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ののが裕子で裕子がのので

プロローグ

明日は、ハロプロの本番だった。
実際のステージを使っての、ダンスのフォーメーションの確認作業中だ。みんな、
ピリピリしている。

オープニングの、ハピサマの立ち位置を、何度も何度も煮詰めていく。

(この間奏のタイミングで、真ん中に出て、と)

「紹介します。証券会社に勤めている、杉本さん」

「はい音楽止めてー、何やってんのそこッ」
夏先生が、怒鳴る。
(なんでやねん。調子ようやっとったやないか)
こっちも怒鳴り返そうとして、違和感に気付く。

なっちが、ヒソヒソ声で、私に耳打ちする。

「なんで辻がそこで入るべさ」

        ◇

一週間ほど、時間はさかのぼる。

「おおっ、辻、あんた結構イケる口やな」
「じゅっさいから、のんでました〜」

思えば、あれがいけなかった。
面白半分に辻にビールを飲ませたら、くいくい飲んでしまったのだ。

弱気になっていたんだと思う。
いつもコミニュケーションに悩んでいたんで、酒、という意外な共通事項を見つけて、
つい羽目を外してしまったのだ。

コンサートツアーを間近に控えて、娘。のメンバーたちはホテルとダンススタジオの
往復の日々を送っていた。
私は娘。のリーダーとして、新人4人を、どうやって戦力にしていくか、悩んでいた。
とにかく、意志の疎通が出来ないのだ。
まだ、石川と吉澤はなんとかなった。しかい、辻と加護は、それはもうどうしようも
なかった。

(明日香は、12才やったけど、しっかりしてたわ)

昔のメンバーと比べるのはいけないことだとは分かってはいたが、どうしても比較
してしまう。
(色々経験しても、結局は最初の男が一番やった、って法則と同じやな)
ちょっと違うような気もする。

中澤裕子。27才である。
加護の父親と、4才しか違わない。

(ホンマ、がっくりやわ)

ホテルの、私の部屋である。
クローゼットには、フロントから持ってこさせた、洋酒日本酒が山と積まれている。
ま、一週間分やから、これくらいないとな。
本当は、今日は平家のみっちゃんが遊びに来る予定だった。なのに、ドタキャンされた。
一人でグイグイ酒を飲んでたら、辻が、分からないことを教えて欲しい、と部屋を訪ね
てきたのだ。
(なんや、学校のセンセーみたいやな)
で、面白がって、酒を勧めてみた、ってのが、今回の事件の始まりなのだった。

辻は、その小さな身体に似合わないほど、大量の酒を飲んだ。姉さんが負ける訳には
いかん、むしろ、3倍は飲まんと示しがつかん、と、痛飲したのがマズかった。
2人で(というよりは、やっぱほぼ1人で、なんやろな)クローゼットの酒の、半分
を飲んでしまったのだ。

そして、明け方、悪夢は始まった。

「ふぁ〜、あイタタタタ、頭痛い……久々に、無茶したなあ」
痛む頭を押さえて、時計を見る。午前4時。
部屋の中は、すごい惨状だった。

(ははは……ベッドメイクさんに、チップでもあげとこうかな)

トイレに行こうと、ベッドを飛び降りた。
着地の衝撃で、頭がガンガンした。
私にはツインの部屋が割り当てられていて、もう一つのベッドに辻が寝ているはずだ。

毛布から、足かニョッキリと伸びている。
(案外、辻の足って色っぽいなあ。最近の子どもは、身体だけは一人前やで)
年寄りクサいことを考えながら、ユニットバスに向かう。

ははは……。

笑う。
(はいはいはい。裕ちゃんはな、なんとなく、気付いてましたよ)
なんで、ベッドが、飛び降りないといけないくらい、デカくなってるのか?
どうして、辻の足があんなに色っぽいのか?
そして、どうして、こんなに、蛇口の位置が高いのか?

鏡を見る。
辻がいる。

(ほらな、思ったとおりや)

水を飲んで、ベッドにもぐり込んだ。
これは夢やからな。目が覚めたら、元通り。こーゆー時には、トイレもせん方がええ
やろ。酔っておねしょした、なんてことになったら、嫁入り前の娘の経歴にキズが
つくわ。
私は、目を閉じて、二度寝に入った。

(なかざわさん、なかざわさん)
身体を揺すられる。
(なかざわさん、おきてください)
なんや、もう朝か?
ほら、見てみい。夢やったろ? はいはい、裕ちゃんは起きますよ。
「おはよう、辻か?」

目を開ける。
中澤が、私を揺すっている。

「なんや、びっくりしたわ。まだ夢の途中みたいやな。もいっかい、寝るわ。今度は
ちゃんと起こしてや」

私は、毛布を頭からかぶる。
毛布を引っ張られる。
「なかざわさん、なかざわさん」
声は、泣きそうになっている。

「ホンマしつこい夢やな。寝るっちゅーてんねん」

がばっ、と起きあがる。
時計は、午前4時半。

バリバリと頭をかく。

中澤裕子が、泣きそうな顔をして、こっちを見ている。
部屋の鏡には、私が座っている位置に、辻が写っている。

もう一度、中澤を見る。
自分の手を見る。

中澤を見る。
鏡を見る。

「ふ〜ん」

私の2度目の12才は、こうして始まった。


【一日目:ののの世界】

(どうしてこんなことになったんだろう)
(これから、私たちはどうなるのだろう)

などとロマンティックに悲観に暮れたりはしなかった。
最初に脳裏に浮かんだことは、
(今日のダンスレッスンどないしようか)
であった。
27才は、リアルなのだ。

(辻のパートのダンスは、まだ簡単なステップの組み合わせやさかい、ウチでも出来る)
(問題は、辻や。こいつ、今でもピーピーやのに、自分のパート変わったら、もう対応
でけへんで)

マネージャーが、プロのダンサーが踊っているフォーメーションビデオを持っている。
それを借りてこよう。
朝の集合までに、ある程度、辻に教育しておく必要があった。
「辻、ちょっと待っててや。今から特訓やで」
「あっ、なかざわさんッ」
私は、部屋を出て、マネージャーの部屋に向かった。

ドアをノックする。
中からの反応はない。当然か、まだ5時前やからな。
しかし、こっちはそれどころやないんや。行儀ようやってるヒマないで。
興奮状態のまま、ドアを殴ったり蹴ったりした。
「こらー、キャシー、寝てるんか。はよ起きいッ」
中でゴソゴソ動く音が聞こえて、ドアが開いた。
「あ……あれ、のの、ちゃん?」
「ののやあるかいな。ダンスのビデオあるやろ、あれとっとと出しいな」
茫然と、私を見下ろしているキャシー。
「朝から寝ぼけてるんかい。早よせえ。こっちはメッチャ焦ってる、っちゅーねんッ」
イライラしながら、ようやくビデオを受け取った。

急いで自分の部屋に戻ると、ドアの前にごっちんが立っていた。マズイ。このことは、
出来るだけメンバーには秘密にしておきたい。

「おう、ごっちん、朝からどないしたんや。今日な、裕ちゃん、調子悪いねん。
ごめんやで」

ごっちんの返事も聞かずに、ドアを乱暴に閉めた。
こんな朝早くから、なんか具合の悪いことでもあったんやろか。でも、今はそれどこ
ろやあらへんからな。
「よし、辻。このビデオの中で、ウチのパート、じっくり見て、覚え。30分たったら、
振り付けのテストやるで」

30分後。
ウチの姿をした辻は、横座りでさめざめと泣いていた。
「あーもう、ムカツクなあ。ウチはそんな風に泣いたりせえへんっちゅーねん。
『ろーけんがいさにつとめている』ってなんやねん。滑舌悪すぎやで辻」
私は、頭をガリガリかきむしった。
ダメだこりゃ。

「今日は、無理やな。病欠にしといたるさかい、一日、コレ見て自習しとき。夜、
ダンスと歌の特訓や」
(2人同時に休むのは不自然やろな。ウチは、普通にレッスンに参加しとこか)

ま、今の辻の立ち居振る舞いはあまりにも不自然過ぎる。普段の私らしく動いてもら
わないと、すぐにバレてしまいそうだ。
その朝は、自分のことは棚に上げて、そんな風に思っていた。

(さてと)
ホテルから、ダンススタジオまで車で15分。
動きやすいジャージに着替えて、私は事前の柔軟体操中だった。
しかし、若い身体は驚くほど柔軟だ。
なにもしなくても、すでに身体がほぐれている。
いいなー、若いのって。ずっとこのままでいたいくらいやわあ。

「ののちゃん、おはよー」
石川が、ニコニコしながら、話しかけてきた。
なんやこいつ。朝からテンション高いなあ。いつもはおどおどしてるのに、ウチの前や
ないと、こんなにも朗らかなんか。
「今度のダンス、難しいね。まだ全然分かんないよ」
はあ? 昨日のうちに、基本的なステップはマスターするように夏先生に言われとった
はずやのに、何ゆうてんねん。
「ののちゃんはどう?」
私は、柔軟体操の締めくくりの代わりに、辻のステップで軽く流してみせた。まだまだ
不完全だが、見てただけではこれが限界だ。
「すっごーい。ののちゃん、完璧じゃん。夏先生もビックリだよきっと」
なんか、イライラしてきた。

