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悲しい笑顔

「あー。髪の毛伸びたなあー。なんか切りたくなっちゃった。」
帽子から少しこぼれた毛先をつまみながら、紗耶香が呟く。
「えー!!市井ちゃん、この前は“髪の毛、超ロングにするんだ”って
言ってたのにー?」
真希は独り言のような紗耶香の呟きに、すぐさま反応した。
「だってさー。私って、やっぱりショートが似合ってるのかなーと思って。」
「うーん。私は市井ちゃんのショートの時しか知らないから、分かんないな。」
真希はまじまじと紗耶香の顔を見つめる。
「そっか・・・。でも、実は私、昔は結構髪の毛伸ばしてたのよ。そうねえ・・・、
今の真希ぐらいが一番短い時だったかな。」
と言うと突然、真希の髪の毛を触りだす。紗耶香の仕草に真希の胸はドキリとした。
急に真希の顔に近づいてきた紗耶香の顔。いつも教育係として接している顔
とは全く違い、柔らかで、静かで、16歳の高校生・紗耶香の顔が真希はたまら
なく好きだった。新メンバーとして加入してから何度となく、くじけそう
になった自分を助けてくれたのも、そんな紗耶香の顔だった。

「後藤?聞いてるの?」
真希は紗耶香の呼びかけで我に返る。
「え!? どうしたの市井ちゃん。」
「あんた、本当に人の話、聞いてないよねー。悪いクセだぞ。」
「そんなことないよ!ちゃんと聞いてたよ・・・。えっと・・・、市井ちゃんが髪の毛
長かった時の話でしょ?」
真希が懸命に紗耶香の話したことを思い出す。しどろもどろな説明に紗耶香は
堪らず吹き出す。
「あー、笑わないでよー。人が一生懸命説明してるんだから!・・・悪いクセだぞ。」
どうやら、今回は真希の方が一枚上手だったようだ。顔を見合わせて笑う二人。
いつまでも笑顔でいられると信じられた時だった・・・。

溢れる人並み・道路を埋め尽くす車・無表情な街並み。
「ねー!ねー!ナッチ!すごいね!!」
真希はそんな景色を見ながらひどく興奮していた。
「後藤―、別に東京と変わんないじゃん?どうしてそんなに、はしゃげるの?」
なつみがあきれ半分に答える。
「だってさー、外国だよ!!ガ・イ・コ・ク!!」
「外国っていっても、台湾じゃない。東京から飛行機で2時間。海外な感じする?」
紗耶香がそんな上気した真希の顔を不思議そうに見ながら喋る。
「だって、市井ちゃん。私、海外なんて始めてだもん。日本じゃないんだよ!ココ。」
真希の興奮は止まらない。キョロキョロ周りを見る姿はメンバーの笑いを誘った。
「あー、カワイイなー。このピアス。」
空港近くの露店に目を止めた真希はピタリと動くのを止めた。
「ホント、カワイイなー。どうしよう・・・、いいか!買っちゃえ!!」
いつもなら、昼食のメニューも15分は迷う真希であったが、異国の雰囲気が彼女
に抜群の決断力をもたらしている。

「すいませーん。すいませんってば!! あのーこれ下さい。こ・れ・ク・ダ・サ・イ。」
「後藤、すごいなー。日本語で喋ってる・・・。通じるはずないのに・・・。」
圭が呆気に取られながら呟く。
「えっ?幾らです?100? ウソー100円!!超安いー!!!」
外国という環境と、想像だにしなかった価格に真希は更に興奮の度合いを強めた。
すぐさま、財布からお金を出す。
「ハイ。100円!・・・エッ!ダメ?何で?100円でしょー。ほら、100円。」
真希の頭を後ろから軽くチョップするとほぼ同時に、紗耶香が語りかけてきた。
「後藤―、本当にあんた、世間知らず。あのね、台湾じゃあ日本のお金は使えないの?」
あきれたように言う。
「へ・・・?どうして?日本だったら使えるじゃん?」
「だからー・・・。説明してもダメか・・・。とにかく、台湾じゃあ、円は使えないの!」
「じゃあ、買えないの・・・。こんなにカワイイ、ピアスなのに・・・。」
さっきまでの興奮が嘘のように真希は沈んでいた。うつむき加減の顔から今にも涙が
流れそうである。紗耶香は頭をかきながら、一つ大きなため息をつくと、
「あー、もう泣かないの! 後藤・・・、ホントにしょうがないなあ・・・
よしっ、分かった!私が買ってあげる!!」

真希の顔が急に笑顔に変わる。
「ホント!市井ちゃん?ホント!!」
「ホントだから・・・もう、落ち着きなさい! えっと、100元・・・はい100元。」
そう言って、露店の主人にお金を差し出すと、主人はピアスを紗耶香に手渡す。
「はい、後藤。これでいいの?」
真希はブンブン首を縦に振ると、
「ウンッ!それ!それが欲しかったの。」
と大ハシャギで答える。
「もう、おねだりしても買わないわよ。後はガマンして、銀行でお金を両替するのよ。」
そう言うと、紗耶香はピアスを真希に手渡そうとするが、真希が受け取らない。
「どうしたの?真希。いらないの?」
真希は急に幼児のように恥じらいだした。

「・・・あのね・・・市井ちゃん・・・付けてくれない?・・・ピアス。」
「後藤、まさか、あんた自分でつけられないのにピアスを・・・」
「違うよ市井ちゃん!ちゃんと付けられるよ。でも・・・市井ちゃんに付けて
もらいたいんだ・・・いいでしょ?」
“相変わらず、後藤はおねだり上手だ。”紗耶香はそう思ったが、あの顔を
見るとイヤと言えない自分だということも知っていた。
「本当にアンタはワガママなんだから・・・。ハイハイ分かりました後藤さん。
この市井めが、ピアスをつけて差し上げます。」
そう言うと、紗耶香は真希に顔を近づけていった。真希は耳元にかかる
紗耶香の息づかいに、ひどく心が高鳴った。
「コラ!後藤。じっとしなさい!!いつまで経っても付けられないじゃない」
“市井ちゃんが悪いんだよ。私をこんなにドキドキさせて・・・”真希はそう言いた
かったが言えるはずもない。チラチラと紗耶香の顔を眺める。
真剣な紗耶香の眼差しは、普通以上に凛々しさを備えていた。

