第一走者:後藤真希(朝比奈学園陸上部一年生)
号砲。
  同時に真希はスタートする。 
  他の選手たちがすぐに真希より前に出た。 
  それでも真希は焦らない。 
  あくまで自分のペースで走り続ける。
真希が陸上部に入ったのは、「楽」だと聞いたからだった。 
  朝比奈高校ではすべての生徒がクラブ活動をせねばならない。 
        しかし真希には入るべき部活動が見つからなかった。
        運動神経はないし、音楽や絵画に造詣があるわけでもない。 
  そこで選んだのが、ほとんど休部状態にある陸上部である。 
  部員は真希を含めたったの四人。 
  各々別々に練習するだけで、真希が休んでも文句を言われることはなかった。
  入部した直後は、早速幽霊部員となり、町で遊び回っていたものだ。 
  しかし……いつのまにか真希は練習に参加するようになっていた。 
        それはひとつ上の先輩の影響だった。ショートカットの似合うかわいい先輩、
        彼女がとても親切にしてくれたのである。 
  ろくな運動もしたこともない真希に、基本的なフォームから教えてくれた。 
  最初は500メートルも走れなかった。でも次第にその距離は伸びていく。
        同時に真希は徐々に陸上という競技のおもしろさを知っていった。
        遊び回っているより走っているほうがよっぽど楽しい。 
  この上達するという感覚を真希は味わったことがなかった。 
  何もできない何の取り柄もない女の子、自分のことをそう思っていた。 
  でも……私にだって何かができるんだ。
真希はただ走り続ける。 
  順位はどれくらいだろう? 
  さきほどから脇腹が痛い。 
  息も苦しい。 
  距離は6.5キロメートル。練習ではなんとか走りきったことのある距離である。 
        タイムに関しては期待できるべくもない。他の運動部の子にさえ勝てないだろう。
        事実、ほとんど最後尾となっていた。 
  それでも真希は走り続ける。 
  あの人へ。 
  たすきをつなぐために。
第二走者:市井紗耶香(朝比奈学園陸上部二年生)
髪を切って以来、紗耶香は「かわいくなった」と言われるようになった。そして「積極的になった」とも。 
  何が変わったんだろう。 
  外見? それとも他に何かが変わったの? 
  自分ではわからない。 
  それでも昔みたいに物怖じすることはなくなったようだ。特に後輩ができてからは、それを感じる。 
  でも……と紗耶香は思うのだった。前はそんなにかわいくなかったのかな、積極的でもなかったのかな? 
  元来、紗耶香は陸上部に所属しているものの、体育会系の人間ではない。
  どちらかといえば、ひとりで読書をするのが好きなタイプである。 
  陸上もその延長。個人競技ゆえ、練習も大会もひとりきり。失敗も成功もすべて自分にかかってくる。
        集団競技のように、自分のミスで周囲に迷惑をかけたりはしない。
        紗耶香は誰に迷惑をかけるのも、かけられるのもきらいだった。 
  だから駅伝に参加すると聞いてもあまり歓迎できなかった。 
  駅伝は、陸上には珍しい集団競技である。自分のタイムが全体に響く。 
  それゆえ紗耶香はいつも以上に練習量を増やした。中距離は得意とするところだが、
  もっともっと時計を伸ばさなければならない。誰にも迷惑をかけてはならない……。 
  そして倒れた。
「……紗耶香さん!?」 
  真希の悲鳴も耳に届かない。 
  気がつくと紗耶香は保健室のベッドの上にいた。 
  「どう、大丈夫?」 
  隣にはマネージャーの保田圭がいた。心配そうに自分の顔をのぞきこんでいる。 
  「無茶だよ、こんな熱があるのに練習するなんて……」 
  「うん……、でももっとやらないと……」 
  「ダメ!」 
  起きあがろうとする紗耶香を圭が押さえる。 
  「紗耶香はがんばりすぎ」 
  叱るような圭の口調。 
  「真希の世話に、駅伝の練習。紗耶香はがんばりすぎだよ。少しは休みなさい。休息も練習のうちです」 
  「でも……、あたしあんまり速くないし、がんばらないと……」 
  「がんばらなくていいの」 
  ぴしゃりと圭は言う。 
  「なんのために、みんながいると思ってるの? 真希にまりっぺに圭織になっち。
        紗耶香ががんばれなかったら、みんなががんばる。
        もし途中で苦しいようだったら、私が棄権させるからね。わかった?」
だから紗耶香は今もがんばっていない。 
  あくまでマイペース。 
  いつも通り黙々と走り続ける。 
  それが功を奏したのか、ベストに近いタイムが出ているようだった。 
  いつも通りの自分。それでいいじゃないか。無理に自らを変えていく必要はない。
  それでみんなの役に立てる。みんなはあたしを受け入れてくれる。 
  それとも自分はどこか変わったのだろうか? 