「なあ、石川。あんた、いつまでシロウト気分でおるんや?」
石川は、目を丸くした。
「すっごーい、ってアホちゃうか? 同期がこんだけ出来てんねんで。まだ全然分か
へん? 焦ったりせえへんのか。どない思っとんのや。なんか言うてみい」
「え……」

戸惑った表情で立ち尽くしている。
「その、これから、頑張ろうと……」
「これから? 昨日、マスターしておくように言われたやないか。お客さんが、お金払
って見に来てくれるステージで、そんな甘いこと言ってて、通用すると思うてるんかッ」

ついに、石川は泣き出した。
ちょっとだけ、後悔した。
朝からいろいろあって、ナーバスになってるみたいだ。ついキツイ口調になってしまった。
「あわわわ、りかっち、どうしたのよ」
石川の涙に駆けつけてきたのは、やぐっちゃんだった。
「なに、ケンカなの?」
私を見て、言う。

「説教したら泣いてもーてん」
「説教って……ちょっと辻っ」
やぐっちゃんは、私に向き合って立った。
「あのねえ、娘。同士、仲良くしないといけないでしょう。ケンカはダメっ」

こいつ、人の話、聞いてへんな。指導やんか。こんなんで泣かれてたら、この先、
芸能界渡っていかれへんで。
「なんや、やぐっちゃん、ウチよりも背ぇ低いなあ。一番のチビッコや」
ヘラヘラ笑いながら、言ってやった。
「あああっ」
やぐっちゃんは、傷ついたのか、大きな声を出した。

私は不意に顔を真面目にさせて、
「ええか、娘。は仲良しグループである前に、プロの歌い手やねんで。自覚なしに
ステージに立たれたら、聞いてくれるお客さんに失礼や。昔にも、そんなこと言うた
ことあったはずやで。矢口、忘れたか?」
低く、声色を作って言う。

やぐっちゃんは、ビビって2、3歩後ずさりした。
「私が悪いんです。ごめんなさい」
石川は泣きながら、私とやぐっちゃんに謝った。
「ふん。まあええわ。今日は、しっかりレッスンやるで」

私は、若さとはこういうことか、と驚愕していた。
いつもなら、いったん息が切れると、しばらくは戻らなかったのに、少しのインター
バルで、すぐに体力が戻ってしまうのだ。
(うっわー。この身体、気に入ったわ)
面白いほど、今日のレッスンは進んだ。

みんなはへばっていたが、もう一人、絶好調がいた。
ごっちんだ。
(早朝の、ウチへの訪問は、一体何やったんかなあ)
なんか、表情が生き生きしている。横顔を見ていると、こっちが少しポーッ、となる。
まるで……なんかジャニーズの若手と合同練習してるみたいだ。

他のメンバーも、なんかごっちんをチラチラ見て、落ち着かない感じだ。
なんやろな、あれ。
あんまり度を越すと、回りに悪影響与えかねんな。
休憩時間中に、まだ鏡の前で繰り返し練習しているごっちんに、探りを入れてみること
にした。

「おっ、ごっちん、いつもと違って、やる気あるやん」
ごっちんに近寄ると、不思議な印象は強まった。なんか、足下が浮き立つような感じだ。
ごっちんの汗の匂いは、官能的でさえあった。
「辻さあ、あんた、なんかおかしくない?」
「え? そんなことあらへ──(ゴホン)そんなことないよ。普通や普通」
逆に、こっちに探りを入れられた。
マズいな。今日のごっちんは妙や。なんか、引き込まれそうや。

「ふーん、まあいいや。ねえ、辻。今朝のことだけど、裕ちゃん、やっぱ様子おかしい
よね」

やばい、他のメンバーが、ウチらの会話に聞き耳たててるわ。これは、ちょっと釘さし
とこか。
「全然おかしくないない。……ごっちん、ちょっとこっち来」

廊下に連れ出した。

「ごっちん、ヘンなこといわないでよね。みんながふしんにおもうから」
ごっちんは、目を細めて、私を見た。
「なにを、隠してんの」

ははは、するどいな。
いつもの手で、ごまかしてしまえ。

「ちょっとみみかして」
「なに?」
ごっちんをかがませる。
「んっ」
すばやく、キッスを奪う。わはは……あれ?
くらくらと、目眩がした。
(なんやこれ……ごっちん、男っぽいなって思うてたけど……)
この、唇の懐かしい感触。
(こいつ、男やで)
ごっちんは、慌てて私を突き放そうとした。
ううん、もう少しぃ。
がしっ、とごっちんの頭にぶら下がる。
「……」
「……」
久々の体験を、つい楽しんでしまった。
(はああ)
心の中で、ため息をつく。エエもん頂いたわ。
確証はないけど、なんとなく、ごっちんの身の上になにが起こったのか分かった。
ゴメンな、ごっちん。今は、力になられへんわ。いつもの裕ちゃんやったら、しっかり
協力したげるねんけど。
(まずは、下半身チェックからやけどな)

「あんまし追求しないほうがいいよ。そのほうが、ごっちんの身のためだから」
にっこり笑って、きびすをかえす。

「裕ちゃん、待ってよ」
「なんやねん。ごっちん、しつこいで」

イライラを装って、振り返る。

「私、裕ちゃん、って呼んだんだけど」
がーん。こんな単純なトリックにいいっ!
「えっ……わたしはののちゃんだよ、てへへっ」
ラヴリーなポーズで返事する。
「可愛くない」
ううっ。

こうなったら仕方ない。実力行使や。

油断しているごっちんの胸ぐらをつかみ、ぐいと引き寄せる。

「まあええわ。そうや、私は裕子姉さんや。話が混乱するから、ごっちんは黙っといて
や。私らは私らでなんとかするから。ええな」
最初からこうすれば良かったんや。
ごっちんはガクガクとうなづいた。

やぐっちゃんが、扉の隙間から、こっちをうかがっている。早々に退散だ。
「じゃあねえ、ごっちん」
視界のすみに、ごっちんに駆け寄るやぐっちゃんの姿が見えた。

休憩時間は、あと5分くらいしかない。
私は、平家のみっちゃんに今回のことを相談しようと、ミッフィーのサイフを手に、
公衆電話に向かった。
途中で、
(あれ……またごっちんやな。おーおー、やぐっちゃんに、連れ出されてるやんか。
……楽屋に入ったか)
若い人は、いろいろと活発だこと、とか思いながら、みっちゃんの携帯に電話をかけた。

ピピポパピピ。
「もしもし、みっちゃんか」
『……あんた、誰や?』
「なんや、愛しい人の声、忘れてもうたんか」
ツーッ、ツーッ、ツーッ。
あ、切りやがった。

リダイヤルだ。
「コラぁ、みっちゃん、どういうつもりやねん」
ツーッ、ツーッ、ツーッ。
あ……だんだん、ムカついてきたで。

リダイヤル、と。
『いい加減に――』
「あの、もしもし、わたし、つじのぞみです。へいけさんですか?」
『……あれ、ののちゃん? どうしたの?』
「こらあっ、昨日はドタキャン、今日はガチャ切りかいっ、ウチもいいかげんキレるで!」
『裕ちゃん?』
「ええから、今日こそはちゃんとウチの部屋に来るんやで。だーいじなお話があるさ
かいな」
『ののちゃんなの?』
ガチャ。
今度は、こっちから切ってやった。ざまあみろ。
なんか、本来の目的と違ってきたような気もするけどな。

スタジオに戻ると、紗耶香が落ち着かなげに、そわそわしていた。
前から思ってたけど、紗耶香とごっちんってなんかあやしいよなあ。
よーし、ちょっと確かめたろ。
「おーい、紗耶香ぁ」
「え……どうしたの、ののちゃん」
戸惑ったような、紗耶香の表情。
「ごっちんな、やぐっちゃんと2人っきりで、楽屋に入っていったで。なんやろな、
あの2人」
一瞬、本当に一瞬だが、こっちも思わず引いてしまうくらい、紗耶香は、別人のような
恐ろしい顔をした。

「ふ、ふーん。そうなんだ。ホント、なんだろうね」
紗耶香は、瞬時に笑顔に戻し、しかし、とたんに挙動不審になった。
私が、汗かいちゃった、とか言いながら、背を向けてタオルを取るフリをしているうち
に、紗耶香はダッシュでスタジオを出ていった。
こっわいなあ。あれ、マジやな。
ウチ、知らへんで。

「そもそもや。みっちゃんが、昨日、ドタキャンせえへんかったらやな」
「そんなん、ウチが裕ちゃんと入れ替わってたかも知らへんやんか。一気に7才も
年取りたーないで」
「うわっ、ひどいな。モーニング娘。になれる、最後のチャンスやったかも知れへ
んねんで」

レッスンが終わってから夜遅く、みっちゃんは、部屋を訪ねて来てくれた。2人の様子
を見て、すぐに事情を悟ってくれたようだ。
持つべきものは、親友やでやっぱり。
「親友ちゃう、っちゅーねん。クサれ縁なだけやで」
しっかしなあ、とビデオを見ながら、振り付けの特訓をしている中澤(辻)を見やった。
そして、ビールを飲んでいるウチを見る。

