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BEAUTIFUL DREAMER

深い深い眠りの中、ひとりの少女が夢を見る。

あなたに会えてよかった。
ずいぶんと使い古されてしまった言葉だけど、
あなたの笑顔を二度と見ることができなくなった今、
この言葉の重みと真実を全身で感じています。
神様、もう一度だけでいいから、あの人の笑顔に会わせてください。

「ナッチ……」
あの人の声がきこえる。でも、あの人は死んだんじゃ? あのとき、わたしの髪をなでながら、
「頭くさいよ」という言葉を残して。
「ナッチ〜」
まただ、またあの人が呼んでる……イタっ。頭に軽い衝撃を受け、ナッチは眠りから覚める。
顔を上げると、ベッドから上半身だけ起こしたサヤカが、呆れた顔で自分を見ている。
「あ、おはよーございます」
「見舞いにきて、寝るんじゃねぇよ」
まだ少し眠そうな目をしているナッチの鼻の穴に、サヤカは指を入れた。
「すみませーん」
ナッチのナイフによって瀕死の重傷を負ったもののなんとか一命を取り留めたサヤカ、
記憶は取り戻したがやはりどこかボケているナッチ。ふたりの声が病室に響く。

愛は萌えるから消えるのですか――。
「悲しい詩やな……うっ」
こぼれそうになる涙をこらえるユーコの口から、頬張りすぎた柿ピーがこぼれる。
「今日のあなたは少し優しく感じました……なんで?」
椅子の背にもたれながらマキは「う〜ん」と唸った。手には和英辞典を抱えている。
「遅いな〜、ナッチ」マリがなかなかやってこないナッチを心配している。
「また道に迷ってんじゃないの、あの方向音痴」
先日退院したばかりのサヤカはそう言うと、イヤホンをつけてMDを聴き始める。
何も変わらない日常。今朝もけだるさの漂う事務所に、娘たちは集まっている。
「どこか遠くへ行きたいな」遠い目をしたカオリがつぶやく。
「イってるよ、もうイっちゃってるよ」
サヤカは笑って言うと、ボリュームをさらに上げ、首を激しく縦に振った。
「すいませーん、遅くなりました」
勢いよく開かれたドアに視線が集中する。
そこにいつも通りのナッチの姿を確認すると、皆、無言のままそれぞれの世界に戻る。
ナッチは、あら? という表情を浮かべたあと、
「ナッチでーす! これからの抱負は……カッコいいナッチを見てもらうことかな。
日本の未来を逮捕しちゃうぞ!」
ウインクしながら親指と人差し指でLをつくった。

「美しいはbeautiful……か。アイアムアビューティフルガール……」
「そんぐらい知っとけ」サヤカが辞書を開いているマキをバカにした目で見る。
「あたし英語苦手なんですよ、仏蘭西語は得意なんですけどね」
「ねえ、みんな聞いて」ケイが突然口を開いた。
娘たちは何事かと、ケイのほうへ身体を向ける。
「保神島って知ってる?」
ナッチとユーコは何だろうといった感じで顔を見合わせる。
「あー、日本のバミューダ海域と言われるトコにある」マリが得意顔で言った。
「何それ?」サヤカは眉をひそめる。
「保神島――。この島は時に消えるという伝説があって……」
「消える? 島が?」サヤカは目を見開く。
「そう……しかも消えるのは島だけじゃない。その周辺では船舶、飛行機、ヘリ……」
「マジっすか?」とサヤカ。
「すごーい」とカオリ。
「なんでやねん」ユーコ。
「それがどうしたの?」マキが、特に表情を変えることもなく訊いた。
ケイは脇に置いてあったバッグの中からモノを取り出す。
「実はその島にはリゾートホテルがあって……これはそのホテルの宿泊券。4枚あるわ」
サヤカはゴクリとつばを飲み込んだ。となりに座るナッチの心はすでに島へと飛んでいる。
「消えていく人、消えていく船、消えていく島……。う〜ん、ブンブンブン」

「それでは、誰が保神島に行くかを決めたいと思います」
なぜか仕切りだしたナッチにサヤカはバカバカしいという表情を向ける。
「よーし、それじゃあ行きたい人は手をあげてください。せーの、行きたい人〜」
「はーい」と、ふたつの声。
真っ直ぐに手を伸ばすナッチ、そしてもうひとりはカオリだった。
「やれやれ」つきあってらんねぇ、とサヤカは席を立つ。
「あ、サヤカさん、もしかして怖いんですか?」
「なんだと?」ニヤニヤと笑うナッチをサヤカは睨みつける。
そんなふたりをよそにケイが静かに言った。「私はもちろん行くわよ」
「ということは、あとひとり……。サヤカさん、チケットは残り一枚ですよ」
ナッチがサヤカの腕をつかんで振る。
「だからなんだ。行きたい奴だけ行けばいいだろ?」
「そんな〜、せっかくのケイちゃんの好意を無駄にしてもいいんですか〜」
「どこが? ねえどこが? これって悪意じゃないの?」
「まあまあ、じゃあ、公平にコレで決めましょう」
どこから持ってきたのか、マリが小さな身体に抱えた『黒ヒゲ危機一髪』をソファーに
囲まれたテーブルの真中に置いた。
「じゃ、サヤカさんから」というナッチの言葉に従うのはしゃくだが、選択肢が多い分、
当たる確率も低いので、サヤカはこれ幸いと散らばったナイフの山からひとつを取った。
「しょうがねえな〜、当たった奴、ちゃんと行けよ〜」
それにしてもこの黒ヒゲ誰かに似てるよな〜と思いつつ、サヤカはナイフを穴に刺す。
ポン!
「おめでとうございます、サヤカさん!」
娘たちの間に拍手が起こり、ナッチはその大きな瞳をキラキラと輝かせた。

早朝の渡船場には保神島へ向かうナッチ、カオリ、ケイ、サヤカ、4人を見送るために来て
いたユーコ、マリ、合わせて6人の姿があった。
不機嫌な顔で「マキは?」と訊いたサヤカに対し、マリは「それが熱出して寝込んでる
らしいの」とさわやかな顔で応える。
ナッチがバッグから取り出したポラロイドカメラをユーコに渡した。
「記念撮影、お願いします」
4人は並んでバンザイのポーズをとった。ユーコが声をかける。
「がんばっていきまっ――」
「しょい!」カメラが光る。
写真ができあがるのを待つ間、ユーコが冗談交じりに言う。
「死ぬ人ってこういうとき、どっか消えてたりするよな」
数秒後、浮かんできた画には、サヤカの首から上がなかった。
「マジっすか?」
「サヤカさん、死んじゃうんですね……」
「おい、笑えねぇよ。おまえこそ逝くか? なぁ?」
ナッチの首をつかんで頭をバシバシと殴る。
「行こう、ナッチ、サヤカさん」ふたりとは対照的に落ち着いたケイが促す。
「はーい」元気よく返事をしたナッチはバッグから笛を取り出すと、口にくわえ、ピッピッ
ピッピッと鳴らしながら船に乗り込んで行った。呆気に取られるサヤカの横を通って、カオリは
ウッハッウッハッとそれに続く。ケイは黙ったまま乗り込んだ。
なんだ、この連中は? 3人とは距離をおいてサヤカは甲板へ向かう。振り返るとユーコは
あくびをし、マリは餞のビームを送っている。コイツら全員、いつか殺す……。
船がゆっくりと動き出した。風はセンチメンタル南向き。

船首に立ったナッチは映画のワンシーンを思い出し、両手を横に広げると、前方からの
風を感じ、空を飛んでいるような気分になった。
後ろから誰かが近づいてくる。まさか……ジャ〜ック!
両手はそのままに、目を瞑った。ああ、腰に腕が回されていく。
「イタっ」
急に後ろに引っぱられ、ナッチは仰向けに倒れた。甲板に打ちつけた頭を押さえながら身体を
起こすと、今まで自分が立っていた所には……サヤカさんが立っている。
サヤカは口元にうっすらと笑みを浮かべ、両手を高々と頭上にもっていくと、果てしない
大海原に向かって叫んだ。
「キング・オブ・ザ・ワ―――ルド!」

やがて、船の揺れにも慣れ、特にすることもなく、4人の退屈が頂点に達しようとしたとき、
その島は姿を現した。
「保神島……消える島」ナッチの胸が高鳴り始める。
サヤカはタバコの煙越しにそれを眺めていた。

