愛想の悪い若い船頭に、さよなら出来る事が何より気分が良かった。
港からこの島まで凡そ5km程度の短い船旅だったが、保田圭にとっ
てはフルマラソンに匹敵するぐらいの忍耐試しだったのだ。ソイツ
は本当の船頭の孫娘(単なる推測だが・・・)っぽい見かけによらず、
腕は確かで、その点では何の不満もなかったが、ただ何となく、圭
には虫が好かなかいヤツだったのだ。圭自身意識してはいなかった
が最初にチラリと見せたソイツの目が誰かを連想させたのかも知れ
なかった。
ホントは強くないくせに、意地っ張りで強がってみせ続けていたア
イツに・・・
船を降りた後藤真希は、怪しい雲行きを描き出す空を見上げて眉を
顰めた。少し口を尖らせた不愉快そうな顔を隠そうともせず振り返
って吉沢ひとみと辻希美に声を荒らげた。
「雨が降りそうだから早くして。」
その様子を少し離れた岩の上でジッと押し黙って見つめていた中澤
裕子は少し頭を振ってから、浮かびかけた悲痛な後悔に満ちた表情
を押し殺して立ち上がった。
今となってはもうあの頃には戻れないのだ・・・
洋館へと続く太い道を、つまらなさそうに歩いていた矢口真里は細
い道が分岐しているのを見て僅かに唇を歪めた後、集団から外れて
そちらの道を歩き始めた。それを見て一人、石川梨華は黙って付き
従った。
ハッキリとした沈黙の時を打ち破って、安倍なつみが少しキツい口
調で、矢口に声をかけた。
「矢口、勝手な行動は止めなさい。」
なつみの台詞は沈黙を続ける矢口に届くことはなかった。
保田圭は洋館の中門をくぐって、やっと左側の花畑の隅にあるベン
チに先客がいる事に気がついた。石黒彩と福田明日香だ。彩の方も
すぐに気付いたようで笑顔で迎えてくれた。
「ひさしぶりね、圭ちゃん。元気だった?皆がなかなか来ないんで
待ちくたびれちゃった。」
彩が暫く見ないうちに凄く大人びた事に圭は動揺を隠せなかった。
内面かなり不安定な子供じみたところの在った彩が、傍に居るだけ
で安心感が沸いて来るほど頼もしくなっていたのだ。母親になると
いう事は、こんなにも影響をもつものなのだろうか…
一方の福田明日香も圭にとって別の意味で驚きだった。どちらかと
言うと安定感のあるコだった筈なのに、今は妙に不安感を与える雰
囲気を醸し出している。生活が上手くいっていないのだろうか…
雨…?
加護亜依は頬に冷たいものを感じて空を見上げた。幾らも眺めてい
ないうちに、徐々に薄暗い雲の中から幾筋もの神の涙が降りそそぎ
始めた。
もっとも、亜依も他の連中にも、この時にはまだ神の涙か天の恵み
かはわからなかったし、無論そんな事を考えようともしなかった。
庭に集まっていた一同全員はクモの子を散らすように邸内に雨を避
け始め、亜依が玄関に入ったのが一番最後だった。
(嫌な雨…)
誰からともなく無意味に巨大な応接間に集まった一同の中、安倍な
つみはどの談笑の輪の中にも加わらず独り古びたガラス窓の外の風
景を眺めていた。すっかり暗くなった風景に、何時止むとも知れぬ
雨が余計なアクセントを加えていた。
姦しい背後の声を無秩序に拾いながら、頭の中で幾つかの疑問を反
芻していた。
1.今回の娘。の同窓会の話は、飯田圭織の提案の話なのに、何故
本人が来ていないのか?
2.洋館は掃除もされていたし、来た時には既に鍵が開いていた。
誰が開けたのか?
3.飯田圭織だけでなく市井紗耶香も来ていないのは何故か?
思索を邪魔するかのように、一際大きな声が耳に飛びこんできた。
「雨に濡れて気持ち悪いからシャワー浴びてくる。」
後藤真希の声だ。本人自信は気が付いていなかったが、なつみの頬
は若干引きつっていた。
矢口真里は不快であった。半ば空中分解的にユニットに小分けにさ
れ事実上解散したモー娘。の中で、結局最後に笑ったのは事務所サ
イドが強力にプッシュしてソロになった後藤真希だけだった。事務
所のやり方も不愉快だったし、明らかに自分達を見下している様な
後藤の態度も気に入らない。圭織も圭織だ、今更メンバー全員を呼
び集める事に何か意味があるのだろうか。嫌な気分になるだけだと
しか思えなかった。
手を伸ばしかけた菓子を横合いから先に取った相手に、きつく当た
ろうとし相手を見て危うい所で自重した。石川梨華だ。タンポポの
メンバーであり、真里にとって公私ひっくるめて気を許せる数少な
い大切な人間だった。
吉澤ひとみは、何をするでもなくジュースの入ったグラスを見つめ
ていた。ほんの1年ちょっと前にだれがこの状況を想像しただろう
か。もうあの頃には戻れないのだろうか。そして後藤だ。後藤真希。
彼女はホントに変わってしまった…
唐突な機械音と共にTVの画面が映像を映し始めた。ひとみは反射
的にまわりを確認したが、誰も電源を入れた様子は無い。リモコン
もきちんと机の上に並んでいる。そんなひとみに構う事無く、TV
は淡々と続きを映し出していった。
シャワーシーン? 舐め上げる様に、水の滴り落ちる足首、脹脛、
太股、腰、胸が映し出されていく。抜群にグラマラスだ… どちら
かと言うとスレンダーな、ひとみにとって、ある意味理想的な望ん
でも手に入らない身体であった。
カメラが顔の部分まで上がって、ひとみはそれが誰なのか漸く気が
付いた。後藤真希だ。混乱するひとみを余所にカメラは機械的に今
来た経路を逆に辿り、あっと言う間に床と足しか映さなくなった。
辻希美は本人は気付いていなかったが、かなり頬を赤らめて画面に
見入っていた。それぐらい魅力的な肢体だった。
水の落ちる足元のみの画面になっても、希美は画面から目を離せな
かった。唾を思わず飲みこんだ音が他のメンバーに聞かれたかどう
かが不安であったが、視線は画面に魅入られたままだった。その同
じ構図の画が続いていたのは、時間にしてそれから数秒程度だった
ろうか…
白い脹脛に紅い液体の筋が彩りを添え始めたと意識した時には、画
面は既に真紅の海だった。水を打った様に静まり返る一同の中、希
美一人がリモコンに手を伸ばしそうと最大限の努力を振り絞ってい
た。希美にはまだ状況がはっきりとは理解できていなかったが、た
だ、この画をこれ以上見続けてはいけないと言う本能的な恐れで心
が一杯だったのだ。海の中でもがく様に遅々としてリモコンに辿り
つかない右手が、まるで自分の手ではないようだった。
叩き付けるような乱暴な操作音の後、画面が切り替わっても、10
人のうち誰も口を開こうとはしなかった。
一向の思いには構わず、四角い箱の中の不細工な女アナウンサーは、
仕事に疲れたきった様な張りの無い声で、事務的にニュース原稿を
読み続けていた…
「…次のニュースです。今日朝未明××県××市××湖で女性タレ
ントの飯田圭織さんの遺体が発見されました。飯田さんは先月半
ばから行方が判らなくなっており… 自殺と見られており… 飯
田さんは最近塞ぎこむ事が多く… … …」
その瞬間、辻希美の中で何かが弾けた。気を失う直前自分自信の悲
鳴がどこか遠くで聞こえた様な気がした。
中澤裕子は灰色の砂嵐しか映さなくなったTVの画面に視線を落と
したままだった。
(発見された飯田さんは死後10日程度と見られ… 10日程度…
10日?! それが本当ならば、つい一昨日今回の旅行について
電話で楽しげに喋っていた飯田圭織は一体何なのだろうか…)
何人かの顔に自分と同じ困惑と恐怖の彩りを確認したことで、逆に
意識がはっきりしてきた。最年長でありリーダーである自分が取り
乱してはまとまる事態もまとまらなくなるに違いない。こんな時だ
からこそ沸き上がってくる自分自身の責任感に安心できた。
裕子が兎にも角にも一同に声をかけて事態の把握と今後の対策に乗
り出そうとした刹那、応接間の扉が何の前触れもなく開いた。
「ふぅ、さっぱりした。」
何事も無かったかの様に洗い髪に、ジャージ姿で現れた後藤真希を
見た時、保田圭は、まるで狐に抓まれた様であったが確かに安堵感
を感じた。しかし、それと共に薄ら寒いモノを感じずにはいられな
かった。先程の血塗れの下肢が脳裏にこびり付いて離れない。あれ
は何だったのだろうか?そして、飯田圭織の事は真実なのだろうか?
