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保田圭がそばにいる生活(総集編)


第一部

「なぁ」
「…何?」
「保田ってさぁ、ケイってゆー名前なんだよな?」
「……そうだけど?」
「俺のさ、妹もケイっていうんだよね」
「ふーん」
「俺たち、結婚したらさ、困っちゃうな。同じ名前になっちゃうし」
「………」

保田の真っ赤になった顔、ホントかわいいんだよな

「なぁ」
「何?」
「さっきの授業のノート、ちょっと見せてくんない?」
「えっ…」
「途中ちょっと寝ちゃってさ。頼むよ」
「ヤだ」
「なんでだよー、イイじゃんかよー」
「だってほら…字とか汚いしさ、それに…」
「いいから、貸せって、ほら」
「…あっ…」

《わたしの気持ちに気づいてくれない でも気づいてくれない方がいい》
《この関係 この時間 今がとっても楽しい でも でも》

罫線の欄外。片隅に書かれた文字。
誰の事かはあえて聞かない。だって、聞かなくても、保田の真っ赤な顔
見れば解るから。

「ねぇ」
「なんだよ?」
「3組のサヤカ知ってる?」
「……あぁ、剣道部のヤツだろ?聞いた事はある」
「わたし中学一緒のクラスだったの」
「ふーん。…で?」
「これ」
「…なに、これ?」
「読んでくださいって」
「……何の手紙?」
「知らないわよっ! はい、確かに渡したからね」
「なに怒ってんだよ…」

保田のヤツ、なんか涙目になってた。なんでだろう、ちょっと胸が痛いな。

放課後の教室。
忘れ物を取りに戻ったら、保田がまだいた。
電気もつけずに、窓際の自分の席に座ってる。
「何やってん…」
いつものように近づいた俺は、固まった。
真っ赤な目と鼻、手にはハンカチ。
「泣いてんのか…」
俺は、何を言っていいのか解らなくなって、黙って立ってた。
「…なんでアンタいるのよ…」
しゃくりあげるように、保田は言葉を搾り出した。
「いや…その…」
「…」
「…」
窓の外の夕日はどんどん山の向こうに沈んで行って、
夕焼けがやがて夕闇に変わろうとしてる。
長い長い、沈黙。
「なんか、あったのか?…」
「……なんでもない…」
「…ゴメンな」
「……なんでアンタが謝んのよ…バカ…」
「……ゴメン」
「………ワタシ、本当はこんな泣き虫じゃないんだからね」
「…解ってるよ」
「でも…」
「…」
「ありがとう。」

保田は、なんで俺にありがとうって言ったんだろう。
オンナって、よく解んねーな。

「保田…俺…オマエの事……」
目の前の保田は、じっと俺の目を見たまま動かない。
なんだ?すっげー胸が苦しくて、息がつまりそうだ。
「気がついたら、オマエの事…好きに…好きになってた」
アイノコクハクなんて俺のキャラじゃねーんだけど、最近じゃ寝ても覚めても
保田の事しか頭にない。こんな気持ち、初めてだった。

相変わらず保田は黙ったままだ。チキショー何か言えよ。
「…ワタシ…」
「な、なんだよ」
「本当に…ワタシなんかで……イイ…の?」
「何言ってんだよ」
「だって、ワタシなんて全然カワイくないし……見た目も地味だし…
 性格も暗いし……」
「保田!」
「…なんでワタシなんだよぅっ!」
保田の叫びも夕暮れの教室に溶け込んでいってしまった。再び訪れる沈黙。
「…俺、もうオマエじゃないとダメなんだ…」
「……」
「………大事にしてくれる?」
答える代わりに、俺は保田を抱きしめた。
「もう離さない」って想いながら、
強く強く、抱きしめた。

「ねぇ」
「…なんだよ?」
「…前、手紙渡したでしょ? 3組のサヤカ…」
「…あぁ。人のこと呼び出しといて、結局来なかったヤツな」
「…サヤカね、今度、引っ越す事になったんだ」
「…へぇ…そっか」
「遠いところなんだって」
「ふーん…」
「これ…」
「…なんだよ、これ?」
「サヤカんちの住所。明日出発するって言ってたからさ…」
「なんだよ?」
「…行ってあげて」
「なんで俺が行かなきゃ…」
「…お願い…行ってあげて」

今まで見たことないような強い視線で、保田は俺を見つめたまま、小さな
メモを俺に握らせた。

でも、その表情は、どこか寂しげにも見えた。

俺の告白に保田が頷いてから、一ヶ月経った。

それなりにデートもしたし、キスもした。楽しげに時間は過ぎていたはずだった。
保田も俺も、今は幸せなはずだった。でも、保田が、笑顔の合間に時折見せる、
なんとも言えない「ブルー」な表情を、いつの頃からか、俺は気にかけてるよう
になっていた。「コイツなんでこんな寂しい表情をするんだろう」って。

その日も、保田はいつもと変わりなく、俺にジャレついてきた。普段の教室では
絶対に見せない、甘えた表情で、俺の腕にしなだれかかる。俺も保田の腕を引き
寄せて、保田の事をいとおしく抱きしめる。いつもの「儀式」。でも保田はいつ
もの保田じゃなかった。俺の腕の中で、保田は泣いていたのだ。
「どうしたんだよ?」
しばしの沈黙。そして、なんとも切ない瞳を俺に向けて、保田は言葉を搾り出した。
「…もうすぐ…お別れなんだよ…」
俺は何の事か解らず、とりあえず保田の顔を見つめる事くらいしかできなかった。
「なんだよ? お別れって…」
俺が問い掛けると、保田は俺の腕から身体を放し、そして俺の三歩ほど前で立ち止
まった。背中越しに、保田のすすり泣きが聞こえた。
「…ワタシ、学校やめることにしたの」
「何…何言ってんだよ」
俺には、保田が何を言ってるのかが解らなかった。でも、保田のいつにないシビア
な表情を見て、保田の言葉がウソではない事を悟った。