  答えの出ないまま紗耶香は走りつづけていた。
第三走者:矢口真里(朝比奈学園陸上部二年生)
陸上部のエース矢口真里。それにはもう飽きた。 
  好きで走っていたわけである。中長距離は真里のように背が小さくても不利はない。
  自分より、大きな選手を抜きさっていく、それがたまらなく快感だった。 
  でも……、いつのまにか走ることがつまらなくなっていた。 
  走ることになんの意味があるんだろう? 
  まわりの子たちは毎日楽しそうに遊んでいる。クラスでは、彼氏ができたとかできないとか、
  新しい服を買ったとか買わないとか、そんな話が飛びまわっていた。あたしも遊びたいな……、
  そう思うことも多くなった。特に駅伝の練習をするようになってからは、その傾向が強くなっていく。 
  なんであたしは毎日走ってばかりいるんだろう? それになんの意味があるんだろう? 
  その日、真里は練習に出なかった。 
  クラスの仲間とともに渋谷へと向かう。 
        ドラッグストアにカラオケ、ゲームセンター、マック。おきまりのコース。
        それは真里にとってたまらなく新鮮だった。
  くだらない冗談で笑いあい、ナンパを軽くあしらう。たったそれだけのことが楽しくてたまらない。 
  「ねえ……、真里、陸上部いかなくていいの?」 
  友だちのひとりがそう聞いてくる。 
  「え……、まあね」 
  「誘ったけど、本当に来るとは思わなかったよ。いつも練習ばっかりだから」 
  「――それより、……買い物行こ、109!」 
  「おう!」
真里を含めた数人は、渋谷109に向かった。 
  「――あった!」 
        真里は、テナントの店頭に飾られていた厚底ブーツを見ると、早速飛びついた。
        背の低い真里には垂涎の品である。 
  「真里、ブーツ持ってないの?」 
  「えへへ」 
  汚いランニングシューズを脱ぎ捨て、ブーツを試着してみる。 
  立ち上がると背が一挙に20センチ以上も高くなった。見たこともない光景がそこには広がっていた。 
  「でかくなったね!」 
  などと口々にはやしたてられる。 
  調子にのって歩きだそう真里。そのときだった。足もとがぐらりと揺れ、真里は転びそうになった。 
  「ちょっ……真里! 大丈夫!?」 
  なんとか持ちこたえた真里。床にぺたんと座る。 
  ……なんなんだこの靴は? こんなんじゃ……満足に走れないじゃないか。 
  真里はブーツを脱ぐと、棚へと戻した。 
  「……買わないの?」 
  「うん、やめておくよ」 
  そういってランニングシューズをはく。履きつぶしてボロボロになったシューズ。
        でも、高機能。クッションはいいし、どんなに汗をかいても蒸れることはない。
        ――あたしにはこっちのほうが似合っている。
たすきを受けついですぐに、真里はひとりの走者を抜いた。 
  身体が軽い。今日は絶好調のようだ。 
  前方に次の獲物が姿をあらわす。ピッチをあげ、一瞬にしてそのランナーをかわした。 
  これで二人。 
  順位はまだまだ真ん中より下である。 
  ここは私ががんばるしかない。 
  少しでも順位を上げてみせようじゃないか。 
  だって私、矢口真里が陸上部のエースなんだから。
第四走者:飯田圭織(朝比奈学園陸上部三年生) 
  
  「飯田さん、ロボットみたい」 
  と言われたことがある。 
  「そう?」 
  答えた笑顔がぎこちなかったらしい。 
  「やっぱりロボットみたい!」 
  みんなに笑われた。
どうやら自分は人とは違うらしい、そう気づいたのは小学校も高学年のことだった。 
