ラプソディ・イン・ブルー
- 1 名前:Z 投稿日:2008/07/29(火) 02:58
 
-  ベリキュー+αで℃-uteメイン。 
 音楽物。 
 まったり更新ですがよろしければどうぞ。  
- 2 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2008/07/29(火) 03:00
 
-   
  
  
 『 rain drop 』 
  
  
  
   
- 3 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:04
 
-  雨の日は緑の匂いが濃くなる気がする。 
 窓を閉め切ったレッスン室の中、空気を鼻から吸い込む。 
 肺の中に思いっきり空気を溜め込むと、数時間前に嗅いだ緑の匂いが鼻の奥で蘇る気がした。 
  
 鈴木愛理はレッスン中であることを忘れて、朝から降っている雨と緑について考えていた。 
 その間も音楽は途切れない。 
 楽譜は頭の中に入っている。 
 指はそれを自動再生していく。 
 前期実技テストまで一ヶ月もない。 
 余計なことを考えている暇はないはずなのに、愛理の意識は窓の外を漂ったままだった。 
  
 七月に入っても梅雨明けという言葉がニュースで告げられることはなく、しとしとと降り続ける雨は愛理を憂鬱にさせていた。 
 いつもよりも透明度を増す緑の匂いは好きだが、じめっとした空気はどうも好きになれない。 
 身体にまとわりつく湿った空気が腕を重くする。 
 そして、鍵盤を叩く指を錆び付かせていく。 
 ピアノから聞こえてくる音が鈍くなるにつれ、緑の匂いが強くなる。 
 匂いが身体の奥へ向かっていく。 
 楽譜と実際に鳴っている音楽が離れていくのがわかる。 
  
   
- 4 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:06
 
-  防音が効いているレッスン室では、窓の外を濡らしていく雨音は聞こえない。 
 それなのにピアノが奏でる音と聞こえるはずのない雨音が混じり合って聞こえて、愛理には正しい音がどこにあるのかわからなかった。 
  
 「鈴木、集中!」 
  
 緑の匂いと聞こえるはずがないのに聞こえてくる雨音。 
 そこに先生の棘のある声が割り込んでくる。 
  
 先生から鈴木と呼ばれて、愛理は肩を震わせた。 
 びくりと震えた肩は手元を狂わせ、本来指を置くはずだった鍵盤とは違う鍵盤を叩いてしまう。 
 しまった、と思った瞬間、梅雨の湿気で重くなった長い髪がばさりと揺れる。 
 明らかなミスに愛理は「はあ」とため息を一ついた。 
 それと同時に、隣にいた愛理のピアノ担当教師である保田圭も大きく息を吐き出した。 
  
 「ピアノを弾いてる時はピアノに集中する!他のことを考えてたら、すぐわかるんだから。気持ちがここにないなら、何度弾いても同じ。やる気がないなら、今日のレッスンは終わりにするよ?」 
  
   
- 5 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:10
 
-  圭が前髪をかき上げてから、ぽんっと愛理の肩を叩いた。 
 愛理は椅子に座ったまま圭を見上げる。 
 圭の後ろで一つに縛っている髪が重そうに見えた。 
 髪から視線を少し動かすと、心の中まで覗かれてしまいそうな圭の大きな目と愛理の目が合う。 
  
 愛理のピアノ担当教師が決まり、初めて圭を間近で見ることになった時、愛理は圭の吊り目がちな目が少し怖いと思った。 
 けれど、実際に習ってみるとそう怖いことはなかった。 
 怖いと言うよりは、穏やかで優しい。 
  
 先輩達がケメちゃんと呼んでいる怖い先生。 
 そんなイメージはすぐに払拭された。 
 ただ、どうしてケメちゃんと呼ばれているかは未だにわからない。 
 先輩達に聞いても誰もケメちゃんの由来は知らず、圭が何故ケメちゃんと呼ばれているのかは謎のままだった。 
  
   
- 6 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:12
 
-  「鈴木?やる気あるの?実技テストまで時間ないんだよ、わかってる?」 
  
 返事をしない愛理に圭が焦れたように眉根を寄せて、難しい顔で言った。 
 そうだ、前期の実技テストまで二週間もない。 
 レッスンの時間は終わりに近づいていたが、早めに切り上げられてしまうのは困る。 
  
 「すみませんでした。続けさせて下さい」 
 「今度は真面目に出来る?」 
 「やります」 
  
 愛理が起ち上がって頭を下げると、空色のチェックのスカートが揺れた。 
 頭を下げる瞬間、雨に濡れた窓の外が見えてそちらに気を取られそうになったが、目を閉じることによって音楽以外のことを意識から切り離す。 
  
 「じゃあ、ここからもう一度」 
  
 圭が楽譜を指さした。 
 愛理は指示された場所からピアノを弾き始める。 
 窓の外で降る雨に応えるかのように、愛理の弾くショパンの『雨だれ』がレッスン室に鳴り響いた。 
  
  
  
   
- 7 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:16
 
-   
 レッスンは無事、とは言えないがなんとか終わり、愛理はぴかぴかに磨かれた廊下を歩いて教室へと向かう。 
 授業は圭のレッスンが最後だったが、まだホームルームが残っている。 
 愛理は渡り廊下を歩いて、2-Aと書かれた教室へ入った。 
  
 愛理の通う学校は地元でも珍しい中高一貫教育の私立だ。 
 中等部、高等部は同じ敷地内にあり、どちらにも普通科と音楽科がある。 
 高等部にはスポーツ科や特進科など中等部とはまた違った科があって、高校からこの学校へ入学してくる生徒もいるが、愛理には関係のないことだった。 
 音楽科に所属している愛理はこのままこの学校の高等部へ進むつもりだったし、進む先は音楽科以外になかった。 
 それに現在、二年生の愛理にとって進学はまだまだ先のことに思えた。 
 だが、進学はまだ先とはいえ、前期実技テストをおろそかにするわけにはいかない。 
 実技テストは前期と後期一回ずつ。 
 計二回しかないテストなのだから、出来れば失敗したくないと愛理は思う。 
  
   
- 8 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:19
 
-  教室に入って席に着くとすぐに愛理は頭の中から『雨だれ』の楽譜を引っ張り出して、机を鍵盤に見立てて叩いてみる。 
 指先でトントンと『雨だれ』のリズムを刻んでいると、担任である松浦亜弥がやってきて、教壇へ上がるなり連絡事項を喋り始めた。 
 愛理は慌てて指を止める。 
 しかし、周りのことなど気にせず手早く連絡事項を伝えると、亜弥はやってきた時と同じようにさっと教室から出て行ってしまう。 
  
 亜弥のさっぱりとしたホームルームは愛理のクラスの特徴の一つだ。 
 手早いホームルームは、テスト前に特に有り難く感じる。 
 愛理は鞄を掴むとすぐに教室を飛び出す。 
 向かう先はレッスン室。 
 今日の失敗分を早く取り戻したかった。 
  
 廊下を先生に見つからないように駆け抜ける。 
 レッスン室の扉を開け、鞄を置く。 
 窓の外を見ると、景色は相変わらず濡れていた。 
 中庭にある大きな木の葉が雨に濡れて、いつもよりも澄んだ緑色に見える。 
  
   
- 9 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:21
 
-  愛理は椅子を引いて、ピアノの蓋を開けた。 
 人差し指で鍵盤を押してみる。 
 緑の葉とは違う少しくすんだ音が聞こえた。 
 鳴らしたい音とは違う音を追い出すように頭を振ってから、愛理は椅子へ腰掛けて楽譜を広げる。 
 そして課題曲を弾き始めた。 
  
 前期実技テスト、愛理の課題曲になっているのは『ショパン プレリュードop.28-15』だ。 
 通称は『雨だれ』。 
 けれど、『雨だれ』というのはショパン自身が付けたものではない。 
 本当は前奏曲作品28第15番変二長調という味気ない名前だ。 
 綺麗なメロディのこの曲にはそんな味気ない名前より『雨だれ』の方がよく似合うと愛理は思う。 
 そして、今が梅雨じゃなければこの曲をもっと楽しく弾けるのにとも思った。 
  
 やはり梅雨は憂鬱だ。 
 『雨だれ』というタイトルによく似合っているとも言える季節なのだが、曲中の暗く重い部分が梅雨の湿った空気をさらに重くするように感じる。 
 ぐずついた天気が続く季節に弾くなら、もっとすっきりするような曲を弾きたいと思う。 
  
   
- 10 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:24
 
-  そもそも、雨の日は音がこもるような気がして気分が晴れない。 
 今もピアノから聞こえてくる音が、外の鮮やかな緑とは対照的にどこか濁ったような音に聞こえる。 
 梅雨の空気と同じようなじめじめじとじととしたものが胸の中に溜まり、音を覆っていく。 
  
 甘く感じられるメロディから短調の薄暗い雰囲気のメロディへ。 
 気分が乗らないまま、愛理が苦手とする部分へと曲は進んでいく。 
  
 この暗い部分が梅雨のじめっとした気分をさらに落ち込ませるんだよね。 
  
 そんなことを思いながら手を動かす。 
 ピアノからはイメージとかけ離れた音が鳴っている。 
 頭の中に圭の「集中」という声が聞こえる。 
 けれど、とても集中出来そうになかった。 
  
 愛理は手を止めて窓の外を見る。 
 いくつもの水滴が付いた窓の向こうには梅雨らしい風景が広がっていた。 
 空を覆う雲。 
 濡れた緑。 
 水分を含んだ空気。 
 目をこらすと雨の一粒一粒が見えてきそうな気がした。 
  
   
- 11 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:26
 
-  鍵盤に指を置いたまま愛理は目を閉じる。 
 耳を澄ますと聞こえるはずのない雨音が聞こえてくる。 
 息を吸い込んで緑の匂いを身体の中に再現させる。 
 愛理は窓の外の風景を思い出すと、その中から緑の木を切り出した。 
  
 ぽたん。 
  
 想像の中の緑の葉から滴が落ちる。 
 一滴。 
 もう一滴。 
 それに合わせて鍵盤を叩く。 
 数分前よりも澄んだ音が聞こえてくる。 
  
 ぽたんぽたんと落ち続ける滴に合わせて鍵盤を叩いて音を鳴らしていく。 
 防音の効いたレッスン室から音が外へと漏れ出す。 
 葉の上に落ちた滴が葉脈に沿って走り抜けていく様子が想像出来る。 
 目を閉じている愛理には、実際には見ることの出来ない細かな動きを感じ取ることが出来た。 
  
 葉脈を走り抜けた水の玉は地上を目指す。 
 重力に従って下へ下へと落ちていく。 
 滴は下へ向かう間に色々な音を吸い取っていく。 
 外を歩く生徒の足音や声、レッスン室から漏れた音。 
 それらを吸い取りながら下へ落ちた水は土やコンクリートに吸われて見えなくなる。 
  
   
- 12 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:29
 
-  深呼吸をしてから、愛理は目を開く。 
 先程よりも落ち着いた気持ちで、ゆっくりと雨だれを弾き始める。 
 レッスン室に音が溢れ出す。 
  
 相変わらず音は雨に吸い取られていた。 
 レッスン室から外へと飛び出した音を吸った雨が地面に落ちて地中へと潜る。 
 雨に包まれた音は地面の中をミミズのように這い回りやがて木の根に吸われ、根から吸い上げられた音は緑の葉を通して新しい音楽を奏でる。 
 雨だれが本当の雨だれを響かせ始める。 
 愛理にしか聞こえない音がレッスン室の壁を越え耳に飛び込む。 
  
 雨音と緑の葉が奏でる音楽。 
 防音の効いたレッスン室から少しだけ漏れた音が雨と一体化し、愛理へと戻ってくる。 
 愛理が過去に紡ぎ出した音を緑の葉が奏でる。 
 少しうるさいぐらいに聞こえてくる音に負けないように愛理は鍵盤を叩いた。 
  
 初めは不協和音に近い音がしていた。 
 けれど、愛理のピアノと外にある音が徐々に近寄り一つに近くなる。 
 実技テストのことなど忘れて、愛理は外の音にピアノの音を合わせていく。 
 もう少し。 
 あと少し。 
 雨だれが本当の雨だれになる時がすぐそこまで来ていた。 
 けれど、耳を澄ませた愛理に不快な音が飛び込んでくる。 
  
   
- 13 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:31
 
-  ガタンッ。 
  
 レッスン室の入り口から聞こえた低いひび割れた音。 
 その音に愛理が振り向くと、閉められていたはずの扉は開いていて、そこには見慣れた人物が立っていた。 
  
 「栞菜」 
 「……ごめん。静かに入ろうとしたんだけど」 
  
 ばつの悪そうな顔をして、有原栞菜が愛理を見ながら両手をあわせた。 
 無断でレッスン室に入り込んできた栞菜は愛理の一つ上の学年で、弦楽器コースに所属しヴァイオリンを学んでいる。 
  
 白いブラウスに紺色のネクタイ、上から白のベストを着ているところまでは愛理と一緒だ。 
 だが、ネクタイをゆるめ、ブラウスのボタンを上から二つ外しているところが愛理とは違った。 
 愛理はブラウスのボタンを一番上まで留め、ネクタイをきっちりと締めている。 
  
   
- 14 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:33
 
-  「雨だれ、聞きたくてさ。いい?聞いてても」 
 「嫌だって言ったらどうします?有原先輩」 
 「うわっ、嫌味だなー。先輩とか」 
 「だって、先輩じゃないですか」 
  
 愛理は梅雨に相応しいじとっとした目つきで栞菜を睨む。 
 けれど、栞菜は動じることなくにやりと笑った。 
  
 「今さら先輩とかさ。……聞いててもいいでしょ?」 
 「やだって言っても帰らないくせに」 
  
 愛理は入学してすぐに栞菜と親しくなったのだが、その時から栞菜は変わらない。 
 人懐っこくて強引だ。 
 言葉を口にした時にはそれはもう決定事項で、でも、それは嫌な感じがしない。 
  
 「ってことは、聞いててもいいってことだよね?」 
 「いいけど。……もうすぐテストだし、邪魔したらやだよ」 
 「しない、しない」 
 「って、栞菜は大丈夫なの?」 
 「なにが?」 
 「なにがって、テストが」 
 「あー、あたしは大丈夫、大丈夫。もう完璧!」 
 「ほんとー?」 
 「ほんと、ほんと。だから、愛理の雨だれ聞かせてよ」 
  
   
- 15 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:35
 
-  レッスン室の入り口から靴底をぺたぺたと鳴らしながら歩いてきた栞菜が、けらけらと軽く笑って窓枠に寄りかかる。 
 窓の外から聞こえていた緑が紡ぎ出す音楽が途切れた。 
  
 雨に濡れる窓の外と栞菜を見てから、愛理は鍵盤に指を置いた。 
 栞菜に聞かせるというよりは自分自身の為に『雨だれ』を弾く。 
 途中で栞菜が曲にあわせて鼻歌を歌い出したが、気にはならなかった。 
 むしろ、栞菜の声を聞くと落ち着く。 
 柔らかな声が『雨だれ』の重苦しい雰囲気を持つ部分を変えてくれるように思える。 
  
 「雨だれって感じだよね」 
  
 曲を弾き終わるとすぐに栞菜が言った。 
 当たり前とも言える感想に愛理は吹き出す。 
  
 「だって、雨だれって曲だもん」 
 「そうだけど。でも、愛理が弾くと、もっと雨だれって感じがするんだよ」 
 「なにそれ?」 
 「外の雨と音が重なる気がする」 
  
 窓ガラスを叩きながら栞菜が微笑んだ。 
  
   
- 16 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:37
 
-  「それでさ、雨音と一緒になって音楽が溶けちゃう感じ」 
  
 窓ガラスがコツコツと音を鳴らし、ガラスに張り付いた水滴が揺れる。 
  
 「実際は防音室だし、雨音なんて聞こえないけどね」 
  
 栞菜が耳を窓ガラスに付けて、窓の外の音を聞こうとする。 
 短い髪がガラスに張り付く。 
 耳を澄ませて外の音を聞こうとする栞菜の目は閉じられていて、表情がくるくる変わる普段の栞菜に比べると大人びて見えた。 
  
 「溶けた音は、あの木からからまた聞こえてくるって知ってる?」 
 「木から?」 
 「そう。雨粒が音を吸って、その雨粒が土の上に落ちて木の根っこに吸われて……」 
  
 愛理は口にしてから、馬鹿馬鹿しい妄想話を栞菜に話していると気がついた。 
 けれど、今さら話したことをなかったことには出来ない。 
 それでも、続きを言うべきか考えて言葉が途切れる。 
 栞菜に笑われる、愛理はそう思った。 
  
   
- 17 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:38
 
-  栞菜が目を開く。 
 窓枠から身体を離し、好奇心に満ちた目で愛理を見る。 
 先程の大人びた顔から一転して、随分と子供っぽい表情に変わった。 
 次の瞬間、きっと栞菜が笑い出す。 
 そんな予感がした。 
  
 「葉っぱから聞こえてくる?」 
  
 中庭に植えられている木を指さして栞菜が言った。 
 予想は簡単に裏切られる。 
 栞菜の言葉は愛理が考えていたこととまったく同じで、驚きながらも愛理は栞菜の声に小さく頷いた。 
  
 「……笑わないの?」 
  
 愛理は小さな声で尋ねてみる。 
  
 「笑わないよ。愛理が言うならほんとでしょ」 
  
   
- 18 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:40
 
-  窓の外から愛理へ視線を移すと、栞菜が愛理の隣へとやってくる。 
 そして、鍵盤を一つ叩いた。 
 雨粒が葉に落ちた時のような音をピアノが鳴らした。 
  
 梅雨は憂鬱だ。 
 けれど、栞菜が隣にいてくれるだけで気分が少し晴れるような気がした。 
 梅雨明けはきっともうすぐだ。 
  
 「栞菜が側にいてくれたら、実技テスト上手くいきそうな気がするんだけどなあ」 
 「ケメちゃんが怒らないなら、いくらでも側にいてあげるんだけどね」 
 「絶対怒られるね」 
 「うん。目、こんな風につり上げて怒る。絶対に」 
  
   
- 19 名前:『 rain drop 』 投稿日:2008/07/29(火) 03:42
 
-  目の両端を指でつり上げて、栞菜が圭の真似をした。 
 さらに「有原、教室に戻りなさい!」などと圭の声色に似せて栞菜が怒鳴るものだから、愛理は思わず笑い出す。 
  
 前期の実技テストについてはまだ自信がなかった。 
 『雨だれ』を弾きこなしているとは言えない。 
 だが、栞菜の言葉が愛理の心を軽くする。 
 同じ空気を感じ、イメージを共有してくれる人が側で音楽を聴いてくれるのは嬉しい。 
 栞菜のおかげで梅雨が明けても明けなくても、今より穏やかな気分で『雨だれ』を弾けそうだった。 
  
 愛理は栞菜が叩いた鍵盤を一度鳴らしてから、『雨だれ』を弾き始める。 
 栞菜がピアノに寄りかかって目を閉じた。 
 今日、一番柔らかな音を愛理の指先が奏で始めた。 
  
  
  
  
   
- 20 名前:Z 投稿日:2008/07/29(火) 03:43
 
-   
   
- 21 名前:Z 投稿日:2008/07/29(火) 03:43
 
-   
   
- 22 名前:Z 投稿日:2008/07/29(火) 03:44
 
-  本日の更新終了です。 
 今回はプロローグ的な感じで。 
 今後、のんびりまったり更新していく予定です。  
- 23 名前:にっき 投稿日:2008/07/29(火) 08:40
 
-  この雰囲気大好きです 
 まったりと続くのを楽しみにしています!  
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/30(水) 00:12
 
-  あいかん!!!! 
 ふんわりしたきれいなお話で、とてもよかったです 
 のんびりまったりと続きを楽しみにしています。  
- 25 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2008/08/21(木) 06:10
 
-   
  
  
 コンチェルト − 1 − 
  
  
  
   
- 26 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:13
 
-  実技テストの結果は可もなく不可もなし。 
 大喜びするような結果にはならなかったが、泣きたくなるような結果でもなかった。 
 栞菜が側にいてくれたらもう少し良い結果になったのかもしれないと思ったが、そんなことが出来るわけもないのだから、妥当な結果と言えるのかもしれない。 
 小さなミスが重ならなければもう少し上を狙えたのではないかと思う。 
 上を見ればきりがないが、ミスをしたことを悔やまずにはいられない。 
 『雨だれ』を弾いていた頃の気分がいつまでも抜けないまま、愛理は夏休み前のすっきりとした青空を教室の窓から眺めた。 
  
 雲一つない空は爽やかだ。 
 だが、太陽を遮る雲がないおかげで、夏の日差しが教室の中に入り込んできて暑い。 
 その上、蝉がミンミンとうるさく鳴いていて暑さを倍増させているような気がする。 
 途切れることのない蝉の声と担任の亜弥の声が混じり合う。 
 蝉の鳴き声と一緒に、「夏休みが近いからといって浮かれるな」と今月に入ってから何度も聞いた台詞を聞く。 
 愛理は聞き慣れた台詞を聞き飽きた蝉の声と一緒に聞き流す。 
  
   
- 27 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:17
 
-  実技テストも終わり、後は夏休みを待つだけ。 
 浮かれるなと言われてもそれは無理な相談だ。 
 テストの結果が良くても悪くても、それなりでも、等しく夏休みは待ち遠しい。 
 自然と教室が浮ついた空気に支配される。 
 そして、長ければ長い程良い夏休みと違って、ホームルームは早く終わって欲しい。 
 早く帰りたいとクラスメイト全員の顔に書いてあるように見える。 
 それなのに珍しく長々と亜弥が喋って、教室内は浮ついた空気だけでなく、だらけた雰囲気になっていた。 
  
 「あんたたち、そんなだらだらした顔してると……」 
  
 亜弥が教室内を見回して言った。 
  
 「先生、もう30分ぐらいしゃべり続けるよ?」 
  
 教室内から「ええー!」と非難の声が上がる。 
 亜弥ならやりかねない。 
 クラスメイトの誰もがそう思ったように、愛理も嫌な予感がして思わず机に突っ伏した。 
  
   
- 28 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:21
 
-  「あんたたちが嫌なように、あたしももう30分も話すの嫌だからさっさっと終わらせるけど……。とにかく、夏休みまであと一週間もないからといってだらけないように。しっかり最後まで授業を受けるんだよ。わかった?……そして、鈴木は顔をあげる!」 
  
 バンッと教卓を叩く音が聞こえて、愛理は慌てて顔を上げる。 
 亜弥と目があったがそれ以上何か言われることはなく、ホームルームはすぐに終わった。 
  
 鞄を机の上に置いて、愛理は蝉の声を聞く。 
 実技テスト前ならば、ホームルームが終わると同時にレッスン室へ向かっていた。 
 けれど、テストが終わった今、レッスン室に駆け出すような気持ちになれない。 
  
 机の間をすり抜けていくクラスメイト達に挨拶を返しながら、愛理はこれからどうしようかと考える。 
 愛理の中で練習をする以外の答えはないのだが、無駄な抵抗をしてみる。 
 教室内をぐるりと見渡す。 
 何もすることがなければ寮に戻ることも選択肢の一つに入る。 
 音楽科の生徒のほとんどは寮で生活していた。 
 県外からこの学校へ入学した愛理も当然、敷地内にある寮から学校へ通っている。 
  
   
- 29 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:23
 
-  何か他にしたいことがあれば、練習以外のことをしてみてもいい。 
 そう思うのだが、何も思いつきそうになかった。 
 寮へ戻るか、練習するか。 
 愛理には初めから決まっている答えを選ぶしかなさそうだった。 
  
 のろのろと机の上に置いた鞄を手に取る。 
 鞄がやけに重く感じる。 
 ガタガタと椅子を鳴らして起ち上がると、教室の出入り口から聞き慣れた声が聞こえてきた。 
  
 「愛理、迎えにきたよー!」 
  
 満面の笑みで栞菜が教室へ入ってくる。 
  
 「迎えって、なんの?」 
  
 愛理は栞菜に迎えを頼んだ覚えなどない。 
 栞菜自身も頼まれた覚えなどないだろうと愛理は思う。 
 栞菜が適当なのは今に始まったことではないが、一応、何の為に迎えに来たのか尋ねてみた。 
  
   
- 30 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:24
 
-  「どうせレッスン室行くんでしょ?」 
  
 得意げな顔をした栞菜が愛理の机の上に腰をかけた。 
  
 「行くけど。行くけどさあ、迎えに来てなんて言ってないじゃん」 
 「来たほうがいいかなあ、と思ったから来たのに」 
 「来なくても一人で行けるもん」 
 「行きたくなさそうな顔してる人が何言ってんだか」 
  
 額に栞菜の人差し指が近づいてくる。 
 眉間の辺りがむずむずして眉根を寄せると、ぴたりと栞菜の指の腹が愛理の額にくっつく。 
 ぐりぐりと指を押しつけられて、愛理は栞菜の指から逃げるように椅子へ座った。 
  
 「愛理、まだテストの結果気にしてんの?」 
 「気にしてるわけじゃないけどさー」 
 「悪かったわけじゃないんでしょ?」 
 「そうだけど。良くもなかった」 
 「悪くないならいいじゃん」 
 「良い方がよかった」 
 「そんなの、誰でもそうだよ」 
  
   
- 31 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:27
 
-  夏の太陽よりも明るく栞菜が笑う。 
 そんな栞菜を愛理は見上げた。 
 並んで歩けば栞菜よりも身長が高い分、愛理の目線の方が栞菜より上になる。 
 けれど、今は栞菜が机に座っているせいで愛理よりも栞菜の方が高い位置にいる。 
 愛理がピアノを弾いている時と同じ目線だ。 
 レッスン室では愛理が椅子に座り、栞菜は立っていることが多い。 
 だから、レッスン室で会うことの多い栞菜とはこうした位置関係の方が自然に思える。 
  
 「もうさ、終わったことなんだし忘れよう。ぱーっと忘れて、夏休みを楽しもう!」 
  
 栞菜が愛理の手を取る。 
 ぱーっとと言いながら、愛理の両手ごと栞菜が手を広げた。 
  
 「蝉と花火とかき氷の夏!」 
  
 夏っぽい単語を並べてから愛理の手を離すと、栞菜が太陽を指さした。 
 外では蝉が相変わらず大合唱を続けている。 
  
   
- 32 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:29
 
-  「まだ夏休みじゃないじゃん。あと一週間ぐらいある」 
  
 亜弥が言っていたようにもうすぐ夏休みだが、栞菜は気が早すぎる。 
 明日から夏休みならまだしも、休みまでまだ一週間近くあるのだ。 
  
 「もう夏休みに入ったも同然だって!」 
 「大雑把だなあ」 
 「まあまあ。大体でいいじゃん、こんなの」 
  
 ぽんぽんと栞菜が愛理の肩を叩いた。 
 栞菜を見ていると、愛理はテストの結果で一喜一憂する自分が馬鹿らしく思えてくる。 
 実技テストを終わったものとして片づけて、前を向いている栞菜は夏に相応しいような気がした。 
 そして、自分はいつまでも梅雨を引きずっているのかもしれない。 
  
 梅雨の季節は終わったのだから『雨だれ』のことは忘れた方がいい。 
 新しい曲も練習しなければならないのだ。 
 栞菜が言うように気分を入れ替えよう。 
 そう考えてから、愛理は栞菜の実技テストの結果を詳しく聞いていないことに気がついた。 
  
 「あのさ、栞菜。実技テスト、良かった良かったって言ってるけど、どれぐらい良かったわけ?」 
  
   
- 33 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:31
 
-  愛理が栞菜の紺色のネクタイを引っ張ると、栞菜が微妙な顔をした。 
 ぐいっと力を入れてネクタイをさらに引くと栞菜の身体が愛理の方へ倒れてくる。 
 栞菜の白いブラウスはいつものようにボタンが二つ外されていた。 
 開いたブラウスの胸元からは鎖骨が見えた。 
  
 「結構良かった」 
  
 はっきりと栞菜が答えた。 
 栞菜が課題曲である『バスク奇想曲』を弾いているところを愛理は何度か見たし、側で聞かせてもらった。 
 愛理はヴァイオリンについては詳しくない。 
 だから、ヴァイオリンの良し悪しについてはピアノほどわからないが、栞菜の奏でる音は愛理の好きな音だった。 
 愛理の好き嫌いがテストに影響するわけではないから、テストの結果は栞菜の言葉から推測するしかない。 
 だが、栞菜が結果について詳しく語らなかったから、どれぐらい良かったのか知りようがなかった。 
  
   
- 34 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:33
 
-  「結構?」 
 「そう。あたしが失敗するわけないし?」 
 「大成功?」 
 「中成功ぐらい」 
 「中ってなに、中って」 
 「悪くもなければ良くもないってことだよ」 
 「良くないんじゃん!てか、あたしと同じだし」 
  
 思わず大声でそう言ってから、愛理は栞菜のネクタイから手を離した。 
 すると栞菜が「あはは」と笑って、勢いを付けて机の上からぴょんっと降りた。 
 机がガタガタと小さく揺れる。 
  
 「でも、悪くもないし。大まかに言ったら、良いってことだって!」 
 「ってことは、あたしも良いってこと?」 
 「そうそう」 
  
 栞菜が大げさに頷く。 
  
 「そっかあ。なら、いいかなあ」 
 「うん、良いって!そういうことにしとこうよ!そしたら、お互い幸せじゃん」 
  
   
- 35 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:34
 
-  机に手をついて、栞菜が愛理を覗き込んでくる。 
 気にしすぎる自分と全く気にしない栞菜。 
 二人を足して二で割ったら丁度良さそうだ。 
  
 「まあ、いっかあ」 
  
 にこにこと笑っている栞菜につられるように、愛理もにへらと笑う。 
 テストの結果を完全に忘れたわけではないが、随分と気分が軽くなった。 
 愛理は机の端に寄せられていた鞄を手に取る。 
 うるさいだけだった蝉の声が楽しげなものに聞こえてくる。 
  
 「じゃあ、行きますか」 
  
 栞菜に声をかけられて、愛理は椅子から起ち上がった。 
  
 「行きますか」 
  
 愛理は栞菜に言われた言葉を繰り返す。 
 練習しようかどうしようかと迷っていたのが嘘のようだ。 
 さっき重かったはずの鞄が今度は軽く感じられた。 
  
   
- 36 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/21(木) 06:37
 
-  ぶん、と軽く鞄を振って愛理は栞菜と一緒に歩き出す。 
 教卓の横を通って、出入り口の壁にある白いスイッチを押した。 
 教室の電気が消えると同時に、反対側の出入り口からガタガタという音が聞こえた。 
  
 「あっ、愛理。いた!」 
  
 電気が消されたと言ってもまだ明るい室内に愛理の名前が響く。 
  
 「りーちゃん」 
  
 愛理と同じぐらい長い髪。 
 けれど、愛理よりも白い肌。 
 愛理の名前を呼んだのは、誰もがお嬢様と呼びたくなるであろう風貌をした菅谷梨沙子だ。 
 そんな梨沙子が、その外見には相応しくない勢いで愛理の方へ走ってくる。 
 机にぶつかりながらドタバタと教室内を走る梨沙子はとてもお嬢様には見えない。 
  
 「千聖もいるよ!」 
  
 ガタンガタンと身体にあたった勢いで机をずらしながら、愛理の方へ向かってくる梨沙子の後ろから飛び出してきたのは、日に焼けて浅黒い肌が健康的な岡井千聖だった。 
  
   
- 37 名前:Z 投稿日:2008/08/21(木) 06:37
 
-   
   
- 38 名前:Z 投稿日:2008/08/21(木) 06:37
 
-  本日の更新終了です。  
 
- 39 名前:Z 投稿日:2008/08/21(木) 06:39
 
-  >>23 にっきさん 
 ありがとうございます。 
 まったりペースになりますが頑張ります(`・ω・´) 
  
 >>24さん 
 ぽやぽやした感じのまま続いていくと思われます(´▽`) 
 のんびりまったりになりますが頑張ります。  
- 40 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/08/21(木) 20:16
 
-  Zさん更新お疲れ様です 
 緻密な心理描写につい引き込まれてしまいます 
 あいかん好き&音楽好きなので続きもまったり楽しみにしています!  
- 41 名前:にっき 投稿日:2008/08/21(木) 22:10
 
-  更新お疲れさまです! 
 バイオリンを奏でる・・・想像するだけで美しいw 
 音楽のように癒される流れのお話だいすきです  
- 42 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:34
 
-  「小さくて見えなかった」 
  
 梨沙子よりも後から入ってきて、梨沙子よりも先に愛理の前にやってきた千聖に声をかける。 
 栞菜とそう変わらない身長の千聖がぴょんっとその場でジャンプをしてから言った。 
  
 「どうせ小さいですよーだっ」 
  
 梨沙子と千聖は愛理と同じく二年生で、二人は普通科の生徒だ。 
 クラスや科は違うが委員会や学校行事を通じて、愛理は二人と親しくなった。 
  
 「あー、栞菜!また二年の教室来てる!」 
  
 千聖がめざとく栞菜を見つけて、教室に響き渡るような声を出した。 
  
 「やっほー!」 
  
 栞菜が左手を軽く振って千聖に笑いかける。 
 練習室に入り浸ってばかりでなく、栞菜は愛理の教室にもよく顔を出していた。 
 そして梨沙子と千聖も愛理の教室に顔を出すことが多かったから、この四人が顔をあわせることはそう珍しいことではなかった。 
  
   
- 43 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:36
 
-  「栞菜は三年なんだからさあ、二年の教室にいつもいるの変だよ。変!りーちゃんもそう思うでしょ?」 
  
 千聖が前触れもなく、隣にいる梨沙子に話を振る。 
 突然、話を振られた梨沙子は困ったような顔をして千聖と栞菜を見比べていた。 
  
 「いつもじゃないよ。主に放課後」 
  
 話が長くなると思ったのか、栞菜が千聖に話しかけながらヴァイオリンケースを手近な机の上に置く。 
  
 「放課後でも変だって。普通、二年の教室に三年ってこないもん」 
 「そんなこと言ったらさ、普通科の千聖がここにいるのも変じゃん。ここ音楽科だし」 
 「かたいこと言うなって!」 
  
 千聖がバンッと栞菜の腰を叩いた。 
 叩かれた栞菜が大げさに腰をさすりながら千聖を見る。 
  
 「その台詞、そっくりそのまま千聖に返すよ」 
 「えー!りーちゃんは?りーちゃんだって、普通科なのにいるじゃん!」 
 「梨沙子はいいんだよ」 
 「なんで?」 
  
   
- 44 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:37
 
-  不思議そうな顔で千聖が尋ねると、栞菜がにんまりと笑って梨沙子の頭を撫でた。 
 そして、一呼吸置いてからゆっくりと言った。 
  
 「可愛いから」 
 「じゃあ、あたしだっていいじゃん!」 
 「…………」 
  
 噛みつくように言った千聖を栞菜が黙ったまま見つめる。 
 愛理はそんな栞菜と千聖を交互に見た。 
  
 「黙るなっ!」 
  
 ダンッと足を鳴らして千聖が言った。 
 栞菜がくすくすと笑う。 
 それにつられて愛理も笑った。 
 すると今まで黙っていた梨沙子が、唇を尖らせている千聖の肩を軽く叩いた。 
  
   
- 45 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:39
 
-  「あたしの可愛さには敵わないってことだよ。うん」 
 「あー、りーちゃんに言われると、なんかへこむ」 
  
 千聖ががっくりと肩を落とす。 
 その様子が可愛かったのか、栞菜が梨沙子の頭を撫でたように千聖の頭を撫でた。 
  
 「ごめん、ごめん。千聖も可愛いよ」 
  
 笑いながら言う栞菜の言葉には説得力が足りなかったのか、千聖がべーっと舌を出して廊下へ飛び出した。 
  
 「もうっ!練習行くからいいよ!」 
 「部活?」 
  
 愛理は教室の中から千聖に声をかけた。 
  
 「そう、部活」 
 「ソフトボールだっけ?」 
  
   
- 46 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:41
 
-  栞菜がボールを投げる真似をしながら言った。 
 見えないボールが愛理の横を通り過ぎた後、「カキーン」という声が聞こえる。 
 廊下では千聖が見えないバットを振っていた。 
 ふわりとスカートが舞い上がって、千聖の日に焼けた太股が見える。 
 白いブラウスは夏の日差しを跳ね返していた。 
  
 「今のはホームランだね。さすが、ソフト部期待の星!」 
  
 ホームランバッターが自分を褒め称える。 
 見えないボールはスタンドへ飛び込んだらしかった。 
 千聖が誇らしげに右手を突き上げ、窓の向こうにある青空を見ていた。 
  
 「よっ!未来のスター!練習がんばれ!」 
 「千聖、がんばー!」 
  
 パチパチと手を叩いて千聖を応援する栞菜にあわせて、愛理も千聖に声をかける。 
 梨沙子も愛理の隣で「がんばれー」と手を叩いていた。 
  
 「おー!」 
  
 外野の声援にガッツポーズで応えると、千聖が廊下を走り出す。 
 梨沙子が教室にやってきたときよりも大きな音を立てながら千聖の姿が消える。 
  
   
- 47 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:43
 
-  ホームランって楽しそうだなあ。 
  
 愛理はぶんっと腕を振って千聖の動きを真似てみたが、それは華麗というにはほど遠いスイングだった。 
 ピアノの練習を終えて寮へ戻る時、ソフトボール部の練習を見たことがある。 
 バットを振って、ボールを打つ。 
 愛理は千聖が軽々とこなしているその動きを、今と同じように寮の部屋で真似たことがあった。 
 その時も真似ぐらいなら上手く出来るのではないかと思ったが、愛理には真似すら千聖のようには出来なかった。 
 運動が苦手な愛理には一生、千聖のように動くことは出来ないのかもしれない。 
 出来なくても困らない、と誰に言うわけでもなく愛理は頭の中で呟いた。 
  
 「愛理、なにやってんの?」 
  
 愛理のスイングを見ていたのか、梨沙子の怪訝そうな声に現実へ引き戻される。 
  
 「え、あっ、なんでもない」 
 「なんか今の動き、変だったよ?」 
 「うん。確かに変だった」 
  
   
- 48 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:45
 
-  見ていたのは梨沙子だけではなかったようで、栞菜も不思議そうな目をしていた。 
 そんな二人の目を誤魔化すように愛理は二人の腕に飛びついた。 
  
 「まあ、いいじゃん。気にしない、気にしない。ほら、そんなことよりさ、千聖は何しにきたの?」 
 「あー、あたしが愛理に会いに行くっていったらついてきた」 
 「ついてきただけ?」 
 「たぶん」 
  
 左手で掴んだ梨沙子の腕がするりと抜ける。 
 そして、梨沙子の白い手が愛理の手を握った。 
 その手は日に焼けたら黒くなるよりは真っ赤になりそうな白さだった。 
  
 「ねえ、愛理。今日も練習?」 
 「うん、そのつもりだけど。それがどうかしたの?」 
 「んー、絵のモデルになってもらおうかなって思って」 
  
 いかにもスポーツ少女といった千聖と違い、太陽とは無縁そうな梨沙子は美術部の部員だ。 
 愛理は「モデル」という単語を聞くたびに、絵筆を握る梨沙子の方がモデルに相応しいと思う。 
 絵を描く梨沙子をモデルに、誰かが絵を描いたら良いのではないか。 
 そんな気がする。 
  
   
- 49 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:47
 
-  「絵のモデルって、なにするの?」 
  
 モデルになるつもりはないが、愛理は一応尋ねてみる。 
  
 「ピアノ弾いてるところ描きたいんだけど、練習見に行ってもいい?」 
  
 握った手に力が込められる。 
 期待のこもった目で見つめられて、愛理は思わず後退る。 
  
 「練習見られるのはいいけど、絵のモデルは……」 
 「だめ?」 
 「なんか、モデルとか恥ずかしいじゃん」 
 「練習見られるのは恥ずかしくないんだ?」 
 「もう、慣れた」 
  
 愛理は右隣にいる栞菜を見た。 
 普通、練習をするところを人に見せたりしない。 
 愛理も人に見られるのが嫌で、昔は練習室の扉についている小窓を様々な手段を用いて隠していた。 
 だから、栞菜と親しくなって、栞菜がよく練習室にやってくるようになってからも、初めのうちは自分以外の誰かが練習室にいることに慣れなかった。 
 しかし、慣れというのは怖ろしいもので、いつしか栞菜が側にいることが気にならなくなっていた。 
 もしかすると慣れだけでなく、自分とは違う栞菜の開放的な性格のせいかもしれなかった。 
  
   
- 50 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:49
 
-  「ああ、そっか」 
  
 愛理の視線から、愛理の言いたいことを察したのか梨沙子が小さく呟いた。 
  
 「りーちゃん。絵のモデルなら、ヴァイオリンの方がいいんじゃない?弾いてる姿がモデルって感じじゃん?」 
 「うーん」 
  
 梨沙子の返事はにぶかった。 
 自分よりも栞菜の方が、性格的にモデルに向いているのではないかと思ったのだが、梨沙子には違って見えるらしい。 
  
 「どう?こういうのモデルっぽくない?」 
  
 それに気づいているのかいないのか、栞菜がヴァイオリンを構える真似をする。 
 梨沙子の方を向いて、いつも愛理の前でするように、見えないヴァイオリンをすっと構えた栞菜はモデルにぴったりだと愛理は思う。 
 だが、梨沙子が栞菜に向かってはっきりと言った。 
  
   
- 51 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:51
 
-  「ごめん。ピアノがいい」 
  
 その声に大げさなぐらいに栞菜が肩を落とす。 
  
 「ちょっと傷ついた」 
 「ごめんね。でも、ピアノって決めてるんだ」 
  
 梨沙子の意志は固いらしく、どれだけ他の楽器を進めたところで、モデルが弾く楽器は変わりそうにない。 
 どうしてピアノがいいのかわからないが梨沙子の気が変わらない以上、愛理がモデルになるか、他にモデルになってくれる人を探すしかなさそうだった。 
 愛理はスライドショーのように頭の中でクラスメイトの顔を思い浮かべる。 
 ピアノを弾く人間を捜すのならば、クラスメイトの中からが一番だと思えた。 
 だが、スライドショーを終えても、モデルを引き受けてくれそうな人は見つからなかった。 
 ならば、先輩の中から。 
 そこで、愛理の中に一人の人物が浮かび上がる。 
 ピアノというイメージとは少し違うかもしれない。 
 だが、モデルという言葉がぴったりとくる。 
 というより、モデルという言葉が好きそうに思える。 
  
   
- 52 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/25(月) 06:53
 
-  「じゃあさ、あたしの先輩どうかな?モデルやりたがりそうな人、いるんだけど」 
  
 愛理の頭の中で、先輩がモデルという言葉に黄色い声を上げる。 
 モデルにするには少しうるさいかもしれない。 
 そう思ったが、それは梨沙子には黙っておこうと愛理は思った。 
  
 「ピアノ弾く人?」 
 「うん」 
  
 ピアノを弾く姿をじっと見られてキャンパスに写し取られる。 
 それは出来れば避けたい。 
 先輩を生け贄として捧げるから、自分をモデルにするのは許して欲しい。 
 そんな愛理の願いが届いたのか、梨沙子が「うーん」と唸ってから愛理の欲しい言葉を口にした。 
  
 「紹介して」 
 「いいよ。今からメールしようか?」 
 「んー、今度でいい。今日はもう帰る」 
 「そっか。じゃあ、後で先輩に連絡して、それからりーちゃんにメールするね」 
 「うん、わかった。よろしくね」 
  
 梨沙子が手をぶんぶんと振って教室から出て行く。 
 栞菜と一緒に梨沙子に手を振りかえしてから、愛理も教室を出た。 
  
  
  
   
- 53 名前:Z 投稿日:2008/08/25(月) 06:53
 
-   
   
- 54 名前:Z 投稿日:2008/08/25(月) 06:53
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 55 名前:Z 投稿日:2008/08/25(月) 06:58
 
-  一部、訂正。 
 前回更新分、コンチェルト − 1 − 
  
 レッスン室→練習室 
  
 に訂正。 
 そして、「rain drop」内の後半もレッスン室ではなく練習室です_| ̄|○  
  
  
 >>40さん 
 ありがとうございますヾ(*´∀`*)ノ 
 音楽に関して、これ以上ボロが出ないようにがんばりますw 
  
 >>41 にっきさん 
 想像の世界を汚さないようにがんばりたいですw 
 癒し系目指します!w  
- 56 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/08/25(月) 11:01
 
-  更新お待ちしておりました! 
 モデル引き受けてくれそうな先輩って誰なんだろう…とwktkして待ってます  
- 57 名前:にっき 投稿日:2008/08/27(水) 02:37
 
-  頑固な子も可愛いですね 
 でもヴァイオリンも描いてあげて(ノ∀`)w 
 先輩を予想しながら続き待ってます  
- 58 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 03:47
 
-  少し前まで飛ぶように走っていた廊下を、今日は栞菜と一緒にゆっくりと歩いて練習室へ向かう。 
 蝉はどこにでも当たり前のように存在していて、窓の外から耳鳴りのような鳴き声が聞こえてくる。 
 渡り廊下に出ると蝉の声が一層大きくなった。 
  
 「なに練習するの?」 
  
 栞菜が蝉の声に負けないぐらい大きな声で尋ねてくる。 
  
 「バッハの3声」 
 「シンフォニア?」 
 「うん」 
 「愛理、11番弾いてるんだっけ?」 
 「そうだよ」 
 「今日も当然、11番だよねえ?」 
 「もちろん」 
  
  
  
 栞菜が顎に手をあて黙り込む。 
 ゆっくりだった歩調がさらに遅くなった。 
 熱を含んだ風が吹いてきて、愛理の額に汗が流れる。 
  
   
- 59 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 03:48
 
-  「早く行こうよ」 
  
 愛理は生温い風から逃げるように足を速めた。 
 練習室は冷暖房が完備されているから、渡り廊下をのろのろと歩いているより涼しい。 
  
 「栞菜!」 
  
 追いついてこない栞菜の名前を呼ぶ。 
 愛理はのんびりと歩く栞菜の元まで戻って腕を取った。 
 栞菜を引っ張って渡り廊下から校舎へ入る。 
 階段を駆け上がって、練習室へ飛び込むと冷房のスイッチを入れた。 
  
 「あー、涼しい」 
 「栞菜がもっと早く歩けば、もっと早く涼しくなれたのに」 
 「ごめん、ごめん」 
  
 反省の色が見えない声で栞菜が謝り、窓枠にもたれかかる。 
 ヴァイオリンケースは足下に置かれた。 
  
 「先にスケールとツェルニー弾くよ」 
 「うん」 
  
   
- 60 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 03:50
 
-  愛理は鍵盤に指を置く前に、栞菜のヴァイオリンケースに目をやった。 
 栞菜が練習室にやってくる日はほぼ決まっている。 
 練習室を使える時間が愛理よりも遅い日。 
 そんな日に栞菜が愛理の元へやってくる。 
 練習室を使える時間は割り当てられていて、使用出来る時間は決まっているのだ。 
 愛理は早めの時間を希望することが多く、栞菜は遅めの時間を希望しているようだった。 
  
 練習室の待ち時間、必ず栞菜が来るわけではない。 
 それでも、愛理はかなりの時間を栞菜と一緒に過ごしている。 
  
 鍵盤に指を置き、『スケール』を弾く。 
 そして、『ツェルニー50番』へ。 
 栞菜は一言も喋らない。 
 しかし、バッハを弾き始めると、今まで静かにピアノを聞いていた栞菜が口を開いた。 
  
 「11番ってさ、ちょっと静かすぎっていうか、暗くない?」 
 「え?」 
  
   
- 61 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 03:52
 
-  愛理はピアノを弾く手を止めた。 
 バッハの3声は1番から15番まである。 
 曲調は色々で、静かな曲もあれば明るい曲もある。 
 11番は栞菜の言う通り、暗い感じがする曲調だ。 
 だが、愛理は3声の中で11番はかなり好きな方だった。 
  
 「あたし、シンフォニアなら1番がいい」 
 「あー。栞菜、好きそうだよね」 
  
 愛理はうんうんと頷く。 
 1番は栞菜が好きそうな感じがする。 
 明るいイメージがあって、栞菜が好みそうな曲調だ。 
  
 「同じ短調なら15番とかさ。11番よりテンポが速くていいじゃん」 
 「栞菜、そういうの好きだよね」 
 「うん」 
 「でも、あたし11番好きなんだけどなあ」 
 「まあ、愛理のイメージにあってると思うけど。でも、たまには違うのも聞いてみたいなあ」 
 「それって、1番とか15番弾けってこと?」 
 「そういうわけじゃないんだけどさ。ほら、今、弾いてるベートヴェンさ、あれもちょっと暗い感じじゃん」 
  
   
- 62 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 03:54
 
-  ツェルニーとバッハの他に愛理が弾いている曲は『ベートヴェンピアノ・ソナタ第17番』だ。 
 一般的に「テンペスト」というタイトルで知られているこの曲は、ドラマチックな曲だと思うが明るい曲ではない。 
 テンペストという言葉の意味は嵐や暴風雨。 
 明るくなりようがなかった。 
 だが、愛理が弾く曲を決めているわけではないから仕方がない。 
 愛理の担当教師である圭が決めたものだ。 
 実技テストに弾いた『雨だれ』に続いてまた「雨」か、とは思ったが、嫌いな曲ではないから、この曲を弾くことに文句はない。 
 たとえあったとしても、与えられた曲に何か言うつもりはなかった。 
  
 「栞菜はどんな曲が聞きたいわけ?」 
  
 栞菜が窓枠から離れて愛理の隣に立つ。 
 そして、鍵盤を一つ叩いた。 
 栞菜が鳴らした音は小さく、すぐに練習室の空気に溶けてしまう。 
 溶けた音のかわりに栞菜が言った。 
  
   
- 63 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 03:55
 
-  「夏休み、なにすんの?」 
  
 質問に対する答えは質問だった。 
 しかも、愛理がした質問とはかけ離れた話題だ。 
 だが、躊躇うことなく愛理は答えた。 
  
 「練習」 
 「練習だけ?」 
 「うん」 
 「好きだね、練習」 
 「やった分だけ上手くなるし」 
  
 好きだというよりも、愛理にとって練習は日課みたいなものだった。 
 手を休めると、休めた分だけ積み重ねたものが消えていく。 
 それが嫌で練習を繰り返している。 
  
 「練習以外の予定は?」 
 「ない」 
 「あたしと遊ぶ予定いれない?」 
 「いれない」 
 「えー!」 
  
   
- 64 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 03:59
 
-  栞菜が不満そうな声を上げた。 
 だが、愛理にはわざわざ栞菜と遊ぶ予定を入れる必要性を感じない。 
 どうせ栞菜は、夏休み中もこうやって練習室に押しかけてくるに違いないのだ。 
 実際、去年の夏休みも、今程ではないが栞菜が練習室に顔を出しに来ていた。 
  
 「練習もいいけどさ、息抜きも必要じゃない?」 
  
 確かに息抜きは必要だ。 
 けれど、息抜きは簡単にできる。 
 今、こうして栞菜と話している時間が練習の合間の息抜きのようなものだ。 
  
 「今、息抜きしてるじゃん。大体さあ、栞菜、来年は高校でしょ?」 
 「そうだよ」 
 「入試あるのにいいの?」 
 「いいの。だって入試なんか、あってないようなものじゃん。よっぽど酷い成績じゃなければ、進学出来ないことないし」 
 「まあ、そうだけど」 
 「そんなことより、やっぱりちゃんとした息抜きが必要だって!」 
 「だから今、休憩してるじゃん」 
  
   
- 65 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:00
 
-  練習の手が止まっているのだから、これは立派な休憩だと愛理は思う。 
 しかし、栞菜はそうは思わないようだった。 
  
 「もっといい息抜きの方法があるんだな、これが」 
 「もっといい方法?」 
 「そう」 
  
 にやりと笑って、栞菜がヴァイオリンケースを手に取る。 
 そして、栞菜がケースの中からヴァイオリンを取り出した。 
  
 「じゃーん!」 
  
 栞菜が得意げにヴァイオリンを愛理に見せる。 
  
 「それが息抜き?」 
 「うん」 
  
 栞菜の行動が理解出来ない。 
 何か曲でも弾いてくれて、それを聞いて息抜きしろということだろうか。 
 それは確かに息抜きになるが、特別な方法には思えない。 
 愛理の練習の合間に栞菜がヴァイオリンを弾くことは、今が初めてというわけではない。 
  
   
- 66 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:02
 
-  「じゃあ、あわせてみようか」 
 「あわせる?」 
 「うん。あたしと愛理でなにか一曲弾こう」 
  
 どうやら栞菜だけが弾くわけではないようだった。 
 栞菜が調弦を始める。 
 ヴァイオリンの音に催促されるように、愛理は鍵盤に指を置いた。 
 けれど、そこで何の曲を弾けばいいのかわからないことに気がつく。 
  
 「曲って、バスク奇想曲?」 
 「なんでバスク奇想曲 
 ?」 
 「だって、前に伴奏者用の楽譜、栞菜からもらった」 
  
 初めて『バスク奇想曲』を聞いたとき、とても格好の良い曲だと思ったことを思い出す。 
 栞菜の実技テストの課題曲が『バスク奇想曲』だと聞いたとき、愛理はそれがどんな曲かわからなかった。 
 作曲者の名前がサラサーテだと教えてもらって他の曲は頭に浮かんだが、『バスク奇想曲』は愛理の記憶の片隅にもなかった。 
 だから、栞菜に頼んで弾いてもらったのだ。 
  
   
- 67 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:09
 
-  民族音楽に近いその曲は、心が軽くなるようなものだった。 
 練習を始めたばかりで弾き慣れないはずの曲だったが、弾いている栞菜がとても楽しそうだったことを覚えている。 
 何だか印象的な曲でとても気に入ってしまい、愛理は伴奏者の楽譜を栞菜に頼んでコピーしてもらった。 
  
 ヴァイオリンなどの弦のテストには、課題曲によって伴奏者が必要になることがある。 
 『バスク奇想曲』には伴奏者が必要で、栞菜は同じ三年生の中島先輩に伴奏を頼んでいると言っていた。 
 いつもテストなどの伴奏を頼むのは中島先輩だと栞菜から聞いて知っていたから、実技テストの伴奏者の話を初めて聞いたときは気にならなかった。 
 そして、愛理はそれを当然のこととして受け止めていたから、中島先輩のことを羨ましいとは思わなかった。 
 もちろん、今まで一度も羨ましいと感じたことはない。 
 だが、この『バスク奇想曲』を何度も聞いているうちに、愛理は栞菜との会話の中でしか知らない中島先輩のことを初めて羨ましく思った。 
 他にも好きだと思う曲はいくつもあったのに、何故『バスク奇想曲』だけ羨ましく思ったのかは今になってもわからないが、考えたところで解決しそうになかったから気にしないことに決めていた。 
  
   
- 68 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:11
 
-  「別にバスク奇想曲でもいいけどさ、せっかくだから違うのやろうよ。あたし、嫌になるぐらいバスク奇想曲弾いたし」 
 「違うのってなに?」 
 「クライスラーの中国の太鼓、とか」 
 「えっ、ヴァイオリンの曲じゃなくて太鼓の曲?」 
 「そうじゃなくて。……こんな感じの」 
  
 出だしの部分だけ栞菜が軽く弾く。 
 軽快なリズムと民族音楽風の曲調。 
 バスク奇想曲とはまったく違う曲だが、どことなく通じるものがあると愛理は思う。 
 けれど、この曲のどこのあたりが太鼓なのかはわからない。 
  
 「これって、どこの部分が太鼓なの?しかも、どこが中国?」 
 「これ、ピアノの伴奏がトントントンって入るんだよね。だから、そこらへんが太鼓を表してるんじゃないかなあ」 
 「そうなの?」 
 「さあ?なんとなくそんな感じがした」 
 「で、中国はどこ?」 
 「わかんない」 
  