「こうやって、枝豆食べながら関西弁しゃべるののちゃんってすっごい違和感やな。
あんた、もしかして、昼間もそれで通してへんやろな?」
あ、と私は目を見開いた。
やっぱりな、とみっちゃんはため息を漏らした。

「とりあえず」
みっちゃんは、言う。
「明日、ありったけの酒持ってくるわ。それ2人で飲んで、昨日と同じ状況作ってみ。
上手くいけば、それで戻るかも知れへん」
「うん、みっちゃん頼むわ」
「で、お礼は何をいただこーかなあ」
「お礼か……辻、ちょっと休憩や。こっち、来」
ふう、と息をついで、辻はテーブルセットのところへ走ってきた。当然だけど、まだ
まだヘタっぴだ。これでは、明日の練習にも参加させられない。
「うーん、まだまだやな」
「ごめんなさい。もっとがんばります」
顔を伏せ気味に、しゅん、とした表情で、ぺこりと頭を下げる。
おお、とみっちゃんは声を出した。
これ、と、中澤の身体(ややこしいな)を指さして、メッチャかわいいやん、と言った。

「そやろ。これからな、みっちゃんに、お礼したって欲しいねん。ちょっと我慢して
たら、すぐ終わるから」
「ええんか、これ?」
「好きにしてや」
「ええと、わたしは、なにをするんですか?」
きょとん、とした表情の中澤。

「ウチとみっちゃんはな、お互いの身体の火照りをなぐさめあう、ライトで大人の
関係やねん。じゃあ頼むで」
くくくくっ、と笑いをこらえながら言う。
みっちゃんも、話を合わせてくれた。
「そやで。覚悟決めや」
みっちゃんは、私に(いや、中澤の身体に)抱きついた。
「ええっ、こんなのヤですっ」
「騒いでも、誰も助けにこえへんでぇ」
怯えた目で、みっちゃんを見上げる中澤。すでに、押し倒されてしまっている。
なんや簡単やな。

「へいけさん、やめて、やめてくださいっ」
「うおお、これ、めっちゃ興奮するやん」
「ほどほどにしたってや」
顔を固定され、みっちゃんの唇が迫る。
んん〜、と必死で逃れようとする中澤(辻)。

私の身体が、みっちゃんに襲われる光景を横から見てて、実は、少し妙な気分になった。

ついに、辻は泣き出した。
ウチら2人は、大笑いした。
「冗談、冗談や。辻〜、マジやな〜」
ベッドにへたり込んで、しくしく泣いているウチの姿。
「なんかそそる光景やな」
「なら、ウチと続きやるか?」
唇を突き出して、みっちゃんを誘う。
みっちゃんは、私を見下ろして、
「それ、犯罪やん」
ぼそりとつぶやいた。

辻の歌とダンス特訓は、深夜にまで及んだ。
「ほら〜、恥かくのはウチやからなあ。へばってたら、みっちゃんけしかけるでえ」
「ウチは、猛獣かい」
辻は、よほどイヤだったらしい。
特訓が終わる頃には、まあ、まだ体調不良だから、とごまかせるくらいには技術が
向上していた。


【2日目:お風呂♪】

深夜までの特訓のせいで、2人とも寝坊してしまった。
ホテルからタクシーを呼んで、遅れてダンススタジオに入った。

「あっ、裕ちゃんだー」
なっちが声をあげた。
「裕ちゃん、もう大丈夫なの?」
「無理しないでよね」
みんなが一斉に中澤(辻)を囲む。うーん、やっぱ裕ちゃんは人気者やで。

「しんぱいかけてごめんなさい。きょうは、いっしょうけんめいやります」
中澤(辻)は、生真面目な表情で舌っ足らずに言った。みんなが、おおう、とうなった。
その場しのぎでは、言葉遣いと立ち居振る舞いだけはどうしようもないんだよなあ。
メンバーたちは、口々に、
「まだ大丈夫じゃないじゃん」
「明らかにおかしいよ」
とか言ってた。

レッスンに入ったが、やはり、どうしても中澤(辻)は遅れてしまう。そのせいで、
何度も途中でストップが入った。
夏先生もイライラし始めた。

「なあ、中澤。体調不良なのはしょうがない。でも、明らかに振り覚えてないだろう。
どうしたんだよ一体」

みなも、なんとなく不審に思っているようだ。どんな難しい振りも、とりあえずこな
してしまうスーパー裕ちゃんがなんで? って感じか。

「ごめんなさい。みんなにめいわくかけて、ほんとうに、ごめんなさい」
なんと、中澤(辻)は、目に涙を一杯に浮かべて、みんなに何度も頭を下げ始めた。
「ちょ、ちょっと、そういう意味じゃなくて」
夏先生の方が慌てた。
「そうだよ、裕ちゃんは悪くないよ」
「一生懸命やってるんだもん。分かるよ」
「こんな時は、私たちでフォローしてあげないと」
なんか、ケナゲな裕ちゃんて、我ながらカワイイよな。

「ごめんなさい。ごめんなさい」
泣きながらずっと謝り続ける中澤(辻)に、みんながそんなことない、大丈夫、と
なだめ始めた。
「夏先生、これから自習にします」
圭織が宣言した。
夏先生は、まさか中澤が泣き出す、とは思わなかったのだろう、まだ動揺が残っている
のか、ああ、とかうん、とか言って、圭織の提案を認めてしまった。

「慌てなくていいよ。一歩ずつ、そう、そう」
「あ、そこで視線をこっちにするんだよ」
「大丈夫、ゆっくり、ゆっくりね」
小一時間、手取り足取りでステップの練習をしていた。
私と後藤は(ヤレヤレ)という視線を交わし合った。
「ほら、出来たじゃん。ちゃんと形になってるよ」
なっちが大げさに誉める。

中澤(辻)は、涙ぐんだ。
「どうしたの? まだ不安なの?」
「ううん。モーニング娘。ってあったかいなあって。わたし、むすめにはいれて、
よかった、ほんとうによかったっておもって」

とうとう、わーん、と泣き出した。
なっちが中澤(辻)を胸に抱き寄せて、よしよし、と頭を撫でた。
圭織ややぐっちゃんなんか、もらい泣きし始めた。
なんだこの集団。

今日のダンスレッスンは、こうして涙と感動のうちに幕を閉じた。

ふと、思う。
つんくさんは、辻を新メンバーに選ぶとき『場の雰囲気を一瞬にして変えてしまう
才能がある』って言っていた。
今の娘。たちを見ていると、辻の独自の素質を認めざるを得ないし、また、自分の立場
が危うくなるのを感じた。

ホテルに戻った。もう夜の10時を回っている。
ホテルについてすぐ、みっちゃんに連絡を入れた。少し遅れて、酒を持って来てくれる
ことになった。

ドアがノックされる。
「裕ちゃん、本当に身体大丈夫?」
うわわ、圭坊や。

(おい辻。圭坊追い払え)
「やすださん、ごめんなさい。きょうはダメです」
「え? どうしたのよ。とりあえず、中に入れてよ」

中澤(辻)が、こっちを見る。
(ダメなもんはダメだって言え)
「うるさい、ダメっ」

圭ちゃんは「なんだよーむかつくー」とか言いながら、去っていった。すまんな、圭坊。

「裕ちゃーん、今帰ったでー」
「なんでやねん」
大きなビニール袋を両手に、みっちゃんがウチの部屋に来た。
「ほーら、酒がてんこ盛りや。ホンマ、重かったで」
ガチャガチャと、ワインやら洋酒やらをテーブルに並べた。
「じゃ、ま、とりあえず乾杯やな」
「乾杯」
「かんぱーい」
3人で、一斉に酒を空け始めた。

「今日の裕ちゃんは、静かやな。色っぽい飲み方やで」
「そうですか?」
頬をほんのりと染めて、コップを両手に持って、首を傾げる中澤(辻)。
「こっちやこっち、色っぽい裕ちゃんは、ウチです」
「あんたは口うるさいガキや」
ちっ。
舌打ちして、手酌で日本酒を飲む。

みっちゃんは、辻モードの中澤をえらく気に入ってしまったようだ。
「な、な、今度こそ、ちょっとチューさせてや」
「ちょっとらけ、ですよお」
けらけらと無防備に笑う。
「こら、辻を酔わせてなにさすねん」
「可愛いわあ、ホンマ、裕ちゃん、こんなに可愛かってんなあ」
「エヘヘヘ」
しかし、無邪気な中澤は、我ながらマジで可愛い。
こいつ襲っても、身体は裕ちゃんやから、問題ないんちゃうか、とか思ってしまった。

いつの間にか、眠ってしまっていた。
ガンガン痛む頭を押さえて、時計を見る。まだ午前2時だった。

がばっ、とタオルケットをはね除けて、姿見に走った。鏡の中には――辻がいた。

(うーん、失敗やったか。まあ、そんな簡単にいくとは思わんかったけどな)

