「やっぱり、ごっちんか…。」
最近、裕子を悩ましている出来事は決まっていた。真希である。
「尊敬の眼差しが、いつしか愛に…か。」
さすがに、他のメンバーとは経験が違う。的確に事態を理解している。
しかし、その対処法となると、リーダーだからといって、簡単に収まる
とは考えにくいことは確かだった。
「このまんまやと、他のメンバーにも影響するしなあ…。かといって、
はっきりと言うのも…まだ14やから、キツイかもしれへんし。」
それほどまでに、真希と紗耶香の関係は裕子にとって気掛かりな問題として、
常に頭から離れることはない。今は真希からの一方通行な想いだが、紗耶香が
もし、その想いに気付いたら娘は一体どうなるのだろう?今までのような堅い
結束は絶対に結べない。新たに4人が加入してくるというのに、そんな状態で
どんな顔をして歌を歌うことが出来るだろう?
「やっぱり、お姉さんが悪者になるしかないか…。」
半ば諦めたような口調で独り言を言うと、裕子は考えることを辞めた。
ふと、時計を見ると、既に日付が変わって3時間が経とうとしている。
「やばっ!明日、7時集合やった。はよ寝なあかん。」
時計は働くことを止めず、動きつづける。そして、確実に始まりを迎えよう
としていた。
「市井ちゃん! こっちこっち!!」
深めにかぶった帽子とサングラスを掛けたとしても、彼女の溢れんばかり
の光を抑えることは出来ていなかった。
「後藤! あんまり大きな声ださないの!! バレちゃうじゃない。少しは芸能人として
の自覚もってよね。ほんとに分かってないんだから。」
声を掛けられた少女も同様の恰好をしていた。違うといえば、ひどく、ボーイッシュ
であるということだけだろう。はたから見れば、少年に間違われてもおかしくない
ファッションである。
「だってさー。市井ちゃん、来るの遅いよー。私、10分待ったよ。」
真希は頬を膨らませながら、走りながら近づいてくる紗耶香に言った。
「ごめん、ごめん。なんか事故があったみたいで、電車遅れちゃったのよねー。ほら、
私、千葉っ子じゃない。電車が遅れちゃうとどうにもならないのよ。ほんと悪かった。
何かおごるからさ、イイでしょ?ねっ。」
「じゃあさあ、目つぶってよ。」
「えっ!?」
「ほら、早くー。悪いと思ってるなら、目つぶってよー。」
「こ・こう。」
紗耶香も今回は立場が悪い。真希の言うとおりに目をつぶった。
“やっぱり、市井ちゃんってカッコいい。”真希は思わず見惚れてしまった。
「ねえ、もう目を開けていいでしょー。」
紗耶香の催促の言葉に真希は我に戻ると、
「まだだめー。」
と呟き、徐々に顔を紗耶香に近づけていった。真希も自然と目をつむると、
柔らかい唇の感触が二人を襲った。
「後藤!! いきなり、何すんのよー。ビックリするじゃない。」
「へーんだ、遅刻した罰ですよ。ファーストキスも、セカンドキスも女の子
だね。市井ちゃん。」
「あー、また運命の人が遠のくじゃない。もう、私も恋したいのに…。」
「私が運命の人かもよ、市井ちゃん。」
「そんなこと言ってないで、ほらっ!!早く行かないと遅刻しちゃう。後藤急ご。」
そう言うと、紗耶香は走り出す。
「待ってよー、市井ちゃん。私だってファーストキスだったのに…。」
「後藤!!何ブツクサ言ってるの。ホントに遅刻するよ。」
「はーい!!。」
そう言うと、二人の姿は徐々に小さくなっていった。しかし、まさかこの事が
大きな事件に発展するなど、今の二人には知る由もない。
数日後、娘メンバーは相変わらず忙しい日々を過ごしていた。
今日も、そんな一日に過ぎないはずであった。
「おいっ、みんな。ちょっといいか?集まってくれ!!」
突然、娘の楽屋に駆け込んできたマネージャーが叫んだ。
「どうしたんですか?怖い顔しちゃってー。また、ASAYANですか?」
なつみが心配な面持ちでマネージャーに問い掛ける。毎度毎度のASAYANの企画
の数々に悩ませられた過去があるだけに、その指摘はひどく適切なものであった。
しかし、マネージャーの答えはそんな思いをかき消した。
「そんな、生易しいものじゃないんだ。いいからこれを見てくれ!!」
そういって、マネージャーがテーブルに投げ出したのは一冊の雑誌。
「あー今週号の”FOLASH”だー。キラタクと駆動静香、熱愛って、うそー!!」
圭織が興味津々にいち早く雑誌を手に取り、読み出した。
「違う、圭織それじゃあない。真ん中のカラーページを見てみろ。」
「なになに、えー“大人気、モーニング娘。の看板娘、後藤真希と人気急上昇
市井紗耶香の熱烈路チュー“って…あーっ!!真希と紗耶香キスしてるー。」
ページを読んだ圭織が読み上げた声に誰もが驚く。
「これは、どういうことなんだ?後藤・市井。正直に言ってくれ。」
マネージャーも必死で真相を聞こうとする。
「ちょっと待って下さい。」
裕子がマネージャーを引き止めた。
「娘の問題です。ちょっと話させて下さい。二人だけじゃなくて、私達にも至らない
ところがあったんです。お願いします。時間を下さい。」
いつもなら、そんな話に聞く耳を持つはずもないマネージャーであったが、いつもと
違う裕子の真剣な眼差しに圧倒されたのか、少し考えをめぐらせると、
「分かった。中澤、お前に任せる。その代わり、ちゃんと納得するような回答をくれ。」
「それは分かってます。安心してください。」