夕陽が地平線の向こうに静かに沈んでいく。二人の周りを支配する長い長い沈黙。
どれくらい時間が経っただろうか。不意に保田がこちらを向いた。泣き腫らした
真っ赤な瞳で、俺をまっすぐに見つめている。こんな保田の表情見るのは、初め
ての事だった。
「学校やめるって、お前…」
「…そうだよね。ビックリだよね…」
辺りから明るさが消え、肌寒い夜の風が少し距離をおいた二人にまとわりつく。
「歌手になりたいの…」
「はぁ?」
「…夢、だったんだ。歌手になりたいって、ずっと思ってたの」
「か、歌手って…それと学校やめんのと、何の関係があるんだよ」
「…所詮、夢は夢のまんまだって、自分でそう思ってたんだ。でも、2年生に
 なってから、だんだんね、その夢本気で叶えたいって思うようになったの。
 そしたら、何か中途半端な気持ちで学校とか行くのヤになっちゃって…それ
 に、本格的なレッスン受けようと思ったら、とても学校との両立は無理だろ
 うし…」
俺はどんな顔して聞いてイイのか解らず、黙ってうつむいたままだった。そん
な俺の態度を見てか、保田はまた黙り込んでしまった。
「…って事は、俺がコクる前から学校辞めようって考えてたって事だろ?」
「…ゴメン…」
「じゃあなんでOKって返事したんだよ」
「……ゴメンなさい」
「なんかさ、俺ホントに…バカみたいじゃん…」
「……ゴメン。そんなつもりじゃ…」
「じゃあどんなつもりだったんだよっ!」
自分でも驚く程の大声で、俺は保田を責めた。そんな事しても、どうにもなら
ないって解ってるのに。
「……うれしかったんだよ、ワタシの事好きになってくれて…」
「………」
「ホントに…ホントに嬉しかったんだよ…」
「……」
保田の悲しそうな表情と声に、俺は何も言えず、ただ立ち尽くすだけだった。

「許してもらおうなんて、思ってないよ。怒られてもしょうがない事やっちゃった
 んだし…ただ…」
保田は搾り出すように呟いた。俺は、いまだに気持ちの整理がつかず、遠くに見え
る街灯りに目を凝らしていた。
「…ただ、ワタシが本気だっていう事を、アナタだけには解って欲しかったから…」
その言葉を聞いて、俺の頭の中はジーンと疼いた。保田が悩みに悩んだ末に出した
尊い結論を、俺は頭ごなしに否定し、悪意と取った。そうだ。本当は俺が一番解っ
てやらなくちゃいけなかったんだ。保田はそんなヤツじゃないっていう事を。世界
中の誰が保田を否定したって、俺だけは味方でいてやらなくちゃいけなかったんだ。
「保田…」
「ゴメン…本当にゴメ…」
「もういいよ…もう謝るなよ」
「…だって…だって…」
気がつくと、俺も保田も泣いていた。泣くなんて、俺のキャラじゃないんだけど、
保田の事、すごくいとおしく思えてきて、そんな保田が俺のところから離れて行
ってしまうのがすごく寂しくなって、俺は泣いた。

どのくらい抱き合ってただろう。二人が身体を離した時には、お互い涙は乾いて
いた。
「なぁ、保田」
「なに?」
「オマエさ、絶対ビッグになれよ」
「え?」
「いつかさ、テレビとかバシバシ出るような、超有名人ななっちゃえよな」
「…うん。まぁがんばってみるわ」
「まぁ、じゃねーよ。絶対に、がんばるんだよ」
「…わかった…」
保田がちょっと笑った。俺もちょっと笑った。星のきれいな夜だった。

しばらくして、教室の俺の隣の席は空席となった。保田との約束で、夢が叶うま
では、いっさい連絡は取り合わない事になっていたので、本来ならば保田と一緒
に過ごしていくはずだった残りの高校生活を、新しく友人たちと始めたバンド活
動で消化していく事にした。時折、保田の事を無性に思い出し、何度も電話した
い衝動にかられたが、保田の未来のために、俺はガマンをした。絶対にビッグに
なって、いつか俺のところに帰ってきてくれると、頑なに信じて。


第二部

「え…マジですか?」
担当マネージャーから、ソロデビューの話を聞かされた保田は一瞬、絶句した後、そう呟いた。
「安倍に関しては、ソロ活動はしていても、今のところシングルを切るつもりはないんだ。あ
くまでも、モーニングの活動の一環というか…中澤にしても、演歌については撤退の方向で
 話は進んでるし。だから、事実上、モーニング娘。からの本格ソロデビュー第1号と考えて
 くれていいと思う」
マネージャーの説明はほとんど耳に入る事はなく、保田の頭の中は真っ白だった。歌手になり
たいという夢。それが実現しようとしている瞬間。保田は目の前の現実を未だ理解できずにいた。
「当然、つんくのプロデュースにはなるし、楽曲ももうできてる。あとは、歌入れをして、初
 夏のリリースを目指したいんだ」
「…初夏ですか?」
「あぁ、6月末か7月頭までにはなんとかしたいと思ってる」
「…その頃には、夏コンのリハも始まってますね。また忙しくなるなぁ…」
ようやく頭がシャッキリとしてきた保田は、ソファーにもたれかかって溜息をついた。
「……いや…実はその事なんだけど…」
不意にマネージャーの表情が曇る。
「…さっきも言ったけど、これはシングルを切るという意味で、本当のソロデビュー
 と考えて欲しいんだ。つまり、安倍の立場とは違うと…」
「どういう事ですか?」
「…つまり、今回のデビューは、その…モーニングの活動の一環とはまるきり違う、
 本当の意味でのソロデビューだという事だ」
「…え?…じゃあ…」
「…そうだ。このデビューの話を受けるという事は、もうモーニングとしては活動
 をしなくなる、という事だ…」
「そんな…」
「ただ…これは保田にとって、ものすごく重要な決断だと思うし、会社としても最
 善の方法を取りたいと思ってる。だから、少し時間かけて、よく考えてみてくれ
 ないか。それで、来週に返事を聞かせて欲しい」
夢の実現と引き換えに課せられた、苦しい試練。保田は、ただ黙り込むしかなかった。

とりあえず、その日の仕事は何とかこなし、疲れきって帰宅した保田は、着替えもせず
ベッドに突っ伏した。決定事項ではないものの、ソロを取るかモーニング娘。を取るか
という、地獄のような選択を迫られている自分。あと1週間しか残されていない時間。
そして、何も知らず、普段どおり接してくれるメンバーたち。保田の心は激しく揺れ動
いていた。
「……ワタシはどうすればいいの?…」
せわしなく動かした左手の先に、何かが当たった。さっきマネージャーから渡された、
ソロ曲のデモテープだった。保田は枕元にあるカセットデッキにテープを入れた。し
ばらくの無音の後、つんくの仮歌が保田の耳に流れてくる。

     今日も 明日も ずっとずっと
      生涯かけて 問いかける
       明日を 明日を 待つ訳を
        明日にひかれる 心のゆくえを

『心のゆくえ』とテープのケースには書いてある。今までのつんくの作品にはない
タイプの曲。その事からも、つんくがこのデビューについて、どれくらいの本気度
なのか、保田にもよく解った。私のデビューのために、多くの人間が動き出してい
る。それだけに、生半可な返事はできない。容赦なく襲いかかるプレッシャーに、
保田は押しつぶされそうになっていた。
「…誰か…助けて…」
その時、不意に携帯電話の着信音が響いた。

