「まだ続くのよ、市井紗耶香の伝説は。」
夕日に照らされる小さな港の倉庫。
中は積み荷が一つもなく、がらんとしていた。
歩く度に足音が反響して、誰かにつけられている様な錯覚を憶える。
指定の場所に到着したのは予定の時刻の5分前。
ここで次の契約について指示を受ける手筈になっていたが、
契約とは建前の話であって、本当の用件は何かということが
自分が一番判っていた。
私は組織を裏切った。
仕事には私情を挟まないのが我々プロのスタイルではあるが、
実の姉のこととなると話は別だった。
ここ数日仕事が無く暇を持て余した私は、所属する事務所に珍しく
顔を出すことにした。下らない仕事でも無いよりマシだ。
事務所に到着すると、いつも私への依頼を仲介してくれる男はいなかった。
近くで何もない空間を見つめてボーっと机に向かっている女性にその男の訊ねてみたが、
曖昧な返事しか返って来なかった。
「・・・どうしてこんな昼行灯みたいなヤツを雇ってるんだ。」
呆れてしまって大きな溜息がでた。
でもあの男に会わないことには話にならない。
私はあのとぼけた女の事務員に一声かけて暫く待たせて貰うことにした。
ソファーに深く腰掛けて側にあった新聞を開く。
下らない記事が掲載され、投書のコーナーでは取るに足らないことで
熱く議論が交わされている。
このご時世に私のような職業の人間は不要なのかもしれない。
自分の職業に懐疑的になってしまう自分が情けなく感じた。
新聞をテーブルの上に放り投げて、懐にある銃を握りしめた。
私の生きる道はこれしかない、最近何度も自分に言い聞かせる様になった。
そろそろ焼きが回って来たのかも知れない。
それから数十分後、待つのに疲れソファーに横になり煙草に火を付けた。
7本目の煙草が吸い終わる頃、事務所に3人の男が入って来た。
それを見て事務員は私に軽く会釈をして逃げるように事務所を後にした。
全員に面識はあるものの名前は知らない、別段知ろうとも思わない。
私が知っているのは、徒党を組まないと何もできないクズの様なヤツ等程度のものだったが
先程の事務員の行動を見ていると、かなり汚いことをしている感じだ。
先代の社長が死んでからは、随分と様子が変わってしまった。
今更現状を嘆いても仕方のないことなのだが。
「おいおい、お前とも兄弟だったなんてな。」
嫌らしい笑い方をして談笑する複数の同僚の男。
「全く傑作だ。」
始めは全く気にしてなかったが、男共が私をチラチラ見ているのが気になった。
「一発打ったら、自分から求めてき・・・。」
最低の会話。ソファーで寝転がっていた私は帽子を深くかぶって目を閉じる。
暫くして誰かが私の近くにやって来た。
そいつが私の肩を叩き、一枚の写真を目の前にちらつかせた。
「今度はお前も仲間に入れよ。」
そこには全裸の女性のあられもない姿があった。
暴力を受けたと思われる複数の傷痕、光を失った瞳。
私は目を疑った。写真は暗い部屋で撮影されていた上、顔にまで酷い傷があり
直ぐには判らなかったが・・・間違いなく・・・私の姉の姿だった。
「・・・何の真似だ・・・」
自分でも判るぐらい声が震える。明らかに動揺している。
「ワハハ、だからもっと俺達と親睦を・・・」
卑猥な顔で笑う男を見た瞬間、髪の毛が逆立つような感覚を憶える。
男との会話は聞こえなくなり、視界は極端に狭まる。
あの時の感覚だ、死と隣り合った時の。
銃を抜くと同時に目の前にいる男の頭蓋を破壊する。
鮮血と骨の破片が宙に散る。
銃声を聞いた他の男達も慌てて銃を構えようとしていた。
下っ端とはいえプロの端くれだ。身体が勝手に反応している。
私は男達の動作を冷静に見つめる、いや見つめ続けた。
満を持して照準を絞り込む。
自分の筋肉を動かす指令の遅さに苛立ちを覚えるが、男達の動作はそれよりも格段に遅かった。
身を隠す必要は無い。今なら弾丸さえも見切れる。
机の影に隠れようとする右側の男の胸に2発、
愚かにも私に銃口を向けようとした左側の男には3発撃ち込む。
鮮血を吹き出し、男共は生物から物体になった。
