04 神の涙

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:08

04 神の涙
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:09

「こうしてると、あたしがどんどん溶け出してるみたい」
何人かの見張りとわたしに見守られながら、泉で水を浴びているその人は言った。

その人の指先からこぼれる雫を見ていると、本当に溶けているように見えた。
満月に雫はキラキラと輝いて、とてもきれいだなあと思った。


。。。。

3 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:09
「ヒトミ様、どうかお恵み下さい」
「はい」

ヒトミ様は、流行の疫病で死にかけているという幼い子供を見てそっと微笑んで、
自らの細長く白い指を同じくらい細い刃物で切った。
やがて液体がじわじわと滲み出てくるけれど、その液体はわたしたち一般の人間のように赤く生臭くはなかった。
その血は、まるで水のように無色透明で無味無臭。

ヒトミ様は召使が持つ水を張った小さな入れ物に自らの血液を垂らす。
召使が病気の子供にそれを飲ませると、子供の細く切れそうだった呼吸が力強いものに変わっていく。
ヒトミ様は、ほっとしたように頬を緩ませた。
「あぁ…ヒトミ様、ありがとうございます…!このご恩は一生忘れません」
「よかったですね。親子共、健康に生きてください」
頭を床に擦り付けてもなお足りないといった風の母親に向けて困ったように笑い、
ヒトミ様は気取らない口調で今日初めて会った親子の健康を祈った。

今日はもう何人目だろう。
この場所とは全く環境の違う荒れ果てた村では病気がいつまでも消えない。
ヒトミ様はなるべく多くを救おうとして毎日のように透明な自らの血を流し続けた。
この村では「神の涙」と呼ばれる、怪我や病気を治癒する不思議な力を持った血だった。
ヒトミ様は日が沈む頃にはおつとめを終えて部屋に戻り、貧血でふらふらしながら白いベッドに倒れこむ。
それでもまた明日も多くの血を分け与える。一度だって拒むことなく、自らを犠牲にする。
あの方のそういうところが、わたしはとってもとっても大好きだ。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:09
夕日が完全に沈む手前。
どさ、と思い切りよくベッドに倒れこんだヒトミ様がわたしを見た。
細められた穏やかな目に、思わずどきりとしてしまう。
ヒトミ様は同性異性関係なく人を引き寄せる顔立ちをしているから。

「サユミ、包帯をくれる?」
「はいっ」
小さな時にこの顔を気に入られてヒトミ様に仕えることになったわたしは、
ここに勤める多くの召使の中でもまた特に気に入られているという自覚がある。
わたしも美しいヒトミ様が大好きだし、この方のお力はすごいと思う。

ヒトミ様はこの村では神様に等しい存在。
触れることは許されないので、包帯を入れる箱に包帯を乗せて差し出す。
「今日もおつとめお疲れ様です」
「ありがとう、サユミに言ってもらえると一番疲れが取れる気がするよ」
「ふふっ、サユミは元気ですから、サユミの笑顔で元気を分けてあげます」
「うん。すごくかわいい」
「ヒトミ様もきれいです」
「ありがと」
その時に微笑み合う時間が、一日で一番好きだった。
ヒトミ様の優しくてきれいな笑顔。笑顔だけじゃない、溢れるような優しさ。
不思議な力なんかなくてもきっとわたしはヒトミ様が大好きだっただろうと思う。


疲れているヒトミ様は指の手当てをするとすぐに眠りについた。
わたしは特別に部屋の少し離れた場所で眠ることが許されていた。
ヒトミ様の眠る横顔が見えるこの場所で、わたしは微笑みながらゆっくりと目を閉じる。
とてもとても幸せな時間。
一部の狂信者にばれたらきっと大変なことだろう。それほどヒトミ様はこの小さな村で大きな存在だった。当然だけど。
でも本人が神のような扱いを望まないから、わたしは下僕ではなく妹のような存在でいようと思う。
不思議な力を授かった代わりに、家族に会うことすら出来ないヒトミ様のために。

おやすみなさい、ヒトミ様。
明日もあなたが優しく笑っていてくれれば、わたしは幸せ。


。。。。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:09
泉のほとりで、半月以上満月未満の月を見上げていた。