  普通に話してるだけなのにみんな笑うし、珍しそうに見る人もいる。 
        ロボットみたい? 確かに単純作業は好きだ。
        ビニールの「ぷちぷち」があったら、いつまでもつぶし続けてみせよう。 
        そして究極の単純作業が陸上である。ただ足を交互に前に出すだけ。
        いろいろコツはあるものの、けっきょくはそれだけなのだ。 
  圭織は毎日毎日走っていた。一年生のときも、二年生になっても、三年生になっても。
  タイムや競技での順位は気にしない。ただ走るのが好きだった。 
  ある日、走っている圭織に、マネージャーの圭が声をかけてきた。 
  「走ってる圭織が一番素敵だね」 
  「そう?」 
  「うん、一番かっこいい。輝いてるよ」 
  圭織はそれからいっそう走るのが好きになった。
真里からたすきを受け取り、走り始める。 
  順位は真ん中よりちょっと上。目標よりは下というところだろう。 
  無理をしたって仕方がない。 
  ――きっと彼女ならなんとかしてくれる。 
  自分はただ次につなぐことだけを考えよう。 
  全部でたったの5キロかそこらだ。 
  好きなだけ走れないのはしょうがないな。
陸上部顧問:中澤裕子(朝比奈学園教諭)
あかん、私この仕事向いてないわ。 
  いつもの考えが頭をもたげる。 
  「裕ちゃん、どうしたん?」 
  「……もう教師やめるわ」 
  「――その言葉、今年に入って17回聞いたわ。50回で海外旅行プレゼントしよ」 
  「ほんま!? 教師やめる教師やめる教師やめる教師やめる教師やめる」 
  「なんでやねん!」 
  居酒屋の看板娘と話しても気分は晴れない。 
        頭痛の種は、担当しているクラスではない。見合い話でもないし、安い給料でもない。
        顧問をしている陸上部であった。 
  「なぁ、安倍さーん、ちょっと待って」 
  「……なんですか?」 
  「あんた室蘭の高校で陸上部やったんやろ? うちの陸上部にはいらへん?」 
  「入りません」 
  「……そんな即答されても困るわ」 
  「陸上はやめたんです、失礼します」 
  安倍なつみは軽く頭を下げた。
元々、裕子には陸上の経験などなかった。中学・高校と所属していたのは、軽音楽部。
  陸上部の顧問になる下地などまったくなかった。 
  「陸上部をつくりたいので顧問になっていただけませんか?」 
  そう裕子に懇願したのは、はじめて受け持ったクラスの生徒だった。 
  彼女は心臓に持病を抱えていて、まったくスポーツをすることができなかった。
  そのかわり「走る」ということに人一倍の情熱をもっていて、ゼロから陸上部を立ち上げようとしていた。
  その熱意に負け、裕子は顧問を引き受けたのである。 
  それから二年の月日がたった。 
  ある日、部内で「駅伝に出よう」と話が持ち上がった。しかし駅伝は全部で5区間。
  現在の部員は、マネージャーをのぞいて四人である。メンバーがひとり足りない。 
  そこに都合良くあらわれたのが、転入生の安倍なつみだった。彼女は陸上の名門、
        市立室蘭大学付属高校陸上部に籍を置いていた。
        裕子は、なんとしても彼女を駅伝のメンバーに引き入れようとした。
  しかし……彼女はどうしても首を縦にふらないのだった。 
  「なあ頼むわ。うちの部に入るだけでいいから。練習もせんでええし、大会にもでなくてええわ」 
  懇願する裕子。 
  「……そんなの意味ないじゃないですか」 
  「あー、知らんの? うちは部活動全員参加やで」 
  「そうなんですか……、じゃあ」 
  かかった! 
