「しかし、また急な話やな・・・」
「すみません。でもずっと考えていたことなんです。
それにこのままだと、私自身が埋没してしまいそうで」
「けどな、それやったら続けながらでもできるんとちゃうか?」
「わかってます。でもこのままいたらつんくさんとか娘。のみんなに
甘えちゃいそうで。なんか駄目になってしまいそうなんです。」
「・・・決心は固いちゅーわけやな」
「すみません。」
「わかった。一度言い出したら何があっても変えんやろしな。
でもな、プロデューサーの立場から頼む。もうちょっと結論は待ってくれ。」
「でも、このままこんな半端な気持ちで続けても、みんなに迷惑を掛けてしまうだけですし、
それに私自身も・・・」
「わかっとる。でもな、立つ鳥後を濁さず、や。
あとの事をいろいろと考えさせてくれへんか。」
「・・・お任せします。」
「せめて春まで武道館くらいまでは頑張ってくれへんか?」
「・・・わかりました」
「で、この話は他のメンバーにはしてるんか?」
「いえ、みんなにはまだです。」
「そうか、もうすこしだけ伏せといてくれ。頼むで」
「・・・はい、じゃよろしくお願いします」
深々と一礼してドアを閉めた紗耶香を見送ってつんくはイスに座り込んだ。
「あいつもか・・・」
部屋で一人になった時、その言葉が思わずついてでた。
正直意外な感じもしなかった。あの娘ならいつかは手を離れていくのだろうと。
(けどな・・・明日香の時みたいにはできんのや。俺の手にはもう負えん)
男は溜め息を吐くと、スケジュールを確認しはじめた。
一大事である。なんせ主要メンバーの一人が抜けるのである。
あらゆる手立てを使って、今後に支障が無いようにしておかなければいけないと
彼は頭を切り替えていた。
(あいつら、びっくりするやろな。特に・・・大丈夫かいな)
ここまで来るのには相当の努力と細心の注意と多くの犠牲を払って来た男である。
いまここで、ひっくり返させる訳には行かない。意地にかけても・・・
(3人目か・・・また世間でいろいろ言われんなあ)
苦笑いで手帳に目をやった。携帯を取り出した。
(とりあえずなんとかせなあかんな。なんとかな・・・)
「もしもし、俺や・・・そうなんや。春くらいということでね。そう。間が短すぎやねんけど.
だからな、ちょっと今後の策を詰めとこかな思うて。うん、今すぐ頼むわ。」
「市井ちゃ〜ん、お疲れ〜」
満面の笑みで走って来る真希に紗耶香は立ち止まった。
「おぅ〜、お疲れさん」
振り向いた紗耶香にいきなり飛びつくと、真希は後ろから抱きしめていた。
「ずっと、待ってたの?」
「うん。ね、つんくさんとのお話なんだったの?」
「あ、いや、今後のお仕事についてちょっとね」
紗耶香は真希から体を離すと、玄関に向かって歩き始めた。真希もあとからついていく。
「そうそう、今度は映画なんだって。大変そうだよね〜。」
「そりゃそうよ。へそのドラマとはスケールが違うよ」」
「なんかドキドキするよ。また一杯怒られたりするんだろうなあ」
「大丈夫、大丈夫。何事も経験だって」
「そうかなあ。真希は自信無いよ」
「・・・そんなに自信無い?」
「う〜ん。でも市井ちゃんとかメンバーがいれば大丈夫だと思う」
「・・・」
「ん?」
「後藤は大丈夫だよ。自信持っていいよ。うん」
「あららら、褒めてくれるなんて、どうしたの?」
「私だってたまには褒めるよ」
「なんか怖いなあ。でも嬉しいよ。ね、一緒に帰ろ。御飯食べてこーよ。」
「あ、御免ね。今日はさ、ちょっと寄るとこあるんだ・・・」
「えぇ・・・こんな時間からぁ・・・」
(せっかく待ってたのにぃ・・・)
不服そうに口を尖がらせる真希に向かってぺロッと舌をだして
「またね、ゴメン」と謝りながら、紗耶香はタクシーへと乗り込んだ。
(後藤・・・大丈夫だよね)
タクシーの中から、こっちをじいっと見送る真希を振り返り、
紗耶香は呟いていた。
モーニング娘。新曲の「恋のダンスサイト」をいきなりトップに送り込んだ勢いは、
そのままグループの仕事量を増やしていった。
アルバムのレコーディングあり、映画の撮影あり、ラジオのレギュラーあり。
彼女達は4連泊、5連泊も当たり前にこなしていた。
移動バスの中さすがに車内は寝静まっていた。
久しぶりに紗耶香の横に座った真希が、すやすや眠っていた。
紗耶香は本を読むのを置くとじぃーっと真希の寝顔を見つめていた。
すると眠っていたと思った真希が目をぱちっと開けた。紗耶香は罰が悪そうに慌てて目をそらした。
「どうしたの?市井ちゃん」
ふにゃ〜とした笑顔で、むっくり起き上がると真希は紗耶香に話しかけた。
「ゴメン、起こすつもりじゃなかったんだけどね」
「ねぇ、市井ちゃん・・・」
「なに?」
「なんかさ、最近悩み事抱えてるんじゃない?」
「えっ?」不意な質問にドキッとした
「そ、そんなことないよ。考え過ぎだよ」
「なんかさ、最近の市井ちゃんって、ずぅーっと考え事してるような気がするんだよね」
「私だって、いろんな事考えるよ。」
「例えばどんなこと?」
「えぇっと、ほら、例えば今日の晩ご飯のこととか、明日の仕事の事とか」
「ふぅん、だったらいいんだけど、最近メールとかもくれないじゃん」
「そんな事言って。ずっと一緒に仕事で一緒にいるじゃない。」
「それはそうだけどさぁ。」
「考え過ぎだよ、それより育ち盛りには貴重な時間なんだから、寝ておきな。体持たないよ」
「・・・おやすみ!」
ぷいっと真希はアイマスクをするとそっぽを向いてしまった。
紗耶香は心を落ち着けるために、目の前のペットボトルを口に運んだ。
見透かされてるのかもしれない・・・という不安が彼女を包んでいった。
アサヤンの収録スタジオにつくと、そこにはココナツ娘や平家みちよが集まっていた。
「あんたら、どないしたん?」中澤がびっくりして平家に尋ねた。
「うちらだってびっくりしてんのよ。突然呼ばれてさ」
「こら、今日なんかありそやな。」
最初は面食らったものの、楽屋はいつものにぎやかさを取り戻していった。
「こら、後藤あんまり食べてばっかりやったらあかんで、はよ準備しいや」
「ふぁーい」
「なんか危機感ないよね〜後藤って」矢口がおやつに手を伸ばした。
「そうですかぁ?」
「でも、なんかね、ホッとするよ。そのふにゃふにゃーなとこがさ」保田が鏡越しに言った
「あ、圭ちゃん、ひっどーい」
わいわいと出番待ちをしてるところへ、いつ出たのか、紗耶香が戻って来た。
「なんや、あんたまだ準備できてへんの。はよせんと遅れるで」
「あ、大丈夫、うん、直ぐに」
「紗耶香、どーこ行ってたんだべ?」安倍がドラ焼を摘まみながら、紗耶香に尋ねる。
「あ、うん。ちょっとね。・・・トイレにさ・・・」
「だ、大丈夫?お腹の調子でも悪いの?」
「大丈夫、ごっちんみたいに食べ過ぎてないからさ。」
「あ、なんか私ばっかり食べてるみたいじゃん」
「だってそうじゃん」メイクを終えた保田がいつものように止めを刺した。
「また、圭ちゃん、ひっどいよ〜」
再び楽屋は和やかな笑いに包まれた。ただ二人だけ除いて。
一人はもくもくと準備に励む市井と、それをじっと見詰める中澤であった。
突然の「シャッフル」構想にはさすがにみんな驚いていたが、
中でもショックを受けていたのは真希であった。
(市井ちゃんと違うチームだ・・・)
初めて紗耶香と別れてのユニットである。スタジオではうまくごまかしていたが、
心はすでにここにあらずであった。
「ごっちん、行くよ。」
中澤の声に我に返ると、真希は荷物を抱えて重い足取りでついていった。
バスから降りる時、中澤は真希に話かけた。
「ごっちん、ええか。今回は時間も少ないからボーッとしてたらあかんで。気合い入れな」
「・・・うん。」
「それとも、どっか体調でも悪いんか?遠慮せずに言いや」
「うん、大丈夫です。すみません。」
「ほんまやね」
「うん、大丈夫、うん・・大丈夫」
「ほな、いこか」
真希の後ろ姿がゆっくりとスタジオの中へと消えていった。
(つんくさん、何考えてるんやろ・・・それに・・・あの娘もや。)
「中澤さ〜ん、急いで下さいね」
「あ、はーい」
スタッフの声に我に返ると、急ぎ足でスタジオへ向かった。
過酷なスケジュールの中、レコーディングが始まった。
映画に、ツアーに、アルバムにと多忙の中、新たにこのユニットへの
レコーディングである。
「ほんとに、休み欲しいよね。もうさあ・・・」
矢口の愚痴もどこか冴えない。特に青色7はメンバーも多く、踊りも複雑だった。
「覚えきれないよね〜もう大変だよ〜」
撮影の合間3人で練習しながら飯田も不満を述べた。
「ねぇ紗耶香も、そう思わない?」
「うん、でもせっかくのユニットなんだし、頑張って他の組には負けないようにしようよ、ね」
「かーさんはあいかわらず頑張り屋さんだね。」
「そんな事無いよ」
「ま、なんとか頑張ってみましょうかね。」
といって、矢口はビデオを巻き戻した。
「あ〜」
飯田の突然の大声に、2人はぎょっとして動きを止めた。
「ど、どうしたのよ、カオリ?」
「この歌って、なんか気合が入るよね」
「はぁ〜なーに言ってんのよ。今ごろ」
「でもさ、気合の入った〜私た〜ちぃ〜って、やっぱ私たちのことかな?」
「ま、やるときゃ、やるでしょ。うちらもさ」
「なんか応援ソングみたいだね。元気出せ〜みたいなさ」
「もっと働け〜ってことよ。はいはい、練習、練習」
タンポポコンビが、いつ終わるでもない話を続けてるのを聞きながら、
紗耶香は、顔をぺちっと叩いて気合いをひとつ入れていた。
(ダメダメ、今はこれに集中しないと・・・ね)
「なあ矢口、紗耶香の様子変わったとこないか?」
「えっ、いやあ。べっつに変わったとこないよ〜、いつもの頑張り屋の紗耶香だよ」
「ならええねんけどな。ちょっと最近のあの娘、ちょっと様子がおかしいなあって思ってたからさ」
中澤は撮影が上がって入れ替わりに入ってきた矢口を捕まえて聞いた。
「それよりごっつぁんだよ、体の具合どうなの?」
「う〜ん、ひどい風邪らしくてな。ちょっと見舞いに行ってこようかなって思ってんのよ」
「あ、そうだね、私も行かなくちゃって思ってるんだけど。」
「いや、しゃあないよ。このスケジュールやし。
うちはあか組の曲とかの打ち合せを兼ねてるからって無理矢理時間開けたから。」
「ごめんね〜、ごっつぁんにメールでもいれとくよ。赤には負けないよって」
矢口はけたたましい笑い声に、中澤が軽く拳を握って見せた。
「あのさぁ。裕ちゃん。」
「ん?」
「なんでさあ、シャッフルなんだろね?」
「さあ、つんくさんの考えることはうちにはもうわからんわ」
「ま、もう慣れたけどねぇ。思えばずいぶん強くなったよ矢口も、みんなも」
「そうやなあ。今度の新メンバーも大変やろね。慣れるまでは。ほな行くわ」
「ほーい。行ってらっしゃ〜い」
