今日もまたいつもの席にすわって、さやかは純愛小説を読み進める。図書館で
過ごす午後は、彼女にとって恒例となっていた。一人になれる時間。いや、いま
では一人になろうと思えばいつでもなれる。
事実、独りだ。街を歩いていて、彼女を振りかえる人など誰もいない。日本中が
さやかを知っていたのは、もう何十年も前の話だ。
小説の主人公に若い日の自分を重ね合わせ、さやかはかつての仲間たちのことを
思い出していた。口元がしぜんに緩む。みんなどうしているだろう。
時間は静かに過ぎていった。図書館の入り口付近にある時計に目をやると、さやか
は自分専用のしおりを取り出し、読みかけのページに差し込んだ。立ち上がって、
もとの場所に戻しに行く。借りて帰ることはなかった。ここでの読書がなにより落ち着くのだ。
ある棚の前で、さやかは立ち止まる。『もうひとりの紗耶香』。彼女が27歳で
綴った自叙伝がそこにあった。少し埃をかぶっているその本を、なつかしさとともに
手に取る。そこに書かれてあったのはモーニング娘。としての日々。数々の成功。
二度と戻ることのない宝物のような時間。さやかは目頭が熱くなるのを感じた。
カードに、ただひとりこの本を借りた人の名前、保田圭の文字がにじんで見える。
彼女はカードを抜き取ると、ふいにそれを裏返した。持っている手がふるえる。
鉛筆で描かれた少女の似顔絵。
あのころの私がいた。いつも自分の似顔絵を描いていた圭の姿を、さやかは鮮明に
思い出した。こぼれ落ちた涙が、笑っているさやかの上ではじける。カードを戻し、
本を閉じると、さやかは遠いまなざしで叫び出した。
「お元気ですかぁー。あたしは……」
こらえきれず涙があふれ出てくる。図書館にいるすべての人の視線が集まった。
「あたしは元気でぇーす。……お元気ですかぁー」
何度も何度も繰り返す、悲鳴にも似たさやかの声は、静まりかえった図書館に
いつまでも響いていた。
私はその子を「ケイ」と名付けました
勝手に名前もらってごめん
大切にするよ――
カードに圭の跡を見つけてから一ヵ月。今日も図書館で午後を過ごした。その帰り、
さやかの足は、しぜんと街へ向いた。そこにいけば何かが待っている、そんな気がして。
――このごろ よく昔を思いだすんだ
毎日毎日 忙しかったよね
それでも楽しかった
みんながいたから――
街には何もなかった。ビルは、まるでその高さを競うかのように建ち並び、陽の光を
遮って、さやかの進む先に影をつくる。
いくつもの顔が、表情を無くしたまま、秋風とともに冷たく通り過ぎていく。
さやかは張り裂けそうな胸の痛みを抑えるように、大きく息をはきだすと、
うつろな眼で空を仰いだ。黄色い空に浮かんだ、ちぎれそうな雲、くずれそうな圭の顔。
――ごめんね 圭ちゃん
いつもそばにいてくれたのに
なんで私 ひとりを選んだんだろう
バカだったよ
今ごろ気付いても遅いよね
あのころに戻りたい――
覗き込んだショーウィンドウに映る顔。また皺が増えている。生え際には白いものが
目立つようになった。コレがわたし……。
「さやか」
誰かに呼ばれた気がして振り返る。
けれど知らない顔ばかり。
さらに目を走らせる。
やはりいない。
やがて信号が変わり、人の列が堰を切ったように流れ出した。
……気のせいか。
――会わなくなってどれくらい経ったかな
