01 あの山に登ろう

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:11
01 あの山に登ろう
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:11
その場の勢いだった。
その場にいた全員が全員とも「冗談だよね?」と思っていた。
深夜3時のファミレスでの、女だけでのお喋り。
超音波のような苛立たしい声を撒き散らしての大騒ぎ。
際限なく上がっていくテンション。

発言には内容などなく、「言ったもの勝ち」的な言葉が遠慮なく行きかっていた。
面白ければ何を言っても許される。そんな空気が支配する空間。
だから「面白い!」「やろうやろう!」と言いながらも
本当にやると思っている人間は一人もいなかったはずだった。

今となっては誰が言い出したことかすらはっきりしない。
だが確かに誰かが言ったのだ。自信満々な口調で。

「やるからには目指せ日本一だあ! だから! 今からみんなで!
日本で一番高い山に登りに行こう!」

何を「やるからには」なのか、何が「だから!」なのか全く意味不明だったが、
その場には論理的思考をする人間など一人もいなかった。

無理は通り、道理は引っ込んだ。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:11
マジでか。マジで登るんか。
これって出来の悪い悪夢やないのか。夢ならはよ覚めてくれや。
中澤裕子は心のなかでつぶやいた。
東京からタクシーやバスを乗り継いで2時間、いや3時間はかかったかもしれない。
目の前には日本で一番高いとされる山がそびえたっている。
夜はとっくに明けていた。

「なあ、ホンマに登るんか? これから?」
中澤は確認せずにはいられない。
だが憂鬱な表情をしているのは中澤だけで、
他のメンバー達は本物の山を目の前にして狂ったように騒いでいた。

「まあ、まあ。」
その中でも比較的落ち着いているように見える石黒彩が中澤をなだめる。
「行けるところまで行って、ダメなら戻ってくればいいじゃん?」
その石黒の頬も気のせいか上気しているように見えた。

中澤はため息をつきながらうつむく。
石黒の足元が視界に入る。
彼女の美しい足は、決して低くないヒールの、瀟洒な靴に収まっていた。
「悪夢や」
中澤はもう一つ、天に向かって盛大なため息をついた。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:11
中澤の苛立ちを踏みにじるように、けたたましい笑い声が響き渡る。
「アハハハハ。これ、見てよ福ちゃん」
安倍なつみが、いつものように好奇心に満ちた視線を道の傍らに向けていた。
そこには安倍の胸の高さくらいの、石碑が一つ立っていた。
どうやら山頂までの道しるべの一つらしい。

「標高1400mだってさ! なっち達もう既に1400mも登ってるよ!」
「なっちさあ、『海抜』って言葉知ってる?」
「はあ?なにそれ」

いつの間にか彼女達は一合目に到達していた。
この山は麓の時点で、およそ海抜1400mの高さがあった。
山頂の高さが約3700mであるから、残りはおよそ2300mということになる。
安倍に話しかけられた福田明日香は、
頭の中で簡単な計算をして、そのことを安倍に伝えた。

「え〜! なにそれ! 0mからじゃないの〜」
「なっちの住んでるとこだって、0mってことはないと思うよ」
「なんか損した感じだよね〜」
「なっちが気づいていないだけだよ。みんなそうなんだよ」
「みんな?」

そう、みんな。
自分が海抜何メートルで暮らしているかを意識している人なんて、いやしない。
気づいていないだけなんだ。
自分の力で3700m登ったと思っても、実際は2300mしかなかったってことに。
福田は心の中でそうつぶやく。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:12
「え〜! なにそれ! 0mからじゃないの〜」
安倍の発した言葉を飯田圭織は呆然としながら聞いていた。
ファミレスでの変なテンションが消えていたのは中澤だけではなかった。
飯田は一合目に達する頃には既に後悔をし始めていた。
「とりあえず五合目までは車で行けるよ」
という福田明日香の常識的な提案を一蹴したのは、他ならぬ飯田だった。

「車で登ったら意味ないでしょ!! 一合目から歩いていくの!」
その時は、その場にいた全員が飯田の意見に賛同して、賞賛してくれた。
だが冷静に考えてみれば、福田の意見を採用すべきだったかもしれない。
少なくとも飯田は、登山に対する何の準備もしていなかった。

こんなことで本当に登れるのだろうか?
突然自分の胸に湧き上がって来た不安に、飯田は大きく動揺し、涙を流した。
「一合目からなんて行ってる場合じゃなかった・・・・・
なんでこうなったんだろうね。昨日に戻りたい・・・・」

