「もしもし、あっ、お母様でいらっしゃいますか?実はですね、娘の真希さんが…」
ひどくマネージャーは焦っていた。いつもの遅刻であれば実家に電話などかける
こともなかったであろう。だが、彼にはどうしても遅刻と思うことが出来なかった。
「……いつも通りに家を出た…そうですか。いや、ご心配には及びません。多分、
何かの事情で遅れてるだけだと思いますんで。どうも失礼致します。」
携帯電話をしまうと同時に、番組スタッフが話し掛けてくる。
「すいません、これ以上は待てませんよ…。どうしますか?」
彼は答えなかった。もう何を言ったところで待たせることはできない。
「…分かりました…。その前に彼女達に説明させて下さい。」
「じゃあ、15分後収録始めますんで、よろしくお願いします。」
そう言うと、スタッフは急ぎ足でその場を去っていった。一人残されたマネージャー
は大きく深呼吸すると、自分の頬を強く二度叩く。最後の望みであった夢であること
が否定された今、自分が行く先は決まっていた。重い足取りで通路をよぎり一つのドア
の前に立ち止まる。“モーニング娘。様”そう張り出された紙を確認すると、彼は
ドアのぶをいつもよりほんの強く握り、一歩を踏み出した。
「後藤、遅いよねー。まあ、いつもの事だから驚かないけど…。」
真里が呟く。しかし、独り言にしてはその声は大きかった。
「そうよね。でも、ここまで遅いのは、今までなかったよ。」
圭は真里の言葉にいち早く反応した。しかし、真希を少なからず心配している
ような口調は彼女の優しさを充分すぎるほど表していた。
「もしかして、どっか逃げ出したんじゃあないの?耐え切れなくなって。」
「圭織、何に耐え切れなくなって逃げ出したの?何にも思い浮かばないけど?」
「例えばさー、矢口。忙しさだったり、休みがなかったり、とっても疲れてたり・・」
「圭織、それ全部一緒だよ…。」
「だから…、そうっ!紗耶香の脱退に堪えられなくな…」
それ以上、圭織は言葉を続けることは出来なかった。楽屋内の空気が一瞬凍った。
「圭織!!そんなこと言ってどうするのよ!少しは空気考えてよ…。」
真里がすぐにその場を取り繕おうと、圭織に注意をする。
「えっ?だって、後藤って紗耶香といつも一緒だったじゃない?突然の脱退で
イヤになって…。」
「だから、圭織!!そんなことは思ってても口に出しちゃあダメなの!」
「だって…圭織はそう思ったんだもん…。」
「矢口、圭織。そんな事はないよ、後藤だってもう一人前なんだし、私ももう
教育係じゃあないんだし…。一人前だったらこんなに遅れないか。」
そんな緊張した空気を破ったのは紗耶香のハツラツとした声であった。
「そ・そうだよねー、紗耶香。圭織!そんな事あるはずないじゃない。」
真里には痛いほど、紗耶香の心遣いが分かった。すぐさま場を明るくしようと振舞う。
「えー?矢口はそう思う?圭織はそうは思わないけど…。」
圭織にはその雰囲気が全く飲み込めずにいた。まだ、疑問に思ってるようだ。
「だからー圭織、矢口達が心配するほど後藤は子供じゃないって。」
「そうかなあ…。」
“やっぱり圭織はどこか違う。”そのことを変に理解しながら、真里は話題を変えていく。
楽屋内も和やかな雰囲気が流れ出したころ、
ガチャ
ドアがおもむろに開いた。
「みんなー。用意はいいか?今から10分後に収録が始まるから、もうそろそろスタジオ
に行ってくれ。」
マネージャーが入ってくるなりに発した言葉はメンバーに疑問を残す。
「マネージャー!後藤来てませんよ、いいんですか?」
なつみがメンバーを代表した質問を浴びせる。
「そのことなんだが…、実は、後藤がインフルエンザにかかったらしい。」
「インフルエンザ!?」
誰ともなく挙がった声に答えるかのようにマネージャーは続けた。
「何だかんだで、最近忙しかったのが原因みたいで、みんなで見舞いに行くって
