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紗耶香ともうひとりの紗耶香

後藤は今日も眠れない夜を過ごしていた。
『どうして、紗耶香さんの顔が眼に浮かんで消えないんだろう・・・』
最近市井がひどく男前だ、という事実もさることながら、
最初は厳しい言葉を掛けられつつも、その言葉の奥に見え隠れする
彼女のさりげない優しさや気遣いに、少しずつ魅せられていく
自分がいるのだった。
『今日のあなたは少し優しく感じました・・・なんで?』
そんな市井のさりげない優しさが、後藤には不思議に感じられた。

朝。
「にゃ、さやかさーん、おはようございまーす、ふにゃ」
眠そうな後藤が声をかける。
「ちゃんと寝てんの?後藤。最近寝不足じゃない?」
厳しめの口調で市井が訊ねる。
「・・・ふぁい、あんまり眠れないんですぅ」
『紗耶香さんの顔が頭に浮かんじゃって・・・』
「ちゃんと、寝なきゃ。健康と美容に良くないぞ。」
ちょっと頬を赤らめる後藤を見つめつつ、市井も
軽く微笑んでスタジオに入っていった。

そのとき、後藤はまだ市井の中に潜む「もうひとりの紗耶香」
の存在に気づくはずもなかった。

仕事を終えて・・・。
一人になった後藤は、市井に声をかけようとした。
「あれ?さやかさんどこ行ったんだろう」
市井がいない。さっきまで、他のメンバーと一緒に
談笑していたと思ったのに・・・。まだバッグは残っているので、
先に帰ったというわけではなさそうだ。
メンバーはみんな先に帰り、後藤と市井のバッグだけが残った。

「あれ、ごっちん帰らないの?」
「さやかさん、まだ残ってるみたいなんで。一応待ってます。え?いや〜、大丈夫っすよ〜」

そうは言ったものの、長い時間一人で残されると不安になる。
不安を感じつつ、お腹が減った後藤は酢昆布をとり出し、食べはじめる。
そうこうしているうちに、疲れと睡眠不足からいつのまにか
後藤は眠りこけてしまっていた。市井はまだ帰ってこない。

どれぐらい時間が経ったのだろうか・・・。
夢うつつの後藤の耳に、市井のものらしき声が聞こえてきた。

搾り出すような低い声と、いつもの市井の声が交互に聞こえる。
『・・・やめろ!!あたしはそんな・・・』
『素直になれよ、紗耶香。もうあたしたちは一蓮託生、逃れられないんだよ』
『いやだ、あたしはあたし・・・。』

ドアが開いた。入ってきた市井は顔面蒼白、汗まみれだった。
「・・・後藤?」
その声で完全に目を覚ました後藤は応える。
「。。。さ、さやかさん?どこ行ってたんですか?待ちくたびれちゃいましたよ」
「こんな時間まで待ってなくても良かったのに・・・」
ふと微笑んだ市井は、急に後藤を抱きしめた。
「ちょ、ちょっとさやかさん!?」
後藤を離すと、もう一度市井は微笑み、言った。
「お腹空いたね。ご飯食べて帰ろうか」

あのとき市井が言った言葉を、後藤は全部覚えているわけではなかった。
ただ、何か言い争っているような感じ・・・。
そして蒼白のあの表情、抱きしめられたときに伝わってきた、
胸の鼓動など、いつもの市井とは明らかに違っていた。
誰と言い争っていたのかは分からなかったが、
あの時は自分以外に誰も居なかったはずだ・・・。
考えれば考えるたび、分からなくなっていく。
そして、後藤の寝不足は続いた。

市井は、そんなそぶりは見せずに普通に、いや以前より親密に、
後藤に対して接してきた。しかし、そのような態度をとればとるほど、
市井の不自然さが感じられるようになった。
まるで、何かに怯えているかのように・・・。

あるとき、いつものように市井が後藤とじゃれついていると、
急に市井が顔色を変えて席を立った。
「ごめん後藤、ちょっとトイレ。」
「・・・?はい。」
怪訝そうな表情で市井を見送る後藤。

しばらく経っても、市井は戻ってこない。
後藤はこの前の、あの不安感を思い出した。
『また、あの変な人と何かやってるのかな?』
あの時聞こえてきた、市井以外の声の主?
胸騒ぎを覚えて、後藤はトイレに向かった。

