中国東部手礼都の朝暁寺に伝わる奥義のなかには三身一体の連携を極意と
する奥義が二つある。
ひとつは「短放砲」もうひとつは「富乳妄忍」である。
短放砲は大、中、小の体格の者で構成され、中の者が敵の気をそらしている
間に、大の者が小の者を砲弾のように放り投げ敵にぶつけるという荒技である。
歴史上代表的な使い手は「知 瓶婆」「黒 江彩」「華 王倫」らである。
富乳妄忍はまさに三身一体の連舞であるが、途中で仲間割れを起こしたかのよう
な寸劇を交え、油断した敵の隙をつくのが持ち味である。
代表的使い手は「呉 糖巻」「安 打刑」「偉 地位」があげられる。
短放砲については2名で使っていたという記録もあるが、定かではない。
(民明書房刊 「集団戦術の歴史」より)
中国東部手礼都の朝暁寺に伝わる奥義の中でも最も習得が難しいと
されていたのがこの「世苦死光波」である。
長い朝暁寺の歴史の中でもこの奥義を使いこなしたのは、開祖である
「妄 忍愚」と「知 瓶婆」の2名だけであったといわれる。
特に「知 瓶婆」は150cmに満たない身長ながら、この奥義で百人組手
を制し、師範代にまで昇りつめた。
奥義の仔細は定かではないが、文献には
「ソノ波動 緑色二シテ 是 浴ビシ者 脱力シスベテ傀儡ト化ス」
とあり、気功を用いた集団催眠のような奥義であったことが覗える。
(民明書房刊 「中国奇拳百選」より)
歴史上常に一枚岩の団結を誇っていた朝暁寺一派であるが、一時期三派
に分裂、抗争していたことはあまり知られていない。
時に玄穐十二年三月、時の権力者突九帝が朝暁寺最強の拳士を決定する
御前試合を開いたことがこの分裂のきっかけである。
元来実力伯仲であった朝暁寺の師範、師範代たちはこの御前試合をきっかけ
に互いに対抗意識を強く持ち、独自の流派を開き分裂していった。
多くの流派が乱立したが、血で血を洗う抗争の結果大きく三派に統合され、
その後しばらくは三派抗争の時代が続いた。
分裂した三派はそれぞれ赤、黄、青の道着を用いていたことから、
「赤派」「黄派」「青派」と呼ばれていた。
最終的にこの分裂抗争は赤派の勝利に終わり朝暁寺は再び統一される。
しかしこの抗争により各派の棟梁(「呉 糖巻」「菜 通知」「偉 地位」)
らがその権力を強め、朝暁寺一派は分権政治の色彩を強くしていくことになる。
朝暁寺分裂時代の三派の中でも最大勢力を誇っていたのが、青派である。
青派流の特徴はその「御威!御威!御威!」という独特の掛け声と「戯打」
と呼ばれる独特の武具を用いていた点にある。
「戯打」がいかなるものであったかは定かではないが、かなりの重量であっ
たらしく、小柄な「知 瓶婆」などは逆にこの武具に振り回されていたとい
う記録が文献に残っている。
歴史上「華 王倫」がこの「戯打」の名手であったらしく、文献には
「其レヲ 振回ス姿 貞子ノ如シ」
とあり、鬼神のような活躍ぶりが覗える。
<「貞子」はどうやら中国民間伝承に登場する鬼神の一種のようである>
(民明書房刊 「拳法と武具発達の歴史」より)
玄穐十一年七月、時の拳法家「網 異誤」と武道集団「妄無素」
による果し合いが行われた。両者は共に中国東部手礼都の朝暁寺の
出身であることで知られている。
「妄無素」は、当時最強の使い手だった「菜 通知」を中心に
七身一体の攻撃を仕掛け、「網 異誤」は師匠直伝の拳法を取り入れ
これに立ち向かった。
結果は「網 異誤」の勝利に終わったが、「妄無素」はこの敗戦を
乗り越えて、以後、勢力を拡大していくことになる。