言ったんだが、“伝染るといけない”ってきかないだ。お医者さんも3日あれば大丈夫
って言ってるから、3日間ほど後藤抜きでこなして欲しい。幸い、歌収録がないんで、
最悪の事態は避けることが出来そうだ。みんなで頑張ってくれ。」
「でも、見舞いには行った方が絶対いいんとちゃいますか?」
裕子がマネージャーに尋ねる。
「いや、オレもそう言ったんだが、後藤が“恥ずかしい”っていうもんだから。今回は
我慢してくれ。」
「…そうですか、分かりました。」
一瞬でも沈黙を嫌がるかのようにマネージャーは矢継ぎ早に話す。
「分かったな!みんな、そういう訳だから早くスタジオに行ってくれ。時間がないぞー。」
パンパン手を叩きながら、みんなを急かさせる。次々とメンバーが楽屋を後にする。
「圭ちゃん、大丈夫かなー。後藤。」
「大丈夫だって、“お見舞いなんていい”って言うとこなんて、プロとしての自覚が
付いてきたんじゃないの?矢口、あんたもそれ位にならないと。」
「あー!圭ちゃん、まだ矢口を子ども扱いしてるー!」
ぷうっと頬を膨らます真里を見て微笑みながら、圭は紗耶香に視線を向けた。
「どうしたの?紗耶香。元気ないよ。」
「えっ!?そんなことないよー。私はいつでも元気だよ。いやー、いまどき
インフルエンザなんて珍しいなーと思って。」
「あんた、教育係辞めたとか言いながら、まだ充分に教育係だよ。」
「圭ちゃん、やめてよー。私もそんなにおせっかいじゃないよ。ホラ、早く行こ、時間
ないよ。」
紗耶香はそう言うと足早に楽屋から出て行った。そんな紗耶香を後ろで見ながら圭は、
紗耶香の優しさが、もうあと少しで見ることが出来なくなることを少し悔やんだ。
「そうだ、私も早くしないと。」
我に返った圭は慌ててスタジオへ向かおうと足を進めたとき、
「中澤!それに保田!チョット話があるんだ…。」
マネージャーの声が圭の足を引き止めた。
「マネージャー、なんで、うちと圭坊だけなんです。」
突然の言葉に裕子も驚きの色が隠せていない。
「実はなあ…お前達にはちゃんと言っとこうと思って・・・。」
「ごっちんですか?」
裕子の突然の言葉に圭は驚いた。
「裕ちゃん、どういうこと?後藤はインフルエンザって…。」
圭の言葉が続くのを無視してマネージャーが口を開く。
「そうなんだ…。」
小さな声は3人しかいない楽屋に充分過ぎるほど響き渡った。かすかなコーヒー
の匂いが、その空間の全てだった。
「どうやら、失踪したらしい。」
「失踪!!!」
思いもしない言葉に二人は一斉に反応した。
「まだ、決まった訳ではないんだ。だが、さっき家に電話を入れると、今日はいつもより
早く家を出たってお母さんがおっしゃったんだ。逆算するとどう考えてもここに来てい
ないとおかしいんだ。」
「事故とかに巻き込まれたとか…。」
圭がかすかな可能性について尋ねた。
「さっき事務所に電話して、調べてもらった。今のところないらしい。」
マネージャーが吐き出すように呟く。
「携帯…そうや!携帯に掛けてみればいいんじゃないですか?」
裕子が突然、ひらめいたように口を開く。
「出る気配が全くない…。出ないんだ。」
一つ一つ裕子と圭はマネージャーの言葉から望みを見つけようとした。だが、見つける
ことはできなかった。
「3日間はマスコミや雑誌の取材を、何とかかわせる。だが、それ以降は難しい…。
中澤・保田、心当たりはないか?」
万策尽きたマネージャーにとって、もはや最後の頼みの綱が二人であった。それは裕子
と圭にも良く分かった。だが、突然真相を知らされた二人に成す術などあるはずもない。
「そんなこと急に言われても…、ごっちんは昨日も元気やったし…。」
さすがの裕子も今回の事態では平静でいられないようだ。
「そうか…、本当ならこんな事をメンバーに言うべきじゃないんだが、事態が
事態だけに今回は綺麗事をいってる暇もないんだ。何か思い出したりしたら、
すぐに連絡をくれ。どんな小さな事でも構わないから。それと、他のメンバーには