ふと、不安になった。
もし、ここで、私を置き去りに、みっちゃんと辻の2人だけで入れ替わったりして
しまっていたら……。

なんや、面白いかも知らへんけどな。
「おーい、みっちゃーん、つじーぃ」
「ふぁあ、なんや、もう朝か」
「ねむいです」
……。
ふう。大丈夫や。

「入れ替わってないみたいやな」
「……」
みっちゃんは、私の顔をじーっ、と見て、わああっ、と大声をあげた。
「そうやんか。なにウチまで危ない橋渡らしてんねん。こんなオソロシイ儀式に知らん
間に参加させられて――3人シャッフルになったら、それこそたまらんわ」
みっちゃんは、自分の荷物をまとめて、お疲れでしたー、と帰っていってしまった。

騒がしいみっちゃんが居なくなると、部屋ががらん、と広くなったような気がした。
「あー」
辻と2人きりで、飲み直す気にもなれない。

「すっかり身体、冷えてしもたわ」
ぶるっ、と身体を震わせる。
そういえば、このホテルには、露天風呂がある、って聞いたな。
「よし、辻、風呂行こか」
「はい」
(ちょうどエエ機会や。12才の幼い肉体をじっくり鑑賞しよか)
浴衣とタオルを持って、大浴場へと向かった。

「うっわー」
若い身体というのは、驚異の連続だ。
「めっちゃロリロリやんか」
でっかい鏡の前で、全裸の12才をしげしげと眺めた。
柔らかそうな極上の肌、ふくらみ始めた胸、まだくびれきっていないウエスト……
鏡の前で、妙に落ち込んだ。

(ウチにもこんな時期があったんやろか……まあ、あってんやろうなあ)

はう、とため息をつく。
今となっては、遠い記憶の彼方である。

「もうええわ、なんかテンション落ちたわ。辻、行こか」
振り返ると、中澤(辻)が、しくしくと泣いていた。
「な、なんや、どうしてん」
中澤(辻)は、鏡を指さし、怖い、と言った。

「怖いっ! 怖いてか」
中澤(辻)に歩み寄り、下から自分のヌードを仰ぎ見る。
「その裕ちゃんのカラダが怖いて言うか?」
この辺りがキモチワルイ、と股間を指さした。
つられて、元々は自分のソレをモロに見てしまった。
(気持ち悪いて……、まあ見慣れんかったらそーゆー意見もアリかも知らへんけどな)
確かに、ついこの前まで12才だった辻が、いきなり20代後半の身体を押しつけら
れたらショックかも知れないが……って、そんなにウチの身体はヒドいか?

「あんたのもそのうちボーボーになるねんで」
「そんなことにはならないです」
中澤(辻)は泣き続けた。こいつ、ひそかに毒舌やな。

中澤(辻)を促して、湯船に向かう。

「失礼やなー。それが大人の女やっちゅーねん」
「だって、だって……」

ガラガラガラガラ。

ざぶん、と何かが湯に勢い良く飛び込むような音が聞こえた。

(うわ、誰かおるやん)

一瞬、ひるんだ。しかし、良く見ると、紗耶香とごっちん、2人だけのようだった。

(……ごっちん、大活躍やな)

ごっちんが、どうもオトコっぽくなってきていることには気づいていた。しかし、
一緒にお風呂とは、紗耶香も積極的だ。
もし、ごっちんの下もオトコやったら、混浴やんか。間違いのモトやで。

私の背後で、中澤(辻)はオロオロしていた。
先に、辻の真似をして、話しかけた。
「ごとうさん、いちいさん、こんばんは」
すでにバレているごっちんの前以外では、ちゃんと辻言葉で話すように心がけているのだ。

「裕ちゃん、こんな時間にどうしたの?」
紗耶香が、私の後ろに立っている中澤(辻)に話しかけた。
「え、と……」
辻はまだ、フォローがないと、それらしくはしゃべれない。適当なアドリブも入れら
れない。
仕方ないんで、続けて私が言う。

「なかざわさんの、ダンスのれっすんをしてたの。あせかいたから、オフロにきたの」
「ふーん、裕ちゃん、体調悪いって聞いたけど、お風呂に入って大丈夫なの?」
あんまりいろいろ聞かれると、中澤(辻)が焦ってとんでもないことを口走るかも知れな
い。なんとかして、話をそらさねば。
紗耶香の顔色をよーく観察する。

紗耶香は、なにかをごまかそうとしている。
横目でごっちんを見たり、もぞもぞとお湯の中で腰を動かしたり。

(紗耶香とごっちんの2人の間の微妙な空気……)

もしかして、娘。同士で、コトの真っ最中だった、とかかあ?

よーし、ならば、その辺りを遠回しに攻めてみよう。

「ごとうさん、またチューしようね〜」

紗耶香は、すぐに食いついてきた。

「ののちゃん、後藤がなにって?」
「おひるにチューされたの。おくちの中、ベロでれろれろって」

ごっちんが真っ青になって、
「レロレロしてきたのは、そっちじゃんかッ!」
叫んだ。
わははは、まだまだ若いのう。

紗耶香は、何事かを小声でごっちんに囁き、
「片っ端から娘。たちに手を出さないと気が済まないのッ?」
叫んで、いきなりごっちんにビンタを炸裂させた。
そのまま、紗耶香は大浴場を出ていった。

なんや、ごっちん、やっぱそうやったんかいな。
天罰やな、これは。

「ごとうさん、ケンカさせちゃってごめんね」

中澤(辻)が、自分たちが来たせいで、ケンカになってしまった、とでも思ったのか、
しょんぼりと言った。

ええねんええねん。辻、これは自業自得、ってヤツや。
「なんや、メンバー間でのいざこざは避けてもらわんとなあ。頼むでホンマに」
湯船のふちに座る。ニヤニヤ笑いながら、ごっちんに言った。
ごっちんは、悔しそうに、紗耶香の出ていったあとの入り口を見ていた。そして、ウチ
らを振り向きもせず、風呂場を出ていった。

(ごっちんの……見えてしもうたやんか)

さすがに、百戦錬磨の裕子姉さんも、ちょっと赤面ものだった。

「さ〜て、、邪魔ものはいなくなったし、貸し切りやな」
温泉につかり、うーん、と伸びをする。
中澤(辻)は、深刻な表情のまま、立ち尽くしていた。

「わたし、これからどうなるんですか?」
「さあなあ……あえて言えば、二つの可能性があるな」
「なんですか?」

「元に戻るか、戻らへんかの二つや」

「……もとに、もどらないかもですか」

あらら、冗談に乗ってこえへんな。
マジに受け止めてるで。

「ま、そやな。そうなったら、辻が、娘。のリーダーとして、頑張ってもらわんとな」

中澤(辻)は、じっと考え込んでいる。
「わたしは、みんなにめいわくかけました。リーダーはできないです」

そうかなあ、と思う。
昔、まだ娘。たちが素人同然だったころ、私がリーダーとして、厳しく引っ張って
いかなければどうしようもなかった。
でも今は、人気も出たし、プロ意識も育っている。

昼間の光景を思い出すと、私よりも辻の方がうまくやれるんじゃないか、って思ってきた。
今は、癒し系のリーダーこそが必要なのかも知れない。

中澤(辻)は、くしゅん、と小さくくしゃみをした。

「まあええやん。風邪引くで。はよ、入り」

2人で、空を見ながら、お湯につかった。

「なかざわさんのせいです」

拗ねた口調で、中澤(辻)は言う。

「えっちなことさせたり、いっぱいなかせたり……なかざわさん、せきにんとって
ください」

今日一日の気疲れと、まだ残っている酒と、身体が暖まってきたのとで、だんだん眠くなってきた。

「ま、人生、なにごとも経験や」

星が綺麗だった。


【3日目:中澤の憂鬱】

今日のダンスレッスンは、午前中までだった。
昼からは、テレビの収録や雑誌の取材の予定が、ぎっしり入っているのだ。

移動中の車内。
相変わらず、ごっちんには不思議なオーラが漂っている。
こうして、端から人間関係を見てると、妙にオモシロイ。

「あ、あのさあ、ごっちん、ジュース飲んだりする?」
「うん、ありがと。こらあ、やぐっちゃんッ」
「間接キスいただき」
「真里っぺばっかズルいよ。席譲りなよ」

(にぎやかなこってすなあ)

ときおり、ごっちんがチラチラと横顔を盗み見ているのは、ぽつん、と離れて、窓の
外を見ている紗耶香だ。こっちは、怒りのオーラが発散されていて、誰も近づけない。

(ごっちんの本命は、紗耶香、か)

「なあなあ、辻はあのごっちん見て、なんも感じひんか?」
一番後ろで、並んで座っている中澤(辻)にヒソヒソと話しかける。
中澤(辻)は、全身がひどい筋肉痛で、サロンパスの匂いをプンプンさせている。
こいつ、いつもの自分の調子で走り回ってたからな。

「……なんか、らんぼうでこわいです」

ドカっ、と座ったり、わさわさとご飯をかっこんだりする仕草がどうも怖いらしい。
しっかし、中澤の顔で、こんなことを話してるのってすっごい可笑しいんですけど。
今日のテレビ収録、マジで大丈夫なんかあ。