「・・・阿呆が・・・。」
静寂が辺りを包み込む。
煙硝の香りが立ちこめ、3体の死体が目の前に転がっていた。
私は覚悟を決めて床に落ちた写真をそっと拾い、もう一度確認した。
現実は何も変わらなかった、写真を握りつぶしジッポで火をつけた。
鮮血に染まった手は、もはや心までも蝕んでいると思っていたのに
言いようの無い悲しみと、虚脱感が襲ってきた。
「・・・なんで・・・なんでなの・・・裕子姉さん・・・。」
その日の記憶はそれ以上無い。
気が付くと私は海沿いの寂れた民宿にいた。
「・・・お客さん、お客さん・・・。」
和服の似合う若い女性が私に声をかける。ここの民宿の女将のようだ。
「・・・お客さん、大丈夫ですか?」
枕元に座って、微笑みながら私の顔を覗き込んでいる。
「もう10時ですよ。」
どうやら寝過ぎたらしく少々頭痛がする。
「・・・あぁ、お早う。」
布団から上半身を起こし、女将に挨拶をした。
「気分は如何でしょう?」
「・・・水を一杯貰えないか?」
「あぁ、それは気が利きませんで、直ぐに持って参ります。」
女将は、少し申し訳なさそうにしていそいそと部屋を後にした。
暫くして戻って来た女将から水を手渡して貰うと、私は一気に水を飲み干した。
「一気に飲まれますと、お腹を冷やしますよ。」
女将は心配げに私を見つめる。
「ご心配なく、最近は胃腸が丈夫になってね。」
「そうなんですか。」
器量はさほど良くないが優しそうな人だった、何故か心が和んでしまう。
(・・・最近の私はどうかしてる・・・。)
そんな自分の事が可笑しくつい笑ってしまう。
「お客さんはそんな顔で笑われるんですね、かわいいですね。」
そういって女将さんはニッコリ微笑んでいる。
「そういえば、何年も笑って無かった気がするな・・・」
「またご冗談を。」
「そうそう昨日は大層お疲れのご様子で、直ぐにお布団をひかせて貰いましたので
宿帳に未だお名前を頂いておりません・・・。」
そう言って女将は古ぼけた宿帳を取り出し、私に万年筆を差し出した。
ここで正直に名前を書くと、この優しい女将に迷惑が掛かるかも知れない。
私とは住む世界が違いすぎるのだ、そう思って私は偽名を書いた。
”後藤真希”
今思うと何故彼女の名前を書いたのか自分でも良く解らなかったが、
よく考えると心の何処かに彼女の事を何時も想っている自分がいたのかも知れない。
それから暫く女将と他愛のない談笑をした。
女将さんは圭という名前で未亡人らしい。
この民宿を一人で切り盛りしているらしいが、最近客足が遠のいて
少し苦しい生活を強いられているという事だった。
「再婚は?」
「いえ、あたしはご覧の様にさほど器量も良いとは言えませんし、
やっぱり主人が忘れられなくて・・・。」
私はこの時代にこんな素晴らしい考えを持った女性に感動を覚えずにいられなかった。
同時に女としての生き様に羨ましく思った。
「そうですか、失礼な事を聞いてしまいました、申し訳ない。」
「いえいえ、いいんですよ。良く言われますし。」
圭さんはケラケラと笑う、明るい人だ。
「ではお食事の準備を致しますので、それまで良かったら露天風呂にでもどうぞ」
と言って圭さんは部屋を出ていった。
私は彼女の勧めるように、入浴することにした。
露天風呂は想像していたよりずっと立派で、眺めもなかなか美しかった。
私は湯船に浸かりながら、遠くから聞こえる波の音を聞いていた。
こんなに気分が良いのは何年ぶりだろうか。
「後藤さん、浴衣お持ちしました。」
扉の向こうから、圭さんの声がした。
「すまないね。」
私はそう言った後、ハッとした。
籠の中に一緒に入っている銃を圭さんに見つかることを危惧したのだ。
そう思った時、脱衣場の方から小走りに出ていく足音が聞こえた。
(私としたことが、迂闊だったな。)
自分の詰めの甘さに後悔したが、既に遅い。
もうここには居られないなと感じた。
私は圭さんの用意してくれた浴衣に袖を通すこともなく、またいつもの服に着替えた。
折角風呂に入ったのにまた汚れた服を着るのは抵抗があったが、仕方のない事だった。