コンコン
「さやかさーん、大丈夫ですかー?・・・さやかさーん?」
返事が無い。強めにノックをする。

・・・コンッコンッ
「さやかさーん!?」
そのとき後ろから、何者かが後藤の首筋を締め上げた。
「んぐぅ、だ、誰よ・・・!!」
不意を突かれたためか後藤は抵抗できなかった。
「んんぅ、さや・・・か・・・さん・・・たすけ・・・」
少しずつ意識が失われていく。

後藤が目を覚ましたのは、先程まで市井とじゃれついていた
部屋だった。

「・・・気がついた?」
「・・・あれ?あたしは・・・」
「大丈夫?トイレに倒れてたのよ」

市井が、ほっとした様子で微笑んだ。
「首のところに変な痕が残ってるから・・・。
ストーカーとかかもしれないね。和田さんに言っとく。」
自分も市井もとりあえず無事だったので、後藤はひとまず安心した。
しかし、釈然としないことだらけだ。
市井はあの時、何処に行ってたのか?
自分を襲ったのは?
そして自分を助けたのは?

市井は何も言わない。後藤は、自分の顔を鏡で見てみた。
誰かに、手で絞められたような痕が残っている。
そして、ふと市井を見ると、市井の首筋にも同じような痕が残っていた。

後藤は思い切って市井に訊ねてみることにした。
「さやかさん・・・?さやかさんの首筋にも、変な痕が・・・」
「・・・へ?ああ、これはさっき、ちょっとね」
市井は曖昧な答えを返す。後藤はすっと市井の前に立つと、
市井の両手をぐっと掴み、自分の側に引き寄せた。
「ちょ、ちょっと何すんのよ、後藤!」
「さやかさん、この手は何?」
市井の掌には、何かを強く握ったと思われる痕が残っていた。

市井は答えない。後藤が続ける。
「さやかさん、最近何かおかしいですよ。私だけじゃなく、
自分の首まで絞めるようなこと・・・。」
「・・・これは、あたしじゃないのよ」
市井の顔に、急に不安の色がよぎった。
「もうやめてあげて、起きちゃう・・・」

さっぱり分からない後藤だが、震えながら言う市井の様子が、
変わったことだけは敏感に感じ取っていた。

市井の心の中の、『もうひとりの紗耶香』が起きだしてきたようだ。
先程まで市井から漂っていた不安の色が嘘のように消えうせ、
冷たい微笑を浮かべる『もうひとりの紗耶香』の顔に変わった。

「さっきは命拾いしたな」低い声で『もうひとりの紗耶香』が呟く。
『・・・?あれは、あのとき、いい争いしてた声・・・』
「・・・さやかさん・・・?」
「あいつか。あいつは、寝たよ」
よく見ると、瞳の色が青く変わっている。
「そういうことなの?でも、こんなことが本当に・・・」
「ま、現実にあるんだからしょうがない。あいつのおかげで、
俺は随分いい思いをしてきたしな。お前と出逢うことも出来た」

「あ、あなたはさやかさんの何なの?」
「さあ、何だろう?気が付いたらこういう形態を身に付けていた、
というほうが正しいのだろうかね。あ、ちなみに、俺は人格は男だよ。
俺が出てくると、随分嫌がるみたいだね。でも、俺のおかげで
卓越した体力と知性、男前のルックスを手に入れることが出来て、
良かったんじゃないの?あいつにとっても」

後藤は、あっけにとられて聞いていた。
「あなた、どうして聞かれていないことまで喋るの?」
「まあな、俺はこうしてあいつ以外の人間と喋るのは初めてなんだよ。
自己紹介、したくなるじゃねえか。」
後藤には、市井の不可解な行動の一端が分かった気がした。
『もうひとりの紗耶香』が起きだしてくると、独りになって
他人に触れさせないようにしていたのだろう。

「残念なことがあるんだよ」『もうひとりの紗耶香』が唐突に
後藤に向かって言った。
「俺、いくら人格が男でも、肉体はあいつのままなんだよ」
そう言いながら、『もうひとりの紗耶香』は後藤のほうにゆっくりと
近づいていった。