   
- 69 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:13
 
-  栞菜がヴァイオリンを下ろし、弓で肩を二度叩いた。 
 そしてわかりやすいぐらいわざとらしく肩をすくめる。 
 飄々とした栞菜の表情は、今聞いたばかりの中国の太鼓にぴったりな気がした。 
 バスク奇想曲と中国の太鼓。 
 似ていないけれど似ていると感じてしまう。 
 共通点は栞菜なのかもしれない。 
  
 「なんか、よくわかんないけど。でも、栞菜っぽい曲だなあ」 
 「そう言うと思った。だから、ちゃんと愛理の好きそうな曲も用意してあります。はい、楽譜」 
  
 ヴァイオリンを片手に、栞菜が鞄の中を漁って取り出したものは数枚の楽譜のコピーだった。 
 栞菜から手渡されたそれを愛理はまじまじと見る。 
  
 「……Salut d'amour?」 
 「そう、愛の挨拶。ロマンチックでしょ?」 
  
   
- 70 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:16
 
-  手元の楽譜はエルガーの『愛の挨拶op.12』。 
 有名な曲だったから、愛理はこの曲をよく知っていた。 
 栞菜の言うように好きなタイプの曲でもあったから、弾きたいと思って楽譜を取り寄せたこともある。 
 しかし、今、愛理の手元にある楽譜は、過去に愛理が見たものとは違っていた。 
 愛理が所有している楽譜はピアノ独奏曲用のものだ。 
 今、栞菜から渡されたものはヴァイオリンとピアノ用のものだった。 
  
 「これならあたしと愛理で弾けるし、どうかな?」 
  
 栞菜が自分用の楽譜をぴらぴらと手元で遊ばせながら言った。 
  
 「ねえ、楽譜があるってことは、最初からこれ弾くつもりだった?」 
  
 どうかな、も何もない。 
 楽譜が用意されているなら選択肢などないような気がする。 
  
 「そういうわけじゃない。ちゃんと、中国の太鼓の楽譜もあるよ?ほら」 
  
 栞菜が鞄の中から新しい楽譜を取り出す。 
 そして、愛理の目の前に差し出した。 
  
   
- 71 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:18
 
-  「こっちのほうがいい」 
  
 新しく差し出された楽譜と手元の楽譜。 
 愛理は両方を見比べてから、手元にある楽譜をピアノの譜面台の上に置いた。 
  
 「にしても、準備良いなあ」 
  
 ちらりと栞菜を見る。 
  
 「だって、愛理と何か弾きたいと思ってたから」 
  
 栞菜が練習室の片隅に置いてある譜面台をピアノの横へ持ってくる。 
 愛理は栞菜が楽譜を譜面台の上に置いたことを確認してから言葉を続けた。 
  
 「中島先輩はいいの?」 
 「なっきぃ?」 
 「栞菜の伴奏者じゃん」 
 「そうだけど。趣味で弾く曲の伴奏は誰でもいいと思わない?」 
 「確かにそうだけど」 
  
   
- 72 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:20
 
-  なんだか悪い気がする。 
 栞菜が誰と何を弾こうが、それは栞菜の自由。 
 もちろん愛理が誰と何を弾こうが、それは愛理の自由。 
 後ろめたいことをしているわけでもないのに、何故だか胸がちくりと痛い。 
  
 「あたしが一年遅く産まれてたらなあ。そしたら、愛理に伴奏頼んだのに」 
  
 残念そうな響きを持つ柔らかな声が、愛理の耳の奥から身体の中へ入りこむ。 
 栞菜を見ると、唇が緩やかなカーブを描いていた。 
 栞菜の手が愛理の髪を撫でる。 
 何度か手で梳いて、髪を一房掴む。 
 手が離されてぱらぱらと髪が肩へ落ちた。 
  
 髪に触れて笑う栞菜など何度も見ている。 
 それなのに、愛理の心臓がいつもより1オクターブ高い音を立てた。 
  
 椅子に座っている自分と立っている栞菜。 
 少し高い位置にある栞菜の頭。 
 いつも通り。 
 何一つ変わらないのに、何かが変わった気がする。 
  
   
- 73 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:21
 
-  緊張を解くには深呼吸。 
 圭がよく口にする言葉通りに、愛理は深く息を吸い込んでから吐き出す。 
 そして栞菜の手を振り払って面倒臭そうに顔を顰めた。 
  
 「やだよ。栞菜の弾く曲、難しいもん」 
 「そんなことないって」 
 「あるよ」 
  
 自信を持って愛理は言った。 
 栞菜が課題曲として与えられる曲は、他の三年生が弾くものより難しいものが多い。 
 ヴァイオリンを弾かない愛理でも簡単か難しいかぐらいは判断がつく。 
  
 「そうだとしても、伴奏も難しいわけじゃないし」 
 「難しいのだってあるじゃん」 
 「まあ、ねえ」 
  
 困ったように栞菜が笑って、下を向いた。 
 困らせるつもりはなかったが、栞菜が下を向いたまま顔を上げないから、愛理は悪いことを言ってしまったのではないかと後悔する。 
  
   
- 74 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:22
 
-  「……愛理、あたしと弾くのやだ?」 
  
 明るい栞菜には珍しい湿っぽい声に愛理は即答する。 
  
 「やなわけじゃない」 
 「いいわけでもない?」 
  
 栞菜が顔を上げて、前髪をくしゃくしゃとかき上げた。 
  
 「いいよ」 
  
 愛理は起ち上がって、前髪を掴んでいる栞菜の手に触れた。 
 栞菜が愛理の手に体重をかけてくる。 
 軽く押し返すと、逆らわずに栞菜が愛理から少し離れた。 
  
 「これさ、二人で練習しよう」 
  
 栞菜が弓を譜面台に置いて楽譜を手の甲で叩く。 
  
   
- 75 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:24
 
-  「いつ?」 
 「夏休み」 
 「それって、夏休み中も練習の邪魔しにくるってこと?」 
 「うわ、ひどい。邪魔するつもりなんかないのにっ」 
  
 耳の奥にキンッとくるような甲高い声で栞菜が言った。 
 そして、ごほんと咳払いをして真面目な顔をする。 
  
 「練習に来るんです。この曲の」 
  
 栞菜がトレードマークのゆるめたネクタイをきゅっと締め直した。 
 スカートの埃を払って、ヴァイオリンを構える。 
  
 「二人の課題曲。……なんてね」 
  
 栞菜の向こう側、窓の外では夏の太陽が校舎を照らしていた。 
  
 「夏休み、いいよね?」 
  
   
- 76 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:25
 
-  断られることなど考えていない口調で栞菜が愛理に問いかける。 
 練習曲以外の曲を弾く余裕がないほど追いつめられているわけではない。 
 だから、練習する曲が一曲増えることに問題はないし、栞菜と一緒に曲を弾いてみたいと思っていた。 
 愛理には断る理由はない。 
 けれど、栞菜は三年生だ。 
 付属の高校へ進むとはいえ、試験がある。 
 愛理は眉根を寄せた。 
  
 「……入試、大丈夫なの?」 
 「まかせて」 
  
 栞菜が自信たっぷりに笑った。 
 外部の中学から高校へ入学するのは難しいと聞いている。 
 しかし、附属中学から高校への進学が難しいという話は聞いたことがない。 
 栞菜が言っていた通り、中学から高校へは進学出来ない方が珍しいと言われているぐらいだ。 
 栞菜なら、余程のことがない限り試験に落ちることはないだろう。 
  
   
- 77 名前:コンチェルト − 1 − 投稿日:2008/08/27(水) 04:27
 
-  「じゃあ、夏休み一緒に練習する」 
 「やった!約束ねっ」 
  
 栞菜がヴァイオリンを下ろして、小指を愛理の前に差し出した。 
 愛理は右手の小指を栞菜のほっそりとした小指に絡める。 
  
 最後に指切りしたのはいつだろう。 
  
 思い出せないぐらい昔に繰り返した言葉。 
  
 「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーますっ」 
  
 愛理は子供の頃に何度も口にした言葉を歌うように唱える。 
 約束を嘘にするつもりはなかった。 
  
  
  
  
  
   
- 78 名前:Z 投稿日:2008/08/27(水) 04:27
 
-   
   
- 79 名前:Z 投稿日:2008/08/27(水) 04:28
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 80 名前:Z 投稿日:2008/08/27(水) 04:31
 
-  >>56さん 
 今回は早めに更新しました! 
 続きはもうしばらくwktkしながらお待ちいただければと思います。 
  
 >>57 にっきさん 
 いつかヴァイオリンを描きたくなる日が来るのでしょうかw 
 頑固者が今後どうなるかもお楽しみに!……とかいって(´▽`)  
- 81 名前:Z 投稿日:2008/08/27(水) 05:58
 
-  またもや訂正。 
  
 >>61-62 
 ベートヴェン→ベートーヴェン 
  
 あまりに格好の悪い誤字だったので訂正しておきます(´;ω;`)  
- 82 名前:にっき 投稿日:2008/08/27(水) 08:15
 
-  更新お疲れさまです!そして、どんまいw   
 微妙な心境の変化が緩やかに感じられて好きです  
- 83 名前:名無し 投稿日:2008/08/27(水) 22:10
 
-  愛の挨拶って好きな曲だったな〜 
 ここに描かれる二人は美しい 
 けれど想像できてしまうほどぴったりくる 
 あいかんてほんと美しい〜(笑) 
 クラシックのようにゆったりとして、でも味わい深い感覚にはまってきてしまいました 
 楽しみに待ってます!  
- 84 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/08/30(土) 23:13
 
-  人物の心理に並んで曲の描写が細かくて音が聞こえてきそうな小説ですね 
 今後もすごく楽しみです!  
- 85 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2008/09/25(木) 02:18
 
-   
  
  
 コンチェルト − 2 − 
  
  
  
   
- 86 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:20
 
-  夏休み初日。 
 天気は晴れ。 
 小学校時代の宿題である絵日記に描くならば、真っ赤に塗りつぶした太陽マークがよく似合うそんな天気。 
 寮から学校の練習室に向かって歩いているだけで汗が流れ落ちる。 
 午前中とは思えない暑さに、愛理は額に流れる汗をハンカチで拭う。 
 中等部の校舎を通り抜け、渡り廊下を足早に歩く。 
 練習室の扉を開くと、何故かピアノの音がした。 
  
 「栞菜?」 
  
 中を確かめずに声をかける。 
 返事はない。 
 愛理が足を進めて練習室の中へ入ると、栞菜ではない声が聞こえてきた。 
  
   
- 87 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:22
 
-  「残念!栞菜じゃありませーん」 
  
 ピアノの前に得意げな顔で座っている人物。 
 それは栞菜ではなく、高等部の先輩だった。 
 夏休み前、愛理は同級生の梨沙子に絵のモデルを紹介すると約束した。 
 その約束を果たす為に今日、高等部の先輩である嗣永桃子をこの練習室に呼び出したのだ。 
  
 高等部ピアノ科に所属する桃子とは昨年知り合った。 
 桃子も愛理と同じ圭にピアノを習っていることもあって、レッスン室で桃子と会うことが多かった。 
  
 同じ一年生同士、仲良くしよう。 
  
 中学に入学して初めてレッスン。 
 遅れないようにと早めにレッスン室へ向かい、廊下でレッスンの順番が回ってくるのを待っていた時のことだ。 
 レッスン室から出てきた桃子が、愛理の上履きを見ていきなりそう声をかけてきた。 
 学年ごとに違う上履きの色。 
 愛理の上履きを見た桃子が嬉しそうに話しかけてきたことを今でも覚えている。 
  
   
- 88 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:25
 
-  中等部の音楽科は一クラスしかない。 
 ということは同じクラス。 
 愛理はクラスの中で見たことのない桃子のことを、病気で休んでいた生徒なのかと思った。 
 そんな生徒に心当たりはなかったが、そうとしか考えられなかったのだ。 
 しかし、それが大きな誤解だとわかったのは数日後のことだ。 
 幼い顔つきから桃子のことを同級生だと思い込んでいたおかげで、高等部の一年生であると本人の口から聞くまで気がつかなかった。 
  
 「ごめんね、ももで」 
  
 悪いとは思っていないであろう笑顔でそう言ってから、桃子が止めていた手を動かす。 
 バッハの平均律が室内に響く。 
 愛理は慌てて扉を閉めた。 
 中学二年生の愛理が弾いているバッハの三声よりも複雑なメロディーを桃子が紡ぎ出す。 
 愛理はマイペースな先輩の後ろ姿を見ながらため息をついた。 
  
 桃子は座っていると、愛理とそう身長が違うようには見えない。 
 だが、実際はかなりの身長差がある。 
 胴が長い。 
 足が短い。 
 そんなことを言うと、桃子が怒るので口にすることはないが、胴が短かったり足が長かったりすることはないと愛理は思う。 
 座っているところだけをみると、栞菜と同じぐらいの身長には見えない。 
  
   
- 89 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:26
 
-  小柄で童顔。 
 顔自体は整っているが、モデルには似つかわしくないような気がする。 
 けれど、愛理が寮で会った桃子にモデルの件を話して聞かせた時、目をキラキラと輝かせて「やりたい」と言った。 
 愛理の予想通り、黄色い声で嬉しそうにそう言った。 
  
 桃子が乗り気だったこともあって、モデルの話はすぐにまとまった。 
 後は梨沙子と直接話してもらうだけ。 
 とんとん拍子に進んだ話を梨沙子に伝えて、二人が会う日は夏休み初日と決まった。 
 だから愛理は、確かにこの練習室でこの先輩と会う約束をしていた。 
 だが、時間が違う。 
 愛理が指定した時間は、練習が終わる時間だ。 
 決してはじまる時間ではない。 
  
 「別に栞菜じゃなくて、ももでもいいんだけど。……でも、時間間違ってない?」 
  
 どういうわけか、早々と待ち合わせ場所である練習室に立てこもっている桃子に声をかける。 
  
   
- 90 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:27
 
-  「いやー、暇でさ」 
  
 反省の欠片もない声で桃子があははと笑う。 
 愛理もつられるように愛想笑いを返した。 
 笑いながらも、桃子に文句の一つでも言ってやろうと愛理は思う。 
 暇だからと言って、呼び出した時間の何時間も前に来られては困る。 
 ピアノを弾く桃子に声をかけようと愛理が近づくと、桃子が突然起ち上がった。 
  
 「はい、どうぞ」 
 「え?」 
 「愛理、練習するでしょ?」 
 「そりゃ、するけど」 
 「もも、終わるまでここで待ってるから練習してていいよ」 
  
 ひらひらと手を振りながら、いつも栞菜が立っている場所に桃子が立つ。 
 窓際、壁に寄り掛かって愛理を見る。 
  
 愛理は椅子に腰掛けて、桃子を見た。 
 同じ風景なのに違う。 
 栞菜も桃子も明るい色を持っていると思うが、何かが違う。 
 その違いに、愛理は気分が落ち着かない。 
  
   
- 91 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:32
 
-  課題曲を練習しようかと思っていたが、愛理は曲を変える。 
 鞄の中から楽譜を取り出す。 
  
 栞菜と弾く曲を練習すれば少しは落ち着くかもしれない。 
 そんな気持ちから、譜面台に『愛の挨拶』の楽譜を置く。 
 栞菜が練習室に来るようになってから、誰が愛理の練習を見ていても気にならなくなった。 
 人がいることに慣れたはずなのだが、今日は何故だか落ち着かなかった。 
 栞菜だと思った人物が桃子だったからかもしれない。 
  
 息を大きく吸い込んでから吐き出す。 
 鍵盤に指を置いて楽譜を確かめる。 
 一呼吸置いてから、音を作り出していく。 
  
 作曲者エルガーが婚約者に送った曲として知られるこの曲に、相応しい甘い調べを奏でられるように指を動かす。 
  
 三分もないような短い曲。 
 今、窓から差し込んでいる夏の日差しより、春の日差しが似合うような穏やかな曲はすぐに終わりを告げる。 
 まだ弾き始めたばかりで、練習不足は否めない。 
 愛理はミスした部分や注意すべき箇所をペンで楽譜に書き込んでいく。 
  
   
- 92 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:33
 
-  「……愛の挨拶、か。いかにもって曲だねえ。愛理にぴったり」 
  
 窓際から鼻歌が聞こえてくる。 
 何小節か『愛の挨拶』のメロディを辿ってから桃子が言った。 
  
 「でも今、練習してる曲って違う曲じゃなかったっけ?」 
  
 桃子が悪戯な笑顔で愛理を見る。 
  
 「でさ、ピアノ独奏じゃないよね。これ」 
  
 桃子が窓際から愛理の隣へとやってくる。 
 譜面台の上から楽譜を取って、桃子が楽譜に目を通す。 
  
 「誰かの伴奏者になったの?」 
 「……違う」 
  
 言えばいい。 
 栞菜と弾く曲だとはっきり言うことに何の問題もない。 
 けれど、愛理は何故、愛の挨拶の伴奏を練習しているのかを桃子に言うことが出来ない。 
  
   
- 93 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:37
 
-  「じゃ、なんで伴奏の練習?」 
 「いいじゃん、べつにっ」 
  
 語尾が荒くなって、しまった、と愛理は思う。 
 桃子は変なところにだけ勘が良い。 
 知られたくないことだけを嗅ぎ分ける装置でも付いているのかと思うほど、言われたくないことを上手に見つけ出す。 
  
 「ははーん。……栞菜だ」 
  
 桃子が口の端を上げてにやりと笑う。 
 頭の中で何を想像しているのかはわからないが、桃子の目が好奇心で一杯になる。 
  
 桃子は栞菜とも面識があって、栞菜と愛理のことをよく知っている。 
 桃子とレッスンで一緒になるたびに栞菜のことを話して聞かせたせいもあるが、それに興味を持った桃子が何度も愛理と栞菜が一緒にいるところへ訪ねてきていた。 
 だから、狭い練習室に愛理と栞菜と桃子の三人がぎゅうぎゅう詰めになっていることもあった。 
  
   
- 94 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:38
 
-  「否定しないんだ?」 
 「……だって、栞菜だし」 
 「素直だねえ、愛理は」 
  
 桃子がにやにやと笑いながら愛理を覗き込む。 
 愛理が目をそらすと、桃子は手にした楽譜に視線を移した。 
  
 「選曲がすごいなあ。深い意味があるね、これは」 
 「そんなの、ないよっ」 
  
 桃子の視線が『Salut d'amour』という文字に釘付けになっていた。 
 愛理は桃子の手から楽譜を奪い取る。 
  
 この曲は愛理が好きそうな曲だから、と言って栞菜が選んでくれたものだ。 
 深い意味などあるはずがないと愛理は思う。 
 現にこの曲だけでなく、『中国の太鼓』の楽譜も持ってきていた。 
 栞菜にとって、一緒に弾ける曲ならばどちらでも良かったに違いない。 
  
 愛理もどちらの曲でも良かったのだ。 
 たまたま『愛の挨拶』が気に入ったから、こちらを選んだだけであって深い意味はない。 
 心臓がどくどくとうるさいのは気のせいだろう。 
  
   
- 95 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:40
 
-  「そっかなあ?栞菜に聞いてみた方がいいんじゃない?」 
  
 面白がっているとしか言えない声音で桃子が言った。 
  
 「聞かなくても平気だもん」 
 「まあ、愛理がそういうなら、それでいいけどさ。にしても、ももだったらもっと違う曲がいいなあ」 
 「クライスラーの中国の太鼓、とか?」 
 「いいね。もも、そういうの好き。でも、愛とか恋とか語る感じの曲じゃないけど」 
 「別に、あたしだって、そういうの語るつもりじゃないし」 
  
 ふーんと言って桃子が鍵盤を叩く。 
 ピアノは桃子の声と同じような高い音を鳴らした。 
  
 「栞菜は違うかもしれないじゃん」 
 「栞菜だって同じだよ」 
  
 愛理は即答した。 
 栞菜に聞いてはいないが、同じに違いない。 
 今まで栞菜と一緒にいて、愛だの恋だのを語った記憶がなかった。 
 たわいもない日常生活についてや、音楽の話。 
 そんなことばかりを話していた。 
 だから、愛理は栞菜に好きな人がいるのかどうかも知らない。 
  
   
- 96 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:41
 
-  「可哀想だなあ、栞菜」 
  
 大げさなため息とともに桃子が言葉を吐き出す。 
  
 「可哀想じゃないもん」 
  
 愛理にとっては恋をするより音楽の方が大事だ。 
 それはきっと栞菜も同じはずだと愛理は思う。 
 恋はいつでも出来るが、今弾いている曲の練習は今しかできない。 
 栞菜が愛や恋について語らないのも同じ理由に違いない。 
  
 「前途多難だね、栞菜は」 
 「だから、栞菜はそういうのじゃないのっ」 
 「はいはい、わかりました。ももが間違ってました」 
  
 ぺこりと桃子が頭を下げた。 
 芝居がかった口調で「それならよろしい」と愛理が言うと、桃子がピアノから離れる。 
 愛理は手にしていた楽譜を鞄の中へ戻し、新しい楽譜を取り出して譜面台の上に置いた。 
  
   
- 97 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:43
 
-  「ところで、中国の太鼓ってさ、栞菜から聞いたの?」 
  
 窓際の壁に背を付けて、桃子が伸びをする。 
 気持ちよさそうな「うーん」という声が聞こえてくる。 
  
 「なんで?」 
 「栞菜が好きそうな曲じゃん」 
 「そう思う?」 
 「思う。愛の挨拶より、中国の太鼓みたいな曲の方が栞菜好きそう」 
  
 真面目な顔でそう言った桃子を見て、愛理は考える。 
 栞菜は強引なところがある。 
 だから、自分の好きな曲を一方的に選んで愛理に楽譜を渡すことも出来た。 
 それなのにそれをせずに、栞菜は愛理に曲を選ばせてくれた。 
 選択肢はほとんどなく二曲だけだったにせよ、選ばせてくれたことは事実だ。 
 しかし、愛理は栞菜が選んだ曲の楽譜を渡されてもきっとそれを弾くことにしただろう。 
 栞菜はいつでも強引というわけではなかったから、愛理の意志を尊重することに不思議はない。 
 だが、愛理は、栞菜が本当はどちらの曲を弾きたかったのか気になり始める。 
 もしかしたら、栞菜も初めから『愛の挨拶』が弾きたかったのかもしれないし、違うかもしれない。 
  
   
- 98 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:45
 
-  そこまで考えて、愛理はどんな答えを導き出したいのかわからなくなる。 
 考えがあちらこちらに散らばってまとまらない。 
  
 「でも、愛理にあわせたんだ。けなげだねえ、栞菜」 
  
 桃子の声が頭の中に滑り込んでくる。 
 栞菜が愛理にあわせたのかどうかは、栞菜に聞かなければわからない。 
 愛理は頭の中で桃子に反論した。 
  
 「もう、からかわないでよ」 
  
 椅子を引いて桃子を見る。 
 軽く睨み付けると、桃子が肩をすくめた。 
  
 「練習するから、もも静かにしてて」 
 「愛の挨拶?」 
 「違う。テンペスト」 
 「なんだ、そっちか。栞菜を想って弾く愛の挨拶をもう少し聞きたかったけど、テンペストならいいや」 
  
   
- 99 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/09/25(木) 02:46
 
-  大してがっかりした口調でもない声でそう言うと、桃子が壁際から扉へと向かう。 
 愛理は桃子の言葉に間違いを見つけて、それを訂正しようとする。 
 けれど、訂正の言葉を桃子に告げる前に声をかけられた。 
  
 「じゃあ、邪魔すると悪いから、もも、愛理の練習終わるまで出かけてくる。練習出来なくて、愛理がケメちゃんに怒られたらもものせいになっちゃうしね」 
  
 散々練習の邪魔をした桃子が言う台詞ではないと愛理は思うが、桃子は気にもせずに扉へ手をかける。 
 カチャリと軽い音がして扉が開く。 
 蒸した空気が涼しい練習室へ入り込んでくる。 
  
 「どこいくの?」 
 「校内一周の旅へ!」 
  
 桃子の背中に問いかけると、威勢の良い声が響いた。 
 制服のスカートを翻して、桃子が練習室から出て行く。 
 愛理は桃子の背中を見送ってから、からりと晴れた空には似合わないテンペストを弾き始めた。 
  
  
  
   
- 100 名前:Z 投稿日:2008/09/25(木) 02:47
 
-   
   
- 101 名前:Z 投稿日:2008/09/25(木) 02:47
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 102 名前:Z 投稿日:2008/09/25(木) 02:55
 
-  >>82 にっきさん 
 失敗は成功の元だと思いたいですw 
 音楽と共に穏やかに進められたらと思います(´▽`) 
  
 >>83 名無しさん 
 勿体ないお言葉ありがとうございますヾ(*´∀`*)ノ 
 リアルの美しい二人に近づけることが出来るように頑張りたいです。 
 クラシックをイメージ出来るようなお話に出来ればと思います(´▽`) 
  
 >>84さん 
 クラシックが苦手な人にも曲のイメージが伝われば、と思って書いているので、そう言って頂けると嬉しいです(*´▽`*)  
- 103 名前:にっき 投稿日:2008/09/25(木) 11:52
 
-  先輩キタ━━(゜∀゜)━━ッ!! 
 嬉しさできっとニヤニヤして読んでましたw 
 穏やかなのに微妙な心理変化が楽しいです  
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/26(金) 00:20
 
-  おぉ!!!先輩にはもっとイジってほしかったですねぇ〜 
 これから二人の演奏と心境がどのように変化していくのか楽しみです!  
- 105 名前:名無し 投稿日:2008/09/26(金) 23:01
 
-  愛理の心境が微妙に変化してゆくのが楽しすぎる。 
 栞菜の気持ちが謎ですね。 
 あ〜早く二人の続きが見たい。  
- 106 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:07
 
-  練習が終わって十五分。 
 愛理は練習室前の廊下で桃子を待っていた。 
 校内一周の旅は愛理が考えていたよりも長い旅のようで、桃子はなかなか現れない。 
  
 約束の時間に遅れてはならない。 
 両親に幼い頃からそうしつけられてきて、愛理は今もそれを守っている。 
 だが、桃子にそれが通用しないことはわかっている。 
 桃子は真面目そうに見えて、案外時間にはルーズなところがあった。 
 だから、こうなることを見込んで、愛理は梨沙子との待ち合わせ時間よりも早い時間を桃子に伝えていていた。 
 三十分早く桃子に伝えてあるから、あと十五分ほど時間がある。 
  
 でもあと十五分も待つのは嫌だ、と思いながら、愛理はぴかぴかに磨かれた廊下を見た。 
 クリーム色の廊下が一面のカスタードクリームに見えてきてお腹がぐうと鳴る。 
 お腹を押さえて、お昼にはまだ早いのに、と愛理は呟いた。 
  
   
- 107 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:09
 
-  「愛理、お待たせ。はい、これ待たせたお詫び」 
  
 聞き覚えのある大きな声に顔を上げる。 
 すると、桃子が愛理の目の前にパンを差し出した。 
 お礼を一言言ってから素直にパンを受け取ると、もう一つ同じものを桃子が持っていて何も言わずに封を開けた。 
 そしてパンに齧り付く。 
  
 「あー、廊下で食べちゃだめなんだよー!」 
 「かたいこと言わないの。今は夏休み!サマーバケーションだよ!」 
 「夏休みと校則は関係ないもん」 
 「あるよ。夏休みはうるさい先生がいない!ということは、校則破り放題!」 
 「破り放題って言っても、一応、先生いるじゃん。部活の顧問の先生とかさー」 
 「みつかんなきゃいいんだって。それに、愛理お腹鳴ってたじゃん。パン、美味しいよ。食べたら?」 
 「……聞いてたんだ」 
 「おっきい音だったから、聞こえたの」 
  
 そう言いながらも、桃子がむしゃむしゃとパンを食べる。 
 満月の形をしていたパンは、早くも三日月に近づいていた。 
  
   
- 108 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:10
 
-  校内一周の旅に出かけていたはずが、何故パンを持っているのか。 
 夏休みは購買も休みだ。 
 色々と聞きたいことはあったが、またお腹がぐうっと鳴って、愛理は校則を守るという義務を放棄する。 
 夏休みの校内、先生に出会う確率は限りなく低い。 
 行儀が悪いとは思ったが、愛理はパンに齧り付く。 
  
 口の中にいちごジャムの甘さが広がる。 
 クリームパンじゃないんだ、と少し残念に思いながらもう一口食べると、桃子がパンを片手に歩き出す。 
 愛理はパンを頬張りながら慌てて後を追った。 
  
 「もも、待ち合わせ場所わかってんの?」 
 「あっ」 
 「もうっ!わかんないまま歩き出したでしょ?」 
  
   
- 109 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:13
 
-  誤魔化すようにえへへと笑う桃子の背中をバシンと叩く。 
 廊下に小気味よい音が響いた。 
 梨沙子に引き合わせる約束をしたのは愛理で、梨沙子との待ち合わせ場所を桃子に伝えていなかった。 
  
 「美術室で待ってるから、行こう」 
  
 残りのパンを口に放り込んで、桃子の手を取る。 
 桃子の三日月型のパンも胃袋に消えていた。 
  
 蒸し暑い廊下を歩いて中等部校舎の美術室へと向かう。 
 待ち合わせの時間まであと十分はあるから、遅刻はせずにすみそうだと愛理はほっと胸を撫で下ろす。 
 たとえ遅刻の原因が桃子だとしても、遅れて行くのは嫌だった。 
 渡り廊下を歩いて中等部校舎へ入る。 
 いつもの騒がしい校舎とは違い、廊下がシンと静まりかえっていて何だか不思議な気分になる。 
 聞こえてくる蝉の声は夏休み前と変わりないのに、別の世界に迷い込んだようだった。 
  
   
- 110 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:14
 
-  「モデル探してる子って、菅谷梨沙子ちゃんだっけ?」 
  
 桃子が窓の外を見ながら呟く。 
  
 「うん、そう」 
 「その子、可愛い子でしょ?」 
 「可愛いけど、なんで知ってんの?」 
 「ふふん。ももに知らないことはないんですうっ」 
 「で、なんで知ってんの?」 
 「愛理、つまんない。相手してくれたっていいじゃん」 
 「ももの相手してたら話進まないんだもん。だから、早く教えてよ。知ってる理由」 
 「冷たいなあ。まっ、いいけどさ。……んっとね、もも聞いたことがあるんだよね。中等部の美術部に絵を描いてるよりモデルになった方がいいぐらい可愛い子がいるって」 
 「それって、梨沙子のこと?」 
 「たぶん、そうだと思うよ。友達が菅谷なんとか子ちゃんって言ってたから」 
  
   
- 111 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:16
 
-  確かに梨沙子は可愛い。 
 愛理が、絵を描いているよりモデルになった方が良いと思っているように、他の誰かが同じように思ったとしても不思議はない。 
 だが、高等部で噂になっているとは知らなかった。 
 愛理が噂というものに疎いせいかもしれないが、可愛いということが高等部で話題に上がるものとは知らなかった。 
  
 自分のことを褒められたわけではないが、友人である梨沙子を褒められたことが何だか嬉しく思えた。 
 そして、今まで気にもならなかった噂というものに少し興味が出る。 
 他にもあるであろう高等部で噂になっている中等部についての色々。 
 それがどんなものなのか桃子に聞いてみようかと愛理は考えた。 
  
 「あ、愛理も高等部の音楽科で噂になってるよ」 
  
 愛理の心の中を読んだかのように、桃子が噂について語り始める。 
 しかも、噂になっているのは自分だった。 
 愛理は思わず廊下に響き渡るような大声を上げた。 
  
   
- 112 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:17
 
-  「ええっ?うそ、なんで?」 
 「三年の有原って子に追いかけ回されてる可愛い子がいるって!」 
 「そんなの聞いたことないし。それに可愛いとかって」 
 「だって、ももが噂流してるんだもん」 
 「ちょっと、もも!それほんとなのっ」 
  
 桃子の白いベストの裾を力一杯引っ張る。 
 先を行こうとする桃子が引っ張られて足を止めた。 
 そして、悪戯な子供のような目をしてくすくすと笑う。 
  
 「うそうそ!もも、そんなことしないって。でもさ、音楽科なんて狭い世界じゃん?栞菜がいつも愛理の練習室に入り浸ってるのが、高等部でちょっとした噂になってるのはほんと」 
 「ほんとにほんと?」 
 「ほんとにほんとにほんと。ヴァイオリンやってる子の間では結構有名な話みたい。来年さ、栞菜、高校生じゃん?高等部に入っても通い続けるのかなって、みんな興味津々みたいだよ」 
  
   
- 113 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:20
 
-  まさか栞菜が練習室に入り浸っていることが噂になっているとは思わなかった。 
 音楽科の生徒数は少なく、桃子の言う通り狭い世界だ。 
 中高の音楽科の生徒が集まっている場所へ石を投げれば、高確率で知り合いに当たるだろう。 
 そんな狭い世界の中だからこそ、練習室に入り浸るなどというたわいもないことが噂になるのかもしれない。 
  
 「なんで、そんなに有名になってんの……」 
 「だって、普通は人の練習室に入り浸ったりしないもん。練習見られるの嫌な子の方が多いし。それが、平気な顔して密室に二人きり。噂にならない方がおかしいでしょ」 
 「密室って!」 
 「カギかかんないけど、誰も入ってこないんだから密室みたいなもんじゃん」 
  
 そうか、そんな考え方があるのか。 
 目から鱗だ。 
 愛理は自分が考えたこともない発想に驚きを隠せない。 
  
   
- 114 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:22
 
-  「いつから、噂になってるの?」 
 「結構前から。わりと有名な話だし、愛理も知ってるのかと思ってたけど……」 
 「知らないよ、そんなの」 
  
 掴んでいた桃子のベストから乱暴に手を離す。 
 噂のことを知っていたら、栞菜が練習室に入り浸ることを止めていただろう。 
 密室の中に二人きり、などという噂はあまり良いものではない。 
 人がどのようなことを考えて、そう噂しているのかを考えると頭が痛くなる。 
 だが、栞菜に練習室に来るなと言っても、言うことを聞くとは思えない。 
 それに、やましいことをしているわけではないのだから、気にする必要もないと言うだろう。 
 実際、何もないのだから噂など放っておけばいい。 
 そう思う。 
 しかし、思ったからと言って、実行出来るかどうかは別問題だ。 
 噂など聞かなければ良かったと愛理は思った。 
  
 愛理は一人百面相を繰り広げる。 
 そんな愛理を見て、桃子が困ったようにベストの皺を伸ばした。 
  
 「まあ、いいじゃん。栞菜との噂なんだし」 
  
 桃子が励ますように軽く愛理の肩を叩く。 
  
   
- 115 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/01(水) 03:23
 
-  「どういう意味?」 
 「他の人との噂じゃなくて良かったってこと」 
 「他の人とでも困らないし」 
  
 困らないわけがないのだが、常に相手を栞菜に限定されるのもなんだか納得出来ない。 
 他にも友人はたくさんいるのだ。 
  
 「じゃあ、ももと噂になってみる?」 
 「絶対やだ!」 
 「あー、なにそれ!今、他の人でもいいって言ったじゃん!」 
 「もも以外の誰かなら」 
 「愛理、ひどーい!」 
  
 愛理は軽やかなステップで、片手を上げた桃子から一歩前へと逃げる。 
 そして、そのまま廊下を駆け出す。 
 慌てて走り出した桃子を見ると、夏の青空より薄い空色をしたチェックのスカートが、窓から入り込んだ風になびいていた。 
 美術室は目の前だった。 
  
  
  
   
- 116 名前:Z 投稿日:2008/10/01(水) 03:24
 
-   
   
- 117 名前:Z 投稿日:2008/10/01(水) 03:24
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 118 名前:Z 投稿日:2008/10/01(水) 03:29
 
-  >>103 にっきさん 
 先輩の登場、喜んで頂けて良かったです。 
 先輩歓迎のようで、私もニヤニヤです(´▽`)w 
  
 >>104さん 
 先輩、ちょっと優しいモードですw 
 二人の演奏と心境の変化を見守って頂けたらと思います。 
  
 >>105 名無しさん 
 お待たせしました! 
 愛理はまったりのんびりのほほーんとw  
- 119 名前:にっき 投稿日:2008/10/02(木) 02:08
 
-  更新お疲れ様です 
 先輩が好き過ぎるww 
 色々と考えちゃう愛理もかわいい(*´▽`*)  
- 120 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:02
 
-  ガラリと扉を開け、愛理と桃子が美術室へ足を踏み入れると、部屋の隅で椅子に座っていた梨沙子がぴょこりと起ち上がった。 
 梨沙子が頭を軽く下げると、 
 日に透けて茶色く見える髪がふわりと揺れた。 
  
  
 「モデルってこの人?」 
  
 開口一番の言葉がそれだった。 
 梨沙子が桃子をじっと見てから、少しばかり不満げに言った。 
  
 「イメージと違う」 
  
 普段の梨沙子は、見た目通りおっとりとしている。 
 穏やかだし、争いごとを好むタイプではない。 
 だが、ここぞというときは、言いたいことを臆せずに言うところがある。 
 今がここぞというときかはわからないが、桃子を目の前にしてはっきりと言った。 
 本人を前にそんなにはっきりと言わなくてもいいのに、と愛理は心の中で呟く。 
 しかし、言われた桃子はと言えば、愛理が思ったほど気にしていないようだった。 
 ピアノの高音のような声でわざとらしく言い放つ。 
  
   
- 121 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:04
 
-  「うわ、ひどい。もも、ピアノって感じがしない?」 
 「しない」 
  
 桃子も桃子なら、梨沙子も梨沙子だった。 
 自己紹介もまだの相手にきっぱりと言い切った。 
  
 「まあまあ、二人とも。とりあえず自己紹介ぐらいしようよ」 
  
 険悪な雰囲気というわけではないが、平行線を辿りそうな会話を別のものへとすり替える。 
 愛理が向かい合ったまま動こうとしない二人の間に割ってはいると、渋々といった口調で梨沙子が自己紹介を始めた。 
  
 「……菅谷梨沙子です」 
 「高等部二年の嗣永桃子です。よろしくね、菅谷さん」 
 「音楽科の人だよ、……ですよね?」 
 「敬語いらないよ。もも、堅苦しいの嫌いだから」 
 「じゃあ、やめる」 
 「素直でよろしい」 
  
   
- 122 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:09
 
-  桃子の幼い顔つきが役に立ったのか、梨沙子が素直に口調をくだけたものに変える。 
 とても年上には見えない桃子には敬語よりも、くだけた口調の方が似合っていると愛理も思う。 
  
 「ももは音楽科でピアノやってるよ、ピアノ。菅谷さん、ピアノやってる人描きたいんでしょ?もも、ぴったりだと思うけど」 
 「確かにピアノ弾いてる人、描きたいって言ったけど……」 
  
 美術室の片隅、絵の具で汚れた壁際に立つ梨沙子がじっと桃子を見る。 
 望んでいたモデルはこんな人じゃない、梨沙子の目がそう訴えていた。 
 愛理は不満そうな梨沙子を宥めるように話しかける。 
  
 「りーちゃん、だめだった?もも、これでもピアノ上手いよ?」 
 「これでも、ってなに。これでもって」 
  
 桃子が拗ねた口調でそう言って頬を膨らませる。 
 だが、その顔は梨沙子の言葉によって、すぐに自信満々といった表情に変わった。 
  
   
- 123 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:12
 
-  「……上手いの?」 
 「上手いよ!」 
  
 えっへんと桃子が胸を張る。 
  
 「りーちゃん。ももにピアノ弾いてもらったら?聞いたらイメージかわるかもよ」 
  
 見て駄目なら聞かせるしかない。 
 せっかく紹介したモデルを簡単に断られては困るのだ。 
 違う人を紹介してくれと言われても、モデルをやりたがるような人物は見つかりそうにない。 
 多少の不満には目を瞑って桃子に決めて欲しかった。 
  
 「嗣永先輩、ピアノ弾いて」 
  
 愛理の思いが通じたのか、梨沙子の表情が晴れやかなとまではいかないが、どんよりした表情から薄曇り程度の表情までに回復する。 
  
   
- 124 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:16
 
-  「ももでいいよ。ももって呼ぶなら聞かせてあげる」 
 「じゃあ、もも。聞かせて」 
 「おっけー。梨沙子」 
  
 桃子が二つ返事で引き受ける。 
 音楽を学ぶ人間には二通りのタイプがあると愛理は思う。 
 人前で弾くことを好まないタイプと、頼まずとも喜んで弾くタイプ。 
 桃子は後者のタイプだ。 
 いつどんな時も人前で弾くことが苦にならないらしい。 
 愛理は発表会や演奏会で弾くことが苦になることはないが、それ以外の場所で弾くことはそう得意な方ではない。 
  
 相手を選び、練習を積んだ曲を弾くのはいい。 
 だが、練習途中を見られたり、納得のいく出来に達しないものを人前で弾くことは苦手だ。 
 気軽に弾けばいいだけだとは思うが、演奏会とはまた違った緊張に指が動かなくなる。 
 ピアノを聞こうとする人の視線が指に絡みついて、動きを鈍くしているような気持ちになるのだ。 
 そのせいか、栞菜のおかげで練習室に他人がいることには慣れたが、進んで練習風景を見せる気分にはなれない。 
  
   
- 125 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:17
 
-  愛理は桃子のようなタイプに憧れているわけではないが、どういう思考回路をしているのだろうと不思議に思うことがある。 
 自分で言い出した事だが、今も二つ返事で初めて会った相手にピアノを弾いて聞かせるという桃子の行動についていけそうもない。 
  
 「あっ!呼び方、梨沙子でいいよね?」 
  
 思い出したように桃子がそう言うと、梨沙子がこくんと頷いた。 
  
  
 話が決まると行動は早い。 
 美術室にピアノがあるわけもなく、三人で中等部の音楽室へ向かう。 
 扉に付いている小窓を覗いて中に誰もいないことを確認してから、愛理はガラガラと扉を開けた。 
  
   
- 126 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:19
 
-  「うわー、懐かしいっ」 
  
 最後に入ってきた桃子が音楽室を見渡して、誰に言うともなく一人声を上げる。 
 愛理には見慣れたいつもと変わらない音楽室が、高等部二年の桃子からすると懐かしい風景に映るようだった。 
 桃子が机や壁を確認するようにコツンコツンと軽く叩いていく。 
 軽快なリズムを作り出しながら、桃子がグランドピアノの前に座った。 
 愛理と梨沙子は音楽室に並んでいる椅子に腰をかける。 
 桃子が確認するように鍵盤を一つ叩いてから梨沙子を見た。 
  
 「ところで、なんでモデルの条件がピアノを弾ける人なわけ?」 
 「小さい頃から弾いてみたかったから」 
 「ピアノぐらい弾けそうな顔してるけど」 
  
 桃子の言葉に愛理も思わず頷く。 
 梨沙子に聞いたことはなかったが、習い事として楽器の一つや二つ弾いていそうな気がする。 
 それに、梨沙子にはピアノやヴァイオリンが似合いそうなイメージがあった。 
  
   
- 127 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:21
 
-  「それって、どういう意味?」 
 「お嬢様っぽいからさ、ピアノとか習い事やらされてそう」 
  
 不思議そうに問いかける梨沙子に、桃子が愛理とまったく同じ考えを口にした。 
  
 「塾には行かされたけど、ピアノはやってない。だから、ピアノ弾ける人っていいなあって」 
 「憧れってわけかあ。じゃあ、なおさらももがぴったりだね」 
 「そうは見えないけど」 
 「やっぱり、まだ納得してないんだ。でも、もものピアノ聞いたら、憧れの人にぴったりだって思うよ」 
  
 自信ありげに桃子が胸を張る。 
 よくそこまで言えるものだと愛理は思うが、桃子の言葉は嘘だとは言えない。 
 愛理が聞いても桃子のピアノは上手い。 
 荒っぽいところもあるが、人の気持ちを惹きつける音を奏でる。 
 だからこそ愛理は桃子の音に惹かれる。 
 自分が作り出せない音楽が桃子の中にはあると思う。 
  
   
- 128 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:24
 
-  「そんな不審そうな目で見なくても」 
  
 未だに桃子とピアノの関係性に不信感を抱いている梨沙子が、信じられないといった目で桃子を見ていた。 
 何度も桃子の音を聞いている愛理には、桃子の言葉が正しいとわかる。 
 だが、桃子の音を聞いたことのない梨沙子に伝わらないのは当たり前だ。 
  
 「じゃあ、今、練習してる曲弾くから」 
  
 桃子が静かに鍵盤の上に指を置く。 
 梨沙子の視線が桃子の指に釘付けになっていた。 
  
 あれが自分だったら上手く弾けそうにない。 
 桃子の指に絡みつく視線を見ながら、愛理はそんなことを思う。 
 けれど、桃子の指は軽快にショパンのエチュードのうちの一つを紡ぎ出す。 
  
 グランドピアノから音が鳴り始めると、すぐに梨沙子の表情が変わった。 
 疑いの眼差しから羨望の眼差しへ。 
 リトマス試験紙のように表情が変わっていく。 
  
   
- 129 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:26
 
-  桃子の両手が印象的なフレーズを何度も繰り返す。 
 軽快なリズムにあわせるように梨沙子の頭が揺れる。 
 曲が気に入ったのか、桃子が気に入ったのか。 
 梨沙子は桃子の両手をじっと見ていた。 
 転調を繰り返し、曲調はリズミカルなものから次第に緩やかなものへとかわる。 
 ショパンのエチュードは、ゆっくりと舞い落ちる花びらのように柔らかく終わりを告げ、桃子の視線が鍵盤から梨沙子へ移る。 
  
 「どう?」 
  
 桃子が満面の笑みで梨沙子を見た。 
  
 「……結構いいかも」 
  
 ピアノに向かう桃子を見つめていた時とは違い、梨沙子が素っ気なく答える。 
 しかし、美術室にいた梨沙子と今の梨沙子は明らかに雰囲気が変わっていて、桃子にもそれが伝わっているようだった。 
  
   
- 130 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:27
 
-  「ねえ、もも。今のなんて曲?」 
  
 梨沙子が椅子から起ち上がり、桃子の隣に立つ。 
 そして、桃子のブラウスの袖を催促するように引っ張った。 
  
 「ぺこちゃんぽこちゃん」 
 「へ?」 
  
 桃子がおよそクラシックとは思えない曲名を口にする。 
 梨沙子が不思議そうな顔をしていて、愛理は思わず吹き出した。 
 桃子が弾いた曲はショパンのエチュードのうちの一つで、正式名称はもちろん『ぺこちゃんぽこちゃん』などというお菓子メーカーのような名前ではない。 
 けれど、音楽科の生徒の間では通称として親しまれていて、よく耳にするものだった。 
  
   
- 131 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:29
 
-  「ぺこちゃん♪ぽこちゃん♪ぺこちゃん♪ぺこちゃん♪ぽこちゃん♪ぺこちゃん♪」 
  
 理解出来ないという顔をした梨沙子を前に、桃子がついさっき弾いたばかりの曲をもう一度弾き始める。 
 テンポ良く繰り返されるメロディは、パステルカラーの車がガタゴトと車体を揺らしながら進んでいく様子をイメージさせる。 
 そのメロディにあわせて桃子が口ずさむ。 
 まるでこの曲に初めから付けてあった歌詞のように桃子が歌うと、梨沙子がぷっと吹き出した。 
  
 「こうしたら、クラシックも親しみやすいでしょ?」 
 「うん!面白い。けど、ほんとの曲名ってなに?」 
 「さあ、なんでしょう?」 
  
 悪戯っぽく桃子が微笑む。 
 梨沙子はしばらくの間「むー」と唸りながら考えていたが、心当たりのないものをいくら考えても仕方がないことに気がついたのか、桃子から愛理へと視線を移す。 
  
   
- 132 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:30
 
-  「愛理、教えて」 
 「ちょっとっ!愛理に聞くの反則!」 
 「あのねえ、その曲は――」 
  
 ショパンのエチュード、とは言えなかった。 
 ピアノの前から愛理の前まで素早く走ってきた桃子の手によって口を塞がれる。 
  
 「さあ、なんでしょう?」 
  
 桃子が得意げな顔でもう一度質問をした。 
 愛理の口は桃子によって塞がれたままで、助け船を出すことが出来ない。 
 もがもがと口を動かして答えを伝えようとするが、梨沙子には何と言っているのかわからないようだった。 
 愛理と桃子。 
 二人を見比べてから、梨沙子が唇を尖らせる。 
  
 「わかんないよっ!早く教えて」 
  
   
- 133 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:31
 
-  拗ねたような口調の梨沙子に桃子が笑い出す。 
 愛理の口から手を離すと、桃子が梨沙子を宥めるように頭を撫でた。 
 そして、愛理に答えを教えるように促した。 
  
 「ショパンのエチュードop.25-3」 
 「オーパス25の3?」 
 「作品番号のことをそういう風に言うの」 
  
 愛理が答えると、梨沙子がわかったようなわからないような声で「ふうん」と言ってから、言葉を続けた。 
  
 「そういう曲名なんだ。でも、ぺこちゃんぽこちゃんの方が可愛くていいね」 
 「もももそう思う」 
  
 桃子がピアノの前に座る。 
 鍵盤に両手を下ろし、適当にいくつかの音を鳴らしてから梨沙子を見た。 
  
 「でさ、ももはどうだった?憧れの人って感じ?」 
  
   
- 134 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:33
 
-  うん、という返事は聞こえない。 
 かわりに賞賛の言葉が桃子に贈られる。 
  
 「ももって、すごいんだね。想像してたより上手くてびっくりした!……でも、見た目がさあ。ちっちゃくて子供っぽいんだもん。中学生みたい」 
 「見た目のことはいわないのっ。ピアノは外見で弾くんじゃないんだから!」 
 「……でも、あたしが探してるの、絵のモデルだよ?外見、結構大事じゃない?」 
 「そっ、それはそうだけどさあ。でも、ももは見た目も結構イケてると思うよっ」 
 「どう思う?愛理」 
 「うーん」 
  
 顎に手をあて、わざとらしく考え込む。 
 ついでに眉間に皺を寄せると、桃子が不満げな声を上げた。 
  
 「ちょっと、愛理!なんでそこで考え込むのっ!ももはモデル向きなのっ!ほらっ!」 
  
   
- 135 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:34
 
-  ピアノの前、椅子に座ったまま桃子がポーズを取る。 
 右手を頭の後ろへ。 
 左手を腰にあてて「どう?」などとやるものだから、梨沙子が吹き出した。 
 もちろん愛理も笑いを堪えきれない。 
 不服そうな桃子を前に二人でひとしきり笑いあう。 
  
 「もう、二人とも笑いすぎ!」 
 「だって、もも面白いんだもん。絶対、モデルに見えない」 
 「梨沙子、初対面なのにひどすぎ」 
 「だって、ほんとのことだもん」 
 「ももって、そんなにモデルってイメージない?」 
 「ない。モデルってイメージと違う」 
  
 梨沙子にきっぱりと言い切られて、桃子が「はあ」とため息をつく。 
 そして、だらしなく椅子の背もたれに寄り掛かった。 
  
   
- 136 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:35
 
-  「ほんと、モデルのイメージと違うって思うんだけど。でも、あたし、ももに決めた。モデル、ももにお願いする。やってくれる?」 
  
 桃子が梨沙子の言葉に背筋をすっと伸ばして、にっこりと笑った。 
  
 「一言余計だけど、まっ、いっか。ももでよかったら、モデルやるよ」 
 「やった!ありがと、もも。……そうだ、あたしが練習室行っても大丈夫?」 
 「うん、大丈夫。もも、見られたりするの気にならないから。ただ時々、ヴァイオリンの子が来ることあるから、その時は駄目かな」 
 「栞菜?」 
 「違うよ、栞菜じゃない。もも、ヴァイオリンの伴奏やってるからさ。だから、高等部のヴァイオリンの子が来ることあるの」 
 「へー、そうなんだ。じゃあ、ヴァイオリンの人来ない時に行くから。明日は?明日は大丈夫?」 
 「明日は来ないから平気」 
 「じゃあ、明日行く」 
 「わかった。そのかわり、可愛く描いてね」 
 「ももが可愛ければ、可愛く描けると思うよ」 
 「なにそれー!」 
  
   
- 137 名前:コンチェルト − 2 − 投稿日:2008/10/03(金) 03:37
 
-  梨沙子が乗り気になったおかげで、話が丸く収まったようだった。 
 桃子のピアノを聞かせてよかったと愛理は思う。 
 ピアノを弾いているときの桃子は、普段接しているときの桃子とは別人のようになる。 
 鍵盤に向かい、真剣な表情でピアノを弾く様子は、絵や写真にする価値があるように思える。 
 だが、それを桃子に直接伝えたことはない。 
 そんなことを言えば、調子に乗ることが目に見えている。 
  
 「愛理、梨沙子っていつもこうなの?」 
 「ももにだけじゃない?あたしには優しいし」 
 「えー!」 
  
 夏休み初日。 
 貸し切りの音楽室で、桃子が悲痛な叫び声を上げた。 
  
 愛理が仲介をしたモデルの話は上手くいった。 
 桃子も梨沙子も楽しそうで、それを見ていると愛理も同じように楽しくなってくる。 
 夏休みの滑り出しは順調そうだった。 
  
  
  
  
   
- 138 名前:Z 投稿日:2008/10/03(金) 03:37
 
-   
   
- 139 名前:Z 投稿日:2008/10/03(金) 03:37
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 140 名前:Z 投稿日:2008/10/03(金) 03:38
 
-  >>119 にっきさん 
 私も先輩が大好きですw  
- 141 名前:にっき 投稿日:2008/10/04(土) 02:12
 
-  先輩の魅力にメロメロw 
 伴奏の相手が気になりつつ、続きを楽しみにしています  
- 142 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2008/11/07(金) 02:48
 
-   
  
  
 コンチェルト − 3 − 
  
  
  
   
- 143 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 02:50
 
-  「愛理、きたよー!」 
  
 昨日とまったく同じ台詞が愛理の耳に聞こえてくる。 
 練習室の使用時間が終わり間際になった頃、ノックもなしで扉が開き、聞き慣れた声が部屋に響いた。 
 夏休みが始まって約一週間。 
 同じような時間に練習をしているらしく、栞菜が愛理のいる練習室に尋ねてくることはなかった。 
 だからといって、練習室に誰も来ないかと言えばそうでもなく、栞菜のかわりに桃子がやってくるようになっていた。 
  
 「……もも、また来たんだ」 
  
 愛理はテンペストを弾く手を止めて、扉前に立っている桃子を見た。 
 練習室から音楽が消える。 
  
 「栞菜じゃなくて残念だったからって、そんな言い方しなくても」 
 「別に残念だなんて思ってないし」 
  
 バタンと扉が閉まって、桃子が隣にやってくる。 
  
   
- 144 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 02:55
 
-  「愛の挨拶の練習ってさ、はかどってんの?」 
 「まあ、それなりに」 
  
 栞菜とは、夏休みに入ってから練習室で会っていない。 
 だから最近、愛理は栞菜と一緒に愛の挨拶の練習をしていなかった。 
  
 一緒に弾こうと言ったのは栞菜のはずだ。 
 夏休みも練習室に来ると言ったのも栞菜だ。 
 それなのに、栞菜は一度も姿を見せない。 
 練習室の予約の関係もあるから栞菜に文句は言えないが、一週間も練習室で会っていないのだから、満足な練習が出来ているはずがなかった。 
 もちろん、合わせていないだけで個人的な練習はしている。 
 だが、音を合わせていないのだからはかどっているとは言えず、愛理は桃子へ返す言葉が鈍くなる。 
  