圭は何がしかの悪意の存在を意識せざるを得なかった。野生の勘が
警鐘を打ち鳴らし続けていた。
漸く暫く幽霊でも見るような視線で後藤を見続けていた事を自覚し
た圭は、気恥ずかしさと申し訳無さから、視線を中途半端に窓の方
に泳がせた。窓の外は、もはやすっかり暗くなっており、部屋から
漏れる灯かりが、霧雨を照らし出し、まるで洋館はビロードのカー
テンに覆われたかの様だった。柔らかく分厚く包み込んでいるが、
それは見かけの優雅さとは別に、本質は内外を厳しく分け隔てる
隔壁の様に感じられた。
自分達はこの館に、この島に取り込まれてしまったのだろうか?そ
して二度と外界には戻れないのだろうか… 圭は頭に根を生やし始
めた悲観論の種子を、まるで踏みにじるかの様に苛立たしげに膝を
動かした。
再び音も無く応接間の扉が開いた時、来訪者を見て、圭は溢れる懐
かしさの中に一抹の違和感を覚えたが、それが何かは判らなかった。
戸口に姿を見せたのは市井紗耶香だった。まるで頭上でバケツをひ
っくり返したかの様に濡れぼそりながらも、以前と変わらぬ少し眠
たげな目に宿る強い光は健在だった。不幸な事に、徒に生き急ぐ様
な危うさを秘めている所まで変わっていなかった。
(市井… ちゃん…)
後藤真希は万華鏡の様に目まぐるしく表情を変えた後、部屋に入っ
てきた市井紗耶香の方から視線を逸らすことで漸く落ちつきを得た。
次々と浮かび上がる思いに、真希の脳裏はオーバーフローの様相を
呈しており、自分自信では理論的に自己分析を完了させる事は出来
なかったのだ。確かな事は、昔の様に市井に叱って欲しいと言う事
と、今はもう素直にそれを態度に出すのは他のメンバーの手前不可
能だと言う事だった。真希はもう昔の真希ではない。時は新人の後
藤真希で居続ける事を本人に許さなかったのだ。
結論が出るのは余りにも呆気無かった。こんなド田舎の離島では携
帯電話は無用の長物だったし、こんな洋館に似つかわしくない最新
の館内電話は如何足掻いても外線発信は不可能だったのだ。能動的
に外部に連絡を取る手段は、もう狼煙ぐらいしか残されていなかっ
た。
安倍なつみは、苛立たしげにビーフジャーキーを口に運びながら、
灰色の脳細胞に鞭打って現状の整理を励行していた。
飯田圭織の話では今回の宿泊は2泊3日の予定だった。と言う事は
来るかどうかは判らないが、取り合えず明後日の迎えの船だけが頼
みの綱だ。そして、船が来なかった場合を考えるれば、食料その他
生活必需品を今の内に確認確保しておかなければならない。可能な
らば他のメンバーに知られない様になるべく多くだ。別に物品が共
同管理になっっても構わない。その時はその時だ。ただ、打てる手
は全て打っておかなければ、自分自信が納得できないのだ。
今までもそしてこれからも、なつみはそういう所の労を惜しむ気は
更々無かった。
まるで一同が状況を認識し終えた頃会いを見計らう様に、応接間の
壁の大時計が19時の鐘を大仰に鳴らし始めた。
(まるで葬送の鐘の様…)
耳を塞ぎたい気持ちと自制心の葛藤に苛まれながら、保田圭は床に
視線を落していた。先ほど屋外の電話線を確認しに洋館の周りを一
周した時に濡れた髪が、額にべとつき少し不快だった。
後藤真希は、髪から滴り落ちた冷たい雫が身体を伝う様をはっきり
と知覚した。ここは何かが狂っている。ここではなくて自分達が、
かも知れないが、兎に角何かが間違った方向に進もうとしている。
真希はそう言う機微には弱かったが、流石に気付かざるを得なかっ
た。それ程電話を探している時に食堂で見た光景は異常だった。
先頭を切って食堂に入った保田圭は軽い眩暈を覚えた。極めて日常
的であるが、完璧に作為的な悪意。それは手が込んでいるが故に逆
に感動すら覚える程印象的な演出だった。
食堂の大テーブルには13人分の皿とグラスと名札が並べられており、
飯田圭織の分を除いて、乾ききったパンと室温に温まったワインが
最上級の丁寧さをもって用意されていた。
道理でさきほどあの後藤が食事に行こうという状況で躊躇していた
訳だ。多分家捜ししている時にこれを見ていたのだろう。しかし、
その事を責めるつもりは全く無かった。何故ならば多分今後自分も
同じ類の行動を採らざるを得ない事になるだろうからだ。保田圭に
は全ての事実が最悪の状況へのベクトルを指し示しているとしか見
えなかった。
何かに追いたてられるかの様に食堂を後にする一同からは、殆どの
笑顔と会話が失われていた。
(…最後の晩餐…ユダ…縁起でもない…どうして?…)
安倍なつみは誰も居なくなった食堂に戻ってきていた。件のテーブ
ルを横目に、気持ち早足で部屋を抜けると奥の厨房へと向かった。
見渡すまでも無かった。人間の二三人程度は優に入るであろう、嫌
味なぐらいに巨大な冷蔵庫が中央に鎮座していたのだ。畳一枚分余
りの観音開きの扉は最高級の滑らかさをもって音も無く開いた。
安倍なつみは言葉を失った。緑、緑、緑…冷蔵庫の中は、かつて人
生の中で目の当たりにした事は無いほどの量のピーマンで敷き詰め
られていたのだ。そして落ちていった視線の先には、一塊のロース
ハムがピーマンの絨毯の上に展示されていた。「安倍なつみ様」と
書かれた半紙と共に。
(駄目… じっとしていられない…)
保田圭はベッドの上から跳ね起きた。とても眠れる様な気分ではな
かった。満足な食事がとれなかった為の空腹感もさる事ながら、こ
の館の一種異質な雰囲気が一番の原因だったのだろう。手近な物を
羽織ると、少し迷った末に市井紗耶香の部屋へと向かった。
ドアの前でまた少し躊躇した。やがて意を決したかの様に少し強め
に3回ノックをしたが、期待とは裏腹に部屋の中からは何の応えも
無かった。
最後に躊躇いがちに廻したドアノブからは、鍵が掛かっている事が
解っただけだった。
何度歯噛みした事だろうか。矢口真里は現状が不満だった。もっと
出来る筈、もっと出来た筈だった。一体どこで道を踏み外したのだ
ろうか。
幾ら考えても堂々巡りだった。大きなベッドに小さくなって腰掛け
ながら一体どれ程の時間を過ごしたのだろうか。途中幾度か石川が
部屋を訪れたが返事をしなかった。矢口真里のこんな姿を他人に見
せるわけにはいかない。ましてや石川には…
沈黙の時間を無作法なインターホンの電子音が破壊した。
(はい… もしもし… えっ?カオ?何処に居るの?は?… 何?
