「や……」
突然息苦しくなって、石川は布団をはねのけた。そこには意外な顔を見つけて息を呑む。
「なぜ……何故あなたが……」
「……」
その人物は無言で石川を押し倒し、首筋に口づけた。
「あ……っ」
きつく吸われて石川は思わず声をあげた。
「や……やめてくださ……あ……」
石川は精一杯の抵抗をするが、いっかな意に介したふうもなく、
その人物は石川のジャージを脱がし、より敏感なところに口づける。
蹴飛ばそうと動かした足も片手一本でやすやすと押さえ込まれていた。
「どうして……」
石川の声が涙混じりになる。
その人物は石川の瞳をじっと見つめた。
綺麗な瞳だと石川は思った。
──だけど。
(……こわい……)
その人物の顔が次第に近付いてくる。
「やだっ」
石川は両手をクロスさせて口づけを逃れた。
「口だけは……口はいやです……」
「……」
すっと顔が視界から失せる。
「……っ」
舌先が石川の乳房をくすぐる。望まぬ刺激を与えられるうちに勃ってきた乳首を執拗に攻められる。
石川は壁のほうを向いた。涙が枕にこぼれおちた。
(我慢してれば……すぐに終わる……)
「……!」
しかし石川には更なる屈辱が待っていた。下腹部を撫でていた指がするりと茂みのなかへ分け入ってくる。
鋭敏な部分を刺激され、背骨が反り返った。
「……くぅっ」
普段の自分の声よりも高く切ない声が漏れる。指は単調な刺激を与え続けた。
「……あンっ」
指の刺激には殆どまったく無反応だった石川だったが、
熱く湿ったもので刺激が加えられて簡単に堕ちた。
恥ずかしい液体が股の間に漏れていくのを感じる。
「や……やだ……やめ……」
舌は執拗に石川の鋭敏な部分に刺激を与える。
上半身が自由になった石川だが、二の腕にまったく力が入らなかった。
「や……」
「お願い、です……も……もう、止め……」
鼻にかかった甘い声が、嗚咽に紛れた。
石川は表情が見えないように両腕を顔の前でクロスさせていた。
ただ両目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「……」
いたたまれなくなったように顔を背けると、その人物は部屋を出て行った。
石川は着衣を整えて扉に向かう。足腰が上手く立たない。
「……」
廊下を見ると、すでにその人物の姿はない。深く悩ましい吐息を吐くと、石川は後ろ手で鍵を掛けた。
「どうして……」
石川は混乱する頭でシャワールームに向かった。
一刻も早く先ほどの痕跡を綺麗サッパリ洗い流したかった。
翌日のコンサート。楽屋。楽しげに談笑しながら衣装に着替える娘。たち。
石川は一人で着替えていた。後藤の視線を感じる。手が震えてなかなか上手くボタンが止められない。
「だいじょーぶ? てつだおーか?」
後藤が無邪気っぽく石川に声を掛けた。さりげなく指を絡ませてくる。
「大丈夫です。触らないでください」
思ったより大きくキツい声になった。楽屋中の注目を集めてしまう。
「石川。年下でも一応先輩なんだから…」
保田の説教が背中から追いかける。我慢できずに石川は楽屋を出た。
涙が溢れてくる。
どうしよう。後藤がいやだ。ものすごくいやだ。
後藤の気配を感じただけで生理的嫌悪がこみあげてくる。
(──誰にも言えない)
吐き気がした。
化粧室で顔を洗い化粧を整えていると明るい声が後ろから掛けられた。
「どーしたの? みんなが変に思うじゃん?」
後藤だった。
「や。近寄らないで」
石川は鏡を後ろにして身構えた。化粧室には二人っきり。
逃げ場は後藤が入ってきた入り口しかない。
後藤は唇の端だけで、ふ、と笑った。
