ハロー、ハロー
1 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:15

その日は雨が降っていた。
分厚い雲が空に根を張り、昼過ぎから落とし始めた雨。色褪せた建物の壁を
滲ませながら、一向に止む気配を見せない。今では木々の枝をしならせる程の
勢いで、大きな水溜まりの表面をがむしゃらに叩き続けている。
木の下での雨宿りも、あまり効果が無さそうだ。幹から若干離れた所で波紋を
広げる水溜りが、徐々に徐々にとその範囲を広げている。

そんな中、一人の少女が細い樹木に身を寄せ雨を凌いでいた。晩夏の気温は
低く、また、滴は冷たい。葉と葉の隙間から零れる雨が、体温を緩やかに奪って
いく。少女は木の下で両腕を抱え体を震わせた。

背中の半ば程まで伸びた茶髪はしっとりと湿っている。制服のブリーツスカートも、
華奢な肩を包む薄手のセーターも、薄く色を変えていた。新たな滴が、少女の
色白い頬を滑っていく。
彼女の傘は畳んだまま、樹の幹に立て掛けてある。降り続ける雨。白く細い手は
傘の柄に伸びず、口許に寄せられた。
両手に薄く息を吹き掛ける。九月の外気に吐息が白く煙った。
溜め息すらもうっすらと霞んで、雨音に掻き消される。

少女は曇天を見上げた。濃灰色の雲が空を覆っていて、さめざめと雨を零す。
黒々とした空をじっと見つめていると、何だか吸い込まれていきそうだった。
貧血の時、目まいの中心に引っ張られて失神する感覚に近い。
青白い顔を強張らせ、少女は口を引き結んだ。大切なものを胸元に抱き寄せる
ように、もう一度腕を掻き合わせた。

雨は夜半過ぎまで降り続いた。
それが、2年前の事――。
2 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:15


『ハロー、ハロー』

3 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:18
 
4 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:18
目が覚めた時、あさ美は見知らぬ部屋にいた。ベッドの上だった。
慌てて視線を巡らせる。目に映るもの全てが、自分の部屋とは違うものだった。

「……えぇ?」

一人つぶやいた言葉は、朝の空気に空しく溶けていく。その静けさが重たく両肩に
のしかかる。起き上がることもできずに、しばし呆然と部屋の中を見回していた。

眼に映る光景全てが、自室とは異なっていた。
机の上には見たことのない化粧品がたくさん並んでいる。その机の隣には背の
低い観葉植物が置いてあった。白い壁にかかったカレンダーには所々カラフルな
付箋が張られていたし、スチールラックには本やら小物やらが肩身の狭そうに
詰められている。カーペットの色もテーブルの形もタンスの大きさも違う、いや、
そもそも見知らぬ部屋なのだから、同じものを見つける方が困難というものか。

何故自分は、見知らぬところにいるのだろう。
頭の中がまるで、回転数がなかなか上がらないエンジンのようだった。必死で
アクセルを踏み込むが、動悸だけが無意味に大きく空ぶかし。心臓の鼓動までもが
彼女の頭にクラクションを鳴らす。思考回路は大渋滞だ。
早鐘を打つ胸とは逆に、体中の血がさあっと引いていくような感覚を覚えた。
5 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:18
目を白黒させながら、あさ美はゆっくりと体を起こす。
肘を突いて起き上がった時、途切れた吐息が零れた。おっとりとした起き方は
彼女の常態であるが、内心は激しい動揺に翻弄されている。
自室でないことは、問題ではない。
何故見知らぬ部屋にいるのか、それがわからないことが問題だ。

何がどうなっているのかが全く掴めなかったので、とりあえずベッドから足を
下ろす。状況を確認するにも、とりあえず動いてみようと思った。
膝に力を入れて立ち上がる。

「わっ」

と、左腕が引っ張られるように突っかかった。
立ちきれずにまたベッドに腰を下ろしてしまう。左腕、というよりは左手が何かに
引っかかったのか。ベッドの縁に腰掛け、中途半端な姿勢のまま首を巡らせた。
6 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:19
赤い。
初めに目に飛び込んできたのは、目の醒めるような赤い色だ。

なんと言えばいいのか。その『赤さ』に面食らった。
夕焼けのような温かさも、リンゴのような瑞々しさも、血液のようなエグさもない。
一切を削ぎ落とせば浮かび上がりそうな、全てを無機質に拒絶するような赤さだ。
7 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:20
あさ美は無意識に左手をさする。喉元に溜まった空気の塊を嚥下して、ようやく
理解が追いついてきた。

「何、これ……」

それは、赤い糸だ。
絵具の赤色そのものを縒り合わせたような糸が、左手の小指に巻きついていた。
どうやらこれに引っ張られたらしい。糸の先は布団の中に伸びている。

そしてその時初めて、布団の中に人がいることに気づいた。
薄手の掛け布団に包まって、女性が眠っていた。あさ美に背を向けていたので
顔は覗けないが、枕の上で長い茶髪が波打っているから、恐らく女性だろう。
そしてきっと、この部屋の主だ。
男性でないことに、少しばかり胸を撫で下ろした。考え得る最悪の事態では
なさそうだ。

それでも現状が不明瞭なことには変わりない。この状態から考えるに、彼女に
直接話を聞く事が一番手っ取り早いように思えた。
ちらりと目覚まし時計で視線を向ける。午前9時を少し過ぎていた。
起こしても差し支えない時間帯だと勝手に判断し、あさ美は口を開いた。

「あのぅ……」

布団は規則正しく上下している。
もう一度呼びかけてみるも、同じように反応はなかった。眠りが深いのかもしれない。
思い切って右手を、女性の肩辺りに伸ばしてみる。
その手が布団に触れる瞬間、

「あ、の」

するり、と。
あさ美の腕は布団と女性の体をすり抜けた。

「……え?」

触覚的に空を切ったせいで体がバランスを崩す。倒れこむのは踏みとどまったが、
思考が揺れて視界がぐらついた。
冬でもないのに、ぴんと冷えた空気が背骨を滑り落ちていく。
8 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:20
「……見間違い、見間違い」

ふくよかな頬を強張らせて、あさ美はつぶやく。肌が粟立っていることは黙殺した。

そう、錯覚。
今のは錯覚だ。勘違いだ。寝惚けたんだ。

口元を引き攣らせ、あさ美はもう一度手を伸ばした。今度は両手で、しっかりと。
糸で左手が突っ張られる感覚があったが、気にもならない。
わざと明るい声を上げようと、大きく口を開く。

「起きてくださー」

い、という言葉尻は、喉が詰まって発声できなかった。
あさ美の目は、布団越しに女性の肩、そして彼女の体の中をすり抜けて行く自分の
腕を、コンマ数秒も逃すことなくしっかりと捉えていた。

呆然としたまま、今度こそ体勢を崩して倒れこむ。そのままベッドに突っ伏しても
動くことはできない。
自分の腕が布団の向こうに、文字通り埋もれていた。酷くシュールな絵画を
見た時のように、腹を抱えて笑いたい。
だけど、枯れた吐息が喉をひゅうと掠めていくだけ。

体も表情も凍りつかせて、あさ美は肘から先を見つめる。
嘘でしょ、と口にできたかどうか。
嘲笑うかのような糸の赤さが、視界の中で自己主張していた。
9 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:26
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             視界に広がるのは、深くて綺麗な水色だった。

       地面に横たわる自分の体は、夏の強い日差しにさらされて、
                    髪の先まで熱に冒されていた。
      そのくせ寝そべったアスファルトは何故か冷たく感じられて、
                     その心地よさに酔っていた。
            まるで体の中の熱が、地面に逃げていくように。
            静かにゆっくりと、体内の温度が奪われていく。

     頭が。首が。
           肩が。背中が。腰が。
                    腕が。指先が。
                           足が。爪先が。
                     どんどん、奪われていく。

           浮き輪に乗っかって水の上を漂うような気分の中。
              水の中に沈み込んでしまうような感覚の中。
               頭の中まで水色が侵食してくる錯覚の中。

     雲ひとつなく澄みきった晴天の、突き抜ける水色が目に痛くて。

                         涙が一つ、零れた。

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10 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:27
しばらくして、あさ美の体はずるずるとベッドから滑り落ちた。
腕がどうなっているかは見ないようにした。
そのままカーペットに座り込むと、体を反転させベッドを背に寄りかかる。時計を
見れば、10分弱が経過しているようだった。
もしかすると、少しばかり気を失っていたのかもしれない。
夢を見た気がするくらいだ。

自分の身に何が起こっているのかが、全くわからなかった。不可解なことが
たくさんありすぎて、思考も働かない。
穏やかに寝息を立てる背後の彼女が起きなければ、現状も確認できないだろう。
だが、彼女が目覚めた所で、確かめられるかは定かでない。

でも、想像はつく。
今現在自分の身がどうなっているのか、想像することはできた。
自然と零れた吐息には、不安や恐怖が色濃く滲んでいる。
諸手を胸の前で擦り合わせて、あさ美は小さな声でつぶやく。

「何でかなぁ……」

両膝を立て抱えるようにうずくまる。膝頭に額を擦りつけるように俯いた。
泣きたい。でも泣けない。泣く事も喚く事もできない。
悲しくもないし怒りもないけれど、ただ単に不安だった。

得体の知れない状況は、怖い。ただそれだけ。
だけど、唯一にして絶対の理由だ。
神様にでも祈りたい。その神ですら、きっと何も教えてはくれないだろうけれど。

ぎゅう、と体を思い切り丸める。身を守るように縮めたその肩は、やけに小さく
見える。その小さな肩に、時計の針だけが音を降らせていた。ちきちきとゆっくり
回るぜんまい仕掛けのように、透明なプレッシャーを空気に巻き込んでいた。
滑稽にすら思えるその音に圧され、背筋が微かに丸まっていく。
11 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:28
と、また左手が引っかかった。顔を上げ、あさ美は無言で左手を見る。赤い糸が
ゆらゆら揺れていた。
不可解の最たるものであるこの糸のおかげで、あさ美は動き回ることができずに
いる。
少し強い視線で、たらんと垂れる赤い糸をねめつけた。

手のひらをひっくり返してよく観察してみる。結び目が見当たらない。どうやら
輪っか状になった糸の先が、あさ美の小指にはまっているようだ。
指輪を外す時と同じ要領で、指から引き抜こうと糸を引っ張ってみる。すると、
呆気無く糸の輪は指から外れていく、が、

「う、わ、」

引き抜いた赤い輪は、一本の糸として繋がり、糸に長さを足しただけ。初めから
二つの螺旋が重なっていたかのように、あさ美の小指には依然として赤い糸が
巻き付いていた。
再度同じことを繰り返すが、結果も繰り返された。

くるくる回る螺旋のオブジェみたいだ。小指に巻きついた赤い糸には、終わりが
見えない。
まるで糸が、自分の指から生まれているかの、ような。

あさ美はぶんぶんと頭を振って、その考えを脳裏から追い払った。十分に恐ろしい
想像だ。
それならば糸の先は、とも思ったけれど、布団の中もそこはかとなく怖い。
確かめる気にはなれそうにもなかった。
布団の華やかな柄が恨めしい。同時に、自分の布団ではないことを、今更ながら
痛感する。どこか期待していた自分が余計に空しかった。


見知らぬ部屋で目覚めた自分。後ろですやすやと眠る他人。奇怪な赤い糸。
どれもこれも誰も何も、一言も喋ってはくれない。

更に困ったことに、あさ美には今に至る記憶の一切が欠如していた。もちろん
自分が今18歳である事、北海道に住んでいたが昨年上京してきた事などは
思い出せる。
でも、この部屋で目覚める経緯の部分がすっぽりと抜けているのだ。
頭の片隅に引っかかり、収まるべきところに嵌まってくれないような感覚。
単語を思い出せない時に似ている。
何か、とても大事なことを忘れている。そんな気がした。

その事が余計に自分の想像を裏付けているような気がして、あさ美は途方に
暮れた。
少しの間、虚空を見つめる。
容赦なく時を刻む針の音が、室内の静けさに重たい現実感を切りつけていた。
12 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:28
「おはようございまーす」

突如聞こえたその声に、あさ美の意識がはっと目覚めた。
慌てて顔をあげて、目を見張る。

そこにパンダがいた。

「遅れてすいません……」

パンダは少し照れくさそうに笑いながら、テーブルの上にすとんと降り立った。
頭部のバランスが悪いらしく、着地の時にぐらりと傾いた。

「おっと」

言いながら『彼女』は頭に手を添えてそれを支える。しっかり戻すと、いひひ、と
笑った。
白黒のコントラストがはっきりした『彼女』は、やけに手足や胴体がすらりとしていて、
二足歩行だった。時々頭部の位置を微調整している。

パンダにしては気持ちの悪い体つき――着ぐるみを着た少女だと気づくには、
登場のインパクトが強すぎて時間を要した。

「……行儀悪いから、降りた方がいいですよ……」

混乱していたあさ美は、突っ込みどころを間違えたことにも気づかなかった。
13 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:28
 
14 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:30
こんな感じで進みます。

他版でも書かせて頂いてるので、更新は不定期です。
15 名前:* 投稿日:2006/07/31(月) 04:33
狙ったとおりに空白、改行ができなくて落ち。
16 名前:亀かめカメ 投稿日:2006/07/31(月) 10:24
おもろそ〜っす
続き楽しみデース
17 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:40
>>16 亀かめカメ
レスありがとうございます。がんばります。
18 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:41
 
19 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:41
 
20 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:45

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         初めて会ったのは、暑い夏の日だったと思う。
           雨上がりの蒸した空気を良く覚えている。
   蝉がたくさん鳴いていたことも、昨日のように思い出せる。

                    校舎裏の小さな日陰、
                    噴出す汗も拭わずに、
               額に張り付く前髪も気にせずに、
                   乱れる呼吸も厭わずに、
             体の中に酸素と音を吹き込んでいた。

    脳が蕩けるような猛暑の中で、体を音に溶かしていると。

「何してんの?」

               透けるような声が、降ってきた。

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21 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:46

未だ混乱を続ける、あさ美の頭。
不可解なシチュエーションの中姿を現したのは、着ぐるみを着た不可思議な少女
だった。
自然と眉間に皺が寄る。無意識に後じさりし、背中をベッドに強く押し付けていた。
よほどあさ美が怪訝な顔をしていたのだろう。パンダは慌てて、

「や、怖がらんでください。怪しいもんではないです」

と、言った。
あさ美は即座に首を振る。

「どこからどう見ても怪しいです……」

息を押し殺していたので、少し声が震えていた。
それでも、パンダの少女はきちんとあさ美の声を拾ったらしい。
手に持っていた笹の葉を力無く揺らす。

「……そうよね。着ぐるみですもんね」

一応自覚はあるらしい。着ぐるみの裾を引っ張って、彼女は苦笑した。くっきりと
した目鼻立ちをしていたが、その表情はまだあどけない少女のものだった。
着ぐるみのせいではっきりと確認できないけれど、笑い方が幼くて可愛らしい。

だからだろうか。その少女の表情を見て、あさ美は緊張がほんの少し解れて
いくのを感じた。
心もち気持ちを落ち着かせ、あさ美は口を開いた。

「……テーブルから降りた方が……」
「あ、そ、そうやね。すいません」

彼女はひょいと飛び降りる。着地の時、今度は大きく頭部がずれて彼女の目元を
覆ってしまった。
そうなると、これまた彼女は律儀に位置を直す。柔らかそうな生地に包まれた
両手でパンダの頭を持ち上げ、丸くくり貫かれた穴から顔を出す。
その時、あさ美と彼女はばっちり目が合ってしまった。
パンダは照れくさそうに、眉尻を下げて笑いかけたきた。
一つ一つの動きが愛らしくコミカルで、何だか可愛い。
22 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:47
そう、よくよく見れば、可愛らしい格好をしている、と思う。
その容姿や耳に新しいイントネーションが、がちがちに固まった警戒心を徐々に
緩めていく。
張り詰めていた手のひらを握ったり開いたりしながら、あさ美は彼女を見つめた。
着ぐるみはその視線を受けてしゃがみこむ。カーペットに座っているあさ美と、
視線の高さを合わせるように。

「初めまして。コーディネーターの、れいなって言います」
「はぁ……コーディ、ネーター?」

あまり聞きなれない単語に、あさ美の語尾が穏やかに上がる。
れいなと名乗る少女は鷹揚に頷いた。そして、持っている笹の葉であさ美の
左手を指した。
葉の先を視線でたどっていくと、赤いものが目に入る。ふらふらと笹が揺れた。

「今は意味不明で訳わからんと思いますけど、それが付きよー限り危険はない
ですけん、安心してください」
「はぁ。あの、これは一体……」

控えめな、あさ美の発言。れいなの表情がふっと翳った。
口の中に物を含んでいるように、空気を租借している。
率直には言い辛いのかもしれない。
視線をそらして、もう一度戻した時、彼女は眉を顰め声を潜めた。

「えーと……その、れなの仕事はですね、正しくは幽霊コーディネーターと言って」
「幽霊……ですか」
「はい。それで……その、驚かんでくださいね?」

顎を下げ、口ごもる。
上目遣い気味に目線を上げて、れいなはあさ美の顔色を窺った。
自分がどういう表情をしていたかは、わからない。
だが、パンダの着ぐるみはいよいよこの状況に似つかわしくない、とだけあさ美は
思った。

そう思えるだけ、自分の想像に確信を持っていた。

23 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:48


れいなが口を開く。

「紺野さんは今、幽霊になって、その人に憑いています」

すっと笹が弧を描いて、あさ美の背後――ベッドの上を示した。

はっきりとしたソプラノがすとんとあさ美の内側に入り込んで、じわじわと広がって
行く。実際に聞く事で、また違った衝撃があさ美を襲ってきた。
後頭部をがつんと殴られたイメージ。
意識外のところから受けたダメージが、あさ美の内心を激しく揺さぶった。
目の奥がチカチカする。れいなの表情はよくわからないのに、赤い色がやけに
チラついた。

動揺をそのままに、恐る恐る振り返る。


その時。
甲高い電子音が、空気を切り裂いた。

24 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:50


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  ――井の中の蛙、という言葉を知っていますか。

  ――まさしく、あんな感じです。


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25 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:51

携帯電話の着信音で、彼女は目を覚ます。

「……んぅ……」

夏真っ盛りのこの時期、冷房の切れた室内はそれなりに温度が高い。シャツの
下の柔肌はうっすらと汗ばみ、不快指数は上昇中だ。体を包むタオルケットを
自然と蹴飛ばしていた。
子供がぐずるように寝返りを打つ。この蒸し暑さも耐え難いが、どっしりとベッドに
押さえつけてくる、漬物石のような睡魔からも逃れがたい。小さく唸ると、彼女は
枕に顔を押し付ける。身体が重たかった。

ぴりぴりと主人を呼び出し続ける携帯電話。大きな音を鳴らし、急かすように
身を揺らしていた。着信音が脳髄をえぐるようにぐいぐいと鼓膜に突き刺さる。
耳元で泣き喚かると、とても頭が痛い。
緩慢な動作でストラップを手繰り寄せ、片手で開いて耳に当てた。

「……ぁい」

起床直後の掠れた声を漏らす。二、三度咳払いをして整えた。

「もしもし愛ちゃん? 何してんの?」

受話器から届く活発そうな少女の声。愛は微かに眉根を寄せた。
電話の向こうにいる彼女は、大きくてよく通る声をしていたので、起き抜けには
少々きつい。
26 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:52
「何って……寝てた」
「はぁ? ちょっと、今何時だと思ってんのぉ?」
「えーと……」

ベッドから状態だけ起こして、目覚まし時計を見る。さらさらと零れた茶髪が
顔面を覆った。それを耳にかけながら時間を読み上げる。

「じゅうじじゅうごふん、です」
「はいそうですね、ってこらー!」

彼女は一際大きな声を張った。その剣幕に、電話をを取り落としそうなった。
心の中で耳を塞ぎつつ、携帯を慌てて持ち直した。

「ちょっとぉー、何でそんな怒っとるん?」

ついでに、何でそんな元気なんだろう、とも思った。

「ちょっ、……はぁ。あのねぇ、映画観る約束してたでしょ!」
「えー……あ」
「あ、じゃない! もー……」

カレンダーを見やる。生憎本日のところには何も書き込まれていなかったけれど、
予定自体ははっきりと記憶にあった。彼女と映画にいこうと約束していた。
しかも自分から誘った覚えがある。
待ち合わせは、映画館の前に十時。つまり、十五分の遅刻だった。
27 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:53
ベッドの上でのっそり起き上がり、髪を掻きあげる。

「ごめん、ガキさん。すぐ行くわ」
「いいよ、もう。そっち行くから」
「えー、映画観たい」
「あなたねぇ……どの道次の上演まで時間があるから、そっちでご飯でも食べよ」
「ほーか、わかった」
「早くしてねー」

はいはい、と言って電話を切る。愛はしばし虚空を見つめた。
やがて、ベッドから足を下ろして立ち上がる。

立ち上がりきった時、無意識に吐息が零れた。喉の奥で唸って、愛は首を左右に
捻る。
体の奥に、微かなだるさが砂鉄のようにこびりついている。夏に感じる倦怠感とは、
また違う感覚だ。身体を伸ばしても落ちてはくれなかった。
しばし黙考。だが、大したことはないだろうとすぐに頭の片隅へ片付けた。

あくびをかみ殺し、目尻に溜まった涙を指で拭う。
ふと、時計を見て、

「やばいやばい」

慌てて部屋の中を駆け回り始めた。


28 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:53


シャワーやら着替えやら化粧やらを済ませて家を出る頃には、外気温は三十度に
届いていた。蒸し暑さに顔をしかめつつ、愛は自転車に跨りペダルを踏みこむ。
八月もあと少しで終わるが、残暑は厳しい。少し走っただけですぐに汗が噴出して
きた。まだ正午を回っていないので、気温はもう少し上がるだろう。
薄手のボレロ越しに襟を摘んで、胸元から篭った空気を追い出した。

自宅前の道を駅の方に進む。国道を突っ切ると右手に市営の大きな公園があり、
公園の外周を沿うように走る道が、ちょっとした並木道になっている。
歩行者用と自転車用で歩道が別れていて、堂々と走ることが出来る。
頭上で青々と茂っている欅の葉が日傘の代わりになり、日向と比べると大分
涼しい。その上目にも優しい。
悠々とペダルを漕いで、自転車が軽やかに走る。

途中に横道がいくつかあり、駅へ行くにはどこかで曲がった方が近道だ。
だが、愛はそのまま真っ直ぐ進んだ。緑の道は、この先にあるの大通りと交わる
ところで終わってしまう。
三本目の曲がり角を見ないようにしながら、愛は自転車を漕いだ。


29 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:54

改めて待ち合わせたファーストフード店まで歩く。その店の日除けの下に彼女は
立っていた。淡いグリーンのタンクトップを着ていた為、肩から先が露出している。
その細い腕を胸の辺りで組み、キャップの下で顔を歪めていた。

暑いなら店の中で待てば良いのに、と愛は前髪を払った。そのまま手を振る。

「ガーキさーん」
「あ」

ガキさんと呼ばれた少女――新垣里沙はこちらを振り向いて、年相応の笑顔を
浮かべた。

「もぉー、やっと来たー」
「ごめんごめん。お待たせ」
「あれ? 自転車は?」
「駐輪場。映画見に行くんやったら、置いとかんと」
「あぁ、そっか」

話しながら、そのまま店の自動ドアをくぐる。一歩足を踏み入れた瞬間、よく冷えた
空気が上半身を撫でる様に背後へ抜けた。
里沙はさっと自身の両肩を抱く。

「うぉっ、寒っ」
「そらあんた、そんな肩出したら寒いに決まっとる」
「だって暑いじゃん」
「店ん中は寒いわ」
「だから外は暑いの!」

レジカウンター後ろに掲示されたメニューを見ながら、愛は左腕をさする。
その間里沙は注文をしていた。いつものようにコーラを頼んでいる。
その隣に愛も並んで、続けて注文を伝えた。セットドリンクにはレモンティーを
ホットで頼んだ。

その横顔をじっと見つめていた里沙が、ふと漏らす。
30 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:55
「愛ちゃん、なんか顔色悪くない?」
「ん? そう?」
「――疲れてんじゃないの?」

すっと。微かに細くなる里沙の視線。
その真意が掴めないまま、愛は首をかしげた。

「や、別に。昨日レポートやっとったから、ちょっと寝てないかも」
「そう。そんだけ?」
「うん。多分」
「そっか……」

里沙はついと愛から視線を外す。汗の残滓を感じたのか、顎のラインを手の甲で
拭った。
愛がじっとそれを眺めていると、「おまたせしました」と店員の声。女性店員から
トレーを受け取って、窓際の空いている席を目指した。

「ガキさんは夏が似合うよなぁ」
「いやいやいや、何だよいきなり。意味わかんないから」

トレーをテーブルにおいて、里沙が椅子に腰掛ける。
早く食べて映画館行こう、と言いながら紙コップの蓋にストローを差し込んだ。

31 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:55
 
32 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 04:57
更新終了。
次回更新は未定です。

改行・空白は妥協することにしました。
携帯閲覧者に優しくない物語。
33 名前:* 投稿日:2006/08/22(火) 14:42
>>16 亀かめカメ さん
返レスで呼び捨ててしまいました。
ごめんなさい…。orz
34 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:41
 
35 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:42


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二、三回の逢瀬で、すぐに仲良くなった。
一人が落ち込んでいたら、もう一人が励ましたり、泣いたり、叱ったりするような
関係になった。
そしていつも、放課後の校舎裏で、お互いに好きなことをした。

歌ったり、
踊ったり、
おどけたり、
笑ったり、
からかったり、
話したりするふたり。

一番印象に残っているのは、初秋のある日のことだと思う。
建物の影になったいつもの場所は、半袖だと少し肌寒いくらいだったけれど、
火照った体には丁度いい涼しさだった。
ジャージのまま汚いベンチに寝転がると、青い空が視界いっぱいに広がる。
真っ白い大きな入道雲が、とてもきれいだった。
心地よい疲労感にうつらうつらとしていたら、

彼女の歌が、聞こえてきた。


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36 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:43


赤い糸が揺れている。


「……と、言うことなんです」

目の前のパンダは大きく息を吸い込んで、そうつぶやいた。
話し終え、彼女はほぅと小さく安堵の息を漏らす。

「はぁ」

あさ美は何故か正座をしながら、曖昧に頷く。

所は変わらず、見知らぬ他人の部屋。
部屋の主は眠っていたが、電話によって起こされ、そのまま慌しく出かけていって
しまった。
今、この部屋にいるのはあさ美と、目の前のパンダ少女だけだった。

あさ美の返事が気に入らなかったのだろう。着ぐるみは胡乱な視線を向けてくる。

「紺野さん……れなの話、ほんとに聞いてました?」
「え、うん。聞いてた聞いてた」

慌てて首を振って否定する。

数分ほど話を聞いていて思ったが、どうやらパンダ少女――れいなはお喋りが
好きなようだ。だけど、特別得意というわけでもないらしい。
話が脱線することも、何を言いたいのかわからないことも、しばしばあった。
真剣に話すその熱意は大いに伝わってきたが、『要点をまとめて説明する』という
スキルが、少しばかり未熟なようだ。
それでも、精一杯の語彙を用いて一生懸命に話す姿は、パンダの着ぐるみも相まり、
とても愛らしく思えた。

おかげで、非現実的なこの状況にも、少しずつ慣れつつある。

れいなの話を自力で補足しつつ、あさ美は脳内で要点をまとめた。


あさ美は今現在、高橋愛という女性の守護霊になっている。
一口に守護霊と言っても色々あるらしいが、あさ美の左手から伸びる赤い糸と繋がる
ことで、高橋愛は守られているらしい。
何から守られているのかは、れいなの説明ではよく理解できなかった。
だが、あさ美自身が特に何か行動を起こす必要はないようだ。れいながそう語った。
37 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:44
ちなみに、赤い糸は伸縮自在だった。
起き出した愛が部屋中を走り回り、危うくあさ美も振り回されそうになった時、れいなが
糸に触れるとぐんぐん伸び始めた。
今では室内の白い壁を突き抜け、どこかにいる愛とこの部屋に残るあさ美を繋いでいる。
れいな曰く、守護霊が目覚めた時ふらふら歩き回れないようにと、長さが固定されている
とのことだ。

「へぇ、そうなんだ」
「起きたばっかは訳わからんやろ? れなたちが説明するまで、じっとしてもらっとると」
「へぇ……」

気のない返事。あさ美は左手を見た。
赤い糸が、小さく揺れていた。愛が移動しているのかもしれない。
その赤さはやはり寒気がする程だったが、黙殺した。
色にも揺れにも、じきに慣れるだろう。
巻き込むように、両手を小指から握った。正座をしている膝にぎゅっと押し付ける。

糸のことなどよりも、あさ美にはもっと気になることがあった。
れいなが何か話しているが、耳に入ってこない。彼女の手元の笹が、そよそよと動いている。
口を開こうとしたら、胸元で重たい空気の塊が詰まった。
れいなの声は聞こえないけれど、周囲の音がやたらと耳朶に響く。

聞きたいけど、聞きたくない。
聞かなきゃいけないけど、知るのが怖い。
唇を結んで、喉をせりあがる塊を嚥下した。
もやもやしたものが、胃の上っ側でとぐろを巻いている。

笹の葉が止まって、れいなの声がきんと響いた。

「紺野さん、聞いとーと?」
「あ、ううん……」

聞くに聞けない。
視線が右往左往していると、れいながあっ、と声を上げた。

「あ、勘違いせんでくださいね?」
「え?」
「紺野さん、別に死んでないですから!」

38 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:45

着ぐるみの手で、あさ美の左手をとんとんと叩いた。
ふっくらとして、場違いなほど柔らかい感触。

二、三、瞬きをする。

「……そうなの?」

喉の奥から絞り出したか細い声は、予想外に高かった。
れいなは激しく首を縦に振った。

「死んでません死んでません! 紺野さんは生きてます!」

れいなが大きな声で叫ぶ。
紺野さんは、生きてます。

その声がすとんと下腹部に落ちてきて、きつく握っていた両拳がするっとほぐれた。
あさ美は正座をしていた足をずるずると崩し、そのままベッドにしなだれかかる。

「……もっと早く言って欲しかったよ」
「あぁぁ、ごめんなさい!」

ベッドに突っ伏した体をゆさゆさと揺すりながら、れいなは必死に謝った。

その着ぐるみの手が暖かくて、あさ美は少しだけ笑った。
目が覚めてから初めて、生きた心地を感じられた。

39 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:45


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  ――バカみたいですよね、自惚れて。

  ――ほんと、バカみたいです。


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40 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:46

愛が住んでいる所には映画館が無い。
その為、映画を観る為には、隣の市街まで出なければならなかった。電車に揺られ
一駅越せば、すぐにその街は見えてくる。
そこは決して都会のように栄えてはいないが、駅の傍に有名なショッピングビルも、
全国展開しているスーパーも、スポーツジムもファーストフード店も揃っているという、
なかなか便利な街だった。

愛も高校生時代――といっても二年前だけれど――によくこの街に通っていた。全く
逆方向の大学に通う今となっても、よく里沙と一緒に買い物したりする。里沙がこの
街に住んでいるので、自然と足が向いてしまうのである。
里沙とは中学生の時に知り合った。少し抜けている愛と、しっかりした性格の里沙。
お互いの歯車が上手い具合に噛み合い、今では年の差を感じさせないほどの関係と
なっている。


ふと、自分は年下に縁があるのだろうか、と思った。
思ってから、少し後悔した。

41 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:46

映画施設のある駅ビルから外に出ると、途端にむせ返るような空気に包まれた。

「やー、あっついなー。八月も終わりだってのに」

容赦ない熱気に、里沙はくっきりとした眉毛を寄せて、顔をしかめた。
団扇のように手で空気を煽っても、気休めにもならない。

「ほやの」

歩きながら、愛はついと顎先を上げ空を見た。
真っ青な空と、真っ白い大きな雲のコントラストが鮮烈だ。その中央で太陽が煌々と
燃えている。まるで雲を散らしているかのように、その光は翳る事を知らない。
日陰の部分を縫うように歩いても、容赦なく肌を燻る残暑の空気。
暑いのは嫌いではないけれど、何故だか体の芯が重くなるような雰囲気だった。