「ヨシ!出来た。出来ましたよー。後藤、後藤?どうした?痛い?」
じっと見つめる真希の顔を不思議に思ったのか、紗耶香が尋ねる。
「あっ?・・・あ、大丈夫だよ。大丈夫!アリガト市井ちゃん。」
「珍しいー。後藤が御礼を言うなんて・・・。」
紗耶香が冷やかしを込めて言う。
「だって・・・市井ちゃんが私にくれた、初めてのプレゼントじゃん?」
真希が恥ずかしそうに呟く。普段ならこんなに積極的なことは言わない。
異国は真希を少し大胆にさせていた。
「なんて言ったの後藤?よく聞こえなかった。」
紗耶香はしきりに聞き返した。大胆さは少し足りなかったようだ。
「何でもない!何でもない!!行こう、市井ちゃん。みんな待ってるよ。」
真希はすぐにでもその場から離れたいのか、すぐさま走り出した。
「ずるいぞー。後藤!元々、後藤の道草が原因なのに・・・。待てー。」
紗耶香もすぐさま後を追う。

台湾でのモーニング娘。のプロモーションは大成功に終った。彼女達の姿は
連日、TV・雑誌で逐一報道された。そして、真希の耳には常にピアスが
光り輝いていた。まるで、最後の光のように。

全ての始まりは小さな出来事が始まりだった。
いつもと変わらない日常。時も普段と変わらず刻みつづける。
しかし、娘達には普通の日常ではなかった。
「みんな、ちょっと聞いてくれ!」
マネージャーが手を叩きながら、娘達の注意を集める。
「すんません、待って下さい!紗耶香がまだ来てないんです。」
裕子がマネージャーに手を挙げながら、喋りかける。
「いや・・・いいんだ。実は・・・その事なんだ。」
娘内に緊張が走る。
「・・・脱退・・・ですか。」
圭織がポツリと呟くと、一斉にメンバーの顔に緊張が走った。
「違う!そんなことじゃあないんだ。チョット問題があってな・・・。」
「もしかして、紗耶香になにかあったんですか?」
心配な面持ちで真里が尋ねる。

「実は・・・昨日電話があったんだが、昨日、突然に急激な腹痛に襲われて救急車
で運ばれたそうだ・・・。」
「それで、容態は?」
圭が身を乗り出してマネージャーに詰め寄る。
「そんな、“生きるの死ぬの”っていう病気じゃあない。・・・盲腸だったんだ。」
「盲腸!?」
メンバーの雰囲気が一気に和んだ。
「なんやあ、盲腸かいな・・・。マネージャーや止めてくださいよ!寿命が縮みましたよ。」
「そうだね・・・裕ちゃん。ただでさえ、他のみんなより、短いのに・・・。」
「ナッチ・・・あんた、それキツイわー。」
メンバー達も緊張の糸が一気に切れたのか、楽屋に活気が戻る。
「幸い、処置が早かったので入院は1週間くらいで済むそうだ。復帰はすぐに出来る
らしいから、1週間、10人で頑張って欲しい。」

マネージャーがそう言うと、裕子が大きな声で言った。
「みんなー。紗耶香が戻ってくるまで、10人で頑張ろうでー。」
「オー!!!」
新メンバーも既に絆が深まっているようで、元気よく答える。
「梨華ちゃん!市井ちゃんの分も頑張ろうね!」
「ウン!そうだね。ひとみちゃん。ガンバロ。」
そんな新たな絆を感じさせる楽屋で、ただ一人だけ暗く沈んだ顔が合った。
日頃、多くのファンを魅了する笑顔の印象をみじんも感じさせない顔。
真希である。

「あれー4人増えたと思ったら、母さんがいないじゃん。どうしたの?
また脱退?」
スタッフの笑い声が響く。
「貴さん、止めてくださいよー。そんなことありません!盲腸です!!」
「そんなこと言って、中澤。チョット嬉しいんじゃあないの?」
「チョットね。」
どっとスタジオが沸く。さすがに高視聴率を獲得するグループだけあって、
トークの技術は洗練されていた。特に裕子の会話センスは群を抜いている。
「まあねえ、一人いない分、チャンスですから。」
裕子の言葉に更にスタジオが沸く。すると、
「裕ちゃんダメだよー。そんなこと言っちゃあ。」
急に強い口調の声が割り込む。
「何だ?ジョンソンは母さんいた方がいいのか?」
「だって、中居クンだってー。スマップで一人いなくなったらイヤでしょー。」
圭織が真剣な眼差しで尋ねる。

「オレは、歌が多く歌えるから、いない方が良いよ。吾郎とかいなくなって欲しいなー。」
うたばんのホスト役の二人も心得ている。見事な切り返しを見せる。
「ジョンソンだって、一人いないと目立つんだから、嬉しいだろ。」
石橋が更に畳み掛ける。
「・・・ちょっとね。」
スタジオも最高潮に盛り上がる。絵にかいたようなバラエティートークが展開
されていた。
「止めてください!!!。」
突然の声にスタジオ内が一瞬静まり返った。
「・・・ごっつぁん?」
「貴さんも、中居さんもヒドイです! 裕ちゃん・かおりんもヒドイよ。あんなこと言う
なんて・・・。市井ちゃんが盲腸で苦しんでるのに・・・。い・市井ちゃん。」

