Tour de France
- 1 名前:Depor 投稿日:2004/05/27(木) 02:37
-
はじめまして。
勇気を出してスレ立てです。
スレタイトルは内容とは特に関係ありません。
短めの話を書いていきたいと思います。
大したものは書けないのですが、よろしければおつき合いください。
- 2 名前:Depor 投稿日:2004/05/27(木) 02:38
-
「ずる休み」
- 3 名前:Depor 投稿日:2004/05/27(木) 02:39
-
ピピピピ、ピピピピ。
- 4 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:40
- 目ざまし時計の電子音が鳴る。
まだ眠っていたい。もうちょっと寝ていたい。でも起きなきゃ。
梨華は意思の力を振り絞って起き上がる。目ざまし時計のスイッチを
切って電子音を止める。そしてベッドに戻って腰をかける。
朝の5時前。4時間くらいしか寝ていない。カーテンの外はまだ暗闇が
広がっている。今日は何かの収録があって、かなり早く集合するようにと
FAXで伝えられていた。
梨華はいつものように、顔を洗いに行こうとする。
- 5 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:41
- 身体が動かない。
- 6 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:41
-
あ。梨華は気づく。
(私、からっぽだ)
- 7 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:42
- もう1人前のプロなんだ。来年には娘。を卒業するんだ。仕事に穴を
開けることなんて許されない。疲れただなんて甘ったれたことは言って
られない。からっぽだとか考えている前に早く身体を動かさなくっちゃ。
仕事なんだから。
もちろんそんなことはわかっている。
でも、とにかく、誰がなんと言おうと、からっぽなのだ。自分の中の
どこを探しても、役に立ってくれそうなものが見つからない。何にもなし。
文字通りのからっぽ。
どうしよう。
- 8 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:42
- 梨華は目覚まし時計を見た。5時半を指している。このままだと間違い
なく遅刻してしまう。さすがにこのままではいられない。
けれど、身体が動いてくれない。からっぽのままだ。
どうしよう。
- 9 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:43
- 6時。梨華はあきらめた。からっぽなんだから、しかたないじゃないか。
半ば開き直りに近い気持ちで、マネージャーに電話をかける。熱が出て、
咳もひどい(ごほごほ)、喉も腫れ上がってしまった。誰かに看病に来て
もらうほどじゃないけれど、でも今日は仕事に行けそうにない。
驚くほどあっさりと、マネージャーは休みの許可をくれた。今日の仕事は
他のメンバーだけでもやれるから。その後のダンスレッスンも休んでいい。
ちゃんと医者に診察してもらってから、今日はゆっくり休みなさい。そんなに
ひどくないのなら、明日にはきちんと治して仕事に来なさい。
すみません、と梨華は謝る。そして電話を切る。
- 10 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:43
- (ずる休み、しちゃった)
今まで仕事をずる休みしたことなんてない。少しばかりの罪悪感。
だけど、今日はからっぽなのだ。何をする気も起きないのだ。しかたない
のだ。また明日から仕事をがんばればいいんだ。梨華はそう自分に言い
聞かせて、罪悪感を振り払う。
休みと決まったとたんに、なぜか少しだけ力が湧いてきた。梨華は立ち
上がって、簡単な朝食を作った。外が明るくなってきた。
- 11 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:44
- TVをつける。朝のニュースと天気予報をやっていた。株価はいくらか
上昇した。景気はどうやら上向きのようだ。パレスチナで暴動が起きた。
今日の天気は晴れ。ただ夕方にはにわか雨が降るからお出かけの人は
折りたたみ傘を持って。
食事を終え、後かたづけをする。
時刻は7時半。梨華はリビングのソファーにもたれて、ぼんやりとTVを
ながめる。身体はからっぽのままだ。
- 12 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:45
- ふわ。
あくびが出た。とりあえずお腹に何か入れたからか、眠気が出てきた。
(せっかく時間があるんだ。もうちょっと寝よう)
梨華はソファーにもたれて、楽な姿勢をとった。心地のよい眠気のカーテンが
降りてくる。目を閉じる。ニュースの司会者の声。CMの後は芸能ニュース
とって出しのコーナー…
- 13 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:45
-
- 14 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:46
- 梨華はカヌーに乗って、広い川を下っている。2人乗りの、しっかりと
した造りのカヌーだ。周囲は薄いもやで煙っている。空はどんよりとした
灰色の雲に覆われている。両岸にはヤナギやポプラの森がうっそうと
茂っている。とても静かだ。川はゆったりと流れ、カヌーを一定の速度で
進めていく。梨華がパドルを動かす必要もない。
――梨華ちゃん。
振り向くと、後部座席に吉澤がいた。
――よっすぃー。
――今日、仕事休んでるんだ。
――うん。
- 15 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:46
- ――なんで?
――起きることは起きたんだけど、なんか疲れてて。どうしても仕事
行く気になれなかったの。
――からっぽ、だったんだ。
――そう。
――あたしは、卒業の発表があったりして、梨華ちゃんの疲れが
溜まってるんだと思ったけど。みんなもそう言ってる。
――うん。もしかしたらそれもあるかもしれない。
- 16 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:47
- 首をねじ曲げた姿勢で話し続けるのは難しい。梨華は正面を向いた。
吉澤の声が後ろから聞こえてくる。
――梨華ちゃんが卒業すると、あたし、4期で1人になっちゃうんだ。
――そうだね。
――それに、これだけ他のみんなに卒業されると、あたし1人が取り
残された気持ちになる。
- 17 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:47
- ――そんなことないよ。矢口さんだっているじゃない。
――そうかな。もしあたしが卒業して梨華ちゃんが残ることになったら、
きっと梨華ちゃんもこんな気持ちになると思うんだけど。ま、今のあたしじゃ
卒業なんてできないだろうけど。
――え、なに言ってるの?よっすぃーらしくないよ、そんなこと言うの。
そう言ってから、梨華は気づいた。これは、夢だ。現実の吉澤はこんな
泣き言は言わない。こんな卑屈なもの言いはしない。少なくとも、梨華の前
では、絶対に。
- 18 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:48
- ――それに、よっすぃーがそう思ってるんだったら、ちゃんとみんなの前で
言えばいいんだよ。夢の中だけで私に言うのはおかしいよ。私だってひとりで
勝手に卒業するわけじゃない。つんくさんがしっかり考えて、それで決めたん
だから。
- 19 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 02:49
- ――梨華ちゃんはそう言うけどね。でも現実にそんなことをみんなの前で
言えるわけないじゃんか。夢の中だからこそ言えることもあるんだよ。カメラと
マイクを向けられたら、今までは先輩についていくだけでしたが、これからは
サブリーダーとしてがんばります、って言うしかないじゃない。いくら
オーディションのときはあたしがいちばんだったのに、梨華ちゃんやあいぼんや
ののに抜かれちゃったなと思っていても、そんなの言えないじゃない。
ねえ梨華ちゃん。そりゃ梨華ちゃんだって不安だと思うよ。なんたって娘。
を卒業するんだもんね。でも、残された方のことも考えてみてよ。今年の1月
に辻加護でしょ。で今回圭織に石川。娘。の主力メンバーがごっそりいなく
なっちゃった、って感じでしょ。残されたオイラはどうすればいいのさ。
声は矢口のものに変わっていた。梨華はもう振り向かなかった。これは
どうせ夢なんだ。
- 20 名前:Depor 投稿日:2004/05/27(木) 02:50
- いったん切ります。
- 21 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:24
- ――そりゃ今は梨華ちゃんの夢の中だけど、でもある意味では夢じゃないんだよ。
だから聞いて。オイラ、娘。を何年やってると思ってんのさ?丸6年だよ。
何人メンバーの卒業を見てきたと思ってんのさ。娘。はこういうものだって
ことくらいわかってるんだよ。だからさ、単純に誰かがいなくなって悲しい
とかってことを言ってるんじゃないんだよ。わかる?
――わかりません。
梨華は口をへの字に曲げた。
- 22 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:25
- ――もう、ちゃんと聞いてよ。せっかくヤグチが真面目に話してるんだからさ。
あのさ、今回の圭織と石川の卒業は、本当に今までとは違うんだよ。うまく
言えないんだけど、もう完全にドアが閉まっちゃった、って感じ?
今まではまだちょっとは後戻りできるすき間があったんだけどさ。でも今回は、
もう後戻りはできません、どうぞモーニング娘。の皆さんは先にお進みくださいって。
娘。のメンバーは否が応でもとにかく自分の行く先に進んでいかなくちゃ
いけないわけ。それぞれの行く先に。
- 23 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:25
- ――矢口さんも、ですか?
――だから言ってるじゃんか。娘。みんなだよ。オイラだろうが
圭織だろうが石川だろうが、紺野だろうが田中だろうが。みんな自分の
足もとを見つめて、真剣に考えざるをえないんだ。冗談抜きで、ほんとに。
よっすぃーだってわかってる。というか、わからざるをえないんだ。
だから梨華ちゃんにあんなことを言ったんだよ。
- 24 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:26
- ――それは、わかります。私だってつんくさんに卒業のことを聞かされて
から今まで、真剣に考えてきました。娘。としてあと1年、どうしていこうか。
もちろんその後も。自分は何をしていくべきかって。
――まあね。もちろん、梨華ちゃんが何も考えてないって言ってるんじゃ
ないよ。むしろ考えすぎて困っちゃうタイプだもんね。
だけど、よく聞いて。梨華ちゃんは、ある意味ではより「上」に行くんだ
ってこと。今よりももっと注目を浴びる場所に行ける。少なくとも、その
可能性がある。もちろん、それはアンタにそれだけの才能があって、
それだけの努力をしてきたからだってことは知ってる。アンタはよく
がんばったし、色々な面で成長した。自信もそれなりについたんでしょう。
それは本当にすばらしいこと。きっとこれからももっと成長するだろうし、
アンタのことだから、黙っていても努力はするでしょう。
- 25 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:26
- 保田の声。そういえば、しばらく保田さんと2人で喋ることってなかったな、
と梨華は思った。保田さんの話は長くなるんだよな、うん。
――でも、そうじゃない人も、いる。
保田が言った。
――オーディションに受かって、最初に集まったときのこと、憶えてる?
こんなこと言われたでしょう。あなた達は、オーディションに受から
なかった他の何万人もの参加者の気持ちも背負ってるんだ、って。
- 26 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:27
- ――はい。
梨華は答えた。なんだか久しぶりに保田に説教されているみたいだ。
昔を思い出して、少しおかしくなった。
- 27 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:27
- ――矢口も言ってたけど、モーニング娘。は今回のアンタ達の卒業で、
本当に変わってしまうと思う。圭織が卒業してオリメンが誰もいなくなる。
事務所の戦略も――そんなまともなものがあるのかどうか知らないけど――
変わる。CDの売り上げも変わる。ファンをやめてしまう人もいるかも
しれない。口のわるい人たちは「店じまい」の準備だとか言っている。
本当に、もしかしたら――もしかしたら、近い将来にモーニング娘。が
終わってしまうかもしれない。そんな気さえする。もしそうなったら、
それからソロや別ユニットでやっていける人は、あまり多くないかもしれない。
石川。アンタの行こうとしている場所ってのは、そうそう誰もが行ける
場所じゃないんだよ。かなりの才能と相当の幸運がないと行けない場所
なのよ。ある種の人間が――例えばわたしが、どんなに努力したって
行けない場所なの、わかる?
- 28 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:27
- ――わかりません。
梨華はまた口をへの字に曲げる。まるっきりわかっていないわけでは
ない――でも、わからないふりをして、もう少しだけ、保田さんの話を
聞いていたい。たとえ夢の中であっても。
- 29 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:28
- ――まあ、自分の才能に気づいていないのはアンタらしいけど。
保田は苦笑したようだった。
――だから、その場所へ行けない人のことを、心の片隅に留めておきなさい。
その上で、どんどん先に進みなさい。ま、アンタは本当はわかってると
思うんだけどね。わたしはおばちゃんだから、こんな説教じみたことを
言ってるだけ。――アンタ泣いてるの?
- 30 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:28
-
いつの間にか、梨華は泣いていた。涙がぽろぽろこぼれ落ちてきて、
止まらないのだ。梨華は目をぬぐった。でも涙は次から次へと湧きだしてきた。
- 31 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:29
-
――泣きなさい。
保田の声がした。
――泣いて泣いて、身体じゅうの水分を出し切っちゃいなさい。身体が
からっぽになるくらいに泣いて、明日からまた仕事に行きなさい。
- 32 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:29
-
涙は止まらなかった。梨華はもうあきらめて、流れ出るのに任せた。こんなに
泣いたことなんて今まであっただろうかと思った。とても久しぶりのような気がした。
- 33 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:30
-
- 34 名前: 投稿日:2004/05/27(木) 21:30
-
目がさめたのは12時近かった。TVがつけっぱなしになっていた。
梨華はしばらくソファーに横たわったままでいる。枕がわりのクッションが
涙で冷たく濡れていることに気づく。すっかり明るくなったカーテンの向こう側を
じっと眺める。明日は、仕事に行かなくちゃ。
そして夢のことを思い出す。
- 35 名前:Depor 投稿日:2004/05/27(木) 21:31
-
終わりです。
ずっと上の方にいるのは恥ずかしい限りなので、落とします。
- 36 名前:Depor 投稿日:2004/05/29(土) 01:26
- 「パプリカ」
- 37 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:26
- 早く着きすぎたかな。あさ美は腕時計を見た。1時45分。
待ち合わせの時間まではまだ15分ある。まあいいだろう。
先方からは「多少遅れるかもしれないが、店で待っていて
ほしい」と言われている。あさ美は喫茶店に入った。
造りや雰囲気がしっかりした喫茶店だった。クラシック音楽
が流れている。まわりは背広姿の男性や、中年の女性ばかりだ。
高校を卒業したばかりのあさ美がいつも行くような店ではない。
あさ美は少し緊張しながら案内された窓際の席についた。
コートを脱いで隣の座席に置く。ウェイトレスがにこやかな
微笑みとともに水のグラスを運んできた。あさ美はコーヒーを
注文した。
- 38 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:27
- あさ美は窓の外の風景をぼんやりと眺めた。通りを車が
走っていく。カップルが仲むつまじげに歩いている。
みんな幸せそうだな。わたしと違って。
そう思わずにはいられない。
なぜなら、あさ美は――4月から、浪人生なのだ。
- 39 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:27
- (受かると思ってたのにな)
あさ美はテーブルに頬づえをついた。そりゃ成績がずば抜けて
良かったわけではない。英語はずっと苦手なままだった。
受けた大学もいわゆる難関校と言われるようなところばかりだった。
でも、この1年はけっこうがんばって勉強したのだし、それなり
の成績は取っていた。なのに、受験した大学はみな落ちていた。
大学浪人するくらい大したことじゃない。1年くらい浪人の
経験をした方がこれからの人生で役に立つ。よく聞く言葉だ。
たしかにそうかもしれない。でもやっぱり受験の発表直後に
そんなことは思えない。がっかりするだけだ。
- 40 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:28
- (みんな、受かってるんだもんな)
あさ美はさらに憂鬱になる。あさ美の通っていた高校は、
そこそこ有名な進学校だった。難関大学への進学者が多い、
中高一貫の女子校。あさ美の仲の良い友人も大学を受験して、
みなどこかの大学に合格していた。麻琴も愛も、里沙までも
受かっていた。仲良しのグループの中では、自分だけが落ちていた。
友だちの中でひとりだけ取り残された気がして仕方がない。
それがあさ美の憂鬱を深くする。
- 41 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:28
- そこまで考えたところで、ウェイトレスがコーヒーを持ってきた。
腕時計は1時55分を指していた。砂糖とミルクを入れる。
友人の愛が以前、「コーヒーはやっぱりブラックじゃないと」と
通ぶったことを言っていたのを思い出した。あさ美にはコーヒーの
味なんてわからない。そういうものなのだろうか。
- 42 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:29
- 3月のはじめに高校の卒業式があって、その翌日に最後に受けた
大学の合格発表があった。それから何日か、あさ美は外に出る気も
しないで部屋に閉じこもっていた。麻琴や愛から何度かメールが
あったが、「体調が悪い」と返信した。憂鬱が深すぎたのだ。
その間はずっと胸の中にもやもやしたものが溜まっているよう
だった。くよくよと、(里沙よりはぜんぜん成績もよかったのにな)
(もっと英語をがんばっていればよかったのかな)と思い悩む
ことも多かった。あさ美はそんな自分の性格が嫌でしかたが
なかった。だから部屋では好きなよしもとばななの小説を読んでいた。
文庫本のページをめくっている間は胸の中のもやもやも嫌なことも
忘れていられた。
- 43 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:29
- 両親もあさ美のことは心配しているようだった。浪人が決まって
から、予備校に行くのかと聞かれた。あさ美は少し待ってくれと
答えた。他の浪人した同級生はもう予備校の入学手続をしている
らしい。切り替えの早いそれらの同級生をうらやましく思った。
そして、娘が沈みこんでいることを察した父が、どこぞの
知り合いから、あるセラピストを強く推薦されたらしい。
アポイントも取ったようで、「いいからとにかく会ってこい」と
言われた。あさ美はどちらかというと人見知りする性格だったから、
得体の知れないセラピストなんかに会うのは本当は嫌だった。
だが、親に強く言われたのと、さすがに閉じこもってばかりも
いられないとも思ったこともあって、こうして待ち合わせ場所に
指定された渋谷の喫茶店にまでやって来たのだ。
- 44 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:30
- (そろそろかな)
腕時計を見ると2時をすぎていた。あさ美は目を上げて出入口を見た。
サラリーマンとおぼしきグループが会計をしていたが、新たに店に
入ってくる人影はなかった。あさ美はまた頬づえをついた。
何度目かのため息。セラピストと言われてもイメージが湧かない。
どんな人が来るんだろう。中年の変なおじさんとかだったらやだな。
どんなことするんだろう。変なこと聞かれないかな。お父さんに
もっと「いやだ」って言えばよかったかな。そんなことより、
これからどうしようかな。やっぱり4月から予備校に
- 45 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:30
- 「こんにちは」
あさ美はびっくりして目を上げた。細身で、目鼻立ちの整った
若い女性が立っていた。
「あなたが、紺野あさ美さん?」
「は、はい」
まさか、この人だろうか。この、二十歳そこそこにしか見えない、
綺麗で品の良さそうな女の人がセラピスト?
- 46 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 01:31
- 「はじめまして。石川梨華といいます」
彼女はにっこりと笑って、コートを脱いで席に座った。緑色の
カシミアのセーターに、ウールのスカートといういでたちだった。
「ごめんなさいね、ちょっと遅れちゃった」
「い、いえ」あさ美はわけもなく赤面した。
「前の用事がなかなか片づかなくて」彼女は丁寧にコートを畳んで
隣の座席にそっと置いた。
- 47 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 22:05
- 「あの」あさ美は言った。
「ん?」
「どうしてわたしがわかったんですか?」
「だって、このお店の中で18歳の女の子って言ったらあなた
しかいないじゃない」
ふふふ、と彼女は笑った。眉毛がハの字になって広がった。
- 48 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 22:06
- 「あ、そうか」
「でしょ。いちおう18歳の女の子だってことは聞いてたから」
あさ美は彼女の微笑みに安心感を憶えた。この人なら信頼しても
いいかもしれないという気になった。
「とりあえず、これ。こんなの要らないといえば要らないんだけど、
いちおうね」
彼女はバッグから名刺を取り出して、あさ美に渡した。名刺を
人からもらうなんて生まれてはじめてのことだった。
あさ美はその名刺を眺めた。「×××精神医学研究所 所員 石川梨華」
と書いてあった。
- 49 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 22:06
-
「ほんとに駆け出しみたいなものなんだけど」
「お医者さんなんですか?」
「ううん。まだ医師免許は持ってない。大学の医学部で勉強中なの。
この研究所にちょくちょく出入りさせてもらってるだけ。肩書きは
所員になってるけど」彼女は注文を聞きに来たウェイトレスにコーヒーを
注文した。
「だから私は本職のセラピストではないの。あなたのお父さんが
うちの所長と知り合いで、所長から会ってみてって言われたわけ」
- 50 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 22:07
- 「そうなんですか。わたしは親からセラピストが来るって聞いたから」
たぶん父親が聞き間違えたのだろう、お父さんはわりとそそっかしい
ところがあるもんな、とあさ美は思った。
「そうなんだ」と彼女は言った。「そうか、ごめんね、すごい先生が
来ると思ってた?」眉のハの字がさらに広がって、申しわけなさが
伝わってくるようだった。
- 51 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 22:07
- 「いえ、そんなことないです」あさ美は慌てて言った。
「そんな、えらい先生が来ても緊張しますし」
「そう、良かった」と彼女は言った。「じゃあ、まずちょっと話を
聞かせてね。大学、だめだったって聞いたんだけど?」
あさ美は今の現状を思い出してため息をついた。
「そうなんです。全部だめでした」
「そっか。所長から聞いたけど、すごく有名な高校に行ってたん
でしょ?成績も良かったんだろうし、それはちょっと落ちこんじゃうね」
- 52 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 22:08
- 「いえ、そんなに成績良かったわけでもないです。英語とか全然ですし」
あさ美は言った。あまり人に話したくない話題なのに、なぜか素直に
喋ることができた。「でも1つくらいは受かってるかなって思ってました。
あと、友だちがみんな受かってて、わたしだけだめで。ひとりだけ
取り残されちゃったかなって思うし、うらやましいし、やっぱり少し
悔しいというのもあるし」
「わかるよ。それはそうだろうね」彼女は真剣な顔で肯いた。
「もちろん落ちたのはわたしの努力が足りなかったからなんで、
誰かに文句を言うつもりはないんですけど」とあさ美はつけ加えた。
正直な気持ちを言いすぎて、自分勝手なやつだと思われたくなかった。
それに真琴も愛も理沙も大事な友だちであることには変わりない。
- 53 名前: 投稿日:2004/05/29(土) 22:08
- 「わかってるよ。もちろんそうなんだけど、でもやっぱり
そういうことが胸につっかえちゃうんでしょ?それでやる気も出なく
なっちゃったり」彼女は心配しなくても大丈夫、とでも言うように
肯いてみせた。
「そうです」誤解はされていないようだ。あさ美はほっとした。
「他の浪人する人は予備校とか探してるみたいなんですけど、
わたしは何にもする気がなくなっちゃって。恥ずかしいんですけど」
「そっか」彼女は運ばれてきたコーヒーを受け取って、ひとくち飲んだ。
この人はブラックで飲むんだ、とあさ美は思った。
- 54 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:35
- 「ところで」彼女は言った。「紺野さんは読書好きって聞いたけど、
どんな本を読むの?」
「え…と」話題が転換したのであさ美は少しとまどった。
「そんなにすごい読書家ではないです。でも、そうですね、よしもと
ばななとか、宮部みゆきの小説とか」
「あ、私も宮部みゆき好き」彼女は思わずといったように手を合わせて
言った。そのしぐさが少し子供っぽく見え、あさ美はますます彼女に
親しみを憶えた。
- 55 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:35
- 「読書家ってほどじゃないですけど、本を読むのは好きです。
だから、文学部に行きたかったんですけど」どうしてこんなことまで
初対面の人に喋ってるんだろう、聞かれてもいないのにと思ったが、
自然にすらすらと言葉が出てきた。
「なるほどね。私、読書家の女の子が来るって聞いたから、
がっちがちの文学少女みたいなのを想像してたの。なんかもう
こーんな眼鏡かけたりした」彼女は指で丸を作って目の周りを覆った。
「でもこんなにかわいい女の子だったから。びっくりしちゃった」
「え、そうですか」褒められて、あさ美は赤面した。
「でも、そんなこと言ったら石川さんだって医学部生って感じしない
ですよ。そもそもわたしはセラピストが来るって聞いてたから、
中年のおじさんが来るかと思ってたんですよ」
「そうなんだ。もう、紺野さんのまちがいの方がひどいじゃない」
彼女はわざと怒った顔を作ってから、本当におかしそうに笑った。
あさ美もつられてくすくすと笑った。笑ってから、自分が
ずいぶん久しぶりに笑顔を作ったことに気がついた。
憂鬱が深すぎて、笑うことを忘れてしまっていたのかもしれない。
- 56 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:36
- 「そうだ、何か毎日の生活で困ってることはない?ちょっと
食欲が落ち気味だったりとか」彼女は真顔に戻って言った。
「特に食欲がなくなるってことはないですけど」あさ美は最近の
生活を思い起こしてみた。「でもちょっと寝つきが悪くなってるかも
しれません。ベッドに入ってから眠るまで時間がかかるんです。
なんかいろいろ考えちゃって」
「だけど、ずっと寝つけないってことはないんでしょう?それとも
寝てもすぐに起きちゃったりする?」
「いえ、そのうちに寝てしまうし、すぐに起きたりはしないです。
寝すぎちゃうくらいです」
- 57 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:37
- 「そう。なんか問診してるみたいだけど、そんなんじゃないから
心配しないでね」彼女はあさ美の目を見つめて言った。「何か私に
聞きたいことはある?私が聞いてばっかりだったものね」
「石川さんは浪人したんですか?」あさ美は聞いてみた。
「ううん。運良く現役で大学に入れた。今は3年生だけど。
高校の友だちで浪人した人はいるけど。そんなに悪いもんじゃない
って、言ってたよ」
「医学部に現役で入ったんですか?すごい」
「偶然よ。決して成績は良い方じゃなかったもの。ほんとに」
「高校生のとき、予備校とかで勉強してました?」
「私は行ってなかったかな。周りには行く人が多かったけど」
彼女はなにかを思い出すように目線を宙にさまよわせた。
それから、穏やかな目であさ美を見つめた。「紺野さんは、
予備校に行きたくないの?」
- 58 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:37
- あさ美はどきりとした。「うーん…わからないです。親は行け
って言うし、周りの人もみんな行くって言うし。でも、わたしは
なんていうか、その、勉強したくないってわけじゃないんですけど」
自分が考えていることがうまく言葉にならなかった。もどかしい。
「気持ちの整理がついてないってこと?」
「そう…なのかな。いちばんは…その、これからどうすればいいん
だろう、って思うんです。なんか…自分でも変だと思うんですけど、
何のために大学に行くんだろうって、思ってしまって。本を読むのが
好きだから文学部に行きたいって考えてたんですけど、そんな簡単な
理由でいいのかなとかって。自分が将来何になりたいってことも
まだよくわからないし」話しながら、あさ美はここ数日間胸に
たまっていたもやもやしたものが形になったことに驚いていた。
わたしは特別に意識していなかったけれど、こんなことを考えて
いたんだ。
- 59 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:37
- 「でもこんなことで悩むのもバカバカしいって思うんです。
別に何のために大学に行くかなんて決める必要もないし、大学に
入ってから考えたっていいんだし。そんなこと考えてるひまが
あったら勉強しろって言われそうだし」あさ美は言葉を続けた。
「そんなことないよ」彼女はきっぱりと言った。
「そこまで考えるのは立派。まあ、大部分の学生は何のために
大学に行くかなんて考えてないだろうし、決める必要もないと
いうのはその通りだと思うけどね。だけどそういうことを考える
のはいいことだよ。恥ずかしがることじゃない」
「そうですか…ね」
「そうだよ。自分が何をしたいのか、って考えることはとても
大事なこと。でも今も言ったけど、あまり簡単に結論を出せること
でもないから、答えが出せないことを悩む必要もないし、逆に
結論が出たりしたらそっちの方がおかしいと思う。まだ18なん
でしょう?」彼女は言った。「まあ、私もそんな偉そうなことは
言えないんだけど」
- 60 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:38
- 「石川さんは前から医者になろうと思ってたんですか?」
あさ美は聞いてみた。
「まあね。高校生のときから精神分析に興味があったし、
大学でも精神分析学や心理学を勉強したいと思ってた。
だから今はやりたいことをやれてるってことにはなる。
だけど、ときどきは迷ったりするよ。他にも面白そうなこと
はあるし、これで良いのかなって」
「そうなんですか。わたしは…なんか、石川さんはすごく大人に
見えるし、医学部で難しい勉強をしてて、迷ったりするひとじゃない
ように見えちゃって」あさ美は正直な気持ちを言った。
「そんなことないそんなことない。そう言ってくれるのは
うれしいけれどね」彼女は手を振って苦笑した。
- 61 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:38
- それから突然真剣な表情になって、「あなたは本当に頭も良いし、
すぐれた素質を持っているのよ。ただ今は自信をなくしちゃって、
少し不安定な状態になってるんだけどね。言ってみれば、
靴のかかとが一時的に欠けちゃって、ちょっとバランスが
悪くなって歩きにくくなってるみたいな感じかな。
でも靴自体はちゃんとしてるから、かかとを補修したらまた
しっかりと歩けるようになるの」と言った。
「え…」あさ美は言葉につまった。声がうまく出なかった。
「本当よ。私はこんなことで変な冗談を言ったりはしないから」
彼女はコーヒーカップを注意深く皿に置いた。「まあ、単なる
いち大学生の感想なわけだし、大げさに受け取られても困るけど」
「その…」こんなことを言われるとは思っていなかった。
まだ声がうまく出ない。
- 62 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:39
- 「来年もういちどどこかの大学を受けるってことはまちがいない
でしょ?だからもちろん勉強はしなくちゃいけないし、予備校だって
すぐに決めた方がいいかもしれない。そういう実際的な問題はあると
思う」彼女はゆっくりと、言葉を選ぶように言った。
「だけど、いまあなたに必要なのは、時間をかけることなんじゃない
かな。予備校に行くかどうか決められないのなら、別にいま決めなく
たっていいじゃない。時間をかけてゆっくり考えて、行くかどうか
決めればいいんだよ。予備校に行かなくたって、勉強はできる」
「そう…そうかもしれないですね」あさ美は彼女の言葉を
もういちど頭の中で繰り返した。予備校に行かなくたって、勉強はできる。
「だから気楽に考えればいいんだよ。あなたは何かをするときに
手を抜いたりすることはできないタイプだとは思うけど、そんなに
深刻に考えすぎることはないんだよ」
- 63 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:41
- あさ美はそれからしばらく世間話を彼女と交わした。人見知りする
自分の性格からは考えられないくらいに話がはずんだ。コーヒー代は
彼女がおごってくれた。
帰り際に、彼女は電話番号を書いた紙片をあさ美に渡してくれた。
「何かあったら電話してね」と彼女は言った。
「ヒマだな、と思ったときでもいいから。またお茶でもしよう」
「は、はい」あさ美はその紙片を丁寧に財布にしまった。
そして頭を下げた。「あの、今日はごちそうさまでした。
あと、話を聞いてもらってありがとうございました」
ふふ、と彼女は微笑んだ。「どういたしまして。私も若い子と喋れて
楽しかった」
- 64 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 02:41
- 帰りの切符を買って、駅のホームで電車を待っているときに、
あさ美はびっくりするくらいに気持ちが楽になっていることに気がついた。
たったの数時間でこんなに気持ちが変わってしまった。あの人は本当は
すごいセラピストなんじゃないだろうか。
あさ美は財布から彼女からもらった紙片を取り出して、それをそっと広げる。
電車がやって来た。車内は思ったより空いている。あさ美はシートに
腰をかけて、もう一度紙片に書かれた電話番号を見た。
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/11(金) 11:01
- 最初のから読んでます。なんとなくレス控えていたのですが・・・
石川さんにしても紺野さんにしても、揺れる感情に共感しました。
続きも楽しみにしています。
- 66 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:38
-
「サラダ」
- 67 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:38
- 2011年5月。気持ちよく晴れた日。
圭織は午前中を使って自宅の掃除をすることにした。広いマンションなので
時間がかかったが、それでも昼前までに掃除を終わらせることができた。
昼食は少し手抜きをしてパンでいいかと思う。ついでに野菜サラダも作る
ことにする。
FMを聴きながらトーストとサラダを食べる。分量を間違えてサラダを
作りすぎてしまったが、夕飯にまた食べればいい。
食器を洗い、テーブルの上を片付けると、さしあたってすることがなくなった。
- 68 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:39
- 2011年5月、気持ちよく晴れた火曜日。
圭織はリビングルームのソファーに腰をかける。そして思う。
わたしはあと少しで30歳になる。
ものごとはほぼ順調に進んでいた。モーニング娘。を卒業してから
4年間ソロ活動をして、そこで知り合った5歳年上の放送作家と結婚した。
いくらか悩んだが、芸能活動をやめることにした。仕事を続けたいという
気持ちはあった。だが本当にやりたいことはなかなかできなかった。
事務所とのトラブルがあった。夫から家にいてほしいと言われた。芸能界の
嫌なところもたくさん見えた。ここらでやめてもいいかという気になった。
- 69 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:39
- 夕飯はどうしようか、と圭織は思う。朝の出がけに夫が今日は帰ってこない
と言ったことを思い出す。
今年に入ってからどれだけ夫が家に帰ってきただろうか。前とは違って、
最近は家に帰ってくる方がめずらしくなった。昨日のように、明け方に
帰ってきて朝食を食べて出ていくのならばまだいい方だ。
夫は売れっ子放送作家と言われている。番組を10だか20だか掛け持ち
して、毎日TV局で会議をしている。
気持ちはわからないではない。どうせ家に戻ってもまともな会話など
なくなっているのだから。大部分の沈黙と、少しの事務的な会話。
- 70 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:40
- いつからこうなったのだろう。結婚したばかりの頃は――といってもたった
2年前のことだが――こんなではなかった。それはたしかだ。夫は仕事を
減らしてでも圭織との時間を作った。たまには夜遅いこともあったが、それでも
可能な限り早く家に帰ってきた。週に一度は休みをとって、2人の時間を作った。
俺が圭織に家にいてほしいと頼んだんだからな、と夫は言った。
- 71 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:40
- 子ども。流産。動悸が早くなる。息が苦しくなる。思い出したくない記憶。
去年のことだ。圭織は子どもが欲しかった。夫も子どもを欲しがっていた。
妊娠がわかったときは大喜びした。だが、4回目の通院の際に、医者から
流産ですと言われた。実にあっけなかった。圭織は何日も泣き明かした。
夫は泣かなかった。圭織の悲しみはあまりにも深く、誰に向けるでもない
怒りが湧き上がった。圭織は夫を責めた。あなたは何も感じてないんでしょう。
だから泣かなかったんでしょう。この子はわたしのお腹にいたのよ。
夫は何も言わなかった。
- 72 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:40
- 圭織はびくりとする。意識を今に戻す。2011年、気持ちよく晴れた
火曜日の午後。
わたしは夫を愛していない。正確に言うのなら、わたしは夫を愛せなくなった。
いつからかは定かではない。流産してからのような気もする。いや、そうではない。
流産のせいではない。遅かれ早かれ、わたしはここにたどり着くことが決まって
いたのだ。
- 73 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:41
- 夫とはじめて会ったのはいつのことだったろうか。圭織は記憶を探る。
矢口。矢口の紹介だった。合コン。
モーニング娘。が解散してから2年が経っていた。圭織はもちろん、
矢口もソロで活動していた。しばらく会っていなかった矢口から連絡があった。
――圭織さー。今度、番組の作家さん達と飲み会やるんだけど、来ない?
――あ、圭織、それからさ……いや、いいや。
- 74 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:41
- 何の気もなしに行った合コンだった。
彼はどちらかというと寡黙な方だった。場を盛り上げるタイプではない。
たまたま圭織の隣に座っただけだ。会話もあまり弾まなかった。
ただ、彼は偉そうなことを言わなかった。自分の自慢話もしなかった。
圭織の話を真剣に聞いてくれた。そして照れくさそうに、自分はスポーツを
やったり見たりするのが好きだ、あまり上手じゃないんだけどね、と言った。
圭織は彼の中に、なにかしら手つかずで無防備なところを認めたし、
そこに好感を持った。
電話番号を交換した。2ヶ月後につきあいはじめて、1年後には結婚した。
28歳。特に悩むことはなかった。30歳前には結婚したかったし、
彼ならば信頼できると思っていた。
- 75 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:42
- 「どうして」圭織は声を出していた。誰もいないマンションのリビング
ルームに、声が響く。
どうして、こんなことになったのだろうか。わたしが手にしているのは、
申し分のない生活と申し分のない夫と、思い描いていた未来のはずだ。
なのにわたしは、夫と離婚することを考えている。本当に離婚するかは
わからない。でも少なくとも、その可能性を手のひらに載せてじっと
見つめている。
離婚。30歳を目前にしたバツイチの元芸能人がまたひとり。よくある話だ。
- 76 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:42
-
わたしはどこで間違えたのだろう。何が正しい選択で、何が間違った選択
だったのだろう。
- 77 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:43
- 圭織は立ち上がって、台所でコーヒーを沸かした。リビングの白い
カーペットにコーヒー・ポッドの中身をぶちまけたいという誘惑にかられる。
サラダ・ボウルには余ったサラダが盛られている。シンクには台所用洗剤と
スポンジが置いてある。窓の外は憎らしいくらいに澄みきった青空が
広がっている。
- 78 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:43
- 2005年5月、圭織は事務所から呼び出しを受けた。会議室には
事務所の会長とつんくがいた。
ひとつ。2006年の5月、矢口はモーニング娘。を卒業する。
もうひとつ。モーニング娘。の大改革を行う。
具体的には、モーニング娘。を解散し、残りのメンバーで新たなグループを
作って活動することを考えている。
- 79 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:44
- 絶句した。たしかにジリ貧は目に見えていた。卒業・加入を繰り返す新陳代謝の
手法も限界を迎えていた。客観的に見て、いつ終わるのか、ということを考える
時期ではあった。だが、それにしても突然の決定だった。
――それでな、あとのメンバーはそのままやっていくわけやけどな、
モーニング。の看板はどうしよか、ゆうことなんや。
要はモーニング。解散ちゅう話や。もちろんモーニング。ゆうたら俺にも
思い入れある看板や。当然オリメンのお前にも思い入れあるやろ。
どや、飯田?お前どう思う?モーニング。解散ゆうのは受け入れられんか?
- 80 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:44
- ――いえ。わたしも、解散がいいと思います。
――そうか。
――あの、この話はみんなにしたんですか?
――ん、お前と中澤だけや。いちおうリーダー経験者には話し聞こうと思てな。
ま、他のには黙っといてくれよ。
――はい。
- 81 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:45
- どうしてあのとき解散してもいいと答えたのだろうか。わたしはモーニング娘。
が好きだった。リーダーとして、メンバーとして、誇りを持っていた。
わたしが卒業した後でも、ずっと続いてほしいと思っていた。なのに、わたしは
どうして解散してもいいと答えたのだろうか。
もちろんわたし1人が反対したところで、事務所の方針が変わるわけがない。
でも、もしかしたら。
もし、わたしがあのとき解散に反対していたら?モーニング娘。は解散せずに
すんだのだろうか?わたしは間違った選択をしたのだろうか?
わたしがここにたどり着くことは、あのときに決まっていたのだろうか?
- 82 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:45
-
合コンに誘われた日、矢口はわたしに何かを聞きたがっていた様子では
なかったか?
矢口は何かをわたしに言おうとしていなかったか?
- 83 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:45
-
「すべてのものごとには、始まりと終わりがあります」
圭織は自分の卒業コンサートで言った言葉を思い出す。
「きょう、飯田圭織はモーニング娘。を卒業します。今まで本当にありがとう!」
- 84 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:46
- 圭織は子どもについて思いをめぐらす。生まれなかった子ども。これから
生む子ども。圭織は子どもが3人欲しかった。最初の2人が女の子。末っ子は
男の子。女の子には自分と似た名前を付ける。男の子の名前は夫に任せよう。
そして3人とものびのびと育てる。わたしは絵を教えてあげよう。音楽が
やりたいのならやらせてもいい。休みの日には親子揃って遊びに出かける。
水族館がいい。わたしは魚をじっと眺めるのが好きだから。
- 85 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:46
- 圭織はいつか経営しようと思っているカフェについて考える。一流の調度品を
揃えて、上品なクラシック音楽を流す、雰囲気の良いカフェ。選び抜いた豆を
使い、ミルクと砂糖をたっぷり入れた、甘くておいしいコーヒーを出す。
そこには毎日の仕事と人生に疲れた人が来る。圭織はコーヒー豆を煎って、
ケーキを作りながら、その人たちの話を聞く。直接悩みを解決することは
できないけれど、その人たちは圭織と話すことによって何らかの解決のヒントを
得て、癒されて帰っていく。圭織も人々から安らぎと充実感をもらう。
そんなカフェ。
- 86 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:47
- インターホンが鳴る。誰?夫だろうか。夫は今日は帰ってこないと言った
はずだ。そもそも夫ならば帰宅するときにインターホンなんて鳴らさないだろう。
でも夫かもしれない。仕事が早く終わったのかもしれない。それにわりと
そそっかしい性格で、よく鍵を家に忘れることがあるから。
- 87 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:47
- インターホンがもういちど鳴る。圭織は立ち上がる。台所にあるサラダ・ボウルと
洗剤を見やり、しばらく立ち止まる。夫だとしても、夕食の準備ができてなくて困る
ということはない。サラダがある。それにパスタでも茹でよう。
- 88 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:47
- 三度インターホンが鳴る。訪問者が誰であるにせよ、相手は圭織が部屋にいる
ことを知っているようだ。圭織は廊下に出て、玄関に向かう。
- 89 名前: 投稿日:2004/06/13(日) 00:48
-
終わりです。
- 90 名前:Depor 投稿日:2004/06/13(日) 00:49
- >65 名無飼育さん
レスありがとうございます。
拙い文章を読んでもらった上に、暖かいレスを頂いて、とても嬉しいです。
これまで全くレスがつかなかったので、自分の文章を読んでくれる人は
いないんじゃないか、と思ってました。本当にありがとうございます。
- 91 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:28
-
「後藤さんの話」
- 92 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:28
- わたしが後藤さんからその鼻血の話を聞いたのは、2年前の夏のことだ。
暑くて暑くて仕方がなかった8月。後藤さんは翌月に娘。を卒業することに
なっていた。
- 93 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:28
- 24時間のチャリティー番組関連の仕事だった。楽屋で待機して、呼ばれた人
から順に出ていく。そして番宣のコメントを撮るというやつ。わたしは楽屋の
隅っこに座って、1人で雑誌を読んで順番を待っていた。他のメンバーも
それぞれに時間をつぶしていた。みんなが黄色いTシャツを着ていることを除けば、
いつもの光景。
- 94 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:29
- 「こーんのっ」
ぱっと顔を上げる。後藤さんがわたしの隣に座っていた。
「わ、びっくりした」
「あは」後藤さんは笑った。わたしのうろたえた顔が気に入ったみたいだ。
「相変わらず面白いねえ、紺野は」
- 95 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:29
- 顔が赤くなるのがわかった。後藤さんとこんなに近い距離で喋ったことなんて
あっただろうか?いったい後藤さんとどんな会話をすればいいんだろうか?
そんなことばかりが頭に浮かんできて、まともな言葉が出てこなかった。
- 96 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:29
- 「ねえ」後藤さんが言った。
「紺野は、鼻血を出したことがある?」
- 97 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:30
-
鼻血?
- 98 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:30
- 「え、あります…けど」とわたしは答えた。わたしと後藤さんの周りには
誰もいなかった。注意を向ける人もいない。2人だけの会話。
「あはっ、そりゃ鼻血くらい出したことあるよね」と後藤さんは笑って言った。
「でもごとーは、娘。に入った頃、めちゃくちゃ鼻血出してたのさ。今はぜんぜん
そんなことないんだけど。鼻のネンマクっていうの?あれが弱かったんだと思う。
クセになってたのかな。何かあると血がたらたら流れてきて止まらないの。
もうほんとにシャレになんないくらいだったんだよ。ティッシュがすぐに血で
真っ赤になって役に立たないくらいの量が出てぜんぜん止まらないんだもん」
- 99 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:31
- 「まあ、ただ血が出るだけで、どこかが痛いってわけじゃないんだけどね。
それに中学生にもなれば血なんて見慣れたものだから、たくさんの血を見て
引くってことはないじゃない。でもさ、鼻血ってちょっとカッコ悪いじゃん。
とくにその頃はまだ娘。に入りたてでさ、先輩からの視線がすっごく厳しかったのよ」
- 100 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:31
- わたしは話し続ける後藤さんの横顔を見ていた。丸くて大きな瞳。昔のこと
を思い出そうとしているのだろう、目線は宙をさまよっている。形のよい鼻。
きゅっと引き締められた唇。なんて綺麗な横顔なんだろうと思った。
- 101 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:32
- 「だって、圭織や裕ちゃんに呼ばれて説教されたりしてたんだよ、あの頃って。
まああたしも悪いとこあったんだけどね、もちろん。
だから、鼻血が出たことはできるだけ隠すようにしてたんだ。『後藤は鼻血が
出るってよく言うけど、それをさぼりの言い訳に使ってるんじゃないの』とか
思われるのが嫌だったの」
- 102 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:32
- 「ダンスレッスンのときにはあまり出なかったかな。楽屋で時間をつぶしてる
ときとか、移動で車に乗ってるときによく出た気がする。でさ、『鼻血なんて、
鼻をつまんで上を向いてればすぐに止まる』ってよく言うでしょ。
でもね、そんなのは軽い鼻血だから言えるんだよ。あたしみたいにたくさん血が
出るときにそんなことすると、鼻から出た血がノドを通って、血を飲んじゃうのさ。
で、血を飲むとすごく気分が悪くなって、吐きそうになるの。
だから、それはやっちゃだめなの」
- 103 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:32
- 後藤さんはそこで話を止めた。そして、「この話、つまんない?なんかあたし
ばっかり喋ってるしね」と言った。
「いえ、そんなことないです」わたしは慌てて言った。後藤さんと2人きりで
話せる、めったにない機会を逃したくなかった。
「そう?ならいいんだけど」後藤さんはふわっと微笑んだ。
「えっと、どこまで話したっけ?あ、鼻血の止め方か」
- 104 名前: 投稿日:2004/06/18(金) 23:33
- 「あのね紺野、鼻血を止めるには、自然に止まるまで待つしかないの。
下を向いて、止まるまでずっとぽたぽた血を垂らしていくの。そのままだと
床が血で汚れちゃうから、両手でお椀をつくってティッシュを置いてさ、
ぽたぽたぽたぽた、そこに垂らすの。そのお椀の中に血が溜まってちょっとした
池みたくなったら、止まってくれる。それしかないの」
- 105 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:38
- 後藤さんは言葉を切って、ペットボトルの烏龍茶を飲んだ。
「いつだったかな、ライブの直前にすごい量が出ちゃったことがあったんだ。
あとちょっとで出番ってとこで。たまりで雑誌を読んでたんだけど、そこで
いきなり信じられないくらいの勢いで鼻血が出たの。ほんとね、蛇口をひねった
みたいにどばって血が出た」
- 106 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:39
- 「焦ったよ。とっさに雑誌で顔を覆ったの。ばれないようにね。そのまま
さりげなくトイレに行って、そこで必死で止めた。雑誌の開いてたとこが
血で真っ赤になって、固まってぱりぱりになっちゃったけど」
- 107 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:39
- 「でさ、そのとき着てた白い衣装に少しだけ血がついちゃったのよ。
水でこすったりしたんだけど、どうしても消えなかった。まあそんなに
目立たないところだったから、そのままライブしたんだけどね。
ちょっと気にはなったけど、結局ばれなかったみたい」
- 108 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:40
- 後藤さんはあはは、と笑った。
それから身体の向きを変えて、わたしを見つめた。
笑顔は消え、真剣そのものの表情になっている。
「ねえ紺野」
- 109 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:40
- 「はい」わたしは答えた。後藤さんはわたしに何かを言おうとしている。
ちゃんと聞かなくちゃ。胸がどきどきした。
- 110 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:40
- そのとき。コメント撮りから楽屋に戻ってきた矢口さんが、
「あー、ごっつぁーん。紺野と2人でなにしてんのさー」とわたし達の会話に
割り込んできた。
「えー、紺野と語ってた」後藤さんはいつもの笑顔に戻って、矢口さんに答えた。
「おー、すごいじゃん。ヤグチも入れてよ」
「いやー、やぐっつぁんはちっこいからむりだな」
「なんでだよ!」
矢口さんがつっこみ、後藤さんが笑って答える。わたしも笑顔を作る。
- 111 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:41
-
結局、その話の続きを聞くことはできなかった。
その1月後に、後藤さんはモーニング娘。を卒業した。
卒業した後も、もちろん後藤さんとはたまに顔を会わせる。あいさつを
したり、世間話をしたりする。でも、わたしから後藤さんに「あのとき
何を言おうとしていたんですか」と聞くことはない。後藤さんから
わたしに何かを言ってくることもない。
- 112 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:41
-
どうして後藤さんはあの鼻血の話をわたしにしたのだろう。
- 113 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:42
- わたしにはよくわからない。だけど、それからたまに、わたしは鼻血を
よく出していたという14歳の後藤さんの姿を思うときがある。
厳しいダンスレッスンの後。帰りのタクシーに乗って首都高から夜景を
眺めているとき。朝起きて歯みがきをしながら鏡の中の自分を見つめているとき。
ハロモニ。の収録の待ち時間。自分の動きを確認するためにライブのDVDを
チェックしているとき。長い1日が終わって、お風呂に入ってリラックスして
いるとき。
例えばそんなときに、わたしは14歳の後藤さんの姿を思う。
- 114 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:42
- 彼女はモーニング娘。というアイドルグループに加入したばかりだ。
周りからはマイペースでものごとに動じない今どきの女の子と思われている。
でも本当のところは何もかもがこれまでとは違う新しい世界に対して
とまどいと不安を感じている。
そんな14歳になったばかりの女の子。
彼女は先輩にばれないように、鼻血を隠そうとしている。トイレの中で
衣装についた血を拭おうとしている。血が付いた衣装を気にしながら
たくさんのお客さんの前で踊っている。
- 115 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:42
- 彼女はいずれ自分が日本中の人が知っている「後藤真希」になることなんて
知らない。サングラスと帽子なしでは街をふらっと出歩くことさえできなく
なることも知らない。自分にたくさんの後輩が出来て、憧れをこめた声で
「後藤さん」と呼ばれるような存在になることも知らない。ただ血が出ている
ことを隠そうとしている。流れ出る血を必死に止めようとしている。
- 116 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:43
- 話を終えてから、後藤さんはわたしに何かを言おうとしていた。
あのとき後藤さんはわたしに何を言おうとしていたんだろう?
- 117 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:43
-
そして、14歳の後藤さんは、あふれ出てくる血を止めようとしている
とき、いったい何を見て、何を考えていたのだろう?
- 118 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:44
-
- 119 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 23:44
-
おわり
- 120 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/22(火) 21:20
- 何か上手くレスの言葉が浮かばなくてロムってましたが、それも気持ち悪いかなと思いレスしました。
淡々とした物語に見えるのですが感情表現の仕方が好きです。
これからも楽しみにしています。
- 121 名前:Depor 投稿日:2004/06/29(火) 22:12
- >120 名無飼育さん
レスありがとうございます。
たしかにレスの付けづらい文章のような気もしますw
でも、もちろんレスをもらうのは嬉しいし、とても励みになります。
どうもありがとうございます。
次の更新まで少し時間がかかりそうですが、気が向いたらまたのぞいて
みてください。
- 122 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:36
-
「バスの話」
- 123 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:36
- わたしは通学にバスを使ってるんです。駅から高校まで歩いたら
30分くらいかかりますから。ええ普通の私鉄の系列バスです。
朝の始業時間前は、うちの中学や高校のヒトの専用バスみたいになる感じの。
あなたはバス通学の経験はないかもしれないけれど、だいたいのところは
わかってくれますよね?
