一
(帰っちゃったか……)
腕の中にいる後藤が、ゆっくりと入れ替わってゆくのを感じる。
ふいに、喪失感で、胸がいっぱいになった。
(後藤……後藤……)
後藤には心配かけたくなかった。泣くまいと、最後まで泣くまいと、
必死で笑顔を作っていたが、もうダメだ。
感情が、堰を切った。嗚咽が、のどの奥から絞り出される。
激しく後悔した。
後藤に帰れ、なんて提案したことを。
いや、私の判断が間違っていた、とは今でも思わない。
理性的には、分かっている。しかし、感情は、私の理性を激しく罵っていた。
「? ……市井ちゃん、どうしたの? ……!! 市井ちゃん、泣いてるじゃん、
何、どうしたのよ、おなか痛いの?」
後藤が、頭を撫でる。その、他意のない無邪気な行動に、
(押し倒して、キスしてぇ)
ついさっきまでは、何度も何度も、交わしていた行為。
しかし、今それをやると、後藤は確実に引く。
ムラムラする、って、こーゆーことなんだろうか。
「う゛〜ん、何でもないよ、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ、市井ちゃん、どうしたのさ。つらそうだよ」
後藤は、顔を近づけて、私の目を覗き込んだ。
やめてくれえ、こりゃあ、拷問だよぉ〜。
「……市井ちゃん、どうしたの、痛いよ」
気がつくと、後藤の二の腕を強くつかんでいた。
後藤の瞳に怯えの色が走った。
(しまったぁ)
慌てて離れる。
「ああ、ごめんごめん。彩っぺの最後のイベントが終わってさ、なんかナーバス
になってんだ。ごめんな。もう後藤は帰りなよ」
「うん……」
後藤は、身支度を手早く終えて、楽屋を出ていった。
(ウブバージョンの後藤を、怯えさせちゃったなあ)
びっくりしたのだろう、よそよそしい後藤の態度を見ているうちに、私はまた悲しく
なってきた。
昨日までの後藤とは、まるっきり中身が違う、ってことは、頭では分かってはいるん
だけど。
でも、目の前で、後藤と同じ顔で同じ声で、他人のように振る舞われると、やはり
ショックだ。あの後藤がもうここにはいない、って事実を強烈に再認識させられる。
(市井ちゃんのことが、……好きだから)
(うん。気持ちいいー)
(私は、一生、市井ちゃんのモノ)
うわああ、そんなこと思い出すんじゃない。
泣くな、もう泣くんじゃないぞ、紗耶香。
何度も深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。
(よし、市井。再確認だ)
今の状況を整理してみよう。
(今の後藤は、昨日の後藤じゃない。教育係としての私を多分、それなりには
尊敬しているけど、それ以上の感情はない。だから、そういう風に扱わないと)
昨日までの、ラブラブ後藤はもういないのだ。
部屋に戻る。
まだ、あちこちに、後藤との想い出が残っている。
右手の指輪を見る。
後藤とお揃いの指輪。
濃密な時間を思い出してしまった。
静寂にいたたまれなくなって、FMラジオをつける。
『 なんて、深い愛で、なんて、
ただ一途で、なんて、
あなただけがすべてだった、恋をしてた 』
あ、ドリカムだ。
枕を引き寄せて、歌に聴き入る。
(……この枕、後藤の匂いがする)
『 なんで、離れたんだろう、なんで、
言えなかったんだろうなんで、
あなただけが、あなただけが大切だったのに 』
きっつー。
床に突っ伏す。
(もしかしたら、未来に戻った後藤も、同じような思いをしているのかも知れない)
(いやだな。後藤もつらい、って思ってくれてたらいいな、なんて思ってる)
(全部、娘。を卒業したいっていう私自身のわがままから来ているのに)
4ヶ月ちょっとの、後藤との想い出は、私の宝物だ。
でも、それとは別に、
(もう、後藤とは距離を置いた方がいいのかも知れない)
いや、それよりも、もっと積極的に、嫌われた方がいいのかも。
こんな悲しい思いをするのは、私一人で十分だ。
(よし、後藤に嫌われるぞ)
結局、この4ヶ月間で何も学んではいなかったのだ。
私はまた、同じあやまちを繰り返すことになるのだった。
ミュージックステーションで、『恋のダンスサイト』を生放送で初披露したその帰り。
移動中のハイエース車内にて。
私たちは、マネージャーから、シャッフル構想を聞かされた。
「やっと新曲発表や思ったら、こんどは何や、シャッフルて」
「なんかもうどーでもいいよ。彩っぺが抜けて、タンポポもこれからどうなるか
分かんないしさ、なんかもう、いっちゃえー、って感じなのさ。ね、紗耶香」
「う、うん」
シャッフルのことは、もう後藤から聞いてたんだけど、それよりも気になるのは、
最近の圭織だ。
彩っぺが抜けてから、なんだけど、妙に私にまとわりつくのだ。
「ねーねー、気になってたんだどさ。紗耶香、最近じゃん、その右手の指輪。それ
なんなのさ。誰かとお揃い、なんてことはないよね」
「えー、ウソ、そーなの、市井ちゃん」
後藤も話に乗ってきた。
(って、これは後藤から貰ったリングだあ)
「……うん。私の大切な人から貰ったんだ。私も同じリングあげたよ。きっと、いつも
つけてくれてる、って思ってる」
眠かったし、適当に答えた。
きゃーっ、って矢口が叫んだ。
「なんだべ。紗耶香。そんな話、これまで聞いたことねえべさ」
「そーゆーことやったら、姉さんも寝てられへんな。紗耶香、それどういうことや?」
「うそっ、紗耶香、そんなのないよ。かおりにも同じのちょうだい」
なんでそーなるかな。
「圭織にあげたら、ペアリングの意味なくなるじゃん」
「紗耶香、ひどい、ひどいよ」
もう訳分かんない。
「市井ちゃん、その指輪、ちょっと見せて見せて。それ、どこで売ってたの?」
(後藤は……まあ、これをくれたのが後藤だから、いいか)
「買ったのは原宿のサディスト、ってショップだけど、このデザインのやつ、
期間限定だから、もう売ってないよ」
言いながら、思った。
後藤、今の言葉覚えてて、それで私の誕生日に買ってくれたのかな。多分、そうだよね。
圭織が(なんで圭織なんだ?)限定品と聞いて、ひどくくやしがっていた。
「わあっ、市井ちゃん、GtoIって入ってるよ。マジでラブリングじゃん。
Gって誰?」
(あんただよ)
裕ちゃんだけは、ははあ、って顔で自分の席にもどった。
まだみんなからいろいろ言われたけど、もう無視して寝ることにした。後藤と圭織
だけは、最後まであーだこーだ言っていた。
二
3日後の、1月31日。ハロプロ名古屋、翌日。
メンバーの増員決定が、娘。たちに伝えられた。
みんな動揺してたけど、一番オロオロしてたのは後藤だった。ずっと、どんな子が
入ってくるのかな〜、と気にしていた。
その日のアサヤン収録で、シャッフルメンバーが発表された。
あか組4が、娘。の中から、後藤と裕ちゃん。
黄色5が、娘。中から、圭ちゃんとなっち。
そこまでメンバーを聞いたとき、私は(あ〜あ)って思った。
つんくさんが一番に浮かんだ組み合わせ、って言う、あか組4が、このシャッフル
ユニットの一番の目玉だろう。娘。でも実質主力の後藤を入れてるし、裕ちゃんに
サポートさせれば、後は楽曲次第で、かなりのセールスが期待出来そうだ。
黄色は、もうこれは、完全にシンガー部隊だ。密かに一番ライバル視してる圭ちゃん
はもとより、なっち、娘。以外からも、ルルさんや平家さんが入るこのチームは、
歌のクオリティを重視しているのだろう。
ってことは、青色7は、余りだ。
実力がどうのこうのじゃないだろうけど、今回、つんくさんが考えていたイメージには
この7人は当てはまらなかったのだろう。
(私は外されちゃったか)
矢口は私がリーダーやる〜、とか言って騒いでいた。
