「はぁ・・・」
平家はもう何度目かになる溜息をはいた。隣では中澤がなにやらくだを
まいている。まったくよく飲む女だ。
最初は居酒屋に居たのだが、1軒目も2軒目も追い出され、今は平家の
自宅だ。もちろん、平家は自宅に来ることを拒んだが、哀しみの行かず
後家中澤の前に平家の力などないにも等しい。
「ホンマ、アタシも誰かにお持ち帰りされたいわぁ。なあ、みっちゃん。
ちょっとぉ!聞いとんのかぁ?」
「はいはい」
もう何時間もこの調子だ。ああはなりたくないと思いながら、平家は3本
目の缶ビールに手を伸ばした。ちなみに、中澤の周りには既に10本近い
空き缶が転がっている。こんなに飲んでいてなぜこの女は太らないのだろ
うか?やはりもう人間ではないのかもしれない、そんな事を考えていると
突然中澤が叫んだ。
「そや!とりあえず矢口呼ぼ!矢口!!」
「裕ちゃん、今何時やと思ってんねん。いいかげんにしぃや。しかもなん
でとりあえずやねん」
まったく、何を考えているのかと多少の苛立ちを感じながらふと隣を見る
と、中澤は既に携帯電話を取りだし、矢口に電話をかけようとしている。
「ちょっと、裕ちゃん!?」
「ええやん、ええやん。まだ、起きとるやろ。問題ないやん」
そういうと、平家を無視して電話をかけ始める。失うものがなにもない人
がうらやましい。中澤を阻止する事をあきらめた平家は、ぼんやりとそん
な事を考えていた。
Prrrrrr Prrrrrr Prrrrrr・・・・
「なんやぁ?出ぇへんなぁ。風呂にでも入っとるんかなぁ?」
「みんないろいろと忙しいねん。暇なんはアンタだけや」
「そやなぁ、ウチらは新曲も出さなあかんからなぁ。みっちゃんがうらや
ましいわ」
「うっさいわ!!」
痛い所を突いてくる女である。しかし平家には言い返す術はない。全てが
事実だからである。
(アタシも頑張ってんねんけどなぁ。なんで、売れへんのやろ)
中澤がまた何処かに電話をかけている。好きにすればいい、平家は中澤を
止める気力さえ失っていた。
先程から、中澤は電話を掛け続けている。どうやら誰かが来てくれるま
で掛け続けるつもりらしい。はた迷惑な女だ。
「ええぇ〜、なんでなぁ〜ん?なっちぃ!ええやん、な?」
『ごめんね、裕ちゃん。でも、なっちもう眠いべさ」
「ええやん、ええやん。一緒に飲も?何にもせぇへんから!」
『こないだもそう言ってたべ?もう裕ちゃんは信用できないもん』
こないだも?それよりも中澤!お前は安倍に何をしたんだ!?
「今回はホンマやて。な?裕ちゃんを信じてぇな」
これではまるっきりスケベ親父だ。結婚したい、結婚したいと日ごろか
らわめいている中澤だが、本当に結婚する気があるのだろうか?もし、
一生このままだったらどうしよう。30になっても、40になっても酒
を飲んでくだを巻きつづけていたら・・・、平家は中澤の将来が心配に
なった。無論、中澤はそんな平家の気持ちを察する気配もないが。
気が付くとビールがもうなくなっている。うわばみ中澤、すさまじいぺースである。
「裕ちゃん、ビールもうないからアタシちょっと買うてくるわ」
声をかけると、中澤は行って来いというように手をひらひらさせた。ま
だ、安倍との電話に夢中だ。
中澤を一人部屋に置いておくのはなにかと心配だが、あれでも一応年上
だ。何もしないだろう。平家は静かに部屋を出た。
春とはいえ、夜風はまだ冷たい。平家は急ぎ足で近くのコンビニへ向かった。
約30分後、平家がマンションのドアを開けると、中からなにやら笑い
声が聞こえる。中に居るのは中澤一人のはずだ。
まさか、中澤の末期症状!?あせった平家が部屋にあがろうと靴を脱い
だ時、見なれぬ靴が1足あることに気が付いた。誰か来たのだろうか。
中澤が先程からメンバーに呼び出しをかけていた事を思い出した平家は
多少の不安を抱きながら、部屋のドアを開けた。
「あ、こんばんわぁ。おじゃましてますぅ」
そこには、中澤に肩を抱かれながらへらへらと笑っている少女が居た。後
藤である。どうやら酒を飲まされているらしく、頬がほんのりと赤くなっている。
「おう、みっちゃん。遅かったやん。酒〜、酒〜!!」
「酒、酒やないって!なんでごっちんがここにおんねん!!しかも、未成
年に酒飲ましたらあかんやろっ!!!」
信じられない女だ。未成年を勝手に人の家に呼び出したあげくに、酒まで
飲ませている。これでは石黒に先を越されるわけだ。
しかし中澤は悪びれる様子もなく続ける。
「みっちゃんは相変わらず固いなぁ。ええやん別に、後藤もイヤやないも
んなぁ?」
「え〜、でもぉ、ビールって苦いよぉ」
苦いんだったら飲むなよ。平家は口の中で毒づいた。中澤はまた後藤を抱
き寄せ酒を勧めている。これでは、セクハラ親父ではないか。ずっとデマ
だと思っていた男断ち2年目という噂も妙に真実味をおびてきた。後藤も
嫌がれよ、うれしそうに酒を飲むな!お前はまだ14歳だろう!!
「とにかく、酒はアカン!ほらごっちん、その缶こっちによこしぃ」
「え〜、平気だよぉ。お酒なんて、みんな飲んでるよぉ」
「そうや、そうや。気にすることあらへん。ほれ、後藤、飲め飲め」
「やめっちゅーねん!!」
平家は後藤の手からムリヤリ缶ビールを奪い取った。平家のあまりの剣幕
に後藤はきょとんとした顔をしている。
「平家さん、何怒ってるんですかぁ?」
「みっちゃんはな、売れてる子が嫌いやねん。ホンマ、女の嫉妬は醜いわぁ
ウチも売れとるから、いっつもみっちゃんに苛められてんねんで」
「あはは」
中澤がわけの分からない事を言っている。売れてるのはお前のいるグルー
プであって、お前個人ではないだろう。自分だって『娘。』のメンバーだっ
たらもっと売れているはずだ!そんな事を考えながら、平家は乱暴に空き
缶を片付けはじめた。酔っ払いに何を言っても無駄だ。特に中澤には!1
軒目、2軒目の居酒屋での経験で平家はそのことを痛いほど思い知っていた。
「平家さぁん、なんで怒ってるんですかぁ?」
後藤がのんきな顔をして聞いてくる。まったく、最近の若い子は!なんて
いうか道徳心というものが欠けていると思う。節操ないし、だいだいアン
タ市井ちゃんはどうなったの!?辞めるって決まったらもう用済みなのか?
無言で空き缶を片付けながらそんなことを思う平家みちよ。割と古風な女である。
「みっちゃんはなぁ、ヤキモチやいてんねん」
「はぁ?ヤキモチぃ?なんでぇ?」
「みっちゃんもホンマはウチみたいに若い子と仲良うしたいねん。でもな、
みっちゃんは素直やないさかいウチみたいにできんねん」
「えぇ〜!そうだったの?平家さん、そぉなんですかぁ?」
こんな人達にはつきあっていられない。平家は2人を完全に無視する事にした。
「平家さぁ〜ん?どぉ〜なんですかぁ?答えてくださいよぉ」
「あっはっは。ええで、後藤!もっと言ったれ!!」
「平家さぁ〜ん!!」
無視、無視。酔っ払いは無視するに限る。平家は貝となった。
「平家さぁ〜ん!返事してくださいよぉ〜!」
「みっちゃ〜ん!?」
まだ酔っ払い2人がからんでくる。相手にしてはいけない、平家は必死に
心を落ち着けようとした。だが、落ち着こうとすればするほど2人の声が
耳につく。日ごろから冷静な平家だが、彼女とて神様ではない。泣きもす
れば、怒りもする。平家の怒りは、頂点に達した。
「アンタら、いいかげんにしぃや!!勝手に人の部屋に転がり込んで、酒
飲んでくだまきよって、ホンマ何様のつもりなん!!?ごっちん、アンタ
も何考えてんねん!?自分14やろ!?何、当たり前の様に酒飲んでんの!?