突然立ち上がり、話し始めた真希に誰もが呆気に取られた。そして、
真希が声に詰まるほどの涙を流す事態になって、ようやくことの大きさに
気づいた。
「はーい。すいませーん。ココで終わりにしたいと思いまーす。」
ADが場を取り持つように、叫ぶ。
「モーニング娘。の皆さんでしたー。どうも、ありがとうございまーす。」
スタッフも拍手はしているものの、最後のシーンが頭に残り、本心からの
拍手を送ることはなかった。
スタジオを出て行く娘達。泣きつづける真希をメンバーが慰めようとしても、
「ヤメテッ!!触らないで!!みんな市井ちゃんの事どうでもいいんでしょ!」
と言うだけ。一種のヒステリーだ。こうなると、手のつけようがない。
「後藤、みんな、そんな風に思ってないって。みんなも紗耶香のことは心配してるよ。」
圭が優しくなだめようとするが、真希は一向に耳を貸さない。
「市井ちゃん・・・早く帰ってきてよ・・・。市井ちゃん・・・・市井ちゃん・・・。」
真希はただ呟き、泣きつづけた。
圭は真希の姿を見ると、何か決心をしたようにマネージャーに尋ねた。
「すいません、次までの空き時間どれ位ですか?」
「1時間弱だが・・・。」
それを聞くと、すぐに圭は飛び出した。
「必ず戻ってきます!すいませーん。」
「おいっ!圭どこに行くんだ!?圭!」
最後のマネージャーの問いに答えることなく、圭の姿は徐々に小さくなっていった。

「そっか・・・後藤がそんなことに・・・。」
一面白に包まれた空間の中で、紗耶香はそう呟いた。
「そうなの。私たちにはどうしようないの・・・。こんなこと、本当だったら病人の
紗耶香に頼む事じゃないんだけど・・・。お願い!チョットでいいの。後藤に顔を
見せてあげて。今の後藤には紗耶香が必要なの!盲腸はもう大丈夫なんでしょ?
本当は私たちで何とかしないといけないんだけど・・・。紗耶香?聞いてる。」
圭は必死の思いで、紗耶香に頼み込むが、ベッドの上で起き上がって紗耶香は
答えなかった。
「紗耶香!時間がないの!!お願い。ちょっとでいいから。」
「圭ちゃん・・・ごめん。それは出来ないよ。」
予想しなかった紗耶香の言葉に圭は驚いた。

「確かに、今、私が行けば、後藤は安心すると思うよ。圭ちゃんの言ってることが
本当だったら。でもね、それって後藤の為になるのかな?それは余計に後藤を甘え
させることにならない?私はそれっていけないと思う。確かに私は後藤の教育係を
やってきたよ。でも、いつかは教育係って離れるもんじゃない。この入院が私には
いい機会だと感じたんだ。後藤にとっても、いずれ通るべき道なんだよ。それが早
まっただけの事・・・。圭ちゃんが来てくれたのは嬉しいけど、それは出来ないよ。」
少し開けていた窓から風が入り込む。カーテンが大きく揺れた。
「紗耶香・・・、あんた立派になったね・・・。」
「えっ?」
「そうだよね、私たちで何とかしないとね・・・。ありがとう紗耶香。」
そう言うと、圭は時計に目をやる。
「あっ、もう時間だ!戻らないと。心配かけちゃったね。でも、安心して。何とか
するから。あと、少しだけどゆっくり休んで、帰ってきてね。」
「圭ちゃん・・・。」
足早に圭が病室を抜ける。一人、静かに紗耶香は姿を見送った。
病室に光が差す。もうじき梅雨が始まる。残り少ない晴天の中、紗耶香はじっと
窓から見える大きな桜の木を見ていた。既に花は散って、葉だけが生い茂っている。
「いつか、しなきゃいけないんだと思ってたんだけどねー。」
そう小さく呟くと、ベッドに寝そべる。
風はまだ、雨の香りを運んでいない。

真希にとって長い一週間が終った。
これほど辛いい週間をおそらく体験したことを真希はない。
あの収録の後も、真希は度々スタッフを慌てさせた。収録前に突然、姿を消したり、
トークに全く参加しなかったり、もっともひどい時には、楽屋から2時間出てこない
こともあった。その度にメンバーが必死になだめ、なんとかスケジュールをこなして
いたという状況が続いていた。
そんな真希であったが、久々に輝かしい笑顔を見せる。あのマネージャーの発表
からちょうど一週間、紗耶香が娘に戻ってくる。
「市井ちゃん、やっと戻ってくるんだ・・・。」
真希の部屋のカレンダーに刻まれた赤丸を見ながら、真希は嬉しそうに呟く。
“会ったらなんて声をかけよう。”それを思うだけで、真希は幸せになれた。
いつもの紗耶香に会えることが、真希のにとっては何物にも代え難い瞬間で
あり、真希の心に安らぎを与えてくれる出来事・・・。

「そうだっ!あのピアスを付けていこう!!」
真希はそう叫ぶとすぐに、小物入れの中から大事にしまってあるピアスを
取り出すと、鏡を見ながら付け始めた。
「市井ちゃん、気づいてくれるかなー。」
思わず顔もほころぶ。気持ちが高ぶって、上手く行かない。
「これで・・ヨシッ!!」
鏡の前で呟くと、真希はじっと鏡を見た。いつもの顔・・・、しかし輝きが違う。
「私って、単純なのかな・・・。」
誰もいない部屋で真希は鏡に向かって語り掛けると、荷物を積めたバッグを持って、
部屋を出る。朝の光が静かな真希の部屋に差し込む。鏡の中にはもう、笑顔はない。
そして、二度と同じ笑顔は映ることもなかった。

「おはよーございまーす。」
一週間ぶりの声に、誰もが声の主に振り向く。
「ごめんねー、みんな。心配かけちゃって。でも、今日からは大丈夫。
ちゃんと盲腸も完治したから、もう体調万全!なんでも来いって感じかな。」
明るい紗耶香の声を聞くと、メンバーは全員安心した。
「本当に大丈夫?紗耶香。もうちょっと休んでも良いんだよ。」
真里がすぐさま声をかけた。
「あー、矢口そんなこと言って。私がいなくなれば、歌うパート増えるって
思ってるでしょ?」
紗耶香が笑顔で答える。
「あー!バレちゃった?シマッタ見抜かれてたか・・・。」
真里がそういうとメンバーは一斉に笑った。何よりも無事で帰ってきた紗耶香が
いるだけで、良かったことをみんなが感じていたからだ。