「あのな、カオリ」
自分の世界に浸っている飯田に向かって、中澤は汗をたらしながら言った。
「そんなこと言うなら、少しはこの荷物持ってーや!」
中澤の背中のリュックには、ここまで来る途中で立ち寄った店で買い込んだ、
水や食料などがパンパンに詰まっていた。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:12
中澤が全員分の水や食料を一人で持っていた。
なにしろ、準備をしながらこの山までやってきたので、
リュックサックは一つしか手に入れることができなかった。
なので全員分の水や食料は、その一つのリュックにしか入れることはできない。

メンバー全員が持っていた荷物は、ファミレスの近くの駅のロッカーに入れていた。
つまり中澤以外のメンバーは皆、手ぶらだった。

「最年長だから」という理由だけでリュックを押し付けられた中澤は、
リュックを押し付けられたことよりも、年齢のことを言われたことに激怒した。
「まあまあまあ、それくらいの荷物なら大したことじゃないじゃん」
安倍が、鷹揚とした態度で中澤をなだめる。
なぜこいつはこんなに偉そうなんだ。中澤は安倍を指差して叫びたくなった。
「一番たくさん食べ物を買い込んだのはお前やろうが!」と。

そんな中澤の気持ちを知ってか知らずか、安倍はにこやかに中澤に語りかける。
「ねえ、裕ちゃん。順番だよ、順番」
「順番?」
「しんどくなったら、なっちが代わってあげるからさ」
お、こいつも結構良いところあるやんけ、と中澤が思う前に安倍が一言付け加える。

「最年長っていうのは代わってあげられないけどね」
中澤の鋭い手刀が安倍のおでこにヒットする。
綺麗に切りそろえられた安倍の前髪がふわっと揺れる。

ちなみに。
安倍が、中澤の代わりにリュックを背負うということは―――
結局最後まで一度もなかった。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:12
「あ! 二合目に着いたみたいだよ」
市井紗耶香が石碑を見つけて声を上げる。
くるりと振り返ると、一合目では福田とカイバツがなんちゃらと騒いでいた安倍は、
興味なさそうな顔をして、市井の言ったことにはほとんど反応しなかった。
どうやら早くも飽きてしまったようだ。

市井は福田と顔を見合わせて苦笑する。
「なっちの気分は山の天気のようにコロコロ変わるから」
安倍には聞こえないような小さな声で福田が囁く。
「ホントにねえ。あ。本当に雨とか降ったらどうしよう?」
市井はそういって空を見上げる。
山の天気は変わりやすいとはいえ、今のところ雨雲は影も形も見当たらない。

「問題ないでしょ!」
福田が、市井の心を見透かしたように元気に答える。
この山を登りきるまで、ずっとお日様が照らし続けてくれる。
このメンバー達の行程に影が差すことなどありえない。
ずっと陽の当たる道を歩いていけばいい。

市井は、福田の口ぶりからそんな思いを想像していたが、
勿論福田はいつか必ず影が差すときが来ると知っていた。
だがそんな思いは一切、表情には出さず、
おどけた口調で福田は市井に語りかけた。

「いざとなったら傘もあるんじゃない? 裕ちゃんのリュックの中にね」

列の一番後ろでは、重そうなリュックを背負った中澤が、
ふうふう言いながら歩いていた。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:12
二合目を過ぎても一行の足取りは衰えず、順調に山を登って行った。
保田圭はしきりに後ろを振り返り、中澤のことを気にかけている。
「ねえ、カオリ。ちょっと裕ちゃんしんどそうだけど」

保田の声が聞こえているのかいないのか、
飯田は真っ直ぐに前だけを向いてずんずんずんずん進んでいく。
保田がもう一度声をかけようとしたとき、飯田が唐突に振り返る。

「裕ちゃん!」
痛切な思いがこもっているような響きが、飯田の声にはあった。
ああ、やっぱりカオリも裕ちゃんのことを気にしてるんだな、
と保田が思った瞬間、飯田は中澤のリュックに手をかける。

「水ちょうだい」
飯田はリュックを乱暴に開けて水筒を取り出し、ごくごくと水を飲んだ。
その飲みっぷりのあまりの勢いに、保田は固唾を呑んだ。
すると横から安倍も出てきて「なっちも! なっちも!」とか言いながら、
飯田以上の勢いでごくごくと水を飲み始めた。