地下室?… もしもし もしもし…)
意識しないうちに部屋を飛び出していた。電話の主は飯田圭織と名
乗ったのだ。真偽の程は考えるまでも無い、先ず行動する事で今ま
で生きてきたのだ。己の人生哲学に逆らう事は出来なかった。
手ごろな大きさのナイフ数本を布巾で包んで、ハムと共に携えて安
倍なつみは食堂を出た。人目を避けたい気持ちと、清々堂々恥じる
事は無いという思いが混濁していた。一つ目の角を曲がった時に早
くも意図せぬ人物に出会ったのは、何の悪戯だったのだろうか。そ
れは石黒彩だった。
数瞬のバツの悪い間を安倍なつみが破ろうとした寸前、石黒彩が先
に口を開いた。
「なんだ。なっちもお腹空いてたの?私もね。何か食べるものが無
いかなと思って降りてきたんだ。」
明らかに信用のおけないこのハムを自分が食べるのなら、その前に
誰かに毒見をさせたいという気持ちは確かに存在した。それと同時
に自分には、そんな事を頼める人も、そんな事に利用出来そうな人
も居ない事を自覚していた。
「じゃあ、一緒に部屋で食べようか。皆には内緒でね。」
自然に毀れたその言葉に打算は無かった。あの有体に言って以前は
かなり折り合いの悪かった石黒彩が、自然に接してくれた事に対し
て自然に出ただけの事だった。少なくとも、その時は打算ではなか
ったのだ。
扉を開けるとそこに立っていたのは保田圭だった。中澤裕子は相手
に気付かせない様、小さく一つ安堵の溜息をついた。
中澤裕子は、保田圭はリアリストだと考えていた。二人でユニット
を組めと言われた時に保田圭を選ぶかどうかは何とも言えないが、
こんな時には彼女のその一般的なバランスのとれた視点が、頼もし
かった。
「食事は我慢して兎に角今日は寝る」と言う己の指示について。明
日以降の対処の仕方。現状の分析。第三者の存在の是非。メンバー
達について。飯田圭織の事。語る事は山ほどあった。
夜は淡々と時を刻み続けていた。
ものの三十分程で平らげただろうか、二人掛りとは言え実に呆気無
い遅過ぎた夕食だった。安倍なつみは、己と石黒彩の皿を流しに運
びながら僅かに笑んだ。
シンクに水を溜めながら、水面に映る己の顔と語り合う。
全ては杞憂だったに違いない。流石の敵(無論誰だかは知った事で
はないが)も、そんな直接的な手は打たないのだろう。
それよりも、偶然とは言え石黒彩と語る時間を持てた事が嬉しかっ
た。彼女には己と異質であるからこそ反発も感じてきたが、それと
同時に、それ以上に、自分に無い物を持っているが故に惹かれてい
たのだ。
しかし安倍なつみは今宵こんな時間が持てたのは、相手の方が歩み
寄って来たからだと言う事には少しも気が付いていなかった。
ただ、その一時が奇妙に愉快で満足感一杯だった。
石川梨華は再び自室の扉を開けた。そして躊躇無く矢口真里の部屋
へ向かった。
今の矢口真里には誰かが付いていなければならないのだ。そして、
それが出来るのは自分しか居ないと思っていた。それが他人にとっ
てどれだけ安っぽいヒロイズムに見えたとしても、己に与えられた
崇高な使命なのだ。全てを投げ打ってでも全うしなければならない。
大胆な足取りでドアに歩み寄り、右手を上げノックしようとした時
に、石川梨華は突然その手を止めた。部屋の主が薄暗い廊下の先、
1階へ通ずる階段を降りていく様を視界の端で捉えたからだった。
(あれ…なんで?)
同行者の存在とその人選に一瞬ではあったが不自然さを感じた。引
き帰すべきか、後を追うべきか岐路に立った丁度その時、遠くで雷
が鳴った。それはまるで地の底から聞こえる呻き声の様だった。
辻希美は浅い眠りの狭間で目を見開いた。明かりを消した部屋の暗
さが一層の不安感を駆りたてた。僅かに射し込む弱々しい月明りが
天井に描き出す奇妙な模様の一つ一つが何かの意思を持っている様
にさえ思えた。
仄かに明るい窓の方へと視線を泳がした。カーテンを閉めているの
で直接見える訳ではないが、微かに音が聞こえている様に、今だ雨
は降り続いているのだろう。
一瞬横顔が明るく照らされた数秒後、遠くで雷が鳴った。
生暖かいモノがせり上がってきたという感覚があったと時には、シ
ンクに溜めた水に、一滴、二滴と真紅の雫が落ちていた。
酷い脱力感だった。安倍なつみは崩れ落ちそうになる身体を、蛇口
を握った右手一本で支えた。気力を振り絞って出っぱなしの水流に
必死で口を近づけた。
飲んでは吐いた。生きる為に必死だった。何度目だったろうか、シ
ンク一杯の水が朱に染まった頃、安倍なつみは意識を失った。
失われつつある意識の中で、石黒彩の断末魔の悲鳴を聞いたような
気がした。
石川梨華は、薄暗い階段を慎重に音を立てない様に一歩一歩降りて
行った。地下室へと続くかなり急な階段は異常に長かった。噴出す
汗で額に張りつく前髪を、鬱陶しそうに掻き揚げながら一つ大きく
息をついた。
(こんな時間に…こんな所で…あの二人は一体?)
疑問だらけだった。少なからず恐怖も感じていた。それでも、矢口
真里を守りたいと言う使命感に駆られて、石川梨華は歩を進めた。
下方に物置き場らしき所を抜けて地下室へと入っていく矢口真里達
の姿が、薄ぼんやりとした明かりの中、かなり小さく見えた。
真摯に使命に打ち込んでいた成果だろうか。石川梨華は矢口真里の
同行者がそこを通り過ぎる際にパイプの様な物を手にしたのを見逃
さなかった。
背中を汗がゆっくりと滑り落ちた。
そこに着いた時に、矢口真里は期待していた姿を見る事は叶わなか
った。薄ぐらい石畳の地下室は埃の臭いに満ち、奥には幅二メート
ルぐらいの水路が馬鹿にした様にゆっくりと流れていた。
かつては洗濯場だったのだろうか。彼女が、どうして自分をこんな
所に呼び出したのかは理解できないが、取りあえず暫く待とうとい
う事を振り返って伝えようとした。
後藤真希は光の無い空間の一点を凝視していた。僅かに動く口元以
外は微動だにせずに。伏目がちな視線が、何よりも雄弁に心の悲鳴
を物語っていた。
(ずっと、ずっと我慢してきたよ… でも、やっぱり駄目なのよ…
…あの頃に …戻りたいよ…)
無意識に親指に力を入れた時、手中のシャープペンシルが音を立て
て折れた。月明りのもとでも鮮やかな暖かい液体が指のはらに珠を
形作っても、後藤真希は動こうとしなかった。
後頭部に火の出るような衝撃を感じた後、口一杯に生暖かい物が広
がった。崩れ落ちそうになる身体を食い止め様と必死だった。
二三歩前によろめいて踏みとどまった時に、非情にも二撃目が襲っ
た。それは頭部を逸れて肩の辺りを打ったが、矢口真里の体力と気
力を奪うには充分だった。
(が… 鼻と耳からも血が出てる… これってやばいんじゃない?
痛っ… 何とかって言う骨… 肩甲骨? 鎖骨だっけ… 折れて
るよ… … 嫌 …死にたくないよ …こんな事で楽になりたい
訳じゃないのに…)
矢口真里は失いかけた物を総動員して目の前の水路に飛びこんだ。
勝算があったのだ。別行動をとって館に来る時に建物の裏へまわっ
た真里は、段々畑とその脇の水路を目にしていた。方向、高さとも
にこの水路がそこに流れ出ているとしか思えなかった。
真里の自由への道は、そこに開かれている筈だった。
石川梨華は、その光景を目の当たりにした途端踵を返した。誰かに
助けを求めて矢口真里を救わなければならなかった。自分一人で助
けに向かっても勝てる訳が無いので、とにかく誰かを呼びに行かな
けれならなかったのだ。
降りて来たばかりの急な階段を息を止めて一気に駆け上った。問題
は先ず誰に助けを求めるかだ… 脳裏に浮かぶ顔を次々と却下して
いくうちに、かなり後半になってある顔に思い当たった。
(そんなに親しくはないけれど、あの人が一番頼りになりそうだ…)
階段を上りきった所に人影が在った。薄暗い明かりのもとで、それ
が誰か判った時に、石川梨華は安堵の表情を隠せなかった。自分が
助けを求めようとした相手その人だったからだ。
ほっとして少し歩を緩めた時だった。目の前の人影は突然魔法の様
にナイフを取り出すと、横薙ぎに切りつけて来た。若干安堵してい
たとは言え、一連の緊張状態を多少は維持していた為だろうか、梨
華は幸いにも何とか反応することが出来た。軽く後に飛ぶと、華麗