- 124 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:37
- 中高一貫の私立の女子校ですから、これでかれこれ丸3年はこのバスを
使って登下校してることになります。わたしはこれでも無遅刻無欠席を
3年以上続けているんです。週5日、7時55分に駅を出るバスに乗って、
校門を8時10分に通りすぎているんです。あたり前だとか思われるかも
しれないけど、これってけっこうすごいんですよ。3月に中学を卒業した
ときにはそれで表彰されて、学校から革張りの英和辞典をもらいました。
英語は好きじゃないからあまり使ってないけど。
- 125 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:37
- それはいいとして、とにかく、単位に関係ないからといって平気で
朝礼に遅刻してくる里沙とかとわたしはちょっと違うんだってことです。
里沙は「朝礼の15分前には席についてるあさ美が信じられない、真面目
すぎる」と言いますけど、わたしからすれば里沙の方がよっぽど信じられない。
- 126 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:37
- それでですね、長いことバス通学をしていると、バスにもいろんな個性が
あることに気づくんですよ。信号待ちで止まるとアイドリングストップする
バスもあるし(まあ今ではそれが普通ですけれどね)、段差がないノンステップ・
バスもある。おおかたのバスはいちばん後ろの席が一列だーっと5人がけ
できる長いシートになってるけど、たまに5人ぶんに席がちゃんとくぎられて
いるバスもあります。降車ボタンのある位置もバスによって少しずつ違ったり
します。経由地や目的地の表示が電光掲示板みたくなってる最新式のもあれば、
表示された地名をくるくる回転させて差し替えている昔ながらのバスもある。
- 127 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:38
- それだけじゃないんです。というか、ここからが重要なんですけれど。
あのですね、わたしと――このわたし、紺野あさ美と――相性の良いバス、
悪いバスというのもあるんです。ほんとですよ。例えば、フロントガラスが
かっこよく張り出していて、外装もきれいに塗装されていて、きちんと
目的地表示が電光掲示板になってて、シートの色も上品なワインレッド、
というバス。ちゃんとアイドリングストップもして、環境にもやさしい。
シートの座りごごちもいい。週に1回くらいこのバスに当たるんです。
このバスで登校した後は午前中いっぱいは意味もなくにこにこしてしまう
くらいに気分がいいです。今日はツイてるぞ、って思います。
- 128 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:39
- で、クラスメイトの麻琴に上機嫌の理由を聞かれてそう答えたら、
「やっぱりちょっとあさ美は変わってる」と変な顔をされました。そんなに
変わってるかな。わたしに言わせてもらえれば、月曜の晩のスマスマを
最初から最後まで見れたら気分が良くて、その上慎吾の映る時間が多かった
のならサイコー、というクラスメイトと大差ないと思うのですが。
- 129 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:39
- その一方で、相性の悪いバスもあります。意外に最新式のやつは駄目
だったりします。車椅子を使う方にも利用しやすいノンステップ・バスという
コンセプトはとても素晴らしいと思うのです。でも内装の黄色を基調とした
配色がどうも上品ではないような気がしてわたしはあまり好きではない。
シートもセンスのない緑色で座る気がしない。それにこのバスは、乗るときに
運転手さんとの距離が少し離れてしまうつくりになってるんです。うちの高校
にもわるい輩がいて、そいつらは期限切れの定期券をちらっと見せて無賃乗車
しようするらしいので、運転手さんもわりと注意して定期券を見るんです。
だから手をのばして定期券をきちんと見せなくちゃいけない。けっこう
うっとうしいんです、これが。
- 130 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:40
- 朝、駅前のバスターミナルでそういう相性の悪いバスが待っていると、
それだけで気分が重くなったりするんですね。たぶんそのバスの方もわたしの
ことがあまり好きじゃないんじゃないかな。不思議なもので、そういう
バスにあたるとその後も1日あんまり良いことがなかったりする。朝のTVの
星座占いなんかより、こっちの方がよっぽど「今日の運勢」を当てている
ような気がするくらいです。
- 131 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:40
- その日は6月の中旬だったと思います。前の日から雨が降りつづいていて、
そのくせ朝から蒸し暑くて。なんというか、ひどい朝でした。そしてなにより、
そう、相性の悪いバスにあたったんですね。それもわたしがいちばん嫌いな
タイプのバスでした。目的地表示はぐるぐる回転する古くさいやつ。
外装はふた昔くらい前のもので、センスのかけらも感じられない。
見た瞬間に嫌な感じがしましたよ。
- 132 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:41
- 案の定、中身もひどかったです。エアコンの効きがわるいのか、換気が
わるいのか、車内の空気はどんよりとしていて不快でした。運転手は
ずるがしこい狐のようにつり上がった目をしていて、わたしの定期券を
猜疑心たっぷりに舐め回すように見ました。使用期限は7月まで残って
いるのに、もしかしたら期限切れかなと思っちゃうくらいでした。
ひじ掛けもないシートは微妙に薄汚い黄みどり色をしていて、どことなく
じめっとしていて、座る気なんてしなかった。
- 133 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:41
- だからわたしは学校までわざと立ってました。10分間がやたらと
長く感じられました。バス全体に「お前は俺のことが好きじゃないだろう。
でもな、俺だってお前みたいなクソガキは好きじゃないんだぞ」と
言われている気がして、とても嫌な気分でした。
- 134 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:43
- もちろん登校してからも悪いことばかりでした。まずそもそも筆箱を
家に忘れてしまっていたので麻琴にシャーペンを借りなくてはいけません
でした。加えて世界史の教科書も忘れていて、けっこう困りました。
3、4限の美術では絵筆を洗う水入れを思いきりこぼしてしまった。
そして昼休みになってお弁当を開くとお箸がついてなかった。こういう
ときに限ってお母さんもミスをするのです。さらには午後、体育の授業で
着替えるときに足の小指をロッカーにごちんとぶつけて地味に痛いことに
なりました。
- 135 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:44
- でも最高にがっくりきたのは、6限の英文法の授業です。
中間テストの返却があったんですけど、なんと47点だったんです。
うちの高校では45点以下が赤点ですから、47点はかなりひどいです。
そりゃ英語は苦手中の苦手ですけどね、いままで50点を切ったことなんか
なかったんです、いちおう。今回だってけして手応えはよくなかったけれど、
50点を切ってるとは思わなかった。あなたにはこうして正直に自分の点数を
言っちゃいましたけど、恥ずかしいやら情けないやらで、友だちに点数は
言えませんでした。
- 136 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:44
- 授業が終わった後、けっこう暗い気分になりました。これでも他の科目は
クラスでも上位なんですよ、わたし。なのに英語だけどうしてこんなひどい
点数をとっちゃうんだろうと思って。これで大学行けるのかなって心配になりました。
- 137 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:45
- それで、とにかくこっそり1人で答案を見直してみたんですね。すると、
不思議なことに気づいたんです。もちろん明らかに実力不足で間違えた
ところもありますよ。でも、10点ぶんくらいは、本当に信じられない
ような簡単な間違いなんです。こんなところじゃ間違えないよというミスです。
ここはしっかり理解してるし、テストのときも注意してたってところです。
- 138 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:45
- いくらわたしでも節と句の違いくらい知ってます。従属接続詞のalthoughを
入れるべき空欄に、前置詞のin spite ofなんて入れません。同じ過去分詞を
使うとしても受身と完了の違いくらいわかります。訳し方だって知ってます。
だからテストのときは注意して正解を書いたはずで、その記憶もきっちり
くっきりはっきり残っています。なのに返ってきた答案にはそこの解答欄に
変な答えが書いてある。わたしの字で。
- 139 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:46
-
あなたはもう、わたしが何を言いたいのかおわかりだと思います。
そうです、バスです。
- 140 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:46
- きっとその日の朝に乗ったバスのせいです。わたしはあいつが大嫌いだし、
あいつもわたしが大嫌いなのです。だからあいつがわたしを困らせようと
してやったんです。あの中途半端な形をしたフロントガラスをいやらしく
きらめかして、半分壊れたどぶねずみ色のワイパーをせわしなく動かし、
くさくて汚い排気ガスを吐き出しつつ、なにかのトリックを駆使して、
職員室に保管されていたわたしの答案を書き換えたのです。
そしてその後で耳障りな音がするクラクションをぶうぶう鳴らして喜んだ
のです。その光景が目に浮かぶようです。
- 141 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:47
- おそらくあなたはお前はあほか、自分の勉強不足とケアレスミスを
棚に上げて、他人のせいにするんじゃないよ、というかバスのせいに
するんじゃないよ、と言われると思います。でもそれはあなたがあのバスを
知らないからです。かなりの確信を持って断言しますが、あなたもあのバスを
見たら考えが変わります。「あのバスならやりかねない」と同意してくれます。
そのくらい気持ちの悪いバスなんです。冗談抜きで、ほんとに。
- 142 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:47
- 家に帰ってから、親からはひとしきり小言をもらいました。そして
これからは毎日1時間半は英語の勉強をすると約束させられました。
うんざりでした。でももちろんバスの話なんてしませんでした。
頭がおかしいと思われるか、いいわけをするならもっと上手い
いいわけをしろと言われることはわかってましたから。
世の中には、本当のことであっても(それが本当のことである
からこそ)言えない、ということもあるんです。
- 143 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:48
- 次の日には(次の日はわりと相性の良いバスでした)、麻琴に
「あさ美、中間の英語どうだった」と聞かれました。麻琴は親友なので、
とりあえず「いや、ほんとは60点なんだけど、バスのせいでね…」と、
もぞもぞ言ってみました。すると麻琴の顔色が少し変わりました。
それ以上何か言うのは止めておきました。賢明な判断だったと思います。
- 144 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:48
- ということで、ここまで正直にぜんぶを喋ったのは、あなたがはじめてです。
あなたならそんなに変な目でわたしを見たりしないと思ったからです。
でもきっと信じてはくれないんだろうな。ほんとに、ぜったいに、
あのバスのせいなのに。
- 145 名前: 投稿日:2004/07/04(日) 23:48
-
おわり
- 146 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:43
-
「藤本美貴さんですか?」
- 147 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:44
- 駅前の書店で雑誌を立ち読みしていると、携帯が鳴った。ピリピリピリ、
と無機質の電子音が響く。美貴は着メロを入れていない。あんなの面倒な
だけじゃないかと思っているからだ。美貴はバッグから携帯を取り出す。
ディスプレイには「090」からはじまる11桁の番が表示されていた。
知らない番号だ。しつこく鳴り続けているからワン切りではない。美貴は
通話ボタンを押して携帯を耳にあてる。誰だろう。
- 148 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:44
- 「もしもし」
聞き憶えのない、甲高い女性の声。こんなアニメの声優みたいな声を出す
知り合いはいない。
「はい、もしもし」美貴は通話口を手で覆いながら答えた。なにしろここは
書店の中だ。
「藤本美貴さんですか?」
「はい、そうですが」と美貴は答えた。
「わたくし、石川と申しますが」
- 149 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:44
- 「はあ」
「藤本さんは、○○女子大学の3年生でいらっしゃいますよね?」
「ええ」
「こちら、○○女子大学の学生さんを対象に、簡単なアンケートを行って
おりまして、よろしければお答えいただきたいのですが」
「すみません、今ちょっと急いでるんで」テレアポか。美貴はできるだけ
冷淡な声を出すように努めた。本当に急いでいるわけではなかったが、
こんなテレアポにつき合っていたくはなかった。
- 150 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:45
- 「そうですか、ではひとつだけ。藤本さんは、大学卒業後の進路について、
どのように考えていらっしゃいますか?」
「え……」美貴は思わず言葉につまった。だがすぐに体勢を立て直す。
「今のところ特に具体的なことは考えていないですね。それでは、急いで
いますので」
- 151 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:45
- 相手がさらに返答してくる前に電話を切った。美貴は少しの間携帯の
ディスプレイを見つめた。変なテレアポだ。携帯にかかってくるのは
まあいいとしても、相手の番号が「090」から始まる携帯の番号なのが
腑に落ちなかった。それに、そもそもどこの会社のテレアポなのか名乗りも
しなかった。
まあいいか。美貴は気を取り直す。立ち読みを続ける気もしなくなったので、
そのまま書店を出た。
- 152 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:46
- 7月のはじめ。時刻は正午すぎ。強い日差しが照りつけている。私鉄の駅前の
ターミナルでは選挙の候補者が車の上に乗って大声で日本の改革とやらを
訴えていた。かなりマイナーな政党の候補者だった。そういえばもうわたしは
選挙で投票できる年齢になったのだと美貴は思う。その横を女子大生とおぼしき
一団が通りすぎていく。美貴の通う私立の女子大はこの駅から歩いて10分の
ところにあった。
- 153 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:46
- 美貴は駅から少し離れたところにあるレストランに向かった。こんなに
暑い中を歩くのは気が進まなかったが、このレストランは食事が美味しい
わりにあまり混まない穴場だった。値段はそんなに安くはないが、文句を
つけるほど高いわけでもない。
案の定昼どきでもテーブル席が2つ空いていた。美貴は窓際の席を選んで
座った。エアコンがほどよく効いていて、出されたおしぼりはほどよく
冷たかった。美貴は海老のリゾットとポテトサラダと食後のコーヒーを注文した。
- 154 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:46
- 頼んだリゾットが来る前に、レストランのドアが開いた。入ってきたのが
同じ学部の顔見知りだったので、美貴は手を上げた。「よっすぃー」
「あ、美貴じゃん」
去年のドイツ語のクラスで一緒だった吉澤だった。美貴は決して社交的な
性格ではないし、誰とでも友だちになれるタイプでもなかったが、吉澤とは
仲良くなれた。うまが合ったとでもいうのだろうか。いろいろな話もしたし、
ノートの貸し借りもした。ドイツ語のクラスが終わってからはそんなに
頻繁には会うこともなくなったが、それでもたまには一緒に食事をしたり
遊んだりする。
- 155 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:47
- 「ここ、座りなよ」美貴は自分の座っている4人用のテーブル席を示す。
吉澤は美貴の向かい側に座った。白いTシャツにジーンズというシンプルな
恰好だった。
「ふうー、あっちいなあー」メニューを団扇代わりにしてぱたぱたと
扇がせながら吉澤が言った。「美貴は今日授業あんの?」
「ん、これから。水曜の午後は授業がつまってるんだよ」美貴は答えた。
「よっすぃーは?」
「あたしは2限受けてきたとこ。来週は試験だから、最後の授業。教室の
エアコンがぜんぜん効いてなくってさ。教授も参ってた」吉澤はメニューを
開いた。「やってらんないよ。前期試験のノート、まだ半分しか集まって
ないんだもんね。明後日からだっつうのに」
- 156 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:47
- 「授業出てないのが悪いんじゃん」と美貴はからかうように言った。
「だってサークルやらバイトやらで忙しいんだからさ。出席取らない
授業なんて出てらんないよ」吉澤は口をとがらせて抗議した。
「あ、美貴は心理学U、取ってる?あれ知り合いいなくてさあ」
「残念、取ってないよ」
「そうかー。どうしようかな」吉澤は腕組みをして考えこんでから、
ナポリタンとほうれん草のサラダを注文した。それから水をごくりと飲んだ。
「美貴はちゃんと授業出てるからなあ。なんで真面目に授業出るんだよ」
「いや、授業って出るもんでしょ」美貴は笑って答えた。「ま、わたしは
サークルやってなくてバイトしかしてないから、わりかし暇なんだよ。
授業に出ない理由もないしね」
- 157 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:48
- 美貴はほんのわずかな期間ではあるが、テニスサークルに入っていた
ことがある。大学に入学したばかりのころだ。美貴の通う女子大だけ
ではなく、××大学という有名私立大学のメンバーもいる、いわゆる
「インカレ」サークルだった。新入生勧誘の際に熱弁を奮っていたその
サークルの幹事長の話によれば、「気の合う仲間たちでテニスを楽しむ
ことが主な目的のアットホームな雰囲気のサークル。でもそれだけでは
なくて、わりと真剣にテニスの上達も目指す、どちらかというと硬派で
真面目なサークルでもある」とのことだった。話を聞いた限りでは
悪くないように思えたし、しばらくの間はそこそこまともなサークルを
選んだと思っていた。
- 158 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:48
- しかしそうではなかった。ひと月後のゴールデンウィークに千葉県の
白子だかに合宿に行ったときのことだ。たしかに昼間はみんなでテニスを
していた。雰囲気はだらだらしたもので、「アットホーム」な印象は
感じられなかったけれど(そもそも「アットホームな雰囲気」というものが
どんなものだか美貴にはさっぱりわからなかったけれど)、まあそれは
そんなものかもしれない、と美貴は考えた。
- 159 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:49
- でも夜は留保なくひどいものだった。コンパと称して宿舎の大広間を
借り切って宴会をはじめたのだ。1年生の女子は「コンパ」の開始30分前に
大広間に集合してビールやつまみの準備をしなくてはならなかった。
宴会が始まってからはずっとにやけた表情をした上級生の男子の隣に
ついてお酌をしなくてはならなかった。それだけならまだ我慢できた。
だが、酒のまわった上級生にセクハラまがいのことをされて、美貴は切れた。
- 160 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:49
- 身体に触れてくる手を払いのけて、「いいかげんにしてください」と
きっぱりと言った。そのまま宴会場を出て、自分に割り当てられた部屋に
戻った。そして次の日の朝、荷物をまとめてひとりで宿舎を出た。
バスに乗ってJRの駅まで出て、そのまま東京に戻った。それから
そこには一切顔を出していない。大学のサークルってなんて馬鹿馬鹿しい
ところなんだろうと思った。
それ以降は、他のサークルにも入ることはなかった。講義にはきちんと
出席して、空いた時間はアルバイトをした。美貴の家は決して裕福では
なく、親からは必要最低限の仕送りしかもらえなかったので、アルバイト
をして生活費を得る必要があった。
- 161 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:50
- 以前に美貴が吉澤にこの話をしたとき、吉澤は大笑いしたのだった。
「美貴っぽくていいよね、それ。なんならそのセクハラ野郎を殴っちゃえば
よかったのに」
- 162 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:50
- 吉澤は2人の通っている女子大の学生だけで構成されている女子
フットサルのサークルに入っていた。かなり真剣にフットサルに
取り組んでいて、大学から始めたのに、今では不動のエースストライカー
になっていた。もともと運動神経が良いのだろう。美貴も何度か吉澤に
「一緒にやろう」と誘われたのだが、いつもあいまいな台詞で断っていた。
- 163 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:50
- 吉澤はサークルのマネージャーとつきあっていた。後藤という女の子だ。
美貴や吉澤とは違う学部ではあるが、同じ大学に通っている同級生。
それまで美貴には女同士でつきあうという発想がなかったから(そういうのは
漫画やドラマの中だけの話だと思っていた)、最初にそのことを聞いたときは
少し驚いた。だが何度か3人で食事をしたり遊びに行ったりするうちに
違和感は消えた。2人は美貴とごく普通に接していたし、美貴は吉澤とも
後藤とも仲の良い友人として肩の力を抜いて気楽につきあうことができた。
何より吉澤と後藤が2人でいる姿はとても自然に見えた。
- 164 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:51
- 吉澤や後藤からはよく「美貴も早く彼氏か彼女を作りなよ」と言われた。
彼女を作る気はとくになかったが、彼氏の方はまったく機会がないわけでは
なかった。実際にアルバイト先の同僚や先輩からは何度もデートに誘われた。
だが美貴はいつも理由を付けてその誘いを断っていた。恋人がほしくない
というわけではないし、選り好みしているわけでもない。ただ何となく
その気になれなかっただけだ。
- 165 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:51
- リゾットとポテトサラダが運ばれてきた。お先に、と言って美貴は
リゾットを口に運ぶ。
「あのさあ」ふと先ほどのテレアポの一件を思い出して、美貴は
聞いてみた。「よっすぃーって、大学出てからのことって何か考えてる?」
「なにさ、いきなり」
「いや、なんとなく聞いてみたくて。やっぱ普通に就職とか?」
- 166 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:52
- 「うーん。そりゃ就活もするかもしれないけどね」吉澤は耳に
付けたピアスを指でいじりながら言った。「でもやりたいことはあるよ」
「へえ。それ、聞いてもいい?」
「いいよ」吉澤は肯いた。「……小学校の先生。実は教職も取ってるんだ」
「ホント?」美貴は驚いた。初耳だった。吉澤とはそこそこ親しく
しているつもりだったが、教師を目指しているとは思わなかった。
- 167 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:52
- 「ほんと。別に隠してたわけじゃないんだけど、教職自体は去年から
取っててさ。それだけはちゃんと出席してるんだ。で、今は来年実習に
行く小学校を決めるところ」吉澤は珍しく照れているように見えた。
頬が赤く染まっている。口調が早くなっている。ピアスをしきりに
いじっている。「だけど、小学校の先生になるには、あと社会福祉の
ボランティアもしなくちゃいけないし、教員採用試験にも受からなくっ
ちゃいけないからさ。まだ本当になれるかわからない。
それにあたり前だけど小学校の先生って楽な仕事じゃないしね。
でも前からやってみたかったんだ」
- 168 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:52
- 美貴は口をつぐんで、運ばれてきたナポリタンとサラダを受け取る
吉澤をじっと見つめた。
「そんなにじろじろ見んなよー。こういうこと言うのって恥ずかしいん
だから」吉澤が言った。まだ頬は赤くなったままだ。
「いやそんなことないよ。ちゃんと考えてんだなーと思って」美貴は言った。
- 169 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:53
- 「そうかな?じゃあ、美貴は?」吉澤が逆に聞いてきた。
美貴は少し口ごもった。「うーん。これってものはないんだよね。
だからたぶん普通に就職じゃないかな」
「ふうん。でもまあ、美貴はあたしと違って成績いいからね。Aばっかり
なんだから、就職するにしてもいいところに行けるよ、きっと。あたしは
アタマわるいからさ。採用試験、ヤバイんだよ」吉澤は笑って言った。
- 170 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:53
- その後、2人はいつものように他愛もない話を交わしつつ食事を楽しんだ。
そして吉澤と別れ、美貴はひとりでキャンパスまで歩いた。高台にある
キャンパスにたどり着くには、ちょっとした坂道を上らなければならない。
真昼の太陽が照りつけ、少し歩くだけで汗が吹き出た。こんなに日差しが
強いのなら日焼け止めをもっと多めに塗っておくべきだったなと美貴は
思った。キャンパスの正門を入ったところにある大学創設者の銅像は
暑さで融けてしまいそうに見えた。美貴は学部の連絡用の掲示板を見て、
明後日からはじまる前期試験の日程とレポートの提出期限をもう一度確認した。
- 171 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:54
- それからエアコンの効きの悪い教室に入った。試験前だからか、いつもより
学生が多くて教室は混雑していた。美貴は何人かの顔見知りを見つけて会話を
交わした。始業時間になると、上着とさまざまな書類を小脇にかかえた
初老の教授が、ハンカチで汗をふきながら教室に入ってきた。ワイシャツの
袖はまくり上げられていて、ネクタイは緩められている。「今日も暑いですね」
と言ってから、教授は講義を始めた。美貴は講義を聞き、内容をノートにまとめる。
- 172 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:54
- すべての講義が終わったのは6時近くだった。講義の時間割は自分で配分
したのだが、さすがに真夏の蒸し暑い教室の中、90分の講義に3コマ連続で
出席するのは疲れる。美貴はぐったりして、教科書やら筆記用具やらをトート
バッグにつめこんだ。外は相変わらず暑かったが、日はだいぶ傾いていて、
いくぶんすごしやすくなっていた。
美貴は他の授業終わりの学生とともに、ひとりで駅までの道のりを歩き
はじめる。ほとんどの学生はグループを作って、大きな声で話しながら
歩いている。試験の話や、夏休みの話、合コンの話、昨日見たTVの話、
人の悪口やうわさ話。美貴はそれらを聞くともなく聞きながら歩く。
高台からは落ちていく夕陽がくっきりと見えた。
- 173 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:55
- 美貴は思う。明日は午前中にひとコマ講義があって、午後からはアルバイトだ。
美貴は思う。明後日からは前期試験が始まる。2週間ほど試験期間が続いて、
それから夏休みになる。顔見知りは海外に行くとか、彼氏と旅行するとか、
サークルの合宿に行くとか、いろいろ予定を立てている。でもわたしには
とくに予定はない。たぶんアルバイトのシフトを集中的に入れて、お盆の
あたりで帰省して、地元の友だちと会ったりしてしばらくのんびりする。
たまにはよっすぃーやごっちんやらと一緒に買い物に行ったりする。
それくらいだ。別にこういう現状に文句や不満や不平があるというわけでは
ない。そもそもわたしは大勢でわあわあ騒いだりするのはあまり好きではないのだ。
- 174 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:55
- 美貴は思う。そして後期に入る。またいつものアルバイトと授業という日々。
来年になったら就職活動がはじまるかもしれない。それなりの就職活動を
すれば、それなりの企業の一般職の内定くらいは出るかもしれない。何年か
会社に勤めたら適当な男と結婚するかもしれない。そして2人くらい子どもを
産むかもしれない。でも結局、何も変わらないだろう。ずっとずっとずっと
同じことが続いていくんだ。わたしはずっとずっとずっと同じことを続けて
いくだけなんだ。
- 175 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:55
- 美貴のもの思いを破ったのは携帯の着信音だった。ディスプレイには昼間の、
「090」からはじまる番号が映っていた。美貴はその番号をじっと見つめる。
そして通話ボタンを押す。携帯を耳にあてる。「もしもし」
「もしもし」昼間と同じ、変なアニメ声だ。そしてそのアニメ声は続けて言う。
「藤本美貴さんですか?」
- 176 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 21:56
-
おわり
- 177 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/20(火) 22:30
- はじめまして。
今日、はじめて拝見しましたが、楽しい。
Deporさんのこのスレ、ブックマークしました。
特に私が好きなのは「後藤さんの話」の後藤さんの話です。
- 178 名前:Depor 投稿日:2004/07/27(火) 20:38
- >177 名無飼育さん
拙い文章を読んでもらって、さらにブックマークまでしてもらって、
感謝感謝です。
「後藤さんの話」を気に入ってもらえたようで…書いたかいがあった
というものです。ありがとうございます。励みになります。
今後も気が向いたら更新チェックしてもらえたら嬉しいです。
レスどうもありがとうございました。
- 179 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/07(土) 00:36
- 今日初めて読ませていただきました。
藤本さんの話を読んで、なんだか今の自分とあまりにも合致する所があり、
思わず引き込まれるように読んでしまいました。
他のお話も、とてもよかったです。これからも楽しみにしています。
- 180 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:12
-
「居残り」
- 181 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:12
- 午後9時すぎ。テニススクールのレッスンが終わった後、
梨華がクラブハウスで汗をふいていると、中澤さんが声をかけてきた。
「なー梨華ちゃん、残ってラリーしてくれへん」
右手には自販機で買ったポカリスエットの缶、左手にはラケット。
白のウォームアップに、白のポロシャツ。首には緑のタオルを
かけている。
- 182 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:13
- 「いいですよ」と梨華は答えた。中澤さんはテニススクールの生徒だ。
30歳くらいの女性で(正確な年齢は知らないし、もちろん聞けない)、
かなり熱心にテニスに取り組んでいる。上達も早くて、短期間で
「初中級」から「中級」までクラスが上がった。ここのところ数か月間
姿を見なかったのだが、最近またレッスンに来るようになった。
表向きはしてはいけないことになっているのだけれど、最後のレッスンが
終わった後なら、空いたコートを使ってテニスをすることができる。
梨華のようなテニスコーチ同士でテニスをすることもあるし、
中澤さんのような熱心な生徒がコーチを誘ってラリーをすることもある。
いずれにせよ、レッスンが終わった後ならただでテニスコートを使えるわけだ。
- 183 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:14
- 梨華はクラブハウスのベンチに座ってごくごくと麦茶を飲んでいる
チーフ・コーチに言った。「あの、中澤さんと残ってラリーしていいですか」
「ああうん、いいよ」柳沢慎吾によく似ているチーフ・コーチは
軽くOKしてくれた。「終わったらコートにブラシかけて、ネット降ろして、
いつものように戸締まりしてから鍵を管理室に預けといて。あんまり遅く
ならないようにな。あと帰り道には気をつけろよ」
- 184 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:14
- 「はい、わかりました」と梨華は答えた。そして中澤さんに向かって
言った。「じゃ、やりましょうか」
中澤さんは親指を突き立てて、テニスボールの入ったカゴを持ち上げた。
- 185 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:15
- テニスコートは屋外にある。芝生に砂利をまいたオムニ・コートが4面。
コートのすぐ側を走る国道に球が飛んでいかないようにするために、
周囲は高い金網に囲まれている。コートサイドには審判台とベンチが
置いてある。あたりは真っ暗で、照明が適度な明るさでコートを照らし
出している。
梨華はボールの入ったカゴを持って、出入り口にいちばん近いコートの
ベースライン上に立った。
- 186 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:15
- 「じゃ、いきますよ」と梨華は言って、ネットの向こう側にいる
中澤さんに球出しをする。中澤さんがボールを打ち返してくる。
梨華はそのボールを中澤さんに返す。何本かラリーが続く。中澤さんは
力のある方ではないけれど、ボールに微妙なスライス回転をかけて
打ってくる。回転のかかったボールはバウンドしてからすっと滑る。
梨華が中澤さんの打つボールを返すのにはけっこう力がいる。
それでも、梨華はいちおうテニススクールのコーチだ(学生アルバイト
というくくりではあるけれど)。だから生徒の中澤さんとラリーをする
のに苦労をすることはない。基本的には余裕をもってラリーをする
ことができる。そのくらいのテニスの実力がなければコーチのアルバイト
をやろうとは思わないし、そもそも採用されたりしない。
- 187 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:16
- ラリーが続く。中澤さんも下手な生徒ではない。ときにはコースを
ついた鋭いボールを打ってくる。梨華はきちんと足を動かし、ボールに
追いつき、ラケットを振り、ボールをとらえる。呼吸を整え、ステップ
を踏み、リズムをつかむ。テニスとは結局のところ、リズムを取れるか
取れないかというスポーツなのだ。フォアハンドであれバックハンド
であれサーブであれボレーであれ、最終的には自分のリズムをつかめるか
どうかというところに行き着くスポーツなのだ。背が高くても低くても、
力が強くても弱くても、それはほとんど関係ない。きちんと自分の
リズムを取ることができれば、ボールは自分の言うことを聞いてくれる。
リズムが取れなければ、なかなか思うようにはいかない。それだけだ。
梨華がこのスポーツを好きな理由のひとつは、そういうある意味では
とてもシンプルで正直なところだった。
- 188 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:16
- 中澤さんは以前は週2日、平日の午前中にテニススクールに通っていた。
平日の午前中にテニススクールに来る客の大部分は、近所の専業主婦だ。
旦那と子どもを職場と学校に送りだして、ひととおりの家事を終えて、
さあ暇になったな、テニスでもしようかという奥さま方。テニスの上達を
目指すというより、奥さま同士の会話を楽しむことが目的の主婦が集まって、
みな勝手にわあわあ騒ぎながらレッスンが進んでいく。これが平日の
午前中のテニススクールの風景だ。
中澤さんもそんな専業主婦に混じってレッスンに参加していたのだが、
中澤さんはそれら専業主婦の生徒の中では「浮いた」存在だった。
年齢的に若い方だったし、どこか近寄りがたい雰囲気があった。体型も
他の専業主婦よりずっとスリムだった。そもそも女同士の無駄話よりも
テニスの上達に興味があるように見えた。
- 189 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:17
- でも本人はそのクラスで「浮いて」いることなんか何も気にしていない
ようだった。わからないところがあったらどんどんコーチに質問した。
苦手なショットは何度も練習して克服しようとしていた。コーチからの
指示は1回できちんと理解した。「疲れた」とか「もっと軽いメニューに
してほしい」とかいう不満を言うこともなかった(他の主婦の生徒は
そういう不満を言うことがあった)。自分は本気でテニスが上手く
なりたいんだという向上心にあふれていた。テニスコーチの立場から
すれば、とても教えがいのある生徒だ。
- 190 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:17
- 中澤さんの出席する日がレッスン担当日と重なっていたこともあって、
梨華は少しずつ中澤さんと話すようになった。きっかけはレッスンの
はじめに行う、2人1組でのウォームアップのときだった。中澤さんとは
誰も組まないから、自然にチーフ・コーチのアシスタントをする役目の
梨華が中澤さんと組んで一緒にストレッチやウォームアップをすること
になる。そこで会話を交わすようになったのだ。
- 191 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:17
- 梨華は中澤さんとしばらくラリーを続けた。それから実際の試合
の形式でテニスをすることにした。トスをしてサーブ権を決め、
きちんとポイントを数えて試合をする。さすがにすべてのポイントを
取るわけにはいかなかったが、梨華が中澤さん相手にゲームを失う
ことはなかった。梨華が6ゲームを簡単に連取した後、2人は
休憩をとった。コートサイドのベンチに座って、汗をふき、ポカリ
スエットを飲む。10月の夜の空気はひんやりとして、肌寒さを
感じた。照明に羽虫がよってきていた。国道を走る車の音が聞こえた。
- 192 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:18
- 「梨華ちゃん、やっぱ強いなー。あたしはぜんぜんだめだわ。
テニスになってなかったよな」中澤さんはがっかりしているようだった。
「いやでも、中澤さんのボールはよく滑るから、気は抜けないん
ですよ。ただやっぱり、ちょっとしたミスが多いかなという気は
しますけど。もったいないな、ってやつが」梨華は答えた。
「中澤さん、最近休んでましたよね?だからじゃないかな」
- 193 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:18
- 「んー、そうかな。まあ、いろいろあって休んでたけど」
と中澤さんは言った。
「夜のクラスに変えたんですか?」梨華は聞いてみた。
「そう。今までの朝のクラスだと時間が合えへんのよ」中澤さんは
ポカリスエットの缶を梨華に差し出した。梨華はお礼を言って受け取る。
- 194 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:19
- それから中澤さんは話題を変えた。
「なー梨華ちゃん、梨華ちゃんは大学生やったっけ」
「はい」梨華は答えた。
「そっか。何年生やったっけ?」
「3年生です」
「ほな、ハタチくらいか。若いなー」中澤さんはふうっと息を
吐き出した。「梨華ちゃんは、いつからテニスはじめてん?」
- 195 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:19
- 「中学からですね」と梨華は答えた。「中学、高校とテニス部に
いたんですよ」
「なんでテニスやろうと思うたん?」
「うーん」梨華は記憶を探った。「中学に入ってから、何かスポーツ
をやりたかったんですよ。で、テニスってちょっとかっこいいかもと
思ったし。親にも勧められたし」
「そっか」中澤さんは肯いた。「で梨華ちゃん、彼氏おんの?」
- 196 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:20
-
梨華はポカリスエットを吹き出しそうになった。
「いや、いないですよー」と梨華は答えた。本当のことだ。それまで
つきあっていた同級生の男と今年のあたまに別れた。別れてからよく
わかったのが、大した男ではなかった。それ以来、誰ともつきあっていない。
「嘘やろー。ほんまに?モテるやろ?こんなに若くて可愛いんだから」
「ほんとですよ。ていうか、中澤さんはどうなんですか?」
梨華は逆に聞いてみた。
- 197 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:20
- 「ん、結婚しとるよ」中澤さんは答えた。
「え、そうなんですか?」
「なんやその、『意外!』みたいな顔とせりふは」中澤さんはぎろりと
梨華をにらんだ。
「そ、そんなこと言ってませんよ」梨華は慌てて答えた。
中澤さんの言うとおり、梨華は中澤さんが結婚しているとは思って
いなかった。でもそれは中澤さんが他の専業主婦の生徒とはあまり
似ていなかったからだった。中澤さんには他の主婦の生徒のような
「だらけた」感じがまったくなかった。いつでも背筋をぴんと伸ばして
ものごとに取り組んでいた。体型とか髪型とか化粧といった表面的なもの
ではなく、どこか内面的なところで、中澤さんは凛とした姿勢を保って
いるように見えた。
- 198 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:20
- 「ん、結婚しとるよ」中澤さんは答えた。
「え、そうなんですか?」
「なんやその、『意外!』みたいな顔とせりふは」中澤さんはぎろりと
梨華をにらんだ。
「そ、そんなこと言ってませんよ」梨華は慌てて答えた。
中澤さんの言うとおり、梨華は中澤さんが結婚しているとは思って
いなかった。でもそれは中澤さんが他の専業主婦の生徒とはあまり
似ていなかったからだった。中澤さんには他の主婦の生徒のような
「だらけた」感じがまったくなかった。いつでも背筋をぴんと伸ばして
ものごとに取り組んでいた。体型とか髪型とか化粧といった表面的なもの
ではなく、どこか内面的なところで、中澤さんは凛とした姿勢を保って
いるように見えた。
- 199 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:23
- 「まあ、指輪はしとらんけど」中澤さんは両手を梨華に向けて開いて
みせた。白くて細くてすらっとした指だった。「でもあたしな、指輪って
好きやないのよ」
たしかに中澤さんは指輪をしていなかった。他の装身具を身につけて
いるのは見たことがあったから、どうしてだろうと梨華は不思議に思った。
「まあな……結婚は結婚でわりときついんやけどな」中澤さんは急に
声のトーンを落として言った。「ほんまに」
梨華は何と言ったらいいかわからなくて黙った。
- 200 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:23
- 「なあ梨華ちゃん」しばらく沈黙が続いた後、中澤さんがぽつりと言った。
「ちょっと話ししてええ?とある女の子と、すずめばちの話」
「…すずめばち?」
「そう。すずめばち」と中澤さんは言って、ベンチの背もたれにもたれ
かかった。
- 201 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:24
- 中澤さんは言った。
「あるところに女の子がいたと思ってや。その子はずっとテニス
スクールに通うことに憧れてた。たぶん家がけっこう貧乏で、家の近所に
テニススクールがあったりして、漠然と『テニススクールに通う人は
お金持ち』みたいなイメージを持っとったんやろな。で、その女の子は
なんや知らんけど、『いつかきっと、テニススクールに通える大人に
なったる』って決意した」
「その女の子はけっこうがんばったのよ。ま、中学高校はちょっと
ヤンキー入ってたかもしれんけど、それから改心して、アタマ悪いなりに
一生懸命勉強して、秘書の資格をとった。企業の面接を受けまくって、
なんとか仕事をもらえた。なんとかまっとうな道すじを行こうとしたんやね」
- 202 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:24
- 「でもな、同時にその子はいつも怯えてた。あたしはすずめばちに
つけ狙われているんじゃないかって。もちろん喩え話やで。本物の
すずめばちに刺されたり襲われたりするわけやない」
「とにかく、その子は自分が何かまともでちゃんとしたことをして、
なんとか上に這い上がろうとすると、すずめばちがそれを阻もうと
しているように感じてた。いろんなとこから襲ってきて針を刺して
毒を注入して、その子が築いてきたものを全部だめにしてしまうん
じゃないか、そう思ってた」
「その子はいつもそのすずめばちから逃げてたんやね。お願いだから
あたしを捕まえないで、いろんなものをだめにしないで、そう心から
思って生きてきた」
- 203 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:25
- 中澤さんの声は照明に照らされたテニスコートにすっと抜けていった。
あたりはいつの間にかしんと静まりかえっていた。
梨華は黙って中澤さんの話を聞いていた。どんな相づちを打てば
いいのかわからなかった。
- 204 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:25
- 「でまあ、その子はそれなりに懸命に仕事して、そこそこお金も
貯めて、まあそこそこの男と知り合って、結婚してん。相手もちっとは
金に余裕あって、その子の仕事も週の半分は午後からの出勤でよかった。
で、ラケットもウェアもシューズも揃えて、念願のテニススクールに
通えるようになったわけよ」
- 205 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:25
- 「仕事もプライベートも充実してた。いろんなものごとは全部順調に
行ってるように見えた。とりあえず先は何となく見えた感じもした。
ああこれで大丈夫、安心だ、あのすずめばちから逃げることができたんだ、
と思ったときや。警戒心がゆるんで、気が抜けたとき」
- 206 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:26
- そこまで言ってから、中澤さんは深いため息をついた。そして言った。
「ごめんな、梨華ちゃん。なんか変な話になってもうたね。ぜんぜん
おもろないやろ」
「いえ、そんなことないです」梨華は言った。中澤さんの話は
聞きたかった。ただ、どんな返事をしたらいいのかわからないだけだ。
- 207 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:26
- 中澤さんは話を続けた。あたりが静まりかえっていなかったら
聞き取れないくらいの低い声だった。
「すずめばちの群が一気に襲ってきた。そりゃさっきも言ったように
喩え話やから、本当にすずめばちに刺されたわけやない。
だけどある意味では本物の、ぶんぶん唸って人を襲うすずめばちの
群れに本当に刺されたのよ。そいつらはいろんなものを全部剥ぎ取って、
骨が見えるまで食い尽くした。あらゆるものをめちゃめちゃにした」
「残ったものはほんのわずかだった。その子はほとんど何もかもを
失ったのよ。とりあえずの生活ができるまで、そうやな、4、5か月は
かかったんとちゃう」
- 208 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:27
- 梨華は中澤さんが最近レッスンに姿を見せなかったことを思い出した。
「だけど、その子はテニスは続けようと思った。なんちゅうのかな、
これでテニスまで止めたら、本当にすずめばちに負けたことになると
思ったんやろね。テニススクールでテニスをする――っちゅうことは、
その子にとって一種のお守りやったのよ。それさえあれば大丈夫、
あたしはまともにやっていける、っていう」
- 209 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:27
- 「もちろんそのお守りはすずめばちの群れにはあまり役に立たなかった。
だけどな、それを捨てるわけにはいかんのよ。それを捨てたら、
もう二度とまっとうな生き方ができないような気がするのよ。底なしの
暗闇に落ちていくような気がするのよ。テニスっちゅうお守りを捨てて
しまうこと――それこそがあのずる賢くて嫌らしいすずめばちの本当の
目的やないか、そんな気がすんねん」
- 210 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:27
-
梨華は黙って中澤さんの話を聞いていた。冷たい風がコートの上を
吹き抜けていった。コートに散らばった黄色いテニスボールがころころと
転がるのが見えた。
- 211 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:28
- 「ごめんな、なんやわけのわからん話をたくさんしすぎたな」と
中澤さんは言って、ぽんと梨華の肩を叩いた。
「いえ」と梨華は言った。
- 212 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:29
- 「な、少し遅くなってもうたけど、もうちょっとラリーせえへん」
と中澤さんは言って、ベンチから立ち上がった。
そして中澤さんはにっこり笑った。とても素敵な微笑みだった。
あと10年経ったら、私もこのくらい素敵な微笑みを浮かべられる
女になれるのだろうか、と梨華は思った。あまり自信はなかった。
- 213 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:29
-
「そうですね。やりましょう」と梨華は答えた。そしてラケットを
持って立ち上がった。
- 214 名前: 投稿日:2004/08/14(土) 02:30
-
おわり
- 215 名前:Depor 投稿日:2004/08/14(土) 02:31
- >179 名無飼育さん
「藤本美貴さんですか?」は「うまく書けただろうか」と不安だった
のですが(まあそんなことを言ったら今回の話も含めてぜんぶ不安では
あるのですが)、嬉しい感想をありがとうございます。
自分の書いたものについて褒めていただいたり、「楽しみにしています」と
言ってもらえるのは、やっぱりとても嬉しいし、とても励みになります。
ありがとうございます。
今後ももしよかったら、のぞいてみてください。
- 216 名前:Depor 投稿日:2004/08/14(土) 02:35
-
すみません、>>197と>>198が重複してます。
- 217 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/31(火) 00:16
- ゆったりと、次のお話を楽しみにしています。
これだけ文体と物語の型にこだわりがあるのに、
登場人物がちゃんと「娘。」なのは、
おぉ、すげえ、と面白がっています。
- 218 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:20
-
「いいわけ」
- 219 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:21
-
真希は悩んでいた。
- 220 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:21
- テーブルの上には携帯とコーヒーカップが置いてある。まったく
手の付けられていないコーヒーはすっかり冷めてしまっている。
壁にかけられた時計は午後の3時を指している。部屋のTVはどこかの局
のメロドラマを映しているが、それはBGMとして流れているだけだ。
そんなメロドラマの内容など知ったことではない。あんたらは勝手に
浮気でも不倫でも純愛でもしていればいい。真希には考えなくては
ならないことがあった。
- 221 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:22
- (紺野にどういいわけをするか)
恋人へのいいわけ。真希のかかえる悩みはそれ一点に尽きる。
とてもシンプルだ。しかし同時にとてもむずかしい問題だ。
- 222 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:22
- 携帯にはいくつかメールが入っている。もちろんすべて紺野からの
メールだ。昨日はどこにいたんですか。もしかしたら誰かといたんですか。
正直に言って、最近の後藤さんはちょっとおかしいと思うんです。
電話しても出なかったり、メールしても返信がなかったり。
何かあったんですか。それだったら、それがどんなことであっても、
わたしにちゃんと話してください。わたしはきちんと後藤さんと話がしたい。
今日は5時に仕事が終わりますから、その後電話します。
- 223 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:23
- 真希は頭を抱えた。
(あー紺野、怒ってるよ)
(田中に手を出すんじゃなかった)
- 224 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:23
- 手を出すといったって、実際のところ、田中と何かあったわけではない。
ただ最近、田中とよく遊んでいるだけだ。きっかけは二人ゴトの収録。
あれで仲良くなった。6期メンバーとだって、意外としゃべれるじゃん、
わたし。そんな感じ。
あの収録の後、何回か2人で買い物に行ったり、遊園地に行ったりした。
昨日も田中と2人で映画を見て、ご飯を食べて、その後カラオケに行った。
- 225 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:25
- 問題は。と真希は思う。それを紺野に言ってなかったことだ。
なぜ紺野にひとこと、『田中とご飯食べてくるよ』と断らなかったの
だろう?真希は思う。別に黙っている必要はなかった。わたしは別に
やましい気持ちをもっていたわけじゃないんだから。ひとこと、紺野に
電話なりメールなりすればそれですんだ話ではないのか?
- 226 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:25
- でも。真希は思う。そうだとしても、誰かと遊ぶときに、いちいち
恋人に連絡を入れなければならないものなのか?そんな決まりがあるのか?
別にいいじゃないか。だって田中と遊んだからといったって、わたしが
紺野を好きなことには変わりがないのだから。うん。
- 227 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:26
- だけど。真希は思う。やっぱりわたしが悪いところもあるな。
ちょっと紺野に甘えているところがある。あんまりにも紺野が優しいから、
そこに甘えている。ここのところ、紺野はカントリー娘やらソロ写真集
関連の仕事で忙しかった。それで紺野の休みがわたしの休みとうまく
合わなかった。紺野が悪いんじゃないってことはよくわかっているけれど、
それでもわたしはなんだかいらいらした。そんないらいらもあって、
わたしは田中を誘って遊んでいたのかもしれない。そこには紺野への甘え
もあったのかもしれない。このくらいのわがままをしたっていいじゃないか、
だって紺野が忙しいからなんだもん。
よく考えると子どもみたいなわがままだ。これは明らかにわたしが悪い。
田中にだって失礼な話だ。反省することにしよう。
- 228 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:26
- しかしまあ、とにかく。真希は思う。それはそれだ。わたしが
悪かったとしても、今さら『ごめん紺野。黙ってたけど、最近ずっと
田中と遊んでた』とは言えない。うん、言えない。
いまわたしが欲しているのは、いいわけだ。上手ないいわけ。最近、
連絡を取れていないことについて、紺野が「そんなことがあったんですか。
それなら仕方ないですね」と納得してくれるようないいわけ。
そんな魔法のようないいわけ。
- 229 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:26
- さてここで問題です。真希は思う。このような状況で、恋人が
何の疑問も持たずに納得してくれるような上手ないいわけを言って
みてください。制限時間は1分です。それではどうぞ。
かっちっ、かっちっ、かっちっ、かっちっ……
- 230 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:27
- さあ考えろごとー。
仕事が入った?いや、紺野はわたしの仕事のスケジュールの大枠は
知っている。そんないいわけは通用しない。
裕ちゃんに飲みに誘われた?いや未成年だし。そもそもどうして
裕ちゃんを紺野より優先しなくちゃいかんのだ。裕ちゃんが聞いたら
怒るだろうけど。
体調が悪かった?それでもメールくらいはできるだろう。
突然極秘ライブの予定が入った?そんなでっち上げはすぐにばれる。
- 231 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:28
- 急に新ユニットを組むことになって、その関連で忙しくて電話に
出られなかった?
……いやそんな話が都合良く持ち上がるわけがない。馬鹿馬鹿しい。
- 232 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:28
- そのとき、テーブルの上の携帯が鳴った。紺野ではなく、マネージャー
からの電話だった。明日の予定ならもう知っている。その変更だろうか。
真希は首をかしげなから電話を取った。
- 233 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:29
-
- 234 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:29
- 夕刊××・芸能情報欄(2004年8月25日付け)より
後藤真希(18)、松浦亜弥(18)、安倍なつみ(23)の3人から
なる期間限定新ユニットが都内で発表された。ユニット名は3人の名前の
一部を合わせて作った「後浦(のちうら)なつみ」。10月6日にシングル
「LOVE LIKE CRAZY」でデビューする。
しかし、そのあまりに安易なユニット名や前髪をVの字にしたかつら
というビジュアルなどから、「本当に売れるのか?」と疑問を抱く関係者も
多いという。
「それぞれソロで活躍していて、実績もあり、固定ファンもしっかりと
ついている人たち。互いのライバル心もあるはず。3人とも内心では
乗り気なのか疑わしい」と語る業界関係者も。
もっとも、記者会見では後藤真希(18)が大ハシャギ。「いい時期に
ユニットを組めたと思う。一生懸命やっていきたい」とコメントしている。
- 235 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:29
-
- 236 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 00:30
-
おわり
- 237 名前:Depor 投稿日:2004/09/01(水) 00:31
- 一発ネタでした。これで何か書けないかな〜と思って、思いついて、
さっと書いて、勢いのままにすぐに投稿。
後で「しまった」と思うかな…。こういういいわけめいたコメントを
書いている段階で、もう半分後悔してますが。
- 238 名前:Depor 投稿日:2004/09/01(水) 00:32
- >217 名無飼育さん
レスありがとうございます。
自分では文体や物語の型にこだわっているというつもりはなかった
のですが…言われてみればそうかもしれません。
まあ、こんな感じでしか書けないというかw
また、「登場人物が娘。になっている」と感じてもらえたのは
とても嬉しいです。今回の作品もそうなっていればいいのですが…
今後もまた更新チェックでもしてもらえたら嬉しいです。
- 239 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/04(土) 02:57
- 面白かった。
後悔しないといけないような内容じゃないと思うに一票。
次回更新マターリお待ちしております。
- 240 名前:Depor 投稿日:2004/09/12(日) 20:24
- >239 名無飼育さん
暖かいレスを頂いて、少しほっとしました。いまいち自信が
なかったのですが、「面白い」と思ってもらえてよかったです。
今後も、お暇があったらのぞいてみてください。
レスありがとうございました。
- 241 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/08(金) 22:14
-
「綱わたり」
- 242 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/08(金) 22:14
- 美貴は大学のカフェテリア(という名の学食)で、同級生の吉澤と
昼食を食べながら話をしている。
カフェテリアの中はよく暖房が効いている。2人のコートはバッグ
とともに隣の座席に置かれている。出入り口の近くに掲げられている
時計は2時すぎを指している。もう混雑のピークは過ぎていて、
カフェテリアにいる学生は数えるくらいしかいない。
- 243 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/08(金) 22:15
- 吉澤の目の前には白いプラスチック製のトレイが置かれている。
その上にはたぬきうどんとお茶が乗っている。そのわきにはきちんと
二つに折り畳まれて、クリップで留められたB4の用紙の束が置かれ
ている。総合人類学の講義ノートのコピー。吉澤に頼まれて、美貴が
自分のノートをコピーして吉澤に手渡したもの。
美貴のトレイの上には吉澤からノートのお礼にとおごってもらった
本日のおすすめランチ(デザート付き)が並んでいる。ごはんと、
特大のハンバーグと、小さめの皿に入ったパスタと、サラダと、
コーンスープ。それにデザートの杏仁豆腐。
- 244 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/08(金) 22:15
- 遅い昼食を食べながら、2人は会話を交わす。
悪いね、と吉澤が言う。でもマジで助かった、総合人類学はこれだけ
でいけそうだよ。美貴のノートはよくまとまってるし、字も読みやすいし。
それはなにより、と美貴は答える。だけどさ、よっすぃー、よしこ、
よっちゃんさんよ。総合人類学は完全にわたしをあてにしてたでしょ。
なにしろ、教室でいちどもよっちゃんを見かけたことがないもんね。
わはは、と吉澤は笑って頭をかく。いやいや、美貴が出てるから
いいや、って思ってたわけじゃないんだよ。一般教養で出席も
取らないからってナメてたわけでもない。でもさ、総合人類学って
木曜じゃん。木曜の午後は大事な試合が入ってることが多くて。
ほらあたしのフットサルのサークルの。特に後期はトーナメントで
どんどん勝ち進んじゃったからさ。うん。
- 245 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:16
- まあいいんだけどね。と美貴は言う。別に本気で怒っているわけ
でもない。
そうそう。だからもっと好きなもんたっぷり食べてよ。ランチの
おかわりもどんどんしていいからさあ。と吉澤が言う。
学食で好きなもの全部おごる、とか言われてもなあ。美貴はぼやく。
- 246 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:16
- しばらく美貴は本日のおすすめランチ(デザート付き)を黙々と
口に運ぶ。
たぬきうどんを食べ終わってしまった吉澤は、頬づえをつきながら、
ハンバーグを小さく切り分けている美貴をぼんやりと見つめる。
それから口を開く。あのさ、美貴って正月は実家に帰ってたんだっけ?
美貴はハンバーグの断片とごはんを一緒に飲み込む。そして肯く。
うん。そりゃ帰るよ。一昨日かな、戻ってきたばかり。
- 247 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:17
- 何か面白いことあった?と吉澤が聞く。
いや、大したことなんてないよ。大みそかの2日前に帰って、
家の掃除の手伝いさせられて、こたつでみかん食べつつ紅白見てから
年越しそば食べて、近くの神社に初詣に行って帰って、朝生見ながら
いつの間にか寝ちゃって、元旦にはかくし芸とか駅伝見てさ。あとは
地元の高校の友だちと新年会とかやっちゃってさ。それで終わり。
と美貴は言う。よっちゃんはどうなのさ?ごっちんと初詣とか?
まあ、行ったけど。恋人の名前を出されて、吉澤は少し照れながら言う。
でもだいたいは美貴と一緒だよ。
- 248 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:17
- ああそうだ、と美貴は言う。面白いかどうかわかんないけどさ、
帰りの列車でちょっと気になることがあったよ。
へえ、と吉澤は言う。それから首をかしげる。あれ、っていうか、
美貴って飛行機を使うんじゃないの?その方が便利でしょ、明らかに?
うん、そうなんだよ。これまでずっと飛行機で行き来してたし、
今回も年末に実家に帰ったときは飛行機だったんだけどさ。と美貴は言う。
でも1回くらい列車に乗ってみたら面白いんじゃないかと思ってさ。
それも新幹線とか特急だったら面白くないから、普通列車にしてみようと
思ってさ。JRの普通列車を乗り継いで東京まで戻ったんだ。
- 249 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:17
- マジで?吉澤は驚く。時間かかったでしょう?
かかったよ。美貴はこともなげに肯く。途中で1泊したもんね。
仙台だったっけな、駅前のビジネスホテルに泊まったよ。
だから2日がかりだった。
- 250 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:18
- 変わってるよね、美貴って。吉澤は深いため息をつく。ノートもらったり
してる立場で言うのもなんだけどさ。ほんと、変わり者だよ。
よっちゃんに言われたくないね。美貴は言う。フットサルの試合で
3試合続けて決勝ゴールを決めて、コートサイドのかわいい恋人に
向けてガッツポーズ決めたらしいじゃん。それって女子大生のやること
じゃないよ。男子だ、男子。
- 251 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:19
- それを言われるとなあ。吉澤は苦笑いする。まあいいや。それで?
列車の中で何かあったの?
いや、まあ大したことじゃないんだけどね。美貴は少し口ごもる。
ええとね、仙台を出て2、3時間くらい経って、列車を1回か2回
乗り継いだころかな。わたしは4人がけの向かい合わせの座席に1人で
座ってたんだけど。普通列車だから、リクライニングとかそういう
気の利いたものはなくて、固い座席。ずっと座ってると腰が痛くなる
ような。
- 252 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:19
- ふんふん、と吉澤は肯く。
で、どこかの駅で、リュックを背負った女の子が乗ってきたんだよ。
と美貴は言う。その子がわたしの座席まで来てさ。そこそこ混んでて
他に空いた座席がなかったから、相席ってことになって。それで、
その子とけっこう喋ったんだあ。
へえ。と吉澤が聞く。女の子って、どのくらいの?
高校生だった。わたしたちよりもふたつみっつ年下の、地元の高校生。
2年生とか言ってたかな。
- 253 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:19
- かわいかった?と吉澤が聞く。
よっちゃん好みかもしれないなあ、と美貴はからかうように言う。
いや、そこそこかわいかったよ。髪の毛黒くて、肩のところまで
伸ばしててさ、ちょっと純朴な感じでさ、すっごく素直でいい子
だったよ。小川とかいう名前だったんだけど。
なんで名前まで知ってるのさ。あ、わかった。吉澤が目を輝かせる。
ナンパしたんでしょ?
- 254 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:20
- いやいや。ナンパとかじゃないよ。よっちゃんじゃあるまいし。
それにそもそもそんな感じの雰囲気じゃなかったから。美貴は否定する。
そして言う。で、話は戻るけどさ、相席してるうちにちょこちょこ喋る
ようになったわけ。
ふんふん。吉澤が肯く。それで?
だからさ、大学生ですか?とか聞かれたからさ、そうだよって
答えたり。そしたら大学生っていいなあ、大学のこといろいろ聞いて
いいですかとか言われて。それでけっこう話したよ。東京のすみっこに
ある女子大に通ってるとか、あと下宿生活のこととか、アルバイトの
こととか、いろいろ。と美貴は言う。あんまりにも大学について
聞かれるからさ、もしかしたらこの子、高校が面白くないのかなと
思ったんだよね。こっちからしたら高校生なんてうらやましい限り
なんだけど。
- 255 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:20
- ふーん。吉澤は相づちを打つ。
でも、あんまり軽々しくそんなことは言えないじゃない。それに
よく考えるとさ、わたしもアルバイト先の年上の人から、藤本さんは
若くていいよね、とか言われるけど、そんなこと言われても別に良い
ことなんてないよって思うわけじゃんか。口に出しはしないけどさ。
と美貴は言う。だから高校生だから良いよね、とかバクゼンと言うのは
どうかなと思って。
- 256 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:20
- ふむ。吉澤は腕を組んで肯く。
とにかくさ、その子は基本的には素直でまっすぐな子だったし、
話していても暗い感じがするってわけではないんだよ。
でもさ、この子って何か重たいものを抱えてるんだろうなあって気が
けっこうひしひしとしたの。話してて。
美貴はそこでひといき入れて、口をつぐむ。そして記憶をたどる。
まあ、大学受験とか勉強のこととかを気にしてるのはたしか
みたいだけど、まあそれはその子にとっちゃ来年のことだからね。
それで本当に深く悩んでいるわけじゃない。
- 257 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:21
- 友だち関係とかじゃないの?吉澤が言う。あとは恋愛とか、家族の
こととか?
いや、友だち関係ではないみたい。友だちはけっこういるし、たまに
くだらないことでけんかもするけど、すぐに仲直りしちゃうみたいな
感じだって。恋愛とか家庭の問題なのかもしれないけど、向こうが
その話をあまりしなかったからなあ。そこはよくわからない。
- 258 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:21
- じゃあ、結局、どういうことだったのさ?吉澤が聞く。
うーん。美貴は唸る。まあ、わたしもそんなにずばっと聞くわけ
にはいかないじゃんか。なんせ列車の中で相席しただけの女の子だし。
でもさ、いろいろ話したあげくに、その子が言ったの。最近夢を見るん
だって。その夢が嫌なんだって。すごく嫌なんだって。
- 259 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:21
- 夢?吉澤が聞き返す。寝てるときに見る、夢?
そう。その夢。美貴は言う。そして薄いお茶をひとくち飲む。
どんな夢?吉澤が言う。もったいぶらないで、言ってよ。なんか
聞きたくなってきた。
もったいぶってるわけじゃないよ。こんな夢なんだって。あのね。
- 260 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:22
- 綱わたりの夢なんです。その小川という女の子は言う。彼女の目と
美貴の目が合う。きれいな瞳だなと美貴は思う。
彼女は続けて言う。高い建物と建物があって、その間に綱が張られて
いるんです。わたしはこう、手を広げて、その綱の上を歩いているんです。
とても風が強くて、ぐらぐら揺れて。それでバランスを崩して、足を
踏みはずして、どこまでもどこまでもビルの間を落ちていくんです。
それでわっと叫んで、その自分の叫び声にびっくりして、目がさめるんです。
- 261 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:22
- そう。美貴は静かに言う。暗く曇った空から雨がぽつぽつと落ち始めて、
列車の窓ガラスに点線を描く。車内アナウンスがあって、まもなく次の駅に
到着する旨を告げる。
変な話してすみません、と彼女は言う。でも、こういうのって、
わかってもらえます?
