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紗耶香伝

名も知れぬ鳥が朝の訪れを告げる頃、紗耶香は目を覚ました。ゆっ
くりと起き上がり、夜露に湿った重たい前髪をかきあげかけた時に、
背後に人の気配がある事に遅まきながら気が付いた。

「誰ッ!?」

振り返った紗耶香は、見知った顔を発見し、一瞬安堵しかけた後に、
己の立場を思い出し気を引き締めなおさざるをえなかった。

「圭姉・・・ 圭姉が最初の追っ手なの?」

圭は紗耶香と同じ時期に、お頭に拾われた言わば同期生であり、年
齢が紗耶香より上だった事もあり実の姉同様に接してきた。最近は
妹分の真希と3人だけで仕事を受け持つ事も多くなり、団の中でも
本当に気の許せる数少ない大切な人だ。

少なくとも数日前まではそうだった・・・

そう、紗耶香は団を抜けたのだ。戦禍によって両親を一度に亡くし、
焼け野原で一人泣き続けていた紗耶香は、お頭に声をかけられ団に
入った。団の中で育てられ、団の仕事も最初は何の疑問も無かった。
むしろ、団の中でも紗耶香は使命感に特に燃えていたのだ。

たった一つの事件が紗耶香の幼い信念を大きく揺るがすことになった・・・

明日香は紗耶香よりも先に団に入っていた。皆が新入りに厳しい拒
否反応を示す中で、明日香は分け隔てなく接してくれたこともあり、
紗耶香が団の中で立場を確立してからは、自然に親しい友人になる
事が出来た。

本人は語らなかったが育ちが良かったのだろう、明日香は年の割に
豊富な知識と大人びた考え方を持っていた。

そんな明日香が団自体に疑問を持ち始めることは致し方なかったの
だろうか・・・

やがて、明日香が団を抜けだした時、紗耶香はお頭に呼ばれ、討伐
を命ぜられた。幼い紗耶香には正直言って明日香の真意が図り損ね
たし、むしろ、捨てられた、裏切られたという気持ちの方が強かっ
た。何よりも、その時の紗耶香には団の存在は絶対だったのだ・・・

紗耶香が明日香を斬った時、明日香は抵抗しなかった。それどころか、
進んで斬られた様にさえ見えた。

紗耶香の腕の中で、息を失いながら明日香は言った。微笑さえ浮かべて。
「自分のしている事が、どう間違っているかは解らないけれど、少
 なくとも正しくない事だとはハッキリと解る様になったわ。紗耶
 香、貴方も自分の目で見て、自分自身で考えて・・・」

その時は、さして意識しなかった明日香の言葉だが、紗耶香の心の
奥底にはシッカリと刻み込まれていたのだろう。幾つかの出来事を
目の当たりにした頃、明日香の言葉は紗耶香の心を完全に占める様
になっていた。そして、紗耶香は己の信ずる道を歩む事を決心した。

「圭姉・・・」

(私を殺すの? それとも私が圭姉を斬るの?)

紗耶香には後の台詞を言葉にする事が出来なかった。団員にとって
団の掟は絶対である。掟では「脱団者」は死を賜る事が決まってい
るのだ。圭の心をどの様な思いが占めているのかは、紗耶香には解
らない・・・ 団員ならば紗耶香を始末しに来るのが当然なのだ・・・

尚、追っ手は単独行動が基本である。団員同士で誰が誰を始末した
か分からない様にする事が主目的であろう。無論、かつて紗耶香が
明日香を斬った事は、圭も含めて殆どの団員が知らない筈だ。