圭織は「どんなコンセプトで、この7人を選んだのか」みたいなことを聞いていた。
そして、その日のうちに、ジャケット撮影、歌入れ、になだれ込んだ。展開が早い。
「ねね、紗耶香。他のメンバーの録音、見に行かない?」
先に終わった矢口が、私に声をかけてきた。
「うん、偵察に行こっか」
私は、あか組4のことが気になっていた。後藤は、ちゃんと出来ているんだろうか。
実は、新しい後藤は、やっぱりこれまでの後藤とは違っていて(まあこれが本来の
後藤の姿なんだろうけど)プロ意識が足りていなかった。
どこででも寝るし、いつでもなんか食べてるし、行動もダラダラしてる。スタッフさん
たちから、それらの苦情が、教育係の私に持ち込まれていた。
(私が一緒にいれば、フォローしたげられるんだけど)
裕ちゃんのこと、苦手だって後藤言ってたしな、大丈夫だろうか。
(後藤、いないみたいだ)
ブースからは、朗々とした歌声が聞こえてきた。
「え? 誰? 裕ちゃんじゃないよね」
この声は、信田さんでもない。ってことは……
そーっ、と覗いてみる。
「ダニエル〜!!」
矢口が、びっくりしたような声を出した。
私もびっくりした。
(……こりゃあ、あか組4はすごいわ)
つんくさん、見てるところは見てる、って感じ。
自分のスタジオに戻る途中、
「ダニエル、すごかったね」
私はため息混じりに言う。
「うん、顔がスタローンに似てた」
どこ見てんだ矢口。
1日で終わらせるはずの三色ユニットの歌収録は、結局、3日かけて行われた。
案の定、後藤が手間取ってるみたいだ。
マイペース、っていえば聞こえはいいけど、スタッフからはやる気がない、って
思われてるみたい。
「後藤、どんな感じなんですか?」
私は、青色7の収録風景を撮影してくれているアサヤンスタッフの人に、後藤の様子
を尋ねた。
アサヤンで放送する予定のテープのコピーを未編集だけど、と見せて貰った。
裕ちゃんが『赤い日記帳』の歌部分を収録中、後藤は早速寝てしまったらしい。
裕ちゃんが、レコーディングを終えて、スタジオから出てきた。
「やっぱこいつ寝とるわ」
気持ちよさそうに、眠っている後藤。
裕ちゃんは、後藤を揺すって、
「ごっちん、帰ろう」
って言って起こした。
すると、後藤はまだ寝ぼけているのか、
イヒヒヒヒヒヒ、って笑い出した。
テープを見ている私は頭を抱えた。
(これじゃあ、教育係の私に苦情がきても文句言えないよ)
ちょっと、後藤にはガツン、って言ってやらないとな。
後藤が、家に戻って、ビデオを回している様子も見れた。歌詞の理解を宿題に
出されているのだ。
「この2人は、別れちゃったのかしら?」
歌詞カードを手に、ビデオに向かって喋る後藤。
……ちくしょう。可愛いぞ、後藤。
後藤の顔を見ようと、あか組4の楽屋を覗いてみた。裕ちゃん一人しかいなくて、
引き返そうとしたら、呼び止められた。
「なあ、あんたら、最近、仲悪いんとちゃうん。ごっちん、なんか様子が妙やし」
裕ちゃんには、去年の修羅場の時から、いろいろとお世話になっていた。私が脱退したい、
って思ってることも知られてるんだけど、今は何も言わないでくれていた。今年初めの
ラブラブ現場を目撃されてるし、だから、今の2人のよそよそしさが奇異に映るんだろう。
「……」
「ケンカでもしてるんか?」
私は、黙っていた。
「ま、若いうちはいろいろあるって。悩むんはええけど、外にばれんようにしいや」
(もう、あの後藤はいないんだよ)
鼻の奥が、ツン、とした。
「ちょっと紗耶香、マジでなんか──」
「ただいま〜、あれ? 市井ちゃんじゃん」
後藤が帰ってきた。楽屋をキョロキョロ見回す。
「なんか雰囲気、悪いですぞー」
「そんなことあらへん」
「別に、普通だよ」
「ふ〜ん。ピスタチオ食べる?」
「いらない」
後藤は、不思議そうに、私の顔を見ている。
「なんか、怒ってるの?」
「怒ってなんかないさ」
「……裕ちゃんに、キスされちゃったから?」
「え?」
反射的に、裕ちゃんを見た。
裕ちゃんは、私から視線をそらした。
「裕ちゃん、それどういうこと?」
裕ちゃんは、壁を見ながら、なんか早口で、
「いやな、最近、紗耶香が後藤のこと、避けてるみたいや、ってごっちんに相談
されてな。なんでやのん、紗耶香はごっちんのことが大好きやねんで、っていっくら
言うても、ううん、ごっちんは嫌われてる、ってきかんから」
「それとキスと何の関係があるの」
裕ちゃんは、キス魔だ。実は、私のファーストキスも、裕ちゃんに奪われている。
「落ち込んどるみたいやったから、今、もし迫っても抵抗はせーへんやろうなあ、
って思って。気がついたら、ちゅってやってしもうてん」
ははは、と誤魔化すように裕ちゃんは笑った。
「裕ちゃんが、このことは市井ちゃんには秘密、っていったから。もし言ったら、
市井ちゃんすっごく怒る、って。だから、バレたのかな〜って」
後藤が、付け足すように言う。
そのまま、みんな黙った。
重い沈黙が、部屋に充満する。
私が最初に口を開いた。
「裕ちゃん、その話は、また今度、じっくりするよ。まだ仕事中だしね。後藤、
ちょっと来な」
楽屋を出た。
「私、怒られちゃうの?」
後藤は、うなだれながら、後をついてきた。
キスの話は、まあしょうがない。しょうがない、って言うか、こんなことなら、
もっと先に奪っておけば、ってそんな話じゃなくて、うん、そうだ、後藤の仕事の話だ。
歌録音に限らず、最近の後藤の様子は、スタッフからいろいろと聞かされている。
それについて、話をしようと後藤を連れだしたのだ。そうだ。
「後藤。スタッフの人に聞いたよ。仕事中なのに、寝てるらしいじゃんか。そんなやる気
のない態度でどうするんだよ」
思いもしなかったことを言われたからか、後藤は目をまん丸くした。
「裕ちゃん、なんか最近、後藤に甘いけどさ。だからって調子に乗ってんじゃないの?」
急にがーっ、と言われて、後藤は不満そうだった。
「私も私なりに頑張ってるんだから。市井ちゃんの方が、頑張りすぎなんじゃないの」
ムカッ、ときた。あくまでもそれは後藤の反抗的な態度のせいで、裕ちゃんに最初の
キスを奪われた悔しさからでは断じて無い。
「生意気言うんじゃないの。後藤も、もうすぐ先輩になるんだよ。後藤には責任感が
足りないよ」
「……後輩が入ってきたら、ちゃんとするよ〜」
後藤はぐじぐじと鼻を詰まらせながら言った。
すれ違うADさんたちが、素知らぬふりで横を通り過ぎてゆく。
下を向いて、今にも涙をこぼしそうになっている後藤を見ていると、なんだか愛おしく
なってきた。優しい言葉でフォローを入れようと思って、ぐっ、と思いとどまった。
(そうだ、後藤に嫌われなくちゃ)
「泣くなよ。泣くくらいなら、最初からちゃんとやりなよ。そんないじいじした湿っぽい
ヤツは──」
大嫌いだ、と言おうとして、言葉が止まった。
後藤をひどく傷つけたあの日、後藤の絶望した顔、後藤の涙。
(もう二度と後藤にあんな思いはさせまい、って誓ったのに)
目の前で、怯えたように上目遣いで私を見ている後藤に、ゴメン、って言って、
抱き締めてあげられたら、どんなに楽だろう。
でも、私は、いずれ娘。を辞める。
後藤には、もう二度と、つらい思いをさせたくはなくて、だから、私は、後藤に冷たく
しなければならない。
なんて不思議で残酷な運命なんだろうか。
(後藤が悪いんだ。後藤はズルいよ。そりゃあ、初対面の頃からさ、なんか後藤っていい
な、とは思ってたよ。でも、私を本気にさせたのは後藤じゃんか。なのに、なんで私が
こんなつらい思いしないといけないんだよ)
娘。を辞めたくない、とその時初めて、思った。
いいや、違う。
私は、後藤と離れたくないんだ。