に凶刃をかわした。
中澤裕子がグラスに手を伸ばしかけた時、ピシッという小さな音共
にグラスの側面にヒビが入った。流れ出る琥珀色の液体の向うに保
田圭の顔が見えていた。
何もかもが不安をそそる様な事ばかりだった。正直言って明日の朝
を無事に迎えられるかどうかでさえ不安なのだ。酒の力を借りなけ
れば今夜はとても眠れそうになかった。
裕子は自分も同じ様な表情なんだろうなと、苦虫を噛み潰した様な
顔をしている保田圭を見て内心苦笑していた。とても口を開きたい
様な気分ではなかったが、それでも最後に一言だけ年長者としての
意地で言った。
「今日はもう遅いから寝よっか…」
あまりに白々しい自分の台詞に、裕子は思わず目を伏せた。
福田明日香はベッドの上に勢い良く身体を投げ出した。強がってい
たものの本当は震えが止まらなかったのだ。大きく息を吐くと、ゆ
っくりと枕に顔を伏せた。その時枕が僅かに涙で濡れたことは、最
後まで明日香本人だけの秘密だった。
(今夜は眠れないな… 私は悪魔に魅入られてしまったのかもしれ
ない… もう、後戻りは出来ない…)
市井紗耶香は勢い良くドアを閉め様として寸前で思いとどまった。
我ながら自分の理性に頭が下がる思いだ。それだからこそ、ここま
で来られたのだが、一方ではその理性が自分を苦しめていることも
薄々感づいていた。勢いと感情に身を任すことが出来たならば、ど
んなに幸せで、楽だった事か…
ポケットから一枚の写真を取り出すと、二つに破り裂いた後、有り
っ丈の力を右手に込めて握りつぶした。紗耶香の右手から放たれた
ソレは見事な放物線を描いた後、ごみ箱の縁に当たって床に落ちた。
最初のうちは水面と天井の上に充分な空間も在り、流れもそれ程で
はなかったが、先に進むにつれて流れは速く、水路は狭くなってき
た。かなりの計算違いであった。いよいよ戻ることがままならない
と覚悟を極めた時、矢口真里は水面と天井の間の僅かな空間で、肺
一杯の空気を補給すると、流れに身を任せた。
何度壁にぶつかったのだろうか、暗い水路を転がり落ちる様に進み、
やがて肺の中の空気を使い切る寸前に、矢口真里は水面越しに赤み
がかった丸い月の姿を見た。
(勝った…)
しかし、真里の願いが叶うことは無かった。館からの排水溝の最後
には鉄柵が設けられていたのだ。必死に伸ばした手が柵の合間から
水面を突破した時に、矢口真里は力尽きた。沈んで行くその小さな
身体から流れ落ちる生命の量では水面の色を変えることはできなか
った。
あの時の石川梨華の顔は忘れられない。安堵、驚き、安堵、足元の
空間に何も無い事に気が付いた驚愕、必死に伸ばした手が悲しくも
空を切った時の淋しげな表情、あの一瞬で彼女は何を考えたのだろ
うか…
2ビートのリズムを刻みながら、石川の悲しげな顔が遠ざかり、や
がてそれ以上小さくならなくなった時、僅かに吐き気を感じた。人
体工学上ありうべからざる方向に伸びた石川の手足が、悪趣味なオ
ブジェと言うには、余りにも生々し過ぎたからだった。
シーツを掴む掌が酷く汗ばんでいた。
どんなに長い夜も何時かは明ける。吉澤ひとみは期待された光量に
満たない朝の風景に恨めしげな視線を走らせ、降り止まない雨に心
持ち元気が無い向日葵を見ていた。
昨夜は殆ど眠る事が出来なかった。飯田の事、後藤の映像、たとえ
それらを抜きにしても、ここに居ることが良くないことだとは、ひ
とみにも痛いほど感じられていた。一晩中、僅かな影に怯え、細か
い物音が悲鳴に聞こえさえした。
やがて、ひとみは気だるさと悪戦苦闘しながらベッドを降りた。
ただナーバスになっているだけだと誰もが思いたかったに違いない。
一向に起きてくる気配の無い者が四人も居るのだ。安倍なつみ、石
黒彩、矢口真里、石川梨華… 誰もが、口には出せなかったが最悪
の想像を脳裏に投影していた。
保田圭は、そんな一同の様子を黙って見ていた。昔から直接関わる
より一歩引いて見る立場だった、本質とは本人が幾ら努力しても決
して変えられない物なのかも知れなかった。
左側の辻希美と加護亜依は所在なげに、不安に満ちた視線を泳がせ
ていた。すぐ左隣の中澤裕子は動揺は見せているものの徐々に落ち
着きを取り戻し、精一杯の努力で平静さを保ちながら、姿を見せな
いものを起しに行く段取りを始めていた。お世辞にも凄いリーダー
とは言えないにしろ、その姿勢には常々好感が持てた。
右側の後藤真希はいつも以上に苛立った様子でじっと右の薬指を見
つめていた。マイペースだった後藤が、こんな風になるとはあの頃
誰が想像しえただろうか。その隣の吉澤ひとみは徒にちらちらと後
藤真希の顔色を覗ってばかりいた。正面の福田明日香は昨日以上に、
何か不安定な、見ていて不安を覚える空気を発散していた。保田圭
が、その隣の市井紗耶香に視線を移した時、市井は優雅なほど静か
に立ち上がった。
「私、皆を起しに行ってくるわ。」
安倍なつみが意識を取り戻した時に、目に飛び込んできたのは福田
明日香と市井紗耶香の顔だった。なかなか焦点が合わないなりに見
渡した部屋は、シンクだけでなく、流し全体、床にも、そして福田
と市井の手足衣服に至るまで、己の吐しゃ物で汚されていた。
正直言って助かったことが信じられないとはこの事だった。まだ身
体の自由は充分に利かないが、休めば直に回復するだろう。己の採
った咄嗟の処置が正しかった事が少し誇らしかった。
そしてこの二人だ。様子を見るに多分彼女等に助けられた部分もあ
ったのだろう。確かに、彼女等とは上手くいかなかった時期もあっ
たが、やっぱり自分達は仲間なのだ。彼女等に謝り、感謝をせねば
ならないだろう…
市井と福田に礼を言い、ベッドに潜り込んで意識を失いかける寸前、
なつみは心に引っかかっていた物のを認識し、慌てて口にした。
「彩っぺは?」
福田明日香と市井紗耶香は、ただ悲しげに首を振った。
保田圭は、石黒彩の部屋を確認し終え再び廊下に出た。タイミング
良く奥の安倍なつみの部屋から出てきた福田明日香と市井紗耶香と
顔をあわせ、お互いの状況を情報交換した。安倍の無事と石黒の惨
事をそこではじめて知った。
こんな事もあるだろうかと想像していた為だろうか、不思議と涙は
出なかった。悲しいと言うよりも何かが腑に落ちなかったのだ。自
然に見える光景の中に、大きな欺瞞があることを保田圭特有の勘が
察知していた。
辻希美は眼下に見える物が石川梨華である事を認識するのに七秒の
時間を要した。その物の発する雰囲気、えもいわれぬ悲壮感、本質
的に陰、そういった事全てがそれが彼女である事を指し示していた
にも関わらず、彼女がそこにそうしていると言う事が理解できなか
ったのだ。否、本能が理解したくなかったのかもしれなかった。や
がて中澤裕子に肩を抱かれた時まで、辻希美は凍り付いていた。
普通なら蜂の子、いや蜂の巣を突ついた様な騒ぎになるのではない
か… 異様に沈み込む一同をみて、加護亜依は不謹慎な感想を心の
中で漏らしていた。後藤、吉澤、保田、市井、福田一様に押し黙っ
ているが一体この人達は何を考えているのだろうか… 唯一マトモ
な反応なのは中澤裕子ぐらいのものだった。まあ、ベッドの上の安
倍なつみと辻希美もマトモなのだろうが…
吉澤ひとみは壊れかけていた。己の評判が芳しくない事は重々承知
している。唯一の拠り所であった後藤真希との距離までもが最近急
速に離れていくのが、はっきりと感じられる。同じ最後の加入組だ
った石川梨華が死んだ、いや多分殺されたのだろう。その今、次は
自分の番ではない保証は何処にも無い。むしろ次が自分の番である
方が殆どの者にとって当然なのではないか…
それは、沈み込む思考がスケープゴートを求めただけかもしれなかった。
隣の後藤真希が憎いと、ひとみは、はっきりと今初めて感じられた。
この子が居なければ自分はもっと別の道を歩めたのかもしれなかっ
たのだ。ただ憎む気持ちと同じ程度に、後藤から離れられない気持
ちが自分の中に深く根付いている事も知っていた… ひとみは己の
弱さに溺れていた。
降り止まない長雨の中でさえ生命の逞しさを感じさせる濃緑の中を
抜けていく。灌漑用だと思われる水路は流量を増し、今にも足元に
