夢見た
- 1 名前:いこーる 投稿日:2006/02/01(水) 20:51
- 駄文ですがお付き合いいただけると嬉しいです。
本スレには以下3つの中篇を掲載する予定でいます。
「年を遡行する少女」
あいのの。2月より連載開始
「境界上の恋人」
あやみき。5月より連載開始予定
「嫌悪者の檻」
えりさゆ。8月より連載開始予定
スレの中盤から始まる話というのは目立ちにくいし
探す側、読む側にとってもわかりづらいものだと思います。
そうして人目に触れずに埋もれてしまう作品もあることでしょう。
今回はそうした事態をなるべく避けたいと思い
先に3作分の予告を掲載してしまうことにしました。
- 2 名前:年を遡行する少女(予告) 投稿日:2006/02/01(水) 20:52
- おばさんが私を育ててくれた。
その人はおばさんと呼ばれるのを嫌がった。
でも私にとってお母さんがわりのその人はおばさんと呼ぶのにふさわしかった。
「そんなこと言っても、私はまだ20代なんだから」
私がまだ小学生のころはそう言っていたけど中学生になると言わなくなった。
20代じゃなくなったのだ。
一度、私が「三十路」と言ったとき、彼女は本気で怒った。
おばさんが私に優しくしてくれた。
お母さんを知らない私にも、何不自由ないように気を配ってくれていた。
それでも、私はお母さんを知りたかった。
お母さんの名前が「亜依」ということも知っているし、
写真で顔も知っている。どういう人なのかもおばさんから聞いていた。
私が赤ん坊のうちに自殺したことも聞いた。
私はお母さんを知りたいと願った。願い続けた。眠れぬほど願った。
その現象が、私の願いによるものか偶然によるものかは知らない。
きっと神様がチャンスをくれたのだ。そう思うように今ではしている。
私は年をさかのぼり「希美」という子の身体を借りてお母さんを探しはじめる。
それが……私の夢見た物語。
- 3 名前:境界上の恋人(予告) 投稿日:2006/02/01(水) 20:52
- 信号機故障のせいで電車が止まった。約束の時間に30分遅れてしまう。
私はぎゅうぎゅう詰めの電車の中で必死にいいわけを考えていた。
いや、いいわけっていうか電車のせいなんだけど……。
普通の恋人どうしなら「ごめーん電車遅れてて……」ですむだろう。
でも私の場合2パターンシュミレーションが必要なもんだから大変だった。
ダッシュで部屋まで行くと、美貴たんが玄関のど真ん中にしゃがみこんでいる。
「亜弥ちゃんおそーい。もう美貴死んじゃいそうだよ!!」
「今日は妹か……」
私の姉みたいな恋人。あるいは妹みたいな恋人。美貴たん。
どっちの人格が来るか、日ごと違って会うまで予測がつかない。
どうやら今日は妹の方らしいので私はほっと胸をなでおろす。
慌てて近づいていくと美貴たんは私の腕をつかんでぐいぐい引っ張った。
「ちょ……美貴たん!」
「亜弥ちゃんやっと来たぁ!!」
美貴たんは頬をぷぅと膨らませて全体重をかけてしがみついてきた。
私は腰を踏ん張ってどうにか美貴たんを立たせようとする。
しかし美貴たんも美貴たんで力が強い。
私は観念して、左手を美貴たんの背中に回してさすりながら
右手は頭をそっと撫でてやる。美貴たんはそれが気持ちいいのか目を閉じていた。
「寂しかった?ごめんね、待たせちゃって」
「ううん。来てくれたからいい」
話は辞めておこうと思った。先にお姉ちゃんの方に話しておいたほうがいい。
いつまでもこんな関係を続けられないことはわかっているのだから。
- 4 名前:嫌悪者の檻(予告) 投稿日:2006/02/01(水) 20:53
- いちごの髪飾りなんて子どもっぽすぎないだろうか。
「大丈夫、かわいいよ!」
私は絵里からはぐれないようにぴったりとくっついて商店街を行く。
向こうから知った顔が見えた。あれは隣のクラスの田中さん。
絵里の袖を持って田中さんを見ていた。
田中さんは絵里と会話をしながらもちらちらとこちらを見て来る。
髪飾りが変だからじろじろ見てるんだ。
ブスのくせにいちごなんてつけるなと思っているのかも……。
私はその視線から逃れるように絵里の背後に隠れた。
「あれ?そっち……道重さんだっけ?」
「ああ、この子人見知りが激しいの。気にしないで」
「ふーん」
2人はしばらくしゃべって、ようやく田中さんは行った。
私は高鳴った鼓動を落ち着けようと深呼吸をする。
「さゆ平気?やっぱり買い物は無理かなぁ」
「絵里……私なんかと一緒にいたら、変に思われたりしない?」
絵里はくすっと笑うと、私をショーウィンドウまで連れて行った。
ガラスに映ったかわいい絵里と、変に上気した顔でキョドってる私。
「ほら、いつものやつ言ってごらん!」
絵里は、私の頭をペしと叩いた。私は上目遣いにぶさいくな自分の顔を見ながら言った。
「よ……よし、今日もかわいい……」
- 5 名前:いこーる 投稿日:2006/02/01(水) 20:54
- 明日より「年を遡行する少女」の連載を開始します。
よろしくお願いします。
- 6 名前:名無し読者 投稿日:2006/02/02(木) 02:10
- うわー。読者に対して、すごい親切設計ですね
二面性を持つ藤本さんにぴったりな、二つ目の話が特に楽しみです
- 7 名前:名無し飼育 投稿日:2006/02/02(木) 17:44
- 珍しい始まりかたにビックリしましたが、何だか楽しみの増える小説ですねo(^-^)o応援してます!!頑張って下さい5月が1番楽しみww
- 8 名前:いこーる 投稿日:2006/02/02(木) 21:08
- 更新します。よろしくお願いします。
- 9 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:08
- 私いま
悪い夢を見ているの
悪い夢を見ているの
私今日
どんな夢を見たらいい
どんな夢を描けばいい
- 10 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:09
-
1
- 11 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:09
- 教室で目が覚めた。
懐かしい木の匂い……
……懐かしい?
カツカツと響くチョークの音。
―――懐かしい……
私は
ゆっくりと顔を上げた。
- 12 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:09
- ここ……どこ?
懐かしい木の匂い。
懐かしいチョークの音……
ううん。懐かしくなんかない。
むしろここはよそよそしくて
冷たい。
だって、こんなところ
私は知らないから。
見たこともない場所だから。
―――いつだってそうだった。私には……
ここは……どこ?
私、どうしてここにいるの?
見回すとここは教室のようだ。
古めかしくて
天井のところどころに染みがある。
懐かしい木の匂い。
懐かしいチョークの音。
- 13 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:09
- チョークの音……
授業中?
私は自分の手を眺めてみる。
女の子の手だ。
さっきまで寝ていたせいで
右手の片面が不自然に紅い。
―――布団で寝られない夜、決まって机に突っ伏して……
私の身体……
私についてる手。
じゃあ私の身体に決まっている。
なのに
この手は変によそよそしくて
冷たい。
枕代わりにしていた右手は
ピリピリと痺れていた。
だから冷たかった。
- 14 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:09
- どうやらずいぶん寝たらしい。
そのせいか
意識ははっきりしてこない。
まだ半分
夢の中にいるような
そんな心地を感じてた。
―――夢……あのコの夢……
……なんだ?
何か……私の中で私の知らない声が……
…気のせいかな?
チョークの音がしているし
知らない大人の声もする。
きっと今は授業中。
伸びをするのもためらわれ
私は
ぼーっとした感じに
しばらく付き合うことにした。
- 15 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:10
- ぼそぼそと私語が聞こえてくる教室を見回す。
先生以外は女の子ばかり。
見知った顔が一つもない。
制服も知らない。
教室の壁も風景も
私にはすべてがよそよそしく感じられた。
この身体さえも。
そう
寝起きの身体に感覚がない。
まるで他人の身体みたい。
―――これだっていつものこと。私にとって自分は他人。
まただ……。
―――私は他人。
うるさいよ!
私は机に広げたノートをひっくり返してみた。
マジックで真ん中にでかでかと「希美」と書いてある。
「希美」
それが私の名だろうか。
- 16 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:10
- ……思い出せない。
他人の名のような気もするし
自分の名のような気もしてる。
名前が自分でないとして
この身体だって自分じゃない。
じゃあ
「自分」って何だろう。
「自分」はどこから来ただろう?
「自分」はどこから生まれたろう?
―――どうして私を生んだの?
この……身体から湧いてくるような声は誰?
今の私には
自分というものがまるでない。
- 17 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:10
- じゃあいい。
「希美」
それが私の名ということにしておこう。
そしてこの身体。
これが私の身体。
そうして自分の目で
改めて教室を見回してみた。
やっぱり
誰一人として知らない。
一つだけ
空いている席があってそれが気になった。
不在であることが気になった。
あのコは今日、お休みなのだろうか。
きっとそうなんだよね。
誰だか知らないけど。
あとのコは皆、授業を当たり前のように過ごしていた。
私語とか、隠し漫画とか、内職とか。真面目ちゃんも何人かはいる。
私だけは
どうしていいかわからず
かといってむやみにキョドってるわけにもいかず
一通り様子見を終えたあとは
じっと机に目を伏せていた。
- 18 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:10
- お昼休みになると急に騒がしくなった。
ガタガタと椅子の音を立てて
みんな楽しそうにご飯を食べている。
どうしていいかわからない私は
授業中と同じようにじっと机を睨みつけていた。
困った。
早いとこ、自分の正体を思い出さないといけない。
幸いとうかなんというか
休み時間の間、私に声をかけてくるコは一人もいなかった。
どうやら希美ちゃんは暗いコだったようだ。
おかげで私は考え事を進めることができた。
- 19 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:10
- ……私はどうしてしまったのだろう。
どうして自分のことが何もわからないのだろう。
こんな教室に見覚えはない。
―――前にいた教室はもっと新しくって……
あれ?
前っていつよ?
そのときピキっと
頭の中で
何かがはまった感じがした。
私は両手で頭を抱え込んでしまった。
確か私は、希美ちゃんになる前は
全然違う場所で
全然違う制服で
全然違う友達。
!
意識が何かをつかんだ。
- 20 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:11
- 私には希美ちゃんになる以前の時間がある。
じゃあやっぱり私は希美ちゃんじゃなくって
でもやっぱり今は希美ちゃんであって……
本気で頭が痛くなってくる。
ここに来る前
この身体になる前の時間。
それはどんなだったろうと
必死に記憶を掘り起こす。
もっと新しい教室。
友達もいっぱいいた。
それから……
……だめだ、そっから思い出せない。
「……記憶喪失」
- 21 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:11
- 自分の口からそんな言葉がこぼれた。
私は記憶を失くしたのだろうか?
いや、違う。
記憶喪失なら
どうして違う人生の記憶が残っているのだ?
それにさっきからの声。
これは単なる記憶喪失ではない。
たぶん
私はここに来る前どこかで暮らしていた。
それが
なぜか意識だけこっちに飛んできて
希美ちゃんの身体に乗り移ったらしい。
どこか?
なぜか?
- 22 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:11
- そのとき
ますます頭を抱えた私の鼻腔を
温かいものがくすぐった。素敵な匂い。
私はくんくんと鼻をならす。
これ……
「スイートポテト……」
甘く香ばしいバターの匂い。素敵な匂い。
その匂いの懐かしさ。
とたんに胸がふわぁと心地よく解けていく感覚があった。
そう、
この匂い。
この匂いこそ懐かしい。
この匂いには記憶がある。
いつも作ってくれてたっけ。
私はようやく頭から手を離すことができた。
前を向いた。
「おばさんのスイートポテトだ」
- 23 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/02(木) 21:11
- 私がそういうと隣から声がした。
「へ?」
右の席を見ると
フタの開いたタッパの中にスイートポテトが1つ。
声の主はスイートポテトの持ち主だった。
「おばさんて?」
「いや、なんでもない」
私はごまかしながらそのコの名札を見た。
目が合いそうになる前に逸らして
再び前を向く。
顔は一瞬しか見えなかったけど
なんか
優しそうな笑顔だった。
希美ちゃんの友達かな?
ちょっと頼れそうなコ。
私は
自分に関心を向けるコがいたことに
わずかながらホッとした。
名札には<紺野>と書いてあった。
- 24 名前:いこーる 投稿日:2006/02/02(木) 21:16
- 今回はここまでです。
まだ何も起こってないですが……
一定の更新ペースでやっていくつもりでいます。
レス返し
>>6
はいありがとうございます。
親切設計というか、できるだけいろんな方に見ていただきたいもので……
二つ目までお待ちいただけたらと思います。
>>7
応援ありがとうございます。今から楽しみにしていただけると嬉しいです。
期待はずれにならぬようがんばりますのでよろしくお付き合いくださいませ。
- 25 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:18
- 愛されている
それがわかる
それを感じる
それが幸せ
みっともなくても
子どもに見えても
どうしても
失いたくなかった
- 26 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:18
-
2
- 27 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:18
- おばさんが私を育ててくれた。
おばさんが私のお弁当を作ってくれた。
スイートポテトはそのときの記憶。
紺野さんのスイートポテトの匂いが
私に沈殿していた記憶を呼び覚ましてくれたのだ。
記憶はいつも匂いと一緒。
例えば毎年
春風の匂いを感じると思い出す。
初めておばさんに連れられて
小学校に来たときのこと。
例えば毎年
冬の寒い空気に思い出す。
おばさんに八つ当たりして
家出をしたときのその寒さ。
私の人生の節々には
印象的な匂いと、おばさんの記憶。
でも
おばさんの名前はわからない。
なんでだろう。
- 28 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:18
- おばさんの名前はわからないのに
お母さんの名前を知っていた。
私は一度も見たことのない。
おばさんから聞いていた。
亜依
それがお母さんの名前だ。
- 29 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:19
- 焼き魚の匂い。
帰り道。
お母さんに
会いたいな
風の冷たい帰り道。
ごめんなさいね
温かいおばさんの声。
それなのに私は
お母さんは?
お母さんにこだわって
お母さんは……今はもう……
- 30 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:19
- 私にはお母さんがいない。
だからおばさんが、いろいろ世話をしてくれた。
本当のお母さんみたく、優しく世話をしてくれた。
お母さんは事故で亡くなったの
そう聞かされてきた。
でも
本当は事故じゃなかった。
- 31 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:19
- 雨の匂い。湿った畳の匂い。
私が大学生になった6月。
あなたのお母さんは事故じゃない
おばさんが固い声で私に向かって
お母さんの本当の死を教えてくれた。
どうして?
どうして私は、お母さんを失くしたの。
自殺
その言葉に頭が真っ白になった。
ねぇ、お母さんのしたことわかってやって……
- 32 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:19
-
じ……さつ?
私はおもむろに立ち上がり
座布団をおばさんに投げつけていた。
私を置いて?
おばさんは哀れむような、
あるいは申し訳なさそうな顔をして
私をじっと見ている。
なんで?
私の問いには
目を閉じて首を振るだけだった。
私は自室に駆け込み混乱する頭のままベッドにダイブしていた。
- 33 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:19
- 枕の匂い。自分の枕の匂い。
お母さんは私を産んでから自殺した。
私をこの世に残して死んだ。
私の中に
お母さんを恨む気持ちがぐんぐん膨れ上がっていった。
事故で死んだと思っていたころから
お母さんを恨む気持ちがあった。
私が寂しいのはお母さんがいないせいだ。
私が寂しいのはお母さんが死んだせいだ。
私が寂しいのはお母さんと離れたせいた。
私は寂しいのに……
それでも
事故で死んだお母さんを恨むのは理不尽だと
子どもながらにわかっていたから
寂しさも悔しさも惨めさも、どうにか我慢してきたのに……
本当はそうじゃなかった。
お母さんは自分の意志で
死ぬことにしたの?
お母さんは自分で決めて
私を一人にしたの?
寂しさが悔しさが惨めさが一気に立ち上ってきた。
- 34 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:19
- 翌日は学校を休んでずっと部屋にいた。
心は真っ暗で外になんて出られない。
思考はぐるぐると回っては行き詰まる。
もうどうやったってお母さんには会えない。
時間を遡行しない限り。
だんだん追い詰められていく。
お母さんは私を愛することを放棄した。
自らの意志で、私のことを捨てた。
産んでおいて……
なら
私は生きていなくてもいいんじゃないか?
自殺
自殺という言葉を
今度は自分で思いついて
真っ暗闇の心に
一筋の光が差した。
- 35 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:20
- 私は早速窓を開けて下を覗いた。
遥か下で車が往来しているのが見える。
マンションの8階。
死ぬには充分すぎる高さだ。
私は身を乗り出して
車が行き交うのを眺めた。
身体は震えて
手足の力が抜けて
結局私は死ねなかった。
- 36 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:20
- 身体を外に投げ出そうとすると
どうしても
心が急激に冷えて
私の行動を押さえ込んでしまう。
自殺を邪魔したのは
「死ぬのって怖い。」
そんな当たり前の感覚だった。
- 37 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:20
- 私は再び絶望して
窓のところでへたりこんでしまった。
死ぬのが怖い。
死んだら、私の部屋にあるCDは誰のものになるの?
死んだら、携帯の中のデータは誰が処理するの?
死んだら、おばさん。怒るかな?泣くかな?
おばさん……
おばさんは
私を育ててくれると約束した。
それなのに私が死んじゃったりしたら……
涙を手の甲で拭った。
そうだよ。
死んだりしたらおばさん一人になっちゃう。
死んだりしちゃいけない。
- 38 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:20
- 考えがそこまで行くと
ますますお母さんのことがわからなくなった。
愛するものを
愛してくれるものを置いて死ぬというのは
一体どういう神経だろう。
どれほどの不幸が、困難が、絶望が、
お母さんに降りかかったのだろう。
私が産まれて間もなくのときだという。
お母さんの身に
何が起こった?
- 39 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:20
- お母さんに会いたいと思った。
でも
今までとはちょっと違う。
お母さんに会って甘えたいとか
お母さんのご飯が食べたいとか
そういう気持ちも
まだあるけれど
何よりも今は
お母さんが知りたくてたまらない。
私は願った。
お母さんに会いたい。
私は願った。
願って願って、
泣きながら願って、
泣きつかれて眠った。
- 40 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/06(月) 21:20
- 起きたとき
私は見知らぬ教室にいて、希美ちゃんになっていた。
その現象が、私の願いによるものか偶然によるものかは知らない。
きっと神様がチャンスをくれたのだと思うようにした。
私はポケットの中から携帯を取り出して今日の日付を確認する。
「やっぱり……」
日付は私が産まれた年の春。
つまり
私はまだ
産まれていない。
お母さんはまだ
死んでいない。
私は年を遡り
希美ちゃんの身体を借りて
お母さんを探しはじめる。
- 41 名前:いこーる 投稿日:2006/02/06(月) 21:21
- 以上です。レス数のわりにまだ何も……
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/09(木) 01:14
- うわ、なんかすっげー気になります。
どうなるんだろう?
予告を見るとどれも面白そうですし、楽しみにしてます。
- 43 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:45
- 見つけた
ようやく見つけた
たぶん
出会って初めての
生まれて初めての
世界でも初めての
自分で見つけた贈り物
- 44 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:45
-
3
- 45 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:45
- 放課後になった。
私は人の流れについていき
教室を出て階段を下りる。
ちょっぴり暗い
1階の廊下を歩いていく。
みんなについていかないと
私は出口もわからない。
昇降口まで来て、すぐにしまったと思った。
ずらり生徒の名前が入った靴箱。
ここには
全校生徒の靴箱が集中している。
でも
私は自分が
どこのクラスだかを知らない。
学年も知らない。
知っているのは希美という名前だけ。
苗字すらわからないのだ。
自分の靴など探しようがない。
- 46 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:46
- 考えてみたら
目を覚まして私は
過去のことを思い出すのに必死だった。
スイートポテトの記憶から
おばさんの
お母さんの記憶を探るのに必死だった。
だから
希美ちゃんがどんなコなのかは
まだ何も知らない。何も。
私は思い出したように鞄を開けた。
荷物を見れば
自分の苗字くらいはわかるかもしれない。
そう思って。
- 47 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:46
- ファスナーを開けて
最初に出てきたのはコンビニの袋だった。
「お昼ご飯だ……」
袋の中には
菓子パンが5種類も入っている。
不思議に力が抜けた。
希美ちゃんの鞄から
いきなり生活感たっぷりの菓子パンが出てきて
なんていうか
生きていることを思い出したみたいだった。
「普通こんなに食べないよ」
私はため息をついた。
希美ちゃん、ずいぶん食べるコらしい。
- 48 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:46
- パンを眺めていると
急におなかが減ってきた。
お昼を抜いたから当然だ。
ましてこの身体は
菓子パンを5つも平らげる胃を持っている。
気になりだすと止まらないもので
空腹感に体がしびれ始めてしまう。
私は靴箱の前
すのこに座り込んでパンをむしゃむしゃと食べ始めた。
イチゴチョコ。
メロンパン。
マヨネーズベーコン。
大きなパンでもあっという間になくなっていく。
すごいぞ希美ちゃん。どんな胃袋よ。
ロシアケーキとかいうココア味のパンを半分口に入れたとき
「何してんの?」
上から声がしたので、座ったまま見上げると紺野さんだった。
私はロシアケーキをもごもご飲み込んだ。
「何してんの?」
また同じことを聞かれた。
- 49 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:46
- 「えっと、お昼まだだったから……」
「そんなとこ座って……。ラウンジで食べればいいのに」
どこ?……とか聞くわけにもいかない。
自分の記憶がおかしいことは
まだ誰にも話すべきじゃないと思った。
だから
「急に食べたくなったんだよ」
と適当なことを言った。
「あいかわらずだね。のんちゃんは」
のんちゃん。
そう呼んだ。
そのとき私は
もう少しで
紺野さんに全てを話していたかも知れない。
この身体になって初めて
名前を呼ばれた。
しかも「のんちゃん」。
このコは
きっと自分の力になってくれる。
自然と私は笑っていた。
- 50 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:46
- 「じゃあね」
紺野さんは靴箱を
バタンと閉めてローファーを地面に放った。
ポォンと靴底の音が昇降口に響き渡る。
そして髪をふわふわさせて去って行った。
紺野さんの背中を見送りながら立ち上がった。
あんぱんが残っていたけどお預け。
自分のことを知るのが先。
私は靴箱を眺めまわす。
紺野さんと同じクラスなんだから
この近くにあるってことだ。
私は靴箱の名前を一つ一つ見ていった。
しかし
作業の途中で
バカをしていることに気がついた。
「苗字、わかんないんだった……」
やはり荷物を調べるのが先か。
と思って鞄に目をやろうとした
その一瞬だった。
ほんの一瞬。
- 51 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:47
- 「……あった」
信じられないことに
紺野さんのちょっと前の靴箱に、
私は自分の苗字を発見した。
希美ちゃんの、ではない。
そうじゃなくて昔の私の。
そこには
<加護>
確かに覚えてる。
それは
希美ちゃんになる前の
私の苗字だった。
苗字同じなの!?
私は
興奮気味にその靴箱を開ける。
しかし中は空だった。
- 52 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:47
- 私の頭が忙しく回転する。
どういうことだろう。
靴がない。
てことは私の靴箱じゃない。
じゃあこれは……
珍しい苗字と子どものころから言われていた。
学校で苗字がかぶったことなんて一度もない。
その苗字が今
目の前にある。
偶然なんかじゃない。
じゃあこの苗字は
「お母さん……」
そうだ。
この苗字が
お母さんかお父さんか
聞いたことがなかったけれど
ここは女子高だから間違いない。
これはお母さんの靴箱だ。
- 53 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:48
- まだ女子高生のお母さんの靴箱。
ようやくお母さんとつながるものに出会えた。
そう思うと
熱いものが溢れ出るような不思議な気分になる。
急に心がふぅっと浮かび上がるような気分。
それでいて
自分はしっかり立っているのだと
自信が湧いてくるような……
お母さんは生きている。
まだ女子高生として
この学校に通っている。
踊りだすような気持ちだった。
私はお母さんの時代にいる。
希美ちゃんのことなんて後回し!
お母さんのことが知りたい!
私は通りかかりのコに声をかけた。
「すみません!」
- 54 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:48
- 「は?」
声をかけられたコはびっくりしたように目を大きく見開いている。
私はさっと名札を見た。
<高橋>。
でも誰でもいい。
何でもいいからお母さんのことが聞きたいのだ。
「あの、この人のこと知ってますか?」
私はお母さんの靴箱を指差して高橋さんに聞いた。
どんなコか、どこに住んでいるか。何でもよかった。
お母さんのことを教えてくれれば何でもいいと思った。
しかし
高橋さんは一旦目を大きく開いたと思ったら
眉をひそめて一歩下がる。
あれ?
何その反応?
予想外のリアクションだった。
高橋さんはなぜか嫌悪の表情で後退していく。
- 55 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:49
- やっぱり見知らぬ人に聞くんじゃなかったと後悔が胸に広がったが
でも、私は何も悪いこと聞いたんじゃない。
ただお母さんを知っているか聞いただけだ。
それなのに高橋さんは
パン!
靴箱を指差した私の手を叩いた。痛い。
「何すんのよ!」
「ふざけないでよ!!
そうやってはしゃいで
自分でおかしいと思わないの?」
何?
何を怒っているの?
わけがわからない。
私は高橋さんに怒鳴られて一気に萎れた。
後悔とか疑念とか不審とかが私を支配して動けなかった。
どうして
お母さんのことを聞いちゃいけないの?
どうして私が
お母さんのことを聞いちゃいけないの?
- 56 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:49
- 「あなた、同じクラスじゃなかったっけ?
みんな加護さんのことは言わないようにしているのに……」
私は泣きたくて泣きたくて
震える喉から搾り出すように
「どうして?」
小さくそう言った。
「はぁ?」
高橋さんは更に嫌そうな顔で一歩さがる。
私のことをおかしなコって思っているに違いない。
だめだ。
もう、この人には聞けない。
私はじっとうつむいた。
無意識に指を齧りはじめる。
高橋さんは
そんな私に背を向けて行ってしまった。
- 57 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:49
- 一人になった私はすのこに座って泣き出した。
わけがわからない。
お母さんのこと、聞いちゃいけない?
お母さん、何かしたの?
近づけたと思ったお母さんは
またなぞに包まれて見えない存在になってしまった。
……どうしよう
お母さんはこの学校では
名前を出すのもいけない存在になっている。
お母さんのことは
この学校じゃ聞けない。
ここから
どうしていいかわからない。
……どうしよう
心が渇いていた。
私の無意識が
必死に誰かの声を求めていた。
- 58 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:50
- お母さん。
お母さんの愛は
私には届かない。
私の想いも
お母さんには届かない。
心が
どうしようもなく潤いを求めている。
どこにしまっていたのか
気がつくとケータイを握っていた。
私は助けを求めるように
アドレスをスクロールさせた。
誰か……
誰か私に声をかけて
誰か私を見て
- 59 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:50
- ケータイのディスプレイを見る。
当然
ほとんどが知らない名前。
<加護亜依>
お母さんの名前を見つけて動作を止めた。
お母さんに電話できる。
でも、私の指はお母さんにコールできなかった。
怖い。
高橋さんの忌み嫌うような対応が
頭の裏にこびりついていた。
お母さん学校で何したの?
お母さんどんなコだったの?
そう思うと急に怖くなってお母さんに電話できなかった。
- 60 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/12(日) 00:50
- 誰か……
私はすがる思いで別のところに電話した。
数回のコールで反応があった。
「もしもし?」
「……」
「もしもし?のんちゃんどうしたの?」
「助けて……」
「え?」
「紺野さん助けて!」
- 61 名前:いこーる 投稿日:2006/02/12(日) 00:51
- 以上になります。
>>42
気にしていただけると励みになります!
よろしく3作ともお付き合いいただけたらと思います。
- 62 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/13(月) 21:03
- タイミング悪いけどがんばってください。
- 63 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:21
- 私は弱いコでした
人から見られるだけで
人から話しかけられるだけで
自分を捨てたくなってしまう
そんなコでした
- 64 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:21
-
4
- 65 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:21
- 紺野さんは
何も聞かずに駆けつけてくれた。
紺野さんの顔を見ただけで
私の心は不思議と救われた。
涙で頬を濡らしたままに
下駄箱の前にへたり込んだ私。
紺野さんが覗き込んでくる。
「どうしたの?」
紺野さんの問いに
私は
涙交じりのかすれ声で応える。
「私……
なんでこんなところに
来ちゃったんだろう」
私の説明は
紺野さんには
意味不明のはずだ。
- 66 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:22
- 紺野さんは1つ
ため息をついてからもう一度
「どうしたの?」
と聞いた。
でも
全部話すことはできなかった。
お母さんがこの学校で
どういうコだったかわからないけど
紺野さんは高橋さんと違って
優しいかもしれないけど
でも怖い。
紺野さんまでが
味方でなくなったら
私はこの世界で
誰も頼れない。
でも
心配してくれる紺野さんに
何も話さないのもおかしい。
「会いたい人がいるんだ」
だからちょっとだけ話した。
- 67 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:22
- 「ずっと会いたかった人。
でも私には、その人がどこにいるのか
どんなことしてるのか
何もわからないんだ……。
そしたらね、
会うの、怖くなっちゃって……。
せっかく会いに来たのにね」
紺野さんの手が
私の手を優しく包み込む。
その手の温かさに
私の心はぐらついた。
紺野さん、
私を受け入れてくれる。
聞いてみよう。
お母さんのこと。
そんな思いが頭の中に浮かんで
気がついたときには声に出していた。
「あいちゃんってコ。どこにいるの?」
- 68 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:22
- 「愛ちゃん?
会いたい人って愛ちゃんなの?」
紺野さんは
不思議そうな顔で聞いてくる。
……
そりゃそうか。
希美ちゃんはお母さんとは同じクラスなんだ。
何か言い訳したほうがいいかな、と思案していると紺野さん
「連絡とってみようか?」
と言ってくれた。
「本当?本当に?」
私は紺野さんの両肩にしがみついて聞いた。
紺野さんは目を丸くして
「う、うん」
うなづいた。
- 69 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:22
- よかった。紺野さんお母さんと連絡取れるんだ。
私は紺野さんの肩をつかんだまま
胸の中が軽くなって、熱くなっていくのを感じていた。
さっき
高橋さんの反応を見て
一旦は怖くなったけれど、
紺野さんは
何ということもなく
自然に、
ごく自然に連絡を取ろうと言ってくれた。
そのことが
私の勇気になったのだ。
見知らぬ高橋さんより、
友達の紺野さんの反応は
私にとって心強い。
「ありがとう!やっぱ持つべきものは紺ちゃんだね」
私はテンション高く調子付いた。
「どうしたの?そんなに嬉しそうに……」
急に私が「紺ちゃん」とか呼んだのを気にするでもなく
紺ちゃんは携帯を取り出した。
- 70 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:22
- 「だってさっきの人にも同じように聞いたんだよ。
そしたら急に怒られたの。
だから怖くなっちゃって……」
「?」
紺野さんは一瞬
疑問そうな顔をしたがすぐに
もとの顔に戻った。
電話がつながったようだ。
「もしもし愛ちゃん?いまどこ?……
あ、じゃあそっち行っていい?のんちゃんも一緒……うん?
え、私のクラスの……辻さんって知らない?え……なんか会いたいんだって」
- 71 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:23
- 紺野さんに連れられて私は
校門をでて建物の間の小さな道を歩いた。
外はちょっと湿った匂いがした。
雨の多い季節だ。
私は
コンクリートと湿気の混じった匂いを楽しみながら
紺野さんの後ろを歩く。
小道を抜けて
大通りに出ると紺野さんは
ファーストフードに入った。
「ここにいるって言ってたよ。ほらっ」
紺野さんが指した先を見て
私はぎょっとなった。
咄嗟に紺野さんのかげに隠れた。
そこにいたのは
さっき怖かった高橋さんだった。
紺野さんが手を振ると
高橋さんは軽く手を上げて立ち上がった。
- 72 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:24
- 「紺ちゃんあの人は……」
「ん?愛ちゃんだよ。会いたかったんじゃないの?」
「えっと、高橋さんも愛ちゃんなの?」
「え?違ったの?」
高橋さんが私たちのところまで来た。
紺野さんが何か言おうとすると
高橋さんは急に目を大きくして
紺野さんを引っ張った。
紺野さんは引かれて高橋さんのすぐそば。
「もしかして辻さんてそのコ?」
「う、うん」
高橋さんは私を嫌悪の表情で見ている。
「あさ美ちゃん、友達なの?」
高橋さんの紺野さんに向けた目。
何か
私に付き合っている紺野さんを
責めるような視線。
さげすむような横目。
- 73 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:25
- 私は
胃が絞られる思いがした。
何でこの人は
私のことをそんな風に見るのだろう?
そんなに私は
気持ち悪いの?
何で……?
私は爪を齧りはじめた。
「ねぇ……」
高橋さんが私に
視線は相変わらず私をいぶかしむ様子で
聞いてきた。
「のんちゃんって呼ばれてんの?」
「……そうみたい」
「そうみたいって、自分のことでしょう?」
そうだった。
私が希美ちゃんなんだ。
- 74 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:25
- 「あ、うん。紺ちゃんからはそう呼ばれてる」
「噂の、のんちゃんね」
「噂?」
私はドキッとした。
何?噂って。希美ちゃんが何か?
私は正体の知らない身体でいることに
改めて怖くなった。
「さっき……加護さんのこと聞いてたよね。
どういうつもり?」
「愛ちゃん?のんちゃんにさっき会ったの?」
「うん。加護さんのことを知ってるかって」
そのとき
紺野さんが眉をひそめるのが見えた。
紺野さんまで
私をそんな目で見るの?
私は更に深く爪を噛む。
「まさかあいちゃんってあいぼんのこと?」
アイボン?何それ?
私は呆けたような表情だったに違いない。
- 75 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:25
- 「のんちゃん。ふざけてる?」
「ち、ちがうよ」
紺野さんの話も
高橋さんの話も
私にはさっぱりわからない。
「あさ美ちゃん」
高橋さんが紺野さんの肩に手を置いて言った。
「私たちのクラスで、噂になってるの、知らない?」
「何?知らない」
あさ美ちゃんの応えに高橋さんは
「まぁ君は転校生だからね」
と言った。
え?
紺野さんって転校生?
私の頭は、話の展開についていけず
混乱するばかりだった。
- 76 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:26
- 「加護さんが休んでる理由は知ってるよね」
「もちろん。みんな知ってる」
「あれ、このコらしいよ」
高橋さんは
私を顎で指した。
とたん
紺野さんの表情は凍りついた。
ああ、いよいよ
紺野さんまでが
私の敵になってしまった。
私はとうとう泣き出していた。
擦るように声を絞り出して
涙を流していた。
泣くとは思っていなかったのだろう。
「ね、ねぇ」
高橋さんが困ったように
私に話しかけてくる。
- 77 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:26
- 「どうしてあなたが、加護さんのことを聞くの?
あなたのほうが、知っているはずでしょう?」
私が?
私じゃない。
希美ちゃんが……
だから私に
わかるわけないじゃん。
私の声はますます高く悲壮になっていった。
「のんちゃん?」
紺野さんも、困ったように覗き込んできた。
紺野さんに
おかしいって思われた。
泣いたりして
変なコって思っているに違いない。
待って。
お願い。
私を変なコと思わないで!
私は
もう取り繕うことなどできなかった。
- 78 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:26
- 「……記憶が……ないんだ……」
正直に
自分のことを話していた。
「え?」
「希美ちゃんのことなんて、私は知らない。
私は……何も知らない。
ただ……」
そのとき
高橋さんは相変わらずだったけど
紺野さんの顔は
微妙に変化したかも知れなかった。
心配……してるのだろうか。
「ただ……おかあ……加護亜依って人に会いに来た。
それだけは確かなの」
紺野さんが一歩
私の方に進んだ。
高橋さんが止めるより早く
「案内してあげる」
- 79 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/15(水) 21:26
- 「あさ美ちゃん!関わらないほうが……」
「大丈夫。飯田さんは知り合いだから」
「は?何言ってんの?」
「本当だよ」
紺野さんは
私の手をひょいと取って
高橋さんに背を向けて歩き出した。
「ねぇ。やめなよ」
「いい。行く」
「じゃあ、入り口までにして。
あさ美ちゃん中に入らないで」
「愛ちゃん」
紺野さんは立ち止まった。
高橋さんに背を向けたまま
「私がこの学校に来る前どんなことしてたか知りたい?」
「……え?」
「ごめん、何でもない。
わかったよ。私は中に入らない。それでいい?」
そう言って返事を聞かずに再び歩き出した。
- 80 名前:いこーる 投稿日:2006/02/15(水) 21:29
- 以上になります。
>>62
ありがとうございます。
もう本当にタイミング悪くて、こんな内容だし…一時は放棄も考えました。
でも、こんなときだからこそって気持ちもあって続けてみることにしました。
「現実の苦しいときに夢をつなげないで何の娘。小説か」と思ったからです。
こんな話ですがよろしくおねがいします。
- 81 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/02/15(水) 22:54
- おお!更新されてる。こんな時だからこそ余計に嬉しいです。
正直あの事件にはびっくりしたけどそれでも僕はあいぼんが、そしてあいののが大好きなんで続けてくれて本当に嬉しいです。
内容も進むに連れておもしろくなっていくのですごく期待してます!
長くなっちゃったけど応援してるんで頑張ってください。
- 82 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/15(水) 23:19
- 更新乙です。
はい、ついていくんでがんばってください。
- 83 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/20(月) 00:18
- 作者様の言葉に泣きました・゚・(ノД`)・゚・
そうですよね夢……ほんとに応援しています。そして励まされました。
- 84 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:26
- 私は
求めすぎたの?
- 85 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:26
-
5
- 86 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:27
- 雨上がりの空の下
狭い道をくねくねと
紺野さんに連れられて
紺野さんに手を引かれ。
そこは白い四角い2階建てのアパートだった。
周囲の建物に隠れるようなたたずまい。
どこから見ても
視界が何かに遮られ
全貌が知れない。
何かの間から
ときどき白が見えるのを確認しながら
私は紺野さんについて行った。
雨の名残がだいぶ薄れていた。
- 87 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:27
- アパートに着くと
2階にあがって一番奥の扉まで来た。
「のんちゃん、ここだよ」
「ありがとう」
私は紺野さんに軽く頭を下げた。
そして
ドアのベルを鳴らした。
ビー、という無機質な音が
ドアの向こうに響く。
こっちにも聞こえてくる。
続けて
誰かの足音。
私の心臓が知らぬうちに
高く大きく速くなっていた。
あまりの緊張で
身体の内側からしびれたみたい。
呼吸も苦しくなってきた。
- 88 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:27
- お母さん。
会える。
ようやく会えるんだ。
ずっと会いたかった。
ずっと駄々をこねておばさんを困らせた。
でも会える。
そう思うと
おばさんに優しくしてもらった
いろいろな記憶がよみがえる。
このこと知ったら
おばさんもきっと
喜ぶだろうな。
そうして
そんなふうにして
私が胸を上下させていたとき
扉が開いた。
中から出てきたのは
背の高い女の人だった。
髪がとても長くてきれい。
これが、飯田さんって人か。
- 89 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:28
- 飯田さんは
その大きな目で私を認めると。
「やっと来た!」
そう言った。
そう言って私の腕を強く引っ張った。
部屋の中へ引き込まれる。
勢いあまって土足のまま私は
フローリングに乗り上げてしまった。
しかし女の人は気にせずに
更に腕を引っ張る。
「ちょ、痛い!」
私は足で靴を脱いだ。
そしてわけのわからぬまま
部屋の奥へと連れ込まれていった。
「今まで何してたのよ!
一週間もあんたが来ないからひどい状態」
飯田さんは怖い声でそういうと
部屋の中にもう一つあった扉を開いた。
- 90 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:29
- その先は白い部屋だった。
隅に白いパイプベッドが置かれている。
女の子のお腹が大きくふくらんでいた。
あのコが
お母さん。
お腹の中にいるのが
私。
お母さんはマタニティウェア姿で
上半身を起こしてベッドに座っている。
「……」
それは酷い、酷い有様だった。
どれだけ泣いたのだろう。
目の中、目の周りが真っ赤に腫れ上がっている。
さらにびっくりした。
布団の上に置いてある両手には
自分で抜いたらしい髪の毛が絡みついていた。
黒く
ぞっとするほど大量に。
- 91 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:29
- 私はその光景に
しばらくは息をするのも忘れて固まっていた。
高橋さんが見せた
おぞましいものを見るような目が
脳裏に浮かんでくる。
…お母さん
私は出かかった言葉をどうにか飲み込んだ。
今私は
希美ちゃんなんだ。
「あいちゃん……」
言うとお母さんはビクッとなって
また泣き出してしまった。
私は
すぐしまったと思った。
お母さんのあだ名は違うんだ。
知っていたはず
わかっていたはずなのに
お母さんのあまりの状況に
つい言ってしまった。
- 92 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:29
- 「のん……やっぱり怒ってる……」
お母さんの声は
鼻にかかって掠れていた。
「え?」
「わかってくれたと思ったのに……
怒ってるからずっと来ないんだ!」
「ち、違うの!」
「……」
「ちょっと、事情があって
どうしても来られなかった……」
お母さんは上目遣いをこちらに向けて
涙を溜めていた。唇が小刻みに震える。
私は必死に頭を働かせて
お母さんへの言い訳を探していた。
「事情って?」
ずっと来なかったことを責められている。
本当は希美ちゃんは、
もっと早く見舞いに来なきゃいけなかったんだ。
つまり……
- 93 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:30
- お母さんの瞳のふちから
涙が
一粒落ちた。
さっきのお母さんの言葉。
―――わかってくれたと思ったのに……
それって、妊娠のこと?
お母さんが女子高生で妊娠した。
それを
希美ちゃんが理解しなかったと
お母さんはそう考えているんじゃないか。
「やっぱりのんは去年のままなんだよね。
私のしたことを『ありえない!』って言ったときの
のんのままなんや!!」
お母さんの声が
どんどん高く、痛々しくなっていく。
「やっぱりのんは許してくれないんや!
なら何でこんなとこおる?
どっか行け!どっか行ったらええやん!」
- 94 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:30
- 「あいぼん!」
私が怒鳴ると
お母さんはしゅんとなった。
さっきまでの勢いがうそのように
唇を突き出して小さくなる。
その起伏の激しさにとまどいながら私は
必死に考え、しゃべった。
「そりゃ……」
自分で声が小さいと思う。
でもしゃべらなきゃ。
「びっくりしたよ。まさかって思った。
でも……」
ひとつ、つばを飲む。
喉が渇いた。
「でも、あいぼんの決めたことでしょう?」
- 95 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:30
- おばさんの事を思い出した。
―――お母さんのこと、わかってやって……
「だからあいぼん」
おばさん……。
「今は……今はわかってやりたいって思ってるよ」
そう言うと
お母さんは情けない泣き顔で
「本当?」
すがるように
こちらに両手を差し出してくる。
お母さんが
私を求めてる
胸がすっぱくなった。
ぎゅうってなった。
- 96 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:31
- 私は
歩を進めて
お母さんのベッドのそばに行った。
お母さんは
私の身体をその両手の中に包みこんで引き寄せる。
ああ
こうされることを
何度願っただろう。
私は
お母さんの中で
温かさを感じた。
優しさを感じた。
これまで我慢してきた
寂しさ悔しさ惨めさが
胸から喉をついて
私も泣いた。
生まれて初めて
お母さんの胸の中で
私も泣いた。
- 97 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:31
- 両手をまわして
お母さんを抱きしめると
お腹の中の子がちょっと動いた。
私……
涙が
溢れた。
私が
生きている
私は子どもみたいに
涙に声が加わるのを抑えきれない。
情けない声で泣き続けた。
それでも
「お母さん」とだけは呼ばなかった。
本当は全てを話して甘えてしまいたかった。
でも今はまだ
話してはいけないと思った。
だからじっと
お母さんの肩に額をのっけてじっと
泣いていた。
幸福を感じていた。
- 98 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:32
- その幸福が
私を必要以上に欲張りにしたのかも知れない。
温かい時間は
長くは続かず
あんなこと……
私は自分の手で
あんなこと聞かなきゃよかった
幸せな時間を断ち切ってしまったのだった。
- 99 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/21(火) 23:32
-
お母さん
ごめんね
きっと安心したの
しすぎたの
それとやっぱり
自分のこと
知りたかった
私は
本当にごめんなさい
聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「お父さんは?」
- 100 名前:いこーる 投稿日:2006/02/21(火) 23:35
- 以上になります。
>>81
>>82
>>83
応援ありがとうございます。おかげで続けられます。
こんなときでも手を抜くことなく書きますのでよろしくお願いします。
- 101 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/23(木) 22:17
- う、うぅ〜痛い
- 102 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/02/25(土) 00:36
- 続きが気になります。期待してるんで頑張ってください!
- 103 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:52
- 知らせてくれなくてよかった
わざわざ言わないでよかった
知ってた
全部知ってた
私は
ただいいように振り回されてた
それでもよかった
- 104 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:52
-
6
- 105 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:53
- 爪に私の頬肉がつき
交代に爪に引っかかっていた
お母さんの髪が私の頬についた。
流れた血で頬はべっとり
髪の毛もそれでこびりついて……
飯田さんが止めに入らなければ
私は殺されていたかも知れない。
でも私にはわけがわからない。
私が隣の部屋に行って耳をふさいでいる間に
お母さんの咆哮を聞くまいと震えている間に
飯田さんが何とかしてくれたらしい。
こっちに戻った飯田さんは
私の頬に消毒しながら聞いてきた。
「何言った?」
「お父さんは…………って」
「バカ!」
飯田さんは怒って
消毒液のビンを投げた。
まだ
途中なのに……
- 106 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:53
- 私はまた
泣きそうな顔になっていた。
またなの?
また、だめなの?
学校でお母さんのことを聞いて怒られた。
ここでお父さんのことを聞いて怒られた。
私が
何か聞いちゃいけないの?
私だって知りたい。
自分が
誰から生まれたのか
私だって知りたい。
しかし
次の飯田さんの言葉で
私は知った。
自分がお母さんに聞いたことが
どれだけ残酷な意味を持つかを
思い知らされた。
- 107 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:53
-
「ドナーの個人情報は教えられないの!
そう言ったでしょう」
私の世界から
シンと音が消えた。
その後も飯田さんは何か
私に怒鳴っていたみたいだったけど
それも私の耳には入ってこない。
ドナー。
提供者。
知ってる。
わかった。
高橋さんの反応。
紺ちゃんの対応。
私のお父さんは
名も知れない提供者だったんだ。
- 108 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:54
- 私は必死に意識を掴もうと
歯を食いしばって呼吸をした。
ドナーから貰い受けた。
お母さんの中に
命が生まれた。
私が生まれた。
ドナーから……
私は
飯田さんが駆け寄ってくる。
身体を支えられずにその場に倒れてしまった。
飯田さんは私の肩をゆさぶっている
身体に力が入らない。意識も朦朧としていた。
飯田さんの平手が頬を叩く。
パァン!
その音で
私の意識が戻った。
- 109 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:54
- 「ちょっと、大丈夫?」
飯田さんが私を覗き込んでくる。
私は
掠れた小さな声で
飯田さんに聞いた。
「手術を……したってことですか?」
「ねぇ、のんちゃん?どうしたのおかしいよ?」
「お母さん、手術をしたんですか?」
「お母さんって……」
「どうして……そんなことしてまで
私を生んだの?」
私が言うと
飯田さんは黙った。
しばらく眉間にしわを寄せて考え込んでいる。
「のんちゃん……」
「……」
「のんちゃん……じゃ、ないんだね?」
私はちょっと迷ったが
- 110 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:54
- 「……うん」
肯定した。
いまさらこの人に隠してもしょうがない。
「じゃあ、事情も知らない?」
「……うん」
飯田さんは一瞬、悲しそうな表情を見せた。
「あなた、名前は?」
「知らない」
「何しに……来たの?」
「お母さんに…会いに来た」
「今、のんちゃんの人格は?」
「さぁ……たまに、声が聞こえるけど」
「いつから?」
「え?」
「あなたはいつから、のんちゃんの中にいたの?」
「今日……授業中に起きたらこっちに来てました」
「そっか……」
- 111 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:55
- その後沈黙になった。
飯田さんはつらそうに床を見続け
私もどうしていいかわからず
ひざをかかえてじっとしていた。
時計の音が
さっきまでは気にならなかった時計の音が聞こえる。
たっぷり時間が過ぎてから
飯田さんは大きくため息をつくと
私の目を見て言った。
「お母さんのこと、知りたい?」
私は
黙ってうなづく。
飯田さんは
私の肩に手を置いて
ゆっくりと
時々微笑みかけてくれながらゆっくりと話した。
- 112 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:55
- 「あなたのお母さんはのんちゃんが大好きだった。
お金持ちのお嬢様で、……金持ちって言っても
あそこの家はあんまりいい商売していたわけじゃなかったけどね。
裏の世界で金儲けに成功したような家。
そんなことでクラスに友達は少なかったけど
のんちゃんがいつも一緒にいたの。
去年、あいぼんの両親が事故で亡くなった
それは知らない?」
お母さんの、両親。
私にとってはおじいちゃんとおばあちゃん。
それなら
「聞いたことはあります」
おばさんが言っていた。
――あなたが生まれる前に事故で亡くなったの
「それで、家族を亡くしたあのコの元に残ったのは
とんでもない額の財産と、それから
のんちゃんだけだった。
寂しさ悔しさ惨めさも全部のんちゃんに預けてね
それであのコもどうにか立っていられた」
- 113 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:56
- 飯田さんは更に続けて
私が命を授かるまでを教えてくれた。
それはこういうことらしい。
お母さんは、家族を失って
ますます希美ちゃんに寄りかかるようになり
二人はいつしか親友をはるかに超えた関係になっていた。
希美ちゃんの方は、お母さんの心をどうにか救ってやろうと
いろいろしていたらしい。
依存は深くなりすぎて愛情、
持ってはいけない愛情にまで至った。
お母さんは
希美ちゃんと結婚したがるようになった。
当然そんなことはかなわない。
それでもお母さんは希美ちゃんとの絆を深めるために
とんでもない行動に出てしまった。
「まだ、まともな判断ができる状態じゃなかったんだよ。
ただもう二人は行き着くところまで来ちゃってたらしい。
話によると……その、一緒に夜を過ごしたりもしたって」
「え……」
- 114 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:56
- 私は鳥肌が立った。
この、希美ちゃんの身体が
お母さんを抱いた……。
「でも……女の子同士だったから、結ばれるって実感できなかった。
そう、あいぼんは言ってたよ。だから
どうにかしてのんちゃんと結ばれたって証を手に入れたかったんだよ」
お母さんが希美ちゃんと愛し合った証。
そのためにお母さんは
「それで、不妊治療を」
私を生むことにしたのか。
まともな神経じゃない。
だって……私は?私の存在は?
飯田さんはさらに説明する。
お母さんは
自分の両親の知り合いを訪ね歩いた。
裏の世界にいた両親の知り合い。
「何しろあのコ、金だけはあったからね。
闇医者に手術を頼んだんだよ。
ちなみに私はその医者の知り合い」
- 115 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:56
- 「え?」
その言葉には驚いた。
今日は、驚いてばっかりだけど。
「いい金もらって、あのコの世話を任されてんの」
「じゃあ、飯田さんも、悪い人なんですか?」
「……そうだよ」
「でも、飯田さん優しい」
「何か責任感じちゃって……って私が責任感じることじゃないんだけど
やっぱりこんな女の子に違法な不妊治療なんて……まずいよ。すごくまずい」
「まずくても」
それで私が生まれたんだ。
「ごめん。……まずいなんて言っちゃいけないな。
とにかくそれで私はこのコの世話を引き受けることにした。
とりあえず赤ちゃんが産まれるまでね。病院には預けられないから。
その後は、また誰かが来るだろ。何しろ金だけはあるから」
そこまで言って飯田さんは立ち上がった。
私はしばらく呆けていた。
また時計の音が聞こえてきた。
しばらく
そのまま。
- 116 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/02/26(日) 21:57
- 「……また始まった」
飯田さんの顔が曇ったので何かと思ったら
隣の部屋から
再びお母さんのすすり泣く声が聞こえてきた。
「のんちゃ……じゃなかった。
ごめん、ちょっとキミはいない方がいいかも」
私はその言葉にうなづいた。
私にとってもありがたい提案だった。
また
さっきみたく乱れたお母さんを見たら
私の心までぼろぼろになってしまいそうだったから。
「どこか行っててもらえるといいな」
どこか……
「じゃあ、紺ちゃんのところに行ってます」
「ああ、紺野か。わかった。そうして」
私は立ち上がり
部屋をあとにした。
お母さんを
そのままにして
- 117 名前:いこーる 投稿日:2006/02/26(日) 21:58
- 以上になります。
レス返し
>>101
痛い展開ですみません。こんなまま続いていきます。
>>102
ありがとうございます。最後まで更新していきますのでよろしくお願いします。
- 118 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/27(月) 23:48
- 更新乙です。
痛くてもついてきます。
だんだん謎が明らかになってきましたね。
- 119 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/02(木) 01:49
- 緊迫感があっていいですね。先が気になります
- 120 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/02(木) 16:20
- 更新お疲れ様です。痛いですね……
最後まで見守っています。
- 121 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:14
- 彼女は私を
存在として
認めてない
- 122 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:14
-
7
- 123 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:15
- 外に出ると
紺ちゃんは待っていてくれた。
私はどんな顔をしていたろう。
紺ちゃんは
ちょっと悲しそうに微笑んで
そっと私の手を取った。
ふわり
私の手が持ち上がって
「行こう」
声の小さな紺ちゃんが
「大丈夫だよ」
私の心まで入ってきて
「紺ちゃん。私……」
私は強く手を握り返した。
- 124 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:15
- 曇天の空気は
相変わらず湿っていて
重たい。
紺ちゃんが
ポンポンと靴音を立てて
軽快に歩いていく。
私も
そのリズムを真似て
一緒に歩いた。
少し
身体が軽くなった。
大きな道に出て
交差点をいくつか過ぎる。
その通りには
小さな食堂や
古本屋が立ち並んでいた。
「不思議な街」
私が独り言のように言った。
不思議。
発展しているというわけじゃない。
むしろ一軒一軒は小さく古めかしい。
なのに通っている人は皆おしゃれで
そしてどこか浮かれていた。
- 125 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:15
- 紺ちゃんが言う。
「授業が始まった時期だからね。
この時期が一番学生が多いよ」
学生?