お互いが平静を装いながらも一瞬も気の抜けない瞬間が続いた。
本人達にとっては実際の時間の数十倍にも感じられた事だろう。
やがて、圭の方から口を開いた。

「紗耶香・・・」

名前を呼ばれただけで紗耶香はビクッと反応した。脱団後一瞬も気
を抜く事無く逃げ続けていた紗耶香は、もはや緊張感に耐え切れな
くなってきていた。

「逃げなさい紗耶香。地の果てまでも。貴方が決心した事だから、
 私は止めないわ。その代り脱団を後悔したりだけはしないでよ。」

「圭・・・姉・・・?・・・」

「貴方みたいなオコサマとは違ってね。私だって団が全面的に正し
 くない事は、ずっと前から知ってるわ。ただ私には、思い切りが
 足りなかった・・・ 貴方の決心を私に私の出来る範囲で尊重さ
 せて欲しいのよ。」

「・・・あり、ありが・・・とう・・・」

「ほらほら、泣き出してどうするのよ。私は帰ってお頭に、手傷は
 負わせたけど討ち漏らしました。とか報告するからさ。時間を無
 駄にしてんじゃないよ・・・」

「圭姉も一緒に逃げようよっ!」

「ばか!オコサマなんだから・・・ もう我侭は無しだって・・・
 行きなさい!自分の夢を掴んで幸せになるのよ。それから、可愛
 い寝顔で高鼾かいてると寝首をかかれるよ・・・それから、それ
 ら・・・ さようなら、私の紗耶香・・・」

圭の去って行った方向と反対側に、紗耶香は泣きながら走った。振
り返る事すら圭への裏切りになると思い、真っ直ぐに。何度も転ん
で、男の子のように短く刈り揃えた髪に泥がついても構わずに・・・


第弐章 −真里−

紗耶香は歩みを止めた。薄暗い林道の奥に見知った人影を見つけた
からだ。ひとみだ・・・ ひとみは団に入ってから日も浅く、はっ
きり言って一対一でやり合えば、万に一つも紗耶香が負ける事は無
い筈だ、ただ其れだけにかえって、ひとみが一人で居るこの状況が
不自然である。紗耶香は慎重にならざるを得なかった。

どうやらひとみもこちらに気付いた様だ、もう一人の存在を意識し、
紗耶香は平静を装いながら口を開いた、敢えてひとみを無視した形
で。勿論万全の気構えは崩さなかった。

「出てきなよ、真里。」

「ははは、やっぱりバレてるのね。」
拍子抜けするほど明るい笑い声に続いて、ひとみの後方から、数日
前までは当たり前の様に見慣れていた小柄な姿が現れた。真里であ
る。紗耶香は、こと戦闘に関しては団で屈指の実力を持っていたが、
同僚の中で数少ない実際にやってみないと勝てるかどうか判らない
と思わせる力の持ち主の一人が、この真里だった。

「紗耶香。ホンネを言えばオイラは脱退だか掟だとかはどうでも良
 いんだ。でもね、闘わせてもらうよ。なんせアンタを敵に回して
 やってみたくてしょうがなかったんだから・・・ 本気のアンタ
 だけが、オイラをアツくさせる事が出来ると思うんだ・・・」

(どうして、そんな理由で殺し合いが出来るの? おかしいよ?
 間違ってるよ? どうして解らないの?)

一方的な防戦だった。2人を相手にしている上、片方はエース級の
能力ときている。正面から、ひとみが斬り合いに来て、それを受け
ても斬り返しても、ひとみの背後から飛び出す真里の攻撃を受ける
という連携技にはホトホト手を焼いていた。今の精神状態では無論
戦意は欠片も沸いて来なかったが、絶好調の状態の時でさえどうか
と思わせるほど、二人のコンビネーションは優れていたのだ。

それでも対応出来ているのが紗耶香の底力だったか・・・

やがて、一瞬の空白の時を迎え真里は苛立たしげに声を荒らげた。

「紗耶香。どうして真面目にやらないんだ? アンタの能力はそん
 なモンじゃ無い筈だ。まさか仲間だからとか、腑抜けた事を考え
 ている様なら・・・ すぐさま殺してやるよ・・・ アンタのそ
 んな様は見たくなかったのに・・・」

