20 預かりもの
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:41
- 20 預かりもの
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:42
- 初めてのコンサートのことはよく覚えていない。
会場の雰囲気。ファンの歓声。掲げられたボードに記された文字。
そこで何が起こったのか思い出そうとしたことは一度もなかったし、
自分の心に何が起こったのかを思い出そうとしたこともなかった。
あの時の記憶に触れそうになると、本能がそれを阻む。
記憶は厳重に鍵をかけられて心の奥底に封じ込められていた。
だけどその記憶を捨てようと思ったことは一度もない。
その記憶がとても大事なことも、自分にとって本当は必要なことも、よくわかっている。
いつか必要になったときに、鮮明に思い出せるために。
本当ははっきりと覚えている。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:42
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- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:42
- その箱を後藤さんからもらったのは、後藤さんの卒業コンサートが終わった後のことだった。
みんなからのお祝いの言葉やプレゼントを一通り貰い終わった後藤さんは、
カバンの中をごそごそと漁ったかと思うと、あたしに向かってひょいと差し出した。
「ほい、新垣。これはごとーからのプレゼント」
そう言いながら渡されたのは、ボックスティッシュの箱を半分にしたくらいの大きさの箱だった。
周りにはチープな質感をした銀色の鎖がぐるぐると巻かれている。
「この箱はガキさんにあげる」そっけない口調で後藤さんはそう言った。
わいわいと騒がしかった楽屋が一瞬シーンとなる。
「あ、ありがとうございます!」と言いながらもあたしはどうリアクションしていいのか戸惑う。
プレゼント?どうしてあたしに?なぜ今この時に後藤さんから?
あたしが感じた疑問はその場にいたメンバー全員が感じたことだったと思う。
だがそんな微妙な雰囲気はどこ吹く風といった趣で、
騒ぐでもなく、偉ぶるでもなく、後藤さんの横顔はいつもと全く変わらぬ涼しげなものだった。
箱は鎖についている鍵を開けなければ中身が見られないようになっていた。
あたしは後藤さんに説明を求めようとするが、そのとき、
「おーいごっちん!それカオリの!あれ!?新垣にあげちゃうの?」
「ねー、いいでしょカオリ。この子にあげちゃってもさ」
「ごっちんがそう思うならいいけどさ・・・・・・」
後藤さんと飯田さん。二人だけの会話がいくつか続く。
「なにそれ」「どういうことよ」「なっちには何もないの?」と言いながらみんなが集まってくる。
どうやら他の先輩達もその箱については何も知らないようだった。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:42
- 「これ・・・・・」と言ってあたしが差し出した箱を後藤さんはすっと受け取り、
カバンの中から取り出した鍵で鎖をスルスルと外していく。
後藤さんが左手で持っている箱の周りに13人の頭がぐるりと円を描く。
漫画に出てくる宝箱のような、ゆるいアーチ型をした蓋がゆっくりと開けられ、
13個の顔がぐぐっと箱の中身を覗き込む。
箱の中には小さなお人形さんのようなものがたくさん入っていた。
「あ!もしかして増えてる!?これごっちんが増やしたの?嬉しーい!」
「でしょ?ごとーはその辺しっかりしてるから。はは」
湧き上がる2つの歓声と11個のクエスチョンマーク。
なんだろうこの人形は?増えてる?なにが?後藤がしっかりしてる?え?