裕子がそう言うと、マネージャーは楽屋から出て行った。ドアが閉まった音の後に
数秒の沈黙が楽屋に訪れた。そして、その沈黙を破ったのも、リーダーの裕子だった。
「ごっちん。ちょっと話があるから、こっち来て。」
裕子の沈黙を破った言葉に誰もが驚きを隠せなかった。いつもの裕子で
あるならば、年上の紗耶香と話をするだろうと思っていただけに、
何故、真希がという印象をメンバーに抱かせていたのだ
「裕ちゃん、私が話をするよ。後藤じゃあ、まだ説明が出来そうにないし…。」
「紗耶香、いいんや。ウチはごっちんから話をききたいんや。アンタは後でええ。」
「裕ちゃん・…。」
「ごっちん。聞こえたやろ、こっちに来て話してくれへんか。」
「市井ちゃん。私なら大丈夫。ちゃんと話するから。分かったよ、裕ちゃん。」
そう言うと、真希は裕子の後について楽屋を出て行った。
「あんた、自分が何したか分かってるん?」
「違うの!裕ちゃん。これはたまたま遊びみたいなもんだったの…。ホラ、裕ちゃんも
よく矢口っちゃんとかにナッチにキスしたりするじゃない。あれと一緒だよ。」
「ごっちん。あんた、私が分かってへんと思ってんの?あんた、本気で紗耶香
のこと想ってるんでしょ。」
「えっ!?」
どんなに世間の人気を得ようとも、14歳の少女である事に変わりはない。
気持ちが表情に出てしまう。
「やっぱり、図星か。いいか、ごっちん。よう聞いてよ。」
裕子は少し口調を強めて語りつづけた。
「あんたの気持ちは今の娘にとって、マイナスやねん。みんなとの結束にも
絶対に歪みがでてくるんよ。それに…。」
「それに…。」
真希はうつむきながらも、裕子の話が続かないことを不思議がった。
目にはうっすら涙もにじんでいた。
「それに…。紗耶香もあんたの気持ちに気付いてんねんで。私に相談
してきたんよ。“裕ちゃん、どうしよう。私、後藤の気持ちに答えられない”
って言ってきたんよ。ごっちん、聞いてる?本当に紗耶香のこと想ってるん
なら、紗耶香を苦しますことをしていいん?どうなん、ごっちん?」
“市井ちゃんが気付いていた。”今の真希の頭の中はそれ以外の思いは、浮かばなかった。
「いい、ごっちん。紗耶香のことは忘れるんやで。紗耶香はあんたと同じ
メンバーであって、同士とおもってや。決して、これ以上恋愛感情なんて、
抱かんといてほしい。それが、紗耶香の為でもあるんや。今回は私がマネージャー
に話をつけとくけど、次はそうはいかんよ。分かってる。二度目はないよ。」
真希は全く答える気配がなかった。裕子は真希が泣きじゃくるのではないかと
考えていたが、真希は全く泣かなかった。しかも、表情は落ち着いていた。
「…た・…。」
「なに、ごっちん?何て言ったん?」
「…わかったよ…。裕ちゃん。・…。」
そう言うと、真希は楽屋のドアを開けて中へと消えていった。
「嘘つきはドロボウのはじまりか…。私も地獄に行くんかなあ。」
裕子は自分のついた嘘に良心が痛んだ。そして、ただ呟いていた。
「これで良かったんや。これで…。」
週刊誌のスクープで、モーニング娘。全員での記者会見が行われた。
終始、ただの遊びだった事を強調し、ワイドショーのリポーターも、
まさか本気とは思っていないらしく、深く追求する事もなかった。
しかし、真希の表情がどこか曇っていることに気づいていた者は恐らく、
最もそばで見ていた教育係、紗耶香しかいなかったのだろう。
「後藤、どうかしたの?何か悩みでもあるの、相談ならのるよ。お金はないけど。」
茶目っ気ったぷりに、紗耶香が尋ねる。そんな優しさが真希には辛かった。
“どうして、この人はこんなに優しくしてくれるの?”真希には裕子の言葉が
ずっと頭を駆け巡っていた。“どうしよう、裕ちゃん。私、真希の気持ちに答えられない”
市井ちゃんは気ずいている、私の気持ちに。そして戸惑っている。なのにこんなに優しく
してくれる。真希はもう、いつものように紗耶香を直視できなかった。
「う・・・うん。なんでもないよ。市井ちゃん!! 市井ちゃんこそ、私が本気だったと思って
たんで、がっかりしたんじゃあないの?」
真希にとっては、精一杯の嘘だった。
「そうねえ…。ちょっと、がっかりしたかな。…って言ったらどうする?」
真希のそんな姿に安心したのか、紗耶香も明るくジョークを飛ばした。
二人がお互いに笑いあう。そんな二人を裕子は後ろから眺めていた。
「裕ちゃん。あの二人、何ともないみたいだねー。私、てっきりショック受けたのかなー、
って思ってたのに。心配して損した。」
裕子のとなりで真里が話し掛ける。
「まりっぺ。あんた、分かってへんわ。」
「えっ!?どういうこと。」
「私が間違ってたわ・・・…。」
「裕ちゃん、全然答えになってないよー。何が分かってないの?」
真里がどんなに尋ねようとも、裕子はそれ以上答えることはなかった。
そして、この時が真希と紗耶香、二人の関係が劇的に変わる始まりだった。
あの記者会見から1ヶ月余りが経ち、多くの人は真希と紗耶香の事件
について、忘れていた。一部のネット上で二人の関係について言及している
サイトがあるものの、少数にしか過ぎない。
真希も裕子の説得が効いたのか、
あれから、紗耶香とは距離をおくように努力し、紗耶香も教育係としての
役割に一段落付いたこともあって、新メンバーに着くことが多くなっていった。