あまり簡単に言えることじゃないけど、わかると思う、と美貴は言う。
もちろん、なんとなく、だけどね。
ごめんなさい、と彼女は言う。こんな話をしたって、どうしようも
ないですよね。でも誰かに聞いてもらいたかったんです。すごく。
いいよ、気にしないで、と美貴は言う。そしてほんの少しの間
身体の力を抜いて、がたがたと揺れる列車の振動に身を任せる。
列車は速度を落として、駅に停車しようとしている。
- 262 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:22
- 話し終えて、美貴はまたお茶をひとくち飲む。本日のおすすめランチ
(デザート付き)はほとんど姿を消している。あとは杏仁豆腐を残すのみ。
ふうん、と吉澤が言う。なんだか不思議な話だなあ。わかるような、
わからないような。
ね、そうでしょ。と美貴は言う。わかるような、わからないような。
- 263 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:23
- それで?と吉澤が聞く。その後は?
2つか3つくらい後の駅で降りちゃった、と美貴は言う。何回も、
話を聞いてくれてありがとうございました、って言ってさ。
それっきり?と吉澤が言う。
それっきり。と美貴は言う。それで、わたしもそのまま列車を
乗り継いで夕方に上野駅に着いて、それから地下鉄と私鉄に乗って
下宿に帰ったわけ。まあ、なんつうか、それだけの話なんだけど。
- 264 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:23
- そのとき、3限の終わりを告げるチャイムが鳴る。入り口の時計は
2時半を指している。
あ、あたし4限あるから行くわ。ゼミなんだ。吉澤は立ち上がり、
コピーの束をバッグに入れる。そしてトレイを持って、食器の
返却台へ向かう。ノート、サンキュね、美貴。ほんとにありがと。
またメールするからさあ。
ほい。美貴は答える。そしてカフェテリアを出ていく吉澤に
軽く手を挙げる。じゃね。
- 265 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:23
- そのまま、美貴はカフェテリアにひとりで残っている。
美貴は黙って人気のないカフェテリアの空間を見つめる。
そこには自分がうまく言えなかったものが、行き場をなくして
ぽっかりと浮かんでいるような気がする。普通列車の固い座席や、
無人駅の錆びついた駅名表示板や、混雑した車内の人いきれや、
目の前に座っていた女の子の黒い瞳や、ポイントの切り替え箇所に
さしかかったときの列車の揺れや、誰かに伝えたくても伝えきれ
ない思いが。
- 266 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:24
- 美貴はふうと息を吐き出して、いすの背もたれにもたれかかる。
背筋を伸ばして、首を左右に動かして、凝った筋肉をほぐそうとする。
美貴は目を閉じる。そしてビルの屋上にいる自分を想像する。
- 267 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:24
- あたりは真っ暗で、周囲の状況はほとんどわからない。だが足元に
照明がいくつか並んでいるので、かろうじて自分がかなり高いビルの
屋上にいることがわかる。
屋上の四方には高さが1メートルくらいの鉄製の柵が張りめぐら
されている。1か所だけ柵が途切れていて、そこからロープが空中に
伸びているのが見える。
美貴は柵の切れ目に近づいて、足元から伸びているロープをながめる。
運動会の綱引きで使ったロープをふた回りくらい太くしたような、
とてもじょうぶそうなロープだ。ロープはぴんと張られて、暗い虚空に
向かって伸びている。その先にはここと同じようなビルの屋上が
暗闇の中で小さく浮かび上がっている。このロープはそこに繋がって
いるのだろう、たぶん。
- 268 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:24
- 美貴はため息をつく。いくら太くてじょうぶであろうとロープは
ロープだ。その上を歩いて行けるわけがないじゃないか。
キダムの曲芸師じゃあるまいし。すぐにバランスを崩して落ちて
しまうに決まってる。
でも美貴はロープに左足を乗せる。こんなことをしたくてする
わけじゃない。でもしないわけにはいかないのだ。両手を水平に広げる。
ゆっくりと右足を乗せる。
こめかみが痛い。何かで突き刺されたような痛み。キーンという
耳鳴り。強い風が吹きつけてくる。
- 269 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:25
- 美貴は目を開ける。人気のない、自分の通う大学のカフェテリア。
何かが少し変わってしまったのかもしれない。
なぜだか知らないが、美貴はそう思う。
- 270 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:25
-
おわり
- 271 名前:Depor 投稿日:2004/10/08(金) 22:35
- 今気づいたのですが、最初の数レスの名前欄がいつもと違ってます。
久しぶりの更新なので、自分のやり方を忘れてました…
- 272 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/16(土) 23:38
- 正直言うと話の言わんとするところは分かんない。(すいません)
けどここの話全部面白いし好きだ。
次回更新もマターリ待ってますぜ。
- 273 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/24(日) 04:29
- クオリティの高い小説を見つけると嬉しくなります
これからも頑張って下さい
- 274 名前:Depor 投稿日:2004/10/28(木) 23:46
- >272 名無飼育さん
話の言わんとするところ…そうですね、自分で読み返してみても
「ちょっと焦点がぼけてるよなあ」と思ったりします。
率直なご感想、ありがとうございます。参考になります。
また、「面白いし、好きだ」と感じてもらえたのは(あたり前
ですが)とても嬉しいです。
今後もよろしければ、また目を通してみてください。
レスありがとうございました。
>273 名無飼育さん
クオリティが高いだなんて…(照)
褒めすぎだと思いますが、それでもやっぱり嬉しいお言葉、ありがとう
ございます。励みになります。
お暇があれば、またのぞいてみてください。
レスありがとうございました。
- 275 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:10
-
「象」
- 276 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:10
- ベッドの左脇には点滴のスタンドが置いてある。スタンドには点滴液の
入った半透明の袋が吊されていて、そこからチューブが伸びてわたしの
左手首に繋がっている。一定の間隔を置いてぽたぽたと点滴液が落ちてくる。
もうかれこれ2か月以上もこの病院に入院しているのだけれど、点滴を
されるのはこれで2度目だ。最初に点滴をしたのは2週間くらい前だった
と思う。ナントカカントカ(担当の先生がいろいろ説明してくれたのだけど、
全然憶えていない)という長ったらしい名前の検査をした日だった。
- 277 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:11
- わたしは点滴されている左手を動かして、ベッドに備え付けられている
リモコンを操作した。寝かせすぎず、立たせすぎず、ほどよい角度に
リクライニングを調節する。
わたしはブラインド越しに窓の外を眺めた。空には灰色の雲が立ちこめて
いて、今にも雨が降り出しそうだった。病院の前の大通りにはたくさんの
車が走っていた。病院の外来入口のあたりではタクシーがひっきりなしに
出入りしていた。大通りをまたぐ歩道橋をコートを着こんだ人々が渡っていた。
人々はみな、忙しそうにそれぞれの目的地に向かっているようだった。
6階からみると、それらのタクシーや人々は本当に小さく見えた。
- 278 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:11
- カラスが2羽飛んできて、窓の外にある小さなベランダの手すりに止まった。
そしてひとしきりガアガアと鳴いた。なんだか不吉なタロットカードの絵柄
みたいだ。気持ちのいい光景ではない。まったく、今日これから手術を受ける
ってのに。わたしは嫌な気持ちになった。
- 279 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:12
- ふと左手首を見ると、点滴のチューブが赤く染まっていた。血液が逆流して、
点滴液を押し戻しているのだ。左手を上げたり下げたりしたけれど、なかなか
元通りにはならない。
わたしはナースコールのボタンを押した。すぐに反応があった。
「はーい」少し間延びした声。安倍さんだ。
「紺野です」わたしはインターホンに向かって言った。「血が逆流しちゃって、
点滴のチューブが真っ赤になっちゃったんですけど」
「うん、わかった。すぐ行く」
- 280 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:12
- わたしは安倍さんが来るのを待った。1分もしないうちに個室のドアが
開いて、安倍さんが病室に入ってきた。飾り気のないシンプルな白衣に、
白いストッキングに、白いナースシューズ。茶色に染められた髪はアップに
まとめられてナースキャップの中にたくしこまれていて、整った目鼻立ちが
強調されている。本当にきれいだなあ、とわたしは(いつものことながら)
感嘆のため息をもらす。
- 281 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:12
- 安倍さんはわたしの担当の看護師さんだ。だから毎日の検温やら血圧測定
やら食事の準備やらは、みんな安倍さんがしてくれている(もちろん休みの
日を除いてだけど)。まだ20代前半の若い看護師さんで、気さくで親しみ
やすい人柄の持ち主だったから、わたしはすぐに安倍さんと仲良くなった。
ときどき手が空くと、安倍さんが缶入りの紅茶を持ってわたしの病室まで
来てくれることもあった。そして30分くらいなんだかんだとわたしと
雑談をして、ナースステーションに帰っていった。もちろん、仕事は決して
暇ではなくて、忙しいときは本当に忙しいみたいだったけれど。
- 282 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:13
- 「おーおー」安倍さんは点滴のチューブを見て言った。
「こりゃ、点滴の圧力が弱すぎたんだね。はい、ちょっとごめんよ」
安倍さんは点滴液の入った袋と、スタンドをいろいろいじくった。
すぐに点滴液が流れ出して、逆流した血液を左手に押し戻していく。
「はい、左手はここ」安倍さんはわたしの左手を持って、ベッドの脇にある
転落防止用の柵の上に置いた。「これでよし、と。今朝は忙しかったからさ、
点滴のセッティングがちょっと雑になってたみたい」
- 283 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:13
- 安倍さんは見舞客用のイスに座った。「ごめんね。昼から手術だってのに。
気分はどう?」
「だいじょうぶです」わたしは笑顔を作って言った。
「ならよかった」安倍さんはほっとしたようだった。それからイスの
背もたれにもたれかかって、うーんと唸って背伸びをした。
「あの」わたしは言った。「戻らなくていいんですか?」
- 284 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:14
- 「ん、いいの。朝の忙しい時間が終わったし、今日は退院する患者さんも
いないし、今はわりとヒマなんだ。ナースステーションに人も揃ってるし。
だからここにいる。ジャマだったら帰るけど?」
わたしは大きく首を振った。そんなわけない。ここにいてほしいに
決まってる。
安倍さんはつけ加えて言った。「それに今はあっちに師長さんがいるの。
けっこう気まずいんだよね。おととい『安倍さん、ちょっと髪の毛の色が
派手すぎませんか』とか言われちゃってるからさ」
2か月も病院で手持ちぶさたに時を過ごしていれば、だいたいの看護師さん
の顔や人となりは把握できるようになる。わたしは見るからに厳格そうな
看護師長の顔を思い出した。
- 285 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:14
- 「そういえば、ひと月くらい前に、地下の売店でサンドイッチとクリーム
パンを買って食べてたら、師長さんに見つかって怒られました。間食は
やめなさいって。病院の食事だけでじゅうぶん栄養はとれるからって」
「へえ、紺野も怒られてたんだ」と安倍さんはおかしそうに言った。
「それで、売店でパン買うのはやめたんだ?」
「ううん」わたしは首を振った。「やめようと思ったんですけど、どうしても
食べたくなって。だから師長さんのいないときを見はからって、食べてます」
「ははは。そりゃそうだ」安倍さんは笑った。「毎日病院食ばっかりじゃ
飽きるもんね。バランスは取れてるんだろうけど、単調だし甘味も足りないしね」
それからつけ加えるように言った。「あ、あまり食べ物の話をしちゃ悪いかな。
昨日の晩から何も食べちゃいけないんだったよね。朝食もなしだったし」
- 286 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:14
- 「そうですけど、べつにお腹が減ったって感じはしないです。点滴してる
からかもしれないけど」とわたしは言った。「あと、手術前で緊張してるからかも」
「そっか」と安倍さんは言った。「でもまあ、今日だけだからね。
明日の夜からはちゃんとご飯が出るからさ。最初はおかゆやジュースだけど、
すぐに普通のご飯になる。少しの我慢だよ、紺野」
- 287 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:15
- 「……はい」わたしは言った。
安倍さんは黙って、わたしをじっと見つめた。大きくて黒い目。わたしは
なんだか落ちつかない気持ちになった。そのまましばらくの間、安倍さんは
わたしをじっと見ていた。時間にすれば30秒くらいだったと思うけれど、
わたしには30分に感じられた。
- 288 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:15
- そして安倍さんは口を開いた。
「紺野、ラーメン好き?」
「……え?」わたしはまぬけな声を出してしまった。ラーメン?
「こってりした、とんこつ味のラーメン。×××ってお店、知ってる?
けっこう有名な。雑誌にも載ってて、行列ができるって評判の。あれの支店が
ここの近くにできたんだよね」
「……?」わたしは何を言ったらよいのかわからなくて、目を丸くしたまま
安倍さんを見ていた。きっと馬鹿みたいな表情をしていたと思う。
- 289 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:15
- 「そこに行こう。なっちさ、この前ここの同僚の矢口ってやつと一緒に
行ったんだ。矢口って知ってるでしょ?所属は5階の整形外科なんだけど、
たまにこっちに応援に来たりする、あのちっこくてやたら元気なやつ。
あいつ、あたしと同期でけっこう仲が良いの。焼肉が大好きでさ、休みの日
に2人で焼肉食べに行ったりするんだよ。その矢口が大絶賛してたからさ。
食いしん坊の紺野もぜったい気に入る」
安倍さんはぽかんとしているわたしにお構いなしに続けた。「今日の午後が
手術だよね。で明日の夕方には流動食が食べれて、明後日は術後検査だったっけ。
……うん、まあ1週間もすれば外出許可が取れると思う。10日もあれば間違い
なく外出できるから、来週の木曜なんてどうかな。あたしもその日休みだし」
- 290 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:16
- 安倍さんは言った。「1日外出の許可を取れば、午前中から遊べるよね。
昼前にここを出て、昼どきに混みだす前にその×××っていうラーメン屋
さんに行こう。そこでたっぷりラーメンをお腹につめこんでから、この辺を
散歩しよう。ここからちょっと歩いたところに公園があるの知ってるでしょ?
でっかい池があって、広場があって、テニスコートやら図書館もある。
けっこう敷地が広い公園だから、ひとまわり歩くだけでも楽しいんだよ」
「それから、とっておきの店に行こう。喫茶店なんだけど、雰囲気が
ほんとにいいの。創業明治ウン年とかいう伝統のお店なんだって。コーヒーも
ケーキも美味しいの。とくにチーズケーキとかモンブランとか、シンプルな
ものほど美味しい。しかもコーヒーとケーキのセットで800円。そんなに
高くないでしょ?1人で2セット頼んだっていいくらいだよ」
- 291 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:16
- 安倍さんはいったん言葉を切った。そして話についていけずにいるわたしを
見ておかしそうに言った。「紺野、わかってる?」
「は、はい」わたしはやっとの思いで答えた。えーと、これはどういうこと
なんだ?
- 292 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:17
- 「つまりさ、手術が終わった後――来週の木曜日だけど――デートしよって
言ってるの」安倍さんは楽しそうに言った。
「それは、その……」
「嫌?外出許可取ればだいじょうぶっしょ?」
「だって……」
「ああもう、煮え切らないなあ。プランまで出来上がったってのに」
安倍さんは口をとがらせた。
- 293 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:17
- 「だって……本当に?」
「本当も何も、本当だよ。どうしてなっちが嘘をつかなきゃいけないのさ」
安倍さんは不服そうに頬をふくらませた。
「ぜったい?」とわたしは言った。
「ぜったい」
「忘れない?」
「忘れないよ」わたしのしつこい念押しに、安倍さんは苦笑いした。
「ずーっと憶えてるよ。象みたいに」
- 294 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:17
- 「約束ですよ」わたしはさらに念を押した。それから一拍遅れて、
安倍さんの言葉にひっかかった。「……象みたいに?」
「『象は忘れない』。アガサ・クリスティーの推理小説の題名なんだけど。
知らない?」安倍さんはくすりと笑った。「象はね、見たものや聞いたもの、
感じたこと考えたこと、何もかもをずーっと憶えてるんだってさ。何もかも。
なっちもね、こういう約束はぜったいに忘れないんだ。ま、ベンキョー的な
ことはほいほい忘れちゃうんだけどさ」
それから安倍さんは枕もとに置いてある目ざまし時計を見て、イスから
立ち上がった。「お、こんな時間か。そろそろ戻らないと。また来るからね」
- 295 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:19
-
◇
- 296 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:19
- 安倍さんは2時間後に病室にやって来た。わたしはパジャマから、薄い
黄緑色の布をぺたんと貼りあわせたような手術衣に着がえていた。わたしの
母親も病室に来ていた。母は安倍さんにぺこぺことお辞儀をして、いつも
お世話になってとかそういう話をした。安倍さんもそれに礼儀正しく答えた。
看護師としてはあたり前の対応なのだろうけれど、なんだか安倍さんがいつも
よりずっと大人の人に見えた。
安倍さんは慣れた手つきで点滴液の袋を取り替えた。それから母とわたしに
向かって、これから注射を打ちますが、これは手術前の緊張をとり、麻酔を
効きやすくするためのものですとか、前の手術が延びているので、手術室に
入る時間が少し遅れますと言った。わたしは黙って母と安倍さんの会話を
聞いていた。
- 297 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:20
- それから安倍さんはベッドの脇に来て、わたしの左肩に注射をした。
かなり痛いよと先に言われていたのでそれなりの覚悟をしていたのだけれど、
それでも飛び上がるくらいに痛い注射だった。顔がしかめ面になって、
食いしばった歯の間からうめき声がもれた。
「はい、終わり」安倍さんが言った。「もう痛くないからね。よくがんばった」
それから安倍さんは手術まであと1時間くらいですと母に言った。
母はちょっと電話をかけてくると言って病室を出ていった。
- 298 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:20
- 「注射、痛かったでしょ?」と安倍さんは注射の道具の片づけをしながら
言った。
「痛かったです」わたしはベッドの脇の安倍さんの顔を見上げた。
まだ左肩に鈍い痛みが残っている。
「筋肉注射って、痛いんだ。大人の男の人でも痛がるからね」
「手術、遅れてるんですか?」
「うん。12時半って言ってたけど、1時10分開始になったって。
前の手術が押しちゃったみたい」
「手術の時間が延びることって、よくあるんですか?」
「けっこうあるみたいよ。あたしはまだ手術に立ち会ったことって
ないんだけど」
- 299 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:21
- 「わたしの手術って、どのくらいで終わりそうですか?」
「うーん、先生は5〜6時間くらいとか言ってたかな。もっと早いかも
しれないけどね。でも紺野は全身麻酔にかかるわけだからさ、眠って、
起きたら終わってるんだよ」
「上手くいけば」
「そうだね。でも上手くいくに決まってる」
- 300 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:21
- 「でも怖い」わたしは安倍さんの目を見つめて言った。「怖いです」
「わかるよ」安倍さんの目は澄みきっていた。「怖いよね、そりゃ。
でもだいじょうぶ」
「本当に?むずかしい手術なんでしょう?」
「そんなことないよ。そんなに大がかりなものじゃない。朝から晩まで
かかる手術だってざらにあるんだから。それに比べたら大したことない」
「だけど、簡単な手術なら、2か月も入院して、ずっと検査する必要は
ないですよね?」
- 301 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:21
- 「よしよし」安倍さんはわたしの頭をそっと撫でてくれた。
それからしっかりとわたしの目を見て言った。「だいじょうぶ。紺野は
すっごくまじめだから、いろんなものをうんと溜めこんで、考えすぎちゃうんだ。
2か月も入院して、学校も行けなくて、友だちとも遊べなくて、きつかったね。
でもそれも今日の手術で終わりだ」
安倍さんの声は穏やかで、わたしの心を落ちつかせてくれた。
- 302 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:22
- 「安倍さん」わたしは言った。
「なに?」
「わたし、安倍さんが好きです」
- 303 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:22
- 安倍さんはほんの少しだけ口をつぐんだ。そして言った。「そう」
それからわたしの足元に手を伸ばして、乱れたベッドのシーツを直しはじめた。
「つきあってる人がいるの、知ってます」わたしは言った。
シーツを直している安倍さんの動きが一瞬だけ止まった。それから何事も
なかったかのように手をまた動かした。
「3日前の夜中、トイレに行く途中で、ナースステーションで電話してたの、
聞いたんです」
- 304 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:22
- 「あ、聞こえてたんだ」安倍さんは言って、わたしを見てふわっと微笑んだ。
「信じられないよね、ずっと携帯の電源切って無視してたんだけど、夜中に
病院に電話してきてさ、大至急の用件だから、6階内科の安倍さんに繋いで
もらえますかって言ってきたらしいの。そのときはたまたま1人でいる時間
だったからよかったけど、あまりの常識のなさにあたしもさすがにキレてさ。
ちょっと声が大きくなっちゃった」
それから安倍さんはぱんぱんと手を打った。「これで、よしと。手術前
なんだから、シーツもぴっしり整えておかないとね」
- 305 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:23
-
◇
- 306 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:23
- 1時10分きっかりに病室のドアが開いて、新たに看護師さんが2人
入ってきた。ひとりの看護師さんが母に向かって、それではこれから3階の
手術室に移動します、と言った。そしてベッドの足についている車輪の
ストッパーを外して、3人がかりでベッドを動かした。わたしはベッドに
横たわったまま病室を出て、ころころという音とともに廊下を移動した。
さんざん歩いた病院の廊下だけれど、ベッドに横たわって移動するのは
はじめてで、なんだか妙な感じがした。
エレベーターに乗って、階下に下りた。そして、わたしを乗せたベッドは、
「手術室」と表示されている両開きの扉の前で止まった。2人の看護師さんが
扉の中に入っていって、安倍さんだけがその場に残った。
「ここで手術担当の看護師さんに替わるんだけど」とわたしの頭ごしに
安倍さんが言った。「もうちょっとだけここで待ってね。もうすぐだ」
- 307 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:24
- 「安倍さん」わたしは小声で言った。
「なに?」安倍さんはわたしの顔をのぞきこんだ。
「約束、憶えてますか?」
「憶えてるよ。決まってるじゃん」
「約束ですよ、ほんとに」
「うん。忘れないよ」
「象みたいに?」
- 308 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:24
- 「象みたいに」安倍さんはにっこりと笑った。「象みたいにずーっと
憶えてるよ。忘れない」
それから安倍さんは言った。「さ、これからちょっとだけしんどかったり、
痛かったり、怖かったりするかもしれない。いろいろ嫌なことがあるかもしれない。
でもそういうのって、いつまでも続くものじゃない。しばらくがまんしてたら、
いつの間にか終わっちゃうもんなんだ。だから頑張ってこい、紺野」
- 309 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:25
- 手術室はTVドラマで見て想像していたものとあまり変わらなかった。
そこそこ広くて、うす暗い部屋。中央にある手術台と周辺のさまざまな器具が
照明に照らされて浮かび上がっている。
手術室にはわたしの担当の先生をはじめとして、数人の医師がいた。
看護師さんも何人かいた。みんないつもの白衣ではなくて、青っぽい手術用の
衣装を着て、マスクをしていた。
ポ、ポ、ポという規則正しい音がどこかから聞こえてきた。
ベッドが手術台に横づけされて、わたしはベッドから手術台に移った。
照明がまぶしい。左手にもう1本点滴をうたれた。
ああ、本当にこれからわたしは手術を受けるんだ。
- 310 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:25
- 麻酔科の医師がやって来て、まず麻酔をします、右手をちょっとだけ上げて
ください、脇の下に麻酔の注射をします、と言った。
右脇にチクリという痛みを感じた。
それから口にフラスコ状のマスクのようなものをかぶせられた。医師の声。
ここから酸素が出てきますからね、ゆっくり息を吸って、吐いて……。
でもたぶんこれは酸素じゃない。麻酔だ。
- 311 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:25
- 次第にまぶたが重くなってきた。わたしは安倍さんのことを考えた。
これが終わったら、わたしは安倍さんとラーメンを食べに行って、
公園に行って、喫茶店でケーキを食べるんだ。
少しの間だけ、象のことを考えた。
最後にまた、安倍さんの顔が浮かんだ。
そして意識を失った。
- 312 名前: 投稿日:2004/12/05(日) 23:26
-
おわり
- 313 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:21
-
「ホームレス」
- 314 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:23
-
私はその頃、京都でホームレスをしていた。
- 315 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:23
- ホームレスといっても、そこまで深刻で大げさで切羽詰まったもの
ではない。2か月かそこら、京都駅のコンコースで生活していただけの話だ。
だから「期間限定ホームレス」とか、「プチ・ホームレス」という表現の方が
適切なのかもしれない(そんな言葉があるのかどうか知らないけれど)。
私はそのとき、キャッシュカードやクレジットカードの入った財布だって
持っていたのだ。××銀行には「保田圭」名義の口座がしっかりと
存在していて、そこにはいくらかの残高が残っていた。ちょっとした額の
現金だって持っていた。もっと言うなら、千葉県には自分の実家があって、
帰ろうと思えば(あまり帰りたくはなかったけれど)そこに帰ることもできた。
そういう人間を「ホームレス」と言いきっていいのかよくわからない。
でもとにかく、その2か月間、私は自分の住所というものを持たず、
ただ毎日京都駅のコンコースの一角にじっと座って道行く人々を眺めていた。
- 316 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:24
- 銀行の口座にいくらかの額の残高が残っていて、その上いくらかの現金を
持っている人間がどうして駅のコンコースで生活するのか、と聞かれると
少し困ってしまう。
もちろん、好きこのんで駅のコンコースで生活する人なんていない。
そこにはそれなりの理由がある。確実にある。だけど、私はその理由を
うまく言葉にすることができないのだ。どれだけ説明しても嘘くさく
聞こえてしまうような気がして。
- 317 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:24
-
できる限り正確に、正直に説明してみる。
- 318 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:25
- 私はそのとき22歳で(もう3年前の話だ)、ある用事で大阪まで行った
帰りに、京都にふらりと立ち寄ってみた。半日くらいかけて京都市内を
ぶらぶら見て回って、それから東京に戻るつもりだった。
でも京都駅に着いてから気が変わった。東京に戻りたくなくなったのだ。
その頃は別に仕事をしているわけでもなかったし、大学に通っているわけ
でもなかった。実家に寝泊まりしてはいたけれど、親との関係は最悪
だったから、ちっとも戻りたいとは思わなかった。千葉に帰ったらすぐに
実家を出て東京の友だちの家に転がりこむつもりだった。親の方だって、
1か月や2か月連絡がなくたって、どうせまたあの馬鹿娘はどこかを
ほっつき歩いてるんだなと思うだけだろう。
- 319 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:25
- ならば、東京に帰る必要なんてどこにもないじゃないか。私はそう思った。
もちろん京都に残る必要だってありはしないのだけど、まあべつに京都に
いたっていい。そこまでお金に余裕はないからホテル暮らしなんかできないの
だけど、駅のコンコースでじっとしていれば宿代はかからないだろう。
右手にぶらさがっているボストンバッグの中には着替えや生活用品が入って
いるし、今は8月だから、外にいても寒くて凍え死ぬということは絶対にない。
それに、少しでも嫌になったり面倒なことになりそうだったら、電車なり
バスなりに乗って東京に帰ればいい。何も問題はないじゃないか。
そんな、かなり投げやりな理由から、私のホームレス生活ははじまった。
- 320 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:26
- 知っている人は知っていると思うけれど、夏の京都は暑い。気温も高い
けれど、湿度も高い。外に一歩出ると不快で粘りけのある空気が身体に
覆い被さってくる。あっという間に汗の玉が額に浮かんで、Tシャツの
背中がじっとりと濡れてくる。1日中屋外にいれるような環境ではない
ことはたしかだ。
だから私は京都駅の八条口のコンコースで自分の居所を探すことにした。
しばらくコンコースをうろついてから、じっと座って時間を過ごすには
ぴったりの場所を見つけた。ちょっと前にはコインロッカーが並んで
いたと思われる一角。コンコースのメインの通りからは少し離れていて、
人通りはそれほど多くないけれど、エアコンはきちんと効いている。
まさに私が求めていた場所だ。
- 321 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:26
- 八条口のコンコースの中にはマクドナルドがあって、1日に2回、
そこで安いハンバーガーを買って食べた。100メートルも歩けば清潔な
トイレがあって、そこの洗面台の蛇口をひねれば水はいくらでも出てきた。
駅ビルのゴミ捨て場には段ボールがたくさん転がっていたから、いくつか
拾ってきてフロアに敷いた。まったくの話、駅のコンコースには生活に
必要なものがほとんどすべて揃っていた(もっとも、さすがに無料で
使わせてくれるシャワーやコインランドリーはなかった。だから、3日か
4日おきに銭湯に行って、湯船につかったり、着替えの洗濯をしたりした)。
- 322 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:27
- ただ、この居心地のいい場所に1日中いることはできない。夜の11時半に
なるとコンコースが閉鎖されてしまうからだ。朝になるまで、どこか別の
場所で時間をつぶさなくてはならない。
私が見つけた場所は、大宮通りと千本通りの間にある、JRの高架の
下の空き地だ。京都駅から西に10分くらい歩いたところにある。
近くに高校があるようだったけれど、夜は人気はなく、ときおり頭上を
貨物列車が走るとき以外にはしんと静まりかえっている。私のような人間が
過ごすにはうってつけの場所だ。
- 323 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 18:27
- 夜の11時になると、私はボストンバッグを持ってコンコースを出た。
このくらいの時間になると外の暑さはそれほどでもなくなっている。
夜の八条口のターミナルには客待ちのタクシーがずらっと並んでいて、
深夜バスが何台か停まっていた。
私は歩いて高架の下へ行き、白い柱に背中をもたれかけて目をつぶる。
日が昇り、あたりが明るくなって、不快で蒸し暑い1日がはじまるまで
そこでうとうとする。
日差しがきつくなってくると(だいたい6時すぎだ)、私は八条口の
コンコースまで歩いて、自分の場所に腰を下ろす。
- 324 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 19:15
- 1日を駅のコンコース(とJRの高架の下)で過ごすのは、思っていた
ほど苦痛ではなかった。コンコースを歩く人たちからの視線もすぐに
気にならなくなった。時間は意外と早く過ぎていった。たまに駅の職員
らしき人を見かけることもあったけれど、別に何も言ってこなかった。
私の目の前を、実に様々な種類の人が通っていった。駅の職員。バスや
タクシーの運転手。駅ビルのテナントで働く従業員。サラリーマン。OL。
それからなんといっても観光客だ。京都は――あたり前なのかも
しれないが――観光客だらけだった。年老いた人も若い人も、男も女も、
とにかく日本中の人々が夏の京都にやって来ているように思えた。
外国人も日本人に負けず劣らず多かった。黒人もいたし、白人もいたし、
アジア系の人もいた。
彼らは、地図やガイドブックを片手に京都を隅から隅まで見てまわる
つもりのようだった。帰りには生八つ橋だの五色豆だのを買って、
休みが明けたら職場に持っていくんだろうなと私は思った。
- 325 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 19:16
- 1週間があっという間に過ぎた。最初に思っていたようなトラブル
(他人からいろいろ話しかけられるとか、駅の職員から出て行けと
言われるとか、そういうの)は全くなかった。あまりにもすんなりと
いきすぎて拍子抜けしてしまうくらいだった。東京に戻りたいという
気持ちは不思議なくらいに湧いてこなかった。
もちろんこの生活が快適だと思っていたわけではない。というか、
そもそもが快適さからはほど遠い生活だ。何と言っても、(「プチ」が
付いているとはいえ)ホームレス生活なのだから。
でも実際にやってみると、この「プチ・ホームレス」は――自分でも
驚いたことに――そんなに不快な生活ではなかったのだ。
- 326 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 19:16
-
1日の予定が何もないこと。周囲の人が誰ひとりとして自分のことを
知らないこと。自分も周囲の人について何ひとつ知らないこと。
人の顔色をうかがわなくていいこと。携帯の着信を気にしなくていいこと
(携帯は電源を切ってバッグの中に放り込んでいた)。誰とも会話を
交わさなくていいこと。生きるために必要最低限のことしかしないこと。
道行く人の顔をただぼんやりと眺めること。
- 327 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 19:17
- たぶんその頃、私はこういうことをかなり真剣に必要としていたのだろう。
だからあんなに(今から思えば)ろくでもない生活を2か月近くも続けて
いたのだろう。
- 328 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 19:18
-
◇
- 329 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 19:18
- いつの間にか、9月も中旬を迎えていた。1か月半も経つと、さすがに
この「プチ・ホームレス」にも飽きてきた。もともと、決して心躍るような
生活ではないのだ。
そろそろ東京に戻ろう――私はそう思った。たしかに、この生活は
そこまで悪いものではなかった。だけど、私はいつまでもここで座っている
わけにはいかないのだ。
東京に帰るのは簡単だ。財布の中身にはまだまだ余裕がある。腰を上げて、
JRの切符を買って、電車に乗る。それだけだ。
- 330 名前: 投稿日:2005/02/08(火) 19:19
- しかし、身体はすぐに動いてはくれなかった。私は思った。もう1日、
あと1日だけここにいて、明日こそ腰を上げて、切符を買いに行こうと。
そしてその「あと1日」がずるずると延びていった。帰ろうと思ってから
1週間経っても、私は相変わらず、コンコースと高架の下の往復を続けて
いた。もうそろそろ、本当に帰らなくちゃなと思いながら、私はどうしても
その場所から離れることができなかった。
- 331 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:42
-
◇
- 332 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:43
- 「あの」
私は折り曲げた膝の間にあった頭を持ち上げた。その動作さえ面倒くさかった。
目の前には、セーラー服を着た女の子がいた。私は何も言わずに黙っていた。
「あの」
彼女は私の目を見て、もういちど繰り返した。間違いなく、私に話しかけて
きている。それでも私は黙っていた。
- 333 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:43
- 「いつも、ここにいますよね?」
彼女は続けて言った。私はその女の子を見つめた。中学生より上には見えない。
紺色の、何のへんてつもないセーラー服を着ている。どちらかというと小柄で、
ほっそりとしていて、整った目鼻立ちをしている。ほんのりと茶色に染めた
髪の毛は、ポニーテールにしてまとめられている。どこにでもいそうな
普通の女子中学生。
- 334 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:44
- 私はまだ黙ったままだった。
「あの、こんなこと聞いていいかわからないんですけど、どうしていつも
ここに座ってるんですか?」
彼女は早口に、一気に言った。声に訛りがあった。京都弁でも、関西弁
でもない。どこの地方の訛りなのか、よくわからなかった。
「別に」
私は口を開いた。まともに人と会話をするのはかなり久しぶりのことだった。
「でも、ずっとここで座ってて……昨日も、一昨日も」
「うん」私は言った。とりあえず、短くてひとことで言える言葉からだ。
しばらく喋っていないのだから、まともな会話をするには準備運動が必要だ。
いきなりプールに飛び込むと、心臓麻痺を起こす。
- 335 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:44
- 「お金がないんですか?」
「うん」つい肯いてしまった。急いでうち消す。
「いや、別に、そういうわけじゃない」
「じゃあ、どうして、ずっとここにいるんですか?夜はおうちに帰るんですか?」
「いや、帰らないけど」
「その…だいじょうぶなんですか?こんなところにずっといて?」
- 336 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:45
- 「あのさ、悪いけど」私は言った。どうやら、口と舌はちゃんと動いて
くれそうだ。「何か飲み物ある?」
「え?ああ、あります」彼女はかばんを開けて、中からお茶の入った
ペットボトルを取り出した。「どうぞ」
「ありがとう」ごくごくとお茶を飲んだ。うん、だんだんまともに
なってきた。目の前の女の子は私の頭が勝手に作りだした幻覚じゃない。
まったくの現実だ。
「座っていいですか?」彼女は言った。私が黙っていると、隣に腰を
おろしてきた。
- 337 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:45
- 「すごく具合が悪そうに見えるし」彼女は続けた。「昨日も、ずっと
うずくまったまま全然動かなくて」
「別に、具合は悪くないけど」私は答えた。不思議な子だ。わざわざ
ホームレスに話しかけてきて、隣に腰かけてきて。
- 338 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:46
- 彼女は矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
1日中、ずっとここにいるのか。夜もここで過ごしているのか。お金は
どのくらい持っているのか。ごはんや水はどうしているのか。家はどこに
あるのか。ここで座るようになったのはいつからか。どうしてこんな生活を
しているのか。
- 339 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:46
- こんな質問に答えるのははっきり言ってうっとうしかったが、それでも
いちおう全部の質問に答えた。どうも軽い好奇心から質問をしているのでは
ないようだったからだ。彼女の目はこちらが驚いてしまうくらいに真面目で
真剣な色をたたえていた。
質問に答えながら、なぜこの子は私にこんなことを聞いてくるのだろうと
考えた。彼女はどこからどう見てもまともで普通の女子中学生だった。
言葉遣いだってしっかりしている(訛りはひどかったけれど)。
でも、まともで普通の女子中学生は、駅のホームレスに話しかけたり
なんかしない。女子中学生が駅のホームレスに話しかけるのには、それなりの
理由があるはずだ。
- 340 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:46
- 彼女は私の隣に座ったまま、なかなか動こうとしなかった。私への質問が
種切れになると、こんどは自分について話しはじめた。
彼女は中学3年生だった。名前は高橋愛。生まれも育ちも福井だったのだが、
今年になってから両親が離婚した。一人娘の親権をめぐって両親がもめた。
彼女としては、母親とずっと暮らしていきたいと思っていたので、その旨を
伝えた。それで母親と彼女は今年の4月に福井から京都に引っ越した。
だから今は母親と2人暮らしをしている。
京都での暮らしはそれほど快適とはいえない。まず収入が母親のパートの
仕事しかないから、いろいろやりくりしていかないと生活が厳しい。彼女の
方も、転校した後友だちのグループにうまく入っていけなかった。友だちが
いないから、部活動だって少しも楽しくない。その上、8月には父親が
新潟から京都のアパートを突き止めてやって来て、かなりのもめごとを
引き起こしたりもした。
- 341 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:47
- 加えて、最近母親に新しい恋人ができたらしい。パート先の同僚。母親は
先日アパートにその男性を連れてきた。でも彼女はその人があまり好きに
なれなかった。など。など。
- 342 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:47
- 「ふうん」私は肯いた。それなりにこみ入った家庭事情を抱えているわけだ。
「でも、お母さんは、わたしがその男の人があまり好きじゃないって言うと、
腹を立てるんです」
「ふむ」
「べつに大声でどなったり怒ったりするんじゃなくて、泣くんです。
どうしてそんなこと言うのって。新しいお父さんがいた方が、愛にとっても
いいのよって。それからぽろぽろ涙をこぼして、ずっと泣いてるんです」
「それで?」
「それで、もういろんなことが嫌になっちゃったんです。どうでもいいやって」
- 343 名前: 投稿日:2005/02/09(水) 23:48
- 「そう」
私は肯いた。中学3年で、母親と2人暮らしで、その母親にぽろぽろ涙を
こぼされるのは、けっこうきついかもしれない。そんなことは15歳の
女の子が経験するべきことじゃないだろうなとも思う。でもだからといって、
私に何ができるわけでもない。
「だから最近は、あんまり家に帰りたくないんです」彼女はぎゅっと目を
つぶった。「学校にもいたくない。できれば全然別の場所にいたい」
「気持ちはわかるような気がするけど」
「ごめんなさい。なんだか勝手なことばかり言って」彼女は言った。
「でも、なんだか知らないけど、ちょっと気が楽になりました」
「それはよかった」と私は言った。
- 344 名前: 投稿日:2005/02/10(木) 19:58
- どうしてあの後2人で河原町のホテルに行ったのか、いまだによくわからない。
でもおそらく、「そうでもしないことには収まりがつかなかった」ということ
なのだろう。
彼女がシャワーを浴びている間、私はベッドに寝転がって、天井を眺めていた。
15歳、中学3年生。
そういえば、私も7年前は15歳で、中学3年生だったはずだ。今となっては
ちょっと信じられないのだけれど。いったいあの頃、私は何を考えていたんだろう?
- 345 名前: 投稿日:2005/02/10(木) 19:58
- 私は2分くらいかけて自分の中を探しまわって、15歳の自分を見つけた。
よかった。見つけるのに少し時間はかかったけれど、ちゃんと22歳の
私の中には、15歳の私が生きている。
15歳の私は、どうしようもなく反抗的で、そのくせどうしようもなく
甘ったれていた。自分に自信がまるで持てなかったくせに、「頑張れば何だって
できる」と心の底から信じていた。おまけに、同じクラスのあまり目立たない
男子生徒に恋をしていた。可愛らしいものだ。
彼女がシャワーから出てきた。
- 346 名前: 投稿日:2005/02/10(木) 19:59
- ことが終わった後、彼女は「女の人としたのは、はじめてです」と言った。
そりゃそうだろうなと私は思った。いくら今どきの中学生だって、7歳年上の
同性とホテルに入ったりする経験はそんなにないだろう。私だって、15歳の
女の子としたのははじめてのことだ。
私は隣で寝ている彼女に聞いてみた。「あのさ、ひとつ聞いていいかな」
「なんですか?」
「どうして私に声をかけたの?普通、いくら女だからって、あんなところに
座っている人に声をかけたりしないでしょ」
「うーん……」彼女は口ごもった。「なんだか、気になったんです。
だって、若い女の人がコンコースに座ってるなんて、見たことないから…それで」
「ふうん」私は答えた。
- 347 名前: 投稿日:2005/02/10(木) 19:59
- 「あと、この人は、その…なんていうか、悪い人じゃないんだろうなって
思ったんです」
「は?」思わず聞き返してしまった。「悪い人?」
「悪い人っていうか……。きっと何か特別な事情があって、ここで
座ってるんだろうなって。その…普通のホームレスっていうか、そういう人
じゃないんだろうなって思ったんです」彼女は言った。「昨日とか一昨日
とか、あそこの柱の陰から見てたんです。ずっとうずくまったまま
動かなかったけど」
- 348 名前: 投稿日:2005/02/10(木) 20:01
- 「へえ」私は驚いた。「昨日も一昨日も」
「そうです」
「いつ頃?見られてた感じはしなかったけどね」
「今日と同じくらいの時間。夕方」
「ふうん」私は言った。
- 349 名前: 投稿日:2005/02/10(木) 20:02
- 彼女とは京都駅で別れた。地下鉄に乗って帰るという彼女に、私は
自分の名前と携帯の番号を教えた。「また、会ってくれますか」と彼女が
聞いてきたので、「もちろん。どうせあそこにいるからさ」と私は答えた。
そのときは本当に、明日も明後日も八条口のコンコースにいるつもり
だったからだ。
でもその翌日に高架の下で目がさめたとき、私は東京に帰る気になっていた。
明日も明後日もない。今日、これから東京に帰ろう。
彼女のことは頭の中から消えていた。私はボストンバッグを持って立ち
上がって、いつものコンコースに向かうかわりにみどりの窓口に行って、
JRの切符を買った。そしてJRの在来線を乗り継いで東京に帰った。
千葉の実家に着いたときには夜になっていた。それから彼女のことを
思い出した。
- 350 名前: 投稿日:2005/02/10(木) 20:02
- 実家に着くまで携帯の電源は切りっぱなしだったから、その日に彼女から
着信があったかどうかはわからない。でもとにかく、それから今に至るまで
彼女から電話がかかってきたことは一度もないし、彼女に再び会うことも
なかった。もちろん今どうしているかも知らない。
- 351 名前: 投稿日:2005/02/10(木) 20:03
- 今でもたまに、京都のことを思い出すことがある。あの蒸し暑さや、
コンコースの床のタイルの感触や、訛りの強い中3の女の子を思い出す
ことがある。
私は今は、普通の会社に勤めて、経理の仕事をしている。あたり前に
仕事をこなして、あたり前に給料をもらって、あたり前に生活を送っている。
会社の同僚は、私がちょっと前に京都でホームレスをしていて、15歳の
女の子とホテルに行ったことがあるだなんて思ってもいないだろう。
でも、それは本当にあったことなのだ。私はその頃、京都でホームレスを
していたのだ。
- 352 名前: 投稿日:2005/02/10(木) 20:03
-
おわり
- 353 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:16
-
「ほっとカルピス」
- 354 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:16
- 真冬。時刻は朝の6時。都心を走る1本の通り。上には首都高速が
重なっている。綺麗な朝焼けが通りに並ぶビルの向こうから見てとれる。
空には雲ひとつない。きっとよく晴れた1日になるのだろう。
しかしまだ太陽の光は弱々しく、その暖かさは地上に届いてこない。
通りの両側には歩道がある。歩道を照らす街灯はまだ点ったままだ。
地下鉄の出入口を示す表示板がうすぼんやりと光っている。黒っぽい
ジャージの上に灰色のコートをはおった女の子が階段を上ってくる。
女の子は白いかばんを肩からかけている。
- 355 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:17
- 寒い。あさ美は手袋をはめた両手をさする。気温はどのくらいだろう。
家を出る前に見たTVの天気予報では、3℃とか言っていたけれど、
もっと寒いような気がする。日中の最高気温は12℃まで上がります、
だったっけ。
何度か思い出したように、通りをライトを点けた車が通っていく。
周囲を見渡しても、歩道を歩いているのはあさ美くらいしかいない。
きょうという日は、まだはじまったばかりだ。
- 356 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:17
- あさ美はあくびをする。昨日寝たのは11時。今日起きたのは5時。
朝練に出るときはいつもこうだ。あと10分後には学校に着いて、
30分後にはトラックに整列していなくてはならない。こんなに寒い朝に
走ったって、タイムが伸びるとは思えないんだけどな。あさ美は歩道を
歩き続ける。
- 357 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:18
- やがて視界にコンビニが入ってくる。明るい人工的な照明が薄闇の中に
ぽっかりと浮かび上がっている。フランチャイズを示すロゴ。「燃えるゴミ」
と「燃えないゴミ」と「ペットボトル」に分別されたゴミ箱。「できたて
弁当セール」と書かれたのぼり。窓際に面した位置にある雑誌のコーナー。
コピー機にFAX。生活用品やらお菓子やらカップ麺やら弁当やらが整然と
並べられた棚。どこにでもある無個性なコンビニ。
- 358 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:18
- あさ美はそのコンビニに入る。店内は不自然なくらいに暖かい。エアコンの
送風口から吹き付けてくる風は生温くて乾燥しすぎているような気がする。
もっとも、寒い屋外からやってきた客にはこのくらいがちょうどいいのかも
しれない。
早朝の時間帯だからか、店内に客の姿は見えない。がらんとしている。
レジに女性の店員が1人いるだけだ。彼女は色のあせたジーンズに、
白いシャツを着て、ピンク色のネクタイを締めている。その上に青と白の
縦じま模様の制服を着ている。制服に隠れてよくわからないけれど、
身体つきは細くて華奢だ。顔も小さい。あさ美はその女性の店員を見て
少しほっとする。胸の鼓動が少し早くなる。いつものあの人だ。
- 359 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:18
- 「いつものあの人」とはいっても、彼女についてあさ美が知っていることは
2つしかない。1つは、朝のこの時間帯にはいつもレジにいるということ。
もう1つは名前。レジで会計をしているときに胸の名札をこっそりと見た。
「いしかわ」さんだ。
彼女について知っているのはそれだけ。もちろん会話を交わしたことなんて
ない。でも彼女は週3回、早朝にこのコンビニにやって来るあさ美を見ると、
いつもにっこりと微笑んでくれる。少なくともあさ美にはそう見える。
もしかしたら、あさ美のことを憶えてくれているのかもしれない。
- 360 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:19
-
もしかしたら。
- 361 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:19
- 今日も彼女は、両開きのドアを開けて店内に入ってきたあさ美を見て、
にっこりと微笑んでくれる。少なくともあさ美にはそう見える。あさ美は
何かひとつ得をした気になる。
あさ美はがらんとした店内をしばらく見て回る。それなりに慎重に品定めを
する。それから、「ほっとカルピス」と「できたてかぼちゃパン」を手にとって
レジへ向かう。心拍数がちょっと上がる。
- 362 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:20
- 彼女はいらっしゃいませ、と言ってから、読み取り機を使って商品の
バーコードをなぞる。ぴっ。ぴっ。
あさ美はその間に、彼女の胸の名札を見る。「いしかわ」という名字の
となりに小さな顔写真が付いている。顔写真の「いしかわ」さんは見る
からに緊張した面もちをしている。そのせいか目つきもやや悪い。
見ようによっては別人のようにも見える。
- 363 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:20
- 2点で合計、273円です。
あさ美はコートのポケットから財布を取り出す。そして1枚だけ残っている
と思っていた千円札がどこにも見あたらないことに気づく。軽いパニック。
慌てて小銭入れを確かめる。でもそこには1円玉1枚も入っていない。
つまり、わたしはいま1円も持っていないのにコンビニで物を買おうとしている。
- 364 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:21
- あさ美は真っ赤になってうつむく。馬鹿みたいだ。いや、馬鹿だ。馬鹿そのものだ。
いくらなんでもひどい。どうして財布の中身を確かめておかなかったんだろう。
どうしていつも、こんなにドジなことをしてしまうんだろう。どうしていつも、
ものごとはすらすらとうまいこと進んでいってくれないんだろう。たぶんもう
このコンビニには来られないだろう。恥ずかしすぎて。
- 365 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:21
- あさ美は目を伏せたまま、早口で言う。
すみません、今ちょっとお金持ってないみたいです。ごめんなさい。
これは、もとにあったところに返しておきます。
そのままほっとカルピスとかぼちゃパンを手にとろうとする。でもその手は
何かやわらかくて温かいものに包まれる。彼女の手。あさ美は目を上げる。
彼女の顔が見える。予期していたような呆れ顔ではない。怒っている顔でもない。
あえて言えば苦笑いに近い表情。でもそれは人を馬鹿にしたり、人を見下したり
する類のものではない。よくあることだよ、そんなのいちいち気にしなくて
いいんだよ、私だってたまにそういうことしちゃうんだからさ。そんな共感を
こめた苦笑い。
- 366 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:22
- そっか、と彼女は言う、とても優しい声で。
お金、忘れてきちゃったんだ。
はい、とあさ美は頬を赤く染めたまま答える。
千円札が入ってるんだと思ってて。でも入れ忘れちゃったみたいです。
ごめんなさい。
いやいや、謝ることなんかないよ、そんなの。彼女はそう言ってから、
レジを操作して、読み取ったバーコードの情報を取り消す。
これから学校なの?
そうです、とあさ美は答える。店内の有線放送が今月の新曲を紹介している。
部活の朝練に行くんです。
部活か、と彼女は言う。
それでいつも朝にここに来るのね。
はい、とあさ美は言う。まだ顔のほてりはおさまらない。
- 367 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:22
- 彼女はもういちどにっこりと微笑む。
あさ美はふと、こういう人がわたしのお姉さんだったらいいのになと思う。
一緒に買い物に行ったり、映画を見たり、本の貸し借りができたりしたら
いいのになと思う。
- 368 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:23
- 彼女はおもむろにほっとカルピスを持って、バーコードを読みとる。ぴっ。
そして小さなビニール袋の中に入れてあさ美に差し出す。
はい、これは私からのおごり、と彼女は言う。
もちろん私はただのアルバイトだから、勝手にお店のものをあげたり
できないんだよ。だから、この137円は、あとで私が払っておくね。
あさ美は慌てる。
え、いや、そんな、いいですよ。
いいから、と彼女は言う、そしてビニール袋を半ば無理やりあさ美に手渡す。
レジに残ったかぼちゃパンを手に取る。
このパンは、棚に戻しておくよ。
あさ美はほっとカルピスの入ったビニール袋を手に持って、その場に立ちすくむ。
- 369 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:23
- 朝練がんばってね、と彼女は言う。
はい、とあさ美は答える。いまわたしの頬に触ったら、間違いなくやけどを
するだろう。
あの、ほんとに、ありがとうございます。
ふふ、どうしたしまして、と彼女は言う。店内の有線放送が途切れる。
また来てね。こんどはお金を持って。
- 370 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:23
- 店の外に出ても、少しの間は寒さなんてほとんど感じない。足にうまく力を
入れることができなくて、歩くというよりはどこかをふわふわと漂っている
感覚がする。
でもやがて、真冬の早朝の空気が指先や足元や首すじに忍び寄ってくる。
あさ美はコートの襟をかきよせる。
あさ美はビニール袋からほっとカルピスを取り出す。小さめのサイズの
ペットボトルを両手で包み込む。その暖かさはあさ美の手のひらにしっかりと
伝わってくる。
- 371 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 18:24
-
おわり
- 372 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/27(日) 23:27
- いいですね。ほんわかしました。
- 373 名前:Depor 投稿日:2005/03/15(火) 23:25
- >372 名無飼育さん
レスありがとうございます。
自分でもほんわかするような話が書きたいなと思って書いたので、
こんな感想をもらえてとても嬉しいです。よかった。
久々にレスを頂いてかなり励みになったし、
ここらでいっちょ更新したかったんですけど……スミマセン
- 374 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:07
-
「続いてのメールは」
- 375 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:07
- ……続いてのメールは、東京都小金井市、ラジオネームは
チャーミー斉藤あゆみ大好きさんから頂きました。この方は
石川さんのファンなんですかねえ、斉藤さんのファンなんですかねえ、
それとも柴田さんのファンなんですかねえ。わからないですけど。
- 376 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:08
- 「紺野さんこんばんわ」こんばんわ。「ぼくが最近悩んでいる
ことを書きます。それは寝れないことです。夜寝れなくてとても
困ってます。いつも12時くらいにはベッドに入るんですけど、
ぜんぜん眠れなくて、結局1時くらいまで寝つけないこともあります。
紺野さんはどうですか?」
- 377 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:08
- はいっ。よくぞ聞いてくれました。何をかくそう、わたしも
寝つきわるいんですよー。だいたいね、ふとんに入ってから眠る
まで40分はかかります。ほんっとに仕事で疲れたりしてたら
10分くらいでぐっすり、ってときもあるけど、駄目な日はぜんぜん。
もうね、このチャーミー斉藤あゆみ大好きさんみたいに1時間とか
平気で寝れなかったりするんですよ。
そうですねー。よく聞く方法では、ひつじさんを一匹ずつ数えたり
とか、広い大草原みたいなのを頭に思い浮かべたりとか、そういう
のがありますよね。でも、わたしもやってみたことあるけど、
そういうのって実際にはあまり役に立たないですよね。
- 378 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:08
- なんかねー、いろいろ気になるんですよ。明日起きる時間とか、
仕事のこととか。それでそのうちに、どうでもいいようなことが
次々と頭に浮かんでくるんですよ。このままずっと眠れないのかなあ
とか、アメリカの高校生で264時間12分も眠らずに起き続けて
ギネスブックに載った人がいるんだよなあとか。で、そうなるともう
アウトで、目がばちばちに冴えてきちゃって、時間が経てば経つほど
意識がはっきりしてきちゃうわけですよ。しまいには目ざまし時計の
針がカチカチいう音が妙に気になったりとか、外を走る車の音が
やたら大きく聞こえたりとかしてきて。
- 379 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:09
- あと、姿勢の問題も大事ですよね。寝るときの姿勢って、だいたい
「あおむけ」タイプと「横向き」タイプと「うつぶせ」タイプの3つに
分けられると思うんですよ。おおかたの人はその3つの中から自分の
睡眠スタイルに合った理想のポジションを見つけるわけですよね。
それで、たぶん「わたしはいつでもあおむけだ」とか「横向き以外で
寝れるか」って人もいると思うんですよ。自分の理想のポジションを
持っている人。
でもわたしはそうじゃないんですよ。「こうすれば眠れる」っていう
特定のポジションがまだ決まってないんですよね。なんというか、
まだ確固とした紺野あさ美のキャラを見つけられてないというかね。
これはどうでもいいか。
- 380 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:09
- だからそうだなあ、たとえばきのうの夜に、ベッドにもぐりこみ
ますよね。おとといは横向きで寝れたんですよ。だからまず横向きに
なってみたわけです。そのまま5分くらいもぞもぞして、どうも
しっくりこないから今度はうつぶせになってみたんです。それでも
うまくいかないから、次はまた横向きになって、こんどはあおむけに
なってみて。そんなこんなで気がついたら1時間くらい平気で
経ってるんですよ。
端から見れば1時間かけて布団の中でぐるぐる回転しているだけ
なんですけどね。でもね、わたしはその日の理想のポジションを
必死に見つけようとしてるんですよ。要するにね、わたしだってね、
これが紺野あさ美だっていうキャラを真剣に探し求めてるんですよ。
今のキャラじゃ長持ちしないってのは自分だってわかってますからね。
日々模索中なんですよ。だからね、空回りしてもアドリブきかなくても
黙って見てやがれってことなんですよ!