あたし達の疑問を無視して後藤さんは箱の中から一つ一つ人形を取り出していく。
人形はヤクルトの容器くらいの大きさで、厚い布で作られているみたいだった。
誤解を恐れずに言うなら安っぽい。パッと見た感じでは手作りのように見える。
「増えてる」と飯田さんは言ったけど、いくつかは後藤さんが作ったものなのだろうか。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:42
- 「じゃじゃーん。これで13人全員集合だね!」
そう言いながら後藤さんは人形を綺麗に机の上に並べる。
ここまでくると他のメンバーも全員なんとなくその人形の意味が理解できたようだった。
「もしかして、これあたし?」「じゃあこれなっちじゃん」「うそー似てないよー」「超似てるって」
並べられた13体の人形はモーニング娘。のメンバーを模したものだった。
簡単に作られていた質素な人形だったけれど、一見してどれが誰だかよくわかった。
あたしは自分の人形を探す。なかなか見つからなかったけど、消去法で残り4体まで絞り込めた。
9体の人形は先輩の顔にとってもよく似ていたけれど、
残りの4体は悲しいくらいあたしたち5期メンバーとは似ていなかった。
「あはははは。ごっちんひどーい。全然ダメじゃーん」
不意に飯田さんが笑い声を上げる。手には4体の人形が握られていた。
「あー、ごとーのはすぐにわかっちゃう感じ?」
「わかるもなにも残りの9体はあたしが作ったんだから」
「見本にしたんだけどさー、なかなかカオリみたいに上手く作れなくてさー」
みんなの視線が飯田さんと後藤さんに集まる。説明してよ。と誰かが言ったわけではないが
その場の雰囲気を察してか二人はぽつぽつと語り出した。
この9体の人形は飯田さんが手作りで作ったこと。
元々は中澤さんのもあわせて10体あったこと。
その頃元気のなかった後藤さんを励ますために飯田さんが作ったこと。
5期メンバーが加入したときに後藤さんが4体の人形を作って加えたこと。
話は十分ではなかったが、おおよそのことは理解することができた。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:43
- 「あの頃ごっちんはソロデビュー直前で殺人的なスケジュールでさ」
「もうヘロヘロで倒れそうだったんだよね」
どんなときもモーニング娘。の一員であることを忘れないように。
一人で仕事をしていても、みんながついてるよっていうことを思い出してほしくて。
飯田さんはこの人形を作って後藤さんに贈ったらしい。
「一人でしんどいときはいっつもこの箱を開けて見てたよ」
そう言いながら後藤さんはニコニコと笑っていた。
でもあたしは笑えない。とても笑えない。事情を聞いたら、とてもそんな大事な箱はもらえない。
これからソロで活動していく後藤さんにとって、一番大切なものじゃないか。
今、後藤さんがもらうならわかるけど、後藤さんからもらう意味がわからない。
受け取れません。
あたしは周りの人がビクッとなるくらい大きな声で後藤さんにそう言った。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:43
- 「あ・・・あたしはソロとかないし・・・・・それに、こんな、大事な、」
頭をフル回転させても上手く言葉をつなぐことができなかった。
でもあたしの言いたいことは誰だってわかってくれるはずだと思った。
後藤さんに悪いし。飯田さんにも悪い。他のメンバーにも悪いような気がする。
今日は後藤さんの卒業の日なんだ。なんで?なんであたしに?なんでこのときに?
「ごとーにはもう必要ないからさ」
そう後藤さんが言った瞬間、場の空気が一瞬冷めた。だが。
「ごとーが娘。であることを忘れるってことじゃないよ。そうじゃないんだ」
後藤さんの言葉は不十分でよくわからない。後藤さんも言葉を探しているようだった。
「わかる。わかるよごっちん」飯田さんが言葉をつなげる。
「この人形はモーニング娘。なんだ。ごっちんにとって本物の娘。なんだ。そうだよね?」
「ありがとうカオリ。そうなんだ。うん。多分そうなんだ」
人形には二人にしかわからない思いがあるみたいだったが、あたしにはそれがわからなかった。
「新垣。もらっときなよ。きっと今一番それを必要としているのは新垣だよ」
飯田さんから言われてもあたしはそれを貰う気にはなれず、何度も何度も断った。
押し問答が続き、場の雰囲気が硬くなっていく。
「じゃあ預かっておくってことにしなよ!」
それまで黙っていた保田さんが突然話に入ってきた。
「後藤はこれから一人でやってくんだからさ。人形に甘えてちゃダメなんだ。持ってちゃダメなんだ。
そういうことなんでしょ?でも本当にダメなときもあるじゃん。その時は返してもらえばいい」