水飛沫を投げかけんばかりの様相であった。市井紗耶香は前を行く
保田圭を見つめていた。
傘に隠れて頭は見えないが、薄っすらと湿り気を帯びた背中の部分
だけでさえ保田の人生を感じさせるには充分であった。この人は一
体何を求めて生きる糧にしているのだろう…
視界の端、水路の一番浅くなっている部分に煌びやかな物が存在す
るのを見つけた。傘を左手に持ち替えて、スカートの端が濡れない
様に気を付けながら摘み上げた。
ペンダントだ… その裏にはM.Yの文字が刻み込まれていた。そ
れは紗耶香の同型のペンダント唯一の心当たりの物、その物だった。
保田圭と市井紗耶香が島の見回りに出かけた事を契機に、一人また
一人とメンバー達は無言で自室に戻っていった。最後に吉澤が去っ
た後、中澤裕子は躊躇いがちにポケットからウイスキーの子瓶を取
り出した。
本来ならば自室で飲むべきだろう。それでも、今ここで飲まずには
居られなかった。喉を刺激する熱いこの液体だけが精神のバランス
を保ってくれそうだった。
そう考えたくはないが、皆お互いに対する疑心暗鬼で一杯なのだ。
一連の出来事が第三者によるものであれ… 例えメンバーの中の誰
かによるものであれ、本来ならば皆一緒に居るのが一番安全だろう。
解っているのだ… 解っていても言えなかった。私はリーダー失格
なのだろうか…
吉澤ひとみは後藤真希の視線を避ける様に散々苦心しながら自室に
帰りついた。段々何もかもが嫌になってきているのが自分自身でも
よく解る。後藤の態度が気に入らない… 何で自分がこんなに悩まな
ければならないのだろう… 自分にとってモーニング娘。って一体何
だったのだろうか…
苛立ち半分で勢い良くベッドに身体を投げ出した瞬間、小さく鋭い痛
みが全身を何ヶ所も襲った。
保田圭が振りかえった時、市井紗耶香は丁度ペンダントを拾い上げ
た所だった。僅かに濡れて額にかかる髪、これも薄っすらと湿り気
を帯びた手足、悲しげに伏せられた睫、霧雨のカーテン越しでも一
瞬保田ですらゾクっとする艶っぽい立ち姿だった。
そしてその特徴的なペンダント。間違いなく矢口真里の大切にして
いた物だ。圭は多分無駄だと止める理性を振り切って、見失ってし
まった友人の名を呼び始めた。
ずぶ濡れになり疲れ果て、やがて圭の声が枯れ始めた頃、市井紗耶
香と黙って首を振りあった。
この流れではとても、求める水底の姿が判ろう筈は無かったのだ。
腹立ち紛れにシーツを引っぺがした時、床にチャラチャラと金色の
画鋲が散乱した。己が血に先端を濡らした金色の小さな凶器を、吉
澤ひとみは、ただ黙って見つめていた。身体中から生命が抜け落ち
ていく様な気がしていた。
何分経ったのだろう。やがて多少なりとも気を取りなおし、身体を
拭く為に洗面所の扉を開けた時、吉澤の心は脆くも砂の造型の様に
砕け落ちた。止めをさされたのだ。洗面所の鏡に赤いルージュの様
な物で殴り書きされていたのは形の無い凶器、狂気、狂喜…
「イケニエヲササゲヌカギリツギハオマエノバンダ」
小さく笑っていた吉澤は、やがて躍るような足取りで廊下に出た。
その頬は気持ち引き攣り、その瞳はもはや何も映して居なかった。
濡れた髪をかきあげながら保田圭は、水の入ったコップをそっと口
元に運んだ。メンバーはもう誰もこの応接間には居ない。私達は、
ここまでお互いの事が信じられなくなってしまったのだろうか…
今も鮮明に焼き付いているそのイメージ。あの矢口のペンダントが
あそこにあったのは何故だろうか。やはり矢口は、矢口の笑顔を見
ることはもう出来ないのだろうか。そして、あの後に見た光景、壊
された桟橋。そこまでして私達に何をしたいのか、それとも何をさ
せたいのか…
思い当たったのは突然だった。髪から落ちた雫が頬を伝った時、保
田圭の脳裏に市井紗耶香に対して何度か感じていた違和感の正体が
電光の様に閃いた。そのたった一つの鍵が圭の目を妨げていた厚い
扉を開いたのだった。
吉澤ひとみは勇躍していた。今の自分には何だって出来る気がする。
今まで誤解されてきた自分を曝け出すのは今をおいて他には無いの
だ。迷う事無く後藤真希の部屋の扉に手をかけた。
不信そうに振りかえった後藤真希に見つめられた時、吉澤は動く事
が出来なかった。あれだけ決心してきたのに… 格の差なのだろう
か、その目に見つめられていると、吉澤はどうしても最後の一歩を、
ルビコン川を渡る事が出来なかった。
時が固まっていたのは数秒だったろうか、やがて吉澤は派手に音を
立てて扉を閉めた。屈辱だった。屈辱以外の何物でも無かった。吉
澤は、ただ己を癒す為だけに代替品を捜し求めた。
どう考えてもあの子だ…
中澤裕子は自室に戻った後も、グラスが手放せなかった。琥珀色の
液体に溺れる自分の弱さが恨めしかった。
窓の外は相変わらず薄暗く、雨は降り止む気配を見せなかった。せ
めて青い空でも見えていれば、気が晴れただろうに。
雨の中、島全体を調べてくると言い出した保田圭を止める事はしな
かった。そして、自分も行く、自分が行くという気持ちも更々無か
った。何故なのだろうか。そう意識はしていないが、自分は半ば諦
めているのだろうか。あの子達は、弱い私を許してくれるだろうか。
保田圭は帰って来ているのだろうか。自分の後継者にと考えている
娘の顔を思い浮かべたその瞬間、無機質な電話の音が室内に鳴り響
いた。
「圭織?何処? えっ… 何、何の中?… 待ってすぐ行くから!」
今この機を逃してはと思った。裕子は、とるものも取りあえず指定
された場所へと急いだ。
今現在寝ているのが辻と安倍。どちらが作業が楽かと言えば辻に決
まっている。
吉澤ひとみは大股に辻の部屋へ直行した。無論ノックなどしない、
殊更に音を立てるのは愚の骨頂だ。ドアを極力自然に、無音且スム
ーズに開け放つと、一目散に辻の横たわるベッドの方へと歩み寄っ
た。その途中に抜かり無くローボードの上の重い陶器製の照明を取
り上げた。僅かに右手を振るとコンセントは音を立てて抜け飛んだ。
己の強さを示すのだ。頭の中で何者かの声が響き渡る。吉澤は振り
上げた右手を、ターゲットに向かって正確に振り下ろした。独特の
手応えを感じた後も、手を休める事はしなかった。
やがて手応えが無くなってきた頃、振り上げた手を背後から誰かが
握り止めた。振りかえった吉澤の目に映ったのは、最も会いたくな
い人物、後藤真希だった。何も言えなかった。後藤に力一杯平手打
ちをされた後ですら、何も言えなかった。
眠りが浅くなっていたのだろうか、ノックの音はかなり小さかった
が、安倍なつみは目を覚ました。はっきりと衰弱している為ベッド
から起き出すのは相当困難であったが、気力を振り絞って立ちあが
り、身体を引きずる様に戸口に辿りつくと扉を開けた。
しかし、廊下には誰も居なかった。若干の失望に包まれながら、踵
を返しかけた時、足元に折りたたまれた白い紙があるのを見つけた。
恐らくドアの下に挟んで行ったのだろう。今の安倍にとっては、そ
の紙を拾い上げる事すら大変な苦行であったが、半ば義務感に駆ら
れて敢行した。
それを一目見た瞬間から安倍は笑いが止まらなかった。
「おかわりをどうぞ。至急用意致します。」
精神が肉体を凌駕すると言うやつだろうか、それを見たときから、
安倍は自分でも信じられない程活力を取り戻していた。隠し持って
いたナイフを取り出すと厨房へと全力で走った。
先手必勝だ。安倍なつみは同じ失敗を二度繰り返さないのだ。
A
後藤真希は吉澤ひとみに力一杯平手打ちをした。やがて憂鬱な沈黙
の時が流れ、汗が二筋その背中を滑り終えた時、吉澤が言葉になら
ない叫びをあげて真希の脇をすり抜けて階下へ走っていった。引き
とめる事は出来なかった。真希から見ても吉澤は既に正気を保って
はいなかったのだ。
ベッドの上は惨々たる有様であった。しかし、それ以上に吉澤を殴
った手が、真希の心の方が痛かった。
あの時自分は、もっと早く吉澤を止める事が出来たのだ。なのに躊
躇した。辻に含む所があったのか、吉澤に含む所があったのか。あ
るいは別の理由だったのだろうか。兎に角躊躇したのだ。あの時迷
わずに止めていれば、吉澤も、辻も壊れていなかったのかもしれな
い。
真希は己が最悪の結果を招いた原因なのだと薄々感づいていた。