ああ、私は、どうしようもなく、後藤が好きなんだ。
(なんて恋したんだろう)
何度も何度も聴いた、ドリカムの歌が脳裏に浮かぶ。
『 最後の夜、話疲れて、
2人でおうどん、泣きながら食べた 』
ぶあっ、と涙が溢れてきた。
やばい、このままだと、
「後藤、行っていいよ」
「市井、ちゃん?」
「行けったらっ」
叫んだ。
後藤は、びくっ、として、走っていった。
私は人目をはばからず、その場に立ち尽くして泣いた。
ずっと後になってからなんだけど、ゴシップ雑誌に、後藤と市井の不仲説、
という記事が出た。
教育係である私に、スタッフから後藤の苦情が持ち込まれる。嫌気が差した私は、
後藤を手ひどく叱りつけて、それから2人の仲は険悪になった、ってヤツだ。
多分、今回の出来事がマスコミに流出したのだろう。だったら、ある意味、その記事は
正しい。
三
オリコンの順位が発表された。
一位は、サザンのTSUNAMI。
二位が、娘。の恋ダンだった。
ま、CDの売り上げから言えば、どっちも一週間で60万枚を越える、大ヒットだった
んだけどさ。
今度の三色は、どれくらい行くんだろう。発売はまだまだ先だけどね。
……娘。の中でも、常にみんながライバルだって思ってたけど、こうやって、別々に順位
が出るのは、なんだか辛いね。まだまだ、私、娘。に甘えてたんだろうな、って思うよ。
「今度は映画ですか」
裕ちゃんが、素っ頓狂な声を上げた。
無理だ。いくらなんでも。
「2月の後半からクランクインで、5月に公開? だって、3月からは6月まで、娘。
ツアー2000じゃないですか。その合間をぬって撮影? 最後は、駅伝に出場?」
横で聞いていて、目眩がした。なにを言ってるんだろう、この人たち。
映画、って、そんな簡単に出来るようなモンか? まさか、モーニング刑事2とか言い出
すんじゃないだろうな。あれは、娘。の汚点だぞ。
後藤があれからも、何度となく私に近づいて来たんだけど、忙しさを理由に無視した。
そのたびに自己嫌悪に陥った。
(これじゃあ、私ってサドだ)
一週間も無視を続けると、後藤はもう話しかけて来なくなってきた。まだ同じフロアに
いると、じっ、と私を見ていたりするけど。
映画のクランクインを翌日に迎えて、娘。たちは神奈川県大磯のホテルにチェックインした。
明日も早いからと、夜の9時には解散となった。
疲れた。
後藤を無視するフリを続ければ続けるほど、私の意識は隅っこでしょぼん、としている
後藤に集中してしまう。
ほら、後藤淋しそうだから、誰か話しかけてやりなよ(裕ちゃんは禁止)とかヤキモキ
しながら、横目で見ている。
今日は、圭ちゃんが遊んでくれていたようだ。良かった。
私は安心して、キーを持って、自分の部屋に上がった。
ホテルは、各自一部屋ずつ割り当てられている。
私は、ホテルなんかだと、一人では眠れない。こんな時、後藤はいつも泊まりに来て
くれたよなあ、って懐かしく思う。
ここ一ヶ月の間は、主に圭ちゃんのところで寝ていた。でも、圭ちゃんは、真っ暗にし
ないと眠れないのだ。
眠くなってきた。圭ちゃんのところ行こうかな、でも後藤がいたら気まずいな、とか考え
ながら、うつらうつらしていた。ドアがノックされて、圭織が入ってきた。
「紗耶香、疲れてるよね」
「うん」
「寝ててよ。マッサージしたげるから」
「いいの?」
「いいさ。かおり、マッサージ得意なんだよね」
ベッドに腰掛けた圭織が、横になった私の髪を撫でる。
疲労でじ〜ん、と痺れた頭に、圭織の指が気持ちいい。
「紗耶香、さ。青色7で、オールバックにしてたじゃん、あれ、格好良かったよ」
「……ん、ありがと」
すーっ、と眠りに引き込まれていく。
しばらくの間、圭織は私の頭や首の後ろを揉み続けた。
「ね、紗耶香……キスしていい?」
緊張混じりの小声が聞こえた。
圭織が、どうやら私をお気に入りらしい、とは気付いてた。私が最初に思い浮かべたのは、
後藤の顔だった。
「あの、あのね。ヘンな意味じゃなくてね、かおり、その、キスってどんなのかな〜なん
て思ったりしたりしてさ、でも娘。は恋愛禁止で、そしたら丁度、紗耶香って最近、男っ
ぽいわけで──」
「……いいよ」
圭織が黙った。
私は目を閉じた。
(後藤……)
圭織の冷たい髪が、顔に触れた。圭織の吐息が聞こえる。続いて、唇がふさがれた。
がたん、と音がした。
扉が半開きになっていて、後藤が立っていた。
(圭織〜、扉はちゃんと閉めなよ〜)とか思ったが、もしかしたら圭織のことだ。後藤が
私の部屋のまわりをうろついてることに気付いて、わざと開けておいたのかも知れない。
圭織は、私と後藤の間をふさぐように立ちはだかった。
後藤は、何も言わないで、そのままどこかへ行ってしまった。
「追いかけて行っちゃわないよね」
圭織が、小さな声で言う。
「かおりだって、紗耶香のこと、見てたんだからね」
もう一度、寝たままの私にキスが降ってきた。
なんか、けだるいな。
深夜。
部屋に一人。
私は、天井の豆電球をずっと眺めていた。少し、肌寒かった。
眠る気にはなれなかった。
明日キツイだろうけど、私は私の身体に、もっと罰を与えたかった。
後藤、今日こそ、愛想つかしてくれたかな。
後藤に軽蔑されたかな。
唐突に、部屋の電話が鳴った。
びびった。
受話器を取ると、うわ〜ん、という泣き声が耳元で響いた。なんだこりゃ、
イタズラ電話か?
『こらあ、紗耶香、起きとるかぁ。寝とったら承知せえへんで』
ゲゲゲ、裕ちゃんだ。しかも、相当酔ってる。
『後藤がうるさあて、こっちは眠れもせんわ。今からそっち行くから、鍵開けときや』
……なんで、裕ちゃんが来るんだ。
「うっわ、さっむ〜。紗耶香、なんでこんなに部屋寒いねん。はよ、暖房入れ」
空調のスイッチを入れる。私はベッドに座って、裕ちゃんの様子を伺った。
「裕ちゃん一人なの?」
「後藤は、部屋に置いてきた。あれはもうヒステリーやで。手に負えん」
裕ちゃんはどかどかと部屋の真ん中を移動して、冷蔵庫を開ける。
「紗耶香、なんか飲むか?」
「別に、いらない」
「裕ちゃんは、ビールでええわ」
ツイストキャップの小ビンをプチプチと開けて、ぐっとひと飲みする。
窓際のイスに腰掛けた。
「う〜ん、薄いな」
カーッ、とオヤジみたいに膝を叩く。
「裕ちゃん、こんな夜中に、なにか用なの?」
横目で、私を睨む。
「ごっちんのことや。あんた、圭織と何してたん」
ビンのまま、裕ちゃんはまたビールをあおる。
裕ちゃん、後藤と仲良くなったよな。ごっちん、って呼んでくれるし。
「キスしてた」
ぶー、とビールを吹き出した。
「うわわ、きたねえよ。裕ちゃん、自分の部屋じゃないからって」
「そんなんどうでもええわ。キースー、って、それをごっちんに見られたんか」
後藤、そこまでは裕ちゃんに言わなかったんだ。
「裕ちゃんだって、後藤とキスしたじゃん」
「アホ、全然意味ちゃうわ。そりゃあ、その、悪かった、とは思うてるけど」
「……」
「どういうつもりなんや。もう後藤のことは、飽きたんか。去年はあんなに大騒ぎ
してたんとちゃうんか」
裕ちゃんは、未来から来た後藤、なんていう話は当然知らない。だから、急に
冷たくなった、と思っているみたいだ。
「裕ちゃん、私、娘。脱退するつもり、っていうことは知ってるよね」
「昔、そんなことも言うてたな」
「詳しい話は出来ないけど、後藤、そのことは知らないんだ」
「なんでやねん。去年、ごっちんがあんなに騒いでたやんか。代わりに自分が
辞める辞めるて」
「う〜ん、後藤はほら、特殊な子だから」
「特殊かー、そう言われてしまうと、納得せーへん訳にはいかんな」
そんな理由づけで納得出来てしまうのか?