例によって、始めに斬りかかって来たひとみが、大きく前方にバラ
ンスを崩して倒れこんだ時(後から考えれば、真里がひとみの背中
を蹴って飛んだのだろう。)、紗耶香はひとみを斬らざるを得なか
った、流れの均衡が崩れた今、ひとみを斬る以外に紗耶香自身が生
きる術は無かった。

紗耶香に驚きと深い悲しみを与えたのは、ひとみがそれでも当たり
前のように自分に刺さった刀を奪いに来た事だった。致命傷を負っ
た場合でも相手の不利な状況つくる、団に於いては当たり前の事か
もしれない、しかしそれで死んでいく者が浮かばれるのだろうか?
今の紗耶香にはとてもそうは思えなかった。

一瞬の判断で刀を放し、紗耶香はひとみの水月を踏み台に肩へ駆け
上り、飛んだ。

真里の方としても、まさかそんな形で間合いを詰められるとは思っ
ていなかったのだろう。紗耶香は空中で、平静さを欠いた真里の一
撃をかわすと、そのまま真里の腕を極め裏投げの形で落下した。

人一人の上から跳んだ高さ、優に3mはあるだろう。その高さから
頭を打ったのである、真里は虫の息だった。時間にしておよそ数秒
の間に仲間二人の人生に終止符をうった紗耶香は、その興奮から覚
めるにつれ、己のした事に耐えられなくなった。

「真里、ゴメン・・・ 許して・・・」

「うるさいぃっ、泣くな。オイラの知ってる、オイラの好きだった
 紗耶香は冷静で、狡猾で、誰にも負けない程強いヤツだ。くそっ。
 こんな泣き虫のガキにやられたんじゃ、オイラも、ひとみも、浮
 かばれ・・・や・・・しねえ。」

真里の悪意の無い一つ一つの言葉が紗耶香の心をエグった。真里は
明らかに命の炎が消えかけている苦しげな呼吸の間に、口を開いた。

「なあ紗耶香、さっきの技、名前なんて言うんだ?あれ、オイラに
 も出来るかなあ?」

「・・・飯綱落とし。」

紗耶香が胸の奥から搾り出す様に、真里に答えを返した時には、も
う真里の耳にその言葉は届かなかった。真里とひとみの瞼を閉じて
やり、泥塗れになりながらも二人の亡骸を埋葬した。

二人の墓標を紗耶香の涙が濡らした。


第参章 〜圭織〜

輝く朝露に彩られた森を抜け、紗耶香は街道に辿りついた。完全な
自然の中から人の匂いが感じ取れる場所に戻った事で、僅かばかり
の安堵感が生じたのだが、それが幻想に過ぎなかった事を痛感させ
られるのに幾らも歩く必要が無かった。

路傍の巨岩に堂々と腰掛けている二人。圭織と希美だ。紗耶香は心
の中で軽い溜息をついた。幾ら道無き道を選び人目を避けて進んだ
所で、追手は街道のみを利用し要所で待ち伏せすれば良いのだ。勿
論、かと言って人目につくような逃げ方も出来ない為、紗耶香とし
ては打つ手が無い・・・ そのまま思考に嵌まりかけた紗耶香を圭
織の声は無造作に現実に引き戻した。

「紗耶香、何か釈明はあるの?」

「・・・一人の人間として、あるべき姿を生きたいの。」

「ねえ、団の何が不満なの? 気に入らない事があるのなら、団を
 改善しようという姿勢を出すべきでしょ? 自分一人が楽をした
 がるのは団においては禁物なのよ、解らないの?」

「圭織・・・ 私は団を批判しようとは思っていないの。そして、
 貴方の言いたいことも理解出来るわ。それでも、それだからこそ、
 もう今迄とは同じ道歩めないの・・・」

(圭織。改めて言わなくても、貴方の真摯なコトは痛い程知ってる
 よ。私達の考え方は似ていると思うけれど、根底の部分がほんの
 少し違うの・・・ ほんの少し・・・)