気持ちの高揚のせいか体調の悪さは全く気にならなかった。何せ部
屋からここまで飛ぶ様に走ってきのだ。
とにかく、先手を打たなければならないのだ。あの時の借りを返す
為に。安倍なつみは厨房の扉を開け放った。
目に飛び込む冷蔵庫を開け様としている後姿。
勝った、勝ったのだ! なつみは歓喜の雄叫びをあげると、躍りか
かってその背中にナイフを振り下ろした。己のプライドの回復と、
石黒彩の敵討ちの為なのだ。執拗にそれを振った。
やがて、なつみが手を止めた事で、漸く相手が崩れ落ちた時になっ
て、それが誰だか解った。中澤裕子だった。そして、その時中澤は
振り返って言ったのだ。その生命の清算作業と並行して…
「なっち?何で? 圭織じゃ ないの? ど う して?」
階段の脇で次ぎを待っている途中に、吉澤ひとみが上から降りてき
た。一目見て吉澤が普通の状態でないのが解った。吉澤の視線は宙
の一点に固定されたままであり、周囲の一切の状況を認識する事を
無意識的に拒絶している様子だった。
裸足で玄関から駆け出て行く吉澤の後姿を見ていた時、自分自身の
心も少し悲鳴を上げた。
二、三歩後によろめいた安倍なつみの口が、酸欠の金魚の様に開い
たり閉じたりした。言葉にならなかったのだ。
少し冷静になって見れば、なつみの目にも中澤が己の死の原因に全
く心当たりが無い様子である事は明白だった。
いたたまれずに少し上の、冷蔵庫の中に視線を逃がした時、遂にそ
れを発見してしまった。パッと見は何気無い書置きではあったが、
なつみにはまるで悪魔の笑い声が聞こえた様な気さえする物だった。
「お疲れ様でした。」
窓の外を見ると何時の間にか雨は止んでいた。真赤な、まるで吸込
まれそうなほど真紅の夕陽が真正面に鎮座していた。
無性に堪らなかった。私は一体何をしているのだろう。一体何がし
たくて、何をしてきて、何をしていけば良いのだろうか。壁際にし
ゃがみこんだ後藤真希の紅く照らされた頬に、涙が一筋の彩りを添
えた。
一度堰を切った涙は止まる所を知らなかった。
沈黙の時を破ったのは背後からの加護の声だった。
「安倍さん!何してるんですか?」
なつみは振り返った瞬間、中澤を隠そうと無意識に身体をずらした。
しかし所詮隠せるような状況では無かった。なつみはそのまま加護
亜依の表情の変化をぼうっと眺めていたが、その顔が凍りつく所ま
で行った時に、漸く己の破滅を自覚した。
誰かが何か叫んでいた様な気がした。自分の声か、他人の声かも解
らなかった。厨房から走り出たなつみは足を止める事無く逃げ場を
求めた。廊下の向うに人影を見つけ慌てて階段を登る。二階の廊下
についた瞬間、開けっぱなしの自分の部屋の扉が目に付いた。
あそこまで、あそこまで行ければ…
なつみが自室に飛びこんだ時、真正面に窓は開け放たれていた。そ
こは真紅の、血の様な赤一色の世界だった。背後で誰かが叫んだ。
「なっち!」
その時夕陽がとても綺麗だった。そこに行けば幸せになれると思っ
ていた。ルビーの様だと思った。しかし、飛びついたなつみの精一
杯伸ばした手が、それに触れる事は最後迄無かった。
紅く染まったのは、なつみの視界だった。
勇気を振り絞り、私はここらであの有名な言葉を書いておこうと思う。
<私は読者に挑戦する>
今更言うまでも無いが、読者は既にこのザッピング小説?が
極めて恣意的な、ご都合主義に満ちてはいるものの
一応辻褄を合わせ様と努力している事は解ってもらえているだろう。
真相推理の鍵が、非常にあからさまな形で
鼻先に突きつけられていることもお忘れなく。
作者
市井紗耶香が初めて姿を見せた時に感じた違和感の正体は、あの濡
れ方だったのだ。紗耶香は矢口を探しに出かけてた時に自分の傘を
持っていた。市井が最初に現れた時、船着場から館まで真っ直ぐ歩
いてきていたのならば、よしんば傘をさしていなくても、あそこま
で濡れた筈は無い。少なくとも雨は土砂降りではなかったのだ。仮
に途中で何処かによったにせよ、通常ならばあそこまで濡れる前に
傘をさすだろう。どう考えても、途中で傘をさせない状態で何かを
それなりの時間していたのだ…
不思議な物で糸が解け始めると、石黒彩が死んだ時の事も簡単に解
った。何故、紗耶香は真っ先に奥側の安倍なつみの部屋に行ったの
か。そこで何かが起きている事を事前に知っていたのではないか。
考えを遮る様に何処か遠くで悲鳴らしきものが聞こえた。眼前の考
えに耽る為その事を無視しようかと逡巡した時、窓の外を上から下
へと逆様の人間が通り過ぎた。いや落下した。
慌てて窓を開けた保田圭の目に映ったのは、もう二度と動く事は無
い、安倍なつみだった。
その推論は極めて正しい様に思えた。しかし、直接的な事に結びつ
く訳ではないし、それ以外の何の物的証拠も無かった。そう、告発
出来るような物ではないのだ。それでも、保田圭は行動を起こした。
もうこれ以上悲劇を増やしてはならないのだ。
応接間から出た所で、加護亜依に会った。簡単に事情を聞き、応接
間で待機しているように厳しく言い含めた。厨房に足を運ぶと中澤
裕子は既に事切れていた。
その事実を確認した後に一回を一通り見てまわり、二階へと足を運
んだ。辻希美の部屋で、先ず後藤真希を見つけた。後藤は生きてい
た。ただ、何か酷いショックを受けた様で、生気が全く無かった。
圭の喝にも泣き笑いで反応するだけだった。そして、部屋の主は、
もうこの世の人ではなかった。
福田明日香の部屋の扉を開けた時だった。
首にかけたカーテンから作った手製の縄を確認した。強度も結びも
問題無いようだ。部屋を一まわり見渡して何処かに何か無いか忘れ
ていないかチェックした。完璧だ。
不思議な物で、椅子の上に立っただけでこれほど普段の景色と違っ
て見えるとは…
私は、こんな時に何を考えているのだろうか。若干苦笑した後で、
福田明日香は、右手に遺書を持っている事を確認した上で、軽く椅
子を蹴倒した。
また一つ溜息が出た。宙に浮かんでいるのは間違い無く福田明日香
本人だろう。その身体を下ろそうと歩み寄った時に、保田圭は明日
香が右手に何か紙の様な物を握っているのを見付けた。それは誰宛
とは解らなかったが、明日香らしい細かい字できっちりと書かれた
遺書だった。
「…安倍さんを追い詰めて殺したのは私です。その事自体に後悔は
していません。ただ安倍さんを傷つける為に、犠牲にしてしまっ
たのは中澤さんに申し訳無いと思っています。石黒さんに関して
はあまり罪の意識はありません。あの人も… …ただ、石川さん
がついて来たのは計算外でした。私はあの時点でも決めかねてい
たので、結局躊躇してナイフを中途半端に振ってしまったのです。
それを避けた為に石川さんは落下したのですから、直接手を下し
た訳ではないにせよ、私が殺したと同じだと思います。… …し
かし、壊れた吉澤さんを見た時、私の中で少し後悔の念が湧き上
がりました。… …私にとって安倍さんだけが目的でしたから、
もう全ては終わったのです。…」
読み終わると、流石に目頭が熱くなった。それでも圭は涙を堪えて、
文面を何度も読み返した。
一通りまわり最後に市井紗耶香の部屋の扉をノックした。圭は結局
最後にこの部屋を残した自分に軽く溜息をついた。つまる所、自分
はその結論に行きつくことを恐れているのだろうか。ただ、それと
同じぐらい、真実を知りたいという義務感の様な気持ちもあった。
応えが無いことに若干の焦りを感じ、圭は部屋の扉を開けた。途端
微かな水音が耳についた。バスルームの様だ。
1分、2分… やがて、我慢し切れずに圭が近寄って声をかけよう
とした瞬間を見計らった様に、バスルームの扉が開いた。
圭は思わず二三歩後退した。別に後ろ暗い事をしている訳では無か
ったし、紗耶香の方も黙って白い裸身にバスタオルを巻いて立って
いるだけであったが、何かが圭の心に重く重く圧し掛かっていた。
己の己に課したタブーを己で破壊する躊躇いなのだろうか、圭は、
その一言を発するのに人生で最大限の努力を要求された。
「紗耶香、話があるから一緒に応接間に…」
応接間に向かう足取りが堪らなく重かった。
福田明日香の遺書に多分嘘は無いだろう。部屋の情景は誰かに自殺