そんな平穏を取り戻したかに見えたある日、
真希にとって忘れられない言葉を紗耶香から聞くことになる。
「はーい!!今日は突撃、抜打ち持ち物検査をしたいと思いまーす。」
初レギュラーとして臨んだ「ハローモーニング。」も1ヶ月も経つと、
メンバーも要領を得たらしく、バラエティーのツボを抑えていた。
今日はメンバーのカバンの中身を覗く企画である。真希が楽屋にカメラと共に入る。
「あー、だめー。それ開けちゃー。」
スタジオ内の他のメンバーはキャーキャーと声を出しながら、嫌がりながらも
楽しんでいるようだった。
「えー、これは誰のかな? 市井ちゃんですね。」
いろんなカバンを調べた後に最後に紗耶香のバッグに真希の手が伸びた。
「さすが、オシャレの市井ちゃん。小道具が多いです。」
「後藤―。やめろよー。」
紗耶香も嫌がっているものの、クレヨンしんちゃんのマネをしているあたりは
楽しんでいるようだ。
「えっと…クシに鏡、タンブラシに…なんだろこの紙?」
「だめっ!後藤!!それは。」
突然、紗耶香の口調が変わった。明らかに本気で拒否しているようだ。
「へ?何々、英語ばっかりで読めませーん。」
スタジオのメンバーがどっと笑う。どうやら、いいオチがついたようだ。
紗耶香も安心した顔を見せた。収録もそこでキリが良く終了となり、メンバー
が楽屋に戻ってくる。
「後藤―。ちらかしすぎー。ほんとに。」
圭がそういいながら、真希の頭を優しくチョップした。
「へへへ…。」
真希は笑いながら圭のチョップに答える。
「後藤、私のカバンの中の紙、知らない。」
不意に紗耶香が尋ねてきた。圭の口調とは明らかに違う、真剣だ。
「あっ!市井ちゃん。これ、・・・ユニバーシサルって書いてある…。」
紗耶香の顔色が急激に変わった。
「後藤!!あんた、中身読んだの?内容わかったの?」
「い・・・市井ちゃん・・・。」
紗耶香の口調に驚いた真希は、呆然としていた。
「どうなのよ!!後藤!!!ナントカ言いなさいよ!!!」
声を荒げる紗耶香に他のメンバーが近づいてくる。
「さやか、やめーや。あんた。ごっちんも悪気があったわけじゃあないんやし。」
裕子が紗耶香をなだめる。
「一体、なんやのん。この紙?」
裕子が真希の手から紙を取ろうとした瞬間、紗耶香は真希の手をたぐった。
「ちょっと来て、後藤!!。話があるから。」
紗耶香の変貌に驚いた真希の目には涙が流れていた。それに気づいても、
紗耶香は力を緩めない。
「いいから、後藤。こっちに来るのよ!!」
そういうと、紗耶香は無理やり真希を連れて、楽屋を出て行こうとする。
「ちょっと紗耶香―。待ちなさいよ。私たちには秘密なの?」
紗耶香とは付き合いも深い圭が紗耶香に語りかけるも、紗耶香は
「ごめんね、圭ちゃん。」
と呟くと楽屋のドアを開けて真希と共に出て行ったのだった。
楽屋を出て行った紗耶香と真希はスタジオの屋上に上がっていた。
「痛いよ、市井ちゃん。痛いってば!!」
楽屋を出てから、真希は紗耶香に腕を持たれ、紗耶香に着いていくしかなかった。
真希のそんな悲鳴を紗耶香はやっと気づいたのか。
「ご・・ごめん」
というと手を離した。
「市井ちゃん、おかしいよ。どうしたの?今日の市井ちゃん。何かあったの?そんなに
この紙が大切なの。一体なんなの、ユニバーサルってどういうこと?」
真希もさっきの紗耶香の様子には驚いていた。そして、その理由がどうしても
知りたかった。
「真希・・・。約束してくれる?。」
紗耶香がポツリと呟く。
「えっ?」
「お願い。約束してくれる。誰にも言わないって。」
振り返り真希を見る紗耶香の目はじっと真希を見据えていた。
いつもの紗耶香とは違う事は真希にでも分かった。真希もしっかりと紗耶香を見つめる。
それが真希の答えでもあった。
「まさか、後藤に一番最初に言うとはね・・・。」
紗耶香は耳にかかった髪をかきあげると、独り言のように喋りだした。
「実はね、私・・・留学しようと思ってるの?」
「えっ、留学・・・・・・・・・。」
真希は言葉の意味を理解する事が出来なかった。
「そう、私言ってたじゃない。“留学したい”って。初めの頃は漠然とした
思いだったんだけど、最近感じるんだ“本気でしたいこと”ってなんだろう
って。娘は私にとって大切なものよ、何よりも大切。だけど、後藤は知らない
と思うけど、明日香の言ってたこと頭に浮かぶんだ。“大切でも捨てなきゃな
らないものがある”やっとこの意味が分かってきた気がするんだ。だから、
チョットづつ英語の勉強して、頑張ってたんだ。それで、この前の留学適正試験
に合格して、向こうの大学から、入学のための書類が送られてきてたんだ。
ホラ、後藤が今持ってるのが大学が送ってきた書類。あとはサインして
大学に送るだけ。まあ、大学も、もう一回選抜するから分かんないけど、
もし、合格したら新しい道を踏み出そうと思ってるんだ。」
紗耶香が話し終わって、真希を見ると真希の眼からは止めどなく涙が
流れていた。
「留学ってどこなんですか?。」
泣きじゃくる真希がなんとか口を開き、呟く。
「イギリス・・・。遠いよね。」
「娘は・・・。」
「脱退・・・かな。」
「イヤッ!!」
今まで聞いたことのないような、叫び声に紗耶香は驚いた。
「後藤・・・。」
「イヤです!!絶対にイヤ。そんなの卑怯だよ。市井ちゃん言ったよね?