「あー! 生き返った!」
二人はそんなことを言いながら、水を中澤のリュックに戻した。
一つしかないリュックには、当然ながらそんなにたくさんの水は入っていない。
よく遠慮なくあんなにごくごく飲めるなあ・・・・・・・・
他のメンバーに対する気遣いというものを全くしない二人を見て、
保田はなぜか嫌悪感よりも羨ましい気持ちの方を強く感じた。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:12
「そこまで気、遣わんでええで」
あきれた表情をしている保田に、中澤が言葉を返す。
「水がなくなったら、そんときはそんときや。諦めたらええねん」
そんなことを言っている中澤は、ちっとも諦めたような表情はしていなかった。
むしろ何か清清しい。
保田は中澤の真意が理解しがたかった。

「裕ちゃんがそんなことじゃ困るよ〜。しっかりしてくれないと〜」
横から声を出したのは矢口真理だった。
丁度そのとき、一行は三合目に到達した。
それなりに登ってきたつもりでも、まだ三割にしか達していない。
このまま本気で山頂まで登ろうと思うのなら、
ある程度の計画性を持って行かなければならないだろう。

「水は貴重なんだからさー」と言いながら、
今度は矢口がごくごくと水を飲み始める。
そして「はい、圭ちゃん」と水筒を保田に渡した。

保田は一瞬、躊躇いを見せたが、結局、その水を口にした。
当たり前だが、水は何の味もしない。美味しくもない。
なぜ安倍や飯田や矢口は、あんなに美味しそうに飲むのだろうか。
保田がそんなことを考えているうちに、
一行は四合目に到達した。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:13
「こっちだよー。絶対こっちの道だって!」
普段はおっとりしている後藤真希が、大きな声を張り上げるのは珍しい。
その一方で、安倍なつみが「いやいやこっちっしょ」と言っている。
彼女達の前には二本に分かれた道があった。
後藤は右の道を進むべきだと言い、安倍は左の道を行こうと主張した。
リュックを背負った中澤が「じゃ、ジャンケンでもするか?」と提案する。

「あたしは後藤の意見に賛成だけどね」
ニヤリと笑いながら、石黒彩が後藤ではなく安倍の方を向いて言った。
安倍が唇を起用にへの字に曲げて抗議の意を示す。
だが安倍が本気で怒っていないことは、その場の皆にはわかった。
他に意見らしいことを言う人間もいない。

結局、ジャンケンをするでもなく、多数決を取るでもなく、
自然な流れで一行は後藤が指し示した道の方を選んだ。

「なっちさあ、本当はこっちの道がいいと思ってたんでしょ?」
石黒は、今度は安倍の方を向かずにそう言った。
「でも後藤がこっちが良いって言ったから、逆の道にしようって言った」
石黒の言葉を聞いて、安倍は弾けるようにカラカラと笑った。

石黒は安倍の笑い声を心地良さそうに聞きながら、
高いヒールを起用に操って山道を登っていく。
だが靴擦れを起こしたその足は痛々しく、
徐々に山を登っていくのが困難になっているように見えた。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:13
突然視界がばっと開けた。
彼女達の周りの世界が劇的に変化した。

「やっぱりこっちの道で良かったんだ!」
市井は声に出さずに心の中で喝采を上げた。
実は市井も、安倍ではなく後藤の指した道の方が正しいんじゃないかと思っていた。
だが何となく、場の雰囲気から自分が発言することは躊躇われた。
「やっぱり言いたいことははっきりと言わないとね」
市井は今度ははっきりと声に出してそう言った。

「すげー、人がいっぱいじゃん!」
矢口真理は一変した景色を前にして気持ちを高ぶらせていた。
一行は五合目に到達していた。
そこには人だけではなく、車も多く止まっていた。

これまで矢口達が歩いていたのはマイナーな登山道だったらしい。
だが五合目で、どうやら非常にメジャーな道と合流したようだった。
誰かが言ってた「五合目までなら車で行ける」という言葉は、
この場所のことだったのかもしれない。

さっきまでは全然見かけなかった、一般の人も多く見かけた。
それまでは「いかにも登山に慣れている」というような、
しっかりとした人しか見かけなかった。
だが五合目には、明らかに「登山は初めて」といった感じの、
そこいらの街に溢れていそうな普通の人の方が多かった。