中澤は現場を出ると、真っ直ぐ事務所へと向かっていた。
事務所に着き、真希の分のビデオを受け取ると同時に、中澤はある人物の行き先を尋ねてみた。
彼は真希のホテルからそう遠くないレコーディングスタジオで作業中だった。
中澤はタクシーを呼んでもらうと、まっすぐそっちへと向かった。
訪問の旨を申し出てから20分ほど、椅子に座ってぼんやりと壁を見つめていた。
「おう、どないしたんや。新曲はばっちりか?」
「もう大変ですよぉ。休み下さいよ〜」
「それは俺の仕事ちゃうからな、事務所に言ってんか」
「つんくさんからも頼んどいて下さいね。」
「で、なんの用やねん。」
中澤は言いにくそうに切り出した。
「つんくさん。今回のシャッフル企画って、なんかあったんですか?」
「なんかってなんや?」
「ていうか、ほんとに今回は突然だったんで・・・」
「いつものことやろ。これくらいのこと」
「う〜ん、メンバーもね、大分ビックリしてるんですよ。」
「メンバーもビックリせんかったらお客さんはもっとビックリせんやろ?」
「ま、そうですけどね・・・」
「それより今日は後藤の見舞いちゃうんか?」
「そうなんです。まさかあの娘が体調崩すして休むなんてね、なんか最近全然元気無いんですよ」
「体調悪いから、元気もないんやろ?しっかりさせなあかんで。」
「つんくさん。今回のシャッフルって後藤への試練が目的なんやないですか?」
「何言ってんねん、まだメインと決まったわけやないで」
「あ、もちろん頑張りますよ。でも・・・」
つんくは、タバコに火をつけると灰皿を引き寄せた。
「まあ、いつまでも最年少とも言うてられんやろ。新メンバーも来るんやし。
たまには頑張らせな」
「で、そのことなんですけど、紗耶香にもなんか言いました?」
「・・・なんでや?」
「紗耶香もね、後藤を避けてるみたいなんですよ。」
「そうなんか?」
つんくは珍しく動揺をその表情に出すまいとしていた。
「あの娘ね、いうてもまだ半年なんです。でも頑張ってるのはすごいと思います。
でも、その娘がね、初めて弱気を見せてるんです。なんでやと思います?」
「さあな」
「紗耶香がいないからと思うんです。」
「あのな。仲良しグループと違うねんぞ。誰と一緒やいうてその度倒れられたら叶わんな」
「確かにそうなんですけど、でもね今回は紗耶香も変なんです。
あんなにやさしい娘が、あえて後藤を突き放してる感じがする・・・」
「とにかく!」
つんくは強い口調で言いきって席を立った。
「後藤のことはみんなでフォローしたってくれ。頼むわ・・・」
そう言うと、再びスタジオ内へと消えていった。
(ふう・・・やっぱうちはリーダーは向いてないんかなあ)
「ありがとう・・・裕ちゃん。ゴメンね。遅れちゃって」
「かまへんよ。それよりどないや。体の具合は」
「うん、喉の調子がちょっとね。でももう大分いいよ」
「はよ直しよ。赤組負けたら、ごっちんのせいやで」
「きっびしい〜な〜」
静養中のホテルで、頭をこつんとやられて真希はようやく笑顔になっていた。
真希は一通り歌とフォーメーションを説明されたあと、カメラを止めて
しばらく雑談をしていた。
「なあ、ごっちんさあ」
「ん?なぁに?」
「紗耶香のことやねんけど・・・」
「うん・・・」
真希の顔からふっと笑顔が消えた。
「やっぱり来てないんか・・・」
「市井ちゃんだけじゃなくて、皆忙しいと思うから、仕方ないよ。うん。」
真希は明るく振る舞ったが、中澤にはその態度が痛々しかった。
「市井ちゃんもいつまでも後藤のお世話って訳にもいかないだろうしね・・・」
「紗耶香と何か・・・あったんか?」
真希は、首をぶるんぶるん振る
「そぅか・・・ならええねんけどな。なんかあったら言いよ。きっちり絞めたるさかいに」
中澤は握り拳を見せて笑った。
「裕ちゃん・・・」
「ん?」
「ありがとね・・・」
そういうと真希はベッドへと潜り込んだ。
「ゴメン、もう少し寝てるよ」
「わかった。明日は大丈夫か?」
「うん。大丈夫、明日はきっと行けるよ・・・」
鼻にかかった涙声が毛布の中から聞こえてきた。
中澤は静かに部屋を出た。
(ほんまうちは、リーダーに向いてへんわ。)
その夜、真希の携帯が踊った。
「もしもし・・・あ、市井ちゃん・・・?」
「うん」
「・・・」
「あ、あのさ・・・体大丈夫?」
「うん、明日からはイケルと思う。」
「まったく、体調崩すなんて、なってないぞ!」
「・・・そうだね」
「こんなことだから、いつまでも教育係が御役御免になれないんじゃん」
「・・・ほんとだよね」
「ちょ、ちょっと泣くことないじゃない?」
「な、泣いてなんかないよ。風邪で声の調子がおかしいだけ・・・」
「と、とにかく明日はレコーディングなんだし、頑張んなよ。ね?」
「う、うん。ありがと・・・市井ちゃん」
電話を切ると紗耶香はしばらく立ち尽くしていた。
翌日から真希は無事に仕事に復帰した。さっそくレコーディングの開始された。
「この歌詞の意味をもっと考えて、後藤なりに表現して歌ってみいや」
「はい・・・」
「自分なりに歌詞を理解して表現できるようにならんと・・・」
(どうすればいいんだろ。わかんないよ〜)
つんくの指示にいささか煮詰まり気味だった。
真希が初日を終えて帰路についたその時、そこには紗耶香が待っていた。
「あ、終わった?お疲れ〜さん」
「・・・市井ちゃん?」
「今日はさ撮影もないしさ、久しぶりに御飯でもってどうかなって思ってさ」
「えっ、ほんと?」
「何食べに行こっか?」
「じゃあねえ。お寿司!」
「ふふっ、いいよ。じゃあホテルの地下で食べようか」
「わ〜い」
パタパタ駆け寄ると真希は紗耶香の右腕を取った。
「なんか久しぶりだよね〜」
「そ、そうだっけ?」
「そうだよ。ほんとにぃ・・・」
「わかった、わかったよ。じゃ、行くよ!」
「うん!」
真希は久しぶりに笑って御飯を食べた気がしていた。
他愛の無い話がこれほど楽しいものとは思わなかった。
いつしか時間は過ぎ去っていた。
「今日はあと課題の撮影があるんでしょ?」
「うん、歌詩の意味を考えるとかなんとか」
「じゃ明日もあるし、そろそろ帰るよ。」
「・・・はぁい」
「よし、じゃ行こう」
紗耶香が伝票を持って立ち上がった。
その背中を真希はじっと見ていた。
(いつまでも今日みたいな日が続けばなあ・・・)
無事にシャッフルCDは完成した。巷では諸説噴飯であったが、
グループの勢いもあるし、3枚揃って大きく売り上げを伸ばすだろう。
プロモーションもいろんな歌番組を16人の大所帯で回るのだから賑やかである。
しかし、真希には不満だった。それは紗耶香が青組であり、真希は赤組であったから。
したがって必然的に紗耶香との距離が置かれてしまう結果となった。
また紗耶香自身にも変化が現れていたと真希は感じていた。
今日のうたばんでも、ゲーム中に真希は紗耶香にじゃれていったのだが、
その度あっさりと紗耶香は引き下がった。それが真希には不満だった。
(もっと遊んでくれてもいいのになあ・・・)
レコーディングで忙しい時にはあんだけやさしかった紗耶香である。
撮影中も二人でいると抱きついたり、じゃれてよく怒られていた。
でも、最近どうもおかしい。全然構ってくれない。
「市井ちゃん、どうしたの?元気ないね?」
真希は楽屋への移動中最後を歩いていた紗耶香に話し掛けた。
「うん?そんなことないよ。」
「さっきもさ、椅子取りの時、市井ちゃん、すっと譲ってくれたし・・・」
「カオリみたいにした方がよかった?」
「ま、そうは言わないけどさあ、なんか変だよ。」
「そう、気にしなくていいよ」
「市井ちゃん・・・」
紗耶香は真希を置き去りにして、すたすた歩いて行った。
真希しょんぼりと後ろ姿を追っかけていた。
不意に紗耶香が立ち止まった。
「後藤さぁ」
「なに?」
「今晩、ちょっと付き合ってくれる?」
何か怒られるのかな・・・と心細く思いながら、真希は事務所近くのレストランに席を持った。
ところが予想に反して、楽しい話ばかりだった。
次の新曲の話、駅伝の話、そして新メンバーの話。
「新メンバーなんか信じられないよ〜」
「何言ってんの、今度は後藤が面倒見るんだよ」
「だって、まだ教育されてる身なのに〜」
「・・・」
そこへ食後のコーヒーが運ばれた。紗耶香は突然話題を変えた。
「あのさあ後藤の夢ってさ、どんなの?」
「唐突だなあ、夢・・・って、そうだなあ」
「もしかして、無いとか?」
「う〜ん、そんな事はないけど、今がいっぱいいっぱいだから、あんまり考えてないや。」
「私はさ・・・」
コーヒーをさらに一口飲むと、紗耶香が続けた。
「いつか自分の音楽って作ってみたいんだ。」
「うん、前にも聞いたよ。いつかそのためにイギリスだがに留学するって野望があるって」
「もしさ、来月から留学するって言ったらどうする?」
「えっ?」
真希は唖然とした顔で紗耶香を見ていた。
「悪い冗談はやめてよね」
「でも決めちゃったって言ったら?」
「うそだね!」
「脱退して留学しますって大決定・・・」
「ヤダ!」
真希は大声で話を切った。
「絶対にヤダ、だってお仕事いっぱい残ってるじゃん。映画も新曲もいっぱいあるじゃん」
「後藤・・・」
「絶対にやだもん。私の教育係だってまだ・・・」
「後藤はもう大丈夫だよ」
言葉を紗耶香が切った。じっと真希を見据えていた。
「真希にはもう私なんか必要ないよ。シャッフルでわかったでしょ?」
「何言ってんの?売上の話?関係ないじゃん。今日の市井ちゃん、変だよ。変」
真希は思わず立ち上がっていた。日頃の構ってもらえなかった不満が一気に爆発していた。
「落ちつきなよ。」
紗耶香が小声で注意する。
「市井ちゃん、私のこと、キライになったの?どうしてそういうこと言うの?」
「キライとかそういうことじゃなくって・・・」
「じゃあ、なに?なんなの?」
「もう私に教える事なんてないって・・・」
「もういいよ!」
真希は荷物を取ると、店の外へ駆け出していった。
あの日以来、真希はすっかり沈んでいた。メンバーもどこと無く近寄りがたい雰囲気を感じていた。
見かねた中澤が紗耶香を呼んで、楽屋外の廊下へと連れ出した。
「なあ、紗耶香、あんた後藤になんかしたんか?」
「えっ?」
「最近のごっちん。なんかおかしいと思わんか?」
「そんな裕ちゃんじゃないんだから、セクハラなんかしないって」
「あほ、マジで話してんねんで」
「・・・ゴメン」
「とにかく、ちょっと話聞いておいで」
「その役目、やっぱ私じゃなきゃだめ?」
「なんでやの?やっぱりなんかあったんか?」
「そういう訳じゃないよ。でもさぁ・・・」
「言ってみ?なにしたんや?」
「実はぁ・・・」
紗耶香はあの夜の喧嘩のことを話した。
「そうか・・・」
「いつまでも私にべったりじゃあ駄目でしょ?」
「そやけど、そんなに急に話することでもないんとちゃう?