絶対に秘密だ。市井の脱退だけでなく、後藤が失踪したなんて言ったら…。」
「分かってます。だからウチら二人にを選んだんでしょ。」
「マネージャー心配しないで下さい。私達なら大丈夫です。年長コンビですから、
ちょっとのことじゃ、浮ついたりしません。」
「中澤…、保田…、ありがとう。とにかくオレは心当たりを探してみる。最後に
もう一度きくが、何か気になることとかないか?」
一瞬の沈黙が流れたあとに圭が何かを切り出そうとした。
「あ・・あの…、」
だが、その瞬間、圭は後ろから強く引っ張られる力を感じた。
「なんだ!保田。なにかあるのか?」
マネージャーが目つきを変えて尋ねてくる。
「…い・・・いえ、もうスタジオに行かないと…」
「そうだったな!悪かった。時間をかけてしまって。オレは今から実家に行って来る。
オレの携帯番号は知ってるな。何かあったらかけてくれ。」
そう言うとマネージャーはすぐさま楽屋を後にした。
残された二人は、ことの重大さを思い知らされながらも冷静に振舞っていた。
「裕ちゃん!どうして、あの時私を止めたの?」
沈黙を破ったのは圭だった。何故、裕子が自分の言葉を塞いだのか知りたかった。
「圭坊、多分、あんたが思ってることと、ウチが思ってることは一緒のはずや。
原因も多分、アレやろう。せやけど、マネージャーに言ったところで、ごっちんの
気持ちが変わるんか?原因がアレなんやったら、娘で…いや、あの娘が解決できる
唯一の方法やとウチは思う。圭坊、圭坊はどう思うん?」
裕子の言葉は圭の代弁でもあった。だが、圭はそれに賛同する気持ちにはなれなかった。
「だけど…、裕ちゃん。今その問題を任せるのはムチャだよ。ただでさえ…、ここは
私達二人でなんとかしよう。」
「圭坊、その場しのぎになってしまうで。それじゃあ、誰の為にもならんよ。それを一番
分かってるんとちゃうの?圭坊。」
圭に返す言葉は見つからなかった。
「ウチから、あの娘には言うから。ええやろ?」
裕子が圭の肩に手を乗せながら呟く。
「裕ちゃん…、それ私にやらせてくれない? 私、このことを黙ってると、きっと後悔
すると思うんだ…。お願い。」
「圭坊…あんた優しすぎるよ。分かった。あんたが言いや。ウチは黙っとく。」
裕子も圭の思いを尊重した。
「裕ちゃん、ありがとう。」
「ほな、スタジオ行こうか!はよせな遅刻するよ。」
そう言うと走り出した裕子の後を追い駆ける圭。通り過ぎた窓には
夏と見間違うほどの陽射しと青空が映っていた。
「どうもご苦労様でーす。モーニング娘。のみなさんでしたー。」
ディレクターの声と伴に多くの拍手が彼女達をスタジオから見送る。
「紗耶香、今日はいつもにも増して“かあさん”してたね。」
後ろから紗耶香に抱きつきながら真里が話し掛ける
「やっぱりねー、“立つ鳥あとを濁さず”って言うのかな、すっきりしたいから…。」
何気ない会話の中からも紗耶香は自分が脱退する事をメンバーに告げていく。
現実として受け入れなければならなかったが、真里はそんな紗耶香の言葉を聞く
のが辛かった。
「またまた、なんか最近センチメンタル南向きだよ。紗耶香。」
「矢口、なにオヤジギャグ言ってるの。さむー。」
顔を見合わせ笑いあう二人。こんなことも、もうすぐ無くなるんだと考えると
心から笑えない真里だったが、そんな素振りも微塵も見せなかった。
そんな二人の姿眺めながら、圭は大きく息を吸い込むと近づいていった。
「紗耶香―。おつかれ!」
「あー圭ちゃん!おつかれー。」
「あのさあ、紗耶香。今度のラジオの事で相談があるんだけど…。」
「うん!何?」
「ちょっと二人っきりでいいかな…。」
「そんな大事な事?別にいいけど…。」
「えー!? 矢口はのけ者なのー。」
「ごめんね、矢口。紗耶香ちょっと借りるねー。」
そう言うと、圭は紗耶香の手を引き廊下を曲がり姿を消した。