「ついでに言うと、後藤は、私と付き合ってたことも、覚えてないんだ……」
しばらく、裕ちゃんは考え込んでいたが、やがて、はっ、として私を見た。
「じゃあ、ごっちんとキスした、って話をしたとき、あんなに動転してたんは……」
「動転はしてないよ。でも、うん。まだ、なんにもしてない、っていうか、普通の
先輩後輩の関係」
いや〜ん、と裕ちゃんは可愛く、びっくりしたポーズを作った。
「それはゴメンなぁー、紗耶香ショックやろなあ。埋め合わせに、今、キスさしたるわ」
「お断りです」
裕ちゃんは、ちぇっ、そうかよ、とか言いながら、残りのビールを空けた。
しばらくの間、何かを考えているようだった。
「ごっちんはな、その、記憶をリセットされたとして──普通なら信じられ
へんけど、それやったら、確かにごっちんの行動の筋は通るからな──それでも、
本人は気づいとらんとしても、紗耶香のこと、好きや思てるで」
「……」
「分かるで。去年の紗耶香も、ごっちんに嫌われようとして、同じことやってた
もんな。っていうか、紗耶香、全然成長しとらんな」
「なに言ってんの。ちゃーんと成長してます」
「まだまだ、子どもやっちゅーことや。あーもう、この忙しい時に、またあれこれ
問題起こしよってからに。今度は圭織まで巻き込んでるやんか」
「あれは……その、成り行きって言うか……」
「若いうちはな、なんでも自分の思うとおりに現実をコントロール出来る、みたいに
思うかもしらんけどな。……何気ない気持ちで他人を巻き込んだ思い出はな、ずっと
痛いまま残るねん」
私はなにも反論出来なかった。まあええわ、と裕ちゃんは笑った。
「紗耶香、ごっちんにもう少し、優しくしたり。ごっちんも自分の考えはちゃーんと
持ってる、一人の人間や。紗耶香がごっちんの為に、っていろいろ考えたる必要はな
いねんで。それはごっちんを一人前扱いしてないってことで、かえって失礼やで」
裕ちゃんって、やっぱ大人だよな。だてに私より10年長く生きてないよ。
「また私、間違えちゃったのかな。悲しい思いをするのは、私一人で充分だって
のは、傲慢かな」
「そんなん簡単や。逆に考えてみたらええねん。ごっちんが、紗耶香をつらい思いを
させとうない、って思ったとして、一人で抱え込んでたら、紗耶香は嬉しい思うか?」
「そんなの……」
私はベッドから下りた。
そっか。後藤を一人前扱いしていない、って、そういうことだったんだ。
選ぶのは、後藤だ。
つらい思いをさせてしまうかも知れない。なら、後藤が、拒否を選べばいい。
私の判断を後藤に押しつける行為、それこそが、傲慢なんだ。
裕ちゃんの部屋の鍵を手にする。
「裕ちゃん、今日は、この部屋で寝てよ。私、後藤のところに行ってくる」
裕ちゃんは鼻をヒクヒクさせて、
「紗耶香の部屋、ビール臭いで」
「掃除もしといてね」
私は後藤の元へと急いだ。
四
静かにドアを開ける。
部屋は、真っ暗で、カーテンの隙間から差し込む、淡い明かりがすべてだった。
窓の外は、ごうごう、と途切れることなく、風が鳴っている。波の音まで聞こえ
てくるかのような気がする。
(後藤……)
裕ちゃんのベッドで、ぐっすりと後藤は眠りこけていた。
泣きはらしたのだろうか、目の辺りが真っ赤になっている。ごめんな、後藤。
「後藤……、熟睡中?」
話しかけても、まったく反応がない。
すうすう、と規則正しい寝息が聞こえるばかりだ。
呼吸のたびに、胸が上下している。
(寝る子は育つ、っていうけど……後藤の胸、でっかくなったよなあ)
自分の胸を見て、ちょっと落ち込む。
(どれどれ、かあさんに成長のほどを見せなさい)
後藤の胸元を覗き込んでみる。
二ヶ月ほど前、昔の後藤と風呂に入ったこともあったんたげと、その頃と比べると、
なんかボリュームアップしている。
(ちょこっと、触ってみようかな)
そーっ、と指を伸ばす。
(うっわー、ボインボインだ)
その弾力に驚愕していると、急にうーん、と後藤は寝返りをうった。私はだだだーっ、
と部屋の隅まで逃げる。
いかんいかん、これでは裕ちゃんと変わらん、と自らを戒める。
(まだ、起きてないみたいだ)
そっと、後藤の髪に触れる。
(後藤、泣いてたの? 私に冷たくされるのは、悲しかった? どうして、
そう思うの?)
胸が苦しい。
後藤への愛おしさで、胸がつまる。
(私のこと、好き?)
私は、後藤のこと、大好きだよ。
後藤の唇を見ていると、吸い込まれそうだ。
導かれるように、ゆっくりと、顔を近づける。
眠っている後藤に、触れるか触れないかのキスをする。
すべての音と時間は静止し、世界は私と後藤の2人っきりになる。
お互い、2番目のキスになっちゃったね。
(後藤、あんた隙があるから、裕ちゃんに唇奪われたりするんだよ……)
って、人のことは言えないけどさ。
「……市井、ちゃん?」
寝ぼけまなこで、後藤がつぶやく。
「起きた?」
「ん」
「なんで、市井ちゃん、ここにいるの?」
まぶたをごしごしこすりながら、後藤は言った。
「あ〜、あたしさ、ホテルとかだと、一人じゃ寝れないんだよね」
「……知ってるよ。市井ちゃん……ダイバーで言ってたじゃん」
「さっきさ、裕ちゃんが私の部屋に来て、ビール飲むは出すはで、飛び出して
来ちゃったのね」
私はしどろもどろになって言った。
「……今日、さ。後藤、一緒に寝てくんない?」
後藤はしばらく考えていた。
なんか、心臓がドキドキしてきた。
「いいよ」
後藤は毛布をめくって、私に入ってくるよううながした。
「おじゃまします」
「……」
沈黙。
全然、寝に入れない。後藤も、なんかモゾモゾしているみたい。
なんか、雰囲気重いなー。
なんか話そうかなー。
「後藤さ、もし、もしだよ。私が娘。辞める、って言ったら、どうする?」
がばっ、と毛布をはねのけて、後藤は起きあがった。
「市井ちゃん、辞めちゃうの?」
私は後藤から視線をそらして、頬をポリポリしながら、気弱に、
「あー、いや、……もしも、だよ」
「やだ。市井ちゃんは、私の教育係なんだから、私が一人前になるまでは、
どこにも行っちゃやだ」
ぷい、と後藤は向こうをむいてしまう。
「後藤はもう一人前だよ」
「そんなことないもん」
背中を向けたまま、後藤は話し続ける。
「……市井ちゃん、私のこと、嫌いなの? 嫌いだから、もう教育係なんてしたく
ないから、そんなこと言うの?」
後藤、拗ねちゃったかな。
「なんで嫌われてる、とか思うの。そんなわけないじゃん」
「じゃあ、なんで私を無視するの」
こっちを向いた後藤は、本気で怒ってるようだった。
う……、と言葉につまった。それは、私が、後藤のことを、過剰に意識しすぎて……、
「私が悪いことしたら、いっぱい叱ってよ。叱っていいから、無視しないでよ。
淋しいよ」
そう言って、後藤はぽろぽろと泣いた。
「淋しいよ〜」
まずい、これは後藤が叫び泣きする前兆だ。
あわわわ、と、私は後藤をぎゅっ、と抱き締めた。
「分かった、分かったよ。ゴメン、本当にゴメン。それはもう、全面的に、私が悪
かった。後藤は何も悪くないよ。だから、泣くな、っていうか、泣かないでくれえ」
ひっ、と後藤は息を吸い込んで、後は私の腕の中でおとなしくしていた。
後藤は小声で、話始めた。
「プッチで活動してる間は、市井ちゃんとずっと一緒に居てくれるけど、娘。のときは、
忙しいから私は市井ちゃん、そばで見てることしか出来ないよ。
新人が入ってきたら、もう、私は、先輩として扱われるんだ。そしたら、市井ちゃんは
教育係から外されちゃうよ。もう市井ちゃん、私の相手してくれないよ」
後藤が娘。増員を気にしてたのは、そんな理由からなのか?