浅瀬で乗りかえた小型のボートを砂浜に寄せると、その上でナッチが何やら悩みだした。
「おい、早く降りろよ」サヤカが急かす。
「う〜ん、はじめの一歩は右足がいいかな、それとも左足?」
「頭から行け、頭から」
そのとき、カオリがふたりの間を抜けてピョーンとボートから飛び降りた。白い砂の上を
黒い髪をなびかせながら駆けていくと、ふいに立ち止まり空に向かって叫ぶ。
「ディア―――!」
そして踊り出した。それを見ていたサヤカは冷たく吐き捨てるように言った。
「ありゃ、末期症状だな。ナッチ、おまえも気をつけないとあーなるぞ」
となりのナッチにサヤカの言葉は届かなかった。
「負けられない」と言うとドテっと落ちるようにボートを降り、カオリの方へ走り出す。
「同じ道産子踊ろぜワイヤイ」
アホがふたりも……。サヤカは悲しくなった。まあ、しかし、ここにはもうひとりいる。
「ケイちゃんがいてくれてよかったよ。アタシだけじゃ、あのふたりを操縦できない」
ケイはやさしく微笑んだ。
「わたしは、何も考えずに生きるあの子たちが羨ましい……」

生い茂る木々の間をぬって道なき道を進む一行。
密林のなかにあってひとり余力を残している感のあるケイは、右の掌にのせたコンパスを
頼りに列の先頭を行く。
「もう歩けな〜い」力ない言葉とともにナッチがへたり込んだ。瞬間、ケイが声を上げる。
「あれよ!」
サヤカがケイの側まで寄って行くと、急に視界が開け、妖しげな雰囲気を醸し出す建物が
見えた。
「保神ホテル、やっと着いたわ」

「ごめんくださーい。ナッチですけどー」
静寂のなか、ナッチの声だけがむなしく響く。
「誰もいませんね」
「そんなはずないだろ」
「もしかして……消えた?」ケイのひと言に一同、固まる。
「ははは、とりあえず中に入ろう」サヤカが重い空気を振り払うように言った。
「ホント、静かですねぇ」ロビーの中央に立って、ナッチは天井を仰いだ。
「客は他にいないみたいだし、キーはカウンターにあるから、好きな部屋を選んで荷物
置いてきて」
4人のなかでは年長のケイがみんなをまとめる。
「じゃあカオリ、13が好きだから13号室」
「いや〜さすがだね〜、そんな縁起悪そうなの選ぶなんて」
からかうように笑ったサヤカが手にしたのは4号室の鍵。
「わたしは9号室にするから」とケイ。
「う〜ん、困ったなぁ〜」優柔不断なナッチはやはり時間をかける。
「16までしかないのか、17がよかったのに……。あ、黄色5! ナッチ5号室にします」
と言って5と刻まれた鍵を取る。
「あれ? サヤカさんと隣同士だ、偶然ですね」
「すげ〜、こんなことってあるんだねぇ〜」
サヤカはニコっと笑ってパシっとナッチの頭を叩いた。

ホテルの内装は、さびれた外観から想像したほどひどいものではなかったが、エレベーターは
なく、客室のある2階には階段であがった。
一本の長い廊下を挟んで、左右に部屋が並んでいる。4人はそれぞれ選んだ部屋に散った。
4号室。窓を開いて新鮮な空気を入れると、サヤカはタバコをくわえ、火を点けた。
消える島、消える船、消える人か……くだらねぇ。
いつの間にか、背中の疼きはなくなっていた。
5号室。バッグを置いたナッチがベッドの上でピョンピョンと跳ねている。
「わ〜いわ〜い」
9号室。まだ残ってたんだ。壁の落書きに手をやったケイは目を閉じて幼い日の記憶を
呼び起こす。波の音を子守唄がわりに眠ったあの夏……。
13号室。荷物の中から青いスプレーを取り出したカオリは、狂ったように壁に吹きつけた。

ナッチがドアを開けて部屋を出る、と、向かいの部屋のドアも開き、出てきたカオリと目が
合った。「あ、そこがナッチの部屋なんだ」、「うん」と会話が終わる。
ふたたびロビーに集合した4人。
「で、どうすんの?」サヤカがケイに訊く。
「カオリ、鬼ごっこがいい」
「これだけの自然にふれる機会って滅多にないことでしょ? 島巡りってのはどうかしら」
とケイがサヤカに提案する。
「ナッチ、お医者さんごっこ」
「島巡りか〜、何か面白いもんでも見つかりゃいいけど、ここまで来る間も木ばっかりで
何もなかったしな〜、といってずっとここにいてもつまんないけどね」
「よし、島を探検、に決定! さあ行こう」
先程までとは打って変わり活き活きとするケイに押され、サヤカは重い腰を上げた。
「う〜ん、じゃ行くか」

「なんもないじゃん」
いったいどれだけ歩いたろう。同じような景色が続く樹海のなか、4人の表情には疲労が
ありありと浮かんでいた。
「喉カラカラ」サヤカが、皆が思っていることを口にした。
「あ、わたし飲み物持ってますよ」と、ナッチがバッグの中を探る。
「早く言えよ」
「はい、コレ」
「何?」
「ナッチスペシャルです」
「ただの飲茶じゃねーか」
「あっ!」突然、ナッチが叫んだ。
「何だ?」
「今、あそこにカメノコがいました」繁みの奥を指して言う。
「カメノコ?」
「目撃情報は多数あるけど、実際に触れた者はひとりもいないという伝説の亀。
もし捕まえることができたら、億を超える大金を手にできるって噂もあるわ……」
ケイがナッチを制して説明した。
「すごーい」
「マジっすか?」サヤカの目の色が変わった。

夕映えの雲が遠くの空へ流れていく。外壁を黄色に照らされたホテルは冷たい潮風を纏い、
客人の帰りを静かに待ち続けていた。ほどなく闇が訪れる。
胸まで届く草を掻き分けて、ジャングルを抜け出した影。
「いや〜、ホントこの島に来てよかったよ」
明るい声のあとに、両手でカメノコを抱えたサヤカの姿が確認できた。次にナッチ、そして
カオリ、最後にケイが服についた泥を払いながら戻ってきた。
4人の表情はそれぞれ異なっていたが、共通していたのは空腹。
ホテルに着いて中へ入るなりカオリが発した。
「いい香りだ」
においに誘われて、娘たちはダイニングルームへ向かう。
そこには豪勢な料理の数々がテーブルからはみだしそうなほどに並べられ、まずは4人の目を
満足させた。

すかさずナッチが食いついた。カオリも負けていない。
サヤカは怪訝な顔でしばらくテーブルの脇に立っていたが、ナッチがあまりに美味しそうに
食べるので、つられて席に着き、肉を皿に盛った。
ケイはフッと笑みを洩らしたあと、サラダに手を伸ばし、みんなの分をよそってやった。
「これ、すごく美味しい。何だろう」
ナッチがテーブルの中央に置かれた料理を指差して言った。
「ウミウシだよ」
背後からの低い声に、4人が一斉に振り向くと、老女がひとり、笑みを浮かべてドアの前に
立っていた。顔に刻まれた深い皺。皮膚は垂れ下っているが目と眉は吊り上っている。
見るからに妖しい。サヤカはテーブル下のカメノコに一瞬目をやったあと、老婆に視線を
戻した。
女は側に寄ってきてカオリの手を取った。
「よく来たねケイ、こんなに綺麗になっちゃって」
カオリはきょとんとして、目をしばたたく。
「おばあちゃん、その子はカオリ、ケイはわたし」ケイが語気を強めて言った。
「お〜、そうかい。大きくなったね〜」
「最後にここに来たのが9歳のときだから、10年振りね」
ケイはカオリから祖母の手を離すと、彼女に抱きついて久々の再会を喜んだ。
そういうことか。サヤカはナイフとフォークを置き、情況を呑み込んだ。
「ケイちゃんのおばあさんなんですか。はじめましてナッチです」
ナッチが口にものを入れたまま頭を下げた。