「良い事言うねー、圭ちゃん。ねえ新垣。そういうことでダメかな?」
「預かっておく・・・・・・」
「ごとーが辛くなったときまで新垣が持っていてよ。新垣だってモーニング娘。なんだからさ」
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:43
- あたしはその人形を見て思わず泣きそうになった。
後藤さんが人形を他の誰でもなく、あたしにプレゼントしようと思った理由はわかっている。
飯田さんが「今一番それを必要としているのは新垣」という意味もよくわかっている。
でも涙はこらえた。今日はあたしの卒業の日ではない。後藤さんの卒業の日だ。
あたしが場の主役になってしまうみたいな雰囲気にはしたくなかった。
「じゃあこの人形と箱は新垣が預からせてもらいます」
あたしはそう言いながら人形と箱を後藤さんから受け取った。
本当は辛かった。その箱を見ているのが辛かったし、これ以上その箱の話はしたくなかった。
今日は後藤さんの日なんだし、他に話すべきことはたくさんあるような気がしていた。
だが箱を急いで自分のカバンにしまおうとしたとき、安倍さんが大きな声で言った。
「でさあ!裕ちゃんの人形はどうしたの?」
「えー。裕ちゃんはもう娘。じゃないし。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・捨てた」
後藤さんのおどけた口調に、極限まで満ちていた室内の緊張感がドッと弾ける。
「ひどい!」「うそうそ」「ごっちんの人形も捨てようぜ!」「だから嘘だって」「燃えるゴミ?」「だな」
「あたしも卒業したら捨てられるんだー」「捨てません!」「辻のは捨てていいよ」「だな」「なんで!」
本当は中澤さんの卒業の日に、中澤さん本人にプレゼントしたらしい。
あたしもそれにならって後藤さんの人形を後藤さん本人に渡した。
12体の人形を箱に収めて、あたしはカチリと鎖に鍵を下ろした。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:43
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- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:43
- 後藤さんが卒業してから数ヵ月後、娘。には4人の6期メンバーが加入することとなった。
あたしは東京中のお店を回って、例の人形と同じ質感の布を探した。
なるべく同じようなものを作りたいと思った。
人形を作ったことなんて一度もなかったけれど、誰かに作り方を習う気にはならなかった。
自分以外の誰かにこの人形のことを話す気にはなれなかったし、
同じ娘。のメンバーにも、新しい人形を作るってことは、なんとなく言いたくなかった。
あたしは飯田さんが作った人形を見本にして独力で人形を作ることにした。
飯田さんが作った人形は本当にシンプルなもので、
パッと見た感じは誰でも簡単に作れそうなものだった。
だがあたしが数日かけて必死で作った結果、できあがった4体の人形は、
どこからどう見ても後藤さんが作った4体の人形と見分けがつかないものとなっていた。
あたしはその人形を見ながら思わずあははと笑ってしまった。
ふと思って、後藤さんの笑い方を真似しながらもう一度笑ってみた。はは。ははは。
そんな自分がどうしようもなく気持ち悪かったけど、悪い気はしなかった。
「4人の6期メンバーとそっくりな人形を作る」という目的は果たせなかったが、
自分がモーニング娘。であることが実感できたような気がした。
あたしは完成した4体の人形を箱の中に入れ、
保田さんにそっくりな人形をそっと箱から取り出した。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:43
- 人形はもちろん卒業の日に保田さん本人に手渡した。
「うわ。あれか。・・・・・・・・・切ないね」
そう言った保田さんの表情は、気のせいか卒業の瞬間よりも寂しそうだった。
後藤さんからもらった後も、あたしの身には辛いこと、悲しいことが
容赦なく降りかかったが、あたしは箱を開けることはなかった。
安倍さんが卒業し、加護さん辻さんが卒業し、箱の中はさらに減っていた。
あたしが箱を開けるときは、メンバーの入れ替わりがあるときだけになっていた。
この箱は後藤さんの箱なんだ。後藤さんの悲しみを受け止める箱なんだ。
なぜかそういう意識があたしを支配していた。
後藤さんが卒業してからは、後藤さんとは年に数度くらいしか会うこともなくなり、
箱のことを話す機会もなかった。
だけどあたしは、この箱は後藤さんから預かっているものなんだということを
忘れることはなかった。
辛いことがあったときは、箱を包んでいる鎖をジャラジャラと触りながら、