事実、先程よりも足取りが重い。
目的も無く歩いていたが、愛は隣を歩く里沙に声をかけた。

「ガキさん、どっか入らん?」
「えぇ、さっき映画観たばっかしじゃん」

そういう里沙だが、声に張りが無かった。
それ程反対せずに、

「ま、暑いしね」

と頷いた。

「じゃ、決まりな。どうする? どこがいい?」
「ん……なんか甘いもの食べたい」
「よっしゃ、じゃあケーキでも食いに行くか」
「おぉ、いいですねぇ、行きますか?」
「行きましょう!」

この辺りにケーキ屋は無いが、線路を挟んだ反対側にならあると、里沙は言った。
暑気を吹き飛ばすように二人で息巻いて、足早に駅前の雑踏をすり抜けた。
42 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:47

構内を通り、先程とは逆側の出口に降り立った時。
愛は声を上げた。

「あ!」

あまりの大声に隣にいた里沙は元より、周囲の人々までも愛を振り返った。
だが気にした様子も無く、愛はロータリーの方に駆け出した。

駅前に円を描くように敷かれたアスファルト。中央には石造りのプランターで仕切る
様に駐車場が造られ、その外周を沿うようにバス停が三つ程設置されている。
そのうちの一つは駅から少し離れたところにあるのだが、今まさに、そこを見知った
姿が横切ったのだ。

横断歩道を渡ろうとするその背中に、声をかける。

「後藤さん!」

愛の視線の先で、背中の中ほどまで伸びた茶髪が跳ねる。
彼女はゆったりとした動作で振り返り、愛の姿を認めると、僅かに口元を緩めた。

「おー、久しぶりぃ」

ひらひらと手を振る彼女の元に走り寄り、愛は軽く頭を下げる。
独特の声の調子は変わらないなぁ、と愛は感慨深く思った。

彼女――後藤真希は、愛の高校の先輩である。
当時、飾らない性格と端正な容姿で、校内での人気が高かった真希。一つ下の
学年だった愛の周りでも、その名を知らぬものはいなかった程だ。
委員会を通して彼女と知り合ったおかげでそれなりに交流があり、話したことも
よくあった。
真希と会うのは、彼女の卒業式以来だ。

「こんにちわ。お久しぶりです」

唇の両端をきゅっと吊り上げて、真希は笑った。

「おす。何してたの?」
「映画観てました。後藤さんは?」
「や、ごとーはちょっと、プライベートな用事」

彼女はそう言いながら、横髪を耳にかける。
その瞳は僅かな憂いが差し込んでいるが、赤みの含んだ茶髪がこぼれて目元を隠した。
絹のようになめらかなその髪は、照り付ける陽光をきらきらと弾いている。
見惚れるくらい綺麗だ、と思う。強烈な日差しですらも、彼女の魅力を霞ませるには
及ばない。むしろ、その輝きは増すばかりに思える。
高校時代もそうだった。ゆったりと茶髪をなびかせて歩くその姿は不思議と目を引き、
大勢の生徒の中にいても決して埋もれない煌きを持っていた。
43 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:48

「そうだ高橋、コレ、あげる」

ぼーっとしていると、胸元に白い箱が優しく押し付けられた。
反射的に、その箱を受け取ってしまう。
光沢のある白い紙で出来た直方体の箱だ。上部が蓋になっていて、噛み合わせると
取っ手が組み上がるという、簡素な造りの箱。蓋の合わせ目の中央には、ロゴマークの
ようなシールがキラキラとその存在を主張している。
一見すれば、その中に何が入っているのかわかるような、特殊な箱だった。
胸に抱えてしまったそれは、確かな重さを内包している。

「え、あのっ」
「ごとー、ちょっと寄るとこあるんだよね。あんま時間ないんだわー」
「あ、いや、じゃなくて、誰かにあげるものなんじゃ」
「いいのいいの。どうせ食べないし。じゃーね」

早口でそう言って、真希は踵を返し背を向ける。

「後藤さぁん」

その背中に声をかけるも、彼女はすたすたと歩いていってしまう。
と、一度肩越しに振り返り、
44 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:48


「あのさー……病院に黒い猫って、どう思う?」



45 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:49

とだけ、問いかけてきた。

「……はぁ?」
「……んぁ。なんでもない。じゃ、またね」

手をひらひら振り、真希はスクランブル交差点を渡ってしまった。
ふわふわと茶髪を揺らして去る姿は、数年前と変わらない。それが学校の校舎の中で
あろうと、街の人混みの中であろうと、後藤真希の性質は変わらない。

だからこそ、その瞳の憂いが気になった。
愛は内心首をひねる。

あんな眼をする人ではなかった、はず。


ぽつんと、取り残された愛。
真希の後姿は、もうどこに行ったかわからない。視線を手元の箱に落とす。
きっと、誰が見ても一目瞭然だろう。箱の中身など、見なくてもわかる。

それは、ケーキの箱だった。

46 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:49
 
47 名前:* 投稿日:2006/12/22(金) 08:50
更新終了。

年内には終わらなかった……。
48 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/26(火) 13:04
色んな人間関係がありそうで気になる
待ってます
49 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:15
 
50 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:17
ぴっぴっぴっ。
規則正しく刻まれる、微かな電子音。それは、秒針よりもゆったりとしたリズムで
鳴り続けていた。
真希は下唇を僅かに噛んだ。歪みも揺らぎもないその音を聞いていると、何だか
いつも泣きたくなる。ぐっと奥歯を噛み締め、その気持ちを押し殺した。
ベッド脇の椅子を慣れた手つきで引き寄せて、真希はそこに腰掛ける。そっと顔を
あげ、ベッドの上を眺めた。
そこで、まだあどけない顔つきをした少女が眠っていた。

色の白いふっくらとした頬。静かに眉を閉じたまま、血の気の悪い唇で薄い呼吸を
繰り返していた。真っ白な枕カバーの上で、緩く波打つ栗色の髪がその身を投げ
出している。怪我でもしているのだろう、頭には包帯が巻かれていた。掛け布団の
中から出ている左腕。細い腕に刺さった点滴針が痛々しい。

真希は彼女の左手を両手でそっと触れ、感触を確かめるように柔らかく握りこんだ。
顔を近づけて、か細い声を漏らす。

「やっほ。紺野。元気?」

形の良い眉尻を下げ、真希は苦笑した。

「ごめん。今日はさ、ケーキ持ってこなかった」

彼女は応えない。それでも、その耳に向けて優しく語り掛ける。

「つっても、まぁ、紺野は食えないんだけど」

あは、と笑ってみても、静かな室内に寂しく滲むだけ。
真希は大切な手を握る両手に、心もち力を入れた。俯いて、その手に額を寄せる。
掠れた笑顔を浮かべる背中を、冷え切った沈黙がぐいぐいと重く圧し掛かった。

ぴっぴっぴっ。
どれだけ平坦でも、素っ気無くても、これは命の音だ。
この室内――病室の白い壁に当たって、寂しく散ってしまう微かな音。
それすらも、きっと彼女には届いていない。

「……紺野ぉ」

ベッドの縁に縋り付くよう、項垂れる。

紺野――紺野あさ美が交通事故に見舞われてから、もう一ヶ月が経つ。
彼女はそれ以来、ずっと眠ったままだった。
事故後の回復も良好。意識さえ戻れば、すぐにでも退院できるだろうと担当医師も
言っていた。意識さえ、戻れば。

彼女の頭に巻かれた真新しい包帯。
その下の傷は決して浅くはないが、ずっと意識を無くしてしまう程の傷ではないらしい。
だが、彼女は目覚めない。

「早く、謝らせろ……」

ベッドに額を押し付けて、くぐもった声でつぶやく。
細い肩に響く電子音は、酷く遠くに聞こえた。

ぴっ ぴっ ぴっ

51 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:17


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     『は、は、はじめまして、き、今日からお世話に』
     『あぁ、いーのいーの。そんな堅苦しい挨拶』
     『え、あ、その……』
     『家族になるようなモンなんだし。よろしくー、だけでいーよ』
     『よ、よろしく、ですか』
     『そ。今日からよろしくー。で、なんて呼べばいい?』


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52 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:19
ぴー

またまた唐突に鳴り響いた電子音に、あさ美はびくっと体を凍らせた。


自分がまだ死亡していなことを確認でき安堵したあさ美は、愛の部屋でしばらく
れいなと話をしていた。
心を落ち着けて向き合うと、いよいよれいなのパンダ姿が面白可愛く思えてきて、
あさ美は時折思い出したように笑った。その度に「何笑っとーと」とれいなが
むくれた顔をするので、いちいち御機嫌をとるのにも苦労した。

そんな中で、どうして自分の記憶が曖昧なのかを、れいなに尋ねてみた。
れいなはそれにため息一つこぼして、

「しょうがないっちゃ」

と答えた。
あさ美は眉を跳ね上げる。

「しょうがないの?」
「はい」

笹の葉を両手でいじくりながら、れいなはしっかりとうなずく。

「紺野さんの体は今、あんまり元気じゃないったい。体と心は繋がっとーけん、
 どっちもあんまり無理できんようになってます」
「えーと……まぁ、つまり、治るまでは辛い事を忘れてる、ってこと?」
「そんな感じです。紺野さんが良くなれば、そのうち自然と思い出せます」
53 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:19

あさ美は腕を組んで唸る。随分と都合よく出来ているシステムだ、と思った。
理には適っている。体が疲れていると精神も疲労しやすいし、その逆も然り。精神的に
大きな傷を負った時、その出来事自体を忘れてしまうと言う話は耳にした事がある。
人間の頭は、人間に対して都合よく出来ているようだ。
幽霊になろうとそれは変わらないらしい。

ふと、あさ美は自分を振り返ってみた。
紺野あさ美。言わずもがな、女性。今年の春受験の為、北海道から上京してきた。
19年生きてきた中で辛かった事といえば、大小様々、それなりにある。
特に最近の話で言えば、受験に失敗し一浪している事が挙げられる。
その苦渋を二度と味わわない為、予備校に通う毎日だ。
浪人が決まった時は、確かに辛かった。今まで生きてきた自分の全てに不合格の
烙印を押された気分だった。
だがこうして覚えているのだから、現時点でその痛みを乗り越えているのだろう。

はて。

「……私は何を忘れてるの?」
「そんなん、言ったら意味がないです」
「そうだね。って、れいなは知ってるの?」
「知らん。でも、れなはそーいうの含めて、紺野さんのこと助けたい」

思いも寄らず、真摯な瞳が見つめてきた。
真っ直ぐな視線に、あさ美は胸が熱くなる。口を結んで、そっと微笑んだ。


じく。
左手の小指が疼く。
鈍い胎動のような疼きに、あさ美は顔をしかめた。

 
54 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:21

その矢先に、ぴぃという電子音。
驚くなと言う方が無理な話だ。

そして目の前のれいなは、あさ美以上に驚いていた。

「に゛ゃっ」

喉の奥で絞ったような声をあげ、彼女は着ぐるみの腰元に右手を突っ込んだ。
どうやらそこはポケットになっていて、中に何か入っているらしい。くぐもった音は
その中から聞こえてくる。
餌をねだる小鳥のようにぴいぴいとうるさいそれを、彼女はいささか乱暴に
引っ張り出した。携帯電話だ。ストラップがじゃらじゃらとたくさん付いていて、
どちらが本体なのかいまいち判然としない。

「うわ。もうこんな時間」

れいなは電話を操作して、軽く地団太を踏んだ。着ぐるみのせいで扱いづらいのか。
その動きがコミカルで面白い。
れいなに倣い、あさ美は室内の時計を見上げた。
思いのほか時間が経過している。少し冷や汗を掻いた。

「紺野さん、ごめんなさい」
「え?」
「れな、用事があって、ちょっと行かなきゃならん」

早口に捲くし立てる姿は、本当に慌てているようで。携帯電話をポケットにしまうも、
房となったストラップがはみ出ている。
身振り手振りを交えながら、パンダはあさ美に背を向けた。

「ま、待って!」

その背中を追って、あさ美は慌てて右手を伸ばした。尻尾を掴んで動きを止める。

「お、置いてくの!?」

いくら状況を粗方理解できたからって、れいなが居てくれたから何とか落ち着いて
いられたのだ。
必死で引きとめようとするあさ美の手を、れいなが掴んだ。
その腕から引き剥がそうとする意思を感じ、あさ美はもっと力を込めて引っ張った。
困ったように、彼女は眉尻を下げる。

「だ、大丈夫ですって。そんな時間かからんけん」
「でも……!」

ぼやけた強迫観念があさ美を急き立ててくる。
一人は嫌だ。
何をしていいのか、どうすればいいのかわからない。
自分が何をしたいのかすらあやふやなのに。

 
55 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:22

「大丈夫です。れなより偉いヒトが、あとちょっとしたら来ますから」

言い聞かせるような、優しい口調。無情にも、れいなはあさ美の手を引き剥がした。
れいなの手をすり抜けて、あさ美の手はぽす、とカーペットの上に倒れ伏す。視線も
その手を追って床に落ちた。
ごくり、と空気を飲み下す。
早鐘のように鳴る心臓を落ち着けるよう、小さく、深く呼吸をした。
落ち着け。大丈夫。この部屋でじっとしていれば平気。
れいなは何もしなくて良いと言っていたではないか。
言われた通りにしていれば――きっと大丈夫。

あさ美はしばらく何も言わないまま、静かに呼吸を繰り返していた。
そばに、れいなの気配を感じる。黙り込んでしまったあさ美を不審に思ったのだろう、
ほたほたという足音が近づいてきた。

「あの、紺野さん」
「ん……何?」

なるたけ平静を装って、顔を上げる。屈みこんだれいなと、視線がぶつかった。
微かに笑みを浮かべて、れいなは首をかしげた。

「れなは、何て呼べばいいですか?」

表情は硬い。何と言えばいいのかわからなかった故の言葉なのだろう。
その言葉に、あさ美は胸の奥底がきんと響いた。
56 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:22


じく。

「……え?」
「ヒトって、仲良くなったら呼び方が変わるんやろ?」
「……」
「れなはれーなでいいですけど。紺野さんのこと、何て呼べばいいとやろって思って」

考えといてくださいね。
そう言い残して、れいなは壁をすり抜けて行ってしまう。
呆然としたまま、あさ美はそれを見送った。

あさ美の頭に去来するのは、自分の呼び名でもなく、パンダの後姿でもなく、れいなの
言葉でもなく――。

忘れるな、とでも言うように小指が疼く。
じく。じく。
はて――何か、大切なことを忘れている。


記憶の扉は強固に閉ざされている。その音を、あさ美は確かに聞いた。



 
57 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:24

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彼女の歌は、とても綺麗だった。
例えるなら、水だ。田舎にある大きな山の中で湧く、きんと冴えた水。
澄んだ声をしているから、余計にそう感じるんだ、と思う。
その歌を遠くから聞くこともあったし、すぐ隣で聞くこともできた。
大抵の場合、すぐそばで。

放課後は学校の近くにある公園に行くのが日課で、
そこで彼女の歌を聴くのが、習慣になった。
気まぐれな猫みたいなところが少しある彼女は、だけど毎日のように公園を
覗きにきてた。
息をぜぃぜぃ切らせてへばっていると、彼女は決まって歌いだす。
ちょっとだけだよ、と秘密の歌を歌ってくれるみたいに、恥ずかしそうに。
けれどその姿は、傍から見ればとても格好いい。

彼女の歌は疲れた体に染み込んで、心の中をほぐしてくれる。
水中でマッサージされてるみたい。
彼女に直接そう伝えてみた。

「アホか」

と、軽く笑われた。

だから、あたしも笑った。


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58 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:24

がちゃん、と扉を開いた。

「はいどうぞ」
「ほいほい」

里沙は愛を家の中に招き入れる。
妙に高い声で「お邪魔しまーす」と声をあげて、愛は玄関に体を滑り込ませた。

結局、二人はあのまま里沙の自宅に直行した。
ケーキ屋さんに行こうと意気込んだ直後に、真希からケーキをもらってしまった。
しかし甘いものを食べるという目的を果たすべく、場所だけ新垣家に移すことに
したのだ。
家の中に入った途端に、肌に感じていた暑さがぐっと和らぐ。
愛の眉間の縦皺も自然とほどけた。

「やー、極楽極楽」
「何言ってんの、ほら上がって上がって」

ドアを閉めた里沙が、後ろから背中をぐいぐいと押してくる。慌ててミュールを
脱いでフローリングに上がった。
スニーカーに紐を解く彼女の横で、ミュールを揃える。
と、愛はさっと玄関を見回して、首を捻る。

「おばさんは?」
「町内会の集まりだったかな。だからリビングで食べよ」
「そやね」

里沙がたたっと小走りにフローリングを駆け、リビングに引っ込む。愛はその後を
のんびりと追った。勝手知ったる何とやら、で、この家の構造は知り尽くしている。
スリッパを履いていない愛の素足が、ぺたぺたと動く。炎天下の中歩いて汗を
掻いたのか、少しべたつくのが気になった。

「何飲むー?」

リビングに顔を出すと、里沙がキッチンで冷蔵庫を開けていた。
家の中でも変わらない声量に「元気だなぁ」と愛は一人つぶやく。

「愛ちゃんが元気ないだけでしょ。ほら、何がいいの?」
「んー……午後ティー」
「ないない」
「じゃあ烏龍茶」
「はいはい」

里沙は2リットルのペットボトルを引っ張り出して冷蔵庫を閉じる。それをダイニング
テーブルの上に置くと、今度は食器棚からグラスと白い平皿を二組取ってきた。
手際がいい。
59 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:25
しかし愛は、その流れを全く見ていなかった。
テーブルの上にケーキの箱を乗せて、蓋を開く。
中を見て、愛はうわ、と声をあげた。
箱には、モンブランとスウィートポテトが二つずつ入っていた。
愛はモンブランが食べれないので、必然的にスウィートポテトを選んで皿に載せる。

「ちょっと愛ちゃん、手伝ってよ」

里沙が唇を尖らせ不平を漏らす。その手にはフォークが二本握られていた。
愛ははたと気が付いて、顔をあげた。

「ガキさんはどっちがいい? モンブランがあるよ」
「いやいやいや……人の話は正しく聞こうねー」

言いながら、里沙も箱の中を覗き込む。毎度のことなのか、特に言い聞かせる
つもりもないらしい。

「わっ、すっごいキレーじゃん」
「後藤さんはお菓子作るの得意やけ」
「え、これ、あの先輩が作ったの!?」

里沙が驚いて頭を引く。愛は一つ頷いた。

「うん、多分。パティシエになりたいかもって言うとったし」
「かもなんだ」
「詳しくは知らんけど、このケーキ屋で見習いやってるって聞いた」
「へぇー、すっごいじゃん。おいしそー!」

里沙はモンブランを一つ取り出して、平皿の上に置く。愛はそのグラスに烏龍茶を
注いでやった。自分のグラスにも注いでから、椅子に腰掛ける。
すとんと腰を落ち着け、手を合わせて、お互いに目配せをし、

「いただきます」

 
60 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:26

綺麗にハモって、フォークを持った。
スウィートポテトにフォークを入れる。ほっくりとほぐれた欠片を口の中に放り込む。
ボキャブラリィがお世辞にも豊富と言えない愛。単純に美味しい、と思った。
向かいの里沙もモンブランを口にし、相好を崩している。

「おいしー! 愛ちゃんこれおいしいよ!」
「こっもうめーよ」

言いながら、愛はもう一口口にする。そして烏龍茶を飲む。
絶妙にマッチする、とは言い難い。苦笑して、グラスを下ろした。

「でさー、話変わるんだけど、来月どうしよっか?」

向かい側からスウィートポテトにフォークを向けて、里沙が問いかけてくる。
愛はそのまま首をかしげた。モンブランは嫌いなので、里沙のようなことはしない。

「何の話?」
「誕生日。そろそろ誕生日でしょ」
「あ、そっか」

来月――八月ももう終わりなので、あと二週間強もすれば愛の誕生日がやってくる。
しかも今年は、ただの誕生日ではない。
二十歳になる、記念すべきバースデーだ。
例年、里沙は愛の為にプレゼントを用意してくれている。律儀な彼女は愛の誕生日を、
早くなろうが過ぎようがきちんと祝ってくれる。生憎里沙は学校が始まってしまうので、
遅くまで一緒にいることは出来ないが。

携帯電話を取り出して、スケジュールを確認する。
今年は大学の友人が当日に祝ってくれるので、当日はどの道無理だった。

「ほやの、次の日が金曜やから、そっちにしよっか」
「おっけー。……何、誕生日予定あるんだ?」
「うん」

頷いて、愛はフォークを突き立てポテトを掬う。もう半分もない。大事に大事に
食べなければ。
そっと口を開けて、入れる。

さっぱりとした口当たり。薩摩芋の欠片が少し残る位に潰してあるのだろう。
素朴で飾り過ぎない味わいが、むしろ好ましい。舌の上で柔らかく溶け、口中に
優しい甘さがふわっと広がる。
やはり、美味しい。
十分に味わってから飲み込む。
体の中心にある重みが少し薄れていくのを感じて、愛は一息ついた。
疲れた時には甘いもの。全く持ってそのとおりだ。

61 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:26

ふと、視線を感じた。
顔を上げる。里沙がじっとこちらを見ていた。

「どーしたのガキさん」
「愛ちゃん、やっぱ、なんか変」
「変じゃないよ。何言ってんの」

やけに真剣な表情だった。腕を組み、こちらを睨み付けんばかりに見つめている。
何だか気に入らなくて、愛は眉根を寄せる。
里沙はじっと、愛の瞳を覗きこむ。フォークを止め、それを睨み返した。

「何」
「愛ちゃん、まだ待ってるの?」
「何を」
「とぼけないでよ! 愛ちゃん、この時期になるとおかしいんだから!」

ばん、と机を叩いて里沙が吠える。あまりの剣幕に、愛は身を引いた。
そっと視線を皿の上に落とす。
愛はぼそぼそと口を開いた。

「別に……待ってない」

スウィートポテトのくずをフォークの先で潰しつつ、里沙を窺う。
里沙は微動だにせず、愛をじっと見つめていた。
首を引っ込めて、いいわけじみた言葉をぼろぼろ漏らす。
自分の口から勝手に零れていくのを、斜め上から見ている気分だった。

「あそこにだって、誕生日の夜にしか、行った事ない」
「だから! それが待ってるって言うのー!」

里沙は興奮して立ち上がる。愛もつられて立ち上がってしまった。
烏龍茶の入ったグラスが大きく揺れた。

「ちょ、ガキさん、落ち着けって!」
「落ち着くのは愛ちゃんだよ!」
 
62 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:27


「死んだ人を待ったって、しょうがないじゃん!」


 
63 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:28

驚くほど静まり返る、リビングの中。里沙が荒く息をつく。
烏龍茶の表面に、ゆらゆらと波紋が揺れている。その輪が消えかける頃、里沙は
視線を右に左にと動かし始めた。

愛は無言で座りなおす。
グラスを持って、烏龍茶をぐいと煽った。ごくごくと、一気に飲み干していく。

「……ごめん」

空になったグラスをテーブルに叩きつけたら、里沙が小さな声で謝った。
彼女に座るよう促す。

「いいよ」

愛の口調に、彼女はびく、と肩をすくませた。
内心舌打ちをして、自分を叱咤する。
もうすぐ二十歳になるんだから、と。

「ガキさんの言う通りや。今年は大人しく友達に祝ってもらお!」

纏わりつく重たい空気を振り払うよう、明るく笑って見せた。
上手に笑えたかどうかはわからない。けれど里沙がほんのりと笑ってくれたので、
失敗はしていないだろう。
里沙がモンブランを食べ始めた。
一つ頷いて、愛もフォークを持って、スウィートポテトを切り分ける。
半分になったそれに、口を大きく開けて食らい付く。

その柔らかい甘さが、身を切るように切なく感じられて。
心の中で、密かに泣いた。

 
64 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:28
 
65 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:32
更新終了。
作品の世界観を壊さず、且つ更新ペースを上げたいです。
でないと3月までに終わらない……orz

そして、今更ながら訂正です。
>>11 の下の方で、紺野さんが『もちろん自分が今18歳である事』となってますが……
すみません『19歳』の間違いですすみません申し訳ない。
 
66 名前:* 投稿日:2007/01/09(火) 09:35
>>48 名無飼育さん 様
レスありがとうございます。
登場人物は、もう少しだけ増える予定です。
破綻しないように頑張りますので、応援よろしくお願いします。
67 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/09(火) 20:19
丁寧な文章で、読みやすいです。
次の更新を楽しみにしています。
68 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:12
 
69 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:13

--------------------


正直、その日は腐っていた。
何をやっても上手くいかない、頑張っても成果が出ない、楽しいことも楽しくない。
誰だってそんな時がある。
そしてその日がそうだった。

自分を罵り、講師を謗り、友達を羨み、家族を妬み、親友を僻み、
能力とか希望とか天才とか夢とか頂点とか才能とかそういう感じの言葉を呪いながら、

でも本当は。
自分が不甲斐ないことが、嫌だった。
これしきのことで挫けそうになる自分のことが、一番嫌だった。

頭の中でぐるぐると回り続けている、理想の自分。
それに振り回されている、現実の自分。
それに嫌になって教室の机にへばりついている、今の自分。
踊らされてるのは、誰だろう。

自分で蒔いた種が自分の周りで垣根を作って、その迷路に迷い込んでしまったような。
そんな時。
そういう時に引っ張ってくれるのは、やっぱり彼女の歌だった。


「アンタが力をくれたんよ。ねぇ、――?」

力強い彼女の声に、精一杯応えたい、と思った。


--------------------
 
70 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:14

「うぉーい、起きてるカー?」

その一言で、目が覚めた。
一気に焦点が定まり、あさ美の視界は活気付く。気が付けば、サングラスをかけた
女性がこちらの顔を覗き込んでいた。
真っ黒い大きなレンズが鏡となって、あさ美の呆けた顔を映し出す。

「ひぁっ!」

慌ててその場から飛び上がる。あまりの驚きで咳き込みそうになり、あさ美は
胸元を押さえた。
あさ美の意識は、日頃から空を飛んでしまうことが多い。取り立てて珍しい事では
なく、眠りこけていたわけでもない。
だが、少々ぼうっとし過ぎていたらしい。突然の来客にもしばらく気付かなかった。
そっと周囲を窺う。れいなが去ってからそれほど時間は経っていないと思われた。
彼女は、いつの間に現れたのだろう。
女性は目元に両手を添え、サングラスをしたまましくしくと泣き真似をしていた。

「そんなに驚かなくたって、いいじゃないカー」
「す……すみません」

わざとらしく大袈裟に震えている声に、顎を引いて謝罪する。
しかし、どうにも気持ちが篭りきらない。滑稽なくらい言葉が尻すぼみした。
それはきっと、この場に漂う空気のせいだろう。日曜の昼前のように締まりのない
雰囲気を、目の前の女性が必要以上に醸し出している。
女性は手を顔から離すと、その白い顔をあさ美に向けた。大き目のサングラスの
下で、にかっと歯を見せ笑う。
闊達として中性的な印象を受ける、とても端正な顔をした女性だった。同性でも
見惚れるような大人びた顔立ちをしている。色白い肌がとても綺麗だ。

だが、それ以外は真っ黒だった。
着ぐるみのせいで。

71 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:15

「あぁ、あなたが……れいなより偉い人」

何だか妙に納得して、あさ美はぽつりとつぶやいた。
女性は嬉しそうに笑い、その場で一回転くるりと回って見せた。

「お? わかるカー?」
「えぇ、なんか」

だってカラスだし。

そう。彼女はカラスの着ぐるみを着用していた。
おそらくはとてもスレンダーな体格をしているのだろうが、でっぷりとした着ぐるみが
それを覆い隠してしまっている。コミカルな目をしたカラスの黄色いくちばしが、彼女の
額のところにあった。美しい顔立ちが全くもって台無しである。カラスの胸元に付いた
真っ赤な蝶ネクタイが、無駄に印象的だ。

パンダとカラス。
あまりにも強烈な共通点を、どうして無視することが出来るだろう。
先程とは違う理由で呆けるあさ美。それには気付かず、女性は大きく頷いた。

「そう、お察しの通り。れいなの上司やってます、吉澤ひとみです。カー」

あさ美に向けて右手を伸ばし、彼女は笑った。
顔立ちの割りに、少年のような笑い方をする人だった。中性的なイメージは、彼女の
その笑い方によるものが大きいだろう。
律儀にかぁかぁと鳴き真似をするのは、きっと彼女なりの茶目っ気だ。先程はまでは
泣き真似をしていたというのに。まさしく、今泣いたカラスだ。

差し出された手を、あさ美は控えめに握る。手と言っても着ぐるみなので、羽を模した
フェルト地越しの握手だ。

「紺野あさ美です」
「オーケー。れいなからどこまで聞いてる?」
「えぇと、それほどたくさんは聞いてないです」

あさ美は羽から手を離し、首を振る。
72 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:16
正直なところ、全然わからないと言った方が正しい。
れいなから受けた説明はあくまでも必要最低限であり、ようやく理解が状況に
追いついた、といった具合だ。れいなの上司というくらいだから、もっと詳しい事情を
窺えるだろう。
手短に話すと、ひとみは小さく頷いた。

「ん。わかった。とりあえず座ろうカー」
「はい」

促されるまま、あさ美はベッドの縁に腰掛ける。その隣に、「よい、しょ」とひとみが
落ち着いた。着ぐるみのお尻の部分がやけに大きいせいで、いささか座り難いらしく、
時間がかかった。
近くで見るとますます弛緩してしまうような、カラスの顔。
ひとみはその下で、困ったように眉根を寄せた。

「あー、マジ動き辛ぇー。もっとマシなの選んでくりゃ良かったかな」
「あの、何で着ぐるみなんですか?」

本当はれいなにも聞きたかったのだけれど、彼女はどこかに行ってしまったから。
これ幸いと、あさ美は彼女に問いかけてみた。

「あぁ、や。なんつーのかな……事務所の趣味?」

あさ美は首を捻った。
意味がわからない。

「や、詳しくはまた今度。でもかわいーっしょ?」

苦笑しながら、ひとみは小さく腰を振って見せた。着ぐるみのたっぷりとしたお尻が
それに合わせてたふたふと揺れて、確かに可愛らしい。
あさ美が微笑んで小さくうなずいて見せると、ひとみも笑った。

73 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:17

両方の手を使って器用にサングラスを外し、ひとみは話し始める。

「とりあえず……そうだな。あたしらのことからね」
「はい」

あさ美の目の前に、すっと一枚の紙片が差し出された。微かにあさ美は目を見開く。
一体どこから取り出したのか。
目線で問うと、くっと顎先でその紙を示される。あさ美は恐る恐るそれを手に取った。
長方形の紙の上にいくつかの文字が綺麗に整列していた。キャッシュカードほどの
大きさで、この紙片のようなものはたくさん目にしたことがある。

『ハロー・プロダクション 営業二課マネージャー 吉澤ひとみ』

黄色いポップなロゴの隣に印刷された文字列を目で追い、あさ美は顔を上げる。
名刺だ。

「肩書きは置いておくとして。ハロー・プロダクション、ま、ハロプロってのが言い
易いけど」

名刺を翼の先で触れながら、ひとみはつらつらと語る。

「そのハロプロってのが、幽霊を管理する事務所なのよ」
「幽霊を管理?」
「そ。あっちゃこっちゃに幽霊がいられるとさ、実際生きてる人に迷惑かけちゃう
場合もあるわけさ」
「はぁ」
「そういう事が無いようにきちんと管理しよう、っていうのがハロプロ」