それに、留学とか刺激が強すぎるで。」
「ゴメン。言い過ぎたと思う。」
「・・・そうかな。ま、ええわ。圭ちゃんに頼むわ」
「ありがと、裕ちゃん」
「でもな、紗耶香」
中澤はすれ違い様に、振り向かずに言った。
「ごっちんをあんまり突き放したりなや。まだまだあんたを支えにしてるとこもあるんやで」
(そんなの、言われなくてもわかってるよ・・・)
紗耶香の胸がきゅっと締め付けられた。
それから2日ほど経った夜。
「まあ、とにかくちょっと拗ねてるだけみたいだから、しばらくそっとしとこう」
「困ったもんやな、いつまでも甘えん坊で・・・」
保田からの電話に中澤は苦笑いしていた。
「そうよ、ダイバーとかの録りなんか、元気なもんだよ。」
「まったく現金なやっちゃでほんまに」
「紗耶香も、あれから適当にかまってあげてるみたいだし。大丈夫じゃないかな」
「だったらええねんけどなぁ」
「でも紗耶香も、こんな時に脱退とか、留学とかの話しなくてもいいと思わない?」
「ほんまやで、なんでそんなこと言ったんやろな。」
「後藤が『紗耶香さん、私を置いて留学したいとかって』って泣き出すし参ったよ」
「ふうん、彩の件から一ヶ月もたってないしな。刺激が強いわな。」
「まあ、紗耶香に限ってねえ」
「そうやなあ・・・」
不意に中澤に過去の二人のことが蘇る。いずれもそんなことは感じさせなかった。
(なんかやな予感がするなあ、気のせいやったらええねんけどな・・・)
電話を切ると立ち上がって、中澤は缶ビールを取り出した。
娘。達は相変わらず多忙だった。
新番組も始まり、録画撮りに追われていた。
新メンバーとの顔合わせも終わり、徐々に新しい環境への準備に追われ出していた頃
紗耶香は事務所を交えた最後の話し合いをしていた。
「じゃあ、武道館を最後ってことで頼むな?」
「わかりました、すみません、ワガママ言って」
「それまでは申し訳ないけど、頑張ってくれるか」
「・・・はい」
紗耶香を送り出すとつんくは大きく伸びをした。
(ほんま最後までいろいろ悩ましてくれるな、ほんまに)
「しかし、どうします?この脱退は・・・」
不安そうに聞くマネージャーにつんくは答えた。
「そんなもん、わしらに決められる訳ないやろ。
意志は聞いた。あとはお偉いさんの決めるこっちゃ」
つんくは面倒くさそうにタバコに火をつけていた。
(もう明日香の時みたいにはいかへんねんな)
メンバーは相変わらずハードな毎日だった。
紗耶香も、真希も相変わらずであった。
真希の態度がが相変わらず不安定だったことが、メンバーを心配させていた。
茨城県ひたちなか市。4月15日。
「じゃ、お疲れさまでした〜。みんな頑張ってね〜」
「お疲れ〜」
アイドルを探せ!の収録を終えたりんねと、カメラクルーが帰った駅伝の控え室。
メンバーはどこと無く緊張した面持ちだった。
「まだだ、まだだって思ってたけど、もう明日なんだね〜、オイラ、超緊張するよ。」
「やぐっつぁん、緊張してるの?」
「もうバックバクだよぉ〜。って、いいよねぇ、圭ちゃんは走らないからさ」
「なによぉ、走らないんじゃなくて、走れないの!」
「もう年だからかなぁ?」
「こらぁ・・・矢口!」
矢口の笑い声で控え室に笑いが戻った。
後藤もニコニコ笑いながら、相変わらずお菓子を摘んでいた。
「ごっちん、また食べてる〜食べ過ぎだよぉ」」
「さっき絶食だって言ったでしょ」
矢口と保田のコンビが後藤に矛先を向けた。
「そうだぞ、そんなに食べてると、明日きついよ!」
「ゴメン・・・市井ちゃん」
慌てておやつを置く真希。矢口は溜め息を吐いた。
「真希はいつもなんか食べてるね〜だめよ、ダイエットしないと・・・」
保田が助け船を出そうとした時、ADさんが集合の合図を出した。
メンバーは声にならない声を上げながら、ぞろぞろと続いた。
明日の本番に向けての最後の打ち合せが行われていた。
「じゃ、走る順番はこのとおりで行きます。沿道はきっとすごい人だろうから、決して
近づき過ぎないように。それから・・・」
(わぁ・・・やっぱりトップバッターなんだよね・・・)
真希はその大役に改めて緊張した。
ただ真希には、むしろ2番手が紗耶香だったことが、嬉しかった。
(ゴールには市井ちゃんが待ってるんだ・・・)
頑張ろうね・・・っと、ちらっと紗耶香を見やるが、
紗耶香はじっとホワイトボードを見て、こっちには注意を向けてくれなかった。
真希はその態度がつまらなくて、ちょっと頬を膨らますと手元のレジメに視線を落とした。
打ち合せが終了してメンバーは各々部屋へと帰っていった。
ジャージを脱いで部屋着に変えた中澤は、ベットに腰掛けながら、ビールを飲んでいた。
不意に部屋をノックする音が聞こえた。
「はーい」
「裕ちゃん、保田です。入ってもいい?」
突然の訪問者に中澤は慌ててTVを消すとドアへ飛んでいった。
「どないしたん?こんな時間に?なんや紗耶香も?」
「うん、ちょっと大事な話があってさ・・・」
「ま、入りいな。散らかってるけど」
尋常でない時間に、ただ事ならない表情の二人。
中澤は居住まいを正すと、二人に椅子を勧めた。
「で、話ってなんやの?」
「実は、紗耶香がね・・・」
保田が話そうとするのを、紗耶香が止めた。
「私が・・・話すよ。圭ちゃん」
ピンと張り詰めた空気に中澤は、目をきゅっと細めて紗耶香を見ていた。
紗耶香は息を大きく吸い込むと、一息に言った。
「・・・私市井紗耶香は来月の武道館で、モーニング娘。から卒業するって、決めました。」
「はぁ?」
中澤は余りに意外な、そして何度も聞いたその言葉を聞いて愕然とした。
「2週間前に、事務所の人と話して決めました。以上です。」
「・・・以上ですって、あんたなぁ・・・」
「ゴメンね。また事後報告になっちゃって。」
「紗耶香!ええかげんにしいや!」
中澤はとうとう感情が押さえ切れず怒鳴ってしまった。
「そんな大事なこと、軽々しく口にするもんとちゃうで。」
「・・・軽々しくなんかないよ。ずっと悩んで決めたんだ・・・」
「・・・」
沈黙が支配する部屋の中、紗耶香はずっとうつむいたまま、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「ずっとね、娘。でやってこれて本当に幸せだった。ほんとだよ。感謝してる。
いろんな経験をさせてもらったし、辛かった事も今は楽しかったって言えるし。
でもね。だんだん市井は欲張りになってきちゃった。夢っていうのかな?