近くに学校でもあるの?
古本屋、安そうな食堂。
大学があるのだろうか。
その
変ににぎやかな通りをはずれて
狭すぎる道を奥へ行く。
見えてきたのは一軒家。
そこが
紺ちゃんの家らしい。
「どうぞ」
紺ちゃんの後に続いて中に入ると
玄関にローファーがあった。
「お邪魔します」
- 126 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:15
- 上がると
リビングのソファに
高橋さんがかけて
本を読んでいた。
私と目が合うと
気まずそうに逸らす。
私はしばらく
リビングの入り口にたたずんでいた。
紺ちゃんが
氷の入ったグラスに
お茶を持ってきた。
ソファの前のテーブルに置くので
私は座らなければおかしくなってしまった。
無言で高橋さんの隣にかけた。
ソファは予想以上にやわらかくて
私が座ると大きくへこんだ。
高橋さんが心地悪そうに
お尻の位置をなおした。
紺ちゃんは
電話がかかってきて
リビングから出て行ってしまう。
私たちは
無言の二人きりになってしまった。
- 127 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:16
- グラスを置く。
カラン、と軽い音。
あとは
ソファを揺らさぬようにじっとしているだけ。
揺らしたらまた
いやな顔するだろうから。
最初
お母さんのことを聞いたとき
高橋さんに怒られた。
事情がわかった今になって
あの態度の意味がわかって
ますます気まずいと感じてしまう。
お母さんは
同性愛に溺れ
果てに妊娠した。
その相手が
この希美ちゃん。
高橋さん
どう思ってるんだろう?
今の私を
どう見ているんだろう?
- 128 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:16
- カラン、と音がした。
高橋さんがグラスを置いた。
「ねぇ……」
高橋さんはグラスを見つめたまま言った。
私は息苦しさを感じながら返す。
「何?」
「記憶がないって本当なの?」
高橋さんの様子は
別に疑っている風ではなく
ぼそぼそと聞き取りにくい感じの声だった。
「……本当」
「じゃあ……」
「あ、でも…さっき聞いた。
私だったんだね。あいぼんが休んでる原因。
高橋さん、私のこと変なコって思ったでしょ?」
「ううん。
しょうがない……。
私こそ、さっきはごめん。事情全然知らなくて」
- 129 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:16
- そのとき
初めて高橋さんが私を見た。
何か
照れくさくなった。
しかし、
「辻さんも、大変だったんでしょ?」
「え?」
「だって、まさか子どもつくるなんて。
加護さん、勝手にやったんだってね」
「う……うん」
高橋さんは
まるで調子を変えることなく
続けていた。
私の中に
苦いものが溜まりはじめる。
「2人をつなぐ何かが欲しい。わからなくもないよ。
だけど、それでできた子どもは……」
「……高橋さん、もういいよ」
「だけど、子どもどうするの?
あのコは金あるからいいけど
辻さん重荷でしょう」
- 130 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:16
- 「もういい……」
重荷
それは……
私なんだよ。
「辻さんが悩むことじゃないよ。
噂に聞いたよ。
向こうが勝手にやって」
お母さんは……そんな
「辻さん迷惑がってたって」
「え?」
「ごめん、記憶喪失か」
「迷惑……がって?」
「だってそうでしょう。普通に考えれば」
わかる。高橋さんの言っていることは。
私だって、飯田さんから聞かされたときは信じられなかった。
- 131 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:17
- でも
それは
私の……
私を生むために
お母さんが。
「いくら別れたくないからって
わけわかんないドナーとの間に子どもつくったって
辻さんとは何の関係もない。
ねぇ、辻さんに責任はないよ。責任負うことない」
「高橋さん、やめて……」
ダメだ。
この人はやっぱり。
私にいいことなんて何も言ってくれない。
この人は
「お願い……もういいから」
「無理することないって。縁切っちゃえばいいじゃん」
「そんなことできないよ!」
だって私が生まれるのに。
- 132 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:17
- 胸が
息が苦しい。
身体がさーっと冷たくなっていく心地。
でも高橋さんは
とうとう私の変化を察することができなかった。
「だけどそんな子連れてやっていけないよ。
近所にも紹介できない」
そして高橋さんは
打ちのめす一言を放った。
「レズでできた子なんて、抱えて生きていけないよ」
その言葉を聞いたとたん
視界のピントがぼけた。
息が苦しい。……苦しい。
- 133 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:17
- この人は……
私の
この人はどうして……
私のこれまでの
どうして私に酷いことを
寂しさが悔しさが惨めさが
寂しさが悔しさが惨めさが
どうしてこいつは……
私の中の激情が一気に沸いた
- 134 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:17
- 立ち上がる。
高橋さんの右手を叩いた。さっき彼女が私にしたように
私は
グラスが落ちて高橋さんの足元で破裂する。
その音を聞く間もなく
私は……
私は彼女に飛びかかっていた。圧しかかって、殴りかかって
吠えかかっていた。
言葉にならない声で
私はそんなんじゃない!
高橋さんに吼えていた。
髪の毛をきつく掴んで頭を持ち上げフローリングに叩きつける。
その間も叫び続け
こぶしで何度も殴った。
彼女の肩、胸に向かって壊れたように殴り続けた。
左右の手で交互に殴り続けた。
顔は殴らなかった。
怖かったから。
- 135 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:18
- ワンパターンを学習した高橋さんは
手で私のパンチを退けるようになった。
逸れたこぶしは全部フローリングに叩きつけられる。
こぶしがジンジンして痛かったのに
壊れたようになぐり続け、よけられ続け、叩きつけられて
それでも止めなかった。
「どうしたの!?」
バタバタと紺ちゃんが駆けつけてくる間も
私は床を激しく叩き続ける。
「ねぇやめて!」
紺ちゃんは私の肩を掴んで引き離そうとするが
私は頑なに愛ちゃんの上から退かなかった。
再び私が高橋さんの髪の毛を掴みあげたとき
パァン
頬に鋭い刺激が走った。
紺ちゃんに殴られた。
私は
生気を抜かれたように
そのまま。
- 136 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:18
- 紺ちゃんは私を羽交い絞めにして
「愛ちゃん、向こう行ってて」
と言った。
紺ちゃんの判断は的確だった。
怒りの対象を失った私は
全身から力が抜け
その場に崩れ落ちた。
寂しさ悔しさ惨めさは結局
私の中にとどまったまま。
私はその思いたちのやり場を失って
床に崩れ落ちたまま。
「あぁぁぁぁぁぁぁ」
弱く情けなく泣いた。
紺ちゃんはふっと私の頭を撫でると立ち上がって行った。
高橋さんの様子を見に行ったのだ。
- 137 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:18
- ……高橋さん。
彼女にしてみれば
希美ちゃんのためにああ言った。
でも
残念だけど
私は希美ちゃんじゃない。
私は……
――レズでできた子なんて
別にいい。そんなのどうだって……
お母さんが同性愛者だったっていい。
だけど
望まれない子と言わないで
そんな風に思わないで
それだけは……
嗚咽が更に酷くなる。
胸の中にさっきの激情が戻ってくるのがわかった。
私は急いで立ち上がると涙をぬぐった。
見ると、床を散々叩いた手からは血が出ていた。
- 138 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:18
- 「紺ちゃん、私、帰るね」
「え、ちょっと……」
「高橋さんには、今度謝るって言っといて。
今日は……」
「だけど……」
「ごめん」
私は、両手を震わせていた。
「……またキレそう」
そう言うと紺ちゃんは止めなかった。
私は靴を履いて出て行く。
玄関のところで背中から紺ちゃんが声をかけてきた。
「愛ちゃん、怒ってないって……」
「……そう」
「ねぇのんちゃん」
「何?」
「お母さん、なんだってね」
飯田さんから聞いたのか。
さっきの電話がその件だったのかも知れない。
- 139 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:18
- 「余計なお世話かも知れないけど
あいぼんのこと、思い出したほうがいい」
「もう、わかったよ」
思い知らされた。
嫌というほど。
私は不義の子だ。
「そうじゃないの。
のんちゃんは探さなくちゃいけないと思うの」
探す?
「何を?」
「思い出。あいぼんとの思い出を」
思い出。
お母さんと
希美ちゃんの思い出。
「でも、私の思い出じゃないよ」
「その身体はのんちゃんだよ。
人格は違っても、楽しかったこととか覚えてるかも知れない」
私は振り返った。
- 140 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:19
- 紺ちゃんは
ちょっと戸惑いながらも
こう言った。
「お母さんの気持ちがわかるかも知れない。
今は、あんなだから……会っても……ね」
紺ちゃんは言いにくそうだったが私はうなずいた。
そうなのだ。
私はまだ知らなきゃいけないのだ。
希美ちゃんのこと。
お母さんと
希美ちゃんのこと。
「思い出せたら、また会いに行こうよ。
今度は堂々と、のんちゃんとして」
- 141 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:19
- もう暗くなった学生街に出た。
学校帰りらしい大学生の集団と
何度もすれ違った。
紺ちゃんの言葉を反芻していた。
――今度は堂々と、のんちゃんとして
私が希美ちゃんの記憶を取り戻して
私が希美ちゃんになって
お母さんに会いに行く。
私が希美ちゃんなら
お母さん愛してくれる。
なら
そう
でも
だとしたら
私は
誰になるの?
- 142 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:19
- 私はとぼとぼと歩き続けた。
帰りたくなかった。
そもそも自分の家がわからなかった。
自分の家がわからなかった。
学生街の先に大きな建物が見えてきた。
赤い色の大きな建物。
大学だ。
私は吸い寄せられるように
大学の入り口へ行った。
なんだろう、この雰囲気。
初めてじゃない気がする。
私が
希美ちゃんが
来たことある場所なの?
私は直感のままに中に入っていった。
大きな建物の一階のラウンジスペースへ。
もう暗いのに
学生がいっぱい混じっていた。
「あれ?」
その中の一人が
私を見て首をかしげた。
- 143 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/03(金) 22:20
- 私を指差して隣のコに知らせる。
「辻ちゃん来てる」
「本当!?どこ美貴たん?」
隣のコは
美貴ちゃんの指差す先を追って
私を見つけたようだった。
そして
ああ、はじめてだ
私に向かって
そんな笑顔で迎え入れてもらったの
「久しぶり。おいで!」
私は
亜弥ちゃんの手招きにしたがって
ベンチに向かっていった。
- 144 名前:いこーる 投稿日:2006/03/03(金) 22:23
- 以上になります。
レス返し
>>118
だんだんと様相を見せていけたらと思います。
また痛い展開ですが……
>>119
ありがとうございます。
まだまだ先が遠そうですが更新してまいりますのでよろしくお願いします。
>>120
最後まで……、ありがたいお言葉。
最後まで書き続けます。
- 145 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/03/07(火) 02:20
- あいぼん…。この二人には現実でもこの作品の中でも幸せになってほしいです。
- 146 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:35
- 外は寒くて風が強い
飛ばされて落ちてしまう
それを最初から
知っていた蝶は
繭から出たくなんてない
ここから
出るのが怖い
- 147 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:35
-
8
- 148 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:35
- 亜弥ちゃんたちとの会話で
そこがどういうところなのか
少しずつわかってきた。
そこは私とあいぼんが
かつていたところだった。
インカレコミッククラブ。コミクラ。
創作の漫画をみんなで持ち寄るという
どこにでもあるようなサークル。
どうして
高校生の私たちが
大学のサークルに出入りするようになったのかは
わからなかった。
でも
その場の皆が
私を違和感なく受け入れてくれた。
きっと、
ここで楽しくやっていたんだと思う。
――その身体はのんちゃんだよ。
紺ちゃんの言葉
――人格は違っても、楽しかったこととか覚えてるかも知れない
- 149 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:36
- 亜弥ちゃんたちが私を受け入れてくれたので
私の方でも違和感なく会話に乗ることができた。
「学校へは行ってるの?」
途中で亜弥ちゃんが聞いてきた。
心配する風でもなく、
ただ
なんとなくって感じで。
それがかえって私を安心させた。
「行ってる」
そう答えると美貴ちゃんが
「お〜偉いねぇ。ねぇ見習ったほうがいいよ」
そう言って、後ろでしゃべっていたコの方を向いた。
「私だって行ってます。最近はもう大丈夫なんだから」
ってことは
後ろにいたコも
高校生なんだ。
- 150 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:36
- 高校生なんだ。
見ると確かに、大学生にしちゃ幼いかもしれない。
そのコがしゃべりかけている相手も、高校生っぽかった。
このサークルはなんで
普通に高校生を受け入れているのだろう。
とにかく
ここは温かかった。
特にお母さんのことをあれこれ聞かれるでもなく
知ってる漫画のことをいろいろ話していればよかった。
私は話しながら考えていた。
ここにはきっと
楽しかったころの思い出がある。
紺ちゃんから探せと言われた
あいぼんとの思い出。
ここで探さなきゃ
「ねぇ」
美貴ちゃんの後ろのコが
さっき美貴ちゃんにからかわれていた高校生のコが
身を乗り出して聞いてきた。
- 151 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:36
- 「産まれるの?」
あまりに単刀直入に聞かれたので
私は不安になって周囲を見た。
そんなこと聞いて大丈夫なのかと私が心配してしまった。
おかしな話だけど。
しかし
「おーそうだ。もう9ヶ月だよね」
美貴ちゃんが普通に反応したのでほっとした。
ここではみんな知ってるんだ。
学校の友達は
変な噂をするだけだったけど
ここの人たちは
ちゃんとお母さんのことを理解してくれてる。
「まだ、産まれてない」
「ねー美貴も今度見に行っていい?」
「美貴たん何見んの?まだなのに」
「だって美貴、かわいいの好きなんだよー」
「だからまだ産まれてないって」
- 152 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:36
- 亜弥ちゃんと美貴ちゃんのテンポのいい会話に
私は思わず噴出していた。
「いいコンビだね」
私がそう言うと後ろの女子高生の片方が言った。
「おー出た。さすがあやみき描き!」
「は?」
なにそれ?
「冬に描いたの、私泣いちゃったよー。
のんちゃん、続きはいつ描くの?」
「あー、えっと」
私も漫画、描いてたの?
コミクラのメンバーなら不思議ではないけど。
「こらっ、今は相方さんが無理でしょう」
美貴ちゃんが諫めるも
女子高生はなお主張した。
「のんちゃんは原作者だもん。あいぼんが復活するまでにお話考えとかなきゃ」
- 153 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:37
- ……。
今の話を聞いてわかったことを整理しようと
私は目を閉じた。
お母さんと私が
共同作業で漫画を描いていた。
私がお話を作りお母さんが絵を描く。
「あやみき」と言うからきっと
亜弥ちゃんと美貴ちゃんをモデルにして描いたのだろう。
そうして作品を
二人で一つの作品を作りあげたのだ。
それが冬。
今が梅雨で9ヶ月だからその時点で
もうお母さんは私を身籠っていたことになる。
だけどその頃まで
お母さんは少なくともあんなではなかった。
私と一緒に
漫画を創れるくらいには
精神も安定していたのだ。
- 154 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:37
- 私が
その頃の記憶を取り戻すことができれば
希美ちゃんとしての記憶を取り戻すことができれば
――お母さんの気持ちがわかるかも知れない
お母さんが何を考えて
私を産むことにしたのかわかる。
そうだよ。
お母さんが私を産んだんだ。
お母さんが産んでくれた。
――レズでできた子なんて……
お父さんがいなかったからって
その事実は変わらない。
だって私
生きている。
「ねぇ誰か」
- 155 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:37
- 私は
いすから立ち上がって周囲を見た。
「私たちが冬に描いたあやみき、誰か持ってない?」
「へ?辻ちゃん持ってないの?」
美貴ちゃんが目を丸くして聞いた。
「今見たい」
私の中で起こった衝動は
収まらない。
やっぱり私
お母さんのことが知りたい。今すぐに。
「のんちゃん、ひょっとして新作の構想練るの?
きゃー楽しみ!」
「まってね。ラックにないってことは……」
美貴ちゃんも立ち上がって周囲に言った。
「ねえ、誰か冬祭の『ハロプロ』知らない?」
「美貴たん違う。のんちゃんたちのは別冊」
「あー『別ハロ』の方か。ってことは亜弥ちゃん家にあるじゃん!」
「そだね。私持ってるわ」
- 156 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:38
- 「おし、お腹もへったし亜弥ちゃん家に移動しよー」
「何?美貴たんも来る?」
「いくよー。お腹へったもん」
「何よそれ?今日はおかず何も作ってないよ」
「何ぃ?なぜだ!そんなの亜弥ちゃん家じゃない!
存在価値が皆無だ」
「うっさいなー。何か買ってきゃいいでしょ?」
「美貴、亜弥ちゃんのが食べたいのにー」
「存在価値なんて……」
私はぽそっと立ち上がった。
「なくてもいいんだよ」
私は
お母さんの子だ。
「おー辻ちゃん深いねぇ」
「はい、じゃあ行こう」
亜弥ちゃんも立ち上がった。
「美貴たん、買い物手伝ってよ」
「オーケー。焼肉しよー」
「いいけどホットプレートちゃんと洗ってよ」
- 157 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:38
- 本当、いいコンビ。
こういう何気ないやり取りが
うらやましい。
私とお母さんも
前はそうだったの?
「んじゃ、みんなまた明日ねー」
私たちはみんなに手を振って
建物の外に出た。
夜はさすがに
冷えた風がこたえたけど
美貴ちゃんと亜弥ちゃんと歩いていたので
少しは暖かい感じがした。
「ねぇ亜弥ちゃん、辻ちゃんたちの冬祭のやつっていくつめだっけ?」
「4本目。あの回はシリーズ最長」
私はぽかんと亜弥ちゃんを見た。
私たちはそんなにたくさん漫画を描いていたのか。
しかもシリーズ。…あやみきシリーズってこと?
そこに
私たちの思いがある。
私たちが仲良くしていたころの思いが。
- 158 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:38
- 亜弥ちゃんと美貴ちゃんのあとに続いて私は
マンションの12階
亜弥ちゃんの一人暮らしの部屋へと入っていった。
- 159 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/07(火) 21:40
- 以上です。
>>145
はい、私も現実の二人の幸せを願ってやみません。
私はこうして物語を書くくらいしかできませぬが……・
これからもよろしくおねがいします。
- 160 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 23:32
- いつも楽しみにしてます。頑張ってください!
- 161 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/03/13(月) 00:35
- 応援してるんで頑張ってください!
- 162 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:00
- 亜弥ちゃんの部屋はこざっぱりとしていた。
白いベッドが置いてある飾り気のない部屋。
鏡だけが大きく壁にかけてあった。
「ちょっと待ってねー」
亜弥ちゃんが
部屋の隅にある本棚から
4冊の冊子を取り出した。
「よし全部ある。ほい、のんちゃん」
「美貴たち買い物行ってるねー。辻ちゃんも食べてく?」
「うん」
そうして亜弥ちゃんたちがいなくなって
私は漫画を手にとって見た。
- 163 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:00
- 「別冊ハロー!プロジェクト」
コミクラの機関誌のタイトルが
「ハロー!プロジェクト」というらしい。
ここにあるのはその別冊版でvol.1〜4までがある。
何人かの作品の寄せ集めのようで
それなりに厚みがあった。
私たちの名前を目次で探して
ページを開いた。
そうして私は読み始めた。
かつての私たちがかいた
亜弥ちゃんと美貴ちゃんの物語。
お母さんの絵は
線が太めのかわいらしいタッチだった。
目がくりっとしていてまつげがちょんと立っているのが亜弥ちゃん。
美貴ちゃんの目つきが悪くて吹き出してしまった。
よく見てるな。
そうこうしているうちに私は
物語の中に深くはまっていった。
すごい。よくできてる。
これだけの世界を私が考えたのだろうか。
だとすると
希美ちゃんは飛びぬけた夢想家だ。
- 164 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:00
-
第1話。視点は美貴ちゃん。
北海道出身の美貴ちゃんは夢をかなえるために東京までやってきた。
美貴ちゃんの夢は歌手になること。
オーディションでいいとこまで行くが
美貴ちゃんは選考にもれてしまう。
しかしデビューをあきらめられなかった美貴ちゃんは
東京で歌手になるためのレッスンを開始する。そんなとき
別のオーディションを勝ち抜いた亜弥ちゃんが
美貴ちゃんより先にデビューを果たした。
亜弥ちゃんが歌うのをテレビで見た美貴ちゃんは
不思議な運命を感じた。私はこのコのようになる、と。
二人はまだ、出会っていない。
- 165 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:01
- 一冊読み終えてもちっとも山場らしいものがない。
肝心の二人はまだ
出会ってすらいないのだから。
それでも漫画は
続きを読ませるだけの
不思議な魅力を放っていた。
コマ割に境界線を引かない所が何箇所もあった。
少女漫画っぽい技法だけど
そこにお母さんの工夫があった。
境界線を持たない2つのコマで
亜弥ちゃんと美貴ちゃんが
向かい合っているような構図を取っているため
まだ知り合っていない2人が
気持ちを通わせているかのように見える。
不思議と、通じているように読める。
私たちコンビにこんな才能があったとは
- 166 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:01
-
第2話。亜弥ちゃんから遅れること一年。
美貴ちゃんのデビューがいよいよ現実のものとなった。
その頃、亜弥ちゃんの人気は頂点を極めていて
同じ所から出る大型新人ということで
美貴ちゃんにも注目が集まっていた。
境遇の良く似た2人は当然のように仲良くなった。
しかし芸能活動が進むに連れて
美貴ちゃんは、
亜弥ちゃんと重ねて見られるとこにストレスを感じはじめていた。
自分は亜弥ちゃんではない。でも
亜弥ちゃんのようになりたい。
劣等感が募り、彼女は自棄になりはじめる。
しかし
そんな美貴ちゃんを救おうとしてくれたのは
他でもない亜弥ちゃんだった。
美貴ちゃんは違和感を覚えながらも
底抜けに明るい亜弥ちゃんの笑顔に救われている自分を見つける。
このままでいいのか。
劣等感と依存との間で揺れ動く。
- 167 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:01
- 2冊目に入ってぐっと深まった心理描写。
読み終えたあと、思わずため息が漏れていた。
すごい……。私の脳内でこんな物語が作られていたのか。
亜弥ちゃんを想いながらも
自分がどこまでも亜弥ちゃんに依存してしまうことを恐れる美貴ちゃん。
この辺りはあの2人のリアルでの雰囲気を上手く反映している。
美貴ちゃんのセリフには鳥肌が立った。
<このままじゃ美貴が美貴でなくなっちゃう。
美貴は亜弥ちゃんに溶かされて輪郭を失くして
そうして亜弥ちゃんの胸から離れられなくなっちゃう。
そんな恐怖が……ううん、幸せな妄想が美貴を掴んで離さない>
この言葉が
私たちの置かれた状況と重なって思えて
胸が苦しくなった。
お母さんと希美ちゃんは
深く愛し合い
離れられなくなった。
お母さんは
禁を犯してまで希美ちゃんと結ばれたがった。
それは、恐怖と……幸せな妄想だったんじゃないか。
私たちの想い、悩み、夢。
それが
この作品を創り上げていったのかも知れない。
だとしたら
この「あやみき」は
私たちのことだ。
- 168 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:01
- 第3話。美貴ちゃんに衝撃のニュースが入る。
美貴ちゃんが、国民的大型グループの一員として
新たに活動を始めることになったのだ。
美貴ちゃんはそれを戸惑いながらも前向きに受け止めて
チャンスを逃すまいと必死にがんばった。
最初は人間関係で上手くいかないこともあったけど
亜弥ちゃんの応援もあってどうにか溶け込んで
自分の立ち居地を見つけられるようになる。
自分の居場所を見つけるというのは
美貴ちゃんにとって始めての経験だった。
自信ができて、グループのみんなとも仲良くできるようになった。
しかし
それを影で支えていた亜弥ちゃんの心境は複雑。
亜弥ちゃんは
美貴ちゃんが自分の手の中から
逃げてしまうのではないかと
不安になり不審を抱き不安定になる。
亜弥ちゃんは美貴ちゃんをじらしたり脅したり
関心を引こうと必死になる一方で
そんな自分に嫌悪感を抱き始める。
- 169 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:01
- ここへ来て今度は亜弥ちゃんへと
視点が大きくシフトしている。
しかしそれも納得できることだった。
だってこの2人は、私たちの心の不安の表れ。
この回で寂しさをより多く抱える亜弥ちゃんに
感情移入したような描き方になっているのは当然だろう。
相手を離したくない不安。
そんな情けない自分を呪う気持ち。
私には
亜弥ちゃんの痛みがよくわかった。
それから、
お母さんの気持ちも。
希美ちゃんを引き止めたくて
どうにか関心を引きたくて
必死の行動に出た、お母さんの気持ち。
- 170 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:02
-
第4話。2人の芸能活動は順調だった。
美貴ちゃんはグループの中で大活躍。
亜弥ちゃんの方もソロとしてCMやテレビで活躍する。
仕事は順風満帆。
しかし、2人の間のぎくしゃくはなくならない。
亜弥ちゃんは
美貴ちゃんの関心を引こうと
わざと電話に出なかったりデートをすっぽかしたりする。
でもやっぱり美貴ちゃんには亜弥ちゃんが必要。
美貴ちゃんは亜弥ちゃんに振り回されるばかり。
美貴ちゃんを再び亜弥ちゃんに対する劣等感が支配し始める。
亜弥ちゃんの方でもそれに気づいていながら
美貴ちゃんを失うんじゃないかという不安で
どうしても美貴ちゃんをコントロールしようとしてしまう。
幸せそうに見える二人の間に横たわった小さな溝は
2人をじわじわと傷つけていく。
- 171 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:02
- 焼肉は美貴ちゃんが仕切った。
亜弥ちゃんの料理を食べたいとごねていたくせに
ホットプレートを前にした美貴ちゃんは
無表情で次々とお肉を乗せていった。
焼肉が終わると美貴ちゃんは帰ると言った。
「辻ちゃんはー?まだ帰らない?」
「うん」
私には家がわからなかった。
あんなことがあったから
紺ちゃんのところにも戻れないし
お母さんのところにも戻れない。
私はどこにも戻れない。
「ねぇ亜弥ちゃん」
「何?」
「今日……」
私が言いよどむと
亜弥ちゃんが覗きこんできた。
優しそうな顔で
私の言葉を待っていてくれて。
「ずっといちゃダメですか?」
私は上目遣いに亜弥ちゃんにお願いをした。
- 172 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:02
-
ベッドの脇に
亜弥ちゃんがふとんを敷いてくれた。
「どう?続き、書けそう?」
オレンジの
豆ライトだけを照らして
ふとんの中
亜弥ちゃんの声が
シンと響いてる
「どう……だろう。
なんか、深みにはまっちゃってるよね。
2人。どういう展開で救ってやったらいいか……」
「救ってくれるんだ。ありがと」
ありがと?
「ほら、創作といってもうちらがモデルでしょう?
ハッピーエンドのほうがいいなーって」
「でも……」
「ん」
- 173 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:02
- 「どう書いていいかわかんない」
だって
「あの2人、どうしたら救われるんだろう」
「……」
お互いの気持ちが強すぎて
現実に合った関係を築けなかった人は
「私は……」
どうやって
何をやって
救われればいいの?
いつの間にか
2人は眠っていた。
考えてみたら
教室で目が覚めて以来
初めて眠ったんだ。
私が
私の理性が眠る。
そうして
身体の底から……
- 174 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:03
- ……
胸の中から熱がじんじん出てくるみたい。
輪郭もわからずにいる私。
ひざを立てて起き上がろうとするが
足に力が入らない。
腸の辺りが溶けてしまったかのように
そこから先の感覚がいかにも不確かだ。
うつぶせの私の耳元に
誰かの息切れのようなものが感じられる。
足の感覚がなかったので
私は両手で体重を支えて身体を起こそうとした。
あいぼんの上から身体が離れると
密着して汗ばんだ胸がすーすーした。
「のん……」
果てて恍惚したあいぼんと真向かいになり
鼻と鼻をくっつけ合っていた。
- 175 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:03
- 「のん……すごい……」
「あいぼん」
私はぬくもりの心地よさを感じながら
興奮が徐々に冷めていくのを
どうしようもなく淋しく思っている。
終わればすぐに朝。
また、すぐに孤独。
一緒にいたい。いつまでも。
こうして
2人でずっと
一緒にいたい。
あいぼんが
私を必要としてくれる。
愛してくれる。
私たちは脱力感の中で唇を重ねていた。
―――のん。私、決めたよ
キスの最中に
そんな思念が
私の脳内に流れこんできた。
- 176 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:03
- ―――私な……
だめ。聞きたくない!
私は続きをしゃべらせないように必死で
唇に吸い付いてしゃぶる。
それなのに……
―――私……
彼女の言葉は続いた。
その言葉の続きを
私は知っている。
でもそんなことは
聞きたくない。
聞きたくないのに
想いは私の身体の、頭の中に
ずんと響いて来るんだ。
「や、やだよ……。もう言わなくていいよ」
「のん、私な……」
「やめてよ!」
私はあいぼんの胸のなかに顔を埋めた。
この温かさの中で声から逃れたかった。
私は必死に必死に目を閉じて
声を聞くまい、想いを聞くまいとしているんだ。
- 177 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:03
-
彼女の、言葉。
私が生まれることになった、
その言葉……
……
…………
夢から覚めても
心臓がずっとドキドキしていた。
私は両腕で自分を抱いてじっと
鼓動が収まるのを待っていた。
紺ちゃんの言うとおりだ。
紺ちゃんの言うとおり、やっぱりこの身体には
希美ちゃんの記憶が残っていた。
それもあんな記憶が……
- 178 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:04
- まだ胸の奥底で
お母さんの肌のやわらかさが残っている。
私の身体に!
お母さんの息遣いの記憶が、鮮明に残っている。
その残酷な事実に
子どものように私は身体を丸めて
唇を噛んでじっとしていた。
この身体が
お母さんを
抱いた。
私がまだ
経験していないようなことをした。
この身体は
お母さんを……
「うわぁぁぁ!」
ほとんど絶望的な叫びだった。
亜弥ちゃんを起こしてしまうかもなんて考えられなかった。
むしろこの声を亜弥ちゃんに
- 179 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:04
-
誰かに
聞いて欲しくて仕方ない。
誰か……
私の叫びを聞いて!
「こ、こんな身体……」
突如、自分の身体が
忌まわしいものに思えてきた。
私はふとんを出て部屋を出た。
これは私じゃない。
あんなのは
私の記憶じゃない。
小さな廊下がキッチンスペースにもなっている。
私はシンク脇の引き出しを開けた。
中はさっき焼肉をやったときに見て知っていた。
私は、
果物ナイフを手に取った。
もう
こんな身体でいることなんてできない。
- 180 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:04
- これは私じゃない。
こんなのは
私の身体じゃない。
私は
ナイフを手首にあてて
―――おばさんごめんなさい
目をきつく閉じると
すっと引いた。
血がゆっくり
流れ落ちてくる。
ゆっくり……
あまり深く切れなかったみたいだ。
手を降ろす。血が掌をつたって指先からポタリと落ちる。
これじゃあ
死なない。
もう一度リストカットをしようと
ナイフを持った手をあげたとき
後ろから抱きしめられた。
- 181 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:04
- 背後からまわした手で亜弥ちゃんは
私の腕の血管を強く押さえつけた。
「亜弥ちゃん……」
「大丈夫。じっとしてて」
もう片方の手が
テーブルの上のタオルをとって
傷口を押さえた。
「……」
亜弥ちゃんは
後ろから私の肩にあごを乗っけてきた。
「のんちゃん。ダメだよ……」
「……」
「もうちょっと、もうちょっと待とうよ」
亜弥ちゃんが搾り出すような声で
耳元にささやきかけてくる。
それは柔らかい声だった。
- 182 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:05
- 「辛いときって、どこまでも落ち込んじゃうけどさ……」
亜弥ちゃんが
ギュッとしてきた。
私の胸に
さっきとは別の熱さがこみ上げてくる。
亜弥ちゃん、心配してる。
私のために
亜弥ちゃんが心配してくれている。
「血はすぐ止まる。だから、もうちょっと
待とう……」
「……亜弥ちゃん」
「赤ちゃんに、会いに行ってやって……」
亜弥ちゃんは
腕を解いて私を離した。
そうして
正面にまわって言った。
「紺ちゃんから連絡あった。
わたしはそれで起きたんだよ」
「紺ちゃん?」
- 183 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/22(水) 22:05
- 亜弥ちゃんは
手首のタオルをすっと結わいて
言った。
「産まれるって」
産まれる。
ついに
私が生まれる。
- 184 名前:いこーる 投稿日:2006/03/22(水) 22:06
- 以上になります。
>>160
>>161
いつも楽しみにしていただいてありがとうございます。
ちょっと間あいてしまいましたがよろしくです。
- 185 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/22(水) 22:16
- 更新乙です。
リアルタイムでした。
希美ちゃんの思いが気になりますね。
次回も楽しみにしてます。
- 186 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:57
- 冷たい中に
熱い吐息が見える。
熱い涙が流れる。
- 187 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:57
-
10
- 188 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:57
- 暗くなった学生街。
息切らしながら走ってた。
夜になると風景は
さっきとまるで違ってた。
それに
さっきは紺ちゃんの案内で
あの部屋にたどり着いたのだ。
だから私は
その行き方が分からない。
私はなるべく
考えないように走ってた。
私は道がわからない。
でもこの身体
きっとあの場所を覚えてる。
だから
考えないように
思わないように
走った。希美ちゃんに任せて走った。
- 189 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:57
- 紺ちゃんの言ったとおり私は
昔の記憶を取り戻した。夢の中で。
それも
私の存在の始まりである
あの夜の記憶。
あんな風にして
私が生まれたんだ。
希美ちゃんは女の子だったからもちろん
2人が子どもをつくるには
手術が必要だった。
けれど少なくとも
お母さんの心の中ではあのとき
私が生まれていたのだ。
さっきの夢。
希美ちゃんは
想いを知るのを恐れていた。
お母さんの決心を
聞きたがってはいなかった。
- 190 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:58
- 赤信号で立ち止まった。
肩で息をする。
高橋さんから聞かされた
さっきの言葉がよみがえった。
―――辻さん迷惑がってたって
夢の中で私は
お母さんの声を聞くまいと
聞いてはならないと、ずっと怯えていたんだ。
そう
希美ちゃんは
子どもができることを恐れている。
そんなことになったら
何もかもから見放されてしまうと
怖がっている。
漫画の中の
亜弥ちゃんのように。
美貴ちゃんをモーニング娘。に送り出した亜弥ちゃんのように。
愛するものが自分から
離れていってしまうのを
心の底から憂いてる。
お母さんにとって子どもは
2人が結ばれた証。
でも
希美ちゃんにとってそれは
お母さんの愛情を奪いかねない
邪魔者に思えた。
だから希美ちゃんは
あんなに恐れていたんだ。
- 191 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:59
- 私の胸が
引き裂かれそうに痛んだ。
この身体、
私の身体が拒否してる。
子どもが生まれてくることを
全身でもって拒んでる。
私は……
どうすればいいの?
- 192 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:59
- 信号が変わった。
再び私は
夢中で走りだした。
絶望的な思いを
振り払うように。
何も考えないように。
必死に必死に走っていた。
もう
足が疲れて他人の足みたいだった。
呼吸の感覚も
私の意識をとっくに離れていた。
細い道に入る。
さっき通ってない道。裏道だ。
希美ちゃんの知ってる裏道だ。
車が通れないような狭い路地を
全力で駆け抜けていった。
すると目の前に
「着いた」
白い建物が見えた。
- 193 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:59
- 私は立ち止まって
お母さんのいる部屋を見上げた。
お母さん……
私は再び
お母さんのところに行こうとしている。
―――今度は堂々と、のんちゃんとして
紺ちゃんはそう言ったけど
「無理だよ……」
だって
望んでない。望まれてない。
希美ちゃんとして
赤ちゃんに会うことなんてできない。
私は決心した。
私は
私として
お母さんに会おう。
赤ちゃんに会おう。
それがいい。
それしかない。
- 194 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:59
- 扉に鍵はかかっていなかった。
奥ではお母さんの息む音。
私は靴を脱いで中に入った。
部屋には飯田さんと紺ちゃん、
それからベッドの上にお母さんがいた。
額に汗を浮かべて歯を食いしばっている。
「あいぼん!ほら、のんちゃん来たよ」
紺ちゃんの声を聞いて
お母さんはこちらを一瞬見たが
何かを言う余裕はなかった。
私は
お母さんのもとに駆け寄った。
「おかあさ……」
言いかけて紺ちゃんに強く袖を引かれた。
「あ、あいぼん」
私はお母さんの手を
両手で包みこんで握り締めた。
するとお母さんはぎゅうと
すごい力で握り返してきた。
- 195 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 09:59
-
それからの時間は
私にはとても長く感じられた。
お母さんの手はぐっしょりと
汗にまみれて濡れていた。
私はじっと手を握り
そのときをじっと待っていた。
私の始まり。
私の好きなスイートポテトも始まり。
私の寂しさも始まり。
私の悔しさも始まり。
私の記憶の
何もかも
ここが始まり。
そのときを
目を閉じて
お母さんの息遣いを耳に
じっとじっと待っていた。
とても長い時間に感じられた。
- 196 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:00
-
飯田さんが赤ちゃんを取り出してすぐ
盛大な泣き声が聞こえてきたのを覚えてる。
私が生まれた瞬間だった。
赤ちゃんが
お母さんの隣に置かれ
それをお母さんがうっとり眺めている。
その光景に私は思わず
涙を流していた。
お母さんは私を
こんなに愛してくれている。
こんなに優しい目で
新しく始まった私を見ていてくれている。
その光景は
私にずっと、欠けていたもの。
私がずっと、求めていたもの。
- 197 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:00
- 「私……」
私は赤ちゃんにそっと触れ
次いでお母さんの頬に
そっと触れた。
「生きてて良かった……」
生まれてきてよかった。
私は
生まれて初めて
そう思った。
- 198 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:01
- それから数日
私はずっと
お母さんと赤ちゃんと
つきっきりで暮らしてた。
食べるものまで何もかも
飯田さんが持ってきた。
私にはよくわからなかった赤ちゃんの世話のほとんども
飯田さんが何とかしてくれた。
外はずっと雨。
湿った匂いは部屋の中まで届いた。
けれど
それも不思議と温かい。
お母さんはずっと
赤ちゃんに話しかけていた。
優しく、ゆっくりと。
- 199 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:01
- 大きくなったらどんな服を着るとか
大きくなったらどんな物を食べるとか
一緒にどこへ行こうとか。
雨の温かい部屋で
そんなことを語りかけ
赤ちゃんの方から反応があると
顔をほころばせて喜んだ。
その光景を
私も微笑みながら
うっとりと眺めていた。
幸せだった。
小さな小さな私が
お母さんの愛情を
一身に受けて笑ってる。
一生懸命泣いている。
お母さんの想いに
何とか答えようとしている。
こんな風に
全身で愛されることを
私はずっと
夢想してきた。
ずっと夢見たことが
ようやく目の前に広がったんだ。
- 200 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:01
- 全てが
満たされていた。
この幸せが
ずっと過ぎないで欲しいと思った。
この幸せを
壊したくないと思った。
そうして
私は恐れた。
いつかはくる日のことを
私は恐れた。
私を拒んだ希美ちゃんが
自分の身体を取り戻しに来る日のことを恐れた。
お母さんが私のことを
「のん」と呼んでくるたびに
私は何度も「違う!」と叫びたい衝動に駆られた。
飯田さんからも「のんちゃん」と呼ばれた。
それも私には苦痛だった。
みんな
私を別の誰かと思ってる。
そのことが
私という存在に
大きな不安をもたらした。
- 201 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:01
- 飯田さんには
お母さんのいないところで
一度お願いしたけどだめだった。
「あいぼんは君をのんちゃんと思ってる。
ずっとあのコのそばにいてやるなら
君はのんちゃんにならないといけないよ」
「そ、そんなこと……」
「そうでないなら
君がのんちゃんと認めないなら
こんな風にあいぼんと一緒にいられなくなるんだよ。
それでもいいの?」
飯田さんがいなくなって
一人になって
私は爪を齧った。
どうしたらいいんだろう。
- 202 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:02
- お母さんと一緒にいたい。
そのためには
希美ちゃんにならなきゃいけない。
お母さんは
私を希美ちゃんと思ってる。
でも希美ちゃんは
私のことを
認めてくれはしないだろう。
希美ちゃんは
私を産むことには
反対していたのだから。
飯田さんの言うとおり
このまま私として
お母さんと暮らすことはできない。
お母さんをだましたままで
暮らしていくことはできない。
だけど
希美ちゃんにこの身体を返すことなんて
もっとできない。
結論の出ない迷いに陥ってしまった。
- 203 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:02
- 私は
私でいてはいけない。でも
私が私じゃなくなったら
希美ちゃんが戻ってくる。
希美ちゃんに
今の幸せを渡すことなど
できるわけがない。
私は焦っていた。
早いうちに
このどうしようもない状況を
なんとかしなくてはと焦っていた。
そして
一つの結論を得たのだった。
それは
何もかもを明かしてしまうということだった。
お母さんに告白しよう。全てを
私は希美ちゃんじゃないんだと
私は未来から来たお母さんの娘なんだと
全部を話して打ち明けてしまおう。
- 204 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:02
- それがお母さんの精神を
破壊してしまうリスクも
充分にわかっていた。けれど
このまま
どっちつかずの状態を
いつまでも続けていくことに
私は耐えられない。
私は私の存在として
お母さんに向かい合うべきだ。
そう思った。
よし
お母さんに話そう。
決意は固まった。
- 205 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/03/27(月) 10:02
- そして
梅雨間の良く晴れた日。
不思議と風が冷たい日。
決行することになった。
「じゃあのんちゃん、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
飯田さんを買い物に見送ってから
ひょっとしたら何もかも
みんな壊れてしまうかも
私は意を固めて
でも、告白するなら今しかない。
お母さんの部屋に入っていった。
- 206 名前:いこーる 投稿日:2006/03/27(月) 10:04
- 以上です
>>185
即レスありがとうございます!
希美ちゃんの思いにも少しだけ触れる回になったかな?
- 207 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/28(火) 22:26
- あいぼんが心配…
でも希美ちゃんも心配…!
- 208 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/28(火) 23:20
- 更新乙です。
どうなるんでしょうか。。。
- 209 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:13
- だっていつだって駆けつけてくれる。
私が不安に怯えているとき
いつだって真っ先に気付いて駆けつけてくれる。
だからずっとうしろめたかった。
私のしていることは
裏切りだと思われてしまうんじゃないかと
ずっとずっと恐れていた。
- 210 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:13
-
11
- 211 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:13
- 私が入るとお母さんは
いつも通りベッドの上で横になり
ほんのうっすら目を開けて
天井の白を眺めていた。
私はそっと
お母さんのそばに寄る。
部屋の空気はお母さんと
赤ちゃんの体温で
生暖かく心地よい。
この空気を
やっと手にしたこの温かい空気を
手放したくはない。
私はいよいよ決意しなければならなかった。
- 212 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:14
- お母さんが
私の気配を感じてそっと起き上がる。
頬が赤くなっていた。
お母さん、だいぶ元気そうだ。
そして赤ちゃんは今
気持ちよさそうに眠っている。
今しかない。
心臓が信じられないくらい高鳴っている。
その雰囲気を敏感に察したのだろう。
お母さんが先に聞いてきた。
「どうしたの?」
「あの、さ……。話があるんだ」
「話……」
「そう。ずっと、言わなきゃいけなかったこと」
ドキドキは極限まで来ていた。
そんな精神状態で
立っていられる自信がなかった私は
いすを引いて
ベッドの脇に座って
お母さんの手を取った。
その温かい手を取った。
- 213 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:14
- お母さんは
横目に私をじっと見て
次の言葉を待っていた。
そして私はとつとつと
自分のことを語り始めたのだった。
私の夢見た物語。
自分がどれだけ捜し求めていたのかを話した。
自分がどれだけ寂しかったのかを話した。
無条件に愛してくれる
お母さんという存在に憧れて
どれだけ羨み、どれだけ望み
どれだけ夢見てきたのかを全て話した。
ずっと何か欠けていると感じて
生きづらさをじっと抱えて
お母さんを夢想する甘く儚い時を希望に
毎日過ごしてきたことを
全てお母さんに聞いてもらっていた。
その話を終えるまで
お母さんの顔を見ることが
私にはできなかった。
- 214 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:14
- 怖かったのかもしれない。
お母さんは笑ってくれるだろうか。
それとも
この前みたくキレて怒鳴られるだろうか。
それが怖かったのかもしれない。
お母さんは
全てを聞くとしばらく無表情のまま
呆けたようにじっといた。
布団をじっとみつめていた。
呼吸だけがゆっくりと
お母さんを上下させて
あとは何の動きもなかった。
私は呼吸をするのも忘れて
お母さんの反応を待った。
そのときの思いは
ほとんど祈りのようなものだった。
どうか私の想いが
お母さんに届いてくれますようにと
心の中で祈り続けていた。
- 215 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:14
- お母さんはそれでも動かない。
私の突拍子もない話を受け止めるのに
時間がかかっているのかも知れない。
私は最後の勇気を振り絞って
言った。
「お母さん……会いたかった」
その言葉で
お母さんの方もぴくんと反応した。
そしてその顔を
やっと私の方へ向けてきた。
お母さんの目は
気持ちいつもより見開かれていたと思う。
大きな黒目を
こちらに向けた。
その目を見たとき
私の呼吸が本当に止まった。
そして
今更な後悔が胸の中に広がった。
- 216 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:15
- お母さんの目は冷たかった。
大きな黒目は
なんの光も見せてない。
怒るでもない。
哀れむでもない。
ただただ
冷たい目でじっと
私を見据えてきたのだ。
感情のまるで読み取れない
黒くて
深い目。
その空気に威圧されていた。
心臓は不規則に脈打ち、
のどがひどく渇いていた。
私は泣き出しそうになった。
私は思わずいすから立ち上がり
その視線から逃れようと
一歩引いた。
そのとき
激痛が走った。
「いっ!」
手首を思い切りつかまれたのだ。
- 217 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:15
- なんて力!
爪を私の手首に食い込ませてぐいと引っ張ってくる。
あまりの痛さに悲鳴があがった。
「お母さんやめて!」
お母さんは
私の手を更に引いた。
そして
「のんを返せ……」
小さなかすれ声でそう言った。
よく聞こえないくらい小さな声。
でも
その言葉はシンと響いて
私の心を真ん中から凍りつかせてしまった。
私は手首に絡みついた手をほどく気力も失くしてしまった。
ベッドの脇にそのままへたりこんだ。
返せって……。せっかく会いに来たのに
私のことは何も言ってくれないの?
- 218 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:15
- お母さんは執拗に
私の手を握りつぶそうとしてくる。
無言で。何も言わずにただきつく爪を食い込ませてきた。
言葉がない。
私にはそれが絶望だった。
感情を何も見せてこない。
お母さんにとって私は
娘ではない。
希美ちゃんを奪い取った邪魔者。障害物。
私はもう
死んだ心地だった。
全身が冷えて血の流れも感じられず
私は自分の輪郭さえわからなくなっていた。
どんな体勢でいるのかもわからない。
床に触れている感触すら、ずっと遠かった。
この部屋から見放された気分。
この世界から見捨てられたような。
そんな気分の中
手首に走る痛みだけが
私を現実に引きとどめていた。
皮が破けて血を流し始めた手首だけで
私は自分の存在を感じ取っていた。
手首を離されたら
私は間違いなく壊れていただろう。
- 219 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:15
- ―――はは、やっぱりお母さんにすがってないとダメなんだ
お母さんが強く握ってくる。
今は手首の激痛がありがたかった。
それだけが生きていく頼りだった。
―――お母さん。その手。離しちゃやだよ
痛みでも何でも
私を感じられるから
その手だけは離さないで。
お母さんだけは
私を離さないで。
霞む意識の中で
赤ちゃんが見えた。
部屋の隅で
安らかに眠っていた。
そのあどけない顔を見たとたん
私の目から栓を抜いたみたいに
涙が一気に溢れ出た。
結局、
私は自分の大切なものを
何もかも
自分の手で握りつぶしてしまった。
- 220 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:15
- ―――ごめんなさい
赤ちゃんに申し訳ないと思った。
将来のあなたはやっぱり
幸せになれなかったよ。
涙で滲んだ白い部屋の片隅に
赤い線が一筋。
血が
腕を伝って降りてくる。
ふと
傷口を見ようと顔を上げると
お母さんと目が合った。
お母さんはもう無表情じゃなかった。
歯を硬く食いしばって
目を真っ赤に腫らして
鬼のような形相で
手には更に力を加えてくる。
お母さんの苦しそうな表情。
私のせいで
またお母さんを悲しませてしまった。
- 221 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:16
- ―――なんだそうだったんだ。
冷え切った心で
ふとこんなことを思った。
私なんて
いなければ良かったんだ。
始めから
私なんていなければ
お母さんが悲しむことなかったのに。
私なんて生まれてこなければ
―――お母さんがいけないんだからね
お母さんが私を産んだりするから
こんなことになるんだよ。
私なんて
産まないでくれたらよかったのに。
愛してくれないなら
私なんて
作らなければよかったのに。
いたずらに
孤独なだけの
子どもを産んで、
それで私を見捨てるなんて……。
お母さん。
罪が重すぎる。
- 222 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:16
- 凍った心の中に
ふと激情が、
熱く苦しい情念が芽生える。
その情動に突かれたように
私はすっと立ち上がった。
そうして
ベッドの上のお母さんを見下ろす。
私は怖いくらいに落ち着いていた。
熱いはずの心。
やっぱり凍っていたままだったのかもしれない。
ただ
これまでに溜まりたまった寂しさ悔しさ惨めさが
全部悪意となって今
目の前のお母さんに向かっている。
私はいすを持ち上げて
お母さんの前に立った。
お母さんの表情が一転した。
赤い顔がさっと青ざめた。
怒りから怯え。
でもお母さんは
何も言わない。言えない。
- 223 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:16
- 私はさらに一歩、お母さんに詰め寄った。
いすを頭の上に持ち上げる。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
部屋の中に赤ちゃんの絶叫がこだました。
母親の危機を感じ取ったのかもしれない。
私は全身を大きく震わせた。
「や、やめて……」
「いやだ」
「やめて、のん!」
「のんじゃないよ!!!」
私も赤ちゃんに負けじと大声を張り上げた。
「ちゃんと私の名前を呼んでよ!!」
「……」
お母さんが息を呑んだ。
「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
赤ちゃんの声は更に甲高く響く。
「お母さん!私の名前を呼んで!」
- 224 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:16
- お母さん。
ほんとは殺したいんじゃ
ないんだよ。
私を止めて……
止めてください!
お母さん
お願い……
「あんたの名前なんて知らんもん!!!」
その言葉で
私の中の
あらゆる感情が
ふぅっと遠のいていった。
- 225 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/01(土) 23:17
- 今度こそ心が凍った。
終わったと思った。
何もかも終わりだと思った。
私は
いすを持つ手に力を込めた。
「いやぁ!」
お母さんがとうとう悲鳴を上げた。
でもそれも
私の耳には遠く遠く聞こえるだけだった。
赤ちゃんの鳴き声も遠く聞こえるだけだった。
―――結局、どうして自殺なんかしたの?
最後に
そんな疑問が頭をよぎった。
しかし
その思考は
結局途中で止まって
それでおしまいだった。
- 226 名前:いこーる 投稿日:2006/04/01(土) 23:21
- 以上になります。
>>207
>>208
ありがとうございます。
こんな展開になってしまいました。
もうちょっと続きます。
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/02(日) 01:00
- うわ〜痛い。
続き、予想もつかない。
- 228 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:48
- でもやっぱりいつか
夢から覚めなければいけない
- 229 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:48
-
12
- 230 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:48
- そのとき
ピンポーン!と呼び鈴を鳴らす音が聞こえてきた。
飯田さんだろうか。
飯田さんにこんなところを見られたら怒られる。
私はあわてていすを置いた。
―――助かった……
心の中でそう思っている自分がいた。
廊下に出た。
するともう一度ピンポーン!と鳴った。
違う。
飯田さんは呼び鈴なんて鳴らさない。
鍵を持っているじゃないか。
だとしたら
誰?
