プロローグ
ゆっくりと、ネジのように、扉に取り付けられた鉄の棒を巻く。
右に、2回。
カチリと音が鳴る。
そのままゆっくりと正方形の扉を引いた。6回目の作業だ。
ギィ・・・と響く、重い音。
そして、そのまま扉を下にずらす。
その向こうに見えるのは、今いる部屋と同じ立方体の部屋。
シンとしたその部屋を覗き込んでから、その扉を閉めた。
たった一人、閉じこめられた窓も何もない、立方体の部屋。
正確には閉じこめられてはいないのかもしれない。
立方体の部屋の6面すべてに、鍵の取り付けられていない正方形の扉がある。
けれど、そのすべての扉の向こうにあるのは、ここと同じ、立方体の部屋。
耳を澄ませても、自分の呼吸以外は、なんの音もしない。
叫んでみても、声は木霊して消えていくだけだった。
小さく溜息をついて、右の扉を再び開けにかかる。
ここにいても、仕方がないのだ。
もしかしたら、あの部屋の向こうに出口があるのかもしれない。
扉を開け、穴の向こうの部屋をそっと覗き込む。
1mほどの穴を這って、隣の部屋に飛び降りた。
シンと静まりかえった、同じ部屋。
様子を伺いながら、部屋の中央へ歩いていく。
なにかに触れた気がした。
なにもないはずの空間で、体中に風が吹き抜けたような気がした。
痛みを感じる前に、体は小さな立方体に崩れ落ちる。
── そうして、終わる。
静寂の中で、細い鉄パイプが揺れた。
その鉄パイプに取り付けられたのは、網目状の合金線。
1人の体を通り抜け、その罠は、元の場所に納められた。
【1】
どうしてここにいるのか、まったくわからなかった。
いつものように、自分の部屋のベットで眠りについた。そして、目覚めたら、ここにいた。
着慣れた赤いチェックのパジャマで眠っていたはずなのに、冷たい床の上に寝転がり、
自分が着ていたのは、白のTシャツに、淡いクリーム色をした綿の上下。
その綿シャツの胸ポケットには「M.Yaguchi」と黒の刺繍が入っていた。
1辺が5mほどの立方体の部屋。
部屋の中にあるのは、1面に1つ、真ん中に正方形の扉と、その扉の横に取り付けられた梯子。
── そして、自分。
それだけだった。
【2】
矢口は小さく溜息をついた。
シンとした部屋の中で、足下の扉に取り付けられた鉄の棒に手を伸ばす。扉は他にも5つ。
けれど、その扉を開ける為には、壁に取り付けられた梯子を登らなくてはいけない。
鉄の棒を両手で握って、回してみる。
たいした力はいらなかった。片手でも簡単に回せそうだ。ギ、ギ、と鈍い音を立てながら、その鉄の棒は回った。
2回回したところで、カチリという音と一緒に、何かが外れるような感触に当たった。
「・・・・・」
息を潜めて、その扉をゆっくりと持ち上げる。
扉はギギィ・・と擦れる音とともに、持ち上がった。
持ち上げきったところで、左にずらしてみる。けれど扉は動こうとしなかった。今度は右。結果は同じだった。
「あれ?」
少し考えてから、一歩下がって手前に引いてみる。
「お」
扉は難無く、ずれた。その扉を床におろして、開いた穴を覗き込む。
そこは今いる部屋と同じ立方体の部屋だった。
「・・・あっ」
けれど、ひとつだけ違うことがあった。
その部屋には、ひとり、壁にもたれて座っている人間がいた。
「おーい!」
声を張り上げる。
「・・・・・」
返事はなかった。
床は遠く見えた。
飛び降りられるかどうか、かなり不安になる。
どうしようと考え込んだとき、不意に、頭の上で、ギギィという音がした。
驚いて、天井を見上げる。
天井にある扉がゆっくりと開かれて、そこからひとりの女性が顔を出した。
【3】
「・・・誰か、おるんか?」
少し不安げな、問いかけ。
「いる。・・・いるよ!」
矢口は必要以上に大きな声で返事をした。
上の部屋にいる彼女が、小さく微笑んだのがわかった。
彼女は、顔をひっこめると、扉の縁に捕まって、ゆっくりと足から降りてきた。
体が半分出たところで、今度は片手を伸ばして、天井に捕まるところを探す。
「・・・右! 右に梯子、ある!」
扉の横に天井と水平に張り付けられた梯子がある。
矢口が叫ぶと彼女の手は右に移動し、梯子を見つけた。
梯子をしっかりと握り、彼女はゆっくりと降りてくる。
そして、天井に両手でぶら下がって、うんていの要領で壁際に移動した。
彼女の左足が壁の梯子に着いたとき、矢口は思わずほっとして息をついた。
上の部屋から降りてきた彼女は、矢口を見て、小さく微笑んだ。
「・・・ありがと。助かったわ」
関西なまりの口調。
矢口は同じように微笑んで、首を振った。
「下に、誰かいるん?」
「みたいだけど・・・」
開かれた扉を、彼女は覗き込む。
じっと何かを考えるように、彼女は下を見ていた。