自分のやりたい事が、自分の中がどんどん大きくなっていってさ、
市井の100%の力が娘。に向けられなくなっていったの。
このまま、皆に甘えていたら、自分にも娘。にもきっと良くないって・・・」
紗耶香の声が詰まった。思わず中澤は天を仰いだ。
「で、そのやりたい事ってなんやのん?」
「圭ちゃんには、前にも話したかもしれないけど・・・市井の夢は・・・
市井は、自分で音楽を作っていきたいなって。歌を歌うだけじゃなく、
詩とか、曲とか・・・そういうのを勉強したい、極めていきたいって・・・」
「そんなん、娘。におってもできることやんか・・・」
「そうかもね。だけど、このまま自分の本心をごまかしながら半端な気持ちで
続けていったらさ、どっちも半端になっちゃいそうでさ。駄目なんだよね。」
紗耶香は自嘲気味に微笑んだ。
「それにね、メンバーにも申し訳ないし、新メンバーとかにも示しつかないし、それに・・・」
「それに・・・後藤に対しても・・・か」
保田が、紗耶香の言葉を継いだ。紗耶香は保田に顔を向けると、
「ほんと。もっとうまくできれば、いいんだけどね・・・」
「なんで、もうちょっと早うに相談してくれへんの?」
「だってさ、相談したらさ、裕ちゃん、止めるでしょ?」
「当然よ。当たり前でしょ。」
「そしたらさ、せっかくの自分の決心が鈍っちゃう。また裕ちゃんに甘えちゃうよ。」
「そんなあほなこと言うてからに・・・」
「ほんと、ワガママなメンバーですみません。許してなんて言えないけど・・・」
中澤はベッドに腰を落すと、唇を噛んだ。
保田が突然立ち上がった。
「とにかく、みんな起こして来る。みんなに話そう。」
「待って、圭ちゃん。それだけは止めて!」
紗耶香が強い調子で止めた。
「明日、駅伝走ったらさ、そのあと私から言うからさ。それまで待ってよ・・・お願い。」
「でもね。こういう大事な話は早く伝えないといけないんじゃない?」
「圭ちゃん、お願いだから明日まで待って。今日も明日も変わらないじゃない」
「せやけど、みんなこの事知らずに走るねんで。後から知った方がショックちゃうか?」
「ゴメン、ほんとにゴメン。でもちゃんと自分から言うからさ。今日は勘弁して」
「わかった、じゃ、明日ちゃんと言うって約束してくれるな」
「うん」
保田が不意に口を出した
「・・・後藤、気づいてるんじゃない?あの娘、最近変だよ」
「そんなはずない。絶対に」
「だったら、いいんだけど」
「そうやな、今日はやめとこ、後藤にこんな話聞いたら卒倒して倒れてしまうで」
「それもそうだね。ヤバイよ。」
「よし、今日はもう寝よ。紗耶香、明日は死ぬ気で走るんやで。話はそのあとにしよ」
「ありがとう、裕ちゃん、圭ちゃん。ほんとにごめんね。迷惑かけて・・・」
紗耶香は保田に促されて立ち上がった。二人は、中澤の部屋を後にした。
中澤は、ドアが閉まる音を聞くと、中澤は飲みかけの缶ビールを取り上げた。
(たまらんなあ・・・ほんまに・・・)
もう一口飲んだ、珍しく苦く感じた。
保田は紗耶香を抱きかかえるようにして、紗耶香の部屋に入った。
「ねぇ、紗耶香、落ち着いた?」
「ありがと、圭ちゃん、もう大丈夫・・・」
紗耶香をベッドに座らせると、保田はその横に腰掛けた。
「よく話してくれたね。紗耶香。またマネージャーから聞かされてたら、
ほんとにたまらなかったと思う。ありがとう」
紗耶香はこっくりとうなづいた。
「でもさ、どうして今日だったの?」
「たぶんね、重かったと思うの。皆の思いをつないで走ろうね、
って話したじゃない?だからさ、こんな気持ちを抱えて走るのは
耐え切れなかったの・・・」
「勝手だね。」
「そうだね。ほんと勝手だと思うよ」
保田は、紗耶香の肩を抱きしめて、背中をぽんぽんと叩いた。
「あとね、このことは圭ちゃんには一番最初に知ってもらいたかったんだ」
「えっ、どうしてよ」
「圭ちゃんにだけはね、知っててもらいたかったの。」
「紗耶香・・・」
「今まで、ずっと一緒に娘。でいてくれて、辛い時とかずっと一緒で・・・」
既に紗耶香の声からは涙が溢れていた。隠す事無く紗耶香は続けた。
「それなのに、ずっと圭ちゃんを裏切ってるような感じで・・・」
「何言ってんの、紗耶香。話してくれて嬉しかったよ。」
「ゴメンね。ずっと続けて行きたいよ、ほんとは・・・でもね・・・」
「わかった、わかった。今日はもう眠りな。明日目真っ赤にして参加したらそれこそ変だよ」
保田は紗耶香をベッドに寝かすと、毛布を掛けた。
「しばらくいてあげるから・・・安心して・・・」
「うん」
久しぶりに涙を見せた紗耶香が、寝息を立てるまで保田はずっと枕元で手を握っていた。
駅伝当日。競技場は人で溢れていた。メンバーはびっくりすると同時に激しいプレッシャーに襲われた。
「すごいよ〜リタイヤなんてできないよ〜」
「矢口、当たり前やで、死ぬ気で走りや」
「きゃー、裕ちゃんの方が怖ぁい・・・」
開会式も撮影が始まり、安倍の選手宣誓など刻一刻とスタートは迫っていた。
市井は、相変わらず明るく飯田とじゃれていた。
(ほんまに、強い娘やなあ・・・)
中澤はやはり辛かった。おそらく保田もおんなじ気持ちだろう。
開会式を終え、いよいよスタート。第一走者は真希であった。
沿道のファンを引き連れ真希は競技場を後にした。早くも横腹が痛かった。
しかし彼女の足を動かしていた原動力はメンバーに対する責任もさる事ながら、
(待ってるんだ。市井ちゃんが待ってるんだ)
という一念だった。
どんなに辛くても、止める訳には行かない。一歩一歩足を進めていった。
(ささやかだけど先へ進むぞ〜っと。)
自分を鼓舞するかのように、足を進めていった。
第一中継地点が見えた。オレンジのジャージが目に入る。後少し、後少し・・・
「頑張れ!」
不意に耳にマホの、紗耶香の声が届いた。
「あとちょっと、ガンバ!」
「はい、マホ・・・」
フラフラしながらもたすきをつないだ。市井はたすきを受け取ると一目散に走っていった。
真希はバスにたどり着くと、初めて足の痛みを感じた。
(よかった。無事につなげて・・・)
安堵感に包まれながら、真希は汗を拭いジャージを取り替えた。
駅伝は安倍のゴールシーンで終わった。
保田も飯田も、グシュグシュに泣いていた。見事完走だった。
完走後のインタビューで、無邪気に答える真希はニコニコ笑顔だった。
「市井ちゃん・・・いや、マホが待ってるかと思うとね・・・頑張れたって言うか」
満面の笑みで紗耶香を見て、感想を答えた真希は、満足感でいっぱいだった。
市井は感想を聞かれると、しっかりと前を見ながらこう言った。
「先に待ってる人がいるって言うか、メンバーの愛を感じたので、
負けてられないなと思って走りました。」
最後にリーダー中澤がこの言葉を持って締めくくった。
「得たもの、絆」
「いーこと言うねぇ。さっすがリーダー」
周りが冷やかす中、紗耶香だけは下をうつむいてしまっていた。
顔を上げられなかった。
(間違ってないよね・・・紗耶香。これでええんやね?)
撮影が終わったあと、メンバーは都内のホテルに戻り、簡単な打ち上げを行っていた。
解放感でみんな大騒ぎだった。明日がオフということもあったのかもしれない。
ふと紗耶香は真希に近づいて行った。
「今度のダイバー撮りあとさ、暇? よかったら、どこか遊びに行こうよ」
「えっ、市井ちゃんは、いいの?」
「その日を逃したらまたしばらくまとまった時間なんてないよ」
「そうだね、うん、行こう!」
「じゃあさ、スタジオ退けたらいつものところで」
「うん」
満面の笑みで真希は答えた。その笑顔に紗耶香は直視できなかった。
この笑顔が曇る時が確実に迫っているんだと。
その夜、紗耶香の部屋にメンバーが集まった。
「ごめーん、遅れて・・・あれ?後藤は?」
安倍が尋ねたのも無理はない。ここには真希を除くメンバーが集められた。
紗耶香は、静かに脱退の意思と期日をメンバーに伝えた。
メンバーは沈黙した。突然の申し出に何を言っていいか、わからなかった。
「やだよ、カオリはいやだ。止めるって言ってよ、うそだよ〜って。ね?」
「そうだよ。紗耶香。ずっと一緒に頑張って来たじゃん。
これ以上メンバーがぬけるなんて、矢口には耐えられないよ・・・」
「ゴメン・・・皆にはほんとに申し訳ないと思ってる。でもね、決心したことなんだ・・・」
「もうかーさんに逢えなくなるなんて、厭だよ、やめないでよ」
飯田は立ち上がると、紗耶香に抱き着いた。矢口はもう声にならなかった。
中澤も、保田もただ黙っているだけであった。
その時、ずっと黙っていた安倍が静かに口を開いた。
「紗耶香さ・・・ほんとにだめなんかい?福ちゃんみたいに引退しちゃうんじゃないよね。」
「うん、そんなことないよ。必ず戻ってくる・・・つもり。」
「ほんと・・・だね?」
「もちろん、そのつもり・・・だよ。」
「わかったよ。紗耶香がさ、ずっと思いつめて悩んだ決心だったらさ、
なっちも納得する。そりゃ厭だよ。止めないでほしいよ。
でも紗耶香はさ、ずっと悩んでいたでしょ。」
「なっち・・・」
「なっちはさ、なんとなくわかっていたよ。紗耶香がずっと悩んでたの。
だからさ、なっちは応援してあげる。応援するしかできないのが悔しいけど。」
「いやよ。絶対に嫌。そんなの認めない!」
飯田が泣きじゃくりながら、抵抗していた。
「矢口も・・・納得できない・・・いやだ。」
安倍が飯田の手を握りながら諭すように言った。
「カオリ・・・紗耶香がさ、こんな事言うってのは相当悩んだんだと思うよ。
決して簡単な決意じゃないさ。したっけ、応援してあげるしかできないっしょ?
ここで、紗耶香を困らせても可哀相だよ。紗耶香は一旦決めたら、
絶対に曲げない娘だもん・・・そうだよね。紗耶香?」
「なっち、ありがと・・・」
「絶対にソロでデビューしてよ。なっちも紗耶香に負けないように
頑張るからさ・・・」
紗耶香の部屋を出たメンバーはそれぞれ部屋に戻っていった。
泣きじゃくる飯田と矢口を保田が送っていった。
中澤と安倍は二人並んで部屋に戻っていた。そして安倍の部屋の前で立ち止まった。
「なっち・・・ごめんな。ほんとはうちがああいう事言わなあかんねんけどな・・・」
「いいよ、裕ちゃん。なっちには紗耶香の気持ちよくわかるんだ・・・」
「なっち・・・まさか、あんたも・・・」
「ううん、なっちはもう大丈夫だよ。止めたりしないよ」
「びっくりさせんといてや。ほんまに」
「大丈夫、なっちは娘。で頑張るよ。ずっとね・・・」
不意に、安倍は中澤にしがみつくと、声を上げて泣き出した。
「悲しいけどさ・・・悲しいよ・・・ほんとにさ・・・」
「なっち・・・」
中澤は、安倍を抱き留めると、ゆっくりと歩き出した。
(紗耶香・・・あんたは幸せな娘やなあ・・・ほんまに、幸せやで・・・)
ダイバー収録後、真希は待ちきれずに控え室でうろうろしていた。
控え室のドアが開いた。
姿を見せたのは保田だった。真希はつい尋ねてしまった。
「市井ちゃんは?」
「ああ、紗耶香なら、なんか片づけ物してるよ。お菓子の袋とか」
「ん、もう・・・」
「もうって、だったら手伝ってきてあげたらいいじゃない?」
「あ、そうか、そうする」
控え室を駆け出した真希を、保田はぽかんと見送っていた。
床に転がった真希の荷物を拾い上げると、なぜ真希がはしゃいでいるのか、
なんとなく推察された。そしてそれが何を意味するのかも。
(明日・・・大変かもしれないな・・・)
保田は一度ぐっと目をつぶった。そして自分の荷物をまとめはじめた。
スタジオに戻った真希は、紗耶香がヘッドホンで何かを聞いているのを見た。
拍子抜けすると同時に、ちょっと仕返しをしたくなって、
真希はラインをたどって、ヘッドホンのジャックを引き抜いた。
♪とぉさん、かぁさん、ありがとう、大切な人ができたのです♪
ビックリした紗耶香が振り向くと、真希がダンゴピースと笑顔で応えていた。
「ちょっと、市井ちゃん。何やってるのよ」
「ゴメン、ゴメン。新曲のマスターできたみたいなんで、ちょっと聞いてた」
「もう・・・今日は約束の日でしょ」
「ゴメンね。ちょっと聞き出したらさ、止まらなくって。」
「もしかして、忘れてたとか?」
「そんな事無いって。すぐに行くからさ、この音早く止めてよ」
「反省した?」
「反省したから。」
真希はわざと音量を上げてみた。スタジオ中に響く「ぱらっぱら♪」の大合唱。
「止めて!」
紗耶香の声に、真希はビックリして音量を絞った。
「ど、どうしたの?市井ちゃん」
「・・・あ、いや、怒鳴ってゴメンね。ほ、ほら、この歌は次のダイバーでかけるんでしょ?
