空の中に身を沈めて行く時、私は大気を感じ、大気は私を感じる。
心が空に吸いこまれるのではない。心が空に満たされるのだ。
薄暮の中を出撃して行く艦載機達。これから行われる「殺し合い」が嘘のように美しい姿だ。
その光景をブリッジで見送りながら、飯田は、この現実感を伴わない戦争を、自身の中で消化
できずにいた。
本当に戦争なんだよね。
無邪気な顔で出撃して行った鈴音の顔と、この空の先で行われる激しい戦いとのギャップ。
傍目からは開戦以降も飯田の態度や言動は、これまで通りのとぼけたものだったから、彼女の
心の葛藤は見えなかったかもしれない。しかし、そうした「これまで通りの姿」は、飯田がこの
狂った現実から自分を守る、精一杯の抵抗だったのだろう。
ブリッジから飛行甲板に下りた飯田を潮風が包む。その見つめる先に降り立った戸張からは
何も聞こえてこなかったが、彼女はいつまでもそこに立っていた。
この戦争に現実感がなかったのは飯田だけではない。とりわけエースパイロットの戸田鈴音
には、TVゲームを楽しむような危うさがあった。ただ、彼女もまた非日常空間を迎合すること
によって、正気を保っていたのに他ならなかった。
ディスプレイの情報に、体が先に反応する。射出されたミサイルが敵機を射抜く。シューティング
ゲームに感じる快感と何も変わらない。…負ける気がしない。
鈴音は空と交わり、エクスタシーを感じていた。空そのものが自分なのだ。負けるわけがない。
搭乗するF18を体の一部のように操りながら、鈴音はこの空が、昔自分が感じた故郷の空と
同じものであることに満足していた。
鈴音は乗馬が大好きだった。自然に触れる事や動物の世話が好きだったこともその理由だが、
何より馬との一体感、そして空を強く感じる事が、彼女を惹きつけていた。
馬上から空を見上げると、空の中に落ちて行く錯覚に囚われる。自分が今居るのは馬の背中
ではなく、空の中なのだ。自分はそこに漂っているのだ。
「え?鈴音、パイロットに志願したの??それって、危なくないの?」
大きな目を更に大きくした飯田が驚く。歳も近く、かつて一緒に仕事をしていたこともあり、鈴音
と飯田は姉妹のように仲が良かった。
「大丈夫よ。私、空に好かれてるから。」
鈴音は笑顔で応えてみせた。迷いなど有るはずが無かった。戦争が始まり徴兵されると、鈴音
はすぐにパイロットを目指した。元々好奇心とチャレンジ精神が旺盛な彼女が、エースパイロット
として頭角を現すのに時間は掛からなかった。
「自分自身が空になるんだよ。本当だよ。」
空から帰ってくると、鈴音はよく飯田にその話をした。
「全身で空の全てを感じるの。だから、空に居る時は何でも判るし、何でも見える。」
恋人とのことを惚気るような鈴音の口調に、飯田は嫉妬と不安の入り混じった感情を抱えていた。…・解ってるの?鈴音。戦争なんだよ。
だから飯田はいつも待っていた。留守番する子供のように甲板に立ち、海と空の境目を見つめていた。
今日も3機を撃墜し、作戦は終了した。だが、燃料はまだ充分にある。
北海道はどっちだっけ…。
いつものようにアクロバチックに機体を踊らせながら帰討する途中、鈴音はふと故郷に寄り道
したくなった。現実には不可能な距離なのだが、その時の鈴音は、一種のトランス状態にあった
と言える。コースを外れたことにも気付かない。
今の私は大気なんだ。だからどこまでも飛んで行ける。どこにでも手が届く。
もはや方角や高度、上下左右、そんなものは無意味だった。
だからだろう。敗走する途中の敵の中隊に補足されていることにも、勿論気付いていなかった。
「ああ…。空に落ちて行くよ…・。」
その日の作戦が終了し、帰還したパイロット達が祝杯をあげる。だが、その中に戸田鈴音の姿
は無かった。いつもなら誇らしげに機体に撃墜マークをペイントしているはずの、帝国のエース。
「空に嫌われた時、俺達は海の底に落ちて行くのさ」
パイロット達のそんな話を聞いたことがある。
「大丈夫だよ。私、空に好かれてるから。」
そうだよね。鈴音。あんたは特別好かれているんだもの。絶対帰ってくるよね。
飯田は太陽が海から引き上げられる姿をずっと眺めていた。
「お帰りなさい。」を言うために。 【完】