あさ美は口を結んで、微かにうなる。いまいちわかりにくい。
漠然としたイメージなら浮かぶかもしれない。確かに、幽霊がたくさんいるというのは、
現実にはよろしくなさそうだ。
だけど何故、管理する組織が生まれる必要があるのだろう。
幽霊に取り憑かれて死亡した話なんて、ただのフィクションではないのか。
今は幽霊だけれども、生身の人間であるあさ美にとって、その辺りの理由が上手に
結び付けられなかった。
あさ美の考えてることがわかったのか、ひとみは苦笑する。

「この辺はね、ちょっと、めんどくさーい説明になっちゃうからさ」
「面倒くさいんですか?」
「めんどくせーよぉ? 自然界がどうとか、魂と肉体のバランスがとか、聞きたい?」
「えー……」

あさ美は閉口する。いきなり壮大な話になってしまった。
丁寧に説明されても、確かにちょっと追いつけないかもしれない。

「だからね、そこははしょります」
 
74 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:18

鼻息一つで、ひとみはその話題を吹き飛ばした。

「はしょるんですか」
「おう。そーいうものなんだ、って思ってください。とにかく、ハロプロっていう団体が
あるわけよ。んで、あたしとかれいなは、そこに所属してんの」

あさ美から名刺を取り上げて、両の翼で挟んだ名刺を丸め込むようにくしゃくしゃと
動かしている。
よくわからないけれど、多分名刺をしまっているのだ。
しきりに羽を動かしたまま、ひとみは強引に進めた。

「で、あたしのいる営業二課ってのが、生霊とか守護霊とかを担当するのね。コンコンは
どっちにも当てはまるけど」
「そう、なんですかね」

無自覚且つ知識が皆無なので、曖昧にしか頷けない。
言葉がつっかえたのは、単に戸惑っただけ。いきなりフレンドリーに呼ばれ内心驚いた。
ひとみは構わず続ける。

「そうなの。そこで大事になってくるのがその……赤い、糸」

そう言って、ひとみは翼をびっと伸ばして、あさ美の左腕を示した。名刺はどこかに
消えていた。
黒い羽先に導かれるように、あさ美は自身の手を見下ろした。そこで、赤い糸が
微かに揺れている。

「その糸は霊と宿主とを繋いでて――ま、この場合はコンコンと高橋愛、だね。二人を
繋ぐと同時に、糸はその関係も表してる」
「……関係?」
「そう。コンコンと、高橋愛の、関係」

ひとみが神妙な顔をして頷く。
やけに真剣なその表情に、あさ美の表情も強張った。
だけど、ごくりと喉を鳴らし奥歯を噛み締める。何を言われても、もう驚かない。
小さな覚悟をあさ美の顔から読み取ったのだろう。
ひとみは心もち顔を近づけた。

「赤い糸の二人は……」

翼を口元に添えて、彼女は口を開いた。

75 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:18

「赤の、他人」
「――は、い?」
「なんつってー! はっはー!」

炸裂するような笑い声。黄色いくちばしが天井の方を指して、小刻みに揺れている。
ひとみは黒い豊満な腹を抱えて、大きく豪快に笑っていた。
こてんと首を横に倒して、あさ美は疑問符を浮かべた。
完全に置いてけぼりだ。

「もう、冗談はやめてください」
「嘘、嘘。冗談じゃないよ。ごめんごめん」

むくれるあさ美の頭を、カラスの羽があやす様にぽんぽんと叩く。初めて着ぐるみが
憎たらしいと思った。
それにしたって、動き辛いと言いながら、随分と器用に着ぐるみを扱っているようにも
思えるけれど。あさ美の頭を追い回す翼の動きは淀みない。
体を反らしてその手から逃れる。あさ美が少しばかし睨みつけると、ひとみの目尻に
溜まった涙が微かに煌いた。

「だけどね。大事なことなんだ」

笑いながら、ふと、ひとみがつぶやく。
形をしっかりと保ったまま耳に届くような声だった。
あさ美は思ったままを尋ねる。

「……糸が、赤いことがですか?」
「うん」

あさ美は糸を見下ろす。
先程よりも、嫌悪感はそれほど感じなかった。時間の経過とともに、糸の赤さにも
目が慣れたのかもしれなかい。
そう思えば、凝視するのもそれほど苦ではなかった。糸は、ふらふらと素知らぬ顔で
揺れている。

「コンコンにね。一個だけお願いがある」

その声に振り返り。
真正面でぶつかったひとみの視線に、あさ美は息を呑んだ。

76 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:19

「その糸に何か異変があったら、必ず教えて欲しい。れいなでもあたしでもいいから」

低くしなやかに響く、ひとみの声。
その言葉は部屋中に散らばることなく、あさ美に真っ直ぐ向けられていた。
あさ美の瞳の中心をしっかりと捉えて、もう一度ひとみは念を押した。

「絶対に、教えてね」

あさ美は首肯する。

「――はい、わかりました」

異変とは、具体的に何を指すのかはわからない。けれど、彼女の口調には有無を
言わせぬ雰囲気があった。
あさ美の首が縦に動いたことに安心したのだろう。

「ぃよっし。じゃあ」

一息吐くと、ひとみは着ぐるみのまま勢いよくあさ美の腰を抱いた。

「しばらくよろしくだカー!」
「わっ」

思わずあさ美は身をすくめる。着ぐるみの感触は悪くはなかったが、そもそも過剰な
スキンシップに慣れていない。
しかし、ひとみは気にせずあさ美の頭を撫でる。翼の動きが大きすぎるのか、着ぐるみの
布地があさ美の視界を黒く覆ってしまう。

「やめ、やめてください〜」

彼女の腕の中でもがいてみるが、単なる足掻きにもならなかった。
ひとみは一向にやめようとせず、ぐりぐりとあさ美の頭を撫で続ける。

「よろしくお願いします、だろぉ?」
「よ、よろし、くお願、いします」

がくがくと頭を揺らされて、あさ美は舌を噛みそうになった。黒い羽の隙間から、
ひとみが笑っているのが見える。
本当に憎たらしいカラスだ、などと思っているとこちらも何だか妙に楽しくなってきて、
あさ美も自然と微笑んでいた。

77 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:21

「今日はもう休んでいいよ」

ふかふかとした胸元に耳をくっつけて、ひとみの声を聞く。
心地よく響くその声に、急に睡魔が覆いかぶさってきた。
身体から力が抜けていく。あさ美はそのままひとみにもたれかかる。
その体を、ひとみはそっと片方の翼で支える。

「起きたばっかだしねぇ、疲れたろ?」

螺旋を描いて沈んでいく意識に、ひとみの声が穏やかに溶ける。
黒い羽のせいで視界も暗く、あさ美の意識はするすると滑っていった。

「おやすみ」
「はい、おや、すみなさ……い……さん」

虚空を掴むように伸ばされたあさ美の左手を、ひとみがそっと握った。
彼女の名前を上手に喋れたかもわからぬまま、あさ美は眠りに落ちていく。

柔らかく目を細め、ひとみはあさ美の赤い糸を見つめていた。

78 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:22

--------------------


     『あのさ、何が好き?』
     『は、はい?』
     『そんなびっくりしないでよ。食べ物で何が好きか聞いてるんだけど』
     『あ、はい、はい、食べ物ですか?』
     『そう。甘いものとか』
     『えー……甘いものなら大抵好きですけど』
     『なんか、具体的には?』
     『えぇと……あっ、さつまいもとか好きです!』
     『――ぶっ、あははは! それ野菜じゃん!』
     『で、ですから! さつまいものお菓子とか、好きなんです……』
     『あははっ、あーびっくりした。じゃ、覚えとく』


--------------------

79 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:23

はっと、真希は顔を上げた。その顔を、橙色の光が照らす。
少し眩しくて目を細めた。カーテンの隙間から零れるオレンジ色の光。依然として
鳴り続ける電子音に、溜息を吐く。

どうやら、真希は少し眠っていたようだ。握りこんでいた手のひらは僅かに汗ばんで
いたが、身体が冷えていた。冷房のかけられた室内でじっとしていた為だろう。僅かな
時間の経過を感じた。
真希は体を起こす。
ベッドに上半身だけ預けるような体勢だったので、身体が凝り固まっていた。

「なんか、変な夢見た。ような……」

ぐぐっと体を伸ばし、一人呟く。何を言ったのかすらすぐに忘れてしまうくらい、意味を
成さない呟きだった。
三脚の椅子に座りなおし、真希はベッドの上に目を向けた。室内には、西日の色が
濃密に満ちていた。白いシーツも、夕暮れの空気にうっすらと染まっている。窓に
かかったカーテンを透かして、橙色が大まかな時刻を告げていた。
もう一度、真希は溜息を吐く。
もちろん、あさ美は眠ったままだ。寝て起きたら彼女が目を覚ましてました、なんて事が
起こるわけもない。
そういう期待を真希が抱いているかどうかは、別として。

面会時間ぎりぎりまでここに居たいが、そうもいかない。今のあさ美は療養するのが
仕事だし、真希にだってやらねばならないことはある。
傍らのバッグを引っ掴んで、立ち上がった。

「ごとー、帰るね」

少し屈んで、椅子を所定の位置に戻す。床と椅子の脚が擦れる音が、思ったより
大きくて耳に障った。
一人って寂しいなと思いながら、背を伸ばす。
と、室内に満ちるオレンジ色の中で、そっと黒い影が動いた。
 
80 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:24

「……?」

室内を一瞥する。
あさ美の寝ているベッドと、その隣にもう一つベッド。そのベッドを使用していた患者は
数日前に退院したので、この部屋には真希とあさ美しかいない。
横たわっているあさ美は、小さな呼吸を繰り返すだけ。自ら寝返りを打つことはない。
いつもと変わらない、夕暮れの病室だ。

そして、その室内を覗き込むように、カーテンの向こうに小さな黒い影が佇んでいた。
シルエットは小さく、とても人間の大きさではない。
影の形を視線でなぞると、真希は「あっ」と声をあげた。

そこにいるのは、猫だった。
カーテンにぼんやりと映っているのは、猫の影だ。
窓の桟にでも座っているのか、ちょこんと腰掛けて、おそらくこちらの方を向いている。

「お前かぁ」

額に手を当てて、真希はつぶやいた。

その猫は、いつも窓の外から部屋の中を見つめている。何故かはわからないが、
真希があさ美の見舞いに来ると、大抵の場合そこに居るのだ。
真希は毎日訪れるわけではないし、見舞う時間帯もまちまちなので、遭遇しない日も
ある。もしかしたら、猫は連日この病室を覗いているのかもしれなかった。
真希はじっとそのシルエットを見つめていた。真希が見ているのには気付いているの
だろうけれど、室内に入ろうとする素振りは見せない。窓を爪で引っ掻いたりもしない。
その猫はただ外に居て、室内を見ているだけなのだ。
例えカーテンが開け放してあっても、猫は臆せずやってくる。
何度か見かけた真っ黒で小さな体を、真希は良く覚えていた。
 
81 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:25

「……ま、黒猫だからって、どうってわけじゃないだろーし」

そっとつぶやき、窓に背を向けた。
そのまま歩いて、入り口の引き戸に手をかける。

「またね、紺野」

肩越しに振り向いて、眠ったままの彼女に声をかけた。
返事はない。
少しの間立ち止まっていたが、やがて真希は病室から出て行った。
閉じる引き戸の隙間から、猫が尻尾を一度だけ振っているのを見た。

 
82 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:25
 
83 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:26
更新終了。

頑張れ自分。
84 名前:* 投稿日:2007/01/18(木) 13:31
>>67 名無飼育さん 様
レスありがとうございます。
お褒めに預かり感無量です……!!
よろしかったら、もうしばしお付き合い頂ければと思います。
85 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/20(土) 23:52
更新お疲れ様です。
赤い糸のナゾが、とても気になります!
いつも楽しみにしています!!
86 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:36
 
87 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:36


その部屋は、全てにおいて白かった。

 
88 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:37

四方を囲む壁や床や天井はもちろん、壁際に寄せられた小さな机も、寝台も白い。
照明器具は無かった。だが、壁そのものが淡く発光しているかのように、室内は
茫と明るい。その光が、家具の白さを一層と際立てていた。
部屋には入り口らしきものが見当たらない。全方位から照らされる光によって、
全ての輪郭がぼやけてしまい、扉と壁の継ぎ目が見えないのだ。
まるで、『白』しか存在を許されていないような、そんな空間。
その中で、ゆっくりと薄い影が波打った。

部屋の中央に佇む、机から引き離された真っ白な椅子。材質は木ともアルミとも
窺えない。
その椅子に、彼女は座っている。

白以外の全ての色を排除した世界でも、彼女はくっきりと輪郭を保ち、その肌は
あまりにも瑞々しい質感を持っていた。外に出れば透き通る程の、と評される首筋も、
皮膚の下に流れる血流を力強く感じる気色だ。滅菌衣(もちろん、白い)に包まれた
胸元から、しっかりとした脈動が聞こえてきそうな気さえした。
彼女が頤を上げる。柔らかな栗毛が流れ、光を弾いて煌いた。滅菌衣が擦れ、光の
僅かな死角を影が繕う。その影すらも、すぐに周囲の光によって掻き消されてしまった。

全ての色を削ぎ落として残ったのは、白。
肌色、茶色。
そして――。

 
89 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:38

かくん、と首を後ろに倒して、彼女は言った。

「ちょー、暇……」

艶やかな朱唇から零れる声は、白い空間に紛れてしまった。


 
90 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:39

自分は何をやってるんだろう。

薄暗い部屋の中で、プロジェクターが壁に不可解な表をのっぺりと映し出している。
何とかとかんとかの割合がどうたらこうたら。マーカーで示しながらゆったりと説明する
重役。あいつの名前はなんだったっけね。人がくるくるくるくる入れ替わる。今月の
浮幽霊の検挙数ナンバーワンは誰々でした。はいおめでとう。先日某市交差点事故の
報告書によると。何々氏の守護霊は何々氏に。その他三件霊の異動が。より良い
マネージメントの為には一体何に留意すべきか。来月の目標うんたらかんたら。今
現在自分たちに求められているのは一体何なのか。大事なのは何か。各自しっかり
胸に刻むように。
お疲れ様でした。

会議室を逃げるように飛び出して、「知ったこっちゃないな」とひとみは吐き捨てた。
 
91 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:39

ハロー・プロダクション。通称ハロプロ。
幽霊を管理する会社で、創業十年弱。この業界では中堅くらいだ。設立以後
しばらくは栄華を極めたようだが、最近は伸び悩んでいると聞く。が、現物主義の
世界と違い、まともな給料制度が存在しないのだから、あくせく働いても仕方が
ない。こんな会議を毎月毎週開いたって、自分の懐事情はちっとも潤わない。
いつだって氷河期だ。
まあ、そもそも幽霊に貨幣など必要ないから、別に不満もないけれど。

「ただ、ちょっと疲れんだよなぁ……」

溜息とともに吐き出して、スーツのポケットから携帯電話を取り出す。さすがの
彼女も、朝っぱらから着ぐるみは着ないらしい。細身の白いスーツが、すらっとした
身体のラインを綺麗に際立たせている。あさ美が感じていたように、洗練された
スタイルだった。力強くもしなやかな女性らしさが、所作の端々に感じられる。

サブ画面で時間を確認する。通常始業時刻までは、まだ少し余裕があった。
汗水かいて働いたって、(個人的には)意味がない。
つまり、時間外労働を果敢にこなす必要もない。

「ふむ」

それならば、少々暇つぶしでも。
ひとみは書類を抱え直す。
だがその拍子に、彼女の手元から資料の紙が数枚滑り落ちてしまった。

「やっべ」

はらはらと舞い落ちる紙を目線で追って、ひとみは屈みこんだ。手元の束はしっかり
抱え、手際よく資料を回収する。
 
92 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:40

「何してんの?」

三枚目を拾い上げたところで、後ろから声をかけられた。振り返れば、良く見知った
人物がそこにいた。
黒いスーツをさりげなく着崩した、気だるい雰囲気の女性。年はひとみと同じ位に
思える。左手をポケットに入れ、ひとみを見下ろしていた。タイトなスカートから伸びた
脚が、男性を釘付けにするとかしないとか。
キツめな印象を受けやすいその目つきが、呆れながらひとみを見つめている。
ひとみは特に気にもせず、

「廃品回収、かな」

資料を持ったままの手を軽く振り上げ、「おす」と声をかける。女性はひとみのその
手首を右手で掴み、ぐいと引っ張りあげた。

「もー。危うくよっちゃん蹴っ飛ばすとこだったよ」

鼻にかかったような声が、楽しげに跳ねている。
蹴っ飛ばそうと思った、という風にひとみは解釈した。間違ってはいないだろう。

「いやー、朝からミキティのインステップは受けたくないわ」
「大丈夫。どっちかっていうとインサイドだから」
「どっちみち蹴んのかよ」

軽口を叩きあいつつ、力を借りてひとみはすっと立ち上がる。「サンキュー」と声を
かけると、目の前の彼女は僅かに微笑を深くした。
ひとみがミキティと呼んだ彼女は、藤本美貴という。働く部署は違えども、ひとみと
同じようにハロプロに勤めている女性だ。

手を離し、ひとみはスーツの裾を直す。
と、今度は目の前の彼女が屈みこんだ。

「これも廃品?」

 
93 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:41

にやにやしながら、美貴。その手には一枚の資料がぴらぴらと揺れていた。拾い
損ねた、最後の一枚だ。
見覚えのある紙面に、ひとみがさぁっと顔を青くした。

「いや、違う違う。ゴメンそれ超重要」

資料を破かないように、しかし引っ手繰るように資料を奪う。抱え込んだ十数枚の
紙切れより、その一枚はよっぽど重要なものだった。
破れた箇所がないかを確認してから、書類をファイルの一番奥にしまう。口元に
笑みを蓄えたまま、美貴はそれを見ていた。
その視線を避けるように、ひとみはくるっと身を翻す。

「ミキティ、早くね?」
「そうかな? いつもこんぐらいだよ」

歩き始めると、美貴も一緒についてくる。ひとみのパンプスと美貴のローヒールが、
等間隔にコツコツと鳴った。足音は営業部の方へと続いていく。
ひとみが勤めているのは、営業二課。対して、美貴が勤めているのは営業一課。
二つの部署の差異は、取り扱う霊の種類の違いにある。が、幽霊を管理するという
基本構造は一課も二課も変わらない。営業部として、同じ方向に詰所がある。

「新しい担当?」

先を行くひとみに、何気ない声が追いすがる。
歩む速度は変わらずに、ひとみはちらりと美貴を窺った。

「見えた?」
「ちらっと。何その顔。落としたのが悪いんじゃん」
「や……まぁ、いいや」

ひとみは言葉を濁す。美貴は眉根を寄せたが、何も言わなかった。
94 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:42

「で? よっちゃんが担当すんの? アンタそんな余裕あったっけ?」
「誰かさんが手伝ってくれれば、こっちもちょっとは楽なんですけど」
「知らねぇよ。よっちゃんが一課にくりゃいいじゃん。こっちのが楽だよー?」

始まったか。ひとみは内心溜息を吐いた。
彼女は事ある毎に、こうしてなんやかんやと適当に理由をつけて、ひとみを一課に
引き抜こうとしている。何度も断っているのに、顔を会わせる度に誘われるのだ。
今となっては、一種の儀礼と化していると言ってもいいだろう。同じやり取りを何度も
繰り返しているうちに、一連の流れとして定着してしまった。
誘う側も断る側も、華麗に怠惰にキャッチボールをするだけだ。

「いいよ。あたしにゃ向かないし。お断りするわ」
「そ。気が変わったら教えてね」

おざなりな返事にも、美貴は気にした様子もない。鼻歌すら歌いだしそうな雰囲気に、
やや呆れてしまった。
二人の足音は淀みなく進む。
始業前とはいえ、営業部に続く人の流れが結構あった。幽霊を相手にするこの
仕事は、いささか時間で区切りにくいのだろう。朝早くから仕事に取り掛かる人も
いれば、定時で終われない者だっている。
よくやるよな、とひとみは思う。残業代も時間外手当もつかないのに、皆が身を粉に
して従事しているのだ。かくいうひとみも、休暇中に呼び出されることがたまにある。
一課のホープである美貴などは、休みがあるのかどうかも謎なくらいだ。

それでも皆、文句一つも言わない。おそらく、隣を歩く美貴でさえ、苦には思って
いないだろう。

「ほんと、よくやるよな」
「何か言った?」
「いや、何でもない」

言いながら、ひとみは角を左に曲がる。
ローヒールの足音が止まった。
 
95 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:43

「ちょっと、よっちゃん? どこ行くの?」

営業部とは違う方向へと曲がったひとみの腕を、美貴は慌てて掴む。ひとみの
行動が思いも寄らなかったのか、ポケットに入れていた左手で咄嗟に引き止めて
しまったようだ。

「暇つぶし。まだ時間あるし」

さらっと言いのけて、ひとみは美貴の腕を振り解く。美貴が目を見開いて、ひとみと、
その後ろに伸びる道の奥を交互に見つめた。

奥まで真っ直ぐ伸びたその通路の先は、薄暗くて見えない。分厚い不可視の壁が
通路を阻んでいるかのように、底知れぬ存在感が肌を圧迫してくる。別れ道の根元に
立つ二人にも届く、透明で明瞭な違和感。
この会社の、一番深部に続く道。この先にある部屋を、ハロプロで知らない者は
いない。
ましてや彼女が。美貴が知らないわけがない。

心の内で苦笑して、ひとみは美貴を伺う。彼女の目が白黒していた。
その瞳を至近距離で覗き込み、振り払った美貴の左腕に、そっと触れた。

「一緒に、来る?」

あえて、彼女の耳元でささやくように聞く。
美貴の体がさっと強張った。

「い、かないっ」

羽虫から逃げるかの如く、今度は美貴がひとみの腕を振り払う。彼女は僅かに
後退し、ひとみから距離をとった。
左腕を抱え込んで、ひとみを睨みつけてくる。鈍く光る錆びたナイフのような視線。
そんな目で睨んでも、何も切れやしないのに。
96 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:45
誰もが竦むようなその眼光。しかしひとみは、いささか残念そうに溜息を吐いた。
吐息が空気に溶け込む頃、美貴が口を開く。

「よっちゃんは、意地悪だ」
「……」
「美貴は、行けない」

まるで、ガラス細工に触れることを恐れているような、か細い声。
その言葉のニュアンスを、ひとみは正しく理解する。

「……わかってる」

すとんと落ちてきた落胆を飲み込んで、諦念の言葉に代えた。
美貴の瞳は、もうこちらを見ていない。床に落とされた視線が、頼りなくさ迷う迷子を
思わせた。伏せられた瞼に愁いが翳っている。
ひとみは笑って、彼女の茶髪を軽く梳いた。

「悪かった。ま、安心しろって。たまには顔見ねーと、な?」
「……うん」
「何か伝言ある?」

美貴は首を横に振る。
滑らかな髪から手を離して、ひとみは美貴の頭を二度ほど軽く叩いた。

「じゃ、よろしくやってくるわ……ぃてっ」
「やんなくていーよ」

にやりと笑ったら、脛を蹴られた。インステップで。

「よろしく、言っといて」
「わかった、わかった」

美貴が上目で睨んでくる。眉を下げて、ひとみは僅かに微笑んだ。こういう風に
見られるのは、嫌いじゃない。
満足げに頷いて、ひとみは踵を返した。一度振り返って、彼女に軽く手を振る。
美貴は右手で振り返した。左手はポケットに収まっていた。
 
97 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:45
ふん、とかはん、とか息を吐いて、ひとみは視線を戻す。

明かりがついてもなお暗い、この通路。
とても奇妙なことに、ある一定のラインを越えると、押し返してくるプレッシャーははたと
消えてしまうのだ。さらにそのまま進んでいくと、今度は奥へと引っ張り込まれるような
引力が発生する。まるで手の平を返すように、くるっと力のベクトルが変化するのだ。
故に多くの人は、通路に入ればもう戻れない、と思うだろう。
だから誰もが、近寄らない。

ひとみはその重苦しい空気をものともせず、さくさくと進む。
足腰に神経を張り、丹田に力を込めて歩く。一歩一歩、ブレーキを踏むように。

「まだ早かったかなぁ……とと、あんま、引っ張んなって」

不可解なつぶやきに、誰かが返事をするわけもない。
ひとみは前を見据えて、しっかり歩いた。
 
98 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:46

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     変な世界。
     セピア色、じゃないけど、全部の色が褪せてしまったみたい。
     擦り切れたフィルムの映画を見ているような。
     昔のカラーテレビはこんな感じだったのかも。
     折角晴れてるのに、何だかもったいないな。

     走ってる。
     ……ここ、どこだっけ。覚えてないや。
     そうそう、この道を曲がった方が、近道なんだよね。
     ……どこへの?
     とりあえず急がなきゃいけなくて、いや、急ぎたいんだ。私が。
     待たせたくないんだ、な。
     ……誰を?

     とにかく色々焦ってたら、曲がってきた車に気付かなかった。

     あぁ。
     もったいない。


--------------------
 
99 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:47

あさ美ははた、と目を覚ます。
その場できょろきょろと辺りを見回して、胸を撫で下ろした。

「今日は部屋だぁ……」


愛の守護霊になって、数日が経った。カレンダーもめくられ、一週間ほどが過ぎた。
あさ美は毎日、何をするでもなく過ごしている。いや、毎日と言うのは、少し語弊が
あるかもしれない。
どうやら霊という状態は常に不安定で、生きている人間のように、生活リズムが
ある程度作られている訳ではないらしい。つまるところ、睡眠時間がまちまちなのだ。
二日間ずっと眠っていたこともあるし、はたまたその逆もある。かと思えば、いきなり
ふと眠りに落ちて、その数十分後に起きた事もあった。

そして覚醒する時は、必ず愛のそばにいる。
そのおかげで、目覚めた時に見知らぬ場所にいた、なんて事が何度もあった。
ある時はいきなりホラー映画の鑑賞中に目覚めてしまい、本気で悲鳴を上げて
しまった。この感覚は未だに慣れない。
今日はこうして、愛の自室で目覚めたからまだ良かった。

毎回必ず愛の近くで目覚めるのは、おそらく守護霊のシステムとして、あらかじめ
糸に組み込まれているのだろう。というのが、ここ数日でのあさ美の推測だ。
ちらりと視線を左手に落とす。いつものように、赤い糸はのんびりと揺れている。
大分その色味に落ち着きが出てきた、というより、あさ美が見慣れてきたのだろう。

「異常なし」

糸には、ちぎれもほつれも見当たらない。
あさ美の口元に笑みが綻んだ。
 
100 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:48

「愛ちゃんは、と……」

糸が伸びる先を目で追ったら、がちゃん、と扉が開く音がした。
愛の部屋のドアを突き抜けた向こう側へ、糸が伸びている。糸をたどって、するりと
顔をドアから出した。
こういう幽霊らしい動きも、躊躇せずに出来るようになった。なんだか複雑だけど、
便利だ。

「行ってきまーす」

そんな言葉とともに、愛の姿が玄関の向こうへ飛び出していく。どこかへ出かけるの
だろう。彼女の母親がそれに返事を返し、ドアがゆっくりと閉まっていった。
しばし黙考して、あさ美は完全に愛の部屋から抜け出した。
そのまま糸を手繰るように愛を追って、あさ美もドアの向こうへ消えていく。


守護霊といっても、あさ美の場合は特に何をするわけでもないので、実は結構
暇である。れいなやひとみが話し相手になってくれるが、いつも一緒にいるとは
限らない。そして、いつも一緒に繋がっている愛とは、会話自体が成立しない。
なので必然的に、あさ美の選択肢は狭められていってしまう。
だからこうして、愛が漕ぐ自転車の後ろに乗って、市内を散策するのがもっぱら
最近の暇つぶし。

近所のちょっとした緑道を、愛の自転車が軽やかに走る。上を見ると、桜の葉が
青々と茂って、午後の日光を柔らかく遮っている。この地域では桜の名所として
知られているようで、そこそこ立派な桜並木だった。春になったら、さぞ綺麗だろう。
今日は、駅の方に行くのだろうか。最寄り駅に向かう時、愛はいつもこの緑道を
通り、少し先の国道を突っ切っている。
 
101 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:48

自転車など、かれこれ半年近く乗っていない。上京してからは、移動の大体が
徒歩と電車で、時折バスを利用する程度だ。
だけど、自転車に乗る感覚は思い出せる。泳ぎ方などと同じように、一度覚えたら
そうそう忘れないのだろう。
あさ美はちらりと愛を見る。のんびりとペダルを踏んでいるが、彼女に額には汗が
少し浮いていた。九月の陽気の下、日陰が多いとはいえ、流石にまだ暑い。
愛が指先で、浮かんできた汗の雫を軽く払う。それを見て、あさ美は自分の頬に
そっと触れた。

あさ美には、暑さの感覚が思い出せなくなっていた。
現実での気温や湿度の変化に対して、身体が全く反応しない。きっと霊体になった
弊害だろう。
真夏の猛暑を感じられないのは、得かもしれない。少し寂しい気もするけれど。
 
102 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:49

自転車が、国道と交わる大きな交差点で止まった。赤信号だ。
この道を国道沿いに下ると、県立の高校が居を構えている。午後も大分回った
時間なので、駅へと続くこの交差点には学生もたくさんいた。
流石に交通量は多く、信号待ちの時間も長い。国道と平行して歩道橋も設置されて
いるが、何故かそちらを利用する生徒はいなかった。階段を上り下りするよりじっと
待つ方がほうが楽、と現代の学生は考えるのだろうか。
懐かしいと同時に空しい気分になり、あさ美は歩道橋を見上げた。

と、その歩道橋に、警察官――の格好をしたれいながいるのを発見した。
あさ美には気付かず、ぼんやりと信号待ちの学生たちを眺めている。

あさ美は自転車からひょいと降りて、歩道橋の階段を上った。
そういえばこの身体になってからあんまり疲れないな、などと思いながら上りきる。
歩道橋の上には、れいなだけがいた。まだあさ美には気付かない。
こっそり近づいて、声をかけた。

「れーいな」
「ふゃっ……なんや、ぽんちゃんか」

尻尾を踏まれた、みたいな声をあげて、れいなはようやくあさ美に気付いた。
彼女の隣に並ぶように立ち、あさ美は苦笑した。

「んー。そのぽんちゃんって、まだなんか違和感が……」
「なん。良くない? ぽんちゃんって。可愛いかろうが」
「いやー……まぁ、いいけど」

彼女の場合、単なる言い間違いからきたあだ名なのだが。
まあ、あさ美自体も別に嫌がっている訳ではない。
何より、れいなが気に入っているようなので良しとした。
 
103 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:50

改めて向き合って、彼女の姿をしげしげと眺める。

「婦警さん、なんだ」
「そうよ? どう、似合うやろ?」
「そうですねぇ……」

微妙、と言う言葉は飲み込んで、あさ美は押し黙る。
警官特有の群青色の制服。彼女に似合わないわけではない。むしろ、彼女は何を
着ても似合うだろう。多少服に『着られてしまう』ところがあるので、服装によっては
雰囲気ががらりと変わる。
だがそもそも、彼女の顔立ちや性格に子供っぽい部分があり、どうにもコスプレ的な
印象が拭いきれない。
あさ美は二度三度頷いて、「いいと思う」と答えておいた。

「ていうか、毎回衣装違うけど、何で?」

この間はやたら露出度の高い、黄色い猫の衣装だった。
というか、何故コスプレを。

「や、ようわからんけど……なんか、仕事がやりやすくなる? らしいと」
「らしい、なんだ……」
「うん」

あっけらかんと、れいなは笑う。
コスプレと仕事の効率に何の因果関係があるのか、どれだけ考えても掴めそうに
ない。少し迷って、あさ美はそれについて考えることはすっぱりやめた。