三派分裂抗争の中で当時最も勝利に近いと考えらていたのが黄派である。
黄派流の特徴は跳躍力を生かした攻撃にあり「文!」の掛け声と共に10m
以上跳躍したという記録がある。
黄派は当時朝暁寺の師範であった「菜 通知」を棟梁とし、実力的には
他の二派を凌駕していた。
しかし、黄派は完全勝利を目前としながら赤派の天才拳士「呉 糖巻」の
潜在能力と「安 打刑」の裏切り、そして青派残党の攻撃により敗北する
ことになる。
この黄派潰しの一連の動きを裏で操っていたのが青派「偉 地位」であった。
この敗北で「菜 通知」は朝暁寺における絶対的地位を失い、「偉 地位」
ら「富乳妄忍同盟」の朝暁寺における政治的影響力が強まり、分権政治の時代
が幕を開ける。
(民明書房刊 「朝暁寺一派の盛衰」より)
三派分裂時代に最も小勢力だったのが赤派である。赤派はその地盤を固める
のが他の二派より遅く、朝暁寺の覇権を争う上で大きく水を開けられていた。
しかし、1人の天才拳士の登場から赤派の勢力は巻き返しを始める。
その拳士の名は「呉 糖巻」。当時の朝暁寺師範代中最年少の拳士であった。
当初、「呉 糖巻」は三派分裂抗争に関心がなく中立の立場を保っていた。
しかし時代はこの天才拳士を放って置かず、本人の意思と関係無く赤派の
棟梁に祭り上げられてしまう。
「呉 糖巻」を得た赤派は、青派を打ち破り勢いに乗る黄派を倒し、朝暁寺
の再統一を成し遂げる。その後、「呉 糖巻」は朝暁寺の師範の座に就くが、
あまり政治には関心が無かったようである。
文献に残る「呉 糖巻」のエピソードは「修行をしていたところを見たことが無い」
であるとか「寺の縁側で寝てばかりいた」といったものばかりである。この辺が天才
拳士と呼ばれる所以であろう。
しかしこの天才拳士も師匠にあたる「偉 地位」には頭が上がらなかったという。
意外な一面としてまめに日記を記しており、彼女の綴った「赤派日記帖」は当時の世
相を知る上で重要な史料である。
(民明書房刊 「驚愕!寝るだけで強くなる!?」より)
朝暁寺の分裂時代を語る上で各派に協力していた周辺異民族の存在を無視
することは出来ない。
青派は「嶺風亜族」と「彌牙族」
赤派は「堕尼得族」
黄派は「亜椰夏族」
をそれぞれ従え、戦力に組み込んでいた。
青派に属した「嶺風亜族」と「彌牙族」は言語の違いからコミュニケーシ
ョンが困難な上、元が陽気で平和的民族だったため、戦力にならなかった
ようである。
赤派に属した「堕尼得族」は幻の一族とよばれていた移動民族で、言語は
全く通じなかったものの、皆恐るべき体格とパワーを誇っていた。
特に赤波に協力した酋長は「悪炉波!」の掛け声と共に十数人を一度に吹
き飛ばしたという。
黄派に協力した「亜椰夏族」は交易民族であったため、言語コミュニケー
ションが可能であった。戦闘力のみならず、物資補給においても役に立つ
亜椰夏族を黄派はかなり頼みにしていたようである。
実際、対青派戦の勝利は亜椰夏族の力が大きかった。
「〜にあやかる」という言い回しの由来はこの黄派と亜椰夏族の故事から
きている。
(民明書房刊 「涙の亜椰夏乱舞」より)
中国東部手礼都には秘密の犯罪結社が存在した。その名を「邪尼頭」といい恐るべき数の
暴力で犯罪を行っていた。その中でも有名な一派が「阿羅死」である。
その見境の無い所業に手礼都の住民は恐怖した。
事態を重く見た突九帝は朝暁寺の「妄無素」に討伐を依頼する。