を強要された感じでは無かったし、文面自体も淡々と書かれてはい
たが、それがかえって福田らしく、真実味を増していた。
ただ、今になって安倍をどうこうと言うのはあまりにも不自然では
無いだろうか、関係が良くないのは無論知っていたが、それならば
あの当時の方が思いは強烈だった筈だ。福田自身の動機があまりに
も不自然過ぎる。
そして石川の記述も引っかかった。「石川がついて来た。」事と「
あの時点では決めかねていた」、「振った」、「避けて落ちた」。
何かが圭のイメージとずれているのだ。
石川は階段の下で死んでいた。あの狭い地下室への通路から階段の
先で…
チラリと振り返ると、市井紗耶香は黙って無表情でついて来ていた。
圭は自分の呼吸が徐々に荒くなってきている事を自覚していた。
階段の先には地下室がある。そこは一度入ってみた事があるが奥に
水路がある何の変哲も無い洗濯場の様な部屋だった。あんな所に行
く理由はまず普通は無いだろう。水路…
一階への階段の手前で圭は、またチラリと後を振り返った、市井紗
耶香は相変わらず黙ったままだった。圭は側頭部で聞こえる自分自
身の鼓動が堪らなく耳障りだった。頭の中で島に来てからの市井の
姿がフラッシュバックを起こしていた。
誰に貰ったのか、自分で買ったのか知らないが矢口の、矢口が特別
大切にしていたペンダントを拾い上げた市井の姿が浮かんだ時、漸
くぼやけていた像が形を結び始めた。
矢口は地下室で何かあったのだ。自分自身が水路に落ちるか、ペン
ダントを落して行方を晦ます様な何かが… あの水路が外の用水路
に繋がっているだろう事は考えてみれば誰でも思いつくぐらいに判
り易い事だ…
ふっと視線を外し前方に戻した圭は愕然とした。思わず二度三度と
振り返ってみた程だった。
解った… 自分と市井と階段の位置関係だ。
石川は福田について行って殺されたのではない。階段の下か地下室
に行った誰かについて行って… 同じ日に居なくなった矢口の事、
福田の「石川さんがついて来た。」と言う記述、福田が矢口の事に
ついて書いていない事を考えれば、
1.多分矢口は地下室に行った。
2.多分福田が矢口をやった訳ではない。
訳だ。矢口が自分で水路に落ちたのでない限り… 薄暗いにしろ照
明はあるのだからまずその可能性は殆ど無い。即ち、石川は矢口と
何者かが地下室に行くのを見て、それについて行った。そして、そ
こで何を見たかは解らないが、階段を引き返し、福田に襲われて、
落ちてその人生を終えたのだろう。
そして、福田は少なくとも矢口と一緒だった人間を知っていたのだ…
階段を一歩一歩降りていった。背後に市井がいると言う事が、この
上なくプレッシャーになった。疑念と信頼、振り返ったら最後、全
てが壊れてしまいそうで、圭は只じっと前を見つめて降りるしか無
かった。
福田の遺書と加護の証言を合わせれば、中澤を殺したのは多分安倍
で間違い無いのだろう。と考えれば、本人の死は自殺であっても不
思議は無い。ただ福田の遺書を見る限り、つまる所、福田に自殺さ
せられたと言うことなのか… そして、石黒の死もその過程の副産
物なのか…
では、辻をやったのは、あの場にいた後藤なのだろうか?追い詰め
られて思わず… それでその場で放心状態… どうもすっきりとし
ない。普通その場から逃げ出そうとするものではないのだろうか?
それを上回る程、何らかに追い詰められていたと言うことなのだろ
うか…
そう言えば、福田の記述には吉澤も含まれていた。「壊れた」と。
壊したのは福田なのだろうか?吉澤の姿が何処にも見当たらないの
は確かであるし、吉澤に何かがあったのは間違い無いのだろう・・・
結局はそこだ。一連の件を例え本当に福田がやったにしろ、その動
機が圭には判らない。ただ、安倍の部屋を見に行った時のことを考
えると、どうしても背後にいる市井が少なからず関連していると思
わざるを得なかった。
階段を降りきった所で、圭は立ち止まった。前方に応接間の扉が見
える。あの中には加護がいる。そして話をする時になれば、後藤も
連れて来ない訳にはいかないだろう。
その場で市井を告発するのか?告発しないまでも市井に対する疑惑
を己の口からぶちまけるのか?正直、圭にとってそれは耐え難い事
であった。かと言って、この状況を何とかしなければ、己自身を含
めた生き残っているメンバーの身が危険に晒され続けるのだ。
外部からの者の仕業ではなくて、自分達の中に犯人がいるのだろう。
それは、地理的、状況的に外部の者が来る可能性が少ないこと、こ
ちらに来てから、そんな第三者が派手に暗躍している気配が全く無
いことから、そう思わざるを得ない。そして、これは他のメンバー
や親にも言ったことは無いが、圭には「モーニング娘。」は内部崩
壊して消滅するに違いないという思いがあった。それは全くの勘で
あったが、いつも妙に現実的なイメージとして圭の脳裏に滞留して
いた。
それはあまりにも自分一人で背負うには重過ぎた。圭は振り返って
壁と己の間に市井を挟む様な格好で両手を壁についた。殆どキスを
する時ぐらい迄顔を近づけて、血を吐く様な思いで言った。たった
一言「私は貴方を疑っている。」と。
お互いの息がぶつかり合い、お互いの鼓動が聞こえる様だった。市
井は目を逸らす事無く、その目を細め圭の方を見つめ続けていた。
やがて小さく一つ溜息をつくと、市井は、はっきりと答えた。
その言葉は圭の心を安らげるものではなかったが、市井がそういう
言い方をした事自体、己と市井の間の信頼関係がまだ壊れていない
証拠であると思えて、そういう意味では嬉しかった。ただ、圭にと
って事態は決して好転した訳ではなかったのだ。市井は言ったのだ。
「私は誰も手にかけていないから…」と。
沈みかけの赤黒い陽光の中で、後藤真希は一心不乱に右の薬指をし
ゃぶっていた。時折指を引き出しては唾液に塗れたその表面に赤い
珠が形成されるのを泣き腫らした目でじっと見ては、さっきから何
度も同じ台詞を呟やいていた。
「止まらないよ… 止まらないの…」
それは本人も何でつけたのか覚えていない程度の小さい傷だったが、
真希はまるで、その傷が癒されれば、全てのことが上手くいくと思
い込んでいるかの様に、その作業に没頭していた。
引きずる様にして後藤を連れてきて、ようやく応接間に四人が顔を
揃えた。右の加護、左の市井ともに妙に割り切ったような神妙な表
情だった。正面の後藤は先ほどから指を咥えたり、小声で何か呟い
たりと傍目にも危険な状態だった。
後藤を連れてきた時、ソファーに腰をかけていた市井は、その様子
を一瞥したが何も言わなかった。ただ黙って、また雨の降り始めた
完全に日の落ちた窓の外を眺めていた。
時計の針が仕事熱心に時を刻む中、迷う事無く圭は現状についての
説明と自分自身が溜めこんだ推理を吐き出し始めた。無論慎重に特
定の誰かに罪を被せるような発言は避けていたが、それでも市井の
方にしばしば視線がいってしまったのは、圭にとって仕方の無いこ
とだった。
一段落ついて覚悟を決めると、圭は三人に向かって舌鋒鋭く切り込
んだ。
「で、矢口と一緒にいた人は誰なの? この中にいるのかな?」
「…ははは、それはね圭織だよ。」
落ちついた、それでいて狂気を孕んだ、場にいる筈の無い者の声を
聞いた時に、確かに圭はその大きな目を、これ以上出来ない程更に
大きく見開いて驚いた。ただ、その一方でこの状況に得心がいく部
分もあったのだ。福田と先程の市井の言葉を合わせれば、なるほど、
三人目の存在があってもおかしくは無いのだと…
圭はゆっくりと首をまわした。
時が凍りついた様だった。市井の顔から出発し、後藤の顔の上横切
り、振り返ろうとした圭の視線に映ったのは、飯田の声色で喋り続
ける飯田でない者だった。
停電なのか、それとも電球が古いのだろうか?点滅を繰り返す照明
の中で、それは浮ついた陽気さで独白を続けていた。暗闇の中に浮
かぶ白い顔、照明のくすんだ光、感情の無い顔、激しい鼓動、古ぼ
けた家具の匂い、狂気に歪む顔…
「…矢口は圭織が処分したの… だって、生意気だったから… あ
はは… ふふふ… 裕ちゃんも… くく… おばさんだしね…
はは… みんな、ホントにお馬鹿さん… ふふ… ははは… …」