歩道橋の脇から軽く身を乗り出して、交差点を見下ろす。信号が青に変わった為か、
ぞろぞろと人が動き出していた。その流れを追い越すように、愛はすいすいと人を
避けて走っていく。
自転車はあっという間に遠くに行ってしまった。
赤い糸だけが、愛の行方を追っている。
 
104 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:51

「何見てたの?」
「は?」
「こっから、何か見てた? 私には気付かなかったみたいだし……」

歩道橋の手すりに掴まって、交差点を見下ろす。
二人の下を、車がごうごうと通り過ぎていく。こちら側は信号の切り替わりが早い
らしく、点滅する青信号の下を学生が足早に走り去っていた。
体を起こし、れいなを窺う。れいなは目だけで、その学生の群れを追っていた。

「や、何も見てないけど……」

それも一瞬だけのことで、れいなはすぐに手元のバインダーに視線を落とす。
あさ美は気付かれない程度に笑って、何も突っ込まないことにした。

「そ、それよりぽんちゃん、何か思い出した?」

れいなは慌てたように笑顔をつくろい、あさ美に尋ねてくる。
不自然な話題転換にも、目を瞑ろう。
首を捻り、考える。

「……ううん。特にこれといって」
「何でもいいとよ。気になることとか」

れいなはどこからかペンを取り出して、バインダーの隅をこつこつと叩いている。
相変わらず小道具が細かい、とあさ美は心の中でつぶやいた。

「んー……。なんか、夢は見るんだけど、思い出せない」
「夢? 寝ている間、夢を見ると?」
「うん」
 
105 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:51

ふと、空を仰ぐ。綺麗な夏空で、大きな入道雲が彼方で腰を据えていた。
その夏の日差しに、ふと、思い出す。

「――そうだ」

今朝、何か、夢を見なかったか。

「ねぇ、れいな」
「ん?」
「私が、その、幽霊になったのって、事故なのかな?」

れいなは片眉を上げて、バインダーに視線を落とす。何かの資料が数枚クリップで
留められているようで、れいなはそれをめくったり戻したりしていた。
あさ美は目を瞑って、うなる。
雑巾を絞るように、脳の隅から記憶の欠片を探した。

「なんか、晴れた、日で。どっかの交差点で、事故った……のかな」

そう、なんとなく、ぼんやりとだけど思い出す今朝の夢。
夢自体がかなり曖昧模糊としていたので、記憶の輪郭すら縁取れない。

れいなは眉根を寄せて、資料を眺めている。持っているペンが、文面をなぞるように
資料の上を走る。
あさ美についてのきちんとした資料があるのか。ただの小道具としてバインダーを
持っていたわけではないらしい。実に合理的だ。

「ぽんちゃん」

れいなは顔を上げて、あさ美を見た。

「ぽんちゃんは確かに、事故に遭っとったみたいよ」
「本当?」
「うん、でも」
 
106 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:52


「晴れの日じゃ、ない」

 
107 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:53

はきはきとした言葉があさ美の耳に届くまで、何故か若干のタイムラグがあった。

「え?」

れいなはしかめっ面のまま、資料を何度も見返している。

「これ、吉澤さんからもらったっちゃけど。ぽんちゃんの事、少しだけ書いてあると」
「あ、そうなの?」
「だ、だめー」

バインダーを覗き込もうとすると、彼女は慌てて胸元にそれを抱えて、隠してしまう。
少々かちんときた。

「どうして見せてくれないの?」

口をぎゅっと閉じて、顔をしかめる。
れいなはぶんぶんと首を振った。

「だめなもんはだめ。自分で思い出さなきゃだめって、そう、決まっとーと」
「でも」

自分の事が書いてあるのに、どうして自分が見ちゃいけないのだ。
手を伸ばすが、止まる。強引に奪うことは流石に出来ない。
行き場のないエネルギーのせいで、指先が手前の空間を素通りした。

れいなは宥めるように、あさ美のことを手で制す。

「まぁ、まぁ。それに、ここにだって、全部は書いとらん。その、事故のことだけ」
「……そうなの?」

すこん、と声が零れる。間抜けな語尾の上がり方。なんだか、拍子抜けだ。
れいなは苦笑して、もう一度バインダーの資料に目を通した。

「ぽんちゃんは、7月の下旬に、事故にあったみたい。雨の日」
「……雨の日?」
「うん。これしか書いとらん」

はっきりと言い捨てて、れいなはバインダーを小脇に抱えた。
あさ美はそっと腕を抱き、僅かに視線を落とす。
 
108 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:54
記憶野から搾り出した夢の断片。あれは確かに、晴れていたと思うのだけれど。
ただの思いすごし、か。
いや、違う。確かに今日のような、真夏日で。綺麗な綿雲がぽんぽんと青い海に
浮かび、その隙間から強い日差しが降り注いでいた。
あの夢の中で鮮明に思い出せることといえば、あの青空しかない。


黙り込んでいるあさ美に、れいなは僅かに首を傾けてみせた。

「まぁ、夢やし」
「……うん」
「夢が現実と違うことなんて、しょっちゅうやん?」

れいなが気にするな、と言う風に歯を見せて笑う。角の解れる笑みだった。
その笑顔を受け、あさ美は曖昧に笑って頷く。
確かに彼女の言うとおり、夢の中での出来事が、そのまま現実で起こった事とは
限らない。脳が記憶の処理作業をしていると聞いたことがあるけれど、むしろぴったり
一致する方が、遥かに不思議な出来事だろう。

きっと、れいなが言った方が正しいのだ。
7月下旬の雨の日に、あさ美は事故に遭った。
きっと、そうなんだ。

「そうだね」

高架の下を通り過ぎる車が、あさ美の声を掻き消してしまう。
どうにも腑に落ちない。まるで左手から伸びる赤い糸のようだ。内側に別の色を
内包しているように不透明で、底の知れない部分がある。のっぺりと広げられた
違和感に、自分の脳が丸ごと包まれているみたいだった。
こくりと喉を鳴らす。鎖骨の辺りで詰まってしまい、息苦しさを覚えた。

もやもやした毛玉のような塊も一緒に、歩道橋の下に流してしまいたい。
あさ美はそう思った。

 
109 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:54
 
110 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:55
更新終了。

自分でも訳がわからなくなってきた。
111 名前:* 投稿日:2007/01/27(土) 16:57
>>85 名無飼育さん 様
レスありがとうございます。
赤い糸の謎は、慎重に解いていきたいと思います。
がんばりますので、応援よろしくお願いします。
112 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/28(日) 05:11
なんか、色んな裏がありそうで気になります。
心配でもあり、楽しみでもあり。
113 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:12
 
114 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:13

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     ――いいですよね。

     ――才能がある人は。

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115 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:14

九月。
愛が某四年制私大に通い始めて、九月を過ごすのは二回目だ。
大学の生活には大分慣れたと思う。それなりにポピュラーな学科のせいか、初めは
人の多さに戸惑った。大学と言えばでっかい教室だろう、と思っていたら、意外と
ちまちまクラス分けされていて、案外高校の時と変わらなかったり。考えてみれば
当たり前のことだったけれど、流石に入学当初は落胆した。

友人を作ることも多少難儀した。どうやら愛の性格にも問題があった、らしい。
だがこれに関して、全くもって自覚はない。里沙はよく、「空気が読めない」、「何
喋ってんのか、よくわからない」と、言っていた。今はそれ程言われないが、実際の
ところどうだったのかはわからない。
だけど、さすがは大学。キャパシティが大きいと言うか、懐がでかい。どんな人種で
あろうとするんと受け入れてくれる。
一風変わっている(と自覚はない)愛でも、いつしかすんなりと溶け込んだ。今では
ノートの貸し借り、課題の協力は当たり前。代返なんてお手の物。
二年生になってからは手を抜くことも覚え、随分と学生らしい生活を送っている。

そう。大学生らしい、普通の生活だ。
昔は思いも寄らなかった。こんな、平凡な毎日を送るとは、思っていなかった。
高校生の頃、自分はどういう未来が待っているのかと不安に思う反面、わくわく
した。想像など全然つかず、でも夢を抱いて過ごしていた。あの頃は毎日が新鮮で、
刺激的で。今思えば、ちょっとした普通の一日が、とても大切な一瞬だったと思う。
未来にはいつだって、未知なる可能性が溢れていると信じていた。
だけど、何てことはなかった。
今の生活が面白くない訳ではない。むしろ、それなりに充実した日々だろう。
「世界がくすんでいる」などとは思わないし、「毎日が灰色だ」なんて考えたことも
ない。
だけど、何かが足りないことも、心のどこかで感じている。


ジグソーパズルの、空の部分みたいだ。青空の一部が欠けてしまっているのに、
そのピースが見つからない。図柄はほとんど完成しているのに、隅っこの小さな
隙間のせいで、綺麗な丸い太陽さえも据わりが悪く思えてしまう。
青いピースは、一体どこへ行ってしまったのだろう。
あの頃感じていた何かを、何故今は感じられないのだろうか。
欠けてしまった空のような空白を、胸のどこかで持て余している。


溜息を一つついて、愛は手元の雑誌を閉じた。

116 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:15

手元の本は棚に差し込み、今度は平積みされた雑誌を取り上げる。ぱらぱらと
流し読んで、また元の所に戻した。

彼女は今、本屋にいる。
後期に使う資料やら、個人的趣味やらの為だ。愛の地元には手ごろな本屋が
少ないので、わざわざ先日の繁華街まで足を運んだ。
電車で二駅、その気になれば自転車でだって通えるこの市街には、駅のそばに
本屋が大小含めて四軒ある。少々専門的、いわばマニアックな文献は都内の
大型書店まで出向いた方が無難だが、大抵の書籍はこの地域で事足りる。

そのうちの一番大きな本屋で、愛はほたほたと歩いていた。
駅のコンコース内に店舗が造られているせいか、平日昼過ぎのこの時間帯でも、
利用客はそれなりに多い。
ファッション雑誌類の棚を行ったり来たりしていたが、手持ち無沙汰も相まって、
そろそろ帰ろうかと考え始める。立ち読み客の隙間から物色するのも、少々疲れて
きたところだ。
愛の手には、店名をプリントした濃緑のビニール袋が提げられている。新書は既に
購入済みなので、用事はもう済んでいるし。
くるっと踵を返し、そのまま本棚を通り過ぎる。下りのエスカレーターに乗り込んで、
一息ついた。

携帯電話で時刻を確認すると、夕方には少し早い。空が暗くなるのはまだまだ
先だろう。どこかの喫茶店にでも入って、ゆっくりするのが丁度いいかもしれない。
幸い、駅周辺には喫茶店などいくらでもある。

顔を上げて、エスカレーターを降りきる。
と、愛のその肩を、誰かが後ろからぽんと叩いた。
慌てて振り返ると、そこには真希がいた。

「よっ」
「こ、こんにちわ」

軽く手を振り上げて来る真希に、愛は驚きながらも挨拶を返した。
愛のびっくりした顔に、真希は笑う。

「そーんなびっくりしなくたっていいでしょ」
「や、すいません。まさか会うとは思わんくて」
「エスカレーターですれ違ったのに、高橋気付かないからさー。降りてきちゃった」
「えぇ!?」

もう一度、愛は驚く。
何でわざわざそこまで。
目をまん丸にさせた愛を見て、真希はまた大きく笑った。


117 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:16

甘いもの食べに行こうよ、と真希が言うので、愛は彼女の隣をてけてけ歩く。

彼女は薄い黄色のTシャツを着ていた。ボトムはあまり見慣れないような、真っ白で
緩いズボン。すとんとしたシルエットで、あまりスタイリッシュとはいえないような
デザインだが、そんな格好でも着こなせてしまう彼女が羨ましい。

コンコースの中は買い物客で賑わっている。アパレルメーカーが通路の両脇を
挟むようにして並んでいるので、人の流れが悪い。
するするっと抜けて、早急にその場を立ち去った。

「うわー、あっついなー」
「あっついですね」
「アイスにすっべ。アイス」
「あ、はい」

駅から離れれば、やがて大きなビルが見えてくる。その正面には少し開けた広場の
ようなスペースがあり、そこではいつも出店が一軒だけ出ているのだ。
スーパーに買い物に来た子連れをターゲットにしていて、アイスクリームやお団子や、
ジュース等を売っている。
喫茶店に入るかと思いきや、真希はそこにしようと愛を誘った。
別に異存もなかったので、愛も店の列に並ぶ。
少し悩んだ末、愛は抹茶のソフトクリームを買うことにした。
真希は棒付きのバニラアイスを買っていて、既にベンチに座り込んでいる。
ふと、その格好を見て気付いた。

「もしかして、お仕事でした?」

真希の隣によっこいしょと腰を下ろしながら、声をかける。

「あぁ、うん」

あまり歯切れの良くない返事。愛は首を傾げて、背もたれに寄りかかる。

「休憩中、とか」
「まぁ。そんな感じかな」

煮え切らない受け答えに、もしかしたらあまり踏み込んではいけないのかと思い、
愛は口をつぐむ。
118 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:17
ソフトクリームに口を寄せる。冷たい抹茶味が口の中で甘ったるく広がり、真夏の
暑さを少しだけでも忘れさせてくれるような気がした。

「や、ごとー、ちょっと怒られてたのよね。今」
「はい?」

夢中になって食べていたら、彼女の言葉を一瞬聞き逃してしまう。
顔を上げると、こちらを見て苦笑を浮かべている真希と目が合った。

「いやー、高橋って、何か変わんないね」
「そうですか?」
「うん」
「そうかなぁ……」

視線を落として、つぶやく。
真希が知る時代――高校の時から、自分自身がどう変わったか、変わらないか。
そんなのは、なかなか自分では判断がつけがたい。
多分、真希が言うからには、それほど変わってはいないのだろう。
ただ、真希は変わった。そこはかとなく、そういう印象を受ける。
どこがどう変化しているのかは明言できないが、そんな気がした。

ソフトクリームを食べながら、ゆっくりと言葉を交し合う。

「高橋はさー。今、大学生? だっけ?」
「はい」
「音大だよね?」
「いえ、その、普通の四大です」

少しだけ、言葉に詰まる。
真希は気付かず、目を丸くしていた。

「んぁ? 高橋、音大行くとか言ってなかったっけ」
「いや、そうなんですけど」
「歌好き、って言ってたよね」
「えぇ、それも視野には入れとったんですが。まぁ……」

確かに、音大に進むことも考えていた。というよりも、正直な話、それが本命だった。
何よりも歌うことが好きだったから、合唱部にも入部したし、それに向かって努力も
していた。
しかし、とある日をきっかけに、ふと気持ちが落ちてしまっただけ。
ただ、それだけのことだ。

静かに消えていく語尾。
そこから滲んでいるものを汲み取ったのか、真希が「ふぅん」と息を抜く。
何だかいたたまれない気分になり、愛はソフトクリームにかじりついた。陽光に
炙られて、ソフトクリームはどんどん溶けてしまう。手の中でコーンを回転させて、
溶けの早い部分を舐めとった。
119 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:18

「やっぱそんなもんなのかなぁ」

ふと、真希が漏らしたつぶやき。

「え?」

聞き返すが、彼女は首を振ったきり、何も言わなかった。
真希は大きくアイスにかじりついて、口の中で転がしている。何食わぬ顔の奥で
何を考えているのか、いまいち掴みきれない。
この飄々とした雰囲気が、後藤真希を大きく見せている所以でもある。
でも、やはり今は、そうは見えない。
ポーカーフェイスの向こう側に、揺れて戸惑う何かがある。

「何?」

じっと見つめすぎたのか。真希が胡乱な視線を投げかけてきた。
慌てて視線を外す。

「すいません。何でもないです」
「そ? ちなみに、高橋はもう歌わないの?」

話題の転換を有難く思ったけれど、その矛先は有難くなかった。
苦笑しつつ、つぶやく。

「歌は……まぁ。歌えません」
「歌えない?」
「歌えないってことはないんですが……なんていうか、歌っても、生きてないって
感じがするんです」
「え? 高橋が?」

言葉が足りなかったらしい。
ものすごく胡散臭い目で見られたので、愛はすぐに首を振った。

「や、ごめんなさい、違います。歌が。歌が生きてないって言うか」
「あぁ、そっちか。何で?」
「……わかりません」

何でだろう、と思う。
本当に、何でだろう。

120 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:18

「……あーし、昔、ヒーローになりたかったんですけど」
「は? ゴメンちょっとついていけてない。何?」

また足りなかったらしい。

「あ、すんません。いや、ヒーローって言うか、誰かを助けられるような、そういう存在に
憧れてたんですよね」
「うん」
「その、歌でなら、それが出来るような気がしてたんですよ」
「あぁ、なるほど」
「でも、何か、今は出来ないって言うか」
「えーと、生きてない?」
「そう、生きてない」

何故、歌が生きていないと感じるのだろうか。
歌は無形で、手に取れないし目にも見えない。自分の思ったものを口で奏でて、
耳で聞くものだ。
つまり、歌を生み出しているのは、自分。
その歌が生きていないということは、つまり、自分が生きていないということに
繋がるのではないか。
真希の言葉は、あながち間違いではないかもしれない。内心苦笑した。

自分が生きていない。
確かに、そうなのかもしれなかった。そう感じてしまうということは、つまり、本当に
そうなのだろう。
流れるままに日々を過ごし、毎日を仕事のように片付ける。左にあるものを右に
動かす作業が、ずっと続いているような感覚。
それでは、生きている証明には、ならないのか。

121 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:19

それにしても、以前はこんなこと、悩みもしなかった。
こういうことを考えるようになったのは、音大受験を辞めた頃のような気がする。
その頃を境に、自分の中の何かが死んだのだ。

何かが――死んでしまったのだ。

(そうか……結局はそういう風に繋がるんか)

真希が何かを喋っていたが、愛には何も聞こえなかった。
自分の考えに没頭して、どんどんと気分が落ち込んでいく。だめだ、とは思ったが
ネガティブな思考は質量が大きく、沈んでいくのを止められない。

122 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:20

しゃくっ。真希がアイスを一齧りした。

「歌はねー。やっぱり歌だな」
「はい?」

それでも、真希の話題が歌に戻った時、愛の身体は自然と反応した。
染み付いてしまっているものだから、仕方がない。
言葉の意味がわからなくて首を捻る。
口の中でアイスの欠片を噛み砕いて、真希は口を開く。

「や、歌は歌でしかないなって。だって、聞こえなきゃ聞けないでしょ?」

いささか喋りにくそうだが、その口調は意外とはっきりしていた。

「はぁ……」
「だからさ、どれだけ思いをこめて歌ったりしてもさ、聞いてもらえなかったら意味が
ないっていうか。それ以上でもそれ以下でもないよね」
「そんな、そりゃ……そうですけど」

愛は何も言えずに、俯く。
身も蓋もない言葉だ。だけど、真希が言ったことに間違いはない。
例えどれだけ頑張ったとしても、聞かなければ伝わらない。
背を向けられたら、繋がりたくても届かない。

手に持ったソフトクリームが、指の方にまで流れてきた。とろりと溶けてしまった
ソフトクリームは、ぬるくて気持ちが悪い。
抹茶色に侵食された指を無意識に舐める。ソフトクリームのままなら美味しいのに、
溶けて指についたものは美味しくなかった。

123 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:21

隣で、真希が溜息をつく気配を感じる。
押し出すような、深くて長い吐息だった。

「ごめん」
「……はい?」
「人のこと傷つけてたら、だめだよね」
「はぁ」
「八つ当たりだわ。ほんとごめん」
「いえ、そんな」

否定の言葉が口をついて、顔を上げる。だけど真希はこちらを見ていなかった。

「ごとーには、ヒーローの資格ないかもな」
「……」

真希の口調と顔は平坦なものだったが、何故か愛は何も言えなかった。
沈黙が、二人の間に横たわっている。ベンチの後ろを子供が走り抜けても、静けさが
腰を据えたままだった。
そうしているうちに、二人ともアイスは食べ終えてしまう。
愛はコーンの包み紙を、真希は棒を手の中で弄んでいる。

「ねぇ、高橋」
「はい」

沈黙を破ったのは、真希からだった。

 
124 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:21

「何がしたいのかな」

――。
真希その言葉は、頭の中で大きく反響した。

「うちら、どうしたいんだろうね」

――ナニガシタイ?
不思議な感覚だ。
何度も何度も、脳の内側で跳ね返っては響いて、チカチカと瞬いて消えない。
夜空を貫くサーチライトのように、ずっと鳴り響く警鐘のように。


突如、強烈な眩暈を感じ、愛は頭を押さえた。

脳裏にフラッシュバックする映像。すぅっと手を引かれるように導かれて、頭の中を
駆け抜ける。目の前にいる真希とダブって、『どちら』が本物か判別がつかなかった。
デジャ・ヴュ。そうだ、デジャ・ヴュだ。
だけど。

こんな風に、彼女と話したこと、あったっけ――?

眩暈の中に引きずり込まれて、愛の視界は一瞬でブラックアウトした。

125 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:21

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     『あのさぁ』

     『どうしたいわけ?』

     『紺野はさ、何がしたい訳?』


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126 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:22

ずく。
左手の赤い糸が疼く。


それに気をとられてしまったおかげで、あさ美が投げたボールは見当違いの所へ
飛んで行ってしまった。

「うわぁっ、ぽんちゃんどこ投げとっとー!」
「あっ、あっ、ご、ごめーん!」

憎たらしいほど綺麗に放物線を描く白球を、れいなが笑いながら追いかける。
その後姿を見つめて、あさ美はうっすら微笑んだ。


国道の交差点から程近いところに、市営の大きな公園がある。
総合体育館と隣接し、尚且つ陸上競技場と野球場を併設していて、結構広い。
犬の散歩やジョギングコースとしても丁度いいだろう。公園内を突っ切れば駅への
近道にもなるらしく、多くの人が行き交っている。
その公園一角で、あさ美とれいなは悠々とキャッチボールをしていた。
何のことはない、ただの暇潰しだ。あさ美は言うまでもないが、どうやられいなも
時間を持て余していたらしい。どこからともなくバレーボール大の白球を探し出し、
あさ美を誘ってこの公園まで連れて来た。

127 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:23

ボールを拾う姿がちんまりしていて、なんだか可愛らしい。
あさ美は思わず笑みをこぼす。
だが、赤い糸が目に入ると、その表情はさっと消えた。

左手をさする。
ほんの少し、微かで僅かだった、糸に引っ張られる感じがした。そのおかげで体勢を
崩し、あさ美のボールはあさっての方向に飛んでしまった訳だが。
知らん顔で小指に巻き付いている、赤い糸。恐る恐る右手の指で触れてみたが、
特に何も感じられなかった。
どこも綻んだりせずに、まっすぐどこかに向かって伸びている。愛の居る場所へ。

先程の感覚は、一体何だったのだろう。
勘違いと片付けるにも、何かの前触れと思うにも、曖昧すぎる感触だった。

「何だろう?」
「何が?」
「え――ひぁっ」

128 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:25

いきなり聞こえてきた声に、あさ美は振り返り、ざっと後じさりした。
振り返った先には、見知らぬ女性が立っていた。
黒いスーツを着た、シャープな輪郭の女性だ。鋭角的な視線の鋭さを、ふんわりと
した髪形が和らげている。綺麗な女性だった。

「驚きすぎじゃね? 別に取って食ったりしないって」

彼女はそう言って笑い、あさ美に右手を差し出してきた。

「どーもー。営業一課マネージャーの藤本美貴でぇす」
「あ、ど、どうも、紺野あさ美です」

彼女の右手を握ると、しっかりした力で握り返してきた。
目が合って、お互いに小さく笑いあった。あさ美の笑顔は、多少ぎこちなかったが。

どうやら彼女――藤本美貴はハロプロの人間らしい。
なら、もしやれいなと知り合いなのではないか。
そう思って、辺りを見回す。だが、何故かれいなの姿が見当たらなかった。

「あれ?」
「どうしたの?」
「や、あの、れいなが居なくて」
「何、れいな来てんの?」

左手をポケットに突っ込んで、美貴が眉根を寄せる。
やはりれいなとは知り合いらしい。だがその言葉の端々から、親愛とはまた違った
ものが感じられた。あまり、良好な関係ではないのだろうか。
美貴は辺りを見回している。

「どこ?」
「あっちの方に、さっきまで居たんですけど」

ボールが飛んでいった方向を指差すが、れいなはいない。犬の散歩をしている
人が通り過ぎただけだった。そばの茂みには、猫がそれから身を隠すように静かに
うずくまっている。その隣を学生が通り過ぎただけで、婦警の格好をした少女の
姿は、どこにも見えなかった。

「んー。逃げられたか……」
「え?」
「んん、でもそっか。よっちゃんはれいなに任せてたんだ……なるほどね」

129 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:25

一人でのんびりとつぶやきながら、美貴はあさ美を上から下まで眺めた。隅々まで
視るような目に、居心地が悪くなる。左手に特に強い視線を感じ、思わず背に回して
隠してしまった。

美貴は片眉を上げる。ふっと視線をれいなが居たはずの方に向けて、

「逃げられた。ま、いいや」

と、つぶやいた。
逃げるとか逃げないとか、穏やかではない話だが、美貴はあっさりと引く。
追求するわけにも行かず、あさ美は恐る恐る彼女に尋ねた。

「あのぉ……何か、用ですか?」

彼女はハロプロを名乗ったのだ。恐らくあさ美に用があるのだろう。
だが、予想に反して、美貴は首を横に振った。

「ごめん。別に用はない」
「えぇっ。じゃあ何のために……」
「強いて言うなら、顔を見たかった。だめ?」
「いや、だめじゃないですけど……」
「でしょ。でしょ」

美貴は大きく頷くと、右手をぴっと前に出す。

「うん。じゃ、顔見たし帰るわ」
「えぇぇっ」
「ごめん。美貴こう見えても忙しいんだよね。じゃーね」

声をあげるが、気にせず美貴はするっとあさ美に背を向ける。
出口付近で一度振り返りあさ美に手を振って、そのままどこかに行ってしまった。

何をしたかったのか、意味がわからない。
本当に文字通り、顔を見にきただけではないか。

130 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:26

不可解な邂逅にあさ美が立ちすくんでいると、足に何か柔らかいものが当たった。
見下ろすと、あさ美の脛に、黒い猫が体を摺り寄せている。先程、茂みに身を
隠していた猫だ。どうやら動物には幽霊が見えるらしい。新しい発見だ。

屈みこんで、その頭を撫でた。
黒猫はあさって方向を向いて、

「藤本さん、行った?」
「うひゃぁっ!」
「ふゃっ!」

あさ美はそのままひっくり返り、しりもちをつく。頭を打った気がしたが痛くはない。
そんなことよりも、驚愕の事態を目の当たりにしたのだ。
慌てて体を起こし、黒猫を見た。

「な、何よ急に! 驚かさんで!」

あさ美の驚きように猫も驚いたようで、同じくひっくり返っていた。
というか、猫が、喋った。
猫の声は、れいなの声だった。

「え? れ、れいな?」

指先を震わせながら、猫を指差す。
黒い猫は大仰に、まるで人間の仕草のように頷いた。

「そうよ、れいなよ」
「えぇっ」
「あれ、言わんかったっけ?」

あっけらかんと言い放つ黒猫が憎たらしい。
彼女にそんなスキルがあるなんて、全く知らなかった。

「聞いてないよぉ。猫にもなれるんだね」
「やー。まぁ、ね」

黒猫――れいなは二本足で立ち上がって、腰の辺りをパンパンと払う。そうした
仕草が何かのバラエティ映像を見ているようで、いまいち現実感が沸かない。
コスプレといい変身といい、随分とはっちゃけた会社だなあと思った。
 
131 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:26
地面に尻餅をついたままの方が、れいなと視線の高さを合わせやすい。
座る姿勢だけ整えて、あさ美はれいなに問いかけた。

「藤本さんに会いたくないから、隠れてたの?」

れいなとの関係は知らないが、一見する限り、美貴はそこまで嫌われるような
女性とは思えない。それはもちろん、れいなに対しても言える事。
二人が真逆の性格ならともかく、タイプ的にはむしろ近い気がするのだが。

「……うん」

れいなは重々しく首肯する。
あさ美のあずかり知らない事情があるのかもしれない。彼女と過ごして一週間ほど
経つけれど、れいなの全てを知っているわけではないのだ。
彼女が猫の姿になれることだって、今さっき知ったばかり。
わからない事などたくさんある。
もしかしたら、わからない方がいい事も、あるかもしれないし。

「そっか」

だからあさ美は、その一言で片付けることにした。
彼女の頭を撫でる。れいなはくすぐったそうに笑い、四本足でさっと歩き出した。
本来その姿での然るべき歩き方に戻って、いささか足取りも軽めだ。
そういえばまだ、キャッチボールの途中だった。
ふっと笑って、あさ美も立ち上がる。

れいながこちらを振り返る。猫のままだから表情が読み取りづらい。
でも、笑っていないことは確かだった。

「別に、あの人が嫌いとか、そういうんじゃないとよ?」
「え?」
「なんか、れなが藤本さんとかと会うのは、良くないらしいと」
「そうなの?」
「うん。よぅわからんけど。だけん、ぽんちゃんも、協力して欲しい」
「……わかった」

あさ美の返事に満足したらしく、れいなはまた歩き始める。
その後姿を、あさ美はじっと見つめる。
 
132 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:27

ひとみやれいなが所属する営業二課と、美貴の所属する営業一課。その二つには
どういう違いがあるのか。扱う霊の種類が異なるとひとみは言っていたが、具体的な
ものはわからない。
例え一課と二課の間に大きな確執があったとしても、その二つが引き合うことで
何かが起こるわけでもないだろう。そうでなければ、二つの課が共に団体として
存在する意味がない。
だけど、一課の人間とれいなが接触するのは避けたいという事は、れいなの口調で
窺い知れる。
つまり、問題があるとするならば、それはれいなの存在なのだろう。

れいなは、異端なのか。

もう一つ。
一課と二課で扱う霊に差異があるのならば、何故美貴はあさ美の顔を見に来たの
だろうか。単純に考えれば、あさ美と彼女が知り合う必要性は全くない。
何故ならあさ美は、営業二課の担当だ。
営業一課の美貴には関係ない存在のはず。
関係があるとすればそれは――。

(よっちゃん……吉澤、さん?)