「…うう、寒い」
今日は少し冷える。
わたしは自分を抱き締めて肩をすくめて、少しでも温まるようにと小さくなった。
ヒトミ様が泉の中からそんなわたしを見て笑っている。
白い肌を惜しげもなく月明かりに晒して、細くしなやかな御身体は本当に絵のような姿だ。

「サユミも、入る?」
「…え?駄目ですよ、それは。決まりごとですから」
「でも、とても寒そう。泉はあたたかいよ」
「駄目です。サユミは大丈夫ですよ」

「…戻ったら、暖かいミルクを一緒に飲もうか」
「はい、そうですね」

わたしの笑顔に少しだけ寂しそうだったけれど、ヒトミ様はすぐにいつもの笑顔に戻った。
そしていつもより早くお清めを終えて、部屋に戻った後にすぐ暖かいミルクを二つ頼んだ。
間もなく運ばれてきたミルクを二人で冷ましながら少しずつ飲む。
あったかくて、ほんのり甘い。

「…ありがとうございます、ヒトミ様」
「ううん、…こんなことしか出来なくてごめんね」
「いえ、サユミはすごくすごく幸せです。サユミは嘘はつきません」

本当に幸せだから、にっこり笑えた。
わたしの笑顔に安心したのか、ヒトミ様は二度息を吹きかけてからゆっくりとミルクを啜った。
ミルクの甘い香りで包まれた部屋。
わたしの心も体も、ぽかぽかだった。


。。。。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:10
今日も同じようなおつとめの日々。ヒトミ様が血を与え、人々は健康を取り戻す。
本当は村の環境から改善されれば人も病気になることはないのだけれど、貧乏で向上心のない村では無理な話だった。
何かあればヒトミ様が何とかしてくれる。ヒトミ様さえいれば大丈夫。そんな感じ。
嫌気がさすこともあったけれど、わたし一人がどうこう出来る問題ではなかった。


「ありがとうございますヒトミ様…!」
「いいえ、これからは健康に気をつけてください」
「はい、ヒトミ様に頂いたこの命、大切に致します!」
何度も何度も頭を下げながら去っていく老人を見送りながら、外を眺めた。
日の沈み具合でわかる。もうそろそろおつとめも終わり。
わたしは外に出て今日のおつとめの終わりを告げに向かった。

「では、あなたで今日は最後です。以降の方は申し訳ありませんが明日またいらしてくださいね」
一人の大柄の若者を二人がかりで引き連れている村人を中に入れ、後ろの列に向かって言った。
「そんな…、この子はもう三日も熱が下がらないんです!もし今日死んでしまったらどうするのですか!」
三つくらいの子を抱えた母親に縋られる。
けれどいつもの光景なので、わたしももう慣れた。
それに、こう言ってしまうと悪いのだけれど、ヒトミ様のお体の方が心配だった。
「そうは言いましても、ヒトミ様にも限界はあります。決まりごとは決まりごとです。
 よければ薬草と清潔な寝床がある場所へご案内致しますが。幸い病状はまだ軽いようです。一晩ならば充分持ち堪えるでしょう」
「ああ…わかりました。よろしくお願いします」

親子をヒトミ様のいる棟から少し離れた別の棟に案内し、帰り際に完全に列がほどけたことを確認してヒトミ様の元へ戻っていく。
今日はとびきりの笑顔でお疲れ様と言おう。
重病人が多かったから、与える血も少しいつもより多かった。疲れているだろう。
だから、わたしに出来る精一杯のことをしてあげよう―――――


さっと薄い布を手で分けて部屋に体を進める。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:10




「…ヒトミ様…?」




広い空間が一面赤に染まっていた。



8 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:11
何で赤?
…生臭い?
みんな倒れている。
三人の男だけが、立っている。
あれはさっき、招き入れた病人のはず…
どういうこと?