「どーして? 近付きたいときに近付くよアタシ」
一歩、また一歩と距離を詰める後藤。じりじりとあとじさりする石川。
「なんで、ひどいことするんですか?」
「ひどい?」
後藤は不思議そうに首を傾げた。
「こーゆこととか?」
後藤が腕を伸ばす。指が触れた瞬間、石川は身を強ばらせ固く目をつぶった。
ふわっと髪がかきあげられ、あらわになった首筋にくちづけられる。
「……っ」
「結構、皮膚丈夫だね。……さんはすぐ痕になったのに」
「え」
「……」
聞き取れたような気もする。聞き逃したような気もする。
石川は混乱した。
「あたし、そのひとの代わりってことですか?」
「……」
「サイテーです」
吐き捨てるように言って、石川は化粧室を出た。
後藤が追ってくる気配はない。だが、どうしても小走りになる。
衣装が足にまとわりつく。
「りかっち! どーしたの? なんか、さっきから様子変だけど」
「ひとみちゃん…」
廊下で、吉澤に呼び止められて、石川は振り返った。ホッと気が弛む。
クールそうに見えて天然ボケの吉澤にはどこか心和むものがあった。
一瞬、全部話してしまいたい誘惑にかられる。
「そーいや後藤さんは? 一緒じゃなかったの?」
「……ううん。なんで?」
咄嗟に嘘を吐く。
「え、やー弟たちがさー、後藤さんのサイン欲しい欲しいってうるっさいからさー」
「弟いたんだ」
「そうそう。小学生で二人もいてさ。もうめちゃくちゃなの……あ、後藤さーん」
後藤の姿を見て、吉澤は声を張り上げた。石川は身を強ばらせた。
「なぁに? どしたの?」
ひょこっと石川の肩に首を乗せるようにして後藤が顔を出した。
「すみませんけど、CDにサインしてくれます? 2枚」
「いいけど……ねぇーそろそろ敬語やめにしてよ〜」
「なんかもうクセになっちゃってて」
なにげに世間話を始める吉澤と後藤。
石川の顔はかなり引きつっていた。お願いだから早くどこかに行ってほしい。
「あっ、もう時間だー、行かなきゃー」
「えっ」
吉澤が振り返った隙に後藤は石川の右頬に軽くキスをして離れた。
「さき行くよー」
言うが早いか、後藤はもうすたすたと歩き始めてる。
「あっ、待ってくださ……りかっちさ、口紅付いてるよ」
石川は反射的に右頬を押さえた。
吉澤は指で石川の顎の下を拭う。
「これでいいかな? そこってさ、鏡じゃちょっと見えないんだよね」
「あっ、ありがと……」
かーっと石川の頬に血がのぼった。
ハッピーサマーウェディングが始まった。
サイドの石川と、センターの後藤は殆どすれ違うことさえない。
石川はホッとする。後藤の歌声を聞くたびに強ばりそうな顔を無理矢理笑顔にする。
後藤とはチラリとも視線が合わないことに安堵を覚えさえする。
だが。
舞台袖にひっこむときにぐいっと腕をひっぱられた。後藤だった。
「…なんですか」
「……」
後藤は答えずにちらりと視線だけ背後に向けて、戻す。
石川もつられて後藤の目線を追う。
そこにいたのは。
「……!」
ふいに後藤の唇が石川のそれに重なる。
吉澤の目が、驚いたように見開かれた。
吉澤は、困ったような曖昧な笑みを浮かべると、二人から視線を逸らせて立ち去った。
「……」
石川は凍ったように動けない。
唇は一瞬だけ触れてすぐに離れた。
「……アハッ、ごめん。唇はダメなんだっけ?」
耳元で後藤が囁く。石川はキッと後藤を睨み付けた。
「なんで……こんなこと……」
「また泣くの?」
「…泣きません」
石川は後藤の手を振り払った。
「あたし、いやがらせには負けませんから」
「いやがらせ?」
後藤はきょとんとした顔をした。
「いやがらせじゃないよ? あたし…」