「市井ちゃーん!市井ちゃんってば。もうー、急に盲腸なんて、ビックリさせないでよ。
心配で心配でしょうがなかったんだから。」
真希はそう言いながら、紗耶香に抱き着いた。
「あんまり、娘に迷惑かけないでよね。新メンバーに笑われちゃうよ!」
悪戯っぽく話かける真希と静かにそれを聞く紗耶香。いつもの光景が戻ってきたのを
みて、メンバーもやっと娘が完全になったと感じていた。
しかし、その思いもつかの間、メンバーは思いもかけない言葉を耳にするなどとは
考えも出来なかった。

「ね―、市井ちゃん。市井ちゃんってば!」
真希は満面の笑みで、紗耶香に話し掛ける。紗耶香は一向に答えない。
「どーしたのー?市井ちゃん?元気ないなー。分かった、お腹空いてるんでしょ。」
真希はそんな紗耶香に気にせず、喋る。すると、紗耶香がポツリと囁いた。
「ウザイよ・・・。」
「え?市井ちゃんなんて言ったの?」
真希は突然の事態に驚いた。
「ウザイって言ったの・・・。後藤、あんた見てるとムカつくのよ。」
楽屋内が一瞬にして凍り付いた。紗耶香はその場の空気など気にせず続ける。
「入院して分かったの。後藤がどれだけ、娘にとって重荷か・・・。突然入ってきて、
チャートで一位、獲ったからっていい気になってんじゃないの?歌は下手だし、
ダンスも苦手、それなのにいつもセンター任されて、笑ってるだけ。娘にあんた
みたいな人間必要ないの!!!」
「・・・い・・いち・・・市井ちゃん・・・。」
「きやすく呼ばないでよ。あんたの声も、顔も、存在も全部が嫌いなの!
離してよ。その手離しなさいよ!!」

「ちょっと!紗耶香!!あんた、いい加減にしいや!!」
突然の出来事に声すらでないメンバーの中で、裕子だけは別だった。
「言って良いことと、悪いことがあるで!あんたなに考えてんの?」
「裕ちゃん、裕ちゃんだって思ってるんでしょ。後藤が来てから娘が変わったって。
こんな歌を歌うために頑張ってきたの?違うでしょ、裕ちゃん!」
紗耶香は悪びれる気配もない。逆に裕子に突っ掛かっていった。
「あんた!!それ以上言うと、ウチも本気になるよ!!」
「私間違ってる?どこが間違ってるのよ!言ってよ。後藤が加入して、
何が変わった。只のお祭りグループじゃない!これじゃあ・・・。後藤、あんた
邪魔なの!娘に必要ないの!脱退してよ、脱退して、今すぐ私の前から
消えてよ!!」
「アンタッ!!」
裕子が紗耶香に向かって、勢いよく駆け出す。
「駄目だよ!裕ちゃん!!駄目だよ!!」
圭織・なつみが必死に裕子を制止しようとする。しかし、裕子は止まらない。
「紗耶香、謝って!後藤に謝って!!」
真里が紗耶香の体を揺すりながら叫ぶ。
「そうだよ!市井ちゃん。謝ってよ。」
梨華も無我夢中で紗耶香に懇願する。
「何よ!みんな後藤の味方なの!?私、絶対に謝らないよ。間違ったこと言って
ないわよ!!本当はみんな思ってるくせに!」
最年少の亜依と希美は泣き出していた。楽屋は騒然としている。

「みんなヤメテ!!!」
そんな楽屋の雰囲気を一変させたのは真希の叫びだった。
「・・・いいんだ。そうだよね・・・、私ってお荷物だよね。いつも思ってたよ、
心のどこかで。突然入ってきて、センター立って歌ってるんだもん。生意気
だよね。」
真希は紗耶香に回していた手を外すと、2・3歩後ずさりした。
「でも・・・ハッキリ言われちゃうと、ショックだなー。市井ちゃん。みんなの前
じゃなくて、二人っきりの時に言ってよー。そんなこと。」
真希は必死に落ち着こうと努力した。そして、少しでもメンバーの不安を消すために
笑っていた。それがメンバーには辛かった。
「思ってるんだったら、良かったじゃない。事実、そうだって分かったんだから。」
紗耶香は冷静にそう言い放つ。
「紗耶香!!!」
裕子が掴み掛からんばかりの勢いで近づこうとするが、圭織・なつみ・圭・ひとみが
必死に取り押さえていた。

「あんたみたいな泣き虫、私一番嫌いなの。だからさあ、二度と話し掛けないで!」
「紗耶香!言い過ぎだよ!!」
真里が紗耶香に向かって叫ぶが、紗耶香は全く耳を貸そうとしない。
「矢口っちゃん!いいの・・・。泣き虫なのホントだし・・・。市井ちゃん分かったよ。
私泣かない。でも、市井ちゃんに声をかけるのは止めないよ・・・。」
真希は気丈に振る舞っていた。恐らく、この時一番冷静だったのは、真希だったの
かもしれない。
「好きにすれば・・・、まあ後藤の自由だしね!」
「市井ちゃん!!」
紗耶香の冷たい言葉に梨華が目に涙を溜めながら、叫ぶ。
コンコン。
ドアをノックする音がメンバーを現実の時間に戻した。
「すいませーん。モーニング娘。の皆さん。そろそろスタンバイの時間なんですが・・・。」
ADがドアから顔を覗かせる。雰囲気が違うことはすぐに分かることだった。
「はーい!!分かりましたー。みんな、何してんの?行くよ。」
紗耶香が元気よく答える。先ほどの口調は幻だったように元気よく楽屋を出る。
「・・・紗耶香・・・。」
裕子がポツリと呟く。
「あのーどうしたんですか?出番なんですけど・・・。」
ADがしきりにメンバー達に出番であることを知らせるが、誰一人動けなかった。
「すいませーん。スタンバイお願いしまーす。」
確かに10人いるはずだった。しかし、その空間には誰一人いないように静まり
返っていた。

