は思い出した。
「どうだろ?私あんまり知らないから」
「ふ〜ん。可愛いね」
その返答に石川が動きを止めた。
「何言ってるの?話聞いてる?」
「うん。すごいよね」
吉澤は皿に残った最後の一切れを口に入れるところだった。
成立していない受け答えだけでも十分だが、その様子からもまったく聞いていないのが分かる。
石川は吉澤が喉に詰まらせたりしないよう配慮して、流し込むのを待って言った。
「ひとみちゃん」
「ん?」
「出てって」
「ここ家じゃないんですけど・・・・」
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/27(土) 14:14
-
- 66 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/28(日) 00:35
- これはおもしろい
- 67 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/28(日) 01:13
- すっごい気になります!
こんな感じの小説初めてです!
よっしーが特に気になる(*_*)
凄い面白いです。
引き込まれます。
- 68 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/30(火) 22:57
- >>66-67
レスありがとうございます
- 69 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 22:58
-
藤本が石川家に来ていた。石川とどこかで会ったらしく、
家主と一緒に帰ってきて吉澤の作った夕飯を食べ、
帰りは吉澤に送らせるつもりでのんびり酒を飲んでいる。
「よっちゃんさぁ、他にはバイトとかしないの?」
「・・・・ぐぅ・・・・ぐぅ・・・・」
「ひとみちゃん寝ててもイビキなんてかかないでしょ」
「ぐ。」
吉澤のイビキが一瞬止まった。
部屋中に沈黙が流れる。
「・・・ぐ、ぐぅ・・・」
一度始めたら最後まで。賞賛に値する意地で吉澤は再びイビキをかきはじめた。
呆れかえった二人の視線に、目を閉じた吉澤が気付くことはなかった。
「・・・ほんとバカ。梨華ちゃんさっさと別れたほうがいいよ」
「別れる必要ないよ。付き合ってないもん。居候。ペット」
「またぁ、そんなこと言ってよっちゃん大好きなくせに」
「えっ、そーなの?マジで?」
「寝てろ、バカ」
飛び起きた吉澤の頭を藤本が叩いた。
- 70 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 22:58
-
吉澤はそれでも諦めず、石川に問い続けた。
「梨華ちゃんあたしのこと好き?」
「嫌いだったらそもそも家に入れないわよ」
「あーはっはっ、確かにっ」
酒が入って上機嫌な藤本が笑い転げる。なにが面白いのか。
吉澤がつまみに出していた豆を一粒弾いてぶつけた。
報復はわしづかみにされた無数の豆だった。藤本のお返しは無限大が基本だ。
顔面に受けて吉澤は顔をしかめた。
「いってーな・・・美貴が言ったんだろぉ?」
「なに?ミキがなに言ったって?」
「梨華ちゃんはあたしのこと愛してるって言ったじゃん」
「そこまで言ってないし。ポジティブな耳してんじゃねーよ」
お互い豆を手に罵りあう。ぶつけ合う豆が床に散乱していく。
石川が机を叩いて二人を止めた。
「あーもう、ウルサイ!出てって!」
「・・・ただの口癖みたいになってね?」
「出てって」
石川に言われ、しゅんとして吉澤が黙り込んだ。
犬だったらシッポも耳も垂れてるんだろうな。愉快なバカだと藤本は思った。
- 71 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 22:59
-
「もぉ〜、誰の家だと思ってんの?こんなに散らかしてぇ」
「いや、あなたの家ですけど片付けるのはあた・・・」
「なぁに?」
「・・・・なんでもないです」
微笑みながら尋ねる石川に吉澤は何も言えなかった。
石川は満足げに頷いて、大きく伸びをして言った。
「あーお風呂入りたい。ひとみちゃん、お風呂は?」
「お湯張ってるよ」
「ありがと。じゃあ私お風呂入ってくるから。覗かないでね」
「覗いたらミキが現行犯逮捕するから大丈夫」
「美貴が言うと・・・・リアルすぎる」
石川は任せた、と言って着替えを持って風呂に向かった。
残された吉澤に藤本が思いつきの提案をした。
「そーだ。よっちゃん警察入りなよ。ミキがしごいてあげるから」
「・・・・ぜってーヤダ」
藤本は、不機嫌そうに言う吉澤の鼻を摘んで笑った。
「なぁに怒ってんの?覗きたかったわけ?」
「覗かねーよ。あ、美貴も覗くんじゃねーぞ」
「覗くかっ」
- 72 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 22:59
-
藤本はデコピンをするように吉澤の鼻を弾いてさらに笑った。
笑う酔っ払いに、鼻を擦りながら恨めしそうに吉澤が言った。
「・・・お前のせいで怒られた」
「んふふ。ばかみたい」
下らない苦情を笑い飛ばし、藤本はビールを飲み干した。
一緒に飲む友達は入浴中で、そのペットは運転手に使うつもりだから飲ませられない。
何か面白いものはないかと久しぶりに訪れた部屋を見回して、一箇所発見した。
「そこ、よっちゃんの部屋?」
「一応ね」
「見ちゃおっと。なんか面白いものないかな」
そう言ってさっさと立ち上がった藤本を吉澤がめんどくさそうに追いかける。
藤本はそれを楽しむように閉じられたドアを開き、部屋の電気をつけた。
「ちょ、やめろよ・・・」
「いいじゃん。うわ、なにこれ。ホテルみたい」
明かりの元でベッドメイクの直後のように整えられたシーツを見て藤本が言った。
追いついた吉澤が電気を消し、藤本を気だるそうに追い出そうとしていた。
藤本はリビングから入ってくる明かりの中できょろきょろと部屋を見渡す。
「あんま使ってないから。もう見んなよ、なんもないって」
「いやいや、なんかあるでしょ。梨華ちゃんの隠し撮り写真とか?」
「ねーよ。やめろって」
- 73 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 22:59
-
シンプルな机があった。その上にノートパソコンが置かれている。
簡素なラックには本やCDがキレイに並べられている。
神経質そうな配置の中で、小さな箱だけがごく最近動かされたような気配を纏っていた。
ふたを開けるとそこには少し汚れたドクロの彫られたオイルライターが置かれていた。
藤本が見覚えのあるそれを懐かしそうに手に取ったときだった。
「あー、コレあれだ。高校のとき梨華ちゃんが買った―――」
「美貴」
薄暗い部屋に響いた別人のような低い声に、藤本の背筋がぞくりとした。
手にしたライターが吉澤にひったくられる。
「出ろ」
吉澤がドアから藤本の肩を押し出した。加減などいっさい感じられない。
リビングに投げつけられるように倒された藤本が吉澤を見上げ噛み付いた。
「ちょっとなにす―――」
「うるさい」
ドンと音がするほど強く閉められたドアを藤本は呆然と見つめるだけだった。
そこにピンクのタオル地のスウェットに身を包んだ石川が風呂から上がり、
ちょうどリビングに入ってきた。
「あれ?ひとみちゃんどうしたの?」
「・・・・知らない。なんかブチ切れて閉じこもっちゃった」
- 74 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:00
-
何に切れているのか。藤本には見当もつかなかった。
そう、と藤本に一言だけ言って、石川は吉澤の部屋をノックした。
「ひとみちゃん?入るよ?」
ゆっくりと開けられたドアから石川が中に入っていく。
半身が入るところまでは石川の歩いていく後姿だった。
ぐらりと石川の背中が揺れ、またドアが激しく閉められる。
「きゃっ!」
「梨っ・・・・・」
驚いた石川の悲鳴に反応して、藤本も叫びかけたがやめた。
吉澤が引き込んだだけだろう。そこに自分の入る余地はない。
立ち上がってテーブルに着き、面白くなさそうにグラスを傾けた。
閉ざされたドアの奥で何が起こっているのか、藤本にはまったく分からなかった。
「・・・・・」
「・・・・・」
ぼそぼそと話す声が聞こえる。藤本は自分でもハッキリ分かるほど緊張していた。
気まずいようなことしてたらどうしよう。それは、そんな下らない緊張だと思っていた。
- 75 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:00
-
しばらくして出てきた石川の着衣に乱れは一切なかった。
藤本の心配は杞憂に過ぎなかった。そのはずなのに、まだ緊張しているのが分かった。
どうだった、と出てきて向かいに座る石川に問うた時、藤本の喉はひどく渇いていた。
「なんでもないよ?大丈夫だから気にしないで」
藤本には緊張の正体が分かった。今、藤本は吉澤に怯えていたのだ。
怖い。そんな風に感じたことが悔しくて、藤本は軽口で返した。
「あーあー、なるほどね。ゆっくりシてくれてよかったのに」
石川の手の中でビールの缶がぐしゃりと大きな音をたてた。
下ネタはお気に召さなかったようだ。石川は爽やかな笑顔で言った。
「出てって」
「あ、それミキも言われるんだ。ミキ別に住んでないからね。“帰って”でよくない?」
その時、ガチャッと背後から音がして藤本は身構えた。
少しだけ開いたドアの隙間から細い腕と白い犬のストラップのようなものが覗いている。
ふざけたような様子に一瞬ひるんだ藤本の緊張が解ける。
吉澤が元に戻るとビビった自分が損をしたような気がして腹が立ってきた。
白い犬がいつもどおりの吉澤の声で藤本に吠えた。
「美貴帰れよぉ」
「オマエちょっとそこに正座しろ」
- 76 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:00
-
***
- 77 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:01
-
三回目の仕事の日がやってきた。電車は疲れるから、藤本に送ってもらった。
昨日の続きのようにチクチクと責められ、吉澤は曖昧に笑っていた。
車を降りて藤本が見えなくなると、吉澤はポケットからケースを取り出し、
錠剤を飲み込んだ。時間ぎりぎりまで清水邸の前で腕時計を眺めていた。
六時ちょうどにチャイムを鳴らし、出迎えてくれたのは母親ではなく佐紀だった。
玄関を開けて、どうぞ、という佐紀に吉澤はいくつか言いたいことがあった。
吉澤が一つ目の疑問を口にした。
「私服可愛いね。今日は学校休み?」
「ありがとうございます。ちょっと朝体調悪かったんで休みました」
「そっか。大丈夫?お母さんは?勉強も休みにする?」
「いえ、もう大丈夫ですから。ママは講演会があってまだ帰ってきてません」
招き入れられた家の玄関に、当然ながら鍵が掛けられる。
それは防犯上のことだと分かっているのに、吉澤は全身が圧迫されたように感じた。
まるでこの家に飲み込まれてしまったような感覚。
早く出たい。そう思った。
「・・・先週言ってた本ですけど」
「あぁ、なんていう本だった?」
「私いろんな友達に借りるので誰から借りたかも思い出せなくて、
一応何人かに聞いてみたんですけど、分かりませんでした」
「へぇ、残念だな」
- 78 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:01
-
少し先を歩きながら佐紀が言った言葉に吉澤は興味なさげに答えた。
律儀なものだ。吉澤も初めからそんなものが出てくるとは思っていない。
それとも小賢しいのか。あくまでも嘘を貫く姿勢なら反吐が出る。
勘ぐるのをやめた吉澤は二つ目の疑問を口にした。
「ところでさ」
「はい?」
佐紀は振り向くこともなく、自室のドアを開けて机に向かって突き進む。
ドアをくぐって吉澤は立ち止まる。
「なんで泣いてるの?」
「多感期なんです」
「・・・・なるほど」
「あ、お茶入れてきますね」
涙をさっと拭い去り、吉澤の脇を抜け軽快に階段を駆け下りていく。
相変わらずだ。吉澤は初めて会ったときに、反抗期だと言っていたのを思い出した。
自分のことがよく分かっているのか、明確な壁に使っているのか。
吉澤は意識的に気にしないようにした。
関係ない、関わるな、と何度も自分に言い聞かせていた。
- 79 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:01
-
佐紀が戻ってくるまで吉澤は本棚の前に立っていた。
先週は目立つところに置いてあったカバーのかかった本がない。
ぐるりと見回してみると、机の上にそれはあった。
手に取った瞬間持ち主が入ってくるものと相場は決まっている。
だから吉澤は触れようともせず、深呼吸をした。
鼻で深く息を吸うと、嗅覚をくすぐる甘い花の香りがした。
「先生ホントに本好きなんですね」
しばらくして佐紀が戻ったとき、吉澤は今度映画化されるというメジャーな小説を手にとって、
読んだことがあったなと思い出しながらページを捲っていた。
「うん。面白いよね、これ」
「読んだことあるんですか?」
「あるよ。面白かった。キミは?」
「これからです」
そう、と小さく言って、吉澤は佐紀の机の隣に腰掛けた。
机の上にあったカバーの掛けられた本は、引き出しの中にしまわれるところだった。
先週教えた箇所のプリント課題があると言うのでそれをやらせて、
吉澤は背もたれにもたれ、ぼんやりと天井を見ていた。
- 80 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:01
-
「終わりましたよ」
佐紀にそう言われ、問題集を開いてページを指定した。
佐紀がそれを解いている間に、吉澤はプリントに目を通す。
ミスはない。プリントを端に置き、佐紀のノートを見た。
こちらも特に問題はない。公式を確認しながらではあるが、
理解はしている。あとは暗記するだけで、慣れるのが一番だ。
「そこは公式が使えるよ」
問題を解いているのを見たり、天井を見たり、少し離れた本棚を見つめたり、
時々回り道した解法を少しだけ近道させたり、吉澤の時間は過ぎていく。
「うん。大丈夫、ちゃんと出来てるね」
「出来なきゃ先生困るでしょ」
「いやぁ、出来ても仕事なくて困っちゃうけど」
本当は別に困りはしない。ボーっとすることには慣れている。吉澤は自嘲気味に笑った。
佐紀は一瞬目を伏せて、冷たい声で答えた。
「ママは私がここに篭って勉強してればそれで満足だから。先生は見張ってればお金貰えますよ」
「・・・・ママのこと嫌い?」
「別に。時々思うんですよね、もし私の弦が突然切れたらどんな顔するんだろうって」
- 81 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:02
-
吉澤は迷った。踏み込むべきか、見て見ぬふりをするべきか。
しばしの逡巡の後、吉澤は言った。
「このページ終わったらお話しようか」
警戒心を解くような笑みを浮かべて、吉澤はそう言っていた。
口をついて出た言葉に、吉澤は少し後悔した。
佐紀は、はい、と答えて残りの問題を解いていく。
出来がいいのが残念だ。どうにかごまかす方法を考える十分な時間が取れそうもない。
案の定、後悔してももう遅いと理解したころには、佐紀はノートを閉じてしまった。
苦し紛れに吉澤が言った。
「えっと・・・何の話しようか?」
「先生が話そうかって言ったんですよ」
どうもこの会話はスムーズに流れてくれそうにない。
吉澤が漕ぎ出さなければ進まないようだ。
「・・・余計なことだろうけど、お母さんに進路の話したほうがいいよ」
「まだいいですよ。二年生だし」
吉澤の理性が吉澤にその通りだと訴える。そもそも関わろうとするなとも言っている。
吉澤も関わりたくない。わざわざ中断させておいてこれで話は終わりでは情けない。
- 82 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:02
-
これ以上踏み込むのかと自問自答していたときに、思わぬ助けがあった。
「音楽聴いてもいいですか?」
「あぁ、うん」
佐紀は立ち上がるとプレーヤーをいじり始めた。
吉澤はホッとした。このままこの子の進路のことなど忘れてしまおうと思った。
とってつけた笑みを浮かべて、佐紀に尋ねた。
「なに聴くの?」
「モーツァルト作曲、レクイエム ニ短調K.626」
タイトルを聞いて、吉澤は目を細めた。
地の底から響くように音楽が流れ始める。
―――Kyrie eleison.
―――Christe eleison.
―――主よ 憐れみたまえ
―――キリストよ 憐れみたまえ
罪深き者を憐れみ、許せ。そんな歌が部屋に響く。
進路以上に聞きたくないことが、吉澤の頭に浮かんだ。
佐紀はこの曲を誰に贈るのか。神の御許へ罪深き誰を送るのか。
この部屋には花の香りが染み付いている。誰に手向けた花だろう。
イヤな想像だけが膨らんでいく。
- 83 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:02
-
戻って来て吉澤の横に座る佐紀に、吉澤はうつむいて、小さく問いかけた。
「・・・今日は誰かの命日?」
「いいえ」
「そう。花の匂いがしたから。百合かな?レクイエムだし、献花みたいだなと思って」
吉澤は顔を歪め、笑おうとして失敗したような奇妙な表情を浮かべて言った。
舌打ちでもしそうな表情を一瞬浮かべて、佐紀は答えた。
「先生って細かいんですね。友達の香水じゃないでしょうか」
また“友達”か。香水は好きだ。高校生が持っているような有名どころの香りは記憶している。
小説のように名前を尋ねたら、きっと佐紀はまた焦るのだろう。
ふわふわと形なく想像していたものが吉澤の頭の中で徐々に輪郭を帯びてくる。
「キミは―――」
「フフッ」
核心に触れようとしたその瞬間、佐紀が笑った。
それでもの吉澤には余裕があった。
“オ見通シナンダヨ”佐紀にそう言えるという自信があった。
「先生ってレクイエム好きですよね」
- 84 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:03
-
何故か断定するように佐紀は言って、小さく歌を口ずさんでいた。
嫌な予感に包まれながら、吉澤は佐紀に尋ねた。
「・・・・どうしてそう思うの?」
「だって聖女に勤めてたんでしょ?あそこカトリックじゃないですか」
吉澤は一瞬、確かに息が止まったのを自覚した。
佐紀が口にしたのは隣の学区にある名門と呼ばれる女子高の略称だった。
数年前まで石川が通っていて、4月から吉澤が勤めていた学校でもある。
そしてあまり思い出したくない場所だ。
断ればよかった。吉澤は今さらながらそう痛感していた。
逆転していく歯車が始まりの音をたてた気がした。
「友達に聞きました。今年の新任で、一学期だけで辞めたって」
「そう珍しい苗字でもないんだけどね」
「超が付くほど美人な生物の吉澤先生は、あなただけじゃないですか?」
「・・・超がつくほどの美人ならあたしじゃないような気がするけど」
なんでもないという風に軽口を返しながらも、吉澤の心はざわめく。
そんなこともあるだろう。子供には子供のネットワークがある。
偶然だ。偶然聞いただけに違いない。
- 85 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:03
-
冷静になるためにそう言い聞かせながら、嘘はつかないで曖昧に返した。
しかし佐紀には確認をとるつもりなどなかった。
話は次の段階に進んでいく。歯車は着実にかみ合っていく。
「習い事多いからいろんな学校に知ってる子いるんですよ」
「へぇ・・・貴重な出会いだね」
探るように当たり障りのない答えを繰り返す吉澤を佐紀は面白そうに見ていた。
好奇心と猜疑心と自信に、少しの哀しみが入り混じったような視線で、
吉澤を捕らえる。
「先生は七不思議聞いたことありますか?」
「・・・夜鳴るピアノとか、トイレのなんとかさんとか?」
「そうです。聖女の怪談ですよ。先生は知ってますか?」
「ん〜・・・知らないかな」
「変わってるんですよ。ピアノとかじゃないんです」
「聞いたことないな」
石川の在学中にも聞いたことはないし、勤めていた頃は生徒の噂なんて聞く機会は少なかった。
そこから話を逸らすにしても、怪談話は時期外れでやりにくいと吉澤は思った。
それでも吉澤は話題を変えるべきだった。先に佐紀の核心を一突きにしてしまうべきだった。
- 86 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:03
-
「雨の夜は外を見てはいけない」
その一言だけで、吉澤の心臓が跳ね上がった。
レクイエムがBGMに変わる。
信頼していた吉澤の優位が崩れていく。
“アナタノコトモ、知ッテルンデスヨ”
佐紀の微笑が雄弁に語る。
目眩がする。心臓が暴れる。
「どうしてだか分かりますか?」
「さぁ・・・・見当もつかないな」
「教えてあげますよ」
佐紀は目を細めて笑う。
「天使が堕ちてくるから」
無邪気で幼さの残るような目から伸びる視線、
その先に見据えているモノ。絡めとられるそれは、吉澤の傷だ。
「・・・・そう」
精一杯、感情を押し殺して、
汗が蒸気となって噴き出しそうな全身を押さえて、
吉澤は答えた。
- 87 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:04
-
「課題は終わったよね。もうすぐ時間だし・・・あたしそろそろ帰ってもいいかな?」
「えぇ、もちろん。ありがとうございました」
佐紀は流れる音に身を任せるように穏やかに目を閉じ、吉澤に背を向けた。
吉澤は佐紀の部屋を出ると、帰ってきていた母親に声を掛けた。
「まことに申し訳ないんですが、今日で最後ということにしていただけますか?」
「え?あの、それはウチの娘に何か?」
「いえ、見たところ問題なく理解しているようですので、お役に立てそうもありません」
「そんな、先生?ちょっと・・・・」
なお食い下がってくる母親に「すみません、すみません」と繰り返し、
吉澤は逃げるように清水邸を後にした。
開かれた窓からはなおもレクイエムが聞こえる。
耳にへばりつくような旋律。美しく、恐ろしく、妖しく、哀しげで、
まるで頭の中を掻き毟られるように響いてくる。
雨の夜。雨の夜。見てはいけない。見てはいけない。
ぐるぐると頭の中で言葉が繰り返される。
歩いても、歩いても、夢の中を歩いているようで現実感がない。
歩いて、歩いて、いくら離れても耳の奥でレクイエムが鳴る。
目に付いた公園に駆け込み、トイレで胃液を吐いた。
震える手で錠剤を口に放り込み、こみ上げる吐き気に逆らって飲み込んだ。
- 88 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:04
-
***
- 89 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:04
-
時間通りにカフェの前で待っていた藤本の下へ、30分ほど遅れて吉澤がやってきた。
「遅かったじゃん。またバス停にいたの?」
「いや・・・そこは美貴に見つかるから公園に行ってた」
「意味分かんないんだけど」
何も答えず曖昧に笑って、吉澤は藤本の車に乗り込んだ。
そうしてすぐに、もう辞めたからと藤本に告げた。
「誰が辞めていいって言ったわけ?」
「辞めるな、とも言われてないよ・・・・」
「まぁ、ね。今日は?家帰るの?」
「いや。梨華ちゃんと待ち合わせ・・・駅送って」
「はいはい」
発進しようと、藤本がシフトレバーに伸ばした手首を吉澤が掴んだ。
「美貴、あたしに言ってないことあるんじゃない?」
「・・・いっぱいありすぎて分かんない。何のこと?」
吉澤はからかうように言う藤本の腕をひねり上げ、睨みつけて言った。
- 90 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:04
-
「聞け。あたしは関わりたくないんだ」
「なら何でそんなこと聞くの?」
「何から目を逸らせばいいのか知るため、だ」
ギリギリと吉澤の手に力が込められる。
「よっちゃん!痛いって!」
吉澤は手元を見て、込めすぎた力を抜いた。
「・・・ごめん」
小さく呟いて吉澤が手を離した。眉を顰め、外を見ながら煙草を咥えた。
赤くなった手首をさすりながら藤本は話し始めた。
「・・・・行方不明になってる子がいる。佐紀ちゃんと同じ学校の・・・名前は言えない」
「分かってる。構わないよ」
藤本は手帳を取り出して確認した後、車を発進させた。
走りながらぽつぽつと藤本が話す。
「事件当日の夕方からいなくなって、警察では・・・・ただの家出扱い」
「だから黙ってたわけ?」
「関係あるのか分からないから・・・よっちゃんからそれも聞いてもらいたかった」
- 91 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:05
-
「それもお偉いさんのせいで聞けなかった?ほかの生徒に聞けばいいのに」
「聞いたよ・・・・清水佐紀と親しかった印象があるって何人も言ってる。
何か知ってるとしたら清水さんだろうって。その・・・・いじめられてたみたいだし」
「いじめ?」
「うん・・・、いじめてた子はまだ誰か分かってないけど」
「ふぅん」
窓から灰を落とそうとする吉澤に、藤本が灰皿を差し出した。
抜き出された何も入っていないそれに、吉澤の灰が雪のように降った。
「それから?まだあるでしょ?」
「悪いけど、なんのことか分からない」
「・・・・あっそ」
佐紀と話していたときに吉澤の中で芽生えた疑問の答えは、すでに大方の形を成していた。
「ミキ答えたんだからよっちゃんも答えてよ。直感でいい。あの子がやったと思う?」
「美貴、あたしは役に立てない」
しかし藤本には話さない。佐紀によって呼び起こされた記憶が関わることを拒絶する。
関わらなければならない理由はない。警察が勝手にすればいい。
藤本は苛立ちのままに車の速度と声を上げた。
「なんでよ!あの子と話したんでしょ?教えてよ、どんな子?」
「分かんない。そんでもう辞めたんだ」
- 92 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:05
-
「だから、今までの印象でいいから―――」
「お前に頼まれたのもやめたんだよ。あたしは関わりたくない。美貴は犬みたいに嗅ぎまわってなよ。
探しなよ。でも見つけないで。見つけても教えないで。聞きたくない」
言葉通り、吉澤は目を閉じ、耳を塞ぐ。
そんな姿を横目で見て、藤本が寂しそうに呟いた。
「・・・・よっちゃん、変わったね」
耳を塞いでも声は聞こえる。吉澤は舌打ちをして不機嫌そうに二本目の煙草に火をつけた。
十字架の彫りこまれたライターを右手で痛いほど握り締め、大きく煙を吐き出した。
鬼のような形相で右腕を左手で色が変わるほど押さえている。
吉澤を見て藤本が引きつった声を上げた。
「なんなの!よっちゃんどうしちゃったの?ねぇ、何があったの?」
「なんもねーよ・・・美貴が気付いてなかっただけだよ。あたしは冷たいんだ。
どこの誰が殺されようと関係ないね」
言い終わると、吉澤は藤本に背を向けて窓の外を見た。
言葉も、声も、表情も、全てが藤本の知る吉澤と違っていた。
吉澤は咥えた煙草から深く煙を吸い込んで、また吐き出す。
煙草が根元に近くなった頃、吉澤が冷たく言った。
「自殺かもしれないんでしょ?それでいいじゃん。誰が困るの?」
「それでも犯人がいるなら・・・・突き止めて罰を受けさせるのがミキの仕事なの」
- 93 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:06
-
「それはあたしの仕事じゃない。
暴かなくていい真実もある。それにもう・・・・子供を追い詰めたくない」
「それはつまり、子供が関係してるっていう暗示だよね?」
藤本が、吉澤の心臓を跳ねさせた。
自爆したようなものだと思いながら、吉澤は唇を噛み締めた。
まだ動揺が残っている。落ち着け、落ち着けと心の中で繰り返す。
「・・・・ノーコメント」
「なにそれ、何か知ってるんでしょ?」
「知らない」
「よっちゃん、大事なことなんだよ。分かってるなら隠さないでよ・・・」
しつこい。黙れ。これ以上。話したくないんだ。
何故分かってくれない?美貴。美貴なら。美貴じゃない。お前なんか美貴じゃない。
―――雨の夜 見てはいけない ―――雨の夜 見てはいけない
天使が、悪魔が。お前は誰だ?悪魔だ。美貴じゃない。消えろ。消えたい。
息が詰まる。苦しい。心臓が破裂しそうだ。
「止めてくれ」
浅い呼吸を繰り返しながら、低い声を吉澤が発した。
震えだす体を腕の力だけで押さえつける。
汗が吹き出た。藤本の姿をした悪魔に見られないように顔を背けた。
「・・・下ろしてくれ。一人で行ける」
- 94 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:06
-
***
- 95 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:06
-
「あ、ひとみちゃん!」
少し遅れて待ち合わせの場所にやってきた石川は先に来ていた吉澤に軽く手を振った。
しゃがみこんで伏せていた顔が弾かれたように跳ねる。
飼い主を見つけた犬のように、見つけられるのを待っていた迷子のように、
その顔にははっきりと安堵が浮かんでいた。石川が駆け寄り、笑顔を送る。
「ごめんね、ちょっと長引いちゃって」
「・・・・梨華ちゃん、ごめん、今日はもう無理だ」
「えぇ?」
よろよろと立ち上がり、頭を押さえている。今日はもう、神経をすり減らしすぎた。
これ以上人ごみにいることは吉澤にはできなかった。
「もう!なんで美貴ちゃんに送ってもらわなかったの?」
「美貴は・・・もっと無理。あんなの、美貴じゃない。息できない・・・」
今にも泣き出しそうな声でそう言って、吉澤が俯いた。
ふざけているわけではないと察して、石川がトーンを落とした。
「ひとみちゃん、帰りたい?」
「・・・うん」
「そっか」
吉澤の頭をポンポン、と撫で、石川はタクシーを止めた。
- 96 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:07
-
家に帰ると、久しぶりに呼吸したような心持で吉澤は深呼吸をした。
上着をソファに脱ぎ捨てて、ふらふらと寝室に入っていった。
中では石川が着替えているところだった。
吉澤はベッドに入り、石川の小さな背中に語りかけた。
「梨華ちゃんなんか喋って」
「なんかって言われても・・・ひとみちゃんこそ喋ってよ」
「・・・・ヤダ。なんでもいいから。愚痴とか、あるでしょ」
「え〜?そうねぇ・・・・」
部屋着に着替えて、ベッドに腰掛けてなにかあっただろうかと石川は考え始めた。
どうでもいいようなことを思いついて、あ、と声を上げて振り返ると、
石川の枕に顔をうずめて、吉澤は眠っていた。
動かなくなった吉澤の髪をそっと撫でながら石川が呟いた。
「お腹空いたぁ・・・」
反応のない後ろ頭をつんつんと突く。
「ねぇ。ホント、どうしちゃったの?ひとみちゃん・・・・」
石川も、泣きそうな顔をしていた。
- 97 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:07
-
一人で食事をするのは随分と久しぶりのことだった。
暑い夏の盛りに吉澤が住み始めて、そろそろ肌寒くなってきた。
カップラーメンを作って、テレビをつけて、静かな夜を紛らわせる。
石川とは趣味の違う、吉澤の脱ぎ捨てた上着がこの家に石川が一人でないことを主張していた。
吉澤の上着のポケットから滑り落ちた携帯が光っていた。
無造作に拾い上げ、画面を見ると藤本からだった。
「はぁい。よっちゃんで〜す」
『はっ!?』
ふざけてそんなことを言いながら出たら、藤本は素っ頓狂な声を上げた。
そうそう聞けるものではない。貴重な経験だと思って、石川は笑った。
『あ、梨華ちゃんか。えっと、よっちゃんは?』
「寝ちゃった」
『え、小学生並みに早くない?』
「美貴ちゃん知らないの?最近は小学生でもまだ起きてるのよ」
時刻はまだ十時にもなっていない。
テレビで流れるドラマは、いつの間にか内容ついていけなくなっている。
見ていたようで、見ていなかったのか。いつもなら吉澤も見ているのに。
- 98 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:08
-
テレビを消して藤本からの電話に耳を傾けた。
「そういえば、ひとみちゃんお薬飲んでた?」
『薬?』
「うん。飲んでなかった?」
『えぇ〜?どうだったかなぁ・・・分かんない。なんか来るの遅くて急いで車乗せたし』
「・・・そう」
来るのが遅かったのなら、薬はどこかで飲んでいる。
効いてくるまで会わないようにしていたのだろう。
それでもダメだった。先週は電車に乗って、それからでも平気そうだったのに。
『薬ねぇ・・・よっちゃんに悪かったって言っといて』
「何かあったの?」
『いや、よく分かんないけど、なんか様子おかしかったし』
石川は寝室のドアをちらりと見遣った。
『バイトもさ、辞めたみたいだけど、責めないでね。ミキが悪いのかもだし』
「え、もう辞めたの?なんで美貴ちゃんが悪いの?」
吉澤が藤本のせいでバイトを辞めるなどという状況が想像できなかった。
- 99 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:09
-
『いや、なんか・・・・最初に、梨華ちゃんダシに使ったし、ずるかったなぁって思って』
「私?」
『よっちゃんは最初から嫌がってたんだよ。薬飲んでるなんてミキ知らなかったからさ、
・・・・バイトしたら、梨華ちゃん喜ぶよって言ったの』
「それ、で・・・」
いつもへらへらしているくせに。石川は少しだけ嬉しくなって、
同時に少しだけ腹が立った。
結局無理をして崩れそうになった吉澤を見たら、
石川が心を痛めることは想像できなかったのか。
「・・・いいの。私も働けってよく言ってるし、バイト始めて嬉しかったし」
『でも、ミキが言うべきじゃなかったなって思って』
家にいるとあまりに元気そうだから、石川も忘れてしまう。
石川といるとあまりに平気そうだから、誰も気付かない。
家にいるから元気なのに、石川がいるから平気なのに。
誰も知らないところで、吉澤の心は静かにひび割れていく。
「・・・・美貴ちゃんが居れば大丈夫かと思ってたんだけど。
ごめんね、昨日もそうだったのに、気付かなかった。一言断ればよかったね」
昔から藤本と石川は吉澤と一緒だった。
藤本となら吉澤も平気でいられると思っていた。
- 100 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:09
-
何があったのか石川は知らないが、昨夜も藤本といるときに様子が変わっていた。
すぐに治まったから大したことではないと踏んでいた自分を反省していた。
その時点で伝えていれば、藤本も気を使ってくれただろう。
そうしていれば、吉澤を傷つけずに済んだかもしれない。
ガチャっと音がして、寝室のドアから吉澤が出てきた。
キッチンへ行き冷蔵庫からビールを出して飲んでいる吉澤に、
努めて普段どおりの声を掛けた。
「ちょっとぉ、寝てなかったの?」
「ん?寝てたよ。起きた。梨華ちゃん寝ないの?」
「まだ早いよ。あ、電話。美貴ちゃんから」
「へぇ。バカって言っといて」
代わろうと差し出した電話を受け取らず、吉澤は換気扇を回して煙草に火をつけた。
石川はまた吉澤の携帯を耳にあて、藤本と話し始める。
「もしもし美貴ちゃん?」
『・・・聞こえた。死ねって言っといて』
「自分で言ってよぉ。ひとみちゃ〜ん?美貴ちゃんが死ね、だって」
吉澤はベッと舌を出した。
伝えようがなく、石川は苦笑した。
- 101 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:10
-
電話の向こうの藤本がかすかに笑った。
『よっちゃん、大丈夫そうだね』
「うん。いつもどおり」
『そっか。じゃ、ごゆっくり。また電話するわ』
「はぁい」
電話を切って、半分ほど食べて伸びてしまったラーメンを捨てにキッチンに向かった。
換気扇に煙を吹きかけている吉澤が石川に声を掛けた。
「美貴、何の用だった?」
「心配してくれてたんじゃない?」
「そう。出たほうがよかったかな」
前髪をいじりながらそれほど後悔している風でもなく吉澤が言った。
本当にいつもどおりだと思いながら石川が問いかけた。
「バイト。辞めたんだって?」
「・・・・高校生ってやっぱ嫌いだから」
「そう。じゃあ次、なんか探しなよ?」
「うん」
軽く答えて、吉澤は煙草の火をもみ消してビールを飲んだ。
- 102 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:10
-
「よし。シャワー浴びてくる。一緒に入る?」
「スケベ」
「冗談だよ」
吉澤が笑って風呂場に向かい、出てきてから入れ替わりに石川も風呂に入った。
風呂から出るとリビングに吉澤の姿はない。寝室を見ると吉澤は石川の枕に顔を埋めていた。
入ってきた石川に気付き、にやにやしながら言う。
「梨華ちゃんの匂いがする」
「変態。」
「あれ?今日は出てってって言わないの?」
「余計なこと言うなら・・・」
「言うなら?」
「出てって」
石川はにこやかに言って、吉澤の隣に入り込んだ。石川が眠るまで、
吉澤はずっと起きていた。寝顔を見てから、吉澤は安心したように目を閉じた。
その夜、吉澤は夢を見た。何故か空に浮かんだ淡く光る石川が、
真っ暗な底なし沼にいる吉澤を照らし、守り、救い上げてくれる夢だった。
下を見たくない。下は夜色、雨色。見てはいけない。
轟々と風と雨がうねる音がする。窓を叩きつける大粒の雨の音が吉澤を呼ぶ。
雨の夜は外を見てはいけない。あめのよるは、そとをみてはいけない。
吉澤は石川から発せられる優しい光を見上げる。
- 103 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:10
-
ねぇ梨華ちゃん
キミはあたしの精神安定剤
どんな薬よりキミにとなりにいて欲しい
この手を握って 好きだから
離さないでね 好きだから
あたしに背中を向けないで
きっとあたしは狂ってしまう
ねぇ梨華ちゃん
聞こえてますか?
ねぇ梨華ちゃん
こんなあたしは壊れてますか?
- 104 名前:MIND 投稿日:2008/09/30(火) 23:10
-
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/30(火) 23:11
-
- 106 名前:名無し飼育 投稿日:2008/10/01(水) 01:17
- んあ〜!この小説好きだあああ!!
更新お疲れ様です
- 107 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/01(水) 20:27
- 更新お疲れ様です。
非常に引き込まれました。続きや真相が気になります。
- 108 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/04(土) 19:20
- >>106-107
ありがとうございます
- 109 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:20
-
石川が帰ってくるにはまだ早い時間、藤本から電話がかかってきた。
吉澤が出るなり、藤本は平坦な口調で話し始めた。
『婦女暴行、強盗、詐欺』
「なにそれ?」
『・・・・被害者にかかってる容疑。道警から連絡があった』
「あっそ」
情報の行き違いだの出し惜しみだののごたごたで、
かなりの時間がかかったが、捜査は着実に進んでいるらしい。
ただ、それを吉澤に伝える意味が分からない。
関わるつもりはないから教えてくれなくていいと伝えたはずだ。
大体そんな情報話して藤本は大丈夫なのだろうか、吉澤は首を傾げた。
『ちょっと聞きたいことあるんだけど、ちょっと出て来れない?』
「無理。超忙しい」
『よっちゃん今なにしてんの?』
「大根を茹でてる」
吉澤は夕食を作っているところだった。
- 110 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:20
-
「米の研ぎ汁で茹でるとアクが抜けるから。あと角も面取りして」
『主婦化してんじゃねーよ』
「なんだよぉ。晩飯作ってる平和な一市民じゃねーか。
なんであたしがそんな物騒な単語聞かされなきゃならないんだ」
電話の向こうで藤本が何かを考えるように黙り込んだ。
気にも留めず吉澤は作業に戻る。
下茹でが済んだらこんにゃくも湯通しして、その前に水洗いだ。
携帯を肩で挟んだまま吉澤は冷蔵庫から卵を取り出した。
『じゃあ、仕事帰りに行っていい?』
「あー、残念。あたしの一存じゃ決められないから。ここ梨華ちゃん家だし。諦めて」
吉澤は適当に答えて電話を切ろうとした。
藤本は不敵な笑いを漏らした。
『フッ・・・言ったね?』
「あ?」
『いや、なんでもない。分かった、んじゃね』
引っ掛かりを感じなかったわけではないが、
吉澤は忙しかった。携帯をテーブルに投げ、鍋の蓋を開けた。
- 111 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:21
-
***
- 112 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:21
-
「よっちゃん。おかわり」
「・・・・」
「返事は?」
「・・・・はい」
「よぉーし。ほぉら、持ってこーい」
「うっせぇバーカ」
吉澤に決めることが出来ないならと石川に許可を取った藤本が訪ねてきた。
当然のように石川家で食卓を囲んでいる。
「ちょっと美貴ちゃん」
そしてこれも当然のように吉澤をこき使う藤本に石川が言った。
「お醤油取って」
「はいよ」
吉澤が動き回っていることについて言うことは特にない。
藤本は手元にあった醤油を持ち、テーブルの上で石川に手渡す。
「はい」
「あっ!」
藤本の手が滑り、石川の袖に醤油がかかった。
- 113 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:21
-
「あぁっ!ごめんっ!」
「あーあー、早く脱いで。染みが・・・」
バタバタと戻ってきた吉澤が石川の服に手を掛けて思いっきり殴られた。
理不尽な痛みに納得がいかない吉澤が頬を擦りながら言った。
「なぁにすんだよぉ・・・」
「あ。ごめん、ひとみちゃん。つい」
「“つい”って。“つい”って勢いじゃなかったじゃん」
「なによぉ、だからごめんって言ったじゃない」
「んなこと言ってる場合じゃないって。ちょ、ごめんね、弁償するから!」
「いいよ。部屋着だし」
「あたしが染み抜きするし」
落ち着き始めた二人とは対照的に、藤本が慌てる。
「いやいや、早く着替えて!そうだ。梨華ちゃんついでにお風呂入っちゃえば?」
言いながら藤本は石川をバスルームに押し込んだ。
着替えとタオルを持って吉澤がそれに付いていく。
ドアの隙間から渡された石川の服を手に吉澤はリビングに戻った。
ぶつぶつと染み抜きの段取りを口にする。
「えーっと、水につけて・・・チャーミーつけて・・・」
- 114 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:21
-
キッチンで洗面器に吉澤が水を入れていた。
袖をつけて軽く揉むと、洗剤が必要ないほどあっさりと汚れは落ちた。
「チャーミーって?」
「台所洗剤。醤油にはいいよぉ。美貴も覚えとけば?」
「お前はどこまで主婦だ」
「あたし極めちゃうタイプなんだよね。うん、あとは普通に洗濯すればよさそうだ・・・さて」
吉澤は換気扇を回すと振り返り、煙草に火をつけた。
にやにやしながら藤本を見ている。
「美貴?座れば?」
「うん。ごめんね、手間掛けさせて」
吉澤は改めて石川の服を見て、小さく笑った。
「わざとじゃなかったら気にすんなって言うんだけどね」
「そっか。わざとだから、ごめんってもう一回言っとくわ」
「・・・あたしは事件なんかに興味ないからな」
けん制するように吉澤は言って、ポケットから錠剤のケースを取り出した。
数粒を口に放り込んで、噛み砕くと藤本にイーッと子供のように歯を見せる。
藤本が呆れたようなため息をついた。
- 115 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:22
-
「今、道警からの情報を元に怨恨と暴力団関係の捜査をするって方針が固まりかけてる」
「へぇ。頑張れ」
軽く言う吉澤を藤本が睨みつける。
当の吉澤は意にも介さず吐き出した煙を目で追っていた。
「・・・・清水佐紀のことはもうほとんど誰も気にしてない。
お偉いさんのお嬢様より、よっぽど簡単な犯人像が作れそうだから」
「おめでとぉ」
あくまで関わるつもりはないらしい。
そんな吉澤の態度に、藤本が苛立ちを隠すこともなく凄んだ。
「何隠してるのか言えよ」
「何にも隠してないよ。隠す理由もなくない?」
「子供がどうとか言ってたじゃん!」
「知らねーって」
吉澤が面倒くさそうに呟いた。
「大体隠す理由がないでしょ?もっとも、隠す理由があれば問い詰められても言わないけど」
「要するに、ミキのしてることは無駄だって言いたいわけ?」
「大正解」
吉澤が両手の人差し指で藤本を指しながら言った。藤本が眉をしかめる。
機嫌の悪そうな藤本を見て吉澤が笑った。
- 116 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:22
-
「ってか犯人捜すのは警察のお仕事でしょ?なんであたしに聞くかなぁ?自分で捜してよ」
「よっちゃんが意味深なこと言うからでしょ」
「あぁ。じゃあ忘れてくれ」
「・・・なに隠してんの?」
真っ直ぐに吉澤を見つめ、藤本は再び問うた。
言われて吉澤は肩をすくめる。
「関わりたくないんだって。あんまりしつこいとあたしまた閉じこもるよ?」
口の端をにやりと持ち上げて、吉澤がからかうように言う。
話が止まり、誰も見ていないテレビの音だけが部屋に響いていた。
「・・・・分かった。今日はもういいわ」
藤本がバッグと上着を持って立ち上がると部屋を出て行った。
吉澤は一歩も動かずその様子をただ眺めていた。
玄関に向かう通路の途中、バスルームのドアを開けて藤本が声を掛けた。
「梨華ちゃーん。ミキ帰るわ・・・っと、相変わらずいい体してんねー。羨ましいわ」
「ちょ、何見てるの!?急に開けないでよ!」
石川がタオルで隠しながら藤本に叫んだ。
声を聞きつけてリビングから吉澤が怒鳴りつける。
「美貴ぃ!てめっ、こないだ覗くなって言っただろーがっ!」
- 117 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:22
-
***
- 118 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:23
-
次の日、吉澤と石川は映画を見に行った。
藤本が帰った後、石川がテレビのCMを見て今日の予定が決まった。
それなりに楽しんで、食事でもして帰ろうとしていた夕方、
石川がペットショップの子犬に興味を持った。座り込んで一時間も見入っている。
「梨華ちゃん、もう行こうよ」
「このコ可愛い。買って帰ろっかな」
「いや、犬飼うなら友達に貰ってくるよ」
「やだぁ、このコがいい」
微笑む石川を説得するいい方法が思いつかない。
どうしたものかと思いながら吉澤は立ち尽くしていた。
そんなとき、後ろから聞き覚えのある声が吉澤にかけられた。
「こんにちは、先生」
顔をあげて視線を前に向けるとショーウィンドウにぼんやりと写っているのは制服の集団だった。
吉澤が振り返るとその中に佐紀がいた。
「あぁ、どうも。お買い物?」
「えぇ。ごめん、みんな先行っててくれる?適当に買ってきて」
佐紀が後ろにいた数人に声を掛けると、みな横のファストフード店に入っていき、
吉澤はため息をついた。わざわざ人払いをしたということは挨拶だけでは済まないようだ。
- 119 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:23
-
しゃがみこんでウィンドウ越しに子犬を見つめていた石川が立ち上がり、
佐紀に軽く会釈をして、吉澤にどこかで待っていようかと耳打ちしたが、
吉澤は行かないでと言わんばかりに石川の腕を掴んで残らせた。
意を決したように息を吸い込んで佐紀に話しかける。
「楽しそうだね。友達?」
「あはは、まさかぁ」
おかしくてたまらないという風に腹を押さえて佐紀は笑う。
「あんなのと友達じゃありませんよぉ」
笑いが収まったころ、涙を拭うようなしぐさで言った佐紀に吉澤はそれほど驚かなかった。
タイプが違いすぎる。佐紀のほうは優等生だ。対して後ろにいたのは、
あんなのと称された女子高生らしい女子高生。だからこそ吉澤は友達かと尋ねた。
「今日ママとパパがお出かけなんです。それでこれから家に」
友達なんかじゃない。これから家に。誰もいない家に。
吉澤は目を細めて静かに言った。
「・・・・馬鹿な選択をしたね」
「そうですか?上手くやりますけどね」
「バイオリン、弾けなくなるよ。音大は?」
- 120 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:24
-
首を傾げて、吉澤が心配するような声色で言った。
佐紀は嬉しそうに微笑んで答えた。
「弾きますよ。世界中どこにいても、弾いてみせます」
恐れなど知らないような不敵で優美な佐紀の姿に、
何も知らない石川にすらも寒気が走る。
ぎゅっと握られた手を、吉澤は優しく握り返した。
「プロにはなれないよ?」
「目指してないって言ったじゃないですか」
「でも、コンクール入賞したんでしょ?才能あるんだって」
「モーツァルトの才能を一番認めていたのは誰だか分かりますか?」
吉澤が一瞬考え込むと、石川がおずおずと答えた。
「・・・・アントニオ・サリエリ」
驚いたように目を丸くして佐紀と吉澤が同時に石川を見た。
注目に戸惑う石川に吉澤が軽い口調で尋ねた。
「お?さすがさりげにお嬢様。梨華ちゃんクラシック詳しいの?」
「別に。あ、ごめんね、お邪魔して・・・・」
「いえ、いいんです。先生は知らないんですね」
- 121 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:24
-
佐紀は石川に笑いかけた後、吉澤を窺うように見た。
その顔には、全体を見れば笑っているようで目の奥は笑っていない、
不愉快な笑みが貼り付けられている。吉澤が顔をしかめた。
「勉強不足で申し訳ないね。音楽も歴史も嫌いじゃないんだけど、どうも人の名前に興味なくて」
「そうですか・・・」
「そーですよ」
佐紀は目を伏せて何かを考えるようにしていた。
吉澤は10秒数えて待ったが、それ以上の沈黙には付き合わないことにした。
「じゃ、元気でね。梨華ちゃん、行こう」
「もういいの?」
「うん。いいの」
石川の手を取って、吉澤は踵を返した。
行き先が決まっていたわけではないが、佐紀とは逆方向に進もうと思った。
「先生!」
佐紀が吉澤を呼び止める。
吉澤は振り返らず、ただその歩みを止めた。
「私、あなたのこと大っ嫌いです」
- 122 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:24
-
「・・・・そりゃどうも」
面倒くさそうに佐紀を振り返り、吉澤は礼を言うとまた歩き始めた。
諦観しているような、達観しているような、ただ眠いだけのような顔をして、
吉澤はあくびをひとつした。
妙な空気から解放されたのを感じて、石川も息をついた。
改めて思い出してみると、あの空気の正体がまったく分からない。
気のせいだったと納得して、吉澤に面白そうに言った。
「ひとみちゃんが“先生”だって」
「カテキョーのね」
「サリエリって、悩んだらしいよ」
「モーツァルトって見てる分にはただの変人だもんね。悔しかっただろうな」
「そんなことだけは知ってるんだ?」
「奇行には興味があるから」
「・・・・変人はあなたよ」
ぼんやりと話す吉澤の横顔を見て、石川の中に言いたいことが浮かんできた。
言葉にして、形を与えたい気持ちを、吉澤に知ってもらいたくなった。
「・・・私が中学でテニスやめたの、なんでか知ってる?」
「高校にはあたしというパシリがいなかったから?」
- 123 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:25
-
ふざけているように答えて、吉澤は前を見ていた。
石川は小さくため息をついた。
「違うわよ。スポーツ推薦で入ってきた子がいたの。音楽は気づくのにも才能がいるけど、
スポーツは凡人でも見れば分かるのよね」
珍しく石川はしんみりとしていた。
「私は趣味で十分。大会なんて目指すのイヤになっちゃった」
「あたし的に梨華ちゃんはチャンピオンだから大丈夫」
「何のよ?意味わかんない・・・」
石川は黙り込んだあと、ポツリと言った。
「・・・あの子の選択ってなに?」
吉澤は唇を噛み締め、石川の手を強く握り、
思いつめたように真剣な顔をして言った。
「ごめん、梨華ちゃん。あたしちょっと行ってくる」
「高校生は嫌いなんじゃなかったの?」
「うん。でもあたしナルシストだから自分が嫌われてんのはヤなんだ」
「自分でなに言ってんだか・・・・。私行かなくても平気?」
「・・・・うん。来て欲しくない。家で待ってて」
ケースから取り出した錠剤を飲み込むと、石川の手を放して歩き出した。
- 124 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:25
-
ペットショップの隣にあったファストフード店を覗くがそこに佐紀の姿もその連れの姿もない。
吉澤は携帯を取り出し、藤本に電話を掛けながらタクシーを探した。
「もしもし美貴?今すぐ佐紀ちゃん家に来て欲しいんだけど」
『は?なんで?』
「来れば分かるよ。あたしも今から行くから。じゃね」
『あっ、ちょ、待・・・・』
まだ喋っていたが、構わず切った。
タクシーは見当たらない。小さく舌打ちをして、吉澤は駅に向かった。
駅にも佐紀の姿はない。
先回りできているとは思えない。
一本か、二本か、電車何本分出遅れているのか。
気ばかりが焦る。
「くそっ!」
ゴミ箱を蹴りつけて発散させる。
冷静にならなければ。焦りなど邪魔でしかない。
深呼吸をして、電車を待った。
- 125 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:25
-
***
- 126 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:25
-
佐紀の家の最寄り駅で降りて、吉澤は走り出した。
そう遠くない距離を駆け抜け、清水邸の前に止まる黒いセダンに気がついた。
「美貴!」
「あ。やっと来たか・・・」
吉澤の声と姿を確認して、藤本が車を降りた。
何の用かと訊きかけたその瞬間、清水邸からの音が時間切れを告げた。
―――パァーン
藤本が辺りを見渡す。吉澤は清水邸を見上げる。
「なに!?銃声っ!?」
「あぁもう・・・なんで入らなかったんだよっ!!」
「はぁ!?そんなこと言ってなかったでしょ!?」
頭を掻き毟り吉澤が駆け出す。藤本もそれに続くように走り出した。
チャイムを鳴らし、ドンドンとドアを叩きつけ、額には汗を滲ませて、
必死の形相で中に呼びかける。
「あ、先生。こんにちは」
ドアは至極あっさりと開かれた。家人はにこやかに吉澤を迎えてくれた。
あまりに自然なその姿に、吉澤の勢いが殺がれた。
- 127 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:26
-
佐紀は吉澤の後ろに立つ藤本に目を留めた。
「あれ?あなた知ってる。刑事さんでしょ?お久しぶりです。取調べ、新鮮でした」
花が咲いたように微笑み、藤本の秩序がわずかに乱された。
拭いきれない違和感と、当然過ぎる佐紀の姿に、藤本は何も言えなくなる。
満足げに口元を歪ませ、佐紀は吉澤を見上げた。
「先生は刑事さんの友達だったんですね。なぁんだ、だまされた気分」
「聞かれなかったから。ごめんね」
「まぁいいですよ。なんとなく変だとは思ってたし」
「奇遇だね。あたしもそう思ってた」
「その話しますか?」
「いや、しなくていいよ」
吉澤と佐紀は牽制しあうように瞬きもせず視線を合わせていた。
「美貴何してんの?早く部屋見てきてよ。入っていいよね?」
「えぇ、どうぞ。たぶん突き当たりの部屋ですよ」
双方とも藤本を見遣ることもなく静かに言う。
混乱を極めた頭を無理やり起こして、藤本は中へ入っていった。
- 128 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:26
-
残された佐紀がふっと笑い、拗ねたように吉澤の上着を引っ張った。
状況が違っていればいじらしいとすら思えるその仕草に、吉澤は感嘆の息を漏らした。
「うまくやるって言ったのに」
「うん。放っておくつもりだったんだけどね。キミのバイオリン聴きたいなぁと思って」
「あれ?意味分かりませんでした?」
「いや。分かったよ。キミにはサリエリと同じくらい才能があるってことだよね」
「あははっ!」
甲高い笑い声が吉澤の耳を突く。
「・・・・うまいですよね、はぐらかすの」
そう言って佐紀が顔を上げたとき、正しい表情だと吉澤は思った。
怒りと憤りを目にたぎらせ、吉澤を睨みあげる。
「よく分かりました。あの子もそうやって騙されてたんですね」
「・・・・」
徐々に感情をむき出しにしていく佐紀を見て、吉澤は落ち着いていた。
「逃げ出したくせに・・・・私の邪魔したらこの話されるって思わなかったんですか?」
「いや、分かってたよ。だから友達連れてきたんだ」
佐紀が怪訝そうに眉をしかめた。
- 129 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:27
-
- 130 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:27
-
背中に嫌な汗が滲む。
藤本は激しくなる鼓動を落ち着かせながら佐紀に言われた部屋の前に立った。
クラクラする。気持ち悪い。予感。銃声。聞こえた。子供。平然と。
吉澤。慌てる。落ち着く。銃声。ドア。開ける―――
そっとドアを開けたとき、藤本の目に飛び込んできたのは二人の人影だった。
うつろな目をした少女が一人、もう一人は壁に張り付くように立っていた。
黒い、棒、いや、ショットガン。そして床に広がるアカ、赤、紅。
間に血まみれになった誰かを挟んで至近距離で向かい合う少女たち。
銃を向けられた壁際の少女が引きつった顔で藤本に向かって叫んだ。
「助けっ・・・」
―――パァーン
二発目の銃声は藤本の目の前で、一人の命と共に弾けた。
藤本の目線だけが状況を確認するように動いた。
撃った少女の焦点の定かでない目からは涙が零れている。
藤本はわけが分からず二人を交互に見て、
倒れた方の少女に駆け寄った。血が染みこんで足元が生ぬるい。
脈を確かめてから、藤本は静かに手を合わせた。
- 131 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:27
-
「・・・美貴っ!」
吉澤の声に振り返った。
いつの間にか虚空を見つめるような少女は銃を持って廊下に立っていた。
長い廊下の奥、少女の体越しに佐紀を庇うように吉澤が立ちふさがるのが見えた。
「止めなっ!」
言いながら反射的に藤本は懐から銃を取り出す。
流れるように威嚇の空砲を撃った。パァーンと高い音がして、
それでも少女の動きに反応がないことに気付いた。
ゆっくりと少女の銃の先が佐紀に向けられる。
聞こえてない。追いつけない。もうダメだ。
佐紀、その前には吉澤が―――
―――パァーン
その日清水邸から響いた三発目の銃声で、
藤本が、少女を撃ちぬいた。
・・・やってしまった。応援、救急車。携帯。
事務的に手だけが動く。
頭の片隅に浮かんだのは清水佐紀の笑顔だった。
- 132 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:27
-
吉澤は佐紀から体を離し、小さく息をついて壁にもたれかかった。
藤本がのろのろと部屋から出てきた。
廊下に倒れる銃を持った少女の首筋に手を当てて脈を調べている。
小さく顔をゆがめて立ち上がった藤本は右手に持った銃を水平に構えた。
「・・・動くな、清水佐紀」
「美貴」
吉澤が射線に割り込んできた。
苦々しげに舌打ちをして、藤本は銃を上に向けた。
「・・・・なにがあったわけ?」
「大丈夫だから、それしまって。佐紀ちゃん」
藤本が銃を引っ込めると、吉澤が肩を押し、
無表情な佐紀が前に出された。
「・・・なるほど。これじゃ私は先生の思い出なんか話してる場合じゃないですね」
「そう。このお姉さんにしっかり説明しないといけないからね」
「うまくやらないと、ですね」
「・・・そうだね。頑張って」
藤本には分からない理解のもと、二人の話が終わった。
- 133 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:28
-
佐紀は藤本を見て、また花のように微笑んだ。
錆びた鉄のような血の臭いが藤本の鼻につく。
「そんな面白い話じゃないですよ?高校生にありがちなことです。
友達の家で煙草や薬物に手を出す・・・・ここはそんな現場です」
藤本が足元に転がるも少女の血にまみれた足跡を見ると、
白い粉が混じっている。薬物、それで目がおかしかったのか。
藤本は妙に冷静に納得した。
「そこにたまたまパパのショットガンがあって、殺し合い。
頭おかしいですよね。まったく・・・イマドキの高校生は怖いなぁ」
佐紀はくすくすと笑う。
あくまで自分は傍観者、関わりなどない。
惨劇の場が自宅になっただけの話。
藤本から力が抜けた。銃をしまい、吉澤に声をかける。
「よっちゃん。ちょっと見ててくれる?この子たち・・・応急処置だけでも・・・」
「りょーかい」
「あ、救急箱なら台所ですよ」
場違いに明るい声に、藤本が顔をしかめた。
- 134 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:28
-
吉澤は佐紀を連れて外に出た。塀にもたれかかり、煙草に火をつける。
「先生」
意味もなく煙で輪をつくる吉澤の動きが止まった。
「どうして来たんですか?」
「別に。わざわざ声掛けてきたのはキミのほうでしょ?」
「来いなんて言ってませんよ。一緒にいた人の顔見たかっただけです」
「ふぅん。可愛かったでしょ」
「えぇ、すごく」
わずかに微笑んで、吉澤は煙を飲み込んだ。
佐紀はバカにしたようにそんな吉澤を見る。
「先生もしかして、止めて欲しいのかも、とか思ったんですか?」
「・・・別に」
吉澤は向かいの家を見る。閑静な住宅街がわずかにざわついている。
そこかしこから様子を窺う視線が感じられる。誰か通報しただろうか。見ているだけか。
集団心理は吉澤には理解しがたい。これだけ異常に気付いていても、誰かが知らせると全員が思い、
誰も知らせないこともある。佐紀は言葉を続ける。
「あ、先生が言ってたこと、参考にさせてもらいました。動機だけなら仕込める・・・・
思ったとおり、あいつにはそれで十分でした。醜いですよね」
「・・・・そう」
- 135 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:29
-
「・・・・警察で言いなよ。あたし、関係ないからさ」
つまらなさそうに言って、吉澤はもみ消した煙草を指で弾いた。
ころころと吸殻は転がって、排水溝に飲み込まれた。
藤本は家の中から出てこない。一人ぐらい助かりそうなんだろうかとぼんやり考えていた。
それから数分後、パトカーが清水邸の前に押し寄せてきた。
やっと藤本が出てきて、同僚たちと真剣な顔で話している。
吉澤の横で壁に凭れながら立っていた佐紀が離れて行き、藤本に声を掛けた。
「刑事さん、助けてくれてありがとう」
「・・・どう、いたしまして」
戸惑った様子で藤本が佐紀に軽く頭を下げた。
面識があるのだろうか、一緒に話していた刑事も佐紀に頭を下げている。
「お礼に自白しますね。ホテルで男性を殺したのは私です」
周りの大人たちが固まる中、清水佐紀一人だけが涼しい顔で微笑んでいた。
藤本が何かを振り払うように強い目をしてキッと睨みつけた後、事務的に言った。
「清水佐紀。・・・・山田太郎殺害容疑で逮捕します。
あなたには黙秘権があります。自分に不利になるようなことは―――」
吉澤は、それを冷然と眺めていた。
- 136 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:29
-
「先生。しばらく帰れそうもないんで、本取ってきてもらえませんか?」
「・・・・いいよ。なんていう本?」
「カバーがかかってる本です」
吉澤は清水邸へ入っていった。
さっきまで横たわっていたものは救急車で運ばれていった。
残された血の跡だけがそこで起こったことを主張していた。
何度か上った階段を上がり、佐紀の部屋のドアを開ける。
真っ直ぐに机に行き、引き出しを開けると、そこにそれはあった。
吉澤は何気なくカバーを外し、表紙を見た。バイオリンの歴史について書かれた本だった。
パラパラと捲ると、間に挟まれていたものに気付いた。
ゆっくりとそれを眺め、少し迷った後、ポケットにしまった。
バカなことをしていると思いながら、吉澤は佐紀の部屋を出た。
降りてきても、血溜まりは相変わらずで、
奥の部屋では何人かが写真を撮ったりしている。
すぐに目を逸らすと玄関を出て、吉澤を待つ佐紀の下へ行った。
本を渡すと吉澤はケースから錠剤を取り出して飲んだ。
倒れるように塀に凭れかかって煙草に火を着けた。
息苦しさは、ぼんやりと感じていた。
- 137 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:29
-
離れたところで佐紀がパトカーに乗せられている。
テレビでも見ているみたいだと吉澤は思った。
自分が吐き出した煙が靄のように景色を霞ませる。
何も見えなければいいなと思ったとき、煙草が目に付いた。
簡単なことだと吉澤は気がついて、すぐに手は動いた。
「よっちゃん」
火のついた煙草を目に押し付けようとした手を、藤本が掴んだ。
「なにやってんだか・・・余計な仕事増やさないで」
「離せよ」
「バカ。目見えなくなる」
「いいよ、別に。見たくねーし」
関わりたくなかったのに、こんな光景を目にしている自分に吐き気がする。
何も見えなければいいのに。見たくないものを見る目ならいらない。
「ばぁか・・・そしたら梨華ちゃんも見えないよ」
「あぁ、それはヤダなぁ」
納得して吉澤は煙草を道路にポイ捨てした。そしていつもどおり、
何ごともなかったかのようにあっさりと、藤本は吉澤の頭を叩いた。
- 138 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:30
-
「さ、車乗って。送ってやるから」
「どこに?」
「梨華ちゃん家だよ。話は、また改めて聞かせてもらうわ」
「・・・どうも」
車に乗ってすぐに吉澤が煙草に火をつけた。
藤本がすぐに灰皿を差し出して呟いた。
「あーぁ、戻りたくねー・・・どうせ謹慎か減棒だよ」
「なんで?犯人捕まえて万歳じゃないの?」
「そんなわけないでしょ」
疲れた声でそう言って、藤本は清水邸での出来事を思い返した。
「高校生・・・責任取らなきゃ」
「ドンマイ」
「バカか。明日からはひどいよ。マスコミやらなんやらで」
考えたら目眩がしそうだった。
本当に追い掛け回されてワイドショーの顔に仕立て上げられるかもしれない。
嫌そうな顔をして黙る藤本に吉澤がぽつりと漏らした。
「・・・美貴、泣かないんだね」
「冷たいと思う?」
「別に。すげーと思うよ。見習いたいもんだ」
- 139 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:30
-
吉澤は冷ややかに言って外を見た。
藤本は懐に手をあてて、その下にあるものを感じながら静かに言った。
「・・・・コレを手にしたときから、覚悟ぐらいしてたから」
「覚悟、ね」
外を流れていく光から普段目にする景色を組み立てながら吉澤が呟く。
冷静な諦めのように感じた。しょうがないと、そう言っただけのように思えた。
「懺悔でもしてくれば?」
「しねーよ」
藤本はきっぱりと答えた。
少女が殺意を向けたのは佐紀だが、銃身の先にいたのは佐紀ではない。
「大事なパシリが死ぬとこだったからね・・・悪いけど後悔はしてない」
吉澤が驚いたように藤本を振り返る。
強く、真っ直ぐに前を向く藤本を吉澤は懐かしそうに見た。
「・・・・やっぱお前は美貴なんだな」
「意味分かんない。ミキはミキ。当たり前じゃん」
- 140 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:30
-
吉澤は学生時代を思い出していた。
中学は同じで、藤本と石川の二人におもちゃにされていた。
高校から別のところに行ったのに、相変わらず二人は吉澤をおもちゃにしていた。
それは吉澤にとって温かく、大切な時間だった。過去を振り返り、眩しそうに目を細めた。
悪魔なんかじゃない。吉澤が遠い目をして呟いた。
「なぁ・・・いますぐ行ってほしいとこがあんだけど」
「どうしたの?急に」
「あたしも覚悟してみた」
「は?どこ行けってのよ?」
「事件があった横のホテルの、310、いや、8だったかな」
何かを思い出しながら吉澤は言う。
「そこに送っていけばいいの?」
「いや・・・・あたしは帰る。美貴一人で行ってきてよ」
「なにそれ?なんでよ?」
理由を問う藤本に、吉澤は困ったように笑いかえす。
「頼むわ、美貴」
「行ったら説明くらいはしてくれるわけ?」
「分からないことがあればね」
- 141 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:31
-
「あ、でも」
ちょうど車は家の前に着き、吉澤が付け足した。
「何があっても、教えてくれなくていいから」
曖昧に笑って、吉澤は車を降りた。
藤本の車が走り出したのを背中で感じて、吉澤は小さくため息をついた。
ぼんやりとした顔で部屋まで上がっていく。
「ただいまぁ〜」
「おかえりって、私が言うの初めてね」
「あぁ、そういえばそうだね」
ほぼ引きこもりの吉澤を石川が出迎えるだなんて、石川家の珍事だった。
ただいまと口にしたのも随分久しぶりなのだが、吉澤は気づかなかった。
石川はどことなく嬉しそうに吉澤の上着を受け取る。
「なんか新鮮ね。いつもと逆」
「そうだね。でも、いつものあたしはご飯作って待ってるんだけど」
「贅沢言わないで・・・私もあの後お店に寄って今帰ってきたばっかりだもん」
「そっか。んじゃ、なんか適当に作るね」
フラフラとキッチンに向かうと、その様子を眺めていた石川がにわかにあわて始めた。
- 142 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:31
-
「あ、ちょ、ダメ、いや、」
「ん〜?どした?」
意味の分からない言葉を発する石川をよそに、吉澤は流しに向かったが、
すぐに動きを止めた。そこには焦げ付いた鍋があった。しかし臭いはしない。
生ゴミの袋を見ると炭のような物体が放り込まれている。炭化した分で体積を考えると、
一人前ではないだろうという量。
残念ながら何を作ってくれるつもりだったのかまでは分からない。
それは食べ物の原型をとどめてはいなかった。
「ねぇ梨華ちゃん」
「・・・なに」
名前を呼んだだけで、石川は口を尖らせて目を逸らした。
どれくらいキッチンで格闘していたんだろう。どんな風に迎える自分を想像していたんだろう。
いい女のつもりで用意してたんだろうなぁ。自分が不器用なのも忘れて。
想像すると吉澤に笑みがこぼれた。
「ずっとここに住んでていい?」
「・・・・仕事するならね」
「ありがと」
「仕事したらって言ってるでしょ。ちゃんと探すなら、よ」
「探すって。大丈夫・・・・もーちょいしたら」
「出てって」
「あ、卵の殻がある。オムレツだったのかな?」
聞き流して、吉澤は夕食を作り始めた。
- 143 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:31
-
***
- 144 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:32
-
吉澤を石川のマンションの前で下ろし、藤本は言われたとおりの場所へ向かった。
318号室をノックし、ベルを鳴らし、しばらく待ってみたが応答はない。
Do Not Disturbという札を外してからドアに仕掛けをして、
藤本は一階の受付へ戻り、従業員に手帳を見せた。
「318号室、だと思うんですが、向かいのビルの方から不審者の通報がありまして」
「不審者、ですか」
「えぇ。どなたか一緒に来ていただけますか」
「あ、わ、分かりました」
若いボーイが一人呼ばれ、318号室に再び戻るが、特に変わった様子はない。
ドアの隙間に挟んでおいた小さな紙切れも落ちていない。
誰もドアを開けてはいない。
「お客様?お客様?」
呼びかけに応答はない。ボーイと顔を見合わせて、藤本が小さく頷いた。
「・・・・失礼いたします」
恐怖を感じながらボーイが鍵を開け、藤本を中に入れてくれた。
ボーイの目を盗んでドアの内側に外しておいた札を掛け、中に入ると、
むせ返るような匂いがした。甘ったるい、嗅覚が狂ってしまいそうな匂いで、
腐った果実が藤本の頭に浮かんだ。
- 145 名前:MIND 投稿日:2008/10/04(土) 19:32
-
閉ざされた部屋は暗い。寒いくらいに冷房が効いていて、
背中に悪寒が走った。
とりあえず、と電気をつけると少し先を歩くボーイの背中が急に止まった。
「う、ひゃぁっ!」
情けない声を出して腰を抜かすボーイを押しのけて部屋を見ると、
床一面に花びらが敷き詰められ、壁一面に引っかいたような血のあとがついている。
天井からぶら下がったシーツを束ねたひもは途中で切れている。
藤本がベッドの上を見て、藤本は携帯を取り出した
「もしもし、藤本です・・・現場隣のホテル・・・318号室・・・・
人が死んでます。すぐ来てください」
遺体の周りにも散りばめられた花びら。
永遠の床に就いたその顔には化粧が施されていた。
近づくと死臭が鼻をつく。
丁寧に腹の上で組まれた手は死後硬直も通り過ぎて、
腐り始める一歩手前だった。
爪のない不自然にきれいなその手には、
一輪の百合の花が握られていた。
- 146 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/04(土) 19:32
-
- 147 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/04(土) 20:57
- なんか…凄い
引き込まれます。
- 148 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/10/04(土) 21:35
- すげぇ。
飼育ってこと忘れて普通に小説読んでる感覚
続きがんばってください!