その台詞の一言一言が、割れ鐘の様に圭の頭に響き渡った。偏頭痛
と嘔吐感の様なものに満たされながら、圭は現実を直視していた。
そう、それは加護亜依だった。
文字通り魅入られていたのだろう。圭は話が自分自身の事におよぶ
に至っても、気が付かなかったし、ただ黙って聞き入っていた。
「… 圭ちゃんも、役立たずだから処分してあげるね。…」
魔法の様に加護の手の中に刃渡り15センチ程のナイフが現れた時
ですら、圭は無感動に見つめているだけだった。圭の時間感覚をま
るっきり度外視したかの様に、素早く加護が立ち上がりかけた時、
もう一人状況を動かそうとした者が居た。市井がたった一言叫んだ
のだ。有らん限りの声量で。
「後藤!」
聞き覚えのある大喝で、後藤真希は唐突に現実に引き戻された。ま
るで、寝起きに布団ごとひっくり返されたかの様に、現状に対する
ロジカルな理解はまるで無かったが、ただありのままに目に映る状
況をそれと理解しようとしていた。
加護が保田の方へ凶器を持って躍りかかっていた…
真希は本能だけで動いていた。今度は、今度こそ止めなければなら
ないのだ。今止めさえすれば、吉澤も、辻も、真希自身も救われる
のかも知れないのだ…
背後から強引に加護を引き倒した真希は、加護の得物を振りまわし
ての抵抗などまるで気にしないかの様に、瞬く間にその上に圧し掛
かかった。両腕や頬に何箇所か切り傷を負ったものの意に介さず、
やがて、左手で加護の利き手を捻じ伏せることに成功した。そして、
右手を加護の喉にかけた。
(お願い… 止めて… これ以上暴れないで…)
床でもみ合う後藤と加護の様子を漠然と眺めているうちに、圭は、
徐々に現実感を取り戻してきた。やがて思考の暗幕が取り除かれ、
加護が危険であるという現況を理解し始めた。後藤を制止すべく声
をあげようとした時だった。
市井は、ゆっくりと立ち上がり、テーブルの上のクリスタルの灰皿
を右手で持つと、まるでテレビのリモコンでも取りに行くかの如き
自然な足取りで後藤と加護に近づいていった。
圭は何となく気圧された。開きかけた圭の口が所在を無くした。
館の裏手にまわる道の先は小高い岬になっていた。先端までの道は
比較的平坦であるが、岬の三方は波で侵食された切り立った崖であ
り、その高さは優に20メートルを越えていた。そこは晴れた日の昼
間ならば最高の見晴らしである筈だった。一面に見渡せる蒼い空と
海、下方の磯に打ち砕ける白い波涛…
同時刻、吉澤ひとみがその岬の先端から唐突に姿を消したことは誰
も知らなかった。付け加えるならば、もはや何も認識していなかっ
た吉澤が、岬の先端まで辿りつけたというある種の奇跡も、また、
誰にも知られることは無かった。
ふと、真希は右手に返って来る抵抗感が無くなったことに気が付い
た。
(良かった。大人しくなってくれたんだ…)
安堵感を覚えた次ぎの瞬間、真希の視界が突如暗転した。
ああ、何時か、何処かで見たことがある表情だ… 彼女の、市井の
豊かな表情の中で、圭が忘れられない顔の一つ。傲岸不遜で、自信
屋の、それでいて少し不安げな、小さな子供が叱られるのを内心怯
えつつも誇らしげなのを抑えられない様な可愛らしさを含んだ、ソ
ノカオ…
前に見たのは、ぷっちがオリコン初登場1位になったのを知らさ
れた時だったろうか、あれから随分と長い時間がたった様な気がす
る。振りかえると想像以上に目まぐるし日々だった。ただ、私達に
とって不幸だったのは、それは本質的に空虚な時間だったことだ。
私達の心に罅を入れるには充分な程。
ソファーに深深と腰を下ろした市井に向かって、圭は投げつける様
に言った。
「… …ねえ、紗耶香。これで満足したの?」
二人きりになったことが、お互いの距離を詰めたのだろうか、市井
は例の少し高めの声で、圭に昔通り訥々と騙り始めてくれた。
「後藤は多分無事だと思うけれど… もう完成で良いよ。私だって、
別に楽しんでいた訳じゃないんだ…
何から、何から話そうかな…
そう、そもそもの始まりは圭織が私を訪ねてきたことだった。そ
の日も酷い雨の日だったけれど、ずぶ濡れのカオは、泣きながら、
こんな年下の私に、真剣に『娘。は、もう清算されなければなら
ない。』と訴えたの… 娘。の現状と未来をカオなりに真剣に愁
えて、そして悩んだ末の結論だったのだろうと思う。
その上、彼女は自分の手でそれを実行に移せない事に、酷く落胆
していた… カオは優し過ぎたんだろうね…
『酷い事をお願いする代わりに、私も消えるから』って言ったカ
オを止める事は私には出来なかった… 出来ると思う?それがカ
オなりの誠意の示し方だってことが解っていたから。
でもね、確かに私は後藤は殴ったけれど、結局みんな私が手を下
した訳じゃないよ。
何て言うかなあ…
そう、確かに全て選択肢を突きつけたけれども、道を選んだのは
本人達自身だったよ。
加護が… あの子も色々あって精神的に病んでたのは解っていた
けれど、私はあの子に強要した訳じゃない。あの子自身がそうす
る事を選んだの。
矢口だって最終的にそこに至ったのは、矢口自身が選んだ道。石
川だって、明日香だってそう。確かに明日香と階段のところまで
行ったけれど、最終的に選んだのは明日香。石川も最後に私に向
かって何か言おうとしていた… あの時、石川が明日香に向かっ
て何か言っていたら、明日香は心が挫けたかもしれない。それは
石川自身が選んだ道でしょ?
なっちだって、吉澤だって、明日香だって、後藤だって、みんな
自分でそこに至る道を選んだ結果なのよ…
別に言い訳って言われても構わないよ。これが、私の選んだ道だ
から。」
その声と戸外の雨音の心地良い絡み合いに浸りながら、圭は正面の
壊れやすそうな少女を見つめていた。
市井紗耶香は正面の、保田圭の決して抜けた美人でもないし、かと
言って、二目と見られないほど不美人でもないが、不思議と自分に
とって安心感をもたらすその顔を見つめていた。
殆ど全てを吐き出したが、最後に、口に出さなかった僅かな思いを、
心の中で遠慮がちに付け加えた。
(圭ちゃんは、ある意味私の中で聖域だよ。
ただね、モーニング娘。が残っていること、そしてその話題が尽
きないことは、例えそれが悲劇であっても、私にとってはプラス
になるのよ… そう言う意味でも、頼りにしてるからね…)
明日の朝10時に迎えの船を呼んである旨を保田に告げると、紗耶香
はそのままソファーに横になった。保田にしろ後藤にしろ、ここで
寝たからと言って自分に手を出す事は無いだろう。明日以降の雑事
に備えて、今は少しでも体力を補給しておく必要があるのだ。
そう全ては終わったのだ…
漆黒の闇の中その姿を誇示する館は、変わらぬ霧雨のヴェールに厚
く覆われていた。
時計の針が4時を指し示す直前に瞼をゆっくりと開けた。目を覚ま
した訳ではない、一睡もしていなかったのだ。幽鬼の様に立ちあが
るとソファーで眠る少女の隣まで宙を滑るが如く無音で近づいた。
一呼吸置いて、その自信溢れる可愛らしい寝顔を覗きこんだ。
(紗耶香…
貴方は知らないでしょうね。あの日圭織が私に相談しに来た時の
事を。実は私、圭織の相談にのる振りをして、さんざん煽って、
焚きつけたのよ。ふふふ… ううん、別に何か目的があったわけ
じゃないの。ただ、私の中の黒いモノが悪戯心を発揮しただけ…
そう面白そうだったからね…
でもね、まさかそのおかげで、貴方とまた、貴方を手に入れる事
が出来るなんて夢にも思わなかった。これからは私達は秘密を共
有していくのだから、もう二度と離さないよ。そう、死が二人を
別つまで…)
今夜は朝まで興奮が止みそうに無い。闇の中で、その自然に笑みが
こぼれる口元の特徴的な黒子が、か弱い月光を反射し艶やかな光を
放っていた。
陸が近づいてくる。保田圭は、短い船旅の間後藤真希と、その後藤
を慰め続ける市井紗耶香の方を一度も見ようとはしなかった。
その必要も無いのだ。虚構で癒される事は確かに甘美かも知れない
が、虚構が虚構である真実を知る者には何の意味もなさない。
圭は灰色の空を見上げていた。髪を伝い落ちた雫が頬の辺りを過ぎ
た時、誰にも見られない様に素早く舐め取った。
〜 完 〜