「なんかさー、やっと『普通の世界に出た』って感じだよね?」
心から感じたことを矢口がつぶやくと、その隣で市井が
「そうだよ! これまでが変だったんだよ!」と大きな声を上げた。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:13
人で溢れかえった五合目の地点で、飯田はキョロキョロと視線を動かしていた。
その視線の先に、見慣れた分厚い背中が映る。
「あ! いた! 裕ちゃーん、何やってるのー?」
気分でも悪くなったのだろうか?
中澤はリュックを下ろして、道の端でしゃがみ込んでいた。

「あ? 水入れてんねん。助かったでホンマ」
そう言いながら中澤は水道の蛇口をひねって、水筒の中に水を足していた。
どうやらこの水は勝手に使ってももいいらしい。

「実はな、ここに着く直前にな、水、なくなってしもうててん」
中澤はさらっとそんなことを言う。
本当なら危ないというか、下手すれば命にかかわるじゃんと思ったが、
なぜか飯田は中澤を責める気にはなれなかった。

飯田は再び回りに視線を移す。
そのすぐそばにはジュースの自動販売機があった。
値段は山の下に比べるとかなり高い。
噂では、上に行けば行くほど値段が高くなっていくという。

「なんかな。自販機のジュースとかは買う気にならへんねん」
飯田の視線に気づいたのか、中澤がそんなことを言った。
水筒の口から、なみなみと溢れ出すまで水を入れて、中澤は蓋を閉めた。
タオルを持って、神経質な手つきで水筒の周りを拭きながら、
「なあ、そやろ?」と問いかけてくる中澤に、飯田は反射的に答えた。

「うん。そんなことする気しない」
飯田はその時初めて、一合目から登って良かったと思った。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:13
五合目を過ぎると、登山道を行く人の数が増え、雰囲気が賑やかなものとなった。
その人たちの隙間を縫うようにして、
辻希美と加護亜依がはしゃぎながら走り回っていた。

「こらー、あいぼん、走っちゃダメでしょ!」
最初はそう言って注意していた後藤も、
いつの間にか辻加護と一緒になって走り回っていた。
「ごっちんもガキだなー」とか言っていた吉澤ひとみも、
いつの間にか三人と一緒になって走り回っていた。

「コラ! 待て〜」と言って石川梨華が一緒になって走ろうとすると、
四人はピタリと走るのを止めた。
「は・・・・走っちゃダメなんですよね・・・・・・」
と陰鬱な表情でつぶやく石川を、保田がよしよしと慰める。

「石川はさあ、そういうタイプじゃないんだからさ」
「そういうタイプ?」
「あんまり他の人には気を遣わずに、自分の道を行った方がいいよ」

はあ・・・・・と石川が保田の言葉の意味を考えていると、
その視界の隅で、中澤にアイアンクローをされている辻と加護の姿が映った。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:13
「走るなって言うたやろうが!」
中澤は右手で辻の顔をつかみ、左手で加護の顔をつかみながらそう言った。
アイアンクローをされている辻と加護はギャアギャア言いながら悶えている。

「確かに山道で走ったら危ないよねー」と言いながら
後藤真希は涼しげな表情で三人のことを眺めていた。
さっきまで辻加護と走り回っていたくせに、全く息が乱れていない。
その横では、吉澤がはあはあ言いながらしゃがみこんでいた。

こいつ良い根性してるなー、と思いながら、
矢口は中澤のリュックから引き出した水筒を後藤に渡す。
「喉、渇いてない?」

「ありがとう、やぐっつぁん」と後藤は言いながら水筒の蓋をひねる。
だが後藤自身は水筒に口をつけることはなかった。
そして中澤の下へと近づきながら、
「ゴメン、裕ちゃん。それくらいで許してやって」と言った。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:13
「ほい、あいぼん、のん。喉渇いたでしょ」
そう言って後藤が渡した水筒と、
辻と加護は奪い合うようにしながらごくごくごくごくと飲み出した。

「コラァ! 一気に飲むなって言ったやろうが!!」
再び中澤の怒声が辻加護の頭上に降り注ぐ。
その声に一旦は縮こまった二人だったが、
水の残った水筒に蓋をして、保田に向かって投げて渡し、
再び道の先へと駆け出していった。

水筒を受け取った保田は、それを石川の方へと向ける。
「石川も喉渇いたでしょ。遠慮なく飲みなよ」
「え・・・・・でも」
石川は機嫌を伺うようにして、上目遣いで中澤の方を見る。