そうだ。れいなの上司は、ひとみだ。美貴が言う「よっちゃん」がひとみのことならば、
もしかしたら、彼女に聞けばわかるかもしれない。
もちろん、あさ美の知らない事情だってあるだろう。しかし、聞く分には問題ないはず。
今度あったら聞いておこう。
れいなの後ろをゆっくりとついていきながら、そんなことを考える。

その間、赤い糸のことはすっかり忘れていた。
そしてあさ美は、重大なことを見落としていることに、最後まで気付かなかった。


 
133 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:27
 
134 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:28
更新終了。

気張れ自分。
135 名前:* 投稿日:2007/03/16(金) 10:30
>>112 名無飼育さん 様
レスありがとうございます。
風呂敷を広げすぎたかと、ちょっとヒヤヒヤしながら書いてます。
頑張りますので、応援よろしくお願いいたします。
136 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/16(金) 15:41
おおっ更新きてるー
心配だなぁ紺野さん
藤本さんの意図も気になります
137 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/17(土) 19:09
うーん。なぞがなぞを呼んでますねー。
次回もたのしみ。
138 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:49
 
139 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:50

糸、とは。
幽霊を存在させる上で最も重要な、命綱のようなものである。

そもそも幽霊の性質はとても不安定で、現実に存在する事は非常に難しい。詳しい
説明は割愛するが、言ってみれば風船のようなものである。膨らんだ風船のように
単体として存在することは可能だが、何かに繋いでおかなければどこかに飛んで
しまうような。そういう、非常にアンバランスな性質を持っている。
ふわふわと漂うだけならばまだ良い方だろう。質が悪いのは、漂った挙句悪霊と
なってしまう場合だ。
持って生まれた状態が不安定な為に、幽霊は常に寄り添うべきものを探している。
悪霊の状態で生身の人間に取り憑いてしまった場合、取り返しの付かない事態に
陥る可能性が高い。

それを未然に防ぐ為に、ハロー・プロダクションは存在している。
幽霊の状態を安定させる為に、守護霊として人間に繋いだり、または無機物と
繋いだりする。第三者が意図的に幽霊を何かと繋ぐことで、悪霊へ変質する危険を
減らし、またそれによって生身の人間への被害も減少する。
もし悪霊が漂っていた場合、或いは糸で繋いでいた霊が何らかの理由で悪霊に
変わってしまった場合は、これを「除霊」という形で強引に成仏させる。

前者は営業二課――吉澤ひとみの仕事だ。
後者は営業一課――藤本美貴の仕事だ。


そしてもちろん、彼女らも幽霊である。


 
140 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:51



相変わらず、無駄に眩しい部屋だと思う。
もちろんその部屋にとってそれは重要な意味を持つのかもしれないが、始終眉を
寄せるのは、案外疲れるのだ。
まあ、この部屋を訪れる人間など自分以外にいないので、自分が我慢するしか
ないのだろう。

それにしたって、眩しい。
ひとみは思い切り眉間に縦皺を刻み、丸くはめ込まれたガラス窓を睨みつける。
しかし、眩しいのは一つ向こう側の部屋であって、この部屋ではない。
むしろこの部屋には照明器具は存在せず、ただ真っ暗な部屋なのだ。もう少し
言えば、壁一枚隔てた向こう側から零れる光だけで十分なのだろう。
窓の向こうは、真っ白だった。そこから零れている光すら白いと錯覚させるような、
そんな部屋がある。

室内の全ての色を削ぎ落として、残されたのは白。
そして、尚もその中でくっきりと輪郭を保っているのが、肌色と、茶色と。
そして――。


141 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:52

彼女が口を開く。

「誰?」

色がついている、と錯覚してしまうほど、はっきりとした声音だった。
その声はひとみの正面、壁の一部に嵌め込まれたガラスの向こう側から、意思を
持って飛んできた。
ガラス窓越しに白く照らされた頬が、僅かに歪んだ。

「おっかねぇな」
「……何だ、よっすぃーか」

窓から様子を窺っていたひとみは、その声色に苦笑する。
一体彼女は、誰に来て欲しかったのか。
いや、考えるまでも無い――か。

「何か、用?」
「んー……用っちゅうか、挨拶? みたいな」

白い空間で、彼女は形の良い眉根を寄せた。
ひとみは何も言わずに、窓をコンコンと軽くノックする。
厚さ数センチのガラスを挟んだ二人の距離は、およそ三メートル。

「まつーらさ、あたしと取引しない?」

ひとみは彼女の額を、ガラス越しに指で弾いた。
無機質な音が響き、彼女が目を見開く。

「本気で言ってんのぉ?」
「マジマジ。本気と書いてヨシザワと読む」
「読まねぇー」

彼女は大きく口を開けて「はっ」と笑う。
叩きつけるような笑い声に、ひとみは下っ腹に力を入れた。
椅子の上で仰け反るように笑っていた彼女――松浦亜弥は、かくんと体を起こす。
すっと細まる視線が、ひとみをがっちりと捉えた。

「まぁた変なこと考えてるっしょ」

亜弥はにやっと笑い、唇を舐めた。
ちらりと覗く舌の赤さが、やけに生々しい。ああ、これも白い空間のせいだろう。
ひとみは知らず、手のひらをパンツに擦り付ける。じっとりと汗ばんでいた。背筋を
薄ら寒いものが滑り落ちていく。
全てを黙殺した。
142 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:53

「いやぁ、別に」

可能な限り平静を装い、ひとみは視線をちらりと下げる。
ひとみの目から逃げるように、亜弥の足元で黒い色が揺らいだ。


この室内で圧倒的に異質な存在感を放っているのが、黒いもやのような糸だった。
焼け付いたゴムのようにボロボロな糸が、亜弥の左手から垂れ下がっている。
全体は50センチほどの長さで、先端から20センチあたりのところまでが太い。
よくよく見れば継ぎ目などが見当たらないことから、一本の糸だとわかる。


黒い糸はまるで意思を持つかのように動き、亜弥の膝にその先端を乗せた。
さながらその姿は蛇のようで、見る者を戦慄させる。
それを見下ろし、亜弥は笑う。穏やかな目をしていた。

「無理だよ。あたしこっから出らんないし」

その口調は、悲観的でなく、自棄的でもない。
ただ、何かを諦めているような口調だった。
亜弥が糸の太い部分を親指でなぞっている。細く白い指と、太くどす黒い糸が
とても対照的だった。

143 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:54

ひとみは喉をならす。口腔内が乾いているのに気付いて、苦笑した。
唇を舐めて湿らせ、つぶやく。

「大丈夫。こっから出してやる」
「……本気で言ってんの?」
「だからさっきから本気だっつってんじゃん。冗談はマイケルだけで十分だろ?」
「もうその辺から胡散くさい」
「ドンマイケル。なぁんてなー」

わざとらしく笑い飛ばすひとみ。対して亜弥は心底呆れ返っているようで、糸を
撫でる手に力をこめて、ごしごしと磨くように擦っていた。心なしか、その唇が
尖っているように思える。
真っ白な部屋に、ひとみの笑い声が反響する。
亜弥の白い素足がぱたぱたと床を踏み鳴らした。

「もー、ホント何しに来たんだか。用がないなら帰れよ」

笑い声が止まる。

「用ならあるって」

ひとみが窓越しに亜弥を覗き込んだ。その瞳に真剣な色を見つけ、亜弥は眉根を
寄せた。その手が止まったせいか、黒い糸が戦くように揺らいでいる。
ガラスの上から、その糸にデコピンをかます。

「取引しよう、松浦」

なるべく凶悪な笑みになるよう、ひとみは口の端を吊り上げた。

「今日は、挨拶だけね」
「……意味わかんないんだけど」
「まだその時期じゃないってことです。じゃーね」
「ちょっとぉ」
 
144 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:55

一方的に話を切り上げ、ひとみは窓から目を離した。非難の声を無視して踵を返す。
ドアノブに手をかけたところで、振り返った。窓の向こうで亜弥は不貞腐れたような
顔をしている。
状況に似つかわしくなく不相応で、何だか笑えてしまった。
可愛いじゃん、とは口にしなかった。

「ねぇ」

ノブを捻るその背中に、凛とした声が届く。
ひとみはもう一度振り返った。

「ミキティ、元気?」

静かにたゆたう海のような瞳と、目が合った。
気持ちばかり居住まいを正して、静かに口を開く。

「元気だけど、元気じゃない」
「そっか」
「もうちょっと、待って」
「うん」
「また来る」
「うん」

ひとみがきっぱりと言い残すと、亜弥はひらひらと右手を振った。今度こそひとみは
その部屋を出る。
先程の真っ白い部屋とは打って変わって、薄暗い通路。程々に落とされた照明の
下を歩いていけば、営業部へと戻る道に繋がる。
ばたんと閉じたドアに寄りかかって、一つ溜息をこぼす。

145 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:55

松浦亜弥と対峙する際、気をつけなければならないことがある。
それは、『引っ張られないようにする』ことだ。
身体だけではない。心まで惹き付けてしまう不思議な能力――『引力』とでも言う
べきか。
ある事件をきっかけに、亜弥がその力をある程度制御できるようになった。しかし、
だからと言って能力自体が衰えたわけではない。どうしても御しきれない部分が、
彼女の意識外のところで常に周囲を『引っ張り』続けている。
才能とは、そういうものだ。本人の意思とは無関係に溢れてしまう、湧き水だ。
持て余したとしても、どうしようも出来ないのが才能である。
そしてそれを彼女たちは――卵と呼ぶ。

「やれやれ」

ふっと細く息をついて、ひとみは首を左右に捻る。引っ張られないように踏ん張る
必要があったのだが、どうやら力み過ぎてしまったらしい。

「あたしもまだまだだね」

ぽつりと漏らして、ひとみは営業部へと歩き始める。
まだこれから仕事をしなければならないのかと思うと、大分うんざりした。


146 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:56



一体どうしたことだろう。
目の前にいた後輩が、いきなりフリーズしてしまった。

けらけらと笑いながら、幼稚園児らしき子供たちがベンチの後ろを走り抜けていった。
そのベンチに腰掛けながら、後藤真希は顔を顰める。

「高橋、高橋ー?」

何度か呼びかけたが、彼女からの返事はなかった。目の前で手を振ってみるも、
効果はなし。ぼんやりと虚空を見つめたまま、彼女の意識は何処かに飛んでいる。
流石の真希も、表情を強張らせた。
問いかけたのに何も応えてはくれず、おかしいと思ったらどっかにトんでいる。

もしかして、自分が八つ当たりしたのがいけなかったのだろうか。
いやいやいや、多分それとこれとは無関係だ。きちんと謝ったし。
だけど少なからず、真希の言葉には傷ついたろう。が、しかし、果たしてそれが
理由で、壊れたコンピューターのようになるだろうか。

沈黙が不自然に横たわる。その十秒が永遠に続くような気すらしてしまう。
身体の具合が良くないのであれば病院にも付き添うし、もし真希の言葉が気に
障ったのならばもう一度謝罪しよう。ああ、諸手を上げて撤回しても良い。
だからいい加減、帰ってきて欲しい。
 
147 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:57
「高橋っ、どうしたのっ?」

意を決して、その肩を揺さぶる。それでも起きてくれないので、若干強めに頬を
数回叩いた。
すると、ようやく彼女の目にまともな光が戻ってきた。
しばし、あちらこちらに視線を泳がせながら、

「……あ、え、ど、どうしたんですか?」

素っ頓狂な声に、真希が崩れる。

「いや、それこっちの台詞だし! もー、びっくりしたよ!」
「あ、その。すんません」

愛は戸惑いながらも、律儀に頭を下げて謝罪した。
それを押し留めつつ、

「や、謝んなくていいけど。どーしたの急に? どっかトんでたよ?」
「え、そうなんですか?」

愛はきょとんと目を丸くして、首を傾げる。
その様子に、真希は眉根を寄せた。
――覚えていない?

「……どっか具合が悪いとか?」
「いや。多少寝不足かもしれませんけど、どっこも悪くないです」
「じゃ、ごとーが今言ったこと、覚えてる?」

真希が問いかけると、彼女は思い出すように少しだけ視線を彷徨わせた。
やがて、顎を引いて恐る恐る真希の目を見つめてくる。

「……ヒーローの資格が無い、ですよ、ね」
「……うん、まぁ、そう」
 
148 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:58
真希は愛に気付かれないように、深く息をついた。

睡眠不足気味だということだし、単純に彼女が話を聞いていなかったという事も
ある。例えば何か別のことを考え込んでいたら、真希だって人の話を聞き漏らす
だろう。
どうやら愛は何か悩み事があるようだ。上の空でも仕方がない。
だから、真希はそのことを忘れることにした。

それにしても、どうやら愛は真希の言葉を気にしているらしい。
責任感が無駄に強い彼女のことだから、もしかすると自分が言わせてしまったと
負い目を感じているのかもしれない。
そこまで思って、真希は苦笑した。
不要な懸念を抱かせてしまうようなら、間違いなく自分はヒーロー失格だろう。
先程の言葉だって、間違いだとは思わないが、愛に対する配慮が足りなかった。
自分のことばかり気にかけていたら、この様だ。ヒーロー失格で、資格剥奪だ。

昔はもう少し、スマートに物事を片付けられたのに。
どこでこうなってしまったのだろう。

身体の筋を伸ばすように、ぐっと立ち上がって両腕を上げる。

「まぁ、ね。いーや、その話は」

本当は良くなかった。だけど、そうでも言わなければやっていられない。
今日も仕事先の店で先輩に叱られたばかりだし、あさ美が目覚める気配は一向に
無い。
今更ながらに、彼女に吐き捨てた言葉が悔やまれる。
毎度のことながら、悔やまれる。
本当は真希だって、愛のことを心配している余裕は無いのだ。
 
149 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 09:59
ついと首筋に流れた汗を、手の甲で乱暴に拭う。傾きかけた日差しが鬱陶しい。
職業柄ずっと室内にいるせいか、肌がびりびりと反応している。
屋台の横に備え付けられているごみ箱に向かって、アイスの棒を投げ込んだ。
舌打ちをし、苛立つ気分を噛み潰す。

「んぁ。外れたー」

小さく軽い音を立てて、棒が地面に落ちる。それをひょいと拾い上げて、今度は
投げずに捨てた。
腕時計を見る。いい加減、店の方に戻らないといけないだろう。休憩時間はとうに
過ぎたし、頭も十分に冷えた。
振り返って、ベンチに座ったままの愛を窺う。彼女は俯いたまま、手の中でコーンの
包み紙を弄んでいた。

「高橋。ごとー、そろそろ戻るわ。付き合わせて悪かったねー」

ベンチの傍まで歩いて、立ったまま彼女を見下ろす。

「いえ、そんな。久しぶりにお話出来て、嬉しかったです。あぁ、それと」

そこまで言って、愛は立ち上がった。

「この間はケーキまでもらっちゃって。ご馳走様でした」
「や。……美味しかった?」
「はい、すごく」
 
150 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:00
目元にくしゃっと皺を寄せて、愛は笑った。初めてきちんと見る、愛の笑顔だった。
その顔を正面から見れなくて、真希は少し俯いた。そのまま右手で、自身の横髪を
梳き上げる。
真希は、そっか、と息を吐きながら呟く。

「後藤さん……?」
「うん。……頑張ろう」

小さく囁いた言葉は、愛には届かなかったらしい。彼女は首を傾げ、真希の顔を
窺っている。彼女の手元から、丸められた包み紙がちらりと覗いた。
真希は鼻息荒く、それをさっと奪い取る。

「あ」

一度それをぐっと握り潰してから、振り返り様、ごみ箱に向かって投げる。
くしゃくしゃの包み紙が、山形に弧を描いた。

「ストラーイク」

真希は大袈裟にガッツポーズを作った。
愛の疑問符を浮かべた顔が少し間抜けで、わざと快活に笑い飛ばした。


 
151 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:01

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     『あれー、こんな時間まで何やってんの?』
     『ちょっと、勉強を。テストが近いんです』
     『ふぅん。……ま、いいけど』
     『すみません、迷惑、でした?』
     『や、電気点いてたから気になっただけ』
     『……そうですか』
     『ほどほどにね。おやすみ』
     『はい、おやすみなさい。後藤さん』


--------------------
 
152 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:04


公園の中を歩いていて、あさ美は一つ気付いたことがある。
何度も何度も首を巡らせて、公園内の色んな場所に目を向ける。
ぼんやりとだが、ところどころ見覚えがある、気がするのだ。

「この公園だったら、かくれんぼも出来そうやね」
「……そう、だね」

例えばこの、垣根。
陸上競技場と野球場に挟まれた小道を二分するように立っていて、直方体の形に
刈り揃えられている。今の時期は一枚一枚の葉がとても瑞々しく、枝の間を隙間
無く埋めるように密集している。
垣根自体は身の丈ほどもあり、向こう側にいるれいなの姿は見えなかった。
視線をきょろきょろと彷徨わせながら、あさ美は垣根の向こうに声を投げる。

「追いかけっこは?」
「追いかけっこは疲れるけん、やりたくない」

デジャ・ヴュとでも言うのだろうか。
いつかもこうして垣根を挟み、同じような会話をしたような気がする。

153 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:05
垣根が途切れ、道がHの形に交わる箇所かられいながひょっこりと顔を出し、唇を
尖らせていた。
公園を注視しつつ片手間に会話をしていたことがばれたようだ。

「ぽんちゃん、何か探しよーと?」
「えっ? いや、別にそういうわけじゃないんだけど……」
「……もしかして、ここ、来た事あると?」
「んー……わかんない」

あさ美は首を捻って、立ち止まった。もう一度、あたりをぐるっと見回した。
来たことがあるかもしれないし、ないかもしれない。この公園はなかなか大きな
場所だが、他所にはもっと大きな公園もある。似たり寄ったりの場所が、地元に
あった気もするのだ。
右側の開けた場所に見覚えがあれば、その脇に公衆トイレがあったかどうかが
わからない。そこから階段を下りたところに自動販売機が置いてあるのだけれど、
見たかどうかは覚えていない。
結局のところ、イエスともノーとも言えないのだ。水気の少ない絵筆のように掠れた
記憶が口惜しい。

黙り込んでしまったあさ美の手を、れいなはさっと掴む。

「ま、焦らない焦らない。そのうち思い出すやろー」

あっけらかんと言い放つれいな。
あさ美はふっと口元を緩める。

「そうだね」

れいなは笑って、くいとあさ美の腕を引っ張って歩き出した。その後姿に、ほっと
胸を撫で下ろす。
 
154 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:06
時々こうやって、彼女の明るさに救われる時がある。
ふと、以前ひとみが言っていた言葉が思い出された。

『死んで幽霊になるってのはさー、ある程度しがらみから解放されるって言うか、
生きてた頃のアクが抜けるんだよね』

言われた直後は分からなかったが、今ならなんとなく理解できるような気がした。
そういう部分を持ったまま霊になってしまえば、悪霊になりやすいということだろう。
確かにこうしてれいなと接していても、悪意とか未練とか、そういう類のものを全く
感じない。生きている上でどうしても滲み出てしまう、人間の『灰汁』のような性質が、
皆無なのだ。

ふと、あさ美は思う。

(いいなぁ……)

人付き合いをすると、やがて見えてしまう他人の嫌な部分。若しくは自分の悪い
部分。
そういうものと向き合わなくて良い――むしろ、それらが存在しない世界なのだ。
あさ美は生霊なので、その世界には含まれない。片足を突っ込んでしまっている
状態だが、例外なことには変わりないだろう。
叶わない事だと分かってはいるが、どうしても焦がれてしまう。

155 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:06

「ストーっプ」
「うわっ、と」

あさ美の手を引くれいなが、その声に制されていきなりブレーキをかけた。
れいなの背中にぶつかりそうになって、危うくあさ美も立ち止まる。
二人の前で、白いスーツを着たひとみが腕を組んで立っていた。

「吉澤さん? なん、どーしたんですか?」
「どーしたもこーしたも無いっ。仕事をサボりに来た」

何も威張ることでは、とあさ美は思う。

「えぇっ? いいと?」
「いーのいーの」

働き者がたくさんいるからね、と独り言のように呟いて、ひとみはちらりとあさ美を
見た。あさ美がずっと自分を見つめている事に気付いたのだろう。
彼女はれいなの肩にそっと手を置いて、

「れいな。小春があっちの広場にいるから、遊んでやって」

ひとみの指は、陸上競技場の向こう側を指している。
あちらの方には子供用の遊具が置いてある、この敷地内で唯一土肌の広場が
あった。
156 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:07

「えー……れな仕事中なんですけど」

れいなは眉尻を下げ、ちらちらとあさ美を窺っている。
あさ美は肩を竦めた。れいなの仕事はあさ美の看視だ。あさ美に異常が起こらない
限りは、ただの話し相手に過ぎない。

「やってるこた変わんねーだろ? これも仕事だ。行ってこぉい」

ひとみはそう言い放って、れいなの背中を強引に押した。大袈裟によろめきつつも、
元気に「はぁい」と返事をして、ひとみが示した方へと小走りに去っていく。

無言のまま、その背中を二人で見送る。
空気がやけに重く感じられたのは、恐らく気のせいではないだろう。
れいなの小さな姿が競技場の陰に隠れて見えなくなる頃、ひとみは振り返る。

「さっ。何か言いたい事あるみたいだし? 歩きながら話すか」

口の端に笑みを携えて、ひとみはあさ美を促す。

「はい」

一つ頷き、あさ美は彼女の横に並ぶ。
その時、ひとみの表情が険しいものに変わったことに――気付かないまま。



 
157 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:07
 
158 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:08
更新終了。

紺野さん迂闊。
159 名前:* 投稿日:2007/04/20(金) 10:14
>>136 名無飼育さん 様
レスありがとうございます。
藤本さんだけでなく色んな意図を巡らせて、自分がこんがらがりそうです。
頑張りますので、これからも応援お願いします。

>>137 名無飼育さん 様
レスありがとうございます。
遅々とした展開で申し訳ないです。
無理なく進められるように頑張りますので、これからもよろしくお願いします。
160 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:36
 
161 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:37

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怒られたり、罵られたり、悲しまれたりするのは、覚悟してたんだ。
だって、結局は自分のわがままだし、すごい自分勝手だし、ぶっちゃけその事に
ついて実はあんま考えてなかったし。
でも、決めたことだから。
だから、何を言われても仕方がないと思ってた。

だけど実際目の当たりにしたとき、正直、戸惑った。
あぁ、遣る瀬無いってこういうことなのかなって、なんとなく。


長い長い話を聞き終えて、彼女は長い長いため息を吐く。

「……そぅっ、か」

そう言ったきり黙りこんでしまった。
使い古した歯ブラシみたいに、ガサガサした声。いつもの彼女とは、全然違う声。
まず、その事に驚いた。
それから彼女は、静かにはらはらと涙をこぼした。ぎゅっと閉じたまぶたの裏から、
螺子の緩んだ蛇口みたいに、ぽろぽろ、ぽろぽろ。


え? え?
何? 何だ? 何でそういう風に泣くんだろう?
――あたしの後押しをしてくれたのは、君なのに!

「行くんか」

ぼろぼろのスポンジみたいに掠れた声で、彼女は一言だけ。
あんまり回らない自分の頭は、その口調でぴんときた。

そっか。
そうなんだね。
自分に自信が、ないんだね。

じゃあ、それこそ頑張らなくっちゃいけない。
彼女のためにも、夢を追わなくちゃいけないんだ。
自信が無いのは同じだから。

だから、お互い頑張ろうよ。
ねぇ?


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162 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:37

どれくらい歩いただろう。
半歩先を行く彼女の背中をちらちらと伺いながら、あさ美はゆったりとした足取りで
歩く。時折白いパンツスーツに包まれたひとみの足元に視線を落とし、思案を
巡らせる。

正直な話、あさ美はそこまで口が回るタイプではない。頭の回転は速い方なので
機転は利くが、話す言葉を選ぶからスローテンポになりがちだ。
何から聞けばいいのか。どこから始めればいいのか。どうすれば上手に会話を
進められるのか。
元来の真面目な性格も災いしてか、なかなか話を切り出すまでに至らない。
何故か、ひとみも何も言わない。
あさ美にとっては少し重い沈黙が、二人の間でたゆたっている。

ようやくある程度の筋道を建て終え、いざ、と口を開こうとした時。
タイミングを外すかのように、ひとみが振り返った。

「そういえばさ」
「は、はいっ?」

こちらが話そうと思った時にいきなり話しかけられて、あさ美は勢いよく顔を上げた。
肩透かしを食らった気分だ。完璧に出足を挫いた。
訝しげに眉根を寄せたひとみに、かぶりを振る。
163 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:38
「いえ……何でもないです……、で、何ですか?」
「あぁ、いやさ。コンコンの糸、どうなってんのかなーって思ってさ」
「糸?」

言われるがままに左手の糸を手繰り寄せる。
小指の付け根に絡まった糸は、まるであさ美の体の一部であるかのようにしっくりと
手に馴染む。きゅっと握っても、異物感を感じない程だった。

「別に何も変わりはありませんけれども……」

右手で糸をぴんと張ってみて、胸の高さにまで引き上げる。
と、ひとみが眉間に縦皺を刻んでいるのに気付いた。
その視線を追って、ふと思い至る。

「……吉澤さん、もしかして、見えてないんですか?」
「ん? あ、あぁ、わかる?」

ひとみの言葉に、あさ美は首肯する。ひとみの視線の高さと糸の位置が微妙に
ずれていたので、注視していればすぐにわかった。
彼女は恥ずかしそうに苦笑した。

「 実は糸って、繋いだコーディネーターしか見えないんだよね」
「でも、初めて会った時、赤い糸だって言ってましたけど……」
「あぁ……起きてすぐの糸は、赤い色かそうじゃない色かの2パターンなんだわ。
大事なことだし、確認したかったから」

だから鎌をかけた、ということだろう。
164 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:39
あさ美が何も言わずにいると、ひとみは糸から目を離しあさ美を見る。

「赤の他人の話、覚えてる?」
「はい。え、でもあれって冗談じゃなかったんですか?」
「いやいやー、冗談じゃないんだなー、あれは」

芝居がかった仕草で、ひとみは右手の指を振った。

そうか、と思う。
赤い糸で結ばれていれば、その二人は赤の他人である印。
だから初めて見た時は、あれほど背筋が凍るような思いがしたのだろう。
自分とはまったく関係のないものに縛り付けられていたら、流石に良い気持ちには
なれない。

「何で赤の他人かって言うとさ」

見えない糸を指に巻きつけるように、ひとみが目の前で指先でくるくると円を描く。

「その人のこと知ってたら、その気持ちが、良くも悪くも影響しちゃうんだよね」
「……良い影響も、駄目なんですか?」
「駄目。前ちょろっと言わなかったっけ? バランスが大事。生きている人たちには、
生きている人たちの世界があるんだし」

自分で何とかしなきゃねぇ。
そうのんびり呟いて、ひとみはついと背を向ける。

「だからコンコンも、早く戻んないとな」

こちらを見ず、ひとみは言った。
165 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:40

「……わかってます」

その姿に、あさ美はほろ苦いものを奥歯の隅で噛み潰す。

目に見えないほど薄く透明なガラスが、二人を隔てているようだった。
見えるけど、見えない。遠いようで、近い。
立っている場所こそ同じだが、しかし、あさ美とひとみは根本的に違うのだ。
片や、生きている。片や、死んでいる。

その境界を壊すのは、容易いだろう。
だからこそ――突き放された。
静かに俯く。


あぁ。
結局、どちらにもいけないのか。何も決めることができないのか。
勇気の一歩は踏み出せる。
だけど、その理由がどこを探しても見付からない。

本当に、何がしたいんだろう。


166 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:41

「ま、その為にも」

ひとみの声に、引き戻される。
あさ美は一度まぶたをぎゅっと閉じて、開いた。先ほどと同じで変わらない景色に、
安堵するような、落胆するような。
彼女が振り返る。

「ちょっとでもおかしいと思ったらすぐ教えて欲しいんだわ。何でもいいんだけど」
「いえ、今のところ特には――」

言いかけてふと思い至り、あさ美は小さく声を上げた。
そういえば、一つだけ、違和感を感じた出来事がある。
あさ美の様子に、ひとみはぐいと顔を近付けてきた。

「何。何々?」
「あ、いえ、その……夢が」
「夢?」

ひとみが僅かに首を傾げる。
あさ美は首肯して、ぽつりぽつりと言葉を繋いだ。

以前れいなとの会話で生じた、不可解な差異。事故の夢を見たことだ。
あさ美が見た夢では、その日は晴れていた。
しかし、れいなは雨の日だったと言った。
確かにそれだけでは、単なる夢として片付けられてしまうだろうけれど。実際、
れいなはそうやって流してしまった。
だが、とあさ美は思う。あの時のれいなの言葉は、すんなりとは腑に落ちなかった。
そうして納得できずに消化できなかった残骸が、未だ宙ぶらりんのまま胸の内で
揺れている。
何かの前兆とも、ただの夢とも片付けられないから、気持ちが悪い。
167 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:41
その話をざっくばらんに噛み砕いて、ひとみに伝える。
彼女はあさ美の話を眉根を寄せじっと聞いていたが、しばらく黙考した後、

「調べとく」

と、一言だけ言った。
彼女にもわからない事なのか、と思うと、少しがっかりした。
その気持ちが顔に出てしまっていたのだろう。
ひとみが申し訳なさそうに口の端を引き締め、静かにため息をついた。

「夢は……良く見るの?」
「え? どうでしょう……覚えてないけど、見てると思います」
「覚えてないんだ?」
「はい」

目覚めた時、「夢を見た」という実感だけ残って、内容は思い出せない事が殆どだ。
断片の一つ一つを追う事もできないわけではない。以前そう思って試みてはみたが、
所詮はつぎはぎと虫食いだらけの夢。ストーリーを辿れるほどの原型は留めていない。

ひとみはほんの少し目線を落として、「へぇ」と気のない返事をした。
そして、事も無げにこう言った。

「知ってる? ウチらって夢見ないんだよ」
「――え?」
「夢って、記憶の処理作業? とか言うじゃん?」

168 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:42


「ウチら、生きてる頃の記憶が全然無いんだわ」


169 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:43

だから夢見ないんだよねー。

自分がどういう顔をしてるのか、あさ美にはわからなかった。
笑いながらながら言うひとみの顔が、歪んでいる。
あさ美の視界も歪んでいる。
自分の目はひとみを捉えているけれど、頭の中は別のことに囚われていた。

目の前で微かに笑っている人は、生前の記憶がないらしい。

「コンコンはさ」

自分を見つめて穏やかな表情を浮かべるその人は、生前の記憶がないらしい。

「まだ生きてんだから、もっと自分のこと大事にしなよ。あたしはもう手遅れだけど、
忘れたくない事だってあるでしょ?」

しっとりとした声音で優しく諭してくるその人には、生前の記憶がないらしい。
だけどあさ美には生前の記憶がある。

「……忘れたい事だってありますよ」

吐き捨てるような口調が、自分のものとは思えなかった。
ひとみが訝しげに眉根を寄せている。
反射的に答えていたことに気付き、あさ美ははっと口元を塞いだ。

上目気味に窺ったひとみの表情で。
言ってはいけない言葉だったと、気付いた。
170 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:43

謝ろうと思い頭を下げかけたあさ美を、ひとみはやんわりと制す。
気にしなくていい。あさ美はまだ記憶が混乱している。自分もきちんと調べておく。
そういった事を告げてから、そっとその場を後にした。
申し訳ないことに、そのあたりの会話を良く覚えていない。
結局聞きたいことも聞けなかったけれど、それはもう些細なことだった。

何も感じられないような彼女の背中を見送りながら、あさ美は気付いてしまった。
脳裏で何度も反芻する。幾度も思い返して、毎度同じ事を考えた。



羨ましいと、思ってしまうなんて。
最低だ。



171 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:44
 
172 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:45



初めて入るところだ、とれいなは思った。

「どうしたー? 置いてくぞー?」
「うわわ、ま、待ってください」

少々ぼうっとし過ぎていたのか。ひとみは随分と先を歩いていた。
手足をばたつかせ、急いでひとみの後を追う。
知らない人の脇を通り抜ける時、自然と体がきゅっと縮こまった。
唇を噛み締めて、れいなはくっと顎先を上げる。

173 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:45

ハロー・プロダクション、通称ハロプロ。れいなは現在、その社内にいた。
公園の広場でのんびりと遊んでいたら、何だか怖い顔をしたひとみがやってきて、
訳もわからず半ば強引に連れて来られた。
ハロプロには、ひとみと何度か来た事がある。だが、今二人が歩いているこの道は
通ったことがなかった。ここへ来ると周囲の目を気にするあまり、ひとみのそばを
離れられず、色んな所を見て回る余裕がないのだ。
だから新しい場所を発見すると、れいなは自然と気分が高揚するのを感じてしまう。
新天地へと踏み込む冒険者の心境の如く、期待と不安がどちらも半々ずつ。
だがハロプロ内に関しては、少しばかり後者の割合が多いだろうか。

複雑な心中を持て余しつつ、れいなは辺りををきょろきょろと伺う。人通りはそう
多くはないが、寂れた雰囲気は感じられなかった。ここを行き交う人間の匂いが、
空気に染み付いている。れいなは右手で軽く鼻先を擦った。
前を見ると、ひとみの背中が少し遠くなっていた。慌てて小走りで後を追う。
見知らぬ人がひとみに挨拶し、れいなの隣を通り過ぎる。

その人と目を合わせないようにして、れいなはひとみの三歩ほど後ろを歩いた。
心持ち、その表情は硬い。
れいな自身も妙に体が強張っている事を、くっきりと感じている。


ていうか、やっぱ、緊張する。
174 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:47

「どした? なんか変な顔してね?」
「してないです!」

肩越しに振り返ってからかってくるひとみに、れいなは真っ赤になって返した。

「緊張、してるんです」
「へ? 緊張? 何で?」
「いや、何でって……こっちが聞きたいですよ」

ため息を吐きながら小さく漏らす。

「一課の人に見つかったら良くないっつったの、吉澤さんじゃないですか」
「あれ? そうだっけ?」

とぼけるようなひとみの口調。れいなは唇を尖らせた。

「言いましたよー」

よもや忘れた、などとは言わせない。れいなははっきりと覚えている。
初めてひとみと出会った時、妙に神妙な面持ちで、ひとみはれいなに言ったのだ。

『誰かに――特に営業一課に見つかったら、ソッコーあの世行きだから』

れいなと自身を交互に指差して、

『れいなと、多分、あたしも』

そう言われたから、れいなは一生懸命たくさんのことを教わって、辛くてもそれに
追いつこうと努力をした。
あの世には行きたくない。
そして、ひとみから離れるわけにもいかないから、必死で頑張った。
れいなは自分の『願い事』を、叶えてみたかったから。
それだけが今のれいなを、支えている。

175 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:48

(それなのに忘れるなんて、ひどくない?)