ホンマ、メッチャ腹立つわ!!!」
これだから、臨界点を突破した女は恐い。平家は今までの溜まり溜まった
怒りを一気にぶちまけた。
「ああ、メッチャ頭痛い・・・」
平家はゆっくりと目を開けた。ふと隣をみると、缶ビールの空き缶が床に
散乱している。すべてが昨夜のままだ。
昨夜、限界までブチ切れた平家は、ムリヤリ2人を部屋から追い出した。
あの時は、あの2人と同じ空気を吸うのもイヤだった。2人を追い出した
後平家は残っていた酒を全て飲み干し、そして今朝、この状態である。
「・・・ごっちん、びっくりしたやろな」
中澤の前ではよく切れる平家だが、後藤の前で怒ったことはないような気
がする。しかも、よくよく思い返してみると、悪いのは全て中澤のような
気がする。後藤を連れ込んだのも中澤。酒を飲ませたのも中澤。後藤をけ
しかけたのも中澤。全部あの行かず後家のせいではないか。中澤の挑発に
すぐのってしまう自分を少し反省する平家であった。
ピンポーン
ふいに玄関のチャイムがなる。誰が来たのだろうか。平家は起きあがろう
としたものの、ひどい二日酔いの為に動くことができない。頭を少し動か
すだけでも激痛がはしる。とうせ集金か何かだろう。平家は無視をきめこんだ。
ピンポーン。ピンポーン。
しつこい奴だ。もうほおっておいて、平家は頭から布団をかぶった。チャ
イムの音が頭に響くのだ。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
いい加減にしろ!平家の我慢が限界に達したその時、ドアの外から聞き覚
えのある声がした。どことなく間延びしているあの声だ。
「平家さ〜ん、いませんかぁ〜!」
後藤の声だ。平家は頭痛に堪えながら玄関に向かった。
ドアを開けると、そこには相変わらずへらへらした顔をした後藤が立って
いる。
「あっ、いたぁ〜!」
「ごっちん!アンタこんなとこで何してん?」
「えぇ〜、お見舞いにきたんですよ」
「はぁ?」
「昨日、裕ちゃんのウチに泊まったんですよ、そんで朝起きたら裕ちゃん
すっごい二日酔いだったんです。だから平家さんもそうかなって思って。
ホラ、薬持ってきましたよぉ」
後藤はにっこりと笑うと、薬屋の宣伝が印刷された紙袋を差し出した。中
澤の家に泊まった!?何もっされなかったのか!!?いや、そんなことよ
り意外だ。後藤がこんなに気がきく子だったなんて。私は今まで彼女の事
を誤解していたのかも、平家は後藤の笑顔を見ながらそんなことを考えていた。
「平家さん、聞いてます?」
「んっ?ああ。ホンマありがとうな。コレ、使わせてもらうわ。・・・あ
がってく?」
「えぇ?でも、平家さん二日酔いひどいんじゃないんですかぁ?」
「いや、そんなたいした事ないねん。平気やさかいに」
はっきり言って、頭痛と吐き気は限界に達している。でも、なんとなく。
なんとなくこのまま帰せるのは悪いような気がした。折角来てくれたのだ
から、お茶くらい出さねば申し訳がない。さすが、常識人平家みちよ。
平家は、後藤を部屋へ招き入れた。
「うわぁ〜、この部屋すっごいお酒臭いですよぉ」
やはり後藤は失礼な女だ。だいたい誰のせいでこんなに酒臭くなったと思
っているのだ。後藤の無神経さを再確認した平家は液状の二日酔いの薬を
一気に飲み干した。
「平家さぁん、窓開けません?この部屋やっぱ臭いですよぉ?」
「うん・・・」
いくら薬を飲んだからと言って、まだ効いてはこない。平家の気力は限界
に達していた。後藤の言葉も、半分耳には入っていない。
「平家さん?大丈夫ですか?なんか具合悪そうですよぉ?」
心配そうな顔で後藤が聞いてくる。平家がなんとか答えようとしたその時
無機質な電子音が、部屋に響き渡った。
「あっ、ごめんなさい。ちょっと待ってくれますぅ?」
どうやら後藤の携帯に電話がかかってきたらしい。着信音が頭に響く。
「もしもしぃ。あっ、裕ちゃん?・・・・・うん?」
電話の相手は中澤のようだ。ひどい二日酔いだと聞いたが、電話をかける
元気があれば大丈夫だろう。平家はゆっくりとベッドに腰掛けた。もう、
立っているのも辛い。
「あっ!!ごめん!忘れてたぁ!!ごめんなさい!怒んないで、すぐ帰り
ますぅ!!」
「・・・・どないしてん?」
先程の後藤の大声で平家の頭痛はもう限界だ。
「あのぉ、あたしホントは裕ちゃんに二日酔いの薬買って来いって言われ
て薬局に行ったんですよ。でも薬局で平家さんの事思い出して、そんで
こっちに来ちゃったんですよぉ」
そういえば、二日酔いの薬は2本あった。なるほど、そういうことだった
のか。しかしながらこの女の記憶力はどうなっているのだろう。あの中澤
を忘れるだなんて。さすが加入してすぐセンターを奪い取っただけの事は
ある。そんな事を思っている平家を無視して後藤は続ける。
「だからぁ、あたしすぐ裕ちゃんのとこに戻んなきゃいけないんです!平
家さん、お邪魔しました!お大事にぃ!!」
そう言いながら後藤は、二日酔いの薬が一本入った紙袋を掴むと慌てて部
屋から飛び出していった。電話の中澤はよっぽど怒っていたのだろう。乱
暴にドアが閉まる音を聞いた後、平家はゆっくりと横になった。そして、
そのまま深い眠りへと落ちていった。
最近平家は自分の様子がおかしい事に気が付いていた。
数日前のあの一件から後藤は頻繁に平家の部屋を訪れるようになっていた。
中澤と一緒に酒を飲み、平家をからかう。そんな毎日が続いていた。中澤
と後藤の無神経な言動に怒るフリをしながらも、平家の目は無意識に後藤
を追っていた。あのへらへらした顔や、平家に怒られしゅんとなった顔、
でもすぐにまた平家をからかい始める少し意地悪な笑顔が目に焼きついて
離れない。
「アタシ、どっかおかしいんかなぁ・・・」
ベットにうつ伏せになったまま、平家はポツリと呟いた。あの2人が帰っ
た後はいつもこうだ。散らばった空き缶を片付けもせず、1人悩んでいる。
自分はおかしいのではないかと。しかし、どんなに悩んでも結論は出ない。
結論は、出ないのだ。
ピンポーン。
ふいに鳴った玄関のチャイムの音で目を覚ます。どうやらあのまま眠って
しまった様だ。時計を見ると、もう午前2時をさそうとしている。一体こ
んな誰だろう、非常識な。そう思いながら、平家は玄関へと向かった。
ピンポーン。
再びチャイムが鳴る。平家はそっとドアの覗き穴から外の様子をうかがっ
た。ドアの外には見覚えのある少女が立っていた。後藤である。驚いた平
家は急いで玄関のドアを開けた。
「ごっちん!!アンタこんな時間に何してんねん!!?」
「平家さん、こんばんわぁ。来ちゃいましたぁ」
「来ちゃいましたって、ちょっとアンタ今何時やと思っとるん!?」
「えぇ〜、2時ちょっと前かな」
時計を見ながら後藤が答えた。確かにその通りだ。だが、平家が聞きたか
ったのはそんな事ではない。この女は何を考えているのだろう。女の子が
こんな時間に一人で出歩くだなんて!平家が何か言おうと口を開きかけた
時、後藤がゆっくりと平家の目を見て呟いた。
「・・・あがってもいいですか?」