中澤は一瞬イラっとした表情を見せたが、
「ええで。なくなりそうになったら、また入れたらええねん」とだけ言った。
その言葉を聞いた石川は、コクリと一口だけ水を口に含んだ。
そんな石川を見て、さらに中澤の表情が苛立ちを増した。

そんなおしとやかな石川を見て、保田は思わず質問したくなった。
「ねえ。石川。その水、どんな味がする?」
石川の答は、保田の予想とは違っていた。

「すっごい美味しいですよ! 今まで飲んだことがない味がします」
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:14
道は六合目にかかろうとしていた。
吉澤ひとみは前を行く飯田圭織の背中を見つめている。
飯田の背中には全員分の水と食料が入ったリュックがあった。
一人で持つのはしんどいので、交代して持つことにしたらしい。

リュックの中の食べ物は、安倍と後藤が二人でほとんど全部食べてしまった。
二人ともよく食べるよなあ。誰にも遠慮せずにさあ。
吉澤は、二人の食べっぷりを思い出しながらそんなことを思った。
今や飯田のリュックには食べ物はほとんど入っていないはずだ。
入っているのはおそらく、水の入った水筒くらいだろう。

全員分の水の入ったリュック。
それしか入っていないとも言えるわけだが、
どうしてあんなにも重そうなのだろうか。
重い荷物を背負った飯田の背中は、
目で見てはっきりとわかるくらい、ぐぐっと曲がっている。

重そうだなあ。可哀想だなあ。代わってあげたいなあ。
などと吉澤は思うが、おそらくそう言っても飯田は断るだろう。
なにせまだ持ち始めてから数分しか経っていない。
だが吉澤には、もう何年も飯田がその荷物を背負っているように見えた。

やっぱりもう少ししたらあたしが持つって言ってあげよう。
体格から言ってもあたしが持つしかないだろうな。
まさか小さいやぐっつぁんに背負わすわけにもいかないだろうから。

飯田の背中を見つめながら、吉澤はそんなことをぼんやりと考えていた。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:14
勢いよくずんずんと進む辻加護の後ろについていた小川麻琴は、
なんとなく周囲の空気が変わったような気がして、顔を上げた。

あんなに賑やかだった五合目あたりの雰囲気が少し変わっていた。
山を登っていく人たちの塊も少しずつバラけて行き、
小川達の周りからも人が減っていくような感覚がした。

「ねえ、里沙ちゃん。なんか山の雰囲気変わったね」
小川は隣にいた新垣里沙に声をかける。
ぼっーっと辻加護の背中を見ていた新垣は、小川の言葉にハッとなる。

「うん? そうね。これまでは森の中を歩いてるって感じだったけど」
「今は本当に山の中って感じ?」
「そうそう。まさに山道って感じ。そんな感じがするよね」

新垣は自分が言ったことを心の中で反芻する。
確かに道を登っていくのが、少しずつきつくなってきた気がする。
山道の傾斜がすこしづつきつくなってきたのだろうか。
それともそれは気のせいで、自分が疲れているからだろうか。
周囲の環境のせい?それとも自分のせい?

どちらが正しい答なんだろうと新垣は思ったが、結論は出なかった。
答が出せる人間は、その場には一人もいなかった。
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:14
「コンコン、水飲む?」
後藤真希がそう言って差し出した水筒を、紺野あさ美は頷きながら受け取った。
本当は水を飲みたいという気分ではなかった。
一口だけ飲んだが、味など全くしなかった。
だが後藤からかけられた言葉を、無下に跳ね返すことはできなかった。

先ほどから後藤はしきりに「水飲む?」と周りの人間に聞いていた。
そのくせ、自分では全く水を口にしようとはしない。
紺野は「後藤さんこそ、飲まないんですか?」と聞きたかったが、
なぜかそれは聞いてはいけないことのような気がした。

紺野の前では、後藤から勧められた高橋愛が、
水筒の水をごくごくと飲んでいた。
「うわー、なにこれ。ぬるーい!」と高橋が顔をしかめて言ったときも、
後藤は特に不愉快な顔をするでもなく、ただ高橋のことをじっと見つめていた。