私は廊下へ出て
玄関に行く。
そして
扉を開けた。
- 231 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:49
- するとそこには
制服姿の女の子が
2人並んで立っていた。
「のんちゃん!赤ちゃん産まれたって?」
コミクラにいた、例の女子高生2人組みだった。
まずは2人をリビングに通した。
2人は赤ちゃんを見たがったが
休んでるからと断った。
別に会ってもらってもよかったのかもしれないけど
もう、
私の中では
全てが終わっていたから
私はとっくに
おしまいになってしまったから
どうなってもいいと思っていた。
だけれども
そんなときには案外に
常識的な判断が働く。
だから結局
会うのは遠慮してもらうことにした。
- 232 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:49
- せっかく来たからと
私は麦茶を出して
しばらく話をした。
正直なところ
あまり2人には関心がなかった。
2人は赤ちゃんが見たいだけで
私に用があるわけじゃない。
私の方から赤ちゃんの話を出さなかったので
2人も質問するわけにはいかなかったのだろう。
結局
当たり障りのないところで
サークルの話になっていた。
「夏祭でも別ハロをやろうって話になってるよ。
私たちコンビも、これから新作に取り掛かるつもり。
それでのんちゃん達にも断っておこうと思って。
話の続きはね……」
「いいよ別に」
私はぶっきらぼうに答えた。
別にこのコたちの漫画のことを聞いてもしょうがない。
しかし向こうは不愉快だったみたい。
- 233 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:49
- 「いや、できてから見せてもらうから
楽しみはそのとき」
私は仕方なくそうフォローした。
「そっかわかった。じゃあ私たち頑張るからね」
2人は向かい合って微笑んだ。
ときおり2人は目を合わせて笑う。
私は息苦しかった。
仲よさそうな2人。
幸福そうな2人。
対する私たちはどうだろう。
どうしてこんなに
分かり合うことができないだろう。
一度は
愛し合ったはずなのに。
2人が楽しそうに話すたび
私は胸が苦しくなり
潰されそうな気持ちになる。
「のんちゃんたちの方はどう?」
「な、何が?」
私はひやりとした。
私たちの悲惨な状態を
知られてしまったのではないかと思ったのだ。
- 234 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:49
- でも
質問の意図は違っていた。
「新作のあやみきは進んでる?」
「いや、まだ全然」
「そっか……。ね、夏祭までには描いてくれるんでしょ?」
2人が身を乗り出して聞いてきたので
私は反対に身を引いてしまった。
そしてまた息苦しくなった。
今はそんな状態じゃないし、
第一私は……
「ど、どうかな?」
「えー?流しちゃうのー?」
私の困惑はますます大きい。
期待してくれるのは嬉しい。
だけど……
「あいぼんの様子次第で」
- 235 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:50
- 「じゃあさ。原作は?
お話の方は、できそうなの?」
「や、……まだだけど」
私がそこで言い澱むと
沈黙になってしまった。
私は言い訳を探した。
「まだね、どうまとめようか決まってないんだ」
「うーん。結構あの2人、深みに入ってるもんね。
えっと、こんなこと聞いちゃっていいかな」
「何?」
「ハッピーエンドにするつもり?」
そのときだった。
その質問に
私の中の何かが
かっと熱くなった。
何だろう。
自分でも
それが何なのかわからない。
でも
とにかく衝動は大きかった。
- 236 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:50
- 「もちろんだよ!」
私は
その衝動にまかせて
大きな声でそう答えていた。
「亜弥ちゃんと美貴ちゃんは
幸せになってくれないと」
私……何を言い出すんだろう。
気持ちはどんどん出てきて止まらない。
「…のんちゃん」
「だって、私たちのお話の中で
2人がすれ違ったままなんて
傷つけあうだけだなんて、嫌だよ」
そう……
そうだよ
「そんなのは」
- 237 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:50
- 相手を失いたくなくて
一人になりたくなくて
気持ちを確かめないと不安で
確かに愛しているという形が欲しくて
でも、わかりあえなくて
想いは届かないで……
そんなのは
私たちだけでたくさんだ。
こっちの世界だけで
もうたくさんだ。
「私たちのお話は
幸せな2人でなきゃ」
「のんちゃん。どうしたの?」
私、
どうして……
泣いてるの?
熱い想いはじんじんと
私を中から押し上げてくる。
だけど……
「わからないんだよ」
私にはわからない。
亜弥ちゃんと美貴ちゃんはアイドル。
みんなが憧れる幸せなアイドルなんだ。
でも私にはどうしたら
2人が幸せになるかわからない。
- 238 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:50
- 涙はとめどなく流れて
頬を伝って落ちてくる。
「ねぇ教えて。
人はどうしたら
孤独じゃなくなるの?」
教えて。
どうすれば
―――あなたたちみたく
仲良く一緒にいられるの?
「のんちゃんには
あいぼんがいるでしょう?」
相手が
そう言った。
とたんに私は現実に引き戻され
熱かった意識は
急速に冷えていった。
涙も不思議と止まってしまった。
- 239 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:51
- 「……」
「どうしたの?2人、すごく仲良かったじゃん!」
今度は向こうの口調が熱くなっていた。
「最高のカップルだったよ。
私たち、のんちゃんたちが
すごく羨ましかったんだから」
私たちが羨ましい?
やめてくれ。
「何の悩みもなく、何の迷いもなく
2人でいると落ち着けるって言ってたでしょ?」
私は
歯をくいしばった。
「何の悩みもなく」。そんな無責任な言葉を押し付けられて
私の顔が歪んでしまった。
それでも向こうは
私の変化に気付かなかった。
「のんちゃんたちが
私たちに勇気をくれたんだよ!」
- 240 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:51
- 私は首を振った。
弱々しく。
「もうやめて」
私の声は
かすれて小さかった。
「え……?」
「そんなふうに言わないで」
人に勇気を与えた?
このコたちに勇気を……
じゃあ
今の私たちを
泥沼にはまってしまった私たちを見たら
どう思うだろう。
「……のんちゃん」
もう
私たちに期待しても無駄だよ。
「ねぇ、のんちゃん」
- 241 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:51
- 荷が重いんだよ。
そんな目で見ないでよ。
「のんちゃん!」
ダン!
私はテーブルを叩いた。
「のんちゃんて言うな!!」
2人はびっくりした様子で顔を見合わせた。
まただ。
またそうやって2人で見詰め合って
「2人は幸せそうでいいよね。
そんなもの私に見せ付けて何が面白いんだよ!」
「見せ付けるだなんて……」
- 242 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:51
- 「私たちから勇気をもらったって?
じゃあもう用はないだろ!
もう私たちは……」
私は肩で大きく息をして
言った。
「私たちはおしまいなんだよ!」
「ねぇ落ち着いて、のんちゃん」
「のんちゃんて言うな!!」
「……」
私は肩を震わせながら
2人を睨みつけていた。
2人はしばらく呆けていたがやがて
「さゆ、帰ろ!」
1人がもう1人の手をさっと取って立ち上がった。
そして玄関に向かった。
私はすぐにしまったと思った。
「……待って」
私は慌てて後を追った。
- 243 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:52
- 「ごめん、待って」
またやってしまった。
また感情に任せて
大事なものを逃してしまった。
「ごめんなさい!
お願い待って!」
玄関で靴を履きおえて振り返った。
「のんちゃん。ごめん。
大変そうなときに押しかけたりして。
だけど……
私たちにも、受け止めきれない。
私たちだって……」
声を小さくまた言った。
「私たちだって……」
さゆと呼ばれたコは目に涙をためておろおろしてる。
そういえば私
このコたちの名前も知らなかったんだ。
名前も知らないコに当り散らすなんて
最低。
- 244 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:52
- そのとき
「どうしたの?」
飯田さんが戻ってきた。
女の子は飯田さんを見ると
「あ、すいませんお邪魔しました。
もう帰ります」
そそくさと帰っていった。
- 245 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:52
-
「何があったの?」
2人が帰ってから
飯田さんは私を座らせて聞いてきた。
「だって、2人が幸せを見せ付けてくるから」
飯田さんは呆れてため息をつく。
「そうじゃないだろ」
「だって」
「自分に余裕がなかった。それだけでしょう?」
「……だって」
私は飯田さんをちらっと
上目遣いに見た。
- 246 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:52
- 飯田さんはしばらく宙に目を泳がせて
何かを考えていた。
「絵里とさゆみのことも、記憶になかったの?」
私はうなづいた。
その名前も、今知った。
「あのね……」
飯田さんは
ため息をひとつついて
私をまっすぐに見て
言った。
「あいつらは夢見てるだけだ」
- 247 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:52
- そして飯田さんは語り始めた。
絵里ちゃんとさゆみちゃんの物語。
その話を聞きながら
ずっとたまっていた私の苦しみが
しびれたみたいにふっと
遠くなっていくのを感じていた。
そんなくらい
切ない話だった。
クラスで孤立を強いられたさゆみちゃん。
傍にいてやるしかできない絵里ちゃん。
その内容を私は受け止められなかった。
そもそも
私たちの物語とは関わりのない話だった。
私たちとは違った苦しみを抱えた
絵里ちゃんとさゆみちゃんの物語。
だけど
飯田さんは私に語って聞かせた。
- 248 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:53
- 「共依存?」
耳慣れない言葉に私は首をかしげた。
飯田さんはうなずいて続けた。
「本当に弱かったのは絵里の方だったのかもね。
最初は明るかったはずのさゆみを
あんな風にした犯人は、絵里なんだから」
「どういう……こと?」
「確かにさゆみには自意識過剰なところがあった。
だからクラスでも悪い意味で目立ってしまったんだね。
さっきも話した通り彼女はいじめに遭うようになった。
クラスメイトたちのいじめを裏で煽っていたのは
絵里だったんだよ」
「絵里ちゃんが……」
飯田さんはまたうなずいた。
「どうして?」
ショックだった。
あんなに
仲良さそうにしてたのに。
あんなに幸せそうだったのに。
- 249 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:53
- 私たちの漫画を読みたいって
あんなに無邪気にはしゃいでいた絵里ちゃんが
影でさゆみちゃんいじめを操っていたなんて
「どうしてそんなことを……」
「絵里は、さゆみと一緒にいたかったんだよ」
「え?」
「クラスの中で快活に振舞うさゆみに
絵里は惹かれていたんだ。
だけどさゆみは誰とでも話ができて明るくって
絵里は気後れして声をかけることができなかった。
だから、絵里は……」
「さゆみちゃんに友達がいなくなるように?」
「そう、絵里は必死の想いでさゆみを孤立させていった」
孤立したさゆみちゃん。
そこへ
絵里ちゃんが親切な言葉をかけてやったら……
「さゆみは一気に絵里に寄りかかっていった。
でも……わかるだろ?そんな風にして一緒になったとしたって
絵里はずっと不安を抱えていかなきゃいけないんだ」
- 250 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:53
- 「同じだ……」
漫画と同じだ。
美貴ちゃんを追い詰めなくては不安になってしまう
亜弥ちゃんと同じ状態に陥ってる。
相手をつなぎとめるために
相手に新しい友達ができないように。
なるべく
自分を頼らなくては
生きていけないように。
「誰かとしゃべるときも必ず絵里が一緒に行って
さゆみの代わりに話を済ませる。
酷い時期には着ていくものまで絵里が全部決めたり
ご飯も絵里と一緒じゃなきゃ食べられなくなってた。
さゆみは、絵里なしじゃ生きていけなくなってしまった。
そんな自分が情けないという自覚はあった。
でも、自立しようとするとすんでのところで絵里が邪魔するんだ。
勝手に行動するなら、もう自分は援助をしないぞ、って脅して
さゆみに自分で判断させないように……」
気持ちはすごくわかる。
- 251 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:53
- 絵里ちゃんは怖かったのだ。
自分のもとからさゆみちゃんが巣立ってしまうのが。
さゆみちゃんが一人で生きていけるようになったら
今度は自分が居場所を失うんじゃないかと
不安で不安でしかたなかったんだ。
「本当に寄りかかっていたのは、絵里の方だったんだよ。
2人はいつも一緒。一緒のときは幸せな夢の中にいられる。
でも現実には
いつも一緒に生きていくことなんてできない。
ちょっとでも離れただけで
強烈な喪失感に襲われてしまう。
それがあいつらの現実だ……。最近はそれでもまともになった方だけどね」
飯田さんが話し終えても
私はじっと動けなかった。
なんだか
やるせない想いがずんと胸の中にたまっていた。
「私たちだけじゃなかった」
- 252 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:53
- みんなそうなんだ。
みんな
一人になりたくなくて
誰かに傍にいて欲しくて
傷つけあってしまう。
「私、2人に酷いこと言っちゃった……」
飯田さんはお母さんの様子を見に行った。
さっきのことは話してなかったけど
飯田さんなら何とかしてくれる。
私はいつまでも動けなかった。
飯田さんの話が私の心のどこかに響いていた。
決して明るくない話。しかも
私たちとは直接関係のない話だった。
だけど
どこか
私を心の底から打ち震わせていた。
- 253 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:54
- みんな寂しい。
みんな夢見てる。
愛しい人を夢見てる。
お母さんだって
私との
幸せな生活を夢見てる。
絵里ちゃんだって
さゆみちゃんとの
楽しい時間を夢見てる。
みんなみんな
現実の苦しいときに
必死の想いで夢に
すがりつき
寄りかかり。
「そうだったんだ……」
そうして私は
ようやく悟ったのだった。
- 254 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:54
- 気付くのが遅すぎたかも知れない。
お母さんがどうして自殺したのか
ようやく
わかった。
本当なら
私の腕を握りつぶそうと
顔をぐしゃぐしゃにしたお母さんを見たときに
気付いているはずだった。
―――私だったんだ……
私のせいだったのだ。
私がこっちに来たことで
お母さんと希美ちゃんを引き離してしまった。
それでお母さんは
愛する希美ちゃんを失って
寂しさに絶えられなくなってしまった。
なんてこと。
じゃあ
一体私は
何のために
ここに来たの?
―――こんなことのために……
- 255 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/06(木) 20:54
- 私は再び
泣いていた。
私は寂しかった。
お母さんがいなくて寂しかった。
寂しかったから
こうやってここに来た。
でも私のせいで今度は
お母さんが寂しい想いをしている。
誰かが幸せを求めると
誰かが苦しくなってしまうの?
どうしても
幸せになれないよ。
どうしても
孤独から逃れられない。
そして
私はとうとう
あの決断をしてしまうのだった。
- 256 名前:いこーる 投稿日:2006/04/06(木) 20:56
-
「年を遡行する少女」
次回完結です。
>>227
痛い……、ここでも痛い展開ですみません。
なんか謝ってばかりです。
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/07(金) 00:54
- 更新乙です。
次回最終回ですか。
楽しみに待ってます。
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/09(日) 23:24
- 最終回なんですね……
とても楽しみですが怖くもあります。
- 259 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:31
- この結末で
いいのかな
- 260 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:31
-
12
- 261 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:31
- 私はノートにペンをはしらせている。
一生懸命ペンを握っていたので
すぐに汗が溜まってしまった。
もう夏なんだと
そう思った。
呼び鈴が鳴ったので玄関まで行く。
「ただいまー。お芋買ってきたよー」
紺ちゃんだった。
私は紺ちゃんから芋の入った袋を受け取った。
「夏にさつま芋ってあんまりなくて探し回っちゃった」
「ごめん、無理言って」
「ううん。これが私のお仕事だから。
それより、どうしたの?急にお菓子作りなんて」
「急にじゃないんだけどね。
あのコが大きくなったら、食べさせてやろうと思って」
- 262 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:32
- もう
飯田さんは
この部屋にいない。
もともと
赤ちゃんが産まれるまでという約束だった。
最後の挨拶は
「私の役目は完了。ま、元気でやってくれ」
ちょっとそっけない気もしたけど
変に湿っぽくならないように
気を使ってくれたんだと思う。
それも飯田さんらしかった。
そうして今は
紺ちゃんが手伝いに来てくれている。
赤ちゃんの世話や買い物や
いろいろなことをしてくれる。
このコはただの転校生じゃないみたい。
でも正体は謎のままだった。
- 263 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:32
- 「あ、何書いてるの?」
「夏祭に向けて新作を書き始めたよ。
あいぼんも、もうちょっとしたら描いてみるって」
「そうなんだ」
「寝てばっかりってのもあれみたい。
漫画描くだけならあのコを見ながらでもできるし」
漫画の続きを描こう。
そう提案するとあいぼんは
ぱぁっと明るい顔をしてうなずいた。
「何か、没頭できるものがあるといいもんね。
じゃ、別ハロにのんちゃんたちのページ分確保しておくから」
あさ美ちゃんはそう言って
ノートを取ろうとした。
「わー、待って。まだ見ちゃだめ」
私は慌ててノートを取り上げた。
- 264 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:32
- 「もうちょっとで仕上がりそうだから
まだ待って」
「わかった」
「あ、そろそろあいぼん用に道具を揃えないと。
また紺ちゃんに買い出し頼むかも」
「ちょっとなら持ってるよ」
あさ美ちゃんはかばんの中から
Gペン、黒インクと筆、スクリーントーンなど
いろいろな道具を出してきた。
「紺ちゃん、それ、いつも持ってるの?」
「別ハロ編集担当として
漫画家さんにはいつでも描いてもらえるように
用意してるんだ」
「すごーい」
「てことだから、いつでも言ってね」
「ありがとう」
「どうする、続き書く?それとも……」
「あ、その前に作り方教えて」
- 265 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:32
-
「バターは多めにするといいんだよ」
「あ、そうそうこの匂い!」
キッチンに2人して立って
紺ちゃんの指導で作っていく。
「のんちゃんさぁ」
ふと、
紺ちゃんが手を止めて言った。
「良かったね、あいぼん元気になって」
「うん……なんか、漫画の話が良かったみたい」
私もつられて遠い目になって
そのときのことを思い出していた。
ベッドの横で
私が新作のアイデアを語っていくと
あいぼんの方もうなずきながら身を乗り出してきた。
- 266 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:33
- 一緒に漫画を作ることが
2人にとってどれだけ大きなことだったかを
改めて実感した。
「私たち、漫画に助けられたみたいなもんだね」
「のんちゃんの構想も良かったんじゃない?
あいぼんがやろうって思えるような内容だったってことでしょう?」
「そうだね」
ほめられてちょっと照れくさかったけど
素直に同意した。
今度のあやみきは
希望が見えるストーリー。
それが
私たちにも
勇気をくれたのかも知れない。
- 267 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:33
- 「よし、焼けた!」
「おー!」
オーブンから取り出して匂いを嗅ぐと
香ばしいバターのスイートポテト。
いつも作ってくれてたっけ。
―――懐かしいなぁ
私はちょっぴり感傷的になってしまった。
すぐに頬を叩いて気を取り直す。
「まずいまずい」
「のんちゃん?」
「ん、平気」
「……平気じゃ…なさそう」
あさ美ちゃんに見抜かれて
私はふっと涙をこぼしてしまった。
あさ美ちゃんは私に近寄って
肩をそっと抱いてくれた。
- 268 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:33
- 「ごめん。どうしたんだろうね。
私まだ……割り切れてないのかな?
もう決めたことなのに……」
私の中にはまだ
あの頃の想い、未練が残ってる。
そりゃそうだ。
すぐに消えるもんじゃない。
「のんちゃん。ちょっとずつ、ちょっとずつね」
「うん」
うん、の声が情けなかった。
「はは、冷めないうちに食べさせてあげよう」
私は努めて明るくそう言った。
- 269 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:33
- 部屋に入るとあいぼんは雑誌を読んでいた。
「わぁ、いい匂い」
「のんちゃん初作品だよー」
「おぉ、のんが作ったの?」
「おいしくないかもしれないけど……」
あいぼんがスイートポテトを口に入れた。
「甘い。こら甘いわ……」
「甘すぎた?」
「んー、ちょっとね」
あいぼんの声を聞いて赤ちゃんがきゃっきゃと笑った。
何に反応したのかな?
「あなたは、大きくなったらねー。
その頃にはもっとおいしく作れるようになってるんだから」
- 270 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:34
-
―――おばさんが私に優しくしてくれた。
私は赤ちゃんを抱きあげる。
あー、と小さな声を出して
心地良さそうに目を細めた。
―――おばさんが私のお弁当を作ってくれた。
あのときのスイートポテト
いつか食べさせてあげるからね。
「のん!ちょっと」
あいぼんに呼ばれたので
赤ちゃんをあさ美ちゃんに預けて
ベッドの傍にいった。
あいぼんはベッドのスペースを空けた。
私がそこに座る。
- 271 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:34
- あいぼんのベッドに入ると
あいぼんの匂いが感じられる。
―――……。
私はシーツをきつくつかんで気をしっかり持った。
もう、
お母さんと呼ばない。
もう、
娘として抱きついたりしない。
私は
希美ちゃん。
私は
あのコのおばさん。
- 272 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:34
- 「のん、ここなんやけど」
「あ、これ……」
雑誌じゃなくて
あいぼんが持っていたのは
別ハロのvol.4だった。
あいぼんも新作を描くのを楽しみにしてる。
だから私が原作を仕上げるまで
こうして昔の作品を研究していたのだ。
「亜弥ちゃんが美貴ちゃんを思って
一人で行かせる場面。
強いよねぇ」
「そうだね。美貴ちゃんを送り出したら
亜弥ちゃんは寂しいはずなのに」
「相手を思って自分を捨てる勇気。
こういうの、続きでも描きたいな」
「わかった。こういうシーンも入れておくよ」
「よろしく」
- 273 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:34
- ここのところあいぼんは調子が良さそうだ。
私が……希美ちゃんが傍にいてやれば
あいぼんは壊れたりしないはず。
自殺したりしないはず。
私たちの未来は
明るくなってくれるはず。
だから私は
もうお母さんなんて呼ばない。
相手を思って自分を捨てる勇気。
それは私にこそ
必要なものだったんだ。
- 274 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:35
- 私はあいぼんと一緒に本を持った。
「でもさ」
漫画を眺めながら言う。
「亜弥ちゃんだって寂しくないはずだよ」
「え?」
あいぼんが顔をこちらに向けてきた。
「だって、美貴ちゃんだって本当は
亜弥ちゃんの傍にいたいはずだもん」
希美ちゃんは
私は
こんなにも
愛されているはずなんだ。
きっと
「自分のことを送り出した亜弥ちゃんを
心から慕っているはずだもん」
だから
寂しくなんか
ないよ。
- 275 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:35
-
エピローグ
- 276 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:36
- 第5話。梅雨のじめじめした空気につられて
亜弥ちゃんの精神状態も絶不調だった。
美貴ちゃんはグループのサブリーダーとなり
確実に自分の居場所を見つけつつある。
それが亜弥ちゃんには面白くない。
執拗にやきもちをやいて美貴ちゃんを困らせる。
そのうち美貴ちゃんは
亜弥ちゃんに内緒で出かけるようになった。
亜弥ちゃんはそれに気づいて激怒する。
美貴ちゃんはいつもなら謝ってくるはずなのに
今回は亜弥ちゃんを無視して
またしても内緒で誰かと連絡したり、買い物したりを続ける。
亜弥ちゃんの不信はどんどん大きくなっていく。
亜弥ちゃんは自信を失い、美貴ちゃんに別れ話を持ち出すが
一週間待ってくれと言われ、宙吊り状態になってしまう。
- 277 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:37
- そして一週間後。とうとうその日がやって来た。
<美貴は、はじめて亜弥ちゃんに内緒で指輪を買いに行きました>
美貴ちゃんはそういって指輪を亜弥ちゃんに差し出す。
亜弥ちゃんの20歳のバースデープレゼント。
初めて、亜弥ちゃんに逆らって自分の意思でやったことだった。
<美貴は2本の足でちゃんと立てる。
もう亜弥ちゃんに頼ってばっかりじゃない。
亜弥ちゃんを受け止めてやることだってできる。
これからは、2人でもっともっと素敵な関係を作っていこう>
亜弥ちゃんは泣き崩れ
美貴ちゃんに抱きかかえられながら
感謝のキスをする。
お互いを本当に認め合えた2人。
寂しさも悔しさも惨めさも全部
2人で乗り越えていける。
これから
どんなことがあっても
ずっと……ずっと……
- 278 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:37
-
年を遡行する少女 ―完―
- 279 名前:年を遡行する少女 投稿日:2006/04/11(火) 20:41
- この小説はフィクションであり
物語中のいかなる、個人・団体・出来事も
実在のものとは一切関係がありません。
- 280 名前:いこーる 投稿日:2006/04/11(火) 20:47
- お付き合いいただきました読者の皆様、
どうもありがとうございました。
メンバーが夢に出てくることがある。
でも小説の構想をそのまま夢見たのはこの作品だけです。
起きてすぐに、実際の物語になるかどうか検討し連載させていただいた次第です。
こんな風に小説が出来上がることもあるのか、と不思議な体験でした。
>>257
>>258
こうなりました。気に入っていただけるかどうかわかりませぬが
どうぞよろしくお願いします。
お読みいただき重ね重ねありがとうございました。
では5月まで、しばらく……
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/16(日) 00:46
- 完結ほんとうにお疲れ様でした。いつも考えながら読ませていただきました〜
5月からの連載もも楽しみにしています。
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/18(火) 22:55
- 脱稿お疲れ様で舌。
こうなりましたか。”おばさん”は違う人かと思ってました。
ちょっと希美ちゃんの行方も気になりましたが(笑)。
ハプニングもありましたが、本当にお疲れ様で舌。
5月からの連載も楽しみにしてます。
- 283 名前:いこーる 投稿日:2006/05/27(土) 21:09
- 更新します
- 284 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:10
-
思い知らされた。
嫌というほど。
- 285 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:10
-
1
- 286 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:10
-
また
一緒にいたいね。そう交わした。
- 287 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:11
- 大学に入ってまだ2ヶ月という頃だった。
空気が湿り始めた季節だった。
サークルには
ちょくちょく顔を出していて
美貴たんの顔は知っていた。
けど話したことはなかった。
私とはタイプの違うコに見えた。
1回目のデートは
キャンパスの食堂。
1限を終えてラウンジに行くと
そこには美貴たんしかいなかった。
午前中
いつも人は少ないが、
美貴たんだけってのはそれが初めてだった。
「ご飯、いつも食堂だっけ?」
美貴たんの一言で
わたしたちはサークル員が集まるより先に
ラウンジを後にしていた。
この人についていこうと、どうして思ったか
今となっては思い出せない。
食堂での会話はぎこちなかった。
なんていうか、
美貴たんはいちいちそっけない人なのだ。
今ではそれが彼女の自然体とわかってる。
- 288 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:11
- でもそのときは
なんか怖かった。
その
微妙な空気を向こうでも感じたのだろう。
そして
その空気を変えようと
美貴たんなりに気を回したのかも知れない。
あろうことか美貴たんは
私のスパゲティを横取りしてきた。
先輩のくせになんてやつだ、と思った。
わたしはお返しに彼女の餃子を3つ一気に食べた。
「そういえば……名前聞いてなかったね」
そこから2人は始まった。
経験したこともないようなハイテンションで
午後中はずっと食堂にいた。
6月。授業をさぼった最初の日。
- 289 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:11
-
もっと
一緒にいようか。そう誘われた。
- 290 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:11
- 4回目のデート、初めて大学の外で会った。
たぶんお互いに手をつないでることさえ気づかなかった。
ただ、並んで歩いた美貴たんは
ちょっといい匂いがした。
テンポの悪い会話にも慣れてきた2人。
ゲームセンターであそんではしゃいで
汗をかくまで飛び跳ねた。
まだ夏の匂いが残る季節だった。
「疲れたね」
疲れた2人は公園のベンチでずっと
何も話さずずっといた。
気まずかったわけではない。
ただ、話なんかしなくても
わたしたちは時間を共有できた。
わたしたちは空気を分け合えた。
とても居心地のいい一時。
とても温かい感じの空気。
9月。その週2度目のさぼりだった。
- 291 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:11
-
ずっと
一緒にいてください。丁寧に申し込まれた。
- 292 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:11
- 8回目のデートは遊園地。
意識しすぎてぎくしゃくしていることに2人は気づかなかった。
今年初めての真冬日で
油断した薄着の2人は逃げるように観覧車に乗った。
それでも室内は寒かった。
「どうしよう、バカ2人だよ」
私が言うと美貴たんは
急にこっちに身体を寄せてきた。
私はそれをごく自然に受け止めた。
2人寄り添って温め合って
キスをしたのも自然だった。
午前に一回。午後に一回。
私は美貴たんが2度も観覧車に乗りたがるのを
普通に受け止めていた。
「亜弥ちゃんと、キスするために、乗ったんだ」
これは後になって美貴たんから聞いた言葉だった。
意外と小心者。
美貴たんと
バイバイしてから
頬が熱くなった。
キス、しちゃった。
そして私は
お熱が冷めないように冷めないように
何度もその感触を頭に描いてベッドの中。
11月。もう大学には行ってない。
- 293 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:11
-
ずっとずっと
離れないでいようね。
ずっとずっと
ずっとずっとずっとずっとずっと……
- 294 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:12
- 「触るんじゃねぇよ!!」
私は彼女の手を強く叩いて身を引いた。
しかし攻撃からは逃れられない。
すぐに彼女の手が伸びてきて私の両肩を乱暴につかむ。
「いやぁぁぁぁ!!!」
私は絶叫して暴れるが向こうは勢いをつけて迫ってきて
最終的に私は押し倒されてしまった。
「騒ぐなよ!」
「やめて!助けて!!」
「亜弥ちゃん!うるさいってば!」
「なんで……なんでいつも肝心なときに出て来るんだよ!」
私は身を必死に捩じらせて逃れようとする。
「こら!暴れるな!!」
「助けてーー!襲われるーー!!誰か!誰か!」
私は敢えて近所に響く大声で叫んだ。
- 295 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:12
- 「助けて……むむっ……」
手で口を塞がれた。体重がかかってあごがぎりぎりと痛んだ。
「ううーーー!ううーーーー!!」
私は痛みに耐え切れず必死に
ひざを使って彼女の腹を蹴り上げた。
彼女の目つきが一瞬で鋭くなった。
パァン
「痛い!!」
「美貴のほうが痛いよ!腹蹴りやがって」
「この悪魔!」
パァン
もう一度殴られた。さっきよりも強く。
「うっ……」
私の目に涙が溜まっていく。
なんで……なんでこんな仕打ちを受けなくちゃならないの?
- 296 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:12
- 「……畜生」
彼女の方が力が強い。
押さえつけられてる肩がジンジンと痛いのに
さらにきつく体重をかけられた。
惨めさでいっぱいになる。
どんなに力を入れても、彼女は私を逃してくれない。
じっと私の顔をにらみつけてくる。
冷たく、貪欲な目がぎらりと……。
さっきまでの可愛くて優しい美貴たんの目はすっかり消えていた。
キスをした途端に冷たくするどい目つきに変わり
荒々しい手で私の身体をいじくりまわした。
今の彼女には
私の身体しか見えていないに違いない。
畜生。こんなけだものに
私の身体を奪われるなんて……
絶対に嫌だ!
「うわあぁ!」
私は再び叫び声を上げて彼女の腕を引っ掻く。
がりっ、と嫌な手ごたえがあった。爪が皮膚を剥がしたらしい。
「つっ……」
彼女の顔が苦痛に歪む。
私の肩を圧迫する力が緩んだそのすきに
彼女の髪の毛をわしづかみにした。
「痛い!!このやろう!!」
- 297 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:13
- 彼女は一旦離れた手を
今度はなんと顔面に降ろしてきた。
彼女の全体重が乗った掌打が頬骨に直撃した。
激痛が頭部全体に響き渡り、脳内に火花が散る。
それでも私は彼女の髪の毛を離さない。
暴力なんかに、私の身体を許してなるものか。
「やめて!髪が抜ける!!」
彼女の声など聞くわけもなく、私はさらに強く引っ張る。
今度は彼女の絶叫が部屋に響いた。
そのまま強く髪を引っ張った。
それにつれて彼女の首が傾き
つづけて体がぐらりと傾く。
彼女はベッドから転がり落ちた。
私はすかさず腹の上に飛び乗る。
「うっ!」
みぞおちを圧迫されて彼女の顔が一気に青ざめた。
その顔に思いっきり平手打ちを入れる。
- 298 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:13
- バシン!
こっちがびっくりするくらい大きな音が出たと思ったら
彼女はゴッ、と頭をフローリングに打ちつけていた。
「お姉ちゃんのバカ!!美貴たんを返せ!!」
私は罵倒に続けて唾を顔面に吐きかけた。
ベチョ、と変な音がして彼女の顔に赤い液体が付着する。
さっきの掌打で口の中を切ったらしい。
血の混じった唾が彼女の顔を汚す。
「美貴たんを返せ!!」
私は彼女に圧し掛かり罵倒を繰り返した。
形成が逆転していた。
「意味わかんないよ!」
頭を狂ったように振り乱した。
何だよ畜生!美貴たんの身体を支配しているくせに
その自覚がないなんて。
- 299 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:13
- 待っててね、今
そいつを追い出してやるから……
私は彼女の頬をバシバシと繰り返し殴り続けた。
彼女は身をひねって私の下から滑りでた。
逃がすわけにはいかないとあせったわたしは
咄嗟に掃除機を取ってノズルを彼女の肩に振り下ろした。
「ぐっ」
彼女の顔が苦痛に歪む。
私はもう一度ノズルを振り上げた。
「ま、待って……もう止めて……」
さすがに危険を感じたのだろう。彼女が懇願してきた。
身体を小さく縮こまらせ、上目遣いにこっちを見てくる。
私はノズルを振りかぶった姿勢のまま言った。
「出ていけ!さっさと出ていけ!」
彼女は怯えた目で頷くと
足をもつれさせながら玄関まで走る。
私は彼女を追いかけたが
掃除機が引っかかって追いつくことができなかった。
「出ていけ!!もう二度と出て来るなーーー!!」
- 300 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:14
-
私はフローリングにべたっと座ったまま
切れた口内を舌で撫でながら涙を流していた。
「美貴たん……戻ってきてよ……」
デートしていた頃は全然気づかなかった。
美貴たんの中にあんな怖い一面が隠されていたなんて。
遊園地のデートから数日後、
私たちは、真剣に付き合うことにした。
でも
告白されても関係が
これまでと何か変わるわけじゃなかった。
むしろ、女と女。友達以上に中々近づくことができない。
キスも毎日してると当たり前になって
美貴たんが恋人なのか友達なのか
判然としない日々が続いた。だから
私はその先に行く覚悟を決め
美貴たんを部屋に呼んだのだ。
- 301 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:14
- 美貴たんが私の部屋に来て
ベッドの上で唇を重ねた。
その瞬間、
彼女の目つきがまるで別人のように入れ替わった。
何かを見透いてしまいそうな
するどい目だった。
怖かった。
彼女の目が
私の身体の何もかも心の何もかもを侵していくんじゃないかと
怖くて怖くて震えが出た。
私は結局、美貴たんを押し戻し
「気分じゃないの」と説得した。
美貴たんは不満そうに私を睨んで
朝帰るまで一言も話さなかった。
―――嫌われた。
そう思った。
だからサークルに行くときも
どんな顔をしていいかわからなかった。しかし
美貴たんは
前夜のことなんてなかったように
いつもと同じにベタベタしてきた。
一体、なんだったのか。
- 302 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:14
-
私の妹みたいな恋人。美貴たん。
美貴たんは甘え上手で、どっか抜けていて
私が突っ込んでやると上目遣いではにかむ。
その仕草が可愛くって私は
何度も彼女をからかってやった。
からかいすぎると美貴たんはふくれて
でも本気で怒ってるんじゃなくてただ
「ごめんね美貴たん」と私が頭を撫でてやるのを待ってるだけなんだ。
そんな彼女が好きだった。大好きだった。
大学にも行かずに毎日一緒にいて、
ご飯もいらないって思えるくらいに愛していた。
でも
私のベッドでキスをした夜、私は発見してしまった。
彼女のひどく凶暴な側面。
自分の欲望に任せて私に迫ってくる。
- 303 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:14
- それ以降、私は注意深く観察してみると
美貴たんはデートの途中でもその一面を見せていることに気づいた。
私が洋服を決められなくて30分お店で迷っていたとき
美貴たんは私を、例の冷たい目線で睨みつけると
勝手に洋服の一つを取って会計を済ませてしまった。
他にも
私が遅刻していったとき
私が風邪引いてるとき
ゲームセンターで私が負けたとき
私は何度も睨みつけられて立ち竦んでいた。
そして私は傾向を掴んだ。
その怖い視線は必ず
私が弱みを見せたときに現れるのだ。
そしてベッドの上で触れ合おうとすると
間違いなく出てくる。
- 304 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:14
- 美貴たんのその一面を
私は「お姉ちゃん」と呼んでいる。
もともと彼女の方が年上だったがいつもは
私のほうがお姉ちゃんっぽく振舞っていた。
ときおり私が弱いときに現れる人格はだから
「お姉ちゃん」と呼ぶのにぴったりだった。
私はお姉ちゃんが苦手だ。怖い。
お姉ちゃんの存在に気づいてから私は
それまで以上に美貴たんに
強い態度で接するようになった。
私は常に
美貴たんよりも上にいなくてはいけない。
そうしていないと
いつお姉ちゃんが出てくるかわからないから。
- 305 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:15
-
「美貴たん、戻ってきて……」
私はずっとフローリングの冷たい上に座ったまま。
さっき、美貴たんを殴りつけた掃除機も転がった。
一人で居るには
この部屋は寒すぎる。
涙ばかりが出続けていた。
今日も
覚悟を決めて部屋に招いた。
シーツも洗濯し
浴室もきれいに掃除した。
下着は20分かけて選んだ。
美貴たんになら
私をあげてもいい。
全てを任せてもいい。
そう
思っていたのに
- 306 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:15
- キスをした途端にお姉ちゃんが出てきてしまった。
欲望に任せて私の身体を触りまくってくるお姉ちゃん。
私は胸を触られる悪寒に耐えられずに
お姉ちゃんを拒んだ結果がこれだ。
だけど
私の最初の相手は美貴たんでないと嫌なんだ。
顔が同じでもお姉ちゃんに犯されるのは嫌なんだ。
乱暴で、私のことなんて考えずに押し倒してきて、身体を貪り食って……
そんなのは絶対嫌。
私だってちゃんとした気持ちでしたい。
ちゃんと愛し合ってるって確かめながら
優しく優しく抱いてくれるのでないと嫌だ。
これまで何度か私は美貴たんに全てを預けかけたけど
決まってお姉ちゃんが邪魔をしてきた。
絶望的な関係。
- 307 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:15
-
ガチャリと音がして扉が開いた。
「あ、やちゃん?ごめんなさい、美貴……」
美貴たんだ!
私は走って行って美貴たんに飛びついた。
「美貴たん、会いたかった〜。
戻ってきてくれたんだね」
「うん……やっぱり、亜弥ちゃんが心配だから」
優しい美貴たん。
美貴たんはお姉ちゃんの行動もしっかり分かってる。
それで
私を慰めに来てくれたんだ。
- 308 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:15
- 「亜弥ちゃん、もうちょっと開けて」
「あー」
私が大きく開けた口に
美貴たんがアルコールを含ませた脱脂綿を入れた。
美貴たんが覗きこんで来た。
「染みる?」
私はしゃべれないので手を振って応えた。
脱脂綿を抜くと半分くらい赤く染まっていた。
「ごめんね。痛かったね」
「ううん。美貴たんのせいじゃな、い……もん」
そういいながらも
さっきの悔しさがこみ上げてきて
私の目から涙が一粒こぼれてしまった。
美貴たんがそれを指でぬぐってくれる。
あったかい美貴たんの指。
優しくされて余計に涙がでてしまう。
- 309 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:15
- 小さなベッドで2人して寝た。
私は先に眠るのが怖かったので
しばらく目を閉じたフリをしていた。
すると美貴たんの寝息が聞こえてきた。
すーすーと
あどけない
かわいい寝息。
私の胸にこみ上げてくるものがあってキスをしたくなる。
でもその想いはぐっとこらえた。
キスしたら
またお姉ちゃんになってしまうかもしれないから。
私は美貴たんに背中を向けた。
どうしようもない虚しさに
また涙が出てきた。
私は美貴たんを愛してる。
でもキスすることさえできない。
私は美貴たんと結ばれたいと思ってる。
でも触れることができない。
- 310 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/05/27(土) 21:15
- 私にできることはただ
美貴たんといるときの
微かな甘さにすがることだけ。
それ以上望むことは許されない。
別れてしまおうと何度も考えた。
こんな関係、いつまでも続けられないと思った。
だけど学校にも行かなくなって家族に見捨てられた私には
美貴たんしかいない。
だから
じっと想いに耐えながら
微妙な関係を続けていくしかない。
じっと想いに耐えながら
- 311 名前:いこーる 投稿日:2006/05/27(土) 21:17
- 今回はここまでになります。
>>281
ありがとうございます。
考えながら……そういう作品に仕上げることができたでしょうか。
恐縮です。
>>282
あ……希美ちゃんの行方……えーっとw
新連載の方、ぜひお楽しみくださいませー
- 312 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/05/28(日) 16:34
- お待ちしておりました(*´д`)ポ
- 313 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:43
- 責めるような視線。
さげすむような横目。
- 314 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:43
-
2
- 315 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:44
- 起きると、美貴たんがテレビを見ていた。
「おはよう」
「遅いー」
美貴たんはふくれた声を出す。
「いつもは美貴たんだって遅いくせに」
今日はたまたま早く目が覚めただけじゃんか。
美貴たんは
私の言葉には返事せず
黙ってカーテンを開けた。
窓から
朝日が強く差しこんだ。
なんだ。
まだ全然早い時間じゃん。
- 316 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:44
- 私がベッドから降りると
美貴たんはテレビのボリュームを上げた。
寝ている間は大きな音が出せなかったのだろう。
アナウンサーの無機質な声が
狭い部屋に響いた。
普段は起きない時間帯。
眠い頭にテレビの音が直に響いてくるみたいだった。
「ねぇ美貴たん、朝ごはんなんて食べてみる?」
言ってみた。
たまには、
朝ごはんってのもいい。
「ん……」
私は
冷蔵庫から、卵を取り出してフライパンに向かった。
ピチピチと油の跳ねる音の中で
美貴たんの声が聞こえてきた。
「亜弥ちゃんが朝ごはん作るのって
何かいいね」
何気なく、といった口調だった。
「何が?」
「新婚さんみたいじゃない?」
「ははは……」
- 317 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:45
- 私は照れ隠しに笑い飛ばした。
フライパンに水を敷いて蓋をする。
新婚さん。
美貴たんは無邪気にそう言う。
確かにいいな……
こういうの。
こういう気分。
私は確かに美貴たんと
一緒なんだって思えるし。
身体で約束できなくても
こういう時間を一緒に過ごせるなら
それだけでも
大事にしたい。
ずっと
こういう時間を美貴たんと過ごしたい。
私はフライパンの前で
朝日に似合わぬ感傷。
これも眠気のせいだろうか。
- 318 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:45
- 折りたたみの小テーブルを組み立てて
目玉焼きとトーストを並べると
もうスペースいっぱいになってしまった。
2人は朝ごはんをゆっくりと取った。
私はわざとゆっくり食べていた。
普段は食べない時間だから、胃に元気がなかったのだ。
それに
食べ終わったら美貴たんは
テレビに戻るだろうから
少しでも
2人一緒に向かい合う
時間を引き延ばしたかった。
先に食べ終わったのは美貴たんだった。
「亜弥ちゃん、目が充血してる」
昨日あんだけ泣いたからだろう。
「本当?鏡見てないからわかんないや」
- 319 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:45
- 私が食べ終わるのを待って
美貴たんは再びテレビをつけた。
見るものがあるわけでもなく
いつもテレビを見ている。
私は食器を片付けることにした。
「亜弥ちゃーん」
流しの水の音。
そこに
美貴たんの声。
「んー?」
水の音がうるさいので
2人の声も自然とでかくなった。
「美貴、明日学校行く」
「えー?なんで?」
「レポート提出があるってメール入った」
「誰から?」
「友達に決まってんでしょ」
- 320 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:46
- キュっ、水道を止めて作業を中断する。
「友達って誰?」
「授業が一緒のコ」
「それだけ?」
「何言ってんの?」
私は手を拭きながら目を閉じた。
自分の中に突如起こった激しい感情を
深呼吸で押さえつけてから
美貴たんを見る。
「そのメール、見せて」
「は?」
美貴たんが首だけでこちらを振り返る。
「友達だって、言ってんじゃん」
「いいから見せて!」
私が足を鳴らして一歩踏み込むと
美貴たんは立ち上がって
身体をこちらに向けた。
直立になって
半分の眼でこちらを睨みつけてくる。
- 321 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:46
- まずい。
私は後悔した。
目つきが明らかにさっきと違っている。
「うざいんだけど……」
お姉ちゃんが出てきた。
私の胃が
緊張にさーっと冷えていった。
しかし
すぐには引っ込むわけにはいかない。
「友達って、私の知らないコ?」
自分の声が、怯えているのがわかる。
こんなんじゃ、
ますますお姉ちゃんにつけ入る隙を与えてしまう。
「さぁ……」
「さぁって、どういうこと!?」
「大学のコ。見たことあるかもね」
お姉ちゃんはうんざりしたようにそう言うと
再び座って私に背を向けテレビに向かった。
- 322 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:46
- 「……」
私はまだ納得していなかったが
お姉ちゃんを相手にけんかする勇気もなかった。
水道をひねって洗い物を再開した。
水の音が大きいせいか
美貴たんはテレビの音量を上げたみたいだった。
スポンジで皿を撫でる手に、力が入らない。
自分が情けなくなった。
でも仕方ない。
せっかく美貴たんといる時間を
お姉ちゃんとのけんかで費やしたくなかった。
洗い物を終えて水を止める。
静かになった部屋には
テレビのアナウンサーの声だけが大きすぎた。
そして私は戻る。
私が後ろに立っても
美貴たんは振り返らず
テレビに見入るフリをしている。
まだ、戻ってないのかも知れない。
- 323 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:47
- どうしよう。
私は迷っていた。
お姉ちゃんがまだいるなら
二度寝するフリでもして
この気まずい空間から逃れてしまいたい。
でも、美貴たんに戻ってるのなら
せっかくの時間を無駄にしたくない。
どっちなの?
私には、それを確認する勇気がなかった。
部屋には朝日が
強烈に入り込んでくる。
明るすぎる部屋で
どっちつかずの私だけが戸惑っている。
滑稽な光景だ。
私は結局、
体育座りで美貴たんと
背中合わせに座った。
お互いの背中が、背もたれ代わり。
- 324 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:47
- 顔を見るのが怖いから
でも美貴たんを
近くに感じていたいから
私はひざに顔をうずめたまま
目を閉じてじっとしていた。
いくじなし。
すると、
向こうが言った。
「……聞こえる」
「え?」
「亜弥ちゃんの心臓の音が
背中から聞こえてくるよ」
……美貴たん
私の胸が
じわーって、
朝日の中で温かく
そして私も神経を
自分の背中に向けていた。
- 325 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:47
- 「私にも、聞こえる。美貴たんの鼓動」
テレビの音が
私の意識から
ふっ、と
遠のいていく。
音はだんだん速くなる。
どっちの鼓動?
「亜弥ちゃん、どうしたの?」
美貴たんがくすっ、と笑って私は
自分がドキドキしていることに気がついた。
私は頬が熱くなるのを感じながら言い返す。
「美貴たんだって、速くなってんじゃん」
「亜弥ちゃんのせいだからね」
「何よそれ?」
美貴たんの声が
いつもどおりに戻ってた。
妹みたいに
舌足らずに戻ってた。
- 326 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:48
- 私は目を閉じたまま
2人して止まないドキドキが
ぴったり一致したらいいのにと思ってる。
幸せ。
この距離感を
このバランスを
いつまでも保っていればいい。
そう思った。
これ以上に踏み込んで
2人を壊してしまうのは嫌だから。
しかし
時間は残酷にも
過ぎていた。
「そろそろ美貴、大学に行く」
背中のぬくもりが離れていった。
私は
いじけてひざに顔を埋めた。
- 327 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:48
- 「いってらっしゃい」
テレビの消える音がする。
そして美貴たんの足音。
とん、とん、とん
私をよけてぐるり部屋の出口まで
とん、とん、とん……
足音は次第に遠のいていった。
「じゃあね」
「……ん」
私の返事は
聞こえたろうか。
美貴たんは
ガチャリ扉をあけて
外へと出て行った。
- 328 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/04(日) 21:49
- >>312
戻ってまいりましたー
- 329 名前:いこーる 投稿日:2006/06/04(日) 21:51
- 以上になります。
……さきにレス返しをしてしまった;汗
気を取り直して、ご感想等いただけるとうれしいです。
- 330 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/06/06(火) 22:56
- すごくいいです。
そこにいる人がお姉ちゃんなのか美貴たんなのか、こっちまでドキドキします。
- 331 名前:いこーる 投稿日:2006/06/07(水) 21:09
- 訂正を一箇所
>>319
> 「美貴、明日学校行く」
×明日
↓
○今日
大変失礼いたしました。
- 332 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:52
- 私は寂しいのに……
- 333 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:52
-
3
- 334 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:52
- 日は照っていなかったが
わりと暖かな日だった。
私は久しぶりに電車に乗り
大学へ向かっている。
一両向こうには美貴たんが
何も知らずに乗っていた。
電車の中で美貴たんは
ずっと携帯をいじってる。
誰と連絡を取ってるの?
こんなささいなことで不安になる自分が情けなかった。
本当に美貴たんを愛しているなら、信頼しているなら
こんなことで心配したりしない。
しかし
今連絡しているのがお姉ちゃんではないとも限らない。
私たちが
2人で築いてきた幸せを
お姉ちゃんの気まぐれで
ぶち壊されてなるものか。
- 335 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:53
- 自分でも
その不安が根拠のないものとわかってる。
ひょっとすると私は単に
置いていかれたくなかったのかもしれない。
私は美貴たんと一緒にいたくて、授業に出なくなった。
もう、
いまさら単位なんて取りようがないくらい徹底的にサボった。
それなのに
美貴たんだけが大学に行く。
美貴たんだけが先に卒業してしまう。
もしそうなっちゃったら
いつか私を見捨ててしまうんじゃないか。
ううん
美貴たんはそんなことしない。
私を傷つけるようなことは絶対にしない。
でも
美貴たんにはお姉ちゃんがいるんだ。
美貴たんと違ってお姉ちゃんは冷たいから
現実生活に戻れなくなった私を
いつ見捨てるかわからない。
お姉ちゃんに見捨てられる。
それは同時に美貴たんとも会えなくなる、ということだ。
そんなのは
絶対に嫌だ。
- 336 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:53
- 私はじっと美貴たんを睨みつけている。
向こうは気づかない。
やがて電車は駅に到着した。
大学の構内に入って美貴たんは
まっすぐに図書館へ向かった。
私は中へは入らなかった。
一応、大学に行っていたころは
それなりに友達もいたから
知っている人がいっぱいいるに違いない。
見つかっちゃうと困るから
私は建物の外で立ったまま待った。
向こうの出口から行かれると見失ってしまうが
尾行を見つかってお姉ちゃんに怒られるのは避けたかった。
私は立ちながら
久しぶりのキャンパスを見回した。
図書館の前だと言うのにラジカセからヒップホップを流して
ダンスの練習をしている3人組が見えた。
女の子2人がアルバイト情報誌を見ながらあれこれさわいでいる。
どれも、私には懐かしい時間の流れ方だった。
- 337 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:53
- ここの空気は暖かくて
こんな私をいつでも迎えてくれそう。
美貴たんが大学にまた通い出すんなら
私も一緒に来ようかな。
そう思える雰囲気が
このキャンパスにはある。
今年の授業は無理だけど
サークルに来るくらいならできる。
そもそも別に登校拒否というわけじゃないのだ。
ただ、美貴たんといるうちに
サボりが過ぎて、単位が取れなくなっただけ。
考えてみると
私の人生は
美貴たんに狂わされたようなものだった。
- 338 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:53
- しばらく待っていると、
美貴たんが出てきた。
隣には女の子が一人一緒にいる。
やはり誰かと会ってる。
嫌な予感が当たったと思い
胸がずんと沈んだ。
私は何かに取り憑かれたように
2人の後を追った。
一瞬見ただけで、相手が美人であることがわかった。
すらっとした鼻と長いウェーブのかかった髪が大人びた印象だが
反面、くりっとした目からは幼さのようなものも感じられる。
私は美貴たんに怒鳴りつけたくなる気持ちを
必死に必死に抑えながら歩いていた。
2人は図書館で待ち合わせをしていた。
なるほど確かに、レポートの話があるのかも知れない。
しかし、美貴たんが出てくるのは
早すぎた。
レポート課題の資料など
集める時間はなかったはず。
じゃあ2人は
別の話をするのだろうか。
それって……どんな話だろう?