私に言ったよね。“私が教育係だから、何でも聞いて”って。私、まだ沢山
分からないことあるし、まだまだいっぱい市井ちゃんからいろんなこと聞きたい。
なのに留学だなんて・・・。ウソツキだよ。そんな市井ちゃんなんて大嫌いだよ。
いなくなるんだったら、あんなこと言わないでよ。優しくしないで、冷たく
していて欲しかった。」
「ごめんね、後藤。でも、私も沢山悩んだよ。いっぱいいっぱい悩んで眠れない
日もあった。その中で出した答えがこれなんだ。言い訳なんてできないけど、
後藤がいるから、私も留学が考えられたんだと思う。」
「私が、」
「うん、後藤が加入してきた時って、正直言って娘のテンションは
最悪だった。みんな明日香の抜けた分を自分が補おうと必死にがむしゃら
してた時に、後藤が加入してきた。初めは、嫌だったよ。何か、娘が汚される
気がして・・・。でも、私が教育係でいろんな事を教えてた時に気づいたんだ。
明日香の分を補うんじゃあない。新しい後藤の力を引き出すことが娘には
プラスだって。だから、私も後藤にすべて教えようと、チョット可哀相だった
かもしれないけど、厳しく接したんだ。それでも、後藤は頑張ってくれた。
その時に感じたんだ。後藤がいれば娘は大丈夫って・・・。一人よがりだよね。
でも、その時にやり終えたっていう、充実感っていうのかな、なんかあったん
だ。私がいなくても、後藤の中には私がいるって。だから、決断できたんだ・・・。」
紗耶香の顔は晴れ晴れとしていた。そんな紗耶香を見て、真希は何も言えなかった。
「・・・つなんですか?」
「えっ?後藤、なんて言ったの?」
「娘のみんなには、いつ打ち明けるんですか?」
真希は必死で溢れ出る涙をこらえながら、口を開いた。
「武道館までは、私のことで他のみんなに波風立てたくないから・・・、その後・・・。」
紗耶香の最後まで娘を思う気持ちを知ると、もはや真希の涙は理性では
どうしよもなかった。紗耶香は優しい顔で真希の髪をなで始めた。
「後藤、あの紙にはユニバーサルじゃなくて、ユニバーシティーって
書いてあったの。相変わらず、英語ができないなあ、後藤は。」
笑顔で紗耶香が真希につぶやく。
「お願い、それでなくても今の娘は新メンバーでチョット浮ついてる
から、この事は絶対に言わないで。それが最初で最後の後藤へのお願い。」
紗耶香はやさしく真希の髪をなでつづけた。真希の涙はやっと収まりかけていた。
「・・・うん・・・わかった。」
そう呟くと、真希は紗耶香に背を向け、ドアへと近づいていった。
「大丈夫、後藤?なんなら、私がみんなには何とか言っとくから、
落ち着くまで、休んでたら。」
“甘えちゃ駄目だ”真希は念じつづけた。弱いとこなんて見せちゃ、紗耶香さん
の負担になる。
「大丈夫だよ。市井ちゃん!私も、もう娘最年少じゃあないんだよ。
いつまでも子供扱いはやめてよー。」
真希は一生懸命笑顔をつくった。それは、悲しいほどに美しい微笑みだった。
真希は屋上から去っていった。
まだ4月だというのに、心地よい風が吹き渡っていた。
「後藤・・・ありがと。」
一人屋上で、紗耶香は囁くと、風に遊ばれる髪をかきあげながら、
遠くのほうを見つめていた。
時は光のように過ぎていった。いつのまにか、日にちは
ゴールデンウィークを過ぎ、モーニング娘。初の武道館公演まで、
あと3日迫っていた。
「ねえ後藤、後藤ってば!!。」
リハーサルのインターバル。疲労のあまり座り込んでいた真希の
後ろから、圭が呼びかけた。
「あっ!?どうしたの?圭ちゃん?」
「あんた、頑張り過ぎだよ、最近。チョット前まで、努力知らず
だったのに・・・。何かあった?」
「えっ・・・べ、別に何でもないよー。・・ホラ、新メンバーも入ってきたし、
お姉さんらしいところを少しでも、見せないと・・ネ。」
「ふーん。あんたもやっと自覚が芽生えたんだ・・・エライエライ。
でも、ホントにみんなが凄いよねー梨華が言ってたもん。
“保田さん、どうしてあんなにみんな頑張れるんですか?”って。
武道館だもんね、頑張るのは当たり前だけど・・・。紗耶香は凄いよね。」
真希の表情が一瞬曇った。それは、真希にも分かっていたことだった。
確かに自分は紗耶香の告白を聞いてからというもの、必死に頑張った。
頑張って頑張って、頑張りぬいた。でも、それでも紗耶香の頑張りには
真希も正直言って驚きの色は隠せなかった。
連日の居残っての自主練習・移動のバスの中でも一人、ウォークマンで
歌の練習・教育係をまかされていないものの、新メンバーへの熱心な指導。
他のメンバーには普通の一生懸命にしか映らない姿であったが、真希には
堪えられない姿であった。
「ほんと、なんかさー。今の紗耶香みてると、LOVEマシーンの時の
彩っぺ思い出すのよねー。」
物思いにふけっていた、真希の横で圭が呟いた。
「圭ちゃん!馬鹿なこと言っちゃ駄目だよー。そんなことがある訳ないじゃん。」
真希は我に返ると、背中をたたきながら、圭に言った。
「そうよねー。そんなことないよねー。もし、紗耶香が脱退したら、
私、自殺しちゃうかもね。」
インターバルが終了し、圭も立ち位置に戻る。笑いながら手を振った
真希ではあるが、心中は穏やかではなかった。
“ホントに市井ちゃんがいなくなっても、大丈夫なんだろうか?
圭ちゃんのあの言葉、大袈裟じゃない気がする・・・。いけない!市井
ちゃんのためにも私がしっかりしないといけないのに、こんなこと考え
てちゃ駄目だよ。本当に市井ちゃんが好きなら、笑顔で見送らないと。”
あの告白以来、真希は涙を流していない。それは確実に彼女を強くして
いた。そして、遂に武道館公演が迫ったきた。
「モーニング娘。のみなさーん。そろそろ準備お願いします。」
楽屋内は、これほどまでにないくらい緊張の糸が張り詰めていた。
新加入メンバーにとっては、初めての娘デビュー。他のメンバー
にしたって、念願の武道館である。緊張しないほうがおかしいという
ものだ。だが、真希の緊張はそれが原因ではなかった。
“今日で、市井ちゃんとお別れ・・・。明日になれば、みんなも知るんだ。
市井ちゃんの留学を・・・。”
真希は前日、初めて眠れない夜を体験していた。今までの紗耶香との
様々な思い出が頭の中を駆け巡った。新加入時から、プッチモニでの活動。
写真週刊誌に写真を撮られたこと・・・。そして、予期していなかった告白。
思い出を整理するには一夜は短すぎる時間だった。それでも、真希は整理した。
思い出を。そして、自分の気持ちを。
「なんだよー、みんなー。そんな顔しちゃってー。もっと笑えよー。」
紗耶香が十八番のクレヨンしんちゃんの物まねで話し出した。
「みんな。私、市井紗耶香は今日のコンサートがどんなに最悪なものになって
も、モーニング娘。にいることを誇りに思います。」
「なにー紗耶香―。なんか、脱退するみたいなこといってー。」
真里がすかさず、ツッコミを入れる。
「ばれたー。実はさー。電撃結婚で脱退しようかなって。」
紗耶香の言葉に楽屋内がどっと沸いた。新メンバーも笑っている。
「紗耶香、ありがと。ほんまなら、私がその役やらにゃあいけんかったのに。」
裕子が紗耶香の肩に手も置きながら言った。
「ええかー!みんな。今までやれることはやったんや。絶対に成功する。
私が言うんやから絶対や。緊張しててもはじまらへん。いっちょ娘魂みせようやんか。」
裕子が叫ぶと、右手を前に出した。メンバーも手を差し出す。新メンバーも
見よう見まねで、手を差し出した。
「ほら、後藤。いつものヤツ。」
紗耶香はそう言うと真希の右手をもって中央に置く。
「最後まで、世話やかせるなあ。」
真希の耳元で紗耶香が呟く。
「えっ!?。」
「みんなーがんばんてーいきまっしょい!!!。」
裕子の掛け声とともに一斉に叫んだ。
「それでは、セッティングお願いしまーす。」
公演を知らせる、長いブザーが鳴った。
「後藤、良いコンサートにしようね。」
紗耶香がポツリと呟いた。
「・・・ハイッ!!」
真希は精一杯の強がりを見せた。そして、幕は上がった・・・。
「すいません。変更したいんですけど・・・。」
「ちょっと待てよー、真希ちゃん。あのね、コンサートの楽曲変更なんて、
できることじゃあないの。分かってる?ここじゃあ1日公演で終わるけど、
セッティングには1ヶ月以上かかるの。それを突然曲を変更したいって言われても・・・。」
今回のコンサートの目玉の一つに、メンバーそれぞれ一曲、ソロでカバー曲を
歌うという趣向があった。真希の突然の変更の申し出に、コンサートスタッフ
は慌てふためいた。
「どーしても、お願いします!!この曲じゃないと駄目なんです。」
真希は必死にすがりつく。
「真希ちゃん、どうしてなの?「Automatic」で良いって言ってたじゃない?