後藤は空になりそうになった水筒に、
休憩所のようなところにあった水道の水を詰め、
「ほい、カオリ。ありがとう」と言って水筒を飯田に返した。
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:14
七合目まで来るとさらに周囲の景色は変わっていった。
周りに生えている草木も、山の下のものとは明らかに違うように見えた。

飯田圭織がふと前を見ると、亀井絵里が道の脇にしゃがみ込んで、
何かに手を伸ばそうとしているところだった。
その手の先を見て、飯田は思わず声を荒げる。
「ちょっと亀ちゃん! 何してるのよ!」

亀井は今まさに、道端に咲いている可憐な花を摘もうとしているところだった。
「えー、だって綺麗だもーん」
「答になってないよ。勝手に取っちゃダメでしょ!」
「でも安倍さんが・・・・・・・・」

亀井が指差した先では、両手一杯に花を抱えた安倍なつみが、
「ほーら、カオリ。この花、綺麗でしょ!」と笑顔で手を振っていた。
飯田は天に向かって盛大なため息をついた。

「ちょっと美貴ちゃんからも何か言ってやってよ・・・・」と言って飯田が振り返ると、
「ん?何を?」と言いながら、摘んだ花を頭に飾っている藤本美貴がいた。
横を見ると、矢口も鼻歌を歌いながら花を摘んでいた。
その花を受け取った加護と辻が大はしゃぎしていた。

なんだか注意するのもバカらしくなった飯田は、
えいっと言いながら花を二つ摘み、一つを亀井に向かって投げた。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:14
「石川さん、まだ歩くんですか?」
ずーっと我慢していたが、ついに堪えきれずに、道重さゆみは石川に尋ねた。
周囲はすっかり暗くなっている。
日が沈み始めた頃から気にはなっていたのだが、
前を行く飯田や安倍や矢口は、そういったことを全く気にしていないように見えた。
だが石川も笑って答えない。何かを悟りきったような表情をしていた。

飯田の背中にはリュックが見える。
道重の目には、軽々とリュックを背負う飯田が、元気一杯のように見えた。
その一方で、道重や、隣にいる亀井はかなり疲れていた。
どこかで休憩したい。まさか夜通し歩くわけではないだろう。早く休憩したい・・・

「れいなはまだまだ歩けるもんね!」
お前に聞いてねえよ。
道重は、いきなり会話に入ってきた田中れいなを、心の中で罵った。

とにかく周りが暗いのだ。
前を行く飯田達の姿すら徐々に見えなくなってくる。
懐中電灯を持っているメンバーなどいなかったはずだ。
これ以上歩くのは、非常に危険なことに思われて仕方なかった。

「れいな、懐中電灯持ってるもんね!」
「嘘!本当に?」
「うっそだよーん」

道重は右の拳に全体重を乗せて、田中れいなの鼻をグーで殴った。
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:14
それからしばらく歩いた後、
「じゃ、この辺りで少し休憩しようか」と吉澤が言った。
吉澤の背中には、飯田から受け継いだリュックがあった。
最初は飯田の代わりに矢口が持つと主張して譲らなかったが、
リュックを背負って3秒ほどすると、
「おいらには無理」と言って矢口はリュックを投げ出した。

そんな矢口を見ながら小川麻琴は凄いなあと思った。
他のメンバーに対する気遣いというものを全くしない矢口を見て、
小川はなぜか嫌悪感よりも羨ましい気持ちの方を強く感じた。

矢口が投げ出したリュックは吉澤が背負うことになった。
小川には、それがとても自然なことのように思われた。

周囲はすっかり暗くなっている。
他に山を登る人の姿もほとんど見えなくなっていた。
無計画で、勢いだけで登っているのなんてあたし達だけなんだろうなあ。
小川はそう思いながら手元の時計を見た。
暗くて何時なのかよくわからない。

道の傍らにある道しるべもよく見えないので、
今、何合目まで登ってきているのかもよくわからなかった。
吉澤はどうするつもりなんだろうか。
夜明けが来るまでここでじっと待っているのだろうか。

小川には、吉澤がそんなことをするタイプだとは、とても思えなかった。
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:15
「実はあたし、懐中電灯を持ってるんだ」
車座になって座るやいなや、吉澤がみんなに向かってそう言った。
「え?冗談でしょ?」という空気がみんなの間で流れた。
吉澤がそういうしっかりとした準備をする人間だとは、思えなかったから。

道重がふと熱い視線を感じて横を向くと、
田中がキラキラしたまなざしで吉澤と道重のことを交互に見つめていた。
道重は、吉澤が「うっそだよーん」と言わないことを心から祈った。