もう会えないのかな
死ぬまでに もう一度会いたい
もう一度好きって聞かせてほしい――
帰ろう。さやかは、道を引き返す。
正面から女子高生が三人、声高にしゃべりながら近づいてくる。
「ヤスダ記念日ってどう?」
「あー、最近でてきたヤツらね。一番右ってかなりブサイクじゃない? あたしのほうが
絶対カワイイって」
「まあ、どうせすぐ消えるでしょ。アイドルってそんなもんよ」
すれ違う瞬間、さやかは真中の女の胸ぐらをつかんだ。
「お前ら、わかったようなこと言ってんじゃねぇよ」
「なに? このババア」
すぐに手を払われ、腹を殴られる。すねを蹴られ、その場に倒された。
それでもさやかは起き上がり、つかみかかっていく。
こんなガキにむきになって、わたしは一体何やってんだ。
そう思いながらも、自分を止めることができなかった。
しかし、やはり年齢には勝てない。若いころなら、三人ぐらいなんでもなかったのに。
大柄な女に突き飛ばされ、さやかは車道に転がる。
身体を起こそうとした瞬間、勢いよく走ってくる青いスポーツカーが瞳に映った。
――届かない手紙を書いたりして
私は 今も昔とおんなじ
子供なんだね
「さやか、ほら、起きな」
目を開けると裕子がいた。
「教育係が一緒に寝てどうすんの」
となりにはスヤスヤと寝息を立てる真希がいる。
向こうに並んで立っているのは、あ、タンポポのふたり。あいかわらず大きくて小さいな。
あれ? おかしい。みんな、あのころのまんま。
なんで? そんなのズルいよ。
「はよう化粧せんと本番はじまるで」
本番、ってなに?
……まさか。
「ねえ、カガミ、鏡どこ?」
「あんた寝ぼけてんの? そこにあるやんか」
目の前に突然あらわれる鏡、そこに映し出される姿。
夢じゃないだろうか。シミひとつない綺麗な肌。ツヤのある髪。コレがわたし……。
さやかはそのまま動けないでいる。
「なにボーっとしてんの、はよしいや」
それでも鏡の中に見とれたまま。
「裕ちゃん」
「ん?」
「若いって……いいよね」
どうやら今日は、コンサートツアーの最終日らしい。
先ほど楽屋を訪ねてきた和田が「ラストがんばろう」と例のにやけた顔で
言っていた。
さやかは化粧をはじめる。
開演前だから、ではなく、鏡の中の自分が美しいから緊張してしまう。
化粧の必要ないんじゃない?
うっとりとしていたさやかは、ふと我に返った。
モーニング娘。の顔が背後に立っているのを、鏡ごしに気付く。
彼女は前髪が気になる様子。手で直している。そして、さやかをじっと見つめ、
「化粧うまくなったね。今日のさやか、すごく綺麗」
ふ〜ん、そんなこと言って、ホントは自分が一番カワイイって思ってるんでしょ?
以前のわたしならそう思ったでしょうね。
でも、今は違うよ。とても素直な気持ちになれる。
なっちありがとう。
十分前。楽屋を出る。同時に、真里のセクシーな声が廊下に響く。
「さやか〜、はやく〜、こっちこっち」
そっちを向くと、娘たちの輪ができている。さやかは駆け寄ってそこに加わった。
まず、リーダーが口を開く。
「いよいよ最後、思い残すことのないように」
「なんだかセンチメンタル」と漏らすのは長身のアーティスト。
真希は眠い目をこすっている。
あ、なっちがふたりいる、と思ったら明日香じゃないの。どうして?