黒い夜が島を覆った。食事を済ませた娘たちは部屋に戻って思い思いの時間を過ごす。
9号室。鏡の前に立ったケイが自分の顔を見つめている。9歳までは毎年この島に来て、
その時々の歳と同じ数字の部屋に泊まった。5歳のときは5号室、9歳は9号室という
ように。幼稚なことをしていたと自分でも思う。ケイの口元が緩んだ。
そして今回は19歳での滞在となる。16までしかない部屋の数を越えてしまった歳の数。
鏡に額をつけ、深く息をはき、つい数時間前のことを思い出す。
カオリのあとに自分を見た祖母の顔……あきらかに落胆したものだった。
コンコンとノックの音がする。
ドアを開けると、髪がボサボサになったナッチが立っていた。
「すいません、石鹸貸してもらえますか。持ってくるの忘れちゃって」
「いいわよ。シャンプーもいる?」
「あ、いらないです。髪も石鹸で洗うんで」
ケイから石鹸を受け取ったナッチはいそいそと5号室に戻っていった。
ドアを閉めるとまたノック。今度はサヤカだ。
「ケイちゃん、たしか前に亀飼ってたことあるよね? 悪いけどコイツ預かってくれない。
持て余しちゃってんだよね」
「うん、いいよ」
「おー、サンキュー。助かるよ。金が入ったら、たっぷり礼するから」
ケイにカメノコを渡すと、サヤカは軽い足取りで4号室に帰っていった。

5号室のドアの鍵は掛けられていなかった。サヤカはノックすると返事がないにもかかわらず
中に入った。
「ナッチ〜、見て見て、三段腹のしわが消えてるよ〜」
シャワーの音がする。なんだ、風呂か。サヤカはバスルームの扉を開けた。
ナッチが服を着たままシャワーを浴びている。
「キャー!」
「おまえ、何やってんだ? 脱いで洗えよ」
「脱いでますよ」
「は?」
「とにかく出てってください。恥ずかしいじゃないですか」ナッチが真っ赤な顔で訴えた。
「はいはい」
なんだ、つまらん。そろそろ寝よっかな〜。サヤカは伸びをしたあと、ドアを開けて部屋を
出た。同時に向かいの部屋のドアも開いた。カオリが出てくる。
「よう」
目が合ったのでサヤカはとりあえず声を掛けた。カオリは黙っまま視線を落とした。
ヘンなやつ。サヤカが自分の部屋に戻ろうとする、と突然うしろから肩をつかまれた。
カオリが笑う。
「ねえ、さっきの亀もう一度見せて」
「……あ、ああ、亀ならケイちゃんの部屋。預かってもらってんだ」
「ふ〜ん、そっか」
カオリはまばたきもせずにサヤカをじっと見つめた。そしてケイの部屋に歩いていった。
そういえばカオリと話すのって久しぶりだな……。
サヤカは暫くカオリの後ろ姿を眺めていた。長かった一日が終わろうとしている。

一日中使いつづけた身体は休息を欲していた。ナッチはベッドに入るとすぐに深い眠りに
落ちていった。

なつかしい風が吹いている。
北海道……ふるさとに帰ってきたのか。
「食べる?」
トウモロコシを一本差し出して、カオリが笑っている。
ナッチは受けとってかじりついた。
「美味しい」
「こっちに来て」カオリがナッチの手を引っぱる。
円いテーブルの上に並ぶふたつのカップから湯気がのぼっている。
「モーニングコーヒー」
ふたりはそれぞれカップを手にとって、カチンとあわせた。
一気に飲み干したそれは、少し苦い味がした。
白い雲が流れる空はどこまでも青い。

朝の光で目を覚ました。ベッドから落ちたのだろうか、床に寝ていた。
ナッチはむくりと起き上がった。
ふと向けた視線の先。白い壁に吹きつけられた青いスプレーが大きな文字を描きだしていた。
「……B?」

だんだん意識がはっきりしてきた。今いる場所が東京のマンションでも、ふるさとの北海道
でもないことはわかる。昨日、船に乗ってやって来た保神島のホテルの一室だ。
でもなにか違う。壁にBなんて描いてなかったし……。
ナッチは部屋をぐるりと見回した。あっ、部屋の造りが逆なんだ。
「ん?」
机の上に無造作に広げられた本に目が留まった。小説、それも恋愛物が好きなナッチは好奇心
からそれを手にとって中を見た。
「これは……」
右の眉がぴくりと動いた。

「……汚い字だな」
小説ではなく、日記のようだ。内容は……。
「ナッチー、お〜いナッチー」
どこからだろう、サヤカが呼んでいる。慌てている様子が声の調子から感じ取れた。ナッチは
読んでいた日記を閉じて、とりあえず部屋を出ようとドアを開ける。と、向かいの部屋のドア
も開かれており、その中にサヤカがいた。
「お〜ナッチ、アタシの座薬、知らない?」
「知りませんよ」
ナッチはサヤカのいる部屋に入っていった。
部屋の隅に見慣れたトートバッグが置かれていた。窓の外の景色も昨日5号室から見えていた
ものと同じだった。
「なんだ、ここナッチの部屋じゃないですか」
「そうだよ」
「あれ?」
「何だ?」
「ない、ナッチのパンツがない。昨日シャワー浴びたときパンツだけ脱いで、洗ったあとここ
に干してたんですよ。サヤカさん、知りませんか?」
「そんなもん、知らねーよ! それよりアタシの座薬を出せ」
「何言ってるんですか。サヤカさんこそナッチのパンツ返してくださいよ〜」
「何でアタシがおまえの汚いパンツなんか盗むんだよ」
サヤカはナッチをベッドに押し倒した。
ナッチはパンツのため? だろうか、いつもならするはずのない抵抗をする。
「お、やる気か?」
ふたりはベッドの上で揉みあいをはじめた。
そのとき、開けっ放しにされたドアをコンコンと叩いて、ケイが5号室に入ってきた。
「ねえ、亀が消えちゃったんだけど……」
ケイの言葉に反応したサヤカの動きがピタリと止まり、その顔が見る見る青ざめていくのを
ナッチは間近に見た。
「マジ……っすか?」

ケイの言うとおり、9号室に亀の姿はなかった。
「まさにひと部屋からひとつずつ、ものが消えていってますね。ナッチのパンツ、サヤカさんの座薬、ケイちゃんのカメノコ……イテっ」
「アタシのだろ。それより亀、まだその辺にいるんじゃないか? みんなで探そうよ、ねっ?」
必死の形相で呼びかけるサヤカを無視するようにケイは壁にもたれかかって窓の外を見つめ、ナッチは腕を組んで唸りだした。
「う〜ん、これはミステリーですね。いったいどこへ消えたんだろう……。あれ、カオリの
部屋からは何も消えてないのかな?」
「あ、そうだ」
昨日の夜、カオリ、亀が見たいとか言ってケイちゃんの部屋に行ったんだ。
まさかアイツが……。
「アタシちょっとカオリんとこ行ってくる」
サヤカはケイの部屋を飛び出し、カオリの部屋、13号室に走った。

9号室に残されたナッチとケイは互いに顔を見合わせた。
「サヤカさん、すごい険しい顔でしたね。どうしたんだろう? ケイちゃん、わたしたちも
行ってみましょうか」
「……そうね」
いつにも増して元気のないケイの声に、ナッチは少し心配したが、とにかくサヤカとカオリの
ほうが先だ、とドアを開けた。
「イタっ」
ちょうど走って戻ってきたサヤカとぶつかって、ナッチは廊下に倒れ込んだ。
サヤカはナッチにかまうことなく、
「おいおい、カオリ部屋にいないよ! ねえケイちゃん、昨日カオリこの部屋に来たでしょ?
そのときどんな様子だった? たとえば亀を盗む機会をうかがってたとか……」
ケイに詰め寄った。
ケイはサヤカの視線を避けるように目を伏せる。
「とくに変な感じはなかったけど……。亀を見たあと、すぐ部屋に帰って行ったわよ」
「えっ、どうしてカオリがカメノコを盗むんですか?」
この情況でもあいかわらずナッチは呑気だった。
「バカかおまえ、金目当てに決まってるだろ」
「なるほど。あっ、もしかしてナッチのパンツもお金が目的で……」
サヤカはナッチを無視してもう一度カオリを探しに走って行った。

おごる平家久しからず――。
「人生ってどう転がるかわからんもんやな……。ウチらってホンマ恵まれてると思うわ。
けど……ああ〜はよ結婚したい」
こぼれない程度に柿の種を口に入れて、ユーコが愚痴をこぼす。
「恋愛って夢の落とし穴なんだ」
ソファーにもたれながらマキは昆布をかじった。ユーコがいれてくれたモーニングコーヒー
には手をつけていない。
「ユーちゃん、せっぱつまってるね」天使のような笑みを浮かべ、マリが昨日買ったばかり
のブーツの感触をたしかめている。
事務所の一室。ドアから入って左側にあたる壁にポスターが貼られている。少し上にが神棚が
据え付けられており、ピアスが供えられていた。娘から脱退したアヤが残していったものだ。
マキがうとうとしはじめた。
そのときAMで「今月の新譜」と題されたプログラムがはじまり、最近髪を切ったという
女性歌手の曲がながれだした。
「これ誰だっけ? 聞き覚えのある声だな」マリが皆に問い掛ける。
マキは横たわっていたソファーから起き上がって、古いラジオの前まで歩み寄っていくと、
「耳障りだ」
プッチンと電源を切った。今日、入ってきたばかりのヒトミ、リカ、アイ、ノゾミの4人は
部屋の隅で黙ったままそれを見ていた。