「五合目のところに売店みたいなのあったじゃん。そこで買った」
そう言いながら吉澤はリュックから懐中電灯を取り出した。
どうやら一本だけ買ったらしい。
「そういうわけで夜明け前に登っちゃおうと思うんだけど、異論ある?」
誰にも異論はなかった。

そこで数分だけ小休止をした。
みんなで水筒に入っている水を、少しずつ回し飲みした。
残りが少ないことはみんなわかっていた。
がぶ飲みする人間は、もう誰もいなかった。

田中れいなの鼻血が止まったのが合図となった。
リュックを背負って、吉澤が雄雄しく立ち上がる。
その手には懐中電灯が握られており、一行の行く手を照らしていた。
遮蔽物が一切ない山道の中では、その明りはあまりにも弱々しかったが、
夜明けが来るまでそこに留まっていたいと考える人間は一人もいなかった。
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:15
先の見えない真っ暗闇の中を、一行は黙々と進んでいた。
もはやこの登山の目的や意義など誰も考えはしなかった。
立ち止まることは許されないし、後戻りすることもできなかった。
どうすればいいのか何もわからず、皆は苛立ちを隠せなかった。
喋ることすらせずに、ただひたすら足を前に進めるしかなかった。

それでも紺野あさ美はもう一度、誰かに確認したかった。
「ねえ。やっぱり夜が明けるまで、じっと待っていた方がいいんじゃない?」
紺野は他のメンバーに聞いた。

「コンコンが残るとしても、私は進みますから」
小川がなぜか切羽詰った表情でそう答えた。
聞く相手が悪かったかなと思って、紺野は別の人間に聞いてみた。
「みんなが行くんだから、そのまま黙ってついて行けばええんやないの?」
高橋がのんびりとした調子でそう答えた。
聞く相手が悪かったかなと思って、紺野は別の人間に聞いてみた。
「止まるなんてとんでもない! 私達は進むしかないの!」
新垣はなぜか興奮した口調でそう答えた。

「れいなはね! れいなはね!」
紺野が聞く前から、田中れいなが大きな声で会話に割って入ってくる。
「コンコン」。紺野の肩に、藤本の指が触れる。
「聞く相手が悪い」
藤本は、紺野に向かって無表情でそう言った。
紺野は一瞬、本気でこのまま一人で山を降りようかと思った。

そういった声は全て吉澤の耳にも届いていた。
吉澤は一つ、暗い空に向かって盛大なため息をついた。
24 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:15
そんな暗い雰囲気の中でも、久住小春は元気だった。
角度を増している急斜面を、一人で勢いよく駆け上っては、
再びみんなのところまで駆け下りていくという、
非生産的なこと極まりない行為を嬉々として繰り返していた。

そして吉澤のリュックにぶら下がって、吉澤を困らせたりした。
「ちょっと小春! いい加減にしなさい!」
新垣はそんな小春を見て思わず大きな声を上げた。
だが小春はそんなことなど一切お構いなしといった調子で、
今度はリュックの中から取り出した水筒の水をごくごくと飲み出した。

新垣は今度こそ血相を変えた。
「あー! もう! 水は残り少ないんだよ!」
泣きそうな顔でそう叫ぶ新垣を見て、小春がケラケラと笑った。

それにはさすがに高橋や亀井もむっとした。
「何笑ってんのよ、小春」
「水が大事だってことはわかってんでしょうね」

真剣なまなざしで小春を責めるメンバーを見ても、小春は全く動じない。
それどころか、さらに一段高い笑い声を上げた。

「水、水、水、って先輩」

小春は水筒を逆さに向けてそう言った。

「水なんてもう一滴も残っていないですよ」
25 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:15
「全部飲んじゃったの・・・・・・・」
愕然とした表情で新垣がそう言った。
新垣だけではなく、その場にいる全員がかなりのショックを受けた。

「さっきの休憩で終わりですよ。ねえ吉澤さん」
小春がそう言って吉澤の方を向くと、吉澤は軽く頷いた。
「さっきの休憩で、みんなで全部飲んじまったよ」

「ヤバイですねー。ダイジョウブですかー」
緊迫感に欠けた口調でリンリンがそう言った。

水がなくなったからと言ってすぐに死ぬわけではない。
山頂までは、どれだけ時間がかかったとしてもあと2時間ほどだろう。
そこまで行けば水くらいは簡単に手に入るはずだ。
光井愛佳がそう説明すると、一同は少し落ち着きを取り戻した。