宇多田ヒカル大好きって言ってたのに・・・なんでまた。」
スタッフも今からではどうしようもない。説得に躍起だ。
「理由は・・・聞かないで下さい。どーしても、この曲でないと駄目なんです。」
「・・・・・・おいっ!!。」
スタッフが一人のディレクターを呼び止める。
「あの・・・なんですか?」
「真希ちゃんのソロコーナー。何分後だ?」
「えっとですね・・いま、飯田さんですから・・・あと、20分くらいですか?」
「ソロコーナーのトリは誰だ?」
「安倍さんですけど・・・。」
「変更だ、真希ちゃんをトリにする。それと、至急、他のスタッフを集めろ。
楽曲変更だ!。」
「ありがとうございますっ!!ありがとうございますっ!。」
真希は何度も何度も頭を下げた。
「真希ちゃん、良いんだよ。ファンにより良い音楽を伝えるのが、
おれたちの勤めなんだから。」
照れくさそうにスタッフが笑う。
「それで・・・変更曲は何なの?」
「これなんですけど・・・。」
そっと一枚のCDをスタッフに渡す。
「真希ちゃん、恋してるね?」
「そ・そんなことないです!!」
顔を真っ赤にしながら否定する真希。
「いいんだ、いいんだよ。後は任せとけって。その歌、伝わると良いね。」
「ハイッ!」
そう言い残すと、スタッフは駆け足で走り去った。
「真希・・・がんばっていきまーっしょい!!。」
そう廊下で叫ぶと、真希はステージ袖に向かった。
「みんなありがとう!安倍なつみでしたー。」
大きな歓声とともに、なつみがステージ袖へ入る。
「ナッチ。ごめんなさい!本当だったら、なっちがトリだった
はずなのに・・・、私のワガママでこんなことに。」
袖に戻ってきた、なつみに対して、真希は謝り続けた。
「後藤!いいんだって。そんな順番なんか。一番大切なのは、
ファンの人に喜んでもらえるってことでしょ。話は聞いたよ。
いつも、おっとりの後藤が無理言うんだから、きっと何かあってでしょ。」
「ナッチ・・・。」
「頑張っておいで。ファンのみんなも待ってるから。」
「ウン!ありがと。ナッチ。」
「いけなーい。早くしないと衣装替えだー。」
なつみはそう言うと、足早に控え室へ走っていった。
袖に一人残された真希。言い知れぬ不安が彼女を襲う。
「真希ちゃーん!セッティングOK。がんばってねー。」
スタッフの一人が真希に向かって叫んだ。
手に“人”という字を3回書くと、真希はそれを飲み込んだ。
初めてステージに立つ時、緊張していた真希に紗耶香が教えた
おまじないだった。
袖から一歩踏み出した真希。館内からは大きな歓声がおきる。
そして、ファンの間で語り継がれるシーンを目のあたりにすることになる。
今までに体験したことのない大観衆。真希は圧倒されそう
になったが、踏みとどまった。
「こんばんわー。モーニング娘。の後藤真希でーす。」
ウオーーーー。武道館に大歓声がこだまする。
「皆さん、メンバーのソロコーナーも私で最後ですけど、
聞いてください。」
「ところで、皆さん。今恋してます?」
真希の言葉に一瞬、館内が静まった。しかし、その後
とてつもない声の嵐が降り注いだ。
「みんなの好きな人って、どんな人?」
「真希ちゃーん。」
真希の問いかけに、答えた一人の歓声に館内は沸いた。
「ありがとうー。私もね、実はとっても、とっても好きな人
がいるんだ。」
「エッー!!。」
このような恋愛宣言をすれば、誰でも驚くはずだ。武道館も例外ではなかった。
「はじめはね・・・実を言うと、あんまりなじめなかったんだ。冷たい感じがして。
でも、どんどんその人のことを知るようになって、実は優しい人だってことに
気づいたの。そして、いつの間にか好きになってた。大好きで、大好きで
苦しいくらい大好きになっちゃて。もう、どうしようもなかった。」
場内は恐いくらいに静まり返った。普通であるならば、邪魔を入れる声が
観客からあがるものであるが、真希の真剣さが伝わったのか、真希の次の
言葉を待った。
「でもね・・・その人と、もう会えなくなっちゃうことが分かったの。ある日突然。
目の前が真っ暗になった。何にも考えられなかったし、考えようともしなかった。
でもね、その時、言ってくれたんだ“お前がいるから遠くに行ける”って。
悲しいけど、嬉しかった。涙が出たけど、たまらなく嬉しかったの。そしたら、
気づいたんだ。まだ、本当に“好き”って言ってないって。・・・・。」
超満員の武道館が凪いでいた。そして真希は続ける。
「本当はね。今日のソロコーナー。別の歌を歌うはずだったんだ。でもね、
無理言って、今から歌う曲に変えてもらいました。多分、その人もこの曲を
どこかで聞いてると思います。だから、この歌で私の気持ちを知って欲しい。
それでは聞いてください。」
聞き覚えのある旋律に場内が一瞬沸いた。そしてその後を静寂が駆け抜ける。
そして、真希は歌った。
♪ねえ、どうしてー すごくすごく 好きなこと ただ伝えたいだけ なーのに♪
♪ルールルールルー 涙がでちゃうんだろうー。♪
♪ねえ、せめてー 夢であいたいと ねがう ときにかぎーて 一度も♪
♪ルールルールルー 出てきてはくれないね。♪
そこには手拍子もなかった。歓声もなかった。歌声だけがあった。
「ねー、後藤はどうして“Love Love Love”なんて選んだんだろーね。
紗耶香、聞いてる?紗耶香ってば!!」
次の出番のスタンバイのため、袖で待っていたメンバーの中で圭織が言った。
「後藤・・・覚えてたんだ・・・。」
紗耶香は独り言のように呟く。
「なにー紗耶香、圭織に分かるように説明してよー。」
もはや、言葉は紗耶香には届いていたなかった。紗耶香は記憶の海の
中のある場面にいた。
「市井ちゃん!市井ちゃんの好きな芸能人って誰?」