 「あんまりはかどってなさそうだね」 
 「だって栞菜、最近来ないし」 
 「来ないって。栞菜、もう家に帰ってたっけ?昨日、寮で見たような気がするけど」 
 「家に帰るのはお盆すぎって言ってた」 
 「じゃあ、なんで?」 
 「練習時間、かぶってるんだもん」 
 「そっか。それじゃあ愛理、寂しいね」 
 「寂しいわけじゃないけどさ。でも、練習は出来ない」 
  
   
- 145 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 02:57
 
-  寂しいわけではないと愛理は思う。 
 栞菜とは練習室で会っていないだけで、寮では互いの部屋を尋ねあったりしているから、以前と比べてそれほど会う頻度が落ちたわけではない。 
 けれど、練習室で会う時間がなくなっただけで、一緒に過ごす時間が随分と減ったような気がした。 
  
 そんなことを考えていると、ピアノが小さな音を鳴らし始めた。 
 隣を見ると、桃子が愛の挨拶のワンフレーズを人差し指一本で弾いていた。 
 愛理の頭の中で、ピアノの音に栞菜が弾くヴァイオリンの音が重なる。 
 栞菜は今、何の曲を弾いているのだろう。 
 そんなことが気になり始めて、愛理は桃子の腕を引いてピアノから離した。 
  
 「っていうかさ、ももは練習してるわけ?」 
  
 愛理は消えたメロディーのかわりに桃子に問いかけた 
  
   
- 146 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 02:58
 
-  「してるよ、すっごく」 
 「ほんと?」 
 「もうさ、ため息出るぐらいため息弾いてるっての」 
 「ももの課題曲、ため息だっけ?」 
 「そう、ため息」 
  
 はあ、と大げさにため息をつきながら桃子が言った。 
  
 「なんで、ため息なんて憂鬱そうな名前つけるのかと思ったけど、ぴったりだよ。ため息でるもん。弾きすぎで。タイトルつけた人、すごすぎ」 
  
 『ため息』というタイトルは作曲者リストが付けたものではない。 
 後から付けられたタイトルだが、曲の弾きすぎでため息が出る、というイメージで付けられたものではないから、桃子の褒め方は間違っていると愛理は思う。 
 だが、そんなことを指摘したところで、桃子から「愛理は真面目だ」と言われるだけだろうから、愛理はそのことには触れずに話を変えた。 
  
   
- 147 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:00
 
-  「そう言えば、りーちゃんはそっち行ってるの?」 
 「よく来てるよ」 
 「絵、真面目に描いてるんだ」 
 「ううん。ため息聞きながら寝てる」 
 「え?寝てるの?」 
 「いい子守歌になるみたいなんだよね、ため息」 
 「もしかして絵、全然描いてない?」 
 「そんなことないけどね。描いたり寝たりって感じかな。練習室は美術室と違って涼しいし、快適空間なんじゃないの」 
  
 自分の弾く音楽が子守歌になっていることを悪く思っていないのか、桃子が楽しそうに笑う。 
 愛理も練習室で居眠りをする梨沙子を思い浮かべると、自然に笑みが浮かぶ。 
 不思議とクラシック音楽と居眠りをする梨沙子というのはイメージが合う。 
 愛理にとっての『ため息』は眠りを誘う曲ではなく、甘さと切なさが入り交じったような感傷的な気分にさせる曲だ。 
 だが、普段の梨沙子を考えると、興味津々で『ため息』を聞いているよりは、寝ている方が自然に思える。 
  
   
- 148 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:03
 
-  「愛理、そろそろ時間じゃない?」 
  
 時計を指さしながら、桃子が愛理の肩をぽんと叩いた。 
  
 「あ、ほんとだ」 
  
 壁に掛かっている時計を見ると、練習室の使用時間が終わりに近づいていた。 
 愛理は慌てて楽譜を鞄の中へ入れる。 
  
 「じゃあ、行きますか!」 
  
 私物を全て片づけ終えると、桃子が勢いよく言った。 
 しかし、何か約束をしていたわけでもなく、桃子がどこへ行こうとしているかわからない愛理は、思わず桃子の制服の裾を引っ張る。 
  
 「え?どこへ?」 
 「狭い練習室に引きこもってばかりじゃなくてさ、たまには外へ行こう!」 
 「外?」 
 「そう!屋上へレッツゴー!」 
 「ええー!屋上なんて暑いじゃん」 
 「夏は暑いものなの!」 
  
   
- 149 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:05
 
-  何故、屋上へ行かなければならないのか。 
 理由はわからない。 
 わからないが、愛理は桃子に腕を引っ張られたまま練習室を出て、屋上へ向かう。 
 夏休みでもぴかぴかに光っている廊下を歩いて、階段を上る。 
 練習棟と生徒から呼ばれている校舎の一番上、屋上の重い扉をバンッと勢いよく桃子が開けた。 
  
 「もも、暑いんだけど」 
  
 屋上に出るなり、愛理は呟く。 
 夏の日差しが照りつける午後、愛理は目を細めながら桃子を見た。 
  
 「大丈夫。ももも暑いから」 
 「だったら、寮に戻ろうよ。ここ、日陰ないしほんと暑い」 
  
 屋上には太陽の光を遮るようなものが何もない。 
 じりじりと焦げ付きそうな日差しの下、愛理はフェンスに寄り掛かる。 
 蝉の鳴き声が遠くから聞こえきて、余計に暑く感じる。 
  
 「若者が何言ってんだか。さあ、愛理歌うよ!」 
 「え?歌?なんで?」 
 「なんとなく」 
 「いや、なんとなくとか。そんなのいらないから」 
  
   
- 150 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:06
 
-  愛理はポケットからハンカチを出して汗を拭う。 
 どうして屋上で歌を歌わなければいけないのか理解が出来ない。 
 それに何かを歌うにしても、もっと涼しい場所があるだろうと愛理は思う。 
  
 「まあまあ!ちょっと気分変えようよ。ももが指揮ふってあげるから、愛理は歌うっ」 
 「いやいやいや」 
 「いやじゃなくて」 
  
 場所を変えるつもりがないのか、愛理の隣で桃子が飛び跳ねそうな勢いで話を強引に続ける。 
  
 「歌はグリーン・グリーンね」 
 「なんで?」 
 「中学生っぽいから」 
 「……小学校で習った記憶があるけど」 
 「もう、愛理は細かいなあ」 
 「ももが大雑把すぎるの。大体さあ、グリーン・グリーンって、夏より前の季節ってイメージなんだけどなあ。あたし」 
 「まあ、いいじゃん。ほら、まだ時間あるし」 
 「時間ってなんの?」 
 「夏の時間!」 
 「もも、意味わかんない」 
  
   
- 151 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:09
 
-  桃子の行動が突拍子もないのはいつものことだった。 
 出会った頃から愛理の予想外の行動ばかりで、桃子の行動について行けないことも多い。 
 天気が良いから何かをする、ピアノが上手く弾けたから何かをする。 
 いつも愛理には思いつかないようなことを言い出して、そしてそれは理由が理由になっていなかった。 
 桃子と行動を共にする時は意味を考えては駄目なのだと、すぐに気がついた。 
  
 これはもう歌うしかない。 
 愛理は諦めにも似た思いで雲一つ無い空を見上げてから、視線を桃子に移した。 
  
 「意味なんてどうでもいいの。あ、そうだ。指揮いらないなら、伴奏しようか?伴奏はももにまかせて!」 
 「ピアノもないのに?」 
 「ボイスパーカッション!」 
  
 桃子が自信ありげに胸を張る。 
 そんな桃子を横目で見てから、愛理は前置きもせずに歌を歌う。 
 前触れもなく歌を歌い出すとは思っていなかった桃子が慌てて、ボイスパーカッションという名の合いの手をいれる。 
  
   
- 152 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:10
 
-  歌詞ははっきりと覚えていない。 
 それでも過去の記憶を辿りながら、テンポ良く歌う。 
 愛理の頭の中にある歌のイメージとは違う晴れやかな空に歌声が溶ける。 
 少しもの悲しい感じのする歌詞が、明るい夏の空気によって違ったものに思えてくる。 
 そして、桃子の調子外れのボイスパーカッションが歌に合っておらず、笑い出しそうになった。 
  
 「歌、上手いね。愛理」 
  
 愛理が歌い終えると、桃子が感心したように言った。 
  
 「ももはボイスパーカッション下手だね」 
 「ひどーいっ。一生懸命やったのに」 
  
 ガシャン。 
 桃子が不満げに顔を顰めて、フェンスに寄り掛かる。 
 すでにフェンスに寄り掛かっていた愛理の背中に振動が伝わる。 
 伝わってきた振動を返すように愛理が両手でフェンスを揺らすと、桃子が身体をフェンスから離した。 
  
 「愛理さー、ピアノじゃなくて声楽の方に進むことは考えてないの?」 
  
 唐突にそう言って、 
 愛理の正面に桃子が立つ。 
  
 思いもよらなかった進路を提示されて、愛理はじっと桃子を見た。 
  
   
- 153 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:13
 
-  「それって、ピアノ向いてないってこと?」 
  
 愛理は今までピアノ以外の進路を考えたことがなかった。 
 歌も好きだが、ピアノの方がもっと好きだった。 
 中学生のうちに進路を決めてしまうのは早いと親に言われた記憶があるが、それでも、ピアノ以上に好きになれるものを見つけられるとは思えなかった。 
  
 「違う、違う。愛理がピアノ好きなの知ってるし。それに、あんなに毎日練習してるんだもん。向いてるよ、ピアノ。でも、歌も上手いねって話」 
 「ありがと」 
 「でもさ、たまには外に出ないと駄目だと思うよ。ピアノばっかじゃなくて、外にも目を向けないと!それに息抜きも必要だよ」 
 「まあ、確かにそうかもしれないけど。でも、なんで急にそんなこと言い出すわけ?」 
  
 ピアノばかりではなく外の世界も見なさい。 
 学校でもそう教えられている。 
 だから、桃子の言うことは間違っていないのだが、屋上で歌を歌うこととは関係ないような気がする。 
 それに、息抜きという言葉は愛理に栞菜を思い起こさせた。 
  
   
- 154 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:15
 
-  夏休み前、栞菜と約束をした。 
 息抜きとして一緒に愛の挨拶を弾く。 
 そう言ったまま、夏休みに入ってから一度も練習室に栞菜が来ていない。 
 来るのは桃子だけで、それが嫌なわけではなかったが、何だか物足りなかった。 
  
 「なんかさー、毎日練習ばっかで、夏休みっぽいこともしてなかったし。気分転換にいいかなーって」 
 「だからって、あたしまで気分転換させなくても」 
 「もも一人で気分転換してもつまんないし。それにさ、気持ち良かったでしょ?」 
 「ん、まあ。気持ち良かったけど」 
 「じゃあ、いいじゃん!」 
 「もう、ももは強引だなあ」 
 「楽しければなんでもいいの!栞菜来ないからって、つまんなそうにしてるよりよっぽどいいって」 
  
 桃子がくすくすと笑って愛理を見る。 
 覗き込まれるようにして顔を見られて、愛理は桃子から目をそらした。 
  
  
   
- 155 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:17
 
-  「つまんないなんて言ってないよ!」 
 「えー?つまんなそうな顔してたけどなあ。愛理ちゃん」 
  
 悪戯っぽくそう言うと、桃子が愛理に顔を近づけてくる。 
 愛理は逃げるように桃子に背を向けた。 
  
 つまらなくはない。 
 栞菜が約束を守ってくれないから、面白くないだけだ。 
 二人で弾くと決めた曲を練習しているのが自分だけのような気がして、それが不満なのだ。 
 夏休みに入ってから寮内で何度も栞菜に会っていたが、愛の挨拶についての話はしていない。 
 だから、栞菜が練習しているのかわからない。 
 練習をしていないわけがないとは思うが、聞いたわけではないから自信がなかった。 
  
 愛理は中庭を見下ろす。 
 夏の初め、雨に濡れていた大きな木が青々と茂っていた。 
 『雨だれ』を弾いていたのが随分昔のことのように思える。 
  
   
- 156 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/07(金) 03:18
 
-  「愛理、なに見てんの?」 
  
 声と同時に背中に柔らかな感触がする。 
 フェンスに張り付くようにしている愛理の背中に桃子が抱きついていた。 
  
 「暑くない?」 
  
 愛理は何を見ているかを答えずに、背中にある熱に文句を言う。 
  
 「うん、暑い」 
 「なら、離れようよ。もも」 
  
 暑いと言いながらも離れようとしない桃子に、愛理は振り向こうとする。 
 だが、振り向く前に桃子以外の声が聞こえた。 
  
   
- 157 名前:Z 投稿日:2008/11/07(金) 03:18
 
-   
   
- 158 名前:Z 投稿日:2008/11/07(金) 03:18
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 159 名前:Z 投稿日:2008/11/07(金) 03:19
 
-  >>141 にっきさん 
 お待たせしました! 
 ぜひ、このままメロメロになり続けてくださいw  
- 160 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/07(金) 11:29
 
-  栞ちゃんと会えなくて私が寂しくなってきましたww 
 声の主に期待(´・ω・`)  
- 161 名前:にっき 投稿日:2008/11/07(金) 23:24
 
-  またまた先輩活躍?嬉しいです 
 かなり大好き過ぎてこわい…w 
  
 愛理の気持ちの行方も楽しみですが、なかなか登場しないあの子が気になって仕方ありません  
- 162 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:38
 
-  「……ももちゃん、なにやってんの?」 
  
 聞き覚えのある声に、愛理は声の主の名前を呼ぼうとした。 
 けれど、愛理よりも先に桃子がその名前を呼んだ。 
  
 「栞菜、やっと来た。来るの、遅いよ」 
  
 栞菜に声をかけてから、桃子が背中から離れる。 
 身体に張り付いていた熱が逃げて、少しだけ涼しくなる。 
 いつの間にやってきたのか、桃子の後ろには栞菜が立っていた。 
  
 「なんで、栞菜がいるの?」 
 「呼び出された」 
  
 愛理が問いかけると、栞菜が桃子を指さした。 
 フェンスに寄り掛かりながら、愛理は桃子を見る。 
  
   
- 163 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:40
 
-  「もも、なんで?」 
 「久々に会いたいんじゃないかと思って」 
 「寮で会ってるんだけど」 
 「知ってる。でも、ほら、外で会ったらまた気分も変わるんじゃないかと思ってさ」 
  
 二人の間に立った桃子が愛理と栞菜の肩を叩いた。 
  
 何を考えているのか本当にわからない。 
 愛理は桃子の手を肩から下ろして、小さく息を吐き出した。 
  
 「で、ももちゃんはあたしを呼び出しておきながら、愛理に手を出していたと」 
  
 栞菜が眉根を寄せて桃子を見る。 
 そして、愛理の手を握った。 
 栞菜から軽く腕を引かれて、愛理は慌てて答えた。 
  
 「出されてないから!」 
  
 思わず大声になるが、声はすぐに生温かい空気の中に消えてしまう。 
  
   
- 164 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:42
 
-  「そうそう。ももはそんなことしないよ」 
  
 事の原因である桃子が他人事のように言い放つ。 
 その言葉を信じていないのか、栞菜が愛理と桃子の間に割って入って、桃子に念を押した。 
  
 「……手、出したらだめだからね」 
 「出しそうに見える?」 
 「めちゃめちゃ見える!それになんか、手が早いって噂だし」 
 「どこの噂なの、それは」 
 「中三ネットワーク」 
 「ろくなネットワークじゃないね、それ」 
  
 桃子が呆れたように言った。 
 そして愛理の隣にぺたりと座り込む。 
  
 「今は美術部の可愛い子とよく一緒にいるって噂だけど」 
 「ああ、梨沙子?っていうか、栞菜。ももがなんで梨沙子と一緒にいるか知ってるんだから、変な噂は修正しといてよ」 
  
 焼けたコンクリートの上に脚を投げ出して座っている桃子が栞菜を見上げる。 
  
   
- 165 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:44
 
-  「やーだ!愛理に手を出すような悪い人の言うことは聞きませーん!」 
 「じゃあ、もも、栞菜の噂ながしとこ。高二ネットワークで」 
 「うわ、やだ。それ、やめて。ももちゃんが言うと、何かものすごくやなこと起こりそうな気がする」 
  
 そう言って、栞菜が顔を顰めた。 
 嫌なものを見るような目をした栞菜を見て愛理は大げさだと感じたが、同時にそれも仕方がないと思った。 
 桃子は人が困るような噂を流すタイプではないが、桃子が絡むと小さな話が大きな話になることがよくある。 
 だから、栞菜が嫌な顔をするのもわからないでもなかった。 
  
 「ちょっと失礼な!天使みたいなもも捕まえて、悪魔みたいに言わないで」 
 「悪魔だと思うなー。だって、困ってたよ。雅ちゃんが」 
 「え?なんで?」 
 「なんでって……。そりゃあ、伴奏の練習もしないで遊び回ってるから」 
 「遊んでるわけじゃないんだけどなあ。愛理の練習を見てただけなのに。それに影でこっそりやってるからいいの」 
  
 桃子がヴァイオリンの伴奏をしているのは知っていた。 
 そして、それが栞菜の先輩である夏焼雅という人物の伴奏だということも知っている。 
 だが、愛理は雅に会ったことがなかった。 
  
   
- 166 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:47
 
-  大抵の場合、同学年の生徒に頼む伴奏を、一学年上の桃子に頼んでいる雅という人。 
 桃子が栞菜と親しいのは、愛理を通じてだけでなく、雅を通して会うことも多いからだと聞いているが、雅は随分と変わった人なのだろうなと愛理は思う。 
 ピアノは上手いが扱いにくい人物である桃子にわざわざ伴奏を頼むのだから、変わっているとしか言いようがない。 
 桃子は今もこうして伴奏の練習を放り出して遊び歩いているのだから、愛理は栞菜からも話をよく聞く雅に同情したくなる。 
  
 「あたしの練習見てる暇あったら、こっそりじゃなくて堂々と練習した方がいいんじゃない?」 
  
 桃子へ声をかけながら、愛理もコンクリートの上へ腰を下ろす。 
 太陽に照らされ続けたコンクリートの熱がスカートを通して伝わってくる。 
  
 「やるときはビシッとやるからいいの!」 
 「雅ちゃん、早くビシッとしてほしそうだったけど」 
  
 ビシッと桃子を指さしながら栞菜が座り込む。 
 形勢が悪くなった桃子が困ったように言った。 
  
   
- 167 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:50
 
-  「もう、もものことはいいの!そんなことより、栞菜。えりかちゃんはいいの?」 
  
 聞き慣れない名前が桃子の口から飛び出す。 
  
 「えりかちゃん?」 
  
 愛理は耳から聞いた名前をそのまま口に出してみる。 
 だが、それに対する答えはなく、焦ったように口を開いた栞菜が桃子に向かって早口で言った。 
  
 「今、えりかちゃんは関係ないじゃん」 
 「えー?そうかなあ。もも、栞菜がえりかちゃんにまとわりついてるって噂聞いたけど。ていうか、何度も見たし。えりかちゃんの教室に行くところ」 
 「え、そんなことないって。ほら、弦同士、話が合うみたいな」 
  
 手をパタパタと振りながら栞菜が桃子に答える。 
 愛理は栞菜の友人関係に口を出すつもりはないし、そんな権利があるとは思っていない。 
 しかし、初めて聞く名前と栞菜の態度が気になった。 
  
   
- 168 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:52
 
-  「えりかちゃんって、だれ?」 
  
 愛理は二人の会話に割って入る。 
 少しばかり棘のある声になったが、栞菜と桃子は気がついていないようだった。 
  
 「知りたい?」 
 「うん」 
  
 桃子がやけに楽しそうな声色で言った。 
  
 「ももと同じ学年の子なんだけど。チェロ弾いてる日本人離れした感じの子、わかんない?ちょっとこう、モデルっぽい感じでさ」 
 「背が高くて、足長い人?」 
 「高いってどれぐらい?」 
 「天井に手が届きそうな」 
  
 座ったまま手を空に向かって伸ばす。 
 愛理の頭の中には、中等部で噂になるほど背の高い女の子の姿が浮かんでいた。 
 しかし、手先をぴんと伸ばしたところで、栞菜が聞いたことのある名前を口にする。 
  
 「それ、たぶん、熊井ちゃんだよ。熊井ちゃんもチェロやってるけど、あたしと同じクラス」 
 「あ、そっか。ももと同じ学年なんだっけ」 
  
   
- 169 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:54
 
-  同じピアノ科の生徒ならば高等部のことでもある程度のことがわかるが、さすがに弦楽器や管楽器など他の科の生徒のこととなるとわからないことが多い。 
 愛理が眉根を寄せて考え込んでいると、桃子がヒントになる言葉を探し始めた。 
  
 「もっとこう、海の向こうっぽい感じの、えーと、なんていうの?」 
  
 うーん、と唸りながら桃子が栞菜に助けを求める。 
  
 「中東っぽい人」 
 「あー、それそれ」 
  
 栞菜の言葉に桃子が同意する。 
 中東という言葉が愛理の頭の中でころんと転がった。 
  
 「あー!わかった!ハーフみたいな人だ」 
  
 高等部の演奏会でそんな人を見た記憶があった。 
 彫りの深い顔立ちがとても印象的で、よく覚えている。 
 友人達がえりかのことをハーフのようだと騒いでいた。 
  
   
- 170 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:56
 
-  「そうそう。たぶん、その人であってる」 
  
 満足げに桃子が頷いた。 
  
 「栞菜、その人と仲が良いの?」 
 「うん、まあね。同じ弦だし、雅ちゃんとも仲が良いからよく会うんだ。面白い人で話も合うからさ。あ、でも!別になんでもないからね!」 
 「なんでもって?」 
 「なんでもは、なんでもでしょ」 
 「別に仲良くてもいいんじゃない?」 
 「そうだけどさあ」 
  
 愛理の方へと身を乗り出してきた栞菜が困ったように呟く。 
 起ち上がって栞菜を見下ろすと、叱られた犬のようにしゅんとして見えた。 
  
 栞菜のことについて知らないことがあっても不思議ではない。 
 愛理自身も日常生活の全てを栞菜に報告しているわけではないから、栞菜の知らないことがある。 
 何故、教えてくれなかったのだろうかと疑問に思っただけだ。 
  
   
- 171 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 04:57
 
-  「明日さ、愛理って練習、午前中だよね?」 
  
 栞菜に下から制服の裾を掴まれる。 
  
 「そうだけど」 
 「あたし、午後からなんだ。だから、明日行くね」 
 「わかった」 
  
 栞菜と練習をしたいと思っていた。 
 数時間前までなら、きっと嬉しくてはしゃいでいただろうと愛理は思う。 
 今も一緒に練習が出来ることを嬉しいと思うが、手放しでは喜べない。 
 胸の中にもやもやとしたものが広がっていて、それがはしゃぎたい気分にブレーキをかけていた。 
  
 愛理はフェンスに寄り掛かる。 
 ぴょんと跳ねるように起ち上がった桃子が、愛理を落ち着かせるように髪をくしゃくしゃと撫でた。 
 太陽に照らされ続けて熱を持った髪が桃子の指に絡みつく。 
 夏の日差しは弱まりそうになかった。 
  
  
  
   
- 172 名前:コンチェルト − 3 − 投稿日:2008/11/11(火) 05:00
 
-   
 翌日、夏休みに入ってから初めて栞菜が練習室にやってきた。 
 休み中、一人で練習をしてきた『愛の挨拶』を二人で弾く。 
 夏休み前に一度だけ栞菜と音を合わせたことがあったが、今日はその時よりも不協和音が目立っていた。 
 理由は簡単だ。 
 指が練習通りに動かない。 
 栞菜が滑らかに弾くメロディーに合わせることがどうしても出来なかった。 
  
 えりかのことよりも、思い通りに弾けない自分に苛立つ。 
 愛理は、もっと練習をして、何があってもいつもと同じように弾けるようにしようと心に決めた。 
  
  
  
  
   
- 173 名前:Z 投稿日:2008/11/11(火) 05:00
 
-   
   
- 174 名前:Z 投稿日:2008/11/11(火) 05:00
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 175 名前:Z 投稿日:2008/11/11(火) 05:06
 
-  >>160さん 
 期待に応えられたでしょうか(´▽`) 
  
 >>161 にっきさん 
 活躍しすぎかも?w 
 なかなか登場しないあの人のことも忘れてはいません(´▽`)  
- 176 名前:にっき 投稿日:2008/11/11(火) 23:31
 
-  先輩好きですw 
  
 無自覚にやきもち妬いてる感じが読んでて楽しいです 
 そして新しい名前が・・・楽しみです 
   
- 177 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/11/12(水) 01:57
 
-  雅ちゃん出るのかな?(^ω^) 
 
- 178 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2008/11/17(月) 02:26
 
-   
  
  
 コンチェルト − 4 − 
  
  
  
   
- 179 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:29
 
-  夏休みを心待ちにしていた時はもどかしいほど時間の流れがゆっくりだったのに、実際に休みにはいると時間の流れがやけに早く感じる。 
 七月はあっという間に過ぎ去り、八月。 
 寮生の大半は家へ帰っていたが、愛理はお盆まで家に帰るつもりはなかった。 
 同じような考えの寮生ばかりが残った寮には、栞菜や桃子という馴染みの顔がいくつかあった。 
 だが、栞菜の先輩であり友人でもあるえりかは実家に帰ったと、『愛の挨拶』の練習の合間に栞菜から聞いた。 
  
 不協和音だらけの練習の後、何度も栞菜と音を合わせる機会があった。 
 あれから栞菜の口からえりかの話が出てくるようになったが、愛理の方からえりかのことを聞いたことはない。 
 聞いてみたいと思うことはいくつかある。 
 知り合ったきっかけや、えりかの教室を尋ねる理由。 
 愛理はそんなことを聞いてみたいと思ったが、それは栞菜の友人関係に踏み込みすぎているような気がしたし、何よりもえりかの話をしようとするとピアノが上手く弾けなくなる。 
 栞菜の口からえりかの話が出るだけで、音が不安定になるのだ。 
  
   
- 180 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:32
 
-  音は正直だ。 
 弾き手の気持ちがそのまま音に出る。 
 安定しない心がピアノの音に表れて、思うように弾けない。 
 綺麗な音を奏でる為には、気持ちを乱すわけにはいかなかった。 
 だから、愛理は自分の方からえりかのことを口に出来るとは到底思えなかった。 
  
 気分を変える為に鍵盤を一つ叩いてみる。 
 その音に合わせて、軽く声を出す。 
 記憶を頼りに子供の頃歌った歌を弾く。 
 そして、愛理は歌を歌う。 
 練習室にピアノの音だけでなく、歌も広がっていく。 
  
 桃子に言われて屋上で歌った日から、愛理は練習の合間の気分転換に歌を歌うようになった。 
 歌う歌はその日の気分によって変えている。 
 学校で習った歌だったり、流行の歌だったり。 
 伴奏は耳から聞いた音を頼りに弾いているから、正しいものかはわからない。 
 けれど、ピアノの練習とは違い正確さや美しさは関係なかった。 
 楽しく弾いて歌うことが出来ればそれでいい。 
  
   
- 181 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:33
 
-  練習している曲やえりかのこと。 
 気になっていたことが声と一緒に身体の外へ出て行く。 
 声を出すたびに身体が軽くなっていくようだった。 
  
 一番を歌い終え、二番を歌い始めると練習室にノックの音が響いた。 
 愛理は手を止めて扉を見る。 
 カチャリと乾いた音を立てて扉が開き、ヴァイオリンを抱えた栞菜が練習室に入ってくる。 
  
 「おはよー」 
  
 栞菜が午後とは思えない挨拶を口にした。 
  
 「挨拶間違ってる」 
 「昼寝してた」 
  
 ふああ、と欠伸をしながら栞菜がヴァイオリンケースを開ける。 
 まだ目が覚めきっていないのか、栞菜の動きはのろのろとしたものだ。 
  
   
- 182 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:34
 
-  「歌、歌ってたでしょ?」 
  
 目をごしごしと擦りながら栞菜が愛理を見た。 
  
 「何でわかったの?」 
 「口ぱくぱくしてるの、そこの窓から見えたもん」 
  
 扉の小窓を指さされ、愛理はなるほどと納得する。 
 あれから、栞菜の前でも何度か歌ったことがあるから、栞菜が愛理の口の動きだけで何をしているのかわかっても不思議はない。 
  
 「最近、歌うの好きだね。どうして?」 
 「どうしてって、別に理由はないけど」 
 「声楽に変わるつもり?」 
 「変わらないよ!」 
  
 声が大きくなる。 
 調弦を始めていた栞菜がその声にくすりと笑った。 
  
   
- 183 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:37
 
-  「歌と言えばさ、昨日えりかちゃんから電話かかってきて、突然、歌って良いよねーって言って歌い出しちゃって大変だったんだよね。この前、ライブに行ったとか言ってたから、それの影響だよ。あれは絶対に部屋で、エアギターとかやってた。なんか、ノリノリだったもん」 
  
 窓際に立った栞菜が最近流行っているバンドの曲を口ずさむ。 
 えりかの真似なのか、ヴァイオリンをギターに見立てて栞菜が派手なアクションを付けて歌う。 
  
 二人の間で、こうしてえりかのことが話題になるのは普通のことになっていた。 
 愛理は未だにえりかと直接会話をしたことがなかったが、栞菜のおかげでえりかの好物や好きな歌手、苦手な科目まで知っている。 
  
 「この曲、愛理も好き?」 
  
 数小節歌った栞菜から問いかけられる。 
 バンドのことは詳しく知らないが、栞菜が歌った歌は好きな曲だった。 
 だが、素直に好きだと言う気分にはなれなかった。 
  
 「まあまあ」 
  
   
- 184 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:38
 
-  曖昧に答えて、今聞いた音をピアノの音に変えてみる。 
 栞菜が歌った曲がたどたどしい音へと変換されていく。 
 けれど、歌をピアノの音に変えてみても、頭に浮かぶのはバンドの演奏ではなく、まだ話したことがないえりかのことだった。 
  
 手を止めて栞菜を見る。 
 いつの間に調弦を終えたのか、栞菜がヴァイオリンを構えて待っていた。 
 愛理は慌てて楽譜を譜面台へ置く。 
  
 「じゃあ。音、合わせようか」 
  
 栞菜が静かに言った。 
  
 息を吸って吐く。 
 気持ちを切り替えて鍵盤に指を置く。 
 そして聞き慣れた曲を弾き始める。 
  
 「気分、のらない?」 
  
 曲の半分も行かないうちに、栞菜がヴァイオリンを弾く手を止めた。 
 止められた理由はすぐにわかった。 
  
   
- 185 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:40
 
-  楽譜を追って指を動かしていただけ。 
 そんなことは自分が一番良くわかっている。 
 ピアノに向かいながら考えていたのは、曲のことではなく他のことだ。 
 愛理は栞菜の方を見ることが出来ず、じっと鍵盤を見つめた。 
  
 「あのさ。もしかして、えりかちゃんのこと、気になる?」 
 「別に」 
  
 どくん、と心臓が大きな音を立てた。 
  
 「この前もえりかちゃんの話したあと、愛理の音が変わった」 
 「そんなことない」 
  
 数日前にも同じようなことがあった。 
 えりかの話を聞いた後に『愛の挨拶』を弾き、栞菜から途中で演奏を止められた。 
 今もあの時と同じように、栞菜が心配そうな顔で愛理を見ていた。 
  
 「えりかちゃんは友達だよ。いろんなこと相談してるの」 
 「この前、聞いた」 
  
   
- 186 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:41
 
-  屋上で歌を歌った翌日。 
 練習室で『愛の挨拶』を弾いたあと、栞菜が言い訳のように言った。 
 何を相談しているかは聞かなかったから知らない。 
  
 「あとは音楽の話とか」 
 「それもこの前聞いた」 
  
 えりかに相談をしている、と聞いた翌日にその話を聞いた。 
  
 「……愛理、なんか怒ってる?」 
  
 ヴァイオリンを片手に栞菜が愛理の隣へ移動してくる。 
  
 「怒ってない」 
 「えりかちゃんのこと気にしてくれるのは嬉しいけど……。なんでもないから」 
 「気にしてない」 
 「じゃあ、なんで機嫌悪いの?」 
 「悪くない」 
 「悪いよ」 
  
   
- 187 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:43
 
-  横から顔を覗き込むように見られる。 
 機嫌が悪くないというのは嘘ではない。 
 ただどこかすっきりしないだけだ。 
  
 「ね、なんで、えりかちゃんのこと気にしてくれるの?」 
 「気にしてないってばっ!」 
  
 愛理の話を聞いているはずの栞菜が、一度否定した話を持ち出してくる。 
 だから、つい言い方がきつくなった。 
 栞菜を見ると驚いた顔をしていて、愛理は誤魔化すように楽譜を手に取りじっと見た。 
 けれど、音符は紙に張り付いたままで頭の中に音楽として入ってこない。 
 それでも眉間に皺を寄せて楽譜を見ていると、肩に栞菜の手が置かれた。 
  
 「これからはさ、あんまりえりかちゃんのこと話さないから」 
 「それだめ!」 
  
 愛理は反射的に答えていた。 
 話され続けるのも気になるが、えりかのことを知った今、まったく話されなくなったらかえって気になる。 
  
   
- 188 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:44
 
-  「へ?」 
 「話さないのも気になるじゃん」 
 「やっぱ、気にしてたんだ」 
 「気にしてないし!」 
 「してんじゃん」 
  
 栞菜から勝ち誇ったように言われて、愛理は言葉に詰まる。 
  
 「だ、だって。栞菜がずっと梅田先輩のこと黙ってたから、ちょっと気になっただけだもん」 
 「黙ってるのいや?」 
  
 こくんと愛理は頷いた。 
 栞菜とは隠し事のない仲でいたいと思う。 
 愛理は栞菜に隠していることなどないし、栞菜もまた同じであって欲しい。 
 今までと変わることなく、一番の友人でいたかった。 
  
   
- 189 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:46
 
-  子供の頃からピアノが大好きで、ピアノばかり弾いてきた。 
 ずっとピアノが一番の友達だった。 
 大好きなピアノをもっと弾きたくて、中学から音楽を学べるこの学校を選んだぐらいだ。 
 そんな音楽漬けの生活を送っていた愛理は、栞菜に出会って初めて大切な友達という存在を得た。 
 友達といることがピアノを弾くことと同じぐらい楽しいと知って、栞菜の他にも大切な友達が増えていった。 
 桃子や梨沙子、千聖と今のように親しくなれたのも栞菜と友達になれたからなのかもしれない。 
  
 「もっとたくさん話してよ」 
  
 ぼそりと愛理は呟いた。 
  
 「そしたら怒らない?」 
 「怒ってない」 
  
 隣に立っている栞菜を見上げてそう言うと、栞菜がくすくすと笑った。 
  
   
- 190 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:47
 
-  「じゃあ、これからもっともっとあたしのこと愛理に話す。だから、いろんな話聞いてくれる?」 
 「うん」 
 「えりかちゃんのことも話す」 
 「うん」 
 「でさ、今度えりかちゃん紹介するよ。面白い人だから、きっと愛理も気に入ると思う。それで、三人でどこか遊びに行こうよ」 
 「うん」 
  
 愛理が頷くと、ぽんと肩を叩かれた。 
 えりかのことを紹介してくれるという言葉だけで、随分と心が軽くなったような気がした。 
 実際に会ってみれば、心の中にあるもやのようなものが消えて無くなるかもしれない。 
  
 「もう一回、弾こうか」 
  
 栞菜がヴァイオリンを構える。 
 愛理は手にしていた楽譜を譜面台へと戻した。 
 栞菜を一度見てからピアノを弾き始める。 
  
   
- 191 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:49
 
-  弾き始めてからあっという間に曲が終わった。 
 もともと短い曲だが、気持ち良く弾けたせいか曲が短く感じられた。 
 愛理はふうっと息を吐き出す。 
 栞菜を見ると、同じように息を吐き出していて愛理は思わず吹き出した。 
  
 「なに笑ってるの?」 
 「同じだなあっと思って」 
 「なにが?」 
 「今、あたし、ふうって息吐いたの。そしたら栞菜もふうってしてた」 
 「気分良く弾けたからさ、ついつい」 
  
 そう言って、栞菜がもう一度息を吐き出す。 
 さっきよりも大きく息を吐き出した栞菜を真似て、愛理も息を吐き出してみる。 
  
 「こうやって、上手く出来ると気持ちいいなあ」 
  
 時計を見て、ヴァイオリンをケースに戻し始めた栞菜がしみじみと言った。 
 愛理はそれに頷く。 
  
   
- 192 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:50
 
-  「そうだね」 
 「もうずっとこの曲練習してたいね」 
 「あたしの練習時間、全部栞菜に取られるの?」 
 「うん。それで、あたしの練習時間も愛理にあげる」 
 「それってテストどうなるの?」 
 「しりませーん!」 
  
 無責任に栞菜が言い放つ。 
 栞菜とこうして練習出来るのは嬉しいが、テストを放り出すわけにはいかない。 
 真面目にそんなことを考えてから、いつも愛理に向かって「真面目だなあ」と言う桃子が頭に浮かんで思わず苦笑する。 
  
 「そう言えばさ、栞菜知ってる?高等部でのあたしと栞菜の噂」 
  
 ヴァイオリンをケースにしまい終わった栞菜に話しかける。 
 桃子の顔と一緒に、桃子から聞いた噂が愛理の頭の中に浮かんだのだ。 
  
 「噂?」 
 「うん。ももの話だと、あたしと栞菜って高等部で噂になってるんだって」 
 「それって、どんな噂?」 
  
   
- 193 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:52
 
-  不思議そうな顔で栞菜が言った。 
 あの噂については、栞菜に一度聞いてみたいと思っていた。 
 愛理はせっかく思い出したのだからこの機会に聞いてみようと思い、 
 桃子から聞いた話をそのまま栞菜に話して聞かせた。 
  
  
 「関係ないじゃん、噂なんて」 
  
 思った通りの答えが返ってくる。 
  
 「人の噂も四十九日だよ」 
 「栞菜、それ法事……」 
 「あっ、七十五日か」 
 「もう、しっかりしてよ」 
  
 あははと笑って、栞菜が窓際の壁へいつものように寄り掛かる。 
  
 「愛理はいろんなことを気にしてるんだなあ」 
 「栞菜は気にしなさ過ぎ」 
 「じゃあ、丁度いいじゃん」 
 「なにが?」 
 「あたしと愛理、足して二で割ったら丁度いいってこと」 
 「実際に足して二で割ったり出来ないんだから、丁度良くないもん」 
  
   
- 194 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:53
 
-  そう言って、譜面台の上から楽譜を手に取る。 
 練習室の使用時間も終わり間近になり、愛理は膝の上で楽譜をとんとんと整えた。 
  
 「そうだなー。じゃあさ、こういうのはどう?愛理が気にする分、あたしが気にしないっていうの」 
  
 ぽんと手を叩いて栞菜が言った。 
 楽譜を鞄にしまっていると、素晴らしいアイディアだと言いたげに栞菜が言葉を続けた。 
  
 「あたしの変わりに、愛理があたしのこと気にしてくれるの」 
 「そんなの都合良すぎる!あたしも気にしない方がいい」 
 「いーじゃん。今さら性格かわんないんだから」 
 「そーだけどさあ」 
  
 変われるものなら栞菜ぐらい気にしない性格に変わりたいと思う。 
 けれど、栞菜が言うように今さら性格が変わるとは思えなかった。 
 愛理は大きなため息をついてから、鞄を持って起ち上がる。 
  
   
- 195 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:55
 
-  「そんなに気になる?」 
 「そんなにってほどじゃないけど。でも、ちょっとは……。栞菜は気にならないの?」 
 「うん、気にならない。だって、変なことしてるわけじゃないし」 
 「そりゃそうだけど」 
 「それとも、愛理ちゃんは変なことしたいのかな?それなら、それでいいけど」 
  
 ヴァイオリンケースを持って隣へやってきた栞菜が、ふざけたように愛理の肩を抱いた。 
  
 「したくありませんっ!」 
  
 その手を軽く払い除けると、栞菜が大げさに顔を顰めて手を押さえた。 
 そして、手を押さえながら練習室の扉を開ける。 
  
 「あたしもしないよ。愛理の練習見たいだけだし」 
 「なんで練習見たいの?」 
 「楽しいからだよ。愛理といると。愛理は?」 
 「あたしも楽しい」 
 「じゃあ、それでいいじゃん。今は」 
 「今は?」 
  
   
- 196 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2008/11/17(月) 02:56
 
-  栞菜が蒸し暑い廊下へぴょんと飛んで出る。 
 愛理に背を向けるように着地した栞菜が、きゅっと靴を鳴らしてくるりと振り向いた。 
  
 質問に対する返事はない。 
 栞菜はにこりと笑っただけだった。 
  
  
  
   
- 197 名前:Z 投稿日:2008/11/17(月) 02:56
 
-   
   
- 198 名前:Z 投稿日:2008/11/17(月) 02:56
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 199 名前:Z 投稿日:2008/11/17(月) 03:00
 
-  >>176 にっきさん 
 やっと新しい名前が出てきました。 
 やきもきしてばかりの愛理の運命やいかに!?w 
  
 >>177さん 
 登場するかどうかは今後のお楽しみです(・∀・)  
- 200 名前:名無飼育さん  投稿日:2008/11/17(月) 08:12
 
-  何だかんだで素直な愛理萌えー(*´Д`) 
 
- 201 名前:sage 投稿日:2008/11/17(月) 20:15
 
-  初コメです! 
 いつも更新楽しみにしてます。 
 愛理と栞菜の今の関係、すごくくすぐったい感じがして読んでいて微笑ましいです! 
  
 これからもっと2人の距離が縮まっていくことを願ってます! 
  
 更新がんばってください!  
- 202 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/11/17(月) 20:17
 
-  すみません 
 間違えました、、  
- 203 名前:にっき 投稿日:2008/11/20(木) 00:06
 
-  今は・・・栞菜素敵ですw 
 ちょい鈍感愛理が可愛すぎる(*´∀`)  
- 204 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/11/24(月) 12:30
 
-  Zさんの書く愛栞は本当に最高です! 
 
- 205 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:16
 
-  今は、って何だろう。 
  
 栞菜から何の言葉もなく、疑問だけが愛理の頭に残る。 
 練習室を出て、靴を鳴らしながら歩く栞菜の背中を見る。 
 愛理は栞菜の隣を歩いていたはずだった。 
 だが、考え事をしていたせいか、いつの間にか栞菜との距離が広がっていた。 
 涼しかった練習室とは違うむっとした暑さの中、 
 規則正しいきゅっきゅっという音が廊下に響く。 
  
  
 人気のない廊下、愛理は栞菜の言葉を何度も頭に思い浮かべてみるが、思考を遮るように靴音が頭の中に入り込んでくる。 
 結局、どれだけ考えても言葉の意味はわからない。 
 愛理は疑問を解消しようと栞菜に声をかける。 
  
 「栞菜、さっきの」 
  
 愛理はそこまでしか口に出来なかった。 
 続く言葉は背中に感じた衝撃に奪われる。 
   
- 206 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:17
 
-  「愛理、練習終わったの?」 
  
 特徴的な高い声。 
 背中から聞こえてきた声は桃子のものだった。 
  
 「……もも」 
  
 せっかく口にした言葉を途中で奪われ、愛理の声は恨みがましいものになる 
  
 「なにその残念そうな声」 
  
 どん、と体当たりをしたまま愛理に抱きついていた桃子が不満そうに言った。 
 愛理は腰に回された桃子の腕を解いて、振り向く。 
  
 「残念なわけじゃないけど」 
 「けど?」 
 「痛かった」 
  
 答えが聞けたかもしれない。 
 そう思うが、何も知らない桃子に言っても仕方がないことだと諦めて、愛理は桃子の腰をぽんと叩いた。 
   
- 207 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:19
 
-  「ごめん」 
  
 反省の色のない声で謝ってから、桃子が愛理の後ろにいる栞菜を見てにやりと笑った。 
  
 「愛理の背中見えたし、一緒に帰ろうかと思ったんだけど。……もしかして、もも邪魔だった?」 
  
 その言葉に反応して、栞菜が愛理の隣へやってくる。 
 そして、桃子を軽く睨むと、栞菜が冷たい声で言い放つ。 
  
 「邪魔」 
 「うわ、栞菜ひどい」 
  
 桃子が大げさにふらりとよろけて、廊下の壁に縋り付く。 
 暗い顔をして栞菜をじっと見る。 
 数秒の間、桃子が黙って見つめ続けていると、栞菜が笑い出した。 
  
 「うそうそ、一緒にかえろ。いいよね、愛理?」 
 「もちろん」 
  
 断る理由もなければ、邪魔だと思ったこともない。 
 栞菜に頷いて、愛理は三人で歩き出す。 
 練習室での話の続きをするような雰囲気ではなくなり、たわいもない話をしながら廊下を歩く。 
 階段を降りて玄関で靴を履き替える。 
 音楽のことよりも、昨日見たテレビや最近読んだ漫画の話などをしながら玄関を出ると、グラウンドが見えた。 
   
- 208 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:21
 
-  「この暑い中、よくグラウンドなんか走り回れるよね」 
  
 真夏の日差しの下、運動部と思わしき生徒達が体操服で走り回っている様子を見て、桃子がしみじみと呟いた。 
  
 「運動部ってすごいねえ」 
  
 愛理もそれに同意する。 
 夕方に近い時間とはいえ真夏のグラウンドは、エアコンにより快適な温度が保たれている練習室とは比べものにならないほど暑い。 
 校内を歩いているだけで汗が噴き出し、気怠い気分になってくる愛理には、グラウンドを駆け回っている生徒達の存在が信じられないものに思える。 
 桃子と二人、見ているだけで暑くなってくるようなグラウンドの様子を眺めていると、栞菜が呆れたように言った。 
  
 「二人とも、年寄り臭いって」 
  
 栞菜が、どんっと勢いよく二人の背中を叩く。 
   
- 209 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:22
 
-  「じゃあ、栞菜は走り回れるわけ?」 
  
 痛みに顔を顰めながら桃子が栞菜を見る。 
 すると、栞菜が即答した。 
  
 「無理。あんな暑苦しいことしたくない」 
  
 ぶんぶんと片手を顔の前で振ってから、栞菜がグラウンドの一点を指さす。 
 愛理が栞菜の指先を見ると、グラウンドの中でも特に元気が良さそうな生徒が飛び跳ねていた。 
  
 「この暑さであんな風に飛び回ってたら、死にそう。っていうか、あのぴょんぴょんしてるの千聖じゃない?」 
  
 栞菜が目を細めてグラウンドを見る。 
 それにつられるように愛理と桃子も目を細めた。 
 狭まった視界の中、真夏の太陽に照らされながらグラウンドを飛び回っている生徒は、確かに千聖に見えて、愛理は思わず呟く。 
  
 「あ、ほんとだ」 
  
 そう言えば千聖はソフトボール部だった、と今さらながら思いだし、愛理はグラウンドを眺める。 
 夏休み、音楽科の生徒が練習をするようにソフトボール部にも練習がある。 
 グラウンドに千聖がいるのは当たり前のことだった。 
   
- 210 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:24
 
-  「ソフト部、練習してるんだ」 
  
 栞菜もそれに気がついたのか、思い出したようにソフトボール部のことを口にした。 
  
 「でも、もう練習終わりみたい。戻ってくるよ」 
  
 フェンス近くにいた千聖がこちらの方へ走ってくるのが見えて、愛理はさらに目を細める。 
 グラウンドの端の方にいた千聖がどんどん大きくなってくる。 
 そして、玄関近くまで来ると大声で叫んだ。 
  
 「あーいーりー!かーんーなー!」 
  
 ぶんぶん、と音が聞こえそうな勢いで千聖が手を振る。 
 愛理はそれに応えるように栞菜と二人で手を振った。 
 それを見た千聖がまるで飼い主を見つけた犬のようにぱたぱたと走り寄ってくる。 
 元気だなあ、と栞菜が独り言のように呟く。 
 心の中で愛理も同じ言葉を繰り返して、千聖の方へ数歩歩いた。 
 すると、千聖が愛理の隣を見てぴたりと足を止めた。 
  
 「あ、ももちゃんだ」 
  
 嬉しそうにそう言って、千聖が愛理でも栞菜にでもなく桃子に飛びついた。 
   
- 211 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:27
 
-  「あれ?もも、知り合いだったの?」 
  
 千聖の予想外の行動に、愛理は桃子に問いかけた。 
  
 桃子が千聖と仲が良いという話は聞いたことがない。 
 千聖の口からも聞いたことがなかったし、愛理には二人にどういった接点があるのかわからなかった。 
  
 「ああ、なんか舞美のところによく来てるから」 
 「舞美?」 
  
 じゃれつく千聖の頭を撫でながら桃子が答える。 
 しかし、桃子の口から出てきた名前は聞き慣れないもので、愛理の頭の中は疑問符だらけになる。 
  
 「ソフト部の先輩。矢島舞美っていうんだ」 
  
 愛理にとって足りない情報を千聖が補足するが、それでもまだ頭の中の疑問符は消えない。 
  
 「ももと同じ学年なんだよね、舞美。スポーツ科の子なんだけど、隣のクラスだから結構仲良いの」 
  
 桃子がさらに情報を付け足して、愛理はようやく理解する。 
 詳しい経緯はわからないが、舞美という人物を介して桃子は千聖と知り合ったらしい。 
   
- 212 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:29
 
-  高等部には中等部にはないスポーツ科というものが存在する。 
 たびたびテレビ局が取材に来るような華やかな選手もいて、中等部でも話題になることがある。 
 その中で「矢島舞美」という生徒の名前は聞いたことがないが、オリンピックの影響でソフトボールが一時的なブームになったときに、高等部に格好の良い先輩がいると聞いたことがあった。 
 スポーツに興味がなかったせいもあって、愛理はその格好の良い先輩というのが誰かは知らない。 
 今もそんなことに興味はなかったが、音楽科の中でも少し変わっているといえる桃子と仲が良いという舞美がどんな人物なのかは気になる。 
 だが、愛理が舞美について尋ねる前に、千聖から一つの提案をされた。 
  
 「ね、ねっ!今から、一緒にソフトやらない?」 
  
 千聖がはしゃぎながら三人の顔を見る。 
 そんな千聖に栞菜が面倒臭そうに言った。 
  
 「練習終わったんじゃないの?」 
 「終わったけどさ、今から舞美ちゃん来てくれるんだ」 
 「なにしにくるの?」 
  
 友人の名前が出たせいか、桃子が不思議そうな顔をして千聖に問いかけた。 
   
- 213 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:30
 
-  「遊ぼうと思って呼び出してある」 
 「なにして?」 
 「ソフト」 
  
 今、練習を終えたばかりだとは思えない言葉だったが、千聖が胸を張って答えた。 
 練習が終わったばかりでも、またピアノを弾きたくなる自分と同じだと愛理は思う。 
 千聖がやけに自分に近い存在に感じられて、愛理は千聖に尋ねてみる。 
  
 「そんなに好きなの?ソフトボール」 
 「うん、大好き」 
  
 雲一つ無い今の空と同じように晴れやかな顔で千聖が笑う。 
 つられるように愛理も笑うと、後ろから聞いたことのない声が聞こえた。 
  
 「千聖、遊ぶってなにするの?」 
 「舞美ちゃん、おそーい!」 
  
 千聖の叫び声で、愛理は後ろに立っている人物が舞美だとわかる。 
 くるりと振り向くと、目の前にはすらりと背の高いジャージ姿の生徒が立っていた。 
   
- 214 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:31
 
-  「もう、先輩って呼べって言ってるのに。また三年生に怒られるよ」 
 「いいじゃん。舞美ちゃんは舞美ちゃんなんだからさ」 
  
 舞美が困ったように千聖を見ていたが、千聖の方はそんなことはどこ吹く風でグラウンドを指さした。 
  
 「ソフトやろ、ソフト」 
 「えー、二人しかいないのに?」 
 「大丈夫、この三人もやるから」 
  
 千聖が無責任に言い放った言葉に、栞菜が即答する。 
  
 「言ってないし」 
 「そんなこと言わないで、やろうよ」 
 「無理、無理。帰る」 
  
 ぶん、と首を振って栞菜が一歩下がり、愛理の手を取る。 
 手を繋いで、そのまま愛理を引きずるようにして栞菜が歩き出す。 
 その様子を見ていた桃子も慌てたように後を追う。 
 だが、桃子の肩を舞美が掴んで引き止めた。 
   
- 215 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:32
 
-  「あれ?ももじゃん。こんなところでなにやってんの?」 
 「寮、帰るところ」 
 「帰らないで、ももちゃんも一緒に遊ぼうよー。愛理も栞菜もさー、一緒にやろー」 
  
 桃子が歩きだそうとするが、千聖から腕を掴まれ足を止める。 
 ついでのように名前を呼ばれて愛理も立ち止まった。 
  
 「もも、ソフトとか出来ないし。暑いのやだ」 
 「いいじゃん、もももやれば?たまには身体動かしたほうがいいよ。ここらへんとか、お肉ついちゃうよ」 
  
 舞美が笑いながら、桃子の横腹を軽く突く。 
  
 「ちょっと、舞美。変なこと言わないでよ!」 
 「やんないの?」 
 「やんない。もも、球技苦手だもん」 
  
 素っ気なく桃子が答える。 
   
- 216 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:35
 
-  「えー!みんなやろうよー」 
  
 千聖が悲鳴のような声を上げて、恨みがましい目で三人を見る。 
 けれど、愛理もソフトボールをやろうとは思えなかった。 
 運動は苦手だし、何よりもこの暑さの中では身体を動かす気分にはなれない。 
 千聖には悪いが、グラウンドに出るよりは寮に帰りたいと愛理は思う。 
  
 「今日はやらない、ということで。またね、千聖」 
  
 愛理の気持ちが伝わったのか、栞菜が強引に話を終わらせる。 
 千聖はふくれてはいたが、これ以上引き止めるつもりはないらしく片手をぶんと振った。 
 それに応えるように愛理も片手を振る。 
 そして、先輩である舞美に一礼してその場を去ろうとした。 
 だが、立ち去ろうとする三人の前にジャージ姿の教師が現れた。 
  
 「お?なに、ソフトやんの?」 
  
 黒のジャージに運動靴。 
 運動部の顧問ならぴったりとくる姿。 
 けれど、その声はどう聞いても音楽科の教師である吉澤ひとみのものだった。 
   
- 217 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:37
 
-  「あ、吉澤先生」 
  
 桃子が玄関から歩いてきたひとみの名前を呼ぶ。 
  
 ひとみは栞菜と雅にヴァイオリンを教えている先生だ。 
 大らかな性格で音楽教師にもかかわらず、夏休み以外もよくこういったラフな格好で校内をうろついている。 
 しかし、その姿を見慣れているとはいえ校舎外で見ると、どう贔屓目に見てもひとみは体育教師にしか見えなかった。 
  
 「今から、みんなでソフトやるところなんです。先生も来ますか?」 
  
 諦めたはずの千聖がひとみの姿を見て、にんまりと笑いながら言った。 
  
 「ちょっと、千聖!そんなこと言ってないし」 
  
 愛理は思わず千聖の腕を引っ張る。 
 だが、それにかまわずひとみがぽんと手を叩いて大声を出す。 
  
 「おし!みんないくぞ!」 
  
 その声に合わせて、「おー!」と千聖と舞美が手を振り上げる。 
 さすがにこの流れについていきたくないのか、桃子がひとみのジャージの裾を掴んで情けない声を上げた。 
   
- 218 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:38
 
-  「せんせー!もも達、音楽科ですよぉ」 
 「ご褒美つきでもやらない?」 
 「え?ご褒美?」 
 「勝った方にジュース」 
  
 にやりとひとみが笑う。 
  
 「もも、ソフトボール大好き」 
  
 にっこりと笑って桃子が千聖の腕を取る。 
 桃子のあまりの変わり身の早さに、愛理は気の抜けたような声が出る。 
  
 「へ?」 
  
 口をぱくぱくとさせながら、愛理は隣を見た。 
 愛理の目の前には呆れ顔の栞菜がいるはずだった。 
 しかし、どういうわけか隣にいたはずの栞菜がいない。 
 どこに行ったのかと辺りを見回すと、千聖の隣に栞菜がいた。 
  