私の心は乱れまくっていた。
ただ視線だけはひたすらに
2人から離れなかった。
- 339 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:53
- 視界にはいろいろ
個性的なファッションに身を包んだ学生たちが行き来する。
大学の赤い建物は無機質なのに、
そこにいる人間たちがこんなにカラフル。
前に注意を向けすぎてしまった。
私は
横から来た人に気づかずにぶつかってしまった。
「ごめんなさい!」
「……」
向こうは謝ってきたけれど
私は前の2人に気づかれたくなくて黙っていた。
すると
「あ、亜弥ちゃん?」
向こうは私の名を呼んだ。
私は驚いて顔を見る。
見たことある顔だった。
確か同じサークルの……
「紺ちゃん?」
「ああ、久しぶり。どうしてた?」
紺ちゃんはあいかわらずのほんわかで
私にそう聞いてきた。
- 340 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:54
- 「引きこもってた」
「ええ!?大丈夫なの?」
「うん、別に鬱とかそんなんじゃないから。
ただしばらく休んでたから戻りにくいなーって思っただけ」
不思議だった。
私は紺ちゃんに
こんなにすらすら自分のことを話してる。
久しぶりの友達に話すようなことじゃないのに。
このコには
人を安心させる
空気のようなものがあった。
大学のペースと、このコのペースは完全に同期している。
「そうなんだ。またサークルにも来なよ」
「うん、そのうちねー」
私は紺ちゃんに手を振って
再び歩きだした。
前の2人を見逃すわけにはいかないと
気持ち急ぎ足で追いかける。
2人は遠くへは行ってなかった。
校舎前のベンチに、2人並んで座ってた。
ベンチで話をするなんて
レポートのこととは思えない。
やっぱり何か
私に言えない何かを話すんだ。
- 341 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:54
- 私はさりげなく近く寄り
2人と背中合わせのベンチに掛けた。
美貴たんが振り向いたりしたら
すぐばれちゃうかもしれない。
でも私は何気なく
携帯いじるふりをして
2人の会話に聞き入った。
「ごめんなさい」
話しているのは
美貴たんだ。
美貴たんがもう一人に
何か謝っている。
「でも愛ちゃんくらいにしか相談できなくって」
「いいよいいよ。あたしみたいな方が気楽でしょう?」
「サークルの人は近すぎて逆に……」
「あたしは大丈夫よ。ほとんどそっちに知り合いいないし。
コンコンくらいかな……」
「紺野ちゃんは、平気でしょう。秘密を漏らすようなタイプじゃない。
あと、紹介してくれたとき本人も大丈夫って言ってたし」
「ああ、そりゃそうでしょ。わたしあのコにも話す気ないもん」
「?」
「私がこんな感じだから
美貴ちゃんの相談相手にいいだろうって紹介してくれたけどね
彼女自身は私のこと苦手みたいだから」
「はぁ」
- 342 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:54
- 私の心臓が高鳴りはじめた。
美貴たんは
深刻な声で彼女に話している。
私にはこんな人のことなんて
一言も言ってなかったのに。
紺ちゃんの知り合いってことは
サークルメンバーのつてをたどって
彼女に相談することになったのだろう。
でも、秘密って何?
私の知らない人に
美貴たん何の相談があるの?
「はぁ……」
美貴たんは重たそうなため息をついた。
ポン、と音がする。
美貴たんの背中を叩いた音らしい。
「何で、一人で抱え込んじゃうわけ?」
彼女は
努めて明るくそう言った。
まるで
青春ドラマの親友役が温かく励ます、
そんな口調で。
彼女はそれを何の違和感もなく
ごく自然に言ってのけた。
明るさの中に
美貴たんを励ます力強さがあり
強く胸を打たれる。
それは
優しい
柔らかい声。
- 343 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:54
- 胸の中にぽっかり喪失感が突如生まれ
私の思考を支配してゆく。
何で、美貴たんの悩みを聞くのが私じゃないんだろう?
美貴たんのこと
何でも知りたいって思ってた。
なのに
美貴たんは
私の知らないこの人に
大事なことを話してる。
それを彼女は
見たこともないような温かさで
私にはまねできない明朗さで受け止めている。
私に寄る瀬など
そこにはないと思った。
……いや、まだそうと決まったわけじゃない。
勉強のこととか、そういう相談かも知れない。
でも
美貴たんの声の調子は
もっとずっとシリアスに響いてた。
私は
祈るような気持ちで2人のセリフを待っていた。
しばらく2人の間に沈黙があった。
私は
2人の会話を聞き漏らすまいと
神経を傾けてじっと待った。
- 344 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:55
- 口を開いたのは向こうだった。
「顔、暗いよ?」
相変わらず
穏やかで、しかも勇気の出る声だった。
美貴たんの周囲にこんな
いい人がいたなんて……
敗北感。
悔しさに胸が苦しくなる。
彼女はさらに続けて言った。
「ちょっと距離を置いてみた方がいいんじゃない?」
「え?」
「亜弥ちゃんのこと」
- 345 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:55
- 亜弥ちゃん?
私?
その言葉、その衝撃に
私は凍らされたようなものだった。
私の思考、行動の一切が活動を停止して
冷たく固まっていた。
「さっきから、そう言いたそうに聞こえるよ」
彼女は相変わらず、
ドラマみたいな抑揚の良い明るい声でしゃべる。
その軽い調子の言葉が
重苦しく私に圧し掛かってきた。
私はその重みに動けなかった。
「距離を取って……」
「だって亜弥ちゃんといると何も自分のことできないじゃん」
まるで私が美貴たんの障害物になっているかのように言う。
「それは、亜弥ちゃんが好きだから……」
ああ、美貴たん。
そう思ってくれるんだね。
こんな状況じゃなかったら
私は嬉しくて飛びついていたかもしれない。
- 346 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:55
- でも、
彼女の言葉を聞いたあとの美貴たんは
何か迷っているように感じた。
「私が好き」。その言葉さえも迷ってる。
「そう、好きだよ。亜弥ちゃんが好き」
美貴たんは繰り返しそう言った。
はっきり
噛み締めるように。
でもそれは
そう繰り返し言わないと
好きじゃなくなっちゃう、みたいな
焦燥が感じられる言葉だった。
まるで
自分の気持ちを
確かめているように。
私の体中に怒りが駆け流れていく。
- 347 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:55
- 何で?
何で美貴たん、そんなに自信なさそうなの?
もっとちゃんと言ってよ!
その人に言って!
私と別れたりしないって。
距離をとったりしないって。
私は邪魔者なんかじゃないって、そう言ってよ!
お願いだから……
「好き……だよ……」
美貴たんの声はもう勢いなく
小さく消え入りそうだった。
私の全身から、怒りが抜けて
その後、強烈な虚しさがこみ上げてきた。
「好きだからなおさら、重荷になっちゃってる」
美貴たんは、言われた言葉をかみ締めるようにして
言った。
「そう、かもしれないな」
私は上半身を折ってひざに顔をうずめた。
身体を支えることができなかった。
- 348 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:55
- 「美貴にはどうしたらいいかわかんないよ」
身体を起こす気力すら湧かない。
そのくせ
悔しさだけは心の底から
飛び出しそうな衝動となって
身体を内から
ジンジンと突き動かす。
私は持っていた携帯を強く
壊れるほど強く握った。
反対の手は自分のシャツをきつくつかむ。
「ねぇ、どっか行かない?」
「え?」
「買い物でもカラオケでもいいけどさ。
たまには、亜弥ちゃん以外の人と遊ぶのも気晴らしになるよ。
それからまた考えたらいいじゃない」
「でも、亜弥ちゃんが待ってる」
「そんなの、遅くなるって言えばいいじゃん」
「……」
「もう、悩み抱えてるから決断力がなくなる。
ほら、行こう!」
- 349 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/12(月) 20:55
- 彼女が美貴たんを強引に立たせたみたいだった。
そして足音は遠ざかっていく。
私は
放心したまま動けなかった。
美貴たん、
私なんていない方が良かったの?
私の存在なんて
なかった方が良かったの?
美貴たんにそんな風に思われたら
私は生きていけないよ。
ねぇ
美貴たん……
大学の風とノイズだけは
相変わらず心地よい。
私はその中で
自分がどこにいるかを見失いかけていた。
私の携帯が鳴った。
開けるとメールが入ってた。
<今日遅くなる。夕飯食べてて>
目が涙で滲んだ。
私は携帯を振り上げると
力いっぱい地面に叩きつけた。
- 350 名前:いこーる 投稿日:2006/06/12(月) 20:57
- 以上になります。
>>330
ありがとうございます。
ドキドキしてもらえる作品にします!
- 351 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/12(月) 22:05
- 良い意味で溜め息が出る…じれったいです(地団駄
二人がどうなるのか凄く気になるので、大人しく待ってます。
- 352 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:52
- 教えて。
どうすれば
- 353 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:53
-
4
- 354 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:53
- 私はベンチにまだ座っていた。
少し離れたところに
さっき投げつけた携帯はころがっている。
私は焦点の合わない目で
打ち捨てられた携帯を
見るとはなしに見つめてた。
大学の風が私を包んで
無理やりにでも和ませようとしてくる。
この場所はやっぱり不思議だ。
こんなときでも、風が温かかった。
私は一つ、深呼吸をゆっくりと。
次第に
怒りがどうにか収まっていく。
そのとき
きっと私の頭は、再び怒りに支配されぬように
すがる思いで考えをめぐらせていたのだと思う。
怒りが収まると同時に
私の思考は忙しく回転していた。
私はさっきの美貴たんの様子を思い返していた。
深刻な声で悩みを打ち明けていた美貴たん。
美貴たんが私を重荷に感じていたなんて
一体どういうことだろう。
- 355 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:53
- ―――そう、好きだよ。亜弥ちゃんが好き
必死に自分に言い聞かせようとする美貴たんの口調。
私には、まったく検討がつかなかった。
結局私は、
美貴たんのことを何でもわかっているつもりで
本当はわかってなかったんだ。
2人の間には、まだまだ大きな距離があるのだ。
―――亜弥ちゃんが好き
亜弥ちゃん。はっきり噛み締めるようにそう言った。
その言葉が
私の胸に今も刻み込まれている。
はっきりと……。
!
私の名前を、美貴たんしっかり発音していた。
それは、いつもの美貴たんじゃない!
いつも私のことを、あんなしっかり呼ばない。
いつもはもっと子どもみたく甘えるように
「あやちゃん」って
「あ」と「や」がつながって
切れ目が分からないで、何言ってるかわからないんだ。
舌足らずな妹。
- 356 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:53
- でも、
さっきの美貴たんはそれをしなかった。
しっかりと聞き取れる声で「亜弥ちゃん」と言っていたのだ。
なんてこと……
あれは
お姉ちゃんだったのだ。
私は急いで立ち上がり
ころがった携帯を拾いに行った。
美貴たんに重荷と言われたことがショックで
冷静さを欠いていた。
しかしちょっと考えれば、
あれがいつもの美貴たんでないことくらい
わかりそうなものだ。
私は後悔しながら携帯で美貴たんに電話をかける。
今、お姉ちゃんが美貴たんの身体を支配して
彼女と勝手に会っている。
放っておいたら、彼女に何を話すかわからない。
呼び出し音。
- 357 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:54
- 1つ、2つ、3つ……
―――お願い、美貴たんが出て!
4つ、5つ、……
出た!
『ん……』
どっち?
「美貴たん?今、どこにいる」
『ごめんね。今日、何時に帰れるかわかんないや』
「今何してるの?」
『……』
「美貴たん!?」
『帰る時間わかったらまたメールするから、ごめんね!』
ツー、ツー、
電話が切れてしまった。
あまりに一方的な会話に、泣きそうになったが
どうにか持ちこたえた。
感情に流されるな。冷静になれ。
- 358 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:54
- 私は電話を握ったまま、今の会話を反芻する。
完全に向こうのペースだった。
こっちの質問には何一つ答えずに
すぐ帰る意思がないことだけを一方的に伝えられた。
私を翻弄するような会話は
美貴たんの芸当じゃない。
やはりお姉ちゃんだ。
私の中に希望と焦りが一緒になって沸き起こってきた。
美貴たんに見捨てられたなら、私はもう何もできないと、
さっきはそう思って絶望的な気持ちになった。でも
美貴たんが私を疎ましく思っていたわけじゃないんだ!
私のことが重荷だと言っていたのは
私を邪魔に感じていたのは、お姉ちゃんの方だった。
お姉ちゃんからは、そりゃ嫌われて当然だろう。
何せ会うたびごとに
殴る蹴るの乱闘になっているのだから。
そっちはいい、仕方ない。
それよりも肝心なことは
まだ、美貴たんと終わったわけじゃないってことだ。
- 359 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:54
- お姉ちゃんだけが、私を避けようとしている。
つまり私は
美貴たんの一方の人格からは愛されて
もう一方の人格からは疎まれている。
そして
「どうしよう……」
今、デートしているのはお姉ちゃんなのだ。
美貴たんじゃない。
「取り返さなきゃ……」
美貴たんを、取り戻さなくてはならない。
彼女はお姉ちゃんと一緒にいる。
そっちが本当だと思い込んでいるのかもしれない。
お姉ちゃんの方と仲良くなられたら厄介だ。
私は直感的にそう思った。
あの2人が一緒にいるときに、美貴たんが妹に戻ったらどうなる?
美貴たんは彼女の親切を振り切って、
私のとこに戻ってくる?
答えは……わからない。
あの人、やさしそうだったし……
あの口調。美貴たんの何もかもを包み込んであげられそうな
温かい笑顔。
- 360 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:54
- それは、私には絶対に真似できない。
私には、あんな風に美貴たんを励ましたりできない。
私の自信が揺らぐ。
煮えたぎるような嫉妬に胸が焼けるように痛んだ。
彼女と妹を、引き合わせたくない。
美貴たんを支えるのは、私でなきゃ。
「いやだよ……」
絶対に渡してなるものか。
私は携帯をじっと見つめる。
一体どうすればいいだろうか?
普通に会話をしたんじゃ、さっきと同じ。
お姉ちゃんに押し切られてしまうだけ。
そもそもお姉ちゃんと私で口論したって
確実に向こうの方が勝ってしまう。
どうすれば、2人のデートを中断できるだろうか。
私は、さっと頭の中で
作戦を組み立てた。
お姉ちゃんと、まともに会話をしようとしてはいけない。
「よし……」
私は小さく言って、
再び美貴たんの電話にダイアルした。
- 361 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:54
- 1つ、2つ、3つ……
出ろ!お姉ちゃんでもいいから
4つ、5つ、6つ……
出て!
7つ、8つ、9つ……
『もしもし?』
出た。
あからさまに不機嫌な声をしていた。
私は、一つ深呼吸をした。
こっちのカードを早くも切らなくてはならないのは
ちょっとまずいかも知れない。
しかし、
今止めないと、二度とチャンスは来なくなってしまう。
これはかけだ!
「美貴たん」
- 362 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:55
- 声が震えてしまった。
私の動揺は
向こうにも伝わってしまっただろうか。
私はもう一つ深呼吸をして
言った。
「愛ちゃんに代わって!」
受話器の向こうで美貴たんの時間が止まったのがわかる。
『亜弥ちゃん、どうして……』
「いるんでしょ!?」
私は向こうの言葉を遮って言った。
相手に考える隙を与えてはならない。
さらに畳み掛ける。
「私を放ってデートする気でしょ?
それならそれで構わないよ!どうぞお好きに。
でも、その前に、私にも挨拶させてよ」
私は携帯を強く握り締めた。
「美貴たんの彼女にも紹介して頂戴よ」
- 363 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:55
- 目を閉じて、美貴たんの動揺に一気に踏み込む。
「美貴たんの元カノの亜弥です、って言ってやるから!」
向こうで息を呑むのがわかった。
私の捨て身は、かなりの打撃を与えたようだ。
『亜弥ちゃん違うの!愛ちゃんは……』
「うるさい!早く代われ!!」
そして
しばらく、沈黙。
後は、相手の出方を待つ。愛ちゃんが出るのを待つだけだ。
これで代わってくれなければ、ターン終了。
私の心臓が
おさまりをなくしてうるさくなる。
『ねぇお願い。美貴の話を聞いて。美貴が今いるのは……』
私は電話を切った。
お姉ちゃんとの対話ではダメ。
また向こうのいいようにもっていかれてしまう。
お姉ちゃんの言葉には、絶対応じるわけにはいかない。
- 364 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:55
- 私は苦しい思いで、携帯のディスプレイを凝視し続けた。
もう、かかって来ないか。
しかし、こうなれば向こうだって
のんびりデートというわけにはいかなくなるはずだ。
それでいい。
今ので、お姉ちゃんを完全に敵に回してしまっただろう。
しかし私はもう、覚悟を決めていた。
お姉ちゃんと敵対したっていい。
美貴たんだけは、絶対に渡さない。
私はじっと待った。
電話は何も言わない。
私にできることは、もう何もない。
電話がかかって来ないなら
私の負け。
私は歩き出した。
こうして何もせずに
じっとしていたら
気が狂ってしまいそうだった。
- 365 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:55
- 日はいつの間にか傾いて
風がさっきより冷たい。
それが
私に沁みた。
なにか、キャンパスの風が私を拒んでいるかのようだった。
もう、
5限目の授業も終わる頃。
多くの学生が帰る頃。
いつもこの時間の大学は
冷たい顔をして見える。
「早く帰りなさい」
そう言われてるみたいだった。
ここへいても
仕方ない。
もう
帰ろうか。
私の足は校門へと向かっていた。
そう。もともと大学に用があったわけじゃない。
私みたいな不良学生に大学は用なしだろう。
- 366 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:56
- ここは
私のいるところではない。
やっぱり
帰ろう。
美貴たんのいない部屋へ。
風が身体を通り抜けて体温を奪っていった。
寒さに思わず身体が震えた。
美貴たんからはまだ連絡が来ない。
なんだ
帰っても
私
独りだよ……
お姉ちゃんはさっきので
私に愛想を付かしてしまったのだろう。
だから
いつまでまっても電話がかかってこないんだ。
そっか
私は負けたんだ……
- 367 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:56
- そう思った途端
うわっ、と涙が溢れてその場にうずくまってしまった。
私
何を意地張っていたのだろう。
お姉ちゃんと何を勝負したつもりだったのだろう。
お姉ちゃんが私に内緒であのコと会っていた。
その事実に気がせいて
あんな喧嘩をしてしまうなんて……。
あんな無意味なことを……
私は
完全に行き場所をなくしてしまった。
通行の邪魔にならないように建物の壁際に腰を下ろして
そのまま
しばらく
泣いたまま。
帰ることはできるだろうか。
誰もいない部屋で
孤独と後悔に耐えることはできるだろうか。
風が一層つめたく私に吹いた。
- 368 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:56
- だめだ。
こんなままじゃ私、
どうにかなっちゃいそう。
美貴たんと会ってからずっとそう。
美貴たんがいないとき
私が私じゃないみたいに落ち着かない。
その美貴たんが……今日は私のことにいない。
今日は彼女のところ、ウェーブヘアの美人さんと一緒。
私は薄暗いキャンパスで
自分の輪郭を見失いかけていた。
自分の存在を疑いはじめていた。
美貴たんがいない。ただそれだけで
私の何もかもが不安になる。
美貴たんに会って、私は極端に弱くなってしまった。
- 369 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/06/21(水) 20:57
- 明かりが欲しい。
温かさが恋しい。
―――誰か……
私を助けてください。
「行ってみよう」
私は
何かを求めて
立ち上がった。
「よし」
そして
サークルの活動スペースがあるラウンジへ
私は歩き出した。
- 370 名前:いこーる 投稿日:2006/06/21(水) 20:57
- 以上になります
- 371 名前:いこーる 投稿日:2006/06/21(水) 20:58
- >>351
はい。2人ほんっとにじれったいです;
- 372 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/29(木) 18:03
- こんな大作に今まで気づかなかったなんて・・・
更新楽しみにしてますw
- 373 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:29
- 誰か……
誰か私に声をかけて
誰か私を見て
- 374 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:29
-
5
- 375 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:30
- ラウンジに入ると、
がらんとしていた。
時計を見ると7時前。
もう少し
人がいるかと思ったが
サークルのスペースには
一人いるだけだった。
誰だろう?
人の少ないラウンジは
夜にひんやり静まって
私が歩くと
コォンと靴音が高い天井に響いた。
そのコは熱心に
サークルで創った漫画誌を
読み耽っていた。
私が向かいに座ると
彼女はようやく顔を上げ
私を見て
かるくにこ、て微笑んだ。
私の方でも何も言わず
笑いかえすだけだった。
- 376 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:30
- サークルのメンバーは一応
全員が顔をあわせているはずだったが
コミクラには100名近い会員がいるため
実際には顔を見てもわからないコが何人かいる。
私のようにしばらく来ていないとなおさらだ。
しかし
サークルというところは
同じメンバーということで
知っていなくてはおかしいという
変な建前もあり
面と向かって「あなた誰ですか?」とは聞きづらい。
だから知らないコがサークルにいても
今みたいに挨拶だけして
名前を確認するのはずっとあと、ということがよくある。
名前も知らないコと2人、
気まずくはない不思議な雰囲気。
向かいのコは
私が来たので気を使ったのだろう。
漫画を閉じた。
- 377 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:30
- 「あ、いいよお構いなく」
私は言った。
このサークルは
漫画を描くのが主な活動。
だから作業は個人のペースで行われる。
ラウンジではそれぞれが
思い思いの時間を過ごす。
それを邪魔しないくらいの距離感で
お互いに認め合う。
居心地の場所だった。
しかし相手は漫画をテーブルに置いてしまった。
表紙が見えた。
『別冊ハロー!プロジェクト』
『別ハロ読んでたの?』
『うん』
コミクラの機関誌のタイトルが「ハロー!プロジェクト」。
「別ハロ」は当然その別冊ということになる。
「ハロプロ」がこの大学の学生によって作られているのに対して
「別ハロ」は主に、
このサークルに居ついてしまった高校生(大抵は不登校)によって
編集されている。
創刊者の紺ちゃんも、
この大学のコではない。
ここの学生で「別ハロ」に参加しているのは
私たちくらいだった。
- 378 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:30
- もしかすると、今
私の目の前にいるコも、
外部の人なのかも知れない。
と思っていたら向こうから質問してきた。
「ここの大学の人ですか?」
「うん、最近は授業に出てないけどね」
「ははは。」
相手は軽く流した。
「授業に出ていない」なんて挨拶みたいなものだった。
「キミは?」
「えっと、私コミクラやないんです。
友達がおるから……」
「へぇ」
そこで私は改めて、
前にちょんと座っているコを見た。
髪はやや長めで結っていないため、
うつむいていると顔が隠れてしまう。
さっき漫画を読んでいたときもそうだった。
その角度からはものすごく大人びて見える。
しかし
こうして正面から見てみると
小動物のような顔立ちや
訛りの抜けない話し方があどけない印象を与える。
もしかするとこのコも、高校生かも知れない。
- 379 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:30
- 「友達?」
「うん。紺野さんって」
「知ってるよ。もちろん」
「そっか。そりゃ、同じサークルですもんね」
向こうはカラカラと笑った。
なんか元気そうなコだった。
「あとは、えりとかさゆとか……」
「あ、それで別ハロ読んでるんだ」
「はい」
今出てきたコはみんな
『別ハロ』関係者。
えり、さゆというのは、共同で漫画を描いている高校生2人組み。
てことはこのコもやはり、高校生だろうか。
顔を見ても、年齢がわからない。
おばさんのように見えたり、子どものように見えたり。
不思議なコ……
私の中に
このコに対する興味が湧いてきた。
- 380 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:31
- 「ねぇ、漫画どう?」
「え?」
「えりさゆが描いたの、読んでるんでしょ?」
「そっちはまだ。
私が読んでるのは……、『ふたりで』です」
「あ……」
『ふたりで』。
その懐かしいタイトルに私は
美貴たんとの楽しかった記憶を呼び覚ます。
美貴たん。
あの頃、
よかったよね。
私は言った。
「私たちの読んでるの?」
「え?」
相手の動きが一瞬止まった。
- 381 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:31
- テーブルの上の漫画をちらりと見て
それから立ち上がって大声を上げた。
「あなたが亜弥ちゃん!?」
相手のリアクションがあまりに見事だったので
私は意味もなくにやりとしてしまった。
やっぱりこのコ、面白い。
『ふたりで』。
原作は美貴たん。作画が私。
2人で共同作成した漫画だった。
「へぇ、なるほど、そっちのえりさゆ読んでたのかー」
『ふたりで』は私たちが描いた「えりさゆ本」だった。
学校からあぶれてコミクラに居ついたふたりの姿が
可愛い子好きの美貴たんのツボを直撃。
2人をモデルにした萌え話を描こうと
私に提案して来たのだった。
登校拒否みたいな暗い話は嫌だという私の意見が採用され
アンリアル設定でのえりさゆ話を
美貴たんが考えてきた。
ただの萌え話とは思えない奇抜な設定に
『ふたりで』はコミクラ祭でも好評。
続きを描いてくれという要望も多い。
- 382 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:31
-
架空のアイドルグループ、モーニング娘。
このグループは不定期にメンバーを追加しては卒業させるという
ちょっと現実にはありえなそうな設定だ。
そこの6期生として一緒に加入したえりさゆ。
2人はぐんぐん仲良くなっていった。
そんな2人がデートで一緒に観覧車にのる。
観覧車の中で、思う存分イチャつく2人の様子を延々描いた。
ただ甘い展開にするのではなく
会話の端々から
お互いの仕事を尊敬し合っている様子が読み取れる。
美貴たんの書くストーリーは見事に私や、多くの読者の心をつかんだ。
その話を今、このコも読んでくれている。
私はうれしくて身を乗り出した。
「ね、よかったら感想聞かせて?」
「あ、う……うん」
女の子は妙にどぎまぎしている。
かわいい反応だった。
私は、何か感想を言ってくれるかと
期待しながら待っていた。
しかし、向こうはじっとうつむいてしまった。
- 383 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:31
- 「あ、ごめん、そんなに考え込まないでいいよ。
ただ読んでくれた人の声を聞いてみたかっただけだから」
「……」
相手はしきりに何かを考えこんでいる。
そして
たっぷりの時間を経て一言
言った
「2人は、こんな関係がいいと思いますか?」
それは、
質問というか
独り言というか
微妙な口調だった。
「え?」
「美貴ちゃんと亜弥ちゃんは、
こういう関係って、いいと思いますか?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
- 384 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:31
- 「この作品のえりさゆってさ」
彼女の口調は相変わらずだった。
「お互いのことを認め合ってて、
上手い具合の距離感やない?」
「……」
上手い具合の距離感。
その通りだった。
それは
私が作画する際に
美貴たんから言われたこと。
2人が変にくっつきすぎないように
お互いの顔を
客観的に確認できるくらいの距離で描いてくれと。
彼女は作品を良く見てる。
私の画、私の作品を
本当に良く見ているのだと思った。
私の心は、嬉しさで満たされていく。
「そこまで、読んでくれてるんだ……」
- 385 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:32
- 「うん、……気になったから」
ひっかかる言い方をされた。
気になった?何が?
何を気にして、私たちの本を
彼女は手に取ったの?
「え?」
上目遣いになって
こちらを見てきた。
ドキっとするような
儚げな目線。
「気になる。亜弥ちゃんのこと……」
さらに胸がドキっとした。
「私の……こと?」
私は
彼女の言葉をどう受け取っていいか
判断がつかずにうろたえてしまった。
- 386 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:32
- 「うん、どんな思いで
これを描いていたんやろうって」
「なんで、そう思うの?」
「だってこの2人……」
彼女はそこで言葉を止め
机の漫画を持ち上げて、
中のえりさゆを指した。
場面はちょうど
観覧車が高度を下げ始め
地面が近くなっていくのを2人して
窓から眺めてる絵だった。
そして
彼女は、言った。
「寂しそう」
ズキンと胸が鳴った。
彼女の言葉は核心をついていた。
私の
心の核。
- 387 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:32
- 胸の中から
押さえ込まれていた思いが
ふわりと湧いて溢れそう。
私は
急に湧き起こった
切ない気分を扱いきれず
自分の髪を掴んで
じっとうつむいてしまった。
「亜弥ちゃん?」
「さみしそう……?
そう、見える?」
自分の声が
普段と違っていた。
「泣いてるの?……どうして…」
「ごめ……。
今まで、誰も言ってくれなかったから」
『ふたりで』はあくまで
ハッピーなアイドル2人のお話だった。
美貴たんも、そのつもりで書いてたし
周りのみんな、そう読んでいた。
- 388 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:32
- でも
「いつも、私……
寂しくって」
「……亜弥ちゃん」
観覧車が下りていく。
2人だけの時間が、
少しずつ削られ少なくなる。
そこに私は
ほんの1ミリの寂しさを感じ取ってしまっていた。
「だって……ずっと一緒になんて、無理なんだもん」
幸せな時間は
永遠には続かない。
ゴンドラというカプセルの中の甘さには
そういう不安がつきまとう。
だから
私の画は、このページから
急にトーンダウンしている。
「会いたくても、ずっと一緒にはいられない……」
- 389 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:32
- 私は自分の不安定を
漫画の2人に投影していたのだ。
美貴たんといる。
その時間が幸せ。
でもそれは
ずっと続いてはくれない。
いつか美貴たんは
お姉ちゃんにとって代わり
私を攻撃してくる。
私たちは
ずっといられるわけじゃない。
いつだって私は美貴たんと
引き離される恐怖を抱え
でもひと時の幸福にすがり
この辛い関係に耐えてきた。
我慢してきた。
「亜弥ちゃん、ごめん。私、余計なこと言った…」
「ううん。ありがと」
「ありがと?」
「うん。気づいてくれて……嬉しかった」
目の前の少女は
一読して見破ったのだ。
美貴たんでさえ知らない私の内面の脆さを
このコは一発で見つけてしまったのだ。
―――このコ、すごい……
- 390 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:33
- 「本当、ありがと。ごめん泣いたりして」
幼くも見え
おばさんにも見える女の子。
一体、何者なんだろう?
「ねぇ、場所変えてゆっくり話さない?」
私から提案した。
鋭い彼女に
もっと私を見て欲しい。
疎まれて
お姉ちゃんと喧嘩して
帰る場所を失って
漫画を描いたときよりも
もっと苦しんでる私。
それを見て
何か声をかけて欲しい。
そばにいて欲しい。
- 391 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/05(水) 06:33
- だから私は大胆に
彼女の手を取って立たせた。
「お酒でも、飲みに行こうよ」
高校生なら
お酒はまずいかな?と思った。
でも彼女は断らなかった。
私を知りたいと言ってくれたコ。
このコと一緒にいるときなら
孤独を感じなくていい。
私たちは
ちょっとの気まずさを抱えたまま
手をつないで建物を後にした。
- 392 名前:いこーる 投稿日:2006/07/05(水) 06:33
- 以上になります。
- 393 名前:いこーる 投稿日:2006/07/05(水) 06:34
- >>372
た、たいさくだなんて…。よーしがんばります!
- 394 名前:タケ 投稿日:2006/07/05(水) 17:54
-
え!え!
亜弥ちゃん!
いいの?
気になる終わり方だな〜
続きまってます!!
- 395 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/10(月) 08:51
- これは…いろいろ絡み合ってそうですね
わくわくしてきました。
- 396 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:46
- 私の胸が
引き裂かれそうに痛んだ。
この身体、
私の身体が拒否してる。
- 397 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:47
-
6
- 398 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:47
- 学生街の居酒屋に入って
私たちは飲んだ。
結局私は最後まで
少女の名を聞くことはなかった。
別に名前なんてどうでもいい。
私にとってはそれが
大学のサークルというところ。
お酒が入ると
彼女は妙によくしゃべった。
「あのままじゃ絵里がかわいそうだよ。
何でもさゆみに世話を焼きっぱなしで」
「でも、絵里ちゃんも好きでやってるんでしょう?」
私がなだめようとしてもダメ。
顔を赤くして饒舌にまくし立ててくる。
どうやら
相当ご機嫌らしい。
というか
相当お酒に弱いらしい。
やっぱりまだ
このコは子どものようだった。
- 399 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:47
- 「亜弥ちゃんが描いたみたいな感じの方がいいと思う。
あのくらい、お互いにしっかりとしてた方が健全やって。
ねぇ、亜弥ちゃん続き描かないの?描いてよぉ」
「うーん、いつになるかなぁ」
「じゃあさじゃあさ、せめて私にだけ教えて。あの2人がどうなるか。
現実の2人を見ているとイライラしちゃってダメ。
亜弥ちゃんの描いたえりさゆをもっと見ていたい」
彼女は私にもたれかかって来た。
肌まで赤くなっていた。
久しぶりの感じに
私も心地よくなった。
こんなふうに
安心して誰かと話をしたのは
本当に久しぶりだ。
美貴たんといるときは
常にお姉ちゃんのことを警戒していなくてはならない。
だからいつも気を張っていた。
それで
私の神経は
相当に参っていたのだろう。
名前を知らないからこそ気兼ねなく
また
相手が先に酔っているというのも安心で
私は
大いにくつろぐことができた。
- 400 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:47
- この
2人でいるときの安心感はなんだろう。
たまらなく
貴重なものに思えてくる。
なんだか離れたくない感じ。
美貴たん以外の人といる
という後ろめたさはなかった。
向こうだってあのコとデートしてるんだとか
そういう怒りもなく、むなしさもなく。
ただ
私と一緒にいてくれるコができたという嬉しさに
私は感情のほとんどを
麻痺させていたのかも知れない。
彼女が
家に帰ると言い出した。
「平気なの?送っていこうか?」
「へーきへーき」
ちっとも平気ではなさそうだ。
「いいよ、送ってくよ」
「でも、亜弥ちゃんも帰りがあるでしょう?」
そう言われて時計を見てみると
確かに電車の時間が危ない。
- 401 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:48
- 「いい、今日は帰らなくってもいいんだ」
このコと一緒にいた方が
ずっと気楽でいられるから。
「心配してくれる人、誰もいないから」
そう言ってしまって
何痛いこと言ってるんだろうと
自嘲しそうになった。
そんなこと
このコに言っても仕方ない。
仕方ないのに。
そのときの私は
1人になることを極度に恐れていたのだと思う。
彼女が帰ってしまっては
私はまた孤独。
1人の部屋。
想像するだけで
私の胸が冷えていく。
- 402 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:48
- 嫌だ。
あんな部屋で
美貴たんの帰りを
泣きながら待つなんて
そんな生活は
もうたくさんだ。
生活を変えたい。
美貴たんがいないと
二本足で立つことも不安な私。
弱くて情けない私。
それを今
変えてやりたい。
「送っていくよ。
そのかわり……」
私は甘えたかったのだと思う。
向こうは酔って上機嫌、私に寄りかからないと歩けない。
そういう状況を使って
私は自分の居場所を
確認したかったのだと思う。
必死な思いで
「……今日、泊めて」
私は彼女に言った。
- 403 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:48
-
ワンルームの
お洒落な感じの部屋だった。
私は少女の横に立ち
部屋の中へ通された。
「ごめんなさい。
こんなつもりやなかったのに」
「ううん。なんていうかさ。
私も語り足りない感じだったから」
そういうと
向こうは安心したように
ふふっと笑った。
そして2人は
漫画のことを語った。
市販のものについて。
そして
サークルの漫画について。
彼女はサークルには
それほど詳しくなかったけど。
- 404 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:48
- 会話は私の中にある
虚しさ、罪悪、何もかも
一時だけでもなかったことにしてくれた。
だから私は
この会話が途切れぬよう
言葉をつむいで沈黙を避けた。
たっぷり語って
彼女は、マットを持ってきて床に敷いて寝た。
やっぱりおぼつかない足取り。
私は彼女のベッドに入った。
普段とは
違う匂いがするベッド。
なんか不思議とくすぐったい。
いつもの不安がないベッド。
ふかふかしてて、あったかい。
先に寝てしまった彼女が
床で寝息を立てている。
そのリズムに目を閉じて
私も寝ようとした。
しかしできなかった。
目を閉じていると突然
どうしようもない不安が私の中にじわっ、と広がって
抑えがきかなくなっていた。
- 405 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:48
- 明日、目を覚ましたとき
変わらず彼女はいるだろうか。
変わらず私といてくれるだろうか。
酔いが完全に冷めて
よそよそしくなったりしないだろうか。
そんなことはないかも知れない。
いつまでもいていいよ、って言ってくれるかも知れない。
でも
そうじゃないかも。
この居心地のよいベッドの匂いは
きっと夜の間だけ。
朝日が出たら
この部屋は夢から覚め
そこはいつもの不安な現実。
寝息の音が快い。
彼女が私に
もたれかかってきた感触。
その記憶、そのイメージが
私について離れない。
これもきっと
朝までの話。
- 406 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:49
- 私は何度か寝返りを打ち
身体の中に溜まった熱を逃がそうとするが
考えは止んでくれず
ずっと頭の中を流れ続けていた。
いつだってこう。
幸せな今にざっと割り入る不安。
だから私はいつだって
幸せなんか、感じられない。
いつだって
いつまでだって。
今日出会って、ちょっと話しただけのコなのに
どうしっちゃったんだろう。
離れることが、こんなに怖い。
彼女は
私を
想ってくれるだろうか。
試してみよう。
- 407 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:49
- そう思い立った途端、
私は心臓に抑えが効かなくなり
苦しくなるほどその鼓動が
荒く激しく鳴り出した。
寝息だけが強烈に
私の耳をくすぐった。
私はうるさい鼓動に突き動かされ
ベッドをそっとすべり降りる。
どうしようもない私を
受け入れてもたれかかってきてくれた。
もっと私を受け入れて
もっと私を抱え込んで。
トン。
フローリングに足音が響く。
冷たい感触が足の裏から伝わる。
そっちの気がないかも知れないコに
ずいぶん無茶をしたと思う。
どうかすると私は変態扱いをされて
夜中に追い出されていたかもしれない。
- 408 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:49
- 必死な私は
そんなことも考えず
―――もっと私を……
毛布をめくり中に入った。
横向きに
私に背を向け眠ってる。
幸いに
酔った彼女はそのままで
私は背中の体温を感じ取れるくらいまで
身体を近づけることができた。
背後から首筋に手を回す。
そして
―――こうしてみたかった
ギュッと抱き寄せ
彼女の背中を自分の胸で感じ取った。
小さなコなのにその背中は
大きく熱く頼もしく
私が安心して身を寄せられる。
- 409 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:49
- 「ん……」
さすがに異変を感じ取った彼女が
目を覚ましたようだった。
「亜弥ちゃん?」
彼女が身を捩って
こちらに身体を向けてきた。
その目はまだ完全には覚醒していないのがわかった。
まだ酔いも充分に残っている。
私は精一杯の上目遣いで
彼女に言う。
「……一緒にいて」
「うん?」
「ずっと……私と一緒にいて」
そして彼女の返事を待たず
私が口づけをすると
彼女の鼻から、ふぅっと呼気が漏れた。
- 410 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:49
- 手が私の肩にかけられ
押し返そうとするのがわかったが
その手首をぱっととって
マットに押し付けると
仰向けになった彼女の上になった。
濡れた音がわかるくらいにキスを続けた。
彼女の手から力が抜けていくのがわかった。
―――落ちた
抱き合って
身体の上に乗っかって
ずっとずっとキスをした。
やわらかい肌どうしが触れ合って
溶け落ちていく。
私は掌で
彼女の柔らかい肩を包み込むように撫ぜた。
手をちょっと身体の内側に動かすと
さらにやわらかい。
あたたかい胸に触れた。
- 411 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:49
- 胸を触ってやればいいんだ。
私は
彼女の胸を包むように持ち
ゆっくり力を加えていく。
すると
「んん……」
鼻から甘ったるい声が漏れ出てくる。
私は夢中になり
一層手に力を込めて握る。
「んっ!」
声が急に強張り
彼女の手がすばやく私の手を握る。
―――まずい
こんなふうに強くしたら嫌に決まってる。
それじゃあ
お姉ちゃんとおんなじだ。
- 412 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:50
- 私は結局
力を緩めて表面を
服の上から撫で続ける。
起こしちゃまずい。
気取られないくらいの力で
愛撫と呼ぶにはあまりに弱弱しいやり方で
わたしは胸に触れていた。
それは臆病な攻め方だった。
しばらくそうしていると
彼女は酔いに押し切られ
再び寝息を立て始めた。
私は
誰も聞いてない舌打ちをして
彼女の横に寝て
抱き寄せた。
顔が見えぬように
抱きしめた。
「ごめん……どうしていいかわかんない……」
耳元でつぶやいたが
もう眠りに落ちてしまった彼女には聞こえなかった。
- 413 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:50
- こんな途中で寝られて
私は全存在を否定された気分になり
彼女の服をしわができるくらい強く握りしめた。
その手が震える。
力が、
行き場を失った熱が私の身体の中で
泣き叫びながら暴れまわっていた。
私には経験がない。
人を愛した経験がない。
お姉ちゃんに強引に
襲われそうになったことしか
本当に経験がない。
だから
わかんないよ。
お姉ちゃんの真似をして
彼女の胸とか触っても
きっと嫌われてしまうだけ。
じゃあ、どうすれば……
- 414 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:50
- 私には怖くて
彼女に踏み込むのが怖くて
どうしたらいいかわかんない。
酔った彼女を相手に進めるには
私は未熟で不器用すぎた。
「ねぇ……起きて…」
私はそっと、起こさぬように言った。
「起きてよ」
起こしてしまわないように。
ずっと寝たまま私といてくれるように。
「1人にしないでよ」
混乱した心のまま
抱きしめている感触だけがはっきりわかった。
- 415 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/07/15(土) 17:50
- 起きて欲しい。おかしな私にやさしくして欲しい。
でも
起き上がってどっかに行ってしまうのも嫌だ。
それなら
このままずっと寝ていたい。
私はどっちつかずの気持ちに
進むことも退くこともできない自己嫌悪の中で
絶望的に長い時間
彼女を抱きしめ、ずっと朝を待ち続けていた。
- 416 名前:いこーる 投稿日:2006/07/15(土) 17:51
- 以上になります。
- 417 名前:いこーる 投稿日:2006/07/15(土) 17:52
- >>394
亜弥ちゃん無茶をしてます……。
気にしていただいてありがとうございます。
>>395
わくわくを提供できているでしょうか?
- 418 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/24(月) 00:20
- いつの間にこんなスレが。。。w
相変わらず、心理描写が光ってますねぇ。
またスレ完結まで付き合わさせて頂きます♪
- 419 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/28(金) 02:10
- 亜弥ちゃん頑張れ!
みきたんとうまくいってほしいな
- 420 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/10(木) 00:43
- 少女が誰なのか気になる
- 421 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:41
- そんなことになったら
何もかもから見放されてしまうと
怖がっている。
- 422 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:41
-
7
- 423 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:41
- じっとしているだけの体勢に
さすがに限界がきたみたい。
朝を迎える前には
私も眠りに落ちていた。
ほんのちょっとの時間でも
毛布は充分あたたかい。
守られてる感じがした。
誰かといる。
こんなちょっとしたことが
私にとっては大事なこと。
- 424 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:42
- 目を覚ます。
彼女はまだ隣にいた。
相変わらず眠ってた。
部屋の中が
アルコール臭で
生暖かい空気。
気だるい雰囲気。
私が体勢を変えようと
身体を動かすと
彼女も目を覚ました。
目と目が思いっきり合う。
「おはよう」
焦点の合わないまま
それでも
相変わらずぱっちりとした目が泳いでいた。
しばらく
そのまま。
私は
相手の覚醒を
たっぷり待ってから
もう一度言った。
「おはよう」
- 425 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:42
- 私が先に
身体を起こす。
すると向こうも
つられるように
身体を起こした。
途端
その顔が、
スローモーションのように
ゆっくり歪むのがわかった。
髪を乱暴にかきむしったかと思うと
そのまま頭を抱えた。
「私……飲んでた?」
私はくすっと
笑ってしまう。
「うん、たっぷり」
「……」
「覚えてないの?」
私が聞くと首を振った。
どうやら
全然記憶にないらしい。
- 426 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:42
- 「……」
「ずいぶん、ご機嫌だったよ」
私のからかうような声には
何も反応せずに
眉をひそめて
しばし虚空を見つめる。
反応が著しく鈍い。
相当参っているようだ。
でも
そのテンポの悪いやり取りも
結構好き。
たっぷりと
時間が経ってから言った。
「頭痛い……」
私は立ち上がって
マットから出る。
「冷蔵庫に水かなにかある?」
「……」
「開けちゃっていい?」
「……」
何も反応がないので
勝手にあけた。
- 427 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:42
- ミネラルウォーターのボトルを取り
コップに注いで渡してやる。
すると彼女はその水を
勢いよく飲み干して
コップを差し出してきた。
「どう?おいしいでしょ」
「……もっと」
「ん?」
「もっとちょうだい」
「はーい」
嗄れた声で懇願する彼女の目は
やっぱり泳いだままだった。
もう一杯取りに
私は冷蔵庫まで行った。
開けて
ボトルを出して注いでいた。
その水の音の向こうで
相変わらずのかすれ声。
「ねぇ……昨日、何かあった?」
「何が?」
「……」
しばらく、沈黙。
- 428 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:43
- 朝の部屋は
静寂だった。
水を注ぎ終えて
ボトルを戻す。
すると
再び背中に
彼女の声。
「何で……2人してマットにおるんやろ?」
バタン。
冷蔵庫を閉めた。
「や、やだなぁ。覚えてないの?」
「……」
私は自分の中の血流が
ちょっと変化するのを感じた。
戻ると目の焦点が戻っている。
ようやく徐々に
意識が覚醒してきたようだ。
「……ごめん。記憶が……」
「あはは。いいよ」
- 429 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:43
- 彼女の
充血した目が、
焦点を取り戻した目がまっすぐに
私の顔に
突き刺さっている。
私は耐えられずに
目をそらした。
「酔ってて覚えてないんだね。
私が寝てたら、ふざけてマットにもぐりこんで来たんだよ」
嘘。
「……」
相手は何も
反応しない。
だから私は
焦ってさらに
しゃべってしまう。
「びっくりしたよー。急に抱きついてくるんだもん」
「……」
「いや。別に怒ってるとかじゃないよ」
「……」
私が水を
差し出すと
彼女はそれを
受け取って
そのまま床に置いた。
- 430 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:43
- 「そのあとは……あったの?」
「そのあと?」
「抱きついた…………その後」
「あ……えっと……」
「……」
「……」
2人の会話は
そこで化石になった。
―――気まずい……
じっとしているだけの私たち。
―――気まずいよ……
彼女はふらりと立ち上がる。
頼りなげな足でよたよたと。
そしてガラス戸を開け
狭いベランダへと
出て行った。
バタン。
戸が閉められた。
- 431 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:43
- ガラス越しに見てみると
ポケットの中から
携帯を取り出していた。
誰かにメールをするらしい。
私は1人部屋の中。
じっとしているのも何か嫌で
私はマットを片付けることにした。
私たちが寝たマット。
私たちを包んでいたマット。
……
私はそのとき、
「……そっか」
自分のミスにようやく気がついた。
彼女は昨晩、
マットを敷くとすぐに
自分がもぐりこんだ。
私にベッドを使えと言って。
おそらく
来客があったとき彼女は必ず、
自分がマットで寝て、
客にベッドを貸しているのだろう。
そういうコなのだ。
- 432 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:43
- ―――私が寝てたら、ふざけてマットにもぐりこんで来たんだよ
何を言っているのだろう。
私が寝ているところにもぐりこんで来たなら
朝、2人はベッドで目を覚ましたはずだ。
でも実際には
私たちは朝、下のマットに2人して寝ていた。
彼女は最初から下にいた。
朝になったら2人とも下にいた。
つまり
迫ったのは当然、私。
嘘は最初からバレバレだったのだ。
だから彼女は
あんなぎこちない応答。
私がつまらない嘘をついたせい。
嫌われたくなかったから
咄嗟に出てしまった嘘。
―――バカなことしちゃった……
私の胸をさーっと
居心地の悪い後悔が広がっていく。
- 433 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:43
- 向こうがそれを、すぐに指摘してくれたなら
まだましだったかも知れない。
そうすれば「ふざけすぎちゃった」と笑って
酔った上での悪乗りで済んだ。
しかし彼女は
その意味を
私の欺瞞の意味を考え
頭を抱えた。
ガラリと扉を開けて
彼女が戻ってくる。
難しい顔をして。
そして彼女は言った。
「亜弥ちゃん、早く帰ったほうがいいよ」
私は胸が冷たくなった。
いつもの感じ。いつもの、寂しい心地。
なんでそんなこと言うの?
「家で、美貴ちゃんが待ってるよ」
- 434 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:44
- なんで……
「何で、そんなこと言うの?」
最悪だった。
美貴たんのことを忘れたくて
このコのところに来たのに
そんなふうに
言われるなんて。
「君には関係ないでしょう!?」
「だけど……心配してるよ」
なんだよ。
「なんなんだよ!関係ないって言ってるでしょう!」
私たちが
どんな状態か知りもしないで……
「ねぇ亜弥ちゃん、落ち着いて」
「何?私がここにいると邪魔?」
「そんなこと言ってるんじゃないでしょ」
「美貴たん心配なんかしてないよ。
メールも電話を全然よこさないんだから!」
- 435 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:44
- 私は自分の声が大きくなっていることに
気がつかなかった。
一晩帰ってないんだよ。
普通なら電話してくる。
そして私は、ようやく自分の気持ちに気がついた。
やっぱり私は、美貴たんにこだわっている。
「亜弥ちゃん、それは違うの」
「何が違うって?あんたに何がわかるの?
向こうだって愛ちゃんと仲良くしてるんだから……」
そう。
こうして名も知らないコと過ごして
美貴たんが、あるいはお姉ちゃんがどれだけ心配するか、
それをずっと気にしていたのかも知れない。
ただ、
私は一人でお姉ちゃんと対峙できるほど強くはなかった。
一人だけで過ごす孤独に、私は耐えられなかった。
だから、あのときコミクラにいた
このコに甘えたのだ。
ずるく、醜く、でも必死にすがった。
「美貴たんは私がこうしてここにいようが、知らないんだ」
- 436 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:44
- 私はムカついていた。
きっと
美貴たんに対してだったと思う。
彼女に対してではなかったと思う。
むしろ、彼女のおかげで私はここまで
不安に押しつぶされずにすんだ。
それなのに私は……
「浮気してんのは、向こうだよ。
連絡一つよこさないで……」
「わけわかんないこと言ってないで、聞いて」
「うるさい!」
私の怒りは
不器用に彼女に向けられ放たれる。
「わかったよ。
私が邪魔なんだろ!だったらそう言えばいいじゃん」
私が大声でまくしたてると
「……」
彼女は黙った。
しゅんと小さくなった。
- 437 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:44
- 私の勢いはそれで
急に行き場を失った。
こっちも小さくなってしまう。
言い過ぎた、と後悔がさーっと胸を走る。
私は弱弱しく言った。
「私はもう、出て行くから……」
「亜弥ちゃん」
私の肩に手をかけてこようとするのを
私ははじいた。
「中途半端にやさしくなんてされても、困るだけ。
もう帰るから、放っておいて……」
「亜弥ちゃんは?どうするの」
「しつこいな……ほっといて!
連絡よこさない美貴たんのところになんか戻らないから!
じゃあね。バイバイ」
私……何言ってるの?
どうして私はいつも……
「もう二度と会わないだろうけど」
私は言い捨てて、出口に向かって歩き出した。
- 438 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:45
- 半べそ状態。
怒りはもう彼女に向いてはいなかった。
怒りの代わりに現れたのは、強烈な自己嫌悪。
……せっかく、私に優しくしてくれるコに会ったのに
怒りに任せて関係を壊してしまう。
わざと相手を困らせるようなことを言って。
だけどもう戻れなかった。
靴を履いて、一度も振り向かずに、扉を開ける。
「亜弥ちゃん……」
気がつくと、すぐ後ろに彼女がいた。
―――引き止めて……くれる?
ずるい気持ちが、また彼女にすがろうとする。
私はドアを開けた状態で手をかけたまま
俯いて彼女の言葉を待った。
唇を硬く噛んで
―――ねぇ、私のこと、許してくれる?
じっと待った。
- 439 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:45
- 彼女の口から出た言葉はしかし、
私がまったく
予想していないものだった。
「この部屋。圏外だよ」
!