それまでは内緒にしとかないとね・・・」
「あ、そ、そうだね。うっかりしてたよ」
真希はそそくさとブースを出た。
「じゃ、先行って、待ってるから」
廊下から、真希の声が響いた。
紗耶香もヘッドホンを片づけると重い足取りで控え室に向かった。
3人はFM局から一旦事務所に戻った。
事務所からは普通は真っ直ぐ帰るのだが、この日は時間が早かった事もあって、
3人ともちょっとぶらぶらしてから帰るとマネージャーに申しいれた。
マネージャーは、くれぐれも気をつけるように厳しく言いわたした。
「じゃ、圭ちゃんまたね。」
真希は一番に事務所を飛び出していた。紗耶香が事務所の奥に入ってしまったので、
一足先に待ち合わせの場所へと向かったのだ。
保田はそれを見送りながら、この後、どうしよ・・・と考えていた。
(ここに居ても仕方ないし、私ものんびりするかな・・・)
部屋の掃除も溜まってる事を思い出し、保田は憂鬱になりながら事務所を出た。
このまま紗耶香を待つのよりは、部屋でも片づけてた方が気が紛れる。そんな気がしていた。
しばらくして誰も居なくなったオフィスに戻ってきた紗耶香は、
何ともいえない寂寥感でいっぱいだった。
紗耶香がここで卒業FAXの下書きをしていたなんて思いも寄らないだろう。
発表するタイミングこそ、まだ知らされてはいない紗耶香であったが、
ひたひたとその時が迫っている事を改めて痛感していた。
ぺちっ。一発顔に気合を入れて、紗耶香は荷物を取った。
これから一番大事な仕事が待ってるんだと・・・
事務所近くの駅から地下鉄でちょっと行った処にある、オフィス街の喫茶店。
メンバーが遊びに行く時に使う、『いつもの』集合場所だった。
平日の昼間はすいている上に、年齢層が若いため彼女達を認識できる人が、
ほとんどいなかった。
紗耶香は店に入ると、きょろきょろと探し回っていた。
「おっそいよ、市井ちゃん」
「あ、ごめん、ごめん。ちょっとね、事務所の人にね・・・」
「事務所の人が、なんて?」
「あ、いい、なんでもない」
「ずるーい。なんか最近事務所の人と、内緒の話ばっかりしてるでしょ〜」
「そんな事ないよ。」
「そんな事あるもん。いつもすぐに奥に入っちゃうし、この前なんか新曲のダンスの練習中にも・・・」
「あ、あれはさぁ・・・」
「あれは?」
「仕方ない・・・じゃ、教えてあげるよ。実はね・・・」
紗耶香は、真希の耳に口を近づけた。真希はドキドキしながらも、耳に神経を集中した。
「実は、私のお給料、あげてってお願いしてるの。」
「な、何それ〜ず、ずるーい。」
「うまく上がったらさ、ちゃんと奢ってあげるから。内緒ね?」
「えっ、ほんと?じゃ、内緒にしとく。」
爆笑する紗耶香を見て、からかわれた事を察知した真希は、
ちょっと拗ねた風にストローを口に運んだ。
紗耶香はふぅっと息をついて、水を一口飲むと真希に尋ねた。
「で、どっか行きたいところ、ある?」
「ふん」
「いつまで拗ねてんのよ」
「いいよ、市井ちゃんの行きたいところで」
口調は拗ねっぽかったが、それは真希の本心でもあった。
「そうだなあ・・・じゃさ、東京タワー行ってみようか?」
「とうきょおタワー?」
「私さ、千葉だから、実は行った事ないんだよね〜」
「真希だって、子供の時に行ったきりだよ・・・でも、なんで、東京タワー?」
「子供って、今でも充分子供じゃん」
「どーせ」
「で、だめ・・・かな?」
「いや、いいよ。今日は天気もよさそうだし、うん、決まり」
紗耶香はニコッと笑うと、伝票を持って立ち上がった。
「あ、市井ちゃん・・・」
「いいよ、ここはお詫び」
踵を返すと、紗耶香はレジへと歩いていった。真希は何となく立ち上がるきっかけを失っていた。
「置いてくよ〜」
「あ、待ってよ〜」
慌てて立ち上がった真希は、すっきりしないままリュックを背負い直すと
紗耶香を追いかけた。
東京タワーの特別展望台。天気が良いのだが、入場者は少なかった。
紗耶香と真希はのんびりと展望台内を回っていた。
「ね、後藤の実家ってあっちの方だって」
「市井ちゃん、あれってレインボーブリッジ?」
「全然違うところ見てるね・・・」
「あ、ごめん、ごめん。」
二人はのんびりと、東京一周を楽しんでいた。ふと紗耶香の視点が止まった。
「どうしたの?」
「あれってさ、確か後藤と最初に対面した時のスタジオだったかなあ・・・って」
「え、見えるの?どこどこ?」
「ほら、あの大きなビルの横の・・・」
「駄目だ・・・わかんないよ・・・」
「あの時はさ、ほんとビックリしたよ」
「えっ?」
「初めて後藤と対面した日」
「やめてよ〜、もう昔の事は忘れたいんだから」
「ほんとビックリしたよ。今とは大違いだったもんね」
「そうかなあ・・・髪の色くらいだと思うんだけどなあ」
「そんな事無いよ。随分・・・」
「随分、なあに?」
「・・・随分・・・太ったなって」
「・・・・」
言葉を失った真希は、すたすたと歩き出していた。
慌てて追いかける紗耶香に、真希は視線を合せようとはしなかった。
「なんか今日っていじめてばっかり。ひどいよ」
「ゴメン、冗談だって。」
「最近気にしてるのにぃ・・・」
「ゴメン、ゴメン。大丈夫だって、真希はそんなに太ってないよ」
「なんども太った、太ったって言わないでよぉ」
紗耶香は真希の手を取ると、ベンチに並んで腰掛けて、真っ青な空を見つめた。
「でもさ、ほんとに後藤は随分と成長したよ。うん」
「今更誉めたって、遅いですー」
「・・・すっかり娘。の顔って感じになっちゃったよね。」
「えっ・・・?」
「つくづく私の教育がよかったんだね〜だからさ、この際・・・」
「市井ちゃんさ、喉乾いたでしょ。私ソフトクリーム買ってくる」
真希は慌てて、立ち上がると売店に向かって、駆け出していた。
走りながら真希は思いだしていた。この前の大喧嘩した夜を。
今日は絶対に喧嘩なんかしたくない。そういう話はもう沢山だ。これからどんどん忙しくなる。
また前みたいに私が拗ねて皆に、市井ちゃんに迷惑が掛かるのは嫌だった。
「すみません・・・ソフトクリーム2つください」
お金を支払うと、真希はとぼとぼとベンチへと帰っていった。
(市井ちゃん、なんか意地悪だよね、ほんとに)
ソフトクリームを差し出すと紗耶香は、ありがと、と言って受け取った。
無言で食べおわると、紗耶香が切り出した。
「気分直しにさ、竹芝からお台場行ってみようか?」
「そうだね・・・うん、そうしよう」
気分直しはお互いに望んでいた。二人はエレベータに向かって歩き出した。
竹芝埠頭から、フェリーでお台場に二人は移動した。
さすがに混雑していたが、目深に被ったキャップと雑踏に紛れて二人は気づかれること無く、
散策やウインドーショッピングを楽しんだ。時間は瞬く間に過ぎた。
夕食を食べた後、二人は海浜公園を散歩していた。すっかり機嫌のなおった真希は、
日もとっぷり暮れた公園で、相変わらず他愛もない話を続けていた。
海岸の通りへ出てくると、目の前には鮮やかな夜景が見えた。
レインボーブリッジ、プリンスホテル。そして東京タワー。
二人はしばらく黙ってこの景色を見ていた。
「綺麗だね・・・」紗耶香がぽつんと呟いた。
「ほんとだね〜」真希が答えた。
「いつまでも・・・」
「えっ?」
「あ、いや、いつまでも忘れられない景色になりそうだね」
「う、うん。」
真希にふっと不安がよぎる。
「市井ちゃん。また・・・来れるよね?」
「・・・当たり前でしょ。また来るよ。うん。」
紗耶香は無理して笑って見せた。真希も安心したのか、また視線を前に戻した。
二人は夜景を見つめていた。
ただ紗耶香は光よりは闇の方を見詰めていたのかもしれない。
帰り道のタクシーの中、真希は紗耶香の肩にもたれて眠っていた。
さすがに疲れが出たんだろう。
真希の肩を抱きながら、紗耶香はじっとその寝顔を見詰めていた。
安心しきって眠っている。
もしかするともう見れないかもしれないその寝顔。
(結局切り出せなかったな・・・)
いつまでも隠しとおせはしないと思う。
少なくとも今月中には必ず発表されるはずだ。
それまでに言わなくちゃ。と思う。
でも、もしこの娘に目の前で泣かれたら・・・
紗耶香は真希の肩にそっと手を置くと、ゆっくりと抱きしめていた。
(駄目だよね。私ってほんとに情けないよ)
「じゃ、これからそっちに行くから」
「うん、じゃ」
電話を切ると保田は身支度をはじめた。案の定だった。
(ったく昨日何やってたのよ。しかも一番大切な相手にさ)
イライラした気持ちを隠せずに、保田はタクシーに飛び乗った。