ホテル中をくまなく探したものの、結局カオリは見つからなかった。
サヤカは走るのをやめ、タバコをくわえると、ふらふらと中庭のほうへ出て行った。
一瞬にして、背筋が凍りついた。目の前に拡がる光景が信じられない。
ホテルの中庭はそれほど広いものではなく、ケイの祖母の手入れが行き届いていないためか、
そこらじゅう雑草が伸びきっており、花壇に咲いた花の美しさを殺していた。
草の生えていないところがちょうど一本道になっていて、その突き当たりに、樹齢は何百年を
越えているのだろう、大木があった。
幹と同様に太さが際立つ枝の一本に紐が括り付けられ、その紐の地面に近い側に首を巻かれて
カオリがぶら下がっていた。長い手足がより長く見えた。
「自殺ね……」
サヤカに追いついたケイはカオリの死体を見つめ、低い声でそう言った。
遅れてナッチもやって来る。
「カオリ……」
風に吹かれて揺れる髪のあいだから覗く顔は鮮やかで、どうしようもないくらい美しかった。
3人は呆然と立ち尽くし、カオリに近づくことができない。
と、ナッチが地面に何かを見つけ、「ねえ、あそこ」と指差した。瞬間、ケイが駆け寄った。
文字のようだ。ケイは土に書かれてあった文字の下に線を引いて読んだ。
「『×4』……って何かしら」
サヤカとナッチも側に行って、覗き込む。
「かけるよん……何でしょうね」
「ダイイングメッセージじゃねぇの」
「ということは、自殺じゃない……ってことですね?」

カオリは殺された? たしかに自殺する理由がわからない。ま、カオリの言動に意味を
求めること自体、ナンセンスなのだが……。
ピリピリしたムードのなか、遺体を1階の待合室に移した3人はとりあえず2階に上がった。
階段をのぼってすぐのところにある9号室の前までくると、ケイはふたりを振り返ることなく
ドアを開け、言葉も交わさず中へ入り、ドアを閉め、鍵をかけた。
サヤカとナッチも軽く視線を合わせただけで、それぞれ4、5の部屋にわかれていった。
朝、早い時間の出来事だったため、朝食はとっていなかった。
5号室のドアが開く。ナッチはぐぅ〜っと鳴る腹を押さえながら、1階に降りて行くと、
ダイニングルームのほうへ足を向けた。途中、カオリが安置された部屋の前を通る。
「これが夢ならいいのに……」
今朝の夢の中、ふたりで飲んだコーヒーの味が舌に蘇ってきた。

4号室。窓を開くと波の音、潮の香りが入ってきた。
かけるよん……か。これで何が言いたいんだ、カオリ?
サヤカは両手で髪をかきあげると、赤い水性ペンをとって紙に『×4』と書いてみた。
その紙を持って、目に近づける。次に離して見る。回してみる。赤い文字が揺れる。
そうか!
サヤカの頭がまさに回転し、ある結論に達した。
「かけるよん」じゃない!
「だめふぉー」だ!
赤組4はダメダメ、そうだろうカオリ?
わかる、わかるよ。同じ青色だったもんな……。おまえの想い、痛いほどわかる。
口元にゆるい笑みを浮かべる。サヤカの目に熱いものが込み上げてきた。
「届いたよカオリ、ダイイングメッセージ。まったく……死ぬときまでロックなやつだな」

ノックする。間を置かずドアを開ける。ナッチは4号室に入った。
「サヤカさん、何か食べるもの持ってませんか? ナッチお腹すいちゃって」
「おいおい、勝手に入ってくんなよ。飯? んなもんケイちゃんのばあちゃんに頼めよ」
「それがいないんですよ。またウミウシ捕りに行ったのかな? 冷蔵庫もね、開けたんです
けど空っぽでした」ナッチはへらへらと笑った。
いない? そういえばあのばあさん、どことなく怪しかったもんな……。人相も犯罪者の
それだし。とりあえず犯人候補に入れとくか。サヤカは灰皿にタバコを押し付けた。
ナッチは床に『×4』の紙が落ちているのを見つけ、「何かわかりましたか?」と訊ねる。
サヤカは半笑いでナッチを指差した。
「犯人はナッチ、おまえだ。隠しても無駄。ふたりの仲の悪さ、アタシは知っていた」

サヤカの言葉にナッチは信じられないと目を剥いた。
「ひどい……。ナッチが人を、それもカオリを殺すわけないじゃないですか。カオリはずっと
一緒に頑張ってきた仲間、ううん、それ以上の関係、例えるなら双子の姉妹……はなんか違う
か。無二の親友……う〜ん、安っぽい。光と影……。月とすっぽん……あれ?」
「まあまあ、落ち着けよ、冗談だから。ナッチに人殺しは無理、わかってるって」
サヤカは興奮するナッチの肩をポンポンと叩いた。
そして、「問題はこれなんだよ」と『×4』を指す。
「そうなんですよね。ナッチもね、ちょっと考えてみました。この『4』は『死』を表してる
んじゃないでしょうか。『×』は『いやだ』という意味。つまり、『死にたくないよ〜』だと
思います。どうでしょう、サヤカさん?」
「はいはい、たいへんよくできましたね〜」
サヤカはにっこり笑ってナッチの頭をよしよしと撫でてやった。

「ナッチ、わかったからおまえはもう何も考えるな。謎はすべてアタシが解いてやるからさ。
母さんの名にかけて」
ナッチは自分の推理が軽くあしらわれたことはわかったらしい。頬をふくらませ、不服そうに
表情を歪めた。
サヤカは右手の人差し指をたて、額につけると、目を閉じてう〜んと唸り出した。
すっかり名探偵を気取っている。
「『4』、この数字は部屋番を表している。つまり、ここ、4号室ね。そして『×』、これは
『じゃない』って意味。要するに、『4号室のサヤカは犯人じゃない』ってことなんだな。
どうだ、わかったかナッチ?」
「なるほど」ナッチは感心してうなずいた。
「で、犯人は誰なんですか?」
「それはだな……」
サヤカは返答に詰まると、
「ナッチ、おまえ自分の部屋に帰れ! 気が散るんだよ!」
ていよくとは言えないが、ナッチを部屋から追い出した。

ひとりになった4号室で、サヤカは最後の一本になるタバコをくわえた。
床に座り込み、ベッドの側面に背中をあずけると、天井を見上げ、煙を吐き出した。
切れかかった電池を新しいものと交換し、MDを再生する。
まぶたを閉じると聴こえてくるのは『ちょこっとらぶ』。
――まる、まる、まるまるまる。
本当は分かっていた。いや、ふつう分かるだろう。なにしろ島にはカオリを含め、5人しか
いなかったのだから……。犯人探しをするにはあまりにも少なすぎる。
自殺ではないのなら、他殺だというのなら、犯人は彼女に間違いない。サヤカは確信していた。
しかし、それを信じたくない、認めようとしないもうひとりの自分もいる。
仲間が殺人犯なんて辛すぎる。むしろ、カオリの死は自殺であって欲しいと……。
サヤカはおもむろに立ち上がると、ふらふらとした足取りで部屋を出て行った。