私はあわてて振り向いた。
「不便なんだけどね、私の部屋、電波入らないの。
携帯使うときはわざわざベランダに出ないといけないの」
見ると彼女は、申し訳なさそうな顔をしていた。
「ごめんなさい……私、酔っ払ってて……昨日は……。
美貴ちゃんは、亜弥ちゃんに連絡してると思う」
私はあわてて携帯を取り出した。
ドアの外に出すとすぐに
携帯はメールの受信を開始した。
1件……2件……3件……4件……
- 440 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:45
- 私は、
「うそでしょう……」
増え続けるメール件数を見ながら凍り付いていた。
さっきまでの寂しさも怒りも
何もかもが消し飛んでいた。
5件……6件……7件……8件……
バタン。
私は恐ろしくなって思わず、部屋の中に戻った。
通信が途切れる。
受信ボックスには、すでに11件。
こんなにたくさんのメールが送られていたなんて。
とても見ることなんてできない。
私は
パニックに陥った。
「うあぁ……」
「亜弥ちゃん……」
「ダメだ。無理……
私、絶対に帰れない」
- 441 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:46
- 絶対に無理だ。
お姉ちゃんに殺される。
扉を再び開けるのすら、怖かった。
また電波のあるところに入って
また美貴たんからメールを受けるのが怖い。
「私、最悪……」
昨日はお姉ちゃんを相手に喧嘩をふっかけ
今度は10件以上のメールを無視してしまうなんて……
お姉ちゃんが心配してくれるか
試しているつもりになって。
なんてバカなことを……
「絶対に嫌われた……」
私は涙目になって彼女に抱きついた。
受け止めてくれる。
「大丈夫やって……心配してるんだよ」
「ううん……だって昨日は、重荷だって言われたし」
「え?」
「私のことが重荷だって言ってた」
その「重荷」が今度は一晩家を開けて消息不明。
これ以上、負担をかけたらもう、愛想を尽かすに決まってる。
まして向こうは昨日、別のコとデートしてるんだ。
あっちの方がいいって思うに違いない。
こんな、身勝手で心配ばかりかける私なんかより
優しくて落ち着けるあのコの方がよっぽど
美貴たんにふさわしい。
- 442 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:46
- ぶわっ、と涙が
目から溢れて彼女のシャツを濡らす。
「私たち……もうおしまいだ」
「ちょ、ちょっと……」
私はしがみつく。ぎゅうっ、と。
「もう、きっと愛ちゃんのこと好きになっちゃったよ」
「え……」
そのまま
しばらく
向こうも無言になってしまった。
そのままの体勢で
私はついに、メールを見る。
11件目。
<どこにいるの?とにかく連絡をください>
10件目。
<さっきのこと、話し合いましょう>
- 443 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:46
- 9件目。
<なんで亜弥ちゃんが怒ってんのか、意味わかんないんだけど>
8件目
<怒ってるなら怒ってるってメールしてよ!>
7件目
<連絡できるようになったらすぐ連絡ください>
6件目
<美貴はもう帰ってます。亜弥ちゃんはどうしたの?>
美貴たんとお姉ちゃんが、
入れ替わりながらメールをしているらしいことが
文章からもよくわかった。
お姉ちゃんがかなり怒ってるということも。
- 444 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:46
- もう、どうしたらいいかわからなかった。
「ねぇ、私どうしたらいい?」
「どうって言われても……」
私は彼女を話した。
ふらーっと立ったままだった。
「どうしたら……」
「亜弥ちゃん……」
「ねぇ……」
私は、必死に笑顔を作ってみた。
絶望から一瞬でもいいから逃れたかった。
この、滑稽な自分を一時でも否定したかった。
「あのさぁ、えりさゆの続き、必ず描くからね……」
声がふわふわと、実体のない幽霊みたいに、私の口から出ていく。
相手は怪しむ目つき。
- 445 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/18(金) 09:46
- 「きっと今度はハッピーなの、描くから、描いたら、読んでよね」
急に現実から逃避を始めた私を、
どう扱っていいか困っている表情だった。
私はそれでも、止められなかった。
「美貴たんと、打ち合わせしてこなきゃ……はは……
でも、喧嘩するのが先か……あはははは」
笑いが、止まらなくなった。
おかしい。
結局、私はだめなんだ……
自分の手で
大切なものを何もかも
握りつぶしてしまったんだ。
「あはははははははは……」
私は、ゆらゆらと手を振ると、扉の外に出た。
そして振り返らず、ゆっくり、ふらつきながら
朝の町を歩いて自分の家を目指した。
携帯は再び、
もう、いい加減にしてよ
残りの分の着信をはじめていた。
- 446 名前:いこーる 投稿日:2006/08/18(金) 09:47
- お待たせいたしました。今回はここまでになります。
- 447 名前:いこーる 投稿日:2006/08/18(金) 09:50
- >>418
毎度毎度、お読みいただいているようでありがとうございます。
心理描写にばかり頼った感じですが;汗。
最後までご期待を裏切らぬよう(あるいは裏切るようw)邁進していきます!
>>419
応援ありがとうございます!……って私じゃないか;
お待たせしてますがよろしくです。
>>420
ありがとうございます。
わかるようでわからないようで、って書くのに苦労中のいこーるです。
- 448 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:43
- この手は変によそよそしくて
冷たい。
- 449 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:43
-
8
- 450 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:43
- 私は
自分の部屋の前に立ったまま動けなかった。
もうこの状態を20分も続けている。
中に美貴たんがいるということが
美貴たんからのメールでわかっている。
でもそれが
美貴たんか
お姉ちゃんか
肝心なことがわからなかった。
もし
お姉ちゃんが中にいたら
どんな話になるか
いろいろ想像してしまう。
もう、私には付き合ってられない
そう言われるだろうか。
これからは、愛ちゃんと一緒にいる
そう言われるだろうか。
心配かけやがって、
そう言われて、殴られるだろうか。
- 451 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:43
- 殴られたら私は応戦するだろう。
そしてお互いがぼろぼろになるまで……
―――もう、とっくにぼろぼろだよ……
いままで
何やってたんだろう。
お互いの心を
ぼろぼろに傷つけながら
それでもわずかな甘いときを
夢見た。
そんなときは永久に
来ないかもしれないのに。
いつもいつも
お姉ちゃんの影に怯え
お姉ちゃんに傷つけられ
私も必死に攻撃性を剥き出して張り合って
騙し合い
出し抜きあい
疲れた。
- 452 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:44
-
もう
終わりにしよう。
いつまでもこんな関係を続けられないことはわかっているのだから。
もう
終わりにしよう。
そのために私は
この扉を
開ける。
終わらせるために
開ける。
私は
意を決して
部屋の扉を
開けた。
入るといきなり何かが飛んできた。
私が咄嗟に身をかがめてかわすと
それはドアにぶつかる。
破裂する音がして、
バラバラと私の頭に破片がかかった。
- 453 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:44
- 破片を手にとって見る。
ティーカップの破片だった。
続けて彼女はカップのソーサーを投げたが
私よりも1メートル手前に落ちて割れる。
最悪なことに彼女は食器棚の前にいたのだ。
もう手にグラスを持っている。
「ちょ……っと待って……」
グラスが飛んできた。
今度は私のところまで届いて肩に直撃した。
「痛……」
私の顔が歪む。
向こうはそれでも容赦なく
次々を食器を投げつけてきた。
とてもよけられない。
私は思わず身を丸める。
言葉とは思えない絶叫とともに
食器が絶え間なく飛んできた。
- 454 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:44
- 「わーーーー、バカ!!どこいってたんだよ!!」
その肩、背中、時には頭に食器がぶつかった。
背中にゴッ、と重いものがあたって激痛が走った。
みると、床にコーヒー豆のビンが転がっていた。
―――殺す気か……
カップ。皿。ワイングラス。
食器だけでなく
箸やシュガースティック、ティーバッグ。
とても攻撃力のなさそうなものまで
めちゃくちゃに投げつけてくる。
彼女は完全に壊れていた。
フォークが飛んできたときはさすがに手を出して顔をかばった。
回転したフォークの先が手首に当たって落ちる。
手首がジンとしびれる。見ると血が出ていた。
それでも攻撃は止まない。
―――死んじゃうよ……
私は必死の思いで立ち上がると
扉を開けて外に飛び出す。
そして、扉を閉めた。
- 455 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:44
- ガァン
扉に彼女が激突してくる。
私は全体重をかけて扉を開けさせない。
しばらくガンガンと扉を蹴り付けていたが
やがて離れていった。
中からは叫び声が聞こえてきた。それからすくみ上がるような物音。
ガシャン、グシャ、ゴト、バリ!
部屋の中の物を破壊する音が響く。
ガターン!
地面が震えるようなすごい音がした。
何だ今の音は!?
隣の部屋の扉が開いて、こちらをのぞいてくる。
―――いい加減、やばいだろ
隣の住人と目が会う前に私は再び中に入っていた。
中に入ると美貴たんは
食器棚ごと倒してしまっていた。
何て力……
- 456 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:44
- 美貴たんはぺたんと
倒れた棚の前にへたり込んで泣き叫んでいる。
「あーーーーー、うわぁぁぁぁーーーー」
口を大きく開けてぎゃーぎゃーと喚いていた。
「亜弥ちゃんのバカぁ。遅いよ!何してたんだよ!!」
私はぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。
―――このしゃべり方……
「美貴たん?」
「もう、美貴死んじゃいそうだったんだよーーー!バカーーー!」
暴れていたのはお姉ちゃんではなく、美貴たんだった。
美貴たんが、顔を上に向けてわんわん泣いている。
私は
呆然。
- 457 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:45
- 壊れた。
美貴たんが、壊れた。
美貴たんを放って家を空けることなんて
いままでなかった。
美貴たんから離れることなんてなかった。
しかし……
たった一晩で
ここまで壮絶にぶっ壊れるなんて
完全に想定外だ。
攻撃を仕掛けて来たからてっきり私は、
お姉ちゃんだと勘違いしてしまった。
こんなふうに、
美貴たんが私に感情をぶつけてくるなんて
信じられない。初めてだ。
美貴たんの叫びが止む。
ぎろりと私を睨むと
「何してんの早く来てよぉー!!!」
また叫んだ。
叫びながら、私を求めている。
- 458 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:45
- 私は
はっ、となって
土足のまま美貴たんの元に駆け寄る。
ジャリジャリと割れた食器を踏みつけ
倒れた食器棚に乗って向こうに渡った。
「……美貴た、うわぁ」
美貴たんの手がものすごい勢いで伸びてきて
私にしがみついてきた。
私はバランスを崩して
美貴たんの上に倒れこんだ。
美貴たんの手は私の背中に回り
シャツをぐいときつく掴んだ。
私は美貴たんの上に倒れたまま
美貴たんは離してくれない。
「ぐすん……、も…バカぁ!」
「痛い!」
爪が私の背中に食い込んできた。
でも美貴たんの顔に
殺意はまるでなく
逆に、
必死に私を離すまいとしているようだった。
必死に私にしがみついているみたいだった。
- 459 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:45
- 必死に……
私は
「美貴たん……ごめん……」
その痛みをしっかりと背中に受ける。
「1人にして、ごめん。
私、美貴たんのそばから離れないって決めたのに
何してたんだろうね……本当、ごめんね……」
「嫌だよ!」
「え?」
「亜弥ちゃんは美貴じゃないと、絶対に嫌だから……」
「美貴たん」
「絶対……許さないんだから」
手がゆるんだ。
私は立ち上がる。
美貴たんはしゃがみこんだ姿勢のまま
私をぎろりと睨みあげる。
目は真っ赤に腫れ、頬も赤かった。どれだけ泣いたのだろう。
美貴たんが立ち上がる。
私は思わず
一歩下がろうとしたが、
食器棚につかえて
お尻から転んでしまった。
- 460 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:45
- バンと、
棚の背面板にしりもちをつく。
「絶対に、許さないよ」
ダン、と音がして美貴たんが登ってきた。
倒れた私にのしかかってくる。
両肩に手をかけて。
「うわっ……ちょっと……」
そして
顔が近づいてきて
キスされた。
「むむ……んん……」
美貴たんは乱暴に
私の唇を吸い尽くすように貪るようにキスしてきた。
逃れようにも肩を押さえられているためかなわない。
荒い息遣いになされるまま
私は背面板に押し倒され、そのまま。
―――美貴たん……
- 461 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:45
- 私は
観念した。
―――いいや……美貴たんだし……
何度も後頭部を板にぶつけた。
美貴たんは私を喰らい尽くす。
―――顔が……熱い……
美貴たんは激しかった。
お姉ちゃんよりも全然、
強引で貪欲に私を奪っていく。
美貴たん……優しい美貴たんの底に
こんな強烈な激情が眠っていたなんて……
私のことを、
こんな滅茶苦茶に想ってくれていたなんて……
知らなかった。
何をしていたんだろう。
私は
美貴たんの愛情を
ちっとも知らなかった。
- 462 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:45
- ガン
また後頭部をぶつけられた。
美貴たんは構わず続けてくる。
―――痛い
私は
痛みと
幸せを感じていた。
美貴たんに
こうされることを
何度願っただろう。
私
全力で愛されてる。
板がメキメキと軋みだした。
2人の体重を支えるに限界がきたのだ。
私は、手にめいいっぱい力を入れて美貴たんを押し返した。
「美貴たん……ちょっと、ここ痛い」
- 463 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:46
- 美貴たんの目はとろんと半分になって、私の顔をじっと見つめてくる。
私は照れくさくなって、目をそらしてから言った。
「ベッドに行こう」
「……」
すると美貴たんは
ようやくいつもの顔に戻った。
頭を掻く。
「亜弥ちゃん……あのね、ごめんなさい……」
「ん?」
「ベッド、壊しちゃった……」
「え!?」
美貴たんに引っ張られて身体を起こすと部屋の中に行く。
すると
マットレスがびりびりに裂けて
中からスプリングがのぞいている。
とても使える状態じゃない。
「これ……待ってる間にやったの?」
「うん」
「どうやって?」
「包丁」
ぞっとなった。
もうちょっと帰るの遅かったら
部屋に火をつけられていたかも知れない。
- 464 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:46
- 「じゃあさ」
私は
美貴たんの手を握って言った。
手のひら
さっきまで
私の肩を強く押さえていた手のひら。
まだ熱い。
「買い物へ、行こう。食器も買わないと」
「でも、ここ片付けないと」
「後で!まずは美貴たんと買い物する!」
「……ありがと」
「何が?」
「ううん……」
むしろ
こっちから
ありがとう。
私なんかのことを
ここまで想ってくれるなんて。
- 465 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:46
- 私は心の中で誓った。
もう、
美貴たんからは絶対に離れない。
美貴たんを悲しませたり、
絶対にしない。
だって、こんなに想ってくれる。
私たちは、手をつないだまま部屋の外へ出て
街まで歩いて行った。
◇
- 466 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:46
-
それから数日の間
お姉ちゃんは一度も姿を見せなかった。
美貴たんはまたいつもの美貴たんで
可愛い美貴たんだった。
臆病な美貴たんだった。
私を求めてくることは
あのとき以来、
一度もなかった。
私の方も求めることは
しなかった。
お姉ちゃんになられると、
まだ困る。
まだ2人の関係は、
整理できていない。
ちょっと
寂しい気もしたけれど
私たちにとって
そういうことよりも
そういう関係よりも
2人の時間、
2人ですごす
この部屋この空間が大切。
- 467 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:46
- 美貴たんの気持ちも、
この間のことでわかった。
だから私は、
もう美貴たんのことで
不安になったりしない。
―――お姉ちゃん……
お姉ちゃんとの関係も、
これから
どうにかしなくてはならない。
お姉ちゃんが出てきたとき
私は
はっきり言おう。
美貴たんが好きだ、って。
美貴たんの何もかも、
お姉ちゃんになっているときも
私は受け止めたい。
愛していきたい。
だってそれも、
美貴たんなんだから。
- 468 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:46
- そう思って覚悟を決めた。
美貴たんから告白され、
始まった恋。
今度は
私から
お姉ちゃんに言おう。
全部好きだと。
お姉ちゃんが
再び戻ってくる日を
待った。
お姉ちゃんに
しっかり話をして
私の気持ちを
知ってもらいたかった。
お姉ちゃんに話すことで、
私たちの生活は
確実に変わる。
いい方向に?
悪い方向に?
わからない。
- 469 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:46
- ひょっとしたら
みんな幸せが
なくなってしまうかもしれない。
まだ
この間の件が
ひっかかっている。
私を重荷と言った
お姉ちゃんのこと。
今の幸せを
壊したくはない。
でも、
このまま臆病に
お姉ちゃんから逃げているだけでも
だめなんだ。
私は待った。
じっと待った。
美貴たんがいてくれる幸福と
この関係が続くようにという願いと
お姉ちゃんへの不安。
- 470 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/24(木) 20:47
- そして
その日はやってきた。
しかしそれは
あまり予期していない形で、だった。
美貴たんの中のお姉ちゃんを呼び覚ますものが
私の部屋に届いたのだ。
それは
高橋愛という人物からの手紙だった。
- 471 名前:いこーる 投稿日:2006/08/24(木) 20:47
- 今回は以上になります。
- 472 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/25(金) 00:26
- 続きが楽しみやら怖いやら・・・。w
- 473 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:52
- どうしてこんなに
分かり合うことができないだろう。
一度は
愛し合ったはずなのに。
- 474 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:53
-
9
- 475 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:53
- その朝、先に起きたのは私だった。
私はテーブルの上に
置いてあるものに気がついた。
「これ……」
それはUSBメモリーのスティック。
「美貴たんのだ」
美貴たんが以前から使っていたメモリーだった。
美貴たんはいつもこの中に、自分の書いた原稿を入れ
私に渡していた。
「ひょっとして……続きを書いたの?」
そう言えば、昨日
私がベッドに入ってからも
美貴たんは一人で何かをしていた。
美貴たんは続きを書いていたのだ。
『ふたりで』
私たちのえりさゆ本。
コミクラにいたあの少女が読みたがっていた
『ふたりで』の続きを、美貴たんが書いたのだ。
- 476 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:53
- ―――……美貴たん
私はメモリーをそっと、手の中に握り締めた。
嬉しい。
また美貴たんと
共同作業ができるんだ。
これからの時間に
想いを馳せ
私の心が
温まっていく。
水を飲んで着替えを済ますと
郵便受けの中身を取り出した。
「ん?」
郵便物の中に、見慣れぬ字でかかれた封筒が混じっていた。
宛名は……高橋愛。
愛ちゃん?
美貴たんが悩みの相談を持ちかけていたコ。
私は
一つ深呼吸。
そして
封を開けた。
- 477 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:53
-
自分なりにいろいろ考えました。
ごめんなさい、やっぱりあんなこと、するべきじゃなかった。
私はもう、あなたとは会いません。
私のことを好きと言ってくれた。それは嬉しかった。
でも、やっぱり美貴ちゃんには、亜弥ちゃんしかいないんだよ。
だから
このあいだの夜のことは、なかったことにしてくれませんか。
こんなことを言うと、あなたを傷つけてしまうかもしれないけれど、
亜弥ちゃんと美貴ちゃんの幸せを願って考えた、私なりの結論です。
高橋愛
- 478 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:53
- 私は、その手紙を複雑な思いで読んでいた。
美貴たんはやっぱりあの夜……。
手紙の中には、
2人が関係したことが
匂わせてある。
そして、愛ちゃんのことを
「好き」と言ったらしいことも
書いてある。
その部分を読むと
私の胸が
ぎゅうと
締め付けられるように
痛んだ。
悔しかった。
この事実を、すぐには受け止めることができなかった。
お姉ちゃんはやっぱり
私のことなんて
想ってくれていないのではないか。
自信がガタガタになる。
こんな状態で私は
お姉ちゃんに
何を話すことが
できるというのだろう。
- 479 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:54
- 私は自分の髪を強く握って、
手紙を何度も読み返していた。
お姉ちゃんに
この手紙を見せなくてはならない。
これは、
別れの手紙。
これを読んだお姉ちゃんは
どういう反応をするだろう。
私は、臆病になって決心がつかない。
でも
このままじゃダメだ。
しっかりお姉ちゃんと
向き合うと決めた。
美貴たんのために。
美貴たんだって私のため
こうして漫画の原案を作ってくれたのだ。
ここで、怖がっていちゃ
ダメだ。
- 480 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:54
- この手紙は
私と美貴たんで
幸せになれと書いてあるのだ。
これを見せて
自分の気持ちを話す。
でも
やっぱり
怖い。
私が自信のないときに限って
お姉ちゃんは現れる。
手紙の届いた朝
私よりもたっぷり遅れて起きてきた彼女は
機嫌が悪そうだった。
私は手紙をいったん置いて
「おはよう」
話しかける。
- 481 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:54
- 「亜弥ちゃん、どうしたの?」
「え?」
「困った顔してる」
ドキン
私の心臓が跳ね上がった。
なんて鋭い。
何もかもを見透いてしまいそうな。
……お姉ちゃん。
お姉ちゃんの鋭い目つきで
私は臆病をさらにかきたてられた。
お姉ちゃんが
「どうしたの?」
もう一度聞いてきた。
「いや……何でもない」
私は一旦そう答えた。
が、向こうは納得しない。
- 482 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:54
- 「いや、だって顔色悪いし」
「ね、寝起きだからじゃない?」
「ううん。寝起きの亜弥ちゃん
そんな顔しないもん。
私の方が、亜弥ちゃんよりも
亜弥ちゃんの顔を知ってる」
お姉ちゃんはそんなことを言った。
私の心臓が
私の支配を離れて勝手に脈打つ。
ものすごく速いペースで。
私の身体も
私の表情も
私の自由にはならず
むしろ私の知らないところまで
お姉ちゃんに露呈しているのだ。
私は全身で無防備なのだ。
いまさらにそんなことを思い
どんどん不安になっていく。
お姉ちゃんに手紙を見せるのが怖い。
手紙を見たお姉ちゃんが手紙に書いてある通り
私のことを想ってくれるようになるか、自信がない。
- 483 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:54
- でも
私は強く
見せなくては
こぶしを握った。
何もできないんだ。
「今日ね……」
覚悟を決めて
顔を上げて話し出した。
「手紙が届いたの」
「誰から?」
「愛ちゃん」
「え?」
相手の表情が曇る。
私は震える手で
手紙を渡した。
「ほら」
- 484 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:55
- 向こうが手紙を受け取るとき、
カサっ、と紙の擦れる音。
私は
彼女が手紙を読み終えるまで
相手の表情を見ることができなかった。
怖かったのだ。
手紙を置く音がしたので
私は
顔を上げて、その表情を見た。
その顔は、決して穏やかではなかった。
彼女は
じっと床の一点を見つめていた。
目を、いつもよりも大きく震えて
何か、こらえるように
小さく
震えていた。
それを見て私も凍り付いてしまった。
お姉ちゃんは、愛ちゃんからの別れの手紙を読んで
苦しんでいる。
悲しんでいる。
―――やっぱり、お姉ちゃんにとっては愛ちゃんが……
それでもお姉ちゃんは
愛ちゃんの言いたいことを
理解してくれるのではないか。
- 485 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:55
- 私は、すがる思いで、お姉ちゃんを見ていた。
けれどつらそうな表情は一向変わらない。
―――やっぱり、見せなければ……
徐々に私の中に後悔が溜まっていく。
そして
お姉ちゃんの言葉が
さらに私を打ちのめした。
「裏切られた」
そう一言、吐き捨てるように言った。
彼女は
涙を流していた。
その涙は二人の関係の中で最悪だった。
私に怒りをぶつけ
殴りかかってくる方がよほどまし。
彼女が私のためではなく
全然別の人のため
涙を流すという
虚しさ。
- 486 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:55
- 私の思いが
はじかれるでもなく
叩かれるでもなく
ただ
彼女は私を向いていないという
寂しさ。
これまでの、私の想い、何もかも
空振りだったと、知った瞬間。
お姉ちゃんの身体が
震えている。
震えはだんだん大きくなる。
目を赤くして
手が大きく震えていた。
その手が突然
パァン!
私の頬を叩いた。
私は
一瞬何が起きたかわからなかった。
ただぼうっと
頬が痛みに熱を持つのを感じながら
動けないでいた。
- 487 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:55
- ―――なんで……
意味がわからなかった。
八つ当たり?
なんで、私に?
お姉ちゃんの表情は
冷たく凍りついたまま
目から涙を流したまま
私に敵意をむき出していた。
「畜生……裏切られた……」
低い声で
またそう言う。
お姉ちゃんはまだ
手紙にこだわっている。
「ねぇ」
私は言った。
聞き取れないくらい小さく
意味を取れないくらい低く
「私は……何?」
- 488 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:55
- お姉ちゃんに聞いても
どうしようもないことだと
わかっていた。
そんなことを聞いては
私という存在にとどめを刺されることも
わかっていた。
「え?」
あるいは私は
とどめを刺して欲しかったのかもしれない。
私を終わらせて欲しかったのかもしれない。
「私は……美貴たんにとって何なの?」
何か、答えて。
石ころでも邪魔者でもなんでもいいから
お姉ちゃんの中で
私が存在できるとしたら
それは何?
教えて……
「知らないよ、そんなの…」
胸がズキンとなって
それでおしまいだった。
音はやけに遠く
世界のすべてから
私が切り離された気分になった。
- 489 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:56
- お姉ちゃんと
仲良く過ごすなんて
やっぱり無理だ。
お姉ちゃんと私は
ともに存在できない。
美貴たんが好き。
でも
お姉ちゃんは嫌い。
最初からわかっていた。
それでも美貴たんが好きだから
美貴たんと一緒にいてあげたいから
この手紙を見せた。
ありもしない勇気を
必死に絞ったふりをして。
結局何も
変わらない。
二人は今も
絶望的な関係。
- 490 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:56
- 私は
―――ごめん……美貴たん
彼女に背中を向け
ドアを開ける。
「亜弥ちゃん?」
背後で
声がした。
「どこ行くの?」
私は小さく首を振る。
「……美貴たん、ゆっくりしてて。
出るとき、郵便受けの中に鍵を入れといてくれればいいから」
「……亜弥ちゃん」
私は振り返らずに
- 491 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/08/28(月) 20:56
- 「もう……私たち、無理だよね」
「……」
「私……美貴たんのためにがんばろうと思ったけど
やっぱり……無理だよ」
「亜弥ちゃん……」
「こんな関係、いつまでもつづけていけない」
その言葉が最後。
私はドアを勢いよく閉めた。
歩き出した私の目に
涙がわっ、とあふれ出る。
拭こうと思ったとき
手の中にあるものに気がついた。
ずっと握ったままだった。
美貴たんの書いた『ふたりで』の最新作。
私はそれを握りつぶそうと手に力を入れたが
メモリーはあくまで硬く
存在感を主張して
私の手の中
ずっと残っていた。
- 492 名前:いこーる 投稿日:2006/08/28(月) 20:56
- 本日の更新は以上になります。
- 493 名前:いこーる 投稿日:2006/08/28(月) 20:57
- >>472
レスもらうのが楽しみやら怖いやら……
いつもありがとうございます。
レスはいつも作者の最大の関心ごとですw
- 494 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/28(月) 23:46
- 少し泣いてしまいました。
亜弥ちゃんの気持ちを思うと、もう…
- 495 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/02(土) 00:08
- 話が盛り上がってるとレスを控えてしまうのですが
いつも更新楽しみにしてます
- 496 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:34
- 気付くのが遅すぎたかも知れない。
- 497 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:35
-
10
- 498 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:35
- 私はラウンジの中央にいた。
コミクラのメンバーが
今日は大勢いた。
私は
その真ん中。
結局ここに
来てしまう。
結局私は
居場所が欲しくてたまらない。
久しぶりに顔を見せた私を
みんなが歓迎してくれようとした。
しかし、それも一瞬。
私の表情が
異常だということに気づいた絵里が
私を座らせ、
そっと手を取った。
―――あったかい……
ここはあったかい。
私を無条件に
受け入れてくれる。
そのあたたかさは
あまりに居心地が良すぎて
それに浸ってしまう自分に
嫌気がさしてしまうほど。
- 499 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:35
- みんなが優しいのに
私……何をしているんだろう。
みんなが優しいのに
その感情は結局、
いたたまれなさ。
つまり
居心地の悪さ。
自分の一番、
見せちゃいけない部分が
知らないうちに流れ出して
みんながそれを掬い取ってる
そんな気分。
私は到着して早くも
ここから
立ち去りたくなってしまった。
しかし
「ダメだよ、帰っちゃ」
さゆがそう言った。
「今、亜弥ちゃん一人になったら死んじゃいそうだもん」
「まさか……」
まさかと言ったけれど
その先は自信がなかった。
- 500 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:35
- もう私は帰りたかったけれど
心配かけるとこのコたちは
いつまでたっても私のこと
解放しないだろうから
何とか言葉を紡ごうと
私は努力をするけれど
出てきたものはため息だ。
そんな私の頭を
絵里の手が
そっと
包むように撫ぜる。
「……ごめ、ん。私……」
「ねぇ……話してよ。どうしたの?」
それでも私は
しばらく意固地に
話さなかった。
みんなの優しさに甘える
自分自身の情けなさに
私は頑固になっている。
無意味に。
「あれ?亜弥ちゃん、手に何持ってるの?」
- 501 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:35
- さゆに言われて気がついた。
私、ずっと持っていたんだ。
美貴たんの書いた原稿を。
新しい「えりさゆ」を。
私は『ふたりで』の最新作だと説明した。
「へぇ、続きやるんだ。わぁ」
「どんな話なの?」
「私も、まだ読んでないんだ。
さっき、受け取ったばっかりで……」
その後しばらく沈黙が訪れた。
気まずい。
絵里の表情が曇ってた。
その顔に私は、嫌なものを感じ取っていた。
「ねぇ亜弥ちゃん」
絵里の声は
いつものふんわりした感じがまるでなく
とても鋭く
厳しかった。
突然の変わりように
私もさゆも驚いて
何も返答ができない。
- 502 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:36
- 絵里は
私の顔をまっすぐに見た。
そして言った。
「美貴ちゃんと、何があったの?」
私は、そのとき間抜けな顔をしてただろうと思う。
絵里が、私の心の中まで見てくるみたいに思えて
私はどうしていいかわからなくなってしまったのだ。
「ど、どうして?」
「まだ見てないってことはその新作
美貴ちゃんからもらったばかりなんでしょ?
なのに、どうして落ち込んでるの?」
絵里の鋭さに
私の防御がどんどん頼りなくなっていく。
「普通さ、喜ぶよね」
本当はこのコたちに弱い自分を見せたくない。
えりさゆは、学校に行けなくなった不登校生で
私はお姉さんとしてこのコたちと接しているつもりでいた。
- 503 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:36
- それはつまらない強がりかもしれないけれど
お姉さんという役割を剥ぎ取られたら
醜い私の何もかもが露呈してしまったら
―――ダメ……もう私は
もう私は私として
このコたちと接することができない、そう思っていた。
「絵里……」
絵里は一つ、
ため息をついて
また私を見る。
「ねぇ亜弥ちゃん」
その目は、とても年下とは思えない。
―――頼っちゃって、いい?
「何かあったんでしょ」
もう限界だった。
私は
絵里の肩に額を乗せてしまう。
それを絵里が包み込む。
無言でじっと待ってくれた。
- 504 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:36
- そして私は語りだした。
美貴たんと私が、すれ違ってしまった
その話を。
これまで誰にも話すことのなかった
美貴たんとお姉ちゃんのこと。
美貴たんの心の問題を
初めて誰かに話してしまった。
そのことに罪悪と自己嫌悪を感じながらも
弱い私は、どんどん溢れて止まらない。
お姉ちゃんといつも喧嘩していることをぶちまけた。
彼女が愛ちゃんという女の子に相談を持ちかけ
美貴たんを奪っていってしまったのだということを
たっぷりの憎しみと恨みをこめて
そういう醜い感情を
何一つ隠さずにぶつけていた。
本当に私は、ダメなやつだ。
全部を話し終えて、ようやく私は2人の顔を見ることができた。
2人は当惑したように、顔を見合わせしばらく、そのまま。
- 505 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:36
- 私は話してしまった後悔と
それでも多少すっきりして軽くなった心で
2人のリアクションを待っていた。
ずいぶん待って
ようやく絵里が口を開いた
「ね、ねぇ……それって、本当なの?」
「うん」
すると再び、2人は顔を見合わせる。
そして絵里は
予想もしなかったことを話し始めた。
「私の聞いてる話と、ちょっと違うんだけど……」
「は?聞いてるって……私たちのこと?」
「うん」
「誰から?」
「亜弥ちゃん、こないだここに来たでしょう?」
絵里は、私の疑問には答えず話を先に進めた。
「う、うん」
「そのとき、女の子に会ったでしょう?」
- 506 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:36
- 絵里はテンポよく、
こっちが居心地悪くなるくらいテンポよく話を進めてしまう。
「なんで、知ってるの?」
「それって……」
絵里は、携帯を取り出して何か操作すると
「このコだよね」
写真を私に見せてきた。
そこには3人が写っていた。
絵里、さゆ、そしてこないだ私が泊めてもらったあの少女だった。
背景は、大学の図書館前。
誰が撮影したのだろう。3人は仲良さそうによりそって
カメラに向かって笑顔をうかべていた。
「う、うん」
「いい亜弥ちゃん?」
「何?」
絵里は、その少女のところを指差して、言った。
「このコの名前は、高橋愛」
- 507 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:37
- 「は?」
「亜弥ちゃんが泊まったのは、愛ちゃんの部屋だったんだよ」
その瞬間、私は
―――なんてこと……
自分の勘違いをすべて悟った。
私は、美貴たんと一緒にいた女の人を
愛ちゃんと勘違いした。
美貴たんの言葉で。
―――でも愛ちゃんくらいにしか相談できなくって
これを聞いて、てっきり美貴たんの話し相手が愛ちゃんなのだと。
絵里は語る。
「亜弥ちゃんと会った日ね、
愛ちゃんは美貴ちゃんからの相談を受けて
学校に来ていた。
でも、悩みの内容が愛ちゃん一人の手に負えそうになかった。
だから専門家を紹介したんだよ」
それが、私の見た、女の人。
あれは愛ちゃんではなく、別の人。
- 508 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:37
- 「専門家って……」
「精神カウンセラ、名前は確か……」
「カウンセラ?」
「そう。愛ちゃんは、美貴ちゃんの悩みを聞いて
それならカウンセラに頼んだ方がいいと判断したの」
美貴たんが悩みを抱えていた。
その内容を私は、ずっと知らずにいた。
カウンセラが必要になる悩み。
それは……決まってる。
美貴たんの人格の問題だ。
「美貴たん……自分で……」
美貴たんは自分で
解決させるつもりだったのだ。
私に頼ってばかりではなく
自分から相談をして……。
なんてこと
私は、まったく気づいていなかった。
その専門家さんと美貴たんが会っている、ちょうどそのとき
コミクラに行った私はそこで、愛ちゃんと会ったのだ。
- 509 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:37
- でも、勘違いした私は、私の目の前にいる人物が愛ちゃんだということに気づかない。
名前だって聞かなかった。
考えてみたら
あのコが少なくとも
美貴たんの知り合いだということに
私はあの時点で
気づいてなきゃいけなかったのだ。
それを示すヒントは
愛ちゃんとの会話の中にあった。
愛ちゃんが
『ふたりで』を読んでいると知って
私は彼女にこういった。
―――私たちの読んでるの?
すると愛ちゃんは答えた。
―――あなたが亜弥ちゃん!?
『ふたりで』の作者は
私と美貴たんの連名になっているのに
彼女は私を美貴たんではなく
「亜弥ちゃん」と即座に判断した。
つまり
彼女は美貴たんのことを知っていた、ということになる。
- 510 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:38
- 絵里の話によると、愛ちゃんはあの時点で
美貴たんから相談を受けていた。
そして美貴たんが、専門家と会っていることも当然、知っていた。
そこへ私が現れたのだ。
彼女が私のことを「気になる」と言ったのは他でもない
美貴たんから相談を受けていたから、二人の関係を心配していたにすぎない。
それを
私は
自分に対する好意と勘違いした。
そして調子に乗った私は
彼女に酒を飲ませ
前後不覚になったのを見てとると
部屋に押しかけた。
―――一人になりたくなかったから
愛ちゃんは
私と一晩過ごしたことに対して
責任を感じていたのだろう。
だから「私宛に」手紙を書いたのだ。
なぜそれを美貴たんに宛てた手紙だと勘違いしたのだろう。
そんなものが私の部屋に、届くはずがないではないか。
- 511 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:38
- >自分なりにいろいろ考えました。
>ごめんなさい、やっぱりあんなこと、するべきじゃなかった。
>私はもう、あなたとは会いません。
>私のことを好きと言ってくれた。それは嬉しかった。
>でも、やっぱり美貴ちゃんには、亜弥ちゃんしかいないんだよ。
>だから
>このあいだの夜のことは、なかったことにしてくれませんか。
>こんなことを言うと、あなたを傷つけてしまうかもしれないけれど、
>亜弥ちゃんと美貴ちゃんの幸せを願って考えた、私なりの結論です。
> 高橋愛
ここでいう「あなた」は、もちろん私。
私が愛ちゃんの部屋でしてしまったことを
なかったことにしてくれ、と言っていた。
>私のことを好きと言ってくれた。それは嬉しかった。
そう。
確かに私は、言った。
―――もう、きっと愛ちゃんのこと好きになっちゃったよ
あの状況で、あの発言。
愛ちゃんからしてみれば
それを「告白」と勘違いしても
おかしくない。
- 512 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:38
- この手紙にかかれているのは全部、私の犯した過ち。
わたしはそれを
―――よりによって……
お姉ちゃんに見せてしまったのだ。
お姉ちゃんの言葉が脳裏によみがえる。
―――裏切られた
あれは愛ちゃんに向けた言葉なんかではなかった。
あれは
「私に言ってたんだ……」
私のことを、責める言葉だった。
それを私は
意味もわからず呆けた反応を。
「私……なんてことを……」
私は
美貴たんを裏切ったのだ。
その事実が
私を暗く光の届かない深淵まで引きずり落とす。
私は、顔を上げる力もなくがっくりとうなだれたままだった。
- 513 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:38
- すべて
私が勝手に思い込んで
私が勝手に怒って
私が勝手に泣いてただけ。
美貴たんは私を裏切ってなんかいない。
美貴たんはただ、
お姉ちゃんと美貴たんとの関係をどうにかしようと
相談をしていただけだった。
その、美貴たんの気持ちを想像すると
私は申し訳なくて押しつぶされそうになる。
自分が問題を抱えているということを
勇気を持って相談したのだ。
なんのため?
私のために決まってる。
お姉ちゃんが出てくるたび
私と美貴たんの関係は阻まれていた。
美貴たんは美貴たんなりに
責任を感じていたんだ。
―――……美貴たん
だから私に黙って
愛ちゃんに相談をし
専門家の助言を聞くことにした。
- 514 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:39
- すべて
私のためだった。
それらの好意、美貴たんの想い、何もかも
私が一人で、めちゃくちゃにした。
美貴たんをひどく、傷つけてしまった。
私は立ち上がる。
「亜弥ちゃん、大丈夫?」
「私、美貴たんにもう、会えないや……」
「何言ってるの?そんなこと言わないで!
ちゃんと話せばきっと……」
「ううん。全部私のせいだったなんて……
そりゃ、殴られて当然だ」
どうせなら
あのとき
「いっそ殺されていればよかった」
私はふらふらと歩きだす。
それをさゆがぐいと引き止めていた。
「さゆ、離して」
「でも……」
「私……
大好きな美貴たんを、私が一番傷つけてた。
このままじゃ私……」
―――美貴たんを、愛する資格なんて、ない
- 515 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:39
- 「……亜弥ちゃん」
私は
打ちのめされていた。
自分のしてしまったこと、
自分が傷つけてしまった人。
もう頭の中が真っ白で
何かを考えることなんてできない。
ただただ、私がしてしまったことを
その痛みがずっと胸をつく。
「ううう……」
私は、ダメだ。自分勝手な勘違いで
一番大切な人を裏切ってしまったことに
今まで気づいていなかったなんて
私、最悪だ。
さゆの手が
背中に回ったのがわかる。
私を気遣って。
こんな私を。
- 516 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:39
- その
さゆの優しさがとどめ。
罪悪と悔しさと惨めさと
それらが心の中でない交ぜになって
吹き出してくる。
私は子どもみたいに泣き声を上げてしまった。
「あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
自分の絶叫を抑えることができない。
その獣の彷徨のような叫びはラウンジ中に響き渡り
それでも私の心はちっとも晴れないでいる。
さゆが
つられて泣き出してしまった。
そんなさゆを絵里が連れ出す。
「さゆ……」
「絵里、亜弥ちゃんが…」
「そっとしておいてあげよう」
- 517 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/09/03(日) 21:39
- 絵里の声は悲痛に沈んでいた。
私を、ラウンジにいたみんなが一歩引いて見ている。
それが
ありがたかった。
今はどんななぐさめも
私の罪の意識を深くするだけ。
そっとしとこうと言った絵里の判断は
正しい。
私はいつまでも自分を止められず
みっともなく床に崩れ落ちて
ずっとずっと泣き叫んでいた。
- 518 名前:いこーる 投稿日:2006/09/03(日) 21:40
- 本日は以上になります。
- 519 名前:いこーる 投稿日:2006/09/03(日) 21:42
- >>494
そのお言葉に泣いてしまいました。
また何かを感じていただける話を書こうと思いました。
>>495
レスありがとうございます。
話の切りがいつもわるくてすみません……
- 520 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 22:21
- まさかの展開に驚きを隠せません。
自然と物語の中に惹き込まれて、涙していました。
続きも楽しみに待っています。
- 521 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/05(火) 00:03
- 美貴たんっ(PД`q。)
あぁ、そういうことだったのかぁ…。切なすぎる!
続き楽しみにしてます。
- 522 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/06(水) 00:58
- うわぁ。。。ツライわぁ。。。
- 523 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:28
- そこは白い四角い2階建てのアパートだった。
周囲の建物に隠れるようなたたずまい。
どこから見ても
視界が何かに遮られ
全貌が知れない。
何かの間から
ときどき白が見えるのを確認しながら
- 524 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:29
-
11
- 525 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:29
- いわれたとおりの道順に
いわれたとおりのたたずまいの
白い四角い2階建て。
絵里から聞いた場所だった。
絵里……
……
◇
あのあと、
自分の失態に気づいた私が
散々泣きまくった後も
絵里たちの対応は
何ら変わらなかった。
みじめな顔をした私
それでも
あの子たちは私を
いつもの私として受け止め
話を聞いてくれた。
一緒に考えてくれた。
- 526 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:29
- さゆみは
ずっと頑固に
「美貴ちゃんに会いに行きなよ」と
励まし続けた。
こちらが何を言っても
周りが何を話しても
さゆみの姿勢は
変わらなかった。
この頑強さは
どこからくるのか
学校で居場所をなくしたさゆみのどこに
これほどの強さがあるのか
私にはわからなかった。
しかしさゆみの澄んだ目がじっと
私から動かずに
弱った私に深く深く突き刺さった。
私は
さゆみの気遣いをありがたく感じながらも
しかし美貴たんと顔を合わせる勇気がない。
- 527 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:29
- だって
美貴たんに会いに行く資格なんかない。
会って言葉をかけてもらうことなんて
できるわけがない。
その前に私は
自分の罪悪をすべて
清算しなくてはならない。
でも
どうすれば……
私の思考はそこで行き詰まり
頭を抱えてしまう。
さゆみが励ましてくれるけれど
こればかりは
どうしようもなかった。
その困ったことになった
場の空気が
変わった。
気まずさに
流れを止めていた時間が
そよ風のように
動き出した。
扉の開く音がして
コミクラのみんなの目が
ラウンジの入り口に
向かう。
- 528 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:29
- 絵里が、立ち上がって声を上げた。
「愛ちゃん!」
私が振り返ると
愛ちゃんが
―――私が縋った少女が
足早に、こちらに向かってきていた。
ヒールの音が甲高く
天井にこだまして心地よく響く。
白いワンピースを着た愛ちゃんが来ると
自然と周囲は場所を空けていた。
愛ちゃんは
ごく自然な様子で
私のとなりに腰をかけた。
その間
私は、愛ちゃんに見入ってしまい
止まったまま。
気まずさのようなものはなかった。
なぜなら
彼女の表情に隙がなかったのだ。
頼もしそうな顔で私を見て一つ
うなづく。
- 529 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:30
- 登場の仕方
そのタイミング
仕草振る舞い。
私に一切
圧迫感を与えず彼女は
私の手を取っていった。
「大丈夫だからね」
まだ閉まりきらない入り口から
冷えた風が
ひゅうと吹き抜け
愛ちゃんの髪を
ふわり持ち上げた。
それで愛ちゃんの
凛とした表情が
はっきりと見える。
―――やっぱり不思議。
彼女の「大丈夫」は
何も知らない
無邪気な子供の
能天気さのようでもあり
またあるいは、
あらゆるものを知り尽くした
老成から来る自信のようでもあった。
- 530 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:30
- 私の中の
詰まった苦しさが
ゆっくりと
流れ出すような感じ。
「亜弥ちゃん」
愛ちゃんは
私の名を呼んで
そこで止めた。
周囲の誰もが
彼女の次の言葉を待った。
この
鬱屈した雰囲気を
愛ちゃんの言葉が
どうにかしてくれる。
誰もが
それを期待していた。
「飯田さんに、会いに行って」
……
- 531 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:30
- ◇
アパートに着くと
2階にあがって
一番奥の扉まで来た。
―――ここに、飯田さんがいる。
愛ちゃんの話は、飯田さんに会いに行くけ、というものだった。
あのとき美貴たんと話をしていた
精神カウンセラが飯田さんだという。
愛ちゃんは私の手を取り
まっすぐに見つめて
言った。
「飯田さんと話をして
亜弥ちゃんと美貴たんの間に横たわる問題、それと向き合う。
そうすればきっと、二人はまた一緒に暮らせるはず」
その言葉を聞き
他にどうしようもなかった私は
飯田さんに会いに行くことにした。
しかし
どこに行けばいいかわからない。
- 532 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:30
- 美貴たんと会った後
連絡先を変えてしまったらしく
愛ちゃんにも番号がわからなかった。
美貴たんなら
番号を知っているかも知れなかったけど
それを聞くと
美貴たんにおかしく思われるだろう。
お姉ちゃんがいるかもしれないし。
第一
美貴たんとまともに会話ができないから
こんなことになっているのだ。
ただ写真だけは
愛ちゃんが持っていた。
それを見て
絵里が言った。
「この人って、確かのんちゃんたちのところにいた」
「え?」
「うん、あいぼんの赤ちゃんが産まれたとき
私とさゆと、二人で遊びに行ったの。
そのとき私たちが帰るのと入れ違いに
戻って来た人だよ。間違いない」
そこで絵里に道順を教えてもらい
私はここにやってきた。
愛ちゃんは「ついていこうか?」と言ってくれたけれど
私は断った。
- 533 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:30
- これは私の問題。
私が自分で
解決させなければならないことだ。
――私と美貴たんの間に横たわる問題……
それと向き合う。
私は一つ深呼吸をして扉を見た。
ここが
のんちゃんとあいぼん
二人が暮らす部屋。
二人は今、産まれたばかりの赤ん坊と一緒にいるという。
私は
扉を叩いた。
「はーい。…あ!」
「あ!」
向かいあった私たちは同時に声をあげていた。
「紺ちゃん!」
中にいたのは
紺ちゃんだった。
- 534 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:31
- 「ちょうどよかった」
紺ちゃんは
よくわからないことを言った。
「さ、入ってー」
「いいの?」
「うん。2人に会いに来たんでしょう?」
私は扉をくぐり靴を脱いで
部屋の中へと入った。
中は外よりも
暖かかかった。
そとの冷たいなかを歩いていた私は
急にふぅ、と包まれるような
そんな夢見心地だった。
「国民的アイドル登場だね」
紺ちゃんはそんなことを言う。
「なにそれ?」
「のんちゃんたちの漫画」
相変わらずふわふわしたしゃべり方。
- 535 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:31
- 部屋の空気と相まって
私には彼女が
夢の中に立っている人みたいに
感じられた。
―――夢の住人……
部屋に入るとのんちゃんが
原稿用紙に鉛筆を走らせていた。
私が入ると気配に顔を上げる。
「あ!」
のんちゃんは
大慌てで
書いていた原稿を
かき集めて隠した。
「ダメ!見ちゃダメ!」
「ははは、そんな見たりしないって。
完成を楽しみにしてます」
「本当?」
「もちろん」
「わかった。楽しみにしててね。
今度のあやみきは、幸せになるからね」
- 536 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:31
- あやみきは、
幸せに……
私の顔がふ、っと下に向いた。
「のんちゃん」
こもった声は震えていた。
「それ……」
「ん?」
「絶対……完成、させてね」
―――私……
「わかった、がんばるよ」
―――私も、頑張るから。
幸せを手に入れるから。
紺ちゃんが奥に行き
代わりにあいぼんが
私の前に姿を見せた。
紺ちゃんは
赤ちゃんの面倒を見るらしい。
- 537 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:31
- 「あいぼん、マジひさしぶり」
「ひさしぶり」
あいぼんは
ゆっくり答えた。
私は一目で
2人が幸せなのを
見て取った。
満たされている生活が
そのぬくもりが
この部屋の中に
あふれてる。
だけど
―――この違和感は、なんだろう……
幸せな2人。
あたたかい部屋。
でもそのあたたかさは
2人にしか感じられなくて
私は何であたたかいのか
何が楽しいのか
一切感じ取ることができない。
ルールのわからないゲームを
人の後ろから眺めているみたい。
そんな違和感。
- 538 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:31
- あいぼんはのんちゃんの隣に腰をかけ
私と向かい合った。
「歌の調子はどう?」
「え……」
歌?
「レッスンとか、大変なんでしょう?」
なんだ。漫画の話じゃないか。
あいぼんは
目を輝かせて聞いてきた。
私はどう答えていいかわからず
のんちゃんを見た。
しかしのんちゃんは
ごく普通の顔でいる。
「あ、えーっと。うん。まあまあね」
「そっか」
「美貴ちゃんも」
「え?」
今度はのんちゃんが聞いて来た。
「美貴ちゃんも忙しいよね。お仕事とか」
「えーと、うん」
- 539 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:32
- 私は
二人が
冗談を言っていると
そう思うことにした。
てか、冗談に決まってるし。
だってそれは、2人の漫画での話だし。
2人は昔からこうやって
人を乗っけて喜ぶという
子どもみたいなくせがあった。
だから私もいちいち突っ込まずに流す。
「2人が元気そうでよかった」
「うん。のんがね、料理の腕を上げたよ」
「へぇ、今度食べさせて」
「わかった。じゃあ今度、楽屋に差し入れもってくよ」
まだ引っ張るか……。
私は苦笑いを見せた。
すると2人も笑顔を
私に見せてきた。
- 540 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:32
- 「ところでさ、どっちか、飯田さんの連絡先知らない?」
私は今度は話をそらした。
いつまでも2人の世界に
付き合っているわけにもいかない。
自分の目的がある。
「飯田さん?ほんならうちが知ってるよ」
あいぼんがそう言った。
さすがにもう
冗談を続けることはしなかった。
あいぼんが携帯を取り出して
電話をかけてくれた。
「もしもし、飯田さん?
ひさしぶりぃ。
あんなぁ、亜弥ちゃんがな……。
うんうん。なんかね、会いたいんだってー。
ん?ちょっと待ってー」
あいぼんは受話器を
「待ち合わせはどこがいいかって?」
- 541 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:32
- 私によこして来た。
私は受話器を受け取って話す。
用件は何か、と聞かれたので
「美貴たんのことです」とだけ答えた。
『美貴ちゃん、そこにいるの?』
「いません」
『いないほうが、いいの?』
話が早い。
私たちの事情も
よくわかっているみたいだ。
私は
受話器の向こうの声に
支えられるような気持ちがした。
飯田さんに頼れば
悪いようにはならない。
そう思った。
心の中が熱く、押し上げられる。
―――私たち、なんとかなる。
- 542 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/20(金) 20:32
- それは根拠のない安心感。
それでも確かに、安心感。
受話器をあいぼんに戻して
私は立ち上がった。
最後にドアを開けて紺ちゃんにも挨拶する。
「あ、もう帰るの?アイドルは忙しいねぇ」
「こ、紺ちゃんまで……」
「ははは」
私が部屋を出ていくのを
3人して見送ってくれた。
狭い玄関に横並びに
笑顔を並べて見送られ
私は外の寒さの中へ
歩き出した。
- 543 名前:いこーる 投稿日:2006/10/20(金) 20:32
- 以上になります。お待たせしてすみませんでした。
- 544 名前:いこーる 投稿日:2006/10/20(金) 20:33
- >>520
>>521
>>522
書きながら自分も切なくなってきますw
- 545 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/21(土) 00:52
- 読んでいて鳥肌が立ってしまいました。
こんなにゾクゾクしたのは初めてです。
色んな意味で凄いです。
更新お疲れ様です。
大量更新嬉しかったです。
作者さまマイペースで頑張ってください。
- 546 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:00
- そんなのは
私たちだけでたくさんだ。
こっちの世界だけで
もうたくさんだ。
- 547 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:00
-
12
- 548 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:00
- 先についたのは私の方だった。
コーヒーだけを注文し
カウンターで受け取ると
私は席に移動した。
飯田さんとの待ち合わせは
この席が指定されていた。
話をするのは初めてでも
互い顔は知っている。
私は食堂を見回した。
ガラス張りの食堂は
たっぷり光が差し込んで
静かな暖かさに包まれる。
それはこの場所独特の
時間を止めた雰囲気。
世界を忘れてみせる
一時の幸福。
その
張りぼての幸福に誘われるように
私は思い出していた。
美貴たんと
初めて会った
その日のこと。
ちょうどこの場所
こんな陽気の日。
- 549 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:00
-
1回目のデートは
キャンパスの食堂。
1限を終えてラウンジに行くと
そこには美貴たんしかいなかった。
午前中
いつも人は少ないが、
美貴たんだけってのはそれが初めてだった。
「ご飯、いつも食堂だっけ?」
美貴たんの一言で
わたしたちはサークル員が集まるより先に
ラウンジを後にしていた。
この人についていこうと、どうして思ったか
今となっては思い出せない。
- 550 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:01
-
私はぐっと目を閉じて
自分が一体どのような
気持ちで美貴たんと会っていたか
それを思い出してみる。
私はあの時
確かに
「ついていこう」と、
そう思った。
ついていこうと思えるほど
美貴たんは大人に見えてたし
実際、最初のころは私の行動、発言などを
取りまとめたり諌めたり
全てにおいて彼女がお姉さんだった。
きっとそれだけだったなら
私は彼女に惹かれなかっただろうと思う。
- 551 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:01
-
しかしあの時
食堂での会話はぎこちなかった。
なんていうか、
美貴たんはいちいちそっけない人だった。
今ではそれが彼女の自然体とわかってる。
でもそのときは
なんか怖かった。
その
微妙な空気を向こうでも感じたのだろう。
そして
その空気を変えようと
美貴たんなりに気を回したのかも知れない。
あろうことか美貴たんは
私のスパゲティを横取りしてきた。
先輩のくせになんてやつだ、と思った。
わたしはお返しに彼女の餃子を3つ一気に食べた。
- 552 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:01
- 一気に子ども化した彼女。
急に幼い面を私に見せた。
そこがすごく、かわいかった。
そしてそれこそが
美貴たん本来の姿であるはずだった。
美貴たん。
とても大好きな
「おまたせ」
声が聞こえたので
考え事を中止して
私は顔を上げて見た。
飯田さんが
到着していた。
私は
笑顔をつくろうとしたが
できなかった。
飯田さんの表情は
私の想像していたよりも
ずっと険しいものだった。
- 553 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:01
- もっとも
飯田さんは
私たちの関係をよく知っている。
美貴たんからそれを
聞いているはずだ。
それを今度は
私からの相談ごと。
深刻な顔になるのも当然だと、
私は彼女の怖い顔をそう理解した。
しかし
反対に飯田さんに言われた。
「へこんでる顔してる」
「え?」
「亜弥ちゃん、死んだような顔してるよ」
私が?