「だから、今のうちに、いっぱい、いろんなことを教えてもらうの。いっぱい、叱られて
……でも、頑張って、上手に出来たら、ちょこっと誉めて欲しいな」
誉めてやるとも。それはもう、誉めてやるさ。
「あと、市井ちゃんと、いっぱい仲良くしたい」
仲良く仕方、っていろいろな方面があるが……って、今はそんな話じゃないね。ははっ。
「私だって、後藤には教育係を通じて、いろいろと教えてもらってるさ。……でも、
そうだね。テレビじゃかあさん、って呼ばれてるけどさ、後藤とは本当の姉妹みたい
になれるよう、頑張るよ」
そうそう。
私のスタンスは、あくまでも姉だ。
今は、それでいい。
「じゃ、さ。明日は5時半起床だろ? 7時には取材も来るんだし、もう寝ようか」
うん、と後藤はごそごそ布団にもぐった。
目だけ出して、私を見て、顔を真っ赤にして、
「ねえちゃん、これからもよろしくね」
そう言って、頭まで布団をかぶった。
五
朝。
後藤がモゾモゾと抱きついてきて、目が覚めた。
(ん……5時20分、か。もう起きないとな)
「後藤、朝だよ。起きな」
ベッドから下りる。寒っ、と身体を震わせて、ユニットバスへ向かう。
顔を洗って出てくると、まだ後藤は寝ていた。
「後藤、起きろったら」
「う〜ん、もう食べられない」
「朝からそんなギャグはいいの」
布団をはぎとる。後藤は、丸まって、寒い〜、と非難の声をあげる。
「寒くないっ」
私はがばっ、と後藤に覆い被さって、おはようのキスを……、
(ってちがーう)
そのノリは、昔の後藤へだ。今のウブな後藤には早すぎる。
「……市井ちゃん?」
覆い被さったまま、硬直している私を、赤ちゃんポーズの後藤が上目遣いで見ている。
くっそー、なんかおねだりに見えちまうぜ。
「はいもう起きて起きて。私と一緒にいるんだから、寝坊で遅刻は許さないよ」
「市井ちゃん、朝からテンション高い〜」
「6時に下のレストランに集合だよ。急いで急いで」
6時ちょうど。
部屋の電話が鳴る。
「ほら、きっと裕ちゃんだよ。早く降りてこい、って言ってきてるよ」
別に下で逢えればいいや、と電話は鳴らしっぱなしで、後藤を急き立てる。部屋の出入り
口で靴を履く。後藤は、嬉しそうに手をつないでくる。はっきり言って、ジャマだ。
「もう、ちゃんとヒモ結びなよ」
ドアを開けて、後藤を引っ張り出す。
「──紗耶香」
「あ……圭織……」
ポニーテールの圭織が廊下に立っていた。
「紗耶香の部屋に、裕ちゃんがいたから……裕ちゃん、紗耶香と部屋替わったって」
圭織が、私と後藤がつないだ手を見る。後藤は、私の後ろに寄り添った。
(うっわー、昨日の今日だから、気まずいぜ。って、後藤、そんな挑戦的な顔するなっ)
電話は鳴り続いている。
「……私、先に行くね」
圭織は、ぷい、と視線をめぐらせて、すたすたと歩いて行ってしまった。
「市井ちゃんと圭織って、どんな関係なの?」
後藤が、口を尖らせて、私に言う。
こいつ、いっちょまえに嫉妬してるのか?
「大人の関係だよ」
「ぶー」
私は、なんとも言えない気持ちで、部屋に戻り、受話器を取る。
案の定、裕ちゃんだった。
『もう遅かったか?』
「うん。さっそく、修羅場だった」
『ごめんな〜、すぐに電話してんけど。まあ自業自得ってことで』
「ははは……」
もう笑うしかないや。
朝の気まずさを引きずったまま、映画の収録は始まった。
2日目。
軽くランニングの練習をして、海岸へと移動。浜辺のシーンの撮影となった。
「やっほー、海だ海だ〜」
後藤となっちははしゃいでいる。
「実は、あなたのことが好きだったんです」
海を見てテンションの上がった矢口が、私に抱きついてきた。つられてハイになった
私は、矢口とラブシーンごっこをして遊んだ。
後藤の相手をする必要のなくなった裕ちゃんは、圭ちゃんとロケバスにこもって、
「う〜寒。こんなとこで、短パンで走るなんて、よーせんわ」
「これが若さだねえ」
じじむさくココアなんかすすってた。
「なんかさあ、紗耶香って自由だよね。うらやましいよ」
浜辺での休憩中。圭織がコーヒーを手に、私の隣りに座った。
「あ、ありがと。あちち」
圭織と視線を合わせられなくて、ちらっ、と横顔を盗み見る。
圭織は、湯気の出るコーヒーを、じっと見つめていた。相変わらず美人だよなあ、
って思う。
「ええっと、ここに、ホットコーヒーとコーラがあります」
唐突に、圭織は言った。
「はあ」
「紗耶香なら、どっちを選ぶ?」
「なんで?」
「どっちを選ぶ?」
圭織の迫力に押されるように、
「え……、えーっと、今だったら、寒いし、身体あったまるから、コーヒー」
「それじゃあ、今日は、暑い夏の日です。とても喉が乾いています。それなら、
どっち?」
「喉が乾いてるのに、コーヒーなんて飲めないよ。コーラを選ぶ、かな」
「そうか」
圭織は、コーヒーに視線を戻した。
心なしか、笑っているような気がする。
何だ? 全然質問の意味が分かんないぞ。
2人でコーヒーを飲む間、奇妙な沈黙が続いた。
「ありがと。紗耶香、私もう行くね」
すっきりしたような表情で、圭織は顔を上げた。
よく分からないリズムをとりながら、圭織は立ち去った。
「ね、ね。なに話してたの」
圭織が行ってしまった後、後藤がすり寄ってきた。
「コーヒーとコーラの話。わけ分かんないよ」
「ふ〜ん。そうなんだ。……私は負けないけどね」
分かるんかい!
2月末。
私はマネージャーに相談して、事務所の社長に会わせてもらえるように頼んだ。
かねてから考えていたとおり、6月までのコンサートツアーを最後に、娘。を脱退
したい、って話をするためだ。
まだ、このことは裕ちゃんにしか知らない。言えば、みんなに反対されることは分
かってるから。
特に、後藤に反対されると、決心がにぶってしまう。
後藤のことを思うと、心が揺れる。
あーあ。
後藤がまたもやダウンした。
映画の撮影で、ずっと雨に濡れていたせいかも。
三色ユニットのリリースに向けて、ダンスレッスンが始まろうとした矢先の出来事だった。
後藤は緊急入院した。
二日も寝てれば大丈夫だろう、とのことだった。
「後藤、大丈夫なの? あ、お疲れさまです」
ちょうど、アサヤンのスタッフと入れ違いになった。
「市井ちゃん、来てくれたんだ。私は平気だよ。撮影はもういいの?」
「うん。今日の出番は終わったよ。青色の振り付けのビデオ貰ったけど、おっかしーんだ。
ブルーハーツみたいなの。ギター持って踊るんだ。でね、そのギター可愛いの。ぞうさん、
って名まえなんだって」
ははは、と後藤は弱々しく笑った。
「あか組の振り付け、裕ちゃん一人で練習してたよ。そもそも、後藤は体調管理が出来て
ないんだよ。まだまだプロ意識が足りないね」
「うん……」
やっぱ、今日の後藤は元気がない。優しくしてあげよう。
「後藤、頑張ったから疲れてるんだよ。とにかく、今はゆっくり休むことだね」
「ねえ」
後藤は手を出してきた。
「ん? なに」
「手、つないでて。そしたら、安心出来るから」
私は後藤の手を、ぎゅっ、と握った。その手は熱っぽくて、なんだか心配になってきた。
「早く元気だしてよね、後藤」
うん、と後藤はうなづき、でへへ笑いをした。
「他に、なにかして欲しいことない?」
「ないよ。……ううん、ずっとこうしてて」
後藤は目を閉じる。しばらくすると、呼吸が落ち着いてきた。
寝てしまったのだろうか。
ここまで私を信頼しきっている後藤を見ていると、なんだか心が痛くなってくる。
(事務所の社長には、3月5日に会うことになった)
(私と後藤のカウントダウンは始まっている)
この手を振りほどいた時、後藤はどれだけショックを受けるのだろう。
『置いていかないで』去年、後藤は私にそう言った。
置いていかれる、と初めて理解したとき、後藤はどんな顔で私を見るだろう。
とてもじゃないけど、耐えられない。
後藤に視線を戻すと、額に汗をかいていた。暑いのかな。
タオルを水でしぼって、汗を拭いてやろう、と握ったままの手を外した。
「行っちゃヤダ」
後藤はまぶしそうに目をパチパチさせながら、離れようとする私を探して、手を
さまよわせた。
「行っちゃヤダよう」
「え……あ、違うよ、後藤汗かいてるじゃん。タオルで拭いてあげるよ」
後藤は、私がいなくなってしまうのを警戒しているのか、棚からタオルを取り出して、
水で濡らして絞って、という行動をずっと目で追っていた。
「ほら、すっごい汗じゃん」
額の汗をぬぐう。首回りの汗も、ついでにふきとる。
タオルをしまうと、また後藤は手を握ってて欲しい、と言った。
「どこにも行かないでね」
後藤は、私の顔をじっと見ている。
私が返事をためらっていると、後藤の目に如実に不安の色が走る。
「どこにも行かないよ」
守ることの出来ない、約束。
「ずっと、後藤と一緒だよ」
心が、痛い。
3月5日、社長と会った。私の話をじっと聞いてくれた。引き留められはしたけど、
基本的には、私の希望を最優先してくれるみたいだ。
3月7日、三色ユニットのシングルリリース。あか組4の『赤い日記帳』が好評。
そして、私にとっての最後のコンサートツアー、『娘。ツアー2000・ダンシング
ラブサイト』が始まった。
私は今でも、あの日のことを鮮明に覚えている。
後藤を泣かせるつもりで、部屋へと呼んだ、……ドラマのワンシーンのような、
あの夜のことを。
六
大阪。
フェスティバルホールでのコンサートを翌日に迎えた3月18日。
午後から、少しだけ自由時間が出来た。
私と後藤は、でっかい帽子とだてメガネをかけて、大阪の繁華街に探検に出かけた。
日本橋のハーゲンダッツでアイスクリームを買って、道頓堀を歩いた。たこ焼きも
買って食べた。後藤は、終始ごきげんだった。
「市井ちゃんと一緒だと、楽しいね」
私はただ笑って、うんうん、と答えた。
(私と後藤は、別れるために、出会った。モーニング娘。っていう、濃密な時間を、
後藤と走り抜けてきた)
(後藤はいいな。ドーン、ってぶつかってきて、手に入れるか、盛大に傷つくかの
どっちかだ。そんな後藤を、どうして好きにならずにいられるだろう)
(私は、私自身の運命をコントロールしているつもりで、自分の判断が正しかったのか
どうか、いつも思い悩んでいる。感情よりも先に、理屈で考えてしまう)
「市井ちゃーん、なんか暗いよ?」
「そんなことないよ」
難波駅前の巨大スクリーンで、『赤い日記帳』のプロモを流していた。後藤は恥ずか
しーなーもう、ってテレていた。
(後藤を失ってしまうこと、それは私にとって正しいことなのかな?)