- 149 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/05(日) 06:55
- すっごい引き込まれます!
もう一度読み返してみる。面白い!
- 150 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/05(日) 09:48
- 久々に使う
名作の予感
- 151 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/05(日) 13:09
- いやー、やってくれましたね。さすがですw
幻ってことはシリーズ物ですよね?次待ってまーす。
- 152 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/10(金) 21:01
- 面白いと思うけど全然意味が分からない自分は読解力がないのか
- 153 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/11(土) 14:18
- >>147-151
ありがとうございます。頑張ります
>>152
いえ、それなりに伏線は張ってますが、まだ終わってませんので。
むしろ分からなくても面白いならありがたいです。
終わっても分からなかったら謝ります
- 154 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/11(土) 14:18
-
石川梨華と初めて話したのは、あたしがまだ幼稚園に入るよりも前のことだった。
近所の公園で木に登って遊んでいたら、一緒に遊んでいた友達がいつの間にかいなくなっていた。
一人になって寂しくて、不安で、泣きそうになりながら木を降りて、
気を紛らわすように走り出したら、入り口近くで転んでしまった。
彼女に会ったのはそのときだ。
ピンクのレースのついたハンカチを差し出した、幼稚園の制服を着た彼女は、
あたしに大丈夫かと尋ねて、黙ったまま土を払うあたしの頭を撫でていた。
一つしか変わらないのにお姉さんぶったその態度に、
そのときのあたしはなぜか安心したのを憶えている。
彼女の怖そうなおじいさんが迎えに来て、あたしを家まで送ってくれた。
小さな手を振る彼女は笑っていたように思う。
それからあたしは彼女と同じ幼稚園に入った。
彼女を見つけて駆け寄ると、彼女はあたしを憶えていなかった。
また寂しくなって、あたしはそれから彼女をとことん避けるようになった。
初等部に上がると、一つ上というのは果てしなく遠い距離のように思えた。
でもそれは、相変わらず彼女を避けたかったあたしにはありがたかった。
- 155 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/11(土) 14:19
-
口を利くこともないまま中等部にあがり、そこであたしは彼女に八年ぶりに声を掛けられた。
思い出してくれたのかと思ったあたしは、馬鹿だったと思う。
彼女はそんな思い出に関係なく、ただ部活の勧誘に走り回っていただけだった。
そしてあたし自身も、少し大人に近づいていた。
サンタなんていないんだと知ってしまったし、
世の中の常識もそれなりに身につけ始めていたし、
複雑な社会の縮図が学校にもあるってことにも気付き始めていた。
いくつかの部活を見学して、馴れ合いに満ちたノリが合いそうもなくて、
どれも無駄な時間のように思って、あたしはどこにも入部しなかった。
また、入部しようという意思も持っていなかった。
新入生はとりあえずどこかの部に入るのが慣例のようで、
あたしはかなり珍しい存在として悪目立ちしていたらしい。
「あなた部活に入ってないんでしょ?テニス部見に来ない?」
バカバカしくなるほどお嬢様の多かったあの学校では、
テニスは親しみのあるスポーツだったらしく、部員が多いと有名だった。
- 156 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/11(土) 14:19
-
「行きません」
あたしはあっさりと一言で答えて、梨華ちゃんの前を通過した。
すると彼女の横に立っていた友達があたしの制服の端を掴んだ。
「待ちなって。先輩がわざわざ来てんだよ?ちょっとくらい見に来いって」
「断ってんじゃないですか。離してください」
「お、言い方がムカつく」
大人数は好きじゃない。
テニス部は見に行きもしなかったが、他の部に輪をかけて緩そうな雰囲気がやすやすと想像できる。
やるなら本気で取り組みたいし、適当にならやりたくない。
そう説明してやればよかったのだが、あたしはとにかく梨華ちゃんとあまり話したくなかった。
子供の頃の一度の出会いを忘れ去られていたことを、あたしは八年間も根に持っていた。
二人は顎に手をあて、あたしの顔をまじまじと見つめ、一言で次の行動を決した。
「う〜ん。連行」
「よし」
「はっ!?ちょ、待て、離せっ!」
梨華ちゃんと、このときはまだ名前も知らなかった美貴はあたしの両腕をがっちり掴んで、
あたしをテニスコートまで引っ張って行った。
- 157 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/11(土) 14:19
-
ベンチに座らされて、なんだかえらく注目を集めながらあたしは部活を見学させられた。
パコーン、パコーンと小気味良く響く音を聞きながら、ボールを目で追っていた。
思っていたよりみんな上手くて、少しだけ感心した。
一つだけ気になったのは、あたしの横に座ってあくびをしている人だった。
「あんたは練習しないの?」
「だってミキ、テニス部じゃないもん」
あたしの肩から真剣に力が抜けた。漫画でもないのに、本気でこけそうだった。
意味が分からない。なんだこいつは。
「じゃあなんであたしを引っ張って来たんだよ」
「別にぃ?なぁんかヒマそーなのがいたから。ってか一応先輩なんだけど。敬語はどこいったの?」
「ムカつくヤツには使いたくない」
胸の前で腕を組み、目も合わさずにあたしは言い放った。
怒りだしたらとことん理詰めで言い返してやろうと思っていたのに、
美貴はその言葉を聞いてすぐに笑い始めた。そして練習中の梨華ちゃんに呼びかけた。
「梨華ちゃーん!こいつ超変なんだけど!」
変なのはお前だ、と心の中で毒づいて、あたしはあさっての方を向いた。
- 158 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/11(土) 14:20
-
梨華ちゃんはそれに気付いて、練習を抜け出してきた。
ベンチに座るあたしの前まで来ると、少し荒くなった呼吸を整えながら尋ねた。
「どうしたの?」
どうしたのと聞かれても、あたしには何も言うことはない。
何も言わないあたしの顔を彼女は覗き込んだ。
その距離わずか10cmまで寄せて、あたしの顔を眺める。
数十秒耐えて、ついにあたしは口を開いてしまった。
「・・・近い」
「美貴ちゃん、顔見て・・・・すごく綺麗」
「どれ?」
美貴まで梨華ちゃんの横に並んで、あたしの顔を眺めだした。
至近距離で見つめあう三人は周りからどれほど滑稽に見えただろうか。
考えたくもない。
「ホントだ・・・人形みたい」
「ね。色も真っ白。すごい」
あたしはすっかりうろたえて、どうしたらいいのか分からずじっとしているだけだった。
- 159 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/11(土) 14:20
-
しばらくすると、美貴がまた笑い出した。
プッと噴き出して、隣の梨華ちゃんに耳打ちする。
梨華ちゃんはそーっとあたしの顔を確認して、噴き出した。
「なんだよっ」
笑い転げる二人にあたしは不機嫌に尋ねた。
二人は息も絶え絶えに理由を教えてくれた。
「だって、顔、あはは、真っ赤だよ!」
「照れてるの?可愛いね〜」
指摘されるとますます顔面に血液が集まってきた。
恥ずかしい。やっと笑いが収まった頃、美貴はあたしの肩に手を置いて言った。
「よぉし。よっちゃん。キミは今日からテニス部のパシリ兼ミキのパシリだ」
「断る」
「頼んでんじゃないの。決定事項の通達。以上。さ、カラオケでも行く?」
「行かねーよ」
「ミキは梨華ちゃんに聞いてるだけ。あんたは来るの」
無理やり立たされ、カラオケだのプリクラだの買い物だのと、
散々連れまわされて、また明日と言われた。
美貴と梨華ちゃんは宣言どおり次の日も現れて、あたしを引きずりまわした。
この日から、あたしは美貴と梨華ちゃんのおもちゃになった。
- 160 名前:MIND 投稿日:2008/10/11(土) 14:20
-
◇◇◇
- 161 名前:MIND & ◆tfyd1eXw4A 投稿日:2008/10/11(土) 14:21
-
あたしが勤めることになったのは、名門と呼ばれる女子高だった。
幼稚舎と初等部、中等部まではあたしも通っていたが、高校は進学校を選んだため、
高等部の校舎は馴染みのないものだった。
制服も緋色のブレザーにチェックのスカートで、セーラー服の中等部とはまるで違う。
でも、それだけは馴染みあるものだった。よく目にしていた制服だから、
あたしにとっては少し懐かしかった。
あたしが通っていた中等部の校舎とは隣り合っている。
文化祭だなんだと言えば友達と来てみたこともある。
それなのに、どうしようもなく息苦しいと感じていた。
制服以外に懐古の情を抱くことは皆無に等しかった。
自ら避けた場所の内側に、関係者として入ったから感じるのだろうか。
それとも、ただ新任教師の気負いから来る疲れのせいだったのか。
今でもはっきりとは区別できない。
あたしはそんなことも分からないままあの空間を後にした。
四月、副担任として付けられた二年生の教室で、あたしはなんとなく一年をここで過ごし、
来年には新入生を偉そうに迎えるんだろうな、とそんな風に思っていた。
念願の教師というわけではない。ただなんとなく歩んできた道の途中、
あたしにとって、その程度のことに過ぎなかった。
- 162 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:21
-
実習のころとは違い、他の先生の授業を見る必要はなかったはずだが、
あたしのクラスの担任は妙に熱心な先生で、参考にするようにと指示を受け、
なんで関係ない授業を見なければならないのかまったく分からなかったが、
その人が体育教師じゃなかっただけマシだと自分に言い聞かせ、
抜けたはずの学生気分が戻ってくるような姿勢で授業を見学していた。
廊下側最後列、あたしから見ると斜め前に座っていた生徒がやけに真剣な表情で手を動かしていて、
隙間からノートを覗くと、可愛いのか可愛くないのか分からないようなゆるいデザインのキャラクタ
ーを描いていた。
学生のころもそんなに興味を持てなかったが、一応なにが流行っているかぐらいは把握していた。
それなのに今はさっぱり分からない。妙なところで自分が年齢を重ねてきたことを実感した。
足元に丸められた紙が転がってきて、あたしはハッとして現実に引き戻された。
ボーっと考え事をしてしまうような授業には見学する価値があるのかどうか、
疑問に思いながら拾い上げてみると、そこに書かれた文字はあたしへのメッセージだった。
“かわいいでしょ?”
丸みを帯びた文字に苦笑しながらあたしはペンとメモ帳を取り出した。
“真面目に授業受けなきゃダメだよ”と返事を書いて、こっそり渡してやろうとしたら、
書き終えるのと同時に消しゴムが転がってきた。
その消しゴムに描かれた絵が先ほど見た落書きのモデルになっているのが分かって、
斜め前に視線をやると、わずかに見える口元がにやけていた。
- 163 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:22
-
落し物を拾ってやって、ついでにあたしからのメッセージも添えた。
座りなおして黒板をメモする前に、あたしはまた彼女の様子を確認した。
すると今まさにあたしへのメッセージが発信されるところだったようで、
放り投げられた紙を低い位置であたしはダイレクトにキャッチした。
書かれていたのは短い言葉だった。
“Yes, sir”
その紙をポケットにしまい、あたしは仕事に戻ることにした。友達ごっこはこれぐらいで十分だ。
そもそも自分が学生の時だってこういうことはしてなかった。
終わったら注意してやろう。ついでにsirは女性には使わないのだと教えてやろう。
下らないと思いながらも、あたしはそれが少しだけ楽しかった。
授業が終わったとき、あたしは少し急いでいた。
すぐに担任に付いて出て、感想を言わないと気を悪くするだろう。
お世辞を頭で考えながら、座っていた先ほどの文通相手に声をかけた。
「キミ、落書きしてちゃダメだよ。あと、あたしはsirじゃない」
周りに数人の友達が群がり始めていたし、背中に向かってそれだけ言って、
彼女が振り返る前にあたしは足早に教室を出た。
- 164 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:22
-
「吉澤先生」
「あ、はい」
職員室で小テストを作っていたら、30くらいの国語教師に声を掛けられた。
とがったメガネが光る、あたしが学生の頃苦手だったようなタイプの先生だ。
その教師はあたしにある頼みごとをした。エコガーデンだかなんとか言って、
屋上緑化の管理をあたしにやってくれないかと。
生徒を使ってでもなんでもいいから、と言われたものの、施錠の責任がある。
任せっきりにはできない。その責任者が何故あたしなのか。
「やっぱり理科の先生じゃないとねぇ」
確かにあたしの教科は生物だが、納得のいく説明とは言えない。
しかしペーペーのあたしに言えることなど何もない。はい、と答えて屋上の鍵を預かった。
とりあえずどんなものか見に行こうと思って、昼休みにあたしは屋上に向かった。
天気が良かったから見回りついでに昼食も済ませてしまおうと、
弁当を片手にあたしは階段を上りきりドアに手をかけた。
屋上の鍵は、開いていた。この学校はどうなっているのか。
真剣にセキュリティについて直訴するべきかと思いながらドアを開けると、
一人の少女が目に入った。
- 165 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:22
-
開いていたのはこちらの過失であろう。
それなのに偉そうに怒鳴りつけるのはあたしの主義に反する。
しかし、一応出入り禁止ではあるはずだ。迷いながらあたしは声を掛けた。
「おーい。立ち入り禁止だよ」
「あ、先生だ」
少女はふんわりと振り返って、笑った。
ハーフだろうか。日本人離れした顔立ち、すらりと伸びた手足、
背はあたしよりも高い。170近くありそうだ。
声は鼻にかかったような甘い声で、やわらかく細められたその目が、
子供とは思えないほどに艶っぽく潤んでいたのが印象的だった。
「えっと、ごめん。会ったことないよね?」
普段は人の顔なんて見ても覚えてはいないが、
この頃のあたしは生徒の顔を覚えようと意識していた。
なにより、こんな綺麗な子を見て、忘れたりするわけがないと思った。
でもあたしの言葉に少女は憤慨して言った。
「ひっどーい!文通した仲でしょ?」
「あっ!」
あたしはそこで、理解した。落書きしてた子だった。
- 166 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:22
-
「あぁ〜、ごめん!顔あんま見えなかったから」
「もぉ〜失礼だよ、吉澤先生」
それだけでなんだか気を悪くした様子の彼女には申し訳ないが、
あたしはもう一つ基本的なことを知らなかった。
「名前も、知らないんだよね・・・」
「えぇ〜?しょーがないなぁ、教えてあげようか?」
そんな言い方をされるほど知りたかったわけではないが、流れ上聞いておくべきだろうと思って、
教えてくれと言うと、彼女はあっさり「梅田えりか」と名乗った。
その苗字に少し引っかかった。梅田、どこかで聞いたような名前だった。
採用面接とか、その辺で。
「誰かそんな先生いなかったっけ?」
あたしは同僚の名前すらまだはっきりとは覚えていなかった。
彼女はいたずらっぽく笑って、いるよ、と答えた。
「え、なんの先生だっけ?絶対喋ったことあるんだよね」
「うん。あるだろうねぇ」
- 167 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:23
-
「あ〜・・・誰だっけ?」
「絶対知ってるよ。頑張って思い出してみて」
名前はあっさり教えてくれたくせに、その答えは教えてくれなかった。
無理やり聞き出すこともあたしの主義に反する。
まぁいいやと思って、設置されていたベンチに腰掛けた。
彼女もにこにこと人懐っこい笑みを浮かべてあたしの隣に座った。
持ってきた弁当を広げて、食べ始めようとしたそのときに話しかけられた。
「先生って自分でお弁当作らないの?」
「あぁ・・・いや、でも料理できないわけじゃないよ?ただ朝は時間なくて」
「ふーん」
彼女は首を伸ばしてあたしの弁当を覗き込み、卵焼きをひょいと持ち上げ口にした。
「・・・せめて一言断ってくれる?」
「うぇ、まっずい」
「殴るぞコラ」
「こわーい、暴力教師ぃ」
彼女は大げさに怖がる仕草をして、からからと笑った。
失礼なこと言いやがって、あたしの舌がおかしいみたいじゃないか。
あたしが作ったわけではないけれど、毎日それなりにおいしく頂いてんだ。
- 168 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:23
-
「怒んないでよ。明日返すから」
「おお、そーしてくれ」
「でも卵焼きだけ買えないんじゃない?」
「惣菜で買えるよ。・・・・この三倍くらい入ってるけど」
「あは。じゃあお弁当買ってくる。先生明日買わなくていいよ」
どうせお前が稼いだ金じゃないだろ、と言いたいところだが、
今日の弁当の中で一番食べたかったのは卵焼きだった。
この瞬間だけだろうが、あたしは猛烈に卵が食いたい衝動に捕らわれていた。
「忘れんなよ?キミが忘れたらあたしの昼飯抜きなんだから」
「そしたら学食でパン買ってくる。・・・・ここ気持ちいいね」
「天気いいからね」
人間だって植物だって陽光を浴びなきゃ萎びてしまうものだ。
太陽の下にいるっていうのは大事なことだと思う。
「あと、せんせぇもいるし?」
「ついでに言ってくれなくてもいいよ」
あたしは苦笑して、焼き魚を口にした。
- 169 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:24
-
食べているあたしの横顔を、彼女はまじまじと見つめていた。
そういえば、この子はここで何をしているのだろう。
疑問に思いながら食事を続けるあたしに、彼女は急に言った。
「先生ってさ、モテるでしょ?女の子に」
「別に。なに?惚れたの?」
「うわぁ、自信過剰だね」
そんなセリフを誰かに言われたことがある。
彼女はくすくすと笑い、肩を揺らしていた。
突然何かを思い出したように動きを止めて、あたしを真剣な目で見て言った。
「うちって女の子?」
「・・・・悪いけど、質問の意図が分からない」
予想外の返しにあたしの方が固まってしまった。
彼女は何も言わず微笑んで、あたしのポケットから覗く携帯灰皿を手に取った。
「先生煙草何吸ってるの?」
「マルメン」
「うわぁ、不良みたい」
「・・・・銘柄に詳しそうだね」
「そんなことないよ、常識」
- 170 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:24
-
食事を終えて辺りを見渡すと、手入れの必要はほとんどないと分かった。
草木は十分に元気だったし、循環システムも問題なく動いていた。
「センセー何しに来たの?」
「ん。なんかここの管理任されたから見に来た」
ポケットから煙草を取り出し、火をつけながら尋ねた。
ベンチに腰掛けてフーッと一息ついて横を見ると、彼女の目が輝いていた。
「・・・キミは何しに来たの?」
「ヒマだから」
「ふぅん、でもここ立ち入り禁止じゃね?」
「先生、校内は禁煙だよ」
彼女はあたしの手元を見ていた。
あまりにも開放的で、気持ちよく一服していたあたしの顔が引きつった。
「・・・・そーだっけ?」
「うん」
「すぐ消したら言わないでくれる?」
「どーしよっかなぁ。うちがここに来てたの黙っててくれるならいいよ」
「なに?取引のつもり?かわいくねーなぁ」
顔を見合わせて、あたしは彼女と笑いあった。
- 171 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/11(土) 14:24
-
次の日も彼女はそこにいて、あたしに弁当を持ってきた。
でもそれはあたしがいつも買っているチェーン店の日替わり弁当ではなく、
手作り弁当だった。開けてみて、あたしはため息をついた。
「あのなぁ・・・・」
「なに?どう?感動した?」
「卵が入ってない」
「はぁ!?」
卵を返すという約束だったのに完全に変わっている。
不満げに言ったあたしに、彼女はさらに機嫌悪そうに声を上げた。
一口食べてみると見栄えはともかく、味は悪くなかった。
教師に手作り弁当なんて、そんな発想学生時代のあたしにはなかったな。
「ま、しょーがねーから食うけど」
「あ、ムカつく。もーいいよ」
「ごめん。食べる。待って、食べます」
あたしの懇願に、しょうがないと言って彼女は笑い、あたしから取り上げた弁当を渡してくれた。
それからも何故か毎日、彼女はあたしに弁当を持ってきた。
日に日に上達していくのが分かって、あたしは昼休みを楽しみにするようになっていった。
- 172 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/11(土) 14:24
-
- 173 名前:sage 投稿日:2008/10/11(土) 15:50
- 上手いなぁ・・・引き込まれます
- 174 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/11(土) 15:51
- うあ申し訳ない
- 175 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/12(日) 14:14
- ホント引き込まれます!
面白い!
- 176 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/13(月) 12:02
- >>173-175
レスありがとうございます
迅速なochiもありがとうございます
- 177 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/13(月) 12:03
-
石川梨華という人は、あたしにとって悪い意味で気になる存在だった。
テニス部のパシリをやらされて、休み時間も美貴と梨華ちゃんのおもちゃで、
放課後も連れまわされて、傍目には仲良しに見えただろう。
そして近づけば、あたしがずっと引きつった顔をしていたのに気付いただろう。
これといった悩みを抱えていたわけでもないのに、
あたしは心に穴が開いているような気分を子供の頃からずっと味わってきた。
あたしの世界は時々、現実感をなくしていく。
神の箱庭で暮らしている人形のような気持ちになることがよくあった。
母親に話すと困ったような顔をされたことがあって、それ以来誰にも言ったことはない。
でも、自分が人形になったような気持ちは時々こみ上げてきていた。
どこかに台本があるような気がして、大人になるとそれを知るのではないかと思っていた。
それは子供が知っていいことではなくて、だから母は困った顔をしたんじゃないかと、
そんな妄想に囚われることがよくあった。
でも、梨華ちゃんは、感情のままに喚き、怒り、笑う梨華ちゃんには、
台本があるとはどうしても思えなかった。当時のあたしにとって彼女は疑問の対象だったのだ。
あたしはひねくれていたと思う。そして少々変わり者だったと思う。
ずっと内面を見られるのがイヤだった。内側にある気持ちを、誰にも悟られたくなかった。
台本からはみ出てはいけないのだと、それもあたしの妄想から来る縛りだったように思う。
さっぱりしてるよね、あっさりしすぎだよ、なんか冷たい。
この頃は、そんなことをよく言われていた。
なんだかんだとあたしに構ってくるのは、美貴と梨華ちゃんだけだった。
- 178 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/13(月) 12:04
-
「ねぇお兄さん」
塾の帰り道、梨華ちゃんに出くわした。
中学三年の秋、隣り合う別の校舎に通っていたころだ。
その頃のあたしは、あたしを振り回す二人の先輩をウザいと正しく認識していた。
なのに、チャラそうな男に手を掴まれた梨華ちゃんを見かけて声をかけてしまった。
「あたしがアンタならその人だけはやめとくけど」
「はい?なに?中坊?なに言ってんの?」
男はへらへらしながらあたしに尋ねた。あたしは少し前に二人の男を見かけていた。
スモークを張ったワンボックスの車にもたれかかって、
ニヤニヤしながら男たちはこの二人を眺めていた。
捕まっているのが梨華ちゃんとは思わなかったが、分かっていて放っておくのも目覚めが悪い。
「レイプごっこなら止めときなよ。死人に口なしってくらいの覚悟があるなら別だけど」
男の顔からサッと笑いが引いた。大体想像通りの図星だったらしい。
「その子のじいちゃん、ヤクザの親分だから」
そう言うと、男は明らかに青ざめた顔をして、妙にどもった声で、ただのナンパだよと言い残し、
立ち去っていった。そしてあたしの予想通り、男は先ほど見かけた車に乗り込んだ。
- 179 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/13(月) 12:04
-
助けてやったんだから、礼ぐらい言うだろうと、
あたしは普段の完全なおもちゃ扱いの仕返しができると思っていた。
でも現実はまるで違っていた。
あたしは頬に、ビンタを食らった。
「余計なこと・・・言わないで」
キッとあたしを睨みつけるその目に光った涙に、あたしは言葉を失った。
背中がゾクゾクした。なんだろう、この気持ちは。
はつられて意識するなんて、あたしはいったい何なんだろう。
マゾヒズムの化身のような自分を発見してしまった瞬間だったのかもしれない。
口を開きかけた瞬間、後ろ頭に何かが当たった。
あたしは急いで振り返り、誰とも知れぬ犯人を怒鳴りつけた。
「いってぇな!何だよっ!?」
「あれぇ?よっちゃんじゃん。梨華ちゃんよっちゃんに絡まれてたの?」
「美貴ちゃん遅い〜。もうどっか行っちゃったよ」
「そーなの?せっかく急いで戻ってきたのに」
犯人は美貴だった。
どうやら二人で出かけていたらしい。それで別れた直後に梨華ちゃんは絡まれて、
メールを受け取った美貴が引き返してきたが、あたしの方が早かったらしい。
そして美貴は梨華ちゃんと向かい合う人、つまりあたしを暴漢だと判断して後ろ頭に何かぶつけた。
- 180 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/13(月) 12:05
-
足元を見ると、焼き芋が転がっている。恐る恐る後ろ頭を触ると、髪がべチャッとした。
勘弁してくれと心から思った。美貴はあたしを見て面白そうに言った。
「ってかなにその格好?こりゃミキが間違えるのも無理ないね。反省しなよ?」
まったく分からない論理展開で、美貴はあたしを責めた。
黒のコート、ジーンズ、塾帰りで私服だったあたしが悪いらしい。
制服だったらぶつけなかったのに、とまで言いやがる。
「・・・頭おかしいんじゃねーの?勘違いしたのお前じゃん」
「うっさいなぁ。あーそーだよ、どーせミキが悪いんだよ」
「なんだよその言い方。100%お前しか悪くねーよ」
ドキドキと鼓動が高鳴るのを自覚しながら、あたしはそれを無視するように美貴と言い合っていた。
たまに梨華ちゃんのほうを見遣っていたのだが、目もあわせてくれない。
怒らせてしまった。それにひどくショックを受けている自分がいた。
ひとしきり美貴と言い合った後、梨華ちゃんはやっと口を利いてくれた。
「ひとみちゃん」
そう呼ばれるのはこそばゆくてずっと嫌だったのに、そのときは特別な呼び名のようで嬉しかった。
機嫌は直っただろうかと思いながら、あたしは恐る恐る梨華ちゃんの方を向いた。
- 181 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/13(月) 12:05
-
「痛かった?」
「別に・・・美貴の焼き芋の方がある意味イタい」
美貴の頭の中がイタいと思った。
梨華ちゃんは静かな声でそう、と言ってあたしの後頭部をハンカチで拭ってくれた。
それは子供の頃と同じピンクのレースが付いたハンカチで、何故か涙が出そうになった。
あたしは少し迷った後、小さく問いかけた。
「・・・・何で、怒ったの?」
あたしは人の心の機微に疎かった。
何が余計なことで、何がこの人を傷つけたのか、まったく分からなくて、
普段のあたしなら他人がどう思おうと我関せずというスタンスを保つのだが、
梨華ちゃんが何に怒ったのかは知りたかった。
「おじいちゃんのこと」
むくれたように答えた彼女の言葉を聞いても、あたしはいまいちピンと来なかった。
当たり前の事実を嫌がるなんて、この頃のあたしには想像もできなかった。
「でも嘘じゃないよ」
「バカ」
きっぱりと言い切ったあたしの頭を美貴が叩いた。
芋がついたと騒いでいたが、すべてにおいて美貴の自己責任だ。
- 182 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/13(月) 12:05
-
叩かれるあたしを見て、梨華ちゃんはプッと噴き出して笑った。
「ひとみちゃん、家こっち?」
「あ、うん」
本当に幼い頃、梨華ちゃんはおじいさんと一緒にあたしを送ってくれたのに、
憶えていない。ずっと不満に思っていたことが、そのときははっきりとした痛みを放った。
「じゃあ一緒に帰ろうか」
そう言って、梨華ちゃんはさっきまでの不機嫌が嘘のように優しく微笑んだ。
あまりに綺麗で、あたしは真っ直ぐに見ることすら出来なかった。
もやもやとした気持ちがドクドクと心臓を攻め立てる。
きっとこの人は感情のままに、自分で生きてる。自由。そんな文字が頭に浮かんだ。
疑問に思っていたのは、憧れだった。内面を見せたくないんじゃなかった。見たくなかったんだ。
この気持ちを正しく理解したとき、あたしは神との決別を決心した。
神の教えを叩き込まれて育ったあたしにとって、それはあらゆる秩序の崩壊に等しかった。
あたしはこのときに、神が嫌いになったんだと思う。
神の教えなんてクソ喰らえだ。お前の台本に、あたしは従えない。
これまであたしが教育を受けてきた場所は、神の庭の最たるもののように思えた。
そこにいる限り、どう足掻いても自由にはなれない気がして、別の高校を受験しようと決めた。
あたしにとっての楽園は神のいない場所にある。
あたしは箱庭から逃げ出すことを決意したのだ。
- 183 名前:MIND 投稿日:2008/10/13(月) 12:06
-
◇◇◇
- 184 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:06
-
職員室で、梅田という名字に聞き覚えがあったわけが分かった。
この学校の理事長の名前だ。聞けばあの子は理事長の孫だそうで、
名前を覚えていなかったことは非常にまずい。
さらにその前日に梨華ちゃんに電話をしたら、どうやら合コンの真っ最中らしい気配がして、
あたしはその日、かなりブルーな気分だった。そんな気分で仕事に臨むとろくなことがない。
会議を忘れて大目玉を食らい、教室には小テストを忘れて行ってしまったし、
極めつけは植物細胞の模型を壊してしまったことだった。
恋心なんてろくなもんじゃない。
愛だの恋だのをたたえる言葉は太古の昔からあるようだが、
あたしはその全てに異論を唱えたい。
何かに心を囚われるなんていいことなわけがない。
愛は執着であり、固執することは危険だ。
恋が実るとはすなわち所有欲が満たされるということであり、
それは一個の人格を無視した恥ずべき行為だ。
だからあたしは恋なんてろくなもんじゃないと言い切る。
そして恋が諸悪の根源であったとしても、模型を壊した事実はなくならない。
いくら言い訳をしても無駄だ。
そして残念ながらこんなミスはもう二度といたしませんとも言い切れない。
なぜならあたしはもう何年もこの病に侵され続けている上に、
この所有欲が満たされることはまずなさそうだから。
- 185 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:06
-
弁償しなければならなくて、そんな日に限って理事長までいたりして、
グチグチと責められて、歩数の数だけため息をつきながら、あたしは屋上に向かった。
いいかげん冷静な関係性を考えないと。そろそろ早い子は結婚し始めてる年齢を迎えてしまった。
合コンぐらいでこんなミスをしていたら、そのときには人でも殺してしまいそうだ。
でもどうすれば分からない。歩きながら、ずっと考えていた。
鍵を掛け忘れたのだろうか、扉を開けると、そこには先客がいた。これでまた怒られる。
全部梨華ちゃんのせいだ。いや、あたしが梨華ちゃんを女々しく想い続けてるせいだ。
あたしはグチャグチャになりそうな心に蓋をして、教師の仮面を被った。
「立ち入り禁止だよー」
腕時計を確認するともう五時を回って部活もだいたい終わっている時間だった。
ベンチに座る生徒が振り返り、あたしは少しほっとした。
「なんだ、キミかぁ・・・鍵開いてた?」
「ううん。鍵持ってるの」
「おばあちゃんにもらったの?」
「誰か分かったんだ?」
「・・・理事長の名前覚えてなかったって言わないでね」
「あは、すごーい。うちと先生、いっぱい秘密があるね。秘密の関係だ」
彼女は実に愉しそうに笑っていた。
- 186 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:07
-
破裂しそうなほど痛む頭を押さえて、あたしは彼女の元へ歩いた。
悩みたくない。実りのない悩みは虚しい。思うだけなら自由だ、誰にも迷惑かけてない、
そんな風に開き直ったこともあったが、今日ははっきりと迷惑を振りまいた。
忘れなければ。考えてはいけない。梨華ちゃんのことが好きなわけないだろう。
そう思い込もうとして、頭の命令に心が反発した。愛してる。
何度繰り返したか分からない葛藤が短く終わった。あたしの気持ちは揺らがなかった。
「センセ、元気ないね。どうしたの?」
「キミのおばあちゃんに怒られてたんだよ」
「・・・・どうして?」
不安そうに問う彼女の横にあたしも腰を下ろして、
ポケットから煙草を取り出し、火をつけて大きく煙を吐き出した。
あぁ、身内が上司って気を使うことなのかと気が付いた。
あたしは相変わらず人の気持ちに疎いまま成長していないようだった。
「大人にはいろいろあんだよ」
「なにそれ、センセー何したの?」
「・・・おばあちゃんに聞いてくれ」
聞いたらきっとこの子も笑うだろうなと思っていた。
教師が備品破壊って、どんだけ気抜いてんだ、バカじゃねーかと笑うだろう。
あたしだってそう思う。だから、平常心を保てるように気持ちに整理をつけないと。
愛してる、でもだからって迷惑にならないようにするにはどうすればいいか。
冷静に距離を保てばいい。捨てられないなら隠せばいい。いや、ずっと隠してるじゃないか。
周りから隠すだけでなく、自分からも隠せばいい。
- 187 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:07
-
あらためて、あたしは彼女に問いかけた。
「キミは何をしてんの?」
「え?」
「昼休みは、あたしに弁当持ってきてくれんじゃん?でもさ、友達と喋ったりしなくていいの?
貴重な時間だよ。あたし高校の頃の友達になんかもうほとんど会ってない。すぐ会えなくなっちゃうよ?」
中学から付きまとわれていた先輩には付きまとっているが、他の友人とはもうほとんど会っていない。
大学時代の友人とは仕事の様子を聞くこともあるが、中学高校の頃の友達になると、
今なにをしているのかすら知らない。現役の高校生はこの時間をもっと大事にするべきだと思った。
あたしは出来ることならあの頃に戻りたい。梨華ちゃんを近くで見て、美貴に叩かれて、
ほとんど何も考えていないに等しかったあの頃に戻りたい。
彼女は遠くを見て、あたしに答えてくれた。
「うち、嫌われてるから」
「はは、嘘だろ?」
軽快なリズムに、整った容姿、お嬢様で、気さくな笑顔。
学生生活において嫌われる要素があるとは思えなかった。現に初めて見た日、
彼女の周りには数人の友達が集まろうとしていた。グループ行動を重んじる女子高生という集団に
彼女は溶け込んでいるとあたしは感じていた。しかし彼女は初めて真剣な目をして言った。
「嫌われてんの。でもおばあちゃんに知られたくないから表面だけ仲良しなふりしてくんの。
そんでうちはそれに気付かないほど空気読めないわけじゃないんだよね。たまんないよ?
作り物の笑顔とずっと喋ってんの。だからうちはここに来るの。ここには誰もいないから」
あたしは内心少しだけ、ホッとした。あぁ、ここで悩んでいるのはあたしだけじゃなかった。
- 188 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:07
-
「あ、そーだ。センセーの番号教えてよ」
あたしの悩みまで吹き飛ばしてくれそうな軽いノリで彼女が言った。
これぐらい能天気な年頃にも、あたしは同じ悩みに苦しんでいたな、と思い出した。
「イタ電してこねぇ?」
「うわ、ひっどーい!」
「冗談じゃん。いいよ。携帯出しな」
嬉しそうにあたしの番号を登録する彼女を眺めて、
あたしはぼんやりとしながら三本目の煙草を取り出した。
「先生、吸いすぎだよ。飴あげる」
「・・・どうも」
彼女がじっと見つめるので、半分も吸わずにもみ消して、あたしは飴を口に入れた。
甘みばかりが目立つ中、ほのかなレモンの香りが鼻に抜けた。
彼女は満足げに微笑んで、今度はあたしのオイルライターを珍しそうにいじっていた。
「なに?気に入ったの?」
「うん。かっこいい。先生に似合ってる」
ドクロが彫りこまれたそのライターは、昔梨華ちゃんがくれたものだった。
何に目覚めたのか急にそんなものを買ってきて、数日で飽きてあたしにくれた。
そんなものをもう何年も使い込んでいる自分が情けなく思えた。
「・・・欲しけりゃあげるよ」
- 189 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:08
-
手放すことで、冷静になれるような気がした。
「ほんと?」
「あぁ・・・・でも煙草は吸わないでね。指導とかめんどくせーから」
彼女はくすくすと楽しそうに笑った。
「先生ってめんどくさがり?」
「みんな面倒なことは嫌いだよ。それを口にするかしないかだけの違い」
「違うよ、何を面倒と思うかっていう違いがある。めんどくさがりは何でも面倒くさいの」
苦しいだけだから、気持ちなんていらない。なくなってしまえばいい。消えろ。
中学の頃から何度そう思ったのか数えきれない。そのたびにあたしが直面してきたのは、
つい先ほどと同じ、結局あたしは彼女を愛しているという事実だった。
そんないつしか当たり前になってしまったお決まりの考え事も、今のあたしには面倒だった。
「そうだね、あたしはめんどくさがりだと思うよ。時々飯食うのも面倒だから」
「あは、変なの」
笑ってくれてる。あたしは上手く話せてる。
虚ろなままでも、あたし自身から目を逸らしたままでも、あたしは話せている。
ライターは彼女の手の中にあった。
それを手放したら、本当にあたしの気持ちも何割か手放せたような気がした。
「大事にしてね。もう・・・五、六年使ってたヤツだから」
- 190 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:08
-
彼女はすこし驚いた顔をして、あたしを見た。
「うちが小学生の頃から先生はこれ使ってたんだ」
小学生が高校生になるまでの間、ライターはあたしの手元にあったのか。
怨念に近いほどの情念が込められているような気がした。
「あは。ありがとう、嬉しい・・・」
彼女は大事そうに両手でそのライターを握った。無邪気な笑顔があたしを安心させてくれる。
一瞬あたしの中に、梨華ちゃんが浮かんだ。どことは言えないのに、似ているような気がした。
見た目も中身も全然似てないのに、あたしの中で、彼女は何故か梨華ちゃんに重なった。
梨華ちゃんへの気持ちがこもったライターを預けたせいだろうか。
あたしはどこまで梨華ちゃんのことしか考えていないんだろう。
いいかげん、どうにかして忘れることを考えないと。
あたしは勝手だ。
想い続けているのはあたしなのに、気持ちが消えればとか、手放さなきゃとか、
それもあたしの勝手なのに、一人で悩んで、勝手に愛してるって気付かされて、
伝えることもないくせに離れる事もなく、あたしはいったい何を目指してるんだろう。
なにより、これだけ考えているくせに結局彼女が好きな自分が分からなくて、
涙が出そうで、代わりに煙を吐き出した。
- 191 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:09
-
***
- 192 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:09
-
次の日の放課後、あたしは図書室にいた。
学生時代に流し読みした聖書をもう一度読んでみようと手にとって、
持って帰るかどうか悩んだ後で、あたしは結局司書室に入った。
神にすがろうと思ったわけではない。ただ、なんとなく読んでみようと思った。
司書室は閲覧スペースとは仕切られており、ガラス越しに入ってきた数名の生徒が目に入った。
あたしは気にせず手元の本に視線を落とした。
「あ、あれ。新任の先生でしょ?」
「そうそう、超キレーだよね。作り物みたい。ホントに同じ人類?」
「聞こえるよ?」
「大丈夫だって。二月くらいにさ、あんたに会ったじゃん。全然聞こえなかったもん」
「マジ?あたし超名前呼んだのに」
二月と五月には違いがある。窓が開いているかいないかという違いがある。
その話し声は全てあたしに聞こえていたが、向かいに座っていた司書の先生が人差し指を口に当て、
あたしに向かって微笑んだので、あたしも苦笑して黙っていた。
「マジでキレー、何で先公なんかやってんだろーね」
まじまじと眺められながらあーだこーだと言われているのはムズ痒くて、
動物園の檻の中にいるような居心地の悪さを感じていた。
- 193 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:09
-
「でもさぁ、あたしあの人キラーイ」
放っとけ。
さっさと立ち去りたい。生徒からの評判なんて聞くもんじゃない。
司書の先生は相変わらず微笑んでいて、あたしにコーヒーを入れてくれていた。
「あの人梅田にシッポ振ってんだもん」
「マジ?うっざぁ」
「あーぁ、そういうタイプかぁ」
ページをめくる手を止めて、あたしは立ち上がって聞こえてると示そうかと思った。
コーヒーがあたしの前に置かれて、あたしは小さくお礼を言った。
気勢を削がれ、あたしは憮然としたまま手元に視線を落とした。
「しょせん先公なんてそんなもんだよね」
「そーだよ。いいよねぇお嬢様は。なんもしなくてもあんなの寄ってきて」
「最近いなかったのにねぇ」
「また調子乗ってんじゃないの?あんたクラス一緒じゃなかった?」
「別にぃ?いつもどおりだよ。ふらふらぁっと一人で出て行って」
「あはは、あたしらがやってたらただのキモい人だよ。お嬢様は違うねぇ」
あーぁ・・・・頭悪そうな顔しやがって。
今さらあたしが出て行っても気付かねーんだろうな。
- 194 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:09
-
「いっつもあんなの聞いてるんですか?」
「う〜ん。まぁ、たまには、ね」
だらだらと喋っていた奴らは出て行って、司書の先生はのんびりと答えた。
あたしはあんなの聞きたくない。自分の悪口も聞きたくないし、
生徒同士の悪口だって聞きたくない。
「理事長のお孫さん、気になりますか?」
掛けていた眼鏡を置いて、薄い笑みを浮かべてあたしを覗き込んできた。
見透かされるような目で、あたしはさりげなく視線を逸らした。
「まぁ、偶然が重なっただけなんですけど。ちょっと仲良いの、かな」
「そうですか。あの子があんな風に言われてるのはご存知でしたか?」
「・・・・少し、聞いていました。でも、ショックです」
あたしが嫌われてるのはどうでもいい。あたしだって学生の頃は先公なんて大嫌いだった。
ただ、その理由がショックだった。あたしが構うことで、彼女まで嫌われているなんて、
思ってもみなかった。真剣に顔をしかめるあたしに司書の先生は言った。
「お若い先生はいいですね」
子供扱いされたようで気恥ずかしく、どう答えればいいのかよく分からなかった。
- 195 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:10
-
「えーっと、未熟者、です」
的外れな言葉だったかもしれない。司書の先生は笑っていたが、
いつも笑っている人なのでよく分からない。
「私たち大人より敏感ですから。あまり立ち入るべきではないかもしれませんよ」
冷めてしまったコーヒーに口をつけ、あたしは黙って話を聞いていた。
「さっきの彼女たちのように思われるみたいですし」
ウザいんだっけ。理事長の孫に関わるのはえこひいきする奴で、
あいつらにとっちゃウザい奴なんだっけ。
あたしが気まぐれで構うのは、あの子の孤独を増すだけなのだろうか。
距離を置けと警告されているような気がした。
「難しい年頃ですからね」
「・・・そうですか」
そう締めくくると司書の先生はニコニコとあたしを見て、不意に立ち上がった。
「さて、そろそろ閉めましょうか」
- 196 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:10
-
「あ、すいません。お邪魔して」
「いえいえ。その本どうされますか?」
結局少ししか読めなかった聖書を見て、また明日読みに来ようかとも思ったが、
もう生徒の噂話なんて聞きたくなかった。
「お借りします」
「分かりました」
荷物をまとめて帰る直前に携帯を見たら、メールが来ていた。
確認するとそれは梅田えりかからだった。
“退屈”
その後には長々と絵文字が続き、本文と飾りの割合が間違っている気がした。
苦笑しながら時間を見ると一時間ほど経っていて、少し遅くなってしまったかもしれないと
思いながらもとりあえず返信した。
“なにしてるの?”