「別に矢口がいたっていいと思うんだけどなー。」
そう呟くと、真里は楽屋の中に入っていった。
「圭ちゃん、相談って何?」
人通りの少ない廊下で圭が止まると、紗耶香が切り出した。
「実はね…後藤のことなの。」
「後藤?確か3日で大丈夫って言ってたじゃん。ラジオの収録は5日後だから、別に
心配しなくても大丈夫だよ。」
そう言った後、紗耶香は圭の目が真剣な事に気がついた。
「もしかして、何かあったの?後藤に。」
紗耶香の口調が一変する。
「実はね…、後藤失踪してるの。」
思いもしない圭の口から出た言葉に紗耶香は事態が飲み込めなかった。
「今日、早めに家を出たんだって。でも、その後全く連絡がつかないの。
携帯にも出ないみたい。」
圭は静かにマネージャーから聞いたことを一つ一つ紗耶香に告げた。初めは
面食らっていた紗耶香であったが、次第に全体を把握していった。
「圭ちゃん、マネージャーにはメンバーに言わないように言われたのに、
どうして私に話したの?」
圭の説明が一通り終ると、紗耶香が口を開いた。
「初め、マネージャーから聞いたとき、実は思い当たる節があったの。それを
言おうとしたら、裕ちゃんに止められて…。多分、裕ちゃんも同じ事を考えてた
んだと思う。でも、それは別の人に言うべきことだって言われちゃった。」
「…それが、私なの…。」
驚いたように紗耶香が呟く。
「紗耶香!今の後藤の耳に届くのは紗耶香の声だけだと思うの。そして…、」
圭の言葉が途切れる。
「そして、何なの!圭ちゃん。」
「紗耶香が脱退前に決着をつけなきゃいけない事だと思う。どうするつもりなのか…。」
それ以上の言葉を圭は重ねなかったし、紗耶香も聞かなくても十分だった。
「気づいてたんだ…圭ちゃん。」
静寂を紗耶香のか細い声が切り開く。
「プッチモニやってたからね…。少しは大人だし…。」
「ありがとう、圭ちゃん。そうだよね、私が逃げてちゃダメなんだよね。分かったよ。」
紗耶香は吹っ切れたように笑顔で答える。
そんな紗耶香の顔を見て圭は安心したが、まだ不安はあった。
「でも、後藤の居場所が全く分からないの。マネージャーも心当たりを探してるらしい
んだけど、全然ダメみたい。ゴメンネ、手掛かりなくて…。」
圭は申し訳なさそうに口を開いたが、紗耶香は首を横に振りながら答えた。
「いいんだよ。多分、あそこにいると思う…。ううん、絶対そこだと思うの。」
「紗耶香…。分かった!今から行っといで。」
「えっ?でも、他のみんなに…。」
「紗耶香、あんた脱退でメンバーに迷惑かけてるんだから、これ以上迷惑かけたって
誰も何にも思わないよ。」
そう言うと、圭は紗耶香の頭をポンと叩いた。
「圭ちゃん…。」
「何してんの!早く行ってきなよ!後藤もきっと待ってるよ。」
そう言うと圭は紗耶香の背中を強く押し出した。
「帰って来る時は、後藤をつれて帰るんだよ。」
「圭ちゃん…、ありがとう。」
そう小さく呟くと、紗耶香は走り出した。
後姿が見えなくなるまで、圭はその場を離れなかった。
「……結局私はこの役なんだよねー。」
そう言うと向きを変え、楽屋に向かって歩き出す。窓から見える太陽は、季節を
間違えたかのように照り輝いている。
一人の少女が座っていた。何かに怯えるように。
カーテンのされた部屋はひどく暗く見えた。それは決して光が差し込んで
いないことだけでは説明がつかない暗さ。少女は何をするともなくただ座り
続ける。微動だにしない。ふと、あの日の思い出が頭をよぎった。
忘れようとしても忘れられないあの日、全ての色が無くなったあの日、
そして、自分自身の時計が止まったあの日…。あれから幾度となく涙を
流したにもかかわらず、涙は枯れることはない。それが少女にはたまらなく
嫌だった。強くなければならないのに、涙を流しつづける自分がとても弱く
思えて仕方がなかった。“だから逃げたんだ!!”少女は心の中で叫んだ。
気がつくとここに居た…。そういう表現が適切なのだろう。あの人の顔を