雑誌のスチール撮影や、インタビューは無難にこなせた。黙ってればいいからね。
そして、一番心配な、あの番組の収録が始まった。

「はーい、本日のゲストはモーニング娘。さんでーす」

今日は、新人4人がトークのメインだ。
だけど、ちゃんと笑いがとれる圭織や私(中澤ね)にはときおり、タカさんや中居くん
が話を振ってくる。

最初に、違和感に気付いたのは、タカさんだった。
さすがに、嗅覚がスルドい。

「おい、中澤ぁ。ちょっと前に来いよ」
中澤(辻)は、イヤイヤ、と首を振って、わたしはここでがんばります。まえに出なく
ていいです、ごめんなさい、と気弱に言った。

私は、にが笑いするしかなかった。
(なんかもう、キャラが違いすぎて、フォロー入れる気にもならんわ。好きにやって、
って感じや)

「いいですじゃねえだろう。今、本番収録中なんだよ、早く来いよ」
中居クンのかん高い声。
中澤(辻)は、すでに半泣きだ。
タカさんに怯えながら、
「ほらぁ、オレの横だよぉ」
タカさん風の甘い声モードで、おいでおいでする。

両腕をねじり合わせながら、なるべく離れるように、イスにちょこん、と座る。
「おい、中澤ぁ、なんか可愛いじゃねえか」
タカさんの手が、中澤(辻)の腕を撫でる。
「いやぁっ」
目をぎゅっ、と閉じて叫ぶ中澤(辻)。
「うおお、燃えるぜ」
よだれを拭き取る仕草をするタカさん。

「ちょっとぉ、裕ちゃんいじめないでください」
「ジョンソンは黙ってろ」
その大声も怖いらしい。中澤(辻)は、びくっ、と全身を震わせる。
大丈夫、怖くないからね、と隣りに座っている石川になだめられている始末だ。

「ん、ん? 今日はどうして、裕ちゃんはそんなにカワイイのかな?」
タカさんは、口をすぼめて、中澤(辻)に迫る。
ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるして下さい、と、とうとう涙をこぼし始める中澤
(辻)。
タカさんは、中澤が普通の状態じゃない、と察したようだ。ちょっとマジメな顔で、
ウソだよ、いじめたりしないぜ、だってオレ、中澤好きだモン、と中澤(辻)の頭を
撫でた。
中澤(辻)は、まだ赤い目をして、タカさんを見上げて、気丈に、てへへっ、って感じ
で子犬みたいに笑った。

中居くんも微妙な空気に気付いたようだ。
「おいおい〜、今日は中澤、好感度アップじゃんかよ〜」
と、チャチャを入れる。

収録は、一端休憩となった。

「今日の裕ちゃん、どうしたのよ。きゅん、ってなっちゃったよ」
「カワイイなあ〜。こんな中澤なら、全然オッケー」
タカさんと中居くん。大人の男2人に囲まれて、中澤(辻)はおどおどしている。
辻モードの中澤がここまで好評なのにはちょいムカつくげと、まあこのまま置いと
いてもしゃーないしな。助けたるか。

タカさん、中居くんの間に割って入る。

「あらあらあら、辻ちゃんじゃん」
「どちたの? 迷子?」
「はいはい、ちょっとスイマセンね。これから、娘。で軽くミーティングやります
んで、失礼しますよ」
笑顔で2人に挨拶して、中澤(辻)をうながす。
「ほら、はよ行くで」
「はい」

端から見ると、最年少の辻に手を引かれて歩く、リーダー中澤の図だ。
「なんだありゃ」
「なんでしょーねえ」
2人の交わす会話を背中で聞いた。

「つじぃ〜、本番で、それも普通のトークで泣くなよなあ」
「……ごめんなさい」
「あのな、司会の2人、あれは演技でイジワルやったりしてんねんから、本気にとった
らアカンよ」
「はい」
一応、辻にダメだししといた。どこまで理解出来てるかは謎だが。

「ふう、お疲れさま〜」
「あれ、裕ちゃんとののちゃん、ここにいたの」

未だにトークを本気にとっている2人、圭織とやぐっちゃんが戻ってきた。

「ふう、あっついなあ。ちょっと、そこの水取ってんか」
「はい」
中澤(辻)から、ミネラルウォーターを受け取る。

妙な空気に気付いて、

(あっ、しもた)

「裕ちゃん、ののちゃんのパシリなの?」
「辻。ちょっとこっちおいで」
圭織に呼ばれた。しまった、いつものノリで、中澤(辻)を使ってしまった。

「あのさあ、裕ちゃんは、ウチらのリーダーなんだよ。辻は一番、下なんだからさ。
それなのになんだよ、その態度。ここで反省10回しな」

うっ。圭織に指導されるとメッチャむかつく。
それになんだ? 反省10回って。

ぶすーっ、と圭織を睨む。
「そんなダルいこと、やっとられんわ」
思うだけのつもりが、つい声に出た。

「なんだよ、その反抗的な態度。裕ちゃん、裕ちゃんからも叱ってやってよ」

裕ちゃんは、私の前に引き出されて、不安げに私を見た。
(まあええわ。あんまし怪しまれてもナンやし。ここはちゃんと怒るシーンも彼女らに
見せたらな、な)
ええぞ、ヤレ、と目で中澤(辻)に合図する。

「わたしも、いっぱいがんばってるのに、なんで、そんなこというのっ。ダメです」
なんか、怒る仕草まで可愛い。

「めっ」
頭をグーで叩かれた。打ち下ろしの右。ゴツン、と音がした。うっ、と唸った。目から
火花が出た。
こいつ、加減を知らん。大人の力で子どもを殴るとは。
しばらく、しゃがみ込んで、立てなかった。

その、可愛い言動と過激な行動のギャップに、圭織はビックリしたのか、
「裕ちゃん、怒りかた、おかしいよ」
私の存在をすでに忘れて、固まっていた。

(くそ、かわいいは取り消しや)

その後、歌の収録は、連日の特訓のお陰で無難に終わった。まだまだ甘いけどな。
まったく、今日の中澤(辻)は、いろんな意味で大活躍だった。

夜。
ここ2日ほど、ずっと2人で一つの部屋を使っている。
今日は疲れたんで、とっとと寝ようと思っていたのだが、筋肉疲労の取れない中澤
(辻)の、マッサージをすることになってしまった。
(なんでウチがこないなことを……って自分の身体やねんけどな)
おんなじように動いて、それでいて、こうしてダウンしている自分の姿を見ていると、
歳は取りたくないねえ、とか思ってしまう。

いっそ、このままでいられたら、

その考えを、ぶんぶんと振り払う。
辻も、きっと元に戻りたがっているはずなのだ。

「どや、このマッサージは効くやろ」
「はい。ありがとうございます」
「エエねんエエねん。気にしなや。リーダー役、疲れるやろ。ごくろうさんやで」

中澤(辻)は笑顔を作って、

「だんだん、できるようになりました。みんなやさしいし、がんばります」

(素直な子やなあ。そりゃあ、裕ちゃんの好感度も上がる、っちゅーもんや)

「わたし、きょう、もうずっとこのままでもいいんじゃないか、っておもいました」

おお、てへてへ笑ってるだけかと思ったら、そうやって未来のことを考えたりも
してたのか。

回りから愛されて育つと、こういう真っ直ぐな性格に育っていくのかなあ、と羨ましく
思う。
(ウチには出けん芸当やで)

昨日も、同じことを考えた。
メンバーたちに、プロの自覚は、出来ている。
だから、昔のやり方で、リーダーシップをとらなくても良くなってきているのかも知れ
ない。

それぞれが独自の方法で向上を図っていくグループに必要なのは、やっぱり、辻みたい
なリーダーなのかな。

(でも、ウチはそんなキャラやないし、いまさら性格は変えられへん)
なんだか、元に戻るのが怖くなってきた。
(ウチは、もう娘。には必要ないんやろか)

辻の姿でいる間は、まだ娘。のメンバーとして、居場所はあるのだろうけど。
なんだか、元に戻るのが怖くなってきた。
メンバーは、元の怖い裕ちゃんに戻ってしまった、と落胆してしまうのだろうか。
これまでが良かった分、嫌われてしまうかも知れない。
いつもなら、寝酒をやるのだが、今は、戻ってしまうのが怖くて、飲む気にもなれ
なかった。

「ん? 辻? 寝たんか……」

寝息を立て始めた中澤(辻)に、毛布をかけてやる。

私は部屋をそーっ、と抜け出して、みっちゃんに電話をかけた。
夜遅くまで、みっちゃんは私の弱音を聞いてくれた。


【4日目:活劇(前編)】

「……寒っ」
明け方、肌寒くて、目が覚めた。
中澤(辻)の身体に、ぴたっ、と寄り添う。
(お〜、裕ちゃんの身体は、あったかいなあ)
くっついていると、ポカポカだ。

なんか、呼吸が浅い。
顔を見上げると、びっしょりと汗をかいている。部屋の中は結構寒いのに、妙な話だ。
(って待てよオイ)