あたしも携帯メールはまめに返す方だが、それでも現役女子高生のメール速度はおかしいと思う。
携帯を閉じてポケットにしまう前に返事が来た。
“屋上にいる”
- 197 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:10
-
あたしは屋上に向かった。
頭では何をやっているか分からない。
でも心だけは、どこか浮き足立っているのを感じた。
あたしの感情というのは空回りするようにできているんだろうか。
頭で考えてすることは大体うまくやれるのに、
たった一つ、感情だけがあたしを何も出来ないバカにする。
好きな人への気持ち。どこか似ている彼女に構おうとする気持ち。
どうにもうまく噛み合っていないように思えた。
近づかない方がいいのかも、と頭では思うのに。
昔の梨華ちゃんに呼び出されていたときと同じような気持ちであたしは屋上へ向かう。
手を伸ばす勇気を持てない本人の代わりにあの子に構っているのかもしれない。
そんな気がして、自己嫌悪がたっぷりとこみ上げてくるのに、
あたしは“早く帰れ”とメールすることができない。
悲しいときは、梨華ちゃんに会いたくなる。
でも本人にはそんなに会えない。
気持ちに従うとろくなことがない。
分かっていたのに足取りだけはしっかりしていた。
彼女の心配なんてしていない。あたしはむしろ、彼女を見て自分を慰めたかったのだ。
- 198 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:11
-
実際には、それどころじゃなかった。
あたしが屋上に着いたとき、彼女は屋上のフェンスの上に座っていた。
もちろんあたしは教師として、慌てて駆け寄った。
「ちょ、危ないって・・・・」
「来ないで」
凛とした声にあたしの足がすくんだ。
芯の強そうなところだけは、本当に梨華ちゃんに似ているような気がした。
「来たら飛び降りる」
気が遠くなりそうだった。どこで間違えたんだろう。
あたしはツイてないのかもしれない。昨日までなら友達が泣くぞ、とか言えたのに、
ついさっき、彼女の友達ってのがどんなものなのか知ってしまった。
緊張の糸が切れた気がした。肩の力を抜くと、軽口がこぼれ出た。
「ふぅ・・・なんだよ?彼氏と喧嘩でもした?」
ベンチに座り、煙草を取り出した。売店の百円ライターは付きが悪かった。
「わりぃ、火、貸してくれない?」
- 199 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:11
-
彼女は昨日あげたオイルライターを取り出して、金網の上からあたしに放り投げた。
関わったことを後悔するより、今何をするかの方が大事だ。
あたしはとりあえず、一服することにした。
「せんせぇ、煙草吸ってると長生きできないんだよ」
「今まさに死のうとしてる奴に言われてもなぁ」
あたしは火をつけると、頭を掻きながら彼女に言った。
彼女は足をブラブラさせて話し始めた。
「先生・・・うちね、生理来ないんだ」
喧嘩どころか仲良くやってるもんだ。
そしてあたしはえもいわれぬ浮遊感に包まれた。
夢でも見ているような、いや、誰かの台本に踊らされているような、
あぁ、ここはあたしが逃げ出した神の箱庭の中だったと急に思い出した。
「・・・バカだなぁ」
「なんでバカなの?」
「堕ろせよ」
その年で産むわけにもいくまい。なら選択肢は一つ、非常にシンプルだ。
それにしても、なんであたしがこんな非情いことを言わなければならないんだろう。
- 200 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:11
-
「彼氏逃げたの?あたしが付いてってあげるから。こっち来いよ」
「先生は殺したいんだね」
「あぁ。殺すべきだと思うよ」
あたしはその言葉から逃げなかった。
そのとおりだ。この子の中に宿った新しい命を殺すのだ。
すでに頭では準備を考えていた。同意書へのサインは友人に頼もう。
生徒のこととは黙って、あたしが堕ろすんだと言って協力してもらおう。
候補を数人考えて、次の休日に病院へ連れて行こうとしている。
これを殺人計画だと認めよう。でもあたしの方が彼女より罪深いとは思わない。
「だって、キミも殺そうとしてる」
彼女がここから飛び降りれば、その新しい命も終わりだ。
それよりは絶対に正しい。二つの命が消えるより、そのほうが絶対にいい。
祝福の中に生まれるのでなければ、子供まで不幸だ。
「なるほど、石頭らしい考え方だ」
「・・・そりゃどうも」
「まぁ先生の勘違いだけどね」
「は?」
- 201 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:12
-
「子供できたわけじゃないよ」
「お前・・・・嘘かよ。驚かせやがって・・・・」
考えたことは全て無駄になった。少しだけホッとして、気付いた。
できてない、ならなんでこんな状況になってるんだろう。
あたしが考える必要はなかった。彼女はすぐに教えてくれた。
「嘘じゃないよ。生理こないの」
「あ?」
「きっと先生のほうが詳しいよね。染色体異常だって。生まれつき、生理来ないの」
一瞬、なにも分からなかった。
「先生、生き物ってね、子孫を残すために生きてるんだよ」
「そう、だっけ・・・」
あたしは続きを聞きたくなかった。何を言うのかはすぐに想像がついた。
だからそれを言葉にしてほしくなかった。
「ねぇ先生?」
でも彼女はそれを口にした。あたしの心を真っ直ぐに射抜いて、
目を逸らそうとしたあたしに聞きたくない言葉をぶつけた。
「だったらさぁ、うちは生きてたって空しいだけじゃない?」
- 202 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:13
-
どんな言葉を贈るのが正しいんだろう。これほど返答に困ったことはなかった。
「先生だったらどうする?うちと同じだったら、先生は何のために生きていく?」
あたしはただ肺の中を紫煙で満たし、汚し、時間が流れるのを眺めていた。
「それとも、うちと同じことする?欠陥品は生きてたってしょうがないもんね」
その言葉が、あたしの中に暗く響いた。
これだから神はキライなのだ。救うべきだろう。救われるべきだろう。
この子はお前の教えに忠実であろうとしてるじゃないか。
お前の台本に従おうとする子羊を、なぜ救わないんだ。
何のための教えだというのだ。
新しい命を簡単に殺そうとしたあたしのような人間より、
自らの人生に子供は必要ないと選択するような大人たちより、
誰よりもこの子はお前の定めた本能を大事にしてるじゃないか。
人が子孫を残すために神に創られたというなら、
この子を救わず誰を救うのか。
目頭が熱くなるのを感じた。
「欠陥品なんて・・・言うなよ」
「センセー・・・泣いてるの?」
- 203 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:13
-
そんな人は世の中に多くいるだろう。不妊に悩み、闘っている人は多いのだろう。
でも、それをあたしが言っても意味がない。お前はどうなんだと聞かれれば、
返す言葉もない。神に従うどころか、神が禁じた愛に悩まされている。
そんなあたしには贈る言葉が見つからない。あたしはただ繰り返すだけだった。
「欠陥品なんて・・・・言わないでよ・・・・」
滲んだ視界の中で手にした煙草の灰が落ちたのが見えた。
同時にガシャンと音がして、彼女は金網から校舎の方へ飛び降りた。
ゆっくりと彼女が歩み寄り、頭を抱えるあたしの手をそっと握り、
あたしは顔を上げた。
ひざを突いてあたしを見つめる彼女があたしの肩に手を伸ばす。
抱きつかれたあたしは彼女を見た。
あたしの頬を撫でる髪を、ただキレイだと思った。
「センセ、付き合ってよ」
淡い香りが鼻腔をかすめる。
「せんせぇの彼女にして?そしたらさ、悩まなくていいもん」
耳元で囁く声があたしの脳を直接揺さぶる。
「子供出来なくたって、うちが欠陥品だってこととは別問題じゃない?」
- 204 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:14
-
なんでそこまでして恋に生きたいのか。
報われない恋の悲しみと生きてきたあたしには、それが理解できなかった。
心をとらわれ、身動きできなくなるだけじゃないか。
「もう二度と・・・・そんなこと言うな」
「あれ?先生恋人いるとか?残念。うちじゃダメかぁ」
冷静になってきたあたしは、彼女を引き剥がした。
肩を押して真っ直ぐに彼女を見つめる。
「違う。そんなんじゃなくて」
確かに好きな人がいるから付き合えないという気持ちもあったが、
伝えたかったのはそんなことじゃない。
「人生は恋だけじゃない」
実際にあたしなんかと付き合ったら、きっと彼女はもっと苦しむだけだと思う。
あたしの心は彼女とはまったく別の場所に囚われている。
報われない気持ちの痛みを、あたしは誰より知っている。
「もうちょい大人になるまで生きてみな?きっといろんな価値あるものに出会えるから」
自信はない。あたしは23まで生きてみたけど、梨華ちゃんへの気持ち以上に大事なものは特にない。
だったら恋は、たとえ片想いでも素敵なものなのかもしれない。ふと、そう思った。
彼女はにっこりと微笑んだ。
- 205 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/13(月) 12:14
-
「なんかかっこよく振られちゃった」
それはいつもどおりの笑顔で、あたしは静かにホッと息をついた。
「とりあえず大人になりなよ。ね?」
口元を吊り上げて笑う彼女を連れて、あたしは屋上を出た。
誰もいない校舎に足音が響く。しばらく黙って階段を下りていった。
少し先を行く彼女が不意に振り返って話し出したとき、あたしは驚いて固まってしまった。
「あ、先生っ!18歳になったら付き合ってくれる!?」
「は?」
「うちが18になったら先生いろんなこと出来るよ。ね?」
「・・・んなこと気にして言ってんじゃねーよっ!」
どうやら本気で言っているらしい彼女を怒鳴りつけた。
彼女はいたずらっぽく笑っていた。なんとなく、全てがイヤになる。
あんな騒ぎは初めからなかったような気がしてきて、あたしはため息を吐いた。
万が一にもないだろうけど、この子と付き合うことになったら、
梨華ちゃんに紹介して笑ってもらおう。
生徒に手出してんじゃねーよって、腹抱えて笑ってもらおう。
そう思ったらまた涙がでそうになったけど、すこしだけ気分が楽になった。
- 206 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/13(月) 12:14
-
- 207 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/13(月) 20:20
- ものすごく惹き込まれてドキドキしながら読みました。
続き、楽しみにしてます。
- 208 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/14(火) 01:55
- いいですね〜☆
- 209 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/15(水) 15:13
- 深いです。みんな深い。
それぞれのキャラの内面が興味深くて面白いです。
特によっしーが好きですw
- 210 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/16(木) 00:00
- おもしろい。
そして、救われたい。
- 211 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/16(木) 03:12
- 面白いです
毎回更新が嬉しくてたまらないです
また最初から読み直してますが、話がすっごい分厚いですね
次回も楽しみにしています
- 212 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/18(土) 14:34
- >>207-211
ありがとうございます
ただそんなに楽しいお話でもないです
ごめんなさい
- 213 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/18(土) 14:34
-
石川梨華はずっとあたしの中で一番だった。
美貴は公立高校に入っていて、梨華ちゃんは高等部にあがっていて、
あたしは宗教色のない進学校に通っていた。
高校二年の秋、気付けばみんなバラバラの高校だったのに、
ヒマさえあればあたしたちは集まっていたように思う。
ぎりぎりと鎖で締め付けられながら踊らされているような感覚がなくなったわけではなかったけど、
あたしを悩ます頻度は減っていた。外にも世界はあるのだと、そんな当たり前のことに気が付いた。
そしてあたしはバカだった。神との決別とかそれ以前に、
わざわざ好きな人と違う高校を受けているのだからバカとしか言いようがない。
いざ飛び出してみた外の世界は、自由であることがあまりに当たり前で、
閉塞感に満ちたあの学校のことを忘れて、戻りたくなってしまいそうだった。
高校に入ってからは、美貴とは毎日会うわけではなくなったが、梨華ちゃんとはほぼ毎日会っていた。
あたしは毎日梨華ちゃんが帰る時間くらいに学校の前を通るので、一緒に帰っていた。
偶然、偶然だと自分に言い聞かせて。でも、あたしのそんな努力はまったくの無意味だったと、
梨華ちゃんがいつもどおりの時間に出てこなかった日に思い知らされた。
出てこなくて、避けられてるのか、とか考えてしまって、泣きそうな顔になっていたんだろう。
往生際悪く歩く速度を緩めたり、携帯をいじってみたり、回り道して戻ってみたりしていて、
やっと出てきた梨華ちゃんはあたしを見つけるとこう言った。
「おまたせ」
- 214 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/18(土) 14:35
-
「別に待って、ないけど」
「そう。美貴ちゃんが遊ぼうって言ってるの。おいで」
あたしがぎりぎりで言った言葉を受け流し、梨華ちゃんは駅前へ向かった。
そのまま美貴が待つというファミレスに入って、美貴も当然のようにあたしを迎えた。
「ひとみちゃんって何でもできるよね」
「もっと真面目に生きろよ、バカ」
たまたまカバンに入っていた全国模試の結果を勝手に二人で見て、
梨華ちゃんは素直に感心し、美貴は面白くなさそうに悪態をついていた。
「なにその金髪。なんかムカつくわ」
「自由な校風なんだよ。金髪だって真面目に生きてるし」
「あのねぇ、バカにしか見えないの。そんな頭でこんな成績気持ち悪いわ」
美貴の言葉には棘しかない。
言い合いに発展する直前に梨華ちゃんが言った。
「いいじゃない。似合ってると思わない?」
そう言って、お気に入りの人形でも撫でるみたいにあたしの髪を撫でた。
梨華ちゃんが似合うと言ってくれたから、あたしはずっと金髪だった。
梨華ちゃんが笑ってくれるから、あたしはずっとふざけてた。
- 215 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/18(土) 14:35
-
私服で、金髪で、学生証を見せなければフリーターにしか見えないような格好で、
二人の後ろを、うるさそうな顔をして歩いていた。
本当は嬉しかった。本当は楽しかった。だからしかめっ面も初めだけで、
数分もすればあたしは笑っていた。
「ま、確かにミキも似合ってるとは思うけどね」
「うわ、美貴が褒めてる。気持ち悪い」
「褒めてねーよ、髪が傷むぞ、ハゲるぞ」
「・・・・え」
想像して、あたしは本気でショックを受けた。
「冗談だよ、バカ」
美貴は笑って、あたしの頭をわしゃわしゃと掻いた。
「よっちゃん、コーラ飲みたい」
「・・・・」
「返事は?」
「・・・・はい」
使われるのは全然イヤじゃなかったけど、とりあえず形だけ嫌がってみせて、
制服でないのをいいことに堂々と吸っていた煙草をもみ消して、
あたしはファミレスのドリンクバーへ美貴のコーラを取りに行った。
- 216 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/18(土) 14:35
-
グラスに氷を入れ、コーラの代わりにコーヒーを入れてやっているときだった。
「吉澤さん?」
そう呼ばれて振り返ると同じクラスの女の子が三人、あたしの後ろに立っていた。
「あ・・・」
真ん中に立って、もじもじと下を向いているのは、
数日前にあたしに交際を申し込んできた子だった。
きっぱりと断って、それから一度も話していなかったのに、
どうしてこんなタイミングで声を掛けられてしまったのだろう。
取り巻きのような二人は、あたしとその子をくっつけたいようだった。
せっかくだから一緒にとか、今度どこかにとか、これは運命とまで言っていた。
気弱そうなその子のためにと思っているのかもしれないが、
同性に告白できる勇気溢れる子にそんな援護は必要ない。
あたしはその子のことがどうも嘘臭く感じて苦手だった。
相手に強く言わせないような空気をかもし出し、弱々しいふりをした狼。
明確な嫌悪感すら抱いていた。でも何も言えない自分のことも気持ち悪くて、
せっかく見えるようになった自由な世界がどんどん狭まってきているように感じた。
暗く、冷たく、どこまで行っても逃げられないような気がして、
やっと見つけたかりそめの自由が消えてしまうのを感じていた。
- 217 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/18(土) 14:36
-
突然、梨華ちゃんの声がした。
「ごめんね。私のだから」
背中から回された腕にぎゅっと抱きしめられて、声の方に視線をやると、
あたしの横から顔を覗かせた梨華ちゃんが妙に攻撃的な目をして睨みつけていて、
同級生たちは目を丸くして固まっていた。
真ん中の一人の、うじうじした仮面が剥がれそうになっていて、
それがたまらなく気持ち悪かったが、視界は開けたような気がした。
「そうそう。うちのパシリにちょっかい出すのやめてくれる?」
美貴までやってきて、あたしの肩に手を置いて睨みつける。
あたしに絡みつく二人の間で、あたしは少しずつ温度を取り戻していくのを感じた。
向かいの三人は小さな声でなにやら話して、すぐに店を出て行った。
ここは自由な外の世界だと、自分に言い聞かせた。
開放されたと思ったのだが、まだ肩が重かった。
美貴と梨華ちゃんは、まだ離れていなかった。
「・・・あたしは誰のパシリとかじゃないんだけど」
「そうなの?知らなかった」
「コーヒーはよっちゃんが飲むんでしょ?ねぇ?喧嘩売ってんの?ミキコーラって言ったよね?」
何事もなかったかのように美貴がペシペシとあたしの頭を叩いていた。
- 218 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/18(土) 14:36
-
叩かれながら席に戻ると、美貴がなんでもなさそうに口を開いた。
「よっちゃんイジメられてんの?」
「別に・・・」
イジメられているわけではない。たまたまあの子が苦手なだけだった。
でもその理由を説明するのが億劫で、あたしは黙っていた。
「なぁんだよ、言いたくないわけ?」
それでもあたしは何も答えず、コーヒーを飲んでいた。
美貴は咥えていたストローであたしを指して、はっきりとした声で言った。
「ズバリ!あの子、よっちゃんのこと好きでしょ?」
「あ?」
そんなわけないだろうと、思いっきりバカにしたような顔で美貴を見た。
「んふふ、隠すなって。よっちゃんってホント分かりやすいよね」
ひねくれていると自覚していたのだが、美貴はよくこんなことを言っていた。
それで的外れなことを言っているのならただのバカだと思うのだが、
美貴は時々あたしの考えていることをこんな風に言い当てる。
もしかしたら梨華ちゃんと美貴の前でのあたしは、素直な後輩なのかもしれない。
だから一緒にいると楽しいのかなと、そんなことを漠然と感じていた。
- 219 名前:MIND-reminiscence- 投稿日:2008/10/18(土) 14:36
-
美貴がバイトの時間だと言ったので一緒に店を出て、入り口の前で別れた。
別れ際、力強い声で美貴はあたしに言った。
「あの子ら、何か言ってきたらミキに紹介しな。じゃね」
美貴はあたしと同じだと思ってた。箱庭から逃げ出した一人だと思っていた。
でも違ってた。美貴は、外の世界でも何一つ変わることなく生きていて、
強く真っ直ぐと前を見ているような気がした。
外に立つ美貴を見て初めて、箱庭の中でも美貴は自由だったのだと気が付いた。
それが羨ましくて、寂しくて、ちょっとムカついて、哀しくて、自分が矮小な気がして、
美貴のいない帰り道で梨華ちゃんが家に寄っていくかと行ってくれたのに、
あたしは小さく「帰る」と答えた。ゆっくりと、あたしの嫌いな感覚が染み出てきていた。
背を向けて歩き出した瞬間、梨華ちゃんはあたしの服のフードをキュッと掴んだ。
首がカクンと引っ張られ、あたしは振り向いて尋ねた。
「・・・・なにすんの?」
「なんか、ひとみちゃんって掴んでないとどっか行っちゃいそう」
「家に帰るんじゃん」
「う〜ん、分かってるんだけどね」
梨華ちゃんは自分でもよく分からないという様子で考え込んでいた。
掴むにしても裾とか掴んでくれればいいのに。油断していた首が痛んだ。
でも首の痛みは、あたしの目を覚ましてくれた。
たぶんあたしは二人の先輩に、それぞれの方法で繋ぎ止めてもらっていたんだと思う。
背中を見せ付けてくれる美貴と、感覚だけであたしを見てくれる梨華ちゃんが、あたしの救いだった。
- 220 名前:MIND 投稿日:2008/10/18(土) 14:36
-
◇◇◇
- 221 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:37
-
二度目は六月の初めのことだった。
弁当を持って来る彼女にあたしは毎日毎日会ってるのに、前触れはほとんど感じられなかった。
授業中はつまらなさそうに落書きしてて、その日の昼休みも、彼女はあたしの横に座って笑っていた。
あたしは彼女からのメールを受けて、放課後にまた屋上へ向かった。
ドアから見えた長い人影にあたしはゆっくりと近づいていた。
「うっ・・・」
あたしはうめき声と共に袖で鼻を塞いだ。時期にそぐわない、鼻をつく灯油の匂い。
嗅覚から連想された炎は燃えるような夕焼けのせいか鮮明に広がる。
「あ。センセーだ・・・・あんまり近づくと危ないよ?」
のんびりとした声と共にポケットから取り出されたそれは、あたしが彼女にやった銀色の―――
「やめろっ!」
走り出したあたしは間一髪のところで彼女からライターを奪い取った。
倒れこんで全身油まみれだ。もう少し遅かったら、あたしは彼女と一緒に火達磨だった。
もっと来るのが遅かったら焼死体とご対面するところだった。
「あー・・・くっせぇ。自分がくせぇ」
- 222 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:37
-
組み敷いたような姿勢のままでしばらく呆然としてしまった。
見詰め合ってはいないが、顔が近い。手にしたライターを硬く握り締め、
こんなことに使われるくらいなら煙草でも吸ってくれと思った。
「せんせぇ、えりかって呼んでみて」
なんだよ。もう、別のこと考えてんのかよ。今、死にかけたくせに。
あたしは彼女とは逆に考えるのが面倒になっていった。
力なく寝転ぶ彼女の言いなりになって呟く。
「・・・・えりか」
何をやっているのか分からなくなって、泣きたい気持ちになった。
彼女は目を見開いてあたしを見つめていた。
「ヤバイ、今ドキッとした」
「は?」
「ね、もう一回言って」
こんな油まみれの状態じゃ煙草も吸えない。
これ以上ないほど一服したい衝動に駆られながらあたしは立ち上がった。
大の字に転がった彼女は寝返りを打って、頬杖をついてあたしを見上げていた。
期待の込められたような眼差しに吸い込まれて、何を寝ぼけたのか口から名前が出そうになって、
頭を振ってわれに返った。
「教室で呼んじゃったらどーすんだよ」
「いいじゃん。言ってよぉ」
- 223 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:37
-
「・・・・ヤだよ。帰るぞ」
「けちぃ」
「ライター没収な」
「えぇ〜?気に入ってたのにぃ」
「ダメ」
手元に帰ってきたライターはあたしにとって想い人からもらったライターではなく、
面倒を引き起こしたライターにその意味を変えているように感じた。
「くっせぇし・・・いってぇし・・・・」
どうやら倒れこんだ際に打ってしまったらしく、肩や腕や足が鈍く痛む。
ゆっくりと歩くあたしを彼女は軽やかに追い越して行った。
遠ざかった背中がドアの向こうで立ち止まる。振り返ることはなく、あたしも声を掛けない。
西向きのドアに差し込む目に染みるような夕日に目を細め、
わずかな距離を背中で感じながら鍵を閉めていた。
「ねぇ先生」
呼ばれてあたしは振り返った。いつの間にか少しだけ広がった距離を見つめ、
茜色に染まった階段を一段下がった彼女は、上目遣いにあたしを見上げ、
「大好き」
そう言って、微笑んだ。
- 224 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:38
-
***
- 225 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:38
-
それからも週に一度は梅田えりかに呼び出され、
そのたびに彼女の行動はひどくなっていたような気がする。
あるときは飛び降りようと、あるときは手首を切ろうと、首を吊ろうと、
また炎に包まれようと、理科実験室でガス漏れもあった。
昼休みは毎日弁当を持ってきて、にこやかに過ごし、放課後には電話で呼び出され、
毎回とんでもない場面に出くわす。あたしには彼女が何を考えているのか分からなかった。
「おまえなぁ・・・」
「ぶー」
のん気に理科室の机に腰掛けた彼女は頬を膨らませて不満げにあたしを見上げていた。
教室が爆破される寸前にあたしはたどり着き、換気してライターを取り上げた。
疲れきって、バカバカしいとすら感じているのに、
呼ばれたら必ず行く自分のことはもっと分からなかった。
「これも・・・没収な」
「いいよ」
彼女があっさりと手放した新しく用意されたライターは、
あたしの持っていたドクロのライターと同じタイプで、十字架が刻まれていた。
「うちからのプレゼント。先生に似合うと思って買ったの。だから先生のちょーだい」
「・・・フツーに渡せないの?」
「え、なんか、恥ずかしい」
- 226 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:38
-
頬を桜色に染めて、まったくもって理解できない。
年の差とか、世代の差とかそんな理由なのか、それとも個性の差なのか。
「冷静に考えてみろよ。あたしが来なかったらどうすんだよ?」
「考えんのヤダ。それよりフッて消えちゃいたい」
「会話しづらいな、お前・・・」
思うような回答が得られない。
手元には新しいライター、オイルは入ってるのかどうかも分からない。
結局没収しても買ってくるだけなら、取り上げたって無駄だ。
「よし。あげるからさ、体育館。付いてきてよ」
ドクロのライターを渡し、彼女の手を引いて誰もいない放課後の廊下を歩いた。
体育館に着くと、あたしは足元にバレーボールを置いた。
彼女は入り口に立って、斜に構えていた。
「うだうだ考えて頭がいっぱい。そーゆーときは・・・」
助走をつけてタイミングをあわせ、
「こーすんだよっ」
思いっきり蹴りこんだボールはバスケットのリングを揺らし、高く上がった。
- 227 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:38
-
天井すれすれまで舞い上がったボールは真っ直ぐに落ちてきた。
パスッと軽い音がして、リングを通り抜けたボールがあたしの足元に転がってきた。
「あっは!すごくね?やばい、あたし天才かも」
「すごーい!先生かっこいい!!」
ただの偶然だった。ただ全力でボールを蹴りたかっただけで、的があったほうがやりやすかった。
それだけで、入るとは思ってなかったがあたしのテンションはものすごく上がった。
「だろ?おし。やってみ?」
「ヤダ」
「あぁ!?」
嬉しそうに手を叩いていたくせに、ボールを差し出すと彼女はそっぽを向いた。
「・・・んだよー、面白くねーなぁ」
「体動かすのは苦手だからキライ。先生は得意そうだね」
「やらねーから苦手なんだよ。筋肉も神経も使えば発達する。スポーツやってみたら?」
「先生が教えてくれるなら・・・やってみようかな」
「個人授業?」
「そう。それならやる」
あたしには想像できた。
時間はある。放課後、この子と個人的にスポーツしていてもまったく問題はない。
でもそれが他の生徒の目にどう映るのか、あたしには簡単に想像ができた。
図書室にいた生徒の顔が頭を離れなかった。
- 228 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:39
-
ともすれば“いいよ”と言ってしまいそうな蕩けた脳みそを抑えて、
あたしは理性で黙り込んだ。考えて見つけた答えの方が大抵の場合、正しい。
蹴りこんだバレーボールを籠に戻し、バスケットボールを取り出した。
フリースローラインに立って、一本放り投げ、完璧な放物線を描き落ちていくボールを見つめた。
パスッとネットが小気味のよい音を立て、リングに触れることもなくボールは落ちた。
「センセって勉強もできるんだよね?」
何も答えないあたしに彼女が尋ねた。
彼女にも分かっているんだろう。特別扱いの理由をどこに結び付けられるか。
その結果がどうなるのか、彼女にも痛いほど分かっているはずだった。
当然のように話は変わり、あたしもその質問には答えた。
「ま、苦手ではなかったけど」
「苦手なものってないの?先生の弱点教えて」
「聞いてどーすんの・・・?」
弱点なんて自ら進んで教えるようなものだろうか。
あたしはできれば知られたくない。彼女がそんなことを考えさせるから、
瞬間頭によぎったのは、大嫌いなにょろにょろ動く奴だった。
「うげ。思い出しちゃったじゃんか」
「え、あるの?なになに?教えて」
「だから聞いてどーすんだよ?」
- 229 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:39
-
彼女は拗ねたように答えた。
「どーもしないよ。先生のこと知りたいだけ」
口を尖らせる、その仕草があたしに梨華ちゃんを思い出させる。
理由が分からない。なんでだ、と散々悩んで、あたしは考えることを放棄した。
「・・・・蛇」
聞かれる全てに答えて、聞かれてないことまで答えて、楽園を追放されよう。
誰にとっての楽園か知らないが、この箱庭からいつでも出て行ってやろう。
「ついでに心理的にそれが象徴するモノも好きじゃない」
ふわふわと、世界が廻る。
中三の秋、逃げださなかたらあたしはここに縛られていたんだろうなと思った。
自分が高校生に戻ったような気がして、目を輝かせて笑う彼女が誰だか分からなくなった。
「やっぱそーなんだ!」
「うるっせぇよ。声でかい」
「んふふ。うちが18歳になったらね」
「・・・・まだ言ってんのか」
あたしはこの庭からとっくに逃げ出して、外の世界を生きて、少しずつ回り始めた頭で確認したら、
今度は自分がここにいる理由が分からなかった。
- 230 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:39
-
あたしはここで何をしているんだろう。
あたしは誰なんだろう。人形、神の、ここは、箱庭。
楽園。追放者。逃亡者?亡命。自由、ここにはないもの。
薄れそうになる意識を引きずり戻してくれたのは彼女の一言だった。
「先生」
ぼうっとしている間にあたしに随分近づいてきていた彼女が、
後ろからそっとあたしを抱きしめた。
そうだ、あたしは先生で、この子は生徒で、気分転換にここに来たんだと思い出し、
軽く頭を振って気を確かに持った。あたしのすぐ後ろで、彼女は柔らかな声で言う。
「忘れないでね。うちがここに居て、こうしてて、この時間を忘れないでね」
ふわふわと現実感が失われていくのに、それがひどく心地よかった。
ゆったりと流れる時間の中、あたしは目を閉じた。
「記憶力いいから大丈夫」
この子の意識はどうしようもなく負の方向に向かってる。
気付いていたのに、あたしには的外れなことしか言えなかった。
なにを今さらって思われるかもしれないけど、
代わりにしてただけだって思われるかもしれないけど、
全然イヤじゃなかったし、迷惑だなんて思ってなかったんだ。
これだけ言ってくれてる彼女に、好きだよって一言言うのは簡単だった。
でも、あたしはどっか馬鹿だから。そんな嘘は絶対につきたくなかったんだ。
- 231 名前:MIND-sacrifice- 投稿日:2008/10/18(土) 14:39
-
「せんせぇ・・・好きな人いるんだよね」
あたしが唯一大切にしたいと思っている気持ち。
神との決別を決めさせてくれた気持ち。
それがあるから、それが消えることがないから、彼女に好きだとは言えない。
自意識過剰なあたしの勘違いでなければ、彼女に軽々しく言っていい言葉ではないはずだ。
「・・・うん」
認めることは、残酷だろうか。認めないことは、卑怯だろう。
少しだけ迷ったけど、彼女がくすりと笑ったのが聞こえて、
あたしの選択は間違ってなかったんだと思った。
「どんな人?綺麗なんだろうなぁ」
「綺麗だよ。可愛くて、女の子らしくて、度胸満点で、背低いのに迫力がある」
「なにそれ、どんな人か分かんないよ」
「う〜ん、まぁ一言で言うと“世界一のいい女”かな」
「あは、のろけてる」
梨華ちゃんのことをこんな風に話せる人はあたしの周りにはいなかった。
あたしの気持ちは友人の誰も知らない。美貴はそんなことを言ってくるが、認めたことはない。
大学時代に一人だけ知っていたが、そいつも今はどこで何をしているのかさっぱり分からない。
そんなに恋の話などしたことがない。どこかバカにしていた自分を反省した。
恋する人の話は、楽しい。あたしはそれを初めて教えてもらった気がした。
きっとつらい思いをさせただろう。それでも笑ってくれた彼女にありがとうと言いたかった。
- 232 名前:MIND 投稿日:2008/10/18(土) 14:40
-
◇◇◇
- 233 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:40
-
言ってくれればバカなあたしはいくらでも振り回されてやるのに、
最後の最後であの子はあたしに何も言わなかった。
警報が出て午後から休校になった七月のある日だった。
なんの罰ゲームか知らないが、あたしはその日、学校に残らされていた。
窓を叩く雨がうるさくて、空を劈く雷が耳障りで、時々かかってくる電話に頭痛がした。
ボーナスでも貰わないと割に合わない気がしていた。
誰もいない宿直室で、あたしは携帯をいじってた。
誰かが持ち込んだゲーム機にも飽き、時間は夜十時を回ったくらいだっただろうか。
あの偶然は人からすれば虫の知らせというかもしれないけど、
あたしからすれば無意味だった。
「あっち!」
夕食にカップラーメンを作っていたあたしの手に汁がかかった。
手が滑り、どこをどう触ったのか、あたしの携帯は彼女に電話をかけていた。
慌ててこぼれた汁を拭き、やっと携帯に手を伸ばしたとき、画面は通話中になっていた。
説明するのかっこ悪いなと思いながらあたしはそれを耳に当てた。
「あ、わり、今さ――」
『・・・・・』
轟々と風のうねる音と、激しい雨音が聞こえた。
- 234 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:41
-
「・・・・どこにいるの?」
こんな雨の夜に、何が起きているんだろう。心臓が早鐘のように鳴る。
『・・・・屋上』
自殺ごっこには足りないだろう。止めにいくあたしへの連絡がなかったじゃないか。
『せんせぇって、映画のヒーローみたい。なんでこのタイミングで電話してくるかなぁ』
困ったような笑い声と一緒に、彼女が言った。
あたしは何も言えなかった。ただふらふらと部屋を出て、階段の方へ向かっていった。
『あれぇ?センセー?なんか喋ってよぉ』
ひたひたと、スリッパが階段を一段一段数えるように音を立てる。
電話の向こうからは相変わらず轟々と震える空気が伝わってくる。
直に聞こえた雷の音が、少し遅れて受話器からも聞こえてきた。
『センセイの声、聞きたいな』
「・・・・今、学校にいるから。待ってて、すぐに行くから」
『来ないで』
ひたっ。
あたしの足は、進むことを止めた。
- 235 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:41
-
『ねぇ先生、名前呼んで?』
立ち尽くし、彼女の落ち着いた声に聞き入った。
心に刻まれるほど優しげなトーンは、あたしから思考力を奪っていく。
『もういいでしょ?ほら、もう会えないんだし』
なんとか理解できた言葉にハッとして歩みだした。
会えない。何が起きている?何があった?
何も分からないけど、行かなければ。
それしか考えられず、のどの奥が張り付いて声も出せない。
ただ足だけを無心に動かしだした。
『ダメかぁ・・・・センセー一途だもんね』
待ってくれ。そう言いたかったのに、口からは息だけが漏れる。
ヒューヒューと鳴るあたしののどは言うことを聞かない。
ひたひたと階段を上る足も感覚がない。
『何度も何度も助けてくれて、ありがとね』
運動神経には自信があったのに、あたしは階段に躓いた。
意識が朦朧としていた。上手く呼吸できているんだろうか。苦しい。
痛い、という一言も発することが出来ず、うつむいた瞬間、彼女の声がした。
『・・・・バイバイ』
- 236 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:41
-
反射的に顔を上げたあたしは、三階の踊り場を見上げていた。
ガラス張りの真正面、カッと光った稲妻に照らされて、窓の外を落ちていく人影。
大きく手を広げ、真っ逆さまに空へ浮かんで切り取られたその瞬間は、
逆さになった十字架に磔にされているかのようで、
まるで天使のように羽根が生えている気がして、今にも飛び立ちそうで、
もう二度と飛ぶことはないのだと予感させる空虚を抱えて、天使は堕ちていく。
あたしの目に焼きついたそれは宗教画のように神々しく、
あまりの美しさにあたしは意識を手放した。
数秒後われに返って、あたしは階段を駆け下りた。
足がもつれて何度も転びそうになりながら、あたしは必死で走った。
震える手で閉めてしまった玄関を開け、階段から見た場所の真下に走った。
ビシャビシャと雨が跳ね、一瞬で濡れそぼった髪が顔に張り付く。
暗くて段差も何も分からない。何度も何度も足が震え、あたしは影に駆け寄った。
横たわる影の横に屈みこみ、あたしは小さく彼女の名を呼んだ。
「・・・えり・・か?」
頬に手を伸ばした。わずかに残った温度はみるみる雨に奪われていく。
また空を走った光が影の顔を浮かび上がらせた。
見開かれた瞳と目が合った。
- 237 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:41
-
上手く呼吸ができない。あたしは今にも止まりそうな浅い呼吸を繰り返していた。
「はぁっ・・・・はぁっ・・・・」
水溜りにライターが転がっていた。ドクロの付いた、あたしのライター。
―先生、―センセー、―せんせぇ、―センセ、―先生って、―先生は、―センセが、―せんせぇの、
「はぁ・・・・はぁ・・・・はぁ・・・・」
こんなものを持ってキミは、どうしてこんなものを。
―ねぇ先生
茜色に染まった階段を一段下がった彼女は、上目遣いにあたしを見上げ
―――大好き
「うわああああぁぁあああぁああぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁあああああああああああああああああ
あああああああああああぁぁぁぁぁああああああああああああああぁぁぁあああああああああああぁ
ぁぁぁぁああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
- 238 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:42
-
***
- 239 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:42
-
―
――
――――
―――――――
―――――――――――
―――――――――――――――ピリリリ ピリリリ・・・・ピッ
「・・・・はい」
『ひとみちゃん?』
『元気ないね。どうかした?』
「・・・なんで、このタイミングで掛けてくるかなぁ」
- 240 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:42
-
風の音が聞こえる。
雨は止んだ。
雷雲は空を一掃して、深い青が広がっている。
「梨華ちゃん・・・・」
ガチガチと鳴る奥歯。こみ上げる涙。
眼下に広がる街は静かで、遠くの道路からは変わらない喧騒が聞こえて、
昨夜の出来事なんて嘘みたいに時間は流れていて、
なのに、屋上にあの子の姿はなかった。
なのに、あたしは。
「飛べないよぉ・・・梨華ちゃん・・・」
あたしには、飛べない。
煽られるような風を感じていたのに、
重心を少し前にすればそれだけで、あたしは真っ逆さまに落ちていく。
それだけのことなのに、あたしは出来なかった。
- 241 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:43
-
『・・・・どこにいるの?』
あたしは屋上の縁にいた。
梨華ちゃんは昨夜のあたしとまったく同じ言葉を吐いた。
あぁ、きっと彼女もこんな気分だったんだろう。
電波で繋がった蜘蛛の糸。
「梨華ちゃんは・・・ヒーローみたいだ」
その糸は細く、目を凝らさないと見失ってしまいそうで、
手繰ってみていいのかどうかも分からなくて。
彼女と同じ言葉を呟いて、小さくなりながら手探りで感触を確かめる。
終わりを意識したら伝えてみたくなった言葉があった。
「ねぇ梨華ちゃん知ってた?あたしね、梨華ちゃんのこと―――」
『お別れなら言わせないからね』
電話の向こうで梨華ちゃんはきっぱりと言った。
会いたい、そんな衝動がこみ上げた。どうしてあの子にこう言えなかったんだろう。
一世一代くらいの大きな覚悟を決めてあなたに告げようとした言葉、
あなたはやすやすとその出鼻を挫く。
あたしが出来なかったことを軽々とやってしまったあなたが、眩しかった。
『どうしたの?続きは?』
「・・・・なんでも、ない。大丈夫。そんなこと言わない。今学校だから、後でかけなおすよ」
あたしはその糸に、醜く縋り付いた。彼女と同じ道は歩けなかった。
あたしはヒーローじゃない。あたしには翼なんかない。飛べない。跳べない。
お前のところへ行くこともできない。
- 242 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:43
-
足に力が入らなくて、倒れこむと屋上のフェンスがガシャンと大きな音をたてた。
もたれかかって、あたしは煙草に火をつけて目を閉じた。
右手で握ったライターの十字架の感触があたしを責めた。
あたしの中のたった一つの感情は、どこを向いているのかと。
ポケットの中にはもう一つ、ドクロのライターが入っていた。
明るいところで見たら赤黒く汚れていて、あの時は暗くて分からなかったが、水溜りは血溜まりだった。
あたしはあの子に行く場所を、あの子の居場所を作ってやれなかった。
十字架のライターを両手で握り締め、額に押し当て、あたしは声を上げて泣いた。
抜けるような青空の向こうにキミがいるなんて思わなかったけど、
この煙が届くだろうかと思ったわけでもないけど、
青色が、涙を流す目に染みた青色が、とても悲しかった。
どれぐらいそうしていたのかは分からない。
泣いて、泣いて、枯れたのか、乾いたのか。
あたしはふらりと立ち上がってフェンスを越えた。
意識がはっきりしない状態で一番近くのトイレで顔を洗った。
少しだけ赤い目に悲しみを残して、あとは全部隠した。
廊下や教室の中では多くの生徒が彼女に涙を流していた。
泣き崩れる同級生たちの中に図書室で見た顔を見つけて、
吐き気がした。
- 243 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:43
-
一人の生徒があたしの脇を通り過ぎた。
「・・・人殺し」
そんな一声をあたしに残して背中が遠ざかっていく。
後に聞こえる笑い声。下卑た甲高い、耳障りな、笑い声。
ひりつく喉と痙攣するように断続的に吐き気を訴える腹を押さえて、
あたしは次の授業の教室に入った。そこには、誰もいなかった。
黒板に大きく“裏切り者”と書かれていた。
どこをどう噂が走っているのか分からなかったし、興味もなかった。
あたしは無人の教室に立っていた。
端っこの席で落書きしてた姿を思い出して、ふらふらとそこへ向かう。
廊下側最後列の白い花が供えられた席に座って、あの子の目から教室を見ると、
壇上の教師は随分遠い。生徒で埋まっていても、後姿ばかりなんだろうな。
初めて見た日に描いていた落書きは机にもあった。
このキャラクター気に入ってたのかな。一言だけ下に添えておいた。
あの日、かわいいでしょって聞かれたから、
“かわいいよ”と。
花瓶に小さな汚れが付いていた。泣いていたうちの何人が、この花を眺めたんだろう。
この落書きも、何人が気づいたんだろう。あたしは汚れを指で拭い、丁寧に磨いた。
磨くうちに涙が出てきて、声を押し殺して泣いた。
机に伏せたら彼女の匂いがした気がして、あたしは学校を飛び出した。
- 244 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:43
-
***
- 245 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:44
-
―――えりか
何度でもそう呼んでやればよかった。
キミを梨華ちゃんと重ねてたけど、違ってたみたいだ。
あたしにとって気になる存在だった理由はそんなんじゃなかった。
キミはあたしだ。
梨華ちゃんと美貴に出会わなかったあたしだ。
全てが退屈で、集団が苦痛で、キミみたいな理由があったわけじゃないけど、
あたしもずっとそうだった。救ってくれたのは、あの二人だ。土足であたしの中に入ってくる、
勝手な二人の先輩だった。
あたしはキミと同じだ。
空しくて、生きていくことすら苦痛で、自由に憧れ、消えてしまいたいと、
それを繋ぎとめてくれていたのが、あの二人だった。
あたしには二人の代わりは出来なかった。
キミの鎖になってあげられなかった。
あの二人はすげーんだ。かっけーんだ。
あたしがどん底に居たって、あいつらなら見つけてくれる。そう思える。
会わせたかったな、もう遅いのに。なんでキミはいないんだろう。
あの温もりも、くすぐったくなるような声も、爽やかな匂いも、艶やかな髪も、柔らかな感触も、
はっきりと感じられるのに、なんでキミはここにいないんだろう。
- 246 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:44
-
歩き回っているうちに、最後に見たあの子の顔が頭の中に浮かんだ。
その目がはっきりとあたしを呼んでいたように思って、
頭を抱えて叫びだしたい衝動を抑えていた。
梨華ちゃんの声を聞いて飛べないと思い知ったはずなのに、
解放されようと学校を飛び出してきたはずなのに、
一人きりになるとまたどうしようもなく死に意識が向かう。
あたしはこのとき、はっきりと死をイメージしていた。
梨華ちゃんに会って、さよならと言って、学校に戻ろう。
そして彼女がいた同じ場所から、あたしも同じ場所へ向かおうと。
あたしは昼間から梨華ちゃんのマンションの前に座り込んでいた。
空の向こうから呼ばれているような気がして、俯いたまま心の中で何度も呟いた。
もう少し、もう少しだけあたしに時間をくれと。
もう一度、もう一度だけ会って、お別れを言わせてくれと。
すぐに、行くから待っててくれと。
あたしはどんな顔をしていたんだろう。彼女の目に、どんな風に映ったんだろう。
マンションの前で止まったタクシーから梨華ちゃんは慌てたような様子で、
時計を確認しながら降りてきた。小走りに入ってきたところであたしに目を留めた彼女は、
- 247 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:44
-
「ひとみちゃん・・・・おまたせ」
そう言って、安心したように微笑んだ。なんで、待ってたって分かるんだろう。
声を聞き、姿を見て、一気に目が醒めたように感じた。
あたしを駆り立てていた衝動が全て止まった。
急に動き始めた理性は、それまで心を占めていたこととはまったく違う答えをあたしに提示した。
いつ、死ぬ約束をしたんだろう。自己満足も甚だしい。あたしは、馬鹿だ。
いつだって、あたしの決断は理性で考えて出した答えに従った方が正しいのだ。
冷静になれる。あたしの居場所は、この人がいる場所にしかない。
「・・・あたし仕事辞めたんだ。しばらく、住まわせてくれないかな?」
その答え如何に命をかけて、あたしはいびつに微笑んだ。
もしも拒絶されて詳しく事情を聞かれていたら、あたしはあっさり引き返して、
生きることを止めていただろう。
「そんな、ことだったの?」
梨華ちゃんはあっけに取られたような顔で、胸を撫で下ろした。
「今にも死にそうな声で変なこと言うから・・・・もうっ。心配させないでよ」
あの頃のあたしを繋ぎとめてくれた鎖は、今も変わらずあたしを繋ぎとめてくれた。
はにかむように笑った彼女の顔を見て、涙が出そうになった。
- 248 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:44
-
縋りつき、生に執着するあたしは醜い。これもまた神が定めた本能だ。だから神は好きになれない。
矛盾と対立に満ちて、救いの道はどこにあるのか、神の御許へ行くことは償いなのか。
梨華ちゃんは、あたしを家に入れてくれて、何も聞かずにいつもどおりにくつろいでいる。
この人は自由を生きてて、でもずっとあの箱庭で育って、あたしより、どうして。
そこまで考えて、あたしの口から息が漏れた。
「・・・・すっげーことに気付いちゃった」
「え?」
梨華ちゃんはきょとんとした顔であたしを見た。
あたしの目からはらはらと涙が零れ落ちた。嗚咽も息苦しさもなく、
ただただ流れ落ちる涙はあたしの中の多くを占めていた何かを洗い流した。
「カミサマなんていないんだ」
大嫌いな神様。そんなやついないのに。
あたしは何を嫌っていたんだろう。そんなやついないのに。
いるならあの子を救わないわけがない。
いるならあの子を救えなかったあたしを救うわけがない。
神の試練?乗り越えるべき試練?乗り越えられなかったのか?
それで、あの子の一生はこんなに短く終わるのか?
そんなのは神じゃない。そんな神は、いないんだ。
あたしは自分が作り出した偶像に縛られ、ずっと闘っていたんだ。
カミサマが、涙と一緒に出て行った。
- 249 名前:MIND-cross- 投稿日:2008/10/18(土) 14:44
-
数日間、一歩も外に出ずにあたしとカミサマが今まで歩いてきた道を振り返った。
寝食を忘れ、ずっと握っていた十字架の彫りこまれたライターが手に馴染んだ。
梨華ちゃんから電話が掛かってきて外に呼び出された。
玄関を出ようとしたら、足がすくんだ。ワケが分からなくて足をじっと見ていたら、
梨華ちゃんが帰ってきた。二時間待ったと言った彼女は初めこそ殺す勢いで怒り狂っていたのに、
あたしの顔を見ると手にしていた包丁を戻して、小さく言った。
「病院、行こう?」
イヤだった。
自分でもおかしいって分かってるのに、梨華ちゃんにだけはおかしいって思われたくなくて、
行きたくないって思ったのに、梨華ちゃんが手を添えてくれたら、
あたしの足はさっきまでが嘘みたいに動き出して、あたしは病院に連れて行かれた。
何の因果か行き着いた先はカトリック系の病院で、微笑む聖母に寒気がした。
体が震え、理由の分からない涙が流れ、梨華ちゃんにしがみついた。
周りにいた人が、生気が感じられないほど無表情に見えた。
ぞくりとして目を逸らしたら、他の人もみんな一様に無表情で、
息が止まりそうだった。視界から光が薄れ、耳の奥から雨音が聞こえた。
医師はあたしに薬を処方した。あたしはそれがなければ外に出ることすら出来ない。
壊れてるんだと思ったら、涙も出なかった。
- 250 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/18(土) 14:45
-
- 251 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/18(土) 19:24
- ただぼんやりと台本に(気が付きもせず)動かされている奴らより
知りながらこの道を歩んでいる自分のほうが高等なんだと
超負け惜しみで自分を慰めていた時期もありました
非常に根本的なことですもんね
- 252 名前:名無し飼育 投稿日:2008/10/19(日) 00:29
- 更新お疲れ様です
毎回引き込まれます
実写で見たいです・・・・・・・・ちょっと怖いけど^^;
- 253 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/19(日) 01:04
- こういう内容好きです。
楽しみは期待していないので大丈夫ですよ。
みんなステキです。
梨華ちゃんもステキです。
- 254 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/19(日) 03:00
- 彼女に、幸あれ
- 255 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/19(日) 20:27
- 更新お疲れ様です。すごく引き込まれます
吉澤さんや梅田さんの心を思うと痛くてたまらなくなります
- 256 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/10/22(水) 14:20
- 作者様の作品の虜です。この作品の前身も応援していました。
そしてそれを機にハロヲタになってしまいました。リア充生活返してくださいよw
気負いせずがんばってくださいね。まったりROMってます。
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/22(水) 20:01
- 前身の作品教えて下さい
- 258 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/10/23(木) 10:19
- おもしろい
作者さんがんばってください
- 259 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/23(木) 14:06
- 私もこの作品大好きです。キャラクターそれぞれの内面、性格を見事に個性的に
表現されていて、出演キャラ全員に、引き込まれます。
ベリキューに関してあまり詳しくないので、
この作品の為に今調べています(^-^;)
私も他の作品を拝見したいです。
- 260 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/10/24(金) 19:11
- こんなに続きが気になる小説も久しぶりです
がんばって
- 261 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/10/27(月) 21:01
- 更新お疲れ様です。
作者さんはほかの作品も書かれてるんですか?
ぜひ読んでみたいです!
どなたか教えてください!