その騒動以来、楽屋から賑やかな声が聞こえることはなくなった。
唯一自分達の素の表情を出すことが許される場が、娘達にとって最も居たくない場所
に変わっていた。
「おはよー。市井ちゃん!どうしたの?元気ないけど?」
後藤はあれからも、紗耶香に語りつづけていた。それを見ることもメンバー達は
絶えがたい場にしている一因でもあった。
「昨日さー、超おいしい、たこ焼き屋見つけたんだ。今度一緒に行こうよー。」
紗耶香は一向に答える気配がない。真希の方すら見ていない。
「ねー、市井ちゃん! 市井ちゃんってばー。」
「うるさいなあ、止めてくれない?馴れ馴れしくするの。むかついて仕方がないのよ。」
紗耶香はあれからというもの、真希を嫌っていった。
「ごっちん、そんな奴にかまうのやめとき。」
裕子が楽屋に響くような声でいった。
「私だって、こんなのにかまってもらいたくないよ。」
紗耶香が独り言を呟いた。独り言というには、余りにも大きな声で。
「市井ちゃんー。“こんなの”はないよー。私だって人間だよ。」
真希は構わず紗耶香に語りかける。その笑顔がさらにムードを険悪にした。
「あんたさー。笑ってりゃあ良いって思ってるでしょ?最低―。」
紗耶香は真希に対する罵倒を止めない。むしろ、ひどくなる一方だ。

ガチャ
突然開いたドアに一斉に顔が向けられる。
「よーし、みんなお疲れ。今日最後の仕事は雑誌のグラビアとインタビューだ。
今から、編集者が準備した場所へ行くんだが、あいにくバスの手配がつかなくて、
2台に分かれて移動することになったんだ。おれが勝手に振り分けていいか?」
マネージャーがメンバー達に尋ねる。
「私、後藤と一緒はいやです!」
紗耶香がすぐさま言った。
「紗耶香!!」
真里が注意するが、全く気にかけていない。
「・・・・そ、そうか、他に何かあるか?」
すると、小さな手が二つ挙がった。
「なんだ?なにかあるのか?亜依?希美?」
マネージャーが問い掛けると、二人は小声で
「私達・・・市井ちゃんと一緒に乗りたくありません。」
と力を振り絞って呟いた。確実に溝は深まっていたのだ。
「・・・分かった・・・。他に何かあるか?」
マネージャーは周りを見渡す。

「はーい、はーい!」
元気のいい声にマネージャーはその方向を見る。
「私は市井ちゃんと乗りたーい。」
真希はハッキリと言った。
「市井・・・、後藤がああ言ってるんだが、どうだ?」
マネージャーも紗耶香に尋ねるしか手段がない。
「絶対イヤです!後藤と一緒に乗るんだったら、タクシーで行きます。」
紗耶香は強く拒否した。
「後藤・・・、市井がああ言ってるんだ・・・無理だな。」
マネージャーはそう告げると、一つ大きく呼吸をした。
「よーし、あとはオレが勝手に決めるから、それぞれ別れてくれ。」
そういうと、メンバーは振り分けられたグループでバスに向かって行った。
透き通る晴天はどこまでも広がっていくかのように青かった。
しかし、風は雨の香りを運んでいた。

「・・・辛いよね・・・。」
車の中で突然独り言のように呟く圭にメンバーは驚いた。
「紗耶香?どうして、あんなことするの?」
車内は静まりかえる。
「どうしてって・・・後藤がムカツクからじゃない・・・。」
「ウソ!絶対ウソよ!私が入院中に紗耶香の病室にいったのが始まりでしょ?」
「・・・・・・・」
紗耶香は答えない。
「あの時、“後藤にあって欲しい”っていったのが原因なんでしょ?」
圭の告白に他のメンバーが驚いた。
「圭坊!いつの話や?あんた、入院中の紗耶香にあったんか?」
裕子が勢いよく、圭に尋ねる。
「うん・・・うたばんの収録の時があったじゃない。あの時、後藤が泣いちゃって・・・
あの時の後藤を助けられるの紗耶香しかいないと思って・・・。」
「紗耶香!ほんまなんか?今の話、ほんまなんか?」
裕子は紗耶香に聞き返す。紗耶香は答える素振りを見せない。
「紗耶香、いくらなんでも酷すぎるよ!後藤が可哀想だよ・・・。あのまんまじゃ、
後藤壊れちゃうよ!それでもいいの!!紗耶香?紗耶香ってば!!」
圭は紗耶香を見つめて言った。大粒の涙がこぼれる。
「・・・やっぱり、圭ちゃんにはかなわないな・・・。」
紗耶香が窓の外を見ながら言った。
「お願いがあるんだ・・・」

「実は、私を嫌って欲しいんだ・・・。」
紗耶香の口からでた言葉に車内は時が止まった。
「紗耶香、だめや。話すんやったら、順序だてて話さな。何も言わず“嫌って”
って言われても、納得できへん。説明せなあかん。」
裕子が止まった時を動かし始める。
「そうだよね・・・、ちゃんと話さないとね。圭ちゃんが病院に来てから、
私考えたんだ。例え、今日、後藤のところに行かなくても、一週間後は必ず
後藤と合うことになる。その時、後藤はきっと私に頼ってくる・・・。今までは
良かったよ、それで。でも、新メンバーも入ってきて、プロとしてやって
かなくちゃならないのに、人に甘えてるのって絶対にダメだと思う。親離
れっていうの?それをしないといけないって最近ずっと考えてた。入院が
そのいい機会になればと思ったんだけど、圭ちゃんの話を聞いた時、後藤
から離れるのは無理だと感じたんだ。じゃあ、私から離れよう。そうする
には、嫌われようって思った。嫌われれば絶対に後藤は私に頼らなくなる。
それに、私を見返すんだって後藤が努力すると考えたんだ。だから、帰って
きてから、わざと後藤に酷い言葉をかけてたんだ・・・。後藤だけが嫌っても、
娘には悪い影響になるから、みんなに嫌われようって。」
一同は言葉が出なかった。出せなかった。