額に手を当てる。これは、ポカポカじゃなくて、熱を出している。
「おい、辻。しんどいんか? しっかりせえ」
中澤(辻)は、薄目を開けて、

「……あたまいたいです」
辛そうに言った。

マネージャーに連絡して、医者の手配をしてもらった。
汗を拭いたり、頭をタオルで冷やしたりしながら、待った。
(ここしばらく、無理させたからな)
ほどなく、医者が来た。診察をすませ、
「過度の疲労による発熱ですね」
そういわれた。

注射を打ってもらって(すごくイヤがっていたが)、にがい薬を無理やり飲ませた。
中澤(辻)は、ぐったりとベッドに横になった。

「今日一日は安静にしてくださいね」
「こんな朝はようから、ありがとうございましたぁ」

医者は「しっかりした女の子だね」と私の頭を撫でて出ていった。
「あとの面倒はウチが見るから、もう少し寝とき。朝食のあとは、ウチはレッスン
あるさかい、そっから代わってもらうわ」とマネージャーも追っ払った。

「おい、辻。なんか欲しいのないか?」
「リンゴジュース」
「よっしゃ、待っとりや」
ジュースの自動販売機に走る。

「ほら、辻。リンゴジュースやで」
部屋に戻ると、中澤(辻)は、すやすやと寝息を立てていた。
(おっと、寝たんか)
テーブルの上に、リンゴジュースを置いて、中澤(辻)の顔を覗き見る。
(うん、もうしんどそうやないな)

うっすらと開いた唇を見ていると、妙な好奇心がわきあがってきた。

(自分にキスするのって、どんな気分やろな)

キス魔の通り名を持つ私だ。いろんな唇に興味がある。しかし、その興味の最たるは、
やはり自分の唇だ。
(ウチの唇は、みんなにどんな感触を与えてるんやろな)
一度疑問に思ったら、もう試さずにはいられない。

ベッドのわきに両肘をついて、背伸びして、中澤の唇に顔を寄せる。

(禁断の世界やな)

心臓が、限りなく激しく、ドキドキいっている。

(この、なんかムズがゆくて、息苦しい感じ──十代の頃の、恋愛のイメージやな)
12才の肉体に合わせた精神構造に代わりつつあるのだろうか。

(そんじゃま、初経験といきますか)

……。

自分の唇は、あまり気持ちよくなかった。
こんなもんかいな、って感じだ。

だが、この目眩のするような気持ちはなんだ一体。
(ときめいてるやん、ウチ)
ただのキスが、十代の頃は、こんなに大事なモンやってんなあ。全然関係ないけど、
ファーストキス奪った紗耶香には悪いことしたかな。

あー、まだ頭痛いわ。
なんか、全身も寒気するし。ってこれってハマりすぎちゃうん。

ベッドのそばに立っている辻に、
「ああ、辻起きたんか。リンゴジュース買ってきてるさかい、ぬるならんうちに飲みや」
伸ばした爪で肌をひっかけないよう注意して、額の汗をぬぐう。

「あの……なかざわさん」
「ん、なんや。少しは楽になったんか?」
辻は、戸惑ったように口を逆への字にして、私を上目遣いに見る。

(……なんでウチがベッドに寝てるん)

あれ、と思った。
いつもの身体と違う。なんだがけだるいのは、疲労のせいか。
焦ってベッドを降りて、くらくら目眩がした。
(うっわー、これって……)

壁づたいに、鏡の前に立つ。
がっくり来た。

「うう……裕ちゃんだねえ……」

鏡に映った、中澤の姿。
(元に、戻った)
最初は、あれほど望んだはずなのに、どうして、こんなに気落ちするんだろうか。

「畜生〜〜、歳は取りたくねえぞぉ」

なんて身体が重いんだ。昨日とは大違いだ。

頭痛と耳鳴りも加わって、不快感マックス状態だった。
辻は、時間が来て、ダンスレッスンに向かわせた。
私は1人で、うんうん唸っていた。トイレに行くのも一苦労である。

『はいはい、どちらさまで』
「裕ちゃんや。みっちゃん、元気か」
マネージャーにPHSをベッドに持ってきてもらった。
『……ヘンやな』
「ヘンやろ。戻ってもーたからな」
『うっそお』

「ウソやあらへん。もうこれで、裕ちゃんは娘。お払い箱やねん」
『なにいうてんねんな。昨日、これからも頑張るっちゅーてたやんか』
「みっちゃん、看病に来てくれえ。淋しゅうて、死にそうや」
『こっちも仕事があるねんで。そんなホイホイ行けるかいな』
「じゃあ、今、死んでやるさかいな」
『相手してられんわ。もう切るで』

……切られた。
分かってはいるんだけどねえ。昼間からいきなり呼び出したって、そんなの無理だって
ことくらい。
最近、夜遅くまで何度も付き合わせたし、結構、スケジュール的に無理させただろう、
ってことも分かる。

「あ〜、さみしいなあ」

これからどうしようか。
一度、失った自信は、なかなか戻らない。
今は、熱があって、寝ているから平気だけど、明日には、メンバーたちの中に戻って
いかなければならないだろう。
それが、怖い。
私は、ベッドの中で、午前中、いろんなことを考えていた。

「なかざわさん、なかざわさんっ」
辻が、部屋に飛び込んできた。
「おお、辻やんか。1人で心細かったで。なんや、心配で見にきてくれたんか? ん?
 ん?」

「いちいさんが、つれさられました」
なにゆうてんねん辻。新しい冗談のたぐいか?
すまんな、若い子の世界は、よー理解できんねん。

「いちいさんが、車にのせられて」
うんうん。聞くだけやったら付き合ったるわ。
「わるいざっしの人って」
……この話、オチあるんか?
「あいぼんがみたって」

無言で、ベッドから降りる。
どうも、尋常ではない事態が起こったみたいだ。
とりあえず、マネージャーに相談しよう。加護も呼んで話を聞かんとな。

だけど、2、3歩も歩かないうちに、ひざから崩れた。
薬で抑えてるとはいえ、基本的に、絶対安静の身体なのだ。

でも、こんなところで、寝てる訳にはいかない。
どうする?

「辻。ちょっとこっち来てくれるかな?」
「なんですか」

辻をがばっ、と捕まえて、無理やり唇を奪った。
「辻、もう一回、身体借りるでッ」
ズバリ、入れ替わりの条件は、キスやと見た。
元々、酒が原因だと思っていたが、もしかしたらあの日、泥酔しした私を、酔った勢い
で辻がキスしてきたのかも知れない。

「ん〜〜〜」
手足をじたばたさせて、抵抗する辻。
「どうやあっ」

辻から、がばっ、と顔を上げる。
だが、腕の中にいるのは、辻のままだ。

「まだ足りんのかッ」
「いやぁ……んんんん〜〜ッ」

「はあはあはあはあ」
「ふーっ、ふーっ、ふーっ」

(なんや。なにが足りんのや)

さっきの状況を思い出してみる。
あんときは、自分にキスする、っていう、ある意味倒錯的な行為に、めっちゃドキドキ
して、

「ドキドキやあ」

どっちかが、興奮していないといけないのだ、きっと。
「辻、ドキドキしてるか?」
「してません」
「ウチにときめけ」
「……よくわかりません」

どうする? ウチがときめくか? 辻相手にか? どうせえっちゅーねん。

辻を見る。
怯えきっている。(当然か)

ううう、ウチが、辻を口説く、のか?
辻が、ちゃーんと、ドキドキ出来るように。

27才が、12才を、籠絡しろ、と。どんなレズ小説より無茶な話や。

(でも、やるしかあらへんねんやろうなあ)

辻を、せめて、男の子だと思い込むようにする。
無理が、かなりあるが。

怯えている辻を、優しく抱き締める。
「……辻。ウチの、心臓の音、聞こえるか?」

「ドキドキいってます」

「これはな、大好きな人を、抱き締めてるからやねん」

辻は、ビックリしたように、両手を口に持っていった。

「これまで、苛めてゴメンな。辻の気を引こうと思って、そしたら、失敗ばっかや。
カッコ悪いったらないな、実際」

辻は、黙って、私を見上げている。

「ウチな、恥ずかしい話やけど、辻のこと、好きやってん。いきなりヘンなこと言うてカンニンやで」

ふるふると、辻は首を振り回す。

「ウチは女やし、こんなに歳が離れてるのに、気色わるいな。……ゴメンな」

「そんなことないです。うれしいです」

「ん、ありがとう。ウソでもそう言ってくれたら、嬉しいわ。ホンマ、ゴメンな。
もう行ってエエよ。ウチ、なんか泣きそうや。こんな年上の姉さんが、辻に情けない姿、
見られたくないからな」

(行くなよ〜)

強く念じる。
こんな簡単な口説きに落ちるかどうか分からんが、これ以上は無理だ。

「わたし、いきません」
よしっ、と小さくガッツポーズ。

「行かへんのか。なら、ウチ、辻にエッチなこと、してしまいそうやで」

辻は、赤面する。でも、逃げようとする気配はない。

(12才でも、ちゃんと女の子やねんなあ)