- 262 名前:>>256 投稿日:2008/10/29(水) 11:03
- 本当に申し訳ないです。
>>256のレスは誤爆レスです。
こんな事態になってしまったのは僕のせいです。
読者様、そして作者様には謝っても謝りきれません。
大変な失礼をいたしました。これからも頑張ってください。応援しています。
- 263 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/01(土) 15:34
- >>251-262
レスありがとうございます
他の他のとおっしゃらず、わりと頑張って書いてるんで
これを読んでいただければ幸いです。
こんな事態がどんな事態かは存じませんが、
日本は謝ればそれでいい国だと思います。
- 264 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:34
-
『こちらは事件のあった清水議員の自宅前です』
『清水議員は―――』
『清水議員が―――』
『清水議員の――・・・・』
政局のごたつきと相まって、ワイドショーが優先的に取り上げたのは議員の自宅が事件現場で、
先日の殺人事件の容疑者としてその娘が逮捕されたということだった。
藤本は減棒を言い渡されはしたが、なんとかマスコミに追い掛け回されずに済んでいた。
インターネットの一部では美人刑事としてどうでもいい話題に花が咲いていた。
事実として、藤本は撃つしかなかった。それだけは、分かってもらえただろうか。
もちろん藤本を責める声も上がっていた。だが見殺しにしていればもっと罵られていただろう。
『一人はその場にいた刑事により射殺されたと言われていますが―――』
『警察が若者の命を奪うなんてあってはならんことですよ。厳罰に―――』
『亡くなった少女らの通っていた学校では午前中、しめやかに黙祷が行われました』
どうするのが正しかったのか。正義はどこにあるのか。
やりきれない思いを抱えて、藤本は車に乗って署を出た。
- 265 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:34
-
――ピンポーン ――ピンポーン ――ピンポーン
藤本はインターホンを鳴らし続ける。
小学生のいたずらのように鳴らし続ける。
留守なわけがない。なにしろ相手は引きこもりだ。
しばらくして、スピーカーから面倒臭そうな応答があった。
『・・・・うるさいんですけど』
「用があんの。開けて」
『ヤダ。帰れ』
「梨華ちゃんの許可はもらってんの。なんなら鍵まで借りてこようか?」
『あーぁ、ヤダねー、警察は。
友達ん家来るのまで手順踏んじゃって。どうせなら令状もってこいっつーの』
「・・・さっさと開けろ」
藤本が静かに言うと、吉澤の気持ちを反映するかのように自動ドアはおずおずと開いた。
メンテナンスの問題だろうが、吉澤の意思が通じているならすごいマンションだと思った。
部屋の前に行くとチェーンを掛けたドアの隙間から吉澤が覗いていた。
不機嫌そうな顔を半分出して藤本を威嚇するように言った。
「なんだよぉ、ホテルに何があったかなら聞きたくないぞ」
「・・・・なんで分かったの?」
「だってその話しかないじゃん。帰れよぉ」
「そうじゃなくて!」
- 266 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:35
-
「なんであそこに死体があるって分かったの?」
額に汗を浮かべて問う藤本に、吉澤は肩をすくめた。
「・・・・聞きたくねーって言ってんのに」
玄関先で妙な話をしているところを誰かに見られたくないと言って、
吉澤はチェーンを外し、藤本を招き入れた。
リビングに通されると、たまねぎを炒めた甘い香りが漂っていた。
藤本は大きく息をついて、おずおずと吉澤に問いかけた。
「あれ・・・よっちゃんは関係ないよね?」
「は?」
その場所を告げるとき、吉澤が覚悟したと言っていたのが藤本には引っかかっていた。
最悪の想像にとり付かれて、いても立ってもいられなくなり藤本はそれを問いただしに来ていた。
吉澤は相変わらずのぼんやりとした顔で、ワケが分からないという声を発した。
藤本は探るような視線を送り続ける。
「・・・・あぁ、そういうことか」
一瞬考え込んで、納得したように言うと満面の笑みで藤本に答えた。
- 267 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:35
-
「やってないよ。大丈夫。さ、帰れ」
「じゃあ何で知ってたの!?」
「別に知ってたわけじゃないよ。なんとなく分かっただけ」
「そんなんじゃ納得できない!」
「んじゃ佐紀ちゃんが何言ってるかも当ててやろうか?」
藤本に背を向けてキッチンに立ち、煙草に火をつけた。
換気扇に向かって煙を吐き出しながらさらりと言った。
「家に呼んでた子達は事件のことを知っていた。
それをネタに脅されて、薬物を試す場として部屋を提供した」
吉澤は言い終えて固まる藤本の表情をちらりと振り返り、ほら当たった、と呟いた。
藤本が表情を取り戻し、噛み付くように言う。
「・・・・そーだよ。違うの?」
「さぁ?合ってるかもしれないけど、あの自白は嘘だよ」
「でも殺したって言ってるし、最後に電話してるし・・・」
じんわりと手に汗が滲むのを自覚しながら藤本は言い返した。
吉澤が鼻で笑う。
「アリバイがあるんでしょ?どうやったらそんなことできるの?」
「・・・・今調べなおしてるところ」
「なんでそんな複雑に考えるの?無理なもんは無理なの。なんで分かんないかな?」
- 268 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:36
-
吉澤は疲れたように後ろ頭を掻き、大きく煙を吸い込んだ。
「前提が間違ってる。子供の言うことなんて真に受けちゃダメだよ」
そう言って煙草をもみ消すと火にかけていた鍋の蓋を開けてかき混ぜた。
小さな皿に中身を取り、フーフーと冷まして口に運ぶ。
「楽すんじゃねーよ。証拠かき集めて犯人探せよ。犯人見つけてからこじつけで考えんな」
「だって・・・!あの子は初めからおかしかった!」
「だから警察は無能だって言われんだよ。帰って頑張れ。あれ?ちょっと味薄いかな」
吉澤が鍋に調味料を振り入れる。藤本はその背中に言い返す言葉を探して、
代わりに唇を噛み締めた。吉澤が何を言っているのか分からないが、
その言葉に間違いはない。先入観で疑っていた人物が自白した。
藤本の中では心理的に捜査が止まっている。それを指摘されているのに、認めたくなかった。
大事なのは何だと自問する。暴かなくていい真実の意味など分からないが、
藤本に必要なのは真実だ。証拠を集めて、犯人を見つけて、法に裁いてもらう準備をする。
非常にシンプルな仕事のはずだ。必要なのはなんだ。
不意に藤本の体から力が抜けて、椅子に凭れかかった。吉澤が気配に振り返り、首を傾げる。
「なにしてんの?」
「・・・・聞くまで帰らない、なんて言ってみたりして」
「じゃあお泊りになりそうだね。三人分か・・・足りるかな?」
こともなげにそう言って、吉澤は鍋を覗き込んだ。
- 269 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:36
-
座り込んで自分は何をしているのだろう。駄々をこねる子供じゃあるまいし。
昔なら、子供みたいだったのは吉澤の方なのに。
いつの間にか可愛げをなくした後輩の背中を藤本は頬杖を付いてぼんやりと眺めていた。
昔から見下ろされていた。でも今は見下されているような気がする。
藤本はため息をついた。静寂がその身にのしかかる。何かないかと考えて、
昼間から用意された鍋の中身に目をつけた。
「・・・・なに煮込んでるの?」
「人肉。食いたくないでしょ?帰りなよ」
沈黙を破ると吉澤はそれをさらに切る。
重ねられた重い空気に藤本が眉を顰めた。
「・・・性質悪い冗談言わないで」
「うん、冗談。ホントは野良猫。シッポはそこに捨てたけど」
言われて一瞬、藤本の目線がゴミ箱に動いた。
振り返った吉澤がそれを見とめて冷ややかに言う。
「嘘だよ、バーカ。信じてんじゃねーよ」
藤本は拳に力を込めた。クッションでもぶつけて帰ろうかという気分になったが、
ぐっと堪えて尋ねた。
- 270 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:37
-
「・・・じゃあ何?」
「美貴の大好きな牛さんだよぉ、牛さんのシチュー作ってんの」
言って吉澤は再び背を向けた。にやにやとしているのが後ろからでも分かる。
こいつを助けるためにテレビでごちゃごちゃ言われて、新聞に叩かれて、
上司に突かれて、給料カットされてと考えて、藤本は僅かに後悔した。
しかしそれだけは口にすまいと、大きく深呼吸をしてイライラを抑えた。
「あのさぁ、なんで教えてくれないわけ?」
「さっき教えたじゃん。牛だって」
「違う。ホテルのこと・・・」
「知らないもん」
思わせぶりなことだけを並べて、肝心なことは言わない吉澤に苛立ちを覚えた。
「・・・梨華ちゃんに聞かれたら答える?」
「なに比べてんの?ウザいよ」
引き合いに出した友人はそんなことを聞くだろうかと考えて、
聞く理由がないと気付いた。藤本だって仕事でなければ言いたがらないことなんて聞かない。
「よっちゃんが仕事辞めたのってさ」
言いたくない理由もなんとなくは分かっている。
出来れば藤本も言いたくなかっただけだ。
「警察で調べられることが理由だよね」
- 271 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:37
-
「・・・調べたの?」
冷たい声に藤本は躊躇った。言いかけた瞬間に後悔した。
吉澤は冷蔵庫からお茶を取り出し、錠剤を流し込んだ。
その手でガスの火を止めると、藤本を振り返った。
その顔に無機質な笑みを貼り付けて、おどけたように言う。
「言っていいよ。318号室のことも言っていいよ」
「一学期の末に・・・さ」
そこでまた藤本は言葉を切った。徐々に空気が硬質なものに変わっていくのをひしひしと感じる。
吉澤が冷め切った声で言った。
「言えって」
形だけでも微笑む吉澤にそぐわない声。その声に後押しされるように、藤本は一息に吐き出した。
「・・・生徒が自殺したんでしょ。その後逃げるように仕事辞めた」
「逃げるようにってか、逃げたんだけどね。ホテルは?」
「頸部圧迫による窒息死・・・首吊り、たぶん自殺。遺書なし。
でも・・・あの部屋を飾り立てた誰かが持ち出した可能性もある」
高校生、自殺。吉澤は関わりたくないだろう。
藤本とて同じ立場なら何も聞きたくないし、知りたくもない。
- 272 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:37
-
「その誰かに殺されたってことにはならないの?」
「天井や壁に遺体と同じ指紋と血液、自殺の準備をした痕跡が至る所に残ってる」
「ふぅん。随分といい加減な後始末だね」
意外にも積極的に話を聞こうとする吉澤に、藤本は驚いた。
部屋を包んだ硬質な空気が徐々に軟らかさを取り戻していく。
先ほどと変わらない笑みの吉澤からは真意が窺えない。
「身元は分かったんでしょ?」
「・・・まぁ、ね」
ホテルで見つかった遺体は山田太郎が殺害された日から行方不明になっている少女だった。
藤本が抱いていた疑惑の一つは晴らされた。日付が重なっただけの偶然で、
事件にその少女は関係なかったのだろうと判断した。
「で?本当は誰を疑ってんの?」
「・・・・清水佐紀」
そして新たな疑念を生じさせた。
少女は自殺、それは間違いなさそうだが、あの部屋に監禁されていたのだとしたら、
その犯人は、佐紀ではないだろうか。しかし飾りたてる理由が分からない。
佐紀にも知らせたが、特に妙な反応はなかった。仲の良い友達だったから、残念だと、
そう零しただけだった。
- 273 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:38
-
悩みそうになる藤本に吉澤はぼんやりと煙草の煙を目で追いながら問いかける。
「ねぇ、その部屋はどんな風に飾られてた?」
「床一面に花を敷き詰めて・・・・なんていうか、後始末もされてて」
「あぁ、汚物のね」
「まぁ・・・それだけじゃないけど」
いろいろと緩む死に方だ。誰がどんな気持ちで片付けたのか。
藤本には、少なくともそこに死を悼む気持ちがあったことが理解できただけだった。
それだけ、あの部屋は不思議な美しさを備えていた。
「死に化粧して、ベッドに横たわって、白い服着てた。ホント、葬式みたいに綺麗にされてた」
腐臭を紛らわすように充満した花の香りが思い出された。
真っ白な床と、拭いきれなかった血の跡が残った壁。
血液も指紋も鑑定の結果、亡くなった少女が生前に引っかいたものだと分かった。
「手には、百合の花。剥がれ落ちた爪は、見つからなかった」
吉澤が目を瞑り、短く祈りを捧げた。
目を開けて藤本を真っ直ぐに見据え、おもむろに言った。
「あの子ともう一回話させてくれる?」
- 274 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:38
-
***
- 275 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:38
-
無機質な靴音が響く。少し先を歩く藤本の足が止まった。
「ここだよ」
通された部屋はガラス越しの面会ではなく、
机をはさんで向かい合って座るだけの部屋だった。
ドアから離れた方の席にはすでに佐紀が座っている。
数名の警官がそれを見張るように立っていた。
「美貴、二人きりにはできない?」
「・・・・大丈夫だと思うけど、ちょっと待って」
相手は小柄な女子高生一人だ。藤本だけが残ればそれでいいと判断された。
ここはモニターすることが出来る部屋だ。人払いにそれほどの意味はない。
それでも形だけは二人の対談と、見張りの藤本一人になって、
吉澤は幾分心地よさそうに佐紀の正面に座った。
「さて、と。ごめんね。あたしの顔なんて見たくないだろうけど」
「いえ、退屈してたところですから」
挨拶のように交わす二人の横で、藤本は壁に凭れかかった。
これだけワガママを通してしまったからには、この話には無駄で終わってもらっては困る。
真剣な目で二人を見ていた。
- 276 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:38
-
吉澤が話し始める。佐紀はいつもと変わらないトーンでそれに応えた。
「あたし、事件のことには興味ないんだ」
「でしょうね。あ、でも、一つだけ聞いてもいいですか?」
「うん。どうしたの?」
「お母さん、どんな顔してました?」
楽しそうに目を細め、佐紀は笑った。
吉澤は顔を歪め、藤本の方に振り向いた。
「美貴。お母さんは?」
「ショックで倒れた。まだ病院で点滴受けてる」
「・・・・だってさ。あの刑事さんに聞けばいつでも教えてくれると思うよ」
「あは。そうですか。見てみたかったなぁ、倒れる瞬間」
想像の中で楽しそうに佐紀は笑う。
藤本は不快感を覚えたが、黙って二人の話を聞くつもりだった。
藤本が吉澤に目線で続きを促すと、吉澤はゆっくり話し始めた。
「お母さん、退院したら来てくれるだろうから」
「別に来なくていいですよ。先生は何の話をしに来たんですか?」
にこにこと、佐紀は問いかける。吉澤は悲しげに表情を曇らせた。
- 277 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:39
-
「ねぇ、キミはいつからあたしのこと知ってたの?」
「なんのことですか?」
二人はしばらく見詰め合っていた。しばし沈黙が流れる。
不意に吉澤が、ふっと息を漏らした。
「・・・とぼけんなよ」
驚くほどの冷たい目で佐紀を睨みつけて吉澤は言う。
「聖女の・・・あの怪談の主人公は」
吉澤の脳裏に佐紀の家で聞いた話が蘇る。
「雨の夜、堕ちていく天使を見たのは・・・・」
自分の口から発せられた言葉と共に浮かんできたのは、あの嵐の夜の光景だった。
真っ逆さまに、今にも翼を広げて飛んでいってしまいそうなのに、
天とは無縁の深淵に飛び込んでいくあの夜の彼女だった。
苦しそうに顔を歪め、涙を堪えて言葉を繋ぐ。
「・・・あたしだ」
- 278 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:39
-
力の込められすぎた視線に、佐紀が息を呑んだ。
危ういほどに頼りない、柔らかな空気を纏った人だと思っていた。
今の吉澤は違っていた。種類の分からない強い感情を目に滲ませて、真っ直ぐに佐紀を見つめる。
「誰に聞いた」
抑揚のない声。吉澤は何も答えない佐紀に苛立ちを覚えた。
吉澤が煙草を取り出そうとして、ふっと色が落ちるように気の抜けた声で藤本に声を掛けた。
「ねぇ美貴、ここ禁煙?灰皿ないんだけど」
「署内全域分煙だよ。喫煙コーナーはここ出て右の突き当たり」
「はぁ、喫煙者は肩身が狭いね」
ガタリと音を立てて、吉澤が立ち上がった。
「ごめんね。ちょっと待ってて、ダメな大人は煙草吸わなきゃもっとダメになっちゃうから」
「・・・・」
佐紀の返答はなかった。
吉澤は通路に出ると、右手方向に躊躇いなく進んでいく。
ガラス張りのその空間を見つけて、すぐに煙草を咥えた。
同時にポケットを探って、錠剤を飲み込んだ。
- 279 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:39
-
部屋では残された藤本が二人きりの空間で落ち着きなく目線を泳がせていた。
佐紀は落ち着き払って誰もいない真正面を見ていた。
吉澤はすぐに戻って来た。椅子に向かう吉澤を呼び止める。
「よっちゃん、待って・・・ミキが話してもいい?」
吉澤が佐紀に目線をやる。反応のない佐紀から視線を外すと藤本に向かって頷いた。
藤本が壁を離れ吉澤とすれ違う。
「疲れてない?」
「大丈夫です」
椅子に座ると、吉澤が後方の壁に凭れかかる気配がした。
佐紀の視線は目の前の藤本を越えて吉澤に向けられている。
無視されているかのようで気分は悪かったが特に何も言わず、藤本は話し始めた。
「えっと、改めて聞かせてもらうけど」
「はい」
「キミが、やったんだよね?」
「はい。って何度も言ったじゃないですか」
吉澤はポケットからライターを取り出し、十字架の縁を親指でなぞる。
視線をライターに落としたまま、面白くなさそうに小さく呟いた。
「・・・アリバイがあるって聞いたけど」
「コンクールの後の食事会、のことですよね。抜け出しました」
「でもそんな証言はないよ?」
- 280 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:40
-
「オープンな場でしたから。たまたま誰も気付かなかっただけじゃないですか?」
藤本にはそれ以上の材料がなかった。
実際、聞き込みの結果として誰も「抜け出していた」とは証言しなかったが、
「最初から最後までずっとそこにいた」と証言した者もいない。それどころか、
逮捕されたと聞いた途端「時間は覚えていないがいなかった気がする」と言った者まで出てきた
あやふやすぎて正式な証言とはならなかったが、崩すことも全幅の信用を置くこともできない。
藤本は迷っていた。吉澤のことは信頼している。だが、それでもこの子が無実だとは思えなかった。
吉澤は何故あんなにキッパリと言い切れたのだろう。何を知っているのだろう。
この子は何か隠しているのだろうか。
何を隠すというのだろう。何を隠すためなら人を殺したなどと偽るのだろう。
逡巡する藤本の後ろから、距離を置いたせいか先ほどよりも幾分冷静な口調で吉澤が口を開いた。
「どうしてそんなことしたの?」
「分かりません。好奇心だったのかも。今は後悔してます」
代わりに話すと言ったのに、間に座っただけで結局話しているのは藤本ではなかった。
何度も警察で訊いたことを吉澤は繰り返しているだけだった。
佐紀も淀みなく、警察に話したのと同じことを同じ調子で繰り返す。
しかし吉澤はそれを遮った。
「そうじゃなくて、なんで抜け出したの?大事な場所でしょ?」
- 281 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:40
-
佐紀の表情が凍った。吉澤は腕を組んで佐紀を見下ろす。
「別に。好奇心が勝ったんでしょうね」
温度の低い空気の中、佐紀が他人事のように答えた。
片眉を吊り上げて、吉澤が軽い調子で言った。
「ねぇ。キミが黙っててもあたしが言っちゃうかもよ?」
「先生はそんなことしませんよ」
「うん。でもキミのバイオリン聞きたいし」
「まだ言ってるんですか?」
距離を隔てて、冷めた空気に熱を取り戻すように二人の会話が続く。
「だってさ、やってもいない罪を被らなくていいと思うんだよね」
「先生はどうなんですか?自分を責めませんでしたか?」
「責めたよ。キミも責めたでしょ?」
佐紀は否定しなかった。それに藤本が驚く。
目を見開くが二人は気付かない。静かな罵りあいのような何かが続く。
「口だけですね。なんでのうのうと生きていられるんですか?」
一瞬、吉澤の全身が軋むように音をたてた気がした。
吉澤は口を閉ざし、固まる。藤本が、おぼろげに吉澤の考えていたことを理解した。
- 282 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:40
-
「あなたも死―――」
「あー、ちょっと」
最後の言葉を繋ごうとした佐紀を藤本が制した。
「ちょっとごめん。割り込んじゃうけど・・・喋っていい?」
「・・・どうぞ」
それじゃあ、と言って藤本は咳払いをひとつした。
佐紀をまっすぐに見据えて、強く言い放った。
「自殺するなんてバカ。後追い自殺なんてもっての他。
死んだ人の為に出来ることなんて、せいぜいお供えぐらいのこと。
それもホントの意味で死者のためじゃない。生きてる人間が、
心に整理付けたくていろいろ理由つけてごちゃごちゃすんの」
迷いのない声が部屋中に響く。吉澤は震えそうになる体を押さえて、
強がるようにバカにした口笛を吹いた。
「・・・美貴ちゃんカッケー」
「黙れバカ。あんたにも言ってんの」
「・・・・はぁい」
- 283 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:41
-
振り向くことなく発した言葉に、背後から気の抜けた返事が返ってくる。
「何があったか知らないけど、今さらよっちゃんが死ぬ必要なんてないし・・・
君が友達を庇ったってしょうがないの」
「庇ってません。私がやりました」
「うん。それ聞くのがミキの仕事だから、ゆっくり聞く。とりあえずさ」
藤本が親指で後ろを指す。吉澤の腕から力が抜けた。
「うちのパシリ追い詰めないでもらえる?こう見えてナイーヴな奴なのよ」
藤本は佐紀を睨みつけていた。
フッと小さく笑って、吉澤が壁を離れる。
「・・・・庇ってくれてアリガトウ。交代しよっか」
藤本の肩にポンと手が置かれた。
何故だか無性に腹が立って、藤本は佐紀から視線が外せなかった。
大人気ないと思いながらも、少し離れた位置でもまだ佐紀を睨んでいた。
気にも留めず吉澤が再び佐紀の正面に座る。少し体をずらして足を組む。
ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと話し始める。
- 284 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:41
-
「何も言わないつもりだった。キミに関わるつもりもなかった。でも・・・
どんな風にキミがその子を送ったか聞いて、もういいんじゃないかなと思って」
「私がやりました」
「もういいんだ。あとは“神様”が決めるから」
佐紀はギリギリと全身に力を込めて、今にも噛み付きそうな目で吉澤を見返していた。
「邪魔するんですか?」
「そうなるかもしれないけど」
穏やかな声で吉澤は言った。
柔和な笑みを浮かべて、佐紀を見る。
「もう十分だよ・・・キミの気持ち、分かるから」
何も言い返さず、佐紀は俯いて黙り込んだ。
今までなかった沈黙の末、
「・・・・だから、先生のこと嫌いなんです」
小さく言って佐紀は顔を上げた。その顔には無理やり作った笑みが貼り付けられ、
続く言葉の高いトーンに吉澤は笑みを崩さぬままに眉間に皺を寄せた。
「魂を揺さぶる演奏。それを聴いた気がしました。その子も友達でした」
「・・・コンクールで優勝した子だね?」
「そうです。私がバイオリンに夢中になるきっかけになった人の娘です」
- 285 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:41
-
コンクールの朝、佐紀は希望に満ちていた。
母親が音楽で生きていこうとする佐紀に不満を持っていることには気付いていた。
父親はどうせ嫁に行く娘のことだと割り切っているようで、音大でも構わない様子だったが、
率先して味方になってくれるわけでもない。母に強く言われれば母の味方をするかもしれない。
だからこそこの日に実績を上げて、両親せめて父にだけでも認めてもらわなければと意気込んでいた。
会場に着くと師匠と仰ぐ友人の母親が待っていた。その隣には、娘がいた。
佐紀と同い年で、子供の頃からよく知っている。ウィーンに留学中と聞いていたが、
いつ帰国したのだろう。少しだけ疑問に思いながら娘にも声を掛けた。
彼女はぼんやりとした声で久しぶり、とだけ言った。
ハキハキとした明るい印象があったのに、久しぶりに会った彼女は随分と様子が変わっていた。
よそよそしいのは会っていない時間のせいだろうと結論付けて、
そのときはあまり気にしていなかった。それよりも衣装のほうに目を奪われた。
すらりと伸びた手足、白い肌に黒いドレスがよく映えていた。
比べると自分が着ていた黄色のドレスが子供みたいかなと身長の差もあって、そればかり見ていた。
どうやら彼女もコンクールに出場するらしかったが、佐紀はそれも気にしていなかった。
二代続けての天才なんてそうは居ない。現にウィーンでも大した実績は上げていない。
佐紀はにこやかに、頑張ろうねと言って中に入った。
「子供の頃から一緒に練習して、ずっと負けたなんて思ったことなかった」
- 286 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:41
-
いざ始まったコンクール。佐紀の出番は、彼女のすぐ前だった。
袖で順番を待つとき、彼女の凛とした佇まいに初めて気付いた。
一切の気負いが感じられない。子供の頃はいつもガチガチになっていたのに。
嫌そうにしていたり、母の圧力に反発したり、とにかくこわばった顔をしていたのが印象的だった。
自分の出番が回ってきて、佐紀は自分の課題をこなした。
ミスはほとんどなかった。やった、と思った。
帰りに両親を説得しよう、自分の生きる道は、音楽だ。
そう思って、袖ですれ違った彼女に微笑みかけた。彼女は前しか見ていなかった。
少しだけ佐紀の心に不安が広がる。
芽生えた黒い違和感が全身を駆け巡る。
その予感は正しかったと、直後に思い知らされる。
会場が息を呑んだのが分かった。佐紀の演奏とはまるで違う。
佐紀だけではなかった。今までの誰も彼女を越えることは出来ない。
いや、佐紀は幸運だった。もし先にこの演奏を聞かされていたら、ノーミスなんて不可能だ。
「今までは本気じゃなかったんでしょうね。あの日の彼女は・・・神懸かってた。
どうでもよくなりました。なにもかも。私には本物の才能なんてないって痛感しました」
同じことを考えた者が何人いただろう。順番を待っていた数人から、明らかに気合いが抜けていく。
形式だけで最後まで進んでいき、優勝はもちろん彼女だった。
- 287 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:42
- ◆◆◆
その頃、少女は夜の街を歩いていた。
少女にとってこれ以上ないほどの恐怖を与える三人は、少女に売春を命じていた。
イジメ。そんな言葉で片付けられたくない。これは脅迫だ。少女は追い詰められていた。
少女は相手を見つけた。見るからに住む世界が違うような下品な男だった。
下卑た笑いを滲ませ、男は少女に声を掛けた。五万でどうだ、と。
泣きながらその場を立ち去りたいと思ったが、ここで逃げたらあの三人に何をされるか分からない。
少女にとっては、目の前にいる男よりも、常に傍にいる三人の方が恐ろしかった。
ごつごつした手に肩を抱かれ、男はホテルへと誘う。
誰かに見られていませんようにと、少女は制服の影で祈りながら付いていった。
部屋に着くと、少女は涙を流した。それでどうなると思ったわけでもなかったが、
少女は事情を話した。脅されているのだと。男はおもむろに小さな袋を取り出した。
『五万の代わりにこれをやる。そいつらに飲ませろ』
意味ありげな顔で男は言う。少女は恐る恐るその小袋を手に取った。
にやりと男は笑った。
◆◆◆
- 288 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:42
-
「入賞者が集められて食事会がありました。私もそれに出席して」
佐紀の両親は暢気に笑っていた。
どれだけの絶望に包まれていたか、両親には分からない。
「海外のプロがあの子の周りに集まって、私はそれを遠巻きに眺めるだけでした」
つい数時間前までは、そこに自分が立てると思っていた。
嫉妬すると同時に感嘆する自分を胸中に抱き、佐紀は彼女を見つめていた。
「まだ高校生です。分かってます。笑われると思います。でもね、先生。
バイオリンは、私の全てだったんです」
彼女の話が途絶えるのをじっと待つ。彼女が輪から離れた。
佐紀は行動を起こした。
「思いついちゃったんです。なかったことにしてしまえばいいって。
この子さえいなきゃって思っちゃったんです。呼び出して、人気のない場所で・・・
私、果物ナイフで刺そうとしたんですよ。バカみたいでしょ?」
どうかしていた。今なら本気でそう思う。なのに、その時の佐紀には当然の選択だった。
ナイフを向ける。黒いドレスがふわりと広がる。
「その子、いいよって笑ったんです。涙、出てきて、なんてこと考えてたんだろうって」
正気に戻っても、引くに引けない。もう、やってしまうしかないと思っていた。
「私だって、同じなんです。同じ日に、人を殺すつもりだった」
- 289 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:42
- ◆◆◆
同じ頃、佐紀がいる食事会場の高級ホテルとはまるで違う場所、
事件のあったホテルでは、少女が男の前で固まっていた。手に取った瞬間分かった。
抱いてしまった殺意を、穢れた目に見咎められた。
泣きたくなるほどの敗北感に包まれた。
『長い付き合いになりそうだな、お嬢ちゃん』
手放して、逃げ出したかったのに、その袋は甘く少女を誘った。
握り締める少女の手を見て男は立ち上がった。嘲るように少女を見下す。
『逃げられると思うなよ』
逃げられないことは、少女にも分かっていた。
男がシャワーを浴びに行くのを少女は見ていた。
少女はコーヒーを入れた。香料もきつく、苦味もある。薬品を混ぜるにはもってこいだと思った。
カチカチとカップが音を立てる。震えが止まらない。なのに、小袋を手放すことは一度もなかった。
出てきた男と入れ違いに少女はバスルームへ入り、息を潜めて部屋の様子を窺っていた。
うっ、と低いうめき声が聞こえた。男は血を吐きながら、机に突っ伏した。
ゆっくりとドアを開けて様子を見る。少女はピクリともしない男に、焦り始める。
どうしようもない事態に後悔する。
混乱した少女の目に男の携帯電話が入り、震えながら憶えている番号にかけた。
繋がったのはただ一人の友人、清水佐紀の携帯だった。
◆◆◆
- 290 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:43
-
「電話がありました。知らない番号からで、友達が・・・人殺しちゃったって。
どうしようって混乱してて、私まで混乱してきた時、目の前の人に助けられました」
「・・・キミが殺そうとした子に?」
「そうです・・・私が言うのも変な話ですけど、優しい子ですから。
これから演奏するから、その間にゆっくり話せって」
さっとドレスを翻し、会場の真ん中に彼女が立った。
観衆の視線が一挙に集まる。佐紀はトイレに向かった。
同じ日に同じ気持ちになった友人が、止めてくれた気がして、
少女の方が佐紀の代わりに罪を犯してくれた気がして、放っておけなかった。
少女の携帯に電話を掛けなおす。声を潜めて少女に指示を出す。
男の携帯電話に、自分の番号を登録させた。
本名ではっきりと登録されていれば、知り合いだと思わせられる。
「代わりに捕まろうなんて思ってなかった」
疑いの目を佐紀に向けさせて、とにかく少女が目立たないようにしたかった。
佐紀自身は疑われても、どうにでもなる。実際はそんな男に会ったこともないのだ。
お門違いといえばお門違いの捜査をさせて、
頃合を見て少女には家出から戻ったことにして生活に戻ってもらえばいい。
指紋、髪の毛、痕跡は出来る限り消すように言って、
ホテルのドアには札を出しておくように言った。
「家に帰ってもらっても良かったんですけど、そんな状態じゃなさそうだったから」
少女は明らかに動揺していた。心を許せるような人に会うべきではない。
両親に会えばその安堵から全てを話してしまうだろう。
父のアドレスからいくつかのホテルにメールをした。匿う場所は簡単に用意できた。
- 291 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:43
-
次の日の朝、佐紀は事件が発覚する前に少女の部屋を訪れた。
代金は振り込んだ。ワケアリのワケをも飲み込むそのホテルは、
少女の不安も飲み込んでしまうはずだった。
慌てているのも今だけだと思っていた。時間がたてば落ち着くと思っていた。
佐紀は少女にしばらくはここに来られない、いいと言うまで外には出るなと告げた。
「私は疑われるようにしてましたから、しばらく大人しくしてたんです」
狙い通り、警察は佐紀に接触してきた。
父も面白いほど予想通りに、娘のためと保身のために警察から守ってくれた。
「先生が来るようになった頃から警察の気配がしなくなって」
どうもおかしな先生だとは思っていた。
しかし家庭教師もどきに探られているとはさすがに思わなかった。
適当についた嘘は見破られている気がしたが、その意味までは知られるはずがない。
少し敏感なだけだろうと思っていた。そして、全てを話したくなるような不思議な空気の人だった。
「私、ちょっとだけワクワクしてたんです。秘密の隠し事で、そんな軽い問題じゃなかったのに」
その頃、少女は段々と正気を失っていった。閉じ込められた空間に耐え切れず、
外に出れば自分の犯した殺人という罪に押しつぶされそうで、
狂ったように、いや、狂っていたのだろう。爪が剥がれるほど壁を引っ掻き回し、
咆哮をあげそうになりながら部屋に閉じこもっていた。
- 292 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:43
-
「ママがいない日に、ホテルに見に行きました。そろそろ戻ってもらおうと思って」
メールのやりとりもしていない。佐紀は少女の様子など露知らず、笑みを浮かべて部屋に向かった。
「・・・見に行ったら、彼女は首を吊って死んでいました」
だらりとぶら下がり、ただのモノと化した少女を佐紀は見上げた。
理解する前にボロボロと涙が零れた。ぐちゃぐちゃになった視界の中、
佐紀はそれに近づく。飛び出した眼球、垂れ流された汚物、壁に残された血のあと。
「その日だったんです。その日に、その日でさえなければ、あと、1日待ってくれてたら・・・」
佐紀はそこにあった少女の最後の言葉を受け取った。
自らの罪を全て告白し、佐紀の名は一切出ていない遺書が一枚。
佐紀に宛てられた遺書がもう一枚。
優しい言葉が綴られていた。たくさんの謝罪が込めれていた。
これだけの配慮をして死んだ少女はきっと狂ってなんかいなかった。
冷静に追い詰められて、こんなところに閉じ込められて、閉じ込めたのは、誰だ。
佐紀のほうこそ気が狂いそうななか、ただ一人の味方に連絡をした。
「・・・そのままでいいのかって聞かれました」
電話の向こうからはレクイエムが聞こえていた。
終わったと思った。でも、このまま終わらせてはいけないと思った。
見つかってしまったとき、少女が殺人者として扱われるのが嫌だった。
少女を咎人として送りたくないと、そう思った。そのためにはこの遺書は存在してはならない。
佐紀は部屋を飾り、少女を飾り、精一杯の気持ちを込めて送り、遺書を持ち帰った。
- 293 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:43
-
「一片の疑いも向けて欲しくなかった。だから、私がやったことにして、終わらせたかった」
佐紀はそこで言葉を切った。
吉澤が続きを受けるつもりで探るように囁いた。
「殺人犯にして殺したんだよね?その子をいじめてた子達を」
「・・・」
「そうだね、それを認めるつもりはないよね」
「・・・先生に話したときはただの思い付きだったんです」
「言わなくていいよ」
佐紀は観念したように引き結んだ口を綻ばせるが、吉澤はそれを遮って黙り込んだ。
不思議そうな顔で首を傾げていた藤本が堪りかねて割り込む。
「ちょっと待って、それは何の話?」
「美貴。やめて」
吉澤は藤本も止める。佐紀が迷うように視線を泳がせる。
吉澤が指で机をコンコンと鳴らすと、佐紀の視線が止まった。
しっかりと視線を絡めて、言い聞かせるように吉澤は言う。
「いいんだ。それは、あたしも言うつもりないから。キミの為じゃなくて、美貴のために」
「・・・先生が聞いたんじゃないですか」
「うん、あたしの想像は当たってるのかなって、ただの好奇心。それ以上言わないで、お願い」
- 294 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:44
-
真剣な様子の吉澤の願いを佐紀は聞きいれた。軽く俯いて、話し始める。
「・・・先生のこと知ってたのかって訊きましたよね」
「あぁ」
あの日、佐紀は一抹の不安を覚えた。妙に敏感な家庭教師は、佐紀の様子を不審に思うだろう。
いや、明らかに泣いていたのだから、相当に鈍感でも不審がられる。
何か言われたとき、あの不思議な空気に飲まれてしまわないだろうか。
全て話してしまいたくなったらどうしよう。それ以上に、罪人を知られてしまわないかと、
全てを悟られはしないかと、不安を覚えた。そして残念ながら吉澤は、全てを悟ってしまった。
「・・・教えてくれたんです。電話したときに、変な家庭教師が来るって言ったら、
追い出す言葉になるかもしれないから、覚えておくといいって」
変な、と評された吉澤が目を細めた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。謝るようなことじゃない」
しばしの沈黙の後、佐紀は藤本を見上げた。
「刑事さん。私・・・・なんて言えばよかったと思います?」
「自首しろって言って欲しかったな。ミキの職業柄」
「そうですね。そしたら・・・死ななかったのに・・・私のせい、ですよね」
清水佐紀はそこで初めて涙を流した。
- 295 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:44
-
「・・・先生なら、なん、て、言い、ました?」
「あたし?」
「人、殺しちゃったって、言われたら、なんて、言いますか?」
しゃくりあげながら佐紀に訊かれ、吉澤はぼんやりと天井を見上げた。
「宿題にしてくれる?来週にでも・・・・答えに行くわ」
「・・・ずるい」
佐紀の口の端が笑ったように歪むのを見て、吉澤は立ち上がった。
くるりと振り返って藤本に頭を下げた。
「ま、こんな感じでお話終わりってことで」
「うん・・・こっちでも参考にさせてもらうわ」
藤本はドアを開けて追い払っていた同僚を呼び戻した。
入れ違いに出ようとした吉澤が振り返って佐紀に言った。
「またね。次に会ったら、バイオリン弾いてくれないかな?あたしは素人だからさ、
優勝じゃなくても十分すげーと思うんだよね。だから、聞かせてほしいな」
穏やかな声に、佐紀は小さく頷いた。
- 296 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:45
-
部屋を出て、吉澤はまっすぐ喫煙スペースに向かった。
藤本がその後ろから付いてきて、難しい顔をして呟いた。
「う〜ん・・・・どっちにしろ証拠ないんだよね・・・・」
「ん、あるよ?」
「あ?」
首を傾げる藤本に、こともなげに吉澤が言う。
「遺書。あたしが持って帰ったから」
「はぁ!?」
「本に挟んであったんだよ。んで、まぁ、なんであんなこと言ったか分かったし・・・」
「よっちゃん?」
藤本が吉澤を睨みつける。その低いトーンにぎくりとして吉澤が汗を滲ませる。
「・・・はいはい。どーぞ」
諦めたように言って、吉澤は懐から封筒を取り出した。
藤本の前に差し出す。その上に重ねられていたものに藤本が目を留めた。
それは吉澤が指定したホテルのカードキーだった。318号室と書かれている。
「てっめぇ・・・偉そうに無能扱いしてくれたくせにお前のせいか」
「誤解だって。あたしもともと大体分かってたもん」
「証拠隠すな!逮捕するぞ」
「ミニスカポリスを呼んでくれ。百歩譲ってミニスカ履いてから言ってくれ」
「そんな警察いねーよ、バカ」
「だから美貴が履けば万事解決・・・」
「死ね。一度と言わず二、三度死んでこい」
- 297 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:45
-
散々言い散らしながら藤本は手袋をはめて中身を検めた。
そこに全てが書かれていた。先の佐紀の話に矛盾する箇所はない。
これさえ見つかっていれば、と思うと怒りがこみ上げる。
「本当にさ、冗談抜きであんたも逮捕もんだよ?」
「気持ちが分かったんだよ・・・殺人犯なんかにしたくなかったんだよ・・・・」
子供と同じ次元で生きているのだろうか。
いじけるように言う吉澤に、藤本はため息をついた。
「・・・さっき言うつもりないって言ってたこと、話すなら勘弁してあげるけど」
「知らないほうがいいと思うよ?」
「なら仕事で迎えに行くかも」
その脅しに、吉澤は不満げに口を尖らせた。
気が進まないのがよく分かる表情のまましぶしぶ話し始める。
「・・・・家庭教師で行ったときにさ、催眠術で人は殺せるかって聞かれたの」
「そんなの・・・」
「うん、出来ないよね。でも、出来たみたいだ」
「それって、あの子は」
「ほらね。美貴は知るべきじゃない。気にするべきじゃない」
一瞬顔色を変えた藤本を指差して、吉澤が言う。
藤本が撃ち抜いた少女の置かれていた状況、出来れば知らせたくなかった。
奪ってしまった命が、誰かに操られてしまっていたなんて、考えるべきじゃない。
しかし心配して藤本を覗き込んだ吉澤の後ろ頭を藤本は軽く小突いた。
- 298 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:46
-
「バカにすんなっての。言ったでしょ。覚悟はしてたって」
吉澤はあっけにとられてぽかんとした表情で、胸を張る藤本を見た。
「なら撃たなきゃよかった?そしたらあんた今ここにいた?」
力強い声に、目をぱちくりとして吉澤は心の底から感嘆した。
「すげーよ、マジ尊敬する・・・」
佐紀の気持ちは分かっても、藤本の気持ちは分かりそうもないなと吉澤は思った。
ふと、零すように藤本に言った。
「でも、あたしなら殺さないけどなぁ」
「・・・当たり前でしょ」
「あたしなら、あの子達をホテルに連れて行く。それだけで、十分だと思うよ」
止められなかったあの日の彼女。目に焼きついて、今でも鮮明に思い出せる。
どう受け止めるかはそれぞれが勝手にすればいい。吉澤なら、そうする。
吉澤は目を閉じてポケットから煙草を取り出した。
ぼんやりとため息をついて藤本は呟いた。
「・・・心だけじゃダメだったんじゃない?
それに、よっちゃんの言うとおりだとしたら上手くやってくれたもんだよ」
「あの子これからどうなるの?」
「・・・・すぐ釈放されるんじゃない?」
- 299 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:47
-
聞きながら吉澤は咥えた煙草に火を着けた。
意外な答えにゆっくりと藤本を見遣る。目が合うと、藤本は自嘲するように言葉を続けた。
「腕利きの弁護士が付いた。チビの若い女なんだけど、実力は確か・・・・
そいつにかかれば真っ黒でも白になる。お偉いさん御用達って有名人だよ」
「へぇ」
「それでなくてもトランス状態で暗示だなんだって立証しにくいのに・・・・、
相手があの女じゃ、正直お手上げよ。肝心の事件はやってないみたいだし」
張本人が生きていれば立証も可能かもしれないが、暗示を掛けられたという少女は藤本が撃ち抜いた。
いじめさえなければ、と佐紀が恨みに思ったのも理解できないでもない。
その最期が藤本によるものであっても、佐紀にとっては予定調和だろうか。
意識しないように吉澤が呟いた。
「・・・・いろいろ知ってるお友達がいるみたいだけど」
「あぁ、後で話聞きに行くつもり。よっちゃんも連れてってあげようか?」
「なんでだよ」
「興味津々に見えたから」
「・・・・関係ないね」
「うそつき。ま、別に来なくていいけどね」
コンクール優勝者、すぐに誰だか分かるだろう。どの程度絡んでいるのかも、
何のつもりだったのかも分からない。ただ、吉澤のことを知っているなら元生徒かもしれない。
興味はあっても会いたくないだろう。それぐらいは察しがついた。
「いろいろ思い出させちゃったみたいで悪かったね。・・・・正直、ミキもやりきれない」
「じゃーさ、辞めりゃいーじゃん。あたしみたいに」
- 300 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:48
-
軽く言って、吉澤は笑った。
「そんで一緒に梨華ちゃん家に住み込もう」
「ナイスアイデア。でも遠慮しとくわ」
藤本は肩をすくめた。藤本は吉澤ではない。そんな思考回路は持ち合わせていない。
どこまで本気か分からない吉澤はポンと手を叩く。
「あ、梨華ちゃんだ。思い出した、帰って飯作らないと」
「オマエは梨華ちゃんの嫁さんか」
「残念だけどもらってくれないと思う」
灰皿に煙草を押し付け、わずかに笑みを浮かべて喫煙室を出た。
颯爽と歩く藤本に、吉澤がだらだらと付いていく。
外はすっかり日が傾いて、目に染みそうなほど赤かった。
「梨華ちゃん呼び出そうか。ミキのおごりでいいよ」
「おぉ、太っ腹。でも今度にしてよ。シチューできてるし」
「そっか。そーいや昼間っから作ってたね」
「うん。それに、」
夕日に伸びた影は一段下がった藤本の方が頭一つ分大きく、並んで歩く誰かに重なった。
「今日は二人きりになりたいから」
- 301 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:48
-
茜色に染まった階段を、吉澤は眩しそうに目を細めて下りていった。
***
- 302 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:49
-
シチューに火を入れる。
ふわふわのオムレツを添えて、パンとサラダで食卓を彩る。
全てが出来上がった頃に、ちょうど石川が帰ってくる。
完璧な時間配分に満足して玄関を開けた。
「おかえり」
「あれ、美貴ちゃん来てない?」
「来てないよ」
「あれぇ?家行っていいかって電話あったんだけどなぁ」
「仕事じゃないかな?」
石川が訝しげに部屋を見回すが、誰もいない。
脱いだ上着を吉澤が受け取り、さっと払って掛けに行く。
石川は携帯を取り出し藤本に電話を掛けた。
数回のコールのあと、繋がらない電話を切って吉澤を呼んだ。
「ひとみちゃーん?美貴ちゃんの仕事用の番号教えてくれる?」
「あぁ、あたしの携帯でどーぞ」
パタパタと寄ってきた吉澤から受け取って、藤本にかけるがそれも繋がらない。
まぁ、いいかと結論付けて、石川は食卓に着いた。
- 303 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:49
-
「疲れたぁ・・・」
食事後、ソファに座る石川の膝に、後片付けを終えた吉澤が頭を乗せた。
そのままテレビを眺めていたが、すぐに目を閉じた。
「ねぇ梨華ちゃん。梨華ちゃんのためなら何でもするからね」
「たとえば?」
「なんでも。本当に、なんでもする」
会ったこともない、名も知らぬ佐紀の親友。吉澤もきっと同じことをする。
石川に被る全ての泥を受け止める。誰にも汚させない。
「あたし、梨華ちゃんの身代わりにならなるよ。代わりに捕まる」
「・・・変なの」
意味の分からない石川は吉澤のふわふわの髪を三つ編みして遊び、
しばらくすると飽きて寝室に入って行った。吉澤はソファに一人横たわる。
しかし石川はすぐに戻ってきた。
「・・・ちょっと。さっきの続きだけど」
「ん〜?」
「私が捕まるとしたらひとみちゃんを殺したときだと思うの。だから身代わりは無理だと思う」
「・・・はい?」
立ち上がり、手招きされてふらふらと歩み寄る。
石川はバンと大きな音をさせてドアを開くと、首を傾げる吉澤を寝室に蹴りこんだ。
無様に転がった吉澤と、毛むくじゃらの獣の目が合った。獣が吠える。
- 304 名前:MIND 投稿日:2008/11/01(土) 15:50
-
「ワン」
「わんわん。蹴られちゃった。いってぇよぉ。分かる?よしよし」
「よしよし、じゃないわよっ!」
吉澤の頭にクッションが投げつけられた。
丸められた毛布の上で尻尾を丸める子犬を吉澤は安心させるように優しく撫でた。
「な・ん・で、犬がいるのよ!?」
「友達がそろそろ決めてくれって言うから・・・思い切って貰ってきてみた」
「私に無断で思い切らないでよ!」
吉澤めがけてさらにクッションが飛んでくる。
返す言葉もなく吉澤は庇うように子犬を抱き上げ石川を見上げた。
入り口に仁王立ちした石川はさらに続ける。
「・・・返してきなさい」
「えぇ?梨華ちゃんも犬買おうとしてたじゃん」
「いらないの。返してきて」
「ちゃんと見た?可愛いんだよ?超可愛いんだよ?ちゃんと見たならそんなこと言えないって」
言われて石川は子犬を見る。つぶらな瞳にキュンとする。
確かに。どう考えてもいらないのに、返して来いとはもう言えない。
しかしペットは間に合っている。二匹も飼う気はない。石川は決断した。
「分かったわ。じゃあひとみちゃんだけ出てって」
「・・・・明日返してきます」
- 305 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/01(土) 15:50
-
- 306 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/11/01(土) 16:43
- 最後のオチはずるいw吹いたw
- 307 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/01(土) 21:15
- この作品が凄く面白いので
他にも書かれてるなら読みたいな〜なんて思ったわけです。
なんというか、普通の小説を読んでるようで
毎日更新されていないか覗いてしまいます。
- 308 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/01(土) 21:18
- 犬に負けたんかwww
- 309 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/02(日) 00:04
- 一気に更新乙です。
「覚悟」決めてるミキティかっけ〜なぁ。
吉澤さんも前に進めそうでしょうか。梨華ちゃんのキャラ大好きです。
- 310 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/03(月) 20:19
- 梨華ちゃんも美貴様もブレがない
- 311 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/10(月) 20:15
- >>306-310
レスありがとうございます
- 312 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:15
- ◇
Austria―2008・April
「新しい先生?」
『うん。ちょー綺麗でさぁ、舞美も学校来なよぉ』
間延びした甘い声を聞くのが好きだった。
「登校拒否みたいに言わないでよ。私が今どこにいるか分かってる?」
『えぇ〜?分かってるよ、オーストリアでしょ?カンガルーいないほうでぇ、音楽の都!』
「そう、ウィーン。そんなフラッと見に行けないよ」
『あの先生にはそれぐらいの価値あるよぉ?』
知らない誰かの話をする幼馴染を眺めて、私は静かにケーキを口にした。
『あっ!何食べてるの!?』
「ザッハトルテ。こっちのケーキだよ。ジャムが美味しいの」
『いいなぁ、次帰るときはお土産に買ってきてね』
「あは、日本でも買えるって」
『あ!っていうかうちが作る!一緒に食べよ。本場の味と比べてね』
楽しそうに話す彼女は辛い思いを抱えているはずなのに。
「うん・・・約束ね。でも私のジャッジは厳しいよ?」
パソコンの画面で笑う彼女に触れたかった。
◇
- 313 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:16
-
- 314 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:16
-
久しぶりに帰った実家は、無人だった。
母親が買い物にでも出かけていそうな時間を狙って来たのだから、
それは当然と言えば当然だった。
一応帰ってきたことだけは知らせたほうがいいだろう。
しかしメールでも送れば“すぐに戻るからそこで待て”と言われるかもしれない。
吉澤はメモ帳をちぎって、走り書きをした。
目立つようにダイニングテーブルの上に置いて、自分の部屋に向かった。
いいかげん帰ってこないことにも慣れてしまったのか、
部屋は半分物置と化していた。適当にどけながらクローゼットを開けて、
上着を取り出してカバンに詰めた。CDと本だけはバカみたいに揃った部屋からは、
お気に入りだけが抜け落ちてすでにその居場所を石川のマンションに変えていた。
そういえば涼しくなってきた頃に帰ったときも、こうやって母の留守を狙ったっけ、
と吉澤はぼんやりと思い出した。
結果、仕事を辞めてから家族とは一度も顔を合わせていなかった。
「ひとみー?いるのー?」
その企みは、今日は上手く行かないようだ。
階下から母親に呼ばれて、ポケットの錠剤を口に放り込んで渋々降りていった。
- 315 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:16
-
「ひとみ・・・」
夏と比べてもそれほど変わりなく、吉澤を見つめる母を静かに見返した。
かける言葉を探すように瞬きを繰り返した後、母は吉澤に尋ねる。
「仕事は?」
「・・・・してない」
「お友達のところにいるんでしょ?仕事してないって、家賃払ってないの?」
特殊な団体のトップの娘に生まれ、まったくもって普通という言葉意外似合わない男と結婚し、
家庭を築いた石川の母は現在、経営に辣腕を振るっていた。
自立しようと家を出た娘には個人的に所有していたマンションを与え、
それで子離れ親離れのつもりでいるらしい。石川の方もそれで特に疑問はないらしく、
吉澤に金銭的な要求をすることはない。そもそもあんな高級マンション、
家賃の半額を納めろと言われたらバイトぐらいじゃ追いつかない。
おかげで助かっている吉澤は何も言わないが、金持ちというのはどこかズレている。
「梨華ちゃんのママの持ち家だから大丈夫だよ。そっちは?元気?」
「えぇ、みんな元気よ」
「そう」
近況を確認しあった母と子は、しばし見詰め合っていた。
「じゃ、もう行くから」
- 316 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:17
-
実にあっさりとした言葉を残し、吉澤は母とすれ違った。
吉澤の背中に母が声を掛けた。
「たまには連絡ぐらいするのよ」
子供の頃から母親の愛情を感じたことはあまりなかったが、
吉澤は母親が嫌いなわけではなかった。
アクセサリーの一つだとしても、大事にされていることには変わりない。
「・・・・帰って来いとは言わないんだね」
今の自分は母親を満足させられるアクセサリーではいられない。
お嬢様学校の生徒でもなく、有名大学の学生でもなく、名門高校の教師でもなく、
平日の昼間にうろうろしている半引きこもりの自分は母親の傍にいてはならない。
嫌味でもなんでもなく、吉澤はそれを受け入れていた。
しかし母には堪えたようで、ぐっと息を呑んで黙り込む。
その様子に申し訳なくなった吉澤が靴を履きながら振り返って笑った。
「気にしないで。ごめんね、仕事するまでなるべく帰らないから」
「そんな・・・こと・・・・」
「本当に、責めるつもりなんてないから。ごめん、言い方が悪かったね。
うん、心配してくれてありがとう。考えたいことあるから、もうちょっと放っておいてよ」
あなたは理解ある母親だと言い聞かせられそうな言葉を選び、
少しだけ気の抜けた表情になった母に背を向けて、吉澤は実家を出ていった。
- 317 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:17
-
***
- 318 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:17
-
石川のマンションの前には、藤本が立っていた。
本気で人でも殺しそうなほどイラついた表情でインターホンを押し続けている。
苦々しい顔をして、吉澤は仕方なく声を掛けた。
「留守ですけど」
その声によほど驚いたのか、藤本は例えではなく本当に飛び上がった。
これ以上ないほど驚いた顔をして藤本は心臓を押さえた。
「びっっくりしたぁ・・・」
「なんだよ?何か用?」
「よっちゃん・・・外、出るんだね」
「食材の買い物ぐらいしてるからね。ってか何か用かって聞いてんだけど」
左手にカバンと買い物のエコバッグを提げて、鍵を差し込む。
開いたドアを潜り抜け、さっさとエレベーターのボタンを押す吉澤に、
藤本が慌てて付いていく。
「あ、佐紀ちゃんのことなんだけど」
「またかよ・・・うるせーな」
「薬の入手経路が分かんないんだよね」
「ハッ、冗談よせよ。路地一本奥に入ればいくらでも手に入る」
警察の沽券に賭けて認めるわけにはいかない答えを、吉澤は易々と提示した。
苦虫を噛み潰したような顔で藤本は黙り込む。
エレベーターが目的の階に到着した。
- 319 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:18
-
吉澤がガチャガチャと鍵を開ける。ドアを押さえて先に藤本を中に入れた。
リビングのソファに藤本が腰を下ろす。その後ろを通って吉澤はキッチンに向かった。
テキパキと買って来たものを冷蔵庫にしまう吉澤に藤本は話し始めた。
「コンクールの優勝者だけど。知ってはいたみたい・・・・でもほとんど無関係だね」
「ふぅん」
手を止めず気の抜けた返事だけが返ってくる。
「コンクールの日に刺されそうになったことも、騒ぐつもりないってさ」
「へぇ」
「知ってはいたけど、どうしたらいいか分からなかった、だって。まぁ友達だしねぇ」
「ほー」
「真面目に聞いてんのか」
「・・・・聞いてねーよ。どーでもいいって」
一通りしまい終えた吉澤は換気扇を回した。
いつもどおりの距離を隔ててやっと藤本とまともに話し始める。
「美貴はどーしたいの?佐紀ちゃんを殺人犯にしてあげたいの?」
「本当のことを知りたい」
「くだらねーなぁ・・・」
吉澤は煙草に火をつけて大きく煙を吸い込む。
そして、あくまで個人的な見解だと前置きをしてから話し始めた。
「・・・たぶんさぁ、事故に近いんだと思うよ」
- 320 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:18
-
「何を言ったんだか知らないけど、暗示みたいなことはやったんだろうね。
でも事件が起きたとき、あの子はその部屋にすらいなかった」
銃声の直後、佐紀は玄関にいた。実行犯は藤本がその目で見ている。
そのうつろな目も、藤本が見ている。
「上手くいいかなくてもよかったんだよ。薬はやらせたんだから、
それだけでもあの子達の人生は狂わせれる。あれは上手くいってしまったという事故だった」
「・・・・」
「催眠術で殺人なんて、誰が本気で考える?成功するなんて、誰が思うの?」
佐紀は吉澤が帰った後もそのことだけは語らなかった。
散ってしまった若い命のため、しかし佐紀もまた、これからの若い命だ。
後悔、しているだろうか。追求することは正しいのだろうか。
おぼろげにしか見えていなかった藤本に、吉澤の示した答えが染み入った。
「・・・・ってかさぁ、美貴そればっかだよね」
「は?」
「事件のことでしか家来ないじゃん?たまには遊びに来なよ」
「遊びにって・・・」
「あたしは別にどーでもいいけどさ、梨華ちゃんに失礼だと思わない?」
にやりと笑って、吉澤は煙を吐き出した。
友として扱う吉澤に、藤本もフッと笑いを零した。
「分かった。次は梨華ちゃんいるときに・・・遊びに、来るわ」
「うん。待ってるよ」
吉澤はやわらかく微笑んだ。
- 321 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:18
-
***
- 322 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:18
-
数日が経ったとある休日の昼下がり、石川は慌しく走り回っていた。
「ねぇ、まだぁ?」
「もーちょっと!」
次々に着替える石川を待って、吉澤はうんざりした顔でソファに座りなおした。
「病院にいったいどんな出会いを求めてるの?」
「出会いとかじゃなくて、着飾っていたいの。それが女の本能でしょ?」
「めんどく・・・」
「なに?」
「いえ、早くしてください」
それだけ言うと吉澤は近くにあった雑誌を手に取った。
石川はそれからもバタバタと部屋を行き来していた。
「うん。これでいいわ」
しばらくして一応の満足がいったのか、石川は鏡を見て大きく頷いた。
吉澤が姿見の前に立つ石川の後ろに立って背中越しに服装を眺め、首を傾げた。
「それ、さっき着てなかったっけ?」
「着てたけど」
「・・・・」
「なに?」
「・・・・なんでもない」
きっぱりと答えられ、吉澤は言葉を飲み込んだ。
- 323 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:19
-
着替えが終わり、いざ部屋を出ようとした瞬間だった。
吉澤の足が止まった。石川が付いてこない吉澤を振り返る。
何も言わず吉澤を見上げる。視線に答えるように吉澤がはにかんだ。
「えっとね、お腹痛い」
それはいつものことだった。
理性では分かっている吉澤は、薬が残り少なくなれば病院へ行こうとする。
一人では行けないから石川が休みの日に行く。
そして石川の準備が整って、家を出ようとした瞬間に吉澤がごね始める。
「・・・・私が着替えてる間に心の準備くらいしておきなさいよっ!」
「でも、お腹痛い」
嘘ではなかった。
間違いなくストレス性ではあったが、吉澤は痛みを感じてはいる。
酷くなっていく痛みに吉澤が顔をしかめた。弱々しい笑みを浮かべて石川に手を伸ばす。
しょうがない、と言う風に憮然とした石川がその手に自らの手を重ねる。
その感触だけに集中するように吉澤は目を閉じた。大きく深呼吸をして、やっとその背筋が伸びる。
「はぁ・・・・うん。治った」
「本当に?大丈夫?もう行くよ?」
「うん、大丈夫。ごめんね」
病院の診察を終えて薬を受け取るまで、吉澤は幾度となく「ごめんね」と繰り返していた。
- 324 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:19
-
薬局を出ると、次の目的は石川の買い物だった。
「・・・・あんだけ迷っといてまだ服がいるの?」
「なに?何か文句でもあるの?」
「ないです」
これ以上選択肢が無駄に増えていくことを想像して、
うんざりした吉澤は店の前に出て煙草を吸っていた。
ふと、前方から歩いてくる人影に目を奪われる。
――美少女。
何のためらいもなくそう呼べる風貌。
すらりと伸びた四肢、さらりと流れる黒髪、対比するように白い肌、
はっきりとした目鼻立ち、どこか強さを感じさせる瞳、
歩いているだけで数人が振り返る。
吉澤もそんな中の一人だったが、ひとつだけ違っていた。
吉澤自身もまた、群集に埋もれない美貌を備えている。
少女もまた、吉澤に目を留めた。
視線が絡み合う。
時間がゆっくり流れているように徐々に距離が縮まる。
不意に、少女の視線が動いた。吉澤がつられて見ると自転車が走ってくる。
スローモーションのような視界の中、少女が自転車を避け、吉澤の方へふらりとよろけた。
吉澤の鼻腔を清潔な香りがくすぐる。
ふわりと香る人工的でない芳香。はっきりとした声で、少女は吉澤に語りかけた。
- 325 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:19
-
「Geh zur Hoelle」
「・・・・―――え?」
声を皮切りに、吉澤の時間が正常な速度を取り戻した。
少女に触れた箇所からじわりと、鈍く違和感が広がる。
ゆっくりと下を見て、顔を上げたら少女の姿はもうなかった。
生暖かい感触に包まれているのに、体は冷えていく。
ぽた、ぽた、と滴る水音がやけに鮮明に吉澤の耳に届く。
少女の残り香がふんわりと空気中に漂っていた。
ざわざわと人ごみに異変が伝わり始める。
店から出てきた石川がやっとその様子に気付く。
その瞬間、買ったばかりの袋が地面にガサッと軽い音を立てて落ちた。
「ひと、み・・・ちゃん?」
遠くから聞こえるように、聞きなれた声が吉澤の耳に届いた。
ぎこちない動作で振り返ると、驚愕で青ざめた石川の顔が見えた。
――そんな顔しないで、
そう言いかけた言葉は声にならず吉澤の意識が遠のく。
「―――――――!!!!!」
声にならないほど高い悲鳴が街に響いた。
- 326 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:20
-
***
- 327 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:20
-
救急車で運ばれてから三日が経った。命に別状はなく、傷は浅い。
病院生活に飽きてきたころ、やって来たのは藤本だった。
「これ、一応お見舞いね」
「ああ、ありがと。そこ座ってりんご剥いてよ」
「自分でバナナでも剥いてろ」
およそ見舞い客らしくない礼儀を以って言う藤本に吉澤が肩をすくめる。
適当に包まれたフルーツをテーブルに置いて、藤本は吉澤の横に椅子を置いて座った。
「よっちゃんが通り魔事件の被害者ねぇ・・・やる気でないわぁ」
「出さなくていいよ。どうせ見つかんないって」
「えーっと?犯人は若い男、背丈はよっちゃんより少し高いくらい、黒っぽい服・・・」
警察に訊かれた時に吉澤が答えた内容を繰り返し、藤本は吉澤を横目で見た。
非難めいた視線に吉澤が尋ねる。
「なんだよ?」
「・・・要するに中肉中背、服装にも特徴ゼロじゃん」
「だからどうせ見つからないって言ったんだよ」
「頭いいんでしょ?もっと思い出せないわけ?」
「無理」
「・・・・役立たず」
- 328 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:21
-
藤本が腕時計を確認する。
そろそろ帰ろうかと思い出したころ、不意に吉澤が口を開いた。
「・・・・Geh zur Hoelle」
「ゲー・・・なに?」
発せられた言葉を、藤本は聞き取ることが出来なかった。
反芻すらできない。吉澤は藤本を見ることもなく爪をいじっていた。
「ドイツ語だよ。地獄に落ちろって意味」
「お前が落ちろ」
とりあえず言い返すことしか考えていないのか、
あまりにも早すぎる藤本の反応に吉澤はため息をついた。
「美貴に言ったんじゃなくて、あたしが言われたの。
・・・・通じないって分かってんのに言うわけねーじゃん」
「言い方がムカつくんだけど。ってか誰に言われたの?」
最近の吉澤には石川と自分以外の誰かと話す機会があるとは思わなかった。
そして藤本は語学に堪能というわけでもない。石川がどうかは分からないが、
そんなことは言いそうにない気がした。しかし藤本の問いに、吉澤は口をつぐんだ。
「よっちゃん、また何か隠してる?」
「・・・・別に。特にないです」
藤本は呆れたようにため息をついた。
隠してるのかどうかはともかく、言うつもりがないことだけは理解した。
- 329 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:21
-
「ってかさぁ、梨華ちゃんにお見舞い来てって言っといてくれない?」
「は?来てくれないの?」
「う〜ん、適当に荷物だけ持ってきてくれたんだけど、それからさっぱり」
「よっちゃん、平日。みんな忙しいの。分かる?」
「分かってるけど・・・・」
迷うような表情を浮かべ、吉澤は躊躇いがちに言った。
「・・・・寝れないんだよ」
「はぁ?」
「キツめの薬もらうんだけど、寝れない」
「それが梨華ちゃんの見舞いと何か関係あるわけ?」
医師を呼んで来いと言われるならば藤本も納得できたが、
薬が効かないからと石川を呼ぶのは理解できなかった。
率直な疑問に、吉澤は背を向けて布団に潜り込んだ。
「・・・・言っといて」
眠れないと言ったくせに、眠るから帰れと言うような姿勢で藤本を追い出す。
頑なな背中は変わらない。昔から全力で他人を遠ざけようとしている節はあった。
その壁を突き破って、寂しそうな手を引いて、付いて来いよと引きずって。
なんだかんだであれから十年、気安い友は藤本に背を向ける。
藤本は静かに病室を後にした。
- 330 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:21
-
ビジネス街に向かって藤本は車を走らせた。
地下に車を止めると、大きなビルの受付につかつかと歩み寄る。
「秘書課の石川さんお願いします」
「アポイントメントはございますか?」
「あー、警視庁の藤本で通じると思うんですけど」
「はい、少々お待ちください」
手持ち無沙汰に見回したエントランスは広々と明るかった。
受付の女性は手早く電話を終えると藤本に微笑みかけた。
「お待たせいたしました。15階へどうぞ」
「どーも」
来客用のカードを持たされて、藤本はエレベーターに乗った。
ガラス越しに見つけた友に軽く手を上げて声を掛ける。
「梨華ちゃん」
パソコンに向かっていた石川が顔を上げた。
メガネとスーツが藤本にいつもどおりの友人ではないことを感じさせる。
目が合った石川に顎で促されて藤本は部屋に入っていった。
弁えようと思った礼儀を投げ捨てて、ドアを開けてすぐに藤本は強い口調で愚痴を零した。
「なんでミキがあいつに使われなきゃなんないの?怪我してるからって調子乗りやがって・・・」
「ちょっと、美貴ちゃん。入り口で立ち止らないでよ」
「あ、ごめん」
藤本の脇を石川の同僚が頭を下げながら通り過ぎた。
退くのを待っていたのだろうかと思うと多少申し訳ない気持ちになる。
- 331 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:22
-
「あと、会社で警視庁とか言うの止めてくれない?」
「へ?」
「変な噂たったらどうしてくれるの」
そういえば、昼間から刑事が訪ねてくる社員というのはなかなか稀有なものかもしれない。
とはいえ藤本は年中警察だと名乗っているのだからそのことに違和感などない。
「あはは、ごめんね。気付かなかった」
「・・・次があったら気をつけてね」
小さなため息と共に、石川はその話を終えて何の用かと本題を尋ねた。
忘れるところだったと手を叩き、藤本はにやりと笑った。
「よっちゃんのお見舞い行ったらさぁ、伝言頼まれちゃって」
「そう。ひとみちゃん、なんて?」
「梨華ちゃんもお見舞い来て、だって」
「分かった。わざわざありがとう」
それだけ言って、石川はまたパソコンに向かった。
あっさりとした答えに、拍子抜けした藤本が一瞬固まる。
つれない態度の石川に、藤本が噛み付くように言う。
「ちょ、なんか冷たくない?」
一瞬だけ動きを止めた石川は藤本に答えず仕事を続けた。
その様子に、藤本のスイッチが入る。つかつかと歩み寄り、
石川のデスクに手をつき、睨むように石川を見た。
- 332 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:22
-
「・・・・昔から。高校くらいからずっと、梨華ちゃんの近くにはよっちゃんがいて、
よっちゃんの視線の先には必ず梨華ちゃんがいて、気付いてたでしょ?」
それでも石川は何も答えない。
「彼氏できたとか言ったら泣きそうな顔してたよね?」
「そうだっけ?」
「・・・よく言うよ。忘れるわけないじゃん」
やっと返ってきたとぼけた答えに、藤本は唇を噛んだ。
「あいつは何も言わないけどさ、見てんだよ。寂しそうに、じーっと梨華ちゃんを見てんの」
「それだけ聞くと、ひとみちゃんがすごく危ない人みたいなんだけど」
メガネを外して石川が立ち上がった。プリンターの前に立ち、出てくる書類を確認している。
その背中に藤本は続けた。
「やっとじゃん。七年?八年?そんだけ経ってさ、今やっと近くにいられるんだよ?