激しい死闘の末、「妄無素」は「阿羅死」を倒し、手礼都はとりあえず平安を取り戻した。
この際「安 打刑」は「阿羅死」の一員「唖 井馬」を生け捕りにし食ったという伝説が・・・
民衆の噂話にはあったがどのように食ったかは定かではない。
ちなみに現在娘。板を覆う荒らしの由来は、この「阿羅死」から来ていることは言うまでもない。
(民明書房刊 「年下男の食いかた」より)
時に玄穐11年9月、手礼都のみならず中国全土を震撼させた怪異がこの「羅武魔神」で
ある。この羅武魔神、古くは殷の時代の文献に出現しており妲妃と並んで殷滅亡の原因を
作ったといわれた。
しかし後にこの魔神は道士である太公望に壷に封印され土中に埋められる。
しかし、手礼都の好事家がこの壷を発掘、そして誤って割ってしまったためこの魔神は
再び世に出てしまう。
復活した魔人は中国全土の覇権を高らかに宣言。手始めに手礼都の王宮に向かって進撃を
開始した。
暴れる魔神を止めるため手礼都、そして周辺諸国の軍隊までも出動するがあっさりと全滅
させられ手礼都は半壊滅状態となる。
最後の賭けとして突九帝は朝暁寺一派に救援を依頼、朝暁寺の精鋭「妄無素」の8人が魔神
退治に向かう。王宮近くの湖のほとりで魔神と妄無素は対峙、7日7晩に渡る死闘の末
「黒 江彩」が己の身を犠牲にして魔神の動きを止め他の面々が生命を削って放った究極
奥義「絶 短放砲」が魔神の急所を捉える。
魔神と黒 江彩は湖に沈み、二度と上がってこなかった。大きな犠牲を払いながらも魔神
は倒され、この事件で「妄無素」の名声は中国全土に知れ渡ることになる。
なおこの魔神は後の世の日本にも出現した記録が有り、その時は「安倍晴明」以下7人の
道士に倒されたとされる。
(民明書房刊 「みんなも社長さんも分かる陰陽道」より)
朝暁寺の奥義の中でも比較的知られていないのがこの「雌論氣燃火」である。
この奥義は読んで字のごとく体内の「氣」を燃焼させて発火させる炎の拳であった。
この奥義の最大の特徴は「氣」を練る際の独特の構え「馬鈴理南の構え」と掛け声にあり、
「安!動!斗炉唖!」の掛け声とともに周囲は紅蓮の炎に包まれたといわれる。
現代バレエの動きはこの「馬鈴理南の構え」を源流としており、バレエをする者を
「バレリーナ」と称するのはこの構えに由来することはいうまでもない。
(民明書房刊 「初歩のステップ(戯曲「暗黒魔王」)」より)
朝暁寺一派の奥義の中でも防御に特化した奥義がこの「妄忍愚硬皮」である。
この奥義は読んで字のごとく体内の「氣」を体表に集め、皮膚を鋼のごとく
硬質化するというものであった。
しかし「氣」のコントロールが極めて難しく、習得できる者が少なかった上
この奥義を使っている間は一切身動きがとれなかった。
この奥義が真価を発揮するのは、奥義「短放砲」を用いるときであり、弾丸
になるものはこの「妄忍愚硬皮」でまさに鋼の矢と化す。
代表的使い手はやはり「知 瓶婆」であり、独特の香辛料の効果で「氣」を
集中させていたようだ。この「硬皮豆」と呼ばれた香辛料が現代における
珈琲の原料「珈琲豆」の起源であることは最近知られたことであり、珈琲の
発祥の地は南米、アフリカではなく中国であるという説が現在では支配的で
ある。
(民明書房刊「大嫌い大嫌い大好き・・・乙女の珈琲占い」より)
日本の管理教育から外れた若者達を受け入れ教育しているのがこの私塾「娘。塾」
である。その厳しい教育方針は幾度となく物議をかもしている。
娘。塾年間行事の中で特に厳しいものがこの「獲着伝」である。42.195kmを5人