 「いくよ、愛理」 
 「ええっ!?」 
  
 栞菜からやる気に溢れる声で名前を呼ばれる。 
 愛理の意志は関係ないようで、愛理は栞菜と桃子から手招きをされる。 
   
- 219 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:40
 
-  「スポーツ科と音楽科の対決だ!ということで、先生は音楽科の応援ね!」 
  
 ぽん、とひとみが愛理の肩を叩く。 
  
 もう逃げられない。 
 あんなにソフトボールをすることを渋っていた栞菜と桃子が、千聖側についてしまったのだ。 
 一人だけこの場から逃げ出すことは、どう考えても不可能だった。 
  
 「あたしたちが勝ちますよ、絶対」 
  
 舞美が千聖と肩を組んで、ひとみに宣戦布告する。 
  
 「愛理、やるよ!」 
  
 呆然と成り行きを見ている愛理の手を桃子が握る。 
 そのまま引きずるようにグラウンドへ歩き出して、愛理は無駄だと思いながらも桃子を制止する。 
  
 「えっ、ちょっと、ももっ。あたし、やるとか言ってないし」 
 「言ってなくてもやるのっ」 
 「栞菜、助けてよっ」 
  
 もしかしたら、という思いを込めながら栞菜を見るが、返ってきた言葉は愛理の期待とはほど遠いものだった。 
   
- 220 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/21(土) 02:41
 
-  「なにいってんの、愛理。はやくこっちきなよ」 
 「ちょっと、なんで二人ともそんなやる気!?」 
 「ジュースがかかってるのにやらないとか!」 
  
 そう言って栞菜も愛理の腕を引っ張る。 
  
 「しかも、こっちは三人!勝てる可能性あるよ」 
  
 うふふ、と笑って桃子が言った。 
  
 「そっち、ずるいぞ!せんせー、こっち一人足りないです」 
  
 三人、という言葉に反応して舞美が声を上げた。 
 けれど、ひとみがバシンと舞美の背中を叩いて言った。 
  
 「音楽科相手なんだから、それぐらいはハンデ、ハンデ!」 
  
 けらけらと高らかに笑いながら、ひとみがグラウンドへ向かう。 
 その姿はどう見てもヴァイオリンを弾くような人間には見えない。 
 そんなひとみの後を追って、千聖と舞美がグラウンドへ飛び出す。 
  
 「そーだ、そーだ!ハンデだー!」 
  
 愛理は楽しそうに声を上げる栞菜と桃子に引きずられながらグラウンドへと歩く。 
 ここまで来たら、ソフトボールをやらないわけにはいかなかった。 
  
  
   
- 221 名前:Z 投稿日:2009/02/21(土) 02:42
 
-   
   
- 222 名前:Z 投稿日:2009/02/21(土) 02:42
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 223 名前:Z 投稿日:2009/02/21(土) 02:47
 
-  久しぶりの更新です。 
 ……すみませんorz 
  
 >>200さん 
 素直だけど鈍い愛理萌えですw 
  
 >>201さん 
 更新遅くなりましたorz 
 ありがとうございますヾ(*´∀`*)ノ 
 微妙な感じの二人をお楽しみください(´▽`) 
  
 >>にっきさん 
 鈍いからこそ可愛い!……と思いますw 
  
 >>204さん 
 ありがとうございますヾ(*´∀`*)ノ  
- 224 名前:三拍子 投稿日:2009/02/21(土) 07:24
 
-  待ってました!! 
 栞菜と桃子のコンビって何か良いですねWW  
- 225 名前:にーじー 投稿日:2009/02/22(日) 12:50
 
-  少しずつ色々なキャラが出てきましたが、みんな生き生きとしてますね! 
 突然のソフトボール対決楽しみです。笑  
- 226 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/23(月) 03:59
 
-  どちらかというと自分はソフトボールチームよりなんですが、このお話おもしろいです♪ 
 
- 227 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:44
 
-  グラウンドの端、ソフトボール用にバックネットが置いてある場所まで歩いて、千聖と桃子がじゃんけんをする。 
 勝った方が打つ方、いわゆる先行というものになるらしい。 
 桃子が投げるより打つ方が楽しそうだと張り切ってじゃんけんをしたかいがあってか、希望通り音楽科の先行でゲームが始まることに決まった。 
 一番バッターが桃子に決まり、すんなりゲームが始まる。 
 そのはずだったが、舞美が困ったように当たりを見回していた。 
  
 ピッチャーは舞美らしく、マウンドの上に立っている。 
 そして、千聖がいる位置が何の役目になるのかはわからないが、舞美の横の方にいた。 
  
 「キャッチャー、いないじゃん」 
  
 聞いたことのある単語を舞美が口にした。 
 愛理はピッチャーである舞美がいる先を見る。 
 舞美の視線の先、そこはキャッチャーと呼ばれるボールを受ける人間がいる場所だった。 
 だが、そこにキャッチャーはいない。 
 舞美が千聖に声をかける。 
  
 「千聖、キャッチャーやってよ」 
 「無理。あたし、ファーストだもん」 
 「だもんって、そんなこと言っても、キャッチャーいないと投げられないじゃん」 
 「でも、あたしがキャッチャーやったら誰が守るの?」 
 「打たせないから平気、平気」 
  
 ぴっとボールを投げる真似をして、舞美が胸を張る。 
 それをバッターボックスから見ていた桃子が怒ったように言った。  
- 228 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:45
 
-  「もー!打たせないとか失礼すぎる!もも、ホームラン打つもん!」 
  
 ぶんぶんと桃子が思いっきりバットを振る。 
 その姿は、どう見ても虫取り網を闇雲に振り回す子供のようで、愛理は笑いが堪えきれない。 
 むやみやたらにバットを振り回す桃子は、ソフトボール経験のない愛理から見ても、とてもホームランを打てるとは思えなかった。 
 ボールがバットに当たったら奇跡と言えるレベルだ。 
 どちらかと言えば、ボールを飛ばすよりバットが飛んでいきそうに見える。 
 マウンドにいる舞美も桃子を見て笑っていた。 
  
 「先生、キャッチャーどうしたらいいですか?」 
  
 桃子の姿を見てひとしきり笑った後、舞美がひとみに尋ねた。 
  
 「あ、キャッチャーか。それならここにいるぞー」 
  
 まるでソフトボール部の顧問のように、ひとみがバットを片手にバッターボックスの横に立ち、桃子の後ろを指さした。 
 だが、そこには誰もいない。 
 不思議そうな顔をして舞美が言った。  
- 229 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:47
 
-  「先生、どこですか?」 
 「そこのフェンス」 
 「フェンスって、もしかしてバックネットのことですか?」 
 「それそれ」 
 「キャッチャーじゃないじゃないですか」 
 「まあまあ、細かいことは気にしない。ボールを受ければそれがキャッチャーだ!若人よ、さっさとはじめたまえ」 
  
 ひとみが大雑把にそんなことを言って、バックネットの横にいる愛理の隣に座り込む。 
 制服のままグラウンドにやってきた愛理と栞菜は、ひとみのように座り込むわけにもいかず、立ったまま事の成り行きを見守る。 
 愛理は舞美を見るが、迷っているのかボールを投げるそぶりを見せない。 
 そんな舞美に千聖が声をかけた。 
  
 「いいじゃん。舞美ちゃんやろうよ。どうせキャッチャーいたって、舞美ちゃんがそこに投げられるかわかんないんだからさ」 
 「うわ、なにそれ!ちゃんとストライクとるから見てなよ!」 
 「ももちゃーん、気をつけなよ。舞美ちゃん、ノーコンだから」 
 「ノーコンってなにー?」 
  
 バッターボックスから桃子が千聖に問いかける。 
 愛理も初めて聞くノーコンという言葉に千聖を見た。 
 けれど、千聖が答える前に舞美が桃子に声をかけた。  
- 230 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:49
 
-  「もも、千聖の言うこと気にしなくていいから。いくよ!」 
  
 テレビで見たことのある投球モーション。 
 舞美が腕をぐるんと回して、下手投げでボールをバックネットへ向かって投げる。 
 いつ舞美の手からボールが離れたのかはわからない。 
 愛理が気がついた時には、大きめのボールがバックネットをガシャンと揺らしていた。 
 桃子のバットは空を切るどころか、振られていない。 
  
 「はやっ!ちょっと舞美、手加減してよ」 
  
 桃子が驚いたように舞美を見る。 
  
 「手加減してるって」 
 「……嘘でしょ?」 
 「ほんとほんと。あたしのポジション、ピッチャーじゃないもん。全力で投げたら、ももにあたるかもだし」 
 「ええっ!?」 
  
 舞美の予想外の言葉に、桃子が声を上げてバッターボックスから飛び出る。 
 愛理も思ってもみなかった言葉に舞美を見た。 
  
 「ももちゃん、それがノーコンっていうの。舞美ちゃん、思いっきり投げたらコントロール出来ないから、気をつけてね」  
- 231 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:50
 
-  舞美の横、ファーストの位置から千聖が笑いながら言った。 
 しかし、その内容はどう考えても笑えるようなものではない。 
 ソフトボールという名前だが、使っているボールはとてもソフトと呼べるような代物ではない。 
 当たれば怪我をする。 
 そんなボールだ。 
 愛理は冗談でもあんなものが当たる想像などしたくない。 
 桃子も同じことを考えているのか、バッターボックスから遠く離れた位置でバットを構えていた。 
 そんな桃子を見て、舞美が不満そうに言った。 
  
 「ちょっと、もも!バッターボックスからはみ出すぎ」 
 「だって、ももに当てるんでしょ?」 
 「当てないって!」 
 「信じるよ?」 
 「信じて!」 
  
 舞美が大声でそう言って、桃子にバッターボックスへ戻るように指示を出す。 
 恐る恐るといった様子で桃子がバッターボックスに戻り、バットを構えた。 
  
 「ところで、舞美ってピッチャーじゃなければ、ほんとはなんなの?」 
 「サード」 
 「そっかあ。サードか!……で、サードってなに?」 
 「あそこ」 
  
 マウンドの上から、舞美が千聖の反対方向を指さす。 
 詳しい場所はわからないが、桃子から見て左の方向にサードと呼ばれる場所があるらしいことが愛理にもわかった。  
- 232 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:53
 
-  「へえー」 
  
 わかったのかわからないのか、桃子が舞美の指さした方向を見て感心したような声を上げる。 
 その瞬間、ガシャンという音とともにバックネットが揺れた。 
  
 「ああっ!」 
  
 桃子が情けない声を上げて、バットを振った。 
 ぶんっ。 
 身体ごとバットを振る。 
 豪快に振られたバットとともに、空色をした短めのチェックのスカートがふわりと舞い上がる。 
 白い太股が太陽の下に晒され、バットに身体が引きずられた桃子がぐらりとよろける。 
 ボールは桃子が声を上げたときにはバックネットへ到達していて、勢いだけで振ったバットはむなしく空を切っていた。 
  
 「舞美ずるい!よそ見してる時に投げた!」 
  
 バットをグラウンドに突き刺すように支えにして桃子が体勢を整え、舞美に向かって文句を言った。 
  
 「ごめん、ごめん。でも、ももの今の空振りすごいね。下着見えた」 
 「ちょっと、そんなとこ見ないでよ!舞美のえっち!」 
  
 後先考えずに振られたバットとともに舞い上がったスカートは、太股だけでなく、その中身までしっかりと愛理や舞美に見せていた。 
 舞美の言う通り、すごい空振りだったと愛理も思う。 
 隣に立っていた栞菜もそれを確認したのか、からかうように声を上げた。  
- 233 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:54
 
-  「ももちゃん、素敵ー!」 
 「栞菜まで!」 
  
 むすっとした顔で桃子が栞菜を見る。 
 愛理もその黄色い声に栞菜を睨み付けた。 
  
 「ちょっと、栞菜!」 
  
 愛理は責めるように言って、制服の裾を引っ張る。 
 だが、栞菜はあっけらかんと言い放つ。 
  
 「いいじゃん。刺激的で」 
 「変なところばっか見てないの!」 
 「見てたわけじゃなくて、見えたの」 
 「もうっ」 
  
 愛理はくすくすと笑う栞菜の視線の先を辿る。 
 栞菜が誰のどこを見ていようが、愛理が気にすることではないのだが、何故かどこを見ているのか気になった。 
 けれど、目を細めて笑っている栞菜の視線がどこにあるかわからない。 
 わからないが、愛理には栞菜が桃子の足を見ているように思えて、栞菜の腕をつねった。 
  
 「いたっ」 
 「だめだからね、栞菜」 
 「はあい」 
  
 何が駄目なのかわかったのか、栞菜が愛理を見て子供のように素直に返事をする。 
 それでも、愛理が疑うように栞菜を見ていると手を握られた。  
- 234 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:56
 
-  暑さのせいで手は汗ばんでいた。 
 愛理は湿った手がなんだか恥ずかしくて栞菜の手を離そうとするが、手はぎゅっと握られていて離すことが出来なかった。 
 仕方なく手を繋いだままでいると、舞美がボールを片手に大声を張り上げた。 
  
 「じゃあ、ラスト一球行くよ!」 
  
 舞美がゆっくりとしたモーションでボールを投げる。 
 今までよりも少しスピードが落ちたボールがバックネットへ向かう。 
 桃子がかけ声をかけながらバットを振った。 
  
 「えーい!」 
  
 狙って振ったとは思えない。 
 だが、ボールは奇跡的にバットに当たった。 
 しかし、バットに当たったボールはホームランとはいかず、コロコロとグラウンドを転がる。 
 それでも、ボールがバットに当たったことに驚いて、愛理は桃子を見る。 
  
 「うわ、当たった!」 
  
 桃子もバットにボールが当たったことが信じられないのか、驚いたように声を上げ、バッターボックスでぴょんぴょんと飛び跳ねていた。 
 はしゃいでいる桃子の元へ舞美がボールを持ってやってくる。 
  
 「はい、アウト」 
  
 舞美が桃子の頭にこつんとボールを乗せた。 
 バッターボックスの中、桃子がぽかんとした顔をした。  
- 235 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:57
 
-  「え?打ったら終わりじゃないの?」 
  
 わけがわからないといった様子の桃子に、小さく笑いながら舞美が言った。 
  
 「一塁に走らないとだめだよ」 
 「ももちゃーん。あたしのところに向かって走らないとだめだよー」 
  
 ぶんぶんと千聖が桃子に向かって手を振る。 
 そのやり取りを見て、愛理はほっと胸を撫で下ろす。 
  
 一番じゃなくて良かった。 
  
 しみじみとそう思う。 
 舞美と千聖の言葉を聞くまで、愛理もボールを打ったら一塁へ走らなければならないことを知らなかった。 
 もし一番にバッターボックスに立って、バットにボールが当たっていたら、桃子と同じことになっていただろう。 
  
 「えー!そんなのもも聞いてない!」 
  
 愛理の気持ちを代弁するように桃子が悲痛な叫び声を上げる。 
  
 「ももちゃんの番おわりね」 
  
 くすくすと笑いながら千聖が桃子に声をかける。  
- 236 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 04:59
 
-  「千聖、オマケしてよぉ」 
 「ルールだから、だめでーす」 
  
 非情にも千聖からバッターボックスを追い出され、桃子ががっくりと肩を落とす。 
 そんな桃子を見て、愛理は打てるかどうかはわからないが、バットにボールが当たったら絶対に一塁に走ろうと決めた。 
  
 「次、だれ?」 
  
 バシン、とグローブを叩いて舞美が愛理と栞菜を見た。 
  
 「あたし、やる!」 
  
 愛理は舞美に向かって手を挙げる。 
 運動が苦手な愛理が進んでソフトボールをやるという事態が信じられないのか、栞菜が目を丸くして愛理を見ていた。 
  
 普段なら積極的に運動をしようとは思わない。 
 だが、桃子を見ていると何だかやけに楽しそうで、バックネットの横に立っている時間が勿体ないような気がしてきたのだ。 
  
 桃子がバッターボックスからバックネットの横へ歩いてくる。 
 マウンドを見ると、舞美が手招きをしていた。 
 愛理はバッターボックスへ向かう為に、栞菜と繋いでいた手を離そうとする。 
 けれど、栞菜がそれを拒むようにぎゅっと手を握りしめた。 
 どういうことかと栞菜を見ると、愛理に向かって栞菜がにこりと笑った。 
 その笑顔にどくん、と心臓が大きな音を立てる。  
- 237 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 05:02
 
-  「栞菜、手」 
  
 桃子からバットを受け取って、うるさい心臓の音を誤魔化すように栞菜に声をかける。 
 けれど、栞菜は手を離さない。 
  
 「愛理、ももちゃんよりすっごい空振りよろしく」 
  
 もう一度手を握りしめてから、栞菜が笑いながら言った。 
  
 「……なに期待してるの?」 
 「別になにも」 
 「うそ!栞菜のえっち!」 
  
 愛理は栞菜を睨み付ける。 
 そして、繋いだ手をぶんと振ると栞菜が手を離した。 
  
 「愛理、がんばって」 
  
 背中をぽんと叩いて、栞菜が愛理をバッターボックスへと送り出す。 
 早くなった鼓動を落ち着かせるように、愛理はゆっくりとバッターボックスまで歩く。 
 深呼吸を一つして、うるさく音を鳴らし続ける心臓を静める。 
 愛理はバッターボックスに入ると、バットを構えた。  
- 238 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 05:04
 
-  「えーと、愛理ちゃんだっけ?」 
 「そうです」 
  
 マウンドの上、舞美が人なつっこい笑みを浮かべて愛理を見た。 
 ボールを投げる姿は勇ましいが、こうして舞美が立っているところを見ると、格好が良いというよりは綺麗なお姉さんに見える。 
 桃子と同じ学年とはとても思えない。 
 ゲームを始める前に軽く自己紹介をしたのだが、その時も物腰が柔らかで、ジャージを着ていなければ音楽科の生徒に思えるような穏やかな雰囲気を舞美は持っていた。 
 いかにも運動部という雰囲気の千聖とは対照的だと愛理は思う。 
  
 「手加減しないよ」 
  
 にやりと悪戯っぽく笑って舞美が言った。 
  
 「望むところです」 
  
 愛理はバッターボックスで、ぶうんっと素振りをする。 
 バットが空を切り、耳元で風が鳴る。 
 練習室では聞こえない音に、愛理の身体がしゃきりとする。 
  
 太陽の光。 
 友達の声援。 
 バットやボールが奏でる音。 
  
 普段、練習室に籠もっている時には周りにないものが、愛理をわくわくとした気分にさせる。 
 運動は苦手だが、たまには外でスポーツをするのも悪くないと思えてくる。  
- 239 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 05:05
 
-  舞美が腕をぐるんと回す。 
 大きく踏み出した足がマウンドの土を削る。 
 舞美の手を離れたボールが愛理に向かってくる。 
 愛理のバットはボールがバックネットを揺らした頃に、ぶんっと派手な音を立てた。 
  
 「愛理、しっかりー!」 
  
 桃子の甲高い声がグラウンドに響く。 
 今度はバットにボールを当てるぞと意気込むが、バットは空を切っただけだった。 
  
 「愛理、もっと派手にやってよ!」 
  
 栞菜が無責任に叫ぶ。 
 言葉の意味がすぐにわかって、愛理はスカートを押さえた。 
  
 「もう、ちゃんと応援してよね!」 
  
 バットの先を栞菜に向けて注意する。 
 けれど、栞菜は反省するどころか、げらげらと笑って愛理を見ていた。 
 愛理が軽く睨んでも笑い声は止まない。 
 仕方なく、マウンドにいる舞美を見る。 
 栞菜とのやり取りがおかしかったのか、肩を揺らして笑っていた舞美が真剣な表情に戻る。  
- 240 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 05:07
 
-  「ラスト、いくよ」 
  
 舞美が振りかぶる。 
  
 「よーし、こい!」 
  
 愛理はへっぴり腰でバットを構えて、ボールを待つ。 
 舞美がボールを投げる瞬間を見逃さないように、しっかりと目を開ける。 
 ぐるんと舞美が腕を回したのを確認してから、愛理はバットを振った。 
  
 カキーン! 
  
 そんな音が聞こえたような気がした。 
 けれど、実際に耳元で聞こえた音はバットが空を切る鈍い音だ。 
 愛理は空振りしたバットに身体が引きずられ、空を見上げる。 
  
 傾いた太陽に青い空。 
 流れ落ちる汗。 
  
 練習室から見る風景とは違う景色に、たまには音楽以外のことをするのも良いことだと思えた。 
 傾いた身体を立て直す。 
 バットを片手に、愛理はマウンドにいる舞美に一礼してバッターボックスを出た。 
  
 「盛大な三振おめでとう」 
  
 桃子がぱちぱちと手を叩いて愛理を迎える。  
- 241 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 05:08
 
-  「ありがと」 
  
 ふう、と息を吐き出して、桃子へ礼を言う。 
 そして、桃子の隣にいる栞菜を見た。 
  
 「鈴木さん、今の気分は?」 
  
 まるでテレビのインタビュアーのように、栞菜がマイクに見立てた右手を愛理の前へ出した。 
  
 「今?今は……」 
  
 愛理は音楽室で聞いた栞菜の言葉を思い出す。 
  
 『じゃあ、それでいいじゃん。今は』 
  
 あの言葉にどんな意味が隠されているのか今の愛理にはわからない。 
 愛理が今わかることは、この時間が楽しいということだけだ。 
  
 ソフトボールのルールや栞菜の言葉の意味。 
 音楽も全てについて知っているわけではない。 
 毎日、愛理の知らないことが増えていく。 
 けれど、そんなことが気にならなくなるぐらい、こうしてみんなと過ごす時間が楽しいと思った。 
 先生や桃子が言っていたように、外の世界を見ることは大事なことなのだと実感出来た。 
 そう思うと、愛理は急にピアノが弾きたくなった。  
- 242 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 05:10
 
-  「んー。今、ピアノを弾きたい!」 
  
 思ったことを素直に口にする。 
 すると、栞菜が不思議そうな顔をした。 
  
 「なんでソフトやったらピアノ弾きたくなるわけ?」 
 「わかんないけど、楽しくて。だから、ピアノ弾きたいんだもん」 
 「どんな曲を?」 
 「青空みたいな曲!」 
  
 弾きたい曲があるわけではない。 
 ただピアノに触りたかった。 
 もし曲を選ぶなら、今、見上げた空のような爽やかなイメージの曲がいい。 
 けれど、そんな愛理のイメージとはまったく違うものを栞菜が口にする。 
  
 「そこは、愛の挨拶って言っておこうよ」 
  
 栞菜が愛理の顔を覗き込む。 
 急に栞菜との距離が縮まって、愛理は思わず後退った。 
  
 「おー、愛の挨拶!」 
  
 桃子がからかうようにそう言って笑う。  
- 243 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 05:11
 
-  「青空っぽくないじゃーん」 
  
 にやにやと笑う桃子の肩を叩いて、愛理は栞菜の言葉を否定する。 
  
 「なんでもいいんだよ。こんなのは気持ちの問題だって!」 
 「ほんと、てきとーだなあ。栞菜は」 
 「いいの、いいの。てきとーなぐらいが幸せなんだって」 
  
 栞菜が空を見上げながら、大雑把に話をまとめる。 
 それに便乗するように桃子が言った。 
  
 「楽しければそれでいいじゃん」 
  
 普段ならいい加減だと文句の一つでも言うところだが、青空の下で桃子の言葉を聞くと、不思議とそんなものなのかもしれないと思えてくる。 
  
 「栞菜っ!次、栞菜だよ!」 
  
 一塁から千聖が声を張り上げる。  
- 244 名前:コンチェルト − 4 − 投稿日:2009/02/23(月) 05:12
 
-  「ごめーん!今いく!」 
  
 愛理からバットを奪うように受け取って、栞菜がバッターボックスへ走る。 
 バッターボックスへぴょんと飛んで入って、バットをぶんぶんと振り回す。 
 栞菜がバットの先端をぴっと空へ向けて止めた。 
  
 「愛理、見ててね。ホームラン打つから!」 
  
 桃子ほどひどくはないが、やはりホームランを打てるとは思えないようなフォームで栞菜がバットを構える。 
  
 中等部へ入学してから二度目の夏休み。 
 休みがこんなに楽しいと思ったのは初めてだった。 
  
  
  
   
- 245 名前:Z 投稿日:2009/02/23(月) 05:13
 
-   
   
- 246 名前:Z 投稿日:2009/02/23(月) 05:13
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 247 名前:Z 投稿日:2009/02/23(月) 05:16
 
-  >>224 三拍子さん 
 お待たせしました。 
 不思議と合う感じのする二人だと思いますw 
  
 >>225 にーじーさん 
 ありがとうございます。 
 いきなりスポーツものっぽくなりましたw 
  
 >>226さん 
 ありがとうございます。 
 ソフトよりな方にも楽しんで頂けると嬉しいです(*´▽`*) 
   
- 248 名前:にっき 投稿日:2009/02/25(水) 00:40
 
-  みんな活き活きしてて読んでて楽しいです 
 >>232-233や>>237のやり取り好きですw  
- 249 名前:226 投稿日:2009/02/25(水) 01:23
 
-  おもしろかったです☆ 
  
 たしかに女の子が制服でやれば、栞菜的な楽しみ方ができますよね(笑)  
- 250 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2009/04/17(金) 03:26
 
-   
  
  
 espressivo − 1 − 
  
  
  
   
- 251 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/17(金) 03:28
 
-  ソフトボールは結局、誰もホームランどころか、ヒットを打つことすら出来なかった。 
 そして、張り切ってピッチャーを務めた桃子が千聖と舞美にこてんぱんにされ、勝負はスポーツ科の圧勝で終わった。 
 あれから何度か千聖達とソフトボールをやる機会があったが、さすがにソフトボール部相手では一人分のハンデでは足りないらしく、結果はいつも同じだった。 
 それでも、栞菜も桃子も諦めるつもりはないようで、今もよくソフトボールの真似事をしている。 
 もちろん愛理も同じだ。 
 バットを振ってボールを飛ばすことには、ピアノを弾くこととは違う爽快感があった。 
 二人ほどではないが、千聖達から誘われることがあれば一緒にグラウンドへ出てバットを振り回し、ボールを追いかけている。 
  
 ピアノの練習と友人達との時間。 
 去年よりも密度の濃い夏休みは、気がつけば終盤に近づいていた。 
  
 夏休みが終わりに近づくと、さすがにソフトボールで遊んでいる時間はなくなった。 
 休みとは切っても切れない関係にある宿題。 
 それが、愛理を室内へ閉じ込める原因になっていた。 
 と言っても、それは愛理とは別のところに問題がある。 
 愛理は与えられた課題を毎日少しずつこなしていたから、夏休みが終わるからといって焦るようなことは何一つない。 
 だが、世の中、愛理のようにコツコツと課題を片づけるような人間ばかりではなかった。 
 ピアノの練習の合間、ソフトボールのかわりに宿題会なるものに呼び出されるようになっていたのだ。 
   
- 252 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/17(金) 03:30
 
-  宿題会の発起人は千聖だ。 
 便乗をしたのは梨沙子、そして巻き込まれたのは愛理で、宿題会と名付けられたその会合は、愛理にとってとても大変な時間になっていた。 
  
 三人で宿題をやれば早い。 
 そんな千聖の提案で始まった宿題会。 
 とうに宿題を済ませてしまっている愛理には関係のない会なのだが、宿題を教えてくれと千聖に泣きつかれ、逃げることも出来ず、この会に参加することになった。 
 そこに梨沙子も加わっているが、勉強と名の付くものにこの二人が集まるとろくなことがない。 
 なにせ、この二人が集まるとうるさい。 
 宿題をやるどころの騒ぎではなくなる。 
 今日も三人集まっての宿題会が開催されているのだが、愛理の部屋は大変なことになっていた。 
  
 宿題会の会場となっている愛理の部屋は、備え付けの机とベッドが大半を占めている。 
 あとはぬいぐるみがいくつかと、生活に必要なものが置いてあるだけ。 
 余計なものは持ち込んでいないから、愛理の部屋は少し殺風景なぐらいだった。 
 けれど、今はそこに三人も人がいるせいか、殺風景な部屋がやけに賑やかだ。 
 その賑やかさが、愛理の心臓をどきどきとさせていた。 
   
- 253 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/17(金) 03:33
 
-  愛理は寮生だから、今は寮の一室を使って勉強をしていることになる。 
 しかし、寮は部外者の立ち入りが禁止となっているから、愛理のしていることは規則違反になる。 
  
 寮は生徒数が少ないこともあって、新入生以外は一人部屋がほとんどだ。 
 愛理ももちろん一人部屋だから、静かにしていれば部外者がいたところで、寮監の先生に見つかる可能性は限りなく低い。 
 だが、大騒ぎをしてれば別だ。 
 防音室というわけではないから、寮監の先生が騒ぎに気がついてやってきてもおかしくはない。 
  
 規則は守るもの。 
 そう教えられ、それを守ってきた愛理にとっては、友人達と過ごす為とはいえ規則を破る日がくるなど考えられなかったことだ。 
 しかし、決して良いこととは言えない規則違反をする今の自分が嫌いではない。 
 昔と比べて、変わった自分が少しだけ誇らしく思える。 
 そうは言っても、規則違反が明るみに出てしてしまうことは避けたかった。 
  
 やる気があるのか、ないのかわからない千聖。 
 やる気はあるようだが、千聖にからかわれると相手をせずにはいられない梨沙子。 
  
 この二人は昼過ぎに愛理の部屋へ来てからずっと騒ぎっぱなしだった。 
 時計はおやつの時間をすでに過ぎている。 
 一体、いつまで騒ぎ続けるのか。 
 規則を破っているのだから、せめてその自覚を持って行動してもらいたいと愛理は思う。 
 このまま騒いでいれば、いつ寮監の先生がやってきても不思議はない。 
 そもそも、千聖も梨沙子も宿題をせずに騒いでいるのだから、これでは何の為に愛理の部屋に来ているのかわからない。 
   
- 254 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/17(金) 03:35
 
-  9月には期末考査もある。 
 宿題が終わっている愛理はその勉強をと思うが、二人が騒いでいるせいでなかなか進まない。 
 二人も宿題をさっさと終わらせてその勉強にも取りかかる予定なのに、宿題が終わる気配など微塵もなかった。 
  
 「ちょっと、二人とも!」 
  
 愛理は騒ぎに耐えかねて、机をばんっと叩く。 
 そう広くもない部屋に机を叩いた音が響く。 
 その音に、愛理の両側に座っていた二人の肩がびくりと震えた。 
  
 「少しは真面目にやろうよ!」 
  
 愛理は、机の上に開いてある数学の教科書をシャーペンの先で突いた。 
 けれど、部屋が静かになったのも一瞬だけだった。 
  
 「息抜き!息抜き!」 
  
 そう言って、千聖が愛理の手からシャーペンを奪って机の上へ置く。 
 机へ置かれたシャーペンはころころと転がって床に落ちかける。 
 愛理は慌ててシャーペンを掴む。 
 そんな愛理を見て、いひひと梨沙子が笑った。 
   
- 255 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/17(金) 03:37
 
-  「しっぱなしじゃん!」 
  
 宿題の合間に息抜きをしているのなら、文句はない。 
 だが、二人は息抜きの合間に宿題をしているようにしか見えない。 
 課題として与えられた問題集のページはほとんど進んでいなかった。 
  
 愛理は梨沙子の問題集へ手を伸ばし、ぺらりとめくる。 
 すると可愛いイラストが目に留まった。 
 はあ、とため息を一つついてから、千聖の問題集を見るとこちらは空欄ばかりだった。 
 咎めるような目で二人を見ると、慌てたように梨沙子が言った。 
  
 「あたし、悪くないもん!千聖があたしの問題集に落書きするから……」 
  
 確かに愛理の前を何度も千聖の手が横切っていた。 
  
 「だって、りーちゃん。あたしが描く前から自分で落書きしてたじゃん!」 
  
 問題集に答えを書き込む動きとは違う動きをシャーペンがしていたのも見た。 
  
 「あたしの問題集なんだから、あたしが落書きするのはいいのっ!」 
  
 こんな言い争いはいつものことで、まともに相手をしていては埒が明かなかった。 
  
 「二人とも、いい加減にしなさい!」 
  
 バシン、とさっきよりも勢いよく机を叩く。 
   
- 256 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/17(金) 03:39
 
-  「とりあえず、静かにすること!バレたら、怒られるのあたしなんだから」 
  
 力任せに机を叩いた手がじんじんと痺れていた。 
 愛理はその手を握りしめて、左右に睨みを利かせる。 
  
 「……はーい」 
  
 しんと静まった室内。 
 しゅんとした二人の声が響く。 
 遅れて、静かになった部屋の中に、ぶうんとエアコンが空気を送り出す音が聞こえた。 
 温度が上がったのか、エアコンがフル回転しているようだった。 
  
 エアコンが動く音が聞こえるほど静かになった室内に、教科書や参考書をめくる音、そしてシャーペンが紙を引っ掻く音が聞こえはじめる。 
 愛理は時々隣から突かれて、問題集を覗き込む。 
 勉強を教えるのは得意ではないが、聞かれるのは嫌いではない。 
 一緒に考えて、答えを導き出すヒントを教える。 
 しかし、それも長くは続かなかった。 
 すぐに千聖が音を上げる。 
  
 「あー、やっぱ休憩しない?」 
 「さっきまで休憩してたじゃん」 
  
 愛理は千聖に方程式の説明をしながら、問題集から顔を上げる。 
 けれど、千聖はそんな愛理の肩を軽く叩いた。 
   
- 257 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/17(金) 03:40
 
-  「それはそれ。これはこれ」 
  
 わけのわからないことを言って、愛理が覗き込んでいる問題集をぱたんと閉じる。 
  
 「まあ、今日は休養日ってことで」 
 「昨日も休養しなかったっけ?」 
 「いやいやいや!昨日は結構進んだ。ねえ、りーちゃん」 
  
 机に突っ伏しながら、千聖が梨沙子を見た。 
  
 「うんうん」 
  
 梨沙子がこくこくと首を振って、千聖に答える。 
  
 普段は言い争いが多い二人だが、こんな時だけは息がぴったりだ。 
 仲が良い、などとまるで他人事のように考えて、愛理はため息を一つつく。 
  
 「あたしは宿題終わってるから、休養でもいいけど」 
  
 愛理は、ぱたんと千聖に合わせて問題集を閉じる。 
 梨沙子を見ると、同じように問題集が閉じられていた。 
 普段、決して行動が早いとは言えない梨沙子の、こんな時だけ素早い行動に愛理は口元が緩む。 
  
 今まで、他人にペースを合わせることはそう得意ではなかった。 
 けれど、今はこうして誰かに合わせることが楽しい。 
   
- 258 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/17(金) 03:42
 
-  音楽と一緒だ。 
 一人でひたすらピアノを弾いていることに何の疑問もなかった。 
 自分の中にある音楽を自分の好きなよう表現していればそれで満足だった。 
 上手くいってもいかなくても、全て自分の責任。 
 それが心地良かった。 
 だが、栞菜の伴奏をするようになって、それが少し変わったと思う。 
 今は誰かと一つの音楽を作り上げていくことが楽しい。 
 ペースや音を乱されて、苛々とする瞬間ももちろんある。 
 しかし、それも一人でピアノを弾いていては、知ることの出来なかった感情だ。 
  
 隣のペースに合わせて三人一緒に問題集を閉じ、今したばかりの休憩をもう一度するのも悪くない。 
 愛理はそんなことを思える自分が可笑しかった。 
  
   
- 259 名前:Z 投稿日:2009/04/17(金) 03:42
 
-   
   
- 260 名前:Z 投稿日:2009/04/17(金) 03:42
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 261 名前:Z 投稿日:2009/04/17(金) 03:44
 
-  >>248 にっきさん 
 少しでも、楽しい学園生活の様子が伝われば嬉しいです! 
  
 >>249 226さん 
 スカートひらひらですからねー! 
 制服でやるには適さないスポーツですが、栞菜には適していると思いますw  
- 262 名前:三拍子 投稿日:2009/04/17(金) 06:31
 
-  来たきたきたーっ!! 
 待ってましたよ(ノ><)ノ 
 相変わらずの文章力にほれぼれです。  
- 263 名前:にーじー 投稿日:2009/04/19(日) 22:28
 
-  なんか日常のまったりした感じもいいですね。 
 鈴木さんがゆったり変わっていくのが、この話の空気感とマッチしていてすごく好きです。  
- 264 名前:263 投稿日:2009/04/19(日) 22:29
 
-  すみません、ageてしまいました…。 
 
- 265 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 03:47
 
-  「愛理、なににやにやしてるの?」 
  
 シャーペンを放りだし、梨沙子を見ていると不機嫌そうな声が聞こえた。 
 梨沙子を笑ったつもりはないが、傍目から見ると笑っているように見えたのだろう。 
 梨沙子はぷうっと頬を膨らまし、唇を尖らせていた。 
  
 「してないよ」 
  
 愛理は慌てて、梨沙子の言葉を否定する。 
 そして、これ以上追求されないように話題を変える。 
  
 「そんなことより、りーちゃん。絵はどうなったの?」 
  
 梨沙子が描いている桃子の絵。 
 それがどんなものか、愛理はまだ見たことがなかった。 
 何度か見せてくれと頼んだことがあるが、なんだかんだとはぐらかされて見せてもらえないままだ。 
 しかし、千聖はその絵のことを知らないらしく、「絵」という言葉に大きな反応を示した。 
   
- 266 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 03:49
 
-  「絵?絵ってなに?」 
 「千聖は知らなくていいの」 
 「良くないよ!あたしにも教えて」 
 「教えない」 
 「おーしーえーろー!」 
 「あー、千聖うるさい!」 
  
 いつものやり取りが始まって、二人に挟まれている愛理は梨沙子の肩へ手を置いた。 
 大げさなぐらい真面目な顔をして、梨沙子に告げる。 
  
 「教えてあげなよ、りーちゃん。ほんとは隠すつもりなんかないんでしょ?」 
 「まあ、そうだけど」 
  
 口元に手をあて、梨沙子が考え込む。 
 だが、目が笑っていて、どう見ても真面目に考えているようには見えない。 
 梨沙子が目を細めて千聖を見る。 
 期待に満ちた顔で待っている千聖を確認すると、勿体を付けて口を開いた。 
  
 「部活で絵、描いてる」 
 「そんなのわかってる。りーちゃん、美術部だもん。絵、描くに決まってるじゃん」 
 「ももの絵描いてるの。でも、最近ずっと千聖がソフトに誘ってたから、全然進まない」 
 「え?ももちゃんって、あのももちゃん?」 
 「そのももちゃん」 
 「りーちゃんも知り合いだったんだ」 
  
 驚いたように千聖が言った。 
   
- 267 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 03:52
 
-  「でもなんで、ももちゃんの絵?モデルって感じじゃないじゃん」 
  
 愛理や梨沙子が思ったことを千聖も思ったらしく、愛理は苦笑する。 
 桃子には悪いが、きっと他の誰に聞いても同じことを思うだろう。 
 黙って静かにしていれば綺麗な顔をしていることがわかるが、普段のちょこまかと動き回っている姿からはモデルなどという言葉は想像出来ない。 
  
 「愛理に紹介してもらった。ピアノ弾いてる人の絵を描きたかったから」 
 「あ、そっか。ももちゃん、音楽科だもんね」 
  
 モデルという言葉よりも説得力を持っていたのはピアノという単語だった。 
 梨沙子の言葉に千聖があっさりと納得した。 
  
 「そのももをソフトに誘うから、絵が進まなかったの」 
  
 ぶすっとした顔で、梨沙子が千聖を見る。 
  
 「でも、りーちゃん。もも、練習サボってまではソフトしてなかったよ?」 
  
 桃子の練習時間について全てを把握しているわけではなかったが、愛理の見ている限り練習をさぼっている様子はなかった。 
 それに、桃子は自分の練習をさぼってまで遊んだりはしない。 
 人の邪魔をしにくることもあるが、桃子がピアノに対しては真摯に取り組んでいることを愛理はよく知っている。 
 そんな人一倍真面目に練習をする桃子に限って、練習を放り出してまでソフトボールをするとは考えられなかった。 
   
- 268 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 03:53
 
-  「あー」 
  
 愛理の言葉に梨沙子がしまったというような顔をした。 
 なにが悪かったのか、口を押さえて机に突っ伏す。 
  
 「あー?」 
 「……内緒にしといてくれる?」 
 「うん」 
  
 梨沙子が机から少し顔を上げ、愛理を上目遣いに見る。 
 素直に頷いて続きを促すと、梨沙子がぼそぼそと話し始めた。 
  
 「練習の他の時間にね、中等部の音楽室勝手に使って、ももにピアノ弾いてもらってた」 
 「へえ。それって何度も?」 
 「うん。結構、弾いてもらってる」 
  
 桃子はかなり梨沙子を気に入っているらしい。 
 そして、ソフトのせいでピアノを聞けなくなったことに不満げな顔をしている梨沙子も、桃子を気に入っているとわかる。 
   
- 269 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 03:56
 
-  愛理同様、桃子もピアノを弾くことが好きで、練習は真面目にやっている。 
 愛理とは違い、人前で弾いてみせることも好きだ。 
 それは過去に見せてもらった桃子の練習の様子や、普段の言動からわかる。 
 だが、誰かの為にわざわざ時間を割いて、何度もピアノを弾くようなことをしていると聞いたのは今が初めてだ。 
 愛理もそうだが、桃子も呼び出されて弾かされるよりは、好きなように練習をしている方を好む。 
 梨沙子のどこがそんなに気に入ったのか、今度桃子に会ったら聞いてみたいぐらいだ。 
  
 「それがね、ソフトをするとか言って、いつもより時間が減った」 
  
 じろり、と梨沙子が恨みがましい目をして千聖を見た。 
 減った、と言ってもそれほど減っていないはずだと愛理は記憶を辿る。 
 千聖とそれほどたくさんソフトボールをした記憶はない。 
 だから当然、千聖が唇を尖らせながら言った。 
  
 「減ったっていっても、あたし、ももちゃんとソフトなんか数えるほどしかしてないよ」 
 「それでも、減ったの!」 
  
 千聖の言葉が気に入らないらしく、梨沙子がどんと机を叩く。 
  
 「それで、その時間にりーちゃんは絵を描いてたわけだ?」 
  
 睨み合いをはじめそうな二人の間に割って入って、愛理は尋ねた。 
   
- 270 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 03:58
 
-  「う、うーん。どうだろ」 
 「わかった。りーちゃん……」 
  
 歯切れの悪い梨沙子に愛理はくすりと笑う。 
 梨沙子が歯切れ悪く言う理由は知っている。 
 だが、愛理が言い終える前に千聖が口を挟んだ。 
  
 「ねえ、どんな絵?見たい」 
 「まだ完成してないから、やだもん」 
 「いつ完成するの?」 
 「まだまだ先」 
 「じゃあ、もう見せてよ。完成前でもいいじゃん」 
 「やだ」 
  
 間にいる愛理のことを無視するように、頭の上で言い争いが始まる。 
 愛理はやれやれといった具合に肩を竦めてから、二人の額を軽く押した。 
  
 「なかなか完成しないのって、りーちゃんが寝てばっかりだからでしょ?」 
  
 絵については知らないが、絵を描いている梨沙子についてなら知っている。 
 それを確認するように尋ねると、梨沙子が狼狽えたように言った。 
  
 「ね、寝てなんかないもんっ」 
 「ももから聞いたよ、あたし」 
 「……もものヤツ!」 
  
 梨沙子が眉間に皺を寄せて、桃子の名前を呟く。 
 愛理はその皺を伸ばす言葉を梨沙子にかける。 
   
- 271 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 03:59
 
-  「でも、嬉しそうだったよ、もも。子守歌になってるって」 
 「ほんと?」 
 「うん、ほんと」 
  
 にこやかな顔で梨沙子が愛理を見る。 
 梨沙子は気むずかしいところもあるが、根は単純だ。 
 もしかすると愛理だけがわかることなのかもしれないが、何を言えば梨沙子が喜ぶのか愛理にはよくわかる。 
 それは桃子も同じで、気むずかしい反面、扱いやすいところもある。 
 愛理は、似ていないようで、どこか似ているものを二人から感じる。 
 だから、二人は気が合うのかもしれない。 
  
 「完成したら、絵見せてよ」 
 「完成したらね」 
 「約束ね」 
  
 愛理の言葉に、「うん」と梨沙子が頷く。 
  
 「で、宿題はいつ完成するの?」 
  
 千聖が自分は無関係とばかりにぼそりと言った。 
 その言葉に、愛理は今日何度ついたかわからないため息が出る。 
  
 「……千聖、真面目にやろうよ」 
 「もう、やだ。宿題、無理。愛理、ノート写させて」 
 「絶対だめ!」 
 「りーちゃんのノートでもいいや」 
  
 千聖が梨沙子のノートに手を伸ばす。 
 その手から逃げるように、梨沙子がノートを抱えた。 
   
- 272 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 04:01
 
-  「死んでもやだ」 
  
 梨沙子がべーと舌を出す。 
  
 「あー、ももちゃん呼ぼう。ももちゃん。栞菜でもいい」 
 「どっちも呼ばないからねっ!これ以上、部屋がうるさくなったら絶対にバレちゃうよぉ」 
  
 愛理は、苦し紛れに宿題をやってもらえそうな人物の名前を挙げはじめた千聖を止める。 
 三人でも狭い部屋にもう一人増えても困る。 
 それに、名前を挙げられた二人が来れば、絶対に今以上の騒ぎになることはわかりきっていた。 
 大体、その二人は寮生だけあって、呼び出せばすぐに部屋へ来そうで怖い。 
 絶対に呼ばせはしないと、携帯を取り出した千聖の手を掴む。 
 すると、二人の名前に反応した梨沙子が愛理の肩を叩いた。 
  
 「そう言えば、愛理。栞菜の伴奏やってるんだって?」 
  
 一瞬、神の助けに思えた。 
 しかし、すぐにそれは千聖の提案よりも厄介なものだと気がついた。 
 この二人にはあまり追求されたくない。 
 それでも、無視するわけにもいかず、愛理は千聖から手を離して、梨沙子の方を向いた。 
  
 「ももに聞いたの?」 
 「違う。栞菜が嬉しそうに言ってたの」 
 「会ったんだ?栞菜に」 
 「ももの練習見に行く途中にね」 
  
 面白そうに笑いながら梨沙子が愛理を見る。 
 音楽科ではない梨沙子にも、学年が違う相手の伴奏をすることが、珍しいことだと知られているようだった。 
   
- 273 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 04:02
 
-  「テストとか関係ないんだけど、まあ、なんとなくね」 
 「関係ないのにやってるんだ?」 
 「うん」 
  
 誤魔化す為に言った言葉だが、間違いだった。 
 よく考えれば、テストに無関係で伴奏をしている方がおかしい。 
 梨沙子の笑いがにやにやとしたものに変わる。 
  
 「どんな曲弾いてるの?」 
 「あたしも知りたい!」 
  
 千聖が携帯を放り出して、愛理の腕を掴んだ。 
  
 「え?あ、うーん」 
  
 頭に桃子の言葉が浮かぶ。 
  
 『選曲がすごいなあ。深い意味があるね、これは』 
  
 今、この状況で曲名を口にしたら、間違いなく誤解されそうな気がする。 
 とくに千聖が喜んでからかってきそうなことぐらいは簡単に予想出来る。 
 そして、桃子に負けず劣らず、梨沙子も鋭い。 
 梨沙子には桃子とは違い、オカルトじみた力があるように思える。 
 驚くほど的確に物事を言い当てる時があって怖いぐらいだ。 
   
- 274 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 04:05
 
-  隠すとおかしい。 
 でも、言いたくない。 
  
 何故、言いたくないのかは自分でもわからない。 
 それでも答えなければと思い、愛理はぼそりと曲名を口にした。 
  
 「Salut d'amou」 
  
 わかりにくいタイトルの方を二人に教える。 
  
 「は?」 
  
 梨沙子がぽかんとした顔をした。 
  
 「へ?」 
  
 千聖が理解出来ないといった声を出した。 
 そして二人、口を揃えて言った。 
  
 「それって、どういう意味?」 
  
 愛理はきょとんとした顔をしている二人の肩を叩いて立ち上がる。 
  
 「意味は辞書に載ってるよ。調べるのも勉強!」 
  
 その言葉を聞いて、梨沙子がシャーペンを握ってノートを開く。 
   
- 275 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 04:06
 
-  「今日はこれで終わりね」 
  
 話を打ち切るように、愛理は机の上に置いてあった勉強道具を片づける。 
  
 案外、梨沙子が真面目なことを忘れていた。 
 愛理は曲名を聞き直そうとする梨沙子の背中を叩いて、机の上を片づけるように促す。 
  
 「えー、早いよ」 
  
 不満げに梨沙子がぶつぶつと文句を言う。 
  
 「教えてって」 
  
 反対側では千聖が興味津々といった様子で愛理の腕を引っ張っていた。 
 それら全てをまとめて納得させるように愛理は言った。 
  
 「これから練習あるから」 
  
 練習、という言葉は偉大だ。 
 千聖も梨沙子もどれだけ練習が大事なのかわかっている。 
 愛理の言葉に、渋々といった感じで二人が立ち上がる。 
  
 「好きだね、練習」 
  
 千聖が呆れたように言って、勉強道具を放り込んだ鞄を持った。 
   
- 276 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/20(月) 04:07
 
-  「千聖だって好きじゃん」 
 「好きだけど、そんなに嬉しくはない」 
 「あたしだって、嬉しいわけじゃない」 
 「そんなことない。愛理、嬉しそうに見える」 
  
 小柄な千聖が愛理の顔を見上げる。 
  
 「あたしにも嬉しそうに見える」 
  
 愛理とそう身長が変わらないはずの梨沙子が屈んで、千聖と同じように愛理を見上げた。 
 愛理は二人の視線から逃げるように背を向けて、扉へと向かう。 
  
 「そんなに嬉しそうにするものかなあ。練習」 
  
 小さく千聖が呟いたが、聞こえないふりをして扉を開けた。 
  
 練習は好きだが、そう楽しいものではない。 
 でも、千聖と梨沙子にわかってしまうほどうきうきとしてしまうのは、栞菜に会えるからだ。 
  
 去年と同じように練習ばかりの夏休みだが、栞菜と音を合わせるようになってから少しずつ周りが変わってきたように思う。 
 これから練習だというのに、こんなに浮かれた気分になったことなど今まで無かった。 
  
 今日は愛理ではなく、栞菜の練習時間を使って愛の挨拶の音を合わせることになっている。 
 愛理は千聖と梨沙子を見送ると、栞菜の待つ練習室へ向かって走り出した。 
 約束の時間にはまだ早い。 
 それでも、走り出した足は止められなかった。 
  
  
  
   
- 277 名前:Z 投稿日:2009/04/20(月) 04:08
 
-   
   
- 278 名前:Z 投稿日:2009/04/20(月) 04:08
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 279 名前:Z 投稿日:2009/04/20(月) 04:10
 
-  >>262 三拍子さん 
 相変わらずお待たせしています(;´▽`) 
 楽しんで頂ければ嬉しいです。 
  
 >>263 にーじーさん 
 ありがとうございます。 
 まったりゆったり進んでいく時間を楽しんで頂ければと思います。 
   
- 280 名前:にっき 投稿日:2009/04/20(月) 04:14
 
-  青春って言葉が浮かびました 
 愛理の心境が緩やかに変化して進んでいくのが楽しいです 
  
 リアルタイムで読めて幸せな目覚めですw  
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/21(火) 00:25
 
-  初夏のそわそわした気分と絶妙にシンクロしてドキドキがとまりません 
 「好き」って気持ちは人間をどこまでも頑張らせてくれるようですね  
- 282 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:35
 
-  今日は珍しく寮の練習室を使うことになっていた。 
  
 窓がないから寮の練習室は嫌い。 
  
 愛理と栞菜、二人の意見は一致している。 
 寮の練習室は地下にあって、当然、窓もなければ風景も見えない。 
 練習室として校舎にあるものと比べて何ら劣るところはないし、自然光のかわりにしっかりと明るい照明があって薄暗いわけでもなんでもないが、どこか閉塞感があって苦手だ。 
 校舎の練習室から見る中庭の風景が好きな愛理にとっては尚更だ。 
 しかし、栞菜の今日の練習室の割り当てが寮の練習室になっている以上、文句は言えない。 
  
 愛理は地下への階段をタタンと降りて、練習室の扉をノックする。 
 けれど、栞菜は練習に熱中しているのか返事がない。 
 そんなことはさして珍しいことでもなく、愛理は扉を開けると練習室へ足を踏み入れた。 
  
 「あれ、愛理」 
  
 ガチャリと開いた扉に、栞菜がヴァイオリンを弾く手を止める。 
 そして、少し驚いたような顔をして愛理を見た。 
   
- 283 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:37
 
-  「早かったかな?」 
  
 壁に掛かっている時計を見ると、わかっていたことだが約束の時間よりもかなり早かった。 
 千聖と梨沙子の追求を逃れる為に宿題会を早めに切り上げた。 
 その上、練習室まで走ったものだから、栞菜が驚くほど早く練習室に着いてしまった。 
  
 気まぐれな時間に現れる栞菜と違い、愛理はきっちり約束の時間を守る。 
 早すぎても遅すぎても栞菜に悪いような気がするからだ。 
 だが、今日は、宿題会を早めに終わらせたことと、話題が栞菜のことになったせいか、約束の時間まで待てなかった。 
 愛理は栞菜の驚いた表情に、さすがに早すぎたかと後悔する。 
 そんな愛理に気がついたのか、栞菜がくすくすと笑って言った。 
  
 「別にいいよ。あたしも、早く愛理に会いたかったから」 
 「誰もそんなこと言ってないし」 
 「なーんだ。つまんない。あたしだけかあ、愛理に会いたかったの」 
  
 栞菜が大袈裟に息を吐き出し、残念そうな顔をして楽譜を片付けはじめる。 
 譜面台にあった楽譜をがさがさと鞄に入れ、別の楽譜を取り出す。 
 その合間に恨みがましい目で愛理を見るものだから、黙っているわけにもいかなくなって、愛理は小さな声で栞菜に告げた。 
   
- 284 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:39
 
-  「……あたしも、会いたかったけど」 
 「良かった。同じだ」 
  
 弾んだ声と共に栞菜が愛理に笑いかける。 
 それにつられるように、愛理の口元もほころんだ。 
  
 「ちょっと早いけど、合わせようか」 
 「うん」 
  
 栞菜の言葉に促され、ピアノの前へ座る。 
 鞄から楽譜を取り出し、譜面台へセットする。 
 注意すべきことを書き込んだ文字を確認してから、愛理は鍵盤へ指を置いた。 
  
 「栞菜」 
  
 名前を呼ぶだけで、準備が出来たと知らせることが出来る。 
 栞菜がこちらを向く。 
 目をあわせ、息を吸い込む。 
 一呼吸置いてから、愛理は愛の挨拶を弾き始める。 
 流れ出したピアノの音に栞菜のヴァイオリンの音が重なる。 
  
 暗譜をしているが、間違えないように譜面を追う。 
 栞菜のヴァイオリンは初めて聞いた頃に比べると、格段に上手くなっているようだった。 
 愛理は栞菜に置いて行かれないように、意識して指を動かす。 
 練習とはいえ、栞菜に下手だとは思われたくなかった。 
   
- 285 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:41
 
-  ほんの数分間の演奏はすぐに終わり、愛理は大きく息を吐き出した。 
 すうっと肩の力が抜ける。 
 栞菜を見ると、同じように息を吐き出して、ヴァイオリンを椅子の上へ置いていた。 
  