箱を預かった時に後藤さんと飯田さんが言ったことを思い出した。
それだけで自分が娘。の一部であることを実感することができた。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:44
- 飯田さんが卒業するときも、飯田さんに人形を手渡した。
「ありがとう新垣。きっと・・・・・6期の人形も作ってるんだよね?」
飯田さんは懐かしそうな、愛おしそうな目で人形を見ながらあたしに尋ねた。
「はい。あたしは後藤さんと同じくらい、その辺はしっかりしてますから。はは」
あたしはそう言いながら箱の中身を飯田さんに見せた。
箱の中には飯田さんが作った人形が3体、後藤さんが作った人形が4体、
そしてあたしが作った人形が4体収まっていた。
「あれ?おー!ガキさんはごっちんの人形を真似したの?」
初見の人にはまず見分けがつかないであろう8体の人形を目にして飯田さんはそう言った。
あたしは笑顔でコクリと頷く。そういうことにしておいた。
「あはははは。これ、れいな?それとも美貴ちゃんかな?」
そう言った飯田さんの手には愛ちゃんの人形が握られていた。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:44
- それからもメンバーが卒業する度にあたしはそのメンバーに人形を贈った。
小春が入ったときや、光井ちゃんやジュンジュンとリンリンが入ったときは、
もちろん新しく人形を作って箱の中に加えた。
相変わらず人形は後藤さんが作ったものと見分けがつかない感じだったが、
あたしにとっては小春の人形は小春以外の誰でもなく、
他の5期6期7期8期のメンバーの人形も、それぞれ唯一無二の人形だった。
ジュンジュンとリンリンの人形を入れるときにふと思った。
辛いときにはこの人形を見ていたという後藤さんの気持ちを。
一体どんな気持ちだったんだろう?
あたしも辛いことは何度も何度も味わってきたけれど、
あたしの辛さと後藤さんの辛さが同じ種類のものであるとは思えない。
たった一人で戦い続けていた後藤さんの気持ち。
最年少でありながら列の先頭に立って戦っていた後藤さんの気持ち。
モーニング娘。であり、そして同時にたった一人の後藤真希だった後藤さんの気持ち。
どれほど辛いことがあったんだろう。あたしには想像できない。
あたしはこれまでの人生で一番辛かったことを思い出そうとする。
それは初めてコンサートのステージに立った時だったような気がするが、
記憶は靄がかかったようになっていて、一番大切な部分が見えなくなっている。
本能が記憶と直面することを拒絶していた。
あたしは箱を閉じて鎖を巻き、カチャリと鍵をかけた。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:44
- 吉澤さんが卒業するときも、もちろん人形を吉澤さんに贈った。
「あー!その人形!ごっちんと飯田さんのじゃん!」
吉澤さんがその人形を目にするのは、あの後藤さん卒業の時以来のはずだったが、
あたしが人形を取り出すや否や、吉澤さんは即座に反応した。
「そうです。みんなが卒業するたびにプレゼントしているんです」
「うわー、なんか切ねー、切ねーよ」
「あ。保田さんと同じこと言ってますね」
あたしがそう言うと、吉澤さんは「きもーい!」と言いながら顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
吉澤さんも飯田さんと同じように箱の中を見せてくれと頼んだ。
箱の中には吉澤さんが率いていたモーニング娘。のメンバー10人が勢ぞろいしていた。
「うっわ、やっべ!誰が誰だかわかんねーよ」
「すみません。あたしが作るの下手で」
そう言いながらあたしはふと思った。
もうこの箱の中には飯田さんが作った人形は残っていないんだなと。
あたしが入る前にいたメンバーはもう誰も残っていないんだなと。
一抹の寂しさを隠せずにあたしがそう言うと、吉澤さんは首を横に振った。
「違う。違うよガキさん。これがガキさんのモーニング娘。なんだよ」
決して大きな声ではなかったが、吉澤さんの口調はいつになく熱く力強かった。
「中澤さんがいた娘。飯田さんが作った娘。そしてあたしがいた娘。・・・どれも娘。だけどさ。」
そして吉澤さんは間違いなくモーニング娘。のリーダーとして語っていた。
「今この箱の中にいるのはガキさんや愛ちゃんが作った娘。じゃんか」
そう言って吉澤さんはパタンと箱を閉めた。
「これ、ごっちんから預かっているんだよね」
「はい」
「ガキさんが卒業することになったらどうするの?」
「後輩に預けようと思っています。後藤さんもそれがいいと言ってくれると思います」