「失礼します」
石川は後藤に背を向けて、振り返らなかった。
「ね。りかっち……」
楽屋に戻るなり、吉澤が石川に寄ってくる。
「後藤さんと……その、なんか……」
「なんでもないよ! 後藤さんが…ふざけただけだよ」
「あ、そうなんだ。なんだ」
明らかにほっとしたような表情になる吉澤に、石川の心臓はキリリと痛んだ。
何だろう、この気持ち。
ホテルに戻っても石川は徹底的に後藤を避けた。
食事が終わると、石川は保田から呼び出しを受ける。
「あのさ、後藤から聞いたけど、アンタの態度おかしいよ。
やっぱ先輩を無視するのは良くないと思うワケ」
保田から指摘されて、石川はカァッと赤くなった。
吉澤だけでなく保田まで巻き込もうとしている後藤を卑怯だと思った。
「……保田さんには関係ありません」
視線を逸らしたままで、石川は呟いた。
「石川、話はまだ……」
「この件に関して、お話しすることは何もありません」
保田の制止も聞かず、石川は身を翻した。
自室に引き上げて、石川はユニットバスに駆け込んだ。
洗面台で顔を洗う。涙が後から後から溢れてくる。冷水で腫れそうな頬を引き締める。
バスの扉が2回ノックされる。同室の吉澤だろうか。
「あ、ごめん。今出るから」
タオルで顔を拭いながら、扉を開けた途端に腕をぐっと捕まれて引き寄せられた。
「な……」
「んで……」
タオルがはらりと床に落ちる。石川は呆然と腕を掴んだ人物を見つめた。
「アハッ、誤解があるようだからじっくり話し合いたいって言って換わってもらっちゃった、部屋。
圭ちゃんも了解済みだよ」
後藤だった。
眩暈がした。
後藤はクルクルと部屋のキーを指で弄ぶ。
逃げられない。そう思った途端、石川は自分が落ち着いたことを悟った。
いわゆる開き直りである。
「…なにがどう誤解なんですか」
「なにもかもだよ」
「誤解してるとは思わないですけど」
「そう?」
「言います。保田さんに全部」
「言えば?」
後藤には些かの動揺も見られなかった。石川は唇を噛む。
「手、離してください」
「……やだよ。離したら逃げちゃうんでしょ」
「逃げません」
「ホントに?」
「……変なことしなかったら、逃げません」
念を押されて、石川は慌てて言い添えた。
「わかってる……唇には触れないから。絶対触れない」
妙に生真面目な顔をして、後藤は石川を見つめた。
石川が、どう解釈していいのか分からずに戸惑っていると、
後藤はぐいぐいと石川の腕を引っ張った。
「いた、痛いです」
「あっ、ごめん」
後藤はパッと腕を離した。拘束を解かれてほっとしたのも束の間、
肩を突き飛ばされて石川はどすんとシングルベッドの上に倒れ込んだ。
「いったー…」
背筋を丸めて起きあがろうとするも、石川は再びベッドに押し倒された。
「や……また……」
「何度でもするよ?」
後藤は、石川に顔を近づける。石川は思わず目と唇を硬く閉じた。
だが、後藤は首を左右に振ると乱暴に石川のキャミソールを引き上げた。
「……」
「……」
服に顔を埋めるようにして、石川の肢体に口づける。
石川は後藤から逃れようともがいて身をずらそうとするが、後藤の膂力はそれを許さない。
無言の攻防が続く。
ざり。
コーナーに追いつめられた石川の、剥き出しになった背中にホテルの砂壁が当たる。
「……っ」
皮膚が強く擦れた痛みに石川は思わず息を詰めた。
「どーしたの? ぶつけた?」
後藤と目が合う。心配そうな瞳をしていた。こんなひどいことを平気でしてるくせに。
「……」
石川は無言で視線を逸らした。
溜息を吐いて、後藤は行為を再開した。
指、手のひら、舌……後藤の与える刺激は変化に富んでいた。