- 381 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:10
- すみません、取り乱しました。ごめんなさい。気にしないでくださいね。
話を続けます。
ええとね、いろいろ試したりもしてますよ。ラベンダーの香りのする
お香を焚いてみたり、イルカの鳴き声のするCDを流してみたり、
寝る前にストレッチしてみたり、そばがらヒノキチップ入りまくらを
使ってみたり。
でもあんまり効果はなかったですねー。何かいい感じの安眠グッズ
みたいなのがあったら試してみたいんですけどね。もしお薦めのものが
あったらわたしに教えてくださいね。
- 382 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:10
- ええと、時間だいじょうぶですか?もう1通いけますか?
あ、じゃあもう1通メール読みますね。滋賀県大津市の、
ラジオネームはイタリア代表トンマージさんから頂きました。
- 383 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:11
- 「紺野さんこんにちは」こんにちは。「先週の日曜日に放送された特番、
『モーニング娘。の田舎に泊めてもらおう!』見ましたよ。紺野さんと
小川さんが2人で高知県ののどかな村に行って、民家に泊めてもらって
ましたよね。他にも藤本さん・矢口さんペアや、吉澤さん・新垣さんペア、
高橋さん・田中さんペアが各地に行ってましたけど、ぼくは紺野さんと
小川さんのペアがいちばん面白かったです。何軒も普通に断られて2人で
本気で野宿の心配をしたりとか、小川さんがあぜ道を踏み外して田んぼに
落ちて泥まみれになってしまったりとか、泊まった家の子どもたちのために
2人で即席のユニットを作ってモーニング娘。の曲を歌ったりしたのが
とても印象に残りました。紺野さんはあの番組の収録で何か印象に
残ったことってありますか?」
- 384 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:11
- はいっ。番組を見てもらってどうもありがとうございますっ。
あのー、あの番組って、ほんとにディレクターさん1人しかついて
きてくれなくて、あとは全部わたしとまこっちゃんで何とかしなくちゃ
いけなかったんですよね。
番組見てくれた人は知ってると思うんですけど、やっぱり、最初の
4〜5軒くらいは、わたしたちのことなんか知らないよって言われたり
とかして、泊めてもらえなかったんですよねえ。けっこう大変でした。
- 385 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:11
- なんとか6軒目の家で泊めてもらえたんですけどね。もちろん、
夕食をごちそうになったり、家の掃除を手伝ったり、いろいろおしゃべり
したりしましたよ。
メールにもあるとおり、わたしとまこっちゃんの2人でそこの家の
小学生の姉妹のために、即席のユニットを作って、モーニング娘。
の歌を歌って踊ったりしたんですよ。ええとね、麻琴の「ま」と
紺野の「こ」で「マコ☆モニ」ってユニット。すごく喜んでもらえて、
わたしたちも嬉しかったんですよねえ。
- 386 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:12
- あとね、これオンエアにはのってないんですけど、夜寝る前に、
わたしとまこっちゃんが、こっそり、かけ算の九九が苦手だっていう
妹さんのために、壁貼りの九九の計算表みたいなのを作るところが
あったりもしたんですよ。けっこうがんばって作って、それなりに
いい出来だったんだけど、カットされちゃってたんですよねえ。残念。
- 387 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:12
- ああそうだ、さっきの話と関連するんですけどね、その家では、
わたしたちのためにひと部屋用意してくれて、そこで2人で寝たん
ですよ。で、その部屋にはわたしとまこっちゃんのふとんを並べて
敷いてあるわけですよ、とうぜん。
それでね、九九の計算表を作ってから、もう夜も遅いからってことで、
2人で用意してもらった部屋に行って、寝るしたくをしたんです。
まあここまでは普通ですよね。なんてことない。でもね、それから
わたしがトイレに行って帰ってきたらもうまこっちゃんは寝てるん
ですよ。ぐっすり。熟睡。爆睡。その間1分か2分くらいですよ?
もうね、寝つきがいいなんてもんじゃない。動物なみというか。
- 388 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:13
- それでわたしも隣のふとんに入って早いとこ寝ようとしたんですけど、
案の定というか、ぜんぜん寝れないんですよ。まこっちゃんのすうすう
っていう平和そうな寝息が聞こえて微妙に腹立たしかったりして。
それからしばらくして、あっこれいい感じだ、このまま寝れそうだって
感覚がやっとつかめたときに、まこっちゃんがむっくり起きあがって
トイレに行きやがって、しばらくしてからがぼがぼと水を流す音がして。
あんなの聞いて寝れるかっつうの。それでもう、結局ぜんぜん
寝れなかったんですよねえ。次の日ほんとにしんどかったですよ。
- 389 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:13
- はいっ。そんな感じで、この番組ではリスナーのみなさんからの
おたよりを大募集してます。はがきの宛先は、郵便番号○○○−××××、
△△放送「モーニング娘。紺野あさ美のノーフィアーこんこん」まで。
メールアドレスは、nofear@xxxxxx.com 、nofear@xxxxxx.com です。
どんどんおたよりくださいねっ。
- 390 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:13
-
(ジングルが鳴る。CMが流れる)
- 391 名前: 投稿日:2005/03/19(土) 23:14
-
おわり
- 392 名前:Depor 投稿日:2005/03/19(土) 23:15
- 思いつきいっぱつで、最初から最後までざざざっと書いてしまいました。
書いているときは楽しかったんですけど、出来上がりは…うーん…
ざざざっと読んでもらえたらありがたいです。
- 393 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/03(日) 00:00
- おたより、出してみようかな。
- 394 名前:Johnさん 投稿日:2005/04/13(水) 03:21
- 正規でははじめまして
一気読みしようかとおもったんですが時間が時間なのでやめましたw
Tour de France のみ読ませて頂きました。
空っぽ。だけど自分以上の長さを過ごすメンバーの考えやテンポ、娘って?みたいな感じですかね。ネタバレ怖いんでこのへんで。また読んだら書きます。
では。スレ汚し失礼。
- 395 名前:Johnさん 投稿日:2005/04/13(水) 06:07
- 「ずるやすみ」ですね、すいません。
「パプリカ」
これについてはスルーさせてください。諸事情で。別に大学失敗とかではないですが。
ひとついうならあさ美はだめでも
「ジュマペール」
は可なのかそうなのか。ということですかね。
チョトわらいました。
- 396 名前:Depor 投稿日:2005/04/18(月) 00:13
- >393 名無飼育さん
たぶん紺野さんも1人でのラジオは不安で心細い限りだと
思うので、ぜひおたより、出してみてくださいw
レスはほんとに励みになります。どうもありがとうございます。
またここらへんで更新と一緒にレス返ししたかったのですが、できず…。
時間があればぜひまた、のぞいてみてください。
>394、395 Johnさん
拙い文章に最初の方から目を通してもらって、レスまでしてもらえたのは
嬉しい限りです。どうもありがとうございます。
書いた本人が言うのもなんですが、「ずる休み」は深いところ
まで考えて書いたわけじゃないんですw
でも、言われてみればそういう話でもあるかもな、と思わず
うなずいてしまいました。なるほど。
- 397 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:31
-
「4月のある日」
- 398 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:32
- 別れた恋人と駅の改札口で会った。彼女は仕事の帰りで、私は大学の
帰りだった。
「やあ梨華ちゃん」と彼女は言った。彼女の家は私鉄の線路をはさんで
私の家の反対側にある。「久しぶりだね」
「久しぶり、よっすぃー」と私は答えた。
- 399 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:32
- 彼女は少しの間、黙って私をじっと見つめた。ややあって、彼女は口を
開いた。「あのさ、時間あったら、ちょっとだけつきあってくれない?」
私は腕時計を見た。7時半。「いいよ」と私は答えた。
彼女と私は並んで改札口を出た。きっぷ売場と売店の前を通りすぎて、
駅の構内を出た。日は少し前に暮れていて、ひんやりとした風が
吹いていた。横断歩道の手前で、派手な色をしたウインドブレーカーを
着た人たちがインターネット接続契約の勧誘をしていた。駅前広場の
街灯の下では、ストリート・ミュージシャンがどこかで聞いたことの
ある歌を歌っていた。ファーストフード店の前に高校生が何人か
たむろしていて、楽しそうに話をしていた。
- 400 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:32
- 私たちは横断歩道を渡って、駅前の小さな商店街に向かった。
商店街はそれなりのにぎわいを見せている。ゴールデンウィーク中に
ちょっとしたお祭りがあるらしくて、その告知ポスターがいたる
ところに貼られていた。
商店街の一角にひとつだけシャッターが下りたままの店舗があった。
先月いっぱいで閉店してしまった書店だった。私はその前で足を止めた。
- 401 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:33
- 「ねえよっすぃー」と私は言った。「この本屋さん、3月の終わりで
閉まっちゃったんだよ。知ってた?」
「あ、そうなんだ」と彼女は言った。知らなかったみたいだ。
彼女はあまり本を読んだりするタイプじゃないから、知らなくても
不思議はない。
「私、この本屋さんによく行ってたんだよね。よっすぃーはここ
使ってた?」
「いや、あんまし」彼女は興味なさげに答える。
- 402 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:33
- 私は下りたままのシャッターに白い紙が貼られているのに気づいた。
閉店のあいさつ文だった。
当店は、3月31日の営業をもちまして、閉店することとなりました。
当地における、13年もの長期にわたるご愛顧のほど、まことに
ありがとうございました。
××書店 店長
13年。私は心の中でつぶやく。13年。
- 403 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:34
- 私たちは商店街のはずれにあるやきとり屋に入った。狭くて
目立たなくて地味な店なのだけれど、安い値段でそれなりに美味しい
やきとりを出してくれる、彼女のお気に入りの店だった。
店の端のテーブル席につくなり、彼女はメニューを開いて、てきぱきと
私のぶんまで注文をしてくれる。中ジョッキに、ウーロン茶。おすすめ
やきとりの盛り合わせ。いくつかの一品料理。彼女はこういう場所では
いつもしっかりと仕切ってくれる。私は何もしなくてもいい。
- 404 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:34
- ほどなくして、ビールの入ったジョッキとウーロン茶の入った
グラスが運ばれてきた。彼女はにっこりと笑ってビールジョッキを
持ち上げる。そして言う、乾杯。
しばらくはあたり障りのない話が続く。
彼女は会社の仕事の話をする。折り合いの悪い上司の話に、
出来の悪い後輩の話。でも仕事そのものにはやりがいを感じている。
今日はたまたま早上がりだったんだけど、いつもはけっこう遅くまで
残業してるんだ。日付が変わる前にうちに帰れたらいいい方だよ、うん。
まあでも、忙しいことは忙しいけど、土日はしっかり休めるし、
仕事はすげえ楽しいから。
彼女は自信と確信に満ちあふれているように見える。
- 405 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:34
- 私は大学院でのできごとについて話す。
私の所属する研究室が中心となって夏にシンポジウムを開催することに
なっているので、その準備でそこそこ忙しいことについて話す。
私を指導する女性教授がけっこうなヒステリー持ちで、たまにこっちが
引いてしまうような言動をすることについて、できるだけ面白おかしな
口調で話す。
私は自分のしていることにそれほどの自信も確信も持てていない。
- 406 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:35
- 彼女の前に4杯目の中ジョッキが置かれて、私が3杯目のウーロン茶を
注文した頃に、彼女は言う。
「ねえ、うちらどうして別れちゃったんだろう」
私は答える。「何言ってるの、あなたが私を振ったんでしょう」
彼女は困ったように頭をかく。「いやうん、たしかに別れ話を持ち
出したのはあたしだけど、でも」
- 407 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:36
-
彼女の言いたいことはわかる。
彼女が言いたいのは、誰が別れ話を切り出したかとか、どっちが
浮気したかとか、そういうことではない。もっと別のことだ。
- 408 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:36
- 以前の私たちは、まわりから冷やかされるくらいに仲の良いカップル
だった。ほとんど一心同体みたいだねと言われたこともあった。
自分たちでもそれはよくわかっていた。彼女は私にとって必要不可欠な
存在だったし、彼女にとっても私は必要不可欠な存在だった。
私は彼女の表情を見るだけで、彼女が考えていることが手にとるように
わかったし、たぶん彼女も私の表情を見るだけで私の考えていることが
わかったんだろうと思う。私たちはあたたかくてやわらかくて心地よい
親密な空気のかたまりを共有していた。私はそれをしっかりと感じ取る
ことができた。でもそれはあるときふっと消えてしまった。
- 409 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:37
- 彼女が言いたいのは、あの親密な空気のかたまりが消えてしまった
のはどうしてだろうということだ。
でも私にはどうしてそれが消えてしまったのかなんてわからない。
とにかく、2人の間には溝ができてしまったのだ。そうとしか
言いようがない。その溝は最初は目に見えないくらいに小さいもの
だったけれど、やがて少しずつ大きくなっていった。気がついたとき
にはもう二度と渡ることができないくらいに暗くて深くて大きな溝が
2人の間を隔てていた。たくさんのものがその中に飲み込まれていった。
- 410 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:37
- 口をつぐんだままの私を彼女は何か言いたげな目で見ている。
そして彼女は言う。「ねえ梨華ちゃん、何か言ってよ」
でも私は困ったように微笑むことしかできない。
私がどんな言葉を口にしても、それは暗くて深くて大きな溝に
飲み込まれていくだけのような気がする。
「何か言ってくれなきゃわかんないよ。別れようって言ったときも
梨華ちゃんそんな風だったじゃん。あたし、梨華ちゃんに何か言って
ほしかったんだよ」
彼女の声は少し大きくなっている。
「どうしてうちら、別れなくちゃいけなかったんだよ」
- 411 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:38
- 私は何も言うことができない。私は2人の間を隔てる暗い虚空を
見つめている。
「ごめん」と彼女は言う。「あたしがこんなこと言えた義理じゃ
ないよね。だってあたしが悪いんだから。なんかあたしが梨華ちゃんを
責めてるみたいだ。ほんとは逆なのにね。ごめん」
私はそんなことないよ、こっちこそごめん、と言う。
それから、言いたいことがあるのにわざと黙ってるわけじゃなくて、
何か言いたいんだけどうまく言葉にすることができないの、
と正直に言う。彼女は肯いてくれる。
それから彼女は話題を変えた。大学時代の共通の友だちの話や、
今も週末に続けているフットサルの話。無難で楽しくて、誰も傷つく
ことのない話だ。
- 412 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:38
- じゃあ、そろそろ行こう、と彼女は言って、さっと伝票を手に取って
立ち上がった。彼女はいつもほどよい切り上げどきを知っている。
とてもスマートな人なのだ。
私たちはやきとり屋を出る。彼女はじゃあまたね、と言って去っていく。
私はじゃあね、と答えて彼女の後ろ姿を見つめる。
- 413 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:39
-
私はひとりで来た道を戻る。
商店街はしんと静まり返っている。街灯の青白い光が路上に転がって
いるコンビニのビニール袋を照らし出していた。道の向こう側から
会社帰りとおぼしき背広姿のサラリーマンがやって来て、すれ違って
いった。その足どりはいかにも重そうに見えた。暗い夜空には
ぶ厚い灰色の雲が広がっていて、月は雲に隠れて見えなかった。
- 414 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:39
-
私は例の閉店した書店の前で立ち止まった。光のかげんなのか、
灰褐色のシャッターに貼られている閉店のあいさつ文は妙な具合に
浮き上がっているように見えた。
このシャッターは先月の終わりからずっと固く閉じられたままなんだ、
と私は思う。
- 415 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:39
- この本屋さんは、できたばかりの頃は本当にきれいでひろびろと
してたよな、と私は思った。実際のところはそんなに大きな書店では
なかったのだけれど。私はその頃まだ子どもだったから、それでよけいに
広く見えたのかもしれない。あと、なんだか独特なにおいもした。
できたての本屋さんだけが持つにおい。私はそのにおいも好きだった。
その頃、私はしょっちゅうこの本屋さんに遊びに行っていた。
よくマンガを買ったし、雑誌を立ち読みしたりもした。
新刊のハードカバーの本が店の前にずらっと並べられてるのを
ながめるのも楽しかった。
- 416 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:40
- この本屋さんで、生まれてはじめて活字がぎっしりつまった本を
自分のこづかいで買ったのをよく憶えている。「赤毛のアン」の
文庫本だった。中学2年の終わりか、中3の頃。
そのとき、なにかひとつ大人になったような気がした。階段を1段
とんと登ったような気がした。それまで見たこともなかったような世界が
ちらっと見えたような気がした。胸がわくわくして、どきどきした。
今から思えば、ちょっとだけブンガクちっくな文庫本を、たった
1冊買っただけなのだけれど。
- 417 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:40
-
ねえよっすぃー。私は心の中で別れた恋人に話しかける。
この声が遠く離れた溝の向こう側にいる彼女に届けばいいなと思う。
この本屋さんは、昔はほんとに明るくてきれいでひろびろとしてたんだ。
私はこの本屋さんが、とても好きだったんだよ。
- 418 名前: 投稿日:2005/04/22(金) 19:41
-
おわり
- 419 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:37
-
「歯医者の予約」
- 420 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:37
-
(トゥルルル、トゥルルル)
- 421 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:38
-
――はい、もしもし。
あのすみません、飯田といいますが、診察の予約をしたいんです。
――……。
右の奥歯の詰め物が取れてしまったんですよ。なので、できるだけ早く
診察をお願いしたいんです。今日これからでもいいんですけど。
――……。
もしもし?聞こえてます?○○歯科医院さんですよね?
- 422 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:39
- ――あの、すみません、うち歯医者じゃないんですよ。ふつうの家です。
かけ間違いじゃないかと思うんですけど…。
あ、ごめんなさい……でも本当?私は3***−****にかけたんだけど。
――あれ、変ですね、たしかに3***−****はうちの番号です。
ちゃんとこの電話帳に、「○○歯科医院、3***−****」って
書いてあるんだけどな、おかしいな。ところであなた学生さん?
声がずいぶん若そうなんだけど。
――えっ、わたしですか?……はい、あの、高校生です。
- 423 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:39
- いま平日の午前中でしょう。学校に行かなくていいの?
――えっ、その、先週の終わりからずっと風邪引いてるんです。
熱がなかなか引かなくて。だから今日は学校を休んで家にいるんです。
ご家族の方はいるの?
――いえ、いないです。お母さんは出かけてて……。
ひとりでお留守番ってわけね。じゃあ今はヒマなのね?
- 424 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:40
- ――あのすみませんけど、うちは歯医者さんじゃないし、これで…。
ねえ聞いて。カオリはね、いま歯が痛いの。きのう仕事の休憩時間に
社員食堂でガム噛んでたらね、なんだかがりがりする小さな粒状のものが
混ざってたのよ。でもそのときはどうせ粒々のミント的なものが入ってるん
だろうと思って放っておいたの。そういうガムってあるじゃない?
だけどね、その後気がついたら右の上の奥歯にぽっかり穴が空いちゃってる
わけ。歯につめてた白い詰め物がガムにくっついて取れちゃったのね。
- 425 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:40
- 鏡に映したらしっかり穴が空いてるのが見えたわ。ねえわかる?
歯に穴が空いてるのを見ると、なにか不吉な気持ちになるのよね。
どこかで何かが間違ってるって感じがするの。
それでね、水を飲んだりしたら、やっぱり穴の空いたところがしみるのよ。
ものを食べるのもひと苦労よ。きのうは遅番だったから夕ご飯も
デパートの社員食堂で食べたんだけど、右側の歯で噛んだりできないのよ。
ハンバーグもコーンスープもぜんぶ口の左側に押し込むしかないの。
噛むっていうより、もしゃもしゃ押しつぶすって感じよね。ものを食べてる
感じがしないわよこんなの。馬鹿みたい。まったく、ろくなもんじゃないわよ。
- 426 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:41
- だいたいね、カオリはね、1日3回、食後3分以内に必ず歯みがきしてるのよ。
あ、あなたそんなのはあたり前だって思ったでしょう、いま。でもね、カオリは
歯みがきの後に、10分くらいかけてデンタルフロスを使って、歯と歯の間の
食べかすもそうじしてるのよ。上も下も、全部の歯と歯の間。
知ってる?歯みがきだけじゃ食べかすの4割くらいしか除去できないん
ですって。デンタルフロスを使ってやっと8割なんですって。
しかもマツキヨあたりで50本300円のまとめ売りしてるフロスじゃ
ないのよ。ちゃんと先っぽがY字型になってる高いフロスを使ってるのよ。
それで毎日毎日朝昼晩ってご飯の後に歯と歯の間をきゅるきゅるやって、
それでも虫歯になっちゃうのよ。ガム噛んだら白い詰め物が取れちゃうのよ。
やってらんないよカオリは。
あなたデンタルフロスは使ってるの?
- 427 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:42
- ――いえ、わたしは歯みがきだけで……。
虫歯はないの?
――いえ、ないです。
きっと歯と歯の間に虫歯ができてるわよ、それ。こんど歯医者さんに行って
診てもらいなさいよ。
――……はい。
- 428 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:42
- ねえ、歯の痛みって、人間にとっていちばん耐えがたい痛みのひとつなのよ、
知ってた?
前にある話を読んだことがあるの。ブックオフで100円で買った文庫本の
中に入ってた話なんだけど。
南米のある都市が舞台でね、そこではゲリラが2つに分かれて激しく
争ってるの。でもその街には歯医者が1つしかないのね。まあしょうがない
わよね、そんなに大きな都市でもないから、そこは。
でね、そこの歯医者と対立している組織のリーダーが虫歯になっちゃった
のよ。でもその歯医者に行くわけにはいかないじゃない?戦ってる相手なん
だものね。それでしばらく我慢するんだけど、虫歯はどんどん進行していくわけ。
右の頬がぼっこり腫れてきて髭も剃れなくなるし、歯が痛くて痛くて眠ることも
できなくなって。
- 429 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:43
- もうたまらなくなって、そのリーダーは歯医者に押しかけたのよ。
歯医者は最初居留守を使ったんだけど――だってそのゲリラのリーダーは
歯医者の仲間を何人も殺してるんだものね、治療なんてしたくないわよ――、
リーダーは無理やり診療所に押し入って、歯医者に銃を突きつけて、
「頼む、虫歯を抜いてくれ」って言って、治療させたのね。
歯医者は仕方なく虫歯を抜くの。まあ銃を突きつけられたらそうするしか
ないわよね。
- 430 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:43
-
だけど、歯医者はひとつだけ殺された仲間たちの復讐をするの。
虫歯を抜くときに、麻酔を使わなかったの。
ねえ、想像してみてよ。夜も眠れないくらいに痛くて腫れた虫歯を、
麻酔を使わずに抜くのよ?ちょっと信じられないくらいの痛さでしょうね。
- 431 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:44
-
カオリはそんな風にはなりたくないのよ。だからさっさと歯医者に行って
詰め物を詰め直してもらいたいの。わかる?紺野あさ美さん。
――はい。
……えっ、どうしてわたしの名前を知ってるんですか?
- 432 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:44
-
どうしてだろう。
――……。あなたは、誰なんですか?
- 433 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:45
-
私?
私の名前は飯田圭織。23歳。デパートに勤めてる。××百貨店の本店の
婦人服第一部ってとこ。デパートなんてね、もうとっくの昔に成長終わっ
ちゃって伸びようがない業種なんだけどね。毎日ずっと立ちっぱなしだから
足も疲れてしょうがないし。でも私はわりと好きなんだ、デパートで働くのが。
――……。
そしてあなたは紺野あさ美。18歳。ちょっと前に誕生日を迎えたばかり。
きょう学校を休んで家にいることはたしかだけど、それは風邪をひいてる
からじゃない。学校を休んでいるのはもっと違う理由。そうね?
- 434 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:46
-
――あなた……うちの学校の人?
さあ。
いま言ったけど、私はただのデパートの店員で、歯医者の予約をしたくて
電話をかけただけ。あなたの高校の関係者でもなんでもないわ。
でもカオリはひとつだけあなたに言いたいの。
ちゃんとしっかり、学校に行った方がいい。
もちろん友だちにも、先生にも謝る必要なんかないわ。だってあれは
誰がどう見たってあなたが正しいんだから。
- 435 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:46
- もしかしたらあなた学校で孤立してしまうかもしれないわね、あなたが
いま思い悩んでいたように。明日学校に行ったところで、誰もあなたに
話しかけてくれないかもしれない。あなたが話しかけたとしてもみんなから
無視されてしまうかもしれない。
でも、あなたがこの前したことは、誰がなんと言おうと正しいことよ。
だから胸を張って学校に行きなさい。あなたは正しいことをしたんだから。
- 436 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:46
- あのね、誤解してほしくないんだけど、高校なんて行きたくなかったら
行かなくたっていいのよ。別に無理してまで行くものじゃない。私だって
ろくに行かなかったんだもの。
友だちだってね、そりゃ友だちは大事だけど、ほんとうにいざとなったら
交友関係なんてちゃらにして、新しい友だちを作ればいいのよ。
ご破算に願いましては、ってやつよね。あなたそろばんやったことある?
- 437 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:47
-
でも自分自身についてはご破算に願いましては、なんてできないわよね。
ねえ紺野あさ美さん、誰も自分から逃げることはできないのよ。
フィリップ・マーロウだってそう言ってる。カオリはね、高校の単位だとか、
友だちとの関係とか、そんなことを言ってるんじゃないの。そんなのは
どうでもいいことなのよ、さっきも言ったけど。
でもこのままずっと高校に行かなかったら、あなたは自分というものを
見失ってしまうことになる。もちろんあなたはまだ18なんだから、取り戻す
ことはいくらでもできるでしょう。ただ余計な時間がたくさんかかってしまうし、
回り道だってしなくちゃいけなくなるでしょうね。
ずっと家にいてうじうじ考えこんでいたって、何も解決しないわ。
だから、明日から学校に行きなさい。がんばりなさい。あなたは決して
間違ったことをしているんじゃないんだから。
- 438 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:47
-
――あなたはいったい、誰?どうしてそんなことまで知ってるの?
さっきも言ったけど、私はただのデパートの従業員。
毎日クレームの応対と在庫確認とレジ誤差と現場のことをちっとも
考えない上司と夏のクリアランスのフロア配置に悩んでて、右の上の奥歯に
穴が空いて歯医者に行こうと思ってる、ただのデパートの従業員。
――……。
- 439 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:48
-
それじゃ、この○○歯科医院の次に書いてある歯医者さんに電話してみるね。
こんどは間違い電話じゃないといいんだけど。
紺野あさ美さん、あなたと話せて楽しかったよ。じゃあね。
- 440 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:49
-
(ツー、ツー、ツー、ツー)
- 441 名前: 投稿日:2005/05/29(日) 19:50
-
おわり
- 442 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:26
-
「がきやぐ」
- 443 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:26
- 1
向かいの家に真里さんの一家が引っ越してきたのは、理沙が幼稚園に
入った年の4月のことだった。真里さんは理沙よりも5歳ばかり年上で、
そのとき小学4年生だった。とても小柄な人で、理沙は真里さんに最初に
会ったときに(引っ越しのあいさつに来たときだった)、もしかしたら
同年代の子かなと思ってしまったくらいだった。
理沙は人見知りをする内気な子だったから、友だちを作るのが苦手だった。
からかわれるとすぐに泣いてしまったし、それでよけいにいじめられる
ことも多かった。
でも理沙は真里さんとはすぐに仲良くなった。真里さんは5歳年下の
女の子をいじめたりするような人ではなかったし、明るくて活発で
面倒みのいい性格をしていたから、すすんで理沙と一緒に遊んでくれた。
- 444 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:27
- そんなわけで、幼稚園に通っている間は、理沙はしょっちゅう向かいの
真里さんの家に遊びに行った。真里さんは転校した小学校でもたくさん
友だちを作っていたから、毎日遊ぶことができたわけではなかったけれど、
それでも遊べるときは嫌な顔ひとつしないで理沙の相手をしてくれた。
理由はよくわからなかったけれど、真里さんも理沙のことが気に入って
くれたみたいだった。もしかしたら、理沙が真里さんをやさしいお姉さん
のように思ってなついていたように、真里さんも理沙のことをかわいい妹
のように思ってくれていたのかもしれなかった。
- 445 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:28
- 2
真里さんはTVゲームが好きだったから、真里さんの家ではよく2人で
ゲームをして遊んだ。「ぷよぷよ」とか「ドクターマリオ」のような、
落ちもの対戦ゲームをすることが多かった。ゲームをしているときの真里
さんの表情は真剣そのもので、5歳年下の理沙が相手でも手加減や手抜きを
することが一切なかった。自分が勝つと上機嫌になって、理沙に慰めの
言葉をかけながら、冷蔵庫から氷を持ってきて口に放りこんで、ばりばりと
音を立てて噛んだ。その一方で、たまに理沙に負けるとものすごく不機嫌に
なった。やたらと無愛想になって、ひとことも口をきかなくなるのだ。
そんなときは理沙を見る目つきまで悪くなった。TV画面の上の方で肩を
すくめるドクターマリオも鋭い視線でにらみつけられた。
- 446 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:29
- 3
2人で外に遊びに行ったこともあった。
夏の終わりのある日の夕方、「たんけん」と称して、理沙が通っていた
幼稚園の裏山に登ったときのこと。
その裏山はまだ宅地開発の手が伸びていない一帯にあって(その数年後
にはしっかりと造成されてあとかたもなくなったのだが)、幼稚園の
女の子が登るには少しばかり危険で険しい斜面もある小さな山だった。
それでも、くぬぎやかしの木がうっそうと茂った暗い山道の斜面を、
(ときおりずるりと滑りながら)理沙は真里さんの後について登って
いった。「たんけん」の必需品だと言って真里さんが家から持ってきた、
冷たい麦茶の入った大きな魔法瓶が、真里さんの小さな背中で揺れていた。
- 447 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:30
- 30分くらいかけて、理沙と真里さんは無事に裏山の頂上に着くことが
できた。「ほら、見てごらん」と言って、真里さんが頂上からの眺望を
指し示してくれた。理沙は目を見張った。
そこからは、理沙が住んでいる地域を一望することができた。
同じような形と屋根をした建売住宅地がどこまでも広がっていた。
幼稚園は近くにありすぎて見えなかったけれど、真里さんの通っている
(そしてその1年半後から理沙が通うことになる)小学校の校舎と校庭が
小さく見えた。少し離れた場所では、公団住宅が一列に並んでいた。
変電所の隣に鉄塔が立っていて、そこから電線があちこちに向けて
伸びていた。左手の奥の方には幅の広い川が流れていて、鉄橋の上を電車が
走っていた。はるか彼方には高い山が連なっているのがうっすらと見えた。
- 448 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:31
- そして、それらの何もかもが、今まさに沈もうとする夕陽に照らし
出されていた。小型模型のような建売住宅の群れも、小さなドミノの
ように整然と並んでいる公団住宅も、ゆったりと流れる川の表面も、
地平線の奥に浮かぶ山脈も、あらゆるものが濃いオレンジ色に染まって
きらきらと輝いていた。まるでよく熟したオレンジの果汁を上空から
めいっぱいぶちまけたような光景だった。なんてきれいな景色なんだろう、
と理沙は思った。
どこにでもある郊外のベッドタウンの夕暮れの光景ではあったけれど、
その景色はそれからも長い間理沙の心に残った。このときに見た景色を
思い出すたびに、理沙の心はわけもなくぎゅっと締めつけられるように
痛んだ。
- 449 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:31
- 4
理沙が小学1年のとき、ある雨の降る水曜日のこと。
水曜日の4時間目は、レクリエーションの時間だった。その時間には
教室に6年生が交替で来て、担任の先生にかわって簡単なゲームをする
ことになっていた。
その日理沙のクラスに来た数人の6年生の中には、真里さんがいた。
- 450 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:32
- 真里さんは教壇の上に立って、これから行うゲームの説明をした。
6年生がクイズを出します。答えがわかった人は元気よく手をあげて
ください。2問正解した人にはとくべつな景品をあげます。
真里さんは他の6年生の誰よりも背が低かったけれど、ぴんと背筋を
伸ばして、他の6年生の誰よりも堂々と喋っていた。そんな真里さんを
見て、理沙はなんだか誇らしい気持ちになった。
理沙は引っこみ思案で遠慮がちな小学生だったから、ふだん自分から
手を上げたりすることはまずしなかったのだけど、その日は別だった。
はりきってクイズに答えた。率先して手を上げた。はい。はい。
- 451 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:33
- そのせいか、理沙は途中から4問連続してクイズに答えることができた。
べつに真里さんにひいきしてもらったわけでもなんでもない。たまたま
理沙が聞いたことのある問題が続けて出たのだ。
4問目のむずかしい問題の答えを聞いて、真里さんがにっこり笑った。
「あたり。これで4問正解だ。新垣さん、すごいね」
すると、教室の他の生徒が騒ぎ出した。「ひとりでこんなに答えて、
たくさん景品をもらうなんておかしい。ずるしたんじゃないの」と誰かが
言った。「ずるなんてしてないよ」と理沙は言った。けれど、「ずるだ、
ずるだ」という声は教室中に広がっていった。それを聞いて、理沙は
泣き出してしまった。
- 452 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:33
- 「やめなさい」凛とした声が教室に響いた。真里さんの声だった。
教室のざわめきがぴたりと止んだ。
「新垣さんはずるなんてしてない。ちゃんとクイズに答えただけ。
ひとりにつき景品は1つずつとも言ってなかったでしょう」真里さんは
そう言って、教壇から下りて理沙の机の前までやって来た。
そしてスヌーピーの柄がプリントされたトランプのカード一式と、
あさがおの押し花を置いた(理沙はその後、大学生になって引っ越しを
するまで、このトランプと押し花を大事に持っていた)。
「だから、このトランプと押し花は新垣さんのもの」
- 453 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:34
- チャイムが鳴って給食の時間になってから、理沙は廊下で真里さんに
呼び止められた。
「ねえ理沙ちゃん、泣いちゃだめだよ。ああいうこと言われてもね、
ぐっとこらえて、しっかり前を見て、胸を張るの」と真里さんは言った。
「下を向いたらだめなんだ。理沙ちゃんはちっとも悪くないんだから。
大勢でぐちゃぐちゃ騒いだりする方が悪いんだから」
- 454 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:35
- 5
真里さんは私立の中学を受験して、少し離れたところにある中学校に
通うことになった。かなり有名な名門の私立校らしかった。朝の早い
うちに家を出て、夕方近くに帰るようになったので、理沙が真里さんと
顔を会わせる機会は自然と少なくなった。
もちろん、なにかの拍子で真里さんとすれ違えばあいさつをして、
ときには長い間立ち話をしたりもした。でもその回数や頻度はぐっと減った。
理沙は真里さんのかわりに、小学校の友だち(数は決して多くはなかった
けれど)とよく遊ぶようになった。
それはある意味では当然のことだったのかもしれない。中学生になった
近所のお姉さんに、いつまでもべったりくっついているというのも
おかしな話なのだから。
- 455 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:35
- 6
理沙はいちど、真里さんの彼氏(らしき人)を見かけたことがある。
区立の図書館に借りていた本を返しに行ったときのことだった。
図書館の駐輪場に自転車を停めた後、理沙は何の気もなしにつばきの
植えこみの向こうにある公園をのぞいてみた。中学校の制服を着た
小柄な女の子が、噴水の手前にあるベンチに座っているのが見えた。
真里さんだった。懐かしさにかられて、理沙は声をかけようとした。
でもそのとき、真里さんの隣に、詰襟の学生服を着た人が座っている
ことに気がついた。植えこみごしに見ただけだから詳しい様子はよく
わからなかったけれど、背が高くて、ハンサムで、感じの良さそうな人
だった。真里さんはその人と楽しそうに話をしていた。
理沙は黙って自転車のかごから借りていた本を取り出すと、公園の
ベンチに座っている2人に見つからないように、こっそりと図書館の
入口に向かった。
- 456 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:36
- そのとき理沙はもう小学校の高学年になっていたから、真里さんに
彼氏の1人や2人がいたって少しもおかしくないということくらいは
わかっていた。
でも現実に真里さんが自分の知らない人と親密そうにしているのを
見ると、5センチくらいの小さな矢が胸に刺さったような気分になった。
そしてその矢の刺さったところから、説明のつかない嫌な気持ちが
身体中に広がってきた。
わたしが真里さんの知らない新しい友だちと遊んでいるように、
真里さんも真里さんしか知らない新しい世界に足を踏み入れているんだ。
そしてそこにはわたしは含まれていないんだ。
そう理沙は思った。
- 457 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:36
- 7
理沙が小学5年生の夏に、真里さんの一家は引っ越しをした。
何の前ぶれもなかった。ある朝起きたら真里さんの家には誰もいなく
なっていたのだ。
詳しい理由を知ることはできなかった。ただ、その後なにかの折りに
両親が話しているのをこっそり聞いたところによれば、この突然の
引っ越しは、真里さんの父親の事業がうまくいかなくなったことと
関連しているようだった。
- 458 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:37
- もちろん理沙は突然真里さんがいなくなってしまったことにショックを
受けた。でもそれはひどく落ちこんでしまうほどのショックではなかった。
真里さんは理由もなく黙ってどこかに行ってしまう人じゃない、と
理沙は思った。きっとやむをえない事情があったんだ。
ひと月ほどすると、どこかから建築業者がやって来て、真里さんの
住んでいた向かいの家は取り壊された。その後しばらくしてから、
そこには新しい家が建ち、新しい隣人がやって来て住むようになった。
- 459 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:37
- 8
真里さんがいなくなっても、理沙の生活はあまり変わらなかった。
理沙は毎日小学校に通って、やがて中学生になった。中学校ではバスケ部
に入部して、身体をよく動かすようになった。仲の良い友だちもどんどん
増えていった。そのせいか、以前のように同級生からいじめられたりする
こともなくなった。
理沙の机の引き出しの中には、小学1年のときにクイズの景品として
真里さんからもらった、スヌーピーの柄がプリントされたトランプと
あさがおの押し花が大事にしまいこまれていた。
ときおり(雨の降る夜のことが多かった)、理沙は机の引き出しの中から
トランプと押し花を取り出して、机の上にそっと置いた。いすの背もたれに
もたれかかって、両手を頭の後ろで組んで、スヌーピーの絵柄と色のあせた
あさがおをじっと見つめた。
そして真里さんはいまどこで何をしているんだろうと思った。
- 460 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:38
- 9
理沙が次に真里さんに会ったのは、それから7年後、日が長くなった
4月のある日の夕方だった。理沙は高校2年生になっていた。
高校から自宅に帰ってきたところだった。理沙はガレージに自転車を
停めて、郵便受けに入っている夕刊やら郵便物やらを確認した。
そしてただいまという声とともに玄関の扉を開けようとしたときに、
後ろから声をかけられた。「理沙ちゃん」
振り向くと、真里さんがいた。理沙は息を飲んだ。
- 461 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:38
- 7年ぶりに見る真里さんは以前とはぜんぜん違う人に見えた。
相変わらず背は低いままだったけれど、かなりやせたようで、ずいぶん
ほっそりとして見えた。髪の毛は派手な金色に染められていて、服装は
洗練されていた。とてもあか抜けた感じがした。でも同時に、どこか
疲れているようにも見えた。
「真里、さん」
「久しぶりだね」真里さんはくすくすと笑った。笑い方は以前と
まったく変わっていなかった。「憶えてる?」
- 462 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:39
- 「久しぶり――っていうか、どうしたんですか?」
「理沙ちゃん、キレイになったねー、ほんと。前はオデコをこんなに
出してさあ」真里さんは前髪を手で上げて、自分のおでこを出してみせた。
「ほんとに、お豆みたいにくりくりしてたのに」
「真里さんも、だいぶ…変わった」
「そう?」真里さんは首をかしげた。それからにこっと笑って言った。
「あのさ、あたし、結婚するんだ」
- 463 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:39
- 「――結婚?」
「そう。結婚。だからさ、いちおう理沙ちゃんには言っておかなきゃ
と思って」
「――お、おめでとうございます」理沙はかろうじて声を出した。
いきなり7年ぶりに現れて、結婚を報告されても、何をどう言っていい
のかわからない。
「ありがと」真里さんは言った。「それだけ、言いたかったんだ。
じゃあ、またね」
真里さんはくるりときびすを返した。
- 464 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:40
- 理沙は慌てて、歩いていく真里さんに声をかけた。
「ちょ、ちょっと、真里さん」
「ん?」真里さんは振り向いた。それから微笑んで手を軽く上げた。
「ごめーん、ちょっと急いでるんだよ。また今度、詳しく話すからさあ」
そして真里さんの背中は、夕暮れの住宅街の中に消えていった。
- 465 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:40
- 理沙はかばんと夕刊を手に持ったまま、何かに打たれたようにその場に
立ちすくんでいた。そして、なぜだかよくわからないけれど、わたしは
もう二度と真里さんと会うことはないんだろうなと思った。
日はすっかり暮れて、空は冷たい水色に染まっていた。
- 466 名前: 投稿日:2005/06/15(水) 00:41
-
おわり
- 467 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 00:19
- 今回もすごく引き込まれました。
たんけんの描写が自然と目に浮かんでオレンジが綺麗だった。
このお話、ひょっとしたらホームレスのお話以上に好きかもしれません。
- 468 名前:Depor 投稿日:2005/07/07(木) 22:23
- このスレを読んでくださっている方がどれだけいらっしゃるのか
わからないのですが、お詫びです。
上の「がきやぐ」で、新垣さんの名前を「理沙」にしてしまってます。
どういうわけか、「里沙」ではなく「理沙」だと思いこんでいました。
本当に情けないというか、初歩的なミスです。穴があったら入りたいくらい。
どうもすみませんでした。
- 469 名前:Depor 投稿日:2005/07/07(木) 22:24
- >467 名無飼育さん
「たんけん」のところは、情景をなるべく目に見えるように
書いてみたいなと思って書いたので、こんな感想を頂いて
本当に嬉しいです。どうもありがとうございます。
ホームレスの話も気に入ってもらえてようで……。
あの話は、自分でも思い入れがあるので、とても嬉しいです。
次の更新のメドはまったく立ってないんですが、よければまた
目を通してみてください。もう名前を間違えるなんてミスは
しないように気をつけますので……
レスどうもありがとうございました。
- 470 名前:名無し飼育子さん 投稿日:2005/07/23(土) 02:22
- 一気に読ませて頂きました。
なんて言えばいいか言葉が見付かりません。
本当にすばらしいです。
ホームレスの話は舞台が地元なもので思い切り入り込んで読んでしまいました。
次回更新楽しみにしてます。頑張って下さい!!
長々とすみません…
- 471 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 02:46
- 間違い電話の話が印象に残りましたv
- 472 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 21:58
-
「コッカトリスの目」
- 473 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 21:59
- えっ。またですか。保田さん、また別れたんですか。ああっ、暴れないで
ください。つき出しの皿がひっくり返りますって。あと周りの人が見てます
保田さん。うちら注目浴びてますよ。悪い意味で。
あ、すいませーん、この京野菜と豆腐の新鮮サラダってやつと、ほくほく
コロッケと、湯葉巻きチーズ揚げ、お願いします。あと、こちらに生中もう
1杯と、あたしはこの、カロリーハーフのビールを。
- 474 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 21:59
- へっ。吉澤どう思うって言われても。わかるわけないじゃないですか。
でも保田さん、この前も言いましたけど、つきあう男を間違えてるんですよ。
あたしが言うのもなんですけど、話聞くかぎり大した男じゃなさそうですよ
そいつ。別れようって言っただけでぎゃんぎゃん泣き出すなんてね。
そんなやつと長続きしたってろくなことにならないですよきっと。
もうちょっとばしっとした態度の男とつきあった方がいいですって。
ああそれから、もう半分以上諦めてますけど、吉澤は女たらしで危険だから、
気を抜いてふらふら近づくと食われるぞとか新入社員の女の子に耳打ちするのは
いい加減やめてくださいよ。男の社員から誘われなくなっただけじゃなくて、
後輩の女の子からもなんか遠巻きにこそこそ見られてる気がしてしょうが
ないんですよ、最近。針のムシロっていうんですかね、そんな気分になり
ますよ。たまんないですよ。
- 475 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:00
- お、さっそくほくほくコロッケ来ましたよ、どうぞ。たしかにほくほく
してますね。さすが、本日のおすすめメニューに載ってただけありますよね。
ねえ店員さん、このコロッケって何かソースみたいなのを上にかけたり
するの?あ、そのままでいけるんだ。どうもありがとう。
- 476 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:01
- ……アンタあの店員の女の子にさっき名刺渡してたでしょって、やや保田
さんどこから見てたんですか。お手洗い行ってたんじゃないんですか。
あのそのええとですね、この店よく中澤係長と来るんですよ。で、いつも
けっこう遅い時間に女2人で来て、そのくせがばがばビール飲んで、ひとりは
関西弁で大声で喋るもんだから、目立つみたいなんですよね、うちら。
それでどうもあの店員の子もあたしのこと憶えちゃったらしくて、さっき
彼女が空いた小皿下げに来たとき、「先週もいらっしゃいましたよね」とか
言われて。
まあ、あたしもあの子なんとなく気になってたもんだから軽く喋って、
それで名刺も渡したんですよ。彼女亀井って名前みたいで。胸の名札に書いて
ありますけども。
- 477 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:01
- いや、気になってたというのは、ええとその、チェック入れてたとかそう
いうのじゃないですよ、はい。あの亀井って女の子、たしかにかわいいです
けど、それだけじゃなくてすごく気が利くなあと思って。単にぼーっとして
だるそうに面倒くさそうに突っ立ってるだけの店員って多いじゃないですか。
でもあの子はすごくてきぱきしてるし、店の中を俯瞰でよく見てるんですよね。
頭の回転が速いんでしょうねきっと。
あの、先週もこのお店で終電近くまで係長と飲んでたんですけどね。
ラストオーダーでちょっとだけビール飲みたくなったんですよ。
ジョッキだと多すぎるなあ、最後にグラス1杯くらいのビールできゅっと
締めたいなあって。そういうときってあるじゃないですか。
でもこのメニュー見ると、グラスビールって載ってないんですよ。
- 478 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:02
- どうしようかなと思って、ダメもとであの店員さん――そう、あの亀井
って子――に聞いたんですよ。グラスビールってないよねって。そしたら、
そうですねちょっと聞いてきますって答えて、すぐにグラスビールを持って
戻ってきたんですよ。グラスビールはメニューにはないんですけど、これ
どうぞって。値段は中ジョッキの半分ですけどもいいですかって。
こういうことできる店員って、あんまり多くないですよね。すみません
メニューにないんですよとか言って簡単に断らないで、ちゃんと奥に行って
上の人に確認しつつ客の欲しいものを出すのって、気が利いてると思いま
せん?アルバイトでやってるんだろうけど、そういう店員さんってちょっと
いいじゃないですか。中澤さんも褒めてましたよ。
- 479 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:02
- あ。ビール来ましたよ。はい、あたしがカロリーハーフの方。どうも
ありがとう。
わあっ、アンタ気をつけなさいよコイツに食われないようにねって、
店員さんにまで馬鹿なことを言わないでくださいっ。あーあ、くすくす
笑ってましたけど、内心引いてますよ。思いっきり引かれてますよ。
どうしてくれるんですかもう。
- 480 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:03
- だってアンタが女たらしだからこれ以上被害者が増えないようにと
係長と私はいつも願ってるのよって、どういうことですかもう、ほんとに。
でも実際そうじゃない私のスキャンは間違いないのよって、ひどいなあ。
この前も言いましたけど、そのスキャン間違いですって。そんな訳のわから
ない理由で人の性癖を決めないでくださいよ。女たらしなんかじゃない
ですよあたし。純愛路線まっしぐらの女ですよ。前から言ってるじゃない
ですかもう。
- 481 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:03
-
へ?
受付の藤本さんとおととい2人でご飯食べて、振られたんでしょって。
- 482 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:04
- やややややや保田さんなんで知ってるんですかそれ。どこからそんな
情報仕入れたんですか。耳が早いにも程がありますよ。まさか本人から
聞いたんですか。違いますよね。ああよかった。
え、おとといの詳しい顛末?え、言うんですか。ひゃあ。そんなコワい
目で睨まないでくださいよ。はいすいません、わかりました、言います
から。ちゃんと。でも絶対誰にも言わないでくださいよ。あ、あまり
こっちににじり寄らないでください。ほら、割りばしが落ちますって。
あとその目やめてください。いやもうそれ、コッカトリスの目ですよ。
視線浴びると石になるっつう。
- 483 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:04
- ええと、受付の藤本さんですよね?彼女同期で顔見知りなんですよ。
前からお互いにご飯行こうねって約束してたんですよ、はい。まあ誘った
のはあたしの方ですけど。
それでおととい、たしかに2人で会社帰りにご飯に行きました。駅から
ちょっと歩いて、静かで細い路地に入ったところにあるちっちゃなレスト
ランですけどね。こぢんまりとしてて、おいしいワインを出してくれて、
雰囲気のいいところで。そこでまあ楽しく飲んで食べて、会話もはずんで、
いい感じになってお店出たんですよ。11時くらいになってましたね。
- 484 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:05
- あ、豆腐と京野菜の新鮮サラダ来ましたね。小皿に取りましょうか。
はい保田さんどうぞ。
それでですね、外に出たら、これからどうしよっかって話になります
よねそりゃ。そこで藤本さんが帰るよって言ったらあたしだって今日の
ところはおとなしく帰ろうと思ってましたよ。でもね、藤本さんの方からね、
「ちょっとそこらへんぶらぶらしようよ」って言ってきたんですよ。ほんとに。
しかもね、こうね、腕を絡めてきたんですよ、向こうから。ほんとですって。
嘘なんてつきませんよ。
- 485 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:05
- これはもうあれか、あれってことでいいのか、ってカンジじゃないですか。
そりゃまあ、藤本さんにはうちの課の新人の岡田さんほどの圧迫感は望め
なかったですけど、というか圧迫感というよりごつごつ感と言った方が適切
かもしれないけど、でもまあ、それなりにもちろん、気持ちいい感触がこう、
伝わってくるわけですよ。
こりゃ千載一遇のチャンスだぜって、ふつうそう思いますよね。それで
あたしもね、「じゃあちょっと歩いてからバーにでも入ろうか」とか適当な
こと言って、その藤本さんとの密着感とおしゃべりを楽しみつつ、そこらへん
を歩くわけですよ。もう恋人同士ですよアタマの中じゃ。
- 486 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:05
- それでね、そこからこう、さりげなくさりげなく、そのまあ、なんつうか、
ホテル街っていうんですか、そっちに向かうわけですよ。だってもう、
こうなったらタイミング待ちじゃないですか。ですよね?向こうだって
空気わかってるはずだし。
と思ってそのホテルが集まってる通りの入口まで来たら、藤本さんが
「ここらへんって、バーとかないよね」って言うんですよ。
- 487 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:06
- ああ、ちょいタイミング読み間違えたかなと思って、「あ、そうだね」
って答えましたよ。で、ちょっとだけ方向転換しました。
もちろんバーなんて今さら行くつもりなんかないですよ。それでまあ、
もう一回しきり直しみたいな感じで、腕組んで楽しくおしゃべりしつつ道を
歩きました。藤本さんも相変わらずすげえ楽しそうで。それであたりをひと
回りして、ここらへんだろってタイミング読んで、今度はさりげなくホテルの
入口近くまで行ってみたんですよ。もちろんさりげなく。
そしたらまた藤本さんが、「ここらへんはお店ないって言ってるじゃんか」
って。
- 488 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:06
- まあね、ここらであたしもははあそういうことかって理解しておくべき
だったんですけども。でももう、あたしもスイッチ入っちゃってました
からね、スイッチが。
それでまあ、うーんまた勇み足かよ、まずったなと思って、「ああ、
ごめんごめん」ととりあえず謝って。さてもう一回塩まいてしきり直し
だってことでまた腕組んで密着しておしゃべりして、とっておきの話の
ネタを披露して時間つないで間を持たせて、こんどは違うルート使って
あたりを一周して、ホテルの入口まで行ったんですよ。三度目の正直、
今度こそ。
- 489 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:07
-
そしたらね、ホテルの入口のところでね、突然絡めてた腕を外されてね、
ばしーんってびんた一発張られたんですよ。そんで、「そんなにホテルに
行きたいの!」ってでかい声で怒鳴られたんですよ。
- 490 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:07
- ホテル街の通りのど真ん中で、あたりは他のカップルとかも歩いてるん
ですよ?もう目立つなんてもんじゃないし、藤本さんは怒ってひとりで
どんどん歩いていっちゃうし、くすくすって笑い声も聞こえてくるし。
- 491 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:08
-
え、もちろん慌てて追いかけましたよ。走って追いかけて、つかまえて、
謝りたおして、近くのバーに入ってちゃんとおごって飲んで、終電で帰り
ましたよ。これ以上ないくらい気まずい雰囲気でしたけどね。最後にまた
飲みに行こうねって言ったんですけど、いまだにメールの返事も来ないし、
電話にも出てくんないし、朝受付であいさつしても返事がないんですよ。
たまんないですよホント。
- 492 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:08
-
ちょっと保田さん笑いすぎじゃないですか。いくらなんでも笑いすぎ
じゃないですか。そこまで笑うような面白い話をしたつもりはないですよ
あたし。なんかその、窒息しそうなくらいに顔を赤くして笑いっぱなしなの
って微妙に失礼ですよもう。保田さんだからこんなかっこ悪い話したのに。
腹立つなあ。こんな話社内で広めないでくださいよ。とくに係長なんかには
絶対言わないでくださいよ。頼みますよもう。
あ、そろそろ12時ですよ保田さん。終電ですって。この前飲んだ
ときはけっきょく終電逃しちゃって深夜バスで帰ったじゃないですか。
急ぎましょうよ。あ、店員さんすいません、締めで。
- 493 名前: 投稿日:2005/08/05(金) 22:09
-
おわり
- 494 名前:Depor 投稿日:2005/08/05(金) 22:10
- >470 名無し飼育子さん
レスどうもです。ちっとも長くないですよ。最初の方から読んでもらった
ようで、本当にありがとうございます。
ホームレスの話、京都の方に読まれていたのかと思うと冷や汗が出ます。
細かい地名とか場所とか、けっこういい加減に書いてるとこもあるのでw
暖かい感想をいただいて、励みになりました。がんばります。
>471 名無飼育さん
間違い電話の話…というと、飯田さんの歯医者の予約の話、でしょうか?