今日の新メンバーとのレコーディングでの真希の様子いつもと変わらないので、
保田が紗耶香を問い質したのだった。
あの、いつもの待ちあわせ場所。
保田はいつもの一番奥の席に座ると、MDを聴きながら雑誌を読んでいた。
「・・ちゃん、圭ちゃん、遅くなってごめんね」
声よりもその身振りで気づいた保田は慌ててイヤホンを外した。
「遅くなっちゃった。」
「ううん、いいよ」
「ごめんね、こんな遅くに呼び出して」
「いや、大丈夫・・・」
紗耶香のオーダーが終わると、単刀直入に保田は切り込んで来た。
「で、紗耶香・・・あんた、何やってんのよ?まだ、後藤に話してないでしょ」
「いきなりだよね〜圭ちゃんって」
「後藤にさ、この話したらどれだけショックな事かあんた、わかってるよね」
「うん・・・」
「いつまでも引っ張ってたら、後藤には余計ショックだよ。みんなも知ってるのに。
それは後藤も最初は辛いかもしれないけど・・・」
「違うんだ、違うんだよ、圭ちゃん」
「何が」
「悪いのは、私の方なんだ・・・」
意外な言葉に保田も困惑していた。
「なに?それってどういうことなの?」
「だから、私が後藤に話すのが怖いから話してないの。」
「なんで・・・?」
「後藤全てを話したら、なんかさ全部失っちゃいそうな気がして。」
「失う?・・・」
「ずるいよね。自分の夢を実現するためのワガママなのにね。
いつまでも後藤の教育係だった市井のままでいれるはずなんかないのに。
ほんと勝手だよね。いっそ言い出さずに、すっと消えてしまえたらなって。
そんな事考えたりしてさ」
一気に話すと、一呼吸ついた。
「今回の卒業を決心したときに、一番心配だったのはやっぱり後藤だったの。
私がいなくなったら、あの娘ちゃんとやっていけるかなってとても心配だったの。
でもね。私とても大事な事を忘れてた。後藤から市井がいなくなるってことはさ、
市井からも、後藤がいなくなるって事なんだよね。
だから、怖くて、言い出せなかったんだ」
「紗耶香・・・」
「ほんとはね、昨日ね言っちゃおうって思ったんだ。でもさ、あの娘を目の前にした時さ、
最後まで言えなかったの。ほんと、だめだよね。」
紗耶香はコーヒーを口に運んでから、こう続けた。
「私さ、後藤の教育係を始めた頃って、ずっと不安との戦いだった。
みんなについていけるんだろうかっとか、これでいいのかなって。
それがさ、教育係になった時に、これじゃ駄目だって。
私がそんなんだったら、後藤はもっと不安になっちゃうって。
だから、後藤の前ではずっと自信を持って、何でもできるようにって頑張ってきた。
後藤もね、すごくいい娘だからさ、グングン伸びていくんだよ。
だから私も一生懸命に伸びなくっちゃって。知らず知らず、背伸びを続けていたのかもしれない」
保田はじっと、紗耶香を見詰めていた。紗耶香は少し目を伏せて、続けた。
「だから『シャッフル』の時っていい機会だと思った。
後藤が、充分に一人でやっていけるって自信を持ってくれればなあって。
でもね、結果は逆だったんだ。私の方が参っちゃった。」
紗耶香はちょっと顔を歪めて笑って見せた。
「結局ね、自分に歌もダンスも全然入ってこないんだよね。
やぐっちゃんとかさ、カオリとかにさ引っ張ってもらってやっとって感じ。
何度やっても不安でいっぱいだった。寂しさでいっぱいだった。
結局ね。真希が側に居ないと、なんにもできないんじゃないかって・・・
それで、後藤の所に、元気を貰いに行っちゃう。励ましてるようで、
実際は私が励まされていたんだよね。今度のことで痛感したよ」
保田は大きく息をつくと、困ったよう肩をすくめた。
「わかったよ。紗耶香の気持ちはよくわかった。」
「ゴメン・・・」
「じゃあさ、卒業するの見送ったら?まだ発表前でしょ?皆で頼んであげるからさ」
「それはもう、無理だって。もう戻れないよ。」
紗耶香は自嘲気味に、しかし強い口調で言った。
「だめか・・・」
「それにね、私だっていつまでも後藤に甘えてばかりじゃいけないってわかってるからさ。
私、後藤からもちゃんと卒業しないといけないなって。」
「そこまでわかってるなら、ちゃんと言って卒業してこい。」
「はい。ほんと情けないね。教育係としてさ。失格だよね。」
「なんかね。親離れできない子供と、子離れできない母親みたいだね」
「ははは・・・面目ない。」
「でもこの事はちゃんと自分で伝えないと。最後の教育係の仕事だぞ」
「うん・・・」
「大丈夫だよ。後藤だってちゃんと話せばわかってくれるよ。うん。」
「そうかなあ」
「そうだって。自分の教え子を信じなさいって。」
紗耶香はようやく安心したように笑っていた。保田はほっとして続けた。
「それに及ばずながら、私だっているんだから・・・辛くなったらちゃんと甘えにおいでよ」
「圭ちゃんにはほんと、最後まで迷惑掛けるね。」
「何言ってんのよ、今までずっと一緒だったじゃない。ほら、約束したでしょ。」
「約束・・・?」
「いつまでも千葉コンビは不滅だって。これからもずっと一緒だって」
「圭ちゃん・・・」
「だからさ、ちゃんと後藤には説明してあげな。きっと分かってくれるって。
なにも永遠の別れでもないんだし、戻ってくるんでしょ?」
「・・・うん」
「だからちゃんと言いなよ。今度の仕事の帰りにでもさ。なんならついていってあげようか?」
「大丈夫。きっと今度は言えるよ・・・いや、ちゃんと話をする。絶対に」
「OK。任せるよ。さて、慌ただしいけど、今日は帰るわ。」
「あ、ほんと、ゴメンね。こんなとこまで来てもらって」
「いつまでも落ち込んでないで元気な紗耶香を皆に見てもらわないと」
「・・・そうだね。うん」
保田は、グラスの水を飲み干すと、席を立った。紗耶香もそれに続いた。
二人は、店の入り口に立って、呼んでもらったタクシーを待っていた。
「紗耶香、卒業した後ってどうするの?」
「まずは休養かな」
「や、休みか、羨ましいな」
「ははは、ゴメンね、自分ばっかりで」
「で、いつまでも休んでるの?」
「まさか、それから勉強して、留学して、できるだけ早く『市井紗耶香』のCDを出すと。」
「おお、大胆な構想だなあ・・・」
「・・・で、同じ日に出す娘。のCDに勝つと」
「ああ、なんだ、こいつ、そんな事考えてたのか?この恩知らずが〜」
「じょ、冗談だって」
久しぶりに笑いあった気がしていた。たかだか1週間も経っていないのに、
ずいぶん久しぶりな気がしていた。きっと紗耶香も、皆もそうだった。
保田は迎えに来たタクシーに乗り込んだ。
「じゃ、またね」
「圭ちゃん・・・ほんとにありがとね」
紗耶香はテールランプが消えるまでじっと、見送っていた。
車は、ゆっくりと大通りを進んでいった。
(夢かぁ・・・)
そう言えば随分と忘れていた気がした。
思えば紗耶香とはずぅーっと一緒に歩いてきたと思う。
追加メンバーとして初めて顔合わせに来た時。
タンポポのオーディションの時。
明日香の脱退コンサートで抱き合って泣いた時。
プッチモニ合宿の時。
いろんな事が思い出された。いろんな事があった。
得た物、失った物、そして現実。その中にもしかしたら置き忘れてきたのかもしれないな。
(紗耶香はエライね。ほんとに。私もそろそろ探し出しておかないとね・・・)
保田はさっき聞いてた次のライブ用に編集したMDを再生し始めた。
再生されて来た曲は、アンコール用の曲、ギターのイントロが聞こえて来た。
保田は映り行く車窓を見ながら、やがて目を閉じた。涙がこぼれないように。
〜悩みの無いような顔をして、そこそこの格好で、
はみ出すのが恥ずかしいから、知らん顔して・・・
真希は加護に付き添ってのレコーディングを終えて、スタジオの前で母親に引き渡した。
昨日から続いていたレコーディングだったが、後藤・加護組だけ翌日も続く事になっていた。
(はぁ・・・教えるのって、ほんとムズカシイよね・・・)
加護親子を見送って自分も帰ろうと、スタジオ内に戻った。
さっきまで閉まっていたスタッフブースから灯かりが漏れていた。
「あ、FAX届きました。はい。で、これっていつ発表なんですか?」
真希はそうっと近づいていった。中ではスタッフが電話をしているようだった。
「そうですね、内容はOKです。発表は連休前くらいでしょうかね?」
(ん?)
「で、16日にメンバーに打ち明けたのは聞いてます。
はい、武道館が最後ってのは打ち合わせのとおりですね。」
(えっ・・・?)
「しかし、脱退とはね〜思い切った事しますよね〜」
(脱退・・・?)