後藤の突然の言葉に戸惑いを感じながらも、平家はとりあえず後藤を部屋
の中に入れた。こんな時間に女の子を外に放り出すワケにもいかない。し
かし、一体この子は何をしに来たのだろう?この時平家には後藤の考えが
まったくわからなかった。
「平家さん、ダメですよぉ。空き缶はちゃんと片付けなきゃ〜」
後藤がからかい混じりに言う。この子は本当に何をしに来たのだろう。そ
う思いながらも、平家はとりあえず反論する。
「誰が散らかしたと思ってんねん」
「え〜?平家さんと裕ちゃん?」
「アンタもや!それにアンタの方がアタシより飲んでたやん」
「あれぇ?そうでしたっけ?あはは、アタシもう忘れちゃいました」
後藤の様子はいつもと変わりない。平家はまだ、後藤がここへ来た目的が
わからずにいた。
「ところでごっちん、アンタ何しに来たん?」
平家はベットに腰掛けると後藤に尋ねた。
「何しに?う〜ん、何しに来たんだろ?あはは」
後藤はワケの分からない事を言っている。そうはみえないが、まだ酔って
いるのだろうか。平家がどうしようかと思ったその時、ずっとへらへらし
ていた後藤の顔がスッと変わった。後藤の目が平家をじっと見つめている。
「・・・平家さんに会いに来たんです」
「はぁ?」
「だからぁ、平家さんに、会いに来たんです」
そう言うと後藤はゆっくりと平家の横に腰を下ろした。
「聞こえませんでした?平家さんに会いに来たって言ったんですよ」
後藤の目が、イタズラっぽく笑っている。子悪魔のようなあの目だ。平家
は、何故か目をそらす事ができなかった。まるで、魔法にでもかかったか
の様に、後藤の目をじっと見つめていた。
「平家さん、アタシ気付いてたんですよぉ?平家さんがいっつもアタシの
こと見てるって。すっごい視線、感じてましたもん」
「・・・」
「ねぇ、なんでいっつもアタシのこと見てたんですかぁ?平家さん、教え
てくださいよぉ」
そう言いながら、後藤はじりじりと平家に近づいてくる。平家は動く事が
できない。まるで、蛇に睨まれた蛙だ。このままではいけない。平家はな
んとかノドから声を絞り出した。
「そ、そんなん気のせいとちゃうんか・・・?アタシは別にごっちんの事
なんて・・・見てへんで」
「えぇ〜、そうですかぁ?アタシすっごい平家さんの視線感じるんですけ
どぉ?」
そう言いながら、後藤は平家にもたれ掛かってきた。後藤の顔がすぐ近く
にある。もう、吐息がかかる程の距離だ。平家は必死で動揺を隠そうとした。
「ちょ、ごっちん。何、言うてんねん。・・・まだ酔っとるんか?」
「あはっ。平家さん、なに言ってるんですかぁ?アタシ酔ってなんかいま
せんよ?あれぇ、平家さんなんかすごい緊張してません?アタシがこん
な近くにいるからドキドキしちゃってるんですかぁ?」
そう言うと後藤はゆっくりと平家に顔を近づけてきた。後藤の甘い吐息が
平家の顔にかかる。平家は堪えきれずに後藤から顔をそむけた。
「なぁ・・・つまらん冗談はやめぇな。アタシも、ホンマに怒るで・・・」
そうは言ってみたものの、平家の声は明らかに震えていた。後藤はそんな
平家をイタズラっぽい目で見ながら、そっと震える平家の唇に自分の唇を
重ねた。
「やめてっ!!」
平家は力任せに後藤の身体を突き飛ばした。
「いった〜、もぉ平家さん、何するんですかぁ?」
「ごっちん、アンタいいかげんにしぃや。・・・冗談にも程があんねんで」
平家は早口に言い捨てた。心臓が激しく脈打っている。今の平家は明らか
に冷静さを失っていた。平常心、平常心。平家は必死に自分に言い聞かせ
た。後藤は、そんな平家を見て意地悪く笑いながら言った。
「平家さん、何言ってるんですかぁ?アタシは、平家さんがしたいって思
ってる事をしてあげただけなのに。なんでそんなに怒るんですかぁ?」
「だ、誰がそんなん思ってるっちゅーねん。そんなん・・・そんなんアン
タが勝手に思っとるだけとちゃうんか?」
平家は必死に言葉をつないだ。自分の顔がどんどん赤くなっていくのが分
かる。
「あぁ〜あ、裕ちゃんの言う通り、平家さんってホント素直じゃないんで
すねぇ。そんなにイヤがらなくてもいいじゃないですかぁ?」
平家の頭はもうパニック寸前だ。もう何を言っていいのかもわからない。
「平家さん怒っちゃったんでぇ、今日はもう帰りますね。・・・平家さん?
また、来ますから」
そう言うと後藤は平家の唇に再び軽くキスをした。そして、イタズラっぽ
く笑うと、そのまま平家の部屋を後にした。
ドアの閉まる音がとても遠くで聞こえる気がする。平家はその閉まったド
アを、ただ呆然と眺めていた。
平家はあの夜の事を考えていた。後藤の突然の来訪、そして突然のキス。
何がなんなのかもうわからない。しかも後藤は、平家がそれを望んでいた
と言う。確かに望んでいたのかもしれない、平家は思った。
後藤に好意を抱いていた事は確かだ。それは認める。だがそれは恋愛感情
などと言うものではなく、なんというか、平家にとって後藤はかわいい妹
のような感覚であった。少なくとも、平家はそう信じていた。
だが心の奥底では、こうなる事を期待していたのかもしれない。正直、後
藤にキスをされた時、平家は嫌ではなかった。理性と言うストッパーが、
かろうじて平家を抑え付けていたに過ぎなかったのだ。
「次にきたら、アタシもうアカンかもしれへん・・・」
平家は小さく息を吐いた。
しかし、後藤のあの積極性はなんなのだろう?平家は完全に手玉に取られ
ている。後藤は、平家をからかうと言うゲームを楽しんでいるだけなのか
もしれない?そう考えると、後藤の行動に激しく動揺する平家はなんと滑
稽に見えることだろうか。平家は自分が情けなくなった。
「なぁ、みっちゃん。新曲聞いたかぁ?やっぱええなぁ、ウチの語り」
中澤が何やら喚いている。勘違いも、ここまでいくと素晴らしい。いつ
もと何も変わらぬ様子でうわばみが酒を飲んでいる。何やら地盤沈下が
起きたとかで、平家の部屋が沈んだとか沈まないとか様々な噂が飛び交
っているが、もちろん平家の部屋はある。それ以前に、地盤沈下が起き
た事など、平家は知らなかった。
そして、くだを巻く中澤の隣には、後藤が居た。何食わぬ顔でへらへら
と酒を飲んでいる。この間の夜の事などなかったかの様に。
「ほら、裕ちゃん。もういい加減に帰りぃや。明日も仕事あるんやろ?」
「ええやん。もうちょっと飲ませてぇな。なぁ、後藤?」
「でも、裕ちゃんすごい酔ってるよぉ。もう、帰ったほうがいいよぉ?」
後藤の珍しい反応に平家は驚いた。いつもなら絶対こんな事は言わないのに。
「はいはい、分かりましたよ!ホンマ売れっ子は忙しゅうてかなわんわ。
仕事のないみっちゃんが羨ましいわ」
中澤は渋々立ちあがった。明日仕事があるという事を少しは自覚していたらしい。
「しゃーないなぁ。ホレ、後藤、帰るで」
「あっ、ごめんなさい。アタシ今日平家さんちに泊まってくの。ね、平家さん?」
後藤の突然の言葉に平家は一瞬息を飲んだ。もちろん、そんな約束をした
覚えはない。
「ア、アンタ何を言ってるん?」
「もぉ〜、平家さんも酔ってるんですかぁ?泊まってくって約束したじゃ