見たくなかった。ただそれだけだった。
「みんな…なにしてるのかな…。」
か弱い声が静かな空間にこだまする。それすら少女には堪えがたい事だった。
ピンポーン。
無機質な音が彼女を現実の世界に呼び覚ました。しかし、彼女は動かない。
ピンポーン・ピンポーン・ピンポーン…。
チャイムは鳴りつづける。無視していた少女であったが、余りのしつこさに
堪忍袋の緒が切れたのか、玄関に足を運ぶ。ドアの小さな覗き穴から
外の世界を見た少女は声を失った。そこには爽やかな日の光。そして、一番
今の自分を見せたくない顔があった。紗耶香である。
「もしもーし。後藤さーん!!いませんかー。」
紗耶香はドアの前で大きな声で叫ぶ。
「い…市井さん…。」
真希は絶句した。考えさえしなかった紗耶香の姿は彼女を動転させるには
充分過ぎた。しかし、必死に気を落ち着けると、一度、目を離した覗き穴を
再び覗き始める。
「後藤、いるんでしょー。返事ぐらいしなさいよー。」
紗耶香は叫ぶことを止めない。
“お願い!!市井さん、早く帰って。”真希は心の中でひたすら念じつづけた。
ドンドン!! 紗耶香がドアを叩く音に真希を声を出さないことで精一杯だった。
「いないのー、後藤。開けてよー。」
紗耶香は一向に帰る気配がない。真希も少しでも気を緩めると声が出そうになる
自分をひたすら抑えている。
「後藤、開けない気なのー。そっちがその気なら、こっちにも考えがあるわよ。
今すぐ開けないと携帯でマネージャーに連絡するよ。10秒以内に開けなさーい。」
ドア越しにその声を聞いた真希は戸惑った。その間にも紗耶香は時間を数え始める。
「10・9・8・7・6・5・4・3…。」
ガチャ。
ドアのカギがゆっくりと外され、静かに開くドアから、見慣れた顔が出てきた。
「後藤!呼んでるんだから、すぐに出なさいよー。」
紗耶香が携帯をポケットにしまいながら言う。
「どうして…どうして分かったんですか?」
真希はうつむきながら小さな声で尋ねた。
「後藤が消えたって聞いた時、すぐにピーンときたんだ。世間知らずの後藤が
行くとしたら、ここしかないって。プッチモニ合宿やったウィークリーマンション
だって・・・。」
「懐かしいなー、ココ。後藤ってば本当に朝起きないのは笑ったなー。」
部屋に上がった紗耶香はカーテンを開け、差し込む光に眩しがりながら呟いた。
「怒らないんですか?」
「ここまでやるってことは、よっぽど思いつめてたんでしょ。」
「・・・。」
真希はその問いには答えなかった。
「みんな、後藤がインフルエンザだって思ってるんだから、2・3日はゆっくり休んで
戻ってくればいいよ。そのかわり、マネージャーさんにはちゃんと説明しないとね。」
「イヤです・・・。」
搾り出すような声で真希はやっと言葉を発した。
「後藤、忙しいのはこの仕事じゃあ勲章なんだよ。そりゃ、疲れることもあると
思うけど、頑張らないと・・・新メンバーも頑張ってるんだし、甘えちゃダメだぞ。」
「教育係みたいなこと言うの止めてよ。」
「後藤・・・そうだよねっ!私はもう後藤の教育係じゃあないんだよね。だけど、
同じメンバーとしてはこれ位のことは言って当然だと思うよ。」
予想だにしなかった後藤の言葉に、一瞬驚いた紗耶香であったが、すぐさま落ち着いた
口調で真希に語りかけた。しかし、真希の発した言葉は冷淡にその穏やかな空気を
かき消した。
「私、脱退したい・・・。」
「後藤・・・。」
「初めは嬉しかったよ。沢山の人が私の歌を聞いてくれて、いろんなことが体験できて。
でもね、最近思うんだ…、普通の生活がしたいって。私も普通に渋谷行って、
買い物したいし、普通の恋もしたい。そう思ってたら、どっちが自分にとって大切
か分かんなくなってきて・・・いつの間にか辞めたい私がいた。市井ちゃんも気付い
てたでしょ。最近、私のやる気がないのを。周りにも影響しちゃうんだったら、いっそ