「紗耶香・・・あんた・・・。」
「裕ちゃん、圭ちゃん、梨華。バカだと思ってもいい、お願いだから
このことはバラさないで。今、バラすと後藤がまた私に頼ってくるから・・。
そして、後藤をかばって欲しいの。この話を聞いたからって、後藤に対して
冷たくしないで。裕ちゃんや圭ちゃんが私を嫌ってくれたら、他のメンバー
もきっと私を嫌ってくれる。お願い、私を嫌って欲しいの!!」
紗耶香は3人に頭を下げた。

「・・・・・・ばかやなあ、紗耶香。ウチに相談してくれたら良かったのに。
なんで、こんなに自分が辛い目にまであって・・・。分かった。今の話は
聞かんかったことにする。車を出たら、ウチはあんたを本気で嫌うよ。
それでもええの?」
「うん・・・、裕ちゃんそれで良いよ。それを私は望んでたんだから。」
「紗耶香・・・バカだよ!どうして?どうしてそんなことするの?自分も
傷つくのに。」
「圭ちゃん・・・、良いんだよ、後藤が私を頼らず、一人出歩いてくれれば
それで私は良いんだよ。」
「市井ちゃん・・・・。」
「梨華、泣かないでよ。別にあんたは恨まないから、私を恨んでは欲しいけどね。
・・・この話は4人だけの秘密。分かった?絶対に他のメンバーには漏らさないでね。」
紗耶香は真剣な眼差しで3人の目を見た。3人は頷いた・・・。
車は目的地に近づくと速度を緩めた。静かに車は止まる。
「紗耶香、あんたカッコよすぎるで。」
裕子はそう呟くと車から降りる。圭・梨華も後に続く。
「こんなに苦しまないとダメなんだよね。」
車の中にその言葉を残し、紗耶香も車を降りていった。

車での出来事以降も3人は変わらぬ素振りを続けていた。裕子は紗耶香を
注意しつづけ、圭も紗耶香を止める役割をし、梨華も後藤を慰め続けた。
そんな3人の約束を果たす姿を見ながらも、紗耶香は真希に辛く当たった。
次第にメンバーも紗耶香を避けるようになっていき、いつの間にか、
10:1という力関係が構成されていった。それでも尚、真希は紗耶香に接し
続けた。明るく、元気に、そして頻繁に。それがメンバーには堪えられな
かった。そして、最も堪えられなかったのは紗耶香自身だった。
「後藤のヤツ・・・何であんなに笑っていられるんだ?」
一人、部屋で紗耶香は呟く。“普通ならとっくに嫌われていいはずだ。
しかし、後藤は未だに私を嫌ってない。やっぱり、元の関係で良かったのか“
そんな考えが紗耶香の頭の中をよぎる。紗耶香はすぐさまその考えを振り払う。
“嫌われなきゃダメなんだ。後藤のためにも、私のためにも”そう頭の中で
言い聞かせていると、突然、携帯電話がメロディーを奏ではじめた。
誰だろうかと紗耶香は液晶を覗き込む。その瞬間、紗耶香は携帯をベッドの中に
入れ込んだ。メロディーは遥か遠くの音楽のように聞こえる。1分・・・3分・・・5分、
音楽は止む気配を見せない。
「逃げちゃいけないな・・・。」
そう言うと、ベッドから携帯を出すと、電話に出る。液晶には“ゴトウ”と
表示されていた。

「もしもしー、市井ちゃんですか?私でーす。後藤ちゃんでーす。」
「・・・・・・・。」
「市井ちゃん寝てたの?ダメだなー。自由時間をエンジョイしないとー。」
「・・・・・・・。」
「あのさー、亜依が“市井ちゃんが怖い”って言ってたよー。どうしてだろうね。」
「・・・・・・・。」
「・・・どうして?どうして何も言ってくれないの市井ちゃん?私ね、市井ちゃんが
入院してた時、いろんな人に迷惑かけたんだ・・・でもね、市井ちゃんが
帰ってきてから私、元気が湧いてきた。市井ちゃんがいないと私・・・。」
紗耶香は聞いているのが辛かった。今にも全てをブチ撒き、謝りたいと思った。
油断すれば今にも言葉が溢れてきそうだった。
「市井ちゃん?聞いてるの?市井ちゃん?」
「言っただろ、あんたの声なんか聞きたくないって、電話するの止めてくれない?
せっかく、いい気分で時間を満喫してたのに、あんなのせいで最悪。もう掛けて来ても、
着信拒否にするから無駄だけど・・・。」

「市井ちゃん・・・・、私のこと、嫌い?」
紗耶香は一瞬答えに詰まる。だが、気持ちを抑えて言った。
「あんたなんて大嫌い!“ゴトウ”っていう言葉を聞くだけでイヤ!!!」
そう言うと、紗耶香はすぐさま電話を切った。これ以上話していると、自分が自分
でいられないような気がしたからだ。携帯を操作し、着信拒否を設定する。
“ほんとに良いの?”紗耶香の頭でよぎる迷いを振り切るかのように、ボタン
をおした。“チャクシンキョヒ、セッテイサレマシタ”液晶に文字が流れる。
「いいんだ!紗耶香。これでいいんだ!!。」
紗耶香はそう言うとベッドにうずくまった。“自分で決心したはずなのに”
その思いがぐるぐると頭を巡る。いつまでもいつまでもその思いは消える
ことがなかった。

ピンポーン
紗耶香を現実世界へ舞い戻したのは、チャイムの音だった。
いつの間にかベッドで寝ていた紗耶香は眠い眼をこすりながらモニターへと、
足を進める。モニターを覗いた瞬間、紗耶香はたじろいだ。
カメラには真希が映っていた。
「どうして!!何で後藤が?」
真希はカメラに向かって手を振っている。“居留守を使おうか”一瞬そう思ったが、
紗耶香は大きく息を吸い込むと、マンションの通用口に向かう。
エレベーターの中での時間はとても長く感じられた。
「今日で最後だ。今日で終わりにしよう。」
紗耶香は只、それだけを呟きながら時間を過ごした。エレベーターから降りるとすぐに
真希も紗耶香の姿が確認できたのか、手を大きく振る。
「市井ちゃーん、市井ちゃーん。ここだよ!!」
紗耶香は通用口の自動ドアが開くと、真希に近づく。
「良かったー。来てくれるなんて思ってなかった。もしかしたら、市井ちゃん
居留守使うかと思ってたから。」