『そっか、市井さんの男勝りの体力には、こんな秘密が・・・
・・・って、そんな場合じゃない!!誰か助けてよ・・・!!』

逃げる間もなく、後藤は『もうひとりの紗耶香』に捕まえられた。
強い力で両腕を掴まれ、どうにも逃げられない。

「結構可愛いじゃねえか。泣きそうな顔も」
「ひょっとして・・・」
「まあ、そうだな。お前は俺の好みだ。お前と懇ろになるように、
あいつをより男前にしたのも俺だ」
「・・・弄んだの?」
「そうじゃねえな。あいつもまんざらじゃないらしい。
といっても、今は出てこれねえから、何を言っても無駄だけどな」

『もうひとりの紗耶香』は、抵抗しようとする後藤の唇に、
強引に自分の唇を重ねた。これが、夢に出てきた市井さんの唇?
違う、こんなんじゃない・・・。

後藤の瞳から涙が零れ落ちた。
合わせた唇、顔から『もうひとりの紗耶香』の頬にも後藤の涙が
伝わっていった。

急に、『もうひとりの紗耶香』の様子が変わった。
「・・・やめろ、頼むよ、これからいいところなんだぜ?」
後藤を掴む力が弱まる。
「?」
「・・・やめろって、もっと寝てろよ!!」
そのうち、『もうひとりの紗耶香』は頭を抱えてうめきだした。
しばらくして、呼吸を乱しながら市井は立ち上がった。
瞳の色が、元に戻っている。

「・・・・・・見られちゃったか。・・・ごめんね後藤。」
「さやかさん?戻ったの?」
「あいつ、ここ1年の間に出てくるようになったんだ・・・
ずっと、ずっとね、見られないようにしてたんだけど・・・
あたしのこと、嫌いになったでしょ?ははは・・・」
「・・・どうして、途中で変わったの?」
「・・・後藤を・・・汚されたくなかったから・・・
泣いてたでしょ?さっき・・・・」

「・・・さやかさん・・・」
今度は、後藤が市井に唇を合わせた。
「?」嫌われた、と思っていた市井は驚きを隠せなかった。
「・・・ぐしゅ、ほんとは、先にこうしたかったんでしゅ・・・
でも、いいの。一緒に、いてくれる・・・?」

いつ姿を現すか分からない『もうひとりの紗耶香』に怯えつつ、
市井と後藤は今までどおりの時間を過ごした。
しかし、後藤は、市井が隠していた秘密を打ち明けてもらえた、
というある意味の優越感や親近感を味わっていたし、市井にしても、
今までたった一人で抱え込んでいた『もうひとりの紗耶香』への恐怖を
打ち明けることが出来て、安心感や後藤への信頼が芽生えていた。

しかしながら、体が密着した状態で『もうひとりの紗耶香』になられては
後藤もひとたまりも無い。そこから、先に進むことは出来なかった。
もどかしさと愛しさがお互いの中に募り、やりきれない時間だけが
ただ過ぎていく。

そんな折、モーニング娘。がストーカー被害に遭っている、
と報道された。特に、市井と後藤を狙った悪質なストーカーが
最近とみに目立っているらしい。和田マネから注意を受けて、
二人で気をつけて帰ろうとした矢先の出来事だった。

春先とはいえ、まだ日が暮れるのは早い。
二人は、すっかり暗くなった辺りを見回してから、
足早に歩き出した。
「・・・さやかさん、怖い・・・」
「ん?ストーカー?大丈夫大丈夫!!このあたしに勝てると思ってんの?」
「いや、そうじゃなくて、やり過ぎるんじゃないかって」
「ああ、そうだね、えへへ・・・って何言ってんの!!」
笑いあう二人。冗談でも言わないと不安をごまかしていられない。

こうして歩きながら細い路地に差し掛かったとき、
急に後藤が立ち止まった。不思議に思った市井が問い掛ける。
「後藤?どしたの?」
市井が後藤に近づいていくと、細い声で後藤が制した。
「・・・さ、さやかさん、だめ、来ちゃ・・・」
敏感な市井は、その一言で大体の事態を察鋳mした。
後藤の後ろに、怪しげな男が付きまとっていた。
手には、ナイフを持っている。
「ふふぇふぇ、マキちゅわ〜ん、見〜つけた〜!さ、さやかちゃんもいるんだ〜」