「ああ、ああ、もったいない…なんてことだ、まさか召使なんか庇う神がいるとは」
「折角の金儲けの道具が台無しだ。せめてこの血だけでも持って帰ろう」
「しかし本当に透明なんだな…薄気味悪い。この神様も可哀相に。
 これだけ美人なら普通の人間として生まれたほうが幸せだっただろうな」


召使の亡骸が無造作に横たわって赤いものを止め処なく広げている。
わたしは何がなんだかわからないまま、三人の男が集っている場所へと目を向ける。


男に囲まれて、ヒトミ様が目を閉じて横たわっている。


彼女の胸から腰にかけて、大きく傷口。
ヒトミ様も召使のように止め処なく、けれど召使のとは違い透明なものを床に広げていた。
男たちはそれを必死にかき集めていた。
時には興味深そうに大きな目を閉じたヒトミ様の顎に手を当てて、顔をしげしげと眺めていたり。
青みさえかかった白く細い首筋を撫でていたり。
何度も何度も床や体から液体をすくい上げて、皮袋に流し入れ。

汚い手でその御身体に触らないで。
汚い手でその血に触らないで。
ヒトミ様から離れて。

ヒトミ様。
ヒトミ様。

ヒトミ様―――


わたしは何かが切れる音と共に動き出した。
三人の大きな男に敵う筈もないのに、わたしは無我夢中でヒトミ様に向かって走った。


。。。。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:11
それからのことはあまり覚えていない。
気が付いたら全身が痛くて、生き残りであるらしい召使がわたしの顔を覗きこんでいた。
ぼんやりとした意識と激しい痛みの間で、わたしは何よりも言いたいことがあった。


「…ヒトミ様は」


掠れながらもやっと搾り出したわたしの声に、召使は涙を流しながら首を振った。
わたしの世界が絶望の色になった。


。。。。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:11
召使があの有様を発見した時に、ヒトミ様を襲った奴等は消えていた。
どうやら他所の村から金のためにヒトミ様を連れ去ろうとしたとのことだった。
現在、万能薬の「水」が世界中で信じられないような高値で取引されているらしい。

いつかこうなる日が来るのではないかと、ヒトミ様は話していた。
もしあたしが死んでもそれは多分運命だから、サユミは何も恨まないで。
あたしはきっと長くは生きられないけれど、でも幸せだったから。だから、何があってもサユミはサユミのままでいて。
わたしにだけ、何度かそんなお話をしてくれた。

『何があっても』…こんな未来を、いつでも感じていたのだろうか。
それでも毎日のように誰かのために生きていくなんて、本当になんて気高く優しい人なんだろう。
本当は思いたくないけれど、あの時ヒトミ様を殺した男の言葉が蘇る。
もしもヒトミ様が普通の人間として生きたなら、もっと幸せだったんじゃないかって思ってしまう。
でも、何ももうどうしようもないことだった。


ヒトミ様の亡骸はとてもきれいだった。
体に大きな傷があるけれど、布で隠してしまえば眠っているヒトミ様と変わりはないように見えた。
でも、ヒトミ様はもう二度とあの優しい笑顔を見せてくれることはないんだ。
そう思っても何故か実感がわかなくて、涙が出なかった。
今日は疲れて眠ってしまっただけで、明日もまた会えるような気がした。

ヒトミ様の葬式は、いつもヒトミ様が村人を治癒していた場所で村人全員を集めて行われた。
村人みんな、ヒトミ様のために涙を流していた。
ヒトミ様はみんなに愛されていて、最高の神様だ。
まだ実感はないけれど、もうヒトミ様に頼ることは出来ない。
召使を庇って、亡くなった。そんなにも優しい人。
村人もきっとこの美しく優しい人を見習って、これからは自分の力で生きて行こうと思ってくれているはず。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:12

「では、埋葬に入ります」


どこからともなく声がして、本当のお別れが迫っている。
深く土に還ったら、もうヒトミ様の美しいお顔を見ることは出来ない。
実感はないのに、ただ事は進んでいく。


…と。
進行をしていた者の言葉に、誰もが悲しみに暮れていたはずの空気が少し濁った。
霞むとかじゃなくて、どろっと濁る。汚くなる。
え。
なに?これ。
どうしてだろう、なんだか嫌な感じがする。


わたしが理由のわからない寒気を感じている時に、ある村人の声がした。



「…ヒトミ様の御身体を食べても、もしかして…病気が治るんじゃないか」



え?
…何?
何て言ったの?今。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:12
「そうかもしれない…埋めるのは、勿体無い」
「駄目でもともとだ、食べてみないか」
「血であれだけの力があるんだ、もしかしたら肉はもっと力があるかもしれない」

どんどん声が沸きあがる。
それと共に村人が、ヒトミ様の亡骸にじりじり近づいていく。


…何、を。
言って、いる…の…?