あ、やっぺもいる。そうか、ふたりとも戻ってきたんだね。
わたしも帰ってこれた。こんなに嬉しいことはない。ここがわたしのふるさと。
真里が小さな手を前に出す。そこに次々と重なっていく手。
さやかは最後に、そっと両手を置いた。
裕子が声をかける。
「がんばっていきまっ――」
「しょい!」
涙を気付かれないよう、さやかは舞台袖の暗がりにひとり入っていく。
娘の登場を待ちわびる観客席のざわめきが、耳に届いて心地いい。
「さやか」
誰かに呼ばれた気がして振り返る。
ステージから漏れるわずかな光がつくりだしたシルエット。
「圭ちゃん……」
薄闇の中でも、それが圭だとわかった。
さやかが圭を間違うことはない。たとえ顔にモザイクがかかっていてもわかる。
「圭ちゃん、わたし、長い夢を見てた」
圭はゆっくりと近づいてくる。
「どんな?」
「うん……圭ちゃんやみんなに会えなくなる夢……」
目の前までくると、圭はなにも言わず、髪をなでてきた。
背中に腕が回り、やさしく抱き寄せられる。
まるで魔法にかかったみたい。こんな心のやすらぎ、長いあいだ忘れていた。
さやかの魂が、それまで縛られていたものから解放されていく。
なんだかとても眠い。圭の穏やかな心臓のリズムに揺れる。このまま眠ったら、
今度はいい夢、見れるかな。
「いこう、さやか」
圭が耳元でささやく。そうだ、ファンのみんなが待ってるんだ。
手を引かれ、さやかはステージへの階段をのぼっていく。一段ずつ確かめるように。
歓声が上がる。
ねえ、照明、強すぎるよ。……それとも涙のせい?
さやかの目にはなにも映らない。そこには、ただ、無限の白があった。
雨上がりの午後、図書館に高校生がいる。彼女はあきらめの息をついた。
目的の本はここにも置いてないようだ。今では絶版になってしまった『黒い日記帳』。
「ねえ、まだ〜。ここ古い本しかなくてつまんない」
ぼやいているのは同じクラスのてつ子。
「だからいいんじゃない」
勝手についてきたのはあんたでしょ。まったくうるさいヤツだ。
ある棚の前で、高校生は立ち止まる。『もうひとりの紗耶香』。著者は市井紗耶香。
彼女はその名前をよく知っている。祖母に何度も聞かされたから。
一緒にオーディションを受けた人。そして、青春を共に過ごした友。
おばあちゃんは私に会うたびに、その人の話をする。とても嬉しそうな顔で。
というわけで、会ったことはないけれど、私にとっても身近な人。
高校生はその本を手にとって、パラパラとページを繰る。
途中、紙が挟まっている。しおりかな?
赤い水性ペンで書かれた「さや専用」。
なんじゃこりゃ? 彼女はそれを抜き取ると、ふいに裏を見た。
ちっちゃくて可愛い文字がならんでいる。
「拝啓、保田圭様……」
保田? あっ、おばあちゃんの旧姓か。
拝啓
保田圭様
お元気ですか
私は昨日ちょっといいことがあったので 少し元気になれました
子供が生まれたんです
ウチで飼ってる犬に――
「私はその子をケイと名付け……」
「もー、あたし帰る」
てつ子がすねて図書館を出ていく。
わかったわかった、まったく世話の焼けるヤツだ。
しおりを戻し、本を閉じると、高校生は表紙の写真に話しかける。
「はじめまして、市井さやかさん。おばあちゃんはとても元気ですよ」
彼女はてつ子のあとを追う。もうひとりの紗耶香を抱えながら。
静けさのただよう館内に、そこにはふさわしくない、はずむ靴音が響きわたる。
暖かい春の光が差し込む一角。分厚い本を枕がわりにするひとりの女が眠りから覚めた。
アなんだ?
〜今日はお疲れ
明日もがんばろうね〜
いつものようにメンバーにFAXをおくる。
しかしいつもは一番最初に送るはずのさやかの分がまだ手元にある。
〜Dear さやか・・・・〜
さやか・・・・ この文字を書く度に、口にする度に
胸が締め付けられるようになったのはいつからだろうか。
「さやか・・・」
今日も少し手紙に書き足してみる。
〜さやか、愛という字を思い出すとき誰の顔が思い浮かびますか
わたしは・・・・・ 〜
途中まで書いてみたがやめた。
やっぱり今はまだ・・ そう思いながらそれを机にしまった。
さやかの声が聞きたい。
今日は直接「おやすみ」って言おう。
メモリーの一番最初をCallした。
受話器の向こうからさやかの声が聞こえる。「圭ちゃん!」
また胸が苦しくなる。でも心地のよい苦しさだ。