気持ちの悪い服に着替え終わったとき携帯の呼び出し音が鳴る。
「市井か、俺だ。明日午後4時、第1埠頭に来い。お前にうってつけの仕事だ。」
男は一方的に話して、電話を切った。
丁度いい、ここを立つのに時間的にも十分だ。
私は部屋に戻るなり、食事の用意をしてくれている圭さんに言った。
「直ぐに帰らなくてはならなくなった。」
圭さんは驚いた顔をしたが、またいつものように微笑んで、
「・・・仕方ないですね、お忙しそうな方ですもの・・・せめてお食事でも・・・」
「いや、申し訳ないが時間がないんだ。」
机の上にはこの時期の採れたての山菜や新鮮な魚、昼食にしては贅沢過ぎるほど
所狭しと並べられていた。
私は後ろ髪を引かれる思いで背を向け、圭さんに宿代を払った。
「こんなに沢山、戴けません。」
「いや、いいんだ。私からの気持ちだと思ってくれ。」
「そんな・・・。」
「短い時間だったが、良い休養になった。」
私は宿代を押し返そうとする圭さんの手を無理矢理押し下げた。
「また来るから、その時の前金だ。」
「・・・わかりました、いつでもお待ち致しております・・・。」
圭さんは逢ってから初めて悲しそうな顔をした。
何もかも察しているのだろう。
「では、お見送りを。」
私は靴を履き、民宿を後にする。
圭さんが私の背中でカチカチと火打石を叩く。
「こうすると縁起がいいんですよ。」
「ふふふ、粋なお方だ。」
「後藤さん、行ってらっしゃいませ。」
圭さんは私の姿が見えなくなるまで、深々とお辞儀をしていた。
「時間には少し早いけど。」
私の後ろから聞き覚えのある声がした。夕日の射し込む方から誰かが歩いてくる。
逆光で顔は判別し難かったが、声で直ぐに判る。
そこには私のかつて恋人、後藤真希がいた。
真希をよこすとは粋な計らいだ、私は苦笑した。
「元気にしてたか?」
「何も言うことはないわ、あなたが一番解っている筈よ。」
真希は懐から銃を取り出し、銃口を私に向けた。
彼女の澄んだ瞳を見れば、相当覚悟を決めてきている様に見えた。
「おいおい、そんな物騒なものはしまってくれ。」
「私は本気よ。」
真希は私から一瞬たりとも目を離そうとしない。
私は両手をあげて、降参の仕草をとる。
「暫く見ない内に綺麗になったな。」
「止めて。」
「どうだ?もう一度私とやり直さないか?」
「戯れ言もこれまでよ。」
そう言って真希は私をキッと睨み、再び照準を私の胸に絞り込む。
「もう戻れないのか、あの頃のように。」
私は少し微笑んで言う。
「・・・な、なに言ってる・・・」
真希の緊張感が一瞬緩んだ。私は地面を力一杯蹴り一気に間合いを詰める。
そして真希の手に握られていた銃をを押さえ強引に唇を奪う。
「んんっ・・・。」
同時に左手で彼女の細い腰を強く引き寄せた。
僅かな時間ではあったが、私には未だ脈がある確証を得た。
そうとなれば多少名残惜しい気はするが、もう続ける必要はない。
腕の力を少し緩めると、直ぐに正気を取り戻した真希が私の拘束を強引に振り解く。
「何考えてるの、こんな時に!」
白いスーツの袖で口を拭いながら言う。軽く声が震えている。
「こんな時だからさ。」
私は悪びれる事もなく、さらりと言ってやった。
「あなたは昔からそうだったわ。」
私の方に向けられた銃口が定まらない、動揺を隠せない真希の表情が曇る。
「・・・愛し甲斐の無い人だったわ。」
何かをかき消そうとする様な声で呟く。
「私は今でも真希を愛しているよ。」
「もう・・・止めてよ。」
全くだ、死ぬ間際の会話には相応しくない。
真希の決心が揺らがない内に、始末して貰った方が良いに決まっている。
でも私はどうしても確認しておきたかった、真希の口からの真実を。
例えそれが嘘だとしてもだ。
真希は唇を噛みしめる。
やがて両手に銃を握ったまま、その場に座り込んでしまった。
「・・・できないよ・・・あたし・・・。」
真希の言葉に嗚咽が混じる。
「・・・いいんだ、私の選んだ道だ。
ただ今この瞬間か遠い未来か、それ位しか違いは無い。」