たまたまだった。
本当、たまたま、携帯の番号が変わったから、とりあえずメモリに登録してあるヤツに、
片っ端から電話してただけなんだ。で、もう最後の何人かのところが、保田だった。自
分がモーニング娘。の保田圭と友達だって言っても、当然のごとく誰も信用してくれな
い。だって、オレはただのフリーター。保田は今や大スター。接点なんてあるはずもな
いとフツーは思う。でも、オレと保田は結構仲がイイ。こうやって携帯の番号も知って
るし、向こうからだって、ホントたまにだけど電話がある。バイト時代の先輩後輩なん
だけど、オレとしては、それ以上の何かが生まれてると、勝手にだけど、思っている。
…で、たまたま、保田のとこに電話してみたら、珍しく留守電じゃなくて、生保田が出
たんだ。仲がイイとは言っても、相手は天下のモーニング娘。だし、結構ドキドキしたりして。
「あ…もしもし…」
「…先輩?」
「おぅ」
「…ごぶさたしてます」
「こっちこそ。…元気でやってんの?」
「…まぁ、ソコソコ…で、どうしたんですか?」
明らかに普段よりトーンの低い声。経験上、こういう時の保田は、何か絶対に悩んでる。
バイト時代もそうだった。で、よく相談に乗ったりしたっけ。
「いや、携帯の番号が変わったからさ、その連絡をな…そんな事より、なんかあったか?」
「…先輩…」
「ん?」
「……ワタシ…ヤバイかも…」
「何がぁ?…仕事うまくいってないのか?」
「……ねぇ、先輩…」
「何だよ?」
「…なんか、ワタシ、先輩とひさしぶりに会って話したいな」
「今から…か?」
「…無理…ですよね、やっぱ」
なんだろう。オレは妙な気分だった。保田に頼られて嬉しいと思う反面、もしもこのま
ま保田に会ったら、今までとは違う感情が芽生えるかも知れない。それが怖い…
「…じゃあ、今から迎えに行ってやるわ」
心の中では「それはマズイ」って言うつもりだったのに、口を突いて出たのは全く正反
対の言葉だった。俺は、とるものもとりあえず、家を飛び出し、夜の街に車を走らせた。

ものすごく不思議な気分だった。助手席にはバイトの後輩の保田が乗ってる。別に付き
合ってるワケでもなんでもないのに、オレは彼女を迎えに行き、そして自宅に連れて行
こうとしている。でも、世間的に見れば、オレの隣にいるのはモーニング娘。の保田圭
であり、そんな保田の隣でハンドルを握っているオレは…
「先輩…」
保田の声で、俺は我に帰った。そうだ。俺と保田は、元バイトの先輩と後輩。それでい
いんだ。
「すいません…ワガママ言っちゃって」
「いいよ、別に。どーせ家に一人でいたって、ロクな事ないんだし」
対向車のヘッドライトが、暗い車内に、時折保田のシルエットを浮かび上がらせる。信
号待ちの時、チラリと見たその表情は、バイト時代よりも、数段キレイで、かわいくて、
垢抜けてて、そして、あの頃よりもずっとずっと疲れていた。
「仕事、忙しいのか?」
「まぁ…でもヒマなのはもっとヤですから」
「そっか…芸能人っていうのも大変なんだな」
「望んで入った世界ですから…ゼイタク言ってらんないって感じっすよ」
保田はそう言って、窓の外に目をやった。

こうして保田と話してると、数年前のバイト時代に戻ったような感じだ。でも、保田は
もうオレたちとは違う世界に住んでる。それは紛れもない事実だった。やがて、車はオ
レの家に着いた。
「わー、まだここに住んでたんですか」
「当たり前だろ。そんな簡単に引越しとかできないからね、カネないし」
少し散らかってるけど、自分ではそんなに汚いとは思ってないワンルーム。ここに保田
がくるのは、三度目かな。
「ちょっと座って待っててな。コーヒー入れるから」
オレは、なんか、ドラマか何かの役を演じているような気分だった。夢を見てるみたい。
そんな形容詞がまさにピッタリという感じだった。
「…わぁ、ちゃんとCD聞いてくれてるんですね」
保田はCDラックを指でなぞりながら、うれしそうに言った。オレにとって、いつだって
誇りだった。自分を慕ってくれていた後輩が、夢を叶えて大スターになる。それが自分の
中での誇りでなくてなんだろう。だから、保田の出したCDは全部買って聴いたし、友達
にも薦めた。それくらいの事、当然だと思ってた。
「…当たり前だろ。プッチモニは、振りつきで唄えるしね」
「……マジっすか?」
「んなワケねーだろ」
保田が笑った。でも、すぐに表情をこわばらせて、俯いてしまった。その表情は、ひどく
辛そうだった。
「ま、コーヒーでも飲んで、な」
オレはFMのスイッチを入れ、苦いコーヒーを一口すすった。

「…先輩…あの時、先輩がくれたメッセージのこと覚えてますか?」
黙り込んでいた保田が、突然口を開いた。
「あの時って?」
「ほら、ワタシがバイト辞めちゃう日。みんなで飲み会やって、最後に先輩が…」
「あぁ…《小さな花とあきらめるな 何もできないと決めつけるな たとえどんなわずか
なことも 誇りにできる力を持て》…だったっけ?」
「ワタシ、あの言葉が、今でもすごく心に残ってて…」
「アレさ、実は続きがあるんだよ」
「えー?どんなのですか?」
「《あんたはまだ若いなどと 卑怯な逃げ方をするな 時代を変えてゆくものがあるとす
れば それはきっと名も無い青春たち》…ってね」
「…なんかグッと来ちゃうな」
「俺が保田くらいの歳の時に、よく聴いてた歌の歌詞なんだよ。俺もこの歌詞で勇気づけ
られたんだ」
「へぇ」
「…でも、今考えたら、こっ恥ずかしい話だよな。これから自分の夢の為にがんばってい
く保田にさ、フリーターでぶらぶらしてる俺が偉そうにあんな事言っちゃって…」
「ううん。そんなことない…」
保田の声と表情が一瞬険しくなった。

「保田…」
「いろんな悩みとか、辛い事とか、相談できるような友達って、あんましいないん
です。メンバーには迷惑とかかけたくないし。親には仕事の相談、あんまりした
くないし。だから、今日、先輩が電話かけてきてくれた時、すごく嬉しかった…
また、あの時みたいに、いろんな相談乗ってもらえるって思ったら、嬉しかった…」
保田は真剣に悩んでいる。その悩みを、俺にだけ打ち明けてくれようとしている。
俺を信頼しきってくれている。なのに俺は、このまま保田とどうにかなってしまい
たいとか、そんな劣情を、例え、ほんの少しであっても、抱いていた。最低最悪。
自己嫌悪もいいところだ。
「俺…俺、そんな偉そうな事言えた立場じゃないけど…保田が悩みを打ち明けて、
少しでも楽になるんなら…その役目が俺でも良かったら…話してみろよ」
時計の針は深夜3時を指していた。