あたしがそう言うと、吉澤さんはまた顔をくしゃくしゃにして笑った。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:44
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- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:44
- 吉澤さんが卒業し、その後、藤本さんも娘。を抜けた。2007年も夏になっていた。
あたしは「モーニング娘。誕生10年記念隊」のツアーで全国を周ることになった。
また飯田さんや安倍さんや後藤さんと一緒にコンサートができる。
ただそれだけで嬉しかった。それ以外のことは何も考えていなかった。
あたしは箱のことも忘れていたと思う。
後藤さんに言われるまでは。
コンサートは身重である飯田さんのパートを各メンバーが補う形で進んでいた。
あたしも一緒の部屋にいるときは飯田さんの体調を少し意識した。
飯田さんのお腹には赤ちゃんがいるんだ。気をつけなきゃいけないんだ。
何を気をつけるのかわかならいくせに、そんなことを意識しながら接していた。
だからかもしれない。後藤さんの微妙な変化に気がつけずにいた。
あるいはその瞬間まで、悟られないようにと後藤さんが隠していたのかもしれない。
とにかく後藤さんは体調を崩し、倒れた。
病院に運び込まれた後藤さんから、あたしの携帯に一通のメールが届いた。
「預けていたものを持ってきて欲しい」と。
あたしが後藤さんから預かっていたものは一つしかなかった。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:45
- メールが届いた瞬間から嫌な予感が消えなかった。
「ちょっと体調を崩したから元気付けるために持ってきてよ」というような
軽い気持ちでメールを送ったとは、とても思えなかった。
あたしと後藤さんの間で決定的な何かが崩れるような予感がした。
いや。それだけならまだいい。もっと。もっと悪いことが起こるような気がした。
だがそれが具体的にどういうことなのか想像することはできなかった。
あたしは箱を持って、一人で後藤さんの待つ病室へと向かった。
すとんとベッドに浅く腰掛けている後藤さんの顔は、思ったよりも血色が良かった。
気のせいか表情もふんわりとしていて柔らかい。
あたしが想像していたような、色の薄い、鬼気迫る後藤さんではなかった。
だが世間話をするような雰囲気でもなかった。
あたしは無言ですっと箱を後藤さんの前に差し出し、鍵を開け、鎖を外し、蓋を開ける。
箱の中には後藤さんが作った人形が2体。
そしてあたしが作った人形が7体入っていた。
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:45
- 「はは」
後藤さんは箱の中の9体の人形を代わる代わるつかみながらふわっと笑う。
「ガキさんも・・・・・結構下手だね・・・・」
「えー、そうですかー?後藤さんのを見本にしたんですよー」
あたしは心臓をバクバク言わせながらも、なるべくいつもと同じ口調でそう言った。
いつもと同じように。いつもと変わらぬ会話が続くように。そう願いながら。
「この箱はガキさんにあげる」
あの日と同じことを後藤さんは言った。
後藤さんの横顔は、あの日と同じような涼しげなものだったが、
あの日のような軽い口調ではなく、有無を言わせぬ力強さがあった。
あたしには「はい」も「いいえ」も言えない。
「あの日、なんで他の子じゃなくてガキさんにあげたかわかるかな?」
あたしの脳裏には初めてコンサートのステージに立った日の記憶が蘇る。
あたしが挨拶をしたときだけ妙に静まり返った会場や、
浴びせられた罵声や、会場にいた観客一人一人の表情や―――
あたしはそれをはっきりと思い出した。
「はい」
あれ以来、ずっとあたしとモーニング娘。との間にあった薄い膜のようなもの。
いや。膜に包まれていたのはあたし個人だったんだと思う。
あたしを守るために、必要不可欠だった、あたしを包む薄い膜。
後藤さんはそれを知っていた。そしてそれを解決できる方法も知っていた。
その膜を取り払うために、あたしにはきっとこの箱が必要だったんだと思う。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:45
- 「あの日、本当に辛いことがあったら返してもらうって言ったよね」
「はい」
「実は後藤には今、本当に辛いことがある」
「はい」
「でもその箱はもう後藤が持っているべきじゃないと思う。だからガキさんに」
あたしの心臓がトクンと音を立てる。
後藤さんは人形を一つ一つ丁寧に箱に入れて、蓋を閉じた。
「受け取ってほしい」
ここで「はい」と答えてしまったら後藤さんとの絆が切れてしまうような気がした。