ないですかぁ!!」
「なんやぁ?だったらウチも泊めてぇな」
「ざ〜んねんでしたぁ。定員オーバーだよ」
「そやなぁ、みっちゃんちは狭いさかいに。ほな、ウチは帰るわ。後藤、
明日仕事遅れたらアカンで。みっちゃん、後よろしくな」
「裕ちゃん、おやすみなさ〜い!」
中澤は、おとなしく部屋から出ていった。かなり酔ってはいたが、まだ足
元はしっかりしている。後に残されたのは、平家と後藤。平家は中澤に帰
れと勧めた事を激しく後悔した。
「ごっちん、アンタ何考えてんねん。いきなり泊まってくなんて。・・・
もう、帰りなさい。アタシは、アンタを泊める気なんてないんやから」
「ひどいですよぉ、平家さん。ホントはうれしいくせにぃ!」
後藤はイタズラっぽく平家を見つめた。中澤の前では絶対に見せない目だ。
何故だろう。この目で見つめられると、視線をそらす事ができない。平家
は、動揺を悟られない様にゆっくりと口を開いた。
「ごっちん。あんまりアホな事言うとったら、アタシも怒るで?」
そんな平家を無視して、後藤は平家に近づいてくる。もう、手を伸ばせば
届く距離だ。後藤は更に近づいてくる。平家はまるで身体が凍ってしまっ
たかの様に微動だにしない。動かそうとしても、動かないのだ。なんとか
しなくてはいけないと言う事は平家が一番よく分かっている。頭では分か
っていても、身体が言う事を聞かない。後藤の手が、そっと平家の頬に触
れる。
「あれぇ?平家さん、今日はイヤがらないんですね。どぉしたんですかぁ?」
後藤が意地悪く笑いながら問い掛けてくる。そして、平家の返事を待たず
にゆっくりと唇を合わせた。
それが合図だった。平家は後藤の身体を突き放すと、早口に叫んだ。
「冗談もたいがいにしぃや!アンタ一体何が目的やねん!!アタシ困らせ
てそんなに楽しいんか!!なぁ!アタシに嫌がらせしてそんなに楽しい
んかっ!!?」
最後の方はほとんど絶叫に近かった。肩で息をしながら、平家は後藤を睨
みつけた。
後藤の目が、一瞬氷の様に冷たくなる。平家はゾッとした。この子がこん
なに冷たい目をするだなんて。少しの沈黙の後、後藤は再びイタズラっぽ
く笑うと平家に近づいてきた。
「平家さん、そんなに怒んないでくださいよぉ。ホントはうれしいんじゃ
ないんですかぁ?」
「そんなわけないやろっ!!」
「じゃあ、何でいっつもアタシの事見てたんですか?」
「・・・それは」
平家は思わずくちごもった。何故だろう。何故自分はいつも後藤を見てい
たのだろうか。そんな事は、平家の方が聞きたいくらいだ。
まるで平家の気持ちを見透かしているかのように、後藤は薄笑いを浮かべ
てこちらを見つめている。平家は後藤から目をそらした。このままでは自
分がおかしくなりそうだった。
ふと気が付くと、後藤が目の前に立っている。反射的に平家が後藤から離
れようとしたその時、後藤は逃げる平家の肩を掴むと、力任せに平家を床
に押し倒した。平家の身体に激痛が走る。
「つっ!!」
平家は思わず声をあげた。力任せにフローリングの床に叩きつけられたの
だ。しかも後藤の馬鹿力で。痛くないわけがない。
「ごっちん!!アンタ何すんねん!ええかげんに・・・んっ・・・」
後藤は突然の行動に驚く平家の唇を、無理矢理自分の唇で塞いだ。薄く開
いた平家の唇をそっと舐めると、そのまま口内へ舌を滑らせる。そして、
平家の舌を見つけると、それに自分の舌を激しく絡めていく。
「やっ・・・」
平家は顔をそむけようとしたが、後藤の唇は更に深く押し付けられる。深
く、そして激しく平家の舌を求め続ける。
「んっ・・・んん・・・・・」
平家は思わず声を出してしまった。こんなに激しいキスは久しぶりだった。
後藤は、そんな平家をイタズラっぽく見つめるとそっと唇を離した。
「平家さん、すっごいやらしい声。アタシの事、キライなんじゃなかった
んですかぁ?」
「・・・」
平家は何も答えない。答えられないのだ。
平家の頭の中は恥ずかしさで一杯だった。こんな子供に無理矢理キスをさ
れて、何を感じているのだ。自分を見つめる後藤の視線に耐えきれずに、
平家は思わず顔をそむけた。きっと今の自分の顔は、情けない程真っ赤に
なっていることだろう。
後藤の目がスッと細くなる。先程とは打って変わった真剣な眼差しで平家
を見ている。
「キライじゃないんですか?・・・キライじゃないなら、逃げないで」
そう言うと後藤は、再び平家の唇に自分の唇を押し付けてきた。
「それじゃあ平家さん、アタシ明日仕事あるんで帰りますねぇ。・・・聞
いてますぅ?」
「・・・」
「ま、いっか。お邪魔しましたぁ。」
玄関のドアが、静かに閉まった。
平家は、全裸のままベットに横たわっていた。もう何も考えたくはない。
あんな子供にいいように弄ばれるだなんて。平家のプライドはズタズタだ
った。逃げようとすれば逃げられたかもしれない。でも、逃げなかった。
やはり心のどこかで、平家はこうなる事を望んでいたのかもしれない。
考えれば考えるほど、どんどん嫌な事ばかり浮かんでくる。平家が信じた
くない事ばかりが浮かんでくる。
平家は、頭から布団をかぶると、全ての思考を遮断させた。
「はぁ、紗耶香もとうとう辞めてもうたな。ホンマ寂しゅうなるわ」
「・・・あの、裕ちゃん」
「なんや?紗耶香が辞めた言うても、みっちゃんは娘。には入られへんで。
折角10人にまでなった言うのにまた増えたらウチ居場所がないやん」
「いや、そうやのうて・・・あのごっちんは?」
「後藤?そういや最近来ぉへんなぁ?ま、一応後藤も未成年やさかい、酒
ばっか飲んどってもアカンやろ」
「そうやな・・・」
正直平家はほっとしていた。あの日以来、後藤には会っていない。会いた
くはなかった。後藤に会っても、どういう反応を示していいのかがわから
ないのだ。
ちらりと横を見ると、中澤が一人でテレビに向かって突っ込んでいる。ま
ったく呑気な女だ。平家は中澤が心底羨ましくなった。
ピピピピピピ ピピピピピ ピピピピピ・・・
突然携帯の着信音が鳴り響く。平家の携帯だ。画面を見ると、覚えのない
番号が表示されている。
「みっちゃ〜ん、電話やで〜!はよ出んか〜い!!」
中澤が大声で叫んでいる。そんなことはわかっている!平家は一瞬中澤を
睨んだが、中澤はテレビ画面に見入ったままだ。一体誰だろう?そう思い
ながら平家は通話ボタンを押した。
「もしもし・・・」
『あっ、平家さんですかぁ?アタシです、後藤ですぅ』
「・・・えっ?」
平家は自分の耳を疑った。聞き間違いかと思ったが、確かにこの声は後藤
の声だ。あの夜の悪夢が一瞬にしてよみがえる。しかし何故後藤が自分に
電話を掛けてくるのだろう。それ以前に何故後藤は自分の携帯番号を知っ
ているのだろうか。様々な疑問が一気に湧き上がり、平家は次の言葉をつ
なぐ事ができなかった。
『もしも〜し?平家さ〜ん、聞いてますかぁ?』
「・・・何か用?それより、なんでアンタがアタシの携帯番号知ってんね
ん・・・」
『平家さん、こわ〜い。声が冷た〜い!そんなに怒んないでくださいよぉ!