保田は、時折瞳を潤ませながら、淡々と悩みを打ち明けていった。俺は芸能界のことは
よく解らないけど、歌手になりたいっていう夢が実現しそうな事、でもその為には、今
のモーニング娘。から外れなきゃいけないという事、そして、それは、保田にとって、
死ぬよりも辛い選択だっていう事。それは理解できた。一通り話し終わって、少しは落
ち着いたのか、保田はすっかり冷めてしまったコーヒーを口に運んだ。
「先輩…ワタシ、先輩に何かアドバイスをもらおうなんて、そんな厚かましい事思って
ないです」
「保田…」
「これは、ワタシがワタシの中で決めなくちゃいけない問題だから…でも…誰かに伝え
たかった。ワタシが本気で悩んでるんだって事を、誰かに…」
俺はもう、保田にかける言葉が見つからなかった。コイツはこんなに強い女だったのか。
そして、こんなケナゲな女だったのか。
「保田…」
「…」
「ゴメン…俺、やっぱり、何言ってイイのか解んないや」
「ごめんなさい…迷惑でしたよね、やっぱり…ワタシ…」

窓の外の漆黒が、少しずつ青みがかってくる。静かに時が流れている証明。
「なぁ、保田」
「ハイ」
「今の保田にとって、大切なモノって、なんだ?」
「…」
「自分が置かれてる状況の中で、今、この時、自分にとって最も大切なモノを選ぶ。
それがベストだと、俺は思うな」
「今の…自分…」
「そう。もちろん、それは保田にしか解らないし、日によって変わっちゃうかも知れ
ないけど、答えを出す時点で、一番大事にしたいモノを選んだらいいと思うな」
「先輩…」
「後悔しないなんて選択なんてない。だから、できるだけ後悔の少ない答えを見つけ
 出すんだ」
「……ハイ」
「……なーんてな、また偉そうな事言っちったよ」
俺は照れ笑いを浮かべて、時計に目をやる。
「うへぇ、もう5時かよぅ! どうする保田?泊まってく?」
「…そうしちゃおっかな…」
「バ、バーカ。冗談だよ。しっかり送ってくから」
俺は一瞬動揺した。それを悟られまいと冷静を装ったが、保田の悪戯っぽい笑いは、すべてを
見透かされている何よりの証だった。長い長い夜が、ゆっくりと明けていった。

「アカンっ! どうなってんねん! 保田、お前プロやろ。プロやったらな、もう
ちょっとマシな歌唄え。プロっちゅうのはな、そんな甘いもんとちゃうんやぞ。
モーニング辞めてまでやるんやったらな、モーニングのメンバーには絶対に唄え
んような歌を唄てみい」
つんくさん、怒ってる…ワタシ、精一杯やってるのに…まだ何か足りないのかなぁ…
「そんな事ないよ」
あ、後藤…ダメだよ、ブースの中入ってきちゃ…
「圭ちゃん、がんばってるよぅ。市井ちゃんも言ってたもん。圭ちゃんのがんばり
にはどうやったって勝てないよって」
でも、がんばったってどうにもなんない事だってあるよ…後藤、ワタシやっぱりダ
メだわ…
「圭ちゃんソロで出たらさ、もう、プッチモニは終わりだね。だって一人でプッチ
モニなんてヘンだもん」
後藤…そんな悲しい事言わないで…
「さよなら、圭ちゃん…元気でね」
後藤ぉ…ちょっと待って…そんなのヤだよ…
「やっぱりアカンなぁ、時期尚早やろ、保田のソロは。悪いけど、こんな状態やっ
たら、ナンボ俺でもちょっと無理や。まぁ、そういう事やから…」
なんで…なんで…後藤の上につんくさんにまで見捨てられたら、ワタシ……もう…

―――――――――「圭…ちょっと…圭ちゃん…」
母の声が、ゆっくりとフェード・インしてくる。保田は、その声に導かれるように、ゆっく
りと目をあけた。頬の辺りに感じる湿り気は、枕元を濡らした涙のせいだ。
「圭、どうしたのよ?」
不安げな母の表情。反射的に目をやった目覚し時計の針は、昼12時前を指していた。
「夜中に出て行ったと思ったら、朝早く戻ってきて、戻って来たなって思ったら、今度
は泣きながら寝てるし…」
「ゴメン…ちょっと、ヤな夢見ちゃって」
「何かあったの?」
「……ううん……別に」
「アンタ、もう19なんだから、別に何をしたってお母さん止めないけど、あんまり変
な行動しないでちょうだいよ」
「…うん…」
「今日はラジオの収録でしょ? 早く起きて支度しなさい。ご飯できてるから。早く降
りてくんのよ」
部屋を出て行く母の後姿を見ながら、保田は頭を2度3度横に振った。
「ホント、ヤな夢…」
涙が乾いて、パサパサになった顔を両手で多い、保田は大きな溜息をついた。

市井が抜けた「プッチモニダイバー」の録音は、全く楽しくなくなってしまった。以前は、3人
の爆笑トークが止まらず、25分の番組で1時間近くテープを回していたなんて事もあったが、
市井がいなくなった今では、保田も後藤も、お仕事モードのトークで淡々と番組をこなすのみ。
「市井ちゃん、今ごろなにしてるのかな…」
録音終了後のスタジオ。ヘッドホンを外した後藤が、いつにない神妙な面持ちで呟いた。
「…8時か。夕ごはん食べ終わって、テレビでも見てるんじゃないか?」
保田は、精一杯冗談めかして言った。市井が仕事場にこなくなって以来、すっかり元気のな
い後藤が心配でしょうがない保田は、せめて自分が明るく振舞う事で、後藤が元気づけばと
いつも考えていた。しかし、そんな保田の思いは届かず、後藤はため息ばかりの日々だった。
「…圭ちゃんは、急にヤメたりしないよね…」
「後藤…」
普段は絶対にこんなトーンで話さない後藤の心中を思うと、保田はたまらない気持ちになった。
「これで圭ちゃんがヤメちゃったりしたら、ワタシ、もう立ち直れないかもね」
「…バカ。ワタシは急にヤメちゃったりしないって」
「圭ちゃん…」
「もしも、辞めちゃう時が来たら…その時は…」
後藤は乞うような瞳で保田の事を見ている。
「その時はぁ、まず後藤に話すから。後藤を泣かすような事したら、紗耶香に怒られちゃうよ」
「圭ちゃん…」
泣きそうになっている後藤から、保田は思わず視線を外してしまった。
≪後藤ゴメン…ワタシ…うそつきになっちゃうかも知れないよ…≫