勝手にどんどんと不貞腐れていく自分に、れいなは気付かない。
その顔を見て、ひとみが笑った。

「だーいじょうぶだって、わかってる。んな顔しなくても平気だよ」
「でも……」

なおも言い募ろうとするれいなの頭に、ぽん、と温かい手が乗せられる。
くしゃくしゃっ、と掻き回すように撫でられて、不満だとか不平だとかが萎んでいく。
単純なところがあるれいなは、それだけで気分が軽くなった。
そうなるともうくすぐったくて、れいなの顔が緩んだ。
温かくて、優しい手。
いいなぁ、と思える、ヒトの手。

「さ、行くか」
「はいっ」

何事もなかったかのように歩き出すひとみの後を、足取り軽く追いかける。
176 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:48
(そういえば)

ふと、思う。

(吉澤さんの『願い』って、何なんやろ……?)

出会ってから二年とか三年とかになるのだが、考えてみれば彼女のことはよく
知らない。
れいなは『願い事』があるから、こうしてひとみの元で働いているわけだが。
ひとみは一体、何を目標にして働いているのだろう。

余り役に立たないれいなの野生的勘が、聞くだけ無駄だと言っている。
確かに、きっと上手にはぐらされてしまうだろう。気になるが、聞く気にはなれない。
れいなが問いかけても、さらっとあしらわれてしまうのだ。自信がある。
きっとそれは、彼女の飄々とした態度によるものが大きいだろう。
掴んだ、と思えば手のひらからするりと逃げている。
ひとみの持っている独自の空気は、そんな自由さ多分に含んでいる。
奔放な風のようなあの人の願いを、いつか聞くことができるだろうか――。

ひとみの後姿をじっと見つめた。
何も言わないその背中からは、やはり何も読み取れない。

177 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:49

びくびくしながらひとみについていくと、やがて一本の通路の手前で立ち止まった。
通路の奥は行き止まり。ということは、恐らくここが目的地だ。
れいなは視線を上げて、通路に入ってすぐの扉をぼんやりと眺めた。
それは大層な両開きの扉で、どちらも固く閉ざされている。扉から突き当たりまで、
別の入り口らしきものはない。その部屋には通路の分だけ奥行きがあるようだ。
そこそこ広いのかもしれない。
窓は見当たらなかった。そのせいか、壁の向こう側から不可解なプレッシャーが
滲み出ていた。
初めて感じる圧迫感に、れいなはまた一つ身震いする。
中に何があるかは知らないけれど、

(なんか、あんま……好きになれん感じ……)

漠然とそう感じて、れいなは腕を抱く。その隣でひとみが一歩踏み出した。

扉の前方には、通路を阻むように茶色いカウンターが設置されている。
れいなはその時初めて気付いたが、カウンターの向こう側には人がいた。
178 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:50
何か作業をしていたのだろう。その人は俯いていたが、カウンターに近付くひとみに
気付き、顔を上げた。

「資料の閲覧はチーフマネージャーの委任状が必……あれ?」

そして、その人は意外そうに目を丸くした。

「なんだ、よっすぃか。びっくりしたぁ、久し振りじゃない!」

その女性はそっと手を振って、正面に立つひとみに笑いかけた。
細めた目元に親愛の情が滲んでいる。表情は見えないけれど、恐らくひとみも
同じような目つきをしているのだろう。

「おす。元気?」

軽く手を振り上げ、ひとみは女性に挨拶をした。れいなはその後ろから、そっと
女性を観察する。
ぱっと見て、綺麗な人だと思った。ひとみも綺麗だが、それとはまた違ったタイプだ。
女性的な可愛らしさがふんわりと全体から香る。その女性の周りだけ、桃色の
香水を散らしたような、そんな人。
179 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:50
彼女がひとみと楽しげに言葉を交わしている。
が、れいながじっと見つめているのに気付いたのか。ふと女性の視線がこちらに
向いた。慌てて視線を逸らしたけれど、遅かった。
無遠慮すぎる視線に気分を害した様子もなく、

「どうしたの? 新しい研修生?」

と、彼女はひとみに尋ねた。

「あぁ……まぁ、そんなとこ」

言葉を濁しながら、ひとみはれいなに向かってちょいちょいと手招きをする。
れいなはさっとひとみの隣に並んで、カウンターの女性を見る。彼女と目が合って、
微笑まれた。
何だか照れくさくなり、れいなは僅かに視線をはずす。

れいなの背に、軽くひとみの手が触れた。

「これ、委任状」
「あぁ、はいはい」

ひとみが(どこから取り出したのか)一枚の紙片を彼女に手渡す。
何が書いてあるかはわからないが、とにかく必要な書類らしい。

女性がその書類に目を通している間に、ひとみはれいなを促す。
180 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:51
「中入るベー」
「あ、は、はい」

れいなは扉の正面までととと、と近寄り、ドアノブに両手をかける。

「あ、待って」

と、れいなを制止する声。
扉をぐっと押し開こうとして、まさに力をこめた瞬間だった。
れいなはきょとんと目を丸くして、女性を見つめる。
彼女はひとみの方にひらひらと右手を差し出し、

「よっすぃ。この子の委任状も」
「……へ?」

ひとみもまた、大きな目をまん丸に見開いて、素っ頓狂な声を上げた。
その姿に思わず噴出しそうになったが、れいなは口元を引き締め必死でこらえる。
そんなれいなのことは露知らず。女性は続ける。

「知らない? 委任状は、一人につき一枚必要なの。これはよっすぃの名前だし、
もし無いなら、その子は入れないよ?」
「えぇー……マジで?」
「マジマジ」
181 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:52

ぱん、とひとみは両手を顔の前で合わせる。

「頼む、梨華ちゃん」
「そんなこと言われても……」
「このとーり! 同期のよしみで何とかしてっ」
「だ、駄目! 規則は規則なの!」

拝み倒そうとしているひとみを、女性は高い声で制す。
どうやら二人は仲がいいようだ。傍から見ているだけのれいなにも、その様子は
伝わってくる。
ひとみはそれを利用して見逃してもらおうという魂胆らしい。
対して女性の方は、多少惑わされつつも、規則を破るつもりはないようだ。

しばらく攻防が続いていたが、女性が陥落しないことを悟ったのだろう。
ひとみは困ったように眉尻を下げ、れいなを見つめてくる。
そんな目で見られても、れいなにはどうすることもできない、という目で見つめ返した。

「わかった……また来る」

女性にそう言い置きして、ひとみは小声で「ちょっと来い」とれいなを促した。
カウンターから離れていく彼女を、慌てて追いかける。何だか今日は追いかけて
ばっかりだ。
182 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:54

通路からほんの少し離れたところで、ひとみは立ち止まる。
壁に向かって真正面に立つと、ちょいちょいと自分の目の前を指差した。

「れいな、ちょっとそこに立って」
「は? はぁ……」

言われたとおり、れいなは壁を背にしてひとみを見上げる。
何故だか、ひとみは口の端を吊り上げて笑っていた。
思わずれいなは脇を締め、背筋を伸ばした。

「まいったねぇ。れいなは入っちゃ駄目なんだってさ」
「はぁ、そうみたいですね……」

ひとみの笑みが深くなる。腰の辺りを羽毛で舐られたように、ぞわっと悪寒が
した。
何か、企んでる。

「いやーまいった、まいった」

わざとらしく言い飛ばして、彼女はれいなの二の腕あたりをそっと触れる。
そのままぐるっとれいなを反転させた。れいなが壁と向き合ったところで、改めて
ひとみの手がれいなの両肩に添えられる。
背後のひとみが、にやにや笑っているのを感じた。
183 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:55
「れいな」
「は、はいっ」
「ウチらは部屋に入りたい、でも、入っちゃいけないって言われたね?」
「は、はい。そうですね……」

ぶっちゃけ、れいなは部屋に入らなくっても全然問題ないんですけど。
そう言える様な雰囲気でないことを敏感に感じ取り、れいなは口をつぐんだ。

「さぁ、問題だ。どうすればいい?」

耳元で、ひとみの声が響いた。
物差しのようにぴんと背筋を張って、れいなは僅かに口を開く。

「い、委任状とか言うのを、れいなの分も取ってくればいいんじゃ……」
「ぶーっ。それはできません。不正解なので0点です」

罰ゲームだ。鼻で笑って、ひとみがれいなの頬をつんつんとつつく。
あぁ、嫌な予感がする。動揺のせいか目が泳ぐ。
れいなが立っている位置は、カウンターからは見えない――死角だという事に、
今更ながらに気付く。
ごくりと喉を鳴らして。

「正解は」
「え……っ」

れいなが覚悟を決める前に、背中に強い衝撃を受けた。
ひとみに背中を突き飛ばされた――という事を考えているうちに、目前に無機質な
壁が迫っていた。
184 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:56
ぐんと吸い込まれるような錯覚。心臓の部分がきゅうっと縮こまった。
硬い壁に鼻先がぶち当たりそうになった時、れいなはぎゅっと目をつぶる。

ぶつかる!

「バレない様に入る。これが正解」

その声に後押しされるように。
れいなの体は壁をすり抜けて転がった。



185 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 11:56
 
186 名前:* 投稿日:2007/06/11(月) 12:00
更新終了。

吉澤さんはこういうタイプだと勝手に思っている。
187 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/11(月) 19:55
シリアスモードで読んでたのにw
吉澤さんもですけど、れいなもこういうタイプですよね。
188 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:46
189 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:47

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わたしは走っていた。
息が切れるのも厭わず、零れる汗も拭わず、
ただ一心にアスファルトの上を走っていた。

夏の厳しい日差しを潜り抜け目指すあの場所。
そう、いつもの、あの場所。

長旅で疲れていたけれど、そんなの気にしなかった。
この角を曲がって、交差点を過ぎれば見えてくる公園。
そこに行けば、帰ってきたって実感できると思ったんだ。

何を考えていたわけでもない。
何かを鑑みていたわけでもない。
そこに誰かを夢見ていたわけじゃない。

一番に知らせたかったんだ。


なのに。
もう永遠に、伝えることが出来なくなってしまった。


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190 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:48


湖の底でたゆたう闇のように静かな絶望を伴って、その夢は終わりを迎えた。
あさ美はゆっくりと瞼を押し開く。眠りから覚醒した。

何度か体内の空気を入れ替えながら、あさ美はそっと辺りを見回す。
そこは、喧騒から一本外れた、裏道のような道路だった。
道幅は広く、しっかりと舗装されている。駅から近いからか、はたまた畑のおかげで
見通しが利くからか、あまり寂れた雰囲気はない。
畑の反対側には、道路を挟み、敷地を囲むようなコンクリートの壁があった。高さは
あさ美の頭ほどまでで、その向こう側には生い茂った広葉樹が見える。湿った風が
通り過ぎて、木々を揺らしていった。アスファルトに描かれた青黒い影が、涼しげに
揺れている。

この道には、見覚えがあった。

191 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:48

視線を移す。道の先を、二人の女が歩いていた。
一人は愛。俯きがちに、ゆっくりと歩いている。
その隣にいるのは里沙だった。
愛の左側、半歩分後ろを歩いている彼女は、時々愛を気遣うようにして寄り添って
いる。
二人の姿を確認した後、ぎゅっと目を閉じて、あさ美は両腕で体を抱いた。

いつもと同じ目覚めだったが、何故か猛烈な悪寒を感じている。
鎖骨の内側にぽっかりと穴が開いたような、強烈な欠落感。全身をシルクのように
包み込む、冷たい不安。
細く長く呼吸する。少し息苦しかった。
恐らく、今見た夢のせいだろう。

猟奇的なストーリーはなかった。スプラッタな状況など、一切展開されなかった。
身の毛のよだつ要素など、全くなかった夢なのに。
だけどあさ美は、その夢に、確かな絶望を感じたのだ。
体の一部がぼろりと剥がれ落ちるような深い悲しみを、感じたのだ。

そして――確信した。
目を開けて、空を見上げる。
残暑を彩る、鮮やかな青空が、大きく広がっている。
192 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:49


あの時、地面に横たわって仰いだ、八月の空。
突き抜ける蒼空が、どうしたって空しかった。
涙は止め処なく零れていただろう。
だが、あさ美が覚えているのは、最初の一粒だけだった。

そう。そうだ。間違いない。
あさ美は、この道で、事故にあった。
愛と里沙が歩いているこの道の、その先にある交差点。
そこが、事故の現場なのだ。


193 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:50

腕を解き、愛達の側へ小走りに寄る。
近付きながらも頭の中では、やけに鮮明な夢の残滓を手繰り寄せていた。
交差点に差し掛かるところで、愛が立ち止まる。里沙も足を止めた。
あさ美はそのまま二人の横を通り過ぎて、交差点のど真ん中で寝転んだ。

この、交差点が。

あさ美は目を閉じて、その時の事を良く思い出そうとした。

「ここはな――」

愛が話し始めたのを、意識の端で捉えながら。

「この場所はな――」



194 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:50



ひとみに突き飛ばされた勢いそのままに、れいなはその部屋に転がり込んだ。

「痛ったぁっ!」

反射的に手を突いたつもりだったが、勢いあまって顔面を床に打ち付けてしまう。
ちょっと、というか大分痛い。
痛みに慣れていないれいなは、両手で顔を覆い、床に突っ伏したまま悶絶した。

(うー……吉澤さんちょー恨む……)

いくら入室禁止と言われたからといって、突き飛ばすことはないではないか。
もっと他にも方法はあったと思う。
何でれいなが痛い目に遭わなくてはならないのだ。
胸中で二、三恨み言を連ねてから、れいなは肘をついてゆっくりと体を起こした。
鼻の頭がちょっとヒリヒリする。顔をしかめて、鼻をすすった。同時に埃臭い空気を
吸い込んで、れいなは辺りを見回す。
周囲の景色を目の当たりにして、自分が今まで感じていた嫌悪感に納得がいった。

「うわぁ……」

思わず呻いて、れいなは口の両端を下げる。
そこにあったのは、数え切れないほどの本棚だった。人二人程がようやく通れる
だけの通路を挟み、等間隔に棚が林立している。どれも天井に届く程の高さで、
中身がぎっちりと押し込まれていた。もちろん、それらは書籍や何かだろう。
それがわかるから、れいなはげんなりと肩を落とした。
195 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:51

「おー、いたいた」

暢気な声とともに、ひとみが本棚の向こうから顔をのぞかせた。
スーツのポケットに軽く手をかけながら、悠々と棚の間を歩いてくる。れいなの
傍まで寄ると、屈んで覗き込んできた。

「大丈夫?」
「大丈夫じゃないですっ」

れいなはがばと跳ね起きる。
自身の鼻先を示しながら、

「顔からですよ! 顔! ありえないです、いきなり突き飛ばすとか!」
「だってアレしか思いつかなくって。すまん」

謝りながらも、口の端で笑っている。
れいながどうなるかを承知の上で突き飛ばしたようだ。
釈然としないまま、れいなはその赤味を散らすかのごとく、鼻先を指で払う。

「……で、吉澤さんはどっから入ってきたんですか?」
「え? 普通に入り口からですが、何か?」

奥歯に理不尽なものを噛み潰して、れいなは苦い顔を浮かべる。
喉の奥でくくくっと笑って、ひとみはれいなを引っ張り起こした。

「手伝って欲しいことがあるんだ」
「……」
「そんな顔すんなって」
「勉強なら出来ませんけど」
「惜しい。調べ物です」

ひとみはれいなの頭をくしゃっと撫でて、自分について来るよう促した。
れいなは一つため息をついて、歩き出す。
調べ物だろうと、大して変わらないと思うけれど。
196 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:51

ひとみはこの部屋を資料室だと説明した。
明るすぎない室内には、紙の気配が濃密に香っている。意外と広さがあり、その
ほとんどを本棚が占めているようだ。これら全てが『資料』だという。何の、とは
聞かなかった。あまり興味も湧かないし、聞いてもわからないだろうとれいなは
思ったからだ。
ただ、カウンターの人のことは少し気になった。

「入り口の人は?」
「梨華ちゃん? あぁ、アイツはまぁ、監視役ってとこかな」

それはつまり、資料を勝手に持ち出したり、許可なく立ち入る者が(つまりれいなの
ような輩が)いないように、ということだろう。
ならばもし、この事がバレてしまったらどうなるのか。
れいなはかぶりを振って、あまり考えないようにした。

「……綺麗な人でしたね」
「ん? あーいうのが好み?」
「いや、別に、そんなんじゃないですけど」
「やー、ああいうタイプは苦労するぜ? おススメしないなぁ」

にやりと笑うひとみから、「だから違いますって」とれいなは顔を背けた。
197 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:52
室内のとある一角に、長机と椅子が並べて置いてあった。
資料を書き取る為に用意されているものなのだろう。利用者はいなかった。
前を歩くひとみが小さくつぶやいた。

「うし。好都合」
「?」
「いや。なんでもない。こっちおいで」

一番奥の机の、その先にある棚の前にれいなは立たされた。
こうして間近で見ると、改めて大きな本棚とわかる。れいなが両腕を広げても、
その横幅には少し足りない。背丈など二回り程の差があって、踏み台を使っても
てっぺんには手が及ばないだろう。

ひとみはスーツのポケットから、メモ用紙をちぎったような小さな紙片を取り出し、
れいなに渡した。
手渡されたそれには、綺麗な文字が箇条書きに並んでいた。

「……これは?」

ひとみを見上げて、れいなが問いかける。
一つうなずいて、ひとみが答えた。

「その条件に、なるべく近いものを探して欲しい」
「はぁ。どこから……」
「こっから」
「……え?」

彼女が示した先を見て、れいなが目を見開く。

「こっから先、全部」

198 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:53
それは、今二人が立っている地点から、その先にある本棚の全てを示していた。
縦横に並んだ本棚は、ざっと見積もっても二十を軽く越す。
今一度言うが、どの棚も腹いっぱいにファイルを抱えている。

「――えぇっ!?」

かなり膨大な量の紙、紙、紙。
手元の紙片が、とても可愛らしく思える。
れいなは慌てふためいた。

「む、無理ですよ、そんなん! いくら時間があっても足りんですよ!」
「うん。だから手伝って欲しいんだ」
「だからって、えぇっ!? 無理無理無理!」

れいなは何度も手や首を振る。
勉強や調べものはもちろんだが、そもそもれいなはあまり読書が得意でない。
すぐに音を上げてしまうことが目に見えている。
というより、もう既に逃げ腰モード。
課題を聞いただけで涙目になってしまっていた。

情けない顔でひとみを見上げる。だが、れいなは息を呑んだ。
思いがけず真剣な眼差しが、そこにあった。

「頼む。時間が無い、かもしれないんだ」

自身の唇を食むように、ひとみは声を絞り出す。
その声音に、自然と背筋が伸びた。

「どういう、事ですか……?」

知れず、声が震えた。
僅かに黙した後、ひとみはやおら口を開いた。

「もし、あたしが考えている通りなら――ちょっと、ヤバイ事になりそうなんだ」

199 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:53


「コンコンも――そして、高橋愛も、危ないかもしれない」


200 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:54




まるで風船がはじけるような音を立てて、『それ』は空へと還って行く。
それを見送るようにして、二人の女性が佇んでいた。
一人は黒いスーツを着た、鋭い目つきの女性。
その後ろに、真っ黒いマントを羽織った幾分若い女性が立っていた。
マントの女が右手でひさしを作り、『それ』の軌跡を目で追った。

「たーまやー」
「いや、花火じゃないから」

彼女の間延びした声を、スーツの女性が遮る。
竹を割るみたいにぴしゃりとした口調だった。

「ったく、手間かけさせやがって……時間食ったな」

ぽしゅう、と蒼天に向かって昇っていく煙の尾を眺めて、スーツの女――藤本美貴は
目を細めた。
これで終わりだ、と。

201 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:55
なんて事のない、どこにでもありそうな平凡な住宅地の真ん中で、美貴は悪霊を
成仏させた。
白煙のごとく舞い上がるのは、いわゆる人間の『魂』みたいなものだ。
悪霊となってしまったその人間は、たった今、美貴の手によって強引にあの世へ
逝かされてしまった。
良心の呵責とか、罪悪感とか、そういう類のものは一切感じない。
そんなものがあれば、美貴は今頃、いっとうたちの悪い悪霊になっているだろう。

なんだかな、と美貴は内心一人つぶやく。
美貴にとって、暴れまわる幽霊をあの世に『送る』ことは造作もない。
部下の力を借りて強引に押さえ込み、ちょっとその『糸』を断ち切るだけだ。
それが仕事だ。日常茶飯事だし、慣れている。

右手に持っているナイフを手の中で弄んで、眉根を寄せる。
ハロプロのコーディネーターに、各自一本支給されるこのナイフで、幽霊の『糸』を
切るのだ。
202 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:56

「藤本さん?」

美貴の後ろに立っていた部下が、訝しげに美貴を覗き込んできた。
はっとして、美貴はかぶりを振る。

「どうかしました?」
「や、どうもしてないよ」

微かに笑って見せるが、部下は――道重さゆみは無遠慮に見つめ続けてくる。
人形のようなその表情に、まいったな、と美貴は思った。
この部下、可愛らしい顔をして意外と聡い。その真っ黒い目に見つめられると、
自分の心の中まで見透かされてしまう気がする。
この子の事は嫌いではないが、多少苦手な部分もある。
ていうか、いちいち顔の距離が近くて、困る。

「近ぇよ」
「だぁってぇ、藤本さん、また何か隠してるんだもーん」

その顔をぐいと押しのけるも、ぶりぶりなトーンが追い縋ってきた。
口元が歪む。

203 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:56

「キモい声出すな。またって何だよ。何も隠してないし」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だよ。だって、ナイフ見てる時の藤本さんは、いつもとちょっと違うの」

喉をくんっと突かれたように、美貴は言葉に詰まった。
色白いさゆみの目は深く黒く、しっかりと美貴を見つめていた。
突っかかった言葉の塊を飲み下して、美貴が何かを言おうとすると、

「言いたくないなら、別にいいんですけどね」

そう言って、穏やかに微笑んだ。
その笑顔に、美貴は一瞬殴ってやろうかと思った。

「ほんっと、いい性格してるよね!アンタ!」

些細なところから容赦なく人の弱味を突いてくるくせに、こちらが隙を見せると、
さっと一歩引いて逃げ道を作ってやる。
それは一見、優しさのように見えるが、実は違う。
釣り人が、生餌をくくりつけた針を魚の前に差し出すような。
それをあちらへこちらへと泳がすような、そんな行為。
要するに、手の上で転がされているのだ。
204 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:58

拳をぎゅっと握りこんで、美貴は吐息を漏らす。
右手の中にはナイフ――刃の潰れているペーパーナイフ――のごつごつとした
柄の感触がある。先程切り離した『糸』の感覚など、とうに消えている。
いつものことだ。
だけど、腑に落ちない何かを、そのナイフから感じる。

美貴はぽつりと漏らした。

「……なんか、おかしいんだよね」
「ナイフがですか?」
「うん、そう」

手の中でナイフを回す。指で刃先を撫でる。刀身を日差しに透かしてみたりもした。
見た目は、いつもと変わりがない。
顔を顰めて、続けた。

「なんか、刃が立たないっていうか、通りが良くなかったって言うか。いつもより
切りにくかった」
「……で、その原因に、藤本さんはなんとなく気付いてるんですよね?」

確認の問いかけ。さゆみの口調に、美貴は眉尻を下げて困ったように笑った。
美貴は何も言わなかったが、さゆみはその表情だけで察したらしい。
まいったな、と思う。
聡明過ぎるのも、考えものだ。
205 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:59

「うん――多分、よっちゃんが、なんかおかしいんだと思う」
「吉澤さん? それって、二課の吉澤さん?」

美貴は答えない。
さゆみは間を置かず問いかけてきた。
真っ黒な視線が少し怖かったけれど、痛くはなかった。

「何でここで、二課の吉澤さんが出てくるんですか?」
「何故って……それは教えない」

美貴はにやりと笑って、右手のナイフをしまった。
何故ならこのナイフは。

「えーっ、何で何でーっ! 教えてくださいよ!」
「さぁ? 自分で調べればぁ?」
「えぇー! ひどいっ!」

頬を膨らませて抗議してくるさゆみを見て、美貴はほくそ笑んだ。
教えたくないのも本当だったが、単純に会話の主導権を握りたかった事もある。
しばらく美貴の周りで、さゆみは「何で何で」と言い続けていた。
だが、自らの唇に人差し指を当て僅かに微笑む美貴を見て、何も言えなくなった。
ようやく黙ったさゆみから視線をはずして、美貴は空を見上げる。
空には緩やかに雲が流れているだけで、煙の尾はもうどこにも見当たらない。

206 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 07:59

左手をポケットに突っ込んで、首を傾ける。
正直な話、ナイフの切れ味とひとみの状況との間には、実は何の因果もない。
もしかしたら間接的には何かがあるのかもしれないが、それは美貴の知る所では
ない。
ただ、美貴が漠然とそう感じたというだけだ。

「ふむ」

右手でがしがしと髪の毛を掻き上げて、美貴は歩き出す。
根拠も何もない。
だけど美貴は、自身の直感に、ある程度の信頼を寄せている。
だから美貴が、「ひとみがおかしい」と感じたのなら、そうなのかもしれない。


何故ならこのナイフは――。


207 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:00

苦笑いを浮かべて、美貴は口を開いた。

「一個だけ教えてあげるよ」
「え?」
「おかしいって思った、予感の正体」

振り返ると、さゆみが無表情に美貴を見ている。
何故だろう。
少しだけ、話すのに勇気が要った。

「このナイフ、美貴のじゃなくて、本当はよっちゃんのナイフだからだよ」

その漆黒の目はやっぱり美貴をじっと捉えていて、離れようとはしなかった。
羽織っているマントの裏地が赤い色で、まるで悪魔だな、と思った。
死神みたいだな、とも思った。


208 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:01




どれほど時間が経っただろうか。
れいなはほうと溜息吐いて、持っているファイルの選別を続ける。

あれから、本棚とひとみがいる机を幾度も往復し、ファイルを運んだり戻したりする
作業に明け暮れた。
最初の内は、二人で一緒に、全部の資料に目を通していた。だけど、あまりに
時間がかかることと、れいなの負担を考慮して、ひとみは作業の分担を提案した。
即ち、れいなは大雑把に目を通し、ひとみの示す『条件』と一つでも合致すれば
それをひとみに持っていく。最終的な判断を下すのは結局のところひとみなので、
更に細かく見るのは彼女の役割だ。
何といっても量が量なので、れいなはその提案を二つ返事で承諾した。

しかしながら、苦手なものはいくらやっても慣れはしない。
何度目か分からぬ溜息を吐き出して、数えることすら馬鹿馬鹿しいファイルを
開いた。

209 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:01
たくさんのファイルを開くうちに分かったが、どうやらこれはハロプロの報告書を
取りまとめたものらしい。
れいなが目を通したものは、全て営業一課若しくは二課のもの。
つまり、この世とあの世の境目でさまよう霊に対する報告書だった。
数十件の書類がまとめられている物もあれば、やたら分厚い報告書が数件のみ
束ねられているような物もある。
中にはれいなの興味を引くような言葉もあったのだが、あまり気を散らさないように
れいなは注意していた。
ひとみの言葉を、気にかけていたからだ。

(一体何を調べとるんやろか……)

ふと、れいなは顔を顰める。
そのままぱらぱらと紙をめくった。

(これと……これ、と、これもや。読めん字が、結構ある……)

唸りながら、れいなはバインダーを閉じる。手元の物は提示された条件と一個も
合致しなかったので、棚に差し込んだ。
必要な物と不必要な物を分別しながら、れいなはファイルを積み上げる。
ある程度溜まると、れいなはその山を抱えひとみの元まで持っていった。

210 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:02

柔らかい照明の下で、ひとみは黙々と報告書に目を通していた。指先で字列を
なぞったり、時として声に漏らしたりもした。
彼女が居座る机には、彼女を取り囲むようにファイルが積まれている。
うるさくならないように、れいなは抱えた山をその一山に加えた。

「サンキュ」

ちらりと視線を上げて、ひとみは一声だけかけてくれた。
労ってくれるのは有り難かったが、背中を丸めて資料を読むひとみだって、かなり
うんざりしているのが見て取れた。
また手元の書類に落とされそうになる視線を追って、れいなは遠慮がちに声を
かける。

「あの」
「ん?」
「その……読めん字が、結構あるとよ」
「うん」
「今度また、教えてください」

恥ずかしげに、れいなは視線を左へと泳がせる。ひとみが微笑んだのを、空気で
感じた。

とある事情から、れいなは読み書きを全てひとみから教わった。
人として最低限の識字能力すら養っていなかったれいなに、彼女は懇切丁寧に
一から教えてくれたのだ。
最近は大分慣れたので、自分から言葉を覚えることができるようになったけれど。
勉強などが苦手な理由は、そこにあった。

211 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:03
ふとひとみが手を伸ばして、れいなの頭をくしゅくしゅと撫でた。
口元を斜めに、にやりと笑う

「嫌って言うほど、教えてやんよ」
「いや、そこまでしてくれんでもいいんですけど」
「いーや、やるならとことんだろ! 自分から言ったんだから、覚悟しろ?」

黒髪の下の額を指で弾いて、ひとみは机に向き直った。

「もうちょっと、頑張れ」
「……はい」

額をさすって、れいなは弱弱しく笑う。
照れくさいのを隠すように、その手で口元を覆った。そして、先程よりもしっかりと
した足取りで、れいなは本棚へ戻った。
散乱していたファイル類を軽く片付けてから、また本棚から新しいのを引き抜いて
調べ始める。

ひとみに言われると、素直に頑張ろうと思えるから不思議だった。
人から指図されるのをあまり好まない自分が、こうしてまた苦手な作業を真剣に
こなそうとする姿が、ちょっと可笑しい。

(――いかん、いかん)

と、れいなは頭をを振った。
微笑ましく思っている場合ではなかった。
ひとみ曰く、一刻を争う事態なのだ。
何を探しているのかいまいち判然としないけれど、これはあさ美の為だ。
コーディネーターとして、自分が担当している霊には安心して過ごしてもらいたい。
だからこそ、れいなだって、こうして長時間資料と睨めっこしているのだ。
212 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:04

一つ気合を入れなおして、その場にどっかりと腰を下ろした。
忙しく目玉を動かして、ページをめくり続ける。
ふと、その手が止まった。

「ん?」

見開いたそのページに、れいなは顔を近付ける。
どこを見たって代わり映えしない、文字の羅列。
その中に、良く知る名を見つけたのだ。

『吉澤ひとみ』

別段、珍しくもなかった。ひとみもハロプロで働いているのだから、報告書の一枚や
二枚書くだろう。
もちろん、れいなもそう思った。
もう一つの名前を見つけるまでは。
その字面には見覚えがある。いつだかひとみが教えてくれた。