真希は笑顔で紗耶香を迎える。紗耶香にとって、その笑顔を見ることが
一番辛かった。しかし、そんな表情を見せることなく紗耶香は口を開いた。
「何しに来たの?用がないんだったら帰ってよ。」
「実はね・・・、これを渡しに来たんだ。」
真希はそう言うと、右手を差し出した。紗耶香はその手を覗く。一瞬声がでなかった。
そこには二つの小さな光が見えた。ピアスである。
「ほら、さっきの電話で市井ちゃん、私のこと嫌いだって言ってたじゃない。
嫌いな人にプレゼントあげたなんて気分が良くないでしょ。だから、返そうと思って。」
そんな真希の心がたまらなく紗耶香には可愛く見えた。今にも抱きしめたい衝動
に駆られながらも、抱きしめることはしなかった。
「あんたが一回身に付けた物なんていらないわよ!好きにしなさいよ。」
強い口調で真希に言い放つ。
「ダメだよ!これは市井ちゃんの物なんだよ。私が好きに出来るわけないよ!。」
「なら、いいわ。売ってあげるから、代金返して。」
「市井ちゃん!そんな悲しいこと言わないで!これには思い出が詰まってるんだよ。
お金とかの問題じゃないじゃない。」
紗耶香には真希の思いが痛いほど分かっていた。だが、紗耶香は本心を隠した。
「・・・分かったわ。」
そう言うと、真希の手からピアスを取る。その瞬間、紗耶香はピアスを投げた。
「あっ!!!」
真希は只投げられた方向を見つめていた。
「私のものだから、捨てようと、どうしようと勝手でしょ。満足した?これから私、
行くとこがあるから、それじゃあ。」
そう言うと、紗耶香はその場から走り去る。
「市井ちゃん・・・。」
真希の小さい呟きが聞こえたが、振り返ることはしなかった。
「これで終わりなんだ。これで。」
紗耶香は自分に言い聞かせ全力で走った。真希は一体、どうしただろう?
そんな思いも浮かんだが、考えることを忘れるくらい走りつづけた。
真希はマンションの前で一人たたずんでいる。すると突然、頬に流れるものに
気づいた。それは、確実に涙などではなかった。

「お客様?御注文の方はよろしいですか?」
「え・・・、はい、もう結構です。」
突然の店員の言葉に紗耶香は我に返る。時計を見ると5時間が経っていた。
「ずっと、ファミレスにいたんだ・・・。」
あれからすぐに、紗耶香は家に帰ることが出来なかった。もし、真希が
いたらという思いが常に不安となって、足を鈍らせた。ヒマつぶしの
為に入ったファミレスでいつの間にか時間が過ぎていた。
深夜となるとファミレスも客が少ない。誰も紗耶香に気付くことはなかった。
「明日も早いし・・・そろそろ帰ろうかな。」
そう呟くと、紗耶香はレジで勘定を済ます。ふと外を見ると、暗くて気づかなかった
が、雨が降っていた。

「あの・・すいません。傘売ってますか?」
5時間も過ごしていれば天気も変わる。雨は激しく、傘なしでは帰れる状況
ではないほど、降っていた。
「ハイ、300円です。」
おもむろにお金を出すと、紗耶香は傘をさし、家路へ急いだ。
「これで、嫌いになったかな・・・。」
そう言うと、涙が溢れてきた。いつ、果てることなく流れる涙を紗耶香は拭こうとも
しない。涙を隠すためには、雨は絶好の機会だった。自宅マンションに着くと、紗耶香
は暗証番号を入力し、自動ドアを開ける。郵便受けの中を調べようとした瞬間、人の
気配を感じ、後ろを振り向いた紗耶香は持っていた傘を落した。
そこには真希がいた。

「良かったー。市井ちゃん、帰ってこないと思った。」
真希は笑顔で紗耶香に語りかけた。全身雨でずぶ濡れだった。
「後藤・・・、なにしてるの?」
「えっ?これだよ、ホラッ。」
そう言うと真希は右手を差し出した。
「苦労したんだよー。市井ちゃんが遠くに投げちゃうから、探したなー。途中で
雨も降ってきて、ホント大変だったんだから。」
「・・・・・・・」
「やっぱり、このピアスは大事にしてもらいたんだ。ワガママかもしれないけど。」
「どうして?」
「へ?」
「どうして・・・どうして後藤はそんなに私に優しくしてくれるの?私、あんなに後藤の
こと嫌ったのに・・・。あんなに後藤のこと馬鹿にしたのに・・・どうしてなの!!!!」
紗耶香はもはや我慢できなかった。思わず本心を吐き出した。

「・・・私、バカだから・・・忘れられないよ、市井ちゃんのこと。どんなに冷たく
されても、どんなにバカにされても市井ちゃんは市井ちゃんじゃない。好きなん
だもん。冷たくされても、嫌われても、市井ちゃんが・・・・・・。」
その瞬間、真希は抱きしめられていた。突然の事に言葉が途切れる。
真希を抱きしめた手はしっかりと、そして強く、真希を離すことなど決して
考えられないほどの勢いだった。
「市井ちゃん・・・私、濡れてるから、風邪ひいちゃうよ。嫌いな人の風邪なんか
ひきたくないでしょ?市井ちゃん・・・。」
「ホント、バカだよ・・・後藤。何てバカなんだ・・・。」
それだけ呟くと、紗耶香は真希を抱きしめ続けた。深夜とはいえ、都心のマンション
の前は、多くの人が通り過ぎる。真希が耳元で紗耶香に囁く
「市井ちゃん・・・誰か見てるかもしれない。恥ずかしいよ・・・。」
「恥ずかしかった?放そうか?」
「ううん・・・やっぱりいいや。もうちょっとこのままでいい・・・。」
そう言うと、真希は眼を閉じた。紗耶香の体は温かく、髪からはほのかな香り
がする。“私はやっぱり市井ちゃんが好きなんだ。”そう思いながら、体で
紗耶香を感じていた。