 二人で音を合わせるようになってから、一ヶ月ほど経った。 
 担当の教師から与えられた曲のように毎日練習しているわけではなかったが、それなりに練習は積んだ。 
 引き初めの頃に比べると、愛理のピアノも栞菜のように上手くなっているはずだった。 
 けれど、栞菜が自分のピアノを聞いて同じように感じているという自信がない。 
 自分は栞菜ほど上手くピアノを弾けているとは思えなかった。 
  
 愛理は楽譜を眺めて、何を書き込むべきかと考える。 
 しかし、書き込むような言葉は見つからない。 
 書き込むべき注意点は全て書き込んであるような気がする。 
 気がつけば、眉間に皺が寄っていた。 
  
 「どうしたの?」 
  
 余程難しい顔をしていたのか、殺風景な壁に寄り掛かっていた栞菜が不思議そうに愛理を見ていた。 
   
- 286 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:43
 
-  「うーん、上手く弾けない」 
  
 愛理は楽譜にメモをした文字を見ながら唸る。 
 楽譜を追うことは出来ている。 
 暗譜だってしている。 
 頭の中にある楽譜は完璧で、メモした文字さえも思い出せるのだ。 
 だから、大した間違いもなく、見た音符をそのまま音に出来ているはずだった。 
 それでも、上手く弾けたとは思えない。 
 一人で練習しているときは気になるようなことはないのに、何故か栞菜と合わせると上手く弾けていないような気がしてくる。 
 というよりも、栞菜が上手くて、自分が下手だと感じる。 
 栞菜の足を引っ張っているとすら思えた。 
  
 思い当たることと言えば、雨だれやテンペストを弾いているときほど気持ちを込めることが出来ていないことだ。 
 もちろん、雨だれもテンペストも完璧ではない。 
 それでも、愛の挨拶よりは愛理の気持ちが入っていたはずだ。 
 今は、気持ちを込めるよりも上手く弾きたいという思いの方が先立つ。 
 それはあまり良いこととは思えない。 
 だが、何故いつも通り弾けないのかわからない。 
  
 「上手いよ、愛理は」 
  
 いつ隣へ来たのか、栞菜が愛理の肩を軽く叩いて言った。 
 肩を叩いた手が愛理の服に張り付く。 
 栞菜の手は離れようとしない。 
   
- 287 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:44
 
-  校舎内にある練習室へは制服を着ていくが、今日は寮内と言うこともあって私服だ。 
 制服とは違う薄手のシャツから栞菜の体温が伝わってくる。 
 ひんやりとした室内で栞菜の手は温かかった。 
  
 栞菜が、沈み込もうとする気持ちを引き上げようとしてくれているのはわかった。 
 だが、愛理は栞菜の言葉を受け入れられない。 
 愛理は楽譜を睨み付ける。 
 Salut d'amouという文字が目に留まる。 
 そして、頭に桃子の顔が浮かんだ。 
  
 『選曲がすごいなあ。深い意味があるね、これは』 
  
 桃子の言葉が頭の中で再生される。 
 この言葉が頭に浮かぶのは今日二度目だ。 
 愛理は桃子の顔を追い出すように頭を小さく振った。 
  
 だが、今日二度目の言葉にあることを思い出した。 
 栞菜がどうしてこの曲を選んだのか聞いたことがなかった。 
 知らなくてもいいが、知ることが出来れば、栞菜と上手く音を合わせて弾けるようになれるかもしれない。 
 愛理は楽譜との睨めっこを止め、栞菜に尋ねてみる。 
   
- 288 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:46
 
-  「あのさ、どうしてこの曲選んだの?」 
 「今頃、そんなこと聞くんだ?」 
 「ずっと気になってたけど、なんか聞く機会がなくてさ」 
 「まあ、イメージ的なもの?」 
 「イメージって?」 
 「愛理って感じじゃん。曲の雰囲気とか、音の感じとか。なんかこう、柔らかい感じがするからさ」 
  
 栞菜が肩へ置いていた手を鍵盤に置き、黒鍵を叩いた。 
 細い音がシャツの袖を揺らし、壁に吸い込まれていく。 
 ピアノに片手を置いたまま、栞菜が愛理を見る。 
  
 栞菜の言葉に思い浮かぶものが一つあった。 
  
 癒し系。 
  
 よく友人達から言われる言葉だ。 
 自分では思わないが、何かにつけてそう言われることが多かった。 
 だが、人が言うほど誰かを癒すようなものを持っているとは思えない。 
 柔らかい雰囲気の曲は好きだが、内面的なことを言えば、負けん気が強かったり、肩が凝るほど真面目な部分も多い。 
 だから、癒し系という言葉には違和感を覚える。 
 今、その違和感が残る言葉を栞菜から言われたような気がして、胸の奥で何かがごそりと動いたような感じがした。 
  
 愛理は身体に合わない言葉に、足先で床を蹴る。 
 少し長めのスカートが足にまとわりつき、靴が小さな音を立てた。 
 それと同時にピアノからもう一つ音が聞こえて、愛理は現実へ意識が引き戻される。 
   
- 289 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:48
 
-  「それに、愛理がこの曲弾いてるところ見たかったし」 
  
 栞菜が愛理の右手を掴んで、鍵盤の上へ置いた。 
 そして、手を重ねるようにして、鍵盤をいくつか叩く。 
  
 「それだけ?」 
  
 ピアノが鳴らす音が消えてから、栞菜を見上げる。 
  
 「それだけって。これだけあれば十分じゃない?」 
 「そうだけど」 
 「何か不満でもあるの?」 
 「……ない」 
  
 不満はないはずだ。 
 桃子が言っていたような深い理由などあるはずがないと思っていた。 
 愛理の考えは見事に正解で、落ち込むような要素は一つもない。 
 けれど、心に重しでも乗せられたような気分だった。 
  
 練習室が地下にあるせいか、エアコンから吐き出される空気がカビ臭いような気がする。 
 温度設定もいつもと変わらないはずなのに、流れる空気が冷たく感じる。 
 急に練習室が牢獄か何かに思えて、愛理は大きなため息をついた。 
 そんな愛理を見て、栞菜がくるりと背を向けて歩き出す。 
   
- 290 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:50
 
-  「ソフトボールでさ、運動苦手なくせにあたしより先にバッターボックスに立って、ヒット打とうとする人が奏でる愛の挨拶ってのもいいじゃん」 
  
 椅子の上からヴァイオリンを手に取ると、栞菜が悪戯っ子のように笑った。 
  
 「もう一度、弾く?」 
  
 栞菜がヴァイオリンをかまえて、愛理を真っ直ぐ見つめる。 
 その目に心の中を読み取られているような気分になる。 
 心臓がどくん、と大きく音を鳴らした。 
  
 催促するように栞菜がヴァイオリンを鳴らす。 
 愛理は栞菜が愛の挨拶の数小節を弾いたところで、鍵盤へ指を置いた。 
  
 「栞菜」 
  
 名前を呼んで、息を吸い込む。 
 それを見て、栞菜がヴァイオリンを弾く手を止めた。 
 愛理は栞菜と視線を合わせてから、ゆっくりとピアノを弾きはじめる。 
  
 今度は鍵盤を叩く指にもう少し気持ちを乗せるように意識する。 
 楽譜に書いたメモが頭に浮かび、それが脳から腕へ伝わり、指先を動かす。 
 愛の挨拶のイメージと楽譜に書いたメモが混じり合い、一つの形を作り、そして崩れていく。 
 栞菜の奏でる音にピアノは引きずられ、自分の音は弾けて消えていった。 
   
- 291 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:52
 
-  「あたし、栞菜のイメージ通りに弾けてる?」 
  
 愛理は、演奏が終わり椅子に座り込んでいる栞菜に問いかけた。 
  
 ついさっき栞菜の口から聞いた、自分のイメージである柔らかな雰囲気。 
 もう一つの愛理がどんなものか栞菜には伝わっているようだが、それよりも音楽のイメージに近いのは柔らかな音楽を作る方の愛理のはずだ。 
 そんな音を奏でられたのかが気になる。 
 けれど、栞菜は予想とはまったく違う言葉を口にした。 
  
 「あたしのイメージ通りじゃなくてさ、愛理のイメージ通りに弾けてたらそれでいいんじゃないかな」 
 「でも、二人で弾いてるんだし、イメージ合わせた方がいいかと思って」 
 「あたしが愛理に合わせるっていうのでもいいじゃん」 
  
 栞菜の方が自分に合わせる。 
 それは考えたこともなかった。 
 愛の挨拶を弾くようになったきっかけが栞菜だから、栞菜に合わせるのが当然だと思っていた。 
  
 「っていうかさ」 
  
 栞菜が弓で肩を叩きながら、言葉を続ける。 
  
 「愛理の弾きたいように弾いたらいいと思う」 
  
 そう言って、うーん、と伸びをすると膝の上へ弓を置いた。 
   
- 292 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:53
 
-  愛理は鍵盤へ視線を落とす。 
 自分が弾きたいピアノ。 
 それがどんなものかと考えてみる。 
  
 真っ先に浮かんだのは、栞菜に劣らないように弾きたいというものだった。 
 足を引っ張るのは嫌だ。 
 いつもとは違い、そこにばかり気持ちがいく。 
 普段なら、もっと曲のイメージを自分の中で作り上げてから音にしていく。 
 けれど今は、曲をイメージすることは二の次になっていた。 
 むしろ、曲をイメージすることを避けているのかもしれない。 
  
 愛の挨拶は、作曲者エルガーが婚約者キャロラインに贈るために書いた作品で、愛する人へ送る曲だ。 
 気持ちを込めて弾くにしても、好きな人に曲を送りたいと思ったことなどなかったから、上手くイメージが掴めていないようにも思える。 
 もし、自分がエルガーだったら、恥ずかしくて愛を込めた曲など送ったり出来ない。 
 そこがこの曲のイメージ作りを阻止しているようでもある。 
  
 「あたし、愛理のピアノ好きだし、愛理がこれだって思って弾いてるならそれでいいと思う」 
  
 黙り込んでいると、言葉が足りないと思ったのか、栞菜がいつもより優しげな声で言った。 
 しかし、他の曲のようにイメージを掴めていない愛の挨拶に自信が持てない。 
   
- 293 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:55
 
-  「これだって、思えない。なんか、この曲は上手く弾けない」 
 「うーん。まあ、今はそれでいいじゃん。そのうち、愛理の思う感じで弾けるよ。テストがあるわけじゃないし、ゆっくりでいいよ」 
  
 栞菜が指先で弦をはじく。 
 甲高い音が練習室に響いた。 
  
 「もっと気軽にさ。遊びみたいなもんだし」 
  
 励ましてくれていることはわかる。 
 けれど、遊びという言葉が心に引っかかる。 
 そのことに、息抜きという名目で始めた演奏は、自分の中で息抜きの範疇を越えているのだと今頃気がついた。 
  
 「あたしは愛理の愛の挨拶が聞きたいから。だから、この曲選んだんだよ」 
  
 栞菜の言葉は難しかった。 
 一つ一つの言葉は理解出来る。 
 けれど、それら全てを繋げることが出来ない。 
 そして、それ以上に栞菜の言葉にいちいち反応する自分の気持ちが理解出来なかった。 
  
 「あんまり深く考えない!」 
  
 力強く言って、栞菜が立ち上がる。 
 すっくと立ち上がった栞菜の後ろにはいつも見える窓がなかった。 
   
- 294 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:56
 
-  今、いつものように窓があって、外の緑が見えたらと思う。 
 太陽の光に輝く緑を見れば、すぐに気分が晴れる。 
  
 この曲が、緑や季節をイメージ出来る曲なら良かった。 
 窓の外を見れば、曲に自分を合わせられた。 
 けれど、愛の挨拶はそうもいかない。 
  
 「ほら、愛理の為に一曲弾くから元気出して」 
  
 窓のない練習室の壁際、見慣れているけれど、見慣れない栞菜がヴァイオリンをかまえる。 
 寮の練習室ということもあって、栞菜はTシャツにジーパンというラフな格好をしていた。 
 見慣れた格好ではあるが、こういったラフな格好でヴァイオリンを弾いている姿を見ることはあまりない。 
  
 「なにがいい?」 
  
 問いかけられて一番最初に頭に思い浮かんだ曲は、二人で弾く曲を選んだときに選ばなかった方の曲だった。 
  
 「中国の太鼓」 
 「選ばなかったほうの曲かあ」 
 「聞きたい」 
 「いいよ」 
  
 すぐに演奏が始まり、テンポの良い曲調に練習室の雰囲気がぱっと明るくなる。 
   
- 295 名前:espressivo − 1 − 投稿日:2009/04/24(金) 03:57
 
-  栞菜の好きな曲を選べば良かった。 
 そうすれば、今も何も考えずに明るく、楽しい気分になれただろう。 
  
 流れる曲は陽気なものなのに、愛理はどことなくすっきりとしない。 
 それはこの部屋に窓がないからだと思う。 
 いつも見える緑の木がないから、音楽が身体の中に入ってこない。 
 練習室がここでなければ、もっと楽しい気分になれたに違いなかった。 
  
  
  
   
- 296 名前:Z 投稿日:2009/04/24(金) 03:57
 
-   
   
- 297 名前:Z 投稿日:2009/04/24(金) 03:57
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 298 名前:Z 投稿日:2009/04/24(金) 04:02
 
-  >>280 にっきさん 
 早起きですね!w 
 私には珍しく、青春真っ直中って感じの話になっています。 
 そんな青春中の愛理の変化をお楽しみ下さい。 
  
 >>281さん 
 頑張れたり、頑張れなかったり。 
 人の感情って面白いですね。  
- 299 名前:にっき 投稿日:2009/04/25(土) 18:19
 
-  グダグダ悩む愛理が可愛い 
 栞菜のバイオリン独占して聴けるだけで幸せ者だと思いますw  
- 300 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2009/06/30(火) 02:35
 
-   
  
  
 espressivo − 2 − 
  
  
   
- 301 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 02:38
 
-  落ちていく太陽は、空を赤く染め、廊下も赤く染めていた。 
 愛理は赤く染まった練習室の扉を見て、小さく息を吐き出す。 
 いつもなら簡単に出来るノックがなかなか出来ない。 
 廊下をうろうろと歩いて、窓の外を見る。 
 そんなことを何度も繰り返していた。 
 今もまた扉をノック出来ず、窓の外を見る。 
 夕焼け色の校舎、グラウンドからは運動部のかけ声が聞こえてきてくる。 
 赤い空には、黒い点にも見える鳥たちが騒がしく鳴いていて、早くノックをしろと愛理に言っているようだった。 
  
 小さな先輩に聞きたいことが二つあった。 
 一つはわざわざ練習を邪魔してまで聞くようなことではなくて、もう一つも今すぐ聞かなければならないことではないような気がする。 
 そんな気がするから、部屋の中へ入ることを躊躇っている。 
 しかし、愛理がどんな用事で尋ねてきたとしても、本気で怒るような先輩ではない。 
 どうしたものかと思案して、軽く十分はこの廊下をうろうろしていた。 
   
- 302 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 02:40
 
-  「ももだし、いいよね」 
  
 練習時間には限りがあって、尋ねる時間があまり遅くなると、かえって迷惑になりそうだった。 
 だから、愛理は言い訳のようにそう呟くと、扉を小さくノックした。 
 遠慮があった為か、そのノックは本当に小さな音だった。 
 だが、いくらノックの音が大きくても、中で演奏をしていれば聞こえないことも多い。 
 形式上ノックをしたのだからかまわないとばかりに、愛理はそっと扉を開けた。 
  
 扉を開けると、空を飛ぶ鳥の鳴き声よりも大きなピアノの音が聞こえてくる。 
 そして、それと一緒にピアノとは違う楽器の音が聞こえてきた。 
 桃子のピアノに乗って流れてきたのは、聞き慣れた音で、それはヴァイオリンの音だった。 
 ヴァイオリンの音に扉をもう少し開けると、ピアノの向こう側に人影が見えた。 
  
 知らない人がいる。 
  
 小窓から確認すれば良かった、と愛理は思う。 
 扉についている小窓は中が見えないように隠す人も多いが、桃子はいつも隠さない。 
 今日も小窓は隠されておらず、てっきり桃子しかいないと思っていたのに、他にも人がいるとは予想外のことだった。 
 桃子の練習なら、邪魔をしてもお互い様だ。 
 桃子も愛理が使っている練習室によく顔を出す。 
 しかし、ヴァイオリンを弾いている見知らぬ人物は桃子と一緒に練習をしているようで、その見知らぬ人物の練習を邪魔する権利は愛理にはない。 
   
- 303 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 02:43
 
-  幸い、練習室にいる二人は、まだ愛理の存在に気がついていないようだった。 
 このまま扉をしめて立ち去ってしまおうと愛理は考える。 
 そっと開けた扉を、これまたそっと閉める。 
 静かに、気がつかれないように、細心の注意を払った。 
 だが、無情にも練習室に流れていたピアノの音は途切れ、かわりに桃子の声が響いた。 
  
 「あれ、愛理。どうしたの?」 
  
 扉をこっそり閉めようとしていた為、へっぴり腰になっている愛理を、桃子が珍しいものでも見るような目で見ていた。 
  
 「聞きたいことあったけど、いいや。気にしないで。また来るから。ごめんね、邪魔して」 
  
 見つかってしまったものは仕方がないので、しゃきりと背筋を伸ばして答える。 
 愛理がピアノの向こう側にいる見知らぬ相手に向かって一礼してから扉を閉めようとすると、桃子が手招きをした。 
  
 「邪魔じゃないよ。そろそろ休憩しようと思ってたところだから。ね、みや」 
  
 そう言って、桃子がピアノの向こう側にいる人物の方を向いたから、練習室にいる見知らぬ人の名前が「みや」だとわかった。 
 愛理はその呼び名から、その人が何者かすぐに理解した。 
 桃子が伴奏を担当してる「夏焼雅」という人物に違いない。 
 一度見てみたいと思っていたから、愛理の視線が雅に釘付けになる。 
 けれど、じっと見つめる愛理を気にすることなく、雅が言った。 
   
- 304 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 02:46
 
-  「そう、ももに付き合ってるの疲れちゃってさ。ももに用事なら、入ったら?」 
 「ちょっと、ももがみやに付き合ってあげてるの。そこんとこ、間違えないでよね」 
 「あー、もも。うるさい」 
 「うるさいって、なにっ。うるさいって」 
 「もも、あたしの相手じゃなくて、そっちの子の相手しないと」 
 「あ、そうだった。愛理、入りなよ」 
  
 思い出したようにそう言うと、桃子が立ち上がり、扉にしがみつくようにしている愛理の前までやってくる。 
  
 「あ、でも、ほんと、今度でいいし。練習、続けて」 
 「なに、遠慮してんの」 
  
 ぶんぶんと顔の前で手を振って、練習室の扉を閉めようとすると、その手を掴まれた。 
 そのまま手を引かれて、まるで犯人のようにピアノの前へと連行される。 
  
 「で、用事ってなに?」 
  
 桃子がちょこんと椅子へ座る。 
 身体が小さい桃子がグランドピアノに向かっていると、子供のように見える。 
 足をぶらぶらさせてペダルを踏んで遊んでいるから、なおのことピアノを弾き始めたばかりの小学生のようだった。 
   
- 305 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 02:47
 
-  「大したことじゃないんだけど……」 
  
 右端のペダルを踏む桃子の足を見ながら考える。 
 聞きたいことのうちの一つは、どうでも良いことだった。 
  
 梨沙子は、桃子が中等部の音楽室にやってきてピアノを弾いていると言っていた。 
 わざわざ自分の時間を割いてまでピアノを弾く。 
 それは梨沙子を気に入っている証拠だと愛理は思う。 
 今まで桃子が誰かの為に、わざわざ時間を割いてまでピアノを弾くところを見たことがなかった。 
 だから、桃子が梨沙子のどこをそんなに気に入ったのか知りたい。 
 ちょっとした好奇心だ。 
  
 そして、もう一つの聞きたいことは、雅がいる前だと少し聞きにくい。 
 何故かというと、栞菜と練習している『愛の挨拶』についてだからだ。 
 愛の挨拶だけ上手く弾けない理由を知りたい。 
 いや、理由ははっきりしている。 
   
- 306 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 02:49
 
-  曲をイメージ出来ない。 
  
 それが一番の理由だと愛理は思う。 
 楽譜通りに正しく弾けば満点、というものではないことぐらいはわかっている。 
 わかってはいたが、どうにも出来ないのも事実だった。 
 寮の練習室で栞菜と音を合わせてから、何度も自分なりに弾いてみた。 
 けれど、納得出来るような演奏は出来なかった。 
 一人で考えるには限界がきていて、ヴァイオリンの伴奏をしている桃子に相談をすれば、何かわかるのではないかと思ったから、ここへ来た。 
  
 「大したことじゃなくてもいいよ。なんなの?愛理」 
  
 問いかけられて、愛理は思わず雅を見る。 
  
 「あ、みやか。気になる?」 
  
 本人を目の前に「うん」と素直に頷くわけにもいかず、愛理は中途半端に首を傾げて答える。 
 すると、桃子がぽんと両手を叩いた。 
  
 「愛理、みやと初めて会うんだっけ?」 
  
 さっきとは違い、答えやすい質問にはっきりと頷く。 
 そんな愛理を見て桃子がにこりと笑い、勿体を付けて咳払いをした。 
   
- 307 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 02:52
 
-  「気にするような存在でもないんだけど、とりあえず紹介するね」 
  
 紹介されずとも、こうして会う前から、雅の話はたびたび聞かされていた。 
 わざわざ一学年上の桃子に、伴奏を頼んでいるという変わった人であるということは間違いない。 
 そして、紹介される前からわかる目からの情報。 
  
 雅は栞菜がよくするように、窓際でヴァイオリンを片手に壁へ寄り掛かっていた。 
 制服も栞菜と同じように、着崩している。 
 紺色のネクタイは緩められ、白いブラウスのボタンは二つ外されていた。 
 しかし、立っている場所や制服の着方が栞菜とよく似ていても、雰囲気が随分と違っていた。 
  
 目立って違うのは顔だ。 
 一目で整っているとわかる派手な顔立ちだった。 
 栞菜とも違うが、すぐ近くにいる桃子とも違う。 
 そんなことを口に出せば、桃子が臍を曲げるのはわかっているから口には出さないが、雅の外見は美人に分類されるものだ。 
 聞いた話では長い髪だったはずだが、今は顎のラインで綺麗に切りそろえられている。 
 綺麗な顔立ちのせいか、年上であるはずの桃子よりも大人っぽく見える。 
  
 愛理が知っている中で、整った顔立ちと言えば梨沙子だが、雅はそれとはまた違った印象がある。 
 梨沙子は生クリームのような甘い雰囲気を持っているが、雅はもっとシャープな印象だ。 
 切り取り方次第で冷たくも見える。 
 そんなことを考えているのが伝わったのか、桃子が茶化すように言った。 
   
- 308 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 03:05
 
-  「高等部一年の夏焼雅。クールっぽく見えるけど、そんなことないから。本当はただのおばかちゃんだから、安心して」 
 「だーれーがー、ばかだって!」 
  
 桃子が口にした一つの単語に反応して、窓際にいた雅がずかずかと歩いてくる。 
 手に持っていたヴァイオリンを椅子の上へ置くと、桃子の両頬をつまんでびよーんと伸ばした。 
  
 「い、いひゃいって」 
  
 ふがふがと喋る桃子を見て、雅が悪戯っ子のようににやりと笑い、さらに頬を引っ張る。 
 引っ張られた桃子はと言えば、さすがに痛いのか、頬を引っ張る雅の手をぺしぺしと叩いて抵抗していた。 
 そんな桃子を見て楽しそうに笑っている雅を見ていると、確かにクールとは言えないなと愛理は思った。 
  
 「もー、みやは乱暴だなあ。で、みや。この子は鈴木愛理。中等部の二年生」 
  
 雅の手を叩いたおかげか、雅の手から解放された桃子が頬をさすりながら愛理へ視線をやる。 
 その桃子の視線を追うように、雅が興味津々といった目で愛理を見た。 
   
- 309 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 03:08
 
-  「鈴木愛理って、ももがよく話してる子だよね?」 
 「うん。そう」 
 「へえ。ももが気に入ってる中学生ってこの子なんだ」 
 「ももも気に入ってるけど、栞菜のだからね」 
  
 桃子が立ち上がり、そんなことを言いながらも愛理の身体を抱きしめる。 
 空調の効いた部屋とはいえ、暑苦しくて愛理は桃子の身体をぐいっと押す。 
 ついでに、桃子の言葉の間違いを指摘しようとするが、それよりも先に雅が一人納得したように声を上げた。 
  
 「ああ、そっか。栞ちゃんの後輩でもあるんだ」 
  
 納得ついでに、雅がピアノをばしんと叩いて桃子に窘められる。 
 愛理が桃子の身体を押し離すと、好奇心の塊のように目をキラキラとさせた雅に話しかけられた。 
  
 「丁度良かった。あたしも一回、愛理ちゃんと話してみたかったんだ」 
 「あたしとですか?」 
 「ももと栞ちゃんに気に入られてる子だもん。気になるに決まってる。とくにももに気に入られてるのは、可哀想で、可哀想で……」 
  
 雅の言葉に、桃子が納得出来ないというように噛みつく。 
   
- 310 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 03:10
 
-  「ちょっと、なにそれ!」 
 「ももと一緒にいると疲れるじゃん。でも、愛理ちゃん、ももとよく一緒にいるみたいだし。こんなももに気に入られて、つきまとわれて平気なんて、すごいなあって思うでしょ。普通。あたしなら、絶対やだもん」 
 「言いたい放題だよね、みや。ももの方が、愛理に付き合ってあげてるって、どうして思わないわけ?」 
 「愛理ちゃん、大人しそうだもん。絶対、ももがつきまとってる」 
 「ひどーい。偏見だってそれ。もも、つきまとったりしないもんっ」 
  
 これがこの二人のいつものやり取りなのか、喧嘩のような、そうじゃないような、微妙なやり取りが続くが、いつ口を挟めばいいのかわからず、愛理は成り行きを見守ることしか出来ない。 
 こうして二人を見ていると、仲が良いのか悪いのかわからないが、桃子が本気で怒り出さないところを見ると仲が良いのだろう。 
  
 「でさ、愛理。みやいたら話にくいなら、追い返すから」 
  
 言い争いが一段落したのか、桃子が雅を突きながら酷いことをさらりと言った。 
 二人が練習をしている中、割って入ったのは自分で、誰かが出て行かなければならないとしたら自分の方だ。 
 雅を追い出すなど失礼な話で、愛理が答える前から、雅を追い出そうとしている桃子を慌てて制止する。 
  
 「待って待って。夏焼先輩、追い返すならあたしが帰る」 
 「それじゃ、愛理の用事聞けないじゃん」 
 「でも、追い返しちゃだめだって」 
 「じゃあ、どうするの?ここじゃ、話せないんでしょ?」 
 「んー。栞菜のさ、伴奏してる曲。あれについてちょっと聞きたかっただけだし。また今度でいいよ」 
   
- 311 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/06/30(火) 03:11
 
-  曖昧に言って、練習室から立ち去ろうとする。 
 けれど、桃子にブラウスを掴まれる。 
 思いっきり引っ張られて、椅子へ座らせられた。 
  
 「愛理、楽譜ある?ピアノとヴァイオリン、両方」 
 「え?伴奏してるやつの?」 
 「そう、その楽譜」 
 「あるけど」 
 「じゃあ、貸して」 
  
 桃子が愛理の目の前に開いた手を出して、催促する。 
 鞄の中から楽譜を取りだして手渡すと、桃子はその中の数枚をピアノの譜面台へセットし、残りの楽譜を片手ににやりと笑った。 
  
 「愛理、帰っちゃだめだよ。ちょっと、待ってて」 
  
 そう言うと、桃子が残りの楽譜を雅に押しつけた。 
   
- 312 名前:Z 投稿日:2009/06/30(火) 03:12
 
-   
   
- 313 名前:Z 投稿日:2009/06/30(火) 03:12
 
-  本日の更新終了です。  
 
- 314 名前:Z 投稿日:2009/06/30(火) 03:14
 
-  >>299 にっきさん 
 栞菜も愛理のピアノを独占しているから、かなりの幸せ者ですね!w  
- 315 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/06/30(火) 07:09
 
-  待ってましたーーー!!! 
 これからどうなるのかめちゃくちゃ楽しみです。 
 連載多くて大変だろうと思いますが、頑張って下さい(^O^)/  
- 316 名前:にっき 投稿日:2009/06/30(火) 23:29
 
-  更新お疲れ様です! 
 つ、ついに登場・・・ 
 嬉しくてニヤニヤと読んでしまいました  
- 317 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/01(水) 00:34
 
-  こっちは久々ですね 待ってました 
 雅がキターーー!  
- 318 名前:Z 投稿日:2009/07/04(土) 02:32
 
-  更新を始める前に、前回更新分の訂正について。 
 わかりにくい部分があったので、前回更新分を一部書き換えました。 
 今回はその訂正した前後の辺りから、更新を始めます。  
- 319 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:34
 
-  「待って待って。夏焼先輩、追い返すならあたしが帰る」 
 「それじゃ、愛理の用事聞けないじゃん」 
 「でも、追い返しちゃだめだって」 
 「じゃあ、どうするの?ここじゃ、話せないんでしょ?」 
 「んー。栞菜のさ、伴奏してる曲。あれについてちょっと聞きたかっただけだし。また今度でいいよ」 
  
 曖昧に言って、練習室から立ち去ろうとする。 
 けれど、桃子にブラウスを掴まれる。 
 思いっきり引っ張られて、ピアノの前へと座らせられた。 
 嫌な予感がして立ち上がろうとするが、それを遮るように桃子が手を出した。 
  
 「愛理、楽譜ある?ピアノとヴァイオリン、両方」 
 「え?伴奏してるやつの?」 
 「そう、その楽譜」 
 「あるけど」 
 「じゃあ、貸して」 
  
 桃子の手が催促するように動く。 
 鞄の中から楽譜を取りだして手渡すと、桃子はその中の数枚をピアノの譜面台へセットし、残りの楽譜を片手ににやりと笑った。 
  
 「愛理、帰っちゃだめだよ。ちょっと、待ってて」 
  
 そう言うと、桃子が残りの楽譜を雅に押しつけた。 
   
- 320 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:36
 
-  「みや、これ弾いてよ」 
 「あたし、初見苦手なんだけど。あと、知ってると思うけど、人前で弾くのも苦手だから」 
 「何言ってんの。人前で弾くのが仕事でしょ」 
 「仕事じゃないし」 
  
 雅が不満げに言って、楽譜を押し返す。 
 だが、桃子はそれを気にすることもなく、押し返された楽譜を窓際にある譜面台へ置いた。 
  
 「とにかく、弾いてよ。ももがヴァイオリン弾けるなら弾くけど、それ無理だし。愛理とみやで弾いて」 
 「あたし、弾かないってば。愛理ちゃんだけ弾けばいいでしょ」 
 「みや、可愛いももの頼み、そして愛理の頼み、聞いてくれないの?」 
  
 桃子が潤んだ目で雅の手をぎゅっと握る。 
 そして、縋るように言った。 
 その芝居じみた物言いに雅が顔を顰める。 
  
 「ももの頼み、聞きたくないんだけど」 
 「愛理の頼みは?」 
  
 嫌そうな顔をした雅に桃子がすかさず問いかけるが、それは愛理の記憶にはないことだった。 
   
- 321 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:39
 
-  「もも、あたし頼んでないんだけど……。それにあたしも弾かないよ」 
  
 嫌な予感が的中して、愛理は遠慮がちに言ってみた。 
 しかし、聞こえているはずの言葉は軽く受け流されてしまう。 
 桃子は自分の考えを曲げるつもりはないようで、握った雅の手を引っ張って譜面台の前へと連れて行く。 
 椅子の上へ置いてあったヴァイオリンは、桃子の手によって雅に渡される。 
  
 「とにかく、みや。これ弾いてよ」 
  
 一度決定した事項は覆されることはない。 
 そのことを良く知っているのか、雅が大きく息を吐き出してから楽譜を覗き込む。 
 愛理も同じように息を吐き出す。 
 二人の意見は聞き入れられることはないようで、桃子の言う通りにするしかないようだった。 
  
 「もう一回いっとくけど、あたし初見苦手なんだからねっ」 
  
 雅がくしゃくしゃと髪をかき上げて、恨みがましい目で桃子を見る。 
 その視線も桃子には届かず、桃子は暢気に愛の挨拶のメロディを口ずさんでいた。 
  
 「はい、じゃあ、二人ともこっち見て」 
  
 桃子が二人からよく見える位置へと移動すると、愛の挨拶のメロディが途切れた。 
 大袈裟なぐらい胸を張って、桃子が両手を上げる。 
 やけに格好を付けたポーズに、桃子が指揮をするつもりなのだとわかって、愛理は鍵盤に指を置く。 
 ちらりと窓際へ視線をやると、やれやれと言った表情をした雅が、ヴァイオリンをかまえている姿が見えた。 
   
- 322 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:42
 
-  雅は、いつも桃子とこんな風に演奏しているのだろうか。 
 そんなことがふと頭によぎる。 
 自分と栞菜とは随分違う。 
 愛理は栞菜と言い争いをすることもなかったし、無理矢理何かを頼むこともない。 
 雅のように面倒臭そうにヴァイオリンをかまえる栞菜も見たことがない。 
 だが、桃子の様子を見ていると、付き合いきれないといった態度になる雅の気持ちがわかるような気もする。 
  
 「愛理」 
  
 よそ見をしていたことを咎めるように名前を呼ばれて、視線を桃子へ戻す。 
 肩を竦めて目だけで謝ると、桃子が小さく頷いて、かまえていた手が動き出した。 
  
 ぴんと伸ばした桃子の人差し指がひゅんっと振り上げられ、愛理は軽く息を吸う。 
 そして、振り下ろされた手に合わせて、愛理はピアノを弾き始めた。 
 その音に合わせるように、ヴァイオリンから紡ぎ出された音が重なる。 
  
 聞こえてくるヴァイオリンの音。 
 それは雅の派手な外見に似合わず、繊細な音だった。 
   
- 323 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:43
 
-  栞菜がいつも立っている場所から、似たように制服を着崩した雅が作り出す音は、栞菜が持っている音とは違った。 
 当たり前のことだが、愛理はその事実に少し驚く。 
 栞菜はまるで太陽のように力強い音を作り出す。 
 本人と同じで元気が良くて、音が跳ね回っているイメージだ。 
 愛の挨拶も、柔らかさよりも芯の強さを感じさせるような音で、今、雅が弾いている曲とは別の曲のように思える。 
  
 雅が弾くヴァイオリンからは、普段の練習が垣間見えるような真面目さが伝わってくる。 
 栞菜より、自分に近い音。 
 そんな感じがする。 
  
 弾き慣れた曲とはいえ、雅とは初めて音を合わせる。 
 にもかかわらず、不思議と何度も音を合わせているように演奏出来た。 
 栞菜とよりも弾きやすいぐらいだった。 
 そのせいか、もともと短い曲は、あっという間に終わってしまう。 
  
 「ふうん」 
  
 小さい身体全体を使って、楽しそうに指揮をしていた桃子が面白そうに二人を見比べる。 
  
 「栞菜とより、みやとやるほうが合ってるかもね」 
  
 ぼそりと呟いて、桃子が愛理の方へ寄ってくる。 
   
- 324 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:46
 
-  聞いたこともないくせに。 
  
 一瞬、そんなことを考えた。 
 実際、愛理と栞菜が音を合わせているところを、桃子は見たことがない。 
 知りもしないのに何故そんなことを言うのかと、何だかむっとして、愛理は言い返そうとした。 
  
 けれど、よく考えてみれば、栞菜の音は聞いたことがあるはずだった。 
 桃子は愛理が練習をしているところへ顔を出すように、栞菜が練習をしているところにも顔を出していると聞いている。 
 だから、栞菜と雅の音を比べることが出来るのだろう。 
 それに、愛理自身も雅との演奏を心地良く感じた。 
  
 桃子に大きなことは言えそうにない。 
 愛理は言いかけた言葉を飲み込んで、窓の外を見る。 
 外は廊下でうろうろとしていた時よりも、さらに赤く染まっていた。 
 窓際に立っている雅が目に入って、何故か栞菜が頭に浮かんだ。 
  
 「でも、愛理は栞菜がいいんだよねえ」 
  
 愛理の頭の中を覗いたかのように、桃子が言った。 
 思考を読まれたような気がして、恥ずかしくて口早に言い返す。 
   
- 325 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:48
 
-  「そんなこと言ってない。大体、夏焼先輩の伴奏はももでしょ」 
 「別に、ももじゃなくてもいいみたいだよ。いっつも、もうクビだ!って、みやに言われてるし」 
  
 桃子が「はあ」と大袈裟にため息をつく。 
 そんな桃子を見て、雅が冷たい声で言った。 
  
 「それは、練習サボるからでしょ」 
 「決められた練習はしてますぅ。自主的な練習をサボってるだけだもん」 
 「それでも、サボってることには変わりないっての」 
 「でも、みやが本当に困ってるときはサボらないんだから、いいじゃん。それとも、本当に困ってるときもサボった方がいい?」 
 「それは絶対にだめ!」 
  
 桃子の問いかけに即答する雅を見ていると、桃子の日頃の行いが伺える。 
 何故、桃子に伴奏を頼んでいるのか。 
 そんな疑問がまたわいてきて、雅の印象が「変わった人」で固定されていく。 
 同情したくもなるが、別の相手にすることも出来る伴奏を桃子に頼み続けているのだから、自業自得とも思える。 
  
 「みや、愛理どうだった?」 
  
 話題が急に変わる。 
 話が自分のことになって、愛理は雅を見た。 
   
- 326 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:49
 
-  「どうって。上手いと思ったけど。楽譜通りだと思うし、この調子でやればいいんじゃないの」 
 「だってさ」 
  
 当たり障りのない返答に、桃子の言葉が続く。 
 けれど、雅の答えは、愛理が納得出来るものではなかった。 
  
 「ももは?ももはどう思った?」 
  
 今、会ったばかりの雅が厳しいことを言うとは思えない。 
 もともと桃子に話を聞きに来ているのだから、桃子がどう感じたかを知りたかった。 
 けれど、質問は質問で返された。 
  
 「愛理は?」 
 「え?」 
 「みやとやってみて、どうだった?」 
 「弾きやすかったかな」 
  
 素直に感想を伝えると、満足げに桃子が頷いた。 
   
- 327 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:51
 
-  「栞菜と弾くときも、いつもあんな感じで弾いてる?」 
 「……わかんない」 
  
 今度は少し考えて、嘘を付いた。 
 今、弾いたピアノは、栞菜と弾くときとは違う。 
 栞菜と弾くときは、色々なことが頭に浮かんで、音に集中出来ないことが多かった。 
 だが、今はすんなりと弾けた。 
 余計なことを考えるより先に指が動いていた。 
  
 「愛理さー。もっと気軽にやろうよ。気軽に」 
  
 そう言って、椅子に座っている愛理の頭の上へ桃子が手を置いた。 
 一瞬、旋毛の辺りに体温を感じる。 
 暑い、と思う前に手が離れ、それから、くしゃくしゃと頭を撫でられた。 
  
 「気軽にって言うけどさ、人と合わせるんだもん。そう簡単に出来ないよ。それに、栞菜上手いんだ」 
 「愛理だって、上手いじゃん」 
 「上手くないし、なんか違う。今、あたしが弾いた感じじゃなくて、よくわかんないけど、なんか違うの」 
  
 さらりと弾けたことが良いことかどうかわからないが、曲から受けるイメージはもっと違うものだと愛理は思う。 
 今、弾いた愛の挨拶は、初めて楽譜を見たときに受けた印象とは、だいぶ違うような気がする。 
 最初の印象と出来上がった曲が違うことはよくある。 
 しかし、今は最初に持ったイメージの方が曲に近いと思える。 
   
- 328 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:52
 
-  「真面目に考えすぎなんだって。愛理が思ってるように弾いたら、それが愛理の愛の挨拶でしょ」 
  
 どこかで聞いた言葉を桃子が口にした。 
 どこだろうと考える前に、その言葉が栞菜と繋がる。 
  
 「栞菜もそんなこと言ってた」 
  
 ぼそりと呟いて、鍵盤に指を置く。 
 人差し指に力を入れると、ぽーんと小さな音が鳴った。 
 その音を聞いて、桃子が隣で困ったように笑った。 
  
 「もう一回弾いてみて。今度はちゃんと」 
  
 桃子が楽譜を指先で弾く。 
  
 「ちゃんとって、今だってちゃんと弾いたよ」 
 「さっきよりも、もっと、こう心を込めて」 
  
 ぽん、と桃子から肩を叩かれる。 
 それを合図のように、目を閉じる。 
 頭の中で曲の持つイメージを広げていく。 
   
- 329 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:55
 
-  この曲は、作曲者エルガーが婚約者に送ったと言われている曲だ。 
  
 人に曲を送ったことはないが、想像することなら誰でも出来る。 
 愛理は、どんな気持ちでエルガーがこの曲を作ったのかを考えて、頭に浮かべてみる。 
 いつもなら想像が形になる前に、頭の中にあるぼんやりとした曲のイメージがちりぢりになって消えていってしまう。 
 しかし、今日は、ぼんやりしていたものがはっきりとした形を作っていく。 
 閉じていた目を開いても、それは頭の中に残っていて、余計なことを考えずに済んだ。 
  
 「みや、もう一回よろしく」 
 「はいはい」 
  
 二人のやり取りが聞こえて、桃子が愛理から離れる。 
 さっきいた場所へと戻って、桃子が人差し指をぴんと立てた。 
  
 振り下ろされる手。 
 鳴り響くピアノとヴァイオリン。 
  
 静かで、甘い曲調。 
 雅が奏でる繊細な音は、この曲に良くあっていた。 
 そのせいか、聞こえてくるヴァイオリンに音を重ねていくことは、そう難しいことではなかった。 
 やはり、雅とは音が合わせやすい。 
 栞菜と弾くより、曲のイメージをはっきりと形にすることが出来る。 
 曲は一度目と同じようにあっという間に終わった。 
   
- 330 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:57
 
-  愛理は、ふう、と小さく息を吐き出す。 
 雅の方を見ると、にっこりと笑顔を返された。 
  
 「じゃあ、栞菜と弾いてるつもりで弾いて」 
  
 愛の挨拶の持つゆったりとした雰囲気が残る練習室の空気を桃子が乱す。 
 楽しそうな声はどこか悪戯な響きも含んでいて、愛理のこめかみがぴくんと動いた。 
  
 どうしてそんなに楽しそうなのかと問う前に、指が強ばった。 
 緊張しているのかもしれない。 
 そう思って深呼吸をしてみるが、上手く呼吸が出来なかった。 
  
 イメージを頭に広げることも、気分を落ちるつけることも出来ないまま、桃子がにやにやと笑いながら指揮を始める。 
 愛理が慌ててピアノに指を下ろすと、一度目とも二度目とも違う音が鳴り響いた。 
 自然に眉間に皺が寄る。 
 思っているような音が出ない。 
 狂った調子はそう簡単には戻らず、曲の半ばで桃子が笑い出して、演奏を止めた。 
   
- 331 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/04(土) 02:58
 
-  「あいりー。真面目に」 
 「……やってる」 
  
 大きな声でやっていると言えなかった。 
 そんな愛理を見て、桃子がさらに大きな声で笑った。 
  
 「笑いすぎ!」 
 「ごめん、ごめん。でも、面白くて」 
 「ももを面白がらせるために弾いてるんじゃないもん。大体さ、ももなら、どうやって弾くわけ?」 
  
 愛理は笑い止めようとしない桃子にむっとして、楽譜を掴んで差し出す。 
  
 「聞きたい?」 
 「聞きたい」 
  
 愛理が即答して立ち上がると、桃子が咳払いを一つして楽譜を受け取った。 
 譜面台へ楽譜を置くと、椅子へ座る。 
 桃子が腕まくりをするポーズを取って、雅の方を見た。 
   
- 332 名前:Z 投稿日:2009/07/04(土) 02:59
 
-   
   
- 333 名前:Z 投稿日:2009/07/04(土) 02:59
 
-  本日の更新終了です。  
 
- 334 名前:Z 投稿日:2009/07/04(土) 03:03
 
-  >>315さん 
 お待たせしてしまい、すみません。 
 色々と手を出していますが、更新滞らないように頑張りたいです。 
  
 >>316 にっきさん 
 やっと登場させることが出来ました。 
 ここまで長かったですw 
  
 >>317さん 
 久々過ぎになってしまい、すみません。 
 ついに登場させることが出来ましたw  
- 335 名前:にっき 投稿日:2009/07/05(日) 01:10
 
-  更新おつです 
 ふたりの演奏が楽しみすぎてニヤニヤしますw 
   
- 336 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:15
 
-  「みや、何度も悪いけど」 
 「はいはい、わかってますよ。弾けばいいんでしょ」 
  
 雅がヴァイオリンをかまえる。 
 二人の視線が交わって、桃子が小さく頷いた。 
 一呼吸置いて、練習室に音が溢れ出す。 
  
 そう言えば、桃子がピアノを弾いているところは何度も見たことがあったが、 
 伴奏をしているところは見たことがなかった。 
  
 桃子は小さな身体に似合わず、ダイナミックにピアノを弾く。 
 鍵盤を叩き壊すのではないかと思うこともある。 
 小さな手が紡ぎ出す音は荒っぽいところもあるが、そこがまた面白い。 
 しかし、雅の音に合わせて伴奏するならば、いつもとは違う弾き方をするのではないかと愛理は思ったが、予想は外れた。 
  
 甘く繊細な曲は酷く熱っぽかった。 
 可愛らしい外見に似合わない情熱的な音。 
 愛の挨拶は、甘さよりも激しさを感じさせるものに変わっていた。 
 伴奏と言うより独奏だ。 
   
- 337 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:20
 
-  そして、それよりも気になるのは、やけにテンポが速いことだった。 
 というか、速すぎる。 
 テストでも演奏会でもないから、普段より自由に弾ける。 
 だからといって、桃子の弾き方はやりすぎだ。 
 窓際の雅が走り抜けていく音を捕まえようと、一生懸命になっていた。 
  
 テンポが速ければ、曲はいつもより速く終わる。 
 駆け足で弾かれた愛の挨拶はすぐに終わり、雅は呆れた顔をしていた。 
  
 「ちょっと、もも。楽譜、無視しすぎ!」 
  
 もっともな意見に、愛理は雅に同情したくなる。 
 桃子が楽譜を無視すれば、そのとばっちりは雅へいく。 
 一人で弾いているわけではないから、当然だ。 
  
 桃子がテンポを緩めるか、雅が追いつくか。 
 選択肢は二つで、桃子に譲るつもりがなさそうだったから、雅が追いつくしかなかった。 
  
 「テストでも演奏会でもないんだからいいじゃん」 
 「それにしたって、やりすぎでしょ!」 
  
 反省の色のない声が練習室に響いて、それを打ち消すように雅が大きな声を出した。 
 けれど、桃子は少しも気にしていないようだった。 
   
- 338 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:23
 
-  「espressivoだよ!espressivo!」 
  
  
 エスプレッシーヴォ。 
 音楽用語の一つだが、桃子の演奏はそれとは少し違うのではないかと愛理は思う。 
  
 「表情豊かに、って豊かすぎるんだよ!ももはっ。大体さ、もものはespressivoっていうより、appassionatoでしょ」 
 「どっちでも良くないけど、どっちでもいいじゃん」 
 「良くないの。appassionatoとespressivoは違うんだから。どっちにしろ、伴奏なのにやりすぎだって」 
 「まあ、テストでも演奏会でもないんだから、こういうのもありでしょ」 
  
 espressivoは、雅が言ったように「表情豊かに」という意味を持つ用語だ。 
 そして、アパッショナート。 
 appassionatoは、「熱情的に」という意味を持っている。 
  
 桃子の演奏は 
 espressivoより、 
 appassionatoのほうが近いと愛理も思う。 
 他にも探せばぴったりくる用語があるとは思うが、今、思いつくのは 
 appassionatoだ。 
  
 しかし、「表情豊かに」でも「熱情的に」でも、弾く為なら、楽譜を無視してもいいというわけではない。 
  
 桃子の演奏は、愛の挨拶がまるで別のもののように聞こえるもので、先生がいたならば、褒められるような演奏ではなかったと思う。 
 それでも、聞いたことのない演奏は新鮮だったし、興味を引かれた。 
 体温が上がるような情熱的な愛の挨拶も悪くない。 
 ただ、悪くはないが、付き合わされる雅は大変だろう。 
   
- 339 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:27
 
-  「ほんっと、ももはいつも勝手なんだから……」 
  
 ぶつぶつと文句を言っているところを見ると、本当に大変だったのだと思う。 
 そして、桃子が雅の前では、こんな演奏をよくしているのだとわかった。 
  
 「こんなの挨拶じゃなくて、挨拶する前に家へ帰っちゃう勢いじゃん!」 
  
 椅子の上へヴァイオリンを置くと、つかつかと雅が桃子の隣へやってきて、その背中をばんっと叩いた。 
 必要以上に桃子が痛がって、愛理は思わず吹き出した。 
 雅の言葉は桃子の演奏を巧みに表していたし、外見に似合わないふくれっ面をしている雅を見ているとつい笑いがこぼれる。 
  
 「あのぉ、先輩。ももの伴奏って、いつもこんな感じなんですか?」 
  
 愛理が今まで見ていた桃子は、荒っぽい演奏をすることもあったが、ここまで楽譜を無視するようなことはなかった。 
 こんなことが日常的なことなら、雅はよく桃子と一緒にやっているなと思うが、楽しそうに椅子の上で足をぶらぶらさせている桃子を見れば、答えがわかるような気がしたがあえて聞いてみた。 
  
 「テストはちゃんとやってくれるよ。でもね、こういうときはもうね!」 
  
 雅の答えからすると、「いつも」ではないようだが、よくあることのようだった。 
   
- 340 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:30
 
-  「そういえば、学校のイベントで最悪だったことがある。ももと組むと、いいことない」 
 「じゃあ、ももじゃない人と組んだらいい」 
 「今さら他の人に頼むのなんて面倒なんだから、ちゃんとやってよね。あー、もう、なんでももなんかに伴奏頼んじゃったんだろ」 
  
 恨みがましく言って、雅が鍵盤を押さえた。 
 不協和音が響いて、桃子が雅の手を止めた。 
  
 「ももの素晴らしい演奏に惚れちゃったんでしょ」 
 「惚れませんっ」 
 「えー、本当のこと言っていいよ」 
 「本当のことしか言わないから、あたし。大体、ももがこんなヤツだって、初めから知ってれば……」 
 「伴奏頼する前からの友達なんだから、こんなヤツって知ってたでしょ」 
 「知らないよ」 
 「知らないなんて、ひどいっ。中等部からの仲なのにっ」 
  
 桃子が泣き崩れる真似をして、雅の肩に縋る。 
 雅がそんな桃子の額を押した。 
   
- 341 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:33
 
-  「最初、もっときちんとしてたのに……。段々、こんな適当になって!」 
  
 雅の伴奏をはじめた頃の桃子が、どんな風だったのか想像が付かない。 
 というより、きちんとしていたという桃子は容易に想像出来るが、適当な桃子の方がわからない。 
 愛理が見てきた桃子は、音楽に対してはきちんとしていたからだ。 
 練習はさぼらないし、練習中は真面目に弾いている。 
 レッスン室前で会うときも、楽譜と睨めっこをしていることが多かった。 
 その桃子がこれだけやりたい放題やるのだから、気を許している証拠だとは思うが、雅にとっては迷惑に違いないだろう。 
 それに、桃子は雅を困らせて楽しんでいる節がある。 
 そんな桃子の相手をするのは大変だろうと雅に同情したくなる。 
  
 「適当じゃないよ。ももはいつでも真面目だよ、真面目」 
 「真面目にやった結果がこれなら、もっと悪い」 
  
 桃子のわざとらしいぐらいの声と、冷ややかな雅の声が練習室に響く。 
  
 「そろそろ、ケンカ終わりますか?」 
  
 二人のやり取りは喧嘩と言うよりは、漫才のようだと愛理は思う。 
 こうして二人の会話を聞いているのは面白いが、放っておくといつまで続くかわからない。 
 どこかで止めないと、愛理がいることを忘れてずっと言い争いをしていそうだった。 
  
 「あー。ごめん、ごめん」 
  
 桃子が軽い口調で言って、椅子ごと愛理の方を向く。 
 そして、さらに何かを言おうと口を開くが、実際に聞こえてきたのは雅の声だった。 
   
- 342 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:36
 
-  「無理に合わせようとするから、いけないんじゃないの?だってこれ、レッスンの曲じゃないでしょ?」 
 「そうです」 
 「これ見たらわかると思うけど、無理矢理合わせようとすると大変なことになる」 
  
 雅が人差し指を立てて、桃子を指差した。 
  
 「ちょっとみや!これってなに!これって」 
 「これは、これだよ。ここにいるちっちゃい人のこと」 
  
 つん、と桃子の額を突いて雅が鼻で笑う。 
 かなり強く突かれたのか、桃子が額を押さえた。 
  
 「コンパクトなのが、ももの可愛いところなのっ。ね、愛理!」 
 「いや、あたし、知らないし」 
 「えー!知っておこうよ。愛理っ」 
  
 桃子が愛理の制服の裾を掴んで、引っ張る。 
 その手をぺしんと叩くと、雅から肩を突かれた。 
 雅の方を向くと、桃子の相手をしていた時とは違って、真面目な顔をして愛理を見ていた。 
  
 「まあ、とにかくさ。自分の好きなように弾くのも大事なんじゃない。ももみたいなのはやりすぎだけどさ、テストも演奏会も関係ないなら、楽しく弾くのが一番だと思うよ」 
  
 優しげな声でそう言われる。 
 愛理も確かに雅の言う通りだと思う。 
 だが、好きなように弾けないから困っている。 
 それを雅に言っても、伝わらないだろうということもわかっている。 
   
- 343 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:38
 
-  わかってくれるとしたら、それはきっと栞菜とのことを良く知っている桃子だ。 
 そう思ってここへ来たのに、桃子といえば、へらへら笑っているばかりで頼りにならない。 
 そんなことを考えていると、桃子に制服の裾を引っ張られた。 
  
 「愛理」 
  
 頼りにならない桃子の手は、制服に張り付いたままだった。 
 桃子が愛理の制服をさらに引っ張って、それを頼りに立ち上がる。 
  
 「愛理さ、絶対に曲名、気にしすぎてる。あと栞菜のことも。どんな曲かわかってるから、上手く出来ないんだよ」 
  
 小さな桃子が少し背伸びをして、愛理の耳元でぼそりと言った。 
 その声に、ぴくんとこめかみの辺りがひきつる。 
 問題の核心に近づいている。 
 それがわかって、鼓動が速くなった。 
  
 「だから、いつもみたいに弾けないんだと思う。いつもの愛理と違う感じになってる」 
  
 桃子の声は、愛理にだけ聞こえるような声だった。 
 けれど、その小さな声は愛理の動揺を誘う。 
 桃子を見返すことが出来ず、視線が揺れる。 
   
- 344 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:40
 
-  「曲のイメージってさー、色々じゃん。今、ももが弾いたのだって、愛の挨拶だよ」 
  
 小さかった声が大きなものに変わる。 
 それは、こそこそと内緒話をしていた桃子を不満げに見ていた雅に伝えるようなものだった。 
  
 「イメージ出来てもさ、それを表現するのって難しいよね。あたしも、だめだってよく言われるし。上手く出来ないんだよね」 
  
 雅は何をこそこそと話していたかのかとは聞かなかった。 
 かわりに桃子の言葉に答えて、大きなため息をついた。 
 桃子が誰に向かっての言葉なのか、くすくすと笑いながら口を開く。 
  