なのにあんなことになって・・・寂しがってんだよ。今も病院で、もしかしたら泣いてるかもよ」
勝手に代弁する藤本がだんだんと熱を帯びていく。
トントンと書類を整えながら、石川は小さく息をついた。
そして今度は石川が藤本に問いかけた。
「・・・それで?」
絶対零度のその一声で、オフィスの雑音が一気に遠のいた気がした。
藤本を振り向いた石川は美しすぎるほどに凛とした佇まいで、藤本を真っ直ぐな視線で射抜く。
- 333 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:22
-
その妙な迫力に気おされるように藤本は言葉に詰まる。
「いや、それでって・・・」
「会社サボってお見舞いに行けって?私が社長のバカ娘って思われたくないの知ってる?」
この会社の経営者は石川の母だった。
しかしそれを笠に着てどうこうというのは、石川の辞書にない。
誰よりも何よりもフェアであろうとする意地。藤本は一瞬、言葉をなくした。
「ワガママは言いたくないの。有給だって、できるだけ使いたくない」
「・・・・ご立派」
一般社員よりも自由が利かないお嬢様は、書類を整理しながら淀みなく話す。
内心、感服していたが藤本はそれをストレートに表したりはしない。
大人気ないが、昔からの友人に大人ぶる必要なんてない。
石川に見せ付けられた意地を認めないふりをするのが、藤本の意地だ。
「よっちゃんのこと心配じゃないのぉ?」
底意地の悪い笑みを浮かべて藤本が言う。
「ナースと浮気してるかもよ?」
「・・・出てって」
「言われなくても出てくけど。伝えたかんね。眠れないんだってさ。じゃね」
にやにやと笑みを浮かべたまま出ていく藤本を見送って、
石川はスケジュールを眺めて、長引きそうな会議の文字を指で弾いた。
- 334 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:23
-
***
- 335 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:23
-
病院の前で石川は腕時計を眺めながら立ち尽くしていた。
午後八時十五分、面会時間をわずかに過ぎてしまった。
しっかりと仕事を終えて、花を買って、お見舞いらしいお見舞いに来てみたものの、
これではどうしようもない。
「・・・一応、来たからね」
誰にともなく虚空に呟いて、石川が引き返そうとした時、
「石川梨華さん?」
「はい?」
呼ばれた声に石川は振り向いた。
出入り口に立つナース服の女性が微笑んでいる。
「昼間にいらっしゃった刑事さんから伺っています。どうぞ」
「えっ、あ、すいません。お世話になってます」
戸惑いながらも手回しのいい友人の顔を浮かべて、石川は看護師の後ろを付いていった。
病室に向かう途中、看護師は振り返り、抑えた声で石川に尋ねた。
「あの、お泊りになるんですよね?」
「へ?」
手回しのよすぎる友人を引っ掻いてやりたい思いだった。
せめて、石川にも伝えておいてもらいたい。
- 336 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:23
-
しかし行くとも言っていないのに、藤本はここまで手を回している。
付き合いの長さを実感して脱力した石川に看護師は続けた。
「簡易ベッドがあるんですけど、すぐに準備しましょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です。すいません」
部屋の前で看護師に頭を下げて石川はそっと病室の扉を引いた。
中に入りきる前に吉澤の声がした。
「梨華ちゃんだ」
驚いて中を見るが、ベッドは陰になって見えない。
向こうからも見えないはずだ。奥まで入ると吉澤が体を起こそうとしているところだった。
軽く手を添えてやると、吉澤は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「なんで分かったの?」
「ん〜匂いかな?」
「嘘ばっかり。お花持ってるのに匂いなんか分かるわけないじゃない」
「分かるよ。お見舞い用に包んでもらったでしょ?匂いのきつい花なんか入ってないって」
それにしたって会社帰りの石川はきつい香水をつけているわけでもない。
へらへらと笑う吉澤を見ていると、藤本から聞いた話が嘘のように思えてきた。
「・・・犬みたい」
「わん」
吉澤がお手をするように石川の肩に手を置いた。
その仕草が石川の癇に障った。
- 337 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:24
-
「出てって」
「いや、出られるもんなら出たいんだけどね、出られないの」
「頑張って」
「・・・・え、と。あの、無理です」
小さくなって黙り込む。頑張ってなんとかなることではない。
「ひとみちゃん」
静かに呼ばれ、吉澤は顔を上げた。
石川の表情は微笑みと悲しみを同時に浮かべていて、
吉澤はそれを見て不安そうな顔をした。
「美貴ちゃんが会社に来たよ」
「え、そう・・・」
「お見舞い行けって言われた」
「・・・・来てくれてアリガトウ」
申し訳なさそうに顔を伏せる吉澤の横に石川が腰を下ろす。
投げ出された手を石川が両手で祈るように握った。
「あのね、仕事なの。私は毎日仕事に行かなきゃならないの」
「・・・・うん」
「お休みの日じゃないと来られない。今日もひとみちゃんが起きるころにはもういないかも」
「えっ?寝るまではいるの?」
- 338 名前:MIND 投稿日:2008/11/10(月) 20:24
-
滅多に本気では言わないワガママを、伝言という形でやっと発した吉澤の手をぎゅっと握る。
「美貴ちゃんが泊まるって勝手に病院に言っちゃってるの」
「あ・・・・あたしが寝れないって言ったからだ・・・・ごめん」
藤本のお節介のせいにすると、吉澤はさらに小さくなって俯く。
「退院・・・来週、だっけ」
「うん。お母さんに頼もうかな、来てくれるかどうか分かんないけど」
迎えぐらいなら大丈夫だろうか。刺されたなんて、関わりたくないだろうか。
吉澤の顔が不安で曇る。
「私が来るから、呼ばなくていいよ」
「え?平日だよ?」
「・・・早退する」
聞いた途端にパッと明るんだ吉澤の表情を見て、石川も微笑む。
子供が親に確かめるような目で、期待を込めて吉澤は念を押す。
「約束だよね?」
「うん、約束」
「ありがと」
本当に嬉しそうに、吉澤が目を細めて笑った。
それから吉澤が眠りにつくまで時間は掛からなかった。
安心したようなその寝顔に掛かる前髪を払い分け、ゆっくりと手を放し、
石川は病室を出て行った。
- 339 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/10(月) 20:24
-
- 340 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/11(火) 01:08
- よっしーが凄く切ないです(>_<)
梨華ちゃんの強さ、ミキティの優しさ、
好きです。
ダークで痛いストーリーですが、
だからこそ分かる暖かさを感じます。
作者様更新お疲れ様です。
- 341 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/11/14(金) 22:09
- やっぱりおもしろい!
キャラの攫み方がうまくて本人達が演じてみたら絶対おもしろそうです。
- 342 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/11/24(月) 15:55
- いしよしの絆に感涙
作者さんがんばれ
- 343 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/01(月) 19:50
- シニックなネタ達と謎解き要素がいい塩梅で織り交ぜてあっておもしろい。
活字嫌いで頭の衰えた私のような読者の頭の中でさえ活発に動き回る登場人物達がすごい。
そしてこういう作品を違和感無く造りあげるいしよしや藤本、ハロメンたちの強烈な個性に改めて感服した。
きっと最後まで見届けます。
- 344 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/05(金) 23:57
- >>340-343
レスありがとうございます
- 345 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/05(金) 23:57
- ◇
Austria―2008・May
今日もあなたと向かい合う。
画面越しのあなたには変化があって、いつも前に見たときとは違う。
でもあの日のあなたは前日どころか昔から知っているあなたとまるで違っていた。
「元気ないね。また余計なこと言われた?」
『・・・』
「そんなの気にしなくていいって」
励ましの言葉なんか遠く離れたあなたには届かなかった。
中学生のころ、抱き合って泣いたことがあったよね。
えりの体のことが分かった日に、一緒に泣いたよね。
その涙を拭うことが出来るなら、私はきっと同じことをあなたに言う。
泣かないでって気持ちを込めて、泣いていいよってあなたに言うのに。
画面に映るあなたには胸を貸してやることもできない。
- 346 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/05(金) 23:58
-
無理して笑わなくていいのに。
見ているしかないなんて、辛すぎる。
目を逸らしてしまいたかった。
「あ、そうだ。来月さ、帰れるかも」
母をどう説得しようかと考えながら、
『え、ホント?』
やっと戻った本当の笑顔を見つめて、
『じゃーねぇ、約束のケーキ作るからね!』
「うん!ちょー楽しみ」
私も笑っていた。
来月には、手の届く距離に。
そしたら言おう。泣いていいよって、あなたに言おう。
あなたの涙を、拭ってあげよう。
- 347 名前:MIND 投稿日:2008/12/05(金) 23:58
-
◇
- 348 名前:MIND 投稿日:2008/12/05(金) 23:58
-
吉澤が目を覚ましたのは次の日の朝だった。
引きこもり気味とはいえ、石川の生活リズムに完全に合わせている吉澤の生活は規則正しい。
いつもと比べると遅めの時間。眠るのは久しぶりだったが、
目も頭も覚めてしまい、これ以上眠ることは出来そうになかった。
することもなくぼんやりと天井を眺めていると、看護師が朝食を持って入ってきた。
「昨夜はよくお休みでしたね」
夜勤には様子を見に来てくれる若い看護師が微笑んだ。
その看護師は「昨夜いらっしゃった方からお手紙預かってますよ」と言って、
ポケットから手紙を取り出した。吉澤はそれを受け取って小さく礼を述べた。
「一緒に住んでらっしゃるんですって?仲いいんですね」
石川が自ら詳しく話したのか、それともしつこく聞かれたのだろうか。
そうなんです、大好きなんですよって言ったらどんな顔をするだろうか。
少し考えて、空想だけにとどめることにした吉澤は、曖昧な笑みで返してその手紙を開いた。
“食事はちゃんと摂ること”“いい子にしてること”
“迷惑かけないこと”“早く治すこと”
その周りには星やハートやウサギのイラストが散りばめられて、
文面も含めていったい何歳の子供に宛てたつもりで書いているのか。
苦笑しながらも大事そうにその手紙を折りたたんだ。
ほのかに香る石川の香水を嗅ぎ取って、吉澤は再び小さく笑った。
- 349 名前:MIND 投稿日:2008/12/05(金) 23:58
-
「おはよー」
昼過ぎに病室を訪れたのは藤本だった。
暇を持て余して読んでいた本を閉じ、吉澤が顔を上げた。
「おぅ。あ、伝言。ありがとね」
「どーいたしまして。梨華ちゃん来たの?」
「来たよ」
「んふふ、予想通り」
意味ありげに笑いながら藤本はベッドの横の椅子に腰を下ろした。
先日自分が持ってきたフルーツを漁り、勝手に食べ始める。
その様子を眺めていた吉澤が疑問を口にした。
「美貴って暇なの?」
「あ?」
「ちょくちょく来てるからさ、ちょっと思っただけ」
「あんたは被害者だからね。仕事で来れるだけ」
興味なさげに「ふぅん」と呟き、吉澤は視線を落とした。
吉澤には話すことなどなかった。ただ傷が治り、事件も風化することを望んでいた。
藤本が仕事で来ていると言うのなら話すことは何一つない。はっきりとした拒絶だった。
しかし藤本は一向に事件の話をしようとせず、だらだらと吉澤にはどうでもいい話を続ける。
雑談の終わりが見えなくて、たまらず吉澤がストップをかけた。
「美貴」
「ん?」
- 350 名前:MIND 投稿日:2008/12/05(金) 23:59
-
平然と吉澤に視線を返す藤本はいつもと変わらず、
雑談にどんな返しが挟まれるのかと期待しているような顔で吉澤の言葉を待っていた。
拍子抜けしてなにか気の利いた言葉で盛り上げてやろうかという気分にもなったが、
それをぐっと堪えて吉澤は訊ねた。
「あのさ、何しに来たの?仕事だよね?」
「どーせ訊いたって何も言わないでしょ?」
間を置かず言い返された言葉はあまりにもその通りで、吉澤は言葉を失った。
全て分かっているような顔で藤本はため息をついた。
「分かりやすいんだよ、バカ」
「そんなこと言うの、お前と梨華ちゃんだけだよ。
あたし、何考えてるか分かんないとこがチャームポイントなんだよ?」
「あっそ。じゃ、全然チャーミングじゃないね」
ぐぅの音も出ず、吉澤は目を見開いてあんぐりと口を開けた。
それを見て、一人部屋でなければ看護師が怒鳴り込んできそうな大声で藤本は笑った。
「暇してんだろーなと思ってね。給料カットされてるし、真面目に働いてらんない気分。
そんで、どーせならミキの暇つぶしによっちゃん付き合わそうかなと思っただけ」
言ってまた腹を抱えて笑う藤本に肩をすくめて吉澤が力なく呟いた。
「もう帰れよぉ」
「んなこと言って嬉しいくせに。あ、梨華ちゃんじゃないとイヤかぁ?」
「・・・うるせぇバカ」
- 351 名前:MIND 投稿日:2008/12/05(金) 23:59
-
それから何事もなく、退院の日はすぐにやってきた。
石川は会社の前でタクシーを拾い、吉澤の病院へ向かった。
午後三時、平日の昼間はビジネス街を抜けてしまえば比較的静かだった。
病院の前で、高校生くらいの少女が目に付いた。
目立っていたのは年齢のせいだけではない。
ほぅ、と感嘆の息が漏れるほど綺麗な子だと石川は思った。
入院患者ではないだろう。カジュアルな服装は病気とは無縁の健康さを感じさせる。
吉澤と同じか少し高いくらいかの身長で、艶やかな黒髪と白い肌が太陽に照らされ輝いている。
どことなく漂う寂寥感と、内に秘めた覇気が混在した印象を纏う少女は、
石川に学生時代の吉澤を思い出させた。
吉澤自身はいつのまにどこで落としてしまったのか、今では微塵も感じられない。
しかし昔の吉澤には確かに感じられたその活力を、確かに感じた。
無関係ながらもこの少女は大人になっても落としませんようにと祈りを捧げ、
石川は院内へ入っていった。
病室に入るともうすっかり癒えたようで、吉澤は自分で荷物をまとめていた。
声を掛ける前に石川を見止めて、吉澤は破顔した。
「ホントに来てくれたんだ」
「当たり前でしょ?約束したもん」
ルールを犯すことを石川は好まない。たとえ口約束であっても必ず守る。
それが当然の石川が口をとがらせるが、その様子を見てさらに吉澤は嬉しそうに笑った。
「うん、来るって信じてた」
「信じるって・・・ちょっと大げさじゃない?」
- 352 名前:MIND 投稿日:2008/12/05(金) 23:59
-
当たり前のことに喜ぶ吉澤に背を向けて、荷物を持って支えてやろうとするが、
吉澤の足取りはしっかりとしていて、大丈夫だから、と荷物も取り上げられた。
「もうすっかり治ったんだね」
「うん、多分ね。傷浅かったし」
軽く腹部を押さえて吉澤が笑って見せたので、石川も安笑い返して見せた。
「犯人、まだ捕まらないね」
直後、ほんの少しトーンを落として言う石川に吉澤はおどけた調子で答えた。
「だって美貴が探してんだよ?見つけられそうになくない?」
「あはは、怒られるよぉ?」
なんでもないのだと言うような吉澤の様子を見て、石川は胸を撫で下ろした。
病院を出て、タクシーに乗っても特に変わった様子はない。
にやけたような顔で外を見たり石川を見たりしている。
マンションの前に着いたとき、石川の携帯が鳴った。
吉澤はぼんやりとその様子を眺めていた。
やっと電話を切った石川は申し訳なさそうに吉澤を見た。
「呼び出されちゃった・・・」
「いいよ。もう大丈夫だから行ってきなよ」
「ごめんね、定時には帰るから」
「うん。うまいもん作って待ってる」
そう言って吉澤は優しく微笑んだ。
それはあまりにいつもどおりの笑顔で、安心したように石川はそのまま会社に向かった。
- 353 名前:MIND 投稿日:2008/12/05(金) 23:59
-
***
- 354 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:00
-
仕事を片付けた石川はどこへともなく歩いていた。
その頭の中ではぼんやりとまとまらない思考が回り続けていた。
寂しそうな後輩、儚いほどに美しい後輩。
どう思っているのかと訊かれたら、それが一番困る質問だった。
石川自身にも分からない。嫌いではない。無関心でもない。
大事だし、放っておけない。優しい。心配。傍にいたいし、いて欲しい。
でも、だからって付き合うなんて話になるだろうか。
吉澤の見つめる先に自分がいた。気付いているのかと訊かれても、
正直なところ「なんとなくは」としか言えない。
どこまでも素直でひねくれた人だから、推し量ることは難しい。
石川がいつも決め付けで行動するのは理解が出来ないからだった。
分からないから、分かっているような顔をしてやる。
それはたまに的中する。しかし昔から、吉澤ひとみは掴みどころのない人間だった。
浅いようで深く、深いようで浅い。
素直に正直に折れ曲がって動く彼女は、どれだけ時間を過ごしても底が見えない。
だから分かろうとするよりも、敵じゃないことを分かってもらう。
一応の成果はあったのだろうか、吉澤は徐々に心を開いていったと思う。
一番近くにいるのが自分だとは思っていた。
でも、だからって、その関係に名前は必要だろうか。
意識してしまったら、どんな顔で吉澤を見ればいいのか、石川には分からなかった。
考え始めると、真っ直ぐに帰る気になれなくなり、ふらふらと歩み続ける。
しかし珍しく吉澤のことで悩み始めた石川の思考はすぐに中断させられた。
- 355 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:00
-
「あの、石川梨華さんですよね?」
不意にかけられた声に石川は振り返る。
「そうだけど・・・あなたは?」
「吉澤ひとみって人に頼まれたんですけど、付いてきてくれますか?」
石川に微笑みかけるのは、黒髪の美少女だった。
確か、吉澤の病院の前でも見かけた少女。吉澤も病院で少女に出会ったのだろうか。
少女が着ているのは高校のころ石川が着ていた制服と同じで、遠い後輩に当たるのか、
と脳裏にくすぐったいような懐かしさを憶えながら、石川は彼女に問い返した。
「ひとみちゃんが?」
「はい。こっちに来てください」
「あ、ちょっと・・・・」
少女は勢いよく石川の手を引いて少女は走り出した。
活発な年頃にふさわしい俊敏さで、石川もその手を引かれるままに勢いで走り出した。
久しぶりの走るという行為に足が驚いたのか、もつれそうになりながら追いかける。
どこまで行くのかと問いかけても、早く早くと急かされるだけではっきりとした返事はない。
流れていく景色が見慣れたもので、特に危機感はなかった。
走って走って、たどり着いた先に居た人物を目にするまでは。
「あなた・・・・ひとみちゃんが家庭教師に行ってた・・・・」
薄暗い室内で、石川を待っていた少女の右手が動いた。
「―――ごめんなさいっ」
バチバチバチッ。
- 356 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:00
-
***
- 357 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:00
-
吉澤は出来上がった料理をテーブルに並べ、ぼんやりと時計を眺めていた。
帰ってくる時間に合わせて作ったはずなのに、今日は並べ終わっても石川が帰ってこない。
夏前からずっと、石川は帰ると言った時間には必ず帰ってきていた。
急に遅くなるときでも、いつも連絡をくれる。
そんな生真面目な石川のいつもと違う行動の意味など知る由もなく、
ただぼんやりと紫煙をくゆらせていた。
そのとき、視界の隅に置かれた携帯が着信を告げた。
遅くなるという電話だろうか、その連絡も遅くなっているが。
何の疑問も持たず、吉澤はそれを耳に当てた。
「梨華ちゃん?」
しかし、帰ってきた声はそんな当たり前の確認を覆した。
『違います』
どこかで聞いたような声だと思った。
もう一度画面を確認するが、そこにははっきりと石川の名が表示されていた。
困ったように小首を傾げながらもう一度電話の相手に確認をとる。
- 358 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:01
-
「えっと、彼女の携帯だと思うんだけど」
『うん。ちょっと借りてる』
「彼女は?」
『生きてますよ。今のところ』
その言い回しに、吉澤がやっと異変に気付いた。
『この携帯の持ち主のこと、心配ですか?』
「ふざけんなよ・・・」
『怒んないでよぉ。ねぇ、センセ?』
聞こえた呼びかけに、言いようのない脱力感がこみ上げてくる。
少し前まで佐紀に呼ばれていたのに、その意味が異なっているように感じられる。
揶揄するように、明らかに含みのある声色だった。
「・・・・誰?」
『こないだ会ったじゃない。お腹の傷は治ました?』
治ったから家にいるはずだった。
それなのに、傷は何かを訴えるように焼けつく痛みを放った。
- 359 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:01
-
「・・・・何をした?」
『まだ、何もしてない』
じわじわと痛みがこみ上げる。
それは傷の痛みなのか、心の奥からこみ上げてくるものなのか区別できなくなっていく。
「まだって何だよ、何のつもり・・・」
『あぁ、余計なこと話さないで。その声聞くだけで苛々する』
電話の相手はうんざりしたように言った。
『聞かれたことにだけ答えて。助けたいですか?』
吉澤の切り替えは早かった。
石川が危ない、それだけ理解できれば吉澤に選択肢などなかった。
「助けたい」
『じゃあとりあえず家で待機してて下さい。
またこちらから連絡します。あ、警察呼んだら殺しますからね。では』
ツーツーと、電話は終話を告げた。
- 360 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:01
-
そしてタイミング悪く、固定電話が鳴り始める。
ディスプレイに表示された名は、無視してはならない人のものだった。
「・・・・はい」
『あら?ひとみちゃん?梨華は?』
石川の母親からの電話だ。石川は会社に戻ると言っていた。
何かがあったのは、会社に着く前だったのか。
母親の話から察するに、どうやら会社は定時に出ているようだと分かった。
吉澤の体調や、病院でのことを一通り訊ねられ、吉澤もそれに答えていたが、
答えられない質問がついに吉澤に降りかかった。
『あの子の携帯繋がらないの・・・どうしたのかしら?』
吉澤の頭に迷いが訪れた。
「すいません・・・」
なんと伝えるべきだろう。考えていた吉澤はハッとした。
“――助けたいですか?”そう尋ねる以上、助けるチャンスはある。
「熱が出て、今寝てるんです。あたしも気付かなくて・・・言付けなら預かりますが」
『熱?あら・・・そうなの。悪いわねぇ、面倒かけちゃって』
「いえ。普段からお世話になってますから」
『ごめんなさいね、お願いするわ。起きたら電話するように言ってくれる?』
「分かりました。必ず伝えます」
数ヶ月ぶりに取り戻した活力をその目にたたえ、吉澤は心の中で謝罪した。
必ず余計な心配で終わらせてみせるから、と。
- 361 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:02
-
無駄だとは思ったが石川の携帯に掛けなおしてみた。
しかし予想通り電源は切られていた。
電話を切った吉澤には携帯を見つめることしかできない。
そして画面が光り始めた瞬間、吉澤は通話ボタンを押した。
「はい」
『あはは、待ってたみたいですね』
「あぁ、待ってたよ」
面白そうに声は続けた。
『それでは!ゲームを始めましょう。まず二人の共通の友達を家に呼んでください』
「・・・誰でもいいの?」
『警察のお友達がいるでしょ?その人呼んでください。次の行動はその時に指示します』
「警察には言っちゃダメなんじゃなかったの?それでアウトとか言われたら困るんだけど」
『余計なこと言わないで。私はあなたと違ってフェアですから、安心してください』
「・・・了解」
腹に穴を開けただけでは足りなかっただろうか。
理由を考えながら、吉澤は藤本の携帯に電話を掛けた。
「・・・・あ、美貴?」
『おー、どしたー?病院飽きたの?』
- 362 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:02
-
思い至る前に、電話はすぐに繋がった。
吉澤はカラカラと笑う藤本を呼び出す方に頭を切り替えた。
「いや、退院したんだ。そんでさ。今日、来れないかな?」
『はぁ?珍しい。どうしたの?』
「ほら、前さ、事件とか抜きで来いよって言ってたじゃん?」
『あぁ・・・そうだね。う〜ん、どうかなぁ?今日がいいの?』
「そーだね、出来れば、今日がいい。退院したばっかなんだよ。お祝いに、ね?」
するすると自分の口から出てくる嘘に吐き気を覚えた。
少しの心苦しさを覚えてはいるものの、疑いを持たれないように細心の注意を払っていた。
確かにフェアではないかもしれない。
『うん。ま、今日非番だし。行ってあげよう』
「・・・・よかった、待ってる」
『えぇ?待ってるって何?気持ち悪いよ?どうしたの?』
「いや、なんでもないって。待ってるから、じゃね」
非番とはついている、その結果に思わずらしくないセリフを吐いてしまった。
それとも藤本の予定も掌握されているのだろうか。
あえてふざけるように繰り返し、不安を抱えたまま吉澤は電話を切った。
- 363 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:02
-
数本の煙草を吸い終えたころ、藤本がやってきた。
インターホンを鳴らされ、何から話そうかと考えながらエントランスのドアを開いた。
そして絶妙のタイミングで次の電話が掛かってくる。
流れるように耳にあて、抑揚のないトーンでそれに答えた。
「・・・はい」
『呼べましたか?』
「呼んだ。今、下にいる」
『携帯、繋いだままにして適当に話して。確認できたら次のお話に入りましょう』
言われたとおり、電話は切らずに手を下ろした。
監視されているのだろうか。タイミングがよすぎる。
しかし電話で確認するなら部屋に隠しカメラ、というわけではなさそうだ。
「あれ?よっちゃん一人?」
玄関を開けて藤本を眺める。藤本も絡んでいるという可能性もある。
それはもちろん限りなく低かったが、安易に信用するよりはいい。
表情、目の動き、発汗、顔色を順番に確かめ、本気で石川の不在をいぶかしんでいるか確かめる。
「・・・うん、入って。上着掛けとくよ」
「あ、ありがと」
目に見える異変はなかった。少しだけ張り詰めた緊張を解いて藤本を招き入れる。
- 364 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:03
-
片手に持った携帯を決して手放せない吉澤は、
上着を受け取ってから注目を引かないように藤本から画面が見えない角度を調節した。
無造作に中に入り、我が物顔で藤本がソファに身を沈めた。
くの字になったソファの端に吉澤も腰掛け、藤本と斜めに向かい合った。
「今日は・・・銃持ってないんだね」
「なに言ってんの?」
「別に。ちょっと思っただけ。二人だとどうでもいいことに目が行かない?」
「あぁ〜分かるかも」
「でしょ?」
ちらりと藤本を眺め、藤本に言うようにして、電話の向こうに語りかける。
「ってかさぁ、梨華ちゃんは?」
「あぁ・・・まだ帰ってないけど。ちょっと電話してくるよ」
銃は無い。一人。言われたとおり黙っている。電話の向こうに伝わっただろうか。
次の話に進むにはこちらから語りかけるしかない。そう思って、吉澤は部屋を出ようとした。
しかし立ち上がった吉澤を藤本が呼び止めた。
「ちょっと、なに?ここで掛ければいいじゃん」
「・・・・たまには黙って待ってろよ、お邪魔虫」
舌打ちでもしたいくらい邪魔だった。
- 365 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:03
-
「なにそれ、ミキはむしろ応援してるよ?」
「マジ?じゃあ飯食いに行くのも、もう付いてこない?」
「根に持ってんじゃねーよ・・・・なんかよっちゃん、今日はやけに元気そうだね」
「そう?」
余計な時間に吉澤は僅かに苛立ちを覚えた。
しかしその余計な言動が藤本は本当に何も知らないのだと教えてくれる。
「ん〜、なんか目に力がある」
「あたし目デカいから」
「ちげーよ。そうじゃなくてさぁ〜」
無駄口を叩く藤本に背を向けて、吉澤は口に錠剤を放り込んだ。
小さく深呼吸をして立ち止まり、振り返ると、藤本を無言で見つめる。
それに気付いた藤本が口を噤む。見詰め合う形になると、藤本はすぐにさっと目を逸らした。
「・・・へらへらしてないし。なんか昔のよっちゃんみたい」
指摘を受けて、吉澤はとってつけたように微笑んだ。
大きな忘れ物に気付かされた気分だった。確かに、へらへらしていることが多い。
「真面目になるのはいい傾向でしょ?電話してくるね」
誤魔化すように言うと、吉澤は踵を返し、改めて部屋を出ることにした。
もう藤本には呼び止められなかった。
- 366 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:03
-
吉澤は寝室に入り、しっかりとドアを閉めて控えめな声で確認した。
「もしもし?聞こえたか?」
『えぇ。一人みたいですね。よくできました。じゃあ次・・・』
ごくりと喉が鳴った。
『・・・・その人、殺してください』
何も言えず、吉澤が固まる。
『ちょうどいいでしょ?銃持ってないって言ってましたね。方法はあなたの自由です。
あ、せっかくだからテレビ電話に切り替えましょうか。見てみたいなぁ』
声を高くする相手に、震えだしそうになる体を押さえて吉澤は答えた。
「・・・・出来るわけないだろ」
『そうですか、残念です。じゃあ石川さんを殺しますね』
「待て!」
思わず出てしまった大声に吉澤はハッとした。
藤本にまで聞こえているだろう。
「・・・チッ」
ドアの向こうのリビングに視線を向けて、舌打ちをひとつした。
- 367 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:03
-
隣から聞こえた大声に藤本が立ち上がった。
不審に思いながらドアに近づいていく。
「よっちゃん?どうかした?」
予想通りとはいえノックと共に聞こえた藤本の声に、吉澤の肩がびくりと跳ねた。
「なんでもない!もうちょっと待ってて!」
吉澤の喉がごくりと鳴った。平然としていればいい。
しかし、吉澤は汗が滲むのを自覚していた。まだ疑問を持たれるわけにはいかない。
リビングからは返答はないが物音もしなくなった。
離れたかどうか確認した方がいいかもしれない。
ドアをそっと開こうとしたとき、テレビの音が流れはじめた。
雑音に紛れられると確信して、吉澤はドアから出来る限り離れて電話を続けた。
「・・・分かってんのか?逃げられると思ってんのか?」
『逃げないから大丈夫。だって、私が誰かどうせ分かってるんでしょ?』
「こないだ、会ったんだろ」
『それだけじゃない。分かってないんですか?』
佐紀の友人はウィーンに留学していた。
ドイツ語、年齢、それだけで確信するほど吉澤は軽率ではなかった。
しかし分かっていて当然だと言うならば、それ以外に心当たりなどないが、
それでも理由が分からない。声は続けた。
『私に逃げ道なんてもともとありません。さぁ、早く』
- 368 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:04
-
なぜこんなことを言うのだろう。
藤本を恨んでいるのだろうか。だとしたら主犯は佐紀か。
いや、それにしては回りくどいようにも感じられる。
それ以前に自分が刺されている。ならば恨まれているのは、やはり自分だ。
「なぁ・・・もうやめろよ。あたしがキミの目の前で死んでやるから」
理由などどうでもよかった。それで全てが終わるはず。
石川が無事ならば、それでよかった。
「な?だからさ、もう止めてよ。梨華ちゃんはどこにいるの?」
『・・・・そのうち教えます。それより、もう忘れたんですか?』
―――余計ナコト話サナイデ。ソノ声聞クダケデ苛々スル
はっきりと蘇り、吉澤は黙り込んだ。
声が再開される。
『電話はそのままで。刑事さんとのショーを私に聞かせてください』
「待って・・・、無理だよ。殺せない・・・」
『天秤に掛けてください。刑事さんと石川さん、どっちが大事ですか?』
意識的に声を抑えて言う吉澤にその質問は突きつけられた。
真意が見えない。選ばせて、どうする?その逆を突きたいのか。
恨まれているのは自分のはず。ならば答えはどう転ぶ布石になるのか。
- 369 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:04
-
『考えてますか?』
「・・・・考えてるよ、考えてるけどっ」
『よぉく考えてください。後でもう一度聞きますから。ここは譲ります』
「はっ?」
思いも寄らない譲歩に、吉澤は間の抜けた声を上げた。
何事もなかったように、質問に意味などなかったかのように声は話し始めた。
『絶対に通報させないこと。それで刑事さんをこのゲームに招待してください』
「・・・・OK」
『随分あっさり・・・いや、いいです。では、電話はこのままで』
吉澤のあっさりとした回答も当然だった。殺すくらいなら言いくるめる。
そうできる自信が吉澤にはあった。さっと身を翻し、部屋を出た。
「美貴、話があるんだけど」
「なに〜?」
のんびりとテレビを見ていた藤本は寝室から出てきた吉澤を振り返ることもなく尋ねた。
「梨華ちゃんが危ない、電話でこの会話も聞かれてる」
「はっ!?」
声と共に藤本が振り返った。
吉澤の直球過ぎる説明に電話の向こうからは呆れたようなため息が漏れていた。
- 370 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:04
-
「これはゲームなんだ。生死を賭けたゲーム」
「命を賭けたら、ゲームとは言えない」
ゲームとは娯楽だ。命を賭けた娯楽など馬鹿げている。
さらに、その命を賭けている人物がその場にはいなかった。
石川の生死を賭けて、ゲームと言い切った吉澤に藤本は混乱した。
「ルールがあれば、それはゲームだよ。真剣みが増すと思うけどね」
「何言ってんの!?」
「分からなくてもいいから」
吉澤は詳しく説明するつもりがなかった。
藤本の考え方ぐらい把握している。理解してもらえるはずがないと分かっていた。
「ルールだけは破らないで。きっと梨華ちゃんの命に直結してるから」
「・・・・ルールって何よ?」
「通報はしないこと。そんで、美貴も参加すること。返事は・・・?」
繋がったままの携帯を藤本の目の前に差し出した。
吉澤の目は真剣そのものだった。
- 371 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:04
-
おずおずと、差し出された携帯に藤本は手を伸ばした。
受け取って、微動だにしない吉澤の様子を窺いながら、それを耳に当てた。
「もしもし?」
応答はなかった。電話の向こうで、ただ藤本の返答を待つ。
「・・・・・分かった。参加してやるよ」
納得はしていない。しかし電話の主がマスターだと言うのなら吉澤と話していても仕方ない。
身近すぎる事態に、藤本は悪い冗談であることを期待していた。そしてそれは一瞬で裏切られた。
『待ってました。それじゃ、そこで待機しててください』
「何?」
『こちらにも準備がありますから。また連絡します』
「ちょっと待った。梨華ちゃんは?」
本当に石川はそこにいるのか。それすらも確認しないではいられない。
『余計なことをしなければゲストの命は保証します。まあ信じるか信じないかは自由ですけど』
「信じられない」
『ご自由に。では、しばしお待ちを』
- 372 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:04
-
***
- 373 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:05
-
―――カチッ カシャン・・・・―――カチッ カシャン
「よっちゃん」
藤本が寝室から顔を出した。煙草を口に咥えたまま火もつけず、
ライターを開けたり閉めたりを繰り返していた吉澤が顔を上げた。
「それ、うるさい」
ちらりと見遣り、結局煙草に火をつけず吉澤はそれをポケットにしまった。
藤本は改めて部屋を見渡して言った。
「梨華ちゃん帰ってないね」
「当たり前じゃん」
「一応確かめたかったの」
「あの電話、梨華ちゃんの携帯からかかってきてんだよ?」
帰っていない。携帯を持っていない。それだけで身動きがとれない。
連絡のとりようがない中、預かったと言い張る者がいる。従うしかない。
「あっそ・・・」
正直なところ、藤本はこんな時間はいらないと思っていた。
動かない時間が苦痛で、苛立ちを募らせる。
何も考えず、とにかく走り続けていたいと思っていた。
じわじわと削られるのは苦手だった。
「犯人に心当たりは?」
「犯人なんていない。これはゲームだ。事件じゃない」
- 374 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:05
-
まだ電話が繋がっているのかと一瞬吉澤の携帯を探したが、
それは閉じられたままテーブルの隅に置かれていた。
どうやら吉澤のこだわりらしい。
「どうゆう神経してんの?」
「なにが?」
「よっちゃんだよ。ゲームって・・・本当に通報しないつもり?」
「ルール違反だし」
「あのねぇ―――」
そうは言いつつも通報した方がいいと藤本は続けようとした。
警察とて気付かれないような工夫を凝らす。本当に言いなりになっていてもしょうがない。
しかし藤本の言葉を遮って、吉澤は不敵な笑みを浮かべて答えた。
「ゲームなら勝てばいい」
「・・・・・は?」
「誘拐事件って、誘拐殺人事件に変わるって知ってるよね」
「そりゃ・・・知ってるけど」
「だから事件にしたくない。勝負なら負ける気しないし」
ゲーム、ゲスト、そんな表現をしているうちは相手にも殺す意思はない。
だから吉澤はそれに乗った。
「・・・・OK、じゃああんたは一体誰に遊ばれてるわけ?」
「高校生・・・だと思う」
「はぁ?高校生のイタズラなんてレベルじゃないでしょ・・・・」
どうなっているのまだ掴めていないが、事実、石川は行方不明だった。
- 375 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:05
-
「佐紀ちゃんの、友達かな」
「は?」
ぽつり、と吉澤が呟く。
「確証はない。美貴は会ったことあるんでしょ?声、似てた?」
「誰のこと言ってんの?」
「コンクールで優勝したって子」
「矢島・・・まゆみだっけ?舞美?」
「名前なんて知らないけど」
ミスリードの可能性もある。
決め付けてしまったらまったく別方向からの出来事に対応できなくなる。
それに、もう一つ目を逸らしてしまいたい可能性に吉澤は思い至っていた。
雨の夜、外には天使が―――
ふらりと立ち上がった吉澤は物置の役割しか果たしていない自室に向かった。
しまいこんでいた小箱をそっと開ける。
天使の残滓がついたドクロのライターを眺めて、吉澤は目を細めた。
背後から藤本の気配がする。ドアから中には入ってこない。
「・・・・高校のときさ、梨華ちゃんがライターくれたの覚えてる?」
「覚えてるよ。買いに行ったとき・・・・一緒に居たもん」
吉澤の背中に藤本は答えた。
- 376 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:06
-
「梨華ちゃん、なんのつもりだったんだろうね。こんなの買って」
「え?気に入ってなかったっけ?」
「あたしはね。でも、“これいらないからあげる”って言われたんだよね」
特別な意味なんてない。意味づけしたのは吉澤だった。
いったいどんな顔でそれを手に取っているのだろう。藤本には想像できなかった。
「思い出話なんて止めてよ・・・・勝つんでしょ?」
「うん。そのつもりだけどね」
偲ぶように言うのが藤本の気に障った。
振り返り、責めるような視線を受けて、吉澤は微笑んだ。
「これさ、人にあげてもいいと思う?」
「ダメ」
「そっかぁ・・・なんで?」
「なんでも。そういや最近使ってないね・・・・さっきのライターは?」
「これ?」
吉澤はポケットから愛用のライターを取り出して、藤本に見せた。
頷いた藤本は、それも石川から貰ったのかと訊ねた。
それに対してゆっくりと首を振り、吉澤は囁くように答えた。
「コレはあたしの十字架」
- 377 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:07
-
曖昧な笑みに、藤本がその意味を訊ねようとしたとき、吉澤の携帯が鳴り始めた。
間髪入れず、吉澤は電話をとった。
「はい」
『待ちましたか?』
「梨華ちゃんは?」
『次のゲーム。クリアできたら話させてあげますよ』
「分かった」
藤本にとって苦痛だった時間は吉澤に冷静さを取り戻してくれていた。
続く言葉が聞こえてこず、吉澤は疲れたように呟いた。
「・・・さっさと言えよ」
『やっぱりあなたの声聞きたくないな。刑事さんに替わって下さい』
眉を顰め、吉澤は携帯を耳から離した。
緊張した面持ちでそれを見ていた藤本に差し出す。
「美貴。替われってさ」
真剣な顔で喉をごくりと鳴らし、藤本は携帯を受け取った。
耳に当てると、吉澤がその横にぴったりと自分の耳を寄せる。
聞こえやすいように音量を上げて少し耳から話して藤本は応答した。
「・・・・もしもし?」
『お久しぶりですって言えば分かりますか?』
- 378 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:07
-
言われてみれば、その声には聞き覚えがあった。
はっきりとは分からないが、少しでもそう思ってしまえばそうとしか聞こえない。
「まぁ、ね。ちょっと話聞きに行ったっけ」
『そうです。私も後がないんですよ。匿名のつもりなんてありませんし』
「そうだね」
あっさりと答えた声は悪びれることもなく、吉澤に知らされたことは本人により肯定された。
ちらりと間近の吉澤を見遣ると、いいから喋れとジェスチャーで指示された。
「それで、話は?」
『ゲームのことです。二対一は大変なのであなたの相手を用意しました』
「・・・へぇ、ご丁寧にどうも」
本気でレクリエーションのように語る声に、藤本の米神がピクリと動き始める。
募り始めたイライラを吉澤が察して目だけで「頼むから抑えてくれ」と訴える。
短気な性分をギリギリで押さえ込んで、怒鳴りつけず声に耳を傾けた。
声は楽しげに続ける。
『あなたの相手は私のスフィンクス、あなたも知ってる子ですよ』
「誰よ?」
単刀直入に話を終えたかった。
叫びを押さえ込むのは難しい。今にも怒鳴りつけてしまいそうだった。
しかし刺激すべきではないと分かっている。
聞こえないように携帯を少し離して、怒りを吐き出す深呼吸を繰り返していた。
- 379 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:07
-
『なんなら恨んでるくらいじゃないですか?
場外乱闘ならお好きにどうぞ。ゲストには影響させませんからね』
「能書きはいいから。誰だって聞いてんの」
『さて、誰でしょう?』
「は?」
楽しそうに言う声に、藤本は別の苛立ちを抱えていた。
『だってスフィンクスだもん。やっぱクイズでしょ』
「・・・・」
『あ、スフィンクスを通過せずに私にたどり着いたらルール違反ですからね』
藤本は理解できていなかった。
流れていく話について行けず、問いかける。
「どういう意味よ?」
『まさか・・・・本気で言ってるん・・・・でしょうね』
飲み込みの悪さに電話の奥から「チッ」っと舌打ちが聞こえた。
藤本の中に、切れたいのはこっちだと叫びだしたい衝動がこみ上げる。
『・・・まさかこれが本当にクイズとして成り立つとは思いませんでした。
私の居場所を知っている人がいます。探して、聞き出して、私のところを目指して下さい。
分かりましたか?もう一度言わないと分かりませんか?言っても分かりませんか?』
あぁ、これはもう完全にバカにされているのだなと理解した藤本が大きく息を吸い込んだ。
息が怒声に変わる前に吉澤が急いで藤本の口を塞ぎ、携帯を遠ざけた。
- 380 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:08
-
『ま、さすがに大丈夫ですよね?
あの人にはそこで天秤はどっちに傾くか考えてろって伝えてください。
では。無理だとは思いますけど、お待ちしてます』
返答がないことに飽きたのか呆れたのか、電話はそこで切れた。
終話を確認して、吉澤は藤本の口から手を離した。
ぶはっと大きく息を吐いて藤本は荒く呼吸を整え始めた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・・」
「勘弁してくれよ。今あの子を刺激するのがどういうことか分かんないの?」
非難するように言う吉澤を見遣り、やっと落ち着いてきた呼吸の合間に藤本が答えた。
「・・・・はぁ。分かってるけど・・・・ムカつくもんはムカつくわけよ」
「何の言い訳にもなってない。理性が感じられない。野獣みたい。マジ勘弁」
「あぁーもう。悪かったって・・・」
藤本は電話の内容を改めて語った。
断片的に聞きとれなかった声を組み合わせながら吉澤はその話に聞き入った。
そして藤本は成り立たなかったはずのクイズの答えを吉澤に求めた。
「・・・それ、あたしが解いてもいいのかな?」
「知らねーよ。何も言われてないからいいんじゃない?」
「自分で考えろよ・・・・ルールは守れって言ったじゃん。
美貴とあの子の共通の知り合いなんてそういないでしょ?」
「共通・・・ミキが恨んでる・・・?」
- 381 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:09
-
言われて藤本は考え込むが答えはなかなか出てこなかった。
しびれを切らした吉澤がボソッと呟いた。
「・・・・佐紀ちゃんじゃね?」
「あ。」
佐紀を恨むつもりなどないが、思い至れば他に答えはなかった。
「そーだ。あぁ・・・ミキあの子苦手なんだよねぇ・・・」
「あたしそっちがよかったな・・・・美貴よりはあたしの方が向いてるだろうし」
「そーだね、だから前よっちゃんに頼んだんだし」
取調べの際、何も答えない佐紀に苛立たされたのを思い出していた。
そして最後まで、藤本が自力で真実を聞きだすことは出来なかった。
「いや、そうじゃなくて。スフィンクスって言ってたんでしょ?スフィンクスと言えばクイズだ」
「それ、あの子も言ってた。なんでよ?」
「・・・・この意味が分からないから美貴には向いてないんじゃないかなと思うわけです」
そして門番。内にそびえるのが、矢島舞美。
吉澤の中に、認めたくない予感がこみ上げる。
「うっさいなぁ、ご指名なんだからミキが行くしかないでしょ」
「なんか楽しそうに見えるのは気のせい?」
「じっとしてるより動いてる方がいいからね。よっちゃんは?」
- 382 名前:MIND 投稿日:2008/12/06(土) 00:09
-
「あたしは考え事だよ。天秤について」
「なにそれ?」
「気にしないで」
まさか藤本の命と石川の命を比べるのだと本人に言えるはずもない。
幸いそれ以上の追求はなかった。
「よし!」
自分で自分に気合を入れて、藤本は勢いよく歩き出し、玄関のドアに手をかけた。
しかしそこで動きを止め、吉澤を振り返った。
「ところでさ、その佐紀ちゃんどこにいるわけ?」
「家じゃね?そこから探すならもっと言うことあるだろうし」
「なるほど。じゃ、行ってくる」
「分かってるだろうけど、くれぐれも口外しないように」
大きく頷いて、改めて部屋を出る藤本を見送り、吉澤はソファに腰掛けた。
そして今の自分に出された課題について冷静に考え始めた。
ゆっくりと呼吸をして、真っ直ぐに前を見て、様々な場面に思いを巡らせる。
「美貴のせいで梨華ちゃんに何かあったら・・・・殺せるな」
天秤はたやすく傾いた。
- 383 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/06(土) 00:09
-
- 384 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/07(日) 20:24
- 少女の歪んだ憎悪の行方やいかに
- 385 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/08(月) 06:42
- 失速知らずとはこのことですね。というより、むしろ面白くなってきてる。
なんとなく毎晩覗いてしまいます。
…どうか、リカちゃんが舞美を刺激してませんようにw
期待しています、頑張ってください。
- 386 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/08(月) 11:19
- 陰湿で悪質なゲームですね。
でも面白くなって来ました。
梨華ちゃんがフューチャーされて嬉しいです。
興味深いです。
- 387 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/13(土) 20:15
- おもしろいです
- 388 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/16(火) 23:31
- >>384-387
ありがとうございます
励みになります
- 389 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:31
- ◇
Austria・2008・June
「明後日には日本だよ」
『だね。ケーキ作るよ、ケーキ!』
「ホントにちゃんと作れるの?」
お菓子作りは奥が深い。洋菓子の本場で私はそう感じていた。
『大丈夫だって!最近は先生も料理上手くなったって言ってくれるし』
「あぁ、お弁当作ってるんだっけ?」
『うん。でも先生ね、最初ひどかったんだよ?なんかさぁ、先生って玉子大好きなんだけどね―――』
本当に楽しそうに言う彼女を見ていて、帰ったらその“先生”に会ってみたいと思った。
悲しむ顔より、笑顔を見ていたかったから、
私がいない間もえりを笑わせてる“先生”に会ってみたかった。
でも、彼女があんまり楽しそうに言うから、なんだかおかしくて、
「あは、なんかえり、恋でもしてるみたい」
そう言って笑ったら、彼女はきょとんとした顔をして、
少し考えた後、とても大事そうに答えた。
『・・・そうかもね』
そう言った彼女の目には私が映ってないみたいで、何も言えなくなった。
どうしたの?ねぇ、早く会いたいよ、えり。こんなに離れたら、何にも分かんないよ。
- 390 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:32
-
***
- 391 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:32
-
画面越しの、何千キロの距離を隔てていない彼女。
帰国してすぐに向かった彼女の家で、期待通りの弾けるような笑顔のえりは、
私を迎えてくれた。
「あっ、おかえりぃ!」
「ただいま。えり元気そうだね」
私が帰ってきたからかなって、心のどこかで期待してた。
「うん。先月、ね。いろいろあったんだ」
いろいろって何だろう。訊いても教えてくれなくて、
えりの小母さんが出かけるって言うから、うやむやのまま買い物に行った。
留学する前によく見ていたお店を回って、えりがふと足を止めたのは、
気にしたことのなかったブランドだった。
不思議に思いながらえりが熱心に見ているものを一緒に覗き込んだ。
えりは嬉しそうに言った。
「これ、かっこよくない?」
「あー、いいね。なんかいいよね」
ショーケースに納められた十字架の彫りこまれた銀色のオイルライター。
ごつごつとして、えりのイメージには合わない。
持つとしたら細身で上品なライター、私ならえりにそんなタイプを見繕う。
えりが指差したそれもかっこいいとは思うけど、それだけだ。
- 392 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:32
-
「すいませーん」
えりは店員を呼び止めた。「これ出してください」と指定して、
店員は「こちらでよろしいですか」と確認する。
そのやり取りをあっけに取られながら眺め、私は小さく付いていった。
「え、買うの?えり煙草吸ってたっけ?」
「ん〜・・・」
私が日本を離れている間に、幼馴染は変わってしまったのだろうか。
少しだけ逡巡した後、えりは私から目を逸らした。
レジの店員に、はにかんだような笑みを浮かべて言う。
「プレゼントで、包んでください」
その顔を見て、あぁ恋してるんだなって、
帰国前に話したことを思い出して、相手はきっと“先生”だろうなと思った。
その瞬間、心に小さく付いた黒い染みに、私は気付かなかった。
お店を出て、ジュースを飲みながらからかうように、えりに訊いた。
「それ、あの“先生”にあげるんでしょ?」
「うん。先生が、うちのために泣いてくれたから。そのお礼、かな」
誤魔化すように笑うえりを、それ以上追求しなかった。
言いよどみ、ストローを咥えていたら、えりは丁寧に包まれたそれを突然開き始めた。
- 393 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:33
-
「ちょ、何してんの?せっかく包んでもらったのに」
「やっぱ恥ずかしい」
「はぁ?それで開けてどうすんの?」
「分かんないけど・・・・」
えりは慣れない手つきでライターを握ってみて、片手じゃ扱えなくて、
とても不恰好で、見ていられなかった私はそれを手にして片手で開いて擦って見せた。
「えぇ?舞美なんで出来るのぉ?先生みたい」
「簡単だって。ほら、こうやって持って、ここ押し上げて・・・」
「出来ないし〜」
駄々をこねるように文句を言いながら、えりはライターと格闘していた。
「なんだろ、うち、不器用なのかな」
「慣れてないだけだって。ほら」
「・・・・舞美はいいね」
「え?」
寂しそうな目から感じた予感。心にぽつんと落ちた黒い染み。
それが何なのか、私は分かっていなかった。
えりがそんな目を見せたのは一瞬だけで、見逃してしまいそうなほど短い時間だったと思う。
「やっぱダメ。渡せない気がする」
「なんでぇ!?大丈夫だよ!絶対大丈夫!」
- 394 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:33
-
大げさに否定する私は、きっと可笑しい。
でもいいんだ。それであなたが笑ってくれるなら。
「だって、恥ずかしいよ」
「なんでよ。そのために買ったんでしょ?渡さなくてどうすんの?」
「うん・・・・そう、だよねぇ・・・・」
励ましの言葉は、ちゃんと届いた。
でも、無責任な応援なんかじゃなかった。
「先生・・・・喜んでくれるかな?」
「大丈夫だよ」
不安がるえりはとても可愛かったから、拒絶なんてされるわけないと思った。
それに、喜んでもらえなかったら、そのときはまた泣けばいいんだ。
胸を張って言える。私たちは親友だ。
いつだって、泣きたいときは胸を貸してあげよう。
その人の愚痴だっていくらでも聞いてあげよう。恋だって、一緒に乗り越えよう。
五年後も、十年後も、二人でいろんな恋をして、そのときだって聞いてあげるし、
えりなら私の話も聞いてくれる。支えあおう。一緒に大人になっていこう。
泣いていいよって言ってあげよう。
これからだって、何度でも。いつまでも一緒で、いつまでも二人で。
そんな未来を、疑うことなく描いていた。
◇
- 395 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:33
-
「先生の、恋人なんですか?」
「え・・・・どうして?」
「先生、嬉しそうにあなたのこと“可愛いでしょ”って言ってたから」
しゃがみこんで石川を覗き込み、佐紀が訊ねた。
「・・・・違うよ」
「そうですか」
それ以上には、佐紀は訊ねることをしなかった。
代わりに、石川の顔を見て、零すように感想を口にした。
「冷静なんですね」
石川が取り乱すことはなかった。理由も根拠もありはしない。
“慌テタラ、何カ変ワルノ?”