ケイはひとり1階の廊下にたたずんで、窓の外の景色を眺めていた。
その目はうつろで、まるで生気が感じられない。
保神島――もともとは家族と訪れる予定だった。が、都合がつかなかったため、メンバーを
誘った。とくにカオリを誘ったわけじゃない、カオリが行きたいと言いだしたんだ。
すべては偶然だった。まさか、こんなことになるなんて……。
背後に気配を感じた。振り返る。サヤカがいた。感情を殺しているかのように表情がない。
サヤカは何も言わずケイに近づいて行くと、となりに立って窓の外の菜園を見つめた。
やわらかな風がふたりを包む。沈黙を破って、サヤカが口を開いた。
「ここに来たの10年振りって言ってたっけ。この島、10年前となにか変わってた?
アタシは初めてだけど、透き通った海や萌え渡る草木、それに空気がきれいだなって思った。
食べ物も美味しいし。……ねえケイちゃん、10年前はどんな子だった?」
ふたたび沈黙が生まれた。心臓の音がサヤカに聞こえるんじゃないかと思うほどの静寂だ。
サヤカの細められた目から伸びる、胸を刺すような視線に耐え切れなくなって、ケイは思わず
洩らした。
「ごめんね……」
サヤカは何も言わなかった。ただ、黙ってケイを見つめていた。
「あ、あの……カメのこと。預かってたのに……」ケイの視線は定まっていない。
「ケイちゃんのせいじゃないよ。ものが消えるっていう島の伝説、あの伝説がホントだったんだ。
それに、亀なんてどうでもいい。もっと……亀なんかよりもっと大切なものがなくなったんだ。
アタシはそれが……」
言いかけたとき、ケイの目に光るものを認めた。頬をするりと伝って、下に落ちる。
窓から差し込む光に映えて、ケイの顔が瞬間美しく見えた。

と、そのときだった。身体に小さな揺れを感じた。次の瞬間には、それは大きなものとなり、
サヤカは立っていられず膝をついた。ケイの足ももつれ、ちょうどサヤカの胸に顔をうずめる
格好になって倒れた。
振動はしばらく続いた。その間、ふたりはそのままの状態でじっと揺れの収まりを待った。

5号室。ナッチは地震が起こると同時に机の下に潜り込んだ。叫びそうになるのをぐっとこらえ、
両手で頭を抱えていると、机の上からバサっと降ってきたもの――。
あ、さっき読んでた日記。Bの部屋から持ってきてたのか……。

「止まったみたいだ」
サヤカは、まだ少し震えているケイの肩にそっと腕を回した。
「帰ろうケイちゃん、東京に。カオリを連れてさ……」
「……うん」ケイはサヤカの胸のなかで小さく頷いた。

部屋に戻ったサヤカは帰り支度をはじめる。と、手を止めた。
そうそう、あいつにも言っとかないとな。
隣の部屋へ行くと、
「おいナッチ帰るぞ、支度しろ……あら?」
ナッチはいなかった。

陽の光が遮られ、狭い中庭はすっぽりと影に包まれた。ケイは土に刻まれたままのダイイング
メッセージをまたいで、紐が残ったままの木の前まで歩いて行くと、そっと手を触れた。
大きく息を洩らしたあと、足元に落ちていた小石をひろって、10メートルほど離れた場所に
ある古井戸に向かって投げた。コツっと鈍い音が返ってくる。
古井戸のまわりには、タンポポが生えていた。
ケイは目を瞑る。この島に来ることは、もうないだろう……。
「あ、ケイちゃんここにいたんですか」
ふいに声がかかった。
「さっき地震がありましたね。ナッチびっくりしました」
ナッチがわざわざ草の密集しているところを通って、側に寄ってくる。
「そうね……突然だったしね」ケイは適当に返した。
ナッチはカオリのダイイングメッセージに目をやった。
「この島に来てからいろんなことがありましたね……」
「そうだナッチ、あなたはどうしてここに来たいと思ったの?」ケイが訊いた。
「えっ? それは、この島がつぎつぎにものが消えるという曰く付きの島って聞いたから、
何があるか知りたくて。ただの好奇心からです」ナッチは頭を掻いた。
「でも本当に消えるなんて、驚きましたよ。ナッチのパンツでしょ、サヤカさんの座薬、
ケイちゃんの……じゃなくてサヤカさんのカメノコ、そして――」
「カオリの命」
ケイがはさんだ言葉に、ナッチは首を横に振った。
「それは違います。なぜなら、カオリの命は『消えた』のではなく、『消された』ので……」
ナッチはケイの表情に微妙な変化を認めた。
「犯人わかっちゃったんです」
「……そう」ケイはフっと笑って目を閉じた。

「カオリのメッセージ、『×4』の謎が解けたんです。ほんの10分くらい前に。聞いて
もらえますか?」
ナッチの表情からは相当な自信が伺える。
「いいわよ」ケイは余裕を見せた。
「では……」ナッチはコホンと咳払いをする。
「『×4』、これって掛算ですよね?」
「そうね」
「つまり計算ですよね?」
「まあ、ね」
「つまりケイさんですね?」
「は?」
「つまりケイちゃんです。カオリを殺害し、その死体を木に吊るして自殺に見せかけようと
した真犯人、それはケイちゃん、あなたです」
と言ってナッチは自分の名推理に酔いしれる。
ケイはしばらく言葉を失ったあと、
「すばらしいわ、ナッチ」
拍手を送った。
「でしょでしょ?」
「全然違う」こらえきれず笑いだした。
「えっ?」

「いいわ、教えてあげる」
ケイは寄りかかっていた幹を離れ、カオリのメッセージの所へ進んだ。
「ナッチ、ちょっと来て。で、こっち側からこれ読んでみて」
ナッチは言われるままにケイに駆け寄ると、下線が引いてあるほうを上にして、ダイイング
メッセージを読んだ。
「……カ……メ。……カメ?」
「そう、カメ。『×4』じゃなくて『カメ』」
そう言ってケイは木の下の盛り上がった土を指差した。
「あれって何かわかる、ナッチ?」
「はあ、土が盛り上がってますね」ナッチが見たままを答えた。
「あそこに埋まってるの。カメが」

陽が昇り、中庭に光が戻ってきた。風が凪いで、緑の揺れる音はいつしかやんでいた。
ケイはナッチの正面に立ってその瞳を覗き込むと、昨夜の記憶をたぐりよせた。
――すいません、石鹸貸してもらえますか。持ってくるの忘れちゃって。
――ケイちゃん、たしか前に亀飼ってたことあるよね? 悪いけどコイツ預かってくれない。
「昨日の夜、あなたに石鹸を貸したあとよ。サヤカさんがカメを預かってほしいって、
わたしの部屋に来たの。わたしはもちろん承諾した。だってそうでしょ? 一時的とはいえ
カメノコがわたしのものになるんだもん。幻の亀がよ。ねえ、これがどんなにすごいことか
わかる? 誰も踏み入ることができなかった領域にわたしはまさに立っていたの」
「はあ……」
わかるような、わからないような。ナッチは曖昧に頷いた。
「興奮した。亀の些細な動きにも、わたしの目は釘付けになった。この幸せな時間がいつまで
も続いてほしいってそう願った。そのとき、ドアがノックされたの」
ケイの息が荒くなってきた。
――ねえ、亀見せて。
「カオリだった。わたしはカオリを部屋に入れて、まるで自分のもののように亀を見せた。
するとカオリが言ったの」
――これ死んでるんじゃない?
「また変なこと言いだした、そう思って亀を見たら本当に死んでたの。それまで動いてた亀が
まったく動かないのよ。なんで〜って思ったわ。そして、このことがサヤカさんにばれたら
どうしようってわたしは本気で焦った」
――寝てるんじゃない? 亀なんだし、そうそう動かないわよ。
「そう言ってその場はなんとか取り繕った……。カオリはふ〜んって言って部屋に戻って
いったわ」
ここまで言い切って、ケイは突然、声をあげて笑い出した。

「ねえ、わたしとサヤカさんのカメに対する思い入れって比較にならないと思わない?
だってサヤカさんは昨日まで、カメノコの存在さえ知らなかったのよ。そんなサヤカさんが
カメを手に入れた……。こんなのってあり? で、わたしが預かったとたん、カメはあっけ
なく死んじゃったの。もう笑うしかないわ。わたしってどこまで悪運を持ってるのかしら……。
ねえ、おかしいでしょナッチ?」
「……はい」
自虐的に笑うケイに、ナッチはなんと答えていいかわからなかった。
「ここでわたしは思いついた。ものが消えていくっていう島の伝説になぞらえて、みんなの
部屋からひとつずつ何かを盗む。そうすればわたしの部屋からカメがいなくなってても
なんら不自然じゃないでしょ? わたしはみんなが寝静まる真夜中になるのを待って、それを
実行した。まず、あなたの部屋からパンツを盗んだ。ナッチ、あなた不用心よね。鍵くらい
掛けてなさいよ。でも、おかげで助かった。サヤカさんの部屋には窓から侵入した。ナッチの
部屋の窓から外壁をつたって。ふたりとも疲れてたのね、まったく起きる様子がなかった。
最後にカオリの部屋からスプレーを盗った。これで無事完了。それからわたしはカメの死骸を
処理するためにこの中庭にきた。そしてここに穴を掘ってたの。そしたら――」