「しかしソロになりたいって、どうするつもりなんだろうな・・・市井はさあ」
「うそっ!」
真希はドアを開けると、スタッフルームになだれ込んだ
「あれ、真希ちゃん。帰ったんじゃなかったの?」
「い、今の話、ほんとですか?」
「ほんとも何も、駅伝の日、皆に説明したって・・・」
「何も、聞いてないです。嘘でしょ?冗談でしょ?」
「いやあ・・・冗談って言われてもさ、これ会社からもらったFAX読んでるだけだからさ」
「見せて下さい!」
真希の予想外のすばやい行動にスタッフは為す術も無くFAX原稿を取られていた。
「うそ・・・うそ・・・」
FAXの文字がぼやけてくる。視界がだんだん真っ白になった。
「おい、真希ちゃん。しっかりしろ!おい誰か車呼べ!早く」
「はい、わかりました。で、どこの病院ですか?」
紗耶香は事務所からの電話を切ると慌てて身支度をはじめた。
真希が倒れたとの連絡だった。紗耶香の鼓動が激しく打った。
紗耶香は部屋を出た。部屋の電気はつけたままになっていた。
病院に着くと、中澤が居た。
「後藤は・・・」
「紗耶香、ちょっと、こっちおいで」
中澤が紗耶香を連れて、別の部屋に入った。いきなり平手が飛んだ
「裕ちゃん・・・」
「あんた後藤にまだ言ってないそうやね?」
「えっ?」
「後藤はあんたの卒業FAXの下書き見てな、倒れたんやって」
「う・・・そ・・・」
「ほんまや。なんでやねん。もうこんなに経ってるって言うのに」
「・・・」
「ごっちんは、さっき意識が戻ったって。」
紗耶香は顔を上げると、中澤を見た。
「でもな。誰には逢いたないって、言ってる。もちろんあんたもや。」
「・・・」
「最悪の事態やな。すこし時間置かないとあかんやろな」
「すみません。」
「紗耶香・・・なんで、なんでこんな事になるんや?」
「ごめん・・・裕ちゃん。全部市井が悪いんだ。」
「とにかくや、今日の所は出直しや。」
「・・・うん、わかったよ・・・」
中澤はマンションに戻ると、鞄をベッドに放り投げた。
冷蔵庫を開けたがお目当てのものは切れていた。
舌打ちすると、グラスに水をついで一息に飲み干した。それでもやりきれなさが溢れてくる。
(もう、どうなってもええわ・・・)
ダイニングの椅子に腰を下ろして頬杖をついた。
不意に陽気な着メロが、唄いだした。
(も、最悪やな。この音)
着メロに悪態をつきながら、携帯を取りあげた・・・
相手を見ると、中澤はいきなり話しはじめた。
「みっちゃん、なんか用?」
「い、いきなりな、ご挨拶やね〜。」
「ゴメンな。今日は虫の居所が最悪やねん」
「聞いたよ、ごっちんの事」
「そうか」
「今、事務所大騒ぎなんよ」
「すんませんね、全部うちの、リーダーの不徳の致すところです〜」
「なんや、荒れてるなあ・・・まさか飲んでるん?」
「残念やけどな。樽ごと呑みたい気分やわ」
「こわ〜。そんなん一人で呑んだら、また何するか分からんから、付き合ったるわ」
「ええって、今から出るのめんどくさいし。」
「いいよ、姉さんとこ、行ってあげるからさ。」
「行ってあげるって、あんた今どこにおるんよ。」
「さぁ・・・どこやろね〜」
「じゃあな、今から10分以内に来れたら、入れたるわ。」
「姉さん、無茶言いますなあ・・・」
「わかったね。10分ね。じゃあ。」
ブチッ。携帯を切るとまたベッドへと投げ込んだ。最悪な日やな・・・
不意に、ドアが叩かれた
「約束通り10分以内に来たよ、開けてよ〜」
「みっちゃん・・・あんたどこから、わいてきたん?」
「失礼なやっちゃな。はいはい、上がらせてもらうからね」
「あんた、まさか家の前から・・・」
「うわ・・・相変わらず凄い部屋やな。・・・これじゃ男もできんわな」
「ほっとんてんか・・・だいたい・・・」
「と・り・あ・え・ず!」
平家が会話を切った。。
「台所と冷蔵庫の中のもん、借りるよ。しばらくあっち行って座っとき」
平家が手早く食事の準備を整え、中澤を卓に招いた。
「さ、どうせ、何も食べてへんのやろ。さ、食べた、食べた。」
「どういう風の吹き回しなん?」
「だいたい前の2回と状況は同じやろと思うたから。そなんやろ?」
「みっちゃん・・・あんたなぁ・・・」
「さ、はよ食べてな。あと、ビールもらうよ〜」
「みっちゃん・・・」
「なに?」
「ビールはな、切れてるねん・・・」
「うそぉ〜絶対あると思ったから、アルコールは買ってこなかったのに〜」
「あんた、相変わらず詰めが甘いな。」
「しゃあない、この平家さんが買ってきましょ」
平家が立ち上がってエプロンを外した時、中澤が不意に立ち上がった。
「ね、姉さん。なんやの?」
平家は中澤に抱き着かれて、そのまま椅子へと落ちた。
「・・・ありがとな・・・みっちゃん・・・ほんまに・・・うちは・・・」
「ね、姉さん。ええねんて。我慢せんでも・・・な。」
平家は中澤の背中をさすると、しばらく膝を、泣き崩れてる中澤に預けていた。
診断の結果、真希は軽い貧血と、過労ということで大事には至らなかった。
幸い翌日はオフだったため、真希は一日静養を兼ねて入院する事にした。
ベッドの上でぼぉーっと真希は天井を眺めていた。
いろんな場面が脳裏を駆け巡っていた。初対面、初収録、初ライブ・・・
合宿での出来事、ツアーを回った事、そしてプライベートで遊んだ事。
いつも市井ちゃんが一緒だった。側に必ず居てくれたっけ・・・
映画撮影の合間、シャッフル、駅伝。
そして・・・あの喧嘩した夜。紗耶香の言葉が、何度も耳に蘇る。
(あの話・・・冗談じゃ無かったんだね・・・)
今脳裏を巡る、数々の出来事から紗耶香の姿が、ずっと消えた気がした。
その度、寝返りを打っては、その声をかき消していた。
メンバーが入れ替わりに見舞いに来てくれていた。ただ一人、紗耶香だけ来てくれなかった。
真希は何度も何度も同じ説明を繰り返し聞いた。その都度生返事をかえしていた。
暖かい励ましが、真希の心に届くのだが、真希は作り笑いさえできなかった。
結局FAXを読んだ時と同じだった。事実として理解しても真実として受け止められない。
直接、話を聞きたい・・・とも思った。しかし今逢うのはとても怖かった。
自分がコントロールできるのか不安だった。
紗耶香の夢は理解していた。
そのために辞めなければならない事情があるのだろうという事も。
応援してあげたい。市井ちゃんの決めた事だから・・・
素直に思う反面、大きな何かが抜け落ちるような、そんな気がしてならなかった。
私がいたら、夢って実現できないの?
市井ちゃんの夢が叶う時、私も一緒に喜ぶことはできないの?
市井ちゃんの想い出からも、私のことは消えちゃうのかな・・・
真希は寂しさと切なさに押しつぶされそうだった。
昼下がり、真希は壁にうつったブラインドのスリットの影が風に揺れてるのを見ていた。
不意にノックが聞こえた。
「うちや。入るよ〜」
中澤と保田が入ってきて、枕元に腰掛けた。
「もう、いつまで拗ねてんの。よう続くね。御飯も食べてへんし・・・」
「お説教なら、聞きたくないもん」
真希は布団を頭から被ったが、中澤に剥がれてしまった。
「紗耶香もね、ずっと悩んでたのよ。あなたと離れるのが嫌だからって」
「・・・だったらなんで辞めちゃうんですか?」
「それはね、紗耶香自身が決めたことだから・・・」
「・・・だったら、どうして私にだけ隠してたんですか!」
「紗耶香も言い出しにくかったんだって」
「・・・だったら、どうして・・・・」
(逢いに来てくれないんですか?)
言葉を飲み込み、顔を背けた。
「ちょっと、あんた、いつまで駄々こねてるのよ、私かてメンバーかてみんな辛いんやで!」
「裕ちゃん・・・ちょっと」
保田は興奮気味の中澤の袖を抑えると、真希に話し掛けた。
「紗耶香ってさあ、強気で自信満々なのってあんたの前だけなんだよ」
真希はまた布団を被ってしまった。何も聞きたくなかった。
保田は仕方なく布団に顔を近づけて続けた
「許してやんなって、あの娘、あんたに嫌われるのが怖くてずっと言い出せなかったんだから」
「・・・うそだもん」
「ほんとだって。ここに呼び付けてさ、とっちめてやりなよ。今までのお返しを込めてさ」
「そんなことできる訳無いないもん。無理だもん。」
「無理ちゃうよ、もう枕元におるやんか。」
真希は無意識に起き上がってしまった。しかし、そこには二人しかいなかった
「嘘?」
「嘘だよ」
保田は言った。真希は起き上がった自分が悔しくて、むくれていた。
「ね、素直になりなよ。今のあんたには紗耶香から直に話を聞くのが一番だから」
「・・・」
「じゃ、ほんとに呼ぶからね、紗耶香入っておいで」
ドアを開けると、紗耶香が入って来た。真希は思わず顔を背けた。
「あの娘な、昨日からずっとここにおるんよ。あほやろ?」
「裕ちゃん・・・」
紗耶香がベッドから離れた所に立って言った。
「じゃ、裕ちゃん、あとは若いものに任せて年寄りは、失礼しましょうか」
「圭坊・・・年寄りはないやろ・・・」
二人が外へ出るとき、中澤が紗耶香の背中をぽんと押した。
沈黙が病室を包んだ。ベッドに座ってる真希と立ち尽くす紗耶香。
「す、座ったら?」
「う、うん」
紗耶香は、枕元へ腰掛けるとカバンの中からいろんな物を取り出した。
「あのさ、何にも食べてないって聞いたから、その辺のもの適当に買って来た。」
「・・・」
「でもね、バナナもあってさ、あの場では出しにくくてさ・・・」
「・・・」
紗耶香はバナナを取り出すと、膝の上に置いて見せた。
真希はじっと黙っていた。困り果てる紗耶香を見るのは初めてかもしれない。
為すすべなく、おろおろといろんな話をしている紗耶香が、可笑しく思えてきた。
「・・・ふふふ」
真希は堪えきれずに、笑ってしまった。
「そうだよね、確かにバナナはまずいよね。裕ちゃんがいたらさ」
真希は紗耶香の方に向いた。が、視線はつい下に向けてしまった。
「お菓子ばっかり・・・?」
「あ、そういう訳じゃ・・・なんか他の物買ってこようか?」
紗耶香は申し訳なさそうに、広げたものを片づけようとした。
「え、片づけちゃうの?」
真希がそれを制した。なんとなくお腹がすいてきたような気がする。
「・・・ちょっとお腹空いちゃった。」
「じゃバナナ、食べる?」
「うん」
紗耶香はバナナをもぐと真希に差し出した。
「だーめ」
「えっ?」
「ちゃんと剥いてくれなくちゃやだ」
「はい、はい」
「ちゃんと食べさせてくれなくちゃやだ」
「・・・わかったよ。はい」
「次は、そのチョコが欲しい」
「あれか?」
「今度は、そこのクッキー」
「これ?」
「えっと、今度は・・・」
「もういい加減にした方がいいぞ、太るぞ」
「あっ、そんな事が言える立場?」
「あ、いや・・・」
しゅんとした紗耶香を見て、真希はまた大声を上げて笑いだした。
つられて紗耶香も笑ってだした。
「いいよ、私に内緒にしてたこと、許してあげる。」
「・・・ゴメン」
「でもね、脱退するのはまだ許してないからね。」
「えっ?」
「罰として、今後オフは優先的に真希と付き合う事」
「はぁ?」
「約束だよ。それから真希が電話したらどんな事があっても必ず出る事」