そう訊ねてやろうとした石川が言葉を発する前に、佐紀の手にした携帯が震えた。
「もしもし・・・・うん・・・・分かった・・・・うん」
電話を終えて石川に向き直った佐紀は、平坦な声で石川に告げた。
「もうすぐ、先生が来てくれます」
それだけ言って、佐紀は一切の興味をなくしたように、石川に背を向けた。
- 396 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:33
-
***
- 397 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:34
-
陰鬱な自分の顔を、夢の中で見ていた。
少し離れた場所に、自分が座っている。
―――カチッ カシャン・・・・―――カチッ カシャン
吉澤は一歩踏み出し、俯いたままライターを開けたり閉めたりしているそいつに近づこうとした。
そこへ別の方向から突然石川が歩み寄り、もう一人の自分は顔を上げて呟いた。
『梨華ちゃん・・・・』
言われて、ゆるゆると夢の中の石川は溶けるようにその姿を変えていった。
仕事を辞めてから迎え入れてくれた石川。
大学生のころの大人になっていく石川。
高校時代、心底憧れた眩いほどの光を帯びた石川。
中学時代、鬱陶しく感じていた石川。
小学生のころ、遠くから眺めるだけだった石川。
そして一番古い、幼稚園の制服を着て手を引いてくれた石川。
次の瞬間、パッと弾けるように石川の姿が掻き消え、
吉澤は目を見開いて大きく「梨華ちゃん!」と叫んだ。しかし声は届かない。
目の前で起きているのに駆け出してもその場所には一向に近づけない。
光が収束するように、もう一人の自分の正面に姿を現した石川が、その頬に手を添えて訊ねた。
- 398 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:34
-
『泣かないの?』
訊かれたそいつは、石川の手にそっと手を重ね、ゆっくりと吉澤の方に顔を向けた。
氷のような表情を浮かべる石川も吉澤に邪魔者を見るような目を向ける。
視線に射抜かれた吉澤は立ち止まった。
『・・・・泣けない』
初めてその世界に自分が存在しているのだと実感すると、詰められた距離に足がすくんだ。
もう一人の自分は目元から涙のように血を流し、寂しそうな声で吉澤に告げた。
『あたし、壊れてるから』
どういう意味かと問いかけようとした喉は張り付いてうまく声を出せなかった。
しばし見つめあった後、すっとその視線が外された。
そいつの目が向けられた先から、気配が伝わってくる。
流れ落ちる血が、涙に変わった。
『せんせぇ』
背後から聞こえた声に、総毛だった。
夢の中なのに、汗が噴き出る。
『―――大好き』
- 399 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:34
-
振り返ろうとした瞬間、目が覚めた。
一人で眠ることなどほとんどなかったのに、
一番神経を張り詰めなければならないこの瞬間に眠ってしまっていた。
つくづく壊れている自分の胸を自分で殴った。
そのとき、まるで吉澤が起きるのを待っていたように電話が鳴り出した。
慌てて取ると、変わらない平坦な声がどろりと心に染みた。
『考えましたか?』
「・・・・なにを?」
『天秤に掛けろって言ったじゃないですか』
時間は与えたはずだと続く声に吉澤はしばし口を閉ざした。
どう答えるかはとうに決めていた。
「梨華ちゃん。でも、美貴も殺せない」
今もそう変わらない状況ではあるが、崖っぷちで手を伸ばせと言われたら、の話だ。
吉澤は自分の答えが危ういものだと感じていた。要求に完全に応えることは出来なかった。
反応次第で後悔せずにいられなくなるかもしれない。固唾を飲んで、返答を待った。
『そうですか』
至極あっさりと声は言い、なんでもないことのようにそれは流され、
すっと本題を切り出した。
『じゃあ、石川梨華と梅田えりか、どっちが大事ですか?』
- 400 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:34
-
佐紀じゃない。発端は佐紀の事件ではない。予感はあった。
『分かってるでしょ?あなたの向かう先は、』
想像もしていた。
佐紀に吉澤のことを吹き込んだのなら、学校でのことを知っているのは間違いない。
そして吉澤を恨み、それが佐紀の事件とはまた別の話だとすれば、
恨まれる理由がどこにあるのか。吉澤も気付いてはいた。ただ、考えたくなかった。
『学校の屋上。その前に、理科室へ』
どこまで知っているんだろう。
吉澤のほかに誰がその場所を知っているのだろう。
彼女は誰かに話したことがあったのだろうか。
『それだけで分かるでしょ?』
痛いほどに。その意味も、理解できた。
『私の学校、あなたの学校、そして』
始まりの名が告げられる。
『・・・・えりの学校』
- 401 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:34
-
***
- 402 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:35
-
数ヶ月ぶりに訪れた学校は、静まり返っていた。
足取りも重く、校門の前で吉澤は立ちすくむ。
踏み入れたくない場所だった。しかし吉澤はやってきた。
月の明るい夜だった。
あの夜の嵐と違い、澄み渡る空に輝く月はあたりを照らしていた。
その空気を吸うたびに、吐き気がこみ上げてきた。
押し込むように薬を飲み、一歩、開かれた通用口から中に入っていった。
毎日目にしていた景色が、夜の色を反射していた。
目指す場所が近づくにつれて、鼓動が大きくなっている気がした。
ぼんやりと照らされた理科室に浮かぶ白い影。広げられたシーツ、
人影に見立てられたであろうそれは、吉澤の脳裏にはっきりと残る記憶を呼び起こした。
―――考えんのヤダ。それより
―――フッて消えちゃいたい
ひときわ大きく跳ねた心臓を押さえ、吉澤は聴覚と嗅覚を研ぎ澄まして中を窺う。
ガス漏れの音も臭いもなかった。中に入り、ゆっくりとシーツに近づいていく。
一瞬教室に吹き込んだ風にも揺れることはなく、一抹の不安を覚えた。
濡れている―――そう思い手を伸ばした瞬間、
教室は一気に広がったオレンジ色の光で照らされた。
燃え上がったシーツは塵となり、吉澤の周りに降ってきた。
吐き気も鼓動も全て止まるその光景を目にした瞬間、不意に吉澤の口からその名が零れ落ちた。
「えりか・・・・」
- 403 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:35
-
塵の下に、光を放つものがあった。
近づいてよく見ると、それは携帯電話だった。新着メールを告げる光。
吉澤がそのメールを開くと、そこには見覚えのない電話番号が書かれていた。
掛けろということかと思い、そのまま発信してみる。
電話はすぐに繋がった。短い呼び出し音の後、何故か返答はなかった。
『・・・・もしもし』
やっと聞こえた返答は、聞きなれた声によるものだった。
「梨華、ちゃん?」
『・・・・うん』
「大丈夫?怪我とかしてない?」
『・・・・うん。ひとみちゃんは?』
逆に心配されるとは思ってもみなかった吉澤が、小さく笑いを漏らした。
「平気だよ。今、屋上にいるのかな?」
『・・・・うん』
「すぐ行くからね」
また声が途切れた。じっと待つ吉澤に、震えるような声が帰ってきた。
『・・・・待ってる』
そこで、電話は切れた。
- 404 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:35
-
焦げ臭い空気の中、吉澤は深く息を吸い、呼吸を整えた。
すっと前を向いた瞬間、ポケットに入れた自分の携帯が震えだした。
確認もせず、それを耳に当てた。
「もしもし」
『よっちゃん何してんの?』
聞きなれた藤本の声に、思わずため息が出た。
「高校生のオモチャになってるとこ。美貴は?」
『あ、やめてよ。それミキもじゃん。とりあえずもう家にはいないんだね?』
「うん。真っ最中かな」
そう、と小さく言った藤本からも報告があった。
『佐紀ちゃんの家さ、留守なんだ。んで今適当に探してきたんだけどいなくて・・・どうしよ?』
「知らね。じゃあ探すのが美貴のゲームかもね」
『嘘!?無理だって。もう探したもん。そっち行くからどこにいるか教えて』
「・・・・ダメだよ。佐紀ちゃんに会わなきゃ」
『なんでよ?』
「それが、ルールだから」
- 405 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:36
-
平然と言い放った吉澤に藤本は不満をぶつけた。
『んなこと言ったってすることないんだもん。ミキ、忍耐力ないんだって』
「家の前で待ってれば?あたしは進んでるからさ」
『そうなの?梨華ちゃんとは話せた?』
「まぁね・・・・居る場所は分かったよ」
『どこ?』
その問いに答えるかどうか迷ったとき、
携帯と少し離れた場所に置かれた封筒が目に付いた。
「あ、待って」
吉澤はそれを開き、書かれたメッセージを読み上げて藤本に聞かせた。
「ようこそ。ルールを発表します。
まず、屋上に向かってください。
そこにいる石川さんの首には爆弾が付いています。
遠隔操作もできます。忘れないで下さい。
午前零時になると、時間切れ。勝手に爆発します。
あなたのすることは特にありません。
ゆっくりと最後の瞬間を見守ってください・・・・」
- 406 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:36
-
『なにそれ?どこがゲーム?』
「いや、続きがある」
携帯を肩にはさみ、吉澤は手紙を両手で持った。
がさがさとさらに下を見て、読み上げる。
「・・・と、思っていたのですが気が変わりました。よかったですね。
石川さんに殺されてください。そうすれば石川さんだけは解放します。
もちろん見殺しにしてくれても構いません。ご自由に。
注意:自殺は認めません。その場合も爆発します。
あなたが死ねばこれが最後のゲーム、見殺しにするならもう1ラウンド用意します。
その場合、賭けるのは私の命です。繰り返しますがご自由に。
Viel Glueck!」
読み終えると、丁寧にそれを折りたたみ、封筒に戻した。
「だってさ。美貴、あと3時間でなんとかできそう?」
『3時間・・・・ってかまだ会えてもないんだけど』
「だよねぇ。命なんかいらねぇっつーの・・・」
苦笑する吉澤に藤本は訊ねた。
『ミキは何したらいいわけ?』
「佐紀ちゃんを探すなり、待つなり・・・・それが美貴のゲームでしょ?」
そう言われても、対峙することすらできていない。
どこか遠くのようで、蚊帳の外のようで、藤本は腹立たしげに舌打ちをした。
- 407 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:36
-
「ま、あたしとりあえず行くね。戻ってこれたらまた電話する」
『ちょ、待ってよ!どこにいんの!?』
「ん〜・・・どこだろ?」
『ふざけてる場合か!』
「分かんね。もう、行くね。梨華ちゃんが待ってるから。あんま待たせたくないんだ」
藤本に想像力が少しでもあれば分かるだろう。
高校生に遊ばれて、屋上がある場所。確証はなくとも、頭によぎるぐらいはと期待した。
佐紀から教えてもらえなくても、と。しかし藤本は考えるよりも吉澤に問いかけた。
『いいから場所は!?よっちゃん今どこ!?』
「ダメだよ。言ったら来るでしょ?美貴は佐紀ちゃんに会わなきゃ」
『バカ!そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?』
必死に訊ねる藤本は本気で言っているのだろうか。
吉澤はいっそ笑い出したい気分になった。
「このあたしが、梨華ちゃんを危険に曝すようなこと言うと思う?」
『それじゃ何にも分かんないでしょ!』
―――ピー・・・
吉澤の携帯が高い悲鳴をあげた。
「悪い、充電切れるわ。あ、クイズだけどさ、スフィンクスだよね?
分かんなかったらとりあえず人間って答えてみて。頼んだよ、美貴。佐紀ちゃんに・・・」
『充電くらいしとけっ、このバ・・・・』
――――プツッ
「よろしく・・・・って、切れちった」
- 408 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:36
-
灯したライターの明かりだけを頼りに階段を注意深く上っていく。
記憶がその足取りを確かなものにする。あの扉を開けることが出来たら、
自分が間に合えば、こんなことにはならなかったのに。
「・・・先生」
暗闇から聞こえた声にぎょっとして、吉澤は顔を上げた。
「あれ・・・キミの相手は、美貴だと思ってたんだけど」
「先生の相手もしませんよ。私は施錠と回収の係。手紙と携帯、渡してください」
ぼんやりと照らし出された影は、佐紀だった。
薄手の手袋をした佐紀に、吉澤は素直に携帯と手紙を渡した。
中身を確かめると、佐紀は事務的に言った。
「石川さんはこの扉の向こうにいます。あなたが入ったら私が鍵を掛けます」
「・・・・で、美貴のとこに行くんだ?」
「私は家に帰るだけ。刑事さんがいるかどうかは知りません」
「そっか。じゃ、早く帰りたいよね」
そう言って、吉澤は無造作にドアを開け、屋上に足を踏み入れた。
閉じられた西向きのドアの奥から、傾いた月を背景に吉澤が手を振っていた。
佐紀は目を逸らし、そこに鍵をかけた。バクバクと鳴り続ける心臓が収まらず、
最後に吉澤を見てしまった。
『おつかれ』
声は聞こえなかったが、吉澤の口が確かにはっきりとそう動き、
佐紀は逃げるように階段を駆け下りた。
- 409 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:37
-
その場所に足を踏み入れると、宣言どおり背後の扉は固く閉ざされた。
眼前に開かれた視界、そこには月明かりに照らされた石川がいた。安堵に胸を撫で下ろす。
「・・・よかった―――今日は、間に合った」
歩み寄って石川の状態を確かめる。
首には何かの装置が首輪のように取り付けられていた。
宣言どおりならばこれが爆弾、小さく点った赤いランプに目を細めた。
そこから伸びた鎖が石川を屋上のフェンスに繋ぎとめている。
軽く触ってみると、どうやら玩具の類ではないらしく、素手で外すことはあたわない。
「梨華ちゃん、ルール聞いた?」
「・・・聞いた」
「よし」
これ見よがしに置かれていたナイフを手に取り、
吉澤はとびっきりの笑顔を石川に向けた。
「殺してくれ」
立ち上がり、諸手を広げ、壊れたように微笑んだ。
そんな吉澤をキッと睨みつけ、石川は答えた。
「ヤダ」
「ヤダじゃなくて」
「ヤダもん」
- 410 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:37
-
「う〜ん。まぁ・・・そう言うと思ったけど」
しばし顎に手をあて、吉澤は思案する。
ぐるりと屋上を見回すと、勤めていたころいつも座っていたベンチが変わらずにあった。
その上に、隠す気などさらさらないように堂々とカメラが置かれていた。
さっと踵を返し、石川に背を向けるとカツカツと靴音を響かせて、
吉澤はカメラの前で立ち止まった。
「やっほ。見てる?」
ひらひらと冗談のように手を振る。
「あたしさー、午前零時ちょうどに、自殺することにするわ」
「ひとみちゃんっ!」
石川が叫ぶ。しかし吉澤は耳を貸さない。
当然のことながら反応のないカメラに向かって、吉澤は話し続けた。
「ルール違反だろうけどさ、勘弁してくれよな。
キミだって、もともと梨華ちゃんには関係ないの分かってるよね。
あたしに見せつけられないなら、こんなこと無意味でしょ?」
叱るような調子で指をさした。直後、縋るような目で囁く。
「大目に見てね・・・・死なせたくないんだ」
そこまで言って、吉澤はカメラに背を向けた。
- 411 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:37
-
なんでもないように、石川の元に戻ってくる。
フェンスと手錠で繋がれた石川の隣に腰を下ろしてフェンスにもたれかかった。
「ひとみ・・・ちゃん」
「ん〜?」
「逃げていいよ」
「ヤダ」
「ヤダじゃ、ないの・・・」
細くなっていく声を聞きながら、吉澤は煙草を取り出した。
一本抜いて咥え、ポケットに手を突っ込んだまま動きを止めた。
「梨華ちゃんもヤダって言ったじゃん」
「だって・・・殺せって・・・!」
「梨華ちゃんだって、“見捨てろ”ってことでしょ?そんなのヤダもん」
子供のような口調で答え、ポケットの中のライターの縁をそっとなぞった。
咥えた煙草に火をつけず、何度も指を這わした。
「だいたいさ、殺されそうになってるのもあたしのせいなんだよ?」
「なんでよ・・・・悪いのはあの子でしょ」
「あぁ・・・うん。でもあたしのせいなんだ」
十字架の刻まれたライターはやけに重く感じられた。
しばし迷った後、ぐっと握り、取り出した。
「大丈夫。あたしさえ死ねば梨華ちゃんはもともと無関係なんだから」
- 412 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:37
-
火をつけ、吉澤は前を向いた。
吐き出した煙は夜風にかき消されていった。
「時間ギリギリにきっと止まる・・・・」
すっと視線を落とし、吉澤は時計を見た。残り時間が明確に頭の中に入ってくる。
力なく微笑んで石川に視線を戻した。
「お別れを言わないといけないね」
「やめて」
時計は止まらない。石川の叫びなど無視して、時計はその時まで正確に刻んでいく。
吉澤もまた、止まらなかった。
「もう知らない人について行っちゃダメだよ?」
「高校生、だったし。連れて行かれたのも高校だし」
「なんで付いてくかな?」
「・・・・ひとみちゃんが待ってるって言われて。聖女だし、あるかなって」
その名を聞いただけで、石川の警戒は緩んでいた。
その事実に、吉澤は小さく笑いを漏らした。
「呼び出すなら電話するよ」
「バカで悪かったわね」
「そんなこと思ってないけど、気をつけてね」
- 413 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:38
-
もう一度、吉澤は時計を見た。
こんなことがなければ、夕食の片付けでもしている時間だろうか。
「お腹空いてるよね?ごめんね、帰ったら冷蔵庫に入ってるから温めてね」
「やめてよ・・・」
目を閉じて、吉澤は言葉を探した。
「台所さ、あたしが使いやすいようにしてるから上の方届かないかもね。
全部下ろして使いやすいように配置しなおしてね。あ、でも美貴にでも手伝わせなよ?
梨華ちゃん一人じゃ危なっかしいからさ」
「やめてってば!」
遺したい言葉が山ほどあった。
一番伝えたい言葉を口にする前に、石川は耳を塞ぎ、悲痛な声でそれを止めた。
「そんな話・・・・聞きたくない!」
言われて、吉澤は素直に黙った。
にこにこと、場違いな笑みを浮かべて石川を見返す。
奇妙な違和感を拭うように、石川は言った。
「ひとみちゃんだって、本当は怖いんでしょ?」
「怖いよ。これが無駄になったらってすごく怖い」
宣言どおり、ルール違反の罰則を喰らえば犬死だ。
- 414 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:38
-
「あの子のことも怖いよ。子供は怖い。歯止めが利かないから怖い」
それがないとも言い切れない。思考回路が完全に違う他人のことだ。
どういう行動をするのか分からない。
吉澤さえ死ねばいいのか、自殺では済まさないのか、どちらも予想できる。
見殺しにすることだけは出来ない。石川がいない世界を生きようとは思わない。
そんな世界に意味はない。躊躇いなく死ねる。ならば順序が逆になるだけだ。
吉澤には死なない理由がなかった。すっとナイフに手が伸びる。
「やめてよっ!」
骨の髄まで仕込まれた従順さで腕が止まる。
時間ギリギリまで待つのは、少しでも石川といたいから。
そして、藤本への微少の期待。間に合わなければ、死ぬしかない。
悲痛な声で叫ぶ石川に吉澤が目を細める。少なくとも石川だけは確実に生き残る道がある。
「ねぇ、だったら」
ゆっくりと刃を自分に向けたまま、石川にナイフの持ち手を差し出した。
柔和ななかに痛みを孕んで、吉澤が微笑む。
「あたしを殺してよ」
―――あなたに殺されるなら、本望だから。
- 415 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:38
-
◇◇◇
- 416 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:38
-
佐紀は自宅の前に止まっている黒いセダンに目を留めた。
両親が揃って外出している空っぽの家。その前に、その人は立っていた。
「・・・・待ってたよ」
歩み寄ってくるヒールの音がカツカツと夜の住宅街に響いた。
「どこ行ってたの?梨華ちゃんのとこ?」
立ち止まった藤本は、街灯と月明かりの下、佐紀に問いかけた。
「・・・・なんのことですか」
「なるほど、そういうスタンスなわけね」
「えぇ」
にらみ合うように二人は対峙していた。
藤本は友のために、そして佐紀は、何のために立っているのだろうか。
藤本の中に疑問が生まれた。
「なに?脅されてんの?なんでこんなのに協力してんの?」
「なんのことだかさっぱり。刑事さんこそ何してるんですか?」
「分かんないわけないじゃん」
中身のない返答に覚えた苛立ちを隠そうともせず、藤本は言い放った。
それでも顔色を変えない佐紀を見て、大きく深呼吸をし、気を取り直して再度佐紀と向き合った。
- 417 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:38
-
上手く聞き出すこともできそうにないし、答える気もなさそうだと諦めた藤本は、佐紀を促した。
「さ、クイズでしょ。どーぞ」
「は?」
当然のように言う藤本に、佐紀は訝しげな視線で返すだけだった。
もどかしいとでも言うように藤本はさらに言う。
「あと三時間しかないの。冗談じゃないんだよ?友達が殺されるかもしれないの」
「知りませんよ」
一方、その状況は分かっているが、クイズと言われても佐紀には初耳だった。
今すぐ舞美に電話して確認を取りたいくらいだったが、目の前には藤本がいる。
いまだ真剣な表情で藤本は続ける。
「お願いだから早くして。知らないでいいから、問題出して」
「・・・・」
「君がスフィンクスなんでしょ?だったらクイズじゃん?」
佐紀が舞美に言われたのは、適当にからかってやれということだけだった。
こんな状況ではどちらがからかわれているのか分からない。
なんとか面目を保つには、佐紀が問題を考えるしかなさそうだった。
ふと、浮かんだ一つの問いを、藤本に投げかけた。
「モーツァルト」
「・・・それって、あの作曲家の?」
そこから説明しろと言うのだろうか。この刑事はひょっとしてバカではなかろうか。
浮かんだ疑念にうんざりした面持ちで、佐紀は聞き流すことにした。
- 418 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:39
-
「その才能を一番認めていたのは誰でしょう」
「はぁ?なにそれ・・・・知るかよ・・・・」
目的はからかうことにあったはず。一題しかしか出さないとは言わず、
答えられれば次を考える。分からなければ時間切れまでこうしていればいい。
藤本の様子からは答えなど出てきそうもない。あくびをかみ殺して佐紀は待っていた。
「あ。分かった」
予想外に早く、藤本は声を上げた。
クイズと言っても、考えて分かる類のことではない。
答えようとする藤本に疑念を抱きながら、佐紀は促した。
「誰ですか?」
「よっちゃん」
「・・・・・は?」
もう疑う余地はない。この刑事は、バカだ。
考え込んでいた藤本は、ありえない答えを佐紀の前に提示した。
「だから、よっちゃん。あの、吉澤先生」
「はぁ。・・・なんで?」
気の抜けた声で問う佐紀には、もうまともに取り合う気などなくなっていた。
- 419 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:39
-
「あいつ大学のときオペラとか嵌ってたんだよ、確か」
「そーですか」
「んで何か変人だったって言ってた気がする。そんでさ、天才は例外なく変人だって言ってた。
そう、天才って言ってたから、その才能を一番認めてるのはよっちゃんだよ、きっと」
命を賭けたクイズに「きっと」で答える度胸は素直に認める。
万が一正解にたどり着かれたら、次は「回答権は一回きりだ」と言ってやろうと心に決めた。
「名前忘れたけど、変な髭の画家がどうこう言ってた」
「ダリですか?彼の奇行は計算ですよ」
「そう!そう言ってた!」
藤本の様子は思い出せたことが嬉しそうにすら見える。
状況も分からないのだろうか。
「でもさ、いくら自己演出のためでも蜘蛛なんか食べない、あんな髭にもしない。
それを実行したそのなんとかって画家はやっぱ変人で天才なんだって言ってた」
わずか二文字の名前が覚えられないのか覚える気がないのか。
「あと、なんか時計が溶けてる絵」
「ダリの代表作ですね。『記憶の固執』です」
「うん、なんか知んないけど、それ。好きって言ってたから、
そいつの才能一番認めてるのもよっちゃんだね」
「・・・そんなこと聞いてませんし、ダリには熱狂的なファンがいますから、先生じゃないと思う」
- 420 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:39
-
「ほら」
「え?」
何を指摘されたのか、佐紀には分からなかった。
藤本は時計を眺め、悔しそうに唇を噛んでいた。
「本当はね・・・正直、知らない。多分答え聞いてもミキは“あぁ!”って言えない」
「・・・・でしょうね」
「でも今さ、君も言ったじゃん。ファンが一番認めてるって。誰とかじゃないよ。
みんなが認めてる。音楽とか絵とかだけじゃないよ。才能があるってことはみんな認めてる。
何が言いたかったかは分かるよ?比べてるんだよね、君が目にした“ホンモノ”の天才と」
ただのバカではなかった。
佐紀は認識を改める。問いかけた裏にあった気持ちを露わにされた。
舞美の音を聴いて、殺そうと思ったほどに、アイデンティティを揺るがされた。
佐紀を突き動かす何かを、藤本は正確に捉えていた。
「ごめんね、余計なことだろうけど、佐紀ちゃんのことだって、あいつは認めてくれると思うよ。
君のファンになってくれるよ。だからさ、あいつだけじゃなくてさ、世界中にファンつくりなよ」
「・・・・・」
「あいつが優しいの、知ってるでしょ?頑張りな?きっと応援してくれるから」
たった一人の天才の前で、消える必要はない。その才能が頂点でなかったなら、努力すればいい。
きっと誰かが認めてくれる。吉澤は、佐紀を認めてくれる。
予想外に発されたそんな言葉に、佐紀は言葉を失った。
しかし佐紀を見つめる藤本には、慰めるような言葉とは裏腹に余裕など微塵も残されていなかった。
- 421 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:40
-
うちのパシリは、バカみたいだ。
藤本は佐紀の下を訪れた日の吉澤を思い出していた。
引きこもりで、家を出るのも苦痛なくせに、
佐紀のためにやって来て、佐紀を涙で洗ってやっていたのに、
その佐紀には吉澤の一番大切な人の命が掛かっているのに、助けてもらえない。
本当にバカみたいだ。
「逮捕された日、よっちゃんに本取りに行かせたよね・・・
あいつなら、友達の遺書隠してくれるって思ったんでしょ?」
良くも悪くも、佐紀の行動を一番理解していたのは吉澤だったから。
意思を汲み取ることは容易かっただろう。そしてパシリは、見事に期待通りの行動をしてくれた。
「君、よっちゃんに助けてもらったじゃん・・・」
それが藤本に言える、精一杯の言葉だった。
「・・・結局、バラされましたけどね」
「それも、君のためだよ・・・君の将来のために、最後の決定は君に任せてたじゃん・・・」
少しの間だけでも、身代わりになって考える時間ができた。
今自由でいられるのは、吉澤のおかげと言えるかもしれない。
しかしそれはもう佐紀には関係ない。吉澤の相手をするのは自分ではない。
それ以上に佐紀は藤本に疑問を持った。
「どうして言わないんですか?」
「え?」
- 422 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:40
-
佐紀からのアクションに過剰なまでの期待を込めて、藤本は聞き返した。
真っ直ぐな視線に耐えられず、佐紀は目を逸らす。
「私は、銃を向けられました。助けられたって言うなら・・・・
あなたが助けてくれたんじゃないですか。どうしてそう言わないんですか?」
藤本は佐紀にとって紛れもなく命の恩人だ。
それをたてにして問い詰めればいい。正直に答えるかどうかはともかく、
言い返す言葉はなくなるし、多少は心も動く。そうしないことが理解できなかった。
佐紀は藤本が必ずそう言ってくると思っていた。そっと顔を向け、ちらりと藤本を見た。
探るような視線を受けて、藤本は小さくため息をついた。
そして佐紀に言い聞かせるように、その理由を話した。
「その・・・・前にさ、あいつが割り込んでたでしょ?君を庇って、
前に立ってたんだよ。だから、躊躇いなく撃った。ミキが助けたのはあいつ。
ミキが撃たなくても、君は助かってたんじゃない?多分、あいつに突き飛ばされてたと思うよ」
佐紀の脳裏に鮮明にその記憶が浮かんだ。確かに自分の命が終わると意識させられた瞬間。
全ての雑音が遠くに聞こえ、全ての動きがその動きを緩めていたように感じたあの瞬間。
その少し前に、大きく藤本を呼んでくれた声は、目の前に覆いかぶさってくれた影は、
吉澤だった。
「ミキは、偉そうに君を助けてあげたなんて言えない。あいつがいなかったら、迷ったかも」
保身のために、動けなかったかもしれない。吉澤は、命を懸けて動いたのに。
情けない、とでも言うように藤本は首を横に振った。
覚悟と言っても、藤本にとってその引き金は軽いものではなかった。
躊躇なく撃てたのは、その先にはっきりと守りたい者が居たからだった。
少し顔を合わせただけの高校生のために撃てたかどうか自信がない、それが正直なところだった。
- 423 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:40
-
先生は、バカみたいだ。佐紀はそう思った。
興味なさげに煙草を吸う横顔。
丁寧な説明で仕事をする家庭教師の顔。
石川を思い浮かべ、子供のように笑う顔。
そして友人から聞かされた“吉澤先生”。
いくつもの顔を持つ吉澤。
佐紀の頭に、最も鮮明に浮かんだのは、悲痛な面持ちで面会に来てくれた吉澤であり、
そして、全てを飲み込むように佐紀を労った屋上の吉澤だった。
「先生・・・私にはもう十分とか言ってたくせに」
悔しそうに、佐紀は拳を握り締めて身を震わせた。
佐紀が逮捕された後、罪を被るつもりだったとき、吉澤はそこまでしなくていいと言った。
佐紀はその言葉に救われた気がした。親友を追い詰めた自分を、許してもらえた気がした。
それなのに。
学校で会ったとき、全て分かっていただろうに。
結局佐紀が吉澤を嵌める手伝いをしていたと分かっていただろうに。
人質を取られての上とは言え、
舞美の言いなりになる吉澤は未だに自分を責め続けているに違いない。
そんな人の言葉に泣かされたのが悔しかった。
そして、辛そうに佐紀と話すこの刑事は、もっとバカみたいだと思った。
次の瞬間、パッと顔を上げた佐紀は、何かを吹っ切ったように笑って言った。
「クイズです」
「え?」
- 424 名前:MIND 投稿日:2008/12/16(火) 23:41
-
「朝は四本足、昼には二本足、夕方になると三本足。何のことでしょう?」
階段の下から声が聞こえた。この刑事と電話していたのだろう。
あのときは何を言っているか気にもしていなかったが、
おそらく答えを仕込んでいたのだろう。
ならばスフィンクスの名に相応しいその問いで、勝負しようではないか。
藤本も思い出したのか、探るような視線を佐紀に寄越す。
おずおずと、躊躇いがちに口を開いた。
「・・・・人、間?」
吉澤にそう答えろと言われた。
先の問いの答えにはなりえなかったが、これなら。
佐紀を、祈るような気持ちで見つめた。佐紀は華やぐように微笑んで答えた。
「正解です。刑事さんの勝ちですよ」
「マジ!?」
「えぇ、案内します。車、乗ってもいいですか?」
佐紀は吉澤への復讐を果たすことにした。
舞美に殺されることで救われようとしている吉澤の自己満足を潰してやる。
それが、泣かされた佐紀の復讐だった。
- 425 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/16(火) 23:41
-
- 426 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/17(水) 10:34
- 冷酷なようで熱い(>_<)
涙が出ます(>_<)
作者様更新お疲れ様です。
また改めて読み返してみます。
この作品、好きです。
- 427 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/17(水) 21:19
- なんか凄い…
426さん同様、なぜか目がウルウルしました
- 428 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/18(木) 01:17
- 同じく
- 429 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/18(木) 07:18
- これ映画化してほしい…
- 430 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/19(金) 01:19
- やっと繋がりました(*_*)
本当に、息を飲む展開です。
いしよしみきが最高です!
- 431 名前:名無飼育 投稿日:2008/12/20(土) 11:44
- めちゃくちゃ実写で見たいです
ドキドキハラハラサスペンス!!
作者さんがんばってください
- 432 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/12/20(土) 15:30
- これからが楽しみです。
- 433 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/08(木) 03:13
- あけおめ。。。
今年もこっそり楽しみにしてまする。。。
- 434 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/12(月) 22:25
- >>426-433
レスありがとうございます。
こっそりと、今年もよろしくとお願いしときます
- 435 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/12(月) 22:26
-
◇
Austria・2008・July
『先生ってね、ちょっと舞美みたいなんだよ』
「そうなの?」
『うん。頭よくて、スポーツできて、でも、ちょっとだけヘタレっぽくて』
「えぇ?私そんななの?」
心外だったな。しっかりしてるつもりだったから。
でも、えりの前じゃ、そうだったかも。留学したくなくて、
お母さんから逃げ回ってたとき、えりの部屋でずっと拗ねてたから、
あの姿は情けないと言えば、この上なく情けない。
『そういえば先生って、ライター、使ってくれてるの?』
「えへへ、これ見て」
ふと思い出して訊ねた私に、えりが頬を緩めながら見せてくれたのは、
帰国したときにえりが買っていたのと同じタイプの、ドクロの彫りこまれたライターだった。
『なにそれ?また買ったの?』
「違うよぉ」
ホストじゃあるまいし、貢ぐような真似はどうかと思ったけど、
どうやらそうじゃなかったみたいで、えりは嬉しそうに言った。
『先生に貰ったの』
- 436 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/12(月) 22:26
-
「よかったじゃん!」
生徒にライターあげるなんて、変な人、ってちょっと思ったけど、
えりが喜んでるから、水を差す必要なんてないと思って、私は大きな声でえりを祝福した。
やっぱ私も乙女だからか、こういう恋バナってちょっと楽しい。
でもそれはつかの間のことで、えりがそんな私を止めた。
『先生、好きな人いるんだって』
「え?それって、えりのこと?」
『あは、違うよぉ。振られちゃったし。しかも二回目だよ?』
「えぇっ!?」
もう告白済みだなんて、奥手なとこがあったから、意外だった。
驚く私をえりは、にやにやと眺め、少しずつ、話し始めた。
『一度目は、なんとなく言っただけだけどね。二回目はちょっと本気だったなぁ』
ゆっくりと、えりと“先生”の日常が語られた。
無理して笑ってるのは、えりだろうか。それとも、私だろうか。
沸々と湧いてくるのは、怒りだった。えりは吹っ切れたような顔をしていた気がするけど、
私は納得ができなかった。えりの話が終わりかけたとき、それは言葉に変わった。
『・・・・それで、ライター渡した日にね、好きな人いるの?って聞いたら、いるよって』
「そんなのっ!」
言いかけて、私は止まった。口ごもる私に、当然、えりは聞き返した。
『なぁに?』
- 437 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:27
-
“先生”は、えりの手作りのお弁当を食べて、おいしいよって笑ってて、
“先生”は、えりが呼べば必ず来てくれて、“先生”は、えりの秘密を知ってて、
“先生”は、えりのプレゼントを受け取って、“先生”は自分のライターをえりにあげて、
でも“先生”は、えりの気持ちに応えてくれない。
えりを慰めてあげるはずだったのに、私の中にこみ上げてきたのは、怒りだった。
「そんなの・・・・冷たいじゃん」
搾り出すように出した私の言葉は、きっと余計なことなんだろう。
でも、突き放す言葉を、えりに掛けるなんて。
優しげに振舞う“先生”、変わらない“先生”。なのに、そんなの、ずるい、ずるいよ。
『・・・・どうして?』
「だってえりは・・・・えりは」
再び言葉を詰まらせた私を、えりがどんな顔で見ていたのかは知らない。
視線は感じていた。私は、なぜえりの顔を見ていなかったんだろう。
何を見たくなかったんだろう。何を見られたくなかったんだろう。
私は、顔を背けていた。えりは、きっと真っ直ぐに私を見ていたんだと思う。
だから、私が言葉にしなくても、えりには分かっていたのかもしれない。
―――――えりは・・・同情されて然るべき人間だから。
そんな言葉を飲み込んで、私は俯いていた。言えるわけがない。言う必要もない。
言いかけたことすら、なかったことにしてしまいたい。
- 438 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:27
-
『いつだったかなぁ・・・最後に言われたの』
急に、えりは話を変えた。
ハッとして、私も再び画面に映るえりを見た。
『ママがねぇ、うちのこと、宝物って言ってたの。自分より大事だよ、ママの生きた証だよって』
心の奥にしまわれた思い出を見るように、えりは視線を伏せていた。
『ママ、最近、言ってくれなくなったんだぁ』
「それ、は」
『どうしてって聞いても、何も言ってくれないの。でも、多分ね、うち、分かってるんだ。
うちは、一生宝物を手に出来ない欠陥品だから。気を使ってくれてるんだろうね。
代わりに、ごめんねって、よく言うようになった。言葉だけじゃなくて、全身で、ごめんねって』
また、口が上手く動かなくなる。背中に汗が滲んだ。
えりが顔を上げる。つぅっと細められた目が、私を捕えた。
『・・・・舞美、ママと同じ顔してる』
ドキリと、心臓が跳ね上がった。
『せんせぇは、そんな顔しないんだよ』
“先生”が、同情しないのは、冷たい。“先生”が、優しくするのは、ズルイ。
そう思ったのは私だけで、えりは、変わらないから、“先生”のことが、
そんな、“先生”なんて―――――
- 439 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:27
-
そのとき、ドアの向こうから、母に声を掛けられた。
「舞美〜?準備できたの〜?」
「あっ、いや、まだっ」
「早くなさい。明日なんだから」
呆れたように言って、母が遠ざかっていく気配がした。
我に返って、画面に視線を戻すと、えりは笑っていた。
試すような目をやめて、細められた目は優しくて、
『あは、舞美怒られてる』
「だって、後でやるのにお母さんが先に言うんだもん」
一瞬、確かに張り詰めていた空気はすでに緩んでいた。
言い訳はしたかったけど、もう一度その話に戻りたくはなかった。
余計なことばかり、浮かんでいた。こんなこと思うのはお門違いだろうけど、
指摘されたことより、比べられたことが、すごく嫌だった。どうしようもない距離がもどかしい。
言葉の代わりに、そっと手を添えることが出来たなら。誤魔化すように、私も笑った。
『明日、何かあるの?』
「あ、ううん。学校のことで、ちょっとね」
『そっか。頑張ってるんだね。うち、舞美の音楽好きだよ。応援してるからね』
「うん、頑張る。ありがとね」
優しい声援を送ってくれたあなたに、少しだけ嘘をついた。
驚いてほしいから、嘘をついた。でも明後日には、きっと笑ってくれる。
そうだ。この小さな応援のおかげで、私は今も音楽と生きていられるんだ。
もう一回話そう。“先生”にも、一緒に会いに行こうかな。
そしたら、私はもう余計なこと、考えなくなるかな。そうして、仲直りしよう。
それはきっと難しいことじゃない。だって、えりと私は、親友だから。
- 440 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:28
-
◇◆
- 441 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:28
-
日本―七月下旬
久しぶりの母国、と言っても六月からだから二ヶ月も経っていない。
母親のヨーロッパツアーが一段落ついて、祖母に会いに戻ると言う母に付いて来た。
えりには黙って帰ってきた。どんな顔をするだろうと思ったら、
自然と笑みが零れるのを抑え切れず、
飛行機の中では母に不気味だからやめろと言われた。
言われたことに腹が立って、憮然とした顔のまま空港を出た。
前日は嵐のようだったそうだが、空は晴れ渡っていた。
それがまた私の心を弾ませた。青天は気持ちがいい。意味もなく高揚する。
タクシーに乗ってから、母はどこかへ電話を掛けていた。
その後に知らされることを想像もしてなかった私は気にも留めず、
彼女に何を話そうかと考えて、きっと笑ってくれると信じてた。
仲直りしなきゃいけないことも、母に怒られたことも忘れて、また顔がにやけてしまったとき、
「舞美」
真剣な母の声にびくりと肩がはねた。
私を見る母の顔も真剣そのもので、
「落ち着いて聞きなさい。えりかちゃんが―――」
「・・・えり、が?」
時が止まったかのようだった。
- 442 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:29
-
***
- 443 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:29
-
自惚れでもなんでもなく、私にはあなたが必要で、あなたにも私が必要だと思ってた。
あなたも同じ気持ちでいてくれてると、本気で思っていた。
でも、それは自惚れでしかなかった。あなたは、私を遺して逝った。
「え、り・・・・」
私の抜けるように白い肌を、いつかあなたは褒めてくれた。
無数の花に囲まれた蒼白なあなたの肌を、私は褒めることができない。
目の前にして、泣くこともできなかった。
嵐の夜に学校の屋上から飛び降りた、と聞かされた。
昨夜の出来事だと、そう言われて、今日帰ってくることを何故彼女に話さなかったのかと、
意味のない自問をして、驚かされているのは自分の方だとぼんやり思って、
次の瞬間、視界が揺らいだ。はっきりと、受け入れられていなかったのかもしれない。
「・・・・えり?」
起き上がって「びっくりした?」って言って欲しかった。
目を開けて「おかえり」って言ってもらいたかった。
そんなことあるわけないって頭では理解してるのに、あなたの名を、
「えり・・・えり、えり!えり!えりぃ!!」
「やめなさいっ!!」
母に押さえつけられてなお、
「えりぃぃぃぃ!!!」
叫ばずにいられなかった。
◆
- 444 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:29
-
カラン、と乾いた音を立て、
ナイフは吉澤の手から地面に叩き落された。
「絶対にイヤ」
弾かれた手を擦り、吉澤はそう答えた石川に微笑みかけた。
立ち上がり、もう一度それを手にしようとした吉澤に、石川が手を伸ばした。
掴まれた左腕を見て、吉澤の動きが止まる。
転がったナイフと石川を交互に見て、吉澤は諦めたように石川の隣に腰を下ろした。
石川は何も言わない吉澤を見つめる。何を考えているのかまったく読めない。
吉澤が石川を見遣ることはなく、ただ閉ざされた扉を見ているようだった。
「・・・・イヤ?」
場違いなほどに艶っぽい声で、吉澤は石川に訊ねた。
「当たり前でしょ」
石川の答えを聞いて、吉澤の口元が思わず歪んだ。
強い目だった。睨みつけているようにすら思える、迫力ある目だった。
石川のその目が、吉澤は好きだった。
- 445 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:30
-
「あのドラマ、始まったかなぁ」
目を遣った腕時計は、10時を指していた。
あと2時間、時計は着実に時を刻んでいく。
ぼんやりと夜空を見上げ、吉澤は石川と過ごす日常を思い出した。
「今日、最終回だっけ?」
「いや、たぶん来週もう一回あったと思うけど」
「あ〜・・・盛り上がってるんだろうなぁ」
「気になるならネットで見ればいいよ」
「見れるかな?」
「梨華ちゃんは見れるよ」
少し違えて返されたその言葉に含まれる意味が、石川に圧し掛かる。
会話が止まったその空間で、吉澤がゆっくりと口を開いた。
「ねぇ・・・・」
「絶対ダメ」
しかしすぐに、石川はそれを遮った。
吉澤が石川の方を向くと、石川は目を閉じていた。
「・・・まだ何にも言ってないよ?」
「言わせない。ドラマなんてどうでもいいよ。一人で見たってつまらない」
確かに広がった喜びの温もりと、決意の頑なさに吉澤は困ったような笑みを浮かべた。
じんわりと包み込むように広がる熱を振り払うようにして、吉澤は石川に語りかけた。
- 446 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:30
-
「・・・冷静に聞いて欲しい」
「聞いてるもん」
落ち着いている自分の方がおかしいのかもしれないと、吉澤は頭の片隅で思った。
目を閉じた石川は吉澤からも、現実からも目を逸らしているように見えた。
「理解しよう?今、殺されそうになってるんだよ」
つっと、吉澤の指が石川の首に嵌められたそれをなぞる。
「まだ死にたくないでしょ?」
「・・・・ひとみちゃんが死ぬのもイヤ」
ゆっくりと目を開けた石川は、当たり前のことを、当たり前に言う。
誰だって、身近な人物には死んでもらいたくなんてないだろう。
「あのね、梨華ちゃん。そう言ってくれるのはすごく嬉しい。
でも同時に、絶対に死なせたくないって気持ちにもなる」
理解したうえで、それでも、石川が自分に向けて言ってくれたことが、吉澤には嬉しかった。
石川はスイッチが入ったように力強い目で、吉澤に言った。
「全然平気」
「・・・無理しなくていいよ」
「じゃあワガママ言っていいの?」
「もちろん。あたしが梨華ちゃんの言うこと聞かないわけないでしょ?」
吉澤は願いとともに微笑みかける。今度こそ――死んでくれと言ってくれ。
- 447 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:30
-
心のどこかで、ずっと望んでいた気がしていた。
どうしようもない自分を、精神的に死んだも同然の自分に、
なんだかんだ言いながら居場所を残してくれた石川のために。
自らの死に意味づけできるなら、それ以上のことはない。
キミのためなら死ねると、陳腐な口説き文句は吉澤の本音だった。
この状況に感謝すらしていたかもしれない。だから、吉澤は続く言葉を待った。
望むならこの命、喜んで捧げよう。
穏やかな心持ちで、石川に柔らかな視線をおくった。
そして向かい合う石川は言葉を紡いだ。変わらない目で吉澤を見返す。
「死なないで」
「梨華ちゃん・・・」
吉澤の表情がぐちゃぐちゃに崩れていく。
壊れた自分を粉々に砕くことも、理性を保つことも、全てあなた次第だった。
あなたが居るから生きようと、あなたの傍で生きようと、生きられると、
「梨華ちゃん・・・あたし・・・」
「言わないで」
石川の手が伸ばされる。
手繰り寄せて、いいのだろうか。縋れば折れてしまうのではないだろうか。
不安が吉澤の胸を満たす。躊躇いがちに見た石川の目の光に、吸い込まれそうになる。
頼りないのは、自分の方だ。その手に吉澤は、すっと自分の手を重ねた。
- 448 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:31
-
***
- 449 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:31
-
椅子に座った矢島舞美は目を閉じていた。
部屋中に幼馴染と撮った写真を貼り付けて、瞼の裏に映る笑顔を見比べて、
寸分の狂いもないことに微笑んで立ち上がった。
「えり・・・」
その中の一枚、ポスター大にまで引き伸ばされた写真に頬を寄せ、
再び目を閉じる。
「冷たいよ、えり」
瞼の裏に焼きついた幼馴染は、写真のまま笑っていた。
「・・・・帰ってきたのになぁ」
ふと舞美の頭の中で、えりかの顔が曇った。
それは帰国する直前にパソコンの画面で見た顔だった。
「ねえ?どうして・・・」
舞美は目を閉じたまま、描き出したえりかの髪に手を伸ばす。
さらさらと流れる髪に触れることは出来なかった。
すり抜けた手を握り締め、ひんやりとした写真をそっと撫でた。
- 450 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:31
-
訪問者は突然やってきた。玄関の鍵は佐紀に渡していたものを使ったのだろう。
ごく自然に、部屋に入ってきて、舞美もそれを笑顔で迎え入れた。
「ようこそ。藤本さん、でしたっけ」
「そう、藤本美貴。よろしく、矢島舞美ちゃん」
藤本は、強調するように名を呼んだ。
しかし舞美の表情は崩れなかった。佐紀から預かったものを放り投げる。
「これ、預かり物。携帯と、手紙。渡してほしいって」
部屋の中央に散らばったそれらを、舞美は拾い上げた。
あまりに無防備なその仕草に、藤本は眉をしかめた。
「佐紀はどうしたんですか?」
「外。車の中で待ってもらってる。ボスに逆らったから怖がってんじゃない?」
「そんな関係じゃないんですけどね。ちょっと電話させてもらいます」
拾い上げた携帯電話を見つめる舞美から、ふと視線を外し、藤本は驚愕に打ち震えた。
「佐紀?外にいるんだって?」
入り口から差し込む光に照らされた、寄り添う、仲の良さそうな二人の少女。
「うん、大丈夫」
目の前にいる舞美と、もう一人、ハーフのようなエキゾチックな美少女。
本来の壁が見えないほど隙間なく写真で埋め尽くされた部屋。
- 451 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:32
-
「大丈夫だって。巻き込んでごめんね。
これ以上は迷惑かけないから。本当にありがとう、十分だよ」
十畳ほどのその空間を満たす、にじみ出る圧迫感を生むのは狂気。この部屋は、異常だ。
「うん・・・・でも、それは約束だから。じゃあね」
パソコンの画面にはカウントダウンするデジタル時計。
その脇に小さく動画が写っていた。探していた友の姿が、そこにあった。
電話を終えた舞美に声を掛ける。
「・・・・終わった?」
「えぇ。お待たせしました」
「そう。さっそくだけど・・・・投降してくれるよね?」
藤本が銃を水平に構える。トリガーに指は掛かっていない。
それに気付いているのかいないのか、舞美は不敵な笑みを浮かべた。
「あれぇ?銃は持ってないんじゃありませんでしたっけ?」
「・・・・ちょっと、ね。来る前に寄り道したから」
「あは、殺る気満々ですね」
満たされた静寂の中、二人の耳に、モニターからの音声が届いた。
『殺してよ』
- 452 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:32
-
藤本には、確認するまでもなく、それが吉澤の声だと分かった。
吉澤は死ぬ気だ。藤本の目の前にいる高校生のバカな喜劇に付き合って、
その命を投げる気だ。
「・・・・カッコいいですよね。映画の主人公みたい」
ポツリと零すように出たその言葉に反応し、藤本は舞美を見た。
その視線に気付いているのか気付いていないのか、片眉を吊り上げ、
揶揄するように舞美は続けた。
「絵になってますよ。二人とも美人だし」
「それだと君が悪役だね。悪は必ず負けるんだよ?」
「定番のラストなんてつまらない。たまにはヒーローも負ければいいんですよ」
負けが許されれば、ヒーローは安堵するのだろうか。
プレッシャーから解放されるだろうか。否。
負けるかもしれないヒーローは、きっともう戦えない。
勝てると約束された舞台で戦うヒーローは、きっと誰よりも臆病だから。
- 453 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:34
-
「刑事さんは本気で言えますか?」
ゲームなら負ける気がしないと言っていた。
自信家だった吉澤は、努力していた。全てを負けない勝負にしてきた。
何も言わないし、実力も違うのだろうが、藤本はそう感じていた。
「それとも本気じゃないのかな?」
「・・・・本気だよ」
嘘なんてつくヤツじゃない。石川に、嘘なんてつけるヤツじゃない。
命の重さを、理解していない。吉澤にとってはなんでもないことなのだろう。
勝ちを確信していたヒーローだから吐けたセリフではない。
あいつはヒーローなんかじゃないから。ヒーローよりも臆病で、正直で、優しくて。
「あいつは、本気だよ」
石川さえ助かれば、それであいつは勝利したことになるのだろうか。
何を考えているのか分からない。逆転を狙っているのだろうか。
ここから、抜け出してくれるのだろうか。それは、とても難しそうに思えた。
「なんで、えりじゃないのかなぁ」
「え?」
「あぁ・・・いえ、なんでもないですよ。気にしないで」
藤本が聞き取れなかったポツリと呟かれた言葉を、
舞美は呼吸と共に吐き捨て、藤本に背を向けた。
動画をさらに小さくし、自分だけが見れるようにし、
イヤホンを片耳に差しこむと、藤本の方を振り返る。
- 454 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:34
-
ごくりと、藤本の喉が鳴った。真っ直ぐに、舞美に狙いを定める。
舞美は銃口を真っ直ぐに見返す。そして、平然と言い放った。
「どーぞ。殺せば?仕事なんでしょ?」
目を細め、さらに藤本は狙いを定めるようにした。
しかし、舞美は変わらない。
本当は脅し以上のことは出来ない。
いくらなんでもこんな短期間で二人も高校生を殺すなんて、
それで平気な顔していられるほど藤本はイカれていない。
そこまで見破られているのか本気なのかは定かではないが、
舞美は微笑みすら浮かべて銃口を見据えていた。
通用しないことを理解して、藤本は銃を上に向けた。
「なんでそうやって軽く命懸けちゃうかな・・・・」
「殺さないんですか?」
「だからぁ・・・・」
どうやら本気らしいと判断し、藤本は心底呆れたため息をついた。
「なんか、君ってよっちゃんみたいだね」
そこはかとなく漂う厭世的な空気感が昔の吉澤と重なった。
- 455 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:35
-
蘇った記憶に舞美が顔をゆがめた。
―――先生ってね、ちょっと舞美みたいなんだよ”。
強い言葉が口をついて出る。
「一緒にしないでっ!」
声を荒げた舞美に藤本は目を丸くした。そんな藤本を見て、舞美は視線を逸らす。
ぐるりと逡巡するように目が動き、時間をかけて取り戻した余裕を見せ付けるように話し始めた。
「・・・・あーあ、あなたが本当に来るなんて想定外。なんで来たんですか?」
「もちろんあいつの為だよ。わりとイイやつなんだよね、あいつ。
あ、あいつってキミの大嫌いな吉澤先生ね」
「名前」
冷やりとした空気が流れた気がした。
舞美の目は一気に温度をなくし、静かに藤本を見据えた。
「そんなふうに呼ばないで下さい。あだ名あるでしょ?そっちにして下さい」
「よっちゃんって呼べって?君にとっては吉澤先生でしょ?」
「・・・・殺しますよ?」
言葉と同時にピクリと動いた舞美に、藤本が反射的に銃を向ける。
「動かないで」
その声を発したのは舞美だった。負けじと、遅れて藤本も言う。
「・・・そっちも、動かないでね」
- 456 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:35
-
時間が流れているのかどうかも分からないような状態で、
視線だけでけん制しあう二人は、お互いの言葉通り一歩も動かなかった。
ごくりと、唾を飲む音すら大きく聞こえる。
不意に、藤本が銃口を少し下にずらした。妙な角度で銃を持った手を止めて、
膠着状態のままの藤本は腕時計を見た。
「あと1時間・・・」
「ここで睨み合ってますか?」
「いや・・・ちょっと、いいかな」
右手でその感触を確かめたまま、逆の手を舞美に向かって伸ばす。
ゆっくりと左手でピストルを作って、構えてみせた。
「たとえばだよ?今から君を撃ったとしよう」
「はい」
「バーン・・・・っと」
撃ち抜くような動作をして見せた藤本は次に携帯を取り出し、舞美に見せる。
「んで、ここに応援を呼ぶ。その爆弾だっけ?ミキじゃダメかもしれないけど、
ミキの仲間はきっと解除できる。違う?」
「えぇ、出来ると思いますよ」
舞美はシステムには凝っていない。
専門家が出てくればそれをさらにからかうような仕掛けなど施されてはいなかった。
藤本は怪訝そうに眉を顰め、舞美はなんでもないように笑う。
- 457 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:35
-
「そう。じゃあさ、これってフェアなのかな?君があまりに不利だと思うんだけど」
「ちゃんと成立してますよ?」
「ミキが外せばってこと?悪いけどミキ、射撃は得意だよ?」
「違いますって」
分かってるくせに、と舞美がにいと口角を持ち上げる。
藤本が眉をしかめた。
「今こうやって話しているのも時間の無駄でしょ?迷ってるうちに時間がきます」
「・・・・」
時間の浪費でしかない。
応援を呼んでも一瞬で駆けつけるわけではない。
電話して、編成して、解除にかかる手間。残り時間は多いに越したことはない。
そのつもりならすぐにでも撃ち抜くべきだ。頭では分かっている。
理解しているのに、行動を起こすことができない藤本は、完全に嵌っている。
この状況は、十分に機能している。決着はついていない。
「私は中断するつもりはありません」
決断を迫られる。藤本の喉がごくりと音をたてた。
舞美は息を呑むほど優雅に微笑む。
「どうぞ。いいですよ?殺してください」
―――ねぇ、会えるかな?えり・・・
- 458 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:36
-
◇◇◇
- 459 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:36
-
「ちょっと信じられないけど、これって死へのカウントダウンなんだよね」
「そうだよ。余命10分25秒、24秒、23秒・・・・あぁ、改めて見ると一秒って短いね」
重ねた手が握り返される。
時間が迫るにつれて、石川の目にも少しずつ恐怖の色が滲み出したように思えた。
吉澤が窺うように見ると、石川は強がっているのかぐっと口元を引き結んでいた。
その視線に気付くと、石川は拗ねたように緊張を隠した。
「改めて見なくても、一秒なんて短いよ」
「時間は絶対なものではないよ?」
物理学とか、心理学とか、そんな意味で発したはずのその言葉に、吉澤自身が驚く。
違った。実感として、吉澤はそう思うはずだった。
永遠に思える一瞬を、吉澤は知っていた。
空を稲光が走った瞬間。一秒より短いであろうその瞬間。
脳裏に静止画のように焼きつくあの瞬間、永久に近いほどの瞬間。
不意に、誰かに呼ばれたように吉澤は振り返った。眼下に広がる景色は、同じだろうか。
嵐の夜は、街の明かりも見えないだろうか。がらんとしたグラウンドは真っ暗で、
これだけはあの夜も同じ景色だったのではないかと思えた。
ふわふわと、吉澤の世界が廻る。手に力を込めると、応えるように返ってきた。
ゆっくりと隣の石川を見ると、痛い、というように怒った顔をしていた。
頭を巡り始めた記憶を追い払うように、吉澤はひらひらとカメラに手を振った。
- 460 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:36
-
「見てるかな?」
「さぁ?もう結構な時間が経ってるもんね。あんまり動いてないし、飽きちゃってるかもね」
「あぁ・・・・最近の高校生は集中力ないから」
振っていた手を置くと、静寂が身に染み入る。寒いだろうかと思い、石川に心持ち身を寄せた。
衣擦れの音まで大きく聞こえる。カメラの向こうには、届いているだろうか。
「あ、言い忘れてたんだけど」
「え?」
「ママから電話あったよ。ごめんね、嘘ついちゃった」
高校生にここまでされるとは思っていなかった。
完全に吉澤の認識不足、はっきりとしたミスだったと言えるだろう。
「熱出して寝てるって言ったら、起きたら連絡くれってさ」
「そう。じゃあ帰ったら電話しないとね」
ごく自然にそう答えた石川に、吉澤は返す言葉を持っていなかった。
俯いて、話を逸らすことしかできなかった。
「・・・美貴、なにしてっかな?」
「探してくれてるよ、きっと」
きっぱりと言い切る声が吉澤に染みた。
石川がやけに冷静なのは、藤本を信頼しているからだろうか。
- 461 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:37
-
寂しげに、吉澤は目を伏せた。
「あたしで、ごめんね」
「なにが?」
「ここにいるのが。美貴の方がよかったよね」
「なんでそうなるの?」
「だってあたし、頼りになんないし」
薬を服用しなければ外に出ることすらできない。石川に手を引いてもらわねば、
その薬を取りに病院へ行くこともできない。頼りがいなど、言うまでもなく皆無だろう。
卑屈になる吉澤に、石川は肩をすくめた。
「そーねぇ、美貴ちゃんだったら、最後の瞬間まで暴れてるだろうね」
「たぶんね。声が嗄れるまでカメラに向かって怒鳴ってんじゃないかな」
「時々、妙に真面目になって説教してみたりして」
「そうそう。そんで結局また暴れるんだよ」
真っ直ぐに自分の足で立ち、真っ向勝負に走り、
藤本ならきっと石川を安心させることくらいできるだろう。
「ここに美貴ちゃんがいたら、私も喚いてると思う」
「あたしも、そうしようか?」
真似をしたところで安心できないかもしれないが、せめて足掻こう。
無駄なことは趣味ではないが、石川の気が紛れると言うのならいくらでも足掻こう。
どうせもう先は短いのだから。しかし、それを吉澤は口にしない。言えば、石川は止めるだろう。
そんな繰り返しに意味はない。
- 462 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:37
-
いい歳をして、何をしているのだろうか、と石川は考えた。
「ううん。なにもしなくていい」
死ぬことも、しなくていい。
囚われのお姫様なんて、笑えない冗談を体現して、本当に救い出されるなんてバカバカしい。
ましてや吉澤を生贄にして自分だけ助かるなんて考えられない。
藤本がいれば、一緒に喚いた。きっと、吉澤を死なせないように、喚き散らすことができた。
「人生って足掻いてばっかじゃない?特に私は、騒がしい方だし」
騒がしく、忙しく、自分の居場所を必死で求め、手に入れた場所を確固たるものにするため、
そこでまた踊り続ける。そんな社会から外れた吉澤を見るのは、苛立ちを覚えることだった。
精神状態を知っているから責め立てることはできなかったが、働けとは言ってきたし、
ごろごろとしていれば喧嘩もした。しかし、今の石川には苛立ちなどなかった。
文字通り浮世離れした吉澤に、近づいた気がしていた。
「よく分かんないけど、今ね、気持ちがすごく穏やかなの」
「梨華ちゃん・・・・」
「来てくれたのがひとみちゃんでよかったよ」
そう言われて、吉澤は眉間にしわを寄せた。
来ないで、と言われた場所で、石川は、待ってる、と言ってくれた。
これほど冷静でいられることが吉澤にとっては意外だった。
あの夜、彼女が見たのと同じ場所から同じ景色を見て、
この場所に戻ったら、本当に、発狂してしまうと思っていた。
「あたしは・・・・誰もいなくていいよ・・・・ここには梨華ちゃんしかいない」
- 463 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:37
-
箱庭に閉じ込められ、縋るために創り出した神はもういない。ただ、隣には石川がいる。
世界に誰もいなければ、そう望めば、これほど穏やかな場所は他に存在しない。
この世界には神などいないのだと知ってしまったとき、縋るものは石川しかなかった。
誰よりも神を嫌い、誰よりも神に縋って生きてきた吉澤に残された、神の残滓たる天使。
何かに縋らなければ、もはや自分ではいられなくなってしまった。
崩れ去りそうな吉澤に、少しだけ微笑んで、石川は言った。
「ひとみちゃん、私を置いていかないよね?」
「・・・・・」
飛べない天使が堕ちていったあの夜に端を発するこの件に、始末をつけるのは自分しかいない。
なんと言われようとも、突き飛ばしてでも命を以って贖おう。吉澤はそう固く心に決めていた。
こんな会話に意味はない。吉澤の中で、すでに結末は決まっていた。
「・・・・ありがとう」
本当は、これが一番遺したかった言葉かもしれない。好きだと、伝えてみたかった。
拒絶されたら、心が砕けてしまうから、怖くて言えなかった。死ぬなら言えると思った。
でもそれ以上に、感謝していると伝えたかった。人を愛せてよかった。他の誰でもなく、
あなたを愛せてよかった。迷子だった自分に、手を差し伸べてくれてありがとう。
居場所を作ってくれてありがとう。消え入りそうなとき、守ってくれてありがとう。
掴んでくれてありがとう。色んな言葉を掛けてくれて、ありがとう。
全てを込めて、吉澤はその言葉を発した。沈黙の後、石川が口を開いた。
「ねぇ」
幼いころ、不安しかなかった迷子を救ってくれたその声は、
高校時代、心の底から憧れた凛とした声で、もう聞けないと思った吉澤の体が震えた。
子供の頃から母親の思い通りに生きるだけだった吉澤が、
唯一自分の頭で描いたのは、ただ、石川が目の前にいる日常という未来だった。
- 464 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:38
-
眠れないのは、起きられなくなりそうだから。
平穏な、何もない静寂の世界から、出て来れなくなりそうだから。
石川を見てから眠れば、また起きて、また会おうと思えるから。
聞きたかった。会いたかった。感じたかった。
今も、明日も、これからも、ずっとあなたを見ていたい。
初めて、思った。
時が止まればと、子供じみた戯言を、生まれて初めて本気で望んだ。
石川の口は言葉を紡ぐ。
「時計が零時を指した瞬間にぴったりくっついてたらどうなる?」
「・・・分かってるでしょ」
その時が来れば、二人で同じ結末を迎えることになるだけだ。
しかしそんな結末を吉澤は許さない。そんなことはありえないのだ。
だから、もう吉澤の中に選択肢は残っていない。言葉に出来ず、黙り込んだ。
さらに言葉を発する石川の唇を眺める。動く。時間が、止まらない。
失くしたはずの偶像を探す。神は、奇跡は、どこに。
「それなら、」
唇を噛む吉澤に、そっと、石川は言葉を繋げた。
「・・・・この手を離さなかったら、私がひとみちゃんを殺したことになるね」
石川に向けられた凶器を、石川が吉澤に寄せる。
要求されたのは、石川が吉澤を殺すこと。引き換えとなるのは、石川の解放。
両立し得ない、しかし要求に応えた道が、そこにあった。
- 465 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:38
-
「・・・・ホントだ。どうなるんだろうね。すごい矛盾が生まれる」
「試してみよっか?」
矛盾が何も生まなかったとしたら、吉澤はそれに恐怖を覚え躊躇った。
確かめるように見たとき、石川の目には固い決意が滲んでいた。
「梨華ちゃん・・・・きっと、脅しじゃないよ」
もしも吉澤が脅しに過ぎないと踏んで何もせず、目の前で石川が死んだなら、
そのダメージは計り知れない。だからこそ、これは本物の爆弾なのだと吉澤は確信していた。
相手は後がないと言った。逃げるつもりがない。ならば、行き着く先は、きっと同じ場所。
「分かってるよ。だから試すんじゃない」
石川の強い視線に射すくめられ、吉澤に迷いが生まれる。
そんな目で、見ないで。揺らいでしまう。とても、弱いから。
あなたと共に死ねたら、それは紛れもない幸せだから。
死なないで。殺して。生きて。それより何より惹かれる。もし望んでくれるなら、
一緒に死んで。
孤独は、とても怖いから。ずっと、あなたの傍にいたいから。
気付いてはいけなかったもう一つの願望が、吉澤を満たす。
「・・・・それが、最期でもいいの?」
「いいよ」
その言葉に、吉澤は震撼した。それはどんな言葉よりも甘く、吉澤を捕えた。
吉澤の細い肩に石川の小さな手が添えられた。刻一刻とそのときが迫る中、二人の距離が近づく。
- 466 名前:MIND 投稿日:2009/01/12(月) 22:38
-
石川がそっと目を閉じ、ゆっくりとその唇に触れる―――――――――――
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―――――――――――――――
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- 467 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/12(月) 22:38
-
- 468 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/13(火) 16:10
- すごすぎて何も書けねぇぞ
・・・映画化してほしい
- 469 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/13(火) 18:46
- 先が全然読めない
すごいです
- 470 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/19(月) 00:29
- 読んでいるとヴィジョンがはっきりと脳裏に浮かびます。
すごいな(*_*)
どうにかならないかな…
- 471 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/25(日) 21:24
- 生きてほしいです
- 472 名前:名無し飼育さん 投稿日:2009/02/12(木) 04:34
- やっぱりおもしろいですね。まったり期待させていただいてます。
- 473 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/16(月) 03:22
- さぁ、どうなってしまうんでしょうか
・
・
・
・
・
わかりません!!!!!