番号はぁ、なっちゃんに聞いたんですぅ。間違えてメモリー消しちゃっ
たって言ったら簡単に教えてくれましたよぉ』
安倍に聞いた?平家は少し考えた。安倍に番号など教えただろうか。だが
平家はすぐに思い出した。初めて会った時に、なんとなくその場の流れで
番号を交換したのだ。ただの社交辞令の様なものだった。
「アンタ・・・ホンマに最低やな」
平家は、近くに居る中澤を意識して少し声を落とす。中澤を見るとテレビ
に夢中で、平家を気にしている様子はない。
『平家さん、ひどいよぉ!いいじゃん、別に。携帯番号くらいさぁ。』
後藤はまったく悪びれる様子もなく電話を続ける。きっとまたあのへらへ
らした顔で平家の言動を楽しんでいるのだろう。そう思うと平家は無性に
腹が立ってきた。
『ねぇ平家さん、今暇ですかぁ?』
「・・・暇やない」
『ちょっと出てきてくれませんかぁ?アタシ、平家さんに用があるんですぅ』
「・・・暇やないって言うとるやろ」
『もぉ、平家さ〜ん!怒んないでくださいよぉ!ねぇ、いいじゃないです
かぁ』
「・・・とにかくアタシは暇やないねん。もう、切るで」
『ふーん。・・・ねぇ、裕ちゃんそこに居ます?』
「えっ?」
『なんかね、最近裕ちゃんが平家さんのこと気にしてるんですよぉ。この
頃様子が変だとかぁ、なんか心配事があるんじゃないかって、よくアタ
シに聞いてくるんです』
平家は驚いた。中澤がそんな事を考えていただなんてまったく知らなかっ
たのだ。平家の家に来ても、中澤の様子は以前とまったく変わりはなかっ
た。意外だった。
『アタシ、もぉ困っちゃいますよぉ。だって裕ちゃんすっごい真剣な顔し
て聞いて来るんですもん。でもまぁ、しょうがないんですけどね。裕ち
ゃんはアタシ達のカンケイ、知らないんですもんねぇ』
「・・・アンタまさか!?」
『あはっ。ヤダ、平家さん。言うわけないじゃないですかぁ?いくらアタ
シだってそのくらいは分かってますよ。』
後藤の声は相変わらず笑っている。まるで心からこのゲームを楽しんでい
るかの様だ。
『・・・でも、言っちゃうかもね』
「え?」
『だからぁ、もしかしたらアタシ裕ちゃんにしゃべっちゃうかもしれない
って言ったんですよ。だって、裕ちゃんホントに平家さんのこと心配し
てるんですもん。アタシ、何にも知らない裕ちゃんがかわいそうになっ
ちゃうんですぅ』
「アンタ、それ本気で言うとるんか!?」
『全部平家さん次第ですよぉ。あ〜あ、もし平家さんが来てくれなかった
ら、アタシ裕ちゃんに全部しゃべっちゃおうかなぁ?』
「・・・」
『あっ、それともぉ、裕ちゃんにもおんなじ事しちゃおうかな?最近裕ち
ゃんなんか寂しそうだしぃ』
「・・・場所は?」
『え?何ですかぁ?ごめんなさい、もうちょっとおおきい声でしゃべって
くれます?』
「・・・場所はどこ?・・・今から行くから」
時計の針は、丁度午前零時をさそうとしている。街中ならともかく住宅街
はもうひっそりとしている。
「あっ、やっと来たぁ。もぉ〜、遅いですよぉ?」
公園に入ると、向こうからのんきな声が聞こえる。平家はキツク唇を噛んだ。
約1時間前、後藤に呼び出された平家は住宅街の中にある公園へと向かっ
た。日中は子供達の格好の遊び場となっているのだろうが、この時間、人
影はまったくといっていいほどない。それ以前に平家はこんな所に公園が
あるなどと言う事を知らなかった。後藤の家は、ここから少し離れている。
何故彼女はこの公園の存在を知っていたのだろうか?後藤の行動を不審に
思いながらも平家は、ベンチに座る人影にゆっくりと近づいていった。
「平家さ〜ん。こんばんわぁ」
ベンチに座っている人影がこちらに向かって手を振っている。後藤だ。何
故この女はこんなにも無神経なのだろうか。平家は明らかに不機嫌そうな
顔でベンチに近づいていく。
「・・・用は何?」
「平家さん、すっごい怒ってません?そんなに怒んないでくださいよぉ。
久しぶりに会ったっていうのに冷たいじゃないですかぁ!」
「・・・用は?」
「う〜ん、用って程でもないんですけどぉ、なんか平家さんに会いたくな
っちゃってぇ」
後藤ののんびりとした態度に平家は苛立ちを覚えた。本当はこんな所にな
ど来たくはなかったのに、そう思うと平家はこんな所にいる自分が馬鹿馬
鹿しくなった。もうこんな女には関わりたくない!平家は無言でその場を
去ろうとした。
「ああっ、平家さん待ってください!ちゃんと用はありますからぁ!!」
そう言うと後藤は平家の腕を掴み、ムリヤリベンチに座らせた。後藤のあ
まりの力に、平家は顔をしかめた。
「一体なんなん!?用はないんやろ!?せやったら、もうええやろっ!?」
「平家さん、冷たいなぁ〜。ひょっとして、こないだの事怒ってるんですかぁ?」
「・・・」
「う〜ん、やっぱ怒ってるんですかぁ・・・。でも、平家さん。そんなに
イヤそうじゃなかったのに・・・。」
後藤はそう呟くと、しゅんとした顔をしてうつむいた。平家は妙な罪悪感
にとらわれた。自分が悪いわけではないのに、こういう顔をされるとまる
で自分が悪いのではないかという錯覚に陥ってしまう。平家は、気持ちを
落ち着かせると口を開いた。
「ごっちん、アンタの目的はなんやねん!アンタがアタシに嫌がらせをす
る理由はなんなん!?」
その言葉に後藤はふっと平家の目を見つめ、イタズラっぽく笑った。いま
まで後藤が見せた笑顔とはどこかが違う。だが平家はそんな事にはまった
く気付かず続ける。
「・・・何がおかしいねん!アタシは、アタシはアンタのその顔を見ると
メッチャ腹立つねん!!」
後藤は、何も言わずにただ平家を見つめている。だが平家には、後藤のそ
の態度が余計にしゃくにさわった。
「なんとか言うたらどうなん!?なぁ!なんとか言うたらどうなんや!!」
平家は思わず声を荒げた。怒りで全身が震えているのが自分でも分かる。
「平家さぁん。耳元で怒鳴らないでくださいよぉ!もぉ、恐いなぁ」
「・・・アンタふざけとんのか?」
「あはっ。ふざけてなんかいませんよ?ね、平家さん。少し落ち着いてく
ださいよぉ?」
そう言うと後藤はすっと平家の方に身体を向け、その細い首にゆっくり両
手を回してきた。とっさに平家が逃げようとすると、そのまま平家の身体
をキツク抱きしめる。平家の耳に後藤の吐息がかかる。
平家は後藤の身体を無理矢理離そうとした。だが、平家が離れようともが
けばもがくほど、後藤は平家を抱く手に力を込めていった。
「離して!」
「イヤです」
「離してや!!」
「イヤですぅ」
平家は必死にもがきつづける。後藤の肩を掴み無理矢理身体を離そうとす
るが、首にしっかりと抱きついた後藤は離れない。
後藤は暴れる平家を無視して、そっと平家の耳に口付けた。
「イヤッ!!」
「平家さん、暴れないでくださいよ。すぐに気持ち良くなれますからぁ。
・・・こないだみたいにね」
そう言うと後藤は、平家の耳に舌を這わせた。ちろちろと舌先で平家の耳
を弄ぶ。
「やっ・・・イヤ・・・」
平家は自分の身体からだんだん力が抜けていくのがわかった。