「吉澤さんに言われたんです」
あたしは返事をする前に一つ言っておかなければいけないことを思い出した。
「ガキさんが卒業したらその箱はどうするの?って」
後藤さんの瞳は真っ直ぐにあたしの方に向けられていた。
「あたしは、卒業したらこの箱は後輩に預けようと思っているんです」
具体的に誰にするとか決めているわけじゃないけど、
でも誰かに託すことが大事なんじゃないかって思っていた。
後藤さんは瞳をやや大きく開いて言った。
「びっくりした。ガキさんは・・・・・・大人になったね」
「後藤さんにこの箱をもらえたからです」
「もうガキさんはその箱がなくても大丈夫なのかな?」
もう一度あたしは自分の心の中に、一番辛かったあの日の記憶を蘇らせた。
大丈夫。大丈夫だ。吐き気もしない。目も見えるし、耳も聞こえる。
もう本能はそれを拒絶したりしなかった。
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:45
- 「大丈夫です。あの時後藤さんがあたしにこの箱をくれたように、
その時が来たらあたしも笑って後輩にこの箱を渡すことができると思います」
「よかった。あの時、ガキさんにこの箱を渡してよかったよ」
「この箱、もらいます」
「うんうん。それが一番いいと思うよ」
後藤さんはベッドの横の引き出しをすっと開けて右手を差し入れた。
あたしの前で開かれた右の掌には後藤さんそっくりの人形が乗っていた。
「あたしにはこっちがあるから大丈夫。辛くてもね」
古ぼけて布は擦り切れ、糸はほつれ、手垢にまみれていたが、
その人形は誰がどこからみても後藤真希その人だった。
あたしがその人形を見たのは後藤さん卒業の時以来だった。
この箱をもらった時以来だった。
あの時も思ったことをふと思う。
「なんで今なんだろう」
あの時は後藤さんがモーニング娘。から卒業する時だった。
だからその時に箱をくれるというのはわかる。
でもなんで今なんだろう。どうして今、あたしに箱を渡そうとしているのだろう。
後藤さんはあたしに何を伝えようとしているのだろう。
あたしの中の疑問は、根拠のない恐怖となって心の中で大きくなっていく。
「後藤さん」
「なあに」
「後藤さんは、どこにも行かないですよね?」
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:45
-
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:46
- あたしは辛いことがあると後藤さんからもらった箱を開く。
箱の中にはいつだってモーニング娘。のメンバーが全員揃っている。
後藤さんはハロプロを卒業した。
事務所には残っているが、半ば休業状態となっている。
大人の事情はよくわからないけど、休業が後藤さんの本意ではないことだけはわかる。
かつて後藤さんの悲しみを受け止めてくれたこの箱は、
今はあたしの悲しみを受け止めてくれる。
あたしはもう悲しみの記憶を心の奥底に封じ込めたりはしない。
あたしはすっと自分の人形を取り出す。
あの時、箱を受け取ってしまったら、後藤さんとの絆が切れてしまうような気がした。
でもそれはきっと錯覚。
飯田さんの作った人形が後藤さんの手元にあり、
あたしの手元には後藤さんの作った人形がある。
そしてあたしが作った人形も、いずれ後輩たちの手に渡っていくのだろう。
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:46
- この箱はあたしのものではない。
そして後藤さんのものでもないし、飯田さんのものでもない。
誰かのものになってしまった瞬間、絆は断ち切られてしまうだろう。
次の子へと託すまでの預かりもの。そう考えればいいんだと思う。
そう考えれば、きっと絆が切れることもない。
あたしが箱の外の世界に飛び出すその日まで。
いつか必ずやってくるその日まで。
あたしの後輩に託すその日まで
もう少しの間だけ、この箱を預かっておくことにしよう。
人形を入れ、鎖を巻き、厳重に鍵をかけておこう。
人形達の住む、箱の中の世界が壊れてしまわないように。
誰にも邪魔されないように。
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:46
-
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:46
-
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/01(火) 23:46
- end
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