「無茶苦茶言うなあ・・・」
「じゃないと、明日も休むもん」
「わかりました。ちゃんとでます」
「よし。」
「なにが、よしだよ」
「あ、文句ある?」
「ないです・・・」
「・・・それからね・・・」
「まだ、なんかあるの?」
真希は紗耶香に抱き着くと、胸に顔を埋めた。
「真希は、ずっと、ずっと我慢してて疲れちゃった。だからさ、しばらく・・・」
真希の言葉が続かない。やがて目からは、大粒の涙が溢れ始めた。
ぐしゅぐしゅ泣きじゃくる真希の背中をなでながら、紗耶香は話し始めた。
「ほんとに、ごめんね・・・」
「・・・」
「私がさ、グズグズしてたから、真希の事傷つけちゃったね。」
「・・・ぅ、いいよ。もう、いい」
「教育係としては、あと1ヶ月くらいしかないけどさ、その間よろしくね。」
「・・・ふぁい。」
「卒業してもさ、真希の事忘れないし。うん」
「・・・・さっきの・・・」
「えっ」
「さっきの約束があるもん」
「あ、そうか、そうだね。これからも逢えるんだね」
「守らない時は、どこまでも探しにいくんだからね。」
「おいおい」
「だから・・・絶対に守ってよね」
「うん、わかったよ、わかった。」
紗耶香は、ハンカチを取り出し、真希に差し出した。
真希の鳴咽が収まったころ、紗耶香は背中を叩きながら、話しはじめた。
「真希にはさ、私の夢ね、まだ言ってなかったよね」
「え、前にも聞いたよ。」
「一番最新版の夢。」
「最新版?」
「うーんとね。いくつかあるんだけど。一つはね、自分がつくった曲を自分で歌うこと」
「うんうん」
「で、もう一つは、自分で作った歌を後藤にも歌ってもらうこと。」
「えっ・・・」
「で、私がA面で、後藤のがB面でCDにすること。」
「なによ、それ〜」
紗耶香は真希を起こすと、ブラインドをひねった。夕日が差し込んできた。
「私が教育係をしていた後藤って子はさ。普段はとても鈍くてね。」
「むぅ〜」
「しかも、頭もそんなによくなくて、いつも寝てるか食べてるか」
「ひどいなあ・・・」
「だからさ、ずっと構ってあげたいというか、構ってないと心配で心配で夜も眠れないって。」
「・・・」
「それがね、気がつくと、その娘は随分しっかりしてきたの。それはまあ、相変わらずな
ところもあるよ。でもね市井から見て、構ってあげたい存在から、負けてられない存在に
変わってきた事に、気づいたんだ。それもつい最近なんだけどね。」
「・・・」
「だからね、卒業しても負けないように頑張ろうって。思ってるの」
「わ、私なんか・・・まだまだ、分数も英語もまだまだだし・・・」
「ん?だから、後藤も頑張ってほしいなって。」
「じゃあ、真希も市井ちゃんを見習って、ちゃんと起きるし、教育係も頑張る・・・」
紗耶香は思わず苦笑した。
「まあ、私はあんまり見習わない方がいいかな。」
「なんで?」
「裕ちゃんが、また苦労するからね・・・」
「裕ちゃんが?なんで??」
紗耶香は笑いを堪えることができなくなっていた。
真希は、何を言っていいのか、わかりかねていた。
嬉しいやら、寂しいやら、いろんな感情が一気に溢れ出して、また涙が溢れそうである。
「真希も、ずっと待ってる。市井ちゃんが作った歌を持ってきてくれるの」
「ありがとう・・・でも、」
「でもね、あんまり気が長い方じゃないからさ・・・早くしてね」
「う〜ん、どうでしょ。」
「じゃ今度の私の誕生日までに持ってきて。」
「な、なんで、真希の誕生日なんだよ」
「いいじゃん。それともできないっていうの?」
「う〜ん、まあなんとか・・・なるのかな・・・」
「なんとかしよう!」
紗耶香は笑って答えず、広げたおやつを片づけはじめた。
「市井ちゃん・・・」
「ん?なあに?」
「お腹空いた・・・」
「ああ・・・その食いしん坊なとこだけは勝てないわ」
「ひどーい」
「はいはい、じゃ好きなもの食べなよ」
「・・・食べさせてくれないの?」
「甘えてばっかじゃダメ、自分でしな!」
「・・・明日休む・・・」
「こらこら・・・」
紗耶香におやつを渡されると、真希は嬉しそうに封を開けはじめた。
他愛の無い笑い声が漏れ出したのを聞いて、ドアの外の2人は病室を後にした。
「やっぱあの娘達には敵わんよなあ・・・若いってええなぁ・・・」
「裕ちゃん、オバン臭いよ」
「悪かったね。」
「もう後藤は大丈夫だよね。独り立ち・・・かな?」
「そうやなあ・・・もう大丈夫やろ。大丈夫・・・?」
「ま、不安なところは皆でフォローすると言う事で」
「これからも大変なんかな。あんたも、石川の教育係、ちゃんとすんねんで」
「それは大丈夫。」
保田が振り返って言った。
「あんなに素敵なお手本があったんだもんね。私もあやからないとね」
「圭ちゃん・・・あんた・・・」
「ね、そう思うでしょ」
中澤は微笑んで、一呼吸おいてから、
「ま、まさかあんたまで辞めるとか言うんちゃうんか?やめてよ、そういう心臓に悪い話・・・」
「ゆ、裕ちゃん・・・?」
「ほんま、これ以上年の近い娘がいなくなったら困るし、な。お願いやで・・・」
「さあねぇ・・・そればっかりは、わからないよ、ね?リーダー」
保田は笑いながら、駆け出した。中澤も笑いながら追いかけた。
4月28日
芸能ニュースで「市井紗耶香、脱退」の記事が踊った。
メンバー達は今日の撮影から紗耶香が参加しない事は、承知していたが、
メディアで公表されたという事実が、やはりずっしりと応えていた。
ファンヘの報告は最初に自分の口から言いたいとの希望が紗耶香から出された。
娘の関連番組で、メンバー達は現実を知りながらも、最後まで希望を叶えてくれた。
収録された「プッチモニダイバー」で紗耶香は初めて自分の声で、脱退の意思を表明した。
収録を終えた時、紗耶香はまた一歩進んでしまった。そんな気がしていた。
その後も各地のライブイベント、番組収録と多忙な毎日が彼女たちを待っていた。
メンバー内には、当然感情的なしこりも残っていた。
当然だと思う。すっきり割り切るには余りにも短い時間だった。
救いなのかもしれないのは、余りにも彼女たちが多忙なことと、
新曲の醸し出す独特の雰囲気なのかもしれない。
いろいろな感情を、それぞれの胸に仕舞い込みながら、
ようやくゆっくりとではあるが、ようやく娘。達は何度目かの新しい姿を見せようとしていた。
いつか来るべきその瞬間に向けて・・・
相変わらず、泣き、笑い。新メンバーも巻き込みいろんな問題を起こしながら
娘。達の活動は続いて行く。そう、時を止める術は、紗耶香にも真希にも誰にも無かった。
そして5月21日、日本武道館
一人の娘が、その活動にピリオドを打つ日を迎えた。
「みんな、行くよ。今日はツアーの最後、そして・・・」
「そして?」
「とにかく、気合い入れて最高のステージにするよ、じゃ、頑張っていきま〜」
「しょい!」
輪を解いた時、メンバーは、紗耶香は、笑顔で舞台へ上がっていった。
親愛なる真希へ
お元気ですか?相変わらず寝ぼすけさんですか?
そろそろ夏のイベントが始まる頃かと思います。仕事頑張ってる?
市井は・・・元気です。ほんとだよ。
まず、ごめんね。最後に一つ大きな嘘をついちゃいました。
市井は今休養を兼ねてちょっと旅行に出てます。行き先はロンドンだよ。
留学じゃないけど、お勉強の一巻として。英語・・・まだ全然なのにね。
だから電話も通じなかったでしょ。ごめんね。ちょっとオフにも逢えないね。
本当は私もずっと側にいたかったけど、そうするといつまでもいつまでも真希に
甘えちゃいそうだから、少し時間と距離を下さい。
でもね、今度「市井紗耶香」作の最初の歌ができた時は、それ持って、
一番最初に逢いにいくからさ。ちゃんと連絡先を家に教えておくように。
歌はできたのに、どこに行ったらいいかわからないなんてことにしないでね。
みんなと約束した『ソロデビュー』については、いつになるかはまったくの未定ですが、
必ず、必ず戻ってくるから、気長に待っててね。
圭ちゃん、裕ちゃん、カオリ、やぐっつぁん、なっち、
あと加護ちゃん、辻ちゃん、石川さんに、吉沢さん、メンバーはみんな元気ですか?
よろしくお伝え下さい。
ちゃんと教育係やるんだぞ。いいね。
じゃ、またね。お会いできる日を楽しみに。
紗耶香より
市井ちゃんへ。
もう、また真希を一人にしたなぁ。約束破りの罪は重いぞ〜
今度逢ったら、何をおごってもらうか今から考えておくから覚悟しておくようにね。
とりあえず連絡先はお家の人に伝えて置くし、携帯の番号も教えておくから、
いつの日にかじゃなくて、早く、連絡ちょうだいね。
そうだな。まずは帰国する日がわかったら、必ず連絡下さい。
成田まで迎えに行ってあげるよ。必ずね。
メンバーは相変わらずハードなスケジュールを文句たらたらでこなしてます。
もしロンドンに遊びに行ってるってバレたら、メンバーに怒られちゃうから、
黙っといてあげよう。
新メンバーもやっと慣れたみたいだね。ハロプロのイベントももうすぐだから大変。
いろいろと事件は起こってるんだけど、今度逢った時に全部まとめて話してあげる。
そうそう、新曲も出ます。踊りがまた大変なの。二人分覚えないといけないしね。
ほんと、助けに来て〜、ロンドンに遊びにいきたーい。
後一つ残ってる約束。これだけは絶対に守ってね。うそつきになっちゃうよ。
うそつきは真希も、圭ちゃんも、メンバーもダイキライだからよく覚えておいたほうがいいよ。
みんな仲良くやってます。心配しないでね。
市井ちゃんの言う「いつか」を心待ちに待ってます。
その日が早く来ますように・・・
ではでは真希でした。
P.S.実は日記をつけ始めました。だってさ、忘れちゃうじゃない?
今度逢う時までのこと、ずっと書いとくつもりだから
「すみません、そろそろ出番で〜す。」
「おぉーっし」
楽屋に10人の・・・いや9人の声が響いた。
「あら・・・加護ちゃん、ごっつぁんは、どこ行ってるのかい?」
安倍がおろおろしている加護に尋ねた。
「それが、さっきから見かけないんですよ〜」
「しようがない娘やなあ・・・」
「あ、ちょっと探してきます。」
「そうだ、このまま遅れてきたらさ、今週の罰ゲームは後藤・加護ペアにしちゃおう。ね」
矢口は楽しそうに笑っていった。
「そういや、先週は矢口のとこだったもんね。」
「そうだよ、もう青汁は勘弁して欲しいよ。」
「大変。なっちも手伝うから、加護ちゃん、ごっつぁんを探しに行こ」
「す、すみませ〜ん」
真希は書いたばかりの手紙をマネージャーに渡して、戻ってくる途中であった。
(無事届くといいなあ・・・)
ふにゃーっと笑みがこぼれた時、目の前を加護が駆けて来た。
「真希ちゃ〜ん、よかった〜見つかって」
「ん?どうしたの?加護ちゃん。」
「出番ですって、さっきから呼ばれてますよ。」
「あらら、大変だわ。さ、行こうか・・・」
真希は慌てて走り出した。
「・・・真希ちゃ〜ん。スタジオ、こっち〜」
「あれれ?そうだっけ?」
方向を変えると真希は加護の手を取って、走り出していた。
窓の外から強い日差しが真希の顔を照らす。
初めて紗耶香に出会ったあの夏からやっと一年が過ぎたばかりであった。
End.