「目、つむっとき」

お祈りするみたいに、胸の前で両手を組んで、仰向けになっている辻。なんか、本格的
なキスやなあ。すっごい、罪悪感あるわ。

辻の唇は、冷たくて、ちょっと良かった。

軽く、意識が引っ張られるような感覚。

「よっしゃあ、ビンゴや。入れ替わったで。辻、悪いな、ちょっと寝といて」

中澤(辻)は、まだうっとりとした表情で、ベッドに横たわっている。

「あれ? なかざわさん?」
「また身体借りるで〜」

扉に向き直り、茫然と立ってるみっちゃんを見つけた。

「うわわわ、みっちゃん、いつからおったん」
「最初の、愛の告白からや」

いややあ、などと叫んで、部屋を飛び出してゆく彼女、なんてことはないんやけどな、
エライもん見させてもろたわ、などとのたまいながら、みっちゃんはケラケラ笑った。

「話にはよう聞くけど、ホンマモンのレズって初めて見たわ。しかも、犯罪やし。
青少年育成条例違反やで」

憎々しげに、みっちゃんを睨む。趣味悪いで、こいつ。
が、今はそれどころではない、と思い直す。気を取り直して、
「それよりも、よう来れたな。今日は無理や思うたわ」
「愛する裕ちゃんのためやったら、自転車カッ飛ばして来るで〜」
心の中だけで、感謝することにする。

「ちょっとな、ヤバいことが起きたみたいやねん。みっちゃんも協力してや」

「なんや、オモロいことなんか?」

「ああ」

実は、辻の言っていた、雑誌とやらには心当たりがあった。

「とびっきりやで」


【4日目:活劇(後編)】

マネージャーから説明を受け、加護からも話を聞いた。
意外なことに、一番事情を把握していたのは、吉澤だった。
「よしざわさん、ちょっといいですか?」
「あ……辻さん、どうしました」
吉澤は、辻の姿の私に対して慇懃無礼な態度を崩さない。私の正体を知っているのは、
娘。の中ではごっちんだけだ。前は、普通に『ののちゃん』って呼んでいたから、
今は何かを感じ取っているみたいだ。油断のならんヤツ。

情報をまとめてみる。
後藤が一昨日、雑誌のカメラマンとモメた際の出来事を暴行事件として記事になりそう
だ、ってのが一点。
それに抗議しようとした紗耶香が、記者と一緒に、編集部に行ってしまった、ってのが、
二点目だ。

「警察に連絡しましょうか」
吉澤は、私に判断を仰いだ。
(ふむ……)
手元に二枚の名刺があった。
その一枚を、吉澤に渡す。
「わたしにかんがえがあるから、いまは、つうほうはいいです――」
あーもう、まどろっこしいな。辻演じてる場合やないな。

「ええか、吉澤。多分、その名刺の雑誌記者に間違いないと思うわ。そこな、あんまし
いい噂聞かへんところやねん。でも、な、うまいことやれば……」

ごっちんの名誉を挽回させられるかも知れない。っていうか、紗耶香とのケンカの原因
を作ってしまって、少し罪悪感を感じていたりしたのだ。これでも。

(なんで紗耶香がわざわざついて行ってしもうたか、ってのも、分かり易すぎるからな。
面倒かけさせる2人やで)
「この件は、ウチにあずけといてもらおうか」
吉澤は、神妙な表情で、頷いた。

「なんでッ」
ごっちんは、私の胸ぐらをつかんだ。
「なんで、市井ちゃんが、そんなヤツらについていくのさ」
がくがくと、揺さぶられた。
「待て、待てって。落ち着き。落ち着きって。落ち着けやあっっ」
まったくもって、こいつら、分かり易すぎる。

「裕ちゃん、警察に電話して。私、そこに行ってくる」
丁度ええわ。ここで、確かめさせてもらうわ。
「ちょっと待ち、ごっちん。女一人で、なんとか出来る問題やないで」
駆け出したごっちんは、振り返り、
「女だったらね」
小声で言った。認めたか。

部屋に戻る。
みっちゃんは、メモを取りながら、あちこちに電話をかけている。
「そっちはどうや?」
「うーん、つかまらんな」
中澤(辻)は、事態は分からないが、なにかが起こっている、と心配そうな目で、
私たちの動きを見ていた。
「辻、あんたはなんも心配する必要ないねんで。ウチの身体、預けてるんやから、
大事に寝といてや」
手帳のページをめくりながら、言う。
ベッドの中で、こっくりと頷く中澤。
「おーおー、なんか優しいなあ。禁断の年の差カップルやな」

なにアホなことを、なあ辻、と言いかけて、黙る。目を合わせた途端、中澤(辻)が、
隠れるように毛布を頭までかぶったのだ。どうみても、照れている仕草である。

みっちゃんと、顔を寄せ合う。
(おい、みっちゃん。あれ、どう思う)
(どう思う、って、惚れてるで。しっかり裕ちゃんの口説きにハマったな)
(あんなもん、方便に決まってるやん)
(同じ境遇で、秘密を分けおうた仲やしな。しょせん12才や。裕ちゃんに口説かれて
キスされて、メロメロになったんちゃうん。ま、そのへんは、当事者同士に任せるしか
ないなあ)

嬉しそうに、肩を震わせて笑うみっちゃん。くそ。

「みっちゃん、自転車でここ来たんやろ? ちょっと鍵貸してや」
「なんでやのん。あれ、ぎょうさんお金払ってんで。今の裕ちゃん、そもそも足
とどかんやろ」
「ごっちんに貸すねん。今日は、えらい道路渋滞してたからな、タクシー使うより
早いやろ思てな」
「ちゃんと返してや」
「今まで借りたもん、返さんかったことあるか?」
「……」

ロビーに降りる。出てくるごっちんを待つ。
ごっちんは、すごい形相のまま走ってきて、こっちに気づいて立ち止まった。
「気合い入れていきや。みんなにはウチがうまいことゆうとったるわ」
みっちゃんのキーをごっちんに投げて渡す。
その時初めて自転車をみたけど、みっちゃん、こんないいのに乗ってたんだねえ。
「サンキュ、裕ちゃん」
威勢良くまたがって、物凄いダッシュで行ってしまった。
「ウチは辻やで〜〜」

「連絡ついたで」
みっちゃんが、携帯片手にエレベーターから降りてきた。
私は、咳払いして、携帯を受け取った。

「社長さん、久しぶりやんか。うん? いや、今ちょっと風邪引いててな、そんなん
どうでもええねん。うん、いやな、あんたんところに×××って編集事務所あるやろ?
 ……そう、それや。そこにな、ウチのがついて行ってもうてんや」

唇を舐める。

「そこの事務所にな、ウチのモンがもう一人、追っかけて行ってしもてなあ。
お手柔らかに相手してやるよう、あんたんとこの社員に、じっくり言って聞かせて
やって欲しいねん。頼むわ」

二言三言、返事を交わし、通話を切る。

「どうやった、裕ちゃん」
「タヌキ親父やな。一応、警察にも連絡入れとこうか……また、つんくさんに世話に
ならんといかんかも知らんわ。……忙しい人やから、手間かけさせたくないねんけどな」

やれるだけのことはやった。
後は、待つだけだ。

夜。午後10時。
中澤の部屋。
中澤(辻)は、もうおねむの時間らしく、先ほど、眠ってしまった。
マネージャーからウチの携帯に連絡があった。
代わりに、ウチが出た。
「ええから、裕ちゃんにはウチから説明するから、状況説明したりいや」
うんうん。そうか。大した騒ぎにはならんかったか。

「裕ちゃん、どうやった?」
「おおむね、オッケーみたいや」
ふう、と肩で息をする。

「悪かったな、みっちゃんには、なんかずっと世話になりっぱなしやな」
「そうやで。あとは、裕ちゃん自身の問題やで」
「ウチの? なにが?」
みっちゃんは、大げさにため息をついて、
「そもそも、なんでウチが今日ここに来た思うてるん。死ぬ死ぬ言うとったやんか」
「……そういやそうやったかもな」
「ほら」
と、みっちゃんは寝ている中澤(辻)にあごをしゃくる。

「戻るんやろ? いつまでも辻の立場で甘えてたらあかんで。とっとと辻を起こして、
熱烈な愛のベーゼを交わしたらええねん」

そうや、なあ。やっぱ、戻らなあかんやろなあ。

「また、口説くんか? もうこりごりやで」
「なんで? 辻は、あんなのこと好きやねやろ? なんもせんでも、向こうで勝手に
興奮してくれるやろ」
「ウチが、ウソついて、辻をドキドキさせたんって、まだちょっと、こう、罪の意識
が――」
中澤(辻)と、目があった。
心底、驚いたような表情だった。

(起きてた?)