私なんて辞めた方がいいんだよ・・・。代わりなんて、オーデションすればいいんだし。」
真希の言葉はひどく強い意思を感じることが出来た。だが、話している間、真希は
一度も紗耶香を見なかった。
「後藤・・・私が辞めるのを見てそう思ったんなら、それは間違いだよ。
私は別に普通の生活したいから脱退するんじゃない。新しい道を歩きたい
んだ。そのためには娘を辞めなきゃならなかった。確かに彩っぺの脱退が
なかったら、私も決意しなかったのかもしれない。私も後藤の事とやかく
言えないけど・・・でも、これだけは分かるよ。後藤、あんたの脱退は
絶対間違ってる。」
真希のそれとは対照的に、紗耶香はじっと真希を見ていた。そのまっすぐな
目と、真希は一度も目を合わせない。
「自分が辞めるくせに、偉そうなこと言わないでよっ!!!他の人のこと
考えた事ある?市井ちゃんの話を聞いた後に、二日間も眠れなかった人の
気持ちがわかるの!目の前が真っ暗になって、一日・一日時間が過ぎてくのが
辛くて辛くてしょうがなかったんだよ。何度も、言い聞かせたよ。“市井ちゃ
んの夢なんだから”って。でもダメだった。一緒に過ごす事が死ぬほどイヤ
だった・・・だから! だから、わざとやる気のないフリして市井ちゃんが嫌って
くれるの待ってたのに・・・市井ちゃんは優しく接してくれた。」
「後藤・・・そんなこと・・・。」
「市井ちゃんに一番来て欲しくなかった! 最後に嫌われた思い出でサヨナラし
たかった。そしたら、いろんな思い出も消えると思ったのに・・・。」
いつの間にか目から大粒の涙が真希の頬を伝う。言葉にならない言葉。
大きな沈黙が二人を包み込む。真希は涙を拭うことなく泣きつづけた。
「市井ちゃん…、お願い、もう構わないで…。脱退の事はもう言わないから。
これ以上私にやさしい姿を見せないで・・・。」
何とか発した言葉はひどく弱々しく、そしてひどく悲しい響きがした。
「分かったよ・・・後藤の気持ちは分かった・・・。」
紗耶香は窓から外を見ながら呟く。
「ゴメンネ。最後までワガママ言っちゃって・・・。でもね、これでスッキリした。
もう帰るよ。他のみんなにも迷惑かけらんないし。」
すこしの間を置いて、涙の収まった真希が言った。
「そう・・・、じゃあ行こうか。」
その言葉に安心したのか、紗耶香も穏やかな口調で答える。
「私が電話するから、後藤は帰る準備しときなよ。」
そう言うと、紗耶香は携帯を取り出した。
「もしもし、圭ちゃん? 私、市井。見つかったよ後藤。うん、今から連れて
帰るから。マネージャーにもそう伝えといて。」
そんな会話がされてる間に真希は帰る準備をした。準備と言っても突然来たのだ、
そんなに手間のかかる作業ではない。紗耶香の電話が終るころには終了していた。
「市井ちゃん、いいよ。帰ろう。」
そう言いながら、玄関で靴を履こうとかがんだ真希の体が止まった。
すぐさま、その原因が真希には分かった。だが、それは最も認めたくないことだった。
「ゴメン、後藤・・・。やっぱり私には出来ない。」
靴を持つ真希の手に重ねられる手。そして、背中に感じる体温。耳のそばで行なわ
れる息づかい。真希を抱きしめる紗耶香がいた。
「市井ちゃん、ズルイよ。もう優しくしないって言ったのに…。私、忘れられないよ。
市井ちゃんの思い出ひきづっちゃうよ。」
収まったはずの涙が再び溢れ出す。震える真希の体をさらに強く抱きしめながら紗耶香
は囁いた。
「忘れなくていいんだよ。いつか思い出は消えてなくなるんだから。後藤に冷たく
なんて、私には出来ない。いつも市井紗耶香は後藤真希を大切に思ってるから…。」
「せっかく吹っ切れたと思ったのに・・・。もう苦しまなくていいと思ったのに・・・
勝手だよ、市井ちゃん。私の辛い思いなんか無視して・・・後藤真希だっていつも
市井紗耶香を大切に思ってるのに・・・どうして、市井ちゃんはそんなに強いの?