(もしかしたら違う話かもしれませんが)
あれはちょっとヘンな話かもしれないですけど、気に入ってもらえたと
したらとても嬉しいです。
よかったらまたのぞいてみてください。レスありがとうございました。
- 495 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/06(土) 00:39
- 笑いが止まりません。嬉しいのと面白いのとでw
吉の一人称が自然で居酒屋の風景がすんなり浮かびました。
亀ちゃんもさりげに嬉しかった(*´∀`)
- 496 名前:Depor 投稿日:2005/09/06(火) 21:03
- >495 名無飼育さん
この話、すらすらとあっという間に書けたのですが、
出来上がりについてはどうなんだろうなって思ってたんです。
なので、ほんと、面白いと思ってもらえてよかったー。
地味なスレですが、これからもどうぞよろしくお願いします。
レスありがとうございました。
- 497 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:45
-
「フットサル」
- 498 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:45
-
1
- 499 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:46
- ガッタスのメンバーが足りなくなったので、里沙に声がかかった。
以前からいたメンバーが何人か正式に脱退してしまった。残ったメンバー内
で夏風邪が流行った。スケジュールの都合で次の大会にまったく参加できない
メンバーがいる。ガッタスユースからの補充も考えたけれど、彼女らも学校が
あるからそれもままならない。他にもいろいろ理由があるけれど、とにかく
冗談抜きで人数が足らない。悪いがとりあえず明日からガッタスの練習に出て、
2か月後にある大会に助っ人として出てくれ。そんなことをマネージャーと
事務所の上の人に言われた。
- 500 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:47
- 背番号入りのユニホームまで見せられた。里沙の背番号は21番らしい。
それを知った吉澤から、「おーガキさん、ジダンもユベントスにいたころ、
背番号21だったんだよ。だからジダンみたくがんばれ」と言われた。でも
ジダンという人が誰なのか、ユベントスというのが何を意味しているのか、
里沙はよく知らない。有名なサッカー選手と有名なサッカーチームの名前
らしいのだけれども。
それにしても、どうして自分が呼ばれたのかがよくわからなかった。そも
そもガッタスは、ハロプロメンバーでフットサルを真剣にやるという主旨の
もとで、メンバーを選抜して結成されたフットサルチームのはずだ。緊急
事態ということらしいけれど、それにしたって自分より助っ人にふさわしい
ハロプロメンバーは他にたくさんいるように思えてならない。里沙は決して
運動神経がいい方ではないし、とくにフットサルに興味があるわけでもない。
だいいちルールだってよく知らないのだ。
- 501 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:47
- でもこれは決定事項だ。里沙がいま考えたようなことは、別に世間に対して
ひた隠しにしている秘密ではない。誰だって知っていることだ。にもかかわらず
自分が呼ばれたのだから、そこにはきっとそれなりの理由があるのだろう。
それに里沙は別にフットサルを忌み嫌っているというわけではない。やれと
言われたらやる。
そういえば次の大会は、TV局の冠がついた上にファミレス業界最大手の
企業がスポンサーとなって、芸能界の女子フットサルチームが数多く参加する
ような大規模な大会ではないようだ。4つのチームで総当たりのリーグ戦を
して、いちばん成績の良いチームが優勝するという、わりとシンプルで牧歌的
でこぢんまりとした大会とのことだった。そんなことも自分が呼ばれた理由の
ひとつなんだろうな、と里沙は思った。
- 502 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:47
-
2
- 503 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:48
- というわけで、里沙はガッタスの練習に参加することになった。
練習初日、里沙は紺野と一緒にタクシーに乗って、都内にある練習場へ
向かった。ジャージに着替えてからフットサルコートに向かう途中で吉澤に
会った。コートでは、先に来ていた石川と藤本が2人で組んで人工芝の上で
ストレッチをしていた。少し離れた場所で是永がボールリフティングをして
いた。少し遅れて里田がやって来た。どうやら次の大会に出場できるのはこの
7人だけのようだった。
しばらくすると監督とコーチがやって来て、練習前のミーティングが行われた。
ちょっと人数は少ないけれど、次の大会に向けてがんばりましょうと監督が
言った。それから助っ人として里沙を紹介した。紹介される間でもなくよく
知っているメンバーばかりだったが、それでも里沙は一生懸命がんばります、
よろしくお願いしますと挨拶をした。
- 504 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:48
- まったくの初心者ということで、里沙はしばらくの間は他のメンバーとは
別のメニューで練習をすることになった。とにかくボールを蹴って止めると
いう最低限のことができるようになるまでみっちり基礎練習をしましょうと
言われた。
練習をはじめてすぐにわかったことがひとつあった。自分がフットサルに
向いていないという単純な事実だ。
まずボールを宙に浮かせたままぽんぽん蹴っていくリフティングがまるで
できなかった。他のガッタスのメンバーはそれなりに何回か連続してリフ
ティングをしているのだが、里沙にはそれができない。いちばんやりやすいと
言われた太ももでのリフティングですら3回も続かない。いちばんオーソ
ドックスだと言われた足の甲なんかだとまったく続かない。ボールはあさって
の方向に跳んでいくばかりだ。
- 505 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:49
- 里沙からすると魔術師に見える是永からいくつかアドバイスをもらった。
ボールの芯っていうのかな、中心を見つけるんですよ。そしたら力を抜いて、
ボールから目を離さないで、その中心を軽く叩いて真上に上げていくって
イメージですかね。だいじょうぶ、コツさえ憶えたらすぐに10回できる
ようになるし、10回できるようになったら100回でも200回でも
できますよ。
でもそれからも丸いボールはぜんぜん思い通りに動いてくれなかった。
これから練習を続ければ思い通りに動いてくれそうなそぶりもなかった。
- 506 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:49
- フットサルコートの上では、他のメンバーが通常の練習を淡々とこなして
いた。フィールドプレイヤーの面々は、監督やコーチの指示にしたがって、
人工芝の上に置かれた赤いコーンの間をドリブルで抜けていったり、セット
プレイからの攻撃や守備の練習をしていた。ゴレイロの紺野はゴールマウスの
前に立って、GKコーチが蹴るシュートを左右に飛びついて止めていた。
里沙はコートの脇からその練習光景を眺めた。そしてため息をついた。
まったくもう、初っぱなからこれだもんな。リフティングってのは基本中の基本
であって、これがここまでできないってことは、わたしは根本的にフットサルに
向いてないということだ。参ったな、これからどうなるんだろうな、わたし。
里沙は暗い気分になった。
- 507 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:50
-
◇
- 508 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:50
- 初日の練習の締めくくりとして、里沙を除いたメンバーは、コーチも加えて
4対4の紅白戦をやっていた。是永がドリブルで2人を抜き去って、綺麗な
ゴールを決めていた。ど素人の里沙から見ても、彼女がとんでもなく高いレベル
の技術を持っていることがわかった。使い古された表現かもしれないけれど、
是永がドリブルをはじめると、本当にボールが彼女の足に吸い付いているかの
ように見える。
- 509 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:51
- たしかに是永のプレイを見ていると、フットサルやサッカーをするのは楽しい
ことなのだろうなと思う。あんなにボールを自分の思った通りに操ることができ
たらきっと気持ちいいんだろうなと。吉澤や石川や藤本や里田や紺野を見ても、
しっかりと練習を続けてきているだけあって、それなりにボールを上手に扱って
いる。自分とはレベルが違うということがよくわかる。
それに練習をしている姿がとても楽しそうだ。モーニング娘。の楽屋で吉澤
や藤本がフットサルの話題で盛り上がっていた理由も、紺野からしきりに里沙
ちゃんもフットサルしなよ面白いからと勧められた理由も、よくわかったような
気がする。たぶん彼女らとフットサルというスポーツは相性がいいのだろう。
でもわたしとフットサルは相性がよくないみたいだ。
- 510 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:51
- こういうことって、前にもあった気がするな。里沙は思った。
小学校のころ、仲の良い友だちから、「この子感じいいよ、里沙も一緒に
遊ぼうよ」とよく知らない子を紹介されたことがある。それで実際に3人で
遊んでみたら、そのよく知らない子とはぜんぜん話が合わなくて、調子が
くるってしまってちっとも楽しくなかった。そのときの感じに似ている。
要するに、フットサルくんは吉澤さんや石川さんやこんこんとは仲良く
やってるけど、わたしとはあんまり話が合わないのだ。2人でいると、お互い
なんとなく気まずくなって会話が途切れて沈黙が続いてしまうのだ。
こういうのって、あんまりいい気持ちしないよな。里沙はそう思った。
- 511 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:52
-
3
- 512 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:52
- しかし里沙は次の練習にも行った。その次の練習にも行った。まさかフット
サルくんとわたしは話がかみ合わないから練習に行きたくないですと言うわけ
にはいかない。里沙だってそれくらいの常識は持っている。それに、もしか
したらフットサルくんもわたしも単にお互い人見知りをしているだけなのかも
しれない。第一印象がよくなくても、何度か会ううちに「あれ、意外といい
やつじゃん」と思うようになることだってたくさんある。ぶっちゃけて本音
トークをすれば、仲良くなれるかもしれない。
- 513 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:53
- 1か月が経った。里沙は休まずにすべての練習に出席した。支給されたフット
サル用のシューズは少し小さめのサイズだったので、靴擦れして足にまめがたく
さんできた。自宅に帰ってから、まめにふうふうと息を吹き付けながらばんそう
こうを貼った。里沙は自腹を切って、1サイズ大きなシューズを買った。
練習では、最初のウォーミングアップやフィジカルトレーニングなどは他の
メンバーと一緒に行ったが、それ以外の時間はコーチと2人で基礎的な技術の
習得に明け暮れた。基礎練は単調で面白みに欠けたものだったが、里沙は手を
抜くことなく、常にひたむきに一生懸命に取り組んだ。リフティングを5回
続けられるようにがんばった。足の裏を使ったトラップのやり方を教わった。
基本的なパス回しのフォーメーションを理解した。身体を使ったボールキープ
の仕方を学んだ。とにかくコーチにやれと言われたことはきちんとやった。
自宅でもできるトレーニングをコーチから聞き出して、実際にそのメニューを
こなした。
- 514 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:53
- とはいっても、里沙の技術的なレベルは、他のメンバーに比べればまだまだ
取るに足らない程度のものだった。左足はほとんどまったく使えないし、ドリ
ブルも上手にはできない。しっかりトラップできるのはグラウンダーのボール
だけで、浮き球の処理はもたついてしまう。とくにヘディングは絶望的だ。
どうしても怖くなって、首をすくめて目をつぶってしまうのだ。「オデコが
広いんだから、ヘディングはやりやすいはずなのになあ」とコーチには言われた
けれど、そんなことでものごとが身につくのなら誰も苦労しない。
しかし間違いなく、里沙は上達していた。それは誰もが認めるところだった。
自分がフリーであれば、右足のインサイドキックで思ったところに適度な強さで
ボールを蹴ることができるようになった。ディフェンスで相手に当たることを
恐れなくなった。かかとを上げて、腰を落として、半身の構えでディフェンスを
することを憶えた。完璧ではないが、足の裏を使ってトラップすることもなん
とかできるようになった。
- 515 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:53
- 大会の日が近づいてくるにつれ、練習メニューも次第に実戦的なものとなって
いった。里沙が全体練習に加わることも多くなった。監督やコーチに指示されて、
2対2や3対3のミニゲームに混ざってプレイする機会も増えた。まだまだ他の
メンバーの動きについていくのは難しかったけれど、それでも里沙は懸命に
ボールを追いかけた。
- 516 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:54
- 大会前の最後の練習が終わった後、里沙は監督に個人的に呼ばれた。
まったくの初心者ということだったけれど、すごく練習にまじめに取り組んで
いた。その姿勢がとてもよかった。出場時間はかなり制限されてしまうかも
しれないけれど、3日後の試合にも出てもらうつもりだ。試合では守備的なポジ
ションについてもらいたい。ゴレイロの紺野やまわりからの指示の声をよく聞く
こと。攻撃についてはあまり考えなくていいけれど、もちろんチャンスだと
思ったらどんどん好きに行ってかまわない。
とにかく、ミスをしないようにと縮こまったプレイはしないで、思いきった
プレイをしてくれたらそれでいい。まだフットサルをはじめたばかりなのだし、
ミスするのなんて当たり前のことなんだから。
- 517 名前: 投稿日:2005/09/14(水) 22:54
- 里沙はこくりと肯いた。ずっとコートの隅っこで基礎練を続けていただけ
なのに、監督はそんな自分のことをしっかりと見てくれていたんだなと思った。
- 518 名前:Depor 投稿日:2005/09/14(水) 22:55
- (続きます)
- 519 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/15(木) 00:14
- うわぁ面白いなー。ガキさんがんばれ。
- 520 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:11
-
4
- 521 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:11
- 大会当日。
大会の会場は、東京近郊にある、最近竣工されたばかりの多目的総合アリーナ
だった。目につく設備はどれもぴかぴかと光っていた。空調のよく効いた控え室
はひろびろとしていて、メンバーひとりひとりに大きなロッカーが割り当てられ
ていた。
開会式の前に、公開練習があった。観客席には大勢のガッタスサポーターが
陣取っていて、大きな声でたった7人のガッタスのメンバーに声援を送っていた。
コートの周りには早くも里沙の名前が入った段幕が飾られていた。
- 522 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:12
- 大勢の観客の前でボールを蹴るのははじめてのことだったけれど、里沙は
あまり緊張せずに練習をこなすことができた。シュート練習ではゴールの枠を
1回も捕らえることができなかったが、シュートの練習なんてろくにしたこと
がないのだから仕方がないじゃないか、そう開き直ることができた。
その後で、簡単な開会式が行われた。ガッタスの他には、お笑い芸人が
多く所属することで有名な事務所のチームと、サッカー好きの俳優が監督を
している、モデル・タレントの混合チームと、いわゆる巨乳アイドルが多く
所属する事務所のチームが参加していた。
これらの4チームが総当たりのリーグ戦を行う。前後半7分ハーフの試合を
3試合こなして、いちばん成績がいいチーム(勝ち点が多いチーム)が優勝と
いうことになる。
- 523 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:12
- ガッタスの初戦は、お笑い事務所のチームとの試合だった。ガッタスのスター
ティングメンバーは紺野、里田、石川、藤本、吉澤の5人だった。
里沙は是永とともにベンチに座って試合開始の笛を聞いた。センターサークル
に並んだ石川と藤本がボールをちょんと蹴った。
- 524 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:13
-
◇
- 525 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:13
- 2試合が終了した。ガッタスは苦戦していた。
明らかに格下と思われたお笑い事務所チームとの初戦をスコアレスドローで
引き分けてしまったのが痛かった。2試合目のモデル・タレント混合チームとの
試合は、是永と石川の得点でなんとか2−1で逆転勝利をおさめることができた
ものの、初戦の引き分けが響いて、2試合が終了した段階でガッタスは勝ち点4
の2位に甘んじていた。
今のところ首位に立っているのは、2試合に連勝して勝ち点6を得ている巨乳
アイドル事務所チームだった。ガッタスはこの宿敵ともいえるチームと最後の
試合で戦うことになっている。
- 526 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:14
- もしこの直接対決を制することができれば、ガッタスは勝ち点を7に伸ばし、
相手チームを上回って優勝することができる。逆に言えば、引き分けたり負け
たりしたら相手チームの優勝となる。
つまり、ガッタスが優勝するには、この最終戦で勝つしかない。
- 527 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:14
- 里沙についていえば、それまでの2試合はまったく出場機会がなかった。
ずっとベンチから戦況を見つめながら応援をするばかりで、監督から声が
かかることはなかった。
しかし、この大事な最終戦になって、里沙は監督からスターティングメンバー
として起用すると言われた。満を持しての登場と言えば聞こえはいいが、実際
のところは是永と里田が使えなくなってしまったからという理由が大きかった。
是永は体調不良のためにベンチに下がらざるを得なくなってしまい、里田は
2試合目の終盤で右の足首をひねってしまったのだ。
しかし理由はどうあれ、里沙は本当の真剣勝負の舞台、公式戦にはじめて出場
することになった。メンバー全員で円陣を組んで気合いを入れた後、吉澤から
思いきっていけよガキさんと言われてどんと背中を叩かれた。紺野からはがん
ばっていこうね里沙ちゃんと声をかけられた。里沙はコートの上で何回か軽く
ジャンプした。そして席を埋め尽くした大勢の観客を見つめた。みんなが自分を
じっと見ているように思えた。不思議と緊張感はあまり湧いてこなかった。
- 528 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:15
- 試合開始の笛が鳴った。相手チームがキックオフと同時に後方にちょこんと
ボールを出した。待ちかまえていた相手の10番の選手がロングシュートを
狙ったが、うまくミートせずにボールは右のサイドラインを割った。
ガッタスのキックインのボールが里沙の足下にやって来た。里沙はボールを
慎重にトラップしてから、左サイドでフリーになっていた吉澤に回した。
基本中の基本である右足のインサイドキック。それが里沙のファーストタッチ
だった。
里沙からのパスを受けた吉澤はドリブルで相手をかわして左サイドを上がって
いった。そしてゴール前に詰めていた石川にセンタリングを送ったが、うまく
合わずにボールはそのままゴールラインを割った。
- 529 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:15
-
うん、上出来だ、と里沙は思った。だいたい昨晩イメージしていたような、
落ち着いたファーストタッチができた(もちろん細部は違っているけれど)。
悪くない。わたしはそんなにひどい選手じゃない。
- 530 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:20
-
その最終戦の前半、里沙はフィクソのポジションで悪くないプレイをした。
もちろん何度かミスをしたが(マークする相手にあっさりと抜かれたり、
トラップミスやパスミスをしたり)、紺野の的確なフォローとセーブもあって、
失点につながるような致命的なミスにはならなかった。攻撃は他のメンバーに
おまかせという感じではあったが、里沙は守備面においてはおおむね無難な
プレイをすることができた。
前半の3分に藤本がゴール前の混戦からこぼれた球を押し込んで、ガッタスが
先制点を奪った。しかしその直後、相手のセットプレイからガッタスは失点を
喫してしまった。1−1の同点。
- 531 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:21
- 1−1で迎えた前半の終了間際。相手チームがガッタス側から見て右サイドで
起点を作った。ボールキープをする相手の6番に石川がチェックに行く。里沙は
左サイドに流れた相手の10番にくっついていった。
相手チームは右サイドから中央に戻し、さらにボールを受けに下がった相手の
10番に横パスを回そうとした。しかし相手の10番にボールが収まる寸前に、
その後ろから猫のようにすばやく飛び出してきた里沙の右足がパスをカットした。
そのこぼれ球が吉澤の足下に転がる。攻撃側の不用意な横パスのカットは、
守備側のカウンター・アタックのチャンスを意味する。フリーでボールを持った
吉澤は、前方へとドリブルを開始した。右サイドを石川が、左サイドを藤本が、
全力で駆け上がっていく。ここはチャンスであり、勝負所であり、少々のリスク
を犯しても得点を狙いにいくところだ。3人の意思がぴたりと重なった。
- 532 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:22
- 吉澤から藤本の前の広大なスペースにボールが出た。藤本は走りながらちらり
と中を見た。そしてボールに追いつくと、慌てて駆け寄ってきた相手の8番を
あざ笑うかのように、滑らかな動きで中央に向けてグラウンダーのクロスを
送りこんだ。
相手チームは両サイドを駆け上がる藤本と石川に気を取られ、パスアンド
ゴーの動きでペナルティエリア周辺まで進入していた吉澤をフリーにして
しまっていた。吉澤は藤本からマイナスの角度で折り返されてきたボールを、
走りこみながら右足のインステップで豪快に打ち抜いた。ボールは定規で引いた
ようなまっすぐの軌跡を描いてゴールマウスに向かった。スピードといい、
コースといい、ほぼ完璧で理想的なミドルシュートだった。相手のゴレイロは
まったく反応できなかった。
- 533 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:22
- しかしゴールは決まらなかった。吉澤の渾身のミドルシュートは、右の
ゴールポストに阻まれた。ボールは乾いた金属音とともに勢いよく跳ね返った。
こぼれ球を押しこもうとして詰めてきた石川よりも一瞬早く、相手の6番が
ボールを大きくクリアした。
ガッタスのべンチとスタンドのサポーターから、大チャンスを逃してしま
ったというため息ともどよめきともつかぬ声が漏れた。しかしそれはすぐに
大ピンチを危ぶむ悲鳴とざわめきにとってかわった。悪いことに、相手の6番
の苦しまぎれのクリアボールが、戻り損ねて1人でセンターサークル付近に
残っていた相手の10番への絶好のパスになってしまったのだ。こういう場合
に備えてカウンター・アタックに加わらなかった里沙が10番に近寄って対応
しようとする。だが、相手の10番は巧くトラップをしてボールをガッタス陣内
のスペースに流しこむと同時に、急激に反転して一気に里沙を抜き去った。
ここを先途と相手ゴール前に詰めていた吉澤も藤本も石川も戻り切れていない。
相手の10番とガッタスのゴールとの間には、ゴレイロの紺野しかいない。
- 534 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:22
- 紺野は迷わずペナルティエリアのライン付近まで飛び出した。相手ピヴォとの
1対1だ。股抜きを警戒しつつ、手を大きく広げて相手のシュートコースを
消しにいく。しかし相手は落ち着き払って、紺野の動きをよく見てからボールを
斜め前に蹴り出した。なんとか突破を止めようと、紺野は身体を投げ出す。
が、ボールに触れることはできなかった。相手の10番は紺野を完全にかわして
抜け出した。
倒れた紺野が振り向くと、蹴り出したボールを追う相手の10番の背中が
見えた。その前方にあるのは無人のゴールだ。相手の10番が蹴り出したボール
は左サイドの奥の方に転がっていったから、もしかしたらラインを割るかもしれ
ないと一瞬だけ期待した。だが相手の10番はなんなく追いつき、ゴールへと
インサイドキックで流しこむ。ボールはゆっくりとゴールマウスに向かって
転がっていく。
ああ、間違いなく失点だ。紺野は目をつぶってしまった。
- 535 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:23
- そのとき、オレンジのユニホームを来た誰かが風のように走ってきて、ゴール
ラインぎりぎりのところでボールを掻き出した。相手の10番にかわされた後、
全力でゴール前に戻ってきた里沙だった。ボールはそのままサイドラインの外
へと転がっていった。相手の10番が悔しそうに、コートの周囲を取り囲む
小型の柵を蹴った。安堵の吐息がベンチとサポーターから漏れ、その吐息は
すぐに素晴らしいプレイを見せた里沙への拍手に代わった。里沙のカバーが
なかったら間違いなく1点が決まっていたシーンだった。あきらめずに全力で
走ってゴール前に戻った里沙の気持ちが生んだ価値あるプレイだった。掛け値
なしのファインプレイだった。
- 536 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:23
- 息を切らせながら戻ってきた吉澤が、何も言わずに里沙の頭をぐしゃっと
撫でた。そして吉澤は相手のキックインを警戒して、相手の8番のマークに
ついた。そのとき、審判が笛を吹いて、前半が終了した。スタンドから里沙の
プレイを称える「にいがき!どんどんどん、にいがき!」というコールが
起こった。
- 537 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:24
-
◇
- 538 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:24
- 後半がはじまった。里沙は後半も最初から出場した(というか、ガッタス
には5人しか満足にプレイできる選手がいなかったから、里沙が出場するのは
当然といえば当然だった)。
里沙は後半もフィクソの位置で悪くないプレイをした。悪くないどころか、
素晴らしく効果的なプレイをした。里沙の技術がとつぜん上がったわけでは
ない。コートに立つ10人の中では、里沙は当然のことながら、いちばんの
下手くそだった。
しかしフットサルというスポーツは、別にボール扱いの上手下手を決める
スポーツではなかった。ボールリフティングを何百回続けられたとしても、
またぎフェイントがどれだけ上手だったとしても、4号サイズのボールを、
高さ2メートル・幅3メートルの枠の中に収められなれなかったらまるで
意味がないのだ。
- 539 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:25
- その観点からすれば、里沙はコートに立つ10人の中でいちばんフットサルの
目的にかなう効果的なプレイをしていた。2か月間の練習で身につけた基本的な
動きを忠実に繰り返した。自分の技術不足をよく理解していたから、その足りない
部分を注意深さで補おうとしていた。常に首を左右に振って、周囲の状況を把握
するように努め、味方と相手の位置を確認した。あやふやで中途半端なプレイは
一切しなかった。自分にできるプレイを100パーセント確実にこなすようにした。
- 540 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:25
- ガッタスの攻撃時にボールがまわってきたら、意味のないドリブルを試みたり
せずに、フリーの味方に確実にパスをつなぐことに専念した。相手のプレイヤー
に囲まれたときは、無理なボールキープなどはしないで、前方のスペースへ
(それすらできないときはサイドラインに)ボールを大きく蹴り出した。
守備の際には自分のマークする相手にしっかりとくっつき、フリーにさせ
なかった。マークする相手がボールを受けたら、いちかばちかのボールカット
などは狙わずに、間合いをはかって半身の姿勢で構え、ひとつのコースだけを
確実に守ることに専念した。そっちの方向には抜かれてもしかたがない。
でもこっちの方向には絶対に行かせない。
- 541 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:27
-
里沙のプレイは、手先が不器用で、訥々としたつっかえつっかえの指運びでは
あるが、不思議と聞き手の心を揺さぶるピアニストの演奏に似ていた。不器用
ではあるが、その無心さと真摯な姿勢ゆえに、音符をすらすらとよどみなく
追うだけの演奏よりも深く人の心を打つ演奏。里沙のプレイは、そんな演奏に
似ていた。
- 542 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:27
-
◇
- 543 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:28
- 後半は一進一退の攻防が続いた。何度かガッタスにもチャンスが巡ってきたが、
ゴールが生まれることはなかった。そして時間が経過するにつれて、試合に出ず
っぱりだった(里沙を除く)ガッタスの選手に疲弊の色が見えはじめた。選手の
足が止まり出す。そこからは相手チームのチャンスが続いたが、ゴレイロの紺野
がファインセーブを連発して、ガッタスはなんとかピンチを切り抜けた。
- 544 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:28
-
◇
- 545 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:29
- 吉澤はちらりとゲームクロックを見た。残り時間は1分を切っている。
1−1の同点。このままでは相手チームの優勝となってしまう。まともな
メンバーも揃わないのによくここまで来たともいえるけれど、せっかくここ
まで来たのなら勝ちたい。勝って優勝したい。
- 546 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:29
- だけど息が苦しい。本当に苦しい。だいぶ前から、疲労と酸欠のために、
後頭部にじんじんと痺れるような感覚が続いている。頭がぼんやりとして、
集中できない。乳酸が溜まりきった両足はまるで砂鉄を詰め込んだ袋の
ように重く感じられる。その足をひきずりながら、それでも吉澤はボールを
追う。
ハーフウェイライン付近で左サイドに流れてボールを受けた。相手の6番が
チェックに来る。間合いをはかり、思いきって縦にボールを出す。スピードで
相手を振り切ってから、中央を見る。敵味方が入り乱れている。
吉澤は縦に動かしたボールを右足のつま先で止めるのと同時に、左足をふん
ばった。ゴール前ニアサイドにグラウンダーのセンタリングを入れるつもり
だった。先に藤本か石川が触ってくれればゴールのチャンスがあるはずだ。
- 547 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:30
- しかしそのとき、ファーサイドのペナルティエリア付近に、手をまっすぐに
上げて走りこんでくるオレンジ色のユニホームが視界に入った。どフリーだ。
考える間もなかった。吉澤はとっさに右足のインフロントで、ファーサイド
に向けてボールを蹴り上げた。
- 548 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:30
-
里沙は右サイドのハーフウェイラインを超えたあたりで、吉澤がドリブルで
1人を抜いて、左サイドを疾駆するのを見ていた。この試合で1点をとって
いる藤本が、ダイアゴナルの動きを見せてニアサイドに走りこんだ。その藤本
に10番を含めて相手が2人がかりでついていった。もう1人はゴール正面で
待つ石川のマーク。里沙のまわりには誰もいなかった。今日1本もシュートを
打っていないし、そもそも攻撃に参加するそぶりすら見せていない里沙に誰も
注意を払わないのは当然といえば当然だった。
- 549 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:30
- そのとき、里沙の脳裏にある光景がくっきりと映し出された。吉澤の浮き球
のセンタリングに、自分が頭で合わせてシュートをするシーンだった。
鋭いカーブがかかった吉澤のセンタリングの軌跡と、ゴール左上隅に決まる
自分のヘディングシュートの軌跡。それが驚くくらいに鮮明に、目の前に
ぱっと浮かんだ。
ほとんど反射的に、里沙は手を上げてファーサイドに走りこんだ。
- 550 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:31
-
しまった。センタリングを上げた瞬間に、吉澤はファーサイドに走りこんだ
味方の選手が里沙だということに気づいて舌打ちした。ガキさんに攻撃は期待
できないし、シュートだって無理だ。ましてや浮き球のセンタリングなんて。
なにせガキさんはヘディングがまったくできないんだから。ゴール前の状況を
しっかりと確認することなしに焦ってセンタリングを上げてしまったあたしの
ミスだ。ああ、最後のチャンスを無駄にしてしまった。
- 551 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:31
- しかし次の瞬間、吉澤の身体は金縛りにあったように固まってしまった。
軽くジャンプした里沙が、身体をきゅっとひねってから、広いおでこの
真ん中、髪の生え際――前頭部でもっとも固い部位であり、もっともヘディング
に適した部位――でボールの芯をしっかりととらえたからだ。美しいフォーム
だった。女子フットサルの教科書に、「ヘディングシュートの打ち方」として
そのまま掲載されてもおかしくないくらいにきれいなフォームだった。
- 552 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:32
- そして、ジャストミートされたボールは相手ゴールの左上隅にまっすぐ鋭く
飛んでいき、そのままネットに収まった。
その間、相手チームのゴレイロも、フィールドプレイヤーも、吉澤も藤本
も石川も紺野も、ベンチにいる監督もコーチも里田も是永も、誰も一歩も
動けなかった。まるで時間が止まってしまったかのようだった。
- 553 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:33
- 吉澤の耳に、審判の笛が立て続けに聞こえた。正当なゴールを告げるものと、
試合終了を告げるものだった。
その笛の音を聞いたとき、金縛りは解けた。吉澤は全力で走りだした。
ファーサイドで、途方に暮れたように突っ立ったままの背番号21に向かって。
- 554 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:33
-
ボールがネットに収まったとき、里沙は心の底から驚いた。ゴールが決まった
ことに驚いたのではない。今までまったくできなかったヘディングを自分が完璧
にこなしたことに驚いたのでもない。その一瞬前に脳裏に浮かんだ軌跡と寸分も
違うことなくボールが飛んでいったことに驚いたのだった。
いったいこれはどういうことなんだろう、吉澤さんのセンタリングといい、
わたしのヘディングシュートといい、その直前にぱっと頭に浮かんだとおりに
ボールがやって来て、まったくそのままゴールが決まってしまうなんて?
こんなことが、ほんとうに起こりうるんだろうか?(後になってからも、里沙は
何度も繰り返してこのときのことを考えてみた。しかし、このときの不思議な感覚
をはっきりと思い出すことはできなかった。)
- 555 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:34
- 里沙はゴールマウスの中でぽんぽんと跳ねているボールを見つめたまま、
そんなことをぼんやりと考えていた。自分がゴールを決めることなんて想像も
していなかったから、劇的な決勝ゴールを決めた実感はまるで湧いてこなかった。
審判の笛の音も、観客席からの大歓声も、まったく耳に入ってこなかった。
だが、すぐにわっという声とともに誰かの身体がぶつかってきた。そして里沙は
その誰かにぎゅっと抱きしめられた。
直後に、背中に別の誰かがどんと乗ってきて、耳もとで何かをささやいた。
里沙は振り向いてその声の主を確認しようとした。
- 556 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:34
-
でも結局、それが誰だったのかということや、どんなことを耳もとで言われた
のかということを確かめることはできなかった。なぜなら、コートの上だけで
なくベンチからも里沙のまわりに次々と人が集まってきて、里沙はその大騒ぎ
の中でもみくちゃになっていったからだった。
- 557 名前: 投稿日:2005/09/21(水) 23:35
-
おわり
- 558 名前:Depor 投稿日:2005/09/21(水) 23:36
- >519 名無飼育さん
レスありがとうございます。
前半部分を更新したところで「面白い」というレスをいただけたのは
とても嬉しかったし、とても励みになりました。
後半も楽しんでもらえたでしょうか。ガキさん、がんばりましたよー。
- 559 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/22(木) 22:07
- ガキさんの奏でるプレイの音色に酔いしれました。
すごく面白かったです。
- 560 名前:名無し飼育子さん 投稿日:2005/09/26(月) 01:27
- 試合の光景が浮かんでくるようでした。
ガキさんかっけーよ、ガキさんw
いつかガキさんかガッタスに入ってるのもおかしくないと思います。
更新お疲れ様でした!!まだまだ応援してます!!
- 561 名前:Depor 投稿日:2005/10/23(日) 01:28
- >559 名無飼育さん
このフットサルの話を書くときに思っていたのは、「ややこしいことは
抜きにして、とにかく面白い話が書けたらいいな」ということでした。
それだけに、「面白かった」と言ってもらえてとても嬉しいです。
よかったらまた更新チェックでもしてみてください。
レスどうもありがとうございました。
>560 名無し飼育子さん
嬉しい感想をありがとうございます。
ガキさんかっけーかったですか?そう思ってもらえてよかった。
ほんと、ガキさんがガッタスに加入したら面白そうですよねw
更新はあんまり早くないんですけど(すみません)、また次の更新のときも
目を通してもらえたら嬉しいです。
- 562 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:30
-
「探しもの」
- 563 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:31
- 「はい、今日はここまで。次回は教科書の35ページから、70ページ
まで進む予定です」
教授がそう言って、黒板の溝に置いたチョークを集めはじめた。講義終了
の合図。大教室を埋めた学生ががたがたという音とともに席を立ちはじめる。
美貴もそれにならって、バッグに教科書とノートとペンケースを入れて立ち
上がった。今日の授業はこれで終わり。このあとの予定もなし。このまま下宿
に帰るだけだ。
- 564 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:31
- 「あ、あの」
教室の出口で後ろから声をかけられた。自分が呼び止められていることに
気がつくまで、少し時間がかかった。
「はい?」
美貴は振り返って、自分を呼び止めた人を見つめた。女の子だ。けっして
顔が大きいわけではないけれど、頬がふっくらとしていて、目がぱっちりと
大きい。なかなかかわいい子だなと美貴は思った。たぶん美貴よりも年下
だろう。全学年対象の一般教養の授業だったから、1年生や2年生が出席
していたっておかしくない。どこかで見たことがあるような気がした。
だけど名前が思い出せなかった。
- 565 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:32
- 「すみません」と彼女は言った。どことなくおどおどしている。なにか
悪いことをした後みたいだ。「ふ、藤本……さん、ですよね?」
「そうだけど」
美貴はもういちど記憶のファイルをめくって、目の前の女の子を検索して
みた。該当なし。思いあたらない。
「あの、わたし、紺野といいます」と彼女は言った。「その、藤本さんが
憶えてるかわからないんですけど、今年の入試のとき、藤本さんにお世話に
なりました。受験票とか、筆記用具とかで」
- 566 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:32
-
「あ」
思い出した。「あのときの」
- 567 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:33
- 今年の2月だから、もう半年以上も前のことになる。美貴は大学の入学
試験のアルバイトをしていた。試験場で問題用紙や解答用紙を配ったり、
写真を見ながら受験生の確認をしたり、試験中に不正行為が行われない
ように机の間を歩いて見回ったり、トイレに行く受験生のつきそいをしたり
する役割だ。ほとんど立っているだけの仕事で、それなりのお金がもらえる。
まあ悪くないアルバイトだ。
昼休みにはアルバイト試験官のための弁当が控室で配られた。それを食べて
から試験場に戻ると、1人の受験生が今にも泣き出しそうな顔をして美貴の
ところにやって来た。彼女の話によると、昼休みの間に机の上に置いていた
受験票と筆記用具がごっそりなくなってしまったらしい。そんなものをわざ
わざ持っていく人がいるとは思えないのだけれど、とにかく彼女の受験票と
筆記用具はどこにも見あたらない。試験監督がまだ教室に来ていなかった
ので、美貴はその受験生を連れて試験本部まで行って、仮受験票を発行する
ためのいろいろな手続きを手伝った。本部に置いてあった貸与用の筆記用具
も貸してあげた。
- 568 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:33
- いま声をかけてきた女の子は、まさにその受験票をなくした女の子だった。
言われてみれば名前も紺野あさ美とかそんな感じの名前だったような気がする。
「へえ、あのときの」美貴はうなずいた。「じゃ、受かって、ここに通って
るんだ」
「そうです」と彼女は言って、頬を赤くした。「今日の授業中に藤本さん
を見かけたんです。いきなり声をかけるのもどうかと思ったけど、あのとき
のお礼も言えてなかったから、どうしてもひとことありがとうございました、
って言いたくて」
- 569 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:34
- 「ずいぶん律儀だなあ」美貴は笑って言った。「ていうか、よくわたしの
顔とか名前とか憶えてたよね」
「憶えてますよ。ほんとにお世話になったんですから、あたり前です」と
彼女は言った。そして深々と頭を下げた。「入試のときは、どうもありがとう
ございました」
「そんなに丁寧にお礼を言われてもこっちも困っちゃうんだけど」美貴は
苦笑いを浮かべた。「だって、そんなにとくべつなことをしたわけでもない
しさ、だいぶ前の話だしさ」
- 570 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:34
-
「でもっ」彼女は少し強めの口調で言った。「だって、あのときはほんとに
慌てて、どうしようどうしようって、パニックだったんですよわたし。藤本さん
にてきぱき手続きをしてもらって、それから、『落ち着いて、試験がんばってね』
って言ってもらえて、本当に助かったんです」
「はは」彼女がむきになって口を尖らせているところがなんだかかわいらし
くて、美貴は笑ってしまった。「そんなこと言ってもらうと、ちょっとは自分
も人の役に立つことしたんだなあって思うよ。どういたしまして」
- 571 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:34
- 美貴は周りを見回してみた。後方の両開きのドアの付近に何人かの学生が
いたが、それを除くと教室に人影はなくなっていた。
「ええと、紺野さん、だっけ。これからなにか用事あるの?」美貴は聞いてみた。
「いえ、今日はこれで授業終わりです」と彼女は答えた。
「わたしもそうなんだけど……」美貴はちらりと腕時計を見た。6時を
まわったところ。「立ち話もなんだし、よかったら一緒に夕ご飯でも食べない?
そこらのファミレスでよかったら」
- 572 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:37
- 「え、ほんとですか?」彼女の顔が輝いた。
ご飯食べようって言っただけでそんなに嬉しそうな顔をされると、なんだか
くすぐったい気持ちになるな、と美貴は思った。
「うん。でもさ、オゴったりはできないよ。少しは多めに出すけど」
「あ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないです」彼女は顔を赤らめた。
「あの、自宅に電話していいですか?親に今日の晩ご飯はいらないよって言わ
なくちゃいけないから」
「もちろん。どうぞどうぞ」
- 573 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:38
- 彼女は右手に下げていたバッグを机の上に置いた。清潔そうな白いキャン
バス地のトートバッグだった。手提げのところに丸くて青いふわふわとした
飾り物がついていた。彼女はバッグに手を入れた。ひととおりバッグの中を
ごそごそと探ってから、眉間にしわをよせて、「あれ」とつぶやいた。それ
からもういちど奥の方まで手を突っ込んで、中身をひとつひとつ取り出して
いった。教科書にルーズリーフ、筆記用具、ポーチに雑誌……。
- 574 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:39
-
しばらくしてから彼女は顔を上げて美貴を見つめた。大きな目がうるんで
いた。今にも泣き出しそうな顔。それはまさに半年前に美貴が試験場で見た
女の子の顔だった。
- 575 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:40
-
◇
- 576 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:41
- まず2人はその教室を探した。あさ美が座っていた座席の近辺をていねいに
調べたが、あさ美の携帯は見つからなかった。美貴は彼女の携帯の電話番号を
聞いて、自分の携帯から電話をかけてみた。あさ美によれば着信音はオフにして
あるけれど、バイブレータの振動はあるはずとのことだった。電話はかかったが、
どこからも振動音のようなものは聞こえてこなかった。してみると、彼女の携帯
は電波が届くところにあるようだったが、この教室に置き忘れたのではなさそう
だった。
- 577 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:41
- 次に2人はあさ美が1つ前の時間に出席していた教室に行ってみた。その教室
は同じ文学部の校舎のいちばん上の階にあった。ドアをそっと開けてみると、
なにかの講義が行われていた。教授が教壇の上に立っていて、黒板に向かって
チョークでなにかの図を書いている。学生の入りは6割といったところ。正規の
授業時間は終わっているはずだから、おそらく補講をしているのだろう。
2人は授業に遅刻したふりをして、こっそりと教室に入った。できるだけ
目立たないように、静かにあさ美が座っていた座席の近辺まで行って周辺を
調べてみたが、携帯は見つからなかった。2人は入ってきたときと同様に、
忍び足で教室の外に出た。
- 578 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:42
- 「うーん、見つからないね」階段の踊り場で、美貴はあさ美に言った。
「どこなんだろう」
「すいません、つき合ってもらっちゃって」あさ美はばつが悪そうだった。
「藤本さんに悪いから、あとはひとりで探します」
「いやいや、気にしなくていいから」と美貴は言った。「別にこのあと用事が
あるわけでもないし。それにさ、ここで『そう、見つかるといいね。それじゃ』
なんて言ってひとりで帰るわけにはいかないよ、そりゃ」
- 579 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:42
- 「あーもう、どこに置いてきちゃったんだろう」とあさ美が悔しそうに言った。
「ばかみたい、わたし。ほんと、すみません」
「まあ、もうちょっと探してみようよ」と美貴は言った。「あとさ、もう
いちどバッグの中を見てみたらどうかな。やっぱり結局バッグの中にあった
とかって、よくある話だからさ」
- 580 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:42
- 2人は文学部の校舎を出た。もう日は暮れていて、建物の外は夕闇につつま
れていた。キャンパスの通りを歩いている学生は数えるくらいしかいなかった。
ひんやりと冷たい風が、通りに沿って植えられているけやきの枝をざわざわと
揺らしていた。もう夏は終わったんだなと美貴は思った。10月なんだから
あたり前といえばあたり前なんだけど、最近は10月だって普通に暑い日が
あるからなあ。
2人はあさ美が昼休みの後に授業を受けたという、各学部共通の校舎に向か
った。その校舎はキャンパスの中央に位置していて、入口には複雑な幾何学模様
をした彫刻が置いてあった。有名な彫刻家の手によるものとのことだったが、
どこがどう良いのかさっぱりわからないというのが美貴の感想だった。
- 581 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:43
- 2人は階段を上がって、あさ美が中国語の授業を受けた語学専用の小教室に
向かった。その教室にはまだ電灯が点いていて、中でどこかのサークルがなにか
の勉強会をしていた。窓からのぞいてみると、黒板には「ディケンズにおける
複眼構造のエクリチュールについて」と書いてあった。机と椅子がたがいに
向かい合うように並べ直されていて、10人くらいの学生が難しい顔をして
討論らしきものをしていた。
サークル活動の邪魔をしたくはなかったが、ここで回れ右をして帰るわけ
にもいかなかった。2人はお話中すみませんと言って教室に入り、事情を説明
した。その教室にいた学生は快く2人の頼みを聞いてくれた。どうぞ探して
ください、なんなら手伝いましょうかとまで言ってくれた。
しかし、その教室にもあさ美の携帯は見つからなかった。何度か美貴の携帯
を使って電話をかけてみたが、どこからも反応はなかった。
- 582 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:44
- 2人はその足で文学部の事務室に行って、受付で携帯電話の落とし物は
届いていませんかと聞いた。係りの人は答えはノーだった。それから生協に
向かった。昼休みにあさ美が生協に立ち寄ってパンを買ったからだ。生協の
売場をひととおり探したが、携帯は見つからなかった。
- 583 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:44
- 2人は文学部の校舎に戻り、学生用のラウンジに向かった。ラウンジは
がらんとしていて、他の学生の姿は見えなかった。蛍光灯がいくつか壊れて
いて、ちらちらと点滅していた。学生向けの格安旅行パックや、自動車教習所
の宣伝ポスターがあちこちにべたべたと貼られていた。
美貴とあさ美は出入り口にいちばん近いテーブルに向かい合って座った。
テーブルの上にはどこかのサークルの連絡用に使用されているらしい大判の
ノートと、缶コーヒーの空き缶がいくつか乱雑に置いてあった。アルミ製の
灰皿には煙草の吸殻がいっぱいにつまっていた。
- 584 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:45
- 「うーん、困ったね」美貴はラウンジの壁にかかっている時計を見た。
7時半だった。
「ほんとに、すみません」とあさ美は言った。「もういいんです、携帯
なんか。そんなに携帯を使ったりするわけじゃないんです。大してメールも
来ないし、着信もないし。それより、藤本さんを巻き込んで、いろんなところ
に連れ回しちゃったことの方が申しわけなくて」
「それはべつに気にしなくていいって言ったじゃん」と美貴は笑って言った。
「なんつうかその、なりゆきってやつだよ」
- 585 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:45
- 「ありがとうございます」とあさ美は言って、美貴をじっと見つめた。
「藤本さんって、やさしいひとですね」
「へ」いきなりそんなことを言われて、美貴はラウンジの長椅子からずり落ち
そうになった。「わたしが、やさしい?」
「はい」あさ美の表情はまじめそのものだった。「ほんとに親切で、やさしい
ひとだなあって。入試のときも思ったけど、やっぱりそうだった」
- 586 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:46
- 美貴は思わず笑ってしまった。「はは。そんなの、生まれてはじめて言われたよ。
性格がひねくれてるとか、キツいとか、つっこみが厳しいとか、そんなことはよく
言われるけどね」
「でもっ、ふつう、ほぼ初対面の人が携帯なくしたって、こんなに探すのに
つきあってくれないですよっ」あさ美がむきになって口を尖らせて言った。
「うん、まあ、そんなこと言ってもらってありがとう」
美貴はまたくすぐったい気分になった。こんなことを言われて悪い気は
しないけれど、どこをどうひっくり返してみても、自分が「やさしいひと」で
あるとは思えなかった。身分詐称はよくない。身体がむずむずする。早いところ
話題を変えないと。美貴は急いで言った。
「あと、もし今日中に見つからなかったら、携帯の会社に連絡してさ、利用
停止にしてもらった方がいいよ」
- 587 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:47
- 「あ、そうですね。連絡しないと」とあさ美はうなずいた。それからぽつり
とつぶやいた。「ほんと、ばかみたいです、わたし。せっかく藤本さんとまた
会ってお話しできたのに。……この前は受験票で、こんどは携帯。ものをなく
してばっかりで、恥ずかしい」
「たしかに、そうかも」美貴は思わずくすくす笑ってしまった。それから
謝った。「ごめんごめん、笑うつもりじゃなかったんだけど。でもわたしだって
よくものをなくすからさ。きっぷとか腕時計とか傘とか。別に恥ずかしがる
ようなことじゃないよ。それにさ、わたしの友だちなんて、この前電車の中に
恋人忘れてきたんだから。それに比べたら携帯なんてたいしたことないって」
- 588 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:47
- 美貴は一昨日の昼に、同じ学部の友人から聞いた話をした。
わたしの友だちに吉澤ってのがいるんだ。同じ学部で、去年のドイツ語の
クラスが一緒で、よく遊んだりするんだけど。それで、彼女は後藤っていう
女の子とつきあってるんだ。2人はもうけっこう前からつきあっててさ、かなり
仲良しの恋人同士なんだよね。
そのよっちゃんとごっちんの2人で、先週の日曜日に日帰りの旅行をした
らしいんだ。2人とも早起きして、駅で待ち合わせして、JRの特急に乗って。
でまあ、朝早かったもんだから、目的地に着くまで2人は車内でぐっすりと
寝ちゃったらしいのね。よっちゃんはほんとに眠かったらしくてさ、降りる駅
の寸前までぜんぜん起きなかったんだって。でもまあ、駅に着くか着かないか
ってところでぱっと目をさまして、慌てて網棚から2人ぶんの荷物を下ろして、
急いで特急から駅のホームに駆け降りてひと安心したわけ。よかった、ぎりぎり
セーフだったって。
- 589 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:48
- でもすぐによっちゃんは気づいたのよ。ごっちん忘れた!って。ごっちんは
窓際の席で眠りこけたまんま、そのまま特急に乗っていっちゃったんだってさ。
まあ、どっちもどっちなんじゃないのってわたしは思ったんだけど、後で
よっちゃんはごっちんに2回蹴りを入れられたんだってさ。あたしより荷物が
大事なんかって。
- 590 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:48
- その話を聞くと、あさ美もくすくすと笑った。
「ありがとうございます」あさ美は言った。「もうだいたいのところは探し
ました。夜になっちゃったし、今日は帰ります。それで携帯を利用停止にして
もらって、また明日探します。明日になれば落とし物で届いてるかもしれないし」
「そうだね」美貴は肯いた。それから頭を掻いた。「あんまり役に立てなくて、
ごめんね」
「そんなことないですよっ」とあさ美は言った。「ほんとに、すみません。
引っ張り回しちゃって」
「いやいや、それはもういいってば」と美貴は苦笑しながら言った。そして
立ち上がった。「じゃあ、行こうか」
- 591 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:50
- 2人は文学部の校舎を出た。真っ暗な夜空にはまるい月がぽっかりと浮かん
でいた。キャンパスの正門には大学創設者の銅像があって、白い照明の光が
その銅像と警備の詰所を照らし出していた。どこかからりんりんと虫の鳴く音
が聞こえてきた。学生が校舎と通りを埋めつくす昼間と違って、夜のキャン
パスはひっそりと静まり返っていた。でもこんな暗くて静かな雰囲気も悪く
ないなと美貴は思った。
- 592 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:50
- 2人はキャンパスを出てから10分ほど歩いて、最寄りの私鉄の駅に着いた。
あさ美の家は美貴とは別方面にあるとのことだったので、2人は駅の改札口を
通ったところで別れた。
「じゃあ、またね」と美貴は言った。「また来週、あの講義で会おうよ」
「はい、そうですね」とあさ美は言った。それから小さな声でつけ加えて言った。
「……来週は、授業が終わった後、いっしょにごはんを食べてくれますか?」
- 593 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:51
- 「あ、今日は結局ファミレス行けなかったね」美貴は笑って答えた。
「いいよ、もちろん。来週は帰りにごはんを食べよう」
「よかった」あさ美はにっこりと笑った。そして、美貴の正面に向き直って
頭を下げた。「今日はどうも、つきあってもらってありがとうございました」
「どうしたしまして」と美貴は言った。「携帯、見つかるといいね」
- 594 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:51
-
◇
- 595 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:51
- やってきた準急電車に美貴は乗り込んだ。車内は思ったほど混雑してはいな
かった。座席はすべて埋まっているものの、立っている乗客はほとんど見あた
らない。
すぐにドアが閉まって、電車が動き出した。美貴は閉じたドアにもたれて、
車内の吊り広告をぼんやりと眺めた。いつも美貴が買っているファッション
雑誌の広告と、よく知らないビジネス雑誌の広告が並べて張り出されていた。
がたんがたんという電車の振動に合わせて、つかまる人のいない吊り輪の列
がこきざみに揺れていた。
- 596 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:52
- 電車がいくつか駅を通過した。美貴はふと思いついて、自分の携帯を取り
出した。そしてあさ美の携帯の番号を呼び出して、通話ボタンを押してみた。
しばらくの沈黙の後に、トゥルル、トゥルルという呼び出し音が聞こえてきた。
でももちろん、その呼び出し音に反応はない。音が鳴り続けるだけだ。
そういえば、あさ美の携帯はどんな色で、どんな形をした携帯だったのだろう、
と美貴は思った。聞き忘れてたな。けっこう大事なことなのに。でもあの子の
ことだから、きっと一般的なよくあるタイプの折りたたみ式携帯なんじゃない
かな。色はたぶんホワイトだろう。そんな気がする。
- 597 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:52
- その携帯はまだ大学のどこかにあるはずだ。もしかしたら最初の教室にある
のかもしれないし、語学の小教室のカーテンのすき間に隠れているのかもしれ
ない。生協のどこかに落っこちているのかもしれない。
あるいは大学にはないのかもしれない。なにしろあれだけ探しても見つから
なかったのだから。まったくぜんぜん別の場所にあるのかもしれない。どこか
遠い、誰も知らないような場所に。
- 598 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:53
- 呼び出し音はまだ鳴り続けている。
美貴は目をつぶって、この世界のどこかにあるはずのあさ美の携帯を思い浮か
べる。それはなんのへんてつもない、どこにでもあるような白い折りたたみ式
の携帯だ。そしてその携帯は、たったいま、この瞬間に、ぶーんぶーんと
音を立てて振動している。暗闇の中で、美貴の携帯からの着信を告げて。
- 599 名前: 投稿日:2005/11/30(水) 23:54
-
おわり
- 600 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/03(土) 22:05
- どこからか着信音が聴こえてくるようでした。
面白かったです。ありがとう。
- 601 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:10
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 602 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/31(土) 03:38
- 最初から最新更新分まで読ませていただきました。
Deporさんの小説は、地の文がとても上手だと思います。(もちろん会話が下手ということではありません。特に長台詞は素晴らしいです)
読者に行間を読ませたり、結末を明記しないことで余韻を残したりするのが巧みだな、と。
あと、話の構成に感心させられます。唐突に現れる様々なことが、全体として一つの形をなしていたり・・・
楽しみながら、時には考えさせられながら、一気に読んでしまいました。
個人的には、京都だの大学だのといった素材が身近ということもありますw
- 603 名前:Depor 投稿日:2006/01/23(月) 22:42
- >600 名無飼育さん
こんな素敵な感想にふさわしい話が書けたかどうかわかりませんが、
こちらこそ、どうもありがとうございます。
気が向いたときにでも、またのぞいてみてください。
レスありがとうございました。
>602 名無飼育さん
最初から最後まで読んでもらって、どうもありがとうございます。
自分としては、文章が上手いとはなかなか思えないんですよ。
もっと上手い文章が書けたらなあといつも思ってます。
それだけに、地の文が上手と言ってもらって、飛び上がるくらい
嬉しかったです。
いろいろとスレの感想をいただけて、ほんとうに励みになりました。
よかったら、またのぞいてみてください。レスありがとうございました。
- 604 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:00
-
「紺野教授の御菓子学講義」
- 605 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:01
- おはようございます。はじめまして。紺野といいます。まず最初に
言っておくと、この講義は「御菓子学概論」です。教室を間違えてる
人はいませんか。新学期しょっぱなの授業ですから、けっこう教室を
勘違いする人っているんですよ。わたしも学生のころよく間違えました
からね。しかも間違えてることに気がつかないで5月の終わりくらい
まで普通にその違う講義を受けてたこともありましたからね。みなさん
は気をつけてくださいね。
では、講義をはじめます。初回ですし、あんまりがちがちに講義を
進めるつもりはありません。まずは、おそらくみなさんがいちばん
気になっているであろう、単位認定の話や授業の進め方についてお話し
します。これは大事なことですから、耳をすませて聞いてくださいね。
- 606 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:01
- 単位認定については、学年末にレポートを提出してもらうことにします。
締め切りについてはまた改めてお知らせしますけど、いまのところ1月
の終わりくらいをめどにしてます。レポートの内容は、この講義で扱った
古今東西のお菓子について、1つか2つを取り上げて徹底的に論じると
いうものです。基本的には前期は和菓子、後期は洋菓子でいく予定を
立てていますが、講義で取り上げたお菓子なら、何をどのように書い
てもかまいません。
- 607 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:02
- たとえば再来週あたりに、わたしたちは和菓子の外郎について勉強
します。外郎の語源や外郎の歴史について(1523年にあった寧波の乱の
原因が外郎であったことはご存じでしょうか)、それから全国各地の
外郎の特徴について、いろいろお話ししようと思っています。羊羹と
外郎って一見似てるけれど、どこがどう違うのか、実際にみなさんに
食べていただいて、確認してみたいとも思っています。こういう講義の
内容を踏まえた上で、外郎についてのレポートを書いてもらいたいと
いうことです。もちろんこれはひとつの例ではありますが。
- 608 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:02
- 評価基準ですけど、とりあえずそのお菓子についてわたしが講義で
お話ししたことが把握できていれば、最低でもBはつけます。そして
ぶっちゃけた話、締め切りさえ守ってくれたらCはつけます。
ただ、レポートを提出しなかったり、出席日数が3分の2未満だったり
すると、単位を認定することはできません。あとレポートの盗作もだめ
です。インターネットで適当に検索して、それをコピー・アンド・ペー
ストしてからちょいちょいと手を入れるだけのレポートってよく見るん
ですけど、あれってさらっと読んだだけですぐにわかっちゃうんです。
やめてくださいね。
- 609 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:02
- いまちょっと言いましたけど、講義の出欠もとります。講義の途中で
事務所の職員の方が教室に来て出欠カードを回すので、それに必要事項
を記入してください。ちゃんと人数を数えて回しますから、誰かに代返
を頼んで2枚ぶん記入するなんてずるはできませんよ。月曜の1限って
わりと過酷な時間帯だと思いますけど、がんばって起きてぜひ授業に
来てください。わたしもできるだけみなさんに「月曜の1限だけど、
日曜の夜に早寝して出席する価値はある授業だ」と思ってもらえる
ような講義をしたいと思っていますから。
- 610 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:03
- ええと、授業の進め方については、だいたいこんなもんでいいかな。
では今日の本題、御菓子学についての話です。
もしかしたら、この中には「御菓子学」ということばを今日はじめて
聞いたよって人もいるかもしれませんね。「御菓子学概論」という講座名
を見てなんじゃこりゃと思った人もいるかもしれないし、どうせ大学の
一般教養にありがちなえたいの知れない講義だろって思った人もいる
かもしれない。よくありますもんね、そんな講座って。
- 611 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:03
- それから、シラバスの講座紹介をお読みになった方もいるかもしれま
せんね。たしかシラバスには、「女子大学の学生にとって、お菓子とは
仲の良い友人であり、甘美に誘惑する恋人であり、憎っくき宿敵であり、
全てを包み込む優しい母親であり、融通のきかない頑迷な父親であろう。
女性にとって、いや人間にとって、永遠につきまとう問題であるお菓子。
この講義では、そのお菓子について、学問的側面からアプローチをして
いきたい」と書いたと思います。
- 612 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:03
- ……たしかに、わかったようなわからないような、うさんくさいこと
この上ない文章です。それは認めます。でも、言い訳するのではあり
ませんが、これは印刷の締め切りまであと6時間というところで、
いきなり教務課から400字詰め原稿用紙1枚に講座の内容をまとめて
くださいと言ってこられて慌てて書いたものなんです。だからこんな
文章になっちゃったんです。
- 613 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:04
- ということで、ここでしっかりと「御菓子学」というものに
ついて説明させてくださいね。
シラバスにもちょこっとだけ書きましたが、わたしはお菓子を
学問的にとらえていくことを提唱しています。社会のさまざまな
事象をお菓子という側面から切り取っていきたいと思っています。
だから必要とあらば講義の中で法律の話もします。経済の話もします。
歴史の話もします。哲学の話もします。政治の話もします。スポーツ
の話もします。今日の天気の話もします。芸能界のうわさ話だって
します。モーニング娘。の今後についての話もします。とくに紺野
あさ美のこれからについては真剣に考えていきたい所存であります。
いまってわりと正念場だと思うんですよね。あれっ。何を話してるん
だろわたし。
- 614 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:04
- ええと、話を戻します。社会とお菓子の関係でしたっけ。
それでは、法律とお菓子の関係で、ひとつ例をあげましょう。
今日の帰り道でもいいですから、本屋さんかどこかで六法全書を
開いて、民法のページをめくってみてください。民法570条に、
「お菓子の売主は買主に対して、通常の契約不履行責任の他に、
菓子担保責任という特別の責任を負う」という意味の規定が載って
いるはずです。現行法の上でも、お菓子の売買はちょっと特別扱い
を受けているんですね。
あっ、誰ですかっ、いま眉につばをつけたのは。
- 615 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:04
- また、お菓子というめがねを使って世界の歴史を眺めることもでき
ます。たとえば17世紀に、オスマン=トルコがオーストリア=ハン
ガリー帝国に対して侵攻したのは、クロワッサンのせいだと言われて
います。イスラム教およびトルコにとって、三日月というのは大事な
象徴なんですね。トルコからすれば、三日月の形をした菓子パンを
ぱくぱく食べているオーストリアは征服すべき野蛮人の集まりにしか
見えなかったのです。
それから、ナポレオンをロシア遠征で敗退させたのは、言うまでも
なく、軍の菓子不足による「菓子将軍」の到来でしたね。
さらには19世紀後半から20世紀のはじめにかけて、ケーキ、
クリームパン、チョコレートの3C政策をとったイギリスの菓子
帝国主義に対抗して、ドイツがバームクーヘン、ビスケット、バニラ
アイスの3B政策を押し進めたことは有名な話です。
えっ。バニラの頭文字はVですって。もうっ、細かいところはあまり
気にしないでくださいっ。
- 616 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:05
- とにかく、御菓子学というものが、奥行きがあり、かつ、幅の広い
学問であるということはわかってもらえたでしょうか。正直に言って
しまえば、御菓子学はこんな学部の一般教養みたいなけちな枠に
収まるものじゃないんです。わたしは大きな声でそう言いたいんです。
いつか、御菓子学が正当な学問として認められる日が来たらいいな
と思います。そして、この大学に御菓子学部というものができたら
いいなと思います。その御菓子学部の初代学部長にわたしが就任でき
たらどんなにすばらしいことか!だって、そうなったら、毎日毎日
古今東西のお菓子が学部長室に届けられるんですよきっと。そして
わたしはそれを朝からぱくぱくと……ああごめんなさい、よだれが
止まらなくなっちゃった。
- 617 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:05
- もとへ。もとへ。話を戻します。ええと、なんだっけ、そうだ、
わたしが言いたいのは、御菓子学というものは、真剣に取り組む
価値のある、とても興味深い学問なんだということです。
ただ、それと同時に、わたしはみなさんに、単なる「お勉強」
として御菓子学をとらえてほしくないということも、最初にきちん
とお伝えしておきたいんです。
- 618 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:05
- いま、事務所の職員の方に手伝ってもらって、みなさんにドーナツ
を1つずつ配ってます。さきほど、駅前のミスタードーナツで買って
きた、ホームカット・ドーナツです。個人的にはミスドだったら
ココナツチョコレートなんですけど、とりあえずいちばん平均的な
ドーナツを選んできました。
みなさん、ドーナツは行き渡りましたでしょうか。だいじょうぶ
ですか。さあ、目の前のこんがりと揚がったきつね色のドーナツを
見つめてください。わざわざ揚げたてのものにしてくださいって
お店の人に頼んで買いましたから、まだあったかいはずです。
うーん、美味しそうですよね。食べたいですよね。遠慮はいりません、
どうぞ食べちゃってください。
- 619 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:06
- おや、いまダイエット中なんだけどなと小声でつぶやいた人がいますね。
気持ちはわかります。たしかにダイエットというのはわたしたちにとって
大切な問題ですよね。脂肪って、つきやすくて落ちにくいものです。
いくらエステに通ってもみほぐしたところで、落ちないもんは落ちない
んです。残酷な事実ですが、それはしっかりと認めなくちゃいけません。
信じてもらえないかもしれませんが、わたしだってハロモニ。でお菓子
を食べるときに、何も考えずに食べてるわけじゃありません。お年頃の
女の子ですから、お腹のお肉のことはどうしたって考えないわけにはいか
ないんです。お尻だって、これ以上大きくなったら困るんです。あれえっ。
また話が違う方向にそれましたね。すみません。
- 620 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:06
- でもね、ダイエットしてるはずなのについつい手を伸ばしてしまう
という背徳感が、またドーナツの甘さを増すんです。こんなの食べちゃ
ったら明日履くジーンズの締めつけがきつくなっちゃうよどうしよう
という気持ちが余計にホームカット・ドーナツのおいしさをあおるんです。
ダイエット?そんなものは、2限のとことんつまらない必修の授業から
はじめましょう。たかだかドーナツ1個、228キロカロリーです。
さ、どうぞ口に運んでください。
- 621 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:07
- さて、みなさんドーナツを食べていただけましたか。
さくりとした食感、口の中に広がる甘くてあたたかな感覚、かみ
砕かれた生地が喉を通り胃に届いた感触、どれもこれも素敵ですよね。
- 622 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:07
- 御菓子学って、つまりそういうことなんです。
いまわたしたちがドーナツを食べたときに感じた幸せな気持ち、
それが出発点であり到着点なんです。それが何よりも何よりも大事な
ことなんです。どれだけ和菓子や洋菓子の歴史を学んだとしても、
どれだけ深く社会とお菓子の関係を理解したとしても、その人が
お菓子を食べたときに何にも替えがたい幸せな気持ちを味わえな
かったら、御菓子学の意味なんてないんです。御菓子学は理屈や
論理だけで動いていくものじゃないんです。
いま食べたドーナツの味、それをどうぞ忘れずに憶えておいて
くださいね。
- 623 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:07
- ちょっと早いですけど、これで初回の講義は終わります。次回
からは本格的な御菓子学の内容に入っていきます。来週は饅頭を
取り上げて、その歴史と特徴について学びます。とくに予習をして
こいとは言いませんが、教科書の該当ページに目を通しておいて
くださいね。じゃ、今日はこれでおしまいにします。
- 624 名前: 投稿日:2006/01/27(金) 20:08
-
おわり
- 625 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/28(土) 01:11
- 紺野教授、最高です・・・w
ニヤニヤふむふむしながら読みました。
>>614のラスト噴きました。
次回の講義には是非出席したいと思いますw
- 626 名前:名無し飼育さん。 投稿日:2006/04/02(日) 16:54
- 耳をすませて聞かせていただきましたw
紺野教授素敵すぎます!!