 「もっと、素直になればいいんだよ」 
 「それが、難しいんだって」 
 「そうかなあ。案外、簡単なことだと思うけど」 
  
 表現すること。 
 素直になること。 
  
 桃子が言うように、もっと簡単に考えれば上手くいくのだろうか。 
 愛理には、簡単なことほど難しいようにも思える。 
 それに、栞菜と演奏すると上手くいかない原因は、もっと別のところにあるのだとわかった。 
   
- 345 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:42
 
-  雅とは何も考えずに出来て、栞菜とだと上手くいかない。 
 栞菜の名前を出されただけで、意識してしまって演奏が乱れる。 
 桃子の言うように、曲名に囚われ過ぎているし、栞菜のことを気にしすぎていた。 
 けれど、それがわかったからといって、どうにか出来るとは思えない。 
 結局、何も解決していないような気がする。 
  
 「もものほうが、栞菜の伴奏するのあってるかもね。愛理はみやとのほうが良いと思う」 
  
 桃子の言葉に少しだけ胸が痛む。 
 自分も桃子の言葉に納得しそうで、それが嫌だった。 
  
 「そうかもね。あたしも、ももより愛理ちゃんのほうが合わせやすい。もも、勝手気ままなんだもん」 
  
 そう言って、雅がヴァイオリンを片付け始める。 
 時計を見ると、もう練習時間が終わってもおかしくない時間だった。 
 赤かった窓の外は、暗くなり始めていた。 
  
 「楽譜、返すね」 
  
 ヴァイオリンをケースへしまった雅から、楽譜を手渡される。 
  
 「そろそろ、帰ろうか」 
 「すみません。結局、邪魔してしまって。夏焼先輩、ありがとうございました」 
  
 愛理は楽譜を受け取って、頭をぺこりと下げる。 
 すると、桃子が不満げに言った。 
   
- 346 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:44
 
-  「愛理、ももは?」 
 「ありがと」 
 「なんか、ももには素っ気なくない?」 
 「ないない」 
  
 ピアノの譜面台から楽譜を取って、雅から受け取った楽譜と一緒に鞄へしまう。 
 そして、ヴァイオリンケースを片手に持った雅に促されて、練習室から三人揃って廊下へと出た。 
  
 赤く染まっていた廊下は、蛍光灯の光によって照らされていた。 
 クリーム色の床がシチューのようで、愛理のお腹がぐうっと鳴る。 
 その音が雅に聞こえていたらしく、くすくすと笑われた。 
  
 「そういえば、愛理ちゃんは宿題終わったの?」 
 「もう終わりました」 
  
 お腹を押さえながら答えると、その様子が面白かったのか、雅の笑い声がさらに大きなものになる。 
 だが、その笑い声はすぐに消えることになった。 
  
 「みやは、当然終わってないよね」 
 「なにその、当然っていうの」 
 「だって、終わってないでしょ?」 
 「そりゃあ、終わってないけど。でも、もうすぐ終わるし」 
 「へえ、そうなんだ。じゃあ、ももの出番ないね」 
  
 満面の笑みで桃子が雅を見る。 
 さっきまで笑っていた雅はといえば、笑顔が消えていた。 
   
- 347 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:46
 
-  「……もも」 
 「教えないからね」 
 「ちょっと、もも」 
 「もも、みやの宿題なんか知らないからね」 
 「可愛いももちゃん」 
 「きこえなーい」 
  
 桃子が両耳を押さえる。 
  
 「ねえ、ももっ!あたしの宿題どうなるのっ」 
 「しーらないっ」 
  
 雅が耳を押さえる桃子の手を掴んで、剥がそうとする。 
 その様子を見て、愛理は「ここも同じか」と思う。 
 夏休みの宿題は、終わらせても、終わらせていなくても大変な目にあうものらしい。 
  
 栞菜の宿題は終わったのだろうか。 
  
 練習室で何度も顔をあわせているにも関わらず、そんなことすら聞いていなかったことに今さら気がつく。 
 最近は、愛の挨拶のことばかりに気を取られて、そういった日常的なことを話していなかった。 
   
- 348 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:47
 
-  もう少し肩の力を抜いた方が良い。 
  
 夏休みの宿題などという学生につきものの話すらしていなかったことに、しみじみとそう思う。 
 寮へ帰ったら栞菜の部屋を尋ねてみることにして、愛理は少し足を速める。 
 それにあわせるように、桃子と雅の靴音も速くなった。 
  
 廊下に声を響かせながら三人で歩いていると、後ろから微かに声が聞こえてきた。 
 聞き慣れた声に振り返ると、見慣れたシルエットが目に入ってきて、愛理は足を止めた。 
 目をこらすまでもなく、それが誰なのかわかる。 
  
 栞菜と誰か。 
  
 見慣れたシルエットの隣には見慣れない人がいた。 
 記憶を辿ると、簡単に隣にいる人物の名前が頭に浮かんだ。 
  
 栞菜よりも愛理よりも高い身長。 
 そして、外国の血が混じっているような顔立ち。 
 栞菜と親しげな様子から、その人は梅田えりかとしか考えられなかった。 
  
 「どうしたの、愛理?」 
  
 桃子の声が聞こえて、足を止めていたことを思い出す。 
 振り向いたままだった身体を元へ戻すと、不思議そうな顔をした桃子が見えた。 
   
- 349 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:50
 
-  「あっ」 
  
 愛理から視線を移した桃子が声を上げる。 
 どうして愛理が足を止めたのか理解したらしく、桃子が身体を後ろへと向けた。 
 同じように雅が後ろを向く。 
  
 「愛理じゃんっ!」 
  
 栞菜の声が聞こえてきて、愛理はその声に応えるように手を振った。 
 ぶんぶん、と片手を振る。 
 顔には笑顔を張り付けておく。 
  
 えりかのことは、栞菜から散々話を聞いて納得したはずだった。 
 けれど、納得したはずなのに、二人が親しげにしている姿を見ると複雑な気分になる。 
 今すぐ寮に向かって走り出したい衝動に駆られる。 
  
 「愛理、こんな時間に練習の予定あったっけ?」 
 「ううん。ちょっとももに用事があって、来ただけだから」 
 「そうなんだ」 
  
 栞菜の問いかけに答えて、愛理はゆっくりと歩き出す。 
  
 廊下は広がって歩かない。 
 そんな規則が生徒手帳に書いてあったような気がする。 
 掲示板に貼ってあったのを見たこともある。 
 しかし、規則というものは破られる為にあるものらしく、三人と二人は横へ広がって歩き出す。 
   
- 350 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:52
 
-  「そうだ。紹介するね。この人が、いつも話してるえりかちゃん。で、この可愛い子が愛理」 
  
 いつだったか、栞菜がえりかを紹介してくれると言っていた。 
 その約束が今、果たされる。 
  
 気分はすっきりしなかったが、不機嫌にしているわけにもいかず、愛理はえりかに向かって「初めまして」と頭を下げる。 
 ちらりと桃子を見ると、にやにやと笑っていた。 
 気を紛らわすように、横にいる桃子を肘で突く。 
  
 「おー、この子が鈴木愛理ちゃんか。確かに可愛いね」 
  
 えりかの声が廊下に響く。 
 気にしない性格なのか、声は思ったよりも大きなもので、愛理はえりかの言葉を慌てて否定した。 
  
 「そんなことないです」 
 「あるある。可愛いって。栞菜が自慢するだけのことはあるね」 
 「でしょ!」 
  
 嬉しそうに栞菜が胸を張る。 
 本当にそんなことを自慢していたのか知らないが、廊下の真ん中で話すような話ではない。 
 出来れば止めて欲しいと思っていると、横からこそこそと小さな声が聞こえてきた。 
   
- 351 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:55
 
-  「誰?」 
 「あれ?みや知らないっけ?ももと同じ二年のえりかちゃん。チェロやってる子」 
 「知らないよ」 
  
 どうやら雅もえりかに会ったことがないらしかった。 
 雅の紹介はしなくていいのだろうかと気になって、栞菜に尋ねようとすると、先に話しかけられた。 
  
 「愛理、気にしてない?」 
  
 小さな声で囁かれて、その言葉が何を意味しているのか一瞬わからなかった。 
 だが、えりかとの関係のことを言っているのだとすぐに気がついて、栞菜と同じように小さな声で囁き返した。 
  
 「してない」 
 「なら、よろしい」 
  
 頭をくしゃくしゃと撫でられる。 
 どくん、と心臓が跳ね上がる。 
 こんな些細なことで、どうして呼吸が苦しくなるのか愛理にはわからない。 
 今までこんなことはなかったはずだ。 
 何故、と考えるより先に、栞菜から思わぬ提案を聞かされた。 
  
 「ね、ねっ。えりかちゃん。休み中に、三人で遊びに行かない?」 
 「三人って?」 
 「あたしとえりかちゃんと愛理」 
 「おー、いいね」 
 「愛理もいいよね?」 
  
 問いかけられて、即答は出来なかった。 
 それでも、ゆっくりと答える。 
   
- 352 名前:espressivo − 2 − 投稿日:2009/07/07(火) 05:56
 
-  「え、あ。うん」 
  
 言葉が途切れたが、栞菜から何か言われることはなかった。 
 かわりに、桃子から小さく問いかけられる。 
  
 「大丈夫?」 
 「なにが?」 
 「大丈夫、みたいかな」 
  
 一人で勝手に納得して、桃子が笑う。 
  
 えりかのことについては、もう栞菜と話をした。 
 だから、大丈夫だと愛理は思う。 
 少しだけ、足が速まる。 
  
 寮へは四人で戻った。 
 途中で、寮生ではなく自宅から通っているという雅と別れたからだ。 
  
 四人でたわいもない話をして歩くと、校舎から寮まではあっという間で、すぐに自室へ着いてしまった。 
  
 愛理はベッドへごろりと横になる。 
 結局、桃子に梨沙子のことを聞くのを忘れた。 
 そして、栞菜に宿題のことを聞くのも忘れた。 
  
 夏休みも、あと数日で終わる。 
 学校が始まれば、すぐに学科試験がある。 
 前期期末考査は目前だった。 
  
  
  
   
- 353 名前:Z 投稿日:2009/07/07(火) 05:57
 
-   
   
- 354 名前:Z 投稿日:2009/07/07(火) 05:57
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 355 名前:Z 投稿日:2009/07/07(火) 05:58
 
-  >>335 にっきさん 
 こんな感じになりました。 
 大変な二人ですw  
- 356 名前:Z 投稿日:2009/07/07(火) 18:08
 
-  >>350-351 
 に、激しく間違いがあったので、訂正します。 
 (350最後の三行より訂正)  
- 357 名前:Z 投稿日:2009/07/07(火) 18:08
 
-  >>350-351 
  
 嬉しそうに栞菜が胸を張る。 
 本当にそんなことを自慢していたのか知らないが、廊下の真ん中で話すような話ではない。 
 出来れば止めて欲しいと思っていると、話をそらすように雅がえりかに声をかけた。 
  
 「えりかちゃん、練習だったの?」 
 「うん。みやは?」 
 「ももの練習に付き合ってた」 
  
 雅の打ち解けた様子に、栞菜が雅もえりかと親しいと言っていたことを思い出す。 
  
 「ちょっとー。みやの為に伴奏の練習してたのに、それはないんじゃない?」 
 「似たようなもんだって」 
 「似てないのっ」 
  
 桃子と雅がまた言い争いを始めて、えりかがくすくすと笑う。 
 毎回言い争いをしていてよく飽きないものだと思って見ていると、栞菜から小さな声で囁かれた。 
  
 「愛理、気にしてない?」 
  
 その言葉が何を意味しているのか一瞬わからなかった。 
 だが、えりかとの関係のことを言っているのだとすぐに気がついて、栞菜と同じように小さな声で囁き返した。 
  
 「してない」  
 「なら、よろしい」  
  
 頭をくしゃくしゃと撫でられる。  
 どくん、と心臓が跳ね上がる。  
 こんな些細なことで、どうして呼吸が苦しくなるのか愛理にはわからない。  
 今までこんなことはなかったはずだ。  
 何故、と考えるより先に、栞菜から思わぬ提案を聞かされた。  
  
 「ね、ねっ。えりかちゃん。休み中に、三人で遊びに行かない?」  
 「三人って?」  
 「あたしとえりかちゃんと愛理」  
 「おー、いいね」  
 「愛理もいいよね?」  
  
 問いかけられて、即答は出来なかった。  
 それでも、ゆっくりと答える。  
   
- 358 名前:Z 投稿日:2009/07/07(火) 18:09
 
-  以上、訂正終わり。 
  
 すみません。 
 過去に書いたことを無視するような内容になっていたので、訂正しました。 
 暑さで頭がぱっぱらぱーになっていたようです。  
- 359 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/11(土) 22:31
 
-  栞ちゃんのことはショックですけど、Zさんの整理がつくのを待って続くことを願ってます。 
 
- 360 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/07/13(月) 00:07
 
-  栞ちゃん脱退で休載らしいですが 
 落ち着いたら書いてください。  
- 361 名前:Z 投稿日:2009/07/13(月) 04:00
 
-  サイトの方にも書きましたが、「ラプソディ・イン・ブルー」はしばらく休止します。 
 栞菜のことがあり、今はこのスレの話を書けそうにありません。 
 少し時間を置いて、気持ちが落ち着いたら再開します。 
 放棄するつもりはありませんので、再開までお待ち頂ければと思います。 
 他のスレは今まで通り更新していく予定です。 
  
 >>359さん 
 放棄するつもりはありませんので、しばらくお待ち頂ければと思います。 
  
 >>360さん 
 早めに続きをかけたら、と思っています。  
- 362 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/15(火) 15:27
 
-   
 また書いてくださるのを 
 お待ちしております  
- 363 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2009/09/22(火) 01:48
 
-   
  
  
 espressivo − 3 −  
  
  
  
   
- 364 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 01:50
 
-  夏休み、最終日。 
 愛理の宿題は終わっていたし、宿題会の問題であった千聖の宿題も午前中に何とか片づけた。 
 宿題会もう一人のメンバー梨沙子の宿題は、夏休み最終日を待たずとも終わっていた。 
 だから、午後はのんびり過ごす予定だった。 
 けれど、予定はあくまでも予定で、現実は違った。 
 のんびり過ごすはずだった午後は、買い物という予定にすり替わっていた。 
  
 予定がすり替わったのには、もちろん理由がある。 
 愛理は栞菜から電話で呼び出されたのだ。 
  
 『今、えりかちゃんと二人で買い物してるから、愛理もおいでよ』 
  
 その電話に、慌てて待ち合わせ場所へ駆けつけると、栞菜とえりかがいて、愛理は笑顔で迎えられた。 
   
- 365 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 01:52
 
-  「宿題、終わった?」 
  
 強い日差しを避け、影を歩きながら、栞菜に問いかける。 
 街路樹が作り出す日陰は、風のない午後でも日向を歩くより随分と涼しい。 
 それでも、歩いていると汗が流れ落ちるから、時々ハンカチで拭う。 
 街路樹の隙間から入り込んでくる光に愛理が目を細めると、栞菜が手で顔を扇ぎながら言った。 
  
 「まあね。友達と手分けしてやったからさ、何とか終わった」 
 「えー、いいな。あたし、まだ全部終わってない」 
 「終わってないって、えりかちゃん。もう、夏休み終わりじゃん」 
  
 衝撃の告白に、視線がえりかへ集まる。 
 夏休みは今日が最終日で、愛理にとってはまだ宿題が終わっていないなど考えられない。 
 栞菜にしても、さすがに今日、宿題が終わっていないのは信じられないようで、驚いた顔をしていた。 
  
 「そうなんだけどさ。終わらないものは仕方ないじゃん」 
 「仕方ないって……。今日、買い物に行ってたら駄目なんじゃないの?」 
 「明日は明日の風が吹くって」 
 「諦めたんだ?」 
 「当然。愛理ちゃんは、終わったの?」 
   
- 366 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 01:54
 
-  えりかが事も無げに栞菜に答えて、愛理を見た。 
 やらなければならない宿題を放り出して、今、この場にいるえりかを信じられないと思って見ていた愛理は、えりかと目があって一瞬石のように固まる。 
 カチンと表情が凍って口を開き忘れていると、そんな愛理を見ながら栞菜が笑った。 
  
 「愛理はさ、結構前に終わってるよね?」 
 「うん。終わってる」 
  
 ぽんと栞菜から肩を叩かれて、人形のようにぎこちなく頷く。 
 かくん、と変な風に首が動いたから、栞菜の笑い声がさらに大きくなった。 
  
 「愛理ちゃんってさ、面白いね」 
  
 唐突にえりかから、愛理があまり人から言われることのない台詞が飛び出した。 
  
 「え?そんなことないと思います」 
  
 予想外の台詞に、愛理は頭をぶんぶんと振る。 
 ありえない、という思いからか、首を振りすぎて少し痛いぐらいだ。 
   
- 367 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 01:56
 
-  「でも、動きとか変だよ」 
 「そうですか?」 
 「そうだよ。ね、栞菜?」 
 「まあ、今日の愛理は変だとあたしも思う。なんか、動きがぎこちないもん」 
 「こんな感じだよ、こんな感じ」 
  
 そう言って、えりかが愛理が今したように首をぶんぶんと振った。 
 それは、愛理がしたよりもかなり大袈裟な振り方で、えりかの長い髪が宙を舞う。 
 本当ならばハーフと見紛うようなえりかの髪が宙に舞えば、綺麗だなと思うような光景になるはずなのに、えりかがロボットのような妙な動きで首を振るから、綺麗と言うよりも、面白いという思いが先に立つ。 
  
 愛理はくすくすと笑いながらえりかを見る。 
 ハーフという言葉が似合うえりかは、彫りの深い顔立ちだけでなく、すらりと高い身長も持っていた。 
 手足は細く、長い。 
 モデルをやっていると言われたら納得するようなスタイルで、チェロを弾いている姿は絵になるだろうなと思う。 
 校則違反の陽に透けるような茶色い髪も似合っていて、色が抜けたようにも見える髪は地毛のようにも見えた。 
  
 校則はたくさんあるけれど、うるさく言う先生がいないせいか、学校にはかなり自由な空気が流れている。 
 少し茶色い髪にしたぐらいでは、誰も怒らないし、怒られない。 
 度が過ぎれば、職員室に呼ばれることもあるが、そこまで風紀を乱す生徒もいなかった。 
   
- 368 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 01:57
 
-  「えりかちゃん、それやりすぎ。変だって」 
  
 ひとしきり笑った後、栞菜がお腹を押さえながらえりかを見る。 
  
 「えー!でも、これぐらい愛理ちゃん変だった」 
 「あたし、そんなに変ですか?」 
 「うん、かなり変。でも、面白いから気に入った!」 
  
 ぽんと手を叩いてえりかが答える。 
 すると、栞菜がにやりと笑って言った。 
  
 「そんなえりかちゃんも、変な人なんだけどね」 
  
 えりかが「えー」と非難の声が上げ、三人の真ん中を歩く栞菜の肩に手を掛けて、体重もかけた。 
 じゃれ合いながら、栞菜が重そうにえりかを支えながら歩く。 
  
 二人が親しいということは、今まで散々聞かされていたから驚くようなことではない。 
 ただそれを目の当たりにすると、なんだか妙に気持ちが落ち着かなかった。 
  
 街路樹の下、三人で日陰を選びながら足を進める。 
 相変わらず街に風はない。 
 愛理はぴくりとも動かない緑の葉を見上げてから、視線をえりかへ移す。 
   
- 369 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 01:59
 
-  そう言えば、雅もえりかのような髪色をしていた。 
 愛理は夕焼け色の練習室を思い出す。 
 雅も、今ここにいるえりかのように派手な顔立ちと髪をしている。 
 けれど、一緒にいて居心地が悪いとは思わなかった。 
 どちらかと言えば、雅がいる空間は居心地が良いぐらいだった。 
  
 えりかはどうだろう。 
  
 ふとそんなことを考える。 
 動かない葉の変わりか、ざわざわと心が揺れる。 
  
 えりかのことは、いい人だと思う。 
 それに、明るく面白い人だ。 
 今も、会ってから間もない愛理のことを気遣って、色々と話しかけてくれている。 
 それでも、自分の中で処理しきれない何かがある。 
 それは何だろうかと考えてみるが、答えが出ない。 
  
 葉と葉の間から入り込んでくる日差しが眩しい。 
 愛理はハンカチで流れる汗を拭う。 
 きっと、暑さと眩しさで答えが出ない。 
 そんな気がした。 
  
  
  
   
- 370 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 02:01
 
-   
 「鈴木愛理っ!」 
  
 険しいが可愛らしい声とともに、愛理の顔の真横を白い物体が横切った。 
 ぴゅん、と音が聞こえそうな勢いで通り過ぎていった白い物体を目で追うと、その白い物体は、後ろの席の机に当たって砕けた。 
  
 「初日からよそ見とは良い度胸だ!」 
  
 ぱらりと白い粉が舞った後、亜弥の怒鳴り声が聞こえた。 
 けれど、本気で怒っているわけではないらしく、怒鳴り声には迫力がない。 
 愛理が慌てて前を向くと、亜弥が片眉を上げ、新しいチョークを手に持っていた。 
  
 「すみません」 
  
 右手を振り上げた亜弥に、愛理は素直に謝る。 
 確かに愛理は窓の外を見ていて、教壇で新学期の予定や、心構えなどを滔々と話していた亜弥を見ていなかった。 
  
 蝉の声が少し小さくなった新学期。 
 暑さは和らぐことはなかったが、風が少しあるのか窓の外で揺れる緑を見ていた。 
 愛理はその緑から、昨日の出来事を思い出していて、亜弥の話は半分も聞いていなかった。 
   
- 371 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 02:02
 
-  「先生、あの、あたしの机にチョーク当たったんですけど」 
  
 ぺこりと頭を下げた愛理の後ろの席から、文句の声が出る。 
 その声に、亜弥が平然とした調子で言った。 
  
 「文句は鈴木に言いなさい。よそ見している鈴木が悪い」 
  
 チョークは愛理目がけて投げられたものだった。 
 けれど、チョークは愛理を通り越し、後ろの席の友人が被害者となったのだ。 
  
 「ごめんね」 
  
 愛理は振り向いて小さな声で謝る。 
 すると、また怒鳴り声が聞こえた。 
  
 「鈴木っ、よそ見するなー!」 
  
 新しいチョークが亜弥の手から放たれる。 
 今度のチョークは、愛理の前の席へと着弾する。 
 教室にくすくすと小さな笑い声が溢れた。 
   
- 372 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 02:06
 
-  結局、亜弥のチョーク爆弾のせいで、その後の話は有耶無耶になった。 
 話はまとまる前に打ち切られ、亜弥が教室から出て行く。 
 その瞬間、夏休みが終わったばかりの教室は騒がしいものへと変わる。 
 始業式も終わってしまい、学校としての予定はもう何もないから、教室全体が開放的な気分に包まれる。 
  
 教室の中には夏休みの浮ついた空気が残っている。 
 日に焼けた友人の土産話や、涼しい場所へ旅行に行っていた友人の土産話。 
 当然、話だけではなく、実物としてのお土産。 
 そんなものが教室を飛び交っていて、まだ夏休みの延長線上にいるような気がする。 
 もうすぐ夏が終わってしまうとは思えない。 
  
 もちろん、夏休みが終わったからと言って、突然夏が終わるわけではない。 
 それを証明するように、休み明けの教室は休み中と同じぐらい暑かった。 
 髪が汗で額に張り付くような暑さの中、愛理の頭に温暖化などという単語が浮かんだが、友人達の声にそれもすぐにかき消された。 
  
 喧噪の中、愛理は窓の外を見る。 
 練習室からとは違った景色を目に映す。 
  
 桃子の練習室を尋ねた後、残り少ない休みの中で愛の挨拶の練習をした。 
 当然、テンペストの練習もした。 
 ずっと練習を続けていたテンペストは、練習したなりに上手くなっていた。 
 けれど、やはり愛の挨拶だけ上手く弾けなかった。 
   
- 373 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/22(火) 02:08
 
-  どうしたら上手く弾けるのか、一人では答えが出そうにない。 
 だが、桃子にはもう相談してしまった。 
 他にピアノのことを聞ける相手。 
 愛理の頭に浮かんだのは一人で、それはピアノの担当教師である圭だ。 
 だから今朝、教室へ行くより先に職員室へ行って、圭に会った。 
 テンペストで上手く弾けないところがあると話して、職員室の中、楽譜を広げてどこが上手くいかないのか説明した。 
 いくつかのアドバイスの後、圭は愛理が思った通り、放課後レッスン室へ来なさいと言った。 
  
 テンペストで上手く弾けないところがあるのは事実だ。 
 しかし、それは練習を繰り返せばどうにかなるようなものだった。 
 本当に聞きたいことはテンペストについてではない。 
 ずっと上手く弾くことが出来ずにいる愛の挨拶について、圭の意見が聞きたかった。 
 だが、さすがに授業とは関係なく弾いている曲について聞きたいとは言い出せなかった。 
  
 テンペストはただの口実だ。 
 先生に嘘を付くのは心苦しかったが、他に方法が思い浮かばなかった。 
 レッスン日にさりげなく聞けばいいのかもしれないが、それまで待っていられない。 
  
 愛理は友人達との話を早々に切り上げて、教室を出る。 
 向かう先はレッスン室だ。 
 休み前よりも小さくなった蝉の声を聞きながら、渡り廊下を歩く。 
 夏休み前と何ら変わらない風景を見ながら、愛理はレッスン室の扉を開けた。 
  
  
  
   
- 374 名前:Z 投稿日:2009/09/22(火) 02:08
 
-   
   
- 375 名前:Z 投稿日:2009/09/22(火) 02:09
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 376 名前:Z 投稿日:2009/09/22(火) 02:10
 
-  >>362さん 
 随分長い間、放置してすみません。 
 やっと再開しました。  
- 377 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/23(水) 00:18
 
-  待っていました! 
  
 また一人…  
- 378 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:07
 
-  圭はまだ来ていないようで、レッスン室の中には誰もいなかった。 
 愛理は蒸されたような空気を追い出すように、カーテンを開け、外の光を取り入れる。 
 さらにエアコンのスイッチを入れて、レッスン室の空気を冷やす。 
  
 圭が来るまでテンペストを弾いて待とうと思い、椅子に座る。 
 テンペストの楽譜を鞄から取り出して、譜面台へ置いた。 
 少し迷ってから、愛の挨拶の楽譜も取りだして、鞄の上へ置く。 
  
 鍵盤に指を置いて、動かそうとする。 
 けれど、視線が自然に譜面台よりも、鞄の上へと向いてしまう。 
  
 愛理は無理矢理視線をそらし、息を吐き出す。 
 背筋を伸ばして、目を閉じる。 
 それから、ゆっくりと目を開いて、譜面台へ置いた楽譜を見た。 
 鍵盤の上へ置いた指へ意識をやって、動かす。 
 だが、指が音楽を紡ぎ出すと同時にレッスン室の扉が開いて、愛理は手を止めた。 
   
- 379 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:09
 
-  「先生、わざわざすみません」 
  
 立ち上がって、ぺこりと頭を下げる。 
 圭がにこりと笑ってから扉を閉め、愛理の隣に立った。 
  
 「上手くいかないところは、ここだっけ?」 
  
 圭が譜面台に置かれた楽譜を、キャップを閉めたペンでなぞる。 
 愛理は頷くと、圭を見た。 
  
 今朝、職員室で聞いたアドバイスを圭が繰り返す。 
 愛理はそれに合わせて、鍵盤の上で指を動かしてみる。 
 テンペストが数小節流れて、止まる。 
  
 もう一度。 
  
 指を止めた時、愛理はそう言われると思った。 
 だが、圭が口にした言葉は全く違ったものだった。 
  
 「テンペストで良かった?」 
 「え?」 
 「鈴木が聞きたかったことは、本当にテンペストについてだった?」 
  
 圭が悪戯っぽく笑って、譜面台に置かれた楽譜を見た。 
 ペン先でさっきと同じように、音符をなぞる。 
   
- 380 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:11
 
-  「これ、練習を積めば、出来るようになる箇所でしょ。今まで鈴木は、こういうことを先生に聞いてきたことないよ」 
  
 部屋へ入った頃のむっとした空気はとうに消えていた。 
 今では、エアコンが涼しげな風を吐き出している。 
 けれど、愛理は頬が熱くなった。 
 嘘がばれた、と心臓がずきんと痛む。 
  
 「自分で気がつかなかった?」 
 「気がつきませんでした」 
 「今なら怒らないから、正直に言ってごらん。聞きたいのは、テンペストのことで良かった?」 
 「……違います」 
  
 慣れないことはするものじゃない。 
 普段つかない嘘は、すぐにばれてしまうものらしかった。 
 自分では上手く嘘をつけたと思ったが、世の中はそう上手くいかないようだ。 
  
 「本当は、こっちの曲について聞きたかったんです。嘘付いて、すみませんでした」 
  
 今さら逃げも隠れも出来なかった。 
 実際、聞きたいことは他にあって、逃げたり隠れたりしてしまえば、それを聞くことが出来ない。 
 愛理は素直に嘘を認めて、鞄の上から楽譜を取って圭に渡す。 
 圭が片手で楽譜を受け取り、音符を目で追った。 
   
- 381 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:13
 
-  「嘘、っていうほどのものでもないけどね。でも、聞きたいことがあるなら、ちゃんと言いなさい。先生は授業以外の質問だって受け付けるんだから。で、聞きたいのは、この愛の挨拶について?」 
 「そうです」 
  
 そっか、と答えて、圭が愛の挨拶の楽譜をテンペストの楽譜の上へ重ねる。 
 譜面台の上へ置いた楽譜にまた目を走らせると、思いついたように圭が言った。 
  
 「ところで、先生って、そんなに頭が固そうに見える?」 
 「えーっと……」 
 「言葉に詰まるってことは、見えるってことか。ちょっとショックだなあ。先生、こんなに柔らかいのに」 
 「あ、あの、柔らかくて優しいです。保田先生は」 
 「そんなに慌てて言ったら、かえってあやしいから」 
 「……すみません」 
  
 肩を落として謝ると、圭がくすくすと笑った。 
 そして、愛理の肩をぽんと叩いた。 
  
 「まあ、とにかく今は、こっちやろうか。えーと、これ、伴奏の楽譜だけど、誰かの伴奏者にでもなったの?」 
 「違うんですけど……」 
 「違うのに、伴奏の楽譜で弾くの?」 
 「あの、友達と……」 
   
- 382 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:15
 
-  どうしても歯切れが悪くなる。 
 隠すようなことではないが、はっきりと言うのもなんだか恥ずかしい。 
 曲名から、圭が何を連想するのか気になるからかもしれなかった。 
  
 「友達と一緒に弾く約束したってことかな?」 
 「はい」 
  
 答える声が小さくなった。 
 だが、圭は気にすることなく、愛理を見て言った。 
  
 「じゃあ、一回弾いてみて」 
  
 こくんと頷いて、愛理は鍵盤に指を置く。 
 楽譜を確認するまでもなく、楽譜は頭の中に入っている。 
 それでも、一応楽譜に目をやってから、曲を弾き始めた。 
  
 静かな部屋の中、愛の挨拶が鳴り響く。 
 それは栞菜の前で弾く愛の挨拶とは違う音だった。 
 どちらかと言えば、桃子の前で弾いた音に近い。 
  
 栞菜の前で弾くより、気持ちを込めて弾けていると思う。 
 指も綺麗に動く。 
 圭が愛理をじっと見ていたが、視線は気にならない。 
 いつも通り、短い曲はあっという間に終わってしまった。 
   
- 383 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:18
 
-  愛理は鍵盤から指を下ろす。 
 圭を見上げると、にこりと微笑まれた。 
  
 「ちゃんと弾けてる。そう難しい曲でもないし。自分で練習してた?」 
 「はい」 
 「弾き方はいいよ。さっきも言ったけど、鈴木には簡単な曲だと思うし」 
 「でも、ヴァイオリンと合わせると上手く弾けなくて」 
 「どうして、弾けてないと思うの?」 
 「…………」 
  
 今は上手く弾けた。 
 だが、栞菜がいると上手くいかない。 
 それを上手に圭に伝えることが出来ない。 
  
 愛理は何と言えばいいのかわからず、黙り込む。 
 すると、気分を変えるように、圭がぱんっと手を叩いた。 
 乾いた音がレッスン室に響いて、消える。 
  
 「もう一度弾いてごらん」 
  
 さっき弾いたばかりの愛の挨拶が持つ甘い調べがレッスン室に残っていた。 
 その音の余韻が消えるのを待ってから、愛理はもう一度愛の挨拶を弾いた。 
  
 「鈴木」 
  
 愛の挨拶の最後の音が消えると、圭から名前を呼ばれた。 
   
- 384 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:20
 
-  「鈴木はこの曲で、何を先生に聞きたいの?十分上手いよ」 
 「上手くないです」 
 「楽譜通り弾けてる」 
 「でも、楽譜通りじゃだめって、先生いつも言うじゃないですか」 
  
 楽譜に並んでいる音を再現する。 
 それが最高の演奏というわけではない。 
 もちろん、楽譜を正しく理解して音にする技術は必要だ。 
 だが、楽譜だけが全てではなく、楽譜をなぞるだけでは良い演奏は出来ない。 
 楽譜には書いていないものがあって、それを感じ取って、曲に乗せる。 
 それが出来て初めて曲が完成する。 
 圭はいつもそう言っていた。 
  
 「楽譜通りじゃだめ。そして、ヴァイオリンと合わせると上手くいかない。じゃあ、どうしたらいい?」 
  
 ピアノに似た優しい声が聞こえてくる。 
  
 「……わかりません」 
 「どうわからない?」 
 「わかりません」 
  
 愛理は同じ言葉を繰り返す。 
 そして、小さく息を吐き出し、言葉を続けた。 
   
- 385 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:23
 
-  「ヴァイオリンと合わせると、いつもなら出来ることが出来ないって言うか、上手く曲をイメージ出来ないって言うか……。どうしてか、上手くいかないんです」 
  
 先生の前だからはっきり喋らなければと思うが、どうしても声が小さくなる。 
 ぼそぼそとした声に圭が苦笑するのが見えた。 
 困ったようなその顔に、愛理は消えてしまいたくなる。 
  
 「鈴木のことだから、この曲がどういう曲かはもう調べてあるんでしょ?」 
 「はい」 
  
 小さな声で答えると、それとは対照的に大きな声で圭が言った。 
  
 「この曲は、タイトルもわかりやすいし、イメージすることが難しい曲でもない。人と音を合わせるのは難しいから、すぐにいつも通りに弾くことは出来なくても、何度も練習して呼吸を合わせていけば、少しずつ上手くなっていくよ。あとは気持ちの問題。愛の挨拶がどういう曲か、それがわかるように心を込めて弾けばいい。……でも、鈴木も、そんなことぐらいわかってると思うし、練習してると思うけど」 
  
 そこまで一気に言うと、圭がちらりと愛理を見た。 
 印象的な大きな目は細められていて、圭が何を考えているのかわからない。 
 じっと見ていると、圭が少し考えるように顎を撫でた。 
 口角が上がって、いつ聞かれるのかと心配していた質問をされた。 
   
- 386 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:24
 
-  「伴奏の相手、学校の子?」 
 「…………」 
 「鈴木?」 
  
 答えられずにいると、催促するように名前を呼ばれた。 
 答えずにいる理由も浮かばず、愛理は仕方なく口を開く。 
  
 「……三年の有原さんです」 
 「ああ、有原か。鈴木、仲良いね」 
  
 一人納得するように呟いて、圭がうんうんと頷いた。 
 それから、もう一つ質問を口にした。 
  
 「有原のヴァイオリンはどうなの?」 
 「あたしなんかより、ずっと上手いです。あたしも足引っ張らないようにって思うんですけど、いつも上手く出来なくて……」 
  
 自分のことを聞かれたわけではないからか、言葉がすらすらと出てくる。 
 愛理にはまだ言いたいことがたくさんあって、言葉を繋げようと思った。 
 だが、それを遮るように圭が言った。 
   
- 387 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:27
 
-  「鈴木。鈴木にとって上手く弾くことって、大事?」 
 「大事じゃないんですか?」 
 「もちろん、大事だよ。下手より上手い方がいい。でも、音楽ってそれだけじゃないでしょ」 
  
 圭が優しく笑う。 
 そして、今まで以上に、柔らかな声がレッスン室に響いた。 
  
 「ただ上手く、楽譜通り弾くだけなら、人が弾く必要がないと先生は思うよ。ロボットでも自動演奏でもなんでもいい。人が弾くんだから、弾き手の個性が出る。その日の気持ちとか、体調だって現れる。当然、上手く弾けない日だってある。でも、それが音楽なんじゃないかな」 
  
 愛理が譜面ばかり追っていると、決まって圭がこう言った。 
  
 『そんな演奏なら、ロボットでも自動演奏でも出来る』 
  
 何度、圭に言われたかわからない台詞だ。 
 その後に続く、「もっと気持ちを入れて弾きなさい」という台詞も聞き飽きるほど聞いた。 
  
 今の自分はロボットや自動演奏以下ではないかと、愛理は思う。 
 栞菜の前では楽譜通りにすら弾けていないような気がする。 
 気持ちがピアノとは別のところにあって、上手く弾きたいという気持ちが先走り、さらには栞菜が側にいることが気になって音が音にならない。 
 そんな感じだ。 
   
- 388 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:29
 
-  「上手く弾くことだけを考えるんじゃなくて、鈴木の弾きたい愛の挨拶。そういうのをもっと自由に弾いてみるのも大事だと思うよ」 
  
 圭が愛理を励ますように軽く背中を叩いた。 
 だが、柔らかく叩かれた背中は、痛くないはずなのに痛い。 
  
 「鈴木はちょっと真面目すぎるからね」 
  
 圭がそう付け足して、笑った。 
  
 「同じこと、言われました」 
  
 記憶を辿るまでもなく、頭に二人の人物が浮かぶ。 
 栞菜と桃子、二人の先輩から同じようなことを言われた。 
  
 「誰に?」 
  
 問いかけられて、愛理は二人のうち、小さい方の先輩の名前を口にした。 
  
 「嗣永先輩に」 
 「嗣永に聞いたの?」 
 「聞きました」 
 「嗣永か。自由に弾くのはいいんだけど、嗣永はねえ」 
  
 思い当たる節があるのか、圭が苦笑する。 
 眉を寄せて、頬をぽりぽりと掻いた後、苦笑を笑顔に変えて言った。 
   
- 389 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:32
 
-  「あれはちょっとやりすぎなところがあるから、何とも言えないけど。でも、嗣永ぐらいやるのも面白いと思うよ。たまには鈴木も、ぱーっとやったらいい。もっと情熱的に、ね」 
  
 くすくすと笑いながら、圭が大袈裟に両手を広げた。 
 愛理は「情熱的に」という言葉に桃子の演奏を思い出す。 
  
 あの日、桃子はわざとああして弾いてくれたのかもしれない。 
  
 雅が言うように、桃子が勝手気ままな伴奏をするとしても、あの日の演奏はやりすぎだった。 
 今考えると、桃子なりに愛理のことを考えての演奏に思える。 
 出来れば、その思いに応えて自分なりの演奏をしてみたいと思うが、思うことと実行することは別問題だ。 
  
 自分の弾きたい愛の挨拶。 
 栞菜に合わせようとすることに気を取られていて、それさえもまだ見つかっていない。 
 自分の思い通りに弾く。 
 それは簡単なようで、とても難しかった。 
   
- 390 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/24(木) 02:34
 
-  「鈴木。上手く弾く為のヒント、まだ欲しい?」 
 「あるんですか?」 
 「あるんだな、これが」 
  
 勿体を付けるように、圭が「ごほん」と咳払いをしてから言葉を続けた。 
  
 「どうしても上手くいかないなら、相手の子が何を思って弾いているか聞いてごらん。きっと参考になるから」 
 「聞くんですか?」 
 「仲良いんでしょ?有原と」 
 「良いです」 
 「じゃあ、あとは自分で頑張りなさい。自分で答えを出すことも勉強だよ」 
  
 与えられたヒントに愛理が困ったように眉根を寄せると、圭が笑った。 
 その笑い声に反応するように、エアコンが小さく唸る。 
 窓の外を見ると、風が吹いているのか木々が楽しそうに揺れていた。 
  
  
  
   
- 391 名前:Z 投稿日:2009/09/24(木) 02:34
 
-   
   
- 392 名前:Z 投稿日:2009/09/24(木) 02:34
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 393 名前:Z 投稿日:2009/09/24(木) 02:35
 
-  >>377さん 
 お待たせしました。 
 ……℃は、本当に色々ありますね。  
- 394 名前:三拍子 投稿日:2009/09/24(木) 06:52
 
-  心から更新ありがとうございます! 
 保田さんなら実際こんな事言うかもしれませんね(^O^)/ 
 次回も楽しみにしています。どうかお体に気をつけて‥‥。  
- 395 名前:みら 投稿日:2009/09/24(木) 08:25
 
-  モジモジな鈴木さんがかわいいw 
 更新お疲れ様です!  
- 396 名前:にっき 投稿日:2009/09/25(金) 22:58
 
-  ゆるやかに進んでいくこのお話が大好きです 
 愛理かわいいよ愛理w  
- 397 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:35
 
-  始業式の翌日。 
 それはとても気怠い一日だ。 
 授業は通常通り行われるし、外は夏休み同様暑い。 
 当然、教室の中にも熱を持った空気は入り込んでいて、温度計は見たくもない温度を差していた。 
 これを気怠いと呼ばずして何と呼ぶのかと尋ねたくなるぐらいだ。 
  
 勉強もレッスンも好きだが、さすがにこの日ばかりは愛理もやる気が出ない。 
 夏休みの余韻がまだ残っているのに、教師達はその余韻を早く消そうとしていた。 
 教壇から聞こえてくる声は、夏休み前より力の入ったものだった。 
 だが、先生の声も黒板に書かれている数式も頭に入らなかった。 
 それは、気怠さと約束のせいだ。 
  
 放課後の約束。 
  
 昨日、寮で栞菜と交わしたものだ。 
 一緒に愛の挨拶を練習することになっていた。 
 栞菜と音を合わせるのは、久しぶりのことのように思える。 
   
- 398 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:38
 
-  愛理はホームルームが終わると同時に、教室を出た。 
 急いだつもりもないのに、愛理はやけに早く練習室に着いた。 
 栞菜が来るまでいつも通りの練習をする為に、楽譜を譜面台へ置いて、椅子に座る。 
 ピアノの前に座ると、それまでずっとあった気怠さが消えた。 
 現金なものだと思いながら、エアコンを入れたばかりで冷え切らない空気の中、ツェルニーを弾く。 
 聞き慣れた音楽が練習室を満たし、空気を変える。 
  
 バッハの3声を弾いてから、テンペストを弾き始めると、練習室の扉が開いた。 
 誰が入ってきたかは、見なくてもわかる。 
 愛理は手を止めることなく、テンペストを弾ききった。 
  
 「練習、終わったらでいいから」 
  
 栞菜がそう言って、窓際の定位置に立つ。 
 寮で毎日会っているのに、制服を着てヴァイオリンケースを持っている栞菜を見るのは久々だった。 
  
 着崩した制服と黒いヴァイオリンケースは、相変わらず栞菜によく似合う。 
 練習を続けなければならないのに、栞菜を見てしまったら、楽譜に視線が戻らなくなってしまっていた。 
  
 窓の外、空はまだ明るくて、緑の木々がよく見えた。 
 いつもなら、そういった窓の外の光景が栞菜と一緒に目に入ってくる。 
 けれど、今日は明るい空も緑も目に入っているのに、目に映っていないも同然だった。 
   
- 399 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:40
 
-  「愛理?」 
  
 どうして見つめられているのかわからない栞菜が、不思議そうな顔をして愛理を見た。 
 その視線と声に気がついて、愛理は慌てて視線をピアノへ戻した。 
  
 「なんでもない」 
  
 慌ててテンペストを弾き始めると、音が一つ外れた。 
 その次の音も外れる。 
 連鎖的に外れた音は修復不可能で、曲は散々な出来になった。 
 しかし、栞菜は何も言わない。 
 だから、愛理も何も言わなかった。 
  
 それから、何度もテンペストを弾いた。 
 何度も繰り返しているうちに、制服の栞菜がいることに慣れたのか、いつも通りの音で弾くことが出来た。 
  
 何度目かわからないほど弾いた後、愛理は鍵盤から顔を上げた。 
 窓の外を見ると、さっきまで明るかった空は赤く染まっていて、緑にも赤色が落ちてきていた。 
 窓際の栞菜にも赤色が落ちてきていて、窓の外と区別が付かなくなる。 
   
- 400 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:42
 
-  窓の外と栞菜の境目を見つけるように、愛理は目をこらす。 
 栞菜をじっと見つめるが、さっきのように目を奪われたわけではなかった。 
 今は窓の外の景色がいつものように見えている。 
  
 大丈夫だと愛理は思う。 
 何が大丈夫なのかわからないが、右手で心臓の辺りを押さえてから、栞菜に声を掛けた。 
  
 「栞菜、終わった」 
 「もういいの?」 
 「うん」 
  
 頷くと、栞菜がヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出した。 
 調弦をして、愛理を見る。 
  
 「じゃあ、合わせようか。準備いい?」 
 「いいよ」 
  
 答えてから、愛理は気持ちを集中させる。 
 目を合わせた一瞬後、音楽が流れ出す。 
  
 栞菜のヴァイオリンの音を聞いて、そこに音を乗せていく。 
 圭や桃子の言葉を思い出して、音に合わせるだけでなく、自分の音を探してみる。 
   
- 401 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:44
 
-  栞菜のことを意識しすぎると、出来ることが出来なくなる。 
 側にいると思うと、手が上手く動かなくなる。 
 曲をイメージすることが出来なくなる。 
 だから、栞菜のことを忘れてみようと思った。 
 けれど、今度は今までとは違った意味で栞菜のことを意識してしまって、上手く弾けなくなった。 
 何故上手くいかないのか、愛理にはやはりわからない。 
  
 「愛理、どうかした?」 
  
 曲が終わりを告げ、ヴァイオリンを下ろした栞菜から問いかけられる。 
 余程、愛理が不満げな顔をしていたのか、心配そうな声色だった。 
  
 「上手く弾けない」 
  
 愛理がそう答えると、栞菜が安心したように笑った。 
  
 「まあ、いいんじゃない。それでも。今の愛理の演奏、好きだよ。あたしは」 
 「でもさー、こんなんじゃなくて、もっとさ、違った演奏の方が曲にあってる」 
 「そう?今のだって、いいじゃん」 
 「やだもん。もっと違った感じで弾きたい」 
 「そんな急には変わらないって。今の愛理が弾ける愛の挨拶でいいじゃん」 
  
 栞菜が壁へ寄り掛かる。 
 頭まで壁に預けたのか、こつんと音が聞こえて、その小さな音の後に栞菜の言葉が続いた。 
   
- 402 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:47
 
-  「きっとね、明日の愛理が弾く愛の挨拶はもう少し違ったものになるよ」 
  
 静かな教室に似合う、静かな声で栞菜が言った。 
  
 「愛理が少しずつ変わって、それで弾き方も変わって。それでさ、少しずつ良くなっていくんじゃないかな。それにさ、あたし達って、まだ子供じゃん。子供にはわかんないことがいっぱいあってさ、でも、子供の時にしか出来ない演奏っていうのもあって……」 
  
 それまでピアノとヴァイオリンの音に支配されていた練習室に栞菜の声が溢れる。 
 窓の外は夕焼けで、空の色が濃くなっていた。 
  
 「それが、今の演奏なんだよ。きっとね。わかんないことだって、いつかはわかる日が来るからさ、その日まで待ったらいいじゃん」 
  
 愛理には、いつだってわからないことだらけだ。 
 桃子に聞いても、圭に聞いても、愛の挨拶を上手く弾くことが出来なかった。 
  
 桃子の言葉も圭の言葉も理解は出来る。 
 手が上手く動かなかったり、気持ちがついていかないだけだ。 
 しかし、どうしてそうなるのかはわからない。 
 自分の弾きたい愛の挨拶もわからない。 
 曲のイメージから掴むことが出来るはずなのに、見つけることが出来ないままだ。 
 一番わからないのは、栞菜と一緒に弾くと音が乱れてしまう自分ことだった。 
   
- 403 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:49
 
-  子供だから。 
 そんな言葉で片づけてしまっていいかわからない。 
 けれど、今わからないことが、突然わかるようになるとも思えなかった。 
 栞菜の言うように、いつかわかる日が来るのを待つのも悪くない。 
 突然変わることも、大人になることも出来そうにないから、上手く弾けるようにと色々試みながら愛の挨拶を演奏しているぐらいが丁度良いのかもしれない。 
  
 寄り掛かっていた壁から、栞菜が背を離す。 
 小さな足音を立てて歩いてきて、愛理の頭を撫でた。 
 愛理はいつもとは反対に栞菜を見上げて、尋ねた。 
  
 「大人の演奏ってどんなの?」 
 「ダンディなおじさまの演奏会に行ったらわかるんじゃない?」 
 「それって誰?」 
 「えーと、自分で調べて」 
 「いい加減だなー」 
 「まあまあ。細かいことは気にしない」 
  
 くすくすと笑って、栞菜が人差し指を鍵盤へ置いた。 
 ぽーんと小気味良い音が響いて、練習室に溶ける。 
 栞菜がさらに隣の鍵盤を叩こうとして、愛理はその手を掴んだ。 
   
- 404 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:52
 
-  「もう一度、弾いてみてもいい?」 
 「いいよ」 
  
 窓際ではなく、愛理から一、二歩横へ離れた場所で栞菜がヴァイオリンをかまえる。 
 愛理はゆっくりと息を吸って吐いた。 
 視線を合わせてから、愛の挨拶をもう一度弾く。 
  
 栞菜が弾くヴァイオリンの音色を聞く。 
 音はさっきよりも近くから聞こえてきて、栞菜が側にいることが気になった。 
 けれど、上手く手が動かないことも、曲のイメージが出来ないことも、気にしない。 
 いや、気になるけれど、それを受け入れる。 
  
 子供だから。 
 そんな理由で、上手くいかない全てを説明づけると、今までより、少しだけ心が軽くなったようだった。 
 そのせいか、栞菜の音が今までよりよく聞こえた。 
  
 愛理は聞こえてくるヴァイオリンの音にピアノを乗せる。 
 この間まで混じり合っては分離していた音が、今は混じって一つの音に変わっていく。 
 重なり合った音は、練習室から外へ飛び出していこうとしているように思える。 
   
- 405 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:53
 
-  相変わらず上手く弾けたとは思えない。 
 だが、少しだけ変わったような気がする。 
  
 「どうかな?さっきのあたしと違う?」 
  
 二人で弾いた愛の挨拶の余韻が残る中、愛理は栞菜に声をかけた。 
  
 「ちょっと違うかもしれない」 
 「ちょっとってどれぐらい?」 
 「これぐらい」 
  
 栞菜が愛理の隣にやってきて人差し指と親指を近づけ、その間にわずかな隙間を作ってみせる。 
 それはよく見ないとわからないほどの隙間で、ちょっとというより、ほとんど変わっていないと言われているようにも見えた。 
  
 それでも、まあいいか。 
  
 投げやりなわけでもなく、今日は素直にそう思える。 
 栞菜からのほんの少しの言葉で、ここまで気楽に思える自分が何だか可笑しい。 
   
- 406 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:55
 
-  愛理は両手を天井に向けて伸ばす。 
 うーんと伸びをしてから、椅子の背もたれに身体を預けた。 
 ピアノを弾く為に置かれた椅子は硬くて、傾斜がない。 
 みしりと椅子が背中に食い込んで、それでも愛理は背もたれに寄り掛かったまま、栞菜に一つ質問をしてみる。 
  
 「そうだ。ケメちゃんが栞菜に聞いてみろって」 
 「なにを?」 
 「栞菜はどんなこと考えてこの曲弾いてるの?」 
  
 今まで何故聞かなかったのかわからない。 
 そんな質問だった。 
 それなのに、圭から「相手の子が何を思って弾いているか聞いてごらん」と言われなければ、気がつかなかった。 
  
 愛理は興味津々という表情を隠さずに、栞菜を見る。 
 すると、栞菜が悪戯っ子にように笑って言った。 
  
 「聞きたい?」 
 「聞きたい」 
  
 思わず栞菜に顔を近づけると、人差し指で額を押された。 
 愛理は額でその指を押し返す。 
 もう一度顔を近づけると、栞菜の口角が上がった。 
   
- 407 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:56
 
-  「何を考えて弾いているか。……それはね、ひっみっつ!」 
 「えー!けちっ。教えてよ」 
 「やーだよ」 
  
 栞菜がべえっと舌を出して、愛理の肩を叩いた。 
 そして、愛理がした質問と同じ質問を口にした。 
  
 「愛理はどんなこと考えてこの曲弾いてるの?」 
 「えーっと」 
  
 ちらりと栞菜を見る。 
 隣ではさっき愛理がしていたように、興味津々といった様子で栞菜が愛理を見ていた。 
  
 むう、と愛理は眉根を寄せる。 
 考えていることはたくさんあって、でも、その大多数を占めているのは一つだった。 
 隣にいる人のこと。 
 愛理は、その人のことばかり考えている。 
  
 「秘密」 
  
 とてもじゃないが、栞菜には言えそうになかった。 
 だから、栞菜と同じように答えた。 
   
- 408 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 06:58
 
-  「同じこと、考えてたらいいね」 
  
 栞菜は追求しなかった。 
 かわりに、そう言ってから小さく笑った。 
 その姿がいつもより大人びて見えて、愛理はどきりとする。 
  
 「受験の曲、いつ出るの?」 
  
 鼓動がいつもより少しだけ早い。 
 それを誤魔化すように、話を変えた。 
  
 「もう、発表あると思う」 
  
 面倒だ。 
 そんな空気を滲ませながら、栞菜が答えた。 
  
 愛理はいつものように窓の外を見る。 
 赤色が濃くなった世界が目に映った。 
 夕焼け色の世界は、緑の葉を燃やしているようにも見えた。 
  
 栞菜が鍵盤を叩いたのか、ぽーんと明るい音が夕焼け色の世界へ飛び出そうとする。 
 だが、音は窓ガラスに当たって砕けた。 
 栞菜を見ると、また鍵盤を叩いていた。 
 今度はすぐに消えてしまう音ではなく、メロディが聞こえてくる。 
   
- 409 名前:espressivo − 3 − 投稿日:2009/09/28(月) 07:00
 
-  人差し指一本で奏でられる愛の挨拶。 
 それを聞きながら、栞菜の言葉を頭の中で再生してみる。 
  
 『子供にはわからないことがいっぱいある』 
  
 考えているほど子供でもなく、かといって大人でもないと愛理は思う。 
 だが、わからないことがたくさんあるのは事実だった。 
 そんな自分にも一つだけわかることがある。 
  
 栞菜と一つの曲を弾くことは、難しくて上手くいかないことも多いけれど、楽しい。 
  
 それだけは確かなことだった。 
 もう弾きたくないと思うこともあるが、時間が経てばまた栞菜と一緒に演奏したいと思えた。 
  
 どうしてかなどという理由より、楽しいという気持ちを大切にしたい。 
 わからないことは、無理に考えなくていいと栞菜が言った。 
 だから、今は楽しく弾くことだけを考えようと愛理は思った。 
  
  
  
   
- 410 名前:Z 投稿日:2009/09/28(月) 07:01
 
-   
   
- 411 名前:Z 投稿日:2009/09/28(月) 07:01
 
-  本日の更新終了です。  
 
- 412 名前:Z 投稿日:2009/09/28(月) 07:04
 
-  >>394 三拍子さん 
 こちらこそ、読んで下さってありがとうございます、です。 
 今回も早めに更新してみました。 
 風邪をひいていましたが、治りました!w 
  