HMVで、三色のCDが売れていく様子を、こっそりチェックした。
「今夜もさ、市井ちゃんの部屋に行っていいんでしょ?」
「うん。おいでよ。ちょっと、話したいこともあるし」
夕方になって、雨が降ってきた。
(嫌な天気だな)
後藤が飛び出して行って、でも追いかけることが出来なかったあの夜のことを連想させた。
私はギリギリまで迷っていた。
出来るものなら、先送りしたかった。
「市井ちゃーん、来たよ〜」
後藤が、ビニール袋を手に、私の部屋に来た。
「なに持って来たの?」
「夜食だよ。きつねどんべえ。関西バージョンって味が違うんだって。ちゃんと2人分
あるよ」
あちゃ〜、と私は天井を仰いだ。
(どうしても、今日、その話をしろってか)
それは、運命の声のように、私の頭の中で響き渡った。
「市井ちゃん……どうしたの?」
私の尋常じゃない様子を感じ取ったのだろう、後藤は、表情を硬くして、ベッドの上に
正座した。
2人の、長い夜が始まろうとしていた。
「私がさ、初めて娘。に入ったときの話なんだけど」
「……うん」
「正直言って、すっごい不安だったのね。後藤の時と一緒でさ、娘。メンバーと対面
をすませてすぐに、ジャケット撮影だったんだけど、足を露出させるのがヤでさ。
メイクの途中で泣いちゃったんだよね」
「えー、市井ちゃんがぁ?」
「和田さんに説得されて、写真だけは撮ったんだけど、裕ちゃんの肩に手を置くのが
怖くってねえ。家に帰って、これはもう絶対やっていけない。娘。辞める、って思った
んだよね」
うんうん、と後藤は神妙に私の話を聞いている。
「それに引き替え、後藤は最初から落ち着いてた。後藤の教育係だ、って言われて、
どうしよう、って思ったけど、今から思えば、良かったな、って思うよ」
「私も、市井ちゃんが教育係で良かったよ」
……。
……。
奇妙な緊張感が、部屋の中に漂っている。
私は、話題を変えた。
「あか組4、一番売れてるみたいだね。後藤もずいぶん、立派になったよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
後藤は、私の目をじっと見ている。
私は、後藤から目線を外す。
「……私さ、後藤の教育係、半年やって来たけど、もうそろそろ──」
「ねね、市井ちゃん、乾燥コンブ食べない? 買ってきてあるんだ」
後藤は、ビニール袋をごそごそやりだした。
「来週の終わりくらいには、新メンバーとの対面があるよ。多分、後藤も、その中から
一人くらいは教育係を任命されるかもね」
「そんなことないもん。私、ずっと市井ちゃんに教育され係だもん」
後藤は、乾燥コンブを口に入れる。
もぐもぐとせわしなく口を動かす。
「私、知ってるんだよね。増員って、4人なんだって。12才が2人いるって。後藤
よりもずっと年下だね」
もぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐ。
「後藤、ちゃんと話、聞きなよ」
「市井ちゃん、なんでそんな話ばっかするのよ。聞きたくないよ」
後藤は目を真っ赤にしていた。
「後藤……」
「ねえ、もっと楽しい話しようよ。ツアー終わったらさ、夏休みもらって、市井ちゃん
とどっかに遊びに行きたいな。私さ、本場のディズニーランドに行ってみたいんだ。
プライベートで行こうよ」
「……」
「……市井ちゃん、どうしたの? 今日の市井ちゃん、ヘンだよ。私、なにか悪いこと
したから、いじわるしてるの? あやまるよ。反省する。ごめんなさい。だから、思い
出の話とかするのやめてよ」
「後藤、私ね、ずっと、ずうっと、考えていたことがあるんだ」
「やめて、聞きたくない」
後藤は耳を押さえた。
「マネージャーさんにも相談したし、社長にも会って、話した。私ね、このツアー終わっ
たら、娘。を──」
ひっ、と後藤は息を吸って、叩かれるのをガマンする子どもみたいに、身体を硬直させた。
「……娘。を、脱退しようと思ってる」
私の言葉は、刃になって後藤に突き刺さった。
「……ッッ!!」
後藤は、握りしめていた両手を、首と胸の辺りに持っていって、心臓をつかもうとするか
のように、きつく、肌に爪を立てた。息が出来ない金魚のように、口を何度かパクパクさ
せた。
「後藤──」
「触らないでッ」
びん、と張りつめた声で、後藤は言った。
私は、動けなくなった。
雨は降り止まない。
明日のコンサート本番まで降ってたらやだな、とぼんやり思った。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
後藤は、喉の奥から、空気をしぼり出すようなか細い声で、静かにすすり泣き始めた。
「分かってる。……分かってた。市井ちゃんが、悩んでたってこと。市井ちゃん、言っ
てたもんね。英語の勉強がしたいって。吉田美和さんみたいになるのが夢だって」
時計は、午前三時を指している。
あれから、後藤と私は、2人で抱き合って泣きはらした。
最後には声が出なくなって、それでも涙がとまらなくて、涙の海に溺れる、って感じが
分かった。
ようやく落ち着いてきて、私と後藤はいろんな話をした。
私の夢。私の未来。
後藤の夢。後藤の未来。
2人の夢。
2人の未来。
「おなかすいちゃったね。夜食食べよっか」
後藤が、ベッドから降りる。
ポットのお湯を、カップ麺に注ぐ。
「私さ、後藤には、ちゃんと、私の口から、決心を伝えたかったんだ。でも、その勇気
がなかった。言おう言おうって思ってても、やっぱり明日、やっぱり次の機会に、って
先延ばししてたんだ。今日も、ギリギリまで、迷ってたんだけどね」
「今日、決心したんだ」
「だってさー、後藤、うどん買って来ちゃうんだもの。そりゃあ、今日が運命の日だって
思うよ」
「???」
後藤は、分かっていないようだった。
「今日も、雨になりそうだね」
「うん。なんか、ブルーな気分だよ」
雨の降る夜は、きっと今日のことを思い出すのだろう。
長くて、忘れられない夜。
2人で眠った、最後の夜。
七
5月22日。武道館。
11人で歌う、最後のダディドゥデドダディ。
今日、『市井紗耶香』は、モーニング娘。を卒業した。
最後のステージで、ライトに照らされながら、私は、これまでのことを思い出していた。
後藤に本当のことを言えた夜から、二ヶ月。
私たち娘。には、数え切れない、沢山の出来事があった。
……いろんなことがあったはずなんだけど、熱病に浮かされたかのように、細切れの
シーンでしか思い出せない。
そうだなー。
4月の初め、新メンバーとついに対面した。
明日香がいた頃の8人だった娘。と比べて、遠くまで来たなあ、って思った。
4月16日は、ひたちなか少女駅伝があった。この日、事務所との話し合いで、正式
に脱退が決まった。