「気づかなかった?」
「……はい」
「まあしょうがないか」
飯田さんが席につく。
私の正面に。
- 554 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:02
- 「さてと」と言って
私を
見た。
妙な緊張が
私の体を駆け巡る。
「自分の顔なんて一番見えないもんね。
人は自分を映す鏡だなんて言葉もあるけれど
確かに私たちは自分の顔を知らない。
知らないけれど、一緒にいる人が楽しそうなら楽しくなる。
一緒にいる人が辛そうにしていたら、一緒に辛くなってしまう」
飯田さんは専門家らしい口調で語る。
これがこの人の平素なのだろうか。
いや、そうじゃない。
美貴たんにはもっと、普通の語り方で接していたはずだ。
「鏡像段階はとっくに過ぎ去ったはずでも
やはり私たちは、自己の決定を他者に委ねなくてはならない」
だとしたら
専門家モードの彼女は作られたものだ。
私と向かうために用意された顔なのだ。
私の周囲の空気だけが
張り詰めたまま凍りつく。
- 555 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:02
- 「人が恋しい、誰かにそばにいてほしい。
それは、自分を誰かに認めてほしいという欲望。
誰かに抱かれている間は、自分の輪郭がはっきりするんだから。
自己の輪郭は、身近な他者の存在によって支えられているんだね」
「飯田さん」
私は、いつ終わるかわからない話をさえぎった。
「私たちのことは、ご存知なんですよね」
「知ってるよ。藤本からよく聞いてる」
藤本?
こないだ「美貴ちゃん」て呼んでたじゃないか。
これも精神分析用の彼女のモードか。
「だから」
飯田さんは
笑った。
「今、その話をしてるんじゃない」
「は?」
意味がわからない。
- 556 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:02
- 彼女の言葉が
私には通じない。
そのことが
私をいらだたせる。
頭のいい人となんて
話をするもんじゃない。
「どういう、意味ですか?」
私は上目遣いにうかがうように
聞いた。
彼女はさっと
笑顔を消して
真顔の冷たい表情で
私をじっと見ながら
言った。
「藤本の今の姿は、君の欲望の現れだって言ってるの」
私の周囲から
音が遠のいた。
―――私の、欲望?
変わりに私の内部からは
ガラスを擦るような耳鳴りが湧いて出る。
- 557 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:03
- ―――ああ、この人は
飯田さんは私の味方じゃないんだ。
味方してくれやしないんだ。
―――そもそも、私には最初から味方なんて
飯田さんは敵だ。
私を追い詰めて殺そうとしている。
そしてこの敵に……私は絶対適わないんだ。
「2人の関係をよく見つめてみな。
君が、君の認識が全ての原因だと、どうして気づかない?」
私?
私が
原因だって?
「2人が出会ったときを思い出してみな。
その頃の藤本、君の上でも下でもなかったはず……」
私は思わず、目をきょろきょろと忙しく動かした。
心が落ち着きを失って、どこに目を向けていいかわからなかった。
- 558 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:03
- 「いや、こう言ったほうがいいかな。
藤本は、
君より上に立つこともあったし
君より下に立つこともあった。
そうじゃない?」
飯田さんは、
冷たい姿勢を貫いている。
今ならわかる。
この口調は、専門家を気取るためなんかじゃない。
これは、私を追いたて
私自身の問題に気づかせるための、彼女の戦術だ。
「その、とおりです」
私は恐怖した。
私の知らない間に
私の中の私という私が
晒されてしまう。
「松浦、君にとって居心地がよかったのは、どっちの関係のとき?」
―――妹の美貴たんがかわいかった。
「自分が、上にいるときが、よかった……」
- 559 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:03
- それが
原因だと言うのか。
「本来、恋人関係なんだから、対等のときもあるし
どっちかが調子いいときもある。
どっちがリードを取るか、いろいろな要因で
そのときそのときで決まっていくもんだ。
しかし、松浦はそれを許さない。
松浦はつねに、藤本よりも上に立っていたい……」
「もう、……わかりました」
私は手の平をかざして飯田さんの話をさえぎる。
もうこれ以上、言われなくてもわかる。
美貴たんの妹な部分ばかり見ていたい私は
美貴たんがお姉さんとして振舞おうとするのを嫌った。
その気持ちは、きっと表情や口調に出ていただろう。
それを見た美貴たんは、戸惑ったことだろう。
「私が美貴たんを……」
- 560 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:03
- そして
美貴たんの大人な面は
私との関係の中で
抑圧されていった。
それが美貴たんという人格にとっては
歪んだ形だったのだ。
大人としての自分を
決して出してはならない。
そのストレスが
美貴たんの内面を
弱らせていった。
「私が美貴たんを歪めていたの?」
押さえつけられた大人としての美貴たんが
心の奥底でだんだん集合していき、
「お姉ちゃん」という一つの人格を
形作っていった。
「私……」
私は
涙を流していた。
- 561 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:03
- ―――美貴たんが好きだった。
「……美貴たんを愛しているつもりで……
本当は、一面しか見ようとしてなかったの?」
私の手が
―――美貴たんのかわいい仕草が好きだった。
飯田さんの方に
無意識に伸びていく。
救いを
求めるように。
―――美貴たんのいじけた顔が大好きだった。
私
美貴たんを追い詰めていたんだ。
「飯田さん……私……どうすれば……」
どうすれば
幸せに
なれますか?
- 562 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:04
- 「どうすればいいんだろう」
飯田さんは
ふと
私から
目をそらした。
何かを考えている。
食堂は相変わらず
私の心が冷えていっても相変わらず
暖かい。
日が差し込む午後は
暖かさに時を止め
私を包んでいる。
私だけが
温度を失くしていく。
飯田さんは
視線をあたりにめぐらせて
何かを考えている。
難しい顔をして
じっと何かを思案している。
- 563 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:04
- 私は待った。
そして祈った。
どうか彼女の言葉が
私の救いになるように。
じっと飯田さんの顔を見て
心は求め続けていた。
「あいぼんとのんちゃんね。
私はずっと、2人の世話をしてきたんだけど……」
「……はい」
「会ってきたんでしょ?どう見えた」
突然何を言い出すのだろう。
予想外の話が始まり
私は乱された。
「どう、って、幸せそうに、見えました」
「あのね……」
飯田さんは
ため息をひとつついて
私をまっすぐに見て
言った。
「あいつらは夢見てるだけだ」
- 564 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:04
- そして飯田さんは語り始めた。
あいぼんとのんちゃんの物語。
その話を聞きながら
ずっとたまっていた私の苦しみが
しびれたみたいにふっと
遠くなっていくのを感じていた。
そんなくらい
切ない話だった。
記憶障害を抱えたのんちゃん。
その結果、一人ぼっちになってしまったあいぼん。
その内容を私は受け止められなかった。
そもそも
私たちの物語とは関わりのない話だった。
私たちとは違った苦しみを抱えた
あいぼんとのんちゃんの物語。
だけど
飯田さんは私に語って聞かせた。
「解離性同一性障害?」
耳慣れない言葉に私は首をかしげた。
飯田さんはうなずいて続けた。
「2人の関係は行き過ぎてしまった。
どうしても結ばれた証が欲しい。
何かを残せないと、不安で不安で仕方ない。
あいぼんはそういう思いに執り憑かれてしまった。
金だけはあったからね、でも……友達はのんちゃんくらいしかいなかった。
だから、あいつは子どもを作った」
- 565 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:04
- 「のんちゃんを、引き止めるため?」
「そう。子どもができれば、2人はずっと一緒にいられると
そう思っていたんだね。
だけど、のんちゃんは違った」
違った。
「そこまでは……求めなかったということですか?」
飯田さんは、首を振って否定する。
「そうじゃない。そうじゃなくて
のんちゃんにとっては2人でいることが重要だったんだよ」
私はまた、首をかしげる。
「つまり、子どもなんかができたら、2人でいられなくなる。
そう思ったわけ。
なのに、あいぼんはのんちゃんに何の相談もなく
不妊手術を行って、身ごもった」
―――……のんちゃん。だからあのとき……
子どもが生まれる直前、のんちゃんは
リストカットをしようとしたのだ。
私の目の前で。
- 566 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:05
- 「2人の見ている幸せの形は
微妙に、だけども確実にずれていたんだ。
のんちゃんは、記憶を失った。
現実を受け止めることが、できなかった」
のんちゃんの立っていた世界は
彼女にとって、耐えられないものだったに違いない。
あいぼんは子どものことを気にかけ始める。
自分を差し置いて子どもを身ごもり
おなかの中の赤ちゃんに、愛情を注ぎ始める。
愛するものが、自分を見てくれなくなるかもしれない。
その恐怖は
のんちゃんの存在を
根っこから
揺るがしてしまったのだ。
「のんちゃんは、愛されることを願った。
あのコはもともと、誰かに愛されていないと
二本足で立つこともできないような弱いコなんだよ。
そしてのんちゃんは、愛される存在になろうとする」
のんちゃんは記憶を失い
「彼女の心は必死に愛されるポジションを探した。
あいぼんから、一番愛される地位を求めた。
そして、のんちゃんの心の中に、新たな人格を作り上げたんだ」
- 567 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:05
- 「新たな人格?」
「そう、
自分はあいぼんの娘だ。未来から来た、あいぼんの娘なのだと
そう言い始めたんだよ」
なんてこと。
「あいぼんのお腹にいる子ども。それが一番、愛を受けられる。
だから自分は、その赤ちゃんなんだと。
のんちゃんの心は、現実を離れて居心地のいい夢を見るようになった」
「だけど……だけどあいぼんの家にいた赤ちゃんは……」
「赤ちゃんに会った?」
「はい。
帰り際に、紺ちゃんに挨拶しようと部屋を覗いたとき
ちらっとだけど見えました」
「そう……」
「紺ちゃんは調度おしめを変えているところだった。
あいぼんの赤ちゃんは……」
私は
のどに詰まったものを
吐き出すように
言った。
「男の子でした」
- 568 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:05
- 飯田さんは結局
それ以上のことは何も話さず
その場を立ち去った。
食堂の外では日が傾いて
すでに暗くなりはじめていた。
暖かな時間も終わり。
夢の中にいるような
永遠のような昼下がりが、崩れ始める。
居心地のいい物語は、剥がれ始める。
「……夢か」
―――美貴たん。
私は
私で
私の幸せを夢見てる。
だけどもそれは
ただの夢。
そして私の中には
これまで経験したことのないような
強い感情が生まれていた。
―――何だろう、この気持ち……
- 569 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:05
- 情動は
湧き起こるように
私の身体の中から
外に飛び出そうとしている。
幸せになりたかった。
のんちゃんも
あいぼんも
私も
美貴たんだって。
みんなみんな
幸せになりたくて
愛する人といたくて
でも
現実はそうじゃなくて
苦しくて
悔しくて
絶えられずに
逃げた。
夢の中へ逃げこんだ。
なのに結局
何も進まない。
結局私たちは……
- 570 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:05
- シャツの裾をぎゅっ、とつかんだ。
強く、情念を押さえつけるように強く。
―――だめだ。感情に流されちゃ……
いつもそれで
失敗してきたじゃないか。
今回はダメだ。
今回だけは、勢い任せじゃダメだ。
―――落ち着け……よく考えろ……
私はその場で深呼吸をした。
心を落ち着かせる。
すると
思考はいつも以上に働き
冴え渡る。
心は温度を下げて
落ち着いた。
逃げた先に
夢の生活は待っていなかった。
逃げちゃいけなかったの?
- 571 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:06
- ううん、そうじゃない。
ただ
描いたヴィジョンが
現実と食い違っただけ。
なら
私は
立ち上がった。
やらなければいけないことがある。
食堂の外はもう暗い。
私は
美貴たんに
電話をかける。
- 572 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:06
- ―――うまくいくかわからないけれど
本当にこれで
私たちが救われるか
―――幸せになりたい。
それはやってみなければ
わからないけれど。
お姉ちゃんが出た。
声は震えて
気持ちを抑えようとしても震えて
目をきつく閉じて
話す。
目を開けない。
視界には何も入れない。
耳に集中していた。
耳に入ってくる
お姉ちゃんの声に
じっと聞き入っていた。
- 573 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/10/24(火) 20:06
- 私の声はかすれたささやき。
どこか苦しそうだと
本人でもわかるようなささやき声。
通話を終えたとき
私は自分の心臓が
ものすごい勢いで鳴っていることに
ようやく気がついた。
再び
深呼吸。
私は食堂を出て
歩き出した。
やらなければいけないことを
やるために
言わなければいけないことを
伝えるために。
- 574 名前:いこーる 投稿日:2006/10/24(火) 20:07
-
「境界上の恋人」
次回完結です。
- 575 名前:いこーる 投稿日:2006/10/24(火) 20:09
- >>545
マイペース作者です。
ゾクゾクしたとはまた嬉しい感想どうもありがとうございます。
前回よりも大量更新となりましたのでよろしくお願いします。
- 576 名前:545 投稿日:2006/10/25(水) 14:40
- 大量更新乙です。
またもゾクゾクしました。
ウヒャー!ですよゾクゾクって今までナイですから。
マイペース作者さんナイスです!
- 577 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/27(金) 23:44
- 年を遡行する少女から読み直していろいろ納得しました
まだ中盤でしょうが推理小説でうまくだまされたような気持ちよさを感じました
- 578 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/08(水) 19:25
- 幸せを望んだだけの思いが、
一番望まなかった結果を招くとは。
そうなってしまった共通の理由が見えますが、
今はまだ語ってはいけませんね。
次回も楽しみにしております。
- 579 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:55
- 私の夢見た物語。
- 580 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:55
-
13
- 581 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:56
- 電車に乗って
マンションに戻る。
私たちの部屋。
私と美貴たんの部屋。
エレベーターに乗り込んで
ボタンの12を押した。
エレベーターが動き出す。
その反動で
私の身体が重くなる。
私はおでこをエレベーターの扉につけて
身体を支えた。
ひんやりした扉から
おでこの熱が逃げていく。
その感覚に
しばらく
そのまま。
そして私は
扉を開けて美貴たんと対峙したときのことを
頭の中でシミュレートする。
- 582 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:56
- さっき電話に出たのは
お姉ちゃんだった。
大切な話だと言ってある。
だからきっと
お姉ちゃんは
お姉ちゃんのままで
私のことを待っているだろう。
―――お姉ちゃん
私が拒否し続けた存在。
私が振り回し続けた……。
エレベーターが開く。
自分の部屋へと歩きだす。
部屋に鍵はかかっていなかった。
「……」
私は扉を開けたまま
ぼうっと、中を見た。
そこに彼女が立っている。
「亜弥ちゃん」
「……」
私は一つ目を閉じる。
「おかえり」
- 583 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:56
- 「……」
―――今の「おかえり」は……
お姉ちゃんだ。
顔を上げた。
「ただいま」
私は一歩、彼女のもとへと踏み出した。
かかとを使って靴を放り
とん、と部屋に入る。
私は彼女と対峙した。
「亜弥ちゃん……」
「ねぇ、怒ってる?」
「うん」
即答。容赦ない。
「……ふ、ふふ」
さすがお姉ちゃん。
- 584 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:56
- 「何笑ってるの?」
いっつもいっつも
まっすぐだったもんね。
でも……
「なんだかんだ
私たちは私たちだよね」
「あのさ、美貴怒ってるんだけど」
お姉ちゃんに睨まれ射竦められる。
いつもの鋭く冷たい目。
これにいつも、私は気圧され逃げてきた。
でも今日は違う。
私は大きく息を吸い込むと
「お姉ちゃん!」
一歩、お姉ちゃんへと歩み寄る。
「は?何?」
「お姉ちゃん。いままでごめんなさい……」
もう一歩。
- 585 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:57
- 内心すごくびくびくしていた。
いつお姉ちゃんに殴られるか
いつお姉ちゃんに罵倒されるか。
でも
「本当、私、バカなコだよね。
お姉ちゃんの気持ちなんてなんにも知らないで……」
最後はきっと受け止めてくれる。
「私を許してください」
私はそれに賭けて
お姉ちゃんの胸元へ飛び込んだ。
「いままでの私、全部ぜーんぶ、許してください」
「バカ!ふざけるんじゃ……」
「ダメ?」
上目遣い。
お姉ちゃんの顔に困惑が浮かんだ。
私は彼女の胸に顔を埋めてぎゅう、っと抱きしめた。
- 586 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:57
- 「あ、あのさぁ」
お姉ちゃんの責めるような口調。
私は顔を上げることができない。
「亜弥ちゃ……」
お姉ちゃんの言葉が止まる。
「どうしたの?」
私は
震えていた。
「怖い……怖いんだよ」
こうすることが怖かった。
「え?」
「今も……すっごく怖い」
人にすがるのを恐れていた。
「私……ずっと
自分を預けるの怖がってた。
美貴たんの優しさに全部もたれかかっちゃいけないって
ずっと自分にそう言い聞かせてた」
- 587 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:57
- 自分の存在が
その人なしでは存在できなくなってしまうのではないかと
怯え続け、威張り続けていたんだ。
「美貴たんに全部任せたらきっと、自分なんてなくなっちゃう。
そう思っていた。だから……」
意地を張って突っぱねた。
私の意のままになる部分だけを受け入れて
身勝手に美貴たんの一面しか見ないで
いつか裏切られるんじゃないかって
そんなことばっかり考えていた。
その行為が一番
美貴たんを裏切っているということなんて
考えもしなかった。
「今……こうしてるのも、怖い」
彼女の手が髪にかかる。
わたしはびくっ、と身体を震わせた。
「あ、亜弥ちゃん……。
美貴、どうしたらいい?」
- 588 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:57
- 「わかんない」
「え?」
「わかんないわかんない!」
私は子どもみたく胸の中でわめく。
「美貴たんお姉さんなんだから美貴たん決めてよ!」
大声で泣き喚いた。
「……」
「……」
「……くすっ」
美貴たんが、吹き出した。
「本当……手のかかるコだな」
「悪い?」
「いっとくけど、まだ許したわけじゃないからね」
「いいもん、許してくれるもん」
「わかったから、部屋入ろう。風邪引く」
「……こっちの方がいい」
「亜弥ちゃん……」
- 589 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:57
- 美貴たんは私の肩をぐいと押し戻して
私の顔を覗き込んで
言った。
「こんな甘えん坊さんだった?」
彼女の目には
これまでにない安らぎと心強さがあった。
答えは簡単なことだった。
これまでの展開からすると
拍子抜けするほどあっけないハッピーエンド。
でも
これが私たちのハッピーエンド。
- 590 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:58
- こうして
美貴たんとの関係が新しくなった。
私たちの幸せもきっと新しくなる。
それを私たちは手に入れた。
しかし犠牲は大きかった。
- 591 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:58
- あの日以来、すこしずつ
私の中でお姉ちゃん存在が大きくなっていった。
それに反比例するように
妹の方は出番を失くしてすこしずつ
出てくる時間が短くなっていった。
もともと微妙な三角関係。
私がお姉ちゃんを選んだ結末は
妹にとって絶望的な関係。
そんな不幸に
妹の人格は
存在を続けられなかったのだろう。
妹が去っていくのを
日に日に私の前に現れなくなっていくのを
私は冷えた心で、どうにもならず
何もできずにいた。
- 592 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:58
- ある夜
夢見心地の私に
美貴たんは話しかけてくる。
さよならとか、絶対言わない。言って欲しくない。
どうしたの?美貴たん。
さよならなんて言わないよ。
ありがと。その代わり、言って欲しい
何を?
忘れないって、美貴に言って。
―――……美貴たん
私はきつくこぶしを握る。
目を開けることができなかった。
―――ごめんなさい、私……
- 593 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:58
- 存在できなくなった彼女は
私の記憶の中で永遠に生きようとしている。
私の記憶、私の夢の中。
お願い、言って
これが、私の選んだ結末……
そう。自分で決めたこと……
だったらせめて
ねぇ、亜弥ちゃん
この甘い声、甘い記憶を永久に
私に刻んでやろう。
「キミのこと、忘れないよ」
ありがとう……ありがとう……
- 594 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:58
- 翌朝、先に起きた私は
机の上に新しい物語を見つける。
美貴たんが以前から使っていたメモリーだった。
メモリーの中に残された物語。
私と美貴たんが、夢見た
次の2人の物語。
- 595 名前:境界上の恋人 投稿日:2006/11/30(木) 21:59
-
境界上の恋人 ―完―
- 596 名前:いこーる 投稿日:2006/11/30(木) 22:03
- ここまでお読みいただいた方、ありがとうございます。
更新予定を大幅にオーバーしてしまってすみません。
境界上の恋人
自分にとって予想以上の難産となってしまいました。
更新途中でモチーフが変化してしまったためです。
母娘→姉妹→
さて物語はどこへ向かうでしょうか。
次の物語は更新が滞らぬよう、しっかり準備してから始めたいと思います。
それまで
お待ちいただけたら幸いです。
- 597 名前:いこーる 投稿日:2006/11/30(木) 22:07
- レス返し
>>576
さらにマイペース……ごめんなさい。
>>577
そのお言葉は、嬉しいです。ありがとうございます。
>>578
3つ目の物語も裏切らぬように頑張りたいと思います。
皆様、本当にありがとうございました。
これからもよろしくおねがいします。
- 598 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/06(火) 01:13
- なんでしょ。1も2もラストがあっけなく感じました。既に決まっていた事を羅列したような・・・?
色々と伏線貼ってくれているので最終話が終わるとこのモヤモヤも解消されるんでしょうか。
そんな期待を込めて、保全。
- 599 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/21(水) 21:24
- さゆえり期待sage
- 600 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/06(水) 02:35
- 3つ目の物語期待保
- 601 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/25(水) 22:26
- >「嫌悪者の檻」
>えりさゆ。8月より連載開始予定
来月から連載か。楽しみだなあ
- 602 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/20(木) 18:00
- 待ってるよ
- 603 名前:いこーる 投稿日:2008/01/09(水) 23:06
- さきに、ちょっとばらしてしまいます。
お気づきのことと思いますが
この「夢見た」三部作は、アンリアルの側からリアル世界を夢想するような
そんな構造を持っています。
生きづらいアンリアル世界の住人が
アイドルである自分たちを夢見て癒される。
そんな話である……はずでした。
結論としてアンリアルには夢がないけど、リアルな娘。には夢がある。
「アイドルっていいな」「ハロプロっていいな」。そうするつもりだったのに
うかうかしているうちに2007年、リアルの側が大きく変わってしまいました。
今、この登場人物で
予定通りにハロプロ絶賛の結論を出すことは難しくなってしまった。
よって当所の予定は放棄せざるを得ません。
しかし、「えりさゆ」をお待ちいただいている方がいてくれて
それが嬉しくて、だから予定通りとはいかないけれど物語は放棄しません。
第三話。物語がどこに着地するのか、
お読みいただけたら幸いと思います。
更新します。
- 604 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:07
- ハイテクなセキュリティのかかった建物。
扉を開けてガラス張りの部屋に入ると
そこにはたくさんの服があって
どれを着たらいいかわからない。
私は喉の渇きを覚え
みんなが踊るのをうらやましく想いながら
部屋の隅で座ってる。
それから私は
週に3度くらいのペースで
謎の夢を見るようになった。
紺ちゃんは私から
私の夢の話を聞き
「さゆの心が見えるかも」
と言った。
そして私に「夢ノート」を作るように進め
私の無意識が
夜ごとどんな物語を
描こうとしたのか
分析してくれたりした。
引きこもりの私を
更生させようとしたのだ。
でも
私の見た夢は
私の物語。
人に分析させてもダメなんだ。
私の心にたどり着けるのは
私だけ。
だから私は
自分の心の中に潜り、夢の正体を探り始める。
- 605 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:07
-
嫌悪者の檻
- 606 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:08
- すべて
私のためだった
- 607 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:08
-
1
- 608 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:08
- チン
エレベーターが開いた。
私は一歩
いつもの廊下に
踏み出した。
ここからが
私の世界。
エレベーターに乗って
やってきたここが
私の生活。
廊下に立ってみると
そんないつもの妄想が
頭に浮かんで離れない。
自分の世界は
ここから始まる。
外の世界は
私にとってはウソの世界。
居心地のいいここだけが
私にとって自分の世界。
今まで歩いて来た道は
むしろ夢みたいな偽物。
そういう妄想が
頭に浮かんで離れない。
- 609 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:08
- いつもの白い廊下。
絵里の部屋に
行くための廊下。
エレベーターから降り立って
私はそこを直進する。
一度直角左に折れ
五枚の鏡の向こう側
そこがいつも絵里の部屋。
私はいつも一度だけ
曲がり角に立ち壁を見る。
すると……。
壁に1つの光景が映し出された。
―――まただ……
私は目を閉じ首を振る。
もう一度
目を開けてみても
一度見えた映像は
消えてくれない。
- 610 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:08
- ……。
古い映写機のような
ざらついた画質。
そのはっきりしない景色の中
私は疲れ切っている。
踊ろうとして足を上げると
水が足に絡みついて飛沫を上げた。
いや!
私は首を振り回し
水から逃れようと暴れてる。
それでも水はしつこくて
私はついに崩れ落ちる。
……。
私は白い壁の前
自分を抱いて
じっとその光景を見つめてる。
―――私……どうしちゃったの?
この景色。
この景色は覚えてる。
だってこれは
これは私の夢だから。
昨日夢見た光景が
壁の前に映ってる。
- 611 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:08
- そんなはずはない。
だって今はお昼だし
私はちゃんと起きている。
なのに私の妄想が
壁に貼り付き流れてる。
外の世界がどうのこうのというレベルではない。
夢が壁に映ってるなんて
―――絶対に、おかしい!
私は頭を振って
壁から目を離した。
―――絵里……
私はすがるような気持ちで
廊下の奥の部屋を見る。
その向こうでは絵里が待つ。
私は走り出したい気持ちを抑えて
ゆっくり廊下を歩き出す。
今の
絵里に聞いてみよう。
絵里に話してみよう。
私の夢見た光景を。
きっと絵里は
優しく笑って言ってくれる。
さゆは、おかしくなんかないよ
そう言ってくれる。
- 612 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:09
- 私のことをわかってくれる。
夢が壁に浮かぶこと……
夢が壁に……
私は
立ち止まった。
何を考えてる私!
そんなはずはない。
夢が壁に浮かぶわけはない。
ありもしないものが見えているだけだ。
―――こんなこと、絵里には言えない!
私は首を振った。
やはり、絵里には黙っていた方がいい。
いくら絵里でもこんなこと
私を気味悪がるはずだ。
そんなこと……そんなことになったら
私は死んでしまう。
◇
- 613 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:09
- 「さゆみちゃん、かわいいね」
いつも言われた。
「本当にかわいいね」
「かわいいね」
大人が子どもを見て
かわいいというのは当たり前だ。
しかし幼少の私には
そういった認識が欠落していたらしい。
―――私ってかわいいんだ
愚かにもそう思いこんでしまった。
自分はかわいいのだ。
いつも会う友達が「かわいい」と言わない日には
家に帰って鏡を2時間は眺めていた。
アホかと思うが
それが子どものころの私だった。
どうすればかわいく見えるか。
どういう話し方をすれば
かわいがってもらえるか。
そればっかりを
考えていた気がする。
世界に捨てられてからも
その悪癖は変わらなかった。
中学校に入り
いい具合に分別を持ち始めるようになると
私にブレーキという新しい能力が備わった。
「かわいい」を主張するにはブレーキが必要だ。
妬み嫉みの対象とならぬようにするために
私は細心の注意を払うようになった。
- 614 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:09
- 周囲からほめられる
限界ぎりぎりまで自分を飾り
その先へは絶対踏み外さない。
そうすることで周囲はいっそう
私をほめてくれる。
はずだった……
しかしいつからか
周りの私に対する目が変わっていった。
理由はわからない。
きっと私に嫉妬した
誰かがしくんだに違いない。
「かわいい」の中に
「うざい」という声が混じりはじめ
いつのまにか「かわいい」に
取って変わるようになった。
ほめられるために
必死だった私。
少しでも
人の悪意にさらされるのに
耐性がなかった。
強烈なストレスを抱え込むようになる。
注意が散漫になり
越えるまいと神経を張っていた一線を
とうとう越えてしまった。
やりすぎた女に対する批判は
辛辣を極める。
冷たい目線。
冷たい態度。
冷たい言葉。
そして私は壊れた。
- 615 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:09
- ここは私のいるところではない。
これは本当の私ではない。
その思念が強く迫り
私の生活を圧迫してくる。
ここは私にとって
外の世界だ。
自分の世界はもっと
別の場所にあるはずだ。
夜ごとに見る、不思議な夢。
妙にリアルで、でも気味の悪い夢。
最近ではその景色が
壁に浮かんで現れる。
壊れた私には絵里しかいない。
絵里にしか支えられない。
絵里がいなけりゃ
すぐにでもバランスを崩す。
それが今の私だ。
◇
- 616 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:10
- 「さゆぅ……待ってたよぉ」
そういって手を振ってきた。
世界にスローモーションがかかったような
間延びしたしゃべり方で
でも実はちょっと早口で
自分の時間意識が
どうかしてしまったのではないかと錯覚する。
でも
これが確かに絵里との時間。
現実生活なんかより
ずっと説得力のある心地。
私はソファに座ろうとした。
しかし
「……」
腰をかがめ
ソファの上に散らばった
雑誌をまとめて
テーブルに放る。
すると雑誌の下からは
色とりどりの髪飾り。
それも残らず回収し
テーブルの端にまとめて置く。
ついでだからと思い立ち
テーブル上のお菓子たちも
お盆の上にのせてやる。
それでようやくソファに座った。
- 617 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:10
- 絵里は気にせず私の隣
ボンッ、と勢いよく腰掛けた。
そしてせっかく積み重ねた
雑誌の下を引っこ抜く。
雑誌の山はバラバラと
崩れて床に散っていく。
絵里はそんなの気にせずに
ページを開いてこれかわいい
あれがかわいいとしゃべり出す。
絵里……。
―――絵里には、私の気遣いなんて不要なの?
私は
こんなに感謝しているのに。
おかしくなった私に
何ら変わらず接してくれる絵里。
一緒にご飯を食べてくれる絵里。
一緒にさぼってくれている絵里。
絵里には他にも友達がいるのに……。
そう
私と違って絵里には
引きこもりになる理由はない。
私に合わせて一緒にいるだけで
絵里にはいっぱい友達がいる。
いつでも私を捨てられる。
私にできることは
散らかった絵里の部屋を片付けて
絵里が私の気持ちに気づいてくれることを
そっと祈るだけ。
- 618 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:10
- ―――でも絵里は……
絵里はお菓子を取って口に入れると
包みを床に捨てた。
―――絵里は、私の気持ちを知らない
「ねぇ、絵里」
私が言うと
絵里は黙って私を見た。
「ずっと……私と一緒にいてね」
「?」
きょとんとした。
―――私……急に何言ってるの?
絵里にとって見れば
何の脈絡もない
おかしな発言。
それでも絵里は
無邪気な笑顔を見せて言う。
「うん!いいよ!一緒にいてあげる」
一緒にいてあげる。
……そう来るか。
でも私は腹を立てるより前に不安になる。
一緒にいてあげる。
絵里にとって
私といることは選択肢の1つにすぎない。
私には他に選択肢はないけれど
絵里は自分の意志で
私と一緒を選び取っている。
絵里は私の世界から
いつでも抜け出すことができる。
- 619 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:10
- 「……」
「どうしたの、さゆ?」
「ううん」
私は首を振ると立ち上がって
床に落ちたお菓子のゴミを拾った。
―――絵里には、私の気遣いなんて……
絵里に背を向け
ゴミまで歩く。
―――私の気持ちなんて……
お菓子のゴミを捨てる。
ゴミはカサリとゴミ箱へ。
私の気持ちは
消化されるだけ。
絵里に届かず
捨てられ続けるだけ。
「……」
ふと
告白でもしてしまおうかと
考えた。
いや、何度も考えている。
特別な関係になってしまおうかと。
そうすれば
絵里は私のものになり
私のそばにいてくれる。
別れるまではずっと。
- 620 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:10
- 「さゆ?どうしたの?」
私はとっさに笑顔を作って
振り返った。
「ううん!なんでもない。
さっきの雑誌の続き見よう!」
「早くぅ!」
ソファに行き
絵里の隣で肩を寄せ
その温かさに触れている。
その
微妙な居心地の良さに
私の勇気は萎えていく。
だって
「好きだよ」と
言葉にしたら
今のこの
快さまで崩れてしまいそうで
怖い。
だから私は
絵里の友達。
数ある選択肢の中の1つとして
今の地位に甘んじる。
- 621 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/09(水) 23:11
- ……。
古い映写機のような
ざらついた画質。
そのはっきりしない景色の中
私は疲れ切っている。
踊ろうとして足を上げると
水が足に絡みついて飛沫を上げた。
いや!
私は首を振り回し
水から逃れようと暴れてる。
それでも水はしつこくて
私はついに崩れ落ちる。
……。
絵里の部屋の壁に
今日の夢が再び映し出された。
- 622 名前:いこーる 投稿日:2008/01/09(水) 23:12
- 本日の更新はここまでとなります。
お待ちいただいた皆様、本当にすみませんでした。
- 623 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/10(木) 00:56
- 更新ありがとうございます
そうですか
昨年の激震の連鎖は作者さんの構想までブチ壊してくれましたか
それでも創作を続け良作で楽しませてくれる作者さんに感謝します
- 624 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 21:59
- ひょっとしたら
みんな幸せが
なくなってしまうかもしれない。
- 625 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 21:59
-
2
- 626 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 21:59
- 丸いかわいい噴水が
白い壁に映っている。
それが
今日の私の夢だった。
……。
広場の上。
私はなぜか嬉しそう。
角には
丸いかわいい噴水があって
広場なのにそこは狭かった。
絵里の後ろ姿が見えた。
夢の中でドキッ、としたのを覚えている。
そして私は
自分の気持ちに気がついた。
絵里が好き。
本当に抑えようもないくらい
私は絵里のことが好き。
夢の私はついに
絵里に「好き」と言った。
夢はそこでシーンを変える。
時が止まっていた。
時が止まった星空の中で
時が止まった私は
笑顔を銅像のように固まらせて
ずっと
喜びの中にいる。
……。
- 627 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 21:59
- 私は左を向いて
絵里の部屋へと向かう。
―――今日なら……言えそうな気がした。
朝、夢から醒めた心地は
これまでにないくらい
晴れやかだった。
丸いかわいい噴水が
私を応援してくれる。
そんな気分だった。
5つの鏡が並んだ廊下を
絵里の部屋まで歩いていく。
ようやく
自分の世界に降り立った気持ちになり
なおさら私は勇気づけられた。
ドアの前に立つ。
「……」
ノックをすれば絵里が出る。
そして私は部屋の中へ。
ソファに座ればいつも通りの
他愛ない会話。
心地よい時間。
- 628 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:00
- そうなれば
きっと私は満足して
もう告白なんて
どうでもいいような
そんな気分になってしまう。
愛されている
それがわかる
それを感じる
それが幸せ
みっともなくても
子どもに見えても
どうしても
失いたくなかった
でも
今日はそれじゃダメなんだ。
昨日何度も考えた。
ベッドの中で悩み抜いた。
もし
私が今の心地よさにかまけて
2人の関係を
先に進めることをしなければ
気分屋の絵里はいつの日か
私に飽きて去ってしまう。
世界の外に行ってしまう。
だから
勇気を出して
告白。
- 629 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:00
- 私は部屋に入る前に
絵里にメールを打つことにした。
私の決心が
簡単に萎まないように。
<今日は、大事な話があります>
でも
丁寧語になったのは
私の弱気のせいだった。
私は扉の前で
メールが絵里に届く時間
じっと目を閉じ待っていた。
1つ深呼吸をして
扉をノックする。
すると中から声がした。
「開いてるよー」
え?
私の顔からすっ、と
笑顔が消えてなくなった。
―――いつも「待ってたよぉ」って出てくるのに。
些細な変化であったけど
告白を決めた私にとってそれは
重大な事件だった。
- 630 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:00
- 今日の絵里は
何かが違う。
さっそく弱気が膨らんで
私の決意を押しつぶそうとする。
でも
―――今日……言わないと……
私は意を決して
絵里の部屋に踏み込んだ。
絵里の部屋に入ると
とたんに私は落胆した。
先客がいたのだ。
だから絵里が
ドアまで来なかったのだ。
―――せっかく……
せっかく
今日なら
絵里に言えると思ったのに……。
―――邪魔された
私はその人に
軽く頭を下げていった。
「こんにちは」
- 631 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:00
- 私の声は
自然と暗くなっていた。
けれど相手は気にせずに
気さくな声をかけてくる。
「さゆ、元気かぁ?」
―――誰?
「はい、おかげさまで」
言葉が
私の存在の頭上を
滑っていく。
「よかったぁ。元気そうで」
「……」
告白しようとやってきた私の勢いは
この人の登場で
完全につんのめってしまった。
でも、
向こうは私を知っている。
親しげに話しかけてくる。
それなら
この人を敵にはしたくない。
だから私は
うわべだけでも
知っている振りをしなければならなかった。
- 632 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:00
- 「さゆ、愛ちゃん」
―――誰だろう……
私はとっさに、笑顔を作った。
「覚えてるよ!忘れたりしないって」
―――誰?思い出せない……
「愛ちゃん」と呼ばれた人は
ふっ、と淋しそうな顔になって
私に言った。
「……無理せんでええよ」
「……」
また、心臓が高鳴る。
脂汗まで出てきてた。
―――誰よこの人!誰なのよ!?
一体何者なのだろう。
この人は
私のことを知っている。
私の心を見抜いている。
「あ、あの……私……」
「ん?」
「と、トイレ」
- 633 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:00
- 「さゆ!」
逃げだそうとした私の腕を
絵里が引っ張った。
私はそれを振り払い
急いでトイレに駆け込んだ。
……。
あの様子。
愛ちゃんという人は
私のことを
よく知っているみたい。
でも
私の記憶のどこにも
あの人はいない。
つまり
あの人は
私の世界の住人ではない。
外の世界の人なのだ。
外の世界で会っていても
私の記憶に
残るはずがなかった。
- 634 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:01
- 私は
トイレのドアに耳を当て
2人の会話を聞いてみる。
「……さゆの様子……あれでいいの?……」
愛ちゃんが
私のことを
不審そうに
話している。
次に聞こえてきた絵里の
困ったような小さな声。
「まあ、この部屋にいるときは……あんなもんだよ」
どうしたの?
絵里……。
私と一緒に過ごすの
嫌なの?
「そっか……。何か……協力できることあったら……」
「やめてよ!さゆが病気みたいに言うの……
そうじゃないって紺ちゃん言ってた。
私たちは大丈夫だから……」
―――病気?
聞きながら
息がどんどん苦しくなる。
- 635 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:01
- そう。
私は
いじめに遭って
壊れている。
この部屋以外の場所が
世界の外側に思えてしまう妄想。
そして
夢の中身が壁に映し出される妄想。
でも
私は負けずに
どうにか生きている。
絵里がいたから。
絵里が支えてくれたから。
でも絵里には
やっぱり迷惑だったの?
愛ちゃんは
「絵里も無理しない方が……」
そんな風に言う。
「大丈夫だってば!」
―――ああ、絵里。
絵里の頼もしい言葉に
私の心が
優しく温められた。
- 636 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:01
- やっぱり絵里は
私と一緒にいてくれる。
やっぱり絵里は
私のこと
迷惑になんて
思ってない……よね?
しかし
次の絵里の言葉で
私は再び沈んでしまった。
「愛ちゃんも、ここに来たらいいじゃん」
―――絵里?何……言ってるの?
愛ちゃんも、ここに来る?
―――私がいるのに……
「なんでぇ、私が?」
「ほら、愛ちゃん失恋中じゃん。ちょうどいいよ」
「ちょうどいいとか言うなって」
―――……絵里?
話が見えない。
絵里、何の話をしているの?
―――ここは、絵里と私の世界なのに……
- 637 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:01
- 「さゆ……出て来ない?」
「んー、ちょっと無理かも。
愛ちゃん、悪いけどまた来て」
よかった。
愛ちゃん帰る。
私は
ほっと胸を
なで下ろす。
しかし
次の愛ちゃんの言葉に
再び私の胸が苦しくなった。
「ちょっと……さゆについては
このまま様子見ってわけには
いかなくなりそう……」
―――は?
なぜ
愛ちゃんがそんなことを言い出したのか
意味がわからなかった。
今までの会話からして愛ちゃんは
別に私の家族でも何でもない。
どういう意味だろう……。
- 638 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:01
- 私は
さらに神経を張って
聞き耳を立てる。
すると聞こえてきたのは
やはり愛ちゃんの声だった。
「さゆの世界のせいで
うちらの時間まで
止まっちゃってるから」
そのとき
私の耳から音が消えた。
代わりに
キンと高い耳鳴りが
耐えられないほどうるさく鳴る。
めまいがして
手をつかないと
立っていられない。
愛ちゃんの言葉はまるで
私が
すべての元凶であるかのように
重くのしかかってきた。
- 639 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:02
- しばらくすると
聴覚は元に戻った。
愛ちゃんが出て行く音がして
ようやく私はトイレから出た。
「さゆ……ごめんね、大丈夫だった?」
「……」
私は絵里を
上目遣いで見てしまう。
絵里と愛ちゃんの
意味不明な会話。
私の知らない
遠い世界での会話。
「最近、平気になってきたと思ったんだけど……」
「……ごめんなさい」
絵里の言うとおり。
最近
私は人見知りなんてしなかった。
知らない人が部屋にいたくらいで
真っ青になるほど弱かった自分は
もう過去に捨ててきたのだから。
だけど、
愛ちゃんはタイミングが悪すぎた。
気まずい雰囲気のまま
私はソファに腰掛ける。
- 640 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:02
- ―――あれ?
今日はソファに
何も散らばってない。
テーブルの上も
整然としている。
―――愛ちゃんか……
何か
否定された気分。
もう、告白なんてできなかった。
私は自分の世界が壊されないように
必死に絵里にすがろうとしている。
でも
絵里が立っている場所は
広大で賑やかでいろんな人がいて。
私の世界の外側には
そういう世界がある。
絵里はその
外側の世界に立っていて
だから私がいくらもがいても
絵里に近づくことなんて
できやしないんだ。
絵里の見ている世界は
私の世界ではない。
- 641 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:02
- そして私の世界は
―――うちらの時間まで止まっちゃってるから
外の世界に干渉している。
私の知らないところで
私は罪深いことをしている。
それを今日
見てしまった気がした。
愛ちゃんと
絵里の会話を聞いてしまったせい。
2人の世界から
私は疎外されている。
見下ろされているとさえ思える。
忌み嫌われているとさえ……。
私の全身から力が抜けて
ぼーっとしたまま
座るしかなかった。
告白なんて
できるわけがなかった。
それなのに……
全身から告白する気力が失せたのに
絵里を愛しく感じるこの気持ちだけは
手のつけようがないほど
私の心の中で暴れ回っている。
- 642 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:02
- 結局私は
絵里への想いを捨てられず
外側に行く勇気も持てず
自分の小さな殻に閉じこもったまま
たまらなく好きな絵里を想って
ずっとずっと絵里を想って
この気持ちに苦しめられ続けるんだろう。
それは出口のない苦痛。
絵里が麦茶を持ってきた。
そんな気遣いは絵里には珍しい。
悪いと思ったのかもしれない。
絵里が隣に座る。
―――絵里。
私は
深く息をついた。
―――ああ、絵里
私の無力感に
ほんのちょっとの温かさ。
ほんのちょっとの力。
どんなに気分が悪くても
絵里がいると
不思議とほぐれていく。
それが
絵里に対する不信感であっても
絵里がいると薄まっていく。
- 643 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:02
- 私の心は逆説的に
苦しみと喜びが同時発生して
自分を見失いかける。
そんなくらい
いつもの心地よさだった。
いつもの絵里だった。
私は深い安堵の中
ソファに沈んだ。
もう何も触れずにいよう。
将来のことなんてどうでもいい。
これからなんて
なくていい。
今のこの
温かな時間をこれ以上
引っかき回したくはない。
私にとって唯一の
安心できるこの世界を
自分で乱したくはない。
「ところでさゆ」
「?」
「大事な話があるって、何?」
「え?」
―――ああ、……絵里
それを
このタイミングで聞くか……
- 644 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:02
- 「え、えっと……」
「何か……あったんでしょ?」
「う、ううん」
「ないの?」
絵里のトーンが低くなる。
「いや、えっと」
ない、なんて言ったら
あのメールはなんだったのか
問い詰められるだけだ。
不幸の足音は
私の世界に向かってる。
私の世界は
どうしたところで
踏み荒らされる。
緊張に血液が
冷たくなった気がしてる。
「え、えっとね……」
それは苦し紛れの策だった。
追い詰められた私が打ったその手は
確実に
私と絵里の世界を
蝕むことになる。
- 645 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/16(水) 22:02
- そう。
不幸の一手を私は
自分で進めてしまう。
「私……私ね……」
告白をしない代わりに私は
言うまいと思っていた話を
絵里にしてしまったのだった。
「変な夢を、見ているの」
- 646 名前:いこーる 投稿日:2008/01/16(水) 22:03
- 本日の更新は以上になります。
- 647 名前:いこーる 投稿日:2008/01/16(水) 22:04
- >>623
ありがとうございます。
まぁ、壊されたら壊されたで
また別の趣向を取り入れようかと思っています。
- 648 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/17(木) 00:45
- うはぁ〜…
やっぱりいこーるさんの文章は一瞬で引き込まれてしまいますねぇ…
世界観が良い意味で異質でとても好きです!
- 649 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/20(日) 22:37
- おお更新されている!1年以上待ったかいがあった・・・
- 650 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:22
- ここは
私のいるところではない。
やっぱり
帰ろう。
- 651 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:22
-
3
- 652 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:22
- 数日が経った。
結局、絵里に
告白できないままだった。
でも
告白しようと
意気込んでいた頃と比べて
私の心は穏やかだった。
今はまだ
このくらいの距離でいい。
くすぐったい
微妙な距離に立ちながら
自分の想いを育てていきたい。
そう開き直ってみるとむしろ
絵里に対しても余裕ができた。
ちょっと前までは
嫌われまいと
せかせかして
かえって
ぎくしゃくしてしまっていた。
けれども今は
絵里と対等に話せてる。
私は
ようやく片付け終えたテーブルに
ノートを広げてペンを取る。
そのとき
私の肩に後ろから
絵里が寄りかかってきた。
- 653 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:22
- 「さーゆ。もう漫画描き始めたの?」
私は振り返ろうとするが
寄りかかった絵里が邪魔で
上手く首が動かせない。
「ちょっと!絵里重い!」
「くふふぅ」
笑った。
私のうなじがくすぐったい。
絵里はわざとやっている。
私を怒らせてからかうつもりだ。
―――その手には乗らないよ!
私は、
絵里の両手をつかみ取り
私の首に巻き付ける。
ちょうど絵里が背後から
私に抱きついた格好になった。
絵里は特に抵抗せず
むしろぎゅう、と抱きしめる。
私の肩に顔を乗せ
絵里の頬が私の頬に触れる。
気持ちいいのか絵里は
頬をこすりつけて「くふふぅ」と笑った。
- 654 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:22
- 「……」
―――かわいい……
こんな気持ちになるのは
やはり私がおかしいからだろうか。
トクン
胸が鳴った。
絵里とのこういうやりとりは
単なる友達の域を逸していて
親友と呼ぶにも近すぎて
だから私の心は
期待を持ってしまうのを
こらえられずに弾んでる。
きっと絵里も
私のことが好きなんだと思う。
確認なんて
できないけれど。
でも今の私は
こういう場面で不安になるよりも先に
幸せを噛みしめようとしていたから
絵里の気持ちの詮索はすぐに打ち切り
私も絵里に頬をこすりつけるのだった。
- 655 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:22
- 絵里は外の世界の住人。
私とは違う世界の住人。
それなら
私は絵里に近づけない。
今の微妙でくすぐったい
この距離感を楽しむ以外
私にできることはない。
心の中心の
大事な部分は冷えたまま
感じるのは
肌に感じる
ちょっとの温かさだけ。
そんな、寂しい幸せを感じながら
絵里の頬の柔らかさを感じながら
ペンを取ってノートを開いた。
「あ、夢ノート?」
「そうだよ」
「漫画描くんじゃないんだ」
「まだ、プロット練り直しするんでしょ?
夏祭まで、まだ時間はあるし。
昨晩の分の夢ノート、描いておこうと思って……」
夢ノート。
それは紺ちゃんのアドバイスで
私がつけるようになったもの。
2日前の話。
……。
- 656 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:22
- 絵里にしてしまった夢の話。
絵里は
きちんと聞いてくれた。
そして
「どうすれば……いいのかな?」
一緒に悩んでくれもした。
こんな話の後だけど
絵里はやっぱり
私の味方でいてくれる。
「誰かに、相談とかできない?」
「無理だよ。おかしな夢見てるだなんて……」
「うーん」
その後、もう一人の訪問者。
それが紺ちゃんだった。
絵里の部屋にやってきた紺ちゃんを
私は上機嫌で迎え入れた。
夢の話が予想外に
絵里に受け入れられたので
私の心はいつもより
だいぶ調子が良かった。
それに紺ちゃんは
私が普通に接することのできる
数少ない知り合いだ。
- 657 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:23
- 紺ちゃんは絵里と
夏祭で出す
「別ハロ」の相談をしていた。
ページ数と
締め切りを説明し
次に来る時までに
作品のタイトルを
決めるように言った。
その後
紺ちゃんは私に
調子はどうか聞いてきた。
「たまにはサークルにもおいでよ。
いい気晴らしになるから」
「……」
私はその言葉に躊躇した。
今の私は
確かに人見知りは減ったけど
代わりに変な妄想が多くなった。
壁に貼り付く夢。
「どうしたの?」
「最近さゆ、悩んでるんだよね」
「絵里!」
私は慌てて絵里を止めた。
紺ちゃんは
信頼できる人だけど
私の夢の妄想は
さすがにやばいと思うから。
- 658 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:23
- しかし絵里は
「変な夢を見ることがあるんだって」
言ってしまった。
「そうなの?」
「……うん」
「どんな?」
「……」
そこで紺ちゃんは
さりげなくそっと
私の手を握った。
「……見始めたのは……こんな夢。
ハイテクなセキュリティのかかった建物に入る。
階段を上って、ガラス張りの部屋に入ると
そこにはたくさんの服があって
どれを着たらいいかわからない……」
不思議なことに私は
しゃべるのを恐れていたはずの夢を
すらすらと
紺ちゃん相手に話してる。
握られた手が頼もしい。
その手を離さないで欲しい。
今、私はすごく
安心してる。
- 659 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:23
- 「……服が、わからない……か」
紺ちゃんは
指を口に当てて
考え出した。
「服……ペルソナ……、
わからないってことは……」
独り言。
私は
ちょこんと座って待っている。
普通の人が
独り言とかを始めたら
私は逃げ出す所だが
紺ちゃんの時はなぜだろう
こういう時
居心地が悪くならない。
そして
「さゆ…」
紺ちゃんは私の方に
身を乗り出して
「夢ノートとか、つけてみたら?」
言った。
握った手が強くなった。
- 660 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:23
- 「夢ノート」
「そう、自分の夢を覚えている範囲で書き出すの」
「なんでそんなことするの?」
「あのね、夢ってね
普段は意識しない感情が出てくるもの」
紺ちゃんは高校生のわりに
精神分析学に詳しい。
なんでも
心療カウンセラーの知り合いがいて
その人からよく教わるみたい。
以前
「ユング心理学」の話を
私にしてくれたことがある。
そのころは
変な夢に悩まされることがなかったから
普通にスルーしてたけど。
「じゃあ……私の見た夢は?」
私は紺ちゃんの話に
強い興味を覚えた。
紺ちゃんが
私の夢の正体を教えてくれる。
そんな期待があり
興奮するのを
ちょっと抑えられない。
「んー。ちょっとこれだけだと何とも言えないんだけど……」
「どうして」
- 661 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:24
- 「1つの夢に対して、幾通りもの解釈ができることがあってね……
継続的に見た夢をノートしててくれれば
そこから1つの物語を取り出すこともできるけど
さゆの話からだけだと、正しい解釈ができないかもしれない」
ややこしいんだ。
夢分析って。
ちょっとがっかりした。
「いいよ。正しくなくっても。
紺ちゃんの考え、聞かせてよ」
私が手を握り返す。
紺ちゃんは
困った顔をして見せた。
最終的に紺ちゃんは
弱く笑いかけてきた。
「あくまで……可能性の1つとして」
そして
話し出した。
「社会的地位のことを『ペルソナ』っていう」
「ペルソナ?……仮面?」
「そう。素顔を隠して
社会に対するときの
外側の自分がペルソナなの」
「ふぅん」
上手いこというもんだ。
と、呑気な感想を持ってしまった。
- 662 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:24
- 「要するに、社会的地位のこと」
「社会的地位」
素顔ではない
外面の自分。
それが「ペルソナ」?