それは、屋上での告白をした数日後のことだった。
「えっ!突然なによー。後藤。」
「なんか急にさ、市井ちゃんの好きなタイプって誰なんだろうって
思ってさ。」
「ふーん。私が好きな芸能人って言ったら、やっぱりドリカムかな。」
「ドリカム?何それ?」
「後藤!あんたドリカム知らないのー!!仕方ないか、あんたには常識
通用しないもんね。」
「あー、馬鹿にしたー。知らないんだから、市井ちゃん教えてよー。」
「あのね、ドリカムっていったら、まあ、バンドね。女の子1人に男の子2人
のグループなの。」
「ELTみたいなんだ。」
「・・・まあ、そう思ってて。とにかく、歌がうまいのよ。“Love Love Love”って
曲があるんだけど、本当に最高なんだから。」
「市井ちゃん、そのCD持ってる?」
「もちろん、それがどうかした?」
「ねえ、貸してくれない?」
「えー!!? 後藤に貸すの?あんたに貸すとロクなことにならないんだよねー。」
「お願い!どーしてもその曲が聞きたいの。一生のお願いです市井様―。」
「分かった、分かった。後藤、貸してあげるから。」
「ねえ、市井ちゃん。もし覚えたら歌ってあげるね。」
「後藤が歌うのー? なんかイメージ崩れちゃうな・・・。」
「あーそんなこと言って。絶対に泣かすんだから。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
武道館は異様な空間になっていた。
真希の歌声に誰もが息を呑んでいる様相はもはや儀式のようで
さえあった。
♪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・♪
突然、歌が途切れた。館内がざわめく。そして観衆はその訳を知る。
真希が泣いていた。あの紗耶香の告白以来、まったく涙を流さなかった
真希の頬を涙が伝った。その涙に一番驚いたのが、真希であった。
枯れ果てていたと思っていた涙が溢れ出し、止め処もなく流れ出る。
もはや、歌える状況ではなかった。
号泣する真希。普段であれば、観客からの「ガンバレ」の声援が
飛んでくるはずであるが、誰も言葉を発しなかった。
真希はこらえきれずうずくまる。
メロディーは静かに流れつづけていた。全てを知っているかのように。
♪愛してるー 愛してるー ルルルールルーねえどうして♪
♪涙がでちゃうんだろー♪
新たな歌声が聞こえてきた。やさしい歌声が館内に新たな息吹を吹き込んだ。
「後藤、教えただろ。泣くんだったら、人のいないとこで泣けって。」
泣きじゃくる真希が顔を上げると、そこには紗耶香がいた。
「い・・市井ちゃん・・・。」
「プロだったら、最後まで歌わないとな。新メンバーにも笑われるぞ。」
「・・・・一緒に歌って良いかな?」
紗耶香が真希に問い掛ける。
「えっ?」
「私にもさー気になる人がいるんだよね。ソイツは泣き虫で、努力しないし、
すぐに頼ってくるんだ。でも・・・・たまらなく好きなんだ。そいつのことが。
そいつも多分、どこかでこの歌聞いてるはずなんだよ。だからさあ・・・。
歌っていいかな。」
後藤はただ、コクリとうなずいた。そして、紗耶香の手を借り、起き上がると、
涙をぬぐい歌い始めた。
♪Love Love Love 愛をさけぼう 愛をよぼうー♪
♪Love Love Love 愛をさけぼう 愛をよぼうー♪
「ねえ、裕ちゃん、私たちも歌おうよ。」
ステージ袖で真里が裕子にせがむ。
「まりっぺ、やめとこ。ここはあの二人にまかせようや。」
「えー裕ちゃん!行こうようー。」
「だめや、ウチが許さん。」
裕子はステージの二人をじっと見つめた。そして、ポツリと呟いた。
「地獄にはいかんで、いいみたいやなあ。」
武道館でのコンサートは大成功に終わった。翌日のスポーツ紙でも
大きく取り上げられ、ネット上の娘関係のサイトにも、多くの書き
込みがされた。一部では、真希の好きな人が紗耶香ではないかという
憶測も飛び交ったが、一笑に付されるだけだった。
真希にとって、全てが夢のような一日が終わった。あの後、自分が一体
何をしていたのか全く覚えていない。紗耶香とともに、歌い終わった後、
気づくと自宅のベッドで寝ている自分。一体、あの後に何があったのか。
そんなことは真希にとってどうでも良いことで、紗耶香とともに、最後に
歌を歌えたことが何よりもの幸せであり、これから始まる辛い現実の始まり
にも思えた。ふと、時計を見ると真希は我に返る。
「いけなーい。今日はASAYANの収録日だったー。」
急いで用意をする真希。そして、朝食も食べすに家から飛び出す。
「今日、紗耶香さんは言うんだろうか?」
悲しい独り言を呟くと、真希は収録スタジオへ急いだ。
「すいませーん。おくれましたー。」
「あーはずれた!後藤がビリだと思ってたのに・・・。」
悔しそうに圭が呟く。
「えっ!私が最後じゃないの?誰、一番の遅刻魔は誰?」
そういって、楽屋を見回すと紗耶香の姿がない。
「市井ちゃんだ・・・・。」
「珍しいよねー。紗耶香って遅刻なんて滅多にしないのに。」
なつみが誰ということもなく語り掛ける。
“今日なんだ・・・”真希はとっさに感じ取った。確信も何もなかったが、
何故か今日のように感じられた。
「どうしたの?後藤、顔色悪いよ。」
「あっ!かおりん。何でもないよないよ。別に、ちょっとお腹が空いただけ。」
「なにー。もうお腹空いたのー。相変わらず後藤は食いしん坊だなあ。」
あきれた声で圭織が言う。よかった。バレずにすんだと真希は胸をなでおろす。
ガチャ。
ノックもなくドアが開いた。全員がドアを見つめる。
「ごめんなさい。遅れちゃって。」
「紗耶香、おそいー。後藤よりも遅いじゃん。ダメだよ、まだ教育係なんだから。」