 >>395 みらさん 
 可愛いのが愛理です。……とか言って从・ゥ・从 
  
 >>396 にっきさん 
 まったりすぎて大丈夫かと思うぐらい緩やかですw 
   
- 413 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/09/30(水) 14:34
 
-   
 2人の関係がすごく好きです。 
 続きを楽しみに待っています。  
- 414 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2009/10/07(水) 23:47
 
-   
  
  
 adagio − 1 − 
  
  
   
- 415 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/07(水) 23:52
 
-  放課後の練習室。 
 今日は栞菜が尋ねてくることもない。 
  
 前期考査も終わった今、栞菜が今まで通り愛理の元へやってくることはない。 
 受験の曲も決まり、栞菜はそれを中心に動いている。 
 今日も、担当教師のレッスンがあるとかで、この練習棟のどこかで受験の課題曲を弾いているはずだった。 
  
 寂しさはあるが、仕方がない。 
 いくら付属の高校へ進むとはいえ、試験があるのだ。 
 外部の中学から高校へ入学するのは難しいと聞いているが、附属中学から高校への進学は、進学出来ない方が珍しいと言われている。 
 しかし、今まで通りのペースでやっているわけにはいかないはずだ。 
 だから、受験の曲が発表されてしまえば、栞菜が今までよりも愛理の元へやってくる頻度が落ちるのはわかっていた。 
  
 愛理は今まで通り自分の練習をこなしていくしかない。 
 それに前期考査が終わると、学園祭が待ちかまえていて、のんびりしている時間はなかった。 
 学園祭に力を入れている学校ではなかったが、それでも生徒達は盛り上がる。 
 盛り上がれば、学園祭の準備に追われることになる。 
 お互い忙しくて、寂しいと口にする暇もないのが実情だ。 
   
- 416 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/07(水) 23:57
 
-  それでも寮へ帰れば、愛の挨拶を弾く時間はあまり取れないが、いつでも栞菜には会える。 
 今は学園祭のこともあって忙しいが、それが終われば、少しは二人で曲を練習する時間を取ることも出来るだろう。 
  
 愛理は鍵盤に指を下ろす。 
 栞菜と練習室で会えないことを嘆いている暇はなかった。 
 学園祭の準備もあるから、練習時間は大切にしなければいけない。 
 新しい練習曲も貰ったから、時間を無駄には出来ないのだ。 
  
 ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ第16番』。 
 この曲は、弾き慣れたとも言っていいテンペストにかわり、新しい練習曲としてもらったものだ。 
 今まで弾いていたテンペストと比べると明るく軽やかな曲で、ピアノへ向かうイメージを随分と変えなければいけなかった。 
 それでも、雨だれ、テンペストと続いた雨の曲から離れたこともあって、気分も変わり練習も楽しい。 
 この曲の持つ明るさや軽やかさに、栞菜に会えない寂しさも紛れる。 
 しかし、練習を始めたばかりのこの曲はテンペストに比べるとまだまだだ。 
   
- 417 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/07(水) 23:59
 
-  弾いていても納得出来ない部分ばかりで、何度もレッスン中の圭の言葉を思い出したり、楽譜へ書き込まれた文字を見直したりしている。 
 だが、どれだけ弾いてもミスも多く、軽やかなはずの曲は軽やかとはほど遠い。 
 ただひたすら練習することでしか曲を完成に近づける方法はないとわかっていても、ため息が出そうになる。 
  
 気がつけば音が途切れ、無駄には出来ない練習時間がただ無意味に流れ始める。 
 たどたどしくても音楽に溢れていた練習室が、しんと静かになる。 
  
 静寂が耳について、愛理は弾かなければと手を動かすが、すぐに指が止まる。 
 栞菜の受験用の課題曲、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第1番』が頭をよぎる。 
 練習しなければいけないのはベートヴェンのピアノ・ソナタ第16番のはずなのに、今弾きたいのはヴァイオリン協奏曲第1番の伴奏だった。 
  
 栞菜の受験用の曲は二曲ある。 
 ヴァイオリン協奏曲第1番は、もう一つの課題曲と違って、今回の受験では伴奏付きで演奏するように指定されている曲だ。 
 もう一つの課題曲ローデの『練習曲の形式による24のカプリース23番』は、ヴァイオリンの練習曲で伴奏はいらない。 
   
- 418 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:02
 
-  愛理はこの曲を知らなかったから栞菜に聞いたのだが、ヴァイオリンを弾いている人にとってはポピュラーな曲らしく、ヴァイオリン練習曲としては有名なものらしい。 
 どんな曲か栞菜に弾いてもらおうと思ったが、その時の栞菜は、曲をもらったばかりでまだ聞かせるような状態ではないと言っていた。 
 同時に「今度、弾いてあげる」とも言っていた。 
 だから、愛理にとってこの曲は、栞菜に弾いてもらう日が来ることが楽しみで仕方がない曲になっている。 
  
 そして、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第1番の方だが、こちらも愛理は聞いたことがなかった。 
 だが、伴奏が必要な曲だと聞いて、自分で曲を調べて伴奏の楽譜を手に入れた。 
 もちろん、栞菜から伴奏を頼まれたからではなく、個人的な思いでだ。 
 伴奏は学校の係員がすることになっている。 
 そんなわけで、伴奏の楽譜は愛理にはまったく関係がないものだ。 
 それでも、栞菜がどんな曲をどんな伴奏で弾くのか知りたかった。 
 当然、曲も聞いたが、聞いたら自分も弾きたくなった。 
  
 馬鹿だなあ、と愛理は思う。 
 楽譜を手に入れたところで練習をする時間はないし、栞菜に伴奏をしてみたいと言う勇気だってない。 
 栞菜は受験の曲として真面目に練習をしているはずで、自分の気まぐれに付き合わせて、練習不足の伴奏と合わせてもらうわけにはいかなかった。 
 そんなことをしたら栞菜のペースを壊してしまうだろうし、作り上げている曲を壊すことにもなりかねない。 
   
- 419 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:05
 
-  繊細さや清楚さを感じさせる旋律を持つこの曲を栞菜が弾くところを見たいし、栞菜の伴奏をするのが自分だったら最高だと愛理は思う。 
 栞菜には同学年の中島先輩という伴奏者がいるのにも関わらず、いつの間にこんなことを考えるようになったのかわからないが、栞菜の伴奏をしたいと強く思うようになっていた。 
  
 桃子と雅を見たことが関係しているのかもしれない。 
 大抵、伴奏者は同学年の中から選ぶ。 
 だから、栞菜も同学年の中島先輩を伴奏者としているし、愛理もそれを不思議に思ったことはない。 
 自分が伴奏者になろうと思ったこともなかった。 
 だが、学年の違う桃子が雅の伴奏をしている姿を見て、学年違いというのもありなのだと改めて思った。 
 桃子が雅の伴奏をしていることは前々から知っていたが、目の前で見ると、今までとは違った捉え方になるらしかった。 
  
 そうは言っても、栞菜の伴奏者は中島先輩から変わりようがないし、受験曲の伴奏者が学校の係員から愛理に変わることもない。 
 どんなに望んでも叶わないことだってあるのだ。 
   
- 420 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:06
 
-  愛理は大きく息を吸って吐く。 
 目を閉じて、頭を軽く振る。 
 そして、ヴァイオリン協奏曲第1番を弾きたいという思いを消し去った。 
  
 鍵盤へ指を置き、楽譜を確認する。 
 深呼吸をしてからピアノ・ソナタ第16番を弾き始めると、再び、練習室に音楽が溢れ出す。 
  
 練習をしていると時間を忘れてしまうのはいつものことだった。 
 練習室という空間を埋める音に感覚を奪われ、時間を意識することがなくなる。 
 だから、愛理は扉が急に開いた時、もう練習時間が終わったものだと思った。 
  
 練習室の次の使用者が、練習室から出てこない愛理を呼びに入ってきた。 
 そうに違いないと思った。 
 だが、実際には違った。 
  
   
- 421 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:08
 
-  「愛理、入っていい?」 
  
 栞菜が来なくても、桃子が来ることがある。 
 練習に没頭していて、そのことをすっかり忘れていた。 
 ちゃっかり練習室に入ってきておきながら、そんなことを言った人物は桃子に間違いがなくて、愛理は呆れながら言葉を返すことになる。 
  
 「もう入ってるんだけど」 
 「だめ?」 
 「いいけど、練習の邪魔しないでよ。新しい曲もらったばっかりで大変なんだから」 
 「するわけないじゃん」 
  
 信用ならないことを桃子が言いながら、愛理の隣へやってくる。 
 こうなったら、桃子が出ていくことはない。 
  
 「新しい曲って、なに?」 
 「ベートーヴェンソナタの16番」 
 「ベートーヴェンソナタかあ」 
  
 桃子が腕組みをして、短く唸る。 
 そして、楽しそうな顔をして言った。 
   
- 422 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:10
 
-  「聞かせて」 
 「練習始めたばかりだから」 
 「弾かないの?」 
 「……弾く」 
  
 曲は、まだ人に聞かせるような段階ではなかった。 
 だが、弾かなければ練習にならないし、桃子は側にいることを気にするような相手ではない。 
 一緒にいることには慣れているから、愛理は遠慮なく練習を始めることにする。 
  
 愛理が鍵盤へ指を置くと、隣にいた桃子が後ろへ移動する。 
 壁に寄り掛かったのか、小さな音がした。 
 背中に視線を感じるが、愛理は黙って曲を弾き始める。 
 テンポ良くとは行かないが、何とか一度弾き終えると、練習の邪魔をしないと言ったはずの桃子が口を開いた。 
  
 「今の愛理なら、テンペストの方があってると思うんだけどなあ」 
 「なんで?」 
 「会いたくて嵐のように乱れる心、なんてね」 
  
 小さく聞こえてくる笑い声に振り向くと、桃子がさっきの言葉にさらに言葉を足した。 
   
- 423 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:11
 
-  「……あ、会いたいっていうのは、栞菜ね」 
 「ももは、すぐそんなこと言う」 
 「一応、言っておいた方が良いかと思って」 
 「言わなくていいから、そんなこと」 
 「そう?愛理の気持ち、的確に表現したつもりなんだけど」 
 「してないから」 
 「えー、してるよ」 
 「ちょっと、ももうるさい。退場!」 
  
 からかうような口調の桃子を軽く睨む。 
 だが、桃子はにやにやと笑ったままで堪えた様子はないし、練習室から出て行こうともしない。 
 もちろん、愛理も桃子が練習室から出て行くとは思っていない。 
  
 「えー、もうちょっと聞きたい」 
 「やだ。もも、変なこと言うもん」 
 「言わない、言わないから」 
 「静かにしててよ?」 
 「はーい」 
  
 まるで幼稚園児のような返事が聞こえてきて、練習室から声が消える。 
 愛理は小さく息を吐き出してから、ピアノに向き直った。 
   
- 424 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:14
 
-  栞菜に会いたければ、寮でいくらでも会える。 
 それなのに、練習室でも会いたいのは確かで、それを桃子に見抜かれてどきりとした。 
  
 桃子は、いつも気がついて欲しくないことばかり気がつく。 
 だが、愛理には桃子が何を考えているのかよくわからない。 
 桃子はわかりやすいようで、わかりにくかった。 
 いつもにこにこしていて、人の言葉によく反応するが本心が見えない。 
 からかわれてばかりではなく、たまには桃子をからかってやりたいと思うが、どうすれば桃子が慌てるようなことになるのか見当が付かなかった。 
  
 ふう、とため息をついて楽譜を見る。 
 並んだ音符が曲の軽快さを伝えてくるが、気持ちは晴れない。 
 桃子に影響されたのか、今の自分にはテンペストの方が合っているのではないかと思ってしまう。 
 そして、そんな自分にまたため息をつきたくなった。 
 愛理が楽譜を睨んだまま指を動かせずにいると、後ろからまた声が聞こえくる。 
   
- 425 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:16
 
-  「そーだ。愛理のクラスってなにやるの?」 
  
 脳天気な声に、愛理は思わず振り返った。 
  
 「静かにしてるんじゃなかったの?」 
 「まあまあ。これを聞いたら黙るからさ」 
  
 反省することもなく桃子が言うと、愛理の隣へやってきて椅子の背もたれに手をかけた。 
 ついさっきの質問の答えを促すように、桃子の指先が背もたれを叩いてリズムを刻む。 
 だが、愛理は質問の意味がわからず、問い返した。 
  
 「なにやるのってなに?」 
 「学園祭だよ、学園祭!年に一度のお祭りなんだから、忘れないでよ」 
 「ああ、学園祭かあ。もものクラスはなにやるの?」 
 「お化け屋敷」 
 「準備、いいの?」 
  
 学園祭まで日がない今の時期、音楽科の生徒達も学園祭の準備で忙しい。 
 愛理のように練習室が使える時間帯の都合でどうしても参加出来ない生徒以外のほとんどは、学園祭の準備をしていると言っても過言ではない。 
 もちろん、高等部の桃子も例外ではない。 
 学園祭は中等部と高等部が合同で行うものだから、高等部も今頃、中等部と同じように忙しいはずだった。 
   
- 426 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:18
 
-  それなのに桃子は暇そうだ。 
 練習室を使うことになっていれば、愛理のところへやってくるはずはない。 
 何も予定がないからここにいるに違いなくて、だとすると、こんなところで遊んでいていいはずがなかった。 
  
 「怖いからサボってきた」 
  
 桃子があっさりと言った。 
 そして、愛理の肩を叩いて小さな椅子に座ろうと身体を寄せてくる。 
 愛理は仕方なく端へ避けてスペースを空け、一つの椅子に二人で腰掛けて背中を合わせた。 
  
 「怖いって、まだ準備なのに」 
 「そーだけどさあ。なんかドロドロでべちょべちょみたいなお面作ったり、変なシーツの塊みたいなの作ったりとか、見てると怖いんだもん」 
 「明るいから、いくらお化けでもそこまで怖くないでしょ?」 
 「そりゃあ、今はいいよ。今は。でもね、あれを夜想像したら……。あんなドロドロべちょべちょのお面とか、シーツが飛び回ってたら怖いじゃん。そういうのって、想像しちゃいけないときに限って、つい想像しちゃってさ、怖いんだって。夜、一人でトイレ行けなくなったら格好悪いでしょ」 
  
 大袈裟に桃子が身体を震わせたから、その振動が伝わってきて、愛理は笑った。 
 桃子は本当に怖がりで、寮でも怖い話やテレビに過剰に反応していた。 
   
- 427 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:20
 
-  同じように、栞菜も怖がりだ。 
 過去に何度か、怖いテレビを見たからと言って、栞菜が部屋へ押しかけてきて一緒に眠ったことがあった。 
 それは「消灯時間の十五分前には自室へ戻ること」という寮の規則に違反する行為だったが、夜遅くまで栞菜と話せてとても楽しかったことを覚えている。 
  
 「高二にもなって、一人でトイレ行けないとか確かに格好悪いけど」 
  
 確か栞菜も一人でトイレに行けないと言っていた。 
 真夜中、二人でこっそりトイレに行ったことを思い出しながら、愛理は背中で桃子を押す。 
  
 「ももも格好悪いと思う。だから、いいの。ももは手伝わなくて。で、愛理はなにやるの?」 
 「音楽喫茶」 
 「今年は愛理達の学年が当たり引いたんだ」 
 「うん」 
  
 学園祭伝統の音楽喫茶。 
 音楽科があるからなのか、昔から中等部と高等部の音楽科の中から一クラスが選ばれて、音楽喫茶をやることになっていた。 
 と言っても、選考の結果の上、というわけではなく、クジ引きで音楽喫茶の担当クラスが決まる。 
 今年は愛理のクラスが当たりくじを引いたので、音楽喫茶をやることになった。 
 結果、クラスの出し物をどうするかの議論で揉めなかったかわりに、何を演奏するかで随分揉めた。 
   
- 428 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:22
 
-  「じゃあ、愛理がウェイトレスのときにお茶飲みにいく」 
 「そこは演奏のときにしようよ」 
 「演奏はいつでも聴けるけど、ウェイトレス姿はなかなか見られないじゃん。メイドみたいな格好するんでしょ?」 
 「いや、普通に制服とエプロンだから」 
 「つまんない!愛理のクラス、つまんないよ!ももが音楽喫茶やったときは、みんなでメイド服作って着たんだよ!」 
 「みんな、服作るの面倒だって」 
 「やる気足りないなー。まあ、いいや。とにかくみんなで行くよ」 
 「みんなって、夏焼先輩?」 
 「みやもだけど、栞菜とかえりかちゃんとかも」 
 「えりかちゃん?」 
 「梅田えりか。この前会ったでしょ」 
 「うん」 
  
 聞こえてきた名前に心臓がとくんと小さな音を鳴らした。 
  
 夏休み最後の日、三人で買い物へ行った。 
 えりかは栞菜が言っていた通り面白い人だったし、優しかった。 
 明るいし、人当たりも良いし、悪いところを上げろと言われても思いつかない。 
 栞菜が仲良くなるのも頷ける。 
 愛理もあれから、えりかと会えば挨拶もすれば、話もするようになった。 
   
- 429 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:24
 
-  えりかのことを嫌う要素はないし、嫌いではない。 
 今以上に仲良く出来ればと思う。 
 だが、何となく釈然としない。 
 初めて名前を聞いたときのような気持ちにはならないが、やはりすっきりとしないのだ。 
  
 「あー、舞美も誘わないといけないんだった」 
  
 愛理の胸の中にあるもやもやとしたものを吹き飛ばすように、桃子が大きな声を上げた。 
  
 「矢島先輩も誘うんだ?」 
 「うん。ちょっと色々あってね。って、愛理の邪魔し過ぎちゃった」 
  
 そう言って、桃子が時計を見たから、つられて時計を見る。 
 時計の針は練習室を使える時間がもう残り少ないことを示していて、愛理は桃子の身体に肩をぶつけた。 
  
 「なにしに来たの、一体」 
 「んー、学園祭の準備サボってすぐ寮に帰ったら、捕まっちゃうからさ。この前、もものこと寮の前で張ってたんだもん。というわけで、暇つぶしかな」 
 「もー!真面目にやりなよ」 
  
 もう一度どんっと肩をぶつけると、桃子が椅子からぴょんと降りた。 
 そして、くるりと愛理の方を向いて、元気よく言った。 
   
- 430 名前:adagio − 1 − 投稿日:2009/10/08(木) 00:26
 
-  「明日からやりまーす。あ、そうだ。今日帰ったら、もものメイド服姿、写真で見せてあげる。超可愛いんだから!」 
 「メイド服が?」 
 「愛理、可愛くなーい」 
 「うそうそ。可愛いもものメイド服姿、見たいなー」 
 「最初からそう言えばいいの。じゃあ、愛理。頑張って」 
  
 軽く手を振ってから、桃子がばたばたと練習室から出て行く。 
 バタンと扉が閉まって、また練習室が一人きりの空間に戻る。 
 急に静まりかえった空間が寂しくて、愛理は楽譜に並ぶ音符を音へと変えた。 
  
 練習室では、もうエアコンが唸ることもなくなっていた。 
 夏も終わり、秋が迫っている。 
 外は随分と涼しくなっていて、夏服では涼しすぎる時もある。 
 あと一週間もすれば衣替えになり、学園祭がやって来る。 
 色々なことが一度にやってきて、でもだからこそ、今の時期は気分が紛れて丁度良いのかもしれなかった。 
  
  
  
   
- 431 名前:Z 投稿日:2009/10/08(木) 00:26
 
-   
   
- 432 名前:Z 投稿日:2009/10/08(木) 00:26
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 433 名前:Z 投稿日:2009/10/08(木) 00:27
 
-  >>413さん 
 お待たせしました。 
 二人の関係をまったり楽しんで頂ければと思います。  
- 434 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/08(木) 16:55
 
-  愛理の気持ちが 
 本当に少しずつ、ゆるやかに変化して 
 確かなものになっていってるのが感じられて 
 毎回、更新されているのを読み終えると 
 なんだか穏やかな気持ちになります。 
  
 愛理の栞菜に会いたいという気持ちが 
 すごく伝わってきたので 
 桃子が入ってきた時は 
 ちょっと残念な気持ちになってしまいました(笑) 
 それと同時に 
 「栞菜!早く愛理に会いに来てあげて!!」 
 と思いました(笑) 
  
 次回の更新を心待ちにしています。  
- 435 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/08(木) 23:00
 
-  「誘わないといけない」の「いけない」ってとこが気になる 
 
- 436 名前:にっき 投稿日:2009/10/09(金) 14:38
 
-  この先輩は本当に良い味出してくれますねw 
 登場人物みんな大好きだけど先輩が一番好きかも  
- 437 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2009/10/18(日) 23:46
 
-   
  
  
 adagio − 2 − 
  
  
  
   
- 438 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/18(日) 23:48
 
-  愛理がベートヴェンソナタを弾くことに慣れてきた頃、学校では学園祭が始まっていて、日頃から生徒達の声で騒がしい学校内が、さらに騒がしくなっていた。 
 土日を使っての開催ということもあって、生徒達の家族だけでなく他校の生徒も訪れているから、その騒がしさは日頃の倍以上だ。 
 もちろん、愛理のクラスも例外ではない。 
 音楽喫茶は朝から大繁盛で、愛理を含むクラスメイト達は忙しさに息をつく暇もなかった。 
  
 演奏する曲は授業や試験で練習したクラシックや流行のポップスをアレンジしたもので、教室内は常に音楽に溢れている。 
 愛理はと言えば、午前中に演奏を担当したから、午後になった今はウェイトレスとしてお茶やケーキを運んでいた。 
   
- 439 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/18(日) 23:50
 
-  「いらっしゃいませ」 
  
 教室へ入ってきた客に声をかける。 
 我ながらなかなか堂に入ってきたと愛理は思う。 
 午後一番、ウェイトレス担当として教室へ出た時は恥ずかしくて全く声が出なかった。 
 今までこんなことをしたことがなかったから、水を運ぶことすらおっかなびっくりで、その様子を見ていた客の方も心配そうだった。 
 しかし、一時間もしないうちに、ウェイトレスにもすっかり慣れて楽しくなっていた。 
  
 「愛理っ!」 
  
 演奏の合間、聞き慣れた声が教室に響く。 
 声の主が栞菜だとすぐにわかって、愛理は満面の笑みで振り返る。 
  
 「いらっしゃいませ」 
  
 思い切り愛想良くそう言って、頭を下げる。 
 そして、店の入り口である教室の扉前にいる栞菜のところへ行くと、桃子とえりかもいた。 
  
 えりかの姿に、一瞬笑顔が固まる。 
 口元が引きつりかけて、慌てて息を吸い込んだ。 
 愛理が気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出すと、栞菜が楽しそうに言った。 
   
- 440 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/18(日) 23:52
 
-  「おー、愛理。本物のウェイトレスみたいじゃん」 
 「良い感じでしょ?」 
 「うんうん」 
  
 頷きながら、栞菜が制服の上からした白いエプロンを引っ張る。 
 フリルの着いたエプロンが気に入ったのか、しげしげと眺めている。 
 桃子とえりかも、「可愛い」と言いながら愛理の周りをくるりと回ってウェイトレス姿を見ていた。 
  
 えりかのことを意識しないようにと思う余り、えりかの方を見られない。 
 愛理は不自然にならないように、視界になんとかえりかを入れる。 
  
 「ねえ、もも。夏焼先輩と矢島先輩も来るんじゃなかったの?」 
  
 えりかに向いてしまう意識を変えようと、桃子に話しかける。 
 記憶が間違っていなければ、雅と舞美も来るはずだった。 
  
 「あー、舞美はね、ソフト部の方に行かないと駄目らしくて」 
 「ソフト部って千聖も今日、当番とか言ってたけど」 
 「うん、そうみたい。でも、そんなことより先に案内、案内!」 
  
 そう言って、桃子が笑う。 
   
- 441 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/18(日) 23:54
 
-  「あ、ごめん。席に案内するね」 
  
 営業スマイル、というより、お客さんを席へ案内しなければと思うと自然に笑顔になる。 
 案外、ウェイトレスに向いている気がする。 
 そんなことを考えながら三人を席へ案内して、愛理は奥へメニューと水を取りに戻った。 
  
 「メニューでございます」 
  
 手作りメニューと水が入ったグラスを三人が座るテーブルの上へ置くと、教室にクラシックが流れ始めて、それまで聞こえていた話し声が少し小さなものになった。 
  
 「メイド服じゃないのが残念だけど、エプロンも可愛いし、メニューもすごく可愛い」 
  
 栞菜がメニューへ視線を落としてから、愛理を見る。 
  
 「でしょ。メニュー、頑張ってみんなで作ったんだ」 
 「エプロンは?」 
 「みんなの分、買おうとしたんだけど数あまりなくて、ある分だけ買い占めてきて、みんなで使い回してる」 
 「へえ。どこで買ったの?」 
 「駅前の雑貨屋」 
   
- 442 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/18(日) 23:57
 
-  学園祭の二週間前。 
 可愛い小物がたくさんあると評判の駅前の雑貨屋にはエプロンも置いてあって、クラスメイトがその店で、音楽喫茶のイメージにぴったりのエプロンがあると見つけてきたのだ。 
 どんなエプロンにするかで揉めていたところだったから、ウェイトレス役のクラスメイト全員で、雑貨屋に押しかけることになった。 
  
 意見は分かれるに違いないと思われたが、奇跡的にレースで縁取られたエプロンを全員が気に入った。 
 だから、愛理達は店頭に出ているそのエプロンを全てレジへ持っていき、さらに倉庫からもエプロンを出してもらって、ありったけのエプロンを買い占めた。 
 愛理は「このエプロン、あるだけ下さい」と言ったときの雑貨屋店員の驚いた顔を、今でも思い出すことが出来る。 
  
 「あそこ、小さいお店だけど可愛いもの多いよね」 
 「うん」 
  
 栞菜ともあの店へ行ったことがある。 
 何も買わないくせに長居して、寮へ帰る道すがら二人で迷惑だよねと笑った。 
  
   
- 443 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/18(日) 23:59
 
-  「ももも、この前あの店でストラップ買った」 
  
 そう言って、桃子がポケットから携帯を取り出し、苺の飾りが付いたストラップをぷらんと垂らして見せた。 
 それを見たえりかがストラップを引っ張って、可愛いと笑った。 
 つられるように栞菜が笑って、えりかが引っ張ったストラップを引っ張る。 
  
 店員と客。 
 学園祭という場でのことだから、厳密に考える必要はないかもしれない。 
 今だって、客として来ている三人と雑談しているし、他のウェイトレスやウェイターも友人や家族が来れば話の一つや二つしている。 
 だが、ストラップの引っ張り合いに参加するのは気が引ける。 
 そして、栞菜とえりかがストラップの引っ張り合いをしているところを見ているのも、落ち着かない。 
  
 「そうだ、もも。さっき矢島先輩はソフト部の方へ行かなきゃいけないって言ってたけど、夏焼先輩は?」 
  
 愛理はきゃあきゃあと騒いでいる二人の声を遮るように、桃子へ声をかけた。 
  
 「みやはね、クラスメイトに捕まって連行された」 
 「連行?」 
 「かき氷屋のお客が少ないから、看板娘として」 
 「この時期にかき氷屋なんてやるから……」 
  
 えりかが呆れたように呟くと、栞菜が笑いながら言った。 
   
- 444 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/19(月) 00:00
 
-  「雅ちゃん、お化け屋敷羨ましがってたよね。あたしも驚かせたいって」 
 「ももはみやと変わりたいぐらいだよ」 
 「じゃあ、ももちゃんが変わりに看板娘やったら?」 
 「あー、それいい。ももにぴったり」 
  
 今まで栞菜や桃子といて、疎外感という言葉が頭に浮かぶことはなかった。 
 けれど今は、疎外されているような気分になる。 
 今までだって、自分の知らない話を栞菜や桃子がしたことぐらいあった。 
 だが、今日はまるでのけ者にされているような気がしてならない。 
  
 たまたま愛理の知らない話をしているだけだ。 
 たまたま栞菜と桃子とえりかだけが知っている話をしているだけだ。 
 愛理が勝手に置いてけぼりにされたように感じているだけだ。 
  
 そう思うとするが、三人が楽しそうに雅の話をしているところを見ていると、いたたまれない気分になる。 
 三人と自分の間に見えない壁があって、中へ入っていけない。 
 そんな風に思えて、楽しかったウェイトレスが急につまらないものに感じられた。 
   
- 445 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/19(月) 00:03
 
-  「三人とも、そろそろ注文いい?」 
  
 沈んでいく気持ちを引き上げるように明るい声で三人に話しかけ、見えない壁をどんっと叩く。 
 すると、それまで雅の話に夢中になっていた三人が一斉に愛理を見た。 
 ばつの悪そうな顔で栞菜が両手を合わせて謝る。 
  
 「ごめん。忘れてた」 
 「ひどーい!」 
  
 愛理が大袈裟に怒ってみせると、三人がメニューへ視線を落とした。 
  
 相談すること五分。 
 結局、三人が選んだのはケーキセットで、愛理は受けた注文を調理担当のクラスメイトへ告げた。 
 愛理は他のウェイトレス役のクラスメイトに一声かけて、厨房へと移動する。 
 そして、準備されていくケーキセットを眺めた。 
  
 あんなに楽しかったはずの気分が一気に冷めた。 
 栞菜や桃子が尋ねてくることを愛理はとても楽しみに待っていて、教室で今か今かと待ちかまえていた。 
 学園祭前、二人に音楽喫茶の制服であるエプロンを見せてくれだとか、愛理も協力して作った手作りメニューを見せてくれだとか、何度も頼まれたが見せなかった。 
 愛理だって見せたかったが、やはり学園祭当日に見て驚いて欲しいという思いの方が大きかったのだ。 
   
- 446 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/19(月) 00:04
 
-  エプロンも手作りメニューもとても可愛くて、音楽喫茶に来た二人に自慢したかった。 
 だから、さっき二人の顔を見たときは嬉しかった。 
 けれど、あんなに楽しみにしていた時間は、思ったほど楽しいものではなくて、今の愛理の気持ちはどちらかと言えば憂鬱に近かった。 
  
 原因はわかっている。 
 えりかだ。 
 栞菜と桃子の二人が愛理の知らない話をしているだけなら、こんな気分にはならなかった。 
  
 つまらないことを気にしている。 
 自分でもそう思う。 
 だが、えりかの存在が愛理の身体の中をちくちくと刺激する。 
 今まで感じなかった部分に痛みを感じさせ、考えたこともなかったことを考えさせる。 
  
 えりかがいるから、会話に入れないのではないか。 
 えりかがいるから、憂鬱な気分になるのではないか。 
  
 考えすぎだ。 
 自分でもわかっていた。 
 それでも、マイナス方向へ傾いた思考は止まらない。 
 次から次へと悪いことが頭に浮かぶ。 
   
- 447 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/19(月) 00:06
 
-  愛理は両頬をぱんっと叩く。 
 気分を変えなければと深呼吸をして、出来上がったケーキセットをお盆へ乗せる。 
 そして、三人が待つテーブルへと向かった。 
  
 「お待たせいたしました」 
  
 にっこり営業スマイル。 
 嫌なことを考えそうになる自分を笑顔の下に隠して、三人に微笑む。 
  
 「エプロン可愛いけど、でもメイド服、見たかった」 
  
 かちゃかちゃとケーキセットをテーブルへ並べていると、栞菜が諦めきれないといった口調で言った。 
  
 「ももみたいなこと言わないでよ」 
 「だって、ウェイトレスなんだし、せっかくなら制服がいいじゃん」 
 「制服着てる」 
 「こういうのじゃなくてさあ。あー、ももちゃんのメイド服姿、可愛かったなー」 
 「でしょー!」 
  
 桃子が満面の笑みで栞菜を見る。 
 そして、良くできましたとばかりに、栞菜の頭を撫でた。 
 そんな二人の様子を眺めていたえりかが、くすくすと笑いながら愛理を見た。 
   
- 448 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/19(月) 00:07
 
-  「ももちゃんも可愛かったけど、今日の愛理ちゃんだって可愛いよ」 
  
 うんうんと一人頷きながら、えりかが柔らかな声で愛理を褒める。 
 その声色に他意はなさそうで、晴れない気持ちをえりかのせいにしようとしていた自分に、心臓がちくりと痛む。 
  
 「そんなことないです」 
 「あるある。可愛いよ、愛理ちゃん」 
 「ないです」 
 「あるったらあるの。それに、こういうときは素直にありがとうって言えばいいんだって」 
 「……ありがとうございます」 
  
 綺麗に笑うえりかに罪悪感を誤魔化すよう微笑み返すと、肩をばんと叩かれた。 
  
 「敬語、いらないってこの前言ったの覚えてない?」 
  
 夏休み最後の日、栞菜とえりかの三人で出かけた買い物の途中にそう言われたことを思い出す。 
 ずっと敬語で話していた愛理に、今のように肩をばんと叩いて敬語はいらないとえりかが言った。 
   
- 449 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/19(月) 00:09
 
-  「じゃあ、ありがと」 
 「うん。よし!いい子、いい子」 
  
 素直に敬語をやめると、えりかが愛理の頭を撫でた。 
 それから、小さな声でそっと言った。 
  
 「なんか元気ないけど、大丈夫?」 
 「さっきまで忙しかったから。でも、もう平気」 
  
 ずっと昔から友人だった。 
 そんな気がしてくるような声で言われた。 
  
 えりかは優しい。 
 そして、まだ一緒に過ごした時間は短いのに、よく見ているなと思う。 
  
 大丈夫。 
 愛理は、呪文のように心の中でそう唱える。 
 まだ友達と言えるかどうか曖昧な位置にいる自分を気遣ってくれるえりかに、心配をかけてはいけない。 
   
- 450 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/19(月) 00:11
 
-  「あの、あたしのこと、ちゃん付けじゃなくて、愛理って呼び捨てで呼んで下さい。じゃなくて、呼んで」 
 「わかった。あたしのこともえりかでいいよ。呼びにくかったら、ちゃん付けでもいいし」 
 「じゃあ、えりかちゃんって呼ぶ」 
  
 優しくされてばかりでは申し訳ないから、愛理は自分からえりかに近づいてみる。 
 距離を置いてばかりでは、何も解決しない。 
 今よりも少しえりかに歩み寄って、友達に近づいてみれば、この曇り空のような浮かない気持ちも少しは晴れるのではないかと思う。 
  
 店内に流れていた静かなクラシックは、いつの間にか流行の曲に変わっていた。 
 それに合わせて、抑え気味だった客や店員のお喋りも少し大きなものになる。 
 もちろん、愛理がいるテーブルの三人の声からも遠慮が消えていた。 
  
 「なんかよくわからないけど、愛理とえりかちゃんの話がまとまったところで。あーいーりー!メイド服、着ようよ」 
  
 駄々っ子のようにそう言った栞菜に、愛理はぴしゃりと言い放つ。 
  
 「ないものは着れないの。っていうか、行くよ。あたし」 
 「えー、もうちょっと話そうよ」 
  
 ウェイトレスもウェイターも決まった数しかいない。 
 客は栞菜たちが店内に入って来たときよりも増えてきていた。 
 いつまでも一つのテーブルで話し込んでいるわけにもいかず、愛理は立ち去ろうとするが、エプロンの裾を栞菜に引っ張られる。 
   
- 451 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/19(月) 00:12
 
-  「愛理!」 
  
 ぴっと引っ張られたエプロンの裾。 
 その手を離せと愛理が言う前に、クラスメイトに呼ばれた。 
  
 「はーい」 
  
 大きな声で返事をすると、栞菜の手が離れる。 
  
 「呼んでるから、あたし行くね」 
 「待って。あと30分ぐらいで終わるよね?」 
  
 残念そうな表情で栞菜が言った。 
  
 「うん」 
 「待ってるから、終わったら一緒に回ろう」 
 「途中でりーちゃんも来るけど、いいよね?」 
 「もちろん」 
  
 ケーキへぷすりとフォークを刺す三人を見てから、愛理はテーブルを離れる。 
 それから後は、次から次へと来る客の相手をすることに精一杯だった。 
 だから、三十分などあっという間だった。 
  
  
  
   
- 452 名前:Z 投稿日:2009/10/19(月) 00:12
 
-   
   
- 453 名前:Z 投稿日:2009/10/19(月) 00:13
 
-  本日の更新終了です。  
 
- 454 名前:Z 投稿日:2009/10/19(月) 00:20
 
-  >>434さん 
 お待たせしました。 
 スレの更新と同じようにのんびりペースの愛理ですw 
 早く二人を会わせてあげたいと思うのですが、素敵な先輩がちょくちょく顔を出してしまいますw 
 それでも、まったりとお話は進んでいくので、穏やかだったり、残念だったりしながら読んで頂けると嬉しいです。 
  
 >>435さん 
 日本語的な意味でおかしかったらすみません。 
 他の意味なら、お楽しみに!という感じですw 
  
 >>436 にっきさん 
 先輩にはどうしても力が入ってしまいますw 
 ……入れすぎたらいけないとは思うんですがw  
- 455 名前:みら 投稿日:2009/10/19(月) 09:21
 
-  メイド服…残念ですww 
 栞菜がかわいいなぁ(*´∀`*)  
- 456 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:37
 
-   
 「ももちゃん、お化け屋敷いいの?」 
  
 グラウンドへ向かう道すがら、えりかが思い出したように言った。 
 もちろん、ウェイトレスの当番が終わった愛理は栞菜たち三人と合流している。 
  
 「いいの、いいの。受付は朝やったから。クラスのみんなも、お化け役無理だって言ってくれたし。大体、えりかちゃんだってサボってるじゃん」 
 「焼きそばなんて、大人数で作っても邪魔になるだけだからさ。いないぐらいが丁度良いんだよ」 
 「うわ、えりかちゃん。いい加減」 
 「ももちゃんに言われたくない」 
  
 話を総合すると、桃子もえりかも自分のクラスの当番を投げ出してここにいるようだった。 
 要するにサボリということだ。 
  
 学園祭の準備すら抜け出してきていた桃子なら当然のことで驚きもしないが、えりかが思っていたよりも大雑把な性格のようで少し驚く。 
 だが、すぐに夏休み最終日のことを思い出した。 
 あの日、えりかは宿題を放り出して買い物をしていた。 
 えりかは綺麗な顔に似合わず、気ままなところがあるようだ。  
- 457 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:38
 
-  「そう言えば、ソフト部って何やってるの?」 
  
 今、三人が向かっている目的地について、栞菜が口にする。 
 愛理達がグラウンドへ向かっている理由は、そこにソフトボール部のメンバーがいるからだ。 
  
 千聖と舞美。 
 二人の顔を見に行こうと栞菜が言い出したのだが、まさか言い出した栞菜がソフトボール部が何をやっているのか知らないとは思わなかった。 
 適当なのは桃子とえりかだけではなく、栞菜もだったと愛理は苦笑する。 
  
 「あれあれ。よくテレビでやってるやつ。ストライクアウト」 
  
 ボールを投げる仕草をしながら、桃子が自信満々に答える。 
 だが、何かしっくり来ない。 
  
 「なんか違わない?」 
  
 愛理は首を傾げながら桃子に問いかけた。 
 しかし、桃子の自信は揺るがない。 
 きっぱりと言い切る。 
   
- 458 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:39
 
-  「あってるよ」 
 「違うような気がする」 
  
 そう言って、栞菜も首を傾げた。 
 すると、栞菜の隣にいるえりかが大声を上げた。 
  
 「ストライプアウトだ!」 
 「えりかちゃん。それ、絶対違う」 
  
 栞菜がけたけたと笑いながら言って、愛理もつられて笑う。 
  
 「えーっと、ほら。あれだ!ストラックアウト」 
  
 笑いながらも、頭をフル回転させて出てきた答えを口にすると桃子以外の二人が頷いた。 
 そうだそれだ、とぽんと手を叩きながら三人で笑う。 
 けれど、桃子だけは納得がいかないのか、不満げな顔で言った。 
  
 「大体あってたじゃん」 
  
 この中で一番適当なのは桃子だ。 
 そんなことを思いながら歩いているうちに、グラウンドの一角に到着した。 
   
- 459 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:40
 
-  「舞美、千聖!」 
  
 ストラックアウトのボードの前に立っている二人に、桃子が声をかける。 
  
 「おー、みんな来てくれたんだ!」 
  
 その声に反応した舞美がぶんっと大きく手を振りって、駆け寄ってくる。 
 後ろから千聖も走ってきて、桃子に抱きついた。 
  
 「ももちゃーん、待ってたよー!」 
  
 力一杯抱きついた千聖に、桃子が迷惑顔になる。 
 けれど、そんなことにかまわず千聖がぎゅうぎゅうと抱きつくから、桃子が痛いとか苦しいとか言い出して、辺りが急に騒がしくなった。 
  
 「千聖。あたし、あたしは?」 
  
 栞菜が桃子に抱きついている千聖の肩を叩いて、自分を指差す。 
  
 「もちろん、栞菜のことも待ってたよ」 
 「どーせ、あたしのことなんか忘れてるよね」 
  
 付け足すように言った千聖に愛理も自分を指差すと、千聖が桃子から離れて空々しく言った。 
   
- 460 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:41
 
-  「やだなー。愛理のことだって待ってたに決まってるじゃん。って、そっちの人は誰?」 
 「えっへん。あたしが紹介しましょう」 
  
 こほんと栞菜が咳払いをする。 
 それから、えりかの手を引っ張って自分の前に立たせる。 
 ぱちぱちと自分で手を叩いて、栞菜がそれまでよりも少し大きな声を出した。 
  
 「こちらの綺麗なお姉さんは梅田えりかちゃんです」 
 「あ、えっ、えっと。梅田です。本日はよろしくお願いいたします」 
  
 付き合いの短い愛理にもわかる。 
 グラウンドに来るまでのえりかと少し様子が違う。 
 にこにこと笑っているのは変わらないし、ぺこりと頭を下げる姿も優雅だった。 
 けれど、みんなの前へ引っ張り出されたえりかは、何故か落ち着きがない。 
 声も少し上擦っていたし、ぺこりと下げた頭を上げた後はきょろきょりと辺りを見回していて、迷子になって困っている人のようだ。 
  
 「矢島です。こちらこそよろしくお願いいたします」 
  
 当然のことながら、舞美はえりかの様子が気にならないらしく、至って普通に挨拶を返している。 
 千聖もふざけながらも、いつもと変わらない様子で挨拶をした。 
   
- 461 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:42
 
-  「そして、二人の子供。岡井千聖です」 
 「えー、千聖。なに言ってんのっ」 
 「じゃあ、二人はお姉ちゃんということで」 
 「それなら、いいか」 
  
 えりかそっちのけで舞美と千聖が話し始めて、そんな二人を栞菜が止めた。 
  
 「なに二人で漫才やってんの」 
 「つい」 
  
 えへへと笑う千聖に、愛理は辺りを見回す。 
 だが、目当ての人物はいない。 
  
 栞菜が言い出してソフトボール部を見に来たのだが、実際は愛理もソフトボール部に用事があった。 
 クラスの当番が終わったらソフトボール部にいるから、梨沙子がそう言っていた。 
 だからここへ来たのは、栞菜が言ったからだけではなく、梨沙子に会う為でもある。 
  
 「千聖、りーちゃんまだ来てない?」 
 「展示室の見張り中。さっき様子見に行ったら、交代の子がまだ来ないとか言ってた。誰も展示物なんか取っていかないのに、見張りとかいらないよね」 
 「手抜きだよね、千聖のクラス」 
 「あたしはさー、もっと派手なのやりたかったんだけど、みんな面倒だからって」 
   
- 462 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:43
 
-  学園祭前、千聖と梨沙子が準備していたのはエコをテーマとした展示物の製作だった。 
 愛理は、何度かその様子を見ようと二人のクラスへ顔を出したことがある。 
  
 二人は、模造紙にリサイクルの仕組みを書いたり、エコバッグを自作していたりした。 
 その作業は大変そうではあったが、他のクラスの準備期間に比べれば短いものだったし、準備が終わってしまえば、当日ほとんどすることがないというのは羨ましくもあった。 
  
 「ももは展示が良かったー。楽そうじゃん」 
  
 お化け屋敷の準備から逃げ出したことによって、クラスメイトに追い回されていた桃子が羨ましそうな声を上げる。 
  
 「えー、いいじゃん。お化け屋敷。あたしは、お化け屋敷の方が良かった」 
 「ももは、怖いからやなのっ」 
  
 桃子が眉根を寄せて、心底嫌そうな顔をする。 
 だが、そんな桃子を千聖が笑って見ながら楽しそうに言った。 
   
- 463 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:45
 
-  「じゃあ、行こうよ。お化け屋敷」 
 「なんで、じゃあなの!栞菜といきなよ」 
 「えー!なんであたしっ!?絶対やだ」 
  
 突然、話を振られた栞菜が突拍子もない声を出した。 
 そして、桃子以上に顔を顰め、絶対に行かないとばかりにぶんぶんと手を振る。 
 栞菜も桃子に負けず劣らず怖がりだから、この反応も仕方がない。 
 愛理も怖いものに強いというわけではないが、栞菜と桃子よりは遙かにましだ。 
  
 「栞菜も怖がりだもんね」 
 「絶対無理」 
  
 愛理が声をかけると、それに頷きながら栞菜が答える。 
 それでも、千聖はお化け屋敷に行きたいのか桃子や栞菜にまとわりついて大騒ぎしていた。 
 さらには、愛理の方にまでやってきてお化け屋敷へ行こうと言うものだから困ってしまった。 
  
 絶対に行きたくないわけではないが、出来れば避けたい。 
  
 そんなものに誘われて、愛理はやんわり断りながら栞菜を探す。 
 しかし、ついさっきまで千聖にまとわりつかれていた栞菜の姿がない。 
 きょろきょろと辺りを見回すと、隣にいたはずの栞菜が愛理から離れた少し後ろに、えりかと一緒に立っていた。 
   
- 464 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:46
 
-  「えりかちゃん、えりかちゃん」 
  
 栞菜が小声でえりかを呼ぶ声が聞こえてくる。 
 二人は後ろにいるから振り返ってまで凝視するわけにもいかず、愛理は耳だけを後ろへ集中させた。 
  
 「ん、なに?」 
 「今、……いなよ」 
 「えー」 
 「ほら、……チャンス…から」 
 「無理っ」 
 「……ないって」 
  
 小さなお喋りは、愛理の耳に全てを伝えてくることはない。 
 特に栞菜の声は小さく、途切れ途切れになって良く聞き取れない。 
  
 身体中の神経が耳へ集まっているような気がする。 
 栞菜の声が途切れるたび、耳がぴくんと動く。 
 愛理は振り向きたい衝動をぐっと押さえる。 
  
 消え去ったと思っていた胸のざわつきがまた戻ってくる。 
 えりかと友達になろうと思っていた気持ちが別のものへすり替わる。 
   
- 465 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:47
 
-  また会話に入れない。 
  
 そんな思いが愛理の心を曇らせる。 
 秋晴れの空の下、空とは対照的に心の中はどんよりとしていた。 
  
 桃子と千聖の声がどこか遠くから聞こえてくる。 
 目には、千聖が桃子の背中にべたりとくっついている姿が映っていた。 
 だが、それはただ映っているだけで、愛理の頭の中へ入ってこない。 
 映像は街頭で流れているテレビのように、喧噪の中へ消えていくだけだった。 
 そんな意識がどこかへ飛んだような状態の愛理を舞美が現実へ引き戻す。 
  
 「愛理ちゃん、どうしたの?」 
  
 あまりにぼうっとしていたからか、心配そうな顔をした舞美から肩をぽんと叩かれた。 
  
 「あ、何でもないです」 
 「ほんと?」 
 「はい。大丈夫です。すみません」 
  
 愛理がぺこりと頭を下げると、舞美がもう一度肩を叩いた。 
 その力がさっきよりも強くて、愛理は思わず肩を押さえる。 
   
- 466 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:48
 
-  「謝らなくていいって。って、ごめん。強く叩きすぎた?」 
 「ちょっと」 
 「ごめんね。あたし、ちょっと力の加減忘れちゃうこと、あるんだよね」 
  
 そう言って、舞美が笑った。 
 後ろでは、まだ話し声がしていた。 
 だが、もう何を言っているのか聞き取れない。 
 耳に集まっていた意識が分散して、二人の声の断片だけが頭に流れ込んでくる。 
  
 愛理は大きく息を吐き出してから、空を仰ぐ。 
 雲一つない空に浮かぶ太陽が眩しくて目を細めた。 
 一度視線を下へ落として、顔を上げると桃子が視界に入った。 
  
 愛理の真正面、桃子の視線は愛理を通り越してその後ろにいる栞菜とえりかに注がれている。 
 けれど、その視線はすぐに愛理へ向けられ、一瞬目が合う。 
 桃子がくすりと笑ってから、言った。  
- 467 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:53
 
-  「ねえ、舞美。もも、これやっていい?」 
  
 何人かの客がやっていたストラックアウトのボードを桃子が指差す。 
  
 「いいよ」 
 「全部当てたら、あれもらえるんだよね?」 
  
 ボードの隣、そこには商品が並べてあり、その商品の横には三枚、六枚、九枚と数字を書いた画用紙が置いてあった。 
  
 テレビ番組でよく見かけるストラックアウトは、九枚あるボードを狙ってボールを投げるゲームだ。 
 九枚のボードのうち何枚落とせるかを競うゲームで、賞金や賞品がかかっていることが多い。 
 ソフトボール部のストラックアウトもそういうものであるらしく、画用紙に書いてある枚数分のボードを落とすと、その横に置かれている商品が貰えるらしい。 
 全部当てたら、と言って桃子が指差した先には九枚とかかれた画用紙が置いてあって、そこには大きなぬいぐるみが置いてあった。 
  
 「当てられたらね」 
  
 舞美が期待していないといった顔をして笑う。 
  
 「頑張るっ!」 
  
 大きな声で叫んだ桃子に、愛理も栞菜のことを忘れて思わず声をかけた。 
  
   
- 468 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:54
 
-  「もも、無理じゃない」 
  
 お世辞にも運動神経が良いとは言えない桃子のことを考えると、とても出来るとは思えない。 
 実際、夏休み中に何度もやったソフトボールでも、狙った場所へボールを投げることが出来ず、よくあらぬ方向へ向かってボールを飛ばしていた。 
  
 「ももちゃん、絶対無理だって」 
  
 けたけたと笑いながら千聖が言って、桃子が不満げにその背中を叩いた。 
 そして、いつの間にやってきたのか、愛理の隣で栞菜が千聖に同調する。 
  
 「あたしもそう思う」 
  
 そう言いながら、栞菜が何故か愛理に肩をぶつけてきて、心臓がどくんと鳴った。 
 触れた肩は離れない。 
 さっき耳に集まっていた神経が、今度は肩へ集まってくる。 
 どういうわけか栞菜の顔が見られなかった。 
  
 「なんなのっ!みんなして。ももはやれば出来る子なんだからね。舞美、ボール貸して」 
 「ちゃんとパネル狙ってね」 
  
 舞美がぐいっと伸ばされた手にソフトボールを渡す。 
   
- 469 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:55
 
-  「当たり前だよ。あれ狙わなくて何狙うの!」 
  
 ボールを受け取ると、桃子が投球ラインまで足を進める。 
 そして、グラウンドに響き渡るようなかけ声をかけた。 
  
 「いくよ!とうっ!」 
  
 とても投球フォームとは思えないようなフォームで桃子がボールを投げる。 
 しかし、力一杯投げられたボールはパネルへ届かない。 
 というより、消えた。 
  
 「ちょっ、ももっ。あぶなっ」 
  
 舞美が声を上げて、桃子の後方を見る。 
 その視線に反応するように、桃子の後ろから声が上がった。 
  
 「うわっ」 
  
 いつ栞菜の隣へやってきたのか。 
 声の主は栞菜の隣にいたえりかで、その声は慌てたものだった。 
   
- 470 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:57
 
-  それも当然だ。 
 桃子がボードに向かって投げたはずのボールは前方へではなく、何故か後方へ向かって飛んだ。 
 飛んだボールはえりかの方へと向かってきて、予想外の出来事にえりかが声を上げた。 
 そして、えりかの声に驚いた栞菜がどんっと愛理にぶつかった。 
 勢いよくぶつかられて愛理がよろける。 
 そんな二人の声もえりかの声に混じって、桃子の背中を見守っていた三人が三者三様の声を上げることとなった。 
  
 「へ?」 
  
 ボールを投げた桃子はと言えば、のんびりと振り返って不思議顔で三人を見ていた。 
  
 「もも。ボール、前じゃなくて後ろに飛んだ。まさか後ろに投げる人がいるとは思わなかったから、後ろには柵も網も用意してなかった」 
  
 呆れ声で舞美が言った。 
  
 「え?うそっ。ほんと?ごめん。大丈夫?当たらなかった?」 
  
 舞美の言葉に、現状を理解した桃子が慌てたように謝る。 
 さすがに反省しているのか、さっきまでの自信ありげな態度が消えてしゅんとした様子だ。 
   
- 471 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:59
 
-  「避けられた。けど、危なかった」 
  
 ぼそりと恨みがましくえりかが呟く。 
  
 「えりかちゃん、ごめん」 
 「ごめんじゃないよー。もう少しで、本当に当たるところだったんだから。ちゃんと前狙って、前!」 
 「狙った。もも、ちゃんと前狙って、投げたよ!でも、なんか後ろ行っちゃったみたい」 
  
 桃子が首を傾げながら、後ろへ飛んだボールを拾う。 
 本当にどうしてボールが後ろへ飛んだのかわからないらしく、桃子は不思議そうな顔をしていた。 
 だが、桃子の投球フォームを見る限り、ボールが後ろへ飛んでも無理はなかった。 
 それほどおかしなフォームだったのだ。 
 ビデオに撮ってテレビ番組に投稿したいぐらい変だった。 
  
 今度は桃子が後ろへボールを投げても大丈夫なように、三人は桃子の横へ位置を変えることにする。 
 桃子の投球フォームを見ていると、横へもボールが飛びそうだったが、横には網が張ってあり、ボールが飛んで来ないようになっているから後ろにいるより安全だ。 
 三人仲良く緑の網に仕切られた場所へ移動すると、栞菜から制服の裾を引っ張られた。 
   
- 472 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 06:59
 
-  「愛理、大丈夫だった?」 
  
 心配そうな声に、今まで見られなかった栞菜の顔を見ると不安げな表情をしていた。 
 愛理は栞菜を見たまま、こくんと頷いて答える。 
  
 「うん。あたしは平気」 
 「そっか。良かった」 
 「栞菜は?」 
 「あたしも大丈夫」 
 「良かった」 
 「二人とも無事で良かったね。ももちゃんのボールで怪我なんて絶対やだもん」 
  
 ほっとしたように栞菜が言って、軽く笑った。 
 それから、同じようにえりかにも大丈夫?と尋ねた。 
  
 大丈夫。 
  
 そうえりかが答えた時だった。 
   
- 473 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 07:01
 
-  「梅田さん、当たらなかった?」 
  
 桃子にボールの投げ方をレクチャーしていた舞美がばたばたと走ってきて、えりかの前で足を止めた。 
  
 「え、あ、うん」 
  
 栞菜に大丈夫と答えた声よりも少し高い声が聞こえてくる。 
  
 「ごめんね。まさか後ろにボール投げる人がいると思わなくて。初めから、こっちで見るように言えば良かった。ほんと、ごめんね」 
 「ボール当たらなかったし、気にしないで」 
 「でも、あたし達がちゃんとこういうこと予測してないと駄目だったから。もし、梅田さんに何かあったらあたしのせいだ」 
 「え、矢島さんのせいじゃないじゃん。あれは、ももちゃんが後ろに投げたからだから」 
 「そうだけど。ごめんね」 
 「大丈夫だから、ほんと気にしないで」 
 「ほんとにほんとに、大丈夫?」 
 「すっごく大丈夫。平気だし、元気!超元気!」 
  