ラジオ録音終了後に予定されていた雑誌取材がキャンセルとなった保田は、久しぶりに早い時
間に家に戻れる事になった。普通ならば、どこかに寄って帰ろうか、友達呼び出して遊びに行こ
うか、なんて考えるところだが、今日の保田は、どうしようもなく一人になりたい気分だった。
自宅近くで移動車を降り、とぼとぼと一人家路を歩く。少しうつむき加減で歩く保田の脳裏には、
さっきの後藤の泣きそうな表情と声が蘇っては消えていく。そして、止まらないため息。やがて、
見慣れた我が家の灯りが近づいてきた。
「ただいま…」
「あら、早いじゃないの」
声を聞いて、キッチンから出てきた母が目を丸くする。
「うん、ちょっとね…」
「ごはんは?」
「うーん…今いらないかな…なんかちょっと疲れてて」
「朝まで出歩いたりするからよ。少し横になりなさい」
「うん」
母の言葉に送られ、部屋に戻り、ベッドに横になった保田だったが、とうてい寝つく事などできそ
うになかった。目の前に迫った決断の時、なのに今後のビジョンの整理が全くつかない状態。モヤ
モヤばかりが募って、保田の心は張り裂けそうだった。のた打ち回るように、せわしなく何度も寝
返りをうつ保田。
「…どうすりゃいいんだよぅ…」
保田がそう呟いた時、静かだった部屋に携帯の着信音が鳴り響いた。

「もしもし…」
「あ、圭坊?中澤ですけど」
「あ、裕ちゃん…」
「今、いい?」
「あ…うん。どうしたの?」
「あの…メールなんやけど」
「メール?」
「メールな、ほら、今練習してるってゆうてたやんか」
「あぁ…」
「それで、今、圭坊のトコに送ってみたの。ちゃんと届いてるかなぁって思って…」
「ちょっと待って」
保田は、机の上にあるパソコンの電源を入れた。
「…っていうかさ、裕ちゃん」
「何よ?」
「メール届いた?って電話してくんのもヘンじゃない?」
「まぁ、そう言われたら…」
保田は苦笑しながら、メールソフトを開く。
「…………あ、来てるよ裕ちゃん」
「ホンマに?」
「…えー、なになに?…保田の『や』の字は野菜炒めの『や』…って何よ、コレぇ!」
「思いつきよ、思いつき」
「ワケわかんないんですけど…」
「ハハハ…まぁ、ちゃんと届いてるんならオッケーです。ゴメンね、協力してもらって」
「頼むよー、リーダー」
「んじゃ、また明日」
「あ…」
「うん?どうしたん?」
「……ううん、なんでもない。おやすみなさい」
「そっか。んじゃね」
また静かになってしまった部屋の中。保田は、猛烈な孤独感に襲われるのだった。

保田に会ってからの俺は、何も手につかない状態で、皆勤賞だったバイトも休んで
しまうほどだった。ベッドの上にうずくまって、ひざを抱えて、俺はただ空虚な時
間を過ごしていた。そして、保田の事をずっと考えていた。以前とは違う、保田へ
のもうひとつの想い……悩んでいる保田をそばで支えてやりたい。保田を苦しめる
全ての物から、守ってやりたい……それってひょっとして…愛…なのか?それとも……
俺は髪を掻き毟り、ベッドの上をのた打ち回った。脳裏に浮かぶのは保田のいろん
な表情。接客が上手く行かず、店長に叱られ、ヘコんでいる保田。日曜の昼ピーク、
忙しすぎて声も出せない俺を、自分の休憩を削ってまで手伝ってくれた保田。バイ
トのみんなと行ったカラオケで、難しいバラードを歌いこなしていたカッコイイ保
田。俺の知ってた保田の表情に、テレビで派手な衣装を身にまとって歌い踊る保田。
街の本屋の店先で、にこやかに雑誌の表紙を飾っているモーニング娘。の保田が重
なって行く。俺の守ってやりたい保田は一体どっちの保田なんだろう。
「…保田…」
悶々とした気持ちのまま、また夜が明けた。

―――メールが届いています  未読分15通―――
気分転換にと立ち上げたパソコン。でも、別に何がしたいっていう訳じゃない。俺
は、右手をマウスの上に乗せたまま、机の片隅をじっと見つめていた。静かな部屋
の中に、せわしく響くハードディスクとファンの音。いつもは気がつかないような
音なのに、今日はやけにうるさく感じる。やがて、無機質なチャイムとともに画面
上に受信完了の文字が出る。
「……」
俺は一瞬言葉を失った。
―――送信者 Kei Yasuda  件名 センパイへ  受信日時 00/05/24 22:18―――
俺はすぐにでもメールを開けたい衝動にかられた。けれど、右手がそれを拒んでい
た。すごく怖かった。このメールを開けた瞬間、今、必死で押し殺している保田へ
の想いが爆発してしまうような気がして。そして、それを抑えきることが多分でき
ないであろう自分自身が、ものすごく怖かった。でも、この中途半端な状況をなん
とかしたくて、俺は思い切ってメールを開けた。

Dear センパイ

  この前は、無理言ってつきあってもらって、どーもありがとうございました。
  なんか、センパイに会うのも話するのも、すごくひさしぶりで、ちょっと緊
  張してました。けれど、センパイは相変わらずセンパイで、バイトをやって
  たあの頃に戻ったような感じでした。センパイも思ったでしょ?やすだは相
  変わらずだなって。なんか、私の個人的な悩みを聞いてもらったりして、す
  ごいメイワクだったと思います。ごめんなさい…でも、センパイに話を聞い
  てもらって、すごくすっきりしたし、私もあれから、いろいろと考えたりと
  かして、まだ答えは出てないけれど、センパイの言葉とか思い出して、悔い
  のない答えを出そうと思います。また、しばらく忙しい日が続きそうなんだ
  けど、保田はがんばりますっ。センパイも体に気をつけて、バイトがんばっ
  てくださいね。

                             やすだ

遠くで、通学途中の子供たちの声が聞こえる。窓の外で、すっかり動き出してい
る世の中。が、俺は依然、ディスプレイを凝視したまま、身動きが取れずにいた。
今、頂点に達してしまった保田への想い。保田が俺のことをどう思っているかは
解らない。昔みたく、ただのバイトの先輩としてしか見ていないかも知れない。
というか、たぶんそう思っているに違いない。ましてや保田はモーニング娘。な
のだ。俺がこんな想いを抱いてるって知っても、きっと受け入れてはくれないと
思うし、いろんな状況もそれを許さないだろう。保田がヒイてしまって、今の関
係が壊れてしまうかも知れない。けれど、保田に俺の想いをわかって欲しい。例
え、報われない想いでもいい。両思いになんてなれなくてもいい。ただ、この思
いを伝えたいんだ。純粋に…俺は、無駄な事と知りつつ、キーボードに向かった。
これが最後のメールになってもいい。そんな覚悟で、俺は想いを綴り出す。