娘。のマネージャーを辞めた和田さんが来てくれていた。
「帰ってくるなら、ここに帰ってくるんだぞ」みたいなことを言われた。
4月27日、私の娘。脱退の情報が、報道機関に流された。
(ついに、始まっちゃったな)って、他人事のように、世間の盛り上がりを外から
眺めてた。
4日前、ハピサマがリリースされた。
昨日は、ピンチランナー公開の日だった。
私の脱退が決まったあと、レギュラー番組の収録のたびに、みんな泣いちゃって、
大変だったな。後藤なんて、何度も泣いてるのに、思い出のフィルムとか持ち出される
と、また泣くんだよな。
まるで走馬燈のように、順番に記憶が映像で流れていく……。って、私は別に死ぬ
訳でもないし、そもそも走馬燈自体、どんな形なのか知らないんだけど、まあそんな
気分だった。
武道館が、うわああっ、って鳴り響く。
私は、夢見心地から現実に引き戻される。ファンのみんな、今は、私を見てくれてる
んだ。頑張んないとね。
あれ、花束贈呈なんてあるんだ。聞いてないよ〜、そんなことされたら、泣いちゃう
じゃん私。
ねえ、圭織、すごい顔だよ。ずっと泣いてくれてたんだ。ありがとね。うん、圭織の
ことも、大好きだよ。え? 何? やだな、後藤にキス見られたときの話? ……全
部言わなくていいよ。分かってたよ。嫌いになんてならないから。
だから、泣かないでよ。
うっわー、後藤、盛大に泣いたね。後藤の叫び泣き、きっと全国放送されちゃうよ。
うん、ありがとね。また逢えるよ。っていうか、また逢うんだけどね。どうして分
かるかって? っていうか『そうなるんだよ』。なんてね。
『 最後の夜、話疲れて、ふたりでおうどん、泣きながら食べた
今思うと、なんか笑うよね
それでもお互い、思い遭ってえらい、おわりまでずっと気遣いあってた
時間が経っても、あたたかいままの思い出 』
(大丈夫。後藤はね、これから、長い長い旅をして、もう一度、私と出会うの。
そして、かけがえのない4ヶ月を、私と過ごすの)
(なんて──なんて、奇妙な縁でつながってる2人なんだろうね。私が娘。
に入らなくても、後藤が娘。に入らなくても、2人は出会えなかったんだから)
(きっとね、私、思うんだ。2人の間にどんなことがあっても、二つの道は、いずれ
お互いをめざして、まっすぐに進んで行くんだろうなって)
『 なんて、深い愛で なんて、ただ一途で
なんて、あなただけに毎日毎日恋してたの
なんで、離れたんだろう なんで、言えなかったんだろう
なんで、大切な大切な恋だったんだろう
最後の夜。泣きながら でも、のこさず食べてくれたあなたの顔
忘れないよ 』
みんな、みんな、本当にありがとうね。本当に、大好きだよ。
さて。
娘。を卒業したからといって、私に惚けているヒマなんてなかった。絶対に、帰って
来るって約束したんだし。
当面の私の目標は、イギリスのコミュニティカレッジ(職業専門コース)音楽科へ
の編入だ。
本来なら高卒の資格がいるんだけど、特別な事例がある、とのことで、留学センター
に問い合わせを出していた。
私は同時に、TOEFL受験に向けて、英語の猛勉強に入った。
深夜。
勉強の手を休めて、私はうーん、と伸びをした。
頭の中を英単語が飛び交っていて、もうこれ以上、なんにも覚えられない。
ちょっと、コーヒーブレイクにしよう。
机の引き出しに、2通の手紙がある。
どちらも、私宛ての、後藤からの手紙だ。
−
市井ちゃんへ
いやータイヘンんだったけど、プッチいろいろとたのしかったねー。
うちら三人のキャラをつよくだせたのも、プッチモニだったと思うし、それに後藤が
ちゃんと育っていったのも、プッチモニのおかげだあー。。。
市井ちゃんには、いろいろとおせわというか、教育してもらったりして、めいわく
とかかけたりしたと思う。
ごめんなさい。
なんだか、5月21日はやだネ。さみしくなるよ。さみしいね。
でも、自分できめた夢にも、すすんでいってほしいと思う。ゼッタイに戻ってきて
ください。待ってます。
そんでもって、ゲストにゼッタイ出てきてください。そのころにはプッチはもっと
大きくなってると思います。
市井ちゃん、がんばれ。
今までありがとう。これからも仲間だからね。
ははははは。。。。
後藤真希
−
後藤、字、ヘタだよなあ。もっと漢字使えよな。
ふふふ、と知らず、声を出して笑ってる。
なんか、久々に笑ったような気がする。
顔の筋肉が強ばってるや。
もう一通の方は、ラジオとは別に貰った分だ。
−
市井ちゃんへ
プッチでも手紙書いたんだけど、やっぱしさみーしーじょ。。。
けっこう市井ちゃんの声って高いのネ。
だからラジオとかで市井ちゃんの声がひびかないとプッチモニダイバーってゆう感じ
がしてこないなぁーなんて思ってさびしいです。
やっぱ市井ちゃんって大きいんだネ。
話は変わるんだけど、いろいろそうだんにのってくれてありがとうネ。
けっこういろいろ市井ちゃんには話きいてもらってたもんね。。。。って
うえーん×2ヤダョー!!
これからどうするのさぁー!まあガンバルッキャないんだけど。。。
はぁー。ふぅ〜。う゛ーん。
おぅ〜し!!ガンバリマス!
だから市井ちゃんも夢かなえてネ!
おたがいガンバロウネ!
教育係ありがとうございました。
ps 本当にありがとう・・・・いつまでもいいねえちゃんだ!
そして、
おつかれさま。
後藤真希
−
後藤、いいな。ホント、可愛いよ。
(後藤に、逢いたいな)
(……逢いたいよ〜)
私は頭をブンブンと振る。
なんの為に、私は今、ここにいる?
頑張れ。頑張れ紗耶香。
後藤だって、手紙で言ってるじゃんか。
自分で決めた夢に、進んで行って欲しいって。
私は、気分転換に、部屋の中をグルグルと歩き回った。ふと、部屋の隅に転がした
ままの、レコードジャケットが目に入った。
後藤が聴いて、号泣した、原田知世の『時をかける少女』だ。
カレンダーを見る。
後藤が帰って来るのは、12日のプッチモニダイバーだって言ってた。
レコードを手に、しばし思案する。
(そうだ。後藤帰還祝いに、少しイタズラしてやれ)
私は、ダイバーのスタッフに電話を入れるべく、部屋を出た。
6月7日、事務所経由で、信じられないほど、魅力的な申し入れがあった。
英語の勉強のために、ロスの大学のESL(英語集中講座)で聴講生として半年間、
勉強させてくれるというのだ。
滞在先ももう決まっていて、音楽大学の声楽の先生の家にホームステイ出来るらしい。
破格の処遇だった。
条件は二つ。
再デビュー時は、エイベックスに移籍すること。
現地ではスポンサーであるASAYANに従うこと。
私以外にも、何人か候補はいるらしい。
なんか、世界標準を作る、って企画だって言ってた。
(やっぱり、今世紀最大の大問題が連続で勃発してしまったりするんだろうか?)