「あれぇ?平家さん、どぉしたんですかぁ?急におとなしくなっちゃってぇ。
もっとイヤがってくれないと、張り合いないじゃないですかぁ?」
耳元で、後藤がクスクスと笑っている。
「平家さぁん。聞いてますぅ?イヤがんないとぉ、もっといろんなこと、
しちゃいますよ?」
やっぱりこの子は自分をからかって楽しんでいるんだ。平家の心に、どう
しようもない絶望感が広がっていく。何故、自分なのだろうか。何故後藤
は自分を選んだのだろうか。後藤さえいなかったら、自分はこんな思いを
しなくてもすんだのに。後藤さえいなかったら、自分はこんなに苦しい思
いをしなくてすんだのに。後藤さえいなかったら、後藤さえいなかったら、
後藤さえいなかったら・・・
次の瞬間、平家の頭の中で何かが切れた。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
平家は大声をあげながらいきなり後藤を力いっぱい突き飛ばした。
「キャッ!!」
後藤はおもわずベンチから転げ落ちる。何が起こったのかわからず、後藤
は平家を驚きの表情で見上げた。
平家は無我夢中で後藤の身体に馬乗りになると、後藤の首を締め付けた。
両手で、しっかりと後藤の首を掴む。親指で、後藤の喉元をギリギリと圧
迫する。
「へ、平家さん・・・やめて・・・苦し・・・」
後藤は必死で平家の手首を掴む。あの子悪魔の様な顔が、苦痛に歪んでい
る。後藤はなんとか平家から逃れようともがくが、いかんせんまだ14の
少女である。自分に馬乗りになり、首を締めてくる相手を突き飛ばせるだ
けの力はまだない。
「アンタさえおらんかったら!アンタさえおらんかったらぁ!!!」
平家は後藤の喉元に食い込む指に更に力を加えた。親指に、何か硬いもの
が当たっているのが分かる。
「くっ・・・平家さ・・・やめて・・・」
後藤の声はかすれていて、もうほとんど聞き取る事はできない。後藤は必
死に平家の腕を掻きむしる。
平家には、もう何かを考える余裕などなかった。
「アンタさえ!アンタさえおらんかったら!!アンタが!アンタが!!」
「へ・・いけさ・・・くっ・・・」
平家の耳には、もうすでに後藤の声は届いていない。平家は更に手に力を
入れた。
後藤の顔はもう血の気を失いかけている。よほど苦しいのだろう。がむし
ゃらに平家の腕を掻きむしっている。
「あぁぁぁあぁあぁぁぁぁ!!!!」
平家は絶叫した。もうなにもかもが分からなくなっている。後藤はもう声
を出すことすらできない。苦痛に歪んだ唇の端から、一筋の唾液が頬をつ
たっていく。
「みっちゃん!!?何してんねん!!!みっちゃん!!!!」
遠くの方で、中澤の声が聞こえた気がした。
それから後の事はよく覚えていなかった。平家は1人部屋の隅に座ってい
る。部屋には他に誰も居ない。床には、相変わらずビールの空き缶が散乱
している。昨夜、中澤が飲んでいたものだろう。いつもと何も変わらない風景だ。
あの時、平家の携帯に後藤から電話がかかってきたあの時、中澤はずっと
平家の行動を気にしていた。ここ数日、明らかに平家の様子がおかしいこ
とに気付いていたからだ。そして、その原因が後藤である事にも。中澤は
何度か後藤に平家の様子について聞いてはみたが、その程度でボロを出す
後藤ではなかった。
電話を受け平家が部屋から出ていった後、中澤は後をつけようかどうしよ
うか悩んだ。電話の相手が後藤であるという確信がなかったからだ。だが、
中澤は後をつけた。もし違っても見つからなければいい、そんな軽い考え
だった。
もしあの時中澤が止めてくれなかったらどうなっていただろう。そう考え
ると、平家はゾッとした。自分があんな事をするだなんて、夢にも思って
おなかったのだ。
「あのままやったら、アタシはあの子を殺してたかもしれへん・・・」
そう呟くと平家はゆっくりと頭を抱えた。一体自分はなんのだろう。自分
は人殺しではないか。最低だ。自分は最低だ。平家は膝に顔をうずめた。
後藤の苦しそうな声が聞こえる気がする。幻聴だなどということはわかっ
ている。でも、あの苦しげな声が耳から離れない。平家は思わず耳を塞い
だ。耳を塞いでも、まだ後藤の声が聞こえてくる。まるで頭の中から響い
てくるようだ。
「もぉイヤや!なんでやねん!!なんで声がすんねん!!!」
平家は思わず叫んだ。もう、自分がおかしくなりそうだった。
あれから何時間たったのだろうか。気がつくともう日が暮れかけている。
平家はゆっくりと顔をあげた。時計を見ると、午後6時をさしている。ふ
いに空腹感が湧き上がる。こんなときでも腹は減るのか、そう思うと平家
は自嘲気味に笑った。
ピンポーン。
ふいに玄関のチャイムが鳴る。誰が来たのかは予想がついた。平家はそっ
と玄関のドアを開いた。
「よっ!みっちゃん。・・・元気やったか?」
「・・・うん」
「そっか。ちょっと上がってもええかな?ウチちょっと小腹すいたやさか
い一緒に食べようと思ってな、ホレ」
そう言うと中澤はコンビニの袋を平家に見せた。平家は小さく笑うと、中
澤を部屋に入れた。
「ほれほれ、いろいろ買うてきたで?やっぱおにぎりはシーチキンマヨや
な。ん?どないしたん、みっちゃん。食べへんのか?」
「あの・・・裕ちゃん」
「なんや?おにぎりはキライなん?やっぱヤキソバの方がよかったか?」
「いや・・・その・・・」
「食べへんなら、ウチが全部食べてまうで?ええんか?」
中澤の心遣いがうれしかった。いつもならムカツクような物言いも、何故
か暖かく感じる。だが、平家には気になる事があった。どうしても中澤に
聞きたい事があった。平家はためらいながら口を開いた。
「・・・あの、あの子は?」
「・・・後藤か?後藤なら大丈夫や。まだ少し喉の調子がおかしいらしい
けどな、別に命に別状があるわけやないさかい。」
「・・・」
「特に警察とかにも言うつもりはないみたいや。だいたい、この事知っと
るんはウチだけやし。後藤も特になんも言ってへんかったし・・・」
「アタシはあの子を殺そうとした・・・アタシは、アタシは・・・」
「みっちゃん・・・」
そう言うと平家は床に泣き崩れた。
「なんでアタシはあんな事してもうたんやろ?アタシは、殺したいほどあ
の子を憎んどったんやろか!?」
「・・・みっちゃん」
「なぁ!?なんでなん!!なんでアタシはあんな事したん!!?裕ちゃん
・・・教えてぇなぁ・・・・・」
平家は、顔を覆って泣きつづけた。もう、自分が嫌になりそうだった。
「なんでなん・・・・なんでなん・・・・・」
「みっちゃん、大丈夫やから。な、大丈夫やから」
中澤が優しく頭を撫でながらそう繰り返した。何の根拠もない中澤の言葉
だったが、何故か安心した。頭に触れる手が、妙にあたたかい。
「みっちゃん、大丈夫やから。何も心配することなんかないんやから」
そう言うと中澤は平家をそっと抱きしめた。平家は、中澤の胸の中で幼い
子供の様に泣きじゃくった。平家は中澤に抱かれながら、ずっと泣きつづ
けていた。
暗い部屋の中で、平家は1人うずくまっていた。中澤は仕事があるらしく