石川は下唇をかみしめてただ耐えた。そういった経験の少ない石川にも、
後藤がかなりの手練れであることだけは理解できた。
ただ、後藤の指が背中の傷に触れるたびに短く息を詰める。
「今日は、泣かないんだ?」
首筋をくすぐるようなキスをしながら、後藤が囁く。
その額を押しのけようとすると、強く手を捕まれ、真っ正面から向かい合うようになる。
「……いつも」
「なに?」
「いつもこんなことしてるんですか?」
後藤は唇だけで、ふ、と笑って答えなかった。
「なんで、あたし、なんですか」
石川の言葉に、後藤はかすかに首を傾げると、耳元に唇を寄せた。
「なんでって? 気持ち良くない?」
そのまま後藤は、石川の耳朶を口に含む。
「や……誰、でも……い…んです、か……」
「…気持ち良かったらそれでいーじゃん…」
石川の首筋に熱っぽくキスをして、後藤はキャミソールを引き剥がした。
やや陽に焼けた肌が顕わになっていた。
「やだっ」
石川は身をいざらせたが、足は後藤にのしかかられ、
両方の手首は後藤の両手に捕まえられていた。再び背中が砂壁に傷つけられる。
後藤は唇だけで石川を犯す。
荒い吐息が部屋を支配した。
石川は必死で声を殺していた。後藤が敏感な箇所に刺激を与えるたびに、
意に反して背筋が反り返った。
ざり。
砂壁の音が吐息に混ざる。
(泣いちゃダメだ……この人の前では絶対に泣かな……)
「……ふっ……うっ……あ……」
石川は唇を噛み締めた。
激しい嫌悪感を抱きながらも、絶妙な後藤の愛撫にともすれば快楽に流れそうになる。
今となっては背中の痛みこそが石川にとっては正気の拠り所だった。
「気持ちいーなら、声出せば? 楽になるよ?」
後藤の言葉に、石川は俯いて首を振った。
(終わるなら──それもいいかもしれない)
そう思わないでもなかった。
だが、ここで屈すれば、明日はより屈辱的なことにエスカレートしているかもしれない──。
「ねぇ、泣かないの? 泣いてみせてよ、ねぇ」
後藤の声は、どこまでも明るかった。
石川の身体に触れていた後藤の指がふと止まった。
訝しげな顔をして、後藤は自分の指を舐めた。
錆びた鉄の味がする。
血だった。
「……」
後藤は乱暴に石川の肩を掴んで壁から引き剥がした。そのままくるりと石川を回して背中を見る。
傷だらけだった。ところどころで血が滲んでいる。
「なんで痛いって言わないのさ。痛かったら痛いって言えばいいじゃん」
「……いい加減にして」
石川は振り向いて後藤を睨み付けた。
ぱしん。
後藤の頬が鳴った。軽い音だった。
後藤はきかん気の強い子供のような表情をすると、石川の両手首を掴んでベッドに押し倒した。
スプリングの軋む音。
後藤は石川の唇を奪おうとする。石川は頭を左右に振ってそれを避けた。
身体ごといざれないように後藤は石川と足を搦めた。後藤の体温は少しだけ石川よりも高く、熱っぽい。
「唇には絶対触れないって!」
「気が変わった」
後藤の唇が石川のそれを捉えた。ざりっと噛んで抵抗する石川。
後藤の下唇が深く切れる。ポタリと血の雫が流れる。
「……ったー」
石川は、後藤の血に怯んだ。後藤は石川の手を取るとその指で自分の顎に付いた血を拭わせた。
そして、石川の指を口に含んだ。
「おなじ味がするよね?」
「………………」
ふ、と笑って、後藤は石川に口づけた。
キスは潮の味がした。
──海のなかで。
「……抵抗しないの?」
熱っぽい表情で後藤が見つめてくる。石川は無表情にそれを見返した。
“回路”が落ちたようだった。肉体と感情を繋ぐ回路。
「つまんないよ。抵抗してみせてよ、ねぇ」