私も是非次回の講義には出席したいですw
- 627 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:35
-
「久しぶりの」
- 628 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:36
-
久しぶりの恋だ。実に3年と4か月ぶりの恋。前の恋が終わった日はしっかりと
記憶に刻まれているから(かなり衝撃的な幕切れだったのだ、私の前の恋は)、
間違いはない。3年と4か月。決して短くはない時間だ。
- 629 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:36
- 相手は私より5歳も年下の女の子だ。私より5歳も年下の、21歳になった
ばかりの職場の後輩。彼女は私のことを「保田さん」と呼ぶ。私も彼女のことを
「石川さん」と呼んでいる。とくにまわりに職場の人がいるときなんかは「石川
さん」と呼ぶ。でもたまに2人きりで話すときは呼び捨てにする。私が呼び捨てに
しても、彼女は嫌な顔はしない。それどころか嬉しそうな顔をするときもある。
まあ、私がそう思っているだけかもしれないけれど。
- 630 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:37
- 私はこれまで年下の人間に恋をしたことがない。女性に恋をしたこともない。
私のこれまでの恋は、すべて年上の男性に対するものだった。包容力があり、
頼りがいのある、年上の(できれば5歳くらい上が望ましい)男性。それが私が
好きになる人のタイプだった。そんな自分が5歳も年下の、しかも女の子に恋を
するだなんて、思ってもみなかった。
実際こうなってみると、驚くというより笑ってしまう。失笑モノというやつだ。
でもまあ、好きになってしまったものはしょうがない。自分に嘘をついたって
しょうがない。開き直って認めるしかない。当年とって26歳の女性である私は、
21歳の女の子に恋をしているのだ。ははは。
- 631 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:37
- しかし何にせよ、久しぶりの恋は心地よかった。
恐ろしいことに、自分がまるでティーンエイジャーの頃に戻ったような気が
するのだ。私が生まれてはじめて本当に本物の恋をしたのは18歳のときだった
のだが、今の私はそのときとまったく同じ感覚を味わっている。私は18歳の
ときに見たのと同じ景色を眺め、同じ匂いを嗅ぎ、同じ音を聴き、同じあたた
かさに暖められている。悪魔に魂を売る必要なんかない。恋をするだけで、
人は若返ることができる。
- 632 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:38
- 私は仕事中にぼんやりすることが多くなった。何かに集中することに困難を
感じるようになり、少しでも暇になると何かを(何でもいい。電卓でも割りばし
でもペットボトルでもシャープペンシルでもマグカップでも売上伝票でも)を
じっと見つめてしまうようになった。
こんな状況下では、当然のことながら仕事の効率は下がってしまうことになる。
私は書店員という仕事をしているわけだけれど、売場のカウンターの前にお客さん
が立っているのにも気がつかなかったりする。非常によくない。でも私にはどう
することもできない。
なぜなら私はいま、恋をしているのだから。本当に本物の恋を。ははは。
- 633 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:38
-
◇
- 634 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:38
- あたり前すぎるくらいにあたり前の話だが、こんな恋がすんなりとうまく
いくわけがない。土曜日の世田谷通りのように、あちこちで流れを妨げる渋滞が
起きることになる。私はときにはいらいらして、ときにはため息をつく。
どうしてまた、こんなところに来てしまったんだろう。土曜日の世田谷通りが
大混乱に陥るのはわかっているのに。そうでなくても私にはいろいろ考えなく
てはならないことがあるのに。
- 635 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:39
- 例えば私は実家に住む両親のことを考える。私の両親は千葉県で書店を
開いている。各駅停車しか止まらない小さな私鉄の駅から徒歩5分くらいの
ところにある書店だ。書店というよりは本屋と言った方がわかりやすいような、
吹けば飛ぶような規模の書店だ。私は本屋の娘として生まれ育って、短大を
出てから都内のわりと大きな書店の社員になった。そして働きはじめて5年
経ったいま、体調を崩しがちになった両親からこっちに戻ってきて店の手伝いを
してくれないかと言われているのだ。
- 636 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:39
- そして、私の働いている書店では、現在早期退職希望者を募集している。というのも、
この業界は下り坂を転げ落ちている最中だからだ。出版部数は毎年減り続けているし、
それに伴うように書店の出店数も減り続けている。新古書店チェーンの台頭で、
たいていの客をそっちに取られてしまっている。顧客の囲い込みをしたり、従業員を
削減して経営のスリム化を計ったりしていかないと、どこもやっていけないのだ。
私からしても、この退職希望者募集に乗るのは悪い話ではない。これに乗れば
まあまあの退職金が出ることになっているし、実家の店を継いでおけば、決して
ぜいたくはできないにしても、よほどのことがない限り食いっぱぐれはないだろう。
わりと大手の書店に勤めていたおかげで、取次とのちょっとしたコネクションも
できている。何より、親子仲が理想的に良いというわけではないけれど、実家の
年老いてきた両親をこのまま放っておくわけにもいかない。
- 637 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:40
- だから私はこの数か月、ずっと会社を辞めるべきかどうかを考えていた。
これは大きな問題だ。じっくりと時間をかけて考えて、納得のいく結論を出す
べき問題だ。大戸屋で昼ご飯のメニューを決めるときのようにはいかない。
私はそんな時期に、職場の後輩の女の子に恋をしてしまったのだ。
- 638 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:40
-
◇
- 639 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:40
- 少しだけ彼女の話。彼女の名前は石川梨華。去年この書店に就職してこの店舗に
配属された。社員の中ではいちばん年齢が近かったし、彼女のシフトが私のシフトと
ほとんど重なっていたこともあって、私が彼女の教育係のようなポジションについた。
最初のうちはほとんどつきっきりでいろいろなことを教えた。レジの打ち方やら
誤打の処理の仕方やら検定試験の申込の処理やらスリップの仕分けやら図書カードの
分類の仕方やらアルバイトさんとのつきあい方やらクレームへの対処の仕方やら。
彼女は私の言葉を真剣に聞き、いちいちメモ帳に書きとめていた。
- 640 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:40
- 彼女はこっちがはらはらするくらいにミスをした。仕入伝票の記入を間違い、
新刊本の配置を間違い、社員割引の適用を間違い、雑誌の定期購読者の住所変更を
忘れ、既に絶版になった本の注文を何冊も受け、サイン会の日にちを1日間違えて
ブッキングした。私だって最初からすべてを完璧にこなしたわけではないけれど、
ここまでのミスはしなかったと思う。正直に言って、この子はこの仕事に向いて
ないんじゃないかなとすら思った。
だけど、彼女は本当に健気に働いていた。それはもう、こちらが見ていて胸が
しめつけられるように健気だった。ミスは多かったけれど、それは手抜きや怠慢から
来るミスではなかった。彼女は面倒で退屈な雑用でも率先して引き受けようとして
いたし、残業を厭うこともなかった。お客さんの目線でものを考えようとしていたし、
クレームを受けたときの対応もしっかりしていた(さすがに声は震えていたけれど)。
さらに言えば、彼女はきちんとした敬語を使えていた。「1000円『から』
お預かりいたします」なんていう妙な言葉遣いはしなかった。
- 641 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:41
- そのうちミスも減ってきた。思ったよりもずっと早く、彼女は一人前の書店員に
なっていった(まあ、まだまだのところもたくさんあるけれど)。私がそのことを
言うと、彼女は目を輝かせて、「ありがとうございます」と言った。ぜんぶ保田さん
が教えてくれたおかげです、と。
- 642 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:41
-
◇
- 643 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:42
- うちの店舗はビジネス街にあるから、日曜日の午後は客がほとんどいなくなる。
だから店員もそれほどいなくて構わない。日曜日に出社するのは私と彼女と係長
だけだ。係長にしても、日曜は何かの会議で出かけてしまうことが多いから、
午後は私と彼女と何人かのアルバイトさんだけで売場を回していくことが多い。
午後9時に店を閉め、アルバイトさんが帰ってしまうと、残るのは私と彼女だけだ。
私たちは2人でレジを閉めて、売上金を金庫にしまい、明日の入荷の準備をする。
それから私と彼女は、職場を出て、2人で遅い夕食をとる。ファミレスに行く場合も
あるし、ファーストフードのときもあるし、居酒屋のときもあるけれど、とにかく
日曜日の夜、私たちは一緒に夕食を食べる。
- 644 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:42
- 彼女はそこで私にいろいろな話をする。TVの話、映画の話、最近読んだ本の話。
仕事の愚痴。他店舗の同僚のうわさ話。それ以外にも、いろいろ。基本的に話すのは
彼女で、聞き手が私だ。以前は私の方が話していたのだが、いつの間にか話の主導権
は彼女に移っていった。食事に手をつけるのも忘れて話し続ける彼女の顔をじっと
見つめながら、どうしてこの子が好きになったのだろうと私は思う。いったいどういう
わけで、私は5歳も年下の女の子なんかに恋をしちゃったんだろう。この子もまさか
職場の先輩に本当に本気の恋をされているだなんて思ってもいないんだろうな。
もしいま目の前にいる職場の先輩が、自分に本気で恋をしていることを知ったら、
彼女はどんな顔をするんだろう?
そんなことを考えながら彼女の話に適当に相づちを打っているうちに、私は次の
給料が入ったら、休みの日に2人で映画を見に行きませんかという彼女の申し出に
肯いてしまっていることに気づく。
- 645 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:42
-
◇
- 646 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:43
-
次の給料が入る前に、やるべきことがひとつある。早期退職希望者募集への返答だ。
担当の副店長にイエスかノーかを言わなくてはならない。実は副店長には「もしか
したら辞めるかもしれない」と言っていたりもするのだ。
返答の期限まではあと2週間足らず。
- 647 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:44
-
◇
- 648 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:44
- 次の日曜日の午後のこと。いつものように係長は本店でのエリア会議に出席して
しまったので、社員は私と彼女しかいない。でもまあアルバイトさんの人数は
足りているからとくに問題はない。
午後番のアルバイトさんの集合の時間になった。私は新聞の日曜版の書評で取り
上げられている本について話してから、今日のシフトの説明をした。それから
アルバイトさんと接客用語を唱和して、売場に出ていった。日曜のわりには忙しい日で、
すぐにお客さんから問い合わせを受け、プレゼント用のややこしい包装を頼まれた。
足りなくなったレジの小銭を補充して、英語の検定試験の申込を受けた。
- 649 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:45
- 客足が落ち着いてから、誰もいない事務所に戻って一昨日の売上の集計をしていると、
休憩をとっていた彼女が戻ってきた。「戻りました」
「お帰り、お疲れさま」と反射的に言ってから、私は驚いて言う。「どうしたの」
彼女の顔色は紙のように白くて、まったく生気がなかった。こんな顔をした彼女を
見るのははじめてだった。
「すみません」と彼女は聞こえるか聞こえないかわからないくらいのかぼそい声で
言った。いつもの耳障りなくらいの甲高い声とはまるで違う。「なんか…急に、体調が
わるくなっちゃって」
- 650 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:45
- 「だいじょうぶなの」と私は言う。
「だいじょうぶです」と彼女は答えた。「たぶん、貧血だと思うんですけど…
よくあるんです、私」
「ちょっとここで休んでなさい」と私は言ってから、事務所の奥の方にある椅子を
持ってきて彼女の前に置いた。
「いえ、だいじょうぶです」彼女はおぼつかない足どりでロッカーへ向かい、
白いカーディガンを取ってきて、それを着込んだ。寒いのだろう。「売場に、戻ります」
- 651 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:45
- 「そんな状態で売場に出たら、かえってお客さんに迷惑がかかるだけよ」私は有無を
言わさない強い口調で言う。「ここに座りなさい」
「…わかりました」と彼女は言って、椅子に座り込んだ。テーブルにつっぷして、
重ねた両腕の上に頭を乗せてぐったりとしている。彼女の栗色の髪がテーブルの上に
ふわりと広がっている。
「良くなるまで、ここで休んでなさい」と私は言った。「ひとりで帰れるようなら、
今日は帰っていいよ。後は私がやっておくから」
「……はい」彼女はテーブルにうつぶせになった姿勢のまま答えた。
- 652 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:46
- 「じゃあ、私は売場に出てるから」と私は言って、事務所の出口に向かった。
ドアを開ければそこはもう売場だ。
「保田さん」彼女の声。
「何?」私は立ち止まった。彼女の声に、何か変な響きを感じた。
「辞めちゃうんですか?会社」
- 653 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:46
- 私は言葉に詰まった。私が会社を辞めようとしていることについては、彼女は何も
知らないはずだ。ひとことも、ほのめかしたことすらないはずだ。
副店長?いや、副店長が彼女にそんなことを言う理由がない。
「……なんで、そう思うの?」と私は事務所のドアの前に立ったまま言った。
振り向いて、彼女を見ることができなかった。
- 654 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:47
- 「なんか、わかっちゃうんです。保田さんの考えてること」と彼女は言った。
たぶん、テーブルにつっぷした姿勢のままで。「好きだから」
私は答えなかった。彼女も何も言わなかった。沈黙が続いた。私は立ち止まった
まま、目の前のドアの木目模様をじっと見つめていた。渦巻状になっている木目を
見て、なんだか目玉みたいだと思った。
- 655 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:47
- 沈黙を破ったのは彼女だった。「辞めないで」と彼女は言った。
「保田さんがいなくなったら、私、どうしたらいいのかわからないんです」
同じ姿勢のまま、30秒ほど私は黙っていた。それは今までの人生の中でいちばん
長い30秒だった。
それから、私は何も言わずにドアを開けて、売場に出ていった。
- 656 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:47
-
◇
- 657 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:47
- 少し顔色のよくなった彼女をタクシーに乗せて早退させ、私は1人で店を閉めた。
そしてまっすぐ自分のアパートに帰った。
会社を辞めるかどうかということを考える段階はもう終わっていた。私は決断を
しなくてはならなくて、そしてその決断も既にすませていた。
- 658 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:48
-
◇
- 659 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:48
- 早期退職希望者募集の期限は水曜日で、その前日は休みの日だった。その日、私は
1日中アパートにいた。新聞を読み、TVをぼんやりと眺め、いくつか電話をかけた。
夜の10時を過ぎたときに、携帯に着信があった。ディスプレイには「石川梨華」と
表示されていた。
言い忘れていたが、私はけっこう電話で彼女と話す。電話で話す彼女の声は、
いつもと少し違った感じがする。もともと甲高くて、あまり売れていないアニメの
声優のような声の持ち主なのだが、電話口から聞こえる彼女の声はもっとさらに
甲高く聞こえる。そして彼女が電話で言う「保田さん」はどうしても「保田さぁん」と
いう風に、おかしなくらいに鼻にかかって聞こえるのだ。
- 660 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:48
- 私はしばらくディスプレイを見つめる。彼女が何の用件で電話をしてきたのかは
よくわかっている。そして私の答えも決まっている。
私は通話ボタンを押す。すぐに例のあの声が聞こえてくることもわかっている。
あの鼻にかかった、甘ったるい声。女の子女の子していて、しすぎなくらいで、
最初は苦手でしかたがなかった声。
「保田さぁん」
- 661 名前: 投稿日:2006/05/09(火) 22:49
-
おわり
- 662 名前:Depor 投稿日:2006/05/09(火) 22:50
- >625 名無飼育さん
レスありがとうございました。
紺野教授よかったですか?自分でも書いていてすごく楽しかったです。
ところどころで笑ってもらえたというのも嬉しかった。
こんな感想をいただけて、きっと教授も喜んでますよー。
>626 名無し飼育さん。
耳をすませてまで聞いてもらってありがとうございます。
紺野教授によれば聴講生歓迎とのことなので、ぜひ次の講義は教室まで
足を運んでみてくださいw
更新さぼりまくりだったのにレスをいただけて、ほんとに嬉しかったです。
ありがとうございました。
- 663 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/10(水) 00:23
- 読後に不思議な心地よさが残りました
良質な作品をいつもありがとうございます
- 664 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/10(水) 21:26
- なんか、、ちょっと泣きました。
いろいろ考えてしまいました。
- 665 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/16(日) 00:35
- 何と言ったらいいのか…とにかく印象に残る話ばかりで好きです。
- 666 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:33
-
「手紙」
- 667 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:33
-
紺野あさ美 様
- 668 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:34
- まずお詫びから。返事がずいぶん遅れてしまって、ほんとうに申しわけなく
思っています。
私はほんの少し前に実家を出てひとり暮らしをはじめたばかりなのですが、
紺野さんからのお手紙が私の手もとに転送されるまで何週間もかかってしま
ったのです。その上、この返事の手紙を書くのにもまた長い時間がかかって
しまいました。もともと私は文章を書くのがあまり得意じゃないし、好き
でもないんです。こうして便せんに並んでいる自分の字を眺めていると、
なんだかゆううつになってきてしまうくらいに。
- 669 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:34
- 変な書き出しだと自分でも思います。それに、ぶっちゃけた話、何をどう
書いたらいいのかよくわからないのです。かりかりとボールペンの音を立て
ながら誰かに向けて手紙を書くのなんて、10年ぶりくらいのことですから。
でもとにかく、あなたからもらったお手紙を読んで、私が考えたこと、感じた
ことを思いつくままに書いていきます。読みづらい、つたない文章だと思う
けれど、どうかがまんして読んでください。
私の実家の住所は、裕ちゃんから聞いたんですね?私はモーニング娘。を
卒業してから何度か引越しをしたのですが、裕ちゃんにだけはそのたびに
実家の連絡先を教えていたのです。他のメンバーとはもうほとんどまったく
連絡をとっていないんですが、裕ちゃんとはたまに電話でちょこっと話を
したりします。娘。にいたころはそんなに裕ちゃんと仲が良かったわけじゃ
ないんですけどね。人の縁というのはふしぎなものです。
- 670 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:34
-
◇
- 671 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:35
- さて、あなたも手紙の中で書いていたように、私がモーニング娘。にいた
時代と、あなたがモーニング娘。にいた時代とでは、なにもかもがまるっきり
違います。まずそもそもメンバーがぜんぜん違います。マネージャーも違い
ますし、スタッフも違います。歌う曲も、ダンスも、ライブも、出演する
TV番組も、毎日のスケジュールも、とにかくあらゆるものが違います。
共通点を探すのが難しいくらいでしょうね、きっと。
今ではスケジュールの中にフットサルの練習が入っていたりするんです
よね?私が娘。に在籍していたころに、いずれモーニング娘。のメンバーを
中心にフットサルのチームを作ることになるんだよと誰かに言われたら、
きっと私はくすくす笑い出したんじゃないかと思います。あるいは、なにを
馬鹿なこと言ってるんだって怒り出したかもしれない。だって、そんなことは
単純に「ありえないこと」でしたから。
- 672 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:35
- だけど、それにもかかわらず、紺野さんからいただいたお手紙は、私を強く
ゆさぶりました。お手紙の中で、あなたは娘。を辞めた後に感じた迷いや不安に
ついて、とても正直に書かれていましたが、私はあなたの気持ちがよくわかり
ます。それはやはり私も過去に同じようなことを感じたからだと思います。
娘。を卒業して、芸能界を引退してから、いろんなことがありましたから。
嫌なことやつらいこともけっこうありました。乗り越えることができたものも
あるし、いまだに引きずっているものもあります。私が卒業した後、どんどん
と信じられないくらいに大きな存在となっていったモーニング娘。を眺めながら、
複雑な気持ちにならなかったといえば嘘になりますし、「やっぱり娘。を辞め
なければよかったかな」と思ったことも一度や二度ではありません。
- 673 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:35
- 私がモーニング娘。を辞めた理由のひとつは、普通の中学生に戻りたかった
ということでした。私はほんとうに、どこにでもいるような、ごくごく普通の
中学生になりたかったのです。それから普通の高校生になって、普通に高校を
卒業したかった。そのときは、それはうまくいくだろうと思っていました。
だって、(例えばあなたのように)なにかむずかしいことに挑戦しようとする
わけではないですものね。そりゃまあ、ちょっとは苦労するだろうけど、
最終的にはうまくいくだろう。そう思っていました。
- 674 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:36
- でも結果的に言えば、それはうまくいきませんでした。私が高校を中退した
のは、ちょうど紺野さんがモーニング娘。に加入したころだと思いますが、
それは私にとってはあまり思い出したくない時期です。きついことが重なって、
精神的にちょっと参ってしまった時期でもあります。くよくよと、「こんなん
じゃ、モーニング娘。を辞めた意味がなかったじゃないか」とか、「娘。なんか
に入らなければ、こんな思いをしなくてすんだのに」とか、「もし娘。を辞め
なかったら、いまごろ私はどうなっていたんだろう」と思い悩んで、膝小僧を
かかえながらずっと部屋に閉じこもっていたことを憶えています。とても後ろ
向きで、恥ずかしい話です。あれだけ一生懸命考えて、悔いのない決断をした
つもりだったのに。
- 675 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:36
- でも、あれから何年も経って思うのですが、「けっきょく、何をしたって
同じことだったんじゃないか」って。仮にあのタイミングで辞めなかったと
しても、たぶん私はきっとどこかの段階で、モーニング娘。を辞めていたん
じゃないかと思います。もちろん私はいまでもモーニング娘。が大好きだし、
その一員でいられたことを誇りに思っています。ただ、もともと私は、
(自分で認めてしまいますが)ルックスだってスタイルだって、まあそれ
ほど大したことはない女の子なわけです。人前で歌ったり、スタジオで
レコーディングしたりすることは大好きだったけれど、水着になって写真を
撮られたり、バラエティ番組(「ASAYAN」は別として)に出たりする
のはあまり好きではありませんでした。ミニスカートで歌うことにすら抵抗
を憶えていたくらいです(当時のマネージャーさんにミニスカートで歌えっ
て言われて、泣いたこともあります)。
そんな私が、モーニング娘。にずっといられたとは、とても思えませんよね?
- 676 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:36
- それに、こう思ったりもします。もともと私は小学生のころは性格も陰気で
いつもおどおどしていたイジメられっ子でした。さっきも書いたけれど、歌う
のが人一倍好きなだけで、ルックスだってスタイルだって、中の中の中くらい
がいいところの人間です。そんな私が、短い期間でも華やかな芸能界にいる
ことができて、後に「国民的アイドル」とまで呼ばれるようになったアイドル
グループの初期メンバーでいられたんです。それだけでもう十分すごいこと
じゃないか?って。普通に生活していたのでは絶対に体験することのできない
経験をさせてもらったんだから、って。そう考えるようになってからは、
多少嫌なことやつらいことがあっても、わりと気にしないでいられるように
なりました。
- 677 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:37
-
◇
- 678 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:37
- 最初にも書きましたが、私はいま、実家を出てひとり暮らしをしています。
少し前から、とある会社に勤めはじめたからです。ほんとうに、ごく普通の
社会人として生活を送っています。朝は6時に起きて、眠い目をこすりながら
会社に行って、夕方の5時半まで一般的な事務の仕事をしています。
- 679 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:37
- 実を言うと、こうして一般社会に出て普通の仕事をするというのは、私に
とってはじめての経験です。高校を中退してからは、実家の仕事の手伝いを
してましたから。いつまでも親の世話になりっぱなしなのは(自分にとっても、
親にとっても)いけないと思ってはいたのですが、なかなか社会に出るための
一歩をふみ出すことができませんでした。先ほどもちょろっと書きましたが、
高校を中退してから少しの間、私は精神的にへこたれてしまった時期があり
ました。そのせいで、見知らぬ他人とコミュニケーションをとることがすごく
怖くなってしまったのです。
でも、こうしてなんとか自分との間に折り合いをつけて、それなりに
いちおうマトモな社会人としての生活を送ることができるようになりました。
ここまで来るのに、けっこう長い時間がかかりましたが。
- 680 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:37
-
◇
- 681 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:38
- 不吉な予言のようで申し訳ないのですが、私の経験から言わせてもらうと、
あなたがこれから進む道は、かなり曲がりくねった険しい道になると思います。
それはピクニックに行くような気分では通ることができないような道です。
きついことや面倒くさいことや腹立たしいことをたくさん経験すると思います。
心無い人の無神経な言葉に傷ついたり、不特定多数の人からの好奇の視線に
疲れはててしまったり、目の前が真っ暗になるくらいに激しく落胆してしまう
こともあるかもしれません。
- 682 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:38
- でも、しかるべき時間が経過すれば、そういうことには必ず終わりが来ます。
あなたはそれを乗り越えることができます。それは私が保証します。私がなん
とか乗り越えられたのですから、あなたにできないはずがありません。
そしてその時期が終わったあと、あなたはそれまでとは少しちがった人間に
なっていると思います。あなたはより複合的でより深い視点でものごとを考え、
受け止めることができる女性になれるはずです。
- 683 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:38
-
◇
- 684 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:38
- 話はとつぜん変わりますが、私はちょっと前からジョギングをしています。
嫌なことやつらいことやストレスが溜まるようなことがあったら、トレーニング
ウェアに着替えて、ジョギングシューズを履いて、外に出て10キロくらい走り
ます。そうすると嫌な気持ちがすっきりと晴れてくるからです。もちろん健康にも
いいですしね。
10キロをだいたい1時間かけて走ります。その1時間の間、けっこういろ
んなことを考えます。夕ご飯の献立を考えたりもしますし、明日やらなければ
ならない仕事のことを考えたりもしますし、個人的に腹が立ってしょうがない
ことを考えたりもします。自分自身のこれからのことをぼんやりと考えたりも
します。私にとってジョギングをする時間は、ものを考えるための大切な時間
なのです。
あなたの手紙を受け取ってからは、紺野さんのことを考えることもあります。
紺野さんはどうしてるんだろうな、がんばってほしいなと思ったりします。
先にも書きましたけれど、あなたのことがなんだか気になってしまったものだから。
- 685 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:39
- あなたの手紙に「ときどき、自分がほんとうに孤独な人間のような気がして
しょうがなくなるときがあります」という文章がありました。その気持ちはわかる
ような気がします。私もたまにそんな思いにとらわれることがあります。自分は
この広い世界でひとりぼっちの人間なんだと。私は誰ともつながっていないし、
たぶんこれからもつながることができないのだろうと。
- 686 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:39
- でもそうではありません。私はひとりぼっちの人間ではないですし、あなたも
ひとりぼっちの人間ではありません。私だけではなくて、いろんな人が紺野あさ美
という人間を応援しています。その人たちとあなたはつながっているんです。
一見そうは思えなくても、こころの奥の深い深い深い場所で、しっかりと。
- 687 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:39
-
◇
- 688 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:40
- なんだかよけいなことをたくさん書いてしまったような気がします。便せんを
破り捨てたくなってしまうと思うので読み直しはあえてしないけれど、すごく
とりとめのない手紙になってますよね、きっと。
私が言いたいことをまとめますね。今まで書いたことなんてぜんぶ忘れちゃって
もいいです。私がこれから書くことだけ、記憶にとどめておいてください。
- 689 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:40
- とにかく、あと2か月後に控えた大学受験をがんばってください。あんなに
少ない準備期間できちっと高認に合格したあなたなんですから、きっとできる
はずです。
なにより、あなたはあのモーニング娘。の5期メンバーだったんですよ?
あのモーニング娘。を、6年間もやり抜いてきたんですよ?
- 690 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:40
-
できないことなんて、あるわけがないんです。
- 691 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:41
- 大学入試の追い込みの時期でとても忙しいと思いますが、またなにかが
あったら手紙をください(なにもなくてもかまいません、もちろん)。
時間はかかるかもしれないけれど、必ず返事を書きます。
そして、なにか本当につらいことがあったり、パニックに陥ってしまったり
することがあったら、この世界で少なくともひとり、ニューバランスの
ジョギングシューズを履いて走りながら、あなたを応援している人がいる
ことを思い出してください。
- 692 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:41
-
いろんなことがうまくいくことを、心から祈っています。
それでは、また。
- 693 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:42
-
福田明日香
- 694 名前: 投稿日:2006/08/10(木) 20:42
-
おわり
- 695 名前:Depor 投稿日:2006/08/10(木) 20:43
-
少し遅くなりましたが、
紺野さん、卒業おめでとうございます&お疲れさまでした。
- 696 名前:Depor 投稿日:2006/08/10(木) 20:43
- >663 名無飼育さん
久しぶりすぎる更新だったので、レスをいただけただけで嬉しいです。
しかも「良質」の作品だなんて(照
また更新チェックでもしてもらえたら、ほんとにありがたいです。
レスどうもありがとうございました。
>664 名無飼育さん
レスありがとうございます。
自分の文章を読んでもらえただけでありがたいのに、その上でいろいろ考えて
もらったりしたら、もう言うことなんてなにもないですよ(しかも泣いてもら
えたなんて…)。嬉しすぎます。
>665 名無飼育さん
自分が書いた話を「印象に残る話」と言ってもらえて、すごく嬉しいです。
ほんと、「書いてよかったなあ」と思います。
こんなに更新期間が空いてしまったのに、わざわざレスしてもらえたことも
嬉しかったです。本当に励みになりました。どうもありがとうございました。
- 697 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:52
-
「ひとつだけ」
- 698 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:52
- その日の朝、私は彼女の頬に平手を浴びせる。彼女はなにも言わない。黙っている。
私は仁王立ちになって、きっと彼女をにらみつける。自分が本気で怒っているように
見えていますように、と私は心の中で願う。自分が心の底ではびくびくしていて、
今にも泣き出しそうになっていることが彼女にわかりませんように。なにしろ、
誰かの頬っぺたにびんたを張るだなんて、生まれてはじめてのことなのだから。
- 699 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:52
- 「もう、いい加減にして」と私は言う。大丈夫、声は震えてない。「全部わかって
るんだから」
「聞いて梨華ちゃん」と彼女は言う。「お願いだから」
「嫌」と私は短く言う。彼女の話を聞いてはだめだ。いつの間にか言いくるめ
られてしまう。そういう事情だったらしょうがないかもねと思ってしまう。早い話が、
いつものパターンに持ち込まれてしまう。
今日は違う。私は決めたのだ。もう彼女のペースには乗らないんだと。
- 700 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:53
- 「ねえ梨華ちゃん」と彼女は言う。彼女の大きな瞳が私の目をとらえて離さない。
なんてきれいな瞳なんだろう、と私は思う。
彼女は私に近寄って、私の右手を握りしめる。「お願い、聞いて」
「やめて」と私は言って、その手を振り払う。「触らないで」
「美貴のことはあたしが悪かった。でも、もう美貴とはなんともないんだ、ほんとに」
- 701 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:53
- 「その美貴とかいう人の名前を出さないで」と私は言う。美貴。私の知らない女の
名前。彼女が私に隠れて半年間もこっそりつきあっていた女の名前。「聞きたくもない」
と私は言う。
「とにかく、座ろう」彼女は台所のテーブルを指さし、椅子を引いて座る。私も
しぶしぶと彼女の正面に腰かける。彼女はテーブルに両ひじをついて、手のひらを
組み合わせて、その向こうから私の目を見る。「しっかり、きちんと話し合おうよ」
と彼女はやわらかく言う。
私は気づく。いけない、彼女のペースだ。
- 702 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:53
- 「昨日帰らなかったのは、勤め先の人が、仕事終わりに飲み会をしようって誘って
くれたからなんだ」と彼女は言う。「明日吉澤さん誕生日なんでしょ、お祝いしま
しょうよって。それで、そのまま盛り上がって、朝までみんなで飲んでた」
私は黙っている。
「梨華ちゃんがうちに来てくれてるなんて思わなかったんだ。その……美貴のあれで
怒ったままだと思ってたから。ずっと電話も出てくれなかったし」彼女は言う。
「梨華ちゃんが来るってわかってたら、飲み会なんて行かなかった。ほんとに」
- 703 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:53
- 私は彼女の言葉を大理石でできた小さな天秤にかけてみる。熟練した職人のように
慎重に右のはかりと左のはかりを見比べて、彼女の言葉が本当かどうかを見きわめよう
とする。用心に用心を重ねる必要がある。なにしろ、私は半年間も彼女に欺かれてきた
のだから。ここ半年間の彼女の言葉はすべて嘘だったのだから。この半年間のほとんど
の夜、彼女は別の女と会っていたのだから。
昨日の夜はそうではなかったと、誰が言い切れるだろう。
- 704 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:54
-
◇
- 705 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:54
- 話は去年の9月にさかのぼる。彼女は美貴とかいう女と知り合ったらしい(その女の
苗字なんて知らないし、知りたくもない)。そしてその美貴とかいう名前の女は――
こともあろうに――彼女に告白した。好きです、つきあってください、とかなんとか。
そして彼女の答えは――こともあろうに――イエスだった。
- 706 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:54
- 問題は2つあった。ひとつはもちろん、彼女には私という恋人がいたこと。
もうひとつは、その美貴とかいう名前の女にも別の恋人がいたということ。
要するに、2人とも二股をかけていたのだ。
- 707 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:55
- 彼女と美貴という名前の女の関係は、ふとしたきっかけで発覚するまで半年間続いた。
その間ずっと、彼女は私に黙って、その女としょっちゅう会っていた。
――ごめん、明日思いっきり残業だわ。最近仕事多すぎるんだよね。
――あー、金曜か。悪い悪い、会社の飲み会だわ。これも付き合いだからさ、
ごめんごめん。
――えっと、こんどの日曜だけどさ、休日出勤入っちゃって。マジむかつくんだけど、
先方の都合で外せないんだよ。ほんとごめん。
- 708 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:55
- ぜんぶ嘘だった。あの日もこの日も、彼女は美貴という名前の女と会っていた。
会っていただけじゃない。やることもやっていた。少しばかり品のない言い方をさせて
もらえれば、彼女と美貴という名前の女は、やりまくっていたのだ。あの夜もこの夜も
ふたりはどこかのラブホテルでやりまくっていて、その間、私は彼女の言葉をこれっ
ぽっちも疑うこともなく信じきっていたのだ。1ミリたりとも彼女を疑っていなかったのだ。
おめでたいにも程がある。
- 709 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:55
- 浮気が発覚してから、私は彼女とひとことも話さなかった。何度も何度も電話が
かかってきたけれど、すべて無視した。長いメールが送られてきた。とにかく梨華
ちゃんに会って話がしたい、いちどでいいから会ってくれないだろうかと書いてあった。
もちろん返信なんかしなかった。
恋人の浮気。よくある話、どこにでも転がってる話、陳腐な話。これくらいのこと
じゃ、いまどき恋愛トーク番組の話のネタにもならない。
- 710 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:55
- 別れちゃえば、と親友の柴田あゆみ(あゆみは私の相談と愚痴を何百時間も根気よく
聞いてくれた)に言われた。ろくなことないよ、そういう人とつきあったってさ。
私もその通りだと思った。あゆみの意見は正しい。このまま黙って放っておいて、
別れてしまえばいいんだ。
- 711 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:56
- しかしそこには大きな問題がひとつあった。それは、こんなことをされた後でも、
やはり彼女のことが好きで好きでしょうがないということだ。私はやっぱり吉澤ひとみが
好きなのだ。いや、もちろん私だって馬鹿じゃない(と思いたい)。これ以上彼女との
つきあいを続けても、たぶんきっと、同じような問題が再び起こるだろう。わかっている。
私はいつかどこかで彼女とは別々の道を選ばなくてはいけないのだ。わかっている。
- 712 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:56
- にもかかわらず、私は昨日の夜に私鉄の急行電車に乗り、彼女のアパートにやって
来た。誕生日の前夜に黙ってアパートにやって来れば、彼女は驚くだろう。そして誕生日を
一緒に祝って、よりを戻そう。私はそう思ったのだ。
彼女はその夜帰ってこなかった。そして翌朝、私は帰ってきた彼女に平手打ちを食わせた。
そしていま、(びくびくする内心を隠しながら)彼女をにらみつけている。
どうしようもない女だ、私は。
- 713 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:56
-
◇
- 714 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:57
- 「もういい」と私は言って、椅子から立ち上がる。合鍵をテーブルに置く。置くという
よりも投げ出す。ちゃりん、という音。この合鍵を彼女からもらったのはいつだったっけ?
「梨華ちゃん」彼女も椅子から立ち上がって言う。「お願いだから、話を聞いて」
「あまり人を舐めないで」と私は言う。言ってから自分の口から出た言葉に驚く。
あまり人を舐めないで、だなんて。どこかの安っぽいドラマのせりふみたいだ。
こんなはずじゃなかったのに、と私は思う。私と彼女は、こんなはずじゃなかったのに。
- 715 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:57
- 私は立ち上がったまま続けて言う。「最後に、ひとつだけ教えて」
彼女は黙ってこちらを見ている。
「私はあなたのことが好きだった。本当に好きだった」私は言う。「嘘じゃない。
本当に。大きな山のてっぺんから大声で叫んだっていい。私はあなたのことが好きだった。
だから教えて。あなたは私を……」私は言いよどむ。息を吸い込み、ありったけの勇気を
かき集める。「あなたは、私のことを、本当に好きでいてくれた?」
- 716 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:57
-
彼女は黙って私を見ている。私も黙って彼女を見つめる。
そして彼女は口を開く。
- 717 名前: 投稿日:2006/08/28(月) 17:58
-
おわり
- 718 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/29(火) 21:29
- またしてもやられました
面白かったです
- 719 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:52
-
「タクシー」
- 720 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:53
- とんとん、と肩を叩かれた。「終点ですよ」。ひとみは目をさました。腰の下
にヒーターで温められた座席の感触があった。見知らぬ駅に電車は停車していた。
窓の外は真っ暗だった。ホームの駅名表示を見ると、ここが自分の下宿の最寄り
駅からかなり離れた駅だということがわかった。数秒間の空白の後、ひとみは
自分の置かれた状況に気がついた。
あたし、終電で寝すごしちゃったんだ。
ひとみを起こした駅員はすでに隣の車両に移動していた。車両内に他の乗客の
姿はなかった。ひとみは座席から立ち上がってホームに下りた。何かの点検を
している駅員がひとりいたが、それ以外の人影はなかった。飾り気のないベンチ。
シャッターの下りた売店。薄ぼんやりとした蛍光燈に照らされた時刻表。広告。
- 721 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:53
- 寒い。ひとみはコートの襟をかきよせた。頭がずきずきと痛んだ。胸がむか
むかした。気持ちが悪い。吐き気もする。
どう考えても飲みすぎたな。頭を軽く振りながらひとみは思った。今日は大学
のゼミの忘年会だった。ゼミの友人や教授に勧められるままに、ついつい杯を
重ねてしまった。みんなと別れて終電に乗るまではまだまだだいじょうぶと思って
いたが、電車が駅を出てから一気に酔いが回ってきた。最近睡眠不足だったことも
手伝って、座席に腰かけたままぐっすりと寝てしまったのだ。
腕時計を見ると、1時半を指していた。ひとみはホームの中央にある階段を
登った。改札の窓口で駅員に乗り越し料金を払った。眠そうな顔をした駅員は
事務的に千円札を受け取り、釣り銭をひとみに渡した。改札口を抜け、駅の構内を
出るや否や、背後でがらがらと音を立ててシャッターが閉まった。
- 722 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:53
- さてと。ひとみは深呼吸をした。これからどうしようか。
ひとみの下宿はここから急行電車で20分はかかる場所にある。こんな寒い季節
に酔いの残る身体で歩いていける距離ではない。もちろんもう電車は走っていない。
バスもない。なにしろ深夜の1時半なのだ。
タクシーに乗るしかないか。ひとみはため息をついた。財布の中には1万円札が
入っている。深夜の割増料金ではあっても、下宿までは戻れるはずだ。こんなことで
お金を使ってしまうのはもったいないけれど、これはもうしょうがない。こんなに
寒い夜にこのまま外にいたら、間違いなく風邪を引いてしまうだろうから。
- 723 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:54
- ひとみは駅前のロータリーに向かった。おそろしく冷たい風が吹きつけ、ひとみは
文字通り震え上がった。タクシー乗り場は照明が落ちたバス停の向こう側にあった。
ひとみと同じように終電を乗り過ごしたと思われる人が数人並んでいたので、その
タクシー待ちの列に加わった。こんな寒い真夜中に、何十分もタクシー待ちをして
凍えたくはない。マフラーを固く巻き直し、コートのポケットに両手をつっこみ、
頭を下げて冷たい風をやりすごしながら、ひとみは心の中で祈った。お願いだから
すぐにタクシーが来てくれますように。
- 724 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:54
- ありがたいことに、すぐに何台かのタクシーがやって来て、並んでいる客を
次々と乗せて走っていった。そして、ほとんど待つこともなくひとみの順番が来た。
真っ白な色のタクシーが止まり、後部座席のドアが開いた。よかった。ひとみは
安堵のため息をついて、タクシーに乗り込んだ。
暖房の効きが悪いのか、車の中は屋外と同じくらいに冷たいように感じられた。
ひとみはコートのポケットに両手を入れた。ぞくぞくという寒気が背筋を駆け
抜けていった。どうして車の中なのにこんなに寒いんだろう。でもまあ、じきに
暖かくなるだろう。とにかく、風がないだけでもありがたい。
- 725 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:55
- ドアが閉まった。前方の運転席から、若い女性の声が聞こえてきた。「どちら
までですか?」。ひとみは少し驚いた。女性が運転するタクシーに乗車するのは
はじめてのことだったからだ。
ひとみは自分の下宿の場所を告げた。運転手はああ知ってます、××駅の近くの
○○公園の側にあるマンションですねと言った。ひとみははい、そのマンション
ですと答えた。
それから運転手はアクセルを踏み、わずかな振動とともにタクシーは動き始めた。
ロータリーの出口で少しの間信号待ちをしてから、繁華街を抜け、幹線道路に出た。
- 726 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:55
-
◇
- 727 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:55
- ひとみは運転席の背もたれの裏側に貼られている顔写真入りの乗務員証を見た。
大きな瞳が印象的な女性の顔がそこにあった。その隣には「安全運転を心がけます。
飯田圭織」という印刷された文字が書かれていた。
イイダカオリ?何かひっかかるものを感じて、ひとみは眉間にしわを寄せた。
イイダカオリ、イイダカオリ。どこかで聞いた名前のような気がする。でも
はっきりと思い出すことができない。
気のせいだ。ひとみは頭を振って、そのもやもやとした思いを追いやった。
- 728 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:56
- 「乗り過ごしちゃったんですか?」運転手が話しかけてきた。よく通る澄んだ
声だった。
「あ、はい、そうなんですよ」とひとみは答えた。「飲みすぎちゃったみたいで」
「やっぱり。この時期って、お酒を飲む機会が多いものね。乗り過ごしちゃう人、
多いのよ」と運転手は言った。
「ええ。忘年会だったんです」とひとみは答えた。
- 729 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:56
- 「学生さん?」と運転手は言った。
「はい。大学生です」
「親御さん、心配してるわよ」
「いやでも、ひとり暮らしですからね」
「そうか。じゃあ親御さんにいいわけする必要はないわね」
「ええ、そうですね」とひとみは答えた。車内がなかなか暖かくならないので、
マフラーをもういちど強く巻きなおした。女性の運転手はまっすぐ前を見たまま
運転を続けていた。幹線道路の通行量はけっこう多くて、ときおり赤信号に
つかまると車の列ができた。
- 730 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:57
- 「お客さん、××駅の近くでしたよね?」運転手が言った。
「はい」とひとみは答えた。
「じゃあ、ちょっと抜け道で行きますね。最近できたんですよ、近道が」
「そうなんですか?」一瞬、この幹線道路に抜け道なんてあっただろうかと
思い、ひとみは首をひねった。でもすぐに、「じゃあ、お願いします」と答えた。
とにかく一刻でも早く自分の下宿に帰りたかったからだ。何はともあれ、早く
住み慣れた下宿に帰って、エアコンのスイッチを入れて、熱いシャワーを
浴びたかった。
- 731 名前: 投稿日:2006/12/16(土) 10:57
- 運転手はウインカーを出した。かっち、かっちという音がやけに大きく聞こ
えた。それから運転手はなめらかな動きで左にハンドルを切った。のっぺりと
舗装されている広い道路にタクシーは入っていった。開発途中の丘陵地の間を
抜けていく道のようだった。ところどころに区画整理された箇所があったが、
周囲に建物は見あたらなかった。人気のようなものもまったくなかった。
もちろん自動販売機もコンビニエンス・ストアもない。ところどころに街路灯
が置かれていて、オレンジ色の光がひっそりと静まり返った道路を照らし
出していた。
「××駅なら、じきに着くわ」と運転手が言った。
「はい」とひとみは答えた。
- 732 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/17(日) 14:27
- 続きが非常に気になりますね
- 733 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:19
-
◇
- 734 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:20
- カーブにさしかかり、車がいくらか揺れた。その後はずっとオレンジ色の
街路灯に照らされた道がまっすぐ延々と続いていた。街路灯の光が届かない
ところは漆黒の闇につつまれていて、周囲の状況ははっきりとつかめなかった。
「すいません」とひとみは言った。「寒いんで、暖房入れてもらえますか?」
車内はまったく暖かくなっていなかった。むしろ寒さが増しているように
すら思えた。
- 735 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:20
- 「あら、ごめんなさい。けっこう効かせてるつもりなんだけど」と運転手は
言って、エアコンのスイッチをいくつか触った。「じゃあ、温度をもうちょっと
上げるわね」
「お願いします」とひとみは言った。「ほんとに寒いですよ」
「ごめんなさい」と運転手は言った。「私、北海道出身なの。だからあんまり
寒さが気にならないのかもしれないわね」
- 736 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:21
- 「そうなんですか?」とひとみは言った。
「そう。札幌なんだけどね。ほんとに寒いのよ、冬はね」と運転手は言った。
「だから家の中ではじゃんじゃん暖房をかけて、すごく暖かくするの。それで、
暖かくなった部屋でみんなでアイスを食べるの。そういう話聞いたことない?」
運転手は続けて言った。
「そうそう、北海道ってね、雨戸もないのよ。たいていの家は二重窓になってる
から。私、こっちに引っ越してくるまで、雨戸なんてTVの中でしか見たこと
なかったのよね」
- 737 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:21
- ひとみは再びコートの襟をかきよせた。身体がいちど、ぶるぶると震えた。
どうしてこんなに寒気を感じるのだろう?風邪でもひいたんだろうか?
「すごく寒そうね」と運転手は言った。少し間をおいてから、つけ加えた。
「でも、先々週の金曜日だったかしら、あの子はもっと寒かったんじゃない」
- 738 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:21
- 「先々週の…金曜日?」嫌な予感がした。
「そう。先々週の金曜日。11月**日」と運転手は言った。「あの子は
あなたの下宿まで行ったのに。ずっとドアの前で待っていたのに」
ひとみは黙った。タクシーのスピードが少し上がったような気がした。
頭の片隅で、本能のようなものが何か変だという警告を発した。
- 739 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:22
-
◇
- 740 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:22
- 「あの子はあなたに会いたかったのよ、すごく」運転手が言った。
「まあ、あの子だって、あなたに会ったってしょうがないことはわかってたわ。
あなたがあの子とよりを戻す気がないことは知っていたはずだから」
タクシーはオレンジ色に照らされた広い道路をかなりのスピードで走っていた。
この道路に入ってから、まだ1台の対向車にもすれ違っていない。1人の通行人
も見ていない。
「でも、とにかく最後に1回あなたに会いたかったのよ、あの子は。お願い
だから、1回だけ会って話をさせてって。そうメールにも書いてあったじゃない?
どうしてあなたは下宿にいなかったの?どうしてなっちをずっと部屋の前で
待たせっぱなしにしておいたの?」
- 741 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:22
- ひとみは目をつぶった。寒さで頭がよく働かない。こめかみが痛い。コートの
ポケットの中で固く握りしめている両手の感覚はほとんどなくなっている。
どうしてこんなに寒いんだろう?まるで身体の中に氷の柱を埋め込まれたみたいだ。
それに、このタクシーはどうしてこんなに早いスピードで走っているんだろう?
あたしは今ここで何をしているんだろう?