みっちゃんも、気づいたようだ。
「さてと、ウチは帰ろかな」
「ちょい待ち、みっちゃん」
「色恋沙汰は、ウチ苦手やねん。ほな」
しゅた、と敬礼して、みっちゃんは部屋を出ていった。

「なかざわさん――」
おおう。
ちゃんと、恨みに燃える、女の声だ。
「わたしをすきって、ウソなんですか?」
中澤(辻)が、ゆらりと立ち上がる。もう体調はいいようだ。
「いや、あのその、妹の好きっていうか、つまり」
「なかざわさん……」
こ、怖い。メッチャ怖い。
怒ってる自分の顔って、こんなにも怖かったんか。これからは気をつけよう。
はは、ははは、はははは……。

部屋の電話が鳴る。
「はい、もしもし、うん、ちょっと聞こえにくいねんけど、ああ、みっちゃん、まだ
ロビーにおったんか。ん、これ、気にせんといて。辻が癇癪起こしてんねん。この声
てか。まだ辻のままや」
わんわん泣きじゃくっている中澤(辻)に目をやる。

(おかしなことになってもうたなあ)
好きな人としかキスはしない、と主張する辻は、入れ替わるための行為さえ受け入れる
つもりはないみたいだった。

「え? 自転車? う〜ん、ごっちん、タクで帰って来てる、って言うてたから、
まあ、そういうことやな。……しゃあないやん。ゴメンて。今度、瓶ビール一本
おごったるさかい。もう切るで」
なんか、みっちゃんは騒いでいた。
プチ。

電話を切って、中澤(辻)を見る。
赤い目で、こっちを睨んでいる。

結局、翌日も、元に戻ることは出来なかった。


【5日目:役割】

コンサートの前日。
私は、最後の説得に当たっていた。

「なあ、辻。あんた、ウチのパートの歌もダンスもでけんやろ。その、怒ってるのは
よー分かる。でもな、今は、緊急事態や。ちょっとだけ、戻ってくれへんかな?」

辻の姿で、つん、と拗ねている中澤(辻)に懇願する。

「わかりました」
「おう、分かってくれたんか」

中澤(辻)は、ジロリ、とウチを見て、

「2人のこんごについては、あとでじっくりはなしをします」

な、なんや、2人の今後て。
こんな歳の差カップルに今後なんてあるかいな。

しかし、今は、辻を納得させることこそ、重要なのだ。
「よう分かったで。今度、じっくり、前向きに話しよな」
中澤(辻)は、満足げにうなづいた。

「はい、じゃあ、いいですよ」

中腰になって、唇を突き出す中澤(辻)。

こーゆーの、男ならたまらんのやろな。今度、実践でマネしてみよう。

背伸びをして、中澤(辻)に、キスする。

楽屋では、引き絞った弓のような緊張感が、娘。全体をおおっていた。
「だからさ、もう明日なんだよ。通しで出来ない、ってどういうことよ。みんな、
マジメに練習したの?」

圭坊が、みんなを叱っている。
辻が中澤をやってたせいで、あまりにも頼りないと思ったのだろう、2番目に年長の
圭坊が、リーダーの役割を任せられてしまったようだ。
「こんなんじゃ、明日は中止だよ」

扉に背をもたれかけさせて、圭坊の話を聞いていた。もうそろそろ、潮時やな。
「カリカリせんでもええやん、圭坊」
「裕ちゃん……」
振り向いた圭坊は、ほっとしたかのように表情を緩めた。
こんなときに、叱りつけるような指導は逆効果なんだよね。
やれるべきことは、すでに全部やってるんだから。

「みんな、よう出来てるで。明日、自分の持ってる力を全部出せれば、絶対成功するで」
明日は嫌でもテンションがあがるから、リラックスさせることこそ、主眼に置くべきな
のだ。

廊下で、圭坊と2人っきりになる。
「裕ちゃん、元に戻ったの?」
「迷惑かけたな。リーダー役、大変やったやろ」
良かった、と圭坊はため息をついた。
「私、リーダーなんてやっぱ出来ないよ。裕ちゃんじゃないと、みんな本気で話聞いて
くれないんだもの」
いっぱいいっぱいだったのだろう、圭坊は、安堵のせいか、涙ぐんだ。

「圭坊、ウチが卒業したら、必然的に、あんたがリーダーやで。そんな弱音、吐いて
たらあかんやん」
「私が寿引退するまで、裕ちゃんは娘。にいないといけないよ」
「なんでやねん」

がっ、と、辻が、ウチと圭坊の間に割り込んできた。
圭坊を、見上げて睨んだ。

「え……どうしたの、辻」
「ダメっ」

あ、辻、もしかして、嫉妬か?

訳の分からぬまま、圭坊は辻とにらめっこの格好になった。
「なんだい」
圭坊は辻に笑いかけた。
辻は、私の後ろに隠れた。圭坊の顔が怖かったか。

「辻、今な、大事な話してんねん。あっち行っとき」

ぶーっ、とふくれて、辻は向こうに走っていった。

「な、裕ちゃん。娘。の中で、妙なウワサ、聞くんだけど」
「妙なウワサ?」
「娘。同士で付き合ってるメンバーがいるって」

……ごっちんと、紗耶香か?
あいつら、結構派手にベタベタしてたからな。
話は聞いてるで。圭坊も、ごっちんに迫った、ゆうてたやんか。

「裕ちゃんと、辻なんだけど」
「ウチのことかい」
「最近、仲がいい、って。でも、ちょっと異常だって。いつも、同じ部屋で寝てる、って」

どれも事実だ。否定のしようがない。

「まあ……いろいろあってな」

圭坊は、唖然、とした表情で、こっちを見た。

「あのさ、……当然、否定する、って思ってたんだけど」
ここで誤解を解くには、全部話してしまわないといけないだろうな。
「ま、エエやん。時期が来たら、詳しく話したるわ」
「時期……って、2人で、先に寿脱退?」
「んなアホな」

最後の練習が始まった。
実際のコンサートどおりにプログラムを進めていく。

「ほらほら、新人4人、遅れてるで。先輩らの動きよう見てや」
「圭織、前に出過ぎ。そこにいたら、他のメンバーとぶつかるやろ」
「ほら、なっち、息あがってるで。体力なくなったか」

久々に、リーダー役を満喫できた。
なんか、やってみたら簡単だ。
うだうだ悩んでいたのがバカみたいだった。
娘。には、リーダーが必要で、
それは、ウチが一番適役やねんな。はははっ。

「ヤンキー裕ちゃん復活だよ」
「なんかゆうたか、ごっちん」
「なんでもないよ」

お昼ごはん兼休憩時間に入る。
衣装室で1人、肩でぜえぜえ息をしていた。
この身体、えらいしんどいわ。
こんなおばさんくさい場面、メンバーには見せられへんな。

「なかざわさん?」

ウチを探してきたのか、辻が、扉から顔を覗かせる。
おいでおいですると、たたた、と駆け寄ってきた。

「しんどいから代わってくれ」
肩をがっし、とつかむ。
「こんなところじゃイヤです」
「ナマ言うな」

上から、ねじり込むように、キスする。
辻の身体が硬直する。

「……」
「……?」

代わらへんな。
なんや、辻、ドキドキしてないんか?

服の上から、胸を触る。
……ん〜、あんまり、ドキドキやないな。
辻、もしかして、もうウチに飽きたんか?

(なんか、ショックやな)

その後、何度か試してみたが、入れ替わり現象はもう二度と起こらなかった。

「結局、思うねん。ウチ、辻に捨てられたんやな」

コンサートも終わり、みっちゃんの部屋で飲んでいた。
自転車も、事務所付近に放置されていたのを無事回収出来、みっちゃんの機嫌も戻っていた。

「なにが捨てられたやねん。元々、付き合ってもなかってんやろ」
ぐいっ、とみっちゃんはビールを空ける。

「そもそもやな、入れ替わりの原因は、辻のドキドキキスやねんな。裕ちゃんのドキドキは関係ないな」
「ウチはキス魔やからな。そんなんで入れ替わってたら、今までも大変や」
「で、辻は裕ちゃんに興味を無くしたから、もう辻(中澤)にはなれへんのや、と」
「ま、あくまで仮定やけどな」

それとも、辻の不思議な力は、消えてしまったのか。
いつの日か、辻が恋をしたとき、また騒ぎは繰り返されるのか。

「ま、ええやん。裕ちゃんの、新しい出発に乾杯」
「……乾杯」

次の日の、お決まりのひどい2日酔いは、
辻の身体が懐かしく思えてくるほどだった。


エピローグ

ののは、のの。
裕子は、裕子。
それが、一番正しいのだ。よく分かってる。

「はい、今日もお疲れさまでした」
「お疲れさまでしたー」

夜、1人で眠るのは淋しい。
いつも、隣りには中澤の身体があったからかな。

辻は、もうウチのことを好き好き言ってたことさえ、忘れてしまっているようだ。
まあ、まだ12才だし──今度、13になったか。
今の辻には、ウチが感じているモヤモヤも、まだ分からないんやろね。

「なかざわさん、ばいばーい」
「はい、ばいばい」

最近、2人は普通の仲良しさんになった。
これでいいんだけどね。
これで、いいんだろうね。

(中澤裕子、27才。いよいよ、人生の正念場やな)
みな、それぞれが抱えた日常に帰ってゆく。

辻が、勢いよく走っていく。
人混みにまぎれて、見えなくなる。

(今日も、なんか辻見てたな)

ときおり、辻を目で追っている自分に気付くことがある。
そんな時、あの頃を懐かしく思い出すのだ。

一時期とはいえ、自分の身体となった、12才の肉体と、

小さな冒険に、胸おどらせた日々を。

(終わり)