  裕子の瞳が明るく光る。 
  「いいですか、陸上部に入るだけですからね。練習にはでませんよ」 
  「ええって、練習せんでも。駅伝だけ出るやろ?」 
  「でません!」 
  結局、なつみは入部届けに名前を書き、提出した。 
  これで安倍なつみを陸上部へ引っ張り込むのにだけは成功した。あとは圭坊に任せよう。
  彼女の情熱をもってすればなんとかなるかもしれない……。
そして今日。 
        ここにアンカーとしてアップを続ける安倍なつみの姿があった。 
        ああ、ここまでこぎつげけたんやな…… 
        いつのまにか視界が涙でにじんでくる。 
        三年間、マネージャーの熱意に押されここまでやってきた。正直、面倒くさいこともあった。
        苦労したこともあった。酒を飲んですべてを忘れたいこともあった。
        練習ばかりで彼氏もつくれなかった。様々な場面が思い起こされる。 
        それもすべては今日の日のため。 
        向こうから飯田圭織の姿が見えてきた。 
        安倍なつみが、ラインにたつ。
最終走者:安倍なつみ(朝比奈学園陸上部三年生)
全国女子高校駅伝大会、三年連続連覇。 
        名門中の名門。 
        市立室蘭大学付属高校陸上部。 
        安倍なつみは一年生、二年生と駅伝チームの「ピンチランナー」をつとめていた。
        ――ようするに補欠のことである。駅伝チームに欠員ができた場合は、なつみが代わりに走る。
        レギュラーではないにせよ、それなりに重要なポジションだ。 
        だが、二年間、出番がまわってくることはなかった。
        不動のメンバーは、けして休むことなく大会に参加し、勝利を重ねていった。
        なつみは練習を欠かさず、チャンスを待ち続けた。 
        そして三年生となった。 
        引退した先輩たちにかわって、今度こそ駅伝チームに入れる。なつみはそう期待していた。 
        しかし……、その穴を埋めたのは、アフリカから来た「留学生」だった。なつみは補欠のまま。
        レギュラーメンバーに加わることはなかった。 
        ――そんなものなんだろう。 
        元々、期待されていなかったのだ。なつみは駅伝チームにとって必要がなかった。
        そもそもピンチランナーというのも怪しい。欠員ができたら、誰か別の部員が走ったのではないのだろうか。 
        父の転勤と引っ越しがいい転機となった。 
        なつみは走るのをやめた。 
        何もない日々。夢もなく、目標もなく、もちろん走る理由もない。 
        摂生とトレーニングの生活から解放されうれしいと思っていた。
        なのになんだろうこの空虚さは? 空っぽのなつみは何かを埋めるように食べてばかりいた。 
        そこにやってきたのが、同じクラスの保田圭だった。
        北海道には絶対いないタイプのお嬢様である。彼女は心臓が悪く、
        運動できないのと引き替えに、ありあまる陸上への情熱をもっていた。 
        私は彼女のピンチランナーだった。
スタートライン。 
        なつみは飯田圭織からたすきを受け取った。
        いや……、後藤真希、市井紗耶香、矢口真里、飯田圭織、全員からたすきを受け取った。 
        一瞬、心臓の鼓動が高鳴る。重い、重いたすきだ。 
        なつみのコンディションはけして良くない。北海道で練習をやめてから二ヶ月ものブランクがあった。
        体重はベストより、10kg以上もオーバー。 
        これではいい走りを望むべくもない。 
        でも、なつみはやらねばならなかった。 
        自分のためではない。 
        圭のために、みんなのために走るのだ。それで良かった。 
        前を走っていたランナーの姿が見えてきた。 
        ゼッケンを確認するに、強豪校の陸上部である。アンカーということは、
        エース格なのだろう。走るリズムをあわせ、背後に並ぶ。 
        そして横に出ると一気に抜き去った。 
        できた。 
        なかなかいけるじゃないか。 
        それも当たり前。自分は名門室蘭高校の元陸上部員だ。こんな草レースで負けてはいられない。 
        そのままなつみは二人、三人とかわしていった。 
        目標は八位以内。あと5,6人も抜けばいい。 
        私にはできる。 
        四人目を追い抜く。 
        ――その時。なつみは膝に違和感を覚えた。 
        汗で濡れた背筋に、別の冷たさが通り抜ける。 
        ……じん帯?