保田へ
  メールありがとう。 ていうか、どんな返事を書いたらいいのか、よくわかん
  ないんだけど、とりあえずメールもらってすごい嬉しかった。
  あのな、保田。実はオレ、保田にどうしても伝えたい事があって。昔、保田が
  まだバイトがんばってた時、オレが持ってた保田への想いと、あの夜、保田と
  朝まで話してからのオレが抱いてる保田への想いが、ちょっと変わってきてる
  んだ。…解りづらいな。まぁ、早い話が、オレ、保田の事、バイトの後輩とし
  てじゃなくって、なんて言うか…恋愛感情…っていうか。唐突だよな。ゴメン。
  でも、解って欲しいんだ。半端な気持ちじゃない。あの夜、保田の悩んでる顔
  見て思ったんだ。守ってやりたいって。ずっとそばにいて、見守っていてやり
  たいって。解ってるよ。保田は芸能人だし、オレの想いが受け入れられないっ
  てコトは。でも…
  迷惑だったよな。悪い。変なメール出しちゃって。でもなんかスッキリした。
  これで仕事にも精出せそうだ。保田もいろいろ大変だろうけど、自分の信じた
  道を突き進んでがんばれ。じゃあな。

「送信」をクリックした俺は、猛烈な疲労感と眠気に襲われ、ベッドに倒れこんだ。
俺がこのメールを送ったことで、そして保田がこのメールを読んだことで、今の状
況がどんな風に変わるのか、そんな事はもう、どうでも良くなっていた。ただ、今
は、保田の事を心に思いながら、眠りたかった。全てのモヤモヤを忘れるために、
ひたすら眠り続けたかった。起きた後の事などは何も考えずに…

「裕ちゃん…」
「んー?なにー?」
「…ちょっと…」
歌番組の収録が終わり、控え室でまったりしている中澤に保田はそっと声をかけた。
「今夜さ、電話していいかな?」
「電話?」
「うん…ちょっと相談したい事あってさ…」
「うん。別にいいけど…あ、そや。それやったらウチ来るか?」
「裕ちゃん家?」
「そうや。そうしよ。たまには二人でゆっくり語ろ」
「…いいの?」
「何言うてんの。遠慮する事なんてないよ。どうせ帰ったって一人で飲むだけや
 し。なんやったらロールレタス作ったってもエエけど」
「いや、ロールレタスはちょっと…じゃあ、お邪魔しちゃおっかな」
「オッケーオッケー」

帰りのタクシー。初めての「二人だけの夜」に、しばらくは楽しげにいた二人だっ
たが、やがて、会話も途切れがちになり、ついには沈黙の時間が多くなっていた。
それは、明らかに元気の無い保田と、そんな保田の異変に気がついた中澤の二人が
もたらした相乗効果であった。そんな二人を乗せたタクシーは、やがて、中澤のマ
ンションに到着した。
「ゴメンな。自分で来いとか言うときながら、散らかってて」
靴を脱ぎながら、手探りでルームライトのスイッチを探りつつ、中澤は恐縮した。
保田の部屋とし比べ物にならないほどにシンプルな部屋。26歳の女性のリアルな
一人暮しに触れ、保田は少しドキドキしていた。
「ゴメン。ちょっと服脱いでくる。テキトーに座ってて。…それ、テレビのリモコ ンね」
そう言って、中澤はベッドルームに消えて行った。保田は、ちょっと手持ち無沙汰
という感じで、立ったまま部屋の中をぐるりと見渡した。シックな色に統一された
部屋の中にあって、ひときわ異彩を放つ、モーニング娘。のポスター。モーニング
娘。に人一倍愛着を持っている中澤らしい飾り付けだった。やがて、部屋着に着替
えた中澤が戻って来た。

「何やってんの?ボーッと立って」
「いや…一人暮しの部屋だなぁって思って」
「ハハハ何言うてんの。それより、圭坊も着替え。ハイ、これ着て。サイズ合うかど
 ーか解らんけど。まぁ合わんかっても着てな」
「…ありがとう」
ベッドルームに入り、白無地のTシャツに黒のスウェットのパンツに着替えた保田は、
手早く服をハンガーにかけ、ベッドルームを出た。すでに、テーブルの上には缶ビー
ルが2本と、途中のコンビニで買いこんだスナック菓子とおつまみが整然と並べられ
ている。
「おぉ、ちょうどイイやん、サイズ」
ソファにどっしりと腰をおろした中澤が保田の全身を一瞥し、声を上げた。
「ささ、座って。とりあえず早く飲みたい」
中澤が、保田を急かす。保田は苦笑しつつ、中澤の対面に腰を下ろした。プシュッ
というプルトップを開ける音が部屋中に鳴り響く。
「ま、とりあえず。おつかれ。カンパイ」
「うん。カンパイ」

ここ数ヶ月、秒刻みのスケジュールの中に放り込まれ、「疲れた」の一言を言う余裕
さえも与えられなかったモーニング娘。それに加え、リーダーとしてメンバーを引っ
張って行かなければならないというプレッシャーに、常に苛まれている中澤。市井が
脱退し、プッチモニの一員として、そして娘。本体の中でも精神的支柱としてメンバ
ーたちを盛り立てて行かなければならない保田。そんな二人が、本当に久しぶりに得
た、何にも縛られずに、ゆったりとできる時間。それを堪能するかのように、二人は
しばらく何も話さず、ただお互いの顔を見ながら微笑み合っていた。
「…で?相談っていうのは?」
不意に中澤が口を開いた。保田は缶をテーブルの上に置き、ひとつため息をついてか
ら、中澤の顔を見やった。
「実はね…2つあるんだよね。相談したい事」
「豪華版やね。…エエよ。姐さんに言うてみ」
中澤はグビリとビールを一口飲み、ソファの上にあぐらをかいた。
「一つ目は…仕事の事」
保田と中澤の長い夜が、始まろうとしていた。