でリレーする所は通常の駅伝と変わらないが、各々が甲冑の1部を身に付け、次の
走者へと引き継いでいく。最終走者はすべての箇所を身につけることになるのでそ
の重さは50kg以上になる。故に最終走者には強い下半身が要求される。
なお、この行事は古の中国「朝暁寺」の修行が源流のようである。
(民明書房刊 「ピンチランナー・・・乙女の太股大ピンチ」より)
古代中国において「獲着伝」という武術大会が存在したのはあまり知られていないが、
玄穐十二年四の月に中国奥地の「火達仲」で行われた大会は、時の拳法集団「妄無素」
が戦ったこともあり武術書にその記録が残されている。
それによれば、「火達仲」の「獲着伝」は中国全土から五十五組もの猛者達が集い、
覇を争ったという。「妄無素」はもともと「獲着伝」に不慣れであったので苦戦が
強いられた。
記録によると、副将「知 瓶婆」は「世苦死光波」で次々と敵を倒したらしいが、
大将「菜 通知」が武具の重みに苦しみ、結果は惨敗に終わった。
なお「菜 通知」は戦闘終了後、口から謎の液体を吐き出す新奥義を使い他集団を
威嚇したと云われるが、文献に残っておらず定かではない。
品格ある「知 瓶婆」の走りと、予定外の乱れを見せた「菜 通知」にあやかり、
この戦いは「品知乱菜」と名付けられ永く後世に語り継がれることになる。
一方、吟遊の才にも恵まれていた「妄無素」が愚にもつかないことをするべきでは
ないという意見もあり、「女吟愚」という言葉が生まれ、現在の「ジョギング」
の語源になっている。
(民明書房刊「絶対にゴールするのだ」より)
先日開催が発表された天挑五輪大武會に中国伝説の武術寺である朝暁寺チームが
出場する可能性があることが本誌記者の取材で明らかになった。
政財界の実力者、藤堂兵衛氏主催によるこの大会には既に日本の男塾チームの出場
が決まっており両者の激突が期待される。
「矢鞭野郎」とは、古代中国に伝わる伝説の七匹の悪魔のことを指す。
文献に「背には白色の羽をはやし、食物を貪り食らうこと悪鬼の如し」とある
通り、毎日のように人家を襲い食料を食い荒らすという悪行を行っていたらしい。
魔物達は、弓矢やムチなどの武器を使用していたことから、やがて「矢鞭野郎」と
呼ばれるようになり、民衆の恐怖の対象になった。
「矢鞭野郎」が暴れ出して一ヶ月ほど経ったとき、耐えかねた人々は退治を試みる。
魔物の住処には結界が張ってあり近付けないので、その近くに全く同じ外観の
別の入口を用意して誘い込み、中に用意した巨大な壺に「矢鞭野郎」を封じ込めて
退治したという。
その後、その壺から採れる「矢鞭野郎」のエキスは、極上の茶であることが
判明し、当時の上流階級の間で盛んに飲まれた。
この飲料こそが、現代の「飲茶楼(ヤムチャロウ)」の発祥なのである。
また、魔物達の墓場となった壺は「別戸墓獲」と呼称され、これが今で言う
「ペットボトル」の語源となっていることは言うまでも無い。
(民明書房刊 「あとあじスッキリ、おまけでガッカリ」より)
「菜 通知」の前に朝暁寺の師範の座に就いていたのが「酎 裕姐」である。
「酎 裕姐」は中国拳法史上でも5本の指に入る酔拳の使い手であり、酒が
入ると誰も手がつけられなかったという。
しかしその酒量の多さが祟ったのか体を壊し、26歳の若さで朝暁寺師範の座
を「菜 通知」に譲り渡した(この際酒の勢いで決めたという説がありこれ
が後の三派抗争の引き金となる)。