- 474 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/17(火) 20:35
- 矢島さんに幸せは来るのでしょうか
- 475 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/24(火) 23:33
- >>468-474
レスありがとうございます。
- 476 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:33
-
◇
母親は世界的なバイオリニスト。父親は若くして亡くなった不遇の天才ピアニスト。
二人の才能を受け継いだ音楽の申し子。
私の家庭環境を一番分かりやすく表現したのは、音楽雑誌の下らないコピーだった。
十歳の私を世間に分かりやすく紹介したこの文章に、私は中学で再び出会った。
母の記事をまとめた中に紛れ込んでいたそのページの切抜きに、
私は躊躇いなく火をつけた。
幼いころ、寡黙な父は、音で私に語りかけてくれた。
一緒に音楽を奏でている時間は、とても心地よかった。
クラシックバレエも習っていた私のために、父は嬉しそうにピアノを弾いていた。
父を亡くして以来、母は、私に父のピアノに触ることを許してくれなかった。
楽しみの詰まったそのピアノから引き離され、
私にとって楽器を奏でるということは義務でしかなくなった。
特に母親から直接指導を受けているバイオリンに関しては、
はっきり嫌いと言えるほど苦痛をもたらすものだった。
惰性だけで奏でる音にはなにもない。
母は機嫌悪く私を見て、一緒に練習していた友達の佐紀をこれ見よがしに褒めちぎった。
別に嫉妬はしなかった。それが母の狙いだとすぐに分かったから、一人で紅茶を飲んでいた。
気の毒なのは、親子の駆け引きに巻き込まれて持ち上げられている佐紀だ。
でも、うれしそうだしまぁいいかと、私は紅茶を飲んでいた。
- 477 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:34
-
練習が終わると、私は必ず出かけていた。
それは佐紀と一緒の時もあったし、他の友達のこともあった。
普段はうるさいことは言わない母だが、練習の後だけはうるさく変身する。
それがイヤで必ず私は家を出て行く。一番よく行っていたのは、幼馴染の家だった。
「えーりー?」
「あー舞美ぃ!」
彼女はよく庭の樹木を眺めて、音楽を聴いていた。
私が家で聞かされるのとは違うポップミュージックが、こそばゆかった。
重厚な音楽に慣らされた耳にはどうも馴染まなくて、私は苦手意識を持っていた。
でもえりは大好きなんだって知っていたから、私はいつも言っていた。
「いいね、これ。なんていう曲?」
「あれぇ、知らないの?今ちょー流行ってんだよ」
得意げに説明してくれる内容は全然入ってこなかったけど、
楽しそうに話す彼女の横顔を見ていると、そのBGMも好きになれそうな気がした。
「舞美、何か弾いてよ」
「いいよ。さっき練習したばっかだし」
あなたに聞かせたくて。あなたを喜ばせたくて。
目を閉じて私の音に耳を傾けてくれるあなたが、どんな聴衆より私にとっては大事で。
二人で寄り添う庭の方が、母に連れられたホールよりよほどキレイに響かせられたと思う。
「なにがいい?」
「いつもの!」
- 478 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:34
-
「またぁ?」
にこにこと、椅子に腰掛けたえりが私を見上げる。リクエストされるのは、子供の頃から同じ曲。
初めて、母と一緒に小さなステージに立ったとき弾いた曲で、えりが初めて聞いた曲。
Kanon und Gigue in D-Dur für drei Violinen und Basso Continuo――パッヘルベルのカノン。
何度弾いたか分からない。えりの隣で弾く曲は決まってた。
弾けるようになった曲は山ほどあるのに、繰り返しえりに聞かせるのは決まってその曲だった。
えりの隣は、私のひそかな発表会の場だった。弾き終えた私を、えりは拍手で包んでくれる。
「やっぱ上手いよね〜。あーぁ、うちも習ってればよかったぁ」
「お母さんに?やめてよ」
それでは、私は続けられなかったかもしれない。
えりがお母さんと無関係だから、こうやって気軽に弾けるんだ。
佐紀の前じゃ、練習の延長みたい。
「そうだね〜、うちが弾かなくても舞美が聞かせてくれるもんね」
「そうそう。いつでも言ってよ」
えりは、聴いてくれる人。私は奏でる人。
こうやって微笑むえりを見るのも、好きだった。
家では、音は義務でしかない。そんなものが楽しいわけがない。
でも、それでも続けていられたのは、あなたが私の音を好きでいてくれたから。
あなたが好きなものは、私だって好き。あなたがいて初めて、私の音は音楽に変わる。
留学して、離れてしまって、それでも、帰ったらまた一緒に、
こうやって庭で音を奏でて、なんだって共有して、楽しいことも、悲しいことも、
全部一緒に過ごして、どんな些細なことでも報告しあって、お互いの間に空白なんてなくて、
それが当たり前だった。そんな当たり前だった時間が、失われてしまった。
- 479 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:34
-
◆
- 480 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:35
-
葬儀からしばらく経って、私は生まれて初めて母にワガママを言った。
日本を離れたくないと。
もう少しだけでも、えりと同じ空気を吸いたかった。
はっきり言って気持ちのいい空気ではなかった。
でも、彼女と同じ空気でこの身を満たせば、彼女が私の中に戻ってくるような気がした。
母は、意外なほどあっさりと、それを認めてくれて、私は学校に戻ることが出来た。
その代わり、日本で行われるコンクールには必ず出場するようにと言われた。
母のレッスンは深夜に行われた。
防音が施されたその部屋で、私は気が狂いそうなほど音だけに身を任せた。
夜のほうが、えりに近づける気がしていた。課題曲はカノンじゃなかったけど、
最後には必ず弾いていた。聴いてくれたえりに、お礼のつもりで必ず弾いた。
コンクールが近づき、母が用意してくれた衣装は、鮮やかな真紅のドレスだった。
紅は母が好んで着ていた服で、その娘だと名札をつけるのと同じような意味を持っていたのだろう。
私はそれを拒絶した。
ドレスの色は、私の中でもうすでに決まっていた。
母の衣裳部屋から選び、直前にサイズを直してもらった。
持ち主の母が滅多に着ないそのドレスの色は、夜のように深い黒。
私が着るのは、この色しかない。だって私は、喪に服さないと。
出来ることは、それしかないのだから。
- 481 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:35
-
会場で順番を待っていると、佐紀の演奏が聞こえた。
目立ったミスもない。上手い。巧いけど、ただそれだけだ。
袖に戻ってきた彼女は私に微笑む。笑い返すことも出来ない。
下らない。勝ったと思ってる?別にいいけど。
音に乗せられるのは、情熱だけじゃない。
若さだけじゃない。生命力だけじゃない。
舞台に立ったとき、眩い光の中で、私は何かが降りてくるのを感じた。
目を閉じれば、あなたに会える。えりを真っ暗な視界に捕え、私は届ける。
―――――そこで聴いてて
今、奏でるから――――――
「・・・・!」
肌で感じる。会場が息を呑んだ。
満たされない空虚と悲哀を込めた音が、誰かの魂に届いた。
こんなにも多くの人が、私の暗闇に揺さぶられている。
空気が変わる。世界が変わる。全ての垣根が取り払われる。
すべてを私の音の中に引き込む。一つになる。みんなが同じ虚空に投げ出される。
みんなホントは分かってる。感じてる。だから私の音に揺さぶられる。
下らない、どうしようもない、哀しすぎる。
音で全てが変わる。取り繕われた世界が、私の音で綻びる。
壊れてしまえばいい。破滅の音を聴けばいい。共感、共鳴、染み渡る。
同じ響きを、みんなが抱えたこんな世界。あなたのいない、こんな世界。
聞こえてますか。私の音は届いてますか。
- 482 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:35
-
◇
- 483 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:35
-
「・・・ダメだわ」
藤本の体からすっと汗が引いた。
同じように向けていた手を引っ込めて、そのまま銃を懐にしまった。
「殺せない」
「・・・・まだ時間はありますよ」
そう言って、舞美は時計を見た。
藤本が迷っていた時間は、睨みあっていた時間と比べると短い。
訝しげに問う舞美に藤本は肩をすくめてみせた。
「だってさぁ、ミキ迷っちゃってるもん。あ、ごめんね、バカみたいな喋り方で。
でも勘弁してよね、ミキなんてまだまだこんなもんだからさ。まだ今年で24だし」
高校生と比べれば大人だ。
そして人生全体を見ればまだ若い。老成とは程遠い藤本の限界だった。
「マジで考えたんだけど・・・・後味悪すぎる」
「構わないって言ってるじゃないですか。私が何をしてるか分かってますか?」
「分かってるよ?」
舞美は無言で、微動だにしない。
- 484 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:36
-
「でもミキは迷った。もう、撃てない」
「見殺しにするんですか?」
「ううん、出来る限りのことはするよ?」
藤本はコキコキと首を鳴らし、緊張に強張った体をほぐす。
「なにをするんです?」
「交渉とか、説得とか?」
「私は変わりませんよ?」
「うん。交渉っていうのはそこから始まるもんだから」
ぶらぶらと手を振る。構えたままの形で固まりそうだった手に血液が通う。
「って言っても、ミキも別に得意なわけじゃないんだよね」
体と共に頭もほぐそうとしていたが、むしろ吉澤の方が向いている気がした。
今とは逆に、自分の命を賭けて吉澤に任せるなら安心していられるだろうに。
そう思い、藤本は自嘲気味に笑った。
「話し合おうよ。君だってさぁ、撃ち殺されるより全然いいじゃん?」
「主観的ですね。勝手に推し量らないで下さい」
言われた意味を考えるが、藤本の中でそれは何にも結びつかなかった。
代わりに別のことを考える。吉澤ならどうするだろう。
もし石川を助ける術が、吉澤がここに立つことだったら、何を言うだろう。
- 485 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:36
-
「・・・・やっぱさ、吉澤先生と話したほうがいいよ」
「その呼び方やめてって言いましたよね。殺すって言いましたよね?」
「それはルール違反だよ」
藤本の声に、伸ばされた舞美の手がピタリと止まった。
それを見届けて満足げに微笑んだ藤本は続ける。
「キミと吉澤先生のゲームは、時間までなにもしないことで成立してるんでしょ?」
「・・・・」
「今そんなことしたら、ルール違反だよ」
舞美がパソコンから手を放し、両手を挙げた。
「分かりました。ルールを追加します」
「・・・なに?」
これは、ゲーム。吉澤なら、どうするだろう。
しかし自分は吉澤ではない。藤本には、真っ向勝負しかない。
功を奏しただろうか。焦りを隠して舞美の言葉を待つ。
「次に呼んだら、殺します」
「・・・・話し合いには応じるってことだね?」
「えぇ、乗ってあげますよ。どうせ結果は変わりませんから」
- 486 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:36
-
さっと椅子が回り、舞美は藤本に背を向けてパソコンに向かった。藤本に緊張が走る。
舞美はモニターを操作した。画面には、寄り添う吉澤と石川が全面に映し出された。
さらに耳から伸びるイヤホンも外す。
コードまで抜くとスピーカーからノイズ交じりの音声が藤本の耳にも届くようになった。
「フェアに行きましょう」
振り返った舞美の顔は、嫌味もなく、潔いという形容が相応しかった。
壁一面の狂気じみた写真の微笑みも、心なしか爽やかに思えてくる。
誰だか知らないが、大切な友なのだろう。その写真を飾る、ただ、それだけのことだ。
藤本は息がしやすくなったように感じた。ふっと、息を漏らし、舞美に問いかける。
「ミキの命は賭けなくていい?」
「あの二人、大事な友達ですか?」
「もちろん」
藤本は即答した。舞美が含みのある顔でわずかに微笑んだ。
「それだけで、十分」
本当に、潔い。
こんな場面でなければ、気の合う友になれたかもしれないと藤本は思った。
「さて・・・・何か要求は?」
「“邪魔しないで”」
視線と主張が真っ向から対峙する。探るように、藤本は舞美を見ていた。
- 487 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:36
-
「もっと、教えてくれない?」
「何をですか?」
「君のこと。出来るだけ詳しく知りたい」
「調べたでしょ?」
「データじゃない君自身のこと。どうしてそんなによっちゃんが嫌いなの?」
吉澤が何をしたというのだろう。藤本にはそれが分からなかった。
石川の言いなりで、あの人畜無害もいいところのヘタレが何をすると言うのだろう。
想像がつかない。殺したいほどに恨まれる、何をしたのだろう。
藤本の疑問に、舞美は首を振った。
「言いたくない」
「・・・・それじゃ交渉の余地がなくない?」
「初めから私は変わらないって言ってるじゃないですか。言い出したのはあなたですよ」
舞美の体重が預けられ、椅子の背もたれが軋む音がした。
藤本は、呆れられているような気がして、少し口を尖らせる。
それが間違っていないことの証明のように、舞美は言い聞かせるような口調で言った。
「あなたは、初めから負けてるんです」
「じゃあいいじゃん。言っても君の気持ちは変わらないでしょ?」
「変わらないから言う必要がない」
軽口はあっさりと切り捨てられた。
出口の見えない話に、藤本はため息をついた。
- 488 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:37
-
舞美は、またちらりと時計を見た。少しずつ、しかし着実にその時は近づいていた。
モニターを見遣ると、画面の二人は会話も動きもなく、ただ変わらずそこに並んでいた。
意識を目の前の刑事に戻す。言葉が出てくる様子はない。
「結局、ギリギリまで睨み合ってるしかないんですね」
「・・・君が話してくれれば道は開けるかもしれないけど」
「刑事さん、バカなんですか?言いたくないって言いましたよね?」
苛立ちどころかはっきりと分かるほど呆れた顔をして、舞美は藤本を見る。
視線に応え、藤本は躊躇いがちに、舞美に抱いた疑問を投げかけた。
「言いたくないって言うけどさぁ・・・・じゃあ、何でミキをここに来させたの?」
「は?」
「だって、ここに、君のとこに来るのが美貴のゲームだって言ったじゃん?なんで?」
何も話すつもりはないならば、確かににらみ合っていることしか出来ない。
ならば佐紀が連れてくることなど考えもしなかったのか。
しかしそれはありえない。本当に来させたくないなら、
そもそも藤本を巻き込まなければよかったのだ。
「聞きたいことなり、言いたいことなり、あるんでしょ?」
「いいえ。あわよくば、あなたのことも殺せないかと」
「・・・・悪かったね、銃なんて持ってきて」
- 489 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:37
-
ぐるりと部屋を見渡し、壁一面の写真を顎で指した。
「隣に映ってるのは、誰?」
舞美の視線も写真に向かう。目を細め、舞美は写真に見入る。
思い出すようにして、舞美は口を噤んだ。
「・・・・それも、言いたくない」
「ちょっと待ってよ。話す気ないんじゃない?これってフェア?」
苛立ちをぶつける藤本を眺め、少しだけ迷ってから舞美は答えた。
「友達です」
「・・・・あっそ」
短い返答に、呆れたような顔をして藤本は息をついた。
少しずつ、話はできるようになってきたと感じ、質問を口にする。
「う〜ん・・・・あ、よっちゃん刺したのって、君?」
「そうですよ」
「それは言うのかよ」
悪びれることもなく、舞美は認めた。
藤本は苦笑しながら続ける。
「その話、聞きに行ったんだけどね。あのバカさ、なんて言ったと思う?」
- 490 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:37
-
問いかけの形式を取りつつも、答えは期待していない。
舞美の目を真っ直ぐに見据え、藤本は教えてやる。
「若い男にやられたって」
一瞬だけ、舞美は目を細めた。
「意味分かる?君を庇ってんの。刺されたくせにだよ?信じられる?」
言いながら藤本に笑いがこみ上げてくる。吉澤はいったい何を考えて生きているのか。
見つかるわけがないだろうと、いつものように軽く叩いてやりたい。
「バカみたいなの。貧乏くじ引くタイプっていうのかな。振り回され体質」
馬鹿さ加減は、ヒーロー級だ。
「いいヤツなんだよ。多分ね、すごく大事なんだ。あいつのこと、話すから聞いててくれる?」
舞美の表情を窺うが変化はない。
邪魔もされないなら、と藤本は喋り始めた。
「う〜ん・・・よっちゃんはねぇ、消えちゃいそうなんだ」
言葉を切り、もう一度見た舞美が片眉を吊り上げる。
「・・・・消える?」
「そう。キミ、高校二年生だっけ。それぐらいのときから、いや、中学の時からずっとかな」
- 491 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:37
-
聞こうとしていることを確認すると目を伏せ、ゆっくりと思い出す。
久しく辿っていなかった記憶の糸は思いのほか多くの情報に繋がっていた。
藤本の脳裏に思い出が鮮明に蘇る。
自分が死ぬわけでもないのにそれはまるで走馬灯のように駆け巡り、
藤本は永久の別れと紙一重に立つ自分に改めて気付かされた。
「昔からさぁ、寂しそうに立ってるヤツだった」
震えそうになりながら思い出す。
中学の頃の吉澤は、居心地悪そうに、消え入りそうに立っていた。
誰にも踏み込んで欲しくなさそうに、でも誰かに気にされたいみたいで、
寂しそうに見えたのに、そいつは自ら人の輪から離れていく。
気のせいかもしれない。見ている人間の思い込みかもしれない。
そいつを気にしてよく眺めていたのは、石川だった。
しばらくして、石川と一緒に声を掛けた。部活の勧誘とか、そんな名目だっただろうか。
テニスコートまで引っ張っていって、その後、遊びに行ったんだっけ。
ゆっくりと、吉澤を知っていったころを思い出す。
「ぼんやりしてんの。でも全然バカとかじゃなくて、むしろしっかりしてんだよ?
でもさ、なんだろ。言っちゃなんだけど、幽霊みたい。あ、あいつは幽霊苦手なんだけどね」
どこか抜けているようで、でも他の誰も賛同してくれなかった。
吉澤さん?完璧じゃないって、そんな言葉をよく耳にしていた。
容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群、その欠点は、存在そのものにあった。
「なんだろ・・・生きようとしてない感じ」
- 492 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:38
-
口を吐いて出ただけの言葉は、思いのほか藤本の抱く印象にしっくりと馴染んだ。
目を上げると、舞美も何かを考えるように目を伏せていた。
藤本の視線に気付き、顔を上げた舞美に藤本は賛同を求めた。
「ほら、君に似てるでしょ?」
「・・・・一緒にしないで」
バツが悪そうに目を逸らした舞美が発したのは、同じ言葉ではあったが、トーンは抑えられていた。
今度は冷静さを欠いたりしない。藤本は小さく笑って言葉を続ける。
「そだね。君も生きたいと思ってなさそうな気がしたんだけど、そんなのよっちゃんだけかもね」
「・・・・・」
「でもミキはあいつに生きててほしいんだよね。なんでかっていうと・・・・」
伝える言葉を探す。数え切れない思い出の中から、舞美に伝えたい想いを探す。
高校時代、吉澤の家に行ったとき、石川は来たことがあると言っていたか。
子供の頃、一度だけ来たことがあるとか。でも吉澤が何も言わないので、
石川が自分だけ覚えているのは悔しいと言って、内緒にしてくれと藤本に言ってきた。
そんな駆け引き、必要ないのに。
あいつはもっと単純で、意外なほどに純粋で。
「多分さ、お決まりの文句だけど、大人なんて信用できないと思ってるでしょ?」
「思ってますよ。間違ってますか?」
「いや。結構、的を射てる。でもさ、そういう意味では、あいつは大人じゃないよ」
- 493 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:38
-
「大人だからって決め付けたら、あいつすぐ壊れちゃう。たぶんさぁ、
すごく子供の方に近いんだと思うんだ。あれ?ミキさっきからたぶんばっか言ってるね」
うだうだと考え込むのは得意なくせに、妙なところで単純で。
捉えどころなく漂うようで、時々露骨に面白くなさそうな顔をしてみたり。
「いや、あいつを本当に理解するのって難しいんだよ。ミキは、大人になっちゃったからさ」
いつから道は別れてしまったのだろう。
岐路に立ったとき、踏み固められていない道を行くのが、童心だろうか。
大衆に馴染むだけが、大人なのかもしれない。吉澤の大学時代、数えるほどしか会っていない。
見ていなかった時間を、どのように過ごしていたのだろうか。
「先生してたんだよね。あ、待ってね、今の先生はそういう意味じゃなくて職業のことだから」
「・・・・分かってます」
「禁句ってめんどくさいね、向いてないわ」
「なら“教師”でいいんじゃないですか?」
「お、そっか。そーいう日本語もあったね。そう、教師・・・・」
馴染まない集団生活の極みだった学校という空間に、吉澤が居た。
高等部、藤本も行かず、吉澤も行かなかったその場所で、
少しだけ離れた場所を約束された立場で、吉澤がそこに戻っていた。
「教師ってさ、あいつの天職か絶対なっちゃいけないかのどっちかだと思うんだよね。
近づきすぎちゃうから。好かれるか憎まれるか、1か0になっちゃうんだよ」
上手く線を引けていただろうか。きっと出来なかったんだろう。
上手く馴染めていたんだろうか。きっと、出来なかったんだろう。
- 494 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:38
-
「ホントさぁ・・・・バカなんだ。昔っから・・・バカだから」
「それが、あの人が大事な理由ですか?」
「うん・・・ワケ分かんないよね、バカだから大事って。
ごめんね、もう気付いてるだろうけど、ミキ、そんなに口上手くないんだ」
スピーカーから、かすかに二人の声が聞こえる。
“美貴”と言っているような気がした。舞美にははっきり聞こえているだろうか。
目を細めて画面を見つめていると、舞美が教えてくれた。
「あなたの話してるみたいですよ」
『だってあたし、頼りになんないし』
気のせいではなかった。画面を注視し、耳を澄ませる。
『そーねぇ、美貴ちゃんだったら、最後の瞬間まで暴れてるだろうね』
『たぶんね。声が嗄れるまでカメラに向かって怒鳴ってんじゃないかな』
『時々、妙に真面目になって説教してみたりして』
『そうそう。そんで結局また暴れるんだよ』
ノイズの混じったその会話に、心の中だけで参加する。
―――そうだね、そんでよっちゃんがこの子と話してよ
竹を割ったような世界を、吉澤に見せてきたのは藤本だった。
背中を見せ付けていられた頃は、藤本も若かった。幼かった。
働き始めて、藤本は社会を認識した。歪みと汚れを容認し、受け入れた。
藤本の知らない場所で、知らない事情で、吉澤は社会を拒み、砕けた。
変わって行く背中は、見せてやれなかった。
- 495 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:39
-
沈痛な面持ちで画面に見入る藤本を、舞美は馬鹿にしたような目で一瞥した。
「あと五分です」
それでも藤本は画面から目を逸らさなかった。
唇を噛み締める。血が滲むほどの痛みで何かを押さえ、
歪んだ口から言葉を吐き出す。
「・・・あいつはね、ダントツで頭よかったんだよ。だからさ、君に遊ばれてるの、ビックリした。
梨華ちゃん人質にされたら・・・あいつはこんなにバカになるんだね」
本当に冷静になれば、通報しないなんて愚行もいいところだ。
らしくない。そしてそれを許した自分も、らしくないことをしたものだと、
藤本は悲しげに顔を歪めた。その視界の隅に、時計がちらりと映った。
だんだんと藤本から笑みが引いていく。もう遅いのに、決断が悔やまれる。
何を、しているのだろう。こんな時に、何を、悠長に喋っているのだろう。
通報、すればよかった。撃てば、よかった。
―――いくらでもこの手を汚してやればよかった
「・・・いつかさ、あいつとゆっくり話してみてほしいな」
奇妙に歪められたままの頬が引きつる。差し迫る時間が、藤本に笑うことすら許さない。
後悔なんて無意味だと、辟易した顔で吐き捨てそうな吉澤の顔が頭に浮かんだ。
見詰め合ったままで、時間が過ぎていく。
- 496 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:39
-
『ねぇ』
静寂が部屋を満たした頃、スピーカーから石川の高い声が響いた。
見詰め合ったまま藤本も舞美も声に耳を傾ける。ぽつりぽつりと紡がれる二人の言葉を、
聞きたいような聞きたくないような不思議な感覚に包まれた。
『―――この手を離さなかったら、私がひとみちゃんを殺したことになるね』
目が離せない。逸らしてしまいたくて、ずっと見ていたい。
画面の中の二人は、互いを見詰め合っている。舞美の視線もモニターに向けられた。
『ホントだ。どうなるんだろうね。すごい矛盾が生まれる』
純粋にその先の答えを欲するように吉澤が疑問を口にする。
答えを握る舞美が目を見開く。食い入るように画面を見つめるが、動きはない。
変わらず二人の会話は進んでいった。
『試してみよっか?』
タイムリミットは迫っていた。藤本にはもう、舞美に贈る言葉もない。
『・・・・それが、最期でもいいの?』
『いいよ』
二人が迎えようとしている終焉に、藤本は一筋の涙を流した。
同時に、不思議な感覚の訳を理解する。だから聞きたくなかったのか、と。
ゆっくりと画面の二人が距離を縮め始める。
- 497 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:39
-
午前零時を告げる鐘の音が響く―――――――――――――
――――――――――――――――――――
―――――――――――――――
――――――――――
―――――
―――
――
―
・
.
.
- 498 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:39
-
***
- 499 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:40
-
鐘の残響が消え去った後、何も映さなくなったパソコンのモニターを藤本は見つめていた。
時計は午前零時を過ぎていた。ぐっと唇を噛み締めて、舞美に向き直る。
藤本の目に光る粒を、舞美が見つめていた。大の大人が泣く姿は、そんなに滑稽だろうか。
何を考えているのか、藤本には舞美の目から推測することが出来なかった。
何の色も示していない。暗い目から逃れるように藤本は問うた。
「・・・見なくて、よかったの?」
「刑事さん見たかったんですか?」
石川と吉澤の距離がゼロになる直前、舞美は伸ばした手でモニターを落とした。
そして時計は、無情に時が来たことを告げた。
本懐を遂げたはずなのに満足げな様子が見られない顔の舞美に、
藤本は頭を振ると、つかつかと歩み寄った。
手錠を取り出し、時計を確認して舞美の手に添える。
「零時一分、殺人・・・現行犯で逮捕、します」
「いいんですか?」
ガチャリと嵌められる寸前、舞美の声に藤本は手を止めた。
椅子に座ったまま抵抗もせず動かない舞美を見下ろすと、舞美は藤本を見上げた。
「私のことより、あの人達の方が気になるでしょ?」
「・・・どうしろって言うの?」
「自分の目で、確かめに行って来たらどうです?」
ひんやりと添えるように当てられた手錠の縁を、舞美の繊細そうな指がなぞった。
- 500 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:40
-
「私は逃げも隠れもしませんよ」
「・・・・」
そんな言葉を信じる根拠がどこにあるのかは分からなかった。
一人にしていいわけがない。分かっていたのに。
「・・・・どこに行けばいい?」
信じる必要などない。仕事も、この子も、どうでもいい。
一秒でも早く、確かめたかった。全てを見届け、確認したかった。
全てが終わったにしても、せめて亡骸を、抱き上げてやりたかった。
目を伏せた舞美が小さく笑った。
バタバタとけたたましい足音を立てながら藤本は舞美の部屋を出た。
玄関も飛び出して、車に近づくと、佐紀がぼんやりとした視線を向けた。
「・・・・殺したんですか?」
もどかしげに、エンジンを掛ける。
「殺せなかった。悪いけどもうちょっと付き合ってね」
「どこ行くんですか?」
「学校!」
待ちきれないとばかりにアクセルを踏み込む。
大げさなほどタイヤが悲鳴を上げ、夜の街を走り出した。
- 501 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:40
-
久しぶりに通る母校への道、目的地はその隣だった。
深夜の街で、藤本は車を走らせる。持って行けと言われた鍵は随分小さい。
ぐっと痛いほどに握り締めて藤本は極限までアクセルを踏み込んだ。
轟音を上げながら空いた道を進み、車はそこに到着した。
藤本は乱暴に車を止めると、口調だけは冷静を装って佐紀に問いかけた。
「降りる?」
「行ってもいいんですか?」
「・・・・ミキ、これでも急いでんだよね。どっち?」
「あ・・・・」
それでも佐紀は迷っていた。
苛立ちが頂点を極め、藤本は車のキーを佐紀に放り投げた。
「閉め方くらい分かるよね?好きにして。寒けりゃエンジンかけていいから」
思い切りよくドアを閉め、藤本は走り出した。閉ざされた校門の脇、
通用口の南京錠はすでに外されていた。乱暴に蹴り開けると、キィと高い音が響いた。
構わず藤本は駆け抜ける。通うことはなかったが、訪れたことはある。
僅かに残る記憶を頼りに、屋上へ走った。
- 502 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:41
-
隣には中等部の校舎がある。
そこで出会い、過ごした日々から目を逸らす。
感傷に浸りたくない。走り続けた先に、光を探す。
鍵を開け、
バン、と大きな音を立てて扉を開いた。
「梨華ちゃん?」
飛び込んだ屋上で、月明かりを頼りに人影を探す。
柵に寄りかかる影が目に入る。一人、しゃがみこんでいるのか。
問いかけに反応はない。
「よっちゃん・・・・」
泣きそうになりながら、恐る恐る一歩踏み出すと、
「お、美貴」
不意に掛けられた声にびくりと肩が跳ね上がった。
振り向くと、貯水槽に登った吉澤が藤本を見下ろしていた。
そこにあった、いつもと変わらぬにやにやとした顔に、藤本の拳がブルブルと震える。
「・・・・こんの、バカッ!」
驚かされた怒りに任せて声を荒げると、近づこうとしていた影も声を上げる。
「もぉ・・・なにぃ?」
甲高い、懐かしい声が、藤本の鼓膜をくすぐる。
- 503 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:41
-
「何じゃ・・・・ないよ・・・・」
脱力する藤本の脇をすり抜け、貯水槽から降りてきた吉澤は石川の隣に座った。
のろのろと、藤本もそれを追う。
「・・・・死んでんのかと、思ったじゃん」
「生きてるよ。なんだろうね、機械壊れちゃったのかな?」
そう言って、吉澤は石川の首に着けられた装置を突いた。
鬱陶しそうに、その手を石川が叩き落す。あまりにも普段どおりのその光景を見て、
追いついた藤本は、安堵と疲れから、膝をついた。そのまま石川の隣に座り込む。
落ち着いて考えればすぐに分かることだった。
爆発したにしては街が静か過ぎる。もっと騒ぎになっていなければおかしい。
撃たなくてよかった。選んだ道は、間違ってなかった。
ぼんやりと頭の動き始めた藤本に、吉澤がちらりと視線を寄越す。
「それとも、美貴が止めてくれたのかな?」
どんな思いで見ていたと思っているのか。
それならこんなに慌てて来るものか。言いたいことを飲み込んで、
藤本は肩をすくめた。こいつに言っても仕方がない。
「・・・・さぁね。大丈夫?」
「あたしは平気だけど。梨華ちゃんは?大丈夫?」
「大丈夫、だけど首が痛い。これ外せないかな?」
「あ、待って。これが・・・・鍵・・・あれ?」
「お前・・・・まさか・・・・」
「なく、した?」
- 504 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:41
-
目を見開いたまま時間が止まる。
しょうがない、と呟いて懐に手を入れた藤本の手を吉澤が掴んだ。
「ちょっと待て、お前何する気?」
「え、だって、鍵ないし。首痛いなら急いで外さなきゃ」
「やめろって。危ないよ」
「ちょ、痛い!私挟んで喧嘩しないでよ!」
開け放たれた屋上のドアの向こうから、階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
つかみ合ったまま二人の動きが止まる。ドアの向こうに集中する。
乱れた呼吸を整えながら、月明かりの元に飛び込んできたその人物は、
藤本のところまでやってくると、それを差し出した。
「鍵なら・・・・ありますよ、ここに」
「あ、来たんだ」
間の抜けた声で、藤本は佐紀を迎えた。
佐紀は拗ねたように答えた。
「だって刑事さん、忘れて行くんだもん」
「いやぁ、超焦ってたからね。ごめん、ごめん」
笑って誤魔化しながら藤本は石川に向き直る。
吉澤と藤本の掴み合いからも解放されて、石川はホッとした顔で顎を上げた。
カチリと金属音がして、夜風に曝された首がひやりとした。
水を差さないようにか、佐紀は背を向けて距離をとった。
すると、開放されて息をつく二人から吉澤も離れていった。
二人の視線がその背中を追う。佐紀の前に回りこみ、吉澤は立ち止まった。
- 505 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:41
-
「ありがと」
「えっ?」
予想だにしなかった礼に佐紀は困惑した声で訊ね返しただけだった。
吉澤の口元がにやりと持ち上がる。軽く下唇を噛み、唐突に、
「Fiddler on the roof」
「は?」
「屋根の上のバイオリン弾き・・・なんちって」
言って吉澤はイタズラのように笑った。
「キミはその名に相応しい」
「・・・・屋上にいるからですか?」
「fiddlerって、ペテン師って意味もあるんだよ」
そっと背を押し、吉澤は佐紀と共に屋上を出た。
少し離れて、石川を気遣いながら藤本もそれに続いた。
ドアが閉められる瞬間、振り向いた吉澤は口元を引き結び、目を細めていた。
カツーン、カツーンと階段を下りる音が響く中、気を取り直して吉澤は話す。
「わざと負けてくれたんでしょ?ここだけの話・・・・あいつ阿呆だから」
「聞こえてんだよ、引きこもり」
「聞こえないふりくらいしろよ。空気読めないお邪魔虫」
「もう一回言ってみろ」
一瞬振り向いてべっと舌を出す吉澤に、藤本は肩をすくめて見せた。
お手上げというような調子で呟く。
- 506 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:42
-
「だぁってさぁ、スフィンクスってピラミッドの前にあるあれでしょ?セットでしか知らねーよ」
「セットって・・・前って言うほど真ん前でもないし、時代が違うって話もあるよ?」
「あー、お前の話はつまらん」
「・・・・そんなんだから馬鹿なんだ」
「撃つよ?」
「ごめんなさい」
間髪入れず謝った吉澤を見て、懐に当てた手を下ろした。
我関せずという顔でそのやりとりを眺めていた石川と目があった。
まったく、もう。きっと、そんな意味を込めて、笑いあった。
無事でよかった、今さらながらに実感する。
そして、置いてきたことも思い出す。
殺さなかったのか、脅しに過ぎなかったのか、真意は定かではない。
考えながら外に出ると、不意に吉澤があたりをきょろきょろと見回しだした。
つられて藤本も辺りに気を配る。ふと、気付く。
「ん?音楽・・・・?なんだろ?バイオリン?」
「カノン、だ」
夜風に乗るように、逆らうように、引き裂くように、
撫でるように、舞うように、戯れるように、音は運ばれてきていた。
- 507 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:42
-
内側を引っ掻くような、撫で回すような、音だった。
揺さぶられる。音の波に、全てを投げ出してしまう。
自身が飲み込まれていく感覚が、ひどく心地よい。
ゆっくりと、耳を傾ける吉澤の目から一筋の涙が零れ出た。
「あ、れ・・・・?」
「ちょ、何?どうしたの?」
「いや・・・・あれ、え・・・・?」
次から次へと、止め処なく涙は増していった。
ぽろぽろと落ちるのをその手で集めるように吉澤が手を当てる。
「分かんない、なんだろ、なんでだろ、」
しかし涙は止まらない。石川から隠すように、涙の溢れる顔を手で覆う。
「ごめんね、ごめん、ホント、あたし」
言いながら、膝が崩れ落ちる。ぽつりと、一言、
「何で泣いてんだろ・・・・」
「ひとみちゃん!」
「よっちゃん!」
石川と藤本がその脇に駆け寄り、吉澤を支える。
吉澤の頭の中では、この場所で教師として過ごした短い時間の記憶が駆け巡る。
それらが形を成すように、吉澤の目からは涙が零れ落ちていく。
- 508 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:42
-
慌てる二人から目を逸らし、佐紀は音が聞こえる方向を見つめていた。
一つ一つの音が、全てを揺さぶる。その感覚で、佐紀は理解した。
「・・・・舞美だ」
「え?」
「舞美が、弾いてるんです」
きょとんとした顔をして、藤本は吉澤を石川に任せ、佐紀の肩を揺すった。
「ホントに?」
「間違うわけ、ないじゃないですか」
この音が、どれだけ佐紀を狂わせたことか。
羨望の眼差しで、それを見つめる。震える空気を全身で受け止める。
「・・・・・感じませんか?」
ドクリと、藤本の心臓が大きく跳ねた。
これほど穏やかな曲が、何故こんなにも不安を煽るのだろう。
何故、寂しさがこみ上げてくるのだろう。
なのに何故、懐かしく、心地よいと感じるのだろう。
意味ありげに話す佐紀と、涙を流す吉澤に感化されているのだろうか。
石川に抱きかかえられるようにされた吉澤も、音の流れてくる方を見上げていた。
- 509 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:43
-
これが舞美の音ならば、藤本は意を決して虚空を睨みつける。
「ちょっと、付き合ってくれない?」
「え・・・・」
「あ。あんたに選択権はないからね。梨華ちゃんに言ってんの」
戸惑う吉澤の返事を待たず、藤本は手を取った。
ほら、と言いながら藤本は吉澤の手を引き、走り出そうとした。
しかし、吉澤は頑として動かなかった。引っ張られる形で、つんのめる。
振り返ると、吉澤は顔をしかめながら言う。
「一人で、行ってよ」
「よっちゃんが行かなきゃ誰が行くんだよ」
「やだよっ」
吉澤は首を振り、掴まれた手を振り払った。
珍しすぎる反抗に藤本が目を丸くする。
「ひとみちゃん?」
ゆっくりと、異変に気付いた石川が覗き込む。
その背中に手を添えると、吉澤はびくりと跳ね上がった。
「どうしたの?」
穏やかな声の問いかけに、吉澤が顔を上げる。
いつだって、居場所をくれて、守ってくれて、あなたは―――
- 510 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:43
-
「・・・・ミキは逃がしてやらないよ」
吉澤がそっと手を伸ばしかけた所に藤本の声がした。
全身が竦み、吉澤の動きが止まる。石川も驚いたように藤本を見ていた。
真っ直ぐに見据えて、藤本は言った。
「ついて来い」
見詰め合ううちに、藤本の意図を汲んでか、石川が一歩、吉澤から離れ、藤本に続いた。
驚いたように顔を上げた吉澤の顔が、怯えに染まる。
「私は付き合うよ」
その言葉に、殴られるよりも強い衝撃が走る。
石川の歩みと共に開いていく距離を見て、吉澤の目が悲しそうに歪んでいく。
藤本は、苛立ちと共に強く拳を握り締めた。
「よっちゃん」
静かに、しかし厳しく呼ぶ。吉澤の視線が向けられる。
「・・・絶対守ってやるから、ついて来い」
一度見せた夢の責任を取る。
大丈夫、真っ直ぐな世界を、お前の目には見せてやる。
石川と藤本は並んで、同時にすっと手を伸ばす。十年変わらなかった構図。
いつだって、引っ張ってやったじゃないか。信じていいから。裏切らないから。
大丈夫だから、ついて来い。
- 511 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:43
-
目を閉じ、考えるように俯いた吉澤が顔を上げる。
「・・・・分かった」
その目に強い決意を滲ませながら、声は絞り出したように震えていた。
「でも、梨華ちゃんは来ないで」
「どうして?」
「お願い」
吉澤は悲痛な面持ちで懇願する。説明するつもりはないらしい。
やはり、この人は分からない。ふぅと、小さくため息を漏らした石川が藤本を見た。
「美貴ちゃん?車のキー貸してくれる?」
「いいけど・・・・待ってるの?」
「うん。佐紀ちゃん、どうする?」
石川に訊かれて佐紀は吉澤を見た。緊張しているのだろうか。
音の聞こえてくる方ばかりを見ている吉澤は、佐紀の様子には気付いてもいないようだった。
迷った末に佐紀は言った。
- 512 名前:MIND 投稿日:2009/02/24(火) 23:43
-
「舞美と、約束したんです」
躊躇いがちに、言葉を詰まらせながら、佐紀は言う。
意を決してそれを告げた。
「済んだら、舞美、死ぬつもりなんです。私・・・」
「分かってるよ、そんなこと」
しかし藤本に驚いた様子はなかった。
当たり前のようにそう言って、不敵なまでに堂々と笑った。
「死にそうなヤツは見慣れてんだよね、大丈夫。止めるのも、慣れてるから。ね、梨華ちゃん?」
「そーだね、もう十年も見てるから。美貴ちゃんなら大丈夫だよ」
顔を見合わせて軽く笑う二人を見て、佐紀はきょとんとして固まった。
ひとしきり笑い終えた二人がちらりと吉澤を見る。並んだ二人が同時に動き出した。
「おいで、待ってよう」
「ほら、行くぞ」
藤本は吉澤の手を取り、石川は佐紀の手を取り、逆の方向へ歩き出す。
石川は校門に置かれた車へ、藤本は音のするほうへ、躊躇いはない。
吉澤は手を引かれながら、少しずつ震えを押さえる。
逃がしてはくれない。覚悟を、決める。幕は、自分で引くしかない。
- 513 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/24(火) 23:44
-
- 514 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/25(水) 00:45
- 更新してくれて、本当にありがとう
- 515 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/25(水) 01:11
- 何を言ってもネタバレになっちゃうので、
次回楽しみにしています。
- 516 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/25(水) 20:51
- 作者様の筆力にただただ脱帽…。素晴らしいです。
- 517 名前:名無飼育 投稿日:2009/02/26(木) 11:02
- 情景が想像できて泣けました
実写で見たいです(*;Д;)
- 518 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/26(木) 17:06
- ageレス気を付けるべし
一応落としておきます
- 519 名前:名無し飼育さん 投稿日:2009/02/26(木) 22:10
- このオトナ3人組かっこいいなぁ。
独特の雰囲気が最高です。
- 520 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/27(金) 14:23
- ホントにネタバレしちゃうんで…
一言作者様更新お疲れ様です。
- 521 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/27(金) 14:50
- 圧倒的
何も言えねぇ
- 522 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/27(金) 21:35
- 本当に凄い
引き込まれる
- 523 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/08(日) 03:22
- 楽しみだYO!
- 524 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/09(月) 16:44
- >>514-523
ありがとうございます
- 525 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:45
-
◇
朝起きたら、目も開けないで隣を確かめる。
ぬくもりがないから、ドアが開くのをひたすらに待つ。
しばらくすると、あなたが入ってくる。
「舞美、遅いよ」って、口を尖らせながら、私を起こしにやってくる。
そっか。全部、夢だったんだ。
あなたは隣で笑ってて、私も一緒に笑ってて、
嗚呼、なんて悲しい夢を見ていたんだろう。
そう思いながら、目が醒める夢を見る。
遅いなぁ、えり。
朝起きても、私はまだ目を開けない。
耳を澄まして、あなたの足音をひたすらに待つ。
しばらくすると、胸の奥が痛みだす。
それこそが夢でしかないんだって、私は毎朝、思い知らされる。
- 526 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:45
-
***
- 527 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:45
-
「舞美、ちょっといい?」
「うん?どうしたの?」
コンクールの後、入賞者が集められて、品評会が催されていた。
微笑で返した私には、愛想笑いが板についてきたと思う。
会場を離れ、人気がないところで、前を歩く黄色いドレスが翻る。
必死の形相で、佐紀は震えながら私の前に小さな刃物を構えていた。
「・・・・」
今からそれをどうする。なるほど、私に刺すのか。
「いいよ」
緊張しきった佐紀に、微笑みかけた。
佐紀もまた、憤りを抱えているのだろうと思った。
正直なところ、自分でも驚いた。まともに思考できていることにも驚いたし、
刃を向けられて笑える自分にも驚いた。
決して現実を理解していなかったわけではない。
あのときは、死にたかったわけでもない。
ただ、死なないと思った。理由なんてない直感。
思えばあの時の私は五感も第六感も冴え渡っていたのだろう。
凶器があまりに凶暴性を欠くサイズだったことも関係あるかもしれない。
佐紀の目があまりに怯えていたからかもしれない。明確な理由なんてない。
でもそれは正しかった。私は今も生きているし、直後に掛かってきた電話で、
佐紀はそれどころじゃない事態に飲み込まれていった。
- 528 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:45
-
私はそれほど佐紀の友達には関心がなかった。
と言うよりも、私は大抵のことに興味が持てるような状況ではなかった。
日常のあんな場面、こんな場面、あらゆる場面で、ずっと隣にはえりがいた。
ここにもいない、そこにもいない。流れていく時間は、空虚を広げるだけだった。
ぼんやりと、毎日学校に通っていた。
あなたがいないと確認させられるだけの空間に、毎日足を運ぶ。
留学前にはほとんどまともに話そうと思わなかったグループの子に、
私は積極的に混じって行った。そこはとても居心地が良かった。
「吉澤だよ」
「そう、絶対あの人のせい」
噂話を飾り立てることしか知らない彼女らから出てくる言葉は、えりのことばかりだった。
そして、そこに出てくるえりの“センセー”は、酷い人だった。裏切り者で、人殺しだった。
見たことなんてない。でもえりの話に出てくる“センセー”と、その子達の話す“先生”は、
笑ってしまうぐらい別人に等しかった。以前は彼女らのそういうところが苦手で、
上辺だけで話していたことを思い出した。
でも、私の中のセンセー像は、彼女らに容易に塗り替えられた。
“先生”のせいなんだ。最低の裏切り者の“先生”が、えりを殺したんだ。
でも、えりが話していた“センセー”は、優しそうな人だった。
そうか、騙されてたんだ。えりは、気付いていなかったんだ。
- 529 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:46
-
佐紀から電話が掛かってきたのは、とある平日の昼間のことだった。
考えれば考えるほど、どうにもならないほどに気だるくて、動けなくて、
学校を休んで、全てを遮断するように、音楽を掛けながら部屋に篭っていた日だった。
泣きじゃくる佐紀の話を理解するのは困難を極めた。理解したとき、私は問うた。
「・・・・そのままでいいの?」
ただ純粋に、佐紀に起きた状況が私に重なった。佐紀の友人が、えりに重なった。
もういないあなた。私は誰に復讐すればいいんだろう。“センセー”も、もういない。
二学期から代わりに来た生物教師は、件の“先生”とは似ても似つかぬおじさんだった。
どこか遠い世界の、物語の登場人物程度にしか見えない。
せっかくこの国に、学校に戻ったのに、気配を感じることも出来ない。
佐紀に自分を重ね、“誰に”が明確に存在する佐紀を羨んだ。
『・・・変な、家庭教師が来る・・・・バレるかも・・・・』
「どんな人?」
『吉澤って、女の先生・・・・すごい、鋭いの、問い詰められる、かも』
唐突に出てきたその名に、一瞬、頭が真っ白になった。
日常に埋もれそうだった私の前に、吉澤ひとみに繋がる糸は突然降りてきた。
逸る心を潰れそうなほど押さえつけて、佐紀に尋ねた。
聞き知った“先生”の特徴。思いつく限りを確認し、返ってくる言葉は全て肯定だった。
えりの、“センセー”を、見つけた?なら、私は、
「・・・・佐紀、よく聞いて。その人に何か聞かれたら、こう言って――――」
“そのままでいいの?”その言葉は、そのまま自分に跳ね返る。
いいわけがない。それが二人に共通する答えだった。
- 530 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:46
-
そして佐紀は行動した。警察が来て、話を聞かれて、どうなっちゃうんだろうって、
私の飛び火で焚きつけたことを少し後悔して、でも結末はあっけなかった。
弁護士とか、お金とか、問題はそんなことだった。
温度が感じられないのは、私の気分の問題だろうか。
それとも、世界は初めからこんなにも冷たいものだったのだろうか。
釈放された佐紀に頼み込んで、“先生”を見に行った。
街を楽しそうに歩いて、連れ立って、横に立つのは、きっと、あの人の“好きな人”なんだろう。
離れて煙草を吸いだしたときの目が、どこまでも冷たくて、
火をつける手つきが慣れていて、吐き出した煙がえりを汚したように思えて、
もう全部が許せなくなってきて、佐紀を置いて歩き出した私は、もしかしたら、
初めからそうするつもりだったのかもしれない。だって、私の手には、ナイフがあった。
徐々に距離を詰めていく。視線が交わる。
初めて、“先生”が私を認識した。
不思議なくらいに、私は落ち着いていた。
私の表情も崩れていなかった。だって、これは当たり前のこと。
ふらりと、よろけるように“先生”にぶつかっていった。
受け止めようと手を伸ばしたその人に、突き立てる。
―――ドスッ
「Geh zur Hoelle」
地獄に、落ちろ。
- 531 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:46
-
さっと路地に入り、しばらく歩くと後ろから絹を裂いたような悲鳴が聞こえた。
それでも、私は落ち着いていた。慌てていたのは、佐紀だった。
舞美、舞美、と何度も名前を呼ばれた。そんな大声で呼ばなくても、私は冷静だ。
むしろこの気持ちは、言い表すならば、そう、愉快だ。
「大丈夫だよ。浅く刺しただけだから」
あれぐらいじゃ、死なない。
「あれぐらいじゃ、死なせない」
私に空いた穴が、少し小さくなる。でも足りない。あっさりと終わらせたりしない。
高笑いを堪えて震えている私を、佐紀が泣きそうな顔で見ていた。
「ねぇ・・・捕まっちゃうよぉ」
「ぷっ、あははっ!」
堪えきれず、笑いが漏れた。それを佐紀が言うの?