多くの召使までもが、俯いて制止の声もあげない。
ここで一番権力のあるはずの村長も、ヒトミ様をぎらぎらした欲望の目で見ていた。
ヒトミ様に助けられてきた村人は、とても醜い表情でヒトミ様に手を伸ばしている。

ヒトミ様が…食べられる?
なんで。
なんで、なんで、なんで、なんでなんで。
どうして?どうして?どうして?


「神よ、恵まれない者に愛を」
「神よ」
「神よ」
「神も望んでいるはずだ、恵まれない者への御慈悲を」
「神よ」
「神よ、その力をどうか恵まれない私たちにも」


ヒトミ様の白くきめ細やかな肌に無数の手が伸びる。触れる。
汚い。
汚い。
神、なんて。
自分の都合よく神なんて言葉使わないでよ。
もう話せない女の人に向かって勝手なことばかり言わないでよ。
恵まれない恵まれないって、あんなに助けてもらって、まだ足りないって言うの?
何でこんなことが出来るの。
わかってるの?
人間だよ?
ヒトミ様は、人間の姿をしている。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:13
やだ。
やめてよ。
触らないで。

こんなのって。
こんなのって。



「やだ…やめてよ、やめて!触らないで、ヒトミ様に触らないで!!!」



わたしが何をしようと小さなものが集合となった力には敵う筈もなかった。
懸命に叫んでも、わたしの声が届くことはなかった。
あの集団の中にヒトミ様の家族はいるのだろうか。どこかでそう考えて、考えたくなくて叫ぶ。
叫んで、飛び込んで、何も出来ない。
わたしは集団に弾き飛ばされて地面に顔を打ち、鼻から赤いものが出た。
それを見ながら、悲しみとは違う涙で頬を濡らし地面を叩きながら叫んだ。

どうして。
どうして。
あの方の血が、透明だったばっかりに。


…ヒトミ様。
これが、あなたの望んでいた人生だったんですか?
村人は結局あなたを裏切りました。神よりも結局は自分が大切なのです。
自分が生きるためなら、神を冒すことすら何のためらいもありません。
あなたが生かした人間は、あなたを殺した人間と同じ種類です。
あなたの肉を、なんのためらいもなく貪っています。
きっとすぐに骨もすり潰されて、あなたは跡形もなくなるでしょう。


『何があっても』。
…こんなことまで、見ていたんですか。
それでもあなたはこんな人間共のために身を削っていたのですか。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:13

あなたは、馬鹿ですよ。
優しすぎるのは、きっとただの馬鹿です。
馬鹿なあなたを嫌いだと思います。



でもそれ以上に、もうどうしようもないくらい、あなたのことが大好きです。


わたしだけが、あなたの家族。
わたしはあなたの妹です。
わたしだけが、あなたをずっと大好きです。


いつしかわたしは叫ぶ声もなくなって呆然としていた。
何が起こっているのかは想像がつく。村人は笑っていた。笑って食べていた。
起こっていることに現実味がないのは、なんの匂いもしないからだろうか。
動物を解体した時に匂う生き物の抵抗すら感じなかった。
匂ったのは、わたしのいつしか止まった血だけ。
わたしはまだ生きていた。
生きる意味など、もうないのに。


。。。。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:13
静かだと思ったら、わたしはいつの間にかヒトミ様が水浴びをしていた泉へと歩いていた。
人はいない。
何の気配もない。
ヒトミ様がここで水浴びをすることも、もうない。


澄み切った泉。


ヒトミ様。
面影を求め、泉に触れる。あたたかい。
すると、ヒトミ様に触れているような心地がした。
変なの、御身体に触れたことなど一度もないのに。
だけど多分、こんな風にあったかいんだろうなあって思う。
もしかしたらあの時言っていたように、ほんの少しヒトミ様が溶け出しているのかもしれない。
…なんて。

ああ。
優しくてきれいなあなた。
出来ることならば、疲れたあなたを抱き締めてあげたかった。わたしを抱き締めてほしかった。
年上のあなたの頭を撫でてあげたかった。わたしの頭を撫でてほしかった。
手を繋いで一緒に眠りたかった。
もっともっと一緒にいたかったのに。
会いたい。
会って、お話がしたい。