「どうして? これからも一緒に頑張っていこうよ・・・ そうだ、
 これから、私と一緒にお頭に説明しに行こうよ!絶対、絶対すぐ
 に許してもらえるから!」

(優しすぎるよ圭織、そして・・・それが辛いのよ。何て真っ直ぐ
 な言葉、曇りの無い瞳なんだろう・・・ そっか、明日香の時の
 私もこんな風だったのかな。)

気持ちに整理をつけた紗耶香が我に返ると、何時の間にやら希美が
背後にまわっている事に気が付いた。圭織も希美も多分紗耶香の相
手にはならないだろう。しかし前後からの挟撃となれば話は変わっ
てくる。それでも未だ紗耶香には余裕があった。

(圭織は何も合図していた様には見えなかったけど、ちゃんと背後
 にまわりこんでるいるなんて、この子なかなか筋が良いじゃない。
 それとも圭織の教育の成果なのかな・・・)

微笑ましい想像と、一瞬頭に浮かんだ己が教育係を担当した真希の
悲しげな顔を、克己心を振り絞って抑えつけながら、紗耶香は刀に
手をかけた。そして、なるべく冷たい感じを出す様に精一杯の努力
をしながら言った。

「圭織、もう話す事は無いよ。私は行くから・・・」

(明日香、あの時の貴方なりの優しさがあったから今の私がいる。
 私には貴方と同じ方法はとれないけれど・・・ 私なりの・・・)

ジリジリと圭織との間合いを詰める。圭織とて紗耶香の実力は承知
しているので、かなりのプレッシャーを与えられたのだろう。気圧
されるかの様に一歩二歩と後退を始めた。圭織が四歩目の後ろ足に
体重を移動させた刹那、紗耶香は飛んだ。振りかえって。

「のぞみぃぃぃいー!」

圭織の悲痛な声が清涼な朝の空気を引き裂く。しかし、紗耶香は抜
刀しなかった。

そのまま希美の首筋に手刀を叩きこんで行動を奪うと、躊躇する事
無く遁走する。紗耶香には解っていた、そして信じていた、圭織は
追ってこないと。

(これが最善の結果なんだ・・・ さよなら圭織、貴方の優しさは、
 絶対に忘れないよ。 いつか自分自身の幸せを掴んでね・・・)

顔を伏せる紗耶香の頬を、朝露の様なものが幾筋も滑り落ちていた。


第四章 〜梨華〜

雲間から毀れる紅い月光の中、欄干に腰掛けていた人待ち顔の少女
が口を開いた。

「待っていたよ、裏切り者の紗耶香。根性無しの抜団者・・・」

なつみだ。我知らず紗耶香は少し安堵していた。本人は冷静に其れ
と認識している訳では無かったが、紗耶香にとって、なつみに刃を
向けることは、さして抵抗が無かったのだ。寧ろ遂に、この日が来
たと言う感さえあった。

入団当初、紗耶香にとって団の顔である、なつみは遥か憧れの対象
であった。その後の紗耶香の成長過程においても、なつみと紗耶香
の人生の軌道は一度は交わりかけたものの、結局それは開き行く二
人の距離の前触れにしかならなかった。

(声を張り上げて、その台詞を誰に聞かせ様と言うの?ここには私
 と貴方しかいないのに・・・ なつみのそう言う所が大嫌いなのよ。)

紗耶香と、なつみ、二人の決定的な相違は己のプライドの持ち方に
あった。どちらが良い悪いではなくて、異なるが故にお互いを合い
入れる事は出来なかったのだ。

ただ、其れでも紗耶香には、自分から仕掛ける事は出来なかった。

「紗耶香は知らないだろうけどさ、真希も逃げ出したんだよ。教育
 係が教育係なら弟子も弟子だね。はっ、情けないよ。すぐに弟子
 も後を追ってくるだろうから、一足先に旅立ちなさい。」

(真希・・・)