三派抗争時は自らの責任を感じたのか、影で赤派結成、抗争終結に動く。
その後は朝暁寺の長老に名を連ね、後進の指導に当たったという。
また、朝暁寺の影流といわれる「六暴家裏主斗」の伝承者の座を「丙 卦道」と
争ったとも言われ、結局伝承者の座は「丙 卦道」に譲りわたしたものの、以
後も好敵手として朝暁寺裏手の原野「夷坂野」で9度に渡る戦いを繰り広げた。
人々はこの戦いを後に「夷坂野闘九」と呼び語り継いだ。
(民明書房刊 「ドランクモンキー〜酒ぐらい飲ませてや!」より)
中国武術史上、圧倒的な武力を誇っていた「妄無素」だが、その武芸を披露する
のは殆ど「手礼都」に於いてのみで、他の地方に出向くことは少なかったらしい。
しかし「帝美意絵州」で開催される「羽多晩」という武会には不定期であるが
参加し、かなりの活躍をしていたという。
この「羽多晩」は、「多 火産」と「名 改訓」の両名によって定期的に運営
されており、大規模なものなると「徒苦晩」と称されることもあった。
また「名 改訓」という名が記すとおり、「羽多晩」では参加者の名前を改造して
独自の呼び名を作る風習があり、「妄無素」の「黒 江彩」もここでの呼び名が
一般化した一例であるという。(ちなみに学会では、実際の命名は主に「多 火産」
の方が行っていたとする説が有力である)
また、古来中国に於いて、宴や軍議などでの席順は、非常に重要な意味を持って
いたが、これは「羽多晩」でも例外ではなく「妄無素」も幾度と無く席次を争った
記録がある。この席獲りにおいて常に異様な力を発揮していたのが「華 王倫」
こと俗称「地 四尊」であった。「地 四尊」の猛勇ぶりはすさまじく、たとえ
破れたとしても見るものを魅了せずにいられなかった。
蛇足だがこの「地 四尊」には「喜怒哀楽の四つの感情を地で行うのは尊敬に値する」
という意味が込められていて、本人はそれを知らなかったというのだから面白い。
(民明書房刊 「母さんニックネームが好き」より)
先日冥王島で行われた天挑五輪大武會予選1回戦で朝暁寺16傑と馬悪人愚16闘士が
対戦、朝暁寺チームが危なげなく勝利し、1回戦を突破した。
なお2回戦では沖縄代表の握太亜頭16舞踊士と対戦する模様。
中国全土にその名を轟かせていた「妄無素」。
ある日一人の小柄な若者が朝暁寺の門をたたいた。
当時の師範は「菜 通知」。
自分の2〜3倍はある師範から稽古をつけてもらい、瞬く間に腕を上げた。
あまりにも稽古熱心だったので、師範より「席取り」の名をもらう。
しかし、この若者がいつも素っ裸にまわし姿で稽古していたので、
手礼都の住人は「御素妄さん」と呼んで親しんだ。
数年の修行を経て故郷に帰った若者は新しい武道集団を結成し開祖となった。
故郷の人々は、女性の武道集団「妄無素」に対抗して、
新しい男の武道集団を「雄妄」と呼んだ。
時が経つに連れて彼の心の中で抑えきれない思いが湧き上がってきた。
稽古熱心な自分とは正反対に寺の縁側で寝てばかりいた「呉 都餡」と
仲間内で呼ばれていた「呉 糖巻」への恋心。
「安 打刑」に描いてもらった似顔絵を懐に忍ばせて谷町通いの日が続いた。
行く店行く店でその絵を出しては『「呉 都餡」です、「呉 都餡」です』と絡むので、
どこの店主も金を取ることはなかった。
これが悪習となり、今でも「ごっつあんです。」の一言で、
谷町を渡り歩いている「席取り」が後を絶たない。
(民明書房刊 私を変えた一言「土俵には金が埋まってるべ」より)
<解説>
どすこい!作品ごっつあんです!