彼女も、矢口と同じ服を着ていた。袖をまくった上着の胸ポケットには、「Y.Nakazawa」の文字。
「・・・ってことは、平気なんやな。・・・行くか」
そう独り言のように呟いて、彼女は縁に腰掛け、さっきと同じように降りだした。
「あのっ・・・」
矢口があわてて声をかけると、彼女は下の部屋に続く穴の中で背中と足を突っ張って止まり、まっすぐに視線を矢口の方へ向けた。
「・・・一緒に、来るか?」
その真剣な表情の呟きに、矢口はゆっくりと頷いた。
【4】
彼女は、疲れ切ったように足を投げ出して座っていた。
生きているのか、死んでいるのか、それすら判断出来ない。
中澤がゆっくり彼女に近づいた。足音は響いていたけれど、彼女はなんの反応も示さなかった。
中澤がすっと手を伸ばして、彼女の首に手を当てる。そして、逆の手で、彼女の胸ポケットを引っ張った。
「・・・『K.Yasuda』・・・」
しばらくじっとしていたかと思うと、中澤はパチパチと彼女の頬を軽く叩いた。
「保田。保田!」
中澤の呼びかけに、ようやく、彼女は目を開けた。
── 猫のような目。けれど、どこかその目は、ぼんやりと曇っていた。
「怪我は?」
「・・・別に」
彼女の答えに、中澤は小さく息をついた。
「自分、ずっとココにおったん?」
彼女は中澤を見上げて、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「そか・・・」
ふうと溜息をついて、前髪をかき上げると、中澤は部屋を見渡した。
矢口もそれにつられるように部屋を見渡す。
けれど、やはり、さっきまでいた部屋となにも変わったところはない。
まだ開いたままの天井の扉の奥に見える、もうひとつの扉はいつのまにか閉まっていた。
中澤は、壁にもたれて、またひとつ溜息をついた。
【5】
シンとした沈黙が部屋に訪れた。
知らないとはいえ、他の誰かに会えたことで一度は落ち着いた胸に、また不安がこみ上げてくる。
矢口は壁にもたれて座り込むと、中澤と保田の顔を交互に見て、膝を抱えた。
ココはドコなんだろう。
どうしてココにいるんだろう。
── どうすれば、いい?
答えは出ない。
疑問だけが、頭の中を回り続ける。
沈黙を破ったのは、ギィ・・・という、扉が開けられる音だった。
「!」
動き出した扉に中澤が気付いて、壁を離れる。
3人は、扉が開くのを、じっと見つめていた。
ゆっくりと、扉が下へ降りる。
そこに出来た空間から見えたのは、また、ここと同じ作りであるだろうと思われる部屋だった。
「・・・・・」
少し警戒しながら、中澤は目を凝らして扉に近づく。
向こうの部屋から、こちらを伺うように顔を出したのは、2人の少女だった。
「後藤。大丈夫みたいだよ」
「うん」
後藤と呼ばれた彼女は、こくりと頷くと、部屋と部屋を繋ぐ穴によじ登ってきた。そして、こちらの部屋にやって来る。
扉から飛び降りて、まだ向こうの部屋にいる彼女の方を向いた。
「大丈夫?」
「平気」
頷きながらされた返事は小さくて、こちらの部屋にまで声は届かなかったが、唇の動きで、そう答えていたのがわかった。
彼女は、扉のそばの梯子を使って、ゆっくりと降りてきた。右足を庇った、ゆっくりとした動き。
彼女の右足には布が巻き付けられいて、その布は膝から下のズボンと一緒に、鈍い赤に染められていた。
たぶん、上着を破って巻いたんだろうと、容易に想像がつく。腰に巻き付けられた彼女の上着は、やけに短かかった。
彼女が床に片足を付いたとき、ずっと心配そうな目で見ていた後藤が手を伸ばす。
「平気だって」
彼女は小さく苦笑した。
顔を見合わせていた2人が、ゆっくりと中澤と矢口の方を向いた。そして、後藤が部屋を見回して、床に座っていた保田に気付く。
「・・・いったい、何人いるんや・・・」
中澤が眉を潜めて、そう独り言のように呟いた。
【7】
「・・・みんな、最初から、この部屋にいたの?」
足に怪我をしたほうの彼女が、ぽつりとそう言った。
なんとなく、中澤と矢口が互いの様子を伺うように、顔を見合わせる。
ちょっとした沈黙の後、最初に答えたのは、矢口だった。
「矢口は・・・この上の部屋にいた」
そう言って、天井を指さす。まるでそのタイミングを見計らったように、
開いていた天井の扉は軋むような音を立てて、閉まった。
矢口の答えに、彼女は小さく頷くと、今度は中澤を見た。
中澤は軽く首を傾げて、左足にかけていた体重を右足に移動し、口を開いた。
「部屋を4つほど移動した。あんた・・・」
「市井、だよ」
中澤の言葉を遮って、市井は胸ポケットの刺繍を見せた。
中澤は「わかった」とでも言うかのように、小さく頷いたが、そんなに興味はなさそうだった。