ケイは亀が埋まっている場所にしゃがみこんで、土の盛り上がりに手を触れた。そして、
立ったまま黙って話を聞いているナッチを振り返った。
「そうね……、ちょうどその辺り。カオリが立っていたのは……」
ケイの脳裏に夜中の記憶が蘇り、ナッチの顔にカオリがダブった。
――カオリ、何? まだ起きてたの?
「……カオリは何も言わなかった。スコップを持っていたわたしをじっと見てるだけだった。
もう言い逃れはできないって思った。亀を埋めてるとこ、見られたんだから……」
ケイは立ち上がって、ナッチに歩み寄り、その首に手をかけた。
「気がついたら、首を絞めてたの。わたしが正気に戻ったとき、カオリはもう死んでいた。
でも……あのときの手の感触だけは今でもはっきり覚えてる……」
ケイはナッチから手を離すと、『カメ』の文字を足で消した。
「木の枝に吊るしたのはもちろん自殺だと思わせるため。でも、カオリがこんなもの残してた
なんて気付かなかった。暗闇の中だったから……」
「それをわたしが見つけたんですね」ナッチが今朝のことを振り返る。
「そう、ナッチが地面を指したとき、わたしはそこに何が書かれているか、すぐにわかった。
だから、わざわざ下線まで引いたりしてあなたたちに『×4』だと思い込ませようとした……」
風が吹きはじめ、ナッチの頬をなでた。草の匂いが鼻につく。
「でも、たかがカメを殺したのを知られたくらいで人を殺しますか?」
ケイは黙り込んだ。ナッチは、なおもケイを問いただす。
「カオリは友だちでしょ? 仲間でしょ?」
「仲間……か。だから殺したのかもね。いっそ他人だったらよかったのに……。出会うことが
なければこんな感情を抱くこともなかった……」
「え?」

ケイはうつろな眼で空を仰いだ。太陽の光にそれを細めた。そして、カオリとはじめて会った
日のことを思い出す。
「カオリはとにかく美しかった。スタイルといい、綺麗な髪といい、なにもかもが完璧で。
わたしが持ってないものをすべて持っていた……。はじめのころは、そんなカオリをただ羨望
の眼差しで見てるだけだった。でも、だんだんと耐えられなくなってきた。同じ環境にいる
こと、一緒に仕事をすることが。……カオリは誰からも愛される娘だった。それにひきかえ、
わたしはどう?」
「う〜ん、ナッチには嫉妬しなかったのか……」ナッチがボソっと洩らした。
「ん?」
「あ、いえ、なんでもないです。あ、どうぞ、続けてください」
ケイは続ける。
「カオリとはすべてが違っているこのわたしが、なんで同じグループにいるの? そう思った。
まるで兎と亀ね。比べられて生きていく……わたしは自分の運命を憎んだ。わたしのカオリに
対する気持ちもいつしか憧れから憎しみへと変わっていった。そして――」

真夜中の中庭。
しゃがみこんで穴を掘るケイ。
側に立つカオリ。
カオリに気付くケイ。
ケイを見下ろすカオリ。

「――殺した」
ケイの呼吸は乱れていた。ナッチは少し間を置いてから訊ねた。
「首を絞めるとき、カオリは抵抗しましたか?」
「え?」

「カオリはケイちゃんの部屋でカメを見た時点でその死に気付いていましたよ。ナッチも
カメが死んだこと、知ってました。ケイちゃんが土に埋めてたってことまでは知りません
でしたけど」
ナッチは肩にさげていたバッグのなかから日記帳を取り出した。表紙には「パラノイア」と
青いペンで書かれている。ナッチはしおりをはさんでおいたページを開いた。
「ここに昨日の日付でこう書かれています。おそらくベッドに入る前に書いたものでしょう。
『ケイちゃん亀ば殺した。でも私わかってる。これケイちゃんのせいじゃない。これ自然の
摂理。ケイちゃん悪いことしない。私知ってる。ケイちゃん努力家。ケイちゃん真面目。
ケイちゃん歌うまい。ケイちゃん私が持ってないものたくさん持ってる。私ケイちゃんの
こと好き。大好き』カオリの日記です。今朝、目が覚めたとき、ナッチなぜかカオリの部屋に
いたんです。寝ぼけてなのか、夢の中のカオリに呼ばれてなのか、それはわかりませんが。
そうそう、カオリ、壁に落書きしてましたよ。『13』って。ナッチそれ最初『B』って
読んでました。ホント、カオリって字が汚いですよね。この日記読むのも大変でした」
ナッチは頭を掻くと、うなだれるケイに対して続けた。
「カオリはケイちゃんに首を絞められるそのときまで、ケイちゃんのこと、信じてたんです。
そして好きだった。そんなカオリの気持ち、ケイちゃんに届いてますか?」
ケイは呆然となって、ふらふらと歩き出した。
「わたし、カオリに愛されてた? そう……知らなかった。ねえナッチ、信じてもらえない
かもしれないけど、わたしも本当はカオリを愛していたのよ。自分のなかでずっと憎しみ
だと思ってた感情が実は愛だって気付いたの。でもそれはカオリを殺したあとだった……」
ケイはあふれだす涙を拭おうとしない。ナッチは哀れむでもなくじっとそれを見つめていた。
「わたし、カオリにもう一度だけ会いたい、会って謝りたい」
潤んだ瞳が真っ直ぐで、ナッチはケイの顔が一瞬美しく見えた。

と、そのときだった。ズンと大きな音がしたかと思えば、すぐに揺れが身体に伝わってきた。
またも地震だ。それも前回より激しい。ナッチは膝から崩れた。
これは……。揺れる地表から噴き出してきた赤い煙が、地に伏しているナッチを、そしてケイ
を包み込んだ。視界が見る見る赤に染められていく。
「ケイちゃん」
ふいに、煙のむこうからケイを呼ぶ声が聞こえた。
しかし……そんなはずはない。この声の主はもう……。
ケイは煙のなか、立ち上がって、声のしたほうへふらふらと歩いていった。
次々に展開する異様な現象に、ナッチは当惑した。
やがて震動が収まり赤い煙がはれてくると、ナッチはそこに奇妙な光景を見た。
これは夢じゃないだろうか。
「……なぜ死者が」
風向きがかわっていく。ナッチの向ける視線の先に、カオリがいた。

カオリが手を差し伸ばすと、ケイはためらいもなしにそれをとった。
「……カオリ、わたし、わたしは……」
ケイは言葉が出てこない。それでも何かを言おうとしている。
カオリはケイの頬に手をやると、指で涙を拭ってやり、
「わかってるよ、ケイちゃんの気持ち。カオリわかってる」
ケイを抱き寄せてやさしく微笑んだ。
「ねえ笑って」
カオリの言葉に、全身から力が抜けていく。ケイはすべてをカオリに委ねた。
これは幻影に違いない。ナッチはケイの肩越しにのぞくカオリの顔を訝しげに見つめていた。
ふいに、カオリと視線があった。
あの目……。グループ結成以前より知っているあの目で見つめ返してくる。
カオリが囁いた。声は届かなかったが、唇の動きで何を言ったのか、ナッチはわかった
ような気がした。
またも風の向きがかわる。ふたたび赤い煙に包まれて、カオリはケイを連れて……消えた。

「カオリ! ケイちゃん!」
ひとり残されたナッチの叫びが静寂のなかに溶けていった。
いったい何が起こったのか。事態が呑みこめないでいるナッチは、狭い中庭をさまよいだした。
そこへ、「どうしたの、ナッチ?」背後から声がかかった。
ん? この声は……誰だっけ?
振り返るとそこにはまたも信じられない光景があった。
「……アスカ」
引退したときと、なんら変わらない姿でアスカが立っていた。

サヤカは森をさまよっていた。ホテルのロビーにいたところ、赤い煙が充満してきて、
気がついたら樹に囲まれていた。
どうなってんだ?
「お〜い、誰かいないの〜! ナッチでもいいぞ〜」
「サヤカ」
背後からそう呼ばれた。サヤカの名を呼び捨てにする人間は限られている。
そして、この声は聞かなくなって久しいものだった。が、忘れてはいない。
なぜここにいるんだ?
サヤカは振り返る。
「……アヤっぺ」