私は市井ちゃんみたいに強くなれない。」
振り返った真希の顔を優しく両手で包み込むと、紗耶香はそっと唇を重ねる。
真希は目をつむった。部屋の匂いがプッチモニ合宿の時を自然と思い出させた。
「真っ赤な口紅付けたことある?」
二つの唇が離れると、紗耶香が語りかけてきた。
「えっ?真っ赤な口紅・・・。付けたことないけど・・・。」
「それだけの差だよ。」
そう言うと、ポンと真希の頭を叩き、玄関を開けた。
「帰ろう。」
そう呟くと、真希の手を持つと、立ち上がらせた。
「うん、怒られるんだろうなー。」
「当たり前じゃん。後藤、あんたがした事は・・・。」
そう言おうとした紗耶香の唇を真希の唇が塞いだ。
「・・・はい、はい。分かってますって・・・。あー!市井ちゃん顔が赤い!!」
「なにいってるのよ!! …もう帰るよ、ホントに・・・」
不意の出来事に面喰った紗耶香は急ぎ足でその場から去っていく。
「あー、待ってよー市井ちゃん。市井ちゃんってばー。」
すぐさま紗耶香の後を真希が追う。
沈もうとする太陽からこぼれる光はとても赤かった。二人の顔も赤く染まる。
だが、紗耶香の顔はひときわ赤かくなっていた。
その後のことは真希はこなすだけで精一杯だった。行方不明のことは
裕子と圭の説得もあって、マネージャーからも深くは問われることも
なく、他のメンバーもインフルエンザだと信じ込んでいるようだ。
そんな騒動の中で日々は止まることなく過ぎて行く。そして、その日が
やって来た。5月21日、武道館コンサート最終日である。
「モーニング娘。のみなさーん。千秋楽、最終公演の時間でーす。」
その言葉がメンバーに緊張感を与える。
「よーし!ラストやから、みんな気合入れていこうや。」
裕子が楽屋一杯に響く声で叫んだ。
メンバーが一斉に中央に集まると、手を中央に集めだす。最後の11人の集合。
「がんばってーいきまー・・・」
「しょい!!!」
各メンバー、力一杯に叫ぶ。そして楽屋を後にし、急ぎ足で舞台袖にスタンバイする。
真希にとって、何か実感の湧かない時間だった。今、隣にいる人が明日からいなくなる
ことが信じられなかった。
「後藤!後藤ってば!!」
「えっ?市井ちゃん。何々?」
「あんた大丈夫?頑張っていこうよ!!」
「うん。もちろんだよ、市井ちゃん。頑張っていきまーしょい!!」
元気よく叫んだ真希の言葉を聞くと、紗耶香はうつむきながら呟いた。
「娘・・・娘をよろしくね。」
真希は必死に涙をこらえた。今までなら流したであろう涙をぐっとこらえた。
「任せといてよ!市井ちゃんがいなくても、どうってことないって!」
精一杯の強がりは紗耶香の顔に笑顔を与えた。
「後藤・・・・。」
「何?市井ちゃん。」
「口紅・・・似合ってるよ。」
「えっ!!!」
華々しい音楽と伴に観客の大歓声が聞こえる。紗耶香はもうステージに駆けて行っていた。
真希は数秒目をつむるり、大きく息を吐き出すと、ステージへと駆け込んでいった。
武道館を夕日が包み込む。悲しいほどの赤い太陽。だが、日はまた昇ること
を知っているのか、雲はその悲しみを隠すことはしなかった。
FIN