「じゃ、山頂までガンバリましょー!」
リンリンがそう言うと、小春だけがオー!と言って右手を突き上げた。
そんなこんなで、勝手にテンションを高めている小春とリンリンに向かって、
ジュンジュンがポツリと言った。

「喉渇いたー。水ありますか?」

この人は、人の話をあまり聞かないタイプらしい。
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:15
一同はさらに黙々と頂上に向かって歩を進めていた。
リュックは吉澤の背を離れて、高橋の背にあった。
引継ぎの際には、藤本美貴が「次はあたしが背負うから」と言いながら、
背負って1秒ほどで「ああ。美貴には無理」と言って投げ出すという、
まるで矢口の時のような一幕があった。

高橋と並んで先頭を行く新垣は、高橋の背にあるリュックに目を向ける。
軽そうだ。いや、実際軽いはずなんだ。
だってリュックの中には空の水筒くらいしか入っていないんだから。
ほとんど何も入っていないんだから。

そういえば先輩達はこまめに水を汲んでいたなあ。
新垣は漠然とその情景を思い浮かべる。
確かに先輩達は、遠慮なく水をガブガブと飲む一方で、
結構しっかりと水筒に水を補給していた。

だが新垣や高橋が水筒に水を足すことはついに一度もなかった。
ただ飲むだけ。
後輩達はそのことをあまり気にしていないようだったが、
新垣にはその事実が重く心に残った。

本当なら、自分達も先輩のように給水しなければならなかったのに。
そしてその方法を後輩達に教えるべきだったのに。
そのはずが、水筒が空になっていたことを、
逆に小春に教えられることになるとは。

泣きそうになりそうな新垣の耳に、再び小春の甲高い声が響いた。

「着いたー!! 頂上だー!」
27 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:16
どうやらそこが山頂のようだった。
あまりにも殺風景だったので、とてもそうは見えなかった。
新垣はてっきりそこが行き止まりだと思っていた。
言われなければ、山頂だとは気づかなかったかもしれない。
山に行き止まりなんてあるわけがないのに。

「ねえ、愛ちゃん。本当にここが山頂なの?」
新垣がそう聞くと、高橋はいつものように意味不明な答を返した。
「頂点はないと思う」
そう言いながら高橋は一つ、暗い空に向かって盛大なため息をついた。

いつもならイラっとさせられる答だったが、
その時の新垣には、不思議とそれが真実だと思えた。

小春はそこで水飲み場を見つけ、
蛇口をひねって、出てくる水をがぶ飲みしていた。
「うわー! なにこれ? 超おいしー!」と叫ぶ小春の声が、山頂に響く。
「ああ、ああ。好きなだけ飲むといいさ」
高橋は可笑しくて仕方ないといった表情でそう言った。

あんたがしっかりしてないから水が切れたんだよ。
新垣は高橋に向かってそう言いたかったが、止めた。
今更言っても仕方がない。今更何を言っても。
28 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:16
「頂点がないっていうことならさあ、この登山はまだ終わってないのかな?」
祭の終わりの余韻に浸ることもなく、新垣が言った。
夜はまだ明けていない。
夜明け前が一番暗いという言葉が、新垣の脳裏をよぎる。

「もちろん。これで終わりじゃないよ。ねえ、小春」
そう高橋が言うと、小春の周りにはいつの間にか全員が集まってきていた。
正確に言うなら小春の周りではなく、水飲み場の周りに。
みんな、何だかんだ言って、水が飲みたかったらしい。

「もちろん!」
それ以外の日本語は知りませんといった断定口調で小春が叫んだ。
「次は! エベレストに登りましょう!」
リンリンだけではなく、そこにいた全員が右手を突き上げた。

小春なら本当に勢いだけで登りきってしまうかもしれない。
それでも高橋は「頂点はない」と言うかもしれない。
きっとそうだ。
その時が来たら、自分はしっかりと水を管理することを心がけないと。
新垣がそう思っている横で、ジュンジュンが小春に抗議していた。

「エベレストじゃありませーん。チョモランマです」

この人は、こういうことにはしっかりとこだわるタイプらしい。
29 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:16
 
30 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 20:17
end
31 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

Converted by dat2html.pl v0.2