「ボ、ボクのマキちゃん・・・へへへ、ボクのモノになってくれるよね?
むふふふふ、むふふっふぅ」
男は気色悪い笑い声を上げながらナイフをちらつかせる。
ストーカーの心理の最終到達点は「自分だけのものにすること」、
つまり、殺害して手元に置こうとすることだという。
まさに、後藤を殺して、自分だけのモノにしたいらしい。

市井は、冷静に辺りを見回した。
『・・・助けは来ない・・・あたしが何とかしなきゃ』
タイミングを見計らって、男からナイフを奪えば、あとは・・・
真希、すぐ助けるから・・・え?こんなときに、何で・・・。

唐突に、市井が頭を抱えてしゃがみこんだ。

「ふふぇ、さやかちゃん、ど〜したの〜?まあいーや。
マキちゃんのあとゆっくりイイコイイコしてあげるからね〜」
男は自分に降りかかる危機的な状況を全く把握できるわけがなかった。

市井の震えが止まり、落ち着いた様子で立ち上がった。

「ありゃ?どうしちゃったの〜?さやかちゃ〜ん」笑う男。

市井、いや『もうひとりの紗耶香』は目にも止まらぬ動きで
男の背後に回り、ナイフを持つ手を一閃した。
「うぎゃっ!!!い、いてえよおおお」
カランカラン・・・
ナイフが地面に落ちて金属音と男の叫び声が響いた。
すかさず後藤は走って男から離れる。

「ち、ちくしょぅぅ!!」男は半狂乱状態で、
『もうひとりの紗耶香』に向かっていった。
しかし、当然敵うわけがない。
「俺の真希に何をしてんだ?オラ」鋭い蹴りが入った。
「ぎゃぁ!!い、いてえ!!」

「さやかさん!!もうやめて!!」後藤がたまりかねて叫んだ。
「・・・やれやれ。わかったよ。」
すると『もうひとりの紗耶香』は男の鳩尾に、力を加減したパンチを
一発叩き込んだ。男は、一瞬にして失神した。

「・・・一応お礼言わなくちゃね」
後藤は安堵の色を浮かべつつも、投げやりな口調で言った。
「おいおい、何だよその態度は。俺は命の恩人だぜ?」
「あたしが危険なことに変わりはないもの」
「あいつ、いろいろお前に吹き込んでるみたいだからな。
ま、お前の前に出てこれてよかったよ。もう、邪魔者は
出て来れないぜ。」

・・・一難去ってまた一難、とはよく言ったものだ。

「い、いやっ!!やめてってば!!」
「まあまあ、可愛がってやるよ。」
といって『もうひとりの紗耶香』が後藤を捕まえようとしたそのとき、
再び『もうひとりの紗耶香』の様子がおかしくなった。
急に、後藤を捕まえようとしていた右手手首を、左手が押さえつけたのだ。
「邪魔するな!!」
「(前にも言ったでしょ。真希は汚させないって)」
「くっ、体がうまく動かねえ・・・」
紗耶香と『もうひとりの紗耶香』、双方の意識が混在してしまった場合、
肉体の制御に支障をきたすようだ。

もつれる足で、『もうひとりの紗耶香』はなおも後藤に近づこうとした。
「くっ、まともに動けさえすれば・・・。」
「(もういいでしょ?今日は感謝してる。ゆっくりお休み)」
「うるせえ、そんなこと関係あるか・・・あいつをモノにするために
出てきてんだぞ・・・。寝てられるかよ・・・」

不幸なことに、パンチを力加減したことで、失神した男が目覚めるのには
それほど時間が掛からなかった。
「ち、ちぐじょぅぅっ」男は落ちたナイフを拾い、ふらつく足で
後藤と『もうひとりの紗耶香』のほうへ向かった。
二人とも、肉体の不調に気を取られて男の接近に気が付かない。