 辺りに響くような声でえりかが言った。 
 その声は言葉通り元気いっぱいで、これを元気と呼ばずに何を元気と呼ぶのだろうと思うぐらいだった。 
 ついでに胸まで叩いて元気さをアピールしているから、挙動不審に見えるほどだ。 
 その様子がおかしいのか舞美が笑いを噛み殺しながら、えりかを見ていた。 
   
- 474 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 07:02
 
-  「これ、お詫び。三等の賞品だけど」 
  
 舞美が手に持っていたのは、三枚と書かれた画用紙と一緒に並んでいたぬいぐるみだった。 
 それは、手の平に乗るような小さな犬のぬいぐるみで、舞美がそれをえりかに渡そうとする。 
 だが、えりかは舞美の手を押し返した。 
  
 「いらないよ!」 
 「ボール当たりそうになったお詫びだから、もらって」 
 「ゲームしてないし」 
  
 顔の前でぶんぶんと手を振って、えりかがいらないともう一度繰り返す。 
 けれど、舞美がもらってと、ぬいぐるみをえりかへ渡そうとする。 
  
 いらない。 
 もらって。 
  
 そんな言葉をやり取りしながら、二人でぬいぐるみを押しつけあう。 
 桃子も二人のやり取りが気になるのか、ゲームを中断してえりかと舞美を見ていた。 
  
 「えりかちゃん、もらっときなよ」 
  
 見かねた栞菜が声をかけると、舞美が嬉しそうに言った。 
   
- 475 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 07:04
 
-  「うん。もらって」 
 「じゃあ、もらっちゃおうかな。ありがとう」 
  
 さっきまでの問答はなんだったのかと言いたくなるほど、すんなり問題が解決して、四人の視線が桃子へ戻った。 
  
 桃子がにっこり微笑んでから、ボードを睨み付ける。 
 視線は鋭い。 
 しかし、投げたボールは視線とは対照的なものだった。 
  
 全てのボールは緩やかなカーブを描いて、ボードではない場所へ落ちた。 
 それはボードの遙か手前だったり、遙か後ろだったり、それどころか愛理達がいる網にかかったりと、どこを狙ったらこんな場所へ飛んでくるのかと思うほど、ボードとは違う場所へ飛んでいた。 
  
 「もも。はい、残念賞」 
  
 投げ終わった桃子が舞美から何かを手渡される。 
  
 「ティッシュ?」 
 「ソフト部特製ポケットティッシュ三個組」 
 「うわー、嬉しくない」 
  
 ティッシュを受け取り、桃子ががっくりと肩を落とす。 
 そんな桃子に追い打ちをかけるように、千聖が言った。 
   
- 476 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 07:05
 
-  「やっぱりももちゃん、下手だった」 
 「そんなこと言うなら、千聖全部当ててみなよ」 
 「無理!」 
 「なんで」 
 「あたし、ピッチャーとかじゃないし」 
 「ピッチャーじゃなくても、狙ったところに投げるんでしょ。やってみなよ」 
  
 下手と言われたことが気に障ったのか、桃子がぷうっと頬を膨らませながら網のこちら側へやってきて、他の部員と待機している千聖にボールを握らせる。 
  
 「ももちゃん、勝手にボール触っちゃだめだって。これはあたしじゃなくて、お客さんが使うの」 
 「あー、千聖。逃げるんだ。弱虫!」 
 「なにそれ!ももちゃんよりは、あたしの方が上手いと思う」 
 「じゃあ、投げてよ」 
 「いいよ」 
  
 売り言葉に買い言葉。 
 それはこういうことを言うのだろう。 
  
 「ちょっと投げてくるから、そこよろしく」 
   
- 477 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 07:08
 
-  面白そうな顔をして桃子と千聖のやり取りを見ていた部員達にそう告げて、「お客さんが使うの」と自分で言ったボールを掴み、千聖がずんずんと歩く。 
 さっきまで桃子が立っていた場所まで行くと、大きく息を吸い込んでから大声を上げた。 
  
 「見てろ!嗣永っ!桃子っ!」 
  
 千聖がボールを投げる。 
 桃子が投げたよりも速いスピードでボールがボード目がけて飛んでいく。 
  
 ばこんっ。 
  
 音を立てて、ボードが一枚地面へ落ちる。 
 だが、ボードが落ちたことを褒めるより先に桃子が不満げに言った。 
  
 「ちょっと、変なかけ声かけながら投げないでよっ」 
  
 桃子がぶうぶうと網の向こうにいる千聖へ文句を言うが、千聖はまるで気にしていない。 
 もう一度同じ台詞とともにボールを投げる。 
 今度はボードには当たらず、枠に当たってボールが落ちた。 
   
- 478 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 07:10
 
-  「舞美は……」 
  
 ころころと転がるボール見ながら、桃子が言いかけてやめる。 
  
 「なに?」 
 「やんなくていいや」 
 「なんで?」 
 「舞美、ああいうの壊しそうだもん」 
  
 ぴっとボードを指差して、桃子がにやりと笑った。 
 すると、えりかが目を輝かせる。 
  
 「矢島さん、ああいうの壊せるの?」 
 「壊さない。壊さないって!」 
 「え?壊せないの?」 
 「え?壊したほうがいいの?」 
 「壊したら格好良くない?」 
 「そう?」 
 「うん」 
 「じゃあ、梅田さんの為に壊しちゃおうかなっ」 
 「えっ」 
 「とか言って」 
  
 くすくすと舞美が笑って、ばこんっとまた景気の良い音が響いた。 
   
- 479 名前:adagio − 2 − 投稿日:2009/10/28(水) 07:11
 
-  「えりかちゃん、やるぅっ」 
  
 ボードを落としたのは千聖なのに、栞菜がえりかの名前を口にした。 
 何故だかわからないけれど、愛理はその声が気になった。 
  
 今、どうしてえりかの名前が出てきたのだろう。 
  
 二枚目のボードは地面に落ちていた。 
 千聖が得意げに笑っている。 
 愛理には、何故この場面でえりかの名前が出てきたのかわからなかった。 
  
  
  
   
- 480 名前:Z 投稿日:2009/10/28(水) 07:11
 
-   
   
- 481 名前:Z 投稿日:2009/10/28(水) 07:11
 
-  本日の更新終了です。  
 
- 482 名前:Z 投稿日:2009/10/28(水) 07:13
 
-  >>455 みらさん 
 今回はメイド服より学校の制服萌えです!w  
- 483 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/10/29(木) 00:48
 
-  梅さんが乙女でかわいいw 
 栞菜はいいヤツだなあ  
- 484 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2009/11/21(土) 16:38
 
-   
  
  
 adagio − 3 − 
  
  
  
   
- 485 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:41
 
-  「千聖だって、全部当たってないじゃん」 
 「最初から、全部は無理だって言ったじゃん。でも、ももちゃんと違って半分以上当てたし!」 
  
 言い争いと言う名のじゃれ合いがずっと続いていて、よく飽きないなと愛理は思う。 
 その少し後ろでは、栞菜が隣にいるえりかと何やらこそこそと話していて、愛理の神経は桃子と千聖のじゃれ合いよりもそちらに向かっていた。 
  
 こんなところでまた疎外感を味わうことになるとは思わなかった。 
 桃子と千聖は、いーだ!べーだ!という子供の喧嘩に突入していて、今さら中には入れないし、栞菜とえりかは愛理が話しかけるのを躊躇うほど夢中になって話し込んでいた。 
 その話の内容は、断片的にしか聞こえず、愛理は聞こえなかった言葉を無意識のうちに補足しようとしていた。 
  
 言葉は頭の中を飛び回り、消えていく。 
 音楽を奏でる時のようには、言葉を繋げていくことが出来ない。 
 愛理は上手く補足することが出来ない会話に苛々する。 
   
- 486 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:42
 
-  気分を変えるように舞美を見ると、ソフトボール部を尋ねてきたお客さん相手にストラックアウトの説明をしていた。 
 こちらもやはり今、話しかけられるような雰囲気ではない。 
 周りにはたくさん人がいるのに、何故かひとりぼっちになったような気分になって気が滅入る。 
 楽しいはずの学園祭がやけにつまらないものに思えてくる。 
 学園祭が作り出す喧噪の中、愛理の口から飛び出たのは、不満の言葉ではなくため息だった。 
  
 大きなため息を一つ付くと、晴れやかな空も憎らしいものに思えてくるから不思議だ。 
 雲一つないことが悪いことのように思えてくる。 
 愛理は眩しいぐらいの太陽を眺め、その光に目を細める。 
 二日続く学園祭の一日目からこんな沈んだ気持ちになるのは空のせいだとばかりに、さらに大きなため息をついた。 
  
 「愛理」 
  
 肺の中の空気を全て吐き出すほどの長いため息の後、名前を呼ばれて視線を空から桃子へ移す。 
 いつの間に言い争いが終わって側へ寄ってきたのか、桃子がにやりと笑いながら愛理の肩へ手を置いた。 
   
- 487 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:44
 
-  「なに?」 
 「気になるの?」 
 「気になるって?」 
  
 桃子の口元に浮かぶ笑みに、何を言われているのかはわかった。 
 だが、気づかないふりをする。 
 いつもは気にならない何でも知っていると言わんばかりの桃子の口調が今日は癪に障る。 
  
 「栞菜とえりかちゃん」 
 「べつに」 
  
 素っ気なく答えて、ストラックアウトのボードを見る。 
 学年もクラスもわからない誰かが投げたボールがパネルを落として、乾いた音が響いた。 
  
 「ね。栞菜、えりかちゃんと手繋いでる」 
  
 何球目かわからないボールが投げられてボードの枠を掠めた時、桃子が耳打ちをした。 
 ぼそぼそと耳元で聞こえてきた声に身体がぴくりと反応する。 
 見てはいけないと思うより先に、愛理は栞菜を見ていた。 
  
 真っ先に栞菜の顔が目に映って、それから着崩した制服に目がいった。 
 緩められたネクタイから肩を見て、二の腕から下へと視線が移る。 
 見たくない。 
 そんな思いのせいか、栞菜の手を見るまでに酷く時間がかかった。 
 けれど、やっとの思いで見た栞菜の手はどこへも繋がってはいなかった。 
   
- 488 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:45
 
-  「愛理。うそだよ。でも、そのうちほんとになるかもね」 
  
 くすくすと小さく笑う桃子の声が耳に入り込んできて、顔が熱くなった。 
 思わず手で頬を押さえる。 
 桃子の笑い声が大きくなって、ますます頬が熱くなった。 
  
 落ち着け。 
 熱くなった頬から手を離して、心臓の上を押さえる。 
 けれど、落ち着くことが出来ない。 
 隣で桃子が何か言っていた。 
 声が聞こえるけれど、聞こえない。 
 頭の中に意味のある言葉として入ってこなかった。 
  
 ぶらりと揺れる栞菜の手。 
 揺れるたびに心臓がどくんと音を立てる。 
 心臓を押さえる手にまで伝わってくるような音だった。 
  
 愛理は栞菜を見ていられなくなって、桃子を睨み付ける。 
 だが、桃子の口元は緩みっぱなしで、笑うことを止めようとしない。 
 べしんと背中を叩くと、やっと桃子が謝った。 
   
- 489 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:46
 
-  「ごめん」 
  
 軽い口調でそう言って、桃子が愛理の背中を叩き返す。 
 そして、そのまま背中を押しながら言った。 
  
 「繋がれる前に、繋いじゃえば?」 
  
 聞こえてきた言葉に文句を言う前に、とん、と押された背中に身体が前へ出る。 
 自然と足が栞菜の方へ向く。 
 愛理はふらふらと歩くが、すぐに足を止めた。 
  
 栞菜の隣にはえりかがいる。 
 何故だか近づくことが躊躇われて、それ以上足が進まなかった。 
 しかし、視線は愛理の身体より先に栞菜に辿り着いて、外せなかった。 
  
 「どうしたの?」 
  
 愛理の視線に気づいた栞菜が近づいてくる。 
 えりかを置いたまま、愛理の隣へとやってきて顔を覗き込む。 
 心臓が口から飛び出そうになって、愛理は栞菜から目をそらした。 
   
- 490 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:47
 
-  「なんでもないけど……」 
  
 ぼそりと答えると、先を促すように栞菜が言葉を続けた。 
  
 「けど?」 
  
 愛理には「けど」の次に口にする言葉はなかった。 
 黙って、手を伸ばす。 
  
 桃子の言葉を聞いた時は、何を馬鹿なことをと思った。 
 それなのに、身体はその馬鹿なことをしようとしていた。 
  
 ゆっくりと伸ばした手がこつんと栞菜の手に当たる。 
 体温が少し上がる。 
 愛理は迷う前に触れた手を握った。 
  
 「愛理?」 
  
 握った手は握り返されず、不思議そうな顔をした栞菜が問いかけるように名前を呼んだ。 
   
- 491 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:49
 
-  「やだ?」 
  
 不安になって問いかけると、返事のかわりに手が握りしめられた。 
 栞菜の体温が手の平から流れ込んできて、まるで真夏の太陽の下にいるように身体が熱を持つ。 
  
 桃子の言葉通りにするつもりはなかったのに、言う通りになってしまった。 
 絶対に、人の悪い笑みを浮かべながら桃子がこちらを見ていると思う。 
 だから、桃子の方を見られない。 
 かといって、栞菜の顔を見るのも何となく怖くて、視線が彷徨う。 
  
 どこを見て良いのかわからない。 
 ふらふらと視線が揺れて、グラウンドを見回す。 
  
 ストラックアウトのボード。 
 ボールを投げる人。 
 そして、走ってくる制服姿の生徒。 
 その生徒が一直線に愛理達がいる方へと向かってくる。 
  
 「ごめん。遅くなった」 
  
 あっという間に近くなった制服姿の生徒は梨沙子で、開口一番息を整えることもせずに謝って、ぺこりと頭を下げた。 
 そんなに梨沙子に、千聖が愛理の側へやってきて声をかける。 
   
- 492 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:50
 
-  「りーちゃん、おっそい」 
 「だって、交代の子、なかなか来ないんだもん。千聖は終わったの?」 
 「うーん、まだ」 
 「まだなら、あたしが早く来てもだめじゃん」 
 「いや、そうだけどさ。早くりーちゃんに会いたかったんだよ。うん」 
  
 千聖が頷きながらそう言って、付け足すようにさらに言葉を続けた。 
  
 「みんなも早く会いたかったと思うよ」 
  
 うんうんとさらに頷いて、千聖が愛理達を見る。 
 それにつられるように梨沙子の視線も千聖と同じ方向へと向いて、愛理の目が梨沙子の目と合った。 
  
 繋いでいる手を見られたわけではない。 
 たとえ見られたとしても、誰かと手を繋ぐことなど珍しいことではないから慌てる必要はなかった。 
 それなのに、身体が反射的に手を離そうとした。 
 だが、手を離すことは出来なかった。 
 離そうとした手は、栞菜によって強く握られていた。 
   
- 493 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:52
 
-  表情に出したつもりはない。 
 けれど、梨沙子が怪訝そうな顔をしたように見えた。 
 しまった、と愛理は思う。 
 さっき繋いだばかりの手を離したいと、もう考えていた。 
  
 握り返していないのに、栞菜は手を離さない。 
 心臓の辺りが痛い。 
 早く手を離して欲しい。 
 けれど、どうして手を離して欲しいのかわからず考える。 
  
 一秒もかからず、すぐに答えに辿り着いた。 
 栞菜と手を繋いでいるところを見られることが恥ずかしいからだ。 
 それが何故かまでは考えられなかった。 
 桃子の声に思考が遮られる。 
  
 「ねー、舞美。千聖連れてってもいい?」 
 「えー」 
  
 舞美が迷っていない顔で、迷ったような声を上げた。 
  
 「舞美ちゃーん。行ってもいい?」 
  
 千聖が甘えた声で舞美を呼ぶ。 
 呼ばれた舞美が呆れ声で言った。 
   
- 494 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:53
 
-  「あたしじゃなくて、中等部の部長にいいなよ」 
 「部長、怖いもん。舞美ちゃんから話といてよ」 
  
 愛理は、ソフトボール部中等部の部長が誰かは知らない。 
 きっとクラスメイトの梨沙子も知らないだろう。 
 だが、千聖が怖い、怖いといつも言っていて、それを飽きるほど聞いていた愛理には、部長は怖い人だというイメージだけがしっかりとあった。 
  
 おそらくこの中にいるであろう部長を捜して辺りを見回す。 
 しかし、見るからに怖そうな人はいない。 
  
 「ねっ。舞美ちゃん、お願いっ」 
  
 千聖が手を合わせて、頭を下げる。 
 その様子を見ていた舞美が少し考えてから、仕方がないというように口を開いた。 
  
 「もう。今日だけだよ」 
 「やった。ありがとっ」 
  
 嬉しそうにぴょんと飛び跳ねた千聖を見ていると、梨沙子から、つん、と脇腹を突かれた。 
 愛理が梨沙子を見ると、相変わらず不審そうな表情をしていた。 
   
- 495 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:54
 
-  「愛理」 
 「なに?」 
 「今日、なんか変」 
  
 繋いだ手の平が熱い。 
 隙間もないほどぴたりと張り付いた手と梨沙子の声に、顔まで熱くなる。 
 隣をちらりと見ると、栞菜は平然とした顔をして立っていた。 
  
 「……変じゃないよ」 
  
 ぼそりと答えて、下を向く。 
 これではまるで「変だ」と行動で示しているようだと愛理は思う。 
 けれど、梨沙子を見ることが出来ない。 
  
 舞美と桃子の声が聞こえる。 
 千聖の影が梨沙子の影に寄り添う。 
 みんなが何をしているのかよくわからない。 
 ただ、隣にいる栞菜は動きもしないし、声も発しない。 
  
 えりかはどうしているのだろう。 
  
 不意に気になって顔を上げると、目の前には桃子がいた。 
   
- 496 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:56
 
-  「五人でいこっか」 
 「そうしよ。じゃあね、えりかちゃん」 
  
 桃子の言葉に応えて、栞菜がえりかに手を振った。 
 えっ、と思う間もなく、桃子が歩き出して、それを追うように愛理と手を繋いだまま栞菜も歩き出した。 
 繋いだ手が引っ張られて、愛理の足も自然に前へと進む。 
  
 「あ、あたしは?ね、ちょっと、栞菜。ももちゃん。どこ行くの?」 
  
 慌てた声が後ろから聞こえてきて、桃子が振り返った。 
  
 「看板娘のところ、行ってくるー。あとでまた来るから、えりかちゃんはそこにいて」 
 「ええー。ちょっと待って。ももちゃん!」 
 「ほら、みんな行くよ」 
 「みんなって、あたし!あたしもっ」 
 「舞美ー。えりかちゃんのことよろしくー!」 
  
 愛理の耳にはえりかの声が聞こえた。 
 当然、桃子の耳にもえりかの声が聞こえているはずだ。 
 それなのに、桃子は少し足を止めただけで、舞美にえりかを託すとすたすたと歩き出してしまう。 
 栞菜も何の疑問もないのか、無責任にえりかに手を振った。 
   
- 497 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:57
 
-  「じゃーねー!えりかちゃん、ばいばーい!」 
  
 愛理はぶんぶんと勢いよく手を振る栞菜と、後ろで困った顔をしているえりかを見比べる。 
 栞菜はひとしきり手を振ると、前を向いてもう振り返ろうともしない。 
 ソフトボール部に置き去りにされたえりかは、迷子になった子供のように舞美の側で立ちすくんでいた。 
  
 「えりかちゃん、いいの?」 
 「いいの、いいの」 
  
 軽い口調で栞菜が答えて、振り返ってばかりの愛理の手を引いた。 
 ぐいっと引かれて後ろを見ている場合ではなくなって、愛理は前を向く。 
  
 いつの間にか桃子の隣には千聖がいて、愛理の隣には梨沙子がいた。 
 梨沙子とは反対側の手は栞菜と繋がれたままだった。 
 ついさっきえりかを振り返り見ていた時は気にもならなかったのに、今また意識が手にばかりいくようになった。 
  
  
 栞菜と何度も手を繋いだことがあるにも関わらず、まるで初めて手を繋いだような気分だ。 
  
 「ね、愛理。あのえりかちゃんって人、友達?」 
 「えーっと、まあ、そんな感じ」 
  
 梨沙子に答える言葉も適当なものになる。 
   
- 498 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:58
 
-  「ふーん」 
  
 気のない返事が梨沙子から聞こえてきて、その後を追うように桃子の威勢の良い声が響いた。 
  
 「さあ、看板娘のところへ行くよー」 
  
 桃子が右手を振り上げ、校舎へ向かう足を早める。 
 それに合わせて、全員の歩調が速くなった。 
  
 「ももちゃん、それ誰?」 
 「ももには負けるけど美人さん」 
  
 千聖の問いかけに桃子が自信満々に答えると、栞菜が笑いながら言った。 
  
 「雅ちゃんの方が美人だと思うけど」 
 「栞菜、それは見る目がない!」 
 「あるある。雅ちゃん、ももちゃんと違って誰が見たって美人だもん」 
 「なにその、ももが美人じゃないみたいな言い方」 
 「違うの?」 
 「違いますっ」 
   
- 499 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 16:59
 
-  グラウンドに桃子の甲高い声が響く。 
 栞菜がけたけたと笑って、その笑い声が桃子の声に重なる。 
 繋がれたままの手は、栞菜が歩くたびに揺れていた。 
  
 愛理の心臓も、手が揺れるたびにどくんと脈打つ。 
 右手と右足。 
 一緒に出ていないかなどと、今まで心配したことのないようなことが気になった。 
  
  
  
   
- 500 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:00
 
-   
 どこをどう歩いて、雅がいる教室まで来たのか愛理はよく覚えていない。 
 ぼんやりと、でも伝わってくる熱にどことなく緊張しながら歩いていたら、いつの間にか「氷」と書かれたのれんが掛かっている教室の前まで来ていた。 
  
 「みや!友達連れてきたよー!」 
  
 まるで道場破りのように教室の前で叫んで、桃子がのれんをくぐる。 
 すると、すぐにエプロンを付けた雅が飛び出してきて、やけに真剣な顔をして言った。 
  
 「頼んで!かき氷!」 
 「自己紹介より先に、かき氷なの?」 
 「当たり前じゃん。ノルマこなさないと、ここから離れられないんだから!五つね、五つ!」 
 「ってことなんだけど、みんないい?」 
  
 いりません。 
 血相を変えて飛び出してきた雅に、そんな言葉は口が裂けても言えそうになかった。 
 教室はがらがらで、うんとしか言えない。 
 だから、かき氷屋にやってきた五人は大人しくかき氷を頼んで、教室の一角を陣取った。 
   
- 501 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:02
 
-  机を四つ合わせ、布をかけて作ったテーブルを五人で囲む。 
 愛理は栞菜の隣へ。 
 向かい側では、桃子が千聖の隣に座る。 
 梨沙子が教室の出口を背に一人で座って、頬杖を付いた。 
  
 席について、やっと繋いだ手が離れて、愛理はほっとする。 
 だが、熱が引かない。 
 手は熱いままだった。 
  
 「ももと同じクラスの人?」 
  
 オーダーを無理矢理取った雅が消えた仕切りの奥を見ながら、梨沙子が尋ねる。 
 それはいつもより低い声で、愛理は思わず梨沙子を見た。 
  
 「ううん。一つ下。みやの話、したことなかったっけ?ヴァイオリン弾いてる子の話」 
 「聞いてない」 
 「あれ?伴奏してるって言わなかった?」 
 「言ってないよ。ももと仲良いの?」 
 「良いか悪いかで言えば、良い」 
 「なにそれ」 
  
 梨沙子は可愛い顔に似合わず、低い声で話すことがある。 
 それは機嫌が悪いからではなくて、ごく普通のことだった。 
 けれど、今は声の低さに機嫌の悪さが滲み出ていた。 
   
- 502 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:03
 
-  愛理は、栞菜と千聖をちらりと見る。 
 梨沙子のクラスメイトである千聖は、桃子に雅のことを尋ねていた。 
 栞菜はにこにことその様子を見ている。 
  
 高等部の桃子はともかく、同じ中等部の栞菜も千聖も梨沙子の様子が変わったことに気がついていないようだった。 
 気にしすぎかもしれない。 
 そう思って梨沙子を見ると、梨沙子が愛理の方へぐいっと身を乗り出してきた。 
  
 「ももってさ、知り合い多いの?」 
  
 低く小さな声で問いかけられる。 
  
 「なのかな。寮でもよく色んな人と話してるけど」 
 「ふーん」 
  
 そう言って、梨沙子が背もたれに背中を預ける。 
 ギギギッと椅子が嫌な音を鳴らして、動いた。 
   
- 503 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:04
 
-  「りーちゃん」 
 「ん?」 
 「どうかした?」 
 「どうもしないよ」 
  
 問いかけに答えた梨沙子の声は、やはり低い。 
 心なしか表情も硬いようだ。 
 やはり気のせいではない。 
 理由はわからないが、梨沙子の機嫌はいつもに比べると悪いようだった。 
  
 愛理は、窓ガラスにぺたりと貼られたメニューを見る。 
 「いちご」や「メロン」、「ブルーハワイ」と手書きで書かれた紙には、水着の女の子やスイカのイラストが描かれていた。 
 季節外れもいいところだと思うが、かき氷にはぴったりなイラストだ。 
 教室には、夏を演出するように浮き輪やビーチボールが置かれている。 
 一つ前の季節を思わせる教室は、明るい雰囲気で溢れていた。 
 だが、そんな教室の中、梨沙子の纏う空気だけが違って感じられた。 
  
 早くかき氷がくればいいのにと愛理は思う。 
 何か食べたら機嫌が良くなる。 
 そんな単純なものではないかもしれないが、何も食べずにいるよりは良いように思える。 
 愛理が心の中で雅を呼ぶと、それに応えるように雅が席へやってきた。 
   
- 504 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:06
 
-  「お待たせ」 
  
 営業スマイル付きで、雅がかき氷をテーブルへ並べる。 
 そして、手近な椅子をガガガッと引きずってきて、同じテーブルに座った。 
  
 「さ、召し上がれ」 
  
 両手を広げて仰々しく雅が言って、五人が「いただきます」とスプーンを口へ運んだ。 
  
 しゃくりと崩した氷の山を口の中で溶かすと、ぶるると身体が震えた。 
 学園祭の期間中はまだ暑い日があってもおかしくない時期だったが、今日は思ったほど気温が上がらなかった。 
 天気は良いが暑いとは言えない気温で、かき氷屋は商売になりそうにない。 
 がらがらの教室はそれを如実に表していた。 
  
 もっと季節に関係のないものにすれば良かったのにと愛理は思うが、人のことを気にしている場合ではなかった。 
 かき氷の冷たさに火照った身体が冷えて、改めて自分の身体が熱を持っていたことを思い出した。 
  
 手をかき氷の容器に押しあてると、ひんやりとして心地良い。 
 本当なら冷えすぎるぐらいだと思うが、熱の籠もった身体には丁度良かった。 
 どくどくとうるさかった心臓も今は落ち着いていて、痛みも苦しさもない。 
   
- 505 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:07
 
-  梨沙子を見ると黙ってスプーンを口に運んでいたが、眉間に皺が寄っていた。 
 それがかき氷特有の眉間の痛みに顔を顰めて出来たものなのか、それとも別の理由から出来たものなのか判断が付かない。 
 氷の冷たさに、梨沙子の機嫌が良いのか悪いのかわからなくなっていた。 
  
 スプーンで白い山を崩す。 
 テーブルでは、たわいもないお喋りが続いていた。 
 さっき置き去りにされた自己紹介。 
 さらには、どんな店に行ったかや、面白い出し物をしているクラスなど学園祭についての情報交換が行われる。 
 愛理も音楽喫茶に来た客の話や、これから演奏予定の曲についてを話した。 
  
 かき氷が胃袋にあらかた消えた頃、学園祭についての情報交換も一段落する。 
 雅がぐるりとテーブルを見回して、確認するように言った。 
  
 「みんな、食べた?」 
 「食べた」 
  
 栞菜が満足げにお腹をぽんっと叩く。 
   
- 506 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:08
 
-  「じゃあ、行こう」 
 「行こうって、みや、かき氷屋はいいの?」 
 「もう、無理。あたしも行く」 
  
 桃子の問いかけにぼそぼそと答えて、雅が立ち上がる。 
 雅は売り上げの少ないかき氷屋を救う為に、クラスメイトに連行されたと聞いた。 
 がらがらの店内を見ると、看板娘の効果もさほどないように思えるが、勝手にいなくなっていいいものだろうかと、愛理は人のクラスながら心配になる。 
  
 「行くよ」 
  
 そう言うが早いか、雅がエプロンを脱ぎ捨てる。 
 そして、桃子の腕を掴んだ。 
  
 「もも、走るよ」 
 「え?ちょっ?なに?」 
 「なにじゃなくて、走るのっ」 
 「なんで!?」 
 「走らないと捕まる。行くよ」 
  
 椅子に座ったまま立ち上がろうとしない桃子を強引に立ち上がらせると、雅が掴んだ腕を引っ張った。 
 桃子の体勢が崩れる。 
   
- 507 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:10
 
-  「うわ、ちょっと。引っ張らないでって」 
  
 桃子が転びそうになるがそれを雅が支えて、桃子の体勢が整うと同時に走り出そうとした。 
 だが、それを目ざとく見つけたクラスメイトが駆け寄って来る。 
  
 「ちょっと、みや!逃げるつもり!?」 
  
 逃がすものかとやってきたクラスメイトに雅の顔色が変わる。 
 同時に桃子の顔色も変わる。 
 何故なら、雅に力一杯引っ張られたからで、また体勢を崩した桃子が情けない声を上げた。 
  
 「ちょ、待って。なんで、ももまで」 
 「喋ってないで行くよ」 
 「行くけど、ちょっと待った」 
  
 桃子が体勢を整えるのをまたずに雅が走り出して、引きずられるままに足を進めかけた桃子が何とか踏みとどまる。 
 さらに、走り出した雅を引っ張ってテーブルに近寄ると、一番近くにいる梨沙子の腕を掴んだ。 
   
- 508 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:11
 
-  「一緒に来て」 
 「え、なんであたし?」 
 「ごめーん。あとよろしくー!」 
  
 予想もしなかった事態に梨沙子が驚いた顔をするが、それは桃子には見えていないようだった。 
 捨てぜりふを残し、捕まえた梨沙子を引きずって連れて行く。 
  
 雅が桃子を引っ張って、雅に引っ張られた桃子が梨沙子を引っ張って、梨沙子は何か言いたいのか口をぱくぱくとさせながら連行されていく。 
 その光景は、残された三人の口をあんぐりと開けさせるだけのものがあった。 
  
 「あとよろしくって、なにをよろしくすればいいわけ?」 
  
 栞菜が呆れたように呟いて、愛理と千聖を見た。 
  
 「わかんない」 
  
 お手上げだというように、千聖が両手を広げた。 
  
 「まあ、校内回ってればそのうち会えるだろうし、行こうか」 
  
 そう言って、どうしようと考えても仕方がないとばかりに栞菜が立ち上がる。 
 愛理にも栞菜の意見が妥当なものだと思えた。 
 雅がクラスメイトがてぐすね引いて待っているこの教室に戻ってくるとは思えなかったし、生徒達が行きたがる場所など限られている。 
   
- 509 名前:adagio − 3 − 投稿日:2009/11/21(土) 17:13
 
-  「そうだね。千聖も行くよね?」 
 「もちろん」 
  
 愛理が向かい側に座っている千聖に尋ねると、千聖が元気よく立ち上がった。 
  
 「あ、栞菜。えりかちゃんは?」 
 「あー、えりかちゃんはあのままでいい。大丈夫。さ、いこっ」 
  
 雅がどこへ逃げたかを話し合っているかき氷屋の生徒に声をかけて、のれんをくぐる。 
 学園祭の為にぴかぴかに磨かれた廊下を靴を鳴らして歩く。 
 三人分の靴音と、廊下を行き交う生徒や父兄の靴音。 
 学校はいつもに増して騒がしくて、活気に溢れている。 
  
 イベントごとが大好きな千聖は跳ねるように歩いている。 
 栞菜も楽しそうに弾んだ声を出していた。 
 愛理だって、学園祭は嫌いではない。 
 けれど、今年は去年と違って心の底から楽しめない。 
  
 さっき手を繋いで歩いた廊下を、今度は手を繋がずに歩いていく。 
 ぶらりと行き場のない手が少し寂しい。 
 栞菜と二人なら良かったのにと、そんなことをちらりと考える。 
  
 千聖に対して、酷く悪いことを考えていた。 
 愛理は自分が嫌いになりそうだった。 
  
  
  
   
- 510 名前:Z 投稿日:2009/11/21(土) 17:14
 
-   
   
- 511 名前:Z 投稿日:2009/11/21(土) 17:14
 
-  本日の更新終了です。 
 
- 512 名前:Z 投稿日:2009/11/21(土) 17:15
 
-  >>483さん 
 乙女達の学園祭、その後ですw  
- 513 名前:みら 投稿日:2009/11/21(土) 19:21
 
-  更新お疲れ様です。 
 愛理が可愛すぎて悶えましたww 
 時間も楽しみにしてます。  
- 514 名前:ラプソディ・イン・ブルー 投稿日:2009/11/29(日) 23:22
 
-   
  
  
 adagio − 4 − 
  
  
  
   
- 515 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:24
 
-  行き先は決まっている。 
 教室を抜け出した愛理は、練習室へ向かう。 
 渡り廊下を歩いて、練習室がある校舎へ入る。 
  
 学園祭が終わってすぐ。 
 校内は片づけもまだ終わってはおらず、練習室がある校舎はいつも以上に静かだった。 
  
 階段を上がって、一番端。 
 愛理は201と書かれた扉を開ける。 
 薄暗い練習室へ入ると、まずはピアノが目に入った。 
 まだピアノに触れてもいないのに、頭の中に音楽が流れ出す。 
  
 足を進めると、人影が目に映った。 
 頭の中に流れている曲はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第16番で、人影にもそれは途切れない。 
  
   
- 516 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:27
 
-  小柄で短めの髪。 
  
 愛理には人影が一瞬桃子に見えたが、身体のラインが違った。 
 次に浮かんだのは栞菜の顔で、そこで頭に流れていた音楽が消えた。 
  
 「あれ?愛理?あたし、ももちゃんに呼び出されたんだけど……」 
  
 まだ電気も付けていない練習室に響いた声が、頭に浮かんだ顔と繋がる。 
 愛理は声の主を確かめるべく、ぱちんと電気を付けた。 
 明るくなった練習室には、予想通り栞菜がいた。 
  
 「あたしもだよ」 
  
 愛理はため息混じりに答えて、椅子へ腰掛ける。 
 薄暗いとはいえ一瞬、栞菜が桃子に見えたのは理由がある。 
 背丈や髪の長さが似ているからだけではない。 
 学園祭二日目が終わった今日。 
 栞菜が桃子に呼び出されたように、愛理も桃子に呼び出されたからだった。 
  
  
   
- 517 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:30
 
-   
 学園祭後半の二日目は、栞菜と千聖だけでなく、一日目に途中で消えたメンバーと一緒に回ることが出来た。 
 桃子や梨沙子、雅を加えた六人で一日目に行けなかった場所へ行った。 
 何故かえりかがいなかったが、どうしてかと聞いても栞菜も桃子も意味ありげに笑うだけで、理由は教えてくれなかった。 
  
 二日目は、一日目と比べると楽しかったように思う。 
 一瞬でも千聖がいなかったら、などと考えた一日目とは違い、二日目はそんなことを考えもしなかった。 
 きっと人数が増えた分、賑やかさに余計なことを考えずに済んだのだろう。 
 一日はあっという間に過ぎ去って、気がつけば学校はいつもの顔に戻っていた。 
 それでも、教室を彩っていた造花やポスターを剥がす作業をしているクラスメイト達は、学園祭の最中とは別の意味で騒がしかった。 
   
- 518 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:34
 
-  学園祭の後片づけを明日に延ばすほど、学校は優しくなかった。 
 だが、愛理を含め生徒達は、学園祭の浮かれ気分を引きずっていたから、疲れているのに後片づけも楽しく感じられた。 
  
 壁から造花を一つ取っては学園祭であった出来事を語り、ポスターを剥がしては準備期間中の思い出話を語る。 
 そんなことをしているから、片づけは一向に進まない。 
 そして、早く片づけて帰ろうという雰囲気にもならない。 
 誰もがのんびりと思い出話に花を咲かせながら、片づけを続けていた。 
 そんな中、愛理が壁に張りつけてある造花を剥がしていると、どこからか桃子の声が聞こえた。 
  
 今、桃子の声が聞こえるはずがない。 
  
 どこのクラスも今は後片づけの真っ直中で、それは高等部も例外ではないはずだ。 
 それに、桃子のクラスはお化け屋敷などという大がかりな出し物をしていたから、片づけにも時間が掛かるはずで、中等部へ遊びに来ている暇があるわけがなかった。 
 愛理は喧噪に紛れた声にそんなことを考えて、造花を剥がし続ける。 
 赤や青、黄色の造花を剥がして、学園祭の面影が消えていく壁を見上げる。 
 随分と殺風景になった壁に、ふう、とため息をつくと、今度ははっきりと声が聞こえた。 
  
 「愛理。愛理ってばっ」 
  
 声のする方へ視線をやる。 
 すると、教室の入り口から桃子がひょっこりと顔を出していた。 
   
- 519 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:36
 
-  「ちょっと、こっち来て」 
  
 視線が自分へ向いたことを知った桃子に手招きをされ、愛理は手に持っていた造花をクラスメイトに預けて教室の入り口まで歩いた。 
  
 「もも、片づけは?お化け屋敷って、片付け簡単には終わらないでしょ」 
 「いいじゃん、そんなこと」 
 「……もしかしなくても、またさぼった?」 
 「ちょっと休憩中」 
 「ずっとの間違いじゃないの?」 
 「細かいことは気にしない、気にしない」 
  
 桃子が面倒臭そうに手をひらひらと振る。 
 学園祭の準備を抜け出すだけでなく後片づけも放り出すなんて、と愛理は思うが、準備を抜け出すような桃子だからこそ、後片づけも放り出すのだと思い直す。 
 大人しく準備をしているような人間なら、きっと後片づけだって真面目にやるだろう。 
 クラスメイトが桃子を捜し回っている姿が目に浮かぶが、そう簡単に捕まる桃子ではないだろうから、徒労に終わるに違いない。 
  
 「そんなことよりさ、愛理。ピアノ弾きたくない?」 
  
 細かいことは気にしない。 
 そう口にした通り、学園祭のことなどもう忘れ去ったとばかりに桃子がにやりと笑う。 
   
- 520 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:37
 
-  「ピアノ?」 
  
 学園祭の後片づけの真っ最中、ピアノという言葉が出てくるとは思わなかった。 
 だから、愛理は無意識のうちに問い返していた。 
  
 「うん。ピアノ」 
 「今?」 
 「そう。今、弾きたくない?」 
 「今、片付けやってるから」 
  
 ピアノを弾きたいのか、弾きたくないのか。 
 どちらなのかと問われたら、ピアノを弾きたかった。 
 だが、今はピアノを弾くような状況ではない。 
 明日からの授業に備えて、教室を片づける。 
 それが愛理のやるべきことだ。 
 しかし、後片づけを抜け出して中等部へやってくるような桃子には、愛理の言葉は通じないようだった。 
  
 「そんなのいいから、弾こう!今すぐ」 
  
 教室の入り口、身を乗り出した桃子に腕を引っ張られる。 
   
- 521 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:39
 
-  「弾こうって、なんで?今、弾かなくても明日でいいじゃん」 
 「だめ。今すぐ弾くの」 
 「そんなこと言われても。教室、片付けないと」 
  
 ぐいっと腕を引っ張られて、愛理は視線を教室へ向けた。 
 壁を飾っていた造花はあらかた剥がしたが、まだ造花以外の飾りは壁に張り付いたままだし、教室の掃除も済んでいない。 
 クラスメイト達は口を動かしながらだが、手もきっちりと動かしている。 
 自分だけ桃子のように教室を抜け出すわけにはいかないだろう。 
 そう思うのだが、桃子は諦めるつもりがないのか、引き下がろうとしない。 
  
 「そんなの後でいいから、練習室行こう。リザーブしてあるから」 
 「リザーブ?」 
 「そう、予約しといた。練習室の201。今から行くと丁度良い感じ」 
 「何が丁度良いの?意味わかんないんだけど」 
  
 桃子の考えが全く読めない。 
 にこにこ笑っているその裏で、何を考えているのか予想もつかなかった。 
  
 「あのね。昨日、千聖も連れて行こうと思ったんだけど、出来なかったからそのお詫び。みやがすごい勢いで引っ張るから、梨沙子しか捕まえられなくて。だから、悪かったなー、って」 
   
- 522 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:42
 
-  愛理を練習室へ連れ去ろうとする理由が、昨日のお詫びだと言われても納得できない。 
 確かに昨日、栞菜と二人きりなら良かったと思った。 
 そんな考えを持ったことを酷く後悔したが、ほんの一瞬でも「千聖がいなければ」と考えたのは事実だ。 
 今、桃子が言ったように「千聖も連れて行ってくれたら良かったのに」とも思った。 
 だが、それを桃子が詫びる必要はないし、悪いと思う必要もない。 
 そんなことを考えてしまう愛理の気持ちの問題で、桃子のせいではなかった。 
 それに、たとえ桃子のせいにしたとしても、お詫びに練習室を予約しておくなどわけがわからない。 
  
 「別に悪くなんか」 
 「悪いよ。だって、栞菜と二人で回りたかったでしょ?」 
  
 訳知り顔で桃子が言った。 
 その言葉に、尖ったものが心臓に突き刺さったようにずきんずきんと胸が痛む。 
  
 「そんなこと……」 
  
 ない、と即答出来ない。 
  
 「ない?」 
 「……ないよ」 
  
 ぼそりと答えて、愛理は下を向いた。 
 考えていないというのは嘘だから、桃子を見られなかった。 
   
- 523 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:43
 
-  「ふーん。ないんだ」 
  
 桃子はいつもこうだ。 
 愛理が口にしたことのない言葉を読み取って口にする。 
 それだけではない。 
 愛理自身が気がついていないようなことさえも口にする。 
 そして、くすりと笑って愛理を見る。 
 桃子の唇が描く緩やかなカーブは、愛理の心の内まで知っていると主張するのだ。 
  
 今、愛理には教室の床しか見えないがわかる。 
 桃子はいつも通りの表情を浮かべているに違いない。 
 何でも知っているという顔をして愛理を見ているはずだ。 
  
 「ないもん」 
  
 無駄な抵抗だと思いつつも顔を上げ、桃子の言葉を否定すると、桃子はそれ以上何も言わなかった。 
 変わりに、くすくすと小さく笑われる。 
   
- 524 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:44
 
-  「まあ、とにかく201行って。待ってるから」 
  
 桃子が笑いを含んだ声でそう言って、愛理の手を引っ張った。 
  
 「待ってるって、なんで?行くなら、一緒に行けばいいじゃん」 
 「いいの、いいの。別行動!」 
 「あたし、行かないよ。片付けあるし」 
 「駄目だって。ちゃんと行かないと。クラスメイトのみなさんについては、ももに任せて」 
 「任せられないって」 
 「大丈夫、大丈夫」 
 「大丈夫じゃないから」 
 「大丈夫だからさ、練習室行ってよ。お願い」 
  
 珍しく桃子が食い下がる。 
 桃子には強引なところがあるが、愛理が本気で断ったり、嫌がったりすると、余程のことがない限り引き下がる。 
 嫌がる愛理に何かをさせようとするなど滅多にない。 
 そんな桃子がこれだけ食い下がるのだから、特別な理由があるのかもしれない。 
 それに、桃子が笑みを消して、やけに真剣な顔で頼んでくるから、何だか断りにくかった。 
   
- 525 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:46
 
-  「怒られたら、もものせいだからね」 
  
 十分や十五分なら。 
 それぐらいの時間なら、後片づけを抜け出せる。 
 少しだけ練習室に行って、すぐに戻ってくればいい。 
 そう考えて、愛理は桃子に腕を引っ張られて教室を出た。 
  
 「責任取るよ」 
 「……ちょっとだけだからね」 
 「うん、それでいい」 
  
 愛理が廊下へ出ると、桃子が掴んでいた腕を離し、ふらりと足を進めて二、三歩歩く。 
 けれど、すぐに足を止めて、思い出したように言った。 
  
 「あ、そうだ。一つお願いあったんだった。なんかね昨日、梨沙子が最後、元気なかったみたいだ 
 から、会ったらごめんねって伝えといて」 
 「元気なかったの?」 
 「うん。無理に連れ回しちゃったから、疲れちゃったのかも。ももも一応謝ったんだけど、なーんか聞いてるんだか、聞いてないんだかわかんない感じでさ」 
   
- 526 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:51
 
-  一日目の終わり間際、梨沙子に会った。 
 記憶の中の梨沙子は、元気がないわけではなさそうだったし、疲れているようでもなかった。 
 けれど、いつも通りとは言えない様子だった。 
 愛理が見た梨沙子は、心ここにあらずといった言葉が一番しっくりくる。 
 わからないが、きっといつもと同じではなかったと思える。 
 だから、「伝えておく」と答えると、桃子がにこりと笑って練習室とは違う方へ向いた。 
  
 「じゃ、練習室で」 
  
 ぶん、と手を振ってから、桃子が走り出す。 
 その足取りはとても軽いもので、学園祭の後片づけのことなど気にもしていないような桃子に愛理は苦笑した。 
  
  
   
- 527 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:52
 
-   
 「愛理もなんだ。ももちゃん、いつ来るかわかる?」 
  
 栞菜の声に、愛理は現実へと引き戻される。 
  
 「わかんないけど、たぶん来ないと思う」 
  
 待ってるから、と桃子は言った。 
 だが、誰が待っているかは言わなかった。 
  
 嵌められた、と愛理は思う。 
 待っているのは桃子ではなく、栞菜だったのだ。 
  
 「なんでわかるの?」 
 「なんとなく」 
 「これってもしかして、ももちゃんがあたしと愛理を会わせてくれようとしたってこと?」 
 「そうみたい」 
  
 窓際、薄暗くなった外の景色を背負って栞菜が笑う。 
   
- 528 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:54
 
-  「気が利くなあ、ももちゃんは」 
 「ほんともう、ももはこんなことばっかりする」 
 「いやなの?」 
 「ピアノ弾きたかったし、良かったけど」 
  
 愛理はピアノの蓋を開け、鍵盤へ指を置いて力を加える。 
 白鍵に置いた指が沈み込む。 
 ピアノがぽーんと弾んだ音を鳴らし、練習室の空気を震わせた。 
  
 「素直じゃないなあ」 
  
 独り言のように呟いた栞菜がきゅっと床を蹴って、ピアノの前までやってくる。 
 そして、愛理が座っている椅子の背もたれに手をかけた。 
  
 「素直だもん」 
  
 そう答えて、背もたれへ寄り掛かって栞菜を見ると、眉間に皺を寄せていた。 
   
- 529 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:56
 
-  「えー。もっと素直に答えて欲しいなー。会いたかったのはピアノだけ?」 
  
 表情は不満そうではあるが、問いかける声は柔らかい。 
 だが、愛理はその問いには答えられない。 
  
 ピアノを弾きたいという思いはあった。 
 練習室へ入り、ピアノを見たときには、今、練習しているベートーヴェンのピアノ・ソナタ第16番が頭の中に流れた。 
 しかし、栞菜を見た瞬間に頭に流れていた音楽は消え去り、音は栞菜の声に変わった。 
  
 「素直じゃないじゃん」 
  
 栞菜が口を開こうとしない愛理の背中を叩く。 
 ばしんと乾いた音がしたが、痛みはなかった。 
  
 「素直だもん」 
 「じゃあ、答えなよ」 
  
 そう言うと、栞菜が悪戯っ子のような笑みを浮かべ、両手で椅子の背もたれを掴んだ。 
 その手で、ほらほら、と急かすように椅子をガタガタと揺する。 
   
- 530 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:57
 
-  「ちょっと、栞菜。危ないって」 
 「素直に答えたら許してあげよう」 
  
 愛理は捕まるものがなくて、ピアノへ手を伸ばす。 
 行儀が悪いとは思うが、栞菜が椅子を揺らし続けるものだから、ピアノを掴んで身体を支える。 
 練習室には椅子が立てるガタガタという音が響いていた。 
 素直に答えたら、と言ってはいるが、楽しそうに椅子を揺らしている栞菜を見ていると、栞菜の望む答えを口にするまでは許してもらえそうになかった。 
  
 栞菜にも会いたかった。 
  
 冗談でもそんなことを言うのは恥ずかしい。 
 けれど、このまま言わずに済ませることは出来なそうで、愛理は仕方なく口を開いた。 
  
 「……ピアノだけじゃないよ」 
  
 揺れる椅子を止める為の言葉ではない。 
 本心を告げる。 
 すると、椅子を揺らしていた栞菜の手が止まった。 
  
 「素直でよろしい」 
 「無理矢理言わせたくせに」 
 「あ、今の嘘だったんだ?」 
  
 ガタリ、と椅子が揺れて、愛理は慌てて答えた。 
   
- 531 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/29(日) 23:59
 
-  「嘘じゃないけど」 
 「良かった」 
  
 栞菜が嬉しそうに笑って、愛理の肩へ手を置いた。 
 その手に体重をかけ、身体を寄せてくる。 
 そして、愛理を覗き込んだ。 
  
 「愛理、ピアノ弾く?」 
 「せっかくだし、ちょっと弾いていく」 
 「リクエストしていい?」 
  
 人差し指で鍵盤を叩いてから、栞菜が言った。 
 栞菜が聞きたいと言うなら、何でも弾くつもりはある。 
 もちろん、楽譜があるか、暗譜している曲だけしか弾けないが、リクエストされるなら応えたい。 
 しかし、暗譜している曲など限られているし、手ぶらで練習室へ来ているから楽譜もない。 
 出来るなら、上手く弾ける曲を聞いて欲しいから、しっかり楽譜が頭に入っていて、練習してある曲が良かった。 
  
 「いいけど、どんな曲でもってわけにはいかないよ」 
  
 簡単に「いいよ」と答えて後から困ったことにならないように、一応、釘を刺しておく。 
 そんな愛理に栞菜がくすりと笑った。 
   
- 532 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/30(月) 00:01
 
-  「愛理の弾ける曲だから、大丈夫」 
  
 愛理を安心させるように柔らかな声でそう言って、栞菜が肩へ置いた手に力を込めた。 
 指先が強く肩に触れて、心臓がとくんと跳ねる。 
 それに連動するように愛理の指がぴくんと動いて、鍵盤を押した。 
 練習室にピアノの音が短く響いて消える。 
  
 「愛の挨拶。これならばっちりでしょ?」 
  
 ピアノの音を追いかけるように、リクエストが聞こえてくる。 
 それは確かに愛理の弾ける曲だった。 
 だが、この曲は一人で弾くよりも二人で弾きたい曲だ。 
  
 「栞菜。ヴァイオリン、持ってきてる?」 
 「残念ながら」 
  
 栞菜を見ると、何も持っていないことを表すように両手を広げていた。 
 練習室の中をぐるっと見ても、ヴァイオリンケースは見あたらない。 
 言葉通り栞菜のヴァイオリンは存在せず、愛理はがっくりと肩をとした。 
   
- 533 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/30(月) 00:03
 
-  「そっかあ」 
 「一緒に弾こうと思った?」 
 「うん」 
 「取ってこようか?」 
 「ううん、いいよ」 
 「じゃあ、ピアノだけで弾いてくれる?」 
 「いつものでいいの?」 
 「いつものでもいいし、独奏用で弾けるならそっちでも」 
 「んー。なら、いつもので」 
  
 一人で弾くならば、独奏用の方がいいに決まっている。 
 愛理は栞菜と二人でこの曲を弾き始めるよりずっと前に、愛の挨拶の独奏用の楽譜を買っているし、練習をしたことがあった。 
 だが、上手く弾ける自信がない。 
 今でも部屋には楽譜があるが、練習をしたのは随分と昔のことだ。 
 やはり栞菜と何度も練習をしているピアノとヴァイオリン用の方がしっかりと暗譜もしているし、指も慣れている。 
 だから、弾くならばピアノとヴァイオリン用の方しかなかった。 
  
 愛理は静かに鍵盤へ指を置く。 
 そして、深呼吸を一つしてから、鍵盤へ置いた指を動かした。 
 聞き慣れた曲が練習室に広がって、愛理はすぐに後悔することになった。 
   
- 534 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/30(月) 00:06
 
-  独奏用と違い、ピアノとヴァイオリン用に書かれたこの曲は、二つの音が出会ってはじめて一つの曲となる。 
 しかし、今は愛理の弾くピアノの音しかない。 
 ヴァイオリンが欠けている愛の挨拶は物足りないものだった。 
 重なる音がないせいで、いつもとは違って曲が寂しげなものに聞こえて、下手でもいいから独奏用の方を弾けば良かったと愛理は思った。 
  
 曲が進めば進むほど、一人で弾く愛の挨拶に寂しさが増していく。 
 ピアノの音は、ヴァイオリンの音を探して彷徨っているようだった。 
 出会うべき音を見つけられないピアノの音に、愛理は学園祭の最中に感じた寂しさを思い出す。 
 ヴァイオリンを弾ける人が側にいるのに、ヴァイオリンの音は響かない。 
 側にいるのに鳴らない音に、ピアノの音が取り残されているように感じる。 
 学園祭での疎外感がここにも存在するようだった。 
  
 今、ピアノが探しているのはヴァイオリンで、学園祭の間中、愛理が探していたのは栞菜だった。 
 栞菜が誰と話しているのか。 
 栞菜が誰を見ているのか。 
 栞菜の姿を探しては、そんなことばかり気にしていた。 
 ヴァイオリンの音を探して練習室を彷徨うピアノの音は、まるで自分のようだ。 
   
- 535 名前:adagio − 4 − 投稿日:2009/11/30(月) 00:08
 
-  一人で弾く愛の挨拶がいつもと違って寂しげに聞こえるのは、あるべき音がないせいだとわかっている。 
 では、学園祭で感じた寂しさの理由は何なのか。 
 答えは簡単だった。 
  
 側にいるべき人がいないから、寂しかった。 
 側にいるのに他の人を見ているから疎外感を覚えた。 
  
 愛理が出会うべき音はすぐ近くにいた。 
 今まで近すぎて気がつかなかっただけだ。 
 重なる音を探して消えていくピアノの音色に、愛理は栞菜が好きなのだと初めて自覚した。 
  
  
  
   
- 536 名前:Z 投稿日:2009/11/30(月) 00:08
 
-   
   
- 537 名前:Z 投稿日:2009/11/30(月) 00:08
 
-  本日の更新終了です。  
 
- 538 名前:Z 投稿日:2009/11/30(月) 00:09
 
-  >>513 みらさん 
 いつでもどこでも可愛い愛理を目指していますw  
- 539 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/11/30(月) 01:25
 
-  うわぁー! 
 めちゃくちゃドキドキしました! 
  
 桃子良い仕事するなぁ(笑) 
 愛理も栞菜もかわいいなぁ〜(*´∀`*) 
  
 栞菜も素直に言ってしまえばいいのになぁ 
 態度では示してるけど、直接「好き」とは言ってないんでもどかしいです 
 でもその「もどかしさ」が、この小説の魅力だと勝手に思ってます(笑) 
 やっと自分の気持ちに気付いた愛理が、これからどうするのか… 
 どういう展開になっていくのか… 
 続きが楽しみで仕方ありません!!  
- 540 名前:名無し飼育さん 投稿日:2013/07/31(水) 04:09
 
-  いつまでも待ってます 
 
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