「市井らは、最初から2人、同じ部屋におったん?」
その質問には後藤が頷くことで答える。
「移動したのは、7つくらいかな」
市井がそう言ってから、保田の方を向いた。
それに倣うように、中澤と矢口も保田の方を向いた。
けれど、保田は何も答えなかった。
「・・・アンタは?」
中澤が少し苛立ったように答えを求める。
「・・・ずっと、ココ」
微かに苦笑し、保田はかすれた声で呟いた。
【8】
重い空気を振り払おうとするかのように、矢口が努めて明るい声を出す。
「・・・とにかく。ココに入ってきたってことは、出入り口があるってことだよね?」
「理屈にはな」
中澤は溜息混じりに呟く。
簡単な話だ。出たいのなら出口を探せばいい。
「どうかな。出入口が残ってるとは限らないよ」
中澤のすぐ後に、否定の言葉を口にしたのは、市井だった。
「考えられないことじゃないでしょ? 私達を入れた後で、入口が塞がれてる可能性だってある」
強い口調でそう言った市井に、中澤は僅かに口元に微笑みを浮かべた。
「・・・ホンマに、そう思ってとるん?」
市井はきゅっと唇を噛んで、眼を逸らした。
「・・・中澤さん」
不安気に近づいてきた矢口の肩に、中澤は軽く手を置いた。そして矢口の耳元で、ポツリと呟く。
「ホンマにそう思っとるヤツが、7部屋も移動するわけないやろ?」
不安になりかけとるだけや、と、続けて、中澤は微かに微笑んだ。
【9】
ギィ・・・、と、小さく音が響いた。
その部屋にいた5人全員が、音のした扉の方へ視線を向けた。
「・・・どーやら、5人だけじゃなかったみたいだね」
市井がそう言い終わる前に、扉は降りた。
そして、向こうの部屋からゆっくり、誰かがこっちへ向かってきた。
小柄な少女だった。
5人を警戒した目で見つめていた。身体を強ばらせたまま、
壁を背にしているその姿は、まるで追いつめられた小動物のようだった。
中澤が一歩近づくと、彼女はあからさまにビクッと肩をすくませた。
「なんもせんよ。そんな警戒されても困るわ」
困ったように溜息をついて、ゆっくりと中澤は両手をあげる。
「アンタ、名前は?」
「・・・安倍・・・」
「安倍? 安倍、やな。アタシは中澤。アンタは、ずっと隣の部屋にいたんか?」
安倍は首を振った。
「・・・・・」
続きの言葉を待ったが、安倍はそれ以上、何も言わなかった。
【10】
「もしかして、他にもいるのかな・・・」
矢口がポツリと呟く。
「そうかもしれんな」
「・・・・・」
少し考えてから、矢口が壁の梯子を昇り始めた。
「なにするんや?」
「もしかしたら、隣の部屋にも誰かいたりするのかなと思って」
よいしょ、と、矢口は扉を開けた。そしてその中を覗き込む。
扉の向こうは、やっぱり同じ立方体の部屋があって、誰か人がいる気配は無かった。
「・・・誰もいないのかなぁ」
ここからは死角になっているトコにいるかもしれないと思い、矢口は向こうの部屋へ進もうとした。
その時だった。
「アホっ・・・!!」
ぐいっと腰を掴まれて引き戻される。何が起こったのか理解する前に、背中から床に落ちた。
「・・・いったー・・・!」
「死にたいんか!?」
いきなり怒鳴りつける中澤を、矢口は呆然として見上げた。
【11】
「え・・・?」
「トラップが仕掛けられてる部屋かてあるんや!!」
「・・・トラップって・・・」
中澤が答える前に、市井が呟く。
「まだ、知らなかったんだ」
市井が後藤に肩を借りて、靴を脱いだ。そして紐を解いて、靴の一番上の穴にくくりつける。
「・・・何するの?」
中澤と後藤は市井がしようとしていることを、もう予測出来ているようで、何も言わなかった。
市井は梯子を昇り、矢口が入ろうとしていた部屋に靴を投げ込んだ。
その瞬間、ボッと赤い炎が部屋を埋め尽くす。
紐の先に、靴はなかった。
「命拾いしたね」
ブスブスとまだくすぶっている紐を、市井が床の上に落とすと、後藤が踏みつけて火を消した。
【12】
静けさが訪れた隣の部屋を覗き込むと、部屋の真ん中に、黒い物体が転がっているのが見えた。
もし、引き戻されるのが遅かったら、あそこで転がっているのは、自分の身体だったかもしれない。
そう思うと、ゾッとした。
微かに、矢口の手が震えだす。
「その足の怪我、トラップで、か?」
中澤の言葉に、市井は小さく頷いた。
「怪我だけですんだんだから、ラッキーだよ」
「・・・せやな」
2人の会話を遠くに聞きながら、矢口の心臓はバクバク音を立てた。
ようやく、自分が置かれている状況を、本当に把握した気がする。
「・・・平気や」
震えている矢口の手を、中澤が掴んだ。
「・・・中澤さん」
「ちゃんと、出られる」
目をそらせたまま呟かれたその言葉は、まるで中澤が自分自身に言い聞かせているようだった。