くり返し口づけながら、後藤が囁く。指がわざとのように背中の傷を撫でさする。
時折、堪え切れぬ苦痛に襲われて、石川は顔をしかめる。
──溺れてるみたいだ。
目を開くと窓越しに空が見えた。空は建造物に小さく切り取られている。
向かいのビルの疎らに点いた電気が、海の中ですれ違うフェリーのようだった。
それから後藤に目を落とす。外からの光に白く肩が浮かび上がっている。
茶色く脱色した髪が首筋をくすぐって通り過ぎる。ただ嫌悪感のみで石川は後藤を見た。
後藤の指が局所に触れる。手早く敏感なところを探し当てられ、思わず身を反らせた。
「……っ」
「感度いいよね絶対……」
クスクス笑いながら、後藤は執拗にそこを攻めたてた。石川は自分の手首を噛んで、それに耐えた。
(──名前……呼ばれたことない……)
なにか重要なことを思いついた気がする。
しかし、それも波のように絶え間ない刺激の渦に呑み込まれた。快楽と、苦痛の渦に。
針に夜光塗料が塗られた時計が11時を示していた。
部屋に戻ったのが10時前だから、もう1時間もこうしていたことになる。
身体にのしかかる後藤の重さが増している。呼吸が深い。
おそらく眠っているのだろう。石川は後藤を起こさないようにそっと身をずらし、ベッドから降りた。
(……気持ち悪い)
後藤の愛撫は、やはり嫌悪感しかかき立てなかった。
石川は、昨日と同じようにユニットバスに直行した。
熱くしたシャワーは背中の傷に染みたが、温度は下げなかった。
痛みが自分を浄化するとでもいうように、石川はただシャワーを浴び続けた。
わしわしと髪を拭ってるとノックがした。2回。時計は11時半を差している。誰だろう。
ガウンを羽織って扉を開けると辻と加護だった。
「後藤さん、いはりますか?」
「いますか?」
二人は部屋の中を覗き込んだ。
「……眠ってるけど」
「ののちゃん、どーする?」
「んー…、んー…、どうしよっか…」
ひそひそと堂々巡りの話を始めた二人に石川は少しだけ苛ついて、二人の結論を待たずに言った。
「どうしたの? もう遅いよ? 明日にしたら?」
──後藤を起こしたくない。
「あんな、明日の武道館のことやねんけど…あっ、ほんまたいしたこととちゃうねんけど…」
「じゃあ明日、後藤さんが起きたら伝えとくから」
冷たい口調で切るように言い捨ててしまう。二人はびっくりしたように石川を見た。
「梨華ちゃん、どないしたん?」
「え?」
「首んとこ、なんや痣になっとんで」
「……」
思わずガウンの衿を立てて痣を隠す。引きつった顔に気付かれなかっただろうか。
加護は不思議そうな顔をしたが深くは追求しなかった。
何故なら。
「どーしたのー? 二人ともこんな遅くに?」
後藤が──いた。
後藤はだらーと石川にもたれかかった。辻と加護の前だ。
石川は、振り払いたいのをかろうじて自制した。
「あっ、あのー…、ねっ」
「あんな、明日な、武道館にうちらの家族くんねん。
ほんで悪いねんけど後藤さんと一緒に写真撮りたい言うてんねんけど、ええかな?」
「んんー…、そんな時間あったかなあー…楽屋は家族の人でも入れないしねー…」
後藤の答えに、二人は目に見えて落胆した。
「せやんなあ。うちもおかあちゃんに言うとってん。迷惑になんでって。
夜中にえらいすみませんでした。ほな、のんちゃん行くで」
「えっ、えー…、えー」
名残惜しそうに辻は、さっさと踵を返した加護と後藤とを見比べ、
それからぺこっと頭を下げてパタパタと走り去った。
「くーっ、かわいいねえ、あのこら」
「……離してよ、手」
「なんで? いいじゃん。身体あったかいね。お風呂はいったの?