指先から滴り落ちる雫。
ぎゅっと胸に抱き締めて、ぬくもりを感じた。
…やっと、素直にあなたを失った悲しみが溢れてくる。
「うっ…うっく…ひっく、うぅ、う…」
心で何度もヒトミ様を呼んだ。
悲しくて悲しくて涙が止まらない。


……ヒトミ様。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:14

『サユミ』



突然に。
何度そう呼ばれたか知れない、耳に馴染みきった声がした。
はっと顔を上げて辺りを見回す。
けれどやはり姿はなく、わたしは自分の崩壊が見えた気がした。
わたしはわたしのままでいてと、願ってくれたのに。
もう、サユミは壊れてしまうみたいです。


『サユミ、あたしはここだよ』


それは泉から優しく響いていた。
ああ、ヒトミ様。
そこにいるんですね?

…今、サユミもそっちに行きます。


わたしはその空耳に顔をほころばせて、泉に身を投げた。


17 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:14
ゆらめく瓶覗の泉の世界はこれまでに見た景色で一番美しかった。
ヒトミ様の腰ほどのはずだった泉の奥にどんどん沈んでいく。
不思議と苦しさは感じなかった。


どんどん沈んでいくと、やがていつもの優しい笑顔でいるヒトミ様が見えてくる。
ヒトミ様は、とてもお元気そうだ。
いつもより顔色もよく頬もふっくらして、とても嬉しそうに笑っていた。

「ヒトミ様…!」
「おいで、サユミ」
ヒトミ様が初めて手を広げてくれた。
わたしは思いきりその腕の中に飛び込んで、優しく抱き締めてもらった。
そして、痛いと言われそうなほどに思いっきり抱き締め返した。

「あたし…ずっとずっとこうしたかった。いつもありがとうって、抱き締めたかったよ」
「サユミも…ずっと、こうしたかったです」
「大好きだよ、サユミ」
「サユミもヒトミ様が大好きです」

優しく微笑み合う。
いつものように、いつも以上に。
わたしはもう泣かなかった。泣く理由なんて、なかった。


わたしたちは抱き締め合い、手を取り合っていつまでもそうしていた。
穏やかで優しい気持ちになれる。
ヒトミ様もとても幸せそうで、わたしは今までで一番幸せだと感じた。


。。。。
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:14


「あたしは、神なんかじゃない」


「…え?」
両手を重ねるように繋いだまま横たわり、うとうとと甘い眠気に身を任せていた時。
もう眠りがすぐそこまで来ているわたしの耳元で声がした。
涼しげな、この泉みたいな声だった。


「あたしは、神なんてものにはなれないよ。ただの浅ましい人間だ。
 …大切なものを傷つけるならば、それを許すことは出来ない」
「…?」
ヒトミ様が少し辛そうに見えたから、心配になる。
するとそんなわたしを察したのか、ヒトミ様はいつもの笑顔になった。

「いいよ、もう寝よう。これから時間はたっぷりあるんだから」
「…はい…」

そう、時間はたっぷりある。
これからずっとずっとこうして、ヒトミ様といられるんだ。
わたしはヒトミ様に髪を撫でられながら、安心して深い深い眠りに落ちていった。


。。。。
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:15


。。。。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:15

その日、一つの村が原因不明の病により滅びた。
そして、高値で取引されていた万能薬と噂の謎の液体を飲んだとみられる世界各地の富豪たちが原因不明の死を遂げた。
あまりに凄惨な死の様子から、新種の病原体の出現だと世界が恐怖した。

猛毒と化したかつての万能薬の所持すら恐れ、その液体を川などに流した者が多数出現したことにより、
世界の破滅に向けていつか「神の涙」と呼ばれたものは多くの海や川へと流れ出しあらゆるものを汚染した。

海や川が汚れ、魚は死に絶え、草木は枯れ、水分を含む全てのものが毒を持ち、生き物は死んだ。
世界は毒にまみれ、やがて沈黙した。



今も鈴が鳴るような笑い声が聞こえる、ただ一つの美しい泉を除いて。


21 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:16
。 
 ○

 。
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:17



23 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/08(日) 22:17

end

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