私は座り込んで俯いている真希の肩に手をやる。
地面には涙の跡が無数に出来ていた。
「さぁ、殺ってくれ。」
私は真希の手を取り、銃口を胸に当てさせる。
涙でくしゃくしゃになった顔で私の顔をじっと見つめる。
「・・・・・。」
私は真希の泣いた顔をずっと見てきた。
初めて出逢った日も真希はこんな風に目を真っ赤にして泣いていた。
「・・・できないよ・・・。」
この期に及んで未だ決心がつかないでいる真希に言う。
「私が教えた事、もう忘れたのか?」
真希はふるふると首を横に振った。
「じゃぁ、出来るだろ?」
真希は再びふるふると首を横に振った。
「私はお前まで不幸になって欲しくないんだよ。」
「・・・じゃぁ残された方の気持ちわかるの?」
子供のように甘えた声で訊ねる。
「それでもお前は生きなくてはならないんだ。」
「・・・もうイヤだよ・・・。」
「・・・・・。」
私はもう真希の口からの告白は求めない、
表情、息づかい、甘い声、全てが物語っている。
真希を残してはいけない、そんな気がする。
私の決心が音を立てて崩れ去る。
もう自分を偽るのは止めだ。
私は心に誓った。
真希のやわらかい髪に触れる。
「もう泣くのはおよし。」
何度も繰り返した言葉。
頭を出来るだけ優しく撫で、軽く抱き寄せた。
真希はは砂糖菓子の様な甘い匂いがする。
「また甘いものばっかり食べてるんだろ。」
「うん・・・でも最近は控えてるよ・・・。」
「太るから?」
「・・・ヤダ・・・。」
真希は私の胸に頬を埋める。
「・・・えっとね、市井ちゃんにね、逢える事を思ってね、
キレイになろうと思ったの。」
懐かしい私の呼び名。あの頃の思い出と感情が一気に吹き出す。
「嬉しいよ。」
感じた事が素直に言葉になる。偽りのない本当の気持ち。
「あたし信じてよかった。」
真希はそういってもの凄い力で私を抱きしめる。
「痛い、痛いよ、真希。」
相変わらずの馬鹿力だ。
でも今はこの痛ささえ、懐かしく感じた。
「あ、ゴメンなさい、痛かった?」
申し訳なさそうに私を見つめる。
昔のやったやりとりを、また繰り返す。
「懐かしいな、こういうの。」
「あたしは昨日の事のように思えるよ。」
真希は眩しい位の笑顔で答える。
「・・・キスしようか。」
「・・・うん。」
そっと唇を重ねる。先程の口づけとは全く別のものだ。
最初は柔らかい唇の感覚を確かめるように、優しくキスする。
甘い香りが鼻孔をくすぐる。
息をするのを忘れるほど、長い時間お互いの感覚を確かめ合う。
真希の髪をかきあげる。耳元に熱い吐息を吹きかけ、愛の言葉を囁く。
「真希のこと愛してる。」
「市井ちゃんのこと、ずっと、ずっと愛しています。」
私は真希のことがずっと好きだったのだ。
一度は別れた筈なのに、他の人は好きになれなかった。
心の奥底でずっと燻っていた、私の本心。
真希も同じ様に私の事を愛していてくれた。
私の瞳からはらはらと涙が落ちる。
「・・・泣いてるの?市井ちゃん?」
真希は私を凝視していた。
「真希がいけないんだ。」
「えへへ、あたしの胸で泣いてもいいよ。」
真希はそういって逆に私を胸に抱き寄せた。
私は泣いた。心の底から泣いた。
どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
私は寝てしまったようだ。窓からは丸い月が私たちを二人を照らしていた。
真希も私を抱いたまま小さな寝息を立てている。
「・・・市井ちゃん、起きたの?」
真希は目をこすりながら、私の方を向く。
私は真希に訊ねた。
「・・・どこかへ逃げようか?」
「うん。」
「どこがいい?」
「遠いところ。・・・外国がいいな、そこで二人で生活をするの。」
とても嬉しそうに話す。
私もつられて笑ってしまう。
月明かりの中、二人でこれからの事を話し合った。
「さぁ行こうか、荷物は?」
「市井ちゃんだけだよ。」
「お荷物は真希の方じゃないか。」
「アハハ、そうだねっ。」
ふざけ合う私たちは、腕を組みながら倉庫を後にしようとしていた。
パァァァン!!