短い対峙の後、なつみが橋の上を滑る様に間合いを詰める。二合、
三合、明らかに殺意のこもった斬撃を受けながら、紗耶香は、な
つみをじっと見つめていた。

(斬る気満々だね・・・ でも、残念だけどその程度の腕では私は
 斬れないよ・・・ それとも私に斬られる? 私は、なつみを斬
 りたいの? 私は、なつみを斬れるの?・・・)

なつみの一挙手一投足が、紗耶香の最後の良心を徐々に押し潰して
いった。紗耶香は、じりじりと反撃を交え始め、なつみを橋の外ま
で後退させた。なつみの顔に焦燥の表情が浮かび始める。

「・・・くそっ、こんなヤツに・・・私の地位が・・・嫌・・・」

無我夢中の、なつみの呟きを紗耶香は冷静に聴いていた。そして静
かに決心を固めた。裂帛の気合と共に踏み込み一太刀を放つ。余り
にも苛烈な一撃であった。それを右腕の深い傷にとどめたのは、ま
さに団の顔、なつみの実力故であった。

躊躇する事無く返し太刀で、なつみを仕留めようとした紗耶香は、
その瞬間、横合いからの気配を感じた。咄嗟に左手で鞘を用いて
相手の斬撃を辛うじて受け止めながら、相手を確認した。

(梨華!?・・・)

梨華は圭が教育係を担当していた事もあり、紗耶香にとって付き合
いは短いながら、比較的親近感の持てる団員だった。梨華の方も、
そう思ってくれていると思っていただけに、憎しみをあらわにし、
斬りかかってくる様は、少なからず紗耶香の心を傷つけた。

そして梨華の次の一言は、そんな紗耶香に事態への僅かな納得と更
に酷い心の傷を与えた。

「・・・圭さんの敵ィィ!」

「なっ!ちが、違うよっ! 私が圭姉を斬れる訳無いじゃ・・・」

理性の何処かでは言っても無駄だろうなと解っていても、思わず言
わずにはいられなかった。実際そうなのだ、紗耶香には自分が圭を
斬れるとは思えなかった。途中で言葉を切ったのは、なつみの存在
を思い出したからだ。そんな紗耶香の目に、事態の推移には一切構
わずに逃げ出そうとしている、なつみの姿態が映った。そして、梨
華は紗耶香の言い分の一切を否定するかの様に続けた。

「圭さんは、もう帰ってこない・・・ 私も、圭さんも、あなたの
 事を信じていたのに・・・ 絶対許せない・・・ 刺し違えてで
 も、圭さんの敵を取るっ!」

火の出るような斬撃だった。元々実力では紗耶香に到底及ぶべくも
無い梨華であったが、気持ちが入っている上に、本当に刺し違える
つもりらしく、避ける事を微塵も考えていない攻撃なのだ。いかに
紗耶香といえども、あしらうのに手一杯であった。

(梨華、思いつめてるんだろうな・・・ 私が斬られれば、この子
 は満たされるの? 偽りでも幸せは幸せ・・・ もし私が、この
 子を斬れば恨みに満ちたまま人生を終える事になる・・・ それ
 は、私が圭姉の敵を討って晴れるものなの? 解らない・・・)

いよいよ、梨華は身体毎ぶつかる様な突きに切り替えてきた。避け
られない事を悟った紗耶香は、決断を迫られた。空白の一瞬に様々
な思いが駆け巡る。最後に紗耶香の頭を占めたのは、なつみへの怒
りだった。追い詰められた時には、一見突飛な、物の本質が見える
のだろうか。

(なつみ、貴方が逃げ出さなければ、この子の願いは成就したのに。
 ・・・斬られるわけにはいかない・・・)

鞘を持ったままの左手に力を込める、そして心持ち握り変えた。伸
るか反るかのワンチャンス。突きの弱点は動きが直線的な事だ、そ
して、避けられないなら避けなければ良いのだ。