「『ペルソナ』は夢の中では
服装として現れることが多いんだよ。
セーラー服なら、女子高生としての自分、とか。
スーツを着る夢を見たら、仕事をしている自分、とか」
「つまり、役割ってこと?」
「そうそう。
社会の中で、自分がどんな役割を持つか……あるいは持ちたいか。
それを表すのが『ペルソナ』なんだ」
ドキン
心臓が鳴った。
ちょっと、苦しく。
しまい込んでいた苦しみが
にじみ出してくる。
「……」
自分がどんな役割を持つか……
―――よし、今日もかわいい!
あるいは、持ちたいか。
―――今日もさゆみが、一番かわいい!
- 663 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:24
- 役割を押し売り
キャラを押しつけていた頃の
弱い自分。
「たくさんの服の前で悩んでる夢は
さゆが、自分の役割を見失ってしまった
てことなんだと思うよ」
その弱さのせいで
今の私は
どの服を着ていいかわからないほど
弱ってる。
「しかも、今のさゆは、人目に対して無防備な状態」
「え?無防備?」
確かに私は
人目に晒されると
血圧があがり
気分が悪くなってしまう。
「それも、夢からわかるの?」
「うん。服を迷っている場所が……」
「あ!」
ガラス張りの部屋。
外から
透けて見える部屋だ。
- 664 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:24
- 紺ちゃんは続けた。
「壁とか、建物っていうのが
自分の心の中核を守ってくれる
殻のようなものだとするよ?
セキュリティのかかった建物。
昔のさゆの心は、堅牢に守られて
上手に自己主張ができているはずだった」
周囲からほめられるために
私は毎日
神経を張って暮らしてた。
「でも……」
話に夢中になった紺ちゃんは
私から手を離していた。
「安全なはずの建物の中にあったのは
外から覗き放題のガラスの部屋。
そこでさゆは
どんな自分を演じたらいいかわからない」
「……」
紺ちゃんの分析は
見事に私の状況に当てはまる。
私は何も言えなかった。
「すごい紺ちゃん」
絵里がため息のように言った。
私もため息を続ける。
- 665 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:25
- 「夢って……でたらめじゃないんだ……」
「そうだね。でたらめに見えるのは
夢が素直じゃないから」
素直じゃない?
「例えば、自信あるときのさゆの心は
セキュリティのしっかりした建物。
自信のないさゆの心は
ガラス張りの部屋。
みたいに、形を変えて現れることが多いからね。
だから、私のは解釈の1つにすぎないからね。
そうも読み取れるってこと。
大切なのはさゆが……
さゆ自身が自分の夢と向かい合って
自分の心を探っていくことだから」
「そっか……それで、夢ノートか」
そうだ。
紺ちゃんの言う通り。
私は
自分の力で
自分の心と
向かい合わなくてはならない。
私はきつく
目を閉じた。
心が熱くなっていた。
- 666 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:25
- これまでは
何もできない自分が嫌で
ただただ檻の中に
閉じこもっているだけだった。
でも
自分で解決できるかもしれない。
自分で自分の心を
つかめるかもしれない。
そうなれば
私は外の世界に出て
絵里と一緒に立つこともできる。
―――やってみよう
それは久しぶりに覚える
前向きな感情だった。
本当に久しぶり。
「わかった。
紺ちゃんありがとう」
私は目を開いて紺ちゃんに言った。
「ここからは私がやる」
紺ちゃんは「また来る」と言って
去った。
- 667 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/23(水) 20:25
- 私はさっそくコンビニで
ノートを買って
これまでの夢を記録することにした。
―――自分で、考えるんだ……
紺ちゃんに話した夢には続きがある。
それは絵里にしか話していない。
私は
ペンを走らせて
夢の続きを書き出した。
……。
私は喉の渇きを覚え
みんなが踊るのをうらやましく想いながら
部屋の隅で座ってる。
……。
こんな自分……
早くさよならしよう。
私は弱いコでした
人から見られるだけで
人から話しかけられるだけで
自分を捨てたくなってしまう
そんなコでした
でももっと
強くならないとダメだ。
私は心にそう誓うと
ノートを
閉じた。
- 668 名前:いこーる 投稿日:2008/01/23(水) 20:25
- 本日の更新は以上になります。
- 669 名前:いこーる 投稿日:2008/01/23(水) 20:28
- >>648
このシリーズ書くのが久しぶりなので
文章リズムを取り戻すのに苦労していたのですが
そういった感想をいただけて嬉しいです。
>>649
あー、やっぱり待ってくださる方がいた……。
がんばって更新していきたいと思います。
- 670 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/26(土) 13:27
- ずっと待ちました!やっと見つけた!
やっぱ作者さんの文章、すごく好きです
次の更新も楽しみながら待っています
- 671 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:47
- 自分の一番、
見せちゃいけない部分が
知らないうちに流れ出して
みんながそれを掬い取ってる
そんな気分。
- 672 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:47
-
4
- 673 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:47
- ……。
そこは真っ白な世界。
あれは、誰だろう。
髪の長い女の人が
その白い世界にやってきて
白い空間に
手を伸ばす。
すると空間に裂け目ができる。
その
裂け目の向こうから
ブレザーを着た
女の子たちがぞろぞろと
世界に土足で踏み込んだ。
―――入ってこないで!
私の願いは却下された。
女の子たちが入ってくる。
―――私の世界に
たくさんの目線が
こっちを向いている。
みんな笑っていた。
- 674 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:47
- ―――いや!笑わないで!
みんな笑ったままだった。
私はその視線に耐えられず
どこを見ていいかわからなくなってしまい
空を見上げた。
―――……え?
その光景に
私の心臓は
飛び出しそうになる。
私が見上げた空は
四角くバラされていた。
―――ああ、世界が壊されてゆく……
パズルのピースみたいに
細切れにされた空が
白い空間に
浮いているだけだった。
……。
- 675 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:47
- 目が覚める。
強烈な不安を感じた。
心臓がドキドキ鳴っている。
―――今の……
世界が裂けて
いっぱい女の子が入ってきて
空がバラバラにされる。
―――今の、何の夢?
私は飛び起きて
身支度をする。
嫌な予感が
胸のなかを
漂っていた。
白い空間に裂け目ができる。
私の身近にある白い場所と
言ったら1つしかない。
絵里の部屋に行く白い壁。
私の夢が
映し出される白い壁。
鼓動はまだ
おさまらない。
世界が
踏みにじられる。
空が
切り取られる。
―――絵里に……伝えないと!
- 676 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:47
- 私はすぐに
絵里の部屋まで
駆けて行く。
「さゆぅ、待ってたよぉ」
絵里はいつもの調子で
私を迎え入れてくれる。
「絵里……。
何か、変わったことない?」
「ん?」
私は
絵里の両肩をつかんで
強く握った。
「どうしたの?
何もないよ」
「何もない?
絵里は……いつも通り?」
「うん」
「……」
私は胸に手を当てて
―――よかった
深く息を吐き出した。
- 677 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:47
- 「……さゆ、ひょっとして、また変な夢?」
「……うん」
「ははっ、こっちは大丈夫だよぉ」
絵里の笑顔に
不安で凍り付いていた
私の心が融けていく。
「よかった……。本当に……」
私は絵里に抱きつき
「ほん……と、」
絵里の肩で泣いていた。
張り詰めた心が
一気に弛緩してしまい
止めることができなかった。
声まで出して……
―――あーあ、情けない私
絵里は私の肩をポンポン叩いて
「さゆ……入ろ」
そう言ってくれた。
そっと言ってくれた。
- 678 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:48
- 私は絵里に手を引かれ
そのまま部屋に入っていく。
その後20分かけて
私は絵里の部屋を掃除した。
泣いてしまったのが情けなく
いつも頼ってばかりなのが悔しくて
今日の掃除は張り切った。
床に散らばったものを
ゴミと服とに分別し
ゴミはゴミ箱へ。
服は洗濯かごへ。
「絵里ぃ……下着がなんでこんなとこ……」
「ああ、かごに投げたけど入らなかった」
「……」
机の上の物を全てソファにのせて
机を倒して脚を拭いたときには
絵里もさすがに呆れてた。
「さ、終了!」
私は誇らしげに言う。
絵里は
不機嫌だった。
「もう!せっかくお掃除してあげたんだから」
「はいはい、いつもありがとー」
- 679 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:48
- ―――何か……私、変わったかも
以前なら
絵里の不機嫌を見て
私はへこんでいた。
どうせ私の気遣いなんて、と。
でも今は
こんな風に絵里に
恩着せがましく迫ってみて
2人楽しく過ごせている。
だんだん、
絵里とも対等に
しゃべれるようになってきている。
ちょっと
自信がでてきた。
座るスペースのできたソファに
絵里はボンッ、と腰をかけた。
ソファの上で2人
新作の構想を練る。
別ハロに掲載する
「あいのの」本だった。
- 680 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:48
- 紺ちゃんの紹介で
引きこもりだった私は
コミクラという
サークルに入った。
大学のサークルだったけど
高校生とかもいっぱいいて
そこは居心地がよかった。
朝着いたときの閑とした雰囲気も
お昼休みの揉まれるような混雑も
ほこり臭い放課後のけだるさも
私を疎外せず
包み込んでくれていた。
コミクラは
絵里の部屋以外で
私が自分でいられる
珍しい場所となった。
そこには
私たち以外にも
いろんなコがいた。
そんな中
私たちの目を引いたのが
「あいのの」コンビだった。
のんちゃんは
ふざけてみたり
怒ってみたり
泣いてみたり
表情がくるくる変わるコで
見ていて飽きない。
あいぼんは
のんちゃんが感情的になったとき
わざと冷めて見せたりして
まるでたこ糸を引くように
のんちゃんのテンションを
コントロールしている。
- 681 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:48
- でもあいぼんも
心の中では一緒になって
はしゃいでいて
その幸福が私たちにも伝わってきて
心がわけもなく温かくなる。
―――いいなぁ、こういう関係
そう思える。
私も
絵里に頼りっぱなしじゃ
ダメだよな。
絵里の顔が
私のすぐとなりにある。
「今回は、さゆの希望通り
シリアスで行くよ」
「反響大きいだろうね。
いつもギャグばっかの『あいのの』だから」
絵里の描いた構想に
私と絵里の顔が近づく。
夢中になっていて
お互いの距離に気づかない。
いや、
私は気づいていたけれど
近すぎると知っていたけれど
絵里に離れて欲しくない。
だから
黙っていた。
- 682 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:48
- プロットの話を終える。
絵里の顔が
離れていく。
―――絵里
きっと
絵里にとっては
なんてことのない距離感。
でもそれは
私にとっては近すぎて
意識せずにいられない。
私は普通じゃいられないのに……
それは
絵里にとっては
いつものこと。
絵里にとっては
日常のこと。
「じゃあ、お話書いてみる」
と言って、ペンを取り出した。
私の心なんて気にせずに
絵里は自分のペースで
自分の作業に没入していった。
ペンを走らせる
サラサラした音が
耳について
私はちょっと
おもしろくない。
- 683 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:48
- ―――作業なんて、いつでもできるのに……
自分よりも
漫画のストーリー構成を
優先させた絵里。
サラサラと流れる音。
絵里ははかどっているらしい。
意識を作業に
集中させているらしい。
絵里にとって私は
そんな程度の選択肢。
敗北感。
機嫌を悪くした私。
絵里に対する
憎しみがふいに
湧いてきて
それを絵里に
ぶつければよかったのかもしれない。
けれど私は
―――離れられない
そこで怖じ気づいてしまう。
絵里の隣にいたい。
絵里が私を向いていなくても
私は絵里の隣にいたい。
結局、掃除をしたたけじゃ
何も進歩していない。
私は深く息をつき
自分を襲った気持ちを抑える。
- 684 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:49
- ―――落ち着け!私……
絵里に対するとき
感情が抑えられなくなっている。
以前は、絵里といると安心した。
それだけで良かった。
でも今は
絵里の視線が自分から
ノートに移行しただけで
心が静けさを失う。
その強烈な感情は
心が強くなった証。
でも
このどうしようもない孤独感は
心が弱いままの証拠。
―――やっぱり、早く気持ちを伝えたい
絵里を見ていた私の目が
涙でにじんでしまう。
「よし!」
「ど、どうしたの?」
「気合い入れたの!」
首を振って
嫌な気分も振り払う。
私は夢ノートを取り出して
自分の夢を記録する。
最初はきょとんとしていたが
すぐに絵里も
自分の作業に戻った。
- 685 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:49
- 絵里のペンの音に
私のペンの音が重なる。
昨日の日付をまず書いて
覚えていることを書き出す。
空が切り取られる夢を。
しかし今日は
思い出す手間が
ほとんどかからなかった。
だって
忘れられないほど
怖い夢だったから。
私の世界が大勢に
踏み荒らされて
切り取られれて
目覚めた私を
落ち込ませた
その夢は
その恐怖は
今も生き生きと
私の胸に
せり上がってくる。
……。
- 686 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:49
- 髪の長い女の人が
その白い世界にやってきて
白い空間に
手を伸ばす。
すると空間に裂け目ができる。
……。
私のペンが音を止めた。
「……」
私の右手が
震えてる。
私は見回した。
白い壁に囲まれた
絵里の部屋。
―――世界が……私の世界が……
絵里の部屋が
ざわついている。
何か
私と絵里の安寧を
奪い去ろうという悪意が
この部屋に近づいている。
悪意の音は
サラサラという
ペンの音に混じって
コツ、コツ、コツ、と
次第にその存在感を
大きくしていった。
- 687 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:49
- それはほとんど
本能的な恐怖だった。
夢で感じた戦慄が
再び私の身体全体を
支配し始める。
最初は妄想かと思ったが
「絵里……聞こえない?」
「ん?」
「……足音」
絵里がペンを止め
耳を澄ませると
コツ、コツ、コツ。
「本当だ。誰か来た」
絵里は立ち上がって玄関に向かう。
―――絵里……出ちゃだめ!
私は震える足で
絵里の後を追って
玄関まで来た。
扉を開ける音が
心にズンと響く。
- 688 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/01/30(水) 22:49
- そして
入ってきた人物を見たとき
「きゃあああ!」
私は悲鳴を上げて
その場にうずくまった。
私たちの世界に割って入ったのは
夢に出たのとそっくりな
髪の長い女の人だった。
- 689 名前:いこーる 投稿日:2008/01/30(水) 22:49
- 今日はここまでとなります。
- 690 名前:いこーる 投稿日:2008/01/30(水) 22:51
- >>670
どうもです。これからは、あまり待たせないように努力します。
- 691 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:15
- 意味がわからない。
彼女の言葉が
私には通じない。
- 692 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:16
-
5
- 693 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:17
- 闖入者は「飯田」と名乗った。
絵里の知り合いらしいが
私にとっては
愛ちゃんと同様
外の世界の住人だった。
飯田さんは
高い位置から私をぎょろっ、と見下ろす。
「久しぶり、道重」
私はとっさに
笑顔を作ろうとしたが
私の顔はさっきまで
恐怖に凍り付いていたのだから
うまくできるはずがなかった。
「お……お久し、ぶりです……」
「亀井!大丈夫?このコ……」
「あ……平気です」
私は自分で答えた。
飯田さんは
入ってきた扉を振り返り
「どうした?入っておいでよ」
外に向かってそう言った。
- 694 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:17
- 私と絵里が
同時に扉を見る。
扉の向こうから
愛ちゃんが入ってきた。
愛ちゃんは
じっと床を見たまま
ひどくゆっくり歩いた。
以前みたときとはまるで違う。
明るさも、朗らかさも失われた愛ちゃん。
私には
愛ちゃんが
申し訳なさそうに見え
そんな様子に
飯田さんがいらだっているのも
見えたものだから
ますます怖くなってしまった。
怒った顔の飯田さんは
空気を震わすように歩く。
その迫力に
愛ちゃんも絵里も私も
気圧されていた。
- 695 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:17
- 私の心の中が苦くなった。
後悔と混乱が
ブレンドされた苦み。
飯田さんが扉を開け
愛ちゃんが……
外の住人が……
この部屋に入り込んでくる。
―――夢は、正しかったんだ……
私は夢で
こうなることを予期していたんだ。
こうなることを予期していながら
何もできなかった。
この後
あの夢で見たとおり
きれいな空は切り取られ
四角い断片になってしまうんだ。
私の世界は
バラバラに解体される。
後悔と混乱に
絶望が混じった。
私は座り込んだまま
涙を浮かべていた。
- 696 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:17
- 愛ちゃんは
私をちらりと見て
私の頬の涙を見て
ぎょっ、とした表情を
一瞬だけ見せたが
やがてもとの暗い顔に戻って
飯田さんに従った。
飯田さんは
部屋の奥に行く。
奥から、飯田さんの声がした。
「あー、これね。紺野が言ってたやつ」
―――え?紺ちゃん?
私は力なく立ち上がって
飯田さんたちを追いかけた。
しかし
私の足は
部屋の入り口のところで
止まった。
「……飯田……さん」
私は小さな声で
誰も聞こえないような声で
必死に訴えようとするが、
緊張に震えたのどは
それ以上
大きな声を
出せなかった。
- 697 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:17
- 「……それ……私の……」
飯田さんは
私の夢ノートを
手にしていた。
飯田さんは私を見ると
「道重。このノート借りてくよ」
軽い感じでそう言った。
―――ダメ……それは……
声は言葉にならない。
ただ私は
しびれたように呆然と
入り口に立ちつくすだけ。
私が返事をしないのを見て
飯田さんは
わざとらしく
ため息をついた。
そして
「高橋、行こう」
「……はい」
部屋を出て行こうとする。
―――待って……それを持っていかないで……
夢ノートが持ち去られる。
私が
私と闘うために
毎日書いているノート。
私の心の膿みが
書き記されているノート。
- 698 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:17
- ―――それを、見ないで!
私は
出口に向かう
飯田さんの腕を
つかんでいた。
「痛……ちょっと!」
飯田さんが振り払おうとしても
私は強く握りしめて離さない。
―――ダメ!それだけはダメ!
飯田さんが
目を大きく見開いて
私を睨みつけてくる。
私はそれに耐えられずに
目を閉じてしまう。
それでも
腕に込めた力だけは
決してゆるめなかった。
「待って、飯田さん!」
絵里の声がした。
私の手から
力が抜けた。
ノートはまだ
飯田さんの手の中。
- 699 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:18
- 「それは、持っていかないでください。
さゆの、大切なノートなんです」
「でもうちらにとっても必要なの」
「……ど、…どうして?」
私の喉から声が出る。
最初は小さく。
次は大きく出た。
「どうしてよ!
なんで私の夢が必要なの!?」
私はそう言って力なく
飯田さんの肩を叩いた。
なんども叩いた。
「そのノートは渡さないから!」
飯田さんは私の手を
まるでハエを追い払うようにのけた。
「あなたの許可がなくても
これは持って行きます。
このノートがないと
こっちも大変なんだから!」
「い……意味わかんない!
これは……これは私の夢なのに……」
飯田さんは
うんざりした表情で首を振る。
- 700 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:18
- 「道重の夢のせいで
みんなが時間をとられてるんだから」
飯田さんは
愛ちゃんと同じことを言った。
「ど、どういう……意味?」
耳の奥から
ガラスを擦るような音が
ジンジンと鳴りだした。
私は思わずよろめいて
壁に手をつく。
飯田さんは
またため息をついて
私に背を向け出て行こうとする。
「待て!!」
私はその背中にしがみついた。
「あーもう!高橋!!」
「……はい」
愛ちゃんが私たちの間に割って入ると
私を飯田さんから引きはがした。
「嫌あぁぁぁぁぁ!」
私は絶叫した。
- 701 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:18
- それを無視して立ち去ろうとする飯田さんの前に
「待ってください!」
絵里が立ちはだかった。
「どいて!」
「嫌です!」
「亀井!わがまま言うんじゃないの」
「どっちがよ!」
私が飯田さんの背中に罵倒する。
「飯田さんの研究に
そのノートが必要なのはわかります」
―――研究?
また耳鳴りがする。
―――うちらの時間まで止まっちゃってるから
私の夢が
―――こっちも大変なんだから!
みんなの時間を止めている?
- 702 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:18
- 「お願いします。今のさゆから
それを奪わないでください……。
さゆも必死に、自分の心を探しているんです」
「自分で探す?
そんなの待ってたら、いつになるかわからない」
「お願いします!さゆを信じてあげて」
「絵里!」
愛ちゃんが
私を押さえつけながら話す。
「もう、そんなこと言ってられないんだよ」
「……」
「絵里も、遅れた時間を、取り戻さないと……」
「……」
―――絵里……やだ……
「ね、絵里。わがまま言わんで……」
―――絵里!!
「……わかった」
全身から力が抜け
私はその場にぺたんと
落下するようにしてしゃがんだ。
涙が溢れて止まらない。
- 703 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:19
- ―――絵里……絵里まで……
もう私には
味方はいない。
―――空が引き裂かれる。
もう誰も
私の世界を
守ってはくれない。
飯田さんは
「読んだら返すから」
そう言って
扉の外に
出ていった。
私は
声を張り上げて泣いた。
子どものように
わんわんとみっともなく泣いた。
こんなの……
こんな理不尽があるか!?
私の夢を
誰だか知らない人が勝手に
踏みにじっていく。
- 704 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:19
- ―――こんなこと、あっていいわけないよ
そうだ。
こんな滅茶苦茶が
本当にあるわけない。
私いま
悪い夢を見ているの
悪い夢を見ているの
私今日
どんな夢を見たらいい
どんな夢を描けばいい
私はかたく目を閉じる
閉じた目からも
涙がこぼれる。
「ちょっと!何してるんですか!」
声が聞こえて
私は目を開けた。
「ノートを盗んだんですか!?」
「盗んだんじゃない……借りただけ」
「返してください!」
―――紺ちゃん……
- 705 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:19
- 「あのねぇ紺野。あんまり時間がないんだよ」
「夢ノートのアイデアは私です!
それを勝手に持ち去るなんて……」
「そんなこと言ったって」
「あっちの世界のことは
飯田さんが何とかしてくださいよ」
私は……絵里も
紺ちゃんの剣幕に
ぽかんと口を開けていた。
―――紺ちゃん……怒ってる
こんなに激怒した紺ちゃんを見るのは
初めてだった。
私には会話のほとんどが
理解できなかったけれど
紺ちゃんのインパクトが強すぎて
内容にまで頭が回らなかった。
「……待つって、どれくらい待てばいいのよ?」
「夏祭……」
「え?」
「この2人
今、夏祭の原稿描いているんです。
それが描き終えるまで、待ってくれませんか?」
- 706 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:19
- 「……」
飯田さんは
何かを考え込んでいたが
紺ちゃんの剣幕に
最後は
「……わかった」
ノートを紺ちゃんに渡した。
「あ、ありがとうございます」
絵里が飯田さんに言った。
「高橋、行くよ」
「はい」
立ち去る飯田さんの声は
今までで一番
不機嫌そうではあったけれど
どこか
紺ちゃんに対する
負け惜しみのようにも聞こえた。
- 707 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/06(水) 21:20
- 座ったままの私に
紺ちゃんがノートを手渡す。
私はそれを受け取ると
胸にぎゅうっ、と抱えた。
―――よかった……私の夢……無事だった……
「さゆ……」
紺ちゃんが私の頭を撫でる。
「夏祭、終わるまでだからね」
夏祭の原稿が終わるまで……。
確か
夏祭の原稿の締め切りは
以前紺ちゃんから示されていた。
それが
タイムリミット。
それまでに私は
自分の心を
知らなくてはならないということか?
「わかりました。がんばります」
もし期限を過ぎたら
また飯田さんがやってきて
私の世界を壊してしまうかもしれない。
それまでに
なんとしても
答えにたどり着かなくてはならない。
私は
紺ちゃんの手を
強く握った。
- 708 名前:いこーる 投稿日:2008/02/06(水) 21:20
- 本日の更新は以上になります。
- 709 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:57
- 彼女の
充血した目が、
焦点を取り戻した目がまっすぐに
私の顔に
突き刺さっている。
- 710 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:57
-
6
- 711 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:57
- 鏡を見ると
目が真っ赤に腫れていた。
あれだけ泣いたのだから
当然か。
飯田さんたちが帰った部屋。
私は洗面所から戻ると
黙って
ソファに腰掛けた。
紺ちゃんと絵里は立ったまま
じっと黙っていた。
白い部屋の中は
沈黙が行き渡り
重かった。
私はすぐに立ち上がり
2人を向く。
小さく息を吸い込んで
この沈黙を破る。
「絵里、紺ちゃん。ありがとう」
2人が
私を見た。
「私の夢を
守ろうとしてくれた」
- 712 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:57
- 私の言葉に対する
2人の反応は違っていた。
紺ちゃんは
小さく頷いただけだったが
絵里は
私から目を逸らし
下を向いてしまった。
―――……絵里
私の胸に
冷たい感じが流れて
私を落ち着かなくさせる。
「絵里。しょうがないよ」
私は言った。
さっき絵里は
愛ちゃんに説得され
ノートを渡そうとしていた。
そのことを
気にしているのだろう。
「さゆ……さっきの話だけど」
「だからしょうがないって。
抵抗できる雰囲気じゃなかったし」
「さゆ」
「いいよ。お願い、そんな顔しないで」
絵里の顔は
思い詰めたように見えた。
私を不安にさせる顔だった。
- 713 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:57
- そしてその
悩んだ表情のまま
絵里はゆっくり私に近づく。
空気が苦しくなった。
「え、……り?」
私は
喉がつまったように
言葉を紡ぐことができない。
絵里が歩く。
場の雰囲気を
重く押さえつけるような顔で。
白い部屋を
暗く沈ませるような気配で。
絵里が近づいてくる。
私は
―――怖い……
声を出せずに
動くこともできずに
―――絵里、どうしちゃったの?
絵里の
何かつらい決断を迫られているような
苦悩がにじみ出てくるような様子に
ただ怯えていた。
- 714 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:58
- 絵里の両手が
私の肩にのびる。
力が加わって
私に「座れ」と伝えてくる。
私は
そのまま押されるように
ソファに座った。
その隣に絵里が
そっと座った。
心のざわつきが
一層大きくなる。
おかしい。
こんな座りかた
いつもの絵里じゃない。
「さゆ……さっきの話だけど……」
絵里は私と目を合わせず
下を向いたまま話す。
「飯田さんの言うことも、わかるでしょ?」
そのとき私は
心のざわつきの正体を知った。
以前、しくじってしまった私は
周囲からの批判にさらされたとき
同じざわつきを何度も感じていた。
これは
信じていた人が
敵に回ってしまうことを
本能的に察知したときのざわつきだ。
- 715 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:58
- 「私も、さゆが苦しんでるのはわかる。
だけど……ずっとこのままってわけには……」
私は首を振った。
「わかってる」
「わかってる?……うん、そうだよね。
さゆだって、がんばってるんだもんね」
「絵里?何がいいたいの?」
「こんなこと言うの……ごめんね。
だけどさゆのこと、心配だから言う」
絵里は
―――やだ……言わなくていい……
私に宣告した。
「さゆが毎日私のところに来てくれるのは嬉しい。
でもやっぱりいつか
夢から覚めなければいけないんだよ。
いい?さゆのことをみんな待ってるんだよ。だって……」
喉が急激に痛くなった。
目が熱くなって
その熱は涙となって
私の膝の上に落ちる。
涙の砕ける音が
頭の中でガンガン響いていた。
- 716 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:58
- 何も聞こえない。
自分の涙の音しか聞こえない。
自分の
絶望の音しか。
ついに
絵里が
私の世界に悪意を向けた。
音がうるさく頭をつつく。
私の世界は
受け入れられない。
私の存在は
みんなにとって邪魔なだけ。
絵里が私の異変に気づいたのか
私の肩を揺さぶりながら
何か言っている。
でも
私には聞こえない。
―――いいよ、絵里の言葉なんて聞こえなくて
絵里の向こう
紺ちゃんが私に駆けてくる。
絵里に替わって
私の隣に座ると紺ちゃんは
私の頭をその胸に抱えて
そっと優しく撫でてきた。
- 717 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:58
- あたまをトントンと叩いて
話しかけてくる。
いや、
私の耳は
もはや機能していなかったから
その言葉は聞こえてきたのではない。
外の世界に出る鍵は
紺ちゃんの言葉はまるで
私の脳に直接届くみたいに
さゆの心の中
大きく響いた。
◇
しばらく紺ちゃんに抱かれて
私の耳は
ようやく元に戻った。
紺ちゃんから身体を離した。
立ったままの絵里を見た。
絵里は私と
目を合わせることをしない。
- 718 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:59
- 彼女は私を
存在として
認めてない。
絵里がこっちを見ないから
「……」
私も
かける言葉が
見つからない。
絵里が見ていないのに
私にしゃべることなんて
あるわけない。
「絵里……ごめんね……」
私は謝った。
そして
自分の住んでいる
この世界を呪った。
この世界は
私だけの世界。
絵里のいない世界。
外の世界の声は
私には届かない。
- 719 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:59
- 飯田さんたちが
何を焦っているのか
愛ちゃんの言っていた
「時間が止まる」とは
どういう意味なのか。
なぜ、愛ちゃんの時間を戻すのに
私の夢が必要なのか
「私……絵里に
すっごい迷惑かけてたんだね」
「そんなの……」
―――絵里も、遅れた時間を、取り戻さないと……
さっぱりわからなかったけど
私がいつまでも
ここにいては
いけないということだけ
よくわかる。
私は立ち上がって
ノートを取った。
「私……甘えていたんだね。
絵里の好意に甘えて
自分のしてきた過ちと
向き合うことをしていなかった。
だから……」
私の世界は
時間を止めた。
- 720 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:59
- 「外の世界に出ろって言われても
どうしていいかわからない。
外に出ようとすると
変な妄想や、変な耳鳴りが邪魔して
私をこの世界に引き留めようとする」
―――私……何、言ってるの?
「どうして?
ねぇ、どうして私は
抜け出せないの?」
「解離しちゃったからだよ」
下から
声がした。
紺ちゃんが
ソファに座ったまま
しゃべったのだ。
小さな紺ちゃんの声は
お腹をくすぐったくさせながら
私の胸に響く。
「現実の世界を認めたくない心が邪魔をする。
都合の悪い話になると耳鳴りがする」
私にとって
絵里といるここだけが
本物。
今まで歩いて来た道は
むしろ夢みたいな偽物。
- 721 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 20:59
- 「でもね……さゆは、自分の世界にも
完全に落ち着いているわけじゃないでしょ?」
「……うん」
私はなぜかわかっている。
自分がありもしないことを
夢想しているだけだと知っている。
知っていながら
外の世界に出ることが
できないでいる。
外は寒くて風が強い
飛ばされて落ちてしまう
それを最初から
知っていた蝶は
繭から出たくなんてない
ここから
出るのが怖い。
「だからさゆの夢は
現実を否定したり
妄想を否定したり
バランスを崩して
行ったり来たりしている」
「行ったり……来たり……」
目を閉じた。
1つ
深呼吸。
- 722 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 21:00
- 私は夢ノートを開いた。
私は約束した。
自分で
自分の夢と向き合う。
目を開けた。
紺ちゃんの言っていることを
心の中で反芻する。
私の心は
現実を認めることができない。
2ページ目。
古い映写機のようなざらついた映像。
水に絡め取られる夢。
現実の景色をぼやけさせ
否定する自分。
4ページ目。
空が切り取られる
恐ろしい夢。
妄想世界に住む自分を
切り刻もうとする私。
- 723 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 21:00
- 私は
わかったというように
紺ちゃんに頷いて見せた。
「さゆ……」
絵里の声がして
私は顔を上げた。
絵里は
優しく笑っていた。
「さゆは、戻って来れるよ」
そう言った。
優しい絵里の、優しい笑顔。
しかし
なぜか私の心の一番下は
いつまでも冷えたままだった。
◇
- 724 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 21:00
- 絵里と紺ちゃんにさよならを言って
廊下を歩く。
心は不安でいっぱいだった。
―――私の世界は、絵里を困らせている
絵里は
私に
外の世界に戻ることを望んでいる。
―――できるかな……
私の心が
耳鳴りまでさせて
知りたくない世界って何?
そんな恐ろしい現実に
この私が戻れるのか。
不安は
消えない。
しかし
どっちかを選ばなきゃいけないんだ。
居心地のいい妄想と
決別するか
絵里から見捨てられるか。
- 725 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 21:00
- もう
安心感に浸り続けることは
できないんだ……。
怯えた心が
どんどん大きくなって
私の歩行さえ阻んでくる。
私は立ち止まり
胸に手を当て
深呼吸をする。
それでも
気持ちは静かにならず
私をざわつかせたまま。
冷たい底から響くざわつきが
私を落ち着かせずにいる。
ダメだ。
自信がない。
私に、できるか……怖くてしかたない。
そのとき
ふと
昔のことを思い出した。
自意識過剰だったころの私は
テンションが下がらないように
毎日していたことがある。
- 726 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 21:00
- 鏡に向かって
「よし、今日もかわいい」。
別にかわいくなくてもいい。
根拠もなく、ただ「かわいい」と言えば
自然と自信も出てくるのだ。
それは妄想とは違って
自主的に錯覚することで
無理矢理にでも元気を出して
外に対する自分を
―――ペルソナを……
作りあげていたのだ。
弱かった私が編み出した
自分を励ますおまじない。
自分を誤魔化す演出。
―――久しぶりに、やってみよう。
私は廊下を歩く。
5枚並んだ鏡を目指して歩く。
本当に
それでいいのかなんて
考えずに。
本当は
これでいいのか
考えなくちゃいけなかったのに。
- 727 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 21:00
- 紺ちゃんの言っていた「解離」が
鏡と向き合うことで
―――あとちょっとで鏡
さらに悪化することになるなんて
その時の私は
―――一番手前の鏡に立つ。
考えもしなかった。
―――え?
「……ウソ」
私は鏡に近づく。
―――なぜ?
「……私が……」
―――どこいっちゃったの?
- 728 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 21:00
-
そこには
何も映っていなかった。
廊下は確かに映ってる。
私が立っているのと
同じ廊下。
なのに
「私は、どこ!?」
私が映っていなかった。
脚が震え出す。
―――なぜなの?
叫びたいのに
横隔膜も声帯も
力が全然入らない。
―――現実の世界を認めたくない心が邪魔をする。
紺ちゃんの声が
脳裏に浮かんだ。
―――都合の悪い話になると耳鳴りがする。
とうとう私の心は
自分自身の姿さえも
否定してしまったの?
- 729 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 21:01
- 「はは……」
私は
無意識に笑っていた。
自分が見えない妄想なんて
そんなバカなこと
あるわけないのに
「あはは……おかしいな、私」
私は
これ以上見ていられなくて
鏡から目を離した。
そして逃げるように駆け出す。
決して鏡を見ないように
前だけを見て。
2枚目……3枚目……
―――嫌!もう嫌!……こんな自分なんて……
4枚目……5枚目……
廊下の角まで走ってくる。
そして
ふと
振り返った。
白い壁には
―――新しい夢?
また映像が映し出された。
- 730 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/13(水) 21:01
- ……。
その屋敷には紺ちゃんがいた。
紺ちゃんが服を持ってこちらを見てる。
―――服はペルソナ……
服?
嫌、違う。
よく見ると
頭にかぶるものみたい。
―――帽子も、やっぱりペルソナ
絵里がいた。
絵里が傘を持ってこちらを見てる。
―――傘は……なんだっけ?
無数の風車が
くるくる回っているのが見える。
―――そっか、風が強いから、絵里が傘で守ってくれるの?
白い世界に
何か
色鮮やかな何かが降り注いでいた。
……。
- 731 名前:いこーる 投稿日:2008/02/13(水) 21:01
- 本日の更新は以上になります
- 732 名前:名無し飼育 投稿日:2008/02/14(木) 13:56
- さゆ、どうしたんだろう…
気になります、次の更新も待っています
- 733 名前:一読者 投稿日:2008/02/16(土) 03:39
- ついに重要なキーワードが出てきましたね。
- 734 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:33
- こうして何もせずに
じっとしていたら
気が狂ってしまいそうだった。
- 735 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:33
-
7
- 736 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:33
- 今度は
暗い空間だった。
コンクリートが剥き出しで
あちこちに水たまりがある
暗い場所。
どこが壁で
どこが天井か把握できないくらい
広い空間だった。
私は
世界を守るため必死だった。
絵里も一緒に
それから
何人かの仲間。
みんなで訴えた。
この世界を
壊さないで!
……。
- 737 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:33
- 絵里の部屋で
「あいのの」のプロットに目を通した。
初めて私たちが
挑戦するシリアス。
その内容を読んで
私は涙していた。
大所帯のグループを抜け
2人だけで活動することになったあいのの。
互いの存在の温度が
頼もしく
だからいつも2人は
楽しそうに見える。
しかし
のんちゃんにとっては
2人だけになってしまったという
不安の方が大きく思えてしまう。
ステージの下で
不安に襲われて
パニックになるのんちゃんを
あいぼんが優しく抱き留めて
自分たちの夢を語りかける。
その夢に
のんちゃんの心は
力を取り戻し
2人は手をつないで
ステージに向かう。
- 738 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:34
- ―――絵里……
絵里が
こんなお話を
考えてくれるなんて……
「絵里……これいいね」
「本当!?よかった、さゆにそう言ってもらえて」
「本当、すごくいいよ!
こういうの描きたかった」
だって
これはまるで
私と絵里のことみたい。
私はのんちゃん。
人に見られることが怖くて
ステージの下で
震えているのんちゃんだ。
でも私は
絵里に励まされ
なんとかここにいる。
コミクラの活動にも参加している。
自分の描いたものを
人に見られることを
私は最初嫌がった。
けれども絵里はしつこく言い
共同で作品を作ろうと誘ってくれた。
- 739 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:34
- 夏祭で私たちが発表する作品。
それはきっと「あいのの」で
のんちゃんが
怖がっていたステージだ。
私はステージの下で
震えている。
表の世界に
出ることができずにいる。
でもいつの日か
絵里と2人
手を取り合って
飛び出せる日が
来るのだろうか。
―――……。
あれ以来、
鏡を見ることはしていない。
自分の部屋に帰ると
自分の姿は
普通に見えたけれど
またいつ
私がおかしくなるかと思うと
不安で
部屋の鏡は
全て外してしまった。
- 740 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:34
- 絵里には
すぐに相談したけれど
相談の途中で
ひどい耳鳴りに襲われてしまい
それ以来
話をしていない。
一応の事情は
絵里に伝わったらしいが
話した直後に
私が不安定になったから
絵里はその後
私に気を遣って
鏡の話をしてこないのだろう。
「さゆ?……さーゆ!」
絵里の声に
私は自分の思考から
意識を戻した。
「どうしたの?急に暗い顔して」
「ご、ごめん……」
―――急に、鬱が襲ってきた
- 741 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:34
- ここ最近
私の神経は
ひどく参っていた。
前向きな気持ちになって
自信が湧いてくることもあれば
ふとしたきっけかで
全てをネガティブに考えてしまう。
私の状況と私の内面との
アンバランスが
こういう難しい事態を
招いているのだと思う。
夢ノート。
夏祭の新作。
状況は私を
更生させてくれそうなのに
頻度の高くなる夢。耳鳴り。
鏡から消えた自分の姿。
私の精神は
あくまでこちらに留まろうと
悪あがきをしてくる。
その身勝手な綱引きは
私という存在を引っ張りあいながら
現実と夢とを行き来する。
勇敢と臆病とがせめぎあい
私の神経を細らせ
感情が不安定になると
なおさら夢や妄想が幅をきかせるようになり
たまに制御不能に陥る。
- 742 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:34
- そうすると
私の心の中の前向きは
跡形もなくさらわれていて
私の心には
夢と
外の世界を恐怖する自分だけがいた。
そんな中
私を意地でも
現実に踏みとどまらせようとしたのは
希望だった。
絵里との共同作品を完成させ
空想のなかで「あいのの」を
ビッグアイドルにしたいという
ただそれだけの希望だった。
けれども私は
絵里との関係を
変えるためには
それしかないと思った。
作品を完成させ
私たちの中で
「あいのの」が成功する。
それが
私たちにとってのハッピーエンド。
みんなは笑うだろうけど
私にとっては
それでいい。
- 743 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:35
- 「さ、描き始めよう!」
「さゆ、大丈夫?」
「いいの。描いている方が
気持ちが楽だから」
「そっか」
成功したとき
きっと私の中には
外の世界に向かう
自信が生まれているだろう。
私は
自分の気持ちを
絵里に言うための勇気も
同時に舞い込んでくれることを
願う。
◇
それから
私たちは
コンビニに食料を買いに行く以外は
ずっと絵里の部屋で
作業に没頭した。
食料と言っても
本気で没頭しだすと
私も絵里も
空腹に気づかないままだったから
日に1度か2度
どちらかが「お腹空いた」と言うのをきっかけにして
コンビニに駆け込むように行って
驚くほどの量を買い込んでは
15分で平らげるという食生活だった。
- 744 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:35
- 昼にはカーテンを開け
夜にはライトの下でじっと
「あいのの」を書き続けた。
絵里も私も
外には出ず
連絡が来ても
放っておく。
今、2人の前には
2人しかいない。
その奔放な共同生活は
その堕落した一体感は
確かに私の自信になった。
24時間
絵里と一緒にいて
寝るときは
絵里の隣に寝て
何も怖い夢を見ない。
そこには
外の世界を意識させるものは何もなく
ただ
ペン入れの後の腕が攣る感じや
空腹を忘れさせるインクの匂いや
木机を擦るトーン貼りの音や
夜に2人ベッドで囁くくすぐったさが
私にとっての全てだった。
- 745 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:35
- そして私は
締め切りが来ることを恐れた。
この生活には
タイムリミットがある。
それまでに完成させなくてはならない。
それまでに完成させなくては
私の夢は
飯田さんたちに利用され
絵里との夢は
どこかへ流れて行ってしまう。
そんな
幸福と恐怖の毎日。
希望とネガティブのブレンドした日常は
私の身体を焦らせる。
その焦りをどうにかしたかった。
内にこもった熱の出口を求めるように
私は心を掻き乱すこの焦燥を
どこかに放出できないかと
思案するようになった。
2人の会話に沈黙が訪れると
私は「このままではいけない」と
気がせいて
悩みの中に
意識を浸してしまうのだった。
そして
一度は捨てた想いが
心の底でよみがえる。
―――気持ちを伝えよう。
- 746 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:35
- そのせいで
私の世界が壊れても
絵里との関係が崩れても
もう恐れない。
どうせ
締め切りを過ぎたら
あの人たちがやってきて
私の世界は解体されてしまう。
それなら
怖がってなんかいられない。
◇
それから私は
睡眠時間を削って描き続けた。
絵里はいつも通り眠っていたけれど
私はその隣につくことが少なくなった。
代わりに
作業机に突っ伏して寝ることが多くなった。
◇
- 747 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:35
- 告白……。
昔の私なら
簡単なことだったと思う。
自分の一番かわいい格好で
自分の一番かわいい言葉で
相手を落として
それで終わり。
どうってことないはずだった。
でも今は
自分の姿がわからない。
鏡さえ見られなくなった私が
どんな顔をして思いを伝えればいいか
わからない。
思えば
そんな弱い自分を直視したくなくて
作業に夢中になっていたようなものだった。
絵里と一緒に。
それが
告白しようと
思うようになってから
急にまた
絵里との距離を
感じてしまう。
- 748 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:36
- そしてまた
自分の醜さが
私の胸に蓋をして
心は
蒸し風呂のように
息苦しくなる。
自信が出たから
告白したくなるのに
告白しようとしたら
自信がなくなる。
―――何か……何か、きっかけが欲しい。
でも
どうすればいいだろう。
どんな機会があれば
私の中に
想いを投げ飛ばす力が生まれるだろう。
―――誰か……誰か、教えて!
私は焦っていた。
告白したい。
告白できない。
そのジレンマのせいで
漫画のペースまで落ちていた。
私は焦っていた。
- 749 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:36
- ―――誰か……
誰かを頼ろうにも
こればかりは絵里に相談できない。
◇
フローリングがひんやりと心地よい。
絵里は奥で
かわいい寝息を立てている。
私は
ソファに腰をかけて
携帯を開いた。
文章を打っている間
キーのカチカチという音が
部屋に響いて恐ろしかった。
絵里に聞かれているのではないかと
不安だった。
メールが聞かれるわけはないと思ってみても
カチカチという
デリカシーを欠いた音は
夜の部屋に弾き渡る。
ようやくメールを作成し終えた私は
へんな汗をかいていた。
―――できた……
これでようやく
私の中のもやもやを
人に知ってもらえる。
- 750 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/02/20(水) 22:36
- でも同時に
もう後戻りができなくなる。
―――……進もう。
私は
物語の駒を進めるんだ。
深く息をつくと
アドレス帳から
紺ちゃんのメアドを呼び出して
送信した。
- 751 名前:いこーる 投稿日:2008/02/20(水) 22:36
- 本日の更新は以上になります。
- 752 名前:いこーる 投稿日:2008/02/20(水) 22:39
- >>732
>>733
ありがとうございます。
どうも回りくどい展開になってしまっていますが……。
よろしくお願いします。
- 753 名前:名無し飼育 投稿日:2008/02/23(土) 14:08
- さゆ、がんばれ
ますますさゆの事が気になります
次の更新も待ってます
- 754 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:43
- もう
終わりにしよう。
そのために私は
この扉を
開ける。
終わらせるために
開ける。
- 755 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:43
-
8
- 756 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:43
- もう私たちの作業も
終盤にさしかかっていた。
あと数日で
私たちの「あいのの」は
完結する。
幻想の中で「あいのの」は
ステージ上を輝き続けるのだ。
私と絵里は
夏祭当日の興奮を想像しながら
作品を読んでもらう時を
ワクワク待ちながら
残りの作業を片付けていく。
あとちょっと。
あとちょっとで
私たちは夢を紡ぎ終え
幸せな世界を織り上げる。
それはきっと
現実の私と絵里にとっても
新たな物語の
始まりとなるだろう。
絵里に
想いが
届きますように。
それを信じて
ひたすらペンを
動かしていった。
- 757 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:44
- ◇
最後の作業は
徹夜になった。
もう身体は
ボロボロだったけど
ちっとも眠たくならないで
目はむしろ開こうとする。
その
恍惚とした興奮の中
私は
最後のトーンを
貼り終えた。
双子みたいな
最強コンビ「あいのの」。
ついにできた!
「……ふーっ」
完成の喜びは
静かなため息となって
私の口をついて出る。
見ると絵里は
机の上で眠ってしまっていた。
時刻は午前8時前。
「……」
私は
重たい身体を持ち上げて
携帯電話を手に取ると
絵里には気づかれないように
そっと外へと飛び出した。
- 758 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:44
- ◇
告白するには
何かきっかけとなるものが欲しい。
紺ちゃんにそうメールした。
紺ちゃんの返答は
何かプレゼントを渡して
それをきっかけにしてはどうかということだった。
そこで私は
寝ている絵里に
内緒でこっそりと
買い物に出かけることにしたのだった。
たった1人で買い物するなんて
いつ以来だろう。
人の多い空間に行くと思うと
精神が傾くのではないか。
そんな不安があったけど
紺ちゃんが
「何かあったらメールして」
そう言ってくれたので
それを頼みに
私は1人
買い物に出かけた。
外に出ると
もう暑い。
夏が近づいてきている。
無遠慮に照らす日差しの中
私は歩いている。
たった1人で歩いてる。
- 759 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:44
- 絵里なしで出かける。
それは久しぶりのことで
足が地面を踏む感覚さえも
定かではない。
最初は
人とすれ違う度に
息が止まるかと思うほどの
緊張が全身を走ったが
その都度私は立ち止まり
深呼吸して落ち着ける。
それを繰り返すうちに
どうにか商店街までは
たどりつくことができた。
アクセサリがいいか
洋服の方がいいか
それとも
食べ物?
どれも絵里に渡したら
喜んでくれると思うけど
これは
告白のきっかけ。
いい加減には
選びたくない。
写真を撮って紺ちゃんに
送ってみたりしながら
歩けば10分の商店街を
私はたっぷり3時間
行ったり来たりしながら迷う。
- 760 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:44
- 迷っているうちに段々と
人の目線も気にならず
ただ、絵里を想って
品を選ぶという作業だけに
没頭することができた。
紺ちゃんからの返信で
<あんま大げさでない方がいい>
と言われたので
手頃な値段の中から
選ぶことになった。
そう
プレゼントはあくまできっかけ。
溢れる想いを
私の中から溢れさせるための
ちょっとした力でいい。
高価なものに頼るようじゃ
私の気持ちは本物ではないと思う。
アクセサリがいいか
洋服の方がいいか
それとも
……
私は
白い部屋を思い浮かべた。
飾りの少ない白い部屋。
- 761 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:44
- あそこに何か
かわいいものを
置いてくれたら
―――あれ、かわいい!
私は
その小さな鉢を手に取って
その小さなサボテンを眺めた。
大げさにならない。
ずっと絵里の部屋に
置いておける。
世話に手間がかからないから
あの絵里でもきっと
喜んでくれる。
見つけた。
ようやく見つけた。
たぶん
出会って初めての
生まれて初めての
世界でも初めての
自分で見つけた贈り物。
◇
- 762 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:44
- 私は小さなサボテンを
両手で抱えるように持ち
帰り道を急ぐ。
複雑に入り組んだ道を
足が向くに任せながらも
頭の中は絵里のことばかり。
絵里と2人
パイプ椅子に並んで座り
平積みにした「あいのの」を
来てくれた人に渡していく。
私たちの世界はみんなに広がり
幸せな物語が大勢に染み渡る。
そして
私たちの関係もきっと
幸せに向けて
大きく前進するだろう。
そんな妄想を
ずっと頭に描きながら
……
地面が忙しく揺れている。
隣の人と、距離が近い。
列車が大きく揺れる度
隣の人にぶつからぬように気を配る。
狭い狭い電車の中。
乗ってる人たちが
私に迫ってくるのではないかと
恐ろしかった。
- 763 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:44
- 怖くて私は目を閉じて
もう一度開ける。
すると乗客たちは
何もないような顔で
立ったり、座ったりしてる。
平穏な車内の風景だった。
―――?
さっきの光景は何だろう。
みんなが私に迫ってくるような
恐ろしい光景は……。
電車が揺れる。
私はカバンを抱えてる。
はやく学校に行かなくちゃ
はやく学校に……
学校!?
……。
気がつくと私は
道の真ん中に立ちつくしていた。
- 764 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:45
- 足下を見る。
そこは電車なんかじゃない。
だって
商店街から帰るのに
電車なんか乗らないから。
―――今のも……夢だったの?
私はサボテンを強く握って
頭を弱く振った。
白昼夢……だろうか。
私は歩きながら
意識は夢の中に飛んでいたようだ。
―――しっかりしろ……私……
外を歩きながら
夢に襲われてしまうとは
そこまで自分は
危ない状態なのか。
と、そのとき
―――あれ?