「…ソロのね、話があるんだ…」
中澤はその意外な告白に、一瞬目を丸くした
「ワタシ、最終的には、やっぱ…歌を歌って生きていきたいって思ってるし、今度の
 話はその為の大きなチャンスだと思ってるんだ…」
「…ソロの仕事もできたら、また忙しくなるね。でも、チャンスは逃したらアカンよ」
「でもね…でも…そのチャンスつかむために……」
保田が不意に涙を見せる。中澤は保田のタダならぬ雰囲気に戸惑いを隠せずにいた。
「け、圭ちゃん…どうしたん?」
「……そのチャンスつかむために、かけがえのないモノを手放さなくちゃならない…」
「…?どういうこと?」
「……モーニング娘。を…」
「…えっ…」
「……みんなの事を……捨てなくちゃならないんだよ…」
「圭坊……」
「…そんなコト……できないよ…ワタシ…」
窓の外は、いつの間にか降り出した雨。その雨音と、保田のすすり泣きだけが、静か
なリビングを支配していた。

「……圭坊」
黙り込んでいた二人。最初に口を開いたのは中澤だった。
「…追加で3人が入ってきた頃の事、覚えてる?」
「…え?」
「…なんか、ものすごいギクシャクしてたよね」
「……」
「ここだけの話な、ワタシとしては追加メンバーを受け入れるっていう事に、ものすごい
 抵抗があってん」
中澤は当時の事を回想しながら、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「ワタシは最初の5人の中ですら、敵対意識っていうか…妙に構えたトコがあって。まぁ、
 歳がワタシだけ上やったっていう事もあるし、なんかナメられたらアカンって、ものす
ごいトンがってたんやなぁ。そんな中でメンバーが増えますとか言われて、ものすごい
 ショックっていうか。あぁ、またイチから人間関係作らなアカンって思ったら、ものす
 ごい鬱陶しくなって…」
保田はティッシュで涙を拭いながら、中澤の話に耳を傾ける。

「だから、最初は圭坊にも矢口にも紗耶香にも、必要以上にメッチャ冷たく当たってたと
 思う…今な、そのコトをものすごく後悔してんねん」
「裕ちゃん…」
「…あの時もっと…もっと3人にやさしくできてたらって…今さら遅いんやけどな」
「…裕ちゃんが、初めてワタシの事褒めてくれた時…」
「え?」
「雑誌の撮影の時、『圭ちゃん、いい表情やなぁ』って笑顔で言ってくれたときね、すご
 く嬉しかったんだよ。あぁ、やっとメンバーとして認められたって思ったら、ホント、
 涙が出る程うれしくて…」
「圭坊…」
「あぁ、モーニング娘。に入って、本当に良かったって。これからも、ずっとずっとモー
 ニング娘。のメンバーであり続けたいって。心の底からそう思ったんだよ…」
気がつくと、中澤の瞳にも大粒の涙が溢れている。外の雨とシンクロするように、涙が中
澤の頬をつたって落ちていた。

「ゴメン…圭坊のその相談に、答え出してあげる事、ワタシにはできひん…」
中澤は鼻を2度3度すすりながら、搾り出すように呟いた。
「…ワタシ…圭坊にモーニング辞めて欲しくない…そんな寂しいのイヤや…あの時、冷た
 くあたった分の償いもできてないのに…」
「償いなんて…そんな…」
「…でも、ワタシがそんなコト言うてたらアカンのやんかな。リーダーとして…自分の夢
 叶える為にがんばれって言うてあげないとダメやのに…」
「もういい…もういいよ、裕ちゃん…ゴメン。裕ちゃん困らせるような事言って…」
「圭坊…」
「…裕ちゃん、大好きだよ…」
保田はたまらなくなって、中澤の胸に飛び込んだ。そして、二人で声を上げて泣いた。思
えば、ここまでお互いの感情を剥き出しにし合ったのは初めての事かも知れない。長いよ
うで短かった2年の歳月。思っている事も、言いたい事も、たくさんあったはずだった。
でも、2人の微妙な関係が、そんないろいろな事を、お互いの心の奥底深くに溜め込ませ
たまま、今日まで時間が流れてしまっていた。しかし、そのタガがようやく外れ、今この
瞬間、2人はやっと、心と心で解り合えたような気がしていた。

「裕ちゃん…ワタシ、あと3日、死ぬ気で悩むよ」
「うん…」
「…ある人がね、言ってくれたんだ。後悔しない選択はない。だから、後悔が少なくて済む
 方を選べって」
「そっか…」
「すごく難しいけど、ワタシはがんばる」
「…うん」
「裕ちゃんにも、メンバーにも、そして自分自身にも、文句言わせないように、ちゃんと答
 えを出すから…」
「…圭坊…」
「だから裕ちゃん、ワタシがどの答え選んでも…賛成してくれる…よね?」
「…当たり前やろ。他の誰が反対しても、ワタシは絶対賛成や。約束する…」
「…ありがとう…裕ちゃん…」
「…それにしても、強くなったなぁ…紗耶香の時もそう思たけど、なんか、ワタシが気ぃつ
 かへん間に、みんなどんどんオトナになっていく…トシ取るワケやわ」
中澤はティッシュで涙を拭いながら、ため息を一つついた。保田は笑いながら、残りのビー
ルをグイと飲み干す。窓の外では、雨がすっかり上がっていた。

「で?もう一つの相談は?」
中澤は冷蔵庫から出してきた新しいビールを開け、一口飲んで、保田に向き直った。
「…実は…」
モジモジとした保田の態度に、中澤はピンと閃くものがあった。
「男のコのコトやな…」
図星を突かれた保田は、ただ笑うしかなかった。
「ひょっとして、付き合ってます…とか」
「…ううん。まだそこまでは…」
「はぁ…よかった。で?どういう相談?あんまりヘビーなんはイヤやで」
「実は…」
保田は、出掛けに読んできたEメールの事を思い出しながら、中澤にありのままを告白した。
「ふーん……で?」
「…で?って…」
「どう思ってんの?圭坊としては」
「どうって…」
「その人のコト。ただの先輩としか思ってへんの?それとも、何かもっと特別に思ってるとか?」
「…ワタシにもよく解んないの。でも…センパイといると、すごい何でも話せちゃうってい
 うか、こないだも久しぶりに会ったんだけど、自分がモーニング娘。だっていうの、一瞬
 忘れちゃうくらい楽しかったし…」
「…それはきっと、好きなんやな…」
中澤は右手で髪の毛をかきあげ、ソファーの背もたれに身体を預けた。