- 742 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:23
- 「知ってるのよ」運転手の声からは楽しげな響きすら感じられた。「あなたが
本当はひどい女だってことは。あなた、たしかに美人よね。ほんとに整った顔だ
と思うわ。運動神経は抜群で、頭もいい。性格はさっぱりしている。独立心が
強くて、誰にも媚びたりしない。かといって人に偉そうな態度をとったりもしない。
そりゃ、向こうから人が寄ってくるわよね。友だちや恋人に不自由するわけがない」
「だから、10月に前の恋人から相談のメールをもらったときも、あなたは
深いことは考えなかった。なんてったって以前の恋人からの相談ですものね。
あなたはご親切になっちの悩みをていねいに聞いてあげて、アドバイスまで
してあげた。ついでにキスまでしてあげて、あげくその流れで2人でホテルに
行っちゃった。あなたにはちゃんと別の恋人がいて、あの子にもちゃんと別の
恋人がいたのに。ほんと、素敵な話よね」
- 743 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:23
- 「それからちょっとやっかいな話になったわね。だって、なっちは結局
あなたが好きだったんだもの。本当に自分が好きなのは今つきあっている人
じゃなくて、前につきあっていたあなたなんだということに気がついてしまった。
だからあなたに何度も連絡を取ろうとした。ところがあなたはもちろんいちど
きりの軽い遊びのつもりだった。あなたには石川さんというきちんとした恋人が
いるし、その上、なんでしたっけ、藤本…貴美子さんだったっけ、そんな名前の
浮気相手もいる。これ以上面倒な相手は抱え込みたくなかった」
- 744 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:23
- 「違う」ひとみは言った。寒気はすでに身体全体を蝕んでいた。全身の震えが
止まらなかった。タクシーはもはや信じられないくらいの速度で道路を疾走
していた。
それは違う。あたしはそんなつもりでなつみを抱いたんじゃない。なつみは
あのとき迷っていたんだ。深い闇の中で自分の進むべき方向を見失っていたんだ。
彼女は誰かに固く抱きしめてもらう必要があったんだ。そして、ことが終わった
後は彼女の方からありがとう、でもわたしたち今日だけだよね、もう次はないん
だよねと言ったんだ。先々週の金曜だって、アルバイト先の先輩から急に電話が
入って、あたしはひどい風邪で動けないその先輩の換わりに遅番のアルバイトに
行っていたんだ。なつみが自分の部屋の入口で一晩中待っていたことなんて知り
ようがなかったんだ。ひとみはそう言いたかった。でも言葉が出てこなかった。
- 745 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:24
- 「違わない」運転手の言葉にはしたたり落ちるくらいの憎しみの気持ちが込め
られていた。ひとみにはそれがはっきりとわかった。「あなたはいろんな人の心
を適当に弄んでいるだけ。とっかえひっかえつきあう相手を変えてはいるけれど、
本当に心の底から人を好きになることはないのよ」
違う。そうじゃないんだ。ひとみは大きな声でそう言いたかった。しかし、
かちかちと鳴る歯の間からは別の言葉が出てきた。「どうして」
- 746 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:24
- 「どうして?どうしてそんなことを知ってるのかって?わかっていないようね」
ぞっとするような憎しみに満ちた、運転手の声。「そりゃあなたには一生無関係
な気持ちかもしれないけれど、恋人を寝取られた人のことを、少しくらい考えて
くれてもいいんじゃないかしら?こっちこそあなたに聞きたいわ。どうして
なっちはあなたなんかが好きなの?何か悩みがあるのなら、どうして私に
言ってくれなかったの?」
- 747 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:24
- そうだ。なつみの今の恋人。カオリと呼んでいた。同じ北海道出身だと言って
いた。どうして忘れていたんだろう?ひとみは膝に額がつくくらいに上半身を
折り曲げて、耳をふさいだ。「やめて」
「やめないわ」運転手は容赦なく言葉を投げつけた。
それから運転手は言った。「ねえあなた、まさか本当にこの車があなたの下宿に
向かって走ってると思ってるわけじゃないでしょうね?」
- 748 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:25
-
◇
- 749 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:25
- 「お客さん」運転手の声がした。「着きましたよ」
ぱっと目がさめた。声にならない声が口から漏れた。見慣れた自分の下宿の
前にタクシーは止まっていた。
「よく寝てましたね」と女性の運転手が言った。感情のない、事務的な声だった。
「7250円です」
相変わらず車内は凍えるように冷たかった。よく思い出せなかったが、
すごく悪い夢を見ていたようだった。身体がぶるぶると震えはじめた。
とにかく、一刻も早くこのタクシーを降りたかった。ひとみは震える手を
なんとか動かして、財布を取り出した。1万円札を引き抜き、運転手に
押し付けた。そのまま転がるようにタクシーを出て、おぼつかない足どりで
マンションの自室に向かった。全身が冷え切っていた。部屋に入るとすぐに
エアコンのスイッチを入れ、風呂に熱いお湯を張った。服をベッドの上に
脱ぎ捨て、風呂に身を沈めた。
- 750 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:25
- 背中を丸めて、膝小僧を抱え込んだ姿勢でじっとしていると、ほとんど
使いものにならなくなっていた身体が少しずつまともになってきたように
思えた。しかし、身体の奥底にある固く冷え切ったものは、その後いくら
熱い風呂につかっても融けてくれなかった。
- 751 名前: 投稿日:2006/12/17(日) 21:26
-
おわり
- 752 名前:Depor 投稿日:2006/12/17(日) 21:26
- >718 名無飼育さん
レスどうもありがとうございます。
もはや更新が遅いという状態は通り越してしまっているので、次の更新も
見てくださいとはとても言えません(泣)
でも、まだまだ書いていきたいとは思ってますので、もしよかったら、
気が向いたときにでも更新チェックしてやってくださいです。
>732 名無飼育さん
昨日のうちに全部更新しようと思っていたんですけど、すっかり忘れてました。
でも、「続きが気になる」と思ってもらえたのはすごく嬉しいです。
さらに、長期間放置状態だったのにすばやいレスをいただけて、ものすごく
嬉しかったです。どうもありがとうございました。
- 753 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/17(日) 23:44
- ゾクっとするほどのリアリティ。
恐ろしいほどストライクゾーンに入ってしまいました。
素晴らしい。この一言しか出ません。
次回作も楽しみにしています。
ですが作者様のペースで無理なくお願いします。
- 754 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/18(月) 00:16
- 怖かったけどすごく面白かったです
- 755 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/18(月) 17:04
- 初レスです
淡々と記されているように見えますが情趣豊かな作品ですね
アンリアルなのにリアルさを感じるからでしょうか
特に前作と今作、クリティカルヒットをいただきました
それにしても上手い、ですね 思わずため息が出ます
勝手な感想をつらつらとすみません
今後も楽しみにして待っています
- 756 名前:Depor 投稿日:2007/03/05(月) 23:14
- >753 名無飼育さん
自分の書いた話を読んでもらえただけでありがたいのに、その上さらに
ツボをつくこともできたようで…。書き手としては嬉しい限りです。
褒めてもらった上に暖かい励ましまでいただけて、感謝感謝です。
レスありがとうございました。すごく励みになりました。
>754 名無飼育さん
タクシーの話、最初はそんなに深いところまで筋を考えずに書いて
いたんですけど、どんどんああいう展開になっていきました。
怖いだけじゃなくて、面白い話と言ってもらえて嬉しいです。
レスどうもありがとうございました。
>755 名無飼育さん
初レスありがとうございます。
ぜんぜんまったく勝手な感想なんかじゃないですよ、いろいろ褒めて
もらえてすごく嬉しかったです。「ひとつだけ」と「タクシー」を
気に入ってくれたんですね。ありがとうございます。
次の話を期待してもらえるのも、本当にありがたいことです。
ちょっと更新ペースがあれなんですけど、がんばって書きます。
よかったら、またのぞいてみてください。
- 757 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 21:57
-
「ナックルボール」
- 758 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 21:58
- その電話がかかってきたのは、水曜日の午後だった。私はTVの画面
から目を離し、机の上の携帯を見た。公衆電話からの着信だった。
そのとき私はTVでアメリカの野球を見ていた。私はとくに野球に
興味があるわけではない。たまたま平日の午後にTVをつけたらアメリカ
の野球中継が放映されていて、それをぼんやりと見ていただけだ。
白地に赤いふちどりがしてあるユニホームを着ているチームと、グレー
のユニホームを着たチームが試合をしていて、ちょうど7回の表が終わった
ところだった。グレーのユニホームを着たチームのピッチャーはナックル
ボールという変化球を得意とするらしくて、解説者がしつこくその変化球に
ついての説明をしていた。――ナックルボールは、バッターはもちろん、
ボールを受けるキャッチャーや、投げるピッチャーですら予想できない
不規則な変化をする変化球なのです。
- 759 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 21:58
- 「もしもし」私は携帯の通話ボタンを押してから言った。
「もしもし……あの、保田さんですか」電話の向こうから声が聞こえた。
だいぶ前に聞いてそれっきりになっていた声だったが、その声には聞き憶え
があった。私は人の名前や声を憶えるのがわりと得意なのだ。
「そうだけど」と私は答えた。
「わたし……高橋です。以前、京都でお会いした」と電話の向こうの相手
は言った。「わたしのこと、憶えてますか?」少し声がかすれていた。
- 760 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 21:58
- タカハシ。京都。
「憶えてるよ」と私は言った。蒸し暑い夏の京都で会った高橋という
名前の女の子。たった数時間のつきあいだったけれど、私の記憶には
しっかりと刻まれている。そういえば、彼女には私の電話番号を伝えて
おいたのだった。
「下の名前は、愛だったっけ」と私はつけ加えた。さっきも言った
けれど、私は記憶力が良いのだ。
「そうです」と彼女は言った。「よかった……ええと、今、だいじょうぶ
ですか?」
- 761 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 21:59
- 「だいじょうぶだよ」私は答えた。それから目を上げてTVの画面を見た。
アメリカの野球場の芝生は日の光を浴びてやけにきれいに見えた。野球だろう
と何だろうと、あんなにふかふかとやわらかそうで、美しく生えそろった
緑色の芝生の上で身体を動かしたら気持ちがいいだろうなと私は思った。
「ずいぶん久しぶりのような気がするけれど」
「そうですね…とつぜんいきなり電話してすみません」
彼女の声は相変わらず訛りが入っていた。富山だったか福井だったか、
北陸の方の出身だと本人が言っていた記憶がある。
「いや、それは別に構わない。で、どうしたの?」私は訊ねた。
- 762 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 21:59
- 彼女とは3年前の夏に京都で会った。私はその夏の間じゅうずっと、
京都駅のコンコースに座っていた。彼女はいつ見てもコンコースで何も
せずにぼんやりと座っている私に興味を持って、話しかけてきたのだ。
なんというか、私だってホームレスくらいしてた時期があるって
ことだ。
- 763 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 21:59
- 「保田さん、いま……どこにいらっしゃるんですか?」と彼女は言った。
「自分のアパート」私は答えた。野球の試合は8回の表に入っていた。
「あんたはいま、どこの公衆電話からかけてるの?」
「……東京駅です。今朝バスから降りたところなんですけど、なんて読む
んだろう、ハチジュウス?の出口にある公衆電話です」
八重洲口だ。おそらく。「ふむ。それで、どうしたの?」私は繰り返して
訊ねてみた。
「あの……私、東京に知り合いがいなくて…いや、栃木にはいるんですけど、
電話がつながらなくて…だから、その」遠慮がちな声で彼女は言った。
- 764 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:00
- 「わかった」彼女の言葉を遮って私は言った。「ちょうどそこらへんに行く
用事があるんだ。今から1時間もあれば東京駅に着くから、待ってて」
別に用事なんかはないけれど、どうせ暇で仕方がないのだ。ここから東京駅
に行くことくらい、なんてことはない。
「ほ、ほんとですか?ありがとうございます」彼女の声は明るくなった。
「1時間ですね、待ってます……ええとその、いま、お仕事中とかじゃないん
ですか?」
「いや」と私は答えた。「仕事は先月で辞めたんだ」
- 765 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:02
-
◇
- 766 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:02
- 私は先月、3年近く勤めていた会社を辞めた。
辞表(正確には「退職願」だ)はその2か月前に直属の上司に提出した。
上司は「ああそう、ふうん」と言って、外れた宝くじを見るような興味の
ない視線で辞表を見つめた。心の中ではほんの少しだけ、「保田君、考え
直してくれないか」というような慰留の言葉を期待していたのだけれど、
そんな言葉なんてまるでなし。まあ、辞表を渡した相手は私と大喧嘩を
していた上司だったのだから、それはそうなのかもしれない。
- 767 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:02
- とにかく私の辞表はあっという間に上司のはんこをぺたんと押されて、
しっかりと受理された。そして後は残務処理の話。これはいろいろやや
こしくて面倒くさくて気が滅入ることだったので詳細ははしょる。要は、
いつが最後の出社になるのかとか、後任の人への引継ぎをどうするのか
とか、退職金やら雇用保険の話とか、保険証の切り替えとか、そういう話だ
- 768 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:02
- このご時世に(このご時世ではなくても)、あてもなく会社を辞めて
どうするんだ。高校の部活を辞めるのとはわけが違うんだぞ。いいのか
保田圭。辞表を出す前に、自分の中からそんな声が聞こえてこなかったと
言ったら嘘になる。
でも、私だってそこまでの馬鹿ではない(と思う)。大学を中退して
ふらふらしていた後に、せっかく何度も何度もしつこく粘り強く履歴書を
書き面接を受けて得た正社員の地位を、何も考えずに手放したわけじゃない。
いろんなことをたくさん考えて、その上で出した結論だ。だから会社を
辞めることに後悔はない。未練もない。
- 769 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:03
- ひとつ問題があるとすれば、会社を辞める理由を他人にうまく説明でき
ないということだった。たしかに面白い仕事ではなかったけれど、仕事の
内容や待遇に不満を持ったことはいちどもないし、人間関係にとくべつ
問題があったわけでもなかった。
だから、「圭ちゃん、なんで会社辞めちゃうのさ」「保田君、ちょっと
聞いたけれど、本当に辞めるのかい」と同僚や前の上司にそう聞かれた
ときに(何度も聞かれた。たぶんみんな心配してくれたのだろう、あり
がたい話だ)、うまい具合に言葉が出てきてくれなかった。そのたびに
私は口ごもって、その場にふさわしい適当で無難な言葉を求めて宙に
目をさまよわせた。
- 770 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:03
-
◇
- 771 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:03
- 八重洲口のコンコースは混雑していた。背広姿のサラリーマンが
腕時計を眺めながら、かつかつと革靴の音を鳴らしてどこかの目的地に
向かっていた。中学生くらいの、制服を着た学生の団体がひとかたまり
になって、引率の先生(だと思う)の指示を聞いていた。駅前のバス・
ターミナルだけはめずらしくがらんとしていて、アスファルトには明るい
日差しが照りつけていた。何匹かの鳩が、首をせわしなく動かしながら
道路の上をうろうろと動き回っていた。
- 772 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:04
- 私は東京駅を出ると、八重洲口のすぐ近くにあるコーヒー・チェーン
の店に向かった。彼女にそこで待っているようにと言ったからだ。
彼女は店の窓際の席に座って、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
あごの下に手のひらをあてがって、頬づえをついている。おそらく日差し
がまぶしいからだろう、顔はしかめつらをしているように見えた。小さな
茶色のリュックサックが足下に置いてあった。店に入った私には気が
ついていないようだった。私はレジカウンターで会計をすませて、
コーヒーを受け取ってから、彼女の座っている窓際の席に向かった。
- 773 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:04
- 「久しぶり」私は背後から彼女に話しかけた。
「あっ」彼女は私に気づいて、びっくりしたように目を上げた。
「や…保田さん」
「何びっくりしてるのよ」私はコーヒーカップをテーブルに置いて、
彼女の向かい側の座席に腰かけた。
「ほんとに……来てくれたんですね」もともと丸くてぱっちりとした
目をさらに丸く見開いて、彼女は私を見つめた。
- 774 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:04
- たしかこの前京都で会ったとき(というか、彼女から一方的に私に話し
かけてきたのだけれど)、彼女は15歳だった。あれから3年が経ったから、
彼女は18歳になっているはずだ。そして私は25歳になった。もうすぐ
26歳になる。
まったく、いい年齢になったものだ。
- 775 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:04
- 「そりゃ、来るよ」と私は言った。
「来てくれないと思ってました」と彼女は言った。
「なんでさ」そう言ってから、私は思い出した。私は彼女と会った次の日
に京都を出て、東京に帰ったのだった。何も言わずに。
「だって……いちど会っただけだし……」彼女はぽつりと言った。
私は苦笑した。「じゃあ、なんで私に電話かけてきたのよ」
- 776 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:05
- 「それは……栃木の知り合いにどうしても連絡がとれなかったんです」
彼女はため息をついた。「でももう東京行きのバスには乗っちゃって、
バスは東京に着いちゃって、もう頼れそうな人が、保田さんしかいな
かったんです」と彼女は言った。「だけど、本当に保田さんにつながる
なんて、思ってなかった」
「でも、あんたは現実に私に電話をかけてきて、そして私はここにいる」
と私は言った。「家出してきたんでしょう」
彼女は黙って下を向いた。
- 777 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:05
- 「まあ細かいことは言わない。ひと晩でもいいから、うちに泊まって
いきなさい。築16年のアパートだから隣近所の音が多少うるさいかも
しれないけど、それさえ我慢すればそんなに不快な場所じゃないから。
部屋も2つあるし」私は彼女の目を見つめた。彼女は怯えたような目を
してこちらを見ていた。
私は続けて言った。「細かい事情は知らないけどね、でもとにかく、
3年前にいちどきりしか会ってない、わけのわからない人の携帯に電話を
かけて頼らなくちゃいけないくらいの状況にあるわけでしょ、あんたはいま」
彼女は目を伏せた。
- 778 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:05
- 「とりあえず今日はうちに来て、明日からどうするかは明日考えたら」
私はコーヒーをひとくち飲んだ。どうせ何もしていないのだ。自分の
部屋に住人がひとり増えたところでとくに困ることはない。アパートの
契約上はいくらか問題があるかもしれないが、そんなものはなんとでも
なるだろう。
- 779 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:06
- それに、自慢じゃないけれど、私はこれまでにトラブルと名の付くものは
ひととおり経験してきたのだ。そして今もトラブルに足を取られて泥沼の
中にいるのだ。いちど会っただけで、ろくに知りもしない女の子を自分の
部屋に泊めることなんて大したことではない。
まあ、どうだっていいじゃないか。
- 780 名前: 投稿日:2007/03/06(火) 22:06
-
(続きます)
- 781 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/07(水) 00:12
- これは!
まさかあの話の続きがくるとは・・・ワクワクしながら次を待ちます
- 782 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/07(水) 03:08
- ビックリしました。
今日アタマから読み返したばかりだったんで。
楽しみにしてます。
- 783 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:21
-
◇
- 784 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:21
- 退職願には「一身上の都合」と書いた。前の部署の上司には、「実家に
戻って親の仕事を手伝うつもりです」と言った。同僚には「なんだか疲れ
ちゃって。いちど、ゆっくり時間をかけてこれからどうするのか考えたいの」
と言った。
違う。ぜんぜん違う。実家になんて戻るつもりはまったくないし(そも
そも私の親は普通の会社員だから、仕事を手伝うことなんてできやしない)、
別に仕事ができないほど疲れきっているわけでもない。それにまともな
判断能力を持った社会人ならば、自分を見つめなおしたいとかいう馬鹿
げた理由で会社を辞めれるものではない。
- 785 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:21
- それでは他に明瞭な言葉で語ることのできる理由があるのかというと、
そうではなかった。会社を辞めるという結論にまったく迷いはないのに、
その理由を語ることができないのだ。私は眠れない夜に布団の中で何度も
考えて、自分自身に問いかけてみた。自分が会社を辞める本当の理由は
なんだろうと。でもそれをはっきりとした言葉にすることはできなかった。
- 786 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:21
- そして私は会社を辞めた。私の場合は自己都合退職というやつだから、
雇用保険が支払われるのは保険支払給付が認められる日から3か月後と
いうことになる。それまでの間の収入はまるっきりのゼロだ。まあ3年
近くせっせと働いたのだから、それなりの蓄えはある。しばらくの間は
とくに心配する必要はないけれど、それでもアパートの家賃をはじめと
する生活費のことや今後のことを考えると気が重くならないでもない。
- 787 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:22
- 会社を辞めた2日後にハローワークに行って離職届を提出した。「私は
会社を辞めたけど、ちゃんと次の職を探してます」という意思表示だ。
これをしておかないと、雇用保険の給付金がもらえない。
ハローワークは私の想像とはぜんぜん違ったところだった。まず場所
からしてふるっていた。都心の清潔で機械化された高層ビルの30階。
受付はどこかの証券会社の信託投資窓口のようで、職員の対応はにこ
やかで丁寧だった。職安という言葉から連想される雰囲気はみじんも
感じられない。私は本気で場所を間違えたと思ってしまったくらいだ。
受付からさらに奥に行くといくつかコンピュータの端末が置いてあって、
そこではいろいろな求人案内を見ることができた。私の年齢やら職務経歴
やら希望職種を入力すると、だいたいこんな求人が出てますよと検索して
くれる。ひとしきりそれを見てから、私はハローワークを出た。
私はまだ次の仕事を探す気にはなれなかった。もちろんそんな悠長なこと
を言って甘ったれている立場ではないことくらいわかっている。
もう21や22じゃないんだ。25歳なんだ。
- 788 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:22
-
でも私は、誰がなんと言おうと、しばらくの間は何もしないつもりだった。
まあ、どうだっていいじゃないか。
- 789 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:22
-
◇
- 790 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:23
- 東京と埼玉の境いめ、JRの駅から歩いて10分くらいのところにある
私のアパートに着いたときには、日はすでに沈んでいた。私は簡単に
自分の部屋の中について説明した。説明といったってとくに語ることは
ない。2部屋あることだけがとりえのアパートだから、見ればわかる。
それでも彼女は私の言葉にいちいち「はい」「はい」と肯いていた
- 791 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:23
- 「さてと」と私は言って、折りたたみ式の脚がついた小さなちゃぶ台に
ウーロン茶のペットボトルを置き、見るからに緊張している彼女に座椅子
をすすめた。「どうぞ、座って」
「すみません」と彼女は言って、座椅子に座った。私も彼女の向かい側
に腰をおろした。
「とくに何もないアパートだけど、楽にしててよ」と私は言って、
それからTVをつけた。人畜無害のバラエティー番組が放映されていた。
「適当に見ていいから」
- 792 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:23
- 彼女は丸い目をさらに見開いてTVの画面を見つめた。よく知らない
お笑い芸人がちょっとした失敗をしでかした話をしていた。わざとらしい
笑い声がスピーカーを通じて部屋に響いた。正直言って少しも面白い話
ではなかったが、他にすることもなかったから、私もTVの画面を見つめた。
ふと彼女の方を見ると、彼女は座椅子にもたれかかって、ぐっすりと
眠っていた。
- 793 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:24
- そのまま彼女は泥のように眠り続けた。何があったのかは知らないが、
とにかく疲れていたのだろう。私は彼女を座椅子から布団に移して
(彼女の身体は驚くほど軽かった)、毛布をかけてやった。
夜の12時すぎに寝て、朝の8時に起きた。彼女はすうすうと寝息を
立てて静かに眠っていた。
しばらくTVを見て時間をつぶしてから、近くのコンビニに行って、
ありあわせの食料と新聞を買ってきた。彼女がまだ眠っているのを確認
すると、起こさないように気をつけながら新聞を読んだ。地球温暖化問題
から経済のゲーム理論まで、紅茶のおいしい淹れ方から飲酒運転の危険性
まで、隅から隅まで記事をていねいに読んだ。
- 794 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:24
- 彼女が起きたのは昼すぎだった。彼女はぱちりと目を開けると、布団
から起き上がった。それからしばらくの間、焦点の合わない目で私を
見つめた。
「おはよう」と私が声をかけると、彼女は慌てた声で「すみません」
と言った。
「わたし…どのくらい寝てました?」
「16時間くらいかな」と私は答えた。「よく寝てたよ」
- 795 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:24
- 「すみません」彼女は謝った。それから言った。「ありがとうございます」
「謝らなくてもいいし、お礼を言わなくたっていいよ」と私は言った。
「泊めてもらって、ほんとにありがとうございました」彼女はふいに
立ち上がって、頭を深く下げた。「これ以上、お邪魔しません」と言うと、
やにわに部屋に転がっていたリュックサックを拾って、部屋から出て
行こうとした。
- 796 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:24
- 出て行こうとする彼女を引き止めるのにいくらかの時間を要した。
まあ落ちつきなさいな、と私は言った。出て行きたければ出て行けば
いいし、無理に引き止めるつもりはない。でも、行く場所がないのなら、
しばらくの間ここに泊まっていけばいいじゃない。
彼女はかぼそい声で言った。「でも、それじゃ、保田さんに悪いです」
「何度も言うけど、何も悪くないんだって」と私は言った。
「私が泊まってけって言ってるわけだしさ」
- 797 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:25
- 2つある部屋のうちの1つを好きに使っていいと言った。干渉する気は
まったくないし、何をどうしようと構わない。何か必要なものがあれば、
冷蔵庫も風呂もキッチンも自由に使えばいいし、もしいくらかのお金が
必要になったら、その旨を私に言ってくれたらいい。
彼女は何度もすみませんと言った。どうして自分にこんなによくして
くれるのかわからないとも言った。私は別に、大したことではないのだ
と答えた。
- 798 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 19:25
-
◇
- 799 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 21:22
- 先月辞めた会社の話。
私は物品管理の業務を担当していたから、よく会社の物置部屋に行った。
その部屋は会社の入っているビルの最上階にあって、使い古しのロッカー
やら机やらが雑然と置かれている文字通りの物置だったのだが、その誰も
近寄らない物置部屋の奥まった一角に、私のお気に入りの場所があった。
どういうわけかぽっかりとスペースが空いていて、日あたりと窓からの
眺めがよくて、壊れかけの机と椅子が置いてある場所。いくらかほこり
っぽいことさえ我慢すれば、そこはなかなか悪くない休憩場所になった。
- 800 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 21:22
- 会社で嫌なことがあったり、むしゃくしゃしたり、気分が落ち込んだり、
あるいはただ単純に疲れたりしたときに、私は物品管理の伝票を取りに行く
という口実を作って、よくその場所に行った。そしてしばらくの間何も
しないで、じっと外の景色を眺めた。
- 801 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 21:22
- 最後にその場所に行ったのは、会社を辞める2日前だった。後任の人への
業務の引継ぎもほぼ終わり、時間をもてあましたので、ちょっと席を外し
ますねと言ってからその物置部屋の奥に向かった。
その場所にはいつものように午後のやわらかな日差しが差し込んでいた。
私はひじ掛けが壊れた椅子に座って、窓の外を見つめた。JRと私鉄の駅の
ホームが見えた。整然と並んでいるホームにひっきりなしに電車が到着して、
出発していった。たくさんの乗客が電車から降りて、乗っていった。駅の
周辺には大きな通りがいくつもあって、その通りに沿って高いビルが建ち
並んでいた。信号の色が変わるたびに、駅舎から吐き出された人々と通り
を走る車がそれぞれの目的地に向かって動き出していた。何度となくこの窓
から眺めた、いつもの風景だった。でももうこの窓からこの景色を眺める
ことはないのだ、と私は思った。
- 802 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 21:22
- 「すみません」
そのとき、後ろから誰かの声が聞こえた。私は驚いてそちらを向いた。
この場所にいるときに誰かから声をかけられたことなんてなかったからだ。
私の後任となる女の子が立っていた。棒のように細い身体と、小さくて
丸い顔が特徴的な子だった。たしか新垣という名前だったはずだ。
「どうしたの」と私は言った。
「さっき教えてもらったデータの入力をしてたら、ちょっとわからない
ところが出てきたんです」とその子はいった。「課の人に聞いたら、保田
さんに聞いてみてと言われたので」
- 803 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 21:23
- 「そう」と私は言って立ち上がった。それから彼女に聞いてみた。
「ねえ、よくこの場所がわかったね」
「探したんです」その子は少しはにかんで言った。「きのう保田さんに
この物置部屋を案内してもらったから、ここにいるかもって思って」
「この場所、いいと思わない?」と私は言って、窓から見える風景を
指し示した。「ほら、景色とか」
- 804 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 21:23
- 「そうですね」とその子は言って、外の景色を眺めた。「いい眺め」
「たまにここに来て、仕事さぼってたんだ」と私は言った。「こんなとこ、
他に誰も来ないからさ」
「……はい」その子はちょっと口ごもった。突然さぼりの話をされたので
困っているのだろう。
- 805 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 21:23
- 「ま、あなたも来週からたまにここに来てみたら。今のところ、ここは
私とあなたしか知らない秘密の場所だから」と私は言った。
「仕事なんて、たまにはさぼったっていいんだよ」
- 806 名前: 投稿日:2007/03/09(金) 21:23
-
(続きます)
- 807 名前:Depor 投稿日:2007/03/09(金) 21:25
- >781 名無飼育さん
レスありがとうございます。
そうです、前に書いた話の続きというか、後日譚というか。
だいぶ前に書いた話なんですけど、わかってもらえて嬉しいです。
この話、もう少し続きます。
最後までおつきあいしてもらえたらありがたいです。
>782 名無飼育さん
わ、最初から読み返してくれたんですか。どうもありがとうございます。
自分も、たまにブックマークしてる好きなスレを読み返すことがあります。
なんか、最初に読んだときとはちょっと違った感じ方をしたりすることがあるんですよね。
このスレの話もそんなふうに読み返してもらえたら、本当に本当に嬉しいです。
この話はもう少し続くので、ぜひ次の更新も目を通してみてください。
レスありがとうございました。
- 808 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:26
-
◇
- 809 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:26
- 話を戻す。
私のアパートにやって来てから2日後に、彼女は無料の情報誌で見つけた
日雇いアルバイトの面接に出かけた(アルバイト先への連絡には私の携帯を
使わせてあげた)。そして、その翌朝からそのアルバイトの仕事をはじめた。
何かのイベント会場の設営の手伝いをする仕事らしかった。お金をほとんど
持っていないので家賃は払えませんけど、自分の食費くらいは自分で出し
ますと彼女は言った。知り合いに連絡が取れたら、すぐにでもその知り合い
のところに行きますからとも言った。それはそれで構わないけれど、べつに
無理はしなくていいよと私は答えた。
- 810 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:27
- 2週間が経った。彼女はほぼ毎日、朝から晩までせっせとアルバイトに
出かけていた。朝はたいてい私より早く起きてアパートを出て、夜遅くに
戻ってくる。そして黙って寝る支度をして、「おやすみなさい」と言って
から布団に潜りこむ。
私と彼女との間にはほとんど会話はなかった。たしか京都で母親と2人
暮らしをしていたはずだが、彼女は自分がひとりで東京にやって来た
詳しい事情を話そうとはしなかったし、私も聞きはしなかった。
- 811 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:27
- 私は相変わらず1日をのんびりぼんやりと過ごしていた。朝の8時に
起きて、コンビニで買ってきた新聞をていねいに読み、近所の区立図書館
で借りてきた本を読み、本を読むのに飽きたら「数独」というパズルを
飽きるまで解く。そして夜の12時には寝る。
そんな毎日を繰り返していると、次第に曜日の感覚がなくなってくる。
昨日と今日と明日の違いがよくわからなくなってくるし、常に薄いもやが
頭の中に垂れ込めているような気がしてくる。
- 812 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:27
- ある日の午後、私は友人の飯田圭織の住むマンションに出かけた。その
前日に向こうから電話がかかってきて、なんだかんだと話しているうちに、
久々に圭ちゃんに会いたいからうちに来てお茶でも飲まないかと誘われたのだ。
圭織は私の数少ない友人のひとりだ。学生時代にやっていたレストランの
ホールスタッフのアルバイト先で知り合った。どこかの美大の出身で、
今はイラストレーターの卵のような仕事をしている。年齢は私より1つ下
だったが、すらりとした背の高い美人だったから、年齢よりもずいぶん
大人びて見えた。絵画や彫刻の話をはじめると止まらなくなるタイプの人で、
アルバイト先の仲間うちでは変わり者だという評判だったが、なぜか私とは
気が合った。私は絵画だの彫刻だのには少しも興味はないのだけれど。
- 813 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:27
- 圭織の部屋には彼女が描いた絵がそこらじゅうに置いてある。壁という
壁には額に入った絵がすきまなく並べられていて、壁にかけられない絵は
テーブルの足や本棚に立てかけられていた。風景画もあれば人物画もあるし、
その他に切り絵もある。前に圭織の部屋に行ったのは1年くらい前のこと
だったが、そのときよりも明らかに絵の数が増えていた。窓に向かった
ところにイーゼルが置いてあって、その近くには絵具のチューブや絵筆や
パレットや、切り絵に使うはさみや色紙がちらばっている。
- 814 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:28
- 「絵、増えたね」部屋に入ってすぐに、私は圭織に言った。
「だって、ずっと描いてるもん」と彼女は答えて、台所から紅茶とカス
テラを運んできた。
「ああいうのはわかんないんだけどねえ」と私は言って、壁の上の方に
掛けられている絵を指差した。川を渡る橋の上を電車が走っていて、
それを川べりに立っている男女が見つめているという構図の風景画だ。
それから座っている椅子のすぐ近くに置かれている絵を見た。派手な原色
の紙を使った切り絵だ。「こういうのはすごく良いと思うんだけどさ」
- 815 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:28
-
「切り絵を気に入ってくれるんだよね、圭ちゃんは」と圭織は言って、
くすくすと笑った。「でも他の人からは、カオリの切り絵はどうしようも
ないって言われるんだけどね」
- 816 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:28
- 私と圭織は他愛もない話を続けた。圭織のしているイラストの仕事の
話や、お得意の現代芸術の話。圭織の最も好きな芸術家はアンリ・マティス
だったから、もう何度も聞いたマティスのエピソードをまた聞かされ
たりもした。
アルバイト時代の昔話もした。私がマナーの悪い客に注意して、その客
と一触即発のにらみ合いになったときの話や(圭織が止めに入ってくれた)、
アルバイト中に大きな地震があったときの話(客の避難誘導をする役割の
圭織が真っ先に店を飛び出して逃げてしまった)。2年近く続けたアル
バイトだから、思い出話は尽きない。
- 817 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:29
- 圭織はすでに私が仕事を辞めたことを知っていたので、その話もした
(話がややこしくなりそうだったから、18歳の女の子が自分のアパート
にやって来たことは言わなかった)。圭織は私のことをかなり心配して
くれて、知り合いの編集者が編集の仕事を手伝ってくれる人を探してたよ、
と言ってくれた。小さな雑誌だけどさ、圭ちゃん編集の仕事する気はないの?
私はありがとうと言ってから、今のところ何かするつもりはないんだと
答えた。いつまでもこうしてはいられないのはわかってるんだけどさ、
でも、正直言って、今のところ何の仕事もやる気になれないんだよね。
- 818 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:29
- それから私は圭織に、フレンチトーストを作ってよと言った。私は圭織
お手製のフレンチトーストが大好物なのだ。圭織はいいよと肯いてから台所
へ行って、棚からボウルとフライパンを取り出した。ボウルに卵をといて
から牛乳を注ぎ、砂糖を混ぜて、そこにスライスした食パンを浸していく。
それをフライパンで焼いてからバターとメープルシロップを添えて、シナ
モンをたっぷりと振りかける。それだけ。ごくごく普通の、簡単に作る
ことができるフレンチトーストだ。
でも、圭織の作るフレンチトーストは不思議に抜群に美味しいのだ。
- 819 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:29
- ほどなくして出来上がったフレンチトーストが私の前に置かれた。
パンの生地はきれいな黄金色に染まり、適度にしんなりと柔らかく
なっている。あたたかそうな湯気とともに、シナモンとメープル
シロップの香りが鼻をくすぐる。
「どうぞ、召し上がれ」と圭織がおどけた調子で言った。私は
さっそくフォークで一切れをつまんで食べた。やはり美味しかった。
- 820 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:30
- 「ねえ圭ちゃん」もぐもぐと一心不乱にフレンチトーストを食べ続ける
私に圭織は言った。「なんかさ、今の圭ちゃんを見てると、いろいろ
きついんだなと思うんだよね」
圭織は私の向かい側に座って、じっと私を見つめた。
「なんていうのかな、重くて重くて仕方がない荷物を背中にしょってる
んだけど、ぜんぜん重くないですよって顔をしてて、でも額には汗が
出てるって感じなんだよ。だからきつそうだなって思う」
圭織の視線に耐えかねて、私は下を向いた。
- 821 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:30
- 「でもカオリは思うんだけど、今の圭ちゃんは、何かを探してる
みたいに見えるんだ。たしかに表面上は何もしてないように見えるかも
しれないけど、たぶんきっと心の中じゃ、ものすごく激しく何かを探し
求めてるんじゃないかな。いったい何を探してるのか、自分でもわから
ないのかもしれないけれど」
- 822 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:30
-
「カオリにもそれが何なのかよくわかんないけどさ、でも、圭ちゃんが
それを見つけられたらいいなと思うよ」
私は下を向いたまま、黙ってフレンチトーストを食べ続けた。
- 823 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:31
-
◇
- 824 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 13:31
- 圭織のマンションからアパートに戻ると、彼女が部屋の中にいて私を
待っていた。そして神妙な顔をして、宇都宮にいる親戚とやっと連絡が
とれたから、来週の金曜日にその親戚のところに行きますと言った。
今まで本当にありがとうございました、この部屋に泊めてもらえて本当に
助かりました、と彼女は言った。私はにっこりと笑って、よかったじゃない、
と言った。
その4日後に、私は風邪を引いた。
- 825 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:02
-
◇
- 826 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:02
- まず手や足がだるくなり、関節のふしぶしに痛みを感じるようになった。
次に悪寒がやってきた。いやないやな寒さだった。身体ががくがくと震え
はじめた。引き出しから風邪薬を出して水で飲み込み、クローゼットから
スウェットを取り出して重ね着をしたが、そんなことで寒さが治まるはず
もなかった。頭が鉛を流し込んだように鈍く痛みはじめた。身体の表面が
火照りだした。額に手を当てると、火傷しそうなくらいに熱かった。
かなりの熱が出ていることは間違いなかったが、体温計を出してきて
体温を測るだけの気力はすでになくなっていた。
- 827 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:02
- あぶら汗が額ににじんだ。それなのに私はぶるぶると震えていた。
熱いのに、寒い。私は布団に倒れ込んだ。風邪だ。
毛布と掛け布団を重ねて身体に巻きつけた。身体の表面は熱くてしょう
がないのに、身体の芯の方は冷えきっていた。ぞくぞくという嫌な悪寒は
ひどくなるばかりだった。どんなことをしてもその嫌な悪寒は去ってくれ
なかった。歯がかちかちと鳴りはじめた。布団の中で私はひたすら震えて
いた。彼女はとっくの昔にアルバイトに出かけていたから、誰かに助けを
求めることもできない。
寝てしまおう、と私は思った。でも寝ることなんてできなかった。
私は背中を丸めて、横向きになったまま、目をつぶって悪寒に耐えた。
- 828 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:03
-
最低最悪の気分だった。そして私は思った。ここがどん底なんだ、と。
私はこれまで25年生きてきたけれど、その25年の中でいちばん
下の下の下にいるんだ。ここが私のどん底なんだ。
そのうちに眠りがやってきた。そして夢を見た。もちろん嫌な夢だった。
- 829 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:04
- 私は切り立った崖からすべり落ちている。落下の原因はよくわからない。
たぶんうっかり足を滑らせたとかそういうことだ。ぎざぎざとした岩盤に
身体をぶつけながらすべり落ちているのだが、不思議と痛みは感じない。
私はどうしても崖の底にまで落ちていきたくない。そこまで落ちて
いったら、恐ろしいことが起こるからだ。具体的にどんなことが起こる
かはわからない。でも間違いなく、そこでは私が心の底の底から恐れて
いることが起こる。だから私はそこに転がり落ちていきたくない。
- 830 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:04
- しかし同時に、この落下を止める術がないこともわかっている。
どんなにもがいても、私はずっと転がり落ちていくのだ。私は脅えて
いる。やがて崖の底が見えてくる。そこでは上から下まですっぽりと
黒いマントのようなもので覆ったおおぜいの人間が集まっている。
ゆらゆらと揺れるたいまつの炎が黒いヴェールに全身をつつんでいる
彼らを照らし出している。彼らは私を待ち構えているのだ。私には
それがわかる。誰かが私を呼ぶ声がする。「保田さん」。その誰かの
手が私の手をつかんでくれる。しかし落下は止まらない。止まるはず
もない。たいまつの炎が見えてくる。
私は叫ぶ。それは私が今まで耳にしたことがないような恐ろしい絶叫だ。
- 831 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:05
-
◇
- 832 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:05
- 「保田さん」身体がゆさゆさと揺さぶられた。私は目を開けた。
彼女が私の顔をのぞきこんでいた。
「大丈夫ですか」と彼女は言った。彼女の顔はゆがんでいた。
「大丈夫……だと思う」と言って、私は頭を振った。ここが現実で
あるということがうまく飲み込めなかった。
「すごい…ものすごい、大きな声を出してました」と彼女は言った。
そして、ウエットティッシュを取り出してきて、私の額にべっとりと
浮かんでいる汗をふいた。「汗びっしょりです」
- 833 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:05
- 「嫌な夢を見たの」と私は言った。身体中がねばねばとした汗に
まみれているようだった。「小さい頃からよく見る夢。すごく嫌な夢」
「保田さん、いいですか」と彼女は言った。「まず、汗をふいて、
着替えてください。そうしないと、余計体調を崩してしまいます」
「嫌だ」自分でも何を言ってるのか、わからなかった。
「駄目です。着替えないと」
彼女はきっぱりと言って、布団をはいで、寒さで震えている私の
上半身を起こした。いくらか抗ってから、私は大人しくそれまで着て
いたTシャツやスウェットを脱いで、新しいTシャツとジャージを着た。
それから再び布団に横になった。まだ体調はよくなっていないらしく、
それだけで頭がくらくらと痛んだ。
- 834 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:06
- 「口を開けて、スープを飲んで」と彼女は言って、湯気を立てている
お椀を手に取った。
「嫌だ」私は首を振った。子どもみたいだ。馬鹿みたいだ。
「少しだけでいいから、飲んでください。これだけ我慢したら、
後はすごく楽になります。だから」彼女の声はぴんと張りつめていた。
この子はこんな声を出すこともできるのだと私は思った。彼女は有無を
言わさずに、私の口元にスープを持ってきた。首を振るのに疲れて、
私はおとなしく口を開けた。そしてスープを飲み込んだ。棚に買い置き
してあったレトルトのふかひれスープだった。胃の中に卵とふかひれの
あたたかな感触が伝わっていった。
- 835 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:06
- 私にスープを飲ませると、彼女はコップに入った水と、粉末タイプ
の風邪薬を持ってきた。「これが最後です。この薬を飲んだら、後は
好きなだけ眠れますから」
私はもう抵抗しなかった。黙って水と一緒に苦い味の風邪薬を飲み
込み、横になって、目をつぶった。それから彼女の手を握りしめた。
どうしてこの子の手はこんなにやわらかいのだろうと思った。私の手は
絶対にこんなにやわらかくはない。
- 836 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:06
- 私は目を閉じたまま言った。「聞いて」
彼女の声が聞こえた。「はい」
「宇都宮に行かないで」私は目を閉じたまま言った。彼女の顔を見る
勇気なんて私にはない。「お願い。ここにいて。私にはあなたが必要なの」
- 837 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:07
-
しばらくの沈黙。それから彼女の声。
「ごめんなさい」彼女の声はいくらか震えているようだった。「できません」
また沈黙。
遠くで、本当に遠くの方で、救急車のサイレンの音が聞こえた。
- 838 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:07
- 「できることなら、ずっとここにいたいんです。わたしは……わたしは、
保田さんが好きなんですから。京都駅で座ってるところを見て話しかけた
ときからずっと、保田さんが好きだったんですから。でも、わたしはこれ
これ以上ここにいるわけにはいかない」と彼女は言った。
「わたしがずっとここにいたら、きっと保田さんもわたしも駄目に
なってしまう」
- 839 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:07
- 私は布団に横になって、目を閉じて、彼女の手を握りしめたままの姿勢で
彼女の言葉を聞いていた。
「こんなに親切にしてもらった人に対して、ずうずうしいことを言ってる
と思います。わたしにいろいろしてもらったことについては、本当にあり
がたく思ってるんです。ほんとうに」彼女の声。「でも、わたしは金曜日に
宇都宮に行きます」
- 840 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:08
- 「わかった」と私は言った。「そのかわり、ひとつだけ私の頼みを聞いて」
「なんですか?」
「このまま、私の手を握っていて」と私は言った。「今晩だけでいいから、
あの夢から私を守って」
彼女は何も言わずに、右手に力をこめた。私は全身の力を抜いて、やって
来た眠気に身を任せた。すぐに意識を失った。
- 841 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:08
-
◇
- 842 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:08
- 翌朝起きたとき、風邪はほとんど治っている。相当あったはずの熱も、
平熱近くまで下がっている。彼女は喜ぶが、まだ安心できないですからねと
言って、私の携帯を借りてアルバイト先へ電話を入れる。そして今日のアル
バイトはお休みしますと言う。私は黙ってその光景を見ている。
- 843 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:09
- 3日後。彼女が宇都宮の親戚の家に出発する前日。あれだけひどかった
風邪はほぼ完治している。
とても良い天気だったので、私と彼女は散歩に出かけることにする。
アパートから歩いて20分くらいのところにある広い公園に立ち寄ってみる。
平日の昼間だからか、ほとんど人の姿は見あたらない。ベビーカーを押す
女性を数人見かけるくらいだ。
- 844 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:09
- 公園の中心部には広場があって、そこにはよく手入れされた芝生が
広がっている。私は芝生に横たわって、頭の後ろで組んだ両手を枕にして、
じっと空を眺めてみる。
ちぎって投げたような雲のかたまりがちらほらと浮かんでいる。本当に、
びっくりするくらいに、空は澄んだ青に染まっている。広場の中央に立って
いるけやきの樹は美しい新緑に染まり、芝生は日の光を受けてまぶしく
輝いている。私は彼女から電話がかかってきた水曜日の午後を思い出す。
3週間前のことなのに、それはなんだかずいぶん昔のことのように思える。
- 845 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:09
- 彼女はどこかから芝生の中に入って来た雑種犬と一緒に遊んでいる。
その姿を目で追っているうちに、すぐ近くにあるつつじの植え込みの奥の
方に、ゴム製の赤いカラーボールが落ちていることに気がつく。赤は私の
ラッキー・カラーだ。私は身体を起こして、そのカラーボールを拾う。
カラーボールは思ったよりもずっと軽い。重みというものをまったく
感じないくらいに。
- 846 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:10
- 私は彼女に声をかける。「ねえ!」
彼女は怪訝そうな顔をしてこちらを振り向く。私は赤いボールを彼女に
見せて、それから言う。「行くよ!」
私はぐっと足をふんばる。右手を後ろに引いて、振りかぶる。私は
運動神経がある方じゃないし、まともにボールを投げた経験だってない。
だから相当ぶかっこうなフォームになっていると思う。でもそんなことは
気にならない。まったく。
- 847 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:10
- 3週間前、彼女から電話がかかってきたときに見ていた野球中継。
あのときのピッチャーはなんて名前の球を投げていたっけ?