一発の銃声が響いた。
同時に胸に激痛が走り、大量の鮮血が胸から吹き出す。
「イヤァァァーーーー!!」
真希が悲鳴を上げる。
「こんなに血が出てる・・・誰よ!出てきなさいよ!!」
半狂乱になりながら、銃声のした方向に滅茶苦茶に銃を撃つ。
直ぐに弾丸は無くなり、撃鉄がむなしく空のマガジンを叩いた。
「誰か!誰かいませんか!救急車呼んで下さい!!ねぇ、誰か!!」
真希は涙をこぼしながら絶叫したが、ただ倉庫に反響するだけで返事はなかった。
「ねぇしっかりして、あたしが病院に連れて行くからぁ!!」
真希は私の肩を抱き強引に運ぼうとしたが、私の身体が揺すれる度、
胸から血が噴き出した。
「血が止まらないよ、ねぇなんで、なんでよ・・・
市井ちゃんが死んじゃうよぉ・・・」
私はもう死期を感じていた。
最後に伝えなくてはならない言葉を考え始めていた。
「・・・真希・・・もう・・・いいよ・・・。」
「何言ってるの!?そんな事言っちゃダメだよ!
さっき言ったじゃない、二人で外国で暮らそうって!」
「今まで本当に楽しかったよ・・・ありがとう。」
「ヤダよ・・・。」
また真希は泣いている、最後まで私は真希を泣かせ続けてしまった。
「もう・・・泣くのは・・・およし・・・。」
何度も繰り返した言葉。
「・・・うん。」
一瞬真希はギュッと唇を結んだが、涙はこぼれ落ち続けている。
「・・・煙草を一本くれないか、ここに入ってるからさ・・・。」
「・・わかったよ。」
真希は私の上着のポケットから煙草を取り出すと、
自分で一口吸ってから私の口にくわえさせた。
「・・・変なこと覚えてるんだな・・・。」
「・・・こんな事するの、市井ちゃんだけだから・・・。」
「・・・あぁうまい、最高の気分だ・・・。」
遠のく意識の中で、何度も二人で迎えた朝のことを思い出していた。
それっきり市井ちゃんは口をきく事はありませんでした。
あたしは市井ちゃんの口から煙草が落ちるのを見て、不思議な気分になりました。
泣き虫な筈のあたしが、安らかな市井ちゃんの寝顔を見ても涙がこぼれませんでした。
「市井ちゃん、おやすみ。明日は空港にいかなきゃならないから、早く寝ないとね。」
眠る市井ちゃんはとっても軽くて驚きました
市井ちゃんを抱いたまま、あたしは朝まで海岸沿いの道を歩き続けました。
朝日のあがる頃、とても見晴らしの良い丘に辿りつきました。
「ねぇ、市井ちゃん、ここの景色すごくキレイだよ。」
市井ちゃんは、またいつもの様に笑ってくれました。
(・・・あぁ、そうだな・・・。)
「あたしね、日本に残るよ。やっぱり海外は言葉とか通じなかったりして
苦労しそうだもんね、市井ちゃんもそう思うでしょ?」
(・・・私は真希とは違って英語得意だよ・・・。)
「えへへ、そうだったね。でもあたし決めた、だって日本には市井ちゃんがいるもの。」
(・・・じゃ私もそうしようかな・・・。)
「・・・大好きだよ、市井ちゃん・・・。」
それから2度の初夏を迎えました。
あたしは、市井紗耶香として裏の世界を生きています。
市井といえば、雑魚どもなら逃げ出す位名前が通っていました。
あたしは市井ちゃんの偉大さに尊敬すると同時に、
市井紗耶香の名前を汚さないように生きています。
だから、ずっと、ずっと市井ちゃんは、あたしと一緒にいます。
「まだ続くのよ、市井紗耶香の伝説は。」