ナッチの腹が午後3時を告げた。
波の音が近くに聞こえる。それは波打ち際にいるからか。
「ナッチってやっぱりナッチだよね」
「え、それどういう意味?」
砂浜で、ナッチとアスカは並んで膝を抱えていた。
「あたし、いつもナッチの側にいたよ。気付かなかった?」
「話しかけてくれればよかったのに」
「ごめん」
「いろいろ話したいこと、あった。聞いてもらいたいこと、あった」
ナッチの髪が風に揺れた。アスカは砂をいじっている。
「もう、どこへも行かないよね?」
ナッチの瞳の輝きにアスカは黙って視線をそらす。そのとき、波のしぶきがふたりを襲った。
「キャ―――」
――どぉおやってぇいかそお、あぁしたぁにぃいかそお。
「ん? 今、何か聞こえなかった?」ナッチが訊く。
「べつに」アスカが応える。
「そっかー、ナッチの空耳かー。あはははは」ナッチが笑う。
「そうだよ、ナッチったら〜、ふふふふ」アスカもつられて笑い出した。
すると、「お〜い、こっちこっち」背後から呼びかけてくる声があった。

「誰にやられた?」
全身に傷を負って、それでも立っているアヤは、今にも消え入りそうな声でサヤカの問いに
答えた。
「あ……みいご」
あみいご? サヤカは駆け寄って、崩れかかるアヤを支える。
「ヤツもいるのか? この島に」
サヤカは膝をつき、アヤを仰向けにして抱きかかえた。
「……新曲をね、うっ、な、生で聴かされた……」アヤがふりしぼる。
「何てひどい……」サヤカは顔を歪め、怒りにふるえた。
「……でも私、必死で抵抗したよ。何が悲しくてあみいごの歌なんか……聴く?
わ、私は……脱退した今でも、娘魂……持ったままだから」
サヤカは何と言葉をかけていいのかわからない。ただ、黙って頷くことしかできなかった。
アヤが弱々しい力で手を握ってきた。
「サヤカ……あなただけは、私のこと、覚えてて……。サヤカが死ぬとき……私が娘だった
証も……消える」
「覚えてるよ。覚えてるさ。忘れるわけないじゃん」サヤカは唇を噛んだ。
アヤの目に涙がたまっていく。
「ねえサヤカ……私、らぶましーんのとき……最高にいけてたでしょ?」
「ああ、アヤっぺが一番、娘のなかで一番光ってたさ。そんなのアタシだけじゃない。
みんな知ってるよ」
アヤは満足そうにサヤカの胸に顔をうずめた。ここで終われることが嬉しかった。
「……ナッチのとこに、行ってあげて」
それはいかにもアヤらしい言葉だった。次の瞬間、サヤカの腕が軽くなった。
アヤが消えていた。
まるで、はじめからそこに存在していなかったかのように。

ナッチとアスカは同時に振り向いた。
満面の笑みで、ショートカットのあみいごが近づいてくる。
「よ、久しぶり。あ、これアタシがCMやってるシャンプーの試供品。よかったら使って」
あみいごはナッチとアスカ、それぞれに手渡した。
「うわ〜、ただで貰えるんですか? やったねアスカ」
アスカはこたえず、それを海に向かって放り投げた。見事な放物線を描き、水中に消える。
「ナッチ、あなた忘れたの? ふるさとでの屈辱を」
ふるさとでの屈辱? 何だっけ? 松ぼっくり事件のことかな?
ナッチはすっかり忘れていた。
おいおい、忘れたんかい。アスカは呆れて言葉が出ない、かわりに歌い出した。
東京でひとり暮らしたら母さんのやさしさ心にしみた――。
アスカの歌声により、ナッチはすべてを思い出した。敗北を、屈辱を、母さんを。
と同時に砂の上に倒れ込んだ。辛い記憶が蘇っただけでなく、アスカが自分よりもうまく
歌い上げたことも要因だった。アスカのうまさにダメージを受けたのはナッチだけではない。
あみいごもまた同じだった。
「ナッチ、立って。今しかないのよ。辛い過去を断ち切るのは」
アスカがナッチの肩をもって諭す。
「あれからナッチ、強くなったんでしょ? 娘のなかにもライバルができて。ねえ、成長を
あたしに見せてよ」

……そうだ。
アスカが抜けてから、わたしは孤独だった。
わたしひとりで娘を背負っていかなきゃ、そんな気になっていた。
そしてふるさと。
わたしはアスカの影をひきずっていた。
敗北。
これがあったからこそ気付くことができた。
ひとりじゃないって。
仲間でもあり、ライバルでもある娘たちがいつもそばにいるって。
そしてあの人の存在にも……。
ナッチは立ち上がり、アスカを向いて大きく頷く。
「娘魂ってやつですね」
ゆっくりと息を吸い込んだ。そして一気に吐き出す。
日本の未来はウォウウォウウォウウォウ世界がうらやむイェイイェイイェイイェイ――。
その瞬間、あみいごは海の藻屑となった。

波の音が遠くに聞こえる。勝利したとはいえ、あみいごとの壮絶な闘いはナッチの体力、
精神力をともに著しく消耗させていた。
そして別れは訪れる。
「それじゃ、元気で」
かつてもそうだったように、別れを切り出すときでさえアスカは淡々としている。
えっ? 何言ってるのアスカ? もうどこへも行かないって……言ってないか。
「忘れないで、あたしのこと。そして、銀杏を見たら思い出して。あたしがモーニング娘。
だったこと」
「ナッチも一緒に行っていいでしょ? アスカ」
「だめだよ。ナッチ、今のあなたには、あたしよりも大切な人がいるでしょ」
大切な人?
「もうすぐその人はここにやってくる。あなたが共に生き続けるべき人……」
ナッチは朦朧とする意識のなか、アスカの言葉に耳を傾けていた。
「ねえナッチ、オリコンの一位がすべてじゃないってこと、わかって」
え? でもアスカ、わたしたちはもう一位を取ることを義務付けられたグループになって
しまったんだよ? ナッチはアスカの言葉の真意を汲み取れなかった。
アスカは静かに目を閉じた。瞼の裏に青春の光を見ていた。
「ナッチありが……」
言いかけてやめた。この言葉は胸に秘めておこう。
「さようなら、ナッチ」
引いて行く波にあわせるかのように、アスカはナッチの前からスーっと消えて行った。
アスカ? ねえ、アスカ、どこ行っちゃったの? アスカ―――!
もう、立っていることさえできない。
波が打ち寄せたと同時に、身体を砂上に放り出した。
頬についた砂が湿り気を帯びてくる。ナッチの意識は途切れようとしていた。

「ナッチ……」
あの人の声がきこえる。あいかわらずの、どこか尖ったような声だ。
「ナッチ〜」
まただ、またあの人が呼んでる……イタっ。頬を打つ手の温もりに、ナッチは閉じかけていた
目を開いた。
「……サヤカさん」
引きつりながらも笑いかけてくるナッチを、サヤカはそっと抱き起こした。
一足遅かったか……あみいごの野郎。
「しっかりしろ。おい、ナッチ、帰るぞ」
「……サヤカさんの運転で、ですか?」
「は?」
「ハイウェイ混んでもナッチはちっとも構いません」
これはいつものボケとは違う。急がないと取り返しのつかないことになる。
支えている腕を通して伝わるナッチの微かな息に、ささやかな希望を託した。
そのとき、サヤカの視界に都合よく小舟が入ってきた。
とにかくこのヘンな島から脱出だ。
サヤカはナッチを抱きかかえて、砂浜を、細波に漂う小舟まで歩いていった。

ナッチを横たえることによって、舟は一人用になってしまった。
膝枕でなんとかいけるか? ちょっと窮屈だけど、我慢するしかないな……。
サヤカが乗り込もうとした、そのとき、背中の傷跡に痛みが走った。
マジっすか?
背後からの強烈な視線を感じる。サヤカは舟にかけていた右足をはずした。
「ナッチ、悪いが先に行っててくれ」
え? サヤカさんは? ナッチは薄れていく視界と意識のなか、懸命に声を発した。
「ナッチも一緒に行きます」
「だめだ」
ナッチは、サヤカの口調にいつもとは異なる厳しさを感じ取った。しかし、ここで引き下がる
わけにはいかない。今日一日で何度辛い別れがあったことだろう。ここでサヤカと離れたら
もう二度と会えなくなる、そんな予感があった。
「……どうしてですか? 一緒に連れてってくださいよ」
これが永遠の別れになるかもしれない。サヤカも感じていた。
だが、行かねばならない。「ヤツ」と決着をつけるために。
「おい、わがまま娘、聞き分けろ」
サヤカは目を細めて、ナッチをいとおしむように見つめた。
「おまえには、生きててほしいんだよ、モーニング娘。の顔」
笑みを浮かべると、沖に向けて舟を蹴り出した。舟は流れにのって、どんどん陸から遠ざかり、
ふたりのあいだに距離を生んでいく。
深く息をはいて、冷静になるようつとめた。感傷にひたっている場合ではない。
これから生死をかけた闘いがはじまるのだ。
サヤカは気合いを入れる。振り返るとヤツがいた。