髪の毛いい匂いがする。持ってきたの? ここのホテルのやつ?」
「飲み物、買ってくるし」
「ああ、そう? じゃーあたしのもヨロシク。同じでいいや。お金、後でもいいよね」
「…………」
振り切るようにして、部屋を出た。
ペタペタと廊下を歩いていると人の声がした。
近付くと自販機の前のソファに腰掛けた矢口、吉澤、市井の三人がいた。
「こんばんはー」
ペコリと会釈して通り過ぎる。
三人はコンサートツアー最終日である明日の武道館のライブの話で盛り上がっていた。
話題の中心となっていたのはやはり、明日で脱退する市井のことだ。
聞くともなしに耳を傾けつつ、石川は飲料を物色する。
ミネラルウォーターと烏龍茶を買って立ち去ろうとすると、矢口が明るく声を掛けてきた。
「梨華ちゃ〜ん。めっちゃめちゃセクスィーだけど、ガウン姿で部屋の外歩いちゃダメだよ〜」
「あ……」
石川は頬を赤らめて、半ば無意識のうちに後藤から与えられた刻印を隠そうとでもいうように、
ガウンの前をかき合わせた。
「そーそー、スリッパもダメダメ、ダメダメよ〜お、アハハッ」
市井が青色7の節で唄いながら、両足を持ち上げて足首を左右に振った。
市井はきちんとスニーカーを履いていた。
「ホテルにも寄るけど、スリッパとかは基本的に室内履きだからねー。そうそう浴衣もダメなんだよ?」
「そそそ、梨華ちゃんセクシーだから危ない危ない。おそわれちゃうぞー」
市井の言葉は、洒落になってなくて全然笑えなかった。
矢口と市井は石川のスタイルがいいの腰がやばいだの
胸がデカいだのセクハラトークで盛り上がり始めた。
肴になってしまった石川と、二人の会話に加わる隙を見失った吉澤と。
二人してぽつんと会話から取り残される。
「そーいやさあ、後藤さんは何してんの、今」
「んー…、なんだろ…、飲み物待ってる…」
石川は烏龍茶とミネラルウォーターを掲げてみせた。
「なにそれ。パシリ?」
吉澤の笑顔に、心臓が1回、鳴った。錐で突かれたような。穴があいたような。そういう、痛みとともに。
不整脈、かも。
石川はそちらから意識を逸らした。後藤が変な真似をするから自分も混乱してるのだ。
「んー…まぁ、あたしが買いにいくから、ついでで…、じゃ、後藤さん待ってるから……」
戻りたくない。
ここにいたい。なにもかも冗談にしてしまえそうなこの人たちのところに。
なのに、ここにいるのもいたたまれなくて。
石川は三人から背を向けた。
「あ、ねぇ、ちょっと待ってよ」
市井がソファから立ち上がって石川に近付く。正直、石川は市井が苦手だった。
どう接していいのか分からない。モーニング娘。に入る前は好きも嫌いもなかったのだが、
加入直後に脱退を聞かされて、その行動の解釈に悩んだものだった。
「あのさあ、後藤、どうよ?」
また後藤の話だ。辻も加護も吉澤も市井まで後藤後藤後藤。
石川は軽く溜息を吐いた。いい加減にしてほしい。
「どうよって、なにがですか?」
「そのー…、えーっと…、元気、かな? 落ち込んでない?」
「ぜんぜん元気ですよ。元気すぎてどうにかしてほしいぐらいです」
「あー…、ああ、そう。なんだ。そうなんだ」
よく分からないことをもごもごと市井は口の中で呟いた。
「あのさ、石川、後輩のあんたに頼むのも変な話だけど……、後藤のことよろしくね」
「は?」
石川はまじまじと市井を見た。市井はいたずらが見つかった子供みたいな表情で、両手を合わせた。
「あのこ、あっけらかーんとしているようでいて、メンタル面で弱いとこあるし。
年上の石川が気を付けてやってほしいんだ」
「はあ…」
「そういえば……後藤さんと市井さんて仲いいんですよね?」
ふと思いついて石川は、市井に訊いてみた。
「ん? 仲いいよ」
サクッと答えてから市井はへへっと苦笑いした。
「なんてね、思ってんのはアタシだけかもしんないけどさ。
後藤はねえ、矢口とかなっちとかのが仲いいよ。ね?」
「ほあ? なによ」
「後藤と仲いいよねえって。矢口」
「んー、いいよ。うん、仲良しだよ」
「そうなんですか?」
ちょっと意外だった。ASAYANで見る限り、後藤に一番近いのは─
─そう、思えば市井だった。なにかが心のなかでひっかかった。