「今はそんな、恋愛とかしてるヒマはないって解ってるよ。だから、気持ちは受け取れま
 せんって、ちゃんと言おうと思ってる」
保田は右手で缶をもてあそびながら呟いた。
「あんな、圭坊」
「なに?」
「ワタシは別に恋愛したっていいと思ってるよ」
「裕ちゃん…」
「確かに、芸能界で仕事してる以上、そういう事のケジメっていうか、そういうのはキ
 チっとしなアカンと思う。けど、恋愛感情って、人間としての本能やん。だから、そ
 れを押し殺すのって、ものすごい身体に悪いと思うし、恋愛はオンナを絶対キレイに
 するから」
中澤が急に饒舌になったのは、決して2本のビールのせいだけではなかった。
「ワタシかって…イイ人できたら、誰がなんて言おうと恋愛すると思うし」
中澤はバツが悪そうに微笑んだ
「裕ちゃん、なんで彼氏できないんだろうね」
保田は中澤の顔をマジマジと見つめながら言う。
「そんなんしゃーないやんか。こればっかりは巡り合わせやからな」
「こんなに優しくて、こんないいオンナなのにね。ワタシが男なら絶対に好きになるよ」
「…ありがと。…なぁ圭坊…ワタシ別にオンナのコでもいいんやで…」
「えっ…」
急に瞳をトロンとさせた中澤の艶っぽい表情に、保田は一瞬たじろいだ。
「なんてなー。ウソに決まってるやろ」
「もぉーっ!」
時計の針は4時半過ぎ。カーテン越しの漆黒が、ゆっくりと藍色に変わり始めていた。

≪――もう今は遠い昔のようで 笑ったことも やさしい言葉も
    それなのになぜか今がいちばん あなたのことが 近くに思える
     思い出してみれば色んなことは あなたがそばにいてくれたから出来たみたい
      会いたくて からだがふたつに折れる 悔しいけれど 何もかも ありがとう――≫

付けっぱなしのCDから流れてくる歌声に耳を傾けながら、保田は中澤を起こさないよ
うに、そっとベッドを抜け出す。
「…ありがとね、裕ちゃん…」
ベッドの上で静かに寝息を立てている中澤に、保田はそう囁いて、一人ベッドルームを
後にした。
「…さむっ…」
玄関を出た保田に、早朝のひんやりとした空気がまとわりつく。まだ動き出していない
朝の街。腫れぼったい瞳を隠すため、サングラスをかけた保田は、帽子をもう一度深く
かぶり直すと、空車のタクシーに手を挙げた。

『ちょこっとLOVE』の着メロが、静かだった部屋の中いっぱいに響く。電話なんて取
りたい気分じゃなかったんたけど、あまりの音に、思わず電話を手にしてしまった。
「…はい…」
「…あ、保田…です…けど」
「あっ…」
「…寝てました?…」
「あ、いや…別に…」
「…」
「…」
まさか保田の方から、それもこんなに早くにリアクションがあるとは、夢にも思わない俺
は、電話を持つ右手を少し震わせた。
「…前もらったメールの話なんですけど…」
何とも言えない沈黙を、保田が破った。
「あ…あぁ」
情けない声しか出せない俺。その弱っちさに自分でも腹が立つ。
「メールで返そうかな、とも思ったんだけど…ほら、こういう事は直接話した方がいいの
 かなーなんて思って…」
「…うん」
「……なんかこーゆーのって、ヘンな感じですよね…」
俺はどうしていいのか解らず、なぜか部屋にあるモーニング娘。のポスターに目をやっ
た。しかし、その中の保田と目が合い、ますます緊張度合いを高めてしまった。

「…センパイ、ワタシ…」
「ちょっと待って」
「え?」
「…ゴメン…な」
「…え…」
「あんな事、突然言っちゃって。迷惑だったと思う。ホント、ごめん…」
「…なんで謝るんですか…ワタシ、嬉しかったよ、センパイ…」
「えっ…」
「…ワタシもセンパイの事…」
「…保田…」
「……でもワタシね、センパイとは付き合えない…」
「……」
「仕事、もっともっとがんばりたいし。そうなったら、絶対時間がないって思うし。それに…」
解っていた結果ではあったが、いざ対峙してみると、ボディにズンという感じで来る、
結構ヘビーな言葉。俺は気丈を振舞いたかったが、それすらも出来ずにいた。

「…それに、ワタシには待ってる人がいるから…」
「え?」
「高校の時にね、付き合ってた人がいたんです。歌のレッスン受けるために高校辞めちゃ
 った時にね、その人とも別れちゃったんですけど…」
「…」
「その人とね、約束したんです。絶対にビッグになるって。その人ね、待ってるんですよ、
 ワタシがビッグになるの」
「…」
「だから、ビッグになるまで、とにかく仕事がんばりたいって思ってるんです…」
見事なまでの、完全なる失恋。しかし、なぜか心の中には、妙なすがすがしさがあった。
保田が俺の事をタダの先輩としてではなく、特別な存在として見てくれている。その事
実だけで十分だと、俺は心から思っていた。例え、これから先、俺の事がタダの先輩で
しかなくなったとしても、この一瞬、保田の心に俺がいたコトは変わらない事実として
2人の心の中に生き続けていく。それだけで、もう十分だった。

「なぁ、保田」
「はい」
「フリーターの俺にはさ、今の保田に、たぶん何にもしてあげられないと思う」
「センパイ…」
「俺も仕事が忙しいし、まぁ、保田はもっと忙しいし、あんまり会う事もなくなるだろうって
 思う」
「…」
「だけど、俺は保田のコト、忘れない」
「…」
「バイトの後輩で、頑張り屋の保田も、モーニング娘。で輝いてる保田も、ずっとずっと忘れ
 ないでいる」
「…センパイ…」
「だから…保田も俺のこと忘れないでいて欲しい…」
「…忘れない…絶対に忘れない…ありがとう…センパイ」
俺は電話を切ると、ベッドの上に大の字になった。そして、しばらく天井を見つめていたが、
だんだん視界が潤んだようにぼやけてくる。束の間の夢の終わりは、とてもシンプルで、そ
して、とても寂しげだった。

 *

―――『さぁ、今日のゲストはモーニング娘。のみなさんですっ』

8月だというのクーラーの全く利かない休憩室。映りの悪いテレビは、歌番組を流してい
る。俺は、少し遅めの夕食を頬張りながら、ボーッとテレビを見ていた。
「あれ?センパイ、モームスのファンなんすか?」
一緒に休憩に入った後輩が、横に座ってそう呟いた
「あぁ…悪いかよ」
「いや…いいっすよね。俺も好きナンすよ」
「…誰がいい?」
「やっぱ、ゴトウマキでしょ。カワイイっすもん」
「……」
「で?で?センパイは誰ナンすか?」
「誰でもいいだろ。ナイショだよ、ナイショ」
「いーじゃないすかー。誰にも言わないから教えてくださいよー」
「……保田圭だよ」
「…ヤスダ…誰すか?それ?」
「……コレだよ」
そう言って、俺は画面の右端を指差した。
「コレが『モーニング娘。』の保田圭だよ。よく覚えとけ」

そこに映っていたのは、まぎれもなく『10人』のモーニング娘。だった。

 第ニ部 完