「サ〜ヤ〜カ〜」
長髪バージョンのあみいごの目は一点、サヤカの心臓だけを見つめていた。
その真剣な眼差しに、サヤカはつい笑ってしまった。
思えばコイツとも長いつきあいだった。たまたま同じ番組出身ってだけで、こうも敵対する
必要、あったのか?
いまとなっては、それはわからない。しかし……ここでやらなきゃやられるのは確かだ。
「あみいご〜、おまえさ、そろそろ楽になれよ。頼むから消えてくれ」
「オマエモナー」
それまで一定のリズムを刻んでいた波が、ざわざわと騒ぎ立てる。
あみいごが、手にしているマイクを口にもっていった。
ゆどにいせぐっばいそつぎょおでもゆどにいせぐっばいこのままあでも――。
島がふるえた。
「何それ? きかねぇよ」
サヤカは冷笑を浮かべると、あみいごに向かって全力で駆け出した。
「これでも喰らえ」
恋しちゃおう夢見ちゃおうモアラブリーでウッハッウッハッ――。
重低音が轟く。山が火を噴く。赤い煙が立ち込める。
保神島……実は火山島だったのね。
ふたりの対決が暗黙のうちに消えていく。
突然の火山の爆発、それによって生じた津波がすべてをさらっていった。

一艘の小舟と空と風、そしてナッチ。
波まかせで海原を漂う舟のなか、眩しい光に目を覚まし、ゆっくりと身体を起こした。
「う〜ん、ここは?」
何もない。見えるものといったら、海と空とをわける一本の線と空に浮かぶ雲だけだ。
白い雲を眺めていたら、お腹がぐぅ〜と鳴った。なぜか最中が食べたい。
あれ? サヤカさんがいない……と今ごろ気付いた。
――あのとき。夢と現実の狭間でよぎった予感。
深呼吸をして気持ちを落ち着け、ひとつひとつ記憶を戻していく。
サヤカさんはわたしを舟に乗せてくれた。そして――。
心地よかった風が冷たいものにかわっていく。悪寒がして、コートのポケットに手を入れた。
笛が入っていた。
ナッチは映画のシーンを思い出し、それを口にくわると、思い切り吹いた。
海は何も応えてくれない。それでも繰り返し吹いた。
ナッチはここにいます、ここにいます。叫ぶように吹いた。
「……サヤカさん……サヤカさ―――ん!」
立ち上がって360度、そこには海と空しかないとわかっているのにそれでも何かを期待して、
見渡した。
ん? 何かが波に乗って近づいてくる。

「あ、パンツだ」
都合よく舟に置かれてあった釣竿を使って、海面に浮かぶそれを引き寄せた。
「よかった〜。これでスカートがまくれてもお嫁にいける」
ナッチはホッと息をはいて、パンツをびしょ濡れのままはいた。
おや? 股間に違和感をおぼえた。何か入ってる?
パンツに手を入れて、取り出した。とたんに涙が拡がって、視界がぼやけた。持っている右手
から落としそうになり、あわてて左手をそえた。
サヤカの座薬だった。
ナッチはいつか走ったマラソン、そのゴールを思い出し、やさしく迎えてくれたサヤカの顔を
座薬に映した。吐きそうになる。こんなにも胸が苦しくなることがいままでにあっただろうか。
いつもそばにいてくれた。近すぎたから気付かなかったのか。
恋愛小説は読んでいても実際には知らなかった。失ってはじめてわかった。
これが……恋だったんだ。
涙が溢れ出してきて、止まらない。それでも無理に笑顔をつくった。荒くなる呼吸を必死に
おさえた。
こんな泣いてるとこ、見られたらきっと言われる。
あまったれんじゃない! ……じゃない! ……ない!
あの人はいつも強がってたもんな。本当は弱いところ、あったんだろうけど、絶対にそれを
見せようとはしなかった。
今度はしぜんに笑みが洩れた。強くなろう。あなたのぶんまで強く生きます。
「サヤカさん……」
空を見上げ、雲の切れ間にサヤカの顔を浮かべた。
「ナッチは、一生懸命、恋しました」
波に漂う舟は、いまだ行き先を決めようとしない。
ブルースカイ――サラサラな風が、ナッチの髪をなでながら通り過ぎていった。

水中からプクプクプクっと泡が上がってきた。
なんだろう。ナッチが覗き込む、と、水面を破ってサヤカが顔を出した。
「おー、5分10秒。自己新」
腕時計で確認し、子供のようにはしゃいでいる。
「何やってるんですか?」涙声で訊いた。
「アタシってほら、ダイバーだから」
サヤカはニコっと笑ってみせた。
「何泣いてんの?」
なぜだろう。いつもこうだ。涙って止めようとすると出てくるんだ。
「泣いてないです。寝起きなんで」
ナッチは口に手をあてて、あくびが出たふりをした。
おいおい、そんなに目、真っ赤にしてあくびってことはないだろう。あいかわらず負けず嫌い
だな。……でもナッチらしい。
「じゃ、眠気覚ましに風呂でも一緒に入る?」
「風呂?」
サヤカが舟のへりに手をかけて、軽く揺すると、ナッチはあっけなく海に落ちた。
「気持ちいいだろ?」
サヤカの笑顔に、ナッチの口元も緩む。
「気持ちいいですけど……」
「けど?」
「泳げないの忘れてました〜」
そう言って、ナッチはブクブクブクと沈んでいった。
お〜い、とサヤカがあわてて引っぱり上げる。
サヤカの首につかまって、ナッチはふーふーと呼吸を整えた。
「あ〜、死ぬかと思いました」
サヤカはフッと息をついた。
「逝ってよし」
きつい言葉とは裏腹に、沈まないようナッチを抱き寄せた。
その瞬間、海がしんと静まり返った。世界はふたりだけのものになった。

「なあナッチ、覚えてるか?」
はじめて会ったときのこと。アタシ、柄にもなく緊張してただろ? なんでか分かる?
ナッチに会えることが嬉しかったんだ。それまでブラウン管を通してでしか見ることの
なかったナッチに会えるんだと思うと、前の夜、緊張してほとんど眠れなかったよ。
ちゃんと目を見て話すこと、できてなかったろ?
でも、ナッチのことだ。よく覚えてません、なんて言いそうで、訊くのが怖いよ。
「何をですか?」
「ん? ああ、アタシがはじめて参加した曲」
「大嫌い、大嫌い、大嫌い、大好きってやつですね?」
「そうそう、それそれ」
ナッチは知らないだろ? 歌ってるとき、アタシはずっとおまえを見てたんだ。おまえの背中
だけを見てた。ナッチの背中は大きかったよ。けど、だからかな、すごく遠くに感じてた。
アタシはいつかあの背中に届くことができるんだろうかってね。
「覚えてますよ〜、そのくらい」
「あのころのおまえは痩せてたよな〜。ああ、二度と戻らぬ日々……か」
「ひど〜い」
なあ、ナッチ、人生をもう一度やり直せるとしたら、どうする? アタシはたぶん、それでも
もう一度娘のオーディション、受けると思う。やっぱり、また、モーニング娘。になりたいよ。
今度は落ちるかもって? それはあんまり考えたくないな。まあ、でも、そうなったらそう
なったで、一ファンとしてCDでも買って聴いてるかな。
「おい、足がじたばたしてるぞ」
ナッチがいたからここまで来たんだ。アタシはナッチに会うたびに同じ言葉を言っていた。
その言葉を繰り返してた。声には出さなかったけどね。これから先もそれは変わらないな。
だって、恥ずかしくて口にできるわけないだろ? ナッチありがとう、なんてさ。
「サヤカさん」
「ん?」
「つかまってても、いいですか?」
懸命にしがみついてくる、この娘が愛しい。
「……重いよ」
半分だけ開いた目で彼方の水平線を見つめ、サヤカはナッチを抱きしめる腕に力を込めた。

永い永い眠りから、ひとりの少女が目を覚ます。
アなんじゃこりゃ?