9 帰る場所
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:50
- 9 帰る場所
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:52
- 「ねえ、付き合ってよ」
矢口から電話があったのは三週間前。
それから僕らは家や街やホテルで落ち合っては
ビールを飲んだりキスをしたり映画を見たり
ゲップをしたりコンドームをつけたりした。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:52
- 矢口とは15のときに付き合っていた。
名前を呼ぶことも出来ない間柄がそのまま僕らの距離感で、
手を繋いで学校から家まで
クラスメイトの目を気にしながら帰るのが
唯一にして絶対の戯れだった。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:53
- しばらくして矢口はアイドルになった。
テレビの中で強張った表情を浮かべる矢口を見るのが僕の日課になった。
それと同時に矢口からの連絡は糸が切れたように途絶えた。
一度だけ電話をしたが繋がらなかったので、
それ以降僕から連絡することも無く、15の戯れはそれで終わった。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:53
- 四年後、矢口から一通の手紙が届いた。
タンポポというグループから卒業するので
見に来て欲しいといった内容が書かれた便箋と
1枚のチケットが封入されていた。
僕には矢口の考えていることや胸に秘めていることなどは
何一つわからなかったし、それを想像しようとも思わなかった。
ただ、僕はそれを見なければいけない気がしていた。
犬が自分の尻尾を追いかけるような感情が僕を動かしていた。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:54
- 矢口は言った。
「来るとは思わなかった」
僕は言った。
「そう言うと思ってた」
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:54
- 「どうだった?」
「可笑しなことに人の上にタンポポが咲いてたよ」
「可笑しくなんかないよ、オイラ泣いちゃったもん」
「そういうもんなんだね、きっとそれが正しいんだ」
「君は変わらないね」
「そういう矢口は変わった」
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:55
- 矢口の笑顔は不完全であるという点において完全だった。
感情を取り除いて造形美だけを求められた前衛作品のような
簡素な笑顔が矢口の顔面に張り付いていた。
テレビで聞いていた「オイラ」という自称がその思いを強くさせた。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:55
- 「なんでチケット送ったか訊かないの?」
「昨日寝る前に、神様に理由を教えて下さいと尋ねたんだ。
だけど無言だったから照れているんだと思って止めた」
「なにそれ。相変わらずわけわかんない」
矢口は笑った。
久しぶりに見る笑顔だった。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:56
- それから酒を飲みながらとりとめのない話をした。
矢口が仕事の愚痴を言えば、
僕は大学の友人の馬鹿話をした。
矢口が学生時代を懐かしめば、
僕は単位を取ることの難しさを語った。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:56
- そして、僕らはホテルにいたのでセックスをした。
僕と矢口には、それぞれ恋人がいた。
それでも昔は出来なかったセックスを朝までした。
抱き合うということは肉体的な?がりよりも
内奥に接近できるという悦楽が大きい。
観察よりも感知。達成感ではなく安心感。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:56
- ベッドの上でラッキーストライクを吸いながらケータイの番号を交換して、
それから三年間、また顔を合わすことも話すことも無かった。
僕はその間に三人の女の子と付き合った。
全員、身長が160センチ以上あった。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:57
- 矢口がアイドルグループから卒業した。
若手俳優とのデート現場が写真週刊誌に掲載されたからだ。
それから三週間後、僕のケータイが初めて矢口からの電話で鳴った。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:58
- 矢口の住むマンションの前に着くと、
一階のロビーで待っていた矢口が僕に気付いて走り寄ってきた。
マスクに黒のジャージ姿だった。
僕の近くまで来ると、走るのを止めて顔を俯けた。
手入れが出来ていないのか栄養不足なのか染髪で痛んだのか、
古びた着せ替え人形のような髪が悲鳴をあげていた。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:58
- 矢口に連れられて部屋に入ると、
空になった弁当箱や乱暴に開かれた雑誌や
半分くらいまで飲まれたペットボトルたちが
高級そうな羊毛のカーペットを蹂躙していた。
矢口はその上に無造作にも座り込んでテレビをつけた。
僕は空隙を見つけて慎重に座った。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:59
- 「ねえ、君の学校の友達は私の話してる?」
矢口が背中で僕に喋りかけた。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 20:59
- 「どうだろうね」
「どうだろうねってどういうこと」
「信じてもらえないかもしれないけど、
友達が一人もいなくなったんだ」
「なんで」
「一つに最悪に嘘吐きだから、二つに友達の彼女に手を出した、
三つ目が一番の問題なんだけど、僕は大学を辞めたんだ」
「なんで?」
「なんとなく。なんとなく入学するんだから
なんとなく退学しても不思議じゃないだろう」
「そういうものなの?」
「そういうことにしておけばいいんだよ」
「そうなんだ」
「そうだよ」
「そうかもね」
もう一度言うが、僕は嘘吐きだ。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 21:00
- 矢口とテレビゲームをして、酒を飲んで、タバコを吸った。
だらしなく閉ざされたカーテンの隙間から夕日が差し込んだ頃、
髭を抜かれた猫のように混乱した顔の矢口が僕にキスをした。
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 21:00
- 「私のこと好き?」
「好きだよ」
「なんでこんな私が好きなの」
「そんなことは言わないほうがいい」
「私はもう歌えないし踊れない。
もうアイドルじゃないんだよ」
「冷たいようだけど、僕には関係ないことだ」
「それに何年も連絡しないで
都合のいいときだけ呼び出して
好き勝手言ってやって……」
矢口は嗚咽を漏らしながら僕の太腿に爪を立てた。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 21:01
- 「みんな嫌い、みんな嫌いだよ」
「誰かを好きになることは難しいよ。
誰だって願ってるさ、人を好きになりたいって。
でもそれが悲しいほど難しいから
人は本を読んだり、音楽を聴いたり、
ときには宗教に答えを探したりするんだ」
「君は私のこと好きじゃないの?」
「好きだよ。僕はずっと前から気付いていた。
15のときから今まで一度も忘れることなくすぐ側にあった。
縮小したり膨張したり形を変えながらも常にそれはあった。
時間の問題じゃないんだ。気付くか、気付かないかなんだ。
これだけは本当のことさ、君が好きだ」
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 21:01
- 四年後、僕は勤務先の3歳下の後輩と結婚した。
引っ越したばかりの素っ気無い部屋に置かれた赤いソファーの上で、
僕らは肩を寄り添い合いながら三日前に買ったテレビを見ていた。
青春について矢口がたった一人で唄っていた。
唄い終えた矢口は、また泣いていた。
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 21:02
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- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 21:02
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- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/05/30(土) 21:02
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