忘れちゃったな。そもそも私は野球にはそんなに興味がないのだ。
「それっ!」と私は言う。そしてつつじの植え込みの向こう側にいる
彼女に向かって、鮮やかな赤色のカラーボールを投げる。
- 848 名前: 投稿日:2007/03/10(土) 20:10
-
おわり
- 849 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/11(日) 01:05
- すごく惹きこまれました。
ありがとうと言いたい気分です。
- 850 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:31
-
「ソーサリー!」
- 851 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:32
- ザピースの街まであと少しというところでスコールにつかまった。
空はあっという間に黒い雲に覆われ、滝のような雨が街道の石畳を勢い
よく叩いた。乗っていたイロジレウマが大きな雨粒を嫌がって身震いした。
道を急ぎたいのはやまやまだったが、こんなに激しい雨の中を行くのは
無茶というものだ。どこかで雨宿りをしなくてはならないようだった。
私は街道の周囲を見まわした。激しい雨で視界が遮られていたが、
右手の前方に小高い丘が見えた。丘の上には風車小屋があるようだった。
助かった。私はイロジレウマから下りて、丘を登った。
- 852 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:32
- 風車小屋は2階建てで、1階の床はわらで覆われていた。人の気配はなく、
壁ぎわには大きなずだ袋がいくつか置いてあった。天井からは1本のロープ
が垂れ下がっていて、ぶらぶらと揺れていた。
私はイロジレウマを入口の脇にある柱につないで、身体を布で拭いてやった。
それから自分のマントと頭巾を外して、濡れた髪を拭いた。
雨はいっそう激しさを増していた。私はこれからどうしたものかなと思案に
暮れた。ここでずっと足止めを食っているわけにはいかない。
- 853 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:32
- そのとき、小屋の扉が開いて、旅人が入ってきた。小柄で、びしょびしょに
濡れたフードつきのマントをはおっている。旅人は先に小屋にいた私を認めて、
フードをとって会釈した。「こんにちは」
フードの陰からは、丸くて大きな目とふっくらとした頬が印象的な、若い
女の子の顔が出てきた。
「こんにちは」と私も言って、乾いた手ぬぐいを彼女に差し出した。
「すごい雨だね」
「どうもありがとうございます」彼女は礼儀正しくお礼を言ってから
手ぬぐいを受け取り、髪の毛を拭いた。
- 854 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:32
- 「あれだけ晴れてたのに、急にどしゃ降りになった。目の前が見えなく
なるくらいに」
「ええ。たまにあるんです。かんかん照りだったと思ったら、急に降り出し
たりして」彼女は苦笑いを浮かべた。それから手ぬぐいをぎゅっと絞った。
わらぶきの床にぽたぽたと水滴が垂れた。「で、とつぜん雨が止んで、
また晴れるんです。今日は降らないと思ったんですけど」
この地方に詳しい旅人なのかもしれない。「ちょっと聞いてもいいかな」
と私は言った。
- 855 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:33
- 「ええ」
「ザピースの街に行きたいんだけれど、ここから街までどのくらい時間が
かかるの?」
「だいたい3日で着きますよ」と彼女は言った。それから少しはにかんで
言った。「実は、わたしもザピースに行く途中なんです」
「ザピースに行ったことがあるの?」
「はい」と彼女は言った。「よく行きます、薬を売りに」
「ねえ、もしよかったらなんだけど」と私は言った。「ザピースの街まで
一緒に行ってくれない?道順を知っている人と一緒なら迷わなくてもすみ
そうだからさ」
- 856 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:33
- 物騒な世の中だ。旅の道連れの選択には注意する必要がある。見知らぬ
他人から親切な申し出を受けても簡単に信用してはいけない。こちらが
油断したすきをついて財布をすり取ったり、追いはぎを働いたりする輩は
たくさんいる。ここまでの旅の道のりで、私は他人をうかつに信用しては
ならないという掟を嫌というほど学んできた。
ただ、この旅人は危険な存在にはとても見えなかった。ザピースへの
道のりを知っているという口ぶりにも嘘はなさそうだった(というか、
こんな女の子がひとりで旅をしていてだいじょうぶなのかなと私の方が
余計な心配をしてしまうくらいだ)。私は自分の判断を信じることにした。
- 857 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:33
- 「ええ、構いませんよ」彼女はにっこりと笑って言った。
「じゃあ、決まりだ」私は彼女に手を差し出した。「私はケイ。ヤスダ・
ケイと言うの。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」彼女は私の手を握った。
「わたしはコンノ・アサミと言います」
- 858 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:34
- スコールが止むまでの間、アサミという名の女の子から話を聞いた。
彼女は薬草師で、薬草の行商をして生計を立てているとのことだった。
薬草を探して摘み取り、乾かしたり、どろどろに溶かしたり、蒸留したり
して、人が服用できるようにしてから、街の薬屋に売るのだ。
薬草師はどこの街の薬屋でも見かけるし、庶民にとっては馬鹿みたいに
高い診療費をとる医者なんかよりもよほど身近な存在だ。ただ、薬草師は
薬草についての高度な知識を持つ必要があるし、初歩的な医学も修めて
いなければならないはずだから、こんなに若い女の子が薬草師をしている
ことは驚きだった。どうぞと言って見せてくれた彼女の荷物袋の中には、
小さな袋に仕分けされた色とりどりの薬草と、薬草を調合するための道具が
入っていた。
- 859 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:34
- 数刻後、雨は降り出したときと同じく、唐突に止んだ。私と彼女は
風車小屋を出て街道に戻り、イロジレウマに乗って旅を続けた。日が
沈むまでにはまだ時間があったので、少しでも遅れを取り戻したかった。
風車小屋の中で雨宿りをしている間に濡れた衣服はすっかり乾き、
イロジレウマも元気を取り戻していたが、雨のせいで周囲の気温が
下がっていた。いくらか寒気を感じはじめたときに、彼女は荷物袋の
中から黄色い粉末を取り出して、私に手渡した。ラブマハコベという
名前の薬草を乾燥させて粉状にしたもので、身体を温める効能がある
とのことだった。
聞いたことのない薬草だったが、効果はてきめんだった。飲んで数分
ほどで身体が芯からほかほかと温まりだした。しばらくすると汗ばむ
くらいになり、寒気はすぐに消えた。
- 860 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:34
- 「すごい」と私は言った。
「ラブマハコベは即効性なんです」と彼女は答えた。「あっという間に
効いてきます」
「額から汗が出てきたよ、ほら」
「すべての薬草がこんなにすぐに効くわけじゃないですけど」
と彼女は言った。「服用する人の体質にもよりますし」
- 861 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:34
- 「そういう薬草は、高く売れたりするの?」
「時期にもよるし、種類によります。例えばラブマハコベは春と秋に
しか獲れませんから、夏や冬には値段が少し上がります。でも薬草の中
には1年中成長するものもありますし。いろいろです」
「ふうん」私は感心して言った。「すごいな」
「まだまだ修行中なんですけど」彼女は恥ずかしそうに言った。
- 862 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:35
-
◇
- 863 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:35
- その後は天気が崩れることもなく、私と彼女は順調に街道を進むことが
できた。ザピースの街に近づくにつれて街道の道幅は広くなり、すれ違う
旅人や隊商の数も増え、周囲にちらほらと集落や小さな市場を見かける
ようになってきた。やがて吹く風が海の香りを運んでくるようになり、
白塗りの壁で周囲を囲まれている大きな街が視界に現れた。ザピースの街だ。
時刻は昼すぎだった。門の前には革のよろいと槍で武装した衛兵が何人か
いて、街に入る旅人を誰何していた。最近は街を襲って略奪を行う大規模な
盗賊団が出没しているらしく、街への出入りをかなりきびしく調べている
とのことだった。私は友人を訪ねて来たと答え、通行税を衛兵に支払った。
- 864 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:35
- ザピースの街はさすがにこの地方最大の港町らしく、活気と猥雑さに満ち
溢れていた。街並みは雑多で、無秩序で、至るところに商店や露店が出ていて、
さまざまな品物を乗せた荷馬車や手押し車がひっきりなしに出入りしていた。
通りは人でごったがえし、騒がしい。人々は肌を露出した服装をして、
大声で話し、ときには怒鳴りあったりしている。秩序と静謐さが支配する
北方諸国――私の故郷とはだいぶ違っている。私は昔学校で習ったことを
思い出した。
- 865 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:36
- 彼女がさっそく薬屋に行きたいんですけれどいいですかと聞いてきた
ので、私はもちろんいいよ、用事は明日にでも済ませるからと答えた。
無事にザピースに着いたのだから、もうそれほど急ぐ必要はない。
あとは船を探して、乗るだけだ。
私たちは人波にもまれながら混雑した大通りを抜け(もちろん財布のありか
は常に確認していなければならない)、商店街のはずれにある薬屋に向かった。
彼女は薬屋に入り、店員とカウンター越しに交渉をはじめた。店員はがっしり
した体格をしている押しの強そうな中年男だったが、彼女はまったく気後れ
することなく堂々と話をしていた。時間がかかりそうだったので、私は向かいに
ある果物屋をのぞいて、軒先に置いてあったガッタスの実をふたつ手に取り、
銀貨を支払った。
- 866 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:36
- 明るい橙色をしたガッタスの実を食べ終わり、果汁で濡れた手を拭き終わった
頃に、彼女が薬屋から出てきた。彼女が摘んで処理をした薬草は思っていた
以上の値段で売れたとのことだった。
「完璧です」と彼女は言って、嬉しそうに笑った。「マンパワアブラナと
アマミスムンがこんなに高く売れるなんて、思わなかった」
「それはよかった」と私は言った。「どんな薬草なの?」
「マンパワアブラナはまゆ毛をどんどん伸ばす効能があって、アマミス
ムンはのどの渇きを抑えてくれます」と彼女は答えた。
それから笑って言った。「いつもこういうふうに売れてくれるといいんです
けど、そうもいかないんですよねえ」
- 867 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:37
- 日が傾いてきた。私たちは彼女がザピースの街でいつも使っているという、
にぎやかな商店街から少し離れた場所にある宿屋に向かった。街を南北に
分け、そのままアイアラバの海に注ぎ込むカシマシ川沿いにあるこぢんまり
とした3階建ての店だった。
彼女は顔見知りだと言う宿屋の女主人と談笑して、それから階上にある
2人用の相部屋をとった。清潔なシーツがしかれたベッドが2つある、
広くはないが質素で居心地のよさそうな部屋だった。私と彼女は厩に
イロジレウマをつないでから部屋に向かい、荷物を下ろした。
- 868 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:37
- 私と彼女は宿屋にほど近い酒場で夕食をとることにした。案内された
席は間仕切りがされていて、他人の目を気にすることなくくつろぐことが
できた。ほどなくして運ばれてきたシチューとパンの食事は絶品と言って
いい味だった。ずっとパイ皮に干し肉を詰めた保存食ばかりを食べていた
から、余計に美味しく感じられたのかもしれない。
「美味しいね」と私は言って、こはく色をした果実酒をひとくち飲んだ。
「でしょう」と彼女は言って、にっこりと笑った。「わたしも大好き
なんです。このお店のシチューが」
- 869 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:37
- 「ところで」と私は言った。「私は船に乗って南の大陸に行きたいん
だけどさ、波止場に行けば、乗せてくれる船はあるかな」
「船に…乗るんですか」彼女は驚いたようだった。「ええ、お金さえ
払えば乗せてくれる船はあると思いますけど…でも」
「でも?」
「その…南の大陸に行って、どうするつもりなんですか」と彼女は
言った。「もちろん、聞いてよければ、の話ですけれど」
「人を探してるんだ」と私は言った。「どうしても会って話をしなく
ちゃいけない人がいる。で、その人が南の大陸にいるって話を聞いててさ」
- 870 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:38
- 「そうなんですか」と彼女は言った。「その人って…どんな人ですか?」
「昔の友だちだよ」私は短く答えた。
- 871 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:38
-
◇
- 872 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:39
- 追加で頼んだ煮込みの皿が空になった頃、私たちのテーブルの脇に、
野卑で狡そうな顔をした小男がやって来た。船乗りらしき服装をしていたが、
まともな船乗りではないことはひと目でわかった。
「よう、ねえちゃん達」と小男は言った。「2人で何やってんだい」
私はうんざりした。女一人でずっと旅をしていたから、こんな輩にから
まれるのは初めてではない。無用なトラブルは避けるにこしたことはないので、
こういうときは無視を決め込むのがいちばんだ。彼女もこわばった顔で何も
答えようとしない。
- 873 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:39
- 「なあ、人が聞いてるんだから、答えたっていいだろう」と小男は言って、
私の左手を掴もうとした。私がさっと手をテーブルの下に引っ込めたので、
小男の右手は空を切り、たたらを踏む格好になった。「てめえ」と小男は
唸り声を上げた。
「お腹もいっぱいになったし、そろそろ切り上げないとね」と私は言って
立ち上がり、彼女に対しても立ち上がるように促した。
「いい加減にしろよ」と小男が言って、私の前に立ち塞がった。背丈は
私よりもいくらか低いくらいだった。
- 874 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:39
- 「そっちこそ、いい加減にした方がいいんじゃない」と私は言った。
もめごとを起こしたいわけじゃないけれど、舐められたらおしまいだ。
「ねえちゃん、喧嘩を売ってるのかい」小男の目がすうっと細くなった。
「ねえ、私たちは帰りたいわけ」と私は言った。早いところ店員が来て
くれればいいのだが、混雑した店内の隅の方にある仕切り席だから、
私たちがそれほど目立っているわけでもない。
「ちょっとくらい話を聞いていけよ」と小男は言った。
「嫌だね」と私は言って、彼女と一緒に歩き出そうとした。
- 875 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:40
- 「待てよ」と小男は言って、私たちの前に立ち塞がった。
私はため息をついた。ややこしいことになるかもしれない。「何がしたいわけ」
そうこなくちゃ、と言わんばかりに小男は下卑たにやにや笑いを浮かべて、
座席を指差した。「まあ、座りな。そっちのお嬢さんも」
おとなしく座席に戻るふりをして小男の股間に蹴りを入れようとした
そのとき、私の後ろから彼女の右手がすっと伸びて、小男の顔に赤い粉が
ぱっと振りかかった。次の瞬間、小男が顔を両手で覆ってとんでもない
絶叫を上げた。「痛い!」
- 876 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:40
- 「行きましょう!」と彼女が言って、素早く私の手を引いて酒場の出口に
向かった。背後で大騒ぎが持ち上がる前に酒場を出て、私たちは走って
宿屋に戻った。
「何、あれ」走りながら私は彼女に聞いた。
「ヒメハピサマの実を細かく砕いたものです」彼女は息を切らせながら
答えた。「即効性で、肌に触れるとものすごい痛みを与えるんですけど、
半日もすれば痛みは引いて、あとには何も残りません。護身用に役に立つから、
いつも持ってるんです」
「なるほど」と私は言った。
- 877 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:41
- 宿屋に戻り、階段を登って部屋に入った。とりあえず今日はぐっすりと
寝て、明日になったら波止場へ行って、南の大陸へ向かう船に乗せてもら
えるように交渉すればいいだろう。お礼を言わなくちゃなと思って部屋の
入口に視線を向けると、彼女は不自然な格好で部屋のテーブルにつっぷして
眠っていた。
おかしい。異変に気がついて部屋をぐるりと見回すと、部屋に「気」が
満ちてくるのがわかった。こんなに濃密で力強い「気」を感じるのは
久しぶりだった。
- 878 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:41
- 「久しぶりだね、けいちゃん」後ろにあるベッドから声が聞こえた。
誰の声かは振り返らなくてもわかった。
「どこから来たの」私はため息をついて、振り向いた。思ったとおり、
マキがベッドに腰かけていた。ゴトウ・マキ。かつての仲間だ。
「ひどい言い草だなあ」マキは頬を膨らませた。「ちゃんと、窓から
入ってきたよ」マキは窓を指差した。日が長い季節なので、まだ外は明るかった。
- 879 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:41
- 「彼女は眠らせてるだけでしょうね」と私は言った。
「もちろん。起きてたらびっくりしちゃうでしょ」マキはくすくすと笑った。
「かわいい子、見つけたじゃん。さすが女たらし」
「うるさい」マキのへらず口に少しいらついて、私は言った。
「で、何しに来たの。私の邪魔をするつもりなら、手っ取り早くそう言って」
「違う違う」マキは顔の前で手を振った。「たまたまこの街に来てたら、
けいちゃんがいたからさ。あいさつしなきゃって思っただけ、ほんとに」
- 880 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:41
- 嘘に決まってる。「あんたがこの街に来る理由なんてないじゃない。
私だってはじめて来たのに」
「いや、やぐっつぁんに頼まれたのよ。最近このあたりで大規模で組織的な
盗賊団が出没してるから、ちょっと調べてきてって。ほんとに」
「ふーん」と私は言った。本当にヤグチに頼まれたのかどうかは知らないが、
仮にそうだとしても、ここでマキが私の前に姿を見せる必要はない。
- 881 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:42
- 「それよりけいちゃん、いつ戻ってくるのさ。みんな待ってるよ」
「もう戻らないって言ったろ」と私は答えた。「それが用件なの」
早いところ用件を言わせて、早いところマキにここから出て行ってもらい
たかった。マキが嫌いなわけではないが、マキと話していると否が応でも故郷の
ことを思い出してしまうのが嫌だった。私はもう二度と故郷に戻らないと決めた
のだから。
「私を連れ戻してこいと言われてきたってわけか」
「違う、違う」とマキは言った。「あのね、あたしもここでけいちゃん怒ら
せるなんてバカなことをする気はないの。本気でやったら勝てっこないんだから」
- 882 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:42
- 「じゃあ、どういうつもり」と私は言った。「言いなさい」
「どうしてるか見て来いって。やぐっつぁんが」あっさりとマキは白状して、
ぺろりと舌を出した。「心配してるんだよ、みんな。けいちゃんのこと」
「心配してもらういわれはないよ」と私は言った。「あと監視も止めて
ほしいね」
「あのね、けいちゃんを監視できるわけないじゃん。すぐにバレちゃう
でしょうに」とマキは言った。「しかしそれにしても、船に乗るって。普通に
飛んでいけばいいのに」マキは両方の手のひらを組んで上に伸ばして、背伸び
をした。「つか、飛ぶ以前に、瞬間移動があるじゃん。けいちゃんの十八番の。
なんでイロジレウマなんかに乗って半年もてくてく歩くかなあ」
- 883 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:42
- 「うるさいなあ」と私は言った。私はもう魔法を使うのをやめたのだ。金輪際。
「放っとけっての」
「いちーちゃんはゴガールの街にいるってさ。南の大陸の」突然マキが
サヤカの話を持ち出したので、私はマキをにらみつけた。
「おー、怖い、怖い」マキはおどけた様子で首をすくめた。「会いに行くん
でしょ?知っといた方がいいと思ってさ」
- 884 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:43
- 「もう行ったら」と私は言った。「ヤグチによろしく言っといて。
もう戻らないけど」
「はいはい」とマキは言って、ベッドから降りた。それから思い出した
ように言った。「あ、そうだ。さっきの酒場でモメた奴だけど、あくどい
密輸してるグループの一員でさ、メンツ潰されたって仲間集めてるみたいよ。
たぶん明日の朝にはこの宿屋をつきとめて来るっぽいし、騒ぎにしたく
ないなら今夜のうちに船に乗っちゃうのがいいんじゃないかな。その子も
顔が知られてるから、別の宿屋に行った方がいいかもね」
「そうする」と私は言った。なんだかんだ言っても、マキは親切な友人
なのだ。「ありがと、教えてくれて」
「どーいたしまして」とマキは言って、ふわりと浮き上がった。
「じゃ、行くね。盗賊団のことも調べなくちゃいけないし」
- 885 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:43
-
◇
- 886 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:43
- テーブルにつっぷして寝ている彼女を急いで起こして、マキから聞いた
内容をかいつまんで説明した。揉めた相手が徒党を組んでこの宿屋まで
来る可能性があるから、私は今夜中に船に乗る必要があるし、あなたも
この宿屋から出た方がいい、と。もちろん余計な情報は省く。
彼女は最初は半信半疑の様子だったが、やがて納得して、荷物をまとめ
はじめた。それから私たちは宿屋を出て、川沿いの道を通って波止場へ
向かった。
- 887 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:43
-
◇
- 888 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:44
- 港には荷さばきを行う倉庫がいくつも並んでいて、この時間帯でも大勢の
船員が貨物の出し入れをしていた。奥にある波止場にはたくさんの船が
泊まっていた。カシマシ川の水上交易に使われる長くて平べったい船があり、
オールで漕ぐガレー船があり、幅が広くて、帆のついたマストをぴんと立て
ている商船があった。
彼女と私は帆を下ろして停泊している商船のひとつに向かい、桟橋のたもと
にいた何人かの船員に、南の大陸まで乗せてもらう交渉をした。こんな遅い
時間にと渋い顔をする船員をなんとか説き伏せ、相当の割増料金を支払って、
ようやく入船を許された。私はほっとした。
- 889 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:44
- ところが、彼女も桟橋から船に向かうボートに乗り込もうとしたので、
私は驚いてもういいよと言った。これ以上彼女につきあってもらう必要は
どこにもないからだ。でも彼女は首を振ってついて行きますと言って譲ら
なかった。
「あのさ、この船、南の大陸に行くんだよ」と私は言った。
「いいんです。ヤスダさんと一緒に行きたいんです」と彼女は断固とした
口調で言った。
「さっきの船員も言ってたけど、向こうの港に着くまでひと月かふた月は
かかるのよ」と私は言った。「私もそれなりの用事があるわけだし」
- 890 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:44
- 「いいんです」と彼女は私の目をじっと見つめて言った。「ご迷惑なら、
向こうの港で別れたっていいんです。わたしは薬草師ですから、どこでも
いちおう食べていけます」
ここまで言われたら仕方がない。私はあきらめて、深いため息をついた。
- 891 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:45
- 翌朝の天気は快晴だった。まだ朝のうちだったが、船は慌しく出港の
準備をはじめていた。ロープや樽がところ狭しと置かれた上部デッキに
出てみると、船員が忙しそうに走り回っていた。デッキから見る限りでは
海は静かに凪いでいた。まずまず上等の航海日和のようだった。
私はデッキの手すりにもたれて、出発を待った。しばらくすると出発の
合図である銅鑼の音が鳴り、船は静かに港を離れた。ザピースの街は
すぐに小さくなり、船はアイアラバの海に出た。
- 892 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:45
- 私は空を見上げた。刷毛でさっと掃いたような一陣の白い雲が南の方に
流れていくのが見えた。やれやれ。まさか船旅にまで道連れができるとは
思わなかった。それにあの様子だと、南の大陸に着いてからもあの子と
一緒に行かなくてはならないだろう。どうしたものだろうか。私は昨夜に
引き続いて深いため息をついた。
- 893 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:45
- (いやー、やっぱ、けいちゃんはもてるねえ。もてる女はつらいねっ)
ふとマキの声が聞こえたような気がして、私は後ろを振り返った。
もちろん、誰もいない。
私は首を振った。それからデッキと船倉をつなぐ階段を降りて、割り
当てられた船室へ向かった。
- 894 名前: 投稿日:2007/09/06(木) 21:46
-
おわり
- 895 名前:Depor 投稿日:2007/09/06(木) 21:47
- >849 名無飼育さん
こちらこそ、レスありがとうございます…というか、まさか返事をするのに
半年かかると思いませんでした。遅すぎるレス返しで本当にすみません。
惹き込まれる話、と言ってもらえて嬉しいです。ありがとうございます。
もう次の更新がどうとかは言いませんが(苦笑…
できたら、また目を通してやってください。
- 896 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/10(月) 02:37
- テンポが良くて、面白かったです。
また、楽しみにしています。
- 897 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/10/27(土) 21:24
- 薬草や街の名前にいちいち笑いつつw
読んでてすごくワクワクしました
人選もまた面白くて、よかったです
- 898 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/11(火) 21:49
- ナックルボール読んで、何か泣きたくなりました。
ソーサリー!は一転して楽しいノリでした、
冒険の序章のようでワクワクしました。
- 899 名前:Depor 投稿日:2008/01/12(土) 01:59
- 生存報告です。
レス、どうもありがとうございます。
返レスはまた後ほど。
- 900 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:16
-
「店長室」
- 901 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:17
- 失礼します。
すみません店長、お忙しいところ時間とってもらって。そんな、いいですよ
お構いなく。話なんてほんの5分で終わりますし、わたしすぐに売場に戻り
ますから。長居するつもりないですから。いえいえいえいえ、紅茶もケーキも
いらないですホントに。
いらんのかいな紺野の大好きなトップスのチョコケーキやでって?
あ、あ、あ、あ、あ、あ、食べてみたかったんですその新作。
……あのう、すみません、いただいてよろしいでしょうか。いいんですか?
はい、はい、じゃあ遠慮なく、いただきまーす。
- 902 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:17
-
………………
- 903 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:17
- ……すみません話もせずに一心不乱に食べちゃって。でもおいしかったあ。
やっぱ違いますよねトップスのチョコは。はい。
で何の用やって、あそうだ、わたし中澤さんに話があったんだ。
えと、なんだっけ、そうだ、あの2人のことですよ。あの2人。あまり言いたく
ないんですけど、なんとかしてもらえませんか、あの2人。
誰と誰のことやって、決まってるじゃないですか。吉澤さんと石川さんですよ。
もう3週間くらいあんな感じなんですよ。あの2人ってわたしたちアルバイトの
中でもいちばん上のランクにいるベテランなんですよ。言うならリーダー的な
立場の2人じゃないですか。その2人があんなに険悪な雰囲気だと、わたしたち
すごく困るんです。
- 904 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:18
- え、細かい事情知らないんですか?ホントに?じゃあ順を追って説明しますけど、
3か月くらい前から吉澤さんと石川さんがつきあいはじめたじゃないですか。
で、アルバイト中もいちゃいちゃしてるのを何とかしなきゃいかんって話があり
ましたよね。
知らんでって、もうっ、そのとき中澤さんからじきじきに2人に
言ってもらったじゃないですか。仕事中に手を繋ぐのはよせとかいろいろ。
- 905 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:18
- でも、今は状況が180度変わっちゃったんですよ。あれっ、保田さんからも
何も聞いてないんですか?
圭坊も先月昇進して忙しなったからバカップルには構ってられへんのんちゃう
って、そんなあ。そりゃ社員の人は売場以外にもいろんな仕事があって忙しい
ことは知ってますけど、実際に売場でお客さんにCDやDVDを売ってるのは
わたしたちアルバイトですよ。保田さんも中澤さんももうちょっとアルバイト
の人間関係に注意を払ってくださいよ。事件は現場で起こってるんですから。
- 906 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:19
- 何もご存知でないようですから、説明を続けますね。あの、夏に石川さんが
2か月くらい休みをとったじゃないですか。そうそう、そうです。短期留学
してたってやつです。
で、ちょうど入れ替わりみたいな感じで女の子がアルバイトに入ったじゃ
ないですか。憶えてない?そんなわけないじゃないですか、道重って名前の
子ですよ。色白で、目がぱっちりしてて、わりと可愛くて、かなり変わってた
子ですよ。ああ思い出した例のうさちゃんピースの子かいなって、ヘンなこと
だけ記憶されてますねえ。まあそうですけど。
- 907 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:20
- それで、そのうさちゃんピースの道重さんに吉澤さんが手を出しちゃったん
ですよ。ホンマかいなって、ホンマですよ。わたしも信じられなかったです
けどねえ。
だって、すぐに石川さんが短期留学先のオクラホマ州から帰ってくるわけ
だから、そんなことがばれたら売場に血の雨が降ることは誰だってわかること
じゃないですか。それがわかってて、なんでまた吉澤さんも同じアルバイト
の新入りに手を出すかなあって。吉澤さんって、たまによくわかんないこと
するんですよねえ。ふだんはすごく頼りがいのある先輩なのに。
- 908 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:20
- ひとつほっとしたのは、石川さんが戻ってくる直前に道重さんがさっと店を
辞めちゃったことですけど。それにしても、石川さんの帰国前日に辞めました
からねえ。絶妙のタイミングですよ。動物なみの危機察知能力があったんで
しょうね、きっと。わたしもこれで最悪の事態は回避されたかなと思って
胸をなでおろしましたよ。
- 909 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:20
- でも吉澤さんの浮気、あっさり石川さんにばれちゃったんですよ。
原因は吉澤さんのメール送信ミスで、道重さんに送るはずのメールを間違って
石川さんに送信しちゃったらしくて。あまりにも初歩的なミスですけど、
意外にやっちゃうみたいですねえ。で、もちろんその日のうちに石川さんから
どういうことコレっていう連絡があって、そこから夜を徹しての地獄絵図が
繰り広げられたって話です。
- 910 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:20
- よくある痴話ゲンカやんかって、もうっ、だからその痴話ゲンカが売場に
持ち込まれちゃってるんですって。悪いことにあの2人、前から同じ出勤日
じゃないですか。だから週に4回、アルバイト中はずーっと一緒に仕事する
ことになるんですけど、石川さんはもちろん吉澤さんと口もきかないし、目も
合わせないんですよ。今までいつも同じレジで一緒に仕事してたのに、必ず
入口にあるレジと奥の予約カウンターに分かれて仕事するようになって。
- 911 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:21
- わたしあの2人とけっこう仲がいいから、浮気発覚以来、両方から相談され
てるんです。とくに石川さんからは毎晩のように電話がかかってきて、とに
かく延々ずーっと携帯がちんちんに熱くなるまで愚痴られて。
吉澤さんもああ見えて繊細な人だから、細かいことまで考えてうだうだ悩ん
じゃってるし。先週一緒に予約カウンターで仕事してたときなんですけど、
手が空いてる吉澤さんの前で外線電話が鳴ってるのに、ぼーっとしちゃって
電話に出ないんですよ。で、電話が鳴り終わってからはじめて受話器見て、
「あ、電話かかってたんだ」ってぽつりと言って。あの吉澤さんがですよ。
こりゃ重症だなって思いましたよ。身から出た錆とはいえ、相当ダメージ
溜まってると思いますよあれ。
- 912 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:21
- だからもう、あの2人と同じ日に仕事するのも胃が痛いんですよ。肌に
触れるとピリピリはじける弱酸性の泡が売場に漂ってるのがわかるし、レジで
仕事してると石川さんから「あのさあ」って相談されて、予約カウンターで
伝票見てると吉澤さんから「ちょっと」って石川さんの今日の機嫌を聞かれるん
ですよ。どう答えりゃいいんですか。あっ、爆笑してる場合じゃないですよ。
本人の身になってくださいよ。たまんないですよ。
- 913 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:21
- 昨日なんか、たまたまシフト入れ替えの都合上、吉澤さんと石川さんが
レジで一緒に仕事することになっちゃったんですけど、そこで吉澤さんが何か
余計なことを石川さんに言っちゃったらしくて。そしたら石川さんが大声で
言い返して、吉澤さんが熱くなってまた言い返して。大ゲンカになったんです。
わたし、そのときはちょうどお客さんの問い合わせを受けてJ−POPの
棚のあたりにいたんですけど、もう、びっくりしました。だって、営業時間
中にレジの中で店員同士が大声でケンカしてるんですよ。お客さんそっちのけで。
ありえない光景じゃないですか。さすがに保田さんが事務室からすっ飛んで
来ましたけど、なかなか収まらなくて。お客さんの中には何かのアトラクション
だとカン違いしてる人もいたし、もうわけがわかんなかったですもん。
- 914 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:22
- ちょっと、店長、肩震わせて怒ってますけど、その勢いで2人に言って
やってくださいよ。ちょうど今日2人がこれから来ますから。お前ら売場で
険悪ムードを出すのはやめろよ、他のアルバイトも迷惑してるんだって。
- 915 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:22
- あれ。もしかして怒ってるんじゃなくて笑ってます?めっちゃおもろいやん
って、ぜんぜん面白くないですよこの話。あっ、それ今日の売場シフト表。
ああっ、なんで吉澤さんと石川さんを一緒のレジ担当にするんですか。そんな
ことしたら今日も修羅場になりますよ。どうするんですか。あ、それCCD
じゃないですか。つか、なんでそんなものが引き出しに入れてあるんですか。
え、これをレジに仕掛けて録画する?それ悪ノリです。悪ノリです。
昨日の感じからすると、今日は怒鳴りあいじゃなくてつかみ合いになっちゃい
ますよ、本当に。いいんですか。
- 916 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:22
- ええやん今日だけやで、女同士のマジの戦いなんてめったにお目にかかれん
でって、もうっ。そんなのんきなこと言っていいんですか店長が。
ええキャットファイトのDVDができるでって、それはごく一部のマニア
の方向けですっ、うちの店にはそんなの置けないですよ店長っ。
もうっ、固定機材まで取り出してきて、レジに取り付けちゃって。なんで
そんなに準備がいいんですか。
紺ちゃん黙っとれよ、黙っといたらゴディバのアイスもやるでって、ホント
ですか?うーん、うーん、うーん、わかりました。黙ってます。
あ、もう2人が出勤する時間ですよ。ほら、ちょうど向こうのエレベーター
から吉澤さんが降りてきましたよ。早くそのラジオペンチ隠してください。
あっ、吉澤さんどうも、おはようございまーす。
- 917 名前: 投稿日:2008/02/13(水) 21:23
-
おわり
- 918 名前:Depor 投稿日:2008/02/13(水) 21:23
- >896 名無飼育さん
「ソーサリー!」は書き進むにつれて後からどんどん設定や登場人物が出てきました。
そこらへんで「テンポがいい」と思ってもらえたのかも。
またがんばって書きますんで(もうちょいペースアップしたいと思ってます。。。)、
気が向いたときに更新チェックしてみてください。
レスありがとうございました。
>897 名無飼育さん
薬草とか地名とかにひっかかってくれて嬉しいです。
いろいろな名前を考えるのが楽しかったですw
更新遅れまくりなのに読んでもらって、レスまでしていただいて、
本当にありがとうございます。ほんとに励みになります。
>898 名無飼育さん
「ナックルボール」は自分でもけっこう悲しい話だよなと思います。
この話の保田さんには思い入れもあるし、もうちょっと幸せになっても
いいのになと思ったりもします。でも書いているうちにどうしても
あんな展開になってしまいました。
「ソーサリー!」はたしかに序章っていうか、これで終わりじゃなくて
明らかに続きがある話ですよね。
できたら、この続きを書いてみたいなとも思います。
感想をもらえて、すごく励みになりました。ありがとうございます。
よかったら、次の更新も見てやってくださいです。
- 919 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/19(火) 21:40
- 更新!きてたー!とても嬉しいです。
今回は作者さんの観察眼ともシンクロしているようで面白かったです。
今後も楽しみにしてますよ。
- 920 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2008/03/06(木) 21:56
- 1人語りの紺野さん、良かったです。
最初から読み返してみたんですが、どの話を読んでも惹き込まれますね。
ありきたりの感想で申し訳ないですが、次回更新お待ちしてます。
- 921 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:28
-
「百」
- 922 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:29
- 10月の最初の週の火曜日、2時間目の地理の授業が終わった後のこと。
職員室から戻ってきたクラス委員が黒板に「今日の3限・4限の美術は
先生の都合で自習」と書いた。これは今から昼休みが終わるまでフリー
タイムになったことを意味する。
麻琴はこの時間を使って図書室に行くことに決めて、先週から借りて
いた2冊の本を抱えて教室を出ようとしたところを愛に呼び止められた。
「まこっちゃん、卓球でもやらん」
- 923 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:29
- それがすべてのはじまりだった。麻琴は卓球なんてしたことがなかった
し、とくに卓球に興味があるわけでもなかったが、親友の誘いを断って
まで図書館に行く理由はなかった。愛のほかにも何人かのクラスメイトが
卓球場で3限と4限を過ごすということだったので、麻琴は軽い気持ちで
彼女らについていった。
卓球場は校舎の地下、美術室の向かいにあった。普通の教室が2つか
3つは入りそうな広いスペースに、6台の卓球台が置いてある。
入口の右手には卓球部の部室があり、ロッカーの前には使い古しのラケット
が放っぽらかしにされていて、その周りには使い古しのピンポン玉が
ぞんざいに散らばっていた。
- 924 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:29
- 麻琴たちはロッカーの前のラケットとピンポン玉を使わせてもらって、
卓球を楽しんだ。まともに卓球をした経験はほとんどなかったから最初は
ミスをしてばかりだったけれど、麻琴がわりと運動神経のある方だった
ということもあり、1時間後にはそこそこ上達していた。
昼休みの直前に、麻琴は愛と簡単なシングルスの試合をした。
11ポイント先取、サーブは3ポイントごとに交代。正式なルールとは
少し異なるかもしれないが、どうせお遊びのゲームだ。あまり気にする
ことはない。
その試合は接戦の末、11−9で愛が勝った。時間が余っていたので
もう1セットの試合をしたら、今度は麻琴が勝った。最後に3セット目の
試合をして、麻琴が連勝した。ちょうどそこで昼休みの開始を告げる
チャイムが鳴り、麻琴たちは教室に戻った。愛はくやしそうな顔をして、
また今度やろうと麻琴に言った。
- 925 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:30
-
◇
- 926 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:30
- その翌日、2時間目の数学が自習になった。1限が終わるとすぐに、
愛が麻琴の席にやって来て昨日の続きをしようと言った。とくにすること
もなかった(図書室から借りていた本は前日の放課後に返していた)ので、
麻琴は愛と2人で卓球場に向かった。昨日と同じように、卓球場のロッカーの
前に置いてある使い古しのラケットとピンポン玉を使って、2人で試合をした。
- 927 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:31
- 麻琴と愛の実力はほとんど同じくらいだったが、スタイルは異なっていた。
麻琴はシェークハンドのラケットを使ったオーソドックスな卓球をしたが、
愛はどちらかというと変則的なスタイルをとっていた。ペンホルダーの
ラケットをピストルを握るように持ち(見るからに不思議な握り方なのだが、
愛は「これがいちばんやりやすい」と言って譲らなかった)、変わった
フォームから鋭いスマッシュを放つ。
麻琴は愛のスマッシュに手を焼いた。変則的な握り方をするからか、
妙な回転がかかっていて、返しのボールがネットを超えてくれないのだ。
チャンスボールを愛がスマッシュで打ち抜くと、麻琴は次々と失点を重ねた。
結局その日は、8セットの試合をして、愛が6勝した。愛は嬉しそうに、
「これで合計7勝4敗やよ」と言った。麻琴はまだまだ、こんなもんじゃ
実力はわからないもんねとへらず口を叩いたが、内心はくやしくてたまら
なかった。授業の合間にやるお遊びの卓球のことなのだけれど、なんだか
このまま黙って引き下がったらいけないような気がしてしかたがなかった。
- 928 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:31
- その日の帰り道、たまたま去年同じクラスにいて仲が良かった里沙に会った。
里沙が卓球部に在籍していたことを思い出して、麻琴は里沙にアドバイスを
請うた。実は今、高橋愛と卓球で張り合っているんだけど、勝つために何か
いい方法はないかな。
細かいところまで話を聞いてから、里沙は的確なアドバイスをくれた。
ペングリップのラケットを変則的に握っているのなら、相手のバックハンドに
球を集めればいいんじゃないかな。たぶん力が入りにくいはずだから、ちゃん
とした球は返ってこない。そのチャンスボールを狙って打てばいいと思うよ。
なるほど。麻琴は深く肯いた。
- 929 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:31
-
◇
- 930 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:32
- 建前上は卓球場は生徒のために開放されているということになっていたが、
始業前も昼休みも放課後も卓球部が練習をしているから、卓球部員でもない
一般の生徒が卓球場を使えるのは授業が自習になったときなどに限られる。
気が向いたときに卓球ができるというものではない。麻琴は雪辱の機会を
じっと待った。
そして1週間後。クラス委員から今日の物理は自習になったと聞いた瞬間、
麻琴は教室の後ろの隅の座席まですっ飛んでいった。そして、前の漢文の
授業中からずっと机の下で「のだめカンタービレ」の最新刊を夢中になって
読んでいた愛の背中をやや乱暴に叩いた。愛は振り向いて麻琴の姿を確認
すると、不敵な笑みを浮かべた。
- 931 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:32
- 里沙から聞いたアドバイスの通り、麻琴は愛のバックハンドに球を集めた。
効果はてきめんだった。愛の変則的な握り方をするスタイルでは、バック
ハンドが致命的な弱点となっていた。厳しいショットでなくてもいい。
とにかくバック側に球を集めれば、愛の返球はまともに飛ばず、あさっての
方向に飛んでいくかネットに引っかかるかした。まれに卓球台の上に返球
できたとしても、それは力のないぽわんとした打球で、格好のチャンスボール
となった。麻琴はそのチャンスボールを思い切りスマッシュして、やすやすと
ポイントを奪うことができた。
- 932 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:32
- その日、麻琴と愛は11ポイント先取のゲームを13回して、一度しか
負けなかった。通算16勝8敗。立場は逆転した。麻琴が執拗にバックハンド
側に球を集めているのは明白だったが、愛に対抗策はなかった。
麻琴は圧倒的な勝利に酔い、「ダブルスコアだもん、誰がどう見てもあたし
の勝ちだね」と愛に告げた。愛はぎゅっと唇を噛み締めて、「このくらいじゃ。
100回くらい試合しなきゃどっちが強いかなんてわからんの」と負け惜しみを
言った。
- 933 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:33
- 翌週の自習時間、麻琴の肩に手がかかった。誰の手かは振り向かなくても
わかった。もはや言葉も不要だ。
麻琴の作戦は愛のバックハンドを狙うこと、それだけだ。だから、愛はそれ
さえクリアすればよかった。けして難しいことではない。
愛はまず、バックハンドに来た球を回り込んで打つという対策を立ててきた。
苦手なことはしなければいい。誰もが最初に考えつく対策だ。
しかし、その効果はかんばしくなかった。テニスコートくらいの広さが
あればともかく、卓球台は幅が1.5メートル程度であり、毎回そう簡単に
回り込めるものではなかったからだ。たまに回り込めたとしても、その後は
フォアハンド側に日本海のような広大なスペースが広がってしまい、麻琴は
たやすくポイントを奪うことができた。
- 934 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:33
- 作戦の効き目がないと悟り、愛は回り込むのをやめた。そして、今度は
バック側に来た球を無理やり強打するようになった。どうせたまにしか入ら
ないのなら、せめてエースを狙って思い切り打とうというわけだ。
半ばやけっぱちのような手段であり、当然のようにこの作戦も失敗に
終わった。無理をして打つことがいい結果につながるわけがないのだ。
20本に1本くらいはまぐれ当たりのショットが返ってきたが、それだけ
だった。麻琴はあっさりとゲームをものにした。
- 935 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:33
- しびれを切らした愛は、ついにラケットの持ち方を変えた。普通に
ラケットを持ち、普通にバックハンドを打つ。今の変則的な持ち方では
麻琴のバックハンド狙いに対処できないと判断したのだ。
バックハンドのことだけを考えれば悪い判断ではない。たしかにバック
ハンドは入るようになり、今までのように簡単にポイントを取ることはでき
なくなった。しかし、それとともに愛の得意ショットである変則スマッシュが
失われてしまった。普通にラケットを持ったために変な回転をするスマッシュを
打つことができなくなってしまえば、やはり麻琴の方に分があった。
- 936 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:34
-
結局のところ、愛の変則的なスマッシュと弱いバックハンドはコインの裏と
表のようなものだった。両者は密接不可分の関係にあり、片方がなくなれば、
もう片方もなくなってしまう。
- 937 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:34
- 当然のことながら、麻琴と愛の対戦成績は一方的なものになった。
麻琴の32勝13敗。麻琴と愛が卓球にはまってから1か月が過ぎ、
2人の決着はついたように思われた。麻琴は勝ち誇り、100試合もする
必要なんてない、あと20回も試合すればあたしが51勝するから卓球は
それで終わりだと愛に告げた。愛は悔しさのあまりぎりぎりと歯噛みをした。
- 938 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:34
-
◇
- 939 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:35
- 季節は秋から冬に移り変わりつつあった。クローゼットからは厚手のコートと
手袋が取り出され、期末試験の日程が発表された。教室ではノートを貸し借り
する契約が頻繁に行われるようになった。麻琴は成績優秀の部類に入っていた
ので、ノートを貸す方にまわることが多かったのだが。
- 940 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:35
- 長い試行錯誤の末、愛がバックハンド対策の決定打を見つけ出したのは
そんな時期だった。
麻琴は例のごとく自習時間を利用して愛と卓球をしていて、今までと同じ
ように、いったん愛をフォアハンド側に振ってから、バックハンド側を攻めた。
たったこれだけのことで、愛からポイントを取れるのだ。じつに簡単だ。
SUICAのチャージをするより簡単だ。
しかしそのとき、愛のバックハンドから小型の雷のような鋭いショットが
放たれ、卓球台をひと噛みしてから麻琴の右側を通り抜けていった。
麻琴は一歩も動くことができなかった。いったい何なんだ?視線を愛に
向けると、愛は会心の笑みを浮かべてガッツポーズをしているところだった。
- 941 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:36
- まぐれだ。やけくそで打った球がたまたま決まっただけだ。麻琴はそう
判断して、ふたたび愛のバックハンドを狙った。しかし、またもや稲妻の
ようなショットが返ってきた。慌てて麻琴は返球したが、それは力のない
チャンスボールになったため、待ってましたとばかりに愛の変則スマッシュが
打ち抜かれた。麻琴は立て続けにポイントを失い、あっという間にそのセット
も失ってしまった。
- 942 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:36
- まぐれでもたまたまでもなかった。愛のバックハンドからはかなりの
高確率でショットが返ってくるようになったのだ。しばらく観察している
うちに、その秘密がわかった。いつもの変則的なグリップの握り方をしたまま、
手首を不自然なくらいに内側に捻り、フォアハンドと同じ面でバックハンドを
打っているのだ。見れば見るほど、どうやったらあんなに妙な手の動きが
できるのだろうと思うくらいに変な手の使い方をしている。しかし、そこから
放たれるショットは今までとは比べものにならないくらいに鋭く、安定していた。
- 943 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:36
- つまり、「変則的なフォアハンドの裏側にある弱いバックハンド」は、
変則性に伴う欠点として解消されたのではなく、その変則性をよりいっそう
推し進めることによって克服されてしまったのだった。
愛のバックハンドはもはや弱点ではなくなった。麻琴の側に一方的に傾いて
いた両者のパワーバランスは、今度は一気に愛の方に振れた。
よく考えてみれば、麻琴の作戦は「バックハンド狙い」一辺倒であり、それに
対する解答を示されてしまった以上、今度は愛が今までのうっぷんを晴らす
ことになるのは自然のなりゆきだった。勢いに乗った愛は勝ち続け、麻琴は
ずるずると負けを重ねた。
- 944 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:36
- ただ、愛のバックハンドは今までのようなわかりやすい弱点ではなくなった
ものの、その変則中の変則バックハンドがフォアハンド並みの武器になった
というわけでもなかった。
麻琴がようやくそのことに気づき、従来のような無理やりなバックハンド
狙いをやめ、要所要所でバックハンドを攻めるスタイルに変えて愛の一方的
な流れを断ち切った頃には、対戦成績はいつの間にか44勝44敗、まったくの
五分になっていた。
- 945 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:37
- そこからの試合は接戦が続いた。どちらにもはっきりとした弱点はなく、
かと言って相手を圧倒するだけの力量の差もなかったので、じりじりとした
ポイントの重ね合いが続き、1試合の決着がつくまでかなりの時間を要する
ようになった。
とりあえず、100試合だ。麻琴は思った。
こんなの、いくら続けたってきりがない。べつにうちらは卓球部に入って
何かの大会に出ようと思ってるわけじゃないんだ。何かのくぎりはつけないと。
100試合というのはくぎりとしてちょうどいいし、愛だってそのくらい
試合をすれば勝敗がはっきりすると言っていた。100試合して、それで
いったんこの卓球勝負は終わりにしよう。
それにしても、まさか本当に愛と100試合近く卓球をするとは思わなかった
なと麻琴は思った。よく飽きなかったものだ。
- 946 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:37
- 麻琴が99試合目を勝ち、対戦成績を50勝49敗としたのは、期末試験の
前日のことだった。自習時間が終わり、次の時間が始まるまであと15分。
最後の100試合目をするには十分な時間が残されている。
「最後、100戦目だよ」と麻琴は言った。「これであたしが勝ったら、
勝負ありってことだからね」
愛は黙って肯き、ピンポン玉を手に取って、何回か卓球台にバウンドさせた。
- 947 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:37
-
◇
- 948 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:38
- 100試合目もかなりの接戦になったが、最後は愛のスマッシュがわずかに
外れ、麻琴が勝った。これで51勝49敗。あたしの勝ちだ。麻琴は勝利の
喜びと達成感を噛み締めた。
ただ、感慨にふけっている暇はあまりなかった。4時間目の開始を告げる
チャイムが鳴りはじめたからだ。英文法の中澤先生は遅刻に厳しい先生だ。
2人は急いで卓球場から出て教室に向かった。
- 949 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:39
- はあはあと息を切らせつつ階段を上りきったところで、麻琴は愛に声をかけた。
「これで卓球も終わりだね」
愛は不服そうに麻琴を見て言った。「なんでさ」
「だって、100回やったじゃん」と麻琴は言った。「100回やって、
あたしの51勝」
「ほんなもん、ほとんど変わらんの」愛は鼻で笑って答えた。
- 950 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:39
- 「変わらないって、あんた最初言ったじゃん。100試合やりゃ勝ち
負けはっきりするってさ」麻琴は少し腹を立てて言った。
教室が近づいてきた。中澤先生が出席をとっている声が聞こえる。
このままでは説教が待っている。愛がやや急いで教室のドアを開けた。
そして、ドアノブを握ったまま振り返り、にっと笑って言った。
「じゃ、もう100回やりゃええし」
- 951 名前: 投稿日:2008/04/23(水) 22:39
-
おわり
- 952 名前:Depor 投稿日:2008/04/23(水) 22:40
- >919 名無飼育さん
レスありがとうございます。
思いつくままに書いていった話なので、たしかに、いつも持っている
イメージがそのまま出てるのかもしれないですねー。
長いこと更新してなかったのに、更新を待っててもらったことも
ほんとに嬉しいです。どうもありがとうです。
>920 名無し募集中。。。さん
紺野さんひとり語りの話ってわりと書いているんですけど、いつも
すらすら楽しく書けます。良いと言ってもらえて、すごく嬉しいです。
最初から読み返してもらったのもめちゃくちゃ嬉しいです。
いつの間にかけっこう数が増えたので大変だったと思いますが、
読んでもらえて感謝感謝です。
全然ありきたりの感想じゃないですよ、ほんとに励みになりました。
レスありがとうございました。
- 953 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/06(日) 13:59
- 一度のめり込むと周りを巻き込んでどこまでものめり込むところが、この人の怖いところですね…
麻琴、頑張って。
- 954 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:54
-
「午前2時」
- 955 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:54
- 午前2時。わたしは眠れない。眠ることができない。つけっぱなしのTVは
深夜のバラエティ番組を映し出している。見たこともないような番組だ。
よく知らないお笑い芸人とよく知らない女性タレントがスタジオでげらげらと
笑っている。ちっとも面白くない。でもわたしはTVをつけたままにしておく。
たぶん朝までTVをつけっぱなしにしておく。ここでTVを消すわけにはいか
ない。こんな時間に、ひとりぼっちの自分の部屋が静寂につつまれるくらいなら、
下らないTVの音量が聞こえた方がまだましだ。
- 956 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:57
- あたりはしんと静まりかえっている。夜更けから降り出した雨が窓ガラスを
ぽつぽつと叩く音が聞こえる。6月の中旬だというのにひどく肌寒い。長袖の
Tシャツだけでは我慢できなくなって、薄いブランケットをはおる。
布団にくるまって朝までぐっすり眠れたらどんなにいいだろうと思う。
すべてを忘れて眠り続けていたい。でも眠気が訪れてきてくれそうな気配はない。
- 957 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:57
- 眠れない理由ははっきりしている。
3日前の夜に吉澤さんからつきあってほしいと言われた。それがすべての原因だ。
「紺野が好きなんだ」吉澤さんはわたしの目を見て言った。いつもの冗談だと
思って信じようとしなかったわたしに、吉澤さんは真剣な口調で何度も繰り
返して言った。「梨華ちゃんとは別れる。いまゼミの合宿に行ってるけど、
戻ってきたらきちんと言う」
「紺野が麻琴とつきあってるのも知ってる。だから……紺野も、麻琴と別れて
もらいたいんだ」穏やかだけれど、圧倒的な自信に満ちた声。そのときわたしは
気づいた。吉澤さんは本気なのかもしれない、と。
- 958 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:57
- 「無理なことを言ってるって、自分でも思うよ」と吉澤さんは言った。
「でも、紺野は今日ここであたしとご飯を食べてることを麻琴に言ってない
はずだ。先週2人で遊びに行ったことも、おととい2人で飲みに行ったことも、
麻琴に言ってないよね」
吉澤さんはそう言ってから、まゆ毛をぴくりと動かした。
「だから、まったくぜんぜん無理なことを言ってるとは、思ってない」
- 959 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:58
- 吉澤さん。大学の女子バレー部の2つ上の先輩。ずば抜けた運動神経の
持ち主で、1年生のときからエースの座をほしいままにしていた。バレーに
対しては本当にストイックで生真面目で、誰よりも早く練習に来て、誰よりも
遅くまで居残り練習をする。かと言ってがちがちのマジメ人間というわけ
ではなくて、オフコートではおちゃらけが好きな気さくな先輩になる。
冗談をしょっちゅう言って、後輩には軽いセクハラ発言や下ネタを言う。
でもけっして下品な感じにはならない。あくまでおちゃらけの範囲内。
そんな人の人気が出ないわけがない。先輩からは可愛がられ、同輩からは
好かれ、後輩からは慕われる。吉澤さんのまわりにはいつも人が集まっていた。
- 960 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:58
- 本気なんだろうか?わたしは思う。本当に吉澤さんが、あの吉澤さんが、
このわたしとつきあいたいと思っているのだろうか?
吉澤さんに比べれば、いや別に吉澤さんと比べなくても、わたしは地味な
性格や容姿をしていると思う。「その他大勢」にくくられて、隅っこの方で
目立たないようにひっそりと気配を消しているタイプ、それがわたしだ。
けっして謙遜ではなく。
そんなわたしに、吉澤さんのような人から「つきあってほしい」と言わ
れることがいまいち信じられないのだ。しかも、石川さんという完璧な
恋人と別れてまで。
- 961 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:58
- でも。わたしは首を振る。あのときの吉澤さんの目は真剣だった。
出まかせや適当なことを言っている人のする目ではなかった。あんな目で
見つめられたら、何がどうなろうと、誰がなんと言おうと、「はい」と
肯いてしまいそうになるような、そんな目だった。
- 962 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:59
-
◇
- 963 名前: 投稿日:2008/08/30(土) 23:59
- もちろん麻琴のことは問題だ。
もう1週間くらい麻琴に会っていない。電話もしていない。週末に
「体調がわるい」という内容のメールを出したきりだ。「しばらく部屋で
寝てればだいじょうぶだから、心配しないで」とつけ加えた。
当然のように様子を心配する返信があった。無理しないで、ゆっくり
休んでね、と。
- 964 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:00
- たぶん麻琴は最近のわたしの様子が少し変だということに気づいている。
体調がわるいからといって電話の1本もかけないのは不自然だとも思っている。
でもこういうとき、麻琴は詰問調のメールをよこしたり、しつこく電話を
かけてきたりはしない。無理にわたしの部屋にやって来ることもない。
それは麻琴は冷たい性格だからということではなくて(むしろ逆だ)、麻琴が
わたしを信頼してくれているからだ。それはわかっている。よくわかっている。
でも、こんなときだからこそ思ってしまうことなのかもしれないけれど、
ちょっとだけ、なんというか、不安になってしまわないでもない。
- 965 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:00
- わたし、吉澤さんにつきあってくれって言われちゃったんだよ、麻琴。
それに、その場できちんと断れなかったんだよ。
いや、それどころじゃない。わたしは……。
- 966 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:00
-
◇
- 967 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:01
- 麻琴と知り合ったのは一昨年の4月になる。大学の女子バレー部の新歓コンパ
の席で隣同士になった。わたしはマネージャー、麻琴は選手としての入部だったが、
親元を離れてひとり暮らしをしているという共通点があったこともあって、
すぐに仲良くなった。
つきあいはじめたのはちょうど1年くらい前からで、それから1年間、
わたしと麻琴はうまくやっていたと思う。わたしは麻琴が好きだった。
生真面目で礼儀正くて大人しくて、いくらか引っ込み思案な性格が好きだったし、
そのくせバレーの試合になるとふてぶてしいまでに堂々とプレイするところも
好きだった。自分のことをあまり可愛くないと思っていて(実際はぜんぜんそんな
ことないのに)、ことあるごとに石川さんみたいに綺麗になれたらな、吉澤さん
みたいにカッコよくなれたらなとぼやくところも好きだった。
そんな麻琴と別れることなんか、頭の隅に思い浮かびもしなかった。
3日前までは。
- 968 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:01
-
◇
- 969 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:01
- 雨は小止みになったようだ。雨音のかわりに、窓の外からは猫の鳴き声が
聞こえてくるようになった。しわがれて、苦しそうな、何かを必死で我慢して
いるような鳴き声だ。わたしは暗闇の中、地面にうずくまって鳴き声を上げて
いる猫の姿を想像する。いったいどういうわけで、猫はこんな真夜中に、
こんなに苦しそうな声で鳴いているのだろう?
- 970 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:02
- 吉澤さんと仲良くなったのは最近のことだ。ほんの2か月前、4月くらいから。
それまでは単なるふつうの先輩後輩という関係で、吉澤さんと2人だけで話したり、
ご飯を食べたり、どこかに行くことなんてことはまったくなかった。
親しくなったきっかけは、春の大会の登録での一件だった。わたしの仕事は
春の大会のチーム登録をすることだったのだが、何かの手違いで事務局側と
トラブルを起こしてしまった。最初はちょっとした行き違いだったのだが、
いつの間にかことが大きくなってしまった。部室の電話で話しているうちに、
連盟から除名するとかしないとかという話にまで広がってしまい、わたしは
電話口の向こうの人の高圧的な態度にすっかり怯えてしまった。
- 971 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:02
- そのとき、たまたま吉澤さんが部室に入ってきた。吉澤さんは状況を把握
すると、わたしに代わって事務局との交渉をしてくれた。きちんと筋を通して
説明して、電話の相手にこちらのミスはなかったと納得させてくれた。
何度もわたしは吉澤さんにお礼を言った。吉澤さんはくすくす笑って、
いや紺野、そんなにぺこぺこしないでいいよ別に、と言った。
ところで、お腹減ってない?メシでも行こうよ。
- 972 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:02
- それから吉澤さんとよく遊ぶようになった。週に一度くらい、ご飯を食べたり、
どこかに遊びに行ったり。もちろん吉澤さんには石川さんがいて、わたしには
麻琴がいたから、そんなに頻繁に会っていたというわけではなかったのだけれど。
- 973 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:02
-
◇
- 974 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:03
- とっくの昔にバラエティ番組は終わっていて、気がつくとTVの画面には
初夏の田園風景が映し出されている。水色に染まった空の下に、青々とした
水田が一面に広がっている。ぽつりぽつりと人家や小さな林があり、はるか
遠くには高い山が連なっている。どこかでこんな景色を見た気がする、
ふとそんな考えが頭に浮かんだ。わたしはどこかでこの景色を見たことがある。
いったいどこだったっけ?
- 975 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:03
- 一度だけ、麻琴とけんかをしたことがある。何かの理由で麻琴と連絡がとれ
なかったことが原因だったと思う。そのときのわたしはけっこう感情的になって
しまって、麻琴のことを冷たいと言って大声で責めた。麻琴は決して声を
荒げたりはせず、何度もごめんねと言ってわたしの気持を落ち着かせようと
した。
後になって、それはちょっとした行き違いで麻琴は実際のところ何も悪く
なかったことがわかった。でもわたしはひどいこと言ってごめんねと謝る
こともしなかった。
- 976 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:03
-
◇
- 977 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:04
- 窓の外が明るくなってくる。結局、今夜も眠ることができなかった。
わたしは立ち上がって、TVの電源を切る。それから部屋の整理をはじめる。
散らばっている文庫本やCDを棚やラックに戻し、ていねいに整える。
机に置いてあったペットボトルやマグカップを流し台に持っていき、机の上を
きれいに拭く。フローリングの床をからぶきして、TVの液晶モニターの表面に
ついたほこりをていねいに払う。ごみを分別して、ビニール袋の口を縛る。
安物のジャケットをはおり、ごみ袋を両手に持って、部屋のドアを開けて
外に出る。雨はもう上がっていて、すずめの鳴き声が聞こえる。まだいくらか
肌寒さは残っているものの、明るい日ざしがあたりを照りつけている。
きょうは暑い一日になるかもしれない。
- 978 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:04
- わたしはマンションのエレベーターに乗って1階まで下りて、指定された
ごみ捨て場にごみ袋を置く。
「あら」人の気配とともに誰かの声がした。そちらを向くと、隣の部屋に
住むOLの人がいた。
「おはようございます、飯田さん」とわたしは言う。これから仕事に出か
けるところなのだろう、飯田さんは紺色のシャツに、身体にぴったりフィット
した白いパンツといういでたちだった。背が高くて、ほっそりとした彼女に
よく似合っている。
- 979 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:04
- 「おはよう」飯田さんはにっこりと笑って言った。「早起きだね。何か
用事でもあるの?」
「いえ……」わたしは口ごもった。「ちょっと、たまたま早く目がさめ
ちゃって」
「えらいなあ」飯田さんはそう言って、肩から提げたバッグの位置を直した。
「私が学生の頃なんて、午前中に起きる方がめずらしいくらいだったのに」
「そ、そんなことないですよ」とわたしは言った。ほんとは、寝れなかった
だけなのだ。
- 980 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:05
- 「こんなこと、私から言うのもなんだけど」くすくすと笑って、飯田さんが
言う。「今のうちに遊んどかないと、社会人になってから後悔しちゃうよ。
毎日朝から晩まで仕事仕事仕事になっちゃうんだから、私みたいに」
わたしは飯田さんの端正に整った顔を見る。美人で、仕事ができる、理想的な
キャリアウーマン。そんなイメージ。たぶん恋愛経験だって豊富だろう。
わたしはふと、今まで悩んでいたことをすべて飯田さんに打ち明けたくなる。
洗いざらい、いっさいがっさい、すべてをぶちまけたくなる。わたしはどう
すればいいと思いますか、と聞きたくなる。それができたらどんなにいいだろう
と思う。
- 981 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:05
- でももちろん、飯田さんは隣の部屋に住んでいる顔見知り、それだけの人だ。
個人的なつきあいというものはとくにない。
だから現実にわたしができることは、あいまいな笑みを浮かべることと、
困ったように「そうですか…ね」と言うこと、そのくらいだ。
飯田さんはもういちどにっこりと素敵な微笑みを浮かべてから、「じゃあね」と
言ってマンションの敷地から出ていく。その後ろ姿はさっそうとしていて、
吉澤さんに負けず劣らず格好よく見える。
- 982 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:05
-
わたしは首を振って、ため息をひとつつく。
それからホールに戻り、エレベーターに乗って、自分の部屋に戻る。
- 983 名前: 投稿日:2008/08/31(日) 00:06
-
おわり
- 984 名前:Depor 投稿日:2008/08/31(日) 00:06
-
>953 名無飼育さん
そうですね、ほんと高橋さんにはそういうイメージがありますよね。
振り回されっぱなしの小川さんは大変ですw
更新遅れっぱなしでしたが、レスをもらえて本当に励みになりました。
どうもありがとうございました。
- 985 名前:Depor 投稿日:2008/08/31(日) 00:07
-
今回の更新で、このスレは終わりです。
今までこのスレに目を通してくださった方、
レスをしてくださった方、
本当にありがとうございました。
- 986 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/08/31(日) 00:15
- 約4年ですか、長かったような短かったような。
お世辞抜きですべてのお話を楽しませてもらいました。
でぽさんお疲れさまでした。ありがとう。
- 987 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/08/31(日) 04:30
- でぽさんお疲れさまでした。
ありふれた日常の中に坦々としながらも
激しい葛藤や心情があって、
「生きる」ってそういう部分も大事ですよね。
- 988 名前:みりいど 投稿日:2008/09/01(月) 20:36
- おつかれさまでした。思えばこの世界に入って割と最初から読んでいたお話でした。
また、どこかでお話読ませてくださいませ。
- 989 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/02(火) 20:11
- 自分もヲタ生活の間ずっと読ませてもらってたので寂しいです。
ちょうど先日改めてスレを読み返したところだったんですが、
このスレの飯田さんはとても印象に残りますね。
新垣さんのフットサルの話や保田さんと紺野さんの冒険も面白かったです。
作者さんほんとにお疲れさまでした。
きっとまた何回も読み返すと思います。
- 990 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/11(木) 09:23
- おぉ。お疲れ様でした。
今パッと思いつくのはナックルボールと店長室なんですが、
どの作品も面白かったです。
また今度、改めて全部読み返させて頂きたいです。
またでぽさんの新しい作品、いつか読ませて下さい。
お疲れさまです、ありがとうございました。
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