先程帰っていった。1人になると、どうしようもない後悔が押し寄せてく
る。あの時の後藤の苦しそうな顔が、頭の中をぐるぐる回っている。平家
は思わず頭を抱えた。どうしたらいいのかわからない。どうすべきなのか
がわからないのだ。
ピピピピピピ ピピピピピピ ピピピピピピ・・・・・・
突然、無機質な電子音が部屋中に響き渡る。平家の携帯の着信音だ。何故
だろういつもと同じ音量のはずなのに妙に大きく聞こえる。
中澤だろうか?平家はゆっくりと立ちあがると、携帯を手に取り、通話ボ
タンを押した。
「もしもし・・・」
『あっ、もしもし。平家さん?もしも〜し』
今一番聞きたくない声が、機械の向こうから聞こえてきた。
「あっ・・・・」
『もしも〜し。平家さぁ〜ん、聞いてますかぁ?平家さん?』
言葉が出なかった。何と言っていいのかわからなかった。後藤の声が頭に
残る。電話の声とあの時の苦しそうな声がダブって聞こえる。
『平家さぁん?もしもし?平家さぁ〜ん!!ねぇ、聞いてる・・・』
平家は思わず電話を切ってしまった。もうこれ以上後藤の声を聞いてはい
られない。何故後藤は電話など掛けてきたのだろうか。自分は後藤を殺そ
うとしたのに!後藤の声には敵意はまったくなかった。平家には、それが
余計に恐ろしかった。気が付くと、平家の肩が震えている。後藤が恐いの
だ。平家は後藤が恐くて仕方がないのだ。
平家はしゃがみこむと、そっと自分の肩を抱き震えを止めようとした。手
のひらをつたって、恐怖が身体中に広がっていく。恐怖に耐えきれず、平
家は床に倒れこんだ。身体を無理矢理床に押しつけても震えはおさまらな
い。今の平家を支配しているものは、恐怖、ただそれだけだった。
ピピピピピピ ピピピピピピ ピピピピピピ・・・・・
再び携帯が鳴る。平家は思わず携帯を壁に叩きつけた。鈍い衝撃音の後、
携帯が床に転がる。
ピピピピピピ ピピピピピピ ピピピピピピ・・・
携帯はまだ鳴りつづけている。まるで、平家の罪をとがめているかの様に。
平家は耳を塞いだ。もう何も聞きたくない。後藤の声など聞きたくない。
携帯は無機質な電子音を発し続けている。
ピンポーン ピンポーン
玄関のチャイムが鳴る。恐かった。音という音全てが、平家を責めている
かの様に聞こえる。
ピンポーン ピンポーン ピンポーン
玄関のチャイムは鳴りつづける。携帯も鳴りつづける。
「イヤやぁ!!もぉイヤやぁ!!!」
平家の精神が限界に近づいた時、玄関の向こうから声がした。
「みっちゃん?ウチやけど。なんかあったんか?ドア開けてくれへん?」
中澤だ!そう思った平家は急いで玄関に向かった。もう限界だった。誰で
もいいから助けてほしかった。だが、その時の平家には中澤の声がいつも
と違う事には気が付かなかった。
ドアを開けた瞬間、平家は自分の目を疑った。平家の前に立っていたのは
まぎれもなく後藤だったのだ。何故後藤が!?平家はしばらく呆然としていた。
「平家さぁん。関西弁がみんな裕ちゃんだと思ったら大間違いですよぉ」
携帯を片手に、後藤が笑った。部屋の奥からはまだ携帯の着信音が響いている。
「平家さん電話切っちゃうんですもん。ひどいですよぉ!・・・でもアタ
シの裕ちゃんのものまね、似てましたぁ?すぐ気付かれちゃうと思った
んですけどね」
そういうと後藤は、携帯を切った。同時に、部屋から聞こえていた着信音
もプツリと途絶えた。静寂が訪れる。平家は完全に言葉を失った。この女
はまだ自分を苦しめようとしているのだろうか。何故この女は、自分を前
にして笑っていられるのだろうか。平家は目の前が真っ暗になる様な感覚
に襲われた。
「平家さん、どうしたんですかぁ?何か様子が変ですよぉ?」
平家は何も答える事ができなかった。自分の足元が震えているのがわかる。
恐い。後藤の目をまともに見る事ができない。そんな平家を見て薄く笑う
と後藤は続ける。
「平家さん。まだあの事を気にしてるんですか?平気ですよぉ、たいした
ことなかったですし。・・・まぁ、まだちょっと喉がおかしいですけどね」
後藤の言葉一つ一つが平家を責めている様に聞こえる。足もとの震えはも
う全身に広がっている。後藤は相変わらず笑みを浮かべて平家を眺めてい
る。もう限界だった。
平家は突然後藤を突き飛ばし外に出すと、急いでドアを閉め鍵をかけた。
「ちょ、平家さん!?いきなり何するんですかぁ!!」
ドアの向こうから後藤の声が聞こえる。平家は力一杯ドアを押さえ付けた
身体の震えはますますひどくなっていく。平家はドアノブを掴んだまま、
ゆっくりとその場に座りこんだ。
「平家さん!何なんですかぁ。いきなり追い出すなんてひどいですよぉ!」
後藤がドアノブを掴んでいるのが、手の平をつたって伝わってくる。平家
はドアノブから手を離した。
「平家さん、聞いてるんですかぁ!?平家さぁん!!」
後藤の声を聞いているのが辛い。
「・・・なんなん」
「えっ?」
「アンタの目的はなんなん・・・なんでアタシに付きまとうねん・・・」
喉から絞り出した様な声だった。平家は自分の身体をキツク抱きしめた。
ドアを通して、自分の身体の震えが後藤に伝わってしまう様な気がした。
「・・・別に、目的なんてないですよ」
「ウソや!アタシはアンタを殺そうとしたんやで!?何でそんなアタシに
会おうと思えんねん!!なんなん!!?アンタの目的はなんなん!!?」
平家は胸につかえていた疑問を一気にぶちまけた。
「・・・平家さん」
「アタシは・・・アンタを殺そうとしたんやで・・・アタシは・・・」
気が付くと涙があふれている。声を漏らすまいと、平家は必死に口をおさ
えた。涙が止まらない。
「ごっちん・・・アタシは・・・アタシは・・・・・」
今までずっと誤魔化してきた罪の意識。恐怖という感情に隠されていた罪
の意識。それが今、平家の心を支配した。
「ごっちん・・・ごめん・・・ごめんなさい・・・ごっちん・・・・」
「平家さん・・・ドア、開けてください。」
後藤の声が聞こえる。平家は、後藤の声に促されるままに静かに玄関のド
アを開けた。不思議と恐怖感はなかった。それ以上に平家の心には後藤に
対する罪悪感が満ち溢れていた。
「平家さん、泣かないで・・・」
後藤はゆっくりとしゃがむと、そっと平家の肩に触れた。平家にはわから
かった。何故後藤は自分を責めないのだろうか。いっそ責めてくれたら楽
になるのに。平家はゆっくりと顔を上げ、後藤の目を見た。
「なんでなん・・・なんでアンタはアタシを責めへんねん・・・」
「・・・」
後藤は平家の目をじっと見つめている。まるで、平家の次の言葉を待って
いるかのように。
「なぁ!なんでアタシを責めへんねん!!ホンマはむかついとるんやろ!?
アタシの事メッチャ憎んどるんやろ!!?なぁ!!なんとか言ってぇな!!」
平家は後藤の肩を掴むとそう叫んだ。かなり強く掴んでいるはずだが、後
藤は痛そうな顔ひとつしない。
「平家さん、アタシはそんなこと思ってないですよ。」
「ウソや!そんなんウソや!!なんでホンマの事言わんねん!!なぁ!!