『藤本美貴』

「ふじもと、みき……」

良く知る名前が二つも出てきたら、気になってしまうのは仕方がない。
れいなは一瞬、自分が何をしているのかを忘れて、その報告書を目で追った。
読めない字はすっ飛ばす。全部が全部漢字で書かれている訳ではないから、
つっかえながらも読み進めることは出来た。

「なん……これ……」

指でなぞり、時には声に出して。
何度も何度もページをめくったり戻したりしながら、人知れずつぶやいた。
れいなの頬がみるみる強張っていく。
213 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:05


発生場所:ハロー・プロダクション東京支部

処理担当:東京支部営業一課コーディネーター 吉澤ひとみ

対象者:東京支部営業一課コーディネーター 藤本美貴
     同上 松浦亜弥

経緯:xxxx年xx月xx日 午後1時頃……


214 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:06

書かれていることは、正直分からない。
けれど、それには何かの事件の概要が記されているのは、確かだった。

(営業一課? 吉澤さん、前は一課の人やったと? でも今は違うやんね……んー、
対象者、藤本美貴、まつう、ら……うー、読めん)

頭をがりがりと掻き毟る。自分の勉強不足を、今ほど呪った事はなかった。

(んん。でも多分知らん人。藤本さんも対象者や。……対象って、一体何の――)

はっと、れいなは慌てて顔を上げて、辺りを見回す。
ここは、ハロー・プロダクションの資料室だ。
室内を埋め尽くすのは、本棚と資料の山。
れいなが佇むこの一角を占めているのが――営業一課と、二課の報告書。

頭の中で、ぐるぐる跳ね回る言葉の塊に、れいなは目が回りそうだった。


立ち並ぶ本棚の向こうから、ひとみの呼ぶ声が聞こえた。



215 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:07
216 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:08
更新終了。

上手に書けたか心配です。
217 名前:* 投稿日:2007/10/23(火) 08:13
>>187 名無飼育さん 様
和んで頂けたみたいで何よりです。
れいなっぽく書けたらいいなと思いながら、いつもカタカタ打っています。
218 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/10/26(金) 01:40
うわぁ……手に汗握る展開
あっちもこっちも気になります
219 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:50
 
220 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:51



例えば、友達と一緒にいるとき。
或いは、一人のとき。
或いは、どこか知らない場所に立っているとき。

どんな時でも、誰かが引っ張っている。
自分のことを引っ張っている。
まるで操り人形のようだ、とさえ思う。

繰り人は優しい。果てしなく優しい。懐も深い。
どんな人形も、決して無下には扱わない。
一つ一つの顔を覚え、名を与え、丁寧に埃を払い、それぞれに拵えた綺麗な箱へ
大切にしまうだろう。
だけど。

麻酔の釘を打たれ、毒の繰り糸が四肢を奪う。
その毒は全身を巡り、血管で濾過されて、やがて純正な快楽になる。
繰り人と同じ笑顔を浮かべて踊る人形が、そこにいる。
不自由なことに気付かないまま、静かに朽ちていく人形。
それが自分だと、はたして気付けるだろうか。

だから、試してみよう。
例え繰り人がいなくても、自分は動ける。表現できる。
自分の意思で、誰かと繋がっていられる。
試してみよう。きっと証明してみせる。


だって、じゃなきゃ、そんなの、
寂しい。



221 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:52




……な……ぃな……

「れいな!」
「はいぃ!」

れいなの口から声が飛び出した。
背後からかけられた大きな声にすくみあがり、読んでいたファイルを思わず手から
すべり落としてしまう。
ばさりと音を立て、ファイルの中身は積んでいた資料の上で散らばった。

「……なぁにやってんの」
「あっ、す、すいませんっ」

222 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:52
れいなは慌てて資料を拾い集めた。
声をかけたひとみもそれに倣い、腰を追って一枚拾う。思わず、れいなは横目で
様子を窺ってしまう。
知ってか知らずか、文面に眼を走らせて、ひとみは眉根を寄せた。

「……」

そのまま、資料を押し付けるようにして渡してくる。
内心びくびくしながら、れいなはそれを受け取った。
集めた手元の紙束と、ひとみの表情を順番に見る。彼女は仏頂面のような、苦いものを
噛むか噛まないか悩んでいるような顔をしていた。

何だか、怒らせてしまったような気がして、れいなは肩を落とした。
視線を逸らすように下ろす。と、取り残した最後の一枚が視界に入る。
無言でそれを拾い上げて、のっそりとファイルにしまった。
『吉澤ひとみ』の文字がやけに目に付く。

(……聞きたい)

でも、知られたくない事だって、人にはあるだろう。
いくらひとみがれいなと親しいからと言って、全部教えてくれるわけじゃない。
れいなの事だって、周りに知られてはいけない事だから、ひとみは隠している。
知られたら大変な事は、隠すものだ。
だったら、聞いても答えてはくれないだろう。

223 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:53

ひとみは細くため息をついて、「タイミング良いな」と呟いていた。
自分の思考に手一杯だったれいなは、気付かなかった。
何を言うべきか迷い、あれこれ考えていると、

「見た?」
「あ、はい。……あ、いや! 見たといったら見たんですけど、見てないような」
「どっちだよ」

ナチュラルに聞かれてしまったので、思わず肯定してしまった。
慌てて取り繕ったれいなに、ひとみは苦笑して、

「別に、見たって良い。……いや、見るべきだった、って言った方がいいのかな」
「は?」
「……うん。ちゃんと説明する。お前はその報告書、理解できたか?」

れいなが抱えている件のファイルを示して、ひとみはぐいと顔を近づけた。

読み取れる(理解できる)語彙の少ないれいなが、その資料から拾った言葉たち。
そして、それが報告書という形で、営業部の資料棚に挟まれていたこと。
頭のよくないれいなが導き出した答えは、一つ。
おぼろげながら掴んだ事実の輪郭は、にわかには信じがたいものだった。

逡巡の後、れいなは曖昧に頷く。
ひとみの眼光が、れいなの口を開かせた。

「藤本さんがとり憑かれそうになって……吉澤さんが、糸を切ったと」
「そうだよ」

彼女は静かに頷いた。

224 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:53


「松浦が、美貴にとり憑きそうになったのを、あたしが糸を切って止めたんだ」


225 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:54

神託のような、威厳さえ感じる重く深い声だった。
呆けたままその声を聞いていたが、れいなはかぶりを振る。

「で、でもっ! そんなことあるんですか!? 幽霊が幽霊にとり憑くなんて!?」
「とり憑く、とは若干ニュアンスが違うけど、有り得ることなんだよ」
「嘘ぉ!?」
「嘘じゃない。嘘じゃないんだ……」

苛立つように前髪をないまぜるひとみ。
れいなはその姿を見て、怯んだ。
隠すことの出来ない静かな憤りが、ひとみの目元に滲んでいる。
触れがたい空気に気圧され、れいなは一歩引いた。

226 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:54


幽霊にとり憑かれること。
それは、『自我』が重なることだ。
幽霊が生きているものにとり憑いた場合、意識や記憶の混濁が生じたり、身体が
意識とは違う動きをしたり(つまり幽霊が身体を乗っ取ったり)するのが、一般的に
報告されている弊害だ。
最悪、完璧に同化した二つの『自我』に、生者の肉体が耐え切れず崩壊。
若しくは、どちらの意識も霧散し消滅してしまう恐れがある。
それが意味するのは、純粋な死。

そうならないように、コーディネーターたちは幽霊を糸で繋いで、見張る。
彼らが安定するように見知らぬ他人と繋ぎ、揺らがないように監視する。
そしてコーディネーターたちも例外ではない。
彼らはお互いを糸で繋ぎあい、そして、『ハロプロ』とも繋がっている。
まるで命綱のように。まるで鎖のように。

幽霊が幽霊にとり憑かれる。
想像しがたい。が、確かに、理論上有り得ないことではないのかもしれない。
れいなには理解できないけれど。


227 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:55

「だ、だけど、」

何かを言い募ろうとしてれいなはしどろに声をつむぐ。
だが、ひとみの手がびっとそれを制した。

「いい。その事件は終わったことだし。問題は、今だ」

ひとみは剣呑な表情を浮かべていた
突き出した手をぐっと握り締め、れいなの持っているファイルに押し付ける。

「問題は、おんなじことが起ころうとしてる、って事だよ」

どういうこと、と言い掛けて、れいなは口を閉ざす。不可視の空気に喉元を塞がれた。
胸の内に生まれた不安を押さえ込もうと、両腕でファイルをきつく抱えなおす。


先程ひとみは何と言っていた?
この報告書を見るべきだ、と言っていなかったか?
つまり、れいなは知らなければならなかった。
れいなは関係しているから。
――何に?


れいなは神妙な顔で黙り込む。

「れいな」
「……はい」
「コンコンに変なところが、あるだろう?」
「変、って」
「予め渡していたコンコンの資料とコンコン自身が、どっか食い違ってたり、とかさ」
「……あ」

228 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:58

私が、その、幽霊になったのって、事故なのかな?
なんか、晴れた、日で。どっかの交差点で、事故った……のかな。
ぽんちゃんは確かに、事故に遭っとったみたいよ。

でも――そう、晴れの日じゃなかった。
あの日の会話を呼び水に、れいなは次々と思い出す。

あの時「夢を見た」と語っていたことが、もし『記憶』だったとしたら。
『誰か』の記憶だったとした、ら。


229 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:58

れいなははっと眼を見開く。
それを受けて、ひとみが頷いた。

「もともと、コンコンの話を聞いてから、もしやと思ってたんだ」
「え、じゃ、じゃあっ、ぽんちゃんは今っ」
「っと、落ち着け、落ち着け」
「落ち着けるわけないじゃないですか!」

今までの話が全て現実ならば、あさ美に何らかの幽霊がとり憑きかけている
ということだ。
落ち着いてなんかいられない。

「ど、どうすればいいとですか!?」

慌てふためき、声がひっくり返る。
そこへ、ひとみがおもむろに一枚の資料を差し出した。

「探していたのは、これ。条件がほぼ合致する。間違いないと思うんだ」

抑揚を抑えた声が、れいなの耳に滑り込む。
何故だか資料に手が出せない。ファイルに腕が張り付いてしまったかのようだ。
視線を揺らしながら、ひとみが差し出す紙面を読んだ。
内容なんて、頭に入らない。
それでも読んだ。

230 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:59

それは、今はもう亡くなっている、一人の少女の資料。

231 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 07:59

「れいな。お前はこのあとすぐにコンコンの所まで行くんだ」
「……はい」
「んで、コンコンと話してこい」
「話すって、何を」

声が震える。
れいなの心が、状況の理解に追いつこうと必死になっていた。

「何でもいい。全部でもいい」
「……全部」

全部。
その意味するところを察して、れいなはようやく、ひとみから資料を受け取る。
ファイルと一緒に手にすると、何故だかひどく重く思えた。
もしかして、これは命の重さかもしれない。
れいなはそう自分に言い聞かせて、ファイルだけを棚に戻す。
受け取った資料にもう一度目を通すと、折りたたんでポケットにしまった。

「さぁ、急げ」

ひとみがれいなの背中をぐいぐいと押す。

「わ、わ」

壁際に追い立てられるように、れいなはつんのめった。

232 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:00

「よっ、吉澤さんは、どうすると?」

肩越しに振り返って、れいなはひとみに問いかける。
慌てていたためか、その際足をもつれさせてしまった。

「あたしは……そうだな」

予想以上に視界がぐるんと回る。行き過ぎるひとみの表情はわからない。
れいなが踏み留まるよりも早く、ひとみは彼女の肩を押した。その力に逆らえず、
れいなは資料室の壁に接触した。
この部屋に入ってきた同様、小さな姿が壁の向こうへ沈んでいく。

れいなの驚いた顔を、ひとみは無表情に見つめていた。

「あたしは――全部、終わらせたい」

かろうじて聞き取れたのは、その言葉だった。


233 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:00




歩く。歩く。
仏頂面でぐんぐん歩く。
肩で風を切るように。立ち並ぶ壁をすり抜けるように。逆境を乗り越えるように。
既に歩幅は通常の五割増し。大股でずんずん進む。
何かを振り切るように、歩く。

そんな美貴を、小走りの足音が後ろから追いかけてくる。

「ねーねー、藤本さぁん」
「……しつこいよ」

うざったそうに吐き捨て、美貴は歩き続ける。というよりも逃げる。
しかし、それで諦めるようなら彼女はとっくに美貴から離れているだろう。
さゆみは変わらぬ笑顔で美貴を追った。

234 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:01

時と場所を変え、ここはハロプロの社内。
報告書をまとめる為に、美貴たちは戻ってきていた。
それが終われば、今日の仕事はおしまいだ。
さゆみの看視も仕事の一環だが、それはあくまでも『外周り』中に限っての事。
美貴のデスクワークにまでついている必要はない。
そもそも、美貴と彼女の立場は、全く違う。
さゆみの仕事は、美貴とは別のカテゴリに位置するものだ。

べたべたと甘える癖に妙にドライなさゆみは、外回りが終われば、いつもあっさりと
別れてくれるのだが。

「いい加減教えてくださいよぉ。何があったのか」

今日はやけに食いつかれ、美貴は少々うんざりしていた。
何がそこまで彼女を駆り立てるのだろう。
いやまあ単なる好奇心だと思うけど、と心の中で独り言を言う。

235 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:02

「もー。うるさいよ。言わないってば」

小虫を払う仕草をしながら、美貴は嘆息。
さゆみが歩調を速め、美貴の隣に並んでくる。
口を尖らせて、

「ケチ。ちょっとくらいいいじゃないですか」
「やだよ」

顔をしかめる。即答も即答だ。さゆみは「あはは」と曖昧な笑顔をこぼした。
それでも彼女の足音は淀みなく、諦める気配は感じられない。
もう一度、美貴は深くため息をついた。


今まで続けてきた会話の応酬は、仕事現場で話した内容の延長線上にある。
さゆみは大分しぶとかった。でも、気が進まないものは進まないのだ。
「核心から遠い所を、少しだけなら」と、思わない事はない。それぐらいしつこい。
でも、それをしないのは、偏にさゆみの能力にあった。

「アンタにちょっと教えたら、全部わかっちゃうでしょ。ナイフの事だけで我慢しろ」
「えぇー……あんなにちょっとじゃ物足りない……」

さゆみは人差し指を顎に沿え、わざとらしく落胆していた。
鼻息歩く、美貴は歩き続ける。

236 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:03

さゆみの『能力』=『卵』。
それは、『一部の情報で、その全体像を把握する』という能力だ。
簡単に、洞察力とも言い換えられる。
彼女が本来持っていたその才能が、超能力的に特化し『卵』となった。
誰が呼んだか、『サルベージ』。それがさゆみの能力だ。

そして、『卵』を持つものを補佐し、学習させ、その能力を完全に孵化させる。
それがマネージャーの仕事。
ひいては、ハロー・プロダクションの目的。

今はまだ未熟な故、思うように自身の『卵』を制御できていないようだが。

(……まぁ、だから美貴がついてるんだけど)

彼女と共に時間をすごすうちに、情も湧く。
要するに嫌いじゃない。
だからといって、教えるわけにはいかなかった。それとこの話は全く別物だ。
誰もがタブーとし、一様に口を閉ざす。事実はまるでなかったかのように振る舞い、
暗黙の了解で蓋をされた黒い歴史。
それが、藤本美貴と松浦亜弥の事件だ。

237 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:03

当時、営業一課のコーディネーターだった美貴に、同じくコーディネーターだった
亜弥は、危うくとり憑きそうになった。
それは、ハロプロだけではなく、業界全体を震撼させる事件だった。
幽霊が幽霊にとり憑く。
単なる机上の空論が、現実のものになってしまったのだ。一時は騒然となり、毎日
対応と処理に追われていた記憶がある。

何故そういった事になったのか、美貴は未だに分からない。
事件前、不審に思う事はいくつかあった。
亜弥は、何かを思い悩んでいた。仕事の業績も不振に終わっていた。
強張った表情で日々を送る彼女の姿が、まるでこの世の全ての迷いに絡めとられ、
断ち切れずにいるようにも見えた。
だが、それらと事件が一体どのようにして繋がるのか、美貴は紐解けずにいる。


238 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:04

そして事件の後、美貴はこうして仕事を続け、亜弥は隔離される。
業界を騒がす一大事件であったにも関わらず、二人の措置は甘い。
美貴は単純な被害者であり――亜弥は貴重な『卵』もちだから。
悪霊の痕跡が消えきらないうちは、亜弥は部屋から出ることが出来ない。

内にも外にも、謎の多い事件として報告されている。
真実を知っているのはただ一人。亜弥だけだ。
しかし誰もが、禁忌の象徴である亜弥には近付かない。
そして美貴は、そうする事が出来なかった。
腹部に重たくどす黒い渦が生まれ、美貴は奥歯を噛む。

いっそのこと、どちらかの存在を消してくれれば良かった。
それが美貴ならば、尚のこと良い。
そうすれば、亜弥はきっと、元通りになれるのに。

「藤本さーん」

はっとして、美貴は足を止める。
振り返れば、さゆみが後方で手を振っている。曲がるべき角を曲がらないまま
歩いていたようだ。
思考に没頭していたためか、周囲を注視していなかった。
僅かに舌打ちをして、美貴はきびすを返す。
何事もなかったかのよう、さゆみの元に歩み寄る。

「藤本さんはぁ」

さゆみはニコニコして、言った。

「怖がってるんですよねぇ」



唐突な言葉だった。


239 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:04

「は?」
「ビクビクしてんの、わかりますよ」

とても怖い瞳が、自分のことを見つめていることに、その時初めて気付いた。

「意外と怖がりなんですね? それとも単純に弱かったりして?」
「……はっ」

挑発されている、と感じた。
だが、何かを言い返すことができない。喉の奥が渇き、舌が張り付いていた。
変わらぬ笑顔を浮かべたまま、さゆみは真っ黒な瞳で美貴を探る。
その視線で、手繰る。

「怖がるのは悪いことじゃないですけど、何を怖がるかにもよると思うんです」
「何言って」
「信頼してくれる人に失礼だって、さゆみは言いたいの」

かろうじて口を割って出た言葉は、ぴしゃりと打ち切られた。
一瞬呆ける美貴に、さゆみはそっと耳打ちしてくる。

「藤本さんがどうするかで、決まりますよ。多分」

一転して軽い口調。
内容に脈絡がなくて、美貴は顔を歪めた。

240 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:06

「はっ? ……ちょ、それどういう意味?」
「さゆみにもわかりません」
「わかんねぇのかよ!」

思わず裏手で突っ込んでしまう。
さゆみはひらりとそれをかわして、悪戯っぽく笑った。

「わかってても、教えませんよ?」

先程とは立場が逆転しまったようで、美貴は何だか情けなくなる。
さゆみは小さく笑って、「お疲れさまでしたぁ」と走り去った。追いかける気力もなく、
美貴はげんなりと肩を落とす。負けた気分だった。
美貴は、さゆみに何も話さなかった。
だけど彼女は、そこから何かを『サルベージ』したのだ。

両腕で、美貴は自分の肩口をさする。
さゆみと会話している最中、実はずっと震えていた。
今も、指先が震えている。
そんな小さな美貴のサインすら拾い、彼女は言葉を残していった。

241 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:06

驚いたのはさゆみの言葉でもなく、その意味でもなくて。
心中の奥深くをノックされるような軽快な口調だった。
思い出したくないことをふっと呼び起こす声に、ただ驚いた。


「……」

震えを握りつぶすように、拳を作る。


あの時。
一番近くにいたはずだったのに。
何故、遠くに感じてしまったのだろう。
何故、疑ってしまったのだろう。


今も美貴は、向き合うことが出来ずにいる。
彼女に。
そして、自分に。


242 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:07




それは、偶然起こった事。

もし、さゆみが何も言わなかったら。
もし、美貴がヒントを与えなかったら。
もし、ひとみが何も気付かなかったら。
もし、れいながハロプロにいなかったら。
もし、あさ美が夢を見なければ。

それは起こらなかった。

些細な偶然が絡まりあって生まれた、不幸な必然。
終わりの、始まり。


「うひゃぁ!」
「!」


そう、だからこれは必然の出来事。
廊下で立ち尽くす美貴の前に――れいなが転がり出てきてしまった事は。
起こるべくして、起こったのだった。



243 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:08
 
244 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:09
更新終了。

ずっとハロプロのターン。
ごめん紺野さんもうちょっと待って。
245 名前:* 投稿日:2008/01/27(日) 08:14
>>218 名無飼育さん 様
そんな風に書けてたらなぁと思っていたので、そう言って頂けると嬉しいです。
焦ると説明しすぎてしまうので、頑張って抑えてるつもりです。
246 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/30(水) 21:00
なるほどそういうことかあ…
まだ色々ありそうで楽しみです
247 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:29
248 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:30


ひとみと出会った時のことを、れいなは昨日の事のように思い出せる。
冗談でもない、比喩でもない。
それは、目まぐるしく過ぎていった日々の中でも一際強く輝く、大切な思い出だ。
彼女との出会いが、一度千切れたれいなの運命を新たに手繰り寄せた。
ひとみはぷっつりと途切れて傷だらけの緒を結い直し、そこから紡がれる新しい
物語の道標となってくれた。
どれだけ時間が経とうとも、決して忘れないだろう。
忘れてはならないと、深く胸に織り込んだ二人の思い出。
だかられいなは、彼女の言葉を一言一句間違える事無く思い出せる。


『誰かに――特に営業一課に見つかったら、ソッコーあの世行きだから。
れいなと、多分、あたしも』


249 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:30

れいなは脱兎のごとく駆け出した。

(や――やばいやばいやばいっ)

呆然としている美貴に背を向けて、躓きそうになりながらも懸命に足を動かす。
状況把握の速度は、れいなに軍配が上がった。

「っと、ま、待て!!」

一拍遅れ、美貴が慌てて走り出す。その気配を感じてれいなは一層腕を振る。
走るのは苦手だったがそんなことを言っている暇はなかった。振り返って美貴の
姿を確認する余裕もなかった。ていうか怖くて振り向けない。
一刻でも一秒でも一瞬でも早く、この場から離脱しなければ――。

不吉な想像が頭を過ぎる。
その考えを置き去りにしたくて、振り切るように逃げた。
だけど。

「ま、て、って言ってんだろ!」
「あっ!」

強く重い衝撃を背後からまともに受け、れいなは豪快に倒れこむ。
押し潰されるかの如く床に押し付けられる。うなじが特に圧迫されている為、顔を
上げることが出来なかった。左側の頬がこれでもかと床とくっついている。

「おまえっ、何でこんなところにいるんだよっ」
「ご、ごめんなさい!!」

こめかみのすぐ上から怒気を孕んだ声が降る。反射的にれいなは謝ってしまった。
叫びながら手足をばたつかせたが、美貴はれいなに全体重をかけて乗っかっていた。
身体全体を使った押さえ込みに、非力なれいなが勝てる訳がない。
体格そのものからして美貴とは差がありすぎる。あまりにも分が悪かった。
それでもれいなは足掻いた。
250 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:31

「は、離して! 」
「離さない」

ぐり、とれいなの首に美貴の肘がめりこむ。
掠れた息を搾り出され、れいなの背筋を旋律が滑り落ちた。大きな氷塊が背筋を
舐っていく。その冷たさに、自然と身体が硬直した。
捕まって、しまった――どうしよう!?

「……まぁ、何でここにいるのかは、この際どうでもいいよ」

低めの声が耳朶を打つ。美貴の言葉を聞き取る度に、れいなの視線がさ迷った。
あまりの動揺に思考がループし始める。
どうしようどうしよう!?
指先が震えて別の生き物のようだった。

「外ならともかく、ハロプロん中で見つけたら、容赦しないっつったよね?」
「……」
「よっちゃんにそう言ったはずなんだけど、伝わってない?」
「……」
「どうして見付かるような真似をするか、疑問でならないんだけど」

押し付けられた肘が怖くて口を動かすこともままならない。
緊張する体の中、心臓だけが煩いくらいに鳴っていた。
真っ青に強張ったれいなの頬の上を、研いだ視線が削ぐように撫でていく。
美貴が無表情で見下ろしてくるのを、視界の片隅に捉えていた。
どうしようどうしようどうする!?

このままでいたら、美貴はその言葉の通り、きっと容赦をしないだろう。
躊躇なくれいなをあの世に送る。そうなってしまえば、れいなの『願い』は叶わず、
もしかしたらひとみに飛び火する事だって有り得る。
最悪の事態が現実になってしまったら――あさ美だって助からない。

(どうすればいいと吉澤さん!?)

251 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:31

思考の歯車は空回るばかりで、建設的な打開策を打ち出してくれない。力ずくで
勝てる相手でもない。
目前の危機に瀕して、自分はあまりにも及ばなかった。
もどかしさばかり募り、れいなは胸中でひとみに縋る。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
同じ音が、何故か、頭上からも聞こえた。

「……美貴だって、やりたかないよ、こんなこと」
「――え?」

れいなの鼓膜にぽつりと落ちてきた、その言葉。
葉の上に溜まった雨露が零れるように、れいなの耳に滑り込む。
首に押し付けられていた肘の力が僅かに緩んで、れいなと美貴の目線が交わる。
かんなの様な瞳が見下ろしていると思ったが、ちりちり感じる視線が否と答えた。
彼女はれいなを見ている。れいなの向こうを見ている。
見下ろす瞳は、れいなの姿ではなく、その向こうにいる別の誰かを映している。

――あ。
不意に、れいなに脳裏でかちりと何かが噛み合った。

252 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:32
背中に感じる美貴の体が、がさがさと揺れた。
すっと美貴の目が細まり、再度れいなの首に肘が圧し掛かる。

「……まぁ、運が悪かったと思って、諦めな」

悪役のような台詞と共に、美貴の腕が動く。
銀色の光がれいなの視界を一直線に横断して、硬い音を立てた。
れいなの目の前にナイフがあった。刃の潰れた、魂の緒を絶つペーパーナイフ。
緩い曲線が照明を反射して煌く。
れいなは固くまぶたを閉じて、ぎゅうとこぶしを握った。
切られたくない。まだ、切られるわけにはいかない。
この状況を打破しなければ――何もかもを失ってしまう!

(さぁ、問題だ。どうすればいい?)

心の中でれいなは自分に問いかけた。
ひとみの口調を、真似して。

「……は、」

声を出してみる。
簡単だ。意識を集中しなくたって、大丈夫。自分はいつも何も考えずに出来ていた。
それこそ、幽霊の専売特許。
走る事より、容易い事。

253 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:32

「あ? ……あれ、れいな、お前」
「……正解は、」
「糸が見え――え?」

間の抜けた、美貴の声。
れいなははっと笑う。
遅れて彼女の肘が、がつんと床にずり落ちる音を聞いた――いや、れいなの首から
ずり落ちたのではない。
れいなの首を、すり抜けたのだ。

寝返りを打つように、れいなは美貴を見上げた。そうしながらも、れいなの身体は
半分ほど床に沈みこんでいた。
鳩が豆鉄砲を食らったような、という表現がぴったりの表情で、美貴が呆然と自分を
見下ろしている。

「急いでるんで、ごめんなさい!」

仰向けに潜水するかのように、れいなは床に溶けていき、やがて見えなくなる。
初めからこうしてれば良かったな、と思い、れいなは苦笑する。
視界が真っ暗に閉ざされた後、ごん、と鈍い振動が身体を抜けていった。
拳が床に叩きつけられた音だと気付くには、少し時間が必要だった。



254 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:32




松浦亜弥は、その部屋が嫌いだった。
白い壁。白い机。白い椅子。白い床。白い光。白い世界。
その空間にいるだけで、亜弥はとても浮いてしまう。
しかも、それすら許さぬかのように、彼女の存在を真っ白に染め上げようとする
プレッシャーを感じるのだ。
境目を溶かそう。ぼやかしてしまおう。霞んでしまえばいい。白くなれ。
そんな意識が空間を通して、全身に刷り込まれていくようだ。
丹念に丹念に、何度も重ね塗りを施すように、ゆっくりと。

だから亜弥は、自分に言い聞かせ続けた。
吐き気がする。嫌気が差す。
『ここにいるとおかしくなってしまう』、と。

255 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:33

諸事情からここに軟禁されて、もう大分経つ。
ここから抜け出そうといつも思う。抜け出してからのことは考えていなかったが、
とにかくこの空間から開放されたかった。
椅子に座っていた彼女は、ふっ、と控えめなため息をついた。
まあ、自分は所謂ところの『罪人』なので、ちょっとした騒ぎにはなるだろう。だけど、
逃げ切れる自信は持て余すほどにある。
何故なら自分は幽霊だ。風のようにするりと壁を通り抜けられる。
だから、ここから出るのは容易い。

いつかと同じように背もたれに背を預け、彼
女は首をかくんと後ろに反らした。

「早くしてくんないかなぁ……」

零れた言葉尻がかすれて、空気に溶ける。亜弥は顔をしかめた。
抜け出すのは簡単。その気も、能力も、十分満ちている。
しかし、今はまだ無理だ。
そうはできない事情がある。

256 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:33

首を反らしたまま、彼女は諸手を眼前に掲げた。その手には、あの黒い糸が、
がんじがらめに巻き付いていた。
この糸は、何故か壁をすり抜けることが出来ない。千切る事も壊す事も出来ずに
壁に引っかかってしまうのだ。
存在を強固に主張する黒い糸。これに繋がれている限り、亜弥はこの部屋から
出られない。
黒い糸は肘の辺りから手先まで、両腕を一緒にくくっている。
以前は左手の指先だけだったが、つい最近このように侵食された。
完璧に拘束されている。力を入れてもびくとも動かない。
指先ま腕半ばまできっちり巻きついている為、文字通り痒い所に手が届かない。
届いても掻く事が出来ない。
きつくはなかったが、とにもかくにも面倒くさい状況だった。
亜弥は眉尻を下げて、かんしゃくを起こした子供を見るように糸を眺めた。

糸が亜弥の体を縛る。
こういう状況は何度かあっので、今更何の驚きもない。
困るのは、何よりも身動きがとり難い事だ。以前足に絡まれた時は、ぴょんぴょんと
跳ねながら移動した。その姿は無様な事この上なく、歯痒さに奥歯を噛み締めた。
その時のことを思い出して、亜弥は眉根を顰める。
正直、こんな仕打ちにはうんざりしている。

257 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:34

何度目かわからぬ溜息を吐いた頃、壁に嵌まった丸いガラスの向こうから僅かな
音が聞こえた。
こちらとは真逆の、真っ暗な部屋。音と共にうっすらと光が生まれて、また消えた。
少しして、

「おうおう……いいカッコしてるじゃない松浦さん?」

声が響いて、丸窓からにやけた顔が覗いてきた。ひとみだ。
揶揄する台詞を亜弥は鼻息一つで跳ね返す。

「レディの部屋に入るのに、ノックもしないなんて失礼じゃない?」
「あー……そこはほら、まつーらとあたしの仲じゃん?」

彼女は苦笑いを浮かべた。
窓からでは判然としないが、恐らくひとみは窓にもたれるようにして亜弥を見ている。
どうやら、大して驚かなかったのがお気に召さなかったらしい。
いたたまれないかのように目元を掻きつつ、

「それに、ここはお前の部屋じゃないだろ」
「うん。まっぴら御免だわ。早く出たい」
「はは。それは丁度いい。こないだの話だけどさ」
「取引?」
「うん。それ。まつーらさ、こっから出ようよ」
「それが出来ないから困ってる、っつうの」