有りっ丈の集中力を動員して紗耶香は鞘を突き出した。梨華の刀の
軌跡を完璧に捕らえたのは、紗耶香の天性の資質と、それに倍する
鍛錬の結果だったのだろう。

紗耶香は脇腹に自らの鞘尻が食い込むのを感じながら、右膝を跳ね
上げて梨華の鳩尾に叩きこんだ。間髪を入れず前屈みになった梨華
の首筋に手刀を叩きこむ。手加減する余裕は無かった。

紗耶香は、脇腹から襲い来る激痛に崩れ落ちそうになる膝に鞭打ち
ながら、休む間も無く踵を返した。なつみを追わなければならない。
口腔に溢れる生暖かい物を吐き捨てながら、紗耶香は走った。

一里も行かないうちに、なつみの後姿が目に入ってきた。お互い手
傷を負っているが、明らかに、なつみの方が重傷だ。なつみの右腕
は多分二度と使い物にはならないだろう。傷を庇って逃げる、なつ
みに追いつくのは造作も無かった。

「なつみぃぃい!」

紗耶香は心の蟠りを言葉にしようとしたが、其れだけしか言えなか
った。振りかえった、なつみの顔は、諦めと、哀願と、それ以上の
本人なりの誇りに満ちていた。気持ちの整理が付いていたのだろう。
なつみは、何も言わずに静かに抜刀した。

紗耶香の方も既に気持ちは決まっていた。それ以上は一言も発する
事無く全速で間合いを詰める。二人がすれ違う瞬間、なつみが先に
刀を振った。

沈黙の森に交錯する二つの影。真紅の化粧に彩られ、ゆっくりと崩
れ落ちたのは、なつみだった。僅かに一閃。紗耶香の抜き打ち放っ
た一撃は、魔術の様に、なつみの剣撃をすり抜け、冷酷なほど的確
に急所を捕らえていた。

(・・・変移抜刀霞斬り。)

紗耶香最高の剣技である。神速の抜刀術と練達の呼吸から繰り出さ
れる、この技を知っているのは、虫の息の、なつみ以外にはいない。
味方の前で披露した事は無かったし、止むを得ない強敵以外には使
った事は無かった。そして、技を使った時には必ず一つの生命を断
ってきたのだ。

やがて、紗耶香は憑き物がおちた様な顔で、なつみの人生の幕が降
りてくる光景を眺めていた。美しかった、なつみは、もはや殆ど生
気が感じられず、焦点の定まらない視線は、宙を不安気にさ迷って
いた。ままならぬ呼吸の合間から、なつみの魂の叫びが零れ落ちた。

「・・・寒い。寒いよ。 ・・・助けてよ、お母さん・・・」

幕は止まる事を知らず、静かに降りきった。紗耶香は、動かなくな
った、なつみの顔の汚れを払い、その二度と見開かれる事の無い瞼
を閉ざしてやった。

(さようなら、なつみ。今度生まれ変わった時には、私達、親友に
 なれると良いね・・・)

呼吸が落ちついた頃、紗耶香は再び元来た道を戻り始めた。梨華に
対して何らかの答えを出してやらなければならないからだ。紗耶香
が逃げ続けている限り、梨華は苦しみ続ける。結論を出すことが、
梨華に、そして圭に対しても、紗耶香に出来る精一杯の愛情のつも
りだった。

つもりだったのだ。その思いが最悪の結果を目の当たりにして、後
悔と自責の念に変わる迄に、半刻も要さなかった。最前の現場に戻
った紗耶香の目に映ったのは、喉を突き自害して果てていた、梨華
の亡骸だった。

己の中途半端な行動が、梨華を更に追い詰めたのだ。ここに至って、
紗耶香は、無意識に考えない様にしていた一つの事実に直面しない
訳にはいかなくなっていた。己の決断の結果が、真里の、ひとみの、
なつみの、圭の、梨華の人生を捻じ曲げ、壊したのかも知れないと
いう事に・・・

紗耶香の理性は必死に否定しようとしていたが、感情の奔流には逆
らい難かった。泣きながら素手で梨華を埋葬する紗耶香は、爪が破
れた痛みすら感じられなかった。