今度こそ意識がこちら側に戻った。
―――道、間違えてる……
- 765 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:45
- 私は道を間違えていた。
いや
正確には
絵里の部屋に戻るつもりで
全然別の場所を
目指していたのだった。
それは
赤い色の大きな建物。
大学だ。
私の身体は無意識に
ここに向かってしまったらしい。
私は吸い寄せられるように
大学の入り口へ行った。
なんだろう、この雰囲気。
敷地内に入った途端
胸の中が落ち着いた。
まるで
建物に歓迎されているみたい。
―――久しぶりに、行ってみよう。
大きな建物の一階のラウンジスペースへ。
コミクラの活動場所へ。
ラウンジの入り口には
大きなガラスがある。
その前まで来て
中をのぞき込んだ。
- 766 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:45
- するとそこでは
サボテンの袋を強く握った
絵里が楽しそうに笑っていた。
私も笑ってラウンジに
入って行けたら
良かったのかも知れない。
だけど
私の手の中には
絵里に内緒で買ったサボテン。
これは
絵里に渡して告白するための
プレゼントだ。
まだ絵里には見せられない。
私だけの秘密。
私は大学に背を向けて
自分の部屋に向かって
歩き出した。
勇気を出して
ここまで来たのに
タイミングが悪かった。
拍子抜けしたような
ほっとしたような
それでいて
なんか寂しい。
- 767 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/04(火) 21:45
- 絵里は私が
いなくなったと知って
1人で
コミクラにやってきた。
私にとっては
私の世界にとっては
絵里が全てだけれども
絵里なら私がいなくても
1人でコミクラまで来れる。
まだ私には
堂々と居られる
場所がない。
絵里から離れて
行動したことを
今更に
後悔している
自分がいた。
絵里に言わないで
単独行動なんてするから
また寂しくなってしまう。
また、1人ぼっちだよ。
私は温かい空気を
大きく吸った。
寂しさを
胸の奥底に
飲み込むように。
この寂しさは
しばらく抱えておこう。
絵里に全てを話す
その日まで。
- 768 名前:いこーる 投稿日:2008/03/04(火) 21:45
- 本日の更新は以上になります。
- 769 名前:いこーる 投稿日:2008/03/04(火) 21:46
- >>753
応援ありがとうございます。
今後も気にしてあげてください。
- 770 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:47
- 彼女はさっと
笑顔を消して
真顔の冷たい表情で
私をじっと見ながら
言った。
- 771 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:47
-
9
- 772 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:48
- 私は絵里に手を引かれ
コミクラまでの道のりを
ゆっくりのんびり歩いてる。
よく晴れた日。
暖かな夏の日。
ラウンジに行き印刷の
仕上がった本に目を通す。
「別ハロ」。
ついに、形になった。
私の胸の奥深く
打たれたように
ジンとなる。
自分のイメージした世界。
絵里と私で作り出す
国民的アイドルたち。
想像の中で2人きり
今も幸せに微笑み続けていた。
自分の生み出す幸福が
私たちからみんなへと
広がることを願ってる。
- 773 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:48
- 「あ!……ねぇさゆ。見て」
「え?」
絵里が私に
別ハロの
目次を開いて
渡してきた。
見ると
今号の目次には
私たちのものを含めた
3編の漫画が
載っていた。
・「絆」第5話……脚本・辻希美 作画・加護亜依
・ふたりで2……脚本・藤本美貴 作画・松浦亜弥
・あいのの3……脚本・亀井絵里 作画・道重さゆみ
「みんな
完成したんだね」
私たちは
目次を眺めつつ
不思議にうっとりしてしまう。
みんなが夢見たアイドル。
みんなで作った
別冊ハロー!プロジェクト。
- 774 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:48
- ここには不思議な力がある。
私たちの願いが。
みんなの希望が。
そして
孤独に打ち勝とうとする
強い意志が、別ハロにはある。
「みんな……幸せになれるよね」
私は1人ごとのように
小さく小さくつぶやいた。
「うん、きっとなれる」
絵里が1人ごとのように
小さく返した。
ラウンジの天井を仰ぎ見る。
建材の
剥き出しになった天井が
高く遠くに見えていた。
私は目を細めた。
天井の照明が
ぼんやりとして
私の意識も
遠くに飛ぶように
遠い物語の中へ……
- 775 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:48
- のんちゃんは
赤ちゃんとあいぼんと
楽しく過ごしているだろうか。
あやちゃんは
美貴ちゃんを受け止めることが
できただろうか。
みんな幸せな時間を
夢見ながら
闘っている。
みんな愛しい人との
幸せな時間を夢見てる。
それがこの
3つの
アイドルの物語なんだ。
それでも
私たちは今も
微妙な距離のままでいる。
この世界が
壊されることに
怯えながら
2人の関係は
今もちっとも
進まずにいる。
もう一度
視線を落として別ハロの
目次を眺めることにする。
自分の殻に
閉じこもった私たちは
アイドルという
全く逆の自分を
妄想し
夢想する。
- 776 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:48
- 弱い自分たちが描く
それは確かに夢だった。
そして私の胸の中
熱くて重い情念が
身体を突き動かすように
小さな胎動を始めていた。
3編の夢とともに
私の中に舞い込んだ
ほんの一片の勇気。
―――絵里が好き……
とくんっ
胸が高鳴る。
それはずっと
想っていたことだけど
今日の気持ちは
その何倍も強くなり
膨らんできている。
―――絵里と、一緒の世界に行きたい
自分にとってそのことが
どれだけ辛いかわかってる。
自分の世界を
否定することが
どれだけ難しいことか
そんなことも
わかってる。
- 777 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:49
- だけど私は
どうしても知りたい。
自分の過去を
自分の弱さの正体を
自分が忌避し続けてきた
外の世界の苦しさを
何もかも知りたい。
何もかも知って、
絵里と一緒に歩きたい。
ポタッ
水滴の
はじける音で気がついた。
「さゆ?どうしたの」
私の目から
涙が知らず流れてた。
「ごめっ……なんでも、ない」
私の心が求めてる。
解離した
過去の記憶を渇望している。
世界に追放されることは
もう怖くない。
今のささやかな幸せを
捨て去ることだってできる。
知りたい。
私が心に蓋をして
夢の向こうに押し込めた記憶って
一体何なのか。
- 778 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:49
- 「さゆ……」
「絵里……私、想い出せるかも……」
心が
騒がしく鳴り始める。
意識の奥底から
何かが形となって浮かんでくる。
「絵里……」
私は絵里の手を
強く握った。
温かい。
この温かさ……
必ず
私のものに……
そのとき
失われた記憶が
どっ、と洪水のように
心の中に流れ込み
高速でフラッシュしていく。
耳元から
無数の声が一斉に
ざわつきはじめていた。
- 779 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:49
- ―――よし、今日もかわいい!
こんな私は偽物だ……
―――今日もさゆみが、一番かわいい!
仕方ないんだ。仕方ないことなんだ。
―――道重さんってやばいですよ
だって、仕方ない。私1人で決めたことじゃない。
―――そろそろ、うざくなってきたんだけど……
わかってる。わかってるけど
―――みんな!さゆみのことかわいいって言って!
私1人では止められない!
―――かわいいって言ってよ!!
どうしても、止まってくれない!
―――お願いだから……
もう嫌だ……
―――お願い……
もう嫌だ、こんな自分……。
もう
「疲れた……」
- 780 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:49
-
はっ、となって意識が戻る。
絵里が
私の腕を強く引いていた。
「今……、何かを思い出しそうだった」
「え?」
私は絵里の手を強く握る。
「ねぇ、絵里」
「何?」
「私……」
「?」
ぎゅう、って温かい手を握りしめた。
「私、絵里と同じ世界に
立つことできるかな?」
◇
帰り道は
予想以上に寒かった。
もう夏だと油断して
薄着をしてきた2人は
いつもより近い距離で
肩がぶつかりそうな距離で歩く。
お互いの存在を
確かめるかのように。
- 781 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:49
- それは
外から見たら気づかないような
ほんの微細な変化だったけど
2人にはよくわかった。
感情が皮膚を透って
伝わっているんじゃないかと
想うくらいはっきりと
2人の想いを感じ取れた気がした。
―――きっと……そう。間違いない……
私も絵里も
お互いとの関係を
先に進めたがっている。
作品を完成させたことで
2人の心が暖まって
そとの寒さも気にしない。
それが
私の勇気になった。
―――言える。今日なら……
絵里の
本当の気持ちを
知ることができる気がした。
それは同時に
私が自分の狭い世界と
決別することを意味する。
- 782 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:50
- ―――今日言えなければ……
こんなにも
絵里を感じられる今日に
伝えることができなければ
―――……きっと一生、このままだ
私は絵里の隣を黙って歩く。
心は今から緊張しながら
頭では
部屋に置いてきた
サボテンのことを考えていた。
◇
絵里と2人
部屋に戻ってきた。
絵里が先に部屋に入る。
今日は出かけていく前に
私が掃除をしておいた。
だから
出窓に置いたサボテンには
絵里でもすぐに気がづいた。
「あっ」
私の喉はからからで
絵里の様子をじっと見る。
- 783 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:50
- 絵里は出窓まで歩き
私の置いたサボテンを取る。
最初、不思議そうだった表情が
すぐにぱぁ、と明るくなって
その笑顔のまま
私を
見た。
―――絵里が、笑顔を、向けた。
私は
息が詰まるように切なくなる。
「これ、さゆが持ってきたの?」
「この部屋に、置いてもらおうと思って」
「ありがとう!」
その笑顔が
私の背中を押してくれて
勇気になった。
「あの……」
「?」
そのとき私には
絵里が私の気持ちを
受け止めてくれるに違いないという
確信のようなものがあった。
「えと……あの……」
- 784 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:50
- それでも、
お互い好きに違いないと知っている今でも
どうして……
どうして最後の一言が
詰まって喉から出てこない。
絵里は柔らかい笑顔を作り
首をかしげてじっと待つ。
私の最後の一言を。
絵里は
私の躊躇の正体を
直感で理解したらしかった。
だからそれが
私の口から出てくるまで
そっと包むような表情で
そっと触れるような呼吸で
そっと手招きするように
ただ笑って
そっと待っていてくれる。
私は
その笑顔を直視できずに
下を向いてぼそっ、と言った。
「絵里は……いつも、そうだったね」
- 785 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:50
- 「ん?」
「マイペースな振りをして
ちゃんと私のこと待っててくれる」
「……」
しゃべり出すと
言葉は勢いに乗って
あらぬ方向へと進みそうだったけど
止まらない。
「絵里って、だらしなくて、頼りなくて……
それなのに私のこと、ずっと待ってるの。
なんか……ずるいよ」
「どうして?」
ほら。
「どうして」と聞いている今も
優しさが全然崩れない。
「だって……絵里は……
私の気持ち知ってるくせに
鈍感な振りしてる」
「ん?」
「今だってそうでしょ!?」
そのとき
ふいっ、と絵里が
背中を向けた。
「絵里?」
「だってさぁ……わかんないんだって……」
- 786 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:51
- 絵里が
声を震わせていた。
「きっと今のさゆも
私とおんなじ気持ちなんだろうな、って思う。
だけど……わかんないよ。
私が言っちゃったら、今の関係が壊れちゃうかもって思うと
言いたくても、怖くて言えない」
私は
「えり?」
きょとんとしてしまった。
―――絵里も、おんなじだったの?
心が熱くなる。
止めるまもなく
私は泣いていた。
「え、り……」
絵里は「くふっ」と笑って
私をそっと抱き寄せる。
抱きしめながら
絵里はしばらく
迷っていたようだった。
抱きしめる手の力が強くなる。
絵里の胸の鼓動が異様に早く
私までドキドキしてしまう。
- 787 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:51
- 絵里の心の中で
何かが決まろうとしていた。
絵里の腕の中
私はじっと待った。
絵里は小さく
「……愛ちゃんごめん」
そうつぶやく。
そして
言った。
「私は、道重さゆみが、大好きです」
ずっと
言って欲しかった言葉。
ずっと言いたかった……
告白しようと思ったら
先に告白されてしまった。
結局
絵里にはかなわない。
絵里も私の肩の上で
泣いているらしかった。
- 788 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/11(火) 20:51
- ……。
私は大きな弓を力いっぱい引き絞り
射放たれた矢はしっかりと
絵里の心に刺さってくれる。
私は
新しい世界に
立てたのだろうか。
- 789 名前:いこーる 投稿日:2008/03/11(火) 20:51
- 本日の更新は以上になります。
- 790 名前:いこーる 投稿日:2008/03/18(火) 19:27
- 私との関係の中で
抑圧されていった。
- 791 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:27
-
10
- 792 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:27
- 熱い熱い火がたかれ
私は周囲を回ってる。
酷く渇いていた。
お腹も空いていた。
熱い……熱い……
渇いている……渇いている……
……。
飯田さんと約束した
タイムリミットが迫ってる。
「夏祭の原稿が描き上がるまで」。
もう
私たちは描き終えた。
早く自分が解離した
記憶を取り戻さないと
私の夢は
乱暴に壊されてしまう。
―――空が四角く切り取られて……
だけど……
―――みんなの視線。
私の心が疼く。
過去から解離しようとする。
- 793 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:27
- まるで
近づこうとする私を
―――しらけたような目。
熱い炎で拒むように
記憶を探る私の心を
チリチリと痛めつけている。
しかし
ときに断片的な映像が
脳裏に浮かぶ。
―――みんなの顔。
私は痛みの中から
徐々に記憶を
取り戻しつつあるのだ。
私は夢ノートを手に取る。
もう描くべき漫画はない。
私が描くべきなのは
過去に捨てた
自分自身だ。
- 794 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:28
- 絵里と気持ちを
確かめあった
今だからこそ
私は
私を苦しめ続けた
夢の正体を知り
自分の正体を知って
今度こそ
堂々と絵里と
向き合いたいと思う。
深呼吸
気持ちを落ち着け
心の中
そして私の頭の中に
1つのストーリーが
組み上がっていく。
◇
これは紺ちゃんから
ペルソナの話を聞いた直後だったか。
「シャドウ」という話を
してくれたことがある。
「『シャドウ』というのは自分の影のことだけど
夢の中に出てくる『シャドウ』というのは
自分の似姿のことなの。『自己像』って言ってもいい」
- 795 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:28
- 「影が……自己像なの?」
「そうだよ。
『ペルソナ』が、社会的存在としての『自己』。
でも人間は社会的なだけの存在じゃない。
むしろ社会に出ているときには
自分を抑えていることの方が多い。
その、押さえつけられている自分こそが
『シャドウ』ってことなの。
だから、夢の中に出てくる自分は時に
その人のキャラとは正反対になって現れてくる」
「正反対……」
「ふだんは威張っている人が
夢の中では気弱な自分になっていたりね。
心がバランスを取ろうとして
普段は持つことのできない
自己意識を夢に見ようとする」
普段はもてない……自己意識。
「紺ちゃん……。じゃあ、私の夢は……
自分の中に欠けている『私』ってことなの?」
「そういうことも、ある」
◇
- 796 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:28
- 私は
夢ノートの記述に注目した。
この中に
抑圧された
私の『シャドウ』がいる。
私が自分と認めずに
解離した自分が。
そういうことなのだ。
夢の中の「私」。
それこそが
取り戻さなきゃいけない
記憶なのだろう。
私の手に
そっと
絵里の手が触れた。
私もその手を握りかえし
肩を絵里に預けてみる。
「ねぇ……絵里は、
いつも一緒にいてくれるね」
「うん。ずっと、一緒にいるよ」
私たちがようやく
獲得できたこの距離感。
この温もり。
寄りかかっている2人。
いつも一緒にいたけれど
いつも望んでいたことだけど
こんなに心地よいものだと
知らなかった。
- 797 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:28
- 好きな人に
いつでも好きと言える。
好きな人の気持ちが
いつでも確認できる。
絵里との時間は
ずっと
私のそばにあったけど
こんなに
安心できたのは
初めてだ。
これまでは
絵里の存在が
私を掻き乱し
私を不安にさせ
それでも時々
元気をもらったり
温かさをもらったり。
だからもう
離れられなかった。
絵里は不思議。
私を困らせるのも
私を喜ばせるのも
みんなみんな
絵里の存在なんだ。
- 798 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:28
- 最初は恐ろしかった水が
やがて身体になじんで
心地よく私を包んでくれる。
絵里はまるで「水」のよう。
水……
水……夢の中の……
私が夢見た……水のイメージ……
「ねぇ……絵里……」
「ん?」
「私、わかったよ」
「え?」
私はようやく
自分の夢の正体に
たどり着けた気がした。
絵里が私の方を向く。
私も正面から絵里を見た。
絵里は
少し困惑したような顔で
私の言葉を待っている。
―――大丈夫。私は、思い出した。
私は
自分の出した答えを
絵里に向けて語り出した。
- 799 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:28
- 「ポイントは水だった」
私は夢ノートを開いて
絵里に見せた。
1ページ目。最初に見た夢。
……。
ハイテクなセキュリティのかかった建物。
扉を開けてガラス張りの部屋に入ると
そこにはたくさんの服があって
どれを着たらいいかわからない。
私は喉の渇きを覚え
みんなが踊るのをうらやましく想いながら
部屋の隅で座ってる。
……。
「この夢が?」
「紺ちゃんと話をしたとき
服を選べない私=役割を見失った私って解釈してた」
「うん、覚えてる」
「でも、違うんだよ」
「違う?」
「うん。だってこの私は
服にちっとも頓着していない。
むしろ、服なんてどうでもいい感じ」
- 800 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:29
- たくさんの服があって、どれを着たらいいかわからないのに
私はちっとも困っていない。
「確かに」
「その代わり、私は喉の渇きを覚える」
「うん」
「私が求めていたのは、服装じゃない」
服はどうでもよくて、
「ひたすら『水』を求めている」
―――私が求めていたのは
「私が求めていたのは
自分の立ち位置や役割なんかじゃなかったんだ」
社会の中での自分なんて
捨て去ったって構わない。
「でもさゆ……」
「何?」
「ガラス張りの部屋はどうなったの?」
「あれは……私の欲望の現れ」
「どういう、こと?」
「私……誰かに……自分の中身を見て欲しかったんだと思う。」
隠したかったのではなかった。
見て欲しかった。
「じゃあ、夢の中のさゆは……」
「あれこそが、本当の私。
服が選べなくて、無防備で、人のことを羨むしかない
薄弱な私の、本質だったんだ。『シャドウ』だったんだよ」
- 801 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:29
- 気取っている自分。
飾っている自分。
それに疲れた私は
本当の、偽りない弱い自分を
誰かに
―――絵里に
認めて欲しかったんだ。
「紺ちゃんの解釈は逆だった。
私は、自分の役割を捨て去りたくて
『かわいい自分』という仮面を取りたくて
しかたなかったんだ」
もう
みんながいる場所なんかにはいかない。
絵里と一緒にさぼって
絵里とだけ過ごせば
それでいい。
わかってしまえば
拍子抜けするような
簡単なことだった。
私は世界から追放されたのではない。
私は自分から
絵里と2人きりになることを
望んでいたのだ。
- 802 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:29
- 「かわいい」を演じる自分を
「うざい」と罵っていたのは
周囲の声なんかじゃ、ない。
あれは
絵里の前で
素直になれない自分を呪う
自責の声だったのだ。
「誰も、私を責めてなんかいなかった。
そうでしょ?絵里」
「……うん」
何も
私を苦しめる体験なんて
過去にはなかった。
私が勝手に「外に出ない」と決めつけて
心に蓋をしてしまっただけ。
それが
真実だ。
そうして私は
引きこもりの生活を
絵里とだけ会うという
異常な生活をスタートさせた。
- 803 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:29
- しかし
引きこもっての生活に
最初は2人ともペースをつかめずにいた。
絵里は
私生活が呆れるほどだらしなくて
部屋の片付けをするのはいつも私。
もちろん
どんなに仲良くたって
相手の嫌な部分ばかりが
気になるときはある。
そんなとき
私はまたしても
夢でもって
心のバランスを取ろうとする。
「次の夢……私は水を怖がっている」
2ページ目。
……。
古い映写機のような
ざらついた画質。
そのはっきりしない景色の中
私は疲れ切っている。
踊ろうとして足を上げると
水が足に絡みついて飛沫を上げた。
いや!
私は首を振り回し
水から逃れようと暴れてる。
それでも水はしつこくて
私はついに崩れ落ちる。
……。
- 804 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:29
- この夢に出てくる水は
私の行動を制限し
私を不安に陥れている。
「さっきは渇いていたのに、今度は水を怖がってる」
近づきたい。近づくのが怖い。
そのどちらともつかない存在。
私の身近にいて、
私にはなくてはならないもの。
「水は、絵里だったんだ」
「私?」
「そう。求めたり、嫌になったり。
絵里の近くにいて
私はいろんな感情を抱いた」
だけど
絵里に嫌われたくない私は
そのほとんどを
隠した。
心の中に。
「その感情が、夢の中で『水』のイメージとして出てきたんだ」
「じゃあ……じゃあ、次の夢も、水が重要なの?」
「うん」
……。
3ページ目。
広場の上。
私はなぜか嬉しそう。
角には
丸いかわいい噴水があって
広場なのにそこは狭かった。
……。
- 805 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:30
- 応援してくれる水のイメージ。
かわいく整ったものとしての水。
このページには、紺ちゃんのメモが添えてある。
<整った図像=マンダラ>
「マンダラ」とは
心の均衡を意味する言葉らしい。
安定を求める心が、マンダラの夢を見せる。
「この頃私は
もどかしい2人の関係を
告白によって乗り越えようと決意していた」
私が求めていたことは
絵里との関係を変えて
安らぎを得ることだった。
そんな
私が望んでいたものが
均衡の取れた「噴水」となって現れた。
私の夢のあちこちに出てきた「水」。
その正体は絵里に対する感情だった。
水を渇望し、恐れ、忌避し
水に困惑し、嫉み、勇気づけられていた。
- 806 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:30
- 「この後は『水』の夢を見ることが少なくなる」
「つまり、私に対して気持ちを抑える必要がなくなった」
「そう」
今は絵里と2人
幸せな時間のなかにいる。
「最後に出てきたのは、6ページ目。
ただの水溜まりの夢なの」
……。
今度は
暗い空間だった。
コンクリートが剥き出しで
あちこちに水たまりがある
暗い場所。
どこが壁で
どこが天井か把握できないくらい
広い空間だった。
……。
ここでは絵里と2人
私はきちんと立っている。
私は「水」へのコンプレックスを
解消させることができたのだ。
- 807 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:30
- 絵里と一緒なら
外の世界にだって
勇気を持って
飛び込んでいけるはずだ。
タイムリミットは、あとわずか。
「絵里……飯田さんたち、いつ来るかなぁ」
「……」
絵里は浮かない顔をして言う。
「できれば、ずっと来ないで欲しい」
ぎゅう、と握る手が強くなる。
「こんなこと言うと怒られるけど
私は気がついた。
もうさゆの世界を否定したりしない。
さゆは、ずっと私のそばにいるんだから!」
「絵里……うれしい」
私は喜びの中
心に誓う。
飯田さんがやってきたら
私は宣言しよう。
私はもう
自分の夢に
悩まされたりしないと。
だって、もう
水は私の味方だから。
- 808 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/18(火) 19:30
- もう水を恐れて
夢を見たりなんかしないんだ。
そう言って
飯田さんたちには
夢の研究は諦めてもらおう。
「ペルソナ」を捨て去ることを決めたのは私。
引きこもりを選んだのは自分自身。
別に人の悪意にさらされたわけじゃない。
この世界は
絵里と一緒になりたくて自分で選んだこと。
なら、そこから旅立つのだって、自分の意志だ。
もう負けない。
だって私には
守りたいものが
あるんだから。
「絵里、大丈夫」
「え?」
「私は、負けないから」
そのとき、
インターホンの音が
室内に
響き渡った。
- 809 名前:いこーる 投稿日:2008/03/18(火) 19:30
- 本日の更新は以上になります
- 810 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:32
- みんなみんな
幸せになりたくて
愛する人といたくて
でも
現実はそうじゃなくて
苦しくて
悔しくて
絶えられずに
逃げた。
夢の中へ逃げこんだ。
なのに結局
何も進まない。
結局私たちは……
- 811 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:32
-
11
- 812 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:32
- 扉を開けて入ってきたのは3人だった。
飯田さんと、愛ちゃんと、紺ちゃん。
私は
3人を座らせると
正面に座って
言った。
「私、わかりました!」
「本当?」
紺ちゃんが身を乗り出してくる。
「外の世界には
何も怖いものなんてなかった」
そして私は
さっき絵里に話をした
「水」に関する夢分析を
3人に聞いてもらった。
私が話している間ずっと
3人は黙って聞いていた。
話し終えると
飯田さんが
愛ちゃんと顔を
見合わせた。
- 813 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:32
- 「……驚いた」
愛ちゃんがぼそっ、と言った。
「そんなストーリーを
さゆ1人で?」
「うん」
飯田さんは
ため息をついた。
その反応に
私の心は
苦しくなっていく。
―――まだ……許してくれないの?
飯田さんの表情は
あくまであきれ果てたように
私を見下ろしている。
嫌な予感が
胸に溜まってくる。
きっと
飯田さんの話が
私の大切なものをなにもかも
持ち去ってしまうに違いない。
- 814 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:33
- 「うーんと。どこから話したらいいかな……」
飯田さんは
ちょっと迷った風だった。
「待って!」
紺ちゃんが
立ち上がって
飯田さんの言葉を
遮る。
「もう、いいんじゃないですか?
さゆが自分で、自分の夢と決着をつける。
それを、待ってあげてもいいんじゃないですか?」
「このままだと、このコは気づかないよ」
「何でですか!?」
「紺野、もう……」
飯田さんも
立ち上がって
冷たく言い放った。
「夢から醒めるときだ」
紺ちゃんが、首を振る。
「どうして?……
どうして飯田さんは
みんなの夢を壊して
平気でいられるの?」
- 815 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:33
- 「しょうがないだろ。
それが
私の仕事なんだから」
私は2人の会話に
ついていくことができない。
絵里も、
……愛ちゃんでさえも
2人が何を話しているか
わからないみたいだった。
「現実の請負人」
「そうだよ。紺野。
紺野が夢を紡いでいく役。
私は誰かが夢に溺れそうになったとき
その人を救う。
そういう約束だったでしょ?」
「確かに……そうですけど……」
「それで結局、みんな上手くいったじゃない。
のんちゃんも、亜弥ちゃんも……」
「亜弥ちゃん?」
急にその名前が挙がって
私は思わず声を出してしまった。
「亜弥ちゃんと美貴ちゃんね。
2人のことは覚えてるでしょ?」
「も、もちろんです。
コミクラで、私たちの漫画を描いてくれてた」
- 816 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:33
- 突然何を言い出すのだろう。
予想外の話が始まり
私は乱された。
「飯田さん」
紺ちゃんが
飯田さんの肩に
手を置く。
「紺野……いいでしょ?
悪いようにはしないから」
飯田さんが言うと
紺ちゃんは黙って
座った。
飯田さんが私と向き合う。
「いい?これは道重にとっても
とても大切な話なの。
最後まで……ちゃんと聞いて」
私は
押されるように
うなづくしかなかった。
「あのね……」
飯田さんは
ため息をひとつついて
私をまっすぐに見て
言った。
「あいつらは夢見てるだけだ」
- 817 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:33
- そして飯田さんは語り始めた。
亜弥ちゃんと美貴ちゃんの物語。
その話を聞きながら
ずっとたまっていた私の苦しみが
しびれたみたいにふっと
遠くなっていくのを感じていた。
そんなくらい
切ない話だった。
人格障害を抱えた亜弥ちゃん。
それをどうにかしようとそばにいた美貴ちゃん。
2人のすれ違いの物語。
その内容を私は受け止められなかった。
そもそも
私たちの物語とは関わりのない話だった。
私たちとは違った苦しみを抱えた
亜弥ちゃんと美貴ちゃんの物語。
だけど
飯田さんは私に語って聞かせた。
「境界性人格障害?」
耳慣れない言葉に私は首をかしげた。
飯田さんはうなずいて続けた。
「松浦にとっては世界が
彼女のわかりやすい形にしか見えなかったんだね。
たぶん、自己像がはっきりしていないんだ」
「どういう……ことですか?」
- 818 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:33
- 「何が原因かはわからないけど
松浦の認識は極端なんだ。
頼れる人だと思ったら
自分の全てをさらけ出すまで気が済まない。
反対に、自分の敵だと見なした人に対しては
攻撃性を剥き出しにしてしまう」
飯田さんは、そこで愛ちゃんを見た。
「高橋も、思いっきり頼られちゃって困ってたんでしょ?」
「はい……」
「松浦にはそういう単純な世界しか認識できない。
でも、現実世界は、もっと曖昧で複雑なものだ。
ある人が優しくしてくれるときもあれば
冷たく感じられることもある。
最初は戸惑うけれど、
やがてその全てがその人なんだ、って納得するよね。普通は」
「普通は……ってことは、亜弥ちゃんは違ったんですか?」
「松浦は寂しかった。
寂しいとき、誰かにそばにいて欲しくてしかたない。
藤本がちょっと帰らないと思うと。
すぐに高橋にもたれかかろうとした。
彼女にとって、人間は2種類しかいないんだ。
縋れる人と、そうでない人……」
私は声が出せなかった。
必死なんだ。
必死に愛を貪る。
愛されていないと不安で
立っていることもできないほどに。
- 819 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:33
- 「だけども、
藤本とのつきあいが深くなっていくうちに
2人の関係だって複雑になっていく。
長く一緒にいれば
藤本が冷たい態度を見せることだってある」
「でも亜弥ちゃんには、それが耐えられない」
「うーんとね、耐えられないんじゃなくて」
「違うんですか?」
「耐えられないというより、松浦には理解できないの。
どうして藤本が冷たくしようとするのか。
藤本は自分の味方のはず。
自分を無条件に受け入れてくれるはずなのに
どうして自分に対して攻撃的になるのか。
それが松浦にはわからない」
亜弥ちゃんの心は許容量を超えて
美貴ちゃんのことを
正しく認識できなくなる
「松浦の世界は彼女が理解できるように形を歪める。
そして、とんでもない物語が脳内にできあがった」
「物語?」
「松浦は、藤本は2人いるんだ、と言い出した。
自分に冷たくしているのは、悪い藤本の方で
本当の藤本は自分のことをずっと愛してくれるはずだ。
そう考えるようになったんだよ」
なんてこと。
「もともと弱い子だった。
藤本の愛情が一瞬でも自分から離れるなんてことは
松浦の世界の中では起こりえないことなんだ。
もし、藤本が自分を嫌うとしたら、それは別の藤本でしかない」
- 820 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:34
- 「じゃあ……」
「今はそれでも、どうにか穏当な物語に進んでいるけどね。
松浦の妄想の中では
藤本の中の片方は、消えちゃったことになってる」
飯田さんが話し終えても
私はじっと動けなかった。
なんだか
やるせない想いがずんと胸の中にたまっていた。
飯田さんは
私とは直接関係ない話で
私に
気づかせようとしているんだと、わかった。
「私と、同じだ」
「そうだよ。道重と同じ」
私だけじゃなかった。
亜弥ちゃんも
自分の居心地の良い世界を求め
妄想に溺れ
でも結局は苦しんだ。
現実を歪めて作られた世界は
破綻する運命にある。
私もそう。
絵里と2人だけの世界なんて
バカげた妄想の中で1人
悲劇のヒロインを演じていた。
自分はいじめに遭って
出て行くことができないと決めつけ
世界を正しく認識できなくなっていた。
- 821 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:34
- みんな同じだ。
みんなみんな夢見てる。
甘美な夢を見続ける。
だけどもやっぱり
夢は夢。
布団から出られない寒い朝のように
温もりから出ることができないで
震えて
怖がって
そんな自分が嫌で
でも
夢見ることを止められない。
―――絵里……
そんな幸せを求めるのは、
愚かなことですか?
たった2人の世界に住みたいという
私の夢は叶いませんか?
「さ、場所を変えよう」
「え?」
全員が飯田さんを向いた。
「どこへ?」
「ここじゃ、真実は話せないでしょ?」
「まさか……あれを見せる気ですか?」
「もう、時間切れだ。
この物語は、もうおしまいにしよう」
- 822 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/03/25(火) 21:34
- 愛ちゃんが下を向いた。
絵里も
下を向いた。
「飯田さん……」
私は
声を絞り出すように
言った。
「まだ、私の知らないことがあるんですか?」
「うん」
「そんな……私はいじめられてなんかない」
「そう、それは正しいんだけどね。
でも、まだ道重の心は大事なことを隠してる。
さあ、行こう」
「どこへ?」
飯田さんが、私の手を引いた。
優しい笑顔だった。
「コミクラへ」
- 823 名前:いこーる 投稿日:2008/03/25(火) 21:35
-
「嫌悪者の檻」
次回完結です。
- 824 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/26(水) 03:30
- 知りたくない!知りたくないよ現実なんて!
- 825 名前:いこーる 投稿日:2008/04/01(火) 21:14
- >>824
そうですね。確かに、このまま物語を閉じない方が幸せだったかも知れません。
スキャンダルの衝撃に出会ったとき、作者の心理はまさに「現実なんて……」でした。
でもやはり、放棄しないと言ったから
衝撃によって残酷に歪んでしまった物語の決着は
何とかつけたいと、そう思っています。
ご理解いただけると嬉しいです。
それでは最終回。
- 826 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:14
- 答えは簡単なことだった。
- 827 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:14
-
12
- 828 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:14
- 5人で、絵里のマンションを出た。
飯田さんは、すぐに右に折れ
細い路地へと入っていく。
それは
私の知らない道だった。
狭い道を歩く。
右には
絵里の暮らすマンション。
道は捻れていくように進む。
歩いていて
方向感覚を狂わされるような
不思議な道だった。
まるで
異世界に
連れて行かれる気分。
「ここが、禁断の近道。
道重は、一度迷い込んだことがあるよね?」
「え?」
私は
こんな道など知らない。
しかし
「きょとんとしてるね。
でも、すぐ知ってる道になるよ」
- 829 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:14
- それから
3分も歩いたとき
強烈な
目眩を感じた。
ぞくりっ、と
背中が震える。
既視感。
確かに……私は
この道を知っている。
私の身体が
冷たくざわめき始める。
あれはそう
絵里にサボテンを
買っていった日の帰り
白昼夢を見た私は
気がつくと
大学に向かう道に
―――この道に
いた。
- 830 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:15
- でも……ウソ……
だってここは
絵里のマンションのすぐ近く。
大学に行くためには……
「大学に行くために
あえて遠回りしてもらってたんだけどね
本当は、こんなに近く」
飯田さんがいじわるく微笑んで
絵里のマンションを指さした。
それを見た途端
私は、悲鳴を上げた。
―――マンションが……
そこにあったのは
赤い色の建物
大学だった。
「え?……え?…」
私は混乱して
道を後戻りする。
「なんで?さっきまで、マンションだったのに……」
いつの間にか
走りだしていた。
- 831 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:15
- 来た道を、
くねくね小道を戻る。
目はずっと
大学の建物を
睨みつけたまま。
私は立ち止まった。
自分が本当に
おかしくなってしまったと思ったが
違った。
見上げた建物は
半分の面が白く
もう半分の面が
赤く塗られている。
―――これが……コミクラの秘密?
見慣れた絵里のマンションは
裏側から見ると
赤い色をした建物になっていた。
私は思い出した。
買い物に行った帰り
私は道に迷い
気がつくと
大学に向かっていた。
絵里の部屋に
帰るはずだったのに……。
- 832 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:15
- いくら
白昼夢を見ていたからって
全く道順の違う場所に
行ったわけではなかった。
私の目指す建物は
合っていたのだ。
ただ、
見る角度が
違っていただけ。
コミクラのあったラウンジは
絵里のマンションの一階だったのだ。
「これすごいでしょ?」
いつの間にか
飯田さんが私の肩に
手を置いていた。
「なぜかこの建物
片面が赤なの?誰が考えたんだろうね」
「飯田さん……これは……」
「これは、リハビリ施設みたいなもの」
「リハビリ?」
「部屋の中にこもっているだけじゃ、復帰はできない。
だからって、いきなり人が大勢いる中に飛び込むのも難しい。
そんな人が、コミクラという仮想の共同体の中で
人と関わりながら、復帰のためのリハビリをする」
- 833 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:15
- ―――仮想の?
コミクラは
仮想の共同体?
つまり……夢。
赤い建物と白いマンションは裏表。
裏返しの仮想。
「この建物が…施設なの?」
「上手いこと考えるよね。
色が違うから、遠回りさせちゃうと同じ建物だと気づかない。
路地が複雑で、まっすぐ歩けないんだから、なおさら。
おかげで、コミクラという夢は、ずっと守られる」
それじゃあ
私たちが
漫画を描いていた
あの部屋は?
あれも、施設の一部だったというのか?
「白い部屋は、心を休めるための部屋。
現実世界に疲れてしまった人は
あそこに来て、ロールプレイを行う」
「ロールプレイ?」
「役割行動。わかりやすく言えばごっこ遊びのこと。
持ち寄ったシナリオ通りに
みんなで役を演じることで
ちょっとした気晴らしをしようっていう部屋なの」
- 834 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:15
- 飯田さんが
コミクラに向かって歩き出したので
私も後に続いていた。
「そのシナリオというのは……」
「本人が持ってくるものがほとんど。
道重だって、そうだったでしょ?」
耳鳴りが襲ってくる。
―――あの部屋が……施設って……
私は立ち止まって
頭を振った。
―――落ち着け……
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……です」
―――もう……逃げないって決めた……
私は強く拳を握って
また歩き出した。
きっと向かう先に
真実がある。
封印された記憶が
コミクラにある。
◇
- 835 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:16
- ラウンジまでやってきた。
ここがマンションと
同じ建物だと知ったいまでも
この独特の雰囲気に
私は落ち着いてしまう。
建物の裏側。
赤いたたずまいの大学は
私を歓迎してくれる。
飯田さんは
私の前に座って
私の手を握りながら
話していた。
「道重は、自分に都合のいい夢を見ているだけだった。
それはもう、わかったんだよね?」
「はい……。
絵里と2人でいたくて……」
いじめられているという
妄想を作り上げた。
「いじめられて、孤立した自分。
それは道重が
心の中に棲まわせていた
自分の影だったんだよ」
影……。シャドウ……。
- 836 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:16
- 「ここに持ち込まれるシナリオは
ほとんどがそうだけどね。
現実世界では叶わない
裏返しのキャラ。
裏返しの設定。
裏返しの欲望」
飯田さんは「別ハロ」を手に取った。
なぜか急に私は
息苦しさを感じた。
「不思議だよね。
みんなが揃いも揃って
アイドルの漫画を描くなんて。
夢の中で、また夢を見ている」
「……」
「この……3組の作者たち。
みんな、裏返しのシナリオを持ってきてたんだもんね」
「え?」
「道重……まだ、思い出せない?」
何?
何を言っているの?
私は首を振った。
わからない。
わからないけど
息苦しいのだけは変わらず
嫌な予感だけは大きく私を圧迫する。
わかっているのは、
もうすぐ
私の世界は崩れるということ。
ただそれだけ。
この居心地の良いコミクラは……
みんなの夢を
育ててくれたコミクラは
崩壊する。
- 837 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:16
- 「シナリオに登場するのは全部
現実の裏返しだってことに、気づかない?」
私はただひたすら
首を振り続けるしかなかった。
「紺野……いい?」
「……仕方…ないです」
「いい?道重。しつこいけど
全部裏返しなんだよ」
裏返し……。
「のんちゃんは、自分の出産に対して強い不安を覚えていた。
それがのんちゃんに『親友のお腹にいる赤ちゃん』という夢を見させたんだ。
あいぼんの妊娠というシナリオは裏返し。
現実に起こっていたのは
のんちゃんの出産、という出来事だった」
耳がまた、キンと鳴り始めた。
「それから、外に恋人がいたのは松浦じゃない。
藤本の方だった。
あの一連のさわぎで松浦は、むしろ迷惑を被った側なんだよ。
藤本のスキャンダルが、松浦の活動にまで影響した」
迷惑を被った亜弥ちゃん。
そのストレスから逃れるため、
彼女の心は
―――彼女のシャドウは
真逆のストーリーを必要とした。
- 838 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:16
- 「シナリオ中では、松浦が身勝手な行動で
藤本を困らせている。
シナリオは、現実世界の裏返しなんだ。全部逆なんだよ」
耳鳴りが、さわぎ始める。
私は必死に深呼吸をしながら
飯田さんの話を聞き漏らすまいと
神経を集中させた。
「それから道重。あなたもそう」
「私も?」
私も……逆?
「心が弱くて、自己主張ができない道重。
それは、モーニング娘。でいつも自分をかわいいと
言い続けている道重の裏の姿なんだよ。
アイドルとしてかわいいキャラを演じ続ける。
望んでやってると、みんなが思ってる」
今の私が、裏の姿?
本当の私は……。
- 839 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:17
- 飯田さんの次の言葉が
「ナルシストな自分に疲れた
道重の影が
逆の自分を夢想する」
私の記憶を呼び起こす。
「それが……、君の自己嫌悪の正体だよ」
記憶が大量に
脳に溢れる。
―――よし、今日もかわいい!
こんな私は偽物だ……
―――今日もさゆみが、一番かわいい!
仕方ないんだ。仕方ないことなんだ。
―――道重さんってやばいですよ
だって、仕方ない。私1人で決めたことじゃない。
―――そろそろ、うざくなってきたんだけど……
わかってる。わかってるけど
―――みんな!さゆみのことかわいいって言って!
私1人では止められない!
―――かわいいって言ってよ!!
どうしても、止まってくれない!
―――お願いだから……
もう嫌だ……
―――お願い……
もう嫌だ、こんな自分……。
もう
「疲れた……」
- 840 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:17
- 私は、固まっていた。
徐々に取り戻す自分の記憶。
本当の私は
自信たっぷりのナルシスト。
弱い自分は
絵里に守られていた自分は
ただの夢。
その事実が私を打ちのめし
私から
動く力を奪う。
「道重のケースは特殊だった。
これまでの入居者は、みんなシナリオ中に役に入り込んでも
仕事で外に出るといつも通りに戻ってる。
あくまで、気分をリフレッシュさせるお遊びだって
きちんと認識できていた。
それなのに道重だけが
遊びのシナリオだという認識を欠いていた」
「え?そうなの?」
「そうだよ。毎回、時間が終わればのんちゃんは家庭に戻ったし
松浦だってコンサートを普通にこなしていた。
むしろ、夢の中でストレス解消できるから
いつもより晴れやかだった」
「じゃあ……私だけが……」
外の世界は
私にとってはウソの世界。
居心地のいいここだけが
私にとって自分の世界。
今まで歩いて来た道は
むしろ夢みたいな偽物。
- 841 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:17
- 「いや。道重も、仕事はきちんとやってたよ。
だけど……」
仕事なんて、私は知らない。
「この部屋に入った途端
仕事をしていたときの記憶が
消し飛んでしまう」
「うそ。私、……絵里のクラスメイトだよ……」
私は弱々しく、そう言った。
私は絵里の同級生。
私は絵里の親友。
私は絵里のパートナー。
私は絵里の恋人。
アイドルなんかじゃない。
「それは、全部夢だ。
本当の道重は、元気で
今も自分のかわいさを
お客さんに対してアピールしてる。
君は、それを認識できないだろうけど……」
それじゃあ……
- 842 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:17
- 「飯田さん。私は……」
それじゃあ一体……
「私は……、誰?」
私は泣いていた。
「道重の心が生んだ、アンリアル世界の道重さゆみ。
気弱で、引っ込み思案で、ネガティブな
影としての、道重さゆみなんだよ」
ああ……。
私は
その場に崩れ落ちた。
飯田さんの言っていることが
すべて理解できた。
私は、偽物なんだ。
リアルな道重さゆみが
弱い自分を想像して
バランスを取るために
この「私」が作り出されたんだ。
- 843 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:18
- それなのに偽物が、我が者顔で
自分の世界から離れようとしないから
「だから、夢ノートを持っていこうとしたんですね?」
飯田さんが黙って頷く。
「私の存在は……夢だったんですね?」
もう一度、頷く。
この存在は夢。
この記憶はウソ。
この想いは
―――絵里!
この想いはみんな偽物。
涙が止まらない。
「こんな残酷こと
言いたくなかったけど
歪んだ二重生活を
いつまでも続けるわけにはいかない。
モーニング娘。の仕事も滞り出している」
愛ちゃんの
言ったセリフが
脳内に再生される。
―――さゆの世界のせいで、うちらの時間まで、止まっちゃってるから。
私、みんなの仕事を邪魔してたんだ。
それで、飯田さんの出番となった。
- 844 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:18
- 「道重を、仕事に戻す。
その鍵が、夢ノートにはあった」
「え?」
「あの夢は、アンリアルに安住しようとする道重を
無意識が必死に止めようとしていたんだよ。
夢の中で、リアルの側の道重の記憶が顔を出していた」
飯田さんは
みんなをぐるりと見回して
言った。
「夢の正体。その答えは明確に道重の前にあった」
そして
夢分析を
語り出す。
「夢の紡ぎ手さんは……」
紺ちゃんをちらりと見て言う。
「衣装は、社会的役割だ、て解釈したみたいだけどね。
それから、道重の解釈では水=亀井、ってなってた。
その前提にあったのは『無意識は夢で形を変える』というテーゼ。
でも、今回はそんな分析は役に立たないの。
メタファーなんて、どこにも存在しない」
途端に話が難しくなった。
飯田さんが専門家モードに入っている。
私を追い詰め
夢から醒めさせるために用意された顔だった。
- 845 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:18
- 「衣装は役割。部屋は心。水は恋人。噴水は均衡。
そんな風に意味を変換していったんじゃ
道重の夢は見えない」
「でも……飯田さん。
意味を読み取らなきゃ分析できない」
飯田さんが首を振る。
「なぜ気づかないの?
夢は形を変えてなんかいない。
そのままの景色だったんだよ。
道重が実際に見たことある光景そのものなんだよ。
ヒントがあまりに多すぎて、すぐに気づいた」
……。
ハイテクなセキュリティのかかった建物。
扉を開けてガラス張りの部屋に入ると
そこにはたくさんの服があって
どれを着たらいいかわからない。
私は喉の渇きを覚え
みんなが踊るのをうらやましく想いながら
部屋の隅で座ってる。
……。
「衣装は衣装。ガラスはガラス。水は、そのまんま水。
そう考えれば、そっくりじゃない。
道重は
この曲でオーディションを受けて、この世界に入ってきた。
全てが始まった記念すべき曲なんだよ」
「どういう……意味?」
- 846 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:18
- 「次の夢は、道重たちに取っちゃ、デビュー曲でしょう?
それも思い出せない?」
飯田さんは私の質問を無視して
説明を続ける。
……。
古い映写機のような
ざらついた画質。
そのはっきりしない景色の中
私は疲れ切っている。
踊ろうとして足を上げると
水が足に絡みついて飛沫を上げた。
いや!
私は首を振り回し
水から逃れようと暴れてる。
それでも水はしつこくて
私はついに崩れ落ちる。
……。
愛ちゃんが声を上げた。
「これ……『シャボン玉』!?」
飯田さんがうなずく。
- 847 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:19
- 「『Go Girl…』では
噴水の広場を模したスタジオで取ったじゃない。
カメラに向かって『好き』っていうシーンのある」
……。
広場の上。
私はなぜか嬉しそう。
角には
丸いかわいい噴水があって
広場なのにそこは狭かった。
絵里の後ろ姿が見えた。
夢の中でドキッ、としたのを覚えている。
そして私は
自分の気持ちに気がついた。
……。
- 848 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:19
- 「その次の夢は、なっち最後のシングル曲」
……。
そこは真っ白な世界。
あれは、誰だろう。
髪の長い女の人が
その白い世界にやってきて
白い空間に
手を伸ばす。
すると空間に裂け目ができる。
その
裂け目の向こうから
ブレザーを着た
女の子たちがぞろぞろと
世界に土足で踏み込んだ。
……
私が見上げた空は
四角くバラされていた。
―――ああ、世界が壊されてゆく……
パズルのピースみたいに
細切れにされた空が
白い空間に
浮いているだけだった。
……。
- 849 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:19
- 「『愛あらば…』では、空の絵をいくつも吊して撮影してる。
次は……道重が自信をなくしてパニックになったとき
非常手段として、自分不在の曲を選んだんだ。
『さくら満開』には道重はいなかったから、むしろ安心できたんだよ。
最後には桜の花びらが降ってくる」
……。
その屋敷には紺ちゃんがいた。
紺ちゃんが服を持ってこちらを見てる。
絵里がいた。
絵里が傘を持ってこちらを見てる。
無数の風車が
くるくる回っているのが見える。
白い世界に
何か
色鮮やかな何かが降り注いでいた。
……。
「もう……わかったでしょ?」
飯田さんが
私の肩に手を置く。
私はびくっ、となり
消え入りそうな声で「はい」と答えた。
- 850 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:20
- 「仕事に戻らなきゃいけない、という心の声が
道重に曲のイメージを見せ続けていたんだよ」
全てが
裏返ってしまった。
私の世界は、全部夢で
私の夢が、現実だったんだ。
私は
夢でありながら
現実の時間を止め続けた
邪魔者。
なら……
「絵里」
私は
絵里を見た。
絵里は
私を見ながら
小さく
「さゆ……嫌だ……」
そう言った。
「行かないで!さゆ!!」
私は首を振る。
- 851 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:20
- 「飯田さん……愛ちゃん……」
私は、2人に向かって
頭を下げた。
「迷惑かけて、ごめんなさい」
絵里が声を上げて泣き出す。
それを遠く聞きながら私は
不思議と晴れやかな気分だった。
もう、拘るものなんて何もない。
だって、これは夢なんだから。
目覚めたらきっと
いつもの慌ただしい毎日が待ってる。
絵里……
お別れなんかじゃないよ。
お別れなんかじゃない。
ただ、もう
夢見るのは
やめようと思うんだ。
- 852 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:21
- 私は目を閉じる。
耳鳴りは
とっくに遠ざかっている。
後はなんとかしてくれるだろう。
後は
本物の私が何とかしてくれる。
「バイバイ、絵里」
絵里……。
私のこと
好きだと言ってくれて
ありが、と……
- 853 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:21
- エピローグ
- 854 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:22
- さゆが意識を失って
飯田さんは「そっとしとこう」と言い残して
部屋を出て行った。
紺ちゃんも、愛ちゃんも
外に出て行った。
私はさゆのベッドの隣で
ずっとその顔をのぞき込んでいる。
目を開けるとさゆは
私の名を呼ぶ。
「絵里?」
私は小さく頷いた。
「さゆ。元気?」
「ん?ああ、仮眠取ったらすっきりしたかな。
絵里もリハまでに疲れ抜いとかんと」
「……」
「どうしたの?」
私の前には
頼りになる親友が立っている。
私に縋ってきたさゆは
もういない。
- 855 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:22
- 「ごめん、絵里の部屋で寝ちゃった。
いったん、戻るね」
さゆが部屋を出て行こうとする。
「さゆ!」
私はさゆを呼び止めた。
「ん?」
「さゆ……私のこと、どう思う?」
「?」
さゆは首をかしげるだけだった。
「ごめんなんでもない」
「ん、じゃあね」
「うん」
バタン、と音がして
さゆがいなくなった。
―――本当に、ただの夢だったんだね
私は
床にへたり込んでしまった。
部屋の窓には
サボテンが飾ってある。
あのコはもういない。
私のことを
好きだと言ってくれたさゆは
もういない。
- 856 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:22
- 残されたのは
あのコがくれたサボテンと
行き場を失った恋心。
さゆが
女の私に対して
好きだなんて言ったのは
そういうシナリオだったから。
偽物の告白だと
はじめからわかっていた。
わかっていたはずなのに
どうして涙が出てくるんだろう。
私はしばらく
そのまま
夢の余韻から抜けられない朝のように
あのコの言葉を思い返している。
さゆが夢から醒めたのに
私の心は夢の中。
さゆと一緒の
甘い時間を今もずっと
夢見てる。
いっそ……
醒めない夢を
見せ続けてくれたらよかったのに……
- 857 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:22
- こんな切ない心を残してしまうなんて
とんだ欠陥だ。
紺ちゃんたちの作った施設が
こんな犠牲者を出してしまうなんて
入居したときは考えもしなかった。
―――今度は、私がシナリオを書く番かもね
1人の夢が
1人の心を乱し
次の夢を見させる。
まるでドミノのように
ここでは夢が
連鎖していく。
―――不思議な、場所……
私は
この建物がいとおしい。
切ない思いをさせられてなお
この箱から出て行くことが
できないでいる。
傷つくとわかっていながら
この場所にまだ
留まろうとしている。
不思議な引力が
不可思議な魅力が
私の心を
この場所にとどめて離さない。
だから私は
次の夢を待ち望んでいた。
- 858 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:23
- そう。
この施設。
仕事に疲れたメンバーが
一緒に暮らして
心を癒すための建物。
モーニング・マンション。
ここにはいくつもの夢がある。
泡のようにすぐに消えても
私にとっては確かに夢。
胸が締め付けられる想いの中、ふと気になった。
次の物語は、一体誰が持ってくるのだろう、と。
- 859 名前:嫌悪者の檻 投稿日:2008/04/01(火) 21:23
-
嫌悪者の檻 ―完―
- 860 名前:いこーる 投稿日:2008/04/01(火) 21:24
- 『夢見た』完結しました。
- 861 名前:いこーる 投稿日:2008/04/01(火) 21:31
- 流しを含めてあとがき
『夢見た』は自分の作品の中でも特に、構成に時間を費やした小説でした。
わりとがっちりと破綻のないような構造を目指していたのですが
まさかです。まさかハロプロに変動があるなんて。
しかも主要キャラの半分近くがその影響を被るなんて。
結果的に、当初とはまったく予想もしなかった結末になりました。
本当に、ここまでの難産は初めてです。
それでもここまでお付き合いいただきまして、まことにありがとうございます。感謝の至りです。
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、
この3部作は、さらに大きな3部作の中の1つです(気づかない方は気づかないままにしておいてください)。
3作目もいつか書こう書こうと思いながら、とりあえず推理ものを書いてみる今日この頃です。
重ねて、ありがとうございました。
- 862 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/02(水) 02:24
- 完結お疲れ様です
最後に出てきた建物は逃避行2で示唆してたものと同じって事ですかね
- 863 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/02(水) 02:40
- 無事(?)完結おめでとうございます
なんか一連の騒動でさえ、いこーるさんが仕組んだように思える(そんなアホな)素晴らしいまとまり方でした
元々描いてたストーリーなんかも見てみたい気はしますけど
推理物は小春&茉麻の続編でしょうか 次作も期待しています
- 864 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/02(水) 22:12
- えええええええ三部作だったんですか。いこーるワールド全開って感じですね。
いろんな小説が絡んでた黄板の作品が物凄い好きだったんで、今からワクドキです。
- 865 名前:いこーる 投稿日:2008/04/10(木) 23:59
- >>862
どうもです。建物の正体は、はいその通りのようです。
>>863
>なんか一連の騒動でさえ、いこーるさんが仕組んだように思える
アドリブいれまくって、気がついたらいつものような作品になってしまった、というのが真実ですw
推理者は、はい水板の推理小説を書いています。
今しばらくお待ちくださいませー。
>>864
ほんと……なんでいつもの感じに仕上がるかな……
三作目は、私も黄板の「オフの日は…」を越えるものを目指して書こうと思っています!
ログ一覧へ
Converted by dat2html.pl v0.2