圭の言葉は真希にとって辛かった。もう、あと少しで、私の教育係はいなくなる。
そう思うと、堪らなく胸が痛くなる。
「チョット・・・ね。」
紗耶香の口調がいつもと違う。それにはメンバーの多くが気づいていた。
「実は・・・大事な話があるんだ・・・。先ず最初にメンバーのみんなに言いたくて。」
紗耶香の真剣な眼差しにメンバーも化粧や、間食、世間話を止めて紗耶香を見つめた。
「市井ちゃーん、遅いよー。教育係なのに私より遅く着てどうするの。」
「後藤・・・。」
「これじゃあ、どっちが教育係か分かんないよ。」
「後藤・・・。」
市井の呟きにも後藤は耳を貸さなかった。いや、貸そうとしなかった。
「こんな調子じゃあ、私が市井ちゃんの教育係かなあ。」
「後藤っ!!!大事な話なんだ・・・真剣に聞いて欲しい。」
いつもは、怒ることはあっても、声を荒げるなど見たこともなかった紗耶香の
口調に後藤も口を閉じざる得なかった。
「本当なら、みんなにはもっと早く言うべきだったんだ・・・。でも、なんだか言うのを避け
てたみたいで・・・。でも、昨日の武道館でキッチリしなきゃって思ったんだ。だから、今日
言うよ・・・。」
ドク・ドク・ドク・・・・。真希の鼓動が高鳴る。遂にこの時がきてしまった。ささやかな
抵抗も何の意味ももたないと分かった以上、今の真希には事態を見つめるしかなかった。
「実は・・・・私・・・・・東京で一人暮らし始めましたー!!!」
「へ?」
メンバー全員が、狐につままれたような声を出す。
「ホラー、今まで私、実家の千葉から通ってたじゃない。それって結構大変なのよねー。
だからさあ、思い切って東京で一人暮らしすることにしたの。これからは、千葉っ子なん
て呼ばないでよ。圭ちゃん、ごめんね。千葉っ子同盟続けるって約束してたけど、やっ
ぱり東京の方が便利だから・・・。」
「ほな、なんで今日遅刻してきたんや?」
声も出ないメンバーを尻目に裕子が尋ねる。
「山手線乗って、スタジオ行こうとしたら、間違って逆回りの電車乗っちゃってさー。
いくら待ってもつかないのよねー。ビックリしちゃった。」
「それだけ?」
真里が尋ねる。
「うん。それだけ。」
楽屋内に安堵の空気が流れた。
「ビックリしたー。脅かさないでよ、紗耶香。私あんまり紗耶香が真剣だから、脱退する
んじゃあないかと思っちゃった。」
「圭ちゃん、やめてよー。私がいなくなったら娘やっていけないじゃない。
第一、誰が後藤の教育係をするのよ?ねえ、後藤。」
真希には未だに事態が掴めずにいた。
「後藤ってば、後藤!!・・・あー、まだ寝ぼけてるな?よし、私が気合を入れよう!!
後藤ちょっと来て。」
紗耶香はそういうと、真希の腕を掴んで一緒に楽屋を出て行く。真希は未だに
飲み込めてないようだ。
ガチャン。楽屋のドアを開けると、二人は楽屋から出て行った。
「ほんとに、ビックリさすなー。紗耶香も。」
「ホントだよね、裕ちゃん。ショックはお年寄りの心臓には悪いからね。」
なつみが笑いながら裕子に喋りかける。
「ナッチ、あんた本気か冗談か分からんところが怖いわー。」
笑顔と甲高い声に包まれる楽屋。そこにはいつもと変わらない風景があった。
「後藤!後藤ってば。」
屋上に真希を連れ出した紗耶香であったが、いくら呼んでも真希に反応はない。
頬を軽く叩いても、全く気づく素振りを見せない。
「・・・がくは・・・。」
真希の口からでたかすかな声は紗耶香には完全には聞こえなかった。
「後藤?何?なんて言ったの?」
「留学はどうなったんですか?」
それを聞くと紗耶香は屋上の手すりに手を掛け、景色を眺めていた。
「あ・・あれ、・・・・実は・・・・・落ちちゃった?」
「えっ!!でも、ほとんど決まったって・・・・。」
「そう思ってたんだけどさ・・・、なんか最終段階になって突然、物理学の試験
があるって言ってきたんだもん。出来るわけないじゃない?算数が大嫌いなこの
私にっ・・・・て、後藤?」
紗耶香が振り返ると、真希は座り込んで泣いていた。恥ずかしげもなく
声を荒げて泣いていた。
「ごめんね・・・あんたに、よけいな負担かけちゃって・・・。ホントにごめん・・・。」
紗耶香はそう言うと自分も座り込み、真希と同じ目線になった。
「なくなよー、後藤。」
クレヨンしんちゃんのモノマネも無力なようだ。
「後藤・・・、あの歌、ちゃんと届いたのかな?」
突然の質問に真希は驚いた。
「う・・歌って?」
「ホラ、昨日歌ったじゃん。後藤、好きな人のために歌ったって言ってたじゃん。
届いたのかな、その歌、その人に・・・。」
「・・・わ・・・わかんないです。」
やっと涙が収まると、真希は答えた。
「そうか・・・。私は・・・私の好きな人には届いたと思うよ、きっと。一番近くで聞いてた
ような気がする。・・・後藤も、・・・後藤の思いも届いたと思うよ。・・・多分。もしか
したら、一番近くで聞いてたかもよ。」
「市井ちゃん・・・。」
「でも、私の好きな人は、まだまだ泣き虫だけどね。」
そういうと、紗耶香は真希に顔を寄せていった。上空を飛行機が飛んでいる。
その中で、二つの唇は言葉を発することもなく、ただ重ね合わされている・・・・。
夏はもうすぐ目の前に来ていた。
「お疲れ様でーす。」
長い一日が終った。娘達もさすがに今日は疲れているのか、誰も声を出す気力もない。
「じゃあ、今日はここで解散ね。時間も時間だし。各自、タクシー券渡すから、それ
で帰るように。」
マネージャーの声が響く。
「はーい。」
元気のない11人の声が返ってきた。
「じゃあ、帰りますか。」
「裕ちゃん、やっぱり年寄りにはきつかった?」
「だから、ナッチ。あんたが言うとシャレにきこえんのよ。」