ふと、目を開けると、そこには紗耶香がる。暗い空間で真希は気がついた。
“市井ちゃんの部屋だ。”心の中で呟いた。いつの間にか眠っていた真希は、
紗耶香のベッドに寝かされていた。横では紗耶香が深い眠りに就いている。
真希は飽きることなく紗耶香を眺めると、チョットづつ紗耶香の方に体を
近づけていく。鼻と鼻とが触れ合うくらいまで距離になると、真希の胸の
高鳴りは頂点に達していた。“キスしたい”衝動が体を駆け抜け、徐々に
真希は顔を近づける。寸前のところで、真希は眼を閉じた。
「後藤、何するんだ?」
「市井ちゃん!?」
真希はすぐに顔を逆に向ける。恥ずかしさの余り真希の顔は真っ赤になった。
そして、布団に顔をうずめる。
そんな真希の姿を紗耶香は微笑みながら眺めていた。すると、後ろから
真希を抱きしめる。
「市井ちゃん、・・・今日は大胆だよ。」
囁きに近い真希の言葉に
「いや?やめようか?」
紗耶香が悪戯っぽく語りかける。
「市井ちゃん・・・」
真希はそう呟くと、ゆっくりとまた、眼を閉じ、深い眠りに身を委ねていった。

そこに紗耶香はいなかった。ベッドで目を覚ました真希は、すぐさま飛び起き
辺りを見るが姿が見えない。ベッドから出て、他の部屋を探すが見つからない。
「市井ちゃーん。」
「後藤、こっちこっちー。」
声が聞こえる。真希はすぐさまこのの方向に向かう。紗耶香はベランダにいた。
「市井ちゃん、そこに居たんだ。」
「珍しいなー。後藤がこんなに早起きするなんて。」
そういわれた真希は時計を眺める。まだ6時になっていない。
「私だって、早起きするよ!ところで、何してるの市井ちゃん?」
「後藤、こっち来てごらん。」
紗耶香に言われるまま、ベランダに出る真希。
「綺麗な景色だろ。」
そう言いながら街を見つめる紗耶香を真希は見つめていた。朝の光に照らされる
紗耶香の顔は、真希をいつも助けてくれた16歳の高校生・紗耶香の顔だった。

「後藤?ちゃんと見てる?」
「へ・・・? 見てるよ見てる!綺麗だねー。」
そんな真希の姿を見ながら、紗耶香は真希に顔を近づけた。戸惑う真希であった
が目を閉じる。
「うーん、熱はないみたいだな・・・。」
おでこをくっ付けられ、発した紗耶香の言葉に拍子抜けした。
「雨に濡れたから、風邪ひいたと思ったけど・・・バカは風邪ひかないんだよね。」
「もー、すぐにバカにする!寒かったんだよ。」
二人笑いあうと、紗耶香がポケットからなにやら取り出す。
「・・・なあ、後藤。・・・これ、着けてくれないか?」
そう言うと、手のひらを見せる。見慣れた光に真希は目を輝かす。
「ピアス・・・。いいの、市井ちゃん。」
少し、控えめに真希が尋ねる。
「・・・うん。後藤に付けて欲しいんだ。」
そう言うと、紗耶香は真希の耳に、ピアスを付ける。
「ヨシ!OK」
「あれ・・・市井ちゃん?ピアス一つしかないよ。」
真希は紗耶香が一つしかピアスを付けてくれなかったことを不思議がった。

「実はね・・・お願いがあるんだ。」
「どうしたの?市井ちゃん。急に改まっちゃったってー。」
「実は、これ付けて欲しいんだ・・・。」
そう言うと、紗耶香は真希の手にピアスを手渡した。
「え・・・、市井ちゃん・・・」
「ほら、私もなんて言うのかなー、後藤のピアス見てて、付けたくなっちゃって。
元々、私のものなんだから文句はないでしょ、後藤。」
真希はただ頷いた。
「じゃあさあ、早く付けてよ。」
紗耶香はそう言うと、耳を真希に近づける。真希は紗耶香の耳にピアスを
付ける。紗耶香の横顔はいつもにも増して輝いて見えた。
「市井ちゃん、いいよ。これでバッチリ。」
真希の言葉に紗耶香は反応しない。
「どうしたの?市井ちゃん。市井ちゃんってば。」
真希は紗耶香の顔を見つめた。紗耶香は一向に答える気配がない。
「市井ちゃーん。」
真希が大声で叫ぶと、紗耶香がおでこをくっ付けてきた。
「もー。さっき、熱はないって言ってたじゃん。全く市井ちゃんは・・・。」
そう言おうとした真希の唇を紗耶香の唇が塞いだ。真希にとって初めての
感覚。唇から感じ取れる紗耶香は、自分が大好きな紗耶香そのものだと
真希は思った。

「・・・ね。」
唇が離れると、紗耶香が呟いた。
「市井ちゃん、なんて言ったの?聞こえなかった。」
「・・・ごめんね。・・・後藤。」
そう言うと、紗耶香はベランダから望める景色を眺める。
少しの沈黙の後、服が後ろから引っ張られていることに気づいた紗耶香は
うしろを振り向いた。
「後藤?どうしたの。後藤ってば。」
真希はうつむいて紗耶香の服の端を摘んでいた。
「ねえ、市井ちゃん・・・。泣いていい?」
真希の言葉に紗耶香は優しく微笑むと、真希の顔を胸に寄せて呟いた。
「後藤・・・、私、嘘ついてたんだ。実は、泣き虫大好きなの。」
その言葉を聞くと真希は紗耶香の胸で泣きつづけた。
「市井ちゃん・・・。私・・・私・・・・・・。」
泣きじゃくる真希の頭をただ、紗耶香は撫で続ける。
ベランダ一面に日の光が当たる。雨上がり独特の匂いが漂う。
風は雨の匂いと共に季節を運ぶ。ベランダにはいち早く、新しい
季節が顔を覗かせていた。

FIN