相撲の起源はモンゴルではなく中国であるというのが定説なのですね。
「御素妄さん」はその後三派抗争の際、師匠のいる黄派に付くか憧れの
「呉 糖巻」のいる赤派に付くか悩んだ末、赤派に付いたといわれています。
その際の彼の活躍ぶりは「赤派日記帖」に詳しく記されています。
このように「菜 通知」から「呉 糖巻」に乗り換えた者達が多く居たことも
黄派敗北の一因であるといわれています。
「知 瓶婆」「黒 江彩」「華 王倫」の三者は、お互いを鍛え合い共に歩んできた
同朋であったため、その絶妙な調和は必然であり、他を大きく凌駕していた。
魅了される人々は多く、彼らの関係から「鍛歩朋」として広く慕われていた。
(注釈:その奥義名から「短放砲」とする記述もある。 別献「集団戦術の歴史」参考)
後に「黒 江彩」は自らの将来に疑問を抱き、手礼都を去ることになった。
別説に『深夜、過酷な修行のしすぎで腰痛になり破門を免れなかった』
とする言い伝えもあるが定かではない。
そのこともあってか、間もなく彼らの活躍は衰退したかのょぅ(こみ之T=。
ι力丶ιTょか~ら■●■●■●■●■●■●■●■●■●・・・・・・・・
---------------------------------------------------------------------
謝辞:保存状態の悪い古文書のため、この後の記述について解読不能であったことを
この場を借りて御詫び致します。ご了承ください。
---------------------------------------------------------------------
(民明書房刊 「鍛歩朋の暇乞い〜栄枯盛衰〜」より)
朝暁寺に入門するものが必ず通らねばならぬ試練がこの「殴弟子怨」である。
「殴弟子怨」ではまず、師範が入門希望者の「氣」を観る。ここで大半のものが
脱落する。第二に拳の「型」を見る。拳の型は「夏 仙聖」師範代によって厳しく
審査される。第三に「実戦」である。これは現役拳士相手のまさに実戦組み手であり
殴られても当然、死者すら出ることもあった。これに怨みを抱く入門希望者の遺族も
多かったという。これが「殴弟子怨」の語源であることはいうまでもない。
この「殴弟子怨」多いときは二万五千名もの入門希望者が詰めかけたといわれ
下は10歳児までも参加したという。
「殴弟子怨」は原則的に一般公開で行われるが、「知 瓶婆」「安 打刑」「偉 地位」
が入門した際の「殴弟子怨」だけはなぜか公開されておらず記録も残っていない。歴史上
永遠の謎である。
ともあれこの「殴弟子怨」も厳しい修行のスタート地点でしかないのである。
(民明書房刊 「出来レースやないで」より)
時に玄穐11年8月、朝暁寺の「妄無素」追加殴弟子怨が行われた。
厳しい審査の末、入門を許されたのは「呉 糖巻」只一人であった。
この「呉 糖巻」当時の朝暁寺の長老たちをして”頭一つ抜けている”と言わしめる程の天才であった。
たとえ天賦の才の持ち主とはいえ、朝暁寺での修行、生活一般を教える指南役が必要である。
ここで指南役に名乗りを挙げたのが当時頭角を表しつつあった師範代「偉 地位」であった。
「呉 糖巻」は当初、寝坊、雑務をサボるなど当たり前の問題児であったが
「偉 地位」の寝食まで供にする真摯な指導により最低限の作法は身につけたという。(相変わらず修行はサボっていたようだが)
寺の中で唯一自分を見捨てずに受け入れてくれた「偉 地位」に「呉 糖巻」は師弟として
以上の思慕の情を抱いていたらしく、「赤派日記帖」には「偉 地位」に対する思いが切々と綴られている。
「今日ノ貴方ハ少シ優シク感ジマシタ。初メテ稽古ヲツケテクレタ日ノコトヲ覚エテイテクレマシタ。
モウスグ貴方ハコノ寺ヲ出テシマウケレド、次二会ウ時ニハ修行シテモット強イ私ト手合ワセシテクダサイ。ソシテ(以下欠損の為読めず)」
時に玄穐12年5月、「偉 地位」は新たな戦いの地を求めて朝暁寺を旅立った。
その後の彼女については今後の文献の解析で明らかになるだろう。
果たしてこの師弟の物語はどのような結末を迎えたのであろうか?
(民明書房刊 「世界の秘密結社〜第23巻『いちごま会』」より)
基督暦2000年前後、突然始まった瓦版において頻繁に行われた「自作自演」。
同じく1970年初頭、若い吟遊詩人達によって始まった「自作自演」。
富乳妄忍同盟及び青派の棟梁であり、
中国全土にその名を轟かせていた「妄無素」全盛期の真の指導者「偉 地位」が、
玄穐12年4月、朝暁寺を去る時に残した謎の言葉「自作自演」。
時の権力者突九帝が新たに召喚した若き拳士達があまりに不甲斐なかったのか?
唯一の直弟子である赤派の天才拳士「呉 糖巻 」を独り立ちさせるためか?
あるいは突九帝に変わり自分自身が帝になるためか?
今もこの論議は続いている。
いずれにせよ「偉 地位」が朝暁寺を去る時に、
「自作自演」で会える日をの言葉を残していることより新たな文献が掘り起こされるだろう。
(民明書房刊 「バイバイ ありがとう サヨウナラ」より)