亜弥は顔を顰め、両腕を掲げた。
258 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:35

「これ、取ってくれんなら話は別だけど?」

口元を斜めに問いかける。
亜弥には分かっていた。
この黒い糸は、亜弥だろうがひとみだろうが、誰にも解くことが出来ない。
たった一人を、除いて。
でもその誰かは絶対に亜弥の元を訪れる事はなく、つまり亜弥は糸の呪縛から
逃れられない。
亜弥には痛いほど分かっていた。

「ははっ」

ひとみが困ったように笑う。「あたしにゃ無理だなぁ」という呟きに、亜弥は両腕を
下ろした。背凭れに体重を預け、目線を下ろす。

「そ。無理な話なんだよねぇ」
「いやいや、無理じゃねぇよ?」
「だって、これが取れなきゃあたしはここから出れない」

黒い糸がある限り、或いは亜弥は自我を保つことは出来るだろう。部屋の中で
唯一色を保ち続けているのは、この糸だけだからだ。
滅菌衣のようなこの服だって、前はもう少し色味があった気がする。
だけど、所詮はそれだけのこと。
自我を無地に染め上げようとする、この部屋から自由にはなれない。
狂人にも廃人にもなれないまま、毎日を過ごす。
黒い糸の侵食と白い部屋の漂白に苛まれながら、無為に自己を保ち続ける。

259 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:36
「たった、一人で。一人っきりで過ごすんだよ」

黒い糸が蠢いている。亜弥の言葉に反応していた。
寂寞たる思いに揺らいでいるのか。歓喜に打ち震えているのか。
亜弥には分からない。

「一人じゃない」

穏やかで、だけど力強いひとみの声。
亜弥は首を振った。

「独りだよ」
「独りにはさせない。だから、来たんだ」

ゆっくりと亜弥は顔を上げる。
亜弥が座る椅子の目の前に、真っ白な世界を丸く切り取るガラスの窓がある。
そしてそこから、ひとみがこちらをまっすぐ見つめていた。
白い光に照らされたひとみの顔が、僅かに引き締まる。
薄い唇がゆっくりと開くのを、亜弥は瞬きもせずに見つめた。

「美貴を、連れてくる」
「無理だよ」
「無理じゃない。連れてくる。そうすれば出られるだろ?」
「そんな簡単にはいかないよ……」
「大丈夫。お前がやろうとしてた事を、うちが証明してみせる」

萎れる亜弥の頭をひとみの口調が掬い上げる。
海の底から見上げる太陽の光を思わせる瞳が、ひとみが。
どこまでも真っ直ぐに、亜弥を見つめていた。
260 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:37

「だからきちんと、向き合おう」

それが取引内容だ、ときっぱりと告げ、彼女は口を閉ざした。
亜弥もまた、黙り込む。
視線だけで周囲を見た。その後、糸だけを見つめた。
口元を一文字に引き結び、亜弥は小さく頷く。

「……うん。……そうだね、お願い」

吐き出した言葉、逼迫した自分の声に、大切な感情を思い出す。
流れ星がきらめくような、一瞬の邂逅。
それだけで、亜弥は自分の抑えていたものを解放できた。

「会いたい、よ」

誰とも会えないのは寂しい。寂しい。寒い。
大事な人と向き合えないのは、悲しい。悲しい。辛い。
どうして今まで、我慢できていたんだろう。
思うだけでこんなにも胸が軋むのに。考えるだけで張り裂けそうなのに。
空気が光が全てが皮膚を食い破って心臓に爪を立てる。そこに刻まれた小さい傷から
噴き出した想いが、血管を巡って全身を浸す。
心の奥を、刺激する。

亜弥は泣かなかった。
だけど心は泣いている、と思った。
ずっと泣き叫んでいたのに、気付かない振りをしていた。

「会いたい。会ってちゃんと向き合って……話がしたい」

261 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:38

涙を零す代わりに、気持ちを吐露した。
隠す事無く、自分の純粋な願いを口にする。

「美貴たんを、つれてきて」
「……任せろ」

慈しむような瞳が輝かせ、ひとみが大きく頷いた。
そのまま背を向け、彼女は向こうの部屋から出て行った。
去り行く背中を見送る。残されたのは亜弥ひとり。
口角を上げて、亜弥は微かに微笑んだ。

262 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:38

「……ばーか」

どこが取引なんだか、と思う。
結局のところ、ただのおせっかいだ。ひとみは変に悪役を気取るからたちが悪い。
友人たちの不始末を自分のことのように捉えて、だけどそれを気負わないように
振る舞う、お人好し。
馬鹿だとは思うが、感謝せずにはいられない。
恐らくひとみは、ハロプロの『秘密』にも気付いているだろう。その核心に限りなく
近いところに迫っている。亜弥と同じくらいか、若しくはそれ以上。
自分はそこで下手を打った。だけど彼女は器用だから、きっと上手く立ち回るだろう。
美貴を連れてくるという約束も、必ず果たすはずだ。

だからこそ亜弥は、ばーか、と繰り返さずにはいられなかった。
黒い糸は、白い世界に反発するように疼いた。
先端の太くなっている部分は、どこかに隠れてしまっているらしい。
それがどうした。
部屋とか壁抜けとか、まあハロプロの秘密とかだって、この際どうでもいい。
美貴に、会いたい。
今はただ、それだけを考えている。



263 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:39



亜弥とひとみが、取引(もどき)をしている間。
美貴はれいなを取り逃がしたことに歯噛みしていた。

「くそっ」

倒れ伏した体勢のまま、拳を振り上げて床に叩きつける。ちょうどれいなの顔が
あった辺りに振り下ろした右手。ナイフを順手に持っている。
最悪、と吐き捨て、美貴は膝を立てて起き上がる。
正直、頭が混乱したままだった。ナイフをポケットにしまうと、そのままがりがりと
髪を掻き混ぜた。

「あぁ、もうっ」
264 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:39
思考がまとまらない。順を追って考えようとするが、苛々するばかりでまるで話に
ならない。
そう、苛々だ。今日は苛々する一日だ。
ナイフの切れ味が鈍くて、さゆみにしつこく付きまとわれて、その上挑発され、更に
意味不明のアドバイスまで受けて、

(美貴次第って何だよ……)

そう考えているうちに何故かれいなが目の前に転がってきて、驚いて、逃げたので
慌てて捕まえ、と思ったらまた逃げられて、ああもう散々な――
ふと、美貴は首を傾げた。
一連の流れに、どこかおかしなピースが混じりこんでいる。
銀紙を噛んでしまった時と同じ嫌な感触が、美貴の脳をぴりっと指した。その刺激に
クリップされる、奇妙なずれ。
ゆっくりと立ち上がって衣服を払う。埃を払った両手の平を、じっと見つめた。
握ったり開いたり、ぐっぱっと閉じたり開いたり。
何度もそうしながら、美貴は考えた。

「……あれ?」

何か、おかしい。
違和感がある。
首を捻りながら、何度も何度も両手を動かし続ける。
そうはしながらも美貴の冷静な脳が、道の真ん中に突っ立ってるのもおかしいよと
語りかけてきた。特に異論はなく、美貴は壁際に寄る。
握る。開く。閉じる。突き出す。叩く。開く。

「ん?」

思い立って、美貴は右手の拳で壁をノックする。軽い振動が美貴の骨に伝わった。
数回ノックをしているうちに、美貴の顔に見る見ると驚愕が広がってゆく。
ついには目を見開きガンガンと壁を叩き出した。
大きな音を立てて、幾度も自分の腕を壁に叩きつける。l

(――なんで!?)

ついには両腕で強く壁を叩き、美貴は止まる。
胸のうちに生まれた小さな疑問が氷解し、ジャグジーみたいに吹き出した。

265 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:40

(何で、壁抜けが出来ないの!?)

幽霊になれば、誰でも出来る壁抜け。すり抜ける、という行動。
それを応用することで、先程のれいなは美貴から逃げ果せたのだ。
難しいことではない。気付けば誰もが身につけている、幽霊の能力。
何らかの理由で、美貴はそのスキルを失ったのか。

(……違う)

壁に額を押し付けて、美貴はその考えを握り潰した。
可能性としては有り得ない事もないだろうが、信憑性は低い。
何故なら、美貴は今までハロプロ内で壁抜けをした事がない。他の社員も必要を
感じていないのか、そういった場面に出くわす機会はなかった。
もしかしたら、ハロプロの中では壁抜け出来ないようになっているのかもしれない。
美貴云々よりも、そう考える方が妥当だろう。
それならば。

(何でれいなは出来たのか……れいなが他とは違うから)

ひとみがれいなを隠す理由。そして、美貴がれいなを捕らえようとした理由。
それは、れいなが他のハロプロコーディネーターとは異なる境遇にいるからだ。
故にひとみはれいなの存在をハロプロから隠匿する。敢えてハロプロには登録せず、
コーディネーターとしてのノウハウを彼女に教えた。
そしてそのれいなに、紺野あさ美を担当させる。書類上では、あたかもひとみが
担当しているかのように見せかけて。
美貴はそれを知っている為、れいなを捕えざるを得なかった。
致し方ないとは思いながら、れいなの糸を切ろうとした。

「……うん」
266 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:40
今までの流れは、そうだ。
これで間違いない。
思考に没頭できたおかげで、苛々は収まった。
だけど今度は別の気持ちが沸々と湧き上がってくる。

美貴とれいなの、大きな差異。それは、

(ハロプロと繋がっているか、そうじゃないか)

そう。それはもちろん理解できる。
だが不可解だったのは、あの瞬間。
れいなの糸を、切ろうとした時の事が、どうしてもわからない。

壁から額を離し、反転して背を預けた。両手をポケットにしまう。
そして、手から滑り落ちていったれいなの身体を、思い出す。
精一杯申し訳無さそうに謝罪しながら、消えていった彼女。
その存在に、何かがまだ隠れている。それが、鍵だ。

腹の底からせっつくような焦燥と不安。
そこから居心地の悪い何かが、生まれ始めている。



267 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:41
268 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:42
更新終了。

ごめん紺野さんもうty(ry
269 名前:* 投稿日:2008/02/15(金) 10:45
>>246 名無飼育さん 様
レスありがとうございます。
もしかしたら思ったより色々ないかもしれません……。
それでもお付き合い頂ければ、幸いです。
270 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/15(金) 19:59
面白い。すごく面白いです。
まだまだ何が何だか、って感じですが、次の更新楽しみに待ってます!
271 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:20
 
272 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:21

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   じじ

空で溺れるって、こんな感じなのかもしれない。
底なし沼みたいに果てが無くて、もがいて掻き分ける水も無いし。ただひたすらに
落ちていくみたい。その青さの中に。
空に落ちれば落ちるほど、気温は下がって体は冷たくなってくし。
いっつも内側んとこですごい流れてた温度が、ほつれたとこからぞろりと漏れてって、
どんどん空っぽになってっちゃう。
体が空だ、なんつって。
うー、なんか、寒くなってきた。
だって、ほら、そらがこんなにすっごく、あおい。

   じじじっ

あぁ、もう、ほんと。
なんか、すごい、もう。
そばに、とか。隣に、とか。一緒に、とか。そういうのもすごい、あるけど。
そうじゃなくて、ただ。

ただ、すごく。
ただ、
ただ――。


   じじっ

   何だろう、変な音が聞こえる。

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273 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:23

こんな経験があるだろうか。
それは夏の朝、とても清々しい真夏の早朝によく感じていた。

季節柄蒸し暑い日ばかりが続く。気温や湿度など、世界は朝から不快指数をぐいと
底上げしてくるのに、ふと、その朝はそれが気にならない。いつもは生温くて顔を
顰めたくなるような風が、その朝に限ってやけに涼やかで。素肌に感じるシャツの
感触も爽やかだったりする。日差しの強さは確かに猛暑を感じさせるのに、川面に
反射するその光は柔らかく煌いて。水に濡れたガラスのような日光を浴びた木々は、
地面に青い影を落とす。

そんな清らかな夏の朝に、そっと目を瞑るのだ。訪れた闇に、しばらくその身を隠す。
そして、目を開く。
すると、世界全体が青く翳ってしまう。
そんな経験は、ないだろうか。

透明な藍が視界に滲んで、まるで水の中に沈んでしまったような感覚。涼しげで
硬質な印象を受けるその澄んだ影。ともすれば暗い印象を持つ青色だが、開いた
目に映るその影たちは、綿のような肌触りを持っている。
だから安心して、その青さに身を委ねる事が出来た。
邂逅は一時だ。数刻もしないうちに世界は元の輝きを戻してしまう。
だけど、さながら空が落ちてきたみたいに青く滲むその僅かばかりの時が、愛しい。
事故直後、自分が捉えた世界は、きっとそんな蒼に満ちていた。交差点の真ん中に
寝転んで空を仰ぐあさ美は、そう思う。
だが、現在世界を覆っているのは、粘った熱気を含んだ昼過ぎの陽気。九月上旬の、
単なる蒸し暑い晴れの日だ。鬱陶しくて顔を傾けた。その先に、愛と里沙がいた。

274 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:24

彼女の始まりの言葉は、「ここで友達が死んだんよ」だった。
愛が話し始めてから、あさ美もその声を道標にして自身の思い出を探っている。
時折顔を顰めながら、話を聞き続けた。しばらく聞いているうちに、何故か異様な
だるさを全身に感じたのだ。それだけに留まらず、頭の中では耳障りな音が始終
響いていた。耳の奥で小虫がうるさく飛び交っているみたいだ。じじじ、と。
忘れていた記憶を手繰る事は、どうやら苦行らしい。もう聞こえなくなった蝉の声が、
脳の中にこびりついていた。
二人は時折通る車や通行人の邪魔にならないよう、道の端で話を続けていた。
喋るのは主に愛で、里沙は相槌をそっと打つだけ。
ぽつりぽつりと零れる愛の言葉に、あさ美は我慢して耳を傾けていた。

「ずっと、助けてもらっとったんよ」

僅かに開いた唇から漏れる、彼女の雫。

「ほんで、あーしも、ちょっとでもいいから、支えになれればええなって、思ってた」

強張った顔で。引き攣った口元で。

「でもな、あの子は、一人で、決めてしまったんよ。全部一人で。ええんよ、一人で
決めたことは、別に構わんかった」

静かに語る、愛。それを見つめる、里沙。

「ただ、なんちゅーか、あーしもいっぱいいっぱいやったから、さ」

蛇口から一粒一粒零れる言葉たち。
そして、

「受け止めて、あげられんかった」

そっか、とあさ美は呟く。

「せめて、帰ってきたら、ちゃんと話そうと、思ってたんやけどな」

うん、とあさ美が頷く。

「……ここで、逝ってしもうた」

275 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:25

愛はぎゅうとまぶたを閉じて俯いてしまう。里沙が慌ててその背中を撫でていた。
その姿を見て、ごめんね、とあさ美は呟く。
道路に寝転がったまま、両手を伸ばした。
丸まった背中を見ているのが辛い。だけど、彼女にあさ美の声は届かない。
小さなその肩を抱きしめてあげることが、自分には出来ない。

今までずっと近くで愛を見ていたのに。ずっと側にいたのに。
友達なのに。そう、大切で大事な、一番の友達なのに。
どうして彼女に、何も出来ないんだろう

(友達。
だったよね?)

どうして今まで、忘れていたんだろう。こんな大事なことを、何故忘れていたのか。
自分は彼女と――友達だったじゃないか。
あさ美はもう一度ごめんと呟く。
自分は、愛を置いて一人で旅立ってしまった――二重の意味で。
ひとつは、遠い外国へ。そしてもうひとつは。

きゅうと眉根を寄せる。頭が痛い。じじじと響くノイズがあさ美の耳の奥を引っ掻き
回す。周波数の合わないラジオのヒスノイズみたいな。死に際の蝉のような。その
雑音のカーテンが、別の声が掻き消してしまう。

(うるさい、うるさい)

あさ美は伸ばした腕をそっと引き寄せた。何の変哲も無い、人間の体。五体満足に
見えるこの体は、しかし、愛や里沙たちとは隔たれた世界に存在する。愛の左小指と
あさ美の左小指を繋ぐ糸が、全てを物語っていた。
この腕を伸ばすことは叶わない。この腕で生者に縋ることは許されない。
取り返しはつかないのだ、と。
276 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:25



お前はもう、この世にはいないのだ、と。


 
277 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:26

声にならない悲鳴が、あさ美の喉から勝手に絞り出た。横たえた体が右に左にと
のた打ち回る。引き攣った痛みが脳髄を抉った。

「やだ、違うよ、待って、そんなっ、つもりじゃなかっ」

自分が何を言っているのかはわからなかった。あさ美は両腕を掻き抱いて、身体を
丸めて地面にうずくまる。

「おか、おかしい、違う、ただ、愛ちゃん、私――あたしはっ、ただ、」

意味を成さない言葉たち。口にしたそばからはらはら消えていくその欠片たちを
掻き集めたくて、顔を上げ腕を広げた。
伸ばした腕の先で、愛が口を開いていた。その時、無情にも大きな音をたて車が
あさ美の上を通り過ぎ、愛の声は拾えない。真っ黒いタイヤが眼前を駆け抜ける。
耳障りな駆動音の中、あさ美は愛の唇だけを見た。

ご  め  ん  な

愛と里沙が、ゆっくりと交差点に――あさ美に背を向ける。

「あ」

やだ、待って。行かないで。
さよならなんて、したくないよ、待って。

丸めていた身体に活を入れて、あさ美は勢いよく立ち上がる。
その場から歩き去りつつある愛たちを追いかけようと、一歩を踏み出して、
278 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:26

「ぽんちゃんっ!」

後ろから吹き抜けていく甲高い声。呼び声があさ美の四肢を突き破って、ぴたりと
彼女は制止する。脳が摩り替わるような衝撃に、あさ美は一瞬立ち眩んだ。
背後から掛けられたその声に、あさ美は何故だかすぐには振り返ることが出来ず、
不自然な体勢のままその場で立ち止まった。

(――あれ。私は今まで、何を考えていた……?)

そう考えながら、ゆっくりと振り返る。案の定、そこにいたのはれいなだった。
彼女は振り返るあさ美の表情を見て、何故か怯んだような表情を浮かべていた。
ジャージのような私服に包まれた華奢な体が、心なしか緊張しているように見える。
上着の裾を両手でぎゅっと握り締め、普段は勝気な瞳が不安に揺らいでいた。
そう言えば自分を呼んだ声も、どこか切迫していた気がする。

「……どうしたの?」

恐る恐る尋ねる。と、れいなははっと目を丸くした。

「やっ、その、ぽんちゃんのこと探しとって、どこ行くのかと思って」

焦った声音。まくし立ててくる裏声に、あさ美は首を捻る。
れいなが何に怯えているのか良くわからない。

「どこ、って……あぁ、そうだ、急いでるんだ」

279 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:26

愛が行ってしまう。愛のところへ行かなくてはならない。れいなから視線を外して
愛たちの背中を窺うと、もう随分と先を歩いていた。
れいなの事など気にも留めず、あさ美はさっさと踵を返す。
その左腕を、れいながぐっと掴んだ。

「待って、ぽんちゃん。話があるとよ」
「ごめん。急いでるの。離してくれる?」
「こっちも急ぎで、大事な話ったい!」

腕を掴んでくる手に痛い程の力が込められる。あさ美は眉根を寄せた。
急がないと、いけないんだ。
――何が?

「ちょ、離して!」

思考に差し込んできたノイズを払いたくて、あさ美はれいなの手を強く振り払った。
大きく薙いだ左腕――その小指に巻きついた、細い糸が踊るように翻る。
それを見たれいなの瞳が、驚愕で大きく見開かれた。
あれだけ五月蝿かった蝉が、ぱたりと止んだ。



280 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:27




あれを話そう、とか。これを言ったら、こう続けようとか。
れいなが事前に考えてきた説得プランは、その瞬間全て吹き飛んだ。

(なん、これ、)

振り払われた右手が少し痛かったことも。何故あさ美が急いでいるのかも。
全部忘れて、ただ目に映った『それ』を見ていた。
軽快に跳ね軌跡を描く『それ』を見た瞬間。
れいなは自分の肌が粟立つのを自覚した。

(なんや、)

あさ美と愛を繋いだ糸。あさ美の魂がふらふらと浮き立たず安定するようにと繋いだ、
その糸。
糸そのものに千切れやほつれは見当たらない。糸の太さも繋いだ当初と同じだ。
だが、一つ。れいなの眼前のその糸は、

(なんやこの色――!?)

真っ青に、染まっていた。
ただの青ではない。どす黒く濁った青さ――さながら静脈のように、内側から激しく
突き上げる生々しい質感を伴った、気味の悪い青味だった。
繋いでからしばらくは赤い色をしていたはずだ。あさ美と愛が赤の他人である事を
示す、透明度の高い赤。しかし蠢いた青に侵食されているのか、今やその赤は暗い
紫色となって所々で僅かに滲む程度だった。
281 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:28
それが、何を意味するのか。思い至り、れいなはあさ美の表情を窺う。
彼女は至って平然とれいなの顔を見つめていた。訝しげに顰められた眉が、何事かと
問いかけている。
だがその表情も、どこかずれているというか。れいなが今まで見てきたあさ美の顔と、
雰囲気が違うように思えて仕方がない。

「その、あの……」

先程呼びかけた時に感じた違和感が、大きな不安へと変質してれいなの心中で
跳ね回っていた。
目の前にいるのは、本当に紺野あさ美なのだろうか。そんな疑問が浮かんでは
泡のように消える。その飛沫が新しい泡を生んで、また消える。
れいなは口を開けたり閉じたりする。何かを言おうと思うけど、何を言えば良いのか
わからなかった。

「えっと」
「……どうしたの?」

あさ美が首を傾げている。れいなは顔を上げて、また息を呑んだ。
そこに浮かぶのはいつもの馴染み深い、あさ美の心配そうな表情だ。
余計に訳がわからなくなって、れいなはぶんぶんとかぶりを振る。その時、ポケットで
かさりと擦れる紙の質感。それはひとみから預かった、一枚の資料だ。
そっと主張してくる小さな音に、ポケットの上からその紙片を強く握り締めた。
意を決して、れいなは口を開いた。

「あのっ、ぽんちゃん」
「んー?」
「糸、いつから青くなったと?」

なんとなく手に取ることができなかったので、指し示して問う。
きっとあさ美は分からないだろうけれど、聞かないことには始まらない。予想通り、
彼女は首を傾げるだけだった。
282 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:28

「わかんない……元からこんな色だったよねぇ?」

語尾を伸ばして、あさ美はのんびりと答える。先程の焦燥は一体どこへ行ったのか、
随分と緩い態度だった。
それが尚更、れいなの背筋を凍らせる。

「ち、がうよっ。初めは赤かった!」
「そうだっけ?」
「うん」

大きく頷いて、ポケットをまさぐる。引っ張り出した紙片を開き、あさ美の眼前に
突きつけた。若干縒れてしまっていたが読む分には問題ない。

「この人のせいで、ぽんちゃんの糸が青くなってしまったとよ」
「……?」
「どうなってんのかはれいなにもわからんっちゃけど、今、ぽんちゃんはあんまり
良い感じじゃないったい」
「う、うん」
「だから、その……落ち着いて話がしたいと」
「それはいいけどさぁ……」

あさ美が曖昧に頷きつつ、突きつけた資料に目を通している。
そして、またもや首を傾げて、

「これ、あたしのことだよねぇ?」

そう、れいなに言ったのだ。
吸い込んだ息が上手に通らなくて、れいなの目の前が真っ暗になった気がした。

283 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:29

それはある人間に関する、資料だ。今はもう他界してしまった人間の略歴と死亡の
経緯が記されている、一種の報告書。それには顔写真も付いている。
だがそれは、あさ美とは似ても似つかぬ別人の資料だ。共通点はいくつかあるが、
決してあさ美の事は書いていない。
そもそも、この資料に書かれている人物は数年前に他界しているのだ。

「ぽんちゃんはまだ死んどらんっ!」

吠えるように、れいなは溜め込んだ空気を吐き出した。大きな叫び声は結果として、
れいな自身を励起させた。

「忘れたらいけん! ぽんちゃんは生きてる!」
「あ、そ、そうだっけ?」
「そうよ!」

目を丸くしているあさ美の両肩をぐっと掴んで、強く揺する。握ったままの資料が、
れいなの手とあさ美の肩に挟まれてくしゃくしゃになっていた。
幽霊が、幽霊にとり憑く。それは自我が重なること。ならば今のあさ美の状況は、
限りなく危険に近いのではないだろうか。噛み締めた奥歯が軋む。
ひとみの憶測が現実になりつつある今、自分がしなければならない事は何だ。

(ぽんちゃんの事を、忘れさせない事)

現世に散らばる彼女の思い出で、彼女の魂を繋ぐこと。きっとそれが鍵になる。
そして、れいなには思い当たる節が、ひとつだけあった。

284 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:29

「あのさ、ぽんちゃん。なんか思い出した?」
「え?」
「ほら、事故に会う前のこと。楽しかったこととか、結構あったっちゃない?」
「あぁ――うん」

へなりと笑ってあさ美が頷く。そうだねぇ、と緩い口元が動き、あさ美が語った。

「すごく、歌の上手い友達がいてね」
「そうなん?」
「うん。もうすっごいんだ。一目惚れっつうか一聞き惚れ?みたいな」
「うん」
「そんで、すっごく仲良くなってね。良くそこの公園で遊んだよ、放課後とか」

あれ、と思う。
あさ美が通っていた高校は、この付近だったか。
あさ美はこんな砕けた話し方をする人だったか。
あさ美はこんな笑い方をする人だったか。

「あとねぇ、あ、その人愛ちゃんって言うんだけどさ」

名前を呼べば、応じてくれる。質問すれば、答えてくれる。
だけどあさ美があさ美の口から語るのは、あさ美ではない誰かの思い出だ。
れいなは声を張り上げた。

「違うよ!」
「えぇっ、な、何突然?」
「違う違う! ぽんちゃんは高橋さんと実際に会ったことないけん! 友達じゃない!」

あさ美と愛は赤の他人なのだ。間違いない。そこに疑念を差し挟む余地はない。
285 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:32
れいなの剣幕に、あさ美は憮然とした顔で答えた。

「愛ちゃんは大事な友達だよ」

きっぱりと言い切って、れいなの手をやんわり振りほどく。ここで引いてはいけないと、
れいなは口元を引き締めた。
あさ美の眼をしっかりと睨みつけて、

「じゃあ、あの人は何なん?」
「あ、あの人?」
「そうよ! あの人だってぽんちゃんの友達やろ?」
「だ、誰のこと?」

困ったように笑いながら、あさ美はれいなを両手で制そうとする。気の短いれいなは
その行為にカチンときた。

「病院に来る、あの女の人のことばい!!」

唾をも飛ばさん勢いであさ美に詰め寄る。剣呑なれいなの言葉に、彼女はたじろぐ。

「毎日毎日、ぽんちゃんとこにお見舞いに来るあの人だって、ぽんちゃんの大事な
友達じゃないと?」
「……え?」

あさ美の瞳が困惑に揺れる。思い出せないらしい。疑問と不安と混乱の入り混じった
光が窺えた。
内心舌打ちしつつ、れいなは考える。思い出せ、と自分自身にも強く語りかけた。
あさ美の心を呼び起こす、何かのキーワードが必ずあるはずなのだ。

「ほら……綺麗な人で、髪が長くて、茶髪で」

あさ美の両手を握って、じっと見つめた。思い当たったことを片っ端から並べていく。
どれかが引っかかれば良いと思った。

286 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:32

「毎日来て、ぽんちゃんに何か喋りよう、辛そうにしとう時が多いったい」

ぴく、とあさ美の手が震える。
その震えを包むように、れいなは両手に一層力を込めた。

「マジで毎日来るとよ、それで、なんか、白い箱を持ってたり」

そう、彼女は見舞いに来る時、大抵白い箱を持ち込んできていた。もう一押しか。
れいなは慎重に思い出す。あさ美が反応してくれる事だけを考えた。
あの、白い箱の中身は、

「そう、お菓子やった。箱の中には、綺麗なケーキとかが入ってたっちゃ」
「――けぇき」
「うん! なんやったかな、ショートケーキとか、モンブランとか、スィートポテ」

言いかけて、気付いた。
れいなが包んでいるあさ美の両手。その左手が、大きく震え始めていた。
不思議に思ったれいなは、手の力を緩めてしまう。
それが、いけなかった。

287 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:33

「ぁぁぅっ!」
「痛ぅ!」

れいなの手をあさ美の左手が勢いよく弾いた。突然の反作用にお互いの体勢が
真逆に崩れる。引き離されるようにバランスを崩した中でも、れいなはあさ美を
必死で眼で追った。
青い糸が、伸びていた。あさ美の後方に向かってきりきりと張り詰めている。
それに引っ張られて、彼女の体が反転しつつある。

(しまっ――)

倒れまいと踏みとどまり、れいなはその腕を懸命に伸ばした。その手があさ美の
体に触れる直前、蜃気楼のようにあさ美の姿が透けて歪んだ。
れいなは叫ぶ。

「待っ」

全てがスローモーションの中。

れいなの腕は空を切り、あさ美の背中はばね仕掛けのようにぐんと遠ざかって。
やがて、掻き消えた。
受身を取ることも忘れ、れいなは前のめりに倒れる。たった一人で。

頭の中には、遠くなるあさ美の背中ばかりが焼きついて、いつまでも離れなかった。



288 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:33




「――うん、そっか。うん。……大丈夫。落ち着け」

明るすぎる蛍光灯の下、静かな声が重く響く。
壁にもたれかかりながら、ひとみは携帯電話に向かって優しい言葉を注いでいた。
スピーカーの向こうから、幼子のように泣きじゃくる声が聞こえてくる。通行者の
いない廊下はとても静かで、その泣き声はだだ漏れだった。

「……うん。わかった。待ってな、すぐ行くから」

相手がまた一つ二つ漏らす泣き言に頷きながら、ひとみはそれをそっと宥めた。
電話口の向こうから、懸命な返事が届く。口の端にふと笑みを浮かべて、ひとみは
電話を切った。そして、今しがた受け取った情報を頭の中で整理する。
れいなはよくやった方だ。結果は芳しくないが、むしろ褒めてやろうと思う。事態は
好転せずとも、ひとみの予想範疇を越えてはいない。
ひとみの目的は『全てを片付ける』事だ。ここからならば、まだ間に合わせられる。

深く。深く嘆息を吐く。伏せた目元に真剣な光が宿った。
前髪をざっと掻き上げ、

「さて、と」

289 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:33

壁から背を離して、ひとみは極めて自然に向き直る。彼女からそれ程離れていない
廊下の中央に、人影が立っていた。

「立ち聞きなんて趣味悪ぃなぁ」

ひとみは人影に語りかけた。その眼光とは裏腹に口調は軽い。静まりきった廊下で、
軽薄な声は浮き過ぎる程に響き渡る。人影は何も言わず、じっと立ち尽くしていた。
立ち位置が悪いのか、逆光のせいで人影の顔は見え辛い。だがひとみにとっては、
それは些細な問題だった。そこに誰が立っているのかなど、考えるまでもない。
肩を竦めて、ひとみは続けた。

「まぁ、説明の手間が省けたから、いいか」
「……」
「聞いての通り、状況は最悪でーす」

その口調は、どう贔屓目に見ても重くは感じられなかった。
影が動き出す。突進といってもいいスピードで、彼女はこちらに向かってくる。

「遅ぇよ。ずっと待ってたんだから」

そう、ずっと待ってた。
彼女を――藤本美貴を。

その眼に凶暴な空気を孕んでいるのを見取り、ひとみは口元を吊り上げ笑った。



290 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:34
 
291 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:37
更新終了。

気付けばもう佳境。がんばれいな。
紺野が主役だけど。
292 名前:* 投稿日:2008/04/21(月) 06:38
>>270 名無飼育さん 様
励みになるお言葉ありがとうございます。
全部説明できるのか不安になってきました。頑張ります。
293 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/17(土) 13:23
文字通り手に汗握って読みました
次回更新ものすごく待ってます!
294 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/04/07(火) 21:07
お待ちしてます

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