それなら、私に提示されている好条件も納得出来る。
なにかあるたびに、カメラが入ることを要求されるのだろう。
私は、本気で歌に取り組むために、娘。を卒業した。
私の夢まで、TVの企画にされたくない、っていう思いは当然ある。
でも、独力での留学が難しいのも事実だ。専門コースを受講出来るレベルはTOEFL
で450点弱。これは、大学生クラスの英語力を意味する。
現状での私のレベルは……わははは。高校卒業レベルにさえ達していない。
笑ってる場合じゃないな。どうしたもんだろうか。
企画に乗って、うまく利用すればいい、っていうのも、一つの考え方なのかも知れない。
……私の判断を鈍らせる、もう一つの、そして決定的な条件もあったんだ。
ラジオを聴きながら、うんうんと悩んだ。そのうち、眠ってしまった。
夢を、見た。
未来の夢だ。
あの武道館から3年後、私は、シンガーソングライターとして、華々しく再デビュー
を飾っていた。
テレビ初登場は、ミュージックステーションだ。
アルバムのレコーディングの行程が押していて、帰国が遅れた。イギリスから戻って
きたばかりですぐに、テレビ局に直行した。娘。のメンバーに挨拶する間もなかった。
(娘。も、半分は知らないメンバーになっちゃったな)
タモリさんが、私を紹介する。
「今、空港から到着した? はい、特別ゲストです。元モーニング娘。の市井紗耶香
さんでーす」
「みんな、元気だったー? 帰ってきたよー」
スタジオには、先に登場していた娘。たちがいた。
泣きそうになっていたのは、再デビューの感慨よりも、成長した後藤と目があった
からだ。
「後藤ぉー」
「市井ちゃん!」
生放送なんて関係ない。私は叫んで、階段をかけおりた。
後藤に抱きついた。後藤は、なんか身長が伸びていて、私がぶら下がるみたいな格好
になった。
話したいことは、いくらでもあった。いつも、後藤のことを考えていた。
「あのね、後藤、私ね」
「市井ちゃん市井ちゃん」
「帰ってきたよ、約束どおり、帰ってきたんだから」
「市井ちゃん市井ちゃん」
「いったん、CMでーす」
「びっくりしたよお。市井ちゃん、すっごい美人になったじゃん」
「後藤は相変わらずかな」
「ひっどーい」
放送終了後、モーニング娘。の楽屋で、私たちは三年ぶりの再会を喜び合った。
話のタネは、尽きることはなかった。
「あのー、後藤さん」
新人の一人が、おずおずと後藤に話しかける。私とちらっ、と目があって、会釈される。
そのよそよそしい態度に、少し疎外感を感じる。
「ん? あ、そっか。ごめんごめん。市井ちゃん、私たち、これから次の収録入るんだ。
また連絡ちょうだいよ。じゃあね」
後藤は席を立って、娘。たちの所へ戻った。慌ただしく、新人たちに移動の指示を始める。
私は、一人、席に座ったまま、そんな後藤を眺めていた。
(……じゃあね?)
後藤、私たち、これからずっと一緒にいるんじゃなかったの?
「市井さん、もうそろそろ、こっちも次の予定が……」
私のマネージャーが、娘。マネージャーに連れられて、楽屋に入ってきた。
そっか、私も行かなきゃ。
行かなきゃ? どこへ? 後藤はここにいるのに。
場面は暗転する。
ふいに、私は悟る。
(三年の間に、私はいろんな経験をした。いろんな人と出会って、そして別れた。
それは後藤も同じだ)
(再会がなされたとしても、凍り付いた『三年前』が、再び動き出すことは……決して
あり得ないんだ)
(私は当然、理解するべきだったんだ。もう二度と、あの日には戻れないって)
(一生に一度しかない「16才」と「14才」がモーニング娘。っていうステージで
出会えたからこそ生まれた、かけがえのない物語だったんだ)
後藤も、昔、言ってたじゃん。
「一度失ったら、取り戻したつもりでも、きっと、微妙に違ってる
はずでー、ってあゆも言ってんだよ〜」って。
脳裏にメロディが流れる。
『 大きな何かを手に入れながら、失ったものもあったかな
今となってはもうわからないよね
取り戻したところで、きっと微妙に違っているハズで 』
泣きながら目覚めた時、鳴らしっぱなしだったラジオから、浜崎あゆみの「TO BE」
が流れてきていた。もう、こんなメロウな曲聴きながらだったら、そりゃあ悪夢でもなん
でも見るさ。
悪夢?
……本当に、そうなのかな。
八
6月12日。
後藤が、過去に旅立つ日。
後藤が、旅を終えて、帰ってくる日。
私は、空港にいた。
「市井さん、急がせてしまって、ごめんなさいね。どうしても先方の都合があるみた
いで。それじゃあ、これ。パスポートとビザ。あと声楽部長への推薦状です」
スタッフから必要な書類を貰う。その様子を、テレビカメラが撮影している。
出発ロビーは、野次馬たちが集まってきて、ちょっとした騒ぎになっていた。
私は一足先に、ロスに旅立つことになった。
テレビのクルーは、一週間ほど遅れて現地入りする、とのことだった。
(どうして、こんなに憂鬱なんだろう)
私が先に、旅立ってしまって、後藤と約束したラジオが聴けないからか。
それとも、この留学自体が不本意だからか。
時計を見る。そろそろ、ダイバーの始まる時間だ。
後藤の声が聞こえたような気がして、私は後ろを振り返った。
「市井さん、どうかしましたか?」
「いえ、別に……」
出発の時間が迫る。
『保田圭と』
『後藤真希の』
『プッチモニ、ダァ〜イバ〜〜イェー』
『素コンブを食べながらお送りしてま〜す』
『なんだよそれ』
私は、電車の中で、ラジオを聴いていた。
ASAYANの企画は、ドタキャンしちゃった。ははは……はぁ。
後藤に会いたかった。
あんな夢を見てしまってはもうダメだ。
後藤に会って、確かめたい。二人の絆は本当なのかどうか。
(今日だけでいい)
(今日だけでいいんだ)
私は弱い人間だ。
後藤に、「大丈夫だよ」って言ってもらわないと、不安で不安で仕方ないんだ。
電車はダイバー収録のスタジオへと向けて走っている。
『そこんとこ、後藤的にはどうよ?』
沈黙。……ずっと沈黙。
(おい、放送事故だよ、放送事故)
ラジオを聴きながら、くすくすと笑う。
後藤のことを思っていれば、こんなに私は普通でいられる。
早く、後藤に逢いたい。
そして、後藤が言っていた『バクバクKISS』が流れた。
このあとだ。
このあと、後藤が帰ってくる。
私は緊張のあまり、なんども唇をなめた。
ダイバーのスタッフに頼んでいた仕掛けが動き出した。
圭ちゃんが、私が秘密で書いたメッセージを読み上げる。
『え〜と、読みます。「私は大好きな人と、遠く離れてしまうことになりました。
でも、私は信じているし、相手も信じてくれていると思います。だから、遠くに離れ
ていても、私は大丈夫です」』
ごそごそと、ブース内をなにかが移動するような物音。
後藤、帰ってきたな。
『ラジオネーム、後藤ラブさんからでした。リクエストもあるみたいなんで、それ
行きます。どうぞ』
時をかける少女が流れた。
ちょっと感動だった。
後藤に届いたかな。
私は電車を降りて、スタジオへと続く道を歩いていた。
自然と急ぎ足になり、最後には走り出していた。
(後藤、後藤)
(私はここにいるよ)
ラジオはエンディングに入っていた。
『プッチモニの保田圭と』
『市井ちゃんも頑張れー、私も頑張るよ〜、後藤真希でしたあ』
後藤だ。
私の、後藤だ。
後藤の声を聞いた瞬間、私は撃たれたように、一歩もたりとも前に進めなくなって
しまった。
うなだれた私の視界に、右手の指輪が飛び込んできた。
(約束したよね。絶対に戻ってくるって)
(モーニング娘。のライバル、市井紗耶香として)
(私は、まだなにもやり遂げてない。こんな中途半端な状態で、後藤になんて逢え
ないよ)
ぎゅうっ、と強く、両手を握りしめる。
(私と後藤は特別なんだから。私と後藤の間には、新しい世界が待っているんだから)
(後藤、ラジオで、私に向けて、頑張れ、って言ってくれたね)
(今はまだ、逢う時じゃない。……私は、まだ頑張れる。まだ大丈夫)
ふう、と肩の力を抜く。
きっと、ASAYANの甘い誘いに乗りそうになったから、夢でバチが当たったんだ。
私自身が、手紙に書いたんだもの。信じてるから、大丈夫、って。
「私も頑張る。後藤も頑張って」
そっと、つぶやいた。
心の中で、後藤に手を振って、くるりときびすを返した。
「帰って勉強しよーっと」
そして、また夜が来る。
ひとりきりの夜。
シルバーの指輪を、豆球に透かしてみる。
大好きな人の姿を、思い浮かべる。
(後藤、ただいま)
今日のラジオ、聴いたよ。
きっと、後藤も、どこかで、こうやって、私を思ってくれてるよね。
(私と後藤は、同じ指輪でつながっているんだから)
これまでと、同じように見えて、違う世界。
私と後藤の、新しい未来。
(いつも、私は、後藤と一緒だよ)
(どこにいても、なにをしていても、私、後藤と一緒だよ)
こうしていても、後藤を感じている。
こんなにも、後藤への想いであふれている。
だから、淋しくないよ。淋しくないさ。
でも、今度は、
今度はいつ、逢えるのかな?
私、大丈夫だから、心配しないで。
大好きだよ。
後藤のこと、本当に大好きだよ。
うん、だから、大丈夫。
瞳がうるんでくる。
まばたきすると、涙がひとすじ流れて落ちた。
「後藤、おやすみ」
そして私は、瞳を閉じる。
(完)