「マ、マキちゅわ〜ん」ナイフを構えた男は、後藤めがけて突進した。
「あ、あぶない!!」
後藤にはもはや避ける術はなかった。
肉体に力が入らない『もうひとりの紗耶香』は、
とっさに体ごと後藤に預けた。ちょうど、男と後藤とを結ぶ直線を遮るように。
「うっ!!」ナイフは、『もうひとりの紗耶香』の腹部に突き刺さった。
それでも、パンチを一発撃つだけの体力は残されていた。
『もうひとりの紗耶香』は、男の顔面めがけて渾身の右フックを放った。
「ごぶぁ!!」男は鼻血まみれになりながら、吹っ飛んで倒れた。

『もうひとりの紗耶香』は、腹部に刺さったナイフを引っこ抜き、
後藤のほうを見て、微笑みながら倒れた。
「さ、さ、さやかさーーーーん!!!うわぁあああーーーー」
後藤の絶叫が、夜空に空しく響き渡った・・・。

すぐに駆けつけた救急車により、市井の『肉体』は病院へと運ばれた。
後藤は、泣きじゃくりながら市井の『肉体』にすがり付いていた。
「さやかさん?起きてぇ、起きてよぉ・・・」
手術はとりあえず成功・・・しかしなかなか容態が回復しない。
そして意識も戻らないまま、朝を迎えた。

後藤は一睡もせずに付き添っていた。
さすがに疲れて、意識が朦朧としている中・・・。
声が聞こえてきた。

「・・・真希?真希・・・」

『もうひとりの紗耶香』の声だった。
声に気づいた後藤は飛び起きて、『肉体』に駆け寄った。

「・・・へへへ、け、結局・・・俺は何も出来なかったな」
「そんなこと・・・あなたがいなければ、みんな・・・」
「・・・お世辞はいらねえよ・・・それより・・・
俺はもう駄目だ・・・自分で分かるよ、へへ」
「ちょ、ちょっと待って、そんなこと言わないで」
「・・・さ、最後に、頼みがあるんだ」
「駄目だってば、死ぬなんて考えちゃ!!」
「・・・一回だけ、俺に・・・キスをして欲しいんだ」
「キスでもなんでもするわよ、死んじゃ嫌!!」
「・・・へへへ、やっぱいい女だな、お前は・・・。」

後藤は、こらえてきた大粒の涙をぽろぽろと零し、
ゆっくりと『もうひとりの紗耶香』に口づけた。
涙が、頬を伝わって『もうひとりの紗耶香』の顔に流れ落ちた。

「・・・ありがとよ、じゃあな・・・」

それっきり、『もうひとりの紗耶香』は動かなくなった。
「ざ、ざやがざん・・・うわああああんん」
後藤は、動かなくなった紗耶香の体にすがりつき、声をあげて泣いた。

奇跡は、起こった。
「・・・・・・うーーーーーん・・・・」
『あれ?何で・・・さやかさん、起きてくるよ・・・』
目を覚ました市井は、涙目の後藤に向かって不思議そうな顔で聞いた。
「・・・後藤?何で、そんなに泣いてるの?」
「・・・さやかさん、生きてるの?」
「・・・そういえばね、あいつと喧嘩したところまでは覚えてるんだけど
・・・そのあとしばらく覚えてない・・・」
そこまで喋って、市井は腹部の痛みに気が付いた。
「・・・痛タタタッ、何?これ」
「刺されたんです、あたしをかばって」
後藤は、事のあらましを話した。

それから、市井は順調に回復していった。
後藤は毎日のように病室を訪れ、身の回りの世話や
話し相手となっていた。その中で、『もうひとりの紗耶香』との
出来事だけは、何故か市井に打ち明けられなかった。
そんなある日・・・。

「・・・ねえ、後藤」
「どうしたんですか?さやかさん」
「・・・あいつ、何て言ってた?」
「・・・え?あいつ、ですか?」
「今ね、心の中にいないみたいでさ」
「・・・」無言の後藤。
「でもね。今ではあいつの気持ち、わかるかもね。」
「・・・」
「あいつはもうできないんだから・・・
代わりに、あたしはもっとね、愛してあげたいんだ。」
「・・・誰をですか?」
「フフ、決まってるじゃない。」
そう言うと市井は、そっと後藤にキスをした。
その唇には、紗耶香と『もうひとりの紗耶香』、二人の愛が篭っていた。

それ以降、市井の中の『もうひとりの紗耶香』が起きだして来ることは、二度となかったという。