・・・アタシは最低な人間やで・・・アタシは、ホンマに最低なん・・・」
「・・・平家さん?」
「もぉイヤや・・・もぉ、イヤや・・・」
平家の頭の中は真っ白だった。もう自分が何を言っているのかもわからな
い。後藤が心配そうな顔で平家を見ている。
「アタシは最低な人間なんや・・・そうや・・・アタシは最低なんや・・・」
「平家さん!どうしたんですか!?平家さん!!?」
後藤の声は既に平家の耳には入っていない。平家の目はうつろで、どこを
見ているのかわからない。
「そうや・・アタシは最低なんや。・・・なんでアタシはごっちんを殺そ
うとしたんやろ?死ぬんはアタシの方やのに・・・最低なんはアタシの
方やのに・・・」
そう言うと平家は、ゆっくりと部屋の中に入っていった。もう何も考える
事はできない。
「平家さん!ちょ、どこいくんですか!?平家さん!!」
後藤が平家の腕を掴む。平家はその後藤の手をちらりと見ると、更に足を
進めて行く。後藤は平家の両肩を掴むと自分の方に振り向かせた。
「平家さん!どうしちゃったんですか!?なんか変ですよ!!」
「死ぬんはアタシの方や・・・死ぬんはアタシの方や・・・・・」
平家の目は、もう後藤を見てはいない。ぶつぶつと同じ言葉を繰り返して
いるだけだ。
「平家さん・・・」
平家は後藤を無視してどんどん進んでいく。後藤は無言でその場に立ち尽
くしていた。何がなんなのか分からないと言う顔をしている。
ふと、部屋の奥から何やら物音が聞こえてきた。不審に思い、後藤は急い
で平家の後を追った。
「平家さん!!」
後藤が部屋の中に入ると、平家は部屋の真中で棒立ちになっていた。手に
は何か光ものが握られている。包丁だ。慌てた後藤は急いで平家に駆け寄った。
「平家さん!なにしてんですか!!?止めてください!!!」
「アタシは最低なんや・・・アタシは死ぬべきなんや・・・」
そう言うと平家はゆっくり自分の胸元に包丁を向けた。これで楽になれる、
そう思った。
「イヤ!!平家さん、止めてよ!!!」
「なにすんねん!!アタシは・・・アタシは楽になりたいねん!!邪魔せ
んといてや!!!」
後藤は包丁を掴むと、無理矢理平家の身体から引き離そうとした。何故こ
の女は自分の邪魔ばかりするのだろう。何故自分を楽にしてくれないのだ
ろう。そう思うと平家は、更にキツク包丁を握った。
「平家さん!止めて!!止めてよぉ!!!」
後藤は力づくで平家の手から包丁を奪おうとする。だが、平家も譲らな
い。必死で包丁を自分の胸元に当てようとする。
「離してぇな!なんで邪魔すんねん!!なんでアンタはいっつもアタシ
の邪魔をすんねん!!!」
もみ合いが続く。平家は何故後藤が自分の為にここまで必死になるのか
が分からなかった。後藤は自分を恨んでいるのではなかったのか?だっ
たら何故こんな苦しそうにしてまで自分を止めようとしているのだろうか?
その時だった。平家の手に、鈍い感触が伝わった。嫌な感触だった。
平家の手に、なにか生暖かい液体のようなものが触れる。驚
いた平家ははっと自分の手を見た。真っ赤に染まっている。
その血まみれの手の先をゆっくり目で追ってみる。平家の手
の先には、同じく血に染まった包丁があった。刃の部分は何
かに埋まっていて見ることはできない。平家はゆっくりとそ
の何かから包丁を引き抜いた。カランと乾いた音を立てて包
丁が床に落ちる。
「ごっちん……」
平家は自分は何か夢でも見ているのではないかと思った。平
家の目の前には1人の少女が立っていた。平家の目の前には
腹部を真っ赤に染めた後藤が、立っていた。
「ごっちん…ウソ…・・」
平家はようやく何が起こったのかを理解した。身体がカタカタと
震えているのがわかる。後藤は血まみれの腹部を押さえて苦し
そうにしている。平家は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
自分が後藤を刺した。その事実だけが、平家に重くのしかる。
フローリングの床を血が染めていく。
「へ、平家さ・・ん…」
動こうとした後藤が、バランスを崩し倒れそうになる。平家
はとっさにその身体を支えた。後藤の苦しげな吐息が喉元に
かかる。平家にはかける言葉がみつからなかった。血まみれ
の後藤を、ただ見つめているだけだった。
「平家さん…アタシ…・・」
後藤の苦しそうな声が聞こえる。平家ははっと我に帰るとしっか
りとごとうの身体を支えた。
「しゃべったらアカン!今、今救急車を呼ぶさかいに!!」
「平家さん…ごめんなさい…ごめんなさい…」
唐突に後藤が呟いた。平家は後藤の発した言葉の意味を理
解する事ができなかった。謝るのは自分の方ではないのか?激
しく呼吸をしながら、後藤は言葉を続ける。
「平家さんを苦しめるつもりなんてなかった…アタシは…ただ…・」
「もう、しゃべらんでもええ!!なんで…なんでアンタが謝んねん」
平家は後藤の身体をキツク抱きしめた。こうしないと、まるで後
藤がどこかに行ってしまうような気がしたからだ。
「平家さん…ごめんね…ごめん……」
後藤の目にはうっすら涙が浮かんでいる。呼吸が荒い。後藤の
唇から、そっと赤い血が一筋流れ落ちた。
「アホか…謝るんはアタシの方やんか…」
「平家さん…・ごめん…ね…・」
「なんで謝んねん!なぁ、ごっちん…イヤや!!しっかりしてぇな
ぁ!!死んだらアカンて!!なぁ!!なぁ!!!」
狭い部屋の中に、平家の絶叫が響き渡る。
窓からまぶしい光が差し込んでいる。気持ちのいい、朝の光だ。
平家はゆっくりと顔をあげた。どうやら眠り込んでしまったらしい。
ベッドの横に座って突っ伏して寝ていた為、腰が痛い。上体を起こ
しベッドを見ると、昨夜と何も変わらぬ姿の後藤が横たわっていた。
「ホンマに、アンタはいつまで寝てんねん。もう朝やで?」
平家は後藤の手をそっと弄びながらそう呟いた。
後藤は目を開けない。
「まぁ、寝る子は育つってよう言うさかいなぁ。しゃーないな」
平家はベッドに腰を掛けると、後藤の顔を覗きこんだ。柔らかい
後藤の髪をそっと手櫛でとかす。そして、そのまま軽く唇を合わ
せた。氷のように冷たくなった後藤の唇に…。
「ごっちん、眠かったらいつまででも寝とってええで。アタシはアン
タが目を覚ますまで、ずっとそばに居るさかいな」
平家はゆっくり後藤の髪を撫でつづけた。髪の感触が心地いい。
平家は後藤の顔を見つめている。ずっと、いつまでも、後藤が
目を覚ますまで。
--------
「ねぇ、後藤。最近なんか楽しそうじゃん?」
仕事の帰り、駅に向かう途中で突然矢口が話し掛けてきた。
「えぇ〜、別にそんな事ないよぉ」
「ウソ、絶対なんかある!ねぇねぇー教えてよー!!」
「だから別になんもないよぉ」
「はは〜ん、後藤、恋してるな?」
矢口の鋭い指摘に後藤は思わず立ち止まってしまった。なんで
矢口はいっつも鋭いんだろう。後藤は矢口の勘の良さに感心した。
「やった!あったり〜!!で、どうなのさ。どこまで進んでん
の!?」
「どこまでって…う〜ん、全然…」
「ダメだよそんなんじゃ!もっとガツーンと行かなきゃあ!!」
「だってさぁ、アタシって不器用じゃん?なんかどうしていいかわ
かんないんだよね」
「だからガツーンって行けばいいじゃん。ガツーンて」
「ガツーン…ねぇ」
「よっし、矢口がいろいろ相談にのってあげよう。さ、ファミレスで
も行こうか。もちろん後藤のおごりでね」
「なんで〜!?ああ、待ってよぉ〜!!」
夕暮れの中、二人の少女の影法師が長く伸びている。真っ赤
に染まった空はもう、夏の訪れをそっと告げていた。
居酒屋トーク番外編「平家」
完