相変わらずの掛け合いだ。真希の顔から笑顔がこぼれる。
「お先にー。」
次々とメンバーが帰っていく。タクシーが来るのが遅いらしく、順番待ち
を食らわされていた。裕子・圭・なつみ・圭織・・・・年齢にタクシーに
乗り込む。
「じゃあね、みんな。おさきー。」
紗耶香の声がした。楽屋のドアを開けて出て行く。その時
梨華が何かを見つけていった。
「あー、これ市井ちゃんのじゃないかなー。」
真希が振り返ると梨華の手には、封筒が握られていた。
「今なら、まだ間に合うかなー。私、届に行ってきます。」
「いいよ、梨華ちゃん。」
真希が叫んだ。
「私が渡すよ。みんな疲れてるでしょ。すこしゆっくりしとかないと・・・。」
「でも・・・。」
梨華も申し訳なさそうに呟く。
「いいから、いいから、私が届けたげるから。」
そう言うと、真希は梨華の手から封筒を取ると、楽屋を勢いよく出て行った。
「あーあ、本当は私が渡したかったのに・・・。」
梨華は独り言のように言うと、座り込んだ。
「市井ちゃーん!!市井ちゃーん。」
ロビーを出て、真希は紗耶香の姿を探すが、間一髪でどうやら行ってしまったらしい。
100m先に小さく車のランプが見える。
「あーあ、いっちゃった・・・・。チェ。」
紗耶香がいなくなってみると、一体封筒の中身が何かが気になりだした。
「チョットぐらいならいいよね。」
そう言い聞かせると、真希は封筒の中身を取り出した。
「手紙か・・・ゲッ!英語だ。」
これでは読む事が出来ない。手紙を収めようとした時、一人のADが目の前を
通り過ぎた。
「あ・・あの、すいません。」
「は・・はい・・・あっ!後藤さん!!お疲れ様です!!!。」
「あのー英語って分かります?」
真希が尋ねる。
「英語・・・ですか。ハイ、一応外国語大学出てるんで、英語ぐらいなら・・・。」
「じゃあ、これってなんて書いてあるか分かります?」
真希はそう言うと、封筒からもう一度、手紙を抜き出し、ADに渡した。
「これですか・・・読んでいいんですか?いいですか、いきますよ。えー
“親愛なるイチイサヤカさま 今回の留学に関して、あなたの意気込みと
能力には、大変目を見張るものがあり、是非とも我が大学に入学して
頂きたかったのですが、突然の辞退は真に残念で仕方ありません。しかし、
自分の夢のため、そして、何物にも変えがたい存在のためというあなたの
強い意思を聞く限り、何を訴えかけたところで無駄だとおもいます。しかし、
もし、もう一度わが大学で学びたいという思いが生まれたのであれば、いつ
でも私達はあなたの入学を待っています。それでは日本でのご活躍を願いな
がら、この手紙の結びとさせていただきます リバプール大学学長・・”
って、後藤さん、どうしたんですか?止めて下さいよ、ボクが泣かしたと
思われるじゃあないですか、そんなに泣かないで下さいよ・・・・。あっ、
プロデューサー!違うんです。これは・・・その急に後藤さんが泣いちゃって・・・
後藤さん!!泣くの止めて下さいよ。泣きたいのは僕の方ですよ・・・。」
「ただいまー。」
「お帰り、明日香。早かったのね?」
「うん、母さん。今日は試験だから午前中で学校は終わり。」
「そうなの・・・お昼すぐ作るから。すぐ降りてらっしゃい。」
「うん。分かったー。」
二階の自分の部屋へ上がった明日香は早速、パソコンでメールをチェックする。
「えっと・・・あっ! 紗耶香からだ。」
自分がいなくなって、1年余り、同じステージに立つことはなくなったが、今でも、
こうしてメール交換は欠かさない。
Dear 明日香。
お元気ですか?娘は相変わらずドタバタです。新メンバーも増えて、
私もメンバーにいろんなことを教える立場になりました。
明日香の方はどう?高校に入って1ヶ月ぐらいか・・・頑張ってる?
もし、娘に戻りたいなんて言ったら、ただじゃあおかないから。
この間書いた、留学の話。やっぱり辞めました。テストには合格
したんだよ。これホント。むこうの大学の学長さんも、是非にって
言ってくれたんだけど・・・。明日香言ってたよね、「大事なものでも
捨てなきゃいけないこともある。」って。私もそう思ってたよ。
でもね、娘より大事なものがあったんだ・・・娘の中に。
私には、これ捨てられない。確かに留学は夢だったよ。
でも、一人の夢。私は二人で夢を追いかけることにしたんだ。
なんかロマンチック?笑ってもいいよ。でも、その夢を私は
頑張ろうと思う。ごめんね。結局、嘘になっちゃって。ホントは
イギリスからこのメール送りたかったなー。
それじゃあね、
明日香。
市井紗耶香より。
「紗耶香・・・。」
「明日香―。ご飯出来たわよー。降りてきなさーい。」
一階からの声が聞こえる。
「はーい。」
明日香は大きく返事をすると、一階に降りていった。
「ガンバレ。」
そう小さく呟きながら・・・。
屋上・・・一体、何回私はここへ来たのだろう?紗耶香はそう思いながら、
東京の高層ビル群を眺めていた。
「メール届いたかな・・・。」
ポツリと呟く。季節は夏に近づき、空はどんどん高くなっていく。
日の光を浴びながら、紗耶香は無意識に歌っていた。
♪Love Love 愛をさけぼー 愛を呼ぼうー♪
♪Love Love 愛をさけぼー 愛を呼ぼうー♪
右頬を一筋の涙が伝った。その涙をぬぐおうとした時、けたたましく携帯電話
がなった。
「もしもし、あっマネージャー。えっ?早くスタジオに来い?リハーサル
始まった?分かりました!すぐ行きます!」
携帯電話を切ると、紗耶香はスタジオへと走っていった。
誰もいない屋上には静かに風が吹いていた。そして、少し早めに地上に
出てきたセミが一匹、弱々しいながら夏の音を運んでいた・・・・。
FIN.