牢獄に意味はないと気付かせてくれたのは誰だ。
それに、私が捕まることはない。私が向かう先はもう決まってる。
「佐紀さぁ、私に死んで欲しいんだよね?」
「あれはっ・・・・!」
「いいの、責めてるんじゃないから。協力してよ。全部終わったら、死んであげる」
あの時の佐紀が何を考えていたか、それぐらい想像できる。
佐紀は、頂点に立ちたい。でも私は、こんな世界の頂点に、興味なんてない。
極めたってしょうがない。邪魔だと言うならいつでも消えてやる。
これで満足でしょう?私も満足。こみ上げる笑いが止まらない。
だって、一番聴かせたいあなたが、いないから―――――――――――
◇
- 532 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:47
-
学校の御堂に置かれた聖母の前で、舞美はケースを開いた。
ステンドグラスはバカバカしいほどに美しく、月明かりに照らされていた。
鮮やかな色彩こそ損なわれているものの、差し込む光も美しかった。
取り出したバイオリンを肩に乗せ、舞美は聖母を見上げた。
微笑を浮かべたその像も、バカバカしくなるほどに、美しかった。
奇跡が起こるとしたら、時間を戻せるとしたら、いつに戻るだろう。
留学する前だろうか。傍を離れなければ、“先生”との関係を止められただろう。
前日で、十分だろうか。“帰る”と告げることが出来れば、彼女は待っていてくれただろう。
それは全て舞美の想像に過ぎない。
目の前で、“先生”に傷つけられる彼女を見るだけだったかもしれないし、
自分が帰るかどうかなんて、彼女にとっては意味を持たないようなことだったかもしれない。
一年生のクリスマスは、ここに並んで座っていた。
学校行事の中で退屈な話を聞きながら、他愛もないお喋りを続けていた。
なんでもないようなことで笑って、怒られたら舌を出して、
戻るなら、あの時だ。舞美は思い、音を奏でる。
すっと、舞美が弓を引く。音は弾け、広がり、空間を満たした。
奏でるのは、パッヘルベルのカノン。いつも、彼女が聞いてくれていた曲。
蘇る記憶の中で、彼女は生き生きと、聖母よりも美しく微笑んでいた。
- 533 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:47
-
***
- 534 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:47
-
「梨華ちゃんいなくていいの?」
「何言ってんだよ、来てほしくないって言っただろ」
音を辿って見えてきた建物の十字架が目に入った。
間違いなく、ここから聞こえてきている。
そう確信して、藤本は確かめるように後ろの吉澤に問いかけた。
「居たほうが安心じゃないのかなって思ったの。平気?」
「・・・・平気じゃないから帰らせて」
「まだ言ってんの?」
一歩近づくごとに大きくなっていく音が、藤本の心音を乱す。
暴れる心臓を押さえ振り返ると、吉澤はさらに苦しそうな顔で強く胸を押さえていた。
握った手に力を込める。
「絶対逃がさない」
力強く言い切ると、藤本は力任せに引っ張って歩き出した。
扉の前まで来て、再びつんのめる。いいかげんにしろと怒鳴りかけて、
掻き消えてしまいそうな吉澤の気配に気付く。言葉を飲み込んだ藤本に、
「美貴、ちょっとだけ、聞いてくれる?」
御堂を目前にしてそれ以上近づくことを拒むように立ち止まった吉澤は、
深い哀しみをその目に湛え、静かに話し始めた。
- 535 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:48
-
***
- 536 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:48
-
「動くな」
不意に扉が開き、銃口が舞美に向けられる。
思わず手を止めてそちらを見てしまった。
「刑事さん・・・・無粋ですよ」
想像していたのと変わらない光景、変わらない人物、変わらない表情、
ただ、役者が足りなかった。
「私に脅しなんて意味ありますか?」
「でも、止まってくれた」
「いつでも再開できます。それとも、手伝ってくれるんですか?」
「いや・・・・止まったついでに、話でもしようよ」
軽く言いながら舞美がバイオリンしか持っていないのを確認すると、
藤本は銃口を上に向けた。その視線が一瞬、後方の扉の陰に走る。
そこか。
一瞬ぴくりと、舞美の全身に力が込められた。
壇上に上がらない役者を壁越しに見据える。
- 537 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:48
-
「月並みな言葉だけど」
話し始めた藤本に、舞美の注意が向けられた。
中に入ることが出来ないでいる後輩を庇うように、藤本は舞美の視線に割り込んだ。
「こんなことしてあの子が喜ぶと思ってんの?」
これは弔いなのだと、御堂の前で立ち止まった吉澤は呟いた。
自殺した生徒、逃げるように退職した吉澤、帰国した舞美、飾られた写真、
藤本の中で、おぼろげな輪郭が見えてきた。
これは弔いなのだ。一人の少女を取り巻く二人の、それぞれの弔いなのだ。
本気になれば藤本の手を振り払うことも出来た。そうしなかった吉澤は、
あと一歩を踏み出す勇気を持てずに、立ち止まった。
「思ってない」
「だったら、」
「悲しむことはできるんですか?」
バカな真似はよせと、そう続けようとした藤本が言葉に詰まった。
「ねぇ」
年相応のあどけなさと、吸い込まれそうな暗闇の混じった視線が藤本を絡めとる。
「答えてよ。ならどうやったら、喜ばせれらるんです?」
- 538 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:48
-
藤本はつくづく思う。やはり子供は苦手だ。
またちらりと、出てこない後方を確認する。
あいかわらず、動く気配はない。舞美の声が藤本を呼び戻した。
「残された人が幸せなら喜ぶ?これも月並みですね。どうして?なんで?」
返答に窮し、言葉を探す。しかし、何も浮かばず、また探す。
舞美は、そんな藤本に見切りをつけたように、再び扉の陰を見た。
「それで?いつまで隠れてるつもりなんですか?」
手にした弓で壁の向こうを差した。
藤本も振り返る。
「かっこいいのは、あの人の前でだけですか?」
挑発するように舞美が言った後も、静まり返っていた。
藤本が小さくため息を吐き、割って入る。
「いやいや、よっちゃんはいつでもどこでもダメ人間だよ?」
「そうやって、いつまでも庇ってもらうんですか?」
へらへらと、冗談のように言った藤本の言葉に、舞美は耳を貸さなかった。
ただ、じっと壁の向こうを睨み続けていた。すぃっと、藤本の目が細められる。
「・・・・うちのパシリを、」
「美貴」
- 539 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:49
-
カツ、と靴音がした。
静まり返るその部屋に、吉澤が一歩、踏み入れた。
冷涼な空気が発せられる。凍りつく空気は、舞美から迸る殺意をも包み込む。
月明かりに照らされた彫刻のように整った顔が、藤本に向けられる。
「ごめん、庇ってくれてるのは分かってる。でも大丈夫、でもないけど、とにかく、いいから」
僅かに顔をゆがめ、吉澤は笑って見せた。
いつか会った少女が差し出した手に握られている弓は、
断罪の剣のようにまっすぐ吉澤に向けられていた。
吉澤がさらに距離を縮めようとしたそのとき、
扉に背を向け、舞美はバイオリンを構えた。
正しい役割を取り戻した弓が僅かに揺れる。
「・・・・えり」
目を閉じたまま、舞美は自分でも聞こえないほどの小声で虚空に呼びかける。
もう一度、いや、何度でも。
聖母に向けて続きを奏でる。届ける音は止まない。
音の波に、その空間の全てが飲み込まれていく。
舞美の痛みが、全てを足止めする。誰しもが動くことも出来ないで、
そう思った瞬間。カツ、カツ、と演奏に靴音が混じる。
正確なリズムを刻むそれは、舞美の音楽に合わせるように近づいてくる。
- 540 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:49
-
靴音が止まった。場所は、おそらく舞美の真後ろだ。
弾き終えた舞美は、視線を落としたまま楽器を下ろす。
振り向きざまにちらりと見えた足元は、刑事のものとは違っていた。
今、右側、ごく近くに、“先生”がいる。そう意識しながら、舞美はケースにバイオリンを戻す。
顔を上げても、いつも聞いてくれていた笑顔はそこになかった。
代わりに舞美を見つめていたのは、吉澤だった。
初めて、真っ直ぐに見た“先生”は、幼馴染が心酔したように褒めちぎったその人で、
薄っすらと浮かべられた笑みは、自分に向けられていた。
顔を背けた舞美の頭がだんだんと垂れていく。
完全に俯いてしまう前に、吉澤がそっと手を伸ばす。
触れる寸前に気付いた舞美が大きくその手を振り払った。
「触らないで」
弾かれた手を擦りながら、吉澤が一歩、舞美から距離を取った。
ぴりぴりと、痛いような沈黙が静謐な空間を満たす。
再び交わった視線は、舞美の方から外された。
「・・・・ごめんなさい」
吉澤の、さらに奥に佇む藤本に、舞美が頭を下げた。
「刑事さんと石川さんには、本当に悪かったと思ってます。
こんな言葉で許してもらえるとは思わないけど、ごめんなさい」
- 541 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:49
-
もう一度、舞美は頭を下げる。吉澤は無感情な目でそれを眺める。
藤本が一瞬目を伏せてから答えた。
「梨華ちゃんは外で待ってる。謝るなら、梨華ちゃんにもちゃんと会って謝りな」
「・・・・それは、この人次第です」
そう言って、舞美はケースに隠したナイフを手にゆっくりと立ち上がった。
右手に握ったそれの切っ先を自らの首に押し当てる。
反射的に伸ばしかけた手を止めて、吉澤がごくりと唾を飲んだ。
「分かりますよね?」
「あぁ・・・」
「宣言した通り、これが最終ラウンドです。賭けるのは、私の命」
目を細め、舞美は打って変わって優美に微笑んだ。
一切の感情を流しきったように佇む舞美には、鬼気迫るものがあった。
臆すな、怯むな、そう言い聞かせながら、吉澤は舞美の視線を真っ向から受け止める。
「吉澤ひとみは、梅田えりかを殺した。イエスか、ノーか」
抑揚のない声で言い終えると、舞美に貼り付けられていた笑みが一瞬で掻き消える。
霧散した表情の後に残された深い悲哀に飲み込まれそうになる。
「答えてください」
何を望む?この子は、どちらの答えを望んで、問いかけている?
考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。
喉が渇く。奥が張り付いて声が出ない。息だけが、段々と荒くなっていく。
- 542 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:50
-
「刑事さん、私が死んだら、石川さんにごめんなさいって伝えてくださいね」
「断るっ、止めな!」
目の前、真後ろ、すぐ近くでのそのやり取りが、やけに遠く聞こえる。
感覚器官が狂い始めている。ふわふわと、世界が廻る。ガチガチと奥歯が鳴る。
ここは、どこだ。目の前にいるのは誰だ。何故ここに立っている。全て、分からない。
「よっちゃん!」
震え始めた吉澤の肩を、藤本が駆け寄り掴んだ。引き戻されるように一瞬で、震えが止まる。
美貴。梨華ちゃん・・・・ここは、現実だ。
「・・・・ハッ、ゴホッ!ゴホッ!」
空気の塊を飲み込んだ吉澤が咳き込む。
「大丈夫、大丈夫だから。ミキが絶対、梨華ちゃんとこに帰してやるから」
膝を突いた吉澤の背中を擦りながら、藤本が言い聞かせるように囁く。
「薬は?飲める?」
咳き込みながら何度も頷き、吉澤は押し込むように取り出した錠剤を流し込んだ。
息を整えようとしている吉澤に、傍に立つ舞美は冷然とした様で問いかける。
「・・・・あなたにとって、えりは何?」
名前に反応するように、吉澤の肩がびくりと跳ねた。
舌打ちをして、藤本が顔を上げる。
「ちょっと待って。こいつ今、喋れないから」
- 543 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:50
-
「・・・・はぁ?」
眉間に皺を寄せ、舞美は吉澤に歩み寄った。
ナイフを首から離し、高く振り上げる。
藤本が懐に手を入れる。構えるより早く、ナイフは振り下ろされた。
カッ
俯く吉澤の視界のど真ん中に、床に突き立てられたナイフが映る。
浅い呼吸を繰り返しながら辿るように顔を上げると、
片膝を立てる、凍りついたような表情の舞美と目が合った。
「・・・・答えてよ。梅田えりかは、あなたにとって何?」
床に刺さったナイフに集中すると、ぼやけた視界に輪郭が戻る。
「分から、ない」
鈍い痛みを訴える頭を押さえながら吉澤が立ち上がると、舞美も立ち上がる。
一歩、よろけるように舞美から距離を取ると、前に出ようとした藤本を押しとどめ、
呟くように答えた。
「分からないんだ。でも、答えるなら・・・・生徒、だった」
頭痛が治まってくるのは、薬が効いてきたからだろうか。
それに乗じて落ち着きをもう一度取り戻す。
「最期に交わした言葉は、はっきりと覚えてる。最期に見た顔も、はっきり、覚えてる」
あの日のことを語るのは、これが初めてだった。
- 544 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:50
-
「・・・・なんて言えばよかったんだろうね」
ぽつりと、ステンドグラスを見上げた吉澤が呟く。
キラキラと、聖母は慈悲深い笑みを輝かせる。
「あたし、この場所苦手なんだ」
「・・・・」
舞美は床から抜いたナイフを右手に提げて、探るような目を吉澤に寄越した。
吉澤はふぅと小さく息を吐き、外の風景を思い浮かべる。
「昔から学校っていうのが、苦手なんだ。この学校は特に」
はにかむように鼻の頭を掻き、視線を落とした。
「あの子といるとき、あたしは高校生のころに戻ったような気がしてた」
かつての石川と同じ制服を着て微笑む彼女が頭に浮かぶ。
ただ、石川を眺めるだけだった自分が、同じ制服に身を包んだ彼女に近づく。
「どっかで、重ねてた」
石川のようだと思っていた。どこが、と説明することはできない。
存在として、石川のようだと思っていた。
学校という輪から少し外れた場所で関わっていたせいかもしれない。
高校時代からずっと、一番安らげる場所は、石川の傍だった。
あの頃を振り返って、学校で一番安らげる場所は、彼女の傍だった。
- 545 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:51
-
「だから、生徒ってだけじゃなかったかもしれない。
うん、授業中以外は・・・・生徒って感じじゃなかった」
“先生”と、そう呼ばれる以外は友人と変わらない。
「あいつも、敬語とか使わなかったしさ、舐められてたのかな」
眩しい夏服の白と、茶味掛かった髪が、嬉しそうに笑う彼女の顔を映えさせる。
屋上の風が植えつけられた緑を揺らす。夕暮れの中、間近に迫った顔に憂いが差す。
「大事、だったよ。とても」
はにかんで笑った彼女の頬を赤く染めたのは、夕日だったか。
過ぎ去った時間をいとおしむ様に、吉澤は目を細める。
「他に、訊きたいことある?」
後方に立つ藤本が見つめる頼りない背中から、御堂の前で吉澤の言っていた言葉が聞こえる。
―――ねぇ美貴、あたし、あの子にも死んでほしくないんだ
辛そうに顔を歪め、逃げ出したい気持ちを隠せずに止まる足を見下ろし、
―――あたしを守ってね。絶対、あの子を死なせないで
泣きそうな顔で、藤本を見た後輩の顔が浮かんだ。
―――二人も、背負ってやれないからさ
- 546 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:51
-
軽く広げた手のひらを見せ、吉澤が舞美に一歩、近づく。
同時に一歩、舞美が後ろに下がり距離は保たれる。
「・・・・初めの質問に答えようか」
吉澤は近づくのを止める。
迷うように俯いて、やっと口を開く。
「あたしが―――」
「止めて」
言葉と共に、舞美は吉澤に刃を向けた。言いかけた言葉を飲み込んで、
吉澤は静かに思う。これは想定していなかった。
舞美は、答えなど望んでいなかったのだろうか。
真っ直ぐに、視線を返す。吉澤は、次の言葉を探す。
「えりかは」
「―――あなたがえりかって呼ばないで。虫酸が走る」
「ごめん」
「謝らないで。っていうかもう喋らないで」
言われたとおり口をつぐみ、吉澤は目を細めて舞美を見た。
冷め切った中にたぎるような憎しみを浮かべ、舞美は吉澤を責める。
ブルブルと震える視線に応えるように、もう一度、吉澤は言う
「・・・・ごめんな」
「喋るな」
舞美の顔が一瞬、憤怒に歪んだ。
- 547 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:52
-
剥がれ落ちる冷静な仮面に押さえつけられていたかのように、
舞美は表情の変化と共に感情をむき出しにした。
「悪かった?ごめんなさい?何言ってるの?」
苛立ちに、全身が震える。押さえるように、左手で自身の胸を掴む。
収まらない震えの中、吉澤を睨みつける。
「・・・・素直に言えば言うほどずるい」
「ちょっと―――」
「美貴」
横から口を挟みかけた藤本を吉澤が制した。静かに、舞美の言葉に耳を傾ける。
「あなたがそんな風に小さくなってたら、私はいったいどうしたらいい?」
どちらの“先生”が正しかったのか。
目の当たりにして、聞き知った“先生”の片面が消える。
溜めるように震える舞美の唇から、ぽつりと、やっと零された一言。
「悪役にくらい、なってよ・・・」
モニターの向こうで、石川は吉澤のために死んでやろうと、
そこに、大切に想われている温かみを感じ取ってしまった。
躊躇いなく、殺せたら。それが相応しい人間だったら。
この人のために命を投げ出す人も、涙を流す人も居なければ。
舞美にとっての吉澤は変わらなかったのに。
- 548 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:52
-
「悪役・・・ね」
小さく呟いて、気だるそうに首を鳴らし、吉澤は舞美を見る。
自分を見る吉澤の空気が変わった気がした。
「彼女、悩んでたよな」
舞美は覚えた違和感の正体を探っていた。
感じる。どうしてだろう。自身も、表現者である証だろうか。
「何も言ってやれなかったよ。あたしはあの子を見てるだけだった。
悩んでるあの子を関係ねぇって思いながら見てた。何もしてやらなかった」
様子を変えた吉澤に目を奪われる。
この人は、常に何かを表現している。でも、何を?
ゆっくりと考え、眺め、思い返す。
―――先生って、先生は、先生も・・・・
「これで満足?」
彼女が教えてくれたいくつもの“先生”の姿と、豹変した目の前にいる人は、
まるで別人のようで、むしろ舞美の中で築かれていた噂話の“先生”に重なる。
あぁ、そうか。この人は、
「・・・・あなたは、アニムスなんですね」
全てが、氷解した。
- 549 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:52
-
「なにそれ?」
「・・・・心理学で言う女性が作り出す理想像。反対語はアニマ、こっちは男が思う理想像」
訊ねる藤本に、振り返りもせず吉澤が答えた。
「へぇ。最近の高校生は変なこと知ってんだね」
「・・・・美貴ちょっと黙ってろよ」
呆れたように言う吉澤には、まだ拭いきれない違和感が残っている。
さらに探るように舞美は目を細める。
「でも、アーキタイプとはちょっと違いますね」
「アーキタイプってなによ?」
気の抜けた声でまた訊ねる刑事にはない違和感。
不思議な人だと、そういえば佐紀も言っていたっけと思い出した。
「・・・元型。ありきたりだとでも思っとけよ。ってか黙ってろって言ってんじゃん」
「それも」
「あ?」
片眉を吊り上げて、小バカにしたように聞き返してきた姿。
入ってきたときの冷涼な空気を纏っていた姿とは、すでに別人だった。
「見た目は天然王子様、何でもできて?優しくて?頼れそうで?落ち着いてて?
でもユーモアもあって?ちょっと子供っぽくて?弱いとこもあって?」
- 550 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:53
-
「そうやって、敏感に相手が求める姿を感じ取って、理想像を演じる。
だから、あなたは完璧じゃない。完璧じゃない姿が、あなたの望まれた完璧な理想だから」
そんな偶像を見せられたら、えりが騙されちゃうのも無理はない。
そうやって生きてきたこの人は、何人を騙してたんだろう。
その内の一人が、えり。それだけの、こと・・・・
「・・・気持ち悪い。薄っぺらい、あなたは空っぽ。あなたは何?あなたという人は存在しないの?」
「そうかもね」
なんでもなさそうに、吉澤は言った。
「・・・・もういい。そんな人と話しても仕方ない」
どんな言葉も、意味を成さない。理解できようはずもない。
突きつけた全てを飲み込まれてしまったら、吐く言葉全てが虚空に掻き消えてしまう。
何も期待できない、何一つ信用できない。
舞美もまた、騙されるしかない。
全ての景色が霞む。気が狂いそうなほどに、世界が歪む。
ただ一人、舞美の世界を輝かせてくれていた彼女を思い出す。
―――あなたの想い人は、こんな、偶像。本当は、存在しなかった人。
「嘘でもいいから言って?・・・・・愛してたって。えりに、聞こえるように」
舞美は壊れたように、引きつった笑みを浮かべた。
- 551 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:53
-
「それで全部終わり、もう二度とあなたに関わらない。だからあなたも誓ってよ」
吉澤は開きかけた口を閉じた。
舞美は、また吉澤の空気が変わっていくのを感じていた。
「―――言えないよ」
「・・・・・っ!」
辛そうに眉を顰め、言う。
舞美の表情が崩れる。カァッとこみ上げる怒りに身を震わせる。
――――貴女ニ、ドンナ信念ガアル?人形ノ様ナ、貴女ニ・・・・・
暴れだしそうな腕を押さえて、一切の感情を押し殺す。
「騙すなら、最後まで騙しとおしてよ」
冷め切った目をして、舞美は振り返った。ナイフを手に、吉澤に近づく。
縮まっていく距離を、吉澤は何もせず眺める。
「あなたを刺すのは・・・・二回目ですね」
「あぁ。そうだったね」
「よっちゃん!」
藤本が叫ぶが声は届かない。動かない吉澤、歩み寄る舞美、保たれていた距離が崩れる。
あと一歩の場所で、受け止めるように吉澤が手を広げる。
「・・・・あたしは、悪役でいいよ。でもね、」
囁くような掠れた声が藤本の耳に届く。
息を呑んだとき、影が交差した。
「彼女のことは・・・・許してあげて」
- 552 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:53
-
二つの影が静かに離れる。
カラン、と大きな音を立て、一片の曇りもないナイフが、
力なく垂れた舞美の手から落ちた。
呆然と立ち尽くす舞美に、吉澤が声を掛けようと手を伸ばす。
藤本はそれを遮り、吉澤を掴んで引っ張った。
「・・・・もういいよ、帰ろう」
顔を上げた吉澤は一瞬躊躇うように舞美と藤本を交互に見た。
そして頑なに目を逸らす舞美を一瞥すると、惜しむように聖母を見上げ、藤本と共に御堂を出た。
しばらく歩いたところで、藤本が思い出したように小さく「あっ」と呟き立ち止まった。
「ごめん。ちょっと待ってて」
「え?」
「すぐ戻る!」
吉澤をその場に残し、藤本は小走りに御堂へ戻った。
いまだ開かれたままの扉の奥に、頭を垂れた舞美が見える。
わざと聞こえるように意識して足音を響かせる。―――カンッ
と同時に舞美が顔を上げた。暗い双眸が藤本の姿を捉える。
「忘れるとこだった。佐紀ちゃんに君のこと頼まれたんだった」
ゆっくりと近づき、舞美の手から零れ落ちたナイフを拾い上げた。
ずっしりとした質感を感じながら、舞美に告げる。
「これ、預かっとくから」
「・・・・好きにすれば」
- 553 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:54
-
投げやりに答える舞美に、藤本はため息をついた。
自分はこういうとき、放っておけないような人間だっただろうか。
大人になって、丸くなったのか。それとも気付いていなかっただけで、
もともとお節介な人間だったのか。
「よっちゃんが許してって言ってた“彼女”って誰のことだか分かってる?」
「・・・・石川さんでしょ。あの人は石川さんのことばっかり考えて生きてるんだから」
「違うよ」
もう舞美が石川に手を出すことはない。そんなことぐらい、藤本も吉澤も分かっている。
あえて言ったのが、石川のことであるはずはなかった。
「君の友達のことだよ。よっちゃんを恨んでる限り、君は友達のことに納得してないでしょ?」
喋りながら、舞美の目に見え隠れする色を窺う。
「よっちゃんを責めるってことは、自殺した君の友達の弱さを責めるって事だよ」
「そんなことっ・・・・」
「あぁ、自覚してるかはどうでもいいよ」
聡い子だ。きっと、心のどこかでは分かってる。
藤本は膝をつき、舞美の手を取ると、手錠を当てた。
「ミキは通訳しかしない。君に同情もしない。警察だからね、捕まえたいよ。
でも、そうしないし、責める気もない。たぶん、誰もそんなこと望んでないから」
そっと外した手錠を懐に仕舞う。そして放り投げるように、舞美の手も離した。
- 554 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:54
-
「忘れろとは言わないよ。でも後ろばっか見てたってさぁ、しょうがないじゃん?
生きてんだもん。前にしか、進めないんだもん」
歯を見せて、笑ってやる。これでも、大人だから。
舞美と同じではなくても、別れぐらい経験しているし、
辛いことも、山ほど知ってる。
歯を食いしばって、それでも生きてきて、導き出した結果だ。
これから先も長い。藤本のこの意見も変わるかもしれないが、
今、舞美には、この言葉を贈ることにした。
「早く帰りな?お母さん、心配するよ」
「・・・・地方公演で、いないもん」
「可愛くないなぁ・・・・あ、梨華ちゃんに謝るのはまた今度でいい?何なら連れてくるけど」
舞美は藤本に背を向けて、ふらふらと歩き出した。
「必ず、謝りに行きます。だから、」
並べられた長椅子の一つ、いつかのクリスマスに並んで座ったその席に、
舞美は腰を下ろした。どこからか、声がする。あの日と同じ、笑い声。
「・・・・一人に、してください」
「OK、約束。じゃ、元気でね。もう妙な気起こさないように」
藤本が手を振って出て行った後、舞美は静かに目を閉じた。
- 555 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:54
-
***
- 556 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:54
-
「ごめんね、これ、取り上げるの忘れてた」
忠犬のごとくその場から一歩も動かず待っていた吉澤のところに戻り、
藤本は門に向かって歩き出した。しかし後ろからついてくる気配がない。
立ち止まったまま俯く吉澤の胸倉を掴み、睨みつける。
「・・・・逃げんじゃねぇよ。あの子のせいにして、逃げんじゃねぇ。
あんたの自殺願望ぐらい、分かってる。絶対、逃がさねぇ。梨華ちゃんとこに返すんだから」
きょとんとした顔をして、吉澤はまるで自分が何故動けなかったか分からず、
その答えをやっと理解したように呟いた。
「あぁ、そうかも。うん・・・・そういうとこ、あったかも」
少しずつ、何かが抜けていく。軽くなった足は一歩、たやすく進んだ。
見届けて、藤本はまた歩き出した。
「言いたいこと、いっぱいあったんだ」
「あの子に?」
「ううん。梨華ちゃんに」
振り返らない背中に語りかけるように、ただ自分の中で整理をつけるように、
吉澤はゆっくりと口を開く。
「屋上でさぁ、まぁ・・・遺言みたいなこと、考えたんだ」
「なに?愛の告白でもしたわけ?」
「あ、それは言わせてもらえなかった」
「は?なにそれ?」
- 557 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:55
-
「もちろん、それも言ってみたかったんだけど・・・・
あー、なんかいっそ好きって言えたら死ぬような気がしてきた」
そんな説明で分かるはずもなく、藤本はイラついた顔で前を見ていた。
一人でブツブツ言いながら吉澤は頭を掻き毟る。
伝えられずに死ぬことはないのではないか。言わせてもらえない限り死なないのではないかと、
吉澤は思い返して感じた。そんな妄想を口にすることはなく、ちらりと藤本を確認し、
フッと笑みを零した後、動きを止め、すっと目を伏せた吉澤は、思い出すように話し始めた。
「・・・・聞きたかったんだ。なんで優しくすんのって」
好きだから、なんて都合のいい答えを妄想したわけではない。
ただ、疑問に思った。
動けないわけでなく、動かない吉澤に合わせ、藤本も立ち止まる。
「でも、そんなの本当はどうでもよくて、あたしを見てくれるだけで嬉しくて」
どんな目でもよかった。バカな後輩を見るでも、図々しい居候を見るでも、
ただの変人を見る目でも構わなかった。
「あの子は、あたしみたいだったから恨まれてはないと思うんだけどな」
困った生徒でも、妹みたいにでも、吉澤は彼女を見ていた。
思い出の中の彼女に笑みを返し、顔を上げ藤本に言った。
「あのさ、美貴ちゃんさんにお願いがあるんだけど」
「何?」
「結局なにもなかったでしょ?これで、終わらせてほしい」
- 558 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:55
-
やっぱりな、そう思って、噴き出しそうになるのを堪えて、
清々しいまでの笑顔で藤本は答えた。
「これはゲームだった」
「・・・・へ?」
「でしょ?高校生の遊びに警察が何すんのよ?知らない、通報してきてもブチッてやる」
「美貴・・・・?」
お見通しだ、と藤本は笑って、再び歩き始める。
近づいてきた吉澤の足音が、少し大きく聞こえる。
追い越されないよう、気付かれない程度に歩く速度を速めた。
「言うと思ってた。じゃなきゃ放置して帰らないでしょ?」
「さんきゅ。でもあの子は・・・・望まないだろうね」
「ガキの気持ちになんて構ってらんない。こっちも仕事なの」
敷石に転がる石を、藤本は邪魔そうに蹴り飛ばす。
おもむろに振り返ると、思い出したように、吉澤に言い足した。
「飼い主は自分で説得しなよ?梨華ちゃんが騒いだら、ミキは仕事するしかないから」
「善処します」
空が明るむ。長い夜だったと二人は思う。
「よっちゃんってさぁ、昔から変なとこでモテるよね」
「好きな人には足蹴にされてんだけどね」
ふざけあうように、笑い声が響く。
- 559 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:55
-
「あたし、言っちゃいそうだった」
この場所でしか感じられない言葉を、吉澤は絞りきるように吐き出す。
見上げれば屋上が見える。振り返れば体育館の屋根も見える。
この校舎から逃げ出した吉澤の脳裏に、声が蘇る。
「本当は名前も呼びたくないんだ。あんまり、呼んでやらなかったから」
―――名前呼んで? ―――・・・・ヤダよ
「言えなかったのに、絶対そんなこと言っちゃダメだって、あの頃毎日のように思ってたのに」
―――せんせぇ、好きな人いるんだよね? ―――・・・・うん
「嘘でもいいから言えって?言えるわけねーじゃんか」
笑みが崩れていく。砂塵のようなそれの後に、吉澤の目からは涙が零れた。
「それだけは・・・・言っちゃダメじゃんか・・・・」
思わせぶりなことは、したくなかった。
精一杯の誠意のつもりだった。空っぽなんて、分かってる。
ちっぽけな思いやりは、残酷だったかもしれない。
「乗り越えなきゃならない壁?あたしはそうは思わない」
乗り越えた先に何がある。ただ空虚が待ち構えているだけだ。
その壁の内側で、大切な人を見つける。声が聞ける。触れることができる。
キミが、思わせてくれた。生きている、それだけで、幸せだと。
- 560 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:56
-
「あの子のことを何もなかったみたいに思いたくない」
「そこまで言わないけど・・・」
「でも、うんざりしてるでしょ?」
涙を拭い、唇を噛み締め、吉澤は前を見る。
生きた証を残せない体に生まれたと嘆きながら、
それでも、一度も涙を見せなかった彼女のことを、
―――忘れないでね。
―――うちがここに居て、
―――こうしてて、この時間を・・・
「絶対に、忘れない」
吉澤は、そう決めていた。
「弱いと思うなら思ってていい。でもあたしは変わらない。
乗り越えて笑うことが強さなら、あたしは強くなんてなりたくない」
笑いたければ鈍感になればいい。目を瞑れば、いくらでも虚勢を張れる。
偽りの強さならいらない。
「・・・・って思っちゃうあたしは重症なんだろうね」
この傷は、癒えなくていい。永遠に刻み込んでおきたい。
一生抱えていくモノでいい。強さのせいで、約束を見失いたくなんてない。
話の終わりが門の形で見えてくる。こんな姿は、見せなくていい。
あなたにだけは、知られたくない。十年の想いと共に秘めさせてくれ。
上っていく朝日の中に石川の影を認め、吉澤は眩しそうに目を細めた。
***
- 561 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:56
-
翌日の夕方、石川は藤本に呼び出され、近所のカフェに一人で座っていた。
しばらくして、石川の前に少女が現れた。
藤本に連れられ、昔は石川も着ていた制服に身をつつみ、
なんともいえない懐かしさを纏っていたが、つい最近の記憶が戸惑いを誘う。
藤本が駆け寄ってきて、慌てて浮かべた愛想笑いで迎えた。
「お待たせ。よっちゃんは?」
「置いてきた」
「そっか。ごめんね、急に」
「もーいい。なんかいろいろどうでもよくなってきた。
ママから今日休みにしたとか言われてもう台無し。入社以来頑張ってきた私が台無し」
石川は高熱をだしていることになっている。
我を張って、突き進んできた道に思わぬ泥がついた。
躓いたときは、とりあえず小休止。吉澤に説き伏せられて開き直った結果だ。
「なんかさぁ〜・・・」
「あー、愚痴なら今度で!」
「えぇ?」
「ほら、言いたいことあるんでしょ?」
そう言った藤本に押し出された少女に、石川が初めて視線を向けた。
舞美は石川の目も見ずに、俯き加減でもじもじしている。
「おーい。昨日の威勢はどーしたの?」
からかうように言った藤本を、舞美は恨みがましい目で見た。
- 562 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:56
-
「・・・あなたにだけは謝らなきゃ、と思って」
藤本の前に出て、舞美は改めて石川の顔を見る。唇を噛み締め、意を決してやっと言う。
「すみませんでした。こんな言葉で許してもらえるとは思わないけど、ごめんなさい」
深々と頭を下げた舞美を、石川は無言で遮り、頭を上げさせた。
「舞美ちゃん、だっけ」
「・・・・はい」
「どうぞ、座って。美貴ちゃんも」
大体の事情は、昨夜、待っている間に佐紀から聞いた。
座らせた二人のために飲み物を注文する。
飲みかけのレモンティーをくるくると混ぜ、
一口付けると、舞美に問いかけた。
「舞美ちゃんのお友達は、ひとみちゃんをどう思ってたのかな?」
“来てほしくない”、そう言った吉澤の意思を汲めば、
石川が舞美と話す必要はないと思っていた。
しかし本人が謝りたいと言うならば、真正面から話してみよう。
石川は躊躇う舞美の言葉を待った。やがて、か細い声が返ってくる。
「えりは・・・彼女は、あの人が好きでした」
「えりちゃんっていうの?」
舞美があえて仕舞い込んだ名を石川は手繰り寄せた。
話と現実との距離が縮まる。一瞬唇を噛み締めて、舞美は言った。
- 563 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:56
-
「・・・えりか、です。梅田、えりかっていうんです」
「そう、えりかちゃんね」
舞美の言葉を受けて、いとおしむように石川はその名を呼んだ。
優しげなその瞳に、舞美は初めて気がついた。
「舞美ちゃんはね、私みたい」
「え?」
「あの人はね、良くも悪くも自分の世界で生きてるの」
いったいどれほどの顔を持ち、一番大切な人にはどんな顔を見せているのだろう。
石川が語る“吉澤先生”に、舞美は耳を傾ける。
「昔の私、舞美ちゃんくらいの頃ね、周りばっかり見てた。
誰にも負けたくないとか、上手く行かなかったら誰かのせいだって思ってて」
石川は懐かしむように目を細めていた。
思い出の隣には、あの人がいたのだろうか。
わずかな変化も見逃さぬほどに、注視する。
「あの人は違うの。傷ついて閉じこもるのもそうなんだけど、自分の中で戦うの」
舞美は神妙な顔をして聞いていた。石川にだけは、どんな理由もなかった。
ただ、あの人の想い人だというだけで、巻き込んだ。
「それで・・・・死んじゃうの」
寂しそうに微笑む石川を見て、何故か舞美の胸がちくりと痛んだ。
- 564 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:57
-
「悲しいことがあるとね、どこまでも沈んで、簡単に死んじゃうの」
吉澤の根底にある諦観。厭世観。
「私と美貴ちゃん・・・あ、そこの刑事のお姉さんね。
ひとみちゃんが悲しいと死んじゃうの知ってるんだ」
必死で思い出を語ってくれた藤本の話と重なる。
消えちゃいそうだと、そう言っていた刑事は横で興味なさげに携帯を触っていた。
「だから、あなたくらいの頃、ううん、もっと前から見てたの」
石川は、思い出す。藤本は、改めて言葉にされると恥ずかしいのか、
顔を背けてコーヒーを飲んでいた。真っ直ぐに舞美を見つめ、石川は言葉を続けた。
「生きててほしいから、ちゃんと傍で見てたの」
石川は、また思い出す。消え入りそうな背中を引き戻し、その手を離さなかった。
最後の一瞬まで、離してやるものかと決めていた。
「舞美ちゃんは、ちゃんと――――」
「梨華ちゃん」
最後の言葉は、携帯を閉じた藤本によって遮られた。
目だけのやりとりが短く終わる。意図を汲んだ石川が小さく笑った。
「ダメかな?」
「うん、やめといて」
- 565 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:57
-
しばらく見詰め合った二人の中で決着が着いたらしく、
石川は言葉を飲み込んで改めて舞美を見た。
「私は勝手な大人だから言うんけど・・・私は、えりかちゃんに文句言いたいな」
血が出そうなほどに、唇を噛み締める舞美をじっと見る。
「ごめんね、ひどいよね。ひどい大人でごめんね」
言い返したいだろうに、堪えるこの子は冷静だ。
そう思いながらそっと手を伸ばし、頭を撫でる。
「でもね、なんで死んじゃうの、ひとみちゃんが悲しんでるじゃない、って言いたいの」
それだけではなかった。
「舞美ちゃんだって悲しんでるじゃないのって、言ってやりたいの」
一瞬、舞美の目が見開かれる。
子供らしい表情の変化を見て取り、石川は優しく微笑んだ。
「舞美ちゃんは悲しませないでね」
「私がなにしたって・・・あの人は・・・」
「悲しむよ。そういう人なの」
距離の測れない人だから、きっと舞美のために涙を流す。
また誰にも言えず、一人、どこまでも沈んでいってしまう。
次は、間に合うかどうか分からない。紙一重で掴んだ手を、離したくない。
- 566 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:58
-
「死んじゃダメだよ」
「・・・・あの人が、悲しむからですか」
「違うよ」
キッと目に力を込めた石川に、舞美の背筋が伸びる。
「ひとみちゃんのことも、私のことも、究極的には、えりかちゃんのことも関係ない」
石川は圧倒されそうなほど真剣な目で言う。
「理解しあおうなんて言わない。許すとも、許さないとも、許してとも言わない。
あなたは、死んじゃダメ。それだけは絶対、間違ってる」
射抜くような目をして舞美を見て、しばらくすると石川はふっと笑った。
「だよね?美貴ちゃん」
「そだね」
「うん。じゃあ、これで終わりね」
「はいよ」
あっけに取られて何も言えずに見上げる舞美の頭をもう一度撫で、
石川は伝票を手にすると立ち上がった。軽い調子でコーヒーを飲み干すと、藤本もそれに続いた。
「元気でね。大人になったらまたおいで。また一杯おごってあげるから」
ひらひらと手をはためかせながら舞美に見せた石川の背中はぴんと伸び、
少しだけ、眩しく感じた。
- 567 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:58
-
「あ、ミキ払うよ」
「いいよ。お給料カットされてるんでしょ?夕飯も食べに来ていいからね」
「・・・・申し訳ないです」
会計を済ませて外に出ると、傾きかけていた太陽は沈む寸前だった。
藤本が大きく伸びをして思い出したように訊ねる。
「ってかさぁ・・・・昨日よっちゃんとキスしてたよね?」
「鼻を摘んで口から息吹き込んだら人って死ぬらしいよ」
「・・・・殺人未遂だったって言いたいの?さすがに無理があるんじゃない?」
「いーの」
どこから見ていたのかとも訊かれない。用意してあったような答えは頑なで、
意地を張ったらもう手がつけられない。これ以上話しても何も変わりはしないだろう。
諦めた藤本が小さく笑った。
「さっきさ、あの子に言おうとしてたこと当ててあげようか?」
黙ったまま、石川は自宅の方を見ていた。角を曲がればすぐ見える。
大きなペットはおとなしく待っているだろうか。
「人のせいにしてんじゃねぇ、大事な人ならその手でちゃんと掴んでろ」
「そんな言い方するつもりはなかったけど、ね」
―――ちゃんと見てたの?
本当は藤本も支持したいくらいだったが、吉澤なら言わせないと思ったから止めた。
舞美を責めたら、全てが終わる。少なくとも、舞美の世界は終わってしまう。
形は違っていても、きっと舞美も脆いから。吉澤と同じくらいに、儚く、脆く、それゆえに美しい。
- 568 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:58
-
「でもね、よっちゃんにとっても大事な生徒だったんだと思うよ。だから、
よっちゃんが掴んでてくれればよかったのにってあの子の言い分も、まぁ分からなくもない」
「美貴ちゃん、ひとみちゃんにそんな余裕あると思ってるの?」
「思ってないよ。でもあの子は知らない。先生、大人、頼りがいはあってしかるべき、でしょ?」
成長しなければ分からない。
ましてや常日頃から偉そうにしている教師というものからは、
同じくらいの年頃を経ているのだとは想像がつかない。
どこまでいっても、何歳になっても、人間なのだと考えられない。
演じきれないほどのスーパーヒーローを、押し付けてしまう。
「子供には分からない。それを察してあげないのは、大人気ないと思わない?」
「・・・ちょっと頭に血が上ってた気はするかな」
死ぬなと言いつつ自分で追い詰めていたのでは辻褄が合わない。
石川は素直に認め、藤本に礼を言った。
「止めてくれてありがと。酷いこと言っちゃうとこだった」
「そうそう。せっかく大人ぶってたんだから最後まで貫いてよね」
「あは、無理してたの分かった?」
「あったり前じゃん。何年友達してると思ってんの?」
笑いながら帰っていく石川を見送って、同情はしないつもりだったが、
いつの間にか庇っていた自分に気付き、何をやっているのかと自分に首を傾げた。
置いてこられたというあのバカが乗り移っていたに違いない。
バカバカしいついでに、藤本はもう一仕事終えることにして店に入った。
- 569 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:59
-
「はい、おつかれー、帰ろっか」
陽気な藤本が戻ってきて、舞美は無言で促されるままに立ち上がった。
黒のセダンに乗せられて、しばしの沈黙の後、藤本は尋ねた。
「そーいやさ、なんでよっちゃん刺さなかったの?」
「・・・・手元が、狂っただけです」
「うあ、可愛くないねぇ」
窓の外を眺めたまま、舞美が見向きもせず平易な声で答えた。
納得しただろうかと顔色を窺うが、難しい顔をした舞美からは読めない。
可愛げはないが、嫌いではない。だから、関わりたくないとは思わない。
「君はまだ高校生なんだからさ、お母さんを悲しませちゃダメなの。
分かったら帰ってお母さんに甘えなさい」
「だから、地方公演って言ったじゃないですか。今週はいません」
「そうかな?」
「は?」
言い聞かせるように言う自分が随分年を取ったような気がして、藤本は小さく笑った。
その笑い声に反応して、舞美はちらりと藤本を見る。
どうしたのだと問いかけようとした瞬間、車が止まった。
「家の前まで警察に送られるのイヤでしょ。ここから歩きな」
「・・・・はい」
問いかけは飲み込んで車を降りた舞美は、走り去った藤本の車を見送った。
見えなくなってから角を曲がると、家の前に見覚えのある高級車が止まっているのに気付く。
- 570 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:59
-
「舞美!」
ドレスの上にコートを羽織った母が駆け寄ってきた。
「お母、さん?どうしたの?帰りは来週じゃ・・・・」
「急いで帰ってきたのよ。警察から、電話があって・・・舞美が、舞美がっ」
あの刑事・・・・、と苦々しげに顔を背けた舞美の肩を母が掴む。
「夜中に出歩いて補導されたって!」
「・・・・え?」
予想外の言葉に、舞美は目を見開いて固まった。
すでに必死の形相の母が真相を知ったらどうなるのだろう。
意味ありげに笑っていた刑事に、少しだけ救われた気持ちになる。
「ちゃんと見てなきゃダメだって言われて、身に染みたのよ。ごめんね、舞美」
舞美は傷ついてたのにね、そう言いながら、母は涙を浮かべ舞美を抱きしめた。
全身の力が抜ける。じわじわと、母の温度に何かが溶け出される。
「お母さぁん・・・・うっぐ・・・・ひっく」
初めて涙を流した娘を、母は優しく、強く抱きしめた。
温もりの中で泣くんだ。気が済むまで、泣き続けるんだ。
前にしか進めない。歩んできた道は、母と同じ道。舞美はこの道を行くしかない。
忘れるわけじゃない。受け入れるために、泣くのだ。
洗い流すわけじゃない。深く刻み込むために、泣くのだ。
「うわぁぁ・・・・!」
悲しいよ、えり。寂しいよ、えり。ごめんね、えり。えり、えり・・・・・
――――大好きだったよ、えり
- 571 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 16:59
-
***
- 572 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 17:00
-
「ただいまぁ」
「・・・・おかえり」
ソファに寝転がった吉澤からおざなりな返事が返ってきた。
拗ねているのか、玄関まで出てくることはない。
なんとも中途半端な反抗が可愛すぎて泣けてくる。
「美貴ちゃん、愚痴なら今度聞くとか言って全然聞いてくれないのよ?」
「ふぅん」
藤本に呼び出されて、突然出来た石川の休日に邪魔が入り、
振っていた見えない尻尾を引きちぎられた思いの吉澤は、
つまらなそうに見ていた雑誌のページを捲った。
上着を脱いで、石川は横まで行くと頬を軽く突いてやる。
「ちょっとぉ?何怒ってるの?」
「別に怒ってないよ。置いて行かれたくらい平気だもん」
「置いてったから怒ってるの?いつものことじゃない、引きこもりのくせに」
「さりげに酷くね?棘があるよ、棘が」
ふてくされたまま雑誌から目を離さない吉澤を眺め、
少しだけ迷った後、石川は言った。
「・・・舞美ちゃんに、会ってきたよ」
- 573 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 17:00
-
そっと、教えてやると、吉澤の手が止まった。
予想していたかのようにゆっくりと雑誌を置いて吉澤が体を起こすと、
空いたスペースに石川が腰を下ろした。
「なに、話したの?」
「多分、ひとみちゃんが言いたくても言えなかったこと。代わりに言っといた」
―――死んじゃダメだ。
嵐の夜、あの瞬間にも、言えなかった理由。
吉澤も、同じだったから。ずっと、消えてしまいたいと、
神なんていないと思い知ってしまったあの日まで、生きようとしていなかったから。
生かされるだけのなかで、息も出来ず、ただゆるゆると真綿で絞められるように、
生きてみな?そう言うことは出来たのに、死ぬな、とは言えなかった。
きっかけを掴めずに生きていただけの自分には、死ぬななんて言えなかった。
敵わない、と目を細める。
「そんなに分かってるくせに・・・・一番言って欲しいことは言ってくれないよね」
「何を言ってほしいの?」
吉澤はそっと目を閉じる。
ありがとうは伝えた。きっと、矮小な自分のことなど石川は承知している。
だから、もう。日常に、戻るのだ。気持ちを入れ替え、とっておきの笑顔で言う。
「愛してるぜベイベー、って」
「別に愛してないもん」
「わぁ納得。即答?そうだね、そりゃ言わないよねー・・・・泣いていい?」
「いいけど静かにね。あ、その前にお茶淹れてくれない?」
「・・・・・はい」
律儀にも言われたとおりお茶を淹れ、部屋の片隅で丸くなる吉澤を視界の隅に捉え、
石川は優雅に口の端を持ち上げた。
- 574 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 17:00
-
- 575 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/09(月) 17:01
- これで本編いちおー終わりです。
以下、言い訳短編。
- 576 名前:MIND 投稿日:2009/03/09(月) 17:01
-
MIND −Angel’s last day−
- 577 名前:MIND−Angel’s last day- 投稿日:2009/03/09(月) 17:02
-
センセーへ
もうちょっと生きてみろって言われてたのに、ごめんね。
もっと大事なものは、見つけられそうにないです。
私が何か見つけたって言っても、きっと誰も信じてくれないと思います。
先生以外は、みんな私をかわいそうって言い続けるんだと思います。
誰も悲しませたくないから、終わりにします。今までありがとう。
ちゃんと伝えたかったけど、会ったら決心が鈍っちゃうから、手紙にしました。
突然ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
知ってると思うけど、大好きです。優しくしない先生の優しさが、大好きでした。
本当に、かっこよかったです。ありがとう。さようなら。
P.S. 先生に紹介したい人がいました。今は留学中の幼馴染です。
音楽の才能があって、音楽のために留学しています。
隣のクラスなんだけど、知ってるかな?きっと先生は知らないんだろうな。
うちのおばあちゃんの名前忘れちゃう人だもんね。
三ヵ月後くらいかな?帰ってくると思うので、頑張って、って伝えてください。
舞美の弾くバイオリンが大好きだったって伝えてください。
舞美にも手紙書けばいいじゃんって思ったでしょ?
でも、舞美には未来があるから、邪魔したくないんです。
先生にはないって言ってるわけじゃないよ?
舞美は、私にとって特別なんです。集中してほしい。煩わせたくない。
めんどくさがりの先生に頼むのは悪いんだけど、先生なら、分かってくれるよね。
ずっと応援してるって、伝えてください。おねがいします。
- 578 名前:MIND−Angel’s 投稿日:2009/03/09(月) 17:02
-
「・・・・ふぅ」
何度も書き直すのは性に合わない。一発勝負で書ききった。
でも読み直してみると、舞美に伝えたいことの方が多くて、
ちょっとおかしかった。
やっぱ舞美にも手紙書こうかな。でも、送らないといけないのかな。
置いておけば、ママが渡してくれるかも。あぁ、ダメだ、ダメだ。
うちのせいで舞美が集中できなくなったら大変だ。動揺させたくない。
でも手紙に書いたから、きっと先生が伝えてくれる。
お昼休みに渡してぇ、帰ってから読んでねって言えば、きっとそうしてくれる。
先生って嘘つかないから、約束してもらおう。きっと、伝えてくれる。
あ、そしたら舞美と先生、初対面だ。
これはちょっと見てみたいような気もするけど、
うちはいない方がいい気がするなぁ。
ぼんやりとしながら無意識につけたテレビから、音楽が聞こえた。
- 579 名前:MIND−Angel’s 投稿日:2009/03/09(月) 17:03
-
「あ、舞美だ」
パッヘルベルのカノン。コマーシャルのBGMだった。
パッヘルベルはこれ一曲だけが有名なんだって、教えてくれたのは誰だっけ。
舞美だったかなぁ。うちはもう寝る時間だけど、舞美は何してるだろ。
サマータイムで七時間、だったかな。時差ってよく分かんない。
あ、なんか怒られてたし、明日の準備してるのかな。
うちはパッヘルベルに憧れる。たった一曲でも、確かな生きた証を残した彼に、憧れる。
うちの生きた証って、残らないんだ。この先何年生きたって、残せない。
パッヘルベルと同じ方法でなら、残せるかな。でも、特別な才能もない。うちは舞美とは違う。
どこになら残せるだろう。やっぱ、心の中かなぁ。そう思って、浮かんだのは三人。
まず先生。かっこいい。綺麗。優しい。本当に、憧れる。
舞美にも、憧れる。一つのことに打ち込む舞美はすごく綺麗。
頑張ってるんだろうな。明日何があるんだろ。学校って言ってたから、
きっと明日も演奏するんだろうな。
あとは、ママ。
ママはぁ、うちを見るたびに悲しそう。夜になると、泣きそうな顔をしてる。
一度だけ、酔って言ってた。ちゃんと生んであげられなかったって。
ママ、うちの方こそ、ごめんね。欠陥品で、ごめんね。悲しませて、ごめん。
- 580 名前:MIND−Angel’s 投稿日:2009/03/09(月) 17:03
-
***
- 581 名前:MIND−Angel’s 投稿日:2009/03/09(月) 17:03
-
四時間目が終わって、うちは屋上の扉をめがけて教室を飛び出す。
終わった、終わった。これから少し、先生との時間。
うちが過ごす、最後の時間。
校内放送が流れた。午後から休校。雨は激しさを増していく。
授業がないなら、今日は先生といっぱいいられる。
ドキドキしながら、屋上に続く階段の踊り場で待っていた。
しかし一時になっても、先生は来なかった。
「あ・・・・そっか」
授業ないから、昼休みもないんだ。なぁんだ。渡せないじゃん。この手紙。
気付いたら、力が抜けて、その場にへたり込んだ。
揃えた靴の上に、なんて、この雨じゃどうなるか。
考えるのが億劫で、ここはさっぱり処分することにした。
「あれぇ?」
先生のライターは、上手く扱えない。
せっかく舞美に教えてもらったのにな。
ま、いいや。道具なんて使えればいいんだから。
- 582 名前:MIND−Angel’s 投稿日:2009/03/09(月) 17:03
-
こんなことを思ってたら、舞美に怒られる。
楽器の全てを引き出す舞美は、使えればいいなんて思ったことないだろう。
舞美の音は、すごく綺麗。どこまでも心地よく響く。
これでも音楽はよく聞いてるから、耳はいいんだ。
舞美は知らないポップミュージックだけど、まぁ、音楽には違いない。
あ、これもきっと怒られる。
うちに合わせてるつもりだろうけど、あんまり興味なさそうだから。
舞美の音楽と一緒にしたら、きっと拗ねちゃう。
一生懸命興味ある振りしてたけど、ちゃんと分かってたんだよ?
「ふふっ」
ひっそりと、笑みを漏らした。
もう悲しまなくていいよ。
パパも、ママも、おばあちゃんも、舞美も。
うちを見て、言葉を詰まらせなくていいんだよ。
悲しませたくないんだよ。
「・・・・ばいばーい」
うちは不恰好に、両手で手紙に火をつけた。
- 583 名前:MIND−Angel’s 投稿日:2009/03/09(月) 17:04
-
それからずっと座り込んでいたうちは、誰かが来るのを期待してたのか。
決心が着いたときには、すでに暗くなっていた。
雨が激しくなっていく。稲光が空を走る。
うちは扉を開けて、屋上に立つ。
せんせぇと一緒に座ってたベンチ、ぐっしょりと濡れて、寂しげ。
うちもぐっしょり。今出てきたばかりなのに、警報が出るというのは伊達じゃない。
体を濡らすこの雨は、きっと空の涙だろう。
舞美は、泣いてくれるかな。先生は、大丈夫かな。
ママ、許してね。
一人きりで、フェンスを越える。
いよいよという時を迎えて、頭に浮かんだママは本当に悲しそうな目でうちを見ていて、
舞美も、悲しそうにうちを見ていた。大丈夫、もう悲しまなくていいよ。
あなたの音楽は、いつでも鮮明に思い出せる。今も心でカノンが流れる。
先生の声が好き。同じくらい、舞美の音楽が好き。あなたのことも、大好き。
だから悲しまないで。あなたの優しさで、火傷してしまった醜いうちを許して。
- 584 名前:MIND−Angel’s 投稿日:2009/03/09(月) 17:04
-
真っ暗な街を眺めていたら、軽快なメロディが携帯の着信を告げた。
最新のヒット曲は、きっと舞美知らないんだろうな。
ぼんやりしながら耳に当てると、柔らかなセンセーの声がした。
何かを言いかけた先生は、いつもと違うことを瞬時に悟り、声を低くして訊ねた。
『・・・・今、どこにいるの?』
先生って、ホントいいよね。
小さなこと一つ一つで、本当にそう思う。
「屋上」
沈黙、それだけで全部分かったんだなって、思った。
そんで、うちのために何を言おうか考えてくれてるんだろうなって感じた。
「せんせぇって、映画のヒーローみたい」
後に続く沈黙も、嬉しかった。受け止めてくれてるって実感した。
からかうように話すうちの言葉に一々答えてくれて、
『・・・・今、学校にいるから。待ってて、すぐに行くから』
甘えさせてくれる。でも、だから、
「来ないで」
- 585 名前:MIND−Angel’s 投稿日:2009/03/09(月) 17:04
-
もう、ずるずると悲しませたくない。
終わらせたい。
消えてしまいたい。
でも、あなたの姿を見たら、また繰り返すだけだから。
名前呼んで、そう言っても、先生の返事はなかった。
荒くなる息遣いがかすかに聞こえる。
いい加減な言葉より、黙り込む真面目なあなたが好きだった。
ふわふわと漂うようで、ひらりひらりとかわすようで、
なのに、真っ直ぐに受け止めてくれているあなたが、大好きだった。
「ダメかぁ・・・センセー、一途だもんね」
最期にあなたと話せてよかった。
手紙を渡せなかったのは、きっと、この時間の代わりだね。
「何度も何度も、助けてくれてありがとね」
ちゃんと、自分で言えた。そう思ったら、ホッとした。
- 586 名前:MIND−Angel’s 投稿日:2009/03/09(月) 17:05
-
そういえば先生も、泣いてくれたことがあった。
それは、欠陥品って言ったうちを、みんなと同じように哀れんで?
・・・・違うよね。だって、先生、うちのことなんて見てなかった。
クールビューティーを体現したあなたが、子供のように小さくなって泣いたのは、
きっと、うちと同じ場所を見ていた。神様を、責めていた。
分かるよ、悲しいんだね。先生も、悲しいんだよね。
先生の涙だけは、辛くなかったよ。
今、空に、風に、涙を流す世界と一つに、
肉体は魂の器に過ぎない。壊れた体に別れを告げる。
誰にも言わなかった。恨み言だけは口にすまいと決めていた。
この手を広げ、降りしきる雨と共に空を舞う。
「・・・・・バイバイ」
あなたが辛そうに握っていたライターを持って、
あなたの代わりに届けよう。
神に願いを届けよう。
愛した人に、どうか救いを―――――アーメン
―――Would you mind if I die?
If I die, would you forgive me?
-END-
- 587 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/09(月) 17:05
-
- 588 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/10(火) 01:19
- 完結お疲れ様です。
素敵な作品をありがとうございました。
- 589 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/10(火) 01:40
- ありがとうございました。
- 590 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/10(火) 03:52
- 本当にありがとうございました。
やじうめいしよしみき、最高でした。
- 591 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/10(火) 04:15
- 素晴らしい小説をどうもありがとうございました
次回作期待してます
- 592 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/11(水) 06:15
- 完結お疲れ様です。
この小説の世界観がとても好きでした。
素敵な小説をありがとうございました。
- 593 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/11(水) 22:20
- だめだ、涙が止まらない。
救われて良かった。本当に救われたか救われるのかなんて分からないけど、良かった。
お疲れさまでした。ありがとう。
- 594 名前:名無し飼育 投稿日:2009/03/11(水) 23:51
- 泣いちゃいました!
完結お疲れ様です
最高の作品をありがとうございました
- 595 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/12(木) 00:02
- >>594
sageくらい覚えようね
- 596 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/12(木) 20:10
- 一応落としておくね
- 597 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/12(木) 23:29
-
レスを下さった皆様、
こんな話にお付き合いいただいて
ありがとうございました。
いくつかお礼だけで成立しない感じのレス頂きましたので、
気になった分だけ、今さらながら返させていただきます。
>ベリキュー勉強中の方
申し訳ないのですが、ぶっちゃけ自分も詳しくないです。調べながら書きました。
結果、やじうめにハマりました。名作紹介してください。
>他に何書いてんだという件
こちらttp://m-seek.net/test/read.cgi/dream/1192600405/ですね。
あまりにも雰囲気が違うので黙秘させていただきました。
期待しない方がいいです。マジで別物です。涙どころか半笑いで読むようなもんです。
>実写、映画
こちらもいくつか頂きました。光栄です。恐れ多いです。
ですが、個人的には小説実写化なんて贅沢は申しません。
ただ休日にお二人が一緒に歩いてるだけの映像がニ時間見たいです。
しょうもない会話とかだけでいいです。どうにかなりませんかね?
>次回
この設定で続きのような別のお話書こうかなとは思ってますが、
いつになるかは未定です。
というわけで、ありがとうございました。
- 598 名前:名無し飼育さん 投稿日:2009/03/13(金) 00:18
- 完結お疲れ様でした。
>>579の下2行と同じことを思っていたことがあるので
泣き疲れるくらい泣きながら読ませてもらいました。
無事に終わってよかったけど終わってしまって寂しいです。
この設定の続きのような別のお話を楽しみにしています。
それにしてもあの作品の作者さんだったとは・・・
そちらの作品もめちゃくちゃ楽しみにして読んでいましたYO!
- 599 名前:名無し飼育さん 投稿日:2009/03/13(金) 01:21
- すごい!あの作品の作者様だったとは!
衝撃です。好きです。付き合って下さい。
最後は悪質な嘘ですけれど、本当に尊敬します。
「ただ休日にお二人が一緒に歩いてるだけの映像がニ時間見たいです。」
↑
おっと俺の脳内を覗くのはそこまでだ。
お疲れさまでした。次回作もまったり応援します。
- 600 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/14(土) 19:02
- こんなに色の違う作品を書けるなんて凄いです。
なんて書いてプレッシャーになったらすみません。
次のお話も楽しみにしてます。
- 601 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/14(土) 20:32
- 作品を読んで脳内で石川と吉澤、それに藤本らが意思を持って鮮明に動く。
こういう感覚を覚えるのは過去に数作品経験があったけれど、圧倒的でした。
作者さんありがとう。
- 602 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/06(土) 14:02
- また読み返して泣いちゃったよ
- 603 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/25(金) 22:36
- 今ごろですが、作品完読しました。コミカルからシリアス、息詰まるスリル…最後には切なく甘い余韻が残りました。硝子の少女たちと『かつての』少女たち。その対比が素晴らしかった。それぞれキャラ良かったけど、私はやっぱり『天才的』な吉澤先生、大好き!
- 604 名前:名無飼育さん 投稿日:2013/11/15(金) 20:22
- 今更ながらにですが面白かったです
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